第 3章 キリスト教

ヨーロッパ史における普遍主義
横浜市立大学名誉教授 松井道昭
第3章
第1節
キリスト教
旧約聖書と新約聖書 — イエスとユダヤ人
次のテーマはホメロスの物語とはまったく異質の、唯一の神に関する物語である。ヨーロッパ
人は唯一で単独の神という表象を文句なしに承認してきた。神々という複数表象はそこに入り込
む余地はなく、文字どおり唯一の神があらゆる主題の中心を占める。キリスト教が神々の世界を
駆逐していく過程を探ると、流血の対立がつねに介在し、解釈の実に些細な相違のゆえにヨーロ
ッパの歴史は破壊と荒廃の過程を刻んできたともいえる。
ヨーロッパの文化と歴史にとって最も注目に値する思想の形式は「聖書の神」である。たとえ
この神を信じない人々であっても、彼らが口にする神の観念は「聖書の神」との関連を抜きにし
ては考えられない。異端はむろん、無神論の論陣を張るヨーロッパ人はいつもこの「聖書の神」
を念頭において否定論を展開する。
「旧約聖書」の冒頭は天地創造の物語である。世界創造の作業を終えた神は鏡を見て、自らの
似像にもとづいた生命個体を創造する。かくてアダムとイヴが誕生。神は二人にエデンの園の管
理を託す。その楽園の「善悪を識別する樹木」のプレートに管理規則として「絶対にその実をも
いではいけない」、この禁を破ると「死にいたる」と書かれている。しかし、イヴはこの掟を破
ってしまう。ここからあらゆる出来事とその結果が生じる。禁断の木の実を食べたために楽園か
ら追放され、日々の生計のための労働が運命づけられ、イヴには産褥の苦痛が与えられる。人類
にまつわるあらゆる苦難と不幸の源はここに発するのだ。
ギリシャ神話にみられるような、天上の神々に直結する運命的結合という神族集団の観
念はまったくない。代わりに、ここでは歴史のなかでユダヤ民族が自分をつねに同一化さ
せていく原則が出現する。すなわち、神の法に心服して生きていくか、モーセ律法をはじ
めユダヤ教の宗教戒律を厳格に遵守して生きるかという二者択一の原則である。ギリシャ
人は、天上で怒りを発した神々を鎮めるために祭壇に犠牲の供物を献上し、宗教的儀式を
執りおこなった。ユダヤ教徒の場合は「モーセ五書」
[注:創世記、出エジプト記、レビ記、
民数記、申命記]のなかで、神の法の恭順が要請され、宗教細則や礼拝儀式の遵守、モー
セ律法[注]の遵守へと発展していく。
[注] モーセ律法は、神がシナイ山でモーセを通してイスラエルに授けた 10 か条の戒めであ
る。①唯一神、②偶像禁止、③ヤハウェの名濫用禁止、④安息日遵守、⑤父母敬愛、⑥殺害禁止、
⑦姦淫禁止、⑧窃盗禁止、⑨隣人に対する偽証禁止、⑩隣家侵入の禁止。第 4 戒までが対神関
係、第5戒以降が対人関係の戒めとなっている。新約聖書ではパウロにより禁止命令的な側面が
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強調され「七つの大罪」となる。
旧約聖書の命題の多くを引き継いだのが新約聖書(イエス伝)であり、この関係をつぶさに検
討しなければならない。しかし、これを論じている余裕はなく大雑把な叙述で済ませなければな
らないだろう。
イエスの誕生は歴史的な厳密さからいうと、紀元前 7 年とされ、その死去は紀元 30 年前後と
されている。彼の出現によって、無力さの中に生きてきた人間が力溢れた存在に成り変わる。逆
に権力者側が卑賤の地位へ貶められる。キリストの中で生じたことはまさにこのような事態を指
す。新約聖書の4つの福音書によれば、至高の神が人間となって、ある貧しい家庭に誕生した。
これは古来神の受肉化、つまり人間となって神が現われ、不可視の神が可視的な存在として顕現
したことを意味する。
描写はクリスマス物語で鮮明になされる。すなわち、厳寒のなかで産気づいたマリアを泊めて
くれる宿もなく、仕方なく家畜小屋でイエスを産み落とす。天の神が見える形で非人間的な環境
で誕生した記録である。全能の神が卑賤の人間の出生という形式をとって自己を顕現させたとい
うメッセージである。これを伝える福音書のクリスマス物語は後世のヨーロッパ文学の発展に計
り知れない貢献をした。イエスにまつわるこの誕生物語は人生や生活に無力さを感じることの多
