OYS001904

『天理大学おやさと研究所年報』 第 19 号 2013 年 3 月 26 日発行
論文
初期クザーヌスにおける“神の名”の問題
―トマスのアナロギア論との比較から―
島 田 勝 巳
要旨
本稿では、ニコラウス・クザーヌス(1401-1464)の初期の代表作『知ある無知』
(1440)
における神の名の議論を、トマス・アクィナスのアナロギア論を参照しながら検討
する。
トマスのアナロギア論の基底をなすのは、神の完全性が被造物によって分有され
ており、そこでは両者の完全性の比(proportio)が成立するという視点である。
一方、クザーヌスが『知ある無知』で用いる proportio は、被造物の間でのみ成立
する比の関係を示すものであり、トマスのような神と被造物との関係を示すもので
はない。だが、同時にクザーヌスは、「包含」/「展開」の枠組みを自らの神名論に
適用することで、語り得ない神の名の一性が、被造物において展開された多くの名
を自らの内に包含しているという事態を描出する。
こうしてトマスとクザーヌスは、その神名論において共に proportio について語り
ながらも、その理解の違いが両者の議論の方向性を規定している。クザーヌスの場合、
その独自な認識論的・形而上学的見解において、否定神学的基調をより強く打ち出
したと言えるよう。
【キーワード】 クザーヌス、トマス・アクィナス、アナロギア論、 比(proportio)、
否定神学
1.はじめに
思想家としてのその生涯を通して、ニコラウス・クザーヌスは一貫して“神の探求”
を自らの思想的課題としていた。彼はそれを、一方では数学や幾何学的な思考実験を
多彩に用いながら問い続けるとともに、他方では“神の名”をめぐる思索から追究し
ようとした。もとより神学的課題としての神名論は、西欧中世思想においては否定神
学の伝統の中でその中心的なテーマとして議論されたものである。とりわけ偽ディオ
ニシオス(以下、ディオニシオス)による「肯定神学」(theologia affirmativa) と「否
定神学」(theologia negativa)の対概念は、この問題に対してのみならず、広く西洋に
おける「神秘主義」思想全般のその後の展開に基本的な枠組みを提供したと言っても
過言ではなかろう。ディオニシオスを「あの神的なことがらの最大の探求者」
(maximus
(1)
ille divinorum scrutator)と賞賛するクザーヌスがその最初期から最晩年に至るまで、
─ 73 ─
神の名についての自らの思索を展開する際に参照し続けたのも、やはりこのディオニ
(2)
シオス的な洞察であった。 ディオニシオス的な神名論の思索はまた、クザーヌス以前のスコラ哲学の伝統にお
ける重要なテーマの一つであったこともよく知られている。その一つの典型は、トマ
ス・アクィナスの思想の中に見ることができる。本稿では、トマスのいわゆる「存在
の類比」(analogia entis)の議論を参照しながら、クザーヌスの初期の代表作である
『知ある無知』
(De docta ignorantia, 1440)において提示された神と被造物との関係性、
および神の名をめぐる思索について、やや立ち入った検討を試みたい。もっとも、ク
ザーヌスが神名論について自らの思索を深める上で、トマスの思想が明確な形で影響
を与えたという明確な形跡は見当たらない。とはいえ、そもそも神名をめぐるトマス
の思索自体がディオニシオスの思想を介したものである。また、神に与えられる名は
不可避的に被造物から得られるものであるとする神名論的問題関心は、基本的にはク
ザーヌスがトマスと共有しているはずのものでもある。というのも、もとより神の名
をめぐる問題は、神と被造物との関係性をめぐる形而上学的および認識論的な問いに
不可避的に付随するものだからである。こうした意味でトマスの「存在の類比」論(あ
るいはアナロギア論)は、神名論や肯定・否定神学の議論全般に対して何ほどかの光
を投げ掛けてくれる可能性を持つものであり、そのことはクザーヌスの議論に対して
もあてはまるはずである。本稿では特に、トマスの『神学大全』(Summa theologiae)
第 1 部第 13 問題において展開された議論を踏まえ、クザーヌスの初期の代表作、『知
ある無知』における神の名あるいは肯定神学の可能性の条件をめぐる思索を、彼の否
定神学的思考に引きつけながら検討してみたい。
2.トマスのアナロギア論における proportio 概念
トマス・アクィナスは「神の名について」
(De nominibus dei)と題された『神学大全』
(Summa theologiae)第 1 部第 13 問題において、主にディオニシオスの神名論を批判
的に参照しながら自らのアナロギアの議論を展開している。トマスにおいてアナロギ
アの問題が収斂するのは、この神名をめぐる議論においてである。したがってここで
の関心は、トマスの神名論におけるアナロギアの意味を明らかにすることに絞られる。
まずトマスによれば、ことばとは端的にもの(res)を指し示す(significare)働き
を持つものである。あらゆることばは何らかの仕方でものを指し示している。そして
これはトマスが名(nomen)と呼ぶものにほかならない。つまり、トマスにとってこ
(3)
したがっ
とばと名とは、
「ものを指し示す」という働きにおいて同一のものなのである。
