社会心理学

レスポンデント条件付け・オペラント条件付け
レスポンデント条件付け・オペラント条件付けは、アメリカ合衆国の心理学者で行
動分析学の創始者、バラス・フレデリック・スキナーが、人間を含む動物の行動をレ
スポンデントとオペラントに分類し、パブロフの条件反射をレスポンデント条件付け
として、またソーンダイクの試行錯誤学習をオペラント条件付けとして再定式化した
もので、オペラントとは、働きかけるという意味です。
レスポンデントとオペラントは学習と深い関わりがあり、まず、レスポンデント条
件 付 け で す が 、 こ れ を 説 明 す る に は ”パ ブ ロ フ の 犬 ”が 一 番 で す 。 心 理 学 に 興 味 が あ る
方は聞いたことがあるかもしれませんが、パブロフという学者が犬を使って実験をし
たのでそう呼ばれています。実験の内容は、犬にエサを与えると同時にベルを鳴らす
ということを何度も繰り返します。すると、犬はベルの音を聞くだけで唾液を分泌す
るようになります。犬はベルが鳴るとエサがもらえるということを学習したのです。
こういった学習をレスポンデント条件付けと言います。
次に、オペラント条件付けですが、今度は犬の代わりにネズミに登場してもらいま
す。スキナーという学者は、レバーを押すとエサが出てくる装置を設置した箱(スキ
ナーの箱)の中に、空腹のネズミを入れてその行動を観察しました。はじめのうちネ
ズミは箱の中をただグルグルと動き回るだけです。そのうちに偶然レバーに触れてエ
サがもらえます。そして、ぐるぐる回ってはレバーに触れてエサがもらえるというこ
とを繰り返しているうちに、
「 レ バ ー を 押 せ ば エ サ が も ら え る 」と い う こ と を 学 習 し ま
す。一度学習すると、いったん箱から出して時間をおいた後に再び箱に入れてもレバ
ーを押すという行動をとります。こういった学習をオペラント条件付けといいます。
レスポンデント条件付け、オペラント条件付けは、1つの条件を繰り返す事によっ
て行動を強化、消化していく事に於いて、 大きな共通点があるといえます。しかし、
オペラント条件付けは、自発的な行動を繰り返す事によって、物事を強化させたり、
消化させたりします。そのため日常生活の中のいたるところで偶発的に生じ、また経
験則として、子どものしつけや飼育動物の訓練などに古くから用いられてきました。
し く せ
現在では、動作や運転などの技能訓練、嗜癖や不適応行動の改善、障害児の療育プロ
グ ラ ム 、 身 体 的 ・ 社 会 的 リ ハ ビ リ テ ー シ ョ ン 、 e-ラ ー ニ ン グ な ど 、 幅 広 い 領 域 で 自 覚
的で洗練された応用がなされています。
オ ペ ラ ン ト 条 件 付 け に は 、『 報 酬 ・ 罰 の 効 果 を 持 つ 強 化 子 』 を 利 用 し て 行 動 の 生 起
頻度をコントロールする学習行動があります。この行動原理は、適応的な行動を学習
して非適応的な行動を消去することを目的とし、正の強化子として『賞賛・肯定・エ
コノミートークン(擬似貨幣)の報酬』を用い、負の強化子として『やりたいことを
やらない・やりたくないことをやるなどの罰』を用いることです。簡単にいうと、良
い こ と を 行 っ た と き は 褒 め( 報 酬 )、悪 い こ と を 行 っ た と き は 叱 る( 罰 )を 与 え る こ と
です。これを繰り返すことによって良い行動は強化(次も行う)され、悪い行動は修
正(やらなくなる)されるのです。
スタンフォード監獄実験
スタンフォード監獄実験とは、アメリカのスタンフォード大学で行われた、心理学
の実験である。心理学研究史の観点からは、ミルグラム実験(アイヒマン実験)のバ
リエーションとも考えられている
1971 年 8 月 14 日 か ら 1971 年 8 月 20 日 ま で 、 ア メ リ カ ・ ス タ ン フ ォ ー ド 大 学 心 理
学部で、心理学者フィリップ・ジンバルドーの指導の下に、刑務所を舞台にして、普
通の人が特殊な肩書きや地位を与えられると、その役割に合わせて行動してしまう事
を証明しようとした実験が行われた。模型の刑務所(実験監獄)はスタンフォード大
学地下実験室を改造したもので、実験期間は 2 週間の予定だった。
新 聞 広 告 な ど で 集 め た 普 通 の 大 学 生 な ど の 70 人 か ら 選 ば れ た 被 験 者 21 人 の 内 、 11
人 を 看 守 役 に 、10 人 を 受 刑 者 役 に グ ル ー プ 分 け し 、そ れ ぞ れ の 役 割 を 実 際 の 刑 務 所 に
近い設備を作って演じさせた。その結果、時間が経つに連れ、看守役の被験者はより
看守らしく、受刑者役の被験者はより受刑者らしい行動をとるようになるという事が
証明された。
ジンバルドーは囚人達には屈辱感を与え、囚人役をよりリアルに演じてもらう為、
パトカーを用いて逮捕し、囚人役を指紋採取し、看守達の前で脱衣させ、シラミ駆除
剤 を 彼 ら に 散 布 し た 。背 中 と 胸 に 黒 色 で そ れ ぞ れ の ID 番 号 が 記 さ れ た 白 色 の 女 性 用 の
上っ張り、もしくはワンピースを下着なしで着用させ、頭には女性用のナイロンスト
ッキングから作ったキャップ帽を被せた。そして歩行時に不快感を与えるため彼らの
片足には常時南京錠が付いた金属製の鎖が巻かれた。更にトイレへ行くときは目隠し
をさせ、看守役には表情が読まれないようサングラスを着用させたりした。囚人を午
前 2 時に起床させる事もあった。
次 第 に 、看 守 役 は 誰 か に 指 示 さ れ る わ け で も な く 、自 ら 囚 人 役 に 罰 則 を 与 え 始 め る 。
反抗した囚人の主犯格は、独房へ見立てた倉庫へ監禁し、その囚人役のグループには
バ ケ ツ へ 排 便 す る よ う に 強 制 さ れ 、耐 え か ね た 囚 人 役 の 一 人 は 実 験 の 中 止 を 求 め る が 、
ジンバルドーはリアリティを追求し「仮釈放の審査」を囚人役に受けさせ、そのまま
実験は継続された。看守役は、囚人役にさらに屈辱感を与えるため、素手でトイレ掃
除(実際にはトイレットペーパの切れ端だけ)や靴磨きをさせ、ついには禁止されて
いた暴力が開始された。ジンバルドーは、それを止めるどころか実験のリアリティに
飲まれ実験を続行するが、牧師がこの危険な状況を家族へ連絡、家族達は弁護士を連
れて中止を訴え協議の末、6 日間で中止された。
後のジンバルドーの会見で、自分自身がその状況に飲まれてしまい、危険な状態で
あると認識できなかったと説明した。
実験の結果
強い権力を与えられた人間と力を持たない人間が、狭い空間で常に一緒にいると、
次第に理性の歯止めが利かなくなり、暴走してしまう。しかも、元々の性格とは関係
なく、役割を与えられただけでそのような状態に陥ってしまう。
動機づけ
動 機 づ け( ど う き づ け 、motivation/モ チ ベ ー シ ョ ン 、モ テ ィ ベ ー シ ョ ン )と は 行 動
を始発させ、目標に向かって維持・調整する過程・機能です。
この動機づけは人間を含めた動物の行動の原因であり、そのため動物が行動を起こ
している場合、その動物には何らかの動機づけが作用していると考えられます。
動機づけは、大きく分けて生理的動機づけと社会的動機づけがあり、生理的動機づ
けは、生命を維持し、種を保存させるための生得的な動機で、飢え、睡眠、排泄、身
体的損傷回復などです。一方、社会的動機づけには、社会目標を達成しようとする達
成動機づけがあり、これは更に内発的動機づけと外発的動機づけに分けられます。
達成動機づけ
達成動機づけとは、帰属する社会集団・人間関係において価値があるとされている
目標を達成しようとする動機づけのことです。
達 成 動 機 に は 、他 者 か ら の 賞 賛 や 評 価 を 求 め る よ う な『 外 発 的 な 達 成 動 機 』と 、
自 分 自 身 の 自 尊 心 や 目 的 意 識( 自 己 実 現 )と 関 係 し た『 内 発 的 な 達 成 動 機 』 が あ り
ま す 。 一 般 に 、 達 成 動 機 に は 『 平 均 以 上 の パ フ ォ ー マ ン ス ( 成 果 )』 を 上 げ た い
と い う 優 越 欲 求 ( 自 尊 感 情 ) が 強 く 関 係 し て い て 、『 競 争 原 理 ・ 承 認 欲 求 』 に よ っ
て達成動機は更に強まっていく傾向が見られます。そのため達成動機が高い人は内的
要因である能力や努力に原因が帰属すると考える傾向が強く、一方で達成動機が弱い
人は外的要因である問題の困難性や偶然性に原因が帰属すると考える傾向が強いと言
われています。
内発的動機づけ
内発的動機づけとは好奇心や関心によってもたらされる動機づけであり、賞罰に依
存しない行動です。しかし、好奇心だけでなく、自分で課題を設定してそれを達成し
ようとするような状況においては自分が中心となって自発的に思考し、問題を解決す
るという自律性、また解決によってもたらされる有能感が得られ、内発的動機づけと
なり得ます。一般的に内発的動機づけに基づいた行動、例えば学習は極めて効率的な
学習を行い、しかも継続的に行うことができると言われています。これを育てるため
には挑戦的、選択的な状況を想定して問題解決をさせることが内発的動機づけを発展
させるものと考えられています。
外発的動機づけ
外発的動機づけとは義務、賞罰、強制などによってもたらされる動機づけです。内
発的な動機づけに基づいた行動は行動そのものが目的ですが、外発的動機づけに基づ
いた行動は何らかの目的を達成するためのものです。強制された外発的動機づけが最
も自発性が低い典型的な外発的動機づけですが、自己の価値観や人生目標と一致して
いる場合は自律性が高まった外発的動機づけと考えられます。外発的動機づけは内発
的動機づけと両立しうるものであり、また自律性の高い外発的動機づけは内発的動機
づけとほぼ同様の行動が見られると考えられています。
帰属意識(組織コミットメント)という概念
三 省 堂 大 辞 林 で 帰 属 と い う 言 葉 を 引 く と 、「 属 し て 、 つ き 従 う こ と 。「 会 社 へ の ― 意
識」と出る。帰属意識という言葉は、国への帰属意識であるとか、企業への帰属意識
などといった具合に日常的にも良く耳にする言葉ではあるが、その概念に関しては概
して明確にされていないことの方が多い。そこで、まず、帰属意識に関する概念に関
して過去の研究をレビューする。
ア メ リ カ の 社 会 心 理 学 者 で あ る 、ニ ュ ー カ ム( Newcomb,1959)は「 集 団 の 成 員 が 、
その集団への所属に満足し、集団を愛し、集団の存続発展を願っているとき、その心
情を帰属意識と呼ぶことにする」と帰属意識を定義している。
1950 年 代 か ら 60 年 代 に か け て 、 日 本 の 大 企 業 労 働 者 を 対 象 に し た 帰 属 意 識 調 査
を 行 っ た 、 尾 高 邦 雄 ( 1965) は 、「 帰 属 意 識 と い う の は 、 あ る 集 団 の 成 員 が 、 た ん に
形の上でそれに所属しているだけではなく、生活感情のうえでも、その集団を自分の
集団、自分の生活根拠として感じ、したがってまた、自分自身を何よりもまずその特
定の集団の一員として感じている度合いを指す言葉であって、この度合いが普通より
も大きく、いわばプラスの側にある場合には帰属意識、帰属性が高いといい、普通よ
りも小さく、いわばマイナス側にある場合にはそれが低いというのである。一体感と
か忠誠心とか言う言葉も、これに近い内容持っているが、前者はやや抽象的で実感に
乏しく、後者には封建的な匂いが伴うのでこれらの語はとらない」と述べている。
若い人たちに組織に対する帰属意識を高めてもらうにはどうしたらよいのだろう
か、やはり、上司となるべき人が若い人たちの憧れとなり、この人の為ならば、この
人に付いて行こうとなれば、当然、その組織には帰属性が発生し易いと思う。また、
やりがいのある仕事、達成感のある仕事、仕事の対価に対する正当な報酬、職場内の
友好な対人関係など、帰属意識を高めるためには色々なことが挙げられる。しかし、
一番重要なことは、その組織に自分が必要だと思われることではないだろうか。誰し
も自分がその組織にとって必要と感じたならば、喜びや愛着を感じ、自分が主体とな
って自分の組織と思うのではないだろうか。一方、この組織に留まりたいという強い
願も「この会社をほおり出されたら、今の給料は維持できない・・」という”しがみ
付き意識”では、その組織に喜びや愛着を感じることもなく、本当の帰属意識とは言
えないのではないだろうか。
組織コミットメント
個 人 が 何 を 基 準 に 組 織 と 結 び つ い て い る か を 組 織 コ ミ ッ ト メ ン ト と い い ま す 。組 織
コミットメントは 3 つの次元からなるといわれています。
1 感情・・・この組織と一緒にいたい
2 必要性・・この組織にいると対価を得られる
3 規範・・・組織に従属することが社会的規範になっている
プライミング効果
プライミング効果とは,先行する刺激(以下プライム)とそれに続く刺激(以下ターゲット)
との間にカテゴリー関係や連想関係があるとき,後の刺激の処理が促進,もしくは抑制される心
理現象である.最近では,プライムとターゲットを異なった視野に提示し,どの提示視野条件で
意味プライミング効果がみられるのかを調べ,各半球内,および半球間における意味処理機構に
ついて検索が行われている.
ブースター効果
ブ ー ス タ ー 効 果 ( booster effect) は 、 体 内 で 1 回 作 ら れ た 免 疫 機 能 が 、 再 度 病 原
体に接触することによって、さらに免疫機能が高まることを意味する生物学用語であ
る 。日 本 語 名 は 追 加 免 疫 効 果 で あ る 。2000 年 代 に 日 本 で 麻 疹 が 流 行 し た の は 、麻 疹 に
罹患している人に接触する機会が失われ、このブースター効果が得られず追加免疫を
もてなくなったことに由来する。ブースター効果は予防接種にも応用されており、子
供 の イ ン フ ル エ ン ザ ワ ク チ ン や 、MR 生 ワ ク チ ン( 麻 疹 ・ 風 疹 混 合 )は 2 回 行 う が 、こ
れはブースター効果によって追加免疫を獲得することを狙って行われている。
ゲシュタルトの祈り
ド イ ツ の 精 神 医 学 者 、 フ レ デ リ ッ ク ・ S ・ パ ー ル ズ (1893~ 1970)の 詩
私は私のために生き、あなたはあなたのために生きる。
私はあなたの期待に応えて行動するためにこの世に在るのではない。
そしてあなたも、私の期待に応えて行動するためにこの世に在るのではない。
もしも縁があって、私たちが出会えたのならそれは素晴らしいことだ。
出会えなくても、それもまた素晴らしいこと。
訳
私は私のことをします。ですから、あなたはあなたのことをして下さい。私は、あ
なたの期待に添うために生きているのではありません。そして、あなたもまた、私の
期 待 に 添 う た め に 生 き て い る の で は あ り ま せ ん 。あ な た は あ な た 、私 は 私 で す 。で も 、
私 た ち の 心 が 、た ま た ま 触 れ 合 う こ と が あ っ た の な ら 、ど ん な に 素 敵 な こ と で し ょ う 。
でも、もしも心が通わなかったとしても、それはそれで仕方のないことではないです
か 。( 何 故 な ら 、 私 と あ な た は 、 独 立 し た 別 の 存 在 な の で す か ら … )
この祈りはドイツの放浪の精神科医と言われ、半分聖人、半分ルンペンとも呼ばれ
た 、 フ レ デ リ ッ ク ・ S・ パ ー ル ズ に よ っ て 提 唱 さ れ た 詩 で あ る 。 他 者 へ の し が み つ き 、
他者を操縦しようとする努力を未成熟の兆候として徹底的に排除し、自立、自律性、
自 己 責 任 の 確 立 を 目 標 と し た 。そ の た め に 、
「 今 、こ こ 」の 気 づ き の「 体 験 」の 重 要 性
を 主 張 し た 。そ れ は 頭 で 考 え る 観 念 論 的 な 体 系 化 を 否 定 し 、
「 今 、こ こ 」で 直 感 的 に つ
かむものである。ゲシュタルトとは「全体性」または「全体のかたち」ということで
ある。
#
人間が生きていく上で言葉は重要な役割を占めるが、また言葉ほど頼りにならな
いものはない。例えば、怒っている生徒に、先生が「お前怒っているね」と聞く、生
徒 は「 い い え 」と 答 え る が 、
「 怒 っ て い る 」と い う 感 じ は 全 体 像 と し て 、誰 が 見 て も 明
白である。そして怒っているのは昨日でもなく、明日でもなく、5 分前でもなく、5
分 後 で も な く 、「 今 、 こ こ 」 で 言 葉 に 関 係 な く 、 存 在 し て い る こ と を 確 認 し て い く 。
#
「~したい」という人間と「~するべき」という人間では本質的な違いがある。
「 ~ し た い 」は 自 分 が 確 立 し て い る 。
「 ~ す る べ き 」は 自 分 以 外 の も の に 縛 ら れ て い る 。
#
「なぜ」という質問は相手に想像の答えを強いる。子供が窓ガラスを割ったとす
る。理由をいくら述べても大して役に立たない。割れたものは割れたのである。そこ
で、
「 な ぜ 」を「 ど の よ う に 」に お き か え て み る 。
「どのようにしてそれは起こったか」
という質問には事実が返ってくる。
#
「 ~ で き な い 」と い う 言 葉 を 嫌 う 。
「 ~ で き な い 」と い う 語 は 責 任 を と ら な い こ と
の表明である。大部分の「~できない」は「~したくない」と表せば自己責任が明確
になる。
#
ゲ シ ュ タ ル ト の モ ッ ト ー で あ る「 私 は 私 」と い う こ と は 利 己 主 義 と い う こ と で は
ない。自主性の確立ということであり、利己主義や孤立無援とは違う。自分が自分で
あるということは、必要なことを他者に依頼することや、自発的に他者を愛すること
を 含 む 。し か し 、こ の 場 合 の「 愛 」と は「 し が み つ き 」で は な く 、「 私 は 私 」と い う 成
熟を目ざしていく。人間の成熟性というのは他者が思うように動かないという欲求不
満の状態の時、よく観察できる。このような場合、成熟した人は自分の能力の限界を
よく受容して、いさぎよくあきらめるか、実現可能な方策を探る。未成熟な人は怒っ
たり、悲しんだり、あわてたり、ぐちをこぼしたりする。そして、子供のように、悲
しそうな顔をしたり、不安がったり、同情を引こうと事実以上のことをいう。
1
今に生きる。過去や未来でなく現在に関心をもつ。
2
ここに生きる。眼の前にないものより、眼の前に存在するものをとり扱う。
3
想像することをやめる。現実を体験する。
4
不必要な考えをやめる。むしろ、直接味わったり見たりする。
5
他の人を操縦したり、説明したり、正当化したり、審判しないで、ありのままの
自分を表現する。
6
快楽と同じように、不愉快さや苦痛を受け入れる。
7
自分自身のもの以外のいかなる指図や指示を受け入れない。偶像礼拝をしない。
8
自分の行動、感情、思考については完全に自分で責任をとる。
9
今のまま、ありのままの自分であることに徹する。
人生、主体的に生きていけたら素晴らしいことだと思います。そこには自立性や創
造力があり、自分の考えで動き自分の行動や感情にも責任がもてるのではないでしょ
うか。
自分を大切にし、大切な誰かも尊重する。考えの違いを赦せなくなるのではなく、
そ う ゆ う 考 え 方 も あ る ん だ な と 思 う こ と が で き た ら 、も っ と お 互 い に 分 か り 合 え た り 、
話し合えたりできるかもしれません。
自分と他者との違いを認めたり、受け入れることができれば、差別やいじめはなく
なるかもしれません。
ゲシュタルトの祈りを読んで私は、自他の尊重、他者と自分との違いを受け入れた
り、認めたりすることの大切さを感じます。
死にたいほどの無理をして誰かの期待に添う必要はないと思うし、自分の人生を変
えられるのは自分だけだと思います。
「今・ここ」からが未来へのスタートです。
ピーターパン・シンドローム
一般的に知られている「ピーターパン」は、バリの書いた「ピーターパンとウエン
ディ」の一部で、ウェンディがピーターパンたちと空を飛んだり大冒険する話です。
この話では、ウェンディがピーターパンたちのお母さんの役を果たしていて、お母
さんを夢見る女の子達には、ウェンディはあこがれの的なんでしょうね。
でも、バリの書いた話の最後は、ちょっと物悲しい。ネヴァーランドから帰ってき
て 、そ の 後 お 母 さ ん に な っ た ウ ェ ン デ ィ の 家 に 、再 び ピ ー タ ー パ ン が 現 れ る 。し か し 、
ピ ー タ ー パ ン は ウ ェ ン デ ィ の 事 を す っ か り 忘 れ て し ま っ て 、思 い 出 す こ と は 無 か っ た 。
ピ ー タ ー パ ン が ウ ェ ン デ ィ の 娘 を ネ ヴ ァ ー ラ ン ド に 連 れ て 行 っ た 後 、ウ ェ ン デ ィ は 、
開け放たれた窓から空を見つめるだけでした。
ピーターパンは大人にならない子供だけど、ウェンディはお母さんになった。この
ため、ピーターパンはウェンディがわかんなくなったんでしょうね。夢をかなえた為
失ったもの、それが子供の心、ピーターパンなんでしょうね。
子供から大人になる過程で、青年の時期がある。多くの人は、この青年の時期を通
って大人になる。だけど、中にはこの時期から前に進めない人達がいます。その現象
を、ピーターパンシンドロームといいます。
ネバーランドに住んでいるピーターパンは、大人にならない子供。いつか大人にな
る日を夢見ながら、しかも同時にいつまでも子供のままで過ごしていたいと考えて、
親の庇護の下の、安心して暮らしていける環境で、社会参加せず、就職せず、結婚せ
ず、子供も育てずにいる。
ピーターパンシンドロームという社会現象は、このような状態の事を言ってます。
青年期が大人への猶予期間として見られていて、甘えが生まれがちなのも、この社会
現象を増徴させてる原因でしょうね。
で も ね 、ピ ー タ ー パ ン も 大 人 に な っ た 話 が あ っ た ん だ よ 映 画「 フ ッ ク 」が そ う で す 。
それは、こんなストーリーだった。ピーターパンは大人になって、就職して、結婚
して、子供もできた。しかし、ある日ピーターパンの子供達がフックに誘拐されてし
まった。ピーターパンは、子供を取り戻す為にネバーランドに戻ってきて、そこで、
自分がピーターパンだということを思い出した。
そして、空を飛び、短剣でフック船長と戦って、子供を取り戻した。でも、取り戻
したのは子供で、子供の心じゃなかったから、ネバーランドから、自分が大人として
生きている世界に戻っていった。大人になると、もう子供には戻れないから。
世の中には、子供に戻る事に憧れを持っている大人もいます。でも、戻れないのが
現実。
バーナム効果(フォアラー効果)
バーナム効果、フォアラー効果、あるいは主観的な評価、個人的な評価ともいわれ
る。
( “ バ ー ナ ム 効 果 ” と い う の は 、巧 み な 心 理 操 作 を 使 っ た サ ー カ ス で 有 名 と な っ た
P・ T・ バ ー ナ ム に ち な ん で 、 心 理 学 者 ポ ー ル ・ ミ ー ル が つ け た 名 前 ら し い 。)
心 理 学 者 B・R・フ ォ ア ラ ー は 、人 々 が 漠 然 と し て ご く あ り き た り な 性 格 描 写 を 、他
人にもそれが当てはまることを考えることなく、あたかも自分自身についていってい
るように感じてしまうことを発見した。以下の文章を、あなたの性格評価だと思って
読んでみてほしい。
あ な た は 他 人 に 好 か れ た い 、尊 敬 さ れ た い と い う 欲 求 を 持 っ て い ま す が 、自 分 自 身
に は 懐 疑 的 で す 。性 格 的 に 弱 い と こ ろ は あ り ま す が 、日 常 的 に は こ う し た 欠 点 を 克 服
で き て い ま す 。あ な た に は 、ま だ 隠 さ れ た 素 晴 ら し い 才 能 が あ り ま す が 、そ れ を 使 い
こ な す と こ ろ ま で は い っ て い ま せ ん 。外 面 的 に は よ く し つ け ら れ て 自 己 抑 制 も で き て
い ま す が 、内 面 的 に は 臆 病 で 不 安 定 な と こ ろ が あ り ま す 。と き と し て 、正 し い 決 断 を
し た の か 、正 し い こ と を し た の か と 深 く 悩 む こ と が あ り ま す 。あ る 程 度 変 化 と 多 様 性
を 好 み 、規 則 や 規 制 で が ん じ が ら め に な る の を 嫌 い ま す 。自 分 で も の ご と を 考 え て い
て 、そ の こ と に 誇 り を 持 っ て い ま す; 根 拠 も な し に 他 人 の 言 う こ と を 信 じ た り は し ま
せ ん 。で す が 、他 人 に 易 々 と 自 分 の 内 面 を 見 せ て し ま う の は 賢 い こ と で は な い と も 知
っ て い ま す 。外 交 的 で 愛 想 よ く 、 社 交 的 な と き も あ る 反 面 、 内 向 的 で 用 心 深 く 、無 口
なときもあります。非現実的な野望を抱くこともあります。
フォアラーは自分の学生を対象として性格診断テストをおこない、解答を無視して
学生すべてに上記の回答を診断結果として与えた。かれは学生に、この診断結果が当
たっているかどうか、0 から 5 までの値で評価するよう求めた。被験者が回答を“よ
く 当 た っ て い る ” と 思 う 場 合 は “ 5” 、 “ 比 較 的 当 た っ て い る ” 場 合 は “ 4” で あ る 。
ク ラ ス の 学 生 の 評 価 値 は 平 均 す る と 4.26 で あ っ た 。 こ れ は 1948 年 の 話 で あ る 。 こ の
テストは心理学専攻の学生を対象として何百回も繰り返して行なわれているが、平均
は 依 然 と し て 4.2 を 記 録 し て い る 。
