【目次】 [誕生~維新時代 長州志士としての山尾] ■日本はどんな世の中だった? ・・・1 外国からの猛アタック! ■その時庸三は? -誕生~少年期 ・・・2 -江戸へ ・・・3 -ロシアへ渡る -御楯組結成 ・・・4 -英国公使館焼き討ち ・・・5 -吉田松陰改葬 ・・・6 [留学時代 長州五傑の山尾] ■尊皇攘夷か開国か ・・・7 ■CHOSHU FIVE ・・・8 -国力アップのために ・・・9 -グラスゴーへ ・・・10 -航路マップ ・・・11 [明治時代 工学の父と呼ばれて] ■明治初期の国内 ・・・12 ■留学から帰国 ・・・13 -工部学校創設 ・・・14 -ものを造ったなら、そのものは ・・・15 美しくなければならない -日本鉄道の開設 ・・・16 -日本のサッカーは工部大学校か ・・・17 ら始まった!? -さよならはいつも「蛍の光」 ■聾唖教育者としての庸三 -山尾庸三エピソード ■1850年代のロンドン地図 ■写真 ■参考文献 日本はどんな世の中だった? 外国からの猛アタック! 開国 鎖国 1853(嘉永6)年 ペリー、浦賀に来航 プチャーチン、長崎に来航 1854(嘉永6)年 プチャーチン、再来航 日露和親条約締結 嘉永7年 老中 ペリー、再来航 ペリー 日米和親条約締結 阿部正弘 1856(安政4)年 ハリス、米総領事として下田に到着 1858(安政5)年 日米修好通商条約締結 日露就航通商条約締結 安政の大獄 プチャーチン 1859(安政6)年 神奈川・長崎・函館を開港 吉田松陰、刑死 川路聖謨 1861(万延元)年 米通訳ヒュースケン、暗殺 1862(文久2)年 生麦事件 英国公使館焼き討ち事件 1863(文久3)年 新撰組結成 徳川家定 ハリス -1- その時庸三は? 誕生~少年期 ◆誕生 庸三の生家(秋穂) 山尾家は宇部市宇津木小野に帰農した大内 氏の末裔でした。庸三の祖父である源左衛 門が三白政策に賛同し、製塩をするために 秋穂の長浜に転居し、庸三は、その長男で ある忠治郎の次男として誕生しました。 庸三の生まれた翌年には、小野の菩提 寺・法泉寺に高額の寄進をし、京都から宮 大工を呼んで自宅を建てるほどに成功して いました。 後に庸三 は 、故郷 の地 、秋 穂に 碑 が 造られ るほど 、 立派 に成 長す る のでした。 忠冶郎の次男 山尾庸三くん 誕生日:天保8(1837)年 10月8日 出身地:山口県秋穂 0歳 ◆ 少年期 吉田松陰の元、萩の明倫館 で学びました。ここで後の 庸三の人生を大きく左右 することとなる人物、高杉 晋作や伊藤博文とも知り 合います。 そんなある日、庸三は手 相師に出会い、人生の転機 ともなるお告げを受けた のです。 (手相師) お主・・・遠方に修行 へ行けば、他日必ず 実を成す・・・ 15歳 このままでは一生田舎で 埋もれてしまう! 江戸に行くけん! (1852 -2- 嘉永5年) その時庸三は? 江戸へ 江戸へ着いた庸三は、江戸の三大道 場の1つである練兵館(斎藤道場) に入門します。ここは、人格形成に 重点が置かれており、巷では政治道 場とも呼ばれていました。ここで、 庸三の尊皇攘夷の思想は固められ ます。 庸三は私と同じ、長 州藩出身か!まる で、弟ができたよう だなぁ。かわいがっ てやろう。 斉藤道場塾頭・桂小五郎 立て看板には・・・ 幕末志士ゆかりの練兵館跡 この練兵館は、神道無念流の剣客 斉藤弥九郞に より、それまで俎橋付近にあった練兵館が天保9 年(1838年)の火事で類焼したため、この地 に再建され、その後約30年間隆盛を誇った。練 兵館には、高杉晋作、桂小五郎(木戸孝允)、品川 練兵館では、斎藤自身が雑 弥二郎など幕末の志士が多数入門し、特に桂小五 談の形で、桂など長州藩や 郎は剣の腕前も優れ、師範代もつとめている。ま 水戸藩などの門下生たち た、伊藤俊輔(伊藤博文)も出入りしていたとい に尊皇攘夷思想の薫陶を われる。 なお、この練兵館は千葉周作(北辰一刀流)の それとなく与え続けてい 道場主・斉藤弥九郎 玄武館、桃井春蔵(鏡新明智流)の士学館ととも に、幕末三道場といわれている。 たといわれる。 ・・・と書かれています。 その時庸三は? ロシアへ渡る 箱館の武田斐三郎の役宅の隣に開設され た調所では、語学・測量・航海・造船・砲 術・築城・化学などが教授され、庸三は、 ここで工学の基礎を学びました。後の工学 の父の誕生です。 (調所はその他にも前島密、井上勝、蛯子末 次郎、水野行敏、今井兼輔の名士を門下に輩 出しています。) -3- 庸三は我国で始めての洋船「箱館 丸」に乗り込み、斐三郎と他の門下 生と共に航海に出ました。 