特 集 第8回 安川加壽子記念コンクール 〜開催に向けて〜 第 8 回安川加壽子記念コンクールが本年 6 月に開 催されることになりました。 初代会長として連盟の発展にご尽力くださり、演 奏活動、教育活動とまさに日本のピアノ界を牽引し てこられた安川加壽子先生のお名前を冠したコン クールです。今年は、先生が亡くなられて 20 年と いう節目の年にあたります。 開催を前に、あらためて安川先生のご偉業を思い 返し、今回のこのコンクールの意義を問うべく、門 下生でいらした鶴園紫磯子先生、青柳いづみこ先生 にそれぞれの立場からお書きいただきました。ま た 当 記 事 に 続 く「30 周 年 記 念 シ リ ー ズ Vol.4」 で は、過去の会報での安川先生へのインタビュー記事 (1994 年、1995 年) 、研究大会での山岡優子先生と の対談(1995 年、1996 年)からご紹介いたします。 Portrait ―過去の会報誌と10周年記念誌より― 設立記念パーティーでの会長あいさつ(1984 年) 08 設立総会にて(1984 年)発起人代表より、 前列左から安川加壽子、井口愛子、井口秋子、園田高広、 後列左から田村宏、伊達純、横井和子の諸氏。 特集 第 8 回安川加壽子記念コンクール〜開催に向けて〜 安川加壽子記念コンクール第 8 回は 21世紀の新しい芸術の創造と体験の場を目指して開催されます。 多くの方々が当コンクールに応募してくださることを期待しております。 加えまして、会員の先生方がこのコンクールに関心をもち、広め、更には 会場に足を運び、演奏を聴き、応援してくださることを願っております。 参加申込み受付:4 月 11 日(月)~ 25 日(月)当日消印有効 第 1 次予選:〈大阪〉6 月 9 日(木) あいおいニッセイ同和損保 ザ・フェニックスホール 安川加 参加 〈東京〉6 月 12 日(日) 、13 日(月) 6 後援 朝日 新聞 在日フラ 社、(公 ンス大使 社)日本 NP 館 / アン 演奏連盟 O 法人 、テ スティチ イエロー ㈱音 ュ ・ フラ レビ朝日 ・エンジ 楽之 友社 ンセ日本 ㈱松 ェル 、㈱河合 尾楽 、日 、㈱ 器商 仏音 安川 楽器 ㈱オ 楽協 電機 製作 クタヴィ 会、㈱ヤ 会 所、㈱全 ア・レコ マハミュ 音楽 ージ 譜出 主催 ード ック 版社 、安 ジャ 、 川加 パン 壽子 、 記念 公 〒102会 益財 団法 TEL.0 0072 東京 人日 3-3 都千 本ピ http:// 237-14 代田 区飯 41 アノ教 www.j pta.jp FAX.03-3 田橋 4-4 育 -8 連 239 E-mail 盟 -8299 東京中央 office@ ビル 403 jpta.jp 助成 本 選:6 月 30 日(木) 浜離宮朝日ホール 念コンク ール 要項 201 上野学園 石橋メモリアルホール 第 2 次予選:6 月 20 日(月) 、21 日(火) 浜離宮朝日ホール 第 8 回 壽子記 協賛 ※詳しくは同封のチラシまたは参加要項をご覧く ださい。参加要項のご請求は事務局までご一報 ください。(会員は無料送呈) ホームページからもダウンロードできます。 http://www.jpta.jp/event/yasukawa-2016/index.html 第 7 回(2012 年)表彰式 公開レッスン(1990 年) 第 6 回全国研究大会懇親会にて(1989 年) ペルルミュテール先生とともに 第 12 回全国研究大会(1996 年) 09 ▪安川加壽子先生年譜 [以下の年譜は(社)日本演奏連盟の提供によります] 1922年 (大正 11 年)2月 24 日、兵庫県に生まれる(草間姓) 。14 ヵ月で外交官だった父のも とへ母と共に渡仏。 