横浜市立大学エクステンション講座 第3回 (11/19) パリ史こぼれ話 籠城下のパリ市民 — 食い物をめぐるてんやわんや — 横浜市立大学名誉教授 松井道昭 Ⅰ Ⅱ Ⅲ Ⅳ Ⅴ Ⅵ 食糧備蓄計画 帝政下での備蓄 九月四日革命後の備蓄 食糧行政組織 パンの問題 割当配給 Ⅶ 肉の問題 Ⅷ その他の食品 Ⅸ 燃料問題 Ⅹ 国民衛兵 XI 貧民救済 XII 総括 はじめに 1871 年 1 月 28 日、プロイセン軍包囲下のパリは 4 か月余の苦闘のすえ武器を擱い た。翌 29 日、政府『官報』は次の声明を発した。 「政府は次のように告知してきた。すなわち、パリはなしうるギリギリの限界まで抵抗した紛 れもない証拠を確認するであろう、と。大きな不つごうがあって昨日はまだこの種の情報を公表 できなかった。休戦に関する協定が結ばれた今、政府はその約束を果たすことができる。 先ず、あまりに多くの人々が忘れているように思われる事柄を心に銘記しなければならない。 それというのも、籠城の当初はどんな楽天家ですら、籠城が6、7週以上も続くとは信じなかっ たからである。 9 月8日の『官報』は、商業大臣マニャン氏が壁に張り出させた宣言を再録しつつ、肉、アル コールおよびあらゆる種の食糧の備蓄は 200 万住民を 2 か月間養うのに十分であると断言したと き、この主張は信じがたいことだ、として即座に一笑に付されたのだ。ところが、9 月4日から 数えて4か月と 20 日が過ぎ去ったのである。…[中略]… 最後の 2、3 週前から残酷な苦しみとなり、堪えがたい欠乏の真直中で、パリは外部の軍隊の 救援を正当にも望みうるかぎり、そして住民とその防衛者を養うのに 1 かけらのパンでも残って いるかぎり抵抗してきた。地方からのニュースがあらゆる希望をパリから奪い去るとともに、 その食糧の状態が差し迫りつつある饑餓の避けられないことを示したとき、はじめてパリは立ち 止まったのである。 」 この声明を要約してみよう。当初、食糧の備蓄状況よりみて、パリの抵抗はだれも が、6、7 週間が限度と見ていたが、首都は大方の予想に反してさらに 2 か月間戦いつづ けた。饑餓が極限状況に達し、奮戦むなしく戦争の勝敗が決した今、パリは敵と休戦協 定を結び、開城を決意するにいたった。 1 ところが、この同じ 1 月 29 日、他のある新聞は次のような奇妙な事実を暴露した。 「ずいぶん前から完全に消費しつくされたと思われていた商品の多くが今日は溢れている。と くに膨大な量の脂肪と煮込み汁の缶詰が現われたことを示そう。ジャガイモ、蕪、ニンジンも大 量に姿を現わし、2 日前には『品切れ』と書かれていた商品陳列棚を見た人々は驚きの声を挙げ た。食料品店の棚は見る見るうちに品物で一杯になった。 」 前の公式声明は、物資枯渇のゆえに武器を擱かざるをえなくなったといい、後に示 した新聞は、隠れていた食糧がどっと溢れ出たという。この相反する報道の矛盾をどう とらえたらよいか。後者の言があながちウソを述べているとも思われない。確かなこと は、政府が極限状況について少々思い違いをしていたことだ。それにしても 6、7 週しか もたないと見られていた籠城生活がなぜ 4 か月と 20 日も続いたのか。 食糧備蓄が政府の 計算違いで予測以上に存在していたためなのか。それとも、市民が耐乏生活に堪えて倹 約したせいなのか。しかし、予測と実際のこの 2 か月という隔たりは、パリのような大 都市を考えると、見込みちがいや倹約のせいとするにはあまりに大きすぎる。 ここまで来ると、かの政府の公式声明が自らの食糧政策についてまったくふれてい ないことが妙に気になる。つまり、無くなったはずの食糧がどっと出まわったことは、 政府の統制を超えたところで何らかの動きがあったのではないか、国防政府は果たして 食糧行政において状況を制する力をもっていたのだろうか ― このような疑問を禁じ えない。そもそも、本稿を起こしたのはここより始まる。 ところで、それがどのような問題性をもつのか。それを考察するためには、もう少 し視野を拡げてみなければならない。 食糧危機の発端は、 前年の 1870 年 9 月より首都パリがプロイセン軍によって包囲さ れたことにある。包囲直前のパリはできたばかりのひとつの革命体制に服していた。独 軍による包囲が完了する半月ほど前、普仏戦争を始めたナポレオン三世はスダンで大敗 北を喫し捕虜になるとともに、対ドイツ降伏文書に調印した。ところが、首都はこの降 伏を認めず、体制をひっくり返した。かくて、帝政政府は倒壊し、代わって共和主義の 政府が誕生した。体制転換という意味でそれが革命であることに変わりはないが、そこ には、革命につきものの流血惨事も、大きな混乱もなかった。この政府は講和を望まず、 祖国防衛を旗印に徹底抗戦を唱えるにいたる。だが、その果敢な態度は新政府自ら進ん でというよりも、状況により、また、市民の圧力により引きずられたものだった。この ためらいが首都とフランスの運命を大きく狂わせることになる。独仏首脳部双方の意に 反し、戦争はだらだらと長びくにいたる。 フランスは主力軍が捕虜になるか、アルザス=ロレーヌ戦線で釘づけになっている ため、局面打開の主導権を握ることができない。フランスは一時退却して防衛に備える ことになった。よって、首都攻防が戦局の鍵となった。そうこうするうちに 9 月 18 日、 独軍のパリ包囲が完成する。しかし、攻める側、守る側ともにそれぞれの事情と思惑が あって、当面は大激突にならなかった。睨み合いのまま時間だけが過ぎていく。 ここから食糧問題が発生するのである。政府は多少なりとも、この事態を予測して 2 いたのだろうか、そして、用意があったのだろうか。抵抗が 2 か月半から 4 か月半へ長 引いたことに政府の食糧政策はどのような関わり方をしているのだろうか。緊迫の状況 下で政府と市民はどのような関係にあったか。また、そのことと後の諸事件の展開と関 係があるのだろうか。本稿はこれらを明らかにすることを課題とする。 Ⅰ 食糧備蓄計画 最初に計画から考察しよう。 開戦当時の帝政政府にパリ防衛という観点はなかった。 したがって、首都防衛のための「食糧備蓄計画」なるものは存在しない。プロイセン宰 相ビスマルクの計略に嵌って開戦を急いだ政府にとって戦争そのものが晴天の霹靂の出 来事だった。ところが、不用意な戦争に突入しながら、政府は勝ちのみを信じ、フラン スが敗北することや、 首都が包囲されることなどまったく想定していなかった。 だから、 籠城に備え食糧を貯えておかなければならないといった観点が抜け落ちていたとしても、 何ら不思議ではない。 懸念が起きたのは、独仏国境付近の緒戦で仏軍が蹉いてからである。仏軍の敗退は 敵のパリへの進撃を意味した。この敗報はパリではどのような態度で受け止められたの だろうか。はたして敗戦にはつきものの、社会の上から下までを揺するパニックが生じ た。開戦に責任をもつ内閣が倒壊し(8 月 9 日) 、陸軍大臣を首班とする臨時内閣が生ま れた。そして、緊急に防衛上の観点から三つの問題が起きた。一つはパリの要塞化、も う一つは首都の防衛に必須の防御工事の着手、三番目はパリの必需品補給であった。 しかし、 それらのいずれも中途半端な結果に終わった。 大砲受注はなされていたが、 まだ届いていない。予備役召集はまだ計画段階であった。防御工事については土木請負 業者がようやく城門の閉塞工事に着手したところであった。外部要塞の工事はまだ計画 に乗ったままであった。万事が遅れ、状況まかせになっていた。 食糧備蓄問題においても然り。その問題は仏軍が諸戦で敗北を喫してようやく浮上 した。1870 年 10 月 18 日、帝政期パリ市会議長デュマが科学アカデミーの会合で、 「パ リの備蓄は 8 月4日から 5 日にかけての夜に始まった」と発言したのを受けて、セーヌ 県食糧備蓄局長官モリヨンは当時をふり返り、次のように述懐する。 「私の記憶とメモは備蓄の開始された日を確証する。すなわち、連続する凶報の発端となったウ ィサンブールの敗戦を聞いた 8 月4日の夕方、 その日に初めて関係者の頭に浮かんだのである。 それは、けっして備蓄が始まったという意味ではないが。 」 「泥棒見て縄をなう」とはまさにこのことを言う。政府は敗報に接してから備蓄計 画の作成にとりかかったのである。 遅いと言われても、 あまりに当然の謗りといえよう。 しかし、手遅れですべてが説明できるであろうか。見方を変えれば、帝政政府は遅きに すぎたとはいえ、この時にパリの備蓄問題を取りあげたのは、まだいくらかの可能性が 3 残っていたことを意味する。すなわち、この 8 月 5 日からパリ包囲の完成する 9 月 18 日までに1か月半の猶予があった。パリ市民 200 万を扶養するに足る食糧の購入・集積・ 輸送・貯蔵となると、それが難題であることはだれにもわかる。それにしても、1か月 半とはかなりの長さである。しかし、政府はこの期間を無為に過ごしてしまうのだ。 凶報を手にした政府はただちにセーヌ県当局に対して、パリ維持のための 2 か月間 の食糧備蓄を命じた。オスマンの失脚(1870 年 1 月1日)の跡を受けて県知事の地位に あったアンリ・シュヴローは即座にパリ市備蓄委員会を組織し、前出の市会議長デュマ をその長に指名した。どんな食糧をどれだけ備蓄すればよいか行政当局に答申すること が同委員会に与えられた任務だった。 パリにとって、200 万住民を 2 か月間維持する備蓄問題をとりあげるのは初めてのこ とだ。歴史上、パリはこのような事態を経験したことがない。たしかに、パリはこれま で何度か外敵の侵入を受けてきた。記憶に新しいところでは、ナポレオン戦争の 1814 年と翌 15 年の2回がそれである。 だが、 この時は激しい抵抗はなく簡単に開城したので、 備蓄問題は生じなかった。よって、籠城体験をもたない首都において、この補給問題が 真実味をもって受け止められたかどうかはなはだ疑わしい。作家のサルセイは日誌に書 いている。 「政府は民間人に対して予備食糧の貯蔵を勧めた。しかし、だれひとりとして、否、ほとんどだ れひとりとして、この警告を深刻なものと受けとめなかった。 」 事情を知らされないパリの一般市民が「包囲」なんてありそうもない妄想だと初め から撥ねつけているのならまだしも、政府の主だった閣僚から下僚にいたるまで楽観的 雰囲気に染まっていた。 後の国防政府の有力閣僚の一人となるジュール・フェリーは『国防政府に関する査 問録』 (以下、 『査問録』と略す)の中で、次のように述懐している。 「私は、たまたま書類の中に見いだした市会の議事録をもっている。それによれば、8 月、パ リが包囲に晒されたとき、どれだけの食糧を購入し、どれだけの物資を貯蔵すべきかという問題 がもちあがった。市会はこれを討議した結果、1か月分の食糧で十分と宣言した。パリ籠城がこ の期間以上に長引くとは予測されていなかったのだ。事実、パリ市は 21 万キャントー[注:1 キャンタルは約百キログラム]の麦粉を購入したが、1日当たりの消費量を 7 千キャントーと 見込むと、それは 30 日間の食糧を示していた。 」 ところで、前出のデュマ委員会も同じように、包囲は長びかないという楽観論に染 まっていたのだろうか。同委員会は仏軍にとって 2 度目の敗北となった、ライヒショフ ェンの敗報が政府の許に舞い込んだ直後に計画書を提出(8 月 10 日) 。ということは、 わずか数日間で作成した計算になり、委員会がどれだけか慌てていたかを示すといえよ う。このプログラムによると、今後補給すべき物資はパン・肉・秣・食塩となっている。 他の食品すなわち砂糖・コーヒー・チョコレート・油脂・葡萄酒・バターなどは補給対 4 象から外されている。燃料についても配慮されていない。 小麦粉については、2 か月分のパン用として 43 万キャントーを備蓄しなければなら ないとされた。 肉についていうと、 やはり 2 か月間の維持のために牛と子牛をそれぞれ 42,700 頭、 羊を 24,400 匹、豚は 48,800 頭を必要とした。乳牛はこの勘定に入っていない。パリ市 民は1日当たり 31 万リットルの牛乳を消費するが、 これは委員会の計算から洩れていた。 このことは、後になって乳幼児と病人に大きな災厄をもたらすことになる。 家畜飼料の秣と藁は、市内に入れるべき家畜の数との見合いで決められた。牛につ いて1頭当たり5キログラムの秣2束と 10 キログラムの藁1束。 羊については2キロの 秣と 200 グラムの藁。子牛については 500 グラムの裸麦粉と1キロの藁。豚については 2キロの糠、2キロのふすま、1キロの藁。 食塩は膨大な量を必要とした。籠城という特殊な環境のもとでは当然だった。 以上が委員会の答申である。まず気づくことは、委員会がこの時点で 2 か月間の籠 城を想定していたことである。そして、問題にされているのは政府購入の公的備蓄のみ であり、商業ベースの備蓄や私的備蓄は勘定に入っていない。さらに、上の数値は今後 新たに補給すべき量のみを示しており、これに在庫量を合わせると、実際はもっと長く 維持できたはずである。つまり、この 2 か月よりはさらに半月ないし 1 か月は維持でき るはずだった。たとえば、パン屋 ― その当時、パリ市内に 1,380 軒あった ― はつね に 15 日程度の予備小麦粉を保有していた。この計画が実施されれば、パリの籠城維持期 間は 10 月一杯までということになる。 8 月 9 日の政変で政府閣僚が入れ代わる。敗戦の責任をとってオリヴィエ内閣が倒 れ、新たにパリカオ陸軍大臣が組閣した。備蓄担当の農商業省でもルーヴェ大臣が更迭 され、クレマン・デュヴェルノワ Clément Duvernois が地位に就いた。デュヴェルノワ は就任後ただちに補佐官ペリエに命じ、デュマ計画の実行にとりかかる。幸いにしてこ の頃、資金は豊富にあった。8 月 12 日の閣議で戦争債券 10 億フランの追加発行が承認 された。問題は、限られた期間内に大量の物資をどう調達するかであった。パリカオ首 相兼陸相は閣議で、パリ包囲が切迫しているゆえ備蓄は火急速やかに実行されねばなら ないと言った。マク=マオン元帥指揮下の仏軍がメッスに進撃することも同時に決定さ れた。メッス進撃というのはメッス応援ということで、勝利への展望がほとんどなくな ったことを意味した。しかし、当時、こうした悲観論に与する者はいなかった。 Ⅱ 帝政下での備蓄 デュヴェルノワは前述の査問員委員会での陳述で、前任大臣ルーヴェは肉の備蓄に ついては生肉を考えず、缶詰と塩漬肉の備蓄のみを考えていたと証言している。生肉は その保存が難しいだけでなく、パリ市内での家畜飼育が困難だというのがその理由であ る。 デュヴェルノワは缶詰や塩漬肉だけでは心もとないとし、 デュマ計画にあるとおり、 5 家畜の導入を提案し、ペリエにその実施を命じた。ペリエは賛成したものの、陸軍省が すでに買いつけを終わっており、今からでは家畜購入は難しいだろうと返答している。 市会は 8 月 14 日、今後、必要になると思われる倉庫・貯蔵庫の設置費用として 500 万フランの支出を決定した。パリが包囲されるとなると、首都周辺部の食糧を敵による 捕獲から取り除き、これらを首都に掻き集めることが何としても必要となった。 これを実施するうえでさらに別の問題があった。入市税がそれだ。この税はパリに 持ち込まれる商品に課税するもので、市財源の重要部分を占めていた。これが通常どお りに持ち込まれる物資のすべてに課税されるとなると、避難民が持ち込む物資のような 一時退避の性格をもつものの流入にブレーキのかかる懼れがあった。 市会は 8 月 19 日か ら 20 日にかけての討議の結果、入市税の免除をとり決めた。かくて、供託金方式とチケ ット発行方式という 2 つの方法により、パリに持ち込まれるあらゆる物資が免税対象と なった。