「感謝」と様相 `Gratitude` and Modality

日本大学大学院総合社会情報研究科紀要 No.8, 161-172 (2007)
「感謝」と様相
―必然、可能、偶然―
淺野 章
日本大学大学院総合社会情報研究科
‘Gratitude’ and Modality
―Necessity, Possibility, Contingency―
ASANO Akira
Nihon University, Graduate School for Social and Cultural Studies
In this paper, ‘Gratitude’ is discussed from the point of view of modality under which we have necessity, possibility
and contingency. Thoughts of well-known philosophers on the history such as Baruch de Spinoza (1632-77), Martin
Heidegger(1889-1976) and KUKI Shuzo(1888-941) are referred to study in each.
まえがき
感謝と様相とのかかわりについて考察を進めるこ
ととする。
様相については、必然、現実、可能の三様態が先
ず考えられる。感謝の観点から見ると、この三様態
よりは、むしろ、必然、可能、偶然の三様態のほう
が、より考察に適しているように思われる。この点
についてはなお考察を要する。問題は、現実と偶然
について、それらが、様相全体に占める位置関係と
して適切であるか否か、にかかっている。断るまで
もなく、偶然は必然に対応する概念である。すなわ
ち、必然の否定が偶然とみなされている1。偶然は必
然とは矛盾対当の関係にある。感謝の観点から見る
ならば、偶然こそまさにかけがえのない現実という
ことになる。もとより現実はすべての起点として、
そこから出てそこへと返るところであり、究極にお
いて様相はすべて現実とのかかわりが問題となる。
本稿においては、主として必然、可能、偶然につい
て、感謝とのかかわりを考えてみることとする。
必然、可能、偶然のおのおのについて、これを見
るとき、哲学上、典型的な思想家として、スピノザ
Baruch de Spinoza(1632-77) 、 ハ イ デ ガ ー Martin
1 カント Immanuel Kant(1724-1804)の範疇表はその代表的な
例である、『純粋理性批判』高島一愚訳、河出書房、1965,
100 ページ。純粋悟性概念が先天的に客観に関わる概念。
Heidegger(1889-976)、九鬼周造(1888-941)をあげるこ
とができよう。
感謝と様相とのかかわりについて、これらの思想
家の思想を手がかりとして考えてみようというのが
執筆の意図するところである。
第一章 感謝と必然
― スピノザの思想より ―
スピノザの思想が徹底して必然によって貫かれて
いることは、スピノザ哲学が決定論と呼ばれている
ことからも容易に想像することができよう。そこで、
スピノザが決定論を主張するに到ったか、つまり、
必然を何ゆえ自己の思想の核心とするに至ったかを
顧みることにしたい。
スピノザが哲学に志したのは、その生涯における
一大事件であるユダヤ教会からの破門(1656)に、
端的に示されている。思想の自由こそスピノザにと
って何ものにも代えがたいものであった。生まれ育
った宗教的民族環境から絶縁されるということが、
どのような事態を招くか、17 世紀ヨーロッパにおい
て最も自由である見られるオランダにおいても、き
わめて困難であったと思われる。
しかし、スピノザの関心するところは、単に世を
捨てるというのではなく、はるかに生臭く、俗世間
の人間たちの心を捉えて離さぬ一大関心事にあった。
「感謝」と様相
俗世間において一般に幸福と呼ばれているものにつ
ちスピノザのことばによって表すならば、真の幸福、
いてである。もとより、このことは、スピノザが出
への願いが心底にきざしていた。
世間的な立場に立って世間一般を観察していること
真の幸福すなわち永遠に変わることのない喜悦の
を意味するものではない。それどころか、スピノザ
観点に立ってみるならば、富、あるいは名誉にして
自身もまた若年のころには世間並みの幸福を求めて、 もなお問題がないとは言えない。
下手な解説をつづけるよりも、快楽を含めスピノ
そこに人生の意義を見出していた、その点において
は普通の青年と変わるところはなかった。しかし、
ザの声を直接聞くことにしよう2。
幾たびか人生の悲哀を経験して、世間一般の幸福に
蓋しこの世で最も多く遭遇するもので人々が最高の善
と評価している――と彼らの行動から推察される――と
ころのものを我々は次の三つに、即ち富・名譽及び快樂に
還元し得るが、この三つから我々の精神は他の何らかの善
について思惟することが少しも出來ぬまでに惑い亂され
るからである。
ついて疑いを持ち、深く考えるようになった。
世間一般に幸福とみなしているのは、富であり、
名誉であり、快楽である。今日であれば特に健康と
言うところであろうが、単に健康というのでは、い
まだ幸福の域に及んでいるとは何人も思わないであ
ろう。愉快に生活を楽しむことができて初めて満ち
ついで、その理由を説く。
足りた気分に浸ることができる、つまり、快楽にお
まず快楽に関して、心はその虜となって恰もそれが安
住すべき善事であるかの如く思ひ、そのため他の善につい
て思惟することを大いに阻害される。一方その享樂の後に
は深い悲哀が續き、それがたとひ精神の働きを止めないま
でも尚之を混亂させ鈍磨にするのである。
ける幸福である。ややもすれば、快楽における幸福
は幸福として低くみなされがちであるが、決してそ
のように評価されるべきではない。それは失ってみ
てはじめてそれと悟らされる性格のものである。お
そらく幸福の基本構造に快楽は属するものと思う。
快楽を、愉快に生活を楽しむ、と解して述べたので
快楽とやや性格を異にする富と名誉についても、
その虚しさが説かれる。
あるが、スピノザの考察した快楽は、永続性のない
名譽や富を追求することに依っても矢張り少からず精
神は惑ひ亂される。特に富がそれ自らの故にのみ求められ
る時には。何故ならこの場合にはそれが最高の善と見做さ
れているからである。しかし名譽に依って尚一層多く精神
は惑ひ亂される。即ち名譽は常にそれ自体で善と思はれ、
一切の行ひの向けられる究極目的と見做されるからであ
る。それからこの二者〔名譽と富〕にあっては快樂に於る