い一般庶民にけっして、その人生や生活が無意味なものではないことを、否むしろ、そこに深い
意味が込められていることを悟らせた。もしイエスが王宮で誕生したのなら、庶民は憧れと羨望
以外のなにものも感じなかっただろうし、そもそも彼の言説を信仰したいとは思わないであろう。
イエスの母マリアの処女懐胎もその種のものである。
「マタイ伝」では、「東方の三博士」カスパール、メルキオール、バルタザールが誕生直後の
イエスに会い、彼らがいだく希望すなわち救世主出現を確認したと記される。彼らはこの幼子が
遠くない将来にユダヤ人の王として権力者ヘロデ王を脅かす存在になると予言する。結局、この
「聖家族」はエジプトへの逃避行を余儀なくされる。こうした一連の物語は一連の英雄列伝のカ
テゴリーに入れて考察すべきであろう。新約聖書ではヘロデ王が「東方三博士」の予言を耳にし、
恐怖に襲われ、この幼児殺しを企図する。
英雄列伝は多くの奇跡に深く結びついている。ギリシャ神話のなかでヘラクレスがその怪力で
太い廊柱をなぎ倒したが、英雄列伝もこの奇跡を継承する。この伝説の中に、イエスはイェルサ
レム神殿で両替商人をすべて叱責し追い払ったという話が出てくる。イエスは奇跡的権能を用い
て誕生時から足腰の麻痺した人々を治癒し、死の状態にあったラザロを蘇生させ、寒村カナでの
結婚式のおり、空っぽになった樽のブドウ酒をふたたび満杯にするなど、数々の奇跡を惹き起こ
す。さらに、イエスがガリラヤ湖の荒波を鎮めたとか、喚く悪霊を家畜といっしょに追放し、海
中へ追いやり絶命させたとかの奇跡の記事も出てくる。これらはすべて福音書に書かれている。
イエスの側近「十二使徒」
[注]で重要人物はペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネの 4 人であ
り、それぞれが兄弟関係にある。彼らはいずれもガリラヤ湖の漁師である。そのほかに重要なの
がマタイ、ユダであり、彼らは師ともども数年間の共同生活を送る。
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[注]「十二使徒」はイエスが選抜したとされるが、異論もある。たとえばこの中には含まれな
いパウロは終生、自分はイエスの愛弟子だったと主張する。イエスによって「不信心」と見なさ
れたトマスや後にイエスを裏切るユダまでが「十二使徒」に入るというのはいかにもおかしい。
ある時点(共同生活中)での“選抜”と見るべきであろう。
この共同生活中の問答でメシアの出現が話題になる。これを発議したのはペテロである。聖書
によれば、彼は最年長にして素朴な性格で、イエスが最も信頼を寄せた人物である。のちにネロ
帝によって逆さ吊りの刑で死んだペテロの墓所の上に建立されたのが今のサン=ピエトロ大聖
堂である。イエスは「師こそメシアです」というペテロの告白を聞いたとき、はじめてメシア意
識をもったようだ。イエスはこの時から自らのメシア性を自覚的に受け止め、外に向かってそれ
を公言するようになる。
メシア思想の根はユダヤ教にある。それは抑圧された民族の救済者になるということだ。ユダ
ヤ教徒はこうしたメシアの理解のもとでシオニズムの復活を期待した。この期待感はパリサイ派
で特に重要にして中心的な概念になっていく。イエスとの関連でいえば、パリサイ派がイエスを
絶対に容認できなかった理由は、出自のまったく不明な徒輩イエスが「自分をメシアだ」と僭称
している点にある。さらに、イエスが神の正義に基礎を置く正統的な民族復興を提唱するのでは
なくて、即決的に全人類救済を唱えていることであった。「今、ここで悔い改めよ」という救済
論も気に入らない。
この不審は政治的陰謀劇に発展していく。福音書によれば、イエスの集会にスパイが送り込ま
れ、イエスを拘束し有罪者にするため様々な姦計が画策される。このことから、狂気に近い深刻
な思想が生まれる。反ユダヤ主義の思潮がこれだ。ユダヤ人はこの一連の事件への関与のゆえに、
以後2千年間、まさに流血と迫害の運命に晒される。ユダヤ教は民族宗教であり、反ユダヤ主義
が宗教弾圧にとどまらず民族迫害・虐殺のかたちをとるところに残酷さがある。この迫害はヨー
