関東学院大学『経済系』第 264 集(2015 年 7 月) 論 説 エリー・アレヴィと『哲学的急進主義の成立』 Elie Halévy sur La formation du radicalisme philosophique 永 井 義 雄 Yoshio Nagai 要旨 今年は,エリー・アレヴィ『哲学的急進主義の成立』(全 3 巻)の第二版が刊行されてから 20 年になる。アレヴィ家はフランスにおける文人一家であり,エリーは政治学高等専門学校教授と してフランス官僚,とりわけ外交官の育成の中にイングランドの道徳哲学(政治学,経済学を含む) を取り入れようとした研究・教育者であった。名前のみ知られて実体の未知なエリーと『哲学的急 進主義の成立』を解析する。 キーワード 第三共和制,ベンサム研究,政治学高等専門学校,アレヴィ・テーゼ,サンシモニスム 1. 問題の所在——サンシモニスムとアレヴィ家 2. 政治学高等専門学校 3. 『哲学的急進主義の成立』 4. アレヴィ・テーゼ——結語 1. 問題の所在——サンシモニスムと アレヴィ家 主義の成立』は思想史研究として深いものがあっ たとしても,フランスの読者にとってはベンサム は親しみが薄かった。だが,今の日本の研究水準 今年は,エリー・アレヴィ『哲学的急進主義の成 からすると『イングランド国民の歴史』よりも,特 立(La formation du radicalisme philosophique)』 殊なテーマは別として,『哲学的急進主義の成立』 (全 3 巻)の第二版が刊行されてから 20 年になる。 の方がベンサム研究が始まったばかりのわが国に, その初版は 1901 年に最初の二巻が出て,第三巻が 教えるものを多く持っている。このベンサム研究 1904 年に出た。しかし,その英訳(The growth of 書の古典が生まれた環境(アレヴィ家とフランス philosophic radicalism)がペイパーバックで盛行 第三共和制)とこの本の今日的問題性を考えるこ を見ているにも拘わらず,フランス語原書はたい とが,本稿の目的である。 エリー・アレヴィ(Elie Halévy, 1870–1934)は, して読者を持たなかった。 『哲学的急進主義の成立』は端的に言ってジェ フランス第三共和制(1870–1940)の申し子である。 レミ・ベンサム研究である。従って読者があまり 生まれたのは普仏戦争敗北直後であり,第三共和 なかったということは,フランスにベンサムに対 制宣言の二日後である。すでに生地が母の避難先 する関心がそれほどなかったことを意味している である。そこにはモーパッサン夫人ほか何人かの であろう。しかも,アレヴィには別にブリテン研 文人がたむろしており,アレヴィ家には画家ドガ 究として『イングランド国民の歴史(Histoire du (イレーヌ・ジェルマン・エドガール,1834–1917)たち 』 (1912–1932,1946, peuple anglais au XIXe siécle) が出入りしていた。エリーは,長ずるに及んで第 全 6 冊)があり,むしろこの方が評価は高かった感 一次世界大戦とロシア革命を見聞し,スペインや がある。確かにこちらの方がフランスの読者層に フランスの人民戦線を体験した後,ファシスムや とっては親しみやすかったであろう。『哲学的急進 ナチスムが台頭する中で,いわば第二次世界大戦 — 25 — 経 済 系 第 264 集 の接近する時期に亡くなった。つまりは,戦争と ンスはどの国の産業革命とも色彩の異なる,世界 革命が職業的軍人集団あるいは革命家結社だけで に独特の彩りを持っていた。こうした経済成長を 闘われるのではなく,否応なく非戦闘員が被害者 支えた制度を設計したのが中央官僚である点は, になるという全国民的規模で闘われるようになっ それだけならば日本もそうであって後進国には当 た二〇世紀の特徴を見届けて亡くなっている。因 たり前であるけれども,フランス官僚の多くがサ みに普仏戦争は,明治初期のわが国に少なからぬ ン・シモン主義者であったという点でどこにも類 影響を及ぼした。とりわけフランスの対独賠償額 を見なかった。スエズ運河(1869 年開通)を掘削し 1) の大きさは明治新官僚と国民の度肝を抜いた 。 たフェルディナン・マリ・レセップス(1805–1894) 第三共和制は,直前の第二帝政(1852–1870)を がサン・シモン主義者であったことは周知である。 基礎としている。第一帝政(ナポレオン・ボナパル 彼は爵位を持つとはいえ外交官僚出身の起業家で ト〔1769–1821〕 )がアンシアン・レジームを一掃す あった。それどころか,そもそも皇帝ルイ・ナポ るというフランス革命の理念を様々な制度,とり レオン自身がサン・シモン主義者であった。ルイ・ わけ法制度として定着させたのに対して,第二帝 ナポレオンは,選挙法を普通選挙に戻しただけで 政(ルイ・ナポレオン〔1807–1873〕,第二共和制大統 なく,ナポレオン共同住宅,モデル浴場・洗濯場, 領〔1850–1852〕 ,第二帝政皇帝〔1852–1870〕 )は,そ 労働者用リハビリ施設を設置している。上からの の基礎の上に,農業を含むフランス産業を近代化, 階級協調の実践であり,これがサンシモニスムの 発展させ,経済的アンシアン・レジームを一掃し 一面であった。ヴィクトール・ユゴー(1802–1885) た。ルイ自身が, 『貧困の絶滅(Extinction du pau- の『レ・ミゼラブル(不幸な人びと) 』 (1862)の「序」 parisme) 』(1844)を書いており,即位後直ちにパ は,文明社会の中に「人為的地獄」を作る間,すな リの大改造に取り掛かった。細く汚い街路に埋め わち「下層階級であるための男の堕落,飢餓によ 尽くされたパリを今日見るような大通りと地下道 る女の転落,暗黒による子供の萎縮・・・が解決 を持つ大都市に変貌させた。オート・バンクを中 されない間, ・・・換言すれば地上に無知と不幸が 核とする古い銀行制度を改革して通貨(資本)供給 ある間は,本書のような性質の書物も恐らく無益 を安定させ,鉄道を中心とした重化学工業化に踏 ではないであろう」と言う。サン・シモン体系に み出し,地域差はなお残ったにせよ,鉄道網の敷設 おいては,産業者の中核に位置し,経済設計を中 によりようやく統一的国内市場を形成した。それ 心的に担うのは銀行家であり,また産業と技術の と並行して植民地獲得にも一定の成果を得た。ブ 促進には知識の向上が必要で,知識人が重視され リテンに追いつき追い越すというフランスのかね た。官僚はその知識の重要な担い手であった。そ てからの念願はなお叶わなかったにしても,産業 して,エリーの祖父レオン(1802–1883)は,サン・ 博覧会として二度のパリ万博を開催し2) ,この間 シモン主義者で,その生涯の一時期,サン・シモン に自由貿易協定である英仏通商条約(1860)の成立 (クロード・アンリ・ドゥ・ルヴロワ,伯爵,1760–1825) その人の最後の秘書(つまりコントがサン・シモ も見ている。 第二帝政は,いわば産業資本主義初期における ンと絶縁して去った後の秘書)であった。この銀 産業革命期であり,高度成長期であった。勿論, 行家と知識人重視のサン・シモン体系は,フラン 光があっただけ影もあった。ただ,この時のフラ スの当時の情況に対応している。フランス資本主 〔注〕 1)例えば,ブロケット著芳川万三郎等訳『千八百七十 年孛仏戦記』 ,渡六之助『法普戦誌畧』 (ともに明治 4 〔1871〕年)を参照。 2)第 1 回 1855 年,第 2 回 1867 年。因みに最初のロ ンドン万博は 1851 年。日本の幕府および薩摩藩が 参加したのはパリの第 2 回である。 義は,何よりオート・バンクという,古い銀行資 本に支配,統制される金融資本主義として展開す る。父デュマ(1802–1870)の『モンテクリスト伯 爵』(1844–1846,新聞連載)にも出てくる大銀行家 といえども,船員出身者につとまる銀行であった。 それらがまだ第二帝政期までのフランスの銀行の — 26 — エリー・アレヴィと『哲学的急進主義の成立』 現実であったと見ていい。イングランド資本主義 でエリーが学業を収めたリセ・コンドルセ(1880 がマンチェスターの木綿資本を中軸とした木綿資 年頃入学)も高等師範学校(1889 年入学だからサ 本主義として展開したのと対照的である。第二帝 ルトルはかなり後の後輩になる)もボナパルトの 政期にフランスの銀行は近代化を遂げるが,ブリ 遺産と言っていい。エリーはリセ・コンドルセで, テンに比べてフランス産業の展開の速度と形態が, ダルリュ教授(1849–1921)の薫陶を受けた。エリー 緩慢かつ小規模であったのは,フランスの銀行の の最初の大著『哲学的急進主義の成立』がこの教 性格に起因しているであろう。ただし,この点で 授に献呈されていることから,エリーに対するダ の責任はサン・シモン主義にはない。サン・シモ ルリュの影響の大きさが分かる。ダルリュ教授は, ン主義は,大工業主義である。 エリーがすでに在学していた 1885 年にこの学校に まことにフランスを中心にヨーロッパを見れば, 赴任してきた。理想主義哲学者として名を馳せる 一九世紀は「ロマン主義と反抗」の時代(タルモ ダルリュは,ステファヌ・マラルメ(1842–1898)と ン)であった。思想的にはサンシモニスムはロマ 並んで,リセ・コンドルセの名物教授となった4) 。 ン主義である。全社会,全人類の幸福実現がその わが国では誰も知るマラルメは,象徴詩の大御所 目標であった。個人と社会の最大幸福の実現を目 で友人ドビュッシーを刺激して作曲「牧神の午後 指す思想体系という意味では,ベンサムとサン・ への前奏曲」(1865)を誘った詩をはじめ多くの読 シモンの両者は共通するものを有していた。ベン 者を持つ詩人であった。この学校では英語を担当 サム主義者の一人ロバート・オウエン(1771–1858) した。エリーは高等師範学校に進学してからダル が,サン・シモンおよびフーリエ(フランソワ・マ リュ教授の指導を受けつつ『形而上学および道徳 リー・シャルル,1772–1837)と並んで空想的社会主義 評論』雑誌を学友と共同で企画し,卒業後間もな 者とされたのは,大きな誤解(社会主義 socialism く(1893 年 1 月)創刊した。卒業と同時にイング という言葉の初期の用法に対する誤解とマルクス ランドに留学する。すでにブリテン研究に携わり 主義成立後の社会主義なるものからする内容的誤 始め,この方面で強力な芽を出し始めていた。そ 解からなる二重の誤解)を含むとはいえ,こうし してブリテン研究に携わるようになってからも長 た知的空間において理解できる。念のために言え く,生涯を通してこの雑誌には編集と寄稿におい ば,初期社会主義とは,生産の直接的な担い手で て関わった。彼の最初の著書『プラトンの科学理 ある労働者を含めた社会全体の幸福を追求する理 論』(1896)は卒業時のエリーの関心の所在を示し 想的資本主義の体系であった3) 。こうした思想的 ている。この書物は,例えばジリスピー5) が認め 動向と民衆の成熟に対応して,第二帝政は,当初 るように,すでに「分析的方法」に立っていた。