やうに後悔が伴はない。反對に我々は二者のいずれかを所
有すればする程、我々の喜びは増して來る、その結果我々
は次第次第に之を殖やすやうに驅られる、しかし若し何等
かの場合我々の希望が裏切られるや深い悲哀が生ずるの
である。最後にまた名譽は、之を得るため必然的に我々の
生活を人々の常識に適合させねばならぬから、即ち、通常
人々の避けるものを避け通常人々の求めるものを求めね
ばならぬから〔最高の善の思索に〕大きな障害となるので
ある。
一時的な楽しみに過ぎないものであると解されてい
る。ここに快楽についての見方の違いとともにスピ
ノザの性格を窺い知ることができるであろう。
確かに、快楽、それも感覚的な快については、特
に一時的、場合によっては、瞬間に過ぎない場合も
少なくない。のどもとを過ぎていくのは一瞬に過ぎ
ないし、テレビの画面にしても瞬時に様変わりして
いく。いかに美味なものといえども、のどに詰まっ
ては一大事である。好みの番組であっても同じもの
を毎回見せられては嫌気をもようすであろう。確か
に感官に依存する快楽には永続性はない。というよ
り、永続性のないのがその長所となっている。つま
り、満足の後には休息があり、その休息という一種
の無があって、さらに新たなる感覚的快楽の需要が
可能になるのであり、一般の世人はそれを、また楽
しみにしている。然るに、スピノザは、この世間並
みの幸福に満足ができなかった。というより、むし
ろ、そこに幻滅のむなしさを感じ取った。すなわち、
一時の快楽ではなく、永遠に変わらぬ喜び、すなわ
人生についての自己の体験、また直接見聞したで
あろう世の出来事、さらに古今に亘る著作から得た
該博な知識に基づき、深く生の実態を思索し洞察し
2
スピノザ『知性改善論』畠中尚志訳、岩波文庫、1954、10
−11 ページ。
162
淺野
た、まだ若き日のスピノザの姿を如実に伝える格好
揺も生ずることがないであろう7。
の資料として『知性改善論』Tractatus de intellectus
すなわち、心の動揺が起こるのは、可滅的なものを
emendatione は最適であり、まさに、スピノザと必然
愛するからである。可滅的な事物への愛着が原因と
との関わりの考察にこの上ない機会を提供してくれ
なって、心が動揺し、嫉妬や怖れ、あるいは憎しみ
る。引用文について尚説明を加える必要があるとは
が生じ、その挙句、悲哀が湧いてくるという、結果
思えないが、名誉について、世人の意向に従った生
に必然的に陥ることとなる。この必然の連鎖を断ち
活を強いられるというのは注目してよいであろう。
切るには、原因である可滅的な事物に換えるに、絶
名誉といっても所詮、世情に従属したものに過ぎな
対に滅することのない永遠なるものへの愛を持って
いのであり、哲学、何よりも思想の自由をその生命
すればよいことになる。このようにして、神への知
とする哲学にとって、つまり、いかなるものからの
的愛が説かれるにいたった。スピノザ畢生の大作『エ
3
拘束従属をも排し、独立独歩の哲学 、これを、後に
章
チカ』Ethica ordine geometrico demonstrata (1675)は、
4
取り上げる九鬼周造は「裸一貫の哲学」と呼んだ が、 スピノザ自身の生の道標でもあった。『知性改善論』
まさに裸一貫の哲学を生きた典型こそスピノザであ
5
った 。
において改善の目的とされているのは、まさに可滅
的なものへの愛から永遠なるものへの愛の転回の考
富・名誉及び快楽を、世人が憧れ追求してやまな
究にあった。スピノザの率直な述懐にあるように、
いのはそれらが善と見做されているからに他ならな
論考されたからと言って直ちに実行されるような生
い。スピノザの探求するのは最高善である。世人が
易しいもではなかった。富・名誉・快楽
あこがれ追求している善は好ましいように見えても、 など世間一般に善として追求されているものから逃
所詮はむなしく悲哀に終わるものに過ぎない。この
れることは容易ではない。その対策としてデカルト
ことについての考察が、
『知性改善論』執筆の動機を
René Descartes(1596-1650)を参考にして、真の善の探
なしているだけに、詳細に繰り返し説かれている。
求に支障をきたさない生活法を考案している。
このように青春の一時期深く人生について省察した
一切の可滅的事物への愛を断ち切り、絶対に変わ
後、スピノザの達した結論は、
「可滅的なるものへの
らぬ永遠なるものへの愛、これを生活基準とする立
愛」、これを捨てることであった。この結論を導いた
場から、感謝もまた、スピノザによって考察されて
のは、幸福と言い不幸と言っても、それは我々の愛
いる8。
着する対象の性質に依存して起こるということであ
6
永遠なるものへの愛、スピノザの解するところで
る 。実際、指摘されて改めて首肯されるように、何
は、
「それは精神が全自然と合一していることを認識
人も、愛しないもののために争いを起こすこともな
し得べき状態」9である。
いであろうし、たといそれが滅びたからと言って悲
全自然との合一を支配している論理は、必然であ
哀が湧くこともないであろうし、他人に所有された
からと言って嫉妬の起こることもないであろうし、
7
同上。訳者の指摘通り、『知性改善論』のこのあたりの叙
述は、主著『エチカ』の前身と見做されるスピノザ若き日の
著作『神・人間及び人間の幸福に関する短論文』にも同様に
見られる。それに加えて、この一見平凡に見える感慨のうち
3
単に政治的、社会的など外による従属拘束のみではなく、 に、スピノザの思想の核心が素朴な形で読み取ることが出来
哲学の内における従属拘束つまり特定の哲学における従属
る。即ち、感情の本性、さらに、スピノザの理想とする、平
拘束をも排している、主人もちでない哲学のこと。
静、静けさ、であり、それは常に変わらぬ不動、つまり、絶
4
九鬼周造『実存の哲学』
(岩波哲学講座第十五回配本 六、 対永遠の静けさである。
8
1933)、37 ページ。
既に、本ジャーナルにおいて論考されている(「電子紀要」
5
史上有名な、ハイデルベルク大学招聘を一蹴したのは、そ 第 6 号、2003.11、333-44 ページ参照)。
9
の現われのひとつ。「裸一貫の哲学」を単に説いた、と言わ
Cognitionem unionis, quam mens cum tota Natura habet.
ずに、生きた、と記したのは、その間の事情を示す。
(Tractatus de intellectus emendatione / Etica). Spinoza OPERA
6
,Carl Winter Universitätsverlag, Heidelberg.,S.8.
