イスラームとグローバル・ガバナンス研究 奥田 敦 慶応義塾大学総合政策

イスラームとグローバル・ガバナンス研究
奥田 敦
慶応義塾大学総合政策部
■オリエンタリズムを超えて■
いわゆるグローバリゼーションすなわちグローバル・キャピタリズムはいま
や全世界を覆い尽くす勢いで広がりつつある。それと同時に、このグローバリ
ゼーションに対するさまざまなレベルでの反発もまた世界の各地で起こってい
る。日本におけるある種の日本的伝統への回帰現象もまたそうした反発のひと
つとして数えることができる。彼らは、自分たち自身の文化、歴史、国民感情
といったものを自分たち自身の伝統の上に見出そうとしている。グローバル・
キャピタリズムの拡大としてのグローバリゼーションは、むしろローカルなも
のからの反発を生み出すような構造を有しているとさえ思われる。ローカルな
ものへの十分な配慮を欠くグローバリゼーションが、決して成功しないのは歴
史の教えるところであるのだが1。
かつてグローバルな政治統合を実現したことのあるイスラーム圏もまたグロ
ーバリゼーションの下に晒されている。アフガニスタン、パレスチナ、アルジ
ェリア、インドネシア、イラク等のイスラーム圏で生じている事件については、
グローバルなものに対するローカルなものからの反発という図式の中に収める
ことができる。いや、収められてしまう。彼らは、民主主義を拒み、人権を拒
み、自由市場経済を拒み、国家建設を拒み、和平すなわち地域の政治的な安定
を拒む者たちとしてメディアの中に立ち現われる。
こうして西側のメディアに断片的あるいは表面的に現われるイスラームは、
ローカルで伝統的であるばかりでなく、狂信的で原理主義的でもある。世界の
政治的、社会的安定を脅かすのはこの宗教だといわんばかりである。こうした
西側の言説上に現われたイスラームが、実は西側がオリエントを支配し、操縦
し、統合しようとするための手立てであり、そこには「オリエンタリズム」と
でも呼ぶべき一定の目的意識に基づく言説が強く作用していることが実証的に
提示されて久しい2。
しかしながら、オリエンタリズムの存在を確認し、それを排除することがで
きたところで、イスラームの本来の姿は見えてくるのであろうか。サイードは、
イスラームが一枚岩であることを否定し、イスラームは単に歴史的なものでし
かなく、一般的傾向よりむしろ個々別々の心の叫びに耳を傾けよと主張する3。
しかし、その主張通りにすれば、アッラーと彼の預言者、天使、書、最後の日、
1
天命と神慮を信じている 13 億人からなるといわれている共同体は、ローカルな
ものとして解体されてしまう。
したがって、「オリエンタリズム」以降、イスラーム世界それ自身が考えなけ
ればならないのは、イスラームの地域性、特殊性のみを際立たせることだけで
あってはならない。たとえ統一的な政府が存在せずとも、ウンマ・イスラーミ
ーヤは存在し続けることを自ら隠蔽することになるからである。その意味で、
イスラームをローカルなものに押し込め、信徒に対する教えとしてのみこれを
捉えることは、イスラームの半分を見失うことになる。むしろ、イスラームの
教えが、万有に対する教えであるという点、すなわちその教えの持つ普遍性が
明らかにされなければならない。それは同時に地球規模のガバナンスを考える
際にも、大きな手がかりになるからである。
■ガバメントとガバナンス■
人間および人間の行なうことに限界があるのは、イスラーム教徒であれば誰
もが知っている自明の理である。人間世界を政治的な意味で支配しようとする
場合にもこのことはあてはまる。人間あるいは人間社会が自分自身を最高の権
力者として組織する社会には、その広がりの点においてもまた限界がある。空