1932年 (昭和7年) 10 歳でパリ国立音楽院入学。ラザール・レヴィ氏に師事。 1937年 1等賞首位(プレミエール・ノンメ)を得て、同楽院を卒業。 パリ国際婦人ピアノコンクールに第1位入賞 ヨーロッパ各地で活発な演奏活動を行う。 1939年 12 月、第2次世界大戦のため帰国。 1940年 NHKにおける最初のラジオ放送でショパンの《ピアノ協奏曲第2番ヘ短調》を演奏。 12 月 24 日、ローゼンシュトック指揮の新交響楽団(現N響)とモーツァルトの《ピ アノ協奏曲イ長調 K.488》を協演。 以後N響をはじめ国内各交響楽団の独奏者として定期公演・臨時公演及び地方公演に 数多く出演。 1941年 4月 24 日、日本における第1回リサイタルを日比谷公会堂にて開催。 以後 1983 年まで毎年リサイタルを開催(1945 年と 46 年を除く) 。 1947年 芸術祭文部大臣賞を受賞。 1949年 毎日新聞社主催ショパン歿後 100 年記念リサイタルを連続4回日比谷公会堂にて開催。 1950年 ラザール・レヴィ教授来日に伴い、同教授と二重奏の演奏会を開催(53 年にも共演) 。 同年より毎日新聞社主催にて邦人ピアノ演奏会を 10 回にわたって開き、ピアノ曲創 作の発展に尽力する。 1953年 毎日音楽賞受賞。 パリ音楽院審査員として招かれる。パリにてオルケストル・ナショナールに出演。 1959年 フランス政府より学術シュバリエ勲章を受ける。 1960年 フランス政府より文芸オフィシエ勲章を受ける。 ショパン、シューマン生誕 150 年記念演奏会を3回にわたって開催。 1967年 フランス政府からフランス文化への貢献によりレジオン・ドヌール・シュバリエ勲章 を受ける。 1968年 ドビュッシー歿後 50 年記念演奏会を東京文化会館にて開催。 1970年 第 21 回放送文化賞受賞。 10 月、文化庁移動芸術祭として日本フィルハーモニー交響楽団(指揮・秋山和慶)と 奈良他4ヵ所で協演。 1971年 5月 28 日、演奏 30 年記念リサイタルを東京文化会館にてNHK交響楽団の協演のも とに開く。6月、ロン=ティボー国際音楽コンクールの審査員。 1972年 第 13 回毎日芸術賞(昭和 46 年度)を受賞。 オーストリア・ザルツブルクのモーツァルテウム夏季講習会の講師として招聘される。 1973年 ジュネーヴ国際音楽コンクール審査員。 1974年 9月、文化庁移動芸術祭として読売日本交響楽団(指揮・若杉弘)と伊丹ほか4ヵ所 にて協演。 1975年 第 31 回日本芸術院賞(昭和 49 年度)を受賞。 ラヴェル生誕 100 年記念リサイタルを東京文化会館にて開催。 エリザベト王妃国際音楽コンクール審査員。 1976年 7月、ドビュッシー・ピアノ曲集完結記念(レコード・楽譜)リサイタルを大阪毎日 ホール、名古屋愛知講堂及び東京文化会館にて開く。 スペイン・ハエン国際音楽コンクール審査員。 12 月、日本芸術院会員となる。 1977年 米国クリーブランド国際音楽コンクール審査員。 ロベール・カサドシュ国際ピアノコンクール審査員。 1978年 7月、大阪毎日ホール及びNHKホールにて「ショパンの夕べ」を開催。 エリザベト王妃国際音楽コンクール審査員。 10 6 特集 第 8 回安川加壽子記念コンクール〜開催に向けて〜 1979年 7月、NHK交響楽団と蒲郡及び九州方面5ヵ所の演奏旅行。 8月、読売日本交響楽団と千葉、東京、横浜、厚木4ヵ所にて協演。 11 月、文化庁移動芸術祭として京都市交響楽団と九州7ヵ所にて協演。 1980年 ポーランド・ワルシャワ・ショパン国際ピアノ・コンクール審査員。 日本における第1回国際音楽コンクールの運営委員及び審査員。 