4 1 滋賀県における小学校教員養成の成立過程 -滋賀県教員養成史研究 (1) The Opening ofTeacherT r a i n i n g System i n Shiga p r e f e c t u r e -The H i s t o r yo f Shiga p r e f e c t u r e 'sTeacherT r a i n i n g System(1) 一 木全 清 博 (社会科教育研究室) Kiyohiro KIMATA 開校しており、新しい小学校教育を受け入れる 1 滋賀県における小学校教員養成の始まり ための条件を整えつつあった 。( 1 ) (1)前史一大津仮教員伝習所の開設 大津小学校教員会議所の設立とともに、大津 滋賀県における小学校教員養成は、明治 8年 市中の各区は連合して、翌年 8年 1月に官立大 <1875>5月2 9日の滋賀県小学教員伝習所の開 I 日彦根藩 阪師範学校第 1次卒業生の横関昂蔵 ( 設から始まる 。 この伝習所は、滋賀県下で初め 土族)を招聴した 。横関品蔵の任務は、市中の て小学校教員の養成機関として、大津上堅田町 各校から選ばれた生徒に正則で教授することと、 に創設されたものである 。 小学校教員への授業法伝達を行うことであった。 との滋賀県小学教員伝習所という教員養成機 績聞は、小学校の教員たちへの授業法伝習を、 関の設立に先だって、すでに明治 7年 < 1874> 大津玉屋町の開達学校で開始した。彼は、大阪 1 2月に大津においては大津小学校教員会議所が 師範学校で学んだ新しい小学校の教育内容およ 設立されていた。大津の小学校教員会議所で、は、 び教授法や授業方法を、伝達講習したのである 。 大津各町組の 7校の教員たちが集まり、教員会 この大津仮教員伝習所の開設をもって、大津で 議所を結成して教授法の改革や授業改善の懇談 の小学校教員養成の始まりとすることができる 。 を行おうとした。明治 7年 1 2月1 0日には、 したがって、滋賀県小学教員伝習所に先行した 津小学校教員会議所規則」と「同 「 大 会議規則」 大津仮教員伝習所は、滋賀県における小学校教 の 2つの規約を制定している 。大津では、明治 員の養成における前史として位置づけられる 。 6年 2月から 3月にかけて、滋賀郡第 3区打出 人的な系譜においても、直接的なつながりを持 浜学校、第 4区間達学校、第 5区日新学校、第 っている 。明治 6年からの動向を年表風に示す 6区明倫学校、第 7区遵道学校、第 8区弘道学 と、次の表 1のようになる 。 校、第 9区修道学校の 7校が、ぞくぞくと設立 ・ 表 1 大津仮教員伝習所 滋賀県小学教員伝習所の略年表 1873> 明治 6年 < 3月 大津各区小学校維持取締規約 4月 3~9 区の 7 校 大津各校授業の方法 ・ 試験は一定せず ・学科及び教科書 (句読)県令告諭書、市中制法、孝経、小学、四書五経 日本外史、国史墨、十八史署(習字)教師自筆のもの(算術)専ら珠算 明治 7年 < 1874> 1 0月 「滋賀県小学教則校則」布達 1 1月 打 出 浜 学 校 柴 田 孟 教 、 開 達 学 校 大 津 観 浄 、 弘 道 学 校 片 岡 常 一 郎 、 修 道 学 校 市 川 美誠等、大阪師範学校に出張して教授方法を参観。文部省書籍、掛図、小学教則等を持 帰る 。各校教授器械を新調し、教場の構造を畳から板間にする 。 4 2 1 9 9 7 第 5巻 第 1 号 実践センタ一紀要 また、新農業法を研究する 1 2月 大津小学校教員会議所の設立。 明治 8年 < 1875> 0円)を指聴。大津仮伝習所を玉屋 1月 人ー阪師範学校卒業生本県三等訓導 績関昂蔵(月俸2 町開達学校内に設け、各校教員に授業 }j法を伝習。 ・ 各校優等生徒 2~5 名を募集。 訓導機関昂蔵これを坦任し新教則(大阪師範学校附属小 学校教只 I J)により授業を始める 2月 下等小学校第 8級卒業試験を開達学校で行い、即日謹書授与式挙行一滋賀県管内「小学 生徒試験ノ!高矢」 3月 仮伝習所の会議で規約を決定訓導機関昂蔵列席。 「ー 各校教員伝習時間ハ毎日午後三時ヨリ 二時間トス 一 監事一名ヲ置キ校務ヲ整理シ 生徒ノ勤惰ヲ監督セシメ 生徒掛三名ヲ置キ教便器 械ノ整理庶務ヲ取扱ハシム 伝習必用ノ書籍器械及ヒ監事生徒樹ノ手三月(1名金 2円)小使雇給(1名金 3円) 筆墨紙等ノ雑費(1カ月金 7円5 0 銭)教場器械損料(1カ月金 5円5 0 銭)等ノ経費 ハ大沖町各区ヨリ出金スヘキコト」 -横関昂蔵に監事を兼務させ、仮伝習所を笹屋町大谷派別院に移す 4月 「滋賀県小学校則」頒布 (4月1 3日) 1 1 8月 1日ヨリ 3 1日マテハ午前六時ヨリ正午十二 毎日午前八時出校午後三時 退 校 ({ 「一 時マテトス) 一 男女ノ席ヲ分ツヘキコト 一 年中休日(毎日 一六ノ円 1月 11ヨリ 5日マテ及 1 2月2 5日ヨリ 3 1日 マ テ 祝 日 大 祭日 氏神祭日) J 5月 横関昂蔵、下等小学第 7級卒業試験を行い、即円謹 Sを授与。 同2 9口、滋賀県小学教員伝習所校則、同合則を制定 L、伝習所立校。 6月 仮伝習所を廃止。滋賀県小学教員伝習所を上堅田町に創立する 。訓導償関; 昂蔵を伝習所 教員とする (6月 1日開校) . . .. .. ..農業法伝習期間60日間 .I 仮伝習所創立以来 6カ月間共問県庁 7 0余円ノ学資ヲ扶助セリ シテ 是本県師範学校ノ創業ニ 附属小学ヲ設ケ生徒ヲ募 jレ即各校生徒ノ聞達学校ニ修学セシモノヲ以テ之ニ充ツ 柴田 ・ 大沖 ・山崎ノ 三教員更ニ生徒係卜ナル 各小学区ノ学区取締ヲ廃シ 毎小学区内ニ 1名ノ学区取締ヲ置ク 第四区長加藤喜左衛門其職ニ任シ事務局ヲ聞達学校内ニ設ク」 1 0月 小学教員伝習所の名称を廃し、滋賀県師範学校と改称 ( 1 0月2 6日) 1 1月 校則及び舎則を改正......授業法伝達期間 1 ∞日間となる 1 2月 本県師範学校附属小学を廃止。在学生徒を各校に帰す。柴田孟教、生徒掛の兼 務を辞す (~滋賀県滋賀郡第三学区高等尋常大津小学校沿革史 (2)滋賀県小学教員伝習所の設立 上編』より作成) 上堅田町 1 9 番地、旧郡山藩邸の家屋を借りて校 舎とすることが決定した。校則と舎則を制定し 「滋賀県小学教員伝符所」は、明治 8年 5月 て生徒を募集すること、附属小学校を設けて教 2 9L Iに立校 ・ 設立された。の伝習所の教師には、 場規則を定めたこと、附属小学校の生徒は大津 大津小学校仮伝習所の 三等訓導繊関昂蔵がその 市中の各校よりおよそ 2 0 名を選抜したことなど まま就任している 。 5月1 8円に、滋賀郡第 3区 が 、 『大津師範学校第 1 年報~ (明治 1 0年)に 滋賀県における小学校教員養成の成立過程 載 せ ら れ て い る 。 開 校 日 は 6月 1日とされ、 「始メテ生徒ノ教綬ヲナシ附属小学モ亦教ヲ初 ム」となっている ( 2 ) 。 ③在学年限は 6 0円であり、半途退学は許され ないこと、 ④入学生徒は和漢の書籍を講読出来て、算術 『滋賀県史二編二卜六』の「大津師範学校」 の項は、「明治 8年 5月小学伝習所ヲ大津堅田 町ニ開設シ 4 3 0月師範学校卜改称シ 全年 1 明治 は問題に依って方式を作成し、答えを答占 させること、 ⑤全科卒業の上で試験を実施し、学力に応じ 1 0 年 3月26日更ニ滋賀県大津師範学校卜改称ス」 て、準訓導の 1等 2等 3等の謹 Sを与え管 とされ、明治 8年の記事は「一 内各地へ派遣すること、但し準訓導 1等 1人 但 月 給 金22円 、 一 訓導兼幹事 生徒掛 3人 但 月 給金 3円宛」である ( 3 ) 。 この生徒掛は、大津の 打出浜学校の柴田孟教、開達学校の大津観浄、 (月給おおよそ 1 2円)、準訓導 2等(約 10 円)、準訓導 3等(約 8円)とすること 。 0日の日が休 休日定式については、毎月 5 ・1 明倫学校の山崎真三の 3人であり、生徒掛と伝 日であり、 習所事務掛を兼任させた。 祭 、 2 ) ] 1 1日紀元節、 2月 1 1日神武天皇祭、 9 1873> 滋賀県は、松田道之県令が明治 6年 < 1 月 1R~5 円、 1 月 30 日孝明天皇 月1 7日神嘗祭、 1 1月 3日天長節、 1 1月2 3日天長 2月 8日に「小学校建築ニ付告諭書J(“就学告 節、 11 月 23 日新嘗祭、 12月 25 日 ~31H が休みと 諭勺及び「立校万法槻略」を公布して、県下 なっている 。 の小学校の設立 ・ 開校を協力に推進しようとし た。「学制」の理念を現実化していき、近代的 な小学校制度を確立するためには、新しい教授 「第二草教場規則」および「第五章教場 来観規則」は、次のようになっている 。 第二~ 教場規則 法を理解し、実践する多数の小学校教員が短期 教場ニ於テハ万事教師ノ指俸ニ従フベ 間に必要とされた。 キ事 受業中雑談高話ヲ禁ス 滋賀県小学校教員伝習所の教則は、「速成ヲ 専ラトシ在学僅ニ数月ヲ以テ セシメ F等小学科ヲ伝習 教場ニ於テ喫煙スベカラス 受業中狼リニ席ヲ退クヘカラザ jレ事 卒業ノ者ハ仮リニ訓導ノ見込ヲ以テ 其等級ニ応シ辞令書ヲ付与シテ各地ニ派出セシ 教場ニ於テ猿リニ異見ヲ述フ可ラザ jレ ム 故ニ別二本校ノ教則ヲ設ケス J(~滋賀県史 事 受業時間ノ外教師ノ許可ナクシテ教場 二編二卜六~)と記されている 。 