アルビン・エーザー 編訳

アルビン・エーザー
_一_
一、gh
医事刑法から
統合的医事法へ
編訳
浅田和茂
上田健二
Albin Eser
Von Medizinstrafrecht zu integrativem
Medizinrecht
成文堂
序文
序文
一冊の本を公刊するということは、つねに喜びのひとつの理由である。こ
のことが母国語以外の外国語でなされうるとすれば、これはいっそう大きな
喜びである。それゆえに、私は、すでにおよそ25年前に『先端医療と刑法』
(以下「初版」という)という題名のもとに一冊の論文集が日本でーそしてこ
れによって同時に、私がすでに多年にわたり多様な学間上の共同作業を通し
て個人的に友好な諸々の関係を通して密接に結びつけられていると感じてい
る国において―、干IJ行されたことを誇りに思っていた。いまや、その初版
が依然として非常に重要なものと受け取られ、その結果、新たな作品で補充
された新版の出版へと促され、ここに上梓されることになった。それはいっ
そう大きな喜びと特別な感謝の理由となる。
この感謝は、何よりもまず同僚の上田健二氏と浅田和茂氏に向けられなけ
ればならない。両人はすでに初版で決定的な仕方で寄与していた。そしてこ
の新版も何はさておきこの2 人の同僚の発意と揺るぎのないその実行に負っ
ている。それゆえに、もし上田氏がこの新版の発刊を体験することができて
いたとすれば、私には非常に喜ばしいことであったといえよう。しかし、上
田氏はその直前に亡くなってしまい、それはもはや不可能である。それだけ
にますます、私が2008年度夏学期に、京都の立命館大学で客員教授として開
講した連続セミナー「医療と刑法」に、彼が重い病気にもかかわらず参加さ
れたということは、長く私の記憶に残ることであろう。このセミナーを共同
企画し、さらに日本語への通訳を引き受けられたことについては、私の友人
浅田氏にとくに感謝している。
この新版へのきっかけとなったのも、その連続セミナーである。そこで私
は、幸いにも部分的に初版に収められた諸論文を振り返ることができた。し
かし、おそらくいっそう重要であったのは、初版にはいまだ含まれていなか
った私の最近の刊行物であった。いまやこれらの最近の刊行物にもより広い
日本の読者層が接近することができるようにするために、この新版は成り立
っている。
ll
すでにこの新版の目次と初版の目次との比較から読み取れるように、初版
からは単に「医学と刑法」ならびに「生命の保護」についての2 つの基本的
な項目が引き継がれたにすぎない。初版の残りのすべての論稿はより新しい
刊行物に置き換えられた。そのさい、たとえば治療行為について、または臨
死介助についてのように、部分的に初版と同じテーマが問題になっている場
合であっても、新たに追加された諸論稿のなかでは、最近の展開がより大き
く注目されている。
これらの論稿では、すでに初版のための序文で言及されていたことが確証
されており、また部分的にいっそう補強されている。以前の時期の患者はそ
の医師を無条件に信頼することができたのに対して、このような盲目的な信
頼が漸次消え去っていった結果として、医師-患者-関係のいよいよ激しさを
増す法化が席を占めるに至っている。それゆえに、とくに治療行為について
の比較法上の論稿から認めることができるように、医師による説明と患者の
同意にますます大きな役割が帰せられている。現代の生殖医学と遺伝子技術
の、すでに初版のなかで言及されている諸問題がますます大きな余地を占め
ている。それゆえ、これについては、私の長年にわたる共同研究者であるハ
ンス=ゲオルク・コッホとともに起草した、比較法的に展望した生命医学上
の進歩の法的諸問題についての論稿が新たに採り入れられて いる。臓器移植
のますます重要になりつつある問題にも私自身の一論稿が割かれている。現
代の生命医学と比較して妊娠中絶はひとつの太古以来の問題を表している。
けれども、この問題性をどのように克服すべきかについては、今日において
は多くの国で全く異なって見られている。それゆえに、ドイツにおける新し
い妊娠中絶法をめぐる憲法上の議論についての小論稿も、ハンス=ゲオル
ク・コッホとともに起草された妊娠中絶に関する比較法上の概観も、新たに