手短に言えば、フォアラーは性格を当ててみせたと人々に確信させたのである。彼
の正確さに学生は驚いたのだが、じつは彼の用いた診断結果はスタンド売りされてい
る新聞の占星術欄から星座を無視して抜き出したものである。フォアラー効果は、な
ぜ多くの人が疑似科学を“効果がある”と信じてしまうのかを、少なくとも部分的に
は説明 して くれ る。占 星 術や ア ス ト ロセ ラ ピ ー 、バ イオ リ ズ ム 、カ ー ド占 い 、手 相 占
い、エニアグラム、未来占い、筆相学などは、それがもっともらしい性格診断をして
みせるせいで、効果があるように感じてしまうのである。科学的研究によって、こう
した疑似科学の小道具は性格診断には役立たないと明らかにされているが、それでも
各々、効くと信じ込んでいる多数の顧客を抱えている。しかし、こうした疑似科学を
いかに個人的、あるいは主観的に評価したとしても、それが正確かどうかとは何の関
係もないのだ。
こうしたフォアラー効果に対する一般的理由づけとしては、希望やないものねだり、
虚栄や経験にもとづかずに理解しようとする傾向などがあげられる。もっとも、フォ
アラーは人間の騙されやすさという観点で説明している。人は、客観的基準にもとづ
いた経験的に確かさではなく、自分が事実であってほしいと思っているのとつりあう
主張の方を受け入れやすい。私たちは、肯定的で耳に心地よい意見であれば、うそく
さい、間違った意見でも受け入れてしまいがちである。私たち自身のことがらとなる
と、曖昧で一貫性のない主張にも寛大な解釈を与えて、その意味を汲み取ろうとして
しまうこともしばしばある。霊能者や霊媒師、占い師、読心術師、筆相学者などのカ
ウンセリングにかかる被験者たちは、しばしば間違った意見や疑わしい意見を無視す
るし、多くの場合、自分ではそうと気づかぬうちに、自分の話や振る舞いを通じて疑
似科学カウンセラーに情報を与えているのである。こうした被験者の多くは、しばし
ば個人についての深い洞察を与えてくれていると感じるだろうが、ここで述べたよう
な主観的な評価に科学的価値はないのである。
心理学者のバリー・ベイヤースタインは、“希望と不確実性が、オカルトや疑似科
学的性格の指導者たちの商売を成立させる、強力な心理的プロセスを生み出す”と信
じている。私たちは常に、“日々直面するばらばらの情報から意味を見出そうとして
おり”、そして“時にはナンセンスとしかいえない、入力された断片的な情報から、
合理的なシナリオを作り出して埋め合わせをする能力に長けている。”私たちは、証
拠を注意深く観察すれば、それが曖昧で混乱しており、不明瞭で一貫性に乏しく、そ
して不可解でさえあると解るようなことがらについてさえ、しばしば空白を埋めて、
見たり聞いたりしたことがらについて首尾一貫した絵を描くのである。たとえば、霊
媒師は断片的で漠然とした質問を、たて続けにいくつもおこなう場合が多いので、被
験者は霊媒師がすぐさま個人の知る範疇に入ってくるような印象を受けるのである。
事実、霊能者は被験者の人生の洞察など必要としないのである;なぜなら、被験者は
自分で気づかぬうちに、必要な関連情報や確証を積極的に与えているからである。霊
能者がこうしたプロセスをおこなうには、コールド・リーディングというテクニック
が重要な役割を担っている。
コ ー ル ド ・ リ ー デ ィ ン グ ( Cold reading) と は 話 術 の 一 つ 。 外 観 を 観 察 し た り 何 気 な
い会話を交わしたりするだけで相手のことを言い当て、相手に「わたしはあなたより
も あ な た の こ と を よ く 知 っ て い る 」と 信 じ さ せ る 話 術 で あ る 。
「 コ ー ル ド 」と は「 事 前
の 準 備 な し で 」、
「 リ ー デ ィ ン グ 」と は「 相 手 の 心 を 読 む 」と い う 意 味 で あ る 。詐 欺 師 、
占い師、霊能者などが相手に自分の言うことを信じさせる時に用いる話術であるが、
その技術自体はセールスマンによる営業、警察官などの尋問、催眠療法家によるセラ
ピー、筆跡鑑定、恋愛などに幅広く応用できるものであり、必ずしも悪の技術とは言
えない。
実際のリーディングを始める前に、読み取る者は相手の協力を引き出そうとする。
「私には色々なイメージが見えるのですが、どれも明確ではないので、私よりあなた
の方が意味が分かるかもしれません。あなたが助けてくだされば、二人で協力してあ
な た の 隠 れ た 姿 を 明 ら か に で き ま す 。」こ れ は 相 手 か ら よ り 多 く の 言 葉 や 情 報 を 引 き 出
そうという意図である。
そして分からないように相手をよく観察しながら、誰にでも当てはまりそうなごく
一般的な内容から入る「
。 あ な た は 、自 信 が な く な る 感 じ の す る こ と が あ る よ う で す ね 。
特 に 知 ら な い 人 と 一 緒 に い る と き な ど で す 。そ の よ う に 感 じ ま す が ど う で す か ? 」
(バ
ー ナ ム 効 果 を 参 照 ) ま た は 、観 察 に 基 づ き 、よ り 具 体 的 に み え る 内 容( 実 は 具 体 性 は
あ ま り な い )に 踏 み 込 ん で 推 測 を 行 う 。
「私には年老いた婦人があなたのそばによりそ
っているイメージが見えます。少し悲しそうで、アルバムを持っています。このご婦
人 は ど な た か お 分 か り に な り ま す か 。」「 私 は あ な た の 痛 み を 感 じ ま す 。 多 分 頭 か 、 も
し く は 背 中 で す 。」相 手 は こ れ ら 具 体 性 の な い 推 測 に 対 し て 、び っ く り し た り 思 い 当 た
ることを話したりするなどの反応をすることで、リーディングを行う者になんらかの
情報を明かしてしまうことになる。これを基礎に、リーディングを行う者はさらに質
問を続けることができる。推測が次々当たれば、相手はリーディングを行う者への信
頼をどんどん深めてしまう。もし相手に推測を否定されたとしても、態度を崩したり
うろたえたりせず、威厳をもって「あなたは知らないかもしれないが実は私にはその
ように見えるのです」と言い張るなど、信頼を損なわずうまく切り返す方法がある。
社 会 的 な 集 団 状 況 に お け る 『 同 調 圧 力 ( 集 団 圧 力 )・ 役 割 行 動 規 範 』 と 『 個 人 の 判 断
基準』との葛藤
いじめやモラルハラスメント(精神的嫌がらせ)に限らず『複数の人間が相互作用
する場面=社会的状況』には頻度依存的な同調圧力(集団圧力)が掛かります。儒教
の祖の孔子は『論語』において『君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず』という
同調行動にまつわる行為規範を語りましたが、同調圧力を回避した主体的判断を実践
することは相当に困難なことであり、最近の流行キーワードでいうと同調圧力を無視
し た 行 動 は 『 KY( 空 気 を 読 め ・ 空 気 が 読 め な い )』 と い う 批 判 を 受 け る 可 能 性 も あ り
ます。
『 君 子 は 和 し て 同 ぜ ず 』と い う 境 地 は 、集 団 活 動 が 正 し い 方 向 に 向 か っ て い る と
自分で判断できた場合には集団に調和するが、主体性を放棄して集団の多数派に付和
雷同することをしないという自由無碍の境地です。
しかし、実際には集団状況の中で大勢(たいせい)に逆らう『自分個人の意見・各
種根拠に基づく主張』を述べるには、ある程度の自己の不利益と複数の人間から嫌わ
れたり非難されるリスクを侵す必要性があり、思っているよりも簡単なことではない
のです。また、同調圧力や同調行動という言葉の語感には『自分の主体性や自律性が
なく周囲の雰囲気に流される』という悪いイメージもありますが、同調圧力に従うこ
とは集団の空気を読むことでもあり『集団の秩序や暗黙のルールを重んじるだけの協
調性(常識)がある』という良い評価に結びつくこともあります。規律ある労働と集
団との協調に支えられた産業社会への適応を目指す学校教育の中でも、
『集団行動への
協 調 性( 個 人 の 意 見 や 考 え に 固 執 せ ず に 譲 歩 で き る こ と )』は 一 般 的 に 性 格 上 の 長 所( 特
長)として評価されています。みんなが賛成していることに反対して非協力的に振る
舞うことは、通常の学校生活ではマイナスに評価されますし、物事をみんなと異なる
角度から見て解釈するようなスタンスや徹底的に議論してお互いの意見の是非を突き
詰めることに不快感や煩わしさを感じる人は少なくないでしょう。
集 団 の 同 調 圧 力 に 逆 ら っ て 個 人 の 意 見 を 殊 更( こ と さ ら )に 主 張 す れ ば 、
『あいつさ
えわがままを言わずに黙っておけば万事順調に進むのに(今まで通りの慣例や常識に
従 っ て お け ば 余 計 な 波 風 が 立 た な い の に )』と い う 形 の 非 難 や 反 発 を 受 け る こ と は 容 易
に想像されますし、この種の同調圧力は企業官庁の内部告発や先生(保護者)へのい
じめの報告など『客観的には正しいことだけれど、仲間のみんなに被害や迷惑がかか
るような主張(暗黙の了解で慣習として見過ごされてきた不正や悪事を告発する主
張 )』に 最 も 強 く 働 き ま す 。実 際 の 利 害 関 係 や 暗 黙 の 了 解( 伝 統 的 規 範 )の 共 有 が そ の
集団にあるほど同調圧力は強く働きますが、利害関係のない全く知らない他人同士が
集まっても同調圧力は働きます。更に言えば、個人の価値判断(道徳規範)や利害得
失 の 関 係 し な い 、線 分 の 長 さ や 色 の 識 別 、簡 単 な 四 則 演 算 な ど『 知 覚 判 断( 知 的 判 断 )』
にもみんなと同じ答えを答えようという同調圧力は影響しますので、人間が他者に同
調しようとする社会的心理には集団適応を促進する生物学的基盤があると考えられま
す。
特に、揉め事や諍い(いさかい)を嫌って物事をすべて円満に収めることを重視し
ている人たちの場合には、慣習や常識(暗黙の了解)に支えられた同調圧力(みんな
の 意 見 )に 従 う こ と を『 善( 正 義 )』と 見 な す 傾 向 が あ り ま す 。正 確 に は 、み ん な の 意
見 を 無 条 件 に 正 し い と 直 感 す る 人 に と っ て み ん な の 意 見 は 同 調 圧 力 で は な く 、『 正 し
さ・安全性の程度の指標』としての意味を持ちます。同調圧力(集団圧力)というの
は、
『 自 分 の 本 当 の 意 見 や 主 張 』を『 み ん な が そ う 言 っ て い る の だ か ら 仕 方 な い 』と 思
って変えてしまうような圧力のことであり、
『 自 分 の 言 い た い 内 容 』を 上 手 く 相 手 に 伝
えられない認知的不協和がある状況のことです。常識的に考えると人数が増えれば増
えるほど同調圧力(集団圧力)の作用は強くなるように思えますが、アメリカの社会
心 理 学 者 ソ ロ モ ン ・ E・ ア ッ シ ュ の 行 っ た 『 線 分 の 長 さ 』 を 複 数 の 人 間 が 判 定 す る 認
知実験によると、人数の多さと同調圧力の強度は正比例しないようです。
アッシュの実験では、自分の本当の判断(意見)を言い難くなる集団圧力が、相手
が『3 人以上』になると発生することが分かりましたが、3 人以上に相手の人数が増
えても集団圧力の影響を受ける人の比率にはそれほど大きな変化は無かったのです。
その結 果か ら 、個 人が 集団圧 力(同 調圧 力)を受け やす いか 否か の 閾値が 3 人 であ る
ことが分かりましたが、最終的に集団圧力によって自分の判断を変えるか否かは個人
のパーソナリティと関係してきます。客観的な正答がある算数(数学)の問題などで
あ れ ば 、自 分 の 答 え に 自 信 が あ る 人 の 過 半 数 は 集 団 圧 力 に よ る 影 響 を 受 け ま せ ん か ら 、
客観的な正答があるタイプの課題では自分の回答に自信があるか否かが最大の要因に
なっていると思います。
しかし、この実験では『個人と集団の対立状況』が前提されておらず、与えられて
いる課題は『線分の長さ』という個人の利害や信念と関係ない中立的な課題でした。
簡単に言えば、線分の長さが等しいか否かという問題に対して、自分より前の回答者
が連続して『明らかな誤答』をした場合に自分の判断がそれらに影響されるか否かを
調べた実験なのです。
『 自 分 自 身 は 明 ら か に 間 違 っ て い る と 思 う 答 え( 選 択 肢 )』を『 み
んながそう答えているからという理由』で答えるかどうかを調べたわけですが、3 人
~4 人以上が連続して誤答すると次の被験者がその誤答に合わせてしまう確率が有意
に高まります(誤答確率は高まりますが、集団からの非難・制裁のリスクがなければ
過 半 数 の 人 は 自 分 の 判 断 に 従 い ま す )。集 団・他 者 か ら の 威 圧( 迫 害 )や 利 害 損 得 の 対
立が明確にある場合にはもっと同調圧力が強く働く方向に結果が変わってくると予測
さ れ ま す が 、『 集 団 と の 意 見 ( 回 答 ) の 相 違 に よ る ペ ナ ル テ ィ ( 不 利 益 ) が な い 問 題 』
であっても人間は一定の割合で集団に対して同調的な行動を取るということが確認さ
れているわけです。
物理的な暴力や精神的な嫌がらせなどが起こり得る『対立的な問題』の場合には、
『人数の多さ』が『同調圧力の強さ』に影響してきますし、専門的な知識や特殊な経
験 が 関 係 し て く る『 専 門 的 な 問 題 』の 場 合 に は『 権 威 者 の 判 断 』が『 同 調 圧 力 の 強 さ 』
に影響することもあります。対等な立場の個人が集まった集団状況における『相手の
人数の多さと同調圧力(集団圧力)の関係』では、相手が二人のケースでは個人は殆
ど影響を受けませんが、相手が三人以上になると個人は一定以上の同調圧力を受けて
『 自 分 の 本 当 の 意 見( 判 断 )』を 変 更 し て し ま う 可 能 性 が 高 く な り ま す 。物 理 的 な 暴 力
や 威 圧 が な く て も 相 手 が 3 人 以 上 に な る と 、個 人 は 一 定 の 割 合 で 相 手 に 同 調 し て し ま
うので 、物理 的な 威圧 感( 不利 益を 受け る現 実的な 恐れ )が存 在し ていて 相手 が 3 人
以上の場合には、かなりの割合の個人が相手集団との同調行動を選択すると考えられ
ます。
なぜ、
( 対 等 な 立 場・能 力 を 持 つ と 仮 定 し た )相 手 が 二 人 で あ れ ば 反 対 す る こ と が 比
較的簡単にできるのに、三人以上になると途端に同調圧力が強まるのでしょうか。恐
らく、社会的(共同体的)な動物としての人間個人が複数の人間(集団)に対して感
じる同調圧力には、
『 能 動 的 な 集 団 適 応 機 能 』と い う 側 面 だ け で は な く『 受 動 的 な 自 己
防衛反応』としての側面があると考えられます。自分個人の実力では闘争・逃走とい
う本能的防衛が不可能な集団(複数の人間の集まり)に対峙した時に、人間は強い同
調圧力を感じて積極的あるいは消極的に集団の大勢に従うほうがより獲得利益が多い
ことを学習したのでしょう。その根底には、強い外的ストレスや緊張感を感じた時に
起 こ る 『 原 始 的 な 闘 争 ‐ 逃 走 反 応 (fight or flight reaction)』 の 防 衛 が あ り 、 人 権 ( 生
存権)が承認されない前近代的な時代には帰属集団(他者)に対する闘争(対立)あ
るいは逃走に失敗した場合の『死の恐怖』が横たわっていたと考えられます。
現代の自由な民主主義社会では、他人や集団の意見に多少逆らっても生死に関わる
危険はありませんが、基本的人権が社会によって承認されておらず言論の自由も思想
の 自 由 も な く 、個 人 の 身 分( 立 場 )も 不 平 等 で あ っ た 時 代 に は 、
『 集 団 内 部( 村 落 共 同
体)の大多数の意見』に逆らうことはそのまま個人や一族の追放・抹殺に直結する危
険がありました。更に、太古の人類が生きた法律や公権力の存在しない原始的な共同
体では、
『 一 対 一 の 対 立・二 対 一 の 対 立・三 人 以 上 と の 対 立 』に 対 す る 個 人 の 勝 率( 生
存可能性)の自己認識には明確な差異があったでしょう。
同等の実力を持った相手が一人や二人であれば、個人でも何とか戦ったり逃げ延び
たりすることが出来ると考えられますが、相手が三人以上になると何となく『自分は
ここで徹底的に戦ったら殺されてしまうのではないか』という不安が胸を過ぎってき
ます。これは現代社会における犯罪集団や無法者とのやり取りを想像してみても分か
りますが、相手が一人~二人なのと三人以上なのとでは心理的な重圧感と状況の打開
性 の 認 知 に 大 き な 落 差 が 生 ま れ て く る の で す 。人 間 の 同 調 圧 力 の 歴 史 的 な 起 源 は 、
『死
(排除)の不安を喚起するような個人では対処不能と思える相手の人数』にあると考
えられますが、それはそのまま『個人が相手を集団・団体と認識するような人数』と
いう定義に置き換える事も出来ます。
自分が単独行動を取っている時に、敵対的な態度を取る何人までの人に対して対処
す る こ と が 可 能 な の か を 考 え る と 、大 抵 の 人 は 2 人 程 度 ま で と い う 範 囲 内 に 収 ま る で
し ょ う か ら 、3~ 5 人 の 敵 対 的 な 相 手 が 自 分 に 同 調 圧 力 を か け て く れ ば そ れ に 反 対 す る
ことが困難になってきます。もちろん、これは原始的な防衛機制を元にして『個人対
複数の生存ゲーム』を考えた最も単純なモデルですから、実際には個人の影響力(権
威性)やコミュニケーションスキル、対立している問題の性質、物理的な威圧感(不
利益)の有無によって同調圧力の強度は変化してきます。
また、現代社会では多数者(マジョリティ)との正当性を争うゲームに負けたとし
ても、
( 犯 罪 的 状 況 を 除 い て )帰 属 共 同 体 か ら 排 除 さ れ た り 生 命 を 奪 わ れ た り す る 危 険
はまずないですので、3 人以上の集団に対して感じやすい同調圧力というのは『批判
されるリスク・他人に嫌われるリスク・今までの人間関係が壊れるリスク・集団内で
不利益(低評価)を受けるリスク』などに付随して起こってくると考えられます。小
中学生くらいの年代であれば、これにいじめられるリスクや仲間外れにされるリスク
というのも含まれてきますが、同調圧力が人間に生まれた原因である『個人対三人以
上の力関係の差異』を考えると、三人以上の小規模グループへの自己帰属と相互信頼
を深めていれば同調圧力による重圧感は和らぐとも言えます。逆に考えると、同調圧
力が強く対立状況の多い閉鎖的な集団下では、
『 一 人 に な っ て し ま う 孤 立 状 況 』は 複 数
の 他 者 か ら の 干 渉・攻 撃 を 受 け や す い と も 言 え る の で す が 、
(他者に不当に干渉しない)
精神的な自律性が高く相互の人格性を尊重する開放的(オープン)な集団では、一人
になって孤立しても同調圧力を感じることが少なくなり『意見の内容に対する賛否』
によって個々人が自分の行動を決定することが出来るようになります。
人間が自分の行動を決定する要因として、集団内の『同調圧力(マジョリティの意
見 )』と い う の は 確 か に 大 き い の で す が 、個 人 の 自 立 性( 発 言 の 自 由 )や 人 格 性 が 尊 重
さ れ た 開 放 的 な 集 団 で は『 個 人 的 な 判 断 基 準 』が 行 動 決 定 に 影 響 す る 割 合 が 増 加 し て 、
個人や少数者(マイノリティ)の意見が多数者に影響を与えるマイノリティ・インフ
ル エ ン ス( 少 数 者 の 影 響 力 )が 起 こ っ て く る こ と も あ り ま す 。
『 個 人 的 な 判 断 基 準 』を
変更させる集団の要因としては、アメリカの心理学者スタンレー・ミルグラムの『服
従 実 験( 責 任 者 の 命 令 で 被 験 者 に 電 気 刺 激 を 与 え る 実 験 )』に よ っ て 明 ら か に な っ た『 社
会的権威(社会的な役割規範)の影響力』があります。主従関係のある社会的役割が
いかに人間の支配的・従属的行動に影響するのかを実証した実験に、フィリップス・
G・ ジ ン バ ル ド の 『 ス タ ン フ ォ ー ド 監 獄 実 験 ( 学 生 に 監 獄 で 看 守 役 ・ 囚 人 役 を 一 定 期
間 や ら せ た 実 験 )』 が あ り ま す 。
この実験では、看守役の学生の囚人役の学生に対する虐待・制裁行為がエスカレー
トし過ぎて後に倫理的な問題が指摘されたように、人間の行動が『個人のパーソナリ
ティ要因や意識的な判断基準』とは無関係に支配的となり残酷化することを示唆して
います。人間は社会(国家・企業・組織)から自分に与えられた社会的役割を遂行し
ようとする場合には、その役割(任務)の遂行に対して『個人的責任の免除・集団社
会の大義名分』を認知するようになるので、権力機構である社会集団が従属者(敵対
者・犯罪者)と認めた他者への支配的行為・虐待的行為に良心的な罪悪感が働き難く
なってしまうのです。
他者との権威的・法律的・利害的な上下関係がある役割規範の中に個人がはめ込ま
れてしまうと、
『 個 人 の 判 断 基 準 』と『 集 団 の 判 断 基 準 』と い う 二 律 背 反 の ダ ブ ル ス タ
ンダードが生まれますが、他者に優越したいという支配欲求を普段抑圧している人ほ
ど『役割行動に従った支配的行動』を取りやすくなってきます。日常で見られる役割
的な対人関係で言えば、
『 来 店 客 に 反 抗 し て は い け な い 』と い う 役 割 規 範 に 従 っ て い る
店員に対して、必要以上に横柄な態度を取ったり不当な要求をする非常識な客なども
『 役 割 行 動 に 従 っ た 支 配 欲 求 の 過 剰( 日 常 生 活 に お け る 支 配 欲 求 の 抑 圧 )』の 状 態 に あ
ると言えます。こういった『役割行動の行き過ぎによる弊害』を排除するためには、
『 表 層 的 な 役 割 行 動 の 背 後 に い る 対 等 な 個 人( 人 格 )』を 絶 え ず 意 識 し て 適 切 な 行 動 を
選択すること、フラストレーションを過度に溜め込まない健康なライフスタイルを維
持することが必要であると言えます。
心理学一般
マ ス キ ン グ 現 象 ( Masking Effect )
非 常 に 短 い 間 隔 で 、異 質 な 情 報 を 次 々 に 見 せ ら れ る と 、情 報 内 容 間 の 干 渉 が 起 こ り 、
ある情報が欠落してしまうこともある。これをマスキング現象という。
ゴ ー レ ム 効 果 ( Golem Effect)
Effect )
誤ってマイナスの印象を抱いたときに、相手がその印象(幻滅)の方向へ、実際に
変わる現象。
光 背 効 果 ( H a l o Effect)
Effect )
ある人が何か良い性質を持っていると、その人の他の面まで良いと思い込んでしま
う現象。対人認知の歪みの一つ。
カタルシス(Catharsis)
浄化及び排せつ。抑圧されて無意識の中に留まっていた精神的外傷によるしこり
( 苦 痛 や 悩 み )を 、言 語・行 為 ま た は 情 動 と し て 外 部 に 表 出 す る こ と に よ っ て 、症 状
を 消 失 さ せ よ う と す る 精 神 療 法 の 技 術 。苦 痛 や 悩 み な ど を 言 葉 に 出 し て 表 現 す る こ と
によって、それが解消できることをいう。
ブ ー メ ラ ン 効 果 ( B o o m e r a n g Effect)
Effect )
説得内容とは逆の方向へ意見や態度を変化させる現象。受け手への不信感や最初に
持っている態度が複合的、あるいは説得者が高圧的な場合などに生ずる。
心 理 的 リ ア ク タ ン ス ( Psychological Reactance)
Reactance )
態度や行動の自由が脅かされたときに喚起される、自由の回復をめざす動機付け状
態。リアクタンスの前提条件が大きいほど(自由が確信されているほど、自由が重要
であればあるほど)自由への脅威が大きく、喚起されるリアクタンスも大きい。自由
を侵害された行動への魅力や、自由侵害者への敵意が増大し、運命の自己支配感が大
きくなる。
パ レ イ ド リ ア : 変 像 ( 症 ) ( Pareidolia )
雲の形が顔に見えたり、しみの形が動物や虫に見えたりと、不定形の対象物が違っ
たものに見える現象に代表される。対象物が雲やしみであることは理解しており、顔
や動物ではないという批判力も保っているが、一度そう感じるとなかなかその知覚か
ら逃れられない。熱性疾患の時にも現れやすい。
プロスペクト理論
プロスペクト理論は、リスクを伴う決定がどのように行われるかについての理論で
ある。そのモデルは記述的であり、最適解を求めることよりも、現実の選択がどのよ
うに行われているかをモデル化することを目指す。期待効用仮説に対する心理学的に
よ り 現 実 的 な 理 論 と し て 、1979 年 に ダ ニ エ ル・カ ー ネ マ ン と エ イ モ ス・ト ベ ル ス キ ー
によって展開された。
プロスペクト理論は、たとえばファイナンスにおける意思決定など、人々がリスク
を伴う選択肢の間でどのように意思決定をするかを記述する。個人が損失と利得をど
のように評価するのかを、経験的事実から出発して記述する理論である。なお、最初
の 定 式 化 に お い て「 prospect」
( 期 待 、予 想 、見 通 し )と い う 語 は 宝 く じ か ら 来 て い る 。
例
題
【問題1】10万円をもらったうえで、二つの選択肢を提示されたとする。選択肢A
では、さらに5万円もらえることが保証されている。選択肢Bでは、サイコロを振っ
て偶数の目が出ればさらに10万円もらえるが、奇数の目が出ればそれ以上何ももら
えない。どちらを選ぶだろうか?
