2014年10月1日 追悼記念日礼拝説教 「死は勝利にのみ込まれた」 コリントの信徒への手紙Ⅰ 15章54-57節 吉岡 良昌 学院の伝統で今年度も追悼記念日礼拝を捧げる機会が与えられました。この一年間、こ の世の人生を全うして主なる神様の下へと凱旋した東洋英和の卒業生関係職員を偲びつつ、 愛する者を失った悲しみを共に悲しみ、泣くものと共に泣く心情を共有しつつ、学院の建 学の精神が拠って立つ聖書の言葉を共に学び、賛美と祈りをささげる礼拝へと招かれたこ とを主なる神様に感謝致します。召された人への思いを馳せる時、心乱れ、わが心は吹く 風の如く,定かならず、絶えず動揺の念を抑えきれないかもしれませんが、今しばらく、聖 書の言葉に耳を傾け、死については、わたし達残された者には、経験したことのない未知 の世界であり、神の領域に入ることでもありますので、すべてを神に委ねる気持ちを持っ て臨みたいと願っています。そして、自分もやがて死を迎える身分でもあるがゆえに、聖 書の真理の言葉に今一度、耳を傾け、神様の考え方を確認し、死に勝利する道の確認をし たいとおもいます。 今、御読み頂いた御言葉を通して、 「死は勝利に呑み込まれた。死よ、お前の勝利はどこ にあるのか。」という力強い言葉を耳にすることが出来ました。死が勝利したのではなく、 死は勝利の中に呑み込まれたと書かれています。何の勝利によって死が呑み込まれたかと 言いますと、私たちの主イエス・キリストによって私たちに勝利を賜る神に、感謝しよう、 と書かれていますので、私たちの主イエスキリストによって、死は、敗北し、イエスキリ ストの偉大な御業によって死は骨抜きとなり、私たちは死に勝利する立場に変わったとい うことを述べているわけです。死が骨抜きとなったと言いましたが、聖書の言葉は、死の とげが抜き取られてしまったという表現です。死のとげが抜き取られますと、とげのない 死というのは、とげが残っている死とは、全く正反対の意味に変化するのです。死のとげ は罪であると書かれていますので、この罪が引き金となる、神による裁きとか、自分の存 在の破滅とか、死が怖いとか、いわゆる私たちの常識的な死のイメージがありますが、罪 という死のとげが抜き取られることによって、この死のイメージが一変することが予想さ れるのです。聖書の教えによりますと、死による滅びというとげがイエスキリストの十字 架の死と三日目の復活という神の業、神の良き働きによって、抜き取られてしまった。そ ればかりか、死のイメージはその反対の復活のいのちに入るgate 新しい命の門、門 出に変化するのです。ここで使われている、厳密な聖書の言葉で言いかえれば、新しい衣 装、朽ちない着物、死なない着物を必ず着るという表現になります。神ご自身がしてくだ さった私たちのための勝利の業とは、この私たちの死に到る体が、死ぬことのない新しい 霊の身体、復活の身体をまとう朽ちない着物を新たに着ることになると述べられているの です。これらの聖書の言葉から、わたしたちは、死に対する敗北感やあきらめや、無常観 という伝統的な死のイメージから解放されて、むしろ、死をもって、私たちの存在は積極 的な新しい着物を着る喜びと言いますか、もっと積極的なより良い世界への入り口となる という死生観を持つことが可能となるということです。この聖句の少し前には、最後のラ 1 ッパがなるとという表現になっています。これは、死んだあと、私たちは、憩いの眠り, 休息に入るのですが、最後のこの世界の完成の時には、最後のラッパ、勝利のラッパが鳴 り響いて、キリストにあって、私たちはみな、新しい義の衣、罪汚れから全く解放された 白衣を身にまとうことになると述べています。死は、神の御業の故に、人生の勝利、神の 国の成就というもっと明るく積極的で理想の世界の実現を待ち望む希望の入り口になると 述べているのです。このような積極的な死、希望を持って喜びを持って死を迎えるそのよ うな心境に、私共も何とかたどり着きたいと願うわけであります。