関東学院大学『経済系』第 234 集(2008 年 1 月) 論 説 現代英語聖書における翻訳の課題 The Current Trends of Bible Translations 高 野 進 Susumu Takano 要旨 今日,おびただしい聖書の英語訳が出版されている。本論文は,それらの背景となった現代の 翻訳理論を吟味すること,また現代のそれぞれの翻訳業績の目指すところ,読者が予備知識として 持っていることが,おびただしい英語訳の中から選択する際に重要であること,さらに研究のため か,儀式用か,個人的な黙想のためか,目的別の選択も考慮すべきことを指摘しなければならない。 最後に現代の翻訳理論の視点から,日本における独自な業績である二つの日本語訳を取り上げ, その視点と価値を分析したい。 キーワード 英語聖書,逐語訳,動的等価(ダイナミック・エクイバレンス) ,形態的等価(フォー マル・エクイバレンス) ,パラフレーズ,KJV,GNB,NLB,現代訳,柳生訳,E. ナイダ 1. 2. 3. 1. はじめに はじめに 本論 結語 その読者の生涯を変えることもあり得るからであ る。しかもてきることなら,多くの翻訳にふれる 一世紀前は,一種類の英語聖書しか手に入らな かった。しかし今では,その数は数え切れないほ ことにより聖書の意味の深みにさらに導きいれら れうる。これは,読者の喜びでもあろう。 ど多種の翻訳があり,一般読者は当惑するほどで ある。しかもどの翻訳も,生半可でできるもので 本論 2. はなく,翻訳者の血と汗のにじむ,いやもっと,相 当に多くの年数をかけねばならないほどのもので 2.1 英語訳聖書翻訳の原則と役割 あり,まことにいのちを削る作業から生まれてい 聖書の英語訳にあたり,当然底本(原典)をど る。ではどうしてそれほどまでも多くの翻訳が生 れにするか,の問題がある。しかしここでは,英 まれているのであろうか。それにはいくつかの理 語への翻訳原則に焦点を当てたので,本文の比較 由がある。 は行わない。翻訳原則の模索の道を辿りたい。 次に,代表的英語の聖書 King James Version(以 1. 英語自体が変化をし続けていること。 下,KJV )が優れた遺産を持たらしたことを評価 2. 古代の写本が発見されてきていること。 し,それが次の世代への道を開いた過程を取り上 3. 古代言語の研究が進んできていること。 4. 現代に神の言葉を伝えようとする翻訳者の熱 意がそうさせていること。 げる。 2.1.1 今日の事情 いずれにせよ,ひとつの翻訳聖書を選択し,そ 私たちが手にする聖書には,本来,原文があるは れを入手し,読むことは,時に重要な意味をもっ ずである。しかし古代に書かれ,そのまま現代に ている。なぜならその聖書の告げるメッセージが 受け継がれているのではない。長い写本の歴史が — 97 — 経 済 系 第 234 集 ある。現代の聖書訳者は,共通の写本を使ってい 動的である。語義が変化しつつある。さらに日々新 るとは限らない。それゆえ自ずと特定の文脈の意 語が加わってきている。表現法も変化しつつある。 味を確定するときに,意味の違いが生ずることに 聖書注釈者であり,聖書翻訳者でもあるウィリ なる。確かにかなり多くの英訳聖書を見ると,新 約聖書のギリシァ語原典については多くの写本を 比較して採用した折衷主義の立場をとっている。 アム・バークレーは,こう記している。 「翻訳が完了した日に,それが時代遅れになって きている語義がある。言語は決して静止してい たとえば,今日多くの英訳は合同聖書協会ギリシ ない,常に動いている。」2) ア語本文あるいはネストレ– アラントのギリシア語 本文を用いている。旧約聖書については,マソレ・ さらに訳文が口語体であれば,それはますます早 ヘブライ語本文を用いている。しかし今でも,一 く時代遅れになる運命にある。 上記の事情を背負いながら,どのようにして原 部の学者たちは,欽定訳聖書が用いたテキストゥ ス・レセプトウス(公認本文)を底本としている。 典の意味に迫るか,またその意味を現代の英語に 彼らはこれがもっとも正確であると考えている。 よってどのように伝えるかが課題である。 この写本はもともとビザンティン写本系に基づい ている。しかし今日の研究者の間では,この「公 2.1.2 英語現代訳については,いくつかの傾向が見ら 認本文」とされるものが,必ずしももっとも正確 1) なものであるとは認められていない 。 翻訳の諸理論 れる。それはいわゆる「動的等価」か, 「形態的等 ひとつの言語から他の言語に翻訳することは, 価」かの問題であるとされる。 常に困難をともなっている。言語構造が異なるか 1964 年にユージン・ナイダは翻訳原理につい らである。まして古代言語から現代言語に移し変 て,独自な研究をまとめて発表した。『翻訳学序 える作業はもっと多くの困難をともなう。言語の 説』(Toward a Science of Translating)である。 違いだけではなく,文化的,社会的,生活史的な ナイダの理論を聖書翻訳に応用するために,1969 背景においてかなりの隔たりがあるからである。 年にチャールズ・テーバーが『翻訳の理論と実際』 聖書翻訳者は,古代の聖書の言語,文法,統語 論,語彙論に通じているばかりでなく,日々進展す (The Theory and Practice of Translation)を発表 した。 る現代の学術研究情報に熟知していなければなら さらに,ヤン・デ・ワードも次の著作を発表し ない。そのため今日では,個人の能力を超える仕 た。『私たちの言語から他の言語へ 事になっているので,協働作業になっている。こ ける機能的等価』 (From Our Language to Another: れにより協働者たちから提示される特異な理解を Functional Equivalence in Bible Translation) 聖書翻訳にお 吟味し,あるいは真偽性を突き詰めて検討し,協働 ナイダは翻訳理論の研究者であるばかりか,ア 者間で納得し,一致しなければならない。