て、トマスが「神の名について」と題されたこの第 1 部第 13 問題において論じるの
は、神とそれを指し示すことばとのありうべき関係性の問題であると言うことができ
─ 74 ─
島田勝巳 初期クザーヌスにおける“神の名”の問題
よう。
トマスによれば、名が何らかのものを指し示す場合、そこには、「知性における観
念の形成」
(conceptio intellectus)が媒介をなす。この表現は、
「名が表示する概念」
(ratio
quam significat nomen)とも言い換えられる。トマスにとって、ものが名づけられ得
るのは、当のものが我々によって知性的に認識される限りにおいてである。ところが
神に関して言えば、我々が神を認識できるのは被造物を通してのみである。その意味
で神は、被造物に基づいて名づけられ得るものである。つまりトマスにとって、さま
ざまな名称が神を表示し得るのは、我々の知性が神を認識する限りにおいてなのであ
(4)
る。
とはいえ、もちろん被造物から得られたそうした名称が、神の本質をあるがまま
に表現するわけではない。トマスによれば、神は完全なるものとして、「諸々の被
造物のあらゆる完全性を予め自らのうちに持つもの」(“Deus in se praehabet omnes
perfectiones creaturarum”)である。一方で、「いかなる被造物も、それぞれ何らかの完
全性を持つ限りにおいてそれぞれ神を表現し、また神に似たものである」(“creatura
intantum eum repraesentat, et est ei similis, inquantum perfectionem aliquam habet”) と 言
(5)
われる。神に対する被造物のこうした表現はもとより不十分なものでしかあり得な
いが、それでも被造物は自らの根源としての神に対して持つ何らかの類似性(aliqua
similitudo)に従って神を表現し得るものとされる。こうしてトマスは、神を被造物
(6)
に基づいて名づけられ得るものとして捉えるのである。
ここで注目したいのは、被造物が持つとされる何らかの完全性が神より発出
(procedo)したものとして、言い換えれば、神の完全性が被造物によって分有されて
いる(“a creatura participatur divina perfectio”)ものとして捉えられているという点で
(7)
ある。 というのも、こうした神と被造物における完全性の分有という認識は、トマ
スのアナロギア論を支える基盤としての意味を持っていると考えられるからである。
トマスによれば、「神を把握しようとする場合、我々の知性は、神から被造物へと発
出する諸々の完全性に対比した観念 conceptiones proportionatas perfectionibus を形成す
(8)
る」。ここで言われる完全性とは、神においては単一で単純な仕方で先在する一方で、
被造物においては分裂し多様な仕方で受け入れられているものである。つまり、被造
物におけるさまざまな完全性には、そうした完全性によって多様に表現される単一
な根源(unum simplex principium)、あるいは単純な一なるもの(unum omnio simplex)
が必ず対応(respondeo)しているのである。このように、神に与えられる諸々の名
称は、さまざまに異なった概念(rationes)のもとに表示されながらも、それらはす
べてただ一なるもの(una res)を表示しているがゆえに、そうした名称は決して同義
(9)
語(synonyma)ではないとされるのである。
─ 75 ─
このように、トマスのアナロギア論においては、神と被造物との完全性の比
(proportio)という論点がその中核をなしている。つまりトマスにとって、神と被造
物について何がしかのことが語られ得るのは、そこに被造物の根源(principium)あ
るいは原因(causa)としての神への秩序づけ(ordo)が存在している場合のみである。
そしてこの場合の ordo が意味するのが、多くのものがある一つのものに対して持つ
proportio にほかならない。トマスによれば、こうした意味での ordo こそが、神に与
えられる名称が同名同義的(univoce)に語られる場合と同名異義的(aequivoce)に
語られる場合の中間に、つまりアナロギア的(analogice)に語られることを可能にす
るものなのである。トマスが頻繁に引き合いに出す例を用いれば、たとえば「健康な
もの」(sanum)という名称は医薬にも尿にも適用されるが、それが可能なのは、両
者が「動物の健康」という別の第三者に対して proportio あるいは ordo を持っている
(10)
からである。このように、類比的に語られる名称の場合、「それらすべての名称が一
(11)
なるものへの関係において語られなければならない」。こうしてトマスにとって、神
と被造物の両者にアナロギア的に適合する名称とは、多なるものが根源的な一なる
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もの(unum primum)に対して有する関係性において―すなわち proportio あるいは
ordo を持つ限りにおいて―はじめて可能となるものなのである。
3.『知ある無知』における proportio 概念と理性(ratio)の限界