間的な意味でいえば、政治的な共同体には、ある種の領域性とそれに伴う境界
がついてまわることになる。人間を絶対者とするような政治的共同体は、この
領域の内部でしか成立し得ない。人間の権力にもまた限界があるからである。
このように、限られた領域において地上の権力に全面的に依拠しながら構想さ
れ、実現されていく政治的な支配あるいは統治の形態をここでは「ガバメント」
と呼ぶことにしよう。
しかしながら、人間社会のまとまりは、何も「ガバメント的な」政治権力お
よびそれへの服従によってのみもたらされるものではない。誰に強制されなく
とも、構成員が自発的に行なう行為によって政治的な共同体が形成されること
もありうる。政治的な権力を特定の個人や組織へ集中させることを前提とせず
に、構成員同士の協調あるいは協同によって社会が形成・統合されることが可
能になる。こうした社会のまとまりの形態を、「ガバメント」に対して「ガバナ
ンス」と呼ぶことができる。領域性という限界に制約される権力の集中をある
意味において必要としないこの形式では、境界を乗り越えることもまた可能に
なる。
このように、ガバメントが、限定された対象に対して権力のみを背景にした
政治的支配あるいは統治の姿であるのに対して、ガバナンスは、構成員の自律
2
性に根ざした社会の統合の姿であり、境界から自由な社会の形成・統合に寄与
しうる。人間社会の権力の形成と分配をその対象とする政治学は、もっぱら社
会の「ガバメント」の側面のみを扱ってきた。しかしながら、よい意味でも悪
い意味でも地球全体が一つの社会であると考えざるをえないようなさまざまな
事態に直面している現在においては、「ガバナンス」の側面がいっそう注目され
てよい。グローバルなレベルでの社会の統合は、ガバメントではなくガバナン
スの側面からのアプローチによってはじめて可能になるからである。(現にわ
れわれは、力づくの政治的な支配が憎しみと破壊しか生み出さない愚かな行為
であることをはっきりと示すさまざまな事例を知っている)。
たしかにいかなる社会においても「ガバメント」的側面と「ガバナンス」的
な側面を持っているといってよいが、グローバルなレベルでのガバナンスがい
かに実現されるかを示すことは容易ではない。この分野に対して人間の理性も
また歴史も、ガバメント同様決して十分なものとはいえない。それらが人類全
体を視野に収めるほどの広がりはなかなか持ちえないからである。むしろ、わ
れわれの「万有に対する教え」それ自体が多くのことを教えてくれるはずであ
る。イスラームの教えからグローバルなガバナンスのあり方を引き出そうとい
う試みは、イスラームの実践が持ってしまった地域的な特殊性ではなく、イス
ラームの教えそれ自体のグローバルな側面に目を向けることに他ならない。
■ガバナンス・モデルとしてのイスラーム■
イスラームの教えにおいては、「カエサルのものはカエサルへ、イエスのもの
はイエスへ」ではなく、「カエサルのものも、イエスのものもアッラーへ」とい
う原則がとられる。したがって、この教えにおいて、信仰上の事柄は総じて社
会的な意味合いを持つ。たとえば、イスラームにおける礼拝は、信仰上の個人
的な行為であると同時に、高度の社会的性格を有している4。とくに集団で行な
われる礼拝には、社会の政治的なあり方がよく示されている。たとえば、礼拝
において私の隣りに人種、民族、国籍、階層などの異なる人が立って祈ること
は、普通に起こりうる。しかも、われわれは横一列になって祈る。そこには差
別も序列もない。まずは、ここに社会のまとまりについてのひとつの理想を見
て取ることができる。
次に、イマームと人々との関係である。集団の礼拝に際しては、われわれの
前にイマームが立つが、当然のことながら彼もまたキブラに向かって祈る。彼