採り入れられている。そこで問題になっているのは、妊娠中絶についてのマ
ックス・プランク研究所の包括的な比較法的-経験的な研究プロジエク「の
重要な諸帰結である。
同様に、すでに初版の序文のなかで示唆されているように、医事法の領域
における諸規制は、他の法領域においてそうであるよりもはるかに多く、あ
る国の宗教的-世界観的な諸々の確信と伝統に依存している。それゆえにと
序文
111
りわけ、妊娠中絶の問題、または臨死介助と自殺の許容性の問題のような強
く道徳に根差している諸問題は、法倫理的にきわめて争いのあるものとなっ
ているのである。ここで一面的な原理主義と原理なき気債との間に通行可能
な一本の道をどのようにして見出すことができるのかも、同様に新たに採り
入れられた論稿の対象である。
すでに初版の序文のなかで「独自の」の法領域としての医事法について話
題にする ことはできたが、それでもなおこのような医事法への展開は、さら
に一歩の促進を必要としている。これまでのところ医事法は、たいていの場
合はまだ、様々な法領域の専門分野別の視角から見た法と医学との限界問題
のひとつの集積以上のものではない。しかし、差し迫って必要であろうこと
は、このように様々な法領域をひとつの真に独立した医事法に統合すること
である。さらに克服することを必要としているこのような将来的課題のため
に、「医事法のパースペクティブ」についての新しい論稿が採り入れられて
し“る。
この新しい版のための表題、すなわち『医事刑法から統合的医事法へ』も
また、このような将来的課題に考慮を払おうと試みたものである。
私は、このような将来的展望についてこの新版がひとつの寄与を果たしう
ることを大いに願っている。
このことを可能にしたこと、これについては、私のドイツ語の論稿を日本
語に翻訳すると いう献身的な努力なしには不可能であった。第4 章「人体実
験」については甲斐氏、第9 章「ドイツ新臓器移植法」については井田氏お
よび長井氏、第11章「医事(刑)法のパースペクティブ」については甲斐氏
および福山氏、他の諸論文および資料についてはすべて上田氏および浅田氏
が共訳された。これらすべての方々に特に感謝しなければならない。とりわ
け初版に続き本書をも公刊する心積もりに達して下さった出版社成文堂に対
して、ここに私の全く特別な感謝の意を表する。
フライブルク
2010 年7月
アルビン・ェーザー
先端医療と刑法・序文
「医学と刑法」というテーマに属する私のドイツ語の諸論文を、一冊の日
本語版として刊行することーこれは多くの理由から興味深く、またすばら
しいことである。
このことはすでに―法と医学との限界領域ほど目覚しい発展が認められ
る領域はほとんどないという理由からも、言うことができる。たしかに、医
学というものが存在して以来、すでに患者と医師との間の紛争もまたつねに
存在してきた。とはいえ、以前は、患者はどこまでも盲目的に彼の医師に信
頼を置くのがつねであったし、また医療上の過誤はふつう避け難い運命とし
て甘受されるか、もしくはせいぜいのところ当の医師に信頼を置くことをや
めることで答えられていたのに対し、ここ2, 30年来においては、医師=患
者関係の法化( Verrechtlichung )が次第に進行していることを認めることが
できる。すなわち、患者は、はじめから説明を受けようとするのであり、彼
は医学上の侵襲を受けるかどうか、またどの程度までそれを受けるかについ
て、自分で決断できるようにしようとするのであり、さらに、医師が過誤を
犯した場合には、損害賠償を受けようとするのである。しかしそれで十分と
いうわけではない。医師が患者に対するその義務を実際にも良心的に履行す
ることを確かなものにするために、さらに刑法は諸制裁を用いて彼を威嚇し
ている。しかもそれは紙の上の理論的なことにとどまらず、―多くの医事
訴訟が示しているように―裁判実務においても行われているのである。医
師=患者関係のこうした法化の絶え間のない進行の結果として、すでにほと
んど見渡し難いほど多数の判例と文献―さらに部分的には法律上および職
業法上の諸規定―が作られてきている。そうこうするうちに、そこから
「医事法」が独自の法領域にまで発達したのであって、その領域ですべての
