第三章 ディズニーランド研修 ﹁不安﹂ から ﹁確信﹂ へ

第三章 ディズニーランド研修
﹁不安﹂から﹁確信﹂へ
1 ﹁九人の侍﹂のオリジナル・ナインの称号
ディズニー社との最終契約を経て、融資にも目途がつき、東京ディズニーランドの建設が
軌道にのった一九八〇年︵昭和五十五年︶一月、東京ディズニーランドの運営準備の一環と
して、 最初に実施されたのがオリエンタルランド ・スタッフのディズニーランド研修とト
レーニングだった。この研修は、ディズニー社側が将来の東京ディズニーランドをロサンゼ
ルスのディズニーランドのスタンダードにのっとって運営してゆくために、非常に大事なプ
ログラムとして位置づけたものであった。 このプログラムは、 パークの運営にかかわる直
接・間接の両部門の広範囲にわたる業務を対象とし、ディレクターのマネジメントクラスか
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第 3 章 ディズニーランド研修−「不安」から「確信」へ−
ら専門的業種のスーパーバイザー ・レベルまでの延べ百五十名ほどに及んだ。
研修は、約一年半に亙って職種別、グループ別に平均三週間から二ヶ月程度かけて現地で
順次実施されたが、東京ディズニーランドの建設の進捗状況に合わせて、その研修の場を国
内の東京ディズニーランドに切換えていった。オリエンタルランドの第一陣として最初にロ
サンゼルスのディズニーランドに研修に向かったのは私と奥山さん以下、運営を中心とした
九人である。ディズニー社のトップはわれわれをオリジナル・ナインと称してくれた。ディ
ズニー社では、ウオルト・ディズニーに仕えた﹁九人の侍﹂たちをオリジナル・ナインと呼
び、その称号を私たちにつけてくれたのである。 黒澤明監督の一九五四年の映画 ﹁七人の
侍﹂からのヒントであったのだろう。この第一陣は少数の限定されたメンバーであったが、
オリエンタルランドの人的水準の高さを最初にディズニー社側に対して示す責務と、帰国後
にそれぞれの業務の中枢に就く役割を担っていた。口に出す者はいなかったが、九人に対す
る期待が大きかっただけに、正直、みな﹁不安﹂であった。私の研修内容はパークの最高運
営責任者としての経営・運営の全般に亙り、他の八人の人たちはそれぞれ帰国後に予定され
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ている担当部門のマネジメント責任者として必要な研修を受けたが、特にこのオリジナル・
ナインに対する研修期間は約一年に及んだ。
研修は全員がディズニーに関する基礎知識教育からスタートし、ディズニーランドの運営
にかかわる十数部門のほとんどの部門の業務の概観、それから東京ディズニーランドで予定
されているそれぞれの担当分野の綜合的な専門教育と実践的トレーニングというプログラム
内容だった。研修とトレーニングの期間中は、それぞれの研修のポジションに対応するディ
ズニーランド側の現役のマネージャーがカウンターパートとしてマンツーマンでトレーナー
役を務め、研修者つまりトレーニーの実務の教育訓練に当たった。トレーニーの中には米国
留学から帰国した者、或いは米国勤務中に現地で応募してプロジェクトに加わり、英語が極
めて堪能な人たちもいたが、全員が必ずしもそのような語学力を身につけていたわけではな
い。
基礎教育プログラムの実施段階ではベルリッツ英語スクールから講師を招いて英会話の
クラスなども併設された。
基礎知識教育は人事部の教育部門である﹁ディズニー・ユニバーシティ﹂で最初の導入教
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第 3 章 ディズニーランド研修−「不安」から「確信」へ−
育を受ける。ディズニー・ユニバーシティは組織上は人事部に属していたが、実際には非常
に独立性の強い組織で、この部門のリーダーは人事部長並みのディレクタークラスの人材が
務めていた。ディズニーの社員教育重視の現れである。東京ディズニーランドも教育のやり
方は全く同じであるが、ディズニーランドでは正社員もパートもアルバイトも全て入社時に
はこのユニバーシティの門をくぐる。 ディズニー ・ユニバーシティの教育は、 先ずウオル
ト・ディズニー・プロダクションズの歴史から始まる。次に、ディズニーのテーマショーと
はどういうものか、そしてゲストにディズニーランドの楽しい体験をしてもらうために、従
業員であるキャストはどのようなルールにのっとって、どのような接遇をするべきか等へと
カリキュラムをすすめてゆく。 導入教育は概ねそのような内容のものであるが、﹁ディズ
ニー・ユニバーシティ﹂では、そのほか管理・監督者教育、マネジメント教育、高等専門教
育等、階層別、専門別に幅広いクラスを実施している。
われわれの研修、トレーニングは、深夜まで或いは終夜で行われることも多かった。オリ
エンタルランドのスタッフもそれぞれの担当部門は決まっているものの、パークの運営はほ
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とんど全ての部門の連携プレーによって成立しているから、自分の業務を遂行する前提とし
て関連する他部門の業務内容や業務の流れに精通している必要がある。メンテナンス作業、
清掃作業、保安警備業務等は毎日二十四時間の継続的システムになっているし、ショーのリ
ハーサル等はパークのクローズ後からスタートするので深夜 ・早朝に及ぶこともしばしば
だった。トレーニングの中には、キャラクター体験やパレードフロート体験などの変わった
ものもあって大変興味深かった。キャラクター体験は、実際にキャラクターの中に入ってオ
ンステージでゲストにグリーティングするというものだが、キャラクターの眼を通して、こ
ちらに両手を差し延べて近寄ってくるゲストの天真爛漫な表情を見ると、ディズニーが来園
する人々にとってどれほど大切なものか、それ故にこの仕事がどれだけキャストにとって責
任の重いものなのかを肌で実感することができて思わず気持ちが引き締まった。パレードフ
ロート体験ではパレードの先頭車に乗って、 運転席の小さな覗き窓から外の観客席を見る
と、ルートの両側に居並ぶ親子の顔々々、その目に無心の輝きを見ることができる。私たち
はすばらしい仕事をしているんだ、ということをここでも強く実感する。私にとってトレー
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第 3 章 ディズニーランド研修−「不安」から「確信」へ−
ニングは見るもの、聞くこと、体験することが、どれもこれもとても新鮮で、乾いたスポン
ジのように知識をどんどん吸収できた。
さて、今でこそ当たり前の知識になっているが、 私はディズニーランドに研修に行った
時、きちんと認識して帰りたいと思っていたことがあった。それは第一に﹁遊園地とどこが
違うのか﹂、第二に﹁何故集客力が落ちないのか﹂ということであった。
2 究極のファミリー・エンターテイメント
ディズニーランドはウオルト・ディズニーが、それまでの映画の技術を集大成したものだ
ということは前から理解していた。その映画技術は一体どういうプロセスで創り出されたも
のなのか、私はそれを知りたかった。一九二八年、ウオルト・ディズニーは世界最初のサウ
ンド・アニメーション映画﹁スティームボート・ウイリー﹂を制作・発表する。ムービーの
世界でも同じようにサウンド映画が出始める時代だったが、 この作品の発表で主役のミッ
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キーマウスと共にウオルト・ディズニーの名前は一躍世界的に知れわたった。続いて、世界
の映画史上初のテクニカラー・アニメーション映画﹁フラワーズ&トゥリーズ﹂の創作・発
表で一九三二年度のオスカーを受賞。一九三七年、四年がかりで制作した世界最初の長編ア
ニメーション映画﹁白雪姫﹂を発表しアカデミー賞を受賞。そして一九四〇年には劇場内の
スピーカーを客席のまわりをぐるっと取り囲むように置くことによって、サウンドが室内を
流れるような効果を考案して上映した世界最初の立体音響映画 ﹁ファンタジア﹂ を発表し
た。この映画はクラシック音楽をアニメーションで表現した画期的な作品で、新しい映画芸
術の粋と賞賛された。この時に考案された立体音響の仕組みが、今日のステレオの先駆けに
なったものである。また、未だ人々の記憶にも新しいと思うが、雪山を白熊の親子が転がり
落ちて遊ぶ自然のすばらしいドラマなどを撮って、失われつつある大自然や野生動物の保護
を訴えた短編アニメ﹁シール・アイランド﹂でもアカデミー賞を受賞した。その後、世界中
の大自然や遺跡などの世界遺産を撮影した七作品もそれぞれオスカーを受賞している。
このように映画の世界で次々とそのテクノロジーを革新し、創造性を発揮して来たウオル
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ト・ディズニーと彼のスタッフたちがその蓄積の全てを投入して創り上げたものが、それま
で世の中にはなかった全く新しい巨大な架空劇場の﹁エンターテイメントの体験場﹂のディ
ズニーランドであった。 その運営は ﹁劇場の運営﹂ であるから、 そこでの配役を意味する
﹁キャスト﹂が大切なのだ。﹁遊園地﹂との本質の違いがここにある。
一九二三年の創業以来、映画の製作を通じて得て来た、
﹁いかに人々を楽しませることが
できるか﹂についての経験の積み重ねや、専門的な知識を活かして、映画の世界で表現して
来たものを、そのまま三次元の世界に表現したものが、究極の﹁ファミリー・エンターテイ
メントの世界﹂、ディズニーランドなのだ。園内ではそれぞれ映画のスクリプトと同じよう
にテーマに沿ったショーが展開されているので、ディズニーランドをテーマパークというよ
うに分類しているが、 ビジネスのカテゴリーとしては本質的に言ってディズニーランドは
めて総合的な運営組織によってディズニーランドは構成されているのだ。謂わば、これらの
ハードとソフトが一体となって、適時適切なサイクルで、創造性とオリジナリティに富んだ
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﹁ショービジネス﹂である。これらのショーを提供する青空の下の舞台と、これを支える極
第 3 章 ディズニーランド研修−「不安」から「確信」へ−
﹁内容のイノベーションを常に繰り返し、ゲストを引き付けて行く﹂のである。これが﹁集
客力存続の源泉﹂である。
研修で、改めて感じ取ったことは、ディズニーランドはシステマティックなものの考え方
