〒1 0 30 0 1 2東京都中央区 日本橋堀留町 1 2 1 6 TEL ( 0 3 ) 3664-4628 FAX ( 0 3 ) 3664-4621 '09年度 長寿慶祝者か 5の便り 修 編集者遠山 大阪 卒寿を迎えて はパラと前後して手掛けました(冬場 ジウムと君子ランがあります。シンピ この度社友会か 株が開花しました。君子ランは栽培に 効率が上りました。昨年は凶株の内日 です。固型肥料の他に液肥を併用して は温室)が花を咲かすのが難しい植物 ら卒寿のお祝を戴 手がかからず豪華な花が咲きます。皆 り卒寿のお祝いを 先般、社友会よ 河原茂実 惹無く過しています。 眼と耳が不自由になりましたが日常 ウオl キングに参加しています。 以上が私の園芸生活ですが時々町の さんに進呈して喜ばれています。 き、恐縮しており 寺川敏治 d なかった私は長生 ¥ ます。生来頑健で い健康に恵まれていますので近況をご きするとは思っていませんでした。幸 退社が近づいた頃、今後何をなすべ 報告します。 きかを考えました。丁度その頃、細々 とパラ作りをしていましたのでこれを やろうと決めました。狭い庭だが講習 送り来ただけで、一箕の功もなき思い 頂戴し、心より御 会にも通い今尚細々と続けています。 だけが残ります。友人の一人が懐古し 嘩申上げます。憶 ラの栽培は手がかかります。薬剤散布、 て、﹁五口々はどうも喰い逃げをしてい パラの花は五月から十一月迄次から 元肥、追肥、勇定等です。私が最も難 るのではないか。﹂と申して居りまし えば恥多き人生を 儀したのは黒点病です。葉に黒点がで たが、日本復興期の時代を経験し、現 お配りして喜んでもらっています。パ きて木が枯れてしまう病気です。薬剤 在の大変な時代も、割合に、のんびり 次へと咲きます。咲いた花はご近所へ (パラの木の下に藁等を敷いて雨水の 散布では根絶できません。マルチング 地植却株鉢植ロ株です。コンテストに 時に私共より若い人をも、多く見送る 人のみでなく、年と共に先輩、同輩、 この年齢となりますと、戦死した友 くらして居ります事、申し訳なき事と は一度だけ出品しました。アマの部で 羽目となります。生き残っている連中 思って居ります。 入賞しましたが、その後は出品してい も話となると身体の衰えばかりを訴え ハネ返りを防ぐ方法)で菌の増殖を止 ません。コンテストはプロには必要で めました。現在栽培しているパラは路 すが、アマにはきびし過ぎると思った す。年をとると云うのは、物事を億劫 る事が多くなり、何となく淋しい事で パラの他に栽培しているのはシンピ からです。 -1- 2 0 0 9 年 9月2 8日 発 行 友 ( N . o 1 7 ) 社 アステラス製薬社友会会報 アステラス製薬社友会 発行所 犬飼紀喜 田 発行 書 と 囲 碁 の 勉 強 に 励 ん で 居 り ま す。 新 に生命ある限り時聞が使えるので、読 たにして居ります。また、今の私は幸 がらずに出来ることはすると決意を新 ります。それで年を重ねる毎に、億劫 に思うようになることだと、考えて居 べりに花をさかせて居ります。 だ さ い ま す の で 行 っ て お 食事 におしゃ 老人福祉センターにパスで送迎してく り 遠 く は 行 け ま せ ん が 月1金 ま で 市 の 元気 で 歩 け る よ う 願 っ て い ま す 。 あ ま 味 は 最 高 で す。 今 の ま ま で い つ ま で も も と て も お い し い し 毎 晩 飲 む ピl ルの 移動した。 が 貨 物 廠 も 一部 を 残 し て 牡 丹 江 本 廠 へ の各部隊は南方、沖縄方面へ移動、わ そのころ戦争は激しくなり国境地帯 所に派遣された 。 務 、 翌 二十 年 三 月 営 外 酒 保 高 陽 台 出 張 八O野 戦 貨 物 廠 入 隊 、 衣 糧 部 被 服 係 勤 になった 。 安と苦しみ、そして死を意識するよう 腹痛と下痢が続き、歩行も困難となっ た。 体 重 はお見と5見 減 り 、 毎 日 が 不 ぎ た こ ろ 、 胆 の う が 腫 れ 、 食 事 の後、 下痢におそわれ入院、そして一ヶ月過 目、碁が強くなりたいと考え乍ら、 一 一 過して居ります。 意 し て ま す。 今後 も 杖 と 共 で は あ り ま かけていつまでも元気にすごせる様留 健 康 の た め 電 気 (ヘルストロン)も 入った。部隊は直ちに本部を﹁往道河 境を越えて進行してきたとの情報が 復帰、ところが九日早朝、ソ連軍が国 昭 和 二十 年 八 月 七 日 、 牡 丹 江 本 廠 へ ように思えた。 性に涙がこみあげ、この二年間が夢 の れ で 日 本 に 帰 れ る ん だH 待ちに待った病院船高砂丸が入港、こ 週間後ナオトカへ向って出発、二日後 本 へ 帰 れ る ぞ H﹂ と の 連 絡 が あ り 、一 ところが九月の初め、医師から﹁日 しい知識を得ることと、もう一日か、 終りに、新製品で生きようという すが、身体を動かせるだけ動かして元 士﹂(ハルピンの近く)へ後退し、こ 一週 間 と思うと無 アステラス製薬の壮図の実現と、社友 気ですごせたらいいなあと常々思って 九月十八日早朝舞鶴港入港、 ハルピン ・牡 丹 江 ・ 緩 芽 河 と 満 州 領 本に帰るという報告があり、一週間後 五O O名 が 編 成 さ れ た 。 痢に苦しんだ胆のう炎も、嘘のように 健康診断の結果、体重田均、痛みと下 から始め、約一年半の療養生活を終え、 後医師の指示に従って、先ず食事療法 後四年ぶりに懐しい故里に帰る、その を越え、ソ連領へと行軍が続く。途中 直り、異常なしとの証明を頂いた。 ふんす いが わ ソ連兵の略奪、泥水に足をとられ怪我 行に海外旅行に明けくれていました ません。退職してから三十余年国内旅 う ご ざ い ま し た。 お祝いを頂き有 難 このたび卒寿の ここで初めて捕虜になったことを知 ロフスク地区)炭坑の町であった 。 か、到着したのはウオロシロフ(ハバ 社 団 法 人 ・ 日 本 詩 吟 学 院 岳 風 会 ・新 大 支部を創立、師範の資格をとり、本部 阻 大 阪 工 場 に 復 帰 、 総 務 ・ 製 剤 ・製 薬 昭 和 二十 四 年 四 月 、 旧 藤 沢 薬 品 工業 をするもの、雨の日の野宿は、寒きと 昭 和 二十年 九 月 、 ウ ラ ジ オ 経 由 で 日 お どうか 会の発展を祈って筆を置きます。 こで日本の敗戦を知る 。 