第30回 中世ローマ・カトリック

福音学校
第Ⅲ期
教会の歴史ー6
第30回
中世ローマ・カトリック
芦田
【
年
表
道夫
】
※東西分裂から宗教改革前夜までの出来事や人物の年表です。
年
出来事・人物
注記
1054
東西分裂
1066
ノルマン人のイギリス征服
1077
カノッサの屈辱 (グレゴリウスとハインリッヒ)
教皇権の絶頂
1093
アンセルムス、ベック修道院からカンタベリーへ
スコラ主義の先駆者
1096
第1回十字軍
1099 エルサレム占領
1141
アベラルドゥス有罪宣告
スコラの方法論
1160
ペトルス・ロンバルドゥス没
「命題集4巻」
1167
オ ッ ク ス フ ォ ー ド 大 学 創 立( パ リ 大 学 も )
1088 ボローニャ大学
1209
ケンブリッジ大学創立
1215
第4回ラテラノ会議
聖餐実体変化説公布
1221
ドミニクス没
ドミニコ会
1226
フランチェスコ没
フランシスコ会
1248
第 7 回 十 字 軍 ( 第 8 回 1270 は 途 中 中 止 )
実質最後の十字軍
1274
トマス・アクィナス没
「神学大全」
1308
ドゥン・スコトゥス没
1309
教 皇 の ア ヴ ィ ニ ヨ ン 捕 囚 (1377 ま で )
1378~1423 大シスマ
1327
マイスター・エックハルト没
ドイツ神秘主義
1337
~1453百年戦争 (1431ジャンヌ・ダルク没)
フランス/英国
1349
オッカムのウィリアム没
唯名論/宗教改革
1384
ジョン・ウィクリフ没
ロラード派、フスへ
1415
ヤン・フス没
モラヴィア兄弟団へ
1453
東ローマ帝国滅亡
オスマントルコ
1492
コロンブス、アメリカ到着
1.はじめに
すでに記したように中世をどの年代に当てはめるかは、かなりの幅があります
が、今回は特に中世ヨーロッパ社会が盛期を迎えた期限1000年頃から、衰退
してきた1500年までの500年間を考えてみます。
しかし私たちの前には膨大な領域があり、限られた時間で学ぶために、この時
代を特徴づける三つの事柄にしぼってすすめます。
①十字軍
②教皇権と世俗権の攻防
③スコラ神学
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2.十字軍
十字軍の発端は中央アジアから西進してきたチュルク人(トルコ人)のイスラ
ム王朝であるセルジューク朝にアナトリア半島を占領された東ローマ帝国の皇帝
が 、 ロ ー マ 教 皇 ウ ル バ ヌ ス 2 世 に 救 援 を 依 頼 し た こ と が 発 端 ( 1095 年 ) で す 。 こ
のとき、大義名分として異教徒イスラム教国からの聖地エルサレムの奪還を訴え
ました。皇帝が要請したのは東ローマ帝国への傭兵の提供であり、十字軍のよう
な 独 自 の 軍 団 で は な か っ た の で す が 、 教 皇 は 1095 年 1 1 月 に ク レ ル モ ン で 行 わ
れた教会会議(クレルモン公会議)の終わりに、集まったフランスの騎士たちに
向 か っ て 、 聖 地 を イ ス ラ ム 教 徒 の 手 か ら 奪 回 し よ う と 呼 び か け 、「 乳 と 蜜 の 流 れ
る 土 地 カ ナ ン 」と い う 聖 書 由 来 の 表 現 を ひ い て 軍 隊 の 派 遣 を 訴 え る と 、人 々 は「 神
の 御 心 の ま ま に !」 と 答 え た と 言 わ れ て い ま す 。
当時西ヨーロッパは飢饉と疫病が蔓延し、たいへん困難な時代でした。そのた
めに、庶民や貴族たちはキリストの兵士となって異教徒の地に遠征しようという
呼びかけに熱狂的に応答することとなりました。最初、熱狂し暴徒化した群衆が
隠修士ペトルスの先導でエルサレムに向かいましたが、食料を得るために途中の
町々、村々で強奪し、キリスト教徒と戦い、何千人ものユダヤ人を虐殺すること
になります。彼らの多くは途中で死に、残ったものはやがて正式に派遣され統制
のとれた十字軍にコンスタンティノポリスで合流していきました。
途中、厳しい戦いをしながら1099年7月15日エルサレム城内に突入し、