をきちんと基本においている、ということだった。日本の第三次産業、とりわけサービス業
にはシステマティックにものを考えるという習慣が余りなかった。例えば、仕事が﹁阿吽の
呼吸﹂でやってゆける規模を超えたとき、組織を動かすノウハウがアメリカにはあるのだ。
今でこそ日本でどこでも見られるようになったが、例えばゲストが何万人入園しても対応で
きる、作業手順を平易にまとめた職種別のマニュアルなどはその典型だろう。また園内の運
営技術やゲスト管理技術なども実に緻密な計算と分析に基づいている。例えば園内の混雑度
や人の流れの管理などのノウハウである。また、施設の追加投資なども単なる物質主義では
なくて、しっかりしたマーケティング・リサーチをベースにして、時期、企画、投資規模の
設定を必要なスケジュールですすめている。 これはパーク運営全般の随所に見られること
で、大規模レジャー施設の運営にこれから携わろうとしている私たちにとって、学ぶべき大
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第 3 章 ディズニーランド研修−「不安」から「確信」へ−
事なポイントであった。
ロサンゼルスのディズニーランドの場合、 年間を通したゲストの入園状況は東京ディズ
ニーランドとはかなり異なっていた。夏休みやイースター等の国民祝日のような時期は一斉
に家族で出かけるということもあって、人出の山場をつくる一つの時期ではあるけれども、
日本の東京ディズニーランドのお盆休みの時期のような極端な集中はない。長期休暇制度や
週休三日制が普及しつつある上に、パート社会化がすすんでいたためか、平日と週末のゲス
ト入園の曜日変動の差にさほど大きな差がなく、比較的平準化しているように思えた。
また、私たちが驚いたことは、 アメリカのゲストのノリである。 ストリートや小さなス
テージでバンド演奏が始まると、その前で直ぐにご夫婦が手を取り合って踊り出す。パレー
ドのダンサーの踊りに自らが呼応して客席から立ちあがり、一緒にパレードに加わってダン
スを始める。それもみんながである。陽気な国民性の故であろう。それがまた観客席全体の
楽しいムードを盛り上げるのである。
それにしても、この研修を通して知ったことは、ディズニー・ビジネスの﹁人を楽しませ
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る﹂ことへのエネルギー、徹底ぶりであった。そのエネルギーこそ、人を感動させるものを
生む。
﹁人を楽しませたい!﹂というエネルギーが、東京ディズニーランドを訪れる人々に
感動を与えるのだ。 これは帰国後の挑戦課題であった。
私は日本人のゲストもこのように楽しく参加してくれるだろうかと気にかかった。 案の
定、東京ディズニーランドのオープン当初、このような場面では恥ずかしがって誰一人踊っ
てくれるゲストが出てこなかった。 そこで演奏者やダンサーが無理矢理お願いして、 手を
引っ張ってリードした。ダンサーやキャストたちが一生懸命になって、東京ディズニーラン
ドでの楽しみ方、遊び方に動機づけ、今日ではその成果が実って、ゲスト参加もすっかりア
メリカのディズニーランド並みに板について、 様変わりしている。 ロサンゼルスのディズ
ニーランドと同じようにライブの参加型エンターテイメント文化がすっかり定着したのだ。
アメリカ人は時間を効率的に使う。利用施設も要領よく空いているものから入る。パレー
ドもスタートの時間になると、それに間に合うように沿道の客席に集まって来るので観客席
の混雑もパレードの公演時間で終わる。一方、日本人はアメリカ人と反対で、自分のめざす
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第 3 章 ディズニーランド研修−「不安」から「確信」へ−
施設へ先ず最初に入ろうとして混んでいても並んで順番を待つ。パレードも午後二時の公演
を見るために朝から場所どりをして座っているゲストが多かった。折角、東京ディズニーラ
ンドで楽しむ﹁時間﹂を買っているのに、その時間をロスしてしまうのだ。現在はファスト
パスというシステムを導入したので、時間のロスが大幅に解消され、ゲストサービスの改善
に大きな効果を上げている。
ロサンゼルスのディズニーランドでは園内におけるゲストの一日の消費支出は実につつま
しい。入園チケット料金は東京ディズニーランドと余り差はないが、飲食や商品購入といっ
た選択的消費になると差が出てくる。特に商品の平均消費単価はロサンゼルスのディズニー
ランドの場合ぐっと低い。
日本にあってアメリカではあまり見かけない学校行事が、中学・高等学校の修学旅行であ
る。アメリカでは修学旅行はなく、
﹁グラッドナイト﹂と呼ぶ卒業記念パーティーが盛んで、
ロサンゼルスのディズニーランドは卒業記念パーティーを夜中の時間外貸し切りとしてセー
ルスしていた。高校生たちが貸し切りバスでブラックスーツに蝶ネクタイやロングドレス姿
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でやって来て、 想い出の一夜を楽しく過ごしていくのである。 二十周年を迎え東京ディズ
ニーランドでもそういう時代が到来しつつある。
さて、私たちの研修プログラムにはウオルト・ディズニー・ワールドも入っていた。一九
七三年の視察の時に、
﹁一千万人以上の入園者を集めるにはディズニーランドしかない﹂と
確信したところである。 今度は誘致を決めてからの訪問である。
研修当時、 ウオルト・ディズニー ・ワールドは、 二つ目のパークであるエプコットセン
ターがまだオープンしていなかった。全体の面積が三千三百万坪︵約二万七千エーカー︶と
いう、とてつもなく広い土地は、 かつて鬱蒼たる密林とワニが群棲する湿地帯で、 ウオル
ト・ディズニーが手を入れた時は、 雨期にもなると全く始末におえない劣等の土地であっ
た。しかしウオルト・ディズニーの熱い思いが、この土地にレジャー基地開発の概念を超越
する大工事をやってのけたのである。運河を掘り、水位を調節し、ヨットを浮かべ、水浴客
がたわむれている湖は、底の泥をすっかりさらい、白砂を敷きつめたあと水を入れ替えて造
成したものだ。平地に変化をつけるために、大量の土砂を運んで丘をこしらえて、徹底した
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第 3 章 ディズニーランド研修−「不安」から「確信」へ−
自然を創造したのである。自然破壊だけで終わっている日本のデベロッパーとは取り組み方
が違う。買収した用地の三〇%に相当する約一千万坪は、フロリダの生態系保護のために永
久保存地区とし、自ら﹁開発凍結宣言﹂をしている。このウオルト・ディズニーのレジャー
開発理念も研修で学んだ貴重な収穫であった。ウオルト・ディズニー・ワールドでは施設運
営全般にわたる研修のほか、 資源のリサイクル・システムやその実態についても学んだ。
3 運営能力を身につけたオリジナル ・ナイン
バーバンクのディズニー本社にもよく行って、映画のサウンドステージやアーティストや
アニメーターたちが仕事をしている工房を見学し、アニメーションの制作過程について学ん
だ。ディズニー・アーカイブズ︵映像資料センター︶は、ウオルト・ディズニー・プロダク
ションズの歴史的資料が展示され、オスカー賞がずらりと並んでいる。私たち研修生はディ
ズニーランドから二 ・五キロメートルの近くにアパートを借りて自炊生活をしながら通っ
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た。ローテーション勤務で、 それぞれ週に二日程度の休みがあったが、 休みの日にはまた
ディズニーランドへ行ってゲスト体験をし、ゲストの立場からディズニーランドのサービス
を見ることにした。研修が終わる頃には、それぞれのオリエンタルランドのスタッフは、実
際にディズニーランドの組織のマネジメントの一人として、大勢のアメリカ人キャストを使
い担当部門の管理職務に当たった。オリジナル・ナインの最初の﹁不安﹂は、これならばわ
れわれにできるという﹁確信﹂に変わっていたのだ。努力の甲斐があって﹁オリジナル・ナ
イン﹂ も研修の終了時にはディズニー社側から高い評価を受けることができた。
思い出をたぐり寄せてみると、 研修がスタートした頃、 日本の ﹁九人の侍﹂ のオリジナ
ル・ナインはディズニーランドの女性スタッフたちから随分警戒された目で見られたことも
あった。私たちが非常に特殊な集団主義の国民性を持った人間だと思われていたためらし
い。いつも彼女たちはわれわれを遠巻きにしてじっと見ていた。彼女たちと親しくなってか
ら聞いた話であるが、オリジナル・ナインがバックステージの控え室で、朝、仕事のはじめ
に揃って奇声をあげるのではないかと思っていたというのである。当時、カリフォルニアに
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第 3 章 ディズニーランド研修−「不安」から「確信」へ−
進出していた電気メーカーなどの日本企業は、 朝、仕事に入る時には先ず社屋で社歌を斉
唱、次いで会社の経営理念を大声で読み上げて全員で復唱する。 終わりに当番の ﹁所感発
表﹂
。
それが全て威勢のよい大声だから企業戦士の出陣式のように聞こえるというのである。
夕会は、会社の行進曲を全員で歌い、職場の責任者の﹁ごくろうさん﹂のねぎらいの言葉で
終わる。日本企業はどこでもそのようにやっていると聞いていたから、私たちも何時それを
やり出すか息を潜めて見守っていたというのである。
アメリカの中でもディズニー社は非常に家族平等主義的な社風の企業で、日本企業のよう
に上司を肩書で呼ぶような階級意識的なものがなく、パートタイマーや新入社員から会長・
社長までお互いに﹁ファーストネーム﹂で呼び合う非常にソフトでウォーミングな企業風土
である。ディズニー・テーマパークのようにフレンドリーなもてなしを大切にするビジネス
では特に職場の一体感が大切で、現場の第一線の人たちが気持ちよく働ける環境条件の整備
は会社側やマネジメントの最大の責務であって、﹁ファーストネーム﹂もその一環であった。
現場のスタッフは、当時、日本企業に対して、特異なイメージを持っていたのである。私た
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ちが社歌斉唱のようなことをしなかったのでとても安心したと、彼女たちが後になって話し
てくれた。
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1 注目を浴びた地盤改良工事
