「歯科医療へのコンピュータ活用」

1993 年日本歯科大学新潟歯学部歯科補綴学教室第2講座同門会誌「絆」第4号より
特集「パソコンにさわってみよう!」第3回 −SF的エッセイ−
「歯科医療へのコンピュータ活用」
多和田 泰 之
0.序 章
『1998 年の夏、私は突然の歯痛でベットから転げ落ちた。窓からは朝日が差しこん でいる。せっかくの夏休みな
のに・・・・。先週、シャワーを浴びていた時から右上の犬歯が痛みだしていた。前から齲蝕があることには気が
ついていたが、日常に追われて、というより面倒くさくて、ずっとほっておいたのがいけなかったとはわかってい
ても、いざ痛みだすと我慢できるものではない。一昨日までは、熱い味噌汁でズキズキしていた程度だが、昨夜に
は何もしていないのに目の下あたりに拍動痛がでていた。どうやら化膿性炎になったらしい。とりあえず手持ち
の抗生剤と鎮痛剤を飲むことにした。冷たい牛乳と一緒に一気に飲み込むと、気のせいか少し痛みが治まって来
た。』
前回はパソコンで何ができるかというお話しでしたが、今回はもう一歩、私達の身近な話題、歯科医療のコン
ピュータ応用について、今は、そして近い将来はどうなるかという話をひとりの医科学生の目を通して見て行きた
いと思います。
歯科でのコンピュータ導入は、やはりレセプト発行器として始まったようです。まだ パソコンという概念が確
立してもいない昭和 50 年 12 月にはもう、東京都歯科医師会 により開発され、当時、日本デンタルリースより発売
された「TDM−Ⅲ」
(現TSK販売)というシステムがリリースされています。その後、昭和 58 年7月に厚生省
によって、コンピュータによるレセプト審査システム「レインボーシステム」の構想が発表され、賛否両論、大き
な反響をまき起こしました。これに対し、日本歯科医師会では、昭和 59 年末に諮問機関として「医療情報システム
研究会」を発足させ、歯科医療情報全般のコンピュータ化の検討を行なっています。関連学会としては日本医療情
報学会、日本歯科産業学会、日本コンピュータ歯科医学会等ができ、関連する企業は医事コンピュータ協議会など
の団体をつくり対応しています。実際、丸紅を中心として「DIS:歯科医療情報システム」などの大がかりなプ
ロジェクトも進行しており、この分野は今も活発な動きを見せ、目がはなせません。昭和 63 年5月6日厚生省通達
では、医師、歯科医師、薬剤師の責任が明白ならばOA機器でのカルテ等記載を行なって良いという方針転換を行
なっており、レセコンは単にレセプトの発行器としてだけではなく、カルテの表書き、裏書き、患者管理、会計全
般、人事管理、医院の経営分析まで、医療事務全般を一気に引き受けることが可能になったのです。
さて、レセコンはだいぶ歯科医院に浸透していますが、歯科でのコンピュータ利用はこれだけではもちろんあり
ません。コンピュータはあらゆる情報を収集し、蓄積、整理、管理して、私達の利用目的に応じて加工し、必要が
あれば他へ伝達するための道具です。これから見て頂くように、色々な応用が現実に為されており、色々な可能性
がこれから実現されていくでしょう。ここで重要なのは、我々歯科医療従事者を含めた、患者を取り囲む社会環境
そのものが急速にコンピュータ化されつつあるということなのです。どうしても必要だからというものもあるで
しょうが、時代の流れという大きな力による「必然」という要素も大きくかかわってくると思われます。
1.歯科医院へ行く
『日頃、なにか健康に異常があれば、自分の大学の附属病院を利用するので、かかりつけの医者など実家に帰らな
ければ無い。レポート作成のために、彼岸までは自分のパソコンがあるアパートにいるつもりでいたし、医学部に
入ってからこの4年間、歯が痛くなったことなど初めてだからどこの歯科医院に行けば良いのか見当もつかない。
早速、パソコンのスイッチを入れ、通信ソフトを起動した。NTTのキャプテン*1 で近くの歯科医院を検索してみ
る。5軒程該当があるが、どこに行けば良いのだろう。ここは地元のネットワークへアクセスして情報を集めるこ
とにしよう*2。幸い、鎮痛剤も効いてきたようだし、まだ、朝早過ぎてどこも開いていないだろう・・・。朝から暇
な人間はいるもので、電子掲示板の呼び掛けにすぐ応じてくれた。我が家からそう遠くないところに評判の歯科医
院があるようだ。何が評判かというと、ハイテクなのだそうだ。面白そうだからそこにしよう。念のため歯科医師