前出、畠中訳,13 ページ参照。ここに、因果の強固な必然の
前出、畠山訳、15 ページ。
論理の支配に着目しておきたい。
怖れや憎しみなど、これらを総称して何等の心の動
163
「感謝」と様相
る。自然に善悪はない。善と言われている者は、そ
もっとも、それは、一般世人の傾向であり、スピ
れ自身においては善ではないし悪でもない。善は人
ノザの理想の人として、後年において描かれている
間の観念によって抽象されたものでしかない。全自
自由の人は、いわば、感謝の真の意味における典型
然との合一を一途に希求した若き日のスピノザは、
として扱われているのであり、大いに注目される。
『神・人間及び人間の幸福についての短論文』にお
いては、感謝を全面的に否定した。その理由は、感
自由の人々のみが相互に最も感謝的である13。
謝と言われているもの、すなわち、感謝の実体は、
可滅的なるものへの愛にほかならないからである10。 第二章
このスピノザ初期の感謝観は後期あるいは晩年の考
え方とは著しく異なる11。
『エチカ』において、感謝は、スピノザが理想と
して描く自由の人において積極的に説かれている。
ここにおいて、自由の人と断ったのは、自由の人
に対比して無知の人とスピノザが呼んでいる、おそ
らくは一般世人については、感謝と称されているの
が、その実、取引にすぎないとみなされているから
である。
必然を強調し尊重するスピノザにおいて、感謝が
どの程度の重みを持っているか、確かに、問題であ
る。徹底して論を詰めていくならば、若年の思想に
近づくのではないかと思われる。この点、社会福祉
制度の完全徹底実施が感謝の観念を消退させるのに
比せられる12。
10
『神・人間及び人間の幸福についての短論文』より引用
すると、
「さらに進んで(Gunst)、感謝(Dankbaarheid)及び
忘恩(Ondankbaarheid)について考察する」、と前置きし次の
ように記している。「最初の二つに関して言へば、それは隣
人に對して何等かの善を望みあるいは行はうとする精神の
傾向である。「望む」と私が言ふのは、他人に何等かの善を
なした人に善が仕返される場合である。「行ふ」と私が言ふ
のは、我々自身が何等かの善を獲得し或は受容した場合であ
る。殆どすべての人がこれらの感情を善と考へていることを
私はよく知っている。しかしそれにもかかはらず私は、それ
が完全な人間には決して生じ得ないことを敢て主張する。何
故なら、完全な人間は單に必然性によってのみその隣人を助
けるやうに動かされ、他の何等の原因に依っても動かされる
ことがない。故に彼はもっとも邪悪な人間をも助けなければ
ならぬと感ずる。さうした人間の不幸と困苦が一層大である
ことを見るにつけて、益々多くさうせねばならぬと彼は感ず
るのである。」
(畠中尚志訳、岩波文庫、1960,152 ページ。傍
線、引用者)。
11
スピノザ研究者としても知られる畠中尚志の見解と異に
する、この点については前出ジャーナル参照。
12
日出而作
日出でてはたらき
日入而息
日入りていこう
鑿井而飲
井をうがって飲み
感謝と可能
― ハイデガーの思想より ―
思想として可能を、特に主題に掲げているので
はないが、扱っている哲学者にハイデガーがある。
『存在と時間』Sein und Zeit (1927)は、存在の意味を
問う存在論を目的としているが、その研究は、現実
存在である現存在を通して遂行される。九鬼周造の
表現を借りるならば、実存の哲学である14。
ハイデガーが感謝について論じている資料は少な
いが、感謝はハイデガーの思想において重要な位置
を占めていることは指摘するまでもない15。本稿に
おいては、
『形而上学とは何か』Was ist Metaphisik?
( 1929,43,49)16に基づき、他の資料も参照して
考えてみることとする。
ハイデガーの主著『存在と時間』の目標とすると
ころは、存在の意味への問いを開発し、それによっ
て時間を解釈し、時間の解釈が存在についてのあら
ゆる理解の可能的な地平であることを示すにある、
と巻頭に記されている。
耕田而食
田を耕してくらう
帝力千我何有哉 みかどの力我において何かあらん
(「撃壌歌」、『古詩源』所収、竹内実『新版中国の思想』、
日本出版協会、1999、175−6 ページ参照)。
理想国に感謝はあるか。ひとつの課題である。
13
Soli homines liberi erga invicem gratißimi sunt. (ibid.,OPERA
,S.263).
スピノザ『エチカ』下、畠中尚志訳、岩波文庫、1955,85
ページ。
14
実存は人間的現実存在を指す。現実存在が現存在にもまた
実存にも、漢語の構成から作られることは興味深い。実存は
九鬼の造語である。
(現存在と実存を峻別する例については、
九鬼、前出、30−4 ページ。ヤスパース Karl Jaspers(1886-969)
について見られる)。
15
その一例として、『野の道における会話』ハイデガー全集
77 巻、麻生健、クラウス・オビリーク訳、創文社、202 ペー
ジ、参照。
16
1943 年に後語 Nachwort,49 年に序論 Einleitung が増補され
た。
164
淺野
章
もっとも、その前に、つまり冒頭には、プラトン
九鬼はハイデガーと親しい関係にあったが、哲学
Platōn(427-347B.C.)の『ソピステス』の一節が原語で
そのものについての見方について、異なることのあ
引用され、ハイデガーの訳文が添えられている。
「存
るのを感じさせる。もっともハイデガー哲学の性格
在する」という言葉を使うとき、何を言おうとして
をめぐる問題はむしろ戦後に属するともいえるので、
いるのか、ひところわかっているつもりであったの
九鬼は既に存命していなかったが。
に、いまでは途方にくれている、という内容である。
実存の哲学の一例と銘打って、特にハイデガー哲
プラトンの当時のみではなく、二千数百年経た今
学を取り上げ、
「実存の哲学」に引き継いで、これを
日においてもなお事情は変わっていない。ハイデガ
解説している。いまだハイデガー全集などの存在し
ー自ら同じ問いを問い、答えの用意はないと告げる。 ていなかった当時として、ハイデガー哲学といえば
そこで、
「存在の意味への問い」をあらためて立てる
直ちに『存在と時間』を意味した18。九鬼による「実
必要が力説され、
『存在と時間』の論考の目標が明示
存の哲学の一例としてのハイデガー哲学」の構成は、
されている。この巻頭の言葉の重要性は、ハイデガ
ハイデガー自身による哲学観に従って、典型的な現
ー哲学の性格がやかましく問題になるとき、好んで
象学の方法によっている。すなわち、まず第一還元
ハイデガー自身によって引き合いに出されるところ
がなされ、ついで第二還元に進んでいる。その上で
にも示されている。
哲学史の構成と破壊が図られている。『存在と時間』
ハイデガー哲学といったが、いまの場合、主著『存
のこの構図は、当初ハイデガーによって構想された
在と時間』を指している。つまり、
『存在と時間』を
ものであり、雄大な印象を与える。実際はこの構の
実存哲学であるという見方に対して、そうではなく、 三分の一ほどで挫折しているが、それにもかかわら
