沖縄の混血児の文化的アイデンティティ

Kyushu Communication Studies, Vol.10, 2012, pp. 47-71
©2012 日本コミュニケーション学会九州支部
【
研究発表論文
】
沖縄の混血児の文化的アイデンティティ
石川
直美
(沖縄キリスト教学院大学大学院修士課程修了)
Cultural Identity of Children of American and Japanese Parents
in Okinawa
ISHIKAWA Naomi
(M.A. from Okinawa Christian University)
Abstract. The purpose of this study is to clarify what sorts of problems children of American
and Japanese parents face in Okinawa. The main problems focused upon are those that
children may face both in school and in the local community. Children of mixed parentage who
experience these sorts of problems can suffer psychological traumas, which have negative
implications on the formation of children’s identity. The results of this study will aid in the
process of helping these children discover who they are, and where and why they belong in the
environment of their choice. During the process of clarifying these issues, nineteen children of
American and Japanese parents were interviewed, all of whom are considered Amerasian
because one parent is American and the other is Asian (although all Asian parents in this
study are Japanese citizens). Of the nineteen people interviewed for this study, four (4) were
male, and fifteen (15) were female. In analyzing the data, the Grounded Theory Approach was
used. Through this approach, two specific areas of these people’s lives were foregrounded:
“Did these people have any problems in school, specifically concerning communication with
other students?” as well as “Whenever a situation arose concerning the identity (nationality)
of these people, how were they able to contend with these situations, thus discovering
themselves?” The majority of children in this study report that they were bullied in school,
had difficulty coping with the stereotype of being “half,” had trouble finding a job, and felt a
constant struggle to discover their own identity. A small sample of people from this study was
able to make friends with those who were not critical of others’ backgrounds and who do not
participate in stereotyping behaviors. This small sample has been able to move on with their
lives by finding themselves and discovering their place in the larger society.
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0.はじめに
世界が限りなくグローバル化する今日、これまでにも増して文化背景の異なる人々との接触・
交流の増加に伴い、国籍の異なる者同士の結婚が増えている。また、国際結婚をした親を持つ子
も増えてきている。厚生労働省が実施する人口動態3統計(2012 年)によると、現在では、夫は
日本人、妻が外国籍の婚姻がその逆の妻が日本人、夫が外国籍の三倍近くに及んでいる。また、
妻が外国籍の場合、その相手国は中国が筆頭で、次いでフィリピン、韓国・朝鮮などアジア諸国
が大半を占める。一方、沖縄県に目を向けると、沖縄県における国際結婚は日本人女性がアメリ
カ人男性と結婚する割合が非常に高い。2012 年の沖縄での国際結婚数は 402 件。このうち、妻が
日本国籍で夫が外国籍の組が 312 組。夫の国籍を国別にみると圧倒的にアメリカで 276 人。つま
り沖縄では国際結婚した女性の約 88 パーセントはアメリカ人と結婚したことになる。その理由は
やはり米軍基地の存在である。沖縄には、太平洋戦争後、現在も米軍基地が置かれ続けている。
また、太平洋戦争中、戦争後あたりから、混血児1が多く生まれてきている。日本国籍とアメリカ
国籍の親を持つ混血児の人々は、生まれながらにして、ふたつの文化をもっている。
混血児の子どもたちは、昨今、マスコミでハーフが活躍するようになったことが関連して「ハ
ーフ」は「外人のようなカッコイイ日本人」と、明るいイメージで受け止められている(マーフ
ィ重松、1994)
。しかし、照本(2004)が、アメラジアンスクールへの通学希望者の面接に立ち
会い、
「公立学校在籍をもつほとんどの子どもが、暴力行為をふくめてなんらかの『いじめ』被害
を受けている」(p. 58)と述べているように、沖縄社会において、沖縄の混血児の子どもたちが
現在もまだいじめの問題を抱えている。
これまでの沖縄の混血児の研究は、社会学、心理学の分野からの研究がなされている。社会学
的研究では、主に、沖縄における混血児の学校での問題について(波平、1970)、心理学的研究
においては、沖縄のマイノリティであるハーフが、沖縄でどのようにステレオタイプ化されてい
るのかについて研究されてきた(マーフィ重松、1994、2002)。しかし、沖縄の混血児たちがど
のような問題を抱えて、ふたつの文化の狭間でどのように揺れ動いているのかという文化とアイ
デンティティに関する研究は多くない。
そこで、本論では、沖縄の混血児の文化的アイデンティティの問題を探求する。まず、現在の
文化は多様で矛盾を含めたものであり、それは、グローバリゼーションの進行によりますます複
雑化してきている。土地と血(民族)は1対1で対応するのではなく、より複雑に入り乱れるよ
うになると、自分は何者であるかという「アイデンティティ」の問いが重要になってくる。本研
究ではアイデンティティは、自己にとって本質的なものであるという観点から、個人が二つの文
化で様々な経験を重ねる中で、どのように自己を形成していくのかを調査する。
本論の目的は、沖縄の混血児たちが、学校・地域社会において、特に、他者との関わりの中で、
どのような問題に直面しているのかを明らかにする。また、その後、彼ら/彼女らは、アイデンテ
ィティの揺れを通して、どのように自己形成をしていくのかという過程を、彼ら/彼女らの語りを
通して明らかにすることを試みる。
1.文化的アイデンティティに関する先行研究
文化的アイデンティティについて考える前に、まず、アイデンティティの概念を定義する。
アイデンティティ(identity)とは、
『心理学事典』
(1981)によると、エリクソン(Erikson, E.)
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によって提唱された、精神分析的自我心理学の基礎概念とされる。この言葉は日本語では、
「同一
性」と訳され、
「自分であること」、
「自己の存在証明」
、
「真の自分」、
「主体性」などの意味を持つ。
また、幼児期から青年期にかけて、各集団の同一性、および役割に自己を同一化させる試みが繰
り返されるが、一旦変化したものが、元の状態に戻ったりするといわれている。
多民族国家といわれるアメリカでアイデンティティ概念を発展させたエリクソン以降、民族や