市はそれにととどまらず、ぶどう酒と酒精飲料についても市設貯蔵庫の無償使 用を認めた。 この便宜でもまだ不十分だった。とりわけ問題なのは倉庫と輸送である。セーヌ県 はこれを解決するため、8 月 22 日に布告を出した。これによると、県が提携する3つの 大手倉庫業者のトロットローTrottrot、モルタンヴィル Mortanville、ゴディヨー Godillot らが県に代わって、今後、民間人より寄託される小麦・小麦粉・乾燥野菜・秣 を無償で貯蔵保存を保証する。農民はそこに直接持ち込んでもよいし、運送業者に売却 してもよいとされた。県知事はこう言った。 「この措置は結果として首都を一種の食糧貯蔵庫とするであろう。そのまま耕作していれば当 然に被害を被ったと思われるフランスの地方は、その貯蔵庫から有益な資源を見いだすことがで きるだろう。 」 実際、これは現実のものとなる。パリ第 5 区、11 区、12 区、15 区、16 区、19 区は 農民のために貯蔵庫の提供を申し出た。さらに、これらの区役所は、このようにしてパ リ市内に持ち込まれた食糧を確実に購入することを約束した。 8 月 23 日の立法院議会においてジュール・シモンは備蓄に二つの方法のあることを 示唆した。シモンは後に国防政府の閣僚となり、食糧委員会の委員長を兼務する人物で ある。彼は言う。一つは倉庫を一杯にすることであり、他の一つは人口を減らすことで ある、と。前者はいろいろ困難を伴うかもしれないが、後者は実現性があるように思わ れた。シモンは政府に対し、貧困世帯の婦女子と廃疾者を無償で市外に送り出すことを 提案する。この提案にデュヴェルノワも賛同し、政府は翌 8 月 24 日、非戦闘員に対して 「都払い」の勧告を行なった。しかし、効果はあまりない。この頃になっても市民の間 で、敵による首都包囲は現実のものとは考えられていなかったし、たとえあったとして も、ごく短期間と考えられていたから、彼らは動こうとしなかったのだ。実際にパリを 離れたのは、戦闘に不向きの婦女子や廃疾者ではなくて、金持ちを中心に 20 万人程度に とどまる。反対に、パリに残ったのは抗戦上において重荷となる人々、つまり貧しい人々 であった。これは当然のこととはいえ、まことに皮肉な巡りあわせである。 6 8 月 26 日の立法院議会は引きつづき備蓄問題を討議する。警視総監ド・ケラトリは パリ近郊諸県の穀物と秣の徴発を要求。これに対してデュヴェルノワは、収穫物は自由 にパリに持ち込める、政府はすべての穀物と家畜の買い上げを希望している、と答弁し た。 彼はさらに、 国防委員会が適切と判断した場合には強制的措置をとることができる、 それまでは貯蔵庫の提供と政府による購入に限定される、と付言した。 ティエールはケラトリ提案を支持して、もっと強力な措置を講ずべきことを力説し た。ティエールは万場の拍手を浴びた。 彼の発言は以下のとおり。 「戦争状態に鑑み、森の伐採、家屋の取り壊しの権限をもっているというのに、政府はどうして 穀物および秣の山を接収できないのか」と。 ダルブレーは公設倉庫の増設を説き、コシュリーは、政府が鉄道会社にかけあって 運賃割引をなすことを要求。ジュール・シモンは、疎開者の準備はどうなっているかと 質問した。ランポンは、パリ市内で 2 万ないし 3 万の有角動物を収容できるから、飼育 を検討すべきである、こうすれば首都住民を 2 か月間は扶養できるだろう、と述べた。 このような議会討論をみるかぎり、備蓄や戦時体制づくりに関しては、かつて普仏 戦争に反対した野党の方が積極的だった。この 8 月 26 日という日が、備蓄問題を議会で とりあげた最後の機会となる。29 日に上院でオスマン男爵が「あらゆる種の備蓄は向こ う1か月半分は確保された」と宣言する。彼はその経歴からしてパリの問題にはすべて 精通しているという評判をとっていたため、この発言は「備蓄完了」と同じ響きをもっ ていた。4 か月半もの籠城などだれも予見していない当時において、だれもがこれで十 分と思ったのも当然であった。それどころか、この安堵感は、ようやく本格化しつつあ った疎開や物資の流れを押しとどめる役割さえ果した。 8 月 28 日、郊外からの食糧流入を促すため市内の市場は毎日開設されるべし、とい う布告が出た。 翌 29 日の布告は住民に対して、 保存できる多種多様の食品を前もって備蓄するよう 勧告する。しかし、これはあまりに遅かった。時は、パリが備蓄計画に基いて最初の着 荷を得た 8 月 14 日から数えてすでに 2 週間が経過していたが、 集積された量は微々たる ものだった。行論で明らかにするように、この間にかなりの物資が入ってきていたもの の、もし 8 月中旬にも勧告が発せられていたなら、公的備蓄に拠らずとも、私的な備蓄 はもっとスムーズに進んでいただろうし、商人たちがあらゆる手段を駆使して貯蔵庫を 満杯にしたはずである。 したがって、 物資枯渇と物価高をもっと抑制できた計算になる。 8 月 29 日というのは、スダン壊滅のわずか 5 日前である。商人の倉庫で払底を感じられ はじめたとき、すでに独軍の包囲がパリの城門近くまで迫ってきていたのだ。 実際、個人備蓄は微々たるものだった。住民が目覚めるのは、包囲が完成し、窮乏 が目に見えて感じられはじめられた後である。ジュール・シモンは前掲『九月四日の回 想』で書いている。 「政府と立法院は住民に恐怖を与えないとの既定方針にもとづき、したがって包囲を知らせな 7 かった …[中略]… われわれは、保存に適するあらゆる種の食品をきわめて大量に確保すべく 商人や各世帯を促すことがとくに緊要と見なしてきた。この点に関してわれわれの意見は当局に よって承認されず、そのために住民に伝わらなかった。 」 この同じ 29 日、近郊農民に対してふたたび市内倉庫の無償利用が公告された。入市 門の税吏は倉庫利用の希望者にその所在地を教え、食糧搬入と引き換えに受取証を発行 することになった。しかし、運賃は利用者負担とされた。 「家畜は飼育番つきとし、少なくとも 25 日間分の秣と寝藁を持参しなくてはならない。病気に なった動物は、その所有者が代価を要求せずとも、獣医の診断にもとづいてと畜されること。 」 8 月 30 日、 ブーローニュの森は家畜飼育場に指定され、 一般人の通行が禁止された。 8 月 31 日、農民たちは『官報』の小記事により、食糧や家畜を公設貯蔵庫以外の場 所に搬入できることを知った。その際、所有者の氏名・住所・職業を申告するとともに、 パリから再移出しない分量についての納税が義務づけられた。 9 月1日、市設倉庫は飽和状態につき、同月 3 日以後は家畜を収容できない、今後 は私設飼育場を利用せよ、との布告が出た。 前にみたように、 郊外の農民に最初にアピールが出たのは8 月22 日である。 そして、 その 10 日後には倉庫が一杯になったということである。 これは備蓄計画の進捗を意味す るのか、それとも、受入施設の容量がもともと小さかったことを意味するのだろうか。 答えはおそらくその両方であるだろう。前者すなわち計画の進捗についても政府の意図 というより、一種のパニック状態が殺到を導いたと考えるべきである。農民へのアピー ルは出たものの、当初、彼らは気乗りしなかった。政府の度重なる布告が出て、ついで 独軍の進撃の報が緊張をまき散らした。彼らが避難を決意したときには、パリへ向かう 鉄道や路線が混雑していたので、農民たちは自らの馬車と荷車でパリに殺到した。とこ ろが、受入先の倉庫や納屋など施設の準備は整っていなかった。郊外農民の物資移入が 効果を挙げるようになったときには、早くも倉庫が満杯となる有様だった。とくに家畜 についてはパリに入ってすぐに解体されるもの以外に、生きたまま飼育する場所は少な かった。むろんそうした飼育場に覆いはない。ジュール・シモンは非常に興味深い観察 をしている。 「クレマン・デュヴェルノワ氏のアピールは耕作農民に理解されなかった。なぜというに、彼 らは 9 月4日以後もなお小麦を手元に保有しており、 [帝政]政府が彼らからそれを徴発したか らである。敵は行き着く先のここかしこで、穀つき穀物・生きた家畜・チーズ・ぶどう酒・秣の 資源を見いだした。敵軍はぐあいよくも、マク=マオン軍を撃退する度合いに比例して、一杯と なった穀倉や潤沢に補給された倉庫にありついたのだ。 」 この見方にはむろん誇張がある。 9 月 4 日以後も食糧が農民の手もとに残っていた。 これを敵と味方の双方が利用したこと、政府が後になってこれを徴発したこと、これら 8 の事実はまちがいない。とはいえ、9 月に入って包囲の輪が縮まり、郊外の農民が続々 とパリに避難するようになったとき、彼らが家財道具や家畜などと一緒にパリに持ち込 んだ穀物のほうが量的にずっと多かった。だが、国防政府は当初、この数値をつかんで いなかった。パリが予想外の長期の籠城生活に堪えることができたのは、避難民による この備蓄があったからだ。 Ⅲ 九月四日革命後の備蓄 備蓄計画が立案そのものにおいて一貫性を欠き不十分であったのは否めない。また 穀物・家畜・秣・塩だけではやっていけないことも当然である。とはいえ、われわれが、 後知恵にもとづいて政府を非難するのは公平な判断とはいえないだろう。当時はすべて の者が楽観論に浸っていたのであり、8 月の時点において積極的備蓄に賛成した野党も、 九月四日革命により政権の座に就いたとき、やはり同じような時間の空費と無為無策を くり返すのである。 ところで、政府は実際に何をどれだけ集めたのであろうか。民間人による個人備蓄 は記録がない。たとえあったとしても、その量はごくわずかなものにとどまったであろ う。 そこで、行政当局による公的備蓄ということになるが、それについても帳簿そのも のがコミューン騒動で部分的に焼失もしくは損傷してしまったため、正確な数字はつか めない。購入物資についても混乱を反映しダブルカウントがかなりあり、備蓄の総量を 示していない。しかも、公的備蓄はバラバラになされた。商業省とは別に内務省とセー ヌ県が独自に購入し、さらにこの他に軍の備蓄があった。こうした備蓄の出所および管 轄の違いは後には分配上の混乱に連なるはずである。 ジュール・シモンは前掲書『回想』で、政府交替時の麦粉の貯蔵量を約 40 万キャン トーと算定している。 パリ市による購入 210,294 キャントー 商業省による購入 118,119 陸軍省からの譲渡分 55,411 海軍省からの譲渡分 4,850 シピオン養老院工場からの譲渡分 7,000 計 395,674 395,674 キャントーは、パリ市1日当たりの消費量を7千キャントーとして 56 日 間の食糧になる。シモンが市当局によって購入されたという 21 万キャントーは、後述す るパン金庫の総裁ペルティエの記録によれば、市当局は小麦粉の購入に関与せず、商業 省と陸軍のみが関与したとなっている。前出のモリヨンはこれをシモンの思い違いとみ なしている。 9 シモンによれば、上記約 40 万キャントーの小麦粉のほかに、国防政府が最初把握し ていなかった備蓄、 すなわち九月四日革命以後に市内に持ち込まれたものは 35 万キャン トーにのぼるという。 1870 年 9 月 22 日から 71 年 1 月 18 日までにパン屋に渡された小麦粉は 757,560 キ ャントーである。このほかに 71 年 1 月 19 日から 24 日までに渡された分が 29,801 キャ ントー、 そして 1 月 25 日からパリ開城後最初の着荷の始まる 2 月 8 日までに約 6 万キャ ントーがひき渡されたから、これら全部を合わると 852,361 キャントーになる。この数 値は先ほどの 395,674 のほぼ倍となる。この量で 56 日間維持できたから、85 万では 119 日、したがって、パリが実際に籠城したのは 132 日間であるゆえ、85 万の備蓄では市民 が耐乏生活を多少忍べば、4 か月半の籠城は可能だったということになる。よって、シ モンの挙げる上記数値には信憑性がある。 他の食糧はどうか。公式の記録によると、1870 年 9 月 26 日付の『市役所公報 Bulletin de la Municipalité』第 2 号は、9 月 24 日の時点で市助役クラマジュランが 実際に視察して確かめた数値を掲載している。それによると、牛 24,600 頭、羊 15 万匹、 豚6千頭である。しかし、モリヨンのメモによると、家畜類はもっと多かったという。 牛 羊 豚 35,220 頭 186,089 匹 9,213 頭 【パリが 4 か月半の間に消費した食糧】 糠 37,021 二番粉 129 片栗粉 201 澱粉 1,304 じゃがいも 32,043 塩 113,485 すいば 661 ヘスペリ草 18 バター 1,729 ラード 5,819 塩漬牛肉 517 缶詰 6,172 油脂 1,050 馬肉ソーセージ 78 鮪 70 鯖 246 鰊 2,880 膤 2,356 鰯 448 ゼラチン 227 獣脂 538 ビスケット 663 植物油 4,330 hl. 酢 1,536 hl. 卵 467,456 個 グリュイエルチーズ 928 オランダチーズ 963 ラード 332 銀杏蟹 5,000 漂白粉 2,121 [注]単位のない数値はキャントー; hl. =ヘクトリットル 10 モリヨンは、これらの食糧はほとんどどこでも貯蔵されていたが、需要に応じた貯 蔵庫の設置や品物の分類がなされていなかったため、系統的な利用は困難だったという。 彼はまた、入市税関を通過した貨物の年次比較(1869 年と 1870 年)から、パリの 備蓄量を割りだそうとする。ただし、この比較には条件がつけられねばならない。とい うのは、9 月 10 日から 10 月 17 日まで、郊外からの避難民によるパリへの物資流入を促 す目的で、国防政府の布告によって一切の貨物の自由通関(免税)の措置がとられてい たからである。この 37 日間は1年間の約 10 分の1に相当する。よって、年次比較する 場合、 単純に 1870 年の数量を1. 1倍したうえで前年数値と比較すればよいかというと、 事はそれほど単純でもない。戦争という特殊事情のもとで、一方で駆け込み的な物資の 流入があるかと思えば、他方では免税がおこなわれて記録がなかったりして、単純な算 術推計ができないからである。 とはいえ、下記の数値は幾つかの示唆を与えてくれる。 パリ入市税関通過貨物量年次比較(1869-1870 年) 食糧 1869 年 小麦粉 224,025,065 小麦 19,185,437 パン 1,516,556 食塩 12,890,673 肉 151,913,896 秣 47,751,751 燕麦 169,488,262 大麦 3,487,166 ブドウ酒 3,715,282 アルコール飲料 132,419 ビール 335,990 植物油 205,500 薪 809,520 木炭 4,883,907 石炭 1.205,286,596 1870 年 b. hl. st. hl. 221,959,796 12,640,339 1,110,330 7,820,674 121,768,629 36,669,599 127,404,718 3,917,231 3,388,853 122,735 277,949 146,318 591,313 2,746,349 472,585,641 増減 b. hl. st. hl. -2,065,269 -6,545,098 -406,226 -5,069,999 -30,145,267 -11,082,152 -42,083,550 +430,065 -326,429 -9,684 -58,041 -59,182 -218,207 st. -2,137,558 hl. -732,700,955 増減率(%) -9.2 -34.1 -26.8 -39.3 -19.8 -23.2 -24.8 +12.3 -8.8 -7.3 -17.3 -28. -27.0 -43.8 -60.8 [注]単位はキログラム、b=梱、hl.