3.軍部は超保守主義 横浜市立大学名誉教授 松井道昭 戦争は文明の発達とともに兵器の改良を促し、その殺戮度を上げてきた。その最たるものが核兵 器、大陸間弾道ミサイルである。前に私は「1.戦争勃発の偶発性と必然性」でロジェ・カイヨウ の「戦争論」を紹介したとき、戦争と文明は相互依存関係にあり、文明が兵器を育むと同時に、兵 器が文明を発達させたと述べた。後者の最たる結晶物がインターネットである。今や、これの利用 なくして日常生活すら通常に営めえないほどになっている。 そもそも「兵器」とは何か。戦争に使われる道具・装置のすべてが兵器である。兵器が単独で機 能することは滅多になく、 兵器を戦場まで移動運搬する道具を要しこれも兵器に含まれる。 さらに、 防御装置類も加えねばならない。 兵器の発達史をその最初から述べても論点拡散するだけであるため、ここでは火器の出現・普及 以後を扱いたい。そのうえで普仏戦争は兵器発達史のなかでどのような位置づけになるのか、そし て、最後に本節の主題「軍部の超保守主義」の問題に移ろう。 火器以前の兵器は人間の手足の延長としての刀槍・矢に尽きる。つまり、打撃・斬撃・刺突など 手から離さず接近戦で用いるものと、離れた対象物を攻撃する飛び道具とに二分される。 14 世紀前半にヨーロッパで製造に成功した火薬はまもなく包囲戦用の投石機の発射体として採 用され、次いでヨーロッパ史上初の火器すなわち射石砲が作られた。火薬革命の名に値する大変革 である。銃の開発はしばらく後のことである。なぜというに、大砲が出現する以前の戦いでは敵が 要塞に逃げ込めば、包囲側は手が出せなかったからである。攻め入るには壁を攀じ登るか、地下ト ンネルを掘って城内に入るかのいずれかしかなかった。これら二つの対処法も、籠城側に察知され れば意味をなさなかった。大砲には致命的な欠点があった。重量があり運搬に手間取るのと発射速 度が 1 時間に 1 発しか発射できない(それ以上だと砲身が爆発する)のでは、とても用をなさない。 特に高所に設置された要塞砲が身構える場合には包囲側はとうぜん射程において劣るわけで、後方 に退かなければならない。要は要塞攻防戦の基本的特徴は睨みあいである。火器の歴史で見過ごさ れがちなのが地雷である。19 世紀までの地雷は現在の対人地雷とは異なり、城壁の外側に掘られた 壕の下に坑道を掘り、ここに火薬を仕掛けるもので、塹壕とともに重要な攻城兵器であった。 兵士が携帯する小型の火器すなわち銃は 15 世紀に入ってまず火縄銃が開発された。しかし、初期 の火縄銃は射程距離(80~100m)と連発性(10 分で 1 発)において弓に劣り、威力は欠けていた。 しかも立ち身で撃たねばならなかった。16 世紀中葉にマスケット銃が発明されて以来、銃は一挙に ヨーロッパの戦場の主導権を握るにいたる。発火装置の改良が加えられ、発射用火薬と弾丸を一ま とめにした紙製の弾薬筒が現われ、弾薬装填から発射までの作業が速くなった。16 世紀末には 1 分 間に 3 発ないし 5 発発射できるようになった。 さらに 18 世紀初頭までに火縄式に代わって火打ち式 の着火方式が採用されるに及んで、小銃に剣を装着する銃剣が標準装備となった。 19 世紀になると火器の技術革新が進み、施条式(ライフル)銃砲が一般化し、弾速度が増し、弾 道のブレもなくなり、射程が延びた。さらに従来の前装式から後装式に移行した。これは身を伏せ たまま射撃できる利点があった。普仏戦争でフランスが開発したシャスポー銃、そしてプロイセン が使ったドライゼ銃も後装式銃であり、1 分間に数発撃つことができた。シャスポーにいたっては 射程 1000~1200mというから大変な距離である[注] 。大東亜戦争で用いられた旧日本帝国陸軍の 三八銃で 300~400mというから、この百年前のシャスポーに性能は劣っていたことになる。シャス ポーの利点は、無煙火薬を用いるため、射撃手が何処から撃っているのかわからず、物陰に隠れて 9 の狙撃に向いていた。 [注]戊辰戦争の鳥羽・伏見の戦いが起きた当時、幕府軍はシャスポー銃を 1 万 5 千挺も保持していたが、訓練が なくて実戦投用されなかった。1 万 5 千挺といえば、幕府軍の兵士 1 人に 1 挺である。対する薩長軍は 4500 人しか いない。歴史に「もし~」は禁句だが、これも兵器の発達に兵法の発達が追いつかなかった好個の実例といえよう。 一方、新兵器はアメリカ合衆国でも誕生した。19 世紀後半に製作された連発式カービン(騎兵銃) として特に有名なウィンチェスター銃はレヴァーで操作するライフル銃で、銃身の下に管状の弾倉 があった。また発射反動を利用して弾薬の装填を自動化する装置の開発も登場した。ガトリング機 関銃も革新の所産である。これも戊辰戦争時の日本に来ている。 20 世紀は攻撃力や速射力が大幅に強化された火器が登場。特に大きな転換が訪れたのは砲である。 射程はそれまでの前装滑空砲が 2000m以下だったのに対し、第一次大戦の野砲は 8km台に伸び、 榴弾の採用で破壊力も飛躍的に増大。今日の陸軍砲には射程 30kmに達するものもある。砲身から 発射する従来型の砲だけではなく、長距離飛行するロケットが登場した。ロケットのうち、誘導を 受けることなく飛翔するのがロケット砲、外部の誘導や自らの飛行軌道を修正して目標に着弾する のがミサイルである。これとともに射撃管制装置も目覚しく進歩し、レーザー測距機、自動射撃指 揮装置、対空・対砲・対ミサイルレーダー装置などが次々と考案された。 しかし、20 世紀最大の特徴は火器以外の兵器の出現であり、核兵器、化学兵器、生物兵器など大 量殺戮や大量破壊を目的とする兵器が登場したのと並び、現実の戦闘が大規模化しただけでなく、 地球規模および宇宙規模の戦略を構想されるにいたった。このような新兵器の開発・製造は国家の 戦略に沿って実行され、今日では「兵器システム」と呼ばれる兵器概念が出現。つまり兵器生産、 兵器実用化理論を中心に当該兵器の誘導方式や補給作戦上の要因、予想される探知と反撃手段など が付加され、いつ、どのようにその兵器が使用されるかを想定する兵器運用モデルである。 さて、われわれの主題=普仏戦争時まで後戻りしよう。まず兵器の問題から。シャスポーとドラ イゼの比較では前者に一日の長があるが、それほどの落差ではない。射程が 1000m対 700mでは実 際上、優劣はつけがたい。大平原の真直中で撃ちあいならともかく、両軍ともに遮蔽物に隠れ 300 ~400mの距離をおいて撃ちあうのだから。それでも命中精度の点でシャスポーが若干有利である。 そのため、普仏激突の緒戦でプロイセン軍(以下、普軍と略す)のほうに損失率が高い。接近戦で 不利と悟った軍師モルトケは歩兵どうしの正面衝突を避けるようになった。 普軍が優勢に立ったのは大砲(クルップ砲)のおかげである。これは後装砲であり、射程が平坦 地で 2000~3000m、装填速度もフランス軍(以下、仏軍と略す)の大砲に勝っていた。そのため、 シャスポーの性能を過信して突撃をくり返す仏軍歩兵はクルップの恰好の餌食となった。砲と銃の 争いでは砲のほうが圧倒的に有利である。 クルップ砲は 1867 年のパリ万博の折に展示物として観客 の目を惹きながら、仏軍側では特段の対抗措置が講じられなかった。口径 4~12 キロ砲は各4~12 キログラムの砲弾を発射したが、平均 1 分間に 2 発しか発射できなかった。クルップ砲は 5~6発 である。そのツケが実戦で出てきたのだ。1870 年 11 月 9 日のクールミエ戦を除き、すべての戦闘 で普軍野戦砲兵隊は仏軍を寄せつけなかった。 もう一つは機関銃の扱いである。仏軍は縦 5 列・横 5 列の銃口(25 連発)をもつ機関銃を開発し、 実戦に投用した。 私はロレーヌ州のグラヴロットの戦争博物館で現物にお目にかかったことがある。 しかし、なぜかしらこの機関銃は砲兵隊の管轄下におかれた。これは当然のことながら歩兵隊に帰 属させられ、 近づいてきた敵歩兵に猛射を浴びせれば、 さぞかし効果絶大であったものと思われる。 