文化を扱った研究が数多く見られる。複雑な社会においては、自分は何者であるかという「アイ
デンティティ」の問題が重要になってくる。次に、文化的アイデンティティに関する研究を整理
する。
文化的アイデンティティは、社会的アイデンティティとも関連している。その理由は、ある社
会に所属し、その文化を共有しているという自覚が社会的アイデンティティ(social identity)で
あるためである。
社会心理学者のタジフェル(Henry Tajfel)は、社会的アイデンティティを、“the individual’s
knowledge that he belongs to certain social groups together with some emotional and value
significance to him of this group membership”(Tajfel, 1972, p. 31)と定義している。
この理論の中心的概念は、「分類化(categorization)」と「社会的アイデンティティ(social
identity)
」である。ひとは、自分が属する内集団と他者が属する外集団をさまざまな側面で、他
者と比較される(Tajfel & Turner, 1979)
。この過程では、他者の分類と同時に自分自身も分類さ
れる。その結果、自己と他の内集団成員との類似性、および自己と外集団成員の差異の強調化、
要するに、自己のカテゴリー化がおこなわれる。さらに、この自己カテゴリー化が、自己知覚や
自己定義を集団の原型に近づける要因となっている(Hogg & Abrams, 1988)
。
文化的アイデンティティの代表論者は、スチュアート・ホール(Stuart Hall)である。Hall(1989)
は、文化的アイデンティティとは、歴史や文化の言説における自己確認(identification)の地点
であり、自分の過去の経験と現在の経験を結びつけ、人生を意味づけするその語りの中に「文化
的アイデンティティ」が現れてくるのだという。そして、過去の語りによって位置づけられ、そ
の中に私たちを位置づける(ホール、1998)。Hall(1989)は、個人が自分自身を解釈し、意味
づけするためには、自分が「話す位置」を暫定的に決めなければならない、と述べている。他者
から何者かと投げかけられるイメージや表象に対して自分の「位置」を決め、その「位置」から
自分を語る。つまり、主体的な「位置取り」のプロセスである(ホール、1998)。
関口(2001)は、日本の学校に 1990 年以後、急増した日系ブラジル人の子どもたちを対象に、
異文化の中で成長を果たしている日系ブラジル人生徒のアイデンティティ形成、全体像を明らか
にしている。自由記述の回答を 25 種にコード化し、さらにそれらを5つのアイデンティティ項目
「生得的属性」
、「適応能力」、「所属」
、「関係」
、「その他」にグループ化している。また、日系ブ
ラジル人生徒の自己描写の中で、(1)美魅イメージを含む身体的特徴・イメージ、(2)対人関
係のありよう、行動様式、
(3)学力、
(4)価値観、(5)特殊能力、(6)スポーツ、遊び、趣
味などの好き嫌い、
(7)エスニシティ、の上位カテゴリーをグループ化している。また、言及率
がとくに多い、
「身体的な特徴、美魅イメージ、学力、名前、価値観、規範意識、エスニシティ、
家族関係、国への志向」
(p. 175)に着目し、生徒たちがどのような側面で自分を差異化している
のかがわかると述べている。ブラジルの青少年が男女共に早くから外見を磨き、おしゃれをして、
男女交際を始めることを当然としている文化価値の反映であると考えられる。
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箕浦(2003)は、心理学的・文化人類学的視点から、子どもの文化的アイデンティティについ
て研究している。親の都合で海外に連れて来られた日本の子どもを対象に、ふたつの文化的背景
で育つ子どもの対人関係の体得過程とその影響要因について検討して、以下のように報告してい
る。
箕浦(2003)は、日本人児童・生徒のアメリカ入国時の年齢および滞在期間と文化的アイデン
ティティとの関係について4つの知見を明らかにしている。
(1)9歳以後 11 歳未満で文化的境
界を越えた日本の子は、日米間の行動の形の違いを認めることはできても、その背後にある意味
空間の違いにまでは気付かない。ひとつの文化の意味空間によって行動と感情が左右されだす以
前なので、ある文化型特有の行動形態から他の文化型の行動形態への置き換えは、比較的スムー
ズに行われる。
(2)11 歳から 14 歳の間に異文化社会に移行した場合は、新しい環境の文化文法
に不協和を感じる。自文化の中で獲得した対人関係の文法は、異文化の文法を取り入れたからと
いって容易に消し得ない。
(3)14 歳から 15 歳以降に異文化圏に入った場合は、それまで暮らし
た母文化の影響を濃厚に受けており、異文化圏に移行しても、その文化文法にすぐに染まること
はない。しかし、必要にせまられて、新しい文化的環境にみあうように、外見上は、行動形態が
変わってくる。行動面ではいわゆるバイカルチュラルな人間になっていく。
(4)異文化の言葉を
習得するのに、3年から4年かかること、言葉と文化が密接な関係にあることなどの理由により、
対人関係領域の文化文法に包絡しきるには、同一文化環境に約6年居住しつづける必要がある。
対人領域の意味空間が体得される最も重要な時期は、9歳から 15 歳までの6年間と思われると述
べている。すなわち、11 歳頃から文化的アイデンティティの形成が始まるものと言える。
また、浅井(2006)は、外国語指導助手(Assistant Language Teacher: ALT)を手掛かりに、
日本の学校で教える ALT の文化的アイデンティティのゆらぎを、日本人との対人関係や日本での
教育実践における位置取りのゆらぎとして捉え、その仕組みを明らかにしている。ここで対象と
なっている ALT は、アメリカ、カナダ、オーストラリア、イギリス、ニュージーランドである。
「位置取り」として、対人場面におけるエスニシティをめぐる表象と教育場面での対処方略が、
どのようになされているかを、母国でマイノリティであった ALT の3事例を取り上げ、その内容
を明らかにしている。教育現場では、ALT 達は、日本の支配的な意味に対し抵抗をする、心情に
おいては同意しない行動だけはあわせるといった対処をしていた。そこでは、自分の信念にあう
教育が実現できないことから自己効力感についての否定的な情動を感じ、日本から排除されたと
みなし、それへの防衛から「アメリカ人」として位置取った。さらに、ALT の自己効力感が JTE
(The Japan Exchange and Teaching Programme、以下 JET プログラム)や生徒との相互作用
の中でどのように生起し、それは ALT の文化的アイデンティティの意識とどのように関係してい
るかを考察している。ALT と JTE の相互関係の異なる授業の比較分析から、ALT の自己効力感
は、JTE から投げかけられる表象や期待に見合う授業をする教育スキルがあるかどうか関係して
いることを見出している。ALT は、JET プログラムに内包された日本からの「排除」の意味の影
響を受けている。しかし、同時に、ALT の主体的「位置取り」を可能にし、その自己効力感をプ
ラスに変えるために「包摂」の資源も、JET プログラムは提供している。このように、ALT の自
己効力感と位置取りの背景には、この JET プログラムに内包された「包摂」と「排除」の相反す
るマクロレベルのふたつの力が作用しており、これが、マクロレベルでの ALT の文化的アイデン
ティティの揺らぎを引き起こしている一因となっている。
50
鈴木(2008)は、インドネシア共和国のバリ州で、国際児が思春期を迎えるまでの年齢を対象
に、国際児の文化的アイデンティティ形成過程とその影響要因を探るために、約 10 年間縦断的研
究を続けた。日系国際児の文化的アイデンティティ形成と、それに対し影響を及ぼす要因として、
子どもの文化的アイデンティティを明らかにした。子どもの文化的アイデンティティでは、イン
ドネシアの学校では、一方の親が日本人であることが知られている場合が多い。しかし、それに
も関わらず、日イ国際児の年齢が高くなるにつれ、親が日本人であることを積極的に知ってほし
いと思わなくなる傾向がみられた。また、国際児は、外見については、日本人とインドネシア人
が同程度と意識していることが多いが、考え方については、インドネシア的あると意識している
ことが多い。将来、日本人とインドネシア・バリ人のどちらになりたいかについては年齢によっ
て異なるが、8 歳児と 11 歳児以上に、日本を強く志向する国際児が目立ったことを明らかにして
いる。次に、沖縄の混血児に関する研究の概略を述べる。
2.沖縄の混血児に関する研究
本節では、沖縄の混血児の名称の歴史的変遷と混血児研究を整理する。
2.1.混血児の名称の変化
沖縄の混血児の名称は時代によって変わってきている。古くから「混血児」という言葉が日本
では、公用語として使われていた。沖縄でも、1970 年の終わり頃まで、調査の場合でも「混血児」
という用語が使われていた。一方、一般市民の間で使われていた言葉は「合いの子」であった(大