また、1861年には「亀田丸」 でロシアのニコライエフスクまで 交易に出かけました。その時積んだ 貨物は絹、布、醤油、馬鈴薯などで す。 交易だけではなく、地理や風俗、 経緯度などの徹底調査も行ったと か。4ヶ月にわたったこの航海は、 日本人の造った船で日本人だけで 運航した、記念すべきはじめての外 国への航海でした。 江戸における官設学 校は、幕士、藩士の区 別が厳格で天下の人材 を教育する道ではな い! 寮中のものは身分の 公私貴賎に拘わらずす べて学術の成績によっ て等級を分けよう。 私は四国出身の科学 者ですが、1854 年、 蝦夷地出張を命じら れ函館へ渡りまし た。 自慢じゃないけど、 五稜郭は私が設計し たんだよ。えっへん。 その時庸三は? 四国大洲藩出身 武田斐三郎 御楯組結成 いて異人を斬殺して攘夷の実 を挙げたのに、我が藩はなお、 公武合体を説いている。何とか 攘夷の実を挙げねばならぬ。藩 政府でこれを断行できぬなら ば・・・ 一八六二年 ある日のこと 薩摩藩は、すでに生麦事件にお 高杉晋作 外国行使刺殺計画 外国公使がしばしば武州金沢(金沢八景)で遊ぶらしいという噂を聞きつけた高杉 は、そこで刺殺しようと同志らと相談した。この計画に庸三も加わったのである。 しかし久坂玄瑞が土佐藩の武市半平太に話したことから、これが無謀であるとして 山内容堂を通して毛利定広に伝わり実行に到らず、櫻田邸内に謹慎を命ぜられる。 ・・・が! おとなしく謹慎しているような連中ではなかった。 久坂玄瑞が筆をとった一通の書状を同志の間でひそかにまわし、改めてひとりひと りの志を確認していたのだ!そして署名をした者で御楯組を結成した。 この一通の書状を血盟書といいます。 -4- 久坂玄瑞 血盟書 高杉晋作(署名・血印) 久坂玄瑞・大和弥八郎 長嶺内蔵太・志道聞多 松島剛蔵・寺島忠三郎 有吉熊次郎・赤禰幹之丞 山尾庸三・品川弥二郎 その書状は「血盟書」あるいは 「御楯組血盟」「気節文章」と も呼ばれ、攘夷の決意を示した ものである。同志の連絡を密に とり、大事なことは会議にか け、納得いかない点はとことん 話し合うこと、秘密は絶対漏ら さないこと、同志は力を尽くし て救うこと…などのことを守 れない者は腹を切る、といった 内容であった。 (他日加わる者も含め、計25名) A. 久坂が筆をとった血盟書なのに、なぜ高杉が署名・血印を押しているの? Q. 久坂はこのような連名の書状を高杉と書くときには、必ず高杉を立ててトップにもっ ていきました。それは生涯変わらぬ高杉への信頼と尊敬の表れであったのではないで しょうか。 謹慎処分は、結局10日ほどで解除されました。 ・・・が!! 謹慎で懲りるような連中ではなかったのです! その時庸三は? 英国公使館焼き討ち 謹慎処分を受けた同じ年の1862年、品川・御殿山に建 築中だった英国公使館を次の標的に狙いました。 御殿山の公使館は、ちょうどその下の品川宿の土蔵相模と いう大きな妓楼からよく見える位置にあり、土蔵相模を根城 としていた山尾たちにとって、以前から目障りな存在だった のでしょう。庸三は、高杉・久坂・有吉・大和・長嶺・志道・ 白井・伊藤達とひそかに手製の焼夷弾を作り、決行を12月 12日としました。 志士たちの根城 土蔵相模 -5- 久坂は前日から芝浦の海月楼という妓楼に高杉らと泊り込まし た。深夜、かねての打ち合わせどおり土蔵相模に集合した庸三ら は、現場に向かいました。途中警備の幕兵と出くわすことがあり ましたが、難なく追い返し、空濠を飛び越え、木の柵を用意した ノコギリで切り、公使館に潜入。建物の外枠はできていたものの、 人はまだ住んでいない状態で、そこに焼夷弾を仕掛け、庸三らは 一斉に退去しました。 まもなく御殿山は炎に包まれ、火消しや見物の野次馬でごった がえす頃、芝浦の海月楼に戻った庸三らは歓呼を挙げて酒を酌み 交わしたといいます。 すぐに放火犯人をさがしだし、厳重 に処罰せよ。幕府でできぬというな 大成功♪ らこちらの手でひっとらえ、思いし らせてくれる! 幕府はうろたえました。とにかく犯人を見つ けねばならない、と奉行所の役人を総動員し て、調べにかかりましたが、結局、誰のやっ たことかわからぬままでした。 その時庸三は? 吉田松陰改葬 1858年の安政の大獄で捕らえられていた吉田松陰 が、1859年刑死します。1863年に年が改まった1 月5日、庸三や高杉らによって、遺骨を山口県の萩に改葬 することとなりました。今でも萩市には遺髪を埋葬した松 蔭墓地、祀った松蔭神社などがあります。 庸三は、松陰改葬から5ヵ月後の6月、伊藤博文、井上 馨、井上勝、遠藤謹助と共に、イギリスへ密航することと なるのです。 