では、一方のクザーヌスにおいては、神と被造物の関係性、さらには神の名の可能
性についてはいかに捉えられているのだろうか。ここでは考察の対象を、この問題を
めぐってもっとも立ち入った議論が行われている彼の初期の主著、『知ある無知』に
限定して検討してみたい。
まず、端的な事実として確認しておく必要があるのは、『知ある無知』にはトマス
的なアナロギア論それ自体は見られないということである。もっともクザーヌスはこ
の書において、analogia という語そのものは用いていないものの、その機能的な代替
(12)
とも言える proportio という語は多用している。クザーヌスにとってはこの proportio
こそが、この書の主題でもある神と被造物、あるいは無限なるものと有限なるものと
の関係性の議論における鍵をなす概念である。しかしその場合、トマスとの比較にお
いて留意すべきは、クザーヌスの proportio は一貫して被造物の間においてのみ成立
するものであり、絶対的な差異を持つ無限なるものと有限なるものとの間においては
むしろ成立し得ない関係性とみなされているという点である。クザーヌスによれば、
「いかなる探究も、難易の差こそあれ、比較的な対比を行なう。したがって、無限で
(13)
ある限りの無限は、あらゆる比(proportio)を避けるがゆえに知られない」
。この場
合の proportio とは、測るもの(mensura)と測られるもの(mensuratum)との合致
─ 76 ─
島田勝巳 初期クザーヌスにおける“神の名”の問題
(convenientia)と差異(differentia)を明らかにすること意味する。クザーヌスにとって、
認識とは第一義的には「測ること」にほかならず、それは proportio を介して行なわれる。
したがって、いかなる形であれ知的な探求は、proportio が可能な領域、すなわち有限
な被造物の世界においてのみ成立し得る営為であり、逆にそれが一切成立し得ない無
限なるものとしての神に対しては、それは適用不可能なのである。こうしたクザーヌ
スの議論から既に、proportio の語を analogia とほぼ同義のものと見なすトマス的な用
法とは大きく異なっていることが分かる。先に見たように、トマスにとってアナロギ
アとは、神と被造物との完全性の分有を前提として、多なる表現が一なるものに対し
て有する比のあり方として語られていた。ところがクザーヌスにおいては、そもそも
(14)
こうした比が成立し得るような関係性そのものが根本的に否定されているのである。
さらにここで指摘しておきたいのは、proportio をめぐる以上のようなクザーヌス
の議論が、理性(ratio)についての彼独自の見解と深く結びついているという点で
ある。というのも、クザーヌスは不可避的に区別(dirscretio)や対立(oppositio)を
もたらす名称の本質の原因を理性の働きに帰しているからである。「諸名称は、知性
(intellectus)よりもはるかに下位にある理性の働きによって、諸事物を区別するため
に与えられている。ところが、理性は矛盾するものを超えてゆくことができないため、
(15)
理性の働きに従って他の名称がそれと対立することのないような名称は存在しない。」
クザーヌスにとって、理性は知性よりもはるかに劣っているが故に矛盾律を克服する
ことができない。したがって、理性によって与えられるいかなる名称も、必然的に自
らと対立する別の名称との連関において初めて意味をなすものとなり得る。よく知ら
れるように、神における「対立の一致」(coincidentia oppositorum)という事態の探求
が『知ある無知』の、延いてはクザーヌス思想全体のライトモチーフであったことを
想起すれば、そこで「対立」の問題が名の本性、さらにはそれを司る能力である理性
の本性に根差すものであるとする彼の見解には、十分な注意が払われて然るべきであ
ろう。クザーヌスにとって、神の認識における人間の理性の限界は、言語が不可避的
に被らざるを得ない対立や区別といった限界と根本的な連関を持つものだったのであ
(16)
る。proportio 概念に加え、以上のような認識論的な見解もまた、神の絶対性あるいは
超越性を強調するクザーヌスの否定神学的思考を浮き彫りにしていると言うことがで
きよう。
4.「包含」(complicatio)/「展開」(explicatio)と神の名
とはいえ、クザーヌスは必ずしも神名論や肯定神学の可能性そのものを否定してい
るわけではない。被造物に対する神の超越性の強調は、クザーヌスにおいては神の名
づけの可能性と必ずしも矛盾するものではない。つまり、一方では神と被造物とのあ
─ 77 ─
いだに比は成立し得ないとしながらも、他方では肯定神学も神名論も可能だとするの
である。一見相反するとも見えるこうしたクザーヌスの論点を結びつけるものは、一
体何なのだろうか。
クザーヌスは『知ある無知』第一巻第 24 章から第 26 章において、ディオニシオス
による「肯定神学」(theologia affirmativa)と「否定神学」(theologia negativa)の枠組
みを用いながら自らの神の名についての議論を展開している。そこで彼は「肯定神
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学によって神について語られることは何であれ、被造物との関係において(in respect