城、2002)
。米国の占領下に置かれていた頃の混血児は、
「合いの子」と呼ばれ、
「合いの子」は、
米国の占領時代に生まれた言葉で差別的意味合いが強く、また、「混血児」は、「混血児問題」に
つながる暗いイメージを伴っている(マーフィ重松、1994)。
「混血児」
、
「合いの子」は、当時の
沖縄では、差別と偏見の代名詞のように捉えられるようになった。また、1965 年代のベトナム戦
争時このころの米兵との接触によって生まれる子供たちのことを「GI2 チュルドレン」と呼ばれ、
否定的に捉えられていた(福地、1980)
。
1970 年に、
「国際児」という用語がマスコミによって使われた。それは、
「国際児母の会」とい
う当事者の会で、非常に小さな組織ができた頃であった(大城、2002)
。1979 年は、国際児童年
で「混血児」に代わり「国際児」という言葉が奨励された。1970 年頃は、
「国際児」という用語
が、国際福祉相談所で意識的にパンフレットなどにも使用され、沖縄の社会に受け入れられてき
た(大城、2002)と述べているが、マーフィ重松(1994)は、「国際児」という呼称は、定着し
きれずに終わったとしている。
1979 年には、内部告発の形で無国籍児問題が浮き彫りになったとともに、
「無国籍児」という
呼び方が現れてきた。国籍法が改正された 1985 年には、日本と米国の二つの国籍を持つケース
が増え、新たに「重国籍児」という呼び方が出てきた(新崎、大橋、1989)
。
1980 年代に入ってから、日本の経済成長に伴い、これまで否定的に呼ばれていた混血児も、
「ハ
ーフ」と呼ばれるようになった。「ハーフ」は、「外人のようなカッコイイ日本人」と、明るいイ
メージで受け止められている(マーフィ重松、1994)。ハーフがカッコイイと思われる背景とし
ては、マスコミでハーフが活躍するようになったことにも関係があった。この研究のパイオニア
であり、かつ、両親が米国籍と日本国籍をもつマーフィ重松(2002)によると、近年、ダブル(double)
という表現も増えてきているという。ダブルは、二重のルーツを持つことを強調している。普通
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の人を単にひとつの完全体とみなすなら、ハーフはそれに足りないという含みをもつが、ダブル
は、欠陥や弱みというより、恵まれた強みの姿勢を描こうとしている(マーフィ重松、2002)。
このダブルという表現は、
「混血児」や「合いの子」のような否定的な語ではなく、肯定的に捉え
られ始めている。
次に、1998 年に「アメラジアン(Amerasian)
」という呼び方がでてきた。アメラジアンとは、
アメリカ(American)とアジア(Asian)をつなげた言葉である。アメラジアンという言葉は、
1960 年代にノーベル文学受賞者であるパール・バックが作り出したのだが、沖縄で浸透してきた
のは、1997 年以降であると言われている(山本、2005)
。沖縄では、1998 年に「アメラジアン・
スクール・イン・オキナワ」という、保護者による運営学校が創立された。その創設理由は、1997
年4月、産廃処分城跡地に新築移転したオキナワ・クリスチャン・スクール・インターナショナ
ル(OCSI)の高温異臭ガス騒ぎが原因であった(セイヤー、2001)。子どもたちは、頭痛、吐き
気、目のかゆみなど体調不良を訴え続け、問題提起をした保護者たちは、OCSI 側との信頼関係
もなくなり退学を決意せざるを得なかった。行き場を失った保護者らは、1997 年 11 月に「アメ
ラジアンの教育権を考える会」を組織し、行政に対して教育権の保障などを積極的に要請し始め
た。その保護者らは、「ハーフではなくダブル」、アメリカ人でも日本人でもあることを誇りにも
ち、胸を張って生きていってほしいと願い「アメラジアン」という言葉を自ら選択した(セイヤ
ー、2001)
。しかし、照本(2004)は、アメラジアンという言葉が含意する社会的な意味は一様
ではないと述べている。その理由は、沖縄には、在日米軍基地の 75%があり、この状況が生まれ
てくる子どもの父親が米国軍人・軍属となるような了解のされ方に影響を及ぼしているからだと
している。そのため、マーフィ重松(2002)は、アメラジアンを「アメリカ人兵士とアジア人女
性との間に生まれた子供だけでなく、アジア人とアメリカ人市民との間に生まれた子供をすべて
アメラジアンという言葉に含める」
(p. 13)べきだと主張している。
2.2.沖縄の混血児研究
沖縄の混血児に関する研究はこれまでに社会学、心理学、教育社会学、国際福祉学の分野から
調査されているが、本論文では、社会学と心理学の研究を概観する。
社会学では、主に、沖縄における混血児の学校での問題や教育権について研究が行われている。
波平(1970)は、当時、沖縄県では、結婚総数に占める国際結婚の比率が、全国の 4.4 パーセン
トを上回っていたので、沖縄の混血児の対社会距離意識を調査している。この調査では、沖縄本
島中部の公立小学校5校、中学校3校、私立のミッションスクール2校の小学5年生と6年生と、
中学1年生から3年生を対象に、アンケート調査を実施している。調査結果、次の4つの点が明
らかになったとする。
(1)友人関係からみた混血児の距離意識では、公立学校の混血児は精神的
な拠り所としてのホームがはっきりしない。それは、対アメリカ感、対沖縄感への中間的距離意
識として表れている。
(2)性別による意識構造の相違は認めがたいが、どちらかといえば、女性
より男性の性格形成に注意を要する。(3)
「人種」別による意識構造の違いは、身体的特質が重
要な役割を果たしていると考えられる。そのことは、身体的特質が一般児童と距離があればある
程、それだけ彼らの教育は特別な配慮を必要とする。
(4)混血児教育に対する一般的な課題とし
て、明確な所属意識、自信、自尊心を植え付けることが先決である(波平、1970)。また、同論
文では、当時の学校では、混血児教育に特別な配慮はなく、ただ「そっとしておく」式の教育が
一般的であり、現場の教師が混血児に対して気を使っていることはわかるが、その配慮は積極的
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なものを含まず、消極的だと述べ、教師に対する助言を与えている。
次に、社会学的研究では、アメラジアン・スクール・イン・オキナワ(以下 AASO)に携わり、
アメラジアンの抱えている教育問題と教育権の獲得についての研究をしている野入(1999、2001、
2006)がある。野入は、社会学視点からアメラジアンの教育的問題について研究をしている。野
入(1999)は、沖縄のアメラジアンは、「基地の落とし子」を超えて「ダブルの教育」と多文化
教育の必要性を訴え、教育をめぐる制度的問題を明らかにしている。また、ほかのアジアの国々
のアメラジアンの子どもたちに目を向け、韓国にあるアメラジアン・クリスチャン・アカデミー
の子どもたちと交流をはかって未来の広がりを示唆している(野入、2001)
。沖縄県にある AASO
の設立 1999 年から7年経ち、AASO の子どもたちは、自分を肯定的に受けとめる力を育むとい
う教育は結実しつつあるが、同時に AASO の外に向けて、共生を進めていく必要があることを主
張している(野入、2006)
。ひとつのきかっけとして、2004 年に児童館で起こった嫌がらせの事
件がある。それは、AASO が体育の授業を行っている中へ、地域の小学生二人が爆竹を投げ込ん
だ事件であった。この事件を契機に、AASO の在校生と卒業生を対象に、嫌がらせの体験につい
てのアンケート調査を行った。その結果、アメラジアンの子どもたちは、路上、公園などの日常
的な空間で、じろじろ見られる、はやし立てられる、仲間はずれにされる、殴られるなどの体験
をしていたことが明らかとなった。この事件後に、野入(2006)は、多文化共生を求める活動を
推進している。
また、心理学では、沖縄の混血児が、沖縄でどのようにステレオタイプ化されているのかにつ
いての研究がある(マーフィ重松、1994、2002)。マーフィ重松は、沖縄の混血児研究のパイオ
ニアであり、また、彼自身が混血児であり、自分の身をもって経験してきたことを研究している。
特に、沖縄のマイノリティであるハーフが、沖縄および日本の社会でどのように見られているの
かをステレオタイプをキーワードに調査した。そして、彼は、ステレオタイプを以下の4つに分
類している。これらは、(1)アメリカ軍の象徴としてのステレオタイプ、(2)否定的なステレ
オタイプ、
(3)国際的なハーフ、新しいステレオタイプ、
(4)辺境人としてのステレオタイプ、
である。また、子どもは外部からのステレオタイプに立ち向かうとき、応援者がいなければ、簡
単に否定的なステレオタイプを内在化してしまうという(マーフィ重松、1994)
。よって、マイ
ノリティであるハーフの置かれた状況をもっと理解しようと努めるとき、さらに精神的に成長で
きるはずだと主張している。
マーフィ重松(2002)は、混血児の研究を続け世界にいるアメラジアンに目を向け、また、自
らフィールドワークを通して、この研究に取り組んできた。どこに住んでいるアメラジアンでも、
人権・国籍上の形成のアイデンティティという問題をめぐって社会的、政治的、そして心理的に
も緊張状態にあると主張している。また、今までそれほど注目されることのなかった世界的規模