神の国の成就という死 生観を持って生きる人間になりたいと願うのです。 今から35年も前の本ですが日本YWCA会長を務めた関谷綾子さんが「一本の樫の木 ―淀橋の家の人々―」という本の中の一節で、兄である森有正の生き方について、次のよ うなことばを述べています。そこの一節を引用したいと思います。ご承知のように、祖父 は、森有礼という日本最初のクリスチャン文部大臣でした。父親は、森明という日本キリ スト教教団の牧師をしていました。その父親の早い死に遭遇したときの兄、森有正の思い 出が次のように記されています。 「父の死の埋葬の日から一週間後、独りで多磨墓地へ行ったという兄の心の中では、そ の後、なん十年も続く旅の第一歩を印してから、もはや数年を経ている。 「僕は、墓の土を見ながら、僕もいつかは必ずここに入るのだということを感じた。そ してその日まで、ここに入るために決定的にかえって来る日まで、ここから歩いて行こう と思った。」 (森有正全集第一巻6頁)。この森有正自身の言葉を引用したあと、関谷綾子さ んはこう述べています。 「兄はもはや歩み出していたのだ。ただわたしはまだそれを知らなかった。たった一人 で兄はもうすでに旅に出始めていたのに、幼い私はそれを少しも知らなかったのである。 その頃の兄の心がなつかしい。」こういう文章です。 わたしも、森有正全集を若い頃に読み始めていた時、この言葉に出会って衝撃を受けたこ とを覚えています。 父親の墓を、一週間後に一人で見に来て僕もいつかここに決定的に帰って来る日まで、こ こから歩いて行こうと思ったというわけです。その後の森有正の人生のすべてがこの死を めざしていたということです。自分の死を死ぬことが出来るために、残された人生を生き なければならないという森有正の人生観、哲学に圧倒されたのを思い起こします。自分の 死を死ぬという森有正の表現であったと思いますが自分の死をゴールとする決意をした、 森有正の信仰の強さと言いますか、透徹した人生哲学に感動させられます。考えてみれば これこそが真理なのです。ギリシャ以来の哲学という学問もこの境地に至るための修養と 考えられます。これほど人生の真実をまともに見て、それが日常の人生の生きる原動力と なっているというわけですから、森有正の死に対するポジテイヴな考え方、意志の強さ、 哲学者としての徹底的な生き方に教えられます。そして、森有正の哲学の根底に聖書の教 えがあることは確実なことでありますので、森有正は3代目のクリスチャンとして本当に この人生を真実に生きるモデルを示してくれたと思うのです。聖書を通して神が私たちに 要望しているのは、この森有正のような生き方をしなさいと言うことに他ならないのだと 思います。イエスキリストを通して私たちに賜ったのは、このような死に勝利する生き方 2 をすることが出来るという教えであります。 その森有正が非常に注目していたフランスのイエズス会の神父であり、科学者、思想家 でもあったティヤール・ド・シャルダンという人がおります。彼は、死について次のよう な意味のことを述べています。 「死は、無数の河川に流れ込む大海に似ている。死の中に、突然にせよ、徐々にせよ、あ らゆるものを衰退させ破壊する力の流れが吸収されていく。死はその要約であり、総決算 である。死は無条件に悪というほかない。人間を形成している有機的な統一が破壊され、 物質的に無数の要素に分解されるという意味で、まさに、肉体的な悪そのものである。 ・・・ 死の中に神を見出すことによって、死を克服しよう。そうすれば、心の奥底で神とは無縁 と思われていた最後の一隅も神のエネルギーで満たされる場になる。」 さらに続けて次のように述べています。 「キリスト教の信仰は、その主張と実践においていかなるあいまいさもない。キリストは 死に打ち勝った。キリストは死の害毒を取り除いただけでなく、死のとげを逆向きにした のである。キリストの復活のおかげで、われわれにはもはや絶対的な死というものがなく なった。人生におけるどんな出来事も、神の手による祝福された働きかけとなりうる。