先 は 短 い で す が 精 一杯 好 き な ﹁オ シャレ ﹂ も し て 前 向 き に の ん び り と 行 大川善平 こうと思ってます。ありがとうござい 。 土 品1νh 大阪 飢に苦しみ、アミパ赤痢で倒れるもの 、 が、八十二才の時こけて右足のつけ根 入社 以 来 、 今 年 で る、と共にだまされた無念さと、全く 人生六十七年の歩み を 複 雑骨 折 し ま し て 二 ヶ 月 の 入 院 を 余 六十七年になりま この年まで健康で生きてこられた幸 こ れ よ り 二年 間 、 飢 と 酷 寒 、 過 酷 な 前途の見えない絶望感にうちのめされ た。 長を歴任、そして大阪府連・吟剣詩舞 続 い て 総 務 ・企 画 ・ 広 報 、 各 部 の 部 事 に 就 任。 阪 岳 風 会 ( 会 員 一 六O O人 ) の 常 任 理 退 職 後 は 、 趣 味 を 生 か し 寝 屋 川清 水 十 五 年 定 年 退 職。 そ し て 品 質 管 理 と 、各 部 を 経 て 昭 和 五 儀なくし、その後リハビリに半年位か すので ﹁六 十 七 年 の 歩 み ﹂ について 書 多くの犠牲者が出た。 かりなんとか歩けるようになりまし きました 。 や し い 気 持 で い っ ぱ い で す。 そ の 時 は 労働、疲労と死の恐怖におそわれなが 平 成 十 一年 八 十 歳 ( 傘 寿 ) を 一 つ の 区 道 ・ ビ ク タl、 各 大 会 の 審 査 員 を経て を思うとき、一つの区切に来たような ら、毎日奴隷のように扱われ、そのう よ く 難 波1梅 田 を よ く 歩 い て 心 斎 橋 筋 昭和十八年三月、旧満州藤沢薬品 工 え試が猛烈に発生、発疹チフスの患者 感 慨 深 い も の が あ り ま す。 をすごしていた頃をなつかしく感じる 業阻奉天支庖に入社、蘇家屯工場で勤 が続出し、多くの友が亡くなった 。 昭和二十二年六月、突然腹痛・発熱 ・ しら み 今日此の頃でございます。毎年一回は 務 中 、 昭 和 十 九 年 六月 応 召 、 旧 満 州 東 そがと ん 健康診断を 受 けて今のところどこも悪 安省東安市(ソ満国境の地)満州第八 現在は会員の増強、指導に頑張ってお 切 り と し て 、 役 員 を後輩に譲り辞任、 い所がないので喜んでいます。お食事 でウインドシヨピングをして楽しい時 凡そ十 五日間ほど歩いたであろう た。以前のように歩けたらと思うとく も う こ ん な 年 に な った の か と 信 じられ うれしさ半分と、 う ご ざ い ま し た。 ただきまして有難 で卒寿のお祝いい 四月の 支 部 総 会 毛利トキ ま す。 2 0 0 9年 9月2 8日 友 ( N o . 17 ) 社 アステラス製薬社友会会報 山 つ にささえられ、一日一日を大切に、楽 お蔭様で健康に恵まれ、多くの会員 気で意欲のある団塊世代の人達と各方 ボツ我々老人仲間に入ってくる未だ元 み、紙上ですが、株取引を行い、ボツ 況感に遅れをとらぬ様新聞を良く読 他に策はありません。そして世情、景 のしかかる事になりましたが、甘受の 余り気にするなと るので年のことは 見られることも有 られたり、老けて て、年より若く見 であり、人によっ 年令は法的なもの じで、戸籍の上の の御健康を心からお祈りいたします。 ど、お願いします。皆様方のますます 今後ともよろしくお付き合いのほ て行きたいものと思っています。 目標を持つようにし、皆と楽しく生き たいと思っています。これからも何か とは、ひ孫の顔を見るまでは元気でい けずに頑張ろうと思っております。あ 卒寿を迎えて ります。 しい吟道活動を行っております。 面での会話を持つ事等々がボケ防止に 言われて以来、い 三浦克彦 大いに役立っていると思っております。 つも十才位いは若いつもりでおりまし 大阪 いずれ近い内に鬼籍からお迎えが来 では、七合目までですが気分も最高で 寿を迎えられ したので、米 少時は病弱で 上げます。幼 たくお礼申し ことにありが をいただきま 米寿のお祝い このたびは 河合園 る筈ですがその折は、三途の川を渡る 事が多く、交通事情も悪く、自転車か す。今年も今から体調を整えるため、 米寿を迎えて この度は米寿に続き卒寿のお祝を頂 歩くことでした。そのため年の割に良 に山之内に入社しましたが、外勤の仕 年末 迄 、 四 二 次 の 勤 務 を 併 せ 昭 和 六 =一 た。今でもそのつもりです。二十二年 五年間途切れる事なく働き続ける事が く歩くと思っています。近年、四国八 さいと頼むつもりです。以上近況迄。 出来ました。先輩同僚後輩の方々の助 十八ヶ寺﹁へんろ﹂を二回と、江戸三 駄賃が少し足りないので少し待って下 き深謝いたしますと共にアステラス製 薬の弥栄を祈念しております。 けがあったればこそと感謝しておりま 十三観音を先月で二度目の結願しまし 同封の写真は六月の八・九の両日淡 このたび、米寿のお祝いを戴き、私 時折会っています。しこ名は﹁霧の若﹂ 力士と立ち話しをしたのが縁で今でも 両国の相撲部屋の前で、三段目の若い 市 民 カ レ ッ ジ の 政 治 ・ 経 済 コ 1 スと、 書き続けています。カルチャ ーとして まで毎日かかさず、記憶より記録をと 日記を書き始めたのがきっかけで今日 3 省みれば昭和一八年応召従軍以来、 す。さて、大阪府老人大学、シルバー た。又、五十年来一月と八月に、木曽 路島のかんぼの宿淡路でG Gのコンペ 御獄山の登拝をしておりますが、最近 アドバイザー養成講座を経て平成六年 G G普 及 指 導 員 と な り 週 二 、 三 回 の G Gが 現 在 も 続 い て お り 、 仲 間 か ら 貴 るとは思って ・ いませんでした。常に体をよく動か 方は何時迄も何故そんなに元気なのか し戸外に出て歩く事に努め、食べ物は で経験したので、計画的な歩きをする 少量を多種類、好き嫌いなく、よく 目標を立てて歩いています。文学散歩 ようになりました。又、昔仕事で歩い があり第一日目が終った八日の夜の宴 たことが良かったのかとも思っていま 噛んで食べます。歯も失いましたが と尋ねられる事が時々ありますが、特 ﹁花﹂を歌っておりました。 8020はなんとか維持しています。 会でカラオケを唱っている様子です。 前記の高尿酸値血症でベンを握る事 す。