のマイノリティ問題についての研究をもとに、アメラジアンの子どもたちに対して、4つの権利
を提唱している。
(マーフィ重松、2002)
。第1に、差別されない権利、第2に、教育を受ける権
利、第3に、父親に養育費を求める権利、そして、第4に父親を知る権利で(マーフィ重松、2002)
である。
以上の研究は、沖縄の混血児が生まれた歴史や彼らが直面する問題を理解する手掛かりを与え
てくれる。
53
3.調査方法
3.1.調査方法について
本稿では、インタビューによる質的調査を実施した。エドガー・ボーガタと、ロンダ・モンゴ
メリー(2000)によれば、「質的研究とは人間世界の複雑さを理解し、その複雑な世界で生きる
人々がどのように考え、行動し、意味付けているのかの理解を目的とする、多様な研究方法と手
続きの総体である」
(波平、道信、2006、p. 2)と言う。本調査においては、人間の生き方が多様
であり、沖縄のハーフの人々の文化的アイデンティティをより深く、より広く明らかにすること
を目的とするため質的調査を行う。沖縄の混血児研究において、個人個人にとって何が意味を持
つ現象であるかを見定めるためにこの手法を用いた。
3.2.調査協力者について
まず、予備調査として、2008 年4月から 2009 年3月までの約1年間アメラジアンスクール・
イン・オキナワにおいて、週に1回、ボランティアとして関わり、特に、子どもたちの行動や友
人同士、クラスメイトとの関わり方を観察した。その後、本調査を開始した。
調査期間は、2009 年 10 月から 2011 年1月までで、本研究の対象者は、沖縄に住んでいる混
血児で、両親がアメリカと日本の国籍を所有している人 19 名(男性4名、女性 15 名)である。
被面接者の年齢は、10 歳代4名、20 歳代6名、30 歳代1名、40 歳代7名、50 代が1名で、40
代が最も多かった。面接の時間は、30 分から 60 分で、場所はファストフード店、カフェ、学校
の教室、被面接者の自宅、面接者の自宅などで話を聞いた。
3.3.調査内容と分析方法
インタビューを行うにあたっては、同意を得て録音をした。また、プライバシーに配慮するた
め指名を匿名にし、職業を記載することに関しても本人に確認し許可を得た。インタビューの質
問は以下の3つである。
(1)学校生活で楽しかったこと
(2)学校生活で大変だったこと。特に、人との関わりの中で自分が浮いているなと感じた出
来事
(3)これまでの経験を通して、どのように困難を乗り越えたのか、その後、どのように自己
形成したか
である。しかし、本論文においては、紙面の都合を配慮し(2)と(3)の質問内容に絞って検
討を加える。
調査によって得られた面接データは、文字化をして、インタビュースクリプトを作成した。デ
ータ分析には、グラウンデッド・セオリー・アプローチの手法を用いた(Strauss & Corbin, 1998、
木下、2007、戈木、2008)
。グラウンデッド・セオリーとは、
「データに基づいて分析を進め、デ
ータから概念を抽出し、概念同士の関係付けによって研究領域に密着した理論を生成しようとす
る研究方法」
(戈木、2007、p. 32)である。
分析手順は、面接後のスクリプトのコーディング化とカテゴリー化を通して、テーマを抽出し
た。次に、概念間の関係を理論的飽和状態に至るまで、相互関連の意味を解釈し検討した。
4.分析結果
本章では紙幅の都合上、3つの質問の中で、(2)「学校で大変だったこと。特に、人との関わ
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りの中で自分が浮いているなと感じたこと」と質問(3)
「これまでの経験を通して、どのように
困難を乗り越えたのか、その後、どのように自己形成したか」に絞り、その内容をまとめる。最
初の段階では、学校に絞って沖縄の混血児たちが直面していた問題を調べていたが、データの中
から、地域社会での問題も多くでてきたので、本節ではまとめて紹介する。
質問(1) 学校や地域社会で大変だったこと。
本稿での混血児の人々は、学校や地域社会でいじめにあった時のことについて語ってくれた。
特に、大変だったことに関しては、1)
「いじめ」
、2)
「ハーフに対するステレオタイプ」、3)
「就職における差別」、4)「勉強についていけなかったこと」、5)「学校文化についていけなか
ったこと」である。ここでは、1)
、2)
、3)に絞る。
1)いじめ
①言葉によるいじめを受けたこと
本稿での言葉によるいじめとは、ハーフの子どもたちの親がアメリカ人ということで顔が日本
人離れしているためにいじめを受けたことを指すものとする。特に、外見である肌の色をさす言
葉が多く見られた。特に、目立った言葉は、「アジャ・コング」、「ゴリラ」、「焦げパン」、
「クロンボ」などであった。また、父親がアメリカ人のため日本人との違いを表す「アメリカー」
や「外人」などの言葉が摘出された。そこで、18 歳 P さん(女性)の語りを見てみよう。
日本の学校に通ってる子達とかに、「学校に通ってない」って言われて。色も黒かったし、
体もでかいから。それで。小学校ずっと低学年から高学年まで(言われていた)。別に何
もしてないのに、って感じ。普通に呼び名であだ名つけられたりとか、変な噂流されたり
とか、そんな感じかな。「焦げパン」とか「ゴリラ」とか普通に。「日本の学校行ってな
い」とか、「お風呂入ってない」とか。「色が黒いのはお風呂入ってないから。」直接(言
われた)。
(#17‐18 歳‐女性)
この例では、皮膚の色と関連して、「焦げパン」、「ゴリラ」さらに、「お風呂に入っていな
い(色が黒いのはお風呂に入っていないから)」などの言葉を言われていた。
日本の学校の中では、言葉によるいじめはよくあることである。P さんは、18 歳の女性で、父
親は、アフリカ系アメリカ人である。そのため、彼女は、皮膚の色がやや黒くて目立ったのだろ
う。沖縄社会において目立つために言葉によるいじめの対象となった。また、彼女は、私立のイ
ンターナショナル・スクールに通っていたため、公立の小学生と接する機会は、あまりなかった。
そういう環境も相まって、公立の学校に通っている子どもたちに、心ない言葉を浴びせられ、深
く傷ついた。
②いじめ行為を受けたこと
「いじめの行為を受ける」とは、暴力的な行為を受けることを指す。具体的には、「小人から
殴られ、蹴られたこと」、「授業中、輪ゴムが飛んできたこと」、「椅子の脚が切られていたこ
と」、「上履きを履けなくされたこと」、「教科書を破かれたこと」の例が浮上した。また、学
校帰りには、「石を投げられたこと」、「待ち伏せをされたこと」、「スカートを破かれたこと」、
55
「とおせんぼをされたこと」が出てきた。
20 代の Q さんの昼食時の例をみてみよう。
(同じクラスに同じハーフの子は)3人は確実いた気がする。その時、(ハーフの子への)
すごいいじめがひどくて(上履きに液体のりを入れられたり、切られたりして、1 ヶ月で
何足も買うなど。また、ランドセルをボロボロにされたり、教科書を破かれた)、まず、
給食を普通に食べたことがない。スープ入れるやつ(お皿)に全部入れられてて、牛乳も、
みかんとかも。これ(お皿 1 枚)と、スプーンしかないわけ。「は?」さ、先生もいるけ
ど、先生も知らないじらぁ(知らないふり)してるから、もう自分は食べなかった。でも、
自分の(同じハーフの)友達は泣きながら食べてた。
(#17‐23 歳‐女性)
上の例では、給食時に「給食が全部同じお皿に入れられていたこと」が出てきた。おいしいご
飯を食べ、楽しい気持ちになって、みんなで共有できるはずの給食時間でさえ、いじめ行為によ
って奪われてしまっているのである。彼女は、このようないじめの行為にひどく傷つき、苦痛を
感じたが、教師に解決してほしいと望むことはできなかった。本当に、精神的ショックが強く辛
い日々を過ごしたと回想している。
2)ハーフに対するステレオタイプ
沖縄に住んでいる混血児の子どもたちは、外見が沖縄の人々(うちなぁんちゅ)と異なるため、
型にはまった画一的なイメージをもたれている。そのため、ハーフに対する心ない言葉は、本人
に向けられるだけでなく、時には、母親にまで及ぶこともある。では、I さん(42 歳女性)の子
どもの頃の回想を見てみよう。
(子どもの頃は)「あめりかぁ」とはありましたけど、かえって大人の方がきつかったで
すね。「いったー、おかあは、(あんたのお母さんは)パンパンだったんだろ」とか。「お
前の親は、売春婦だろ」とか、ああいうのとか、平気で。沖縄の男の人って特に多いです。
外人の子っていったら、みんなそんな感じで。子どもだけでなくて、大人の誹謗・中傷(が
あった)。
(#9‐42 歳‐女性)
データからは、
「母親のことをパンパンと言われたこと」と「母親は売春婦だったと言われたこ
と」の2つの例が浮かびあがった。沖縄社会では、ハーフの人々を戦後のイメージと重ね合わせ
てしまう傾向がどうしても強いようである。I さんは、子どもの頃、見知らぬ大人の男性から、ア
メリカ人との間に子どもを産んだ母親のことを悪く言われていた。当時の沖縄の男性は、ハーフ
に対して、敵対国だったアメリカの子どもというイメージを持っていた。子どもの頃は、彼女自
身、友達から言葉のいじめや、いじめ行為を受けた経験を持っていたが、本人のことだけでなく、
母親のことまで「パンパン」、「売春婦」と誹謗・中傷された。I さんは、傷ついた心にさらに塩