1981年 5月 28 日、第4回東京音楽芸術祭特別演奏会(NHKホール)にてNHK交響楽団(指 揮・森正)とモーツァルト、野田暉行、ラヴェル左手の3協奏曲を演奏。 ロン=ティボー国際音楽コンクール審査員。 10 月、文化庁移動芸術祭として札幌交響楽団と関西7ヵ所で協演。 神奈川県芸術祭として小田原、茅ヶ崎、秦野、綾瀬でリサイタル。 1982年 ジュネーヴでの国際コンクール連盟総会に出席。 スペイン・サンタンデール国際ピアノコンクール審査員。 1983年 リスボンにおける国際音楽コンクール連盟総会に出席。 第2回日本国際音楽コンクールの運営委員及び審査員。 1984年 ミュンヘンでの国際音楽コンクール連盟総会に出席。 ポーランド国家功労金章を受ける。 1985年 ジュネーヴでの国際音楽コンクール連盟総会に出席。 シドニー国際ピアノコンクール審査員。 シドニー市における国際交流基金主催によるセミナーで「現代日本ピアノ音楽につい て」講演。 クリーブランド国際音楽コンクール審査員。 1986年 第2回東京都文化賞を受賞。 フランス・ストラスブール市におけるEC主催の「欧州音楽年」最終委員会に出席。 NHK交響楽団の有馬賞を受賞。 第3回日本国際音楽コンクール運営委員長。 1987年 エリザベト王妃国際音楽コンクール審査員。 1988年 カナダ・モントリオール国際音楽コンクール審査員。 1991年 (平成3年)エリザベト王妃国際音楽コンクール審査員。 第1回浜松国際ピアノコンクール運営委員及び審査員長。 1993年 「春の叙勲」にて勲二等瑞宝章を受ける。 1994年 文化功労者として顕彰される。 1996年 6月にフランス政府学術コマンドール勲章を受ける。 7月 12 日永眠(74 歳) 文化功労者 日本芸術院会員 社団法人日本演奏連盟理事長 日本ピアノ教育連盟会長・理事長 財団法人フランス語教育振興協会理事長 日仏音楽協会会長 日本ショパン協会会長 日本フォーレ協会会長 芸術家会議会長 日本国際音楽コンクール運営委員長 日本音楽コンクール委員長 東京芸術大学名誉教授 桐朋学園大学客員名誉教授 大阪音楽大学客員教授 (※ 上記は就任時の名称) 7 11 「安川加壽子記念コンクール 第 8 回開催への道のり」 鶴園 紫磯子 安川加壽子記念コンクール第8回が本年6月に4年ぶりに開催されることになりました。2016 年は 先生が亡くなられて 20 年にあたり、そのご偉業を思い返し、またご遺志をあらためて確認できるまた とない機会となりますことを喜んでおります。 当コンクールは日本ピアノ教育連盟の初代会長であられた安川加壽子先生のご逝去後、1997 年に第 1 回を開催し、それから 2 〜 3 年ごとに 7 回開催されてきました。日本のピアノ界にとってかけがえ のない独特なカラーを備えたコンクールであり、当連盟の主催事業の大切なひとつでありますが、昨 今の経済事情の逼迫からその存続自体が議論の対象とならざるをえませんでした。私は安川先生門下 のひとりとして、第 1 回の開催時に設立のお手伝いをさせていただきました。今回このコンクールが 事業見直しの議題となったため、その特別部会が結成され、そのメンバーとして 3 回の委員会、およ びそれを支えるいくつかの事業に携わってまいりましたので、これまでの経過報告ということでこの 一文をまとめさせていただきます。 安川加壽子記念コンクール事業見直し特別部会は 2014 年 9 月から始動をしまして同年 10 月、11 月、 2015 年 2 月と、3 回の特別部会と数回の検討会を開催して参りました。久保浩副会長が特別部会長を 務められ、村上会長及び上野理事長をはじめといたしまして多くの方々のご意見、ご支援をいただき ました。また、事務局の横山専務理事兼事務局長からは、毎回、詳細な資料に基づき経営状況などの ご説明をいただきました。