最大の争い・国境線

最大の争い・国境線
―宗教対立と民族対立が生み出す紛争
=テロ・暴動・戦争でも決着がつかない
―
2008
山本貞雄著
(元総務事務次官
元跡見学園女子大学
大学院マネジメント研究科長)
目次
はじめに
序・世界の争い―国境と民族と宗教
第一章
アメリカ合衆国の領土の形成
第二章
日本の領土―北方領土、竹島、尖閣諸島、沖の鳥島
第三章
大陸棚と国境線―南極・北極
第四章
イスラエルとパレスチナ
第五章
中国が絡んだ国境紛争
第六章
旧ユーゴスラビアをめぐる紛争
第七章
ソ連・ロシアが絡んだ国境紛争
第八章
イラン・イラクをめぐる紛争
第九章
アジアの国境紛争
第十章
南米・中米の領土紛争
第十一章
アフリカの国境紛争
第十二章
欧州統合の歴史と意義
第十三章
その他
参考文献
終わりに
筆者紹介
1
はじめに
「民族の世界地図」(文春新書)によれば、世界における国境線をめぐる具体的
な争いの事例は、61件を数えるそうである。国境線と言うからには、国家の
成立を前提にしている。
一般に、①国境によって区分された領土、②その領土内で一つにまとまった
国民、③その国民を支配する唯一最高の権威(主権)を持った権力機構、の三
つ(国家の三要素)が備わって近代国家(state)は成立するとされる。
(現代政
治学小事典)
しかし、近代国家が成立する前から、地域紛争はあった。一般に、地域紛争
は宗教対立か、人種や民族対立を背景にしている。宗教や人種や民族の立場か
らは地域の境界線は絶対に譲れないのであり、戦争や殺し合いを引き起こした。
近代国家が成立すると、国境線―領土問題―をめぐる争いは、大規模な戦争
を引き起こした。その争いは、宗教対立や人種や民族対立を背景にしている点
では、それ以前の地域紛争と変わるところはない。近代国家成立後の戦争原因
は、もちろん、宗教対立や人種や民族対立だけではなく、資本主義社会成立に
伴い、資源・エネルギーや市場の獲得が大きな動機となっている。
また、国境線―領土問題―をめぐる争いは、戦争といった組織的な形を取ら
ないまでも、しばしばテロ行為を引き起こしている。
国境線―領土問題―をめぐる争いを抱える国々にとって、何時戦争状態を引
き起こすか分からぬような緊張状態のもとにおいては、国家として、国民生活
が安定し、経済発展を遂げることは出来ない。
2
いずれにしても、国境線は、国家間の最大の争いである。そして、簡単には
解決せず、長期にわたって、引きずる問題であることが多い。
この著作を纏める動機となったのは、跡見学園女子大学で6年間、マネジメ
ント学部長を、また 4 年間大学院マネジメント研究科長を務め、昨年4月から
客員教授となったのを機に、学部創設準備委員会委員長としてお世話になった
元北大法学部長の伊藤大一先生と元文部政務次官で跡見学園女子大学の教授で
もあった日下部禧代子先生と私の3人でテーマを選んで、月 1 回研究会をやる
ことになったが、第6回の研究会で、たまたま私が提案して、
「最大の争い・国
境線」と言うテーマを担当することになった。そして研究会で提出した私の資
料は、数十頁程度のものであったが、これを加筆して著書の形に纏めたもので
ある。
3
序・世界の争い―国境と民族と宗教
歴史的に、国境線をめぐる争いは、地球上の最大の争いであるが、一般に、
世界の国境線をめぐる争いの代表事例とされる61事例についてみると、その
争いに対して付けられている一般名称は、様々で、つぎの通りとなっている。
戦争:5件
独立戦争:2件
国境紛争:3件
4件
領有権問題:2件 独立運動:4 件
独立問題:1 件
問題:5件
内戦:7件 侵攻:3件
革命:1件
争い:2件
民族紛争:1 件
危機:1件
領土紛争:3件
内乱:1件
反政府運動:
紛争:5件
事件:3件
運動:1件
戦争は、武力を用いた国家間の闘争であり、国際法上の戦争には、戦時国際
法上の戦争法規の規定が適用される。
独立戦争は、独立を目指した武力を用いた闘争であり、戦争であることには
変わりがない。
内乱は、1 国内における政府と叛徒との兵力による闘争で、国内的には、内乱
罪が適用されるが、交戦団体の承認を受けると国際法上の戦争と看做され、戦
争法規が適用される。
革命は、従来の被支配階級が支配階級から国家権力を奪い、社会組織を急激
に変革することで、フランス革命がその例である。
人種差別とは、人種的偏見で、ある人種を社会的に差別することで、ユダヤ
人排斥や、白人による有色人種に対する差別的待遇などがその例である。
国境線をめぐる争いには、①争いの原因
4
②争いの主体
③争いの相手
④争いの目標達成の手段等の問題がある。
① 争いの原因には、差別(人種差別が典型)、抑圧、宗教対立、民族対立
資源(ウラン・金属等)
・エネルギー(石油・天然ガス等)や市場の奪い合い
等がある。
② 争いの主体には、国家、人種、民族、宗教団体等がある。
③ 争いの相手にも、国家、人種、民族、宗教団体等がある。
④ 争いの目標達成の手段には、テロ(特定の個人や集団の暗殺、誘拐等)、
暴力(大量殺戮兵器による無差別殺戮等)、戦争等がある。
上記①で、争いの大きな原因のひとつに、エネルギー資源(石油・天然ガ
ス等)の奪い合いがあると述べたが、石油や天然ガスの埋蔵量はその国のポ
テンシャル(潜在的な成長可能性)として重要な意味を持っている。
これについて少し敷衍すれば、石油や天然ガスは数億年の地球の歴史を経
て地下数千メートルに生成されたものである。これに対し現在の国境線はた
かだか19世紀または20世紀に地表面に描かれたものに過ぎない。この人
為的に引かれた国境線は地球上に多くの領土紛争を巻き起こした。そして海
水面についても、国防上の理由から「領海」の概念が生まれ、地表面および
海面の陣取り争いが起こった。そして次に漁業資源をめぐって「200海里
水域」が主張されるようになり、国家の権利は地上から海面へ、そして海面
から海中へと広がっていったのである。
更に20世紀後半には、「地下に眠る天然資源はその領土を支配する国家
のものである」と言う原則が国際社会で認められた。この結果、天然資源の
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うち経済的価値の高い石油・天然ガスと言った炭化水素資源は特に各国の最
大の関心事となり、権利の囲い込み、いわゆる「資源ナショナリズム」が台
頭したのである。現在では「排他的経済水域(EEZ, Exclusive Economic Zone)」
として、大陸棚の地下資源についても探査・開発のための主権的権利が認め
られるようになった。
前述の通り、もともと炭化水素資源は地上の国境とは無関係に人類発生以
前の数億年前に地下に形成されたものである。しかし油田或いはガス田が複
数の国の領土・領海(又は排他的経済水域・大陸棚)にまたがっている場合、
関係国の間で当然のごとく資源争奪紛争が勃発する。紛争は近年とみに頻発
しており、それは隣接する二国間だけではなく、多数の国が複雑に絡みあう
ことも稀ではない。例えば南シナ海の南沙諸島は取るに足らない珊瑚礁の
島々であるが、中国、フィリピン、台湾、ベトナムなど周辺7カ国が同諸島
の領有権を主張している。これは地下に未発見の石油・天然ガスといったハ
イドロカーボン資源があると予測されているからに他ならない。
以下に、宗教対立と地域紛争及び人種・民族対立と地域紛争の問題を詳しく取
り上げたい。
1
宗教対立と地域紛争
世界の地域紛争の背景には、宗教対立があることが多い。宗教は、一神教と
多神教に分けられるが、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、いずれも唯一
の神を信ずる一神教で、経典にも共通点が多いが違う部分が強調されて、しば
しば紛争になる。
6
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、世界的な広がりをみせており、この
点から世界宗教と呼ばれる。
中東でユダヤ教を母体として生まれたキリスト教は、ローマ帝国が国教と定
めたことでヨーロッパに広がった。ローマ帝国の分裂で、キリスト教もカトリ
ックと東方教会に分裂。カトリックからはプロテスタントが分かれた。
イスラム教は、アラビア半島に生まれ、アジアに拡大した。イスラム教は、
預言者ムハマンドの後継者争いから、スンニ派とシーア派に分かれ、その後も
教義の解釈をめぐって、いくつもの派が誕生した。
2
人種・民族対立と地域紛争
世界の地域紛争の背景には、宗教対立以外に、人種・民族対立があることが
多い。人種は白色人種群、黄色人種群、黒色人種群が一般的。民族とは、同じ
土地に生まれた者は、言語、風俗・習慣を共にするわけで、そこに民族感情が生
まれる。いわば人間集団を言語・生活様式・宗教などを基準にして分類したもの。
民族自決とは、各民族が自主的に自己の政治的運命を決定すること。このこ
とは、民族国家においては人民が政治体制を自由に決定すること、複数国に分
かれている民族にあっては民族統一を達成すること、異民族の支配下にある民
族にとっては独立を獲得することを意味する。
民族自決のイデオロギーは、19 世紀ヨーロッパにおける民族国家の形成、な
らびに20世紀に入ってからの植民地の独立に当たって、大きな役割を果たし
た。
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第一章
アメリカ合衆国の領土の形成
アメリカは、世界で3番に大きな領土をもっている。現在、アメリカ合衆国
には、50の州があるが、イギリスから独立した当初は、東海岸の13州しか
なかった。アメリカが独立した当時は、西欧列強の植民地が混在し、虫食い状
態のようになっていた。
独立から20年後の1803年、アメリカはフランスからルイジアナを15
00万ドルで、また1819年にスペインからフロリダを購入した。
アメリカは西欧列強からだけでなく、先住民のインディアンからもオハイオ、
インディアナ、イリノイ州を1エーカー(1200坪)1セントという破格の
値段で買い取った。(1エーカー=40,5アール(1アール=10㎡)
)
そして、1845年には、テキサス州を併合したが、テキサス州はもともと
メキシコの領土だった。そして、1821年にメキシコがスペインから独立し
たとき、メキシコはテキサスの開発のために国籍を構わず入植を勧めたところ、
アメリカ人が大挙して押し寄せ、結局1836年にテキサスはメキシコに対し
て独立を宣言してしまい、そしてテキサスはアメリカに併合して欲しいと打診
してきた。メキシコはこれを断り、アメリカとメキシコの戦争となり、アメリ
カは勝利し、勢いに乗じてアメリカはテキサス州のみならず、カリフォルニア
とニューメキシコまで手に入れ、これらを代価1500万ドルで購入した。
そして、1867年3月30日アメリカは、ロシアから、アラスカを、72
0万ドルで購入した。これを最後に、アメリカの領土は現在の姿に確定した。
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第二章
日本の領土―北方領土問題、竹島問題、尖閣諸島
問題、沖の鳥島問題
(北方領土問題(日本 VS ロシア連邦)
)
(1)北方領土は、日本にとって、最大の領土問題である。北方領土とは、北海
道の北東部に浮かぶ択捉島、国後島、色丹島、歯舞諸島のことである。
外務省の公表資料によれば、わが国は、ロシア人に先んじて北方領土を発見・
調査した。遅くとも19世紀始めには、わが国は、四島の実効的支配を確立し
た。19世紀前半には、ロシア側も自国領土の南限をウルップ島と認識してい
た。
北方領土には、江戸時代から日本人が住み、松前藩が管轄していた。185
5年に日露和親条約で、ロシアと日本の国境がウルップ島と択捉島のあいだに
置かれたことから、北方四島は日本の領土であることが正式に確認されたこと
になる。
(2)しかし、第二次世界大戦末期に旧ソ連軍は、日ソ中立条約を破棄して対
日参戦し、千島列島を占領併合してしまった。これ以降、日本のたび重なる返
還要求にもかかわらず、北方領土はロシアに属したままになっている。
ロシアが未だに北方四島を返還しないのは、
「千島列島」をめぐる解釈の違い
によるものだ。1951年に調印されたサンフランシスコ平和条約で、日本は
千島列島と樺太(サハリン)
、それに近接する諸島に対するすべての権利と請求
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権を放棄した。日本側は、ここでいう千島列島には北方四島は含まれないと解
釈し、武力によって奪い取った土地を返還することがうたわれたカイロ宣言も
根拠にして、返還要求を続けている。
(3)1956年、日ソ平和条約締結交渉が行われ、歯舞群島、色丹島につい
ては、平和条約の締結後、日本に引き渡すことにつき同意したが、これを除い
ては、領土問題につき日ソ間で意見が一致する見通しが立たず、そこで、平和
条約に代えて、戦争状態の終了、外交関係の回復等を定めた日ソ共同宣言に署
名した。そして、領土問題の交渉の継続につき同意した。
(4)日ソ共同宣言後の日ソ交渉の経過を見れば、①
1973年、田中総理
が訪ソ、日ソ共同声明において、「第二次大戦の時からの未解決の諸問題を解
決して平和条約を締結することが、両国間の真の善隣友好関係の確立に寄与す
ることを認識し、平和条約の内容に関する諸問題について交渉した。」と明記
された。その際、ブレジネフ書記長は、北方四島の問題が戦後未解決の諸問題
の中に含まれることを口頭で確認した。 それにもかかわらず、その後ソ連は長
い間「領土問題は存在しない」との態度を取り続けた。
②
1991年4月、ゴルバチョフ大統領が訪日し、日ソ共同声明において、
ソ連側は、四島の名前を具体的に書き、領土画定の問題の存在を初めて文書で
認めた。
③
1993年10月、エリツィン大統領が、訪日し、東京宣言(第2項)に
おいて、(イ)領土問題を、北方四島の帰属に関する問題であると位置づけ、
10
(ロ)四島の帰属の問題を解決して平和条約を締結し、両国関係を完全に正常
化するとの手順を明確化し、(ハ)領土問題を、1)歴史的・法的事実に立脚し、
2)両国の間で合意の上作成された諸文書、及び、3)法と正義の原則を基礎と
して解決する、との明確な交渉指針を示した。
④
1998年11月小渕総理が、訪露し、モスクワ宣言において、従来の東
京宣言、クラスノヤルスク合意及び川奈合意を再確認し、国境画定委員会及び
共同経済活動委員会の設置を指示した。
⑤
2000年9月、プーチン大統領が訪日し、「平和条約問題に関する両首
脳の声明」において、クラスノヤルスク合意の実現のための努力を継続するこ
とを確認。これまでのすべての諸合意に立脚して、四島の帰属の問題を解決す
ることにより平和条約を策定するため交渉を継続することを確認。
その際、プーチン大統領は、「56年の日ソ平和条約締結交渉における宣言
は有効であると考える」と発言した。
⑥
2003年 1 月、小泉総理が、訪露し、両首脳の間で、四島の帰属の問題
を解決し、平和条約を可能な限り早期に締結し、もって両国関係を完全に正常
化すべきとの「決意」を確認した。また、「日露行動計画」において、56年
日ソ共同宣言、93年東京宣言、2001年イルクーツク声明の 3 文書が具体
的に列挙され、今後の平和条約交渉の基礎とされた。
11
⑦
2005年6月に、森前総理が訪露し、プーチン大統領より、11月のAPEC
の前後に訪日したい、平和条約問題については、訪日時に小泉総理と真剣な交
渉を行いたい旨述べた。
2005年11、月プーチン大統領が、訪日し、小泉総理より、日ソ共同宣言、
東京宣言、日露行動計画等のこれまでの諸合意は極めて重要かつ有効であり、
これらに基づいて平和条約締結交渉を継続する必要がある、両国には四島の帰
属に関する問題を解決して平和条約を可能な限り早期に締結するとの共通の認
識があり、双方が受け入れられる解決を見出す努力を続けていきたい旨述べた。
これに対し、プーチン大統領より、この問題を解決することは我々の責務であ
る、平和条約が存在しないことが日露経済関係の発展を阻害している、他方、
この問題は第二次世界大戦の結果であり、他の問題への連鎖という問題がある
旨述べた。これまでの様々な合意及び文書に基づき、日露両国が共に受け入れ
られる解決を見出す努力を行うことで両首脳が一致した。
(5)領土問題に関する日ソ交渉は以上のような経過を辿っており、一向に埒
が明かない状況である。なお、私が、総務事務次官の時、総務庁に北方領土対
策本部 が置かれ、大臣が本部長で、私は副本部長を務めた。そして、事務次官
のとき、根室の北方領土記念館を訪れ、その前にある北方領土展望台から北方
四島を眺めた。
(竹島問題(日本 VS 韓国))
(1)外務省の公表資料によれば、竹島は、歴史的事実に照らしても、かつ国
際法上も明らかに我が国固有の領土である。島根県の北西約157キロ沖に位
12
置する竹島は、東西ふたつの主島と十数個の岩礁からなる小島だ。東京ドーム
の約5倍の広さの同島をめぐって、日本と韓国とのあいだで激しい領有権争い
が続いている。
(2)島の周辺は、南からの対馬暖流と北からのリマン寒流の接点になってい
て、魚介藻類が豊富に生息する。そのため、古くから日韓双方が漁業基地とし
て利用してきた。
島が発見された正確な時期は不明だが、日本人には、江戸時代初期にすでに
知られていたといわれる。1905年(明治38)に日本が閣議で島根県に編
入することを決定したが、当時の韓国には外交権がないも同然で、この決定は
無効だという声が韓国では強かった。
状況が大きく変わったのは、第二次世界大戦後の1946年に連合国軍総司
令部(GHQ)が出した覚書で、竹島を日本の行政区分から分離することが書かれ
てからだ。
その後、韓国側はこれを根拠にして領有権を主張したが、日本政府は、これ
はただの覚書で政府が承認したわけではないと主張している。それに対して、
韓国側は警備隊を常駐させ、日本の艦船の接近を実力で阻止する実力行使に出
た。
これ以降、竹島の領有権は棚上げされ現在に至っている。
(3)日韓が強硬に領有権を主張するのは、竹島が自国の領土になるかどうか
で、200海里の排他的経済水域(EEZ)の境界線が変わってしまうためであ
る。政治的な意義に加え、とくに日本にとっては、漁業関係者の権益を守る意
味でも、領土にしておきたいのだ。
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最近では、韓国が竹島を図柄にした切手を発行し、それに対して日本政府が抗
議する事態も起きている。
また、日本の教科書への記述問題を契機に、2008年7月29日、韓国首
相は、竹島を訪問した。
(尖閣諸島問題(日本 VS 中国 VS 台湾))
(1)尖閣諸島は、沖縄県八重山諸島の北方約160キロメートルの小島群
で石垣市に属する無人島である。外務省の公表資料によれば、尖閣諸島は、
1885年以降、政府が沖縄県当局を通ずる等の方法により再三にわたり現
地調査を行ない、単にこれが無人島であるのみならず、清国の支配が及んで
いる痕跡がないことを慎重確認の上、1895年 1 月14日に現地に標杭を
建設する旨の閣議決定を行なって正式にわが国の領土に編入することとした
ものである。
同諸島は爾来歴史的に一貫してわが国の領土たる南西諸島の一部を構成し
ており、1895年5月発効の下関条約第2条に基づきわが国が清国より割
譲を受けた台湾及び澎湖諸島には含まれていない。
従って、サン・フランシスコ平和条約においても、尖閣諸島は、同条約第
2条に基づきわが国が放棄した領土のうちには含まれず、第3条に基づき南
西諸島の一部としてアメリカ合衆国の施政下に置かれ、1971年6月17
日署名の琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協
定(沖縄返還協定)によりわが国に施政権が返還された地域の中に含まれて
いる。以上の事実は、わが国の領土としての尖閣諸島の地位を何よりも明瞭
に示すものである。
14
(2)中華人民共和国政府の場合も、台湾当局の場合も1970年後半、東
シナ海大陸棚の石油開発の動きが表面化するに及びはじめて尖閣諸島の領有
権を問題とするに至ったものである。
また、従来中華人民共和国政府及び台湾当局がいわゆる歴史的、地理的な
いし地質的根拠等として挙げている諸点はいずれも尖閣諸島に対する中国の
領有権の主張を裏付けるに足る国際法上有効な論拠とはいえない。
大小の島や岩礁からなる群島で、古くからその存在が知られていた。だが、
無人島ゆえに、どこかの国に所属したという明確な文書は残っていない。
そこで日本政府は、当時の清国の支配がないことを確認し、1895(明治
28)年、領土に編入することを決定した。
ところが、1968年の海底学術調査で、尖閣諸島周辺に世界有数の豊富な
石油資源と天然ガスが埋蔵されていることが確認されると事態は一変。71年
に正式に中国や台湾が領有権を主張し始めたのである。
中国は、日本が領有したのは、日清戦争によるものであり、戦争によって割
譲された土地は元に戻すべきだという立場で、領有権を主張している。
実際のところ、尖閣諸島周辺から本当に石油や天然ガスが採れるかどうか疑
問視する見方もある。だが、そんなことに関係なく、この問題は政治問題化し、
各国の活動家などによる示威行動も盛んにおこなわれている。
2004年には、島に上陸した中国の活動家が沖縄県警に逮捕され、強制退
去処分になる事件が起きるなど、対立は激しくなるばかりだ。
(沖の鳥島問題(日本 VS 中国))
(1)沖の鳥島は、台湾よりも南に位置する日本の最南端の島で、東京都に属
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し、水面から高さ約1メートル、直径数メートルのふたつの岩礁が突き出てい
るだけの無人島である。
国連海洋法条約では、
「満潮時にも水面上にあるもの」として「島」の定義付
けがされているので、沖の鳥島は、立派な「島」である。同島は水没しないだ
けでなく、日本は、定期的に観測を行っている。
(2)これだけの小さい島が日本にとって重要なのは、この島の存在によって
周辺の海が日本の排他的経済水域になり、廣く豊かな漁場が確保できるからで
ある。同島の排他的経済水域は40万平方キロメートルで、日本の国土面積よ
りも廣いのである。
そのため、政府は300億円以上の資金を投じてコンクリートの保護壁を築
き、波による浸食を防いでいる。
(3)しかし、近年、中国が「沖の鳥島は岩だから経済水域は設定できない。」
と主張し始め、同島周辺への海洋調査船を頻繁に送っている。国連海洋法条約
では、他国の経済水域内で海洋調査をおこなう場合、相手国に事前に申請して
同意を得なければならないが、中国は無視している。
もし中国側の「岩」という主張が国連に受け入れられれば、日本は膨大な漁
業資源を損失することになる。日本側は、いままで通り「島」であるという考
えを崩していない。
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第三章
大陸棚と国境線―南極・北極
(大陸棚と国境線)
(1)日本の「領土」が一気にいまの1,7倍にも広がるかもしれない、とい
う話が進んでいる。日本の周辺の海の話である。
1982年、第三次国連海洋法会議にて、「海洋法に関する国際連合条約」
(海洋法条約)を採択、1994年に発効した。
海洋法条約によれば、陸地の沿岸から12海里(22,2キロメートル)ま
では領海、沿岸から200海里(370,4キロメートル)までは「排他的経
済水域」と決まっている。
この排他的経済水域の海底部分が「大陸棚」である。大陸棚とは、陸地から
なだらかに続いている海底の土地のことである。すなわち、大陸の周縁に分布
するきわめて緩傾斜の海底で、傾斜の変換点をその外縁とする平らな棚状の地
形をいう。
この大陸棚の地下資源は、大陸棚の沿岸国のもの、という考え方が成立して
いる。
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「排他的」とは、「よその国はダメ」という意味。つまり、
「領海」ではない
けれど、よその国に漁業や海底資源の採掘を認めない水域、ということである。
沿岸国は基本的にこの排他的経済水域である200海里(370,4キロメ
ートル)までの海底及び海底下を大陸棚とすることができる。
(2)さらに、海底の地形・地質が一定条件を満たせば、200海里の外側に
大陸棚の限界を設定することが可能であるとされている。
つまり、大陸と連続している地盤であることが証明されれば、さらに「大陸棚」
を延長できる。
このことについて、上記海洋法条約に基づく大陸棚の延長規定では以下の細
目を規定している。
1. 大陸斜面脚部から60海里(111,12キロメートル)の範囲
大陸斜面脚部とは、陸と海の境界である「大陸斜面」の麓(基部)で地形の
傾斜の最大変化点をいう。
2. 堆積岩の厚さが大陸斜面脚部からの距離に対して 1%である範囲
ただし、以下の2つを越えない範囲。
1. 領海の基線から350海里(648,2キロメートル)の線
2. 2500m の等深線から100海里(185、2キロメートル)沖合の線
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以上のことを簡単に言えば、大陸棚の傾斜が終わる場所(傾斜最大変化点)、
つまり大陸棚の足元にあたる「大陸傾斜脚部」から60海里(111,12キ
ロメートル)まで延長できる。ただし、無制限ではなく、最大で沿岸から35
0カイリ(648,2キロメートル)となっている。
(3)これが認められるのは、2009年までに、国連の「大陸棚限界委員会」
に科学的な資料を提出して、認定されたときである。
日本の海上保安庁が調査した結果、沖の鳥島や南鳥島の周辺など六ヶ所合計
で、現在の日本の国土(領土)の1,7倍にあたる65万平方キロメートルが
大陸棚に認められる可能性があることが分かった。
ここが、日本の大陸棚に認められれば、海底の地下の資源を探査・開発でき
るようになる。政府は、2004年度予算で、100億円かけて厳密な調査を
始めることになった。
(南極の領有権問題)
南極は、どの国の領土でもない。しかし、極寒のこの地に日本をはじめ、数
多くの国が基地を建設している。日本の昭和基地など、南極には2003年時
点で28基地もある。
参加している国は日本を含めたアジアから、北米や南米、さらにはヨーロッ
パまでさまざまだが、こんなに寒くて何もない南極に、なぜ各国が基地をつく
りたがるのか。
観測基地というだけあって、その目的のひとつは、地球の歴史がわかるとい
う南極の氷の調査である。
19
しかし実際は、氷の下に眠っている金・銀・プラチナなどの金属資源や、石
油や天然ガスなど、豊富な資源の開発が目的なのである。
過酷な気象条件で、長らく人跡未踏だった南極は、その資源も手つかずのま
ま残っている。
現在は、中東地域で豊富に産出する石油もやがて枯渇してしまう。したがっ
て、ほかの地域で豊富な資源を探さなければならない。そこで、各国が注目し
たのが、南極だったのである。
南極圏にはじめて人類が足を踏み入れたのは、18世紀後半のことで、最初
は、アザラシやオットセイの捕獲が目的だったとされる。
20世紀に入ると、ノールウエーとイギリスの探検隊が相次いで南極圏に到
達した。
1908年、イギリスが領有権を主張しはじめると、それからはノールウエ
ー、フランス、ニュージランド、オーストラリア、アルゼンチンが領有権を主
張し、一触即発の状態となった。
第二次世界大戦後、領有権を主張する国はさらに増えた。日本も57年に昭
和基地を開設している。
しかし、資源の開発は、新たな戦争の火種となり、南極の環境破壊につなが
ると、61年に基地を持つ12カ国によって、
「南極条約」が結ばれた。この条
約によって、南極での資源の開発は禁止となり、南極の自然は保たれたといえ
る。
さらに、91年には、最低50年間は資源の発掘は禁止となり、南極はどこ
の国のものでもないと改めて確認がなされた。
20
現在南極では、各国が協力し合って観測を続けているが、いつまでこの状態
を続けていくことができるであろうか。
(北極の領有権問題)
地球温暖化を科学的に研究している国連の「気候変動に関する政府間パネル」
(IPCC)の調査によると、北極圏の平均気温は、過去100年間で2度上昇し
ている。地球全体の平均気温の上昇率の2倍に達している計算である。
北緯90度に当たる北極点を中心とした北極圏の総面積は2500万から3
000万平方キロメートル、この圏内に埋蔵されている石油・天然ガスの量は
地球の陸地全体の埋蔵量の約4分の 1(約100億トン)に当たると推定される。
従来、北極海は分厚い氷で覆われて、海底の資源開発は困難と考えられてき
たが、最近の温暖化によって、北極海の海氷は縮小する一方で、海底の資源探
査と開発は容易になる方向である。
これまで、北極海に隣接するロシアやアメリカ、カナダ、ノルウェー、デン
マーク(グリーンランド)など5カ国は、互いに北極に対する領有権を主張し
てきた。北極海については、1920年代に、旧ソ連やアメリカ、カナダ、ノ
ルウェー、デンマーク(グリーンランド)の沿岸5カ国が、領土の東西の端と
北極点を結ぶ三角形の範囲に領有権を持つことで合意していた。しかし、19
94年に発効した国連海洋法条約で、領海は12カイリ(約22,2キロ)
、排
他的経済水域は200カイリ(約370キロ)と定められた。これにより、ロ
シアは、それまで沿岸国の合意で認められていた広大な海域の領有権をうしな
った。ただし、国連海洋法条約は、排他的経済水域の外側でも、それが大陸棚
21
であれば、大陸に位置する沿岸国が資源開発の権利を持つことを認めている。
ロシアは、北緯88度の地点にある北極海底の「ロモノソフ海嶺」が東シベ
リアと大陸棚で繋がっていることを立証しようと努めている。そして、200
7年8月、ロシアの探査船「アカデミック・フェドロフ」号は、砕氷船「ロシ
ア」号と共にムルマンスクを出港、ロシア号が先頭に立ち北極海の氷を砕いた
おかげで、フェドロフ号は夜8時、無事に北極点に到着、翌日午前、史上初め
て水深4200メートルの北極海底に小型潜水艇「ミール」
(ロシア語で「世界」
の意味)2隻を送り込み、ロシア国旗が付いたチタン製のカプセルを埋めるこ
とに成功した。ロシアによる北極探査の意図は、この地域に埋蔵された石油と
天然ガスの所有権を前もって公認させることにある。ロシアは、海底に旗を立
て北極の領有を主張したわけである。
しかし、競争国は依然としてロシアによる大陸棚連結の事実を認めていない。
このロシアの行動に対し、カナダは、北極海のレゾリュート湾に、新たな軍
の訓練施設を建設する方針を決定し、早速警備隊を増強している。
また、デンマークもスエーデンと合同の調査隊を北極海に派遣して、北極海の
ロモノソフ海嶺が、自国の大陸棚であることを証明しようとしている。
22
第四章
イスラエルとパレスチナの問題
(1)イスラエルという国は、ユダヤ人が積年の悲願で作った国である。
この問題の発端は、第一次世界大戦までさかのぼる。第一次世界大戦前、現
在のイスラエルがあるパレスチナ地方は、イスラム教の強国オスマン帝国の支
配下にあった。第一次世界大戦では、イギリス、フランス、アメリカ、イタリ
ア、日本などの連合国側に対し、オスマン帝国はドイツとの同盟関係から、ド
イツ、オーストリア、トルコなどの同盟国側として参戦した。この大戦中に、
ロシアで革命が起こり、史上最初のプロレタリア独裁の社会主義政権が誕生し
た。
当時のユダヤ人社会では、同盟国側を支持するものが多かった。当時もっと
もユダヤ人を迫害していたのはロシアであり、そのため、ロシアと戦うドイツ
を支持していたのだ。
(2)大きな金融力をもつユダヤ社会を、両陣営とも引き入れたかった。苦戦
していた連合国側のイギリスは、ユダヤ人社会に大きな約束を持ち出した。戦
争終結後には、パレスチナ地方にユダヤ人のナショナルホームを作る、という
ものである。イギリスの出した提案は、ユダヤ人社会の願望を捉えたものだっ
た。このイギリスの出した提案は、当時のイギリスの外務大臣バルフォアが、
ユダヤコミュニティの長・ロスチャイルドに送った手紙から「バルフォア宣言」
と呼ばれるが、
「バルフォア宣言」では、ユダヤ人の「ナショナルホームを作る」
23
となっており、
「ユダヤ人国家を作る」というわけではなかった。しかし、ユダ
ヤ人たちは、「自分たちの国家を作れるもの」と解釈した。
ところが、イギリスの約束は空手形だった。パレスチナをめぐってイギリス
は三方に異なる提案をしていたのだ。
1つは、同盟国フランスに対してのもので、中東全体をイギリス、フランス
の両国で分割をするという提案だった。第一次大戦での同盟国であり、当時、
世界の強国だったフランスの機嫌をとったわけである。
2つめは、アラブ社会に対してのもので、パレスチナを含めて中東でオスマ
ン帝国に代わるアラブ王国を樹立させるという提案だった。当時、イスラム世
界の大部分はオスマン帝国の支配下にあったが、それをよく思わない部族もあ
ったので、戦後の独立を条件に各部族に反乱をおこさせたのである。
そして最後の1つがユダヤ人のナショナルホーム建設の提案だった。
つまりイギリスは中東のパレスチナ地方を三者に与える約束をしたのだ。
(3)第一次大戦後のパレスチナ地方は当然、混乱した。パレスチナ地方は、
国際連盟での決定によりイギリスの信託統治区域とされた。
第一次大戦終結時には、パレスチナには約75万人の住民がおり、そのうち
65万人がアラブ人だった。ユダヤ人も住んでいたが、ごく少数に過ぎなかっ
た。両者は親密とまではいえないものの、ほぼ平穏に共存していた。しかし、
「バ
ルフォア宣言」を受けてユダヤ人の大量移住が始まると、それに対して、アラ
ブ人社会は大反発をした。そして、パレスチナでは、ユダヤとアラブの小競り
合いが頻発し、大惨事になることもしばしばだった。
(4)第二次世界大戦期間中、600万人のユダヤ人が殺害され、ユダヤ人の
24
国の建設はユダヤ人の悲願となった。そして、第二次世界大戦後、パレスチナ
でのユダヤ人とアラブ人の対立は、限界点に達し、イギリスは、ついに信託統
治を諦め、パレスチナを国際連合に任せることにした。国連では、パレスチナ
を3つに分割し、ユダヤ人の自治区、アラブ人の自治区、そして各宗教の重要
な資産があるイスラエルの一部は国連の管理下に置くという提案をした。ユダ
ヤ側はしぶしぶながらその提案を受け入れたが、アラブ側は受け入れなかった。
ユダヤ側には得るものがあったが、アラブ側には失うものしかなかった。
1947年5月14日、イギリスの委任統治の終了と同時にパレスチナのユ
ダヤ人は、イスラエルの建国を宣言した。それと同時に、独立を承認しない周
辺のアラブ諸国との戦争が勃発した。第一次中東戦争である。アラブ側は相互
の連携をとることができなかったため、必死のイスラエル軍の前に敗退を重ね
た。この第一次中東戦争は1949年に休戦協定が結ばれ、終了するが、アラ
ブ側は多くを失うこととなり、逆にイスラエルは、国連が決めたユダヤ人の自
治区以上の地域を支配することとなり、この休戦協定ラインが、現在国際的に
認められているイスラエルの国境である。
(5)1956年、エジプトはスエズ運河を国有化しようとした。スエズ運河
のそれまでの所有者だったフランスとイギリスは、イスラエルをけしかけてエ
ジプトを攻撃した。第二次中東戦争である。しかし、米ソは、イギリス、フラ
ンス、イスラエルの各軍に撤退を要請した。この第二次中東戦争は、イギリス・
フランスの時代から完全に米ソの時代に移ったことを表した出来事だった。
(6)1967年には、パレスチナの民族運動を支援していたエジプト、シリ
アに対して、イスラエルが先制攻撃を仕掛ける第三次中東戦争がはじまった。
25
このときのイスラエル軍は、装備も兵力も建国当時とは格段に拡充し、アラブ
軍を徹底的に蹴散らした。たった6日で終結したこの戦争で、イスラエルはこ
れまでの4倍以上の地域を支配することとなった。第三次中東戦争で、イスラ
エルが得た領土は、エジプト領ガザ地区、シナイ半島、ヨルダン領ヨルダン川
西地区、シリア領ゴラン高原で、このうち、シナイ半島は1979年にエジプ
トに返還した。ゴラン高原などには、すでにユダヤ人入植がはじまっている。
(7) パレスチナ自治区は、イスラエルの中央部を占めるヨルダン川西岸と、
地中海に面した南西部のガザ地区である。ヨルダン川西岸の面積は三重県とほ
ぼ同じで、ここに210万人のパレスチナ人が住んでいる。ガザ地区は種子島
より小さく、110万人が暮らしている、大変な人口密集地である。
(8)1973年10月アラブ側がイスラエルを攻撃して、第四次中東戦争が
勃発したが、米ソが双方への武器補給をとめたため、決定的な勝敗はつかなか
った。
度重なる中東戦争の結果、住む家を失って難民となったパレスチナ人は38
7万人にも達している。
パレスチナ自治区に「パレスチナ国家」を樹立する方針だけは決まっている
が、パレスチナ過激派による爆弾テロと、それに報復するイスラエル軍の暗殺
作戦の応酬で、和平への道は見えていない。
(9)中東問題を解決するため、1993年、イスラエル軍がヨルダン川西岸
とガザ地区から撤退し、ここにパレスチナ自治区を作る合意が成立し、パレス
チナ自治政府も誕生したが、そこから先へはなかなか進まない状況である。
(10)
中東問題の解決をめざして、2003年6月、新しい「ロードマッ
26
プ」をイスラエルのシャロン首相とパレスチナ自治政府のアッパス首相が、ア
メリカのブッシュ大統領の仲介で了承した。
(11)
中東和平プロセスの混迷とパレスチナ内部の混乱が続く中、200
4年10月末アラファト PLO 議長は、入院先のパリで逝去した。これを受けて、
アッバース・前 PA 首相が PLO 議長職を継承した。
(12)2005年 1 月 9 日、新たな自治政府長官を選出する選挙が実施され、
アッバース議長が約 63%の得票率で圧勝、アッバース PA 大統領は、ハマスを始
めとするパレスチナ諸派との対話を重ねると同時に、ガザ地区に治安部隊を展
開する等、治安情勢の沈静化に一定の成果を上げた。2005年 2 月 8 日、シ
ャルム・エル・シェイクにてムバラク・エジプト大統領、アブダッラー・ヨル
ダン国王、アッバース PA 大統領、シャロン・イスラエル首相による四者首脳会
談が実現し、軍事活動と暴力の停止を双方が宣言し、西岸 6 都市の治安権限の
移譲、パレスチナ人拘禁者 900 名の釈放等につき合意された。2005年 9 月、
イスラエルによるガザ撤退が無事完了した。しかし、ガザ撤退完了後、武装組
織による祝賀パレードにおける爆発事件、武装勢力のイスラエル領内に向けて
ロケット砲の発射、これに対しイスラエル軍の武装勢力幹部の暗殺・逮捕等ガ
ザ地区の情勢は不安定な状況が続いた。
(13)パレスチナ情勢は混迷を深めながらも和平努力が継続されている。2
006年 1 月、第2回パレスチナ立法評議会(PLC)選挙が行われ、イスラエル
を承認せず、対イスラエル武装闘争継続を標榜するハマスが過半数の議席を獲
得し、3 月、ハマス幹部であるハニーヤ PLC 議員を首相とするハマス主導の自治
27
政府内閣が成立した。イスラエルは PA 内閣との接触を停止(アッバース大統領
及びその周辺との接触は維持)した。
更に、6 月 25 日にガザ地区で発生した
パレスチナ武装勢力によるイスラエル兵士の拉致事件を契機に、イスラエル軍
がガザ地区に侵攻。更にイスラエルは、テロ組織への関与の容疑で、ハマス関
係者である PA 閣僚や PLC 議員等多数を逮捕、収監した。他方、パレスチナ人の
間でも、PLO 主流派のファタハとハマスの間での内部抗争が激化し、パレスチナ
人同士の衝突で多数の死者が発生した。この事態を打開するため、アッバース
大統領とハマスの間で、ファタハ、ハマス等パレスチナ諸派が参加する「挙国
一致内閣」を樹立するための協議が重ねられ、2007年 2 月、サウジアラビ
アの仲介で同内閣樹立の合意に至り、3 月、再びハニーヤ首相を首班としながら
も、非ハマス系閣僚を多数含めた挙国一致内閣が成立。
(14)
しかしながら、2007年 5 月上旬頃よりガザ地区でのファタハと
ハマスの対立は再び激化し、6 月14日、ハマスの部隊はガザ地区内の大統領府
や保安警察本部を占拠、ガザ地区全域の掌握を宣言する事態へと至った。この
事態を受け、アッバース大統領はパレスチナ自治区全域を対象に緊急事態を宣
言し、ハニーヤ首相を罷免、ハマス関係者を排除し、ファイヤード前財務庁長
官を首相とする緊急内閣を成立させた。その結果、パレスチナ自治区はアッバ
ース大統領側が統治する西岸地区と、ハマスが支配するガザ地区に事実上分断
された。イスラエルは、和平プロセス進展に再び尽力し始め、イスラエル・パ
レスチナ間の首脳会談が定期的に開催され、双方の対話は活発化した。また、
2007年11月には、ブッシュ米大統領が提唱した中東和平に関する国際会
議がアナポリスで開催され、2008年中の和平合意に向け、イスラエル、パ
28
レスチナ双方が努力することで合意した共同了解が発出された。続いて12月
には、財政危機が懸念される PA を支援するため、パレスチナ支援プレッジング
会合が仏主催によりパリで開催され、参加した約80カ国・機関より、総額約
77億ドルがプレッジされた。
(15)
シャロン・イスラエル首相の後任にオルメルト首相が就任したが、
個人的に癌にかかっていることの告白や多額の金銭受領の疑惑があり、200
8年7月28日、元首相の国防相からの糾弾で、首相を辞任した。なお、同年
8月8日の北京オリンピック開会式には、イスラエルからペレス大統領が出席
した。
29
第五章
中国が絡んだ国境紛争
(中・ロ全国境線確定)
(1)冷戦時のソ連は、共産圏の親玉で、アメリカに匹敵する軍隊、さらに1
万発以上の核ミサイルを持つ超大国だった。アメリカをはじめとする西側諸国
も、ソ連と直接戦闘にならないよう神経を使っていた。
だが、そうしたソ連に、唯一、自分から戦争を仕掛けた国が中国である。
中国とソ連は同じ共産圏に属する国のため、最初は非常に仲がよかった。し
かし時が経つにつれて、外交政策の違いなどから袂を分かつようになる。
(19
57年、西側諸国との平和外交を展開し始めたソ連は、59年になって突如、
中国への原爆の技術供与を停止した。また同年、中国はチベットをめぐってイ
ンドと武力衝突したが、ここでもソ連は中立の立場をとったため、援助を当て
にしていた中国の思惑がはずれてしまう。そうした経緯で、両国の関係は急激
に悪化していったのである。)
(2)そして中国の建設当初から抱えていた国境問題が再燃してきたのである。
中国とソ連(当時はロシア)が、近代的な意味での国境線を引いたのは1858
年から60年にかけてである。しかし、当時のロシアは清の末期、清国がイギ
リスにアヘン戦争に負けたばかりのときである。対等の話し合いをするには、
両国の間に力の差がありすぎたため、中国側にとってみれば、このときに決ま
った国境線は、自国に不利なものだったという認識が残った。
30
その後、ロシアで革命が起き、ソビエト連邦が誕生する。
それから第二次大戦が終わるまでは、中国とソ連の国境付近には日本が満州
国を作っていたため、両国が直接対立することはなかった。
(3)しかし、1945年に日本が降伏すると、国境付近にソ連が怒涛の勢い
でなだれ込んだ。一方の中国は、まだ中華人民共和国の建国前の混乱の段階に
あり、とても国境に注意を配る余裕はなかった。そういうどさくさの中で、中
国とソ連の新しい国境は決められた。それが中国の不満の種だった。
中国とロシアの国境の半分は、アムール川、ウスリー川といった河川に沿っ
て引かれている。これらの大河の中には、2500もの島々があったのだが、
ソ連はそのほとんどを我が物にしていた。
通常、河川を国境にする場合は、その河川の領有権は両国で均等に分けるこ
とになっており、また、河川に島がある場合も、同じように均等に分けるのが
普通である。そのため、中国はたびたび「河川の中の島を半分渡してくれ」と
ソ連に打診していたが、ソ連は受け付けなかった。
業を煮やした中国は1969年3月、ついに実力行使に打って出て、ウスリ
ー川に浮かぶ珍宝島を強襲した。それを皮切りに中国とロシアの国境全体で小
競り合いが起こった。このとき、ソ連も中国も核兵器を持っており、もし両国
が本気で戦い始めれば、核戦争に発展するおそれもあった。
(4)この紛争はほどなく停戦を迎えるが、珍宝島を含む、河川の島々の領有
権は後々まで争われ、結局、中国が珍宝島の領有権を手にしたのは、1991
年の中ソ国境協定でのことだった。
そして、中国のヤンチェチー外相とロシアのラブロフ外相は、2008年7
31
月21日、北京で会談し、中ロの東部国境確定に関する議定書に署名した。
大ウスリー島の半分が中国に引き渡される。かつて武力衝突にも発展した両国
間の国境紛争は、40年に及ぶ交渉を経て最終決着し、約4300キロにわた
る国境線がすべて確定された。
両国は05年、ハバロフスク西方のアムール川(中国名・黒竜江)とウスリ
ー川の合流点に位置する大ウスリー島の東部をロシア領に、同島西部と隣接す
るタラバロフ島(中国名・銀竜島)を中国領にすることで合意し、詰めの交渉
が続いていた。
(中印国境紛争)
(1)中印国境紛争とは、中華人民共和国とインドの国境問題により生じた紛
争のことである。
インドと中国は途中でネパールとブータンを挟んで長く国境を接しているが、
ほぼ全域がヒマラヤ山脈といった高山地帯であり、正確な国境はあいまいであ
った。その国境の解釈をめぐって武力衝突が起き、1959年9月から始まり、
1962年11月には大規模な衝突に発展した。主にカシミールとその東部地
域、ブータンの東側で激しい戦闘となったが、中国軍が圧倒的勝利を収めた。
現在アクサイチンは中国が実効支配している。停戦の前日に中国政府から発表
された4つの声明は、国際社会から好評をもって受け入れられ、インドは政治
的にも敗北した。
32
(2)この紛争は、インドが核開発を開始するきっかけともなった。また中ソ
対立の影響で、インドをソビエト連邦が支援していた。印パ戦争ではパキスタ
ンを中国が支援しており、大国の対立が色濃く影響していた。
2005年、マンモハン・シン首相と温家宝首相の間で、両国が領有を主張す
る範囲の中で、人口密集地は争いの範囲外とする合意がなされ、両国にとって
戦略上重要とされるアルナーチャル・プラデーシュ州、特にタワン地区は、現
状を維持している。
日本の学校教育用地図帳では、両国主張の境界線をともに引いた上で、地域は
所属未定とする手法がとられている。
(ベトナム戦争)
(1)1945年 8 月に第二次世界大戦が終結すると、 アジアや中南米、 ア
フリカにある多くの植民地で、宗主国の弱体化を背景にした軍事行動を伴う激
しい独立運動が発生し、独立運動家と既得権を守ろうとする欧米列強の宗主国
との間での紛争が繰り返し起きた。
(2)独立運動は共産主義勢力によって指導、支援されている場合が多く、ア
メリカに対抗する共産主義体制のボス的存在であるスターリンに率いられるソ
ビエト連邦は、当然、各地の共産主義勢力を支援したが、米ソともに核兵器を
保有していることから直接戦うことは避け
造が成立した。
33
冷たい戦争
と呼ばれる冷戦構
(3)その対立は朝鮮戦争やキューバ危機、ベルリン封鎖に見られるように代
理戦争の形をとって表面化した。自由主義の盟主を自認するアメリカは、中華
人民共和国や東ヨーロッパでの共産主義政権の成立が
ドミノ倒し
のように
発生したこともあって、一国の共産化が周辺国へのさらなる共産化を招くとい
うドミノ理論に怯え、アジアや中南米諸国の反共産主義勢力を支援して各地の
紛争に深く介入するようになった。
(4)1945年8月の第二次世界大戦の終結に伴い、1940年8月より宗
主国であるフランスの主権擁護を条件に仏領インドシナに進駐していた日本軍
が撤退すると、コミンテルンの構成員であったホー・チ・ミンはハノイに首都
を置いてベトナム民主共和国(北ベトナム)を成立させ、共産主義を基礎にし
た国造りを目指した。
(5)しかし、日本軍が去った後のインドシナ一帯の再支配を目論む旧宗主国
のフランスは独立を認めず、インドシナ一帯に再進駐した。
その後フランス軍は同年12月19日にベトナム民主共和国へ武力攻撃を開始
し、第一次インドシナ戦争が勃発した。またフランスは、1948年にベトナ
ム臨時中央政府を発足させたり、さらに1949年6月、ベトナム国をサイゴ
ン市に成立させて、首班に旧皇帝バオ・ダイを据え、その威光を利用したりす
るなどして、傀儡政府に対してベトナム人民の支持を得ようとしたが失敗した。
(6)その後フランスは、同じインドシナのラオスを同年 7 月に、カンボジア
を 11 月に独立させ、インドシナ全域に影響力を残しつつ、ベトナム国の正当性
を強調しようとした。しかしその様な中、同年10月にベトナム民主共和国の
34
隣に共産主義の中華人民共和国が成立すると、翌1950年 1 月にソ連と中華
人民共和国がベトナム民主共和国を正当政権と認証し、武器援助を行うように
なった。この承認に対抗しアメリカはフランスとインドシナ三国に軍事援助を
開始した。
その様な状況下で少しずつ劣勢におかれつつあったフランス軍は、ベトナム民
主共和国軍に惨敗し、事実上壊滅状態に陥り、ベトナムをはじめとするインド
シナ一帯からの撤退を余儀なくされた。
(7)その後フランスはベトナム民主共和国とスイスにおいて和平交渉を開始
し、同年7月には関係国の間で和平協定である「ジュネーブ協定」が成立した。
これによりベトナム民主共和国の独立が承認されることになったが、冷戦下に
おける共産主義の東南アジア台頭を恐れ、第一次インドシナ戦争中を通じて同
盟関係にあるフランスを積極的に支援し続けたアメリカは、それに対抗して、
北緯17度でベトナムを南北に分割させ、南に元々はフランスの傀儡政権であ
る、「ベトナム国」を存続させた。
アメリカはフランスが第一次インドシナ戦争に敗北しベトナムを撤退して以降
は、反共産主義的な姿勢を堅持した南ベトナムの歴代政権を「ドミノ理論」を
根拠に、フランスに代わり軍事、経済両面で支え続けた。
(8)その機に、1960年に北のベトナム民主共和国に指導された南ベトナ
ム開放民族戦線(ベトコン)が結成され、南ベトナム軍と政府に対するゲリラ
活動を本格化させた。南ベトナム解放戦線は実質的にベトナム労働党が主導し
35
ていたが、その後南ベトナム政府の姿勢に反感を持った仏教徒や自由主義者な
どの、共産主義者とは縁遠い一般国民も多数参加していくことになる。
(9)アメリカによるベトナムへの軍事介入はジョンソン大統領によってより
増強され、泥沼化した。
1963年11月のケネディの暗殺に伴い、ケネディ政権の副大統領であった
ジョンソンが大統領に就任する。その後ジョンソン政権は、ケネディが推し進
めた軍事介入政策をそのまま転換することなく戦争介入の体制が整って行く。
翌年8月7日には、上下両院で事実上の宣戦布告となる「トンキン湾決議」が
可決され、ジョンソン大統領への戦時大権を承認、本格的介入への道が開かれ
た。ジョンソン大統領は即日、報復として解放戦線勢力圏と同時に、トンキン
湾事件報復を口実として首都・ハノイ市などの北ベトナム中枢への爆撃(北爆)
を命令した。
その後アメリカは、北から南への補給路を断つため隣国ラオスやカンボジアに
も攻撃を加え、ラオスのパテート・ラーオやカンボジアのクメール・ルージュ
といった共産主義勢力とも戦うようになり、戦域はベトナム国外にも拡大した。
アメリカ空軍はこれらの地域を数千回空爆した他、ジャングルに隠れる北ベト
ナム兵士をあぶり出す為に枯葉剤をまき散らした。
(10)
戦地から遠く離れているものの、テレビ中継により多くの国民が戦闘を
目の当たりにしていた「戦争当事国」のアメリカでは反戦運動が高揚していた。
36
同時期には日本やフランス、イタリアなどの当事国ではない西側諸国でも、左
翼学生を中心とした運動と絡めた形で大規模な反戦運動が行われていた。
ジョンソンに代わって1969年1月20日に登場した共和党のニクソン大統
領は、地上戦が泥沼化(ゲリラ戦化)しつつある中で、人的損害の多い地上軍
を削減してアメリカ国内の反戦世論を沈静化させようとこのとき 54 万人に達し
ていた陸上兵力削減に取り掛かり、公約どおり8月までに第一陣25,000
名を撤退させ、その後も続々と兵力を削減した。
(11)
11月からは米ソ戦略兵器削減交渉の予備会談が行われ、1970年
4月からは本会談に入った。冷戦は緊張を緩和し、いわゆるデタントの時代に
入る。
ホーチミンは、1969年の 9 月に突然の心臓発作に襲われ、ハノイの病院に
て79歳の生涯を閉じた。
就任以前から段階的撤退を画策していたニクソン大統領は、1969年 1 月の
大統領就任直後よりキッシンジャー大統領補佐官に北ベトナム政府との秘密和
平交渉を開始させたが、1972年の北爆の再開などにより交渉は難航を重ね
た。この年4月、ニクソン大統領は北ベトナムの隣国である中華人民共和国を
電撃訪問する。共産圏の大国である中華人民共和国を訪問したことは、国境を
接する北ベトナムについてや、中華人民共和国が同じく隣国のカンボジアのポ
ル・ポトを支援している事が関連していると考えられた。
37
(12)秘密交渉開始から4年8ヶ月経った1973年1月23日、 北ベトナ
ムの特別顧問とキッシンジャー大統領補佐官の間で和平協定案の仮調印にこぎ
つけた。そして4日後の1月27日に、チャン・バン・ラム南ベトナム外相と
アメリカのウィリアム・P・ロジャー国務長官、グエン・ズイ・チン北ベトナム
外相とグエン・チ・ビン南ベトナム共和国臨時革命政府外相の4者の間でパリ
協定が交わされた。この「和平協定」調印へ向けての功績を称え、レ特別顧問
とキッシンジャー大統領補佐官にはノーベル平和賞が贈られたが、レ特別顧問
は受賞を辞退した。
(13)1973年のベトナム戦争終結から、35年経った現在、ベトナムは
様変わりで、ベトナムはここ最近の2年間でもかなり変わってきた。アジアで
は中国に次いで経済成長率(GDP)が高く、毎年 7%以上の成長を続けており、ど
んどん道路やビル、高層マンションなどが建っている。また自動車の数も2年
前の5倍くらいに飛躍的に増え、朝夕の通勤渋滞が発生している。
(南沙諸島領有権問題)
(1)南沙諸島またはスプラトリー諸島とは、南シナ海に浮かぶ約100の大
変小さな島々で構成され、互いの距離は十数キロメートルから数十キロメート
ル程度で位置している。
一般の人が普通に居住できる環境ではなく、島そのものにはほとんど価値が無
いが、海洋・海底資源が見込める。そのため台湾、中国、ベトナム、フィリピ
ン、マレーシア、ブルネイが領有権を主張している。現在、島を実効支配して
いるのは台湾、中国、フィリピン、ベトナムなどである。
38
(2)インドシナ半島を植民地としていたフランスが1930年からいくつか
の島々を実効支配していたが、1939年にヨーロッパでの戦争が始まるのと
前後して日本が中沙諸島と共に領有を宣言し占領、以降太平洋戦争終結まで支
配していた。
1951年のサンフランシスコ講和条約で領有権を放棄するまで日本が領有権
を主張していた。行政区分は昭和13年12月23日閣議決定により台湾の高
雄市の一部としていた。
(3)しかし、帰属先を明確にしなかったためにその後1949年にフィリピ
ンが領有を宣言し、1956年以降は南ベトナムがたびたび上陸し、南ベトナ
ム政府が1973年9月に同国フォクトイ省への編入を宣言したことに対し、
中国も翌年 1 月に抗議声明を出して領有権主張を本格化させていった。
(4)1970年代後半に海底油田の存在が確認され、広大な排他的経済水域
内の海底資源や漁業権の獲得のため、各国が相次いで領有を宣言している。ま
た広大な地域に広がる島々は軍事的にも価値がある。中国を含めた ASEAN での
会議で軍事介入はせず現状維持の取り決めが結ばれたが、最近中国の人民解放
軍が建物を勝手に建設しマレーシアなどから非難を浴びている。
1983年にはドイツ人のアマチュア無線家のグループがキャンプを張っての
移動運用を試み、ベトナム軍の守備隊に銃撃されて死傷者が出る騒ぎになった。
(5)1995年に米比相互防衛条約が解消されると、中国軍の活動が活発化
し、フィリピン主張の島を占領して建造物を構築した。
39
2004年9月に、フィリピンと中国が海底資源の共同探査で2国間合意が成
立し、2005年3月には、フィリピンと中国の2ヶ国に続きベトナムも加わ
り、探査が行われている。
(6)2007年11月中旬に中国側が中沙諸島だけでなく、南沙、西沙の両
諸島にまで行政区「三沙市」を指定したことをきっかけとして、同年12月に
ベトナムで「中国の覇権主義反対」などと唱える反中国デモが発生した。
2008年 1 月に台湾が実効支配する南沙諸島最大の島である太平島に軍用空
港を建設完成させた(滑走路は全長1150メートル、幅30メートル)。そ
の後、台湾総統が視察に訪れ、フィリピン政府の抗議を受けた。
(朝鮮戦争・朝鮮統一問題)
(1)太平洋戦争における日本のホツダム宣言受諾無条件降伏は、これまで植
民地であった朝鮮半島に軍事的空白を生み出した。日ソ不可侵条約を破棄し、
対日戦線に加わったソ連軍が満州から朝鮮に勢力をのばそうとしていたが、米
軍には朝鮮半島の全てを占領管理する兵力が不足しており、当時の米国の首脳
はソ連と協議し、日本軍武装解除のための米ソ軍管轄区域の境界を38度線と
して分割占領した。
(2) 米・英・ソ三国はヤルタ・ポツダム両会談の決定にしたがって、戦後処
理の問題を解決するためモスクワで会議を開き、朝鮮を独立国として再建する
ことを前提として、臨時朝鮮民主政府を設立するために会談をもつとの合意み
たが、ソ連の力による共産化政策で東欧諸国に次々と共産主義政権が樹立され
たことから、アメリカの封じこめ政策が始まり、話し合いによる朝鮮独立問題
40
の解決は難しくなった。
このため、アメリカは朝鮮問題の解決を国連に付託し、国際機関の場での解決
を期待した。
一方、南朝鮮では1948年5月、内外の反対を押し切り総選挙を行うと共
に同年8月15日大韓民国として独立を宣言した。このような、南朝鮮の動き
に対応して北朝鮮こおいても8月25日に最高人民会議の総選挙行い、9月8
日憲法を採択して朝鮮民主主義人民共和国の成立を宣言、分裂国家としての道
を歩きはじめたのであった.