これは メリカ聖書協会の翻訳担当主事を数年間つとめて 軽々に合議制や多数決で決まるものではない。真 いる。そのため聖書翻訳にかなりの影響をおよぼ 実が後退することもありうるのである。公的な聖 した。 書の翻訳の場合,教派的な偏りは避けなければな ここではナイダ自身が自分の理論をまとめて事 らない。また特定の神学的な立場の介入があって 典に書いたものを取り上げてみる3) 。それは彼の もならない。 祖初期の理論からかなり修正されている。むしろ 文体についても,十分な検討が必要である。どの 今日に適用するものが見られる。「聖書翻訳理論と 現代語も同じであるが,特に英語は生きており,流 〔注〕 1)P.D. Wegner: The Journey from Texts to Translations, 1999, p.337–339 2)P.D. Wegner: ibid. p.401 3)E. Nida: “Theory and Practice” in B.M. Metzger and M.D. Coogan, The Oxford Guide to Ideas & Issues of the Bible, 2001 — 98 — 現代英語聖書における翻訳の課題 実践」と題するものである。これは今日の流れを 役割を演じた。世界各地に派遣された宣教師たち 明快に紹介してくれている。今後のあるべき方向 による,途上国の少数民族の言語に聖書を翻訳す も模索できるものであるので,これを手がかりに る作業が盛んになった。彼らは,文字のない民族 してここで吟味しておきたい。 の言語では,先ずアルファベットを確立し,複雑な 聖書の翻訳には,3 つの伝統(原則)がみられる 文法を解析し,さらに異質な文化背景を持つ語の という。しかしそれらは相反するものというより 意味を確定しなければならなかった。その上,話 は,相互補完するものであるという。ただし便宜 し言葉の文体に精通して,翻訳をしていかねばな 的に,また歴史的に,それらについて分けて取り扱 らない。 うことになる。それらは,文献学的(Philological) 言語学的なアプローチでは,四つのプロセスがあ アプローチ,言語学的(Linguistic)アプローチ, るという。(a) 分析(意味の確定) ,(b) 転移(trans- 伝達的(Communicative)アプローチである。 (起点言語から目標言語に移す) ,(c) 再構築(読 fer) 文献学的なアプローチは,原著者の背景,文体 者の言語においてメッセージを再現する) ,(d) 精 の特色,文学的類型,本文批判,本文伝達の歴史, 査(testing) (等価の正確さと自然さを吟味する) 。 本文解釈法の歴史などに焦点をおく。このような 伝達的なアプローチは,原典,メッセージ,受容 課題と取り組んだ最初の翻訳者は,ヒエロニムス 者,雑音,フィードバック,環境の要素が注目され (340?–420)であった。彼は語(word)に対して る。また聖書翻訳の場合,文化人類学の成果に大 意味(sense)を優先すべきであるとした。ルター きく依存しなければならない。これまではこのア (1483–1546)はラテン語訳「ウルガタ」からではな プローチは「動的等価(Dynamic equivalence)4) 」 く,ギリシア語とヘブライ語の原典からメッセー という表現が用いられてきた。しかし「機能的等 ジを直接訳した。しかも当時の一般の人々によっ 価」 (functional equivalence)と言い表すほうがよ て使われているドイツ語に訳した。 いとナイダはのべている。言語間の等価(interlin- 英訳では,ティンダル(1494?–1536)は聖書の gual equivalence)においては,絶対的な数学的な 告げるメッセージがすべての人々に理解されるべ 等価は不可能であるという。これには「伝達的等 きであるとした。彼の英訳聖書は後に訳されたい 価」 (communicative equivalence)という言い方も わゆる「欽定訳聖書」 (KJV )に大きな影響をあた 使われているという。 えた。KJV は公的な場所での朗読を意識して訳さ 翻訳聖書の読者は,もともとの読者が理解した れている。KJV は約 300 年間,英語圏で広く用い のと同じ仕方で,本文を理解することが望ましい。 られ,アジア,アフリカ,中南米に派遣された宣 そのためには,文献学,言語学,伝達理論のアプ 教師たちが宣教地で行なってきた翻訳に影響をあ ローチの相互補完がおこなわれなければならない。 たえた。 最近の聖書翻訳の著しい特色は,二つの言語の間 しかし 19 世紀後半から 20 世紀の初めにかけて, の文化的相違に着目していることである。これは 考古学的な発見と,多くの写本の発見があり,聖 原典がより忠実に正確に移し変えられるために必 書の本文に新しい解釈が生まれるようになった。 要なことである。実は,原典の直訳がまったくの このため 1885 年にはイギリスの改訂版(Revised 誤解を招くこともあるという。 Version) ,1901 年にはアメリカ版(American Stan- ナイダの理論は,聖書の伝統的な翻訳方法を疑問 dard Version 以下 ASV)が発刊された。これらは 視することから始まった。つまり形態的等価(for- 19 世紀の聖書学の最高の成果を反映している。し かしこれらの英訳聖書には,ぎこちない直訳的な 表現があったために,英語を話す国の人々によっ てあまり受け入れられなかった。 言語学的なアプローチは,1945 年以後,重要な mal equivalence)といわれる従来の「逐語的翻訳」 (word-oriented translation)の限界をどう克服す るかの課題をもっていた。これまでは原典の語彙, 4)「動的等価」という用語はわかりにくい。しかしと りあえずこれを用いている。 — 99 — 経 済 系 第 234 集 構文,語調を重んじてできる限り翻訳言語におい どんな訳も決して「形態主導」の「逐語訳」に ても原典の特色を保持しようとした。