施設の建設に当たっては、社会性・企業性の検討のほか、物理的な配慮がそれ以上に重要
であり、特に最大の悩みは地盤の問題、建設費の難問題であった。
開発用地は、東京湾奥に幾つもの河川が注ぎ込む江戸川河口のデルタ地帯に位置した埋立
て地である。この地帯は、古くは、東京江東地方と同じく土層構成が軟弱な粘土層で、埋立
て地では支持杭に支えられた建築物に周辺地盤の沈下ギャップが発生し易く、軟弱地盤の上
に定着している建物や配管類などに不等沈下による深刻な影響が出やすい。また、新潟地震
に見られたように地震発生時の液状化現象が起こり得る。年間一千万人のゲストが出入りす
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第四章 開業前の運営準備の課題
第 4 章 開業前の運営準備の課題
る施設としては、不等沈下による舗装面の凸凹や段差などは論外で、如何なる安全上の障害
もここでは許されない。
一九七六年︵昭和五十一年︶七月にディズニー社との間で第二フェーズ作業として、マス
タープラン策定に関する契約を締結して以来、ディズニー社の施設計画作業の進展に対応す
る形で、オリエンタルランドは建設担当役員であった常務の高田博照さんに加え、三井不動
産技術担当常務の石田繁之助さんがオリエンタルランドに非常勤取締役として出向し、建設
推進体制の強化を図ることにした。石田さんは、かつて三井不動産の超高層ビル第一号の三
井霞ヶ関ビルの計画・建設にかかわった実績をもち地盤問題等にも造詣が深い。そして埋立
ての軟弱地盤の大規模開発に不可欠な地盤改良計画に対して、その分野における国際的な権
威である東京工業大学工学部建築学科の吉見吉昭教授を本プロジェクトに紹介してくれた。
吉見教授はさらに新進気鋭の土質コンサルタント橋場友則さんを推薦し、同教授の現地に
関する傾向分析とその対策に関する指導的役割のもとに、橋場さんが地盤改良対策法とその
地盤に対する建築についての提言を続け、地盤改良の成功と工事費の抑制に大きな貢献をさ
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第 4 章 開業前の運営準備の課題
れた。地盤改良は、開発用地二十五万坪にわたるもので、工法は、サンドドレーン工法、グ
ラベルドレーン工法、サンドコンパクションパイル、タフネルドレーン法といった複合的工
法が採用され、サンドドレーンは囲碁盤の網目状に二メートルピッチ、打ち込んだ数は実に
十万本に及んだ。このような複合工法で、これだけの大規模な地盤改良をやったことは、か
つて日本において前例を見ないことだった。液状化についても、未だ日本ではさほど認識さ
れていなかったし、土木建築業界でも余り実績がなく、従ってデータなどがほとんどない時
代だった。
一九八〇年︵昭和五十五年︶の真冬の夜中に、吉見教授、橋場さんたちが現地の埋立て地
で液状化実験を行ってデータ収集をされたことがあったが、地中に振動を与えている実験中
に透水管を通して水が噴出したこともあった。複合工法による地盤改良工事の結果、建築の
杭打ちも困難になるくらい堅固な地盤に改良され、土質も極めて施工性の高いものになった
ことが高く評価されて、吉見教授の発表が学会でも注目を浴びた、と伺っている。事実、東
京ディズニーランドのオープンの翌年、千葉県東海岸沖を震源とした震度五に近い、
﹁茂原
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地震﹂が発生した時にも、全ての施設はクラック一つ入らず微動だにしなかった。全体の重
量バランスによって建物の平衡が保たれ、施工後の傾向が、当初の工法で計画・予測されて
いた通りに結果が出て、施設毎に個別にとった対策がピタリと当たり、何の障害も出なかっ
た。
2 膨張し続ける建設費対策
一九七七年︵昭和五十二年︶、ディズニー社のマスタープランに基づき、石田・高田体制
のもとで、
﹁ディズニーランドをつくった場合どの位の予算になるのか﹂という予備的な概
算見積りの検討がスタートした。 一九七九年 ︵昭和五十四年︶ 四月、ディズニー社との
最終契約を締結し、いよいよ技術的課題にも組織的に取り組む体制が必要となって、同年七
月に設計部を新設した。配置は、設計部長の下に、ランドチーフの五つのテーマランドの設
計責任者と、数名の技術スタッフをつけ、見積り作業のコーディネーションに当たった。一
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第 4 章 開業前の運営準備の課題
九七九年十月、堀貞一郎さんの推薦により、大阪万博でコンストラクション・マネジメント
の経験をされた電通のPR局長長谷川芳郎さんが出向で見えて、オリエンタルランドの技術
担当常務に就き、建設のプロジェクト・マネジメント役に就任した。概算見積りは、当初の
概算額六百五十億円から九百五十億円へと拡大することになった。
坪井東さんはその話を聞き、三井不動産に設計者を呼んでは、しきりにコスト圧縮を指示
し、
﹁こんなに見積りが増額するのなら建設を止める﹂と言い、ディズニー社との関係を大
切にする石田さんは、坪井さんに対して一生懸命、必要性を説いた。その後、見積り額の内
部的な話し合いで、セントラル・エネルギープラントの建設コストが課題になり、石田さん
と長谷川さんの考え方が相違した。そのような情況をみて、高橋政知さんは建設推進体制は
一本化した方が良いと判断し、長谷川さんを建設プロジェクトの責任者に据えた。同時に、
設計会社が三社で見積り作業をやるのも考え方の統一が難しい、ということになり、十月、
三設計会社、四建設会社の作業体制を一旦打ち切ることにした。長谷川さんは就任以来一貫
して膨張する見積り額の削減に必死の努力を続けた。オリエンタルランドの建設予算と建設
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会社の見積り額のギャップの修正は難しい作業で、やがて、キャッスル前のハブの計画面積
を半分にする、 キャッスルをスケールダウンする、 地下道を中止する、 地下のセントラル
キッチン計画を変更する、スモール・ワールド、ホーンテッド・マンションなど大型施設の
空調容量を二分の一とする、ジオラマを中止する等々、おびただしい数の削減検討項目が追
加・提示されたりしたこともあった。
オリエンタルランドの予算提示額と建設会社の見積りとの間には、建設会社各社毎にまだ
数億円台から十億円台のギャップがあった。建設会社はわが国を代表する四社である。建設
業界でも東京ディズニーランド・プロジェクトが注目工事に類していたために、各社とも概
ね予算圧縮の了解を取ることができた。その結果四建設会社にまず躯体工事を発注し、十二
月着工に漕ぎ着けることとなった。 いざ工事が始まると、 着工時一千億円だった建設予算
は、半年後には一千二百億円を超えていた。一九八二年︵昭和五十七年︶春頃から工事のス
ケジュールが山場にさしかかると、建設会社以下全工事業者を月一回の頻度で計六回ほど集
めてその都度、 長谷川さんが建設工事施工スケジュールの確認と現状認識、 並びにスケ
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第 4 章 開業前の運営準備の課題
ジュールに対する叱咤激励を繰り返した。
当初、ディズニー社のスケジュールも、建設会社のスケジュール見積りも、工事期間は二
十八ヶ月から三十二ヶ月だったが、これらのスケジュールはやがて二十六ヶ月に調整され、
さらに二十四ヶ月に短縮されて、一九八二年︵昭和五十七年︶十二月、建設会社側から全施
設がオリエンタルランドに引き渡され、その後若干のマイナーな工事の手直しをしつつ、本
格的な運営準備のトレーニングに移行した。一九八三年︵昭和五十八年︶三月、東京ディズ
ニーランドは、最終的に一千八百億円を超える総事業費を以って完成し、同月竣工式がとり
行われた。千葉県知事や協調融資団などと高橋政知さんの強い信頼関係が支えた実現への道
程だった。
ここでディズニーランドの建築の特異性について触れておきたい。特に建築の特色とその
すすめ方についてである。建築物は各テーマランドによってそれぞれ特色があり、且つ装飾
性が強く、構造的に多様性に富んでいる。また年間一千万人を超す不特定多数の顧客を収容
しなければならないために、建物の機能性と安全性が同時に強く要求される。この課題は、
83
設備
その他
計
第1工区(K建設)
ワールドバザール
16.7
35.9
26.5
20.9
100(%)
12.7
42.3
26.5
18.5
100
第3工区(T建設)
ファンタジーランド
19.1
38.1
22.0
20.8
100
第4工区(M建設)
トゥモローランド
24.6
23.2
28.2
24.0
100
どの工区別格差が見られて、この面に於ても画一的で
見積りの構成比率の中にもその特性が表われている。
仕上
アドベンチャーランド
ウエスタンランド
東京ディズニーランド施工時の一般的水準としては、
囲におさまっていたかは判断が難しいが、少なくとも
はなかった。坪単価が経済的に見てそれぞれ適正な範
第四工区に至る間には、坪当り単価に最大三十五%ほ
同様にその特殊性を知ることが出来る。第一工区から
また、坪当り単価を当時の見積り価格から見ても、
体としてバランスがとれている。
コストの比重がやや高いものの、他の工区に比べて全
コストの比重が相対的に高い。一方第四工区は設備の
この表から見ると、第一、第二、第三工区は仕上の
躯体
当時、特異な高さであったという認識はなかった。第
第2工区(S建設)
中心施設
84
第 4 章 開業前の運営準備の課題
二工区の坪単価が相対的に高水準だったのは、当該工区に小規模で多様な施設が散在してい
て、それぞれの仕上コストが高いことを示しているものであり、 また、 第一工区の中心は
ワールドバザールであって、これのみについて見ると坪当り単価は最も高水準のものとなっ
ているが、 ワールドバザールを除く他の建物の坪単価がかなり安く見積もられていたこと
で、工区としての単価は最も低水準であった、というように全体としてはそれぞれのエリア
の特性を反映する不統一なものであった。そのような実態を踏まえて、その時の坪単価を認
めるか、或いは高価な建築物であると見るかは、当時、施設の水準をいかにとらえるかの基
本的考え方の問題であった。
さらに、ディズニーの建設のすすめ方にもかなりの特異性が見られた。一般的な建築は、
通常、ホテル建設等の例にみられるように、標準的コストと標準的仕様・機能などが予め把
握しやすく、これらを積み上げていく中で建設費が自ずから出て来る。また今の建築は規格