つ の独裁帝政から自由帝政と呼ばれる自由主義へか いでに言えば,ジリスピーは,自由主義研究がエ なり踏み込み,さらに議会中心の帝政,すなわち リー・アレヴィの生涯の学的課題であって,イギ 議会帝政へと変貌する。共和制はすぐそこに来て リス研究はエリーにとっての「実験室」だったと いた。いわば,第三共和制は,第二帝政の成熟の 言う。つまり,この雑誌と『プラトンの科学理論』 産物である。 とは,エリーとその友人たちが,中央政界と官僚 第三共和制は,普仏戦争の敗戦とパリ・コミュン の中から出発した。不況が長く続いた。不況はす でに第二帝政下の 1859∼1860 年に循環恐慌の様 相を呈していた。この時フランスはもう,「離陸」 していた。不況は世界恐慌になっていた。この中 3)それ故,空想的社会主義というマルクスとエンゲル スに発する思想史カテゴリーは有害なカテゴリーで ある。 4)ダルリュは,後にリセ・コンドルセに学ぶ作家マル セル・プルースト(1871–1922)の『ジャン・サントゥ イユ(Jean Santeuil) 』(岩崎力・鈴木道彦訳,『プルー スト全集』11,1984 年所収)の校長先生にその面影が 刻まれているという説がある。わたくしが読んだ限 りでは,哲学教授という内容からして「ブーリエ先 生」がダルリュに擬されていいのではないであろう かと思う。 5)Bibliography 中の Gillispie を参照。 — 27 — 経 済 系 第 264 集 の道徳水準,行政および政治の問題を深刻に考え, 贈っていたことが発覚し,政財界の大問題となっ それを批判的に分析しようとしたことを示してい た。ジョルジュ・クレマンソー(1841–1929)も指弾 る。エリーの修学終期に,第三共和制は三大事件 され,議会の調査委員会は収賄した政治家,官僚が を抱える。それを考えるとこのことは若きエリー 104 人にのぼると発表した。しかし,これは単なる ト学生の当然の反応であったろう。 金銭スキャンダルに終わらなかった。ジャック・ 三大事件の嚆矢はいわば漫画のような,たわい レーナックとコルネリウス・エルツという財政顧 のない事件であった。1889 年,いまだ反独感情に 問が二人とも,ユダヤ人であった。賄賂とユダヤ 燃える民衆が,これまた反独感情をむき出しにし 人は同義語に近くなった。賄賂の規模の大きさは, た「復讐将軍」ジョルジュ・エルネス–ジャン=マ 経済規模の拡大の反映を意味する。また,紙切れ リー・ブーランジェ将軍(1837–1891)に期待をかけ, となった社債の購入者は,約 80 万人と言われる。 彼が補欠選挙に当選すると彼を押し立ててクーデ これ自体も消費社会の到来を告げている。しかし, タに走ろうとした。共和制下の民衆が民主的に独 社会は変化しつつあるのに,反ユダヤ主義は変わ 裁を求めたことになる。しかし単なるショーヴィ ることなく歴史の底を脈打っていた。この意味で ニスムでは成熟社会の運営は無理である。そのこ は,パナマ事件は 5 年後の 1894 年のドレフュス とを本能的に察知したブーランジェは,いよいよ 事件の前触れであった。ドレフュス事件が反独感 となった時,もともと共和政論者であったことも 情と反ユダヤ感情から成り立っている限り,それ あって,民衆の期待に背き,権力から逃走した。 は一面ではブーランジスムの再生でもあった。第 ブーランジェは自分にルイ・ナポレオンの資質が 三共和制が,大衆社会化を体現しつつあった限り, ないことを自覚していたであろう。その結果,共 これはフランス社会の基本的病弊であった。第三 和制は生き残ることとなった。共和制が民衆の支 共和制は,いわば植民地主義共和制,帝国主義共 持を得たわけではなく,民衆は独裁,というより強 和制であり,三大事件はそのことを象徴する6) 。 力な行政官を求めたけれどもそれに人を得なかっ エリーがドレフュス事件を深刻に受け止めたの たに過ぎない。漫画と言ったのはその意味である。 は,彼の出自からして当然であった。フランスの しかし,そう言えるとしても,実は 1870 年の第 アレヴィ家は,エリーの曽祖父がフュルト(バイエ 三共和制発足以降,約二〇年間の各種選挙で示さ ルン州)から移住してきたことに起源を持つ。た れてきた民意は,着実に王党派を圧倒して共和派 だ,エリー・ハルファン・レヴィと称したユダヤ人 が勝利してきたし,票数を伸ばしてきた。しかも, 曽祖父は,パリでヘブライ語作家兼作曲家であり, 1877 年以降は,大統領権限も縮小され, 「装飾」化 シナゴーグの合唱指揮者を務めてもおり,決して したし,いわゆる「名望家」支配は終焉を迎えて 貧窮の結果の流浪の民となったわけではなかった。 いた。ブーランジスムは,この移行期の表現であ 1792 年以来のユダヤ人解放令下で活動を開始し, り,七〇年代終りから八〇年代前半の「日和見主 とりわけナポレオン・ボナパルトの解放令によっ 義共和制」に不満を持つ一部民衆の騒動に過ぎな てアレヴィと改姓した初代エリー・アレヴィは, かった。ところが,ブーランジスムと同年の 1889 直ちにフランス市民社会に同化し始めていた。し 年のパナマ事件は第三共和制の本質が問われる事 かし,同化ユダヤ人がユダヤ人でなくならなかっ 件であった。スエズ運河はエジプトから 1875 年に た点は,アーレントが言う通りである。曽祖父エ 株を買い取ったブリテンのお蔭で財政的行政的に リーの長男は,ジャック・フロマンタル・アレヴィ 安定したにも拘わらず,レセップスは,またもや (1799–1862)である。 フロマンタルは,パリ音楽院(コンセルヴァト 予想される財政難を押し切ってパナマ運河に挑み, 会社を起した。いずれアメリカに救済を仰ぐこと となるが,今度は大スキャンダルを引き起こした。 社債の発行と引き受けに関連して政財界に賄賂を 6)これらの事件はすべて,パリ・コミュンと並んで大 佛次郎(1897–1973)の関心を強く引き,興味深く作 品化されている。 — 28 — エリー・アレヴィと『哲学的急進主義の成立』 ワール)でケルビーニ(マリア・ルイジ,1760–1842) ルーストがいた。だからプルーストの伝記がこの の薫陶を受け,ローマ賞受賞後,母校の教授となっ 時期に触れる限り,ダニエルは大抵登場する。ジュ てシャルル・グノー(1818–1893)とジョルジュ・ビ ヌヴィエーヴは,ビゼーの死後再婚してストロー ゼー(本名アレクサンドル・セザール・レオポルド・ビ ス姓になって以後も時にビゼー姓を名乗りながら, ゼー,1838–1875)を育てた。アレヴィ家の人びと 息子の同級生で作家になったこのプルーストと一 のうちで,もっとも多数の日本人がもっとも頻繁 時期濃密な文通を交わしたことがある。手伝いの にその形姿を目撃しているのは,このフロマンタ 女性が階下から呼んでも,プルーストを読み耽っ ルである。ただ,そのことに気付いた人はごく稀 ていて気が付かず,なかなか食事に降りて行かな かもしれない。フロマンタルは,改造前のパリの かったことがあると,自分でプルースト宛てに書 オペラ座(今はオペラ・ガルニエと言う)の正面 いている。確かにプルーストの側でも, 『失われた 二階に屹立していた(今は胸像になっている) 。広 時を求めて』の「ゲルマント侯爵夫人の方」にお 場からオペラ・ガルニエを眺めた日本人は限りな ける「赤い靴」のエピソードはジュヌヴィエーヴ いであろうが,二階に並ぶ立像(胸像)の向かっ の体験を借りたものだという,彼女宛ての告白の て一番右がフロマンタルであることにどれほどの 手紙がある。もっとも,プルーストがジュヌヴィ 日本人が気付いたであろうか。それほどフロマン エーヴに恋をして彼女のサロンに入り浸り,花で タルは,音楽家として一九世紀以来,ヨーロッパ, 飾りたてたが, 「いつも彼は追い返された」と書い 特にフランスでは著名であったが,わが国ではほ ている本がある7) 。私の見たジュヌヴィエーヴの とんど無名である。当時のフランス音楽界では, 手紙(ビブリオテク・ナショナル所蔵)からは,むしろ 大作曲家はオペラ作曲家でなければならず,フロ 逆の印象を受ける8) 。しかし,いずれにせよジュ マンタルは四〇曲以上のオペラを作っている。当 ヌヴィエーヴのサロンがドレフュス事件のさいに 時はドニゼッティ(ドメニコ・ガエターノ・マリア, ドレフュス擁護派の溜り場になったことは事実で 1797–1848)を凌ぐ声望を得ていた。今日なお,彼 ある。そのため,彼女はドガをはじめ多くの友人 の『ユダヤの女』(1835)は演奏されるし(エレ を失った。それでも彼女が節を曲げなかったこと アザル役は伝説のテナー歌手エンリコ・カルーソ だけは書いておきたい。 〔1873–1921〕のはまり役であった) ,録音されてい 要するに,ジュヌヴィエーヴは,エリーの父リュ る曲も他に数曲ある(例えば『電光』 『キプロスの ドヴィックの従兄妹になる。つまり,初代エリー・ 女王』『シャルル六世』他)。日本でも『ユダヤの アレヴィの長男がフロマンタル,その子がジュヌ 女』を知る人はいくらかあるかもしれない。マー ヴィエーヴであり,初代エリー・アレヴィの次男 ラー(グスタフ,1860–1911)とワグナー(ヴィルヘル がレオンである。もともとレオンは,リセ・シャ ム・リヒャルト,1813–1883)が褒めているからであ ルルマーニュの卒業後間もなくサン・シモンに弟 る。特にマーラーは第五幕でヒロインが熱湯に身 子入りし,雑誌『生産者』(1825 年創刊)を手伝い, を投じる場面を絶賛しているし,反ユダヤ感情の また長くこの雑誌の編集者であった。サン・シモ 強かったワグナーさえマイアーベーア (ジャコモ, ンの『文学・哲学・産業論集』の序文を書いても 1791–1864)に対するのとは対照的にフロマンタル いる。結婚を機に受洗し,ユダヤ教を捨てた。こ に対して敵意を示したことはない。 れはアレヴィ家にとって決定的出来事となった。 フロマンタルには,ジュヌヴィエーヴ(1849–1926) という娘があり,彼女はフロマンタルの愛弟子ビ 1837 年,レオンは,3 年間のエコール・ポリテク ニクのフランス文学準教授の職を降りて公教育省 ゼーと結婚した。ビゼー夫妻は一人の男の子に恵 まれた。男の子は,エリーの弟ダニエル・アレヴィ (1872–1962)とリセ・コンドルセで同級生であった。 彼らのクラスには,後に作家になるマルセル・プ 7)アンリ・ラクシモヴ『失われたパリを求めて—マル セル・プルーストが生きた街』 (春風社,2010)参照。 8)これらの手紙は Bibliotheque nationale de France に所蔵されており,いつでも閲覧できる。 — 29 — 経 済 系 第 264 集 に入省し,26 年間科学部門の責任者を務めた,自 の共訳者は野上巌で,野上は,生田の死後, 『ニー 他ともに認めるサン・シモン主義官僚であった。 チェ』を単独訳にして改造文庫に収めた(上巻・中 退職後は,幅広い文筆活動に従い,その中には兄 巻とも 1938,下巻 1942。これらの訳は英語版からの重 フロマンタルの伝記も含まれる9) 。レオンの子が 。この野上は,文学書の翻訳の時はこの 訳である) リュドヴィックである。そしてリュドヴィックは 本名で仕事をしたが,その他の分野の場合は新島 わがエリー・アレヴィの父である。エリーの父リュ 譲の筆名で書いた。治安維持法による何回かの逮 ドヴィックは,作家兼オペラ台本作家として有名 (1937)という唯物 捕歴がある。