これに対し 徹することはできない。一応「形態主導」と「意 て,ナイダはすでに述べてきた「動的等価」あるい 味主導」の二つの視点を区別はできるが,かなり は「機能的等価」を提案してきた。それぞれの言 入り組んでいると見るのが妥当であろう。ここで 語は独自の特色を持っているので,それらの持つ それらの特徴を整理しておこう6) 。 多くの特色は,有効な伝達を損なうことなくほか の言語に移すことはできないという。課題は, 「形 態」 (form)の移しかえではなく,メッセージが伝 達されているかどうかである。ひとつの言語にお いて意味するところを他の言語において再現する には,移し変える言語においてもっとも近似の自 然な「等価」を見つけ出さなければならない。し かしこれは至難な作業である。翻訳は結局原典の 文体,思想を忠実に伝えることができないのだろ うか。 確かにどの翻訳聖書も,原典に忠実であると主 張している。聖書の翻訳事業においては,一般に 共同作業で行われるので,学者間の相互確認があ るわけで,大きな誤りはありえない。伝統的なキ リスト教の教理に衝突するとか,明らかに不当に 逸脱する翻訳は見られないことはもちろんである。 問題は聖書のメッセージが正しく受け止められ, 移し変えられているかである。 翻訳原則を,次のようなスペクトルに分けられ る5) 。 形態主導訳 《形態主導訳》 形態に重点を置く 起点言語を重んじる 語られた事柄を翻訳する 原典文脈を推定する 曖昧性が残る 解釈の偏りを最小に留める 訳文の文体がぎこちない 綿密な聖書研究には価値がある 《意味主導訳》 意味に重点を置く 訳文言語を重んじる 語られた意味を推定する 現代に適合する文脈を推定する あいまい性を取り除く 解釈の偏りを保持する 訳文の自然な文体が可能である 宣教的な価値がある 上記のような分類が確かに可能であるが,また ← 意味主導訳 → 翻訳者の哲学としていずれかの立場を選んでいる 敷衍訳 としても,実際にはすでに指摘したように,その すべての翻訳は, 「形態的等価」と「意味的等価」 の間のスペクトルのどこかに位置するとされる。 しかし実はどの翻訳も完全にどこか一箇所に位置 訳文においては手法が入り組んでいるといわなけ ればならない。 ここでは,さらに「敷衍訳」 (paraphrase)との入 するとは言い切れない。つまりその位置は,程度, り組みについても,吟味しなければならない。あ 傾向の問題である。翻訳者の方針はいずれかの原 る意味では,すべての翻訳は「パラフレーズ」と言 則に従っている。たいていの翻訳には序言に翻訳 える。原典を逐語的に再表現することはとうてい 方針を明記している。しかしこれは便宜的な選択 できない。逐語通りに「等価翻訳」をしたとして であって,どちらが正しいかという判断はできな も,それ自体ではそのまま英訳としては通じない い。またその翻訳が実際には,先のスペクトルの ので「解釈」になり,限りなく「パラフレーズ」に どのあたりに位置するかは,簡単には断定できな 近いこともありうる。いわゆる「行間翻訳付き聖 い。それゆえわれわれは次のことを忘れてはなら 書」(inter-linear)の英訳を読めば分かるように, ない。 厳密な逐語訳は英文としては意味をなさないこと 5)D. Dewey: A User’s Guide to Bible Translations, p.33, 2004 6)ibid, p.34 — 100 — 現代英語聖書における翻訳の課題 もある。逐語・形態主導訳の場合,原典の構造と文 なうのである。しかし翻訳者がいなくては,一般 体にできうる限り従うとして,ヘブライ語とギリ の人々は何も知ることはできない。 シア語の言語構造と英語のそれとはまったく異な るので,自ずと文章の言い直しをせざるを得ない。 2.1.3 KJV の足跡 「意味主導訳」を実行する場合には,やさしい語 KJV の翻訳原則とその後の課題についても,こ 彙とわかりやすい短い文章を用いて,より自然な英 こで言及しておかなければならない。すでに指摘 文に直そうとする。しかもある程度の直訳も援用 したように,KJV は長い間英語圏の唯一の聖書 している。このような立場を取る翻訳者は,個々 とされて受け入れられていた。今日でもその支持 の語や,表現に着目するというよりは,文章の一 者は多い。1604 年にピューリタン聖職者たちが 区切り(パラグラフ)を取り上げ,翻訳言語に再 ジェームズ一世を説得して,新しい聖書翻訳事業 構築する。ここでは客観的な科学的方法によると を進めた。翻訳に当たったのは,オックスフォー いうよりは,翻訳者の持つさまざまな要素や直感 ド,ケンブリッジ,ウエストミンスターから集め が入るのは必然である。そこではかなりの「パラ られた 54 人の学者たちであった。彼らは 6 チーム フレーズ」が含まれる。これは避けることができ に分けられ,翻訳にあたった。作業は,まずひと ない。 つのグループ内で進め,次に諸グループ間で互い 聖書翻訳では,訳文の正確さ(信頼性)と読みや に注意深い校閲を行なった。最終的には,6 チー すさの両方が同時に求められているが,これは至 ムから集められたそれぞれ 2 名の代表者からなる 難の作業である。しかしこれは聖書翻訳者が引き 12 名の人たちによってまとめられた。 受けなければならない宿命である。結果として生 KJV は 1611 年に発刊され,数年にして,地方 まれた業績は,人間の判断や評価の範囲を越えて の教区教会にいきわたり,家庭でも読まれるよう いる。翻訳者に課せられた宿命は,作業の完了の になった。確かにこれはシェークスピアに並んで, 翌日から再び翻訳作業を始めることになるか,次 英語の代表的な傑作として際立っている。 に始める他の人々にその作業をゆだねなければな 1611 年版の KJV には,序言として,先ずジェー らないということである。それゆえ,翻訳作業は ムズ一世への献呈の辞が掲げられ,次に「翻訳者 次のように,謙虚なものになる。 