【問題2】20万円をもらったうえで二つの選択肢を提示されたとする。選択肢Aで
は、5万円を確実に取り上げられてしまう。選択肢Bでは、サイコロを振って偶数の
目が出れば10万円取り上げられるが、奇数の目が出れば何も取り上げられない。ど
ちらを選ぶだろうか?
標準的な経済学による解答
意 思 決 定 理 論( 期 待 効 用 原 理 )で は 、個 人 は 危 険 に 対 し て 首 尾 一 貫 し た 態 度 を 保 ち 、
最終的に実現すると思われる結果に対する主観的価値の期待 … つまり、将来得られ
る利益の主観的価値とそれが起こる確率を掛けた値を最大にするように意思決定する
と考えられている。
前記の問題では、いずれも、選択肢Aは確実な15万円、選択肢Bは期待値として
の15万円(同じ確率で20万円か10万円を獲得)という結果をもたらす。したが
って、最終的に実現する結果によって評価するという標準的経済学に従えば、二つの
問題における回答は同じはずである。
カーネマンらの実験によると、多くの人が、問題1ではAを、問題2ではBを選択
したという。すなわち、人間の選択行動は、次の特徴を有している。
最終的な結果ではなく、実現する結果が各個人の有する基準点より勝っているか劣
っているかが重要となる。
利益獲得局面では危険回避的である(確実性を好む)一方で、損失局面では危険追
求 的 と な る ( 賭 を 好 む )。
同額であれば、利益獲得による満足より、損失負担による悔しさのほうが大きい。
カーネマンらは、このような人間の選択行動の特徴をうまくとらえた理論を提示し、
それを「プロスペクト理論」と名づけた。
マルクスの墓碑
マルクスの墓碑はロンドン北郊のハイゲート墓地にあり。地下鉄ノーザン・ライン
のアーチウェイ駅で降りて、ハイゲート・ヒル通りを西へ上り切ったところにある公
園のすぐ先。道案内の標識も出ており、墓地の入口には地図や写真を売っている案内
所まであって、休日には訪れる観光客で結構賑わっているそうです。
貧窮の中に65歳で生涯を閉じたマルクスの墓は素々質素なものだったらしいが、
戦後1956年に有志の手でスエーデン産の黒御影石に胸像を乗せ、見上げるばかり
の立派な石碑に造り変えられた。
台座の最上部には「万国の労働者よ、団結せよ」と金文字で大きく彫られており、
そ の 下 に は 「 フ ォ イ エ ル バ ッ ハ 論 」 の 中 の 一 節 、「 哲 学 者 達 は 世 界 を 様 々 に 解 釈 し た
に 過 ぎ な い 、大 切 な こ と は し か し そ れ を 変 革 す る こ と で あ る 」と
」 いう有名な言葉が刻
まれている。
フォイエルバッハ論
『フォイエルバッハ論』は、フリードリヒ・エンゲルスの著作で、原題は『ルート
ヴィヒ・フォイエルバッハと古典ドイツ哲学の終り』である。雑誌『ノイエ・ツアイ
ト 』に 1886 年 二 回 に 分 け て 掲 載 さ れ た も の に 序 と 付 録 を 付 け て 、1888 年 出 版 さ れ た 。
かんけつ
マルクス・エンゲルスが彼らの思想を固めた時期を振り返り、その思想を簡潔にま
とめた貴重なものとして読まれた。付録の『フォイエルバッハに関するテーゼ』は、
『ドイツ・イデオロギー』等の遺稿が公開されていなかったので、とりわけ貴重な哲
学的命題群として読まれた。
へ い い
本文は、平易な文で、広く読まれてきた。しかしその平易さゆえ、ドイツ哲学が受容
し い て き
されていない地域では恣意的に解釈され、また、生前のマルクスが関説していない論
点についてはマルクスからの逸脱を指摘する説もあらわれた。マルクス主義の入門書
であるとともに論争の書である。
近代精神史の発展におけるヘーゲルとマルクスの中間項フォイエルバッハ.その
ゆいぶつろん
唯物論が抽象的観念的人間主義に止まっていることを批判し,ドイツ古典哲学はまさ
べんしょうほうてき
に 彼 を も っ て 最 高 点 に 到 達 し ,同 時 に 終 焉 を 告 げ た こ と を 論 証 し た 本 書 こ そ ,弁 証 法 的
唯物論を根本的に把握しようとするに当って最も重要な古典であり必読の文献である.
唯物論
唯物論とは、事物の本質ないし原理は物質や物理現象であるとする考え方や概念。
非物質的な存在や現象については、物質や物理現象に従属し規定される副次的なもの
と考える。対語は唯心論。
「神は死んだ」
フリードリヒ・ニーチェ
ニ ー チ ェ の 言 葉 と し て「 神 は 死 ん だ 」と 云 う 言 葉 ほ ど よ く 知 ら れ た も の は あ る ま い 。
勿論言葉としてであって、その意味の理解を指しているのではない。もし神を捜して
も見付からないという理由で、神という言葉を自分の心の中から追放してしまった者
なら、ニーチェを待たずとも大昔から殆どの人間が、そのような次元に類似する心位
でしか無かったであろうと思われる。従って極論すれば、仮に「神を信じている」と
思 っ て い た に せ よ「 神 な ど 信 じ な い 」と 思 っ て い た に せ よ 、そ れ ら の 殆 ど の 人 間 が「 神
の理念」などを手に入れる事が出来なかったのである。
従って殆どの人間は、ニーチェの「神は死んだ」と云う言葉を理解する事が出来な
い。何故なら死ぬも死なぬも、神の理念そのものが最初から無いからである。ではニ
ーチェ曰くの神はどの様な理念の元に証され得るものであろうか。
『ああ、同情者のしたような大きな愚行が、またとこの世にあるだろうか?
同情者の愚行以上に、大きな害悪を世に及ぼしたものがあろうか?
で、同情を超えた高みを持っていない者は、わざわいなるかな!
また
およそ愛する者
悪魔がかつてわた
し に こ う 言 っ た 。「 神 も ま た そ の 堕 ち る 地 獄 を 持 っ て い る 。 そ れ は 人 間 へ の 愛 だ 」。 つ
い こ の あ い だ も 、わ た し は 悪 魔 が こ う 言 う の を 聞 い た 。
「 神 は 死 ん だ 。人 間 へ の 同 情 の
た め に 、 神 は 死 ん だ 」。( 氷 上 英 廣 訳 文 『 ツ ァ ラ ト ゥ ス ト ラ 』 よ り )』
ニーチェには、これとは別の視点から神を否定した論もあるが、ここにも有るよう
に 、ニ ー チ ェ は 神 の 理 念 そ の も の の 存 在 を 否 定 し て い る 訳 で は な い 。つ ま り こ こ で は 、
神の理念が人間の生存の力を弱めて希薄にすること、そしてやがては人間の生への意
志を窒息させるであろう事への憤りとして、神を否定している訳である。
この事から必然的に導き出されるのが、真理への意志、或いは神への帰依とか善き
生き方への倫理規定の如きものからの超脱であり、神から与えられる真理から逆転し
ての主体的自在化としての真理活動獲得の新境地の拓けである。
これらの点が明らかになれば、当然ながら一般に解釈されているような、神の存在
は科学的に証明されていないというような見解に類似する想念、つまり神の理念が科
学的に所持出来ないという人間側の無力を意味する発言では無くして、既に歴史に潜
んで人類に働きかけていた神の理念が、人間の生存に対する敵対関係として働いてい
たという洞察に基づいた発言としての「神は死んだ」であったことが容易に理解され
るであろう。
そしてニーチェの求める生命の力とは、ツァラトゥストラ流儀の世界超克の一つの
象徴的表現でもある「精神の舞踏」の内に示唆されている或るものであり、一切肯定
として肯否が常に背中合わせの世界を生き抜く力のようなものが立ち現れてくる巨大
な情熱である。
アミエルの日記
ア ミ エ ル の 日 記 は 、 ス イ ス の 哲 学 者 、 ア ン リ ・ フ レ ド リ ッ ク ・ ア ミ エ ル ( Henri
Frédéric Amiel 、 1821 年 9 月 27 日 -1881 年 5 月 11 日 ) が 、 死 の 直 前 ま で の 30 年 に
しつよう
わたって書き続け、死後に出版された。洞察力に富む魂と、鋭い執拗な自己分析の記
録で、世紀末に生きる孤独なモラリストの苦悩を表現していると言われる。
モ ラ リ ス ト : (1)道 徳 的 な 人 。 真 面 目 な 人 。 道 徳 家 。 (2)フ ラ ン ス で 、 一 六 ~ 一 八 世
紀 に か け て 、人 間 性 と 道 徳 に 関 す る 思 索 を 随 想 風 に 書 き 記 し た 一 群 の 人 々 。す な わ ち 、
モンテーニュ・パスカル・ラ=ロシュフーコー・ラ=ブリュイエール・ボーブナルグ
ら 。 (3)(2)の 伝 統 を 受 け 継 ぎ 、 人 間 観 察 と 心 理 分 析 に 重 き を お く 作 家 。 ジ ー ド ・ カ ミ
ュなど。
しんげん
アミエルの箴言(アミエルの日記から)
人生の行為において習慣は主義以上の価値を持っている。何となれば習慣は生きた
主義であり、肉体となり本能となった主義だからである。誰のでも主義を改造するの
しょめい
は何でもないことである。それは書名を変えるほどのことに過ぎぬ。新しい習慣を学
ぶことが万事である。それは生活の核心に到達するゆえんである。生活とは習慣の織
物に外ならない。
しんげん
箴 言 : (1)い ま し め と な る 短 い 句 。 教 訓 の 意 味 を も っ た 短 い 言 葉 。 格 言 。「 ― 集 」 (2)
旧約聖書の中の一書。伝承されていた格言・教訓などの集成。知恵文学に属する。
解釈
「心が変われば態度が変わる。態度が変われば習慣が変わる。習慣が変われば人格
が 変 わ る 。 人 格 が 変 わ れ ば 人 生 (運 命 )が 変 わ る 」 と 。 こ れ を 前 後 を 逆 に し て 云 う な ら
ば、
「 人 生【 運 命 】を 変 え た け れ ば 、人 格 を 変 え な さ い 。人 格 を 変 え た け れ ば 習 慣 を 変
えなさい。習慣を変えたければ、態度を変えなさい。態度を変えたければ心【思いの
他】を変えなさい!」となりましょうか。人はもともと天地から生まれて来たものだ
せ つ り
から、そこには大自然の摂理があります。天地の理にかなった生き方をしていれば、
間違いない。こうした天の法則を、先人たちは直感的に悟って、ひとつのマナーを確
立 し た 。あ る べ き 自 然 の 姿 、
「作法」
「 礼 儀 」な ど が ま さ に そ う で す 。
「 習 慣 」に つ い て
アミエルは、
「 習 慣 は 生 き た 主 義 で あ り 、肉 体 と な り 本 能 と な っ た 主 義 だ 」と 言 っ て い
るとおり、より根本的なものです。習慣は第二の天性とも呼ばれています。ところが
人間社会の発達によって、放っておくとマナー違反をする人間がたくさん出てくる。
人間の根本であるマナーだけでは成り立たなくなり、そこに人間が決めた法則である
法律、規制というものが出来てきた。これがルールというもの。今の時代はまさにマ
ナーとかモラルが根底から乱れきっているので、つぎつぎと規制を作り上げてがんじ
が ら め に し な け れ ば 、社 会 が 成 り 立 た な い と 信 じ て い る の が 現 状 で す 。と も か く 規 制 、
ルールというものが増えれば増えるほど、人は天地自然の理から離れていることにな
ります。だから一言でいうなれば、マナーは自然の理にかなった振る舞い。ルールは
社会が作った規則にかなった振る舞い。と言えるでしょう。
現在志向バイアス:近視眼的選好
NHK「 解 体 新 シ ョ ー 」 の 、 な ぜ 衝 動 買 い す る の か 、 と い う テ ー マ の 中 で 、「 現 在 志 向
バイアス」という言葉が出てきました。これは、将来の大きな利益よりも、目先の小
さな利益をとってしまう、といった意味だそうです。
食べ物を探して得ていた人間の祖先が、生き残るために
「人に食べられるくらいだったら、まだ熟していないけど自分で食べちゃおう」って
ところから繋がって来ているものだそうです。本能に近いもののようです。
計画的に買い物をする時と衝動買いする時は使う脳の部分が違うって言っていまし
た。
「今買っておかなきゃ後悔するもん」
「今なら安いから買っておかなきゃ」
「今、手に入れておかなきゃならない」となるわけです。
バ イ ア ス bias ( 英 語 )
偏 り の こ と 。「 サ ン プ リ ン グ バ イ ア ス 」( 標 本 抽 出 の 問 題 に よ り 、 母 集 団 を 代 表 し な い
特 定 の 性 質 が ま ぎ れ こ ん で い る )の よ う に 統 計 で も 用 い ら れ る し 、
「あの人の意見には
Wikipedia は 無 意 味 だ と い う バ イ ア ス が か か っ て い る か ら 」の よ う に も 用 い る 。
(偏見
を参照)
か さ あ
ある数に特定の数を足して嵩上げすること。ゲタばきとも。特にプログラミングに
お い て 利 用 さ れ る 。例 え ば 変 数 が 0〜 255 ま で し か 扱 え な い 状 況 で 負 数 を 表 す に は 、128
( も ち ろ ん 何 で も よ い ) が 加 算 さ れ て い る と み な す こ と で -128〜 127 が 表 せ る 。 こ の
よ う な 数 を エ ク セ ス n( n は 加 算 さ れ て い る と み な す 数 ) と い い 、 今 回 の 例 で は エ ク
セ ス 128 と い う 。( 符 号 付 数 値 表 現 も 参 照 )
ばいかい
S-O-R理論
Stimulus( 刺 激 ), Object( 固 体 の 媒 介 変 数 ), Response( 反 応 )
新 行 動 主 義 の 者 ハ ル ,C.L。 行 動 の 予 測 と 説 明 の た め に 仮 設 構 成 体 を 認 め る 立 場 。
強 化 説 、 S-O-R 心 理 学 が 有 名 。
S-O-R 理 論 (Stimulus-Organism-Response Theory)に お い て 、 刺 激 ( S) と
反 応 ( R)の 間 に 入 れ ら れ る O(Organism, 有 機 体 )と は 、 刺 激 ・ 強 化 な ど の 独
立変数や反応の従属変数に影響を与える『媒介変数』のことである。
O(Organism, 有 機 体 )と は 、 人 間 ・ 動 物 な ど 生 物 個 体 に 特 有 の 内 的 要 因 で あ
り、器質的要因や遺伝的要因、性格要因などを含むものと考えると分かりや
す い 。 C.L.ハ ル は 、 有 機 体 の 内 的 要 因 ( 認 知 要 因 ) で あ る O(Organism)の 論
理的構成概念を新行動主義に持ち込むことで、何故、同一の刺激や状況にお
いて個体は異なる反応を取ることがあるのかという疑問に回答を与えること
が出来た。
ハ ル の 提 示 し た S - O - R 理 論 ( S t i m u l u s - O r g a n i s m - R e s p o n s e T h e o r y ) は 、人 間
の行動の生起と変化を統合的に説明できるという意味で、一般法則としての
はんよう
完 成 度 は 高 い が 、 同 時 に O(Organism)と い う 汎 用 性 の 高 い 仮 説 的 説 明 概 念 に
は科学的な客観性がないという問題が指摘される。急進的行動主義(徹底的
行 動 主 義 , radical behaviourism)に 分 類 さ れ る B.F.ス キ ナ ー (B.F.Skinner,
1904-1990)は 、 実 証 主 義 や 操 作 主 義 を 前 提 と す る 自 然 科 学 と し て の 行 動 主 義
えんえき
(行動科学)を志向したので、ハルの反証可能性に乏しい仮説演繹的な理論
構築に対して批判的であったとされる。
学術研究活動における『操作主義』とは一般的に、観察された現象や事物
を、
『 科 学 的 な 諸 概 念 』に 当 て 嵌 め て 一 般 理 論 化 し よ う と す る 操 作 的 な 研 究 態
度を指す。あるいは、実際的な観察・調査・測定の操作を通して、科学的概
念 を 定 義 す る と い う 意 味 で も 操 作 主 義 と い う 用 語 が 用 い ら れ る 。操 作 主 義 は 、
ブ リ ッ ジ マ ン (Percy Williams Bridgman, 1882-1961)と い う 物 理 学 者 に よ っ
て 提 起 さ れ た 概 念 で あ る 。操 作 主 義 的 な 研 究 態 度 を 取 る こ と に よ っ て 、
『無秩
序で曖昧な事象』を『科学的概念の一つ』として分類整理することが出来る
のである。
ハ ル が 仮 説 し た 自 己 保 存 欲 求 を 持 つ O( 有 機 体 ) の 概 念 と 外 部 環 境 へ の 適
応機制は、あらゆる人間行動を説明できる汎用性があるが、刺激に対する反
応 を 媒 介 す る 変 数 で あ る O( 有 機 体 ) が ブ ラ ッ ク ボ ッ ク ス 化 し て し ま い 反 証
可能性が乏しくなるという欠点がある。観察可能な客観的な行動だけから人
間の行動原理を構築しようとするのがスキナーの立場であり、ソーンダイク
の試行錯誤学習からヒントを得たオペラント条件付け(道具的条件付け)理
論では、スキナー箱の実験条件の統制とネズミの行動の観察から実証主義的
な理論化が進められることとなった。
ミルグラム実験
ミルグラム実験とは、閉鎖的な環境下における、権威者の指示に従う人間の心理状
況を実験したものである。俗称としてアイヒマン実験とも呼ばれ、またこの実験の結
果示された現象をミルグラム効果とも呼ぶ。
権威への服従(ミルグラムのアイヒマン実験)
第二次世界大戦中、ヨーロッパでは約600万人のユダヤ人が強制収容所で虐殺さ
れ た 。1960 年 、当 時 ゲ シ ュ タ ポ の ユ ダ ヤ 課 長 で あ っ た ア ド ル フ・ア イ ヒ マ ン は 亡 命 先
の南米ブエノスアイレスで逮捕され、イスラエルで裁判を受けた。判決は死刑。そし
て 1962 年 5 月 に 、 刑 は 執 行 さ れ た 。
彼は裁判中「私はただ上官の命令に従っただけだ」と一貫して主張し続けた。法律
的にはともかく、心理学的には、彼の主張には一片の真理があった。それを示したの
がミルグラムの実験である。
ミルグラムは新聞を通じて「記憶に及ぼす罰の効果」に関する実験に参加してくれ
る被験者を募った。被験者はごく平凡な市民である。
実験は、2人の被験者が実験室にやってくると、それぞれ生徒と教師の役を指定さ
せた。
生徒役はイスに縛り付けられ、手首に電気ショックを送るための電極が取り付けられ
た。
一方、教師役は、隣の部屋でショック送電器を操作するように言われた。
送電器には30個のスイッチがあり、それぞれ電圧と電圧に対するショックの強さ
が前もって表示されていた。
実験は生徒役に対連合学習を行わせ、生徒役が誤った答えを出すたびに、一段づつ
強いショックを与えるように教師役に要請した。
この実験で生徒役になったのは実は実験協力者であり、それぞれの強さに応じて痛
がったり、実験の中止を訴える演技をするように指示されていた。また、実験者は教
師役がショックを送ることをためらった時には、実験のためにショックを送り続ける
ように要請した。
常識的に考えればたとえ、実験のためとはいえ、200ボルト以上のショックを与
えることは人を傷つける恐れがあり、人道的にためらわれるところであろう。ところ
が 、実 際 に は 教 師 役 に な っ た 被 験 者 の 6 2 .5 % が 最 大 4 5 0 ボ ル ト の シ ョ ッ ク ま で 与
え続けたのである。
この結果は、平凡な一般市民であっても、権威ある者からの命令に接すると、たと
え、不合理な命令であろうと、みずからの常識的な判断を放棄して、その命令に服従
してしまうことを示している。
オーム真理教のサリン事件も同様である。
また、日本人は、権威に弱いので、日本人を対象に実験すれば数値はさらに上がる
可能性がある。
パラドックス
パ ラ ド ッ ク ス ( paradox ) と い う 言 葉 は 多 義 で あ る が 、 数 学 で は 多 く の 場 合 、 正 し
そうに見える仮定と正しそうに見える推論から正しくなさそうな結論が得られる事を
指す。
「 正 し く な さ そ う な 結 論 」は 、
「本当に正しくないもの」
( = 矛 盾 )と「 直 観 的 に
は間違っているように見えるが実は正しいもの」に分けられる。狭義には前者の場合
のみをパラドックスと言い、広義には後者もパラドックスという。後者は、前者と区
別する為「見かけ上のパラドックス」と呼ばれる事もある。
数 学 以 外 の 分 野 で は 「 パ ラ ド ッ ク ス 」 と い う 言 葉 は よ り ラ フ に 用 い ら れ 、「 ジ レ ン
マ 」、「 矛 盾 」、「 意 図 に 反 し た 結 果 」、「 理 論 と 現 実 の ギ ャ ッ プ 」 等 、 文 脈 に よ り 様 々 な
意味に用いられる。
日 本 語 で は 逆 説 、逆 理 、背 理 と 訳 さ れ る 。語 源 は ギ リ シ ャ 語 の "para" (「 反 」、
「 逆 」)
と "dox" (「 意 見 」) か ら 。 有 名 な も の に 、 自 己 言 及 の パ ラ ド ッ ク ス 、 リ シ ャ ー ル の パ
ラドックス、ベリーのパラドックスがある。
数 学 は そ の 発 展 の 中 で 、「 正 し そ う に 見 え る 推 論 」 の 中 か ら 「 本 当 に 正 し い 推 論 」
を寄り分けてきた。こうしてまず最初に整数や幾何図形のような対象が数学で扱える
よ う に な っ た が 、 そ の 後 集 合 や 無 限 の よ う な 深 遠 な 対 象 を 取 り 扱 っ た り 、自 己 言 及 の
よ う な 複 雑 な 推 論 を 扱 っ た り す る よ う に な る と 、 ど れ が「 本 当 に 正 し い 推 論 」で ど れ
が「 正 し そ う に 見 え る が 実 は 間 違 っ て い る 推 論 」な の か が 分 か ら な く な っ て し ま っ た 。
パラドックスはこのように、仮定、推論、定義等がよく理解されていない状況で発生
してしまうものである。
したがって、パラドックスは単なる矛盾とは区別される。 例えば有名な「嘘つき
パ ラ ド ッ ク ス 」は 、
「 嘘 」と は 何 か「 嘘 つ き 」と は 何 か が は っ き り し な い か ら こ そ「 パ
ラ ド ッ ク ス 」 な の で あ る 。 こ れ ら が は っ き り 定 義 さ れ た 暁 に は 、「 嘘 つ き パ ラ ド ッ ク
ス 」は 単 な る「 背 理 法 」や「 間 違 っ た 推 論 」に 化 け る 。 こ の よ う に パ ラ ド ッ ク ス に 適
切な解釈を与えて「背理法」や「間違った推論」に変える事を、パラドックスを解消
する、という。
数学は矛盾を含まないよう注意深く設計されており、 パラドックスの起こる命題
はうまく避けたり、あるいはパラドックスを解消した上で取り込んでしまったりして
いる。従って昔はパラドックスを内包してしまっていた集合や無限のような対象も現
在では取り扱う事ができる。
1.アキレスと亀のパラドクスとは
エ レ ア 派 の ゼ ノ ン ( BC450 頃 ) は 次 の よ う に 議 論 を 行 っ た と い う 。
最 も 遅 い 走 者 で も 、け っ し て 最 も 早 い 走 者 に よ っ て 追 い 着 か れ る こ と は な い で あ ろ う 。
なぜならその前に、追いかける方の者は、逃げる方の者が出発したその地点に到達し
なければならず、したがってより遅い方のものは、つねにいくらか先んじていなけれ
ばならないから。
これは次のように解釈されている。アキレスと亀の競走において、アキレスは亀の
後方から出発することにして、両者が同時に発走すると、アキレスは最初に亀のいた
地点に到達する。しかしその時には亀はいくらか先んじている。次にその亀の地点に
アキレスは到達する。しかしその時にもやはり亀はいくらか先んじている。以下同様
に続き、このループから抜け出ることができない。よって、アキレスが亀に追い着く
という場面は生じない。
SAD(社会不安障害)
「 人 前 で 何 か を す る こ と に よ っ て 、悪 い 評 価 を さ れ る の で は な い か ・・・ 」「 周 囲 か
ら 注 目 を 浴 び る よ う な こ と を し て 、恥 ず か し い 思 い を し て し ま う の で は な い か・・・」
例えば結婚式のスピーチを頼まれて、「ちょっと恥ずかしいな」と思うのは誰にで
もあることですが、スピーチを頼まれた時から失敗して他人から馬鹿にされはしない
かと考えプレッシャーを感じて苦しい日々を過ごしたり、マイクの前に立ったものの
ふ る え が 止 ま ら ず 、声 も う わ ず り 、ス ピ ー チ を 続 け ら れ な く な っ て し ま う 。あ る い は 、
友達の家に食事に招待されたものの、不適切な食事のマナーを指摘されるのではなど
と気になって、顔が真っ赤にほてり、おいしい料理ものどを通らなくなってしまう。
このように、他人に悪い評価を受けることや、人目を浴びる行動への不安により強
い苦痛を感じたり、身体症状が現れ、次第にそうした場面を避けるようになり、日常
生 活 に 支 障 を き た す こ と を 、 社 会 不 安 障 害 ( SAD: Social Anxiety Disorder) と い い
ま す 。こ の 社 会 不 安 障 害( SAD)は 性 格 の 問 題 で は な く 、精 神 療 法 や 薬 物 療 法 に よ っ て
症状が改善することがある心の病です。ちょっと恥ずかしいと思う場面でも、多くの
人 は 徐 々 に 慣 れ て き て 平 常 心 で 振 る 舞 え る よ う に な り ま す が 、社 会 不 安 障 害( SAD)の
人は、恥ずかしいと感じる場面では常に羞恥心や笑い者にされるのではという不安感
を覚え、そうした場面に遭遇することへの恐怖心を抱えています。
思春期前から成人早期にかけて発症することが多いこの病気は、慢性的になり、人
前に出ることを恐れるようになると、「うつ病」等のさらなる精神疾患の引き金とな
る こ と も あ り ま す 。日 本 国 内 に 推 定 で 約 300 万 人 以 上 の 患 者 さ ん * が い る と 言 わ れ て お
り、現代社会では多くの患者さんを抱える一般的な病気です。この病気にかかるのは
決して特別な人ではなく、現在も海外では多くの患者さんが医療機関での治療を受け
ています。
SADがよく見られる症状
社 会 不 安 障 害 ( SAD) の 患 者 さ ん は 、 あ ら ゆ る 社 交 的 場 面 ( 全 般 型 ) や 「 人 前 で 話
す」「電話に出る」「注目を浴びる」などの状況(非全般型)で行動する際に、不安
な気持ちやそこから立ち去りたいという強い恐怖感を覚えます。
社 会 不 安 障 害( SAD)が 発 生 し や す い 状 況 に は 次 の よ う な も の が 報 告 さ れ て い ま す 。
1
権威ある人と面談する
2
4
会議で意見を言う
試験を受ける
5
人前での行為や会話
6
3
知らない人との会話
誰かを誘おうとする