creaturarum)基礎づけられている(傍点引用者)」と語っているが、この発言は肯定
(17)
神学についてのクザーヌスの基本認識を端的に示している。実際にこの「被造物との
関連において」という表現は、クザーヌスの肯定神学的神名論において半ば常套句の
ように用いられている。たとえば彼は、異教徒による神や神殿に対する命名が「被造
物への関係に従って」(secundum respectum ad creaturas)さまざまになされていたこと
を指摘したうえで、次のように述べている。
実際に、こうした名称はすべて、語り得ないただ一つの名称によって包含されて
いるものの展開である。そしてその固有な名称が無限である限りにおいて、それ
は特殊な完全性を名指すこうした名称を無限に包含しているのである。したがっ
て、展開は多くあり得るのであって、もうそれ以上多くはあり得ないというほど
になることは決してない。これら(展開された名称)はすべて、無限なものに対
する有限なもののように、固有で語り得ない名称に関係しているのである。(傍
(18)
点引用者 ) この発言は、「被造物への関係に従って」という表現の意味を理解するうえでも、ま
たクザーヌスの神名論をトマスのアナロギア論と比較するうえでも興味深い。まずこ
こからは、クザーヌスが肯定的な神の名称をやはり一と多の関係性において捉えてい
るということが分かる。それはトマスが完全性を、神においては単一なものとして、
さらに被造物においては分裂し多様な仕方で受け入れられているものとして捉えた視
点と重なって見えてくる。しかしそこで注目すべきは、クザーヌス場合、神と被造物
とのそうした関係性をトマスのように proportio としてではなく、彼自身のよく知ら
れた「包含」(complicatio)/「展開」(explicatio)の理論を用いながら説明している
という点である。この枠組みは、基本的には新プラトン主義的な「分有」
(participatio)
思想のクザーヌスによる再解釈として捉えることができる。その簡潔な規定に従えば、
「神は、万物が神のうちに存在するということにおいて、万物を包含するものであり、
また、神自身が万物のうちに存在するということにおいて、万物を展開するものであ
(19)
る」
。換言すれば、神はその一性において万物を包含する一方で、その神の一性は事
物の多性において展開するとされる。つまり、クザーヌスが「被造物との関係において」
─ 78 ─
島田勝巳 初期クザーヌスにおける“神の名”の問題
と語る場合、それは神の語り得ない固有の名称の一性が、それが被造物において展開
された多くの名称を自らの内に包含しているという事態を意味しているのである。
こうしたクザーヌスの見解が、神と被造物とのある種の相互規定性の主張として理
解されれば、それが両者の区別を無化しようとする「汎神論」であるとの嫌疑が生じ
てくるのは避けにくい。実際にこの後、ハイデルベルク大学の神学者、ヨハネス・ヴェ
ンク(Johannes Wenck, c. 1390-1460)は『知ある無知』に対する徹底した論駁の書『無
知の書物について』(De ignota litteratura, 1442-43)を著すが、そこでの基調もクザー
ヌスの立場を汎神論と見なすものであった。その批判に対しては、クザーヌス自身も
自らを汎神論者ではないとする反批判を展開しているが、いずれにせよ『知ある無知』
における「包含」/「展開」の図式では、やはりヴェンクのような“誤解”を引き起
(20)
こす可能性は十分にあったと言わざるを得ないだろう。
一方で、クザーヌスが神と被造物との関連性について語る場合、トマスと同様に完
全性について言及している。
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それゆえ、「創造主」というこの名称は、被造物への関係においてかれに適合す
るが、かれは永遠から創造しえたがゆえに、被造物が存在する以前にもかれに適
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合していたのである。……我々は、これらの諸名称によって表わされるある完全
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性のゆえに、これらを被造物から転移して神に付与するのである。とはいえ、そ
れらの名称はすべて、我々がかれにそれらを付与する以前にも、永遠からかれの
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最高な完全性と無限な名称のうちに包含されて、真実に存在していたのである。
(21)
(傍点引用者 ) ここに見られるような神の先在性の強調は、―既に見たように―トマスのアナロ
ギアの議論においても確認することができた。トマスにとって、神は完全なるものと
して「諸々の被造物のあらゆる完全性を予め自らのうちに持つもの」とされていたの
と同様に、クザーヌスにとってもまた、「諸名称によって表わされるある完全性」は
神の「最高な完全性」に包含されている。この点において、神の名称を論じる場合に
その「被造物への関係」に注目しようというクザーヌスの視点そのものは、実はトマ