会のデータバンクで院長の経歴を検索してみる。まだ若いが、大学に籍を置いていたようだ。車なら 30 分程度だ
と思う。早速愛車に飛び乗った。GPS衛星による位置確認システム*3 のタウンマップに番地をインプットする。
道路情報センターのデータと照合し、最短で最も混雑していないコースがマップ上に点滅し、「AI歯科クリニッ
ク」という赤いマークと診療時間が表示された。どうやらデータが登録されていたようだ。コメント欄に「完全予
約制」とある。そういえば予約の電話を入れていない。携帯電話で 104 を利用する。該当電話番号には自動的にリ
ダイヤルしてくれる*4。午前中は空きがあるようだ。すぐ診てくれるとのことである。』
パソコン通信はニューメディアとして注目されています。既存のデータベースへ自宅から簡単にアクセスでき、
不特定多数への情報提供と収集が可能です。今後、地方自治体や医師会による医院検索や専門医紹介システムがで
きないとも限りません。現に歯科医師が個人で BBS*5 を開局し、歯に関する医療相談を受けているものもあります
し、大手商業ネットには歯科専用のフォーラムや電子会議室も存在し*6、時間や場所にとらわれずに、患者からのQ
&Aや症例検討会を行なっています。患者への啓蒙と歯科医師間の情報交換に一役かっているようです。
また一方では、高度情報化時代とかいわれ、個人が手にすることができる情報が日に日に膨れ上がっています。
あらゆる場面で今までの常識を破る通信手段が活躍するようになって来ています。携帯電話が普及するのにほと
んど時間がかからなかったように、ニューメディアの普及はニーズさえあれば爆発的に進み、発展するものと思わ
れます。
『受付嬢がにこやかに迎えてくれた。大病院の受付は完全自動化されており、合成音声の無味簡素な案内だが、や
はり病人には人の温かみが必要である。簡単に主訴を説明すると、すぐに診て貰えるという返事である。受付け横
にあるタッチボードのスロットに去年からICカード化された保険証を挿入する。被保険者名と住所などが表示
されるので確認する。あとは必要事項を入力すれば新患の手続きは終了だ。待合室の柔らかい照明とゆったりし
た雰囲気が心地よい。ディスプレイには患者説明用の番組と次に入室できる受付番号が表示されている。5分ほ
どで受付嬢の明るい声が私の名を呼んだ。診療室への入口の自動ドアが静かに開いた。』
受付けの自動化は現状でもかなり可能な部分です。先日、受付専用のシステムも発売されました。しかし何より
も望まれるのは保険証のICカード化でしょう。手書きによる誤記の心配や、プライバシーの保護などの点で利点
が多いと思われます。経費を無視すれば(といっても5年後の一枚単価は千円程度になるはずですが)ICカード
には簡単に改変できない保護情報と書き換えが可能な部分との共存ができるので、証書としての確かさも高く、証
の確認情報の書き込みもでき、充分に実用的です。さらに経費を低くするにはオリンパスで開発した光カードも同
等の機能を持ち、こちらの方が実用的かも知れません。
NTTのキャプテンシステムや 104 はパソコン通信によるサービスが開始されており、自宅から、
かなり高度な検索ができる。
*2 パソコン通信のネットワークには企業による大手商業ネットの他に、個人や地方自治体が主催する
地域型BBSがあり、かなりアングラな情報が手にはいる。
*3 衛星による自動車のナビゲーションシステムは既に実用化されているが、これらには各都市のタウ
ン情報が CD-ROM で供給されており、歯科医院などの情報(広告)が掲載される可能性もある。現
在、文字放送と連動するシステムもあり、さらに応用範囲が広くなっている。
*4 都市部に設置されているNTT多機能公衆電話では、これに近い機能(メモ機能)もあり、家庭用
電話の多機能化も進んでいるので、将来は音声以外の色々な情報が電話機でやり取りできるように
なるだろう。
*5 BBS:電子掲示板システム,小規模のパソコン通信ホスト局の通称。初期のパソコン通信の最小
限の機能が掲示板の読み書きだったことが由来。草の根BBSなどと用いる。
*6 大手商業ネットでの歯科に関する会議室には、Nifty-serve(富士通関連)に歯科専用フォーラム「親
知らず」,健康フォーラム「すこやか村」内会議室「歯の円卓場」の2つ。PC-VAN(NEC)にS
IG「メディカルフォーラム」日経 MIX の会議室に「dental」がそれぞれ活動している。歯に関す