その他、食事は﹁腹八分目﹂と﹁禁 木彫を十年以上、作品は主として日常 に、健康法なるものはありません、お が困難となっておりますのでひどく乱 煙﹂をしたこと、酒は生来苦手で、余 酒煙草も続いており自身を虐待してい る様で体力ならぬ耐力を培うように G G開 始 前 の ス ト レ ッ チ を 十 分 に 綴 密 に りやりません。その他は読書と、相撲 もこんな年になったのかなと、実感し と言っておりました。今は十両に成っ わがまちの文化・芸術・自然風土を学 退職時に手にいれた一冊のノ lト式 生活に使、つ実用的なものです。 が下肢浮腫を、高尿酸値血症が握力や ました。特に長寿のための秘訣とかと て頑張っています。私もそれを見て負 けは、以前文学散歩の折に、たまたま の中継を好んで見ていますが、切っか 筆となりましたが御許容下さい。 すと伝えています。しかし之は外見だ けの空元気で内実は数々の合併病があ 歩行に等々行動を随分抑制しておりま は思っておりませんが。大分前ですが、 り加齢黄斑変性が視野を、腎機能不全 す。加えて昨年十一月六二年余を連れ 生物学の先生に、人間も他の動物と同 東京 実施しているのが功を奏しているので 大 阪 除買物近所付き合い等家事全般が肩に 隆 雄 添った家内を肺癌で失い、炊事洗濯掃 篠 発行 2 0 0 9 年 9月2 8日 友 ( N o . 17 ) 社 アステラス製薬社友会会報 て思えば、人生の前半の方が激しく動 も予定日には出ず、東京以外の工場は も共産党員の追放、会社は赤字で給料 閉め売却、一三O O名の従業員を九O O名迄の合理化、同年末のボーナス(越 ところだが、之も人生だ。小生今になっ 丸太の一本橋を渡るには、人間より いた気がする。 年資金と言った)の独身者千円、所帯 ることが出来たのも、その昔を思えば ﹁山 之 内 製 薬 商 会 ﹂ の 顧 問 弁 護 士 斉 藤 持ち二千円で会社はこれ以上出せな た。この歳月まで夫婦共に長寿を迎え 感想文を提出し毎年努力賞を受賞。聴 岩次郎先生の紹介により、東京都板橋 ことに感心して、つまるようでつまら も小さな蟻の方が安全だと、つまらぬ ぶコ l スを選びました。また県の高齢 く、考える、調べて書くことは認知症 区小豆沢一丁目二番地﹁日本医薬工業 者放送大学では著名人の講義を聴いて の予防にもなるといわれ、十年以上つ い。組合は先の四百名の退職者には割 る組合員にたったの千円、 二千円かと、 増の退職金を出したのに再建に協力す 株式会社﹂に昭和二十二年九月二十三 づけています。例会は欠かさず出席 し 日入社して昭和五十七年五月十日定年 ぬ人生をすごしている。 懇親会や社会見学をかねた観光パスツ 退職、以来現在まで長寿をまっとう、 が、物別れになっておれば山之内は無 小豆沢組合の同意により妥結しました 既に銀行の管理下にあるとは知らず、 な生活を送っておりますが、昔の先 六O年前は人生 森田茂夫 輩・同輩が少なくなり寂しい限りです。 五O 歳 で あ っ た かったと思います。交渉を通じての創 アーにも参加し学友との交流を深めて 東京 毎月観音の日とされる十八日には出 しかし、合併後のアステラス製薬の隆 業者並びに渡遺常務(後に社長 ・会長) 心残ることなくその日々を楽しく自由 産の無事安泰を祈願する安産腹帯授与 盛は目を見張る様で株主の一人として が、今は平均寿命 います。 の寺として知られる西国札所中山寺へ が男性七九歳、女 少しでも陰乍らお手伝が出来ればと の経営者としての温かく療とした言動 一ヶ月間交渉は難航し、年末二五日に 会員として参詣、地域の歴史・地理な 喜んでおります。 米寿を迎えて どの説話、高僧による法話を聞き安ら 性八六歳で還暦、 ぎのひとときを過ごします。 思い、御社の株を少しずつですが買い 米寿を迎えて 大阪 アステラス社友 山元清嗣 が今も尚感銘深く残っています。 これからも歳に逆らわず、いそがず、 古希、喜寿は当り前、米寿で合格の時 いただけたと嬉しく有難いことと感謝 代となった。この度の表彰で合格証を しております。私は幸いにも両親の健 増していつまでも昔の思出を忘れない 一昨年家内との結婚五O周年記念を 様にと努めております。 祝してパシフックビーナスと言う客船 あせらず日々のたのしく過ごしたいと 社友会の皆様のご健勝とアステラス 康で長寿の遺伝子を受け継いだ事、子 思っています。 製薬のますますのご発展をお祈り申し で世界一周の船旅を楽しんできまし のお祝を戴き有難 会からこの度米寿 た。御社の社員皆様はもとより、社友 はゴルフと散歩で心身が鍛えられ、又 上げます。 会員の皆様のご健康とご多幸をお祈り の山之内生活を通じての得難い教訓、 ラスになったと思っています。五O年 才とありますの の御先祖は七十三 を見ても最長寿命 我が家の過去帳 く感謝申し上げま 体験となった忘れ得ぬ青春の思い出を で、小生が飛び抜 す 。 記したいと思います。昭和二二年五月 けて長生きしてい 薬の世界で過した故で健康に対する関 心して過ごして居 ペニシリンの発酵技術者として入社、 ることと感慨に耐 心 ・意 識が極めて強かった事も大変プ られるのもアステ 小豆沢工場に配属、同 二四年同 工場組 えません。思えば終戦の年(昭和二十 て頂きます。 申し上げましてお礼の言葉に代えさせ 供の時からのアウトドアl派で、中学 時代は剣道、高校 ・大学はボ lト、今 三原芳蔵 永年御社にお世 ラス製薬のお陰と 合委員長、全社総連合組合副委員長に 年)、小生広島市の近くで兵役に在り 話になったお陰様 感謝しておりま 選ばれ、同 二五年マ司令部の企業から 川村太郎 す。この度は家族 共産党員の追放の指令に依り、山之内 で、老後の人生を にも出来ない米寿のお祝を社友会から 今日まで楽しく安 盛大に祝って戴き有難うございまし -4- 2 0 0 9 年 9月2 8日 発行 友 ( N o . 17 ) 社 アステラス製薬社友会会報 まして実に幸いなことに原爆にやられ ず に 存 命 し 爾 来 今 日 ま で 兎 に角息災 (但し身体に種々の欠陥が有ります) で人生を送って来たことは誰かのお蔭 かもと合掌を続ける毎日です。これが 云うところの宗教心の芽生えでしょう カ! 社友会事務局からの依頼で投稿に際 し家族写真特に慶事に関するものを歓 東京 米国力次郎 り申し上げます。 東京 渡禽春雄 ω兆 私たちの身体をつくる細胞は約 個あるそうで、その細胞には夫々核が この細胞は生命の単位であり、身体の あり、その中に DNAを蓄えているし、 中で夫々の仕事をやり乍ら生死を繰り 日露戦争の時の歌 るのである。