ロッパ史の中ではほとんどの場合、春の復活祭の際に実行される。ここにキリスト教のユダヤ教
への復讐の念が込められている。
ユダヤ人はこともあろうに、ローマ帝国に対する叛逆者としてイエスを印象づけようとした。
ローマ帝国の権力を借りイエスを断罪するというのだ。イエスの講話を聞きにきたスパイはイエ
スに2つの質問をする。つまり、(1)ローマ帝国に納税するのは当然と思うか? (2)ユダヤ
教の過越祭に参列するかどうか? の難問がイエスに突きつけられた。だが、イエスは沈着な態
度で急場を凌ぐことに成功する。
(1)についてイエスは何も答えず、ローマ皇帝の肖像の刻まれた貨幣を 1 枚取りだし、「カ
エサルに属するものはカエサルに返すべし。神に属するものは当然神に返すべし」と答えた。か
くて、世俗の掟と信仰上の掟は区別すべきことを唱えて難場を凌いだ。
(2)でもイエスは「諾」と答えた。だが、ユダヤ教の祭典に参列するには犠牲の供物を捧げ
ることが必須だった。イエス自身は何ももたないで参列し、咎めの詰問に対し「自分が供物だ」
と言った。つまり、イエス自身が供物というわけだ。これを聞いた民衆は歓呼の拍手を送った。
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以後、キリストの血がぶどう酒に、彼の肉体がパンとなるのだ。「最後の晩餐」の前例がすでに
示されたわけである。ここにキリスト教における聖餐式が誕生したのである。
「最後の晩餐」の場面で、イエス自身がこのなかの「一人が私を裏切ろうとしている」と切り
だす。弟子たちは口々に否定するが、イエスは言う。「私がこのパンの一かけらを渡す者がその
人だ」と。イエスはユダに手渡す。
「ユダ」という名は耳に入ってくる音声からいうと、
「ユダヤ
Jude」を連想させる。しかし、これは「ユダ」と「ユダヤ」を二重写しにし、ユダヤ人すべて
を裏切り者にするという一方的観念を植えつけることになった。イエス自身が、そして弟子たち
の大多数がユダヤ人である事実を霞ませてしまう。
ユダの密告でイエスはローマの官憲に売り渡される。事実かどうかについてわれわれは不問に
しよう。以下は既述の事項と同じく「新約聖書」の述べる記述に従っただけのことである。法廷
の最高判事はガリラヤとユダヤ総督ポンティウス・ピラトである。告訴状は①イエスの帝国ロー
マに対する謀反、②ユダヤ教の伝統的教義に対する背信の罪、③蜂起に対する教唆扇動、④メシ
ア待望信仰を汚した罪を挙げる。イエスがかつて「自分はユダヤの王、メシア、人の子」だと公
言していたのを逆手にとり、これをユダヤ人は告訴状の中に織り込んだのである。
ピラトの尋問に対するイエスの返答は「告訴状の中身はそのとおりだが、私の王国はこの世に
はない」であった。このひと言を耳にした裁判官は投げ出したい衝動に駆りたてられる。つまり、
現世の話ではなく、信仰上の事柄ならば自分は判断できない、関知しないというのだ。そこで、
裁判官は群集の判断に任せることにした。群衆はユダヤ教徒であり、彼らは挙ってイエスの有罪
を叫ぶ。「人民裁判」の恐ろしさを思わせる。
かくて、イエスは有罪となり、群衆の嘲笑を浴びながら十字架の死を遂げることになる。十字
架刑は当時、最も残酷で侮蔑的な処刑法であり、一般には異民族に対する刑であった。
あとはイエスの復活と初代教会の成立である。ここで重要なのは、旧約聖書と新約聖書が訣別
したことである。キリスト教徒のあいだにユダヤ憎しの感情が刻まれたのである。キリスト教は
ユダヤ教の閉鎖的な壁を突き破り、国際的な協調路線を敷いた。一民族一国家の宗教であること
をやめ、今や、すべての国々・民族・人種を貫き通す普遍的な宗教となったのだ。
パウロこそ、地中海世界の各地を駆け巡り、キリスト教の発展に理論的・思想的な支柱を提供
した人物である。彼は到達した到るところに集会所を建設し、イエスが遺した教説を伝えた。そ
の教説と彼の言動は 10 通ほどになる個人的書簡のかたちで表明されている。これらはすべて新
約聖書の中に収録されている。
第2節
初期教会の信仰生活
キリスト教はユダヤの伝統にその端を発し、イエスによってパレスチナに基礎が築かれた。そ
