5-2.中川低地(幸手・杉戸・春日部)の水塚 中川低地の幸手市・杉戸町・春日部市庄和地先には水塚が多数存在する。昭和 61 年(1986)度に水塚を調査した報告書*によると、利根川左岸の北川辺町とその 西隣の群馬県側に水塚が多数あり、埼玉県側は大利根・栗橋町地先の利根川旧道で あった旧浅間川・権現堂川と、旧島川に囲まれた地域に集中する。旧権現堂堤の南 側に位置する鷲宮町に数箇所点在するが、幸手市地先は存在しない。 幸手市地先の水塚は、市域の南西部のほか中川と江戸川の間にあり、中川右岸(西 岸)の杉戸町、左岸の春日部市庄和地先に集中する。中川右岸の越谷市地先は殆ん ど水塚が存在しない。この地先は、集落が元荒川や大落古利根川の河道によって形 成された高さを有する大規模な自然堤防や砂丘に、立地していることが一因と考え られる。 また、元荒川・大落古利根川に囲まれた新方領は現代まで集落がなかった。この 地域は、両河川の自然堤防や砂丘に集落が形成されており、地下水位の高い低地は 立地に不適なことが要因になっていた。 中川下流部の水塚は、吉川市・三郷市および八潮市地先に点在するが上流より少 ない。 現地調査および数少ない資料から、中川低地にある水塚の現況や所有者の関心お よび周辺環境は、次のとおりである。 中川低地にある水塚の現況と所有者の関心および周辺環境 ・水塚の所有者の多数は先住の人々である。 ・およそ代々農家で敷地が広く、各農家は宅地周囲を掘削・盛土して水塚を造成した。 ・水塚は敷地の北西部に位置しているものが多い。 ・宅地の北側および西側は立木があり、風や氾濫流の当りに対し配慮がなされている。 ・宅地や水塚に盛土を行い、掘削した跡の「構堀;かまえぼり」が現存しているものがある。 ・構堀は敷地の北側に多くある。 ・カスリーン台風の洪水を経験している水塚所有者は、水塚の保全に心がけている。 ・水災時に舟が交通手段として有効であることを認識しており、舟を保持している所が多い。 ・かつて家畜を飼育していたので、大水には水塚に家畜をあげた。現在、そのスペースは不要。 ・現在、各戸で車や農機具を所有しており、それらの大水対策が不徹底である。 ・水塚に井戸があるが、使用不可能の箇所と清水が湧き出て可能なところもある。 ・水塚の蔵(家屋)が老朽化したので、規模縮小や現代に適した構造に建替える家もある。 ・建替えしない蔵の所有者は、空き部屋にしているなど使用効率が悪い家もある。 ・水塚は戸別で所有し使用するのが最低条件で、外部の人々の利用は難しいのではないか。 ・現在、水塚所有者の周辺は宅地化が著しく、住宅のほか学校、工場などが造成されている。 ・カスリーン台風時の氾濫最高水位を、電柱に表示してある所(春日部市庄和ほか)もある。 (5-2の稿文責:小林寿朗) 引用・参考文献 * 小林文男「埼玉県東部低地の風土と人間生活」 - 105 - 水塚の調査調書 調査年月日 平成 21 年 11 月 27 日 調査員 小林寿朗、鈴木 誠 所 在 地 埼玉県東部 所 有 者 匿 名 築造年代 近代以前 今後の保存・ 昭和 30 年(1955)年代に水塚の建物周辺を残して掘削し、母屋の庭を盛土し 利用 水 系 利根川 話 者 左に同じ 年 水塚の構造 土造(現在も同じ) 齢 70 歳台 た。蔵は壊して立て替えた。 構成:宅地全体が盛土である。北西に位置する水塚が最も高く、次に母屋・ 納屋・庭が高い。最も低いのが堆肥小屋で、舟が下屋裏に置いてある。 旧土蔵:木造二階、米、味噌・醤油保存庫。 水塚高さ H=1.2m、 旧面積 A=東西 21.0×南北 42.0=882.0m2 水塚と土蔵の 現面積 A= 構造 所在地周辺 地図 匿名希望 - 106 - 10.5× 13.0=136.5 m2 水塚の必要性 水塚築造の経緯について、先祖からの伝承がない。 昭和 22 年のカス-リン台風の水害の様子(避難状況) ①水塚周辺の最高水位 水塚の盛土天端。母屋は床上 60cm。 ②避難方法 大水の情報は事前にあったが、水位の上昇が急であったので、水につかりながら舟を庭に引き 上げた(舟は乗せている2本の貫木を横方向に叩くと、はずれて落ちる構造になっている) 。 ③避難期間:2 ケ月 ④避難人数:10 人/2 週間 → 8 人(外来者 2 人が減り、住民のみとなった) ⑤その他 ・氾濫の際、水塚と母屋などは舟で行き来した。 ・井戸は水に浸かったが、真水を吹き上げ続けたので、水に苦労しなかった。 ・便所は水塚になかったので、直接湛水におこなった。不衛生的であった。 ・水塚は常時、米、味噌・醤油、米が保管しており、食料に余り不自由しなかった。 ・大水当初、水塚に家以外の避難者が同居した。近隣の水塚は殆んど家単位で使用していた。 ・宅地回りに「かまえ堀」があったが、土地改良事業時に埋めて農地となった。 ・周辺地盤は、昭和22年時よりメートル単位で沈下している。同規模の洪水でも湛水深が 深くなる心配がある。 ・孫の通っている小学校の校庭は、緊急避難所に指定されているが、新興住宅同様の盛土高で あり、カスリーン台風級の洪水氾濫水位では1ケ月以上冠水すると思われる。 水塚の写真(近景)→ 上:東→西 下:南→北 水塚の写真(遠景)↓ - 107 - 5-3.荒川中流域(吉見・川島)の水塚 (1)はじめに 荒川中流域は 1629 年(寛永 6)に始まる久下での瀬替え以 降度重なる水害に見舞われてきた。往古は荒川と共に利根川 をも流していたという荒川低地も、荒川が元荒川筋を久しく 流れている間に、開発が進み広大な水田地帯となっていた。 そこへ西遷となり和田川、市野川、入間川筋へ荒川が戻って きたので水害の頻発となったのである。 1700 年代だけでも破堤をもたらした洪水は 28 回にも及び、 ほぼ 3~4 年に 1 度という頻繁さであった。このような洪水 の脅威に対して地域は水塚と呼ばれる水防建造物を築造し て対応してきた。右の図はこの地域の水塚の分布域を示す図 であるが、横線部分は台地、白い部分は低地、斜線部分が水 塚分布域であり、左岸の吉見・川島地域に多いことがわかる。 (2)吉見町の水塚 吉見町は東側を流れる荒川の河床勾配が緩やかになると ころに位置し、河川の水位が上昇しやすい地形的な特徴があ り、過去多くの洪水氾濫に見舞われてきた。 『吉見町の昔ばなし』(吉見郷土史研究会編)の中に明治 35 年生まれの故清水幸太郎氏が著した「吉見の水害物語」が あり、水害時の様子が生き生きと語られている。 図5-1 荒川沿川の水塚 明治 43 年洪水では、 「昔の家はくさぶき屋根の低い家でありましたから、二階の 窓から出ることが出来ませんので、草ぶき屋根に穴を開けてその穴から出たのであ りました。 幸太郎のばあさんのゆわもその穴から出て船に乗ったのでありました。父母もそ の船で前の岡安新太郎さんの倉(水塚の別称)に避難させていただきました。それ から清水道太郎さんは、草ぶき屋根の上でカナダライを叩きながら助けを呼んでい たのです。 清水八郎さんは幸太郎の父母を新太郎さんに預けてから、又その船で道太郎さん の家へ助けに行きました。道太郎さんとその妻のもんさんと女の子一人とその船に 乗せてひとまず八郎さんの二階に五人を避難させました。 又道太郎さんの家族の貴一郎さんと妻のいそさんとさたとうらと、四人、又薬師 - 108 - 様(水塚を持つ家の屋号)に避難させ てやったのでありました。」 「皆さんこのようなわけでありま すから、今後どんな大水があるか分り ませんが、水のことにつきましては、 十分に高いところを用意しておかな ければなりません。」と水塚の有効性 を話している。 又船については、「くどいような話 になりますが、水には船が付き物か、 それとも吉見には船が付き物として おく方が間違いないと思います。無駄 のようでありますが、船は用意してく ださい。お願いします。 今では個人で船のある家は何軒もな 図5-2 吉見地域の水塚分布(1979 調査) (荒川総合調査報告書 4 人文Ⅲによる) くなりましたが、災厄があって困ることは明らかになっていても、今個人で船を持 ちたいと思っても、個人では出来ませんからお願い致します。 」と非常時に備えて 船の用意を行政に訴えている。 