10 そのうえ、機関銃を使っての演習が実施された形跡がなく、配備されても、その操作と運用の術を 心得た指揮官と兵が不在であり、文字どおり「宝のもち腐れ」となってしまう。ここにも軍部の保 守主義の弊風が見られる。将師たるもの、旧戦法に拘るものである。 機関銃を軽視する風潮はなにもフランスに限らない。アメリカの南北戦争で登場したときも、そ の威力を軽視するのみで自軍に甚大な損失を招いた。それでも次から次へと突撃をくり返し、死人 の山を築く。このしだいは『機関銃の社会史』という翻訳本に出ている。そう、日露戦争の旅順攻 撃の際、203 高地攻防戦でも同じようなことがくり返されたから、日本は例外というわけにはいか ない。戊辰戦争時における幕府軍の刀槍中心主義にも見られる。二百数十年前の「関が原の戦い」 において刀撃で斃れた者は 100 の戦死者のうち 1 人程度だったが、その苦い経験がまったく忘れら れている。その弊風は大東亜戦争にまで引きずられていく。人は帯刀をもちたがるし、銃剣すら機 関銃の前にはほとんど意味がなくなっているというのに…。 白兵戦での肉弾戦は依然、頻発したが、それは悲劇的な結末となった。ナポレオン一世時代の花 形の騎兵隊は火器改良の大きな犠牲となる。胸甲騎兵の攻撃は敵がほどよい距離から狙撃兵と砲兵 を配置することができるようになってからは惨劇となるのが常態化する。普軍はその教訓から学び とるところが多く、騎兵の役割を変えた。つまり歩兵を擁護し、情報を与えた。1870 年の絵にしば しば出てくる槍騎兵が代表格である。 普軍優位は作戦の迅速さのみにあるのではない。将校団が形成され、正確であり、弾薬・銃砲・ 替馬が戦場の近くに到着し、砲兵隊は補給を受け、損傷部分、破壊された車輪と車軸を現場で応急 修理する術をもっていた。対する仏軍は損傷を受けた砲を現場に放棄した。戦闘が仏領内に限られ たにもかかわらず、仏軍は策源地の近接という優位をまったく活用できなかったのだ。これもそれ もすべて大ナポレオン軍の栄光の思い出に引きずられてのものである。歩兵と騎兵はもはや銃撃と 野戦砲兵隊の餌食になっているというのに、仏軍は旧戦法に虜われたままだった。ナポレオン一世 の時代には歩兵は 300~400 歩前進して撃てばすんだが、1870 年には 1000~1500 歩が必要だった。 この備えでは銃撃と砲撃の密集攻撃に抵抗できなかったのだ。 要塞包囲は普仏戦争のもう一つの側面である。攻撃精神の染み込んだモルトケは要塞に重要性を 与えなかった。彼はクラウゼヴィッツの唱える野戦決戦主義を採った。つまり、仏軍が重視した要 塞は基本的に無視し素通りする挙に出た。分離堡を持たない要塞は僅か数日で陥したが、メッスや ストラスブール、パリのような要塞都市は兵糧攻めに撤し、内部崩壊に期待した。モルトケが予想 した戦いで決定的な勝利を収めたのはスダンである。8 月 31 日から 9 月 1 日の丸一日でここにいた 仏軍 12 万を徹底的に痛めつけ片づけてしまった。 モルトケは戦争を準備し、将校団を組織する術を心得ていた。彼は武器と手段の連携に関して熟 考を重ねた。彼は状況を分析し、命令書を起草し、速やかに決断し、最後に偶発事に沈着冷静に適 応することができた。普軍の優越は軍隊の価値においてではなく、指揮の水準において見られたの だ。仏軍の元帥と諸将は普軍と同様に勇気があり大胆不敵ではあったが、彼らが決定的に劣ってい たのは近代戦争の既成観念に取りつかれていたことである。 だが、敗北は仏軍の側に猛省を促し、その結果は軍隊の再組織と防御体制の再検討に連なった。 大きな教訓は攻撃は防御に勝る価値をもつということだった。ただし、これは状況にすばやく適応 して初めて可能になることだった。兵站重視[注、ここでは省略]のモルトケ戦法を学んだはずの 日本帝国陸軍はこれを一面的に理解するところとなり、日露戦争と大東亜戦争の南方作戦で大被害 を蒙ることになる。 11 4.ジャーナリズムは基本的に無責任 今の日本でマスコミが集中砲火を浴びている。 それは主としてニュースの扱いにおいて強い偏向、 つまり、ニュースの題材の選定とその脚色において強い意図が読み取れるからである。