ニ入 jレヘカラザ jレ事 このように小学教員伝習所の設立目的は、滋 賀県管内の「小学師範タ jレ可キ生徒ヲ入学セシ 一 教師指輝ノ外教場装置ノ占籍器械ヲ使 メ其教則教授ノ方法ヲ伝習ス jレ所」であり、小 用シ又ハ玩弄スベカラザル事 学校教育の実用に供することにおかれた。 ( 1明 修業ノ書籍器械ハ j 軍テ自費タ jレベシ尤 )。 したがっ 治 8年 5月29日 小学伝習学校校則 J モ其品類ニヨリ貸給ス l レモノモア jレベ て、大津仮伝習所が大沖各町組によって管理 ・ :/ 運営されていたのに対して、この小学校教員伝 鐘ヲ聞ケハ控所ニ整列シ教師ノ先導ヲ 習所は「本庁学務課ノ附属トナス」と滋賀県の 待ツヘキ事 直轄管理とされた。 出場退場共順列ヲ錯 jレ可カラサ jレ事 小学伝習学校校則は、「第 1章 通 則 、 第 2 休息ノ時間ハ点鐘毎ニ十分ノ事 章 教 場 規 則 、 第 3章 入 学 生 徒 心 得 、 第 4章 但此時間ニ出入ヲ許ス卜量産モ順列ヲ錯 休日定式、第 5章 教 場 来 観 規 則 」 か ら 成 っ jレヘカラサ jレ事 ている。 5月29日制定の「校則」の中心部分で 第五章教場拝観規則 ある「第 3章入学生徒心得」をみておこう ( 4 ) 。 第 l条 7 歳から 3 0 歳までの者である ①生徒の年齢は 1 こと、 ②生徒の学資は自費であること、 拝観ノ者ハ課業時限上校シ名刺ヲ掛 官員エ達シ控所ニ待ツベキ事但官員欠 勤ノ節ハ教師ニ達スベシ 第 2条 課業時限ハ点鐘ヲ以テ報告スベシ此 44 実践センタ一紀要 時掛官員ノ指輝ヲ受ケ教場ニ入 jレヘキ 課業終リ生徒散ス jレノ後教師ニ就キ質 問スヘシ 事 第 3条 1 9 9 7 第 5巻 第 I号 拝観ハ一席大凡五人ト定ム其甲ノ組 さらに、伝習所の「舎則」が、同じ日の明治 ヲ見テ又乙丙等ニ移ラント欲スル如キ 5 ) 。すなわち、伝習 8年 5月29日に制定された( ハ必ス ー諜ノ終 jレヲ待チ其組ノ教師ノ 所生徒の寄宿舎での規則を定め、 5月3 1日に開 許可ヲ受ケテ後チ他ノ組ニ入ルヲ法ト 所させており、翌日 6月 1日の開校に間に合わ ス 0 せたのである 。寄宿舎には正副舎長を置き、 6 第 4条教場ニテ喫煙文ハ談話ヲ為スベカラ ス且許可ナクシテ退場ス jレヲ禁ス 第 5条 授業ノ万法ニ於テ不審ノ条件アレパ 臼の伝達講習(伝習)が終了し卒業するたびに 交代した。 r 舎則」は、第 1条から第 1 6 条まで から成る、次のようなものである 。 表 2 滋賀県小学教員伝習所「舎則 J (明治 8年 5月29日) 第一候 入舎中ハ揮テ舎長ノ指揮ヲ受クベキ事 第二篠 常ニ告示ノ趣意ヲ体シ行状 言語ヲ慎ミ互ニ信義ヲ以テ交ルベシ 第三候 長起ハ春分ヨリ秋分迄ハ午前第六時 秋分ヨリ春分迄ハ午前第七時タルベシ 但時 宜ニ { J ]リ変換スルコトモアルベシ 第四篠 食事ニ臨ムトキハ進退トモ礼ヲ為スベキ事 第五僚 食堂中綿テ雑踏ヲ禁ス 第六僚 朝食後受業ノ時限迄各教室内ニ於テ Sヲ見/レベシ 第七僚 午後卜時寝祷ニ就クベシ 第八僚 毎日散歩ハ春分ヨリ秋分迄ハ午後四時ヨリ六時迄秋分ヨリ春分迄ハ三時ヨリ五時迄 第九篠 休日ハ品起ヨリ日没マテ外出ヲ許ス 但音読ヲ禁ス 但時宜ニ仰リ変換ス jレコトモア jレベシ トス 右ノ外恋、ニ他出ス jレヲ許サス 第十僚 出入ハ必ス門札ヲ以テスベシ 第十一候 病気ニテ欠課ノ節ハ同室ノ者ニ託シ占面ヲ以テ樹官員へ届出ツベシ 第卜二候 外人応接ハ応接所ニ於テスベシ室内ニ誘導スベカラス 但官員欠勤ノ節ハ教員ニ届クベシ 第十三篠 飲酒放歌吟詩其他雑戯ヲ禁ス 第十四篠 金銭又ハ衣服ノ貸借ヲ禁ス 第十五候 不得止事故アツテ下宿又ハ帰省致シ度モノハ学区取締人正副区長 連署ヲ以テ当伝 習所へ中出ツベシ 但至急ノ分ハ此限ニアラズ 第卜六篠 丙丁ノ戒ヲ厳ニスベシ 右ノ通急度可相守若シ違犯ス jレモノ於有之テハ一週間以上三週間以下門外ノ散歩ヲ禁スベキ事 (3)滋賀県小学教員伝習所の伝習の実態 一教員・教貝J I・試験制度一 小学教員伝習所は、制度的には 6月 1日に開 1に、小学校教員たちを教える伝習所教官のス タッフが質的量的に不足していた。第 2に、伝 達講習を行う教則や教材、教具が不足していた。 所したものの、小学校授業法の伝達講習を円滑 第 3に、体系的な現職教員養成の教師教育構想 に進めるのに十分であるとはいえなかった。第 が練り上げられていなかった。これらの 3点の 4 5 滋賀県における小学校教員養成の成立過程 条件は、 6月の開所と同時に、 1つ 1つ解決を じ、各小学教員とした。すでに定められてい 迫られていった課題であった ( 6 ) 。 た 3等級から 4等級に変更したのである 。 第 1の伝習所教官スタッフ問題の克服は、た だ 1人の教官横関昂蔵を補助するスタッフをつ 3.8月2 4日に官費生徒入学心得を定めたこと 。 生徒を選抜して学資を給して、これを陶冶す くることと、官立(国立)師範学校から教官を るべきとの議論が起こり、心得を定めた。 こ 招轄することの 2本建てが考えられた。 の結果、 9月 6日には官費生徒として試業選 前者の補助スタッフには、生徒掛として任命 されていた柴田孟教、大津観浄、山崎真三の 3 抜により 12名が選ばれて入学した。 以上の個別の制度面の整備と共に、全体的な 人を起用した。 3人は開所日の 6月 1日に伝習 教師教育構想を作成するために、 所に入所し、その日に実施された卒業試験によ 月 5日に横関昂蔵と並河尚鑑が大阪の第 3大学 7 月 22 日 ~8 り 、 1等準訓導に任命されている 。滋賀県学務 区教育会議に派遣された。並河尚鑑は八幡東学 課から加茂伴恭が臨席し、横関昂蔵が卒業試験 校の首座教員であり、官立東京師範学校の明治 を主宰した。「自是後一回募集ノ生徒学期満 jレ 8年 3月小学師範学科卒業生であった。 (のち 毎ニ卒業ノ試験ヲナシ 東京学習院教官となる) ( 7 ) 学務課ノ官吏校ニ臨ミ 以テ例卜ナス」こととなる 。彼ら 3人は大津 3 次に、小学教員伝習所の試験制度はどのよう 小学校の首座教官を兼務しつつ、伝習所教官と なものであったかを簡単に見ておこう 。『大津 もなったのである。横関は同月 1 8日に、伝習所 師範学校 第 1年報』には、伝習所の学力試験 は、明治 8年 7月1 4日に始まったとしている 。 幹事に就任した。 後者の官立師範学校卒業生の招聴は、官立大 「学務ノ吏員上請シテ月毎二四ノ日ヲ以テ之ガ 阪師範学校の 8年 4月1 9日卒業の第 3次卒業生 定日卜ナシ 繁岡欽平を 4等訓導として採用した。繁岡欽平 其試験ヲナサシム 伝習所ノ教員一人ヲシテ庁ニ昇リ 爾来之ヲ請フモノ続々相続 は 、 1 0月26日まで伝習所教官を勤めた後、明倫 キ一月三回未タ以テ周ネカラズ」。その後、 8 学校へ転勤する 。繁岡に代わって、明倫学校か 月2 3臼に至って、試験日は「四ノ日」だけから ら官立大阪師範学校の第 4次卒業生の尾島精六 「四・九ノ日」に行うことに機会を増加するよ うに改めたが、教員が県庁で試験を実施し、監 が赴任してくる 。 第 2の教則や教材、教具の不足の問題は、そ 倍することは従来どおりとした。その後の伝習 の克服への道は遠かった。小学教員伝習所では 所から滋賀県師範学校へ改称後、試験実施日は 教則に関して、「特ニ教則ノ設ナシト難モ 明治 9年 1月2 4日に、「十五ト廿五ノ 二 日」と 日 本外史等ノ書ヲ講読セシメ算術等ヲ学習セシム」 なり、同年 1 0月に再び「五ノ日」のみに変更し とあるだけで、詳細はわからない 。教材・教具 ている 。 に関しては、小学校の教科書をそのまま使用し て、授業方法は各等級に配置された教科書をつ 2 滋賀県小学教員伝習所の生徒の実態 かったものと推測される 。 第 3の現職教育にかかわって、いくつかの制 度面の試行が行われた。 (1)明治初期の滋賀県教員像 一小学教員伝習所卒業生徒の分析 1.伝習所卒業生を学力の深浅に応じて、年限 別の卒業謹書を与えたことである 。授業法伝 習を終わり、卒業試験に及第した者に交付し 滋賀県小学教員伝習所の卒業謹書は、明治 8 年 6月 1日付から同年 1 0月 6日付まで第 1次か たもので、 1年から 5年までの区別がある卒 ら第 7次に及んでいる 。6 0日間の授業法伝習を 業謹書を発行することとした 。後に見るよう 終えて、卒業謹書の交付を受けた現職教員は、 に 、 5カ年讃書授与者は 1 0 0名中 3 2名と少な 1 0 0名である 。明治 8年 10月26日に小学教員伝 かった。 2.6月2 8日に、準訓導派出心得を定めたこと 。 準訓導を 4等級に分けて卒業生徒をこれに任 習所が廃止されて、「滋賀県師範学校」と名称 変更して、百日間の伝習講習と教員養成制度が より拡充されるのである 。 4 6 第 5 巻 第 l号 実践センタ一紀要 1 9 9 7 6 0日間の伝習を受けて卒業した生徒の氏名、 7次の卒業生徒は、大津で寄宿舎に入って授業 住所、年齢、族籍、教員免許年限、卒業謹書交 法伝習を受けたのである 。 しかし、これがし 1か 1、卒業謹苫番号については、『明治八年六 付1 に速成的な現職教師教育であったかは、『伝習 ) J一日 伝 宵 所 卒 業 謹 占 授 興 録 学 校 専 務 』 か 所卒業謹書授輿録』から明らかである 。伝習所 ら明らかとなる 。 この資料は、滋賀県における に入所しなくても、卒業謹占を暖与することが 最も初期の小学校教員の実態を知る上で、責重 行われていた事実がある。 第 5次の 9月2 6日付の卒業謹書を交付された 8 ) 。 