吉田松陰 肖像画 -6- 時は幕末⁝ 「ペリーの横浜上陸」(ハイネ原画によるブラウンの石版画 1855 年刊) 『ペリー来航と横浜』(2004 年 横浜開港資料館編・刊)より 動乱の時代へ その時、庸三は・・・ 長州と薩摩、そして英国 庸三は 1861 年、幕府貿易船亀田丸に乗り組み、ロ シア領沿海州を見学。庸三にとって、初めて触れる 外国であった。 その経験をかわれてか、翌年 8 月には、幕船壬戌丸 に志道と乗り組む。しかし、江戸湾内をうろうろする だけで、とても操縦できたとは言えない状況であっ た。 黒船を率いて猛烈な勢いで押しかけてきた列強、そ して、それに揺らぐ日本。その中にあって、庸三が見 出したのは、未だ船も満足に操れない小さな自分で あった。 そして、庸三の中に、外国への留学の必要性が強く 意識されるようになったのである。 衰退する幕府を倒し、朝廷に権力を持たせようと する長州藩と、朝廷と幕府を結びつけることによっ て、幕府を存続させようとする薩摩藩は、互いに敵 対しあう関係であった。この敵対関係を経て、薩長 同盟が結ばれたのは、明治の足音が聞こえる 1866 年のことであった。 また、国内では、突如として押し寄せた「外国」に 対して、強硬的な姿勢が見られた。両藩が留学先 とした英国に対しては、長州藩は、1862 年英国公 使館を焼き討ち(庸三も参加)し、薩摩藩も、1863 年に薩英戦争を起こすなどしていた。 様々な立場が絡み合う複雑 な関係がここにある。 尊皇攘夷 1853 年、浦賀に来航したアメリカの提督ペリーは、日本に開国を迫った。この黒船来航以来、日本は動乱の時代へと突 入する。 翌年、幕府は日米和親条約を締結、1858 年には、大老、井伊直弼が勅許を得ないままに、日米修好通商条約を締結。 同様の条約は、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも次々に結ばれ、波紋を呼んだ。幕府と朝廷の在り方、そして日本 と列強の関係。国内では様々な主張が飛び交うようになる。 開国か -7- CHOSHU FIVE 長州ファイブの誕生 約百三十日の過酷な航海を経て、1863 年 9 月 23 日、庸三ら五 人はロンドンに到着した。 右の写真は、おそらく到着後にロンドンで撮影されたもの。い ずれも洋装がすっかり板についている。 当時のロンドンでは、日本人留学生はめずらしかったものか、 東アジアの端に位置する遠い島国からやってきた彼らは、しば し話題となった。 五人が通ったロンドン大学で、彼らは「CHOSHU FIVE」と称 されたという。 「CHOSHU FIVE」すなわち「長州五傑」は、映画の題材とも なり、現在もなお、話題性豊かに語り継がれている。 遠藤謹助 伊藤俊輔 井上勝 志道聞多 山尾庸三 ロンドン大学ユニバーシティカレッジ ロンドン到着後、五人はヒュー・マジソンの世話になり、ロンドン大学ユ ニバーシティカレッジのアレキサンダー・W・ウィリアムソン教授を紹介さ れる。 ウィリアムソンの知遇をうけ、彼らはロンドン大学で学ぶこととなる。伊 藤、志道は軍事・政治・法律を、庸三は工学、野村は鉱業や鉄道、遠 藤は経済・貿易をそれぞれ専攻したという。(ちなみに、庸三は成績優 秀だったらしい。) ここでの経験が、帰国後の彼らの人生に、そして近代日本に大きな影 響を与えたことは、明らかであろう。 『Japanese in Britain 1863-2001 A Photographic Exhibition』より 先進技術との接触 学業の余暇には、彼らはイギリス各地の造船所や、海軍の施設、 さまざまな工場など見学した。 時には、薩摩藩の留学生と共に行動したこともあったという。 目に映る先進技術の数々が、船も満足に操れない山尾らにとっ て、どれほど刺激的なものであったかは、想像に難くない。 薩摩藩士との交流 ロンドンに着いてから、一年半以上も経った頃、庸三らは同じロンドンに、薩摩藩士らが留学していることを知る。 揺れ動く日本の将来を見据えて、海外の技術の必要性を痛感したものか、薩摩藩でも、長崎の英商トーマス・グラバーの援助によって、やはり 藩士をロンドンに留学させていたのであった。 薩摩藩の英国留学生は、1865 年 3 月 22 日に薩摩を出航し、約二ヵ月後に英国に到着。間もなく、ロンドンで彼らの世話をしてくれていた英国 人が、三人の長州人に会った、という情報を伝えた。三人というのは、日本での長州藩の窮状を察知し、伊藤と井上が急ぎ帰国したため、ロン ドンに残った遠藤、志道、山尾のことである。これにより、長州藩、薩摩藩の両留学生らは、お互いの存在を知るに至ったのであった。 