=ヘクトリットル 、st.=ステール(1立方メートル) 小麦粉の減少率はほとんど取るに足らない。次に小麦については、前年度よりマイ ナス 34.1%と、大幅な減少となっているが、実際はそうでもない。小麦に対する入市税 は粉に挽かれる時に徴収されるから、この段階では数値として表われない。それに、攻 囲完了間際に郊外農民によって大量に持ち込まれた穀物は上表に含まれていない。 食塩は大幅減となっているが、実際は不足に悩んでいない。トロシュ将軍の命令で 包囲完成前に大量に購入されたからである。 11 肉における 20 %減はまともに受けとめてよい。しかし、籠城期にと畜された馬 5 万 5 千匹(1500 万キログラム)の馬肉を減少分から差し引く必要がある。そうすると、 不足分は 1500 万キログラム(-9.8%)となる。 秣は 23%減であるが、軍馬用の秣はこの表から抜け落ちており、課税中断期間の農 民の持ち込み分も抜け落ちているので、実情を反映していない。 アルコール飲料は約1割減となっているが、市内に在庫がかなりあったうえに、免 税期間に大量に持ち込まれていることがわかっており、実際には不足していない。 植物油の約 3 割減も問題ない。 というのは、 生鮮野菜そのものが不足しているため、 消費の必要が生じなかった。 しかし、燃料備蓄の減少は極端である。備蓄不十分となったのは、1870 年夏の異常 渇水で河川航行に不自由し、輸送のための筏(いかだ)を組めなかったこと、パリ攻囲 が秋ぐちに始まったこと、行政当局が包囲は長びかないという見通しをもったことなど と密接に関連している。 以上のことから、備蓄食糧は不満足ながらほぼ足りるものと決定的に不足したもの とに分類することができる。前者は小麦粉・食塩・アルコール飲料・秣であり、後者は 肉・魚・牛乳・乳製品・乾燥野菜・砂糖・コーヒー・燃料ということになる。 Ⅳ 食糧行政組織 帝政政府のもとでは、前述の備蓄措置以外の策は執られていない。よって、食糧統 制措置がなされたのは九月四日革命以後ということになる。食糧行政の主務官庁は農商 業省であった。新政府(国防臨時政府)の樹立にともない農商業大臣に就任したのはマ ニャンである。マニャンはコート・ドール県選出の共和派の立法院議員であり、食糧行 政の面ではズブの素人だった。しかし、マニャンは就任に当って帝政下の官吏たるオゼ ンヌ Ozenne とマリーMarie を留任させた。このほかに食糧行政の重要ポストであるパ リ市パン金庫総裁についても、かつてのオスマン知事の協力者ペルティエ Pelletier を 登用。 「国防」とならんで「共和政」を旗印に掲げる新政府にとって、旧帝政政府の官僚 をそのまま留任させることは大変な冒険であった。さっそく新政府は共和派左翼と社会 主義者から「行政府は九月四日の前夜はすばらしかったが、翌日は嘆かわしいものとな った」という非難を浴びることになる。 行政上の主たる困難は管轄にあった。前述したように、小麦粉および小麦の公的備 蓄の出所がバラバラであるため、当然、それらの管理もバラバラとなった。管轄の相違 は不可避的に官庁間の軋轢を導く。食糧行政をめぐってとくに対立したのは農商業省と パリ市役所である。 前者は備蓄、 後者は分配というように一応の職務分掌がなされたが、 農商業省は配分に注文をつけようとし、市役所はその指揮に従うのをヨシとせず、両者 の関係はいつもギクシャクした。軋轢が生じたのは小麦粉についてだけではない。9 月 14 日以後、農商業大臣が食肉の公定価格制の実施に責任を帯びたのに対し、パンの公定 12 価格制は市役所の管轄のままであった。 備蓄食糧の多様な出所、多数の倉庫、相互に独立した権力は省と市役所の上から下 まで官吏どうしの鍔競りあいになっていく。シモンは前掲『回想』の中で述べている。 「不平・要求・勧告・あらゆる種の情報が市役所から農商業省に、農商業省から市役所に届い た。むげに断わることもできない、しかも夥しい数の布告の発令者はしばしば直接にトロシュ総 督のところに赴いたが、同総督は賢明にも干渉しなかった。 」 権限の重畳と対立を防ぐために、マニャン農商業相の発議で食糧委員会が発足した。 9 月 26 日のことである。シモン文相、フェリー県知事、ピカール蔵相ら国防政府の要人 のすべてが同委員会に参加。本委員会の主務は本来、食糧問題に関する調査・備蓄・調 整・分配であった。この委員会は組織理念と構成の点では申し分なかったが、実際は『査 問録』で、当時の閣僚自らが証言しているように、もっぱら分配に関する紛争の調停機 関にすぎなかった。マニャン自身は『査問録』の別の箇所で、食糧委員会はもっぱらパ ン粉の区への配分調整をするためだけの機関だったと述べている。政府の要人が参加し たのはよいが、それによって委員会は組織としての機敏性を失う結果になった。彼らは 他の問題に忙殺されており、食糧問題のみにかかわっているわけにはいかなかった。当 面、いちばん必要とされたのは実務家であり、あるいは彼らからの助言であった。委員 会はこの人材を欠いていた。食糧委員の一員であり、パリ市助役のクラマジュランは行 政を回顧して次のように言う。 「わが備蓄物資の全体について統計表をつくり、引渡しと消費の動きを追跡する必要があり、 このために作成された各表を受取り、読み、分析するとともに各区長ならびに各種組合および衛 生委員会、食品加工業の専門家たちと連携する必要があった。さらに、率先してあらゆる緊急措 置を講じたり、それらの実行を保証したり、種々の必要な事柄について欠くべからざる事柄と捨 てるべき事柄とを取捨選択したりすること、多種多様な割 当配給制度を入念に調査研究するこ と、合理的計画に基いて貧民救済を指導すること、監督官庁と協議の上バラバラの権威を単一の 権威に統合すること - などが必要であったのだ。 」 権限・分掌の混乱から食糧委員会は発足直後から困難をきわめる。専門家の助言が 得られないため、多くのじゃがいも・野菜・缶詰をダメにした。家畜の飼育は警視庁の 管轄下におかれ、不慣れな警察官が秣の世話や絞滓を与える始末であった。また、管理 の拙さから家畜の一部をチフス菌の犠牲にした。 これらの反省から、政府は食糧行政を商業省の専轄にし、マニャン農商業相に独裁 権を与えようとした。そこまではよいが、その一方で、分配について区長らにも大幅な 裁量権を与えるという具合に方針は首尾一貫しなかった。 ここで区長についてふれておかなければならない。食糧行政にかぎらずパリの政治 的分散化を助長したのは、パリ市役所内の区長の役割と行動である。帝政下の区長はそ の補佐役としての助役とともに県知事の任命により起用されたが、その権限はもともと 13 きわめて小さく、県知事の指揮下に選挙人名簿ならびに兵役名簿および戸籍簿の管理・ 学校事業・貧民救済事業を遂行することに限られていた。九月新政府下の区長もこれら の職務をそのまま引き継ぐことになるが、籠城下のパリでは後述するように、中でも貧 民救済事業が特別の意味をもってくる。九月四日政府の樹立とともに県知事兼パリ市長 となったエティエンヌ・アラゴが自己の友人の中から思想経歴を中心に区長を指名した。 その前歴は文士、ジャーナリスト、商人、教授、技師医師、卸売商、… 等々多士彩々。 要するに、彼らは愛国的情熱において卓越した人物であったにしても、職業的行政官で はなかった。区長および助役を集めた区長会はパリ市役所でほぼ毎週定期的に開催され た。この区長会は防衛・治安維持・食糧配給・貧民救済に関する問題を協議した。 区長は各区所轄の倉庫の管理・備蓄・無料食品配給所・公営配給所・学校給食・負 傷者給食などの仕事を受けもった。だが、画一的指示が市役所から出されたわけではな いため、事実上、各区バラバラの政策を展開した。前述のように、区長はもともとパリ 市長が任命したのであり、彼のもとで定例会議をもった。ところが、彼らは行政組織上 で内務省管轄に属していた。パリが包囲で孤立すると、地方への命令が無効になったた め、内務省の管轄地域はパリ市のみとなり、同省と市役所の職掌管轄が曖昧になってし まったのだ。内務大臣はやがて市長を飛ばして直接に区長に命令するようになる。とく に 11 月からフェリーが政府閣僚の肩書きのままセーヌ県知事兼市長になってからは、 指 揮系統は錯綜をきわめる。すなわち、フェリーは県知事としてはマニャン商業相の下位 にありながら、政府閣僚としては彼の上位に位置するゆえに、指示を受けとめる側から 見て、どちらの指示に優先権があるのかわからなくなる。監督者相互の間でもつれてい るのをこれ幸いとばかり、区長たちは委嘱権限を超えて勝手気儘なことを行うにいたる。 区の防衛のためと称して武器弾薬の修理から製造を行い、金銭の貸付けまで行う。しか も、区長間に横の連絡がなく団結もなかったから、各区はエゴ剥きだしに独立の小国家 のような振舞いをするようになった。こうして、市政全体に一種の無政府状態が生まれ るのである。 食糧行政の矛盾は人口調査の杜撰さに象徴的にあらわれる。各区は居住人口につい て水増し申告をしたため、その結果として余分に配分された食糧を浪費してしまうのだ。 10 月 10 日、農商業省は区長を分配補佐官に任命。区長は区人口を届け出なければ ならなかった。戦争の混乱で区人口が大幅に変動していたため、再調査する必要があっ たのだ。区の吏員は各世帯を巡回して家主またはその代理人への質問というかたちで間 借人の氏名・年齢・性別を書きとった。区長はこうして得た数値を持ち寄って 10 月 28 日の定例区長会に臨んだ。この調査でパリ総人口は 212 万人と判明。以後、この数値を もとにパン粉の配給がおこなわれることになった。この人口調査に際し、世帯はもとよ り区までもがその割前を増やそうとして水増し数字を申告したのである。 2 か月後の 12 月末になり、パンの割当配給制の実施が必至となったとき、かねがね 疑問視されていた 10 月の人口調査を検分するため、再調査が実施された。 【パリ各区人口(1870 年 10 月と 12 月) 】 区 10 月 12 月 差 14 Ⅰ Ⅱ Ⅲ Ⅳ Ⅴ Ⅵ Ⅶ Ⅷ Ⅸ Ⅹ ⅩⅠ ⅩⅡ ⅩⅢ ⅩⅣ ⅩⅤ ⅩⅥ ⅩⅦ ⅩⅧ ⅩⅨ ⅩⅩ 90,000 89,000 110,000 102,000 99,600 102,000 80,000 80,000 115,000 150,000 175,000 112,000 78,500 95,000 76,000 60,000 136,000 136,000 113,000 120,000 77,831 77,671 96,422 96,341 98,213 90,803 68,883 75,880 102,215 141,485 183,723 100,877 79,828 82,100 92,807 44,034 121,064 154,517 113,716 108,299 -12,169 -11,329 -13,578 -5,659 -1,387 -11,197 -11,119 -4,120 -12,785 -8,515 +8,723 -11,123 +1,328 -12,900 +16,807 -16,466 -14,936 +18,517 +716 -11,701 計 2,119,600 2,006,709 -112,891 上表からわかるように、12 月と 10 月と比べて約 11 万人減となっている。この減少 は死亡では説明できない。なぜなら、後でみるように、この同じ期間にパリは約1万8 千の死亡しか記録していないからである。さらにこの期間の出生分を考慮すると、自然 減は取るに足らない数値となる。それどころか、パリ市は郊外避難民の流入という社会 増を見ている。上表の第 13 区、第 18 区、第 19 区など郊外に隣接している区は、他の区 が一般に減少している中で、逆に増加となっている。要するに、10 月の調査はかなり水 増しがあったとみてよいであろう。では、12 月の調査が正確であるかというと、それを 検証する術もない。10 月時の調査より実勢に近いにしても、これまた水増し申告の可能 性がないといえなくもない。ひとまず 12 月調査を正しいものとみなして 10 月調査を吟 味するとすれば、 このとき避難民がまだそれほど市内に入っていない実情を考慮すると、 10 月人口は 210 万ではなくて、それより 30 万少ない 180 万程度であったと思われる。 このほかにパリ市内には軍隊がいた。パリ軍総司令スマン Soumain 将軍の記述に従 うと、236,941 人となる。だが、軍はここで問題とする公的備蓄と無関係であった。国 民議会の査問会での証言によると、軍は 6 か月分の備蓄をもっていた。籠城末期に饑餓 地獄が始まったとき、軍は市に糧食を貸し出してさえいる。 杜撰な人口調査は結果として食糧の浪費をもたらす。作りすぎのパンは市から配給 されたぶどう酒といっしょに城壁守備隊に売りわたされてしまう。余ったパンを馬に食 15 わせるというスキャンダラスな事件まで発生。議会査問においてフェリーは、馬に与え たパンは軍の食べ残しを与えたのであって民間用のパンではなかったと答弁するが、元 をただせば、民間用の物資が軍に横流しされていたからである。 Ⅴ パンの問題 国防政府のもとでの食糧行政はどんなものであったか。以下、これについてパン・ 食肉・その他食品・燃料の順に述べたい。 まずパン。パンの歴史は籠城下の食糧行政そのものの歴史といってよい。パンは比 較的管理しやすい食品である。というのは、パンの原料としての小麦粉は製粉業者から 消費者に直接に渡ることはなかったからである。パリに着荷した小麦粉はすべてパン金 庫の管轄下に入り、ここから、市内のおよそ 1400 軒のパン屋に引きわたされた。その制 度のあらましについてふれておこう。 パンはフランス人の主食であり、昔から特別の商品としてさまざまの生産・流通規 制を受けたばかりか、ずっと公定価格制に従ってきた。第二帝政下の 1863 年、経済自 由化の波の中で、それまでのパン公定価格制が廃止され、パン金庫 Caisse de la Boulangerie による小麦粉統制が始まった。 そのシステムは次のシステムである。 パンの市場価格がキロ当たり 50 サンチームを 超えるときでも、 パン屋は 50 サンチームの価格で販売しなければならない。 その代わり、 パン金庫はパン屋に対し、50 サンチームで売った場合に生じる損失額を補償する。パン 価格がキロ当たり 50 サンチーム以下の場合には、 何も措置せず市場価格のままに放置す る。パン価高騰のときに当てがう補償のための財源として、パン金庫はパリに持ち込ま れる小麦粉への課税に求めた。小麦粉 100 キロ当たり 1 フラン 30 の割合で入市税とし て徴収する。これは年額 300 万フランの税収となった。このようにしてパン金庫はパン 価格の安定化をはかることができたのだ。同時に流通する小麦粉量をつねに把握してい たから、パンは政府からみると、食品の中で統制するのにいちばん容易で、パン屋への 小麦粉引渡量を通じて間接的に統制していたことになる。 前述のように、小麦粉は他の食品と比較して備蓄量が豊富だった。それは、籠城の 全体を通してほぼ完全に供給できた唯一の食品である。政府が 1871 年 1 月 28 日に降伏 を決定したのは、このパンの供給の見通しがもはや立たなくなったためである。文字ど おり、パンは抵抗の命綱であった。 『査問録』によると、帝政政府の商業大臣デュヴェルノワは1日あたりのパリの消 費量に 60 を掛けることによって 2 か月分の食糧を準備しようとした。むろん、以後に実 施されるふつうの商業備蓄と個人の私的備蓄はその計算に入っていない。彼は最初、包 囲の完了前に英国リヴァプールからル・アーヴルへの経路で買いつけを優先させ、パリ 周辺農村からの購入を後まわしにするつもりだった。