なものである ( 明治 8年 9月 1 8日付『滋賀新聞』第 1 3 8号に 9名には 、添え書きが付されており、このうち は、「当県伝押所ニ於テ卒業謹書ヲ受ク jレモノ」 「判所入学生ニ非ス卜難モ願ニ依リ試験ノ上謹 8名の氏名 一覧が掲載されている 。『大 として 6 書ヲ付与ス」者が 6名、「八幡東学校ニ於テ伝 津 師 範 学 校 第 1年報』には 、巻末に「立校以 習済ノ趣キ 三等訓導並河尚鑑ヨリ願ニ依テ試験 米下等小学便業法伝習卒業生徒一覧表」が掲げ ノ上謹 Sヲ付与ス」者が 3名であることがわか られている 。 これらの諸資料から、滋賀県小学 る。つまり、県庁での学力試験のみで「伝押所 教員伝判所の生徒の具体像が浮かび上がって来 卒業」資格を与えたり、八幡東学校の首座教員 る( 9 ) 。 の並河尚鑑の下での学力試験を行って同じ資絡 を与えたりしたのである。並河の下で受験した 3名(今井良達、山本仙蔵、殿、江貞継)は、い 1 .卒業試験 日からみた伝習所卒業人員・等級 ず、れも八幡東学校の教員で、あった ( 1 0 ) 。 別人 員・生徒の族籍 卒業謹書の交付日からみた卒業生徒の人員の この表からは、伝習所卒業生徒の族籍がわか 推移は、次の表 3のとおりである 。第 l次卒業 る。滋賀県の明治初期の教員は、明治 8年段階 生生徒は、さきに述べた柴田 ・ 大津・山崎の 3人 には上族46%、僧侶 20%、平民34%であったこ であり、入所したその日に卒業謹書を交付され とがわかる 。 この後に続く同 8 年 11 月 ~10年 6 ている 。第 2次の 6月2 6日修了生が、実質的な 芯( 1 床で、小学教員伝習所の卒業生徒ということに すべての卒業生徒の族籍が判明している 。 月までの百日伝習を受けた教師たちについても、 なる 。 6月から 1 0月までのわずか 4カ月間に、 とりあえず 1 0 0 名の小学校の教員を速成的に養 2. 伝習所卒業生徒の年齢構成と出身郡分布 成したのである。小学校の設立 ・開校に間に合 次に、伝習所卒業生徒の卒業讃占を授与され わせるために、とりあえず「近代的な小学校」 た時点での年齢別構成を見てみよう 。次表のよ の控業法を学ばせ教員として世に送りだした。 少なくとも、第 2次から 4次までと、第 6 - / J、学校教員になろうとして伝習所 うに、新しし ¥ 表 3 伝習所卒業生徒の人員・ 準訓導等級別人員・生徒族籍 卒業年月日 人 員 全科伝習 準訓導等級 1等 2等 3等 4等 卒 業 土族 僧侶 平民 明治 8年 6月 1f l 6月2 6日 6日 8月 1 8月2 1日 6日 9月2 1 0月 1日 1 0月 6日 総 計 3人 3 2 1 8 1 5 9 1 3 1 0 ∞ l 3人 1 9 1 3 7 4 1 1 7 3 6 2 2 6 2 2 3 2 0 1 3 1 0 6 7 3人 3 2 1 8 1 5 1 3 1 0 1人 1 9 9 5 8 3 1 1人 4 4 1 1 5 4 9 1 4 6 2 0 l人 9 5 9 5 5 3 4 4 7 滋賀県における小学校教員養成の成立過程 表 4 伝習所卒業生徒の年齢権成 に入所したのは、圧倒的に若い教師た ちであった。 とくに 2 0 歳代前半以下の 年齢別 0 0人中 5 3人におよぶのであ 教師は、 1 15歳~19歳 る。2 9歳以下の教師は、実に 76人を占 加歳~24歳 0 歳代が 2 9人 、 2 0 歳代 めたのである 。 1 お歳 却歳 が4 3人 、 3 0 歳代が 2 0人 、 4 0 歳以上がわ ずか 4人の憐成である 。最低年齢は 1 5 歳 2カ月であり、最高年齢は 5 0 歳1 0カ 泊歳~34歳 お歳~39歳 40歳~49歳 月であった 。 50歳 以 上 卒業生数(1∞人) 2 9人 2 3人 2 4人 1 2人 8人 3人 1 人 *6月 l口、同 2 6日卒 業生年齢は、 6月 現 在。 8月 1 6日 、 2 1日 卒業生年齢は、 8月 現 在 9月2 6日卒業 生年申告は、 9月現在《 l OJ1R、 6日卒業 生年齢は、 1 0月 現 在 である 表 5 伝習所卒業生徒の出身郡分布 3.伝習所生徒の卒業謹 書等別及び 年限別構成 高島郡 伝習所生徒の卒業謹主には、先にも 犬上郡 野洲郡 述べたように期限を限定した年限別誼 滋賀郡 苫となっていた 。 1 0 0人の伝所卒業生 蒲生郡 徒の分布は、表 6のような構成となっ 坂田都 9人 4 23 12 10 9 ている 。学 ) J試験の結果として、第 1 栗太郡 神崎郡 浅井郡 甲賀郡 。 愛知郡 f干 ヰ郡 1 0人 6 5 5 4 3 等から 3等までの等別と、年限別の卒 表 6 卒業謹書の等別分布と年限別構成 業譲書が区別されて授与された。 卒業誼苫の形式は、表には等級が記され、裏 第 1等 には期限付の謹書であることが記されている 。 第 1等 卒業謹書の表書きは、「此謹書ヲ得タ l レ者ハ管 第 2等 内小学ノ訓導タルコ卜ヲ免許スル者也」として 第 2等 小学教員免許状で、あり、衷書きは、 「此謹苫ハ 第 3等 満期ノ後猶教員タラント 第 3等 00ヶ年ヲ限リトス 欲ス l レ者ハ学業ヲ検査シ 更ニ謹苫ヲ与フベシ」 となっている 。 したがって、教員の希望者は、 再度学力試験を受験して 、教員免許状を延長し なければならなかった。 (哀) 減殺害ハニタネヌ依可 ト人鴻期ノ後涌教員タ ヲント核三芳ハ孝蒙ァ 叉ニ合掌 7血 ハ 弘明、杏 ν フぺレ 汚物 5カ年 3カ年 4カ年 3カ年 2カ年 1カ年 32人 35 6 16 7 4 4 8 1 9 9 7 第 5巻 第 1号 実践センタ一紀要 3 滋賀県師範学校の開設と小学校教員への授 業法伝習 ③在学年限は 1 0 0日と限定して、半途退学を許 さずとした 。 (1)滋賀県師範学校への改称と百日伝達講習 0月26 滋賀県小学教員伝習所は、明治 8年 1 日に滋賀県師範学校と改称した。 これに伴い、 ④入学生徒の「和漢ノ書ニ就キ講義セシメ算術 ハ問題ニ依リ法式ヲ作リテ答書セシム」は、 伝習所時と同じである 。 校則・舎則の改正も行われ、同年 1 1月1 8日に ⑤入学生徒になるためには、「学区取締区戸長 公布された。改正の最も大きな点は、 6 0日聞 連署ヲ以テ県庁へ申出ツ可シ」と規定してい から 1 ∞日間伝達講習へと変わったことであっ る。 ⑥卒業謹書には、先の伝習所のように年限別の た。 滋賀県師範学校の校則 C f明治 8年改正校 、 5章からなるもので、「第 1章 通 則J) は 免許状規定を廃止した。 ⑦卒業した教員の等級は、準訓導第 1等 第4 則、第 2章 教 場 規 則 、 第 3章 入 学 生 徒 心 等の 4等級に分けられ、各区からの支給月俸 得、第 4章 休 日 定 式 、 第 5章 教 場 拝 観 規 が異なり平均 6 ~ 10 円の間であった 。 ここに 則lJとなっている 。改正校則のうち、前章に も但書で、各区の都合で増減しても良いとさ 示した第 2章と第 5章は全く同じである 。第 れた。 4章の休日定式は、 4月 3日の神武天皇祭が 休日に加えられたり、 1月 1日より 1 0臼が休 日となった(以前は 5日まで)ことなど、 一 (2)滋賀県師範学校の教師と官立大阪師範学 校との関係 部変更があった。 第 1章の通則では、 「当大津町ニ於テ師範 滋賀県師範学校の基本的な教育内容は、授業 学校ヲ設立スル主意ハ管内限リ小学ノ師範タ 法の百日伝達講習におかれた。現職教員の速成 ル可キ生徒ヲ入学セシメ即チ其教則及教授ノ 的な養成が重要な任務となり、下等小学の教科 方法ヲ伝習スル所ナリ 書を使って授業ができる教員の養成を専ら行っ 故ニ生徒タ jレモノ勉 励精確以テ他日其実用ニ供センコ卜ヲ期ス 萄モ学ニ従事スルモノ宣ク此意ヲ体シ 他日 児童ノ規模タル可キ本旨ヲ失フベカラザ jレ ヲ 要ス」としている 。大きな改正点は、第 3章 たといえよう 。師範教育をさらに充実させ質的 な転換を図るためには、師範学校教員の拡充が 求められた。 師範学校への改称の翌日の、明治 8年 1 0月2 7 入学生徒心得の箇所である 。第 1条から第 8 日には、繁岡欽平が大津・明倫学校に転勤、代 条までの重要な改正点が網羅されており、次 わって前明倫学校の三等訓導尾嶋精六が赴任し 1 1 )。 のようになった ( た。 1 1月2 7日に柴田・大津・山崎の 3人が生徒 ①生徒の年齢は、 17歳以上 35歳以下。但 掛と事務掛兼任を辞退して、生徒掛専任となっ し、「学業優等ノモノハ此ノ限ニアラス」 た。 しかし、なお激務であったのか、翌 9年 1 とされた。 月1 3日に柴田孟教は、生徒掛を辞任した。同月 ②生徒は学費が自費であること、但書で「現 1 5日に山崎もこれに続く 。前彦根学校教員 3等 今募集ノ生徒各区教員ナレハ資金ハ該区ヨ 訓導の中川昌訓が転任してきたのは、 1 1月1 0日 リ支給スベシ になってからであった。 尤モ五円ヨリ少カラス八円 ヨリ多カラザルベシ」と書かれている 。 横関に加えて、官立大阪師範学校の卒業生の 新しい教員スタッフがこうした 表 7 滋賀県師範学校の準訓導月給表 誕生した。教官たちは、官立大 月 給 阪師範学校はじめ官立師範学校 正 額 金 10円 増 額 金 12円 減額 一等準訓導 二等準訓導 三等準訓導 四等準訓導 金 8円 8円 金 10円 金 7円 金 金 7円 金 6円 金 8円 金 7円 金 6円 金 5円 へ、新しい「授業法」を身につ けるために授業方法の見学に出 かけている 。 