海外研究報告書 [中世ロシアの教会建築] ヴラジミル地方の都市計画

海外研究報告書
[中世ロシアの教会建築]
ヴラジミル地方の都市計画
平 成 20年 度 文 部 科 学 省 G P 「 国 際 化 拠 点 整 備 事 業 ( 長 期 海 外 留 学 支 援 ) プ ロ グ ラ ム 」 採 択
龍谷大学「長期海外留学支援プログラム」採択
龍谷大学大学院
国際文化学研究科
博士後期課程 3 年
川 村 明 海 (Akemi Kawamura)
はじめに
報 告 者 は 2008 年 9 月 よ り 2010 年 8 月 ま で モ ス ク ワ 国 立 大 学 ア ジ ア・ア
フ リ カ 学 院 を 通 し て 、モ ス ク ワ 国 立 大 学 歴 史 学 部 に て 研 究 調 査 を 行 っ て き た 。
こ の 留 学 は 、 平 成 20 年 度 文 部 科 学 省 GP「 国 際 化 拠 点 整 備 事 業( 長 期 海 外 留
学 支 援 )プ ロ グ ラ ム 」に 採 択 さ れ 、龍 谷 大 学「 長 期 海 外 留 学 支 援 プ ロ グ ラ ム 」
により、実現可能となった研究調査である。
<研究目的>
ロシアの「二重信仰」に関する専門的な研究は日本では行われていない。
報 告 者 は 、現 在 執 筆 中 の 博 士 論 文 で 、歴 史 学 、建 築 学 、図 像 学 、と あ ら ゆ る
分 野 か ら の ア プ ロ ー チ を 試 み た 。特 に 、レ リ ー フ 解 析( 図 像 学 )と い う 手 法
は 文 献 資 料 を 補 う 有 効 手 段 で あ り 、可 能 な 限 り 利 用 し て「 二 重 信 仰 」を 説 明
し よ う と し て い る 。 今 回 の 海 外 研 究 調 査 で は 、「 教 会 外 壁 レ リ ー フ に は 土 着
信 仰 と キ リ ス ト 教 の 両 方 の 要 素 を 含 み 、レ リ ー フ が 民 衆 に キ リ ス ト 教 受 容 を
促した」という報告者の仮説を説明するべく資料収集のために実施した。
「 二 重 信 仰 」 と は 、 ヴ ラ ジ ミ ル が 988 年 に ロ シ ア ( 当 時 の キ エ フ ・ル ー シ )
に お い て 、キ リ ス ト 教 を 国 教 化 し た 結 果 、土 着 信 仰 と キ リ ス ト 教 が 並 立 し て 、
生 活 や 儀 式 の 中 に 受 容 さ れ る 過 程 の こ と で あ る 。ロ シ ア に お い て 特 徴 的 な こ
とは、
「 上 か ら 」の 改 宗 で あ っ た た め に 農 村 で は 19 世 紀 ま で 土 着 信 仰 が 根 強
く 残 っ て い た こ と 、 12 世 紀 に は 地 方 分 権 化 が 進 む 中 で 地 域 に よ っ て 教 会 の
あり方が異なっていたことである。
特 に 報 告 者 の 関 心 は 、ヴ ラ ジ ミ ル の 教 会 建 築 様 式 や 、ロ シ ア の 他 地 域 で
は 見 ら れ な い 教 会 外 壁 に レ リ ー フ が 施 さ れ て い る こ と で あ る 。ロ シ ア の 世 界
観 に お い て 、教 会 外 壁 レ リ ー フ に あ る 各 モ チ ー フ( ラ イ オ ン 、鳥 、ア カ ン サ
ス 、ぶ ど う な ど )が 意 味 す る も の は 何 で あ る の か ? 木 村 浩 は『 ロ シ ア の 美 的
世 界 』で「 キ リ ス ト 教 の シ ン ボ ル を 土 着 信 仰 の 神 格 の 上 部 に 表 現 す る こ と で
キ リ ス ト 教 の 優 位 性 を 示 し た 」と し て い る が 、そ の 根 拠 に な る 資 料 は 示 し て
い な い 。報 告 者 の 見 解 で は 、植 物 や 動 物 を レ リ ー フ で 表 現 す る こ と で キ リ ス
ト 教 の 神 格 と 土 着 信 仰 の 神 格 を 同 格 で 示 し た と 考 え る 。ま た 、二 重 信 仰 の 宗
教 的 意 義 の ほ か に 、政 治 的 意 義 が 含 ま れ て い る 可 能 性 も あ る と 考 え る 。そ こ
で、今回現地調査を行った主な対象教会建築は以下の通りである。
・ ウ ス ペ ン ス キ ー 聖 堂 ( 1158-1161 年
ウラジーミル)
・ ド ミ ト リ エ フ ス キ ー 聖 堂 ( 1158-1165 年
ウラジーミル)
・ロジュデェストベンスカヤ修道院(ボゴリュボヴォ)
・ ポ ク ロ フ ・ ナ ・ ネ ル リ 教 会 ( 1165 年
ボゴリュボヴォ)
・ ユ ー リ エ フ ・ ポ ク ロ フ ス キ ー 聖 堂( 1230-1234 年 、1471 年
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ウラジーミル
近郊)
・ ロ ジ ュ デ ェ ス ト ヴ ェ ン ス キ ー 聖 堂 ( 12-18 世 紀
スズダリ)
・ゲオルギエフスキー聖堂(ユーリエフ・ポクロフスキー)
博 士 論 文 で は 、教 会 建 築 を 建 設 す る に 至 っ た 歴 史 的 政 治 的 背 景 を 明 ら か
に し 、都 市 計 画 を 年 代 別 に 分 析 し 、教 会 建 設 に 携 わ っ た 職 人 の 問 題 や 、他 公
国およびビザンティンとの外交問題など、教会レリーフが施されるまでの
数 々 の 疑 問 を 証 明 し よ う と 試 み て い る 。こ の 報 告 書 は 、海 外 研 究 調 査 の 報 告
に と ど ま る も の で は な く 、報 告 者 の 博 士 論 文 執 筆 に 際 し 重 要 な 資 料 と し て 利
用 す る も の で あ る 。こ の 一 連 の 調 査 を 通 し て 、ウ ラ ジ ミ ル に お い て 教 会 外 壁
レリーフが民衆に与えた影響とはいかなるものであったか?という問いに
対 し 、文 献 資 料 だ け で な く 図 像 学 を 用 い た 手 法 に よ っ て 解 明 す る こ と は 、ロ
シ ア 人 の 信 仰 を 考 察 す る 上 で 非 常 に 大 き な 成 果 に な る と 考 え る 。レ リ ー フ の
文 様 解 明 は 、土 着 信 仰 を 長 期 間 保 持 し た 民 衆 の 考 え 方 や キ リ ス ト 教 が 民 衆 の
生 活 に 及 ぼ し た 影 響 を 検 討 す る 上 で 、基 本 的 な 資 料 と な る で あ ろ う 。さ ら に 、
こ の 資 料 を 多 く の 方 々 と 共 有 す る こ と で 、ロ シ ア 人 の 文 化 的 背 景 、ロ シ ア 人
の 芸 術 に 対 す る 造 詣 の 深 さ 、国 際 色 豊 か な 文 化 を 受 容 し 発 展 さ せ る こ と の で
き る 寛 容 さ を 伝 え 、今 後 の 日 本 と ロ シ ア が 文 化 的 友 好 を さ ら に 深 め て い く こ
とを祈願する。
<国際文化学的視点における本研究の意義>
報 告 者 は 、国 際 文 化 学 的 立 場 か ら 、ヴ ラ ジ ミ ル 市 の 研 究 お よ び 先 行 研 究
に つ い て の 論 証 を 試 み る 。ヴ ラ ジ ミ ル 市 の 建 築 装 飾 の 問 題 を 考 え る 際 、時 代
が 変 遷 す る た び に 国 境 も し く は 領 域 の 変 更 が 必 要 に な る 。 10∼ 13 世 紀 の ル
ー シ を 簡 単 に 旧 ソ 連 、現 在 の ロ シ ア の 国 境 線 を 念 頭 に お い て 見 る こ と は 危 険
で あ る 。な ぜ な ら ば 、報 告 者 の 研 究 対 象 地 域 で あ る ヴ ラ ジ ミ ル 市 は 現 在 の ロ
シ ア 国 内 に 所 在 す る が 、当 時 ル ー シ 諸 公 国 の 中 心 で あ っ た キ エ フ 公 国 と 関 係
づ け て 考 察 す る こ と は 必 要 不 可 欠 で 、き わ め て 重 要 な こ と だ か ら で あ る 。キ
エ フ 公 国 は 現 在 の ウ ク ラ イ ナ に あ っ た 。国 際 文 化 学 的 視 点 で は 、空 間 的 あ る
い は 時 間 的 制 限 を 超 え て 考 察 す る こ と が 必 要 で あ る 。国 際 文 化 学 は 近 現 代 の
課 題 と し て 適 用 さ せ る こ と が 一 般 的 で あ る よ う に 思 わ れ が ち で あ る が 、報 告
者 の 論 考 対 象 時 期 で あ る 10∼ 13 世 紀 の よ う に 古 い 時 代 の 研 究 に も 適 用 さ せ
る べ き で あ る 。さ ら に 、既 成 の 学 問 分 野 を 超 え て 検 証 す る こ と は 言 う ま で も
な い 。本 稿 で は 国 際 文 化 学 的 な 視 点 を 意 識 し 、ヴ ラ ジ ミ ル 市 を 対 象 に し た 地
域研究において必要な資料を可能な限り収集し、それらを活用した。
報 告 者 が 主 と し て 参 照 す る の は 、 美 術 史 学 者 N・ N・ ヴ ォ ロ ニ ン の ”
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ǵȜȒȥȓȟȠȐȜ ǿȓȐȓȞȜ-ǰȜȟȠȜȥțȜȗ ǾȡȟȖ XII-XV ȐȐ. ”の 研 究 書 ( 1961 年 刊 ) で あ
る 。彼 は 歴 史 学 、建 築 学 、地 層 学 、図 像 学 、言 語 学 と 多 角 的 な 観 点 か ら ヴ ラ
ジ ミ ル 市 、ス ズ ダ リ 周 辺 の 研 究 を ま と め て い る 。 1961 年 当 時 「 国 際 文 化 学 」
と い う 学 問 体 系 こ そ 提 唱 さ れ て は い な か っ た が 、学 際 的 論 文 と し て 評 価 し て
良いと思われる。
<海外研究調査を終えて>
留学期間中、モスクワ国立大学アジア・アフリカ学院国際部部長教授
Solodovnik Diliara 女 史 、国 際 部 担 当 官 Umida Alyakbarova 女 史 に は 歴 史 学 部
と の 交 渉 な ど い ろ い ろ と 御 配 慮 を い た だ き 、ご 尽 力 頂 い た 。モ ス ク ワ 国 立 大
学 歴 史 学 部 美 術 史 学 科 Aleksandr Pleobrajenski 教 授 は 授 業 の 聴 講 を 快 諾 し て
く だ さ り 、 個 人 指 導 を し て 下 さ っ た 。 Aleksandr Pleobrajenski 教 授 か ら 頂 い
た書籍リストは、この研究調査で一番大きな収穫の一つであったと言える。
さ ら に 、 モ ス ク ワ 国 立 大 学 地 理 学 部 の 日 本 ・ 日 本 語 担 当 教 授 Irina
Sergevna 女 史 を 通 じ て ロ シ ア 文 科 系 国 立 大 学 ド ミ ト ロ フ 校 経 済 学 部 教 授