ス的な立場に近いものであることが窺える。一方で両者が明らかに異なるのは、こう
した問題をトマスがアナロギアの理論によって説明しているのに対し、クザーヌスは
それには一切触れず、一貫して新プラトン主義的な包含/展開の枠組みで説明しよう
としている点である。
5.被造物の形而上学的条件と否定神学的思考
とはいえ、ここで注意を要するのは、この包含/展開の理論は、新プラトン主義的
な流出論に本質的な内在論の立場、すなわち神が被造物に滞留する―つまり内在す
─ 79 ─
る―という見解を共有しているわけではないということある。確かにクザーヌスは、
神と被造物との関係性を語る際に「分有」という語を用いてはいるが、その含意は彼
独自のものになっている。
実際に、包含/展開の枠組みに従った以上のような説明のみでは、そこで語られ
る神と被造物との関係性、あるいは一性と多性の関係性が、トマスにおける proportio
あるいは analogia といかなる点で異なっているのかという点は見えにくい。より具体
的に言えば、先の引用中の、「諸名称によって表わされるある完全性」と神の「最高
な完全性」の関係性についても、包含/展開の論理による説明のみでは理解しにくい。
ここで語られる被造物からの諸名称の神への転移という手続きについても、あくまで
も我々人間の側に要求される認識的努力の問題であり、神と被造物との関係性につい
ての見解ではない。「諸名称によって表わされるある完全性」の意味は、おそらくは『知
ある無知』におけるクザーヌスの被造物に関する理解から見えてくるものと思われる。
この点について彼は、次のように語っている。
肯定的な諸名称は、もしかれ(神)に適合するならば、被造物への関係において
のみ適合する。とはいえ、被造物が原因となってそれらがかれに適合するという
のではない。なぜなら、最大なものは被造物からは何ものも得ることができない
からである。そうではなくて、それらの名称は、被造物にたいするかれの無限な
能力のためにかれに適合するのである。というのは、神は永遠から創造し得たか
(22)
らである。(傍点及びカッコ内引用者 ) クザーヌスによれば、被造物に由来する肯定的名称が神に対して適合されるとすれば、
それは被造物に与えられた何らかの積極的な要因によるものではなく、あくまでも神
が被造物に対して持つ無限の能力という一方的な関係性においてのみ可能となるもの
である。先の「諸名称によって表わされるある完全性」とは、神の絶対性によっての
み可能となる完全性であり、したがってそれをトマスにおけるような被造物自身の完
全性が意味するものと同一視することはできない。もちろん、トマスにおいてもそれ
はあくまでも神の完全性の分有という在り方にほかならないが、しかしそこでは神の
創造の所産たる被造物に一定の固有の価値あるいは原理が認められていると言っても
過言ではなかろう。一方のクザーヌスにおいては、被造物の側には神の名称に対する
にいかなる積極的な要因は認められておらず、「包含」としての一なる神が、一なる
ままでありながら万物にあるとされているのである。
被造物に対するこうした見方について、クザーヌスは次のように語っている。
あの絶対的な存在に由来する(ab esse)ところの被造物は、その現に存在すると
おりのすべてを、すなわち、消滅性、可分割性、不完全性、相異性、多性、およ
びこれに類する他のものを、永遠で、不可分割的で、最も完全で、無区分で、一
─ 80 ─
島田勝巳 初期クザーヌスにおける“神の名”の問題
で、最大なものから受け取っているのではない。また、ある積極的な原因から受
(23)
け取っているのでもない。 クザーヌスにとって被造物とは、一性である神に何かを付け加える「付在」(adesse)
ではなく、むしろその存在(esse)を神から与えられる「からの存在」(ab esse)であ
る。したがってそれは、もしもそれが神なしに考えられるのであれば、単なる無に過
ぎないようなものとされる。神自身は存在の形相(essendi forma)でありながら、被
造物にはその形相としてそこに混じり込むのではなく、その原因(causa)あるいは
(24)
根拠(ratio)としてある。ただしその場合、ab esse としての被造物は自らの性質を神
あるいは何らかの積極的な原因(causa positiva)から受け取っているのではなく、た
だ偶然的に(contingenter)そのようにあるものとして捉えられている。こうしたクザー
ヌスの立場から、神と被造物による完全性のアナロジカルな分有というトマス的な視
点が期待し得ないことは明らかであろう。被造物を原因とする肯定的な名が神には適
合的ではあり得ないとするクザーヌスの見解の背後には、被造物自身に神との類似の
根拠となり得るような積極的な存在論的原理を一切認めようとしない彼の独自の見解
が介在していたのである。
6.結語
ここで論じてきたようなクザーヌスにおけるアナロギア論の可能性をめぐっては、
研究者の間でもこれまでもしばしば取り上げられてきた。たとえば C. L. Miller のよ
うに、クザーヌスの思想の中にアナロギアの思考を認めることに対して否定的な論者
は、クザーヌス思想における神と被造物、無限なものと有限なものとの絶対的差異
(25)
の強調を指摘し、端的に両者の間の類比の可能性を否定的に捉えている。 その一方
で、長年にわたりドイツにおけるクザーヌス研究を牽引してきた論客の一人でもあ