る関心は高く、どこでも健康相談コーナーは盛況のようだ。
*1
2.いよいよ診療(初診)
『診療室には5台の治療椅子が置いてあった。待合室からの、ゆるやかにカーブした通路には落ち着いた配色のリ
トグラフがいくつも懸けてある。ユニットは1台1台が患者側からみるとパーティションに区切られており、他の
患者の顔はあまり見なくて澄むようになっている。歯科用のユニットを見るといつも思うのだが、眼科や耳鼻咽喉
科の椅子に比べ、小型だが贅沢な造りになっている。長時間口を開けていなければならないので、居住性が求めら
れるのだろうか。革張りのその椅子は、しかし普通のものとは少し違うようだ。術者側のキャビネットには大型の
液晶ディスプレイが置かれており、いくつかのボタンがパネルに配列されている。一番奥のユニットに誘導され
た。椅子に着いて気がついたが、目の前の天上には大きなハイビジョンモニターがつり下げられており、青い空に
白い雲が静かに流れて行く海の風景が映っている。バロック調の静かなBGMも流れている。DHが紙エプロン
を着けてくれた。椅子の座り心地はきわめて良い。この雰囲気だけで歯の痛いのも、歯科医院にいるという恐怖も
忘れてしまいそうである。なんだか次はお絞りとコーヒーが出て来そうな感じがしたが、もちろんそうはならな
かった。とても若々しい感じのDrが現われた。ユニット横のディスプレイには、既に必要事項が埋められたカル
テ風の画面が映し出されている。』
インフォームド・コンセント、院内感染予防、心の安らぎ。現在、歯科医院の診療環境は必ずしも満足のいくも
のではありません。特に患者サイドの診療環境には雑音が溢れています。質の高い患者教育と能率的で確実な説
明、そして今流行の1/f揺らぎ療法など診療室にAV機器を導入するところも多くなりつつあります。どうせな
ら、マルチメディア対応のコンピュータに管理させ、多目的に利用したいものです。環境ビデオやBGM、診療室
全体のインテリアなどの雰囲気全てが患者の心理状態によい効果を与えるように工夫されるでしょう。同時にハ
イビジョンが一般的になり、高画質を活かして鮮明で分りやすいプレゼンテーションが可能となります。電子スチ
ルカメラは現在、画質の改善が急ピッチで進められており、臨床でも充分利用できるレベルになるでしょう。矯正
や補綴などでは、これらの写真を加工し、術前に結果をシミュレートして患者に説明するシステムが発売されてい
ます。矯正の分野ではセファロの自動計測結果から術後の形態を予測し、科学的に側貌の変化を再現できるところ
まで来ています。また、画像データベースの技術も実用段階になってきており、これらが一般的になれば、患者の
病状や治療内容に即した資料をその場で供覧することもできるようになります。言葉だけでは理解しにくいもの
もあります。もう一歩踏み込んだ、確実なインフォームドコンセントが望まれる時代がきます。
3.コンピュータだらけの診療室
『簡単な問診の後に口腔内の診査を受ける。右上の犬歯、Drが言うところの 13 番に強い打診痛があった。根尖
部の腫脹がかなりある。カタラーゼ反応は無い。EPTという電気診査を受けた。さっきの画面に測定値と判定
が自動的に表示される。non-vital、あれれ、私は生きているぞ。怪訝な顔の私を尻目にDrは私をX線室に呼ん
だ。大きなドーム状の撮影装置の中央に椅子がある。私はバイトブロックを噛まされて、そこに座らされた。位置
決めの光のラインが目の前を横切る。ここにもディスプレイとキーボードがあり、Drはいくつかのポジションを
コンピュータに設定しているようだ。外耳道と頤が固定される。もう身動きがとれない。不安な私を残してDr
はドアの外から覗いている。黒いX線発生器が複雑な運動をしながら顔の前を行ったり来たりする・・・。
ユニットに戻るともう、撮影結果が術者サイドの大型ディスプレイと、さっきまで海が映っていた目の前のモニ
ターに映し出されている。医学生の私には馴染の薄いオルソパントモグラムという、まるで顔面頭蓋の「鯵の開き」
みたいな写真と、同時撮影された歯牙ごとの局所断層写真である。Drはカーソルを動かしながら、私の口腔内の
状態を詳しく説明してくれた。時々、テロップやシェーマ、臨床写真がX線写真と入れ替わり、まるで大学の講義
を聞いているようだ。シェーマは素人向けにやさしい用語でかいてあるが、医学部の学生と分っているものだか
ら、やたらと専門用語で説明され、半分も理解できなかった。小型の無影燈にはCCDカメラがついており、私の