さらに大正、昭和期の洪水について述べた後、「皆さんがこのようなわけであり ますから、土手が大きいからと言って水は出ないとはいいきれませんから、水のこ とにつきましては高い所を用意して置かないと、もし大雨があって土手が切れた時 は、皆さんが想像のつかないような、 大きな水になることはあきらかであり ます。」といっている。 この町の郷土史研究会の会長を永く 務めた篠田芳文氏は著書の『ふるさと の歴史』のなかで「今でこそ、国・県・ 町などの治水対策により水害の憂いは ほとんどなくなりましたが、昔から吉 見は「水場」と言われていました。 これは近隣の鴻巣市や東松山市など の「高場」に対する言葉でした。 「蛙の 小便でも水(洪水)がでる」といわれ 図5-3 カマエボリのある水塚の例 (荒川総合調査報告書4 人文Ⅲによる) - 109 - るくらい水害常襲地帯でした。ですから「吉 見へ嫁をやるには首をかしげる」と言われた のは、それほど洪水の恐ろしさを、近隣の市 町村の人々が良く知っていたからにほかな りません。 「水魔との戦いは吉見の歴史である」、 「吉 見の治水の歴史はそのまま荒川の治水の歴 史である」などといわれ、町内に現存する地 方文書の大半が洪水・治水の記録であり、先 吉見町の水塚(A 氏宅) (桑島弘治撮影) 人たちの血涙の跡なのです。」と記している。 水塚については、「吉見町内においても、最近は新規築造はほとんどなく、古い もので明治 10 年代のものがいくつか見られます。最近の家屋の新築では、昭和 13 年の水害時の水位を基準として母屋の土台を高くしたり、二階建てが多いので水塚 の必要性もなくなったものと思われます。」としている。 (3)川島町の水塚 川島町は大半が低地帯に属し、 北を市野川、東に荒川、西、南 は都幾川・越生川に囲まれた町 である。町の平均標高は 14.5m、 ほぼ平らで過去幾多の水害に悩 まされてきた。 集落は、かつての利根川が流 れて形成したとされる自然堤防 の上に立地しているが、荒川等 の相次ぐ氾濫に対処して、多く の水塚が造られ、残されてきた。 図5-4 町は 1995 年(平成 7)に町教 川島町周囲の過去の堤防破堤所 (荒川総合調査報告書 4 人文Ⅲによる) 育委員会による詳細な水塚調査 を実施しており、 『川島町の文化財 15 水塚調査報告書』として刊行されている。調 査は水塚を町の歴史を語る遺産として捉え、6 つの旧村ごとに調査員が配され、統 一した調査カードにより、水塚所有者の協力を得てほぼ悉皆調査がなされている。 - 110 - 図5-5 川島町の6つの旧村の位置図と水塚調査カード 図5-6 川島町水塚分布図(川島町水塚調査報告書による) 表5-1は集落別に水塚の数と高さを集計したものである。水塚の現在数は 200 余に及び、三保谷、出丸地区が 50,保有率 12.9%、45,同じ 12.7%と最も多く、 次いで八ッ保、小見野の順となっており、荒川からの隔たりのある中山、伊草地区 では保有率 4%台と低くなっている。 土盛りの高さで見ると、1m までのものが 82,1m から 2m のものが 97、3m 以上の ものが 5 箇所となっており、規模の大きなものはやはり三保谷、出丸地区に多いこ とがわかる。 - 111 - 表5-1 水塚の数と土盛りの高さ(m) 水塚の数と土盛りの高さ(m) 集落名 集落名 水塚数 集落戸数 保有率(%) 1.0以下 1.0~2.0 2.0~3.0 3.0以上 中 山 中 山 25 井 草 伊 草 13 三保谷 50 出 丸 45 八ッ保 34 小見野 小野見 34 計 201 521 308 388 353 357 487 2414 4.8 4.2 12.9 12.7 9.5 7 8.3 16 0 11 11 23 21 82 4 11 36 28 11 7 97 2 1 3 3 0 0 9 3 0 0 1 0 1 5 次に築造時期についてみると表5-2の通りで、江戸期が 82 と最も多く、つい で明治期が 79 箇所となっている。大正期にも 13、昭和期に入っても 6 箇所造られ ている。明治期以降に約半数が作られているが、堤防決壊表によれば明治に入って からでも 10 回の決壊を見ていることから、必要性が高かったものと考えられる。 