る R. Haubst は、クザーヌスにはほとんど見られない analogia を代替する概念として
proportio に注目し、一性と多性、無限なものと有限なものとの proportio を、クザー
ヌスの基本テーゼに矛盾するものとしてではなく、むしろその具体化として捉えてい
(26)
る。 本稿で見てきたように、神と被造物との関係性、あるいは肯定神学的な神名論の可
能性については、クザーヌスは一方ではトマスと同様の問題意識を持ちながらも、他
方でその内実に関しては、新プラトン主義的な流出論の改編とも言える包含/展開の
枠組みに基づき、トマスのアナロギアの思想とは明確な一線を画す立場に立っていた。
確かに proportio 概念に関しては、彼はトマスとは対照的な用法で語っているとはい
え、この概念によって神と被造物との連関を論じるという点では、両者の議論に親近
性を見ることも不可能ではないはずである。その意味では、Miller のように、クザー
─ 81 ─
ヌスにおける類比の議論の可能性を一蹴してしまうような見方は、やや早計に失する
ように思われる。また一方で、Haubst のように、トマスとクザーヌスの神名論に共
通性を見ることにも、慎重を期す必要があろう。特に『知ある無知』の段階では、被
造物に対するクザーヌスの視点がかなり消極的なものであったという意味で、トマス
とのアナロギア論との明確な違いはやはり否定できない。本稿で論じてきたのは、両
者のそうした見解の相違が、まさに proportio 概念の用法の違いに起因するものであり、
さらにその背景には、トマスとは大きく異なるクザーヌスの認識論的および形而上学
的思索が介在していたという論点であった。
クザーヌスは『知ある無知』を執筆後、晩年に至るまでのほぼ 20 年のあいだ、神
の名の問題について多くを語ることはなかった。ところが 1464 年に没するまでの最
後の 4 年間で、彼はこの問題に関する四つの論考を著し、ありうべき神の名として、
(27)
新たに三つの概念を提示している。もとよりそれら個々の議論について検討すること
は本稿での課題ではないが、そうした一連の試みもまた、やはり『知ある無知』にお
ける議論を端緒として展開されたものであった。その意味では、神の名の問題は、ク
ザーヌス思想を貫く否定神学的思考の特質を見極めるうえで、重要な鍵となる課題と
(28)
して捉えられるべきであろう。
注
(1)Nicolaus Cusanus, De docta ignorantia(Nicolai de cusa Opera omnia iussu et auctoritate Academiae
Litterarum Heidelbergensis ad condicum fidem etita I, ed. E. Hoffmann, et R. Klibansky, Lipsiae,
1932), Liber primus ( 以下、DI), 16, pp. 30-31. ニコラウス・クザーヌス『知ある無知』、岩崎允
胤・大出哲訳、創文社、1966 年、41 頁。本稿では邦訳としてこの岩崎・大出訳を参照するが、
なるべく前後の表現との統一を図るため、若干語句を変えている箇所もある。しかしその場
合も、訳文の基本的な意味は変えていない。
(2)だが、少なくも DI を書いた 1440 年の時点では、そこでの「知ある無知」についての
思想は 1438 年のコンスタンティのポリスからの帰路で得た啓示によるものであって、ディ
オニシオスからの直接的な影響によるものではないことを示唆している。Apologia doctae
ignorantiae における自身の告白によれば、DI の時点でクザーヌスは、ディオニシオスのみ
ならず、他のいかなる真の神学者も十分に検討したことがなかったと告白している。このこ
とは、彼が DI 以前の、最初のまとまった著作である De concordantia catholica の段階で既に
ディオニシオスについて言及しているという事実と照らし合わせると、より不可解に聞こ
える。“Fateor, amice, non me Dionysium aut quemquam theologorum verorum tunc vidisse, quando
desuper conceptum recepi;” Apologia doctae ignorantiae discipuli ad discipulum,(Nicolai de cusa
Opera omnia iussu et auctoritate Academiae Litterarum Heidelbergensis ad condicum fidem etita II ed.
R. Klibansky, Lipsiae, 1933), 12. この点については、リーゼンフーバー氏も以下の論考で言及
している。クラウス・リーゼンフーバー「否定神学・類比・弁証法―ディオニシオス、ト
─ 82 ─
島田勝巳 初期クザーヌスにおける“神の名”の問題
マス、クザーヌスにおける言語の限界と超越の言表可能性」(村井則夫訳)、
『思想』2008 年、
第 2 号、29 頁。
(3)Sancti Thomae Aquinatis Opera Omnia, , iussu impensaque Leonis XIII, P.M., edita, Tomi IV-XII.