(3)国連第3回総会は、会期最後の12月12日に至って、ソ連の反対を押
し切って、朝鮮問題に関する米・中(台湾)・豪三国共同決議案を48対6で
採択した.主な内容は次のとおりであり、
①
韓国政府を国連監視下の自由選挙に基づく、唯一の
合法政府であるこ
とを宣言する。
②
米ソ両国に、在野占領軍をできるかぎり早く撤退させるよう勧告する。
これにより、統一朝鮮を話合いによって実現する道を最終的に閉ざしたことと
なった。
(4)韓国は、米軍の撤退が国家の安全を脅かすものとして、駐留を要請する
が、アメリカは国連の決議に従い、1949年6月29日、約500名の軍事
顧問団をのこして撤兵を終了させた。
ソ連は国連決議に先立ち撤兵を開始し、1948年12月30日撤兵を完了
したとモスクワ放送は報じている。
(5)北朝鮮ではソ連の援助を得て経済の再建を図ると共に軍事力の整備に努
41
めており、開戦前の総兵力は十個師団13万5千人、戦車150両、火砲16
00門、飛行機196機を保有していた。
これに比べ、韓国は、植民地時代に工業力が北に偏っていたことから、経済
の再建は遅れ、不安定な社会情勢にあった。また、兵力については、8個師団
10万人、火砲91門、装甲車27両、練習機10機と劣勢で、火器の15%、
車両の35%が老朽化し、弾薬及び燃料の備蓄は戦時所要量の1∼2日分しか
無い状態であった。
韓国大統領李承晩は、再三にわたり軍事援助及び経済援助を要請するが、議
会が中国国民政府への援助の失敗にこりて南朝鮮への深入りを警戒し、反対し
ていることや、米国大統領トルーマンが朝群情勢を楽観視していたこと等の理
由による援助の遅れから力の不均衡を生じさせた。
また、米国防長官アチソンは1950年1月12日の演説で、アメリカの防
衛線は、アリューシャン・日本・沖縄・フイリツピンを結ぶラインであると表
明し、アメリカの韓国及び台湾放棄を共産側に印象づけた。
(6)北朝鮮の指導者金日成首席は、朝鮮統一に関し、情勢を「
統一は朝鮮人が自分たち自身で解決する問題である。
②
①
朝鮮の
戦争が迅速に展開
すれば米軍の介入は避けられるであろう。」と判断し、ソ連スターリンの支持
を得て南進を決意したと言われている.
(7)北朝鮮軍は周到な準備の下、1950年6月25日午前4時、五方面か
ら38度線を突破して南進を開始した。この、作戦計画名をポップン(暴風)
と称した。
韓国軍の偵察部隊は北群軍の動きを察知し、状況を上層部に報告していたが、
42
軍首脳は事態を楽観視して何らの処置をしていなかったので、ほぼ、完全に近
い奇襲攻撃を受けることとなった。
攻撃開始3時間後、韓国軍の防御ラインは寸断され組織だった戦闘は行えな
い状態に至った。
38度線から京城まで直線距離で50km 余りであり、2日後には早くも大統
領李承晩が京城を脱出、軍も京城の放棄を決定した。
(8)北鮮軍進攻の報を受けたトルーマン大統領は、国務、国防首脳会議を開
き、韓国支援のため米海空軍の出動を決定するとともに、国連安全保障理事会
へ「北朝鮮の行動を【平和の侵犯と侵略行為】であると宣言し、即時停戦と北
鮮軍の撤退を呼びかけ、国連加盟各国に【あらゆる援助を提供する】よう」要
諦した。このアメリカ提出の決議案はソ連の欠席のまま9対0で決議された.
この時点での米首脳の意向は、次のとおりであった.「①北鮮軍の進攻は、
ソ連の承知の下に行われている.②この侵略を許せば、共産主義の手はアジア
全土におよび、第3次世界大戦を誘発する.③米軍が介入してもソ連軍は出て
こない.④戦争拡大は防がなければならない。⑤地上軍の投入は回避し、海空
軍に限定する.」
(9)しかし、北鮮軍の進攻は早く、6月28日京城陥落、同30日漢江を突
破、7月5日水原・烏山防衛線突破し、韓国中央部の大田及び大邸にせまる勢
いであった。
前線を視察した米極東軍司令官マツカーサーは、直ちに戦況をペンタゴンに
報告、地上軍の投入の許可を得ると共に、日本に駐留していた2個師団を朝鮮
に派兵、本格的介入に突入していった。
43
さらに、アメリカは7月7日の国連安全保障理事会で国連軍最高司令官に
米軍司令官を当てるように要請、承認され、このポストにマツカーサーが任命
された。
(10)米地上部隊が戦線に投入されるも、北鮮軍の進攻の速度は衰えず、7
月17日に大田が陥落し、韓国軍及び米軍は釜山から海へ追い落とされる寸前
の状態に陥った。しかし、北鮮軍の補給線が長く延びたことと、戦線が縮小さ
れたことにより、かろうじて釜山橋頭堡を維持出来る状態となった。
釜山橋頭堡が維持出来ると判断したマツカーサーは、増派されつつあった第
1海兵旅団及び第2歩兵師団と日本防衛に残してあった第7師団を京城の西2
0km の仁川に上陸させ、北鮮軍の後方を遮断し、釜山にある第8軍と上陸軍で
挟み撃ちする計画を立てた。
9月15日、第10軍司令官アーモンド少将以下7万の将兵は、第1海兵旅
団を先頭にして上陸を敢行、北鮮軍を南朝鮮から駆逐し首都京城を奪還、中央
政庁に大極旗を掲げた。
(11)京城を奪還した国連軍は、38度線を越え平城を落とし鴨緑江にせま
り、朝鮮半島全土を掌握するかに見えたが、林彪司令官率いる、中国第4野戦
軍12万が密かに鴨緑江を渡り、国連軍の到着を待ち受けていた。
11月1日、中国軍は攻撃を開始し国連軍の行く手を阻み始めるが、マツカー
サー司令部は、中国軍の参戦に関し、敵兵力を過少に算定、中国軍の全面介入
では無いと判断、さらに北進を命じるとともに、クリスマスには凱旋出来るで
あろうとのコメントを発表する等、事態を楽観していた。
44
しかし、中国軍は更に第3野戦軍も投入し、60万人の兵力が十分な備えを
し、罠に斯かる獲物を静かに待っていた。
11月25日、中国軍は人海戦術を以て総攻撃を開始、国連軍の戦線は寸断さ
れ、部隊は壊滅状態に陥り、退却すら困難な状態となった。特に、第1海兵師
団の退却は、中国軍が事前に退路を断つため兵を伏せてあり、困難を極め兵力
の半分を失う状態で輿南から海に逃れた。
国連軍は退却に退却を重ねるが、中国軍の補給線の延びた37度線付近でよ
うやく戦線を維持出来る状態になり殲滅を免れたものの、首都京城は再び共産
側の手に落ちる所となった。
(12)事態を重く見たトルーマンは国家非常事態宣言を発表、「朝群その他
における事態は世界平和に重大な脅威を与え……世界に放たれた侵略軍の目標
は、共産主義的帝国主義による世界支配である」とし、アメリカの「カによる
平和」を宣言した。
しかし、これは、直接中国と全面戦争を意図した、マツカーサーの増援要
求に答えるものではなく、朝群半島での動乱の拡大とヨーロッパに発生が懸念
される戦雲の阻止を期待するものであった。
マツカーサーの後任には、第8軍司令官リツジウェイ中将が任命され、4月
16日、20万の市民が星条旗と日の丸の旗をふり見送る中、マツカーサーは、
愛機「パターン」号で日本を離れていった。
(13)部隊の再編を終えた国連軍は、疲れの見えた中朝軍をはね返し、首都
京城を再び奪還、さらに北進するが
38度線北10km の鉄原付近で戦線は膠
着状態となった。
45
対峙する兵力は、共産側が中国軍24万8千人、北鮮軍21万1千人の計4
5万9千人、国連側が米軍25万3千2百人、韓国軍27万3千2百人、その
他を含めて計55万4千5百人であった。
北鮮軍が攻撃を開始してから1年後の6月25日、中国は人民日報の社説で
「平和的解決をすすめる用意がある.」と声明、アメリカ側も同意し京城で予
備交渉が始まったが、休戦ラインの問題や捕虜の交換についての合意を得るこ
とが出来ず、結局最終的合意を得て休戦協定が調印されたのは、2年後の19
53年7月27日午後1時のことであった。
(14)朝鮮戦争の勃発ともに、アメリカは対日占領政策を変更、連合国の反
対をかわすために名は警察予備隊であったが、実質は軍隊と変わり無い組織を
作りだすこととなり、再軍備の第一歩をふみだした。
また、日米安全保障条約を締結するなど戦後日本の国家政策の根幹が定まっ
たのもこの時期であり、朝鮮戦争が日本に及ぼした影響は計り知れないものが
ある。
朝鮮戦争において米軍は、13億2千数百万ドルにのぼる資材の調達、兵器
の修理を日本の企業に発注、いわゆる「朝鮮特需」が発生し、瀕死の状態であ
った日本経済は一気に好転した。
しかも、米軍の規格は厳しく厳格な品質管理を必要としたことから、否応な
く技術水準の向上ももたらされ、商品の国際競争力が醸成され、その後の高度
生長の基盤ともなった。
(15) ベルリン封鎖から米ソの冷戦に入っていたが、中国の成立、アジア諸
国における暴動に続き朝鮮戦争を迎えるにおよび、これらが、個々の事件では
46
なく、ソ連クレムリンを源とする世界共産革命の表れであると理解したトルー
マンは「カによる平和」を明確に打ち出し、今日のアメリカの世界戦略が確定
した。
(台湾の独立問題)
(1)中国が抱える大きな問題の一つに、台湾との関係(中台問題)がある。
第二次世界大戦後に中国は激しい国内内戦が起こり、1949年には毛沢東率
いる中国共産党が本土を制圧し「中華人民共和国」を制定し、対立していた蒋
介石率いる中華民国政府は台湾に逃れて独立自治を進めるようになった。以来、
国際的には台湾は中華人民共和国の一部と認定されているが、両者は対立した
ままで、統一国家の名目ながらそれぞれ独立自治を行っている状況である。
国家として正式に独立したいと国際舞台で訴えている台湾であるが、中国政府
は絶対にそれを認めようとはしない。
(2)中国が台湾の独立を絶対に認めようとはしない理由は、一つには、台湾
がもたらす物質的な利益を手放したくないが為である。例えば、世界のノート
パソコン生産の約80パーセントが生産されるなど、台湾は電子部品・半導体
の世界的な生産拠点である。台湾の一人当たりの GNI・国民総所得は 1 万400
0ドルを超えており、中国全体の GNI(約1500ドル)の約10倍もある。面
積は日本の九州ほどしかないこの小さな島は、経済的には北京や上海に匹敵す
る発展を遂げている。
47
また当然ながら、排他的経済水域(いわゆる200海里水域)も広がる為、海
産物などの水産資源は無論、東シナ海のガス田のように、海中に眠る鉱産資源
の獲得範囲も広がる事になるためである。
(3)しかしそれ以上に中国側が独立を拒む理由は、もし台湾の独立を認めて
しまえば、中国政府の統率力が下がったと思われ、更なる国家分裂を招く恐れ
がある。中国は多民族国家なうえに国土も広く、ただでさえ国家統治が難しい
のに、近年では都心部と農村部との経済格差などから、政府に対する不満が各
地でくすぶっている状態である。
台湾の独立を認めてしまえば、他の地域の不満が独立気運となって一気に高ま
って、かつてのソ連が解体・分裂したように「中華人民共和国」の国家分裂を
招く危険性が高くなる。特に長年独立運動が盛んであるチベット地方などは、
台湾が独立すればそれに追随することは間違いない。しかし一方の台湾(中華
民国)側も折れる気配は一切無く、あくまで独立国家を目指すスタンスは変え
ていない。中華人民共和国は社会主義国家であるが、中華民国は資本主義・自
由経済を推す国家であり、両者は基本的に政治や経済に対する考え方が真っ向
から異なる。国連やアメリカなどの先進諸国に幾ら非難されようとも、中国側
は絶対に台湾の独立を認めないであろう。
(4)ところで、中国の三大国家目的は、これまで、鄧小平以来、何度も全国
人民代表者会議や党大会で宣言されているように、①巨大人口の多民族国家の
統一性の維持と②社会主義市場経済による急速な経済発展と③台湾の国家的併
合である。
48
(5)米国は、1979年1月1日に中国を承認したが、その時、一つの中国
を認める立場から、これまでの米台相互安全保障条約を破棄し、1年後に同条
約は失効した。
しかし、同時に同年4月、米国は国内法で台湾関係法を制定し、その中で「台
湾の意志に反する形で、中国が行動を取った時は、米国は相応の行動を取る。
この中国の行動の中には台湾に対する経済封鎖を含むものとする。」と規定し、
米国が武力介入に依ってでも、台湾を守る意志をいささかも変えていないこと
を明確にした。
従って、中国は軍事力でしか、台湾統一が図れないと考えており、中国はこ
れまで18年間に渡り、軍事費の10%台成長を続けているが、これは今後も
続くと考えられる。
しかし、アメリカは中国の台湾の軍事的統一を絶対に認めないと考えられる。
(6)総合的なチャイナリスクの内容
一方仮に、中国が軍事力により台湾統一を図ることになると、湾岸石油への
日本の生命線であるシーレインを支配されることになり、日本にとっての死活
問題であり、座視はできない。
また、日本海を挟んで、一衣帯水の地に、一党独裁の政治体制の、かつ、軍
事力と経済力の巨大大国が存在することは、地政学的な宿命ではあるが、極め
て危険を孕んでいる。
と同時に、巨大市場としての中国は、極めて大切な存在であり、これを大事
にして付き合っていかなければならない。
日本にとって、中国とは、そのような存在であり、総合的なチャイナリスク
49
とはこのような問題を意味する。
(7)複数政党制の民主主義国家・中国への期待
昔、唐中国副総理が訪日したとき、私は質問をして、
「中国は、社会主義市場
経済と言っているが、歴史を見れば、一定の経済発展を遂げた社会主義国家は
必ず複数政党制の民主主義国家になっており、中国も何れ同じ過程を辿るので
はないか」と聞いた。
それに対し、唐副総理から「中国は、一党独裁の社会主義体制も、市場経済
による発展も追及する。何故なら、複数政党制の民主主義で、中国のような巨
大な人口の多民族国家の統一を維持することは不可能であり、世界に例がない
からである。」との返事が返ってきた。
軍事情勢が永久に現状のままということは有り得ないので、中国が日本を始め、
アジアにとって安心できる存在になるためには、結局、最終的には、中国が軍
事力を使った過程で出現する事態か、平和裡に出現する事態かは分からないが、
中国が複数政党制の民主主義国家になることが期待される訳である。その場合
は、ソ連と同様、地域的な多民族国家の中国は分裂せざるを得ないのではない
かと考えられる
(中国がチベットを独立させないワケ)
(1)チベットとは、インドの国境あたり、中国の南西部に位置する自治区の名称である。
同自治区には、おもにチベット族と呼ばれる人々が暮らしている。もともとこの地域は、
ヒマラヤ山脈付近の高地にあることもあり、他国の侵略をほとんど受けることもなく、チ
ベット仏教など独自の文化を育んできた。
(2)
しかし、18世紀になると、中国の清朝によって征服され、間接統治を受けること
50
になった。
20世紀に入り、中国で辛亥革命が起き、清朝が崩壊すると、チベットはその混乱に
乗じて独立しようとしたが、あらたに誕生した中華民国がそれを拒んだ。
チベットの南部に植民地インドを持っていたイギリスの後ろ盾を得て、チベットは中華
民国との交渉に臨むが、結局、独立はかなわず、チベットの国土の中核部分でのみ、
完全な内政自治が認められただけだった。しかも、中華民国とチベットが主張する中
核部分の範囲にずれがあり、話がまとまらなかった、その後もしばしば、中国とチベット
は衝突することとなった。
このときに、チベットとイギリス領インドとの間に引かれた境界線が、マクマホン・ライン
と呼ばれるもので、現在でも中国とインドの国境のような役割を果たしている。
(3)
さらに時代が下り、北方に中華人民共和国が成立すると、チベットは人民解
放軍によって侵略をうけることとなった。1950年、侵略を始めた人民解放軍は、貴重
な仏教施設を破壊し、数多くのチベット人を虐殺し、そして、1951年、人民解放軍は
首都ラサを制圧、チベットは中国によって完全に制圧されてしまった。
(4)
こうした中国政府の支配に、チベットの旧支配層は反発し、チベットの指導者
ダライ・ラマ14世は、インドに亡命政府を樹立した。現在に続くチベット独立闘争のは
じまりである。ダライ・ラマ14世は、1959年以来チベッ独立のために運動を続けている
が、1989年、ノーベル平和賞を受賞した。
(5)
独立運動は長きに渡って繰り広げられているが、中国は一貫して「チベットの
独立は許さない」との態度を崩していない。中国のこうした態度は世界中から批判を浴
びている。それでも中国がチベットを手放さないのは、もし、チベットの独立を許せば、
中国の国としての根幹が大きく揺らぐことになるからである。
51
(6)
中国は、現在、世界最大の人口を抱え、世界第4位の領土を持つ大国である。
しかし、この大国には意外な弱みがある。中国には、現在5つの大きな自治区があり、
県レベルでも多くの自治区があり、その全体の面積は、実に中国全土の65%を占め
る。こうした自治区に住むのは、少数民族の人々である。中国に56の少数民族がいる
といわれているが、人口の90%以上は、中国の中心的な民族である漢民族がしめて
おり、少数民族は残る10%程度であり、1割に満たない人々が中国の国土の65%を
握っていることになるのである。
中国の自治区で独立問題を抱えているのは、チベット自治区だけではなく、ウイグル
自治区のように、チベット以上に運動が盛んな地域もある。もしどこか1つでも独立を容
認すれば、当然、独立を求める動きは他の地域にも波及し、そうなると、最悪の場合、
中国は国土が三分の一に縮みかねない。ただでさえ資源に不安を抱える中国が、そ
の狭くなった国土で10億人の漢民族を養ってゆくことはできない。中国がチベットの
独立を認めないのは、政治信条や思想、またチベットの軍事的な要所だからという問
題もあるが、そうした他の自治区に与える影響を考えてのことなのである。
52
第六章
旧ユーゴスラビアをめぐる紛争
(ヨーロッパの火薬庫・旧ユーゴスラビアの民族紛争)
(1)長く内戦が続いたユーゴスラビアという名前は、2003年2月、地図
の上から消えた。
東西冷戦が終わって、旧ユーゴスラビアは次々に分裂。残ったセルビアとモ
ンテネグロの二つの共和国だけで、新たにユーゴスラビア連邦を結成したが、
連邦を維持できず、新しい連合国家「セルビア・モンテネグロ」に移行した。
(2)ユーゴスラビアとは、「南スラブ人の国」を意味する言葉である。
第二次世界大戦後に成立したユーゴスラビア連邦は、チトーを指導者にソ連
とは別の社会主義国の道を歩んだ。
カリスマ指導者だったチトーは、さまざまな民族を六つの共和国に分けた上
で、ひとつの連邦にまとめ上げた。
(参考)六つの共和国:
スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツエゴビナ、セルビア、モンテネ
グロ、マケドニア
東西冷戦の中で中立の立場をとったユーゴは、ソ連の軍事力の脅威の前で、
まとまってきた。
(3)しかし、チトーが亡くなり、冷戦が終わってソ連が崩壊すると、国家と
53
してのタガがはずれ、連邦を構成していた共和国が次々に独立を宣言した。連
邦の中心になっていたセルビアは、これを軍事力で阻止しようとしたため、内
戦が続いた。
特に1992年に独立を宣言したボスニア・ヘルツエゴビナは、独立を求め
るイスラム教徒と、セルビアとの統合を望むセルビア人との間で悲惨な殺し合
いに発展した。
これを見かねた NATO 軍が介入して、1995年、内戦は終結。ボスニア・
ヘルツエゴビナは独立を果たした。
(4)さらに、セルビア共和国内でアルバニア系住民が多いコソボ地区が独立
への動きを見せると、セルビアのミロシェビッチ大統領が弾圧。これに対して
も NATO 軍が介入し、セルビアを空爆し、軍事力で内戦を終わらせた。
ミロシェビッチ前大統領は、旧ユーゴ内戦中に、アルバニア系住民に対する
迫害や、ボスニアでのイスラム教徒大量虐殺に関与した疑いで、オランダ・ハ
ーグの「旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷」で裁かれている。
(スロベニア独立戦争)
(1)1945年、スロベニアは、社会主義体制となったユーゴスラビアに復
帰し、ユーゴスラビアの構成国スロベニア人民共和国となる。1980 年代になる
とユーゴスラビア内の経済格差が拡大。なかでも地理的に西ヨーロッパに近く、
ユーゴスラビア内での経済的な先進地域であったスロベニアでは、工業を中心
とした「経済主権」を主張してユーゴスラビアからの分離独立を目指す動きが
次第に強くなっていった。1991年6月25日にユーゴスラビアとの連邦解
54
消とスロベニアの独立を宣言した。そして、短期的、小規模な十日間戦争の後
に正式に独立した。
(2)6月25日、スロベニアがユーゴスラビアからの独立を宣言した。この
時点ではセルビアが主導するユーゴスラビア連邦軍がどのように出てくるかは
不明だったが、スロベニア・クロアチア国境付近を中心として緊張が高まり、
スロベニア地域防衛軍(チトー時代に各地域に連邦軍とは別個におかれた防衛
隊。非同盟主義のユーゴスラビアは特にソ連からの侵攻を想定して、このよう
な地域防衛軍を組織し武器を配布していた。)が展開された。スロベニア地域
防衛軍は奇襲により連邦軍が管理する各地の国境検問所を奪取した。この事件
が、連邦軍が独立運動介入に及ぶ直接的な原因となった。
6月26日、スロベニアで独立式典が行われた。ユーゴスラビア連邦軍も展開
したが、この日は大規模な衝突にはならなかった。
6月27日、ユーゴスラビア連邦軍が大規模な侵攻を開始した。イタリア、オ
ーストリア、クロアチアとスロベニアの国境付近、スロベニア国内の軍事基地
周辺、空港などを中心として、各地で戦闘が始まった。
以降 7 月初頭まで、各地で散発的に戦闘が行われた。しかし、クロアチアも同
時に独立を宣言したことによって、スロベニアに国境を接しないセルビアから
軍隊を派遣することは難しかった。また、スロベニアはユーゴスラビア連邦軍
のライフラインを寸断する作戦に出たため、補給が困難になった。スロベニア
国内にユーゴスラビア連邦軍に荷担する動きが全く見られなかったことも、ス
55
ロベニアに有利に働いた。さらに、情報戦によって、独立しようとしているス
ロベニアに待ったをかけるセルビアが一方的に悪者とされたため、ヨーロッパ
から非難を浴びることを恐れたユーゴスラビアは、7 月 2 日になると一部の部隊
の撤退を決定した。
(3)7月7日、ユーゴスラビア連邦共和国とスロベニア共和国の間で合意が
成立し、ユーゴスラビア連邦軍はスロベニアから完全に撤退した。
7月8日、スロベニア政府は勝利宣言をした。
(4)スロベニアはこの戦争に勝利によって独立を勝ち取り、念願の経済主権
を手に入れた。スロベニアの経済は、従来の市場であったユーゴスラビアを失
ったことで独立直後は落ち込んだが、西ヨーロッパに積極的に進出することで
大成長を遂げた。
(5)スロベニアはユーゴスラビア構成国の中でも最も民族の均一性が高い国
であった(現在もそうである)。スロベニアにおけるスロベニア人の割合は、
90%以上であると見られている。これはクロアチアにおけるクロアチア人の割
合が75%程度、セルビアにおけるセルビア人の割合が65%程度だった事を考
えると極めて高い水準であったと言える。またセルビアは次々とユーゴスラビ
アから独立を宣言する国にたいして、その国のセルビア人保護を名目に介入し
ていったが、スロベニアにはセルビア人が 3%程度しかいなかった。これはセル
ビア人が国内の 10%以上の人口を占め、彼らがクロアチア紛争のキーマンとまで
なったクロアチアの場合と比べてみても大きな違いであるといえる。民族的な
56
均一性の高さは、スロベニア人として国内世論を纏め上げるのに大きなアドバ
ンテージとなった。戦争がはじまってからも、国内の非主流派勢力であるセル
ビア人を中心とするユーゴスラビア軍は積極的に支援されず、結果として戦闘
が短期間で終わった要因ともなっている。
(6)スロベニアがユーゴスラビア連邦から独立した理由の一つは、ユーゴス
ラビアがもともと中央集権的な性格が強く、チトー後にはさらにセルビア民族
主義的な色彩を帯びていたためである。
1989年9月にはユーゴスラビア連邦から合法的に離脱する権利を記したス
ロベニア共和国憲法の改正案が共和国議会を通過する。1990年4月、第二
次世界大戦後初の自由選挙を実施。共産党政権は過半数の票を集めることがで
きず、野党連合のデモスが勝利した。首相には第三党のスロベニアキリスト教
民主党のロイゼ・ペテルレ党首が選ばれている。同時に、共産党の改革派だっ
たミラン・クーチャンが大統領となった。
1991年6月に独立を発表すると、スロベニア国内に基地を置いていたユー
ゴスラビア連邦軍と戦闘状態に入るが、7 月には停戦に成功、同年 10 月には連
邦側が独立を認めた。12月23日には現在の憲法が有効となり、複数政党制
と大統領制が確立する。
(7)1992年12月には独立後、第 1 回となる大統領選挙を実施、ミラン・
クーチャンが選ばれた。同氏は、1997年11月にも再選されている。20
00年10月の総選挙では自由民主主義党が第 1 党となったため、連立政権が
発足した。2002年12月の大統領選挙ではドルノウシェク首相が当選した。
57
(8)国家元首の大統領は、任期 5 年で、国民の直接選挙によって選出される。
行政府の長である首相は、議会の下院が総選挙後に選出し、大統領によって任
命される。
立法府は、両院制。下院(国民議会)は、定数 90 で、40 を直接選挙で、50 を
比例代表選挙で選出する。任期は 4 年。上院(国民評議会)は、定数 22 で、各
種団体による間接選挙で選出され、任期は 5 年。上院の立法権限は下院よりも
弱く、諮問機関としての性格が強いが、国民投票(レファレンダム)を行うか
否かの決断を下す権限を有する。
有力な政党はスロベニア自由民主党、スロベニア人民党、スロベニア社会民主
党、スロベニアキリスト教民主党である。
(9)スロベニアはユーゴスラビア時代から経済的な先進地域であり、ユーゴ
スラビア紛争が収束する中でセルビア人、クロアチア人労働者を受け入れてき
た。しかし、EU では EU 内の労働者の移動、就労は自由化されるが、一方で EU
外の労働者の受け入れは厳しく制限される。そのため、2004年の EU 加盟に
前後してセルビア人労働者を制限する方向に転換しており大きな政治焦点にな
っている。
(10)1992年5月、連邦構成国だった隣国クロアチア、同じく連邦内に
あったボスニア・ヘルツェゴビナと同時に国際連合に加盟した。その後はヨー
ロッパ回帰の動きを強め、2004 年3 月にはNATOに、同年5 月 1 日に欧州連合(EU)
に加盟した。
58
(11)スロベニアは、ユーゴスラビアから分離独立した最初の国となった。
クロアチアの独立は承認されなかったため戦闘が続いたが、それでも独立を認
めた先例を作ったことは大きく、後に独立の動きが少なかったボスニア・ヘル
ツェゴビナやマケドニアでも分離独立の傾向が強まる理由の一つになった。
(クロアチア独立戦争)
(1)クロアチア紛争は、1990年から1995年にかけてのクロアチアの
ユーゴスラビアからの分離独立およびクロアチア人とセルビアの民族対立を巡
る紛争である。
1918年にクロアチアは、第一次世界大戦中にセルビア王国が発表した戦後
のバルカン地域の新国家像として南スラブ人による連邦国家の創設と言う提案
に同意して、セルビア、クロアチア、スロベニア王国の成立に参加した。この
王国は1929年にユーゴスラビア王国と名称を変更するが、当初からこの王
国の内政問題の第一はセルビア人とクロアチア人の民族対立であった。ユーゴ
スラビアはセルビア王国の国王を頂き、首都の所在するベオグラードの政治を
セルビア人が独占しているとして不満であった。1939年には妥協策として
クロアチア人に一定の自治権を認めたクロアチア自治州が設定されたが、クロ
アチア人の不満は解消されず、一方でアンテ・パベリッチが主導するウスタシ
ャは公然とクロアチア独立を掲げた。1941年に突如としてナチス・ドイツ
がユーゴスラビアに侵攻し、ウスタシャはこれに協力して、傀儡国家クロアチ
ア独立国を成立させた。一方でユーゴスラビア国王に忠誠を誓うセルビア人将
59
校を中心として反ウスタシャ組織、チェトニックが組織され、抵抗運動を開始
した。ユーゴスラビアでの反ファシズム闘争は、クロアチア人とセルビア人の
民族闘争に転化された。この戦闘の中で両民族は民族浄化、レイプ、住民の追
い出しをはかり大量の死者と難民を生み出した。この出来事は1991年以降
のクロアチア紛争でも再度論争の的となり、さらに同じような事件が再生産さ
れた。
(2)第二次世界大戦が収束した1945年に成立した、ユーゴスラビア共産
党(後にユーゴスラビア共産主義者同盟)による第二のユーゴ(ユーゴスラビ
ア社会主義連邦共和国)は、戦前と同じ枠組み、すなわちセルビア、クロアチ
ア、スロベニア、マケドニア共和国、モンテネグロにより再スタートを切るこ
とを期したが、この第二のユーゴの維持は戦中パルチザン闘争を指導したチト
ーの巧みなバランス感覚とカリスマ性に拠る所が大きかった。
従ってチトーが不在になれば、このバランスが崩壊する予兆はチトーの生前か
ら見られていたが、事実、1980年チトーが死去するとユーゴスラビアを構
成する各共和国、自治州の間から民族的な不満が噴出し始めた。
ユーゴスラビアでは1974年の憲法で、6つの共和国と2つの自治州の間で
平等な発言権を認めていたが、これに対してセルビアからはユーゴスラビアを
最も多く構成するセルビア人の権利が阻害されているとして不満であった。
(3)1980年代半ばにこうした不満を受けてセルビア民族主義を掲げて台
頭したのが、ソロボタン・ミロチェビッチである。一方クロアチア人は、戦前
と変わらずユーゴスラビアを動かしているのが専らベオグラードのセルビア人
60
であることが不満であり、又セルビア民族主義を掲げるミロシェビッチに反発
した。これが1991年のクロアチア独立に向けた直接の引き金である。
1989年に始まった東欧革命はユーゴスラビアに波及した。
一党独裁の地位にあったユーゴスラビア共産主義者同盟は1990年になると、
複数政党制による自由選挙を認め、クロアチアでは71年のクロアチアの春で
失脚したスティエパン・メシッチ、フラニョ・トウジマンが復帰し、大統領に
トゥジマンが就任した。
以降クロアチアの動きは、一方でユーゴスラビア維持の動きを見せながらも、
クロアチアが提案する妥協案をセルビアが拒否すると言う事実を作り出す一方
で、クロアチア国内では独立の外堀を埋めていくと言う2つの動きを見せるこ
とになる。
(4)この期間における、セルビアとクロアチアの最初の衝突は、1990年
5月13日、ザグレブで行われたディナモ・ザグレブとレッドスター・ベオグ
ラードの試合におけるサポーター間の衝突及びにユーゴスラビア警察とディナ
モサポーターとの衝突であると言われている。当初はサポーター間の小競り合
いであったが、スタジアムの運営、ユーゴスラビア警察の統制の仕方に問題が
あり、徐々にユーゴスラビア警察対ディナモサポーターと言う構図に変化して
いった。ディナモサポーターにとってユーゴスラビア警察は連邦=セルビア人
の権力の象徴であり、反セルビア感情がユーゴスラビア警察に向けらる形とな
った。最もクロアチアにいる警察であるから、警察の中にはかなりの数の非セ
ルビア人が含まれていた。この衝突でディナモのズボニミール・ボバンが警察
61
に暴行したとして長期出場停止処分を受けるが、ボバンに暴行を受けた警察官
はムスリムであった。この事件をセルビアとクロアチアの対立の端緒として評
価するべきかは意見が分かれるところである。
(5)1990年10月には、クロアチアと、経済主権を掲げてユーゴスラビ
アからの独立を図ろうとするスロベニアによって、新連邦案「国家連合のモデ
ル」を発表。連邦制度を廃止し、欧州共同体(当時)のような国家連合に転換
するべきであるとした。一方でセルビアはあくまでも連邦の維持に固執し、ボ
スニア・ヘルツェゴビナとマケドニア共和国により折衷案が提出されたが、同
意に至らなかった。1990年12月に、クロアチア共和国憲法が制定された。
この憲法の中でクロアチアの自決権と国家主権を規定。公用語をセルビア・ク
ロアチア語からクロアチア語に変更し、キリル文字の使用を禁止、ラテン文字
を使用することとした。
一方で、1990年後半から、クロアチアの軍事力の整備が急がれ、クロアチ
ア警察軍が創設された。大量の武器は、ハンガリーから流出したと見られてい
る。
1991年6月19日には独立の可否を問う国民投票が実施され、78%がクロア
チアの独立に賛成した。これを受けて6月25日にクロアチアはスロベニアと
同日にユーゴスラビアからの独立を宣言した。
(6)クロアチアと同日に、独立を宣言したスロベニアでは十日間戦争となり、
ユーゴスラビア連邦軍との武力衝突に発展したが、この名前が示す通り、戦闘
は極めて短期間で終結した。一方でクロアチアでの戦闘は1995年までの長
62
期間に渡って継続した。この差異が生じた要因は「クロアチアはセルビアと直
接国境を接しており」なおかつ「クロアチア国内にはセルビアが無視できない
程のセルビア人が居住していた」事による。また、1992年に始まったボス
ニア・ヘルツェゴビナ紛争と次第にリンクし始め泥沼化し始めたことも一因で
ある。
クロアチアの独立気運が高まる1990年9月に、セルビア人が多数を占める
ボスニア・ヘルツェゴビナ周辺部に「クライナ・セルビア人自治区」が設立さ
れた。一方で、西スラボニアでも、「スラボニア・バラニヤ・西スレム自治組織」
が結成された。この地域では一時的にクロアチアとセルビアの間で武力衝突を
回避するため、クロアチア警察軍を入れないと言う同意が成立していたが、1
991年3月2日に西スラボニアのパクラッツでクロアチア警察軍と、ユーゴ
スラビア連邦軍が睨み合う事態となり、3月31日には同じく西スラボニアの
プリトビツァで、クロアチア警察軍とセルビア人住民との間で銃撃戦となり、
死傷者が出る事態となった。クロアチア独立の直前となる5月には「クライナ・
セルビア人自治区」で住民投票が行われ、90%の圧倒的多数で独立反対、セル
ビアへの編入を支持した。
(7)
6 月25日の独立宣言以降、クロアチアで散発した戦闘は、クロアチア警
察軍とクロアチア国内に残留したセルビア人住民の間で行われたが、9月22
日にユーゴスラビア連邦軍がザグレブを襲撃するに及び、クロアチアとセルビ
アの正規軍同士の戦闘に発展。紛争の本格化が始まった。特にクロアチア人と
セルビア人が混住し、尚且つ連邦軍の侵入が容易であったスラボニアでは戦闘
63
が過激であった。これらの地域では元々隣同士で住んできた住民が互いに銃を
取り合う事態となった。中でもドナウ川を挟んでヴォイヴォディナと接するス
ラボニアのヴコヴァルでは87日間に渡って市街戦が展開され双方で3,00
0人近い死者を出した。
(8)一方12月にドイツがクロアチアの承認を行うと、これに反発したセル
ビア人住民の二つの自治組織「クライナ・セルビア人自治区」と「スラボニア・
バラニャ・西スレム自治組織」は連合して「クライナ・セルビア人共和国」の
設立を宣言した。クライナ・セルビア人共和国はクロアチア国内の 1/3 の面積
を占めており、これを認めることはクロアチアにとって難しい選択であった。
1992年2月に国際連合の安全保障理事国はクロアチアへの平和維持軍
(UNPROFOR)の派兵を決定するが、この平和維持軍の派兵では、互いに民族主
権を主張しあう民族問題の最終的な解決には至らず、以降もクロアチアとセル
ビアの間で戦闘が散発した。
(9)この状況を最終的に「解決」したのが、クロアチアによる「嵐作戦」で
あった。1995年になるとクロアチアは、アメリカ合衆国、ロシア、欧州連
合、国連が提示するセルビア人勢力に一定の自治権を認める和平案に対して色
気を見せ、時間を稼ぐ一方で、セルビア支配地域に展開する国連平和維持軍の
活動期限切れに伴い早期の撤退を強く促していた。
平和維持軍の活動は規模を縮小することで同意されたが、その直後の5月にま
ず、クロアチア軍は西スラボニアを急襲。セルビア人の追い出しにかかった。
続く8月3日から始まった「嵐作戦」ではクライナ・セルビア人共和国の首都
64
クニンを目指して侵攻。わずか3日間の戦闘でクニンを占領した。この時の死
者は約150人(但し、これはクロアチア側の公称である。セルビア側発表で
は最低でも婦女子を主体とする2,600人が虐殺された)。主にセルビアに
流出したセルビア人難民は15-20万人と見積もられている。この作戦を指揮
したクロアチア軍将軍アンテ・ゴトヴィナはクロアチアの英雄として祭り上げ
られたが、一方で大量虐殺と大量の難民を生み出した事により旧ユーゴスラビ
ア国際戦犯法廷から訴追された。ゴトビナは2005年12月にスペインのカ
ナリア諸島で拘束され、ハーグに移送されたが、これに対しては「最小限の人
的被害で、クロアチア国内のセルビア人問題を解決させたものである」として
クロアチア国内からの反発は大きい。
(10)西スラボニアとクライナの喪失により、クロアチア国内のセルビア人
は圧倒的な少数に転落した。セルビア共和国と国境を接している東スラボニア
には未だセルビア人勢力が残留していたが、1995年11月11日に、同所
のセルビア人勢力が東スラボニアを放棄することでクロアチアとの合意が成立
した。
クロアチア紛争は、クロアチアの人口と民族分布に大きな変化をもたらした。
クロアチアの人口は1992年から1995年にかけて約475万人から約4
40万人に減少した。2003年までは440万人の水準で変移しており、戦
前の人口が回復していないことが分かる。
(マケドニア問題)
2001年2月頃、マケドニア共和国内のアルバニア系住民の地位改善等を
65
求めるアルバニア系武装勢力(NLA)の活動が活発化し、北西部を中心にマケド
ニア政府軍との戦闘が継続、一時は NLA が首都スコピエの間近まで迫る勢いを
見せた。
NATO の仲介の下、マケドニア政府と NLA との間で停戦合意が成立し、政治対話
を開始した。
8 月 13 日マケドニア系及びアルバニア系代表の間で、アルバニア系住民の地位
改善(アルバニア語の一部公用語化、アルバニア系警察官の増員)等に関する
枠組合意が成立した。
9 月26日、NATO 部隊(約4,500名)は、武器回収作戦終了後撤退し、NLA は自主解
散を表明した。国連安保理は、OSCE 及び EU 監視団の護衛を目的とする新たな部隊
へのマンデート付与等を内容とする安保理決議 1371 を全会一致で採択した(新たな
NATO 部隊)。
11月16日、議会は、トライコフスキー大統領が提出していた憲法前文を、賛成93、
反対14で、また、15項目の改正案につき、賛成94,反対14でそれぞれ可決した。
延期されていた欧州委員会のマケドニア支援国会合は年内にも開催となる見通しで
ある。
(ボスニアヘルツェゴビナ事件)
ボスニアヘルツェゴビナ事件は、旧ユーゴスラビアから独立したボスニアヘル
ツェゴビナで1992年から1995年まで続いた内戦である。
ユーゴスラビア解体の動きの中で、ボスニア・ヘルツェゴビナは1992年に
独立を宣言したが、独立時に約 430 万人の人口のうち、民族構成の33%を占
66
めるセルビア人と、17%のクロアチア人・44%のボシュニャク人(ムスリ
ム人)が対立し、セルビア人側が分離を目指して4月から3年半以上にわたり
戦争となった。
両者は全土で覇権を争って戦闘を繰り広げた結果、死者20万、難民・避難民
200万が発生したほか、ボシュニャク人女性に対するレイプや強制出産など
が行われ、第二次世界大戦後のヨーロッパで最悪の紛争となった。
1995年に、アメリカに内戦の当事国であるボスニア・ヘルツェゴビナ、ク
ロアチア、ユーゴスラビアの各大統領が集まり、内戦終結のための平和協定に
仮調印し、12月、NATO は6万人のボスニア和平実施部隊(IFOR)派遣を承認
し、12月14日にはパリで和平が公式に合意・調印されて戦闘は終息した。
合意により、クロアチア人・ボシュニャク人がボスニア・ヘルツェゴビナ連邦、
セルビア人がスルプスカ共和国というそれぞれ独立性を持つ国家体制を形成し、
この二つが国内で並立する国家連合として外形上は一国と成すこととなった。
(コソボ紛争)
コソヴォ紛争は、旧ユーゴスラビアのセルビア共和国内のコソボ自治州でおこ
った内戦を指す。
紛争は自治州内で90%を占めるアルバニア系住民が独立運動を行なったこと
にセルビア系住民及びユーゴ連邦のセルビア政府が反発したことに端を発する。
コソヴォ自治州ではチトー時代の1974年憲法により大幅な自治権が認めら
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ていたが、セルビア当局は1990年7月、自治州政府・議会を廃止、事実上
自治権を剥奪した。
このため、コソヴォ解放軍は1990年7月頃からセルビア人住民へ対しての
殺害や誘拐などのテロ活動を行うようになり、1998年には遂にユーゴ連邦
政府は反乱を鎮定するべく連邦軍(実質セルビア軍)を送り込み、コソヴォ解放
軍との間で戦闘となった。
紛争中にセルビア軍によって虐殺されたアルバニア人住民は少なくとも 1 万人
と推定されている。
NATO 軍はセルビア全土に制裁の空爆を行った。空爆はミロシェビッチ大統領が和平
案を受け入れるまで継続した。
2008年2月17日、コソヴォは独立を宣言し、直後に米国や、英国、ドイ
ツなど EU 諸国、
トルコなどが独立を承認し、日本政府も3月18日に承認した。
(モンテネグロ問題)
(1)モンテネグロは、面積 1 万3000平方キロメートル、人口65万人程
度の小国で、理論的には現在もユーゴスラヴィア連邦共和国の一部である。モ
ンテネグロでは、1997年10月に改革派のミロ・ジュカノヴィッチが大統
領に選ばれて以来、いつクーデタが起きてもおかしくないと言われていた。
ユーゴに対する空爆が行われていた当時、モンテネグロ政府は欧米の介入を
公然と支持した。1999年3月末から6月初めにかけてのモンテネグロは、
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NATO(北大西洋条約機構)の砲撃にさらされる一方で、コソヴォ難民が続々と
押し寄せ、ベオグラードの連邦の命令に従うユーゴ連邦第二軍と、ジュカノヴ
ィッチ大統領に忠誠を誓うモンテネグロ警察がにらみ合う危険な状況にあった。
(2)モンテネグロ警察の側は、非常に近代的な軽火器を備えている。その特
殊部隊はよく訓練され、ユーゴ紛争初期のスロヴェニア防衛隊やクロアチア国
防隊に匹敵するほどの応戦能力があると考えられていた。連邦軍の予備部隊に
は、モンテネグロ北部に多いブラトヴィッチ連邦首相と彼の率いる人民社会党
の支持者が加勢したのに対し、警察の補充部隊には独立派が合流した。この他
に、モンテネグロ解放をうたう二つの武装勢力も出現していた。
しかし、最悪の事態は避けられた。そして、モンテネグロは、難民問題にみ
ごとに対応した。どれほど大量の難民が流れ込んできたかと言えば、過去にク
ロアチアから逃れてきたセルビア人難民が3万人いた上に、今度はコソヴォか
ら10万人近くのアルバニア人難民を迎え入れた。1999年6月以降、これ
らのアルバニア人ほぼ全員が帰還すると、コソヴォのモンテネグロ人、セルビ
ア人、ロマ人がモンテネグロに避難してきた。
マケドニアやアルバニアに比べるとモンテネグロには国際組織もできていな
かったため、政府や地方自治体が難民の世話に当たることも多かった。こうし
た行政府の姿勢は、ジュカノヴィッチ大統領の政策に対する国内少数民族の支
持を高めた。
ムスリム系スラヴ人とアルバニア人(それぞれ人口の15%、
10%を占める)は、個別の分離主義に向かうよりも、モンテネグロの主権確
立あるいは独立という構想に対して結束する姿勢を示している。
69
(3)モンテネグロは、ジュカノヴィッチ大統領の政策により、他よりはマシ
という程度ながら、国内経済は、繁栄している。その結果、この小さなモンテ
ネグロ共和国は、旧ユーゴ連邦では最貧国の一つだったが、今やセルビアより
暮らし向きがよくなっている。
ジュカノヴィッチ大統領は、公に掲げている目標としては、民主化された国
家連合としてのユーゴにおける「主権国家」モンテネグロと言うにとどまって
いる。モンテネグロ政府は、セルビアの反政府勢力とも密接な関係を結んでい
る。何人ものセルビア反政府勢力のリーダーが、空爆の際にモンテネグロに避
難していたほどである。
(4)1999年8月にモンテネグロ政府が協議を求めた「セルビア=モンテ
ネグロ間の新たな関係の提案」をベースとした交渉を、ベオグラードの連邦は
拒否している。一方、モンテネグロの側は、ユーゴという国家共同体を維持す
る条件として、セルビアのミロシェヴィッチ連邦大統領の退陣を掲げている。
今のところ、モンテネグロのジュカノヴィッチ大統領は、国民投票の実施を慎
重に先延ばしにし、徐々に主権を確立することで満足している。
この慎重さには、欧米の姿勢が大きく影響している。欧米各国は、この小さな
共和国の独立を絶対に認めないという態度を示している。もしモンテネグロが
分離独立し、ユーゴ連邦が存続を止めたとしたら、コソヴォの独立も避けられ
なくなってしまう。欧米各国はモンテネグロに対し、独立の代わりに金融援助
と人道的支援を与えている。しかし、この共和国の不確かな地位は国際投資を
思いとどまらせ、真の経済回復戦略を困難にしている。今のところ、こうした
70
不健全な現状は、モンテネグロの恨みをかい、国内の反政府勢力を硬化させる
結果しかもたらしていない。
71
第七章
ソ連・ロシアが絡んだ国境紛争
(ドイツの東西分断)
(1)第二次世界大戦後、ドイツの敗北で、ドイツは米英仏の占領する西ドイ
ツとソ連の占領する東ドイツに分断された。また、ベルリンは、アメリカ、イ
ギリス、フランス、ソ連の 4 ヵ国の占領下におかれた。その結果、ベルリン
は1945年7月東西二つの都市に分断され、東ベルリンは東ドイツの首都、
西ベルリンは西ドイツの事実上の一州となった。
そして、1948年6月、ソ連はベルリン封鎖(西側占領地区からベルリン
への陸上交通路の封鎖) を開始した。
西側はこれに対しアメリカを中心に食糧などの空輸で対抗した。
これでベルリンは二つに分裂が決定的になった。
(2)さらに 1953年6月東ベルリンで大規模な反政府暴動が起き、それを機
に多くの労働者が西ベルリンに亡命した。
このままでは東ドイツは若い労働者を失うことになると危惧した東ドイツ政府
は、1961年8月にベルリンの壁を造り、交通を遮断し亡命を阻止した。
これがベルリンの壁である。壁を越えようする東側の人々は、有刺鉄線の壁を
よじ登ったり、穴を掘って壁を越えようとした。成功した人も大勢いたが、多
くの人々は射殺された。
