ベートーヴェン/交響曲第9番ニ短調 作品125「合唱付き」 年末の演奏会

ベートーヴェン/交響曲第9番ニ短調 作品125「合唱付き」
年末の演奏会に欠かせない存在となったベートーヴェン(1770-1827)の「第九」交響
曲。その終楽章で歌われるのは、ご存じのようにドイツの詩人で劇作家のフリードリヒ・
シラー(1759-1805)の頌詩「歓喜に寄す」である。「すべての人々は兄弟となる」、「抱
き合うがよい、数百万の人々よ」といった歌詞には、人々が愛や友情で結ばれ、ともに生
きることへの大きな喜びが表現されている。
シラーがこの「歓喜に寄す」を書いたのは、彼がまだ20代半ばの1785年のことだった。
この時代、数年後のフランス⾰命が物語るように、ヨーロッパの⺠衆は王侯貴族の⽀配す
る世の中に疑問を抱き、⾃由を熱烈に求めていた。シラーも⽂筆活動を通して社会を批判
したため、活動を制限されるなど苦難の底にあったが、友人のケルナーらの温かい⽀援の
もとでこの詩を書いた。「歓喜に寄す」は、人間の⾃由、平等を求める時代の空気を反映
すると同時に、友情への喜びと感謝から⾃然にほとばしり出た喜びの詩でもあった。
ベートーヴェンがこの詩と出会ったのは、故郷のボン大学に通っていた1790年頃とされ
ている。大学では、法学のフィシェニヒ教授が友人であるシラーの詩をたびたび朗読した
のに加え、「歓喜に寄す」は当時の雑誌にも掲載されていた。理想に燃え、⽂学にも関⼼
が強かったベートーヴェンはこの詩によほど共感したのであろう、さっそく作曲を試みる
が、なかなか実現しなかった。
1792年、憧れのウィーンで活動を始めたベートーヴェンは、⾃⽴したひとりの人間、ひ
とりの芸術家として生きることを理想としながら、現実的には貴族たちの経済的⽀援に頼
らなければならない矛盾に直面する。それと同時に、難聴という試練が彼の人生に重くの
しかかり、1802年には、絶望のどん底から芸術家として生きる決意を表明したともいえる
「ハイリゲシュタットの遺書」も書いている。さらに、亡くなった弟の息子カールとの確
執も⼼に暗い影を落とした。それでも燃えるような創作意欲で傑作を書き続けていく。
「歓喜に寄す」の詩は、暗闇を照らす光のようにベートーヴェンの⼼に生き続けた。詩
に音楽を付ける試みが繰り返されたのち、私たちが知るあの有名なメロディがスケッチ帳
に登場するのは1822年のことである。そのメロディと、以前から温めていた交響曲の構想
とが結びついて「第九」が生まれた。ここに、全4楽章を歓喜へと至る道筋とし、終楽章
に歓喜の歌を置いた、劇的な交響曲が誕生したのである。1824年5月7日にウィーンのケル
ントナートーア劇場で⾏われた初演は、大成功を収めた。
第1楽章は、弦のトレモロとホルンで始まる神秘的な響きの中から、決然とした主題が
ユニゾン(複数の楽器が同じ旋律を奏すること)で現れる。第2楽章は活発なスケルツォ、
第3楽章は深いやすらぎに満ちた緩徐楽章である。第4楽章では、怒濤のような音楽に続
いてこれら3つの楽章が次々と回想されたのち、歓喜のメロディが、低弦(コントラバス・
チェロ)からヴィオラ、ヴァイオリン、そしてオーケストラ全体へと広がっていく。バリ
トン独唱が「もっと⼼地よく、喜びに満ちて歌い始めようではないか!」と歌うところか
ら声楽の入りとなり、独唱、合唱、重唱による歓喜の歌が歌われる。有名な歓喜の主題と、
後半で男声が歌い出す「抱き合うがよい、数百万の者たちよ」の主題とが、最終的に結び
ついて二重フーガを成す手法はみごとであり、それは異なる人間が結びつく喜びを連想さ
せる。シラーが⾔葉で描いた人間讃歌は、ベートーヴェンによって音楽という新しい形で
蘇ったのである。
遠山菜穂美
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