Summa Theologiae(以下、ST), 1888-1906, q. 13 a. 1.『神学大全 I, 1-13』、高田三郎訳、創文社、
1960 年、260-261 頁。
(4)ST, q. 13 a. 1.『神学大全 I, 1-13』、261 頁。
(5)ST, q. 13 a. 2.『神学大全 I, 1-13』、267 頁。
(6)ST, q. 13 a. 2.『神学大全 I, 1-13』、267 頁。
(7)ST, q. 13 a. 3.『神学大全 I, 1-13』、270-271 頁。
(8)ST, q. 13 a. 4. “Intellectus (autem) noster…format ad intelligendum Deum conceptiones proportionatas
perfectionibus procedentibus a Deo in creaturas.”『神学大全 I, 1-13』、274 頁。
(9)ST, q. 13 a. 4.『神学大全 I, 1-13』、274-275 頁。
(10)ST, q. 13 a. 5.『神学大全 I, 1-13』、279 頁。
(11)ST, q. 13 a. 6. “(Dicendum quod in omnibus nominibus quae de pluribus analogice dicuntur,)
necesse est quod omnia dicantur per respectum ad unum.”『神学大全 I, 1-13』、283 頁。
(12)Rudolf Haubst, “Nikolaus von Kues und die analogia entis,” in Streifzüge in die cusanische
Theologie, Münster: Aschendorff, 1999, pp. 232-242. (13)DI, I, 1, pp. 5-6. “Omnis (igitur) inquisition in comparativa proportione facili vel difficili existit;
propter quod infinitum ut infinitum, cum omnem proportionem aufugiat, ignotum est.”『知ある無知』
、
8 頁。
(14)実際に、こうした点に注目しながら、(特に DI の)クザーヌスのアナロギア論的な読み
を否定する研究者も存在する。たとえば次を参照のこと。Clyde Lee Miller, Reading Cusanus:
Metaphor and Dialectic in a Conjectural Universe, Washington D.C.: The Catholic University of
America Press, p. 30. (15)DI, I, 24, p. 49. “Nomina quidem per motum rationis, qui intellectu multo inferior est, ad rerum
discretionem imponuntur. Quoniam autem ratio contradictoria transilire nequit, hinc non est nomen,
cui aliud non opponatur secundum motum rationis;”『知ある無知』、66 頁。
(16)クザーヌス思想における言語論の持つ意義については、Cassirer によって早くから指
摘され、近年では Duclow らによっても論じられている。Ernst Cassirer, “Die Bedeutung des
Sprachsproblems für die Entstehung der neueren Philosophie,” Festschrift Meinhof, Hamburg; L.
Frieriche, 1927, S. 507-514. Donald F. Duclow, “The Analogy of the Word: Nicholas of Cusa’s Theory
of Language,” Masters of Learned Ignorance: Eriugena, Eckhart, Cusanus, Burlington, VT; Ashgate,
2006, pp. 255-274.
(17)DI, I, 24, p. 51. “Quare quidquid per theologiam affirmationis de Deo dicitur, in respectu
creaturarum fundatur.”『知ある無知』、70 頁。
(18)DI, I, 25, p. 53. “Quae quidem omnia nomina unius ineffabilis nominis complicationem sunt
explicantia; et secundum quod nomen proprium est infinitum, ita infinita nomina talia particularium
perfectionum complicat. Quare et explicantia possent esse multa et numquam tot et tanta, quin possent
esse plura; quorum quodlibet se habet ad proprium et ineffabile, ut finitum ad infinitum.”『知ある無
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知』、71 頁。
(19)DI, II, 3, p. 70. “Deus ergo est omnia complicans in hoc, quod omnia in eo; est omnia explicans in
hoc, quod ipse in omnibus.”『知ある無知』、94 頁。
(20)『知ある無知』に対するヴェンクの批判とそれに対するクザーヌスの反論、およびその思
想史的背景については、以下の拙稿を参照のこと。「『知ある無知』の争点とそのコンテクス
『天理大学おやさと研究所年報』第 18
ト―ヴェンクとクザーヌスの論争をめぐって―」、
号、2011 年、63-81 頁。
(21)DI, I, 24, p. 50. “Igitur hoc nomen ‘creator’, quamvis sibi in respectu ad creaturas conveniat, tamen
etiam convenit, antequam creatura esset, quoniam ab aeterno creare potuit. Ita de iustitia et ceteris
omnibus nominibus affirmativis, quae nos translative a creaturis Deo attribuimus propter quandam
perfectionem per ipsa nomina significatam; licet illa omnia nomina ab aeterno, ante etiam quam nos
sibi illa attribuimus, fuissent veraciter in summa sua perfectione et infinito nomine complicata,..”『知
ある無知』、68 頁。
(22)DI, I, 24, p. 50. “Et propterea nomina affirmativa, si sibi conveniunt, non nisi in respectu ad
creaturas conveniunt; non quod creaturae sint causa, quod sibi convenient, quoniam maximum a
creaturis nihil habere potest, sed sibi ex infinita potential ad creaturas conveniunt. Nam ab aeterno
Deus potuit creare, …”『知ある無知』、68 頁。
(23)DI, II, 2, p. 65. “Non habet (igitur) creatura, quae ab esse, omne id quod est: corruptibilitatem,
divisibilitatem, imperfectionem, diversitatem, pluralitatem et cetera huiusmodi a maximo aeterno,
indivisibili, perfectissimo, indistincto, uno, neque ab aliqua causa positiva.”『知ある無知』、86-87 頁。
(24)DI, II, 2, p. 66.『知ある無知』、89 頁。
(25)Clyde Lee Miller, Reading Cusanus: Metaphor and Dialectic in a Conjectural Universe,
Washington D.C.: The Catholic University of America Press, p. 30.