面で精通するには、その専門家でなければならないほどである。
医師=患者関係のこうした法的錯綜化の原因が求められるならば、たしか
に、そのある音各分は、社会=イデオロギー的な変化のなかに、とりわけ現代
人の強化された自律意識、およびそれに関連して階層構造からの解放を求め
先端医療と刑法・序文v
る努力に、見出すことができるであろう。しかし医学そのものもまた、人の
生命に対する操作的な介入の可能性が複雑さを増し拡大されることを通し
て、法的規制の必要性を呼び起こしたと言ってよい。このことは当然のこと
ながら、生殖医学および遺伝子工学の領域において見られるように、現代の
生命医学上の諸処置についてとくに明白である。普段なら不妊の両親に力を
貸して子供を得させるために、あるいは遺伝病を遮断するために、これらの
方法がどれほど祝福に満ちたものであろうとも、それは伝統的な法制度では
適切に対応することができないような危険とも結びついているのである。し
かしまた、すでに長期にわたって医師の任務と活動に属してきた、いわば
「古典的な」領域においても、部分的にはまさに劇的な変化を看取すること
ができる。すなわち、以前であれば医師は、可能なかぎり長い生命維持を求
める太古以来の努力に対し、きわめて限定された手段をもってしか成果を挙
げることができなかったが、この間に発達してきた現代の蘇生技術と集中治
療は、患者の早すぎる生命短縮に対する保護だけでなく、場合によっては
「過剰な」生命延引に対しても保護を必要とするほどに、「自然の死」を超え
る生命維持の可能性を更新してきたのである。
こうした挑戦を法のために究明し、可能な解決策を求めることは、すでに
自国の秩序の内部だけでも十分に刺激的である。しかし、これらの問題を国
境を超えて議論することもまた、いっそう興味深いことであり、また少なか
らず重要であると思われる。それというのも、一方では、たしかに個人の行
動と国家および社会の反作用とがこれほど宗教的=世界観的な確信、文化的
な伝統および社会的な慣習によって強く特徴づけられている生活領域はほと
んどないのであるが、他方で、そこでは、何と言ってもすべての人間と全人
類を揺るがす問題が扱われているからである。このことだけで、普遍的な統
一的解決と基準とを目指す根拠になるとは言えないにしても、生命および生
命保護の根本問題について国境を超えて互いに学び合うということは、ます
ます一体化しつつある世界にあっては努力に値すると思われるのである。
このことが、まさに日本のような東アジアの国と西洋の伝統との関係にお
いて自己意識を形成するに当たって、どれほど重要であり得るのかは、とり
わけ1984年3 月の箱根会議で明らかになった。それは、当時の日本の総理大
臣中曽根氏の招きにより、いわゆる「サミッ「(先進国首脳会議)」に属して
いる国々の科学者たちが「生命科学と人類」について議論したものである。
それというのも、北アメリカやョーロッパからの参加者たちの報告は、より
個人主義的=人間中心的に「人間の尊厳」に準拠しており、そのさい、自然
の支配者としての人間が前面に現れていたのに対し、日本の側からは、全体
としての「人類の尊厳」がいっそう強く主張され、 そこでは人間はもっぱら
自然の融和部分として理解されていたからである。同様に教訓的であったの
は、カナダの側から準備された 1987 年のオッタワの「生命倫理をめぐる国際
サミッ「」の席上で、人体実験のための国際的基準を獲得する努力にさい
し、日本の側からは、自己決定権の絶対化に警告が発せられ、人々への心遣
いに注意が向けられたことである。たとえこの種の根本問題において、自己
の立場をいきなり他の立場のために放棄することは非現実的であるように見
えようとも、考えて見る値打ちがあり、かつ、おそらくは解決のためのひと
つの選択肢を提供し得るような、他の見解も存在していることを自覚すると
いうことは、何と言っても非常に重要なことである。
このような意味において、私は、私の医事法上の仕事のいくつかが日本語
版として刊行されることにより、私の国のーいわんや私自身の―意見を
押し付けるのではなく、十分に控え目でなければならないとしても、ドイツ