は決してキブラに背を向けてわれわれに対面しているわけではない。したがっ
て、われわれも決して彼に対して祈っているのではない。ここにも社会の指導
3
者と民衆との間の関係の理想が現われている。
このように、イスラームの教えにおいては礼拝を一つとっても、そこにガバ
ナンスのあり方を示すモデルを看取できる。そこで、以下においては、イスラ
ームの教えに依拠しながら、ガバナンス的な社会の統合の基礎に関わるいくつ
かの点について紹介してみたい。
1.中正の共同体
第1点目は、共同体の位置に関する問題である。至高なる御方は、次のよう
に仰った。
(143 ‫} وآﺬﻟﻚ ﺟﻌﻠﻨﺎآﻢ أﻣﺔ وﺳﻄﺎ { )اﻟﺒﻘﺮة‬
≪このようにわれは、あなたがたを中正の共同体(ウンマ)とする≫5
共同体を中正にしたとは、イスラームの教えにおいては、その共同体に対し
ていかなる極端も好まれないということである。富や権力が個人あるいは特定
の組織や階層に集中しているような共同体は決して予定されていない。資本主
義、共産主義、独裁、専制、全体主義などによる富や権力の偏りはこれにあた
る。
権力の偏りを是正するモデルが礼拝にあるとすれば、富の偏りを均していく
のがザカーである。イスラームの富の分配と資本主義および共産主義との違い
は、稼いだ後に共同体のための自律的な還流がザカーによって構成員の義務と
して仕組まれていることである。資本主義は還流のシステムを持たないし、共
産主義、あるいは社会主義は各人の能力に応じて稼ぐことを認めない。
グローバル・キャピタリズムは、営利追求のためであれば一国の金融市場の
破壊も辞さない。恩恵にあずかれる一握りの国々と、餌食になるしかほかに道
のない大多数の国々の間の富の偏在は広がる一方である。経済援助等も含めて
富の還流のシステムは、恣意的であり、不十分だといわざるをえない。
「民主主義」は政治的権力の集中を防ぐ意味において有効性を持つ。その限
りにおいてイスラームに通じるところがある。しかしながら、利己的で排他的
な個人による衆愚的な民主主義は、人民に与えられた権利が自らの現世的な利
益のためにしか使われないという一種の極端である。したがって、イスラーム
はこれを受け入れることはできない。
2.権利と義務のバランス
第2点目は、共同体の内的関係の基礎に関する問題である。西欧近代の法体
系が、権利の体系を骨格として構築されているのに対して、イスラーム法は、
4
義務の体系をその基礎としているといえる。社会とは本来義務を基礎に成立し
ていることは、すでに一部の西側の法哲学者の指摘するところではある6。イス
ラーム法においては、その義務の一部が明確にしかも決定的な形で定められて
いる点で、他の法体系とは一線を画す。礼拝、喜捨、斎戒についての義務づけ
はその例である。
それと同時に、権利保持者の権利の実現を義務とするというような権利と義
務の関係、すなわち権利と義務のバランスも注目に値する。聖預言者ムハンマ
ドは次の言葉に同意したとされる。
،‫ آﺘﺎب اﻷدب‬،‫ ) اﻟﺒﺨﺎري‬.‫ﻖ ﺣﻘﻪ‬
ٍ ‫ ﻓﺄﻋﻂ آﻞ ذي ﺣ‬،ً‫ وﻟﻨﻔﺴﻚ ﻋﻠﻴﻚ ﺣﻘًﺎ وﻹهﻠﻚ ﻋﻠﻴﻚ ﺣﻘﺎ‬،ً‫إن ﻟﺮﺏﻚ ﻋﻠﻴﻚ ﺣﻘﺎ‬
( ‫ ﺻﻨﻊ اﻟﻄﻌﺎم واﻟﺘﻜﻠﻒ ﻟﻠﻀﻴﻒ‬: ‫ﺏﺎب‬
ほんとうにあなたの主はあなたの上に権利を有する。あなた自身もあなたの上
に権利を有する、あなたの家族もあなたの上に権利を有する。すべての権利保
持者に彼の権利を与えよ7。
すべての権利の持ち主に彼の権利を与えよということは、権利が主張される
べきものではなく、実現されるべきものであることを示している。すなわち、