Anastasia Banchaeva 女 史 に は た く さ ん の エ ク ス ク ー ル シ ア に 連 れ て 行 っ て
い た だ き 、個 人 指 導 も 熱 心 に し て 頂 い た 。Anastasia Banchaeva 女 史 は 学 部 を
超 え て 、歴 史 学 部 と 経 済 学 部 合 同 の 学 会 に も 招 待 し て く だ さ り 、学 術 雑 誌 の
論 文 投 稿 も 可 能 に し て 下 っ た 。ド ミ ト ロ フ と い う 町 は 、ユ リ ー・ド ル ゴ ル ー
キ ー が 北 東 ル ー シ を 開 拓 す る 宣 言 を し た 場 所 で あ る 。報 告 者 の 研 究 対 象 地 域
で 、学 会 に 参 加 し 、論 文 を 発 表 で き た こ と 、個 人 的 に 専 門 家 を 招 致 し て 報 告
者 の た め に 現 地 視 察 を 可 能 に し て く だ さ っ た こ と を 、こ こ に 特 筆 し て お き た
い。
日本国内においては、龍谷大学の諸先生方、事務の方々には 2 年間の
留 学 の 機 会 を 与 え て 頂 い た 。龍 谷 大 学 国 際 文 化 学 部 教 務 課 が 担 当 部 署 と し て 、
報 告 者 の 留 学 全 般 に わ た っ て ご 支 援 し て 下 さ っ た 。特 に 、龍 谷 大 学 国 際 文 化
学 部 教 務 課 課 長 北 條 英 明 氏 、阿 部 俊 彦 氏 に は 文 部 科 学 省 へ の 申 請 か ら こ の 報
告 に 至 る ま で 一 貫 し て 支 え て い た だ い た 。指 導 教 官 の 松 原 廣 志 先 生 に は 辛 抱
強く報告者の留学を見守って下った。感謝とともに、お礼申し上げたい。
こ の 報 告 書 は ロ シ ア・ヴ ラ ジ ミ ル お よ び 周 辺 地 域 、比 較 対 象 に な る ウ ク
ラ イ ナ・キ エ フ 地 域 を 中 心 に 海 外 調 査 に て 収 集 し た 文 献 資 料 及 び 、写 真 資 料
を 精 査 し て ま と め た 。研 究 分 析 は 現 在 進 行 中 で 不 完 全 な 個 所 が あ る こ と を ご
了 解 い た だ く と と も に 、こ の 報 告 書 で は 、報 告 者 が 収 集 し て き た 写 真 資 料 を
できるだけ多く掲載しようと試みた。
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<
<目
目次
次>
>
…………………………………………………………
5
1.都市ヴラジミルの成立
……………………………………………………
7
2.ヴラジミル市発展の 3 段階
3.アレクサンドル・ボゴリュプスキーの政策
……………………………
10
4.周辺都市ボゴリュウボヴォ
……………………………………………………
11
1)ボゴリュウボヴォの地形
……………………………………………………
11
2)ボゴリュボヴォ女子修道院
…………………………………………………
13
3 ) ポ ク ロ フ ・ナ ・ ネ ル リ 教 会
…………………………………………………
16
5.ヴラジミルの教会
…………………………………………………………………
18
1)ウスペンスキー聖堂
…………………………………………………………
18
2)ドミトリエフスキー聖堂
……………………………………………………
20
3)レリーフが持つ世界観
………………………………………………………
22
6.キエフとの関係性
…………………………………………………………………
29
1)ルーシにおけるキエフの立場
………………………………………………
29
2)キエフの教会建築とヴラジミルとの関係
………………………………
30
7.ノヴゴロドとの比較において
…………………………………………………
32
1)教会建築繁栄の背景
…………………………………………………………
32
2)民衆レベルの文化交流
………………………………………………………
33
8.今後の課題と目標
…………………………………………………………………
34
巻末:参考文献一覧、参考資料
……………………………………………………
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4
1.都市ヴラジミルの成立
キ エ フ 公 国 中 心 の ル ー シ に お い て 、 ヴ ラ ジ ミ ル 市 は 11 世 紀 に 北 東 に 建 設
さ れ た 。 北 東 ル ー シ は ヴ ラ ジ ミ ル ・ モ ノ マ フ 1が 領 土 拡 大 の 目 的 で 支 配 下 に
組 み 入 れ た 。実 質 的 に は 、ヴ ラ ジ ミ ル・モ ノ マ フ の 子 ユ リ ー・ド ル ゴ ル ー キ
ー が ド ミ ト ロ フ 市 で 開 拓 宣 言 を し た 後 、都 市 形 成 の 発 展 が は じ ま る 。ヴ ラ ジ
ミ ル 市 が 成 立 す る ま で 、北 東 地 方 で は ス ズ ダ リ や ロ ス ト フ が 有 力 都 市 で あ り 、
北 東 ル ー シ は ロ ス ト フ ・ ス ズ ダ リ と 呼 ば れ て い た 。10 世 紀 か ら 11 世 紀 に か
け て 、ス ズ ダ リ は 豪 族 に よ っ て 繁 栄 し 、ロ ス ト フ は 軍 事 都 市 と し て 成 立 し て
い っ た 。周 辺 の 異 民 族 か ら の 攻 撃 に 対 抗 す る た め 、こ の 頃 の ル ー シ の 都 市 国
家 は 軍 事 国 家 に 成 長 す る 傾 向 が 強 か っ た 。ス ズ ダ リ で は 、各 村 に 軍 隊 を 保 持
し 、 土 地 の 争 奪 を 繰 り 返 し て い た 。 9 世 紀 か ら 10 世 紀 に は ロ ス ト フ や ス ズ
ダ リ の 周 辺 に 村 落 規 模 の 植 民 地 が 多 く 点 在 し た 。ヴ ラ ジ ミ ル 市 も そ の 一 つ で
あ る 。 特 に 、 11 世 紀 に は ロ ス ト フ で は 豪 族 が 住 民 、 商 人 、 手 工 業 者 た ち の
利 益 を 自 分 た ち の も の と し た 。ゆ え に 、奴 隷 の よ う な 生 活 を 強 い ら れ て い た
住 民 や 商 人 、手 工 業 者 た ち は 新 た な 地 へ と 逃 亡 し た 。こ の 新 た な 地 が 後 に ヴ
ラ ジ ミ ル 市 と な る 。ヴ ラ ジ ミ ル 市 は 、石 造 建 築 だ け で な く 木 造 建 築 や 建 築 装
飾 な ど 、建 築 に 携 わ る 仕 事 を 主 要 産 業 と し て 栄 え て い た 。し か し 、有 力 豪 族
か ら の 逃 亡 民 で あ る こ と や 搾 取 に よ る 生 活 苦 が 理 由 で 、ヴ ラ ジ ミ ル 市 の 住 民
達は、自分たちを「小さきものたち」と称した。
多 く の 都 市 が 支 配 者 と 被 支 配 者 、つ ま り 豪 族 と 奴 隷 の 関 係 に よ っ て 構 成
さ れ て い た 。 こ れ を N・ N・ ヴ ォ ロ ニ ン は ア リ ス ト テ レ ス 的 支 配 構 造 と 呼 ん
だ 。し か し 、逃 亡 し た 奴 隷 に よ っ て 都 市 形 成 を 成 し た ヴ ラ ジ ミ ル 市 は 形 成 初
期 に は 身 分 区 別 は 比 較 的 緩 や か だ っ た と 思 わ れ る 。 N・ N・ ヴ ォ ロ ニ ン は も
っ と は っ き り と 、「 ヴ ラ ジ ミ ル は ア リ ス ト テ レ ス 的 な 支 配 構 造 は 持 っ て い な
か っ た 」 と 断 言 し て い る 。 ヴ ラ ジ ミ ル 市 の 発 展 は 速 く 、 1169 年 ヴ ラ ジ ミ ル
市 が キ エ フ 公 国 と の 戦 い に 勝 利 し て 、 ル ー シ の 首 都 と な っ た 。 12 世 紀 の 資
料 に よ る と 、こ の 時 期 、北 東 ル ー シ で 繁 栄 を 見 て い た 都 市 は 、ヴ ラ ジ ミ ル 市
の 他 に ロ ス ト フ 、ス ズ ダ リ 、ペ ヤ ス ラ ヴ リ ・ ザ レ ス キ ー 、ド ミ ト ロ フ 、ウ グ
リチ、ズブトフ、モログ、ユリエフ、モスクワ、ヤロスラヴリ、トヴェリ、
ガ リ チ・メ リ ス キ ー 、ゴ ロ デ ェ ッ ツ な ど で あ る 。フ セ ヴ ォ ロ ド 3 世 以 降 、ヴ
ラ ジ ミ ル「 市 」で は な く 、ヴ ラ ジ ミ ル「 公 国 」と 呼 ぶ こ と に な る 。本 報 告 で
1
ヴ ラ ジ ミ ル ・ モ ノ マ フ( 在 位 111 3 -11 2 5 )は ヤ ロ ス ラ フ 大 公 の 子 フ セ ヴ ォ ロ ド と ビ ザ ン ツ 皇 帝 コ ン
スタンティノス 9 世の娘の間に生まれた。キリスト教意識を政治的イデオロギーに利用し、年代記
編纂に尽力した。また、民族蜂起対策として債務の取り決めを法規するなど、内政改革を行った。
( 参 考:田 中 陽 兒・倉 持 俊 一・和 田 春 樹 編 集『 ロ シ ア 史 1 − 9 ∼ 1 7 世 紀 』 山 川 出 版 社 、1 9 9 5 年 、p .1 2 9
参照)
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は 、主 に ヴ ラ ジ ミ ル 市 及 び 狭 い 範 囲 で の 周 辺 地 域 の み を 扱 う た め 、ヴ ラ ジ ミ
ル 市 と 統 一 す る 。し か し 、下 述 (後 述 )で キ エ フ 公 国 や ノ ヴ ゴ ロ ド 公 国 と の 関
係 を 立 証 し 比 較 を 試 み る 時 、公 国 と 同 じ 規 模 で ヴ ラ ジ ミ ル 市 を 考 察 し て い る 。
1. 䞂䝷䝆䝭䝹䛾㒔 ᕷ ィ ⏬ 7-8 ୡ ⣖ .
I – 䝰䝜䝬䝣⏫ («䝨䝏䜵䝹䝙䛾⏫ »), 1108; II -«ᐙ ␆ 䛾⏫ », 1158-1164
ɝɝ.; III -«᪂ 䛧䛔⏫ », 1158-1164 ɝɝ.; IV-ᇛ ሰ , 1194-1196 ɝɝ.; 1.䝇䝟䝇
ᩍ ఍ , 2. 䝀䜸䝹䜼䝲ᩍ ఍ , I 䜴䝇䝨䞁䝇䜻䞊⪷ ᇽ , 4. 㯤 㔠 䛾㛛 , 5. 䜲䝸
䞊䝘䛾㛛 , 6.㖊 䛾㛛 , 7. 㖟 䛾, 8. 䞂䜷䝹䜺䛾㛛 , 9. 䝗䝭䝖䝸䜶䝣䝇䜻䞊⪷
ᇽ , 10.䞂䜷䝈䝛䝉䞁䝇䜻䞊ಟ 㐨 㝔 , 11. 䝻䝆䝳䝕䜵䝇䝖䞂䜵䞁䝇䜻䞊ಟ 㐨
㝔 , 12. බ 䛾ಟ 㐨 㝔 , 13. ၟ ᴗ 䛾㛛 , 14. 䜲䝽䝜䝣䛾㛛 , 15. ᇛ ሰ 䛾㛛 ,
16. ၟ ኎ ⦾ ┒ 䞂䜷䝈䞂䜱䝆䜵䝙䝲ᩍ ఍
出 典 : ɇ.ɇ.ȼɨɪɨɧɢɧ” ȼɥɚɞɢɦɢɪ, Ȼɨɝɨɥɸɛɨɜɨ, ɋɭɡɞɚɥɶ, ɘɪɶɟɜ-ɉɨɥɶɫɤɨɣ.
Ʉɧɢɝɚ-ɫɩɭɬɧɢɤ ɩɨ ɞɪɟɜɧɢɦ ɝɨɪɨɞɚɦ ȼɥɚɞɢɦɢɪɫɤɨɣ ɡɟɦɥɢ. ” Ɇ.,«ɂɫɤɭɫɫɬɜɨ»,
1967.