ところが、実際に英国からの購入 はしていない。彼はのちの査問会の証言においてその理由として、マク=マオン軍のメ 16 ッスに向けての進軍が同時に決定されたので、政府の側にパリ攻囲が若干遅れるであろ うという気の緩みが生じたこと、鉄道とくにル・アーヴル線が大混雑で着荷が阻害され たこと、軍備蓄が優先されたこと、九月四日革命の勃発が備蓄を阻害したこと、などを 挙げている。 デュヴェルノワは備蓄についてこのように自己弁護する一方で、彼の解職後のパリ の食糧行政は非常に誤まったものになったと述べる。 「第一に、籠城初期においてパンの割当配給制が命じられなかった、それは遅れて必要となっ た。燕麦は割当配給になったが、パンは配給制にならなかった。そのためにパンは豊富にあるの に、燕麦は極端に少なくなった。そこで、多数の馬がパンで飼育されるというようなことが生じ た。なぜというに、パンは燕麦よりも得やすかったからである。 」 「思うに、私の関与した政府の決めたとおりにパリの備蓄が完全なやり方でおこなわれ、また 時宜を得た配給制がすぐにおこなわれ、次いで粉挽きが即時におこなわれていれば、パリの備蓄 は少なくともさらに 2 か間続けられたと信じている。 」 「私はさらに、9 月4日から包囲の間に8ないし 10 日間の余裕があった便宜を指摘したい。こ の間を利用してル・アーヴルと北フランスの諸港で発見され残されている商品をパリに入れるべ きだったのである。私はそのことを気遣っていた。なぜなら、事情が察知され、必要な命令が迅 速に下されるべきであったからである。 」 デュヴェルノワの指摘そのものはまちがっていない。備蓄計画は実行できなかった にしても、食糧行政そのものがまずかった。籠城の初めにパンは馬に食べさせるほどに 余分に作られながら、しだいにその量目が小さくなったばかりか、質も悪化し、降伏開 城の間際にはもはやパンとはいえない「練り物」にまで変わった。まず 10 月 13 日まで は、上・中等小麦粉から成る白パンが圧倒的に多かった。つづく 10 月 14 日から 11 月 17 日までは、上・中等小麦粉と中・下等小麦粉が均衡し、11 月 18 日以後になると、漸 次、後者の割合が増え、最後に下等小麦粉のみのパンになった。開城寸前には燕麦・米 糠・フスマの混合物となった。パンの変化は市民の側では、悪化する一方の戦況のバロ メーターとして受けとめられた。 政府が何もしなかったのかというと、そうでもない。政府は 9 月 21 日にパンの公定 価格制を復活した。上質パンの価格はキロ当たり 45 サンチーム、並質のパンは 38 サン チームと定められた。この公定価格は籠城の全期間を通して同じままだった。生産の管 理は前述のごとく、小麦粉はパン金庫を通して完全に規制されたから容易であった。パ ン金庫総裁ペルティエは自己の役割をこう述べている。 「小麦粉が直接消費者に引きわたされることは不可能だった。それはパン屋に持ちこまれねば ならなかった。これらの業者の請求にもとづいてこれを引きわたすとき、彼らのある者がこっそ り備蓄しはしまいかと気遣った。このようなことがおこなわれると、結果として急激に貯蔵が払 17 底し、さらに住民の一部が犠牲になる不平等な分配を生みだすのだ。したがって、金庫は籠城4 日目の 1870 年 9 月 22 日に始まる、この微妙な操作のため、きわめて当然な仲介者となることに なった。最初、パン屋への引渡量は1週間分のパン製造に相当する量だったが、貯蔵量がしだい に枯渇するにつれ減量しなければならなかった。それらは漸次、3日、2日、1日分ずつ消費量 を減らされ、このようにして最後には、金庫はパリの 1,400 軒のパン屋に、その翌日の製造に必 要な量のみを引きわたさざるをえない破目に陥った。 」 金庫はパン屋に 9 月 22 日から翌年の 2 月 5 日まで総量 852,000 キャントーの小麦 粉を引きわたした。すなわち、 138 日間を均して1日当たり 6,174 キャントーである。 むろん、その引渡量は一様ではない。9 月 22 日から 11 月 19 日までは週当たり 45,000 キャントー、つまり1日当たり 6,429 キャントー、11 月 11 日から 12 月 15 日までは 5 万キャントー(1日当たり 7,143 キャントー) 、12 月 16 日から 1 月 18 日までは 43,000 キャントー(1日当たり 6,143 キャントー)であった。 デュヴェルノワが指摘しているような割当配給の可能性についてはどうか。実際、 左派勢力は籠城当初から割当配給と強制徴発の実行を政府に迫っていた。これがなぜ実 施されなかったかについての政府の釈明は以下の通り。市長フェリーは「200 万の人々 に割当配給を適用するというのは、想像しうる最大の幻想である」といい、ピカール蔵 相は「割当配給は、それがあるという事実だけで、パンの一切れ一切れに特別の価値を 与える」と述べている。 本当の理由は別のところにあるようだ。国防政府は最初から籠城はせいぜい 2 か月 で終わると見なし、しかも、2 か月分の食糧がすでに確保されていた事実を掌握してい たからではないだろうか。9 月 8 日の『官報』の脚注は、パリは 2 か月分の食糧をもっ ていることを明らかにしている。こうした備蓄の目標量といい、この発表といい、包囲 が 2 か月以上も続くとは政府閣僚のだれ一人として考えていなかったと判断したほうが 自然ではあるまいか。ところが、パリは実際には 4 か月半もちこたえた。閣僚のすべて がかなり遅くなるまで、これほどの長きにわたって首都が維持できるものと信じていな かった。 『国防政府査問録』による閣僚の証言はいずれも、首都の抵抗は年内が限度として いる。農商業大臣マニャンは最初、12 月8日が限度と考えていた。パリが幾日もち堪え るかという問題は、軍事作戦上からみてもきわめて重要であった。10 月初旬に地方での 軍隊の再編成のため気球でトゥールに飛んだガンベッタの焦慮はこのことを証明する。 彼はパリの維持日数を 2 か月とみなして、地方での援軍(ロワール軍)の組織化を急い た。あまりに早計な準備と進撃のゆえに敗北を喫した。もしガンベッタが、パリが 4 か 月間維持できることを知っていたら、あれほど請求に兵を進めることはしなかったであ ろう。 (国民議会の査問会におけるダリューDaru 委員長の質問とマニャンの回答) 。一方、 当のガンベッタはパリの維持期間について知らされていなかったという。彼は 12 月 15 日が限度だろうと推定していた。 マニャンはその後、小麦及び小麦粉の商業備蓄について計算をし、1 月 3 日までは もつと見なした。そしてさらに、12 月 10 日には 1 月 25、26 日が限度と考え、パリ総督 18 トロシュに 1 月 28 日がギリギリの限界だと進言している。彼はこの時から、小麦粉の割 合を少なくし、燕麦・米・大麦・裸麦を増やしたパンを作って、2 月 7 日までもたせる よう努力した。マニャンは証言のなかで、自分は終始割当配給制には反対だったといっ ている。割当配給をしたところで、維持日数をさほど延ばすことができないから、とい うのが彼の言い分であった。 前にみたように、帝政政府は約 2 か月分の小麦粉を集めていた。籠城 2 か月過ぎて 後の小麦粉は国防政府によって集積されたものである。パリの維持日数が延びたのは、 政府が把握していた備蓄以外に多量の穀物が市内に保管されていたためである。出所は 2 か所あった。一つは、パン屋が保有する予備の小麦粉である。もう一つは、郊外避難 民が持ち込んだ穀つき穀物であった。いずれも徴発によって出てきたもので、前者は 108,000 キャントー、後者は 30 万キャントーになる。 問題はこの殼つき穀物をどのようにして粉にするかだった。幸いにして包囲完了寸 前に石臼が担当官の機転で運びこまれていた。かくて臨時の製粉場を設置することが焦 眉の問題となった。パリは様々の産業と工場設備をもつが、製粉場というのはほとんど 皆無であった。ここに困難があった。 粉挽きは非常に微妙な作業であって、特殊な立地(交通至便)と複雑な機械工程を 必要とした。小麦はベルトコンベアで機械装置の上部に移送される。そこから、種々の 清掃の作業を受けながら下に降りてきて石臼の間に入り、重力と摩擦の作用を受けて粉 になる。次いで、ふるい分け器の上に移送され、殼と粉に分離される。製粉場のないパ リでの臨時工場の設置はいろいろな制約を受けた。時間・場所・道具類が制約されたと ころから、幾つかの工程が簡素化された。まず階層工程を廃止し、道具の単純化がはか られた。また、敵の砲弾を避けるために工場が分散された。穀物および麦粉の輸送も配 慮された。 備蓄問題が上程された 1870 年 8 月 21 日、実業家カイユーCail がパン金庫総裁ペル ティエのところに、自己の工場を臨時の軍需工場として使って欲しいと申し出ている。 帝政政府はここに臨時の製粉場をつくることを決めた。 そのために石臼を注文していた。 石臼 600 対は包囲完了直前の最終列車でパリ東駅に到着した。11 月1日には、シャラン トン、サン=ドニ、サン=モールの製粉場と並んでカイユー工場でも石臼が動きはじめ た。このほかに駅舎(リオン駅・東駅・北駅・オルレアン駅)と外部要塞の地下室で石 臼が動いていた。計 543 台の石臼は1日平均 5,600 キャントーの麦粉を生みだす。必 要な消費量が 6,200 キャントーであるから、約8割を賄っていた計算になる。 粉挽きの障害となったのは、燃料不足である。動力源としての石炭と木炭の不足は 深刻だった。パン粉を増産できなくなったのは、この燃料の問題があったからである。 技師の努力でアスファルトおよびコールタール用の重油までが投入された。 Ⅵ 割当配給 19 割当配給制は、小麦粉が不足し、さらに粉挽きが消費に追いつかなくなってはじめ て日程にのぼった。まず、小麦粉の払底していくようすを法律の動きに従って追跡して みよう。 11 月 11 日に政府は小麦粉と裸麦を徴発。これは小麦粉の残量の少なくなったこと を物語る。 11 月 23 日の市長フェリーの布告は、パン金庫からパン屋に引きわたされた小麦粉 引換券は有効期限を3日間にかぎり、それ以後における交換は無効であると宣言。同布 告前文は「倉庫の在庫量の計算に混乱をもたらし、備蓄量の実情において毎日生ずる変 化を正確に評価するのを妨げる」と述べている。つまり、同布告は、小麦在庫量の調査 が目的であることをほのめかす。 12 月8日には農商業省は小麦および小麦粉・小麦の束・大麦の保有量を申告しない 者に、再度申告するよう催告。所定期日までに申告しない者は厳罰に処す、とした。 12 月 11 日、フェリーの名において、パン屋での小麦粉販売ならびにパン製造以外 での小麦粉の利用が禁止された。この時すでに小麦粉は底を尽き、臨時製粉所からの供 給に依存していた。パン金庫からパン屋への小麦粉の供給はもはや日割配給制になって いた。 小麦粉の危機が深まっていくなかで、12 月 12 日と 14 日の両日にわたり、政府は奇 妙な布告を出した。それは、パリは割当配給を実施しないであろうというものだった。 「パンについては心配に及ばない。割当配給は実施されないであろう。… 日々売られているパ ンの量は籠城当初から不変であり、これを減らすべき理由は見当たらない。 」 実際のところ、事態は「パンの量を減らすべき理由は見当たらない」どころではな く、小麦粉の払底はもはや時間の問題となっていた。よって、この布告は明らかに、特 別の意味を、すなわち内(パリ市民)と外(プロイセン軍)に向けての政治的意味あい をもっていたといえる。 では、なぜ政府は小麦粉の不足しているなかで空威張りにも等しい上掲の布告を出 したのであろうか。食糧委員会の責任者ジュール・シモンに従って舞台裏を覗いてみよ う。本当のところは、政府は発表とは裏腹に割当配給の実施を予定していたのだ。数日 前の 12 月 7 日と 8 日、フェリーは秘密裡に区長に通達を出し、割当配給をなす決定的理 由があるならば、それをおこなってもよいと通告していた。ただし実施にあたっては、 周到なる準備と実施日までの秘密厳守とを絶対的条件とした。この準備が漏洩するなら ば、住民の間にパニックが生じ、挙って買溜めに走るであろう、というのがその理由だ。 ところが、果してこの通達は外部に洩れ、パニックが生じた。このため 12 月 11 日に は、パン倉庫はパン屋への小麦粉供給について通常量 6,500 キャントーの倍つまり 11,251 キャントーを引きわたさざるをえなくなった。翌 12 日は 12,213 キャントーとな った。 12 月 11 日、フェリーは内務省に区長らを招き、割当配給を実施すべきか否かを諮 問した。第4区長ヴォートラン Vautrain をはじめ、すべての区長が実施に反対した。 20 その日の夕方、閣議を欠席したトロシュ将軍はヴァンセンヌ城からフェリーに長文の手 紙を送り、軍の態度を明らかにした。彼は言う。自分は今、出撃を予定している。この 作戦を実行するに当たり、人心の安定が今いちばん求められている。よって、暴動を引 きおこしかねない割当配給に自分は反対である、と。彼は小麦粉の節約のために、小麦・ 裸麦・燕麦・米の混合を提案した。 かくて、計画は頓挫した。そして、その後 1 か月間は割当配給についてはもとより、 小麦粉とパンに関する布告の類もまったく出なくなる。パンの質がすでに十分に悪化し はじめていた時のことだ。この沈黙はかえって事態の深刻さを物語っている。 1 月中旬ともなると、パンの買い置きをしようとする人々でパン屋の前に長蛇の列 が起きた。次々にパン屋の売り切れの状態が続出し、騒々しい抗議が頻発する。ゴンク ールの日誌は 1 月に入ると、毎日、食物の話で埋まるようになる。文章のあちこちに苛 立ちが滲み出ている。 「1 月7日(土) 攻城戦の間、パリの苦悩する姿。2 か月間は冗談。3 か月目になると冗談は まじめな話題に、生活の不如意に変わった。今日は、笑うことは止めだ。そして人々は、食料の 欠乏のせいか、さもなくば少なくとも差しあたって漠然とした胃炎にかかったせいで、急いで歩 いている。3 日間の 2 人分の食糧として与えられる、骨も入れて 33 センチグラム[ママ]の目 方の馬肉の配給、これがふつうの食欲に対する昼飯である。肉の代わりに野菜に飛びつくことは できない。小さい蕪一つが8スーで売られており、玉葱1リットルに7フランを投じなければな らぬ仕儀である。バターといえば、誰ももうバターのことを話さないし、それに蝋燭か、あるい は車輪に塗る汚い油でない脂肪さえ、姿を消してしまった。最後に不運な住民がそれで力を維持 し、それを食べ、それで生きている2つの品物はジャガイモとチーズである。チーズは、今はひ とさまから思い出される身分となっており、 ジャガイモは1枡 20 フランで手に入れるためには、 顔が利かねばだめだ。コーヒー、ブドウ酒、パン、これがパリの大部分の人の食糧である。 」 もともと政府内にも、そして区長の中にも、パリの割当配給制の早期実施を望む声 がないわけではなかった。だが、農商業省も、そして同省とつねに対立したパリ市役所 も頑なにこれに反対してきた。ところが、小麦粉の絶対的不足と粉挽きの遅滞が政府を して、ついに割当配給に踏みきらせるにいたる。 1 月 12 日、パン屋においていわゆる豪華パンの製造と販売の禁止令が出た。 1 月 12 日と 13 日の両日、政府の布告は、小麦粉の徴発を指示。徴発令は最初に 9 月 29 日に発令されて以来、何度目のことだろうか。 1 月 13 日、フェリーは当該街区の居住証明書を携帯しない者に対し、パン屋がパン を売ることを禁止した。 同じく 13 日、新聞『ゴーロワ Gaulois』はフェリー署名入りの次のような通達を掲 載する。 