信者として、身体の持ち主として、家族の一員として、また客としていかに権
利を主張するかではなく、自分の主に対して、自分の身体に対して、家族に対
して、客に対してそれらの権利をいかに満たしてあげるのかが問題となる。こ
のようにイスラーム法は、権利と義務のバランスがとれていることになる。
ところでグローバル・キャピタリズムが権利の体系の上に成り立っているこ
とを否定することは難しい。また、いわゆる西欧近代文明が、ここ2世紀の間
行なってきたことも、権利の体系の樹立であった。権利の主張のみがあって、
それを実現する義務を負う者がいなければ、権利の体系は破綻する。権利の体
系の樹立の必要は、西欧の歴史や社会の文脈があってはじめていわれる、いわ
ば歴史的なものであることを忘れてはならない。大切なのは、権利と義務のバ
ランスである。
3.強制の排除
第3点目は、共同体内の構成員個々による行動の動機づけの問題である。他
人を動かすとき、また自分が動くとき、それを強制によって行なうことが許さ
れるのであろうか。イスラームの立場は明確である。
(256 ‫} ﻻ إآﺮاﻩ ﻓﻲ اﻟﺪیﻦ { ) اﻟﺒﻘﺮة‬
8
≪宗教に強制があってはならない≫
5
日本では長くイスラームのジハードに対して、それが非ムスリムに対して「コ
ーランか剣か」の選択を迫るものという誤った理解が罷り通ってきた。ジハー
ドはそもそも神の道に対する日々の努力のことであり、それがことによると戦
闘行為に及ぶこともあるが、それは自衛のための最終的な手段に過ぎない。こ
うした誤解は、しかしながら、メディアによって伝えられるイスラムのイメー
ジによって逆に強化されてしまっている。
強制を最小限にとどめつつ、統合していける社会は、何もイスラーム教徒の
みの理想ではない。アメリカの軍事力による秩序の維持が、どれほどの犠牲と
代償を払うものなのかは、いまさら指摘することではない。西欧の近代は、人
間の自由意思から社会契約を構想したが、いまや市民社会の理想は、自らの自
由意思の実現のために他の人々を強制的に支配することの正当性を探してやま
ない状況である。万民に等しく「イスラームの教えに強制はない」とするこの
命題は、私益あるいは国益優先のガバメントからグローバルなガバナンスへ目
を向けさせる際の出発点ともいえる考えである。
4.人間と動物の間
第4点目は、共同体の構成員自身に関する問題である。自由意思を行為の契
機とするにしても、自由意思の主体たる人間をいかに規定するかは無視するこ
とができない。グローバル・キャピタリズムの下で、人間たちはただただ「動
物的な本能」といわれるもののおもむくままに行為することが奨められている
9
ように思われる。動物的な生き方が、アッラーが万有に与えた「真理と期限」(ハ
ックとアジャルン・ムサンマー ‫ﻖ وأﺟﻞ ﻣﺴﻤّﻰ‬
ّ ‫) اﻟﺤ‬に則したものである限りにおい
て、「本能」に従って生きることは意味がある。しかしながら、人間のいう「動
物的本能」はしばしば動物以下のものである。
たとえば、牛や馬などの家畜のことを考えてみよう。それらは腹がへれば、
自分の周りの草を食むが、空腹が収まればそれ以上食べることはない。人間は、
空腹に耐えることもできるが、空腹が収まっても食べ続ける人も少なからず存
在する。病気になって食生活の誤りに気がつくという人も少なくない。ところ
が、空腹が収まっても食べ続けることを「本能のおもむくままに食べた」と形
容することがあるのではなかろうか。しかしながら実際にはそれはもはや動物
以下の行為である。しかもこうしたことは、摂食にのみ限った話ではない。聖
クルアーンは次のようにいう。
‫} وﻟﻘﺪ ذرأﻥﺎ ﻟﺠﻬﻨﻢ آﺜﻴﺮًا ﻣﻦ اﻟﺠﻦ واﻹﻥﺲ ﻟﻬﻢ ﻗﻠﻮب ﻻ یﻔﻘﻬﻮن ﺏﻬﺎ وﻟﻬﻢ أﻋﻴﻦ ﻻ یﺒﺼﺮون ﺏﻬﺎ وﻟﻬﻢ ﺁذان ﻻ‬