口腔内もモニターに映し出される。Drはそれを指し示しながら、主訴の他にも初期の齲蝕が3∼4ヶ所あること
を指摘した。この際だから、全部治療してもらうことにする。最後に医学生にしてはまともな口腔内だと、褒めら
れたのか、けなされたのか分らないコメントを頂いた。問題の 13 番には隣接面に唇側からは良く分らないが大き
な齲蝕があるので、それが原因で歯髄壊死から急性歯槽膿瘍に移行したのではないかという。取りあえず投薬し、
消炎後に必要があれば切開排膿すると云うことである。すでに自前の薬を飲んでいることを告げ、丁度、ポケット
につっこんであったカプセルの包装を手渡した。残念ながら、上気道炎(風邪)を起こした時に先輩から分けても
らったものなので薬剤名は知らない。Drはそれを見ながらキーボードに薬剤のコードナンバーを打ち込む。数
秒後、画面には薬剤名と詳しい用法、効用が表示された。抗生剤のスペクトルを確認した後、これなら良いだろう
と、同じ薬とその他に2種類の消炎鎮痛剤の処方をキーボードに打ち込む。DHが受付からプリントアウトされた
院外処方箋を持って来た。それにDrがサインしてくれる。学生はよほど信用がないのか、必ずまた来院するよう
に云われて帰された。受付では、今日の会計をし、2日後の予約をとって、出来たての診察券を受け取った。洒落
たデザインの磁気カードである。私の氏名と登録番号が刻印してある。診療所を出て車に乗る。なるほど評判通
りのハイテク歯科医院である。大学病院でもここまでいろいろプレゼンテーションしながらムンテラはしない。
ひとまず安心してエンジンをかける。あとは近くの薬局で薬を出してもらうことにしよう。』
電子カルテという言葉を最近よく耳にします。レセコンの発展型というより、むしろ新しい大きな概念で、この
中にレセプト発行機能を含んでいるといった感じです。ペンを持つかわりにキーボードを叩いてカルテを記入す
るのですが、ほとんど自動化してしまえるという利点があります。自分の医院に合ったカスタマイズをしておけ
ば、初診時の診断から治療計画まで一貫して登録することが簡単にできます。治療の優先順位の決定や治療内容の
チェックを自動的にしてくれます。さらに、X線や臨床写真などの画像データをリンクすることで、必要な時にい
つでも検索し、所見を比較できます。一般検査などでの臨床検査機器と接続することにより、検査データの自動入
力が可能で、時間と手間の節約と高度なデータ管理が実現します。実際にこの手のシステムの開発は終わってお
り、実用化の段階に入ろうとしています。
画像診断の分野ではX線写真のデジタル化と高機能な撮影装置の開発が注目されます。デジタル化では富士
フィルムのFCRが注目されます。好感度IPフィルムというX線により磁化するフィルムを用いることにより、
従来の撮影装置をそのまま使用して、低被爆で高品位のデジタル画像を得る技術です。現像液が要らずクリーンで
あるばかりでなく、短時間で結果が見られ、かつ画像処理が自在にできるという画期的なものです。一方、高機能
の撮影装置として、ここでモデルにしている歯科用多機能断層撮影装置「スキャノラ」は、パソコンで制御するこ
とで600種以上の撮影法を一台でこなします。上顎大臼歯の頬側根、分岐部、口蓋根を簡単に連続断層撮影でき
たりします。これらの新しい技術が将来結合すれば、この物語のようなことが実現するわけです。さらに、こうし
た歯牙ごとの断層像から根管の立体構築をし、根管処置の補助的情報にする研究もあります。
医療データベースというのも注目されるアイテムです。ここでは薬剤のデータを検索していますが、この程度な
ら、医局のパソコンでも今すぐできます。
「ピルブック」や「ドラッグインジャパン」のデータがパソコン用に市販
されています。将来、DISなどのシステムが目指しているものは、目の前にした症例の臨床データ、画像データ、
生化学検査結果などを通信を利用してセンターのコンピュータに送り、そこのデータベースの情報と比較して、診
断と治療方針を返送するという、いわゆる「エキスパートシステム」なのです。すでに矯正治療では一部こうした
システムの開発がされつつあり、補綴分野でも可徹性義歯の設計システムとして研究が進んでいます。治療面以外
でも患者の過去の病歴や、治療した医療機関の情報をデータベースとして蓄えることにより、医療過誤の防止や迅
速な診断への手助けになると考えられ、実現が望まれます。
4.再 診