「区長殿、現下の状況においては、パンの配給を調整するための効果的措置を講じることがま すます緊要になっている。パリ市長から諸君に宛てられた通達が指示しているところのこれらの 21 措置は、パン屋に対して次のことを要求する。すなわち、パン屋は所轄の通常の顧客にして食品 配給カードを携帯する場合を除き、彼らの消費相当分のパンを引きわたしてはならない。 この措置の実施を保障するため、市吏員は必要とあれば、国民衛兵の立会いのもとに、パンの 引渡しに際してパン屋を監視せねばならない。パン屋は中央市役所から絶対的な指示を受取り、 店舗に掲示しなければならない。 」 同紙はこの通達について次のような論評を載せた。 「われわれはついに久しい前から予見された時点に、すなわち政府がこの割当配給をせざるを えなくなる時点に到達したのだ。 われわれはつねに、パンは籠城の初日から割当配給にすべきであると考える者に与してきた。 最初からこの措置が執られていれば、何ぴとも驚くことはなかったであろう。当時すべての人々 は、包囲された都市においてはあらゆる食糧は割当配給されることを確信していた。 ところが政府は待機を選んだ。われわれのみるところ、粗悪なパンが出まわったことから、こ れは誤っていたのだ。 」 1 月 15 日、パリ第2・3・4区が先行的に割当配給に踏みきった。各人に 400 グラ ムないし 500 グラムを与えた。結果は良好で混乱は生まれない。全市に対する割当配給 の政府発表がおこなわれたのは 18 日、実施は 19 日からである。 1 月 18 日、フェリーの名において割当配給制の布告が出た。大人はこれまでの 500 グラムに代えて 300 グラムに、5 歳以下の子どもには 150 グラムに、値段はそれぞれ 10 サンチーム、5サンチームと定められた。各人はまず居住区の区長の発行したクーポ ン券を受けとる。彼はこれをパン屋にもって行き、パンと引き換える。それと同時に、 クーポン券が剥がされる。住民は指定されたパン屋以外でパンを買ってはならない。パ ン屋は午前 7 時に一斉に開店し、区役所吏員と国民衛兵それぞれ 2 人ずつの立ち会いの もとにパンの引きわたす。これ以外のパンの販売は厳罰をもって禁止された。区吏員は 毎日午後 4 時までに本庁に対して、当日の引渡量、過不足量、翌日に受領すべき小麦粉 量を報告しなければならなかった。 区長たちは、500 グラムから 300 グラムへのパンの減量が騒動を巻き起こしはしま いかと心配した。そこで、パン不足の穴埋めのために、ぶどう酒の無償配給が決定され た。 1人当たりの配給量は 20 センチリットルとされた。 1 月 19 日から 2 月 8 日まで 4,208 樽のぶどう酒がパン屋の店先で配給された。 安物のぶどう酒はすでに払底していたので、 ここで配給されたのはいずれも高級酒だった。 割当配給の実施に伴い、レストランではもはやパンを得ることができなくなった。 レストラン「レ・ブイヨン・デュヴァル」は店の正面に「ここで食事したい方はパンを ご持参いただきますように」という断わり書きを掲示した。 パンの質は非常に悪かった。この頃のパンは小麦 25%、裸麦・大麦・エンドウ豆・ 麦芽各 5%、米 20 %、燕麦 30%、澱粉と精製澱粉 10%、糠 10%を含んでいた。巷で 「フェリーのパン」 、 「籠城パン」と渾名されたこのパンは、麦藁と小川で拾い集めたパ 22 ナマ藁でつくられているというデマが飛び交った。人々はやっとのことで食べていたの である。もっと正確にいえば、飲みくだしていた。というのは、パン以外に食べる物は 何もなく、不足しなかったぶどう酒と一緒に胃袋の中に流し込んでいたからだ。 ふたたび、 『ゴンクールの日誌』に戻ろう。 「1 月 18 日(水) 今日1人当たり 400 グラムの割で食糧の配給がある。こんなわずかなもの を食べるべく運命づけられた人たちが在ると考えられるであろうか。オートイユのパン屋で行列 しながら女たちは泣いていた。 」 「1 月 20 日(金) 私は配給のパンを隣人に与えた。病気がやっと癒った国民衛兵で、気の毒 にも 2 スーの酢づけの胡瓜で昼飯を澄ましているところを召使ペラジーが見つけたのだ。 」 「1 月 21 日(土) 私は、一つの災難が一つの大都市の中に作り出す死のような沈黙に、いつ もよりもっと打たれている。今日はパリは生きているのが誰もわからない。どの顔もみんな、病 人が回復期にある患者の顔のように見える。痩せてやつれた、憔悴した顔だけしか見つけられず。 馬の脂肪のような黄色い蒼白さだけしか目に入らない。 」 Ⅶ 肉の問題 籠城下のパリで肉は決定的に不足した。 実際、 備蓄量については推定の域を出ない。 帝政政府商業大臣クレマン・デュヴェルノワは 35,000 頭の牛、 186,000 匹の羊、9,000 頭の豚を購入したといっている。日に換算して 38 日間の備蓄である。 『査問録』の陳述 によると、 デュヴェルノワの前任者ルーヴェは、 パリ内の家畜の飼育は不可能と考えて、 塩漬肉と缶詰の購入だけにとどめた。デュヴェルノワはこれでは不十分とみて、生きた 家畜を市内に引き入れる決断をした。 ここでデュヴェルノワは家畜の購入に当たって従来の慣例を守らなかったため、ス キャンダルを引きおこしている。慣例というのは、公設市場の出入り業者に保証金を積 ませたうえで彼らと書面契約を結ぶというもの。政府はこれに拠らず、氏素性のはっき りしない数名との間に口頭契約を結んだ。軍隊がすでに家畜の大量購入を終わった後で あり、供給市場そのものが狭くなっていたこともあって、これら調達請負者の間に競争 を生じ、価格が高騰した。結果として政府は高い買物をさせられる破目になった。これ らの請負者はその道においてまったくの素人であり、中には名うての詐欺師も含まれて いた。契約期間・取引額・品質・産地等の指定もなく、おまけに計量もいい加減だった から、彼らはパリ近郊の市場で買い入れ、数や量目をごまかした。これら「投機師たち」 がもたらした家畜は遠隔市場で求めたものではなく、彼らが介在せずとも早晩パリに入 ってくるはずのものであった。 ゆえに、 備蓄の増大には何ら寄与しなかったことになる。 病気の家畜さえ含み、そのため、到着と同時にと畜せざるをえなかった。-以上が訴 23 状である。 九月四日革命後になると、新政府、市のいずれも家畜を購入していない。デュヴェ ルノワの後任となり、籠城期間中ずっと商業大臣の地位にあったマニャン自身、この事 実を認めている。入市税の免税期間にも家畜のストックは増大しなかった。なぜなら、 その頃にはすでにパリ周辺には家畜がいなかったのだ。ところで、政府がこの少ない備 蓄量をつかんでいたかというと、そうでもない。9 月 26 日の閣議で閣僚が述べている数 字はバラバラであった。市長アラゴは「あと 2 か月半もつ」といい、マニャンは「2 か 月」 、フアーヴル外相は「3 か月」 、フェリー内相は「2 か月半」といった。実際のところ は、その日から数えてわずか 26 日しかもたなかったのだ。 肉の不足は早くから察知されていたため、統制は他の食品に先んじておこなわれた。 まず肉の価格公定制がとられた。 はや包囲完了前の9 月12 日のことである。 公定価格は、 肉の品質ごとに3種類に分類された。これは1週間ごとに改定されるはずであった。た とえば、牛肉では第1種は股肉と胸肉とし、キロ当たり2フラン 10、第2種は肩ロース とひれ肉であって1フラン 70、第3種は頸肉・乳房・肩ロースで1フラン 70 と定めら れた。これは時価にもとづいたものであり、統制にほど遠く、かえって消費を速める結 果になった。 肉の不足が憂慮されるようになり、さらに厳しい措置を必至とした。9 月 24 日には 家畜の自由販売を禁じ、ヴィレット、グルネル、ヴィルジュイフのと畜場以外での取引 を禁止する措置がとられた。 9 月 26 日の『ゴーロワ』紙は食肉の高騰を伝えている。 「包囲の効果が憂慮すべき率で高騰する食糧価格において感じられるようになっている。反対に、 馬肉の価格はもっと著しい率で下がっている。 」 この同じ 26 日、商業省布告は肉の割当配給制が敷かれたことを告げる。ここで「割 当配給 Ration」という用語こそ使われていないが、内容はまさにそれと同じだった。す なわち、9 月 28 日以降、市は毎日、500 頭の牛、4、000 匹の羊をパリ住民に供給するこ とになる。肉屋はすべて各区役所に登録したうえ、区長の指示のもとに肉を配給する。 各区役所はその住民数に応じてと畜場から食肉を受けとり、肉屋を通じて住民に公定価 格で販売する。市役所とパリ警視庁が本法の実施を保障する-以上であった。配給方 式は各区まちまちで、ある区では毎日個人票を配り、別の区では 3 日おきというぐあい だった。また、家族カード方式もあった。と畜場からの肉の配分についての不平は食糧 委員会がコントロールした。区における割当配給の方式も同委員会で一律化する試みが なされたが、結局のところ、これは各区の自由裁量に任された。 『ゴーロワ』紙の 10 月 6 日の記事。 「本日、市設肉屋が開店。これらの施設4つをもつパリ第6区が販売を始める。購入者がここ に出頭するには、彼が街区に居住するとともに、カードを携帯しなければならない。カードの表 面は氏名と扶養すべき家族数が記載される。各人は1日最高限度 100 グラムの肉を取得できる権 24 利をもつ。カードの裏面は当月の日数だけの小さな正方形に分割され、肉が引きわたされる毎に、 その日付の上に検印が捺される。このようにすれば、同じ購買者が複数回にわたって出頭する心 配はまったくなくなる。 」 前にみたように、人口調査が正確でないために割当量はまちまちであった。このた め、ベルヴィル、メニルモンタン、ポパンクールでは騒動がもちあがる。当時、第 19 区の区長であって、後にコミューンの首魁となるドレクリューズはこのとき、40 通もの 苦情の手紙を商業省に送った。 1人当たり配給量 100 グラムというのは通常消費量の半分にも満たなかった。公衆 はこの不足分を取りもどそうとして、ヤミと畜や窃盗を働いた。 『査問録』においてマニ ャンは窃盗例を挙げている。政府は肉不足の緩和のために馬肉を推奨した。9 月 25 日と 27 日付の『官報』は市内の馬肉商の所在地を示すリストを掲載した。 9 月 29 日に農商業省布告は、家畜の登録義務制を敷いた。10 月 13 日にも同様の措 置を繰りかえした。 肉の不足は配給制が実施されても一向に改善されなかった。サン=トーギュスタン 教会の助任司祭は 10 月1日付の手紙で書いている。 「市場で列をつくらないで牛肉や羊肉を得るのは不可能だ。肉屋は公定価格を引き上げるため に、できるかぎり目方をごまかす。政府は正当にも、手初めに肉をごく少量しか配給しなかった。 習慣を変えさせねばならない。かくて、カフェ・オレを常飲する人々はそれらがなくなってしま ったと感じるや、他の物ですませたのであり、それで不健康になるわけでもなかった。 」 また、10 月8日の『ゴーロワ』紙は次の記事を掲載した。 「8日前には塩漬肉は豊富にあり、缶詰も数が多く、香辛料は倉庫を一杯にしていた。今や、 すべてが消えた。きわめて有用なこの食糧の消滅はひどく目につき、政府の厳しい注視を集めた。 かくて、幾つかの食料品店はいつも最後のハムを売っている。この最後のハムを、彼らは訪れた 客によって 80 フラン、90 フラン、 100 フランの値をつけるのだ。 」 10 月 13 日、牛と羊の肉の公定価格が改定された。牛肉はキロ当たり第 1 種、第 2 種、第3種の順にそれぞれ 2 フラン 20、1フラン 70、1フラン 30 となり、羊肉は順に 1フラン 80、1フラン 30、1フラン 10 となった。 配給肉は日に日にやせ細り、10 月末にはついに 30 グラムにまでになり、11 月 10 日は市内のすべての肉屋から肉が完全に姿を消した。以後は馬肉が代用となる。 この間、当局が手をこまねいていたわけではない。肉の保存法の改善の研究がなさ れ、塩漬肉や亜硫酸の使用までもが考案された。一方、と畜局はと畜から生じる獣脂と 血液から腸詰を作りだした。腸詰プデンはこうして誕生したのである。 食肉を消費し尽くしたのち、これ代わったのは馬肉である。パリ市民は 19 世紀の半 ばまで馬肉を摂らなかった。しかし、第二帝政末期からこれを食べる習慣がようやく根 25 づきはじめた。1866 年にはパリで最初の馬肉商が店を開いた。同年 6 月には、警察布告 によって食肉管理上の規則が定められた。こうした時期にパリ籠城が始まったのである。 公式報告によると、1870 年までにパリでと畜された馬の数は次のとおりである。 【パリにおける馬のと畜数】 1866 年 1~6 月 902 匹 1867 年 2,152 1868 年 2,421 1869 年 2,758 1870 年 1~6 月 1,992 7~9 月 1,799 10~12 月 29,214 1870 年の計 41,136 1871 年 1 月 10,123 馬肉は籠城が始まった直後から、市民の食卓に並んでいたようだ。ジョルジュ・デ イリーは日誌でこう述べる。 「数日来、馬肉が真にパリの一般的食料の仲間入りをしたと確認することができよう。実際、 馬肉商はこれまで年平均で3千匹しか売らなかったのに、この前の 9 月 30 日の1日だけで 273 匹が消費のために引きわたされた。 」 また別のパリ市民の日誌には、こう書きとめられている。 「9 月 20 日、パリでは1日当たり 15 匹の馬が食べられている。10 月末には千匹以上を貪り食 っている。 」 当局が馬肉の本格的利用のために準備を急いだのも同じく 9 月末からのようだ。マ ニャンはパリ内に存する馬の数の調査を命じている。11 月初旬、6 万 8 千匹ほど残って いることが判明。9 月の籠城開始の時点で 10 万匹の馬が軍用と荷役用としてパリ内にい たことがわかっている。よって、10 月末までにすでに3万匹余が「消費」されていたこ とになる。パリ開城寸前には公式数字で 3 万 3 千匹に減っている(フェリーの査問会で の証言) 。ということは、6 万7千匹が姿を消したことになる。すべてが食用にされたと は限らないにしても、前掲の 41,136 匹と 6 万 7 千匹の間にはかなり開きがある。要す るに、 「もぐりと畜」が横行していたと考えてよい。 肉の割当配給制の実施と平行して、政府は馬肉への規制を行った。9 月 25 日、馬の と畜に際しては従来そうであったように、廃馬のと畜業者ではなく、肉屋に引きわたす ことを命じた。 10 月 7 日の布告は、横行するヤミと畜を防止するために次の措置を執る。まず馬の 取引は月・水・金の午前 8~11 時の間、アンフェール大通りの馬市に制限した。次いで 26 ヴィレット、 ヴィルジュイフ、 ベルヴィルの公設のと畜場外におけると畜をすべて禁止。 最後に、馬の価格をキロ当たり 40 サンチームとし、馬肉の価格については、腰肉上部・ 内腿肉・尻肉・肢肉・三角を1フラン 40、その他の部位を 80 サンチームと定めた。 10 月 13 日、馬のと畜から生じるあらゆる臓物を競売に付した。 10 月 15 日、ヒレ肉の価格をキロ当たり1フラン 80 と定めた。 10 月 20 日、馬肉の衛生管理のため、指定されたと畜場外における処理をふたたび禁 止した。 10 月 28 日、ヤミと畜をした者には刑事罰が科されることになった。 10 月 29 日、馬肉の公定価格が改定され、馬肉の割当配給制が始まる。週当たりの処 理数は 600 匹に限定されたが、これを住民1当たりに直すと、30 グラム弱になる。 11 月1日、馬に関し投機の禁止令が出された。 11 月 8 日、ラバ肉の公定価格制が敷かれた。 11 月 10 日、前に述べたように、この日をもって食肉が市内のすべての肉屋から完全 に姿を消した。