もはやマス コミによる世論誘導はできなくなってきている。きっかけとなったのが目下、進行中の情報革命(イ ンターネット)である。それはテレビを筆頭に、新聞、雑誌(月刊・週刊) 、ミニコミ誌、趣味・娯 楽雑誌、そして一般書籍にまで影響が出ている。この流れは止められないし、また止めるべきもの でもない。 論点を普仏戦争とマスコミの問題に移し、ここから何が教訓として導き出せるか、現在日本のマ スコミ問題と共通する要素がないかどうか検討してみたい。 1870 年ごろのマスコミというと、新聞しかない。新聞(Journal)である。テレビやラジオはな いし、雑誌もない。よって、当時のマスコミは新聞を指した。新聞(月刊・週刊・日刊の定期刊行 物)以外に強いて挙げれば、キオスクで発売する石版風刺画とリーフレット類(いずれも有料)で ある。後者は暴動や革命など大事件が起きたとき、世論に何かを訴えるために出てくる不定期刊行 物である。その新聞だが、ヨーロッパの新聞というのは日本の新聞とは異なり、証券取引情報紙と 政治新聞が中心であり、大衆の娯楽を主眼とするものはようやく出現しはじめた段階にすぎない。 普仏戦争を決めたのは閣議、 次いで両院議会である。 決定的局面で主戦論に加担したのが新聞だ。 いずれもパリでの出来事である。そして、その決定は即全国への号令というかたちで波及する。実 をいうと、これが戦争の最中に高まっていく首都と地方の分裂の伏線となっていく。地方からすれ ば、突然の開戦とは「寝耳に水」だが、国家は議会の了承を経ている以上、従わねばならない。し かも、1870 年以前の数次の外征時も同じルールを踏んだことがあり、特に反対する理屈は成り立た ない。 そこで、まずパリのフランス国内に占める位置から論じることにしよう。総人口 3600 万のうち、 パリだけで 200 万を集めていたのだから、その突出ぶりは大きい。政治的・経済的位置づけにおい てパリが傑出していることは言うまでもない。フランスはヨーロッパでの中央集権度でみると、イ ギリスに次いで高い。 次に問題になるのは文化的な位置である。 パリは文化の分野でも文字どおり特権的地位にあった。 フランスの知的・文化的生活を独占したパリはフランスの一部であるどころか、すべてといってよ い。歴代政府がことさらパリを警戒したのは、この町がすこぶる大きな文化的影響力を保持してい たからである。 パリの知的・文化的独占はまず学術において代表される。フランスの大学にふれるばあい、まず パリ大学を挙げなければならない。パリは中世以来、キリスト神学の中心としてヨーロッパの神学・ 哲学の中心を誇ってきた。 第二帝政期において大学はすでにパリの独占物ではなくなっていた。 オルレアン、 トゥールーズ、 モンペリエにおいて大学が設置されていた。けれども、フランス全土の知性を集めたグランド・ゼ コール (ハイレベル技術者の養成を中心とする国立大学校) はほとんどすべてパリに集中している。 科学技術の諸施設も同様だ。文学も、美術も、音楽も、そうした分野に進む志をもつ者にとっては とにかくパリに出なければどうにもならなかった。文人、芸術家、大学教授、法律家など皆パリに 集まってきた。 パリのインテリ世界は非常に数が多い。1870 年当時の約 200 万の人口のうち5万人がこの種の 12 自由業に属した。内訳を言えば、1万人の芸術家とコメディアン、2000 人の学者と文学者、500 人 の大学教授、1500 人の法律家である。これらの予備軍はどうか。パリのリセ(国立中高等学校)6 校の計で約 7500 人の生徒をかかえていた。コレージュ(中学)の学生は2万3千を数える。これら の生徒・学生の半数以上が地方の出身である。 授業と講義の傍らに出版物があった。フランスの新刊書の半分はパリで編集された。なかでも世 論形成の先導役をつとめた新聞が重要である。新聞の全国発行部数のおよそ8割をパリが占めた。 第二帝政が始まった 1852 年当時、パリの日刊新聞の発行部数は 15 万部であったが、帝政が幕を閉 じる 1870 年には百万部に膨れあがる。