『社会運動思想史』 であった。リュドヴィックとアンリ・メイヤック 論全書に収められた著書があり,ウィットフォー (1831–1897)は,共同で,時に単独で,多くのオペ ゲル(カール,1896–1988)やボルケナウ(フランツ, ラ台本を書いた。わが国では台本作家に対する視 1900–1957)の訳書もあって,我われの大先輩であ 線が鈍くて作曲家に専ら注目が集まるから,知る る。 『社会科学文献解題』(1949)という思想史の 人は少ないが,その共作のうちもっともよく知ら 基礎資料に対する目配りも欠かさない先達であっ れる作品が『カルメン』(1875 年初演)である。こ た。娘さんの回想録に登場しそれが映画化されも の他リュドヴィックは(メイヤックとともに)随 した10) 。しかし,当時,著者ダニエル・アレヴィ 分多くの台本をオッフェンバックその他の作曲家 の情報の把握は困難であった。改造文庫下巻で野 のためにも書いている。フランツ・フォン・スッ 上は, 「訳者が知り得たごく僅かなことは,彼が小 ペ(1819–1895)の『ボッカチオ』はわが国では夙 説家ルドヴィック・アレヴィの子であり,また政論 に浅草オペラ(歌・田谷力三)で知られ,最近も歌 家エリー・アレヴィの弟であって,彼自身も著述 われているが,これの台本も二人の作である。ア 家たる反面むしろ政論家として知られてきたもの レヴィ家はこのようにして一九世紀初頭からすで のようだと言うことである。・・・その現存せる にフランス市民社会の上層に地位を築いた,芸術 や否やについても今訳者は詳らかにしえない」 (仮 一家の,れっきとした例外ユダヤ人であった。 名遣いを現代仮名遣いに改訂)。しかしともあれ, ドレフュス事件におけるエリー兄弟の熱意はよ この訳業は,文人一家のアレヴィ家の中では邦訳 く知られている。とりわけ,弟ダニエルは,性格的 された最初である。エリーは「政論家」とされてい にジャーナリストで,エミール・ゾラ(1840–1904) る。おそらく彼の社会主義論やソ連に対する関心 とともに先鋭なドレフュス擁護者であり,この問 からの類推であろう。しかし,ダニエルは,サン・ 題以外でも急進的な論客であった。注意深い読者 シモンの思想系統のアレヴィ家にも拘わらず,む は,ジョルジュ・ソレル『暴力論』(1908)がダニ しろプルードン主義の思想系統を引いていた。フ エルに捧げられていることを記憶されているであ ランスに特徴的なのは,サン・シモン主義と並ん ろう。ダニエルの『ニーチェ』(1907)はわが国で で,あるいはそれと交代してプルードン主義が労 は昭和初期(1930)に訳されている。最初の訳者 働者階級(その中心は熟練職人である)の中に浸 の一人は,生田長江(1882–1936)である。生田は 透する点である。同時に彼らは労働組合に結集し 本来,文学者であるが,『資本論』を大正期に日 た場合には,プルードンのアナキスムをアナルコ 本で初めて訳し始めた (第一巻第一分冊のみ,緑葉 サンディカリスムに形成する(日本では大杉栄が 『ニーチェ』の生田 社,1919)ことでも知られる。 この代表である)。しかし,さらに付け加えれば, ダニエルは,野上が『ニーチェ』を訳していた頃, 9)レオンには愛人〔オペラ歌手〕との間に儲けた男の 子がある。その子はアレヴィ家の子として育てられ, エリーたちと同じ高等師範学校に学び,長じて文筆 家となり,1865 年にはフランス学士院会員にもなっ ている。リュシアン–アナトール・プロヴォスト–パ ラドル(1829–1870)という。 一九三四年以降になると, 「極右」を自称し,ペタ ン(アンリ・フィリップ・ベノニ・オメル・ジョセフ, 1856–1951)のヴィシー体制支持に転じていた。 10)野上照代(1927–)『父へのレクイエム』(1984)。映 画のタイトルは「母べえ」 。 — 30 — エリー・アレヴィと『哲学的急進主義の成立』 弟ダニエルの思想遍歴はドレフュス事件を契機 て第一次世界大戦に至る過渡期の世代に属し,こ に始まる。弟は,ジョルジュ・ソレル(1847–1922) の時期の記録者であったと言う。さらにまた,シ やシャルル・ペギー(1873–1914)と親交を深め,ペ ルヴェラは,ペギーの言う「現代」の登場ととも ギーの創刊した『半月手帳』(1900–1914,最終 238 に,ダニエルの「批判家および観察者としての価 号)の寄稿者となる。この雑誌のもっとも著名な 値は,重要性を減じた」とさえ断じた。このこと 寄稿者はロマン・ロランである。ロランは 1903 年 は,私の解するところでは,ボルシェヴィスム(ス に, 『ベートーヴェンの生涯』を書き,やがて『ジャ ターリニスム)に対するプルードン主義とアナキ (1904–1912)を連載する。因みに, ン・クリストフ』 スムの退潮(迫害)を意味しているであろう。そ ロマン・ロランは,これら二作のみならず, 『獅子 れ故,シルヴェラのダニエル評は私の言うジャー 座の流星群』を初めとする一連のフランス革命史 ナリストとしてのダニエルには妥当するが,思想 劇によって,日中戦争から太平洋戦争にかけての 史的にはあまり意味のある評価とは言い難い。ア 天皇制軍隊支配下の迷蒙と暗愚から戦後にようや ナキスムは思想としては依然として我われにとっ く醒めた少年・青年期の我われ世代を,美と真を求 てボルシェヴィスム以上に重要な思想だからであ める志の高貴によって鼓舞し,左右の思想傾向を る。もっともダニエルは,反ボルシェヴィスムの 問わず青年・学生層を内的に高め俗臭を忌避せし 故に,第二次世界大戦が接近すると,既述のよう めた忘れ得ぬ作家である。他にアナトール・フラ にフアシスモに傾く気配を示した。 ンス(1844–1924)も寄稿する。ダニエルはこの雑 因みに,エリーとダニエルの母ルイーズ・ブルゲ 誌でドレフュス事件の検証を行っている。その趣 の生家は革命期にスイスからフランスにやってき 旨はドレフュス事件がフランスで善人が救われ悪 たカルヴァン派のマッチ製造業者で,一九世紀に 人が罰せられた稀有な事件であったというもので, 時計製造に転じた裕福な産業家であった(一九世紀 11) この評価は後世の史家により時に引用される 。 末から二〇世紀にかけて電信と航空の分野に参入 こうした文筆活動を通してダニエルは,すでに触 する)。エリーに対する精神的影響は大きかった。 れたように次第に反資本主義を深め,『リュマニ 母を含めてエリーの生育環境としてのアレヴィ家 テ』(後に共産党機関紙となる)の創刊に関わっ は,オルレアン派の自由主義で,強い親英一家と た。ジョレス(ジャン,1859–1914)らとともにダニ いったところであった。ただし,拘束は強くない。 エルは,兄エリーらのように資本主義において道 強かったのは,「誠実」であれということだけで 徳的再生が可能だとは考えない思想家になってい あった。学業ではエリーは優秀であった。リセで た。後にレーニン崇拝者となるソレルはダニエル 卒業時に「哲学」で第一位であり,高等師範学校 をその『暴力論』において「批判的批評家」と評 では席順二位(一位が親友アラン)であった。哲 している。むろん,好意的評価である。 学ではスピノザ,パスカル,プラトンを学び,哲 もっとも,ダニエルについて評伝を書いたアラ 学的急進主義にも注目している。そして 1892 年 ン・シルヴェラは,かなり彼に対して辛辣である。 秋,エリーは政治学高等専門学校にブリテン古典 「元来ダニエル・アレヴィは行動の人でも独創的思 政治経済学を講ずる教授職に任命される。学友た 想家でもなかった。彼は,案内人兼解説者であっ ちは,エリーが哲学(道徳理論研究)から離れる て,自分の時代のプリズムとして行動し,自分自身 ことを憂慮するが,かの雑誌との関わりは継続さ の生涯と著作のなかに同時代人たちの希望と幻想 れ,それは杞憂に終わった。とはいえ,エリーは を凝縮したように思われる。 」そしてシルヴェラは, いわゆる哲学には止まらなかった。イングランド ダニエルがドレフュス事件からモロッコ危機を経 と社会主義(いわゆるリカードゥ派社会主義者ホ 11)D.W.Brogan, The development of modern France (1870–1939 ) ,London: Hamish Mamilton, 1940, p. 387. ジスキン研究を含む)の歴史研究を領域とする社 会哲学がエリーの本領となる。 — 31 — 経 2. 済 系 第 政治学高等専門学校 264 集 エリーはシアンスポにおいて,四〇年余にわたっ て職を奉じた。そしてエリーは最初から,実践と エリーが終生,教鞭を取った政治学高等専門学 無関係な研究に入り込むことを忌避していたから, 校に,1892 年に彼を採用してくれたのは,エミー 政治哲学と知識の研究と普及,とりわけ行政官の ル・ブートミ(1835–1906)である。ブートミは典型 政治学教育の一角を担うことに意義を見出した。 的な知英知識人であったが,サン・シモン会(Cer- シアンスポが抜きんでて成果を収めたのは,外交 cle de Saint-Simon)のメンバーでもあった。ただ 官の養成であり,二〇世紀初頭の外交官・領事の七 し,ブートミがエリーに用意した科目は哲学ではな 割ほどはここの出身であったと言われる。エリー く「ブリテン政治経済学と経済制度」であった12) 。 は就職後,教育面のみならず,本書を初めとした見 ブートミ自身は, 「ブリテン統治構造論」を講じて 事な研究業績を築いた。こうした業績を見込んで いた(フランスとアメリカの憲政史を講じたこと ソルボンヌが二度にわたって招聘しようとしたけ もある)。ブートミは,パリ・コミュンにおいて, れども,エリーは行こうとはしなかった。1897 年 政治家,官僚を含めてフランスに行政実務の知識 当時,エリーは「貴族的,宗教的および土着的感情 はあっても,政治学の知識が不足しているという に対する反感」に支配されていると告白している ことをつぶさに体験し,フランスの行政官志望者 が,これは終生変わることがなかった。なお,つい が,国家学・行政学に傾いたドイツ学でなく,一八 でながら,政治学高等専門学校が創設された頃の 世紀以来の「道徳哲学」体系の中の政治学,という 1875 年に「フランスには高等教育はない」と明言 より政治哲学を学ぶ必要を痛感していた。『ブリテ 「1896 年まで一九世紀〔のフラ した人がいる14) 。 (4 巻,1863)の著書を持つイポリット・ ン文学史』 ンス〕に大学はなかった」とも言われる。1789 年 テーヌ(1828–1893)らに乞うてブートミが今日な に 22 あった大学は,革命で廃止された。だから, お「シアンスポ」と愛称で呼ばれる政治学高等専 高等師範学校を含む高等専門学校という名の学校 門学校をともに創建したのは,1874 年である。だ が実質的に大学教育課程を担った。この点は大学 からこの学校もまた,第三共和制の申し子であっ という名の教育機関が存在する今日なお変わって た。創設者の顔ぶれの中には,エルネスト・ルナ いない。 ン(1823–1892,中東古代言語・文明,初期キリスト教 政治理論・ナショナリスム研究家,一時期トマス・リー この学校は,第二次大戦後,組織的に改変され てはいるものの,今なお存続している。