製品開発における技術選択要因

関東学院大学『経済系』第 259 集(2014 年 4 月)
論 説
製品開発における技術選択要因
——自動車エンジンマネジメントシステムの事例——
A Factor of Technology Choice in Product Development:
A Case of Engine Management System
伊 藤 誠 悟
Seigo Ito
要旨 本論文は,性能面で優れている新技術が存在するにもかかわらず,新規の製品開発に旧来の
技術を選択した自動車のエンジンマネジメントシステムの開発事例を分析対象とし,技術選択の意
思決定に影響を及ぼす要因を検討している。本論文が取り扱っている事例では,原理的に優位性の
ある技術が実用化されているにもかかわらず,既存技術を採用して新製品の開発を行う意思決定を
している。なぜ新規性の高い技術が選択されず,既存技術を採用して製品開発を行ったかについて
考察した結果,製品が性能向上した新規技術に移行していく過程においては既存技術の物理的限界
と顧客の選好変化の要因が技術選択に影響を及ぼしていることが指摘される。
キーワード 技術選択,製品開発,技術経営,自動車エンジン部品,事例研究
1.
2.
3.
4.
5.
1.
はじめに
本論文の問題意識
事例の概要
ディスカッション
結び
はじめに
地位を占める既存の企業が豊富な経営資源を保有
しているにもかかわらず,しばしばチャレンジャー
本稿の目的は,自動車エンジンマネジメントシ
である新興企業にその地位を奪われることに関心
ステムの新製品開発で観察された技術選択の事例
を示してきた。その後,研究が積み重ねられ,有
を通じて,システムに採用する技術の選択に影響
望視される新規技術の全てが製品市場において支
を及ぼす要因を検討することである。企業は,製
配性を確立するわけではないことや,結果的にあ
品開発において活用する技術が複数存在する時に,
る新規技術が支配性を確立するには一定の時間を
技術をどのように選択するのであろうか。企業が
要することが明らかにされた。しかしながら,技
技術選択する際に影響を及ぼす要因は何であろう
術変化に対する企業の意図的な取り組みに焦点を
か。これが本稿の素朴な問いかけである。本稿で
当てた研究はまだ多いとは言えない。このような
は,新製品開発時の技術選択の要因について時間
背景をもとに,本稿は新技術の登場と企業戦略と
展開と性能次元の視点を加えて論じる。
の関係に着眼点を置き,製品開発における技術選
技術経営に関する研究では,新規の技術が登場し
択に影響を及ぼす要因を探求する。
技術選択の意思決定の必要が生じる際に既存企業
がどのような対応をとっているのかについて研究
がなされてきた。初期の研究の多くは,リーダーの
— 52 —
製品開発における技術選択要因
2.
本論文の問題意識
オン電池の事業化を積極的に進めたソニーと東芝
が,限られた下位セグメントにだけ市場を限定し
技術変化に対する研究者の関心は,支配的技術
て参入していた三洋電機に対して,その後市場地
の変化に対して既存企業はいかに適応すべきかに
位を低下させていった(山口,2007)
。なぜ迅速な
向けられてきた。まず,新古典派経済学の枠組み
新技術への移行が競争優位の持続につながらない
に依拠する説明論理は,新興企業に比べ既存企業は
ことがあるのだろうか。その理由の一つは,在来
技術変化に対して投資のインセンティブが相対的
技術からの代替には時間がかかることがしばしば
に弱いため対応しない,というものである。すな
あるということである。新規技術は初期段階にお
わち,能力的に対応できないのではなく,対応する
いて性能–コスト比で既存技術を下回ることが多
意欲が弱いということになる。また,先行研究では
い。このような状況が続く限り,新規技術が市場
組織理論からの説明も次のように試みられている。
で既存技術を代替することはなく,性能–コスト比
既存企業が保有する技術的能力が技術変化への対
で既存技術を上回るまでの時間が長くなればなる
応を阻害する(Tushman and Anderson, 1986)
,既
ほど,新規技術へ早期に移行することは事業活動
存企業は能力の罠に陥る(Leonard-Barton, 1992)
に良い影響を及ぼさない。
という説明や,既存能力に影響を受けた企業組織の
また,新規技術に対する需要が顕在化するのに
認知枠組みのために技術変化のもたらす機会や脅
時間を要すると,企業内部での資源動員の正当性
威を適切に認識できない(Henderson and Clark,
の面でも支障をきたす。新規技術が性能–コスト比
1990)といったものである。
で既存技術を上回る時期までに経営資源を維持す
組織内部にではなく顧客との関係に着目したも
ることが容易ではなく,早期に投資を回収しよう
のは Christensen を中心とした研究である(Chris-
とすると新規技術の展開を狭める可能性が高くな
tensen, 1993, 1997; Christensen and Bower,
るというジレンマに陥る。
1996)。既存企業が新たな技術課題に対応できな
加えて,顧客が選好する性能次元は単一ではな
いケースは決して多くなく,むしろ既存企業の方
く,顧客セグメントによって異なることが多い。
が新たな技術開発には積極的な場合が多く見られ
これは消費財でより顕著であるが,Christensen ら
る。にもかかわらず既存企業が技術変化への対応
の研究のように生産財でも見られる(Christensen,
に失敗するのは,新技術を用いた製品の事業化を
1993, 1997; Christensen and Bower, 1996)。製品
妨げるメカニズムが存在するためと Christensen
は成熟化の過程で顧客の求める性能次元が集約化
らは考えた。そして,彼らは既存企業が新規参入
されるなど単一次元の性能– コスト比で評価される
企業にリーダーの地位を奪われる要因は製品機能
ようになり,最終的には価格のみの競争となる性
の再定義を伴う技術変化であるということを見い
質がある。いわゆるコモディティ化である。支配
だした。
的な技術が変化するタイミングでは,性能次元が
企業内での技術蓄積の歴史,埋没費用,顧客と
多様化し,どの次元を顧客が重視するかの予測が
の関係が,既存企業の技術変化の対応を遅らせる
困難になることが多い。そのため,性能次元の顧
という先行研究の見解に沿えば,有望な新規技術
客選好に関しては不確実性が高まるといえる。技
が登場した際には,迅速にその技術を基に事業化
術の普及スピードに影響を及ぼすものとして,ま
することが望ましいことになる。新規技術が既存
ず考えられるのは新技術と既存技術の性能– コスト