から読者へ」がある8) 。残念ながら,今日の KJV (1) どんなによい翻訳と評価されるものも,100 パーセント正確なものはありえない。 (2) しかし今日の翻訳版は,かなり正確で,きわ めて信頼できる。 には,これらはいずれも省略されている。献呈の 辞は,今日の私たちが読むなら,国王への過度なお 世辞に満ちていると感じられる。しかし当時の絶 対王政のもとでは,学者たちは些細な筆禍によっ ても,財産どころか命さえ奪われかねない状況で 上記の (1) と (2) が相反する言明のように感じら あった。しかし聖書の英語訳はやがて絶対王政を れる。しかしそうではない。もともと相異なる二 土台から崩すための土壌つくりとなった。このこ つの言語間では正確に表現を移し替えることがで とは翻訳者自身意識していなかったであろうが, きないからである。原典のニューアンスをすべて そのような道を結果的に開いた。 は英語に移しえない。翻訳はある程度の妥協を含 「翻訳者から読者へ」は今日の目から見ても健全 まざるを得ない。あるものが失われ,あるものが なものである。この部分の執筆者であるオックス 追加されたり,変更されたりする。すべての翻訳 フォードのオリエンタリスト,マイルズ・スミス はある程度解釈を含まざるを得ない。それゆえ古 いイタリアのことわざがあてはまる。「翻訳者は裏 切り者である」(traduttore traditore: The translator is a traitor.7) )このような危険がいつもとも 7)Traduttori traditori(Translators are traitors とも 言う。 ) 8)KJV 序文は,1611 年復刻版(研究社)によった。 1985 年 — 101 — 経 済 系 第 234 集 は先ずいかなる翻訳も反対や誤解を受けることが うぞ読んでください」と渡されて,やむなく「封 避けられないと認める。次に KJV の特質をこう 印されているから読めません」と答える人に似て 述べる。それは「カビの生えた伝統ではなく,新 いるという(イザヤ 29:11)12) 。 鮮な食物のいっぱい入った食料品室のようなもの 長い間,一般の人々が聖書を手にすることを許 である。」 (当時の表現では a Panary of holesome されず,自分たちの言葉で読むことができなかっ foode, against fenowed traditions)9) た。しかし英語への翻訳によって,つまり「ヤコ ヘブライ語も,ギリシア語も,その言葉を理解 しないならば,縁遠いものである。 ブの井戸」からみ言葉の活る水を汲み上げ,魂を 潤し,活きかえらすことができるようになったと 「スキタイ人はアテナイ人の言葉を理解しないた めに,彼らを野蛮な者と考えた。ローマ人はシ リア人とユダヤ人をそのようにみなした。…コ ンスタンティノーポリスの皇帝は,ラテン語を 野蛮なものと呼んだが,それに対して教皇ニコ ラウスは激怒した。…したがって人が訴訟のと いう。また今や「封印されているから読むことは できない」 ,つまり翻訳の骨折りを回避して,読め ないとの言い訳はできないともいう。み言葉はす べての人の手に渡り,読まれるようにならねばな らないとする。ここに翻訳者の情熱と庶民への配 慮がある。 きに,ローマ元老院では常に一人か二人の通訳 「義と魂の救いを渇望するが,学んだことのない 者を必要とした。教会はそのような必要に迫ら 人々の教化のために,翻訳者たちは一般大衆の れないために,翻訳が用意されていることが必 言葉に聖書を翻訳した。それは,天の下の多く 10) 要である。」 の民が回心の後,すぐに彼らの母国語でキリス ここでは互いに言語について無知であってはな らないとする。 トが語りかけてくれるのを聞くことができるた めである。それは牧師の声ではなく,記された 聖書の言葉による。」13) また面白いたとえで翻訳の必要性を示す。 「聖書翻訳は,光を入れるために窓を開けるよう なものであり,われわれが実を食べられるよう に,殻を破るようなものであり,もっとも聖な る場所を見ることができるように,カーテンを たしかに KJV は 20 世紀まで英語圏プロテスタ ントの人々にとって共通の聖書であった。しかし 時の流れとともに事情は変わった。新たにギリシ ア語や,ヘブライ語の写本が発見されている。17 脇に寄せるようなものである。」11) 世紀に底本となった写本よりも古いものが発見さ また旧約聖書の物語を引用して,ヤコブが井戸 必要となった。もうひとつの事情は,ここ 300 年 のふたを転がして,どかしたために,水を汲み上 の間に英語がかなり変化したことである。1600 年 げ,ラバンの家畜に水を飲ませることができたよ 代に使用されていた一部の語が,今日では使われ うに(創世記 29:10),翻訳者は人々が水に近づく ていない。また他の語は,まったく別の意味を持 ことができるように,井戸のふたをはずす務めを つようになった。今日使われているどの言語もそ しているという。実際自国語に翻訳されていなけ うだが,新語が加わり,これまで使われてきた語に れば,教育を受けていない人々には,地下の深いと 別の意味が込められるようになっている。つまり ころにしか水がないヤコブの井戸から水をくみ上 現代英語と KJV の英語の間にかなりの隔たりが げる方法がない。あるいは,封印された巻物を「ど できてしまった。しかしもちろんこれは KJV を れて出てきており,KJV の底本の一部差し替えが 否定することを意味していない。歴史的金字塔と 9)THE HOLY BIBLE, AUTHORIZED VERSION, 1611 KENKYUSYA 1985 年(復刻版) 10)ibid. 11)ibid. して KJV はいつまでも残ることであろう。 12)ibid. 13)ibid. — 102 — 現代英語聖書における翻訳の課題 このように KJV をめぐる事情の変化により,た だひとつの英語聖書の時代は終わりを告げ,数え 切れないほどの現代英語訳聖書が現れるために門 朗読に値する威厳を十分備えていると自負した記 述が見られる14) 。 