を塗られたような痛みを感じたのである。
56
3)就職における差別
自分が今後どのように生きたいのか、人生を決める最も重要になるのは、学校を卒業してから
の就職である。人生を左右される重要度の高い分岐点の選択においても、日本社会の中で、ハー
フの人々は、差別を受けていることがわかる。
では、F さん(43 歳女性)の事例を見てみよう。彼女は、中学、高校とバスケットボール部に
所属していた。高校を卒業後、関西の短大に進学し保育士の免許を取得した。卒業後は、関西に
残って仕事をすると決め、就職活動に励んでいたが不採用通知が何枚も届いていた。そんな時の
出来事である。
大変だったことは、就職活動だ。やっぱり。あの~、それを、大学の監督が、うちのコー
チ(沖縄で指導してもらっていた)に、たしか聞いた言葉があるんだよ。(沖縄の監督は、
就職試験を全て不合格になっていた F さんのことを心配し、その理由を関西の大学の監督
に探りを入れてもらっていた。そして、就職先から聞きだした情報を沖縄の監督に報告し
ていた。そのことを、F さんに告げた)
「F さん、沖縄では、ハーフのおまえは、活躍もし
てるし、普通だから、何も言う人がいない」って。
「大阪に出して初めて、F は、母子家庭
であること、履歴書が。っで、ハーフであるってことが(採用の合否)左右してる」って。
これが、生まれて初めての私の「そうなんだ。差別ってあるんだ」って思った(ことだっ
た)
。
(#6‐43 歳‐女性)
F さんは、関西で就職活動中に、何件もの不採用通知が届き落ち込んでいた時、沖縄でお世話
になっていたバスケットボールのコーチから連絡があったという。F さんによれば、そのコーチ
は、彼女が優秀であるのにどうして、就職の内定をもらえないのか心配になり、彼女の不採用の
理由を聞きだしていたのだ。その理由は、「ハーフ」であること、「母子家庭」であることだった
という。F さんは、沖縄にいた時には、差別を経験したことがなかったので、書類だけで合否の
判断材料にされていたことに、大変驚き、悔しさを感じたという。
後日、監督が F さんの不採用はおかしいと思ったのには、彼女の中学・高校でのバスケットボ
ール選手としての輝かしい活躍があった。沖縄県では、大会の度に優勝し、全国大会に進出し、
他の都道府県の選手と対等に戦ってきてきた。そんな彼女にとって、初めて遭遇した差別された
関西での出来事であった。
質問(2) 学校や地域社会で大変だったこと。特に、人との関わりの中で自分が浮いているな
と感じたこと
本節では、「学校や地域社会で大変だったこと」の中で、「特に、人との関わりの中で自分が浮
いているなと感じたこと」について述べる。データからは、1)
「アイデンティティの揺れ」が出
てきた。
1)アイデンティティの揺れ
アイデンティティとは、自己の存在証明である。混血児の人々は、日本人や沖縄人と関わりを
もつことで、自分自身が誰なのかを考えさせられ、アイデンティティが揺れ動く。次に、どのよ
57
うなときにアイデンティティの揺れがあるのかをみてみよう。アイデンティティの揺れに関して
は、①「相手によって自分が変わること」、②「自分が何人であるのかの戸惑い」、③「英語が
できるのにアメリカ人から日本人と思われたこと」の3つのテーマが抽出された。
① 相手によって自分が変わること
人は、複数のアイデンティティを持っていると言われているが、混血児の人々は、相手によっ
て、自分自身(アイデンティティ)が変わることがある。
B さん(22 歳女性)学生の語りを見てみよう。
顔見た瞬間に「違うでしょー」って(友達に)言われて。その時は、「沖縄出身だけど」
って答えてましたね。っで、「ハーフじゃない?」って聞かれたら、「うん、ハーフだね」
って答えてましたね。そういう感じでしたね。小・中・高のほうが、ダイレクトに聞かれ
ることが多かったですね。違うって思ったら、素直に言うので。(今は、何と答えるので
すか?)言われた時は、たぶん「日本人」って答えるでしょうね。はい。22 年間ここで、
ずっと暮らしてきてて、違和感もないし、別に、アメリカ人っていう誇りも、持っていな
いわけではないんですけど、別に、それを、誇示しようとも思わないので、別に「日本人
です」って言うと思いますね。日本人の人に聞かれたら、日本人って答えますけど、アメ
リカ人の人に聞かれたら~。あ~、アメリカ人ですかね~。アメリカ人以外だったら、た
ぶん、「日本人」ですって、答えてますね。アメリカ人だと、お父さんが、半分アメリカ
人の血が入っているので、
(アメリカ人)だろうと思うんですけど。外国人の場合は、
「私、
英語を話せませんよ」っていうアピールのために、「日本人」って言いますね。
(#2‐22 歳‐女性)
上の例では、学生時代、B さんは、友人に対して、「沖縄出身」だと答えていたが、ハーフで
はないのかという問いには、相手にあわせ、「ハーフ」だと答えていた。現在(22 歳)では、「日
本人」だと答えている。しかし、アメリカの人からナニジンかと聞かれると、「アメリカ人」と
返答する。さらに、アメリカ以外の国の人から尋ねられると、外見からみると、英語が話せるよ
うにみられると困るため、「日本人」と答えるという。
つまり、彼女は、日本人と話している時には、自分自身を日本人だと思い、一方、アメリカの
人との会話の際には、アメリカ人だと考える。また、アメリカ以外の外国人から何人かと聞かれ
ると英語を話せないことがコンプレックスとなるために、日本人と答える。したがって、彼女の
場合は、相手の期待に合わせて、自分自身のアイデンティティを変えている。
② 自分がナニジンであるのかの戸惑い
一般的に、人は、思春期に自分が何なのか疑問に持つと言われている。しかし、混血児の人々
は、生まれたときからふたつの文化を持っているため、彼ら/彼女らは自分がナニジンかというこ
とをよく考え、悩むという。
次は、G さん(38 歳女性)の例を見てみよう。
結構、昔、これで、思ったんですよ。ここに(沖縄)いたら、みんなに、
「アメリカーやー、
アメリカーやー」って言って、沖縄の人、日本の人からすれば、自分は、アメリカ人であ
58
るし、でも、向こうに、アメリカ、っていうか基地の中に遊びに行ったりとか、そういう
財団があって、片親のっていって。年に何回か、こう、催し物があると、ホストファミリ
ーみたいな感じで、向こうで(基地の中)やってくれるんですよ。でも、向こうの人から
すれば、「アメリカ人じゃないよー」って。だから、「はっ?アメリカ人でもないし、日本
人でもなければ、なんなのー」って、ずっと、こう、思ってたんですけど。だけど、ず~
っと、ここで(沖縄)育ってるし、日本国籍を取ったからとか、そういうんじゃなくて(3
秒間)なんだろう、(4 秒間)いつから、何か、なんで、「うちなーんちゅさ」って。日本
人でもなければ、アメリカ人でもない。
(#7‐38 歳‐女性)
上の例では、10 代の頃、自分がナニジンであるのかと戸惑っていた時の体験を話している。G
さんは、沖縄社会の中では、日本人から「アメリカ人」と言われ、一方、米軍基地の中(アメリ
カ社会)では、英語が話せないため、アメリカ人からは、「アメリカ人ではない」と言われてい
た。そこで、10 代後半までは、自分はいったいナニジンなのだろうかと戸惑っていた。その後、
成人してからは、自身を日本人でもなく、アメリカ人でもない「うちなーんちゅ」と答えるよう
になった。
③英語ができるのに、アメリカ人に日本人と、思われたこと
混血児の人々は、話せる言葉に応じて、日本社会からアイデンティティを付与されることがあ
る。しかし、言葉だけでなく外見で判断され戸惑うこともある。ハーフの人は、自身の外見から
アメリカ人と思っている。ところが、他者は本人をそのように思ってくれない。
では、O さん(42 歳男性)の例を紹介する。
(周りが自分に対していう言葉が)多いのは、「外人、外人」ですね。そうなると、「自
分は向こうの人って、なんだろう」差別的な感じはしました。やっぱり小学校の時はそう
でしたね。まわりがみんな日本人でも「外人、外人」言われていたら、「自分日本人じゃ
ないのかな?」って、だけど、まわりにアメリカ人がいて、話しかけても「日本人かな?」
って思われるから、何かちょっと話しにくい。そういうところがあったから、余計にハー
フの子を見ると仲間っていうのは、そういうのは似てるから、自分は日本人でもないし、
外人でもない。でも、同時に日本人でもあるし、外人、アメリカ人でもあるっていう、ち
ょっと複雑って言ったら複雑なんですけど、そうなんだけど、そうじゃない、そうじゃな
いけど、そうでもあるって。まぁ、日本人からは見かけだけで、「おまえ外人、外人あっ
ち行けー」で、またアメリカ人からすれば、日本人に見えるから話かけてこない。だから
そういうところで違うんだなぁって。
(#15‐42 歳‐男性)
上の例は、英語ができるのに、アメリカ人に、アメリカ人ではなく、日本人と思われてアイデ
ンティティの揺れを感じている。O さんは、小学生の頃、日本人から「外人」と言われ「自分は
何だろう」と思った。また、一方、アメリカ人から、自分のことをアメリカ人として見ないで、
日本人としてみられることに戸惑いを感じた。結局のところ、B さんは、日本人でもなければア
59
メリカ人でもない。つまり、日本人でもあり、アメリカ人でもあるという複雑な思いを打ち明け
ている。
この背景には、彼の小学校・中学校・高校の体験が影響している。彼は、小学校・中学校・高