の後の歴史は「使徒伝」が細かく伝える。当初はほんの細やかな教団による地味な活動にすぎな
かったが、やがてこの教団はユダヤ人の間に信者の輪を拡げ、タルスス生まれの学識あるパウロ
の布教行脚によって、キリスト教はいわゆる「異邦人」の間にも広められた。このパウロこそ新
しい教理を採りいれた最初の知識人である。彼のこの面での貢献がなければ、キリスト教の普遍
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宗教への道は閉ざされた可能性が高い。
ローマ市民権を取ったパウロはここで二度投獄され、ここで死んだのは皇帝ネロ治下の終わり
紀元 67 年ごろと推定される。紀元 64 年のローマ大火から 50 年後、異教徒の著述家のタキトゥ
スはその著「ゲルマニア」で当時、すでにローマには一大集団を成したキリスト信者がいたと伝
える。紀元 1 世紀の後半には、この新しい宗教はローマ帝国内はいうまでもなく帝国の外でも重
要な存在となっていた。パウロは南イタリアやスペインにまで足を運び、おそらくはガリアにも
足を運んだと思われるが、布教活動を証明する史料は発見されていない。
重要なユダヤ人植民地をかかえていた南イタリア、北アフリカの大部分の港町 ― これらは、
当時まだ東方教団の一つにすぎなかったキリスト教団にとって伝道の拠点であった。もっと東の
オリエントではこの頃すでにキリスト教信者で溢れていた。パレスチナ、シリア、小アジアでパ
ウロとその他の使徒たちにより福音が伝えられ、ギリシャやマケドニアでも同様だった。なお、
エジプトを受けもちアレクサンドリアに教会を設置したのは聖マルコである。
だが、キリスト教は急速に広まるにつれ、抗いがたい紛争の種をまき散らした。こう聞くと、
すぐに皇帝崇拝を拒絶したためローマ帝国と衝突した事件を連想しがちだが、もっと深刻な問題
は帝国で有力諸侯との間で不穏な空気を巻き起こしたことである。その原因は教理のうちにある。
キリスト教は霊魂不滅を述べ、肉欲を制御した点である。そして、神の前の平等を謳い、「敵を
愛せ、施せ」のスローガンは有力諸侯を驚かせた。信者の多くが奴隷や貧民であったことが有力
者の心配の種だった。教徒数の驚異的な増加に比例するかのように、有力者に対する下層民の反
発を認めようとする傾向が多分にあった。その敵手の頂点に位置するのがローマ皇帝である。
以後、キリスト教迫害の歴史が続くが、これはわれわれの主題から外れるゆえに概略にとどめ
ることにしよう。
紀元 2 世紀、ローマ帝国の黄金時代を通じて迫害は全般的ではなかったが、一度として中止さ
れたことはない。ストア派[注:ギリシャ哲学者のひとりゼノンの流れを引く論理実証派で、自
然学、論理学、倫理学の一体的研究を唱えた学派]の皇帝マルクス・アウレリウスは依然として
峻厳であった。紀元 3 世紀の前半に迫害は厳しくなったが、紀元 260 年から 302 年まではローマ
教会にとって穏便な日々が続いた。しかし、紀元 303 年になると迫害が再燃する。
313 年のミラノ勅令によって迫害に終止符を打つことになり、皇帝コンスタンティノスのキリ
スト教回宗でもってキリスト教の勝利の日が一段と近くなる。
教会はその発展途上においてつとめてローマ世界に順応し、静かなかたちその中にで浸透した。
教会は迫害ることがあっても長い間、防御態勢をとって地下活動を続けていた。キリスト教の位
階制度、秘跡、典礼および戒律はすでに使徒の時代にできあがっていた。やがて「助祭」ができ
て、使徒たちは管理事務をこれに任せる。次いで「長老」つまり「司祭」ができ、これが霊的祭
式に責任をもつようになる。司祭の上に監督または司教の位階が生まれたが、この職責を使徒の
後継者が担う。
信者は異教の神々やローマ皇帝などに犠牲を捧げることを拒み、世間では表面上はきわめて控
えめな活動を続ける。同胞から白眼視され迫害を受けるのを懼れるあまり、彼らはむしろ好んで
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異教徒から離れて生活し、自分たちだけの協同社会の編成につとめてきた。最初はその祭式は個
人の家庭とか地下の墓地[注]などでおこなった。だからといって、人里離れた場所で共同生活