しかし1989年11月9日に民主化を求める青年によってベルリンの壁が崩
された。
1990年10月、ドイツ再統一に際して東西ベルリンも統一され、統一ドイ
72
ツの首都となった。
(チェコ事件)
(1)チェコでは、1950年代に行われた粛清裁判の犠牲者の名誉回復や計
画経済の行き詰まりやスロヴァキアの自治要求をめぐって、1960年代に入
り、党第一書記兼大統領であるノヴォトニーに対する批判が高まって行った。
また、1967年には、チェコスロヴァキア作家同盟大会において、作家たち
が党批判を行ない、また、プラハで学生が学生寮のあり方をめぐる抗議デモを
行った。そして、党指導部がこれを警察隊によって鎮圧する事態に立ち至った。
これに加えて、党内においても、ノヴォトニーの国家・党運営に対して、スロ
ヴァキア共産党側から強い不満が出された。
これに対し、ノヴォトニーの政治体制では、チェコスロバキアは極めて不安
定だと見たソビエトは、1968年に入り、ソビエト連邦軍が主導するワルシ
ャワ条約機構軍が、チェコスロバキアに軍事介入した。
このワルシャワ条約機構軍の軍事介入をチェコ事件と言う。これに対し、チ
ェコスロバキアに起こった一連の変革運動のことをプラハの春と呼ぶ。
(2)1967年 12月にソ連のブレジネフが非公式にプラハを訪れたが、ブレ
ジネフはチェコスロヴァキア共産党内の問題との考え方から、積極的なノヴォ
トニー支持を打ち出さなかった。そのため、12月に開かれた党中央委員会総
73
会では、ノヴォトニー批判一色となり、ノヴォトニーが兼任していた党第一書
記と大統領職を分離することになった。
(3)そして翌1968年 1 月のチェコスロヴァキア共産党中央委員会総会に
おいて、スロヴァキア共産党第一書記のドブチェクが、ノヴォトニーに代わっ
て、チェコスロヴァキア共産党第一書記に就任した。
そして3月には、ノヴォトニーは大統領職を辞任し、スヴォボダが大統領に選
出された。
(4)1968年4月の党中央委員会総会で採択された『党行動綱領』では、
「新しい社会主義モデル」を提起するとともに、「①党への権限の一元的集中
の是正 ②粛清犠牲者の名誉回復 ③連邦制導入を軸とした「スロヴァキア問題」
の解決 ④企業責任の拡大や市場機能の導入などの経済改革 ⑤言論活動の自由
化 ⑥外交政策でもソ連との同盟関係を強調しつつも、科学技術の導入を通した
西側との経済関係の強化 」が盛り込まれた。
(5)『党行動綱領』に基ずく改革運動は社会に浸透していった。しかし、各
社会的勢力間では、改革の内容に対する認識に相違が見られた。ある勢力は、
急進的な改革運動に懸念を抱き、ソ連と接触を図っていたし、チェコスロヴァ
キアのうちのスロヴァキアでは、民主化よりも連邦化を重視しており、改革に
対する認識はばらばらだった。
(6)ブレジネフ大統領は、ドブチェク党第一書記には、チェコスロヴァキア
の自由化や民主化の流れを止めることは出来ないと考え、8月20日、ソビエ
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ト連邦軍が主導するワルシャワ条約機構軍に国境を越えて侵攻させ、チェコス
ロヴァキア全土を占領したのである。
プラハでは、22日、臨時党大会が開催され、ワルシャワ条約機構軍の軍事介
入を激しく非難し、ドゥプチェクら党指導部への支持を表明する決議を行った。
(7)ソ連のチェコスロヴァキア侵攻に対して、侵攻の翌日、アメリカ、イギ
リス、フランス、カナダの要求で国連安全保障理事会が招集された。ブラジル、
カナダ、デンマーク、フランス、パラグアイ、イギリス、アメリカが提出した
「侵攻が国連憲章に違反する内政干渉であり、即時撤退」を求める決議は、賛
成10、棄権3、反対2の採決結果出たが、ソ連が拒否権を行使したため、葬
られた。
他方、西側陣営、とくにアメリカは、ドゥプチェク指導部による改革運動に
共感を持っていたが、具体的な行動は取らなかった。その理由は、当時、ソ連
との間で、核拡散防止条約の調印や戦略兵器制限交渉が開始されており、ソ連
との関係改善を期待していたため、こうした流れが中断されることを恐れたの
であった。また、当時アメリカは、ヴェトナム戦争で泥沼にはまっていた。当
時、米ソの間には、冷戦下のヨーロッパ分断状況や米ソの勢力圏に対する相互
不干渉という暗黙のルールがあり、ジョンソン大統領には、そのことが念頭に
あったのである。
(8)1969年4月、ドゥプチェクに代わって、フサークが党第一書記に就
任し、チェコスロヴァキアの自由化、民主化の流れの阻止を進めていき、「プ
ラハの春」は終わりを告げたのである。
75
この事件によって、共産党自身による共産党体制の改革の試みが、共産主義
の祖国であるソ連によって押しつぶされた。
この結果、国際共産主義運動は分裂状態に陥った。フランスやイタリアの共
産党は、プロレタリア独裁を放棄し、議会制民主主義の枠内での社会主義理念
の実現へと方針転換を図り、世に言うユーロコミュニズムが台頭した。また、
中国共産党は、ソ連のチェコスロヴァキア侵攻を覇権主義と厳しく非難すると
ともに、1969年にはダマンスキー島における軍事衝突に発展し、中ソ対立
は修復不可能な状態になった。この結果、国際共産主義運動は動揺し、冷戦構
造が変化し、米ソを中心とする共産主義陣営と自由主義陣営の間にデタントを
もたらす素地となった。
また、東欧諸国も、共産主義の祖国であるソ連によって、共産党自身による
共産党体制の改革の試みが否定されたことから、市民社会による政治変革を求
めるようになり、これが後に、ポーランドの連帯運動となり、最終的には19
89年の東欧革命に繋がった。
(ハンガリー事件)
(1)1947年以降、アメリカとソ連の冷戦が始まった。ソ連の東欧支配が
強まり、これに併せて、ハンガリーでも共産党による権力の掌握がすすめられ
た。他の政党は非合法化され、社会民主党は共産党と統合され、勤労者党とな
った。1949年5月の総選挙では、勤労者党が大勝し、8月には人民共和国
が宣言された。そして、共産党である勤労者党の一党独裁にもとづくソ連型の
社会主義体制が誕生した。
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(2)国内では基幹産業の国有化や農業の集団化がおこなわれ、対外的にはソ
連など社会主義国との友好関係が強調された。反体制派とみなされた者は逮捕、
投獄、処刑、或いは収容所送りとなり、粛清された。
(3)1953年、スターリンが死去すると、ハンガリーでは、権力を独占し
ていた共産党書記長ラーコシ・マーチャーシュが首相を解任された。そして、
穏健派のナジ・イムレが後任の首相に選ばれた。しかしソ連・東欧諸国間の関
係にはほとんど変化がみられず、1955年にはワルシャワ条約機構に加盟し
た。
(4)スターリン死後の変化は一時的なもので、1955年4月にはナジが突
如首相を解任され、ラーコシ派が党第1書記と首相の座に復帰した。
1956年2月、フルシチョフソ連共産党書記長が、スターリン批判を行い、
これに刺激を受けたハンガリーの民衆は、ハンガリーの体制に対するの不満を
爆発させた。ポーランドでは、ポズナニ暴動にはじまるの民主化運動が進んだ。
ハンガリーの学生と労働者は、ポーランドの民主化運動に触発されてたちあが
り、穏健派のナジ政権の復活を勝ち取った。
(5)穏健派のナジ政権は急進化した民衆に後押しされて、複数党制の復活、
自由選挙の実施、駐留ソ連軍の撤退、ハンガリーのワルシャワ条約機構からの
脱退などを宣言した。しかし、この動乱は結局、2度にわたってソ連の軍事介
入で鎮圧され、ナジ首相は反逆罪で処刑された。この動乱をハンガリー事件と
言う。
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(6)ハンガリー事件後はカーダールの指導のもとで、勤労者党(のちに社会
主義労働者党と改称)によって、体制の立て直しがはかられた。当初はきびし
い引き締めを行ったが、1960年代後半から融和的な政策がとられるように
なった。1967年の総選挙では、共産党の候補者が制限付きで立候補をみと
められた。1968年からは、計画経済に市場原理をとりいれるという「新経
済メカニズム」を導入した。1970年代には、1973年の西ドイツとの国
交正常化をはじめ西側諸国との関係が改善され、貿易や文化交流が拡大した。
(7)経済面では、1980年から市場原理の導入など、思い切った改革が開
始された。インフレの高進などのマイナス効果があらわれたため、政府は経済
改革を中断しようとしたが、国民は強く反発し、1988年には30年余り指
導者の地位にあったカーダールが退陣に追い込まれた。後任のグロースは補助
金カットなどきびしい経済政策の一方で、民間部門の拡大、検閲の緩和、スト
権の承認などの自由化を実施したことから、社会主義労働党以外の勢力が形成
され始めた。
(8)1989年に政府は、ソ連で処刑された穏健派のナジ首相の国葬を実施
し、ハンガリー事件の見直しをおこない、憲法を改正して複数政党制を導入し
た。また、国名を「人民共和国」から「共和国」にあらためた。
1990年におこなわれた戦後初の自由選挙では、社会主義労働党を改称し
た社会党が敗北し、民主フォーラムを中心とする中道右派の連立政権が成立し
た。しかし1994年の総選挙では、民主フォーラムが分裂し、社会党がふた
たび議席の過半数を獲得し、党首ホルンが首相に就任した。社会党は単独政権
ではなく第2党の自由民主連合との連立をえらび、政権の安定をはかった。
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(9)1995年6月の大統領選挙では、両党の推薦によりゲンツ大統領が再
選された。
外交では、ハンガリーは、1990年に東欧諸国ではじめて欧州会議への加盟
をはたし、1994年にはNATOとの「平和のためのパートナーシップ」協
定に調印し、EU(ヨーロッパ連合)への加盟を正式に申請した。政府は国営
企業の大規模な民営化をすすめ、1989年から拡大の一途をたどっていた財
政赤字の削減にとりくんでいる。ハンガリー経済は1994年から上向きに転
じ、1996年3月には東欧ではチェコについで2番目にOECD(経済協力
開発機構)への正式加盟をみとめられた。東欧では外国からの最大の投資先に
なり、2位のポーランド以下を大きくひきはなしている。好調な輸出にもささ
えられて1997年には4%の経済成長を達成した。
(キューバ危機)
(1)キューバ機とは、ソ連がキューバにミサイル基地を建設したことをめぐ
り、米ソが直接軍事衝突の一歩手前まで行った国際危機である。
米ソの核戦争の脅威が現実に近づいた一瞬として、冷戦時代の軍事的緊張を
象徴する事件である。
(2)1959年にキューバ革命が起こり、キューバにカストロの共産主義政
権が成立した。
以来、米国は、米州機構からキューバを除名するなど両国の関係は悪化の一
途を辿った。
キューバはソ連を頼り、ソ連はキューバへの支援を強化し、その一環として
極秘裏にキューバにミサイル基地を建設し始めた。
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(3)1962年10月22日、米国大統領J. F. ケネディは、ソ連がキュ
ーバにミサイル基地を建設中であることを公表、ソ連に同基地の撤去を要求、
ミサイル搬入を阻止するため海上封鎖を実行すると声明をだした。
ソ連はこれを拒否、ミサイルを積んだ船はキューバに向かいつつあり、米ソ
の正面衝突の危機は高まった。
キューバは臨戦態勢に入り、アメリカは、キューバから攻撃があった場合に
はソ連によるものとみなして報復すると声明をだした。
(4)ケネディ大統領はこの日シカゴで演説の予定があったが、「風邪をこじ
らせた」と称して、キャンセルし、急遽ホワイトハウスで、緊急会議を招集し
た。
主要閣僚、大統領補佐官、統合参謀本部議長その他安全保障担当者、議会指
導者らを閣議室に集め、ジョン・マッコーン中央情報局(CIA)長官が次のように
状況説明をした。
「ミサイルがソ連の港で船積みされ、キューバに向かっている。これらミサ
イルは北西のごく一部を除く米本土のほぼ全域を射程に収める。キューバには
すでにいくつかミサイル発射装置が完成している」。
大統領は、「これは極めて重大で、しかも目前に迫った危機だ」と述べ、海
上封鎖など強硬手段を用いても、ミサイル運搬船のキューバ到着を阻止し、運
搬船のソ連への反転を迫る、という方針を提示した。
会議出席者は全員、大統領の方針を支持した。
その夜、大統領は全世界向けテレビ放送で、キューバ情勢と米政府の強硬方
針を公表、フルシチョフ・ソ連首相との全面対決に入った。
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(5)ウ・タント国連事務総長や中立諸国が積極的に動き、また米ソ間でも文
書の往復など水面下の交渉が活発化した。
1962年10月28日に至り、ソ連のフルシチョフ書記長がミサイル撤去を
約束するにいたった。
これを受けてアメリカは海上封鎖を解除した。
(6)危機後、米ソは急速に接近し、1963年に米ソ直通電話 (ホット・ラ
イン) がつくられ、部分的核実験停止条約が成立するなど、デタントと呼ばれ
る米ソ平和共存と「雪解け」ムードが生まれた。
(ソ連のアフガン進攻)
(1)2001年9月11日、アメリカのニューヨークで同時多発テロが発生
した。アメリカは、このテロの首謀者をイスラム原理主義組織「アルカイダ」
と認定し、同組織を匿っている中央アジアの国、アフガニスタンに侵攻した。
世に言うアフガニスタン戦争である。
(2)アメリカ軍を中心に組織された多国籍軍は圧倒的な軍事力で、アフガニ
スタンを支配していたイスラム原理主義組織「タリバン」政権を崩壊させた。
一度は崩壊させたはずのタリバンは息を吹き返し、自爆テロなどを用いて、
都市部を除くアフガニスタン南部で再び勢力圏を築きつつある。
その地域とは、アフガニスタンとパキスタンの国境にある、通称「トライバ
ルエリア」で、アフガニスタンを追い出された過激なイスラム原理主義者達が
いまその地に集結していると言うのである。
(3)アフガニスタンとイスラム原理主義はアメリカには深い縁がある。その
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関係がクローズアップされ始めたのは、1979年のソ連軍によるアフガニス
タン侵攻だった。当時、アフガニスタンの政権は、親ソ連を打ち出していた。
これは中央アジアの要衝を押さえておきたいというソ連の思惑があってのこと
だが、イランで起こったイスラム主義革命やアメリカの諜報機関 CIA を通じた
武器の供与もあり、国内では「ムジャヒディーン」と呼ばれるイスラム主義勢
力による親ソ政権打倒の動きが強まっていた。
(4)1979年のソ連軍によるアフガニスタン侵攻のもう一つの要因として
イスラム主義の動きから発生したイランでのイラン革命が挙げられる。革命で
モハンマド・レザー・パフラヴイー国王政府が倒され、ホメイニを中心とする
新政府が樹立された。このことはソ連にとって脅威であった。なぜならアフガ
ニスタンでイスラム主義革命が起こればソビエト連邦を構成する中央アジアや
カフカスの諸ソビエト社会主義共和国にも革命が飛び火する危険性があったか
らである。事実、アフガニスタンではイスラムが根付いており、またイスラム
主義の声も上がっており、イランは中央アジア・カフカスと歴史的・文化的繋
がりが深く、イスラム革命後のイランには、北のソビエト連邦や東のアフガニ
スタンに革命を拡大するための宗教的、政治的、経済的な動機が十分にあった
のである。
(5)事態を重く見たソ連は、親ソ政権を支援するために派兵を決意し、19
79年12月、アフガニスタンに侵攻した。ソ連側は首都の制圧を早期成功す
るなど、当初は簡単に片づくと思われたが、ソ連軍はゲリラ戦やテロを用いる
ムジャヒディーンに大きく苦しめられた。そのうえアフガニスタン侵攻は、国
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家の主権を侵すものであるとして世界中から非難が殺到し、侵攻から10年後
の1989年、ソ連軍はついに撤退することとなった。これが、世に言う「ソ
連のアフガン侵攻」である。
(6)ソ連軍は、アフガニスタンで、ソ連の10万人以上の地上部隊である第
40軍を展開するとともに、航空支援、兵站部門、内務省 (MVD)の部隊、他の
種々雑多な部隊を含め、総勢でおよそ17万5千人の部隊を展開した。
前線の裏側では、ソ連によって化学兵器が広域にわたって使用された。また、
2000万個以上の対人地雷がソ連軍によってばらまかれた。地雷が不発弾と
なったとき発見しやすくする為に色を塗り、投下時の空気抵抗を減らすために
異様な形をしたものが生産され、それを子供がおもちゃと間違えた。
(7)ソ連軍はもともと山岳戦を想定していなかったため、戦闘では苦戦を強
いられることが多かった。ヘリコプターで機動する治安作戦、掃討作戦がアフ
ガニスタン全土で多く実施されたが、目覚しい戦果はあがらなかった。
(8)9年間に渡る戦争において平均してアフガニスタンに駐留したソ連軍の
兵力は10万人強である。戦闘が最も激しかった1985年のソ連軍の総兵力
は実に511万5000人という大きなものであったが、その世界最大の陸上
兵力を持つソ連軍が、より多くの兵員をアフガニスタンに投入出来なかったの
は輸送力の不足のためであったと言われている。
(9)アフガニスタンでは、1978年4月27日に共産主義政党アフガニス
タン人民民主党(PDDA)による革命が起こり、首都カブールにおける政権を確
83
立して国号をアフガニスタン民主共和国(DRA)に改めた。しかし、民主共和国
に対して国内の保守派・イスラム派・反共産主義派勢力が続々と蜂起し、民主
共和国政権は全土のほとんどの支配力を失った。
(10)ソ連軍はゲリラに対して決定的な勝利を得られないまま1989年に
全面撤収するが、ソ連側では 1 万 5 千人が死亡し、7 万 5 千人が負傷した。そし
て、戦費は1986年のドルで計算して一年におよそ200億ドルかかってお
り、ソ連の財政を圧迫した。
アフガニスタンから帰還した兵士たちが、麻薬依存症に陥って社会復帰がで
きないことが社会問題化した。
(11)ソ連軍撤退後のアフガニスタンは、しばらく混乱の時代を迎える。各
部族やイスラム主義組織による主導権争いが起こり、アフガニスタンは内戦に
突入したのである。そうしたなか、台頭してきたのが、パシュトウーン人を中
心とした勢力「タリバン」だったのである。イスラム原理主義を掲げた「タリ
バン」は、パキスタンからの軍事支援を背景に、急速に勢力を広げた。そして
1998年には、アフガニスタン全土をほぼ手中に収めた。
(12)そして、2001年、アメリカ同時多発テロが起こる。こうした同時
多発テロが起こったのは、湾岸戦争時にアメリカがサウジアラビアに軍を駐留
させたことが、原因の1つではないかと考えられている。サウジアラビアには、
イスラム教の聖地メッカがある。その地を異教徒の軍隊に蹂躙されたと感じた
一部のイスラム原理主義者の間に、強い反米感情が沸き起こったのである。
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(13)アメリカ同時多発テロを指示したとされるオサマ・ビンラディンはか
って、ムジャヒディーンとして、アフガニスタンでソ連軍と戦った過去がある。
ムジャヒディーンを陰で支援していたのはアメリカだった。タリバン政権の残
党が逃げ込んだとされる「トライバルエリア」には、タリバンと同じパシュト
ウーン人が多く暮らしている。そのうえ、彼らは独立心が旺盛でパキスタン中
央政府による支配を撥ね続けている。アフガニスタンの戦火は未だ消えていな
い。
(タジキスタン共和国(タゲスタン自治共和国とも言う)内戦)
(1) 外務省の公表資料に依れば、タジキスタン共和国は、面積約 14 万 3,100 平
方キロメートル(日本の約 40%)、人口約 670 万人、首都はドゥシャンベで、民族は
タジク人 64.9%、ウズベク人 25.0%、ロシア人 3.5%、他で、言語は公用語は
タジク語で、ロシア語も広く使われている。宗教は、タジク人の中ではイスラ
ム教スンニ派が最も優勢で、パミール地方にはシーア派の一派であるイスマー
イール派の信者も多い。
政体は、共和制で、元首は、エマムリア・ラフモン大統領(2006年11月
選出、任期 7 年)で、首相は、オキル・オキロフである。議会は、二院制(上
院:
「国民議会」
(任期 5 年、定数34)、下院:
「代表者会議」
(任期 5 年、定数
63))で、前回下院選挙は、2005年 2 月27日である。
(2) 独立直後の1992年、旧共産党勢力とイスラム勢力を含む反対派との対
立から内戦状態となった。同年 11 月大統領制から議会指導制へ移行。ラフモノ
85
フ最高会議議長(現ラフモン大統領)は CIS(独立国家共同体)合同平和維持軍
の派遣要請等、国内和平達成を目指して積極的な外交を展開、1994年に暫
定停戦合意が達成され、これを受けて国連安保理は国連タジキスタン監視団
(UNMOT)派遣を決定した。また同年11月には大統領制が復活、それに伴う大
統領選ではラフモノフ最高会議議長が当選(得票率60%)。その後も断続的
な戦闘状態が続いたが、1997年 6 月に最終和平合意が達成された。同内戦
により約6万人が死亡。
(3)1999年9月に憲法改正の国民投票、同年 11 月に大統領選挙、200
0年に議会選挙が行われ、和平プロセスは完了した。UNMOT はその任務を終了し、
同国復興支援のため新たに国連タジキスタン和平構築事務所(UNTOP)が設立さ
れた(UNTOP は2007年任務終了)。
(4)2006年11月に実施された大統領選挙では、ラフモノフ大統領が約
80%の得票率を得て圧勝し、再選された。
(5)隣接するアフガニスタンの情勢がタジキスタンに与える影響は大きく、
タリバン政権崩壊後治安上の脅威は低減したが、テロ、武器・麻薬流入問題が
深刻である。
(6)タジキスタンは、全方位的外交を模索するが、ロシアからの投資、ロシ
ア軍の国内駐留等、経済・軍事面でロシアへの依存度が大である。
(7)また、米国はタジキスタンにとって例年第一の経済支援国であり、米国
もテロ・麻薬・武器密輸対策及びアフガニスタン復興との関連でタジキスタン
を重視している。
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(8)軍事力は、総兵力 8,800(陸軍 7,300、空軍 1,500)で、仏空軍、ロシア
陸軍が駐留している。(アフガニスタンとの国境管理については、2005 年 9 月
にロシア軍よりタジク軍に移管された)
(9)旧ソ連の共和国の中では最貧国で、独立後の紛争で生活水準全般が低下、
失業率も高く厳しい経済状態である。
綿花栽培を中心とする農業、牧畜が主要産業で、工業部門では繊維産業が比
較的発達している。小規模ではあるが、亜鉛、錫のほかウラン、ラジウム、ビ
スマスなどの希少金属の鉱床を有している。また、水資源が豊富である。
(10)タジキスタン共和国は、黒海とカスピ海に挟まれたコーカサス地方に
位置し、南にグルジア共和国やアゼルバイジャン共和国がある。上記外務省の
公表資料が示すように、タジキスタン共和国は独立直後の 1992 年、旧共産党勢
力とイスラム勢力を含む反対派との対立から内戦状態となり、同内戦により約 6
万人が死亡した。そして、近隣のアフガニスタンの情勢がタジキスタンに与え
る影響は大きく、ターリバーン政権崩壊後、治安上の脅威は低減したが、過激
派組織の台頭、テロ、武器・麻薬流入問題が深刻である。そして、同国復興支
援のため新たに国連タジキスタン和平構築事務所(UNTOP)が設立され、UNTOP
は 2007 年任務を終了した。タジキスタンは、約 6 万人の死者を出した共産党勢
力とイスラム勢力を含む反対派との対立による内戦の深い傷が残っており、さ
らに、近隣のソ連撤退後のアフガニスタンのターリバーンのイスラム勢力の影
響も加わっており、当然多くの武器が広がっているので、極めて不安定な地域
である。今後、この地域が平和、安定、民主化および経済復興の道を歩んで行
くためには、タジキスタン政府の努力や一般市民の協力は当然のこと、国連や
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アメリカ合衆国やロシア等の支援、就中国連の強力な支援が必要であると考え
られる。
(チェチェン戦争)
(1)1991年、それまで、共産圏の国々を束ねていたソビエト連邦が遂に
崩壊した。ある国は独立国家共同体を形成してそのまま東側諸国に残り、また
ある国は東側諸国を離脱して、西側諸国の一員に加わった。このように東欧再
編が進む中、東側諸国の中心ロシア連邦は頭の痛い問題を抱えることとなった。
それは、自治国や自治州の独立問題である。ロシアはかってのソ連と同じよう
に、領内に多数の自治国や自治区を抱える連邦国家である。自治国や自治区の
中には、ソ連の崩壊に刺激を受け、ロシアからの独立を目指す地域が出てきた。
しかし、ロシアはそれらの地域を強制的に連邦に参加させた。仮に、一部の地
域を独立させてしまえば、その後続々と独立を求める地域が出てくることにな
る。ロシアの領土が縮小することだけはなんとしてでも抑えなければいけない
のである。
(2)こうしたロシアの姿勢に、判然と反旗を翻す地域があった。それが、チ
ェチェンである。チェチェンを含む北コーカサス地方は、400年間にわたっ
て、ロシアの侵略と支配を受け続けてきた。それに対して、帝政、ソビエト時
代を通じて、北コーカサスの40の諸民族の中で、植民地化にもっとも強力に
抵抗したのが、チェチェンである。1944年の戦時中に、チェチェン人は、
ナチス・ドイツに協力したなどあらぬ疑いをかけられ、カザフスタンやシベリ
アに強制的に移住させられたのである。この移動のさいには、多くの人命が失
88
われた。しかも、ようやく疑いが晴れ、1957年に故郷に帰ってきたところ、
そこにはすでに北オセチア共和国なる見知らぬ国ができていた。
(3)その後、なんとか国を取り戻すことはできたが、カフカス地方はソ連や
ロシアに引っかき回され、めちゃくちゃな状態になっていた。
(4)ソ連が崩壊し始めると、チェチェンの人々の間には、自然とロシアから
の独立を求める声が高まってくる。
(5)チェチェンは、早速、ソ連に独立を申し入れた。しかし、ソ連の指導者
であるゴルバチョフは、ロシアに関係ないない地域とは関係ないとして突っぱ
ねてしまう。結局、ソ連は崩壊、だがロシアによる支配は引き続き行われるこ
とになっていた。
(6)そこで、チェチェンはついにロシアから分離・独立を宣言する。これを
受けてロシアは大いに慌てる。チェチェンの独立を許せば、ゆくゆくはロシア
の崩壊を招くかもしれない。
(7)そこで、ロシアは圧倒的な軍事力でチェチェンの独立派を押さえ込むこ
とにした。そこで始まったのが第一次チェチェン紛争だった。
(8)ロシアは、独立をチラつかせる他の地域へのけん制の意味も込めて、チ
ェチェンを徹底的に攻撃した。チェチェン独立派のゲリラが展開していた山間
部は抑えられなかったものの、首都グロズヌイを制圧し、支配権を回復、一方
的に停戦を宣言した。この紛争は、チェチェン側に多数の死傷者を出し、その
数は10万人以上にもなるといわれている。
(10)その後の情勢は、さらに泥沼化が進んだ。なかばテロ組織と化したチ
ェチェン独立派は、各地でテロ行為に及んだ。そのなかには数多くの犠牲者を
89
出した、
「モスクワ劇場占拠事件」
、
「北オセチア・ベスラン学校人質事件」など
世界中の非難を浴びるようなものもある。
(ナゴルノ・カラバフ紛争)
(1)ナゴルノ・カラバフ紛争とは、アルメニアとアゼルバイジャンのナゴル
ノ・カラバフ自治州を巡る争いで、戦争は泥沼化し、現在は事実上、アルメニ
ア人の占領下にある。
(2)1917年のロシア革命によって、グルジア、アルメニア、アゼルバイ
ジャンは独立するが、コーカサス連邦として独立するが、1918年には、ナ
ゴルノ・カラバフの帰属を巡ってアルメニアとアゼルバイジャン間に戦争が起
こった。
(3)1936年には、グルジア、アルメニア、アゼルバイジャンはソビエト
連邦内の共和国となった。
(4)そして、1991年のソ連崩壊により、グルジア、アルメニア、アゼル
バイジャンは独立すると、アゼルバイジャンの中にあってアルメニア人が多数
を占めるナゴルノ・カラバフ自治州は、アルメニアへの帰属を求めて民族紛争
は勃発、ナゴルノ・カラバフ共和国として独立を宣言し、これにアルメニア軍
も供応して、アルメニアとアゼルバイジャンは戦争状態に入ったのである。
(5)現在、ナゴルノ・カラバフは、アルメニアが実効支配している。ナゴル
ノ・カラバフをめぐる争いは、現在一応小康状態にある。しかし、今後両国の
争いは再燃するおそれがある。
90
(ロシアとグルジアの対立激化)
(1) グルジアは、カスピ海と黒海に挟まれたカフカス地方のはずれにあり、黒海に
面している。かってはソ連の一部であったが、ソ連崩壊に伴い、独立した。北海道を一
回り小さくした面積である。
独立は果たしたが、国内には自治共和国や自治州を抱えるという連邦制度をと
っている。グルジア国民の多くはキリスト教徒であるが、北西部のアブハジア自治共和
国はイスラム教徒が多く、グルジアからの分離独立を求める運動が続いている。
また中部の南オセチア自治州はロシアへの併合を求め、ロシア軍の後ろ盾もあって、
事実上の独立状態になっている。
2006年9月、グルジア内務省がロシア軍将校ら5人をスパイ容疑で逮捕したこと
から、ロシアとグルジの関係は悪化している。グルジアはロシア軍将校を釈放したが、
ロシアは経済制裁を発動、ロシアにいるグルジ人を追放したり、グルジア・ワインの輸
入を禁止したりの態度にでた。
(2)グルジアは、ソ連から独立した後、しばらくはロシアとの協調をとってきたが、2
004年にサアカシビリ大統領が誕生すると、欧米に急接近し、NATO(北大西洋条約
機構)への加盟を希望するまでになった。
これが、ロシアのプーチン大統領の神経を逆撫で、グルジアに対する強硬姿勢をと
るようになっている。
一方のグルジアも、南オセチアやアブハジアでの独立運動をロシアが支援し
ていると考え、反発を強めている。実際の戦争に発展する危険を孕んでいる状態であ
る。
(3)そして、2008年8月8日、ついにグルジア軍は、同国から分離独立を目指す親ロ
91
シの南オセチア自治州に進攻し、大規模な攻撃を始めた。これに対して、ロシア軍機
がグルジアの首都トビリシ郊外のグルジア空軍基地を爆撃するなど報復的に軍事介
入し、軍事衝突が拡大した。そして、翌9日には、同じくグルジアから分離独立を求め
るアブハジア自治共和国にも飛び火し、ロシア空軍機がアブハジア内のグルジア実行
支配地域を空襲、同共和国も、この地域のグルジア軍に対し軍事作戦を開始した。南
オセチアの州都ツヒンバリには、ロシア軍が続々到着し、ツヒンバリはグルジア軍から
解放されたとロシア側は発表した。ツヒンバリでの2000人の死者と南オセチアからロシ
アへの3万人の避難民が報ぜられた。
そして、翌10日には、グルジア外務省は、ロシア側に停戦を申し入れたが、メドベー
ジェフロシア大統領は、「紛争地域からのグルジア部隊の無条件撤退が必要だ」と述
べてこれを拒否した。そして、ロシア黒海艦隊がグルジアのポチ港を封鎖し、グルジア
のミサイル艇を撃沈するとともに、ロシアは、11日には南オセチアやアブハジア以外の
グルジア西部のセナキに軍を進めるなど、攻撃の手をますます強めた。
(8)なお、10日、北京に滞在中のブッシュ米大統領は、フランスのサルコジ大統
領とグルジア情勢をめぐり電話で協議し、①即時停戦 ②兵力引き離し ③グルジア
の領土保全の3点が重要との考えで一致した。
ロシアのメドベージェフ大統領は、12日「南オセチアへの侵略者は罰せられ、グルジ
ア軍は破壊された。軍事介入の目的は達せられたので、軍事作戦は終了する。」と表明
した。
停戦説得に訪れた EU 議長国のフランスのサルコジ大統領は、メドベージェフ大統領
との会談で、軍事作戦終了を「いいニュースだ。」と歓迎、①グルジア、ロシア両軍の衝
突以前の兵力引き離し、②武力に訴えない、③人道的支援を自由にできるようにする、
92
④南オセチアやアブハジア自治共和国の将来的地位と安全保障について国際的議論
を始めるなど6項目で基本合意した。
(5) ロシアの軍事作戦終了の表明を受けて、グルジアの首都トビリシでは、サアカシ
ビリ大統領は、支持者らの集会で、「ロシアは我々をひざまずかせようとしたができなか
った。」と演説、最後に「旧ソ連諸国で構成する独立国家共同体(CIS)からの離脱を表
明した。
ロシアとグルジの軍事衝突を受け、北大西洋条約機構(NATO)は、19日、ブリュッセ
ルで緊急外相理事会を開き、グルジアへの強力な支援を展開することで合意した。そ
して、グルジアからのロシア軍の即時撤退を要求し、ロシアとの協議を当面凍結する方
針を打ち出した。
声明では、「グルジアの独立と主権、領土の一体性を最大限に尊重する。」と主張、
南オセチア自治州などのグルジアからの独立を支援するロシアを牽制した。
また、グルジアを支援するための「NATO・グルジア委員会」を設置、グルジア側の被
害を調べ、市民サービスや経済復興を援助する体制を整えた。
一方、ロシアの軍事行動については、「平和維持活動の範囲を逸脱している。」と厳
しく批判、一刻も早いグルジア領内からの撤兵を求めた。対話のチャンネルとして02
年に設立された NATO・ロシア理事会についても「これまで通り協議を続けることはで
きない」と言明、「関係維持の意思を言葉と行動で示せ」とロシア側に要求した。
ロシアが強く反対しているグルジアとウクライナの NATO 加盟候補国入りについては
判断を示さなかったものの、声明でグルジアを「価値のある長期にわたるパートナー」
と位置づけ、協力を進める姿勢を鮮明にした。
(6) 一方、8 月25日、ロシアの上下院は、グルジアからの分離独立を求める親ロシア
93
の南オセチア自治州とアブハジア自治共和国について、メドベージェフ大統領に、独
立承認を要請する声明を全会一致で採択した。
メドベージェフ大統領は、26日グルジアからの分離独立を求める南オセチア自治州
とアブハジア自治共和国の独立を承認する大統領令に署名したと発表した。
中東訪問中のライス米国務長官は、「遺憾だ。ロシアの企てを阻止するため、国連安
保理で拒否権を行使する。」と語った。北大西洋条約機構(NATO)の事務総長も、同
日、グルジアの主権と領土の維持を支持すると語った。
(7) ロシアが、南オセチア自治州とアブハジア自治共和国の独立を承認したことへの
対抗措置として、29 日、グルジアはロシアとの外交関係断絶を発表した。
ロシアとグルジアの衝突を巡り、欧州連合(EU)の議長国フランスのサルコジ大統領
は、9月 8 日、モスクワを訪問し、ロシアのメドベージェフ大統領と会談し、両大統領は、
1ヶ月後にロシア軍を南オセチア自治州とアブハジア自治共和国以外のグルジア領か
ら撤退させることなどで合意したが、ロシアが承認した両地域の独立についての立場
は一致しなかった。
(8) ロシア外務省は、9月13日ロシア部隊がグルジア西部ポチ市内の3箇所と、同市
から東30キロのセナキ市郊外にある監視所など計5箇所から撤退し、完了したと発表
した。一方、プーチン首相は、仏フィガロ紙とのインタビューで「ロシア部隊の撤退のた
めには、EU などの停戦監視員が責任を負う必要がある。」と述べ、緩衝地帯への監視
員配置の着実な履行を EU 側に呼びかけた。
(9)南オセチア自治州を巡る8月の軍事衝突以降、グルジア領内の緩衝地帯に駐
留していたロシア部隊が8日、撤退を完了した。グルジア内務省が確認をした。
国際社会の強い批判を招いたロシア軍によるグルジア進攻は、約2ヶ月で一定の終
94
結をみることになる。
ロシアのメドベージェフ大統領は、仏東部エビアンで8日開かれた世界政策会議で
演説し、同日中の撤退完了を言明した。ロシア部隊は、欧州連合(EU)の停戦監視団
が見守る中、6ヶ所の全監視所を閉鎖し、グルジア警察が緩衝地帯に入った。
ロシアのメドベージェフ大統領は、EU 議長国フランスのサルコジ大統領と交わした9月
8日の合意で、ロシアは EU 停戦監視団の展開と引き換えに、10月10日までに撤退す
ることを約束していた。
「我々は約束を果たした。今度は EU が応える番だ。」ロシア大統領府のプリポチコ補
佐官は「撤退後は EU 監視団に安全保障の責任を厳しく求める。」と述べた。
ロシアがさらに狙うのは、9月合意に盛り込まれた「10月15日にジュネーブで開く国際
会議」の主導権だ。テーマは南オセチアとアブハジアの安全保障。ロシアのラブロフ外
相は、「紛争の根本原因と再発防止策に集中したい」と述べ、グルジアの軍事力を無
力化する場にしたい考えを示している。同外相は、8日、グルジアへの国際的な武器
禁輸を呼びかけた。
同会議には南オセチアとアブハジアの代表を出席させるよう要求。両地域の「独立」を
既成事実化させる動きで、グルジアの領土の一体性を主張する EU 側がどう対応する
か問われることになる。
95
第八章
イラン・イラクをめぐる紛争
(イラン・イラク戦争)
(1)中東は、「世界の火薬庫」といわれることがある。東西冷戦が終わった
今、世界戦争が起きる危険が最も高いのが、中東だといわれている。
中東の紛争というと、イスラム諸国とイスラエルとの対決という構図を思い浮
かべるが、ことはそう単純ではない。イスラム諸国同士でも、深刻な対立があ
る。それも10年、20年単位の話ではなく、数百年単位の長さで、いがみ合
いが続いているのだ。
(2)その最たるものが、イランとイラクの対立である。この両国は、シャト
ル・アラブ川という河川の領有を巡って、長い間対立してきた。シャトル・ア
ラブ川は、メソポタミア文明で名高いチグリス・ユーフラテス川が合流した下
流域の川で、全長は200㎞、その川幅は最大で800mになる。この川は、
イランとイラクの間を流れているため、両国による領有権争いが起こったので
ある。
(3)イランとイラクの国境紛争は、両国の前身であるサーファビー朝とオス
マン帝国がメソポタミアを争っていた頃に、今から4∼500年前の話である。
1639年両国は、シャトル・アラブ川の東側にあるバムシール川の東側を国
境線とした。しかし、この地域の小競り合いはその後も続いた。
(4)その後、第一次大戦を経て、アラブ世界が大きく再編された。サーファ
ビー朝の後身のカジャール朝はイランに、オスマン帝国が領有していたこの地
96
域はイラクに、それぞれ引き継がれた。現在に続くイランとイラクが誕生した
わけである。そして、国境紛争もそのまま両国に持ち越される形になった。
(5)両国は相変わらずシャトル・アラブ川の領有をめぐって対立し、武力行
使をちらつかせたり、国際連盟に訴えたりもした。
シャトル・アラブ川は、ペルシャ湾に注いでいる。ペルシャ湾は、スエズ運
河が開通するまでは、西洋と東洋を繋ぐ一大物流拠点だった。シャトル・アラ
ブ川は、そのペルシャ湾と国の内陸部を結んでいるのだ。特に、この地域で石
油が採掘されるようになってからは、原油の輸送路という意味で非常に価値の
あるものとなった。
(6)やがて、両者は妥協点を探ることとなり、1937年、イランとイラク
の間で、国境条約が締結された。国境は今まで通りシャトル・アラブ川の東側
ということになったが、イランにもシャトル・アラブ川の使用権が与えられた。
これで両国の小競り合いが終わったかというと大間違いで、まだまだ国境紛争
は続くのである。
(7)1970年代、イランはアメリカの後ろ盾を得て、イラクに国境線の改
訂を迫る。さすがにイラクもこれに抵抗できず、1975年シャトル・アラブ
川の最深部の中央が国境ということに同意する。川の領有権の半分を取られて
しまったイラクは、このことを深く根に持ち、復讐の機会をうかがうことにな
った。
(8)そんなイラクに、千載一遇のチャンスが訪れる。
97
1979年、イランで革命が起き、親米政権が倒れ、バリバリの反米派ホメイ
ニ師が政権の座に着いた。アメリカとイランの関係は急激に冷え込んだ。
アメリカの後ろ盾がないのを見計らって、1980年、イラクはイランに先制
攻撃を仕掛けた。イラン・イラク戦争の始まりである。
イラン・イラク戦争は奇妙な戦争だった。アメリカは、表向きはイラクに支援
していたが、裏ではイランに武器を供給した。ソ連もイラクを支援する傍ら、
アフガニスタンに侵攻した。
(1) アラブ諸国のほとんどは、イラクを支援したが、シリアとリビアだけは、
イランを支援した。
また、すべてのアラブ諸国と敵対するはずのイスラエルが突然、イラクを爆撃
したり、北朝鮮がイランに武器と兵士を送ったりと、東西南北の陣営が相乱れ
る大混戦となった。
ちなみに、このときのイラクの指導者はサダム・フセインである。つまり、
アメリカは、サダム・フセインを支援していたこともあったわけである。
(2) イラン・イラク戦争は、その後10年間続き、100万人の犠牲者が出
たとされる。肝腎の国境はどうなったかというと、ほとんど戦争前の状態に戻
された。
98
(10)その後、イラクはクエートに侵攻して、多国籍軍から叩かれたり、ア
メリカと戦争したりで、イランとイラクの国境問題は置き去りになっている感
がある。
(イラン革命)
(1)イラン革命は、1979年2月、パーレビー王朝を打倒した革命で、イ
スラムに基づく国づくりを始めたため、イスラム革命と呼ばれている。以後、
1979年11月のアメリカ大使館占拠事件、1980年9月のイラン・イラ
ク戦争勃発(1988年8月停戦)、1981年8月のイスラム共和党(IRP)本
部爆破事件、1987年6月のイスラム共和党解散、1989年6月3日のホ
メイニ師死去と数々の節目を経てきた。現在ホメイニ路線を継承したハメイネ
最高指導者を中心に、イスラム法学者を最高指導者(ヴェラヤーテ・ファキー
フ)とする統治システムをとっている。一部革命を知らない若い世代からは不
満の声が聞かれ、海外への頭脳流出も見られている。
(2)上述の通り、イラン革命は、1979年に、パーレヴィー朝に代わって、
ホメイニーを指導者とするイスラム教シーア派の法学者を中心とする反体制勢
力が、政権を奪取した革命のことである。イラン・イスラム革命とも呼ばれる。
(3)パーレヴィー朝下のイランは1953年のモハンマド・モサッデク首相
が失脚し、その後、ソ連の南側に位置するという地政学的理由もあって、アメ
リカ合衆国の支援を受けるようにななった。そして、脱イスラム化と世俗主義
による近代化政策を取りつづけてきた。皇帝モハンマド・レザー・シャーは1
99
963年に農地改革、森林国有化、国営企業の民営化、婦人参政権、識字率の
向上などを宣言し、上からの近代改革を推し進めた。シャーは自分の思うがま
まの近代化革命を推し進め、近代化にはイスラム教は邪魔と考え、厳しい弾圧
を続けた結果、宗教界の人々はもとより、右派から左派まで国民はシャー打倒
を叫びだした。
(4)皇帝側は宗教界と事態の収拾をはかったが、宗教界や反体制勢力の一層
の反発を招くなど事態の悪化をとどめることができず、反皇帝側の政党である
国民戦線のバフティヤールを首相に立てて、翌1979年1月16日、国外に
退去した。
(5)バフティヤールはホメイニーと接触するなど、各方面との妥協による事
態の沈静化をはかったが、成功せず、バフティヤールは辞任、反体制勢力が政
権を掌握した。
4月1日、イランは国民投票に基づいて、イスラム共和国の樹立を宣言し、ホ
メイニーが提唱した「法学者の統治」に基づく国家体制を構築することとした。
(6)イランは、アメリカの支援を受け近代化を行っていたパーレヴィー朝を
倒したことや、露骨な反欧米主義とイスラム至上主義を掲げたことから、アメ
リカをはじめとする西側諸国とイランとの関係が悪化した。特に、11月には
アメリカ大使館占拠事件が起こり、アメリカとの関係は断絶寸前となった。
一方、周辺のアラブ諸国にとっては、シーア派を掲げるイランにおける革命
の成功は、シーア派の革命思想が国内のシーア派信徒に影響力を及ぼしたり、
100
反西欧のスローガンに基づくイスラム国家樹立の動きがスンナ派を含めた国内
のイスラム教徒全体に波及することに対する怖れを抱かせ、イランは周辺アラ
ブ諸国からも孤立した。
(7)上述の通り、1980年、長年国境をめぐってイランと対立関係にあり、
かつ国内に多数のシーア派信徒を抱えてイラン革命の影響波及を嫌った隣国イ
ラクがイランに侵攻、イラン・イラク戦争が勃発した。イランの猛烈な反撃に
よりイラクが崩壊し、産油地域が脅かされたり、シーア派の革命が輸出された
りすることを懸念したアメリカがイラクに対する軍事支援を行った結果、この
戦争は 8 年間の長きにわたった。
また、前述したように、イラン革命と同じ1979年に起こったソビエト連邦
のアフガニスタン侵攻も、ソ連が、イスラム革命がアフガニスタンへ飛び火す
ることを恐れたために長期化したとされる。
101
第九章
アジアの国境紛争
(ミャンマー反政府運動)
(1)ミャンマーは、面積は日本の約1,8倍、人口5,322万人、首都ネ
ーピードー、民族はビルマ族(約70%)、その他多くの少数民族で、宗教は仏
教(90%)、キリスト教、回教等である。
(2)アウン・サン・スー・チーさんは、ビルマ(今のミャンマー)の独立に
尽力しながら、独立を果たす直前に暗殺されたアウン・サン将軍の娘である。
(3)1962年にネウィン将軍がクーデターを起こし政権を奪取、軍事政権
を築き現在まで続いている。ネウィン政権は社会主義国家の設立を目指し、外
国資本の排除や産業の国有化を推進してきた。
(4)ビルマは、1988年、それまで26年間続いたネウィン独裁政権に反
対する民主化運動が盛り上がった。スー・チーさんは、イギリス人の夫と結婚
してイギリスに住んでいたが、たまたま母親の病気の看病のために帰国してい
て、民主化運動に参加することになったものである。
(5)アウン・サン・スー・チーさんは、ミャンマーの民主化運動指導者で、
国民の人気が高く、軍事政権としてはうっかり手が出せない。そこで、軍政は
1989年から自宅軟禁して、政治的な行動が出来ないようにしているわけで
ある。以後、軟禁解除と軟禁状態を繰り返し、2003年9月から自宅軟禁状
態にある。なお、アウン・サン・スー・チーさんは、1991年にノーベル平
和賞を受賞している。
102
(6)なお、軍事政権は、スー・チーさんの国政参画排除などを盛り込んだ新