『今日は、もしかしたら切開するというので午前中の予約である。受付横のスロットに磁気カードの診察券を入れ
る。診察券と一緒に受付時刻、前回予約日時、受付番号、現在のおおよその待ち時間がプリントされた紙が出てき
た。これで再診手続きは終了し、受付嬢は適切なユニットを選んでスイッチを入れる。消毒室のモニターに予定処
置が表示され、適切な器具が入った滅菌トレーが用意される。ユニットにはカルテ内容が電送され、DHが待機す
る。丁度時間に診察室に通された。椅子に座ると前回とは違うポジションに椅子が倒れる。処置に合ったポジ
ションに自動的にセットされるのである。Drがやって来た。カタラーゼ反応がはっきり出ているという。痛み
はだいぶ和らいでいる。波動も触れ、今日は切り頃だと笑っている。サディスティックなやつだ。おもむろにDr
とDHがディスポのキャップとマスク、手袋をしだす。口の周りの消毒が終わると、紙製の有窓巾がテープで止め
られる。おいおい、ちょっと大袈裟じゃないか?芳香性のある表面麻酔が塗布され、リドカインの囲繞麻酔がされ
た・・・と思う。オッ、出てきたでてきた、というDrの声。サクションが勢い良く音をたてる・・・。有窓巾が
外され、うがいをしろと指示された。口中に血の味がする。明日消毒で、その次から根管の処置に移るそうだ。』
磁気カードの診察券はだいぶ普及して来ました。受付の合理化、自動化が図れるというだけではなく、ここで紹
介するように、電子カルテではすぐにカルテが検索され、ユニットに送られて必要な準備ができるという利点があ
ります。ユニットのポジション自動化は実際に特注で実行している歯科医院の例があります。その日の処置内容
や、複数の医師がいる場合はその医師ごとに適したポジションが記憶されるという具合です。こういったことが可
能になるためには、受付、診療室(および各ユニット)、技工室のパソコンが全て接続され、連動することが必要で
す。これが院内LAN*7 の構想であり、最近よく紹介されるようになって来ました。
5.検査の自動化
『腫れも痛みも退いて気分は爽快である。気分転換に海にでも行こうかと思ったところに、AI歯科クリニックか
らの予約確認FAXが入った。今日の予約時間、予定診療内容、予定診療時間、予定金額が記入されている。しか
たない、行ってやることにするか。・・・いつもの通り、ユニットに着くと椅子が自動的に倒れる。DHがなにや
ら検査をしている。カルテが表示されている例の画面には、歯列の絵が映し出されており、DHがプローブを歯肉
に当てる度に2 mm などと数値と赤いラインが記録されて行く。2∼3の検査が終わるとDrが出て来た。先程
の歯列の画像と先日撮影したパノラマX線写真が合成されて表示される。上下の大臼歯部に初期の歯周炎がある
そうだ。これはまずい。まだ 20 代なのに。幸い簡単な除石とブラッシングで直るということで、早速、正しい歯
みがきというのを習った。ベテランらしいDHがやって来て、例のモニターに図と私の口腔内を映しながら 30 分
も練習させられた。もう歯みがきのプロになったような気分である。Drが再び現われて今日の治療をしようと
いう。そうか、今までは前座だったのか。歯が綺麗になったところで治療しようというのだな。歯を削るというの
でヘッドフォンをさせられる。BGMであの不快な音を消そうというのだ。と考えている内に口にゴムのテント
が被せられた。ラバーダムというらしい。EMR値と云うのが画面に表示されている。ここの検査は全て電子カ
ルテに連動しているようだ。歯科独特のクレゾール臭がする。根管治療が終わったようだ。あと3∼4回かかる
という。同時に他の齲蝕も治療する予定である。この犬歯も崩壊が激しいので歯冠修復が必要だそうだ。どうせ
親のすねかじりの身である。かじりついでに良いものを入れてもらおう。Drも張り切って説明しだした。電子
スチルカメラで撮影した現在の口腔内写真をもとに、治療後の状態をシミュレートして見せてくれた。確かに臼歯
の修復など、金属の充填よりセラミックスの方が審美的である。返事は親に相談してからということで今日は帰る
ことにする。』
ここでは前述のように、検査機器として歯周探針が電子カルテが接続され、自動測定が行なわれています。この
システムは既に実用段階に入っていますが、このあとのTBIのようにスタッフも自在にシステムを使いこなすこ
とが重要になってきます。診療室のコンピュータ化、自動化はスタッフ養成という難関を背負っていると言えす。
6.印象材がいらない?