技術を代替するのであれば,既存の技術に固執す
比の関係であろう。そこには既存技術の性能向上
ることは競争地位の低下を招くからである。
の物理的な限界を見極める難しさ,もしくは顧客
しかし,現実の世界では新技術への迅速な移行
が必ずしも良い成果をもたらすとは限らない。二
や競合他社との利害関係者間の合意形成により意
図せざる展開が生じることがある。
次電池市場において,新規技術であるリチウムイ
— 53 —
技術の選択肢がいずれかの段階で絞られるとい
経
済
系 第
259 集
うことが想定されているが,顧客や競合他社との
かわらず,PFI 技術を選択し,既存技術の延長線
関係で選択肢が増える,もしくは想定されている
上にあるデュアルインジェクタ・システムを事業
顧客が細分化されて異なる市場セグメントを形成
化したことに関する背後の論理を探求する。
する場合もある。複数の市場セグメントが共存し
ている場合でも,時間の経過とともに一つの市場
3. 事例の概要
セグメントが他の市場セグメントを駆逐すること
3.1 デンソー
がある。
上記のことを考慮すると,時間展開と性能次元
デンソーは,ドイツのロバート・ボッシュ社と世
は,技術の物理的限界や顧客の選好の変化といっ
界シェア 1 位を争っている日本の自動車部品メー
た要因により,相互に依存していることになる。
カーである。近年,デンソーとロバート・ボッシュ
つまり,技術変化への企業の対応は,技術の本質
社の世界シェアは頻繁に入れ替わっており,それ
的特性のみでなく顧客と競合他社との関係性も考
ほど熾烈な競争を展開している。デンソーはトヨ
慮する必要がある。よって本稿では,技術変化と
タ自動車のほか,日本の自動車メーカーほとんど
企業行動の関係を時間展開と性能次元の視点を加
全て,及び海外の主要な自動車メーカーに自動車
えて論じる。
部品を納入している。2013 年 3 月期でのデンソー
本稿で取り上げる事例は,自動車エンジン部品
の開発・事業化である。具体的にはエンジンマネ
の売上高(連結ベース)は 3 兆 5,809 億円,営業
利益 2,623 億円となっている。
ジメントシステム1) の開発をめぐる競争に直面す
デンソーが手がけている製品は,スタータ,オル
る企業に焦点をあてる。本稿の事例は,株式会社
タネータなどの電装品,ラジエータ,エアコンなど
デンソー(以下,「デンソー」)のエンジンマネジ
の熱機器,インジェクタ,フューエルポンプ,O2
メントシステムの開発における,気筒内への直噴
センサなどのエンジン機能品,メータ,ナビ,ETC
システム(以下,GDI)とポート噴射システム(以
などのボデー機能製品と多岐にわたっている。取
下,PFI)の技術選択を取り上げる。
り扱っている新車用自動車部品の製品数は 80 品
以下では,まずデンソーの企業概要に触れた後
目以上ある。2009 年時点の調査では,そのうち 20
に,デンソーが開発・事業化したデュアルインジェ
品目が世界シェア 1 位となっており,2 位と 3 位
クタ・システムの事例を記述する。続いて,事例
の製品を含めると 32 品目にもなる(図 1 参照)。
分析に基づき,複数技術が共存する場合に,製品
その後も安全走行関連製品を中心に新規製品を市
における技術選択に影響を及ぼす要因について考
場に積極的に投入し,市場をリードしており,そ
察を進める。具体的には,物理的な原理からすれ
のステータスは向上しているものと思われる。
ば理想に近い GDI という新技術が存在するにもか
3.2 エンジンマネジメントシステムと
〔注〕
1)自動車のエンジンシステムは,ガソリンや軽油を燃
料として燃焼させることで動力を得る仕組みが 100
年以上継続している。近年は内燃機関システムを補
うために電力モーターを併設するハイブリッドシス
テムの製品開発が盛んに行われているが,メインの
動力源が内燃機関であることには変化がないため,内
燃機関を代替するような技術進化ではない。100%電
力で走行するいわゆる EV の開発・市場化も行われ
ているが,いまだ支配的な技術になるという見通し
は立っていない。むしろハイブリッドシステムの方
が実用性の面で再評価されているのが現状である。
インジェクタ
エンジンマネジメントシステムとは,電子回路で
構成した電子制御ユニット ECU(Electronic Control Unit)を用いて燃料噴射制御2) ,点火時期制
2)エアフローメータと呼ばれるセンサでエンジンに吸
入される空気量を測定し,その空気量に応じた最適
な燃料量をコンピュータによって計算する。計算さ
れた量の燃料をインジェクタと呼ばれる燃料噴射弁
からエンジンの吸気管に噴射する制御を行うもので
ある。エンジンシリンダ内に吸入される空気と燃料
— 54 —
製品開発における技術選択要因
図 1 製品別市場シェアランキング(2009 年時点)
(出所)デンソー提供資料をもとに筆者作成
御3) ,アイドル回転数制御4) ,EGR 制御5) などを
入する空気の量に対するガソリンの混合比率(燃
することにより,エンジンを最適な状態で作動さ
料噴射量制御)や爆発のタイミング(点火時期)を
せるものである。
精緻に制御することによって,エンジンの性能(出
エンジンを制御する主な狙いは,エンジンが吸
力と燃費)と排出ガス浄化を両立させることにあ
る。ピストンが上死点(ピストンがシリンダの最
の比率(空燃比)を制御する目的は,排出ガスを浄
化する触媒を有効に働かせることである。触媒の有
効性は空燃比によって大きく左右されるので,それ
が有効に作用する理論空燃比(14.7 対 1)付近に保
つ必要がある。そのため排気管に酸素センサを取り
付けて排気中の酸素の濃度を測定し,理論空燃比に
対し燃料が酸素の量より濃い場合には燃料噴射量を
減らし,薄ければ増やすという制御をコンピュータ
が行う。
3)遠心式ガバナーや吸気管負圧を利用したバキューム
コントローラーによる機械的な進角に代わるもので,
エンジンの回転数と負荷の状態をセンサで検知し,
点火時期を制御するものである。イグナイタへの通
電時期をコンピュータによって制御するため,機械
的な進角装置より細かな点火時期制御が可能となる。
エンジンの状態により点火してから最高爆発圧力に
達する時間が変化するため,点火時期を進めたり,
遅らせたりして,エンジン出力の効率性を上げる。
上端にきた位置)の若干手前でちょうど点火する
ことで完全燃焼の状態に近づけ,また最も理想的
な空気とガソリンの混合比率を常に保ちつつ,三
元触媒と組み合わせることで,エンジンの出力を
損なうことなく,排出ガス中の炭化水素(HC)
,一
酸化炭素(CO),窒素酸化物(NOx)を同時に削
減する。これらは燃料噴射と点火時期を精緻に制