この不思議の中に宿る生 米寿を迎えて ﹁ここはお国を何百 命を死ぬまで大事にしなくてはなるま この度は米寿の お祝いを頂き有難 :﹂で始まる﹁戦 里・ この細胞の中に人の生命が宿ってい うございました 。 友﹂の十二番の歌詞 返していると言われている。 昭和二十年八月 かったです。 やかで且つ女性の出席者が圧倒的に多 家の 一族で弁護士が出たのは初めてで すので、又被祝福者が女のため誠に賑 ました時の写真を提供致します。我が 折、家族親戚が集まり内祝の会を催し 験に合格し弁護士の資格を得ました が京大ロ l スクールを卒業して司法試 迎するとのことですので、 きて来た自分をかえりみて、誠に感慨 人生の大半を過ごした山之内と共に生 の採用により今日の隆盛をなし、私の 工場、研究所の創設等の上に新入社員 な時代を切り抜け、新製品の開発、新 れば 、山之内製薬は戦後の最大の困難 最後に定年退職いたしました。返りみ のベ lリンガ1 マンハイム山之内側を 東 京 庖 、 本 社 営 業 部 、最 後 に 合 併 企 業 武生 工場、東京小豆沢工場、蓮根工場、 内製薬福光工場勤務に復帰し、福井県 話役をやったり、山と温泉同好会の山 今の所、私は町のウオlキングの世 る 。 命ながらえて参った想に駆られてい 正に、思いもよらず我一人、不思議に 兄弟 ・親戚等の死に遭遇して来たが、 幾多の先輩 ・仲間 ・友人そして妻 ・親 とあり、私としてはこの年になるまで 友の塚穴掘ろうとは 赤い夕日の満洲に 不思議に命ながらえて 思いもよらず我 一人 内製薬で半世紀近 顧みれば旧山之 慶祝表彰を頂き感 ら皆様を代表して でも一番後輩なが 部総会で喜寿の中 いと覚悟しています。 写真説明、前列(中腰の列)中央で 深いものがあり、今頃はありし日の楽 り、定年後も社友 くもお世話にな 斗品 終戦後十月に山之 花束を持っているのが当人。前列向っ しいことのみが脳裏に残っています。 行や、写真同好会の撮影行に参加した 本年度の東京支 会発足以来、アス 激致しました。 小生は終戦の年の暮に旧藤沢薬品に テラス社友会に変 加、第 二 の 人 生 を 豊 か に し て 頂 き 深 く わりましたが、種々の楽しい行事に参 感謝しております。﹁郡都の夢﹂。いつ 護十数年も経験している。この悩みを 越えて何とか活動出来てるのは、気の の間にか喜寿を迎え、さすがに一病息 治療、アルツハイマ l症の妻の自宅介 持ち様と好きでつづけた草野球のお陰 災ならぬ多病半息災ですが医師と仲良 めることは難しく 、未だ満足出来る作 今年に入り永年の腰痛が激化し四月 に使うことに努めている。頭の方は かも知れない。現在は頭と身体を適当 品には程遠く更なる日々の努力のこの に入院手術をしましたが写真を楽しみ ます。 旅行で見聞を広め、カルチャーセン 二、三年前までは年に一、二度海外 くしながら何とか元気に過ごしており ながら楽しい人生を送りたいと念じて 人々との付き合い ・読書 ・調理等です が、身体の方は姿勢良く歩き、 山道で います。 社友会の皆々様の御健勝を心からお なければ一万五千歩歩いても脚がつら 入社し爾来四十年近く勤務ののち六十 わぬ長寿に不可思議な何かを感じて目 下仏像を描いています。 アステラス製薬の益々の発展を祈念 致します。以上 祈り申し上げると共に 、社友会、アス ない様に心掛ける毎日である。 五才から日本画の趣味に傾倒し唯今も ﹁喜寿﹂を迎えて 東京 て左端が当人の母、後列(立姿の列) 退職後は、社友会の先輩後輩と好きな 肺がんの手術や腰部脊柱管狭窄症の り、調理を含む家事一切をやっている。 ! E s 頃です。良き友に恵まれ幸福です。 念aNC 向って右から五番目が当人の父、同じ 写真同好会での趣味に生きがいをみだ 坂 絵筆を動かしています。前述の通り思 おもい く左から四番目が小生の妻、後列向っ し励んで来ました。されどこの道を極 米寿を迎えて てー/ て右から 三番目が小生です。 一昨年孫娘 、 、 ー 〆' テラス製薬の益々の発展を心からお祈 5 伊 発行 2 0 0 9 年 9月2 8日 友 ( N o . l7 ) ネ 士 アステラス製薬社友会会報 や﹁中世ヨーロッパの不思議の世界﹂ カル化し、近くのコミセンで﹁薬の話﹂ 会 し て い ま す。 最 近 は 行 動 範 囲 が ロ ー を受講、﹁地中海学会﹂なるものに入 ターで主にヨーロッパの美術、文化史 これが人生の楽しみを掴む転機とな に卓球ラケットを握り体育館を訪れた。 く中、或る友人に誘われて十四年ぶり がありました。そんな退屈な日々が続 け る も の が な く 一週 間 を 長 く 感 じ た 時 す。 私は退職後数年間は趣味に打ちと でしょ、っ。 喜寿 を過ぎてからでも少し経験があれ ば 充 分 可 能 で す。 挑 戦 し て 見 て は 如 何 良さを見直して皆さん健康管理の為に 名古屋 中 沢 隆 (実は魔術、錬金術、占星術、天使と 極的に出席し会食の折にお互の持病、 一、やらねばならぬ事を先伸ばしせず 老化現象に関し、長時間を費やさない 。 可能な限り速やかに対処し早く心の休 息を得る。 一、 四 季 の 草 花 ( パ ン ジ ー 、 ベ チ ユ ニ ァ、朝顔、菊等)の鉢植を趣味の一つ し て い な か っ た 事 で す。 卓 球 場 は 低 料 とし日本の四季を楽しむ。 金、雰囲気、多数の年輩者等、様々な あふれんばかりの ﹁ハリl ポ ツ タl﹂ な ど に 蹴 っ て い ま れて来た養生訓が如 /, 日 本 古 来 か ら 伝 承 さ ポーツを始めるのは、まさか、想像も す 。 生 来 、 好 奇 心 旺 盛。 多 チ ャ ン ネ ル 状況に納得して気分も晴れやかに毎日 何に正しいものが多いかに驚かされま り ま し た。 六 十 五 歳 を 過 ぎ て か ら ス で忙しい日々です。①七 宝焼作家の 妻 のように体育館通いが始まりました。 す が 、 我 国 が 世 界 一の 長 寿 国 に な っ た 悪魔など)の講演をさせて頂きました 。 は 脚 が 悪 く 、 サ ボl ターとして毎週、 体重 は半年で五同減量し中性脂肪の数 この度は社 年に似合わず魔法ファンタジー趣味で 工房や美術館へ 。② 公 民 館 で 七 宝 小 作 値も低下してスリムになり運動の効果 の も 当 然 の 事 と 思 わ れ る 昨 今 で す。 後 皆様、何卒お元気にお過し下さい。 