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2.ヴラジミル市発展の 3 段階
ま ず ヴ ラ ジ ミ ル・モ ノ マ フ が 北 東 ル ー シ の 基 盤 を 形 成 し た 後 、ヴ ラ ジ ミ
ル ・ モ ノ マ フ の 子 ユ リ ー ・ ド ル ゴ ル ー キ ー 2が 都 市 デ ザ イ ン の ア イ デ ア を 集
約 し 、主 要 な 教 会 や 宮 殿 の 建 設 を 手 が け 、ユ リ ー・ド ル ゴ ル ー キ ー の 子 ア ン
ド レ イ ・ボ ゴ リ ュ プ ス キ ー 3 が 教 会 や 聖 堂 の 建 設 を ユ リ ー ・ド ル ゴ ル ー キ ー か
ら引き継ぎ発展・完成させた。
家計図
出 典 :「 ロ シ ア 原 初 年 代 記 」 国 本 哲 男 ほ か 訳 、 名 古 屋 大 学 出 版 会 、 1987 年
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ユ リ ー ・ ド ル ゴ ル ー キ ー ( 在 位 11 2 0 - 11 5 7 年 ) は ヴ ラ ジ ミ ル ・ モ ノ マ フ の 子 で 領 土 拡 大 に 熱 心 だ
った為、手長公とも称される。彼は北東ルーシに留まらず、南ルーシにも内政干渉した。彼の南方
政策は、多くの戦いを引き起こしたので、自国内を荒廃させる結果をもたらした。
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ア ン ド レ イ ・ ボ ゴ リ ュ プ ス キ ー ( ヴ ラ ジ ミ ル 公 在 位 11 5 7 年 -11 7 4 年 ) は ユ リ ー ・ ド ル ゴ ル ー キ
ー の 子 で 、 1111 年 ス ズ ダ リ に 生 ま れ 、 人 生 の 多 く を 北 東 ル ー シ で 送 っ た 。 自 公 国 の 同 族 者 と 貴 族 層
を 排 除 し 、 ま た 南 方 キ エ フ 諸 公 と の 複 雑 な 外 交 政 策 を 行 い 、 強 力 な 公 権 力 の 確 立 を 目 指 し た 。 11 6 9
年キエフ公国を攻略し、首都をヴラジミル市に移した。熱心なキリスト教者であり、貧者に施しを
し 、 多 く の キ リ ス ト 教 会 建 設 を 命 じ た 。( 一 部 引 用 B ・ O ・ ク リ → ュ チ ェ フ ス キ ー 著 八 重 樫 喬 任 訳 『 ロ
シ ア 史 講 和 1 』、 恒 文 社 、 1 9 7 9 年 、 p . 4 11 参 照 )
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し か し 、 1186 年 に 大 火 災 で 多 く の 建 築 物 が 焼 失 し た こ と を 受 け 、 ア ン
ド レ イ ・ボ ゴ リ ュ プ ス キ ー の 弟 フ セ ヴ ォ ロ ド 3 世 4 が 消 失 し た 建 物 を 再 建 し 、
外 装・内 装 の 装 飾 ま で 施 し た 。彼 の 下 で 都 市 と し て 成 熟 し た 同 市 は 、都 市 設
計 や 建 築 、建 築 物 の 装 飾 に 特 徴 を 示 し て い る 。さ ら に 、600 年 ほ ど 後 の 1778
年 に 、ヴ ラ ジ ミ ル 市 は 再 び 市 中 大 火 災 に 遭 遇 し 、そ の 後 、多 く の 教 会 が 再 建
さ れ た 。 18 世 紀 の 再 建 で は 、 旧 ア ン ド レ イ 公 邸 ( 宮 殿 ) が 、 12 世 紀 に 建 立
さ れ た 時 の 状 態 に 戻 さ れ た 。報 告 者 は 以 上 の 発 展 過 程 を 表 1 の よ う に 3 段 階
にまとめた。
第 1 段 階 は 11 世 紀 か ら 12 世 紀 半 ば ま で で 、都 市 デ ザ イ ン の 形 成 期 に あ
た る 。ヴ ラ ジ ミ ル・モ ノ マ フ が 北 東 ル ー シ を 開 拓 し た 後 、彼 の 北 東 に お け る
活 動 の 拠 点 は ロ ス ト フ で あ っ た 。河 川 の 間 に は 多 く の 植 民 村 が 存 在 し 、手 工
業 が 発 展 し て い た 。 こ こ で 重 要 な 点 は 、 こ れ ら の 植 民 村 で 石 造 建 築 5が 始 ま
っ て い た こ と で あ る 。ロ ス ト フ 南 部 で は 石 造 り の 古 代 建 築 が 繁 栄 す る 。実 は 、
10 世 紀 に は ロ ス ト フ に 新 住 民 が 増 加 し 、 11 世 紀 に は 木 工 業 者 が 聖 堂 や 住 居
に 装 飾 を 施 し た 。特 に 、ヴ ラ ジ ミ ル 市 の 住 人 は 才 能 豊 か で あ っ た の で 、ヴ ラ
ジミル・モノマフはロストフに多数の木造古代聖堂を立てることが出来た。
『 ニ コ ン 年 代 記 』 6に は 、 ロ ス ト フ の 豪 族 が ヴ ラ ジ ミ ル 市 の 住 人 に つ い て 語
っ た こ と が 記 さ れ て い る 。そ の こ と か ら も 、ロ ス ト フ に は 高 度 な 建 築 文 化 が
発 展 し て い た こ と が 伺 え る 。し か し 当 時 は 、石 造 建 築 は そ れ ま で に な い 手 法
を 用 い た 新 し い 文 化 で あ り 、北 東 ル ー シ の 中 で も ヴ ラ ジ ミ ル 以 外 の 都 市 に は
及 ん で い な か っ た 。そ し て 、ロ ス ト フ も 他 公 国 と 同 様 に 、キ エ フ 公 国 の 属 国
と し て の 役 割 を 果 た さ な け れ ば な ら な か っ た 。建 築 文 化 に お い て 、ロ ス ト フ
が 高 度 な 建 築 技 術 を 有 し な が ら キ エ フ 公 国 に 従 属 し 続 け た こ と は 、後 年 の ヴ
ラジミル市との決定的な違いである。
第 2 段 階 は 12 世 紀 半 ば か ら 13 世 紀 初 頭 の 都 市 建 設 期 に あ た る 。そ の 前
半 の ア ド ン レ イ・ボ ゴ リ ュ プ ス キ ー 治 世 の 建 設 ラ ッ シ ュ 期 を 都 市 建 設 前 期 と
し 、 フ セ ヴ ォ ロ ド 3 世 治 世 の 建 設 ラ ッ シ ュ 、 特 に 1185 年 の ヴ ラ ジ ミ ル 市 中
大火災以降の再建時期を都市建設後期とする。ウスペンスキー聖堂(日本
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フ セ ヴ ォ ロ ド 3 世( ヴ ラ ジ ミ ル 公 後 キ エ フ 公 在 位 11 5 4 年 ― 1 2 1 2 年 )は ユ リ ー ・ ド ル ゴ ル ー キ ー
の子で、アンドレイ・ボゴリュプスキーの弟。子沢山であったため、大巣公とも称される。兄アン
ド レ イ・ボ ゴ リ ュ プ ス キ ー の 統 治 を 引 き 継 ぎ 、北 東 ル ー シ を 統 治 し つ つ 、公 の 世 襲 問 題 に 尽 力 し た 。
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ル ー シ の 建 築 物 の 主 流 は 木 造 建 築 で あ っ た 。 12 世 紀 、 石 造 建 築 は キ エ フ 公 国 、 ノ ヴ ゴ ロ ド 公 国 、
ヴラジミルにしか見られない。
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「『 ニ コ ン 年 代 記 』」は 1 5 2 0 年 代 末 に ダ ニ ー ル 府 主 教 が 編 纂 し た も の と さ れ る 。9 ∼ 1 6 世 紀 を 扱 い 、
年 代 記 全 集 の 9 巻 か ら 1 4 巻 に 収 録 さ れ て い る 。き わ め て 豊 富 な 内 容 と こ こ に し か 出 て こ な い 記 述 な
ど が あ っ て 、先 行 す る 諸 年 代 記 の 集 大 成 的 位 置 を 占 め る 。1 7 世 紀 の 総 主 教 ニ コ ン 所 蔵 の 代 表 的 写 本
からこの名が付けられた。
( 引 用 : 田 中 陽 兒 ・ 倉 持 俊 一 ・ 和 田 春 樹 編 集『 ロ シ ア 史 1 − 9 ∼ 1 7 世 紀 』、
山 川 出 版 、 1 9 9 5 年 、 p .9 2 参 照 )
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名 : 生 神 女 就 寝 聖 堂 )を 始 め 、教 会 や 聖 堂 、公( 支 配 者 )の 宮 殿 が 相 次 い で
建 設 さ れ た 。 年 代 記 ( 年 代 記 名 不 明 ) 7 に は 、 1185 年 ヴ ラ ジ ミ ル 市 中 が 大 火
災 に 見 舞 わ れ た と 記 さ れ て い る 。 そ の 火 災 に よ り 32 に も 及 ぶ 教 会 ・ 聖 堂 が
焼 失 し た 。そ の た め 、フ セ ヴ ォ ロ ド 3 世 は 1186 年 か ら 1189 年 に か け て ウ ス
ペンスキー聖堂を再建した。
第 3 段 階 は 都 市 再 建 期 で あ り 、 1778 年 ヴ ラ ジ ミ ル 市 中 の 大 火 災 以 降 再
建が進んだ。
1157 年 ゲ オ ル ギ イ 聖 堂 が 建 設 さ れ た 場 所 は 、ユ リ ー ・ド ル ゴ ル ー キ ー 公
の 邸 宅 で あ っ た 。1778 年 の 大 火 災 で 焼 失 し た 後 、1783 年 か ら 1784 年 の 再 建
によって現在はゲオルギエフスカヤ教会として残存している。このように、
焼 失・再 建 を 繰 り 返 す 中 で 、建 物 の 名 前 や 役 割 が 変 わ っ て い た こ と は 興 味 深
い。表 1 はヴラジミル市発展の各段階をまとめたものである。
ゲオルギエフスカヤ教会
ゲオルギエフスカヤ教会
報 告 者 撮 影 2010 年
報 告 者 撮 影 2010 年
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引 用 : N・ N ・ Vo r o n in ” Z o d ch e s t o v o S ev e r o -Vo s t o c h n o i R u s i X I I - X V v e k o v ” M
引 用 : N・ N ・ Vo r o n in ” Z o d ch e s t o v o S ev e r o -Vo s t o c h n o i R u s i X I I - X V v e k o v ” M
ɇ . ɇ . ȼ ɨ ɪ ɨ ɧ ɢ ɧ ” Ɂ ɨɞ ɱ ɟ ɫ ɬ ɜ ɨ ɋ ɟ ɜɟɪ ɨ - ȼ ɨ ɫ ɬɨɱ ɧ ɨ ɣ Ɋ ɭ ɫ ɢ X I I - X V ɜɜ . ” Ɇ . 1 9 6 1
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1961
1961
<表1>
ヴラジミル発展の過程
段階
年代
期名
第 1 段
12 世 紀 ま
都市デザイン
階
で
の形成期
12 世 紀 半
特徴
・植民村で石造建築が始まる
・ 11 世 紀 に 木 工 業 者 が 聖 堂 や 住 居 に
装飾を施す
前
第 2 段
ば∼
都 市 建 設
期
階
13 世 紀 初
期
後
頭
・教会、聖堂、宮殿の建設ラッシュ
・ 1185 年 の 火 災 以 後 の 復 興 ・ 再 建
期
・ 1778 年 の 大 火 災 で 多 く の 建 築 物 が
第 3 段
1778 年 以
階
降
焼失
都市再建期
・再建が進み、建物の名前や役割を
変えて存在
本報告では第 1 段階と第 2 段階を中心に取り扱う。
3.アレクサンドル・ボゴリュプスキーの政策
ユ リ ー・ド ル ゴ ル ー キ ー の 次 男 と し て ア レ ク サ ン ド ル・ボ ゴ リ ュ プ ス キ ー
は 1111 年 に 北 東 ル ー シ 、 現 在 の ス ズ ダ リ に 生 ま れ た 。 彼 の 母 は ポ ロ ヴ ェ ツ
族 長 ア エ プ イ の 娘 で あ っ た 。ゆ え に 、ア ン ド レ イ の 肖 像 画 を 見 る と 、ア ジ ア