御することで初めて可能になる。
インジェクタはエンジンマネジメントシステム
4)エンジン運転中にアクセルペダルを離している状態
をアイドリング状態という。アイドリング状態では
エンジンは何も仕事をしていないので,アイドル回
転数は低ければ低いほど燃費は良くなる。しかし,
使用年数の経過とともにエンジンの調子が変わり,
アイドル回転数も不安定となる。アイドル回転数が
安定していないと不快な振動の発生や発進時のエン
— 55 —
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図 2 エンジンマネジメントシステムの全体構造
(出所)デンソー社内資料
内の基幹部品の一つで,燃料の噴射を行う機能を
1996 年には燃料を直接シリンダ内に噴射する直
担っている。エンジンマネジメントシステムの全
噴システムを搭載したエンジンが三菱自動車より
体構造は図 2 を参照されたい。インジェクタの歴
発売された。GDI6) のメリットは,耐ノック性が高
史を振り返ると,昭和 53 年排出ガス規制をクリア
く圧縮比を上げられるため熱効率が良くなり,結
すべく自動車の燃料供給は機械式のキャブレター
果としてエンジンの燃費が上がることにある。市
から電子制御式インジェクタに移行していくとこ
ろから始まっている。電子制御式により駆動パル
スの長さを変化させることで燃料噴射量のきめ細
かい制御が可能になり,エンジンを排出ガス規制
に適応させることが可能になったのである。その
後,インジェクタはより一層燃費向上や排出ガス
規制に対応すべく,PFI の製品性能の進化が続い
てきた。
スト,燃費の悪化などの現象が生じる。このような
問題を解決する目的で,コンピュータによる最適な
アイドル回転数の自動制御が導入された。この制御
は,スロットルバルブと並列に空気のバイパス通路
を設け,この通路に取り付けられた ISCV(アイドル
スピードコントロールバルブ)の開度をコンピュー
タによって調整し,バイパス空気流量を変えて回転
数を制御するものである。
5)排出ガスの適量を吸気管に戻すと燃焼温度が下がり,
窒素酸化物(NOx)を減少させられる。この効果を
狙い現在のエンジンの多くは排出ガス中の NOx を
減らすために,排出ガスの一部を吸気管に戻してい
る。ところが,吸気管への戻しが多すぎると燃焼が
不安定になり,戻し量が少なすぎると NOx が減少し
ない。排出ガス中の NOx を削減するという機能を
実現するためには,排出ガスの戻り量をコンピュー
タによって正確に制御する必要がある。
6)GDI は PFI と比べ燃料を高圧化する部品が必要で
ある。ガソリンタンクにある燃料ポンプから圧送さ
れた燃料を高圧ポンプにより昇圧する。高圧ポンプ
は吸気・排気カムのいずれかのカム動力によって駆
動される。そのため,エンジン始動時等の低負荷時
にはエンジンの機械的損失が大きく,高圧ポンプを
駆動するためのカムのトルクが大きくなって燃費が
悪化してしまう。低排気量のエンジンでは大排気量
のエンジンに比べて機械損失の影響が大きいため燃
費悪化の割合が大きくなる。
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製品開発における技術選択要因
表 1 2008 年時点での主要自動車メーカーの燃料供給方式の市場投入状況(生産地ベース)
(出所)IHS データより筆者作成
場投入当初はガソリンエンジンの新しい技術とし
10 倍以上の圧力を許容する構造としなければなら
て普及すると考えられていた。発売当時の GDI は
ない。また,燃料を加圧するための高圧ポンプや,
リーンバーンと呼ばれる燃焼コンセプト7) を採用
高圧の燃料をシリンダ筒内に噴射するためのポー
していたが,システムコストが高い割には思った
ト噴射式とは異なる直噴インジェクタが必要とな
ほど燃費が上がらないという問題があった。その
るなど,GDI のシステムコストは PFI よりも数倍
問題を解決すべく,欧州メーカーを中心にストイ
高い。さらに,小型車ではシステム圧力を高圧化
キオメトリック燃焼(均質燃焼)8) が採用された。
すると,燃料を高圧にするための駆動ロスが大き
ストイキオメトリック燃焼は従来の PFI と同じ空
く GDI のメリットを生かせないという問題もあっ
燃比で燃焼させる方式であり,排ガスを浄化する
た。また,小型車はシリンダ直径が小さく噴射し
ために従来から用いられていた三元触媒を使用で
た燃料がシリンダ壁面に付着してしまうという難
きる上,ダウンサイジングコンセプトと過給との
点も指摘されていた。
表 19) は主要自動車メーカーが採用するガソリン
相性が非常に良く,この仕組みにより GDI への転
エンジンの燃料供給方式の,2008 年の市場投入状
換が進むと思われた。
その一方,GDI はシリンダ筒内に燃料を直接噴
況である。2008 年時はデュアルインジェクタの開
射するという性質上,高い圧力で噴射する必要が
発が行われていた。表 1 における市場セグメント
ある。燃料系のシステムが高圧になることでシス
とは車格による分類と考えてもらえばよい。トヨ
テム圧力が上昇し,PFI では約 300∼400 kPa の燃
タ車を例にとると,A セグメントはヴィッツ,B セ
料圧力であったが,GDI では 4∼20 MPa となり,
7)燃料と空気の量が,例えば 1 対 40 だと酸素過剰の
燃焼のため NOx の発生が多く,従来の排ガスを浄
化する三元触媒を使用することができず,新たな触
媒が必要であった。また,触媒で収集した排ガス中
の煤を還元するのに排気温度を上げねばならず,そ
のため多くの燃料を噴射する必要があった。
8)均質燃焼とは理論空燃比(ストイキオメトリック)
で燃焼させる方式であり,リーンバーンとは異なり,
従来の三元触媒を用いることができる。
9)表 1 は販売エリアではなく生産地ベースの資料であ
るため,実際の市場投入を反映しているわけではな
い。フォルクスワーゲン(VW)は日本では生産し
ていないため,表 1 では日本は空欄になっているが,
B セグメントの POLO,C セグメントの GOLF な
ど主要車種を欧州から輸出し,販売している。市場
別に精緻に分析するためには,販売地域ベースの一
覧を作成し表 1 と合わせて考察することが必要であ
るが,表 1 のみでも各社の技術方針を推察すること
はできると考える。
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グメントはベルタ,C セグメントはカローラ,D セ
となる吸気・排気バルブのシステムの形が出来上
グメントはマーク X,E セグメントはクラウンで