校とインターナショナルスクールで学んでいたからである。そのため、O さんは、英語を流暢に
話すことができるのである。上の例に戻れば、O さんの場合は、英語ができるのに、アメリカ人
は、同じ仲間だと思ってくれない。そのことが、O さんのアイデンティティを揺るがしたのであ
る。
質問(3) これまでの経験を通して、困難をどのように乗り越えてきたのか。その後、どのよ
うに自己形成したか。
まず、ハーフの人々が、これまでの人生の中で様々な問題に直面し、どのように困難を乗り越
えてきたのかを尋ねたところ、面接者の中には、
「まだ困難を乗り越えたのかわからない」と答え
た人と「もうすでに乗り越えた」と意見を述べてくれた人もいた。ここでは、
「乗り越えた」人た
ちを紹介する。彼らは、それぞれ、家庭環境は異なるが、ユニークな体験をしていた。
1) 新しい友人との出会い
Q さんは、大学生の頃、英語での教育を受けてきたハーフの友人達との出会いがあった。以下
は、彼女が 1 年間休学していた時、気分転換に出かけたカフェで知り合ったと男性との会話であ
る。では、Q さんの語りを見てみよう。
(きっかけは何だったのか)いろいろあるんですけど、一番大きい出会いは、アメリカン
スクールにずっと行ってたハーフの子と遊ぶようになったんですよ。たくさんと。おまえ
なんかいいなぁって。自分は日本の学校に行って、「ばっペーハーフだよ(なんちゃって
ハーフ)」みたいな。全然、自分は恵まれてないし、今考えたら英語の学校行って、結局
日本は、英語、英語、英語してるし、留学行ってたってだけで、みんな何かちやほやされ
るしみたいな。自分こんな顔なのに、英語しゃべれないし、って 1 人でぶつぶつ、ぶつぶ
つ言ってたら、「アホじゃない?おまえ恵まれてるんだよ。」みたいな。「何で」って言
ったらだって、「おまえ漢字も書けるだろ?お前の英語力は、全然大丈夫だよ。お前のは
(英語)この年としての、レベルは、超えてる。大丈夫だよ。」って。「そんなに気にす
ることじゃないよ。」って。「逆に俺見てみ。俺英語しかしゃべれないよ。俺、ひらがな
しか読めないよ。カタカナも読めないし、漢字は全然読めないよ。俺が一番はずかしいよ。」
みたいな。英語しゃべれたら、どこでもやっていけるだろって思ったんだけど、結局、国
籍2個持ってたら、(沖縄に)いとけるけど(居ておくことができるけど)、こっちに。
<中略>自分今、大学行ってるし、何の不自由もなく、英語も一応できるし、日本語全然
できるから、今考えたら自分幸せなのかなって思う。だから、色々あったけど、ま、結果
オーライだから、いっかなーって、今だったら思うんですけど。
(#17 - 23 歳 - 女性)
上の例では、大学休学中に、インターナショナルスクール出身の男友達との出会いがあったこ
とを話している。その友人に、
「Q さんの英語は、レベルが高い」と褒められ、
「日本語もできる」
60
と高く評価してもらい、大変うれしかったことを報告している。一方、友達はインターナショナ
ルスクール出身であるため、漢字が書けないことを打ち明けてくれたことに彼女は驚いたという。
このとき、初めて自分は友達と比べると、まだ恵まれた人間だということに初めて気付かされた
という。この経験が彼女をこれまでの内向きから外向きな気持ちへと変化させた。つまり、同じ
境遇のハーフとの出会いが、彼女を立ち直らせたと言える。
2)自分探し
時として人は、発達段階において、自分は誰なのかと疑問に思う経験をする。特に、混血児の
人達は、文化の違いにより自分自身のことで悩むことが多い。沖縄に住んでいるハーフの人達は、
主に、父親がアメリカ国籍で、母親が日本国籍であるため、ふたつの文化の挟間で揺れ動き、自
分はナニジンであるのかで悩むことがある。そこで、自分のルーツを探すために父親の住んでい
るアメリカに行った人がいた。ここでは、2人(L さん・M さん)の例を紹介する。
まず、L さんの話を見てみよう。
2年前に国籍決めないといけないよってお母さんに言われて、「日本取るでしょ?」って
ずっと言われていたんですよ。でも、その時はまだ自分がどっちっていうのをわからなか
ったんで、しかも両方だからっていうのが強くて、自分はどっちでもない。両方だからっ
ていうのが、すごい強くて、日本の法律的にはどっちかを取らないといけないってなった
から、とりあえず、アメリカに行ってみたんですよ。自分のお父さんの所に 14 年ぶりに会
いに行って、そこで、自分がどう考えるのかっていうのを、ちょっとやってみたくて、2
週間くらい行ってみたんですけど、そこで、やっぱり自分は日本人だなって思って、すご
い思って、むこうの環境に全然ついていけなくて、考えることとか、やることとか、まっ
たく考えられない感じだったんで、やっぱり自分は違うなぁみたいな、自分はアメリカ人
ではないって感じで思ってそれで帰ってきて、日本人っていうふうに自分の中では確立し
たんですけど、でも、日本人とも思いたくないって思って、「うちなーんちゅ」。自分の
中でも、「ないちゃー(本土の人)」の血が入ってるんですけど、「ないちゃー」が「う
ちなーんちゅ」にどんだけ最悪な事をしたかと思うと、自分の事を「ないちゃー」とも思
いたくないって思ってしまって、で、もう、「うちなーんちゅ」。生まれも育ちも「うち
なーんちゅ」だし、友達からも、「なまりがすごいあんたこんな顔してるのに、沖縄だよ
ね。」って言われたら、じゃ自分は、「うちなーんちゅなんだな」って、それで「うちな
ーんちゅっ」て。
(#1 - 23 歳 - 女性)
L さんは、小学生の頃、基地内の学校、沖縄のインターナショナルスクール、沖縄の公立学校
を経験している。しかし、行く先々で、いじめに会う日々を送る。大学生の頃、そんな彼女は、
国籍の選択を迫られ、21 歳の時にアメリカに住んでいる父親に会いに行った。ところが、アメリ
カでの生活は、何もかも違和感があったという。滞在中、日本とアメリカの生活を比べて、日本
の方が自分に合っていることに気づいた。つまり、アメリカでの異文化体験は、彼女を日本人で
あると意識させたといえる。その後、彼女が生まれた沖縄の歴史を学ぶことで、沖縄が本土から
受けた差別などを知ることができたという。そこで、彼女は日本人であるのか、沖縄人であるの
61
かという選択をせまられた。そんなある日、友達に、「あんた、うちなぁんちゅだよ」と言われ、
「ハッ」とし、自分は沖縄人だと意識するようになったという。
彼女は、いじめなどの体験から立ち直れず、21 歳の時、父親に会いにアメリカに行った。そし
て、自分自身を確認した。まさに、彼女にとって、自分自身を「うちなーんちゅ」と呼ぶことで、
自身の所属に気づいたのだろう。また、アメリカでの経験が彼女に「自分は誰、私はナニジン」
という疑問に応える手助けとなったといえよう。
また、童話を読むことで、自分探しをした例も見られた。L さんは、帰国後、ある本との出会
いが彼女の悩みを救ってくれたという。この本は、ある 15 歳の女子中学生が自分の心情をつづっ
た作文である。
自分がアメリカ人といわれるのになぜか反発を感じます。日本人といわれても何だか変で
す。混血児といわれるのも何だか変です。じゃあ、私は一体何なのでしょうか。
小さい頃『イソップ物語』を読みました。そこで出てくるコウモリが今の自分の立場のよ
うな気がして悔しかったことがあります。動物達の所へ行って、自分は耳もあるし動物の
仲間だといい、鳥の所へ行っては、自分は羽があるから鳥であるという。コウモリは両方
から仲間はずれにされ、独りぼっちになるのです。また、小学校の頃、B52 戦闘機の撤去
運動が続けられていて授業で先生がその話しをすると、何か、アメリカの血を引いている
自分が悪いような気がして、先生の顔をまともに見られなかったことを覚えています。
(「沖縄の日米ハーフに対するステレオタイプ」)
上の作文は、15 歳の女性が、アメリカ人でもなく、日本人でもなく、混血児でもない、自分っ
て誰だろうと悩んでいる気持ちが表れている。また、彼女は、
『イソップ物語』に登場するコウモ
リが自分の境遇と似ていると感じ、悔しかった思いを書いている。コウモリは、動物と鳥の両方
から仲間ではないと否定されている。L さんは、そんなコウモリの境遇が自分と似ていると思っ
たという。また、小学生の頃は、授業中に、教師が B52 戦闘機の撤去運動について話すと、その
時ばかりは、彼女の中で、
「アメリカ人」という気持ちが出てきて、自責の念にかられたのだろう。
L さんは、語りの中で、上の作文との出会いについて次にように話してくれた。
まさに(コウモリが)自分のことのように思い、私もこのこと(コウモリの疎外感)と全
く同じ気持ちだった。そして、自分が何人であるのかというアイデンティティで悩んでい
るのは自分だけではないと、勇気づけられた。
(#12 - 23 歳 - 女性)
彼女は、インタビュー中、作文のことを思い出し涙を流しながら話してくれた。人の体験談を
読むことで、コウモリと自分を一体化して考え、悩んでいるのは自分だけでないことを知り、生
きる勇気がでてきたものだと思われる。
次は、L さんと同じように自分探しの旅を試みた M さん、41 歳男性の例である。
「沖縄人」て言ってもさ。でも、絶対納得できないさ。でも、それをやってきたわけ。35
62
歳ぐらいまで。そうとう苦しかった。苦しかったし、どう言って良いっていうのが、まー、
正直だよね。<中略>やっぱり、どこどこ系の何人っていう言い方がいいんじゃないかな。