表5-2 築 造 時 期 築造時期 集落別 江戸期 明治期 大正期 昭和期 不 明 計 中 山 13 5 3 2 2 25 伊 草 6 4 1 1 1 13 三保谷 19 24 3 2 2 50 出 丸 17 12 3 0 13 45 八ッ保 9 24 0 1 0 34 小見野 小野見 18 10 3 0 3 34 計 82 79 13 6 21 201 報告書は最後に次のように述べている。 「今日では河川改修や荒川上流の流量調節等から人々の洪水に対する警戒心が 薄らいできていることは否めない事実である。本地区でもまた、水場に住む筆者自 身ですら洪水の危険は遠のいたものと考えがちである。 しかし、今まで経験したこともない水量が何時記録されるかは保証の限りではな い。何時どんなことがあろうとも対応できる心構えと、対策は心しておきたいもの である。われわれの先人は、こうした結果として水塚を築いたことを教訓とすべき ではなかろうか。」 「水塚の築造は、 (当時は)人力が中心の作業であって、大変な日時と労働力が必 要であった。今日、仮に水塚を作ろうとすれば比較的容易に築造できるものともい えるが、水塚に対する往時の思いを想起する時、視点を変えて歴史的遺産として新 たな評価を与えるべきであろう。」と結んでいる。 - 112 - (4)まとめ 1947 年(昭和 22)のカスリーン台風による大洪水以降、60 数年間、大規模な破 堤氾濫は見られなくなった。社会体制の変化もあって穀倉としての役割がなくなっ たことや、住宅の二階建て化が進んだこともあいまって、水塚の必要性が薄れてき ている。 上流域でのダムの完成や河川改修の進展で洪水の機会は減少したが、全く除去さ れたのではない。地理的条件は変わらず、低地への人口進出は進んで、洪水被害の 危険性は潜在化したに過ぎないのである。 今残されている水塚は文化財・歴史的遺産として扱われており、主に教育委員会 などによる調査がなされている程度で、積極的な行政による保全策は見られない。 過去の水害時の事例から見ると、所有者のみならず周辺の多くの人を救ってきてお り、なかば公的な役割を果たしてきた事実がある。 水塚は個人の所有物なので行政が非常時の避難場所として保全を求めようとす れば、維持管理に対する助成や税制優遇などの保全策が必要と考えられる。 これから公共事業が手控えられ、ダム事業の中止などに見られるような洪水制御 施設の整備が遅れるようなことになるとすれば、顕在化しつつある地球温暖化によ る気象現象の激化とあいまって、これまで潜在化してきた大洪水の危険性は増大す ることになり、その外力はこれまでより強大なものとなることが予想されることか ら、公的な非常時避難施設の整備の必要性は高いものと考えられる。 (5-3 の稿文責:田中 引用・参考文献 1)荒川総合調査報告書 4 人文Ⅲ 埼玉県 2)吉見の昔ばなし 吉見郷土史研究会 3)ふるさとの歴史 篠田芳文 4)川島町の文化財 15 1988(昭和 63 年) 1999(平成 11 年) 2008(平成 20 年) 水塚調査報告書 川島町 - 113 - 1995(平成 7 年) 長光) 5-4.荒川下流域(川越・ふじみ野・志木・朝霞・和光)の水塚 (1)下老袋(川越市)の水塚 荒川右岸土地改良区の職員の方から、 この辺りの水塚に詳しい阿部徳之助氏 (荒川右岸土地改良区誌の編者)を紹介 してもらい、聞き取り調査を行った。阿 部氏によると「水塚は川越では下老袋に だけ残っている。この辺りでは水塚は担 いモッコで土を運んでつくった。最近で は、建物の改築・新築時に地盤を下げて いるところもある」とのことである。 阿部氏の知り合いで、下老袋の水塚の 所有者の一人である関根淳一氏宅を訪 れ、入間川沿いの水塚について次のよう に詳しく聞くことができた。 「このあたりは屋敷全体の敷地が高く なっている。倉は石垣で 70~90cm さら に高くなっている。口伝では、江戸の頃、 図5-7 下老袋(川越)の水塚の分布 文化 10 年位から水塚はあったというこ とだが、一度に敷地を盛ったわけではな い。毎年、冬にモッコ担ぎをして、周り の泥をとって盛った。年中行事だった。 