がり始めていた。インジェクタは 2 つの吸気ポー
ある。表 1 からわかるように,最も積極的に GDI
トにそれぞれ燃料を導入する必要があったため,2
を採用しているのはフォルクスワーゲン(以下,
つの吸気ポートへ導入できるよう噴霧方向が 2 方
VW)である。欧州を中心に GDI に過給装置を付
向になった。従来のピントルタイプでは噴霧方向
けることでエンジンをダウンサイジングし,低エ
は 1 方向だけであったが,B 型インジェクタは噴
ミッションと高燃費の両立を狙っている。GDI の
孔で噴霧方向を制御し,2 方向噴射できるように
採用に消極的なのはホンダである。また,日産・
なった。
ルノーも日本での上位車種を除いては PFI を中心
C 型インジェクタになると,マルチホールと呼ば
に展開している。GM は欧州及び米国で同一セグ
れる技術によって燃料の微粒化を一層促進できる
メント内に GDI と PFI を併用しており,車種で
ようになる。噴孔径が小さければ小さいほど微粒
棲み分けをしているものと推測される。トヨタは
化が可能であるため,複数の小さな噴孔を使うこと
GDI と PFI を市場セグメントで棲み分けをして
で噴霧粒径を小さくした。この頃になると,数多
いるようである。欧州の D セグメントで一部重複
くの自動車メーカーとの取引が始まり,各メーカー
が見られるが,大きな方針としては上位車種には
からインジェクタの仕様への要望が多様になって
GDI を採用し,ボリュームゾーンの市場には PFI
きた。インジェクタの流量,噴霧方向,最低流量
で対応している。また,トヨタはハイブリッドシ
と最大流量など,メーカーからの要求値通りに開
ステムを積極展開しており,C セグメント以上で
発を行ったため,多くの品番を抱え,開発負担が大
は PFI にモーターを搭載するシステムも投入して
きくなっていた時期である。一方で A 型や B 型と
いる。
は異なり,技術の固定化とともに徐々にインジェ
事例研究の対象企業であるデンソーは,ほとん
クタの外観の標準形状が決まりつつあり,新たな
ど全ての自動車メーカーと取引をしている。特に
開発への足がかかりになっていた。C 型は 1999 年
トヨタの燃料供給システムの大半を納入する主力
以降になると 12 孔の噴孔を採用していたが,孔を
のサプライヤーである。顧客の状況から推測する
小径かつ多数にすることによる微粒化の限界が見
と,デンソーは GDI 向けのインジェクタ開発へ全
え始めていた。
面移行することはできない。PFI の開発リソース
UC 型インジェクタは C 型の多数の品番を抱え
を維持し,GDI の開発を同時並行的に進めなけれ
るという問題を解決するため,C 型の開発で学習し
ばならなかったと推察される。
た自動車メーカーニーズに対し最適な解を見つけ
る方法を採用した。その結果,インジェクタが噴
3.3 デュアルインジェクタ開発
射できる最小噴射量と最大噴射量を,小型∼小中
3.3.1
型のエンジンまでカバーするタイプ,小中型∼中
インジェクタ開発の歩み
デンソーのインジェクタは 1972 年から製品と
型をカバーするタイプといったように,何パター
して世の中に発売された。A 型と呼ばれる初期の
ンかに分類することで,従来のインジェクタより
インジェクタはピントルタイプと呼ばれるもので
も製品バリエーションを減らしている。それによ
あった。また,当時のエンジンは吸気ポートが 1
り,従来のような自動車メーカーの要求通りに開
ポートのみだったため,噴霧方向は 1 方向のみの製
発するのではなく,自動車メーカーの要求に対応
品であった。当初の噴霧粒径は 250 ミクロンメー
できるインジェクタ提案が可能になった。さらに,
トルとなっている。
UC 型開発では噴孔も大きな特徴である。従来は
A 型インジェクタから B 型インジェクタに移行
ストレートの孔を小さくするという手法であった
するとき,吸気バルブや排気バルブが 1 シリンダ
が,コンピューターシミュレーションの能力向上
に 2 個ずつ配置され,デュアルインジェクタの原型
に伴い,墳孔をストレートからテーパー形状にす
— 58 —
製品開発における技術選択要因
ることで,従来の微粒化の方法とは異なる技術を
大型車の燃料噴射量をカバーできる噴射量におい
用いている。従来のインジェクタは噴孔から噴射
て,粒径 50 ミクロンメートル以下というインジェ
される液柱が空気とのせん断によって微粒化され
クタの開発目標が設定されたが,UC 型インジェ
ていたが,テーパー形状では燃料液膜を噴孔内に
クタを超える性能が必要であり,さらなる微粒化
作り,空気と触れる表面積を増やすことで微粒化
のために目標値は 30 ミクロンメートルに設定さ
するものである。これにより,インジェクタの噴
れた。
霧径は 50 ミクロンメートルまで微粒化可能になっ
ている。
インジェクタの噴射量設定は「大は小を兼ねる」
という考え方がある。製品を多くのセグメントの
2010 年に日産ジュークのエンジンシステムに採
エンジンに対応させようとすれば,大型車の排気
用されたデュアルインジェクタは,2002 年に市場
量をカバーできる大流量サイズにする必要があっ
投入した UC 型インジェクタの次期型製品として
た。微粒化性能と燃料噴射量には明確なトレード
すぐにコンセプトが見出されたわけではない。デ
オフがある。燃料を多く噴射しようとすれば,噴
ンソーでは UC 型以来,インジェクタの性能を向
孔11) の数を増やすか,噴孔を大きくするしかない
上すべく様々な取り組みを行っていたが,新たなコ
が,噴孔を大きくすると微粒化性能が悪化するた
ンセプトを生み出せていなかった。UC 型は,イン
めである。そのトレードオフを考慮し,エンジン
ジェクタ単独で微粒化性能を上げることと C 型に
性能に影響を与える微粒化性能に焦点を当てた新
比べて製造しやすいことを統合したコンセプトと
たな研究を総研がスタートさせた。
して開発が行われたものである。従来のインジェ
今までのインジェクタ開発の経験から,事業部
クタ開発の歴史と同様に,インジェクタ単独の性
や総研はインジェクタの噴霧を微粒化したほうが
能を上げるべく様々な取り組みが行われていたも
エンジン性能の向上につながることはわかってい
のの,エンジン性能に大きく影響するほどの性能
た。しかし,吸気ポート 2 つに対してインジェク
向上につながっていない状態であった。
タが 1 本であると,吸気ポートへの燃料付着がど
うしても発生するため,インジェクタ単体の微粒
3.3.2
デュアルインジェクタのコンセプト
化性能を向上させるだけでは限界があった。また,
インジェクタの開発を実質的に担っているデン
吸気開弁噴射12) のコンセプトを実現するためには,