化・工業化が進んで、 職人の入る余地 ︵人件費︶ を極力排除し、 徹底的にコストダウンを
図っている。しかし、ディズニーランドの建築のすすめ方は、虚像と実像をない交ぜながら
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一つ一つの形を手づくりで創りあげていく。職人が仕事の過程に一つ一つ悩みながら一つの
ものや形を生み出していくアート制作志向なのだ。 例えば、柱一本の処理やエージングに
よって建築の表情が全く違って来るのはその良い例である。それがまた職人たちのやり甲斐
でもあり、 それがコスト上昇要因につながってくるのだ。
結局、オリエンタルランドはこの東京ディズニーランドの建設を通して、建設会社に対す
る見積り依頼の基本的なあり方、コスト意識の問題、建設分野の体制と組織の問題、特にベ
ンダー指定、予算管理、日程管理、技術管理等について多くのノウハウを身につけることが
できた。
ディズニー映画のスクリーンに映し出される物語の世界に、現実に入り込んでゆくことが
できたら、ゲストは自分自身がその物語の中の役を演じているような気分になり、楽しい体
験ができる。ウオルト・ディズニーがこう考えて創ったエンターテイメントの体験施設︵空
間︶がディズニーランドだ。
﹁ピーターパン空の旅﹂、
﹁ピノキオ﹂、
﹁白雪姫﹂、
﹁カリブの海
賊﹂、
﹁ジャングルブック﹂などをモチーフとした﹁ジャングル ク・ルーズ﹂などアトラクショ
86
第 4 章 開業前の運営準備の課題
ンはすべてそうだ。従って、ここは遊園地の遊びと全く異質のもので、本質的には映画・演
劇のジャンルに属するショービジネスの世界なのだ。ウオルト・ディズニーはディズニーラ
ンドを﹁青空を背景とした巨大な劇場︵舞台︶﹂だと言っている。ショービジネスには独特
の専門用語があって、舞台を﹁オンステージ﹂、その後背施設を﹁バックステージ﹂。また配
役・出演者を﹁キャスト﹂、衣裳を﹁コスチューム﹂などと呼ぶ。正に巨大な架空劇場仕立
てなのだ。人材集め、組織づくりをするに当たって、東京ディズニーランドをこのように認
識することが最も重要なことだ。
3 組織要員計画の骨格
私が建設費予算管理の仕事を離れて、いよいよ運営準備に入り、先ず最初に手がけた仕事
が、運営のための人材集め、そして組織づくりであった。私は人事部長として、組織・要員
計画の骨格づくりと採用活動に取り組んだ。東京ディズニーランドの仕事は、ショービジネ
87
ス特有の非常に多岐にわたる職種で構成される上、舞台運営や劇場経営に適合する多機能的
組織が必要である。 そこでロサンゼルスのディズニーランドの現行組織を下敷きにしなが
ら、新たに業務の複合化や効率化といった側面から検討を加えて、極力、弾力性の強いしか
もコンパクトな組織づくりを目指すことにした。
東京ディズニーランドを運営するための新設部門は、運営部、商品部、食堂部、エンター
テイメント部、美装部、ゼネラルサービス部、整備部、管理部、人事部のキャスティング、
ユニバーシティ、経理部のキャッシュコントロール、アドミッションコントロール、マーケ
ティング部等で、これらの部門を旧来のオリエンタルランドの総務部、経理部、人事部、不
動産管理部等の伝統的中枢部門に加え、新たに再編成することにした。
東京ディズニーランドのオープンに必要な要員数は正社員が一千二百五十名。オンステー
ジとバックステージに必要なパートタイマー、アルバイトの準社員の人数は開業当初七千名
だった。東京ディズニーランドのようなサービス業は、特に﹁人が大切﹂で、私は﹁質の良
い人間を選べ。採用で教育の五〇%が終わる﹂と常に採用スタッフに言い続けた。
﹁質の良
88
第 4 章 開業前の運営準備の課題
い人間﹂とは、学歴や経歴ではなく接客サービス業に適合する資質を有した人間のことで、
このような人材は吸収力も旺盛で教育効果も極めて高いからである。 正社員の採用試験で
は、最終選考に残った人たちの面接には全て私が立会い、準社員はキャスティング・スタッ
フに採用を委ねた。 特に、 東京ディズニーランドの運営は組織体制づくりにその成否がか
かっており、その核となる正社員の人材の確保は目標達成の最も大事な基本要件として、特
に重要な意味をもっていたからだ。
東京ディズニーランドの運営をどこまで直営でやるのか、委託をするのか、オープニング
に先立ち大きな問題であった。実は、この問題が採用活動と、採用人員計画に大きく絡んで
くる。各部門の運営方式の検討を同時並行的にすすめながら、人材や要員の募集を考えなけ
ればならなかった。 運営方式の中で特に懸案とされていたことは、 オリエンタルランドに
とってそれまで全く事業的な経験や実績の無い分野である商品事業部門と飲食事業部門を、
直営で運営するか、 それとも外部の専門企業に委託方式とするかの問題であった。 ディズ
ニー社は直営化のメリットを強く助言してくれていたが、この当時のオリエンタルランドに
89
は常に金の問題がまつわりついていて、この二つの事業部門についても直営化のメリットを
事業戦略に活かすという積極的な考え方はなかった。むしろ、この事業のリスクを委託化に
よって回避し、保証金と賃料による安定収益を図った方が得策ではないかという意識が強く
働いていた。この問題には﹁金﹂の問題のほかに、もう一つ、この事業部門を推進していく
適材が社内にいないという﹁人材﹂の問題があった。
オープン前年という差し迫った時期に、何回となく作成されている当時の﹁事業計画書﹂
にもケース一とケース二の検討資料が準備されていた。 その両案の内容の基本的な相違は
﹁宅地転換用地の売却あり・なし﹂
﹁テナント収入あり・なし﹂が骨格となったもので、最後
までこの二つの事業部門の運営方針に苦悩していた。商品事業に関しては、ディズニー社と
の交渉の初・中盤期で、オリエンタルランドが何回となく事業計画の検討を繰り返していた
時期に、プロジェクトの実務的トップであった専務の丹澤さんが、資金計画の苦肉の策とし
て東京・都心の日本橋にある百貨店に行き、商品事業の委託化を打診したことがあった。即
座に﹁冗談じゃない。われわれが遊園地に出る筈がないじゃないか﹂と言われたという。ディ
90
第 4 章 開業前の運営準備の課題
ズニー・テーマパークの将来性を信じていただけに、その保守的な意識の隔たりにみな驚愕
した。私自身も飲食事業については、レストランの多店化で既に実績のあった二、三の企業
に内々接触した。しかし、結局はこれらの商品、飲食の事業はディズニー社のアドバイス通
り直営でやることになったのである。
一方オープン前の募集活動は意外に反響が無く、それは予想外のことであった。そうした
中でも、正社員の募集はパート・アルバイトに比べるとややましだったと言える。正社員に
ついては、即戦力になる人材を中途採用でとり、また将来の人材育成の必要性もあって、高
校、専門学校、短大、大学から新卒者を広く採用した。組織の中堅クラスに配置予定の三十
歳代前半から三十歳代後半の人材の応募状況もさほど悪くはなかったが、特に二十五歳前後
からそれ以下の年令層グループの応募者の比率が高かった。
これらの人たちの応募動機は概ね共通していて、﹁ディズニーランドというブランドネー
ムに対する魅力があった。ないし、ディズニーに対する良いイメージを既に持っていた﹂﹁オ
リエンタルランドが商住地開発を含めて湾岸の大規模事業計画をすすめている企業であるこ
91
と﹂﹁親会社の一つが三井不動産であること。つまり三井の資本が入っているということ﹂
等々であった。中途採用については親会社の一つの京成電鉄からの協力要請があり、沿線の
遊園地から撤退するので、本社からの出向社員と現地採用の専業契約社員を出来るだけ数多
く採用してほしいとのことだった。そこで現地に行ってその人たちに直接面接し、教育とト
レーニングによって先々の水準が期待できる人たちを積極的に採用した。京成電鉄からは、
そのほかにも、上野にあった系列の百貨店のリストラにも協力してほしいとの話があって、
そちらからも三十歳代の年令層を中心に積極的に採用した。 この人たちも入社後、 新たに
キャストとしてディズニーウェイを学んだあと、即戦力が必要だった商品事業部門等で活躍
し、
その中からは現在主要なマネジメントのポジションで頑張ってくれている人たちも出て
いる。
商品・飲食事業のトップのほかに、各専門分野にもそれぞれプロフェッショナルが求めら
れたが、まだ何一つ実績の無いオリエンタルランドでは、一般公募しても希望条件に適合す
る人材が集まらず、 こちらから積極的に人材獲得に動くほかなかった。 その分野はライブ
92
第 4 章 開業前の運営準備の課題
ショーの企画 ・デザイン・制作・運営を管轄するエンターテイメント部門を始め、 商品開
発、飲食部門の調整・サービス、キャストやダンサーの衣裳を企画・デザイン・制作・支給
するコスチューム部門、園内の救護体制を構成する医療業務、そして安全対策には欠かすこ
とのできないセキュリティー・ファイヤー業務、等々多岐にわたった。幸いそれぞれオープ
ンの準備には間に合うように人材の充足ができた。
この間に交渉に出向いた先は、映画会社、ホテル企業等から警視庁、消防庁等までさまざ
まで、警視庁では人事課長にお目にかかって、セキュリティー業務の人材を推薦して頂き、
約十六年にわたって活躍をしてもらった方もいた。その時の人事課長が後の井上幸彦警視総
監である。この中途採用で私にとっては意外なことがあった。応募者のバックグラウンドは
千差万別であったが、 その中に大手銀行や中央官庁等からの転向志望組が幾人もいたこと
だった。銀行からの応募者にその理由を聞いてみると、一様に﹁夢のある仕事がしたい。活
きた現場で仕事をやってみたい﹂とその動機について話してくれた。中央官庁出身者の採用
は結果的に無かったけれども、中央の若い人たちが東京ディズニーランド・プロジェクトに
93
寄せる強い関心に明るい未来が予感できた。
パート・アルバイトは特にオープン前の初期募集活動が低調で、採用には苦労した。その
理由ははっきりしていて、当時パートタイマーやアルバイトは職種としてはあったが、それ
はデパートや郵便局が季節的な仕事として、 それぞれの時期に少数採用する程度のもので
あったり、また、ファミリーレストランなどの新しい業態が一店舗当たり数人からせいぜい
十数人程度採用する程度で、一つの施設で何千人単位で採用できるようなパート・アルバイ
ト労働市場がまだ日本にはできていなかったことが最大の理由だった。今の時代にはもう考
えられないことである。もう一つの不人気の理由は、当時、最寄の公共交通機関が地下鉄東
西線の浦安駅のみで、舞浜へは通勤上の問題があった。準社員の採用は、オープン後半年位
が経過してから、ようやく軌道に乗った感じだった。オープンすると毎日たくさんの人々が