発行部数だけが問題なのではない。報道の題材を全国に配給 するところの「通信」はほとんど首都でつくられた。 帝政はこれに神経質にならざるをえなかった。第一帝政に倣ってナポレオン三世は 1851 年 12 月 の政令により、新聞検閲制度を敷いた。新聞および定期刊行物の発行は許可制になり、編集主幹の 名義を変更することでさえ、事前の許可を受けなければならなかった。印紙税支払と保証金積立も 義務化された。議会議事に関する報道は政府の発表のもの以外は禁止された。政府は不つごうと判 断した新聞を停刊ないし発禁処分にすることができた。しかし、この検閲制度は帝政末期(1866 年) にはずいぶん緩められ、 政府批判もかなり自由にできるようになった。 これは後述のことと関連し、 きわめて重要な変化である。 要するに,パリは全国を文化的に ― したがって政治的にも ― 指導していたのである。パリで の新しい思考や芸風はちょうどモードが普及するのと似たかたちで,時差を伴って地方にも伝播す る。地方の知識人や文化人はつねにパリの動向に耳を欹てていなければならなかった。そうでなけ れば時流においておかれるのだ。しかしその一方で、コンプレックスに打ちひしがれる地方人にと ってパリは憬れの的であると同時に,少々煩い存在でもあった。 新聞がパリでこれだけ多く発行されるということは、それを望む一般読者がいたこと、つまり、 パリは上層から下層まで新聞を読めるほどに識字率が高かったことを意味する。新聞の読めない最 下層は居酒屋談義において耳を傾ければそれでよかった。 普仏戦争に話を戻すとして、実はその新聞が主戦論を流したのである。これまでの理解では、主 戦論はブルジョワジー、非戦論は議会野党と一般大衆(職人・労働者・小商人)という単純な図式 で語られることが多かった。たしかに野党(ごく少数だが)は非戦主義に傾いていたが、それは文 字どおりの平和主義にもとづくものではなく、帝政が引っ張る戦争でフランスが勝てば ― 新興国 プロイセンは舐められたものだ! ― 帝政の基盤を強めることを警戒したからである。すなわち、 政治的立場からする非戦主義である。エムス電報事件から開戦決議まで数日間しかない。閣議も立 法院もほとんど非戦に傾いていたにもかかわらず、これをグイと主戦に引き寄せたのは新聞が煽る 排外熱である。どの新聞も主戦論に傾いていた。この影響を受け、国会周辺でくり返される街頭デ モの圧力に屈したため、野党を除く議会の圧倒的多数が宣戦布告に賛成票を投じてしまったのだ。 集団的熱狂というものは怖い。街頭デモがあるといっても、それがパリ市民の全体の意思を代表 しているわけではない。おそらく主戦論は相対的に少数であっただろう。4 年越しの長期経済不況 に後押しされた全般的な抑うつ感が充満しているなかで、鬱憤晴らしの掛け声がかかればこれに乗 せられたとしても不思議ではない。大衆は「勝ってあたりまえ」の楽観論に染まってしまう。ここ でもなお冷静に判断すべき立場にいるのが陸相と外相のはずだが、始末が悪いことに、この二人が 主戦論を説く張本人であった。おまけに皇帝自身は病気で決断できない状態にいる。 開戦後のパリは情報通信手段の未発達もあって、戦場での実情は正確に入らない。どうやら劣勢 13 にある程度の情報はパリに届いていたが、18 万のメッス軍と 12 万のシャロン軍の主力は温存され ており、そのうち勝利情報が舞い込むものと、皆が信じていた。それが開戦 1 ヵ月後の九月初にナ ポレオン三世自身が捕虜となる報を受け取る。それでもってパリ人に熱気が醒めるどころか、むし ろ逆に革命を断行し、帝政を転覆させ、継戦を組織する。ここでも全国を指導すべくすべての音頭 取り役を果たしたのである。 まもなくパリは独軍の包囲下に入り、外部情報がほとんど入らなくなる。地方では厭戦気分が拡 がりつつあったこともパリは知らない。パリは攻勢に出ることもなく引っ込んだままであり、戦闘 の実際を知ることもない。その間、ますます食糧難と寒さは増していく。