をすれば却って目立ち、なにか陰謀でも企んでいるのではないか怪しまれた。
[注] キリスト教徒はユダヤ教徒と同じく火葬を忌み嫌ったため、死人が出ると秘密の地下墓
地に埋葬した。ここが彼らの集会所(夜間)となるのである。
これら「地下墓地 catacombe」はたちまち拡張され、祭式の場所となる。その墓地に原始キリ
スト教美術が芽生える。装飾画に始まり、
「善き牧人」
「祈る人」などの人像が描かれ、人間像の
表現を禁じたユダヤの伝統は消失する[注]。
[注 2] キリスト教徒の一部はモーセの戒めにある聖像崇拝禁止を遵守したため、後にこれが
聖画像論争に発展していく。
第3節
教義の確立
初期のキリスト教はユダヤ教諸派の一つにすぎないことはすでに述べた。キリスト教会を他派
とはっきり際立たせているものはメシアとしてのイエスに対する信仰である。また教会が割礼の
ような習慣を捨てユダヤ民族主義から抜け出すと、ユダヤ教からの分離は速やかに成し遂げられ
た。紀元 70 年ティトゥス帝によるイェルサレム神殿の破壊はひとつの画期となる。それは地上
における神の国というユダヤ人の夢をうち砕いたのである。
ユダヤ教から自由となった教会はヘレニズムの世界 ― ユダヤ世界とは全く異質 ― の心理
的環境のなかで急速にひろまっていく。最初の仕事は「聖書」や使徒伝をギリシャ語に翻訳する
ことだった。われわれが今日知っている文書はまさしく翻訳の産物であり、キリスト教がヘレニ
ズムの影響を被っているとみてまちがいない。言語は不可避的に時代の考え方や人々の心理構造
を反映するものだ。どのようなギリシャ的・ヘレニズム的要素が教義のなかに混入してきたかを
見極めるのは容易ではない。なぜなら、ユダヤ語(ヘブライ語)をギリシャ語に翻訳の過程で何
が捨てられ、何が入ってきたかを確かめる術はないからだ。
キリスト教徒がギリシャ的概念を利用することは必ずしも、それが内包するすべての意味を奪
うということではなくて、むしろそれを利用することによってギリシャ的概念に新たな意味を与
えたということだ。つまり、意味変化を惹き起こしたのである。
ローマのキリスト教徒がラテン語を通じて宣教しなければならない場合も同じ問題が発生し
た。ギリシャのキリスト教徒がすでに聖書の考証家によって創造された言語をもっていたのに対
し、ラテン人はゼロから出発しなければならなかった。そこから帰結するものは新たな言語、新
たな語彙である。ラテン人はラテン語の単語をどれひとつ利用できない箇所ではギリシャ語的用
語をそのまま使ったり(「使徒」「洗礼」「福音」)、ヘブライ語特有の表現(「アレルヤ」「アーメ
ン」)、ギリシャ語を土台に新しい単語を創造したりした。
こうしてキリスト教はユダヤ教から脱しながらも、ヘレニズムに吸収しつくされたわけではな
く、ギリシャ文化によって歪曲されるよりもむしろ、遥かにこれを有効に活用したのである。と
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はいえ、キリスト教がヘレニズム化の影響をまったく受けなかったかというと、そうでもないだ
ろう。初期のキリスト教が教義を確立するまでにはユダヤ教をはじめ、それから分裂したグノー
シス主義、マニ教からの「誘い」を受けなければならなかった。これらの分派はさまざまな神話
劇、偽福音書、
「イエスによる啓示」
「イエスの語録」などと結びついていたため、生まれたばか
りのキリスト教会にとってそれらを払い除けるのに苦労する。キリスト教は混淆宗教に溶解して
いく可能性、あるいは哲学を気取った神秘主義に成る可能性もあったのである。
ギリシャ思想の本質的特徴のひとつは哲学的思考、自律的理性による真理の探究、ソクラテス、
プラトン、アリストテレス、その他多くの知識人がその名を轟かせた一連の探究のうちにある。
一方、キリスト教はユダヤ教と同じく本質的に神の啓示、普遍的原則が演繹することのできない
偶発的にして歴史的な神の発意に基礎を置く。ある意味でキリスト教の啓示は理性にとって外在
的なものである。こうして初期のキリスト教思想家には神の恵みである信仰(啓示)と人間理性
の関係をどう切り結ぶかということだった。