NEB は動的等価に近づいている。また現代英語 訳を目指していた。しかし T.S. エリオットはこの 戸を開くことになった。 訳業に手厳しい批判を述べた。 2.2 最近の代表的な聖書の現代英語訳 英語訳聖書は,個人としては全てを把握しきれ ないほどに数が多い。その中でも,今日の流れに 沿っている代表的なものを,ここに取り上げて,そ の翻訳原則を吟味してみる。 「NEB が個人的に読まれるだけのものなら,英 語の退化の兆候と見るだけですむが,礼拝に用 いられるのであれば,英語の退化を積極的に進 める手先になることになる。」15) このように NEB は文学的な側面ではあまり高い 2.2.1 The New English Bible (1970) 評価を受けていない。 The New English Bible(以下 NEB )は 1946 年 のスコットランド教会総会の発議に始まる。その 目指すところは,先ず Authorized Version(KJV ) 2.2.2 Good News Bible (1976) 1966 年にアメリカ聖書協会は The New Testa- とはまったく別に英語訳を作ること,次に翻訳者 ment in Today’s English Version(以下 TEV )を は伝統的な聖書の英語の再現ではなく,現代英語 発行した。これは英語を母国語とするが,特に若 の語法を用いることであった。このために,共同 い人々のためと,英語を大人になって後に習得し 委員会が設立された。これには英国内の主な教派 た人々のために,翻訳された。その後,合同聖書 が参加している。後にローマ・カトリック教会代 協会(the United Bible Societies)はアメリカ聖書 表もオブザーバーとして招かれた。翻訳作業段階 協会に TEV と同じ原則によって,旧約聖書を翻 については詳しく序文に紹介されている。共同委 訳するように依頼した。それを受けて,アメリカ 員会は旧約聖書,新約聖書,外典を受け持つ 3 つ 聖書協会はこの作業を翻訳集団に委託した。1971 の翻訳集団(panel)が委託された。それに文体・ 年にはイギリス国内・外国聖書協会とスコットラ 文学的な配慮を受け持つ集団が委託された。翻訳 ンド聖書協会の代表者も翻訳集団に加わった。新 者集団は割り当てられた文書の翻訳草案を構成員 旧約聖書は英語圏の協働事業となったわけである。 間で一節一節検討した。次に文体・文学的な面を これが Good News Bible(略称 GNB)である。 検討する集団に委託された。最後に共同委員会で 最終確認と承認を行った。 この翻訳集団は三種の聴衆を念頭に置いたと いう。 翻訳の原則についてはこのような記述がある。 「翻訳者たちの主たる関心は,ヘブライ語,アラ ム語,ギリシア語原典の意味に忠実な翻訳を提 供することであった。彼らの最初の任務は,ま (1) キリスト教会にめったに行かない人々 ず原典の意味を正しく理解することであった。 (2) 現代的な翻訳を求めている若い人々 時に原典の意味が明確でないところがある。語 (3) KJV の本文に新鮮さを感じなくなった教会に 句(words and phrases)が確定できないこと や,背後の文化的,歴史的状況が時に再現できな 出席している人々 「翻訳者たちは伝統的な『聖書語法』を再現する よりも,現代的な語法を自由に用いるように」奨 励されたという。NEB の願っていたところは古風 な英語でも,極端に口語的でもない「時代を超え た英語」 (timeless English)であった。この翻訳は いこともある。この場合は,あらゆる補助的手 段を援用した。それには古代版訳と他の現代英 14)ibid. 15)S.M. Sheeley and R.N. Nash. Jr: The Bible in English Translation p.74, 1997 — 103 — 経 済 系 第 234 集 語訳や,外国の聖書翻訳を参考にした。原典の 語一語を受容語に移し,できる限り,原典の順序と 意味をできる限り正確に確定した後に,翻訳者 文構造を保持しようと努める。第二は「動的等価」 , の次の仕事は,読者が容易に理解できる方法と あるいは「機能的等価」と呼ばれるものである。こ 形式によって原典の意味を表現することであっ れは受容言語の中に原典の意味と文体において表 た。…自然で明解で単純で,曖昧さのない英語 現されたメッセージに最も近くしかも自然な等価 16) を用いるように,あらゆる努力を払った。」 かなり詳しくその作業を紹介してくれているの は,私たちにも参考になる。さらに次のような記 述もある。「原語の品詞,文構造,語順,文法的技 巧を英訳の中に再現しようとはしなかった。 」しか し「忠実な翻訳とは,原典を現代化することでは なく,原典の文化的,歴史的特色を忠実に表現す ることである。」ともいう17) 。GNB は,「動的等 価」と日常英語訳の原則によって翻訳されたわけ である。「序文」の中でさらにこうも述べている。 従来行われてきた「逐語(word-for-word)訳で は,原文の真意(force)を正確に伝えることがで きない。」18) その代わりに GNB は「動的等価」のアプロー チを採用したという。これによって, 「もともとの 読者に対して原典が含蓄として持っていたと同じ ような迫力ある真意(force and meaning)を表現 できるようになった。 」という。GNB は大学や特 定集団で用いる英語ではなく,普通の日常語を用 いる。「聖書はあらゆる時代において新たに理解さ れねばならない。しかも今日ほどに,その必要が 大である時代はない。 」とこの翻訳法が時代の要請 にこたえるものであると強調する19) 。 2.2.3 表現を作り出すことである。この企ては,原典が もともとの聴衆に及ぼしたように現代の読者にイ ンパクトを持つようになるためという。