「アメリカ系うちなーんちゅ」って言えば、アメリカにも、色々な肌の色の人がいるさ、
だから、肌の色とか、そういうのは、かかわらなくなってくると思うわけ。人間は結局、
見た目すべてさーね。見た目で何なのあんたはってさ。<中略>「ダブル」って何かって
いうと、ふたつの国のかけ橋だからって、かけ橋になってくれていうことで、そういう言
葉を使ったと思うんだけど、ダブルっていうと傷つく。要は、
「日本人さ。うちなーんちゅ
さ」
。それにダブルっていうのは、両方の国をあわせたっていうこれも、社会からの押し付
けだわけさ。ダブルってそうとう特権階級のよ、超エリートだよ。要は。<中略> 俺も、
それをあんまー(お母さん)が小さい時から教えてくれてたらよかったけど。それどころ
じゃないわけさ。それが、二十歳すぎて一回(留学から)戻ってきました(沖縄に)
。20
年間この葛藤で、色々、そういうので、
「どうなってるばー」って、問い詰めたこともあっ
たけど、わったー(私の)父ちゃんは「わからない」だわけさ。で、この母ちゃん(実母)
にも、アメリカから、聞いたこともあるんだよ、お家に電話してから。そしたら、母ちゃ
んが(電話に)出てこなくて、妹を電話に代わらしてから、
「電話口に出せー」って言って
出させてから、
「わんねー、ちぶるー、ふらーないぎさーどー(私は、頭がどうにかなりそ
うだ)
」ってから。そしたら、
(実母は)
「何?」だわけさ。<中略>ふんとぅ、ちぶる、い
ほぉーなーないぎさたん(本当に、頭がおかしくなりそうだった)。そうさーね、アメリカ
行って、
「ナニジンなの?」て、また、ここでも(アメリカ)また、「何人なの?」さ。う
ちなーんじ(沖縄でも)
、ナニジン?日本に行っても、ナニジン?ナニジンかな~ってずっ
と。
(#13 – 41 歳- 男性)
M さんは、41 歳の男性である。彼は、生まれてすぐに、伯父夫婦に育てられた。小学生のころ、
実母が養父の姉である事実を知る。養父によると、実母は、米国に留学していた経験があり、そ
の留学中に M さんをみごもって沖縄に帰ってきていたと聞かされている。しかし、M さんは、そ
れ以上の父親の事は知らないという。小学生の頃は、学校では、自己防衛心から、周りの小学生
と喧嘩ばかりしていた。中学校の頃は、他の中学校の生徒や自分の中学校の生徒と喧嘩をする日々
だった。その後、高校に進学したが、気持ちを共有できる友人は、あまりいなかったという。し
かし、高校生の時に、ビートルズと出会い、ミュージシャンを目指す決意をし、高校卒業後、ア
メリカに渡った。アメリカでは、英語漬けの日々を過ごしたが、一層、自分はナニジンなのかと
いう思いを強くした。アメリカから、実母に電話をし、父親のことを聞いた。しかし、答えは、
いつも「知らない」だった。ずっと、安住の地を求めていたが、それが、アメリカではないと思
い沖縄に帰った。沖縄に戻り、真っ先に実母のところに行ったが、父親のことは、話してもらえ
なかった。またその時に、友人とたまたま民謡酒場に行き、三線の音を聞いて自分の居場所を感
じた。それからは、三線を一生懸命練習した。そんな中でも、「自分は誰から生まれたのだろう」
という思いは、ずっと持ち続けていた。ある日、実母が他界したことを聞かされ、出生の事実が
闇へと消えていってしまったという。
上の例にもどると、米国から戻った(1990 年代前半)彼は、自分は、
「沖縄人」だという思い
63
を強くしたという。しかし、M さんは、自分で、「沖縄人」だと社会に主張しながらも、沖縄人
の顔と西洋人の顔とのギャップにずっと苦しんだという。その後、彼は、
「自分を何と呼べばいい
のか」とずっと模索し続けた。
そのような中、1990 年代後半になると、社会では、「ダブル(double)」という呼び名が出てき
てハーフは肯定的に捉えられてきた。しかし、当時、彼は、
「ダブル」という呼称は、社会からの
押し付けだと思ったという。沖縄で教育を受けた彼にとって、日本語しか話すことができなかっ
た。現在 41 歳(2010 年)になって、
「アメリカ系うちなーんちゅ」と自身を呼べるようになった
という。ヒントは、現アメリカ合衆国大統領のバラク・オバマ氏である。M さんは、出生の事実
を知らないため、他のハーフの人々より、
「自分がナニジンか」という気持ちが強く、悩みも絶え
なかっただろう。しかし、現在、自分自身の呼称をみつけることができたことは、すなわち、自
分の居場所を見つけることができたといえる。
5.考察
本章は、インタビューの結果を基に、(1)いじめの問題、(2)アイデンティティの揺れと、
(3)今までの経験を通してどのように困難を乗り越えてきたのか。その後、どのように自己形
成したかについて考察を加える。
5.1.いじめの問題
「いじめの問題」には、言葉によるいじめと、社会的差別を含む。沖縄のハーフの子どもたち
は、友人などから「アジャ・コング」
、
「ゴリラ」、
「焦げパン」、また、
「クロンボ」、
「アメリカー」、
「外人」などと呼ばれいじめを受けていた。
一般的に、学校や地域社会において「いじめ」は存在する。学校でのいじめは、なぜおこるの
か彼らの例から考えると、子どもたちの外見の違い、いわゆる、
「異質性」だと考えられる。混血
児の人々は、特徴的な肌の色、髪の毛の色、時には体型などの違いにより、いじめの対象となり
やすい。現に、面接者の中には、父親がアフリカ系アメリカ人の人や、目鼻立ちがはっきりし肌
の色が白くキメ細かい肌質の人、目の色が茶色や青色、髪の気が縮れ毛、などの人がいた。一見
すると、日本人離れしていた外見が特徴的で、これが、いじめの要因となっていた。
「いじめ」と呼ばれる現象は、藤田(2006)によれば、「なんらかの社会的な偏見や差別に根
ざすもので、基本的には「異質性」排除の理論で展開」(p. 211)されるという。また、「外見」
は、
「人種的」に区別される身体的特徴で、皮膚や瞳の色、顔、髪質や髪色、身長などばかりでな
く、民族、階層性を示す服装や髪型、装飾品をも含み(関口、2001)、いじめの対象となる。特
に、
「クロンボ」
、
「アメリカー」
、
「外人」は、福地(1980)が書いた本『沖縄の混血児と母たち』
と言葉によるいじめと一致していた。また、このいじめの背景には、沖縄の歴史が関係している。
沖縄の人たちの中には、反米感情を持っている人も多く、混血児は今でも「アメリカによる支配
の象徴」
(マーフィ重松、2002、p. 144)となっている。
地域社会の中で、沖縄のハーフの子どもたちが、直面する問題としては、
「ハーフに対するステ
レオタイプ」と「就職における差別」があった。
「ハーフに対するステレオタイプ」の理由として
は、上述した例とも関係しているが、悲惨な沖縄戦の歴史がある。そのため、沖縄の人々は、ア
メリカ人に対してステレオタイプをもっている人もいて、時として、ハーフの子どもたちだけで
なく母親に対してもきつい言葉を言われている。例として、
「母親のことをパンパンと言われたこ
64
と」
、
「母親は売春婦だったと言われたこと」がある。現に、マーフィ重松(1994)は、沖縄のハ
ーフの人々は、否定的なステレオタイプの「米軍基地の被害者」
(p.54)であると述べている。
次に、
「就職における差別」の背景として、沖縄の混血児の家庭事情として、片親家庭が多いこ
とが考えられる。前述した F さんの事例では、就職活動に励んでいた女性のもとに何枚も不採用
通知が届いた。彼女の不採用の原因は、沖縄の混血児であることと、母子家庭であるという理由
であった。このような差別は、強制力の強弱はあるにせよ、文化の一要素として、社会に根付い
ている。竹下(2002)は、在日米軍基地の 75%が集中している沖縄県のアメラジアンの母子家庭
には、父親が軍人・軍属であるゆえに問題も存在する、と指摘している。つまり、これらの問題
は、(1)本土と周辺(沖縄)
、(2)純血と混血、(3)ふたり親家庭とひとり親家庭からの差別
であるといえる。
5.2.アイデンティティの揺れ
ハーフの人の中には、接する相手によって自分自身のアイデンティティを変えている人もいた。
データからは、沖縄の人と接する時、日本人と接する時、アメリカ人と接する時、他の国の人と
接する時などによって、自分自身の呼称を変えていた(B さん)。この状況は、父親の文化と母親
の文化の両方を持ち合わせる環境の中で、ふたつの文化を意識しながら自分自身のアイデンティ
ティを模索しているのだと考えられる。つまり、他者との関わりの中で、自分がどんなアイデン
ティティを持っているのかに気付かされているのだ。そのアイデンティティとは、ひとつとは限
らず、複数存在するのである。
エリクソンは、幼児期から青年期にかけて、
「自分は誰か」と考える自我アイデンティティを研
究している。自我アイデンティティとは、様々な自己像を徐々に統合しアイデンティティ感とし
て完成させるという時、人は同時に複数のアイデンティティの束に包まれると述べている。また、
池田、クレーマー(2006)も、「人は同時に複数のアイデンティティをもつ。」(p.18)という。
さらに、個人が自分自身を解釈し、意味づけするためには、自分が「話す位置」を暫定的に決め
なければならない。他者から何者と投げかけられるイメージや表象に対して自分の「位置」を決
め、その「位置」から自分を語るのである(Hall, 1989)。マーフィ重松(2002)は、「沖縄の
アメラジアンの 85 パーセントが自分の中では文化的背景が混ざり合っていると感じていた」(p.