憲法案を起草し、2008年5月10日の国民投票で成立した。
(カンボジア紛争)
(1)冷戦時代、カンボジア問題は、米中ソの大国と地域大国であるヴェトナ
ム、タイなどの様々な思惑に締めつけられて、解決されなかった地域紛争の一
つであった。
(2)1970年にアメリカの支援を受けたロン・ル将軍のクーデタを機に、
カンボジアは内戦に突入、1991年のパリ平和協定調印まで続いた。同協定
に基づく国連平和維持活動(PKO)の展開によって、1993年に制憲議会選挙を
実施。その後、ラナリット民族統一戦線党首を第1首相、フン・セン人民党副
党首を第2首相とする変則的な政権が成立したが、1997年の両派の武力衝
突で、フン・センが実権を掌握した。2003年の総選挙で人民党は、第1党
の議席を獲得、民族統一戦線と連立政権を組み、フン・センの政権基盤はさら
に強化された。
(3)2006年1月の上院議員選挙は、有権者は限られていたものの、初め
て外国の支援に頼らずに行われ、人民党が圧勝した。人民党は、インドシナ共
産党の流れを汲むカンボジア人民革命党として、1961年に結党、フン・セ
ンも同盟員だったが、現在は社会主義を放棄している。
フン・セン政権は、自らを「経済政権」と名付け、国際社会からの援助をテ
コに経済発展に力を入れ、平和直後に200ドルだった1人当たり国内総生産
(GDP)は、2004年に320ドルにまで増えた。
103
しかし、政治安定を名目に、野党サム・レンシー党や人権団体への弾圧を強
化し、その独裁的手法が批判を浴びている。
(4)ポル・ポト派国際法廷についてであるが、1975年から79年まで、
カンボジアを支配したポル・ポト派(クメール・ルージュ)政権は、200万
人近い国民を虐殺や飢餓によって殺したとされ、その幹部を人道に対する罪な
どで裁くための特別法廷で、国連が1999年に設置を勧告し、アメリカが後
押しした。
国連は国際法廷の設置を求めたが、カンボジアのフン・セン首相は、国家主
権を盾に国内法廷を主張した。
妥協案として、過半数のカンボジア人と外国人の合議制の国内法廷とするこ
とで落ち着いた。カンボジア国会は2004年10月に法廷設置を最終承認し、
2006年6月には裁判官と検察官の宣誓式が行われた。刑期は5年から終身
刑である。審理は2007年からの見通しだが、すでに最高指導者のポル・ポ
ト首相ら元幹部お多くは死亡ないし高齢化しており、どこまで罪状を裁けるか
は不明である。
(5)この裁判は、人権は国家主権を超える普遍的価値であり、国際社会の人
道的介入は内政干渉にあたらないとする冷戦後の欧米の主張を反映したものだ
が、ポト派の後ろ盾だった中国は、「虐殺は国内問題」として反対している。
104
第十章
南米・中米の領土紛争
(巨大国家ブラジルの誕生の秘密)
(1) ブラジルは、世界第 5 位の面積を持っている。その面積は、南米の半分を占めて
いる。また、南米のほとんどの諸国は、主にスペイン語を話すが、ブラジルだけは、ポ
ルトガル語である。
西欧諸国が南米に進出したのは、コロンブスがアメリカに到着してからのことである。
コロンブスは、もともとジェノバ出身のイタリア人であるが、スペイン女王イサベルの援
助を受け、インド航路開拓の航海に出発した。結局、コロンブスは、インド航路を開拓
することはできなかったが、代わりにアメリカ大陸発見の報をもたらした。足がかりを得
たスペインは、いち早くアメリカ大陸に進出、一躍、大航海時代の主役に躍り出た。
そこに待ったをかけたのが、ポルトガルだった。ポルトガルはスペインと並び立つ16
世紀に始まった大航海時代の雄であり、アメリカがスペインに独り占めされるのは面白
くないので、ローマ教皇に働きかけ、「アメリカ大陸は、スペインとポルトガルの2国で半
分ずつ分けよ。」という命令を出させた。
(2)大航海時代は隆盛を誇ったスペイン、ポルトガルであったが、近代になってからは
だんだんふるわなくなり、特に産業革命以降は、完全にイギリス、フランスにおくれを取
るようになっていった。
18世紀、まず北アメリカでイギリスとフランスによる植民地の奪い合いが起こる。メキ
シコだけがなんとかスペインの領土として持ちこたえていたが、19世紀までには他の
地域はほぼイギリスとフランスの手に渡ってしまった。そして時代は下り19世紀初頭、
ヨーロッパで大変な戦乱が起こり、ナポレオンが登場し、1807年、ナポレオンはポルト
105
ガルに侵攻、ポルトガルの王室は、まだ植民地として持っていた、南米のブラジルに逃
げ込んだ。ポルトガルの王室は、ナポレオンが敗れる1821年までブラジルに滞在した。
そして国王ジョアン6世はポルトガルに戻るとき、皇太子のドン・ペドロを摂政としてブラ
ジルに残していった。
(3)この皇太子のドン・ペドロが、翌1822年、ブラジルを独立させてしまうのである。こ
の要因は、ドン・ペドロがポルトガルの植民政策に反発した、ともいわれるが、ブラジル
をポルトガルから切り離し、利権を得ようとしたイギリスの入れ智恵もあったようで、ポル
トガルとしても、皇太子の国に攻め込むわけにもいかないし、もはや遠くの南米に軍を
派遣する力もなく、このためブラジルは大した戦乱もなく独立できたわけである。その
後、ブラジルは、1889年の革命で共和制に移行した。
(4)ブラジルは、植民地から共和制国家になるまで手際よくソフトランディングしたため
に、分裂せずにあのような広大な国ができたわけで、これがブラジルが南米にあって
広大な国土を持つ秘密なのである。
しかし、スペインの植民地はそうはいかず、スペインの植民地では、各地のボスが独
立を目指して闘争をしたため、植民地全体が1つの国を作るようなことにはならず、
三々五々独立することとなり、その結果、南米のスペイン側の植民地は、細切れ状態
になり多くの国が生まれたのである。
(フォークランド紛争)
(1)概括的に述べれば、フォークランド紛争とは、1982年4月から6月
まで、南米ホーン岬の北東770キロにあるフォークランド(アルゼンチン名
マルビナス)諸島の領有をめぐってイギリスとアルゼンチン両国間で行われた
武力紛争である。同諸島はほとんどが不毛の地であるが、石油資源や南極の領
106
有問題にかかわるため、両国は1960年代よりその領有をめぐって対立して
いた。1982年4月アルゼンチンが同諸島を軍事占領したのを契機に両国間
で戦闘が発生したが、同82年6月にイギリス軍が奪回して戦争は終結した。
終戦後の交渉は難航したが、1990年両国は国交を回復した。
(ただし、領有
問題は未解決)
(2)フォークランド諸島は、南米大陸南端から500㎞沖合いの大西洋に位
置している。
フォークランド諸島は、東西の主要2島と多数の小島からなる。すなわち、
東フォークランド島と西フォークランド島に、200余りの小島で構成された、
面積12,000平方キロ程度の諸島である。
このフォークランドは、1600年にオランダ人が発見したという説と15
02年にアメリゴ・ベスピッチが発見したという説がある。アルゼンチンは後
者を支持し、イギリスは1592年にイギリス人が見つけたと主張する。
(3)19世紀にイギリス艦隊が実力でこの島を奪い取った。フォークランド
紛争とは、近代国家たる英国とアルゼンチンが南米の最南端のフォークランド
諸島を巡って争った短期間の戦争のことを言う。
アルゼンチンは最初直接交渉で、第二次世界大戦後は国連を通じた交渉で穏
健策をとっていた。
しかし、1976年にイサベル・ペロンを追放して誕生したホルヘ・ラファ
エル・ビデラ将軍の軍事政権は、それまでよりも弾圧の姿勢を強めていった。
107
軍事政権は、しばしばフォークランド諸島に対する軍事行動をちらつかせては
いたものの、実際に行動を起こすまでには至らなかった。しかし、軍事政権を
引き継いだレオポルド・ガルチェリ大統領は、民衆の不満をそらすために、フ
ォークランド諸島問題を煽ることで、国内の反体制的な不満の矛先をそらせよ
うとした。
(4)イギリスが大戦後に手放さずに済んだ海外領土の一つであるフォークラ
ンド諸島は、島自体の価値は相対的に低かったものの、イギリスにとってフォ
ークランド諸島は南大西洋における戦略拠点として非常に重要な位置を占めて
いた。パナマ運河閉鎖に備えてホーン岬周りの航路を維持するのに補給基地と
して必要であった上、南極における資源開発の可能性が指摘され始めてから前
哨基地としても価値がにわかに高まっていた。
(5)保守党はエドワード・ヒースが政権を握っていた頃に、当時の国務大臣
であるニック・ヒドリーによって提案された「引き続いてイギリスが統治する
が、主権はアルゼンチンに移譲する」というリースバック案があったものの、
フォークランド諸島の住民の意向に沿ったものではなかったため下院で不採用
が決議された。これと国際連合憲章に則った自決の原則を理由に、1979年
にイギリス首相へ就任したマーガレット・サッチャーはあくまでフォークラン
ド諸島住民の帰属選択を絶対条件にしていた。
(6)1982年3月31日、アルゼンチンのガルチェリ大統領が正規軍を動
かし始めた。そして、4月1日にイギリスのサッチャー首相は、閣議を招集し
108
て機動部隊の編成命じた。しかし翌2日にはアルゼンチンの陸軍4000名が
フォークランド諸島に上陸、同島を制圧したことで武力紛争化した。
これに対し、サッチャー首相は直ちにアルゼンチンとの国交断絶を通告した。
4月2日に下院で機動部隊派遣の承諾を受け、5日には早くも航空母艦2隻を
中核とする第一陣が出撃した。25日にはフォークランド諸島に続いて占領さ
れていたサウス・ジョージア島に逆上陸、同島におけるアルゼンチン陸軍の軍
備が手薄だったこともあり即日奪還した。
(7)その後、イギリス軍は地力に勝る陸軍、空軍力と、アメリカや EC 及び NATO
諸国の支援を受けた情報力をもって、アルゼンチンの戦力を徐々に削っていき、
6月7日にはフォークランド諸島に地上部隊を上陸させた。同諸島最大の都市
である東フォークランド島のポート・スタンレーを包囲し、14日にはアルゼ
ンチン軍が正式に降伏、戦闘は終結した。
(ペルー反政府運動)
(1)ペルーは、面積約129万平方キロメートル(日本の約3,4倍)、人
口28,4百万人、首都はリマで、民族は、先住民が多く47%、混血 40%、
欧州系 12%、東洋系等 1%となっており、言語はスペイン語、宗教はカトリッ
ク教(89%)である。ペルーの主要産業は、製造業、農牧業、鉱業、水産業
である。
(2)ペルーの政治体制は、立憲共和制で、元首は大統領、議会は一院制(1
20名)、首相となっている。
109
(3)ペルーは、1821年にスペインから独立、1980年に民政移管され、
1985∼1990年までガルシア政権で、深刻化した経済危機やテロ問題が
あった。ペルーには、前政権時代から、テロ組織であるトゥパク・アマル革命
運動(MRTA)とセンデロ・ルミノソ(輝く道)という反政府左翼組織が存在し
ていた。しかし、フジモリ政権は前政権で行われていたこれら組織との交渉を
即時中止し、テロ組織として根絶する事を発表した。
(4)これに対して MRTA は1992年、フジモリ政権を支援する日本大使館を
爆破、続く1996年にはペルー、リマにある日本大使館を襲撃し、14名の
MRTA 実行グループが日本大使他政府要人、関係者71人を人質に大使館を占拠
した。4ヶ月に及ぶ交渉は進展を見せず、1997年4月にペルー政府は特殊
部隊を突入させ実行犯全員を射殺。人質 1 人に死者を出したが残りは無事救助
され事態は終息した。そして、テロ問題は、沈静化した。
(5)フジモリ政権は、1990年から2000年まで、3期にわたって付い
たが、3期目の途中に政権は崩壊し退陣した。2000年11月、暫定政権を
経て、2001年、トレド政権が発足した。
(コロンビアの反政府運動)
(1)外務省の公表資料によれば、コロンビア共和国は、面積は1,139,
000平方キロメートルと日本の約 3 倍で、人口は、45,6百万人、首都は
ボゴタで、民族は、混血75%、ヨーロッパ系20%、アフリカ系4%、先住
民1%となっており、言語は、スペイン語で、宗教はカトリックである。
110
(2)コロンビア共和国の略史をたどれば、1810年に独立を宣言、181
9年にグラン・コロンビア共和国が成立、1885年にコロンビア共和国と改
称、1903年パナマが分離独立した。
(3)政治体制は、立憲共和制で、元首は大統領で、任期は4年である。首相
職は無い。議会は、二院制で、上院102、下院166議席、任期は4年とな
っている。
(4)コロンビアは憲政100年を誇る民主国家であり、二大政党(保守党・
自由党)による民主体制が継続してきた。
19世紀の中頃から、コロンビアでは自由党と保守党による議会政治が行わ
れてきたが、しかし、その実質は、民主政治とはかけ離れたものであり、大地
主、教会、資本家などというブルジョワ層を支持する政治組織以外は排除され
ており、農民をはじめとしたコロンビア一般市民は非常に貧しい生活を強いら
れてきたと言われている。
このことが、以下に述べるように、コロンビアに、コロンビア革命軍(FARC、
約 1 万人)及び国民解放軍
(ELN、約 5,000 人)等の非合法武装勢力の存在を許し、
、
これらの非合法武装勢力が40年に亘り政府、治安当局、外国人に対して、政
治目的のテロや資金調達のための誘拐等を行ってきたのであると言われている。
そして、その活動資金は麻薬取引にて調達しているなど、治安に対する脅威と
なっている。コロンビアにおいては、かかる非合法武装勢力の解体と右の平和
的な社会復帰が歴代政権の主要懸案事項である。
(5)ウリベ大統領は、2002年5月の大統領選挙において、テロに対して
111
強硬的な政策を掲げ、第一回投票で過半数を獲得し当選した。ウリベ大統領は、
国軍強化及び軍事・治安政策の強化による強硬策を採用し左翼ゲリラ勢力等へ
の圧力を強め、その勢力の弱体化を図りつつも、ゲリラ側との交渉の可能性を
模索してきている。
ウリベ大統領は治安対策に力を入れており、誘拐事件の減少、幹線道路の安
全確保等一定の成果を挙げてきている。これら治安面の成果もあり、就任以来、
大統領に対する支持率は 7∼8 割にも及んでおり、歴代大統領の中でも高支持率
を誇っている。国民からの高い支持を背景に、ウリベ大統領は2006年5月
の大統領選挙で再選を果たした。
(6)非合法武装勢力の解体に向けた動きに関しては対 FARC、対 ELN 共に目立
った進展は見られない。他方、2005年2月以降テロ活動を激化させてきて
いる FARC は、FARC が拘束している仏等外国籍を含む人質の解放を切り札に、チ
ャベス・ベネズエラ大統領の仲介や国際社会の声を利用しつつ、強硬なウリベ
大統領に対し、交渉を持ちかけている。しかし、今年になって FARC の最高司令
官及び幹部が相次いで死去、殺害されるなど、FARC 自身の弱体化が露呈してき
ており、今後の FARC の動向およびウリベ政権の対 FARC 政策に注目が集まって
いる。本年7月、コロンビア国軍は、
FARC にとらえられていた人質の内 15 名
(内、
仏等外国籍の人質4名を含む)の救出に成功、今後の FARC の動きが注目されて
いる。
ELN に関しては、キューバにて直接対話を実施(2005年12月、2006
年2月、同年4月、同年19月及び2006年2月)してきたが、現在進展は
見られていない。
112
(7)ウリベ政権は前政権が策定したコロンビア開発計画である「プラン・コ
ロンビア」を継承、本年初頭には今後6年間を対象とした「第二プラン・コロ
ンビア」を策定し、国際社会に対し支援を要請している。また2007年11
月末に「対コロンビア支援ボゴタ会合」を開催、国際社会に対しコロンビアの
和平プロセスへの取り組みへの支援を要請した。
(8)歴代政権は、米国との協調を優先しつつ、近隣アンデス諸国との友好関
係を維持、さらに日本を始めアジア・太平洋諸国との交流強化することを外交
政策の基本方針としている。
テロ対策に主眼を置くウリベ政権は、主要な軍事援助供与国である米国が、
2001年の同時多発テロ事件以降テロ取締を強化したことで、テロ撲滅にお
ける同盟国として親米路線を一層強めている。イラク戦争に際しては、中南米
諸国としては最初に米軍の行動に対する公式の支持を表明した。中南米近隣諸
国ともテロ・麻薬対策をベースに、国境監視、国境地域共同開発等での協力を
模索している。
(9)軍事力は、予算は、51億ドル(2007年)で、兵役は18∼28歳
までの男子:12∼24ヶ月間(義務制)で、兵力は、254,259人(陸
軍216,912人、海軍27,605人、空軍9,773人)となっている。
(10)また、主要産業は、農業(コーヒー、バナナ、砂糖キビ、じゃがいも、
米、熱帯果実等)、鉱業(石油、石炭、金、エメラルド等)となっており、GDP
は、1、720億ドル(2007年)で、1人あたり、GDP は、3,918ドル
113
(2007年)である。2007年の失業率は13%である。なお、通貨は、
ペソであり。
(11)経済の概況であるが、コロンビアは、1980年代の中南米債務危機
にも唯一債務繰延をせず、一貫してプラス成長を記録し、堅実な経済運営、良
好なパフォーマンスを誇ってきた。1999年には1932年以来のマイナス
成長を記録したが、2000年以降は持ち直し、継続的に成長を続けている。
主要輸出品目は、コーヒー(生産規模世界第3位)切り花(カーネーション及
びバラの生産は世界第一の規模)等である。また、コロンビアは天然資源にも
恵まれ、石油、石炭(南米最大の埋蔵量:約66億トン)
、金、エメラルド(産
出規模世界一)等が採掘されている。
貿易政策面では、コロンビアにとり、輸出入ともに最大の貿易相手国である米
国との自由貿易協定(FTA)交渉を最優先課題とし、2004年5月、他のアン
デス諸国(ベネズエラを除く。ボリビアはオブザーバー)とともに米国との交
渉を開始。2006年11月、コロンビア−米 FTA 署名、2007年6月にコ
ロンビア議会で批准したが、2007年12月現在、米国議会の承認待ちであ
る。
コロンビアは、アンデス共同体(CAN)の加盟国、メルコスールの準加盟国で、
また、メキシコと構成する G2及び CAN 諸国との間で自由貿易地域を形成してい
る他、中米3カ国(エルサルバドル、グアテマラ、ホンジュラス)との間でも、
114
2007年、FTA を署名した。更に、カナダ及び EFTA と FTA を合意済み。投資
保護協定(BIT)は、英国、ペルー、スペインとの間で発効済みである。
(12)2007年9月10日、コロンビア政府は10日同国最大のコカイン
密輸組織「ノルテデルバジェ」の最高幹部、ディエゴ・モントヤ容疑者を同
国西部で逮捕したと発表した。
コロンビアは世界最大のコカイン生産地で、「麻薬王」と呼ばれた密輸組織
メデジン・カルテルのエスコバル最高幹部を、治安部隊が1993年に射殺し
て以来の麻薬対策での大きな成果という。
米連邦捜査局(FBI)は、国際テロ組織幹部並みの重要容疑者として、5
00万ドル(約5億7000万円)の懸賞金をかけて行方を追っていた。コロ
ンビア政府は近くモントヤ容疑者を米国へ引き渡す方針である。
ノルテデルバジェは、90年代後半にメデジン、カリの2大カルテルが衰退
した後に台頭した組織で、同日記者会見したサントス国防相によると、コロン
ビアから欧米に密輸される麻薬の7割を扱うほか、これまでに抗争などで、約
1500人を殺害した疑いが持たれている。
コロンビアでは、依然として、各地にコカイン、ヘロイン等の麻薬栽培地が
多数存在し、同地には、コロンビア革命軍(FARC)や国民解放軍(ELN)や右
翼非合法武装集団(パラミリタリー)の戦線基地が多数存在している。
(13)そして、FARC や ELN といった左翼ゲリラとパラミリタリーとの間や、
これらと治安当局との間での武力を用いた対立があるなど複雑な状況にある。
2002年に就任したウリベ大統領は、FARC 等の非合法武装勢力に対して強
115
硬姿勢をとり、治安要員の増強、軍による治安回復作戦等を展開し、最近の治
安情勢は改善傾向にある。しかし、一部地域においては軍と FARC の激しい交戦
が続いている。FARC 等非合法武装勢力の勢力は低下しているとの見方もあるが、
その勢力は未だ健在であり、各地でテロ・誘拐活動等を行っている。
また、コロンビアでは毎年多数の爆弾テロ事件が発生している
政府と FARC は、和平交渉を行っていたが、2002年2月に和平交渉が決裂
し、政府による治安回復作戦が展開されている。以前に比べて FARC の支配力は
弱まってきているとの見方はあるが、未だその勢力は健在であ、爆弾テロ事件、
橋梁や送電線の爆破等インフラ設備の破壊活動、誘拐事件が散発的に発生して
いる。
(14)コロンビアの武装勢力の概要は次に通りである。
1
FARC(コロンビア革命軍)
コロンビアにおいて、最大の勢力を誇る左翼武装勢力 FARC(コロンビア
革命軍)は、以前に比べてその勢力は低下したとの見方があるが、未だ各
地において爆弾テロ、誘拐等凶悪な事件を引き起こしています。最近の主
な動きとしては、巡回中の軍の部隊に対する襲撃、警察署に対する爆弾テ
ロ等、治安当局に対する攻撃を行っています。また、ボゴタ市等都市部に
おいても爆弾テロ事件を引き起こしており、2004 年末には新交通システム
「トランス・ミレニオ」(路線バス)を狙った爆弾テロを連続して引き起
こした。
116
2
ELN(国民解放軍)
コロンビアの主要な左翼武装勢力の一つである ELN(国民解放軍)は、以
前に比べると軍事力が低下しているものの、未だ各地域において政府軍、
他の非合法組織と戦闘を展開している。また、ELN の犯罪として多いの
は不特定多数の人を狙った偽装検問(偽警官・軍の兵員等による検問)に
よる集団誘拐であり、各地において実行している。また、政府との間で、
和平に向けた交渉の準備をしているものの、現在のところ大きな進展は見
られておらず、FARC 同様コロンビアでの脅威となっている。
3
右翼非合法武装集団(パラミリタリー)
国内各地で、主に FARC と戦闘を行っている他、市町村への襲撃等を行っ
ている。2004年、政府との間で武装放棄に関する交渉が開始され、多
数のグループが武装放棄を行い、今後も幾つかのグループが武装放棄を行
う予定である。しかしながら、和平の交渉に参加していないグループは、
引き続き、襲撃、誘拐等凶悪事件を引き起こしている。
(アメリカとパナマ運河の建設)
(1)南米のコロンビアは、前記コロンビア反政府運動の項で、述べた通り、
1810年に独立を宣言したが、当時、パナマはパナマ州として、大コロンビ
アの一部であった。そして1819年に、コロンビアは、パナマ州を含んだ形
で、グラン・コロンビア共和国となった。1885年にコロンビア共和国と改
称、そして、1903年にコロンビア共和国からパナマが分離独立した。
(2)「地図で読む世界情勢」(ジャン・クリストフ・ビクトル著・鳥取絹子
117
訳)によれば、アメリカは、独立直後のパナマと締結した条約に基づき、19
03年より世界中から集めた労働力を大量に投入して運河建設を継続し、10
年の歳月をかけて1914年に開通させ、これを完成した。
(3)上記のとおり、パナマ運河が中央アメリカ地峡の最も狭い部分に開削さ
れたのは20世紀初頭で、大西洋と太平洋を結ぶ航路を開くためだった。この
運河はパナマ共和国の領土内にもかかわらず、100年近くもアメリカ合衆国
の主権下にあり、国を真ん中で分断していたことから、パナマの人たちには「傷」
のように思われていた。返還条約は、1977年に調印された。
(4)アメリカは、上記返還条約に調印ておきながら、運河の監督権を保持続
けた。そこには、アメリカ海軍の優先通行権と、万が一、運河の安全や機能が
内外から脅かされた場合の「介入権」が含まれる。
(5)しかし、アメリカは、アメリカの後ろ盾でパナマ軍最高司令官に就任し
たノリエガが、その後、アメリカ政府の期待を裏切るよう行動にでたので、1
989年12月20日午前0時45分、アメリカの武装ヘリ部隊がパナマ市内
6ヶ所に対し爆撃を開始し、パナマに侵攻した。アメリカ合衆国ブッシュ政権
は、パナマのノリエガ将軍を、麻薬密輸の容疑で逮捕するという名目であった。
アメリカの兵力は、パナマに駐留していた南方軍、本土降下部隊など24,
500名であり、20日未明にパナマ国内27カ所を同時に攻撃し、パナマ市
街では市街戦となり、3日間の戦闘となった。最大の攻撃目標は、パナマ国防
軍本部であった。ノリエガ将軍は投降した後、米本国で裁判され1992年「麻
薬密売」の罪により40年の拘禁判決を受け、現在もアメリカ合衆国フロリダ
118
で服役中である。
侵攻と同時に野党のエンダラが、米軍基地において大統領就任を宣言した。
なお、パナマは1994年に軍隊を廃止し、警察力だけになっている。
(6)正式な返還が決まった1999年7月、それまでパナマに置かれていた
アメリカ南方軍の総司令部は、プエルトリコとマイアミに移転した。以降、エ
クアドルのマンタ空軍基地と、オランダ領アンティル諸島のアルバ島空軍基地
が、隣国コロンビアで暗躍する麻薬密売者たちを空から監視する役に当たって
いる。
(7)パナマにとって1999年の返還は、スペイン、コロンビア、アメリカ
と続いた監視を離れ、国として大人になる通過点のようなものであった。
長らくアメリカによる管理が続いてきたが、1999年12月31日正午を
もって、パナマ運河は、パナマに完全返還された。現在はパナマ運河庁(ACP)
が管理している。
(8)パナマにとって、運河の返還は政治的な解放と同時に、経済的な賭も意
味している。この小国は、二つの大洋に面する地の利を生かして、ラテン・ア
メリカ全体に商品を配分するプラットフォームに変身する道を探っている。1
999年までの通行船舶(年平均1万4000隻)は、目的地がコロン・フリ
ーゾン(パナマ運河の大西洋側にある自由貿易地域)以外は、寄港も上陸もせ
ず通過するだけだった。運河の両端にある港、クルストバルとバルボアは、ア
メリカ合衆国の管理下にあり、アメリカはもっと北に位置する自国の港との競
合を避けるため、2港の開発を抑えていた。
119
(9)しかし、返還調印後の1995年からは、大西洋側に初めて民営の港が
開港できるようになり、年80万個以上のコンテナを受け入れられることにな
った。さらに96年には香港の会社がバルボア港とクルストバル港の運営権を
取得、97年には台湾の会社がコロン・フリーゾン近くのコンテナ港の運営権
を入手している。ここで知っておかなければいけないのは、中国がアメリカと
日本に次いで3番目の運河使用国ということだろう。
(10)運河は現在、この地域で最大の経済源であり、収益は国の収入の10%
を占めている。ちなみに2003年度は開通90年で最高の収益を上げている。
ところが、運河は現在、ほとんど飽和状態である。船舶が大型化したうえ、交
通量も、とくに中国を行き来する量が増えていることから、拡大の必要性が出
てきている。そこで、総工費が70∼90億ドルにのぼると言われる新しい閘
門の増設が問題になっているのだが、南アメリカ大陸の周囲をまわる海上ルー
トとの競合もあって、投資分に見合う採算をとるのに充分な高い通行料を設定
できないのが悩みとなっている。
(11)全長80キロの運河を通過するのに、ほぼ8,9時間を要し、入り口
に入るまでに平均12時間は待たなければならない。大西洋側から入る船舶は、
ガトウン閘門を通って26メートル上の人造湖、ガトウン湖に誘導される。そ
れから運河の中心にある村ガンボアまで進み、ケイラード・カット(水路)を
通過したあと、ペデロ・ミゲル閘門を通って10メートル降下し、さらにミラ
フローレンス閘門を通ってようやく16メートル下の太平洋と同じ水位になる。
通行料は、運搬される容積1トン当たり約26ドル、1隻平均は約3万500
0ユーロで、ホーン岬をまわるのと比べて10分の1である。
120
(アメリカのグレナダ侵攻)
(1)アメリカのグレナダ侵攻とは、1983年にカリブ海に浮かぶ島国グレ
ナダでクーデタが起きた際、アメリカ軍およびカリブ海の諸国軍が侵攻した事
件である。
(2)イギリスの植民地であったグレナダは1975年に独立した。当時、首
相だったエリック・ゲーリーとその一族は組織化したギャングによる敵対派へ
の厳しい対応で知られており、外国資本と癒着し、独裁を強め失業と貧困が広
がり深刻化していった。
これに対し福祉や教育や自由の共同努力を掲げる「ニュー・ジュエル運動」
を中心としたクーデタが1979年に起こり、これによりゲーリー政権は軍・
秘密警察と共に崩壊した。そして、新たにモーリス・ビショップが首相に就任
し、ビショップ首相は人民革命政府を樹立した。ビショップ首相らの人民革命
政府は、商工会議所など国内各諸層の幅広い支持を受け、医療や教育や観光事
業の近代化に着手していった。非同盟・中立を掲げアメリカが経済封鎖をしてい
るキューバとも友好を築き、キューバとの関係を強化していった。アメリカは
こうしたビショップ政権を敵視するようになる。
(3)1981年に就任したレーガン米大統領は「強いアメリカ」を自負し、
就任直後からグレナダ侵攻を想定した軍事演習をプエルトリコのビエケス島で
行うなど圧迫を強めていった。
121
1983年10月に政権内でクーデターが起こり、ビショップらが処刑され、
ハドソン・オースティンを首班とする革命軍事評議会が設立されるとアメリカ
はこの混乱に乗じ、ソ連・キューバによるグレナダへの共産主義の影響を止め
るため、武力介入を決断した。在グレナダアメリカ人の安全確保を理由にし、
セントクリストファー・ネイビス、アンティグア・バーブーダ、ドミニカ国、
セントルシア、セントビンセント・グレナディーン諸島、バルバドスといった
グレナダ侵攻を支持したグレナダ付近のカリブ海6カ国も共同出兵している。
グレナダにレンジャー部隊、特殊部隊、海兵隊など6,000人以上の部隊を
送り戦闘の末に政府を打倒した。この作戦は『アージェント・フュリー<押さ
えきれぬ怒り>)作戦』と命名された。
(4)10月25日午前5時に開始されたグレナダへの侵攻は、アメリカにと
ってベトナム戦争以来初の大規模な軍事行動となった。戦闘は数日間続き、ア
メリカ兵7千人、カリブ海諸国から300人が投入され、グレナダ兵1500
人およびキューバ人700人余り(ほとんどは建設労働者で、高度な軍事訓練を
受けていた)と交戦した。このほか、グレナダ国内にソビエト連邦、北朝鮮、東
ドイツ、ブルガリア、リビアから来た60人ほどの顧問がいた。アメリカ軍は
19人が死亡、116人が負傷し、グレナダ側では兵士45人、民間人は少な
くとも24人が死亡し、兵士358人が負傷した。また、キューバ人は24人
が死亡、59人が負傷し638人が捕虜になった。
一方でグレナダを支援していたキューバから派遣されていた700人余りの
技術者や労働者、軍事顧問が戦闘に参加し、アメリカ軍に対しポイント・サリ
122
ンス国際空港などで抵抗を行った。またインドから200人、中華人民共和国
から82人の歩兵が戦闘に参加している。
(5)島は侵攻から 1 ヶ月ほど経過した12月15日に完全に制圧され、島内
にいたキューバや北朝鮮、リビア、東ドイツ、ブルガリアの国籍を持つ人々は
軟禁を受けた。
アメリカ軍にとって本格的な武力侵攻はベトナム戦争以来であったが、この侵
攻作戦の成功によって自信を回復した。しかし翌年にレバノン内戦の介入に失
敗し、その後レーガン大統領在任中に大規模な軍事的な活動は行えなかった。
(ガテマラ反政府運動)
(1)グアテマラ共和国、通称グアテマラは、中央アメリカ北部に位置する共
和制国家である。北にメキシコ、北東にベリーズ、東にホンジュラス、南東に
エル・サルバドルと国境を接しており、北東はカリブ海に、南は太平洋に面し
ている。首都はグアテマラ市である。
市民の過半数はマヤ系の先住民族で、中米で最も人口の多い国である。白人
系住民は植民地時代以来からのスペイン人の子孫が最も多いが、19 世紀にプラ
ンテーション農業のために、スペイン以外のヨーロッパから移民が導入された。
宗教は、国民の 3 人に 2 人がローマ・カトリック教徒で最も多い。
グアテマラ建国以後の歴史は、革命、クーデタ、非民主主義政権、特にアメ
リカ合衆国からのさまざまな内政干渉に彩られている。
123
(2)1944年から1954年まではグアテマラの春と呼ばれ、かつてない
ほど自由な空気の下に、各種の民主的な社会改革が進められた。
ハコボ・アルベンスはポピュリズム的政治家として土地改革などの政策を行っ
たが、これは次第にアメリカ合衆国がグアテマラの共産主義化とのネガティブ
キャンペーンを張らせることになり、土地改革がユナイテッド・フルーツ社の
社有地に適用されることになると、アメリカ合衆国の怒りは頂点に達した。反
アルベンス派傭兵軍がエル・サルバドルから侵攻すると、軍の上層部はアルベ
ンスを見捨てアルベンスは亡命し、グアテマラの春は終わりを告げた。
(3)CIA はグアテマラ社会の広い支援を得て、1954年、政府転覆作戦を実
行し、独裁的な親米政権が生まれたが、これはグアテマラ国家に社会不安の時
代をもたらした。1960年からグアテマラ内戦が始まり、36年間にわたる
ゲリラとグアテマラ政府の戦争は、1996年に平和条約の調印によって終わ
った。
内戦によって25万人が犠牲になったグアテマラでは、一般の犯罪や暴力団
による殺人で、2006年には6,000人が死亡している。
(4)グアテマラはエル・サルバドルと並んで中米では経済的に中位の国であ
る。国民総生産の4分の 1 を農業が占める。農業は輸出の3分の2占め、また
労働人口の半分が従事する。主要産品は、コーヒ、砂糖、バナナである。工業・
建設は国民総生産の5分の 1 を占めている。グアテマラ経済はパナマを含めた
中米諸国(約4,000万人)のうちの3割を占める。
但し、中米諸国は、
所得水準で、①パナマ、コスタ・リカ、②グアテマラ、エル・サルバドル、
124
③ニカラグア、ホンジュラスと三段階に別れ、その所得水準はいずれも先進国
には遅れを取っている。国内の製造業が未発達であることから、高付加価値の
製品製造がままならず、サービス産業の拡大が近年の傾向である。2000年
以降、世界的な金利低下の恩恵をうけ、国内のクレジットサービス及び貸付が
拡大の一歩を辿っている。
2002年時点の原油生産量は115万トン、天然ガスは0,43千兆ジュー
ルにとどまっているが、これは油田・炭田が未開発なためだ。金属鉱物資源は
金、鉄、ニッケルが中核であるが、鉄は 1 万トン、ニッケルはほとんど採掘さ
れておらず、金のみが4,5トンという高い水準に達している。
(エルサルバドル内戦)
(1)エルサルバドル共和国は、中央アメリカ中部に位置するラテン・アメリ
カの共和制国家である。北西にガテマラ、北と東にホンジュラスと国境を接し
ており、南と西は太平洋に面している。首都はサンサルバドルで、カリブ海諸
国以外の米州大陸部全体で最小の国家であるが、伝統的に国土の開発が進んで
いたこともあって、人口密度では米州最高である。
大統領を元首とする共和制国家であり、行政権は大統領に属する。大統領は政
府首班と国家元首を兼ねる。
(2)エルサルバドルでは、1907 年からメレンデス一族の独裁が始まると、一
時安定したが、世界恐慌で主要産業のコーヒーが打撃を受け世情は不安定とな
った。
125
経済危機の混乱のなか、1931年にマクシミリアーノ・エルナンデス・マ
ルティネスがクーデターでメレンデス一族から政権を掌握し、専制体制を敷い
た。その間激しい言論弾圧が行われ、反独裁運動を始めようとしていたファラ
ブンド・マルティをはじめとする共産党員や、西部のマヤ系ピピル族などおよ
そ3万人が虐殺された。第二次世界大戦では親米派として連合国の一員に加わ
るが、1944年にはクーデターがおきマルティネス独裁は崩壊した。しかし、
その後も政情は不安定でクーデターによる政権交代が相次いだ。
そうした中で1951年には「サン・サルバドル憲章」が中米 5 カ国によっ
て採択された。エル・サルバドルは1960年に発足した中米共同市場により
最も恩恵を受けた国となり、域内での有力国となった。こうして1966年に
ようやく大統領選挙によってエルナンデス政権が発足するなどの安定を見せた
が、1969年には「サン・サルバドル憲章」以後も国境紛争や農業移民や経
済摩擦など多くの問題を抱えて不和だったホンジュラスとサッカーの試合を原
因にサッカー戦争が勃発してしまう。
(3)ホンジュラスとの戦争後、30万人にも上るエル・サルバドル移民がホ
ンジュラスから送還されたことなどにより経済、政治ともに一気に不安定化し、
1973年の選挙結果の捏造以降、軍部や警察をはじめとする極右勢力のテロ
が吹き荒れ、「汚い戦争」が公然と行われる中で、それまで中米一の工業国だ
ったエル・サルバドルは没落していくことになる。
126
1979年にニカラグアでサンディニスタ革命が起きるのと時期を同じくし
てロメロ政権が軍事クーデターで倒され、革命評議会による暫定政府が発足し
た。
(4)しかし、極右勢力のテロは続き、1980年には民族解放戦線 (FMLN)が
反乱を起こし、エルサルバドル内戦が勃発した。
事態の収拾のために暫定政府はアメリカ合衆国の支援を要請し、「エル・サ
ルバドル死守」を外交の命題に掲げたロナルド・レーガン合衆国大統領は、中
米紛争に強圧策を持って臨み、軍や極右民兵に大幅な梃子入れを重ねた。19
82年には政府と革命勢力の連立政権が成立したが、これも極右勢力の妨害に
よってすぐに破綻した。こうしてニカラグアの革命政権からの援助を受けてゲ
リラ活動を展開する FMLN と政府軍との内戦は泥沼化の様相を呈した。
1984年にはナポレオン・ドウアルテ大統領が政権を担い、FMLN と首脳会談
を実現した。しかし、この間政府軍・ゲリラ双方による・弾圧・虐殺・暴行が横
行した。特に政府軍のそれは半ば公然と行われたが、アメリカ政府はそれを恣
意的に無視して政府軍を支援し続けた。
(5)1989年にはクリスティアーニが大統領に選出されたが内戦は収まら
なかった。1992年にようやく国際連合の仲介で和平が実現し、1000人
からなる PKO の派遣が決定実施され、75,000人にも及ぶ死者を出したエ
ルサルバドル内戦は終結した。
127
FMLN は合法政党として再出発し、1994年には総選挙が実施され、カルデ
ロン大統領が選出される一方、FMLN が第 2 党になった。
(ドミニカ内乱)
(1)ドミニカは、カリブ海に浮かぶ島国であるが、東半分がドミニカ共和国、
西半分がハイチ共和国になっている。
第一次世界大戦時、両国の内政混乱に付け込み列強(特にドイツ帝国)が手を
伸ばすのを避けるため、アメリカ軍は1915年にはハイチに、1915年に
はドミニカ共和国に出兵して両国を占領した。両国は米軍支配下で債務を返済
し、経済基盤や政治を改善し大規模農業を導入し、有力者(カウディージョ)
の私兵や軍閥に代えて強力で統一された警察や国軍を作るが、これが後に両国
の軍部独裁の種となった。1924年の選挙でオラシオ・バラスケスが大統領
に選出され、同年 7 月にアメリカ軍は撤退した。
(2)ドミニカ共和国を白人化する構想を持っていたトルヒーヨは、1937
年、領内のハイチ人農園労働者ストに際してハイチ人の皆殺しを指示し、1 日で
17,000人から35,000人が殺された。ドミニカ共和国はハイチに7
5万ドルの賠償を払ったが、カトリック教会とエリート層に支持され、反共的
な姿勢がアメリカの支持を受けていたトルヒーヨの支配は揺るがず、当時のラ
テンアメリカで最も強固な独裁制はその後も続き、1959年には革命直後の
キューバから上陸したドミニカ人革命ゲリラ部隊を殲滅することにも成功した。
128
(3)ジョン・F・ケネディーが大統領だった1961年、ドミニカはエクト
ル・トルヒーヨ大統領の個人的な所有物と化していた。(国の富の65∼85%
が大統領の所有物だったという)この異常な状態に不安を感じたドミニカに利
権をもつアメリカの大企業は、トルヒーヨの追い落としをアメリカ政府に求め
た。そこで、ケネディーは CIA をドミニカに送り込み、トルヒーヨの側近たち
を使って暗殺を実行した。
(4)1962年、30年ぶりに大統領選挙が行われ、1963年にはドミニ
カ革命党のファン・ボッシュが大統領に就任した。
ケネディに憧れ、改革に燃える政治家として「ボッシュ憲法」と呼ばれた19
63年憲法を施行し、土地改革を含む社会改革の実践を始めようとしたが、同
年ボッシュは寡頭支配層と結びついた軍事評議会のエリアス・ウエッシン大佐
によるクーデターによって追放されてしまった。そして、その後、民主化の名
の元で選ばれたファン・ボッシュ大統領が政府の民主化を進めて行くことにな
った。
ところが、この民主化があまりに「民主的」であったため、ドミニカを経済
的に支配していた企業家にとっては、新政権はトルヒーヨ以上に邪魔になって
きた。当然のごとく、アメリカ政府の関与の下、新政権発足後わずか7ヶ月で
クーデターが勃発した。その後、軍事独裁政権が誕生するが、その悪政はトル
ヒーヨを上回るものだったため、すぐに民衆が反乱を起こし、再び、ボッシュ
政権が返り咲いた。しかし、アメリカ政府はそれを許さず、すぐに2万3千人
の軍隊を投入し、再び軍政を復活させてしまった。アメリカにとっては、反ア
129
メリカ的な民主化よりは、親米の軍事独裁国家こそが理想の体制だったわけで
ある。
(5)こうして軍事評議会に推薦された実業家のレイド・カブラルが新大統領
になり、1963年憲法を廃止し、国会を停止した。こうした反動政治は国民
の期待を大きく裏切り、ドミニカ共和国は再び不安定な状態に陥った。
しかし、1965年4月24日、立憲派(ボッシュ派)のフランシスコ・カー
マニョ大佐をはじめとする陸軍軍人が中心になり、1963年憲法の復活を求
めてクーデターを起こし、翌25日カブラル大統領を逮捕した。立憲派はボッ
シュの復帰を求めて首都サント・ドミンゴを占拠したが、地方に逃れて首都を
包囲した軍事評議会のウェッシン空軍大佐との戦いが始まった。こうしてドミ
ニカ内戦が起こり、さらに翌4月26日には、ジョンソン合衆国大統領は「合
衆国市民を保護し、ドミニカを共産主義から保護するために」アメリカ海兵隊
の投入を決定した。4月27日に立憲派は首都の市民に武器を引き渡し、抵抗
する構えを見せるが、翌28日に海兵隊が40年ぶりにドミニカに上陸。29
日にはラテンアメリカ諸国の抗議も虚しく 第82空挺師団が降下した。4月3
0日に国連の調停でガルシア・ゴドイ統一暫定政権が成立し、ブラジル軍を中
心する米州平和軍(その他にはホンジュラス軍、パラグアイ軍、ニカラグア国
家警備隊、コスタ・リカ警察隊など)が治安維持部隊として派遣され、最終的
に海兵隊は35,000人に増派され、立憲派軍を鎮圧した(パワー・バック
作戦)。こうして首都だけで4000人の死者を出してようやく内戦は終結し
た。
130
(6)翌1966年の形式的な選挙により、キリスト教社会改革党から「トル
ヒーヨの未亡人」とまで呼ばれたほどのトルヒーヨ派だったホアキン・バラゲ
ールが大統領になると、バラゲールは軍部と財界の支持を背景に強権政治を行
い、死の部隊を駆使してボッシュ派の暗殺を続け、ドミニカの政治はトルヒー
ヨ時代に逆行してしまった。
1978年から1982年まではドミニカ革命党のアントニオ・グスマンが
大統領に就任したが、財政状況は悪化を続けた。1982年から1986年ま
では サルバドール・ブランコが大統領になったが、経済状況の悪化を背景に国
際通貨基金の要請によって財政緊縮政策が進んだ。
こうした中、1986年の選挙では80歳のバラゲールが勝利し、観光業、
ニッケル、在外ドミニカ人による送金を柱にドミニカ共和国の経済は回復に向
かった。
1996年の選挙ではドミニカ解放党のレオネル・フェルナンデスが大統領
に就任した。
2000年5月の大統領選挙では社会民主主義を掲げたドミニカ革命党のラ
ファエル・イポリトが大統領に就任したが、汚職によって支持を落とした。
2004年の大統領選挙ではドミニカ解放党のレオネル・フェルナンデスが再
び勝利した。
131
第十一章
アフリカの国境紛争
(モロッコ・アルジェリア紛争)
(1)外務省公表資料によれば、モロッコは、面積44,6万平方キロメート
ル(日本の約1,2倍)、人口3,088万人(2007年
ラバトで、民族はアラブ人(65%)
世銀)、首都は
ベルベル人(30%)、言語はアラビ
ア語(公用語)、宗教はフランス語、イスラム教スンニ派がほとんどである。
政治体制は、立憲君主制で、元首は、モハメッド6世国王(1999年7月即
位)、議会は、二院制(1996年9月の憲法改正により一院制から移行)、
下院:325議席
任期5年
直接選挙、上院:270議席
任期9年
地方
議会等から選出される。政府には、首相が置かれている。
兵役は、徴兵制(18ヶ月)で、兵力は、20,08万人(陸軍
海軍
7800人、空軍
18万人、
1,3万人)予備役15万人となっている。
(2)1999年7月に即位したモハメッド 6 世国王は、基本的に前国王の政
策を継承する一方、大胆な人事刷新を行い、新体制固めを推進。また、国王は
国内外を積極的に訪問し、活発な意見交換を行い、特に国内的には貧困撲滅、
失業・雇用等の社会問題及び教育問題といった国民に軸足をおいた政策を重視。
民主化措置としては、故ハッサン2世国王時代の1996年に憲法改正により
二院制を導入し、総選挙を実施。2002年9月にはモハメッド6世国王統治
下で初めての下院選挙が行われ、その後ジェットゥ内閣が発足した。
故ハッサン 2 世国王の強権政治と情報統制によって、国内治安情勢は比較的
平穏に推移していたが、2003年5月16日、カサブランカにおいて同時爆
132
弾テロ事件が発生し、仏人3名、スペイン人3名、イタリア人3名の死者を含
む45名(うち実行犯12名)の犠牲者を出した。国内イスラム過激主義「サ
ラフィア・ジハディア」に系譜する組織のメンバーが逮捕された。2007年
3月にはカサブランカ市内のインターネット・カフェで自爆事件(市民4名が
負傷)が発生、同年4月にはカサブランカ市内で治安当局による捜査中、3人
の容疑者が自爆する事件(警察 1 名が死亡)が発生した。また、同月にはカサ
ブランカ市中心街の米国文化センター前で、2件の連続自爆テロ事件(市民 1
名が負傷)が発生した。いずれの事件も犯行声明等出されておらず、治安当局
は犯人に関する詳細を明らかにしていない。
(3)2007年9月7日、総選挙が実施された。本選挙前に躍進が予想され
ていたイスラム穏健派政党「公正と発展(PJD)」(野党第 1 党)は小幅な議席