ここには, ,フランソワ・ギゾー(1787–1874),アル ドに傾倒) 「サル・ド・アレヴィ(アレヴィ・ホール)」と呼ば ベール・ソレル(1842–1906)らがいた。これらの れる部屋がある15) 。エリーは,教鞭を取り始めて 他にも講師として大臣,高級公務員,フランス銀 すぐ,義務の観念を社会において如何に具体化す 行役員らが招かれた。この布陣から直ちに理解で るかという実践的課題を考え始める。それにはベ きることは,この学校が政治学のみならず広く人 ンサムが格好の材料であった。彼は渡英して勉強 13) に求めつつ,学生を実地に を始める。だが,先ず古典古代に沈潜した。彼の も早くから通暁させることを意図していることで 最初の著書『プラトンの科学理論』は,プラトン 文科学をブリテン学 ある。この学校で最初に政治経済学を担当したの は,ピエール・ポール・ルロワ– ボリュ(1843–1916) であった。正統派経済学(反保護主義)を講じ,八 〇年にはコレージュ・ド・フランスに移っている。 12)一九〇二年以降は「社会主義理論史」と隔年に交互 となる。 13)わが国には「英学」と称するものがあるが,これは 「日本における英語学史」に偏向している。 14)Zeldin, Theodore, Higher Education in France, 1848–1949, Journal of Contemporary History, vol. 2, No. 3, 1967. 15)私事にわたるが,1979 年に私がデンマークからの 留学生ブラムゼン氏のエリーを主題とした学位論文 (私家版)を知ったのもここの図書館においてであ る。さらに言えば,ここの図書館のお蔭でわたくし は氏と連絡を取れて,その学位論文を送って貰うこ とができた。 — 32 — エリー・アレヴィと『哲学的急進主義の成立』 の対話の中に,道徳が社会に浸透する政治という 種の香気に包まれた微笑ましさは皆目ない。ある ものを求める精神を見た。政治学は,正義の理想 のは筋の面白さだけであるが,その背景には顔を と政治の現実をかみ合わせるのに必須であるとい 背けたくなるような猥雑さがある。ゴンクール兄 うのが,エリーが強調するプラトン政治論である。 弟(エドモン・ド・ゴンクール〔1822–896〕,シュール・ これが,エリーのその後の生涯を貫く学的出発点 ド・ゴンクール〔1830–1870〕 )の『ジェルミニ・ラセ 16) となる 。 ルトゥ』(1865)になってやっと,貧しいが歯を食 (1870) ブートミは,自らも『ギリシアの建築哲学』 いしばって懸命に独立(心)を維持する女性が登 という著書を持ち,今はヨーロッパ憲政史を講じ 場する。これは,パリ・コミュンを担うこととな ている。その彼が,哲学とその社会的応用に関心 る,自己統治能力をいくらか持つ民衆が成長しつ を抱く秀才エリーに関心を抱いたとしても不思議 つあった証左である。だから,第二帝政下におい ではない。この点でエリーは,家系的に有利な環 て,経済は成長を遂げただけでなく,その中で民 境に恵まれていたようにわたくしは思う。エリー 衆の自立も育ちつつあったと言える。そして,そ の父リュドヴィックは,オペラ台本作家だけでな れに比例して労働運動と左翼思想が芽生え,育っ く,作家として今でも再刊される名作『コンスタ た。この意味でも,第二帝政は第三共和制の基礎 ンタン師』(1882,邦訳題名『愛の司祭』山内義雄訳, である。 17) 角川文庫,1958)の著者でもあった 。 『カルメン』 エリーはすぐにブートミが企画したベンサム展 は下層階級の愛と復讐の物語で,メリメの原作と 示会の実行を担った。すでにエリーの英語はリセ は趣がかなり違うが,基本構造は同じである。そ 時代のマラルメ仕込みである。この企画もエリー れに対して, 『愛の司祭』は上からではあるが,下 にベンサム研究への道を用意していた。エリーの 層の人に対して優しく見守る物語である。こうい 生まれた 1870 年頃は,私の考えでは,一九世紀に う家系であったから,サン・シモン会会員ブート おける最大のパラダイム転換点である。ともすれ ミはエリーを受け入れ,かつブリテンに学ぶ姿勢 ば人は,フランス二月革命とウィーンの三月革命, を取らせたと考えることは可能であろう。 マルクス『共産党宣言』 ,ジョン・スチュアート・ 民衆はまだ,『コンスタンタン師』においても, ミル『経済学原理』に目を奪われて,1848 年を転 ユージェーヌ・シュー(1804–1857)の『パリの秘 機と捉えがちであるが,わたくしは,経済学にお 密』(1842–1843,新聞連載)の主人公と変わらぬ,上 ける「限界革命」をそれ以上に重視する。「限界革 層階層からの援助なしには自立できない受身の存 命」は,自由競争社会を前提にして,需要と供給を 在である。『パリの秘密』の主人公の女性が捨て子 規制する原理を労働価値論というパラダイムから で,後に公爵の子と判明する点は,一八世紀イン 限界効用理論に変換した。もともと労働価値論は グランドのヘンリ・フィールディング(1707–1754) 国家財政の基礎理論として,従ってまた資本蓄積 作『捨て子トム・ジョーンズの物語』 (1749)を思わ の基礎理論として展開されたが,租税源泉論およ せるが,フィールディングに見られるような,ある び租税転嫁論としては有効であっても,量的に確 定的なことを言うのが困難で,実際の財政政策に 16)ついでに言えば, 『哲学的急進主義の成立』第二版 の編者モニク・カント–スペルベール氏は,ポリテ クニック教授を経て高等師範学校の教授職を務める が,専門は古代ギリシア哲学であり,エリーに興味 を抱くこととなったのはその関係かららしい。 17)私が初めてパリを訪れ(1979),セーヌ河畔のずら りと並ぶ古本小屋で,エリー・アレヴィを探した時, エリーを知る店主はほとんどなく,父リュドヴィッ クなら誰でも知っていた。民衆を顧客とするフラン ス古書店の常識をわたくしは,この時初めて知った。 とっては直接的な有効性を持たなかった。政治経 済学が現実に対して有効であるためには,何より も数量の科学でなければならない。ウィリアム・ スタンリー・ジェヴォンズ(1835–1882)の『政治 経済学の理論』(1871)は労働価値論を放棄する。 ウィーンのカール・メンガー(1840–1921)の場合 も自由主義の実現を前提として,価格論の基礎と しては労働価値論を最初から取らなかった( 『国民 — 33 — 経 済 系 第 264 集 政治経済学原理』 〔1871〕 ) 。ローザンヌのマリ・エ が置かれている。アレヴィは,この二つの原理を スプリ・レオン・ワルラス(1834–1910)が J・S・ まるで二声の対位法のように絡めて,全 3 巻を展開 ミル流の土地国有化論の上に一般均衡論( 『純粋政 する。わたくしは, 『哲学的急進主義の成立』の背 治経済学の基礎理論』〔1874–1877〕)を構築したの 後にベンサムの新全集収録の『ディオントロジー が,一番ブリテン古典経済学に近かったかもしれ (道徳理論) 』に収められたベンサムの二つの「最大 ない。フランスには,一八世紀から一九世紀初頭 幸福主義の歴史」を置いて読むと興趣は一層深い を除くと,ブリテン経済学の亜流しかいなかった。 と思う。そこではベンサムは「有益性の原理」の ジャン・バティスト・セー(1762–1832)とクロー 捉え方を示しており,この原理をヒューム(デイ ド・フレデリック・バスティア(1801–1850)はワ 『哲学的 ヴィド,1711–1776)から学んだと述べる。 ルラスの前提である。ワルラスの偉大性は,特に 急進主義の成立』でもこれらの点は強調される。 ためら バスティアが躊躇った地代不毛論を敢えて引き出 対位法的論述は,観念連合原理そのものの叙述の して,それを精緻化した点にある。エリーの前に 中にも表れる。ハートリ(デイヴィド,bap. 1705-d. あった経済学はこうしたものであった。しかしエ 1757)を受けてヒュームがこの原理の源泉となる リーに与えられた課題は,限界革命以前のブリテ が,アレヴィはヒュームの中に合理主義と自然主 ン古典経済学を講ずることであった。 義の二面を認め,この論点も本書を貫流する。そ れだけではない。本書の特徴的論点として注目さ 3. 『哲学的急進主義の成立』 れる「利害の自然的一致の原理」と「利害の人為的 一致の原理」の二局面,あるいは動学と静学,楽 「道徳数学が,道徳理論の建設を目的としている 観主義と悲観主義がある。「利害の自然的一致の原 というよりはむしろ,法律の科学の建設,法的刑罰 理」と「利害の人為的一致の原理」の相克とその の理論に数学的基礎を提供することを目的として 解決の見事な論述,またそれぞれの「利害の一致 いることは知られているであろうか」と,エリー・ の原理」の障害となるものと促進するものとの アレヴィは『哲学的急進主義の成立』第 1 巻序文 藤の叙述は,確かに本書の白眉をなすものと言っ で設問している。この設問は次つぎに別の設問を ていい。 ユーティリテ 誘発し,結局は「有 益 性の原理を真に理解するた エリーは,先ず本書の第二巻から取り掛かった。 めには,それのすべての帰結,つまりその法的,経 第二巻は,1789 年から 1815 年までを扱う。すな 済的および政治的応用のすべてを理解する必要が わちフランス革命の勃発とベンサム『道徳および ユー ティリテ ール ある。我々は,最大幸福主義道徳の知識をさらに 立法の原理序説』刊行からフランス革命終結(ナ 完全なものにすることによって,さらに精密にし ポレオン戦争の終結,最初の経済恐慌勃発)とリ ようとする。我々は最大幸福主義総体を研究する」 カードゥ『利潤論』 (あるいは 1817 年の『経済学お とその書物の課題を提示する。つまり『哲学的急 よび課税の原理』 )までである。エリーは,バウリ 進主義の成立』は,法学,経済学,政治学,そし (1838–1843)やそこに収 ング版『ベンサム著作集』 てそれらを包括する哲学という,四分野を統合す 録されなかったベンサムの諸著作を用いるのみな る理論史研究である。 らず,さらにユニヴァーシティ・カレジに通ってベ 『哲学的急進主義の成立』の内容分析に入る前に ンサムの膨大な未公刊草稿に目を通した。ベンサ 承知しておくべき事柄があるように思われる。ア ムは,経済学にはスミスに付け加えるものはない ユ ー ティリテー ル レヴィは,いきなり最大幸福主義という言葉を使 と信じている。ベンサムが,よってもって立つ地 う。しかもそれは,哲学的急進主義と同義語であ 点は法学である。ベンサムは,統治論,すなわち る。このことは既知のこととされている。また,最 法とは何か,如何にあるべきかという自ら設定し 大幸福主義の根幹に当然のことのように,観念連 た設問に答えつつ,それを生涯の学問的課題とす ユーティリテ 合の原理ないしは理論とともに「有 益 性の原理」 る。そして,先ずは,法による統治の基本に権利 — 34 — エリー・アレヴィと『哲学的急進主義の成立』 と義務という対概念を置き,義務に対する違背を 旨である。つまり,対立と紛争を自明の前提とし 防止する課題,すなわち刑法論およびその(刑)法 つつ,その解決すなわち「利害の一致」という結果 の哲学に研究を深化させた。その時の成果が, 『道 (目標)を達成するための方策に, 「自然的」と「人 徳および立法の原理序説』である。