エピソードで綴るパリとフランスの歴史 第8回:パリ万博の歴史(7 月 2 日

エピソードで綴るパリとフランスの歴史
第8回:パリ万博の歴史(7 月 2 日)
質 疑 応 答 〔回答は常体で標記〕
1.博覧会で入場料は取ったのですか。取ったとすればいくらでしたか。大人? 小人?
入場料の徴収はまちがいない事実だ。今回講座で紹介した渋澤栄一の『航西日記』に
該当する記述があるので紹介しておこう。
「博覧会の木戸銭は 1 フランである。多くは切符を買っておいて見物する。1 週間
または二週間の通し切符もある。割引価格だという。外国公使やこの会に参加する
国々の貴族に随従する官員はみな無料である。開場以来、一日の入場料の額は約 7
万フランほどであるという。
」
これだけでは細かい点はよくわからない。1 フランといえば、およそ 1,000 円に相当
する。当時の新聞にアクセスすればわかるが、今すぐにはできない。宿題とさせていた
だくよりほかはない。他の本で知ったかぎりで、子どもは無料だったようだ。また、入
場料にはいくつかの例外があったようである。まず、所得額に応じて減免がなされたよ
うで、貧しい階層には本人の申請にもとづき、旅費も含めかなり減額されたことはわか
っている。そして、大人でも地方の名士にはしばしば招待状が配られ、これもまた無料
だった。入場者数が 680 万~1,000 万という幅が見られるのはこのためであろう。それ
でもなお黒字をだした点は注目に値する。
2.
「ユダヤ人はなぜ嫌われるか?」の回答が実にありがたいものだった。永年のギモン
(?)が解けたように思います。ありがとうございました。
「ユダヤ問題」とは学問上(歴史学上)の用語でしかないが、欧米やイスラム世界で
はたいへんな問題であると聞く。専門の学会および学会誌すらあるほどである。ひと口
に「…問題」といっても、問題の性格が異なるため時期を区切って論じなければならな
いだろう。後期講座で述べることにしたい。
3.フランス人の「合理性」の意味の広さが第2回万博の配置レイアウトを通してよく
わかった。芸術・デザインにも秀でており、フランス文化のすごさが解った。
たしかに、フランス人の合理主義を象徴する会場であるといえるだろう。
因みに、日本人の眼に映った万博会場のようすを見てみよう。出典は渋澤栄一の前掲
41
書『航西日記』である。弱冠 27 歳の渋澤はさすがに傑物だけのことはあり、好奇心きわ
めて旺盛でその着眼点は一風変わっている。少々長くなるが、引用紹介しておこう。
「博覧会場はセーヌ河畔のひろびろとした土地で、周囲は1里もあると思われる
元の練兵場である。その中心に楕円形の巨大な建物をたて、門には四方から通じ、
彩旗をたてめぐらし、内部外部にわけ、順次に道路を通じて徘徊遊覧に便利なよう
にしてある。内部はすなわち屋内で、東西諸州からこの会に参加した広狭を定め、
各部分を配当してある。フランスは自国のことだから、もっとも規模を盛大にし、
天然の霊妙、人工の聖地、産物の豊備、学芸の高尚なことは世界万国に比較しても
恥ずかしいものでないだけでなく、その得意をしめている。イギリスはその6分の
1をしめ、プロイセン、ベルギー、南北ゲルマン連合州、オーストリアはいずれも
16 分の1をしめ、ロシア、アメリカ、イタリー、オランダ、スイスは 32 分の1に
すぎず・・・。
場中に配列してあるのは、およそ物質の精果、天然の宝、日用の雑品、学芸にか
かわる諸道具など、自然が作りなしたもの、あるいは科学の粋を尽くして精神を込
めて造ったもの、古くは世界中にもまれな古器珍品を集めて残すところがなく、新
しくは現世発明品の新器を陳列して余すところもない。
各国の品物の違いを見ると、
自然にその風俗や人の知恵も思いやられて、とくに東洋と西洋の風俗気性がかけは
なれていることは、器具や服装についてもその一端が概見される。トルコ、エジプ
ト、アラビアの地方も、その風俗がちがっていて、荒れた僻地の発達が遅れた状態
は出品物からも推測される。スエーデン、ノールウェーは地球の西北のすみに偏在
して文物がまだ開化が十分でないことも察知される。すでに述べたように、あまね
く記し、ことごとくのせることができないので、省略するとして、おおまかな所見
を書くにとどめよう。
・・・
およそ、この会場は欧州人でも一週間を費やさねば、ふつうには全部を見果せな
い。まして、学術真理に関係する諸物品について、その原理にさかのぼって、その
根拠までを考究するには、学識のすぐれたものでなければできない。我輩は言語が
通ぜず、識見もすぐれていず、おまけに公務上の交際などがあって、観覧に数日間
をかけるなどということが、まったく夢の中で仙人の国に遊んだようで、ただぼん
やりとその光景の一班を記しただけである。展示場の外縁では、その周囲に店を開
き、諸州の名産を売っている茶店酒店は、その国風の服装をした妙齢の美少女をえ
らんで、数人ずつが給仕にあたっており、客を迎えさせている。米国から出した酒
店は、とくに美人がいるというので、遊客も多く集まり、オーストリアの酒店はそ
の女の服装も独特で、何となく古風である。そのほか、東西各国がそれぞれ趣気を
異にした風俗でその国産を売るなかに、フランス人で外国風に扮装し、未開の風俗
をまね、奇を好む客を引いて奇勝を博そうというのもある。観客の多くは、自国が
出した店で休憩している。これは感情の上からも当然であり、飲食物も口にあうか
らである。
」
42
渋澤が常人とは違った目でもってとくに関心を懐いたものを挙げておこう。
① 紡績機械や耕作機械
② 金銀の古貨幣(信用制度に注目し、後に証券取引所を視察)
③ 度量衡
④ 人体解剖の模型
⑤ 浄水装置と配水装置(後に市内各所の貯水池を視察している)
⑥ 鉄道と駅舎
⑦ 練兵の演習
4.
