渾天壱統星象全図 - 大阪市立科学館

大阪市立科学館研究報告 26, 75 - 84 (2016)
渾天壱統星象全図
宮 島
一 彦* ・ 平 岡
隆 二 **
概 要
この星 図 は中 国 ・清 朝 の道 光 年 間 に刷 られたものであるが、中 国 にはほとんど残 存 しないのに対 し、
日 本 で何 枚 か見 つかっている。いずれも青 色 地 (下 記 松 浦 史 料 博 物 館 のものは黒 ) に白抜 きで、文 字 や星 座
が示されている。
大きく分 けて、道 光 2 (1822) 年 と道 光 6年 の2つの版 (便 宜 上 A、Bとする) があるが、そのうち道光 6年のもの
は説 明 文 ・星 図 部 分 ・識 語 が同 じでありながら、末 尾 が暮 春 ・松 涛 書 および孟 夏 ・銭 泳 書 となっている 2
つの亜種 (B、B′) に分 けられることが、著 者 の1人 (宮 島 ) の調 査によって明 らかになっている (1)(2)(3) 。
星 図 そのものはA、Bとも宋 代 の石 刻 ・淳 祐 天 文 図 に少 し西 洋 天 文 学 的 要 素 を加 えたもので、最 外 円
の太さ等 の細 部 を除 いて、ほとんど違 いはないが、説明 文はBが淳祐 天 文図 とほぼ同 じであるのに対 し、
Bより古いAのほうは西 洋 天 文 学 の内 容 が盛り込まれている。
このたび著 者 らが調 査 した大 村 市 立 史 料 館 所 蔵 の同 題 の星 図 は、道 光 2年 のものであるが、従 来 知
られていたのと同 じ雲 游 散 人 識 語 のものであり、星 図も同 じ (色 はやや薄 い) であるが、文 章の部 分が、従 来
のものの途 中 までしかなく、いわばA′とでもすべきものである。この星 図 は大 村 藩 天 文 方 峰 源 助 を出 した
峰 家 に伝 わるもので、この題 の星 図 で江 戸 時 代 の天 文 学 者 とのかかわりがうかがわれる唯 一 のものであ
る。また、平戸 市 ・松 浦 史 料 博 物 館 にもほぼ同様 の星図 (文 章 部 分 は黒 地 ) が所蔵されている。
1.はじめに
ないものは、大 村 市 ・平 戸 市 のものを除 き、そのう
著 者の1人 (宮 島 ) は、昨 年 、もう1人 の著 者 (平 岡 )
ちのどれかが失 われたものと考 えられる。 右 端 の1
から、長 崎 県 大 村 市 立 史 料 館 に標 記 の題 (「壱 」は
枚には表題が篆書で書かれている。
「壹 」、「図 」は「圖 」が用 いられているが、本 論 文 の本 文 中
星 図 は 北 極 を 中 心 とする円 形 星 図 で 3~6 枚 目
では旧 漢 字 は現 代 漢 字 に直 して表 記 する) の星 図 がある
に 描 か れ ており 、 星 および そ れ らを 結 ん だ 星 座 と
ことを知 らされ、9 月 に 合 同 で調 査 を行 った。そ の
天 の 川 は 中 国 ・ 蘇 州 に 現 存 する 南 宋 ・ 淳 祐 石 刻
結 果 、 従 来 知 ら れ て いた 同 題 の 星 図 の う ち 1822
天 文 図 ( 以 下 、 蘇 州 図 と 略 記 ) のほぼ敷 き 写 しである
年 の 版 の 亜 種 (A′) であること が 分 かった。また 、同
が、蘇 州 図 に 脱 落 している 星 座 が補 われている。
館 の山 下 和 秀 氏 より、長 崎 県 平 戸 市 の松 浦 史 料
また、北 極 を中 心 とする同 心 円 は、蘇 州 図 のばあ
博 物 館 にもこれに類 似 する星 図 があるとの教 示 を
いが内 側から順に上 規 (内 規 とも。周 極 星 となる限 界 の
受けた。後者については、今 年 度 に改 めて調 査す
赤 緯 円 。現 代 天 文 学 では常 現 圏 ) ・赤 道・下 規 (少 しでも
ることとし、ここではこれまでに調 査 した同 題の星 図
地 平 線 上 に昇 る限 界 の赤 緯 円 、常 隠 圏 ) であるのに対し、
について述 べること にする 。 なお 、文 献 (1)(2)(3) の
本 星 図 では内 側から順に、天 頂を通る赤 緯 円 ・北
記述内容を一部 修 正 した。
回 帰 線 ・赤 道 ・南 回 帰 線 ・常 隠 圏 となっており、そ
2.渾 天 壱 統 星 象 全 図 の概 要 (稿 末 写 真 参 照 )
れぞれに「天 頂 」「夏 至 黄 道 南 距 赤 道 二 十 四 度 」
こ れ らの 星 図 は 青 色 地 に 白 抜 き で 字 や 星 など
「赤 道 春 分 /赤 道 秋 分 」「冬 至 黄 道 北 距 赤 道 二 十
が表 されており、従 来 知 られていたもののほとんど
四 度 」の文 字 が添 えてある。5番 目 の円 (常 隠 圏 ) に