この特別部会には、常時、多くの委員が出席され、熱心な討議が交わされ まして、2015 年 9 月の理事会において最終的な方向性が固まり決定いたしました。ここに至る過程に おいて、おもに2つのことが議題となっていました。 一つ目は経営面での改善:これまで開催されたコンクール事業の収支関係を見直し、 支出の縮減を 図り、 収入の増額を図る。できうる限り収支バランスのとれた事業にする。極力赤字幅をおさえたも のにし、連盟の事業として継続していくものとしたい。 二つ目はコンクールの位置づけ及び企画内容の見直し、現在の状況に沿った魅力ある内容に改訂し、 多くの参加者を引きつけるようなコンクールにしていく。 このふたつの議題について活発な意見の交換が続きました。しかしながらこのふたつの問題はひと つの統一されたコンクール案に落ち着くまでかなり難しい道を歩むことになりました。経営面で赤字 を減らすには全体の規模をコンパクトにせざるを得ないのですが、それはコンクール全体のイメージ アップに繋がらないという矛盾です。上野理事長からは再スタートするのであれば企画内容もさるこ とながら、賞金、会場、審査員等についてもグレードアップは絶対必要であるという強い信念とご意 志のもと、会場の選定もこれまでとは異なる都心の一流ホールでの開催となりました。(1次予選 : あ いおいニッセイ同和損保 ザ・フェニックスホール〈大阪〉、上野学園 石橋メモリアル・ホール〈東京〉 2 次予選および本選:浜離宮朝日ホール)そこで部会のさまざまな方がたのご尽力のおかげで以前 の開催より多くの企業から助成金を頂き、寄付金(安川加壽子記念会の熱心な募金活動により)も集 まり、規模も賞金も立派なコンクールとして開催されることになりました。 コンクールの位置づけおよび内容については色々なご意見があったかと思います。設立された 20 年 前にくらべて種々のコンクールが増加したことにより参加者を増やすのはたやすくないということ。 12 特集 第 8 回安川加壽子記念コンクール〜開催に向けて〜 また安川先生が 1939 年(第 2 次世界大戦開始)にフランスより帰国され、大戦後の厳しい状況の中、 熱心に演奏活動を続けられ、本国で学ばれたフランス音楽の紹介や普及につとめられたことを記念し て、当初は「フランス音楽を中心とした」というタイトルがついていました。しかし現在の日本の音 楽事情に合わせてフランス音楽に特別沿った内容ではなく、広いレパートリーを網羅したほうがよい のでは、という方向になりました。課題曲選考部会のご努力で要項に掲げるような偏りのない、しか も安川先生の面影をどこか残したようなプログラムになりました。1次予選では古典を大切にされた ご意思が「古典派ソナタ」に反映され、2 次予選ではフランス・バロックの曲が選べること、またロ マン派でも音楽性を重視した構成になっていること。本選は自由に構成できるが一曲は近代フランス 音楽を含めることなどです。 安川先生が演奏活動をおこなっておられた 1946 年からしばらくは本当にヨーロッパの音楽の情報が 少なく、 演奏の方法についても手探りで懸命の努力をみなさまがしておられたと思います。レコード を探すのも苦労で、楽譜も何ヶ月も船便が届くのを待ち望んでいたものでした。 安川先生が弾かれたレパートリーは 1880 年代から 1930 年代のフランス近代の黄金期の音楽で、ド ビュッシー、フォーレ、ラヴェルとともにヴァンサン・ダンディやフランク、ショーソン、サン=サー ンスなどすがすがしい新鮮な空気に包まれていました。そうしたレパートリーが今回再びよみがえる ことを期待したいと思います。 1970 年代から 80 年にかけて先生は海外の大きな国際コンクールの審査を数多くつとめられ、若い 音楽家の育成や国際交流の大切さを再認識なさったのでしょう。