エリーはベン 為的」の二種類があるという命題である。これら サムのそこからの過程を辿りながら,ベンサムに の原理は,それ故,存在の叙述のみならず, 「当為」 規定されて経済学と法学の原理を別個のものとす の規範をも包含していると解すべきである。これ る。政治経済(学)における利害の自然的一致の らの原理は,何にもまして社会存続の原理である。 原理と法(学)における利害の人為的一致の原理 エリーの学的出発を考える上でもう一つ,考慮 という有名なエリーのテーゼの基礎は,ここにあ しておくべきことは,高等師範学校卒業直後に友 る。つまり,これらの原理は,第一に経済学と法 人たちと企画した『形而上学および道徳理論評論』 学の原理の相違を対照させるところに意味がある。 誌である。友人とは,一人はレオン・ブルンシュ これらの原理は,よく誤解されるように,エリー ヴィック(1869–1944,後のソルボンヌ哲学教授,しか の所見というわけではない。それは,ベンサムの しナチに追われ南フランスに隠棲) ,もう一人がザヴィ 所見をエリー的に要約したものである。また,こ エル・レオン(1868–1935,この雑誌の編集者,フィヒ の原理は, 「一致」という結果を資本主義が当然に テ研究者)である。1893 年に隔月刊で出発したこの 招来するものであるという認識を示しているもの 雑誌は,ひたすらフランスの道徳的再生をのみ目 ではない。これら原理の含意は,各人が「利害関 的とし,言行一致を手段とした。そして,たちまち 係」の主体であること,またその利害はしばしば フランス哲学雑誌の雄として学会に君臨し,ヴィ 対立相克するという現実を表現するものであると クトール・デルボ(1862–1916),バートランド・ いうことである。つまり資本主義(自由主義)は ラッセル(三代目伯爵,1872–1970),数学者ジュー 矛盾に満ちている。しかし,社会が存立し存続す ル・アンリ・ポワンカレ(1854–1912),セレスタン・ る限り,この矛盾は解決されなければならないし, ブーグレ(1870–1940),モーリス・メルロ–ポンティ 解決可能であり,実際に解決されている。経済的 (1908–1961) ,ゲオルク・ジンメル(1858–1918)ら 矛盾は,個人間にせよ階級間にせよ,対立者相互 に紙面を提供している。ダルリュ教授の精神的支 の交渉によって解決される。欲求の実現を目的と 援のもとに始まったこの雑誌は,当時のフランス する経済行為は,対立しつつも相互に調停しなけ に瀰漫していたカソリックと実証主義哲学(本来 れば欲求の実現は成立しないからである。これが の社会学)に対する批判を基調としていた。当時 ベンサムの「自然的一致」という意味の大要であ のフランスにおいて「世俗化」という合言葉は,反 る。何もしなくても一致するというのが「自然的 カソリックを意味した。カソリックは政界にも影 一致」の含意ではない。仮に何もしなくても一致 響力を持っていた。それに対して反実証主義の姿 すると解することが可能としても,経済学的対立 勢は,コント(1798–1857)がサン・シモン主義から は法律(つまり国家)が何もしなくても,あるいは 出たことを思えば,説明を要するであろうか。因 法律に頼らなくても解決可能だし,そうすべきだ みに,この雑誌によったアレヴィたち哲学研究者 という意味である。それが古典政治経済学の世界 は,今に続くフランス哲学会を組織してもいた。 であった。他方,人の対立は経済的対立ばかりで コント哲学(社会学)は,1842 年に完結した 6 はない。勿論,経済的対立以外の問題においても 巻の『実証哲学講義』(1830–1842,講義そのものは 解決は相互交渉によることが望ましい。事実,そ 1826–1829)において出来上がる。 「実証(的) 」は, のように解決可能な問題も多くある。しかし,人 実は名詞として使用され始めたのではなく,形容 間に高い理性ばかりを期待できない現状において 詞であった18) 。「実証精神」の「実証」も形容詞 は,時に国家(法律)の介入を要請せざるをえな である。実証(的)とは科学方法論というよりは, い。これがアレヴィによるベンサム・テーゼの趣 18) 『実証精神論』 (1844,霧生和夫訳,178–180 ページ)に — 35 — 経 済 系 第 264 集 精神の在り様を指す言葉である。産業社会を社会 ン・シモンは,最後には「新キリスト教」という 発展の最終段階と見る段階論は,そのままでない 階級協調の信念(つまり階級差別は残る)に辿り けれどもコンドルセからサン・シモンとコントの つくのに対して,コントは「人類教」という全階 両者がそれぞれ継承したものである。しかもコン 級包含の信念に辿りつく。 ドルセには,「利害の一致」という言葉さえある。 しかし,コントの人類教は,奇妙にも彼の最後の しかし,サン・シモンにおける「産業者社会」は 恋人をシンボルに掲げる。コントの著作は実証社 サン・シモンの理想社会であって,現実ではない。 会こそ「道徳」を再建すると強調するけれども,彼 コントは,現実と断絶した理想を語らない。現実 のよく知られた私生活には瞑目するとしても,最 の中に整序すべきものを見る。従って,コントの 後の人類教言説は彼の著作を裏切るように思われ 社会学は,道徳が瀰漫する社会再組織(人間と社 たとしてもやむをえないであろう。エリーたちは, 会の再構築)の学であり,それ故,人文科学を含め コントに反発した。それもまた,やむをえないこ た総合社会科学である。それが,『実証哲学講義』 とであった。彼らには,コントが第三共和制の病 第 6 巻の主題である。それより前の第 1 巻から第 弊に通ずるものが感じられたであろう。また彼ら 5 巻は,数学という最も抽象度の高い学から次第 の多くはベルクソン(アンリ,1859–1941)を容認し に具体性を増し,最後は生物学に至る自然科学を た。ベルクソンの「形而上学序論」はエリーたちの 対象とする。こうした学問体系の差異も,サン・ 『形而上学および道徳理論評論』に掲載された。し シモンとの間で大きい。コントの「実証(的) 」は かし,エリーは同調しなかった。エリーはベルク ベンサムの「有益(性) 」に似たものがあるけれど ソンに,ある種の神秘主義を見るからである。西 も,やはり大きく違う。コントの「実証(的) 」は, 田幾太郎(1870–1945)は『善の研究』(1911)にお 学問に向かう精神が持つべき姿勢であって,それ いて直感的体験とも言うべき「純粋経験」を体系 は,何より社会の否定(ネガティフあるいは革命) の基本とするから,ベルクソンの直接経験と直感 でなく実証(ポジティフあるいは再組織)に向か の議論,および「生の飛躍」を高く評価したけれ うべきだとする。つまりサン・シモンの第三段階 ども,エリーには非合理に思えた。確かにベルク は歴史の進展の結果として到来するが,コントに ソンは現実理解にとって理性より直接経験と直感 おける第三段階は人が組織すべきものである。サ を重視した。エリーは合理主義者であった。当然, よれば, 「実証的」とは六つの意味を持つ。1. 「現実 性」,すなわち神秘を拒否し知性の及ぶ研究に献身 する。2. 「有益性」 ,すなわち人間の生存条件の改善 という目標を哲学的に表現する。3. 「確実性」 ,すな わち懐疑を捨て,論理的調和と精神的融和を作り上 げる哲学。4. 「精確性」 ,すなわち人間の真の欲求の 要請に合致する精確性を求める精神の傾向。5. 「否 定的」の反対語,すなわち破壊でなく「組織」形成 と維持を目標とする哲学の特質を表現する。6.絶 対を「相対」に置き換える哲学精神の表現。ここに はサン・シモン主義との決定的対立がある。特に第 一項は,最大の相違点であろう。勿論,両者は,相 違より同一性が見かけ上は目立つ。 実証(ポジティフはもともと pono という「(神が)置 く,建築する,描く」という意味を持つラテン語の動詞の 過去分詞 positum に由来し,神によって置かれたものを 原義とする。すなわち神の配剤を認識しそれに従って行為 デュルケム(1858–1917)は敬遠された。エリーに は,むしろイングランド経験論の方が性格的に合 致していたと思われる。 近年の哲学は,フランスでも専門分化した社会 学と並ぶ一科目としての哲学と化しており,哲学 者の視点は著しく狭まっている。ベンサムの「有 益性の原理」解釈もそれが当該哲学者の体系の中 でいかなる地位を占めているかは問題でなくなる。 単にその観念の歴史の一環として見られる。ヴェ ルガーラ(Vergara)が典型である。「エリー・ア レヴィ批判——ブリテン道徳哲学の重要な歪曲に 対する反論」と題された彼の論文の主旨は,かつ てどのブリテン哲学者も心理法則に「有益性の原 理」なる名称を与えたことはないとし,ここから することを意味する)とは,社会再組織あるいは再建 アレヴィの論旨は,ことごとくヒュームからシジ を第一義的に意味する。 ウィックに至る道徳哲学の歴史からはみ出してい — 36 — エリー・アレヴィと『哲学的急進主義の成立』 るというものである。「しかし,アレヴィは何も発 の議論と併せて, 『序説』の「有益性の原理(快苦 明しなかった。彼はただ,最大幸福主義と経済学 原則) 」を考えるべきである。そうすれば,ヒュー に関する人口に膾炙したあらゆる噂話をなぞった ムにもミルにもベンサムのような立法論はないこ だけである」。この勇敢な批判は視野狭窄の典型 とに誰しも気付くはずである。もっとも,この点 である。ただ,この種のアレヴィ(およびベンサ でベンサムが批判されるべき点がないわけではな ム)批判は,程度の差はあれ,ヴェルガーラ以前 い。それは, 「有益性の原理」 ( 「快苦原則」 )だけで にも夥しくあったし,これからも輩出するであろ は法的に人を調停するには不十分だという点であ う。ここでの問題は,ベンサム体系において「有 る。この点では,マルクスのベンサム俗物説が妥 益性の原理」がいかなる位置を占めていたか,また 当する。「有益性の原理」(快苦原則)だけでは犯 そのことをアレヴィがいかに捉えていたかという 罪の予防は無理であろう。しかしこの点を差し引 ことである。ベンサムがアダム・スミスの『国富 いてもなお,次の点は強調されなければならない。 論』に満腔の敬意を表していたことは伝説的なほ ベンサムの立法思想は,この「有益性の原理」に どである。しかし,ベンサムはその夥多な著作の 立脚しつつ,なお立法者が自らの「快苦」 (利害得 どこでも,スミス『道徳感情論』に言及することが 失)に立って立法すべきではなく, 「最大多数(む なかった。これは,意識的に無視したとしか見な しろ全員)の最大幸福」を目的とすべきであると しようがない。ベンサムは,スミスが「道徳感情」 説いたところに特色があるという点である。むし およびその成果としての「公平な観察者」に求め ろ,立法者(少数者)が自分の,あるいは自分たち たもの,すなわち社会的評価基準を, 「有益性の原 の階層(職域)の利益(快楽)を求めて立法してき 理」に求めた。このパラダイム転換を行ったベン た歴史を批判する点で,ベンサムはスミスと特権 サムにとっては,古い価値基準は無視すべきもの 批判を共有したことを見落としてはならない。批 であったとわたくしは考える。