右 、 ご 参 考 に な れ ば 幸 甚 で す。 一、 自 分 に と っ て 最 適 量 の 晩 酌 を 欠 か 品の製作と市の文化祭に出品。③デジ が顕著に表われました 。 当 初 は 健 康 管 期高令者になって自らの年令、体力、 のお祝いを頂 友 会 よ り喜 寿 さない 。 カ メ 写真 の 編 集 、 ハ ガ キ や グ ラ ビ ア 作 理の積もりで軽い気持で始めた卓球 又、年金内での生活、レベルを自覚し、 健康長寿に関する情 り 。 ④ 街 の 探 訪 散 歩。 時 に 新 作 映 画 鑑 に、楽しさと欲が出て数々の試合に挑 日本古来の養生訓を基本として﹁何事 報が行き交う中で、 賞、家では時代劇で息抜き。⑤四季の 戦する為練習に熱中する程の凝り方に 約十年も経過して喜寿を迎える年令 ま す。 に似合う左記を常に念頭において居り モットーとし生来貧乏性で怠惰な小生 にも頑張らない﹂、﹁身の丈の生活﹂を 年四月ベ l スメl カ の 植 込 み 、 そ れ は 病 は 容 赦 な く 襲 っ て き ま す。 平 成 十 七 ございまし きありがとう 定年退職か 喜寿を迎えて 再開のスタートが若干遅いが努力と練 加者が多い人気の理由です。私は練習 になっても同年代で対戦出来る事が参 球の良さは年令別区分の試合の為何歳 忘 れ 得 ぬ 思 い 出 で す。 ラ ー ジ ボ1 ル卓 部で優勝した 貴重な体験は私の生涯の 昨年は 全 国大会に於て七十五歳以上の として﹁ねんりんぴっく﹂に出場し、又、 い番組、童謡、民謡、行情歌、ナツメ 一、テレビよりラジオ志向とし、お笑 る 。 プ、園芸庖、本屋等を主な散歩先とす プ、ホームセンター、リサイクルショッ られるのを止め、スーパー、百円ショッ 一、万歩計を装着し悲壮なノルマに縛 同じく大きな摂理である 。 一、早寝早起は大自然に生きる動物と 柏 崎 コ ミ ュ ニ テ ィ 放 送 ( 別 称F Mピツ を 試 み よ う と 考 え て い ま す。 て い る 聞 は 病 と 向 き 合 い 精 一杯 の 抵 抗 療 中 で あ り ま す。 ま あ 何 と か 呼 吸 を し 月には前立腺癌の告知を受 け、現在治 を か み し め た り し て い ま す。 又 昨 年 九 たまに空のパイプを口にして懐古の情 永年のパイプタバコによるものらし い。ここで断腸の思いでパイプと決別、 加齢と共に ら早や十六年 ロ 、 ラ テ ン 音 楽 を 多 く 聴 く。 カラ)の依頼を受け毎週火曜日に﹁関 木 6 / 事 花 壇 と 庭 の 手 入 れ 。 以 上 趣 味 の 世 界。 になって体力の衰えを予想したが週五 一、 美 食 を 慎 み 日 本 人 の 食 の 原 点 は 玄 変わりました 。 り 給 食 係。⑦ 少 し は 社 会貢 献 を と 、 数 日の練習と気力でカバーし、まだまだ 米菜食にあると心得る 。 日常的には⑥買出し、男子厨房に入浸 年 来 自 治 会 役 員 と し て 地 域 活 動。 ⑧ 孫 実践に対応できる体力を確信していま た。 以下の 五 人 。 特 に 近 く の 息 子 宅 の 小 =一 す 。二O O七 年 に は 静 岡 県 の 代表 選 手 ー 諸先輩を目標に働、楽、食、寝、で 趣味を生かし 習量 で 成 長 出 来 た 事 と 健 康 に 恵 ま れ た 一、 社 友 会 、 同 窓 会 、 町 内 会 等 に は 積 隆 コ一人と童心に還って遊ぶのは至福の時。 た人生の後半 リハビリでも採用されているが卓球の 事 が 何 よ り も 大 き い 。一 部 分 の 病 院 の 健康で前向に生きたいものです。 の歳月は実に 私 は 平 成 十 三年 四 月 故 郷 柏 崎 市 の 側 早く感じま 鈴 発行 2 0 0 9 年 9月2 8日 友 ( N . o 1 7 ) 杜 アステラス製薬社友会会報 信の中で約十五分間情報を伝え、それ 所に電話が入り、アナウンサーとの交 より放送当日午前十時頃茨木市の事務 に届けています。このシステムは現地 デ ィ な も の を 選 び 、 リ ス ナl の皆さん では色々な分野の関西情報からトレン ティアとして受け持っています。番組 西発柏崎﹂という番組の担当をボラン 一抹の寂しさがありますが、総会にて 上の広告塔も、何時のまにか灯が消え アステラス製薬に、社名も変わり、屋 多き小豆沢事業場も、山之内製薬から 十年頃の全盛期の、喜怒哀楽の思い出 究所は筑波にと発展的移転し、昭和 三 橋の小豆沢工場は焼津工場へ、中央研 振り返って見ますと、私の勤務した板 ねすぎ年月の早さに、驚くばかりです。 近年では、年令をも忘れる程年を重 時あたかも安保闘争が日本中、いや職 増産に励みましたが、薬害で生産中止、 負 っ て 三洋 化 学 に 入 社 、 ペ ニ シ リ ン の た も の の 就 職 口 は な く 、 パ ツ 一の傷を 戦後の混乱を経て、 二十 六 年 卒 業 は し 私は昭和八年岐阜市で生まれ、戦中 しております。 日を良くもここまで来たものだと実感 事をさせて頂いている。 ら宗教法人カトリック京都司教区で仕 頂いた。そのご縁から、一九九八年か 勉強し、 合掌。 が 録音 さ れ た も の を 十 一時 四 十 分 か ら 筑波の研究センター内に、建設してい 場まで巻き込み、騒然とした世の中で ら恐らくその前に香典袋を無言で受け 十五分間柏崎エリアに放送するという た新研究棟の完成をビデオで拝見致し 1νh 人生七十六年と七ヶ月、約二万八千 h 結婚以来、家内に 連れられて毎日曜日 ム のごミサに与かつて 後、神父様について 院 はいたのだが、退職 JASnF 弘fh 圃 〆弘 b F4 ト その反動もやって来ましたが、今考 区 は 京 都 ・滋 賀 ・ 奈 良 ・ 三 重 の 四 府 県 のブロックに分けたもので、京都司教 司教区というのは、日本全国を一六 一九 九 四 年 に 洗 礼 の お 恵 み を しました。 えると人生の中で最も暗い毎日を経験 。 村田朋昌 事 で あ り ま す。 こ の 放 送 は リ ア ル タ イ 囲内最高水準の研究施設ではないかと 取ることになるでしょう。 ムでパソコンで聞くことができます。 説明がありました 。夢の様な環境で仕 九一 反省の意味から聞くことがあります 放送内容や自分の声の調子などを時折 思いました。