的 な 容 貌 を し て い る 。彼 は 生 涯 の 多 く を 北 東 ル ー シ で 過 ご し た 。彼 は 、幼 少
期 よ り キ リ ス ト 教 の 信 仰 が 深 く 、宗 教 的 な 書 物 に よ く 親 し ん で い た 。ア ン ド
レ イ ・ ボ ゴ リ ュ プ ス キ ー は 父 で あ る ユ リ ー ・ド ル ゴ ル ー キ ー と 同 様 に 、 多 く
の 教 会 や 聖 堂 を 建 設 し た 。ウ ス ペ ン ス キ ー 聖 堂 に「 聖 母 マ リ ア 」の イ コ ン を
納 め る 際 、建 て ら れ た ば か り の 門 が 崩 れ 多 く の 民 衆 が 下 敷 き な る 惨 劇 が あ っ
た 。彼 は 教 会 の 祭 壇 の 前 で 、自 分 の 命 を 持 っ て 民 衆 の 命 を 助 け る よ う に 祈 っ
た 。す る と 、門 の 下 敷 き に な っ た 民 衆 は 無 事 で あ っ た 。こ の と き の ビ ザ ン テ
ィ ン か ら 持 ち 帰 っ た「 聖 母 マ リ ア 」の イ コ ン に ち な ん で 、彼 は「 神 の 愛 」を
意 味 す る ボ ゴ リ ュ プ ス キ ー の 異 名 を 持 つ こ と に な っ た 。 1154 年 に 敵 手 イ ジ
ャ ス ラ フ の 死 後 、ユ リ ー・ド ル ゴ ル ー キ ー は キ エ フ 公 国 の 公 位 に 坐 し 、1157
年 彼 が 死 を 迎 え る ま で 、そ の 地 位 を 保 持 す る こ と が で き た 。彼 は 、自 分 が キ
エ フ 公 国 を 治 め る と 、キ エ フ 近 郊 の チ ェ ル ニ ゴ フ の ヴ ィ シ ィ ゴ ロ ド か ら ロ ス
チ ス ラ フ を 追 い 出 し 、そ の 土 地 に 信 頼 の 厚 い ア ン ド レ イ・ボ ゴ リ ュ プ ス キ ー
を 据 え た 。し か し ユ リ ー・ド ル ゴ ル ー キ ー の 目 論 見 は 成 功 せ ず 、ア ン ド レ イ・
ボゴリュプスキーは、北東ルーシ・スズダリへ逃げ帰った。
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1157 年 に ユ リ ー ・ ド ル ゴ ル ー キ ー が キ エ フ で 死 亡 す る 。 ユ リ ー ・ ド ル ゴ
ル ー キ ー が 死 亡 し て す ぐ に 、ア ン ド レ イ・ボ ゴ リ ュ プ ス キ ー は ロ ス ト フ・ス
ズ ダ リ 公 国 を 掌 握 し た 。ア ン ド レ イ・ボ ゴ リ ュ プ ス キ ー は ロ ス ト フ に も ス ズ
ダ リ に も 留 ら ず 、自 分 の 好 き な 場 所 で あ る ヴ ラ ジ ミ ル 市 に 移 動 し た 。結 局 の
と こ ろ 、ロ ス ト フ は 有 力 豪 族 が 実 権 を 握 っ て お り 、ス ズ ダ リ は 、ユ リ ー・ド
ル ゴ ル ー キ ー の 強 大 な 権 威 が 残 っ て い た 。だ か ら 、ア ン ド レ イ・ボ ゴ リ ュ プ
ス キ ー は こ れ ら の 都 市 で は 、政 治 的 独 立 を 導 け る か ど う か を 比 較 し て 、自 分
の大胆な計画を実施するために完璧に公の権力を要求できないと判断した。
ア ン ド レ イ・ボ ゴ リ ュ プ ス キ ー は 多 く の 豪 族 家 族 を ロ ス ト フ や ス ズ ダ リ か ら
追 放 し た 。同 様 に 自 分 の 異 母 兄 弟 た ち を 追 い 出 し た 。 こ の と き 、異 母 兄 弟 4
人 と と も に 、ユ リ ー・ド ル ゴ ル ー キ ー の 第 2 番 目 の 妻 は 兄 弟 た ち と 謀 を し た
た め に 、ア ン ド レ イ は 彼 ら を 出 身 地 で あ る ビ ザ ン テ ィ ン の コ ン ス タ ン テ ィ ノ
ー プ ル へ 追 放 し た 。ア ン ド レ イ・ボ ゴ リ ュ プ ス キ ー は 、自 分 の 血 縁 者 で あ っ
て も 容 赦 な く 、土 地 の 相 続 は 均 等 に 分 割 す る よ う に し た 。彼 は 、血 縁 の 優 遇
措 置 を 無 視 し 、厳 格 な 社 会 基 盤 を 築 こ う と し た た め 、血 縁 者 は も ち ろ ん の こ
と 、ユ リ ー・ド ル ゴ ル ー キ ー の 上 級 従 士 た ち か ら も 、恨 み を 買 う こ と に な っ
た 。彼 は 、自 分 の 最 初 の 妻 の 兄 弟 で 身 分 あ る 従 士 ク チ コ ヴ ィ ッ チ を 処 刑 す る
が 、 の ち に 、 1174 年 、 被 処 刑 者 の 兄 弟 や 従 士 た ち の 陰 謀 に よ っ て 、 ア ン ド
レ イ・ボ ゴ リ ュ プ ス キ ー は 暗 殺 さ れ る 。ア ン ド レ イ・ボ ゴ リ ュ プ ス キ ー の 暗
殺 現 場 は 、も と も と 彼 の 寝 室 で あ っ た 場 所 で 、現 在 は 、ボ ゴ リ ュ ボ ヴ ォ の 女
子修道院に所在する。
ユ リ ー・ド ル ゴ ル ー キ ー は 南 方 政 策 に 熱 心 で あ っ た た め 、内 政 は 常 に 問 題
を 抱 え る こ と に な っ た 。ア レ ク サ ン ド ル・ボ ゴ リ ュ プ ス キ ー は 父 の 失 敗 を 踏
まえ、北東ルーシによるキエフ統治を現実化した。
4.周辺都市ボゴリュボヴォ
1)ボゴリュボヴォの地形
ボ ゴ リ ュ ボ ヴ ォ と い う 町 は ヴ ィ シ ィ ゴ ラ ド を 想 起 さ せ る 。ボ ゴ リ ュ ボ
ヴ ォ は ク リ ャ ジ ム イ 河 か ら 標 高 15 メ ー ト ル の 場 所 に あ り 、 ロ ス ト フ ・ ス ズ
ダ リ 公 国 の 首 都 ヴ ラ ジ ミ ル の 近 く に 位 置 す る 。ヴ ィ シ ィ ゴ ラ ド も 同 じ よ う に
ド ニ エ プ ル 河 川 沿 い で 、キ エ フ 公 国 の 首 都 キ エ フ の 近 く に 位 置 す る 。ア レ ク
サ ン ド ル・ボ ゴ リ ュ プ ス キ ー は キ エ フ へ の 対 抗 意 識 は 激 し く 、キ エ フ 公 国 制
圧後は、首都をキエフからヴラジミルに移した。
ボ ゴ リ ュ ボ ヴ ォ は ロ ス ト フ・ス ズ ダ リ 公 国 の 水 上 主 要 幹 線 で あ る ネ ル リ 川
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沿 い に 創 設 さ れ た 新 し い 町 で あ り 、ロ ス ト フ・ス ズ ダ リ 公 国 と ヴ ォ ル ガ 川 と
の 商 業 ル ー ト の 重 要 な 関 所 に も な っ て い た 。ア ン ド レ イ・ボ ゴ リ ュ プ ス キ ー
は<自分が石の町を創造した>と言ったことが、年代記(年代記名確認中)
に 残 さ れ て い る と ビ ク ト ル・パ ホ モ フ は 郷 土 史 資 料 に 記 し て い る 。年 代 記 に
残 さ れ て い る こ の ア ン ド レ イ ・ボ ゴ リ ュ プ ス キ ー の 発 言 を 長 い 間 、 歴 史 家 た
ち は 信 用 し て い な か っ た が 、1934 年 か ら 1954 年 の 遺 跡 調 査 に よ っ て 、年 代
記 に 信 憑 性 が あ る こ と が 明 ら か に な っ た 。ボ ゴ リ ュ ボ ヴ ォ 修 道 院 基 礎 地 盤 か
ら 、白 石 の プ レ ー ト が 見 つ か り 、も っ と 厚 い 西 側 の 壁 、主 要 な 入 り 口 の 近 く
の壁の基礎も白石であった。
ま た 、 リ ベ ジ 川 を 渡 す 橋 の 下 に 、 古 代 ヴ ラ ジ ミ ル の 道 と 、 12 世 紀 の 銀 の
橋 の 基 盤 が 横 た わ っ て い る 。ヴ ラ ジ ミ ル に 通 ず る 道 は キ エ フ や 諸 都 市 と つ な
ぐ 重 要 な 役 割 を 果 た し た 。特 に 、ヴ ラ ジ ミ ル の 交 易 は 盛 ん で あ り 、公 国 の 枠
組みを超えて諸都市との間で、人や物資が行き交った。
ボゴリュボヴォ景観
報 告 者 撮 影 2010 年
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2)ボゴリュボヴォ女子修道院
N ・ N ・ ヴ ォ ロ ニ ン の 意 見 に よ る と 、ボ ゴ リ ュ ボ フ ス キ ー 宮 殿( 現 在
の 降 誕 聖 母 聖 堂 )は よ く で き た 公 所 有 の 建 物 で あ る 。素 晴 ら し い 公 の 宮 殿 の
白 壁 と 金 メ ッ キ は ロ シ ア の 伝 統 に の っ と っ た も の で あ っ た 。間 取 り は 、モ ニ
ュ メ ン ト 的 な 宮 殿 の ア ン サ ン ブ ル に お い て 、ロ シ ア 建 築 を 発 展 さ せ た こ と は
な か っ た 。 た と え ば 、 12 世 紀 の ガ リ チ で は 、 丸 太 造 り の 聖 堂 は 木 造 建 築 か
ら 石 造 建 築 へ 移 行 し た 。居 住 場 所 を 備 え た 宮 殿 の 教 会 < 半 神 聖 > な も の と し
て 使 わ れ た 。そ れ こ そ 、納 屋 で あ っ た 。ボ ゴ リ ュ ボ ヴ ォ で は そ の 間 取 り 図 は
白 石 の も と 、全 体 を 具 体 化 し 、白 石 と と も に 発 達 し た 。ボ ゴ リ ュ ボ ヴ ォ の 宮
殿建築とヴラジミルのウスペンスキー聖堂のフォームは多くの類似点があ
り 関 係 性 を う か が わ せ る 。ボ ゴ リ ュ ボ ヴ ォ の 宮 殿 建 築 か ら ウ ス ペ ン ス キ ー 聖
堂 は 技 術 や 価 値 観 や 創 造 性 を 受 け 継 つ い だ 。し か し 、ボ ゴ リ ュ ボ ヴ ォ は 俗 的
な ア ン サ ン ブ ル に お い て 、も っ と 強 く 、装 飾 豊 富 な 建 築 の 魅 力 を 表 し て い る 。
ボ ゴ リ ュ ボ ヴ ォ 修 道 院・ロ ジ ュ デ ェ ス ト ヴ ェ ン ス キ ー 聖 堂 の 渡 り 廊 下
の 壁 は 、修 道 院 の 写 実 を 工 芸 的 に 描 い て 飾 ら れ 、ア ン ド レ イ・ボ ゴ リ ュ プ ス
キ ー 公 殺 害 を 壁 に 再 現 し て い る 。さ ら に 、1 階 に あ る ア ン ド レ イ・ボ ゴ リ ュ
プ ス キ ー が 暗 殺 さ れ た 部 屋 が 、か つ て 、彼 の 寝 室 で あ っ た こ と を 伝 え て い る 。
公 の 寝 室 が 、1 階 の 入 り 口 近 く に あ っ た こ と は 、非 常 に 珍 し い 。塔 を 中 心 に
し て 、多 く の 小 さ な 部 屋 を 渡 り 廊 下 で つ な い で い た か ら で あ る 。革 命 前 の 研
究 者 た ち は 公 の 小 さ い 居 住 間 と 塔 を つ な ぐ 、簡 単 な 張 り 出 し た 木 製 の 渡 り 廊
下 が こ こ に 作 ら れ た と 考 え た 。し か し 、遺 跡 を 見 る と 、木 製 の も の で は な く 、
白石の遺物が宮殿へ延びた渡り廊下として地中に保存されていたことが明
ら か に な っ た 。こ の 遺 跡 に よ っ て 、ア ン ド レ イ・ボ ゴ リ ュ プ ス キ ー が「 自 分
が 石 の 町 を 創 造 し た 」と い う 発 言 を 裏 付 け る 証 拠 を 1 つ 追 加 さ せ る こ と に な
った。
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䝪䝂䝸䝳䝪䞂䜷䛾ᐑ Ẋ . 1158—1165. ɇ.ɇ.ȼɨɪɨɧɢɧ 䛻䜘䜛タ ィ ᵓ ᝿ ᅗ
ボ ゴ リ ュ ボ ヴ ォ 宮 殿 聖 堂 . 12 世 紀 .
ɇ.ɇ.ȼɨɪɨɧɢɧ に よ る 設 計 構 想 図
出 典 : ɇ.ɇ.ȼɨɪɨɧɢɧ” ȼɥɚɞɢɦɢɪ, Ȼɨɝɨɥɸɛɨɜɨ, ɋɭɡɞɚɥɶ, ɘɪɶɟɜ-ɉɨɥɶɫɤɨɣ.
Ʉɧɢɝɚ-ɫɩɭɬɧɢɤ ɩɨ ɞɪɟɜɧɢɦ ɝɨɪɨɞɚɦ ȼɥɚɞɢɦɢɪɫɤɨɣ ɡɟɦɥɢ. ” Ɇ., «ɂɫɤɭɫɫɬɜɨ»,
1967.