遊びに来園し、楽しそうな仕事だということや、雰囲気の良い職場だということが段々と認
識され、その頃から応募者が増えていった。
応募者の人数とは別の問題だが、採用手続きのやり方にも反省点があった。採用側は、無
94
第 4 章 開業前の運営準備の課題
駄なことをしたくないから、採用を決めた上でこちらのスケジュールで、例えば一ヶ月後と
か二ヶ月先のこの日から出勤して下さいと職場別、職種別に仕事の開始日を連絡する。数千
人のパートタイマー・アルバイトを一挙に採用しなければならないわけだから、そうせざる
を得ない。しかし、初出勤指定日の当日が来ると本人たちから次々と採用︵仕事︶キャンセ
ルの電話が入って来たのである。考えてみれば正社員の雇用とは違い、パート・アルバイト
は今日・明日といった短期的収入が目的で仕事をするわけで、フリーターと呼ばれる専業準
社員時代の今の話ならば別だが、 彼らは今直ぐ小遣いを稼げる他所へ行ってしまったわけ
で、われわれには当時そこまで読めていなかった。採用人数の不足の上にキャンセル分の追
加募集が出てキャスティング・スタッフはおおわらわだった。そのような経緯もあって、東
京ディズニーランド・オープン後の確実な施設運営をしていく必要性から、安定的労働力の
確保のために、一部では準社員のポジションを正社員や派遣人員で代替せざるを得ない情況
も暫く続いた。
一方、正社員の採用は幹部・中堅クラスのスケジュールを先行させ、若手・新卒者等は開
95
業準備作業の日程に対応させながら、なるべく遊び時間が出ないように順次採用をすすめて
いった。開業に向けて中堅クラスや若手の入社が徐々に増え始めていったのは、一九八二年
︵昭和五十七年︶中頃であった。若手社員たちの仕事は開業準備作業であるが、その内容を
具体的に現業部門の運営部の例でみてみると、﹁ディズニーランドから導入された東京ディ
ズニーランド用のマニュアルの翻訳作業と修正作業﹂﹁アトラクション等施設の運営準備計
画﹂
﹁準社員の受入れとトレーニング﹂
﹁アトラクションに据え付けられたショー・ライドの
チェックとテスト﹂ 等々であった。
4 TDL版・マニュアルとトレーニング ・プログラム
オープニングに先だって人材育成のためのマニュアルの修正作業も大変な仕事であった。
ディズニー社から引き渡されたマニュアルは約三百五十冊で、 オリエンタルランドは東京
ディズニーランドの諸運営に当たって、これらのマニュアルを遵守することが契約上義務づ
96
第 4 章 開業前の運営準備の課題
けられている。 マニュアルは手順の変更などにより、 必要に応じて定期的に変更修正を加
え、常に現状に適合する内容を備えていなければならないし、マニュアルはその意味で特に
ディズニー社のスタンダードを守っていく上で大切なガイドブックなのだ。新しく採用され
た正社員の人たちが、 運営準備のために与えられた最初の仕事がこのマニュアル修正作業
だった。マニュアルは原本が英語で書かれたものなので、日本語に翻訳する作業が大変だっ
た。中途採用の若手の人たちや新卒の人たちが、必ずしもみんな英語に堪能だったわけでは
ないので、毎日辞書と首っ引きで翻訳に当たった。それだけなら良かったのだが、実はもう
一つ問題があった。マニュアルの原本が東京ディズニーランド用にするためには、内容的に
不完全なものがかなりあったからだ。この問題は、特にアトラクションなどの施設の運営部
門関連の業務に係るものに多かった。そもそもディズニー社がオリエンタルランドと契約を
締結した当時、ディズニーランドには、実はマニュアルがまだきちんとした形で存在してい
なかったのだ。ディズニー・ユニバーシティの教育はすばらしいものではあったが、標準化
のマニュアルは完全には体系化していなかったのである。各部門別、職場別にそこで行われ
97
ていた作業手順などが、範囲も内容もそれぞれの職場任せで小冊子にまとめられてはいた。
しかし統一性のあるものではなかった。
当時、ディズニー社は職場の風土が家族主義的な経営であったから、ディズニーランドで
も年長のベテランが、それぞれの職場で次の世代に手とり足とり口伝えで仕事を教えていけ
ば良かった。それがオリエンタルランドとの契約でディズニー社にとって、初めて海外へノ
ウハウを売ることになり、ロイヤリティとして対価を受け取るテーマパーク運営の重要な無
形︵知的︶資産として、急遽、内容的にも統一した東京ディズニーランド用マニュアルづく
りが必要となり、体系的に作成するという経緯があった。
後にロサンゼルスのディズニーランドの経営者たちから、﹁大変な仕事だったけれども、
東京ディズニーランド用のマニュアル作成でロサンゼルスのディズニーランドのマニュアル
が初めてきちんと整備できた。オリエンタルランドのお蔭だ﹂と感謝された。ところが、彼
らが折角苦労してまとめてくれたマニュアルは全て、その当時のロサンゼルスのディズニー
ランドのアトラクションの運営手順のものだった。ディズニー社が東京ディズニーランドに
98
第 4 章 開業前の運営準備の課題
持って行くアトラクションは彼らにも解っていたから、 ディズニーランドのスタッフたち
は、
ディズニーランドにあるそれらのアトラクションについてまとめれば良いと思っていた
のである。しかし東京ディズニーランドに新設されたアトラクションは、向こうにあるもの
であっても、ディズニーランドやウオルト・ディズニー・ワールドという歴史を経て、さら
に新しいテクノロジーやシステムや設計思想を採り入れてつくられたものだったのである。
例えば、東京ディズニーランドの﹁イッツ・ア・スモール・ワールド﹂のアトラクション
は、
ボートの乗り場がロサンゼルスのディズニーランドの片側方式から両側発進方式に改良
されているから、 それによって、 その施設の一連の運営手順は全て書き変える必要がある
し、また、ビークルの発進間隔も三〇%短縮されているので、その前後の運営手順は全て書
き変える必要があった。 また、 運航中に停止した乗り物の再発進のためのリセットについ
て、マニュアルにはその作業手順が明記されていなかったが、東京ディズニーランドの同じ
施設は最新の技術を採用しているので、ロサンゼルスのディズニーランドのように人間の勘
に頼った措置ではなく、マニュアルに適正な手順を明記しておくことが不可欠で、そのため
99
に一連の運営手順を書き変えなければならなかった。マニュアルを東京ディズニーランド用
に書き変えたり付け加えたりする作業が相当の負担になった。その上、東京ディズニーラン
ドのスタッフがそのようにして翻訳し内容を修正したマニュアルを、さらにディズニー社か
ら開業支援に来ている彼らのカウンターパートがチェックし、記述のニュアンスについて不
適切な部分があればその指摘を受けて、またそこで修正して再翻訳作業をするわけだから、
一冊一冊のマニュアルを修正して書き上げていく作業は時間的にも労力的にもなかなか大変
だった。マニュアルの原本修正については、 その後も専門のセクションを設けて作業を続
け、全てが完了するまでには結局七、 八年がかかった。
準社員のトレーニング・プログラム作りも急を要する仕事であった。パート・アルバイト
の人たちが準社員として採用されると、一人前のキャストとしてデビューしていくために通
過しなければならないトレーニング・プログラムがある。オリエンテーション、部門オリエ
ンテーション、オンザジョブ・トレーニングといった段階である。オリエンテーションは、
ディズニー・ユニバーシティという研修施設で全ての準社員がキャストとして基本知識を学
100
第 4 章 開業前の運営準備の課題
ぶ共通プログラムである。ここでは、ディズニーランドのフィロソフィやテーマ性について
オリエンテーションを受け、東京ディズニーランドがどのような考え方のもとに成り立って
いるか、ということ等についての概念を理解する。次に、配属予定の部門オリエンテーショ
ンにすすみ、部門全体について説明を受け、次に各自が所属することになるセクションの担
当者から、そのセクションの役割を学ぶ。最後に、オンザジョブ・トレーニングで現場での
実地訓練を受ける。実地訓練は職種によってそれぞれ異なるが、平均すると大体三日乃至四
日間の日程で、これはたとえ一週間のパートタイマー・アルバイトでも必ず受けなければな
らない。この過程が終了すると初めてキャストとなる。準社員のキャストの人たちが本格的
に職場配置に着きだしたのは、オープンの二ヶ月ほど前の一九八三年︵昭和五十八年︶一月
末からであった。この時には各施設も建設側から運営側へ引き渡されていて、例えば、運営
部では、ディズニー社からアトラクションの運営準備支援に来て現場配属となっていたカウ
ンターパートの人たちの協力のもとにショー・ライドのチェックやテスティング、準社員の
オンザジョブ・トレーニング、運営のシミュレーション等、開園に向けての諸準備をすすめ
101
たのである。
ここまできてオープン前の社内外イベントを実施することにした。これは本番前のリハー
サルでもあった。一九八一年︵昭和五十六年︶四月、浦安に市制が施行されて、市内の幹線
道路を全面的に歩行者天国にした大がかりなイベントが開催された。市の要請で会場の中に
東京ディズニーランドのコーナーを設けて、写真や、イメージスケッチのパネルを展示し、
市民に初めて東京ディズニーランドを紹介して、オープニングへの市民の期待感を高めたの
である。またその時、清掃作業に協力してオリエンタルランドのカストーディアル社員が白
いコスチュームを着用して、雑踏の中を見事なフットワークでチリひとつ無い清潔なイベン
ト会場に仕立て上げ、大いに市民に感謝されたことは、東京ディズニーランドと地元との良
好なリレーションシップ︵スキンシップ︶をつくり出す最初の良い機会になった。その翌年
の一九八二年︵昭和五十七年︶の春、建設工事中のウエスタンランドのアメリカ河の汽車の
軌道沿いの一帯に、社員と家族総出で記念植樹を実施した。今、緑と水の調和が美しいアメ
リカ河の自然景観は、その時にみんなが手植えした苗が大きく成長したもので、建設の想い
102
第 4 章 開業前の運営準備の課題
出として、 キャストたちにも忘れ難いものがあるに違いない。
アトラクションの据付工事は一九八二年︵昭和五十七年︶四月から開始されたが、翌年の
一月末にアトラクション﹁カントリーベア・ジャンボリー﹂がその完成第一号となり、ダブ
ル・シアターのうちの一シアターを使って、トレーニングを終了した正社員キャストがオペ
レーションをし、プレスプレビューを実施した。東京ディズニーランドがわが国で外部に対
してディズニーのアトラクションを公開したのはこれが最初である。熊たちの見事な演奏ぶ
りとその豊かな表情は取材陣が感嘆するものがあり、東京ディズニーランドのオープンに向