は細 い縦 長 の8 枚 の 紙 からなっている。 枚 数 の 少
は何も書き添えられていない。この常隠圏とその外
*
**
中 之 島 科 学 研 究 所 研 究 員 /同 志 社 大 学 嘱 託 講 師 [email protected]
熊 本 県 立 大 学 文 学 部 准 教 授 [email protected]
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宮島一彦・平岡隆二
の円の間 (この幅 は蘇 州 図 より狭 い) に天 を二 十 八 宿と
楽 也 。道 光 二 年 青 龍 在 元 默 敦 牂 升 建 寿 星 合 朔
いう28の星 座によって不 等 分 割 した時 の星 座 名 と
後三日雲游散人識。
その広さ、その外 の円 との間 (蘇 州 図 とほぼ同 じ幅 ) に
老 子 は部 屋 から出 なくても世 の中 のことが分 か
十 二 支 (天 を十 二 等 分 して十 二 支 名 を配 当 ) ・十 二 次 (そ
り、窓からのぞかなくても天 の理 法 (あるいは天 体 の
の別 名 ) ・分 野 (十 二 次 に 対 応 する地 方 ) が記 入 されて
運 行 ) が知 れた (『老 子 道 徳 経 』下 篇 第 47の言 葉 ) 。私
いる。この外 の最 外 周 に太 めの円 が描 かれている。
は地 理 図 を観 て、自 分 が国 中 を歴 訪 し ているか
2~7枚目には、星 図を囲んで、天 文 学 的 内容 が
のようで、はっきりと心 の 目 に浮 かんだ。楊 子 (後
記されている。
漢 の揚 雄 。揚 は 楊 とも書 く ) は天 地 のことに通 暁 して
8 枚 目 に は 出 版 の 理 念 など を 述 べ た 識 語 が 隷
いて、人 々はこれを「儒 」と称 した。だから天 文 地
書風の文字で記されている。
理というのは、儒 者は本 来 捨 て置くわけにゆかな
一 見 互 いによく似 ているが、天 文 学 的 記 述 の部
いのである。今、大 地 のことについての出 版は世
分 および 識 語 に 、 大 き く 分 けて、 中 国 ・ 清 朝 の 道
間 で多く行われている。しかし天 文の普 及は広く
光 2 (1822) 年のもの (Aとする) と、6 (1826) 年 のもの (B)
ない。これは 学 問 の 欠 陥 で はないだろうか 。ここ
の2種 類 があり、Bはさらに識 語 と表 題 部 分 の違 い
に、本 箱 の中 に以 前 から所 蔵 している天 文 図 稿
により、BとB′の亜 種に分かれる。
があるので、これを石 に刻 む。願 わくは、博 雅 (学
3.道 光2年 版 (A)
問 が広 く行 いが正 しい) の君子がみんなして楽しまれ
筆 者 が、藪 内 清 先 生 から譲 り受 けた星 図 は、道
んことを。道 光二 年 壬 午 (青 龍 は太 歳 。「元 默 」=げん
光 2 (1822) 年 識 語 の も の で 、 縦 約 122cm× 横 約
もく=は正 しくは「元 [黒 +戈 ]」=げんよく。十 干 の壬 の別 称 。
28.7cmの紙8枚からなっている。金 光 図 書 館 所蔵
「敦 牂 」=とんしょう=は十 二 支 の午 の別 称 ) 三 月 (升 は斗
のものや兵 庫 県 中 富 村 の辻 良 彦 氏 の家 に伝 わる
に同 じ。斗 建 は北 斗 の柄 の指 す方 角 。寿 星 は天 の十 二
ものも1822年の版 であり、いずれも表 装 されておら
次 分 割 の1つで十 二 支 の辰 にあたる。ここでは地 上 の方
ず、8枚の大きな短 冊 状の紙 片のままである。
角 で、柄 が辰 の方 角 を指 すのは 3月 ) 3日 (朔 が1日 )。雲
B・B′とは、まず円 形 星 図 の最 外 周 の円 の太さが
游 散 人 識 す。
違 う。識 語 の内 容 も全 く違 い、1822年 のものは雲
游 散 人 識 となっているが、号 だけで本 名 は判 らな
これで見ると、石板に陰 刻して、拓 本をとるように
い。散人とは自己 を卑 下 した呼 称 だという。星 図 そ
刷 ったものと 思 われる が 、筆 者 ( 宮 島 ) 蔵 (藪 内 旧 蔵 )
のものはほとんど同 じだが、詳 しく見ると微 妙に違う。
のものや、一 昨 年 の入 札 会 に出 品 されて別 の古
1826 年 の も の は 1822 年 の も の を 基 に して 復 刻 し
書 店 に より 落 札 され たもの などは 、 青 地 の 上 に 白
たもののように思われる。
の絵の具 で書いたようにも見える。
最 も異 なるのは、星 図 の周 囲 に記 された天 文 学
4.道光 6年 版 (B・B′)
的 記 事 である。1822年 のものは、伝 統 的 な中 国の