7
パー
ティーを主催する
SADで現れやすい症状
社 会 不 安 障 害 ( SAD) で は 、 強 い 不 安 症 状 が 自 律 神 経 に 作 用 し 、 さ ま ざ ま な 身 体 症
状 を 発 症 す る こ と が あ り ま す 。比 較 的 、頻 繁 に 見 ら れ る 症 状 は 以 下 の よ う な も の で す 。
1
顔が赤くほてる
吐き気がする
5
2
脈が速くなり、息苦しくなる
手 足 、全 身 、声 の 震 え
または尿が出なくなる
8
めまいがする
6
口が渇く
3
7
汗をかく
4
トイレが近くなる、
うなずきは会話の促進薬
H20.1.25
心理学者のマタラゾは、米国のポートランド市の警官と消防士の採用試験の面接で
うなずきの実験をしました。
表 面 上 は ご く 一 般 的 な 採 用 面 接 の 形 を と り 、1 名 約 45 分 間 の 面 接 を 行 い ま し た 。さ
ら に そ の 45 分 間 を 15 分 ず つ 、 学 歴 、 職 歴 、 家 族 関 係 の 3 セ ク シ ョ ン に 分 け ま し た 。
話題の順序はそのたび変えましたが、セクション 2 の時は、面接官は被験者が話すた
びにハッキリとうなずき、話し終えるまでウンウンとうなずきを繰り返しました。
実 験 の 結 果 、セ ク シ ョ ン 2 で 面 接 官 に う な ず か れ た 被 験 者 の 85% の 人 が 、セ ク シ ョ
ン 1 よ り も セ ク シ ョ ン 2 の 発 言 数 が 増 加 し た の で す 。ま た 被 験 者 の 発 言 量 は 50% も ア
ップしました。また面接官がうなずきをやめたセクション 3 では、再び発言数が減少
したのです。
これには理由があります。うなずきは、「発言者の言葉を否定せずあなたに注目し
ているよ」というサインなのです。発言者はそのサインを自分への承認と受け取り、
承認に応えるためにさらに発言が増えていきます。
誰しも、「自分のことを認めてほしい」という社会的欲求がありますが、うなずき
によって、その欲求が暗に満たされるというわけです。
うなずきによる発言量の増加は、心理的には「承認欲求の充足」と考えられます。
面接者のうなずきで自分が承認されたんだ、と感じたのでしょう。
お 客 様 や 同 僚 と の 会 話 を も っ と は ず ま せ た い と き 、意 識 し て い つ も よ り「 う な ず き 」
を増やしてみてください。なにかが変わるはずです。ちなみに、すでにお気づきの方
もいるかと思いますが、あいづちにも同じ効果があることが知られています。
そ う い え ば 、ひ と 昔 前 の 人 気 番 組「 お れ た ち ひ ょ う き ん 族 ! 」に「 う な ず き ト リ オ 」
というお笑いのユニットがありました。構成メンバーはビートきよし・島田洋八・松
本竜介。ボケではなく「ツッコミ」の人だけ、いつも「うなずいている」だけなので
す。ホント、いい味を出していました。上記の実験を照らし合わせるならば、相方の
タレントが大成功したのは、このうなずきの 3 人のおかげかもしれませんネ。
1. ホ ー ソ ン 工 場 実 験 と 人 間 関 係 論
1927 年 か ら 1932 年 に か け て 、 ア メ リ カ 最 大 の 通 信 機 メ ー カ ー で あ る ウ エ ス タ ン ・
エレクトリック社のホーソン工場で、従業員の生産性に影響を与える要因はいったい
何かについての大がかりな実験が行なわれました。この実験は、古典的管理論で主張
されている内容を実証することを目的としていました。たとえば作業をする部屋の照
明の明るさや温度など、物理的な作業条件の変化が労働者の生産能率・生産性を規定
するという仮説を実証しようとしたわけです。実験結果はそのような仮説を支持する
ものではなく、従業員の仕事に対する意欲や集団規範など、物理的な作業条件以外の
要因、人間関係に関する要因が生産性に大きく影響を与えているという結果が得られ
たのです。
ホーソン工場の最初の実験は照明実験でした。実験を開始する前には、照明が明る
くなればそれだけ生産があがるだろうと想定されていました。そこで 2 つの組みたて
グループが編成されました。一つはテストグループとして、照明度をいろいろ変化さ
せた中で作業を行うグループ、そしてもう一つはコントロールグループとして照明度
を変化させない状況で作業をさせるグループです。テストグループでは照明度が明る
くなるにつれて、生産性が上昇していきました。しかし一定の照明度のもとで作業を
していたコントロールグループにおいても生産性の向上が見られたのです。
この驚くべき結果に直面した実験メンバーは、ホーソン工場での実験をさらに拡大
しました。照明実験では、単に技術的、物理的な条件の変化だけではなく、人間の内
面にまで踏み込んだ分析が必要と考えられたので、エルトン・メイヨーという行動科
学の専門家の協力を仰ぐことになりました。そこで電話用継電器組み立ての流れ作業
に従事する女性の工員を何名か選び、ある部屋の中で、作業のやり方、部屋の温度、
睡 眠 時 間 、休 憩 時 間 の あ る / な し 、休 憩 時 間 に お い て ス ナ ッ ク 菓 子 を 出 す / 出 さ な い 、
作 業 時 間 の 長 さ な ど 様 々 な 作 業 の 条 件 を 変 更 し な が ら 26 ヶ 月 に わ た っ て 実 験 が 行 わ
れました。突然、すべての条件を実験前の状態に戻して見ることも行われました。こ
のような場合、一般的には突然の環境変化という心理的な衝撃が加えられるので、工
員の生産性は低くなると予想されたのですが、結果は最高の生産性を示すことになり
ました。
このように実験結果は驚くべきもので、週を重ねるごとに選ばれたグループの生産
高(1 日当たり、および週当たりの生産高)は右肩上がりになったわけです。つまり
作 業 条 件 を ど の よ う に 変 更 し た と し て も 、無 関 係 に 生 産 高 は 上 昇 し て い っ た わ け で す 。
ではなぜ作業部屋の条件を変えても生産性は影響を受けなかったのでしょうか。そ
れは女性工員が「多数の従業員の中から選ばれて実験に参加しているのだから、がん
ばらなければ」という感覚を持ったからでした。彼女たちが持っていた「選ばれてい
る」という感覚が生産性に大きな影響を与えたわけです。
また集団で作業を行っていることによるプレッシャーなども作用したといわれてい
ます。女性の工員はもともと物理的には他の工員といっしょに働いていたものの、本
来は個々ばらばらの存在でした。しかし多くの工員の中から選ばれたことによって、
いまや一人一人が信頼と協力で結ばれた作業集団の一員という意識を個々のメンバー
が持つようになっていました。これが一体感や達成感をもたらし、そのような満足感
がさらに生産性を高めるように作用したわけです。
これは人間の感情を排除している機械的人間観にもとづいた科学的管理法ではまっ
たく発想されなかったことです。ホーソン工場実験が行われることによって、人間の
心理的側面、内面的側面の重要性が組織論において初めて指摘されることになり、機
械的人間観に基づかない新たな経営理論、管理論を構築する必要性が高くなったので
す。こうして出てくるのが人間関係論です。つまり人間の心理的側面、内面的な側面
を 重 要 視 し た 新 た な 組 織 理 論 /管 理 論 で す 。
もう一度ホーソン工場実験の結果を整理しておきましょう。
( 1) 物 理 的 作 業 条 件 と 作 業 能 率 と の 間 に は 、 従 業 員 の 感 情 や 意 欲 と い っ た 主 観 的 な
態度があり、これが大きく影響している。
( 2) こ の 主 観 的 な 態 度 は 、 自 然 発 生 的 に 生 じ る 非 公 式 な 人 間 関 係 、 い わ ゆ る 非 公 式
集 団 ( イ ン フ ォ ー マ ル ・グ ル ー プ ) の 集 団 規 範 の 影 響 を 大 き く 受 け る 。
( 3) こ の 集 団 規 範 が 企 業 の 組 織 目 標 を サ ポ ー ト す る の で あ れ ば 、 生 産 性 の 向 上 に つ
ながる。
( 4) 非 公 式 集 団 内 の 人 間 関 係 の 良 し 悪 し や 集 団 規 範 の 内 容 は 、 管 理 者 の 管 理 行 動 の
良し悪しに大いに依存している。
実験途中で参加メンバーが変わるなど、実験の行いかたに関して若干の批判はある
ものの、ホーソン工場実験の結果、科学的管理法が主張している当初の仮説は統計的
に支持されないことになりました。
2. グ ル ー プ ・ ダ イ ナ ミ ク ス
ホーソン工場実験では集団が個人の生産性に影響を与えていることがわかりました。
この実験結果は経営学に隣接する学問分野で注目を集めました。そのひとつは集団に
関する研究、そして集団を研究した人間関係論の考え方を用いたリーダーシップの研
究です。ここでは集団の研究に関してみていくことにしましょう。
組織論では、個人が集団を構成したときに共通に認知された集団という「場」が、
各組織メンバーにどのような力を及ぼすのか、そしてその力はどのような条件に左右
されるのかという問題が研究されています。この研究をグループ・ダイナミクスと言
います。グループ・ダイナミクスは集団の動きを集団凝集性、集団圧力、集団目標、
リーダーシップの概念から分析しました。そして集団において受け入れられ、メンバ
ーとして認められた時に、集団のメンバーは集団に強い魅力を感じることがわかりま
し た 。集 団 の 魅 力 と は 集 団 凝 集 性 と い う 言 葉 で 表 現 さ れ る も の で 、
「個人がその集団に
とどまりたいと思うその強さ」です。つまり集団凝集性が集団圧力、集団目標、リー
ダーシップ現象の源泉、つまり集団運動の中心的概念であることをグループ・ダイナ
ミクスは明らかにしたわけです。
3. リ カ ー ト 組 織 論
グループ・ダイナミクスの集団研究の結果を用いながら、リーダーシップの研究と
の融合を試み、体系的・実践的なモデルを構築したのがリカートです。
リカートが主張する管理の方法は基本的には 3 つの原則に基づいています。第一は
支持的関係の原則です。この原則は、管理者は部下に対して真の関心を示すこと、集
団内の各構成員が上司や仲間から支持され、人間としての重要性や価値が認められ、
自己の能力が十分発揮されていると信じるような相互作用を作り上げることが求めら
れていること、です。グループ・ダイナミクスの研究では、構成員が集団において受
け入れられ、価値が認められると、集団に強い魅力を感じ、集団の凝集性が高くなる
という結果が報告されています。支持的関係の原則は凝集性の高い集団を作り上げる
ための原則なのです。
「 目 を か け て く れ て い る な 」と 感 じ た ら 、人 間 誰 し も 悪 い 気 持 ち
にはならないのと同じことです。
第二の原則は、組織を形成するうえで、個人ではなく小集団を一つの単位として、
集団的意思決定を行う原則です。こうすることによって集団の構成員が意思決定に参
加することが可能になります。グループ・ダイナミクスの研究では、集団目標に参加
することは、構成員の動機を促進すると結論づけられています。重要なことは「組織
のビルディングブロック(構成単位)は個人ではなく集団」ということです。小集団
の集積が組織を成立させると考えることがリカート理論の基本で、組織活動の中心は
集団管理にあると捉えるのです。日本企業で行われている自主的な小集団活動が企業
の生産性にプラスの影響を及ぼしておりと言われますが、集団の構成員が意思決定に
参加することがいい結果をもたらすことの一つの事例として考えられます。
第三は高い目標の原則です。従来の人間関係論は作業者に対して関心を示すべきで
あるという受け身的な主張でした。しかしリカートは、高い目標を掲げることによっ
て人間の自己実現欲を満たし、その結果、生産性が向上すると主張しました。
4. 高 業 績 チ ー ム の 管 理 ス タ イ ル
ま た リ カ ー ト は 多 く の 組 織 を 分 析 し た 結 果 、一 般 に 行 わ れ て い る 管 理 の ス タ イ ル が 、
大きく 4 つに分類することができ、一本の数直線上に位置付けられることを発見しま
した。4 つの管理スタイルはシステム 1 からシステム 4 と呼ばれ、以下のような内容
です。
〈 シ ス テ ム 1〉
管理者は部下を信頼していない。部下をいかなる意思決定にもほとんど参画させる
ことはなく、たいていの意思決定や組織目標の決定はトップが行い、命令系統を通っ
てこれが下におろされる。部下は恐れと脅し、恣意的な懲罰と報償に基づいて働かさ
れ、生理的・安定欲求レベルの充足がかろうじて得られている。統制機能はほとんど
トップに集約されており、公式の組織目標に反抗する非公式組織が発生しやすい。
〈 シ ス テ ム 2〉
管理者は部下に対し、ちょうど主人が召使に対するように、信用はするが恩着せが
ましさを隠そうとしない。たいていの意思決定や組織目標の設定はトップで行われる
が、あらかじめ定めた一定の範囲内でかなりの決定が下位レベルで行われる。動機付
けには報償と懲罰を与えること、もしくは罰をほのめかすことが用いられる。統制機
能は依然としてトップに集中しているが、中間及び下位レベルにもある程度の権限委
譲が行われれている。非公式組織の発生は普通であるが、必ずしも公式組織の目標に
反抗するものではない。 ・
〈 シ ス テ ム 3〉
管理者は部下に対し、全面的ではないまでも相当程度の信頼を寄せている。基本の
方針や全般的な決定はトップで行われるが、低位レベルの個別の問題に関する決定は
部下にも認められている。組織の上から下へ、下から上への両面コミュニケーション
が行われる。動機付けには報償と時により懲罰、そしてある程度の参画とが用いられ
る。統制機能のかなりの部分が、責任の共有意識を持って下位に委譲されている。非
公式組織が発生することもあり、公式組織の目標に協調することもあれば部分的に反
抗することもある。
〈 シ ス テ ム 4〉
管理者は部下を全面的に信頼し信用している。意思決定は広く組織全体で行われて
いるが、バラバラにはならずうまく統合されている。コミュニケーションは、上下方
向のみならず、同僚間でも行われる。構成員は、報償制度の策定、目標設定、仕事の
改善、目標達成課程の評価にも参画が許され、関与させられており、これによって動
機 付 け ら れ る 。統 制 機 能 に つ い て は 、低 位 の 職 場 単 位 ま で 完 全 に 責 任 を 分 掌 し て い る 。
公式組織と非公式組織が一致してしまうことも珍しくなく、すべての勢力が設定され
た組織目標の達成に向けられる。
ハーシ=ブランチャード『入門から応用へ
行動化学の展開
人的資源の活用』生産
性 出 版 1978 年 よ り
これらの概念的な管理システムを評価できる技法を開発したリカートは、多数の管
理者に最も生産的/非生産的な部署はシステム 1 からシステム 4 までのどこに位置す
るかを聞いてみました。すると、高い生産性を達成している部署はシステム 4 に近い
という結果が出てきました。つまりシステム 4 のようなチームワークと相互の信用・
信頼に基礎をおく管理スタイルが取られているチームは生産性が高くなるのです。
レスリーバーガー公式組織・非公式組織論
社内に組織する公式組織とよぶもの以外に非公式組織が社内にある事を発見
成員の 地位 と役 割が 明 確に規 定さ れて いるフ ォ ーマ ル 集 団 と、成員 の主観 的感 情や
態度にもとづき自然発生的に生ずるインフォーマル集団
リーバーガー)
(G.E.メ イ ヨ ー 、 F.J.レ ス
囚人のジレンマ
囚 人 の ジ レ ン マ ( し ゅ う じ ん - 、 Prisoners' Dilemma ) は 、 ゲ ー ム 理 論 や 経 済 学
において、個々の最適な選択が全体として最適な選択とはならない状況の例としてよ
く挙げられる問題。非ゼロ和ゲームの代表例でもある。この問題自体はモデル的であ
るが、実社会でもこれと似たような状況(値下げ競争、環境保護など)は頻繁に出現
する。
1950 年 、 ア メ リ カ 合 衆 国 ラ ン ド 研 究 所 の メ リ ル ・ フ ラ ッ ド (Merrill Flood) と メ ル
ビ ン ・ ド レ シ ャ ー (Melvin Dresher) が 考 案 し 、 顧 問 の ア ル バ ー ト ・ W ・ タ ッ カ ー
(A.W.Tucker) が 定 式 化 し た 。
二人は盗難の罪で留置された。
主 た る 罪 状 の 決 定 的 証 拠 を つ か め な い ま ま 当 局 は 二 人 を 、軽 い 罪 で 3 年 の 刑 と す る
こ と に し た の だ が 、 さ ら に 囚 人 た ち に 対 し て 悪 魔 的 な 取 り 引 き を 持 ち 掛 け た 。「 も し
相 棒 の 罪 を 証 言 す れ ば 、相 棒 は 5 年 の 刑 と す る か わ り に 、お 前 は 無 罪 放 免 に し て や る 」
い い 話 で は な い か 。 が 、 世 の 中 そ ん な に 甘 く は な い 。「 た だ し 、 も し 二 人 と も 証 言 し
た場合には二人そろって 4 年の刑に処する」
二人は別々に独房に入れられていて相談することは許されない。
「 私 が 証 言 し て 、相 棒
が沈黙したとすると私は 5 年間牢屋にはいるかわりに相棒は無罪放免される「
」相棒が
証言したらどうだろう。もし私が黙っていると 5 年の刑、これはひどい。私も証言す
れ ば 4 年 で す む 」と い う こ と は 、相 手 の 行 動 に か か わ ら ず 、自 分 は 証 言 し た ほ う が( 裏
切ったほうが)いいいうことになる。
さて、同じ条件を与えられている相棒もきっと同じことを考えるだろう。その結果
は上の図の右下「4 年の刑」である。
そうほうじっと黙っていれば 3 年で済んだものが頭をひねったあげくに 4 年になっ
てしまったのはどうしてだろう?
それでは、やはり沈黙していたほうがよいのか?
相手もそうしてくれればよいが、もし相棒が裏切って証言すれば、自分は最悪の 5
年の刑である。そんなことできるのか?事前に相談できるきるのであれは「おたがい
に黙っていような」と取り決めておいてふたりとも 3 年ですませることもできるのだ
が。
( ま あ 、相 談 し た あ げ く の 裏 切 り と い う の も あ る が )と 、こ ん な 具 合 に「 あ ら ゆ る
条 件 に お い て 最 良 の 結 果 に な る 」よ う に 行 動 し た は ず な の に 結 果 は ど う も う ま く な い 、
というところが「ジレンマ」というゆえんである。
繰り返し型の囚人のジレンマ
上述のように、選択が一回きりの「囚人のジレンマ」では、個々の利得を最大化す
るため、両者が「裏切り」を選択するのがナッシュ均衡戦略となる。選択回数を複数
にしても有限回数、すなわち、最終回がいつかをプレーヤーが知っている場合、最終
回の選択で両者が「裏切り」を選択し、最終回で裏切られることがわかっている両者
は、その前の回の選択も「裏切り」の選択をすることになり、結果的に、両者とも最
初から「裏切り」を選択し続けてしまう。
と こ ろ が 、何 度 繰 り 返 す か あ ら か じ め わ か っ て い な い 場 合 、最 終 回 で 相 手 が「 協 調 」
を選択する可能性が残されるため、相手から協調を引き出すために、その前の選択で
も「協調」を選択する戦略が有効となりうる。
1980 年 に ロ バ ー ト・ア ク セ ル ロ ッ ド は 、繰 り 返 し 型 の 囚 人 の ジ レ ン マ で 利 得 の 多 く
なる戦略を調べるため、様々な分野の研究者から戦略を集めて実験を行った。実験に
は 14 種 類 の 戦 略 が 集 ま り 、ア ク セ ル ロ ッ ド は こ れ ら を 総 当 り で 対 戦 さ せ た 。そ の 結 果 、
全対戦の利得の合計が最も高かったのは、
「 し っ ぺ 返 し 戦 略( tit for tat)」で あ っ た 。
「しっぺ返し戦略」とは、最初は「協調」し、以降は、前回相手の出した手をそのま
ま出す戦略である。
ア ク セ ル ロ ッ ド は 、続 い て 2 回 目 の 実 験 を 行 っ た 。こ の 実 験 に は 、62 種 類 の 戦 略 が
集まった。前回の勝者が「しっぺ返し戦略」であることは伝えられていたため、集ま
った戦略はこれよりも高い利得を得ようと工夫されたものだった。それにもかかわら
ず、最大の利得を得たのは、またしても「しっぺ返し戦略」であった。
な お 、実 験 の 結 果 は 、実 験 の 具 体 的 方 法 や 他 の 戦 略 の 種 類 、数 に も 影 響 さ れ る た め 、
「 し っ ぺ 返 し 戦 略 」が 常 に 最 強 と は 限 ら な い 。し か し 、あ る 条 件 下 で は「 し っ ぺ 返 し 」
戦略が「常に裏切り」戦略よりも有効であることを示すことができる。
非ゼロ和ゲーム
非 ゼロ 和(非 ゼ ロ 和 ゲ ー ム 、非 ゼ ロ 和的 状 況 )と は 、複数 の人 が相 互に影 響し あう
状況の中で、ある 1 人の利益が、必ずしも他の誰かの損失にならないこと、またはそ
の状況を言う。
この点が、ある人が勝つと他の誰かが必ず負けるというゼロ和とは異なる。非ゼロ
和 的 状 況 は 、獲 得 し よ う と す る 対 象 が 、固 定 的 で な い 、も し く は 限 定 的 で な い 場 合 に 起
きる。その状況の参加者の間で、資源を分配しあうというよりは、資源を蓄積してい
く状況に当てはまり、そこでは、ある人が利益を得たことと独立して、他の人も利益
を得ることができる。
この概念は、最初にゲーム理論の中で考えられたので、ゲームという状況でなくて
も、非ゼロ和ゲームと言われることもある。
社会的手抜き(しゃかいてきてぬき)又はフリーライダー現象
社 会的 手 抜 き は、集団 で共同 作業 を行 う時 に 一人当 たり の課 題遂 行 量が人 数の 増加
た い だ
に伴って低下する現象。フリーライダー現象、社会的怠惰とも呼ばれる。
マクシミリアン・リンゲルマンの綱引き実験やラタネの大声実験が有名である。
社会的手抜きは、世代、文化、男女を問わず広く見られる。男性よりも女性に、集団
主義的社会(中国、日本、台湾など)よりも個人主義的社会(カナダ、アメリカ合衆
国など)に多く見られる。
ラタネの大声実験
集団で行うと一人一人よりもあまり働かなくなるようです。古くはリンゲルマンに
よ っ て 発 見 さ れ て い た こ の 現 象 を 、ラ タ ネ ら は こ の よ う な 現 象 を 社 会 的 手 抜 き( social
loafing) と 呼 び 、 こ れ を 実 験 に よ っ て 検 証 し ま し た 。
ラタネは
・できるだけ大声を上げる
・拍手をして、できるだけ大きな音を出す
と 言 っ た 課 題 を 、同 時 に 1 人 、2 人 集 団 、4 人 集 団 、6 人 集 団 で 行 っ て も ら い ま し た 。
そ の 結 果 、一 人 当 た り の 音 の 大 き さ は 1 人 、2 人 集 団 、4 人 集 団 、6 人 集 団 の 順 で 小 さ
くなっていきました。つまり、集団の人数が増えれば増えるほど一人一人は本気を出
さなくなっていくと言うことが言えます。ただし、この実験には欠点があります。
何人かで同時に声を出してもタイミングがずれていたりすれば、音が小さくなった
かもしれません。というわけで、ラタネらはさらに次の実験を行いました。
今回、被験者には目隠しとヘッドホンをして一人で大声で叫んでもらいます。ただ
し 、今 回 は 被 験 者 に ウ ソ を つ き 、
「 1 人 、2 人 集 団 、6 人 集 団( 4 人 集 団 は 今 回 除 か れ た )」
のいずれかの条件で叫んでいることにします。
被験者は何人かの集団で叫んでいると思っていますが、実際には一人で叫んでいる
のです。こうすることで複数で叫ぶときの音のズレを含まない、純粋に社会的手抜き
の効果を図ることができるということです。
こ の 結 果 も や は り 、1 人 、2 人 集 団 、6 人 集 団 の 順 で 声 は 小 さ く な っ て い き 、社 会 的
手抜きの効果は現れました。しかし、現実の集団と擬似集団では擬似集団の方が声が
小さくならなかったため、確かに同時に叫ばせたことによる音圧の低下は確かに存在
しました。
以上のように、集団で同時に行うことによって、確かに一人一人の作業量は小さく
なったのです。これが生じる理由には、ウィリアムズの評価懸念説や上記の実験を行
ったラタネの社会的インパクト理論があります。
社会的インパクト理論による説明を、簡単に言うと、責任の分散が生じているとい
うことです。
数人で一緒に重いものを運ばなくてはならない場合、さぼってもわからないからと手
抜きをしてしまう者が現れることを私たちは、経験的に知っています。このような現
象 を 、「 社 会 的 手 抜 き 」 と よ ん で い ま す 。 こ れ は 、 メ ン バ ー 各 自 の 作 業 結 果 が 明 ら か
に な り に く く 、集 団 の 成 果 へ の 貢 献 度 が 比 較 し に く い た め に 起 こ る と 言 わ れ て い ま す 。
では、社会的手抜きを避ける方法はないのでしょうか。その後の研究により、以下の
ような方法によって 社会的手抜きは減少することがわかりました。
①
集団メンバー各自の成績・努力を簡単に確認できるようにする。
②
課題を魅力あるものにし、各自仕事を懸命にするようにさせる。
③
集 団 メ ン バ ー 各 人 に 、自 分 自 身 の 貢 献 度 を 評 価 す る 機 会 を 与 え る 、 あ る い は 標 準
や基準を与
える。
④
集団凝集性(集団の魅力:集団に属していることへの魅力)を強める。
こ れ ら は 様 々 な 実 験 か ら も 確 か め ら れ て い ま す 。 特 に 、集 団 を ま と め る リ ー ダ ー に
は個々人の努力をしっかりと認めて評価をしてあげることが、社会的手抜きを起こさ
せないためには重要でしょう。集団として努力の成果が認められることはもちろんう
れしいことですが、自分がどのくらい貢献したかが認められないと、次へのモチベー
ションが上がりませんからね。
援助行動・傍観者効果
1963 年 の あ る 日 、キ テ ィ・ジ ェ ノ ヴ ィ ー ズ と い う 女 性 が 変 質 者 に 殺 さ れ ま し た 。ニ
ューヨークの住宅ビルの谷間で起こった事件で、周囲に多くの住人は住んでいます。
彼 女 の 叫 び 声 を 聞 き 、 部 屋 の 窓 に 駆 け 寄 っ て 彼 女 が 襲 わ れ た の を 確 認 し た 人 は 、 38
人 に も 昇 り ま す 。 し か し 、彼 女 を 助 け に 向 か っ た 人 は お ろ か 、警 察 に 通 報 し た 人 す ら
一人もいませんでした。
この事 件は 大勢 の観 衆 の前で の殺 人劇 とし て 、キ テ ィ・ジ ェ ノヴ ィ ー ズ事 件 と命名
され、世界中で反響を巻き起こしました。なぜ彼らは大勢いるのに誰一人として助け
ようとしなかったのでしょう?