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アンドレイ・ボゴリュプスキーが暗殺された場所
報 告 者 撮 影 2010 年
ボゴリュウボヴォの女子修道院
12 世 紀 の レ リ ー フ が 残 る 渡 り 廊 下 の 壁
報 告 者 撮 影 2010 年
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3 ) ポ ク ロ フ ・ナ ・ ネ ル リ 教 会
ポ ク ロ フ ・ ナ ・ ネ ル リ 教 会 は 、 ボ ゴ リ ュ ボ ヴ ォ か ら 1.5 キ ロ メ ー ト ル
離 れ た と こ ろ に 所 在 す る 。ア ン ド レ イ・ボ ゴ リ ュ プ ス キ ー が 、戦 死 し た 息 子
イ ジ ャ ス ラ フ を 想 い 、追 悼 の た め に こ の ポ ク ロ フ ・ナ ・ネ ル リ 教 会 を 建 設 し た 。
ポ ク リ フ ・ナ ・ネ ル リ と は 、 ネ ル リ 川 沿 い の ポ ク ロ フ 教 会 と い う 意 味 で あ る 。
報 告 者 撮 影 2010 年
ポクロフ・ナ・ネルリ教会
ポ ク ロ フ ・ ナ ・ ネ ル リ 教 会 は 、不 幸 に も 、経 過 し た 800 年 間 を 1 つ の
記 念 碑 と し て 過 ご す こ と は な か っ た 。建 築 の 下 部 を 見 る と 、重 要 な 部 分 が 失
わ れ 、 中 心 の 建 物 だ け が 残 存 し て い る 。 さ ら に 、 1784 年 に ボ ゴ リ ュ ボ ヴ ォ
の 修 道 院 長 が 修 道 院 の 鐘 楼 を 建 設 す る た め に 、ポ ク ロ フ・ナ・ネ ル リ 教 会 か
16
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ら 材 料( 主 に 白 石 )を 取 り 出 す こ と の 許 し を 請 う た 。彼 は 、宗 教 長 か ら そ の
許 可 を 受 け 取 っ た が 、そ の 切 り 出 し は 、う ま く い か な か っ た 。切 り 出 す た め
の 請 負 人 た ち の 費 用 が 、掛 か り す ぎ た か ら で あ る 。建 物 は 崩 壊 を 免 れ た 。1803
年 、ポ ク ロ フ・ナ・ネ ル リ 教 会 は そ れ ま で 見 ら れ た 古 い 屋 根 に 代 わ っ て 、今
あ る 球 根 状 8の 頭 部 に な っ た 。 半 世 紀 が 過 ぎ た 頃 に は 、 教 会 か ら 北 へ 簡 素 な
即 席 レ ン ガ 造 り の 門 が 鐘 楼 と と も に 、そ れ ら の 下 に あ っ た 。そ の よ う に 、修
道 院 の ロ ジ ュ デ ェ ス ト ヴ ェ ン ス キ ー 聖 堂 の「 修 復 」に ま つ わ る 疑 問 と の 関 連
において、ポクロフ・ナ・ネルリ教会周辺の最初の遺跡が見えてくる。
ポクロフ・ナ・ネルリ教会.
ɇ.ɇ.ȼɨɪɨɧɢɧ に よ る 当 初 設 計 構 想 図
出 典 : ɇ.ɇ.ȼɨɪɨɧɢɧ” ȼɥɚɞɢɦɢɪ, Ȼɨɝɨɥɸɛɨɜɨ, ɋɭɡɞɚɥɶ, ɘɪɶɟɜ-ɉɨɥɶɫɤɨɣ.
Ʉɧɢɝɚ-ɫɩɭɬɧɢɤ ɩɨ ɞɪɟɜɧɢɦ ɝɨɪɨɞɚɦ ȼɥɚɞɢɦɢɪɫɤɨɣ ɡɟɦɥɢ. ” Ɇ., «ɂɫɤɭɫɫɬɜɨ»,
1967.
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球根状の屋根は聖書創世記に出てくるエヴァが食した知恵のりんご(果物)を表している。
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5.ヴラジミルの教会
1)ウスペンスキー聖堂
ウ ス ペ ン ス キ ー 聖 堂 も 上 記 の 現・ゲ オ ル ギ エ フ ス カ ヤ 教 会 と 同 様 の 経
緯 を 持 つ 。 1158 年 か ら 1160 年 に か け て 、 ア ン ド レ イ ・ ボ ゴ リ ュ プ ス キ ー の
命 で ア ン ド レ イ 公 の 聖 堂 と し て 建 設 さ れ た が 、 1185 年 に 火 災 に よ っ て 焼 失
し 、1185 年 か ら 1189 年 に フ セ ヴ ォ ロ ド 3 世 に よ っ て ウ ス ペ ン ス キ ー 聖 堂 と
し て 再 建 さ れ た 。フ セ ヴ ォ ロ ド 3 世 は 、白 石 の 外 壁 を 補 強 し 、フ レ ス コ 画 な
ど 内 部 を 新 し く し た 。 ウ ス ペ ン ス キ ー 聖 堂 は そ の 後 、 1238 年 に タ タ ー ル か
ら 襲 撃 ( タ タ ー ル の く び き ) を 受 け 、 1536 年 に は 内 部 が 焼 け た が 、 1862 年
ゲ オ ル ギ ヤ 聖 堂 の レ ン ガ を 利 用 し て 壁 を 補 強 し 、1888 年 か ら 1891 年 に か け
て、元の状態に戻した。
<表2>ウスペンスキー聖堂建築過程
年代
1158 年 -1160 年
1185 年
1185 年 -1189 年
1238
1536
1862
1888
年
年
年
年 -1891 年
建築過程
アンドレイ公の聖堂として建
立
市中大火災にて焼失
ウスペンスキー聖堂として再
建
タタールから襲撃を受ける
聖堂内部が焼失
白石外壁の補強
原状に復元
支配者
アンドレイ・ボゴリュプス
キー
フセヴォロド 3 世
フセヴォロド 3 世
ユリー3 世?ヤロスラフ?
アレクサンドル 2 世
アレクサンドル 3 世
ヴラジミル市のウスペンスキー聖堂はノヴゴロド公国のディシャティ
ン 教 会 ( 十 分 の 一 税 教 会 ) 9や キ エ フ 公 国 の ウ ス ペ ン ス キ ー 聖 堂 に よ く 似 て
い る 。キ エ フ 公 国 の ウ ス ペ ン ス キ ー 聖 堂 は ビ ザ ン テ ィ ン 帝 国( 現 ト ル コ )の
ア ヤ ・ソ フ ィ ア 聖 堂 を 模 倣 し て い る 。 一 見 、 ヴ ラ ジ ミ ル 市 の ウ ス ペ ン ス キ ー
聖 堂 も ア ヤ ・ ソ フ ィ ア 聖 堂 の 模 倣 の よ う に 思 え る が 、歴 史 的 背 景 は 上 記 の 2
つ の 教 会・聖 堂 と は 全 く 異 な る 。な ぜ な ら 、ヴ ラ ジ ミ ル 市 の ウ ス ペ ン ス キ ー
聖 堂 は キ エ フ 府 主 教 の 承 認 な し に 設 計 し 、建 設 を 行 っ た か ら で あ る 。そ の こ
と に よ っ て 、一 時 期 礼 拝 を 禁 じ ら れ る こ と に な っ た 。ゆ え に 、ヴ ラ ジ ミ ル 市
9
現存していない
18
18
のウスペンスキー聖堂はキエフからの独立の象徴であった。
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出 典 : ɇ.ɇ.ȼɨɪɨɧɢɧ” ȼɥɚɞɢɦɢɪ, Ȼɨɝɨɥɸɛɨɜɨ, ɋɭɡɞɚɥɶ, ɘɪɶɟɜ-ɉɨɥɶɫɤɨɣ.
Ʉɧɢɝɚ-ɫɩɭɬɧɢɤ ɩɨ ɞɪɟɜɧɢɦ ɝɨɪɨɞɚɦ ȼɥɚɞɢɦɢɪɫɤɨɣ ɡɟɦɥɢ. ” Ɇ.,«ɂɫɤɭɫɫɬɜɨ»,
1967.
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報 告 者 撮 影 2010 年
ウスペンスキー聖堂
2)ドミトリエフスキー聖堂
2)ドミトリエフスキー聖堂
ヴ ラ ジ ミ ル 年 代 記 に は 、ド ミ ト リ エ フ ス キ ー 聖 堂 建 設 開 始 の 確 か な 記 録 は
ヴ ラ ジ ミ ル 年 代 記 に は 、ド ミ ト リ エ フ ス キ ー 聖 堂 建 設 開 始 の 確 か な 記 録 は
残 さ れ て い な い 。た だ 、同 聖 堂 の 建 設 者 フ セ ヴ ォ ロ ド 3 世 の 死 亡 記 事 で 、彼
残 さ れ て い な い 。た だ 、同 聖 堂 の 建 設 者 フ セ ヴ ォ ロ ド 3 世 の 死 亡 記 事 で 、彼
の 思 い 出 と し て 、「 フ セ ヴ ォ ロ ド 3 世 は 自 分 の 宮 殿 に 殉 教 者 聖 ド ミ ト リ ー の
の 思 い 出 と し て 、「 フ セ ヴ ォ ロ ド 3 世 は 自 分 の 宮 殿 に 殉 教 者 聖 ド ミ ト リ ー の
< 素 晴 ら し い 教 会 > を 築 い た 。 教 会 は 数 々 の イ コ ン や 写 実 画 で 飾 ら れ た 。」
< 素 晴 ら し い 教 会 > を 築 い た 。 教 会 は 数 々 の イ コ ン や 写 実 画 で 飾 ら れ た 。」
と 記 載 さ れ て い る 。よ っ て 、建 設 時 期 が 定 か で は な い 。し か し 、関 係 あ る 十
と 記 載 さ れ て い る 。よ っ て 、建 設 時 期 が 定 か で は な い 。し か し 、関 係 あ る 十
分 に 信 用 で き る 記 録 の デ ー タ は 全 て 同 聖 堂 の 建 設 時 期 を 1194 年 か ら 1197 年
分 に 信 用 で き る 記 録 の デ ー タ は 全 て 同 聖 堂 の 建 設 時 期 を 1194 年 か ら 1197 年
の 間 で 定 義 付 け て い る 。聖 堂 の 最 後 の 歴 史 は 少 し ば か り 厳 し い も の で あ っ た 。
の 間 で 定 義 付 け て い る 。聖 堂 の 最 後 の 歴 史 は 少 し ば か り 厳 し い も の で あ っ た 。
ド ミ ト リ ー ・ ド ン ス コ イ が 、 聖 堂 に つ い て 注 意 深 く 確 認 し た と こ ろ 、 15 世
ド ミ ト リ ー ・ ド ン ス コ イ が 、 聖 堂 に つ い て 注 意 深 く 確 認 し た と こ ろ 、 15 世
紀 か ら 16 世 紀 に は フ セ ヴ ォ ロ ド 3 世 公 の 宮 殿 は ま だ 存 在 し て い な か っ た 。
紀 か ら 16 世 紀 に は フ セ ヴ ォ ロ ド 3 世 公 の 宮 殿 は ま だ 存 在 し て い な か っ た 。
現 在 の ド ミ ト リ エ フ ス キ ー 聖 堂 は 16 世 紀 に も 18 世 紀 に も 火 事 の 被 害 に あ
現 在 の ド ミ ト リ エ フ ス キ ー 聖 堂 は 16 世 紀 に も 18 世 紀 に も 火 事 の 被 害 に あ
っ て い な い 。し か し 、最 終 的 に は 、結 果 と し て 1837 年 か ら 1839 年 に と て も
っ て い な い 。し か し 、最 終 的 に は 、結 果 と し て 1837 年 か ら 1839 年 に と て も
残 念 な 修 復 が 行 わ れ て い る 。ニ コ ラ イ 1 世 の 要 請 に 応 じ て 、原 始 的 な 景 観 を
残 念 な 修 復 が 行 わ れ て い る 。ニ コ ラ イ 1 世 の 要 請 に 応 じ て 、原 始 的 な 景 観 を
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加 味 さ せ た 。そ の こ と で 、同 聖 堂 は 興 味 深 い 階 段 状 の 塔 と ギ ャ ラ リ ー を 喪 失
した。
同 聖 堂 は 12 世 紀 に 流 行 し た 、 小 さ な 聖 堂 で あ る 。 都 市 流 入 者 た ち や 封 建
階 級 者 の 宮 殿 が 建 て ら れ た よ う に 、 4 本 柱 を 持 つ 12 世 紀 の 典 型 的 な 建 築 物
である。
同 聖 堂 は 1952 年 に 修 復 を し て い る が 、 こ の 情 報 は N・ N・ ヴ ォ ロ ニ ン が 研
究 論 文 を 発 表 し た 1961 年 か ら 遡 っ て 、最 終 履 歴 で あ る 。報 告 者 は 1999 年 に
も 、こ の 聖 堂 を 訪 れ て い る が 、修 復 工 事 の た め 十 分 に 調 査 で き な か っ た こ と
を 記 憶 し て い る 。 1961 年 か ら 1999 年 ま で の 修 復 回 数 は こ の 海 外 調 査 で は 、
追求することは出来なかった。
報 告 者 撮 影 2010 年
ドミトリエフスキー聖堂
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3)レリーフが持つ世界観
聖 堂 の 外 壁 全 面 に レ リ ー フ を 施 し て い る こ と は 、ヴ ラ ジ ミ ル 市 の 建 築
の 大 き な 特 徴 で あ る 。 残 念 な が ら 、 市 中 を 何 度 も 見 舞 っ た 大 火 災 や 、 14 世
紀 の タ タ ー ル 襲 撃 、ま た は ソ 連 時 代 の 宗 教 弾 圧 に よ っ て 聖 堂 が 消 失 し 、多 く
は 残 存 し て い な い 。従 っ て 、一 般 化 し た 見 解 を 提 起 す る こ と は 難 し い が 、個
別 に 検 証 を し な が ら 、レ リ ー フ に 表 現 さ れ た 世 界 観 を 示 し た い 。以 下 に 挙 げ
る 3 つの例はレリーフのテーマがはっきりしている。
第 1 に 、ウ ス ペ ン ス キ ー 聖 堂 の レ リ ー フ を と り 上 げ る 。レ リ ー フ の テ ー
マ は 、「 マ ケ ド ニ ア の ア レ ク サ ン ド ル の 昇 天 」「 セ バ ス チ ャ ン と 40 人 の 殉 教
者 達 」「 炎 の 中 の 3 人 の 少 年 達 」 で あ る 。 ド ミ ト リ エ フ ス キ ー 聖 堂 に も 「 マ
ケ ド ニ ア の ア レ ク サ ン ド ル の 昇 天 」と「 炎 の 中 の 3 人 の 少 年 達 」の テ ー マ は
描かれている。
「 マ ケ ド ニ ア の ア レ ク サ ン ド ル の 昇 天 」の テ ー マ に つ い て は 、
現 時 点 で 報 告 者 は ま だ 出 所 を 明 ら か に す る こ と は で き な い 。「 セ バ ス チ ャ ン
と 40 人 の 殉 教 者 達 」に つ い て は 、次 の よ う な 事 実 が 考 え ら れ る 。す な わ ち 、
1160 年 代 、 40 人 か ら な る 巡 礼 団 が ノ ヴ ゴ ロ ド 市 か ら 聖 地 エ ル サ レ ム に 出 か
け た こ と が 年 代 記 ( 年 代 記 名 不 明 ) 10に 記 録 さ れ て い る 。 こ の 巡 礼 団 は エ ル
サレムから聖者の遺骨を持ち帰ったという。
「 セ バ ス チ ャ ン と 40 人 の 殉 教 者
達 」は そ の 時 の キ リ ス ト 教 巡 礼 者 の 一 大 事 件 を テ ー マ に 取 り 扱 っ た と 報 告 者
は 推 察 す る 。さ ら に 、
「 炎 の 中 の 3 人 の 少 年 達 」は 1185 年 の ヴ ラ ジ ミ ル 市 中
の大火災を表現している。
「マケドニアのアレクサンドルの昇天」
出 典 : ǻ.ǻ.ǰȜȞȜțȖț”ǵȜȒȥȓȟȠȐȜ ǿȓȐȓȞȜ-ǰȜȟȠȜȥțȜȗ ǾȡȟȖ XII-XV ȐȐ. ” Ǻ.