ど んなに罪を重ねても、また不幸にも、どんなに絶望的な状況に陥ったとしても、常に完全 に立ち直って、周りの世界を正常化し、再び、人生の新しい目標に向かって歩みはじめる ことができるのである。キリストの死と復活によって、死は本質的に生の一部となったの である。神の全能の働きは、部分的な死や究極の死から人間を遠ざけるのではなく、その 取り除けない悪を、より高い次元に組み入れることによって悪を役立てさせ、悪に復讐す るのである。そしてすべてを善に変える方法を与えてくれているのである。それは、イエ スキリストは真のアダムすなわち、the manとしての人間性をとることによって、 我々人類と一つ身体となるように、結び付けられたからである。わたし達人間は、このキ リストと一心身同体の存在様式に変えられているのである。だから、自分が死ぬことは、 一身同体であるキリストのエネルギーがすべてとなる瞬間とも考えられるのである。イエ スキリストの身体が自己の中に浸透するために、即ち、キリストの着物を着て、私自身の 全身がキリストの着物でおおわれ、完全にキリストのものへと聖化されるために死は存在 するのである。とげの抜かれた死とはそのような死の意味に他ならない。」(ティヤール・ ド・シャルダン著美田稔訳『神の場』五月書房、2006年、67頁。) こういう意味のことをティヤール・ド・シャルダンという人は語っています。 イエスキリストの救いは全人類に与えられたものと私は信じます。神のかたちを宿して いるのが、私たち人間です。神は、この世界を創造し、存在あらしめ、そしてこの世界を 美しい善なる世界へと完成させるために、救い主を送ってくださったのです。活力を奪う 破壊力も、悪も罪も、神の手にかかると天の国にふさわしい道具として神の国の成就の一 手段に置き換えられているのです。こういう聖書の教えを信じて生き死ぬことが出来るこ とが私たち東洋英和の建学の精神に基づく教育方針であると思います。 そういうわけですので、この人生の最大の悪である死に臨んでも、私たちの主イエス・キ リストによって、私たちに勝利を賜る神に、感謝の念をもって、この追悼記念礼拝を守り たいと思います。 3 今日の聖書の箇所の少し前に、私たちは死者から復活することになっており、地上の自 然の命の身体から、天上の霊の身体に、ラッパの響きと共に、一瞬にして変えられるとい う意味の事が書かれています。この死ぬべき自然の命の身体がもはや死ぬことのない朽ち ない命の身体という着物を着る時に、死は勝利に呑み込まれたという聖書の言葉が実現す ると書かれていました。この死が勝利に呑み込まれた瞬間に私たちの命の身体が栄光の身 体に変化するというイメージを分かりやすく、学生にはエリック・カールの絵本を使って 説明をしております。皆さんを前にして大変恐縮ではありますが、エリック・カールの「は らぺこあおむし」の絵本の絵を見て頂いて今日のお話しの締めくくりとさせてください。 (絵本を開きつつ)この地上の小さな青虫が蛹という死んだ状態になって何日も眠ってそ のあと、今日の聖書の言葉によれば、ラッパの音と共に、このような天上を舞うきれいな 蝶に大変身を遂げるのです。これが自然界の掟です。ですから私たちも死を経て朽ちない 霊の新しい体に大変身することは不可能ではないのです。神様がそのようになるように私 たちのためにすでにイエス・キリストによってして下っているからです。死は勝利に呑み 込まれているのです。 お祈りを致します。天の父なる神様、今日は、東洋英和に関係する方々の追悼礼拝に私 たちたちを御まねきくださり感謝します。主イエスキリストにあって、ご遺族の方々に主 からの平安と慰めをお与えください。そして、死に勝利して下った神の御業に感謝して、 残された者としての歩みを整えさせてください。主イエス・キリストのみ名によりこの祈 りを御前にお捧げ致します。 4
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