ラ タ ネ と ダ ー リ ー は 、逆
逆 に 大 勢 い る か ら こ そ 、誰 も 助 け よ う と し な い の で は な い の
か、と考えました。このような「冷淡な傍観者」を検証するため、ラタネとダーリー
は 、ニ ュ ー ヨ ー ク 大 学 の 心 理 学 入 門 を 受 講 す る 52 名 の 大 学 生 を 被 験 者 に 実 験 を 行 い ま
した。まず、参加者は一人一人別々に、個室のひとつに通されます。そこで参加者は
インターホンを使って(つまり相手が見えない状態で)、互いにスピーチをします。
ここで相手の参加者(実はサクラ)に異変が起こり、インターホン越しに苦しそうな
声が聞こえてきます。
そのとき大学生の被験者は助けに行ったのでしょうか?その結果は、スピーチグル
ープの人数によって、大きく分かれました。発作中に助けに向かった人は、
2人(サクラと被験者のみ)の条件では、85%
3人(サクラと被験者2人)の条件では、62%
6人(サクラと被験者5人)の条件では、31%
でした。さらに、発作中すぐにではなくとも、
2人条件では、最終的にすべての被験者が助けに向かったのに対し、
6人条件では、最終的にも38%の人が部屋から出ることすらない、
という顕著な結果が見られました。
この実験からわかることは、相手と二人だけのときには、自分ひとりしか助ける人
がいないため、すぐに助けに向かうが、ほかにも助けることができる人がいる場合に
は、責任の分散が起こり、結果としてほとんどの人が助けに向かわなくなるというこ
と で す 。こ の 他 者 の 存 在 が 援 助 行 動 を 抑 制 す る こ と を 傍 観 者 効 果( bystander effect )
とラタネは名づけました。
ちなみに、6人条件の大学生は実験後に実験者に、「あの発作起こした人は大丈夫
でしたか?」とかなりの心配を示した者が多かったそうです。つまり、彼らは本当に
「冷淡 」であ るわ けで はない ので す。誰 か が 助 ける さ 、助 け な か っ た のは 俺 だ け じゃ
ない、、、、 そういった考え方が、結果として誰もが無視するという結果を生み出
しているのです。実際に都会でサラリーマンが駅前の人ごみの中殴り殺されるといっ
た事件も起こっています。ここで起こっているのは傍観者効果なのです。
社会的インパクト理論
社会的インパクト理論とはラタネが提唱した、他者が個人に与える影響を包括的に
説明する理論です。この理論をよく理解するには、社会的手抜きや傍観者効果を理解
する必要があります。
社会的手抜きとは、共同で作業をしている人が複数いると、その分だけ一人一人の
作業量が低下してしまう現象のことです。
ラタネの実験では、一人と複数の人でできるだけ大きな声を出してもらったのです
が、1 人 >2 人 >4 人 > 6 人 とだん だん 一人当 たりの 声が 小さ くな っ ていき まし た。一
緒に作業をするだけで意識的にしろ無意識的にしろ「サボって」しまうのだと言えま
す。
傍観者効果とは、周囲に人がいると、責任の分散が起こり、他者を援助する行動が
起こりにくくなることを指します。これはキティジェノヴィーズ事件をきっかけに研
究されたものです。
他者が個人に及ぼす影響(これが社会的インパクトです)は
( 1 ) 影 響 源 の 強 さ S(strength)
社会的勢力の強さ
( 2 ) 人 数 ( S)
勢力を持つ人の人数
( 3 ) 近 接 性 ( I)
影響源とターゲット個人との近さ(=伝わり
やすさ)によって決まるとされています。
これを数式で書くと
Imp = f ( S×I×N )
となります。
まあ数式なんてどうだっていいんです。
要は、他者からの影響なるものは、まず勢力自体の強さ、そして、勢力を持ってい
る人の人数、そして影響源との近さによってきまるというただこれだけのことです。
これを、人数という観点からのみ図で見ていきましょう。
○が影響源。三角がターゲット(影響を受ける側の個人)
○─────────┐
↓
○───────→
▲
↑
○─────────┘
この場合、複数の人の影響力がターゲットに重なっており、社会的勢力の影響力は
高 ま る と い え る の で す 。 こ れ は 、 社 会 的 促 進 /抑 制 を 説 明 す る 理 論 と な り ま す 。 観 察
する他者と言うのが影響源となり、個人の課題達成に影響を与えるのです。
その逆に次の図を見てください。
┌─────→▲
│
○───┼─────→▲
│
└─────→▲
この場合、影響力はターゲットの間で3つに分かれています。そのため、一人当た
りの影響力は減少しているのです。
これによってラタネは社会的手抜きと傍観者効果を説明しています。この二つの現
象に共通した要因は、他者がいることによって、責任の分散が起こるということでし
た。つまり、影響を受ける人の数が増えることによって、一人ひとりの影響力が小さ
くなります。
そのため、懸命に努力するという規範や他者を援助するという規範からの影響力が
小さくなり、
社会的手抜きや傍観者効果は生じてしまうのです。
近 年 で は 、 マ ル チ エ ー ジ ェ ン ト ベ ー ス ト の コ ン ピ ュ ー タ ・シ ミ ュ レ ー シ ョ ン を 用 い
た研究の中で、
ダイナミック社会的インパクト理論として検討が行われていることも付け加えておき
ます。
ゲシュタルト心理学
知覚研究から、心を探る
ゲシュタルトというのは耳慣れない言葉だと思います。その言葉自体が専門用語な
の で 、名 前 か ら は ど ん な 心 理 学 か 想 像 が つ き ま せ ん ね 。簡 単 に 言 う と 、
「 そ れ 以 上 、バ
ラバラにすると意味をなさない一塊りとし
て、扱う
べ き も の 。」 の 事 で す 。 そ れ で も 、 簡 単 で
はないですね。右の絵を見てください。
この絵は点の集合です。でも、1つ1つ
の点には何の意味もありません。この点
が 、 こ の 絵 の よ う に 集 ま っ て 初 め て 、「 1
万円」という文字が浮かび上がります。
この絵では、点がいくつあるかが重要で
はありません。点の集まり具合が重要で
すね。一つ一つの点は意味がありませんが、たくさんの点が集まった、その全体の形
に意味があります。つまり、この絵は1つ1つの点に分けてしまうと意味をなさない
のです。
このような集まりの事を「ゲシュタルト」と言います。音楽もゲシュタル
ト性があります。音を1つ1つに分解してしまうと、音楽ではなくなってしまうから
です。この言葉の言い出しっぺは、オーストリアの心理学者エーレンフェルスという
人です。
◆
このゲシュタルトという考え方は、言うまでもなくゲシュタルト心理学の基本的理
念 で す 。ゲ シ ュ タ ル ト 心 理 学 流 の 言 い 方 を 借 り る と 、
「 全 体 と は 、部 分 の 単 純 な 総 和( 合
計 )以 上 の も の で あ る 。」心 の 部 分 的 な 事 を 取 り 上 げ て 研 究 す る や り 方 で は 、心 を 把 握
できない。
◆
ゲシュタルトという言葉は耳慣れなくても、結構みなさん
おなじみの内容があります。
例えば、右の絵を見てください。トロフィーのような絵があ
ります。よく見ると、トロフィーの軸の部分では、二人の顔
が向き合っているようにも見えます。心の中で、トロフィー
をクローズアップすると、向かい合った顔はただの背景に見
えます。向かい合った顔に注目すると、トロフィーは背景に
見 え ま す 。 何 か 一 つ も の を 意 識 す る と ( 図 と 言 う )、 そ の 他 の も の は 背 景 ( 地 と 言 う )
と感じる性質があります。人間が物事を知覚するときの性質です。次の絵は、二つの
図のうち横棒の長さは同じです。でも、人間が知覚する横棒の長さは、くっついてい
る矢印の影響を受けます。
上の方が長く見えますね。横棒の長さを見ようとするとき、この図全体の影響を受け
てしまいます。その部分は、どのような全体の中に組み込まれているかによって、見
え方が変わってしまうのです。これも、人間が物事を知覚
す る と き の 性 質 で す 。次 の 絵 は 、三 角 形 で は あ り ま せ ん が 、
三角形だと感じます。辺がとぎれた部分を補ってとらえて
しまいます。つまり、人間が物事をとらえるとき、単純化
と最小限の操作でおなじみの形に変化させてとらえます。
◆
このような知覚の性質の研究から、記憶、思考の研究へと、人の心を探っていこう
というのがゲシュタルト心理学です。
ゲーム理論
ゲ ー ム 理 論 と は 、 複 数 の 主 体 の 存 在 す る 状 況 下 で の 意 思 決 定 に つ い て 研 究 す る 、 20
世紀半ばに確立された数学の一分野であり、
「 理 論 」の 名 を 冠 し て は い る が 単 一 の 理 論
ではなく通常学問の分野や研究のアプローチだとされる。
ゲーム理論とは、複数の個人が何らかの意志決定をしている状況で、
1
その場に参加している人の全ての意思決定が合わさって、各個人が結果的におか
れる状態が決まり
2
どのような状態におかれるのが自分にとって好ましいかは、個人間で違いがあっ
て
3
各個人は自分にとっての好ましい結果が起こることを願っているが
4
自分が結果を左右できる力は1で述べた意味で部分的であるとき、自分としては
どのような決定をなすべきかを真剣に考えていて
5
この真剣に考えていると言うことは誰も同じであるという事が相互に認識され
ており
6
しかも各個人がおかれているこの状況それ自体も相互に認識されている
という状況で、人がなす決定を、予測したり説明したりする学問です。
こ の 定 義 に お い て は 、「 何 ら か の 意 思 決 定 」 が 行 わ れ て い る 状 況 を 対 象 と し て い る
のですが、
「 何 に つ い て の 意 思 決 定 か 」は 問 わ ず に 、意 思 決 定 が 為 さ れ る と き の 状 況 を
特定化する事で、その状況で行われるあらゆる種類の決定を研究対象としているので
す。この定義の仕方が意味があるためには、どのような種類の決定をするにしても、
その決定が為される状況が1から6の条件を満たせば、安定的なパターンを示す決定
を、人はするものである、ということがなければなりません。というのは、例えば、
財務会計論で、ある財務データがある企業によって用いられているのはなぜかを説明
しようとするとき、それはなぜかを尋ねると、その説明原理は、少なくとも財務デー
タのあり方としてのその特定の財務データという対象の固有の性質から導かれるのに
対し、ゲーム理論の研究対象の定義は、それを許さないからです。
そして、状況1から6では人は安定的な行動をするものだと期待できるか、と尋ね
たら、少しでも社会科学に足を踏み入れたことのある人なら、全く逆に、その様な状
況だからこそ安定的な行動を期待できない、と思うかもしれません。なぜなら、状況
1から4までは、個人間の利害の対立の存在を定義していて、その様な場合の人の行
だ せ い
動は、それがもし何らかの惰性や、外部的な調整機構(例えば、経済学で言う需給を
バランスさせる価格調整メカニズム)への部分的適応や、あるいはもっと「機械的」
な反応であればあるいは結果的にある種の「均衡」ないし「バランス点」に達するこ
とも期待できようが、状況5と6は、まさにその様なことがない、人間のむき出しの
腹のさぐり合いだけを認めているからです。
こ れ は 、 次 に 様 に 言 う こ と も で き る か も し れ ま せ ん 。「 人 は 考 え て 行 動 す る 複 雑 な
存在である。だから、その面を単純化したモデルでなければ、人の行動についての安
し
さ
定的予測を示唆するモデルになるはずはない。つまり、人は考える存在であるという
「 現 実 的 」ア プ ロ ー チ で は 、操 作 可 能 な 単 純 な 理 論 モ デ ル は で き な い だ ろ う 。」ゲ ー ム
理論は、まさにこの点を逆さについて、人は考える存在であるからこそ予測不能な突
飛な行動をするのではなく、逆に安定的な行動を示すだろう、と考えるのです。その
間接的な証拠として、先に引用した室内ゲームを考えてみましょう。例えば、みなさ
んは「ど貧民」というトランプゲームをしたことがあるでしょう。プレーヤーのポジ
ションに序列があって、カードの配分に、あらかじめ序列に応じた不公平な再配分ル
ールが組み込まれています。結果的に、上位の者は序列の上を転落しにくく、下位の
者は逆に上昇しにくくなっています。だから、すべてのプレーヤーは、互いの手持ち
カードのさぐり合いをし、互いのミスを逃さずついて、少しでも上の序列にあがろう
とします。むき出しの腹のさぐり合いがおこります。けれども、このトランプゲーム
をしたことのある人なら、手持ちカードが何であれ、そのカードを元手にできるかぎ
りの定石の手があるというのを知っています。そして、この手からはずれた動きをし
た 人 は 、す べ て の カ ー ド が あ ら わ に な る ゲ ー ム の 終 了 時 点 で 、
「おまえはあそこでチョ
ンボ(つまり、ミス)をした」と言われるのです。それは、お互いのカードの配分の
チャンスのあり方を所与とすると、各プレーヤーが互いの為しうることを互いの身に
なって徹底的に考えると、とるべき行動が自ずと制約されてくると言うことを示唆し
ています。そしてこの様な高度なゲームでは、むしろ我々大人と同じ様な状況5・6
のレベルでの腹のさぐり合いのできない人、例えば幼い子ども、が参加すると、逆に
とたんにきれいなプレイのパターンは崩れて、当の子どもの行動のみならず他の大人
の行動も含めて、説明不能なランダムなゲーム展開が起こるのが常です。
さ て 、「 ど 貧 民 」 の 様 な ト ラ ン プ ゲ ー ム の 特 徴 は 、 ま さ に 上 で 列 挙 し た 状 況 1 か ら
6で表されています。だから、もし我々が「ど貧民」で安定的なプレーが起こること
を期待できる根拠があるとするなら、同じ事が、状況1から6で表される性質を満た
すすべての決定状況について言えるに違いありません。これが、ゲーム理論が独自の
研究対象を持つ学問分野だといえる根拠なのです。
人によっては、ゲーム理論は、例えば物理学にとっての数学のような、それ自体は
経験科学としての研究対象を持たず、他の経験科学の分析手法を提供する形式科学で
ある、と考える人もいます。もしそうだとすれば、ゲーム理論は分析手法としての有
効 性 だ け が 問 わ れ て 、個 々 の 社 会 現 象 の 説 明 と し て の 役 割 を 持 た な い こ と に な り ま す 。
これは、翻って、ゲーム理論は何にでも使える、と言うことになります。私は、そう
ではなくて、ゲーム理論は、それが適用できない現象と、それが適用できる現象とが
ある、限定された経験科学の1分野だと考えています。だから、状況1から6で記述
されるシチュエーションがあって、そこにゲーム理論による予測を当てはめた結果、
予測がはずれるという事、つまりゲーム理論が説明できない現象であることがデータ
によって証明される可能性がある、と考えます。
マズローの欲求段階説
ア ブ ラ ハ ム ・ マ ズ ロ ー ( 1908-1970) は 欲 求 を 五 段 階 に 分 け 、 人 は そ れ ぞ れ 下 位 の
欲求が満たされると、その上の欲求の充足を目指すという欲求段階説を唱えました。
下から順に、生理的欲求、安全の欲求、帰属の欲求、自我の欲求、自己実現の欲求と
いう順になっています。
生理的欲求は、空気、水、食べ物、睡眠など、人が生きていく上で欠かせない基本
的な欲求をさしています。これが満たされないと、病気になり、いらだち、不快感を
覚えます。
生理的欲求とあせて、安全の欲求は生命としての基本的な欲求の一つとなります。
生を脅かされないことの欲求で、たとえば、暴力などにより絶え間なく生存を脅かさ
れていると、その危険をいかに回避し安全を確保するかに必死になり、それ以外のこ
とが考えにくくなるわけです。
三つ目は、帰属の欲求です。会社、家族、国家など、あるグループへ帰属していた
い と い う 欲 求 は 、あ く ま で 生 存 を 脅 か さ れ な い 状 態 に な っ て 出 て く る わ け で す 。ま た 、
基本的欲求が満たされた次にこの欲求がくるということは、帰属欲求がそれだけ基本
的なものであることを示しているともいえます。
帰属の後に自我の欲求がくるのは、ごく自然のことのように思えます。なぜならこ
の欲求は、他人からの賞賛を求める欲求であり、それはグループへの帰属が前提とな
るからです。
( な に か し ら グ ル ー プ に 所 属 し な け れ ば 、自 分 を 認 め て ほ し い 他 者 を 認 識
す る こ と は あ り ま せ ん 。)こ の 欲 求 は 二 つ に 分 か れ ま す 。ひ と つ は 、仕 事 の 遂 行 や 達 成 。
二つめは、そのことにより他人から注目され賞賛されることです。
最後は自己実現の欲求。これは、あるべき自分になりたいという欲求です。たとえ
ば、自分の描きたい絵画に打ち込む芸術家は、自己実現の欲求に突き動かされている
といえます。研究欲求、平和の追求、芸術鑑賞なども含まれますが、注意しなければ
ならないのは、あくまで「自己実現」を求めてのことである、という点です。たとえ
ば、そこに「人から賞賛されたい」という気持ちがあるのであれば、それは自我の欲
求です。ここには、ある種の無償性が含まれているのが特徴です。
このマズローの欲求段階説は、組織心理学において、従業員の動機付けの説明とし
て利用されてきました。しかし本来は、人が成長する過程で満たされる欲求として五
つの段階を位置づけた、いわば精神的成長の過程の説明でした。短期的な動機付け理
論として利用すると、見誤る場合があります。たとえば、給与を上げ、環境を改善す
れ ば 生 理 的 欲 求 、安 全 の 欲 求 が 満 た さ れ 、帰 属 の 欲 求 へ と つ な が る と い う の は 、当 然 、
短絡的にすぎると言えます。
また、自己実現の欲求についても注意を要します。何に自己実現を感じるか、やり
がいを感じるかは人それぞれであり、そのことを「管理」するのは非常に難しいこと
です。従業員と一緒にやりがいを「発見する」というような、創造的なコミュニケー
ションが不可欠になってきます。この説の原点に立ち戻るなら、従業員の「人間的成
長」を促していくフレームワーク(なにかを構築する上でその元となる土台の部分)
としてとらえた方が、より本質的です。
さらにマーケティングにおいてもマズローの欲求段階説はよく利用されます。組織
心理学と同様、欲求を満たすことを短絡的にとらえてはいけませんが、昨今顧客の不
満を取り除いただけでは、多くの市場での勝利はありえません。そのような環境の中
で 定 性 リ サ ー チ の ラ ダ リ ン グ や z-met を 利 用 し て よ り 高 次 ニ ー ズ を 理 解 す る 必 要 が あ
りますが、その成果を整理する上では非常に便利なツールです。
マズローは1908年にブルックリンで誕生。両親は貧しいロシアからのユダヤ人
移民。7人兄弟の長男の彼は、両親の期待を背負い学問の道へと進みます。貧しい生
活、マイノリティへの所属、アカデミックでの成功。マズローの欲求段階説は、こう
した生い立ちも影響しているのかもしれません。
大欲は無欲に似たり
1 . 大 き な 望 み を 持 つ 者 は 、小 さ な 利 益 に 目 も く れ な い か ら 、外 見 は 無 欲 の よ う に 見 え
る。
かえ
2 .欲 の 深 い 者 は 、欲 の た め に 却 っ て 損 を し が ち で 、結 局 は 無 欲 の 者 と 同 じ 結 果 に な る 。
ま た 、大 欲 を 抱 き 目 的 を 達 成 し た と し て も 、そ の 結 果 を 有 効 に 用 い な け れ ば 、結 果 と し
て小欲と同じであるということ。
企業と行政との調和;経済的利益と社会的利益九州県議会議長会講演
20050517
新日本科学
永田良一
ビ ジ ネ ス と 経 営 と は 、そ の 定 義 を 区 別 し て い ま す 。ビ ジ ネ ス は 、経 営 の 手 段 で あ り 、
経営とはビジネスを通じて社会に貢献し、併せて、社員が日々、自律的に成長できる
環境を整備することでもあると考えています。
さて、新日本科学は、理念経営を行っている企業でございます。理念経営とは、企
業の存在する目的と意義を明確にし、社員を初めとするステークホルダー(積極的に
企業にかかわり企業活動に影響を及ぼす利害関係者)にこの理念を認識してもらい、
共存共栄していくという経営手法であります。ですから、経済的利益とともに社会的
利益をも追求するという目標を掲げることになります。
しかしながら、企業が社会的利益をも求めていくことはなかなか簡単にできるもの
で は あ り ま せ ん 。そ の た め に は 、日 々 の 艱 難 辛 苦 の 業 務 に 忙 殺 さ れ ず 、巻 き 込 ま れ ず 、
自らの信じる正しい理念軸を、こころの潜在意識レベルに刷り込むことが要求される
のであります。このような理念軸の組織内での形成は、企業組織に限らず、行政など
の組織においても、不正防止や事件予防には不可欠だと思います。
ここで、私が経営理念を行うきっかけを少しご紹介させていただきます。
十年以上も前になりますが、私が新日本科学社長に就任したころのことでございま
す。鹿児島市にあります最福寺の池口恵観法主に、「経営者は、大欲を持たなければ
いけな
い」と言われました。辞書で大欲という言葉を調べますと、「自利利他の概念に根ざ
した公益のこと」とあります。
弘法大師(空海)の言われた「救世利民」;世を救い民に利すること、にその実動
があります。しかしながら、当時の私には、大欲を持つことなど、ほんとうに難しく
て、なかなか出来る状況ではありませんでした。そもそも、私の家は神道であり、大
学はキリスト教系でしたので、仏教のことなどはまったく知りませんでした。それか
ら数年後に、恵観法主に「私には大欲を持つことは難しくてできそうにないです」と
話しましたところ、「いいえ、難しいことはないですよ、大欲は小欲の集まりですか
らね。たくさん、たくさんの欲、八千八百万の欲を持つようにこころがけなさい。」
と言われました。そして、「まずは、自分を好きになり、自分を大切にするために、
自分の欲をたくさん持つことから考えなさい。自分が欲しいもの、したいこと、なり
たいもの、ありたい姿、いくらでもあるでしょう。」とおっしゃられたのです。
大欲とは、公益性の高い、尊いものと考えておりましたので、正直、驚きました。
そ こ で 、 私 は 、 自 分 の "欲 "に は 、 ど ん な も の が あ る の だ ろ う か と 考 え て み た の で す 。
でも、また驚いたことに、自分はそんなにたくさんの欲は持っていないことに気付い
たのです。もっとたくさんの欲はないものかと真剣に考えているうちに、自分や家族
のことからはなれて、外の方に向かって考えるようになり、会社の社員やその家族の
こと、友人のこと、地域社会、それから日本のこと、引いては、世界人類すべてのこ
と、とだんだんと自分から遠ざかって考えている自分を発見しました。
すなわち、大欲を持つということは、自分の小さな欲からはみ出して、大海のよう
な広い考え方に気付くことなのだと知りました。大欲は無欲に通じる、ということに
初めて気付いたわけでございます。
そして、もう一つ気付いたのが、大欲になればなるほどに邪心のない、清らかで浄
化された欲になっていくということです。多くの人々のためになる欲は、きれいで美
しい欲であるということです。これを、般若理趣経では「大欲清浄を得、大安楽にし
ふじょう
て富饒也」といいます。
富饒:富んでゆたか。
ウィークエンドホームズ社
森本社長
無欲の大欲という言葉を聞いたことがあるでしょうか?私はもう「そう信じて疑い
ません」人間だれしも「無欲」ではいられません。
欲があって、あってしかたがない。ものだと思います。で、この欲を手に入れる最
善の方法が「無欲の大欲」だそうです。
つまり、
「 自 分 が 幸 せ に な り た か っ た ら 」、
「 自 分 の 回 り 」の 人 を「 自 分 」が ま ず 幸 せ
にしてあげましょう。すると、幸せになった回りの人が「自分」を一番の幸せ者にし
て く れ る で し ょ う か ら 。 ...と い う 考 え 方 で す 。
瞬 間 デ ィ ベ ー ト( 議 論 )で 相 手 を や っ つ け て も 、幸 せ に は な れ な い と 思 い ま せ ん か ?