1865 年閏 5 月 10 日、庸三ら三人は、薩摩藩留学生宿舎を訪れ、日本の現状などについて話したという。 薩長同盟が結ばれたのは、1866 年 1 月のこと。遠く離れたイギリスで、長州藩と薩摩藩、共に日本のこれからを切実に考える者らの交流は、す でに始まっていたのであった。 -8- 万延元年(1860)、長州藩主の意向を得て、萩藩士・北條源造は、勝麟太郎(のち の勝海舟)と共に、米国へ渡っている。また、その 翌年の文久元年(1861)、同じ く萩藩士の杉徳輔は、欧州遊学の命を萩藩主より受け、江戸幕府の外国奉行・竹 内保徳に従って出国。使節の一行は英国船に便乗して長崎をあとに、各地を周り、 藩主への報告材料をかき集め、約一年後にようやく帰国。両者は、帰国後、藩主 に、海軍力や工学による日本の近代化への道を強く訴えた。 そちらの率直な意見が聞きたい、 くるしうなぃ、申せっ! はっ、おそれながら、申し上げますっ! 外国の技術レベルは・・・で、このままで すと我が国は・・・ 藩で、藩士による英国留学が検討されはじめた頃、 井上聞多は、海軍増強の為に海軍術を修行する海外 留学を希望し、藩当局に熱心に請願した。目的は、 もちろん軍備(特に海軍)の強化、最新技術の習得 周布政之助 村田蔵六 と、海外の情報を得ることで、当時の藩首脳部(周 布政之助など)は、これに同意して、その具体化を 村田蔵六(後の大村益次郎)に託した。 井上聞多 聞多・庸三・弥吉に五年間のお暇を与え、 「外国へ渡り、入学・修行し、戻ってきた ら海軍一途に奉公することを心がけよ」と 内命した。聞多は江戸で、伊藤に同行を勧 め、快諾。また、江戸藩邸に居た遠藤も同 行を希望したが、伊藤・遠藤についは、藩 の正式の許可は出ておらず、幹部たちが黙 認した形である。こうして渡英した五人が、 後に長州ファイブと呼ばれるようになる。 -9- ロンドンで基礎的学問を学んでいた山尾は、工業技術(特に造船技術)の習得を望 んで、工業都市グラスゴーに赴くことを志したのだが・・・。 あぁ、グラスゴー・・・ でも・・・貧乏なんだよなぁ~ はて、 どうしたものか・・・。 ニッポンの将来を おもう気持ちは同 かたじけない。 じにごわすっ! 学費に窮して旅費の工面ができなかった山尾に対し、薩摩藩の留学生たちがカンパしあい(薩摩藩の公 金ではなかった)、最大の問題であった資金に目処がついたのであった。庸三は、この時の恩を生涯忘れ ることはなかったという。当時、薩摩と長州の関係は、深刻な状態にあり、本国の事情はとは別次元で、 これらのやり取りがあったのである。 かくして、1866 年秋に無事グラスゴーにいくことができた庸三は、マセソンの紹介 状や貿易商のブラウンの絶大な信頼を得て、ロベルトアンドサンズ社のネピア造船 所で、徒弟となることができた。 昼間は、見習工として造船所で工具 を使用して技術を学んび、夜間はアン ダーソンズ・カレッジの夜間学級に通っ ていた。当時の徒弟は、昼間造船所で 働き、夜はグラスゴーのあちこちに開 かれている夜間学校にかよい、忙しい 生活をしていた。彼らは潜在的能力を もつ大切な人たちとして、社会的な地 位も高く、大切に扱われていた。 1868 年に藩命として、帰国のことがつげられたため、5 年間の留学に終止符をうち、 12 月に横浜に帰着。1869 年 2 月には、周防三田尻の海軍教授方助役として、藩士に 知識・技能を教授。同 8 月には、長崎に藩船丁卯(ていぽう)丸の破損個所の修理監督 として赴くなど、長州藩の恩義に報いたのである。 - 10 - 横浜:チェルスウィック号(1863.5.13) → 上海:ペガサス号(1863.5.17) → ロンドン(1863.9.25 ) :ホワイト・アッダー号 (1863.5.27) → ロンドン(1863.9.23) 同 ロンドン 横浜 上海 えーと・・・? まあ、適当に言っときゃ なんとかなるだろ・・・ ぉぃ!? おまえらの 航海目的は? Navy(海軍)だよ! 聞多ぁ!! Navigation! (航海術) 寄港先の上海で伊藤・ 井上馨はペガサス号 (300t)に、山尾・井 航海術? なんだ、水夫になりたいのか。 上勝・遠藤はホワイ じゃあ働け!! ト・アッダー号(500t) に乗り換えた。 伊藤・井上は水夫見 船の中では僕 の英語だけが 通じた。 えへん! 習と誤解され、船中で 酷使されながら約 4 ヶ 月で目的地のロンドン に着いたのだった。 - 11 - 明治初期の国内 欧米 日本 ・産業革命に伴う機械化 ・鎖 国 か ら 開 国 直 後 、 ・資本主義体制の確立 手工業中心 西洋との国力の差は明らか。このままでは だめだ!