奥野正男著 「神々の汚れた手」 --- 2004 年毎日出版文化賞受賞 著者の

奥野正男著
「神々の汚れた手」 --- 2004 年毎日出版文化賞受賞
著者の許諾を得て掲載致します。
経緯:
旧石器捏造事件出典: フリー百科事典『ウィキペディア
(Wikipedia)
』より
2000 年 11 月の発覚当時、
「捏造」を行っていた藤村新一は民間研究
団体「東北旧石器文化研究所」の副理事長を務めていたが、彼が捏
造を開始したのは 1970 年代にアマチュアとして、宮城県の旧石器研
究グループに近づいた時からだった。彼は、周囲の研究者が期待す
るような石器を、期待されるような古い年代の地層(ローム層)か
ら次々に掘り出して見せ、そのことによってグループにとって欠か
せない人物として評価され、後に「神の手」と呼ばれるまでになっ
た。
しかし、
「発見」された遺物の 9 割方は、彼自身の手によって表面採
集されたり発掘されたものであり、他人の手によって発掘されたも
のは、彼があらかじめ仕込んでおいたものとされている。彼が掘り
出して見せたり、埋められていた石器は、自らが事前に別の遺跡の
踏査を行って集めた縄文時代の石器がほとんどであると考えられて
いる。ただし、それらの遺跡は東北地方のどこかのはずだが、完全
に追跡され、突き止められるには至っていない。捏造された「偽遺
跡」は、宮城県を中心とし、一部北海道や南関東にまで及んでいる。
毎日新聞のスクープで指摘されたのは、宮城県の上高森遺跡および
北海道の総進不動坂遺跡だったが、彼のかかわった全ての遺跡につ
いて再点検が行われ、彼のかかわった「石器」の多くに「発掘時の
がじり」ではありえない傷や複数回にわたって鉄と擦過した痕跡で
ある「鉄線状痕」などが認められた。また一部の遺跡について再発
掘が行われ、掘り残されていた捏造石器が発見されるに及び、捏造
が確定するに至った。このため、上高森遺跡をはじめ、座散乱木遺
跡・馬場壇 A 遺跡・高森遺跡など、多くの遺跡が旧石器時代の史跡
としての認定を取り消されたりした。
影響:日本列島の「前・中期旧石器」研究は、そのような古い時代
の石器は日本にはないだろうという批判を当初は浴びていたが、藤
村の発掘成果によって強力な裏づけを得て、1980 年代初頭には確立
したと宣言され、捏造発覚前は日本の旧石器時代の始まりはアジア
でも最も古い部類に入る 70 万年前までに遡っていたとされた。捏造
発覚により、藤村の成果をもとに築かれた日本の前・中期旧石器研
究は全て瓦解し、東北旧石器文化研究所は「学説の根幹が崩れた」
と解散に至っている。さらに、捏造遺跡が学会から抹消されるのみ
ならず日本史の教科書の石器に関する記述さえも消されるに及んだ。
また、中国、韓国、北朝鮮といった歴史教科書問題で日本と対立し
ている国々は、それぞれの国内マスコミで本事件を「日本人が歴史
を歪曲しているのが証明された」、「一研究家だけの問題ではなく、
日本人の歴史認識そのものに原因がある」と大々的に報道した。ま
た、藤村の捏造発覚の翌年の 2001 年、週刊文春が大分県の聖嶽洞穴
についても捏造の疑いありと三度に渡って誌面で展開し、この影響
で発掘責任者であった賀川光夫が文春に対し、抗議の自殺をする事
態が発生した。
原因:竹岡俊樹などの批判にもかかわらず、なぜ長期間、謬説が通
ったのかについて、日本考古学協会は、事件発覚後特別委員会を構
成して事件の調査にあたり、捏造を断定し、2003 年 5 月に報告書を
刊行した。
落ち着いてそれらの「石器」や出土状況を観察してみると、火砕流
の中から出土するなど、不可解で不自然な遺物や遺跡であった事が
理解されるのだが、当の研究グループはそれを無視し続けた。中に
は数十キロも離れた遺跡から発見された石器の切断面が偶然一致し
た、というような信じがたい発見もあった。
また、彼らの目覚しい成果に対して、関連遺跡を国の史跡に指定し
たり、石器を文化庁主催の特別展に展示するなど、間接的な応援団
がいたことは事件を増幅させた役割としては非常に大きかった。
本来、人類の普遍的価値遺産として共有されるべき歴史的事物につ
いて、その多くが観光資源の観点に偏るかたちで地域住民に認識さ
れ、取り扱われてきた現状が、今回の事件発覚によって図らずも明
らかになった。
「前・中期旧石器」が隆盛であった当時は批判が難しく、1986 年の
批判論文以後、再び反論が開始されるのは 1998 年の 1 点、及び 2000
年発覚前の 2 点に限られる。考古学界は捏造発覚以前の 25 年間、捏
造を批判した学者や研究者を事実上の学会八分(村八分)にして、
捏造批判を押さえつけた。例えば、1980 年代初頭に批判を行った東
京都教育庁の小田静夫は、文化庁と国立歴史民俗博物館館長の佐原
眞など、関係者の強烈な圧力を受け、東京都職員としての生命を維
持するために、黒潮文化研究に方向転換せざるを得なかった。[要出
典]捏造発覚以降も考古学界は文化庁・歴博関係学者の批判を行わな
かった。[要出典]1998 年以後の批判の要点は、問題の石器資料群が、
本来あるべき前期や中期の石器として「おかしい」という批判であ
る。こうした正当な批判は、新聞社のスクープまで、学界として省
みられることはなかった。
なお、日本考古学協会前・中期旧石器問題調査特別委員会最終報告
後に、藤村の捏造の範囲は旧石器時代を越え、縄文時代にも及ぶこ
とが明らかにされた。