真綿で締められるような 痛苦のうちにパリ市民は徐々に不満の捌け口をパリの政府に向けるようになる。パリ政府はパリ民 兵の実力を知っていったため、出撃論に慎重であった。地方の挙兵と呼応して出撃するつもりでい たが、通信手段が不備で地方の実情を把握できず、時間がいたずらに過ぎていく。 目隠し状態で飢餓・厳寒・砲撃の恐怖を味わいながらも戦闘の惨劇を知らないパリの特殊な状況 と、戦闘の実際と占領の現実を思い知らされた地方のあいだにおける亀裂は徐々に拡大していく。 この間もパリの新聞はいっこうに吼えるのを止めない。出撃論を振りかざす一方でパリ政府の弱 腰を責め立てるのだ。本格的な出撃は二度ほど試みられたが、二度とも一蹴のもとに大敗北を喫し てしまう。それから以後のことはフランスの内乱に行きつき、フランスにとって開いた傷口をさら に押し拡げることに連なった。このしだいは本著に譲ることにし、結論に進もう。 新聞は魔力を秘めている。状況しだいで、そして新聞の活用しだいで一般大衆の倫理観を麻痺さ せてしまうことがある。 「言論の自由」が確保されていれば、賛否両論が合い乱れ相殺しあって、極 論や独断論が切り捨てられることにより穏当な結論に至ることが期待できる。 しかし、 「言論の自由」 に全幅の信頼を寄せるのもまた危険といわねばならない。 けっして私自身はそれを望むわけではないが、一定の規制が加えられているほうが執筆者は慎重 になり、煽り記事を書く冒険は自制するものである。極端な検閲制度から一斉解放に向かうときが 危険である。新聞とて無償で配られるわけではなく営利主義から自由でない。そうすると、扇情的 記事を書いたほうがまちがいなく「売れる」 。普仏戦争時の新聞がちょうどそうした状態にあった。 「勝てるかもしれない」態度で主戦論を述べるのと、 「勝つのはあたりまえ」の態度で述べるのとで は「売れ行き」効果の点で天と地ほどの差が生まれる。 危険な兆候があれば、ブレーキをかけるべきである。だが、新聞は本来的に無責任である。新聞 が華やかに活動していることは「言論の自由」とは関係がない。戦争中、新聞が華やかに活動して いたのは事実だ。マスコミが何ら圧迫も受けず自主規制もせず、自社が考えていることをまったく 欺瞞もなく率直にそのまま言えるかどうかが問われているのだ。率直であるのはいいが、新聞は基 本的に権力者迎合と大衆迎合に撤した。平時には権力者と大衆のあいだに埋め難い溝があるゆえ、 大方の新聞は大衆の立場にたって政府を責めるのがふつうだ。しかし、戦争は一挙に国民的団結を もたらし、城内平和を金科玉条としてしまう。のちに慌てて新聞が権力から離れても、それは時遅 く、不幸の拡大につながるだけだ。 だが、このことは、その当時何の批判できるだけの情報も解析力もなかった一般庶民のことを考 えなくてもよかったことを意味するのではない。時代が変わろうと、時の権力を批判するような顔 をしつつ実質的にはその権力と密着し、つねに何らかの大義名分を掲げては人々の思考と言論を規 制しつづけ、一貫して規制する側に立ってきた連中に「言論の自由」を語る資格はない。 マスコミの言う「言論の自由」とは自分たちの言論による無制限な自由であるにすぎない。それ 14 は「言論の自由」ではあるまい。 「何かが怖くて口がきけない」状態は絶対に招来してはなるまい。 ひとたびそうなれば、 「南京大事件」や「従軍慰安婦」問題に代表されるような一片の「創作記事」 のため、国家的大騒動を起こしかねない事態を迎える。南京大事件では死刑者まで出したというで はないか。 もっと重大なことは、今の日本のマスコミがすり寄る権力というのは外国の権力であることだ。 それは現在、晴天旭日旗で悩む『朝日新聞』の煩悶に象徴される。 (次 http://linzamaori.sakura.ne.jp/watari/reference/fpwarandtoday3.pdf) (c)Michiaki Matsui 2014 15
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