(26)Rudolf Haubst, “Nikolaus von Kues und die analogia entis,” in Streifzüge in die cusanische
Theologie, Münster: Aschendorff, 1999, pp. 232-242. また、次も参照のこと。Peter J. Casarella, “His
Name is Jesus: Negative Theology and Christology in Two Writings of Nicholas of Cusa from 1440,”
in Nicholas of Cusa on Christ and the Church, Brill, 1996, pp. 281-307.
(27)クザーヌスは、『知ある無知』執筆から 20 年後の 1460 年に著した De possest(『可能的現
実存在』)において、適切な神の名称として “possest” を、続いて 1462 年の De non aliud(『非
他なるもの』)において “Non-aliud” を、そして 1464 年に没する 4 カ月前に執筆した De apice
theoriae(『テオリアの最高段階について』)において “posse ipsum”(可能自体)という概念
をそれぞれ提示している。『知ある無知』以降のクザーヌスの思想的展開における神名論の
変化という問題は重要なテーマであるが、もとより本稿での関心の射程をはるかに超えてい
る。その問題については改めて検討の課題としたい。
(28)本稿でも述べてきたように、神の名の問題の脊梁をなすのは神と被造物との関係性をめ
ぐる見解であるが、この点に関し、日本におけるクザーヌス研究の第一人者である八巻和彦
は、「<多様性>問題」という視点から周到な考察を行なっている。八巻によれば、クザー
ヌスの著作の中でも特に『創造についての対話』
(Dialogus de genesi, 1447)において、
「自同性」
(identitas)や「類似化」(assimilatio)の概念が導入されたことによって、神と被造物の関係
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島田勝巳 初期クザーヌスにおける“神の名”の問題
性、あるいは多様性の問題をめぐるクザーヌスの議論に新たな局面が開かれた。八巻和彦『ク
ザーヌスの世界像』、創文社、2001 年、第二章「<多様性>問題」、77-123 頁参照。本稿で
の関心からとりわけ興味深いのは、そうした八巻の議論において、中期から後期にかけて、
「多
様性」の問題に対するクザーヌスの認識が肯定的なものに変化していくに従い、被造物に対
する彼の評価もより肯定的なものに推移していることが浮き彫りになっている点である。こ
の点からすれば、「類比」をめぐるクザーヌスの見解も当然ながらより積極的なものに変化
しているはずであろう。であるとすれば、晩年におけるクザーヌスの神名論の積極的な展開
についても、それをトマスのアナロギア論に照らし合わせることによって、『知ある無知』
の神名論には見られなかったまったく新たな議論の局面が浮き彫りになるように思われる。
この点についての考察は、他日を期すことにしたい。なお、『知ある無知』以後のクザーヌ
ス思想の展開において、次の主著と目される『推測について』が持つ意義については、Josef
Koch を筆頭に、クザーヌス研究者のあいだでも夙に指摘されてきたが、その位置づけをめ
ぐる解釈は、それが神と被造物との関係性をめぐる問題であるだけに、本稿で取り上げた神
の名の可能性というテーマと深く関わっている。この問題については、筆者は次の拙論で論
じている。「「推測」と<否定神学>―クザーヌスの『推測論』を中心に―」、『天理大学
学報』第 64 巻第 2 号、2013 年 2 月所収。
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The Problem of the Names of God:Thomas Aquinas’ Idea of
analogia entis and the Early Thought of Nicholas of Cusa
SHIMADA Katsumi
This paper explores Nicholas of Cusa’s discussion of the names of God presented
particularly in his early work De docta ignorantia in comparison with Thomas Aquinas’ idea
of analogia entis.
The essence of Thomas’ argument for analogia entis portrayed in the Summa theologiae
is that God participates with the creatures in his perfection (perfectio) and therefore the
proportion (proportio) of the perfection between God and the creatures can be established.
Meanwhile, Cusa’s idea of proportio depicted in the De docta ignorantia refers to the
proportion made possible only among the creatures and therefore that is not the same as the
one Thomas maintains in his masterpiece in that it demonstrates the nature of the relationship
between God and the creatures. Applying the framework of complicatio/explicatio to his
discussion of the names of God, however, Nicholas illustrates that the unity of the ineffable
name of God complies in itself many names that are explicated in the creatures.
While both Thomas and Nicholas thus highlight the idea of proportio in their discussions
of the names of God respectively, their disagreement over its significance shapes the different
features of their arguments. Nicholas of Cusa sets forth a more negative theological tone
than Thomas Aquinas in terms of the divine names in his epistemological and metaphysical
thought.
Keywords: Nicholas of Cusa, Thomas Aquinas, analogia entis, proportio,
negative theology
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