低くなったところは、畑から田んぼに変 えた。 このあたりでは、隣近所の敷地は全体 が高くなっているところがほとんど。お 宮の土地の方が低い。低いところに住ん でいる人は、洪水時に近所の敷地の高い 家に逃げる。 前の家は敷地をいくらか下げた。家を 建て替えるとき土地を低くしている。 敷地全体が高い下老袋の水塚 - 114 - カスリーン台風の時、胸ぐらいの高さまで水が 来た。押し入れの中敷で、水に浸からないように した。水が出たとき、洪水の水位を測っておいて、 その上に押し入れをつくるようにした。近所も同 じで、判を押したように同じ高さ。 この家をつくるとき、旧家を壊して柱と梁を残 して新築した。旧家には軒下に舟の「ろ」があっ た。これを大工に勧められて飾った。洪水時には 舟で畑に行って、ジャガイモ、サツマイモなど採 れるものをとった。大黒柱に舟をつないだ。 昭和 24 年の小学 4 年の時、大黒柱に舟をつな いで、柱の上に避難した。舟の大きさは 4m くら 倉のところはさらに 0.7~0.9m 高い い。舟で避難するにしても、サオだととどかない ので、舟は「ろ」を使った。牛小屋の上に舟があった。小屋は 2 間半で舟がすっぽ り納まった。下から棒でつつくと舟が前の方からおりた。今は舟のある家はない。 敷地が2段になっている家もあった。家を建てるときに高くした。2段目の方が 狭かった。「川島」の方では堤防をつくったが、このあたりは敷地を高くした。 水が出ると水が出ないところに引っ越しをしようという話が出たが、冬になると 話しをしなくなった。水場(水が出る場所)という固有名詞があった。」 (2)下福岡・福岡新田(ふじみ野市)の水塚 水塚(みづか)は、食料品などの生活物資や貴重品を収納した土蔵が浸水するの を防ぐことを目的に造られたもので、土を盛り上げてその上に家屋、主に土蔵を建 築した。場所により、水塚(みずつか)・水 蔵(みずぐら)ともいう。 志木市宗岡地区の水塚は、土盛りの高さは 平地から 1.5~2m であるが、下福岡・福岡新 田の水塚は 0.5~1.5m で、この差は水害の度 合いの相違からくるものと考えられる。 下福岡地区の水塚(高さ 1m) (水害資料集成 1995 上福岡市教育委員会より) - 115 - 下福岡・福岡新田の水塚 で、現存するのは福岡新田 の谷田地区で 1 ヶ所、下福 岡地区で 13 ヶ所、かつて あったことが確認されて いるのが福岡新田の谷田 地区で 1 ヶ所(浅間塚)、 下福岡地区で 3 ヶ所となっ ている。両地区とも土蔵が ある家にはすべて水塚が 築造されていたと伝えら れる。 これらの水塚が築造さ れた時期は不明であるが、 18 世紀初期に近隣の久下 戸村(川越市)に水塚があ ったことが「大水記」に記 されており、水害常襲地帯 の生活の知恵として、この 地区でも同様の時期に築 造されていたと推測され 図5-8 る。 下福岡・福岡新田の水塚分布図 (水害資料集成 1995 上福岡市教育委員会より) 福岡新田谷田地区にかつてあった浅間塚は、本来、富士山信仰の信仰対象(富士 山の代替物)として築造されたが、この地区では約 2m の高さを利用して水害時に 避難場所として利用されていたという。 水害の常襲地帯であった下福岡地区や川崎地区では、かつてどの家でも土蔵や納 屋物置に小舟が避難用に保管されていた。下 福岡地区の民家の土蔵に現在でも保管され ている舟は 1 家族とその荷物を運ぶものと いう。 下福岡地区での避難と救助活動のために、 釣り船の他に、高瀬船などの新河岸川舟運に 使われた船が多数使われたという。 土蔵の入口屋根に保管された避難用の舟 (水害資料集成 1995 上福岡市教育委員会より) - 116 - (3)富士見の水塚 富士見市内下南畑にある難波田城 公園には、こぢんまり石祠のある水塚 がつくられている。 水塚は度々洪水に見舞われた荒川 や利根川などの川沿いの低地部に多 く見られる。宅地全体を盛土し、さら にその一部を塚のように高く盛って 土蔵を建てた。これを水塚といい、洪 水時などの非常時に備えた。 富士見市域は野方と里方に分けら れるが、水塚は里方地域に特徴的なも の。