数増加にとどまり、「独立党(PI)」(連立与党第 2 党)が第 1 党へと躍進し
た。また、これまで連立与党第 1 党であった「人民勢力国民同盟(USFP)」は、
第5党へ転落。投票率は、特にカサブランカ等都市で低迷し、過去最低の全国
平均37%を記録した。同年9月20日、モハメッド6世国王はアッバス・エ
ル・ファシ PI 党首を首相に任命し、10月15日新内閣が発足。
(4)最大の懸案は西サハラ帰属問題。国連提案の解決計画の下で予定されて
いた同地域の帰属を問う住民投票は有権者認定手続を巡るモロッコとポリサリ
オ戦線側の対立から実施の目処は立っていない。2003年 1 月にベーカー国
務事務総長個人特使が提示した「西サハラの住民の自決権に関わる和平計画」
に関し、モロッコ側は住民投票の実施は不可能として全面的に拒否した。
133
2006年12月、第2回西サハラ問題担当国王諮問評議会(CORSAS)臨時会
合において、西サハラ自治権付与案(草案)が採択され、2007年4月、同
評議会は、同案を国連に提出し、国連安保理は西サハラ問題の解決のため、当
事者(モロッコとポリサリオ戦線)に前提条件なしで交渉に入るよう要請する
ことを主旨とする決議1754を全会一致で採択。同決議に基づき、2007
年6月、国連事務総長の仲介の下、当事者(モロッコ及びポリサリオ戦線)及
び近隣国(アルジェリア、モーリタニア)の参加を得た、第 1 回直接交渉が開
催された。以後、同交渉は現在まで計4回にわたり継続的に開催されている。
(5)アフリカ北西部に位置し南欧の一角を自称するモロッコは、これまで同
様アラブ・イスラム諸国との関係強化を重視しつつ、今後とも欧米諸国を中心
として多角的な外交を行っていくものと考えられる。
親欧米路線を基調とし、アラブ連盟の一員としてアラブ諸国とも協調。アラブ
諸国の中では穏健派に属し、非同盟、柔軟且つ現実的外交政策を採っている。
(6)モロッコは、モロッコ・EU 連合協定等、特に経済面での関係強化に力を
入れている。仏は、歴史的な関わりとともに、モロッコにとって最大の貿易相
手国であり、経済・技術協力、人的交流等極めて緊密な関係を結んでいる。EU
への足がかりとして、また西サハラ問題においても、モロッコ側の主張を間接
的に支援している仏は米国とともにモロッコにとって重要な国である。
また、モロッコは、地理的・歴史的観点からは、スペインとも結びつきが強
く、特に王室間交流は活発。領土問題等で二国間関係が悪化していた時期もあ
ったが、2005年 1 月にはホアン・カルロス国王がモロッコを公式訪問する
134
など、関係正常化に向けた動きが進展している。一方、2007年11月には
スペインとモロッコとの間で領有権が争われているセウタ、メリリヤの両都市
をホアン・カルロス国王夫妻が訪問したことで、モロッコの強い反発を招き、
駐スペイン・モロッコ大使が一時的に本国に召還される事態が発生した。
対米関係については、米国の独立を正式に認めた最初の国と自負するモロッ
コは、中東問題や西サハラ問題の解決に欠かせない国として、対米政策を重視
している。
(7)1989年に発足した AMU は、外交、経済、文化、安全保障面における
域内協力促進とアラブ・イスラムの連携強化を目的とした地域経済協力機構(事
務局はモロッコの首都ラバトにある。)。モロッコの他にアルジェリア、チュ
ニジア、モーリタニア、リビアが参加。モロッコは、マグレブ諸国の結束を図
るための大マグレブ構想に積極的に関与する意向はあるものの、アルジェリア
との二国間の諸問題(西サハラ問題、アルジェリア側の国境閉鎖、査証問題)
が地域統合促進にとって障害となっており、同国との関係改善は重要な課題で
ある。
(8)一方、外務省公表資料によれば、アルジェリアは、正式国名は、アルジ
ェリア民主人民共和国、面積238万平方キロメートル(内、砂漠地帯約20
0万平方キロメートル)(アフリカ第2位)、人口は、3,349万人(20
06年、IMF)(国土の7%内に集中)、首都はアルジェで、民族はアラブ人(8
0%)、ベルベル人(19%)、その他(1%)で、言語は、アラビア語(国語、
公用語)、ベルベル語(国語)、フランス語(国民の間で広く用いられている)、
アラビア語(公用語)である。宗教は、イスラム教(スンニー派)である。政
135
治体制は、共和制で、元首は大統領、議会は、従来、一院制で、1996年1
1月の憲法改正により二院制に移行した。政府には、首相が置かれている。
兵役は、徴兵制度で、兵力は、13,75万人(2007年)である。
(9)アルジェリアでは、1992年よりイスラム原理主義過激派によるテロ
が活発化し、国内情勢は悪化している。
1995年、初の複数候補による大統領選挙で選出されたゼルーアル大統
領は、テロ対策の強化を含めた内政・治安情勢の正常化に尽力した。
一連の民主化プロセスが進められる中、1999年4月に行われた大統領
選挙でブーテフリカ大統領が選出された。ブーテフリカ大統領は、国内テロに
より悪くなったアルジェリアのイメージを改善するために、とりわけ G8等先進
諸国との外交を積極的に推進し、20001年9月11日のテロ以降、アルジ
ェリアに対する先進国のイメージも改善されてきている。
また、ブーテフリカ大統領は、2006年に実施された「平和と国民和解
のための憲章」に代表される国民和解政策、テロリストの掃討作戦等、内政・
治安情勢の安定化や、市場経済の導入による経済改革にも積極的に取り組んで
いる。
(10)
非同盟中立、アラブ連帯等の基本政策を継承しつつも、1979年の
シャドリ政権成立以来現実主義・全方位外交を基調。1988年以降は「アル
ジェリア危機」のため、外交面での目立った動きはなかったが1999年のブ
ーテフリカ大統領の誕生以降、ほぼ全ての G8諸国を訪問するなど活発な外交活
136
動を展開し、国際舞台への復帰を達成。特に、過去10年にわたる国内テロの
イメージを改善することに尽力し、「アルジェリア危機」から脱出したアルジ
ェリアの新しいイメージ定着を目指す。アフリカにおいては「アフリカ開発の
ための新パートナーシップ(NEPAD)」推進の中心的な国として活躍。2005
年にはアラブ連盟議長国を、2004∼2005年には国連安保理非常任理事
国を務めた。
(11)なお、アルジェリアは、北アフリカにおけるフランス進出の最初の犠
牲者となったといわれている。1830年6月、フランス軍は、アルジェリア
に上陸し、現地軍を撃破し、7月5日、首都アルジェ市を奪取した。また、第
一次世界大戦時、17万3千人のアルジェリア人(その内、2万5千人が戦死)
がフランス軍に動員され、12万人が、防衛作業のためにフランスに送られた。
(アルジェリア反政府運動)
(1)外務省資料によると、アルジェリアは13世紀以降、その西部は「ザイヤー
ン朝」、東部は「ハフス朝」というイスラムの王朝によって統治されていた。
しかし両王朝は16世紀に入る頃には著しく弱体化して地方都市や部族が半独
立するに至り、特に海港都市では「バルバリア海賊」と呼ばれる集団が地中海
に乗り出して暴れ回るようになった。彼らの跳梁に手を焼いたスペインが海軍
を繰り出してくると海賊側はオスマン・トルコ帝国に支援を要請、1530年
までかかってスペイン軍を追い散らすことに成功するといった具合である。そ
して、バルバリア海賊の頭目でアルジェ市に本拠を構えていたハイル・アッデ
137
ィーンが1533年にオスマン帝国首都イスタンブールに赴いて恭順を誓い、
ここにオスマン帝国の属領「アルジェ州」が成立した。オスマン帝国は150
年にはザイヤーン朝を、74年にはハフス朝をそれぞれ滅ぼしている。
(2)時代が進んで18世紀の後半になると、地中海の北側のキリスト教諸国
の海軍力が強化されてきたため、海賊稼業の収入が低下した。その埋め合わせ
としてアラブ人・ベルベル人に重税を課すと、当然のように反乱頻発である。
その中核となったのはスーフィー教団(イスラムにおいて神秘主義的な教義を
奉じる集団)であった。デイの政府は1800年から30年までかけてこれを
鎮圧してまわったが、そのせいですっかり疲弊してしまった。その間の181
6年には海賊活動に腹を立てるイギリス・オランダの連合艦隊によって海軍を
壊滅させられた。
(3)時代は下がり、当時のフランスは「七月革命」の直前である。王権神
授説の信奉者である国王シャルル10世と首相ポリニャックが言論・出版の自
由の制限といった強圧的な政治を行って民衆の総反発を受け、同年3月に行わ
れた総選挙は極端な制限選挙かつ政府による干渉が行われたにもかかわらず政
府与党143議席・反政府派274議席という結果に終わっていた。シャルル
10世が人気を取り戻す一番手っ取り早い手段は、外征である。そして狙われ
たのがつまりアルジェ州であった。
(4)フランス軍は反撃に出て来たデイの軍勢を撃破、上陸10日目にはアルジェ
市を守る要塞「皇帝の砦」を占領した。デイの軍勢は大急ぎで集めた兵員を合
わせても3万しかおらず、都市部のモール人やユダヤ人は商業上の理由からフ
138
ランス軍を歓迎、7月5日、デイはアルジェ市を明け渡して降参した。
デイが降伏したすぐ後、フランス本国にて「七月革命」が開始され、その結
果シャルル10世とその政府が倒れて新たにルイ・フィリップが即位した。ル
イ・フィリップとその政府はアルジェ州をどうすれるか未定のまま、現地は無
政府状態となってしまった。アラブ・ベルベル人は部族間の抗争を始め、さら
に隣国モロッコがこの機に乗じて領地を広げようとした。フランス軍は最初は
沿岸の都市部だけを占領していたが、やがて内陸にまで進出するようになり、
そうするとそれまで外国軍の侵略に無関心だったアラブ・ベルベル人が反抗を
開始するようになる。
(5)1832年になるとアラブ系の有力者でスーフィー教団ともつながりを
持つアブディル・カーディルという人物が非イスラム教徒(つまりフランス軍)
に対するジハード(聖戦)を宣言した。彼はシャリーフ(イスラムの開祖ムハ
ンマドの子孫)を名乗っていた。しかし彼はフランス軍だけではなく旧デイ軍
とも敵対しており、34年2月にはとりあえずフランス軍と和睦し、(フラン
スから)武器を貰った上で旧デイ軍を「マハーラズの戦い」において撃破した。
旧デイ軍の中核であったイェニチェリはオスマン本国に逃げ帰るか送還される
かした。16世紀以来のアルジェ州の「よそ者の支配」はここに終了したので
ある。ちなみにオスマン本国はこの少し前にエジプトとの戦争に敗れてアルジ
ェ州どころではなくなっていた。
(6)
しかし、アルジェ州から旧デイ勢力が消えたところで、アブディル・
カーディル軍が旧デイ軍を破った「マハーラズの戦い」の10日後の7月22
139
日、フランス本国政府はアルジェ州の併合を決定して「北アフリカ仏領総督府」
を設置し、ここに「フランス領アルジェリア」が誕生した。しかしその領域を
どこまで広げるのかをめぐって、アブディル・カーディルは翌35年にフラン
スと交渉決裂、6月28日の「ラ・マクタの戦い」でトレゼル将軍の率いるフ
ランス軍を破っている。
フランス政府は、沿岸部だけを直接支配下において内陸部は親仏派の部族長
に支配させるという構想をたてた。1837年にはアブディル・カーディルと
フランスとの休戦「タフナ協定」が成立した。
(7)しかし、ハーッジュ・アフマドの方はフランス軍からの交渉を受け入れ
ずに戦闘を続行した。この戦いはフランス軍の方が優勢で、しかもアフマドは
アブディル・カーディルとも敵対していた(アブディル・カーディルは先の「タ
フナ協定」においてはフランス軍と和睦しただけなので、別にアフマドと戦争
したって構わないのである)ことから奥地のオーレス山中へと追い込まれてし
まった。アフマドの拠点であったコンスタンティーヌを占領したフランス軍は
その地の恒久的支配を決意し、いづれはアブディル・カーディルとも再戦しな
ければならないと考えるようになった。フランス軍の支配地域には、入植希望
を募るために、本国の商売人が殺到して来て土地の買い占めを行った。移民の
数はたちまち万単位にまで膨れ上がり、最終的には100万人に達するのであ
る。
(8)1839年8月、アブディル・カーディルはジハードの再開を決意した。
同年10月、フランス軍の方が先に動き出した。アブディル・カーディル軍は
以後数ヶ月に渡りゲリラ戦を展開してフランス軍を悩ませた。そのころ首相が
140
変わったフランス本国政府は、アルジェリアの沿岸部だけを直接支配するとい
う方針を捨て、アルジェ総督としてビュジョー将軍を送り込んだ。ビュジョー
将軍は、アルジェリアの「完全征服」を目指すと宣言した。「フランス外人部
隊」はアルジェリアでの戦いの最中に創設された組織である。
ビュジョーは
10万以上の大軍団を任され、アブディル・カーディル軍を戦闘で叩くよりも
その支配地域を略奪・破壊してまわる「焦土作戦」を展開した。この効果は絶
大で、補給が続かなくなったアブディル・カーディルは隣国のモロッコに逃走
した。アブディル・カーディル軍は、モロッコ領内を「聖域」としてのフラン
スへの抵抗を継続することが可能となった訳である。
そしてアブディル・カーディル軍は、「スィーディー・ブラヒムの戦い」で
フランス軍を破る等の健闘を続けたがやがて力尽きた。現在の「アルジェリア
民主人民共和国」の国旗は対仏抵抗運動の英雄アブディル・カーディルの旗印
をモチーフにしたものであるとされている。
(西サハラ紛争)
(1)アフリカの地図の左端に、国境線が破線になっている地域がある。この
地域は西サハラと呼ばれ、アラブ人とベルベル人が住んでいる。
西サハラは、1886年からおよそ90年の間、スペインの植民地になって
いた。スペインはかって多くの植民地を持っていたが、アフリカの分割の時に
はすでに凋落していた。それでも、西サハラとモロッコの南部はなんとか領有
していた。
西サハラを挟む地域、モロッコとモーリタニアはともにフランスの植民地だ
141
ったが、モロッコは1956年、モーリタニアは1960年に相次いで独立し
た。
西欧列強のアフリカの植民地は、1950年∼に、1960年相次いで独立
したが、西サハラだけは、スペインがなかなか独立させなかった。スペイン自
体が、他の西欧諸国に比べて経済発展が遅く、植民地をなかなか手放せなかっ
た。このことが、西サハラの悲劇となる。
(2)スペインは西サハラから撤退するとき、西サハラをモーリタニアとモロ
ッコに割譲するという密約をしていた。この密約に反発した西サハラ住民は、
西サハラ民族解放戦線(ボリサリオ戦線)を結成し、独立運動を展開、モーリ
タニアとモロッコと紛争となる。
ボリサリオ戦線は、アルジェリアの支援を受け、1079年にはモーリタニ
アと和平協定を結ぶ。
しかしモロッコとの紛争は10年以上も続き、1991年、国連総長の和平
提案を受け入れようやく停戦した。国連総長の和平提案は、西サハラが独立す
るかモロッコに併合するか住民投票をするというもの。翌年国連の監視下で投
票をする予定だったが、しかし、西サハラは遊牧民が多く、有権者の特定が難
しくて延期になった。いまのところ実施の見込みは立っていない。
(3)ボリサリオ戦線は、1976年にサハラ・アラブ民主共和国の樹立を宣
言しており、現在はモーリタニアなどのアフリカ諸国や、南米の諸国などの間
で承認されている。
また、アフリカ連合(AU)にも加盟しているが、まだ国連では認められてい
ない。
142
日本をはじめ、ヨーロッパ諸国もサハラ・アラブ民主共和国を承認していな
い。
(4)上述の通り、北アフリカの西海岸沿いに位置する西サハラは、1934
年以来スペイン領としてスペイン総督の支配下に置かれてきた。モーリタニア
とモロッコに挟まれる形で存在した。
1970年にスペインが西サハラ領有権を放棄すると、隣国のモーリタニア
とモロッコが長い海岸線を狙い秘密協定を締結し、スペイン政府の了解を得て
西サハラを南北で分割統治する事となった。
(5)これに対して1973年、西サハラ地方の独立を画策する現地住民がエ
ル・ワリ書記長の下、西サハラ民族解放戦線(ポリサリオ戦線)を結成した。
ポリサリオ戦線は、サハラ・アラブ民主共和国(SADR)を樹立宣言した。そし
て、ポリサリオは、隣国アルジェリアやリビアの支援を受け、1976年から
武装闘争を開始した。1979年には、西サハラ南部を領有するモーリタニア
が、停戦協定を締結し西サハラ領有権を放棄した。これに対し、モロッコ政府
は、この機会に、西サハラ地域全体をモロッコに併合する計画を立てた。西サ
ハラには豊富な海洋資源と鉱物資源が眠っており、これらがモロッコの領土拡
大にさらなる拍車をかけていた。
(6)西サハラ問題は、この後アフリカ統一機構(OAU)が独立問題を決める住
民投票実施を提案した。モロッコはこの提案を受け入れたものの1984年の
OAU 会議に西サハラのサハラ・アラブ民主共和国代表団が参加したことで OAU を
脱退し、紛争は継続された。
(7)1988年にアルジェリアとモロッコが国交を回復するとモロッコは
143
遂に停戦を決意し国連の住民投票案を受諾した。1992年には住民投票を行
うための人口統計調査が実施されたが幾度も延期や中止に追い込まれ1997
年9月には住民投票実施規則にモロッコ、サハラが同意し和平に向けた動きが
再開された。現在西サハラは実質的にモロッコ政府の監視下に置かれモロッコ
への併合可決を目論むモロッコ政府が、インフラ整備を推進しそれに反対する
暴動なども発生している。
(リベリア内戦)
(1)アフリカ大陸の北西には、リベリアという国がある。国名の由来は、ラ
テン後のリベールからきている。「自由の国」と名付けられたこの国は、西欧
列強によって分割統治されたアフリカにあっても、独立を保ち続けた数少ない
国である。
(2)だが、独立を保ち続けたといっても、この国の内情は、悲惨なもので、
建国以来、争いが絶えたことがない。つい最近までは、アフリカ諸国の中でも
特に、「危険な地帯」だとして、知られていた程である。
一体、なぜ「自由の国」は「混乱の国」に国になってしまったのか。その混乱
の種は、すでに建国のときに蒔かれていたと言える。
リベリアは19世紀初頭に、アメリカによって作られた国だった。・
当時のアメリカには、アフリカ植民地協会という民間団体があった。
144
協会の主な活動は、奴隷を解放し、生まれ故郷であるアフリカの地に送り返す
というもので、時の大統領モンローもこの活動を支持、積極的に支援すること
を約束していた。しかし、到着した解放奴隷達は現地で拒絶され、無人島に
閉じこめれるなどして、命を失う者が出てきた。
怒りを覚えたモンロー大統領は解放奴隷のために広大な土地を買い上げた。こ
れに気をよくしたのが解放奴隷である。解放奴隷達は、しだいに暴力的な行動
をとるようになれい、現地の部族から次々と土地を奪い取っていった。そして、
中心となる街に恩人のモンロー大統領の名をとって、「モンロビア」と名付け
た。これがリベリアの始まりである。
(3)リベリアは、1847年に独立した。
アメリカ植民協会の活動は、南北戦争が終結するまで続けられ、その間に送り
込まれた解放奴隷の数は、およそ1万3000人で、「アメリコ・ライベリア
ン」と呼ばれた彼らは、少なからずアメリカ文化を身につけていたため、先住
民に差別的な態度で臨むようになった。
先住民にすれば、突然やってきて、しかも高圧的な態度をとるアメリコ・ラ
イベリアンは目障りな存在以外の何者でもない。先住民のこうした不満は、ア
メリコ・ライベリアン主導の国作りが進むと一層顕著なものとなり、各地で抵
抗運動が起こった。
(4)そして、1980年、ついに事態は大きく動き出した。
145
先住民のクラン族出身の軍人がクーデタを起こし、「アメリコ・ライベリア
ン」のトルバード大統領を暗殺、政権を握ったのである。
これにより、「アメリコ・ライベリアン」の少数支配は幕を閉じることにな
った。
だが、今度は各部族間による主導権争いが勃発するようになったのである。
1985年、クラン族政権の打倒のために、ギオ族がクーデタを起こす。クー
デタが失敗に終わると、クラン族が復讐に移りギオ族を虐殺した。
1989年には弾圧されていたギオ族とマノ族、そしてかっての支配階級の
アメリコ・ライベリアンが手を握り、クラン族との間で、大規模な戦いが起こ
った。第一次内戦である。
(5)クラン族の政権は1991年に倒されるが、それでも部族間の争いは終
わらない。戦乱は国境を越え、近隣諸国にも燃え移り、15万人の死者と30
万人以上の難民を出す。近年まれにみる激しいものとなった。この内戦は19
96年に停戦を迎えるが、それから7年後の2003年に、再び反政府組織に
よって内戦が起こっている。
(6)1992年、隣国シエラレオネ政府が内戦に介入しようと派兵すると、
それに抗議したリベリア国民愛国戦線(リベリア内戦の主流反政府勢力)がシ
エラレオネに進入、親交のあった反シエラレオネ政府組織と結びついたため、
シエラレオネも戦火に巻き込まれた。
146
(7)リベリア共和国、通称リベリアは、西アフリカに位置する共和制国家で、
北にギニア、西にシエラレオネ、東にコートジボワールと国境を接し、南は大
西洋に面しており、首都はモンロビアである。前述の通り、リベリアは、アメ
リカ合衆国で解放された黒人奴隷によって建国され、1847年に独立し、現
在のアフリカの中ではエチオピアに次いで古い国である。10年以上2度も続
いた内戦により、戦争一色の無秩序な国と化していた。
(8)1847年7月26日、アメリカ合衆国憲法を基本にした憲法を制定し
て独立を宣言した。初代リベリア大統領にジョセフ・ジェンキンス・ロバーツ
(任期1848年―1856年)が就任した。1854年5月29日メリーラ
ンド・アフリカ植民地がメリーランド共和国として独立を宣言するが、185
7年3月18日リベリア共和国に併合された。1870年にエドワード・J・ロ
イが大統領に就任するが、1871年に暗殺され、1872年から1876年
の間は初代のジョセフ・ジェンキンス・ロバーツが第 6 代大統領を務めた。
なお、1903年にはアーサー・バークレーが大統領に選ばれ、1904年
も大統領に再選された。
(9)前述の通り、独立以来、リベリアの先住部族は、移民アメリコ・ライベ
リアンから差別の対象となり、圧政が敷かれていた。20世紀となる頃には、
差別と圧政への抵抗が強くなった。
この頃、リベリア政府高官が加担して、リベリア人労働者がスペイン領フェル
ナンドボー島(現赤道ギニアのビオコ島)へ船積みされており、その状況は奴
隷貿易と異ならないという噂が国際的に広まったため、政治的主権も危うくな
147
った。チャールズ・D・B・キング大統領の要請により、国際連盟は調査団を派
遣し、こうした国際的非難には、ある程度の根拠がある事、そして副大統領の
関与をほのめかした。このため副大統領は辞任して、キング大統領も衝撃を受
け、1930年に大統領を辞任する。後継者としてアーサー・バークレー元大
統領の甥、エドウイン・バークレーが大統領となった。
(9)1944年、ウイリアム・タブマンが大統領に当選し、5年任期で再選
する。タブマン大統領は移民・アメリコ・ライベリアンと先住部族との経済的、
政治的、社会的な大きな格差を緩和する事で、国家の統一を図った。その後、
1971年に死去するまで、独裁的な政治運営を行い、国内は概ね安定した。
タブマン大統領死去により、副大統領だったウイリアム・R・トルバートが大統
領になった。トルバート大統領はタブマンの跡を継ぎ、すべてのリベリア人の
平等を表明、縁故主義的支配廃止などを進めた。
(10)1973年、トバ・ナー・ティポテは反政府勢力「MOJA」を結成。1
979年、政府の米価の値上げ発表に対して反対デモが起こった。トルバート
の元国務次官書記で、MOJA の中心メンバーでもあったガブリエル・バッカス・
マシューズが、トルバート政権への大規模な抗議運動を主導したとして、騒乱
罪で死刑を宣告された。1980年、リベリア先住部族クラン族出身のサミュ
エル・ドウ曹長によるクーデターでトルバートは暗殺され、アメリコ・ライベ
リアンの少数支配が終わった。1986年ドウ政権下でリベリア第2共和国が
発足し、ドウが第21代大統領に就任した。トルバート政権の崩壊でマシュー
ズは釈放され、ドウ政権の下で外相・内閣官房長官を歴任する。
148
(11)1989年、チャールズ・テーラー率いる反政府組織「リベリア国民
愛国戦線(NPFL)」が蜂起して内戦が勃発し、戦闘が全土に拡大した。
西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS) が政府支援のために軍事介入した。
NPFL から分裂したプリンス・ジョンソン率いる INPEL の派閥が、ドウ大統領
を捕らえ拷問の末にドウを処刑し、ドウ政権は崩壊した。
このの内戦により15万人以上が死亡し、30万人以上が国外へ難民となる
など、西アフリカ最悪の紛争地域と言われた。
(12)その後、様々な紆余曲折を経て、1996年9月、ルース・ペリーが
暫定政権首班下でアフリカ初の女性国家元首になったが、1997年には、大
統領・副大統領・上院・下院の統一選挙が実施され、NPFL のチャールズ・テー
ラーが大統領に就任して、第3共和制が成立した。
2003年には、セクー・コネ率いる反政府勢力「リベリア民主和解連合」
(LURD) と「リベリア民主運動」(MODEL) が蜂起し、首都へ侵攻する。6月17
日には政府と停戦合意するが、7月8日にアフリカを訪問したブッシュ米大統
領に対し、対リベリア平和維持部隊への米軍の参加を求める声が高まった。
7月25日、ブッシュ大統領はリベリアの沖合いに米海軍を配置するよう正
式に指示し、8月には米軍を始めとする平和維持軍が上陸し、テーラー大統領
はナイジェリアに亡命、モーゼス・ブラー副大統領が暫定的大統領に就任した。
9月の国連安保理決議1509により、国連リベリアミッション (UNMIL) が派
149
遣され、10月にはリベリア行動党のジュデ・ブライアント議長による暫定政
府が発足した。
(13)2005年10月11日、暫定統治下において第一回大統領選が行
われた。11月8日に決選投票を実施、11月23日の最終開票結果で、国連
開発計画の元アフリカ局長エレン・ジョンソン・サーリーフが、アフリカ初の
選挙による女性大統領となった。2006年3月29日、隣国シエラレオネの
内戦に関与していたとして、戦争犯罪などで起訴されていたテーラー前大統領
が、亡命先のナイジェリアで身柄を拘束され、リベリア経由でシエラレオネに
移送された。その後、オランダのハーグにある国際刑事裁判所で開かれること
になったシエラレオネ国際戦犯法廷で審理が行われている。
(ビアフラ戦争)
(1)外務省公表資料によれば、ビアフラ戦争(1967―1970年)は、
ナイジェリアのイボ族を主体とした東部州がビアフラ共和国として分離・独立
を宣言したことにより起こった戦争で、ナイジェリア戦争とも呼ぶ。
ビアフラの封鎖によって引き起こされた飢きんのため、栄養失調となった子供
の写真は、ビアフラに対する世界的な同情を喚起した。
厳しい飢餓と、栄養不足から来る病気、北部州における虐殺により、少なくと
も 100 万人を超えるイボ族が死亡した(資料によっては 150 万人とも 200 万人
ともいわれる)。
150
(2)ナイジェリアには北部のイスラム教徒主体のハウサ族、西部のイスラム/
キリスト教混合のヨルバ族、東部のキリスト教主体のイボ族の三大部族が、そ
の他の多くの少数民族ともに存在した。イギリス植民地時代には、イボ族は比
較的教育レベルが高く、下級の官吏や軍人を多く輩出し、また商才もあり「黒
いユダヤ人」と呼ばれることもあった。
1960年にナイジェリア連邦として独立後は、東部に原油が発見され、イボ
族地域は工業化が進み他地域との経済格差は広がっていた。北部のハウサ族は
ヨルバ族の一部と連携し、連邦を支配しようとした。
(3)1966年、軍のイボ族主体の中堅将校が、クーデタを起こし、北部系
の政治家、高級軍人を殺害したが、同じイボ族出身の軍司令官ジョアン・アグ
イイ=イロイシン将軍に鎮圧された。イロンシ将軍は、臨時政府を作り、イボ
族を多く登用した。しかし、臨時政府が連邦制廃止を打ち出した後、北部では
イボ族に対する反発が強まり、数千人のイボ族が殺害され、イロンシ将軍も、
ハウサ族の下級将校の襲撃を受けて殺害された。北部出身のゴウォン中佐が軍
事政権を握り、イボ族出身の軍人を殺害・追放した。北部におけるイボ族への
迫害は一層強くなり、1 万を越えるイボ族が殺害され、100 万人近い難民が東部
州に逃れてきた。東部州の軍政知事だったチェクエメカ・オドウメグ・オジュ
ク中佐は、州内の連邦資産を接収し、税収を全て東部州で管理することにし、
独立性を強めた。これに対し、連邦は東部州の分割を狙ったため、1967年
5月30日オジュク中佐は、「ビアフラ共和国」として東部州の独立を宣言し
た。
151
(4)直ちに、連邦軍は攻撃を開始したが、ビアフラ軍の士気も高く、戦況は
膠着状態を示した。ビアフラにはフランスと南アフリカ等が支援したが、大部
分の国はビアフラに同情しながらも消極的ながら正規政府である連邦を支持し
た。特に旧植民地の分割化を望まないイギリスとアフリカへの影響力強化を狙
うソ連は積極的に連邦を支援した。また、少数の白人傭兵がビアフラ側で戦っ
ている。
1968年に入ると、連邦軍がビアフラを包囲し、食料、物資の供給を遮断し
たため、ビアフラは飢餓に苦しむことになった。各国の記者がさかんに報道し
たため、赤十字などの支援は行われたが、早期決着を目指す連邦側が、それら
の救援も妨害するようになったため、ビアフラの飢餓は危機的な状況に陥った。
弾薬、装備の不足も深刻になり、1970年 1 月9日、ついにオジュク将軍は
コートジボワールに亡命し、ビアフラは降伏した。
(5)他のアフリカの内戦の例から見ると意外にもハウサ族による極端な報復
や虐殺は行われず、国民和解の方針が採られた。しかし、少なくとも 100 万人
以上の人間が、飢餓、病気、戦闘によって死亡したとされている。当時、各国
の新聞に掲載された「骨と皮にやせ細っているが、お腹だけが異様に膨らんで
いる子供達」の姿は世界中に衝撃を与え、ビアフラという言葉は飢餓と同義語
としてわれるようになった。
(チャド内戦)
(1)外務省公表資料によれば、チャドの面積は、128、4万平方キロメー
152
トル(日本の約3,4倍)で、人口は、約1050万人(2006年、世銀)、
首都はンジャメナである。民族は、サラ族、チャド・アラブ族、マヨ・ケビ族、
カネム・ボルヌ族、その他である。言語は、仏語、アラビア語(公用語)で、
宗教は、イスラム教(54%)、カトリック(20%)、プロテスタント(1
4%)他となっている。
また、チャドは、アフリカのほぼ中央に位置する内陸国で、北部はサハラに続
く高温、乾燥地帯、南部は多湿である。西部には、アフリカ第 4 の大湖チャド
湖がある。
主要産業は、農業(綿花)、牧畜業、原油、GNI は、47億ドル(2003年、
世銀)、一人当たり GNI は、450ドル(2006年、世銀)、経済成長率は、
10%(2002年)、11%(2003年)、30%(2004年)、6%
(2005年)、0,5%(2006年)(世銀)となっている。
(2)政治体制は、共和制で、元首は、大統領、議会は、一院制(国民議会)
で、155議席、政府には首相が置かれている。
兵役は、徴兵制で、兵力は、30,350人(陸軍25,000人、空軍3
50人、憲兵隊4,500人)、仏駐留軍950人(ミリタリーバランス20
05年)となっている。
(3)1960年にフランスから独立した後、南部キリスト教勢力と北部イ
153
スラム勢力が対立、1980年代には北部勢力間で抗争が発生するなど、クー
デターや内戦を繰り返す不安定な政治情勢が続いた。1989年にハブレ大統
領が内戦を制し全土を掌握したが、スーダンに逃れていたデビー元軍司令官が
1990年に東部地域から首都に侵攻、ハブレ大統領はセネガルに亡命し、デ
ビー元軍司令官が政権を掌握した。デビー政権になって一旦は内政が安定し、
大統領選挙、国民議会選挙等を実施するなど、民主化プロセスも一応進展が見
られ、また北部地域の反政府勢力「チャド民主正義運動」と2002年に和平
合意を締結したが、2004年頃よりクーデター未遂や軍幹部・国軍兵士の離
反等が相次ぎ、2005年頃より東部スーダン国境付近でチャド反政府武装勢
力の活動が活発化、2006年4月には反政府勢力の一つ FUC(変革のための統
一戦線)が首都近郊まで侵攻し、政府軍と銃撃戦が行われる等、内政は不安定
な状態が続いている。
(4)同年5月に野党がボイコットする中、デビー大統領は大統領選挙を強行
し圧倒的得票率で 3 選を果たしたが、11月には反政府武装勢力 UFDD(民主主
義及び開発発展のための連合)が東部主要都市アベシェを一時制圧下に置くな
ど、不安定な情勢が続いている。同年12月末に FUC と和解、2月の新内閣で
は FUC リーダーが国防相に就任するも、東部地域では他の反政府勢力の攻撃が
頻発。隣国スーダン政府がチャド反政府勢力を支援しているとして度々スーダ
ン政府を非難し、同国との関係が悪化している。2008年2月にも東部地域
から侵攻した反政府勢力と首都で市街戦が行われるなど、情勢は不安定な状態
が続いている。その都度周辺国の調停により和解を繰り返しており、スーダン
との関係改善がチャドの安定化にとって重要課題となっている。
154
(5)チャドの外交基本方針は、デビー新政権はその成立とともに非同盟、反
新植民地主義の方針を表明、仏を中心とした西側諸国及び近隣諸国と友好関係
を築きつつある。1997年8月には台湾と外交関係を再開したため、中国と
の外交関係を断絶したが、2006年8月に台湾と断交し、中国との外交関係
を回復した。
(6)
チャドは、国土の約 3 分の 2 は砂漠地帯であり、内陸国というハンデ
ィもあり、綿花と畜産業中心の最貧国のひとつであったが、近年同国南部の石
油資源(埋蔵量約10億バレル)の開発が進み、2003年には、世銀の融資
を受け、同国南部ドーバから隣国カメルーンのクリビ港に至る全長1,070
キロメートルの石油パイプラインが貫通し、石油輸出が開始された。2005
年の産油量は17万バレル/日で、同国の輸出の約8割を占めている。2001
年に拡大 HIPC イニシアティブの DP(決定地点)に到達したが、政情不安もあり、
貧困対策等人間開発に大きな改善が見られていない。2006年は綿生産も前
年に比べ23,5%減少したため、実質経済成長率は4,6%に留まった(2
005年の実質成長率は8,6%)。
チャド湖周辺には 19 世紀末ごろまでいくつかの王朝が興亡したが、その後フ
ランス領赤道アフリカ、1958年フランス共同体内の共和国として、また、
1960年に独立した。
しかし独立後から、イスラム教徒人口の多い北部と、キリスト教徒人口の多
い南部との間に緊張関係が続いており、同国の政治的不安定さの要因となって
いる。主要産業は綿花だが、北部ではウランの埋蔵が確認され、近年では産油
155
国としての地位を築きつつある。
(2)チャドでは1960年の独立以降、北部のアラブ系イスラム教徒と南部
のスーダン系非イスラム教徒(キリスト教徒)の対立が続いた。
イスラム教徒側は、「チャド民族解放戦線(FLOLINAT)」を組織、1979年
にグクーニ司令官を大統領とする民族統一暫定政府を発足させるが、ハブレ国
防相との対立から内戦が勃発し、1982年にはハブレが大統領となった。
しかしハブレ大統領と対立したデビ軍事顧問が、1989年にスーダンに亡
命し、リビアからの援助を得て、「愛国救済運動(MPS)」を結成、1990年
に首都ンジャメナを制圧し、今度はハブレ大統領がセネガルに亡命した。
その後も軍の派閥争いは続いた。特に1997年の総選挙で MPS が過半数の
議席を獲得すると、北部でトゴイミ元防衛大臣が率いる「チャド民主正義運動
(MDJT)が武装蜂起し、政府軍 (FARF)と激しい内戦を繰り広げた。2002年
1 月に政府とMDJTは和平合意を締結したが、その実施は暗礁に乗り上げて
いる。
(3)2004年頃よりクーデター未遂や軍幹部・国軍兵士の離反等が
相次ぎ、2005年頃より東部スーダン国境付近でチャド反政府武装勢力の活
動が活発化、2006年4月には反政府勢力の一つ FUC(変革のための統一戦線)
が首都近郊まで侵攻し、政府軍と銃撃戦が行われる等、内政は不安定な状態が
続いている。同年5月に野党がボイコットする中、デビー大統領は大統領選挙
を強行し圧倒的得票率で3選を果たしたが、11月には反政府武装勢力 UFDD(民
156
主主義及び開発発展のための連合)が東部主要都市アベシェを一時制圧下に置
くなど、不安定な情勢が続いている。
(4)同年12月末に FUC と和解、2月の新内閣では FUC リーダーが国防相に
就任するも、東部地域では他の反政府勢力の攻撃が頻発。隣国スーダン政府が
チャド反政府勢力を支援しているとして度々スーダン政府を非難し、同国との
関係が悪化している。2008年2月にも東部地域から侵攻した反政府勢力と
首都で市街戦が行われるなど、情勢は不安定な状態が続いている。その都度周
辺国の調停により和解を繰り返しており、スーダンとの関係改善がチャドの安
定化にとって重要課題となっている。
(ルワンダ内戦)
(1)ルワンダの面積は、2,63万平方キロメートル、人口は973万人(2
007年、世銀)で、首都は、キガリ、言語は、仏語、キニアルワンダ語、英
語、宗教は、カトリック57%、プロテスタント26%、アドヴェンティスト
11%、イスラム教4,6%等となっている。
政治体制は、共和制で、元首は、大統領、議会は、二院制で、上院(26議
席)、下院(80議席)となっており、政府に首相が置かれている。
(2)1962年の独立以前より、フツ族(全人口の85%)とツチ族(同1
4%)の抗争が繰り返されていたが、独立後多数派のフツ族が政権を掌握し、
少数派のツチ族を迫害する事件が度々発生していた。1990年に独立前後か
らウガンダに避難していたツチ族が主体のルワンダ愛国戦線がルワンダに武力
157
侵攻し、フツ族政権との間で内戦が勃発した。1993年8月にアルーシャ和
平合意が成立し、右合意を受け、国連は停戦監視を任務とする「国連ルワンダ
支援団(UNAMIR)」を派遣したが、1994年4月のハビヤリマナ大統領暗殺
を契機に、フツ族過激派によるツチ族及びフツ族穏健派の大虐殺が始まり、同
年6月までの3ヶ月間に犠牲者は80∼100万人に達した。
(3)1994年 7 月、ルワンダ愛国戦線がフツ族過激派を武力で打倒すると、
ビジムング大統領(フツ族)、カガメ副大統領による新政権が成立した。同政
権は大虐殺の爪痕を乗り越えようと、出身部族を示す身分証明書の廃止(1994
年)、遺産相続制度改革(女性の遺産相続を許可)(1999年)、国民和解
委員会及び国民事件委員会の設置(1999年)等、国民融和・和解のための
努力を行っている。
1999年3月には、1994年の虐殺以降初めての選挙となる地区レベル選
挙(市町村レベルより下位)を実施、2001年3月には市町村レベル選挙を
実施、2003年8月には大統領選挙が実施されカガメ大統領が当選。政治の
民主化が進展している。
(4)ルワンダの外交基本方針は、従来非同盟中立主義が基本路線。冷戦時代
は東西両陣営と友好関係を維持、現在は、経済開発のため先進諸国との協力に
重点を置いている。
(5)経済概況は、農林漁業が GDP の40%以上、労働人口の90%を占め、
また、多くの農民が小規模農地を所有し、主要作物はコーヒー及び茶(輸出収
158
入の60%)であり、高品質化により国際競争力を強化する政策をとっている。
一方で、内陸国のために輸送費が高いという問題も抱える。
1980年代は、構造調整計画を実施し経済の再建に努めたが、内戦勃発以降
はマイナス成長、特に1994年の大虐殺で更に壊滅的打撃を受けた。その後、
農業生産の堅実な回復(1998年には内戦前の水準を回復)、ドナー国から
の援助、健全な経済政策により1999年までに GDP は内戦前の水準に回復し
た。
ルワンダ政府は、1996年に「公共投資計画」を、2000年に20年後の
経済達成目標を定める「VISION2020」を、2002年には「貧困削減戦略
文書完全版(F-PRSP)」を策定し、これら戦略等を基軸とした経済政策を実施
している。また、現在、第 2 次世代 PRSP となる経済開発貧困削減戦略(EDPRS)
を策定すべく、準備を進めている。2000年12月には、拡大 HIPC イニシア
ティブの決定時点に達し、2005年4月に完了時点に到達している。
また、カガメ大統領は、汚職対策にも力を入れており、グッドガバナンスの模
範国として世銀等からの評価も高い。
(エチオピイア内戦)
(1)外務省公表資料によると、エチオピイアの面積は、109,7万平方キ
ロメートル(日本の約3倍)、人口は、7,720万人(2006年:世銀)
人口増加率2,6%(2006年:世銀)、首都は、アディスアベバ、民族は、
159
アムハラ族、ティグライ族、オロモ族等約80の民族からなっており、言語は、
アムハラ語、英語、.宗教は、キリスト教、イスラム教他となっている。
エチオピア連邦民主共和国・通称エチオピアは、東アフリカに位置する連邦共
和制国家である。東をソマリア、西をスーダン、南をケニア、北をエリトリア、
北東をジプチに囲まれ、かつてはエリトリアを領有していたが、現在は内陸国
となっている。
(2)アフリカ最古の独立国として有名であり、またナイジェリアに次いでア
フリカで二番目に人口の多い国である。
国名のエチオピアは、ギリシャ語の「日に焼けた」という意味のアエオティプ
スに因むが、これはエチオピア人の肌の色に由来している。ヨーロッパ人には
アビシニアと呼ばれていたが、1270年から1974年まで、1936年か
らの5年間イタリア領東アフリカに編入された時期を除き、エチオピア帝国と
称してきた。1974年のクーデターの後、1987年まで社会主義エチオピ
ア、1991年までエチオピア人民民主主義共和国と称し、1995年に憲法
改正によりエチオピアとなったが、1995年に再度の憲法改正によりエチオ
ピア連邦民主共和国となった。
(3)エチオピアは、メネリク2世の19世紀末に2度イタリアの侵略を受け
たが、1896年のアドワの戦いによって、これを退けた(第一次エチオピア
戦争)。このことは、アフリカの帝国がヨーロッパ列強のアフリカ分割を乗り
切り、独立を保ったという画期的なできごとであった。しかし、第二次エチオ
ピ戦争に敗れ、1936年から1941年は、イタリアの植民地(イタリア領
160
東アフリカ)となった。1952年にエリトリアと連邦を組んだが、1962
年にはこれを併合した。
1973年東部のオガデン地方のソマリ人の反政府闘争、および干ばつによる
10万人餓死という惨状、オイルショックによる物価高騰が引き金となり、ア
ディス・アベバのデモ騒乱から陸軍の反乱が起こり、最後の皇帝であるハイレ・
セラシェ1世は、1974年9月軍部によって逮捕・廃位させられた(197
5年帝政廃止)。軍部はアマン・アンドム中将を議長とする臨時軍事行政評議
会 (PMAC) を設置し、12月に社会主義国家建設を宣言した。1974年2月
にメンギスツ・ハイレ・マリアムが PMAC 議長に就任し、恐怖独裁政治や粛正
により数十万人が殺害されたとされる。1987年の国民投票で PMAC を廃止
し、メンギスツは大統領に就任し、エチオピア人民民主共和国を樹立、エチオ
ピア労働者党による一党独裁制を敷いた。
(4)エリトリア、ティグレ、オガデンの各地方での反政府勢力との戦闘の結
果、メンギスツ大統領は1991年5月にジンバブエへ亡命した。ティグレ人
中心のエチオピア人民革命民主戦線(EPRDF) のメレス・ゼナウィ書記長が暫定
大統領、次いで1995年8月には新憲法が制定されネガソ・ギダダ情報相が
正式大統領、メレスは事実上の最高指導者である首相に就任、国名をエチオピ
ア連邦民主共和国と改称した。
1998年5月12日、エリトリアと国境付近のバドメ地区の領有権をめぐり
戦争に発展した。
2000年5月、エリトリア軍が撤退を表明し、メレス首
相は6月、アフリカ統一機構(OAU) の停戦提案を受け入れた。7月、国連の安
161
保理は PKO である国連エチオピア・エリトリア派遣団 (UNMEE)の 設置を決定し
た。
(5)2000年5月の総選挙で与党 EPRDF が圧勝し、10月10日にはメレ
ス首相は再選された。2001年2月、エリトリアとの国境に臨時緩衝地帯を
設置することで合意した。10月8日、ネガソ大統領の任期満了を受け、ギル
マ・ウオルドギオルギス人民代表議会(下院)議員が新大統領に就任した。
なお、エチオピアの皇帝は、アムハラ語でネグサ・ナガストと呼ばれ、これ
は「王(ネグ)の中の王」という意味である。王室の権威が遠くまで及ばなか
ったり、自分の出身地内しか統治できていない時は単にネグ、もしくはラス(諸
侯)と呼ばれた。
(6)エチオピアの政治体制は、連邦共和制で、国家元首の大統領の権限は、
形式的儀礼的なものに限られる。任期は6年で、下院により選出される。現大
統領は、ギルマ・ウオルドギオルギス・ルチャ(ギルマが姓)で、2001年
10月8日に就任した。
行政府の長である首相は、下院議員の総選挙後に開かれる議会において、下院
議員の中から選出される。内閣の閣僚は、首相が選任し、下院が承認する。現
首相は、エチオピア人民革命民主戦線(EPRDF) 書記長のメレス・ゼナウィ(メ
レスが姓)で、1995年8月22日に就任した。任期は5年だが、議院内閣
制のため、任期途中で失職する場合もある。
162
議会は、二院制で、上院(連邦院)は108議席で、議員は各州議会によって
選出される。下院(人民代表院)は548議席で、議員は小選挙区制選挙で選
出される。議員の任期は、上下院とも5年である。
多民族国家のエチオピアは、民族ごとに構成される9つの州と2つの自治区か
らなる連邦制をとっている。
エチオピア陸軍は 1990 年代には25万人となっていたが、軍事費圧縮と
軍隊の近代化のため削減され、現在は約10万人である。
(7)1970年代、1980年代の飢餓以来、一時食糧自給を達成した時期
を除き厳しい経済状態が続く。現在では成長率約 8%(2001年)を記録す
るなど好転しているが、依然として世界最貧国の一つ。主要産業である農業は
機械化が進まず生産性が低い。エリトリア独立に伴い内陸国となったため、隣
国ジブチのジブチ港およびジブチ鉄道を有料で利用している。
エチオピアにはアラブ系や非アラブ系の黒人など80以上の異なった民族集
団(オロモ人40%、アムハラ人33∼35%、ティグレ人7%、ソマリ人4% な
