吉田松陰 - TOK2.com

吉田松陰先生亡き後の門下生達
11月20日
10月27日
村塾に同志集まり、師の初月忌を営む
飛脚が萩に到着し松陰殉難が知らされる
吉田松陰先生処刑
︻安政6年︵1859︶︼
11月27日
資料①︿高杉晋作﹀承り候ところ、我が師松陰の首、遂に幕吏の手にかけ候の由、防長の恥辱口外
仕り候も汗顔の至りにござ候。実に私共も師弟の交わりを結び候程の事故、仇を報い候らわで安心
仕らず候。しかるところ、父有り、君有り、吾が身吾が身の如くして吾が身にあらず候故、自然致
し方ござなくただ日夜我が師の影を慕い激嘆仕るのみにござ候。これよりは、屈してますます盛ん
の語を学び、朝に撃剣、夕に読書、錬磨赤心、固筋骨を堅め、孝を父母に尽し、忠を君に奉じ候え
ば、すなわち、我が師の仇を討ち候本領にも相成り候らわんかと、愚案仕り居り候。︵中略︶明、
二十七日は吾が師初命日故、松下塾へ玄瑞と相会し、吾が師の文章なりとも読み候らわんと約し候
位の事にござ候。︵安政六年十一月二十六日 周布政之助宛︶
資料②︿久坂玄瑞﹀何も先師の非命を悲むこと無益なり。先師の志を墜さぬ様肝要なり。暢夫益盛
ん、識学大いに進み、敬うべきの人に御座候。是よりは時々往復成さるべく、他の作間・有吉・佐
世・彌二・松洞などにも書を送り、鼓舞振起是れ祈る。︵入江杉蔵宛書簡︶
資料③︿佐世八十郎﹀先師既に忠義に死す。余門生たり。遺志を奉じて忠義に死せざれば、何の面
目ありて地下に見えん
久坂、先師の遺書を収集して帰り、夜は﹃武教全書講録﹄を読みふける。
︻万延元年︵1860︶︼
1月6日
二・七を定日として孟子会をやる事に
門下生十数名が集り松陰百日祭を執り行う、先師の鬢髪を収める
1月12日 村塾で孟子会が始まる
2月7日
3月19日 先師の霊に告ぐるに関東の報︵桜田門外の変︶を以てす︵久坂︶
︻文久元年︵1861︶︼
松下村塾に久坂玄瑞ら門下生二十数名が集り﹁一燈銭申合﹂成る
1
資料④ 一燈銭の事 久坂玄瑞
(
)
此度同社申合せ自分自分の力を尽、骨を折て鎖細の事ながらも相い儲置度く事に候、非常之変不
意の急に差掛候ても嚢中払底にては差込ものにて候、逐々有志人の牢獄に繋かれ又は飢渇に迫候も
のも相助度き義士烈婦の碑を建墓を築寺までにも力を尽し手を延ばし度き事に候え共、同社中有余
の金も之有る間敷事に候えば何れ此方の至誠をのみ貫き度き事に候、左れば毎月写本なりともして
わずかの儲致置度、月末松下村塾まで銘々持寄致すべく候、半年にもせよ一年にもせよ塵も積れば
山と成る理にて屹と他日の用に相立つ目途も之有るべきと考えられ候、同社中身の膏を絞出して集
る事なれば、容易に費すべきにあらず、已を得さる事あれば、同社中申合せの上にて取捌申すべく
候、抑人を救も用に備ると富貴長者の事なれば如何様にも相叶へけれと我々にてかくまでにするは
貧者の一燈とも申べき事にて、至誠の貫ぬく理はよもあるまじき、之により此度取建候金を一燈銭
とは名くる也
一 毎月写本六十枚宛村塾まで必す持寄致置度候事
一日僅に二枚宛の事なれば左まで勉強のならぬ事はある まじ、若 し此数不 足のある ときは 、
一 写本料は先師の定むる所、真字十行二十字五文、片仮奈同断四文の事
一
一枚五文の辻を以て相償い必ず持寄り之あるべき候事
一 写本紙写本取捌等は逐々申談合すべく候得共当分之中は写本紙は銘々心配之あるべく候事
右の条々此度申合候所是式の事さへ骨を惜候位にては我々の至誠相貫き候事も覚束なく事の様相
松下邨塾同社中
考えられ候、銘々屹と怠らぬ様致度事は申も疎に候、已上
酉ノ十二月朔日
︻文久二年︵1862︶︼
資料⑤ 血盟書