この「動 的等価」は, 「思想対思想」 (thought-for-thought) 翻訳とも呼ばれることがある。これは「形態的等 価」あるいは「逐語」(word-for-word)翻訳と対 比される。原典の思想を翻訳するためには,原典 が正確に解釈され,次に理解されやすい語句を用 いて表現することである。それゆえ「思想対思想」 の翻訳の目標は,信頼されたもので,しかも読み やすいものになるはずである。 したがって NLT は, 「思想対思想」の翻訳原則 に従い,釈義的に正確で,語法上力強いものにし ようと努めたという。翻訳に当たって,古代の著 者の思想の型に進入して,受容言語(英語)の中に 同じ思想,含蓄,印象を再現しようと最善の努力 を払わなければならない。これはきわめて主観的 な性格を帯びる必然性があるので,先入観(bias) を警戒し,メッセージの正確さを確保しなければ ならない。このために,まず本文について最善の 釈義を行い,しかも受容言語を十分に熟知し使用 できる集団によって作業が進められなければなら ないとする。 「読者への覚書」では,The Living Bible(以下 LB)から NLB になった経過と目的が述べられて New Living Translation (1996) New Living Translation(以下 NLT )の「序文」 いる。LB は 30 年間で 4,000 万部印刷された。た において,聖書翻訳理論とその方法論が紹介され しかに有益なものであったという。しかし改定版 ている。それは NLT の立場を論拠付けしているも を必要としたので,1989 年に 90 人の学者たちに のであるので,その論旨をたどることにする。聖 委嘱して,7 年間の作業を経て,1996 年に完成し 書翻訳にはすでに言及してきたように,少なくと た。その目指すところは, 「正確であること,読み も二つの理論あるいは方法論がある。第一は「形 やすいこと,しかも研究用としても優れているこ 態的等価」と呼ばれる。これは翻訳者が原典の一 と」20) であった。 NLT の功績は,現代の読者にわかるもので,し 16)GOOD NEWS BIBLE, Bible Society, 1979 17)ibid. 18)ibid. 19)ibid. かも正確さを期したことである。古代の最初の読 20)Holy Bible New Living Translation, Tyndale House Publishers, 1996 — 104 — 現代英語聖書における翻訳の課題 者が経験した衝撃を現代の読者の中に作り出すこ 訳者は今日の時代の人々の心に,聖書をどうした とができれば成功した翻訳といえる。実に 2000 年 ら届かせることができるかについて腐心してきた。 の隔たりと,風土の違いを超えて,原典が再現され なければならないので,翻訳者の課題はきびしい。 さらに NLT は公的な礼拝において朗読される ことにも配慮したという。今日,人々は自分から 聖書を読むことをしない。教会で朗読されるのを 聞くことが多い。その時に聞く聖書の言葉は,明 解で,迫力に充ち,伝達力がなければならない。そ れゆえ NLT では「生きているみ言葉が理解され やすいばかりでなく,聞く人に感化を与えるよう 21) な感性的特質を備えている」 という。ここから NLT は宣教的な意図を持っていることがわかる。 「私は今,異なる世界に飛び込んでしまった。誰 もが聖書に関心を持たなくなってしまった。… 私の相手とした多くの人々は,実際聖書を何も 知らなかった。一度も読んだこともないし,そ れを学ぼうともしなかった。…他の人々は,数 年間,聖書を学んだが,慣れっこになり,新鮮 な関心を失っていた。」23) これが訳者の実際に経験したことであった。し かし訳者は, 「自分は生涯の務めとして,このよう な人たちに聖書のメッセージを聞いてもらい,真 剣に傾聴してもらうことが責務だと受け止めてき 2.2.4 The Message: The Bible in Contemporary English (2002) た。」24) 訳者は自分が二つの言語の世界に生きていると これはユージン・ピーターソンの単独訳である。 いう。聖書の言語と今日の言語の世界である。こ 冒頭の序文において訳者の目指したところが述べ の二つの世界はまったく異なるようであるが,彼 られている。「The Message は原典からの現代訳 はそれが同じ世界であると見る。彼はこう記す。 である。しかも日常語を用いることによって聖書 の語調(tone) ,リズム,出来事,思想を表現する ように工夫した」という。さらにこの翻訳聖書の 特色について記している。この聖書の特色は,現 場の牧師によって行なわれたことである。これま で自分は「聖書のメッセージを現場の人々の生活 の中に適用する」ことに努めてきたという。「The Message は 40 年間の牧師の仕事という土壌から 育ったものである。」それゆえ机上の作業ではな 「必要に迫られて,私は翻訳者となった。(当時, 自分はそうは呼ばなかったが) ,私は二つの世界 の境界線に立って,創造し,救い,癒し,祝福 し,裁き,治める神が用いたもう聖書の言葉を, 今日の言葉に移し変えることにした。しかも私 たちが道を教えたり,ビジネスを進めたり,子 供のために歌い,話しかける言葉においてであ る。」25) く,現場の人々に聖書のメッセージを届かせよう The Message は,古代の人たちが初めて耳にし としていることがわかる。さらに翻訳された聖書 た聖書のいきいきとした力にみち市井の言葉を英 の言葉を「種」にたとえてこう記す。「私の教会と 語において再現しようとした。それゆえ洗練され 地域社会の土壌に蒔かれた聖書のみ言葉という種 た言葉によるのではなく,ティンダルが目指した は,発芽し,育ち,熟した。 」聖書の神のみ言葉は, ように「畑で鋤を使って働く少年にも」読んでわ 「人のいのちを形成し,造りかえる」という。