さらに言えば,ベ 判する限り,それは排除の原理であるから,全員 ンサムは法学者であって,法学の観点,すなわち法 の最大幸福にはなりえない。特権階層がなくなっ 的調停の可能性を求める観点から道徳を論じたか て初めて「全員」の最大幸福が可能となる。スミ ら,スミス道徳哲学は彼の体系形成にとって無縁 スとベンサムの自由主義は,仮にその自由概念に であった。紛争,すなわち利害の対立の調停には 差異があったとしても,特権批判を内蔵していた 利害の事実の冷静な認識が必要であり,その冷静 ということにおいては,共通していた。そしてと な判断は双方にとっての「有益性」がどこにある りわけ,ベンサムの「異端的性格」は,伝統的な かが決定的に重要な基礎になる。さらにベンサム 判例法体系の国において,制定法主義を主張した は,紛争もしくは犯罪の予防を立法の目的に掲げ ことにある。その判例法体系の哲学的基礎が自然 る(すなわち法律は犯行が行われてから犯人を処 法であったように,ベンサムの制定法主義の哲学 罰するものとして作成されるべきではなく,犯罪 的基礎が「有益性の原理」であり,人呼んで最大 が発生しないように作成されるべきであり,とり 幸福主義というものであった。この最大幸福主義 わけ刑法はそのように作成されるべきだと考える) 哲学が法学を中心として社会科学に展開したもの から,なおさら「有益性」の概念は彼にとって重 が,ベンサムの「哲学的急進主義」であった。こ 要になる。『道徳および立法の原理序説』はヒュー こを理解しない限り,ベンサムと最大幸福主義に ムの『人間本性論』 (あるいはジョン・スチュアー 対する誤解は,ヴェルガーラのように不毛に再生 ユーティリタリアニズム )と同じ論理のレヴェル ト・ミル『幸 福 主 義』 産されるであろう。 にない点は,認めなければならないが,それは,ベ 最大幸福主義が実践的哲学体系であり,社会科 ンサム法学の基礎に据えられたという意味であっ 学体系であるという認識は,これから我われが獲 て,道徳理論としてはみ出したという意味に解し 得すべき学的課題である。そしてこのことを,エ てはならない。『統治論断片』以来の最大幸福主義 リー・アレヴィが『哲学的急進主義の成立』で静か — 37 — 経 済 系 第 264 集 に強調している。本書は,三巻からなるが,全体 る。私も憲法〔統治機関法〕典と手続法典は,「有 を通して,ベンサムの法学体系とその基礎の哲学・ 益性の原理」を共通の基礎とするものの,領域は 思想の成熟過程と最終型が語られる。わたくしが 基本的に別だと思う。ただ,裁判所法などの両分 見る限り,これまででもっとも内在的なアレヴィ 野に関連する部分があることは見落としてはなら 批判は,政治学のローゼンのものである。ローゼ ない。 ンは政治思想史家であるから,批判はその範囲に わたくしは,アレヴィが全三巻を書く前に「哲 限られるが,彼の関心は,ベンサムと自由主義であ 学的急進主義」というジョン・スチュアート・ミ る。ローゼンは,アレヴィの自由主義論の両義性 ルが命名したものについて明確な概念を持ってい と偏向を衝く。アレヴィはベンサム自由主義を基 たと考えている。つまり「哲学的急進主義」は, 本的に「権威的自由主義」と規定した。ローゼンは ベンサムの最晩年の思想であり,国民主権論に立 ここを批判する。論拠は二つある。一つは,アレ つ普通選挙論を中核とする。ジョン・スチュアー ヴィの論拠がベンサムに対するフランス思想,と ト・ミルはベンサムとその小さいサークルの,し りわけモンテスキューとエルヴェシウスの影響の かし大きい思想と運動にその名を付けた。その視 過大評価にあるとする。そのためベンサムは,彼 角からすると,ジェイムズ・ミルは小さくない役 らがそうであったように「権威的自由主義」の立場 割を演じている。そのため,ローゼンのような指 を取ったとされる。もう一つは,ベンサムはジェ 摘が可能になる。わたくしは,ベンサムがその一 イムズ・ミルの影響から「権威的自由主義」の立 時期,一番信頼を寄せたのは,ロミリであると思っ 場に立ったとされる論点である。ローゼンはいず ている19) 。ロミリはれっきとしたウィグ庶民院議 れも内容的に違うと言う。わたくしは,ローゼン 員であり,法曹人である。残念ながら,ロミリは に賛成する。さらにローゼンは,アレヴィのベン 1817 年に命を終えるため,その後のベンサムは一 サム自由主義にまつわる曖昧さ,つまり,一九世 層ジェイムズ・ミルを頼りとすることとなる。し 紀が到来する前後の自由主義はイングランドとフ かし,ジェイムズ・ミルは国民主権論も展開してい ランスで違うし,さらにイングランドにおいても ないし,普通選挙論ではない。わたくしは,ロー ウィグも多様であって,ベンサムはそれらの影響 ゼン以上にベンサムとジェイムズ・ミルは截然と をも受けたとアレヴィは言う。中でも奇異なのは, 違うと思う。大体,ジェイムズ・ミルは法学者で アレヴィがベンサムに対するウィグの影響の中で はない。ウィグであったことに間違いはない。そ もバークの影響を強調することである。ローゼン れも影響力のあるウィグであった。確かにジェイ はベンサムがフランス革命を支持したことを指摘 ムズ・ミルは,ベンサム主義のいわば「第二ヴァ する。そしてもう一人のウィグ,ジェイムズ・ミ イオリン」を弾いたが,『ウェストミンスタ評論』 ルは,一八〇七年の邂逅以来,ベンサムに最大の 刊行後のジェイムズ・ミルは,バウリングを嫌っ 影響を与えたとされるが,ローゼンはこの点もア て,むしろベンサムに距離を置いた。ただ,その レヴィの過大評価と批判する。アレヴィによるベ ベンサムはいわゆる自由を尊重しないわけではな ンサムの転向問題はこのミルとの同志的結合の開 い。ローゼンがアレヴィ批判の中で力説するよう 始を指す。そしてアレヴィは,このミルによる転 に,ベンサムは法学的に空白な内容の自由よりも, 向の中に「権威的」自由主義を見る。ローゼンは, 実体として重要な安全を,自由を包含するものと このジェイムズ・ミル解釈はベンサムの独創性を して民法原理において重視した。この点もわたく 否定ないし過小評価することに「誤り導く」と批 しは,ローゼンに同意する。 判する。さらに,アレヴィが,ベンサムの最晩年, わたくしがこのエリー・アレヴィ(およびローゼ 一八二〇年代に憲法〔統治機関法〕典の完成が手続 ン)に対して,言うことがあるとすれば,第一は, 法抜きでは不可能だとした点について,ローゼン は,それは手続法なしでも可能であったと反論す 19)わたくしの『ベンサム』(研究社出版,2003)を参照。 — 38 — エリー・アレヴィと『哲学的急進主義の成立』 ベンサムにおける自由の概念を明確化すべきであ ては,専制制度でも,アレヴィお好みの言葉で言 るということである。アレヴィもローゼンも,ス えば「権威的自由主義」でも構わない。つまり,ベ ミスの自由の概念とベンサムのそれとを区別しな ンサムのその後の歩みは,この点で言えば,いか い。わたくしは,スミスの自由は基本的に彼が言 なる体制が「最大幸福」を実現するかということ う「自然的自由」であって,それは,わたくしが理 の探究であった。あるいは, 「最大幸福」を実現す 解するところでは,人間関係の中で相互了解のも る法体系の構築がベンサムの生涯の課題であった。 とに成立する自由である。これが基本である。と そして,その根底にはいかなる組織であれ,自由 ころが,法学者ベンサムの自由は,義務と拘束から の保障としての情報公開,情報の共有というベン 解放されている法的に空白な状態を言う。この自 サムの基本観念があった。例えば,パノプティコ 由という言葉はベンサムにとっては空疎であった ン構想(1787)は,中央監視という点だけとれば, から,ベンサムは,例えば思想の自由とは思想の フーコー( 『監獄の誕生』 )のような「早とちり」も 安全であると考える。いかなる思想を包懐しよう 生まれる20) 。ベンサムは,パノプティコン式刑務 と,またそれを公表しようと,国家からも個人から 所を本当にテムズ河畔に作ろうとし,それを妨げ もいかなる危害をも加えられないで安全が保障さ るのがジョージ三世だとこれこそ「早とちり」し れること,これが実体としての思想の自由である て弾劾の文章を草しているが,このパノプティコ と考える。つまり,自由とは安全でなければなら ン刑務所は, 「請負制」の民営であり,請け負った ない。ベンサムはそのため,スミスの自由の位置 業者は, 「会計簿の公開,印刷,出版」を要請され に安全を置く。この点を理解しないと,スコット ている。またパノプティコン建築原理を応用した ランド啓蒙とイングランド啓蒙の差が不明確にな 貧民救済機関「全国慈善会社」は,毎年,社内の る。安全はベンサム民法典の基本要素の一つにな 死亡率を公表し,世間の平均死亡率と比較してそ るが,同時に憲法〔統治機関法〕典のそれでもあっ の管理運営に歯止めをかける制度を組み込んでい た。だから,ベンサムは自由を否定したわけでは る。パノプティコンは,その意味では内部の可視 ない。ベンサムがスミスを批判した『高利擁護論』 化の原理でもあり,遡って言えば「有益性の原理」 において自由主義を標榜するスミスが,利子率に がそういうものであり,一般にこれは民営化の原 ついてはなぜ制限を認めるのかと問うた時,この 理でもある。ベンサムの先見性は疑いない。 時には安全でなく,自由の概念が用いられた。安 全は自由を全的に包含する概念ではなかった。 ベンサムの非政治性は,彼の生涯の特徴であっ たと,わたくしは思う。彼が,急進党を形成しよう 第二は,ベンサムが思想家としての初発から「公 とした時,すなわちウィグの『エディンバラ評論』 開性」を強調したことである。アレヴィもローゼ とトーリの『クォータリ評論』に対抗して『ウェ ンもこのことには確かに触れてはいるが,その重 ストミンスタ評論』を出していた時,その編集を 要性を正確に評価しているようには思われない。 ウィグのバウリングに任せ,しかも理論的にもっ わたくしは,初期におけるこの「公開性」の強調 とも信頼を寄せていたジェイムズ・ミルを遠ざけ にベンサムの急進主義の根幹を見る。ベンサムは る結果を招くという,政治音痴としか言いようの 初期には父譲りのトーリであったかもしれない。 ない人選をした。しかし,政治音痴というのは,ベ ジョージ三世即位を祝うベンサムの詩がある。ア ンサムには無縁な評価であろう。ベンサムは,世 レヴィもそれを根拠にベンサムのトーリ的性格を 俗政治の世界を生きたのではなく,思想と観念の 指摘する。しかし,これはオクスフォード大学に 世界を生きた。非政治性というより,超政治性と 入学した年とはいえ,12 歳の作品である。わたく 言うべきであろうか。 しは,むしろベンサムは非政治的であったと思う。 『統治論断片』では, 「最大幸福」を実現するならば 体制は問わないと明言している。ベンサムにとっ 20)わたくしはフーコーの偉大さを認める点では人後に 落ちない自負があるが,この点における彼のベンサ ム解釈は噴飯ものだと思う。 — 39 — 経 済 系 第 264 集 あずか 第三に,この頃のウィグは名望家支配原理とい 「メソディズム」が 与 って力があったという指摘 う点では,トーリと大差がなかった。むしろ,一 にも通ずる(この点には後に触れる)。このことは, 八世紀の選挙法改正(制限選挙の改訂)要求はア 一見すると,アレヴィ・テーゼは宗教(思想)が環 レヴィがすでに承知のように大貴族からさえ出て 境に影響したかのようにとれる。