守備隊とはじめアラブ人の市民、ユダヤ人を婦女子も容赦なく殺戮したと言われ
ます。十字軍はエルサレムに王を立ててラテン王国とし、その多くは帰還しまし
たが、一般大衆の間では、十字軍に対する熱意は冷めず、黙示を見るものが繰り
返し現れて、彼らに従う群衆がエルサレムに向かいました。
約150年間ヨーロッパに吹き荒れた十字軍の熱病は、組織だった軍事行動に
ついて第何回十字軍と呼ばれていますが、むしろこの時代を特徴づける社会現象
と見るべきでしょう。したがってその解釈の相違から、十字軍として第4回まで
はほぼ一致した見解であっても、それ以降については種々の受け止め方がなされ
て い ま す 。( 十 字 軍 を 何 回 と 数 え る か は 多 く の 異 論 が あ る )
十字軍は今日から見ると狂気の沙汰のように見えるのですが、ほとんど情報の
なかった時代、聖地までどれくらいの距離があるのか、その途中の国々や民族に
ついての知識もなく、トルコ人やアラブ人についての恐ろしいデマが流れれば、
それを信じるほかなかった民衆を理解しなければなりません。さらに王や貴族・
騎士たちでも状況は民衆と大して変わりはありませんでした。
さ ら に「 メ メ ン ト ・ モ リ 」( 死 を 覚 え よ )が 文 字 通 り 生 き た 言 葉 で あ っ た 時 代 、
聖地奪還というキリスト教界あげての大事業に、名も無き一市民でさえ参加でき
るというチャンスに驚喜して生涯を捧げる者が多くいたとしても不思議ではない
のです。今日、十字軍については多くの批判があることは確かなのですが、十字
軍時代に比べて格段に情報があり、世界を見渡せることができるようになった2
0世紀でさえ、十字軍をはるかに上回る規模で、狂気と思える世界大戦がなされ
たことを振り返る必要があると思われるのです。
3.教皇権と世俗権の攻防
西ヨーロッパにキリスト教が浸透して数百年経つと、教会への土地の寄進など
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によって、高級聖職者や司教、司祭はその地位に付随する領地からの収入を得る
ことになり、他方、その領地や教会は地理的に領主や皇帝という世俗権力下に属
するという二重構造が生まれてきました。
神聖ローマ皇帝はゲルマン民族の伝統に従い、絶対権力者ではなく、封建領主
で あ る 諸 侯 の 中 か ら 選 ば れ ま し た 。( 1 4 世 紀 以 降 は 7 人 の 「 選 定 候 」 か ら 選 ば
れました) そして封建制度は土地を媒介にした契約社会であるために、当時、
領土内の「司教叙任権」は皇帝にあったのです。そうすると領主である聖職者の
直接の利害はローマ教皇よりも神聖ローマ皇帝にあることになります。
1077年教会改革を進めたクリュニー修道院出身のヒルデブラントが教皇と
なってグレゴリウス7世となると、聖職者を世俗権力から取り戻すために、司教
叙任権は皇帝にではなくローマ教皇にあると主張し、神聖ローマ皇帝ハインリッ
ヒ 4 世 と 衝 突 す る こ と に な り ま し た 。そ し て ミ ラ ノ 司 教 の 解 任 問 題 を き っ か け に 、
皇帝は教会会議を招集して教皇の追放を宣言し、教皇も別に教会会議を招集して
皇帝を破門すると宣言を出したのです。最初強硬な姿勢を押し通そうとした皇帝
ハインリッヒも支持者を失い、1077年1月25日から三日間北イタリアのカ
ノッサ城外に修道服を着てグレゴリウスに破門の赦しを請うことになりました。
この事件が歴史上、教皇権の絶頂を表すものとして有名な「カノッサの屈辱」
(英語やドイツ語では「カノッサへの道」という意味だそうですが)と言われる
ものです。なぜ皇帝がそこまでしなければならなかったのか。それには翌月2月
にアウグスブルグで新しい皇帝を選ぶ会議を控えており、破門されていては皇帝
に選ばれることができないという背に腹を変えられないという事情がありまし
た。そのためにアウグスブルグの会議に向かう途中のグレゴリウス教皇が立ち寄
ったカノッサに出かけて、厳寒の雪の中三日間辛抱したというわけです。