道 光 6(1826)年 の ものはまた、左 端 の 識 語 の 最
宇 宙 観 や 天 文 知 識 と 、 新 た に 入 っ てき た 西 洋 天
後 に、暮 春 (太 陰 太 陽 暦 の3月 ) 松 涛 (これには楊 懐 義 と
文 学 の知 識 (同 心 天 球 説 など) とを折 衷 したような内
いう印 も押 されている) 書 とあるもの (B) と、孟 夏 (太 陰 太
容 で 、 上 下 2 段 に 分 け て 書 か れ ている の に 対 し、
陽 暦 の 4 月 ) 銭 泳 書 とあるもの (B′) との2種 類 に 分 か
出 版 年 の 新 しい1826年 の もののほうが、かえって
れる。松 涛 のものと銭 泳 のものとを比 較 して違 って
古い伝統 的な内 容 になっており、前 に述 べた蘇 州
いるのは、上 に述 べた出 版 時 期 と 書 者 名 、および
の 淳 祐 石 刻 星 図 の 下 半 分 に 刻 まれた 文 章 と ほと
識 語 の字 体 (文 章 は同 じ) 、表 題 (上 記 のようにどちらも
んど一 致 する。星 図 の上 下 の部 分 だけが2段 にな
篆 書 ) のうちの「図」の字の字 体 だけ (松 涛 のものBはA
っていて、上 段 か ら下 段 に 続 き 、そ の 最 後 か ら 次
と 同 じ ) で、表 題 の それ 以 外 の 字 体 や 円 形 星 図 の
の行の最上部に続く。
周 囲 に記 された天 文 学 的 記 事 ・星 図 はまったく同
識語は次の通り (旧 漢 字 は現 代 漢 字 になおす) 。
じである。かつては、著 作 権 という意 識 が無 かった
から、出 版 者 名 だけ変えて同 じ原 版 を使って出 版
老 子 不 出 戸 知 天 下 。不 窺 牖 見 天 道 。余 観 地 理
することはよくあった。
図 。如 身 歴 九 州 。了 然 於 心 目 之 間 也 。楊 子 通 天
京都の岩倉実相院 (B′、2枚 ず つ 一 曲 と し た 四 曲 の
地 。人 謂 之 儒 。然 則 天 文 地 理 。儒 者 固 不 可 偏 廃
屏 風 ) や津 山 郷 土 博 物 館 にあるもの (B、軸 装 ) 、およ
也 。今 地 輿 刊 版 。既 多 甚 行 於 世 。而 天 文 流 伝 未
び思 文 閣 古 書 資 料 目 録 第 121号 (1989) に掲 載 さ
広 。豈 不 為 芸 林 之 欠 陥 乎 。 爰 撿 [草 冠 + 匧 ]中 有
れ た も の は 1826 年 の 版 で あ る 。 表 装 し てあ り 、 思
旧 蔵 天 文図稿。取 而 刻 諸 石 。庶 幾 博 雅 君 子 所 共
文 閣のものは目 録によれば縦 136cm×横 228cm、
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渾天壱統星象全図
津 山 の も のは 筆 者 の 調 査 では 縦 125.5cm× 横 21
がAより少 ない4枚 に収 まっているのである。したが
9.5cmで、少 し大 きさが違 うが、これは表 装 の際 に
って文 の 折 り 返 しも 、 A とは 位 置 が 異 なっ ている 。
縁をどれだけ切 り取 ったかによる違 いである。昨 年 、
つまりこの図 はいずれかの 部 分 が 失 われて 6 枚 に
京 都 市 内 の 民 家 で 1826 年 の も の と 思 われ る も の
なったのではなく、はじめから6枚 なのである。なお
の現 存 が確 認 された。両 端 がなく (したがってBかB′
Bも説明文は十二分野までである。
か を 判 別 で き な い ) 、6曲の屏 風になっている。
星 図 以 外 の青 色 はA,B,B′と 同 じ で あ る が 、
以 前 長 野 県 の 博 物 館 で開 かれた展 覧 会 に 1つ
中央の星図の色はそれより淡い色合いになっ
出品されていたというが、それが上 の何 れかと同一
ている。星図そのものは Aと ほ ぼ 同 じ で あ る が 、
のものか、別のものかは分からない。
微妙に違う。それを縁取る白抜きの円の幅は
約 2.5~2.8cmで A (1.1~1.4cm)よ り 広 い 。
アメリカの アドラー・プラネタリウム館 にも 1つ 所
蔵されているが、これは左 端 の1枚 が欠 けているた
全 体の 大 き さは 縦 121.7×横 155.2cmで、 当
め、蘇 州 ・淳 祐 石 刻 天 文 図 との類 似 から、宋 代 の
然、他のバージョンより 横が短い。4枚 目 右 端
ものと誤 解 されたようである。「図 」の字 体 からB′
で 星 図 円 の 直 径 ( 青 い 部 分 の ) を 測 る と 約 92.