お客様を幸せにしてあげれば、我が社は幸せ者になれるでしょう。
同僚を幸せの渦に巻き込んであげれば、自分が幸せになれるでしょう。
上司を幸せにしてあげれば「自分」が幸せになれるでしょう。
かみさんと子供を幸せにしてあげれば仕事でサポートしてくれるでしょう。
みずかがみ
ほ う ご
一休禅師の「水 鏡の法語」
た ゆ う
地獄太夫という絶世の美人の花魁がいた。その花魁はなかなか人間ができた人だと
た ゆ う
聞き、一休禅師が会いに行った。会って話をすると、地獄太夫が「極楽と申しまする
は、十万億土と承りますが、これはいずこでございますか」と質問をした。すると禅
師が、傍らにあった水差を取って角だらいに水をそそがれ「これこれ、水に面を映し
て見よ、これ心の鬼の角だらい。我という器があれば心という水、水の心というもの
あれば、諸々の煩悩、森羅万象の影を映す。これは影が来て映るにあらず、心という
水が求めて映すのである。また、かくのごとく水を捨て器を去る時は、即ち物の影は
映ることはない。水を捨てよ、器を去れ、無我になれ、無心になれ」と、たちまち角
だらいの水を側へあけてしまわれた。
みずかがみ
ほ う ご
一休禅師の「水 鏡の法語」というのが即ちこれである。
禅師は、人間を、器に入れた水と示されている。器が愚かさであり、水が欲である
とも受け取ることができる。水を捨て、器を去れとは欲と愚かさを離れ、仏になるこ
と で あ る 。こ れ を 禅 で は「 無 心 」と も「 無 我 」と も い う 。仏 に な っ た 日 暮 ら し こ そ「 極
楽 」な の で あ る 。と こ ろ が な か な か 器 を 去 り 、水 を 捨 て る こ と が で き な い の が 人 間 だ 。
器の中に、常に欲という水が入っていて「あれが欲しい、これが欲しい」と、動くた
びに音を立てる。これをカラのバケツほど音が大きいというのだ。
事業をやるにしても「儲けたい」とか「これは面白いから絶対に儲かる」などと、
欲心をつのらせて経営をすると必ず失敗する。
「 自 分 さ え よ け れ ば 」と い う 自 我 に 立 脚
した欲を小欲といい、器の中であさましく音を立て続ける。ところが「世のため人の
ため」という慈悲心で事業をすることは、同じ欲でも大欲といい、器にいっぱいに水
が満たされているから音がしなくなる。これを「無欲大欲」というのだ。
ポライトネス理論
ポライトネス理論では、人間はみんな他者から離れていたいという欲求と他者に受
け入れられたいという要求を持っている、という点が理論化されています。そしてこ
れらの、人間に普遍的な、方向の異なる欲求をおかさないように配慮して私たちは行
動していると考えます。この、ネガティブポライトネスだけでなく、ポシティブポラ
イトネスを設定したという点が、この理論の非常に強力なところです。このようにす
き
ひ
ると、冗談←→忌避関係というのは、まさに二種類の対人配慮行動が制度化されたも
のであるととらえられるようになります。
ちょっと具体的に説明すると、まず「忌避関係」というのは、避けたり尊敬したり
しなければいけない関係――言ってみれば敬語を使わなければならない関係のことで
す 。言 語 使 用 以 外 に も 、た と え ば 忌 避 関 係 に あ る 人 を「 見 て は い け な い 」
「触ってはい
けない」
「 名 前 を 呼 ん で は い け な い 」と い う 制 限 が 広 く 見 ら れ る こ と が 知 ら れ て い ま す 。
そして、忌避関係の人たちとはしてはいけないことが「冗談関係」にある人たちとは
許されます。つまり冗談関係の人たちは「見ても良い」し「触っても良い」し「名前
わいせつ
を 呼 ん で も 良 い 」、「 猥 褻 な こ と を 言 っ て も 良 い 」 ど こ ろ か 喜 ば れ た り し ま す 。 結 婚 す
るのも、もちろん、自分と冗談関係にある人と、ということになります。
この現象は私たちには不自由対自由,制限対無制限といった対照に見えます。なの
で 、こ の 対 照 的 な 関 係 は 、
「忌避関係にある人とはあれもだめこれもだめと制限が多い。
そうすると、人間はどこかで発散する必要があるので、その不自由な関係に対してい
わば代償として、“何でもあり”の自由な冗談関係が存在するのだ」と説明されるこ
とがあります。しかし、このような一見“失礼”な行動をとると、冗談関係の人には
容認されるだけでなく喜ばれる、ということは、自由に振る舞っているというよりは
相手が喜ぶことをしてあげているということになります。ののしられたからののしっ
て あ げ る 。極 端 な ケ ー ス で は 、“ 失 礼 ” な こ と を「 や っ て も い い 」の で は な く て 、
「義
務」になってしまうこともあります。忌避関係の人には、かしこまって丁寧な挨拶を
しなければいけないけれども、冗談関係の人には、義務的・儀式的に“失礼”にしな
ければいけない。きちんと“失礼”にしないと礼儀正しくないことになってしまうわ
けです。
このように、冗談関係間でののしったり猥褻なことを言うのは、自分がやりたいか
ら で は な く( そ う い う こ と も あ る で し ょ う が )、相 手 に 配 慮 す る 行 動 な わ け で す 。で す
から、冗談忌避関係は片方が配慮プラス、もう片方が配慮ゼロ、という対照関係にあ
るのではなく、配慮するという点においては両方ともポライトで、その方向が対照的
な関係なのです。そして、忌避関係はネガティブポライトネスが制度化したものであ
り、冗談関係はポジティブポライトネスが、この場合はした方がのぞましい、あるい
はしなければならないとなっているので、やはり制度として結晶化してできあがった
体系であるととらえることができます。一方日本社会では、ポジティブ側は個人の裁
量にまかされていて、ネガティブポライトネスだけが敬語として制度化し高度に発達
を遂げたものであるということができるのではないでしょうか。
ところで冗談関係をポジティブポライトネスが制度化したものであると言うため
にはいくつか保留事項があります。まずブラウン&レビンソンがポジティブポライト
ネスのストラテジーとしてあげているジョーク(“冗談”)という概念は、具体例も
少なくその機能や効果も考察されていない、という点です。ジョークというのは、話
し手がジョークであるとみなし、相手もジョークであると受け取れば、つまり両者の
間で了解がとれてさえいれば何でもいいわけです。一体それにはどんな下位分類や方
法や動機があるのか、ジョークであると了解するための手続きはどうなっているのか
等、もっと議論を深める必要があります。
保留事項のもう一つはブラウン&レビンソンが対象としたのがもっぱら言語行動で
あるという点です。でも対人配慮行動というのはもっと広いわけです。言語だけでは
なくて、たとえば物理的対人距離や贈与行動もその一部です。
この点で、滝浦先生の「距離」という概念設定はとても良いと思います。これは、
抽象的概念のようであって完全にそうではないのです。というのは、他者との関係や
行動の意図に応じて人と人との間におかれる物理的な距離は実際に異なることがよく
知られており、これと言語上の「距離」を統一的にとらえることができるようになる
からです。でも、滝浦先生もすでに指摘されているように、その種類にはさまざまな
ものがあるはずです。確かに日本語の敬語体系においては、動機の種類に関わらず最
終的なアウトプット手段の敬語側にはそれを区別する方策はなくすべて一元化されて
しまうのですが、ポライトネスの一般理論を進め分析を精密にするのに、それらの種
類の明確化が貢献しうるのではないでしょうか。年齢や上下は数直線で良いけれど、
し ん そ
親しさは放射線状に表されるかもしれません。冗談忌避関係と上下関係や親疎関係は
また相互に独立した別個のものです。さらに集団の内・外という距離もあります。
1.ポライトネス理論の概観
語用論研究において、20世紀終盤から急速に注目を集めているトピックがポライ
トネスである。ポライトネスとは、会話において、話者と相手の双方の欲求や負担に
配慮したり、なるべく良好な人間関係を築けるように配慮して円滑なコミュニケーシ
ョンを図ろうとする際の社会的言語行動を説明するための概念である。今日取り上げ
ら れ る の は 、 主 に Leech(1983)と Brown & Levinson(1987)の そ れ ぞ れ の 理 論 で あ る 。
Leech(1983)は 、Grice の 協 調 の 原 理 だ け で は 説 明 で き な い 、対 人 関 係 に 対 す る よ り
高度な配慮をもってなされる言語行動の原理について、ポライトネスの原理として論
じた。具体的には自己と他者に及ぶ利益・負担などに配慮して行われる言語行動の原
理を、6項目のポライトネスの原則を立てている。
1
気配りの原則
(a)他 者 の 負 担 を 最 小 限 に せ よ
(b)他 者 の 利 益 を 最 大 限 に せ よ
2
寛大性の原則
(a)自 己 の 利 益 を 最 小 限 に せ よ
(b)自 己 の 負 担 を 最 大 限 に せ よ
3
是認の原則
(a)他 者 へ の 非 難 を 最 小 限 に せ よ
(b)他 者 へ の 賞 賛 を 最 大 限 に せ よ
4
謙遜の原則
(a)自 己 へ の 賞 賛 を 最 小 限 に せ よ
(b)自 己 へ の 非 難 を 最 大 限 に せ よ
5
合意の原則
(a)自 己 と 他 者 と の 意 見 相 違 を 最 小 限 に せ よ
(b)自 己 と 他 者 と の 合 意 を 最 大 限 に せ よ
6
共感の原則
(a)自 己 と 他 者 と の 反 感 を 最 小 限 に せ よ
(b)自 己 と 他 者 と の 共 感 を 最 大 限 に せ よ
Leech の 用 例 を 日 本 語 に 訳 し て 説 明 す る と 、「 (A)こ の じ ゃ が い も の 皮 を む い て く だ
さ い 」と「 (B)も う ひ と つ サ ン ド イ ッ チ を お 召 し 上 が り く だ さ い 」と を 比 べ る と 、表 現
形 式 は 同 じ く 命 令 文 ( 日 本 語 で は 命 令 ・ 依 頼 表 現 と さ れ る 「 ~ く だ さ い 」) で も 、 (A)
は 話 者 よ り 相 手 の 負 担 が 大 き く 、相 手 よ り 話 者 の 利 益 が 大 き い の に 対 し 、(B)は 反 対 に 、
話 者 よ り 相 手 の 利 益 が 大 き く 、相 手 よ り 話 者 の 負 担 が 大 き い 。し た が っ て 、(A)よ り (B)
の方がよりポライトネスが高く、人はなるべくそうしたポライトネスの高い言語行動
を選択しようとする、というものである。このように、負担と利益とが対になってお
り、同様に、非難と賞賛とが対になっている。加えて、話者と相手との対等な関係に
おいてなされる合意と共感の原則についても述べられている。
Brown & Levinson (1987) ( 以 下 、 B&L ) は 、 ポ ラ イ ト ネ ス (politeness) を 、
Goffman(1967)の フ ェ イ ス (face)の 概 念 を 援 用 し て 規 定 し て い る 。人 は だ れ で も 社 会 生
活を営む上で他者との人間関係に関わる基本的欲求をもつ。これがフェイスである。
さらにフェイスに2種あり、他者に受け入れられたい、好かれたい、という欲求を積
極 的 フ ェ イ ス (positive face)、自 分 の 領 域 を 他 者 に 邪 魔 さ れ た く な い 、と い う 欲 求 を
消 極 的 フ ェ イ ス (negative face)と す る 。
人と人とのコミュニケーションにおいては、相手のフェイスを脅かす危険性がたく
さんある。例えば、依頼や要求をすることは、相手がそれに応じる場合、時間や手間
をかけることになるのだから、相手の領域に踏み込むことになる。したがって、相手
の消極的フェイスを脅かす。また、人はだれでもできる限り相手に好かれたいと思っ
ているから、依頼や要求を受けた時にはそれに応じなければならないという心理的負
担を負う。これは相手の積極的フェイスを脅かす。もし、やむを得ず依頼を断るとす
れば、その断り行為が今度は、もとの消極的フェイスを脅かすことになる。このよう
に、相手のフェイスを脅かす可能性のある行為を総称してフェイス脅かし行為
(face-threatening act: 以 下 、 FTA)と 呼 ぶ 。 こ の ほ か 、 相 手 へ の 反 意 を 表 明 し た り 、
相 手 に 評 価 を 与 え た り す る こ と も 、 FTA で あ る 。
そ し て B&L は ポ ラ イ ト ネ ス を 、 FTA を 回 避 す る た め の 言 語 行 動 、 つ ま り 、 相 手 の フ
ェイスを脅かさないように配慮して行われる言語行動と定義している。このうち、相
手 の 積 極 的 フ ェ イ ス に 配 慮 し て 行 う ポ ラ イ ト ネ ス を 積 極 的 ポ ラ イ ト ネ ス (positive
politeness)、相 手 の 消 極 的 フ ェ イ ス に 配 慮 し て 行 う ポ ラ イ ト ネ ス を 消 極 的 ポ ラ イ ト ネ
ス (negative politeness)と し て い る 。先 に 謝 罪 し て か ら 依 頼 を す る 行 為 や 、直 接 の 依
頼を避けて遠回しに依頼する行為は、相手の領域に踏み込むことへの遠慮を表現した
消極的ポライトネスということになる。
ま た 、ポ ラ イ ト ネ ス 方 略 (politeness strategy)と は 、フ ェ イ ス を 脅 か す 度 合 い を 軽
減 す る た め の 方 略 の こ と で 、 相 手 に 依 頼 す る こ と 自 体 が 相 手 の FTA を 大 き く 脅 か す 危
険性をもっているような場合には、依頼そのものを取りやめることもポライトネス方
略 の 一 つ と な る 。つ ま り 、言 語 表 現 に 現 れ な い ポ ラ イ ト ネ ス も あ る と い う こ と に な る 。
B&L の ポ ラ イ ト ネ ス 理 論 と Leech の ポ ラ イ ト ネ ス の 原 理 と は 、 共 通 の 現 象 を 異 な る
角度から理論化したものである。相手から負担・非難を受けたくない、相手に自分と
異なる意見を主張されたくない、相手に自分に対する反感を持たれたくない、という
欲求は、消極的フェイスに含まれるし、一方、相手に対して利益・賞賛を与えたい、
相手と一致した意見を主張したい、相手に共感したい、という欲求は、積極的フェイ
ス に 含 ま れ る 。 B&L は 、 ポ ラ イ ト ネ ス の 中 味 を 方 略 群 (strategies)と し て 規 定 し て い
る 。ま た 、FTA 度 計 算 式 に お け る 変 数 Rx は 、行 為 x が 特 定 の 文 化 に お い て 好 ま し い 行
為であるかどうかに関する変数である。これが異文化間の差違を取り込むパラメータ
ーとなっている。このように、理論としての柔軟性、一般性の高さという点において
B&L が 優 れ て い る 。そ の う え で 、Leech の ポ ラ イ ト ネ ス の 原 理 は 、B&L の ポ ラ イ ト ネ ス
理論におけるポライトネス方略の一つの典型として位置づけることも可能で、相補的
な関係にあると考えるのが、わかりやすく、また有効である。
以上、概略を説明したが、人間のコミュニケーション上の心理に基づくものである
から、個別言語の形式の差異ほどの個別性はなく、意味・機能の点において相当に普
遍的であることが予想される。ただし、コミュニケーションの様式そのものに文化的
差異があるとすれば、ポライトネス方略においても、そのような文化的差異を反映し
た個別性が発生することになる。
2 . B& L の ポ ラ イ ト ネ ス 理 論
ポライトネス(ていねいさ)というと、日本語でまず頭に浮かぶのが敬語表現であ
る。日本語の敬語表現は通常、尊敬語、謙譲語、丁寧語の三つに分類され、相手との
親 疎 関 係 ( 内 外 関 係 )、 上 下 関 係 な ど を 配 慮 し た 結 果 の 言 葉 使 い で あ る 。「 英 語 に は 日
本語のような敬語体系はないが、場に応じた改まった言い方や、相手への心理的な距
離や遠慮を感じさせる間接的表現はある。そのような場面や相手への心遣いを反映し
た 言 葉 の 使 い 方 を 、 総 じ て ポ ラ イ ト ネ ス と 言 う 。」( 文 化 庁 、 1996)
イ ギ リ ス の 言 語 学 者 ブ ラ ウ ン ( P. Brown) と レ ビ ン ソ ン (S. Levinson)が 提 唱 し た
ポ ラ イ ト ネ ス・ス ト ラ テ ジ ー は 、ど の 言 語 に も 共 通 の 普 遍 的 理 論 ( Some universals in
language usage) と し て の「 ポ ラ イ ト ネ ス( て い ね い さ )」で あ る と し 、具 体 的 に は「 円
滑 な 人 間 関 係 を 確 立 ・維 持 す る た め の 言 語 行 動 全 て を 指 す も の 」「 こ と ば 使 い の 丁 寧 度
で は な く 、そ の 相 手 と の コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン が 心 地 よ い ど う か を 問 題 」と す る 。
(宇佐
美 、 2002)
だ か ら 、 相 手 が 不 快 で な い 、心 地 よ い と 感 じ る 言 語 行 動 は タ メ 口 で あ っ て も 、 ジ ョ
ークであっても、ポライトである。またことば使いはていねいでも、どこか感じ悪く
慇懃無礼な言語行動は、文字とおり無礼であり、ポライトではない。つまり、ポライ
ト ネ ス と は 、対 人 コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン に お け る こ と ば 使 い そ の も の の 丁 寧 さ で は な い 。
日本語の敬語とポライトネス理論との違いを押さえておかねばならない。
2. 1
二つの顔(フェイス)
ポライトネス理論では、コミュニケーションにおいて、人間は二つの顔を持ってい
る と 仮 定 す る 。 す な わ ち 、 ネ ガ テ ィ ブ ・ フ ェ イ ス ( negative face、否 定 的 顔 ) と ポ ジ
テ ィ ブ ・ フ ェ イ ス (positive face、肯 定 的 顔 )で あ る 。
ネ ガ テ ィ ブ ・ フ ェ イ ス と は 、 他 人 に 邪 魔 さ れ た く な い 、立 ち 入 ら れ た く な い 、強 制 さ
れたくない、自由に行動したい、また頼みごとやアドバイスをされるなど、自分の心
に 負 担 と な る こ と を 相 手 か ら 言 わ れ る こ と も 含 む 。B& L に よ る と 、日 本 語 の 敬 語 表 現
は、ネガティブ・ポライトネス(否定的顔を脅かすことを避ける)に相当する。例え
ば「 窓 を 開 け ろ 。」と 命 令 す る 代 わ り に「 窓 を 開 け て い た だ け ま す か 」と 丁 寧 に 頼 む の
は、指図されたくないという相手の気持ちを配慮するものだからだ。
た だ こ れ に 対 し て は 反 論 が あ る 。 例 え ば 、 Y. Matsumoto は 、 日 本 語 の 「 ど う ぞ よ ろ
しくお願いします」という表現を取り上げ、日本語で相手に世話を頼むというのは相
手の社会的地位を認めたことになり、相手のポジティブ・フェイスを守ることになる
という。つまり、日本語では、英語のように親しさをもとにしたポジティブ・ポライ
トネスではなく、敬意をもとにしたポジティブ・ポライトネスがあるという。
( Matsumoto,1988)
ポジティブ・フェイスとは、他人に理解されたい、賞賛されたい、好かれたい、近
づきたいというプラス志向の気持ちである。英語の誉めことばは、対等な人間関係の
中で発せられ、誉める人と誉められる人の連帯を強めて行く。中村桃子は著書『こと
ばとジェンダー』の中で、アメリカ滞在中に、幼稚園児から「モモコ、その口紅ステ
キ ね 。」 と 言 わ れ て 絶 句 し た 体 験 を 書 い て い る 。( 中 村 、 2001) 日 本 語 で は 、 誉 め る 、
誉められるという関係は対等な関係というよりむしろ、上下関係の確認の中で行われ
るからだ。誉める行為は、上の人が下の人に対して行われ、その逆は侮辱になること
が あ る 。 例 え ば 、 生 徒 が 先 生 に 「 先 生 は よ く 勉 強 さ れ て い ま す ね 。」 と 「 誉 め 」 た ら 、
先生は苦笑するか、人によっては気を悪くするだろう。
2. 2
顔 を 脅 か す 行 為 ( Face Threatening Act ま た は F T A )
私たちは日頃、この二つの顔をできるだけ危険にさらさないように、気を使いなが
ら暮らしている。そうしないと、何か頼んだり、断ったりするたびに、どちらかの顔
を 脅 か し 、 窮 地 に 追 い や る こ と に な っ て し ま う 。 こ の 「 顔 を 脅 か す 行 為 」( Face
Threatening Act)を で き る だ け 避 け よ う と す る の が 、ポ ラ イ ト ネ ス・ス ト ラ テ ジ ー と
呼ばれるものである。ある行為が無礼かどうかは、文化によって違う。
「 オ ッ カ ム の 剃 刀 (か み そ り )」
“ 不 必 要 に 複 雑 な 言 明 を 提 示 す べ き で は な い 。 ” こ れ は 、中 世 イ ギ リ ス の 哲 学 者 で
フ ラ ン チ ェ ス コ 会 の 修 道 僧 で あ っ た 、 オ ッ ク ハ ム の ウ ィ リ ア ム ( 1285 頃 -1349) の 言
葉である。フランチェスコ会の他の多くの修道僧と同様に、ウィリアムはミニマリス
ひんしゅうし
たくはつそう
ト [訳 注 : 貧 修 士 。 托 鉢 僧 の よ う な 存 在 ]と し て 清 貧 を 実 現 し た 人 生 を 送 り 、 ま た 聖 フ
ランチェスコと同様に、さまざまな問題について法王に論戦を挑んだ。ウィリアムは
法 王 ヨ ハ ネ 22 世 に よ っ て 破 門 さ れ た 。彼 は 法 王 ヨ ハ ネ を 異 端 と す る 論 文 を 書 い て 反 論
した。
オッカムの剃刀として知られているものは、中世哲学の一般的な原理であり、オッ
クハムのウィリアムが作り上げたものではなかった。しかし、この原理をウィリアム
が頻繁に用いたので、彼の名が永く添えられることになった。現代のわれわれが彼の
名においておこなっていることを、修道僧のウィリアムが喜ぶとは思えない。なにし
ろ、無神論者は神の存在について反論するとき、神の存在を仮定するのは不必要だと
いう理由で、オッカムの剃刀をしばしば用いるのだから。われわれはどんなことがら
け い じ
で あ れ 、神 と い う 特 別 な 形 而 上 学 的 存 在 を 議 論 に 持 ち 込 ま な く と も 、説 明 で き る の だ 。
ウ ィ リ ア ム が 複 雑 な 意 見 を 不 要 と す る 原 理 (the principle of unnecessary
plurality)を 用 い た の は 、現 代 で い う サ イ (psi) に 関 す る 議 論 に は じ ま る 。た と え ば 、
彼 は ピ ー タ ー・ア ベ ラ ー ル を 論 じ た Commentary on the Sentences の 第 2 巻 に お い て 、
ち し つ
“上位の天使は下位の天使よりものごとを知悉しているかどうか”という問題につい
て深い思索をおこなっている。彼は“不必要に複雑な意見を提示すべきではない”と
した原理に当てはめて、この問題の解答は全肯定命題になるとしている。また、彼は
“自然が完全であればあるほど、その動作に要する手段も少なくなる”としたアリス
トテレスの意見を引用している。
こ の 原 理 は 、 無 神 論 者 が 進 化 論 を 肯 定 し て 神 -創 造 主 の 仮 定 を 否 定 す る の に 用 い て
いる:もし万能なる神が宇宙を創造したのなら、宇宙もその構成要素も、もっと単純
であるはずだ。ウィリアムは認めないだろうが、これは確かだ。私はそう思う。しか
し、彼は自然神学など不可能だと論じている。自然神学は、神を理解するのに推論の
みを用いる。これとは逆に、啓示神学は聖書の啓示にもとづいている。オックハムの
ウィリアムによると、神の概念は明白な経験や明白な推論にもとづくものではない。
われわれが神について知ることがらは、すべて啓示にもとづくのだ、ということにな
る。したがって、すべての神学の立脚点は信仰にあるのだ。われわれはオッカムの剃
刀を、精神世界すべてを斬り捨てるのに用いているが、オッカムが使徒信条(訳注:
キリスト教徒としての信仰の誓い)にまでは倹約の原理を用いていなかったことは明
記 す べ き だ ろ う 。も し そ う し て い た ら 、彼 は ジ ョ ン・ト ー ラ ン ド (神 秘 的 で な い キ リ ス
ト 教 、1696、邦 訳 は 玉 川 大 学 出 版 部 )の よ う な ソ チ ニ 派 に な っ て 、三 位 一 体 論 や キ リ ス
トの霊肉二面性をひとつにまとめていたかもしれない。
ウィリアムは哲学のミニマリストのような存在で、当時ポピュラーだった実在論的
視 点 に 反 対 し て 、 唯 名 論 を 提 唱 し て い た 。 つ ま り 、 彼 は 普 遍 ( universals) が 心 の 外
には存在しえないと述べたのだ;普遍とは、われわれが個々の人や物の集合や特性を
指 す の に 用 い る 名 辞 の こ と で あ る [訳 注 ]。 実 在 論 者 は 、 個 々 の 物 体 と そ れ に 対 す る わ
れわれの概念の背後には、普遍というものがあると主張している。オッカムはこれを
意見の過剰な複雑化だと考えた。われわれはなにごとを説明するにも、普遍を必要と
はしない。唯名論と実在論、いずれの立場であっても、ソクラテスは一人の人間存在
であり、またソクラテスについての概念をあらわす。実在論者にとっては、さらにソ
クラテスの人間性や動物性などが存在することになる。つまり、ソクラテスに関する
質 的 な こ と が ら す べ て に は 、各 々 対 応 す る “ 実 在( reality)” に 加 え て 、“ 普 遍 ” あ
る い は プ ラ ト ン の 言 う イ デ ア( 形 相 、eidos)が あ る と い う こ と に な る 。ウ ィ リ ア ム は 、
普遍論的世界観とよばれるこうした多元的世界に懐疑的だったといわれている。これ
は論理や認識論、形而上学にも不必要だ、ではなぜこうした不要な多義的世界を仮定
するのか?もちろん、プラトンや実在論者が正しいのかもしれない。現実の事象の背
後には、永遠不滅の理想存在で構成された、イデアや普遍の世界があるのかもしれな
い。しかし、個々の事象や概念や知識を説明するのに、こうしたものを前提にする必
け い じ
要はないのだ。プラトンのイデアは、形而上学的にも認識論的にも、過剰で不必要な
お荷物なのである。
[訳 注 ] た と え ば 、 ポ チ や ジ ョ ン や ハ チ 公 と い っ た 実 在 の 犬 た ち に 対 し て 、 こ れ ら
すべてを指す‘イヌ’という語は普遍(あるいは全称)である。郵便ポストも血液も
共産党もみんな赤いが、これらはすべて‘赤’という普遍に属することになる。
ジョージ・バークリー僧正 は、物質的実体を不必要な複雑化として斬り捨てるの
にオッカムの剃刀を使った、と言えるかもしれない。なにごとを説明するにも、われ
われが必要とするのは心とそのイデアだけである、と言うのだから。しかし、バーク
リーはこの剃刀を用いるとき、少しばかり恣意的だったかもしれない。彼は神を、誰
もいない場所で木が倒れるのさえ知覚できるような(超越的な)心であると仮定する
必 要 が あ っ た の だ 。主 観 的 観 念 論 者 は 、剃 刀 を 神 か ら 逃 れ る の に 用 い る か も し れ な い 。
すべては意識とその概念で説明できるからである。もちろん、これでは唯我論に帰着
ゆ い が ろ ん
する。唯我論では、自分自身と自分自身の想念だけが存在する、存在するように見え
る物は自分の意識から生まれた幻にすぎないとしている。これとは逆に、唯物論者は
心をすべて斬り捨てようとして剃刀を使っている、と言われる。われわれは頭脳の多
義性と心の多義性を、ともに仮定する必要はないからだ。
オ ッ カ ム の 剃 刀 は 、 倹 約 家 の 原 理 (principle of parsimony)と も よ ば れ て い る 。 最
近では、“説明は簡単なものほど優れている”、“不必要に仮定を増やすな”などの
意味に訳されている。いずれにせよ、オッカムの剃刀は存在論の外でも頻繁に用いら
れる。たとえば、科学者は同じぐらい確からしい仮説がいくつもある場合、もっとも
適する仮説を選び出すのにオッカムの剃刀を使う。なにかを説明するための仮定を与
える場合、不必要に複雑な仮定をたててはいけない。フォン・デーニケンは正しいの
かもしれない:地球外の生命体が古代地球人に芸術や技術を教えたのかもしれない。
しかし、古代人の技術や芸術について説明するのに、宇宙人の来訪を仮定する必要は
ないのだ。なぜ不必要に複雑な仮定を立てるのだろうか?また、多くの人がするよう
に、立てるべき仮定以外は立ててはいけない。遠方で起こることがらを説明するのに
エ ー テ ル を 仮 定 す る こ と は で き る が 、そ れ を 説 明 す る の に エ ー テ ル は 必 要 な い 。で は 、
なぜ根拠の薄いエーテルをわざわざ仮定するのだろうか?