『来院6回目。前回は全顎の除石と根管治療、そして上顎両門歯の隣接面齲蝕の充填をしてもらった。デジタル比
色計というので色を合わせて材料を選択したので、私なんかはよ∼く見てもどこを治療したのか分からない。満足
である。今日は 45 ∼ 46 番の齲蝕の治療である。今度は少し大きいので、充填という訳にはいかないようだ。浸潤
麻酔の鈍い痛みが頬に広がる。骨に食い込むようなこの圧迫感はどうにかならないものだろうか。舌の上にプラ
スティックのカバーがのせられ、それに排唾管が接続された。ヘッドフォンのBGMに混じってDrの声が聞こえ
てくる。喉に小型マイクが着けてあるのだ。これで怒鳴らなくても受付や消毒室に指示ができるのか。と思って
いる内に窩洞形成というのが終わったようだ。隣接面の歯肉には圧排糸が入れられる。隣接歯にランドマークの
プラスティック球がクランプとレジンで固定された。レーザーホログラフィー・カメラのヘッドが口の中に入れら
れる。撮影は一瞬である。ディスプレイに形成された窩洞が立体的に映っている。次になにやらガムみたいなも
のを咬まされて、顎を左右に動かせと指示された。どうもピンとこない。Drはモニターにアニメーションと私の
顔下半分を映しながら説明してくれた。私の顔は左右が逆にしてあり、鏡を見ているようだ。なかなかうまく行か
ず、Drはじれったそうだ。何度目かで目的の運動ができると、またカメラでその痕跡を撮影する。FGPと云う
のだそうだ。昔みたいに印象は採らないのかと尋ねると、クラウンでは採らないと駄目だそうで、13 番のときはそ
うするということだ。今日は仮封をして終わりだが、ハイテク好きな私はこのあとの処理に非常に興味が湧いてき
た。無理に頼んで技工室を見学させてもらうことにした。』
CAD/CAM*8 の歯科応用に伴い、印象という概念も変化しつつあります。レーザーを応用した光学的な印象
採得(撮影)技術が現われたからです。しかしここでも従来以上に歯肉縁下のマージンと滲出液の問題が未解決で
す。5∼ 10 年後にはある程度これらは解決し、印象材というものがほとんど使用されなくなる時代がくるかもし
れません。
さらに現在、ハードレーザーでの手術技術がどんどん発達しています。歯科でもレーザーによる歯牙の切削が研
究されています。歯髄に影響を与えないで表面を蒸発させてしまおうというのです。しかし、口腔内で高出力の
レーザーメスをふるうのには抵抗を感じます。一方、整形外科領域では人工関節の置換手術にロボットが活躍しだ
しました植え込む人工関節に正確に適合する孔を骨に形成するためです。人間の医師より速く安全かつ正確にド
リルを使用できるそうです。将来は脳外科などのマイクロサージェリーに応用されるそうですが、10 年後、ロング
スパンのブリッジもスイッチ一つでロボットがレーザーを使って正確に形成してくれるようになっているかもし
れません。
7.技工室へ
『技工士がディスプレイに向い、トラックボールでなにかアウトラインらしいものを入力していた。Drに紹介し
てもらい挨拶する。ここにはEWS級*9のかなり大きなコンピュータが置いてあった。まるでどこかの設計事務所
みたいだ。この技工室は一部外注も受けており、支台の3次元データがISDN*10 や電話回線で送られてくるのだ
そうだ。技工伝票ももちろんコンピュータが管理している。私の口のデータは、診療室から直接ここのEWSにL
AN経由で転送されていた。レーザーカメラで撮影した3次元のデータはここのコンピュータの中で歯科用CA
Dにより再構成され、CAM室のマシンでセラミックを削り出し、実際に口に入るものが完成されるという流れに
なっているのだそうだ。始めにディスプレイ上で歯に接する部分の外形が入力され、同時に隣接歯とのコンタクト
が設定される。これにFGPのデータがランドマークを基準に重ね合わされ、修復物の大きさの限界が決定され
る。ここのEWSはある程度、人工知能(AI:Artificial Intelligence)*11を有していて、これに適合する咬合面の形
態がデータベースから選択され、さらに自動的にアレンジされる。最終的な細部のデザインの調整は技工士がしな
ければならないが、ここまで要する時間は 15 ∼ 30 分程度であり、模型を作る時間より短いそうである。デジタル
比色計で測定した歯牙の色のデータから使用するセラミックブロックの基本色を選択し、CAM室のマシンにセッ
トする。スイッチを入れると小1時間で画面で見たのと同じものが削り出されてきた。これが私の歯に入るの
か・・・・。ここからは従来どおりのテクニックで咬合面にポーセレンで色と艶を付けて仕上げるということだ。あ
まり邪魔をしても悪いので、今日はここらで引き上げることにする。』
技工室のコンピュータ化も今後どんどん進んでいくことでしょう。模型はともかくとしても、その他の技工指示