市民にとって今後は 30 グラムの馬肉だけが唯一の蛋白源となった。 11 月 11 日、牛肉と同じく、馬肉の分類による価格が定められた。第1種(腰上部・ 尻・股・三角・内腿)はキロ当たり 2 フラン、第2種(肩ロース・肋・肩・ヒレ下部・ 腰)は1フラン 50、第3種(頸・胸・脇・脚・肋骨付き・肩ロース・頬)は 0.50 フラ ンとなった。同じこの 11 日、ついに馬肉の完全割当配給制が実施された。つまり、馬の 購入・と畜・配給は国家の専轄となった。 1日1人当たり 30 グラムの馬肉の割当はそれ以後、 パリの降伏開城までそのままであ った。ただし、それを購入できる者という条件付きであったが…。 Ⅷ その他の食品 食糧統制はパンと肉だけに限定された。これが一貫性を欠き、微温的措置であった ことは今までみてきたとおりである。他の食品は放任されたから、枯渇と価格騰貴がひ っきりなしだった。下表の「物価変動表」を参照されたい。 こうした食料の高騰のなか に容易に市民の窮乏を読みとることができる。饑餓の物語をこれ以上事細かに述べるの は冗長であり、以下は略記するにとどめたい。 野菜不足がとくにひどかった。野菜は当初は豊富にあった。しかし、しだいに欠乏 が感じられるようになっていく。 キャベツは例年だと1 把50 サンチーム程度であるのに、 11 月初めにはすでに 5 フランになり、10 倍の値段になっている。やがてキャベツは店頭 から姿を消し、小さい半育ちのものしか現われなくなり、それとて 11 月中旬には 5 フラ ンもした。ニンジンは通常は 60 サンチームだったのに、11 月末になると、10 倍以上の 7フランもした。この頃にはインゲン豆、エンドウ豆、レンズ豆、ソラ豆などはとっく の昔に姿を消していた。野菜の缶詰も入手できなくなった。 首都の空地で人糞の助けを借りて野菜を栽培するのも可能だったが、これは試みら 27 れなかった。欠乏が深刻化すると、それに気づいた人もいたが、時すでに遅く、厳寒ゆ えに霜が降り、発育は芳しくなかった。それでも幾らか成果を挙げた人もいる。 砂糖の不足もひどかった。これは公的備蓄の観点から完全に抜け落ちていたためで ある。価格が高騰し、法外な値段で取り引きされたことはいうまでもない。籠城末期の 1 月 20 日、公定価格制になった。それによると、翌 21 日以降、卸売価格の最高限度は キロ当たり 1.95 フラン、小売価格は2フランまでとされ、この価格での販売を拒絶する 商人は1フラン 80 で徴発されるであろう、とていねいにも懲罰まで付記されていた。し かし、姿を消した砂糖に対する追い討ちは何の意味もなかった。 魚については、鮮魚はもとより求むべくもなかった。それでもなお、ときおりセー ヌ川やブーローニュとヴァンセンヌの池で釣りあげられた鯉と川ハゼが眼の飛び出るよ うな値段で店頭に並ぶこともあった。 10 月 28 日の農商業布告は、セーヌ川、マルヌ川、サン=マルタン運河、ヴァセン ヌおよびブーローニュの池での釣りを規制した。これを除けば、魚に関する法的規制や 記録はほとんど残っていない。これを裏返しにいうと、魚そのものがないために問題と なりえなかったことを物語る。 牛乳の不足が不幸をもたらした。 平時においてパリは1日当たり 80 万リットルを消 費した。そのうち 60 万リットルが地方から持ち込まれた。つまり、自給率は平時でも 25%にすぎなかったのだが、籠城以来、パリ市内の乳牛しか当てにできなくなってから というもの、 生産量は日に日に落ちていく。 秣の不足から乳の出が悪くなったのである。 牛乳は嬰児と傷病者にとって欠かせない食品である。牛乳の補いとして麦粥を煎じたり、 いろいろな物品の調合がおこなわれたりしたが、それが乳の代用をするわけでもない。 栄養不足で乳の出なくなった母親に代わって嬰児を養うべき牛乳の不足は乳飲み子の死 亡率の上昇をもたらした。1870 年の 11 月から翌年の 1 月までの 3 か月間に 19,016 人に 上り、これは同時期の全死亡者の 3 割を占める。例年では約 6,500 人であるから、この 年は 3 倍の死亡ということになる。 籠城下の饑餓のエピソードとして必ず引き合いに出されるのが犬・猫・鼠の食用の 話である。犬と猫は公然と肉屋の店先に並び、大量に食べられた。それは、馬肉を除い て他の肉が市場から完全に姿を消した 11 月中旬からのようだ。犬は最初キロ当たり 1 フランだったのが、籠城末期には 6 フランに上昇している。いったいいくら食べられた かはよくわからない。籠城中の米人シェパードの記録によれば、犬 1,200 匹、猫 5,000 匹、鼠は無数となっている。以下は、彼の記述に従ったものである。 「11 月 26 日、科学アカデミーは食料問題について繰り返し意見を交わした。その結果、鼠は味 もよく、消化の点でも優れており、鳥・犬・猫よりもはるかに食用に適するとの結論に達した。 鼠のパテは珍味であるが、これを売っている店はパリには 2 軒しかない。… 犬と猫は近ごろさ っぱり街で見かけなくなった。 」 肉不足から、郊外の城壁の近くに住む農民たちは野菜と情報をもってプロイセン兵 に近づき、獲物と交換した。農民たちはこれをもって町に売りにでかけた。ヴェルサイ 28 ユやムードンの森には野生動物がおり、プロイセン兵は暇潰しにこれらを捕獲していた のである。 動物園の動物が食べられたという話は籠城のエピソードの重要な1コマである。事 実はそうではなく、そこの動物は餓死したのであって、食べられたのは馴化園の動物で あった。象徴的な話として象の射殺が挿絵入りで当時の新聞に出ている。12 月 28 日と 29 日、ここのカストールトポリュクスの2頭の象が射殺され解体された。子牛の肉のよ うに軟らかい肉であったという。 馴化園の動物で売却された動物の一覧表は次の通り。 売 却 日 購入者 動物の種類 数 10 月 18 日 - 23 - 24 25 27 28 31 11 月 3 日 17 21 22 26 12 月 9 日 15 - 20 29 courtier - Lacroix - Deboos Croszos Lacroix Bignon Deboos x Deboos - Lacroix Deboos - - - - - 小ゼブラ 水牛 鹿 鯉 ヤク がちょう 小ゼブラ 雌鶏・他 あひる 兎 トナカイ 大かもしか のろ 北米産大鹿 大かもしか ラクダ ヤク ラクダ 象 1頭 2頭 2頭 12 匹 2 頭 3羽 1頭 1山 1山 11 匹 2頭 2頭 1頭 2頭 1頭 1頭 1頭 2頭 2頭 価格(フラン) 350 300 500 150 390 60 400 862 115 100 800 1,000 300 2,500 650 4,000 200 5,000 27,000 Ⅸ 燃料の問題 不運の巡りあわせというのは皮肉なもの、この冬は記録的な厳冬であった。気温は 11 月 9 日にはすでに1度となっていた。12 月に入ってからは悪天候が続いた。12 月 8 日には大雪が降り、13 日には雨氷の荒天であった。12 月中で零度以下になった日は 20 日間を数える。12 月 20 日~1 月7日はとくに寒く、気温はつねに零下4度と零下9度の 間を上下していた。セーヌが凍ったのはこの冬のことである。 29 前にみたように、備蓄の点では燃料がもっとも不足した。旱魃による水路の航行不 能という特殊事情を差し引いても、政府が石炭の補給を軽視したことはまちがいない。 なぜなら、8 月から数えて 2 か月程度の抵抗しか計算に入らず、よって冬支度はまった く問題にならなかったからである。燃料備蓄がどれだけであったかを、 (Ⅲ)で引用した 数字をもう一度で挙げよう。 1869 年 石炭 1,205,000,000 kl. 薪 810,000 m3 木炭 4,880,000 hl. 1870 年 472,000,000 kl. 590,000 m3 2,750,000 hl. 増減 -733,000,000 kl. -220,000 m3 -2,130,000 hl. 燃料は暖房用と家庭用だけではない。工業用とガス照明に大量に必要とされただけ でなく、風呂・洗濯業も大量の燃料を消費した。軍隊もまた燃料を必要とした。このよ うに重要な物資でありながら、節約のための公的措置がとられるようになったのは、よ うやく 10 月末のことである。10 月 26 日から公道のガス照明はとりやめとなった。こう して以後 3 か月の間、夜のパリは 35,000 個の石油ランプを頼りにすることになる。政 府はこのため約1万トンの石油を徴発した。この頃にはすでに風呂屋と洗濯屋は休業状 態に追いこまれていた。 12 月 10 日からは石炭の徴発が始まった 。それも、製粉場の動力用石炭が不足しは じめてようやく執られた措置である。石炭については、鉄道が止まっていることが幸い した。運休のため石炭を消費しなくなった鉄道会社がこれを供給したからである。 厳冬の始まりは、例年に比べストックの少ない薪の消費を速めた。薪は家庭用燃料 としてとくに重要であった。だが、備えがなかった。パリの城壁から外部要塞間での間 の防衛ゾーンの障害物をとり除く一環として、9 月~10 月の間にブーローニュの森の一 部が伐採された。また、土木局が国道と県道沿いの樹木を伐採した。薪商組合がこれら の伐採に協力した。この材木がなんとかして燃料にならないものかといろいろ工夫を凝 らされたが、乾燥材ではないので薪として用いることもできず、木炭にもならず、燃料 としては適さないことがわかった。 暖をとることは食べることよりいっそう困難であった。人々は寒さを凌ぐために塀 を壊し、建築現場から建材を盗みだし、庭木や植垣を切り倒し、ついには自宅の家具ま で燃やしはじめた。 12 月 28 日の市長フェリーの市民への訴えは、工事現場から建材の盗奪を利敵行為 と見なし、これに厳罰をもって臨むという政府の態度を明らかにしている。それでも民 衆はこっそり街路樹を伐採し、1 月 15 日頃にシャンゼリゼ大通りの壮麗な街路樹が犠牲 になったが、例にもれず用をなさなかった。 1 月 13 日、薪および加工用木材を炭にすることが禁止された。 食糧の盗奪はめったに起こらなかったのに、 薪はしょっちゅう盗まれた。 貧しい人々 にとっては、高騰した燃料を手に入れることができなかったのである。12 月 27 日、モ ンソー公園の樹木が無断で伐採された。また別の場所では建築中の家屋の骨組が盗まれ 30 た。第 5 区のムフタール街の丘のふもとでは、柵が引き抜かれた。同じ日の夕方、同区 アラス通りの民家のドアが引き剥がされた。 燃料不足はパリ市民の籠城の耐乏生活のなかで、もっとも苦しんだもののひとつで ある。この当時の死亡率に関する研究で、医師シュールは寒さが死因のなかで首位を占 めるといっている。彼によると、12 月中の死者のなかで、気管支カタル(772 人) 、肺炎 (621 人)は寒さに関係があるという。極寒の悪影響は幼児や老人にも容赦なく襲いか かる。それだけでなく、野営中の兵士に多くの犠牲者が出た。気温が零下 12 度まで低下 した 12 月 24 日から 25 日にかけての夜はオーベルヴィリエの原野に野営していた 600 人の兵士が凍傷にかかり野戦病院に担ぎこまれた。 X 国民衛兵 パリは貧富差の大きい町である。ここではつねに人口の 30 %以上が貧民だった。 彼らは失業すればたちどころに、明日をも知れぬ窮迫状態に陥る。平時でこうであった から、戦時の籠城下で産業が全面的休止状態に入ってからというもの、災厄は貧民にか ぎらず社会階層の全体にひろがった。街区(カルティエ)ごと、職種ごとに大きな集団 がまとまって生活難に喘ぐようになった。 いくつかの戦時特別令が発令された。一つは商業取引の支払猶予令である。それは 帝政下の 8 月 13 日に始まる。次いで 9 月 10 日、10 月 11 日、11 月 10 日、12 月 12 日、 1 月 12 日、1 月 28 日と順次更新された。もう一つは家賃支払猶予令である。これまた 8 月 13 日に始まる。9 月 20 日の法令は間借人に対し、10 月の家賃支払について、向こう 3 か月間延伸することを保障した。1871 年 1 月 3 日の法令は、これまでに満期となった 債務を含め、1 月の家賃をさらに 3 か月延伸することを定めた。これらは 1871 年 3 月 10 日、国民議会によって突如廃止され、パリの小市民を破産させたことは周知のとおり である。 質受けに関していえば、8 月 15 日の布告は質受品の転売を禁じた。10 月1日の法令 は医療器具・帳簿・マットレス・毛布を無償でうけ戻すことを定めた。同月 11 日の布告 は、このほかにシーツとシャツ類を追加した。11 月 17 日の布告は、質屋への補償とし て国が 70 万フランを肩代わりすることを決めた。 これらは消極的な措置である。産業の休止、物資不足と物価高騰という異常事態の もとでは、パリの貧民は債務弁済の猶予だけでは生き延びることはできない。金銭補償 にせよ物的保障にせよ、困窮者には積極的な支援が必要だった。国民衛兵はこうしたな かで生まれた。衛兵は予備役兵となっているが、本当のところは困窮者への社会的救済 事業から生まれたのだ。 国民衛兵は 1870 年 8 月 12 日、パリカオ内閣ととともに誕生。この時は 60 個大隊 であり、まだ貧民救済の色合いはない。国防政府下は 9 月 6 日に、さらに 60 個大隊の増 設を決定。そして 9 月末までに 254 個大隊を数えるにいたる。これらは街区ごとに編成 31 された。最初の 60 個大隊はブルジョア街区から編成され、次の 60 個大隊は政治的に穏 健な街区から、そして残りは職人・労働者の街区から編成するというように、徴募の範 囲は少しずつ社会階層を下降していく。 9 月 11 日の布告は国民衛兵に食糧を与えるために、 100 万フランの起債を認めた。 最初は現物支給であったが、同月 24 日からは1フラン 50 の現金支給に改められた。そ して 11 月 28 日の法律は配偶者に対しても 0.75 フランの扶養手当の支給を命じた。婚 姻届が増えたのはこの頃である。よって、1 世帯当たり 2 フラン 25 が標準的支給額とな った。このほか国民衛兵には銃と衣服が与えられた。制服製造のために、市役所・証券 取引所・美術学校・学校などが臨時の作業場となった。これらの作業のおかげで、失業 の多かった籠城期において被服業だけが例外的に繁盛した。 254 個大隊を兵員数に換算すると 40 万人に相当する。国民衛兵への金銭・物品支 給の窓口は区役所であり、 中央市役所がこれを統轄した。 市長アラゴはこう書いている。 「政府が困窮した国民衛兵に1フラン 50 を支給したとき、欲得づくとみなしうる感情に駆りた てられた志願者が雪崩をうって殺到した。区長らはこの侵入を前にして力がなく、頑丈な堤がま ったく構築されなかったので、新しい大隊が自主的に編成され、しまいにはその数は 260 個に ものぼった。国民衛兵はその当時 40 万の実数を数えた。 」 この赤貧の兵士を扶養するのに莫大な出費を要した。1870 年 8 月 12 日の法律は衛 兵の組織化のために 5 千万フランを予定した。11 月の初め、この財源は枯渇した。11 月 10 日さらに 2 千万が起債され、12 月 16 日にはさらに4千万が、ついで 71 年 1 月 3 日には 2 千万が起債された。ピカール蔵相は当初、1 日当たりの出費を 70 万ないし 80 万フランと見積っていたが、最終的には 100 万フランとなった。これは高いというより 危険だった。というのは、この支給はいつの日か打切らざるをえないからである。高人 気のゆえにパリ市民を沸騰させたシャム Cham の風刺画の一つは、 銃を小脇に抱える国民 衛兵を描いている。