ソーのガソリン噴射事業部(以下,
「事業部」と略
す)は,2000 年以前から株式会社日本自動車部品
「総研」と略す)へインジェ
総合研究所10)(以下,
クタ噴霧の微粒化技術の開発と,エンジンでの混
合気形成と燃焼の解析を委託していた。
2000 年当時,総研はインジェクタから噴射され
る液滴の微粒化に関する分裂過程の研究,その噴
霧を作り出す噴孔の研究をしていた。2001 年には
10)株式会社日本自動車部品総合研究所は,自動車の安
全と公害防止の社会的要請に応えることを目的に,ト
ヨタグループ 11 社の共同研究機関として,1970 年
11 月に設立された。1985 年からはデンソー 75%と
トヨタ自動車株式会社 25%の出資会社となり,テー
パワートレイン,パワーエレクトロニクス,電子・通
信,熱機器分野の研究開発を行っている。デンソー
やトヨタ自動車からの研究委託や共同研究により研
究費を得ている。
11)UC 型インジェクタに搭載されているテーパー噴孔
は微粒化性能を向上させるための重要な技術である。
この技術は,デュアルインジェクタにも搭載されて
いる。エンジン性能に与える影響が大きい噴霧粒径
について微粒化を突き詰めて考えたときに開発され
たものであり,1990 年代に開発を始め UC 型に搭載
し 2002 年から量産された。テーパー噴孔は円錐状
の噴孔形状をしており,燃料の入り口が狭く,出口
に向かうにしたがって噴孔が大きくなる。UC 型の
場合は 12 孔になっている。一方,円柱状の噴孔形
状をしているストレート噴孔の微粒化のメカニズム
は,液柱が噴射された後に,液滴となり,そこから
分裂するという気中分裂である。テーパー噴孔だと
テーパーの形状に沿って馬蹄形に液膜が形成され,
液膜分裂のメカニズムによって微粒化される。
12)吸気バルブが開弁しているタイミング,つまりシリ
ンダ内に空気が導入されている非常に短いタイミン
グで燃料を噴射し,シリンダ内に燃料を導入すると
いうものである。
— 59 —
経
済
系 第
259 集
微粒化性能と吸気ポートの燃料付着抑制が両立で
から開始し,同 3 月にはエンジン評価試験を開始
きないと,未燃 HC が発生してしまう。
した。まずは,トヨタの量産エンジンをベースに
燃料噴射量を大きくすれば吸気ポートがウェッ
従来のインジェクタを 2 本搭載する改造を行い,
トになり,燃料噴射量を小さくすればエンジンが要
その効果を確認した。インジェクタについては,,
求する噴射量をカバーできなくなる。このトレー
1 本ごとの流量サイズを下げて微粒化性能を向上
ドオフを解決できない限り,微粒化性能と燃料噴
させた試作品を搭載することにした13) 。
射量の両方を満足させることが出来ない中途半端
最初の 2005 年 3 月のエンジン評価の試験結果は
なインジェクタが開発されてしまう。この難問に
非常によいものであった。トルクが 10%向上して
対して,総研では微粒化性能の向上を優先し,イ
おり,燃費換算すると 2 割向上である。その試験
ンジェクタを 2 本使用する方法で燃料噴射量を確
結果を総研は事業部へ月報14) で情報展開した。し
保することにした。総研が純粋に微粒化と噴霧を
かし,そのデータは正しい性能を表していなかっ
突き詰めるという考え方から導き出した一つの解
た。普通なら排ガスのエミッションを考慮し,触
であった。
媒などが搭載されたトルクが出にくい排気管を使
そもそも,事業部では吸気ポートにインジェク
うところ,最初の評価試験ではパワーが出る排気
タを 2 本使うという発想はなかった。総研は事業
管を間違えて使ってしまっていた。そのため,ト
部から距離が置かれていたこともあり,長期的な視
ルクが 10%15) も向上するというエンジン評価結果
野で純粋に技術開発と研究を行うことができる環
が出てしまい,デュアルインジェクタ開発を加速
境にあった。その恩恵から,この時期にインジェ
させることとなった。翌 4 月には,正しい排気管
クタ開発に必要な技術開発として,噴霧の微粒化,
での評価が行われ,2%のトルク向上という結果で
エンジンでの噴霧挙動,衝突噴霧や燃料付着につ
あった。しかし,開発は中止されなかった。
それほどにトルクが 10%向上したことのインパ
いて,突き詰めた研究を集中的に実施していた。
表 2 は 2002∼2009 年までの間に総研が噴霧に関
クトは大きく,ハイブリッドやアイドリングストッ
して学会報告した一覧である。毎年コンスタント
プなどの他の技術を適用せずに達成できるという
に学会で報告しており,この期間に総研がいかに
ことは,ポート噴射インジェクタにとってはブレ
噴霧の研究に注力していたかが窺える。
イクスルーの技術であった。この結果をもって,
このような噴霧研究の蓄積からデュアルインジェ
クタの初期コンセプトが導き出された。(デュアル
所期の目的である UC 型インジェクタに代わる新
たな技術コンセプトが確立されたのである。
インジェクタと従来のインジェクタのコンセプト
さらに,デュアルインジェクタのコンセプトを
の比較は図 3 を参照。
)さらに総研は,インジェク
より一層レベルの高いものにするため,微粒化性
タをできるだけ吸気弁の近くに配置したほうがイ
の向上とインジェクタの応答性向上をターゲット
ンジェクタから噴射した燃料がポート部に付着せ
ず筒内に流入するため,混合気形成が改善し燃焼
が良くなるという知見を見出し,2004 年事業部に
対し吸気ポートにインジェクタを 2 本搭載する提
案を行った。事業部内でも UC 型に変わる新たな
インジェクタが必要とされていたがそれに対応す
る開発方針を打ち出せておらず,新たなコンセプ
トを模索していた段階であった。そのこともあり
総研からの提案は承認され,総研はエンジン改造
のフェーズに移っていった。
総研では実験用エンジン設計を 2005 年の 1 月
13)現在のデュアルインジェクタは微粒化性能の向上の
ために噴孔を 18 孔にし,搭載性を上げるために磁
気回路を小さくするなどの改良を事業部で設計した
ものが量産されている。
14)総研は事業部から研究を委託されているため,研究
の進捗や状況を委託元へ報告する必要がある。
15)エンジンでのトルクが 10%向上するということは燃
費に換算すると 20%向上となる。これは,大きなエ
ンジンシステムの変化を意味している。従来のポー
ト噴射式のエンジンの燃費を 20%向上させるために
は,例えば直噴システムが必要となりエンジンのシ
ステムコストが大きく上昇する。ちなみにアイドリ
ングストップの燃費効果が 10∼15%程度である。
— 60 —
製品開発における技術選択要因
表 2
発表年
発表学会
総研の噴霧に関する学会発表一覧
論文 No.