190)と述べ、そういう彼らを呼ぶ最も一般的な名称は、ハーフだという。自分はどちらにも所属
し、どちらともつながっていると考えるが、両方を主張しようとすることが難しい場合もある(マ
ーフィ重松、2002)。
そのため、沖縄のハーフは、多文化環境のなかで、程度の差はあっても、複数文化を常に意識
しながら、その統合を目指して、自分自身の文化的アイデンティティ(アイデンティティ)を一
生模索していくことになる。データからは、「自分が何人であるのかの戸惑い」(G さん)が抽
出された。
この文化的アイデンティティとは、実体がないが、人間が意味を求める生き物である以上、ア
イデンティティは掛け替えのないものであるため常に自分が誰なのか自問自答をすることで苦し
むこととなる。現に、エリクソンは、自己を歴史過程の中に位置づけ、自己の所属する具体的な
社会集団の中で、一定の社会的役割を遂行していくことがアイデンティティ形成にとって重要な
要件となると述べている(エリクソン、2003)。
65
また、彼らは、文化的アイデンティティだけでなく言語的アイデンティティでも苦しんでいた。
ここでは、文化的アイデンティティを言葉の違いによって生じる言語的アイデンティティと同じ
意味で使っている。本事例では、
「英語ができるのに、アメリカ人に、日本人と思われたこと」で
ある。O さんは、アメリカ人と会話をする際に、英語を話せるのにも関わらず、日本人だと思わ
れ、違和感があったという。この理由としては、言語はコミュニケーションの道具(=伝達)だ
けではなく、アイデンティティという機能を持つ(小野原、2004)からである。マーフィ重松(2002)
は、
「ある集団に所属していますと自信を持って言えるには、言語こそ最も基本的な文化技能だろ
う」
(p.192)と述べている。また、
「結局、英語力とアメリカ文化の知識がハーフとしてのアイデ
ンティティが認められるかどうかを決めるカギになるのだ」
(マーフィ重松、2002、p.192)とあ
り、文化と言語とアイデンティティの関係性の重要さを述べている。つまり、ここには、Tajfel
(1972)が提唱している、社会的アイデンティティが見られる。
混血児の人々は、他者を意識することで、自分は何者で、どこに帰属するのだろうかと何度も
悩むことになる。本調査での結果は、主に、小学生から中学生の頃、アイデンティティの揺れで
苦しんでいる人が多く見られた。このアイデンティティの揺れは、箕浦(2003)の結果と一致し
ている。彼女の論文では、11 歳から 14 歳の間に異文化社会に移行した場合が、アイデンティテ
ィの揺れが見られた。自分のアイデンティティに気づかされるのは、自分と異なった人や文化に
触れたときであり、文化的アイデンティティの揺れが生じることは、他者との違いに気づいたと
きなのである。
5.3.これまでの経験を通して困難をどのように乗り越えてきたのか
沖縄の混血児たちには、様々な問題にぶつかった後、立ち直っていた人もいた。これらの困難
を乗り越えたきっかけとして、
「新しい友人との出会い」と「自分探し」の事例があった。
人は、時として、人との出会いによって人生が変わることがある。本事例では、同じ境遇の友
との出会いによって、彼らからのアドバイスが、自分の問題を解決できるきっかけとなったとい
う。Q さんは、インターナショナルスクール出身のハーフの男友達に「英語のレベルが高い」「日
本語もできる」と高く評価されたことがうれしかった。一方、友達は、インターナショナルスク
ール出身のために、漢字が書けないことを正直に打ち明けてくれた。その時に、彼女は、友達と
比べたら、自分はまだ、恵まれた人間だと気づき、内向きからポジティブな気持ちになったのだ。
池田、クレーマー(2006)によれば、「自分が見えてくるのは、他者との違いに気づいたときな
のである」(p.17)と述べている。また、マーフィ重松(2002)は、「私たちはみな自分の内に
他者を持っており、この他者性を受け入れた時、『自分たち』と『彼ら』の境界は消え、心を開
いて世界を受け入れることができるのだ。」(p. 232)と述べている。
混血児は、自分の生まれた場所、親を求めようとする心は、ルーツを明確にすることによって、
自分のアイデンティティを確立していこうとするのである。その意味では、ルーツ探しは、アイ
デンティティの根であるといってよい。ハーフの人たちは父親がアメリカ人ということもあり、
「自分探しの旅」のためにアメリカを訪れていた。
「自分探し」では、自分が誰だかわからず悩んだ時に父親の国であるアメリカに行った二人の
体験をしている。
L さんは、いじめなどの体験から立ち直れず、21 歳の時、アメリカに行き、自分自身を日本人
だと確認した。その後、友達に「あんた、うちなーんちゅだよ」と言われたことで、自分自身の
66
所属に気づき、今では、自身を「うちなーんちゅ」と位置付けている。関わる人によって、自分
の異なった側面が浮き彫りになってくるのである(池田、クレーマー、2006)。それゆえに、他
者から何者と投げかけられるイメージや表象に対して自分の「位置」を決め、その「位置」から
自分を語る(Hall, 1989)。また、それは、主体的な「位置取り」のプロセスである(ホール、
1998)といえる。つまり、アメリカ人である父親を強く求めたとしても、日本人そして、沖縄に
いる母親や祖父母がこれまでどのように自分に人生を与え、支えられたかという現実に、人は、
立ちかえっていくのだ。
次は、L さんと同じく「自分探し」をした M さんの例である。彼は、生まれた時からずっと、
出生の事実を隠されてきたため絶えず、「自分は何人か」と悩んでいた。41 歳になって、現アメ
リカ大統領のバラク・オバマが自分自身を「アフリカン・アメリカン」と呼んでいるスピーチを
聞いた。それをヒントに自分自身の呼称を「アメリカ系うちなーんちゅ」と言えるようになった。
この時やっと、自分の居場所を見つけることができた。これは、長年の自分探しの旅から得たア
イデンティティであった。
文化的アイデンティティは、一般的には、“自分自身がある文化に所属している感覚”とされ、
その感覚には、自己認知、他者認知、生物学的要素(血筋・出自)などが関連してくると考えら
れている(鈴木、1997)。M さんの場合は、アメリカ人、日本人、沖縄人という呼び名だけでな
く、新たな名称を創造した。これは、ランガー(Ellen J. Langer)のマインドフルネス(Mindfulness)
である。マインドレスネスの特徴が古いカテゴリーへの固執だとすれば、マインドフルネスの特
徴は、絶えず新しいカテゴリーを創造する(ランガー、1989)。つまり、既存の枠を超えた、新
しい枠組みを構築し続けることである。M さんの場合、日本人でもなく、アメリカ人でもなく、
沖縄人(うちなーんちゅ)でもなく、「アメリカ系うちなーんちゅ」という名称を創ることで、
彼自身の文化的アイデンティティ(=「位置づけ」)を選び取ったのである。
6.おわりに
本研究では、沖縄の混血児たちが、学校という場において、他者との関わりの中で、どんな問
題を抱えているのかを調査した。特に、友人・仲間との中で、どのようなアイデンティティの揺
れがあったのか、どのようなきっかけでアイデンティティの揺れが生じたのかを調査した。また、
その後、彼らは、アイデンティティの揺れを通してどのように自己形成をしていくのかという過
程を明らかにした。
この調査では、混血児たちが学校や地域社会の中でどのような問題を抱えているのかを明らか
にすることができた。いじめの要因と学校と地域社会の中での問題を図式化すると図 1 となる。
次に、これまでの経験を通して、どのように困難を乗り越えてきたのかを調査した。その結果、
彼らの文化的アイデンティティの形成についての要因を解明することができた(図1、図2参照)。
今回の沖縄の混血児の文化的アイデンティティに関する研究は、沖縄だけに限定されるのでな
く、広く、日本社会の問題として捉えるべきものである。つまり、すでに、多民族社会、多文化
社会となっている日本社会において、異文化背景を持った人々との「共生」をどのように可能に
するのかが、日本社会に課せられた重要な課題として浮上しているといえる。
また、アメラジアンの問題は、米軍が駐留するアジア各国で不可避に発生している現状である。
アジア各国を通じて共通した特徴は見られるが、実際の状況は国によって様々で、主として集中
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図1:沖縄の混血児のいじめの要因と学校と地域社会の問題
沖
縄
戦
アメリカ人と沖縄人との間に生まれた子ども(混血児)
いじめの要因:混血児の外見
(肌の色・髪の毛・体型)
(黒)
学 校 環 境
地 域 社 会
・いじめの言葉と行為
・ハーフに対するステレオタイプ
(アジャ・コング、ゴリラ、クロンボ、
(母親はパンパン、母親は売春婦)
焦げパン、アメリカー、外人、蹴ら
れた、椅子の脚を切られた、教科書
・就職における差別
を破かれた)
(混血児であること、ひとり親家庭である
こと)
・勉強についていけなかった
・アイデンティティの問題
(特に日本語・英語の学習)
(相手によって自分が変わる、英語ができる
・学校文化についての知識の欠知
のにアメリカ人から日本人と言われた、自
(ピアス、和式トイレ、給食メニュー)
分がナニジンであるのかの戸惑い)
しているのは、日本、フィリピン、韓国、タイ、ベトナムの 5 ヵ国である。まさに、アメリカ軍
事戦略の巨大な影と言えよう。また、2001 年2月、アメラジアンが最も多い日本(沖縄)のアメ
ラジアンスクール・イン・オキナワと、韓国のアメラジアン・クリスチャン・アカデミーとの間
に交流が持たれた。そこでは、互いの教育方針や両国のアメラジアンが置かれた状況が話し合わ
れ、両校で交換留学制度を始めることや、一緒に野外活動などの体験学習の機会をつくることを
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図2:文化的アイデンティティの形成
アイデンティティの揺れ
・相手によって自分が変わる
・英語ができるのにアメリカ人から日本人と
思われた
・自分が何人であるのかの戸惑い
・アメリカ人
・日本人
・沖縄人(うちなぁーんちゅ)
新しい出会いと自分探し
・新しい友との出会い(同じ境遇の知人)
・人生の転機(就職・結婚)
新しいアイデンティティの構築
・自分のルーツ探し(アメリカ)
・アメリカ系うちなぁんちゅ
決めた。両校の交流は、マイノリティ集団としての周辺的存在が、その集団を人間らしくするの
に大変重要な役割を果たすものである。つまり、アメラジアンにとって、人種・国籍上のアイデ
ンティティ形成という問題をめぐって、大きな困難に直面してきている。
沖縄のアメラジアン研究としては、アメラジアンスクール・イン・オキナワの児童が、児童館
で、地域の子どもたちから、爆竹を投げ込まれるという事件をきっかけに、外に向けて共生を進
めるため、ワークショップを行い共生の実現を行っている。そこでは、一人ひとりの多様性を豊
かに反映した、
「違い」と「重なり」の成り立ちや、その作り変えについて模索をしている(野入、
2006)
。
今回の研究としては、10 歳代のサンプルが少なかったため、今後は、10 歳代へのインタビュ
ー調査を行いたい。思春期のアイデンティティの主題は、
「自分とは何者か」というテーマで、
「自
分」で「自分」をつくっていこうとするこころの動きの時期である。思春期の混乱期に直面して
いるアメラジアンの子どもたちのさまざまな葛藤を明らかにすることは、多文化共生への接近と
なるであろう。
註
1) 「混血児」という言葉は、1970 年の終わり頃まで、研究・調査の場合でも使われていた。また、
一般市民にも同様に使われていたが、ネガティブイメージとして捉えられていた。しかし、過去の
歴史をおさえることができるので、あえて本論では、
「混血児」と使用した。また、時代とともに
69
彼らの名称は、
「合いの子」
、
「GI チュルドレン」、
「国際児」、
「ハーフ」
、
「アメラジアン」と変わっ
てきている(詳しくは、本論の第 2 章 第 1 節を参照)。本論文中では、色々な言葉を使っている
が、同じ意味としている。
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