「自由の女神」…準備期間、建築技術(工事期間を含む)について教えてください。
「自由の女神」像の除幕式は 1886 年だが、この構想そのものと造成工事はフランスで
なされた。構想は 1865 年、コレージュ・ド・フランス教授エドゥアール・ド・ラブレー
(Edouard de Laboulaye;法学)に始まる。つまり、アメリカ独立革命百年は 1876 年
だが、これに際しフランスで何らかのかたちで奉献できないかと提案したのである。フ
ランスは百年前の合衆国独立の戦争に援軍を派遣して支援した経緯があった。この提案
が国民議会で決議されたのは 1871 年のことである。
当時のフランスがおかれていた状態は普仏戦争敗北とコミューン騒動という二重の多
難から再起しようとする時期にあたった。フランスはコミューン弾圧に踏みきったもの
の、
「政体そのものは共和制を堅持するぞ」とばかり、その政治姿勢を内外に向かって宣
言するつもりだったのかもしれない。
ともあれ、銅製の彫像にすることに決まり、彫刻家のオーギュスト・バルトルディ
(Auguste Batholdi)に委託された。モチーフはフランス革命の象徴マリアンヌ女神か
ら着想を受け、像のデザインはドラクロアの絵「民衆を導く自由の女神」である。
内部の鉄骨構造は、当代随一の建築家と目され、パリのノートルダム大聖堂の修復工
事の実績を誇るヴィオレ・ル・デュク Vollet-le-Duc)が受けもつことになった。だが、
彼は 1879 年に死去したため、その後任となったのが鉄橋技師エッフェルである。エッフ
ェルは鉄骨の原案を修正し、中を中空にくり抜くとともに螺旋階段を設けることによっ
て人が昇降できるようにした。
「自由の女神」は銅製だが、緑青のせいで緑色になっている。像の頭の部分まで 111.1
フィート(約 34m)
、台座からトーチまでは 151.1 フィート(46m)
、結局、台座部分か
らトーチまで 305.1 フィート(93m)になる。総重量は 225 トンである。エッフェル塔
が 350 トンだから、中空とはいえ女神像もかなりの重さをもつことになる。
女神像は右手に純金で形作られた炎を要する松明を空高く掲げ、左手に合衆国の独立
記念日の「1776 年 7 月 4 日」
、フランス革命の勃発日「1789 年 7 月 14 日」をローマ数
字で刻印された銘板をもつ。足元には引きちぎられた鎖と足枷があって、女神がこれを
踏みつけにしている。つまり、弾圧や抑圧から人類は自由であり平等であることを意味
する。女神が被っている冠には7つの突起がある。これは 7 つの大陸と 7 つの海に自由
43
が広がるという意味である。あるいはキリスト教でいう「7つの大罪」だとする説もあ
る。
資金集めのためのキャンペーンとして宝くじや 1878 年のパリ万博の機会を利用し、
そ
の時すでに完成していた頭部だけを展示し、40 万ドル相当の寄付金を集めた。1884 年に
パリで仮組み完成し、約 200 個の部分に分解してフランス海軍の輸送船イゼール号でア
メリカに運ばれた。
結局のところ、
構想そのものから 20 年、
着工から十数年を費やして完工したのである。
なお、
「自由の女神」像はニューヨークのリバティ島以外にもラスベガス、フランスのパ
リ、ボルドー、サンテチェンヌ(金属工業の町)
、コルマール(バルトルディの故郷)
、
アングレーム、ポワティエにもある。日本(東京お台場)にもあることを知っているだ
ろうか。
なかでも有名なのはパリのセーヌ川グルネル橋の袂に飾られている「自由の女神」像
である。これは 1889 年の万博に際し本物の「自由の女神」像が贈られた返礼としてアメ
リカ人有志が寄金を募ってレプリカをパリに寄贈したものであり、高さは 14mほどであ
る。セーヌ川の遊覧船がUターンする場所に据えられているので、遊覧船から、しかも
夜間に見上げると最も見栄えが良い。
パリのカルティエ・ラタンの端のリュクサンブール公園にもレプリカがある。
(c)Michiaki Matsui 2015
44