1961
10
田 中 陽 兒 ・ 倉 持 俊 一 ・ 和 田 春 樹 編 集 『 ロ シ ア 史 1 − 9 ∼ 1 7 世 紀 』、 山 川 出 版 、 1 9 9 5 年 、 p .4 4 3 か ら
導かれもので、年代記名は現在確認作業中である。
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「炎の中の 3 人の少年達」
出 典 : ǻ.ǻ.ǰȜȞȜțȖț”ǵȜȒȥȓȟȠȐȜ ǿȓȐȓȞȜ-ǰȜȟȠȜȥțȜȗ ǾȡȟȖ XII-XV ȐȐ. ” Ǻ.
1961
「炎の中の 3 人の少年達」
出 典 : ǻ.ǻ.ǰȜȞȜțȖț”ǵȜȒȥȓȟȠȐȜ ǿȓȐȓȞȜ-ǰȜȟȠȜȥțȜȗ ǾȡȟȖ XII-XV ȐȐ. ” Ǻ.
1961
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ヴラジミル・ウスペンスキー聖堂
レリーフ
報 告 者 撮 影 2010 年
ヴラジミル・ウスペンスキー聖堂
報 告 者 撮 影 2010 年
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レリーフ外観
第 2 に 、ド ミ ト リ エ フ ス キ ー 聖 堂 の 例 を 見 て み よ う 。一 説 に よ る と 、同
聖 堂 の 壁 に は 1000 個 以 上 も の レ リ ー フ が 施 さ れ て い る と い う 。N・N・ ヴ ォ
ロニンはドミトリエフスキー聖堂の 4 つの特徴を挙げている。
a)ウ ス ペ ン ス キ ー 聖 堂 と 同 じ よ う な 様 式 で あ る 。
b)教 会 や 公 の 宝 石 館 の よ う な 、 芸 術 的 モ ニ ュ メ ン ト で あ る 。
c)農 村 的 。
d)ロ シ ア 民 衆 の 神 話 や 御 伽 噺 の 世 界 に 近 い 。
こ の 中 で a) 及 び b) は 建 築 そ の も の に 関 す る 見 解 で あ り 、 c)及 び d)は レ
リーフに関しての見解である。ロシアには、口承文学が多く残されている。
新 し い「 キ リ ス ト 教 」の 聖 堂 に 、古 い「 民 衆 の 伝 承 文 化 」が 反 映 さ れ て い る
と 言 え る か も し れ な い 。後 世 、ロ シ ア の キ リ ス ト 教 会 や 聖 堂 の 外 壁 及 び 門 の
扉 に 英 雄 叙 事 詩( ブ イ リ ー ナ )が 表 現 さ れ る よ う に な る 。宗 教 文 化 と 伝 承 文
化がうまく融合したことは、ロシアの文化の一端を垣間見るようである。
N・ N・ ヴ ォ ロ ニ ン は ド ミ ト リ エ フ ス キ ー 聖 堂 の レ リ ー フ を 「 ド ミ ト リ エ フ
ス キ ー 聖 堂 の レ リ ー フ に は 動 物 の モ チ ー フ や 、奇 怪 な モ チ ー フ な ど 独 自 の 世
界 観 が 描 写 さ れ て い る 。」 と 、 シ ン ボ ル 学 的 考 察 し て い る 。 詳 細 に つ い て は
今 後 の 課 題 と し 、博 士 論 文 に は 、彼 の 見 解 及 び 、自 分 の 見 解 を 打 ち 出 し た い 。
ドミトリエフスキー聖堂
ライオンレリーフ
出 典 : ɇ.ɇ.ȼɨɪɨɧɢɧ” ȼɥɚɞɢɦɢɪ, Ȼɨɝɨɥɸɛɨɜɨ, ɋɭɡɞɚɥɶ, ɘɪɶɟɜ-ɉɨɥɶɫɤɨɣ.
Ʉɧɢɝɚ-ɫɩɭɬɧɢɤ ɩɨ ɞɪɟɜɧɢɦ ɝɨɪɨɞɚɦ ȼɥɚɞɢɦɢɪɫɤɨɣ ɡɟɦɥɢ. ” Ɇ.,«ɂɫɤɭɫɫɬɜɨ»,1967
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ドミトリエフスキー聖堂
上部レリーフ
ダヴィデのテーマ
報 告 者 撮 影 2010 年
ドミトリエフスキー聖堂
下部レリーフ
報 告 者 撮 影 2010 年
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最 後 に 、ポ ク ロ フ・ナ・ネ ル リ 教 会 の 例 を 見 て み た い 。同 教 会 の レ リ ー フ
は 、天 上 の ダ ヴ ィ デ が 自 然 界 や 、地 上 を 支 配 す る 構 図 を 描 い た も の と 思 わ れ
る 。ダ ヴ ィ デ は グ ー ス リ を 弾 い て お り 、足 元 に は ラ イ オ ン が 仕 え て い る 。ラ
イ オ ン は 神 の 守 護 神 と し て の 意 味 を 持 っ て い る 。 N・ N・ ヴ ォ ロ ニ ン は レ リ
ー フ の モ チ ー フ に 関 し て 、使 用 さ れ た 個 数 、1 人 あ た り の 費 や さ れ た 労 働 日
数 、当 該 モ チ ー フ に 費 や さ れ た 1 人 あ た り の 全 労 働 日 数 を 表 に ま と め て い る 。
ポ ク ロ フ ・ ナ ・ネ ル リ 教 会 の モ チ ー フ 一 覧
出 典:ǻ.ǻ.ǰȜȞȜțȖț”ǵȜȒȥȓȟȠȐȜ ǿȓȐȓȞȜ-ǰȜȟȠȜȥțȜȗ ǾȡȟȖ XII-XV ȐȐ. ” Ǻ. 1961
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出 典:ǻ.ǻ.ǰȜȞȜțȖț”ǵȜȒȥȓȟȠȐȜ ǿȓȐȓȞȜ-ǰȜȟȠȜȥțȜȗ ǾȡȟȖ XII-XV ȐȐ. ” Ǻ. 1961
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今回示したかったことは、それぞれのレリーフには独自のテーマがあり、
そ の 背 景 に は 史 実 が 存 在 す る こ と で あ る 。ま た 、ロ シ ア の 口 承 文 学 や 英 雄 叙
事詩が根拠となっているのではないかという方向性も打ち出せたことと思
う 。 N・N・ヴ ォ ロ ニ ン が ま と め た よ う に 、 モ チ ー フ の 種 類 と 個 数 を 洗 い 出 す
と い う 方 法 を レ リ ー フ 全 て 1 1 で 行 え ば 、何 ら か の 手 が か り が 得 ら れ る と 予 想
す る 。今 後 、こ れ ら 個 々 の 教 会 の レ リ ー フ を 綿 密 に 分 析 す る こ と で 、新 た な
見解を打ち出したい。
6.キエフとの関係性
1)ルーシにおけるキエフの立場
ルーシの起源は諸説あり、発端となる可能性がある中心都市は、ノヴゴ
ロ ド 、キ エ フ 、ペ レ ヤ ス ラ ヴ リ 、ス モ レ ン ス ク 、ロ ス ト フ で あ る 。キ エ フ や
ノ ヴ ゴ ロ ド が 発 端 と す る 説 が 有 力 で あ る 。報 告 者 は そ の ど ち ら も 現 段 階 で は
支 持 で き な い が 、ロ ス ト フ が 発 端 と な る 可 能 性 は 否 定 的 に 見 て い る 。な ぜ な
ら 、前 述 し た よ う に 、ロ ス ト フ は 他 民 族 が 混 在 し て 商 業 都 市 と し て の 基 盤 は
あったが、政治的統一を図ろうとする原動力は、キエフの統治者ヴラジミ
ル・モノマフに端を発していると考えるからである。
キ エ フ の 軍 事 産 業 的 立 場 は 、対 外 的 安 全 と 商 業 的 利 害 を 守 る こ と に 高
い 意 義 を 与 え た 。商 業 − 産 業 活 動 の 結 節 点 と し て 全 ル ー シ 的 意 義 を も ち 、そ
のために全国土の政治的結集の中心となった。
キ エ フ ・ル ー シ と い う 言 葉 は 、 キ エ フ 公 国 1 国 を 指 す の で は な く 、 キ
エ フ を 中 心 と す る 地 方 分 権 化 し た 諸 公 国 全 て を 指 し て い る 。地 方 分 権 化 が 進
む に 至 っ た 理 由 は 、支 配 領 地 に 関 し て 遺 産 相 続 の 際 に 土 地 分 配 を 行 い 、世 襲
制 を 保 っ て い た た め で あ る 。子 孫 が 増 え る に つ き 、公 の 数 も 増 加 し 、支 配 領
地を巡る争いが絶えなくなった。
ア ン ド レ イ ・ ボ ゴ リ ュ プ ス キ ー は 1169 年 キ エ フ 公 国 と の 戦 い に 勝 利
し て 、 キ エ フ か ら ヴ ラ ジ ミ ル へ 首 都 を 移 し た 。 ア ン ド レ イ ・ボ ゴ リ ュ プ ス キ
ー が キ エ フ 公 国 を 征 圧 後 、キ エ フ の ヴ ラ ジ ミ ル に 対 す る 優 越 は 陰 に 隠 れ る こ
と に な る 。し か し な が ら 、キ エ フ の 優 越 は 他 公 国 に 対 し て は 維 持 さ れ て お り 、
キエフ公国の公座をめぐる争いは絶える事がなかった。
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研 究 調 査 対 象 は 、 以 下 の 6件 で あ る 。 ウ ス ペ ン ス キ ー 聖 堂 、 ゲ オ ル ギ エ フ ス キ ー 聖 堂 、 ド ミ ト リ
エフスキー教会、ロジュジェストヴェンスキー教会、ロジュジェストヴェンスキー修道院、ポクロ
フ・ナ・ネルリ教会
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2)キエフの教会建築とヴラジミルとの関係
ロシア・ヴラジミルのウスペンスキー聖堂が、ウクライナ・キエフのウ
スペンスキー聖堂を模倣したということは、前述した。キエフのウスペンスキ
ー聖堂はペチェルスキー修道院の中に所在する。ペチェルスキー修道院は全ル
ーシに対して強い宗教的権力を有していた。地方分権制度の下、同修道院は歴
史編纂の重要な役割も果たしていた。
キエフの現在のウスペンスキー聖堂の内部には、初期のウスペンスキー
聖堂が保存されている。現在のウスペンスキー聖堂が、初期の聖堂を保護する
役割を果たしている。初期の聖堂は、レンガ積みになっており、白壁にはなっ
ていなかった。外を覆う建物はレンガ積みの上から、白壁になるように塗装さ
れている。
ヴラジミルはキエフの教会建築を意識している。同じ名前を持つウスペ
ンスキー聖堂を持つことや、ヴラジミルの地名にキエフを思わせる名称が与え
られること、地形と建築のバランスを考えた都市計画であることは、それを証
明している。しかし、キエフも同様であり、ヴラジミルの地名にキエフと同じ
名 称 を 与 え る こ と で 、キ エ フ の 権 力 の 偉 大 さ を 示 そ う と も し て い た 。と こ ろ が 、
ヴラジミルは西洋の様式を取り入れ、キエフ公国の建築の法律や習慣を尊守し