対抗するにはどうすれば・・・・ 「新橋ステンション蒸気車鉄道図」 明治丸 近代化だ! 大形工場 東田第4高炉 ・ 第1回1877(明治10年) ・ 万博を参考に国内に移植 ・ 国内産業を刺激し、『木綿糸機械』 が鳳紋賞を受賞大会中第一の好発 明と評される。 - 12 - 鉄道1号機関車 そのとき庸三は 1868(明治元年)留学から帰国 日本の現状を考えると近代化を進めるには 国を挙げての大事業を行う必要があるぞ! 工学省の設置の建白 工部省:明治3年(1870)工学に関する一切の事務を総 管するために設置 官営事業として鉄道、造船、鉱山、製鉄、電信、灯台など幅 広い事業を行う。 工部省設置に伴い、庸三は工部権大丞に任ぜられる。 仮令為スノ工業無クモ 人ヲ作 日本の「万世富国」のためには「実学知識」 レバ其人工業ヲ見出スベシ を身につけた「人材教育」が不可欠だ (人材を育成すればその人が工 よし、工部学校を作るぞ! 業を作っていくんだ) イギリス近代工学の父グラス 「未ダ我国ニ於テ為スベキ工業無シ ゴー大学のランキン教授の推 校ヲ立テ人ヲ作ルモ何ノ用ヲカ為サン」 薦により、 (さしたる工業もないのに学校など不要 24歳青年ダイアーが8名の じゃないか!) イギリス人教師とともに来日 学校反対派 世界でも例の無い新しい工部学校設立へ - 13 - 学 工部学校創設 東京大学工学部の前身 明治 4 年 8 月 14 日 工部学校開設準備のため工部寮設置 工業士官を養成する目的であり、庸三は工学頭に任命される 修業年限 6 年、教師はすべて外国人(授業は英語) 工部大学校 専門:土木、電気、機械、造家、化学、鉱山、冶金 明治 10 年 1 月 11 日 (東京帝国大学50年史) 工部大学校となる。学生数約 300 名 明治 12 年 第 1 回卒業生 23 名を送り出した 明治 18 年 12 月 文部省に移管 明治 19 年3月 帝国大学と合併して帝国大学工科大学となる 寮生の一日 衣食は官費で支給された 午後10時就寝 午後9時寄宿舎に戻る 午後6時教室で自習 午後5時夕食・入浴 午後4時授業終了 体操 1 時間 Ⅵ 午 前 午前 午後 午後 XI XII Ⅰ Ⅰ Ⅱ X XI Ⅱ Ⅸ Ⅲ Ⅷ Ⅳ Ⅷ Ⅳ Ⅶ Ⅴ Ⅶ Ⅴ Ⅵ ● Ⅴ Ⅳ 午前6時起床 Ⅶ Ⅶ Ⅷ Ⅲ Ⅸ Ⅸ Ⅲ 12 時 Ⅱ Ⅹ Ⅱ Ⅰ XII XIXI Ⅹ Ⅰ 午前8時授業開始 1 講義 2 時間 土曜日午前中試験、午後から日曜日は休日、外出は制服制帽 山口県出身の卒業生 藤岡市助 片山東熊 岩国市出身、工部大学校第 3 萩市出身、第 1 期入学生 期生、日本で最初に電灯を作 造家科 宮廷建築家、代表 った。「日本のエジソン」と呼 作:東宮御所(現迎賓館)、 ばれる 京都国立博物館 - 14 - ものを造ったなら、 そのものは美しくなければならない 庸三はさらに工部美術学校の設立を提言した 明治 9 年に設立された工部美術学校は 明治 20 年に東京美術学校となり、 昭和 24 年に東京芸術大学となって今日に至る 日本工学会(現日本工学会) 明治 12 年(1879)11 月 18 日第 1 期卒業生が相互の親睦、知識の交換を目的と して創立。創立当時は工部大学校の卒業生だったが、同大学以外の関係者に門 戸を開放し、我が国の工学・工業の発展に貢献した。明治 15 年庸三は会長に選 任される。 サムライ・エンジニア 日本における工業化の担い手が若い武士であった。士農工商の身分が固定された 封建社会にあって、支配層である武士が、被支配層の職業とされた工業の担い手 となるところに日本の工業化のひとつの特色がある。明治維新後は、これらのサム ライ・エンジニアは、きそって工業官僚となり、さらに政治家へと変貌した。工業官 僚は、工業人材を養成するための官立学校を組織した。そこにもまたサムライが集 まった。 官庁集中計画 明治 21 年庸三が内務省臨時建築局総裁に就任し、ホープレヒトおよびエンデにより立案され た日比谷練兵場跡の計画に従い、司法省を起工したが、敷地は劣悪を極めたため、計画の 全体を変更するに至った。日比谷練兵場跡の海側半分を占める軟弱地は公園(現在の日比 谷公園)とし、司法省は残り半分の敷地の裁判所の隣地に、残りの官庁は議院、参謀本部、 外務省、裁判所、司法省に囲まれた敷地へと変更した。これが官庁集中計画の実現案とな り、現在の霞ヶ関官庁街の骨格となっている。 - 15 - 殖産興業のインフラストラクチャ整備の重点に鉄道建設があった。 明治元年(1868)以来佐賀藩出身の大隈重信と長州藩の伊藤博文らの文明開化推進主 張者は、日本の近代化のための政策として、鉄道を外国から導入することの必要を説いて いたが、その具体的計画として、明治 2 年 10 月 11 日付で外務省は上申して、鉄道起工を 建議し、11 月 10 日に鉄道敷設のことが太政官において決定された。 