2 月 15~25 日に横 関昂蔵が大阪師範学校に出張し 4 9 j 滋賀県における小学校教員養成の成立過程 9 月 13 日 ~ 20 日に大阪師 師範学校の卒業生であった ( 1 3 ) 。学制期の教員養 範学校に出張し、 12月1O~ 19 日には愛知師範学 成の指導系統や教員派遣の面からみて、次のよ 校に出張している 。「大阪師範費ノ農業法ヲ更 うな教員養成機関の系統が見られた。 正スルヤ本校亦倣フ所アラント欲シ上請シテ春 官立東京師範学校 ている 。 尾嶋精六は、 秋両回往キ観ントス J(~ 大津師範学校第 1 年 報~) 、 ↓ 各府県の教員養成機関 地方の官立師範学校メ 滋賀県小学教員伝習所から滋賀師範学校にか けて、その教官となる人材は官立大阪師範学校 『大阪師範学校一覧~ (明治 1 0年)によれば、 卒業生で占められ、教則 ・教具・教科書や鹿業 同校の規則には「文部省所轄ノ学校二シテ小学 法においても大阪師範学校から大きな影響を受 訓導ヲ陶冶育成スルヲ主意トシ J( 第 1条)と けている 。大津町や八幡町や長浜町などの財力 して、本校と附属小学校の 2校を設置するとし ある小学校においても、競って訓導資格をもっ ている 。「師範生徒ヲシテ小学師範学科ヲ研究 た官立大阪師範学校卒業生を招聴したのである 。 セシムノレ所ナリ J( 第 2条)とあるように、小 ちなみに、明治 8年段階で官立師範学校卒業で 学訓導の陶冶育成と小学師範学科の研究および 0円の者 8人 、 1 3円 1人 、 1 2円 1人 訓導は月俸2 附属小学校での実地演習を基盤にした学校であ っ に対して、滋賀県の卒業資格を持つ準訓導は月 た。同校は、修業年限 2カ年(うち 1カ年半は 俸1 0円から 6円の問、資格を持たない教師は 7 師範学科の研究、残り 6カ月は附属校で実地授 円から 3円の間であった。 00 名、師範生徒は 1 8歳か 業)で、定員生徒は 2 ら3 5 歳までを受け入れ、 1カ月の学資金 6円を 官立大阪師範学校は、明治 5年 9月開校の東 支給するという学校であった凶。~文部省年報 京師範学校に次いで、翌年明治 6年 8月に創設 第 2 年報 ~ 第 5 年報~ ( 明治 7~ 10年)をみ され開校している 。同校は、第 3大学区の各府 ると、官立大阪師範学校の概要は、次のようで 県の中心の師範学校として設置されたのであっ ある問。 明治 7年-一一....教員 1 0人、生徒 た。文部省は、 7大学区に各 1校の官立師範学 校を設置する構想で、 6年 8月に大阪と宮城、 8 7人、卒 8人 業生徒 7年 2月に愛知・広島・長崎 ・新潟の 4つの師 範学校が、創設された。同年 3月には東京に女 子師範学校が設立され、合計 8校の官立師範学 校が開校した。 これらの官立学校は東京師範学 明治 8年...・・…教員 校と東京女子師範学校を除いて、西南戦争の財 明治 1 0年....唱一教員 1 0人、生徒 1 2 2人、卒業 政難を理由として明治1O~11年に閉校に追い込 2人 生徒4 まれていった。官立大阪師範学校も、明治1 1年 2月1 4日に廃校になっている ( 1 2 )0 官立師範学校とは別に、大阪府には明治 7年 5月に教員伝習所が設けられ、堺県には 7年 1 8人、生徒1 1 1人 、 卒業生徒5 5人 明治 9年 一 -一…教員 1 4人、生徒 1 0 6人、卒 9人 業生徒3 大阪師範学校の卒業生徒は 、明治 7年1 1月28 日の第 1次小学師範学科の 8名を皮切りに、明 治1 0年 7月 7日の第 1 0次の 26名まで、総計 1 4 4 人を数える 。明治 1 0 年の在学生は、 1級生3 6 人 、 月に河泉学校が設置されている 。堺県は 8年 1 2級生5 3人 、 3級生 1 3人 、 4級生2 0人の合計 1 2 月に堺県師範学校へと名称変更し、大阪府は 8 2人である 。西脇英逸によると、卒業生の出身 年 3月に大阪府師範学校へと改称している 。京 府県別に見ると、近畿 ・中国・四国 ・九州を中 都府においては、明治 7年 8月に京都府管内小 心にした各府県にまたがっており、「事実近畿 学校取締所に小学教員講習所が設けられ、翌 8 地方を中心として西日本における教員養成の中 年 2月に京都府教員仮講習所が設置されている 。 核J闘であったという 。堺2 9人を筆頭にして、 9年 5月に京都府師範学校に改称している 。 こ 3人、兵庫 1 6人、愛媛1 5人、大阪 ・石川の 岡山 2 うした各府県の授業法伝達講習所から師範学校 各1 4人、大分 ・和歌山 ・京都の各 1 3人、滋賀・ の教官の多くが、第 3大学区の本部の官立大阪 山口の各 1 2人、岐阜 5人、長崎・鹿児島の各 3 5 0 第 5 巻 第 1号 実践センタ一紀要 1 9 9 7 聴されている 。 人他となっている このうち第 1次卒業生徒からは、堺県山身布 滋賀県との関係では、これらの卒業生氏名を 施認が大阪府の教員伝習所へ、滋賀県出身機関 『滋賀県学事第 5 年報 ~ ( 明治 1 0年)の管内 品厳が滋賀県の教員伝子守所へ赴任している 。第 公学校表や『明治卜年 定期試験巡視功程』の 2次卒業生徒(明治 8年 3月1 8日卒業)からは、 教員氏名と照合すると、次の表 8のようになる 氏都府 1 1 ¥身 1 11 山親和1が点都府の仮講習所へ赴任 ( 問。実に、卒業生徒 1 4 4名中 2 3名 05.2%)が しているし、梶山熊太郎(弛うは奈良県訓導 滋賀県に就職している 。 0 年 7月に滋賀県の長浜講習学校に招 を経て、 1 表 8 滋賀県就職の大阪師範学校卒業生(明治 1 0年段階) 卒業 年月 U 1次 2次 明 7.11.28 3次 4次 5次 8.4.19 8.7.9 8.12.10 6次 8.3.18 9.4.6 氏 名 ( 所 属 校 ) 横│珂品政(滋賀県師範学校)柴田真太郎(大津逢坂学校) 荒木市太郎(神崎郡位田村至若'学校)西村 3臣(八幡阿学校) 甲斐治平(八幡東学校)梶山弛ー (長浜講押学校) 繁岡欽、I l : (大沖 明倫学校=鶴虫学校と改称、前滋賀県教員伝符所) 尾島精六(滋賀県師範学校)赤城康敬(神崎郡宮荘村憲草学校) 中川昌訓 I(滋賀県師範学校、前彦線芹水学校) 梶谷敬太郎(大津聞達学校) 浅井礁之助(滋賀郡堅田村順義学校)久保守之助(大沖日新学校) 阿部東作(小浜伝習学校)曽我部信雄(蒲生郡西大路村朝陽'芋校) 8次 9次 1 0次 南和(高島郡今津村時習学校) *小谷時中 ( 明1 2一大津師範学校) 9.7.12 I 佐藤元(彦根伝習学校)車刈均(彦板伝習学校) 上回伝(大津鶴里学校、後栗太郡繕村更始学校) 10.1.29 I 古川織人(坂田郡宮司村拡知学校、後長浜開知学校) 平野透(滋賀郡北浜村成章学校) 10.7.7 I加名生邦次郎 (甲賀郡石部村石部学校、後長浜開知学校) 0 年 9月の在学生徒 官立大阪師範学校の明治 1 県出身在で、滋賀県に就職したと確認できない で、のちに滋賀県下で就職したことが確認でき のは、山崎岩夫、木村徳太郎、江沢正太郎であ る者は、次の通りである 。『大阪師範学校一覧』 る。木村と江沢は、滋賀県に戻って就職した正 の刊行時点で 1級生であった野々村政也(明治 1 1年 2月より彦根伝習学校)、 2級生であった 木次章や林田他美厳と同じく、犬上郡第 8区の 正木次草(明治 12~17年愛知郡北花沢村成達学 1 校 へ 入 学 中 ノ お 届 犬 上 郡 第 8区 明 治 9年 1 校)、岩城良太郎(明治 1 1年より滋賀県師範学 月 9日」彦線市立図書館所蔵資料) 旧彦根藩の上族出身であった倒。 ( 1 官立師範学 校 、 1 4年より犬上郡鳥居本村広訓学校)、長瀬 1年より長浜講習学校、『東浅井 在喜雄(明治 1 郡誌』編纂)、 3級生であった林田他美蔵(明 (3)滋賀県師範学校の授業法伝習からの脱却 0 年 1~ 3月一 一明治 1 治 11~17年犬上郡平田村門達学校)、多々羅恕 平(滋賀県師範学校理化学専修科に移り、卒業 明治 1 0 年 1月 8日に、滋賀県師範学校は土屋 後明治 1 2 年より滋賀県師範学校)、 4級生であっ 政朝を、歴史並地理学教員兼師範学校副長一等 2年より大津修道学校、 1 5 年 た川添清知(明治 1 教諭に任命した。同日、瀬谷正二を理化学教員 弘道学校、 15~17 年八幡東学校)、梅本龍太郎 に任じた。 2月 7日には、官立新潟師範学校卒 (明治 1 2年より八幡東学校)など、 1 2 2名中に 業生の小林撰蔵を、 3等訓導として採用した。 8名を確かめることができる 。tE校生中の滋賀 3日には、小浜伝習所 1等訓導斎藤jJ蔵を 同月 1 滋賀県における小学校教員袋成の成立過程 滋賀県師範学校に転任させた。前年の明治 9年 5 1 師範学校に委任することにした。 これまでは、 8月2 1日に若狭国 3郡と越前国敦賀郡の 4郡が 明治 8年 9月2 7 1 1の「小学教員進退規則 J( 滋 滋賀県に編入されていたので、小浜伝習所も滋 1 :教員は「当県伝 賀県衛達甲第 236号)で、小 ' 賀県の管轄下になっていたからである 。斎厳は、 習所ニ於テ得業セシモノヲ月]ユ n Jキ筈」である 東京師範学校の明治 8年 6月卒業生であった。 