であることが分かる。‟Sky & Telescope” (Stephen
8cm (3枚 目 左 端 よ り 大 き い ) で 、A (92.4cm) よ り 僅 か
son,Feb.,1999) 誌 の 写 真 を 見 る と 、右 か ら7 枚 目 に
に大 き い 。「 渾 」字 の 縦の 大き さ は 12.5cmで 、
置くべき部分が誤って2枚 目 に置かれている。
こ れ も Aの 12.3cmより僅 かに大きい。
Aの識 語にもあるように、しばしば天と地 は対比 し
こ れ ら か ら 見れば、紙の 伸縮も考えられる
て扱 われる。天 球 儀 と地 球 儀 もそうであるし、天 文
の で 断 言 は で き な い が 、 Aと は 非 常 に よ く 似
図 (星 図 ) と地図も同 様 である。岩 倉 実 相 院 には、や
て は い る も の の 、 星図部 分 も 新 た に 彫 り な お
はり四 曲 の屏 風 で青 色 地 の 「大 清 万 年 一 統 地 理
したようである。
全 図」 (道 光 5年 ) も所 蔵されている。
この図が伝えられてきた大村藩峰家につい
思 文 閣 出 版 の目 録 以 後 も、古 書 目 録 に2度 ほど
この種の星図が掲 載されたことがある。
て次に述べる。
6.大村藩峰 家 (4)(5)(6)(7) と本星図
『中国古 代天 文 文 物 図 集 』『中 国 古 星 図 』や潘
大 村 市 立 史 料 館 の「渾 天 壱 統 星 象 全 図 」は、
鼐 氏 の『中 国 恒 星 観 測 史 』など、中 国 で出 版 され
同 館 が 古 書 肆 を 通 じて 平 成 11 年 度 に 購 入 したも
た 研 究 書 や学 術 雑 誌 に は 言 及 さ れ ていない。 潘
の だ が 、か つては 旧 大 村 藩 士 の 峰 家 に 伝 来 した
氏 は戦 前 所 蔵 していたというが、現 代 中 国 では所
資料であったことが知られている。
在が確認されていない。その意 味 でも、日 本 に7~
峰 家 は、享 保 頃 に活 動 した峰 宇 右 衛 門 (諱 は督 。
8点 (アメリカに1点 ) 現 存することは貴 重であると同時
生 没 年 未 詳 ) 以 降 、大 村 藩 における 天 文 暦 学 にま
に 興 味 深 いが 、そ れ 以 上 に 、 1622 年 版 に おいて
つわる御 用 を代 々務 めた家 系 で、その後 、伝 治
西 洋 天 文 学 がどのように受 容 されているか、1626
(徳 。 1731-1802 ) 、宇 右 衛 門 (厚 。1789-1868 ) と 続 き、
年版でなぜ古い伝 統 的 内 容 に逆 戻 りしたのか、興
源 助 (潔 。1825-93) のときに明治維新を迎えた。
味がもたれる。
峰 家 の旧 蔵 資 料 は近 代 以 降 に散 佚 したが、本
日 本 に 現 存 する もの のう ちの いくつか は 明 治 時
星 図 と同 じく大 村 市 立 史 料 館 所 蔵 の大 村 藩 峯 家
代以 降にもたらされたことがわかっており、いくつか
文 書や、長 崎 歴 史 文 化 博 物 館の峰 文 庫、山 下 文
は江 戸 時 代 にもたらされたものであると思 われる。
書 、古 賀 文 庫 などに、比 較 的 まとまった分 量 が 現
次 に述 べる大 村 市 のものはほぼ確 実 に江 戸 時 代
存 している。とくに長 崎 歴 史 文 化 博 物 館 の峰 文 庫
から伝えられてきたものである。
は、星 図 類 では渋 川 春 海 ・昔 尹 『天 文 成 象 』 (元 禄
5.大村 市立史 料 館 ・道 光 2 年 版 (A′)
12年 刊 ) の写本や石坂常 堅 『方円星図』
( 文 政 9年
右端の表題と左 端 の識 語はAと全く同 じである。
刊 )などを架蔵するほか、望遠鏡1点、渾天儀2点 、
星図とその周りの天 文 学 的 記 事 は4枚 しかなく、計
算木 等の器物 類、伊能 図 5点を初めとする絵図 類、
6枚がひとつながりに表 装 されている。同 館 が購 入
その他 多 数 の和 本・古 文 書 類 など、計 約 400点 か
した時には軸 装 であったが、その後 現 在 の額 装 に
ら成 るすぐれた天 文 暦 学 コレクション である。本 星
補修されたとのことである。
図も、元はそれらの資 料とともに峰家 に保 存されて
天 文 学 記 事 は A の 途 中 、 ち ょう ど 半 分 く ら い の
いたものが、ある時 期 に散 佚 したとみられるが、最
「十二分 野」まで、「九 天 」の前 までしかなく、「緯星」
終 的 に峰 家 由 来 の大 村 市 の所 蔵 となって研 究 者
の条を除いて、そこまではAと全く同 じ内 容 である。
の閲 覧 に供されていることはまことに慶 事 と言 わね
緯星の条はごく簡 略 になっている。そのため、枚数
ばならない。
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宮島一彦・平岡隆二
本 星 図 がどのような経 緯 で峰 家 の所 蔵 となった