汽笛一声 最初に開通した新橋〜横浜間の開業式は明治天皇を迎えて盛大に挙行された。 明治 5 年 9 月 12 日、日本最初の鉄道開業式が明治天皇御臨幸のもと新橋停車場と横 浜停車場で挙行された。 工部少輔山尾庸三と鉄道頭井上勝に先導され、太政大臣三 条実美、参議西郷隆盛はじめ重臣、内外高官を従えて、お召し列車は午前 10 時に新橋 を発ち、1 時間後、横浜に到着。在留外国人代表や横浜住民代表らが祝辞を述べ、勅答 を賜って横浜の式典を終えた。正午、天皇は復路に就き、午後 1 時から新橋で盛大な開 業式が挙行された。 開業当時の運賃 新橋・横浜間 上等 1 円 12 銭 5 厘 中等 75 銭 下等 37 銭 5 厘 「THE ILLUSTRATED LONDON NEWS」に紹介された 日本の鉄道事業 - 16 - 日本のサッカーは工部大学校から始まった!? 工部大学校では、運動の中に一、歩兵操練 二、フート・ボール 三、遊泳術 四、シンチー 五、テニス 六、クリッケット 七、ベースボール 八、ボートレース が組み込まれていて、 体育の一環として行われた。 当時は「フート・ボール」といい、ゴールキーパーも「ゲートキーパー」といっていた。 「フート・ボール」は明治7年頃測量士のライマー・ジョーンズ氏が指導を始めたとされ、 ルールも簡単なことから、明治 15 年頃運動の中ではもっとも盛んに行われていたという。 「フート・ボール」とは、アソシエーション・フットボールすなわち「サッカー」のことである。 工部大学校の教師たちは在日中に商法講習所(現在の一橋大学)の教師ウィリアム・イ ットニー家に招かれて郷愁をなぐさめられていた。スコットランド生まれの多い彼等の帰 国のお別れパーティーでは、令嬢クララのオルガンの伴奏でスコットランド民謡別離の歌 Auld Lang Syne(The good old times)を全員で合唱した。この歌は明治 14 年(1881)の 小学唱歌集初編に「蛍」として採用され、のち「蛍の光」となり、勉学を終え、学校と別れ る卒業式の歌となって今日まで愛唱されている。 「蛍の光」の原曲 Auld Lang Syne Should auld aequaintance be forgot And never brought to mind? Should auld acquaintance be forgot And days of lang syne For auld lang syne my dear For auld lang syne We'll tak’a cup o’kindness yet For auld lang syne - 17 - 日本の歴史が近世から近代へと大きく変換していくなか、日本は西洋の制度を 取り入れ新しい時代に向けて歩み始めていました。 その変革の対象となったのは、政治・行政・工業・産業・・・・そして教育。 その教育という変革の中で、聾唖教育も近代化に向けて動きだしていました。 福沢諭吉、岡田摂蔵、村田文夫などによる海外の聾唖教育の紹介 書物により、欧米の聾唖教育を日本に紹介する。 明治 4 年 11 月 政府は海外に使節団を派遣(岩倉使節団) 各国を訪問した際に、多くの聾唖学校を視察する。 それにより海外の聾唖教育の水準の高さを知る。 このように聾唖教育が知れ始めた頃、誰よりも早く行動を起こした人物がいました。 その人物とは、明治の工業立国の父と呼ばれる山尾庸三。 彼には、 【聾唖教育の先駆者】 というもうひとつの顔があったのです。 山尾庸三は、聾唖教育の推進のために「建白書」を政府に提出します。 明治 4 年(1971) 盲唖学校設立に関する建白書 「盲唖学校ヲ創立セラレンコトヲ乞フノ書」 この建白書は、その後の聾唖教育の基本的な路線を引いたものとも言われているが、この時点 では実を結びませんでした。 その理由としては、政府の主だった者が使節団として留守だった ことや、西南の役などの反乱鎮圧のため、そこまで手が回らなくなったからとも言われている。 明治5年(1872年)に公布された「学制」の中で、日本の特殊教育が始めて 規定されました。ただし、その内容は「其外廃人学校アルヘシ」とあるのみで 特殊教育としての内容については何も触れられておりませんでした。 明治 8 年(1875 年)イギリスの宣教師であるヘンリー・フォールズの主唱によって古川正雄、 津田仙、中村正直らが集まり楽善会を組織する。 盲目者らのための 訓盲院を設立する。 