此度申し談じ候大義、天下の安危、皇学の興廃に関係致し候辰にて、我々共不肖の身を以て申し合
せ候事、恐多き次第に候へ共、君臣の義久しく明らかならず、華夷の弁もはや地に堕ち候ばかりに
の御深旨をひそかに斟酌し、江相公
︵藩主 の 諭告︶
・江師公
︵かう し ょうかう︶
︵か うのそのか う︶
・洞春公
︵毛利元就 ︶
候へば、何とも傍観するに忍びず、之に依り聖賢尊攘の大義に本づき、戊午の歳︵安政五年︶御直
書付
2
の御英霊を地下に慰め奉り度き所存に候。他藩より大義談じかけられ候上は、義を見てせざるは勇
なき也との聖語も有之、御当家数百年勤皇の御功勲赫々たる御門閥に候処、今日に至り他藩に先鞭
を着けられ候ては、何とも遺憾の至りに堪へず。その上我々共畏縮致し候ては、かの輩より、長門
︵らうぎ︶
の微躯
人怯懦などと嘲られ候ては、いかにも御当家の御恥辱に相なり候ことと存じ込み、これに依り、逋
亡脱走の重典を犯し、祖先の祀を滅し、父母の親を絶ち、数百年海岳の御洪恩、螻蟻
にて報じ奉り候ことには中々及びかね候へ共、万分の一をも償ひ度く候に付、天地神明の賞覧に誓
ひ、血判するもの也。
久坂玄瑞・中谷正亮・久保清太郎
松浦松洞・品川彌二郎・増野徳民・佐世八十郎等も血判︵翌日︶
の猛き心も胸つぶれぬる
︵ますらを︶
文久二年 壬戌二月二十七日
資料⑥ 佐世八十郎の歌
父母の事し思へば大丈夫
大君の御為と思ひ切る太刀になぎ尽さめや醜の醜草
4月11日
4月11日
久坂・佐世・久保・中谷・寺島・入江・天野・品川ら薩摩の激徒に呼応し京都所司代
松浦亀太郎、粟田山中で切腹
久坂・佐世・久保・中谷ら長井雅楽の弾劾書を在京の藩主要路に提出
涙にも色にもさすが武士の出さぬ心はいとど苦しき
4月23日
長州藩主﹁君臣湊川﹂に決断
屋敷を襲うべく京都藩邸に待機するが、寺田屋の変報至り止む。
7月
﹁聖旨を奉戴せざれば勤皇の伝統とわが至誠とを如何にせん、攘夷に徹底すれば、究極は外敵と幕兵とを一手
勅諚下る
に引受けて防長二州を焦土とする覚悟が居る。﹂
8月2日
﹁安政戊午の大獄以来国事によつて処罰された者は、生者は罪を免じ死者は罪名を除いて葬るこ
10月17日
勅命により幕府大赦令を発して松陰の罪を免ずる。
在京の久坂・寺島ら門下生約二十人が集り吉田松陰先生慰霊祭を行う
と。故水戸烈公に大納言を贈ること﹂
11月28日
この月、松門の志士が主となり攘夷血盟書を作る
3
資料⑦ 御楯組の血盟書︵気節文章︶
此度我々共、夷狄を誅戮しその首級を提け罷り帰り、急度攘夷の御決心あそばされ今般仰出され
候勅意速に貫徹いたし度く存じ詰め、発足候処、恐れ多くも世子君御出馬あそばせられ候て、壮志
感服の至りに候へ共、我等孤立にては心細きにつき一先づ帰参、尊攘の実功輔佐しくれ候やう御懇
切の御教諭仰付られ、一同感泣の至りに堪へず。必竟此度の一挙も君上を後に仕り候儀毛頭これな
く御決心の段祈り奉り候ての事に付、此後は益々忠誠を励み御奉公仕るべき段申上げ引取り候こと
叡慮を貫き下は君意を徹する外他念これなく、国 家の御楯 となるべ き覚悟肝 要たり 。
に付、この同志中の儀は、斃るゝまでは十三日夜の次第忘却候ては相叶はず、百折屈せず夷狄を掃
除し、上は
同志中一旦連結の上は、進退出処ことごとく相謀り、自己の了簡に任すまじき也。
同志中落途有之か又は所存相異これあるの時は、何国までも論弁すべし。面従腹誹は武士道におい
て愧づべき所なり。
秘密の事件は父母兄弟たりとも洩らすべからず。万一召捕られ八つ裂に逢ふとも露顕致す等の儀こ
れあるまじき也。
御楯組中一人たりとも恥辱を蒙る時は、その餘の恥辱たり。相互に死力を以て救援し、組中の汚名
を取るまじき也。