事実,アレヴィ・ くる。この点のアレヴィの分析は今日の研究水準 テーゼは,ウェーバー(マックス,1864–1920)のカ からすると,物足りない。もともと,ウィグの自 ルヴィニスムスという「資本主義の精神」が環境 然法思想は,人びとの契約主体を基礎としながら, に影響したという立論に似ていると評されること 委任契約であるから,様々な差別を内包してきた。 がある。しかし,既存の思想もまた環境の一つと 選挙権も大学教育を受ける権利もそうである。余 考えれば,アレヴィの立論は充分に成立可能であ 談になるが,アメリカが自然法思想で独立を果し る。ただ,そのためにウィグとベンサムとの関係 ながら,長年にわたり人種や宗教などの差別を公 がアレヴィにおいて曖昧になったと,わたくしは 然かつ平然と行ってきたのも,その延長上にある。 考える。 わたくしは,ベンサムの四囲にはウィグが蠢動 フランス革命原理も実態としてはユダヤ人差別を 21) 。ベンサムは自然法とは全く違 していたことを忘れてはいない。ジェイムズ・ミ う「有益性の原理」 (最大幸福原理)に立脚して,現 ルだけでなく,長年の友人であったロミリ,これま 状を告発することから出発する。ベンサムが「最 た長年の弟子であったデュモン,それに最晩年の 大幸福(有益性) 」を基本にする限り,これはすべ 愛弟子バウリングもすべてウィグであった。そし ての個人を大切にする思想であるから,彼がやが てベンサムがウィグを頼りにすることも間々あっ て「主権は国民 people にある」という命題に到達 たことも確かな事実である。アレヴィがウィグを するのは,いわば時間の問題であった。この命題 無視できなかったのも,やむをえない。しかし,ベ に立って,ベンサムにおいては,立法者(自然法に ンサムは,思想としては女性を含めた「普通選挙」 おける受託者)は有益性(最大幸福)に服す下僕で を考えたほどに「有益性の原理」(最大幸福原理) あるから,主権者たる国民の毎年の審判を受けな を徹底させる姿勢を持ち続けた。ウィグとの原理 ければならないと,晩年には主張する。それが急 的相違は歴然としている。 抱え込んできた 進主義の成立であり,これは内実としては共和制 の主張であった。その時,トーリもウィグも原理 4. アレヴィ・テーゼ——結語 的には哲学的急進主義とは完全に対立する。この 点に関しては,アレヴィの歯切れは確かによくな レズリ・スティーヴンは,あまり哲学的ではな い。アレヴィは意外に,前に触れたように,ベン かった。しかもベンサムを称揚するあまり,彼は サムに対してフランス思想が影響したし,一九世 ウィグ自由主義をベンサム思想の中核に据え,ベ 紀到来前後にはウィグ思想あるいは運動が影響し ンサムをイングランド自由主義の主流に位置づけ たと考えている。つまり,思想形成における環境 る誤りを犯した。ローゼンはそう指摘する。わた の影響を重視している。それは,具体的にはモン くしはそのローゼンに賛成する。ベンサムは,確 テスキューとジェイムズ・ミルの影響である。本 かにウィグになったことは一度もないし,ウィグに 書とは別に, 『イングランド国民の歴史』第 1 巻の 共感を示したこともない。アレヴィは自分の『哲 『一八一五年のイングランド』におけるアレヴィ・ 学的急進主義の成立』の刊行寸前に出たスティー テーゼ,すなわちイングランドがフランス革命の ヴンの書物に安堵した。スティーヴンは自分と視 ような民衆の暴力の発動を経験しなかったのは, 点がかなり違うし,ベンサムのニヴァシティ・カ 21)マルクス『ユダヤ人問題』は政治的解放(ブルジョ ア革命)だけでは不十分であると,この点を衝いて いる。 レジ所蔵の原資料にほとんど触れてもいないから であった。 — 40 — エリー・アレヴィのイングランド研究業績に関 エリー・アレヴィと『哲学的急進主義の成立』 して言えば,先に触れた大著『イングランド国民 こうした課題を担う官僚のための参考書の意味も, の歴史』も 19 世紀初頭から 20 世紀前半にかけて 『哲学的急進主義の成立』と『イングランド国民の の大国ブリテンの研究として評価されていいと, 歴史』は担っていたと,わたくしは思う。勿論,こ わたくしは思う22) 。政治学高等専門学校に学んだ れらの書物を単なる参考書に矮小化してはならな 官僚,特に外務官僚の卵たちはこれらの大著から い。「権威的自由主義」が充分に育った後に,「共 フランスの後進性の克服の方向を模索する上での 和制」と「国民主権(草の根自由主義) 」の原理と 参考を学習したであろう。ただし,アレヴィのイ 実行の定着が可能になるであろう。「権威的自由 ングランド研究はイングランドの過大評価になっ 主義」は, 「権威なき」自由主義に到る過渡的な段 ているというコリーニ(ステファン,1947–)の指摘 階である。サンシモニスム自体もこの段階の必要 がある。コリーニは,これがアレヴィのみならず 性を説いていた。モンテスキューとエルヴェシウ ブートミからレモン・アロン(レモン・クロード・ スを吸収したベンサムが,二〇世紀初頭のフラン フェルディナン,1905–1983)までの傾向だとする23) 。 スに必要であった。そう考えると,アレヴィが今 後進国は日本に限らずどこも先進国を多少とも美 日,このように批判の対象となること自体が,こ 化するものらしい。 れらの書物の偉大さを証していると言っていいで わたくしは,ベンサムに対して及ぼしたフラン あろう。 ス思想,とりわけモンテスキューとエルヴェシウ なお,蛇足ながら,アレヴィの別の大著『イン スの影響(その結果としての「権威的自由主義」) グランド国民の歴史』も英訳されて,英語圏でも をアレヴィが強調したのは,アレヴィが負った時 よく読まれている。とりわけその第 1 巻(フランス 代の課題に由来するところが小さくなかったろう 語原書初版 1913 年,英語版 1924 年)の「アレヴィ・ と思う。19 世から 20 世紀にかけての,第三共和 テーゼ」は有名であるが,それだけにこの命題に 制初期のフランスは,到来した厳しい帝国主義的 も批判は絶えない。イングランドがフランス革命 対立の時代を勝ち抜く課題を,イングランドに追 のような危機を回避できたのは,イングランドに いつくという課題を抱えながら,ともに果さなけ は福音主義,とりわけメソディズムがあったから ればならなかった。アレヴィは,官僚主導のもと だというのが,テーゼの主旨である。プロテスタ で帝国主義国フランスをブリテンのように強大化 ントの母に育てられたが,信仰心の薄かったアレ することを歴史的使命とする時代に生きた。それ ヴィ(やや長じてから,仏教が真理に一番近いと考えた) は,すでに述べたように一種のサン・シモニスム にとっては,フランスに有力なカトリシスムは近 を必要としたとも言えた。そういう官僚を育成す 代化と産業化の障害であり,革命以前の時代の大 る上で,フランス思想の影響下で成立した「権威 きな遺物であったろう。 的自由主義」体系がベンサムの中で成熟したとい このテーゼに対する批判としては,ホブズボー うテーゼは,官僚の卵を奮起させるに充分であっ ムのものが有名である24) 。しかし,わたくしはこ たろう。奮起する官僚がフランスに必要であった。 こでは, 「自由貿易帝国主義」論で有名なバーナー ド・セメルの論考を紹介する。セメル論文のタイ 22)因みに,この大著は,前述の『1815 年のイングラン ド』の後,第 2 巻と第 3 巻,つまり 1841 年〔穀物 法廃止〕までが書かれ,その後 1895–1914 年(第 5 巻)が書かれて,最後にその間,1842–1894 年(第 4 巻)が書かれた。ヴィクトリア朝に対する慎重な 姿勢が仄見える。 23)Cf. Stefan Colini, English pasts; Essays in history and culture, Oxgord University Press 1999. Absent minds, intellectuals in Britain, Oxgord University Press 2006. トルは,そのものずばりの「アレヴィ・テーゼ」で ある。これは,彼の他の論文・著書と違って文献 研究である(この問題に対する文献目録ともなってい 24)E.J. Hobsbaum, Labouring men, studies in the history of labour, chap.3, London: Weidenfeld and Nicolson Ltd., 1964. 私と鈴木幹久との共訳『イギ リス労働史研究』 (ミネルヴァ書房,改訳版,1988,3 章) 所収。 — 41 — 経 済 系 第 264 集 。アレヴィの著作目録から明らかなように,ア る) を排除しているわけではないと言う。この付言は レヴィは『哲学的急進主義の成立』を仕上げた直後 重要な歴史方法論であるから留意すべきである。 から,メソディズム研究に向かい,翌年には論文 さらにセメルは,一九世紀においてロバート・ を書いている。セメルは先ず,アレヴィ・テーゼ サウジ(1774–1843)以来,ギゾー(フランソワ・ピ 自体の理解が不十分であることを指摘する。低俗 エール・ギョーム,1787–1874)などのメソディズム な批判者は読まずに,勿論理解もしないで批判す 反革命論は連綿と続き,その延長上にイポリット・ る。セメルは,アレヴィがメソディズムの成立か テーヌの研究があることを示唆する。テーヌはア らその意味を考えてきたことを述べる。アレヴィ レヴィの父リュドヴィックの友人であり,家の常 によれば,メソディズムは,高教会派の「熱意」と 連客であり,また政治学高等専門学校創設者の一 非国教会民衆の「信心」が結びついたところに成 人であった。テーヌのエリーに対する影響は当然 立したものであり,メソディズムとは方法あるい に考えられる。セメルによれば『哲学的急進主義 は形式,すなわちメソッドの厳格な遵守を意味す の成立』においてアレヴィは,最大幸福主義はそ るところに由来する。この宗派の成立自体が単な れだけ取れば,フランス革命の要素をすべて揃え る宗教的事件ではなかった。アレヴィは,1730 年 ていたことを確認したとも言う。そしてそれに続 代に「商業恐慌」があり, 「過剰人口」問題,要す けて,だから,フランス革命がイングランドにお るにそれまでになかった種類の貧困問題が生じた いて革命を誘発しなかったことに対する説明とし こととメソディズムの興隆とは関係があると指摘 てアレヴィ・テーゼは出されたとも考えると言う。 する。わたくしの思うに,おそらく新興宗教は社 こうしてアレヴィの二つの大著は関連を持つこと 会の新しい疾病の兆候である。そこでアレヴィは となった。 問う。1738 年の労働者たちがなぜ暴挙に訴えそう セメルは,またアレヴィに対するもう一つの影 になりながら正反対の宗教運動に向かったか。そ 響を挙げる。レッキー(ウィリアム・エドワード・ハー れは,まだ未熟な彼らには頼るべきものは「支配 トポール,1838–1903)の,これも大作の『一八世紀 階級」の理念しかなかったからだと,アレヴィは (1878–1890)である。ここでセメ イングランド史』 言った。