けて成功への期待を大きく膨らませた。そして最後に、オープン前に市民をはじめとする関
係者とその家族を東京ディズニーランドに招待し、苦労を共にしてきたことに対し感謝した
のである。
103
第五章 運営開始とノウハウの蓄積
1 ポスター﹁ディズニーランドがやって来る﹂
ミシシッピーを航行する両輪船﹁マークトウェイン号﹂が、煙突からのどかに白い煙をた
なびかせ鐘を打ち鳴らす。林に覆われたアメリカ河の水面をすべるように、トムソーヤ島の
西端からその姿を現し、船着場にゆっくり向かう。これはアメリカのロサンゼルスのディズ
ニーランドの最も象徴的なシーンだ。この光景を美しい絵にした東京ディズニーランドの開
園のB全紙の四連張りサイズ︵タテ百四㎝、ヨコ三百五㎝︶のポスター﹁ディズニーランド
がやって来る﹂の告知が、日本中の駅や街を飾ったのは一九八三年︵昭和五十八年︶新春の
ことだった。子どもも若者も大人も、日本中が東京ディズニーランドの開園を期待している
104
第 5 章 運営開始とノウハウの蓄積
ことがこのポスターへの反応から感じることができた。
中央に聳える美しいシンデレラ城、楽しさがいっぱいのアトラクションの数々、色鮮やか
な建物や街並み、あちらこちらから聞こえて来る音楽、そして東京ディズニーランドのホス
トのミッキーマウス、それが魔法の王国と呼ばれるディズニーランドの素顔だ。ありがたい
ことにすでにこのディズニーランドの素顔がアメリカ側の広告、PR活動を通じて日本人の
心の鏡にしっかり映っていたのだ。ディズニーのテーマパークは、テーマショーの世界とい
う全く新しいコンセプトで一九五五年七月、ウオルト デ・ィズニーによってアメリカのロサ
ンゼルスのアナハイムに誕生した。ディズニー映画を通して、人々を楽しませる経験や専門
知識を充分蓄積していた彼が、 今度は現実に人々が自由に出入りできる三次元のファンタ
ジーの街として実現したものだった。このディズニーランドは開園から今日までなお改善と
改良を重ね成長し、進化し続けるテーマパークなのだ。例えば改善と改良の過程でショーテ
クノロジーが目ざましい進歩を遂げてきた。中でもオーディオ・アニマトロニクスの立体ア
ニメーションは最も革新的な出来事だった。それはエレクトロニクスとディズニー独自のア
105
ニメーション技術を結合し、 音と動きを見事に一致させた、 まさにショービジネスの革命
だった。このオーディオ・アニマトロニクスにさらに改良を加え続け、世代が積み重ねられ
て、スモール・ワールド、 ジャングルクルーズ、 カリブの海賊など、 いろいろなアトラク
ションでその技術が活きている。この技術が、ディズニー・テーマショーを構成・演出する
上で最も重要な要素なのだ。ディズニーランドでテーマショーに成功したウオルト デ・ィズ
ニーは、その概念と方法を拡大して、さらに新しいプロジェクトに取り組み、一九七一年十
月、フロリダ州のオーランドに滞在型リゾートのウオルト デ・ィズニー・ワールドをオープ
ンした。
残念なことにウオルト デ・ィズニーはディズニー・ワールドオープン前の一九六六年に此
の世を去るが、彼の兄ロイがその意志を継ぎ、ディズニー・チームを率いて壮大な夢の実現
に当たったのだ。彼らはウオルト・ディズニーが構想したグランド・デザインの﹁実験未来
都市﹂に従い、この都市のシンボルとして、二つ目のテーマパークのエプコット・センター
を完成し、さらに、ウオルト デ・ィズニーの夢の実現を拡大していった。現在、ウオルト
・
106
ディズニー・ワールドには三つ目のテーマパークとしてディズニー・MGMスタジオ、四つ
目のテーマパークとして、アニマル・キングダムのほか、ホテル、ゴルフ・コース、キャン
プ・グラウンド、ウオーター・レクリエーション施設など、さまざまな施設を有し、今や世
界最大規模の滞在型未来リゾート都市に成長したといってよい。このようなテーマパーク創
造の歴史を経ながら、ディズニー社が初めての海外進出プロジェクトとして着手したのが東
京ディズニーランドである。
ディズニー・テーマパークを﹁テーマショーの世界﹂と呼んだウオルト デ・ィズニーは、
がディズニーランドで体験するショーにも、それぞれテーマとストーリーがあると考えてい
たのだ。例えば東京ディズニーランドのワールドバザールは、十九世紀末のアメリカの古き
良き時代の街並みがテーマであり、 ウエスタンランドは西部開拓時代のアメリカがテーマ
で、それぞれのテーマに基づく空間は、 建築デザイン、 色彩、ランドスケープ、 アトラク
ション、ベンチ、ゴミ箱、ショップ、商品、レストラン、メニュー、そこで働くキャストの
107
﹁テーマショーの世界﹂とは、映画にそれぞれのテーマとストーリーがあるように、ゲスト
第 5 章 運営開始とノウハウの蓄積
コスチュームに至るまで、ビジュアルの全てがそのテーマ性を表現しているのだ。ゲストは
その空間に入るとそのテーマに基づく雰囲気に浸ることができる。ワールドバザールではノ
スタルジアの感情に浸り、 心が癒される。 ウエスタンランドでは自分が何時の間にか馬に
乗った野趣豊かなカウボーイになった気分になる。ゲストは東京ディズニーランドを構成す
るすべてのテーマの要素に感情移入ができるのだ。
従って、この﹁テーマショーの世界﹂に少しでも矛盾があると、ゲストのショー体験は阻
害されることになる。そこで私たちは﹁テーマ性﹂をグット・ショーとバット・ショーの基
準でチェックし、特にその情景描写のディテイル︵細部︶にまで非常にうるさく立ち入るの
だ。
ディテイルへのこだわりはウオルト・ディズニーの﹁物づくり﹂や﹁情景描写﹂で最も重
視していることで、例えばウエスタンランドのビックサンダー・マウンテンでゴールドラッ
シュ時代の面影を残す廃坑を走る鉱山列車の臨場感は、昔実際に金鉱で使われた鉄製の機械
やトロッコ、いろいろな種類の採掘道具の数々の年代的な真正品、骨董をアメリカ中を探し
108
第 5 章 運営開始とノウハウの蓄積
まわって見つけ出し、それをショーセット︵背景︶やプロップス︵小道具︶に使っているの
だ。その﹁環境ディテイル﹂が、その場に居合わせなければ到底体験できないようなリアリ
ティをありありとゲストに実感させているのだ。 ゲストはこうしたディテイルに心惹かれ
て、楽しさを感じているのである。これも映像技術の生み出したテーマショーの秀れた手法
の一つなのだ。
東京ディズニーランドはオープンに先立ち、浦安市民、工事関係者、スポンサー企業、オ
リエンタルランドのキャスト、そしてその家族に感謝するために、事前招待会を催した。そ
して一九八三年︵昭和五十八年︶四月十五日、アトラクション施設三十二、商品販売施設三
十九、飲食施設二十七の全容で、日本に誕生したのである。
2 オープン時のハプニング
東京ディズニーランドは大盛況でオープンするものと私たち誰もが期待していた。ところ
109
が意外なことに、事前の大きな反響に比べて入園者数がさほど伸びなかったのだ。これには
皆慌ててしまった。原因はどこにあったのか。それは開業時の大混雑を避けるため、入園者
数を集中抑制する予約制にあったのだ。入園者抑制の問題が、オープンの一年前にチケット
の販売管轄のマーケティング部を中心に検討され、予約制を採ることにしていたのである。
当日券売りだけだとゲストが殺到して入園者数抑制は大変なことになるだろうから、入園に
は予約の仕組みが必要だろうと考え、ディズニー社に前売予約制度案を説明したところ、ロ
サンゼルスのディズニーランドでもフロリダのディズニー・ワールドも予約制の経験はない
けれども、 オリエンタルランドの案に同意してくれていたのだ。
この決定は東京ディズニーランドオープンの一年前のことであった。とは言うものの、オ
リエンタルランドにチケット発券システムが無いので、このプランを旅行エージェントのJ
TB、近畿日本ツーリスト、日本旅行、東急観光の大手四社に相談をした。ところが各社と
も、
﹁遊園地のチケットの前売予約販売は経験がない﹂ということで断ってきたのだ。もし
あの時にオリエンタルランドがシステム構築費を負担するという条件をつければ、検討の余
110
第 5 章 運営開始とノウハウの蓄積
地はあったかも知れないが、各社の商売になることだからそちらのコストでやってほしい、
ということだったので四社とも首を縦に振らなかった。
そこで私たちは交渉のすすめ方を見直し、 JTB一社に絞ってあらためてディズニー ・
テーマパークという新しいビジネスのすすめ方について話し合いをもち、やっとのことで前
売予約制度の協力を得ることができたのである。その時にJTB側から、オリエンタルラン
ドに旅行業界に精通した人材を置いたほうが良いという助言を貰い、同社から営業企画とコ
ンピューターのシステム開発の専門家二名に出向してもらい、予約制度を立ち上げたのであ
る。おもしろいもので、JTBの協力が決まると、JTBがやるのならと他の三社も直ぐ協
力してくれることになった。四社との交渉の経過を見ていた高橋政知さんから、
﹁将来の交
通ネットワークを見越して国鉄の協力も得なければだめだ﹂という指示が出て、四社プラス
国鉄という五社の協力体制で前売予約制をスタートさせることになった。当時国鉄がやがて
JRへ変わろうとする過渡期にあった。東京ディズニーランド・オープンの約二ヶ月前に、
高木文雄国鉄総裁が東京ディズニーランドの現場視察に見えた。オリエンタルランドの社員
111
食堂で開かれていた国鉄の﹁現場見学と予約前売制度に関する営業会議﹂に出席され、全国
から説明会に集まっていた﹁みどりの窓口﹂を管轄する営業関係の幹部約百名を前に、前売
予約チケットの販売協力に総裁が檄をとばしてくれた。当時の国鉄には、前売予約券の販売
にとどまらず、東京駅から東京ディズニーランド間の直行バスや八重洲口にオリエンタルラ
ンド直営のチケット販売センターのスペースを提供してもらうなどの便宜を計ってもらっ
た。
東京ディズニーランド・オープンの半年前、前売予約制度の事前告知として、
﹁東京ディ
ズニーランドは予約をしないと入園できない﹂という広告宣伝を大がかりに実施した。来園
当日、この制度を知らないで来た人たちのために当日券販売も若干準備はしていたが、大々
的に打ち出した前売予約制だけが強烈に浸透して、﹁東京ディズニーランドは行っても入れ
ない﹂といううわさがマーケットに拡がったのである。
﹁いま行っても入園できない﹂、
﹁そ
のうちオープン景気が過ぎて落ち着いたら行ってみよう﹂という空気がゲストの足を遠ざけ
たのである。当然のこととして、 オリエンタルランド社内で侃々諤々の議論が沸騰した。
112
第 5 章 運営開始とノウハウの蓄積
四月十五日からの数日間のゲストの入園者数の傾向を見て、高橋政知さんが前売予約制度