が、現今の事情で「句読 ・習字 ・算術三科兼備 このように 1 0 年 1月から 3月にかけて、滋賀 ノモノハ勿論 仮令ー科タリトモ長ス jレ所アレ 県師範学校の教官スタッフの充実が図られた。 ハ其長ヲ取り之ヲ教員ニ充 l レハ妨ケナシトス 」 これは、下等小学の授業法伝習という現職教員 ( 第 1条)としていた 。ただし、教員雇人れの への講習会を中心とする速成的な教員長成から、 時は「必当県庁ニ於テ其モノ所長ノ学力を試験 小学校教育の研究を含めた教員養成への転換を シ 他日伝習所ニ入リ得業スベキ目的アレハ属 構想したものであった。 人レ聞届ケ 1 0 年 1月1 2日には、庁令において伝宵 J m間百 日の改革が打ち出された。改革内容の第 1は 、 珠算を必修にして教えること、第 2には百日伝 シJ( 第 2条)と定めていた。 したがって、小 学校教員になるには伝習所→師範学校の卒業指 習のうち 70日間は「小学読本、日本地誌略、万 J試験も実施 持っかで、あったが、師範学校で学 J 国地誌略、円本略史、万同史客ヲ修シ することとしたのであった。 算術ハ 纏ニ問則分数等ヲ修シ」、 3 0日間は「便業法ヲ 然、ラザレハ則チ之ヲ落第セシムベ 』を持っか、県庁の学刀試験合絡の上免許状を 1 0 年 3月に至り、このように滋賀県庁で学 ) J 伝胃Jすること、第 3には現実にあわせた試験 試験を行うことを廃止した。1" ヴ: J J試験ノ為二 1 9 ) 。 法の改革、などであった ( 度業ヲ拠テ庁ニ丹 jレハ これまで 「試験法ヲ以テ生徒学 J Jノ優劣ヲ定 メ共等級ヲ分チ生徒本来ノ学力以上ノ Sヲ教授 セシム」という現状があった。伝習生徒の募集 にあたって、人員を定めて学区に賦課し、授業 仮令灯,.L j 三回卜難モ 亦生徒ノ進歩二宮ナキ能ハザルヲ以テ 此年三 月遂ニ」廃止して、「之ヲ本校授業ノ余暇ニ執 行シ時日ヲ定メズ」とした。 3月1 2日には、卒業謹書を改正する }j向が出 法を知らない教員たちを伺いて、規定どおりの され、師範学校の卒業謹書を師範学科卒業と授 一定期間教授して、その後試験を行し、及統第を 業伝習卒業に分けることが決定した。百日伝押 判定するわけである 。入学時点で試験を行い、 の修学の上に、卒業試験に及第した者には師範 Jの無いものを除いてはいるものの、 あまりに学 J 学科卒業と認めて、卒業謹占を綬与することに 学力に優劣差異がかなりあったのである 。 当時 した。下等小学の教科書と授業法の伝習を受け は教場 3カ所があり、入学時期が異なる甲組と たおには本庁に上請して、授業法伝習卒業とす 乙組の 2組に分けられていた。学力試験だけで ることとしたのである 。そして、百円の授業法 先に入学した甲組から等級を分けて指導した後、 の伝達講習だけでなく、小学校教育の内容と刀 落第させるとさらに余分に修学させなければな 法を研究する、本栴的な小学校教員養成への道 らなくなる 。学区費と民怖を考えて、教授 }j法 が模索されることとなった。それは、師範学科 を変えて、物理の 一科を加えて、「勉テ生徒ノ の卒業要件を決定していくことであった。 この 進路ヲ開ク」こととしたのである 。 課題は、明治 1 0年 3月2 2日に改称した「滋賀県 『大津師範学校第 l年報』が「生徒学業進 歩ノ畏況」で、「学業ノ進歩ハ教員ノ良否ト授 業ノ巧拙ニ在リ 初メ本校教員ノ未タ整備セザ ノレヤ其教ユノレ処 下等小学ノ科書ニ過キズ縫 ノ (ワズカ)ニ筆珠ノ算及物理ヲ以テ之ニ加 jレ ミ」と Sくように、当時の卒業生の学力程度は、 下等小学の教科書の理解と筆算 ・ 珠算及び物理 を学べる程度であった。 2月26日に、滋賀県は小学教員の学力試験を 大津師範学校」になってから果たされることな るのである 。 5 2 第 5巻 第 1号 実践センタ一紀要 1 9 9 7 数は、近江国 1 2郡分では明治 8年 -882人 、 9 4 滋賀県師範学校の伝習生徒の実態 1, 1 5 5人 、 1 0 年一 1, 3 7 1人である。ちなみに 小学校数は、明治 8年一 6 3 7校 、 9年 6 8 3校 、 1 0 年 6 7 2校である 。6 0日伝習および 1 0 0日伝習 で滋賀県下の 5 8 6人の現職教員への授業法伝達 年 一滋賀県の明治 9年の教員像一 (1)滋賀県師範学校の百日伝習の等級別卒 業生数 を短期間で行ったことは、このような滋賀県下 百日伝習卒業生徒数は、表 9のようである O の実情を見ると、 一定の前進的な評価を加える 『滋賀県師範学校一覧Jl (明治 3 7年 1 2月)は、 ことができるのではないか 。 明治 9~ 1O年段階 明治 8年から明治 1 0 年の伝習科卒業生の全氏名 にあって、小学校教員のほぼ半数の者が下等小 を掲げている 。6 0日伝習生徒と 1 0 0日伝習生徒、 学の教科書理解と新しい授業方法を学んだこと ならびに大津師範学校の 1 8 0日伝習生徒を含め になり、県下のほぼ 1校あたり 1人の教員がと たものである位。。 にかくも、明治初期の新教育の洗礼を受けたこ 滋賀県師範学校における百日伝習の卒業生徒 ととなる 。 0 1号から始まる生徒で、 4 は、卒業謹書番号第 1 8 6名を数えるに至った 。滋賀県下の小学校教員 反面で、教員の質的な養成という点では、準 訓導等級で 1等から 4等までのランクのなかで、 表 9 滋賀県師範学校の百日伝習卒業生数 人 員 全科伝習 678級 準訓導等級 1等 2等 3等 4等 2 2人 2 8 8 4 2 2 1 7人 2 8人 2 5人 3人 3 4人 3 2人 3 5人 3 3人 4 3人 3 1人 1 3人 2 9人 2 5 4 6 7 15 3 6 5 6 1 7 2 8 2 5 4 2 1 9 1 4 9 1 2 6 1 4 1 1 5 6 1 0 1 2 1 2 5 8 5 3 4 3 2 3 5 3 1 4 3 3 1 l 1 1 2 5 1 4 1 7 1 8 6 1 6 1 1 1 3 2 9 2 4人 3 9人 6人 2 1人 2 2人 2 9人 2 5 3 9 5 9 1 8 2 2 8 4 6 2 3 2 0 4 1 1 5 1 3 1 3 6 6 2 1 2 0 2 8 2 1 4 8 6人 6 7 9 4 1 0 5 2 0 8 4 7 4 1 2 卒 業卒 明治 8年 1 2 3 4 5 6 7 8 9 1 0 1 1 1 2 1 3 1 4 1 5 1 6 1 7 1 8 1 9 1 2月 6日 明治 9年 1日 1月2 2月 1日 3月2 1日 3月3 0日 4月 1 9日 6月 4日 7月 9日 2日 8月2 1 0月 1日 1 1月 6日 1 2月 5日 1 2月2 0臼 明治 1 0 年 7日 1月1 2日 2月1 0日 3月1 3月 1 4日 5月 8日 6月 4日 合計 1 9回 2 9 3 2 2 6 2 3 業 滋賀県における小学校教員養成の成立過程 1等が 14.1%、 2等が 19.7%、 3等が22.4%、 4等が43.8%という割合である 。卒業試験にお いて 1~2 等級の学力ある教員は、まだ 3 分の l程度にとどまっていたといえる 。 (2)百日伝習卒業生徒の族籍 5 3 (29.4%)、平民 1 3 1人 (27%) となっている 。 なお、滋賀県管内の出身者は 454人で'93. 4 % 、 他府県者は 3 2人で6.6%となっている 。 さきにみた 6 0日伝習卒業生徒の 1 0 0人と百日 伝習卒業生徒の4 8 6人を合わせた 5 8 6人の族籍別 5 8人 (44%)、僧侶 1 6 3人 ( 2 7 . の分布は、士族2 8%) 、平民 165 人 (28.1%) である 。 明治 8~1 第 1回から第四回卒業生まで合計4 8 6人のうち、 0 年段階の滋賀県下の小学校教員は、士族出身 者が 45%を占めた。 この士籍比率は、他府県 表1 0のように士族 2 1 2人 (43.6%)、僧侶 1 4 3人 の分布と較べても平均的な傾向である似) 。 滋賀県師範学校の百日伝習卒業生徒の族籍は、 表1 0滋賀県師範学校の百日伝習卒業生の族籍 士 滋賀県 僧 方 矢 他管 呂 イ 平 滋賀県 他管 滋賀県 6人 1人 4人 明治 8年 1 2 3 4 5 6 7 8 9 1 0 1 1 1 2 1 3 1 4 1 5 1 6 1 7 1 8 1 9 1 2月 6日 明治 9年 1月2 1日 2月 1日 3月2 1日 0日 3月3 9日 4月1 6月 4日 7月 9日 2日 8月2 1 0月 1日 1 1月 6日 1 2月 5日 0日 1 2月2 明治 10年 1月 1 7日 2日 2月1 0日 3月 1 4日 3月1 5月 8日 6月 4日 、計 辺 口 19 回 1 0人 1 4 1 1 1 3 1 0 1 0 1 5 8 1 6 5 7 1 0 2 3 1 7 6 4 8 1 2 1人 3 1 3 1 1 1 0 3 2 1 4 8 1 1 1 5 1 1 1 2 2 9 1 7 1 2 5 8 4 1 1 2 1 1 3 1 9 9 <212人 > (3)百日伝習卒業生の年齢分布と滋賀県の 郡別分布 1 6 6 1 1 0 1 2 7 1 0 1 3 1 2 4 l 9 1 1 1 1 2 7 1 6 <143人 > 1 13 1 2 5 3 1 2 8 <131人 > の年齢分布を知る資料がある 。『明治九年自五 月 履歴書 j (内容から『九年生徒履歴書綴』 とする)と『明治十年卒業証書附与録』である 明治 9年から 1 0 年にかけて、百日伝習卒業生 凶。 