内容はいつでもデジタル化が可能であり、特に画像データと組み合わせれば非常に強力になります。コンピュータ
で扱える色は 1677 万色もあり、これは人間の識別能力を超える数字です。患者の口腔内写真を比色計などで正確
に補正する技術ができれば、シェードテイキングのエラーも無くなり、かつ複雑な色調のバリエーションも再現で
きます。LANやISDNを利用すれば直接患者を見なくても、リアルタイムでDrとコンタクトをとり合い確認
ができます。もちろん現時点では、技工室の経営管理、伝票管理などへの応用が主になっていますが、もうソフト
も開発され、技術的には可能になってきています。
歯冠修復のCAD/CAM応用は、最近のトピックになっています。学会でも発表が多く見られ、日本での研究
もかなり進んでいるようですが、フランスやスイスの方が一歩先を行っているようです。マージンの検出、咬合面
の再現、クラウン内面の適合など技術的に解決しなければならない問題が山積している中で、これらの国からいく
つかのシステムが市販されました。
「セレック」は小型で実用的なシステムですが、咬合面の再現ができず、内側性
窩洞にしか対応できません。フランスのシステムは完全なクラウンに対応していますが、複雑で高価です。5年後
には、さらに技術革新が進み、セレックよりは複雑で高精度、小型なシステムが一般の技工室に普及している可能
性があります。ここでは、今の研究の目標に近い状況を描いてみました。これからの技工士は技術だけではなく、
エンジニアとしての能力も要求されるようになるでしょう。
8.コンピュータが咬合器
『お盆休みまでになんとか下顎臼歯部の修復と 13 番の根管充填、キャスタブル・セラミックスの支台築造までが
終了していた。あとは 13 番とあとから追加でやり直すことになった 16 番のクラウンを残すのみである。しばら
く実家で過ごしていたが、その間はレジンの暫間クラウンで我慢していた。暫間といっても色がリアルで、ちょっ
と目には分らない。今日は時間がかかる最後の診察というので、新学期が始まる前に予約をとっておいた。受付に
は資金援助を親に頼んであるのでなんでもOKと伝えてある。そのせいではないと思うがDrが上機嫌で迎えて
くれた。早速、支台の形態を最終的に修正し、シリコン系の高分子化合物で印象をとる。ブラッシングは自分なり
に頑張ったつもりである。案の定、出血が無くてスムースに印象がとれたとDHに褒められた。次に咬合を記録す
るというのだが、犬歯も第1大臼歯も重要な歯だから、精密な運動記録をとるのだという。上下の歯列の側面にあ
らかじめ製作してあったクラッチのようなものが固定された。これに光センサーが組み込まれたアルミ合金製の
ほとんど重さを感じさせないフレームが取り付けられる。顔にはEMGの電極が貼り付けられた。またまた大袈
裟な感じがする。モニターに表示される指示にしたがって、口を開けたり閉じたり、ひん曲げたりと大変である。
なんでも6自由度顎運動記録と云うのだそうだ。このデータによってクラウンの形態データが修正され、概形がC
AMによってワックス上に再現される。それを技工士が模型に戻して細かい修正をして、鋳造という過程を経てセ
ラミックのクラウンにするのだそうだ。デザイニングと彩色の部分以外は、ほとんど人の手が入らない。なんか機
械に頼り過ぎていて味気ない感じがする。まあ、しっかりしたものができれば私はなんでも構わないが。それにし
ても、これで口の中に金属の修復物は全く無くなることになる。なんか健康的な気がして嬉しいのは気のせいだろ
うか。』
下顎運動記録もコンピュータが活躍する分野です。6自由度とは位置と回転を3次元で同時に表現するための
自由度です。松風をはじめいくつかの製品が出ています。顎関節症の診断や治療効果の判定には有効ですし、研究
も沢山されていますが、臨床でどこまで必要なのか、補綴物作成に応用できるのかなど問題もあります。CADと
組み合わせれば模型も咬合器も全てコンピュータ内でシミュレートしてしまえますが、CAMの精度が追い付かな
いのが現状でしょう。将来はこれに、機能時の下顎骨のたわみがパラメーターとして加わり、何も無いところから
無調整のクラウンがポンと出てくる時がくるかもしれません(まず 15 年以上かかるでしょう)。まだまだこの分野
は研究の域をでないと思われます。
CAD/CAMで期待されるのは、クラウンの製作よりも精密なアタッチメントを含むミリングへの応用かも知
れません。歯肉や歯頚線に沿ってミリングすることは、人手では非常に困難ですが、これは機械の最も得意とする
部分なのです。RPDへの応用はまだ始まったばかりですが、こちらが先に普及するかも知れません。
LAN:ローカルエリアネットワーク,同一建造物内など狭い範囲での有線によるコンピュータ