の運用の内容と告知のあり方について担当役員を集め、﹁こういう施設はふっと思い立った
時に来るところだ。予約をしなければ入れないなんて、そんな馬鹿なことがあるか。販売を
当日券中心に切り換えろ!﹂と激怒したのである。この予約制でゴールデンウィークに入っ
てしまうととんでもないことになる。そこでマーケティング部が急遽新聞広告で﹁東京ディ
ズニーランドでは当日売りのチケットが窓口で何時でも購入できます﹂という大々的なキャ
ンペーンを張った。しかし、最初に打った予約制の告知が一夜にしてひっくり返せる筈もな
く、オープンをして三ヶ月ぐらいは前売予約制のマイナスイメージに苦しむことになった。
三ヶ月後、四ヶ月後と序々に窓口での当日券購入ゲストが伸び、やっと夏休みが終わった
頃から入園者数が年間一千万人の予測水準軌道に乗り、初年度一千三十六万人を達成するこ
とができた。
オープン当初、東京ディズニーランドについていろいろな情報が乱れ飛びマーケットが混
乱してしまった。あまりにも規模が大きかったためか、万国博覧会と勘違いされ、県内の高
113
速道を走るある観光バスで、
﹁浦安では今、レジャー博覧会が開催されていて半年後には終
了します﹂などとバスガイドが案内していたのだ。私たちも園内でゲストから、
﹁これはい
つまでやっているんですか﹂ と幾度となく質問される始末だった。
3 直営の商品販売施設と飲食施設
オープン前、テナント委託を想定していた商品、飲食事業はオリエンタルランドが適切な
人材を採用したり、起用したりすることができ、商品販売も三十九施設のうちインショップ
のテナント委託はワールドバザールの主要店舗を含む六施設にとどめ、基本的には直営方式
でスタートし、飲食の二十七施設も最初から完全直営方式を採ることができた。その後事業
に習熟して、商品販売施設も職人の実演販売店舗二施設だけを残し、他は直営化ができた。
もっとも先にも述べたように、 両事業部門とも計画準備段階で業務委託交渉で断られるな
ど、長い時間、試行錯誤に苦しみながら、最後に直営方式に辿りついたのである。それが結
114
第 5 章 運営開始とノウハウの蓄積
果的に東京ディズニーランドの成功に繋がったのである。オープンした一九八三年度、ゲス
ト一人当たりの消費単価も入園料、商品・飲食を含めて当初予算の五千円の四〇%増の七千
円を上回り、売上高八百億円を記録したのだ。
私自身は東京ディズニーランド・オープンの前年までに予定通り、採用と組織づくりを終
えて、一九八三年の初め、施設が完成したところで人事部門から運営部門に移り、建設者側
から全施設の引渡しを受けた。私が人事から運営に移った時期の社内は、開業準備に向けま
さに毎日が時間との闘いで戦場の様相を呈していた。
激務の渦中にあったある日、 中央の労働団体の傘下にあった、 予て知り合いの中堅スー
パーの労組委員長から私に電話が入った。
﹁オリエンタルランドの社員が労働団体の本部にかけ込んで、労働条件や処遇等について
問題の申し立てをしているので、適切な対処をした方が良いのではないか﹂というアドバイ
スを受けたのである。
アドバイスは極めて好意的なものだった。開業準備に没頭して、勤務体制や労働条件の整
115
備がやや手薄な時期の出来事だった。直ちに高橋政知さんに報告し、組合の結成に対応する
条件整備の必要性を建言し、一方で労働団体との非公式な接触を重ね、東京ディズニーラン
ド事業が軌道に乗ってその機が熟すまで暫くの間、この問題について側面から協力してもら
いたい旨を要請した。その後、人事担当の役員は私から後任の総務、不動産部門を所轄して
いた加賀見俊夫常務取締役︵現社長︶に引き継がれ、一九八五年︵昭和六十年︶、彼のもと
で奥山康夫人事部長が高橋政知さんの意を受けて諸準備をすすめ、暫定対応策として役員・
社員加入の﹁親睦会﹂をつくり、その時期を待ち、一九八七年︵昭和六十二年︶にオリエン
タルランド・フレンドシップ・ソサエティ︵OFS︶という名称で労働組合の発足を見た。
この難しい局面に奥山氏が人事部長に抜擢されたのは、彼のプロパーとしてのキャリアと人
望によるもので、一連のプロセスはその期待通り全て円滑にすすんだ。その後、高橋政知さ
んの経営理念に基づき、労使対等の関係の中で、両者がオリエンタルランドの経営近代化に
一定の役割を果たして来たことは、まことに賢明な選択だった。
116
第 5 章 運営開始とノウハウの蓄積
4 アメリカを凌いだ顧客サービス
日本にアジアを代表するテーマパークをオープンする。その次の課題は、この新しいアメ
リカの娯楽文化﹁ディズニー・ファミリーエンタテイメント﹂を日本の風土にしっかりと根
づかせることであった。それが私のビジネス人生後半の課題となった。この課題は、高橋政
知さんが全身を打ち込んで実現したディズニー誘致を、オリエンタルランドの事業として結
実させることができるかという、最も基本的な問題であった。それは詰まるところ、オリエ
ンタルランドの能力できちんと運営できるかという問題にほかならなかった。この巨大な劇
場施設を成功に導くか、失敗に終わるかはこの先の運営にかかっているからだ。そこで私は
自分自身に二つの課題を課すことにした。
第一 運営とサービスでアメリカのディズニーランドの水準を凌ぐこと。
第二 ディズニー社側との強い信頼関係を築き、オリエンタルランド側の主体性を尊重し
てもらうこと。
117
実は、私はアメリカで研修を受けて、ディズニー社の運営の基本理念の一つがゲストに対
する﹁親切なもてなし﹂
︵ホスピタリティ︶にあるということがよくわかった。しかし、そ
のサービスの水準は私の眼から見ると、必ずしも日本文化が大切にしてきた一期一会の心に
通じるセンシティブな日本人を満足させるものとはどうしても思えなかった。おおらかで細
かいことにこだわらないアメリカ人によしとするスタンダードなのか、それとも当時フロリ
ダのプロジェクトに全社あげて力を注ぎ込んでいたために、ディズニーランドの運営が手薄
になったといったことが影響してのことであったのか。メンテナンスについても、同じこと
がいえた。テーマパークの経営や運営の技術方法にはディズニー社から学ぶべきことが多い
が、日本の風土にしっかり根づかせるためには、日本的なもてなしが経営や運営に絶対に必
要だということを、この時強く感じた。そこで、私はディズニーランドよりも一ランク高い
東京ディズニーランドの運営水準を目標に掲げることにした。それから、ディズニーランド
の水準に追いつけ、 追い越せを目標にする陣頭指揮が始まった。
直ぐ成果をあげなければならない新規事業の担い手には、積極的に中途採用を行った。私
118
第 5 章 運営開始とノウハウの蓄積
は採用に当たり経歴よりも人間性とこの新しい仕事に対する情熱を重視して採用をすすめ
た。ホスピタリティー・ビジネスは労働集約型であると同時に、特に、そこで働く人の資質
が業績に大きく影響する。多様な個性をもった人たちを採用したが、私はその多様なエネル
ギーを結集して求心力を高め、目標に向けて一体感・連帯感のある組織と人づくりに力を入
れた。 この人たちを中心に七千人のパートタイマー、 アルバイトの人たちに高いモチベー
ションを与え、ウオルト・ディズニー哲学・思想を反映した夢とビジョンを共有しながら、
高い目標に挑戦する情熱を引き出す主体性のある運営を押しすすめた。私自身は、組織の誰
からもよく見える場に身をおき、できるだけオンステージ、バックステージに出て、キャス
トの仕事を見てまわり、時には進んで現場の問題解決にみんなと共に取り組んだ。東京ディ
ズニーランドのようなホスピタリティー・ビジネスは、トップが極力、ゲストからもキャス
トからもよく見える存在であることが望ましい。そして、トップとしての情熱を常に示し続
けることだ。キャストの仕事に対する姿勢は、上司の姿勢から自然と生まれるもので、その
役割を東京ディズニーランドのマネジメント・スタッフに学ばせることが、私が積極的に現
119
場に立った理由なのだ。東京ディズニーランドの関連部門の全てが自立できるまでその努力
を続けた。結局十年間、いや一線から身を引くまでの二十年間休むことがなかった。ホスピ
タリティー ・ビジネスとはそういうものだ。
東京ディズニーランドがオープンして数年後、 ディズニー社のマイケル ・アイズナー会
長、フランク・ウエルズ社長から、
﹁この東京ディズニーランドの運営とサービスこそ、ウ
オルト・ディズニーが理想に描いていたものだ。今度は私たちディズニー社側が東京ディズ
ニーランドから学びたい﹂と高い評価を得ることができた。近年、ディズニー・テーマパー
クがアメリカの大学院のMBAクラスの﹁顧客満足﹂経営、顧客サービスのビジネス・モデ
ルと評価されているが、彼らのマニュアルをさらに超えたTDL方式がそこに影響していた
のだ。私はその評価に満足しながらも、それで終わらないために、マネジメント・スタッフ
に対し、﹁東京ディズニーランドはもうマニュアルに基づく理論を現場に応用するだけでな
く、これからは現場から自らの質の高い理論をつくり出して欲しい﹂と激励した。
私が大事にしたもう一つは、東京ディズニーランドの運営に関わるディズニー社側との意
120
第 5 章 運営開始とノウハウの蓄積
志疎通と信頼関係である。 外国企業と一緒に事業を行う場合、 法規・法令・慣習・サービ
ス・安全などの対応で、思いがけない対立や軋轢を生じやすい。しかし、互いの間に信頼関
係があれば、問題を克服することができるはずだ。基本契約に基づいて、オリエンタルラン
ドのパーク運営委員会に、ディズニー社側からも代表者が出て、業務の支援や助言に当たる
ことになっている。ディズニー社側は、ライセンサーであり、ライセンシーに対して承認権
を持つ強い立場にある。しかし、東京ディズニーランド・オープン以来の運営実績と相互の
信頼関係の積み重ねで、直面する対立や軋轢を一つ一つ克服することができた。両者の間に
は、目標達成に向けて、常に情報の共有とオープンな検討が重ねられ、最良の方法を見出す
ことができた。
私自身のディズニー社側のカウンターパートはディズニーランド運営実績三十年のジム・
コーラとアシスタントのロン・ポーグで、彼らは、私の東京ディズニーランド運営に対する
判断や方針に対しては柔軟で、東京ディズニーランドの運営基盤の確立を陰に陽に力強くサ
ポートしてくれた。これが縁で今でも彼らとは仕事を超えた付き合いを続けている。パーク
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運営委員会の日米トップの信頼関係が基礎にあって、その下に位置づくスペシャルイベント
委員会、スペシャルイベント・コンセプト・レビュー・ミーティング、ゲストクレーム・リ
ダクション委員会等々も、全て円滑にその業務を推進することができた。