星空のごとく何時までも 事が出来るとは時の流れを感じ誇りに で 構 成 さ れ て お り 、 信 者 数 は 約 一万八 が、恥かしさが募るばかりです。 気がつけば八年余り携わっていたこ 替えていました)委員会の勧告を心配 喰 い 継 ぎ 、 い つ も 名 工N (な し と 呼 び るが、事業会社と異なる組織の中で、 在は、宗教法人の本部の仕事をしてい 当初は、社会福祉法人の仕事を、現 千人である。 今私は、社友会絵画同好会にて、初 藤沢での生活で得たものが、非常に役 携をしており、四年前から済州教区の 島のカトリックの司教区と姉妹教区提 カトリック京都司教区は、韓国済州 神学生を、夏休みの期間の三週間ほど 7 その後グルコン酸、ラクトン、パリツ めて絵筆をもち、秋元先生を初め絵の のことでした。 し な が ら の 四 十 二年 間 が 、 つ い こ の 前 クと、たまに動かすトリコマイシンで 更け原稿作成に夢中になれるのもおも 先輩方のご親切な御指導を頂き、下手 明日を照らし続け、アステラス製薬の しろくなってきたからか、明日は気合 ながら絵を描く喜びを、楽しんでいま 今振り返ると、時代の変遷と共に、 発展と社友会の存続を念じます。 いを入れて頑張るか。 す。これからは、健康第一に、満足の この世の習いは、人それぞれ自分の意 家族の成長と親や縁者との別れなど、 とになり今ではすっかり生活の一部と 時折故郷の思い出などを挟みながら いく作品が一枚でも描けたらと、頑 なった放送ではありますが、前日の夜 ふるさとと関西の懸け橋に少しでも役 張っているこの頃です。 められた人生のアミダくじを引き、引 研修に迎えている。今年も三人の神学 志とは関係なく、個々の人徳や運で決 生を受け入れたが、これらの若者との る 。 交流も得がたく、また楽しいものであ るようになりました。 そして良い時代に生き、良い家族や かされて今があるのではないかと考え 友人に巡り合え、最も華やかな経済発 去る四月二十 一 目、名古屋支部総会 これまでどのように生きたかを顧み m に於て、 喜 寿 の 慶 祝 ることも必要かもしれないが、今をど べきかを考え、残されたいのちを歩ん 幸せを、残り時間の中で噛みしめたい まずは生きていられる事に感謝し、 う生きるのか、どのような務めを果す このご時世に退職 ざいました。 定年以後古希祝いに続き、二度目の 御祝儀をいただき、次は十年先ですか と思っております。 展の中で人生の後期を迎えられるこの いただくなんて素晴しい会社ですね・: と皆に云われました。理事の皆様方の ご努力に心から感謝しております。 立っていると感じている。 立 て ば と 願 っ て い ま す。 大山雪子 社友会総会にて喜 寿のお祝をいただき E言t ょ を受けありがとうご i 宅聾 者まで、お祝をして 有難うございました。 林 2 0 0 9 年 9月2 8日 発 行 友 ( N o . 17 ) 社 アステラス製薬社友会会報 で 行 き た い と 思 う。 東京 戸村晴秋 する件 社友﹂マスタープラン掲載 三. 会 報 ﹁ で す が 、 そ の 一環 と し て2010年 度 より支部総会懇親会参加費を左記の通 2000円 現行 4000円 改定 改 定 時 期 2010年 度 よ り 2011年 度 以 降 の 改 定 案 に つ い て り 改 定 致 し ま す。 五高萩地区の同好会活動に関する件 は、次号﹁社友凶号﹂別刷で掲載予定 文案 の件 ﹁無門関は南宋の禅 七 新 入 会 員 承 認 & 会員 動 態 報 告 の 件 四日年度頒布品に関する件 思 え ば 昭 和 二十 六 八.日年度予算編成スケジュールの件 米寿に無門関抄を出版 年三月に山之内製薬 僧 無 門慧 開 (118 311260) が 禅 ですが、皆様のご理解とご協力のほど 新郷ソノ工 に入社、その当時世 の大切な問題必則を 九 9 1ロ月主 要 日 程 に 関 す る 件 よろしくお願い申し上げます。 ︻大阪事務所電話番号等変更のお知らせ] 十.その他 六.推薦入会会員承認の件 の中まだまだ暗く、 選んで記述した書物 ω年 以 上 に わ た 私にとって無門関は である 。 不景気、就職難、と 大変な時代でした 。 それでも社内の人 り、ワカラナイことだらけであった。 無 門 関 は 名 に し お う 難 関 の 書 であ l一 六 アステラス製薬附加藤事業所内 大阪市淀川区加島二 1621016901 639010107 4 出席社員 は支部総会懇親会参加費 間関係もよろしく可愛がって頂きまし の山之内健二社長ともお会い出来やさ しかし何回も読み何回も考えている 電話番号侃 8 社友会大阪事務所の電話番号及びF A X番 号 が9月1日 よ り 左 記 の 通 り 変 しく励ましのお 言葉も頂き、とっても うちにすこしづっ無門関の世界がみえ F A X番 号 侃 ( 下線は変更部分を示しています) る愛読書であり座右の 書 と し て 折 に 触 感激しあの面影は今も忘れる事はあり てきた﹂ {保養所﹁六甲山荘﹂閉鎖のお知5 せ} として生盟O P3を負担する。 れ読み続けてきた 。 ません 。 素 晴 ら し い 偉 大 な 人 格 者 で し (編集担当に頂いたお便りの 冒 頭 部 分 (ク) た。学歴もない劣等感の固まりでした 。 たね 。 を 抜 す い す る と 共 に 著 書 の 表 皮 の 写真 ア ス テ ラ ス 製 薬 附 所 有 の 保養 所 ﹁ 六 甲 山 荘 ﹂ が 来 年 三月 末 を も っ て 閉 鎖 さ 3 そ れ だ け に 一生 懸 命 努 力 も し 、 創 業 者 それからもいろんな方々にお世話に 編集担当) E支部総会 -お悔み申し上げます・ (現行通り) 更になりました 。 なり、だんだん世の中も明るく、もち を 掲 載 致 し ま す。 これで、同社の健康保険組合及び会 れることになりました 。 ︻年末年始休暇のお知5 せ} 社 所 有 の 保 養 所 は 全 て な く な り ま す。 ( 1/ ) 1 . 2 . 住所(変更なし)一T53218514 ろん会社も明るく皆仲良く、よく働き、 よ く 遊 び 、 年 一度 の フ ァ ミ リ ー パ ー ティーも有り皆様ご家族共々楽しんだ 事 、 い い 思 い 出 で す。 あ ま り 丈 夫 で な かったかな?よく病気してご迷惑おか 社友 会 事 務 局 は 左 記 期 間 年 末 年 始 休 暇 と な り ま す。 