周囲にはスギやケヤキ、モチノキ などを植え、土蔵を風から守った。 難波田城公園内の水塚 難波田城公園の職員の方から、近く にある岡田達雄氏宅(富士見市下南畑 359-1)の水塚を紹介してもらい、岡田夫妻 から次のような水塚についての話を聞くことができた。 岡田達雄氏宅の水塚 「水屋に避難したのは昭和 34 年の伊勢湾台風の時で、子供の頃、裏から出た。 この家を建てる前の前の家の時。家が強風で倒れそうだった。水は来なかったが、 水塚の土蔵へと逃げた。この辺の古い家には水塚があった。 この家の屋号は質屋で、質屋の蔵に大事なものをしまっていた。裏にも2個、高 くなったところに竹藪があった。 昔、力のある家は水害に対して個人的に対応した。田んぼのあるところは、掘っ たところで低かった。モッコで土を運んだ。 - 117 - 水害から集団で逃げるということはなかった。家族単位で避難した。前の家は 36 坪の平屋だった。おやじは小さい家を作ると言っていたが、その前の家は広か った。 明治の頃は鴨居まで水がきたと言っていた。個々の家は2階へ避難した。財産の ある家にはみんな舟があった。明治以降、財産のある人は舟を持った。どこへ逃げ るということはなかった。食べ物を舟に載せ、2階にいた。どこへ行くといっても、 鶴瀬、水子などの台地の方へ行くのは大変。近くは南畑の館跡で、いくらか地盤が 高かった。 裏の家にもうちの田んぼの土をやって水塚を作った。敷地全体を高くした。 土蔵は江戸時代の蔵で、現在内側は改造してあるが、川越のテレビを見たら改造 前の様子と中は同じだった。 」 (4)宗岡(志木市)の水塚 古来、荒川(寛永年間の瀬替え以前は入 間川)と新河岸川に挟まれて、絶えず洪水 の被害を受けてきた宗岡地区は、吉見町、 川島町と並んで、荒川右岸にまとまってみ られる水塚の築造が顕著な 3 地区の一つに 数えられるが、いつ頃この地区に築かれる ようになったかは定かではない。 佃堤(宗岡地区の旧堤防)が直線でない ことから、この堤の築堤以前から存在した 水塚をつなぎ合わせたものとみて、佃堤の 築造年代である 17 世紀中頃以前には既に 水塚が存在していたのではないかとの推 定説もある。 宗岡地区に昭和 63 年当時存在した 66 基 の水塚のうち、江戸期のものは 13 基、明 治期 43 基、大正期 8 基、昭和期 1 基、不 明 1 基となっていて、江戸期のものは比較 的少ない。しかし、一方では「昔の殿様は 水害に備え、水塚を築かなければ宅地を許 可しなかった」という伝承もあり、江戸時 代にもかなり普及していたのではないか ともいわれている。 宗岡の水塚(高さ 1.2m) - 118 - 図5-9 水塚の配置例 (水害と志木 1988 志木市教育委員会より) 水田面から 0.3m~3m の高さに盛られた宅地の上にさらに水塚は盛り土されてお り、その高さは宅地面から 0m~2m で、水田面から水塚の頂上までの高さは、1.4m ~3.5m となっている。ほとんどの家で、その上に大体 6 坪(横 2 間・縦 3 間)ほ どの蔵または物置を作り、その下層を米・麦の置き場所とし、箪笥・長持・寝具等 を収納している上層が、洪水の際の避難場の役割を果たしている。 明治 43 年の洪水の際も、人々はとりあえずこの場所に避難して、救助の手を待 っていたという。舟で運んできたおにぎりを水塚の建物の 2 階の窓から受け取った ことなどが古老から伝わる。 例外的に水塚の上に建物を建てていないものもあるが、これは「裸水塚(はだか みづか)」と呼ばれていた。また、屋敷の外側に、洪水の際の水流が宅地に激突す る勢いを緩和させるための構え堀を設けている家もある。 宗岡地区では、水塚のように土地を高く盛ったところを「ジンヨウ」と呼び、高 く盛ることを「ジンヨウする」というが、その語源は明かでない。 昔は洪水が出たときの避難用にと、たい ていの家に長さ 3 間ほどの舟が用意されて いたというが、昭和 63 年当時に宗岡地区 に存在した 47 艘の舟は長さが 2 間から 3 間ぐらいのもので、普段は物置の天井か庇 に吊されていた。