我々共、死生を同じうし正気を維持するに付ては、いか計り離流顛沛に逢ふとも尊攘の志屈し撓む
べからず。聚散離合を以て志を変ずるは禽獣と謂ふべし、幾千万里を隔つとも、正議凛然、見苦し
き振舞これあるまじき也。
右同志の契約、違背いたし候時は、幾応も論弁せしめ、万一承引これ無きにおいては、組中申合せ
詰腹に及ぶべし。依つて天神地祇に誓ひ血盟すること件の如し。
文久二年戌十一月
高杉晋作・久坂玄瑞・大和弥八郎・長嶺内蔵太・志道聞多・松島剛蔵・寺島忠三郎・有吉熊次郎・
︵白井小助︶
・赤弥幹之丞・山尾庸三・品川弥二郎
瀧弥太郎・堀真五郎・佐々木次郎四郎︵十一月二十六日︶
山縣初三郎・長野熊之允・山田市之允︵顕義︶︵十一月二十七日︶
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周田半蔵・冷泉雅次郎︵後の天野御民︶・瀧鴻二郎︵十一月二十八日︶
三戸詮蔵︵翌三年正月二十一日︶
佐々木男成・楢崎八十槌・吉田栄太郎︵稔麿︶
・野村和作︵正月二十九日︶
玄瑞達十一人は、改めて決心を固め、機会があればいつでもやるということを確認して、御楯組をつくり、血
以上 二十五名︵
内松門十一名︶
※
盟書までつくった。
﹁今度私達は外国人を誅戮し、首級をあげることで攘夷の決心を固めるつもりであったが、世子定広侯が出馬して、
私達だけでは心細いからということで取りやめました。でも、十三日の決心だけは忘れないで、国家の御楯となる
覚悟であります。
同志、一旦連結の上は、進退出処はすべて謀り、個人の意見にしたがわない。
同志で意見が違うときは、どこまでも論じあって、面従腹背はしない。
秘密の事は、父母兄弟にもいわない。万一、召捕られてひどい拷問にあっても、決してその秘密を洩らしてはな
らない。仲間の一人が恥辱を受けるときは、その残りの者の恥辱である。お互いに死力を尽して、その仲間を助け
て、組が不名誉になるようなことがあってはならない。
途中で離合集散し、志を変えないように、皆が力をあわさねばならない﹂
そして、これに違背するときは詰腹を切らせるというのである。もちろん、これは、玄瑞の書いたものである。
その後、こ の血盟書には、滝弥太郎、堀真五郎、佐々木次 郎四郎、山田顕義、吉田栄太郎、野村和作などが参 加 し
ている。
12月12日 高杉晋作・久坂玄瑞・伊藤俊輔ら江戸イギリス公使館を焼打ちする
佐久間象山赦免運動に乗り出す
将軍家茂入京
上下加茂両社行幸
︵いわがね︶
︵ す めみいく さ︶
砕けやせぬ、これ、砕けやせぬ。
は、皇御軍
︵ も ののふ︶
の御楯じゃな、これ、御楯じゃな。
高杉晋作・伊藤俊輔らで骨ヶ原の先師松陰の遺骸を世田ヶ谷若林村の長州候別荘地大夫
︻文久三年︵1863︶︼
正月5日
山に改葬
3月4日
3月11日
き身なれど武士
︵ひく︶
資料⑧ 御楯武士︵壬戌三月 江月齋主人戯作︶
一つとや、卑
二つとや、富士の御山の崩るとも、心岩金
三つとや、御馬の口を取直し、錦の御旗ひらめかせ、これ、ひらめかせ。
四つとや、世のよし悪しはともかくも、誠の道を踏むがよい、踏むがよい。
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五つとや、生くも死ぬるも大君の、勅
のままに随はん、なに、そむくべき。
︵みこと︶
六つとや、無理なことではないかいな、生きて死ぬるを嫌ふとは、これ、嫌ふとは。
の御軍
︵すめらぎ︶
︵いくさ︶
︵いさを︶
をたてよかし、これ、おくれるな。
の先をするじゃもの、なに、をとるべき。
七つとや、なんでも死ぬる程なれば、たぶれ奴ばら打倒せ、これ、打倒せ。
八つとや、八咫の烏も皇
九つとや、今夜も今も知れぬ身ぞ、早く功