この ような出来事を実際に体験しつつ,翻訳を進めた かる聖書を訳者はめざしていたとする。これはラ イフワークにふさわしい訳者の仕事であった。 のであった。それゆえ彼は現実の人々と聖書の登 場人物を重ね合せて見ているという。「聖書のどの ページにも,私が牧会してきた人々,聖徒たち,罪 人たちが生きていた…。」22) 21)ibid. 22)The Message The Bible in Contemporary English, NAVPRESS, 2002 23)ibid. p.7. 24)ibid. 25)ibid. p.8. — 105 — 経 済 系 2.3 日本語現代訳 第 234 集 「翻訳原則は,今日まだ聖書がその民族や,種族 これまでは,聖書の英語への翻訳の課題を見た の言語に訳されていない人々のために,聖書翻 のであるが,日本語の翻訳についても当然検討の 訳の働きをしているウィクリフ聖書協会の宣教 課題が残る。日本においても,多数の翻訳が発刊 師が,世界中の至る所で翻訳している時に採用 されている。ここでは独自な 2 つの訳を取り上げ している原則でもあります。…このように世界 その翻訳アプローチを吟味していきたい。 中ですでに行われている翻訳原則を採用して, 日本語に訳したのが,この『現代訳 聖書』なの 2.3.1 です。」27) 尾山令仁訳『聖書 現代訳』1983 年 『聖書 現代訳』 (以下略称『現代訳』 )は尾山令仁 による旧約と新約の両方の単独訳である。巻末に 「 『現代訳 聖書』の特徴」と題して翻訳者の立場が 明らかにされている。尾山がこの大きな仕事を一 人でやるという企てには宣教的熱意があった。こ れは次に扱う柳生とは対照的である。柳生はむし ろ文学的な翻訳を目指していたからである。 まず,聖書は読まれねばならないという。わが 国では,毎年数百万冊の聖書が人の手に渡ってい る。しかしその約 9 割が読まれていないという報 告があるという。どこにその原因があるかと言え ば,日本語聖書は読んでもわからないからだとい う。尾山はその原因をこう見る。 『現代訳』はいまだに聖書が訳されていない世界 の地域で活動するウィクリフ聖書協会の宣教師・ 翻訳者たちと同じ視点と方法をもって日本語訳に 取り掛かっていたことになる。これは経済と技術 おいて先進国である日本の状況からあまりに逆戻 りした,かけ離れた方法ではないかと批判する人 たちもいるかもしれない。しかし日本は,ことに キリスト教および聖書の知識については,まった く後進・途上国である。またクリスチャンの人口 は 0.5 パーセントにもなっていない現実を踏まえ ると,この方法がもっとも妥当するのではないか。 それゆえに「動的等価」のアプローチが採用され ている。 「どうやら翻訳に問題があるらしいということが 分かりました。 」 「もちろん聖書が本当に分かるた めには,信仰を持って読まなければならないわ けですが,実はそこに行かないところで,さっぱ りわからないという事情があるようです。それ は,聖書が書かれた時代や風俗や習慣が,今日, 私たちが生きているわが国のものと全く違って いるのに,そのような歴史的,社会的,文化的 な違いをほとんど考慮に入れないで,翻訳して いるところにあると思います。」26) ここに,これまでの日本の聖書翻訳の最大の問題 点があると訳者は指摘するという。 次に尾山は自分の使命として,読まれる,わか る聖書翻訳を進めなければならない,と考えてい る。翻訳にあたり,尾山はナイダの翻訳理論を援 用した。尾山はなぜこのアプローチを採用したか についてこう説明する。 26)『聖書 現代訳』現代訳聖書刊行会,2004 年,569 ページ 「ですから,この『現代訳 聖書』はキリスト教を 背景に持っていない日本人に,読んでわかるよ うに訳されています。…説明がなくても分かる ように,訳されています。…本来,翻訳という ものは,そういうものであるはずです。原語を 見なければ意味の分からないような翻訳は,翻 訳としては不適格であると言われています。訳 されたものだけを見て,その意味がよく分かる ものでなければなりません。」28) 聖書は専門家向けの「宗教書」や「哲学書」で はなく,もともと「宣教の書」であったことを回 復する努力をここに見ることができる。 尾山はナイダの理論を左手に持ち,右手にもっ と大切な原則をもって,翻訳作業を続けた。それ は一貫して「聖書の正しい解釈」を土台として翻 訳作業を遂行したことである。ここで翻訳に際し 27)同上,577 ページ 28)同上,578 ページ — 106 — 現代英語聖書における翻訳の課題 てどれだけ「解釈」がはいることが許されるかど は,探偵小説や,ノン・フィクションのなかの うか疑問が生じる。尾山は翻訳に際して解釈は不 悪訳のものになぞらえたけれども,これはいさ 可避であるとする。聖書の翻訳は,正しいいキリ さか当を失しているかもしれない。これほどの スト教信仰に立ってはじめて,間違いのない解釈 悪文で書かれた原稿を受け取ったとき,編集者 が行われ,次に適切な翻訳が行われるはずである たちは必ずそれをつき返すに相違ないからであ という。 る。世界の文明国の中で,新教徒がこれほど馬 「解釈をしないで,ただ原文を訳しても,その訳 文を読んだ人は何のことかよく分からなくなっ てしまいます。ですから正しい聖書解釈をして, その意味をまずつかみ,それから訳さなければ なりません。」29) 。 鹿ばかしい文体で書かれた聖書を読まされてい る国が,そういくつもあるとは,ぼくには思え ない。 』 ( 『中央公論』1964 年 3 月号, 『梨のつぶ て』晶文社所収) 丸谷氏の他にも,竹山道雄氏や川村二郎氏の ような批評家が,現行訳をきびしく批判してお これは解釈学的な理論にも当てはまる。もし聖書 られるが,私にとってかねてから不思議でなら の告げるイエス・キリストの救いの出来事の主題 ないのは,これほどの酷評を受けながら,教会 (Sache: Subject Matter)を捉えていないとする 内部から,これらの文学者たちのチャレンジを ならば,その翻訳は正当な役割を果たしたことに 正面に受けて立ち,日本語の文体で勝負するこ ならないわけである。