哲学伝統のいわば哲学としての本道を闊歩している
ず『存在と時間』の与えた影響は大きい。九鬼が何
存在論であるという見方である。ハイデガー自身の
故未完の著書について、その全容を知りえたか。こ
見解には既に触れたが、ここでは九鬼周造の解し方
の疑問は実際に本書を開いてみると容易に知ること
を参考にして取り上げてみたい。と、言っても、も
が出来る。序論において著者がある程度詳細に全体
とより本稿の課題の考察という限定された立場の上
構想を述べているからである。
『存在と時間』は、ハ
からのことである。
イデガーの実に几帳面な性格を思わせる書物でもあ
九鬼によると、哲学はすべて実存の哲学というこ
る。
『存在と時間』が世に出てから二年して『形而上
17
とになる 。
学とは何か』(1929)が出版された。
實存の哲學とは既に云ったやうに、哲學諸問題への通
路が實存にありと考へる哲學である。一體哲學諸問題への
通路が實存にあるということは云はば自明のことである。
哲學問題が問題として投げられるのは實存の地平の上に
投げられるのである。したがって問題の通路も實存におい
て通路されなければならぬのである。問題の通路とは一般
に存在の通路にほかならぬ。廣義の存在一般を離れて哲學
問題はあり得ない。そして存在一般の通路を通路し得る存
在は實存を措いて外にはない。
と解説して、九鬼自身の哲学観を述べる。
それ故に哲学とはそれ自身において実存の哲学でなけ
ればならぬ。実存の哲学ということはむしろ同語反復であ
る。
17
九鬼、前出、35 ページ。
『形而上学とは何か』は、ハイデガーが、フッサ
ール Edmund Fusserl(1859-938)の後任としてマール
ブルク大学からフライブルク大学に移った際の教授
就任講演である。この講演の趣旨とするところは、
端的に言うと、「無」についての論考である。
18
『存在と時間』の世に出た当時とは、比較にならぬくらい
ハイデガーに関する資料に恵まれた今日といえども、『存在
と時間』の持つ意義は絶大なものがある。
なお、九鬼によるハイデガーの研究は、『存在と時間』のみ
ではない。本稿における感謝について論じられている『形而
上学とは何か』についても、九鬼は「興味深い書である」と
記している。それどころか、九鬼自身一言も触れてはいない
が、明らかに『形而上学とは何か』の影響の下に考察された
と見做されるのが、九鬼の代表的な著書『偶然性の問題』で
ある(田中久文『偶然性の問題』―もうひとつの可能性―(坂
部恵・藤田正勝・鷲田清一編『九鬼周造の世界』ミネルバ書
房、2002、所収)、199 ページ参照)。
165
「感謝」と様相
無については既に、
『存在と時間』において取り上
げられている。したがって、
『存在と時間』の要点に
alles philosophischen Fragens dort festgemacht hat,
woraus es entspringt, und wohin es zurückslägt.
が付加され(1943)、さらに就任講演出版後二十年目
哲学は普遍的な現象学的の存在論であって、現存在の
解釈学から出発する。そしてこの解釈学は、実存の分析論
として、あらゆる哲学的な問いのみちびきの糸を、その問
いが発源しかつ打ち返していくところへかたく結びつけ
ておいたのである。
に序論が加えられている(1949)。このことは、小品
もとより、ここに引用したのは、
『存在と時間』か
ながらも、
『形而上学とは何か』に対するハイデガー
らのものであり20、いわゆるハイデガーの思想の前
触れながら、一層の論究がなされている。このこと
は、就任講演(講義 Vorlesung)として扱われている
が、その後、十数年を経て、講義を本文とする後語
の関心の並々ならぬものであることを物語っている、 期についてのものと見做されるかもしれない。
といってよいであろう19。
しかし、こと実存の哲学としてのハイデガー哲学に
『形而上学とは何か』の主題が無であることにつ
関する限り、この哲学観は格好のものであり、ハイ
いては既に記したが、なぜ無であるのか、が問われ
デガー自身これを重視していたことは、『存在と時
ねばならない。と、言うのは、無を主題として説く
間』の最初の箇所において、いわば自己の哲学の紹
ことは、ニヒリズムではないか、と疑われかねない。
介に際して、たとえ未完に終わったとはいえ、と、
あるいは、無の持つ消極的価値、さらに、そもそも
言うよりその故にこそ、とりもなおさず一層の重要
形而上学とは、存在あるいは存在者に関わりこそす
な意味を持つものと見做されるところの巻末におい
れ、まさにそれ自身無意味な無を主題とすることは、 ても、再度繰り返し説かれている。
まったくの徒労に過ぎない、という見解も成り立つ。
この哲学観において見られるように、ハイデガー
形而上学の考察において、無が問われるのはなぜか。 にとって、哲学は現象学的存在論であり、現存在の
『形而上学とは何か』という、問いそのものが、無 分析論であり、実存の解釈学なのである。
に積極的意味を与える。しかし、今の場合、実存の
哲学から考えてみることにしたい。
ここで、さらに改めて、現象学的存在論とは何か、
について、ハイデガーの記すところに触れておく。
断るまでもなく、狙いとするところは、感謝につ
一見、回り道をしているようであるが、当面の狙
いてのハイデガーの見方を捉えることである。ハイ
いである、ハイデガー哲学における可能について、
デガーの考え方が可能を重視しているので、ハイデ
これを理解する上において、むしろ捷径なのである。
ガーにおける感謝の性格もまた可能的色彩を帯びて
哲学についての引用文を含む前後の文全体が、ハ
いるであろうと言う想定には無理がないものと思う。 イデガー哲学の特色をよく示しているので、煩を厭
ハイデガーの哲学、特に『存在と時間』にあらわ
わずさらに検討を進める。
れた可能について、それがいかに重要な意味を持っ
『存在と時間』における考究の主題の対象となる
ているかに触れておくことは、ハイデガーの解する
のは、存在者の存在、ないしは存在一般の意味であ
感謝を理解するうえで、その一助になると思われる
ることは再三述べてきた。
ので、いささか記しておく。
ハイデガーの哲学について、ハイデガー自身が述
ハイデガーによる哲学の規定は、端的に表現する
と、現象学的解釈学となろう21。では、何ゆえ現象
べている、よく知られた哲学の定義と言ってもよい
ものがある。
Philosophie
ist
universale
phönomenologische
Ontologie, ausgehend von der Helmeneutik des Daseins,
die als Analytäk der Exsistenz das Ende des Leitfadens
19
後語については、何度も見直しがなされている。
また、序論の結びで、本文を真剣に読み返すように薦めてい
る。
20
Heidegger,M.,Sein und Zeit, Max Niemeyer, Verlag,
Halle a.d.S.1935.S.38,436.