設立のための費用等は 外国の教会が主に協力 賛同 明治 9 年(1876 年) 山尾庸三が楽善会に入会 反対 山尾庸三の提案 我が国の聾唖教育に、外国人に依頼し、かつ宗教の力を借りて事を 為すのは反対です。日本人の中の諸有志者と協力し、宗旨の如きは、 内外異同を問わずに、ただ広く同志者を募って、日本の聾唖教育を 進めようではないですか。 この提案に賛同した楽善会の会員一同は、 訓盲院設立を目指して活動を進めていきます。 明治 9 年 楽善会の訓盲院設立が認可されました。 認可の際には、明治天皇から訓盲院設立の ための基金三千円が御下賜されています。 明治 10 年 楽善会は、訓盲院設立のための寄付金を広く募集し始めました。 明治 11 年 築地の海軍省用地を拝借して、建物を建築。 明治 13 年 東京に訓盲院が正式に設置されました。 しかし、当時は生徒が集まらず、最初の生徒数は わずか 4 名でした・・・。 明治 17 年 楽善会訓盲院は、「訓盲唖院」と改称。 次第に予算が集まらなくなってきた楽善会。山尾庸三らは予算確保のため、 「訓盲院」を正式な文部省直轄にしてもらうように考えました。 明治 18 年 「訓盲唖院直轄願」を文部省に提出。 同年、それが認められて、 官立東京盲唖学校として、文部省直轄の教育機関へと成長します。 その後、東京盲唖学校、東京聾唖学校など 改称・分離をしていきますが、ここが日本の 指導的な盲聾唖教育機関であり、その設立に 山尾庸三が深く関わっていたことは間違い ありません。 イギリス留学で感銘を受ける! 1866 年、山尾庸三は仲間と別れ、当初の目的である航海術・造船技術習得の ためグラスゴーのネイピア造船所で働いた。その造船所で庸三は多くの聾唖者 が手話で会話するのを目撃して、驚きとともに感銘を受け、時間の合間にイギ リスの聾唖学校や盲学校を見学し、日本での聾、盲学校設立の思いを強くした。 庸三回顧談 俺が、明治初年、官命で英国造船所を視察した時じゃったが、職工中に唖 し か 者がいて熱心に働いていた。而して俺等には勿論、誰彼にも極めて巧妙な指 字を書きました。それが、何も知らない俺らにも日ならずしてよう分かりました まこと じゃ。あれは洵に好い事じゃと思ふ。それから俺は聾唖教育の必要を感じまし たじゃ。 ぐ あ い あちらの唖者には手指で言ふのと、口で言ふのとふた通りの言葉がある様じゃ。日本にもそういふ工合 なものがあるかな。 A はかういふ工合に、B はかういふ 工合に、C はかういふ工合にして英語 のいろはを綴りますのじゃ。大変便利 で、一々筆や紙を用ひる必要はない。 それに又なかなか優美だから、俺はつ くづく感心しましたじゃ。 イギリス指文字表 ☆なぜ、造船所に聾唖者がいたのか △船に打ち込んだリベットの数で給料が決まったため、皆が必死でたたき続 け、造船所内は常に大音響だった。 △何年も働くと耳が遠くなる人が多く、造船所内では健常者同士も手話を 使っていた。造船所では聾唖者も十分に仕事ができた 勘違いで人を殺した自責の念?! イギリスへ旅立つ約半年前、山尾庸三は勘違いから人を殺してしまう… 山尾庸三がイギリスに旅立つ約半年前の 1862(文久2)年、老中安藤信正が国学者塙次郎に 廃帝の故事を調べさせた(塙次郎が孝明天皇を廃すことに手を貸した)という噂が流れた。同年 12 月 21 日、長州藩の志士たちの間で暗殺の声が高まる中、血気にはやる伊藤俊輔(博文)が、 「不埒な奴。私が殺りましょう」と、真っ先に手を下すことをかって出た。山尾は江戸の練兵館 仕込みで、剣の腕に覚えがあったので「俺も行くよ」と話はすぐに決った。 同日夜、2人は大名や旗本の屋敷が多く、ひっそりと静まり返っていた麹町三番町(東京都千 代田区)の塙低近くで待ち伏せした。やがて提灯を手に塙が一人で山尾らの方へ歩いてきたのを 見て、2人は塙の面前に飛び出し、提灯の明かりで塙本人であることを確かめると、まず、伊藤 か ん ぞ く 「天誅だ!」と叫んで塙の方をめがけて斬りかかり、それと同時に が刀を抜いて、 「奸賊覚悟!」 山尾が胴を払った。塙を倒した2人は彼の首を切り落として、屋敷の塀の上にさらし、その横に 此者儀 昨年安藤対馬守と同腹致し 兼て御国体を弁へながら前田健助 両人と 恐れ多くも不請旧記を取調候段 こうむるほどの大罪を犯してはいない。 大逆の至り也 て、故事を調べただけのことであったから、天誅を これに依り昨夜三番町において に行動したとは思えない。ただ幕府から依頼を受け 文久二年十二月二十二日 用意した斬奸状の立札を立てた。 しかし、いくら塙次郎の経歴を調べても、思想的 天誅を加ふるもの也 ざ ん か ん じ ょ う 自責の念から障害者教育に力を入れた? 