日本でも国際コンクールを開催でき るようにご尽力なさいました。日本ピアノ教育連盟の設立もこの時期のことでした。このように重要 な事業を数々こなされながら、多くの学生やピアニストに大切なことがらを熱心に教えてくださって いました。 それからさらに 30 年の時がたち、日本の音楽界は大変大きく成長しました。それとともに新しい傾 向や空気がうまれようとしています。西洋音楽から学んだことを生かしながらも、私たちの伝統や特 質との融合を図るものが見えだしているように感じます。コンクールの開催にも新しい理念が加わる とよいのではないかと思い、今回の標語を考えました。すなわち音楽の伝統を受け継ぎながら新しい 芸術の創作に踏み出すというものです。 日本の現代アートは海外でも高く評価されています。また伝統的芸術と最新の技術がタイアップし た上演も企画されています。音楽もこのような気風を充分に意識しながら新しいレパートリーの開拓 やクラシック曲においても新鮮な解釈をもりこんだ演奏など目指していただきたいと思います。その ような精神が出会う場として、今回の安川加壽子記念コンクールに期待をこめております。 最後になりましたが、今回の第 8 回コンクール開催に向けて多くのご尽力をいただきました諸先生、 事務局の皆様、理事長、会長をはじめ多くの理事、 評議員の方々に心より感謝申し上げます。(コンクー ル存続を希望しております多くの方々の代表として僭越ながら申し述べさせていただきました) コンクールの趣旨をご理解いただき、たくさんの若いピアニスト、学生さんたちにご参加をおすす めしていただきたいと思います。参加者の皆様、演奏の充実に努めながら、次世代の音楽を創成する という目標を大切になさってください。 ( 安川加壽子記念コンクール事業見直し特別部会委員 第8回安川コンクール実行委員 つるぞの しきこ ) 13 「国際的な視野に立って〜安川加壽子記念コンクール」 青柳いづみこ 開催が延期されていた第8回安川加壽子記念コンクールが 2016 年6月、実施の運びとなったのは誠 に喜ばしいことである。 この機会に、連盟の初代会長でいらした安川加壽子先生のことと、先生のお名前を冠したコンクー ルの意義などについて少し述べたいと思う。 1922 年生まれの安川先生は、お父さまのお仕事の関係で1歳2ヶ月でパリに渡り、コルトーの門下 生であるジロー・ラタス女史に手ほどきを受けた。パリ音楽院ではラザール・レヴィ教授に師事し、 1937 年に一等賞を得て卒業。 同期卒業生には、1951 年ロン = ティボー国際コンクールで大賞を得たジャニーヌ・ダコスタや、高 名なヴァイオリニストのヘンリック・シェリングの名も見える。ピアノ科卒業後に学んだ和声法のク ラスでは、のちのパリ音楽院教授ピエール・サンカンや、作曲家アンリ・デュティユー夫人、ジュヌヴィ エーヴ・ジョワが同級だった。戦争のために帰国を余儀なくされなければ、安川先生もフランス及びヨー ロッパで華やかな演奏活動を展開なさったことと思われる。 こうした出自に加えて先生は、国際連盟で重要な役割を果たしたお父さまから国際的な視野を受け つぎ、いつも世界の中に日本を置いて考えるという姿勢を貫いていらした。 1939 年、17 歳のときに第2次世界大戦が勃発したた め帰国。1940 年 12 月、ローゼンシュトック指揮の新交 響楽団(現在のNHK交響楽団)との共演でデビューを 飾っている。ドイツ系の重厚な演奏が主流だった日本の ピアノ界にとって、当時草間加寿子の知的で優雅で洗練 されたスタイルは大変な驚きだったという。 以来、洋楽黎明期の日本でさかんな演奏活動を行いつ つ、芸大や桐朋、大阪音大などで教鞭をとり、日本演奏 連盟や日本ショパン協会、そして日本ピアノ教育連盟の 長として、日本ピアノ界を文字通り牽引してこられた。 