は残 存 が確 認 されておらず、貴 重 な史 料 であるといえ
かは 不 明 である が、それが 道 光 2 ( 文 政 5 ・ 1822 ) 年
る。また、AとBとのグループにおいて、出版 年の早いA
の成 立であることや、近 代 以 降 の収 集 の可 能 性 が
に多 くの西 洋 天 文 学 の知 識 が盛 り込 まれ、Bにはそれ
ほぼ消 去し得ることなどを考 えると、江 戸 後 期 の宇
がほとんど見られないことも興 味 深い。大 村 市のものに
右 衛 門 ( 厚 ) か、あるいは源 助 の代 に入 手 したもの
関しては峰 家とのかかわりを明らかにすることが今 後の
とみて大過なかろう。
課 題 であり 、松 浦 史 料 博 物 館 のも のとと もに 、今 後 の
宇 右 衛 門 は 、 師 の 渕 山 伴 治 か ら暦 術 を 学 び 、
更なる調査が必要である。
文 化 10 (1813) 年 にその翌 年 の「甲 戌 年 七 曜 暦」を
藩 主・大 村 純 鎮 に献 上 した。また天 保 11 (1840) 年
津 山 郷 土 博 物 館 の 星 図 調 査 (1990 年 ) は 当 時 の
には暦 学 方 に取 り立 てられ、弟 子 の育 成 を命 じら
故・森 本 謙 三 館 長 の依 頼によるもので、多 大 のご協 力
れたが育 たず、代 わりに子 の源 助 に稽 古 をつけ、
をいただいた。また、このたびの大 村 市 立 史 料 館 の星
念願であった源 助の出 府 修 行を実 現させている。
図 ほかの史 料 調 査 時 にもまた、大 村 市 教 育 委 員 会 学
また源 助 は、嘉 永 3~安 政 2(1850-1855)年 に
江 戸の幕 府 天 文 方 ・渋 川 景 佑 (1787-1856/57) のも
芸 員 の山 下 和 秀 氏 より多 大 なご協 力 を頂 いた。ここに
感 謝の意を表したい。
と で暦 学 修 行 を 行 っ て 免 許 皆 伝 を 受 け 、 帰 藩 後
は、大 村 藩 領 の総 合 調 査 書 『郷 村 記 』の総 調 役
なお宮 島 の大 村 市の星 図 調 査については、中 之 島
科学研究所の出張費支給を受けた。
兼 測 量 方 に抜 擢 されて文 久 2年 (1862)にその編
参 考 文 献
纂 を完 成 、また同 年 中 に藩 命 により幕 府 派 遣 船 ・
(1) K.Miyajima, ‘Japanese Celestial Carto-
千歳丸で上海に渡 航 するなど、注 目すべき業績を
graphy before the Meiji Period’, “the History
多く残した。
of Cartography", Vol.2, Book 2, Chap.14,
Univercity of Chicago Press, 1994.
この二 人のうち、宇 右 衛 門 の資 料 収 集 にまつわ
る記 録 はほとんど 見 当 た らないが、源 助 に ついて
(2) 宮島一彦「日本の古星図と東アジアの天文学」
は、江 戸 修 行 中 に渋 川 景 佑 の蔵 書 から多 数 の写
『 人 文 学 報 』 京 都 大 学 人 文 科 学 研 究 所 、82 巻 、
本 を作 成 して大 村 に 持 ち帰 っており、また江 戸 で
1999年 。
独 自 に書 籍 を購 入 していた形 跡 もあるなど、峰 家
(3) 宮 島 一 彦 「渾 天 壱 統 星 象 全 図 について」『同
資 料 の 充 実 に大 きく貢 献 していたことは疑 い得 な
志 社 大 学 理 工 学 研 究 所 研 究 報 告 』 43 巻 4 号 、
い。例 え ば、峰 文 庫 本 『 天 経 或 問 註 解 』( 入 江 脩
2003年 。
敬著。寛延 3 年 刊)の奥 付 に「嘉 永 四 年 亥 正 月於
(4) 平 岡 隆 二 「大 村 藩 の学 問 :天 文 学 」『新 編 大
東都求之/峯源 助」と自 ら墨 書 している。
村市史:第三巻近世編』大 村 市 、2015年 。
ただし本星 図 との関 連 については確 たる史 料が
(5) 伊 藤 節 子 「幕 府 天 文 方 渋 川 景 佑 と大 村 藩 天
得 られず、これ以 上 の推 測 は差 し控 えることとし、
文 学 者 峰 源 助 の学 問 的 交 流」、『国 立 天 文 台 報 』
今後の新史料発 見を期 待 したい。
7巻 、2004年。
(6) 伊 藤 節 子 「大 村 藩 測 量 方 峰 源 助 について」、
なお同 家 の 姓 の 漢 字 は 、先 行 研 究 の み なら ず
一 次 史 料でも「峰 」「峯 」「美 祢 」等 の混 用 が見 られ
『科学史研究』47巻(246号)、2008年
るが、ここでは引 用を除いて「峰」で統 一 した。
(7) 平岡 隆 二・山下 和秀・伊藤 節 子「峰文 庫表 紙
7.松浦史 料博 物 館 所 蔵 のもの(A′)
裏 張 り文 書 の研 究 」『長 崎 歴 史 文 化 博 物 館 研 究
上 記 大 村 市 立 史 料 館 蔵 の図 の調 査 の際 、同