それゆえ尾山はこう結ぶ。 とを第一目標として,聖書の改訳に取り組もう 「そして一人でも多くの日本人が聖書を読んでく とする者が一人も現れなかったことである。 」32) ださるよう願っています。そのためにこの『現 さらに柳生はこの翻訳に取りかかった原点を告 代訳 聖書』が用いられるよう心から望んでやみ げる。 30) ません。」 「私は右に述べたごとき問題意識から,まず日本 ここでも,この翻訳が宣教的な動機を持っている 語として読める聖書,通読に耐え得る聖書,し ことを明らかにしている。単に儀式用・礼典のた たがって従来のものとは違った文体とリズムと めでなく,まず各人の聖書通読のために用いられ, テクスチュア(肌合い)を持つ聖書を目指して, そこから知恵と慰めと力を与えられること,そし 訳業に取り組んだつもりである。」33) て人生が変えられために,この翻訳聖書が読まれ ることが期待されているのである。 2.3.2 英文学者である柳生が敢えてこれに取り組んだの である。彼は自分が採用した翻訳の原理について 31) こう記す。 柳生直行訳『新約聖書』1985 年 柳生は「後記」になぜこの仕事を手がけたか,そ の出発点について述べている。少々長いが,問題 意識として重要なので引用しておきたい。 「本訳書はかなり自由かつ大胆にテキストを噛み 砕いて訳したところがあり,また全体の分量も 現行訳に比して幾分増えているので,これを敷 「周知のごとく,現行の口語訳聖書は教会内では 衍訳(パラフレーズ)と見る方もおられるだろう ともかく,教会外,とりわけ,文芸批評家たち と思う。確かにそう呼んで然るべき箇所が,部 の間で,はなはだ評判がよろしくない。たとえ 分的ではあるが(マタイ 17:1–4 など),しかし ば丸谷才一氏はこう言っておられる。『とにか 訳者としてはパラフレーズを意図したわけでは く大変な悪訳であり,悪文である。先ほどぼく ない。」34) 29)同上,579 ページ 30)同上 31)柳生直行訳『新約聖書』新教出版社,1985 年 32)同上,556 ページ 33)同上 34)同上 — 107 — 経 済 系 第 234 集 日本の読者に解かっていただくために本文を「噛 金科玉条とすべき明言である,と私は思ってい る。」38) み砕いた」という。すでに翻訳問題については論 じたように,翻訳作業においてある部分は逐語的 な訳が可能なところもあり,他の部分は大胆な言 い直しを試みざるをえなかったことを述べている。 これは翻訳者の苦慮するところである。ここで柳 生は森 外の手法を取り上げる。 ここからも柳生訳が,文学性を備えた動的等価の 翻訳原則によって,生み出された聖書翻訳の結果 と見ることできる。 結語 3. 「私は『作者が此の場合に此の意味の事を日本語 で言うとしたら,どう言っただろうか』と思って 私たちは,聖書の英語訳におけるこれまでのト 見て,その時,心に浮かび口に上った儘を書く レンドを見てきた。KJV が古典化し,独特の聖書 に過ぎない。( 『訳本 ファウストについて』)」35) 表現において英語の豊かさに貢献してきた。しか 外の翻訳原則はナイダ流に言えば,大胆な動的 等価といえよう。柳生は「私はまたそのとおりの ことをしたに過ぎないのである。 」36) と 外の線上 にあることを確認している。 最後に柳生は翻訳原則をこのように確認して いる。 し,新しい世代には遠いものになってしまった。 そのため,逐語訳から「動的等価」への流れが起 こってきた。その中でも,一般日常語に訳す方法 と,独自な慣用表現によって訳す方法というさら に二つの流れに分類されることもある。いずれに せよ,今日も読まれる聖書を生み出すために英語 翻訳者たちが努力していることは評価しなければ 「私にも方法論と言えるようなものが一つだけあ る。それは,言葉を訳すのではなく意味を訳す, ならない。 次に,私たちは聖書の和訳についても,代表的 ということであって,私はこれをヒエロニムス なものを取り上げた。わが国においてもさらなる から学んだことであった。」36) 訳業が推進され,聖書のメッセージに肉迫するこ そしてユージン・A ・ナイダを引用している。 とがますます期待されている。それと共に,今日 の様々な翻訳の特色を見極めた上,大いに活用し 「ヒエロニムスの翻訳態度は,古代の翻訳者たち たいものである。例えば,個人的・霊的黙想のた のだれよりも,おそらくはもっとも系統だって め,聖書研究のため,儀式における朗読のため,宣 おり,訓練されたものの一つであった。彼はよ 教のため,あるいはグループ研究のため,それぞ く考えぬかれた原則に従った。その原則を彼は れの翻訳を比較し,読み進めることが大切である。 はばかることなく公言し,弁護し,きわめて明ら あるいは,一つの翻訳を基本に学んでいくことも さまに,自分は『意味を意味にうつすのであっ 可能である。いずれにせよ,KJV の時代とは違っ て,単語を単語にうつすのではない』と述べた。 て,一つの翻訳にとらわれることなく,多種な翻 37) ( 『翻訳学序説』成瀬武史訳 開成社)」 訳を広く読み進めることが必要であり,それぞれ 柳生はヒエロニムスの言葉に深く共感してこう 結論する。 「言葉を言葉にうつすのではなく,意味を意味 にうつすこと— これはすべての翻訳者を以って 35)同上,557 ページ 36)同上 37)同上 の翻訳を通読することの価値とそこから得る喜び を復活させたいものである39) 。 38)同上 39)英語聖書の成立と翻訳および聖書をどう読むかにつ いての拙文エッセーを参考にしていただきたい。 高野進「英語聖書その歴史と現在」関東学院大学『告 知板』2006 年 5 月,3 ページ 高野進「自己発見としての聖書の学び」関東学院大 学『告知板』2006 年 6 月,3 ページ — 108 —
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