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イナゴは食べたがバッタは食べない
第3話
イナゴは食べたがバッタは食べない
瀬田康司
1.
朝鮮戦争が昭和 25 年 6 月に勃発した。同年 8 月警察予備隊が発足している。警察予備隊
が保安隊へと組織改編された昭和 27 年、ぼくの生まれ育った町・三重県久居町(旧称 現
在は三重県津市の1ローカルエリア。「平成の大合併」というじつに馬鹿げた行政措置のせ
いだ。
)にその駐屯地が置かれた。
ぼくの家の東側にはもと陸軍 33 連隊の演習場が広大に拡がっていた。保安隊が駐留する
までの実況がどのようであったのかは記憶にない。ただ、我が家の近辺は、農道あり、農
水道(溝)あり、クローバーやレンゲなどの生い茂る野原(畑?)があったことは確かで
ある。姉やその友だちとクローバーを摘み首飾りや冠を作って(いや、作ってもらって)
遊んだ、心豊かな記憶が残っている。日頃、その遊び場のことを、ぼくたちは「レンペー
ジョー」
(練兵場の意)と言いならわしていた。保安隊が駐留するようになっても、しばら
くは、ぼくの草摘み等の遊び場でありイナゴ・バッタ・トンボ・チョウ等の「狩り場」で
あり続けた。飼っていた兎や鶏の餌になる草、餅つきに入れるヨモギ摘み等々、生活の足
しを得る所でもあった。しかし、その遊びや「狩り」、生活の糧の収穫の「行く手」に、訓
練を繰り返す保安隊の「軍列」が加わり、飛行機滑走路や実弾演習場が建設され(陸軍時
代の施設が整備されたのだと思う)
、立ち入りを禁止されるようになっていった。かつてそ
こで、わが父が軍事訓練に従事していたことは、後年知ることになる。
2.
母は我が家を「鰻の寝床」と自嘲していた。南北に長く、北から順に、勝手口(引き戸)
、
2 畳ほどもあったであろうか土間の調理場、食卓を囲む 3 畳の部屋、6 畳の居間兼寝室兼客
室、土間と板張りだけの狭い玄関、そして玄関口(引き戸)
、玄関を出た東脇に屋根だけの
トイレ(当時は外トイレが一般的であったと思う)。玄関口の前を東西に道が走っていた。
この道を通ってぼくは「レンページョー」に出かけたわけである。居間の東側が窓、西側
は壁で 1 メートル道路と接している-その西側壁面の道路に並行して近鉄線が走っている。
道路と線路の間は 3 メートルほど。この狭い土地空間もまた、ぼくの遊びと生活の舞台で
あった-。記憶の彼方に、居間の東側の窓から出入りしていた母、姉そしてぼくの姿があ
る。つまりのこと、日常は、勝手口も玄関も内側から施錠されていたわけである。窓の先
は「天野屋」さんの庭先になる。
イナゴは食べたがバッタは食べない
わかりにくいですか?ぼくが学校から帰宅した時のことを例に挙げて書きましょう。
我が家の玄関先で、声をあげて、
「ただいまー」。「おかえりー」と、「天野屋のおばちゃ
ん」(時には「おじちゃん」、「おじいちゃん」、「おばあちゃん」)の声だけが聞こえる。そ
の後、トイレの脇の庭木の間を抜けて「天野屋」の庭に回る。窓の下の植木鉢の底をあげ
てカギを取り出す。カギといっても螺旋状の溝が付いたもので、これを窓の鍵穴に差し込
んでクルクル回して開鍵する。右回しだと閉まり、左回しだと開く。鍵をネジ開ける前に
することがある。それは踏み台に上ること。背が届きませんものね。ついでのこと、
「天野
屋」さんの庭の東端に幅1メートルほどの農水道(溝
生活排水道も兼ねていた)が流れ
ており、その東沿いに農道が走っていた。その農道の東が広大な「レンページョー」であ
る。この溝もぼくの遊びや「狩り」の舞台の一つであったが、そのことについては、いず
れ綴ることがあるだろう。
「天野屋」さんの庭と接し、我が家族の出入りに使用された東側の窓は、四季折々、我