(179 ‫ﻞ أوﻻﺋﻚ هﻢ اﻟﻐﺎﻓﻠﻮن { ) اﻷﻋﺮاف‬
ّ ‫یﺴﻤﻌﻮن ﺏﻬﺎ ﺁوﻻﺋﻚ آﺎﻷﻥﻌﺎم ﺏﻞ هﻢ أﺽ‬
6
≪われは地獄のために、ジンと人間の多くを創った。かれらは心を持つがそれ
で悟らず、目はあるがそれで見ず、また耳はあるがそれで聞かない。かれらは
家畜のようである。いやそれよりも迷っている。かれらは(警告を)軽視する
者である≫10
すなわち地獄に落ちる人間は、心があってもそれによって理解せず、目があ
ってもそれによって見ず、耳があってもそれによって聞かない。それは、動物
以下だというのである。
別の章句では、アッラーが心と目と耳を塞がれた者について言及している。
‫} أﻓﺮأیﺖ ﻣﻦ اﺕﺨﺬ إﻟﻬﻪ هﻮاﻩ وأﺽﻠﻪ اﷲ ﻋﻠﻰ ﻋﻠﻢ وﺥﺘﻢ ﻋﻠﻰ ﺳﻤﻌﻪ وﻗﻠﺒﻪ وﺟﻌﻞ ﻋﻠﻰ ﺏﺼﺮﻩ ﻏﺸﺎوة ﻓﻤﻦ یﻬﺪیﻪ‬
(23 ‫ﻣﻦ ﺏﻌﺪ اﷲ أﻓﻼ ﺕﺬآﺮون { ) اﻟﺠﺎﺙﻴﺔ‬
≪あなたがたは自分の虚しい願望を、神様として崇めている者を見ないか。ア
ッラーは御承知のうえでかれを迷うに任せ、耳や心を封じ、目を覆われた≫11
自分の欲望を神とすることによって、人間は耳や心を封じられ、目を覆われ
てしまう。アッラーは彼を迷うに任せる。それもまた、動物以下の状態といえ
る。大切なのは動物のようになったり、動物以下になったりすることではない。
人間になることである。その意味のヒューマニティーがもっと主張されてよい。
5.敬虔さ以外に優劣なし
第5点目は、共同体の構成員間の関係についてである。聖クルアーンに次の
ような聖句がある。
‫} یﺎ أیﻬﺎ اﻟﻨﺎس إﻥّﺎ ﺥﻠﻘﻨﺎآﻢ ﻣﻦ ذآ ٍﺮ وأﻥﺜﻰ وﺟﻌﻠﻨﺎآﻢ ﺵﻌﻮﺏًﺎ وﻗﺒﺎﺋﻞ ﻟﺘﻌﺎرﻓﻮا إن أآﺮﻣﻜﻢ ﻋﻨﺪ اﷲ أﺕﻘﺎآﻢ إن اﷲ‬
(13 ‫ﻋﻠﻴﻢ ﺥﺒﻴﺮ { ) اﻟﺤﺠﺮات‬
≪人びとよ、われは一人の男と一人の女からあなたがたを創り、種族と部族に
分けた。これはあなたがたを、互いに知り合うようにさせるためである。アッ
ラーの御許で最も貴い者は、あなたがたの中最も主を畏れる者である。ほんと
うにアッラーは、全知にしてあらゆることに通暁なされる≫12
アッラーが、一人の男と女から人類を創り、種族や部族に分けたのは、互い
に知り合うためであって、互いに殺しあったり、争ったり、憎しみあったりす
るためではない。したがって、そうした区分は、人間の優劣とは何の関係もな
い。神の下でもっとも貴い者がいるとすれば、それはもっとも敬虔な者だとす
る。同じ内容は、タバリーが伝えた次のハディースによっても伝えられている
7
とされる13。
‫ وﻻ‬،‫ وﻻ ﻟﻌﺠﻤﻲ ﻋﻠﻰ ﻋﺮﺏﻲ‬،‫ أﻻ ﻻ ﻓﻀﻞ ﻟﻌﺮﺏﻲ ﻋﻠﻰ ﻋﺠﻤﻲ‬،‫ وإن أﺏﺎآﻢ واﺣﺪ‬،‫ أﻻ إن رﺏﻜﻢ واﺣﺪ‬،‫یﺎ أیﻬﺎ اﻟﻨﺎس‬
( ‫ ) رواﻩ اﻟﻄﺒﺮي ﻓﻲ ﺁداب اﻟﻨﻔﻮس‬... ‫ وﻻ أﺣﻤﺮ ﻋﻠﻰ أﺳﻮد إﻻ ﺏﺎﻟﺘﻘﻮى‬،‫ﻷﺳﻮد ﻋﻠﻰ أﺣﻤﺮ‬
アッラーの預言者(かれの上に祈りと平安あれ)は、巡礼の犠牲儀式の 3 日の中
日にラクダの上から次のように説いた。『人びとよ。あなたがたの主は一人で
はないのか。あなたがたの父も一人ではないのか。(したがって)アラブがア
ジャム14に対して優れているということも、アジャムがアラブに対して優れて
いるということも、肌の黒い者が赤い者に対して、また赤い者が黒い者に対し