なかったために、キエフ公国はヴラジミルの教会建築を承認しなかった。キエ
フが承認しなかった西洋の文化が取り入れられた背景には、以下のような事情
があった。
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ウスペンスキー聖堂外観
報 告 者 撮 影 2010 年
ウスペンスキー聖堂内部
報 告 者 撮 影 2010 年
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12 世 紀 初 め 、ヴ ラ ジ ミ ル 市 で は 首 都 建 設 の 大 事 業 に は 地 元 の 職 人 が 不 足
し て い た 。ユ リ ー ・ ド ル ゴ ル ー キ ー は 、「 ル ー シ 全 土 か ら 職 人 達 を 」 1 2 招 集 し た
がうまくいかなかった。年代記には「神が(世界)全土から職人を送り届けて
く れ た 」 13と 記 載 さ れ て い る 。 修 道 士 達 が 年 代 記 を 編 集 し た の で 、 こ の 言 葉 は
キリスト教思想を思わせる文章ではある。ここで、報告者が示したいのは、ル
ーシの中では職人を集めることが出来なかったという状況である。そして、職
人達たちは、現在のヨーロッパ諸国に位置する、ルーシから見て西側の西洋か
ら送られた異文化を具える人々であった。つまり、これらの職人達は、キエフ
公国やドニエプル流域からのレンガ積みの専門家ではなかった。彼らは白石建
築の技術職人で、多くは西洋のロマンス派(ローマ中心の建築美術集団)から
の 職 人 で あ っ た 。 彼 ら 職 人 達 は 、 フ リ ー ド リ ッ ヒ ・ バ ル バ ロ ッ サ 皇 帝 14よ り ア
ン ド レ イ ・ボ ゴ リ ュ プ ス キ ー の 元 へ 派 遣 さ れ て い た 。キ エ フ 公 国 か ら の 内 政 干 渉
脱却を進めることで、ヴラジミル市が他の地域と一線を画し、独自の文化を見
出す結果を導いたと考えられる。
一方で、ノヴゴロドはキエフと友好的に関係を結んでいた。ヴラジミル
が、キエフを意識し教会建築を建設したのと同様に、ノヴゴロドのソフィア聖
堂もキエフ・ソフィア聖堂を模範とした。次章でノヴゴロドについてはもう少
し詳細に紹介する。
7.ノヴゴロドとの比較において
1)教会建築繁栄の背景
ヴラジミル市の建築は白石の外壁にレリーフを装飾しているのが特
徴 で あ る 。そ れ ら の レ リ ー フ は 、キ エ フ 公 国 や ノ ヴ ゴ ロ ド 公 国 な ど の 建 築 装
飾 と 比 較 に な ら な い 程 大 規 模 で あ る 。ヴ ラ ジ ミ ル 市 の ウ ス ペ ン ス キ ー 聖 堂 を
手 が か り に 、他 地 域 と は 異 な る 建 築 様 式 の 背 後 に 存 在 す る 問 題 を 考 え て み た
い。
ノ ヴ ゴ ロ ド 公 国 と 比 較 し た 場 合 に 、ヴ ラ ジ ミ ル 市 の 特 徴 が よ り 明 確 に
な る だ ろ う 。 前 述 し た よ う に 、 12 世 紀 石 造 建 築 が 建 設 さ れ た の は 、 キ エ フ
公 国 、ノ ヴ ゴ ロ ド 公 国 、そ し て 、ヴ ラ ジ ミ ル 市 の み で あ っ た 。そ の ほ か の ル
12
年 代 記 の 表 現 を そ の ま ま 翻 訳 し た 。 引 用 : ɇ . ɇ . ȼ ɨ ɪ ɨ ɧ ɢ ɧ ” Ɂ ɨɞ ɱ ɟ ɫ ɬ ɜ ɨ
ɋ ɟ ɜɟɪ ɨ - ȼ ɨ ɫ ɬɨɱ ɧ ɨ ɣ
Ɋɭɫɢ XII-XV ɜɜ. ” Ɇ. 1961
13
注 釈 1 0 と 同 様 。 引 用 : ɇ . ɇ . ȼ ɨ ɪ ɨ ɧ ɢ ɧ ” Ɂ ɨɞ ɱ ɟ ɫ ɬ ɜ ɨ ɋ ɟ ɜɟɪ ɨ -ȼ ɨ ɫ ɬɨɱ ɧɨ ɣ Ɋ ɭ ɫ ɢ X I I - X V ɜ ɜ . ” Ɇ . 1 9 6 1
フ リ ー ド リ ッ ヒ ・ バ ル バ ロ ッ サ ( 在 位 11 5 2 -11 9 0 ) 神 聖 ロ ー マ 皇 帝 ɇ . ɇ . ȼ ɨ ɪ ɨ ɧ ɢ ɧ ” Ɂ ɨɞ ɱ ɟ ɫ ɬ ɜ ɨ
ɋ ɟ ɜɟɪ ɨ - ȼɨ ɫ ɬɨɱ ɧɨ ɣ Ɋ ɭ ɫ ɢ X I I - X V ɜɜ . ” Ɇ . 1 9 6 1
14
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ー シ 地 域 で は 、木 造 建 築 し か 建 設 さ れ な か っ た 。し か し な が ら 、ノ ヴ ゴ ロ ド
公 国 も 、ヴ ラ ジ ミ ル 市 も 住 居 な ど 多 く の 建 築 物 が 木 造 で あ っ た た め 、市 中 で
火 事 が 起 こ っ た 場 合 に は 、大 き な 被 害 を 受 け た 。ノ ヴ ゴ ロ ド 公 国 が 石 造 建 築
を 多 く 持 つ こ と に な っ た の は 、宗 教 的 に ビ ザ ン ツ 帝 国 と の 関 わ り が 深 か っ た
た め で あ る 。ノ ヴ ゴ ロ ド 公 国 も 、ヴ ラ ジ ミ ル 市 と 同 様 に キ エ フ 公 国 か ら の 内
政 干 渉 脱 却 を 早 く か ら 試 み る 。ノ ヴ ゴ ロ ド 公 国 は 、教 会 の 大 主 教 を 正 教 会 に
お け る 聖 職 位 階 制 の 最 高 位 で あ る 総 主 教 に 格 上 げ し 、ビ ザ ン ツ 帝 国 か ら 認 め
ら れ た 。そ の た め 、キ エ フ 公 国 か ら 宗 教 的 援 護 を 求 め る の で は な く 、直 接 ビ
ザ ン ツ 帝 国 と 交 渉 を 持 っ た 。ノ ヴ ゴ ロ ド 公 国 か ら の ビ ザ ン ツ 帝 国 へ の 殉 教 者
が 多 い の も そ の た め で あ る 。キ エ フ 公 国 は ノ ヴ ゴ ロ ド 公 国 に 対 し て 、宗 教 的
に は 穏 や か に 対 応 し た と 予 想 さ れ る 。 一 方 、 ヴ ラ ジ ミ ル 市 は 1169 年 に ア ン
ド レ イ ・ボ ゴ リ ュ プ ス キ ー が キ エ フ 公 国 を 陥 落 さ せ 、 武 力 に よ る 政 治 的 解 決
を 図 っ た 。そ の た め に 、教 会 建 設 は キ エ フ 公 国 か ら の 承 認 を 得 ら れ な か っ た
上に、公邸宅内の教会聖堂の礼拝は厳しく禁じられた。
2)民衆レベルの文化交流
次に、ノヴゴロド、ヴラジミル両都市の異文化交流を見てみる。ノ
ヴ ゴ ロ ド 公 国 は ギ リ シ ア か ら 絵 師 や 建 築 家 を 招 致 し た 。ビ ザ ン ツ 帝 国 も ギ リ
シ ア も 東 方 正 教 を 国 教 と し た こ と か ら 、こ の 3 国 の 宗 教 的 な つ な が り は 深 か
っ た 。 ま た 、 ノ ヴ ゴ ロ ド 公 国 に は ハ ン ザ 商 人 が 居 留 し て い た 。 し か し 、 13
世 紀 か ら 17 世 紀 ま で 「 ノ ヴ ゴ ロ ド 商 館 規 則 」 な る も の が 存 在 し 、 ハ ン ザ 商
人 の 自 由 を 規 制 し て い た 。居 留 地 は 限 定 さ れ 、そ の 周 囲 に は 塀 が 張 り 巡 ら さ
れ て い た 。夜 は 塀 の 門 が 閉 じ ら れ 、番 犬 が 放 た れ た 。一 般 民 衆 と は 全 く 隔 離
さ れ 、接 触 は 無 か っ た 。一 方 、ヴ ラ ジ ミ ル 市 に は 、前 述 し た よ う に 、神 聖 ロ
ー マ 皇 帝 か ら 石 造 建 築 の 職 人 が 派 遣 さ れ て い た 。こ れ ら ロ マ ネ ス ク 様 式 を 軸
と す る 西 洋 職 人 達 は ヴ ラ ジ ミ ル 市 の 職 人 達 を 育 成 し た 。つ ま り 、異 文 化 人 と
民衆が隔離されることは無かった。
ヴラジミル市の石造建築がルーシでは少数であったことは前述した。
さ ら に 、高 い 文 化 発 展 を 果 た し た ノ ヴ ゴ ロ ド 公 国 で さ え キ エ フ 公 国 と は 主 従
関 係 を 表 向 き 保 っ て い た の に 対 し 、ヴ ラ ジ ミ ル 市 は 政 治 的 に も 文 化 的 に も キ
エ フ 公 国 の 支 配 か ら の 内 政 干 渉 脱 却 を 目 指 し た 。こ の 政 治 的 文 化 的 な 要 因 は
建 築 に も 大 き な 影 響 を 与 え て い た 。こ れ は 、ア ン ド レ イ・ボ ゴ リ ュ プ ス キ ー
の 政 策 に よ る と こ ろ が 大 き か っ た と い え よ う 。ア ン ド レ イ・ボ ゴ リ ュ プ ス キ
ー 死 後 フ セ ヴ ォ ロ ド 3 世 が ヴ ラ ジ ミ ル 市 を 統 治 す る ま で 、ヴ ラ ジ ミ ル 市 は 混
乱 を 極 め キ エ フ 公 国 か ら 内 政 干 渉 さ れ な が ら も 、独 立 路 線 を 模 索 し 続 け た の
33
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は、民衆の力が多少なりとも影響したと考えられる。
8.今後の課題と目標
冒 頭 で も 述 べ た が 、こ の 報 告 書 に は 海 外 研 修 で 得 た 資 料 の 全 て を 網 羅
す る こ と が 出 来 て い な い 。 N・ N・ ヴ ォ ロ ニ ン の 研 究 書 は ロ シ ア の 建 築 美 術
史 に お い て 基 本 的 テ キ ス ト と な っ て い る 。 N・ N・ ヴ ォ ロ ニ ン の 研 究 を 日 本
語で紹介することは大切な課題であると報告者は考えている。
政治政策と教会建築が密接に関係することが今回の海外研究調査で
推 測 の 域 を 超 え て 明 ら か に な っ た 。前 述 し た ヴ ラ ジ ミ ル 市 発 展 の 経 緯 は 、大
き な 枠 組 み を 作 る こ と が 出 来 た が 、ユ リ ー ・ ド ル ゴ ル ー キ ー 、ア ン ド レ イ ・
ボ ゴ リ ュ プ ス キ ー 、フ セ ヴ ォ ロ ド 3 世 各 統 治 者 の 政 治 手 腕 、経 済 発 展 、都 市
計画、建築文化の発展についてもっと詳細な分析をするべきである。
ま た 、報 告 者 が 特 に 関 心 を 寄 せ て い る 教 会 外 壁 レ リ ー フ に 関 し て 、考
察すべき課題の一部を以下に列挙しておく。
a)ヴ ラ ジ ミ ル の 建 築 職 人 達 の 問 題 と し て 、ど の よ う な 経 緯 で ロ ー マ 皇 帝 フ リ
ードリッヒ・バルバロッサから職人が派遣されたのか?