説明に曰く。 「わが友、わが国家、わが慰め、わが国立工場」 。つま り、シャムは国民衛兵の中に二月革命を見ていたのだ。二月革命の国立工場の 2 フラン の打切りが六月暴動をもたらしたのと同じように、1871 年の国民衛兵の 2 フラン 25 の 打切りがコミューンを起こすことになろう。 ⅩⅠ 貧民救済 パリ第 3 区のある行政官は次のような報告書を作成した。 「みすぼらしい外観の一軒家の中に[救済対象の]家族が住んでいるとの報告を受けた。父母 と 2 人の幼児たちは失業の犠牲者であった。彼らは高い階に、そしてさらにもっと高い階に住ん でいるように思われた。なぜなら、階を昇ったのち、締まりのよくないドアにぶつかったからだ。 32 家の中で窮乏はつねに上階から入って来ることを諸君はご存じであろうか …。 その屋根裏部屋の様子は陰欝だった。私は一目で窮屈と赤貧が必ずしもこの家庭と懇ろではな いことを悟った。家具が残っているということは、比較的裕福な労働者が住んでいたことを物語 っているのだ。 2 つのベッドがこの部屋に並べられていた。1つのベッド上の病人と思われる妻はお産をした ばかりであった。死産した嬰児は、産着というよりはボロ布といった方が似つかわしい布にくる まれていた。足が伸びて床の上にあった。 もう一つのベッドには働き盛りの男がいた。ベッドの上で肺結核が最後の猛威をふるっていた。 ハアハアという短い間隔の吐息が言葉を発するのを困難にしている。黒く生き生きした眼はやつ れた土色の顔とは不釣合であり、自分が依頼したのではない訪問の目的を問い質しているかのよ うに見えた。 われわれが部屋の中に入ったとき、彼は何やら煎じ薬をブリキの湯呑みで懸命に暖めようとし ていた。痩せ細り感覚の鈍い、乾いた手で湯のみを掴み、それを紙で燃やした炎の上に置いた。 ああ、何ということだろう! それは、彼の使うことのできる唯一の燃料だったのだ。 『ねえ』と 子どもがわれわれに言った。 『私の弟は眠っています。起こしちゃダメ』 。少女は衰弱した母親の 傍にいた。 『お母さん、お腹空いたわ、このおじさんは私たちに食べ物をもってきてくださった の?』かわいそうな瀕死の病人の眼からは大粒の涙がしたたり落ちた。彼らは公共の慈善に対し て、今まで何も要求しなかったのだ。これは誤った屈辱感というものだ。… 数週間ののちに可 哀そうな子どもたちのみがとり残され、孤児院に引きとられていった。 」 パリ第3区は衣料品製造を中心としたパリの代表的な工業地帯の一つである。籠城 がこの区の工業活動を麻痺させていた。これを書いた行政官は困窮者救済のために家庭 を訪れ援助しようとしたのだ。この例に見られるように、籠城下において区役所が社会 福祉のために果した役割は非常に大きかった。 パリは平時でも 10 万人(1869 年の数字で 111,357 人)の登録困窮者をかかえてい た。これが 1870 年 12 月末には 47 万人に上った。新聞『エコノミスト紙 Journal des Economistes』の 1 月 13 日号は次のような貧民の区別構成を掲載している。 【困窮者区別構成】 区 困窮者 12 月の区人口 Ⅰ Ⅱ Ⅲ Ⅳ Ⅴ Ⅵ Ⅶ Ⅷ Ⅸ 8,000 12,000 24,000 19,000 15,000 15,000 10,800 8,000 14,500 77,831 77,671 96,422 96,341 98,213 90,803 68,883 75,880 102,215 対区人口比率(%) 10.3 15.4 24.9 19.7 15.3 16.5 15.7 10.5 14.2 33 Ⅹ XI XⅡ XⅢ XⅣ XⅤ XⅥ XⅦ XⅧ XIX XX 計 20,000 30,000 25,000 34,000 15,000 24,000 12,000 39,454 60,000 60,000 20,000 141,485 183,723 100,877 79,828 82,100 92,807 44,034 121,064 154,517 113,716 108,716 14.1 16.3 24.8 42.6 18.3 25.9 27.3 32.6 38.8 52.8 18.5 471,754 2,006,709 23.5 上記の数字はむろん区役所に登録された困窮者の概数にすぎない。そして、ここで いう救済対象者が国民衛兵 40 万人と重なるかどうかははっきりしない。 ひとまず両者が 別ものと考えて論を進めるとすれば、パリ総人口 220 万人のうち 90 万人、つまり 2.5 人に1人の割合で、救済対象者になっていることになる。 また、区によって救済対象者の対区人口比率が大幅に異なる。第 1 区とか第 8 区の ような市の中心地域(金持ち居住区)で比率が低いのに対し、パリの「東北の4分の1」 とか「赤いベルト地帯」とかいわれる職人・労働者の区で比率が高くなっているのが目 につく。この貧困者居住地区と、その後にコミューンの根拠地となった地域とはおおむ ね重なりあっている。 本稿Ⅳの「食糧行政組織」の箇所で述べたように、社会福祉事業は区政のなかで重 要な位置を占めていた。籠城抗戦という特殊状況のなかで、貧民救済が特別の意味を帯 びてきたのは当然であった。区が中心となって行なった救済措置はいくつかの種類に分 かれる。① 無料パン引換券の配布、② 困窮者救済食品配給所 fourneaux économiques と市営無料食品配給所 cantines municipales の設置、③ 義捐金の供与などである。 赤貧者のための無料パン引換の配布がこの種の施策の手はじめであった。1870 年 9 月 11 日の省令は、区単位で困窮者向けに無料パン券を配布することを定めた。このため に内務省は 100 万フランの起債をおこなうことになった。配給の手続きは次のとおり。 区役所は困窮者にパン券を配布する。これを受けた者は指定されたパン屋にもっていき パンに換える。パン屋はこの引換券をまとめて区役所に持ち込み換金すると同時に、市 役所内に付設のパン金庫で相当分の小麦粉請求券を受けとった。つまり、パン券は金券 でもあり、ここから濫用が発生する。これが濫発されたため、まず小麦粉の浪費につな がった。パンを馬に食わせるというスキャンダラスの出来事も実はここより発する。ま た、貯めたチケットをパン屋にもっていき、パン屋で換金する人物まで現れた。配布さ れたパン券の総数は市助役クラマジュランの見積りによると、日に 20 万枚、籠城期とコ ミューン期を合わせ、少なくとも 1,600 万枚、金額にして 3,300 万フランとなる。 国防政府の樹立後すぐに、貧民救済のために政府は区ごとに、調理済みの食品配給 34 所 fourneaux économiques を設置した。そして 12 月 2 日の布告は、これが増設された ことを告げる。これは、区が原料の買い入れと調理をおこない、できあがった食品を所 定の場所で販売するものである。市の社会福祉局もこの食品配給所に全面的に協力。と いうより、社会福祉局がそのまま食品配給所になるケースが多かった。社会福祉局は以 前より区内の困窮者の保護を担当しており、この職務に慣れていた。同局は、色とりど りのカードで希望者の待ち時間が少なくなるように配慮した。配給に直接係わったのは 修道女たちであった。全体として配給所はスムーズに運営された。市長アラゴは 1 日当 たり 20 万食を用意したと述べている。食品配給所は最初 46 か所であったが、のちに市 内全部で 81 か所になった。 【各区困窮者食品配給所数】 Ⅰ Ⅱ Ⅲ Ⅳ Ⅴ (2) (2) (2) (4) (4) Ⅵ Ⅶ Ⅷ Ⅸ Ⅹ (2) (2) (2) (3) (2) ⅩⅠ ⅩⅡ ⅩⅢ ⅩⅣ ⅩⅤ (3) (11) (4) (3) (3) ⅩⅥ ⅩⅦ ⅩⅧ ⅩⅨ ⅩⅩ (6) (3) (5) (10) (7) 食品はその場で食べてもよいし、持ち帰ってもよかった。原料はパリ中央パン局が 管理した。アラゴによれば、市はパン=2,650,876 キログラム、インゲン豆=128,900 キ ログラム、エンドウ豆=54,190 キログラム、米=194,400 キログラム、塩=51,330 キ ロクラムを用意したという。そのほかに病院用の備蓄のジャガイモ、ラード、チーズ、 油なども注ぎ込まれた。 この食品は有料である。半リットルのブイヨン、60 グラムの調理済み肉、45 サンチ リットルの調理済み野菜、45 サンチリットルの米粥、 125 グラムのパン、これらがすべ て 5 サンチームの定価で売られた。かくて、ここに行けば、日に 40 ないし 50 サンチー ムの値段で、変化こそ乏しいが衛生的でまずまずのボリュームの、しかも栄養的にバラ ンスのとれた調理済み食品にありつけた。 上記の有料配給所のほかに、市は区役所を通じ、とくに困窮者のために無料配給所 を設けた。経費は市費・商業省の所有する食品の販売収益・贈与・募金・醵金によって 賄われた。無料供与であるが、名誉を重んじる観点から、兵営のなかで日用雑貨飲食物 を扱う売店 cantine の名に因んで「市営酒保 cantines municipales」と名づけられた。 無料食品配給所は区のあちこちに設置されていた。この数は貧困者の多い区と裕福な区 で差があった。多いところでは 30 か所に及ぶこともあった。 困窮者は申請によって保護を受けることができた。彼らは区吏員から食券を受けと って配給所に赴き、そこで券と引き換えに食事が貰えた。不幸な人々にこそ優先権が与 えられるべきであるのに、冒頭に引用した不幸な家族のように、真に救済を必要とする 者が請求をせず、不必要な人が保護を求めるという不正が罷り通った。つまり、施しを 恥辱と感じる人がいる一方で、これに飛びつく人もいたのだ。そこに混乱が生じた。た とえば、 比較的裕福な区であるパリ第 9 区の無料食品配給所は 10 月 15 日に開設された。 35 11 月1日の配給数は 7,800 枚ほどであった。市助役クラマジュランは書いている。 「無料配給について中央集権の欠如が感じられた。市営無料食品配給所、困窮者救済食品配給 所、貧困者救済事務局、その他の公的・私的救済施設の間に共通の組織がないので、一委員会が 協力的合意および規則的連携を築こうとつとめた。しかし、この委員会はぶつかった抵抗をつき 崩せなかった。 」 貧困者救済はこれですべてではない。この他に行政当局から支給される義捐金贈与 がある。ここでいうのは国民衛兵の給金とは別個のものである。金銭支給は困窮者世帯 に与えられるものと、出征兵士の留守家族に与えられるものとがあった。やはり窓口は 区役所である。モリヨンによる区別の給付額は下表の通りである。 区 困窮者数 現金給付額 1 人当たり額 Ⅰ Ⅱ Ⅲ Ⅳ Ⅴ Ⅵ Ⅶ Ⅷ Ⅸ Ⅹ ⅩⅠ ⅩⅡ ⅩⅢ ⅩⅣ ⅩⅤ ⅩⅥ ⅩⅦ ⅩⅧ ⅩⅨ ⅩⅩ 8,000 69,898.05 12,000 93,727.10 24,000 164,415.85 19,000 170,716.95 15,000 462,264.45 15,000 301,736.25 10,800 168,276.18 8,000 15,821.00 14,500 35,853.90 20,000 745,075.93 30,000 622,238.42 25,000 112,444.00 34,000 218,356.29 15,000 1,255,495.90 24,000 922,571.67 12,000 51,981.80 39,454 480,492.36 60,000 547,778.67 66,000 449,295.97 20,000 999,457.59 8.74 7.81 6.85 8.99 30.82 20.12 15.58 1.98 2.33 37.25 20.74 4.50 6.42 83.70 38.44 4.33 12.18 9.13 6.81 49.97 計 471,754 7,887,898.33 16.72 1人当たりの給付額に直してみると、区間の不平等は明白である。第 14 区が 80 フ ランを超えるのに、第 8 区では2フラン未満である。この不平等は区の間の貧困格差と いうより、行政の混乱によるところが大きい。つまり、いくつかの区は、国民衛兵分と 36 して日給を受給したうえに義捐金を重複受給していたのである。 このほか修学児童には衣服・燃料・食品の援助がなされた。また第 14 区をはじめと して、いくつかの区は独自に困窮者救済の措置を組織した。つまり、篤志家から衣類と 古着の供出を求め、これらを「衣料置場 vestiaire」に集中する。貧困者には衣料引換 券を渡し、必要な衣服と交換させた。 慈善はこれに尽きない。篤志家による私的慈善がある、リシャール・ワルラスは私 財を投げうって野戦病院の設立のために 30 万フランを市に寄付した。彼はこのほか、避 難民のための「愛国者募金」を行い、困窮者救済食品配給所のために 33 万フランを投じ た。富豪ロートシルド家はパリ市に 20 万フラン相当の衣料券を提供した。イヴォズ・ロ ーランは 6 万フランを、イギリス人ロイド・リンゼーは 50 万フランを寄付した。 このような慈善は籠城末期になると、ほとんど毎日のように新聞紙面を賑わすよう になる。慈善はほとんどすべて、市がこれを組織し、区がこれの実行に当たった。これ らが不完全ながら窮乏の緩和に寄与したことは疑いない。欠乏が大きかったにもかかわ らず、死者の数がそれほど大きくないのは、各方面で必死の努力が重ねられていたため である。 XII 総 括 (1)首都が長期の抵抗をなしえた要因 当初、パリの抵抗が 4 か月以上も続くことを予想した者はどこにもいなかった。パ リでも地方でも、ドイツ軍の陣営でもそうであった。この長期の籠城はいくつかの要因 が複合的に組みあわさって長びいたのである。 まず、パリ内部の政治的事情が作用している。国防政府が中途半端な革命から生ま れた一つの妥協的政権であったために支持基盤が弱く、ズルズルと自己の意にそぐわな い抵抗を強いられた。一方、市民は、帝政の圧政が終わったとの解放感と愛国熱に染ま り、80 年前の大革命の祖国防衛の思い出に浸っていた。祖国が危機に瀕していようと、 パリが封鎖されようと、共和主義と愛国主義が結合すれば、かつてと同じように必ず奇 跡の勝利を呼ぶにちがいない、また決定的勝利にいたらなくとも、パリに集まる他国民 の同情が、列強とくに英国による普仏戦争への干渉を必至とし、結局、敵の撤退を招く であろう-こういった楽観主義の風潮が市民の間にひろまっていた。この幻想はパリ 市民の士気を維持するのに力あったし、ともすれば動揺しがちな政府の弱腰を突きあげ るのに力あった。 長期の籠城には、普仏戦争の軍事的展開のアヤも絡んでいる。独軍は仏軍の主力を アルザス=ロレ-ヌ戦線で挫いたとはいえ、メッスでバゼーヌ軍が籠城したまましばら く動かず、膠着状態を迎えていた。また、フランス各地で抵抗運動が組織され、新手の 軍隊がパリに向かって進軍していた。このようななかでの独軍の性急なパリ進撃は挾撃 に晒されかねない危険性があった。独軍参謀総長のモルトケは敵軍の一つひとつが撃破 37 され、母国との通信線が確保され弾薬補給の目途が完全にたつまで積極的攻勢を控え、 兵糧攻めでパリの消耗を待つことにした。 かくて持久戦となったが、対するパリ側には、敵味方のあらゆる予想を超えるほど の食糧が存在した。本稿でみたように、この予想外の備蓄の存在こそが、4 か月半に及 ぶ長期の抵抗を可能ならしめた最大の理由であった。物質的保証なしに、これほど大規 模で激しい抵抗を長期に亘ってなしえなかったのは自明である。裏返しにいえば、この 備蓄が底を尽き、 饑餓地獄が始まったとき、 パリは開城降伏を余儀なくされたといえる。 71 年の 1 月の極限状況がまさにその時だった。