その後ドイツに帰った皇帝ハインリッヒは反対派を制圧して1081年ローマ
を攻めグレゴリウスは辛くも逃亡しましたが、サレルノで客死しました。
叙任権の問題は1122年ヴォルムス会議で、当時の皇帝と教皇との間に交わ
された協約によって、叙任権は教皇にあることが確定しました。
聖職者領主の叙任権がローマ教皇の手に渡ることによって、教皇権は宗教的権
威と共に世俗の実質的な力を共に握ることになりました。ローマ教会の有する領
地が広大なものであったからです。
4.スコラ神学の時代(スコラ=スクール)
この時代をもっとも特徴づけるのは、ローマ・カトリック教会における神学的
発展でしょう。一千年の間、異なった色彩を持ちながらも4世紀に出来上がった
一つの神学的基盤に立ってきた、ギリシャ教会とラテン教会が大きく異なった道
を歩み始めることになったからです。政治・社会の支配から離れた(国家の下に
ある教会)ギリシャ教会はそれまでの伝統を守ろうとしたのに対して、国家・社
会の支配層となったラテン教会(ローマ・カトリック教会)は、時代と社会をリ
ードすべくその神学や形態を大きく変身させていったからです。
( 1 ) カ ン タ ベ リ ー の ア ン セ ル ム ス (1033-1109)
スコラ学の先駆者としてまず揚げられるのが「カンタベリーのアンセルムス」
です。かれはイタリアで生まれましたが、フランスのノルマンディー地方にある
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ベックの修道院に入りました。それは高名な副修道院長ランフランクを慕っての
ことでした。1078年ランフランクスはカンタベリーの大司教となり、アンセ
ルムスはベックの修道院長となりました。1093年、アンセルムスはランフラ
ンクスの後継としてカンタベリーの大司教となりましたが、教皇権と皇帝権の攻
防の最中、イギリスに於いても同様で、カンタベリー大司教であった大半を王に
よって追放されて過ごしました。
アンセルムスの重要性は、次の2点に集約できると思われます。
a.スコラ学の基礎を与えた=今日的意味での学問的方法論
「プロスロギオン」において、神の存在を存在論的(本体論的)に証明
しました。これは簡単には次のようになります。
①人が神を考えるときそれは「それよりも大いなるものは考えられない
あ る も の ( 存 在 = 実 在 ) で あ る 。」
②一般に人間の理解の内にあるだけで実在しないものよりも、実在する
ものの方が大いなるものである。
③もし神が人間の理解の内にあるだけで実在しないのであれば、最初の
①で掲げた神の定義と矛盾する。
「 ・ ・ ・ 実 在 で あ る 」と 定 義 し た 。
④それゆえ神の定義そのもの内に神の実在が前提されている。
つまり信仰の対象であった神の存在を、理性のみ(論理のみ)で扱おうと
したのです。
b.西方教会の標準となった贖罪論を与えた
アンセルムスは「神はなぜ人となられたか」において、キリストの十字
架の贖いの意味を、理性のみから説明しようと試みました。それは次の
ようなものです。
①罪はそれが誰に対してなされたかによって重大性が異なる。
② 神 に 対 し て な さ れ た 人 の 罪 は 無 限 大 で あ り 、そ の 償 い も 無 限 大 で あ る 。
③それと共に、人間の犯した罪を償えるのは人間だけである。
④しかし、人間は罪あり、有限な存在である。
⑤それゆえ、完全な人である受肉の神のみが人間の罪を完全に償う事が
できる。
アンセルムスが求めたのは、キリスト教信仰の合理的理解をどのように提供で
き る の か と い う 問 題 で し た 。「 合 理 的 な 信 仰 」 で は な く 「 信 仰 の 合 理 的 説 明 」 で
あることを誤解しないようにしなければなりません。アンセルムスの有名な言葉
と し て 「 わ た し は 知 ら ん が た め に 信 じ る 」(「 知 解 を 求 め る 信 仰 」) と い う 言 葉 が
あります。聖書の権威を一旦わきにおいて、単純な前提から理性のみによって推
論して、キリスト教信仰を擁護することを目指したのです。このような態度は、