ハイデッガー『存在と時間』
(上)、細谷恒夫・亀井裕・船
橋弘共訳、理想社、1963、74 ページ。同上(下)、331 ペー
ジ。
21
田辺元(1885-962,明治 18−昭和 37)はハイデガー哲学を最
初(1923)に日本に紹介した、として伝えられている。田辺に
よる表現は解釈的現象学であった、次いで三木清(1897−945、
明治 30−昭和 20)によるものは解釈学的現象学である。初
166
淺野
学的解釈学なのか。
章
『存在と時間』は可能性の哲学である。存在の意
考究の主題となる対象は性格づけられたが、考究
味の解明は存在の可能の探求にほかならに。その方
の方法については問題があるとして、ハイデガーは
法として、現存在分析すなわち人間存在である実存
これを退ける。すなわち、ハイデガーによると、歴
の分析と解釈が採択されたのも、可能の塊、底の底
史的に伝承されてきたさまざまな存在論の試みは参
まで可能そのものである人間的現存在の性格、ほか
22
考にならない、というのである 。そこで採択され
ならぬそれを本質としている故である。ここに敢え
たのが現象学であり解釈学なのである。と言うより、 て、実存についてのハイデガーによる規定を記すま
現象学的解釈学の目から見ると、存在論の考究につ
でもあるまい。その存在において可能を失ったとき
いての従来の方法は疑わしい。ここに、ハイデガー
人間はもはや実存としての人間ではない。人間とは
の自負を読み取ることは容易であろう。それを示し
何であるか。古くして新しい問い、カント Immanuel
ているのが次の一文である。
Kant(1724―804)が哲学の究極する問いとして掲げ
た問いに他ならない。実存の哲学はこれに可能をも
以下に続く考究は、エドムント・フッサールが築いた
地盤の上で、はじめて可能になったものである。彼の『論
理学研究』によって、現象学の道がはじめて打開されたの
であった。上に述べた現象学の予備概念の解説をみれば察
せられることであるが、現象学の本領は、哲学の一流派と
して現実的に存するという点にあるのではない。現実性よ
りもより高いところに、可能性が立っている。現象学の理
解は、ひとえに、現象学を可能性としてつかみとることの
なかにある23。
って答えるであろう。可能こそ人間の本質である25。
存在の意味は時間として究明される。時間は三態
からなるが、可能の立場、可能を優位とする立場か
らは、容易に想像されるように、未来が重視される。
現存在にとって、可能の中でも最大の可能は、死で
ある。死は、現存在の可能、その一切の可能性を不
可能にする可能であるがゆえに、最大の可能であり
先に掲げた哲学についての一節に続く文章である。
両者を併せ読むとき、一層ハイデガーの哲学に対す
る軒昂たる意気を感得することが出来よう。Höher
als die Wirklichkeit steht die Möglichkeit.「現実性より
もより高いところに可能性が立っている」。ここに掲
出した一句、まさにこの一句の中にこそ『存在と時
間』の精髄が籠められているといっても過言ではな
最強の可能である。この可能に直面している、すな
わち、zum Ende sein 終わりに直面しているので,終
わりに至っている存在 zum Ende Sein は、とりもな
おさず、zum Tode Sein 死に臨んでいる存在、なので
ある。現存在はこの最大の可能を前にして、すなわ
ち、これを知ると言う可能のゆえに、これから逃れ
ようとする。ここにおいて、実存の可能として、本
い、と言い得るのではないであろうか24。
態を生じている。なお、著しい特色は、フッサール誕生祝の
手土産として直接フッサールに花束とともに献呈された。主
期のハイデガー哲学の発展を知る上で貴重な資料である。田 著『存在と時間』の全編がフッサールの批判であると評され
辺はヨーロッパにおける哲学の新動向として伝えている。と ている点を顧みるならば、「現実よりもより高いところに可
もに、ハイデガーの講義に出席した後,ハイデガーを訪ねて質 能性が立っている」と言う言葉のもつ意味の深さを窺い知る
問もしている。三木はアリストテレス Aristotelēs
ことが出来るであろう。なお、この謝辞を含む注は,後年ナチ
(384-22B.C)の研究に関心を持っていた。『存在と時間』が世 の支配下において削除を余儀なくされた『存在と時間』の表
に出る前の話であり、その意味からも注目されている。自己 紙に,記載された献辞とは別にそのまま残されている。
の哲学に対する自信と自負を思わせる『存在と時間』におけ ブリタニカ問題の後、フッサールはあからさまにハイデガー
る記述を顧みるとき、田辺や三木に対する若き日のハイデガ の思想(『存在と時間』)を批判。観念論であると決め付けて
ーの与えた印象も偲ばれる。
いる。ちなみに両者の現象学における立場の違いを端的に表
22
SZ.S.27. 同上,細谷ほか訳,55 ページ。
すと、意識の現象学と生の現象学ということになるであろう。
23
25
Ibid., S.38.同上 74 ページ。
生命科学の進展は、人間とは何か、この問いを深刻に問い
24
掲出した一文の注に、ハイデガーはフッサールに個人的な かけている。生命の人為的操作、まさにここに、可能として
指導を受けたことと、未公開の研究資料をほしいままに見る の人間の二面性が問われている。人間の作為の下に生まれ生
ことを許してくれたことに謝意を述べている。そうであって、 かされている存在者は可能なき存在である。事物的存在であ
しかもなおフッサールと現象学についての見解に独自の立
っても人間存在とはいえない。また、他方において、研究の
場を確立して行ったため、フッサールの気に入らず、ブリタ 可能すなわち学問研究の自由を束縛される事によって自己
を失ったロボット的存在ももはや人間存在とはいえない。
ニカの現象学項目記載の共同作業からはずされると言う事
167
「感謝」と様相
来性と非本来性、という、ハイデガー哲学にとって
突に現れたものではないし、一書の結びとして単に
の人間存在の二大性格が問題として登場してくる。
形式儀礼的に配されたのでももとよりない。しかし
現存在は日常、世間(das Man)にまぎれて暮らして
書物の体裁としてハイデガーらしい、というのは、
いるが、それは、まさしく死からの逃亡としての在
どこまでも Denken 思考に徹しようとする姿勢を窺
り方なのである。ここにおいて、ひとは各自のあり
う事が出来るとも言えるのではなかろうか。
方としての死を問うことはない。各自的あり方にお
第三章 感謝と偶然
るのが、実存としての現存在の本来の姿である。世
― 九鬼の思想より ―
間において話される死は、まさにひとごと(他人事)
九鬼周造の哲学を代表する著作。と、言えば、そ
の死に過ぎない。
の先を言うのは、野暮なくらい言わずと知れた、