これには二つの対処が考えられた。一つの方法は神の叡智と対立することによってこれらの哲
学的・理性探究という叡智を糾弾するやり方である。もう一つの方法はキリスト教への回心は哲
学的・宗教的遍歴の終着点だと理解する方法である。
前者は、表現こそ不適切かもしれないが、「キリスト教の絶対性」を前提に、頭ごなしに大衆
に叩き込むやり方であり、いわば演繹的手法で人々の回心を求める。「聖書」が説く諸命題をあ
らゆる出来事の中に認めようとする態度である。その行先が哲学か理性かは知ったことではない
とする。パウロがその先導役をつとめる。
「神を知っていながら神として崇めず、感謝もせず、却ってその思いは空しくなり、その
無知な心は暗くなったのである。彼らは自ら智者と称しながら愚かになり、不朽の神の栄
光を変えて朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せたのである。」(ローマ人への手紙)
ここでパウロは、異教徒は神を知っていると同時に神を知らないという、のちに多くの解釈を
生んだ逆説を展開している。パウロは異教徒の思想が迷いこんでいる偶像崇拝を通して真の神に
ついての内密の認識を浮かびあがらせようとする。パウロは神の自然な認識および探究の可能性
を肯定しているように見える。ただし、この探究は方向を誤っていて偶像のうえにいるのだ、と。
それは「啓示」によってしか達しえない。なぜなら、結局のところわれわれは神による以外、真
に神を認識できないからだ。パウロは多くのキリスト教思想家と同様に、理性はそれ自体の力で
神の正しい認識に人を導くことはできないと考える。彼はユダヤ教のなかで育ったために、異教
思想の顕われのすべてを軽蔑することしかできなかったのである。
もう一つの態度は、哲学的・宗教的命題との和合を説く対応法である。当時においては哲学と
宗教の間に根本的な区別がなかったことを忘れてはならない。改宗は叡智、生の認識、神知の探
究において密接に結びついていた。かくて、究極的にイエスにおいて人間のかたちをとった「ロ
ゴス」の哲学であることを示唆する。この見地に立つなら、まことの神の自然な探究として哲学
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の思慕、哲学者たちを「啓示」の戸口まで導いてきたこの理解への欲求は、そのまま活かしてよ
いように思われた。
ともかくも、初期のキリスト教思想家はヘレニズム的多神論の前に超越的唯一神に対する信仰
の合理性を確立することに成功し、一神教の勝利をもたらした。神の本性の問題の一要素は解決
されたのだ。しかし、この自己把握および明確化の努力はさらに進んで新約聖書の原典にあらわ
れている問題の要素をすべて考慮に入れなければならなくなると、ふたたび困難に直面する。い
わゆる「三位一体論」をめぐる論争である。新約聖書には3つの実体が示されていた。すなわち、
「父なる神」「子」「聖霊」である。「父なる神」の実在は問題ないが、これら3つの実在相互の
関係と各々の本性を正しく定義することが問題であった。「父」の本性は哲学的思考の線上で取
り扱うことができるとしても、「子」の本性は、それが人間イエスと一体になっているかぎり、
容易ならざる問題が浮上してくる。この問題は「三位一体」と「受肉」という2つの、といって
も密接につながった面に表われる。「父」とキリストの優劣関係を問わなくてはならなくなった
のである。「三位一体論」の危機と「キリスト論」の危機とである。アリウス派は「父」の優越
を認めたが、アタナシウス派は「三位一体」で優劣論議を否定した。結局、ニカイア公会議(325)
は後者の立場を公式のものとした。アリウス派は「異端」とされ、その結果、多くの信者がキリ
スト教から離れ、活路を見いだすべく新たに北方のゲルマン諸族に布教を開始した。
第4節
教会の東西分裂
われわれはもっぱら西ローマを中心に考察してきた。長年、西ローマは東ローマに対して引け
目を感じていた。ローマが東西に分かれたとき、教会も事実上分かれた。ビザンティン教会はす
べての公会議の議場でもあった。宗教会議が「汎」公会議の資格を帯びるためには、ローマの裁