ど)が存在する。黒人が人口の大多数を占めている。
エチオピアの宗教は、キリスト教のコプト派(エチオピア正教会)が 50%、
イスラム教が30%、他となっている。そして、連邦憲法11条は、政教分離を
定め、国教を禁じている。
(ブルンジ民族紛争)
163
(1)フツ族は多いが、ツチ族が上である。この短いフレーズの中には、その
結果何百万人も被災した長年に渡る紛争の本質がある。この戦争には、今日、
ルワンダ、ウガンダ、ブルンジ及びコンゴ民主共和国(旧ザイール)の4ヶ国
が直接巻き込まれているが、更にアンゴラ、ジンバブエ、ナミビアも活発に参
加している。
その原因は、非常に簡単である。ルアンダとブルンジ両国の独立獲得後、少
なくとも5世紀の間両アフリカ民族間に存在したある意味で唯一の「社会合意」
が破られた。15世紀末、現ルワンダ領土において、フツ族土地所有者の初期
国家が生まれた。16世紀、北方からこの地域に、背の高い遊牧民のツチ族が
侵入した(ウガンダにおいて、彼らは、各々ヒマ族とイル族と呼ばれ、コンゴ
において、ツチ族は、バニヤムレンゲ族と称され、フツ族は事実上そこには住
んでいない。)。ルワンダにおいて、ツチ族は、成功をふいにした。国を征服
した彼らは、ここで、ウブハケという名称を得た独特な経済システムを創設す
ることができた。ツチ族自身は、農業に従事せず、これはフツ族の義務であり、
ツチ族は、放牧と家畜に従事した。つまり、農業と牧畜業の共存という一種の
共生が形成された。この際、放牧される家畜の一部は、小麦粉、農作物、農具
等と交換で、フツ族に手渡された。
(2)ツチ族は、大型有角獣の大群の所有者として、貴族となり、彼らの課業
は、戦争と詩吟になった。これらのグループ(ルワンダ及びブルンジのツチ族、
ヌコルのイル族)は、独特な「貴族」カーストを形成した。土地所有者は、家
畜を所有する権利を有さず、一定の条件下でその放牧にだけ従事した。彼らは、
行政ポストを占める権利も有さなかった。このようにして、何世紀も続いた。
164
しかしながら、両民族間の紛争は、不可避だった。ルワンダでも、ブルンジで
も、フツ族は、85%以上と多数派を構成し、言い換えれば、扇動的な少数民
族が甘い汁を吸っていた。このアフリカの大戦争のスタートのキーとなったの
は、ルワンダでの事件だった。
(3)当初はドイツの、また、第一次世界大戦後はベルギーの旧植民地である
ルワンダは、1962年に独立を得た。恨みあるフツ族は、その場で権力を掌
握し、ツチ族を排除し始めた。
ツチ族とフツ族の比率がルワンダとほぼ同じだったブルンジは、1962年
に独立を得たが、ルワンダの連鎖反応が始まった。ブルンジにおいて、ツチ族
は、政府と軍において多数派を保持したが、フツ族はいくつかの反乱軍を創設
した。フツ族の最初の蜂起は、1965年に遡るが、厳しく鎮圧された。
1966年11月、ブルンジで、軍事クーデターの結果、共和国が宣言され、
国内に全体主義的軍事体制が確立された。さらに、内戦の性格を帯びた197
0年∼1971年のフツ族の新たな蜂起では、約15万人のフツ族が殺され、
10万人以上が難民となった。
(4)1980年代末に始まり、1994年にピークに達したツチ族に対する
大規模迫害は、西側において、ジェノサイドとして非難された。当時70万∼
80万人のツチ族、並びに穏健派フツ族が殺された。
その間、80年代末にルワンダから逃亡したツチ族は、ウガンダ(そこで
は、ちょうど、出身に関してツチ族の親族であるムサヴェニ大統領が権力を掌
握した。)に基地を置くいわゆるルワンダ愛国戦線(RPF)を創設した。RPF は、
165
ポール・カガメが率いた。彼の部隊は、ウガンダ政府の武器と支援を受け、ル
ワンダに戻り、首都キガリを奪取した。カガメは、国の統治者となり、200
0年、ルワンダ大統領に選出された。
(5)戦争が燃え上がり、ツチ族も、フツ族も、両民族は、ルワンダとブルン
ジの国境の両側の同族と協力した。その結果、ブルンジのフツ族反乱軍は、再
び追い出されたルワンダのフツ族と、カガメの権力掌握後にコンゴに逃亡せざ
るを得なかったフツ族を援助し始めた。少し前、同じような国際同盟をツチ族
が組織した。その間、部族間紛争には、もう 1 つの国、コンゴが巻き込まれた。
2001年 1 月16日、コンゴ民主共和国大統領ロラン-デジレ・カビラが殺
され、この情報を最初に流布したのは、ウガンダ特務機関だった。後に、コン
ゴ防諜部は、大統領暗殺でウガンダとルワンダの特務機関を非難した。
ロラン-デジレ・カビラは、1997年、独裁者モブツを打倒して、権力を掌
握した。ここでは、西側特務機関、並びに当時までにウガンダでも、ルワンダ
でも統治していたツチ族が彼を助けた。
しかしながら、カビラは、非常に早く、ツチ族と争うことになった。199
8年7月27日、彼は、全ての外国軍人(主として、ツチ族)及び文民官僚を
国外追放し、コンゴ出身者ではない者で充足されたコンゴ軍部隊を解散すると
表明した。1999年6月、カビラは、ルワンダ、ウガンダ及びブルンジを国
連憲章に違反した侵略者として認めることをハーグ国際裁判所に要請もした。
その結果、90年代初めのツチ族に対するジェノサイドで裁かれようとして
いたルワンダから逃亡したフツ族は、コンゴを隠れ家とした。報復として、カ
ガメは、同国領内にルワンダ軍を導入した。始まった戦争は、コンゴ大統領の
166
ロラン・カビラが殺されるまで、袋小路に入り込んだ。コンゴ特務機関は、3
0人の殺人者を見つけ、死刑を言い渡した。ロラン・カビラの死後、息子のジ
ョゼフ・カビラが、権力を掌握した。
(6)戦争を終わらすためには、更に5年が必要だった。2002年7月、カ
ガメとカビラの両大統領は、1994年にツチ族80万人の虐殺に参加し、コ
ンゴに逃亡したフツ族が武装解除されるものとする協定に署名した。一方、ル
ワンダは、そこに存在する2万人の自国軍部隊のコンゴ領土からの撤収を義務
付けられた。
(7)ツチ族も、フツ族も、西側諸国に同盟国を見つけようと試みた。ツチ族
は、これを上手くやったが、彼らには、当初から、より大きな成功のチャンス
があった。共通の言葉を見出すのが簡単だったことを含めて、ツチ族のエリー
トの地位は、何十年も、西側で教育を受ける機会を彼らに与えていた。
現ルワンダ大統領で、ツチ族代表ポール・カガメは、特にこうして同盟国を
見つけた。ポールは3歳の時、ウガンダに連れ出された。そこで、彼は、軍人
となった。ウガンダ民族抵抗軍に入り、内戦に参加し、ウガンダ軍事情報局副
局長職まで勤め上げた。1990年、彼は、フォート・リベノート(米カンザ
ス)で参謀課程を受け、この後初めて、ルワンダ進軍を指揮するために、ウガ
ンダに帰った。
その結果、ポール・カガメは、アメリカ軍人だけではなく、アメリカ諜報部
とも素晴らしく関係を整備した。しかし、権力闘争において、当時のルワンダ
大統領ジュヴェナル・ハビヤリマナが彼を妨害した。しかし、間もなく、この
障害は除去された。
167
1994年4月4日、地対空ミサイルが、ブルンジとルワンダの大統領を乗
せた飛行機を撃墜した。
(8)それにも拘らず、紛争に参加した4ヶ国のうち、ブルンジ、ルワンダ及
びコンゴの3ヶ国は、1962年までベルギーにより支配されていた。しかし
ながら、ベルギーは、紛争において消極的に振舞い、今日、多くの者は、特に
その特務機関が紛争を止める機会を故意に見逃したと考えている。
しかしながら、ベルギー人は、ルワンダを簡単に捨てることはできなかっ
た。ベルギー軍事情報部 SGR の1993年4月15日付報告によれば、在ルワ
ンダ・ベルギー共同体は、当時、1,497人を数え、その内900人は、首
都カガリに住んでいた。1994年、ベルギー市民全員を救助する決定が採択
された。
1997年12月、ベルギー上院特別委員会は、ルワンダにおける事件の議
会調査を行い、諜報機関がルワンダであらゆる業務を行っていたと確定した。
同上院委員会は、ベルギー部隊の将校が、フツ族過激派側からの反ベルギー
感情について報告していたにも拘らず、軍事情報部 SGR がこの事実に沈黙した
との結論を下した。ロシアの情報によれば、一連のフツ族貴族の代表は、旧宗
主国に古くからの価値ある関係を有し、多くの者は、そこで所有権を取得して
いた。
ちなみに、国連の武器不法取引に関する専門家とアントワープの平和研究所
長ヨハン・ペレマンの情報によれば、90年代のフツ族への武器の補給は、ベ
ルギー最大の港湾の 1 つ、オステンデを通して行われた。
(9)現在のところ、ツチ族とフツ族を仲裁する全ての試みは、失敗に終わっ
168
ている。南アフリカで試みられたネルソン・マンデラの方法は失敗した。ブル
ンジ政府と反乱軍間の交渉における国際仲介者となった元南アフリカ共和国大
統領は、1993年、7 年に渡る民族間紛争の和平調停が、少数派のツチ族の権
力独占の否定の下でのみ可能だと表明し、「一人一票」の図式を提案した。彼
は、「軍は、別の主要民族であるフツ族から少なくとも半数を構成しなければ
ならないが、投票は、一人一票の原則で行うべきである」と表明した。
ブルンジ当局は、この実験を試みた。これは悲惨に終わった。同1993年、
ピエール・ブイオヤ大統領は、法的に選出されたフツ族大統領メリヒオル・ヌ
ダイドに権力を委譲した。同年10月、軍人は、新大統領を殺害した。報復と
して、フツ族は、5万人のツチ族を撲滅し、軍は、仕返しに5万人のフツ族を
殲滅した。次のブルンジの大統領キプリエン・ヌタリヤミラも殺された。特に
彼は、1994年4月4日、ルワンダ大統領と同じ飛行機で飛んでいた。その
結果、1996年、ピエール・ブイオヤは、再び大統領になった。
(10)今日、ブルンジ当局は、「一人一票」の原則を再導入することは、戦
争の継続を意味すると考えている。それ故、何れかの民族グループの過激派の
積極的な役割を押しのけて、フツ族とツチ族の権力交替システムを創設する必
要がある。今、ブルンジでは、休戦が締結されたが、これがどの位続くかは、
誰も知らない。
(コンゴ族紛争)
(1)1950年代後半、アフリカ諸国では独立ブームが起きた。コンゴにも
その波が押し寄せ、独立運動や暴動が起きた。それを見たベルギー政府は、あ
っさりと独立を認めた。わずか6ヶ月間の準備期間で、コンゴは独立した。
169
しかも、ベルギー政府は、コンゴに対して高等教育をほとんど施しておらず、
大学も一校しか設けていなかった。独立した時は、大学を卒業した者はわずか
16人しかいなかった。そうした状態で国が纏まるはずもなく、コンゴは独立
とともに大混乱に見舞われた。
(2)さらに、ベルギー政府は、コンゴの貴重な鉱脈が集中するカタンガ州を
焚きつけ、分離・独立をさせようとしたのである。これがいわゆるコンゴ動乱
である。1960年7月11日、カタンガ州はコンゴ民主共和国からの分離独
立を宣言、大統領モイザ・チョンベが就任した。
カタンガに続き、同年8月6日、カタンガ州の北側に位置するカサイ州南部
が、南カサイ鉱山国として、独立を宣言した。また、北東部では、その他の反
政府勢力の活動が活発化した。
コンゴ動乱では、コンゴ軍やベルギー軍、カタンガの白人傭兵部隊、国連軍、
さらには、共産ゲリラなどが入り乱れ、コンゴは一時地獄の様相を呈した。
この動乱は、結局、国連軍がカタンガの部隊を制圧し、独立宣言を撤回させ
たことで一応の収束をみたが、現在でもコンゴでは内戦が続けられており、安
定が訪れたとは言い難い。
当時の国連事務総長ダグ・ハマーショルドは停戦のために同地を訪れたとこ
ろ、搭乗するチャーター機が墜落、命を落としている。
(3)コンゴは、アフリカ中央部のコンゴ川流域の広大な地域で、アフリカ中
央の赤道付近を、全長4370km、流域面積約400万km2のアフリカ第2の
大河コンゴ川が流れている。
ザンビア北部の山地に発するルアプラ川がルブア川となり、シャバ地方に発
170
するルアラバ川に合流、さらに北流し、スタンリー滝を経たところでコンゴ本
流となる。
その後、キサンガニから西流、ロマミ川を合わせてコンゴ盆地の大動脈をな
し、南西に転じてウバンギ川、カサイ川を合わせキンシャサに至っている。
以後は急流をなし、広大な河口部で大西洋に注いでいる。
コンゴ川本支流の流域の大部分はコンゴ盆地に占められている。
高原や山地で囲まれた盆地で、最低部の標高約200m で、ほぼ中央を赤道が
通っており、典型的な熱帯雨林気候地帯をなしている。
東部に標高3000∼5000m の山地があり、東部国境にはアルバート湖、
エドワード湖、タンガニーカ湖などの湖が並ぶ。
南部のシャバ (旧・カタンガ)州は高原地帯をなし、銅、コバルト、スズ、
亜鉛、マンガン、ウランなどの鉱物資源が豊富である。 主要な交通路はコンゴ
川で、電源開発計画も進められている。
(4)14∼15世紀に栄えたコンゴ王国は、同地バントゥー文化の一大頂点
を形成した。同王国の広大な領域は、ヨーロッパの進出により、20世紀に、
ガボン南部、コンゴ共和国、コンゴ民主共和国、アンゴラ北部の4ヶ国に分断
された。
(4)この4ヶ国中最大の面積・人口を持つコンゴ民主共和国の歴史は、次の
通りである。
171
前述の通り、19 世紀後半、 ベルギー国王レオポルド2世に委託されてスタ
ンリーがコンゴ川全流域を探検し、レオポルド2世はコンゴでの権益を拡大し
た。
1910年、フランスは、現在のガボン、コンゴ共和国、ウバンギ・シャリ
(現・中央アフリカ)
、チャドをまとめて植民地「フランス領赤道アフリカ」を
形成した。
第2次大戦後 、民族独立運動が高揚し、1958年、フランスは仏領赤道ア
フリカ・コンゴー州(ブラザヴィル・コンゴ)を、フランス共同体内の自治共
和国とした。
1960年7月、ベルギー領コンゴ(キンシャサ・コンゴ)は「コンゴ共和
国」としてベルギーから独立した。
1960年7月、フランスは、フランス共同体のコンゴ自治共和国(ブラザヴ
ィル・コンゴ)を「コンゴ共和国」として独立させた。
1960年7月∼1965年3月にわたって、独立直後のコンゴ共和国 (キ
ンシャサ) で激しい内乱が勃発、東西冷戦を背景に長期化した。
(6)前述の通り、内乱が本格化する中、カタンガ州の有益性に目を付けたパ
トリス・ルムンバ首相 (1925∼1961) とカサヴブ大統領は、それぞれ
独自に反乱を鎮圧しようとして軍を動かし、互いに相手の罷免を声明するなど、
中央政府内の対立も激化、モブツ軍司令官 (1930∼1997) がクーデタ
ーで一時実権を握る(1960年9月)事態となった。
この間、東側諸国はルムンバ派を支持し、一方、欧米諸国は、ユニオン・ミ
ニエール会社に出資するなどしてカタンガ州の豊かな鉱物資源に利権を持つた
172
め、曖昧な態度に終始し、紛争を長引かせた。
1961年2月、根拠地スタンリービル(キサンガニ)へ脱出を図ったルム
ンバはカザヴブ派に捕らえられ、虐殺された。この間、同胞の保護を理由にベ
ルギーが派兵し、カタンガ州の反乱を鎮圧、またルムンバ派部隊をも反乱軍と
見なして駆逐した。これに対し国連がその撤退を要求するなど、動乱は国際紛
争の色彩をも帯びた。
同 年8月、アドウラ首相の挙国一致内閣が発足し、二つの中央政府の対立状
況は解消、南カサイの分離も撤回された。
しかしカタンガは分離状態を維持し、雇兵部隊(カタンガ憲兵隊)を強化し
て軍事的に対抗する姿勢を示したため、1962年12月、国連軍がカタンガ
に進撃、翌年、カタンガはこれに屈し、分離独立を撤回してコンゴに復帰し、
「コ
ンゴ動乱」は一応終結し、64年、国連軍は撤退した。
その後ルムンバ派のムレレ、グベニエ、スミアロらの指導する反政府勢力が
武装闘争を展開、一時は国土の半分を制圧する勢いを見せた。
1965年3月まで 、米国、ベルギーの支援を受けた中央政府が鎮圧した。
(7)コンゴ共和国(キンシャサ)の軍司令官モブツがクーデターで政権を握
り、大統領に就任し、ようやく政情が落ち着いた。
以後30年以上独裁体制を維持している。
1967年、モブツは国名を「コンゴ共和国」から「コンゴ民主共和国」へ
改称した。
1971年、モブツ大統領は外来語を廃して、国名を「コンゴ民主共和国」か
ら「ザイール民主共和国」と改称するなど、
「ザイール化」政策及びリンガラ語
173
の普及を進めた。
なお「ザイール」とは「全てを飲み込む混沌とした河」というほどの意味で
あり、これはモブツ大統領の生地であるコンゴ川中流エクアテール州の、世界
でも最も深いジャングルと湿地に由来する。これは草原地帯の「バ・コンゴ州」
とは全く異なる自然環境であり、いわゆる「コンゴ」とは異なる文化・伝統を
追求しようという政策だった。
一方、
「革命人民運動 (MPR)」による一党独裁体制を敷き、国内の不穏分子を
摘発して独裁体制を強化した。
1977年、モブツは大統領に再選された。
(8)1990年代、モブツ大統領は民主化の方針を打ち出すが、政権の腐敗、
民族間対立という難問を解決できず、内政は混乱した(大統領の不正蓄財は総
額およそ50億ドルと言われる)。
経済は破綻、治安は急速に悪化し、都心でも暴動が頻発した。
1992年8月、国民会議はチセケディ首相を選出したが、ところがモブツ大
統領は1993年3月に、ビランドゥワ首相を任命し、以降二つの内閣が並立
する異常事態となった。 1994年7月、コンゴ暫定政府が成立した。
(9)1994年、ルワンダ内戦が発生し、多数派のバントゥー系フツ族政権
下で、少数派のナイロート系ツチ族が虐殺された。穏健派フツ族も殺され、犠
牲者は80万人に達した。
殺害を行ったのは、コンゴ東部の森林・山岳地帯に古くから存在する多くの
軍事勢力、中でもフツ族「インタラムウェ」や、ルワンダ軍兵士の「ex-FAR」、
コンゴの古くからの「マイマイ」兵などが中心となっている。
174
ツチ族国家ウガンダはツチ族保護を口実に介入、報復を恐れたフツ族200
万人以上が西側のザイールや南のタンザニア領内に流れ込んだ。
しかし、ザイール領内の難民キャンプはツチ系バニャムレンゲ族の原住地だ
ったため、彼らはモブツ政権から市民権すら与えられず、迫害されていた。
彼らとフツ難民との間に紛争が発生すると、ザイール政府軍はフツ族側に立
って戦闘に参加した。
こうしてザイール領内に紛争が広がる中で、ウガンダの支援を受けたツチ系
バニャムレンゲ族が優勢になった。
(10)1996年8月、モブツ大統領入院の報を受けて、ザイール領内のツ
チ族最大勢力バニャムレンゲ族が一斉蜂起し、同年10月、ローラン・カビラ
人民革命党議長は在野の3勢力を結集して反政府組織「コンゴ・ザイール解放
民主勢力連合(ADFL)」を結成、反乱を開始した。
これらの連合勢力である ADFL は、ツチ族の軍事力を背景に西に向かって進撃
を続ける。
ADFL は、ツチ族国家ルワンダや、ツチ族大統領を擁するウガンダの支援を受
けたが、カビラ自身はツチ族ではない。
(11)1997年4月、ザイール領内でルワンダ難民(フツ族)大量行方不
明事件が発生した。
国連側は、ADFL 軍が少なくとも8万人のフツ族ルワンダ人を虐殺し、40カ
所以上の穴に埋めたとみている。
1997年5月18日、ADFL はザイールの首都キンシャサを制圧。
国名は再び「コンゴ民主共和国」に戻され、ADFL 議長カビラが大統領に就任
175
した。
モブツは亡命し、モロッコで死去した。
しかしカビラ新政権が異民族ツチによる干渉を嫌ったので、ツチ諸国とコン
ゴ民主共和国(旧ザイール)新政権との間に亀裂が広がった。
(12)1998年8月3日、東部キヴ州ゴマに本部をおく「コンゴ民主主義
運動 (CDC)」が武装蜂起して内戦が勃発(この反政府組織は続く1年ほどの間
に CFDC、次いで RCD と2回名称を変える)
。
CDC は一部ツチ族及び旧ザイール軍関係者からなる反政府勢力で、ウガンダ、
ルワンダ、ブルンジの3国が軍事支援を行っている。
(13)1998年8月23日、アンゴラ、ジンバブウェがカビラ政権支援の
ためにコンゴ民主共和国領内へ派兵、一挙に国際紛争へ発展した。
同年9月、首都キンシャサでの暮らしは、電力に加えてガソリンのパイプラ
インもカットされ、保存食を中心に物価が2∼3倍に上昇。水道が使えないた
めに、溜め水による伝染病の危機が広がる。経済活動の停止から銀行に現金が
戻らず、一般市民は物々交換と自給自足でその日暮らし状態になる。
停電の続くキンシャサでは、ラジオなどの情報源すらなく、風評が飛び交い、
市民は密告を畏れて集団行動をとっている。戦災孤児が多数発生して流浪し、
夥しい死体から掠奪して生活の糧を得ている。政府軍は若者を中心に路上生活
者を徴兵し、彼等も生活のために応じている。
1999年8月末、コンゴおよびルワンダ、ウガンダ、アンゴラ、ジンバブ
エ、ナミビアの計6カ国とコンゴの反政府勢力が停戦合意にこぎつけ、外国軍
隊は撤退、関係国が合同軍事委員会を設立し平和維持・停戦監視を行うことを
176
決定した。
しかし間もなく北部地域で戦闘が再発した上、紛争当事者が武器の調達など
を始めた。
2000年2月現在、コンゴ民主共和国はカビラ政権が支配する西・南部と、
反政府勢力が占領する東・北部とに分断され、しかも反政府勢力は三つに分か
れている。
(モザンビーク内戦)
(1)外務省公表資料によれば、モザンビークは、面積80,2万平方キロメート
ル(日本の約2,1倍)、人口2,010万人、首都は、マプトで(人口約 107
万人、2005年)、民族は、マクア・ロムウェ族など 43 部族からなっている。
言語は、ポルトガル語、宗教は、キリスト教(41%)、イスラム教(17,
8%)、原始宗教となっている。
モザンビーク共和国、通称モザンビークは、アフリカ大陸南東部に位置する
共和制国家である。南に南アフリカ共和国、南西にスワジランド、西にジンバ
ブエ、北西にザンビア、マラウイ、北にタンザニアと国境を接する。首都はマ
プト。旧ポルトガル植民地であり、ポルトガル語諸国共同体の加盟国である。
(2)政治体制は、共和制で、元首は大統領、首相が置かれている。議会は、共和
国議会(一院制)で、議員数250名、任期5年となっている。第二次世界大
戦後のアフリカ諸国のヨーロッパ諸国からの、植民地からの独立の波に乗り、
1964年9月に、モザンビーク解放戦線(FRELIMO)が武装闘争を開始し、約
177
10年を経てポルトガル本国でのカーネーション革命がきっかけとなり、19
75年6月25日に完全独立を果たした。
(3)独立後、FRELIMO は政党化し、一党支配によるマルクス主義路線を推進し
た。しかし、1982年、ポルトガル領時代の元秘密警察を母体とする反政府
組織モザンビーク民族抵抗運動(RENAMO)と政府軍による内戦が勃発。内戦が
長期化する中で、1989年、政府は社会主義体制の放棄を決定、翌1990
年、複数政党制と自由市場経済を規定した新憲法を制定した。そして、199
2年に国連の和平協定により内戦が終結した。
(4)1986年10月、事故死したマシェル大統領を継いだシサノ大統領(前
外相)はマシェル路線を踏襲。1989年7月の第5回党大会で、マルクス・
レーニン主義を党の綱領より落とし、1990年11月には国名変更、大統領
の直接選挙を規定する新憲法が発効するなど、民主化を進めつつある。
(5)1990年7月以降イタリア政府の仲介の下、ローマにおいて反政府ゲ
リラ・レナモとの直接交渉が行われ、12月には部分的停戦協定に合意。19
92年10月4日に包括和平協定の調印に至り、独立以来の同国の内戦は終結
した。同協定に従い、国連監視による政府軍及びレナモ軍のキャンプ地への集
結、両軍の武装解除、新国軍の創設及び 1 年以内の総選挙等の和平プロセスが
実施に移され、1994年10月27日より29日まで和平プロセスの最終段
階として大統領選挙及び議会選挙が実施された。
178
(6)1994年12月9日、シサノ大統領が新大統領に就任、また、同月1
6日に新政府が発足した。レナモは野党となった。新政権成立後の政情は安定
しており、平和が定着し復興は順調に行われている。
1999年12月、内戦後2回目の大統領・国民議会選挙が実施され、シサ
ノ大統領が再選された。国民議会は与党フレリモ133議席、野党117議席
となった。
2004年12月、第 3 回大統領・国民議会選挙が実施され、ゲブーザ与党
公認候補(フレリモ党幹事長)が大統領に選出された。国民議会はフレリモが
勝利した。
(7)モザンビークの主要産業は、(農)カシューナッツ、小麦、綿花、砂糖、
(漁)エビ(工鉱)アルミである。
国民所得は、69億ドル(2006年:世銀)、1人あたり340ドルである。
1987年以降構造調整計画を実施。農業開発に重点を置き、財政・税制改
革を行い民間部門の拡大による持続的経済成長及び貧困の克服を目標としてお
り、1980年代前半の生産減少をくい止めることに成功。
1990年代後半には平和の定着とともに毎年6%前後の経済成長を遂げ、南
ア等からの投資も活発化し、アルミ精練、マプト回廊計画、ベイラ回廊計画な
どの大規模プロジェクトが実施されている。
2000年、2001年と連続した洪水災害により経済は打撃を受けたが、2
001年後半には、復興のためのインフラ修復事業や好調な外国直接投資を背
景に回復基調を取り戻し、現在では年7∼8%の経済成長を遂げている。
179
(ソマリア内戦)
(1)外務省公表資料によれば、ソマリアは、面積63万8千平方キロメート
ル(日本の約1,8倍)、人口840万人(2006年:世銀)人口増加率3,
0%(2006年:世銀)、首都はガディシュ(人口約100万人)、住民は、
ソマリ族(民族的には一つだが、多数の氏族に分かれる)、言語は、ソマリ語
(公用語)、英語、イタリア語、アラビア語で、宗教はイスラム教(95%)
である。
(2)ソマリア支族は、19世紀後半までは、現在のソマリア国境よりも広い
領土を持っていた。現在のジプチやエチオピア、ケニアにまで分布していた。
20世紀にイギリス、フランスなどが彼ら氏族領地を分断して保護領とした
ために、1960年代にソマリア共和国が誕生すると、これら国外の氏族の領
土を糾合しソマリ族の国家「ソマリランド」を建設しようという「大ソマリ主
義」が台頭していく。1977年には隣国エチオピアの革命に乗じてオガデン
地方に侵攻するオガデン紛争などを引き起こし周辺国との軋轢を生む。
(3)単一国家思想を抱いていたソマリアは、1969年に、シルマルケ大統
領が暗殺され、軍事クーデターが勃発するとバーレ政権が誕生し、現在のソマ
リア民主共和国が誕生する。バーレ政権は社会主義革命を実行し、ソ連の後押
しを得て外国企業を国有化するなど強権を発動した。更に自らの属する氏族以
外を弾圧した。このため他の氏族の反発を招き、1980年代に入ると、地方
を中心に反政府闘争が開始され、1991年にはハウィエ族が率いる反政府勢
力の USC(統一ソマリア会議)が首都モガディシオを制圧、バーレ大統領を追放
180
する。
(4)その後モハメド暫定大統領を指名して、政府運営を開始しようとするが、
最大の軍事力を持っているアイディード将軍派が、ソマリア国民同盟(SNA)を
結成。
この時北部のイサック族が主導するソマリア国民運動(SMN)は、両者の争いと
は別に、ソマリランド分離独立を宣言。南北が分断される形になり内戦が激化。
国民は飢餓状態に陥り人道支援の必要性が叫ばれた。1992年12月、国連
は内戦と飢餓に苦しむソマリアでの人道支援を目的として、国連ソマリア活動
(UNOSOM)を開始。米海兵隊を中心とした多国籍軍を派遣し「希望回復作戦
(OPERATION RESTORE HOPE)」を開始。また、国連の仲介で和平会議を開催す
る。しかし実権を握るアイディード派は強硬な姿勢を維持し武装解除を拒否。
援助物資の略奪を開始した。
1993年には国連憲章の定める武力行使を認めた平和執行部隊の UNOSOM II
が展開されるが、4月にアメリカ海兵隊が撤退するとアイディード将軍は国連
軍に対して宣戦を布告。6月にはパキスタン軍の兵士24人がアイディード派
の民兵に虐殺され、以降モガディシオを中心にアメリカ軍、国連軍を狙った攻
撃が激化していく。
(5)(ブラックシーの戦い)1993年8月末、度重なる国連軍の被害から
アメリカ軍特殊任務部隊タスクフォースレンジャーが、アディード将軍の逮捕
及び秩序回復を行うために派遣される。
デルタ、レンジャー、SEAL、160SOAR などで構成された特務部隊は当初3週間で
任務を終える予定であったが、作戦は難航していた。
181
1993年10月3日、アイディード将軍の潜伏地点を突き止めた特務部隊
「レンジャー」はモガディシオに奇襲作戦を開始。1 時間で終了するはずの任務
であったが予想以上のソマリア民兵の反撃に遭い、特殊部隊の運用するブラッ
クホークヘリコプターが撃墜。大規模な市街戦に発展する惨事となり多くの犠
牲を出し作戦は失敗に終わった。この結果アメリカ軍及び国連軍は1995年
3月にソマリアから完全撤退。その後アイディード将軍は大統領就任を宣言す
るが、その翌年に暗殺される。
(6)この展開によりソマリアの情勢は好転するかに見えたがアイディード将
軍の子息であるフセイン・アイディードがアイディード派の後継者となった事
で事態は混沌としていく。1997年には無政府状態の中、停戦が発効される
が現在も戦闘は止んでおらず、現在でも実行支配する氏族もでてきていない。
この内戦でソマリアでは50万人が餓死し周辺諸国へ脱した難民は100万人
に上っている。
(南アフリカアパルトヘイト運動)
(1)外務省公表資料によれば、南アフリカ共和国は、アフリカ大陸最南端に
位置する共和制国家で、通称は、南アフリカ、略称は、南ア。イギリス連邦加
盟国。鉱物資源に恵まれ、金やダイヤモンドの世界的産地である。面積は12
2万平方キロメートル(日本の約3,2倍)、人口4,740万人(2006
年:世銀)、人口増加率 1.1%(2006年)で、人種は黒人(79%)、白人
(9,6%)、カラード(混血)(8,9%)、アジア系(2,5%)となっ
ており、首都はプレトリアである。言語は、英語、アフリカーンス語、バンツ
182
ー諸語(ズールー語、ソト語ほか)の合計11が公用語で、宗教はキリスト教
(人口の約 80%)、ヒンズー教、イスラム教となっている。
(2)政治体制は、共和制で、元首は大統領、議会は二院制(全国州評議会9
0名、国民議会400名)
(3)産業のうち、「農業」は、畜業、とうもろこし、柑橘類、その他の果物、
小麦、砂糖、羊毛、皮革類、「鉱業」は、金、ダイヤモンド、プラチナ、ウラ
ン、鉄鉱石、石炭、銅、クロム、マンガン、石綿、「工業」は、食品、製鉄、
化学、繊維、自動車となっている。
(4)1896年、南アフリカ戦争が、イギリス系白人とアフリカーナの間で
始まった。そして、1910年に、連邦国家が成立した。
1913年に、土地法が成立し、南アフリカの一部の農村地帯をアフリカ人向
けの居住区に指定。これ以外の土地ではアフリカ人は土地の購入や賃借ができ
なくなる。この法の成立によりアパルトヘイトの枠組みができた。
1936年以降 アフリカ人の選挙権は剥奪されていった。
アパルトヘイトが起こった理由として二つの事が考えられる。
一つは南アフリカ戦争によるアフリカーナの貧困の激化、もう一つはアフリカ
ーナの信仰するオランダ改革派教会の教義に由来する。それは、全ての人間は
神に救われる物と救われざる物に分かれ、非白人は生まれつき白人の下僕にな
ることが運命づけられているというものである。
183
(5)1948年
第二次世界大戦後、初の総選挙 与党(連合党)と野党(国民
党)の一騎打ちとなり、国民党は選挙スローガンに分離・隔離を意味するアパル
トヘイトをスローガンに掲げた。そして、国民党が政権を握った。
1950年に、「すべての南アフリカ人を白人、カラード、インド人、アフ
リカ人という四つの人種に分ける。」ことを内容とする人民登録法が成立した。
これ以降様々な差別法が出来だし、1960年代に入るとアパルトヘイトは完
成された。
(6)その一方で、本格的な黒人大衆運動が始まる。その主な団体としてネル
ソン・マンデラが、所属するアフリカ民族会議(ANC)、南アフリカ・インド人会
議(SAIC)などがある。のちにアフリカ民族会議は分裂し、パンアフリカニスト
会議(PAC)ができる。1955年 ANC や SAIC などによりクリップタウンで「南
アフリカは、黒人、白人をとわず、そこに住む全ての人々に属する。」という
文言ではじまる『自由憲章』が採択された。
政府はそこに集まった群衆を解散させ、1956年には中心的な活動家を反逆
罪で告訴した。
1960年、PAC の呼びかけに集まったアフリカ人群集に向かって、警官隊が一
斉射撃を行い67人が虐殺されるというシャープビル虐殺事件が起こった。
ANC、PAC を非合法化し、大衆運動を力で押え込もうとしたのである。
1961年 英連邦から脱退、1962年 ネルソン・マンデラ氏が逮捕された。
184
1989年 デグラーク大統領就任。
1940年代後半以降継続されていたアパルトヘイト政策は、国連の経済制裁
や反アパルトヘイト運動の激化も受け、1989年のデ・クラーク大統領就任
以来、撤廃に向けての改革が進展し、1991年には関連法が廃止された。1
991年 土地法、集団地域法、人種登録法廃止=アパルトヘイト廃止。
(7)1994年4月には南ア史上初めて黒人を含む全人種が参加した総選挙
(制憲議会選挙及び州議会選挙)が実施され、人口の77%の黒人に支持され、
アフリカ民族会議(ANC)が62%を得票して勝利し、ANCのマンデラが、
史上初の黒人大統領に選ばれる。また第一副大統領にはANCのムベキが、第
二副大統領に国民党のデクラークが就任し、国民統合政府が成立した。
また、1996年に新憲法が議会で採択され、1997年2月に発効した。
(8)マンデラ大統領はまず貧困問題に着手する。選挙前から打ち出していた
公約である格差を是正しようとする復興開発計画(RPD)を進める。RPDと
は住宅建設、電化、上下水道の整備、土地の再分配、雇用創出などといった貧
困層向けの社会政策である。
RPD事務局が1995年発表した報告書によると、南アフリカの全住民の
52.8%が貧困層とされ、この人たちの失業率は50%の水準に達していた。
さらに、人種別で見ると貧困層の94.7%を占めているのはアフリカ人であ
った。
185
また、1996年にはマクロ経済成長戦略(GERE)を実施している。これは成
長、雇用、再分配と題された包括的なマクロ経済政策である。
(9)1999年6月2日に民主化後第2回目の総選挙が行われ、与党アフリ
カ民族会議(ANC)が前回を上回る66%を獲得して勝利し、国民議会の投票に
よりマンデラ大統領の後継としてムベキ大統領が選出された。
しかし、これらの政策はうまくいっていないようだ。経済成長率は1999
年で0.7%で、失業率は30%以上で、黒人層であれば40%以上だという。
この貧富の差からも分かるようにアパルトヘイトが撤廃されてもすぐにあらゆ
る問題が解決するわけはない。アパルトヘイトがもたらしたものは貧困、失業
といったものだけでなく、暴力が広く国民に浸透してしまった事も忘れてはな
らない。
(10)2004年4月に民主化後の3度目となる総選挙が実施され、与党 ANC
が前回を上回る約70%の得票率で勝利し、ムベキ大統領も再任された。同大
統領は所信表明演説において、貧困と開発問題の解決のため、経済の成長と発
展による雇用の創出、貧困撲滅のための社会保障制度の構築などを主要課題と
して掲げた。
2005年2月、ムベキ大統領は「民主主義の更なる発展、真の非人種差別
社会への転換、精神的・物質的に満たされる未来への展望、安全と治安の確保、
アフリカ・ルネッサンスの勝利に向けた貢献」を重視していく旨の施政方針演
説を行った。
186
(11)2008年9月、ANC 中央執行委員会は、大統領任期満了(2009年
4月)前に、ムベキ大統領に対し、辞任を要求。これを受けて同大統領は辞任
し、国民議会にてモトランテ ANC 副総裁が、大統領に選出された。2009年
前半には総選挙が行われ、改めて大統領が選出される見通しである。
(12)なお、1994年5月の全人種参加型選挙によるマンデラ政権誕生後、
同年中にアフリカ統一機構(OAU)及び南部アフリカ開発共同体(SADC)への加
盟、英連邦への再加盟を果した他、国連総会の議席を20年振りに回復した。
南アフリカの基本的外交方針は、(イ)南部アフリカ及び他のアフリカ諸国
との政治的連帯及び SADC 等を通じた経済的協力関係の強化、(ロ)国連等の国
際機関を通じた平和・民主主義・人権擁護への貢献の重視、(ハ)政治・経済・
開発等の重要分野における欧米諸国や日本とのこれまでの協力関係の維持・発
展、(ニ)アジア諸国や中東諸国等との新たな経済関係の強化である。
南アは、アフリカ地域のリーダーとして、外交面でもリーダーシップを発揮し
ており、コンゴ(民)、コートジボワール、スーダン、及びブルンジにおける
紛争解決や平和の定着にも積極的に取り組んでいる。また、2002年8月∼
9月には持続可能な開発に関する世界首脳会議(WSSD)の開催国となった。
ムベキ大統領は2000年の九州沖縄サミット以降、G8首脳と途上国首脳と
の対話に毎年出席している。直近では、2008年7月の北海道洞爺湖サミッ
トにも出席しており、アフリカのみならず、広く途上国の代表として行動して
いる。
187
(13)南ア経済は、19世紀後半にダイヤモンド、金が発見されて以降、鉱
業主導で成長し、これによって蓄積された資本を原資として製造業及び金融業
が発展していたが、近年ではかつての主力産業であった鉱業(1990年の対
GDP 比9,7%)の比率が減少を続けている一方、金融保険(1990年の対
GDP 比は14,5%)の割合が拡大している。2006年の GDP 部門別内訳は、
農業2,7%、鉱工業30,9%、サービス業66,4%であり、先進国同様、
南ア経済は第三次産業の割合が高くなっているが、貿易構造は、鉱物資源輸出
への依存が依然として高い。なお、輸入では先進国からの機械類の比率が高い。
(14)南アは、1996年に金融政策・貿易の自由化、財政の健全化、諸規
制の撤廃を掲げたマクロ経済戦略「成長・雇用・再分配(GEAR)」を策定し、
以後、自由化による経済成長路線を歩んでいる。現在でも経済政策の基本はG
EARであるが、医療福祉、中小企業振興等への財政支出の増加等も強化して
いる。他方、失業は依然として大きな社会問題となっており、1997年の2
1%以降、20%を越える高い水準で推移しており(2006年は25,5%)、
人種間の格差が大きいのが特徴である。
(15)ムベキ大統領は2005年2月の施政方針演説において、経済成長目
標(10年以降6%台の経済成長、114年までに失業率を半減すること)を達
成するための「経済成長加速化戦略(ASGISA)」の策定に言及した。ASGISA で
は、成長の阻害要因として熟練労働者不足、高い輸送費用等を指摘し、その解
決策として教育・能力開発やインフラ整備などを挙げている。
(16)日本は、1999年6月のムベキ大統領の就任時に、貧困撲滅と黒人
の地位向上を目指した経済社会改革を支援するための政策を発表した。
188
なお、2001年10月、ムベキ大統領が来日の際に日・南ア共同コミュニ
ケを発表し、貧困撲滅・削減と社会格差の解消を目指した経済・社会改革の推
進努力を支援していくことを表明した。
第十二章
欧州統合の歴史と意義
(1)2007年1月、EU(ヨーロッパ連合)は、ルーマニアとブルガリアが加盟し、27
カ国となり、巨大な超国家が誕生した。人口では EU は5億人、アメリカは3億人、日本
が1,3億人、経済規模では EU が世界の GDP の30%を占め、これにアメリカの28%、
日本の10%が続いている。
(2)EU は、そもそもヨーロッパから戦争をなくそうという誓いから始まった。二度
の大戦で大きな被害を受けた欧州が戦争をしないために、国境線をなくそうという発想
だった。
そのために身近なエネルギーや経済など、統合できるところから始めようということにな
り、1952年、欧州石炭鉄鋼共同体が発足し、その後、欧州経済共同体(EEC)、欧州
共同体(EC)に発展、さらに EU へと統合が進み、一つの国であるかのような体制に成
長した。
加盟国間では互いに関税が撤廃され、輸入品の価格が低下、パスポートなしで自由
に行き来できるようになり、人とモノが活発に動くようになった。
(3)1995年には加盟国が15カ国となり、2004年には東欧諸国も参加して25
カ国に、そして2007年に遂に、27カ国体制になったのである。
189
(4)EU は、通貨の統一も進め、「ユーロ」を誕生させた。2002年に EU 加盟国の
うち12カ国でユーロを導入、2007年1月にスロベニアが導入、さらに2008年1月には
キプロスとマルタも導入し、これでユーロ圏は計15カ国にまで拡大した。ユーロ域内で
は、共通通貨導入で経済が大きく発展、ドルの下落もあって、ユーロ高が進んだ。保
有する外貨としてユーロの比重を高くする国も増え、ドルに代わる国際通貨の地位を
獲得しつつある。
(5)EU の歴史は、順調なことばかりではなかった。2003年、EU は将来の政治
統合も視野に入れ、EU の憲法条約を起草した。将来の「ヨーロッパ合衆国」を目指す
ものである。これは、加盟国すべての批准で効力を持つが、2005年、フランスやオラ
ンダが批准を否決、憲法条約は実現しなかった。
(6)そこで2007年6月、各国は、EU の憲法条約に代わり、「改革条約」(リスボ
ン基本条約)締結に向けた交渉に入ることを決めた。各国の主権に配慮して、EU の憲
法条約にあった「国旗」(青地に十二の星の円である現在の EU の旗)、「国歌」(ベート
ーベンの「歓喜の歌」)を規定する条項や、EU 大統領をつくる案も削除した。内容は簡
素になったが、政治統合を実現しようという考え方の骨格は残っている。
EU 理事会の議長については、現在は半年ごとの持ち回りになっているが、今後は
二年半の任期とし、再任も 1 回はできることになり、最長5年務めることが可能になっ
た。
(7)これまで、EU の議事運営は、原則として全会一致で行ってきたため、1カ国
でもノーと言うと何も決まらなかった。そこで、「改革条約」(リスボン基本条約)では、加
盟国数と総人口を基準とする二重多数決制に移行することとし、加盟国の55%、かつ
加盟国全体の人口の65%が賛成しないと可決されないこととした。しかし、外交・安全
190
保障だけは依然として全会一致が原則とされている。
なお、「改革条約」(リスボン基本条約)の正式な名称は「欧州連合条約および欧州
共同体設立条約を修正する条約」である。2009年までにすべての欧州連合加盟国の
批准が完了し、発効する予定となっている。EU 憲法条約に大幅な変更が加えられた
ものの EU 憲法条約とは異なり、既存の基本条約と置き換えられるのではなく、修正す
る形をとっている。
(9)2004年に EU が 24 カ国に拡大して以来、貧しい東欧やアフリカからイギリス
フランス、ドイツなどの豊かな国に、60万人を突破する移民が殺到し、この多くが単純
労働に従事する労働者で、これらの移民の若者たちが、自動車に火をつけるなど全国
各地で暴れまわったり、キリスト教社会で疎外感を抱くイスラム圏出身者は、公共交通
機関を狙って、テロに走る者もみられた。(なお、現在のサルコジ大統領自身は、親が
ハンガリーからの移民であり、暴動に走る移民の若者を人間のクズと呼んで、怒りの火
に油を注いだ。)このため、イギリスやフランスなどでは、東欧諸国などからの年間の移
民数の制限を行う「選択的移民政策」をとっている。
(10)
なお、トルコの EU 加盟がたなざらしになっているが、「イスラム国家はキリスト
教社会の EU の仲間にいれたくない」というのが、EU 首脳の本音だといわれている。
191
第十三章
その他
(世界最小の国・バチカン市国ができた理由)
(1) 世界で一番小さな国は、バチカン市国で、その広さは0,44平方キロメートル、
東京ディズニーランド(ディズニーシーを含まない)より少し狭い位である。そのような狭
い国土に1000人ほどの国民がいる。バチカン市国というのは宗教国家、つまりカトリッ
クの総本山である。それが、国家として特別に認められているのである。
ローマ・カトリック教会というのは、現在も10億人の信徒を持つ大宗教団体である。中
世には広大な領土を寄進され、ヨーッロッパの王侯たちに勝るとも劣らない権力を持っ
ていた。
しかし、近代になって、ヨーッロッパの諸国家が宗教と切り離されてくると、徐々にそ
の影響力を失っていった。1860年、イタリアが独立したときに、イタリア政府はバチカ
ンを国家としては認めず、教皇領は没収された。バチカン市国は、はそれに抗議して、
以降70年間もバチカンから一歩も出なかったことなどもあった。
(2)しかし、1920年代、ムッソリーニが政権をとってから、イタリア政府とバチカンは和
解した。「イタリア政府はバチカンを国として認め財政的な援助をする。」「バチカンは
教皇領を放棄する。」という条件で、1929年に両者が合意、バチカンはめでたく国家
として成立したわけである。
(3)ただし、このバチカン市国は、普通の国とちょっと違い、バチカン市国は、ローマ法
王が統治者となっており、国民のほとんどが聖職者である。カトリックの聖職者の中で、
バチカンで働くことになった人が、バチカン国民になるわけだ。つまり、バチカンの国
民になるには、聖職者になってバチカンに召集されなければならない。また一度バチ
192
カン国民になった人でも、バチカンでの職務が終われば、国籍を返上する決まりにな
っている。
(4)バチカンは世界遺産になっており、サンピエトロ大聖堂、バチカン宮殿、バチカン
美術館など、有名な観光スポットをいくつももっている。これらの美術館入場料など観
光収入と世界中のカトリック信者からの寄付が、バチカンの財政を支えている。
(キプロス問題)
(1)トルコの南の東地中海上に位置する島国・キプロスは、国が2つに分断された分断
国家である。その歴史を辿ると、地中海の要衝にあるキプロス島は、古くからさまざまな
国の支配を受けてきた。オスマン帝国の支配下にはいったのが、16 世紀末。その後、
キプロスは、19 世紀になると、統治権はイギリスの手に渡り、第一次大戦で、イギリスと
オスマン帝国が対立すると、それを理由にイギリスに併合されることになった。
(2)第二次世界大戦後には、島内で反イギリス運動が起こり、島にはギリシャ系の住民
とトルコ系の住民が暮らしていたが、ギリシャ系の住民はギリシャ系による併合を、トル
コ系の住民はトルコによる併合を求め、テロ活動などを開始した。これに手を焼いたイ
ギリスは、1959年にギリシャとトルコの間で3国協議を行い、中間案をとって、キプロス