著者(代表) タイトル
2002 年 自動車技
術会
秋季大会-20025624
原田明典
ポート噴射インジェクタの微粒化手法 多孔ノズルの噴霧
の開発
分裂過程
内容
備考
2003 年 ILASSASIA
8Th ILASS-Asia
C-3
佐藤孝明
Effects of Injection Conditions on
Spatial Distribution of
Droplet Diameter of Wall-Impinging
Spray
直噴 壁面衝突噴霧
の解析
2003 年 SAE
2003-01-0063
佐藤孝明
Spatial Distribution of Droplet Diameter of Wall-impinging-spray for
Direct Injection Gasoline Engines
直噴 壁面衝突噴霧
の解析
2003 年 微粒化学
会
12 微粒化シンポG-1
青木文明
ポート噴射用インジェクタの噴霧分裂 微粒化メカニズム 優秀講演賞
過程の解析
テーパ噴孔分裂過
程
2004 年 自動車技
術会
秋季大会-20045635
高橋幸宏
MPI エンジンにおけるポート部付着燃 吸気ポートの燃料
付着の液膜厚さ解
料の液膜厚さ解析
析
2004 年 微粒化学
会
13 微粒化シンポG-1
高橋幸宏
噴射条件が壁面衝突後の液膜挙動に及 壁面衝突噴霧の解
ぼす影響
析
2005 年 自動車技
術会
Vol.36, No.5, p9–15 高橋幸宏
ポート噴射式エンジンにおけるポート 吸気ポートの燃料
部付着燃料の液膜厚さ解析
付着の液膜厚さ解
析
2005 年 SAE
2005-01-1154
青木文明
Spray Analysis of a Port Fuel Injector
噴孔形状,噴霧干 Excellence in Oral
渉および分裂過程 Presentation
Award
2006 年 SAE
2006-01-1051
高橋幸宏
Analysis of fuel liquid film thickness
of a Port fuel injection engine
吸気ポートの燃料 Excellence in Oral
付着の液膜厚さ解 Presentation
析
Award
2006 年 FISITA
F2006P106T
高橋幸宏
Analysis of a Fuel Liquid Film Thickness on the Intake Port and
Combustion Chamber of a Port Fuel
Injection Engine
吸気ポート,筒内 第 57 回自動車技術
の付着燃料の液膜 会賞
厚さ解析
浅原賞学術奨励賞
2006 年 ICLASS
ICLASS06-255
佐藤孝明
LIQUID FILM BEHAVIOR OF PFI 直噴 壁面衝突噴霧
SPRAY IMPINGING ON A FLAT の燃料付着解析
WALL
2007 年 日本機械
学会
エンジン技術研究会 高橋幸宏
5/19
ポート噴射式エンジンにおける付着燃 吸気ポート,筒内
料の液膜厚さ解析
の付着燃料の液膜
厚さ解析
2008 年 自動車技
術会
秋季大会-20085715 高橋幸宏
Vol.40, No.3, p741–
746
ポート噴射エンジンにおける燃料付着 ポート部,筒内の 優秀講演発表賞
量の定量解析
燃料付着量の解析
2009 年 自動車技
術会
Vol.40, No.4,
p1017–1022
高橋幸宏
ポート噴射エンジンにおける筒内付着 筒内ウエットの付
燃料の分布解析
着部位
2009 年 JSAE
Review
Review of Automo- 高橋幸宏
tive Engineering
Vol.30, No.4, 2009
Quantitative Analysis of Intake Port ポート部,筒内の
and Cylinder Wet during Cold Start 燃料付着量の解析
of a Port Fuel Injection Engine
Best Presentation
Award
(出所)日本自動車部品総合研究所提供資料をもとに筆者作成
にし,事業部内で検討されることとなった16) 。微
16)吸気開弁噴射の理想的な制御とエンジン適合につ
いては適合を専門としたパワトレシステム開発部に
よって理想のエンジン性能向上が図れた。
粒化性能向上のため噴孔を 18 孔とする最新技術の
投入とインジェクタの磁気回路の応答性向上によ
り擬似直噴17) のコンセプトを実現するというもの
17)擬似直噴とは吸気開弁噴射によるシリンダ内への燃
— 61 —
経
済
系 第
259 集
図 3 デュアルインジェクタと従来のインジェクタのコンセプトの比較
(出所)日産自動車ホームページ
であった。
低減圧力が非常に大きく,直噴システムの搭載が
コストアップに直接つながることや,直噴システム
3.4 デュアルインジェクタと GDI との棲み分け
を搭載した際に燃料を高圧化する高圧ポンプを駆
日本とは異なり,欧州では 2003 年代以降排ガ
動するためのカムシャフトのトルクによるエネル
ス規制や燃費基準が厳しくなり,ストイキオメト
ギー消費で燃費効果を相殺してしまうためである。
リック(均質燃焼)タイプの直噴エンジンを採用
初めて量産車でデュアルインジェクタを採用し
するメーカーが増えてきた。さらに,従来の大排
たのは日産自動車である。販売する小型車(1600 cc
気量自然吸気エンジンを小排気量過給器付きエン
以下)の車種を中心にデュアルインジェクタが搭
ジンに置き換えて,パワーと重量と燃費をバラン
載されている。その狙いとしては,未燃 HC を低
スさせるというダウンサイジングコンセプトが直
減することで三元触媒の量を減らすことができ,
噴エンジンの普及を加速させた。
デュアルインジェクタを搭載してもコスト低減効
燃費性能は過給直噴システムが最も優れており,
果が大きいということのようである18) 。また,新
次にデュアルインジェクタ,最後に従来のポート
興国は燃料性状が安定しておらず,GDI では燃料
噴射インジェクタとなっている。コストという面
によってインジェクタの先端にデポジットが堆積
では,その逆となりポート噴射インジェクタが最
してしまうなどの問題が生じてしまう。が,PFI
も安価なシステムである。デュアルインジェクタ