神学のみならず、一般的な学問の方法論として今も生きています。
( 2 ) ペ ト ル ス ・ ア ベ ラ ル ド ゥ ス (1079-1142)
スコラ学に関してアンセルムスと共にどうしても簡単に触れておかなければな
らないのがアベラルドゥスです。彼はパリのノートルダム大聖堂付学校の哲学と
神学の教師でしたが、後年は修道士になっています。
アベラルドゥスの主著は「然りと否」ですが、その中で多くの神学的主題につ
いて、古代からの権威者と言われる人々の様々な異なる見解をならべて見せまし
た。ここからスコラ学の典型的な学問的方法が生まれてきました。一つの問いを
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掲げて、それに対する一つの答え、そしてそれを支持する典拠を示し、また別の
答えを揚げて、それを支持する典拠を並べ、最後に矛盾すると思われるそれらに
解決を与える一つの結論を導き出すという方法です。
( 3 ) ペ テ ル ス ・ ロ ン バ ル ド ゥ ス (1095-1160)
もう一人、スコラ学形成に大きな足跡を残したのがペテルス・ロンバルドゥス
です。彼はイタリア生まれですが、パリで神学を研究、助祭を長く務め最晩年に
パリ司教に叙階されますが翌年に死んでいます。1055~1058年頃に完成
したとされるペテルス・ロンバルドゥス「命題集」は、神学諸問題について総括
的 、体 系 的 に 、し か も 聖 書 や 古 代 教 父 た ち に 依 り な が ら( 特 に ア ウ グ ス テ ィ ヌ ス )
論述されているために、中世における大学の標準的教科書として広く用いられま
し た 。 神 学 教 授 は ま ず 、「 命 題 集 」 の 注 解 を 論 じ る こ と を 求 め ら れ 、 多 く の 神 学
者 は 最 初 の 著 作 と し て 、「 命 題 集 注 解 」 を 書 い て い ま す 。
命 題 集 は 第 1 巻 「 三 位 一 体 論 ・ 神 論 」、
第 2 巻 「 創 造 論 ・ 原 罪 論 」、
第 3 巻 「 受 肉 論 ・ 救 済 論 ・ キ リ ス ト 教 的 徳 論 」、
第 4 巻 「 秘 蹟 論 ・ 終 末 論 」、
の4巻からなり、今日の組織神学の体系の基礎となっているのが分かります。
( 4 ) ト マ ス ・ ア ク ィ ナ ス (1224-1274)
上記の人たちがスコラ学の基礎を作ったとすれば、トマス・アクィナスはスコ
ラ 学 の 偉 大 な 完 成 者 と 言 え る で し ょ う 。ト マ ス は ナ ポ リ 近 郊 の 貴 族 の 家 に 生 ま れ 、
22才でドミニコ会士となり、パリで学びます。1256年からはパリ大学で教
え始め、間もなく主著の一つとなる「異教徒反駁大全」を書き始めます。後年、
1 2 6 6 年 に は 最 も 有 名 な 主 著「 神 学 大 全 」を 書 き 始 め 、1 2 7 3 年 1 2 月 6 日 、
「 も う こ れ 以 上 書 け な い 。」 と 言 っ て 筆 を 置 き ま し た 。 過 労 に よ る 衰 弱 が 原 因 と
思われます。そしてその三ヶ月後に50才の若さで亡くなりました。
中世カトリックの神学上の一大転換は、古代教父以来続いてきたプラトン主義
的傾向からアリストテレス主義への転向です。その最大の人物がトマス・アクィ
ナ ス で す 。 古 代 ギ リ シ ャ を 代 表 す る プ ラ ト ン ( BC427-347) と ア リ ス ト テ レ ス
( BC384-322) は 4 0 才 あ ま り 年 の 離 れ た 師 弟 関 係 に あ り ま す 。 そ し て こ の 二 人 が
切り開いた思考の二つの方向性は、今日に至るまで様々な分野で大きな影響を与
え続けています。
古代教父の時代、プラトンの流れをくむ新プラトン主義が隆盛をきわめ、古代
教父最大の人物アウグスティヌスも哲学的には新プラトン主義者であり、神学に
もそれが繁栄されていると言われます。古代以来11世紀頃まで、キリスト教神