また、舟を運び出す際に じゃまになる木を切ったりする必要から、 物置に吊された避難用の舟 - 119 - 舟の中にはいつでも鋸・包丁・鎌・ナタなどを用意しておく家が多かったようであ る。 たいがいの家では、大水が出たとき最初に避難する場所として、タナギ(天井裏 に 3 寸ぐらいの板を渡した上に竹すのこを敷いて簡単な物置としたもの)を用意し ていた。洪水が来襲しそうな時には、タンスや畳などの家財道具や米(場合によっ ては 20 俵も積むこともある)などの収穫物をそこに載せ、いよいよ水が出たら鋸・ 鎌・サスガ(屋根を葺くときに使う細長い刀状の道具)などの破壊道具を持ってタ ナギに避難した。これらの道具はタナギも水につかりそうになった時、屋根をくり 抜いて屋根の外に逃げるために使用した。 図5-10 宗岡地区の旧堤防と水塚の分布 (水害と志木 1988 志木市教育委員会より) - 120 - 図5-11 宗岡地区の水塚の分布 (水害と志木 1988 志木市教育委員会より) - 121 - (5)上内間木(朝霞市)の水塚 明治の終わりから河川改修が始まったが、そ の前から荒川・新河岸川の流域に住む人達は、 様々な工夫をして洪水に備えていた。その中の 代表的なものが「水塚」で、土を盛ってその上 に家や蔵を建てた。この中に貴重品や食料を入 れておいて、洪水の時にそれらが水に浸かるの を防いだ。 水塚は江戸時代中頃にはすでにつくられてい たが、頻繁に水害のあった明治時代以降に多く つくられた。荒川の右岸にまとまっていて、朝霞では荒川と新河岸川にはさまれた 上内間木・下内間木地区や田島地区などで見ることができる。 朝霞市博物館によると、現在、朝 霞市では上内間木地区に水塚が数軒 残るのみとのこと。職員の方から場 所を聞き、現地確認をした。敷地全 体が高く盛ってあり、蔵がある家で も敷地高とほぼ同じ高さの地盤上に ある。 A氏宅は周辺から高さ 1.5m ほど、 B氏宅は周辺から高さ 1.2m ほど(蔵 はあるが敷地とほぼ同じ高さ)。 図5-12 周辺から 1.5m ほど敷地高のA氏宅の水塚 - 122 - 上内間木の水塚 周辺から 1.2m ほど敷地高のB氏宅の水塚 (左側の建物が蔵) (6)新倉河岸集落(和光市)の水塚 新倉河岸の集落は、同河岸の開発による 下水処理場の建設により消滅した。その開 発に伴う調査で、同集落の水塚が記録され ている。和光市においては、現存する水塚 はないとされる。 以下に、この調査結果をまとめた和光市 新倉河岸地域総合調査報告書 和光のむかし かつて水塚状の土地があった新倉河岸集落跡 手前の川は新河岸川 第 8 集 昭和 55 年 3 月 和光市教 育委員会より引用する。 宅地が土盛りして造成され ることは、低湿地域においては 乾燥のためと洪水にそなえて 普通のことである。しかし、新 倉河岸集落では、こうした宅地 の一部をさらに一段と高く盛 り土し、その上に主屋(住居) を建築したり、あるいは物置を 図5-13 新倉河岸集落の土地利用 4) 設けた場合がみられる。 主屋のある宅地面の一部に土を築き上げ、洪水時に避難する建物をその上に設け、 常時は米・味噌などの収納場所や物置に使用しているものが、かつて洪水が頻発し た利根川・荒川・多摩川などの流域に分布している。 利根川や荒川の流域ではこれを水塚(みづか)と称し、多摩川の下流では倉屋(く らや)とよんでいる。同様のものは関東以外でも大河川の流域でみられ、濃尾平野 輪中地域や筑後川流域では水屋(みづや) 、淀川流域では段蔵(だんぐら) 、信濃川 下流では水倉(みづぐら)といわれている。 それらの多くは、明治中期以降に内務省が近代的土木技術をもって河川改修を実 施して洪水の恐れが少なくなる以前に形成された。堤防があってもしばしば氾濫し、 また湛水が長期にわたることの多かった時期において、個々の居住者自身が洪水に 対応する工夫として、自衛の努力として形成されたものであった。第二次大戦後、 カスリーン台風(昭和 22 年 9 月)や伊勢湾台風(昭和 34 年 9 月)などによって引 き起こされた大洪水で、この水防建築物の効用が再認識されて築造されている場合 もみられる。 