追い越すことの出来ない己の死の可能、一切の可 『偶然性の問題』である。
能を、無意味と化し不可能にする、このかけがえの
『偶然性の問題』は、単に九鬼個人にとっての哲
ない自己の死、この予感が自覚のいかんに関わらず、 学を代表するにとどまらず、哲学史上、と、いって
現存在を不安にする。不安の根拠は死にある。それ も過言ではない規模において、稀な位置を占めてい
は一切を無と化する無である。
る26。
無こそ『形而上学とは何か』における主題である。
九鬼が偶然に深い関心を持つに至った理由を想像
いかにしてこの主題に迫り得るか。
『存在と時間』に することはそれほど困難ではない。九鬼の持つ二面
おいて、不安が重要な概念としての役割を担ってい 的性格がそれを物語る。九鬼自身の詠んだ作品27は
ることを、改めて思うべきであろう。
その告白でもある。
当面の課題は、感謝と可能とのかかわりをハイデ
灰いろの抽象の世に住まんには
ガーに即して探ることにある。ハイデガー哲学、少
濃きに過ぎたる煩悩の色
なくもと言っても主著である以上少なからざると言
また、
い換えるどころか、大きな意味を持っている『存在
いて、己に関わりつつ可能としての在り方を徹底す
範疇にとらえがたかる己が身を
我となげきて経つる幾とせ
と時間』において、可能概念についてこれを紹介し
てきたが、そのうちに既に課題に答える準備はなさ
れている。
偶然性は偶然概念として、カントの範疇表の様相
感謝は、先に記した通り、犠牲において隠れた状
に属し、必然の矛盾すなわち必然の否定として、収
態からそれ自身現れる。犠牲における感謝の自現。
められている28。様相は範疇表にあって、他の概念
ハイデガーにおける感謝観のひとつである。伏蔵さ
である、量・質・関係の三概念とは性格をことにす
れていた感謝が犠牲を待って自ら現れ出て来る。こ
るとして注目される。それらは、認識の先験的働き
こに現象学的概念操作を読み取ることは容易であろ
として共通しているが、様相は事実に関わると言う
う。伏蔵態の感謝の犠牲における自現は、さらに解
特別な性格を持っている。様相に属する三つの概念
釈学的検討を要する。しかしこれについても既に触
れたハイデガーの説く実存の二様態より容易に解す
ることが出来るものと思う。すなわち、本来性と非
本来性という実存の可能においてである。
『形而上学とは何か』の後語において説かれてい
る感謝は、紛れもなく本来性においての実存につい
てであり、この意味において、それは、先駆的覚悟
性に基づいているのである。したがって、不安とも、
また、無とも深く関わっている。後語において、唐
26
『偶然性の問題』において、参考にされている文献から
推定されるように、少なからざる哲学者が偶然について論じ
ている。しかしそれらの哲学者にとって、テーマとしての偶
然が哲学の第一義であったとは考えにくい、(たとえば、
Winderbant,Zufall,があるが、ヴィンデルバント Wilhelm
Windelband(1848-1915)を、「偶然の哲学者」とは言わない
であろう)。
27
九鬼周造『九鬼周造エッセンス』、編・解説田中九文、こ
ぶし書房、2001,42−3 ページ。
28
カント、前出、19 ページ。
168
淺野
とそれらの矛盾対当を見ると直ちに納得されるであ
偶然論が形而上学であることを、九鬼は『偶然性
ろう。すなわち、(一)必然と偶然、(二)現実と非
の問題』の劈頭において、
「偶然性は必然性の否定で
現実、(三)可能と不可能、である。
ある」、と先ず切り出して、「偶然性とは・・・有と
章
九鬼の偶然論は、これらの様相の諸概念を、判断
無との接触面に介在する極限的存在である」30、と
形式である、定言・仮言・選言の三形式に配する、
述べて、偶然性の問題は厳密な意味で形而上学の問
と言っても、特に必然と偶然についてであり、さら
題であるとしている。このような形而上学の見方も
に、判断の三形式を、定言・仮説・離接と言い換え
また、ハイデガー的な立場に立っている。この点に
て、必然と偶然にそれぞれ配している。すなわち、
ついてもハイデガーの影響を受けながら、ハイデガ
定言的必然・仮説的必然・離接的必然である。これ
ーが無を強調して、可能性の無についてその意義を
らに対応して、偶然について考察される。定言的偶
説いているのに対して、九鬼は偶然について論じて
然・仮説的偶然・離接的偶然についてである。
いる。すなわち、偶然をまともに対象とする学はな
本稿の課題である、必然・可能・偶然の三様相概
い、あるにしても、たとえば確率論などは、真に偶
念がそれらの鍵語としての働きをなすこととなる。
然を問題にしているとはいえない。
「確率論は偶然的
また、これまで論じてきた、スピノザ、ハイデガ
事象の生起する数量的関係の理念的恒常性を巨視的
ーがそれぞれの、というのは、必然と可能について
に規定しようとするに過ぎない」31、のであり、そ
の、典型的思想家として九鬼によって取り上げられ
れ故、
「微視的なる細目に存する偶然的可変性は少し
ているのも、偶然に注目することによってである。
も触れられない」32。と、確率論の性格と限界につ
ただ一点相違するのは、感謝について、特に九鬼の
いて述べて、問題の核心に迫る。
「しかも偶然の偶然
言及するところが見当たらないことである。しかし、 たる所以はまさに細目の動きに存している」33。量
感謝に関心を持つものの目から見ると、偶然の中に
子力学や不確定性原理にしても、自己の原理に関す
こそ、偶然特有の感謝の性格を読み取ることが出来
る反省を存在の全面にわたってなすことは出来ない
るのであり、九鬼の理論はその有力な参考となる。
のであり、
「偶然性は科学の原理的与件となることは
偶然に関する問題は、九鬼の生涯をかけての関心
出来ても、まさにその偶然性そのものによって、科
事であった。
学には対象として取り扱えないという根源的性格を
有ったものである」34。偶然論は科学の研究対象と
偶然論ものしおはりて妻にいふ
29
いのち死ぬとも悔ひ心なし
して不向きであることを検討したうえで、九鬼は高
らかに断定する35。
九鬼にとって、哲学は実存の哲学である。いかな
偶然を偶然としてその本来の面目において問題となし
うるものは形而上学としての哲学をおいてほかにない。
る哲学も実存を通しての哲学である。哲学がすべて
の学問の基礎である以上、いかなる学も実存による
九鬼にとって哲学とは、実存の哲学である。まさ
哲学にその基礎を持っている。このような考えは、
に実存とは、必然によって存在するものではなく、
既にハイデガーによって抱かれ、いみじくも基礎存
また、可能によって存在するもでもない。まさに、
在論と呼称されていることについては、あえて記す
偶然こそ実存が実存としてもっともその名にふさわ
までもない。ハイデガーの哲学が、可能にその特色