学はアウグスティヌスの影響もあり、ほぼプラトン主義の流れにありました。
プラトン主義の陰で、西欧に於いて一部の論理学を除いて、忘れ去れていたア
リストテレスの哲学は古代ギリシャ哲学を学んだイスラムの学者たちによって再
発見され、やがて西ヨーロッパにも知られるようになるのです。
ごく簡単にプラトン主義とアリストテレス主義とのちがいの一部を揚げてみま
す。たとえば「犬」とは何か?という問題を考えるとします。
プラトン主義では、人には「犬」とはどういうものかという概念(イデア)が
与えられており、それに合致する動物が犬であるということになります。そこで
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重 要 な こ と は 、「 犬 」 と い う 概 念 = 真 理 ( ロ ゴ ス ) を つ か む こ と で す 。
ではアリストテレス主義ではどう考えるのでしょう。まず「犬」と呼ばれてい
るたくさんの動物を詳しく観察します。そうするとそれらには、それぞれ異なる
ところもあるのですが、何かすべてに共通する要素が浮かび上がってきます。そ
れが「犬」とはどういうものかを示しているというのです。
つまりプラトン主義の中心は具体的な「個物」ではなく、精神的なこと、永遠
的なことにあり、アリストテレス主義の関心は具体的な「目の前の個物」の探求
にあるということです。私たちのキリスト教信仰に置き換えると、プラトン主義
的 立 場 か ら は 、与 え ら れ た 啓 示 と し て の 聖 書 か ら 世 界 を 見 よ う と す る の に 対 し て 、
アリストテレス主義的立場では、この世界の観察から神の存在と神の働きを見よ
う と す る こ と に な り ま す 。( た い へ ん 乱 暴 な 言 い 方 で す が )
したがってプラトン主義ではキリストの受肉や十字架や復活の歴史性はあまり
重要性をもたず、永遠の神の言としてのキリストに重点が置かれる傾向になるで
しょう。逆にアリストテレス主義では歴史的・感覚的に把握できない事柄につい
て確信を得ることができなくなります。
トマス・アクィナスは伝統的神学の脅威と考えられていたアリストテレスの哲
学を神学に導入し、それを用いて神学と融合させ壮大な神学体系を建て揚げたの
です。アリストテレスの主張する自然的理性のみによる認識を人間の置かれてい
る有限性とみて、自然的理性ではたしかに三位一体や贖罪といった信仰的真理を
認 識 す る こ と は で き な い が 、 有 限 な 存 在 が 無 限 の 存 在 を 「 存 在 の 類 比 ( analogia
entis)」 に よ っ て 類 推 す る こ と は 可 能 だ と し て 、 ア リ ス ト テ レ ス 哲 学 と 伝 統 的 神
学との融合を試みたのです。
「神学大全」は以下のような三部構成からなっています。
第一部 神と神学(聖なる教え)について
聖なる教え、唯一の神、神の本質、神の存在証明、至福直観、
三位一体、被造物と創造
第二部 倫理と人間について
人間の性質、人間のはたらき、行為、対神徳と枢要徳、
罪と恩恵、修道者と修道生活
第三部 キリストについて
受肉されたみ言葉であるキリスト、キリストの生涯、
七つの秘跡、終末と審判
トマスは最後の秘蹟に関する途中で執筆を止めたため、秘蹟と終末に関する項
は弟子たちによって完成されました。個々の部分の構成は、基本的には次のよう
になっています。まず、冒頭に問題(テーゼ)が提示され、次に質問に対する聖
書や過去の大学者の引用による異論があげられます。つづいて異論に反対する見
方などの討論がなされ、最後にそれらを踏まえた解答が示されるのです。解答は
異論あるいは対論をそのまま採用したものではなく、全体を統合した解答になっ
ていることが多いのです。つまりスコラ学の中心が単純な回答を与えることでは
なく、幅広い討論におかれていることを示しています。
【 課 題 】 中 世 カ ト リ ッ ク の 在 り 方 に つ い て の 評 価 を 書 く 。( 自 分 な り の 評 価 )
次
回
8月12日
「宗教改革」
-6-