てということもないのではないのか。ただ敬虔さによる以外は。…』。
こうして、イスラームの教えに従えば、人種、民族、国籍、階層、性差など
を原因とする序列付けや差別、憎悪、嫉妬、排斥といったものとは無縁の友好、
協力関係を人々は築くことになる。グローバル化が急激に進む現代が希求して
いるのは、こういった種類の世界性に基づいたルールである。人種、民族、国
籍、階層、性別といった差異を優劣の尺度のみによって計り、競争原理に駆り
立て、張り合わせるという種類の原理は、果たして人を幸せに導くのであろう
か。たとえば性差のかかわりからみた日本の家庭の変容は、そのことを考えさ
せるに十分ではなかろうか。
むしろ、敬意を基礎に、お互いが補完的に協力しあう論理が中心にあってよ
い。優劣は神の御許で、一人一人がどれほど敬虔に生きたか、すなわちどのく
らい善行や徳を積み、またどのくらい悪行や醜行から遠ざかったかによって計
られれば、たしかにそれで十分である。(アッラーはすべてをご存知)。
上に掲げた5つの点すべてにその教えと反対のことを行なえば、その結果は
必然的に、弱肉強食の論理にたどり着く。自分たちだけが人間であると信じ込
んだ一団が、自分たちの欲望のおもむくままに、自分たちの権利を主張し、そ
れを実現するために剥き出しの暴力によって他の人々から財産や生命、子孫や
理性、尊厳などを奪っていく。そこには、人間性のかけらもない。
したがって、すべての人間が人間らしく生きるためには、たとえば上に掲げ
た5つの事柄が確定的なルールとして顧みられる必要がある。現下のグローバ
ル・キャピタリズムには、そうした抑制原理が存在しないというのは言い過ぎ
であるとしても、それらが強く示されることは決してない。その意味において、
グローバル・キャピタリズムに抗し、それに代わるグローバルな社会の統合原
理を構築するにあたって、万有に対する教えとしてイスラームが理解されるべ
きであり、その側面からの研究がもっと行なわれて然るべきである。
8
■SFCにおけるイスラーム研究■
慶應義塾大学は、近代日本国家の誕生に先立って 1858 年に福沢諭吉先生によ
って創設された日本でもっとも長い歴史を有する総合大学である。同大学はイ
スラーム研究においても、故井筒俊彦博士をはじめとする多くの優れた研究者
を輩出してきた。その慶應義塾大学が、今からちょうど十年前にグローバル化
とIT化が急速に進む時代に相応しい新しい研究と教育を行なうために総合政
策学部と環境情報学部を新設し、湘南藤沢キャンパス(SFC)を開いたので
ある。
さらにSFCは、2001 年4月よりカリキュラムを一新し、グローバル化時代
の要請に応える形の研究と教育の体制をSFC version2.0 としてスタートさ
せた。このバージョンアップの最大の特徴は、研究の総合性と専門性の高度な
融合を図るために、キャンパス内の2つの学部と1つの大学院研究科で行なわ
れている研究・教育を15のグループにまとめたことにある。その中で、イス
ラーム研究が配置されているのは、「地球化時代の個人・国家・国家群の関係を
デザインする」ための研究教育を目標とする「グローバル・ガバナンス研究」
の枠の中である。総合政策学あるいはグローバル・ガバナンス研究の枠組みで
イスラームについての研究・教育が行なわれることは実に画期的な出来事であ
るといえる。
SFCのイスラーム研究は、法学、神学、文化・社会論、地域分析論、そし
てアラビヤ語を柱に進められる。歴史、言語、あるいは国際関係論中心に進め
られてきたこれまでの日本の中東・イスラーム研究とは、明らかに異なる方向
性を有している。具体的には、①イスラームの「規範性」すなわち、イスラー
ムが持つルールとしての側面への着目、②イスラームの「普遍性」すなわちグ