可が必要であることを認めていたが、ニカイア(325)以来最初の 4 回の「汎」公会議は事実上、
東方教会の公会議であって、西方からはごく少数の微力な代表者が出席したにすぎない。したが
って、ビザンティン側はローマの教会を当時の5つの「総司教座」[注]の一つにすぎないと考
えていた。ともすれば、ビザンティン教会はコンスタンティノープルを「第二のローマ」であり、
皇帝の住む帝都こそ、すでに政治力を失って古くさいローマの大司教座を凌ぐ、と自負する傾向
があった。この東方人の傲慢が教義上の論争と結びついてビザンティンとローマの対立をしばし
ば生じさせつつ、ついに 11 世紀半ばに決定的な東西分裂に導いていく。
[注] 他の3つの総司教座とはイェルサレム、アレクサンドリア、アンティオキアである。イ
ェルサレムはパレスチナの狭小な地域を、アレクサンドリアはエジプトとペンタポリス管区を、
アンティオキアはアラビア、フェニキア、シリアをというふうに支配していた。ビザンティン総
司教座は小アジア、ボスフォロス海峡、バルカン半島のほとんど全部を管轄下におさめていた。
広さと信徒数からいうと最大だった。
東・西の総司教座にどのような違いがあったかをみてみよう。
ビザンティン教会はその総司教たちよりも皇帝に依存していた。特にユスティニアヌス(527
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~565)以来、帝国の宗教的統一を実現しようとし、異教徒や異端狩りに熱心だった。そのため、
皇帝の専横のゆえに政・教の対立が絶えなかった。
キリストの本性に関する論争が起こり、論争の激化によってビザンティン教会は一時的に解体
してしまう。本性論争とは「神の子」のイエスは人間であったか、それとも神性しかもたなかっ
たか、それとも神人二性であったかの問題である。熱心な「二性論者」のネストリウスは 431
年の公会議で破門された。東ローマの人々は聖霊が「神および神の子から」発すると見なしたが、
西ローマは「子」を通じて神から発すると見なした。
偶像崇拝論争。ビザンティン世界では異教時代の皇帝像崇拝の伝統の延長として、また、不可
視物をも崇拝の対象とするほど過度の聖遺物崇拝の名残で、キリスト、聖母、使徒などの聖画像
に対する熱心な信仰がおこなわれた。一方、モーセの戒めに従い、いっさいの神像を否定し、十
字架や神の比喩的表象のみを唱える一派もいた。この対立が 726 年における皇帝レオン三世が後
者の運動を支持する声明を発令した。これでケリがつくかと思うと、却って論争が物理的な破壊
を伴う対立に発展した。
西側 ― フランク族カロリング家の勢力拡大の最中でローマ教皇とのあいだに蜜月関係にあ
った― では聖画像崇拝は放任されたため、問題は生じなかった。しかし、この問題は 11 世紀に
おける教会分裂の伏線をなす出来事となった。
上記のうち聖画像崇拝問題が最も深刻な対立をもたらした。聖像を崇拝するかどうかはすでに
教義の確立過程で問題になっていたが、これを先鋭化させたのはイスラムである。イスラムのカ
リフ(君主)イエジットは勅令を出して聖画像を全面禁止した。これに啓発されたのがかの東ロ
ーマ皇帝レオン三世である。歴代東ローマ皇帝は「聖像破壊主義者」だったので、東ローマ教会
はここに新たな分裂の爆弾をかかえるにいたる。
780 年から 802 年まで女帝イレーナはアラブ勢力撃退の必要上、フランクに接近する。女帝と
シャルルマーニュ大帝との結婚さえ噂されるほどだった。女帝は教皇ハドリアヌスの承認を得て
ニカイアに第7次汎公会議を召集したが、この公会議は本来の意味における礼拝は神に対しての
みであり、聖画像に対する尊崇はこれを認める主旨だった。中途半端な結論であったにもかかわ
らず、これは曲解されて全面禁止と解された。聖画像を望ましくないとする態度と、これを公然
、、
と破壊・排除の挙に出る態度とのあいだには存分の距離がある。聖画像破壊主義は 815 年にふた
たび台頭するが、843 年になるとまったく影を潜めていく。
このような感情のもつれは相互の迫害によっていよいよ悪化し、東西両ローマの間の溝を深め
ていくだけとなった。総司教たちの独立欲のほかにすこぶる多種多様な紛争の原因がある。