を独立させることで合意した。
そして、1960年、キプロスはイギリス連邦の独立国として歩み始めることとなった。
住民はギリシャ系が77,8%、トルコ系が10,5%などである。 1963年にギリシャ系
住民とトルコ系住民の間で内戦が起き、64年から国連平和維持軍が駐留を開始し
た。
193
(3)しかし、74年にギリシャ軍事政権がキプロスに介入、トルコはトルコ系住民保護を
理由にキプロス北部に派兵。83年に「北キプロス・トルコ共和国」が独立を宣言したも
のの、トルコのみが承認。以来、南北分断が続いている。
(4)しかし、2008年、ギリシャのカラマンリス首相が半世紀ぶりに、トルコの首都アンカ
ラを訪問し、エルドアン首相との会談で、キプロス問題などで停滞していた両国関係の
改善と平和構築の推進に合意した。
(ケベック独立運動)
(1)ケベック解放戦線(FLQ)は、カナダ・ケベック州の独立運動を主張して
きたカナダの左翼テロリストグループである。
1963年から1970年にかけて、発砲による2件の殺人、少なくとも3人
が死亡した爆弾テロ、銀行強盗、誘拐を含む200件以上のテロ行為を行った。
特に1970年に引き起こした連続要人誘拐とテロは「オクトーバー・クライ
シス」として知られる。
メンバーの数人は、ジョルジュ・シェーテルス(ベルギーの革命家で、KGB エー
ジェントであったと思われる人物)による訓練を受けており、チェ・ゲバラを
英雄視していた。FLQ メンバーのノルマン・ロワとミシェル・ランベールもまた、
ヨルダンでパレスチナゲリラから暗殺に関するトレーニングを受けていた。
ケベック大学の歴史学教授だったロベール・コモによるヴィジェ・セル、他に
ディエップ・セル、ルイ・リエル・セル、ネルソン・セル、サン‐ドニ・セル、
リベラシオン・セル、シェニエ・セルなど、さまざまな武装細胞が次々に組織
194
された。中でもリベラシオン・セルとシェニエ・セルは、オクトーバー・クラ
イシスに深く関与していたことで知られる。
(2)FLQ はケベック主権運動を援助するため、1963年に結成された。その
創設は、長期にわたってケベックを統治した州知事モリス・デュプレシの死に
続く、「静かな革命」(ケベック州政府が経済的、社会的問題により積極的な役
割を演じ始めた時期)と一致している。
FLQ のメンバーはマルクス主義に基づき、圧制的支配階級であるアングロフォー
ヌ(英語を話すケベック州民)からの解放、ケベック政府の転覆、カナダから
のケベック州の独立、フランス系カナダ人労働者による社会の建設などについ
てのプロパガンダを行い、またそれらに向かった活動を実践した。
FLQ は、過去あるいは海外(例えばアルジェリア、ベトナム、キューバの独立な
ど)の社会主義的独立運動に強く影響されていた。さらに注目すべきは、19
65年にジャーナリストのピエール・ヴァリエールが FLQ に参加したことであ
る。彼がケベックの労働者階級の歴史的な地位の変遷を米国の黒人労働者と比
較したマルクスによる分析を読んだ3年後のことである。
(東チモール独立運動)
(1)東ティモール民主共和国、通称東ティモールは、東南アジア地域の島国。
1999年8月30日、国連主導の住民投票によりインドネシアの占領から解
放され、2002年5月20日独立した。国際法上はポルトガルから独立した
ことになる。21世紀最初の独立国。
195
小スンダ列島にあるティモールの東半分とアタウロ島、ジャコ島、飛び地オエ
クシで構成されている。南方には、ティモール海を挟んでオーストラリアがあ
り、それ以外はインドネシア領である。
(2)1949年にインドネシアの一部として西ティモールの独立が確定した
後もポルトガルによる支配が継続した。1974年にポルトガルで左派を中心
としたカーネーション革命が起こり、植民地の維持を強く主張した従来の保守
独裁体制が崩壊すると、東ティモールでも独立への動きが加速し、マルクス主
義色の強いフレティリン(東ティモール独立革命戦線)がその中心となった。
この動きは、東ティモールの領有権を主張し、反共主義を国是とするインドネ
シアのスハルト政権にとっては容認できず、反フレティリンの右派勢力を通じ
た介入を強化した。
1975年、右派勢力と連携したインドネシア軍が西ティモールから侵攻を開
始する中、11月28日にフレティリンが首都ディリで東ティモール民主共和
国の独立宣言を行った。しかし、直後にインドネシアが東ティモール全土を制
圧し、1976年に27番目の州として併合宣言を行った。国連総会ではこの
侵略と不法占領を非難する決議が直ちに採択されたが、米・欧・豪・日など西
側の有力諸国は反共の立場をとるインドネシアとの関係を重視し、併合を事実
上黙認した。
(3)スハルト政権は東ティモールの抵抗に対し激しい弾圧を加えたため、特
に侵略直後から1980年代までに多くの人々が虐殺や飢餓により命を落とし
た。インドネシア占領下で命を失った東ティモール人は20万人にのぼると言
196
われている。1991年、平和的なデモ隊にインドネシア軍が無差別発砲し、
400人近くを殺したサンタクルズ事件は、住民の大量虐殺事件として世界的
に知られることになった。また、官吏や教員などを派遣して徹底した「インド
ネシア化」も推進した。フレティリンの軍事部門であるファリンテルは民族抵
抗革命評議会(CRRN)の主要メンバーとなり、シャナナ・グスマンが議長にな
ったが、インドネシア政府はグスマンを逮捕し、抵抗運動を抑え込んだ。その
一方で、1996年にはノーベル平和賞が現地カトリック教会のベロ司教及び
独立運動家のジョゼ・ラモス・ホルタに贈られた。
1998年にインドネシアでの民主化運動でスハルト政権が崩壊すると、後任
のハビビ大統領は東ティモールに関し特別自治権の付与を問う住民投票を実施
する事で旧宗主国のポルトガルと同意した。
(4)1999年8月30日に国連(UNAMET)の監督のもとで住民投票が行わ
れ、特別自治権提案が拒否された事で独立が事実上決定したが、これに反発す
るインドネシア治安当局は、インドネシア併合維持派の武装勢力(民兵)を使
って破壊と虐殺を行い、それがほぼ終了した段階で、多国籍軍が派遣された(東
ティモール紛争)。その結果、暴力行為は収拾したが、多くの難民が西ティモ
ールに逃れ、あるいは強制的に連れ去られたりした。1999年10月には、
国連東ティモール暫定統治機構(UNTAET)が設立、2002年まで独立を率い
た。
(5)その後の制憲議会選挙ではフレティリンが圧勝し、大統領にはシャナナ・
グスマン、首相にはマリ・アルカティリが選出され、2002年5月20日に
197
独立式典を行った。独立後、国連は国連東ティモール支援団(UNMISET)を設立、
独立後の国造りの支援を行った。この中で、日本の自衛隊も国連平和維持活動
(PKO)として派遣され、国連と協力して活動を行った。2005年には、国連の
平和構築ミッション、UNOTIL(国連東ティモール事務所)が設立されたが、2
006年の暴動を受け、同年8月には国連東ティモール統合ミッションが設立。
平和構築ミッションから、再び、平和維持活動へと逆戻りした。
独立後、西部出身の住民と東部出身の住民間の対立や、西部出身の軍人と東部
出身の軍人間の対立や、歴代の大統領や首相間の権力闘争が続き、たびたび暴
動が発生して、政治や社会は混乱した。
(6)このため、治安維持が不可能となった政府は、オーストラリア・マレー
シア・ニュージランド・ポルトガルに治安維持軍の派遣を要請し、翌日には東
ティモールへの利権を確保することを意図したオーストラリア軍が早速展開し、
その後4カ国による治安維持が行われた。
2008年2月11日にも、大統領や首相が、反政府勢力となった国軍の少佐
指揮の武装集団に襲撃されるなどの事件が起こっている。
オーストラリア政府の支援による警察の再建など、治安の回復には時間がかか
ると思われる。
(メキシコ先住民問題)
(1)メキシコは500年前のコロンブス新大陸発見によりスペインに侵攻さ
れた。1500年代にはアステカ王国が滅亡しマヤ人の末裔である先住民達は
198
弾圧されていく。現在では900万人が先住民とされ人口の 1 割となっている。
(2)メキシコ最南部のチアパス州は25%が先住民で貧困層が住む忘れられた
土地と呼ばれている。北部アカプルコや首都などではアメリカ企業がひしめき
ブランドショップが建ち並ぶ保養地などがある一方、南部の先住民居住地域で
は一日500円程度の収入しか得られないなど経済格差が広がっている。また
字の読めない住民がメキシコで最も多く、トイレ、下水、電気などの設備も殆
ど整備されていない。1990年代に入っても州支配者による弾圧、不当逮捕、
拷問などが行われ住民の不満は高まる一方である。
(3)そんな中1994年 1 月にチアパス州のサンクリストバル・デ・ラスカ
サスを中心に反政府組織が武装蜂起。サパティスタ民族解放軍(EZLN)を名乗
り陸軍基地、市庁舎などに攻撃を仕掛けた。
彼らは「ラカンドン密林宣言」を発表し、マヤ系住民の生活向上と差別撤廃の
為の闘争を宣言した。これに対してメキシコのサリナス大統領は、チアパス州
全体に軍隊を派遣。EZLN 支配地域に空爆を行い陸軍部隊と EZLN の戦闘が激化。
数百名の犠牲者を出した。
2000年7月にビセンテ・フォックス大統領が就任すると、EZLN に対する対
話を開始。一方で政府はゲリラの殲滅作戦を並行的に行い、先住民が虐殺され
るなどの事態が起きたため、和平は一進一退の展開になった。国際社会の非難
や協力もあり現在も交渉とさぐり合いが継続されている。
(ミンダナオ紛争)
199
(1)ミンダナオ島は、フィヒリピンでルソン島に次いで2番目に大きい島。
フィリピン諸島は、ルソン島周辺の群島・ヴィサヤ諸島・ミンダナオ島周辺の
群島という 3 つの大きな群島で構成されているが、国土の南三分の一の部分に
あたるのがミンダナオ周辺の群島である。ミンダナオ群島はミンダナオ島とそ
の南西のスールー諸島などから構成されており、6つの地方と25の州からな
っている。
東海岸(ディウアタ山地)、西海岸および中北部には2000m級の山脈があ
り、フィリピン最高峰の火山であるアポ山(2,954m)が中央ミンダナオ
高地にそびえる。
熱帯の気候であるが、北西太平洋に発生した台風はルソン島やヴィサヤ諸島へ
向かうため、ミンダナオ島にはまれにしか上陸しない。このためフィリピンの
他の地域に比べ台風の被害は比較的少なく、農業などにとり有利となっている。
主要な産業は農業・林業・漁業であり、特に商品作物のプランテーションが名高
い。カガヤン・デ・オロにはデルモンテ社の巨大パイナップル農場が、ダバオ
市近郊にもドール社による一面のバナナ農場が広がり、ともに加工工場も持ち
日本などへ出荷されている。これには、農民が大農園の農場労働者になって身
分が不安定になるという問題もある。北部カミギン島などビーチリゾートやダ
イビングといった観光業で収入を得る地方もあるが、ミンダナオ島西部やスー
ルー諸島はフィリピンでも最も貧しい地方のひとつで、政情不安やテロ集団に
よる観光客誘拐もあり、観光業の発達の障害になっている。
200
(2)ミンダナオ島は、中国と東南アジアの交易中継点となっていたが、南方
から来るマレー系人の間にイスラム教が広まりだしたのを機に、1380年ミ
ンダナオ島にもイスラム教が伝わり、後にフィリピン諸島各地に広がった。特
に1457年にスールー諸島に成立したイスラム教国・スールー王国は最盛期
にはミンダナオ島・パラワン島・ボルネオ島北部(サバ州)を統治した。フィ
リピン諸島におけるほとんどの領土をスペインに奪われたものの、ボルネオ北
部をイギリスに獲得される19世紀末まで存続していた。
ミンダナオ島が西洋人と接触したのは、1521年、フェルディナンド・マゼ
ランが率いていたスペイン艦隊が寄航した時である。その後16世紀半ばから
17世紀にかけて相次いでスペイン人航海者や兵士、宣教師が来航し、ミゲル・
ロペス・デ・レガスピが1565年にセブ島を征服した直後には、ミンダナオ
島北部もスペインの植民地支配下に入ったが、ミンダナオ島南部はイスラム教
勢力が強くスペインの力が及ばなかった。13世紀から現在のコタバト州周辺
に築かれたマギンダナオ王国は、17世紀スルタンのクダラットの治世にはミ
ンダナオ島全土と周辺の島々も征服し、スペイン人植民者も手を出せない存在
となった。
(3)マギンダナオ王国やスールー王国は徐々に衰え19世紀には滅亡し、ミ
ンダナオ南部もスペインのフィリピン植民政府によりゆっくりと征服されてい
った。たとえばダバオ付近がスペインに征服されたのは19世紀も半ばのこと
である。スペイン人の下、アニミズムを信じる住民のキリスト教への改宗が進
201
んだが、イスラム教の定着が古くスペイン人による征服が進まなかった南部で
はイスラム教が勢力を保ち続け、現在に至っている。
(4)今日、ミンダナオ島は、フィリピン国民の5%を占めているイスラム教徒
「モロ人」(「モスリム」から転じた)の拠点となっている。モロ人は民族的
には、島の中部ラナオ湖周辺のマラナオ人、マレーシア・サバ州とまたがって
住むタウスグ人などに分かれている。またキリスト教徒でもイスラム教徒でも
ない複数の部族に分かれた先住民、ルマド(Lumad)も存在する。
しかしミンダナオ島の圧倒的多数はキリスト教徒で、特に島の北部に住むブト
ウアン人はイスラム教の影響を受けず、アニミズムから直接キリスト教に改宗
している。また第二次世界大戦後、プランテーションを持つ大地主と土地を持
たない農園労働者との対立が激しい、人口過密なフィリピン中部ヴィサヤ諸島
や北部ルソン島などから多くの農民が自前の農地を持つために、移民・入植し
ているが、彼らはキリスト教徒であり言語ももとからのミンダナオ島民とは異
なるため、摩擦がある。
(5)さまざまなムスリム勢力が、スペイン・アメリカ合衆国・日本・フィリ
ピン政府などに対して数世紀にわたる苦難に満ちた独立闘争を行ってきたが、
キリスト教徒が多数を占める国から独立するという彼らの願いは戦力差のため
失敗し続けてきた。1943年10月14日のフィリピン独立後、数十年にわ
たって行われた国土統一維持政策やミンダナオ島への国内移民の流入により、
ミンダナオの人口の大多数をキリスト教徒が占めることになった。これにより、
貧しい上に社会の主導権を取って代わられたムスリムの怒りや、数百年にわた
202
る分離独立運動に火がつき、モロ・イスラム解放戦線(MILF) や新人民軍(NPA)
などさまざまな反政府グループとフィリピン国軍との内戦が頻発し、ミンダナ
オ西部は危険地帯と化した。
(6)21世紀に入り、中東での紛争と結びついたイスラム教原理主義系のテロ
組織の勃興により、ミンダナオ島やスールー諸島では、フィリピン国軍やアメ
リカ軍による共同軍事作戦、掃討作戦が行われている。特にミンダナオ島西部
はアブ・サヤフやジェマ・イスラミヤといった東南アジア全域で活動するとさ
れる国際的テロ組織が拠点を置き、モロ・イスラム解放戦線など伝統的な分離
独立運動と連携しつつ、これら比較的主張が穏やかな民族主義的独立派の基盤
を奪いかねないほど勢力が広がっているとされていたが、米比両軍による掃討
によりほぼ壊滅・弱体化したと思われる。しかし MILF は根強い支持基盤を持つ
ためまだ危険な地域も多い。
(ニューカレドニア独立運動)
(1)ニューカレドニアは、オーストラリア東方の島で、南太平洋のメラネシア
地域にあり、面積は 1 万 8575.5 平方キロメートル(四国ほどの大きさ)である。
本島グランドテールはこれらの島々の中で群を抜いて大きく、唯一山がちな島
である。島自体の面積は 1 万 6372km²、北西から南東に細長く伸び、長さは35
0Km、幅は50Km から70Km である。長く高い山脈が島の中央部に伸び、中に
は1500m を超える峰も五つある。島の最高地点はパニエ山(Mont Panié、標
高1628m)である。ニューカレドニアは世界のニッケル資源の四分の一を有
203
している。日欧米などの企業が採掘権を買っており、これらの採掘はほとんど
露天掘りで行われている。
ニューカレドニアは、ニューカレドニア島(グランドテール)およびロイヤル
ティ諸島 からなるフランスの海外領土で、事実上の植民地である。ニッケルを
産出する鉱業の島である一方、リゾート地でもある。
ニューカレドニアの人口は2004年の調査では約23万人で、政庁所在地で
人口最大の都市のヌーメアの人口は約9万人である。
民族構成は、メラネシア人 ; 42,5% (カナックと呼ばれる)、ヨーロッパ
人 ; 37,1% 、ワリシア8,4% 、他となっている。
(2)ニューカレドニアは南回帰線にまたがり、南緯19度から南緯23度に
わたっている。島の気候は熱帯で、季節によっては非常に雨が多い。東から太
平洋を越えて来る貿易風が山脈に当たり、大量の雨を降らせることで島内には
多くの熱帯雨林が形成されている。年間降水量はロワイヨテ諸島で約1500
ミリ、本島(グランドテール)東部の低地で約2000ミリ、本島(グランド
テール)の山岳部では2000から4000ミリに達する。本島の西側は山脈
の影となるため雨は比較的少なく、年間降水量は1200ミリである。
(3)
先住民は1960年代以降政党を組んで権利主張と独立運動、先住民文化
復興活動などを始め、ニューカレドニアは1986年以来、一度は1947年
に外された国連非自治地域リストに再度掲載されている。このリストには近隣
の島国であるアメリカ領サモア、イギリス領フォークランド諸島、ニュージー
204
ランド領トケラウなどが含まれている。1985年、先住民文化復興活動の先
頭に立っていたジャン・マリー・チバウ率いる社会主義カナック民族解放戦線
(FLNKS)は独立への扇動を行った。ジャン・マリー・チバウらは独立国家「カ
ナキー」の樹立を主張した。FLNKS 指導者の暗殺に端を発してカナックによる暴
動が始まり拡大し、ニューカレドニア全土に非常事態宣言が出される事態とな
った。特に1988年4月22日、独立過激派が27人のフランス国家憲兵隊
員と 1 人の裁判官を人質にとってロワイヨテ諸島のウヴェア島の洞窟に監禁し、
4人を殺害した事件が最大の危機となった。この事件は5月、海軍特殊部隊、
GIGN、EPIGN などによる突入で過激派を殺害することで解決したが、特殊部隊側
にも犠牲者が出た。
動乱の中、フランス政府は1987年に約束どおり住民投票を行い、翌19
88年にマティニョン合意が成立し自治拡大が約束された。合意を結んだジャ
ン・マリー・チバウは独立過激派により1989年に暗殺されてしまい、FLNKS
は混乱に陥っている。
この後も自治への運動や協議が行われ、1988年にはヌーメア協定が結ばれ
た。この協定では住民への権限譲渡プロセスを「不可逆なもの」と位置づけ、
フランス市民権とは別の「ニューカレドニア市民権」を導入すること、ニュー
カレドニアのアイデンティティを表す公的なシンボル(ニューカレドニア「国
旗」など)をフランス国旗とは別に制定すること、フランス政府がニューカレ
ドニア特別共同体に段階的に権限を譲渡し、最終的には外交、国防、司法権、
通貨発行以外の権限はニューカレドニアに全面的に譲渡されること、2014
205
年から2018年のいつかの時点で独立かフランス残留かの住民投票を行うこ
と、などが定められた。
条約一覧
参考文献
終わりに
筆者紹介
第十一章
アフリカの国境線と民族分布
(1)アフリカには53の独立国があるが、その国境線には直線の部分がず
いぶん多い。これは、ヨーロッパやアジアの国境が山や海や川など、自然発生
的に生まれたのに対して、アフリカの場合は、ヨーロッパ諸国がアフリカを植
民地としたときに、地図に線を引いて決めたからだ。
自然の山や川も部族の居住地域も関係なく国境を引いたので、ひとつの国の
なかに複数の部族が住んでいたり、反対にひとつの部族がふたつ以上の国に分
かれて住んでいたりすることもめずらしくない。
人類学者 G・P・マードックの分類では、言語や習慣を共有する「エスニック・
グループ」と呼ばれる集団が、アフリカ大陸に6000以上も存在するという。
「エスニック・グループ」は、
「部族」時には「民族」と訳され、規模は100
万人以上の大集団から数百人の小集団までさまざまだ。
206
それぞれの国に多数のエスニック・グループがおり、たとえば、タンザニア
では200を超えるとされる。
(2)このエスニック・グループによって仮に国境を引いてみると、ヨーロッ
パの国境のようにすべてが曲線で、小国がたくさんひしめく地図ができあがる。
なかには、有力な民族の勢力を削ぐために、わざと分断したものもあるという。
アフリカのエスニック・グループの多くは、植民地統治の過程で、ヨーロッ
パ諸国が勝手につくり上げた要素が大きい。
(3)たとえば、1990年代にアフリカ中央部のルワンダとブルンジで起こ
った内戦は、いずれもツチ族とフツ族の民族抗争が原因だが、じつはヨーロッ
パ人がやってくるまで、この両民族に対立はなかった。それどころか、長年の
通婚によって区別もあいまいだった。
だが植民地政府の都合によってツチ族優遇政策をとり、全住民をツチ族とフ
ツ族に分けて、背の高いツチ族を貴族階級とし、背の低いフツ族を冷遇したた
め、フツ族が反乱を起こし、両民族の区別と対立が生まれたのである。
207
条約一覧
1
北方領土問題(日本 VS ロシア連邦)
(日露和親条約・1856 年)
1853 年 8 月(嘉永 6 年 7 月)、国境の画定と開国・通商を要請する国書を携え
たプチャーチン・ロシア艦隊司令長官がパルラダ号で長崎に来航し、日本とロ
シアとの条約締結交渉が開始された。その後、長崎での数次にわたる交渉を経
て、ディアナ号で再び下田に来航したプチャーチンと日本側全権・筒井政憲(つ
つい・まさのり)、川路聖謨(かわじ・としあきら)との間で、1855 年 2 月 7
日(安政元年 12 月 21 日)に調印されたのが、日露和親条約である。(批准書
交換が行われたのは 1856 年 12 月 7 日)
この条約では、第 1 条で今後両国が「末永く真実懇」にすることが謳われるとともに、
第 2 条において、日露間の国境を択捉(エトロフ)島と得撫(ウルップ)島の
間とすること、樺太(カラフト)島には国境を設けずに、これまでどおり両国
民の混住の地とすることが定められた。箱館、下田、長崎の 3 港の開港(第 3
条)のほか、双務的な領事裁判権が規定されていることもこの条約の特徴であ
る。(第 8 条)
(サンフランシスコ平和条約・1952)
昭和 26(1951)年 9 月 8 日、サンフランシスコ会議(9 月 4 日-8 日)の最終日
に、日本と、ソ連・支那・インド等を除く旧連合国 48 ヶ国との間に調印された
講和条約。正式には「日本国との平和条約」(対日平和条約)だが、調印され
208
た都市の名を採って、「サンフランシスコ平和条約」と通称される。この条約
は、ソ連・支那・インドと言った諸国の反対を無視する形で、米英だけで草案
を作成し、会議も討議も一切認めない議事規則で強行。調印の翌年、昭和 27
(1952)年 4 月 28 日に発効した。本条約の最大の特徴は、日本の個別的・集団
的自衛権を承認し、日本の再軍備と外国軍隊の駐留継続を許容した点で、日本
の再軍備は「自衛隊」(警察予備隊→保安隊→自衛隊)、集団的自衛権と外国
軍隊駐留継続は、本条約調印同日に調印された「日米安保条約」として具現化
した。又、沖縄・小笠原諸島におけるアメリカの施政権継続も謳(うた)われ
ており、多分にアメリカの極東戦略が色濃く反映された条約だったと言える。
日本国は、千島列島並びに日本国が千九百五年九月五日のポーツマス条約の結
果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての
権利、権原及び請求権を放棄する。
2
大陸棚と国境線
(海洋法に関する国際連合条約・1996年)(当事国154)
第3条
領海の幅
いずれの国も、この条約の定めるところにより決定される基線から測定して
12海里(22,2キロメートル)を超えない範囲でその領海の幅を定める権
利を有する。
第33条
接続水域
209
接続水城とは、領海の外側にも通関・財政・検疫など一定の行政的な権限を
行使できる水城をいう。ただし、接続水城は、領海の幅を測定するための基線
から24海里(44,4キロメートル)を超えて拡張することができない。
第57条
排他的経済水域(EEZ)の幅
排他的経済水域(EEZ)は、領海の幅を測定するための基線から200海里(3
70,4キロメートル)を超えて拡張してはならない。
沿岸国は、自国の排他的経済水域(EEZ)における生物資源の漁獲可能量や地下資
源の開発・利用を決定することができる。
なお、大陸棚は、本来海岸から緩やかに続く水深200メートルまでの海底の
地理的概念であるが、大陸棚には、石油や天然ガスなどの地下資源が埋蔵され
ているため、領海の幅を測定するための基線から200海里(370,4キロ
メートル)までを排他的経済水域(EEZ)として、沿岸国の権利を大幅に認めた
ものである。沿岸国は、大陸棚を探査し及びその天然資源を開発するため、大
陸棚に対して主権的権利を行使する。
沿岸国は、自国の大陸棚が地理的に領海の幅を測定するための基線から200
海里(370,4キロメートル)を超えて延びている場合には、大陸斜面の脚
部から60海里(111,2キロメートル)を超えないことを要し、かつ、沿
岸国の大陸棚の外側の限界は、海底海嶺の上においては領海の幅を測定するた
めの基線から350海里(648,2キロメートル)を超えてはならない。
210
なお、この場合、国連大陸棚限界委員会に、2009年までに、申請して認定
を受け、そこから得られる収益の一部を途上国や内陸国に配分しなければなら
ない。
3
南極条約
(1)1957年∼58年の「国際地球観測年(IGY)」に南極において実施さ
れた国際的科学協力体制を維持、発展させるため、1959年、日、米、英、
仏、ソ等12か国は南極条約を採択した。同条約は南緯60度以南の地域に適
用されるもので、以下の点を主たる内容としている。
(イ)南極地域の平和的利用(軍事基地の建設、軍事演習の実施等の禁止)(第
1 条)
(ロ)科学的調査の自由と国際協力の促進(第2、3条)
(ハ)南極地域における領土権主張の凍結(第4条)
(ニ)条約の遵守を確保するための監視員制度の設定(第7条)
(ホ)南極地域に関する共通の利害関係のある事項について協議し、条約の原
則及び目的を助長するための措置を立案する会合の開催(第9条)
(2)南極における領土権問題
現在、南極地域で実質的な科学的研究活動を行っている国の中には、南極の
一部に領土権を主張している7か国(英、ノルウェー、仏、豪、NZ、チリ、ア
ルゼンチン)と領土権を主張しないと同時に他国の主張も否認する国(米、ロ
シア、我が国、ベルギー、南ア等)があり対立している。また、領土権を主張
211
しないと同時に他国の主張も否認する国の中でも、米、ロは現状では領土権を
主張しないが、過去の活動を特別の権益として留保している。
南極条約締約国の中でも、南極に基地を設ける等、積極的に科学的調査活動を
実施してきている国(28か国)は、南極条約協議国と称され、南極条約に基
づき定期的に南極条約協議国会議を持ち、情報の交換、国際協力の促進等につ
いて協議を行っている。
南極条約締約国一覧(2006年6月現在、46か国)
(1)南極条約協議国(28か国)
アルゼンチン、オーストラリア、ベルギー、ブラジル、ブルガリア、チ
リ、中国、エクアドル、フィンランド、フランス、ドイツ、インド、イタ
リア、日本、韓国、オランダ、ニュージーランド、ノルウェー、ペルー、
ポーランド、ロシア、南アフリカ、スペイン、スウェーデン、イギリス、
アメリカ、ウルグアイ、ウクライナ
(2)その他の締約国(18か国)
オーストリア、カナダ、コロンビア、キューバ、チェコ、デンマーク、
エストニア、ギリシア、グアテマラ、ハンガリー、北朝鮮、パプアニュー
ギニア、ルーマニア、スロバキア、スイス、トルコ、ベネズエラ、ベラル
ーシ
212
4
欧州連合
(欧州連合(EU)条約・1993年11月1日効力発生)(マースリ
ヒト条約)(当事国27カ国)
27か国:ベルギー、ブルガリア、チェコ、デンマーク、ドイツ、エストニア、
アイルランド、ギリシャ、スペイン、フランス、イタリア、キプロス、ラトビ
ア、リトアニア、ルクセンブルク、ハンガリー、マルタ、オランダ、オースト
リア、ポーランド、ポルトガル、ルーマニア、スロベニア、スロバキア、フィ
ンランド、スウェーデン、英国
5. 略史
年月
略史
欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)設立(パリ条約発効)。 原
1952 年
加盟国:仏、独、伊、オランダ、ベルギー、ルクセン
ブルク
欧州経済共同体(EEC)、欧州原子力共同体(EURATOM)
1958 年
設立(ローマ条約発効)
1967 年
3 共同体の主要機関統合
213
年月
略史
1968 年
関税同盟完成
1973 年
英国、アイルランド、デンマーク加盟
欧州議会初の直接選挙実施、欧州通貨制度(EMS)導
1979 年
入
1981 年
ギリシャ加盟
1986 年
スペイン、ポルトガル加盟
1987 年
「単一欧州議定書」発効
1992 年末
域内市場統合完成
1993 年 11 月
マーストリヒト条約(欧州連合条約)発効
1994 年 1 月
欧州経済領域(EEA)発足
214
年月
略史
1995 年 1 月
オーストリア、スウェーデン、フィンランド加盟
1999 年 1 月
経済通貨同盟第 3 段階への移行(ユーロの導入)
1999 年 5 月
アムステルダム条約(改正欧州連合条約)発効
2002 年 1 月
ユーロ紙幣・硬貨の流通開始
2002 年 7 月
ECSC 条約の失効、ECSC 解消
2003 年 2 月
ニース条約(改正欧州連合条約)発効
2004 年 5 月
中東欧等 10 か国が加盟
2005 年 10 月
トルコ、クロアチア EU 加盟交渉開始
2007 年 1 月
ブルガリア、ルーマニア EU 加盟
215
(通貨)
1999 年 1 月に EU 加盟国中 11 か国で単一通貨ユーロを導入(ユー
ロ貨幣の流通は 2002 年 1 月から)。2001 年 1 月にギリシャ、2007 年 1 月にス
ロベニア、2008 年 1 月にマルタ、キプロスが加わり、現在の参加国は 15 か国。
2009 年 1 月よりスロバキアが加わり、参加国は 16 か国に拡大の予定。
(主要機関)
1. 欧州理事会 (政治レベルの最高協議機関)
EU 各国首脳及び欧州委員会委員長により構成(理事会議長国首脳が議長を務
め通常年 4 回開催)。欧州連合の発展に必要な原動力を与え一般的政治指針を策
定する。共通外交安全保障政策の共通戦略を決定。議長国は半年交替の輪番制
(2008 年後半フランス、2009 年前半チェコ)。
2. EU 理事会(決定機関)
EU 各国の閣僚級代表により構成される EU の主たる決定機関(総務・対外関
係理事会、経済・財務相理事会等分野毎に開催される)。議長国は欧州理事会と
同様。
3. 欧州委員会(執行機関)
加盟国の合意に基づき欧州議会の承認を受けた委員で構成(各国 1 名の計 27 名、
任期 5 年)。省庁に相当する「総局」にわかれ、政策、法案を提案、EU 諸規則
の適用を監督、理事会決定等を執行(共同体事項につき対外的に EU を代表)。
216
•
委員長
ジョセ・マヌエル・ドゥラン・バローゾ(José Manuel Durão
BARROSO、元ポルトガル首相)
•
対外関係担当委員
ベニタ・フェレーロ=ヴァルトナー(Benita
FERRERO-WALDNER、元オーストリア外相)
•
貿易担当委員 ピーター・マンデルソン(Peter MANDELSON、元北ア
イルランド担当大臣(英国))
4. 欧州議会(諮問・共同決定機関)
諮問的機関から出発し次第に権限を強化、特定分野の立法における理事会との
共同決定権、EU 予算の承認権、新任欧州委員の一括承認権等を有する。定員は
785 名、各国を一つの選挙区とする直接選挙(定員は各国の人口に配慮し配分、
選挙方式は国により異なる)により選出。議長はペテリング氏(Hans-Gert
POETTERING)。
5. 欧州裁判所
EU 法体系の解釈を行う欧州連合の最高裁。憲法裁判所、国際裁判所、行政裁判
所、労働・普通裁判所としての機能を併せ持つ。加盟国の合意により任命され
る 27 名の裁判官と 8 名の法務官(いずれも任期 6 年)により構成。加盟国の国
内裁判所で提起された EU 法上の問題について「先行判決」を下す制度を有す
る。第一審裁判所もある。
6. その他
217
欧州中央銀行、欧州会計検査院、経済社会評議会、地域評議会、欧州オンブズ
マン、欧州投資銀行等が存在。
政策
1. 経済統合
(1) 関税同盟と共通農業政策(CAP)
欧州共同体条約に基づく経済統合の 2 つの柱。加盟国間の貿易に対する関税・
数量制限を撤廃し、域外に対する共通関税率と共通通商政策を適用。農業分野
では域外との貿易に対する輸出補助金、域内での市場介入等を通じ農産品の域
内価格を安定。農家への直接所得補償を導入。
2003 年 6 月の中間見直しにおいて、生産高とリンクした補助金の支払いを原
則やめ、過去の受領額に応じた「デカップリング」を導入した単一直接支払い
を導入。また、農村開発政策を強化した。CAP の実効性を再評価する「ヘルス・
チェック」のための立法提案が 2008 年 5 月に行われた。
(2) 域内市場統合の完成
域内市場統合白書(1985 年)と単一欧州議定書(1987 年)に基づき、人・
モノ・サービス・資本の移動が自由な単一市場を完成させるため、1992 年末ま
でに物理的・技術的・財政的障害の除去を目的とした約 270 項目の自由化・共
通化のための EU 法令を採択。
(3) 経済通貨統合(EMU)
加盟国間の外国為替相場の変動率を一定の幅に抑えるため 1979 年より実施さ
218
れていた欧州通貨制度(EMS)をさらに一歩進め、各通貨間の相場の固定と単
一通貨の導入を行ったもの。欧州連合条約に盛り込まれた手続に従い、1994 年
に後の欧州中央銀行(ECB)の前身である欧州通貨機構(EMI)を設立、各国
の経済・財政政策の収斂を図り、物価の変動率や財政赤字の GDP に対する比率
等に関する基準を満たした 11 か国が 1999 年 1 月 1 日より単一通貨ユーロを導
入した。ユーロ貨幣の流通が開始されたのは 2002 年 1 月 1 日。2001 年 1 月に
ギリシャ、2007 年 1 月にスロベニア、2008 年 1 月にマルタ、キプロスがユー
ロを導入し、現在、ユーロ圏は 15 か国。2009 年 1 月よりスロバキアがユーロ
圏に参加する予定。
2. 政治統合
1993 年に発効した欧州連合条約(マーストリヒト条約)に将来の防衛分野で
の協力も視野に入れた共通外交・安全保障政策(CFSP)、加盟国国民に共通の
市民としての基本的な権利(地方自治体選挙権等)を認める欧州市民権の導入、
司法・内務分野の協力等が盛り込まれた。これに基づき、主要な国際問題に関
する共通の行動や、移民、国境管理、テロ・麻薬対策などに関する協力を行っ
ている。特に、1999 年のアムステルダム条約発効以降、CFSP が強化され、上
級代表ポスト(現在ソラナ上級代表)が設置されたほか、安全保障分野につい
ても、緊急展開可能なバトルグループ(BG)が 13 個グループ創設され、2007
年より運用開始した。
3. 警察・刑事司法協力
219
従来から政府間協力の枠組みで実施されてきた司法・内務分野における協力が
マーストリヒト条約において EU の活動の第 3 の柱として取り入れられ、1999
年のアムステルダム条約発効に伴い警察・刑事司法協力と改称された。2001 年
9 月 11 日の米国における同時多発テロ発生以降、同分野での協力が急速に進展
している。
4. EU 拡大
1958 年(EC) 現加盟国:独、仏、イタリア、ベルギー、オランダ、ルクセン
ブルク
1973 年(EC)
第 1 次拡大:英国、アイルランド、デンマーク
1981 年(EC)
第 2 次拡大:ギリシャ
1986 年(EC)
第 3 次拡大:スペイン、ポルトガル
1995 年(EU)
第 4 次拡大:オーストリア、スウェーデン、フィンランド
2004 年(EU) 第 5 次拡大:ポーランド、チェコ、ハンガリー、エストニア、
ラトビアリトアニア、マルタ、キプロス、スロバキア、スロベニア
2007 年(EU)
第 5 次拡大:ブルガリア、ルーマニア
5. EU の機構改革
2004 年及び 2007 年の拡大の結果、加盟国が 27 か国になった EU をより効率
的・機能的にするため、EU 関連条約の見直しが行われ、2007 年 12 月に開かれ
た欧州理事会にて「リスボン条約」が署名された。同条約が発効すれば、常任
の欧州理事会議長の任命や欧州委員会のスリム化等機構改革、EU 外務・安全保
220
障政策上級代表の任命、欧州対外活動庁の創設等による共通外交・安全保障政
策実施体制の強化、欧州議会・各国議会の権限強化等が図られることとなって
いる。一方、リスボン条約の発効には、27 の加盟国全てによる批准が必要とな
るが、2008 年 6 月にアイルランドで実施された国民投票で批准が否決されたた
め、発効時期の見通しは不透明となっている。
「改革条約」(リスボン条約・2007年)「欧州連合条約および欧州共同体設立
条約を修正する条約」
リスボン条約とは、既存の欧州連合基本条約を修正する条約。改革条約とも呼
ばれる。2009 年までにすべての欧州連合加盟国の批准が完了し、発効する予定
となっている。本条約の正式な名称は「欧州連合条約および欧州共同体設立条
約を修正する条約」。2009 年中ごろに予定されている欧州議会議員選挙の前と
なる 2009 年 1 月 1 日の発効を目指している。
草案は 10 月 19 日に合意に達し、欧州憲法条約に大幅な変更が加えられたもの
の欧州憲法条約とは異なり、既存の基本条約と置き換えられるのではなく、修
正する形をとっている。また欧州連合の旗のような超国家機関的な性格は取り
除かれ、特定の国には適用除外条項が規定されている。
(リスボン条約調印式)
2007年12月13日 リスボンにおいて調印
国による批准完了
2009年 1 月 1 日 発効
221
2008年末 全加盟
参考文献
1
90分でわかる世界史の読み方(基本と常識)
木村光男著
かんき出版
1997年
2
ポケット・アトラス世界
著作・発行 帝国書院
昭和62年
3
ポケット・アトラス日本
著作・発行 帝国書院
昭和62年
4
IMIDAS・イミダス
5
今がわかる・時代がわかる・世界地図・2005年版
6
知っているつもりで知らない・世界地図
ワークス
7
幻冬舎
2007
2007年
成美堂出版
編著者・インターナショナル・
2004年
イラスト図解・世界情勢の地図帳・日本はどうなる
池上彰著
講談社
2003年
8
そうだったのか!ニュース・世界地図・2008
池上彰著
集英社
2007年
地図で読む世界情勢・第 1 部・なぜ現在の世界はこうなったか
9
ャン・クリストフ・ヴィクトル他
10
著者・ジ
鳥取絹子訳
教科書には載っていない!ワケありな国境
武田知弘著
彩図社
平成
20年
11
図解・世界なるほど地図帳
世界博学倶楽部著
PHP 研究所
2004年
12
拡大・深化する EU から学ぶ外交力(前駐仏大使:平林博)経団連クラ
ブ会報
13
日本経団連
2008年
現代政治学小事典(新版)
阿部斉等著
222
有斐閣
1996年
14
民族の世界地図
21世紀研究会編 文春新書
15
参考ウエブサイト
外務省
16
参考ウエブサイト
国際連合広報センター
17
参考ウエブサイト
アメリカ国防総省
18
参考新聞記事
朝日新聞
19
参考新聞記事
産経新聞
20
参考新聞記事
日経新聞
21
参考新聞記事
毎日新聞
22
参考新聞記事
読売新聞
23
国際条約集
編集代表奥脇直也 有斐閣
223
2008年
終わりに
土光臨調を経て、私は、1989年、総務庁の事務次官に就任した。総務庁
は総合調整官庁なので、所管事項は行財政改革をはじめ幅広い分野を担当して
いるが、その中に領土問題である北方領土対策を含んでいた。その事務のため、
北方領土対策本部が設けられ、大臣が本部長で、事務次官は副本部長である。
北方領土問題については、北方領土に最も近い根室市の岬の突端に、北方領土
記念会館と屋外の北方領土記念碑が設置され、そこから望遠鏡で北方領土を眺
望できるようになっていた。私は事務次官に就任してまもなく、北方領土記念
会館と屋外の北方領土記念碑を訪れ、北方領土を目の当たりにした。
本書のにおいて、世界における国境線を巡る具体的な紛争事例を60件近く
取り上げたが、既に決着のついた領土紛争も若干含まれているが、大半は、現
在も続いている国境線を巡る紛争である。
国境線を巡る争いは、宗教対立や人種や民族対立を背景にしていることは、
先に述べたところであるが、世界の主な宗教の信者数を「世界国政図鑑200
6・07年版」によりみれば次のとおりである。
キリスト教:21,1億人、イスラム教:12,8億人、ヒンズー教:8,5
億人、仏教:3,8億人、その他宗教となっている。
一方、人種や民族に代えて、国別人口を、同上「世界国政図鑑」(2004
年の国連人口統計に基づく。)により、多い順にみれば次のとおりである。
224
中国:13,2億人
②インド:11億人 ③アメリカ:2,98億人
④インドネシア:2,23億人
1,58億人
人
⑤ブラジル:1,86億人
⑦ロシア:1、43億人 ⑧バングラディッシュ:1、42億
⑨ナイジェリア:1,32億人
07億人
⑥パキスタン:
⑩日本:1,28億人
⑪メキシコ:1,
⑫ベトナム:8,4千万人 ⑬フィリッピン:8,4千万人
イツ:8,3千万人
⑭ド
⑮エチオピア:7,7千万人 となっている。
国境線を巡る紛争は、いつまでも決着の付かないことが多い。60件近い国
境線を巡る紛争事例を見終えて思うことは、国民の強烈な願望に支えられた当
事国の正当な主張を力で押さえつけて、無視し続けることはできない。そうし
た場合、歴史が教えるように、テロや暴力や戦争を繰り返すことになる。
しかしながら同時に、冷静に認識すべきは、「①アメリカ、EU、ロシア、中国、
インド、日本といった世界の大国の意向を無視し続けることはできない。」「②
確立した国際法を無視し続けることはできない。」そして、「③国際連合特に
国連総会や安全保障理事会の意向を無視できない。」と言うことである。
225
筆者紹介
山本貞雄(やまもと
さだお)
1934年生まれ、京都府出身、京都大学法学部卒。1961年国連フェロー
シップで米国留学、ピッツバーグ大学・行政国際問題大学院・研究所行政研修
に参加。フーバー委員会に関しフーバー元大統領に会見調査。大統領府行政予
算局、商務省等調査。1967年行政管理庁大臣秘書官、1981年臨時行政
調査会事務局次長、1983年臨時行政改革推進会議事務局次長、1986年
総務庁行政監察局長、1989年総務事務次官、1991年京セラ代表取締役
専務、1993年京セラオプティック社長、1995年京セラマルチメディア
コーポレーション社長、1996年日米21世紀委員会委員、運営委員長、2
002年4月より跡見学園女子大学マネジメント学部長、教授、2006年4
月より同大学院マネジメント研究科長。
主要著書:「外国行政組織制度」(大蔵省印刷局)
「実学
世紀末20年の行財政改革と21世紀の課題―小泉構造改
革は中曽根構造改革を超えられるか」時評社
「21世紀の日本への警告!実学
共著
2050年の基本課題」時評社
:「21世紀・日米共生の時代」(PHP 研究所)
「中曽根内閣史理念と政策」(世界平和研究所)
226
第十二章
欧州統合の歴史と意義
(8)2007年1月、EU(ヨーロッパ連合)は、ルーマニアとブルガリアが加盟し、27
カ国となり、巨大な超国家が誕生した。人口では EU は5億人、アメリカは3億人、日本
が1,3億人、経済規模では EU が世界の GDP の30%を占め、これにアメリカの28%、
日本の10%が続いている。
(9)EU は、そもそもヨーロッパから戦争をなくそうという誓いから始まった。二度
の大戦で大きな被害を受けた欧州が戦争をしないために、国境線をなくそうという発想
だった。
そのために身近なエネルギーや経済など、統合できるところから始めようということにな
り、1952年、欧州石炭鉄鋼共同体が発足し、その後、欧州経済共同体(EEC)、欧州
共同体(EC)に発展、さらに EU へと統合が進み、一つの国であるかのような体制に成
長した。
加盟国間では互いに関税が撤廃され、輸入品の価格が低下、パスポートなしで自由
に行き来できるようになり、人とモノが活発に動くようになった。
(10)
1995年には加盟国が15カ国となり、2004年には東欧諸国も参加して25
カ国に、そして2007年に遂に、27カ国体制になったのである。
(11)
EU は、通貨の統一も進め、「ユーロ」を誕生させた。2002年に EU 加盟国の
うち12カ国でユーロを導入、2007年1月にスロベニアが導入、さらに2008年1月には
キプロスとマルタも導入し、これでユーロ圏は計15カ国にまで拡大した。ユーロ域内で
は、共通通貨導入で経済が大きく発展、ドルの下落もあって、ユーロ高が進んだ。保
有する外貨としてユーロの比重を高くする国も増え、ドルに代わる国際通貨の地位を
227
獲得しつつある。
(12)
EU の歴史は、順調なことばかりではなかった。2003年、EU は将来の政治
統合も視野に入れ、EU の憲法条約を起草した。将来の「ヨーロッパ合衆国」を目指す
ものである。これは、加盟国すべての批准で効力を持つが、2005年、フランスやオラ
ンダが批准を否決、憲法条約は実現しなかった。
(13)
そこで2007年6月、各国は、EU の憲法条約に代わり、「改革条約」(リスボ
ン基本条約)締結に向けた交渉に入ることを決めた。各国の主権に配慮して、EU の憲
法条約にあった「国旗」(青地に十二の星の円である現在の EU の旗)、「国歌」(ベート
ーベンの「歓喜の歌」)を規定する条項や、EU 大統領をつくる案も削除した。内容は簡
素になったが、政治統合を実現しようという考え方の骨格は残っている。
EU 理事会の議長については、現在は半年ごとの持ち回りになっているが、今後は
二年半の任期とし、再任も 1 回はできることになり、最長5年務めることが可能になっ
た。
(14)