網。パソコンの高機能化により、複数台のパソコンのみで高度な連携が可能になり、省資源、
データ共有、分散処理など新しい可能性が低コストで得られ、注目されている。
*8CAD/CAM:コンピュータ支援設計/加工,コンピュータ上で設計し、そのデータを元に立体
*7
を加工する方法。複雑な形態も短時間で正確に処理できる。
EWS:エンジニアリング・ワークステーション,科学技術系の計算、設計を専門とする高機能
のミニコンピュータ。
*10 ISDN:統合サービスデジタル網,光通信技術を使用したデジタル通信の世界規格。あらゆる
用途に使用可能な統合公衆回線として日
本でも 88 年から敷設開始。現在、企業を中心として高速なデータ通信に利用されているが、個人
での利用も増えつつある。
*11 「AI歯科クリニック」とは「愛」と「AI」をかけているのだろう。電話番号検索でトップに
もなりいいネーミングある。
*9
9.リコールそして終章
『もうじき春休みというある朝、突然、AI歯科クリニックからFAXが入った。治療終了から半年経過したので
定期検査にこいというのである。あれからずっと快適であるし、毎日きちんとブラッシングをしているつもりだ
が、大学の健康診断までにはもうちょっと間があるし、臼歯部の歯肉の状態もどうなったか気になるので、ちょう
ど暇だから夕方寄ってみることにしよう。また、あのハイテク診療室を見られると思うと妙に楽しい感じがする。
歯医者に行くのに楽しいとは、我ながら変なやつである。』
ある地方都市の医学部学3に通う主人公とAI歯科クリニックのお話しも終わりに差し掛かりました。これか
らの歯科医療は治療終了後のメインテナンス,リコールも大切です。リコールの条件を入力しておくことで、毎週
自動的にDMのタックシールを印刷したり、将来FAXがもっと普及すればモデム経由で自動的にFAX配信した
りということが電子カルテではできます。モデムといえば、一番始めに患者から見たパソコン通信の重要性につい
て述べましたが、歯科医師から見ても大学や歯科医師会、医療情報サービスなどから通信によって情報を検索した
り、互いに情報を提供することなど活用の機会は沢山作り出せるはずです。これからは計算センターにデータを送
るだけではなく、積極的な利用が望まれます。
以上、多少SFじみた設定でしたが、5年後という近未来を舞台に歯科医療にどの程度コンピュータが活躍する
だろうかということを見て来ました。ここではコンピュータの情報機器としての面と医療機器としての面が有機
的に結合し、機能しています。情報という面ではさらに、院内の通信網と院外との通信網がそれぞれ完備され活用
されています。患者を取り囲む歯科診療環境は急速にコンピュータ化されて来ましたが、今までは各パートごとに
独立して研究開発されていました。しかし、これからは既に見てきたように、LANによって統合していくべきで
す。個々に独立して機能していたコンピュータが互いに連携することで、今ある以上の能力を発揮し、画期的な自
動化、合理化が可能になるはずです。
しかし、現状ではそういうシステムは存在しません。一部の先進的な(マニアックな)歯科医師が自分で開発し、
投資して実験しているに過ぎません。ただ、各パートごとのコンピュータ化はもうほとんど現実のものとなってき
ているのも事実です。あとは、時代のニーズが後押しするのを待つのみです。ここ2∼3年、企業ではLANやV
ANの利用が急速に普及してきています。総合大学や医学部でも多くの施設が計画を発表し実行しています。歯
科は(特に日本では)残念ながら遅れをとっているようです。新カリキュラムから歯学部では情報処理の授業が始
まろうとしています。この時期に、手をこまねいていると時代に取り残されてしまうのでは、という危機感が徐々
に湧いてきたのではないでしょうか。我々も負けずに情報を蓄え、準備をしておこうではありませんか。
参考文献
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補綴臨床 21(1):64,1988
3) コンピュータを活用した歯科技工所経営の改善,片
口清,歯科技工 20(3):314,1992
4) 歯科診療のコンピュータ化 1990→2000 年,石川
達也他,DD 1991(1):18,1990
5) コンピュータ補綴の幕明け,内山洋一,クインテッ
センス 10(12):2385,1991
6) 歯科医療 コンピュータは活躍中,河合達志,メ
ディカルパソコン 3(12):1175,1988
7) 化けものか家畜かこのコンピューター,森崎泉他,
日歯医療管理会誌 22(1):149,1987
8) 歯科領域におけるコンピュータの応用,堤定美,日
歯評論 543:153,1988