籠城期間中、戦闘や砲撃による死亡者数 はせいぜい 4 千人程度にとどまり、全死亡者 6 万 5 千人のわずか 6%を占めるにすぎな い。死因はほとんど病死である。だが、それには過労と栄養失調および厳寒が係わって いる。十分な栄養摂取ができず身体が弱っているところへ、その年の例外的な厳寒が追 い討ちをかけ身体の消耗をはやめ、病原菌を呼び込んだのだ。極限状況が迫っていたこ とは、年が明けてからの死亡率の急上昇からも推定できる。パリが饑餓地獄の中で武器 をおいたことは、当時の内部の状況からみても、また事後に明らかになった客観的状況 からみても、抵抗をこれ以上引き延ばすことはもはや不可能となっていた。 開城直後のある新聞が伝えているように、なくなったはずの食糧が開城後に店頭に ならぶことなく、籠城下でもっと効果的に利用されたところで-あと数日間は抵抗を 持続できたとしても-それで戦況が一変するというわけでもなかった。しかし、今日 のわれわれにとって問題なのは、そうした抵抗の持続時間ではなくて、抵抗の結果とし て生じた社会的・政治的結果のほうである。 戦争の長期化は二つの結果を招いた。一つは、講和条件におけるドイツ側の要求を エスカレートさせ、独仏の敵対関係を遠い将来にまで引きずる原因となったことである。 もう一つは、パリを 4 か月以上も地方から引き離すことによって、戦後処理をめぐる問 題で首都と地方において決定的な対立をもたらしたことである。4 か月半も外界から隔 離されたパリの政治生活は地方とは異なった軌跡を歩みはじめる。極度の耐乏生活は内 部の社会階層間に矛盾軋轢のエネルギーを蓄積させ、この対立がコミューンの内乱にお いて爆発するのだ。コミューン暴動は、首都とフランスの対立と首都内部の社会的対立 とが重なりあって表出しているところに特徴がある。われわれがパリ籠城期、そして本 稿における食糧行政というエピソードに対して寄せる関心は、そうした問題意識に発し ている。 (2)食糧行政に対する評価 パリの長期の抵抗と食糧行政の関係はどうか。すなわち、食糧行政はよりよく組織 されたのだろうか、備蓄食糧は効率よく消費されたのだろうか、混乱によって市民が飢 えで苦しむことはなかったのだろうか。 市民がよく耐えたことは否定できない。幾人かの証言で明らかなように、九月四日 革命の後にパリ警視庁が廃止されてのちも犯罪は一般に少なくなり、治安は政治的煽動 を除けば、まずまず良好な状態にあった。厳しい食糧難の中にあっても盗奪はきわめて 例外的な現象にとどまった。そこに、勝利に向けての市民の息吹を感じとることができ 38 よう。 しかし、行政はというと、本稿で明らかにしたように、問題が多かったといわねば ならない。籠城期の食糧政策は混乱に満ちていた。調査研究・備蓄・組織・分配など、 そのいずれをとってみても不手際の連続であった。計画性と一貫性が欠如したため、し ばしば浪費と枯渇をもたらし、その結果として窮乏をはやめた。政府は物資の状態につ いて正確な数字を把握していなかったし、いつも状況を制していたわけでもなかった。 すべてがその場凌ぎの措置に終始した。そもそもの混乱の原因をつくったのは帝政政府 であるが、それを継承した国防政府もまた無力だった。籠城中および開城後のパリ市民 の政府に対する非難は、 「食糧政策がもっと計画的に手際よく運ばれていたなら、市民は あれほどの難儀を味わわずにすんだはずであり、生命を無駄に失うこともなかったであ ろう」-こうした点に絞られている。このような非難は根拠のないことではない。わ れわれは後知恵に与するという謗りを受けることを覚悟しつつ、政府の責任を問うこと から始めたい。 第一に、調査不足が決定的に災いしている。どれだけの人数が、どれだけの期間生 き延びるために、何をどれだけ必要とするかの調査が不十分であった。最大の責めを負 うべきは、開戦に責任を負う帝政政府であるだろう。食糧にかぎらず軍備・防御工事な ど防衛一般の問題を棚上げにしたまま開戦に踏み切ること自体がまったくの無謀であっ た。政府は、敗報を手にしたのち、やっと食糧備蓄計画の作成にとりかかる有様であっ た。そして泥縄式につくられた計画は、2 か月間の抵抗を想定して小麦粉・食肉・秣・ 食塩の補給を目ざした。だれも長期の籠城を予想しない時点(8 月中旬)での2か月間 という期間については斟酌しなければならないとしても、計画された食糧の種類と量を もってしては、2 か月間の維持さえ無理であることははっきりしている。 第二は時間の空費である。計画の作成から首都が封鎖されるまで 1 か月半の猶予が あったのに、この期間が有効に活用されなかった。不幸なのは、この間に 2 つの政変が 生じたことである。一つは 1870 年 8 月の政権交替であり、もう一つは九月四日革命であ る。敵の進撃に対して味方の力を結集すべきその時に 2 度も政府をとりかえざるをえな かったのは不幸だった。かくて、政変が伴う行政の混乱により備蓄計画の実行は先送り となった。九月四日革命の後は若干の小麦粉と食塩のほかは何も持ち込まれていない。 政府がおこなったのは入市税関を開いて貨物の自由通関を促したことだ。このせいでパ リ内の備蓄が促進されたのは疑いないが、 しかし、 政府はその数字を掴んでいなかった。 第三は組織的欠陥である。戦時下のしかも籠城という特殊な条件のもとでは厳格な 食糧統制が不可欠であるのに、国防政府は統制を不可能とする競合的機関をいくつか並 立させたのである。食糧行政の統轄機関として食糧委員会を発足させ、これに全権を与 えたまではよかった。しかし、この委員会は最後まで分配の調整機関としての性格を消 せなかった。主たる確執は農商業省とパリ市役所の対立であり、それに輪をかけるもの となったのが区役所の分権化傾向であった。九月新政府の閣僚会議の取り決めでとりあ えず、農商業省は備蓄を、パリ市役所は分配調整を、区役所は分配の実行を、それぞれ 担当することになっていたが、連携を欠く三者三様の勝手な動きは行政を混乱させただ けである。かくて、備蓄は中途半端に終わり、配給は一貫性を欠いてその場凌ぎの措置 39 に終わった。とくに食糧管理・保存の仕事に素人役人が当てられ、多量の食糧を台無し にした。 第四は、行政組織の不備と指揮系統の錯綜が実行行為の無秩序に直結したことであ る。限られた資源の活用には合理的な計画を必須とする。ここでいう合理的計画とは物 資徴発・価格統制・割当配給制などを指すが、それらが当時、各方面から期待されなが ら、これを遅らせ、結果として浪費をはやめた。とくに食肉の統制が不十分で、払底と 価格高騰を招いた。食肉の危機は深刻だったが、幸いにして多数の軍馬の存在が窮地を 救った。その馬にしても、統制が不十分でもぐりと畜が横行し、闇市でのみ肉を得るこ とができるというあからさまな貧富の不平等をもたらした。不足と価格高騰は困窮者を 直撃した。 久しく待望されていた徴発については、遅ればせながら、小麦(粉) 、ジャガイモ、 馬になどに対してなされた。しかし、準備もなく実施されたために、かえって品物が地 下に潜る結果を招いた。政府はつねづね割当配給を渋ってきた。理由は、それが節約に ならず、かえって物資秘匿を促進する恐れがあるというものだった。それならばそれで 一貫させればよいものを、開城直前になって、故意と思われるほどの極端なやり方で実 施したために、かえって市民の苦しみを倍加した。開城後の 1871 年 2 月 15 日、新聞『二 つの世界』紙は次のような皮肉たっぷりの記事を掲載した。 「パリの住民が生き長らえたのは、政府が食糧に口出しをしたからではなく、口出しをしたにも かかわらずのことである。 」 政府の食糧政策は、このように欠点だらけであったが、そのなかで一つだけ優れた 努力があった。それは製粉場をもたないパリにおいて応急的に粉挽きを組織したことで ある。小麦粉の不足にもかかわらず、このおかげで耐乏生活 2 か月半の予定を 4 か月半 まで引きずっていくことができたのである。国防政府の閣僚の一人がのちに査問会で述 懐しているように、この俄か仕立ての工場にたった一発の砲弾でも落ちれば、万事休す 状態であったのだ。 全体として不首尾に終わった食糧行政のなかで、もう一つの例外があった。それは 区長によって組織された行政である。2 か月半が 4 か月半も延びたのは、余分にあった 備蓄のみのせいではない。つまり、人々の忍耐は物質的なものだけにふり向けられたの ではない、ということだ。彼らが耐えたのは行政への一定の信任があったこと、すなわ ち、一方で規則正しい行政が行われたためである。それを担ったのは区役所である。区 役所は政府の命令を必ずしも忠実に実行せず、独自の貧民救済事業を展開した。そのお かげで困窮者援助や慈善の組織化にはすぐれた実績を残す結果になった。極論すれば、 政府の不首尾の政策にもかかわらず、パリが長期にもち堪えたのは区長の努力に負うと ころが大きい。政府の失策は区役所の独自の行政によって繕われたといってよいであろ うか。 (3)結 果 40 本稿では市民の動向についての考察を割愛した。食糧の徴発と統制を真に要求した のは彼ら、 なかでも下層の民衆であった。 彼らの代弁人たる共和派左翼と社会主義者は、 厳格な統制を実施しうるのは強力な政府、すなわち「コミューン」と考えていた。この 政府をつくろうとする動きはすでに九月革命直後から始まっていた。コミューン政府樹 立が俄かには不可能とわかると、彼らは食糧統制の厳格な実施を国防政府に迫るように なった。まず問題となったのは家宅捜索の実施である。彼らの主張によれば、修道院と 富裕なブルジョアが1年分の食糧を秘密の倉庫や地下室に溜め込み、人民が餓死しよう としている瀬戸際にあってもなお、たらふくご馳走を食べている、一方、商人たちは食 糧の買占めに狂奔し大儲けを企んでいる。生存のための食糧は人民の共有物であり、こ れを捜し出して人民に分配することが政府の使命である、という。教会・修道院、大金 持、買占商人、そしてそれを支える政府の共謀を説くやり方は、大革命当時の食糧暴動 の精神状態と瓜二つ。違う点は、そこに「貴族」がいないことだ。 「饑餓の約束 pacte de famine」つまり饑餓は仕組まれたもの、というのが政府攻撃 の合言葉であった。政府は祖国を降伏に導くために、飢えと寒さでわれわれを死の淵に 追いやる、すべての企みは恥知らずのブルジョアジーがパリを敵に売りわたすためのも のである。… こうした説明は開城後にも残る。国民議会選挙の直前 71 年 2 月 5 日の演 説会で弁士の一人は叫んだ。 「パリが売られなかったら、もっと長い間もちこたえることができたのは明白である、弾薬は 不足していなかったし、食糧もそうではなかったのだ。 」 労働者たちが強力な食糧統制を望んだにもかかわらず、政府はこれをしなかった。 政府は統制を無用と見なしたが、労働者たちは統制の不実施を故意のものと考えた。こ こに思惑における大きな淵が拡がっている。この溝は食糧不足が日々ヒシヒシ感じられ るようになると、ますます大きくなる。しかし、本当のところは、これをなそうにも、 政府に力がなかったのである。スダンの壊滅という興奮の中で慌ただしく生まれた新政 府は革命を徹底させることなく、旧政府の行政官をそのまま留任させる。これが革命派 に対して政府攻撃の恰好の材料を提供することになった。 革命派は、食糧行政の不徹底や場当たり主義の生温い措置は政府の中に帝政の官僚 が含まれているからであるとみなし、 「饑餓の約束」は予定された陰謀のせいにとした。 しかし、実際はそうではなかった。新政府がその行政機構に滑り込ませたのは大物政治 家ではなく、実務に長けた官僚だった。彼らは混乱の中でよく踏み堪え、その任務を全 うしたといえる。むしろ、このような実務家の不足こそが食糧行政の徹底を阻害したと いえるほどだ。この意味で政府は民衆からずっと誤解を受けたままだった。 また、政府の無策には他の事情も作用している。状況は、新政府が革命成就と国土 防衛の課題を同時に遂行しなければならなかったという点で、80 年前の大革命時によく 似ていた。この類似性については、事実としてそうだっただけでなく、人々の意識にお いてもそう捉えられていた。だが、この年月の隔たりは同時に状況の差をも生みだして いる。まず、九月革命はひとつの妥協に終わり、それだけに強力な政権を生み落とさな 41 かった。フランスはすでに大革命の恐怖政治と 1848 年 6 月の恐怖を経験していた。つま り、政府への民衆参加が極度に警戒されたのである。おまけに第二帝政の独裁の反動で 権力の集中は嫌悪されていたから、何であれ、強力政権の出現だけは敬遠された。 国防政府の閣僚の一人ガンベッタがパリを抜け出してトゥールで政府派遣部を組織 したとき、そのやり方があまりに強引すぎて「ガンベッタの独裁」の非難を受けたのは、 その風潮のなかでの出来事である。 しかも、 時はまさに科学進歩の時代の真直中にあり、 戦争技術とくに鉄道が飛躍的に発展しつつあった。軍の移動は迅速で、すべての作戦行 動は分秒を争う機敏さを要するようになっていた。したがって、戦争指導において逡巡 は許されず、そのために何よりも権力集中が必要だった。独裁を必須とするまさにその 時に、新政府が逆方向を目ざしたのはまことに皮肉である。かくて、国防政府の全閣僚 は何をなすにつけも連帯責任を帯びることになり、状況の変化に応じた柔軟で迅速な政 策を執ることができなくなる。 食糧が底を尽くのと比例するかのように、政府の威信は日増しに落ちていく。ゴン クールをはじめ、パリに残ったすべての観察者の記録がこのことを物語る。1870 年 11 月の選挙の頃にはまだ勝利への希望がいくらか残っており、政府への信任投票が革命派 による 10 月 31 日の分裂行動を挫いたが、翌年の 2 月の選挙ではすでに状況は一変して いた。2 月 4 日の国民議会選挙では、国防政府の戦争責任と食糧行政の無策とが槍玉に あがった。反政府派の演説やポスターにおいて「饑餓の約束」とか「予定された敗北」 とかについてふれないものはない。80 年前のフランス革命において敗戦と食糧問題への 無策が政治的にジロンド党を沈めたのとまったく同じく、国防政府のもとでの戦争指導 と食糧行政の不手際が穏健共和派を失墜させた。パリの選挙において国防政府の閣僚で 当選したのはジュール・ファーヴルただ一人という有様だった。 「パリの降伏に手を貸し た」人々はことごとく敗れた。 このときの勝利者はまだコミューン派ではなく、政府とコミューン派のちょうど中 間に位置する人々、のちに急進派の中核となる勢力である。この勢力は政治的には、パ リ防衛に貢献した区長および助役と同じ派閥に属する。政府の失墜に反比例し、この中 間勢力はますます大きくなっていく。 区長と助役は籠城の間、数多くの重大な任務を負っていた。彼らは救援物資や薪の 分配、食糧の手配、国民衛兵の大隊に装備や軍用品の割り当てさえおこなう。政府指令 の空まわりは区役所を中心とした自治的政治=分権化の傾向と無縁ではない。区長はこ れらのサービスの実行を通じて住民への影響力を強めていく。数々の史料の物語るとこ ろでは、政府への非難は喧しいほどあっても、区政へのそれはほとんどない。区政がい かに市民生活に根を下ろしていたかを裏づけるものであろう。区長は 1870 年 11 月の区 長選挙以後は、名実ともに真の住民代表として独自の政治勢力を形成するまでにいたる。 このことは、パリ開城からパリ・コミュ-ンまでの政治展開を考えるときに無視できな い要素である。政府の食糧政策の失敗は自らの墓穴を掘るとともに、のちのコミューン 派となる革命諸派の登場と並んで、第三勢力=急進派の政治舞台への登場を決定づける ことになったのである。後に第三共和政の主力をなすのがこの勢力である。 (c)Michiaki Matsui 2015 42
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