ローバルな側面への着目を積極的に行なうことによって、非ムスリムにとって
もグローバル・ガバナンスを構想する上での不可欠となる普遍的なルールに対
する積極的なアプローチを行なう。その一方で、③「現地主義」すなわち、学
部の早い段階からとくにアラビヤ語の習得のための現地での学習や研究を重視
して、イスラーム社会の現実にも目を向けさせるようにしている。
こうしてSFCにおいてイスラーム学の研究・教育が導入されたのは、私が
着任した2年前からのことではあるが、その責任者として、まずは、イスラー
ム学が日本において総合政策学、あるいはグローバル・ガバナンス研究という
枠組みに出会えたことを素直に喜びたい。そして、その研究・教育が中国、朝
鮮半島、東南アジア、北アメリカ、ラテンアメリカ、ヨーロッパといった諸地
9
域との比較相関研究も踏まえつつグローバルなパースペクティブにおいて実際
に展開されつつあることについても感謝したい。さらに、イスラーム研究それ
自体も、イスラーム世界の広がりと同様の世界大のネットワーク作りを試行す
ることとともにはじめられつつある点も明記しておきたい。いずれにしても、
総合政策学の枠組みの中で、グローバル・ガバナンス研究の方向性を意識した
SFCのイスラーム学は、まだ始まったばかりである。
「よく見える目で見、よ
く聞こえる耳で聞き、よく理解できる心で理解できる」学生を一人でも多く育
てていきたいと決意する次第である。
(なお、本稿は慶應義塾大学学事振興資金の研究助成(2000 年度)による研究の成果の一部
に基づいて執筆されている)
奥田 敦(おくだ・あつし)慶應義塾大学総合政策学部助教授(イスラーム
研究・アラビヤ語)
1
イスラームにおけるグローバル化が中心への集中によらなかったことについては、た
とえば 1999 ،‫ دﻣﺸﻖ‬،‫ دار اﻟﻔﻜﺮ‬،‫ ﻣﺎ اﻟﻌﻮﻟﻤﺔ‬،‫ ﺡﺴﻦ ﺡﻨﻔﻲ وﺻﺎدق ﺟﻼل اﻟﻌﻈﻢ‬に収められたハサン博士
の論文 ‫ اﻟﻤﻮﻟﻤﺔ ﺑﻴﻦ اﻟﺤﻘﻴﻘﺔ واﻟﻮهﻢ‬に指摘されている。
2
エドワード・サイード『オリエンタリズム』板垣雄三・杉田英明監修、今沢紀子訳、
平凡社、1986 年。
3
エドワード・サイード『オリエンタリズム』
(文庫版、下巻)204 頁および 228 頁、同
『イスラム報道』(浅井信雄・佐藤成文訳)みすず書房、1996 年、2 頁参照。
4
礼拝の効用については、たとえば、‫ ﺡﻠﺐ‬،‫ دار اﻷﻥﺼﺎري‬،‫ اﻟﻔﻘﻪ اﻹﺱﻼﻣﻲ‬،‫ إﺑﺮاهﻴﻢ ﻣﺤﻤﺪ ﺱﻠﻘﻴﻨﻲ‬を参
照した。
5
聖クルアーン、2(雌牛章):143。(なお、聖クルアーンの日本語訳は、宗教法人日本
ムスリム協会『日亜対訳注解聖クルアーン』改訂版第5刷、1996 年に従った)。
6
たとえば、H.L.A.ハート『法の概念』
(矢崎光圀監訳、みすず書房、1976 年)のなか
の議論を参照のこと。
7
正伝ブハーリー「アダブの書」
「料理と客へのもてなしの章」
。
8
聖クルアーン、2(雌牛章):256。
9
聖クルアーンには、≪われは、真理と期限を定めずには、天地、そしてその間の凡てのも
のを、創造しなかった≫(46(砂丘章):3)とある。第 30 章(ルーム章)8節も同旨。
10
聖クルアーン、7(高壁章):179。
11
聖クルアーン、45(跪く時章):23。
12
聖クルアーン、49(部屋章):13。
13
260‫ ص‬،(26)‫ اﻟﺠﺰء‬،1991 ،‫ دﻣﺸﻖ‬،‫ دار اﻟﻔﻜﺮ‬،‫ اﻟﺘﻔﺴﻴﺮ اﻟﻤﻨﻴﺮ ﻓﻲ اﻟﻌﻘﻴﺪة واﻟﺸﺮیﻌﺔ واﻟﻤﻨﻬﺞ‬،‫وهﺒﺔ زﺡﻴﻠﻲ‬
14
非アラブあるいはペルシヤ人のこと
10