1941(昭和16)年頃の安川加壽子先生 先生のグローバルな視点に刺激されて、戦後の日本ピアノ界はめざましい発展を遂げた。国際コン クールの入賞者も多く輩出されたが、ヨーロッパに定着して活発な演奏活動をおこなっているピアニ ストは意外に少ない。先生はエリザベート王妃やショパン、ジュネーヴ、ロン=ティボーなどの国際 コンクールの審査員に招かれるたびに、世界のピアノ界と比較して日本は何が足りないか、どこが弱 いかをいつも考えていらした。 日本のピアノ界が、 多少硬くても「より強く、 より速く」だった時代に、脱力や柔軟性の必要性を説き、 色彩とリズム、 様式感に目を向けるように指導されていた。その点が改善されなければ、国際舞台に立っ 14 特集 第 8 回安川加壽子記念コンクール〜開催に向けて〜 たときに通用しないからである。 1973 年にジュネーヴ国際コンクールの審査に招かれたときは、日本演奏連盟の会報で問題点に鋭く 切り込んでいる。 「私はかつて田中希代子さん、柳川守さん、山根弥生子さん等、1953 年にパリの音楽院の卒業試験 で聴いたときのことを思い出す。 (田中さんは、すでにその一年前に卒業してコンチェルトの伴奏で第 2ピアノを受けもっていた) 。 その頃の日本人は、欧州人とちがった、まったく冴えたタッチと美しい音を持っており、まるで楽 器がちがったかと思わせるように、ピアノの音がちがってきこえてきたのです。今の日本人の音を聴 くと、その頃のような『ちがった音』ではなく、力強い音ではあるが、昔のように『音』自体のもつ、 ある美しさがなくなってしまったように思われてならない。日本人の技術はすでに国際的に通用する ところまで達している。けれども、その上の段階、音楽家として世界的に通用するには、まだまだ時 間と研究を重ねることがどんなに必要かを痛切に感じさせられた」(『えんれん』1973 年 11 月号) それから 43 年が経過したこんにちでも、問題はあまり解決されていないように思う。音色の魅力は、 声楽家、管・弦楽器奏者であればまっさきに追求するものだが、鍵盤を押せば一応音の出るピアノで はないがしろにされがちで、日本はとくにその印象が強い。 この点で優れているのは、ロシアのピアニズムである。モスクワ音楽院には、学生への指導の一環 として管弦楽曲をピアノ用に編曲する伝統があるときく。オーケストラのさまざまな楽器の音色をピ アノに託す努力から豊かな色彩感が生まれるのだろう。 1975 年、エリザベート国際コンクールに日本人としてはじめて審査員に招かれた安川先生は、世界 との差をさらに痛感されたようだ。 「私は 1970 年代から 20 年ほど各地の国際コンクールを見てまいりましたが、忘れられないのは 1975 年のエリザベートのコンクールの後でしたでしょうか。私は『日本人が本当に人を感銘させる演 奏ができるようになるまであと半世紀はかかるだろう』と実感したんですね。『ああ 50 年!』と思わ ず溜め息をついたものでした」 ( 『日本ピアノ教育連盟 10 周年記念誌』) 1976 年には、スペインで開かれたハエン国際コンクールの審査をつとめた。このときは愛弟子の津 田理子さんが優勝したのだが、安川先生のスタンスはあくまでも公平で、新聞のインタビューに答え て「演奏は非常にまとまっていてよかったし、テクニックも他の人より一段とすぐれていた」と語り ながら、以下のようにつづけている。 「ただ2位になった中国のかたの演奏などは特徴のある、音に対してゆきとどいた神経を使った息の 長い演奏で、たとえばピアニッシモなら最後までそれでとおしていくとか、とにかく自分の言おうと していることを強くおしていく、そういうところは日本人にはやはりかなわない面です」 安川先生は日本演奏連盟の会報でも「外国のかたは、 “この作品を通して自分は何をいいたいか”つ まり自分のやろうとしていることがはっきり出てくるのです。