5 顧客満足度を上げる三つの基本原則
東京ディズニーランドのオープンからしばらくして、私はゲストの満足度︵カスタマー・
サティスファクション︶の基本要因を三つ挙げるとすれば、それは①高い品質 ②ユニーク
性 ③体験の価値 だと確信するようになった。この基本要因に加えて、家族ぐるみで楽し
むことのできる健全な場所であるということはもちろん大前提として重要なことだ。
①高い品質の追求と保持
東京ディズニーランドがまず重視すべきことは、
﹁高い品質﹂の追求と保持である。それ
には毎日、ショー、ゲストサービス、商品、飲食等々、ゲストのディズニー・テーマショー
122
第 5 章 運営開始とノウハウの蓄積
経験を完全なものにするために、巨大劇場が毎日が初演の気持ちで、キャストが全ての細部
の要素に対して手を抜くことなく、とてつもなく大きな努力をしていることだ。
②ユニーク性
ゲストは、エンターテイメントが決して物真似ではなく、それぞれのテーマパークのオリ
ジナルであることを知っており、ユニーク性に期待している。ディズニーランドまがいのも
の、ウオルト・ディズニー・ワールドまがいのものであってはならないのだ。ディズニー・
テーマパークの全てのエンターテイメント ・プログラムは世界に一つしかないものであっ
て、それが世代を超えてどの世代にもアピールするものでなければならないのだ。
③体験の価値
ゲストが支払うお金と時間に対し、それに見合う体験の価値を必ず得ることができるとゲ
ストに感じてもらうこと。
以上の三点が私たちの最も優れた広告活動である口コミの評判を生むのだ。充分に満足し
たゲストが自分の周囲の人たちに自分の体験を話してくれる。これ以上に価値のある広告活
123
983
32.132
32,000,000
関東地方
84
148.153
12,450,000
南カルフォルニア
面積(平方 k m ) 平方 km 当り人口(人)
人口(人)
(ディズニーランド年間入園者数 13,500,000)
(東京ディズニーランド 15,000,000)
動はない。東京ディズニーランドのゲストの七〇%は首都圏を中心と
する関東地方からの日帰り入園者であり、その入園者の九七%の人々
が東京ディズニーランドを二回以上訪れている。このリピート層の高
い理由は、 何といっても大きな人口を擁するヒンターランド ︵後背
地︶を抱えていることと、アクセスが容易なことである。ロサンゼル
スのディズニーランドと東京ディズニーランドを比較してみると、東
京ディズニーランドがいかに恵まれた環境に立地しているかがわか
る。
関東地方の面積は南カルフォルニアの五分の一であり、人口は二・
五倍、 つまり一平方キロメートル当たりの人口密度が約十二倍なの
だ。今になって思えば、東京ディズニーランドのように恵まれた立地
は他に類がない。
この人々に繰り返し東京ディズニーランドに入園し
てもらうためには、標的市場ターゲットを明確に定め、刺激的なディ
124
ズニー・テーマショーやライブ・エンターテイメントのスペシャルイベントを絶えず打ち続
けることなのだ。特にスペシャル・パレード、花火、フォーマルなステージ・ショー等のラ
イブ・エンターテイメントはスローシーズンの﹁集客量を調整する﹂重要な方法なのだ。
東京ディズニーランドはオープン以来、順調に集客が伸びていたが、五年後の一九八七年
に、年間入場者数が前年度の一千六十六万人から一千二百万人に増加した。その年、正式社
名をウオルト・ディズニー・プロダクションズからウオルト・ディズニー・カンパニーに変
更した、ディズニー社のフランク・ウエルズ社長が来日し、高橋政知さんと会談した折に、
ウエルズさんから﹁東京ディズニーランドはこのままいくと間も無くキャパシティーが狭隘
になることは間違いない。そこで第二パークの検討について話し合いを始めたい﹂という話
が出て、これが後々の東京ディズニーシー︵TDS︶ 増設の端緒となった。
125
︵昭和六十二年︶夏に、新しくビックサンダー・マウンテンのアトラクションを追加した年
第 5 章 運営開始とノウハウの蓄積
6 ハイソサエティの交流の場の役割
一九八七年に、トヨタ自動車の豊田英二会長夫妻と豊田章一郎社長夫妻が来園し、園内を
江戸英雄さんと高橋政知さんと私の案内で見学された。 お二人から園内の清掃とアトラク
ションのメンテナンスについて質問があり、 私から詳細に説明を申し上げた。 東京ディズ
ニーランドのアトラクションのプレベンティブ・メンテナンス・システム︵事故防止維持シ
ステム︶の説明に対して、機械の保守に詳しい豊田社長から﹁ジェット機のメンテナンス・
システムと同じような思想でやっているんですね﹂という感想を頂いた。ゲストの﹁安全﹂
に対して自分を懸けて仕事をしていた私にとって、豊田社長の賛辞は何よりも嬉しかった。
一九八六年、私はクリスチャン・ディオールの日本広報担当から﹁東京ディズニーランド
でお城を背景にファッションショーをやりたい﹂という打診を受けた。日本への本格的な進
出に先がけたキャンペーンが目的だった。私は﹁シンデレラ﹂をテーマにという条件をつけ
てこの申入れを引き受けた。相手側には戸惑いもあったようだが、私としてはディズニー・
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第 5 章 運営開始とノウハウの蓄積
テーマパークのテーマ性に矛盾するイベントは受け容れることはできなかったし、ディオー
ル側もそれを了解してくれた。五月のその夜、招待された男性は全員がタキシード、女性は
ロングドレスで集い、ブルーカラーの照明を当てたお城を背にしたワールドバザールのプラ
ザ側のステージで優雅にして華麗なファッションショーが繰り広げられた。ディズニーのブ
ランド・バリューのありがたさをしみじみ実感した。
その翌年の初夏、スウェーデンの経済使節団としてカール十六世グスタフ国王がVOLV
O︵ボルボ︶等、同国の産業界の代表者十名を同道して来日された。その折に、国王が東京
ディズニーランドへの来園を希望され、一夕を東京ディズニーランド内のレストランで楽し
まれた。私はホストとしてディナーパーティーを主催し、かつて私がスウェーデンの﹁スカ
ンセン﹂を視察して東京ディズニーランド・プロジェクト建設の貴重な勉強になったお礼を
申し上げた。私がストックホルムを訪れた当時は、国王がドロットニングホルム宮殿へ転居
される以前で、国王は時折夕方などに、旧市街にある王宮から自転車に乗って街に買い物に
お出かけになることもあった。 その気さくさが市民から非常に親しまれていた。 私は東京
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ディズニーランドがいつからか、ハイソサエティの交流の場のグランド・ホテルの役割を果
たしていることに気づいた。
高橋政知さんは一九八八年、東京ディズニーランドの五周年を機に、自ら﹁老兵は早く消
えた方がいい﹂と言われて、社長を興銀出身の森光明専務に託して会長に退いた。森さんは
第二パークの初期段階の計画や、株式などによる将来の資金調達計画の展望作業等に取り組
まれたが、 一九九二年に急逝され、 後任には千葉県庁から来られた加藤康三副社長 ︵後会
長︶が就いた。高橋さんは社長を譲った時に、すでに体調の不良を感じておられたのかもし
れない。一九九〇年七月八日未明、高橋さんが体調不調に陥り、自分でベッドから電話を手
繰り寄せて一一九番し、救急車を呼んでかかりつけの港区の心臓血管研究所に急遽入院した
のである。 午前一時のことだった。 病因は心筋梗塞だった。 前から心研にかかってはいた
が、奥様の看病をするなどの負担も重なり心身の過労が原因だったように思う。私はよくお
見舞いに伺った。高橋さんはこの入院ですっかり自信を失っていた。ある日、ベッドで横に
なっていた高橋さんが﹁上澤君、俺はもうやめるよ﹂というのである。その言葉が私にはと
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第 5 章 運営開始とノウハウの蓄積
てもつらく聞こえてならなかった。それはディズニー社との契約のために二人で渡米して以
来、この人に懸けて仕事をやって来た私自身の目標を失うことだった。幸い、五十五日間の
入院で、九月十日に退院し、十月十九日に出社できるまでに回復した。その後無理はできな
かったものの、やがて仕事に復帰し、二〇〇〇年一月逝去されるまで高橋さんは東京ディズ
ニーシーの実現を推進した。彼をサポートし二つ目のパークの推進にたずさわったのが加賀
見さんだった。
東京ディズニーシーは二〇〇一年九月にオープンし、東京ディズニーリゾートの幕明けと
なった。東京ディズニーランドがそうであったように、東京ディズニーシーの真の評価が定
まるまでにはこれから十年、二十年の歳月を必要とするだろう。その評価を下すのは当事者
ではなく、 常にそれは首都圏三千五百万人のサポーターを中心にしたマーケットである。
テーマパーク・ビジネスの経営はかくも峻厳であり、なによりも自重と謙虚さが求められる
ゆえんである。
一九九二年には、東京地方にも雪の降る日が多かった。その年の二月一日、その日も夜来
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の雪が降り止まず、 東京・千葉は大雪に見舞われて、 千葉県内は高速道路の規制が実施さ
れ、早朝から交通も混乱していた。余りの気象条件の悪さに東京ディズニーランドも終日ク
ローズかと思案していると、 未明のまだ薄暗い時間に電話のベルが鳴った。
﹁今日はまっすぐ会社に行って対処してくれ。パークの運営を頼む﹂
その日は、高橋さんの奥様の葬儀が護国寺で執り行われる日だった。前夜のお通夜から降
り始めた雪は朝になっても降り続けて関東一面が白雪となり、JRや私鉄もまともに動かず
参列者の多くが葬儀に遅刻する忘れ難い大雪だった。高橋さんは、気象天候の急変やゲスト
への配慮など、日々会社の推移に心配りを欠かさない人だった。東京ディズニーランドと部
下に対して奥深い愛着を持つ人だった。豪放磊落でありながら、気遣いの細かく行き届く人
であった。 これが高橋さんの魅力であった。
東京ディズニーランドの集客はその後も順調に推移して、
一九八八年︵昭和六十三年︶ 五周年 一三、三八一千人
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第 5 章 運営開始とノウハウの蓄積
一九九三年︵平成五年︶ 十周年 一六、〇三〇千人
一九九八年︵平成十年︶ 十五周年 一七、四五九千人
と五年毎の飛躍を続けた。
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