紀要』第10号、2016年
館の山 下和 秀氏 より、松 浦 史 料 博 物 館 にも、同 様
の星 図 が所 蔵 されているとの教 示 を受 けた。詳 細
【付】渾 天 壹 統 星 象 全 圖・天 文学記事 釈 文
は 次 回 の 調 査 に 俟 た ね ば な らな い が 、 非 公 式 の
参考文 献 (3)に付した釈文 に少し手を加えたもの
写真 で見る限りでは大 村 市 のものと酷 似 しており、
を以 下 に 示 す。(3)においては「天 漢 」 の 前 までを
A′に分 類 できる。ただ、天 文 学 記 事 の部 分 が黒
収 録 したが、今 回 は大 村 市 のものの最 後 まで、す
で刷 られていることと、端 のほうに文 字 の一 部 がみ
なわち、Aのほぼ半 ばの「十 二 分 野 」の終 わりまで、
られる点が異 なっており、あるいはA″に分 類 すべ
「 九 天 」 の 前 までを 収 録 した 。 なお B,B ′も 「 十 二
きかもしれない。
分野」までで終わっている。
8.おわりに
1822年 版を中 心とし、26年 版および蘇 州 図との
以 上 に 述 べた よう に、わが 国 には 異 なる 版 の 同 名
異同を示す。
の星 図が残っているが、それが出 版 された当 の中 国で
原文には句点がないが、補った。
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渾天壱統星象全図
渾 天 壱 統 星 象 全 図 で陰 陽 反 転 して表 され てい
十 五 度 有 餘 。南 極 入 地 下 亦 三 十 五 度 有 餘 。)兩
る文 字 はここでは影 付 き文 字 で示 した。蘇 州 図 で
極 之 中 。各 (皆)去 九 十一度 三分度 之一。謂之 赤
は四角の枠で囲んで表されている。
道 (赤 道 )。横 絡 天 腹 。以 紀 二 十 八 宿 相 距 之 度 焉 。
ここでは現 代 漢 字 があるものも旧 漢 字 のままとし
[大 抵 兩 極 正 居 南 北 之 中 。是 爲 天 心 。中 氣 存 焉 。
た。字がない場合は似た異 体 字 で代 用した。
其 動 有 常 。不 疾 不 徐 。晝 夜 循 環 。 斡 旋 天 運 。自
割 注 は A,A ′ に は なく 、 B,B ′ お よ び 蘇 州 図 に
東 而 西 。 分 爲 四 時 。寒 暑 所 以 乎 。 陰 陽 所 以 和 。
はある。ポイントを下 げて1行 で示した。
此 後 天 之 太 極 也 。先 天 之 太 極 。造 天 地 於 無 形 。
[ ] …1826 年 版 と 蘇 州 ・ 淳 祐 石 刻 天 文 図 に あ り 、
後 天 之 太 極。運 天 地 於 有 形。三 才 妙 用 盡 在 是
22 年 版 に ない文 字 をこ の 中 に 示 した 。1826 年 版
矣 。]日 體 (日)渾 圓 。徑 一 度 。廼 太 陽 之 精 。天 行
と 淳 祐 石 刻 天 文 図 で 異 な る 場 合 は 、 26 年 版 の
速七政 行遅遅 為速所 帶。故日較 天毎日 少行一
文 字 に を つけ、後 ろの〈 〉 内 に 淳 祐 石 刻 天 文 図
度。一晝夜 行三 百六十 五度 四分度 之一。積 三百
の文字を示した。
六十五 日有餘。比天少 行一 轉而復。與 天會 是為
{ }…22 ・26年 版の が蘇 州 図 でこうなっている。
一 年 。( 主 生 養 恩 徳 。 人 君 之 象 ( 象 ) 也 。 人 君 有
( )…22年版の が1826年 版と淳 祐 石 刻 天 文図で
道 。則 日 五 色 。失 道 則 日 露 其 慝 。 譴 告 人 主 。而
は() 内 のよう になっ ている ばあい 。1826 年 版 と 淳
儆 戒 之 。如 史 志 所 載 日 有 食 之 。日 中 烏 見 。日 中
祐 石 刻 天 文 図 で異 なる場 合 は、[]のときと同 様 。
黒 子 。日 色 赤 。日 無 光 。 或 變 爲 孛 星 。夜 見 中 天
ただし、最 初 の 表 題 は 22 年 版 ・26 年 版 とも「渾 天
光 芒 。四 溢 之 類 是 也 。日 體 徑 一 度 半 。自 西 而 東 。
壹 統 星 象 全 圖 」、蘇 州・淳 祐 石 刻 天 文 図 のみが
一 日 行 一 度 。 一 歳 一 周 天 。) 所 行 之 路 。 謂 之 黄
「天文図」。
(黄)道 。與 赤 道 相 交 。半 入 (出)赤 道 内 (外 )。半
出(入)赤道外(内)。冬至之 日。黄道出 赤道外二
渾 天 壹 統 星 象 全 圖 {天 文 図}
十 四 度 。去 北 極 最 遠 。日 乃 出 辰 入 申 。[故 時 寒 。]
太 極 未 判 。天 地 人 三 才 函 於 其 中 。謂 之 混 沌 。
夏至之 日。黄道 入赤道 内二 十四度 去北極 最近。
[云者]言天 地人 渾 然 而 未 分 也 。太 極 既 判 。輕清
乃 出 寅 入 戌 。[ 故 時 暑 。] 晝 長 而 夜 短 。故 時 暑 。
者為天。重 濁者 為 地 。兼 清 帶 濁 (清 濁 混)者 為 人。