長州藩は松陰の遺著を明倫館に提出させて生徒の誦読に供した
十とや、遠つ神代の国ぶりに、取つて返せよ御楯武士、これ、御楯武士。
4月1日
4月11日
﹁5月10日を以て攘夷実行の期限とす﹂
石清水行幸
長州藩では藩主の命令で松陰遺文が藩校明倫館で教科書の如く読まれる
4月21日
6月6日 高杉晋作、奇兵隊を結成
この年、松下村塾出身の軽卒入江・山県・品川・杉山・伊藤・野村・吉田ら松陰に師事して尊攘の
政変・長州藩追放七卿落ち
大義を遵奉する故を以て士籍に列せられる。
8月18日
︻元治元年︵1864︶︼
5月25日 山口明倫館において楠公祭が執行され、村田清風・吉田松陰・来原良蔵などが従祀さ
京都禁門の変で久坂玄瑞・入江九一・寺島忠三郎ら自刃
京都池田屋を新撰組が襲撃、吉田栄太郎・杉山松介闘死
れた。その祭には、藩主毛利敬親や山口に居た五卿が参列。
6月5日
7月19日
この月、松門の志士を主として松陰の遺志を奉ずる趣旨を記して奇兵隊血印盟約書を作る。
資料⑨ 奇兵隊血盟書 元治元年七月
癸亥︵文久三年︶以来国家危急之義ニ付、松陰先師其他諸有志之素志を以、君上を奉補翼、皇朝
復古之義ニ付、血印同盟に及候処、其後時勢日々月々と相追付ては此度改めて盟約ニ候、此儀相背
候者ハ上欺神明下恥祖先其罪不可容天地候前条大任ニ当り候ニは、一両輩之堪ゆる処にあらされは、
追々相届候者ハ出処正邪相相調ね可加連印者也
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元治元年秋七月
赤根武人
山県狂輔千束︵花押血判︶ 福田良輔馬島甫僊光明︵花押血判︶藤
村太郎稲比古︵花押血判︶ 松岡循作守一︵花押血判︶ 片野十郎三好軍太郎重光︵花押血判︶椙
?
木村文太郎 矢野登一
郎行文︵花押血判︶伊藤伝之輔忠
山荘市郎 真田市太郎信量︵花押血判︶ 時山直八養直︵花押血判︶ 長太郎 ︵花押血判︶木谷
修造景徳︵花押血判︶ 南野市郎高行︵花押血判︶ 天宮慎太
信︵花押血判︶ 湯浅祥之助則和︵花押血判︶ 岡千吉郎 尾川弥一郎
12月15日 高杉晋作、藩論回復の兵を長府功山寺に挙げる。内戦始まる。
功山寺にて三條実美ら五卿に述べた言葉﹃回天実記﹄︵土方久元著︶︶
資料⑩ 最早口舌の間にて成敗の論無用なれば、是より長州男児の腕前御目にかけ申す
︵元治元年十二月十五日
玉木彦介絵堂の戦いで戦傷死する。
︻慶応元年︵1865︶︼
1月20日
八月六日、招魂場祭事、奇兵隊士とこれに謁す、此の日軍装行軍、出陣例の如し
も
な
一死を将つて邦家に報いんと要す
こと
白石資興、尊攘の為に忠死せし御魂を祭る、予も亦其席に加りて、斯く詠めり
弔むらわる人に入るべき身なりしに弔むらう人となるぞはつかし
と
欣 ぶべし名遂げ功成るの後 共に招魂場上の花と作らん
よろこ
猛烈の奇兵何の志す所ぞ
資料⑪
おく
後 れても後れてもまた君たちに誓ひし 言 を吾忘れめや
み き
御魂に供へし御酒を頂戴するとて
なおらい み き
はつかしと思ふ心のいや増して 直 会 御酒も酔得さるなり
10月25日 高杉・山県・伊藤らにより下関桜山招魂場で松陰慰霊祭を行う。墓地の最前列中央
に松陰の招魂墓が建てられる。
︻慶応3年︵1867︶︼
4月14日 第二次長州征伐の幕府軍を撃退後、高杉晋作病死。これによって松下村塾四天王︵高
杉・久坂・入江・吉田︶消える。
藩府、毎年藩札七百目を給して塾舍の修繕にあてる事になる。
︻慶応4年︵明治元年・1868︶︼
2月17日
戊辰戦争で時山直八・駒井政五郎ら戦死。
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