劇評 『しあわせな日々』 1997年10月22日 横浜ランドマークホール サミュエル・ベケット 作 ピーター・ブルック 演出 ナターシャ・パリー 主演 今日、演劇作品に対する我々の鑑賞態度として、舞台上で展開する様々な表現要素から作者のメーセ ージを読みとる、という行為は極めて一般的なものと思われる。その「作者」が劇作家であるか、演出 家であるか、はたまた役者自身を指すのかは作品の性格によるものであろうが、(1)何かしらのメッセ ージを含んだ「素材」としての物語=テクストを措定し、(2)ある写像関数によってそれを記号化した ものを、(3)メーセージの受け手とされている観客が解読する、というプロセスは、古今東西を問わず、 舞台と観客との関係性を規定してきた基本的な枠組みであると考えられる。 サミュエル・ベケットの『しあわせな日々』を考察するには、このような、演劇におけるコミュニケ ーション構造に着眼する必要があるだろう。この作品は、舞台に対する観客のあり方を、根本から問い 直す契機を含んでいるように思われる。ことに、全2幕を通じて間断なく繰り返される主人公ウィニー の他愛もないオシャベリ。そして、その圧倒的な言葉の氾濫に対する何とも希薄な情報量。この「意味 するもの」と「意味されるもの」の間の絶対的なギャップ/落差こそ、本作品を位置づける上で重要な ポイントとなるのではなかろうか。 「記号化(encode)→解読(decode)」という手続きが演劇的実践で一般化した背景には、おそらく、表 現行為の中で役者のセリフが大きな比重を占めてきたという歴史的事実があるかもしれない。すなわち、 あらゆる記号の中でも最も人工的で象徴性の高い言語という媒体を表現の中心に据えたため、観客はそ れが指し示す先には必ず「意味」が存在すると仮定してしまうのだ。作品が成立する前提として、舞台 の構成要素により何かしらの対象が再現されているはず、といった取り決めが、作者と観客の間で常に なされているのである。 高度に抽象化された現代演劇に対し、このような「伝統的」鑑賞態度で臨めば、舞台上で展開する諸 記号が次々に残してゆく意味の空白を埋めるため、観客は「解釈への強迫神経症」に陥ることになる。 結果として、せいぜい閉塞した意味世界を押しつけて自己完結するか、「難解である」として思考停止 するか、いずれにせよ対象とする作品の内部に取り込まれてしまうであろう。 このような罠から逃れるには、第一段階で鎖を断ち切ること、すなわち、前提とされている「テクス ト」なるものは、もとより存在しないと考えることである。むろん、積年の「伝統的」鑑賞作法が深く 染み込んでいるからには、おいそれと態度を切り替えることはできない。しかし、『しあわせな日々』 と向き合うことによって、我々は演劇との新しい関わり方へと向かう軸足を得ることができるのではな いか。 『しあわせな日々』が「解釈への強迫神経症」に対する治療薬として効果があるとすれば、それは、 その主成分をセリフという舞台の構成要素に一点集中させたことによる。記号の中で最も象徴性が高く、 意味作用も極めて強力な言語という媒体を前面に押し出し、なおかつその無意味性を際だたせることで、 観客のテクスト解釈への欲望を去勢してしまうのである。いわば、観る者の意味への渇望を最大限引き 出し、それにカンウンター・パンチを喰らわせるようなものだ。どこにでもいるような中年女性の他愛 もない独り言…この、言葉の無意味な消費/浪費というモチーフを扱うには最高の素材(女性には失礼 かもしれないが)を徹底的に戯画化することで、ベケットは、我々の解釈に対する偏執狂的な感覚を麻 痺させようとしているのではないか。 このことは、舞台の他の構成要素に併せて目を向ければ極めて理解しやすい。舞台装置はあらゆる装 飾性を否定し、図像的象徴作用を極限まで切りつめている。BGMはない。照明は終始フラットな地明 かりのみ。さらに、主人公を土に埋めることで身振りを禁止し、その意味作用を一切封じ込めている。 このような、他の舞台記号の不在を厳格に規定することで、表現媒体としての言語=セリフが強力に前 景化されるのである。かなりの荒療治ではあるが、観ている者は己の鑑賞態度を反省せざるを得ない、 ギリギリの地点にまで追い込まれることになるであろう。 さて、ピーター・ブルックの演出だが、ここまで述べてきた分析を突き詰めると、この作品における 彼の存在自体が自己矛盾することになる。なぜなら、演出とは観客の解釈を前提とした舞台形象化のた めの「写像関数」に他ならず、ゆえにこの作品の最良の演出とは、何も演出しないこと、戯曲をそのま ま提示することとなるからである。 残念ながら、ブルックはこの逆説をうまく乗り切ったとは思えない。ことに目に付いたのは、第二幕 における主人公ウィニーの変化である。顔のメークはあからさまに暗くなり、口調はトーンダウンして 脆弱になっている。明らかに「死」を意識した役作りである。蓋し、この作品の「強度」は、まさにそ の単調性にある。いかに内容を理解しようと努めても、髪の毛ほどの手がかりすらも与えない、完璧な 平坦さ。観る者の意味への渇望を、徹底的に跳ね返す無色透明な冷淡さ。この、ピューリタン的禁欲主 義が、観客を反省へと向かわせる堅牢な砦の姿なのである。ところが、ブルックの演出による些細な色 づけが、解釈の付け入る隙を作ってしまった。おそらく、殆どの観客はそこに「安住の地」を認めたで あろう。まさに、ピンと張りつめていた糸がプツンと切れたような感覚であった。 最後に、『しあわせな日々』によって、我々はどのように「態度変更」することになるのか、想像力 を逞しくして考えてみたい。いったい、「解釈をしない鑑賞」とはいかなるものであろうか。 おそらくそれは、音楽を聴くときの態度と似たようなものではないか。クラシックであれジャズであ れロックであれ、通常、我々は鑑賞の際に「作者の意図」などを意識することはない。それは、殆どの 音楽作品が、他の芸術作品と異なり、意味作用の基本的構成要素となる記号を内包していないからであ る(もっとも、明白な思想的意図をもって作られた曲もあるので一概には言えないが)。言語を媒体と する詩や小説はもちろんのこと、絵画や彫刻でさえも、作品の中に描かれた図像が、外界のある概念と 双対関係になっている。鑑賞者はその言葉や図像の裏に隠された概念=意味を引き出し、全体を整合的 な意味連関図として再構成する。これが「解釈」という行為である。一方、音楽作品はそのような記号 性を持たない。外界のイメージを何も借り受けず、純粋にメロディや音の強弱による感覚刺激のみで、 鑑賞行為を成り立たせることができるのである。演劇作品も、このような態度で「観る」ことはできな いだろうか。セリフや身振りの意味などに煩わされることなく、純粋にその音を、視覚の変化を楽しむ ことはできないであろうか。 「文学としての演劇」から「音楽としての演劇」へ。このような変化が容易に起こるとは思えないが、 仮にも演劇を総合芸術と称するならば、観客のあり方も多様であっていいはずである。 (1998年1月6日 脱稿)
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