オ リ バ ー ・ W・ ホ ル ム ズ と ジ ェ ロ ー ム ・ フ ラ ン ク は 、 “ 法 律 ” な ど 存 在 し な い と 議
論するのにオッカムの剃刀を使ったのだと言うかもしれない。司法的判断だけがあっ
て、個々の判断とその総体が法律を形成している、と言うのだから。こうした危険な
法 律 家 は 、自 分 た ち の 視 点 を 法 律 的 唯 名 論 で は な く 法 の 存 在 論 な ど と 称 し て い る た め 、
さらに問題が複雑化している。
オ ッ カ ム の 剃 刀 は 単 純 性 の 原 理 (the principle of simplicity) と も よ ば れ る た め 、
単純馬鹿な創造論者の中には、創造論を支持して進化論を棄却するのにオッカムの剃
刀が使える、と主張している者もいる。つまり、神が全てを創造したと考える方が、
複雑な仕掛けで説明する進化論より、ずっとシンプルだと言うのである。しかし、オ
ッカムの剃刀は“単純馬鹿ほど優れている”などとは言っていない。もしそうだとし
たら、オッカムの剃刀は、愚昧な大衆にとってはたいそう鈍い剃刀だ、ということに
な る だ ろ う 。そ れ に も か か わ ら ず 、オ ッ カ ム の 剃 刀 を 予 算 削 減 を 正 当 化 す る の に 使 う
ことまで考え出す者もいる。“少ない予算でやれるということは、多くの予算をつぎ
こんでも無駄ということだ”と言うのである。こうしたアプローチでは、オッカムの
剃刀を、その原理そのものに向けて使っているように思われる。つまり、“仮定”を
切 り 落 と し て し ま っ て い る の だ 。“ 質 の 多 少 ” と “ 数 の 多 少 ” を 混 同 し て い る た め に 、
いっそうわけがわからなくなってしまっている。オッカムが手掛けたのは仮定の簡便
化であって、予算削減などではない。
もともと、この原理は、完全性とは簡潔性にほかならない、という概念を信奉した
ところから生じたのだろうと思われる。この概念は、われわれが中世や古代ギリシャ
の人々と共有する、形而上学的な先入観だろう。というのは、われわれも彼らと同様
に、原理そのものではなく、その使い方について議論しているからである。唯物論者
にとって、二元論者は仮定を不必要に複雑化していることになる。二元論者からする
と、精神と身体を仮定することは必要条件である。無神論者にとって、神と超自然的
世界を前提とするのは不必要な複雑化になる。有神論者からすると、神の存在は必要
条件である、などなど。フォン・デーニケンにとっては、おそらく事実を説明するに
は超自然的なことがらを前提とすることが必要だったのだろう。その他の人にとって
は、こうした宇宙人は不必要な複雑化である。おしまいに、オッカムの剃刀は、おそ
らく無神論者には神は不要だと示し、有神論者にはそれが誤りだと示すことだろう。
もしそうなら、この原理はあまり役には立たない、ということになる。一方、オッカ
ムの剃刀が、信じ難い説明と確からしい説明のうちから一つを選ぶような場合には確
からしい方を選ぶべし、という意味なら、この原理は不要だろう。これはふつう、言
うまでもない明らかなことだからだ。しかし、この原理が真にミニマリストの原理で
あるなら、より還元論的な方を選ぶべきだ、という意味になるだろう。ならば、この
倹約の原理はオッカムのチェンソーと呼ぶ方がふさわしい。なにしろ、その主な使用
目的は実在論 をバッサリと斬り捨てることにあるだろうから。
ピーターの法則(マーフィーの法則と同じようなもの、暇つぶしにどうぞ)
ピーターの法則の紹介に入る前に、ちょっと長い前説です。
中小企業診断士の科目の一つである企業経営理論では、組織論を学びます。
その中には、官僚制組織についてのまじめな考察として、ウェーバーの考察がでてき
ます。
官僚制組織(社会学者マックス・ウェーバーによる定義)
1.成員の行動や組織運営を規定している規則の体系がある
2.指揮・命令の系統がはっきりしている
3.職務が分業化され専門分化している
4.情緒を排除した没人格的な役割行動が求められる
5.公私の区別が明確である
6.文書化されたものをベースに仕事がなされる
このような定義で表される官僚制組織そのものは、大きな組織において職務を遂行
していくための重要な一般的原則に即した組織であり、その物自体が悪ということで
はありません。
むしろ、あらゆる企業組織において、このような官僚制組織は多かれ少なかれ存在
しています。というより企業組織の骨組み、骨格を成しているといった方が正しいで
しょう。
しかしながら、官僚制組織がしばしば批判の対象になるのは、上記のような特徴を
持った組織が陥る弊害として、
「柔軟性に欠ける」
「セクショナリズムに陥る」
「組織維
持 が 自 己 目 的 化 し て し ま う 」と い っ た 点 が あ り 、こ れ ら を 、
「 官 僚 制 の 逆 機 能 」と 呼 ん
だりします。
このような官僚制組織が陥る逆機能をどうやって軽減防止するかという点が、中小企
業診断士の 2 次試験のテーマの一つである「組織(人事を含む)を中心とした経営戦
略」につながっていきます。
具体的には、文鎮型組織や、プロジェクト組織、マトリクス型組織、ネットワーク
型組織などなどです。
文鎮型組織とは、官僚制組織のピラミッド階層をうんと少なくして、文鎮のように
平べったい組織にちょこんとツマミ(指揮する部門)がのっかている組織形態をさし
ます。確か何年か前に、トヨタ自動車が大企業病に陥らないために組織を文鎮型にす
るという記事を読んだ記憶がありますが、これは官僚制組織そのものを否定したもの
ではないと考えられます。
さらに、プロジェクト組織やマトリクス組織は、しっかりとした一般的な(官僚制
組織)の存続を前提としたうえで、一時的に目的指向的に作るバーチャル(仮想的)
な組織を組み込んだ組織体系と言えると思います。
もし、プロジェクト組織やマトリクス組織の横串が官僚制組織と同様の組織原理で
動き始めたら、官僚制組織の原則からすると、既存の組織と必ずヒッチ(衝突)を起
こしてしまいます。
一方、ネトットワーク型組織はコーディネータは必要ですが指揮命令がはっきりし
ませんし、組織への参加が全人格的でなく、その個人にとって一面的あるいは部分的
な参加であることなど、官僚制組織の原則から相当外れた新しい組織形態です。
お そ ら く 、 こ の よ う な 組 織 が う ま く 機 能 す る の は 、 例 え ば 、 Linux を 作 り 上 げ た コ
ンピュータエンジニア達のような特殊な状況下に限られるのではないかと考えます。
2 次試験で組織論を問われた際には、このような点を理解して、中小企業に対して
あまり斬新な組織体系の導入をすすめるような回答とせず、官僚制の逆機能を排除す
るような工夫に焦点を当てるのが重要と思われます。
さてここからが「ピーターの法則」の紹介です
ピーターの法則とは、このように官僚制組織で逆機能が生じるのはなぜか、またそれ
から逃れるにはどうしたらよいかを考察して導き出された(お笑い)法則です。
著者のローレンス・ピーターはカナダ生まれの教育学者で、本書は風刺のつもりで
書いたと記しています。
ピーターの法則は、
「 人 々 は あ る ヒ エ ラ ル キ ー( 階 層 社 会 )の な か で 、昇 進 し て い く
うちに、いつか無能レベルに到達する傾向がある」という簡単なものです。
この法則では、階層社会をとりあげていますが、官僚制組織と読み替えてもよいで
しょう。官僚制組織は前説で述べたように、すべての組織に当てはまる、ということ
は、ほぼ全ての企業にあてはまるということです。
そして、このような無能レベルまで昇進を続ける結果、安定したヒエラルキー組織
は時間がたつと、そのレベル(段階)では無能なものの集合体に近づいていきます。
具体的な例をあげてみましょう。
あるレベルで(例えば営業担当者として)有能であるものは、営業マネージャ(課長
とか)に昇進し、マネージャとして有能であれば部長とか支店長に昇進しというふう
に出世していきます。
そ し て 、い つ か の 段 階 で 、部 長 と し て は( あ る い は 支 店 長 と し て は )無 能 で る と か 、
事業部長としては無能であるとかいうレベル(段階)に行き着いて、そのレベル(段
階)でその人は昇進がとまります。
そして気づいてみると、いつしか営業部門はそれぞれの段階で出世がとまった人が
多くを占める集団と化し、往年の輝きを失っているというわけです。
同書では、このように、無能な人の集団がなしたとしか考えられない、奇妙な出来
事を企業、政府組織、学校などたくさんの例をあげて笑い飛ばしています。
例 え ば 、 道 路 か ら 8km も 離 れ た 山 頂 の ト イ レ に 規 則 で 車 椅 子 用 の ス ロ ー プ を つ け る
と か 、保 険 会 社 か ら 0.00 ド ル の 請 求 が 来 て 、期 日 に 振 り 込 ま な い と 契 約 が 無 効 に な る
と 書 い て あ り 、こ ま っ て 額 面 0.00 ド ル の 小 切 手 を 送 っ た と こ ろ 、契 約 継 続 の 礼 状 が 来
た、とかいった話が満載です。
ビートルズがデビュー前にいくつものレコード会社に自分たちの歌を売り込みにい
ったものの発売を断られた話も出ていました。確か日本でもサザンオールスーズがデ
ビュー前に自分たちのテープをあちこちのレコード会社に持ち込んだところが、
「歌詞
が わ か ら な い 」、「 騒 々 し い だ け 」、 と ど こ も 興 味 を 示 さ な か っ た と 聞 い て い ま す 。
このピーターの法則は、有名なマーフィーの法則(間違う可能性のあることは、間
違っても仕方がない)とパーキンソンの法則(仕事は完成のために許容された時間の
ある限り膨張する)と並ぶ3大ユーモア法則と本書では述べられています。
どれもユーモアにつつまれていますが、実は深刻な問題を背景にしており、マーフ
ィーの法則は製品設計や現場におけるバカよけ(フールプルーフ)やフェイルセーフ
といった真面目な対策に繋がっているし、パーキンソンの法則も仕事の効率化として
真面目な取り組みが要求されるものです。
パレートの法則
パレートの法則とは別名8割2割の法則とも言われています。
イ タ リ ア の 経 済 学 者 パ レ ー ト は ,19 世 紀 の イ ギ リ ス に お け る 所 得 と 資 産 の 分 布 を 調 査
し た 結 果 ,わ ず か 20% の 人 達 に 資 産 総 額 の 80% が 集 中 し て い た と い う 事 実 を 発 見 し ま
した。
また,この不均衡のパターンは一貫して繰り返し表れることに気づきました。
この法則は,他にもあてはまることが多く,特許の出願率,空中戦における撃墜率
な ど ,全 体 の 80% を 20% の 人 が 達 成 し て い る と い う 例 が 報 告 さ れ て い ま す 。ま た ,売
上 げ , 顧 客 の 関 係 に も こ の 法 則 は よ く あ て は ま り , 売 上 げ の 80% を 占 め て い る の は
20% の 製 品 で あ り ,全 体 の 20% の 顧 客( い わ ゆ る 上 得 意 と い う や つ で す )が 売 上 げ の
80%を 占 め て い る と い う こ と に な り ま す 。
パ レ ー ト の 法 則 → パ レ ー ト 図 は 品 質 管 理 の 分 野 で ,よ く 使 わ れ ま す 。Q C 7 つ 道 具
の1つとなっています。
あ る 不 良 の 原 因 を 調 査 す る と 不 良 の 80%は 同 じ 原 因 で あ り , こ れ を 集 中 的 に 対 策 す る
ことで,不良率をぐっと下げることができます。
80 対 20 の 法 則 は , 次 の よ う な こ と を 意 味 し て い ま す 。
①能力の平均水準を上げるのではなく,パワーは一点に集中する。
②多くの分野で平均点を取るのではなく,1 つの分野で突出した成績を上げるように
する。
③ 重 要 な 分 野 に お い て は , 20% の 努 力 が 結 果 の 80% に つ な が る よ う に 仕 向 け て い く 。
④出来るだけアウトソーシングを進めて,専門家の力を利用する。
たとえば、会社などにおいて収益の8割を上げている社員は、全体の2割でしかな
いそうです。そこで、その2割の人だけでグループを作り仕事をすると、やはりその
中の2割の人達しか結果を上げられないそうなのです。
この構造は、アリや蜂の実験でも同じような結果が出るようで、常に8割の人達が
その人達を支える役割側に立つことで何らかの成果に結びついているようです。
個 人 レ ベ ル で も 、社 会 レ ベ ル で も 、
「 種 が 蒔 か れ て 水 を や り 果 実 が 実 り 報 い あ り 」と
言われるように、段階を踏みつつ協力しあい、成果を上げていきます。我々人間社会
においても個性が有るように、それぞれの個性を活かしながら協力しあって素晴らし
い社会を作っていこうとしています。人間社会全体を大きな目で観たとしたならば、
それぞれの個性が協力し合っている姿が見える事でしょう。
しかし、多くの人の見方はどうしても表面的になりがちです。結果を出せない部分
を無視するのではなくて、その中心部分を見極め力を集中する事が大切なのであり、
その個性を活かす事こそ重要なのでは。私は、この法則から読みとるべき情報は、結
果主義的なものの見方をするべきではない事を示唆しているように思うのですが。競
争社会のように見えて実は互恵社会であり共存共栄の社会でもあるのだと思います。
コンピテンシー
コンピテンシーとは、成果をあげるために有効な「社員の行動/思考特性」を意味
します。高い業績を上げた社員の行動や思考の特徴を抽出して分類し、それらの項目
に沿った行動をしているかどうかを評価するものであり、企業によっては優秀人材の
発掘、処遇、活用、育成(能力開発)に応用して使われる場合もあります。そして、
このコンピテンシーを行動基準や評価基準に活用することで、社員全体の行動の質を
レベルアップしていくのです。
従 来 の 日 本 的 な 評 価 基 準 は 、「 協 調 性 」「 積 極 性 」「 規 律 性 」「 責 任 性 」 な ど が 一 般 的
で し た 。 こ れ に 対 し て コ ン ピ テ ン シ ー で は 、「 親 密 性 」「 傾 聴 力 」「 ム ー ド メ ー カ ー 性 」
「 計 算 処 理 能 力 」「 論 理 思 考 」 な ど が 挙 げ ら れ ま す 。 コ ン ピ テ ン シ ー の 方 が 、「 仕 事 の
できる社員」をピンポイントで捉えていることがお分かりでしょう。
■コンピテンシー導入の背景
コンピテンシーは、これまで主に人事評価やリーダー選抜に用いられてきました。
成果主義のもと、評価が結果のみに偏ると結果だけでは成果を図れない部署や人材も
出てくることから、この不公平を是正するため、結果に至るプロセスにも着目し「成
果を上げるためにとった行動」も査定の対象とする必要が生じてきました。
日本企業では、成果主義が賃金決定のための制度と受けとめられてきた傾向が強い
で す が( 成 果 主 義 人 事 制 度 参 照 )、コ ン ピ テ ン シ ー と い う 概 念 も 、米 国 で の 使 わ れ 方 と
は異なり、日本では賃金制度の一環として広がりました。米国では成績優秀な社員の
対外交渉のやり方や情報収集の仕方などを分析して、ほかの社員の教育に使うことで
活用している企業も多く存在します。
■コンピテンシーのメリット
例えば営業実績といった結果だけでなく、社員の行動や意識をきめ細かく把握でき
るため、
「 開 発 担 当 部 長 」の よ う な 職 務 ご と に 求 め ら れ る 能 力 や 行 動 を 社 員 に 示 し 、能
力開発を促すことにも活用できます。具体的なメリットは下記の通りです。
( 1)
「求める人材」の明確化
社内の高業績者を調査/分析し、企業の「求める人材」の能力要件を明確にす
ることが可能になる。
( 2)
人 事 制 度 の 「 客 観 性 」「 透 明 性 」「 納 得 性 」 の 確 保
コンピテンシーを評価制度に反映させることで、客観的な評価基準の導入が可
能になり、この基準に基づく個人の評価結果と高業績者の発揮水準を比較する
ことで評価結果の透明性が可能になる。
( 3)
社員の行動変革/意識変革の実現
自己の評価結果と高業績者の発揮水準とを比較したり、他者評価と自己評価と
を比較することで、具体的な自己啓発のポイントが明確になる。
■コンピテンシーの活用法としては、次の6つが挙げられます。
(1)個 人 ス キ ル 測 定 と し て の 活 用
(2)組 織 診 断 と し て の 活 用
(3)行 動 基 準 と し て の 活 用
(4)評 価 基 準 と し て の 活 用
(5)採 用 テ ス ト と し て の 活 用
(6)中 長 期 教 育 ・ 採 用 計 画 と し て の 活 用
■これからのコンピテンシー
最近では、コンピテンシーを導入したが、期待する成果が上がっていないという声
も多いのが実態です。これは活用方法に誤解があるように思われます。人事評価制度
は『成果が上がったから評価する』から『成果を上げるために支援する』段階に進ん
でいますが、コンピテンシーも今後、人材選抜の道具から人材育成の手段へと活用法
が広がると考えられます。
ディレールメント
有能で高い業績を上げている人達には、コンピテンシーだけでなくマイナスの行動特
性もあることがある。
例えば、管理職の場合
・部下の意見や行動に対して常に否定的な対応をする
・日頃から部下の意欲を下げるような言動がある
・細かいことまでにいちいち口をはさみ部下に仕事を任せることができない
などである。
こ の よ う に 優 秀 な 人 達 が 陥 り や す い マ イ ナ ス の 行 動 特 性 の こ と を「 デ ィ レ ー ル メ ン
ト ( レ ー ル を 踏 み 外 す )( 問 題 行 動 )」 と 言 う 。
そして、このディレールメント(問題行動)が機会損失に結びつくと考え、排除する
必要が出てきている。
●アナキンからダース・ベイダーへの変貌
「スターウォーズ」とういう映画があります。
ご存知の方も多いと思いますが、
「 ス タ ー ウ ォ ー ズ 」の 中 に は 、ジ ェ ダ イ の 騎 士 と い
う正義の戦士が登場します。このジェダイの騎士達は、生まれ持っての素質と過酷な
訓練によって、超人的な肉体と精神を有しています。
彼等のパワーの根源は「フォース」と呼ばれるものです。ジェダイの騎士として優
秀であればあるほど、この「フォース」の持つパワー強く引き出して利用することが
できます。
しかし、この「フォース」には暗黒面があり、優秀なジェダイの騎士であるほど、
この暗黒面に引き込まれやすいという傾向があります。
「スターウォーズ
エピソード1~3」に登場する主人公のアナキン・スカイウォ
ーカーは、優秀であるが故に「フォース」の暗黒面に引き込まれ悪の権化であるダー
ス・ベイダーになってしまいます。
優秀な人材が昇進してポジションを得るうちにいつの間にか、問題上司に変貌して
し ま う の は 、あ た か も ア ナ キ ン が ダ ー ス・ベ イ ダ ー に 変 わ っ て し ま っ た か の よ う で す 。
これは、人に高い業績を生み出させる根源になっている要素には「フォース」と同
じく、暗黒面があるからではないかと考えられます。
例えば、自信も過剰になると傲慢や偏執になりますし、統率力も強すぎると支配や
抑圧になってしまいます。つまり、優秀で高い業績を上げている人だからこそ陥りや
すい罠が存在するのです。
●コンピテンシーとディレールメント
高い業績を上げる人達の行動特性を「コンピテンシー」と言います。最近の人材開
発にはこのコンピテンシーを取り入れる企業が多くなってきました。
コンピテンシーをモデル化し、それを見習わせることで人材育成につなげようとす
るものです。
マネージャ育成にも、このコンピテンシーモデルは利用されています。しかし、有
能で高い業績を上げてるマネージャ達にはコンピテンシーだけでなくマイナスの行動
特性があることが知られています。
それは、例えば以下のような行動特性です。
・部下の意見や行動に対して常に否定的な反応をする
・トラブル等が発生すると、悪いのはすべて部下だと考え自省しない
・完璧主義者で部下の些細なミスを許せない
・公の場で部下を叱責し、相手の自尊心を傷つける
・公私に渡り部下のすべてを自分の支配下に置こうとする
・批判されると、過剰な自己防衛反応を示す
・人に対して無関心で、部下の面倒をみない
・部下の失敗を感情的に叱責する
・常日頃から部下のモチベーションを下げる言動がある
・細かいことまでにいちいち口をはさみ部下に任せることができない
・何事も、部下に任せ放しでマネジメントを放棄している
このように優秀なマネージャが陥りやすいマイナスの行動特性のことを「ディレー
ル メ ン ト ( レ ー ル を 踏 み 外 す )」 と 言 い ま す 。
読者の皆さんが問題上司であると感じるマネージャ達には、このディレールメント
特性があるのではないでしょうか。
最近の人事管理の現場では、コンピテンシーを習得するようりもディレールメント
を排除する方が、費用対効果が高いという意見があるようです。
年功序列が崩壊し、SEの業界にも成果主義による賃金制度が採用されるようにな
っています。
このような制度により上司の権限はますます増大化の傾向にあります。トップマネ
ジ メ ン ト は 、問 題 上 司 の 存 在 が 組 織 の 発 展 を 阻 害 す る 大 き な 要 因 で あ る こ と を 理 解 し 、
マネージャ達のディレールメントを排除する仕組み作りをする必要があります。
ハーズバーグの二要因理論(動機づけ要因・衛生要因)
ハーズバーグとピッツバーグ心理学研究所の分析結果から導き出されたもので、ハ
ーズバーグが提唱した職務満足および職務不満足を引き起こす要因に関する理論であ
る。
ある特定の要因が満たされると満足度が上がり、不足すると満足度が下がるという
のではなくて、
「 満 足 」に 関 わ る 要 因 と「 不 満 足 」に 関 わ る 要 因 は 別 の も の で あ る と す
る。
満足に関わるのは、
「達成すること」
「承認されること」
「仕事そのもの」
「責任」
「昇
進 」な ど 。人 間 が 仕 事 に や る 気 を 起 こ す の は 、仕 事 の 中 に 自 己 を 生 か せ る と い う こ れ ら
が満たされると満足感を覚えるが、欠けていても職務不満足を引き起こすわけではな
い。これらは「動機付け要因」とされた。
不 満 足 に 関 わ る の は 「 会 社 の 政 策 と 管 理 方 式 」「 監 督 」「 給 与 」「 対 人 関 係 」「 作 業 条
件」など。これらが不足すると職務不満足を引き起こす。満たしたからといっても満
足感につながるわけではない。単に不満足を予防する意味しか持たないという意味で
「衛生要因」と呼ばれた。
動 機 付 け 要 因 は 、マ ズ ロ ー の 欲 求 階 層 説 で い う と「 自 己 実 現 欲 求 」
「 自 尊 欲 求 」さ ら
に「社会的欲求」の一部に該当する欲求を満たすものとなっている。
一 方 の 衛 生 要 因 は「 生 理 的 欲 求 」
「 安 全・安 定 欲 求 」と「 社 会 的 欲 求 」の 一 部 の 欲 求
を満たすものとなっている。
この「動機づけ要因」と「衛生要因」といった2つの要素からなる。
<動機づけ要因とは>
満足要因が十分に満たされていると意欲が高まるが、不十分であっても不満にはな
らないといったもの。
<衛生要因とは>
不満足要因が満たされていない場合は不満となるが、十分だからといって満足には
繋がらないもの。
<満足要因と不満足要因>