これまで、EU の議事運営は、原則として全会一致で行ってきたため、1カ国
でもノーと言うと何も決まらなかった。そこで、「改革条約」(リスボン基本条約)では、加
盟国数と総人口を基準とする二重多数決制に移行することとし、加盟国の55%、かつ
加盟国全体の人口の65%が賛成しないと可決されないこととした。しかし、外交・安全
保障だけは依然として全会一致が原則とされている。
なお、「改革条約」(リスボン基本条約)の正式な名称は「欧州連合条約および欧州
共同体設立条約を修正する条約」である。2009年までにすべての欧州連合加盟国の
批准が完了し、発効する予定となっている。EU 憲法条約に大幅な変更が加えられた
228
ものの EU 憲法条約とは異なり、既存の基本条約と置き換えられるのではなく、修正す
る形をとっている。
(11)
2004年に EU が 24 カ国に拡大して以来、貧しい東欧やアフリカからイギリス
フランス、ドイツなどの豊かな国に、60万人を突破する移民が殺到し、この多くが単純
労働に従事する労働者で、これらの移民の若者たちが、自動車に火をつけるなど全国
各地で暴れまわったり、キリスト教社会で疎外感を抱くイスラム圏出身者は、公共交通
機関を狙って、テロに走る者もみられた。(なお、現在のサルコジ大統領自身は、親が
ハンガリーからの移民であり、暴動に走る移民の若者を人間のクズと呼んで、怒りの火
に油を注いだ。)このため、イギリスやフランスなどでは、東欧諸国などからの年間の移
民数の制限を行う「選択的移民政策」をとっている。
(12)
なお、トルコの EU 加盟がたなざらしになっているが、「イスラム国家はキリスト
教社会の EU の仲間にいれたくない」というのが、EU 首脳の本音だといわれている。
229
第十三章
その他
(世界最小の国・バチカン市国ができた理由)
(1) 世界で一番小さな国は、バチカン市国で、その広さは0,44平方キロメートル、
東京ディズニーランド(ディズニーシーを含まない)より少し狭い位である。そのような狭
い国土に1000人ほどの国民がいる。バチカン市国というのは宗教国家、つまりカトリッ
クの総本山である。それが、国家として特別に認められているのである。
ローマ・カトリック教会というのは、現在も10億人の信徒を持つ大宗教団体である。中
世には広大な領土を寄進され、ヨーッロッパの王侯たちに勝るとも劣らない権力を持っ
ていた。
しかし、近代になって、ヨーッロッパの諸国家が宗教と切り離されてくると、徐々にそ
の影響力を失っていった。1860年、イタリアが独立したときに、イタリア政府はバチカ
ンを国家としては認めず、教皇領は没収された。バチカン市国は、はそれに抗議して、
以降70年間もバチカンから一歩も出なかったことなどもあった。
(2)しかし、1920年代、ムッソリーニが政権をとってから、イタリア政府とバチカンは和
解した。「イタリア政府はバチカンを国として認め財政的な援助をする。」「バチカンは
教皇領を放棄する。」という条件で、1929年に両者が合意、バチカンはめでたく国家
として成立したわけである。
(3)ただし、このバチカン市国は、普通の国とちょっと違い、バチカン市国は、ローマ法
王が統治者となっており、国民のほとんどが聖職者である。カトリックの聖職者の中で、
バチカンで働くことになった人が、バチカン国民になるわけだ。つまり、バチカンの国
民になるには、聖職者になってバチカンに召集されなければならない。また一度バチ
230
カン国民になった人でも、バチカンでの職務が終われば、国籍を返上する決まりにな
っている。
(4)バチカンは世界遺産になっており、サンピエトロ大聖堂、バチカン宮殿、バチカン
美術館など、有名な観光スポットをいくつももっている。これらの美術館入場料など観
光収入と世界中のカトリック信者からの寄付が、バチカンの財政を支えている。
(キプロス問題)
(1)トルコの南の東地中海上に位置する島国・キプロスは、国が2つに分断された分断
国家である。その歴史を辿ると、地中海の要衝にあるキプロス島は、古くからさまざまな
国の支配を受けてきた。オスマン帝国の支配下にはいったのが、16 世紀末。その後、
キプロスは、19 世紀になると、統治権はイギリスの手に渡り、第一次大戦で、イギリスと
オスマン帝国が対立すると、それを理由にイギリスに併合されることになった。
(2)第二次世界大戦後には、島内で反イギリス運動が起こり、島にはギリシャ系の住民
とトルコ系の住民が暮らしていたが、ギリシャ系の住民はギリシャ系による併合を、トル
コ系の住民はトルコによる併合を求め、テロ活動などを開始した。これに手を焼いたイ
ギリスは、1959年にギリシャとトルコの間で3国協議を行い、中間案をとって、キプロス
を独立させることで合意した。
そして、1960年、キプロスはイギリス連邦の独立国として歩み始めることとなった。
住民はギリシャ系が77,8%、トルコ系が10,5%などである。 1963年にギリシャ系
住民とトルコ系住民の間で内戦が起き、64年から国連平和維持軍が駐留を開始し
た。
231
(3)しかし、74年にギリシャ軍事政権がキプロスに介入、トルコはトルコ系住民保護を
理由にキプロス北部に派兵。83年に「北キプロス・トルコ共和国」が独立を宣言したも
のの、トルコのみが承認。以来、南北分断が続いている。
(4)しかし、2008年、ギリシャのカラマンリス首相が半世紀ぶりに、トルコの首都アンカ
ラを訪問し、エルドアン首相との会談で、キプロス問題などで停滞していた両国関係の
改善と平和構築の推進に合意した。
(ケベック独立運動)
(1)ケベック解放戦線(FLQ)は、カナダ・ケベック州の独立運動を主張して
きたカナダの左翼テロリストグループである。
1963年から1970年にかけて、発砲による2件の殺人、少なくとも3人
が死亡した爆弾テロ、銀行強盗、誘拐を含む200件以上のテロ行為を行った。
特に1970年に引き起こした連続要人誘拐とテロは「オクトーバー・クライ
シス」として知られる。
メンバーの数人は、ジョルジュ・シェーテルス(ベルギーの革命家で、KGB エー
ジェントであったと思われる人物)による訓練を受けており、チェ・ゲバラを
英雄視していた。FLQ メンバーのノルマン・ロワとミシェル・ランベールもまた、
ヨルダンでパレスチナゲリラから暗殺に関するトレーニングを受けていた。
ケベック大学の歴史学教授だったロベール・コモによるヴィジェ・セル、他に
ディエップ・セル、ルイ・リエル・セル、ネルソン・セル、サン‐ドニ・セル、
リベラシオン・セル、シェニエ・セルなど、さまざまな武装細胞が次々に組織
232
された。中でもリベラシオン・セルとシェニエ・セルは、オクトーバー・クラ
イシスに深く関与していたことで知られる。
(2)FLQ はケベック主権運動を援助するため、1963年に結成された。その
創設は、長期にわたってケベックを統治した州知事モリス・デュプレシの死に
続く、「静かな革命」(ケベック州政府が経済的、社会的問題により積極的な役
割を演じ始めた時期)と一致している。
FLQ のメンバーはマルクス主義に基づき、圧制的支配階級であるアングロフォー
ヌ(英語を話すケベック州民)からの解放、ケベック政府の転覆、カナダから
のケベック州の独立、フランス系カナダ人労働者による社会の建設などについ
てのプロパガンダを行い、またそれらに向かった活動を実践した。
FLQ は、過去あるいは海外(例えばアルジェリア、ベトナム、キューバの独立な
ど)の社会主義的独立運動に強く影響されていた。さらに注目すべきは、19
65年にジャーナリストのピエール・ヴァリエールが FLQ に参加したことであ
る。彼がケベックの労働者階級の歴史的な地位の変遷を米国の黒人労働者と比
較したマルクスによる分析を読んだ3年後のことである。
(東チモール独立運動)
(1)東ティモール民主共和国、通称東ティモールは、東南アジア地域の島国。
1999年8月30日、国連主導の住民投票によりインドネシアの占領から解
放され、2002年5月20日独立した。国際法上はポルトガルから独立した
ことになる。21世紀最初の独立国。
233
小スンダ列島にあるティモールの東半分とアタウロ島、ジャコ島、飛び地オエ
クシで構成されている。南方には、ティモール海を挟んでオーストラリアがあ
り、それ以外はインドネシア領である。
(2)1949年にインドネシアの一部として西ティモールの独立が確定した
後もポルトガルによる支配が継続した。1974年にポルトガルで左派を中心
としたカーネーション革命が起こり、植民地の維持を強く主張した従来の保守
独裁体制が崩壊すると、東ティモールでも独立への動きが加速し、マルクス主
義色の強いフレティリン(東ティモール独立革命戦線)がその中心となった。
この動きは、東ティモールの領有権を主張し、反共主義を国是とするインドネ
シアのスハルト政権にとっては容認できず、反フレティリンの右派勢力を通じ
た介入を強化した。
1975年、右派勢力と連携したインドネシア軍が西ティモールから侵攻を開
始する中、11月28日にフレティリンが首都ディリで東ティモール民主共和
国の独立宣言を行った。しかし、直後にインドネシアが東ティモール全土を制
圧し、1976年に27番目の州として併合宣言を行った。国連総会ではこの
侵略と不法占領を非難する決議が直ちに採択されたが、米・欧・豪・日など西
側の有力諸国は反共の立場をとるインドネシアとの関係を重視し、併合を事実
上黙認した。
(3)スハルト政権は東ティモールの抵抗に対し激しい弾圧を加えたため、特
に侵略直後から1980年代までに多くの人々が虐殺や飢餓により命を落とし
た。インドネシア占領下で命を失った東ティモール人は20万人にのぼると言
234
われている。1991年、平和的なデモ隊にインドネシア軍が無差別発砲し、
400人近くを殺したサンタクルズ事件は、住民の大量虐殺事件として世界的
に知られることになった。また、官吏や教員などを派遣して徹底した「インド
ネシア化」も推進した。フレティリンの軍事部門であるファリンテルは民族抵
抗革命評議会(CRRN)の主要メンバーとなり、シャナナ・グスマンが議長にな
ったが、インドネシア政府はグスマンを逮捕し、抵抗運動を抑え込んだ。その
一方で、1996年にはノーベル平和賞が現地カトリック教会のベロ司教及び
独立運動家のジョゼ・ラモス・ホルタに贈られた。
1998年にインドネシアでの民主化運動でスハルト政権が崩壊すると、後任
のハビビ大統領は東ティモールに関し特別自治権の付与を問う住民投票を実施
する事で旧宗主国のポルトガルと同意した。
(4)1999年8月30日に国連(UNAMET)の監督のもとで住民投票が行わ
れ、特別自治権提案が拒否された事で独立が事実上決定したが、これに反発す
るインドネシア治安当局は、インドネシア併合維持派の武装勢力(民兵)を使
って破壊と虐殺を行い、それがほぼ終了した段階で、多国籍軍が派遣された(東
ティモール紛争)。その結果、暴力行為は収拾したが、多くの難民が西ティモ
ールに逃れ、あるいは強制的に連れ去られたりした。1999年10月には、
国連東ティモール暫定統治機構(UNTAET)が設立、2002年まで独立を率い
た。
(5)その後の制憲議会選挙ではフレティリンが圧勝し、大統領にはシャナナ・
グスマン、首相にはマリ・アルカティリが選出され、2002年5月20日に
235
独立式典を行った。独立後、国連は国連東ティモール支援団(UNMISET)を設立、
独立後の国造りの支援を行った。この中で、日本の自衛隊も国連平和維持活動
(PKO)として派遣され、国連と協力して活動を行った。2005年には、国連の
平和構築ミッション、UNOTIL(国連東ティモール事務所)が設立されたが、2
006年の暴動を受け、同年8月には国連東ティモール統合ミッションが設立。
平和構築ミッションから、再び、平和維持活動へと逆戻りした。
独立後、西部出身の住民と東部出身の住民間の対立や、西部出身の軍人と東部
出身の軍人間の対立や、歴代の大統領や首相間の権力闘争が続き、たびたび暴
動が発生して、政治や社会は混乱した。
(6)このため、治安維持が不可能となった政府は、オーストラリア・マレー
シア・ニュージランド・ポルトガルに治安維持軍の派遣を要請し、翌日には東
ティモールへの利権を確保することを意図したオーストラリア軍が早速展開し、
その後4カ国による治安維持が行われた。
2008年2月11日にも、大統領や首相が、反政府勢力となった国軍の少佐
指揮の武装集団に襲撃されるなどの事件が起こっている。
オーストラリア政府の支援による警察の再建など、治安の回復には時間がかか
ると思われる。
(メキシコ先住民問題)
(1)メキシコは500年前のコロンブス新大陸発見によりスペインに侵攻さ
れた。1500年代にはアステカ王国が滅亡しマヤ人の末裔である先住民達は
236
弾圧されていく。現在では900万人が先住民とされ人口の 1 割となっている。
(2)メキシコ最南部のチアパス州は25%が先住民で貧困層が住む忘れられた
土地と呼ばれている。北部アカプルコや首都などではアメリカ企業がひしめき
ブランドショップが建ち並ぶ保養地などがある一方、南部の先住民居住地域で
は一日500円程度の収入しか得られないなど経済格差が広がっている。また
字の読めない住民がメキシコで最も多く、トイレ、下水、電気などの設備も殆
ど整備されていない。1990年代に入っても州支配者による弾圧、不当逮捕、
拷問などが行われ住民の不満は高まる一方である。
(3)そんな中1994年 1 月にチアパス州のサンクリストバル・デ・ラスカ
サスを中心に反政府組織が武装蜂起。サパティスタ民族解放軍(EZLN)を名乗
り陸軍基地、市庁舎などに攻撃を仕掛けた。
彼らは「ラカンドン密林宣言」を発表し、マヤ系住民の生活向上と差別撤廃の
為の闘争を宣言した。これに対してメキシコのサリナス大統領は、チアパス州
全体に軍隊を派遣。EZLN 支配地域に空爆を行い陸軍部隊と EZLN の戦闘が激化。
数百名の犠牲者を出した。
2000年7月にビセンテ・フォックス大統領が就任すると、EZLN に対する対
話を開始。一方で政府はゲリラの殲滅作戦を並行的に行い、先住民が虐殺され
るなどの事態が起きたため、和平は一進一退の展開になった。国際社会の非難
や協力もあり現在も交渉とさぐり合いが継続されている。
(ミンダナオ紛争)
237
(1)ミンダナオ島は、フィヒリピンでルソン島に次いで2番目に大きい島。
フィリピン諸島は、ルソン島周辺の群島・ヴィサヤ諸島・ミンダナオ島周辺の
群島という 3 つの大きな群島で構成されているが、国土の南三分の一の部分に
あたるのがミンダナオ周辺の群島である。ミンダナオ群島はミンダナオ島とそ
の南西のスールー諸島などから構成されており、6つの地方と25の州からな
っている。
東海岸(ディウアタ山地)、西海岸および中北部には2000m級の山脈があ
り、フィリピン最高峰の火山であるアポ山(2,954m)が中央ミンダナオ
高地にそびえる。
熱帯の気候であるが、北西太平洋に発生した台風はルソン島やヴィサヤ諸島へ
向かうため、ミンダナオ島にはまれにしか上陸しない。このためフィリピンの
他の地域に比べ台風の被害は比較的少なく、農業などにとり有利となっている。
主要な産業は農業・林業・漁業であり、特に商品作物のプランテーションが名高
い。カガヤン・デ・オロにはデルモンテ社の巨大パイナップル農場が、ダバオ
市近郊にもドール社による一面のバナナ農場が広がり、ともに加工工場も持ち
日本などへ出荷されている。これには、農民が大農園の農場労働者になって身
分が不安定になるという問題もある。北部カミギン島などビーチリゾートやダ
イビングといった観光業で収入を得る地方もあるが、ミンダナオ島西部やスー
ルー諸島はフィリピンでも最も貧しい地方のひとつで、政情不安やテロ集団に
よる観光客誘拐もあり、観光業の発達の障害になっている。
238
(2)ミンダナオ島は、中国と東南アジアの交易中継点となっていたが、南方
から来るマレー系人の間にイスラム教が広まりだしたのを機に、1380年ミ
ンダナオ島にもイスラム教が伝わり、後にフィリピン諸島各地に広がった。特
に1457年にスールー諸島に成立したイスラム教国・スールー王国は最盛期
にはミンダナオ島・パラワン島・ボルネオ島北部(サバ州)を統治した。フィ
リピン諸島におけるほとんどの領土をスペインに奪われたものの、ボルネオ北
部をイギリスに獲得される19世紀末まで存続していた。
ミンダナオ島が西洋人と接触したのは、1521年、フェルディナンド・マゼ
ランが率いていたスペイン艦隊が寄航した時である。その後16世紀半ばから
17世紀にかけて相次いでスペイン人航海者や兵士、宣教師が来航し、ミゲル・
ロペス・デ・レガスピが1565年にセブ島を征服した直後には、ミンダナオ
島北部もスペインの植民地支配下に入ったが、ミンダナオ島南部はイスラム教
勢力が強くスペインの力が及ばなかった。13世紀から現在のコタバト州周辺
に築かれたマギンダナオ王国は、17世紀スルタンのクダラットの治世にはミ
ンダナオ島全土と周辺の島々も征服し、スペイン人植民者も手を出せない存在
となった。
(3)マギンダナオ王国やスールー王国は徐々に衰え19世紀には滅亡し、ミ
ンダナオ南部もスペインのフィリピン植民政府によりゆっくりと征服されてい
った。たとえばダバオ付近がスペインに征服されたのは19世紀も半ばのこと
である。スペイン人の下、アニミズムを信じる住民のキリスト教への改宗が進
239
んだが、イスラム教の定着が古くスペイン人による征服が進まなかった南部で
はイスラム教が勢力を保ち続け、現在に至っている。
(4)今日、ミンダナオ島は、フィリピン国民の5%を占めているイスラム教徒
「モロ人」(「モスリム」から転じた)の拠点となっている。モロ人は民族的
には、島の中部ラナオ湖周辺のマラナオ人、マレーシア・サバ州とまたがって
住むタウスグ人などに分かれている。またキリスト教徒でもイスラム教徒でも
ない複数の部族に分かれた先住民、ルマド(Lumad)も存在する。
しかしミンダナオ島の圧倒的多数はキリスト教徒で、特に島の北部に住むブト
ウアン人はイスラム教の影響を受けず、アニミズムから直接キリスト教に改宗
している。また第二次世界大戦後、プランテーションを持つ大地主と土地を持
たない農園労働者との対立が激しい、人口過密なフィリピン中部ヴィサヤ諸島
や北部ルソン島などから多くの農民が自前の農地を持つために、移民・入植し
ているが、彼らはキリスト教徒であり言語ももとからのミンダナオ島民とは異
なるため、摩擦がある。
(5)さまざまなムスリム勢力が、スペイン・アメリカ合衆国・日本・フィリ
ピン政府などに対して数世紀にわたる苦難に満ちた独立闘争を行ってきたが、
キリスト教徒が多数を占める国から独立するという彼らの願いは戦力差のため
失敗し続けてきた。1943年10月14日のフィリピン独立後、数十年にわ
たって行われた国土統一維持政策やミンダナオ島への国内移民の流入により、
ミンダナオの人口の大多数をキリスト教徒が占めることになった。これにより、
貧しい上に社会の主導権を取って代わられたムスリムの怒りや、数百年にわた
240
る分離独立運動に火がつき、モロ・イスラム解放戦線(MILF) や新人民軍(NPA)
などさまざまな反政府グループとフィリピン国軍との内戦が頻発し、ミンダナ
オ西部は危険地帯と化した。
(6)21世紀に入り、中東での紛争と結びついたイスラム教原理主義系のテロ
組織の勃興により、ミンダナオ島やスールー諸島では、フィリピン国軍やアメ
リカ軍による共同軍事作戦、掃討作戦が行われている。特にミンダナオ島西部
はアブ・サヤフやジェマ・イスラミヤといった東南アジア全域で活動するとさ
れる国際的テロ組織が拠点を置き、モロ・イスラム解放戦線など伝統的な分離
独立運動と連携しつつ、これら比較的主張が穏やかな民族主義的独立派の基盤
を奪いかねないほど勢力が広がっているとされていたが、米比両軍による掃討
によりほぼ壊滅・弱体化したと思われる。しかし MILF は根強い支持基盤を持つ
ためまだ危険な地域も多い。
(ニューカレドニア独立運動)
(1)ニューカレドニアは、オーストラリア東方の島で、南太平洋のメラネシア
地域にあり、面積は 1 万 8575.5 平方キロメートル(四国ほどの大きさ)である。
本島グランドテールはこれらの島々の中で群を抜いて大きく、唯一山がちな島
である。島自体の面積は 1 万 6372km²、北西から南東に細長く伸び、長さは35
0Km、幅は50Km から70Km である。長く高い山脈が島の中央部に伸び、中に
は1500m を超える峰も五つある。島の最高地点はパニエ山(Mont Panié、標
高1628m)である。ニューカレドニアは世界のニッケル資源の四分の一を有
241
している。日欧米などの企業が採掘権を買っており、これらの採掘はほとんど
露天掘りで行われている。
ニューカレドニアは、ニューカレドニア島(グランドテール)およびロイヤル
ティ諸島 からなるフランスの海外領土で、事実上の植民地である。ニッケルを
産出する鉱業の島である一方、リゾート地でもある。
ニューカレドニアの人口は2004年の調査では約23万人で、政庁所在地で
人口最大の都市のヌーメアの人口は約9万人である。
民族構成は、メラネシア人 ; 42,5% (カナックと呼ばれる)、ヨーロッパ
人 ; 37,1% 、ワリシア8,4% 、他となっている。
(2)ニューカレドニアは南回帰線にまたがり、南緯19度から南緯23度に
わたっている。島の気候は熱帯で、季節によっては非常に雨が多い。東から太
平洋を越えて来る貿易風が山脈に当たり、大量の雨を降らせることで島内には
多くの熱帯雨林が形成されている。年間降水量はロワイヨテ諸島で約1500
ミリ、本島(グランドテール)東部の低地で約2000ミリ、本島(グランド
テール)の山岳部では2000から4000ミリに達する。本島の西側は山脈
の影となるため雨は比較的少なく、年間降水量は1200ミリである。
(3)
先住民は1960年代以降政党を組んで権利主張と独立運動、先住民文化
復興活動などを始め、ニューカレドニアは1986年以来、一度は1947年
に外された国連非自治地域リストに再度掲載されている。このリストには近隣
の島国であるアメリカ領サモア、イギリス領フォークランド諸島、ニュージー
242
ランド領トケラウなどが含まれている。1985年、先住民文化復興活動の先
頭に立っていたジャン・マリー・チバウ率いる社会主義カナック民族解放戦線
(FLNKS)は独立への扇動を行った。ジャン・マリー・チバウらは独立国家「カ
ナキー」の樹立を主張した。FLNKS 指導者の暗殺に端を発してカナックによる暴
動が始まり拡大し、ニューカレドニア全土に非常事態宣言が出される事態とな
った。特に1988年4月22日、独立過激派が27人のフランス国家憲兵隊
員と 1 人の裁判官を人質にとってロワイヨテ諸島のウヴェア島の洞窟に監禁し、
4人を殺害した事件が最大の危機となった。この事件は5月、海軍特殊部隊、
GIGN、EPIGN などによる突入で過激派を殺害することで解決したが、特殊部隊側
にも犠牲者が出た。
動乱の中、フランス政府は1987年に約束どおり住民投票を行い、翌19
88年にマティニョン合意が成立し自治拡大が約束された。合意を結んだジャ
ン・マリー・チバウは独立過激派により1989年に暗殺されてしまい、FLNKS
は混乱に陥っている。
この後も自治への運動や協議が行われ、1988年にはヌーメア協定が結ばれ
た。この協定では住民への権限譲渡プロセスを「不可逆なもの」と位置づけ、
フランス市民権とは別の「ニューカレドニア市民権」を導入すること、ニュー
カレドニアのアイデンティティを表す公的なシンボル(ニューカレドニア「国
旗」など)をフランス国旗とは別に制定すること、フランス政府がニューカレ
ドニア特別共同体に段階的に権限を譲渡し、最終的には外交、国防、司法権、
通貨発行以外の権限はニューカレドニアに全面的に譲渡されること、2014
243
年から2018年のいつかの時点で独立かフランス残留かの住民投票を行うこ
と、などが定められた。
条約一覧
参考文献
終わりに
筆者紹介
条約一覧
1
北方領土問題(日本 VS ロシア連邦)
(日露和親条約・1856 年)
1853 年 8 月(嘉永 6 年 7 月)、国境の画定と開国・通商を要請する国書を携え
たプチャーチン・ロシア艦隊司令長官がパルラダ号で長崎に来航し、日本とロ
シアとの条約締結交渉が開始された。その後、長崎での数次にわたる交渉を経
て、ディアナ号で再び下田に来航したプチャーチンと日本側全権・筒井政憲(つ
つい・まさのり)、川路聖謨(かわじ・としあきら)との間で、1855 年 2 月 7
日(安政元年 12 月 21 日)に調印されたのが、日露和親条約である。(批准書
交換が行われたのは 1856 年 12 月 7 日)
244
この条約では、第 1 条で今後両国が「末永く真実懇」にすることが謳われるとともに、
第 2 条において、日露間の国境を択捉(エトロフ)島と得撫(ウルップ)島の
間とすること、樺太(カラフト)島には国境を設けずに、これまでどおり両国
民の混住の地とすることが定められた。箱館、下田、長崎の 3 港の開港(第 3
条)のほか、双務的な領事裁判権が規定されていることもこの条約の特徴であ
る。(第 8 条)
(サンフランシスコ平和条約・1952)
昭和 26(1951)年 9 月 8 日、サンフランシスコ会議(9 月 4 日-8 日)の最終日
に、日本と、ソ連・支那・インド等を除く旧連合国 48 ヶ国との間に調印された
講和条約。正式には「日本国との平和条約」(対日平和条約)だが、調印され
た都市の名を採って、「サンフランシスコ平和条約」と通称される。この条約
は、ソ連・支那・インドと言った諸国の反対を無視する形で、米英だけで草案
を作成し、会議も討議も一切認めない議事規則で強行。調印の翌年、昭和 27
(1952)年 4 月 28 日に発効した。本条約の最大の特徴は、日本の個別的・集団
的自衛権を承認し、日本の再軍備と外国軍隊の駐留継続を許容した点で、日本
の再軍備は「自衛隊」(警察予備隊→保安隊→自衛隊)、集団的自衛権と外国
軍隊駐留継続は、本条約調印同日に調印された「日米安保条約」として具現化
した。又、沖縄・小笠原諸島におけるアメリカの施政権継続も謳(うた)われ
ており、多分にアメリカの極東戦略が色濃く反映された条約だったと言える。
245
日本国は、千島列島並びに日本国が千九百五年九月五日のポーツマス条約の結
果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての
権利、権原及び請求権を放棄する。
2
大陸棚と国境線
(海洋法に関する国際連合条約・1996年)(当事国154)
第3条
領海の幅
いずれの国も、この条約の定めるところにより決定される基線から測定して
12海里(22,2キロメートル)を超えない範囲でその領海の幅を定める権
利を有する。
第33条
接続水域
接続水城とは、領海の外側にも通関・財政・検疫など一定の行政的な権限を
行使できる水城をいう。ただし、接続水城は、領海の幅を測定するための基線
から24海里(44,4キロメートル)を超えて拡張することができない。
第57条
排他的経済水域(EEZ)の幅
排他的経済水域(EEZ)は、領海の幅を測定するための基線から200海里(3
70,4キロメートル)を超えて拡張してはならない。
沿岸国は、自国の排他的経済水域(EEZ)における生物資源の漁獲可能量や地下資
源の開発・利用を決定することができる。
246
なお、大陸棚は、本来海岸から緩やかに続く水深200メートルまでの海底の
地理的概念であるが、大陸棚には、石油や天然ガスなどの地下資源が埋蔵され
ているため、領海の幅を測定するための基線から200海里(370,4キロ
メートル)までを排他的経済水域(EEZ)として、沿岸国の権利を大幅に認めた
ものである。沿岸国は、大陸棚を探査し及びその天然資源を開発するため、大
陸棚に対して主権的権利を行使する。
沿岸国は、自国の大陸棚が地理的に領海の幅を測定するための基線から200
海里(370,4キロメートル)を超えて延びている場合には、大陸斜面の脚
部から60海里(111,2キロメートル)を超えないことを要し、かつ、沿
岸国の大陸棚の外側の限界は、海底海嶺の上においては領海の幅を測定するた
めの基線から350海里(648,2キロメートル)を超えてはならない。
なお、この場合、国連大陸棚限界委員会に、2009年までに、申請して認定
を受け、そこから得られる収益の一部を途上国や内陸国に配分しなければなら
ない。
3
南極条約
(1)1957年∼58年の「国際地球観測年(IGY)」に南極において実施さ
れた国際的科学協力体制を維持、発展させるため、1959年、日、米、英、
仏、ソ等12か国は南極条約を採択した。同条約は南緯60度以南の地域に適
用されるもので、以下の点を主たる内容としている。
(イ)南極地域の平和的利用(軍事基地の建設、軍事演習の実施等の禁止)(第
1 条)
247
(ロ)科学的調査の自由と国際協力の促進(第2、3条)
(ハ)南極地域における領土権主張の凍結(第4条)
(ニ)条約の遵守を確保するための監視員制度の設定(第7条)
(ホ)南極地域に関する共通の利害関係のある事項について協議し、条約の原
則及び目的を助長するための措置を立案する会合の開催(第9条)
(2)南極における領土権問題
現在、南極地域で実質的な科学的研究活動を行っている国の中には、南極の
一部に領土権を主張している7か国(英、ノルウェー、仏、豪、NZ、チリ、ア
ルゼンチン)と領土権を主張しないと同時に他国の主張も否認する国(米、ロ
シア、我が国、ベルギー、南ア等)があり対立している。また、領土権を主張
しないと同時に他国の主張も否認する国の中でも、米、ロは現状では領土権を
主張しないが、過去の活動を特別の権益として留保している。
南極条約締約国の中でも、南極に基地を設ける等、積極的に科学的調査活動を
実施してきている国(28か国)は、南極条約協議国と称され、南極条約に基
づき定期的に南極条約協議国会議を持ち、情報の交換、国際協力の促進等につ
いて協議を行っている。
南極条約締約国一覧(2006年6月現在、46か国)
(1)南極条約協議国(28か国)
248
アルゼンチン、オーストラリア、ベルギー、ブラジル、ブルガリア、チ
リ、中国、エクアドル、フィンランド、フランス、ドイツ、インド、イタ
リア、日本、韓国、オランダ、ニュージーランド、ノルウェー、ペルー、
ポーランド、ロシア、南アフリカ、スペイン、スウェーデン、イギリス、
アメリカ、ウルグアイ、ウクライナ
(2)その他の締約国(18か国)
オーストリア、カナダ、コロンビア、キューバ、チェコ、デンマーク、
エストニア、ギリシア、グアテマラ、ハンガリー、北朝鮮、パプアニュー
ギニア、ルーマニア、スロバキア、スイス、トルコ、ベネズエラ、ベラル
ーシ
4
欧州連合
(欧州連合(EU)条約・1993年11月1日効力発生)(マースリ
ヒト条約)(当事国27カ国)
27か国:ベルギー、ブルガリア、チェコ、デンマーク、ドイツ、エストニア、
アイルランド、ギリシャ、スペイン、フランス、イタリア、キプロス、ラトビ
ア、リトアニア、ルクセンブルク、ハンガリー、マルタ、オランダ、オースト
リア、ポーランド、ポルトガル、ルーマニア、スロベニア、スロバキア、フィ
ンランド、スウェーデン、英国
249
5. 略史
年月
略史
欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)設立(パリ条約発効)。 原
1952 年
加盟国:仏、独、伊、オランダ、ベルギー、ルクセン
ブルク
欧州経済共同体(EEC)、欧州原子力共同体(EURATOM)
1958 年
設立(ローマ条約発効)
1967 年
3 共同体の主要機関統合
1968 年
関税同盟完成
1973 年
英国、アイルランド、デンマーク加盟
欧州議会初の直接選挙実施、欧州通貨制度(EMS)導
1979 年
入
1981 年
ギリシャ加盟
250
年月
略史
1986 年
スペイン、ポルトガル加盟
1987 年
「単一欧州議定書」発効
1992 年末
域内市場統合完成
1993 年 11 月
マーストリヒト条約(欧州連合条約)発効
1994 年 1 月
欧州経済領域(EEA)発足
1995 年 1 月
オーストリア、スウェーデン、フィンランド加盟
1999 年 1 月
経済通貨同盟第 3 段階への移行(ユーロの導入)
1999 年 5 月
アムステルダム条約(改正欧州連合条約)発効
2002 年 1 月
ユーロ紙幣・硬貨の流通開始
251
年月
略史
2002 年 7 月
ECSC 条約の失効、ECSC 解消
2003 年 2 月
ニース条約(改正欧州連合条約)発効
2004 年 5 月
中東欧等 10 か国が加盟
2005 年 10 月
トルコ、クロアチア EU 加盟交渉開始
2007 年 1 月
ブルガリア、ルーマニア EU 加盟
(通貨)
1999 年 1 月に EU 加盟国中 11 か国で単一通貨ユーロを導入(ユー
ロ貨幣の流通は 2002 年 1 月から)。2001 年 1 月にギリシャ、2007 年 1 月にス
ロベニア、2008 年 1 月にマルタ、キプロスが加わり、現在の参加国は 15 か国。
2009 年 1 月よりスロバキアが加わり、参加国は 16 か国に拡大の予定。
(主要機関)
1. 欧州理事会 (政治レベルの最高協議機関)
EU 各国首脳及び欧州委員会委員長により構成(理事会議長国首脳が議長を務
め通常年 4 回開催)。欧州連合の発展に必要な原動力を与え一般的政治指針を策
252
定する。共通外交安全保障政策の共通戦略を決定。議長国は半年交替の輪番制
(2008 年後半フランス、2009 年前半チェコ)
。
2. EU 理事会(決定機関)
EU 各国の閣僚級代表により構成される EU の主たる決定機関(総務・対外関
係理事会、経済・財務相理事会等分野毎に開催される)。議長国は欧州理事会と
同様。
3. 欧州委員会(執行機関)
加盟国の合意に基づき欧州議会の承認を受けた委員で構成(各国 1 名の計 27 名、
任期 5 年)。省庁に相当する「総局」にわかれ、政策、法案を提案、EU 諸規則
の適用を監督、理事会決定等を執行(共同体事項につき対外的に EU を代表)。
•
委員長
ジョセ・マヌエル・ドゥラン・バローゾ(José Manuel Durão
BARROSO、元ポルトガル首相)
•
対外関係担当委員
ベニタ・フェレーロ=ヴァルトナー(Benita
FERRERO-WALDNER、元オーストリア外相)
•
貿易担当委員 ピーター・マンデルソン(Peter MANDELSON、元北ア
イルランド担当大臣(英国))
4. 欧州議会(諮問・共同決定機関)
諮問的機関から出発し次第に権限を強化、特定分野の立法における理事会との
共同決定権、EU 予算の承認権、新任欧州委員の一括承認権等を有する。定員は
253
785 名、各国を一つの選挙区とする直接選挙(定員は各国の人口に配慮し配分、
選挙方式は国により異なる)により選出。議長はペテリング氏(Hans-Gert
POETTERING)。
5. 欧州裁判所
EU 法体系の解釈を行う欧州連合の最高裁。憲法裁判所、国際裁判所、行政裁判
所、労働・普通裁判所としての機能を併せ持つ。加盟国の合意により任命され
る 27 名の裁判官と 8 名の法務官(いずれも任期 6 年)により構成。加盟国の国
内裁判所で提起された EU 法上の問題について「先行判決」を下す制度を有す
る。第一審裁判所もある。
6. その他
欧州中央銀行、欧州会計検査院、経済社会評議会、地域評議会、欧州オンブズ
マン、欧州投資銀行等が存在。
政策
1. 経済統合
(1) 関税同盟と共通農業政策(CAP)
欧州共同体条約に基づく経済統合の 2 つの柱。加盟国間の貿易に対する関税・
数量制限を撤廃し、域外に対する共通関税率と共通通商政策を適用。農業分野
では域外との貿易に対する輸出補助金、域内での市場介入等を通じ農産品の域
内価格を安定。農家への直接所得補償を導入。
254
2003 年 6 月の中間見直しにおいて、生産高とリンクした補助金の支払いを原
則やめ、過去の受領額に応じた「デカップリング」を導入した単一直接支払い
を導入。また、農村開発政策を強化した。CAP の実効性を再評価する「ヘルス・
チェック」のための立法提案が 2008 年 5 月に行われた。
(2) 域内市場統合の完成
域内市場統合白書(1985 年)と単一欧州議定書(1987 年)に基づき、人・
モノ・サービス・資本の移動が自由な単一市場を完成させるため、1992 年末ま
でに物理的・技術的・財政的障害の除去を目的とした約 270 項目の自由化・共
通化のための EU 法令を採択。
(3) 経済通貨統合(EMU)
加盟国間の外国為替相場の変動率を一定の幅に抑えるため 1979 年より実施さ
れていた欧州通貨制度(EMS)をさらに一歩進め、各通貨間の相場の固定と単
一通貨の導入を行ったもの。欧州連合条約に盛り込まれた手続に従い、1994 年
に後の欧州中央銀行(ECB)の前身である欧州通貨機構(EMI)を設立、各国
の経済・財政政策の収斂を図り、物価の変動率や財政赤字の GDP に対する比率
等に関する基準を満たした 11 か国が 1999 年 1 月 1 日より単一通貨ユーロを導
入した。ユーロ貨幣の流通が開始されたのは 2002 年 1 月 1 日。2001 年 1 月に
ギリシャ、2007 年 1 月にスロベニア、2008 年 1 月にマルタ、キプロスがユー
ロを導入し、現在、ユーロ圏は 15 か国。2009 年 1 月よりスロバキアがユーロ
圏に参加する予定。
2. 政治統合
255
1993 年に発効した欧州連合条約(マーストリヒト条約)に将来の防衛分野で
の協力も視野に入れた共通外交・安全保障政策(CFSP)、加盟国国民に共通の
市民としての基本的な権利(地方自治体選挙権等)を認める欧州市民権の導入、
司法・内務分野の協力等が盛り込まれた。これに基づき、主要な国際問題に関
する共通の行動や、移民、国境管理、テロ・麻薬対策などに関する協力を行っ
ている。特に、1999 年のアムステルダム条約発効以降、CFSP が強化され、上
級代表ポスト(現在ソラナ上級代表)が設置されたほか、安全保障分野につい
ても、緊急展開可能なバトルグループ(BG)が 13 個グループ創設され、2007
年より運用開始した。
3. 警察・刑事司法協力
従来から政府間協力の枠組みで実施されてきた司法・内務分野における協力が
マーストリヒト条約において EU の活動の第 3 の柱として取り入れられ、1999
年のアムステルダム条約発効に伴い警察・刑事司法協力と改称された。2001 年
9 月 11 日の米国における同時多発テロ発生以降、同分野での協力が急速に進展
している。
4. EU 拡大
1958 年(EC) 現加盟国:独、仏、イタリア、ベルギー、オランダ、ルクセン
ブルク
1973 年(EC)
第 1 次拡大:英国、アイルランド、デンマーク
1981 年(EC)
第 2 次拡大:ギリシャ
256
1986 年(EC)
第 3 次拡大:スペイン、ポルトガル
1995 年(EU)
第 4 次拡大:オーストリア、スウェーデン、フィンランド
2004 年(EU) 第 5 次拡大:ポーランド、チェコ、ハンガリー、エストニア、
ラトビアリトアニア、マルタ、キプロス、スロバキア、スロベニア
2007 年(EU)
第 5 次拡大:ブルガリア、ルーマニア
5. EU の機構改革
2004 年及び 2007 年の拡大の結果、加盟国が 27 か国になった EU をより効率
的・機能的にするため、EU 関連条約の見直しが行われ、2007 年 12 月に開かれ
た欧州理事会にて「リスボン条約」が署名された。同条約が発効すれば、常任
の欧州理事会議長の任命や欧州委員会のスリム化等機構改革、EU 外務・安全保
障政策上級代表の任命、欧州対外活動庁の創設等による共通外交・安全保障政
策実施体制の強化、欧州議会・各国議会の権限強化等が図られることとなって
いる。一方、リスボン条約の発効には、27 の加盟国全てによる批准が必要とな
るが、2008 年 6 月にアイルランドで実施された国民投票で批准が否決されたた
め、発効時期の見通しは不透明となっている。
「改革条約」(リスボン条約・2007年)「欧州連合条約および欧州共同体設立
条約を修正する条約」
リスボン条約とは、既存の欧州連合基本条約を修正する条約。改革条約とも呼
ばれる。2009 年までにすべての欧州連合加盟国の批准が完了し、発効する予定
となっている。本条約の正式な名称は「欧州連合条約および欧州共同体設立条
257
約を修正する条約」。2009 年中ごろに予定されている欧州議会議員選挙の前と
なる 2009 年 1 月 1 日の発効を目指している。
草案は 10 月 19 日に合意に達し、欧州憲法条約に大幅な変更が加えられたもの
の欧州憲法条約とは異なり、既存の基本条約と置き換えられるのではなく、修
正する形をとっている。また欧州連合の旗のような超国家機関的な性格は取り
除かれ、特定の国には適用除外条項が規定されている。
(リスボン条約調印式)
2007年12月13日 リスボンにおいて調印
2008年末 全加盟
国による批准完了
2009年 1 月 1 日 発効
参考文献
1
90分でわかる世界史の読み方(基本と常識)
木村光男著
かんき出版
1997年
2
ポケット・アトラス世界
著作・発行 帝国書院
昭和62年
3
ポケット・アトラス日本
著作・発行 帝国書院
昭和62年
4
IMIDAS・イミダス
5
今がわかる・時代がわかる・世界地図・2005年版
6
知っているつもりで知らない・世界地図
ワークス
7
幻冬舎
2007
2007年
成美堂出版
編著者・インターナショナル・
2004年
イラスト図解・世界情勢の地図帳・日本はどうなる
258
池上彰著
講談社
2003年
8
そうだったのか!ニュース・世界地図・2008
池上彰著
集英社
2007年
地図で読む世界情勢・第 1 部・なぜ現在の世界はこうなったか
9
ャン・クリストフ・ヴィクトル他
10
著者・ジ
鳥取絹子訳
教科書には載っていない!ワケありな国境
武田知弘著
彩図社
平成
20年
11
図解・世界なるほど地図帳
世界博学倶楽部著
PHP 研究所
2004年
12
拡大・深化する EU から学ぶ外交力(前駐仏大使:平林博)経団連クラ
ブ会報
日本経団連
2008年
13
現代政治学小事典(新版)
阿部斉等著
14
民族の世界地図
15
参考ウエブサイト
外務省
16
参考ウエブサイト
国際連合広報センター
17
参考ウエブサイト
アメリカ国防総省
18
参考新聞記事
朝日新聞
19
参考新聞記事
産経新聞
20
参考新聞記事
日経新聞
21
参考新聞記事
毎日新聞
22
参考新聞記事
読売新聞
23
国際条約集
21世紀研究会編
編集代表奥脇直也
1996年
文春新書
有斐閣
259
有斐閣
2008年
終わりに
土光臨調を経て、私は、1989年、総務庁の事務次官に就任した。総務庁
は総合調整官庁なので、所管事項は行財政改革をはじめ幅広い分野を担当して
いるが、その中に領土問題である北方領土対策を含んでいた。その事務のため、
北方領土対策本部が設けられ、大臣が本部長で、事務次官は副本部長である。
北方領土問題については、北方領土に最も近い根室市の岬の突端に、北方領土
記念会館と屋外の北方領土記念碑が設置され、そこから望遠鏡で北方領土を眺
望できるようになっていた。私は事務次官に就任してまもなく、北方領土記念
会館と屋外の北方領土記念碑を訪れ、北方領土を目の当たりにした。
260
本書のにおいて、世界における国境線を巡る具体的な紛争事例を60件近く
取り上げたが、既に決着のついた領土紛争も若干含まれているが、大半は、現
在も続いている国境線を巡る紛争である。
国境線を巡る争いは、宗教対立や人種や民族対立を背景にしていることは、
先に述べたところであるが、世界の主な宗教の信者数を「世界国政図鑑200
6・07年版」によりみれば次のとおりである。
キリスト教:21,1億人、イスラム教:12,8億人、ヒンズー教:8,5
億人、仏教:3,8億人、その他宗教となっている。
一方、人種や民族に代えて、国別人口を、同上「世界国政図鑑」(2004
年の国連人口統計に基づく。)により、多い順にみれば次のとおりである。
中国:13,2億人
②インド:11億人 ③アメリカ:2,98億人
④インドネシア:2,23億人
1,58億人
人
⑤ブラジル:1,86億人
⑦ロシア:1、43億人 ⑧バングラディッシュ:1、42億
⑨ナイジェリア:1,32億人
07億人
⑥パキスタン:
⑩日本:1,28億人
⑪メキシコ:1,
⑫ベトナム:8,4千万人 ⑬フィリッピン:8,4千万人
イツ:8,3千万人
⑭ド
⑮エチオピア:7,7千万人 となっている。
国境線を巡る紛争は、いつまでも決着の付かないことが多い。60件近い国
境線を巡る紛争事例を見終えて思うことは、国民の強烈な願望に支えられた当
事国の正当な主張を力で押さえつけて、無視し続けることはできない。そうし
た場合、歴史が教えるように、テロや暴力や戦争を繰り返すことになる。
261
しかしながら同時に、冷静に認識すべきは、「①アメリカ、EU、ロシア、中国、
インド、日本といった世界の大国の意向を無視し続けることはできない。」「②
確立した国際法を無視し続けることはできない。」そして、「③国際連合特に
国連総会や安全保障理事会の意向を無視できない。」と言うことである。
筆者紹介
山本貞雄(やまもと
さだお)
1934年生まれ、京都府出身、京都大学法学部卒。1961年国連フェロー
シップで米国留学、ピッツバーグ大学・行政国際問題大学院・研究所行政研修
に参加。フーバー委員会に関しフーバー元大統領に会見調査。大統領府行政予
算局、商務省等調査。1967年行政管理庁大臣秘書官、1981年臨時行政
調査会事務局次長、1983年臨時行政改革推進会議事務局次長、1986年
総務庁行政監察局長、1989年総務事務次官、1991年京セラ代表取締役
専務、1993年京セラオプティック社長、1995年京セラマルチメディア
コーポレーション社長、1996年日米21世紀委員会委員、運営委員長、2
262
002年4月より跡見学園女子大学マネジメント学部長、教授、2006年4
月より同大学院マネジメント研究科長。
主要著書:「外国行政組織制度」(大蔵省印刷局)
「実学
世紀末20年の行財政改革と21世紀の課題―小泉構造改
革は中曽根構造改革を超えられるか」時評社
「21世紀の日本への警告!実学
共著
2050年の基本課題」時評社
:「21世紀・日米共生の時代」(PHP 研究所)
「中曽根内閣史理念と政策」(世界平和研究所)
263