54 第 5巻 実践センタ一紀要 第 1号 1 9 9 7 Ai (朱筆)明治九年五月 表1 1には、明治 9年と 1 0 年の卒業生徒 1 4 8人 廿三 日 第一教 場 生 履 歴 書 上 正 副 舎 長 第 の年齢別分布を示した。 1 9 歳以下の現職教員が 『九年履歴書』は、 甲組履 3 9人 (26.3%)、2 0 歳代が 7 6人 ( 51 .3%)、3 0 歳 歴書上正副舎長第五号」、 C i (朱筆)明治 代が 2 5人 ( 16.9%) であった。明治初年のこの 四号」、 B i( 朱筆)明治九年七月四日 九年五月 一 日 第て教 場 生 徒 履 歴 書 上 正 副 時期には、 2 0 代や 1 0 代の教師が77.6%を占めて、 第六号」の 3冊からなる『九年生徒履歴 圧倒的に多かったのである 。小学校教育の新し 舎長 書綴』である 。『明治十年 卒業謹書附与録』 い教授法を習得して、新しい教育内容を教え、 2 1号から第5 6 8号ま からは、卒業謹書番号の第5 子どもや地域社会の親たちに近代社会へ果たす でと番外の生徒の氏名、住所、族籍、生年月日 小学校の意義を説き続ける役割を若い教師たち がわかる 。 が担っていった。 『九年生徒履歴書綴』中の資料は、明治 9年 『九年生徒履歴書』中で最も年少の伝習生徒 6月 4日卒業生3 2 人 (C資料の第 2教場生3 3人 ) 、 7月 9日卒業生 3 5人 (B資料の甲組 3 5人)、 8 月2 2円卒業生3 1人 (A資料の第 1教場生3 0人) であり、最も高齢の生徒は、 4 1歳 5カ月の久松 に該当する 。 B資料と C資料に同一人物が見ら 録』中の最も若い生徒は、明治 1 0 年 6月現在で A十 B+Cの総人数は97人である 。 3つの時期の卒業生人数が、 9 8人である理由は 不明である 。『明治十年卒業謹書附与録』は、 1 0年 5月 8日卒業生 2 0人と 6月 4日卒業生 2 8人 と番外卒業生 3人の計 51人が該当する 。 1 1歳 1 1カ月の内山錬太であり、最高齢の生徒は、 7 歳 6カ月の池田恒一郎であった。 同 5月現在で4 れるので、 之L- τ : ハ ノ . r ・- は 、 1 4 歳 7カ月の富田信嘉(大津修道学校在勤) 茂(弘意学校在勤)であった。『卒業証書附与 明治 10年 5 ~ 6 月の卒業生徒を見ると、 19歳以 下の 1 0 代の生徒が非常に増加することと、 4 0 歳 以上の者が生徒になっており、 2 0 代から 3 0 代半 問、 ¥y; ノ 月 . / ' . ・ ー 、 ,, , e 、 、 1 ふ , f 4-11・ H 法?校長プ J 手 D' 3 ¥/ 、 ヘ ‘ (i.'C,"¥ 〆 • . 41,、 J 十 j1 氏〆 ~o ベ 5 5 滋賀県における小学校教民養成の成立過程 ‘ . ~ ; , , Jl 、 ブ d 表1 1 明治 9~10年百日伝習卒業生の年齢分布 明治 9 年 6~8 月 明治 10年 5~6 月 卒業生9 7 名 『九年生徒履歴主』 卒業生5 1名 『卒業証書附与録』 19歳 以 下 20~ 24歳 25~ 29歳 30~ 34歳 35~ 39歳 40~ 49歳 50歳 以 上 1 8人 3 5 2 0 1 3 8 2 2 1人 1 1 1 0 4 5 3 9 人 4 6 3 0 1 7 8 7 O O O 不 1 明 O 合計 1 4 8 名 1 ばまでのおが減少してきていることが目立つ。 が、甲賀郡は旧水口藩士族が、それぞれ小学校 百口伝習の卒業生徒の滋賀県下の郡別分布を、 教員の道を求めたからである 。 高島郡では旧大 表1 2で見てし吋 。犬上郡が 3 3人と多いのが目を 溝藩士族が、蒲生郡では西大路務土族が、同様 引く 。 これは 2 2.3%の高率であり、次の甲賀郡 のコースであろう 。 18人や滋賀郡 17人の 11~12% をはるかに引き離 している 。続いて、高島郡と野洲郡の 1 1人、蒲 生郡と伊香郡の 1 0 人となっている 。犬上郡は、 旧彦根務士族が多く教員をめざしたからであり、 比率が高くなっている 。滋賀郡は旧膳所藩士族 5 6 表1 2 明治 9~ 1O年 百日伝習生の出身郡別分布 明治 9 年 6~8 月 明治 10年 5 ~ 6 月 卒業生9 7名 『九年生徒履歴苫』 卒業生5 1名 『卒業証書附与録』 5人 4 1 5 2 1 1 4 1 1人 1 7 8 1 8 1 1 1 0 1 7 1 5 5 2 3 3 3 3 7 9 島 郡 滋 賀 郡 栗 太 f f s 甲 賀 郡 野 洲 初i 精 生 郡 6人 1 3 7 1 3 9 9 神 崎 甜i O 愛 女 : f J 都 犬 上 郡 坂 田 割i 品 1 9 9 7 第 5巻 第 l号 実践センタ一紀要 浅 井 甜l 伊 香 郡 3 1 8 2 7 7 他 府 県 3 明治 8年 6月から 1 0月までの 60日伝習生の出 合計 1 4 8 名 1 0 6 (4)明治 9年伝習卒業生徒の学習歴 身郡別分布において、 1 0 0人中で犬上郡2 3人 、 滋賀郡 1 2人、栗太郡と精生郡 1 0人、坂田郡と高 『九年生徒履歴書綴』は、上で見たように A 島郡 9人の順となっていた。百 日伝習卒業生の 資料「五月廿三 日 第一教 場 生 履 歴 3上 」 、 郡別分布との違いは、栗太郡や坂田郡の比率が B資料「七月四日 甲組履歴書上」、 C資 料 高いことであり、早い時期からこれらの郡は教 「五月 一 口 第二教 場 生 徒 履 歴 書 上 の 3冊か 員伝習に熱心であったことを窺わせるものであ ら成るものである 。 この 3資料から、当時の伝 る。犬上郡出身者の伝習生徒は、ほぼ旧彦根藩 習卒業生徒の学習歴が明らかになり、明治 9年 上族であると推測される 。 の時期の教員の学習経験を知ることができる 。 最初に A~C 資料のうち典型的な履歴事項の 書式を掲げて見る 。 履歴書 滋賀県士族 犬上郡第八区芹橋卜一町目 横関幾次郎 当五月 十八年一ヶ月 私儀明治二年ヨリ滋賀県士族旧彦根繕川瀬益ニ従ヒ同四年四月迄支那学筆道修行仕 明治四年二月ヨリ右岡県士族同藩山本大造ニ従ヒ同六年二月迄支那学修行仕 明治五年一月ヨリ右岡県士族右同藩青木弥太郎ニ従ヒ同八年二月迄算術修行仕 伝後明治八年九月ヨリ第十一番中学区内昌業学校エ在勤罷在候 右之通御座候也 明治九年五月 二 十三 日 横関幾次郎 滋賀県師範学校御中 5 7 滋賀県における小学校教員養成の成立過程 この書式にあるように、 1人の伝習生徒が自 伝習生徒が、いかなる学習経歴をもっていたの 分の学んだ何人もの教師を書くこともあるし、 かについて、どのような場所で、どのような人 旧彦根藩校弘道館や旧大溝藩校とだけ古くこと 物に学んできたのかの一覧を示す。学校別・旧 もある。僧侶ならば、師匠である僧侶名や寺名 溝上及び学名の私塾・寺院・県外の区分をして を書くこともあるし、私塾であればただ塾の地 いる。 1人の生徒に重複があるので、数字は 9 8 名と師匠名が苫かれている場合もある。 1人ひ 人を超えている 。表 1 4には、各種の教育機関で とりの教員になる前の学習歴には、大変興味深 学んだ伝修生徒たちの学習内容を示す。 いものがある。表 13 には、 A~C 資料の97名の 3 明治 9年 6月卒業伝習生徒の学習した教育機関・教員 表1 1 県内 1 ∞人 (旧藩校 9人 旧彦根藩弘道館 -5人、旧大溝藩学校 -3人、旧膳所藩学校 -1人 4人 (洋学校 欧学校及服部勤(大津) - 2人、犬上県洋学校及天方道為・英学 2人 17人 (寺院 伊香郡洞寿院 -3人、蒲生郡易行寺 -2人、伊香郡一藤井覚眼 -2人 滋賀郡東光寺、同園城寺、甲賀郡永仙寺、同神田岡端、同佐々木探道、原田慈賢 蒲生郡光寿寺浄誉、同福田遠照、栗太郡従縁寺、浅井郡竺透禅一各 1人 ( 1 日藩士私塾 4 9人 <旧彦根務土>山本大造 -5人、)1瀬益・田中芹波・棚橋甚八郎・原勇・光田進業・ 高木源太郎一 各 2人、青木弥太郎・大音龍太郎・贋瀬清琶・外村省吾・谷鉄臣・岡本黄石・松本慶蔵・塚原 小左衛門・中島次三良・伴文二郎・熊谷祐吉良一各 1人 <旧膳所藩士>黒田行元一 3人、横田里次 ・松浦重文 一各 1人 <旧水口藩土>中村栗園 -4人、吉原新左衛門・神谷享 ・巌谷修・岩谷立的 ・岳九儀 一各 <旧大溝藩士>西川文仲 -3人、伊藤連八・岡崎三達・康瀬慎一郎 <旧西大路藩土>佐野玄庵 1人 各 1人 1人 5人 (学者の私塾 栗太郡北川舜治 -3人、甲賀郡森川左倣 -2人 (小学校 4人 坂田郡誠良学校南部竹雄 (その他 2人、大津修道学校市川美誠・甲賀郡善誘学校高谷柳台一各 1人 12人 坂田郡青木ト庵・北村源蔵、蒲生郡西川周造・河原右門・菊井元章、伊香郡東野雲耀・胞南岳、野 洲郡果香英、神崎郡伊庭玄道、愛知郡細井薫、浅井郡中山補宗、滋賀郡上原甚太良一各 l人 2 県外 36人 (旧藩校)石川県一 1人 (寺院 6人 京都相国寺 -1人、岡本願寺学林 -2人、愛知県 -2人、敦賀県 (洋学 1人 1人 京都府療病院医者欧州人ユンケルー 1人 (個人の私塾 2 9 人 東京府 -8人、京都府-11人、三重県 -3人、山円、若松、千葉、静岡、大分、敦賀、新川県 各 1人 5 8 第 5 巻 第 1号 実践センタ一紀要 表1 4 伝習卒業生徒の学習内容 B資料 C資料 A資料 明1 0 . 5 . 1 1 0 . 5 . 2 3 1 0 . 7. 4 名な儒学者中村栗園の名前があがっている 仰)。 