すでにエンゲルスは,アレヴィにいくら ルは,レッキーとともに当時の状況を検証しつつ, か似たことを言ったはずである。当時の「支配階 メソディスト教会説教においてトーリ的信条,す 級」は地主階級であるが,アレヴィはもし「ブル なわち神授権と無抵抗服従(王に対する忠誠)が ジョア」に一人でも「革命感情」を持つものがい 説かれ続けたことに触れる。それ故アングリカン たら,事情は変わっていたかもしれないと言った。 側からの非難は収まらず,1811 年,シドマス(ヘ そして 1738 年の事例は,20 世紀に引き続いた。セ ンリ・アディントン,初代子爵,1757–1844)は「メソ メルは,従ってアレヴィ・テーゼとは,メソディズ ディズム拡大防止法案」を庶民院に提出する。ス ムが 18 世紀から 20 世紀まで引き続いたという指 タナップ(チャールズ,第 3 代伯,1753–1816)らの 摘であるとも言う。従って,フランス革命時の問 ウィグはこれに反対し,結局法案は撤回され,メ 題はその連鎖の中にあるのだから,イングランド ソディストの忠誠心は確認される。 におけるフランス革命の問題は,この角度から議 こうして 18 世紀および 19 世紀の同時代人は,メ 論されなければならないということになる。そし ソディズムが革命の友人であったか,阻止したかに てアレヴィは,あらゆる要素を勘案して, 『イング ついて見解は分かれた。20 世紀の歴史家,例えば ランド国民の歴史』第一巻の『一八一五年のイン ウィアマス(ロバート・フェザーストン,1882–1963), グランド』において「メソディズムはジャコバン ハモンド夫妻(ジョン・ローレンス・ル・ブルトン, 主義の解毒剤であった」と結論する。セメルはア 1872–1949,およびルーシー・バーバラ,1873–1949), レヴィのこの結論について付言して,アレヴィは E・P・トムスン(エドワード・パーマー,1924–1993) マックス・ウェーバー同様に,歴史の経済的解釈 らは,一様に見解は両義的である。アレヴィ・テー — 42 — エリー・アレヴィと『哲学的急進主義の成立』 ゼにもっとも批判的なホブズボームでさえ,両様 で言う。「政治学高等専門学校は,一九三七年夏, である。要するに,以上から言えることは,アレ 痛切極まりない喪失を体験しました。/ エリー・ ヴィ・テーゼは,素朴な形では一世紀以上も続い アレヴィは本校に四〇年余在職されました。本校 た「仮説」であって,アレヴィはそれを洗練した の教育上の都合で,氏の全知的活動は,社会主義 に過ぎない。セメルは確認する。メソディズムは と一九世紀イングランド政治思想史を交互に担当 革命を防止したかという問いについて言えば, 「完 頂くことに向けられ,その基礎には洛陽の紙価を 全に満足できる回答は期待すべくもない。 」敢えて 高からしめた諸著作がありました。 」本書は,無署 言えば,「神のみぞ,よく知り給う。」これが,セ 名のこの冒頭の文章のほか,一三名の一二寄稿文 メルの結論である。これに付け加える言葉はわた からなるが,このうちすべてが書きおろしではな 25) くしにはない 。 く,すでに雑誌などに発表された文章も含まれる。 因みに,ブリテンではエリー・アレヴィの生き 筆者とタイトルのみ掲げる。S. シャルレティ「本 た頃,バーミンガム歴史学派が成立する。この学 校の敬意」 ,A. ジーグフリート「個人的追憶」 ,L. 派は,1840 年代にブリテン自由主義がフランスを ブルンシュウィック「哲学者」,R. ドゥレフュス 巻き込んで確立したにも拘わらず,期待したよう 「友人」,C. ブーグレ「昔の高等師範学校生」,P. に恐慌を避けることができないことを事実として ヴォシェール「偉大な研究者」 ,J. バンダ「精神と 知らされて,曲がり角に立った時の,自由主義の 魂の理解者」 ,J.-M. ジャンネー「社会主義の歴史 反省の一標章であった。アレヴィは,これから本 家」 ,匿名「偉大な良心」 ,E. バーカー「フランス 格的に自由主義に出立するフランスにおいて,ブ の天才がイングランドに与えた貴重な贈り物」 ,B. リテンに失敗からさえ学びつつ進路を自由主義の ウィリアムズと H.A.L. フィッシャー「近代イング 方向にとる歴史的位置にいた。この意味では,彼 ランド史家」 ,匿名「偉大な著作の影響」 。これは, は一八七〇年代の限界革命の後追いをしていたと 追悼文集であるから,批判的な言辞はない。 言える。そういう進路を選択する官僚を育てるの が彼の歴史的使命であった。 ここで分かるように,エリー・アレヴィの関心は, 時代の要請を受けて,社会主義研究にも向かった。 わが国は,フランスと違ってまだ多くの古い規 政治学高等専門学校での講義は,この追悼文集に 制と既得権益を遺す国だけに, 『哲学的急進主義の よると隔年で「社会主義と一九世紀イングランド 成立』その他のアレヴィの仕事が,立法に関して 政治思想史」となっているが,当初は確か「社会主 は素人集団からなる奇妙なこの国の立法府 (実体 義論と古典経済学(および経済制度) 」であったは は官僚が担っている)を真の立法府に生まれ変わら ずである。ただしアレヴィの社会主義研究が最初 せるためにも,役立つことをわたくしは心から願 に向かったのは,イングランド研究とからめてホジ う。それに,わが国ではイングランド哲学・思想 スキンであった。ホジスキン(トマス,1787–1869) は,ドイツに比較して,フランスに比較してさえ, は,リカードゥ派社会主義者に数えられるから社 あまりよく理解されていない。特にベンサム理解 会主義者と間違えられてもおかしくない思想家で は低い。本論考がいくらかでもこの状態の改善に あったし,この自由主義者は,その点ではやはり 役立つことを,わたくしは願っている。 社会主義者と混同されるサン・シモンに似ている エリーの在職した政治学高等専門学校は,彼の 26) 死の翌年,彼を追悼する文集を出版した 。冒頭 から,サン・シモニスムに傾斜していたエリー・ アレヴィに適合していたであろう。ロシア革命が 起こると,ジッド(アンドレ・ポール・ギィヨーム, 25)Kent, John H.S., M. Elie Halévy on Methodism, Proceedings of the Wesley Historical Society,(December 1953)は,アレヴィのメソディズム論の事実 に関する誤りを逐一,指摘する。 26)Anon., Elie Halevy, 6 Septembre 1870, 21 Août 1869–1951)同様,アレヴィも現地視察に行く。し かし,ロシアはまだ混乱していた。ジッドと違っ — 43 — 1937, n.d., n.p. 経 済 系 第 てアレヴィの心には何の変化も起こらなかった。 アレヴィに変化はなかったけれども,対象に大き い変化があったことは間違いない。アレヴィの遺 稿『専制の時代』は,二つの新しい拘束組織が形成 されたことを指摘する。一つは,生産・分配・交換 の領域における国有化の進展であり,もう一つは, 労働組合・協同組合などの諸団体の参加する国家 社会主義の成立である。国家社会主義は,ファシ スムとナチスムであるが,それのみならず国有化 を含むスターリニズムにもその側面があった。つ まり,二〇世紀を暗く彩る第二次大戦の基層を解 明しようとして,アレヴィは中途で病に倒れたこ とになる。 さて,『哲学的急進主義の成立』の意義である が,わたくしはこの書物がベンサムで完結したこ とに注目したい。エリー・アレヴィは,ベンサム 最大幸福原理をジョン・スチュアート・ミルまで 延ばさなかった。ミル自身も,ベンサムを継承す るとは言わなかった。むしろ,ミルはベンサム幸 福論を継承できないし,改変したいと明確な観念 を持っていた。ベンサムがそのことに気付いてい たかどうかは問題ではない。ベンサムが掲げたよ うに,全体系の上に最大幸福原理を置く法体系の 構築は,ジョン・スチュアート・ミルの学的課題 ではなくなっていた。ミルは,論敵にして親友の カーライルと同様,むしろベンサムが斥けた「禁欲 の原理」に立とうとした。アレヴィはそのことを 見抜いて,『哲学的急進主義の成立』を構成した。 つまり,社会科学体系としての最大幸福原理はベ ンサム一代限りのものであった。わが国だけでは ないが,特にわが国の思想史の常識がベンサム体 系はミルその後へと連続する一つの学派を形成す るかのように論じることの誤りを,アレヴィは夙 に指摘していたと見るべきであろう。社会科学に おける幸福論は,経済学における価値論同様,仔 細に見るほど各人各様である。 参考文献 (エリー以外のアレヴィ家の人物についてはそれぞれの 研究書を参照) [ 1 ]Anon., Séance du 28 novembre 1970, POUR LE 264 集 CENTENAIRE DE ÉLIE HALEVY, Bulletin de la Societé française de Philosophie, No. 1, jan.mars, t. 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[23]Jordan, Ruth, Fromaental Halévy, his time and music, 1799–1862, Limelight Edition 1996. [24]Kent, John H.S., M. Elie Halévy on Methodism, Proceedings of the Wesley Historical Society, (December 1953). [25]Lauvent, Sebastien, Daniel Halévy, biographie, du liberalism en traditionalisme, Paris 2001. [26]Léon, Xavier, La philosophie de Fichte, Paris 1902. [27]〔MusEe d’Orsay,〕 Entre théatre et l’histoire, La famille Halévy (1760–1960 ), sous la direction d’Henri Loyrette, Paris Librairie Arthème Fayard 1976. [28]Richter, Melvin, Halévy, Élie, International Encyclopedia of the Social Sciences. do., A Bibliography of Signed Works by Elie Halévy, History and Theory, Studies in the philosophy of history, Beiheft, 7, Wesleyan University Press, 1967. [29]Rosen, Frederic, Elie Halévy and Bentham’s authoritarian liberalism, Enlightenment and Dissent, No.6, 1987, Aberystwyth, University College Wales. 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