ω年 ロ 月 初 日 ( 土)lm年1月4 日(月) 2010年 度 支 部 総 会 懇 親 会 参 加 費 ︻ 社友会の持続的発展を目指して、現 の改定︼ ﹁理 事 会 ﹂ で 収 支 構 造 の 改 善 を 検 討 中 在﹁マスタープラン検討委員会﹂及び 年 度 第I 四 半 期 決 算 報 告 の件 [別紙1] 新運営内規[施行日:2010. 4. 1 ] 享年 支 部 11 0 9. 0 6 . 0 8 上西啓頑 7 4 大阪 2I 0 9 . 0 6 . 1 0 田口善ニ郎 8 9 東京 3I 0 9 . 0 6 . 2 1 川田裕溢 8 1 東尽 けしたりしました 。 昭和四十七年に退 社し、お蔭様で、今も社友会にお世話 J : い ! ! 透過しなければ恕 St 中野正士 <1:樽の心髄・ 熊門聞を 『 禅の悟り J1 (現行通り) (11 ) I社員総会 互理事会 8 0 東尽 6 3 東京 7 5 東京 8 1 大阪 8 7 大阪 8 5 東京 6 6 大阪 6 0 東尽 5 7 大阪 4I 0 9 . 0 6. 2 5 崎山晃正 5I 0 9 . 0 6 . 2 6石 綿 清 6I 0 9 . 0 7 . 0 5 竹 田 健一 7I 0 9 . 0 7 . 1 1 今中宏 8I 0 9 . 0 7 . 2 9 青原照幸 9I 0 9. 0 7 . 3 1 千里子 勇 1 00 9. 0 8 . 1 6 本川秋広 1 10 9 . 0 8. 2 1 山 田 耕司 1 20 9 . 0 8 . 2 3杉 山 治 に な り 乍 ら 、 今 回喜 寿 の お 祝 い ま で 頂 謝! 禅問答 (無門関}の認に挑戦!! 一 .ω 〈運営規約内規問リ紙 1 ] ) 一部変更 (敬称略) 物故者報告 き誠に有難うご座居ました。心よりお 1感 礼申し上げ、今後共宜敷くお願い致し 令違路!こも解けなかった ω年9月8日 {第四回理事会︼ 戸村 晴秋 二 運 営 規 約 内 規 別 紙1 一部 変 更 に 関 [社友会社員総会・理事会・支部総会運営内規] 氏名 ご逝去日 ま す。 感 謝 合掌 抄- 発行 2 0 0 9 年 9月2 8日 友 ( N o . l7 ) 社 アステラス製薬社友会会報 大阪支部 俳句同好会 俳句同好会 東京支部 平成二十一年八月二十五日 一橋忠行 同島雛子 桐一葉、郎、がわりは常のこピ 岡田正 持麓のさしみ涼しき普恭の膳 遠花火ピおき記憶の蘇る すいか切る幼子手つき気になりて 平成二十一年八月二十七日 見晴かす清里高原放の風 酒井湧甫 市川稲舟 片岡幸八 地より生る水琴窟の音さやか 河村信弘 志井曜子 引き上げし井戸の西瓜の重きこど 道修町秋風白きビル壊す . . . . . 稿 . . . . . . . . . . . . . . . . 由 投 る蒜山 高 原 へ と 向 か い 、 高 原 の 空 気 を 満 喫 し て 楽 し んできました 。 そ の 後 岡 山へ 車 を 走 ら せ 、 瀬 戸 の島々と瀬戸大 橋を 一望 し 、 日 本 海 と は 違 っ た 穏 や か 7月 の と あ る 土 曜 日 、 朝6時 に 家 内 島 や 岡山城 、 岡 山 後 楽 園 な ど を 散 策 し 翌日は、鷲羽山を出発し、近くの児 な 海 や 山 々 を 眺 め 心 が 和 み ま し た。一 日目は鷲羽山で 一泊 。 と2人車で﹁目的地無し ﹂で家を出発。 て二日 間 の 思 い 出 を 刻 み 、 帰 途 に つ き もまずまず恵まれて、 8 3 0凶のドラ イブを楽しんできました 。 また閑散期 梅 雨 の 合 間 を 縫 っ て2 日 間 、 天 候 に 。 車中どこへ行こうかと迷っていま した 宇 品 、!レh 大 山I Cを 降 り た 時 に は 、 残 念 な が に千円高速を利用して何処に行こうか も千円! ら頂上付近は雲がかかって、その姿を な ・ ・・ ・? ・ ・ 若いころにサイクリングをしたと云 しばらくここで遊んでから、家内が に相応 し い山です 。 さ す が に 秀 峰 ・伯 誉 富 士 と 呼 ば れ る の 来 る よ う に な っ て い た 。 稜 線 は 美 しく 大山の頂上までクツキリ見ることが出 みながら、ふと眼を 上 げると雲が晴れ、 渡せる素晴らしい 景 色 、 大 山 牛 乳 を 飲 山牧 場 へ 、 こ こ で は 日 本 海 を 眼 下 に 見 に美味しかった 。 お寺 を 後 に し て 、 大 を登 り 、 お 参 り し て か ら の 蕎麦 が格別 ま ま 大 山 を 遠 目 に 大 山 寺 に 直 行。 参 道 見ることは叶いませんでしたが、その ました 。 何 し ろ 高 速 は 何 処 ま で 行 っ て が 、 急 逮、鳥取大山へ 行 く こ と に な り 大阪支部磯本浩 今梅雨のドライブ報告。 自 う 、 鳥 取 県側 からは裏大山をと呼ばれ ぜひご覧になって下さい!- 年度、卒、米、 宣 一 回 寿の方々から多 *r 各 地 で 健 康 で 豊 か に 人 生を送られて いる由、頼も しく 懐 か しく 読 ま せ て い た だ き ま し た。 有 難 う ご ざ い ま し た 。 9 友井正明 西田弘 ボ ト ル 背 に ビl ル売る妓の甲子園 持のまま町投の氷後ぶ 橋木喜代美 炎 天 下 裸 橡 を 拭 ぐ ふ も の は なL 橋本美川 演木圭子 この憂さを何処へ捨てむ秋万魚焼く 水に舞ふマンタの翼涼しけれ 桃井克夫 安谷照子 空蝉の幹をしっかどつかみおり 夫婦なる白鳥泳ぎ新樹燃ゆ r r 数 の お 便 り を 頂 き ま し た。 vω 更・新・し・ま・し・た 外套で吾子の靴枠る終戦日 枚田美智 夕立や思はぬ人ピ縄のれん 天瀬光雄 地に寝かせ大竹飾る豆祭リ かしげ見て花火もかしぐ夜空かな 大場ひさし 送リ火や母の衣に身を包み 川脇往久 野 路 の 風 そ っ ピ つ れ 来L秋 の 声 小林達治 秋 の 炉 の ど ろ ど ろ ピ ろ と 火 の 柔L 佐藤喜仏 木下関忠魂の稗を覆ひけリ 島村能宥 狭庭にも移リゆく秋満ちにけり 竹田正明 七夕や園児手製のくじら組 田島昭久 紺碧の空を我家ピ赤精衿 田中国体代 木郷宗祥 横田喜久太 吉野尚之 傾 き て 入 り く る 電 車 秋 暑L 八朔や黒紋村の芸舞妓 米田鎖敏 記 空蝉を手に弱題の捕虫網 藤原少砂 志却は生きる証しか走馬灯 古川龍郎 、初ものの松茸飯や誕生日 刃こぼれの軍万研きて終戦日 森田一宗 わずかばかり秋の気配や池之端 森田武 夕 暮 れ て 明 日 を 生 き 抜 く 弾Lぐ れ 横田豊 後 「トップペ ージJ 役員人事J 行事予定 」 「 第 5固定時社員総会議事録j [8月更新] 「 同好会記事・写真」 [ 10月更新予定] 「 ト ップペ ージJ r行事予定」 [ 1 1 月更新予定] 「 作品展示 コーナ J写真・絵画 ・俳句 会員動向Jr物故者jは毎月更新しています。 