が家の食材がぶら下がっていた。覚えているのは、大根、白菜、剥き柿、トウモロコシ-
我が地方では「ナンバ」という。ちなみに「ナンバ」とは、
「西洋キビ」の西洋=南蛮から
言われるようになったと、畑の「ナンバ」をもぎ取る作業中に母から聞いたのだが。ちょ
いと脱線話を。「トウモロコシ」を漢字で書くと「唐(とう)唐土(もろこし)」。植物的にはキ
ビですから、
「外来のキビ」種。外来を、「唐」と理解すれば「トウキビ」、「西洋」と理解
すれば「南蛮キビ」で「ナンバ」
。こんな話を農作業の間に母がしてくれたわけです(「ト
ウモロコシのトウちゅうのはな、むかしトウという国があったんや。でな、モロコシっち
ゅうんは。そのトウのツチ、足の下の土な、そう書くんや・・・。」というような語りであ
ったことを、念のために追記しておきます。
)干してあった「ナンバ」は次の年の蒔種用で、
食料にはしない。なお、
「唐(とう)唐土(もろこし)」という母の説明は正確ではない。-など
畑のモノに混じっていたのが、イネ科の雑草の茎に刺し通されたイナゴ。これらの生産に
参加するようになったのは 8 歳ぐらいからであった。家の近辺の空き地利用の耕作が初期
の思い出。鍬を振り下ろしたり鎌で刈り入れをしたりする作業を言いつけられるようにな
ったのは、小学校4年生(10 歳)の時である。
イナゴは、そうした農作業ばかりではなく、遊びによる収穫物であった記憶が強くある。
その主たる場が「レンページョー」
。姉たちとバッタ獲り、トンボ釣りなどの遊びをしてい
る中で、ついでにイナゴを獲ったというところである。虫かごからイナゴを捕りだし、草
の茎に刺し通すのが母の夜の仕事。翌朝になると窓に吊してあった。
「レンページョー」で
イナゴは食べたがバッタは食べない
の遊びや狩りがだんだんと窮屈になり始めた記憶が強くなると共に、遊びとしてのイナゴ
獲りの記憶が遠くなる。そして、農作業の一環としてのイナゴ獲り(駆除といった方がい
いか)の記憶が鮮烈に蘇ってくる。母が農家から借用していた幾枚かの畑には麦や陸稲が
作付けされていた。この畑に出没するイナゴ獲りは真剣そのもの。「ええなー、一匹も残さ
んと獲ってなー。イナゴやバッタは害虫やでなー。
」母の掛け声と共に、姉とイナゴ獲り競
争が始まる。虫籠に入れるなどと悠長なことはしない。手に持った稲の茎に、次から次へ
と、イナゴが刺されていく。
秋の農作業のあった翌日の窓には、イナゴの暖簾ができあがった。ときおり「大柄のイ
ナゴ」が吊されているが、それは、ぼくが間違え、捕まえたと同時に殺さねばならなかっ
たはずのバッタである。とはいえ、イナゴと間違えられたバッタが食料に間違えられるこ
とは、まったくなかった。
カラカラに干しあがったイナゴはそのまま口に入れても香ばしい味がする。しかし虫が
つくので、やはり、甘辛煮にして保存食となる。しかし、ぼくの反抗期の進行とともに、
イナゴの甘辛煮が食卓に上るのがなくなっていった。
3.
双発のプロペラ機が我が家の屋根すれすれに飛び立ち、帰還する。「第2次世界大戦後、
わが国は一貫して戦争をしなかった。戦争放棄を謳う日本国憲法のお陰です。」と、誇り高
く謳う戦後=平和教育の「スローガン」に出会うたびに、そして、ぼく自身も観念的にそ
れを口にするたびに、朝鮮戦争の末期、保安隊の戦闘機が「レンページョー」で轟音をた
てていたこと、そしてその飛行によって、我がおんぼろ家の屋根のトタン板が捲れあがり、
ひどい雨漏りに夜も寝られない時が少なくなかったこと、等々を思い起こすのである。そ
ればかりではない、草摘みや虫獲り、収穫という幼い遊びや生活があったことさえ夢の世
界の出来事でしかなかったのではないかと思うのであった。
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