合計 第 2に、僧侶を兼ねる教員たちが学んだ 場所は、滋賀県内の寺院や僧侶名を挙げる <漢学> 支那学 3 5人 <皇学> <宅道> 4 <算術> 洋算 1 和 算 1 3 2人 1 3 医学 4 2人 1 3 5 1 2 1 1 <洋学> 英学 1 9 9 7 1 2 精密学 1 <禅学> 4 4人 4 2人 6 0人 ものが 1 7人で、県外の寺院や僧侶名が 6人 1 0 9人 1 2 0 1 6 1 3 3 1 1 と他府県で、学んだ者の割合が高いのが目を ヲ │ く 。京都にある本山や地方の大寺院に修 行に行って教育をうける機会を得たことが わかる 。学習内容では、これも圧倒的に漢 学の教養であり、筆道がこれにつぐ 。算術 も挙げられるが、和算がほとんどであった。 第 3は、洋学の教育として英学や英語学 を、大津の欧学校や彦根の犬上県洋学校で 学んで、その名前を挙げるものもわずかに いた。外には、医学や精密学が各 1人いる 1 4 6人 ぐらいである 。 また、 1 0代の若い教員たち は、小学校を教育機関として挙げた。 上の表2 3から、明治 9年の小学校教員の特徴 2 0 歳 6カ月)の履歴事項は、明治 贋瀬俊斎 ( として、次のような点をあげることができる 。 2 年 3 月 ~4 年 12月に大分県下で康瀬音村によ 第 1に、旧藩校・旧藩士による私塾で教育を り漢学(支那学)を、 6 年 8 月 ~8 年 10 月に 受けた者が最も多い。士族出身の者は、こうし 「当県欧学校ニ於テ英学修行仕候」とある恒)。 た傾向にあることはまちがいない。学習内容と 最も弱年の富田信嘉(14歳 7カ月)の履歴は、 しては、旧藩校や旧藩士の私塾では漢学(支那 「明治 7年 2月ヨリ同 1 2月迄滋賀県下市川美誠 学)が圧倒的に多く、当時の教養の中核部分で ニ従ヒ支那学ヲ修行ス井ニ岡県下服部勤ニ従ヒ あることがわかる 。次いで、筆道(習字)や算 洋算ヲ修行ス同 8年 2月ヨリ同 5月迄岡県伝習 術が挙げられている 。 所附属小学校ニ入学ス同年 1 0月ヨリ第 9番中学 旧藩校のなかでは、彦根藩校弘道館で学習し 区内修道学校エ在勤龍在候」である。 た者や弘道館教授や塾頭クラスの旧藩士から教 えを受けた者が 一番多し、。『彦根 旧記集成』の「藩庁職名 一覧」に よると、山本大造は弘道館素読役・ 文学教授兼塾頭であったし、原勇 滋 ¥ ? ? ー 後 竿コ事 は教頭皇学で、田中芹波は副教頭 詩文で弘道館の重役であった。川 瀬益と松本慶蔵は習字の助教、青 木弥太郎は算術の助教であった 。 明治元年の務政改革後、彦線藩庁 の最上層落士から教えを受けた生 7 表 キ必 徒もいた。大参事の谷鉄臣、権小 参事の外村省吾 ・大音龍太郎の名 倍 を挙げる者もいた仰) 。他落の伝習 生徒が学んだ人物として、旧膳所 議士では黒田行元や、旧大溝藩士 の西川文仲や、旧水口藩士では高 ぶ丘 、 i 民 l : 1 交 司 5 9 滋賀県における小学校教員養成の成立過程 (5) ,伝習生徒の勤務開始年月と在勤年数、 0 校 、 た。小学校数の変遷をみると、明治 6年一 8 7年 一2 9 2校 、 8年 637 校 、 9年 -8 4 8 校となっ 郡別在籍学校 ていく 。表 15-Ci渇から明治 8年という年が、 百日伝習卒業生徒たちの履歴事項から、勤務 小学校の量的な拡大の年であることがわかる 。 開始の年月日と在勤年数をつかむことができる 。 伝習生徒たちのうちの 52.6%の5 1人が、 8年中 さらに郡別の在籍学校分布を見ておこう 。表 1 5 に就職した者である 。 また、彼らの在勤年数は、 と表 1 6のなかの不明 1 3名のうちには、全く就職 7人で6 9 最長の者で 3年間で、 1年以内の右が6 6 歳2 の未経験者の 6名を含んでいる 。つまり 1 %に達する高率で、ある 。 明治 9年 6-8月段附 人 、 1 7歳 1人 、 1 8 歳 2人 、 1 9 歳 1人である 。 にあっては、小学校教員の経験年数は僅かなも 明治 6年 2月 8日の「立校方法概略」以来、 滋賀県下の小学校は急速に設立され開校してき 表1 5一① 百日伝習生の勤務開始時期 明治 6 年 1~6 月 7~12 月 7 年 1~6 月 7~12 月 8 年 1~6 月 7~12月 9 年 1~6 月 不明 2人 2 8 6 10 41 15 13 ので、年齢も 2 0 歳代前半から 1 0 代の若い教員が きわめて多かったといわねばならない。 5一② 表1 滋賀県の教員数 明治 6年 7年 8年 9年 1 0 年 194人 468人 882人 1394人 1638人 97人 表 16一① 盲目伝習生の勤務年数 3年 2年 6~ 11カ月 2 年 ~2 年 5 カ月 1年 6~ 11カ月 1 年 ~1 年 5 カ月 6 カ月~ 11カ月 1 カ月 ~5 カ月 不明 1人 3 7 6 11 36 20 13 97人 5 .小 括 明治 8年 6月 1日に開校した滋賀県小学教員 《長期在勤者》 3年在勤者一西村鍋三 (犬上鳥居本村康訓学校) (明 6.5~9.4) 2 4 歳 2年 1 1カ月一富田稔(犬上・川相村捷径学校) (明 6.6~9 .4) 2 5歳 5カ月 2年 8カ月一坂上宗詮(甲賀・北土山村成道学校) (明 6.9~9.5) 3 4 歳1 カ月 2年 6カ月一和田泰輔(滋賀・維琴村調岳学校) (明 6.11~9.5) 3 8歳 1 0カ月 書の内容理解と授業法の伝習が中心であった。 そこでは、教員スタッフの不ト分さ、伝習生徒 伝習所は、前史として 8年 1月の大津仮教員伝 の学力問題、教科書 ・教材の不足、卒業試験法 習所から発展したものであり、同年 1 0月2 6日に や学力試験の問題など、明治初期の教員養成に 滋賀県師範学校へと名称を変更して、受け継が とっては問題が山積していた。 れていった。大津仮教員伝習所→滋賀県小学教 『文部省第 3 年報~ (明治 8年)の「督学 員伝習所→滋賀県師範学校へと展開した、滋賀 局年報」に第三大学区巡視功程があり、滋賀県 県の小学校教員養成の歩みは、下等小学の教科 の小学校と教員の実情に関して、 「諸学校ニ於 60 実践センタ一紀要 1 9 9 7 第 5巻 第 1号 注 テハ各穐ノ教授ヲナシ更ニ同一 ノ法アルコトナ シ 明治七年ノ秋ニ吋リ 一定ノ教則ヲ制シ管内 ニ頒布セシカ 科目高尚ニ過キテ児童ノ脳力ニ 適セス且教 μモ亦教鹿ノ方法ニ通セザルノミナ ラズ 一人ニシテ一 二 科ノ業ヲ兼ヌ/レ者ナシ 故 (1)拙稿「明治 6-1 0 年の滋賀県の小学校設 立 ・開校 一滋賀県における明治初期の教育 r滋賀大学教育学部教育 史 資 料 (5)一 J( 実践センタ 一紀要 パイデイア』第 4巻第 n己ノ意見ヲ以テ 一種適宜ノ教育ヲナスニ至 1号 1 9 9 6 年 3月)大津市中における小学 レリ Jと述べている 。 当時の滋賀県下の現職教 校の設立状況については、『滋賀県滋賀郡 員は、漢学・筆道・和算などの古い教養を身に 第三学区高等尋常大津小学校沿革史 ニ 上編』 つけただけで、しかも個別的で不統ー な小学校 4<1 8 9 1>年)に依拠した。『同沿 (明治 2 の教授法しか行っていなかった。 このような教 革史上 ・下編』は、大津中央小学校所蔵資 員各自の「適宜ノ教育」を改めて、近代的学校 料である 。戦前の『大津市史 制度の要件としての統一的な教鹿内容と授業方 志(昭和 1 7 年< 1942>)は 、ほぼ同資料に 法を身につけさせる必要があった。 明治 8年か 依拠している 。又、大津市逢坂小学校所蔵 ら 9年にかけて、短期間の聞に 6 0日伝習、 1 0 0 0 年沿革史』およ の『自明治 6年至明治3 中巻』教育 r l伝習の速成的な現職教育がなされたのは、こ び 長 等 小 学 校 所 蔵 の 『 学 校 沿 革 史 第一 ・ のような緊急の課題に答えるためであった。近 二 ・三編』も、同資料に全面的に依拠して 代化の初期の教員養成法として、速成的な現職 いる 。特に長等小沿革史の記述には、同 ー j式であったのは、致し万な 教育中心の講宵会 } 箇所が多く見られる 。 かったというべきであろう 。 しかしながら、近代的な欧米教育の導入を図 (2 ) r 滋賀県大津師範学校第 1 年報~ (明治 1 0年) I 立校以来ノ沿革 J 5- 6頁 1 .r 滋賀県師 り、小学校において翻訳教科 Sで西洋近代の自 滋賀県師範学校史として、 然科学や地理・歴史を学ばせようとすると、専 範学校 一 覧~ (明治 3 7年 <1 9 0 4>)、 門的な学科専門の知識は不可欠であった。授業 法の習得の以前に、各学科の学問的体系と段階 を踏まえた知識の確実な理解が、小学校教員に 求められていたのである 。 他万で、 「哲学局年報」が「県庁ハ今後数名 ノ教員ヲ牌シ教場ヲ新建シテ規模ヲ更張シ急ニ 背及ノ方法ヲ設ケントス」と書いたように、明 治1 0年に入って小学校教員養成に関して、小学 校教育内界の研究や幅広い教育のあり方を研究 していく方針が採用されていった。 明治 1 0 年1 月の上屋政朝の着任後、 1月から 3月に髄賀県 師範学校末期に 一連の改革がなされた。大幅な 組織改革は、 3月2 2日の「大津師範学校」への 転換後になって行われ、師範学科(2年)と伝 習学科 ( 6カ月)の二科が設置されてし、く 。授 業法伝習中心から師範学科の専門的教養教育へ 2. 『滋賀県師範学校沿草署史~ (昭和 1 0 年< 1 9 3 5 >)がある。 (3) r 滋賀県史 I 大津師範学 二編 二 十六~ 校 」 、 復 刻 版 が 『 府 県 資 料 教 育 第1 4 巻滋 賀県』として刊行。 (4) I 明治 8年 5月2 9日 小学伝習学校沿革」 (r滋賀県史二編二十六~ ) (5) I 舎則滋賀県小学教員伝習所明治八 r明治十年 年五月二十九日 J( 諸達規則 大津師範学校~) (6 ) r滋賀県大津師範学校第 1 年報~ 6頁、 及び『文部省年報第 3~5 年報~ (明治 8 ~ 10年 ) I 滋賀県年報教員養成ノ法」 (7)r 白第一学年至第六学年 沿革一覧~ (明治 東京師範学校 13年) 倉沢剛『小学校の歴史 1~ (ジャパンライ 小学校教員の長成方式の比重が置き換えられて ブラリービューロ- 1 9 6 3 年)I 第 5章 いくこととなるのであった。 小学校の教員養成政策の発足過程 J5 6 6 頁。 並河尚鑑は、明治 8年 3月卒業後するや、 八幡東学校に招聴された。 同校で同年 5月 0月 ま で 首 座 教 員 と し て 在 勤 から 9年 1 ( r八 幡 尋 常 高 等 小 学 校 沿 革 誌 第 壱 6 1 滋賀県における小学校教員養成の成立過程 から「該校在勤以来段々勉励随テ生徒進歩 編~) ( 8 ) ~明治八年六月一日 伝習所卒業誼 3授 1番 与録学校専務~ (卒業謹書番号第 している 。 ( r山本大造・仙蔵・銀蔵・鉄蔵教育関係 ∞番) から第 1 (9) ~ 候段神妙之儀ニ付誉置候事」の褒状を受領 ~滋賀新聞』第 138 号(明治 8 年 9 月 18 文占」近江八幡市立図 S館所蔵資料) 日)には、謹書第 1番柴田孟教から第6 8 番 ( 1 1 )r 明治八年卜一月改正校則 滋賀県師 江添佐までの 68名を掲載。『滋賀県師範 範学校 J 明治八年十一月改正 舎則滋 学校一覧~ (明治 3 7年)は、巻末に伝習生 賀県師範学校 J(~明治 10年白 1 月至 6 月 徒の全氏名を掲載。『大津師範学校 第1 年報』は、伝習生徒一覧表を載せている 。 r r 諸規則留第 一 大津師範学校~ ) ( 12 ) 国立教育研究所『円本近代教育百年史 ( 1 0 ) ~文部省第 3 年報~ (明治 8年) 替学 3 学校教育(1H ( 19 7 4 年該判箇所は 局年報」の「第三大学区巡視功程滋賀県」 篠田弘執筆) 864~925 頁、篠田弘・子塚武 に、「第 10中学区蒲生郡八幡町第 5区第 6区ニ設立セル 2小学校ト第 1 1中学区神崎 郡山本村ニ設立セル学校ハ器械書籍ノ類モ 他ノ諸学校ノ如キニ非ス 殊二八幡第 6区 ノ学校ハ 1人ノ幼年教員アリ同人ハ奈良県 第 5巻教員養成の歴史』 ( 1 9 7 9 年 第 1法規) 3~44頁 ( 1 3 ) ~大阪府教育行年史 第 1 巻概説編~ ( 1 9 7 3 年) ~同第 2 編史料編 (1 H( 19 7 1年 ) 、 『京都府小学三卜年史~ (明治 3 5年 <1902 彦『学校の歴史 ノ伝習学校ニ於テ教展ノ方法ヲ伝習セシ人 >復刻版)、『京都教育大学附属京都小学校 ニシテ教場端正児童温和ニシテ師範学校ノ 百年誌~ ( 19 8 1年)、『京都府百年の年表 以テ巨曹トナサントス」と、第 5区八幡西 教育編~ ( 1 9 7 0 年) ( 1 4 ) ~明治卜年改正 大阪師範学校 一覧~ ( 明 治 10年)。宵立大阪師範学校の研究とし 学校と第 6区八幡東学校を明治 8年段附で、 て、橋本(山下)美保「官立大阪師範学校に 附属小学ヲ視 jレニ殊ナラス 故ニ予ハ現時 人民ノ公立セル諸学校中ニ於テ此ノ学校ヲ 県内で進んだ学校と中督学品山義成は評価 おける小学教則の編成とその普及 J(~東京 している 。 学 芸 大 学 紀 要 第 1部 門 第 4 3 集~ 1 9 9 2 たしかに八幡東学校は、官立東京師範学 年)がある 。山下は、官立師範学校の小学 校卒業生並河尚鑑、官立大阪師範学校卒業 カリキュラム編成と地点の小学教則との関 生甲斐治平など教員層は充実していた。並 係を中心に研究している 。官立愛知師範学 河や甲斐を招聴する以前の同校の教師は、 校に関して、「大学区における小学教則普 明治 6年 4月の開校当初から、元彦根藩校 及に果たした官立師範学校の役割 J (中国 弘道館塾頭山本大造を句読教師に、同助教 』 四国教育学会『教育学研究紀要第 34集 の青木弥太郎を算術教師らであった。 1 9 8 9年) r 学 制 後 期 第 二 大学区における 山本仙蔵は大造の長男であり、大津欧学 校で英学を学び、 7年 7月に「英学第 4等 1月2 2 試験謹」を授与されている 。 7年 1 日に八幡東学校の「句読教授免許候事」 『口暖』科の成立と普及 J(~広島大学大学 院教育額研究科博上謀程論文集第 1 4集』 1 9 8 8 年)の 2論文があり、興味深い視点を 提起している 。 「助講免許候事」の 2通の占状を滋賀県か 官立宮城師範学校の研究としては、水原 ら受けて、同校の教師として勤務した 。山 克敏「大学区師範学校における教員養成教 本は八幡東学校で在勤しながら、並河に指 育の模索 J (東北大学教育学部『研究集録 導を受けて、伝習所の卒業讃書を 8年 9月 年 4月2 0日まで同校に助教として勤務した。 1 9 7 9年) r 明治前期教育行政に 果たした師範学校の役割 J(向上『同 第1 1 号~ 1 9 8 0 年)がある 。 ( 1 5 ) ~文部省年報第 2~ 第 5 年報~ ( 明 その間 9年 7月 6日には、県令龍手田安定 治 7~ 1O年) 26日に授与されている 。同月 2 8日に、滋賀 3 県から「補三等準訓導」の辞令を受け、 1 第 10号~ 6 2 第 5巻 第 1号 実践センタ一紀要 1 9 9 7 ( 1 6 ) 西脇英逸「明治初等教育の研究一大阪に イツ語・フランス語を学ぶ。維新前後に帰 おける教員養成機関の成立過程一 J ( W大阪 藩、藩校遵義堂督学となり、洋学・漢学を 教 育 大 学 紀 要 第1 9 巻 第 W部門I J1 9 7 0年) 教授する 。 ロビンソン ・クルーソー漂流記 11~20 頁。 の最初の翻訳で知られる 。主訳書『万国商 ( 1 7 )W 滋 賀 県 学 事 第 5~12年報JI (明治1O~ 1 7 年)、『明治十年九月 定期試験巡視功程 第 1~ 第 6 冊JI (明治 1 0 年) 広瀬淡窓、帆足愚亭の門下生となる 。大阪 ( 18 )1 官立師範学校へ入学中ノ者届 に出て福沢諭吉の父百助の家に寄寓して、 犬上郡 売往来』。明治2 5年 <1892>12月没、 6 6 歳 。 中村栗園は、大分県中津の商家に生まれ、 明治九年卜一 月九日 J(彦根市立 漢学者斎藤拙堂・篠崎小竹らと交流。水口 図苫館所蔵資料)第 8区区長より学区取締 藩儒学者中村介石の養子となり、藩校翼輪 第八区 外村省吾宛の文書。 明治 9年大阪師範学校 堂の f 語学教官となる 。 主 著 『 孝 経一得』 への入学者一木村徳太郎、正木口夫、守矢 『栗園文紗』。 明治 1 6 年 <1883>12 月没、 7 6 正則、江沢正太郎、林田他美蔵の 5名 、 8 歳。福沢諭吉『福翁自伝』には、水口宿を 年入学者一古川織人、 9年東京師範学校入 通るたびに中村栗園の名を登場させている。 校者一小林義則の合計 7名が挙がっている 。 (滋賀県教育会編『近江人物史I J1 9 1 7年な ( 1 9 ) W大 津 師 範 学 校 第 1年 報I J 8~9 頁、 『明治十年中 本校達及通知留 大津師範 ど) ( 2 5 ) 大津欧学校は、明治 5年から 7年までの 学校I J1 珠算教授之達J( 明1 0. 1 .1 2 )1 生徒 聞の洋学校であった。拙稿「大津欧学校の 1 0 .1 .1 2 ) 授業之達 J( 教育一滋賀県における中等教育の開始一 」 2月 6日 ( 2 0 ) 百日伝習生徒の最初の明治 8年 1 卒業生の 2 2名は、『滋賀新聞』第 1 4 7号(明 治 8年 1 2月1 6日)に試験成績、等級、氏名、 年齢、住所、族籍が渇載された。 ( 2 1 ) 海後宗臣は、青森 ・宮城 ・秋田 ・島根・ 三重 ・愛知 ・静岡 ・足柄 ・群馬の 9県につ いて、県庁文書を調査し、学制期の教員 2, 4 2 2人中の 1, 1 6 1人 ( 4 7. 9%) が士族であっ たと算出している(海後宗臣『明治初年の 教育』評論社 1 9 8 3 年 1 8 6頁)。 生馬寛信は、佐賀県の教員実態を分析し、 明治 1 0年で士族比率が7 1%と報告し、他府 県平均より高い県であるとしている ( 1佐 賀県における小学教員の形成」井上久雄編 『明治維新教育史』吉川弘文館 1 9 8 4 年)。 ( 2 2 ) 明治初期の教員履歴の分析では、仲新ほ か「東海地方における近代学校の発達」 ( W名占屋大学教育学部紀要 第1 0巻I J1 9 6 3 年)が参考になる 。 ( 2 3 )1 彦根藩職員録 一覧 明治元年調 J1 溶庁職名 明治 4年 廃 藩 迄 J(彦根史談会『彦 根旧記集成I J1960年) 33~44頁。 ( 2 4 ) 黒田行元は、旧膳所藩士族で藩校で漢学 を学ぶ。のち緒方洪庵の適塾に入門、さら に江戸に出て蕃所取調所に出仕し英語 ・ド (畑中誠治教授退官記念論集『近江歴史・~ 古論集I J1996 年 3月)
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