集 [7月更新] 編 ミ k τ弓4 ページ更新連絡 - 発行 2 0 0 9 年 9月2 8日 友 ( N o . 17 ) 社 アス テ ラス製薬社友会会報 一 ﹃シャユウ﹄ ととばの遊び 松還良和 出題投稿 一 (東京) ︿応募方法﹀ ﹁第日回の答え﹂として、囚固 -記入のしかた官製葉書に、 ふ た つ の 解 答( AH00000、 BHO個 と い う 具 合 に ) 、 郵 便 い。感想があればお書きくださ 番号、住所、氏名をお書き下さ い。同居の方の応募も歓迎いた します。 - 宛 名 干 10310012 0 アステラス製薬社友会までお送 東京都中央区日本橋堀留町112lM りください。 -締切叩月お日(月)消印有効 .賞品正解者の中から抽選で日 名 様 に 各2千 円 の 図 書 カl ド を お贈りします。 - 発 表 第 凶 号 ( 二O O九年十一 一 月発行)の社友にて発表します。 解答も同時に掲載します。 1 ⑤ 、答 B え ジ一 ⑨ 一ロ ③一 カ( 亙 R 7 しン第 たダ 1 4 ズ ィ ~ ソ i ! ; の m 1ハ卜の一種。全長約判叩で黒緑色 の光沢がある。日本特産で、伊豆 諸島・小笠原諸島・琉球諸島など の森林にすみ、うなるような太い 声で鳴く天然記念物。 5岐 阜 県 南 部 の 市 。 戦 後 、 自 動 車 部 品工業が発展し、西部の今渡は木 曽川の日本ライン下りの出発点。 7地 獄 で 罪 人 が 阿 責 に あ う さ ま を 描 いた絵。 8陰 暦 八 月 十 五 夜 の 月 。 ま た 、 陰 暦 九月十三夜の月。 叩船具の一種。船がすれ違う時など に突っ張って相手の船を隔てるの に用いる。 ローー を は る 、 ーー かいほう、ーーー をなす。 日天の川にあるという船っき場。 日ーー か い ど う 、 み ーー 、 ー ー な だ 。 げ仕事などの進みぐあい。やりおえ た量。 間山地の林下に生ずるラン科の多年 刊叩春、紫褐色で中 草 。 高 さ 初 jm 央が白又は紅紫色の花が叩個程聞 く。園芸品種が多い。 思﹂ 叩漢字の下部をなす構成部分。 ﹁ の ﹁ 心 ( し た ご こ ろ )﹂、﹁熱 ﹂ の ﹁⋮ (れっかこなど。 │ に わ た る 努 力 ﹂。 加一年余り。 ﹁│ 引馬を飼っておく小屋。馬小屋 0 2降 る 雪 。 ま た 、 雪 の 降 る こ と 。 剖ーーを見て犬を放つ。 お小計を順次加えて、合計を出すこ と。また、その合計。 ﹁ 毎月の売上 をー ーする﹂ 加二つの物質の境の面。インター フェース。 初切り倒した木などの、あとに残っ た根元。きりかぶ。 引筋をもった物語的な内容の映画。 記録映画などと区別していう。 「、│モ ~A 巴 は 1 1 6 2 堅号 n + . . - 会 n o 1中 国 語 の こ と 。 主 と し て シ ン ガ ポ │ 二 重 枠 に 入 っ た 文 字 をA ← 枠E の 順 に ルなど東南アジアで用いられる標 並べると言葉ができます。それは何と 準 語 を さ す02 2火 で 熱 し た 鰻 。 布 の し わ を 伸 ば し いう言葉でしょうつ たり折り目をつけたりするために 用いる。 11J 解き終わった盤面で﹁シ﹂﹁ヤ﹂﹁ユ﹂﹁ウ﹂ 3 下位の者の座る席。まつざ。 ︼ の 入 っ た マ ス は い く つ あ る で し ょ う ? 4縫 糸 の は し に 、 糸 が 抜 け な い よ う に作る小さなこぶ。 ││合計で答えてください。 5ー ー ず 、 み ず 1 L ││ じようじょ。 6江 戸 時 代 、 徳 川 家 康 の 命 日 に 行 わ れ る 日 光 東 照 宮 の 4月 の 大 祭 に 将 軍みずから参詣したこと。 7黒 う る し 油 を ま ぜ て 精 製 し た 上 等 の花漆。 9鉄 、 青 銅 、 ア ル ミ ニ ウ ム 、 ア ン チ モン、錫、鉛などの金属を溶融し、 鋳型に流し込んで器物をつくる工 法。また、その器物 o n--かぜ、ーーーまど、ーーーもの。 ーに遭う﹂ け門思いがけない災難。 叩フランスの画家。明るい色彩と平 面的な構図で都会感覚あふれる絵 を描き、印象派の誕生に大きな影 オ ラ ン ピ ア ﹂ など。 響を与えた。 ﹁ 叩旧国名の一つ。今の静岡県の西部。 叩キリスト教で、修道院に入った女 性。修道女 o い つ も そ ゆけ休点、付き添って離れ コ な い 人 。 腰巾着。 引米に麦をまぜ、また、麦だけを炊 いた飯。ばくはん o 安藤橘官了梅原万義・大森君子 種々の植物の花、葉、果実、枚、幹 ・ 根などから得られる芳香・揮発性 堺俊治・新村亜紀・菅原弘 の油。 文化の││ ﹂O お繁栄。 ﹁ Uそ れ よ り 下 、 い か mみょうが(若荷)の古名。 ン回 O 滝本博人・田中彦富・中村義夫 永栄ひろこ以上問名(敬称略) 7 で オ ・' l ォ1 ダ 2 0 0 9年 9月2 8日 発 行 友 ( N o . l7 ) 社 アステラス製薬社友会会報 可 EA ハ リ アステラス製薬社友会会報 2 0 0 9年 9月2 8日 発 行 友 ( N o . 17 ) 社 1 " # # " " " , テニス用品穂積健 (大阪) θ9 . D 且 l v L 秋海裳飯尾久光(大阪) め~ ひょうたん 八木秀夫(大阪) 浜離宮鴨猟の池松尾宏(東京) 江戸東京たてもの園 野菜と紙ふうせん 国 会 議 事 堂 荻 野 康 雄 ( 東 京) 大山雪子(東京) 井崎祐司(大阪) i 司自 Eム アステラス製薬社友会会報 友 ( N o . l7 ) 社 花の仲間布施正之(東京) 2 0 0 9年 9月2 8日 発 行 緑陰渓流市中滋郎(東京) 水蓮大野忠吉(東京) 岸和田だんじり祭神山五郎(大阪) 祈る心佐藤和彦(仙台) 玉野お天王祭り 視線小林達夫(大阪) 長町健一(名古屋) 1 2
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