b)外 壁 レ リ ー フ は 誰 の 発 案 で あ っ た の か ?
c)キ エ フ 公 国 が 保 持 す る 建 築 に 関 す る 取 り 決 め や 習 慣 に つ い て
レリーフに秘められた世界観をより明確にするためには、ポクロフ・
ナ・ネ ル リ 教 会 以 外 の 、教 会 レ リ ー フ に 関 し て 、モ チ ー フ 種 類 と 個 数 の 分 類
表 作 成 は 必 要 な 作 業 で あ る 。モ チ ー フ の 様 式 、各 モ チ ー フ が 持 つ 意 を 可 能 な
限り追求していきたい。
今 回 は 建 築 関 係 の 資 料 を 精 査 す る に 留 ま っ て い る た め 、二 重 信 仰 の 問
題 に 未 だ 追 及 し き れ て い な い 。 N・ I・ コ ス ト ロ マ ロ フ に よ れ ば 、 12 世 紀 に
は 土 着 信 仰 も 、古 代 の 民 族 性 も 消 失 し て い た 。し か し 、他 説 に よ る と 、農 村
部 で は 19 世 紀 ま で 土 着 信 仰 を 尊 重 し て い た と も 言 わ れ て い る 。 フ ィ ン 系 民
族 が 多 く 居 住 す る 地 域 で は 、三 重 信 仰 と も 言 え る よ う な 環 境 で あ っ た と B・
O・ ク リ ュ チ ェ フ ス キ ー は 述 べ て い る 。 二 重 信 仰 が 続 い た 年 代 を 12 世 紀 ま
で と い う 説 、 19 世 紀 ま で 存 在 し た と い う 説 様 々 で あ り 、 諸 説 の 根 拠 を 明 確
にし、地域を限定することで、新たな見解を提唱できると報告者は考える。
これらの課題を克服し、博士論文に活かしたい。
34
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参考文献一覧
ɇ.ɇ.ȼɨɪɨɧɢɧ” ȼɥɚɞɢɦɢɪ, Ȼɨɝɨɥɸɛɨɜɨ, ɋɭɡɞɚɥɶ, ɘɪɶɟɜ-ɉɨɥɶɫɤɨɣ.
Ʉɧɢɝɚ-ɫɩɭɬɧɢɤ ɩɨ ɞɪɟɜɧɢɦ ɝɨɪɨɞɚɦ ȼɥɚɞɢɦɢɪɫɤɨɣ ɡɟɦɥɢ. ” Ɇ.,«ɂɫɤɭɫɫɬɜɨ»,
1967.
ǻ.ǻ.ǰȜȞȜțȖț”ǵȜȒȥȓȟȠȐȜ ǿȓȐȓȞȜ-ǰȜȟȠȜȥțȜȗ ǾȡȟȖ XII-XV ȐȐ. ” Ǻ. 1961
田 中 陽 兒 ・ 倉 持 俊 一 ・ 和 田 春 樹 編 集 『 ロ シ ア 史 1 − 9∼ 17 世 紀 』、 山 川 出 版 社 、
1995 年
B・ O・ ク リ ュ チ ェ フ ス キ ー 著 、 八 重 樫 喬 任 訳 『 ロ シ ア 史 講 和 1 』 恒 文 社 、 1979
年
松 木 栄 三 著『 ロ シ ア 中 世 都 市 の 政 治 世 界
2002 年
35
35
都 市 国 家 ノ ヴ ゴ ロ ド の 群 像 』、彩 流 社 、
参考資料
出 典 :「 ロ シ ア 史 1 − 9∼ 17 世 紀 」
田 中 陽 兒 ・ 倉 持 俊 一 ・ 和 田 春 樹 編 集 、 山 川 出 版 、 1995 年
36
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䝀䜸䝹䜼䜶䝣䝇䜻䞊⪷ ᇽ Ƚ. Ʉ. ȼɚɝɧɟɪ 䛻䜘䜛඲ య ᵓ ᝿ ᅗ 㻌
出 典 : ɇ.ɇ.ȼɨɪɨɧɢɧ” ȼɥɚɞɢɦɢɪ, Ȼɨɝɨɥɸɛɨɜɨ, ɋɭɡɞɚɥɶ, ɘɪɶɟɜ-ɉɨɥɶɫɤɨɣ.
Ʉɧɢɝɚ-ɫɩɭɬɧɢɤ ɩɨ ɞɪɟɜɧɢɦ ɝɨɪɨɞɚɦ ȼɥɚɞɢɦɢɪɫɤɨɣ ɡɟɦɥɢ. ” Ɇ.,«ɂɫɤɭɫɫɬɜɨ»,
1967.
䝀䜸䝹䜼䜶䝣䝇䜻䞊⪷ ᇽ 䛾໭ ഃ
出 典 : ɇ.ɇ.ȼɨɪɨɧɢɧ” ȼɥɚɞɢɦɢɪ, Ȼɨɝɨɥɸɛɨɜɨ, ɋɭɡɞɚɥɶ, ɘɪɶɟɜ-ɉɨɥɶɫɤɨɣ.
Ʉɧɢɝɚ-ɫɩɭɬɧɢɤ ɩɨ ɞɪɟɜɧɢɦ ɝɨɪɨɞɚɦ ȼɥɚɞɢɦɢɪɫɤɨɣ ɡɟɦɥɢ. ” Ɇ.,«ɂɫɤɭɫɫɬɜɨ»,
1967.
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出 典 : ɇ.ɇ.ȼɨɪɨɧɢɧ” ȼɥɚɞɢɦɢɪ, Ȼɨɝɨɥɸɛɨɜɨ, ɋɭɡɞɚɥɶ, ɘɪɶɟɜ-ɉɨɥɶɫɤɨɣ.
Ʉɧɢɝɚ-ɫɩɭɬɧɢɤ ɩɨ ɞɪɟɜɧɢɦ ɝɨɪɨɞɚɦ ȼɥɚɞɢɦɢɪɫɤɨɣ ɡɟɦɥɢ. ” Ɇ.,«ɂɫɤɭɫɫɬɜɨ»,
1967.
䝀䜸䝹䜼䜶䝣䝇䜻䞊⪷ ᇽ 㻌 ᒇ ᰿ 䛻⥆ 䛟ቨ ゅ
出 典 : ɇ.ɇ.ȼɨɪɨɧɢɧ” ȼɥɚɞɢɦɢɪ, Ȼɨɝɨɥɸɛɨɜɨ, ɋɭɡɞɚɥɶ, ɘɪɶɟɜ-ɉɨɥɶɫɤɨɣ.
Ʉɧɢɝɚ-ɫɩɭɬɧɢɤ ɩɨ ɞɪɟɜɧɢɦ ɝɨɪɨɞɚɦ ȼɥɚɞɢɦɢɪɫɤɨɣ ɡɟɦɥɢ. ” Ɇ.,«ɂɫɤɭɫɫɬɜɨ»,
1967.
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出 典 : ɇ.ɇ.ȼɨɪɨɧɢɧ” ȼɥɚɞɢɦɢɪ, Ȼɨɝɨɥɸɛɨɜɨ, ɋɭɡɞɚɥɶ, ɘɪɶɟɜ-ɉɨɥɶɫɤɨɣ.
Ʉɧɢɝɚ-ɫɩɭɬɧɢɤ ɩɨ ɞɪɟɜɧɢɦ ɝɨɪɨɞɚɦ ȼɥɚɞɢɦɢɪɫɤɨɣ ɡɟɦɥɢ. ” Ɇ.,«ɂɫɤɭɫɫɬɜɨ»,
1967.
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出 典 : ɇ.ɇ.ȼɨɪɨɧɢɧ” ȼɥɚɞɢɦɢɪ, Ȼɨɝɨɥɸɛɨɜɨ, ɋɭɡɞɚɥɶ, ɘɪɶɟɜ-ɉɨɥɶɫɤɨɣ.
Ʉɧɢɝɚ-ɫɩɭɬɧɢɤ ɩɨ ɞɪɟɜɧɢɦ ɝɨɪɨɞɚɦ ȼɥɚɞɢɦɢɪɫɤɨɣ ɡɟɦɥɢ. ” Ɇ.,«ɂɫɤɭɫɫɬɜɨ»,
1967.
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出 典 : ɇ.ɇ.ȼɨɪɨɧɢɧ” ȼɥɚɞɢɦɢɪ, Ȼɨɝɨɥɸɛɨɜɨ, ɋɭɡɞɚɥɶ, ɘɪɶɟɜ-ɉɨɥɶɫɤɨɣ.
Ʉɧɢɝɚ-ɫɩɭɬɧɢɤ ɩɨ ɞɪɟɜɧɢɦ ɝɨɪɨɞɚɦ ȼɥɚɞɢɦɢɪɫɤɨɣ ɡɟɦɥɢ. ” Ɇ.,«ɂɫɤɭɫɫɬɜɨ»,
1967.
䝀䜸䝹䜼䜶䝣䝇䜻䞊⪷ ᇽ 㻌 ື ≀ 㛛 䛾䝺䝸䞊䝣
出 典 : ɇ.ɇ.ȼɨɪɨɧɢɧ” ȼɥɚɞɢɦɢɪ, Ȼɨɝɨɥɸɛɨɜɨ, ɋɭɡɞɚɥɶ, ɘɪɶɟɜ-ɉɨɥɶɫɤɨɣ.
Ʉɧɢɝɚ-ɫɩɭɬɧɢɤ ɩɨ ɞɪɟɜɧɢɦ ɝɨɪɨɞɚɦ ȼɥɚɞɢɦɢɪɫɤɨɣ ɡɟɦɥɢ. ” Ɇ.,«ɂɫɤɭɫɫɬɜɨ»,
1967.
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モスクワの救世主教会
報 告 者 撮 影 2010 年
ヴ ラ ジ ミ ル の ニ キ ー ツ カ ヤ 教 会 17 世 紀 建 立
報 告 者 撮 影 2010 年
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セルギエフ・パッサート
報 告 者 撮 影 2010 年
セルギエフ・パッサート聖水場所
報 告 者 撮 影 2010 年
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ド ミ ト ロ フ 市 男 子 修 道 院 12 世 紀 創 設 、 17 世 紀 建 立
報告者撮影
ド ミ ト ロ フ 市 郊 外 17 世 紀 建 立 の 教 会
報 告 者 撮 影 2010 年
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ド ミ ト ロ フ で の Anastashia Banchaeva 教 授 引 率 の セ ミ ナ ー
キエフ・ソフィア聖堂
報 告 者 撮 影 2010 年
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キエフ・ペチェルスキー修道院の城塞
報 告 者 撮 影 2010 年
キエフ・ペチェルスキー修道院の三位一体教会
報 告 者 撮 影 2010 年
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海外研究報告書
[ 中世ロシアの教会建築 ]
ヴラジミル地方の都市計画
平成 20 年度文部科学省 GP「国際化拠点整備事業(長期海外留学支援)プログラム」採択
龍谷大学「長期海外留学支援プログラム」採択
2011 年3月 発行
著 者 川村明海 (Akemi Kawamura)
龍谷大学大学院 国際文化学研究科 博士後期課程 3 年
印刷所 ㈱田中プリント