と同様の仕組みであるデュアルインジェクタであ
はコストメリットが大きく小型自動車等に採用さ
れば吸気バルブの上流側に搭載されているため,
れることが想定されていた。小型自動車はコスト
その問題は小さい。
料導入方法であり,GDI の燃料噴射による気化潜熱
による空気充填効率向上の効果をデュアルインジェ
クタで実現させるものである。従来の PFI でも吸気
開弁噴射のコンセプトはあったが,吸気ポートやバ
ルブがウェットになってしまい,未燃 HC が発生す
るという問題があった。しかし,事業部ではこの問
題を解決し,総研が長年行っていた燃料ポート付着
の研究によりデュアルインジェクタでの擬似直噴の
コンセプトを確立し,未燃 HC の問題を解決した。
また,直噴エンジンが燃費技術に優れていると
はいえ,低価格車の全てのグレードに GDI を採用
するのは現実的ではない。実際に,2010 年に発売
された日産自動車のジューク19) にはデュアルイン
18)日産自動車のホームページ上にある「車両搭載技術」
の中の「デュアルインジェクタ」を参照。
19)日産自動車のジュークは 2010 年に発売されたコン
パクト SUV である。エンジンには直列 4 気筒 1.6 L
— 62 —
製品開発における技術選択要因
ジェクタを採用したエンジンと GDI を採用した
一つは,総研の実験結果が思いもよらない好デー
エンジンの二つのバリエーションが存在している。
タであったために,PFI を代替技術として適用可
GDI は従来のエンジンよりも高価でありフラッグ
能かもしれないと開発関係者に印象づけたことで
シップ的な位置づけとし,従来の PFI の延長線上
ある。製品開発の着手への経営陣の承諾が得られ
であるデュアルインジェクタはボリュームゾーン
やすい。総研の評価試験で生じたエンジン排気管
の量産を見据えた位置づけとしている。GDI は確
付け違いのため,本来の性能データよりよい結果
かに性能向上での最も有力な新規技術であるが,
が出てしまったのであるが,そのことが開発着手
混合気形成が非常に難しく噴射系コストが高いこ
を後押しすることとなった20) 。
ともあり,キャブレターが PFI に移行した時の様
また,技術開発の意思決定には,先進国市場のみ
な展開スピードはない。GDI と PFI の両者が混在
ではなく,新興国市場をも見据えた市場動向の予測
するのは,GDI のエンジン開発がいかに難しいか,
も影響することである。市場予測からすれば,GDI
ということと,グローバルに見ると PFI を選好す
技術に全面移行するのは時期尚早であり,新興国
る OEM が存在するためである。
の市場シェアが大きくなると予測される PFI を強
化することが合理的であった。このこともデュア
4.
ディスカッション
ルインジェクタという新たな技術を生み出した要
因の一つである。
事例を整理すると,デュアルインジェクタの開
燃料の燃焼を伴うエンジンシステムの中では,
発は従来のインジェクタ開発の限界を把握すると
GDI が内燃機関の燃料供給システムとして最も有
ころから始まっている。デュアルインジェクタは
力な技術であることは産業内では合意されていた
PFI を代替する製品であり,GDI を駆逐する製品
はずだが,その技術が市場を支配するタイミング
として開発に着手したものではない。では,なぜ
については企業ごとに見通しが異なる。加えて,
デンソーはエンジン性能に対する技術的潜在性の
空間的な問題,つまり地域により求められる技術
高い GDI に開発リソースを全てシフトすることな
の時期が異なることがある。
く,PFI を代替する新たなコンセプトとしてデュ
一般的には限界だと考えられていた PFI 技術が
アルインジェクタ開発に投資をしたのであろうか。
ある時期に GDI 技術へ全面移行するのではなく,
事業化にはいくつかの関門がある。要素技術開
市場の成熟度,例えば購買層の厚みや,環境規制
発から製品開発への壁がその一つである。今回の
の厳しさ,製品技術など補完技術の品質などによ
事例を極めて単純化すると,その技術にどれほど
り,移行の時期が異なる。技術の優劣はいつも事
の市場性があるのかを見極めることは難しいとい
前に客観的に決まるわけではない。技術のあるべ
うのがその原因であろう。デュアルインジェクタ
き姿や技術の採るべきアプローチにより多様な解
の開発はなぜこの関門を乗り越えることができた
釈が可能となる。技術限界の認知によって PFI の
のか。
限界が分かるとともに,デュアルインジェクタと
いう新たな技術確立により GDI に傾いているエン
の直噴ターボエンジンである MR16DDT 型と,直
列 4 気筒 1.6 L 自然吸気エンジンの HR16DE 型が
ラインナップされている。デュアルインジェクタが
搭載されているのは HR16DE 型である。日本仕様
の HR15DE エンジン搭載車は「平成 17 年基準排出
ガス 75%低減レベル(☆☆☆☆)
」と「平成 22 年度燃
費基準+15%」を同時に達成した。MR16DDT エン
ジン搭載車は「平成 17 年基準排出ガス 50%低減レベ
ル(☆☆☆)
」と「平成 22 年度燃費基準+10%(4WD
は+5%)
」を同時に達成した。
ジン技術の性能次元の不確実性を浮き彫りにした。
デュアルインジェクタの開発を追っていくとわ
かるのは,立場が異なることによる技術限界の捉
え方の違いである。デンソーは自動車メーカーと
直接取引をする 1 次部品サプライヤーであり,自
20)もちろん,デュアルインジェクタの技術コンセプト
が実現したのは,関連する技術開発への努力を惜し
まなかった結果である。
— 63 —
経
済
系 第
動車メーカーと共同で製品を開発するなど,取引
259 集
なものでなかったためである21) 。
特殊性の高い情報のやり取りを行っており,顧客
デュアルインジェクタに対しては,当初から意
との距離が非常に近い。一方,デュアルインジェ
図していたターゲットである上位セグメントの反
クタのコンセプトを開発した総研は,デンソーの
応はよくない。これをどう評価すべきか。資源動
基礎研究所としてある程度独立した存在である。
員の際は,より大きな市場を描く必要があるが,商
つまり,デンソーは自動車メーカーの制約を含め
品企画の当事者はそれほど上位セグメントには採
た技術開発を重視するのに比べ,総研はデンソー
用されないと考えていた可能性が高い。そういう