日本人はそういうことはわりと苦手で、 弾くだけで精一杯とか、何を言いたいか、または訴えたいのかが非常に平坦になってしまうようです」 と指摘されている。 2015 年にショパンやチャイコフスキーなど主要国際コンクールを観戦した私も、残念ながら同じよ 15 うな感想をもつ。ショパン・コンクールでは韓国のチョ・ソンジンが優勝し、3位から5位までを中 国系のアメリカ人やカナダ人が占めた。浜松国際でも中国系アメリカ人のピアニストが3位に入賞し ている。同じアジア系でも、彼らはプレゼンテーション能力に優れ、自分の信じる音楽を高らかに謳 いあげていた。また、そうした自発性をもつコンテスタントほど成功したように思う。 欧米のピアニストもしかり。チャイコフスキーに出場したルカ・ドゥバルグは、強烈な自己主張が 受け入れられて4位入賞を勝ちとった。ショパン・コンクール2位のシャルル・リシャール・アムラ ンも読譜能力に優れ、自らの解釈を見事な技巧をもって実現させていた。 日本で指導していつももどかしく思うのは、学生たちが非常に従順で、何を言っても反論しないこ とである。解釈はひとつではなく、こちらはその一例を示しているだけなのだから、ときに「自分は そう思わない」と言ってくれてもよいように思う。それに対して指導者は、「それは楽曲の性格、ある いは作曲者の意図に反する」と正したり、 「その方向ならこのように」とか「こうした奏法を使ったほ うが」とアドバイスできるというものだ。こうした受け身な姿勢は日本人の美徳のひとつでもあるが、 国際舞台で丁々発止とわたりあっていく上ではマイナスになる。 かといって、やみくもに自由に弾くのがよいというものでもない。演奏とは作曲家の創造した作品 を再現する作業であり、テキストを深く読み込むことによって、オリジナルかつ説得力のある解釈が 生まれるだろう。 もうひとつ日本人に足りないのは、演奏するプログラムのテーマ性である。ただ弾きやすいもの、 評価の高いものを並べるのではなく、自分なりの意図をもって選曲し、何かひとつの筋を通せば、聴 くほうも取材するほうも興味をひかれるだろう。 安川加壽子先生は長い演奏活動の中で、身をもって 「筋の通ったプログラム」を示してこられた。 第8回安川加壽子記念コンクールでは、海老彰子、小川典子各氏をはじめ、国際的に活躍するピア ニスト、国際コンクール経験豊富な著名ピアノ教育者が審査にあたる。これまで述べたような「作曲 家の意図を尊重した上での自発性」 「美しい音色」 「テーマ性や独創性の感じられる選曲」などを尊重 して審査されるコンクールになるだろう。 2次予選と本選会は浜離宮朝日ホールで開催される。最適のアコースティックを設定するために、 安川先生がアドバイスなさったホールである。シューボックス型で、無理矢理に弾くと音が割れてし まうが、自然に無理なく響かせれば、ホール全体が楽器のように鳴り渡る。是非その感覚を体験して ほしい。 今回は、長いキャリアを誇った安川先生に倣って、年齢制限の上限を取り払った。勉強さえつづけ ていれば誰でもエントリーすることができる。そしてまた、入賞者のうち一名には、オクタヴィア・ レコードでのCDレコーディングの機会も与えられる。録音の現場では、とりわけ「自発性」「テーマ 性」が重要になってくる。 このような特徴をもったコンクールに是非多くの方が応募してくださることを願っている。 ( 安川加壽子記念コンクール事業見直し特別部会委員 第8回安川コンクール課題曲選考部会委員 あおやぎ いづみこ 16 )
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