しく存在するものである。それは偶然の無的性格に
を持っていることについても、既に記したように、
よることはいうまでもない。実存の哲学は偶然の哲
実存すなわち人間的現存在が可能的存在であるから
にほかならい。ハイデガーの影響を強く受けながら、
30
九鬼の説く哲学、いうまでもなく実存の哲学が偶然
31
論であるのは何ゆえか。
32
33
34
29
『九鬼周造全集』岩波書店、1981,153 ページ。
35
169
九鬼、前出選書第 5 巻、6 ページ。
同上 7 ページ。
同上。
同上。
同上 8 ページ。
同上。
「感謝」と様相
学である。さらに偶然について検討しなければなら
における非日常の発出である。つまり、強く意識さ
ない。
れる事態に直面したとき、その瞬間を偶然と呼んで
九鬼の偶然論を細かく考察している余裕はないが、 いる。驚きは、端的な偶然の表出である。
幸い九鬼の理論の全体を理解することが出来る、と
偶然によって何かが呼び覚まされたのである。九
称する、と、いうより、それを試みようとする、九
鬼がいみじくも呼んでいるように、まさに偶然は有
鬼の文章の一節がある。
と無との極限状態にある。そこで、可能と必然との
偶然性は実存にあっては可能性を媒介として必然性と
関係する。体験を有りの儘に把握するものは、<初生の運
>としての原始偶然を<我>の中に邂逅する<汝>とし
て抱擁する。偶然性が偶然性として掴まれることによって
極微の可能性が自覚される。可能性の自覚は必然性への発
展を促す。かくして歴史哲学の地盤に実践哲学と自然哲学
とが分化してくるのである。偶然性は歴史の一回性におい
て驚異の中に与えられる。可能性としての実践哲学を経て
必然性としての反復的自然形態が展開される。そこに習慣
の持つ形而上学的意義がある36。
一読了解できるならば九鬼の全思想を理解してい
る、と掲載者は記している。九鬼の思想に接したこ
関わりが問われてくる。特に必然と偶然とは矛盾対
当関係にあると、論理学の教科書に記されているだ
けに、あえて必然と矛盾を関係付けようとする試み
が注目されるのである。
必然と偶然は相容れない。必然の否定が偶然であ
る。必然は有である。必然のあるところ偶然のあり
ようがない。したがって、偶然と言う突発的出来事
に遭遇すると言うことは、本来あり得べからざる必
然の只中に、無が割り込み侵入してきたことを意味
する。この事態を九鬼は、
「実存にあっては」と表現
している。
とのないものには、おそらくほとんどこの文が何を
本来あり得べからざること、と言うのは論理の世
言おうとしているのか捉えることは出来ないであろ
界のことであり、それが、というのは。あり得べか
う。もっとも、注意して読むと、主題が偶然性であ
らざることがあるという、この事実、この現実、こ
ること位はつかむことが出来よう。その先が問題で
れこそ、まさに「実存にあっては」という断り書き
ある。
のもつ重要性なのである。
本来ありえないに拘らず、今このようにある。文
偶然性は実存にあっては可能性を媒介として必然性と関
係する。
字通り不可思議であり、神秘である。その最たるも
理解の鍵は、最初の一節にある。
ると言うこの事実、この現実である。
のが、ほかならないこの我という存在が存在してい
この我を起点としてすべてのものがあると言って
まさに、偶然―可能―必然、この三者が何を意味
しているのか、関心のないものには、掲出の問いそ
も敢えて過言ではないであろう。
のものが無意味であろう。しかし、ほとんど多くの
初生の運、としか言いようのない、事実そのもの
一般の人々にとって、さして興味を引かない一見抽
であり、それを原始偶然と呼ぶのは、偶然について
象的な問題に、九鬼は全精魂を傾注した。
の先行哲学者の考察の賜物である概念を借用して述
一見抽象的、と記した。つまり表面上は、という
べたのである。初生の運、すなわち、たまたま思念
のは、「実存にあっては」、という、断りに注目して
として自己に萌した、運としか言いようのないもの
いるからである。実存すなわち現実の人間存在につ
の誕生、それを我の中に、抱擁するとは、いかにも
いて、それが対象である以上、すべての人々にとっ
九鬼らしい表現を持ってあらわしたのであるが、要
て無関心な問題ではない。特に偶然については、い
するに、われの中にある瞬間にふと浮かんだ、場合
かなる人といえども関心を持たないわけには行かな
によっては自己を襲った、ある想念、生じては滅す
い、日常における事柄である。と、いうより、日常
るに任せることなく、汝として抱き続ける、と言う
ことは、偶然を自覚すること、すなわち、想念から
36
思考、自己省察へと深めることを意味する。自己省
嶺秀樹『ハイデッガーと日本の哲学』、ミネルヴァ書房、
察は単に省察と言っても同じであるが、自己との対
2002、142−3 ページ。
170
淺野
話を強調するのみならず、一方の自己を、それは初
すなわち、自己とは何か、本来の自己の探求に向か
生の運として我のうちに現れた偶然を指しているこ
わせることになる。これを『偶然論』に即して言え
とはいうまでもないが、汝と、九鬼は愛着をこめて
ば、我と汝の邂逅、二元の邂逅ということになる。
呼んでいる。
つまり我の我に会うと言うことである。探求してい
我の中に抱擁する汝、偶然に出会う我と汝につい
章
る本来の自己としての我に会うということである39。
て、九鬼は、独立なる二元の邂逅とよぶ。偶然性の
この出会いは、さまざまな現れ方をする。すなわち、
自覚が深まると不可能の極に可能が萌してくる。こ
汝として、あるときは、人間であり、あるときは、
れを九鬼は、偶然と可能によって構成されている二
自然であり、あるときは、一冊の書物であり、また
つの巴を図示することによって説明している。偶然
あるときは、「難きが中になお難し」。と、述懐され
の極は不可能として先細りとなり、これに抱き合う
ているところにその具体例を見る。すなわち、
「真の
形になっている偶然は不可能へと先細りに極限して
知識に会うことは難きが中になお難し」、とは、本師
可能に接している。理性論理の立場からは、矛盾し
源空と尊称してやまない法然との貴重な出会いにつ
て相容れない必然と偶然が、実存にあっては可能を
いての親鸞の述懐である40。
媒介して関わりあう。まさにこの現実、初生の運と
「竹は時時に響けども瓦の縁を待って」豁念大悟
して誕生した原始偶然、これが基盤となってそこか
徹底せしめる。泣いて潙山を下った香厳は、師の親
ら可能性を性格とする実践哲学と必然性を本性とす
切に感じ入るのである41。九鬼は、香厳撃竹の悟り
る自然哲学とが発生してくる。九鬼の偶然論はすな
に触れていないが、偶然についての古今東西に及ぶ
わち瞬間を始原とする歴史哲学であるが同時にそれ
博引傍証の中に含まれている仏典の中には特に明記
は全哲学の根底をなすものであり、窮極するところ