から委託された研究テーマに基づき,純技術的な
意味では事業部の想定の範囲かもしれない。デュ
研究視点でのアプローチを優先している点が異な
アルインジェクタはデンソーにとって,PFI を代替
る。ディマンドプル的な発想で技術を捉える事業
する製品としての位置づけである。いずれは GDI
部とテクノロジープッシュ的な発想で技術を捉え
に市場の多くを占有されるが,数年は PFI を代替
る総研という,2 つの組織が相互に影響を及ぼし
する形で拡販が見込める。デュアルインジェクタ
合うことで,競合他社にはない着想とそのアイデ
の事業化は,グローバル市場でトップシェアを有
アを製品化するための合意形成がなされたという
し,多くの自動車メーカーに製品を納入している
ことである。
デンソーにとっては,製品展開の時間的・空間的
そもそも,PFI での技術限界,つまり噴霧粒径
な不確実性に対処するための合理的な判断であっ
の微粒化の限界を,総研は大型車の燃料噴射量を
た。逆に言えば,デンソーほど市場シェアが高く
カバーする噴射量において噴霧粒径 50 ミクロン
なく販売先や仕向け地も限定されるサプライヤー
メートル以下は不可能と考えた。総研は,事業部
にとっては,デュアルインジェクタは開発リスク
とは異なり自動車会社と製品採用について折衝を
も大きく,魅力的な選択肢ではなかったというこ
する機会はないが,噴霧と燃焼についてのエンジ
とである。
ン進化を長期的な視野で考えていた。それが故に,
もちろん,デンソーや総研の取り組みのみが本
燃料噴射量と噴霧粒経の関係を純粋に研究し,そ
事例の重要な点ではない。ここで誤解を招かない
の技術限界を見極めることにつながった。総研が
ように強調しておきたいのが,日産自動車の技術
燃料噴射量と噴霧粒経の関係をどれほど突き詰め
選択に対する広さである。本事例ではデュアルイ
て考えていたかは,表 2 の学会発表一覧でわかる。
ンジェクタが新たな PFI 強化技術の開発を加速さ
その一方で,デンソーの事業部からは製品性能へ
せたことは間違いないが,日産が商品として満足
の研究成果の貢献を求められており,製品化への
いく性能となるようにエンジンの新設計を行った
圧力を感じながら先端研究を追求したからこそ,
ことで,世の中へ普及させたという貢献は揺ぎな
デュアルインジェクタのコンセプト提案を実現で
い。1 次部品サプライヤーが先進性を持つ技術を
きたといえる。
開発したとしても生産財であるため,それだけで
総研の提案に対して,デュアルインジェクタを
はイノベーションとはならないのである。新しい
搭載した実験用エンジンのデータが思いのほか良
技術を生み出し,それを採用する企業と新たな製
かったことで,デンソーの事業部は開発に資源を
品を許容する市場があって,初めてイノベーショ
動員できたのであるが,開発が大きな障害もなく
進み製品化につながったのは,デュアルインジェ
クタの技術開発においては PFI で培った知識やノ
ウハウに対し非連続性がなく,それまでの知識を大
きく変化させるような能力破壊型のイノベーショ
ン(Tushman and Anderson, 1986)に属するよう
21)デンソーの燃料供給システム分野においては,機械
式から電子式という大波を乗り越えた後は,技術と
知識の蓄積が継続して行われている。燃焼とは全く
異なる電気自動車へのシフトは非連続性を伴う知識
を破壊する技術であると考えられる。ハイブリッド
の場合は,燃焼で不得手な部分をモーターで補うと
いうことが可能であるため,燃焼との相互依存性が
高いといえる。
— 64 —
製品開発における技術選択要因
ンとして成立するのである。
ソーの立場だからこそ見えた価値次元なのか否か
は重要な論点である。顧客の要求を理解し,新た
5.
結び
な次元の価値を提供するという競合商品との差異
の源泉をいかに見いだすのかは学術的のみならず,
本稿の主張は,製品の時間展開と性能次元は技
実務的にも重要である。顧客が重視する次元が複
術の物理的限界や顧客の選好の変化といった要因
数存在するということは,企業にとって複数次元
により,製品開発時の技術選択に影響を及ぼすとい
の中でどのように資源配分するかという開発戦略
うものである。つまり,技術変化への企業の対応
を考える上で非常に重要な課題である。企業は性
は,技術の本質的特性のみではなく,顧客・競合・
能を飛躍的に向上させる新たな技術の出現だけで
組織の相互依存関係と時間的な変化を考慮するこ
なく,複数ある価値次元の選択肢の中でどの顧客
とが必要になる。取り上げた事例では,支配的な
がどの次元をどれだけ重視しているかに常に気を
技術であるとされる GDI が存在するにもかかわら
配り,開発資源の再配分をしていかなければなら
ず,PFI を強化するという一見矛盾した技術選択
ないであろう。
がいかに行われたのかを解明することであった。
本稿の学術的な貢献として考えられるのが,技
術決定論に対して顧客セグメントの多様性と技術
開発の組織の相互関係を把握することが,性能的
に劣った技術の開発に経営資源を投資するという
一見矛盾した企業行動を考える上で有用であるこ
とを実証的に示した点にある。
技術選択について技術選択プロセスを分析した
研究は多くはない。本稿は,支配的ではない技術
が,重層的な市場によって技術選択され,正当性
を企業内で確保していくメカニズムが存在するこ
とを明らかにした。これは,最も有力な技術が市
場を支配するタイミングについては企業ごとに見
通しが異なり,加えて,空間的な問題,つまり地
域により求められる技術の時期が異なることがあ
ることを解明した点で貢献があると考えている。
ただし,我々が示したのは上記のメカニズムが
存在しうるということであって,このメカニズム
が一義的に決定されるということを示したわけで
はない。我々の議論がどこまで一般性を持つもの
なのか,このメカニズムが成立する条件がありう
るのか。これが今後の研究課題となる。
また,本稿ではデンソー 1 社の分析に留まって
おり,同じようにインジェクタを自動車メーカー
に供給している競合他社がデュアルインジェクタ
をどのように見ていたのかについては検討されて
いない。デュアルインジェクタという従来の PFI
と GDI の中間の性能を狙った商品の市場性はデン
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