満足要因としては、仕事の達成、達成の承認、仕事そのもの、責任、昇進、成長の
可能性が挙げられる。
不満足要因としては、会社の方針・管理施策、監督技法、作業条件、対人関係、給
与といったものが挙げられる。
要するに、労働者が不満タラタラとなる時は、賃金等の労働条件や対人関係、作業
条件等にあるということ。そして、「ここの会社は遣り甲斐がある!働くぞ!」とい
う満足度が得られる時は、仕事に対する「達成感、向上心と成長感等」が感じられた
時、評価を得たとき、ということです。
ここで注目なのが、不満の元である給与や福利厚生等の労働条件を充実させても、
す ぐ に 慣 れ て し ま い 当 然 と な っ て 、「
「 や る 気 の 動 機 づ け と し て は 続 か な い ! 」と い う こ
とです。
賃金等の労働条件(衛生要因)は、労働者にとって「整って当たり前」「満たされ
て当然 」と感 じてい る 。モ チ ベ ー シ ョン を 高 め るた め に は 、賃金 や 環境等 の衛 生要 因
はある程度は当然に整えなければならない。そして、尚且つ、仕事面で、ある程度の
責任を与え、評価し、達成感や向上心を得られるようにしなければならないというこ
とのようです。
最近は、価値観も多様化して千差万別です。ハーズバーグの理論意外に、動機づけ
要因もかなり多種多様にあると思います。
ヒ エ ラ ル キ ー hierarchy
教 権 制 、 階 層 性 な ど と 訳 さ れ る 。 も と ギ リ シ ア 後 の ヒ エ ラ ル キ ア (hierarkhia)は <
聖者の支配>を意味し、ローマ・カトリック教会の組織原則をなした。教会では、聖
職者と平信徒の順位を分け、また聖職者は教皇を最上位として司教・司祭・助祭の段
階がもうけられる。また俗世の国家も中世おいては教会の認可のもとにのみその統治
権を得、帝王もまた教皇のもとの一段階に属した。このような、教皇を最上位として
厳重につくられた上下の段階的組織が、ヒエラルキーといわれる。この組織は、現実
生活で社会に支配・被支配の関係のあるところには生ずるものであるが、とくに封建
制にあっては、支配身分である武士、その頂上の国王または領主から土地をあたえら
れ( 封 土 )、国 王・領 主 と 主 従 の 関 係 に た ち 、そ れ 以 下 の 主 人 と 家 来 の 関 係 で も 同 様 な
主従関係がむすばれて、段階的組織がつくられた。それはさらに、一般社会において
士・農・工・商の身分の別として固定される。こうしたピラミッド型の上下組織がヒ
エラルキーといわれるものであり、カトリック教会の組織はこの封建性的組織の半影
であり、その正当化である。この組織はたんに封建制のもとだけでなく、資本主義が
独占段階に入り、巨大な企業組織をもつことによって、いわゆる<職務上のヒエラル
キー>が形成されていき、これはただ職務上というだけでなく、支配・被支配の関係
となってあらわれる。そして国家組織においても大規模な官僚組織をつくる。これが
現代のヒエラルキーであり、資本主義がその成立の初期にかかげ、それを現実してき
たブルジョア民主主義の否定をしめす。
一橋大学大学院商学研究科教授
「部長代理」という肩書が招く失敗
単純なヒエラルキーは強い。オーナー経営者の下でテキパキと物事が決められてい
る組織を見たり、豪腕事業部長が次々と決断を下して迅速な市場適応を行っている組
織を見たりすれば、多くの人が同じ結論に到達するだろうと思われる。決めるべき人
が決め、その決めるべき人の決断が適切なものだと皆が信じてついていく、という基
本動作が守られていれば、単純なヒエラルキー構造は本当に強い。
しかし、自分の会社を振り返ってみて、ヒエラルキーが複雑骨折していて、単純さ
を失ってしまっていることに愕然とする人も多いのではないだろうか。実際、長期雇
用を重視する日本企業では、微妙な地位や格の違いに敏感な人が多く、それに対する
配慮の末にヒエラルキーが複雑になりすぎてしまったところがある。今では年功昇進
を本気で追求している企業は多くはないが、それでも、年齢や入社年次によって同じ
部長でも微妙にニュアンスを変えた扱いにする会社は存在する。この種の配慮が行き
すぎれば、本来存在する階層の数以上に多様な「格」の上下が組織内に蔓延し、単純
なヒエラルキーが非常に複雑なヒエラルキーへと退化していくに違いない。
複雑骨折しているヒエラルキーの特徴は、まず第一に、微妙に異なる階層の数が多
すぎることである。たとえば、本来は課長代理・課長・部長代理・部長という四階層
からミドルが構成されていたとしよう。ここに微妙な「格」の相違が入り込んでくる
と 、「 あ の 課 長 よ り 、 こ ち ら の 課 長 の ほ う が 少 し 上 」 と か 、「 あ の 部 長 代 理 は ほ と ん ど
部長と同格」といった奇妙な多重階層が人々の意識に入り込み、ヒエラルキーが複雑
化していく。
二 つ 目 の 特 徴 と し て 、微 妙 な「 格 」の 相 違 を 反 映 し た ヒ エ ラ ル キ ー を 持 つ 会 社 で は 、
実は一人の部下に対して多数の上司が対応していることが多い、という点を挙げてお
きたい。本当の上司ではないものの、事前に話を通しておかなければならない「上司
もどき」が多数存在するのである。この「上司もどき」が多数になると、上司と部下
というタテのラインで物事を決めて実行していくという単純なヒエラルキーの強みが
後退し、多数の人々のコンセンサスを取りながら慎重に仕事を進めていくという風習
が根づいていく。
「 経 営 管 理 者 が 決 め る べ き こ と を 決 め る 」と い う 単 純 で 強 い ヒ エ ラ ル
キーに比べると、このような複雑骨折したヒエラルキーは意思決定と実行が非常に遅
くなる。これは確かに問題である。
社会心理学における「責任性の分散」
複雑骨折したヒエラルキーの問題点は、意思決定と実行が遅くなることだけではな
い。
実は、多数の「上司もどき」が存在する組織では、一人ひとりの責任感が麻痺し、
誰一人当事者意識を持たないままに、大きなミスやスキャンダルが起こってしまうと
い う 点 に 、こ の 種 の ヒ エ ラ ル キ ー の 最 大 の 問 題 が あ る 。組 織 内 の ど こ か ら も「 責 任 感 」
が消失してしまうのである。本来であれば、明確な「権限と責任の体系」であったは
ずのヒエラルキーから、なぜ「責任」が消えてしまうのであろうか。
実はこの問題は既に古くから社会心理学の領域で「責任性の分散」という名の下に
研究されてきた。
「 責 任 性 の 分 散 」と い う 現 象 の エ ッ セ ン ス は 簡 単 で あ る 。今 あ な た の
目の前で誰かが困っているという状況を思い浮かべていただきたい。このとき、あな
たが一人であれば困っている人を助けるのに、周りに多数の他人がいる場合には自分
が助けるべきか否か悩んでしまう、という現象である。
皆、同様に行動するから、周りにいる人の数が多いほど、誰も助けてくれないとい
う悲劇が起こりうる、というのが社会心理学における「責任性の分散」という議論で
ある。
困っている人を目の前で見ても、
「 大 げ さ に 騒 い で 助 け よ う と し た も の の 、実 は 大 し
た 問 題 で は な か っ た 」と い う の で は 恥 ず か し い 。本 当 に 深 刻 に 困 っ て い る の で あ れ ば 、
きっと自分が助けなくても誰かが救いの手を差し伸べるだろう。逆に、誰も手助けし
ていないということは、それほど大した問題ではないということかもしれない。しば
らく様子を見ることにしよう。このように人間は考えるらしい。いつでも何事も自分
の責任だと思い続けている人間などは存在せず、普通の状態であれば、周囲の人数の
増加とともに責任感を薄めていくというのが人間の性《さが》なのかもしれない。
もちろん、
「 周 囲 の 人 間 の 数 が 増 え る に つ れ て 責 任 感 を 薄 め て い く 」と い う パ タ ー ン
は、困っている人を助けるという場合ばかりでなく、企業内の意思決定にも当てはま
る 。一 つ の 意 思 決 定 に 、一 人 で は な く 多 数 の 人 が 関 与 す る ほ ど 、
「 責 任 性 の 分 散 」が 発
生する。これが組織内の至る所で大量発生しているのが複雑骨折したヒエラルキーな
のである。
複雑骨折したヒエラルキーでは、事前に多数の人の承認を得ながら仕事が進められ
て い く 。20 以 上 の ハ ン コ を 集 め る 稟 議 書 を 回 し て い た り 、メ ー ル の CC に 30 名 も の ア
ドレスが付されている会社もある。これほど多くの人が暗黙のうちに合意している案
件 で あ れ ば 、誰 か 一 人 の 責 任 で 決 め た と い う 意 識 を 多 く の 人 が 持 た な く な っ て し ま う 。
「問題がある」と個人的には感じていたとしても、本当に問題があるのなら誰かがき
っと真剣に反対するだろうと安心してしまう人が出てくる。
「 こ れ は 一 大 事 だ 」と 自 分
だけ騒いで、
「 小 さ な こ と を 気 に す る 神 経 質 な ヤ ツ 」と 思 わ れ る の も 恥 ず か し い 。皆 が
互いにそうやって考えていると、大きな問題のある案件もスーッと通っていってしま
う。誰も自分が決めたとか、自分が通したという深刻な責任感を感じないままに重要
な問題案件が通過していく、ということが発生するのである。
当初は、
「 こ こ の 組 織 は 重 た い 」と 批 判 し て い た 若 手・中 堅 も 、い つ ま で も 正 常 な 責 任
感を保ち続けられるとは限らない。
「 誰 も 決 め て く れ な い の だ か ら 、自 分 が 責 任 を 持 っ
てこの案件に関する合意を取り付けていく」と意気込んでいた人も、あまりにも多数
の「上司もどき」に囲まれて責任感がゆるんでくることもある。
とりわけ危険なのは、
「 こ れ ほ ど 多 数 の 人 が 関 与 し て い る の だ か ら 、本 当 に 危 な い 案
件なら誰かが止めてくれるはずだ」という依頼心が芽生えたときであろう。その依頼
心が当初の提案案件を少しだけ高リスクの方向に傾ける。
「 少 し 危 な い 」と 本 人 は 気 づ
いているのだが、
「 文 句 が 出 て か ら 安 全 に 戻 せ ば よ い 」と い う 安 心 感 を 抱 い て 安 易 な 提
案を行ってしまう。これが危険なのである。
なぜなら、
「 上 司 も ど き 」た ち は 基 本 的 に は 社 内 評 論 家 な の だ か ら 、単 に 批 判 的 コ メ
ントを述べているだけであり、本心では反対も賛成もしていない。しかも周りにも多
数の外野がいることを知っているから、誰一人本気で止めたり、本気で推進したり、
という責任感を持って行動している人々ではないのである。
だから、本当は通るべき案件が組織内で消えてしまうように、本当は通すべきでな
い案件が組織内で承認されてしまうこともある。少しだけ高リスク方向に傾けられた
提案がそのまま通る。この経験が一度で済めばよいが、これが何年間にもわたって積
み重ねられていくと大きな事故やスキャンダルが生まれる可能性がある。
「 意 思 決 定 が 遅 い 」と い う 問 題 よ り も 、こ ち ら の 問 題 の ほ う が 遙 か に 深 刻 で あ る 。
「ま
じめで高学歴の人々から成る一流企業がなぜこれほどばかげた意思決定を行ったの
か 」と か 、
「 な ぜ こ れ ほ ど 破 廉 恥 な 組 織 犯 罪 が ま か り 通 っ て い た の だ ろ う か 」と い っ た
疑問を解く鍵は、もしかすると、多数の根回しを必要とするヒエラルキーから責任感
が消失するという現象に見いだせるかもしれない。
一人ひとりが誠実で優秀でも、どれほど伝統のあるプライド高き会社であっても、
長い年月にわたって、あまりに多数の人々を意思決定に関与させていると、組織のど
こにも責任感がなくなり、大事故やスキャンダルを生み出す可能性がある。誠意ある
人々の、ほんの少しずつの責任感欠如が、一人の力で生み出せない巨大な悪を生み出
してしまう可能性があるのだ。
重要な仕事は少ない人数でこなせ
複 雑 骨 折 し た ヒ エ ラ ル キ ー で は 、多 く の「 上 司 も ど き 」た ち が 根 回 し の 対 象 と な る 。
意思決定に関与する人の数が増えるから、
「問題があれば誰かがどこかで止めているは
ずだ」という安心感が増え、一人ひとりの責任感が薄れる。こうして誰も責任を取ら
ない多数の「上司もどき」という階層が生み出される。
当初は気概を持っていたはずの若手・中堅もいつしかその多数のチェック担当者た
ちに対する依頼心を発達させ、組織内の意思決定が徐々に高リスク側にズレていって
しまう。時とともに進展すると大事故やスキャンダルが生み出される可能性もある。
これが、
「 責 任 性 の 分 散 」と い う 社 会 心 理 学 の 考 え 方 か ら 見 え て く る 、複 雑 骨 折 し た ヒ
エラルキーの問題点である。
ここまで読まれた読者にとって既に解決策は明確であろう。ヒエラルキーを単純化
し、その状態を保つことである。
しかしここでの議論のエッセンスは、
「 ヒ エ ラ ル キ ー を 単 純 化 す る 」と い う 言 い 方 よ
りも、
「 意 思 決 定 の 責 任 者 を 常 に 少 数 に と ど め て お く 」と 表 現 し て お い た ほ う が よ い だ
ろう。
ヒエラルキーを単純化するということは、とりもなおさず責任者を少数にとどめて
おく、ということなのである。もちろん何をどう決めたのかという情報については、
で き る か ぎ り 周 囲 と 対 話 を 心 が け て 伝 え て い く 必 要 が あ る 。し か し 、
「意思決定の内容
を 伝 達 し て 共 有 す る 」と い う こ と と 、
「 意 思 決 定 そ の も の を 皆 で 行 う 」と い う こ と は 同
じことではない。
前者がなければ組織は動かないが、後者を目指すと「責任性の分散」が生じてしま
うのである。両者の差は微妙なものではあるが、その微妙な違いに気をつけないと大
問題につながりかねない。
責任者の数を少なくする、という原則はヒエラルキーの設計以外についても重要な
注意事項として記憶しておく必要がある。たとえば、世の中には、失敗の許されない
プロジェクトほど、多数の人を配置する企業が多いのだが、実際には過剰な人員配置
は、かえって失敗する可能性を高める場合がある。コンピュータのような機械であれ
ば、たとえば二つのプロセッサを用いて、一方が故障しても、他方が正常に動いてい
れ ば 大 丈 夫 と い う シ ス テ ム を 設 計 す る 手 法 は う ま く い く 。プ ロ セ ッ サ は 、
「相手のプロ
セッサが一所懸命頑張っているから、自分は手を抜こう」などとは考えないからであ
る。
し か し 人 間 は そ う で は な い 。 多 数 の 人 が い れ ば 、「 自 分 が や ら な く て も 誰 か が や る 」
と 思 う 気 持 ち が 強 く な る 可 能 性 が あ る 。逆 に 責 任 者 の 数 を 少 な く し て お く こ と で 、
「自
分がやらなければ誰がやるのか」という責任感を強く持たざるをえない状況をつくる
ことが非常に重要なのである。重要な仕事ほど若干、不足気味のマンパワーで処理す
る、というのが実は適切なのである。
メ タ 認 知 ( metacognition)
)
メタ認知とは、自分で自分のことを知り、コントロールすることです。例えば、今日
は疲れているから車の運転をするのは危険だろうとか、この問題は難しすぎてとても
自 分 に は 解 け そ う に な い 、な ど と 考 え る の は 、自 分 の 頭 の 働 き に つ い て 認 知 し た 結 果 、
なされる判断です。私達は、こうしたメタ認知によって、危険を避けたり、効率のよ
い計画を立てたり、自分のするべきことの判断をつけたりすることができます。従っ
て、メタ認知が必要な時にうまく機能しないと、間違いをしてしまったり、無駄なこ
と を 繰 り 返 し て し ま う こ と に な り ま す 。必 要 な 場 面 で 適 切 に メ タ 認 知 が で き る こ と は 、
私達にとってとても重要です。このメタ認知力は、心の成熟とともに自然に身につい
てくるものですが、私達はメタ認知力をせっかく持っていても、それを発揮しないま
まになっていることがよくあります。これではもったいないですから、日常生活の中
のふとした瞬間に、ちょっと立ち止まって自分の心をのぞいてみる習慣をつけましょ
う。日記をつけるのもよい方法です。勉強する時も、自分がどこが苦手なのか、とい
うことがしっかり分かっていれば、効率よく成績を上げることができますね。自分自
身を知るということは、私達が生活していく上で最も基本的なことなのです。
****
友達とどこかに遊びに行ったときに、遊ぶことがとても楽しいのに、頭のどこかで
門限が気になってしまうことがありませんか?このとき、実際に行動している「遊ん
でいる自分」の他に、「門限を気にしている自分」がいることに気が付くはずです。
本当なら、今行動していることに意識がすべて集中してしまう気がするのですが、実
際はそうではありません。この、「門限を気にしている自分」がメタ認知です。メタ
認知のメタとは、「高次の」といった意味を持っています。つまり、メタ認知とは、
行動している自分をより高いところから眺めて、色々とアドバイスをしたり考えたり
し て く れ る 、「 も う 一 人 の 自 分 」の こ と で す 。こ の も う 一 人 の 自 分 が い る こ と で 、「 そ
ろそろ6時だから帰らないとな。」とか、「帰り道でバスが遅れたことにしてもう少
し遊んでいようか。」といった理論や言い訳などが頭の片隅で進んでいくわけです。
つまり、メタ認知があるおかげで、遊ぶことを中断せず、考えなければならないこと
も考えることができます。このように、メタ認知は日常のさまざまなところで働いて
います。
ス キ ー マ 理 論 ( schema theory)
)
人は新しい事柄を覚えようとする時に、自分の持つ知識の塊に関連づけて覚えます。
この知識の塊がスキーマと呼ばれるものです。スキーマはそれぞれの人によって異な
るので、同じ事柄や同じ話を聞いても、それについての理解の内容や、記憶の内容も
人によって異なるのです。たとえば、巨人ファンの人は巨人のニュースをよく覚えて
い る け れ ど 、そ う で な い 人 は ほ と ん ど 覚 え て い な い と い っ た こ と が よ く あ る は ず で す 。
スキーマの特徴をもとに、スキーマを情報処理のシステムとしてコンピューター上に
表すという試みもなされています。例えば、レストランで食事をするということにか
かわる知識を、客がレストランに入る、客がテーブルを探す、客がどこに座るかを決
める、客がテーブルのところまで行く、客が座る、という具合にいくつかの場面ごと
に、スキーマとしてコンピューターのプログラムに組み込みます。するとそのプログ
ラムは、レストランで食事をするという出来事についての文を適切に細かくし、その
要点をまとめることができるようになるのです。ここで、このようなプログラムは、
大変すぐれたものだと思われるのですが、先にも述べた、人によってスキーマに違い
があるということが十分に考え合わせられていないという 問題点もあるのです。
****
スキーマとは、私たち一人ひとりが独自に持っているイメージの塊のことです。人は
新しい情報を自分の持つこのスキーマに照らし合わせて整理して覚えます。例えば、
初めて食べたパンナコッタに対し、「プリンみたいな味がするなぁ」と思うことは、
パンナコッタを自らの持つプリンというスキーマで捉えて整理していることになりま
す。ある情報に対して強いスキーマを持っているほど、その情報を簡単に記憶から再
生できます。プリンの好きな人ほど、そうでない人よりもおいしいお店の場所をたく
さん覚えていられるわけです。人が持つスキーマはそれぞれ違うので、プリンを「冷
奴みたいだ」なんて豆腐というスキーマで捉える人もいるかもしれません。すなわち
行動や思考の個人差は、スキーマによって説明することもできるのです。しかし、あ
まりにも一般的なスキーマは、時として私たちの認識をも狂わせることを忘れてはい
けません。イタリア人がみんな軟派なわけではないし、政治家がみんな腹黒いわけで
は・・多分言い切れません。これは「ステレオタイプ」とも呼ばれる、偏見の一つで
す。
1
ピグマリオン効果とは?
ア メ リ カ の ロ ー ゼ ン タ ( ソ ) ー ル (Rosenthal,R.)ら が あ る 実 験 を し ま し た 。
まず、小学生に普通の知能テストをさせ、その結果を担任の教師にこのように報告
しました。
「 こ の テ ス ト は 将 来 の 学 力 の 伸 び が 確 実 に 予 測 で き る も の で す 。ま だ 研 究 中
なので結果を教えることはできませんが、先生にだけ、将来伸びる子の名前を教えま
し ょ う 。」し か し 、そ こ で 教 え ら れ た 数 人 の 生 徒 は 知 能 テ ス ト の 成 績 に 関 係 な く 、ラ ン
ダムに選ばれた子でした。それから1年ほどしたあとで、再び知能テストをしたとこ
ろ 、名 前 を あ げ ら れ た 子 は 、そ う で な い 子 に 比 べ て 明 ら か に 成 績 が 上 が っ て い ま し た 。
このように、期待することによって、相手もその期待にこたえるようになる、という
現象をピグマリオン効果とよんでいます。このような効果が起こる理由として、ロー
ゼンタールは、人は常に相手の期待に対し最も敏感に反応するから、と説明していま
す。この実験は後に、その実験内容に不備があるという指摘がなされたため、この実
験結果をそのまま信じることはできませんが、ただ1つ言えることは、子どもに対し
て期待をもち、その子の長所を伸ばそうという温かい態度で接していれば、子どもも
自分にあった望ましい方向に伸びていく可能性がある、ということです。
ただし、期待は子どもの負担にならないようにほどほどに。
2
ピグマリオン効果
ギリシア神話に、
「 ピ グ マ リ オ ン 」の 話 が あ り ま す 。彫 刻 の 名 人 で あ る ピ グ マ リ オ が 、
自ら作った女性の彫刻に惚れてしまいます。
それがあまりにも美しかったので、仕事も・食事も・睡眠もせずに、ただただ、そ
の彫刻に見入っているだけでした。この姿を見ていた神アプロディテが、ピグマリオ
ン王の姿に心打たれ、彫刻に命を与え、彫刻から生まれた命をガラテアと名づけた。
これにより、ピグマリオンは彫刻の女性と結ばれることができた。感謝したピグマリ
オンは、残りの一生をアプロディテの像を作って過ごした。
先生に一言ほめられただけで、その先生の教科が好きになって、成績が上がったり
したことはありませんか?期待をかけてほめた結果、良い成果が出る効果の事を、心
理学ではピグマリオン効果と呼んでいます。
これは、先生にほめられることが、そのきっかけになった一例です。教師からほめ
られれば自信がつき、教師への好意にもなり、期待にこたえようと努力もするように
なる。
ほめる一言には、このような効果があるのでしょうね。さらに、皆の前で誉められ
れ ば 、 光 背 効 果 (ハ ロ ー エ フ ェ ク ト )と 結 び つ き 、 そ の 相 乗 効 果 で も っ と 良 い 成 果 が で
ます。
しかし、誉めるというのも難しいものです。楽な事をして結果の出ない人は
なかなか誉めるわけに行きません。努力している人の姿もなかなか見出せないもので
す。結果が全ての世界では、結果に対してしか誉めることが難しいのです。だから、
誉められる人は全体の一部の人になりがちです。先生という職業もなかなか難しいも
のですね。