春 分 秋 分 。 黄 道 正 與 赤 道 相 交 。[ 當 兩 極 之 中 。
輕 清 者 氣 也 。重 濁 者 形 也 。形 氣 合 者 人 也 。故 凡
日 出 卯 日 入 酉 。]故 時 和 而 晝 夜 均 焉 。月 體 (月 )
氣之發 見於天 者 。皆 太 極 中 自 然 之 理 。運 而 為日
渾 圓 。徑 一 度 。廼 太 陰 之 精 。其 行 最 遲 。一 晝 夜
月 。分 而 為 五 星 。列 而 為 二 十 八 舎 。會 而 為 斗 極 。
較日少 行一十 二度 有竒。積 二十九 日有餘。比日
莫 不 皆 有 常 理 。與 人 道 相 應 。可 以 理 而 知 也 。今
少 行 一 轉 。而 復 與 日 會 。是 為 合 朔 之 時 。日 在 上 。
畧 舉 其 梗 概 。列 之 於 下 。[天 體 圓 。地 體 方 。圓 者
月 在 下 。 或 不 同 度 。有 南 北 之 差 。 則 無 礙 。若 月
動 。{而 }方 者 静 。天 包 地 。地 依 天 。{是 也 。}]天
與 日 同 度 。日 光 為 月 體 所 掩 。則 為 日 食 。且 月 本
體 {渾 圓 }週(周 )圍 [皆 ]三 百 六 十 五 度 四 分 度 之
無 光 。借 日 之 光 以 為 明 。故 初 八 上 弦 。月 西 近 日 。
一。徑一百 二十 一 度 四 分 度 之 三 。毎 度 二 千 九百
則 西 明 。 二 十 三 日 下 弦 。 月 東 近 日 。則 東 明 。是
二 十 里 有 竒 。常 動 不 靜 (凡 一 度 爲 百 分 。四 分 度
其 騐 也 。 日 西 月 東 。或 日 下 月 上 。 正 相 對 照 。謂
之 一 即 百 分 中 二 十 五 分 也 。四 分 度 之 三 即 百 分
之 望 相 。 望 之 時 或 南 北 有 差 。不 同 度 。則 無 礙 。
中 七 十 五 分 也 ) 。[ 天 ] 左 旋 。東 出 地 上 。 西 入 地
若同度 正相對 照。而為 地影 所遮。歴家 謂之闇 虚。
下 。其 行 甚 速(動 而 不 息 )。一 晝 一 夜 行 三 百 六 十
即 為 月 食 矣 。所 行 之 路 。謂 之 白 道 。與 黄 道 相 交 。
六 度 四 分 度 之 一 。 縁 日 東 行 一 度 。故 天 左 旋 。 三 百 六
出 入 黄 道 不 過 六 度。亦 如 黄 道 之 出 入 赤 道 也。
十 六 度 。 然 後 日 復 出 於 東 方 。 地 體 渾 圓 在 天 之 中。常
(太 陰 之 精 。主 刑 罰 威 權 。大 臣 之 象 。大 臣 有 徳 。
靜不動。其 度數 與 天 同 。毎 度 約 計 二 百 五 十 里有
能 盡 輔 相 之 道 。則 月 行 常 度 。或 大 臣 擅 權 。貴 戚
零 。兩 極 天 之 樞 也 。如 車 之 軸 。戸 之 樞 。諸 星 皆
宦官用 事則月 露其 慝。而變 異生焉。如 史志 所載
動 。惟 極 星 不 動 。北 極 常 見 而 不 隠 。南 極 常 隠 而
月 有 食 之 。月 掩 五 星 。五 星 入 月 。 月 光 晝 見 。或
不 見 。以 京 師 觀 之 。北 極 出 地 四 十 度 。 南 極 入
變 為 彗 星 。陵 犯 紫 宮 。侵 掃 列 舎 之 類 是 也 。月 體
地 四 十 度 。(徑 二 十 四 度 。其 厚 半 之 。勢 傾 東 南 。
徑一度 半。一日 行 十三 度百 分度之 三十七。二十
其 西 北 之 高 。不 過 一 度 。邵 雍 謂 。水 火 土 石 合 而
七 日 有 餘 一 周 天 。所 行 之 路 。謂 之 白 道 。與 黄 道
地 。今 所 謂 徑 二 十 四 度 者 。乃 土 石 之 體 尓 〈爾 〉。
相 交 。半 出 黄 道 外 。半 入 黄 道 内 。出 入 不 過 六 度 。
土 石 之 外 。水 接 於 天 。皆 爲 地 體 。地 之 徑 亦 得 一
如黄道 出入赤 道二十 四度 也。陽精猶 日。陰〈隂〉
百二十 一度四 分度之 三也 。兩極南北 上下 之樞
精 猶 水 。火 則 有 光 。水 則 會 ?(含 )影 。故 月 光 生 於
是 也 。北 高 而 南 下 。自 地 上 觀 之 。北 極 出 地 上 三
日之所照。魄生於日之所不照。當日則光明。就
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渾天壱統星象全図
日則光盡。與日 同 度 。謂 之 朔 。 月 行 潜 於 日 下 。與 日
二 十 四 氣 七 十 二 候 の話 ) 十 二 辰 乃 十二 月 斗鋼 所 指
會 也 。邇 一 遐 三 謂 之 弦 。分 天 體 爲 四 分 。三 分 謂 之 遐
之 地 也 。斗 鋼 所 指 之 辰 。即 (ママ) 一 月 元 氣 所 在 。
三 。邇 日 一 分 。受 日 光 之 半 。故 半 明 半 魄 。如 謂 爲 初 八 日
(正 月 指 寅 。二 月 指 卯 。三 月 指 辰 。四 月 指 巳 。五
及 二 十 三 日 。月 行 近 日 一 分 謂 之 邇 一 。遠 日 弓 張 弦 。上
月 指 午 。 六 月 指 未 。七 月 指 申 。八 月 指 酉 。九 月