をせず 解説もしていないが、感謝と偶然とのかかわ
九鬼にとって哲学とは偶然論ということになる。実
りを伝えるものがある42。
存の哲学が哲学であると言う主張からすれば当然の
帰結であろう。
さらに、九鬼の偶然論の展開を感謝に適用すると、
忽然と発起した感謝の覚醒、それは初生の運として
初生の運といい原始偶然と言い、シェリング
の原始偶然であるが、そこから、感謝の応答として
37
の報恩行が可能として実践され、さらにこれが反復
Friedrich Wilhelm Jacob von Schelling(1775-854)哲学
からの借用であり、理論理性とともに事実を重く見
るライプニッツ Gottfried Wilhelm Leibniz (1646-716)
39
我=我、と、我=汝との偶然性の内面化(九鬼、同上、
223 ページ参照)。
40
前出、九鬼『偶然性の問題』182 ページに、『教行信証』
ライプニッツの提起した問題、何ゆえ何もないの
の序の引用もこの間の事情を伝える、なお 197 ページ。
ではなく、なにものかがあるのか。
41
「恩のふかきこと父母よりもすぐれたり」
(道元『正法眼
この問いこそ、九鬼はまともに取り上げていない 蔵』(二)水野弥穂子校注、岩波書店、2004、112 ページ。
『正
が、偶然について、その本質に迫る問いであろう。 法眼蔵随聞記』水野弥穂子訳、筑摩書房、1975,150,184 ペ
ージ。「従縁入者、永不退失」(同上、『正法眼蔵』、114 ペー
この問いをさらに九鬼の言う哲学、実存の哲学に即
ジ)、宗教における縁つまり偶然の意義の強調である)。
して問うならば、「何ゆえこの我がないのではなく、 42 『偶然性の問題』を結ぶに際して、九鬼が引用している
『浄土論』の「観仏本願力、遇無空過者」の「遇う」のは「現
このように存在しているのか」、となるであろう。
在において我に邂逅する汝の偶然性である」として、さらに
さらに、この問いは。我の核心についての問い、
「空しく過ぐるものなし」とは「汝に制約されながら汝の内
面化に関して有つわが本来の可能性としてのみの意味を有
37
前出,九鬼『偶然性の問題』、127 ページ.(der älteste Urzuteil, っている。不可能に近い極微の可能性が偶然性において現実
「最古の原始偶然」は,「それに関しては、在るとだけ云える となり、偶然性として堅くつかまれることによって新しい可
ので、必然的にあるとはいえないのである」(man Kann von
能性を生み、さらに可能性が必然性へ発展するところに運命
ihm nur sagen ,dass es Ist, nicht , dass es notwedig Ist).
としての仏の本願もあれば人間の救いもある」、という指摘
38
充足理由律 principium rationalis suficientiae は理性真理
は含蓄が深い。なお、「遇うて過ぐるものなし」を「遇うて
空しく過ぐる勿れ」と言い換え、理論の空隙を満たす自己へ
veritas rationalis,とともに事実真理 veritas factis よりなる。事
の命令をもって結んでいる(九鬼、同上、225 ページ)。
実真理の強調が注目される。
の影響も認められる38。
171
「感謝」と様相
し自らなる自然形態となるとき、それは習慣として
偶然性は歴史的一回性の驚異の中に与えられる。可能
性の実践的媒介を経て、必然性の反復的自然性が展開され
る。そこに習慣の持つ形而上学的意義がある。
定着し、求むるところなき感謝の行為となる。ここ
にスピノザの説く自由の人が現出する。
むすび
感謝と様相について、必然についてはスピノザ、
可能についてはハイデガー、さらに、偶然について
は九鬼周造を参考にしながら、不十分ではあるが、
一応それらのかかわりを見てきた。
カントのカテゴリー表において、様相は他の三つ
のカテゴリー、量・質・関係などとは性格を異にす
ると言われている。何より事実としての現実にかか
わるカテゴリーであるところに、様相の特異な性格
がある。それだけに、感謝の考察にとって示唆する
ところが大きく、考察を深める足がかりともなる。
必然、可能、偶然、と、確かに三者それぞれ独自
のあり方をしている。それ故それぞれを典型とした
思想家を挙げることもできる。これほど端的に、思
想と言うより、哲学をそれらの哲学者について示す
ことの出来る指標もないのではなかろうか。
したがって、感謝についての哲学者の見解を訊ね
ようとしているものの立場すれば、まさに格好の指
標を様相カテゴリーは提供してくれるものと期待さ
れるのである。成果に見るべきものがあったとは露
思わぬが、この期待にこたえる考察の手がかりは少
なからず見出せたものと思う。
特に九鬼の偶然性に関する論考は、まさに、必然、
可能、偶然という様相範疇における三様態を独自の
視点から、論理学上の命題に即して整然と分類し、
しかも、微妙に関わる三様態のかかわりを相互に関
連付けると言う難事業をし遂げている(その心境を
読める歌が如実にこれを語り示している)43。
偶然、この抽象なるもの、この語に生気を吹き込
み血を通わせる、これを成し遂げるのが、ほかなら
ない哲学の仕事である。九鬼によって、偶然は新生
の声を上げて誕生した。それは驚異の中においてで
ある。感謝もまた、驚きの中に自らの姿を現す。ハ
イデガーはこれを自現(sich ereignet)と表現する。
それは犠牲によって可能となった。この可能を可能
とせしめたのは、本来性の自己の先駆的決意性
(vorlaufende Entschlossenheit)による。この可能性が
媒介となって、真の感謝が定着していく。それは、
取引的計算を裏面に持つ感謝ではなく、第二の自然
として身についた自らなるものである。この感謝を
体現した典型が、スピノザの説く自由の人と言うこ
とが出来るであろう。
(Received: May 31, 2007)
(Issued in internet Edition: July 1, 2007)
43
本稿 9 ページ右。
なお、九鬼の『偶然性の問題』は、必然性=同一性を中心
とする思想から完全に脱していないとして、これを徹底せし
めようと言う試みもなされている(前出、田中久文「『偶然
性の問題』―もう一つの可能性」参照」。本来の自己の探求
を偶然の様相のもとに見出そうとする拙稿の立場も同様に
批判の対象となろう。これについては簡単に述べるわけにい
かないが、要するに、論理的に、様相各概念の位置づけに関
わっているように思われる。究極的に必然が根幹を成すもの
と考える立場からすれば、偶然論は第一義とはなりえない。 ものの、ヘーゲル Georg Wilhelm Friedrich Hegel (1770 - 1831)
つまり、スピノザの哲学がその典型となる。批判はしている が推奨している所以でもあろう。
172