聖職者の妻帯と精進食への理解の違いがそれである。東ローマにおける戒律は 692 年のいわゆ
る第6次・第 7 次公会議によって解決されていた。この公会議は司祭に叙品以前の妻帯を認め、
西ローマが実行していたのと大きく趣を異にする精進食の戒律を定めた。妻帯規程は東ローマで
すこぶる複雑であったのと、聖体拝領にパンとブドウ酒の2形色、しかもパンは除酵パンだけで
あった。
その後、東・西ローマはブルガリア人の改宗をめぐって競いあい、コンスタンティノープル総
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司教の任命を認証するかどうかをめぐって対立し、ついに 11 世紀の半ば(1054)にビザンティ
ン教会がカトリック統一体から脱退するかたちでローマ教会は東西に分裂するにいたる。
ふり返ってみれば、カトリック統一体からの脱落はアリウス派、ネストリウス派、ヤコブ派、
コプト派、アルメニア派などの教会につづいてビザンティン教会で 6 度目である。なかでもこの
最後のものが「大離教」と評されるにふさわしい。「脱落」とはローマ教会から見た見解で、版
図の大きさと信徒数ではビザンティン教会のほうが優勢であったのである。寛容の精神を欠いた
組織はいかなるものであっても、ドグマに凝り固まらざるをえず、脱落者および離反者を排出す
るのは不可避である。
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「異端」審判により本流からの篩い落としの歴史は以後もカタリ派、アルビジョワ派、フス派
というふうに続く。そして、最後の決定的な大揺れが 16 世紀の「宗教改革」である。思うに、
キリスト教は本部のローマから布教の輪を拡げるにつれて勢威を増していく。布教先に宗教がな
かったわけではなく、教会は必然的に異教との格闘を強いられる。その結果、教義や式典などの
面で完全に承服できなかったり、またはカトリックとして一旦は参入したけれども、完全な仲間
入りを果たさなかったりした部分が「異端」として本流から分離していく。つまり、「異端」は
本家本元よりも新布教先において出現するということである。たとえていえば、信徒は数こそ増
えても駄々洩れ状態であったのだ。このことはのちの宗教改革でプロテスタントが分離していく
とき、その地理的分布は北欧であったことに端的に示される。
俗権に対する聖権の勝利も一時的なものであり、新たに登場してきた都市の勃興とともに社会
全体が貨幣経済に浸されるようになると、ブルジョワジーの台頭著しく、聖・政・経の3権分立
状態が生まれ、もはや聖権の独断場ではなくなっていく。十字軍遠征の提唱の時期が俗権に対す
る聖権の絶頂期であるが、この大事業を東ローマ教会と西ローマ教会の共同事業として敢行し、
これを契機に東西教会の再統合が企図されたが、一旦亀裂の入ったものを元の鞘に戻すのはもは
や不可能だった。
俗権のほうは十字軍遠征で費用的な面で行き詰まりを見せ、領主層こそ没落したもののそれを
肩代わりするかのように王権の伸長が著しくなる。なかでも無視できない勢力としての都市の勃
興である。第4回十字軍に示されるように、十字軍における聖性の“堕落”をけしかけたのは都
市勢力にほかならない。
ローマ教会が衰微に向かっているとき、それを再興しようとする修道院設立、グレゴリウス改
革、聖俗の争いとしての叙任権闘争、十字軍、総合大学設立など、一連の動きが続く。これらは
いずれも重要な歴史的事実であって、ヨーロッパ史を語る際には必ず論及しなければならないが、
われわれの本来の主題「ヨーロッパ史における普遍主義」にたち返るため、これらは割愛したい。
以後、近代科学思想をキリスト教がどのように生み落とし、その結果生じた新たな環境にキリ
スト教会がどう適応していったかを見ることにしたい。
(次章
http://linzamaori.sakura.ne.jp/watari/reference/universalism_4.pdf)
(c)Michiaki Matsui
2014
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