斬奸状 : 悪人をきろうとするにあたって、その趣意を書き記した書状 (塙次郎の父、塙保己一は有名な盲人の国学者) 山尾、伊藤の両人とも、この事件については口を閉じて語ろうとはせず、 終生忘れられない後味の悪い出来事であったらしい。 塙次郎(忠宝) (はなわじろう(ただとみ) ) 塙保己一(はなわほきいち) 1807(文化4)年生まれ。父、塙保己一を継いで和学講談所を運営。 歴史に通じ『史料』 、 『武家名目抄』 、 『続群書類従』などの編纂に従事 したほか、 『南朝編年稿』 、 『近代武家名目一覧』 、 『集古文集』などの 編著がある。1862(文久3)年没。 1746(延享3)年生まれ。7歳のとき失明するが、並みはずれた記憶 力をもち国学や儒学を学ぶ。1793(寛政5)年、幕府に願い出て和学 講談所を開設。ここを拠点として記録や手紙にいたるまで様々な資料 を蒐集し、 『群書類従』を編纂。のちに盲人の最高位である総検校(け んぎょう)になった。1821(文政4)年没。 アルバート記念塔 藤謹助の下宿先 伊藤博文、井上勝遠 先生の家 ウィリアムソン 化学の教授である ロンドン大学の 下宿先 ロンドン橋 現在のタワーブリッジの位置 ロンドン塔 5人が留学した1850年代のロンドン地図 井上馨、山尾庸三の とある画家の家 ンドン大学 5 人が学んだロ 庸三の生まれ育った 秋穂の町並み 右手前の白壁の家が、庸三の生家です。常 に世界に目を向けていた庸三ですが、彼の 原点であるこの景色を、生涯忘れることは なかったでしょう。 みなさんも庸三に想いを馳せつつ、秋穂の 町を歩いてみてはいかがですか。 ←碑が建てられています。 トーマス・ブレーク・グラバー像 グラバーは、当時東アジア最大の商社だったジャ ーディン・マセソン商会の長崎代理人でした。井 上聞多から、密航の手助けをして欲しいと申し出 があり、彼は横浜の「英一番館」のジャーディン・ マセソン商会に応援を頼み、密航の準備が進め られました。 (長崎県 グラバー園にて) グラバー邸 1863年に建てられた、国内最古の木造西洋風 建築で、国の重要文化財にも指定されています。 たくさんの若き志士達が、情熱を胸にここを訪れ たのでしょう。 【参考文献】 ・ 資料御雇外国人 / ユネスコ東アジア文化研究センター編. -- 小学館,1975. ・ 成島柳北・服部撫松・栗本鋤雲集 / 塩田良平編 ; . -- 筑摩書房,1969.8. -- (明治文学全集 ; 4). ・ 薩摩藩英国留学生 / 犬塚孝明著. -- 中央公論社,1974. -- (中公新書;375). ・ 学制百年史 資料編 ・ 盲・聾教育 80 年史 ・ 明治のエンジニア教育 / 三好信浩著. -- 中央公論社,1983. -- (中公新書;695). ・ 障害児教育大事典 / 茂木俊彦編集代表 ; . -- 旬報社,1997.12. ・ 明治維新と文明開化 / 松尾正人編 ; . -- 吉川弘文館,2004.2. -- (日本の時代史 / 石上英一 [ほか] 企画編集委員 ; 21). ・ 近代を創った 77 人 : 近代化遺産とパイオニア ; . -- 新人物往来社,2001.6. -- (別冊歴史読本 ; 77 号). ・ 防長回天史 / 末松謙澄著 ; 3,4 --- 復刻版. -- マツノ書店,1991.6. ・ 高杉晋作 / 細田民樹著 ; . -- 国土社,1973.6. -- (世界伝記文庫 ; 4). ・ ペリー来航と横浜 / 横浜開港資料館編. -- 横浜開港資料館,2004.4. ・ Japanese in Britain, 1863-2001 : a photographic exhibition. ・ 近代日本の海外留学史 / 石附実著. -- ミネルヴァ書房,1972. ・ 国際日本を拓いた人々 / 北政巳著. -- 同文館出版,1984. ・ 図説教育人物事典 : 日本教育史のなかの教育者群像 / 唐澤富太郎編著 ; 上, 中, 下. -- ぎょ うせい,1984.4-1984.7. ・ 教育の体系 / 山住正己校注 ; . -- 岩波書店,1990.1. -- (日本近代思想大系 / 加藤周一 [ほか] 編 ; 6). ・ 奮発震動の象あり : 防長教育史の人びと / 松野浩二著 ・ 密航留学生「長州ファイブ」を追って : 宮地ゆう著 ・ 山尾庸三傳 : 明治の工業立国の父 / 兼清正徳著 企画・展示 山口大学図書館 http://www.lib.yamaguchi‑u.ac.jp
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