しかし、新倉河岸集落の場合は、昭和 13 年の洪水には被害にあっているにして - 123 - も、その築造は河川改修後で、他地域の場合とい ささか趣を異にしている。新しい築造であるのに、 このような形式をとるに至ったのは、荒川流域に 古くから展開されていた形式に影響され、その形 態を導入したものといえる。 荒川流域において、水塚は図5-14に示した ように、河道と台地の間に低地が続く右岸一体に 広く分布するが、左岸でも鴨川の合流点付近や、 氾濫原が広く展開し、かつての堤外地に集落が発 達した戸田市あたりではその分布が認められる。 右岸における分布範囲は、上流側は大里郡大里村 小泉まで、下流側は東京都北区浮間までである。 その中でとくに吉見町・川島町と、志木市宗岡を 中心として富士見市南畑から朝霞市下内間木に わたる地域とに、まとまった分布がみられる。 荒川流域における水塚の形態は、図5-15の ように類型化することができよう。Ⅰ型は、主屋 の背後に土を盛り上げて塚状にし、洪水時に人や 家財などが避難する場所にしたものである。水塚 の呼称は、この塚状をなした避難場所から出たも のかと思われる。 Ⅱ型は、この盛り土の上に避難用の建物を設け たもので、崩壊を防ぐために竹・木をまわりに植 えたり、石垣で固めているものも多い。建物は 2 階建てが一般的で、常時は米・味噌や家財の置き 場所に使われ、洪水時には 2 階に避難した。この 建物そのものをも水塚と称している。土蔵様に塗 り込めた造りと柱部分を露出させた造り(はしら だし)とがあり、後者はクラとよばれることもあ 図5-14 荒川流域の水塚 5) る。新倉河岸集落のA氏宅の土盛り上の物置は、建築が以上と異なるが、この類型 に属するものといえよう。 Ⅲ型は、構え濠(かまえぼり)とよばれる濠をもつ形式である。濠は土盛りのた めに採土した後で、日陰げになる屋敷の北側にあることが多く、それは破堤などに よる洪水で流下してくる水の勢いを制御し、宅地・水塚に水流が直接激突すること を防ぐ効果があるといわれる。新倉河岸集落では、I家・A家・K家・U家の宅地 - 124 - の西側に荒木田土を採取した跡が低湿地をなし、 構え濠状を呈している。 Ⅳ型は、土盛りした宅地の一部をさらに高くし て主屋を設けた形式で、前庭や納屋は一段と低く なっている。これは特別に水塚を設けたものでは なく、主屋そのものが水塚の性質をもつものであ る。新倉河岸集落では、I家・A家・U家の場合 がこの類型に属する。K家の最初の住居もこの型 と見なすことができよう。 宅地が密集していないので、防風のために、ま わりに屋敷林が仕立てられている。ケヤキ、カシ、 ハンノキ、エノキなど葉が多く生長の早い樹木が 図5-15 水塚の類型化 5) 住居の築造のときに植えられた。スギはこの土地 では枯れやすく植えられていない。とくに西および北西側に植えられたケヤキは大 木に生長し、川沿いに吹き下がる冬の北西季節風にたいして宅地防風林としての機 能を果たしている。また、春から夏にかけてのタツミ風とよばれる強い南東風をま ともに受けるので、南東および南側にも植え込みが造成されている点も目立つ。 (5-4 の稿文責:木内 勝司) 引用・参考文献 1)市史調査報告書第 6 集 平成 7 年 3 月 2)水害と志木 上福岡市教育委員会 昭和 63 年 3 月 3)朝霞市史普及版 ん室編集 水害資料集成-明治 43 年大水害を中心に- 志木市教育委員会 あさかの歴史 平成 9 年 3 月 朝霞市教育委員会社会教育部市史編さ 朝霞市発行 4)和光市新倉河岸地域総合調査報告書 和光のむかし 第8集 昭和 55 年 3 月 和光 教育委員会 5)佐藤甚次郎・佐々木史郎・大羅陽一: 荒川における水塚(1980)歴史地理学会紀要 22 6)佐藤甚次郎: 利根川流域の水塚について-埼玉県北川辺村の調査を中心として(1963) 新地理 11 巻 1 号 - 125 - 昭和 22 年 9 月 埼玉県水害誌付録写真帳 昭和 22 年 9 月洪水、救援物資を分配する水防団員(北葛飾郡) - 126 -
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