弦 昏 見 。故 光 在 西 。 下 弦 旦 見 。 故 光 在 東 也 。 衡 分 天 中
指 戌 。十 月 指 亥 。十 一 月 指 子 。十 二 月 指 丑 。謂
謂之 望。 謂 十 五 日 之 昏 。日 入 西 。月 出 東 。東 西 相 望 。光
之 建 天 之 元 氣 。無 形 可 見 。觀 斗 鋼 所 建 之 辰 。即
満 而 魄 死 也 。光 盡 體 伏 謂 之 晦 。謂 三 十 日 月 行 近 於 日
可 知 矣 。) 斗 有 七 星 。第 一 星 曰 魁 。第 五 星 曰 衡 。
光體。皆 不見 也 。月 行 於 白 道 。與 黄 道 正 交 之 処 。
第 七 星 曰 杓 。此 三 星 謂 之 斗 鋼 。如 正 月 建 寅 。初
在朔則 日食。在 望 則 月 食 。日 食 者 月 體 掩 日 光也 。
昏 杓 指 寅 。平 旦 魁 指 寅 。他 月 倣 此 。十 二 次 乃 日
月 食 者 月 入 暗 虚 。不 受 日 光 也 。 暗 虚 者 。日 正 對 照
月 所 會 之 處 。凡 日 月 一 歳 十 二 會 。故 有 十 二 次 。
處 。 )經 星 三 垣 二 十 八 舎 中 外 官 星 是 也 。[計 二 百
建 子 之 月 。次 名 元 枵 。建 丑 之 月 。次 名 星 紀 。[建
八 十 三 官 。 一 千 五 百 六 十 五 星 。] 其 星 不 動 。 附
寅 之 月 。 次 名 析 木 。 建 卯 之 月 。次 名 大 火 。建 辰
天 而 行 。東 出 西 入 。與 天 齊 運 。三 垣 紫 微 太 微 天
之 月 。次 名 壽 星 。建 巳 之 月 。次 名 鶉 尾 。建 午 之
市 垣 也 。二 十 八 舎 。東 方 七 宿 角 亢 氐 房 心 尾 箕 。
月。次 名鶉 火。建未 之月 。次名 鶉首。建 申之 月。
[爲蒼龍之 體。]北 方 七 宿 斗 牛 女 虚 危 室 壁 {璧}。
次 名 實 沈 。建 酉 之 月 。次 名 大 梁 。 建 戌 之 月 。次
[爲靈亀〈龜〉之 體 。]西 方 七 宿 奎 婁 胃 昴 畢 觜 參 。
名 降 婁 。建 亥 之 月 。次 名 陬 訾 。]十 二 分 野 即 辰
[爲 白 虎 之 體 。]南 方 七 宿 井 鬼 柳 星 張 翼 軫 。[爲
次 所 臨 之 地 也 。在 天 為 ( 爲 )十 二 次 。在 地 為 ( 爲 )
朱 雀 之 體 。]中 外 官 星 在 朝 象 官 。如 三 公 (台 諸
十 二 國 十 二 州 。凡 日 月 交 食 。星 辰 之 變 異 。以 所
侯 )九 卿 騎 官 羽 林 之 類 是 也 。在 野 象 如 離 宮 閣 道
臨分野占之。或吉或凶。各有當 之 者 矣 。
華 蓋 五 車 之 類 是 也 。]其 餘 因 義 制 名 。觀 其 名 則
可 知 其 義 矣 (也 )。[經 星 皆 守 常 位 。随 天 運 轉 。譬
写 真 1: 宮 島 蔵 (薮 内 清 旧 蔵 ) 「渾 天 壱 統 星 象 全 図 」
如百官 萬民各 守 其 職 業 。而 聽 命 於 七 政 。七 政之
(A)。
行 。至 所 居 之 次 。或 有 進 退 不 常 。 變 異 失 序 。則
写 真2:津山市郷土資 料館 蔵「渾 天 壱 統 星 象 全 図 」
災 祥 之 應 。 如 影 響 然 。 可 占 而 知 也 。] 緯 { 五 } 星
(B)。
五 行 之 精 。木 曰 歳 星 。火 曰 熒 惑 。 土 曰 填 星 。 金
写 真3:宮島蔵・蘇州淳祐石刻「天文図」。
曰 太 白 。 水 曰 辰 星 。併 日 月 而 言 。謂 之 七 政 。 (他
写 真 4:大 村 市 立 史 料 館 蔵 「渾 天 壱 統 星 象 全 図 」
の2図 ではこの後 に長 文 あり ) 天 漢 乃 氣 之 英 。水 之 精
(A′)。
也。氣 水上 升。精 華 上 浮 。耀 湧 若 流 。名 曰 天 河。
[付 記 ]原稿の仕上げ前に熊本大地震が起こり、著
亦 名 天 漢 。起 於 箕 尾 。過 北 方 。經 西 方 之 宿 。南
者の一 人・平岡が被 災したため、仕 上げは宮島 一
至 鶉 火 。而 入 地 下 。(四 瀆 之 精 也 。起 鶉 火 。經 西
人 で行 った 。それが 原 因 の 疎 漏 があるかも しれな
方 之 宿 。而 過 北 方 。至 於 箕 尾 。而 入 地 下 。 (以 下
い。ご寛恕を乞う。
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渾天壱統星象全図
写 真1
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宮島一彦・平岡隆二
写 真2
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渾天壱統星象全図
写 真3
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宮島一彦・平岡隆二
写 真4
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