連邦共和国の法において人々が医学の刑法上の諸問題をどのように克服しよ
うとしているのかについて報告するということで、相互理解の促進のために
1つの寄与を果たしたいのである。そのさい、日本法とドイツ法とは部分的
に逆方向に向かっていることが様々な箇所で指摘されるであろう。たとえ
ば、自殺および自殺関与の場合、ドイツ法はーキリスト教の長い伝統にも
かかわらず―原則としてそれを処罰しないことを出発点にしているのに対
し、日本では―長い切腹の伝統があるにもかかわらず―自殺への関与は
可罰的である。臨死介助をめぐるその他の問題でも、ドイツ法は個人の自己
決定権を日本法よりも重視しているように思われる。これに対して妊娠中絶
の場合では―法的な出発点が異なっているにもかかわらず―、実務は両
国ともに広い範囲にわたって処罰しない結果に至っていると言ってよい。試
験管受精と人間遺伝学の将来的な刑法上の取り扱いについて言えば―日本
先端医療と刑法・序文
vii
では、おそらくは科学と研究の自由への早計な介入を回避するためであろう
と思われるが、いまだ控え目な態度を維持しているように見受けられるのに
対し、ドイツ連邦共和国では議論はすでに初めての法律諸草案にまで到達し
ている。ともあれ、最終的にどのような方向が選択されようとも、自分の国
では禁止されている実験を実施するために、より規制の緩い国々へと鞍替え
するほかはないと研究者に思わせないようにするためには、いずれにせよ研
究の領域については、可能なかぎり同じ国際的な基準を獲得するように努め
られるべき『であろう。
この日本語版の実現に何らかの仕方で寄与されたすべての方々にお礼を申
し上げたい。この出版を発意し、深い造詣をもって私の著作物のなかから本
書の諸論文を選び出し、さらにそれらを付録に採用されている諸資料と組み
合わせたうえ、翻訳作業の重要な部分をも仕上げられた上田健二教授(同志
社大学)にまずお礼を申し上げたい。その他の翻訳は、親切にも浅田和茂教
授(大阪市立大学)および甲斐克則助教授(海上保安大学校)ならびに松宮孝明
専任講師(南山大学)が引き受けられた。とりわけまた、周知のように外国
文献への寛大さですでに高い名声を博してきた出版社成文堂には、本書の出
版を引き受けられたことに対し、深く感謝しなければならない。
最後に、日本の同僚たちの医事法上の著作物もまた、可能なかぎり早急に
ドイツ語に翻訳され、ョーロッパの読者層が容易に接近することができるよ
うになるよう、希望を表明して結びとしたい。
フライブルク、
1988
年2月
アルビン・ェーザー
目次
序文
先端医療と刑法・序文
第1章医学と刑法
一一保護利益に向けられた問題の概観―・・・・・・・・・・・・・・・・・・
……1
I 問題の範囲=医療行為における刑法上の保護利益・・・・・・・・・・・・・・・・・・
……1
II 健康および身体の完全性の保護・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
…...3
1 医療行為一般の刑法的理解のために4
2 医術の準則の侵害とし ての医術および治療の過誤9
3 素人療法12
4 実験的療法13
5 治療的性格が疑わい“侵襲17
III
自己決定権の保護と尊重・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
……17
1 医師の専断に対する患者の保護17
2 説明による自己決定権の保障20
3 患者の意思の尊重とその限界24
Iv 死との限界領域における生命の保護・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
…27
1 死の時期の問題の法益内容28
2 治療中断における価値的側面33
3 自殺意思の尊重36
V 出生前の生命および健康の保護・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
……38
1 保護の欠訣性38
2 出生前の生命と他の利益との衡量41
3 医師の特殊な答責性42
VI 医師と患者との間の信頼性の保護・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1 秘密保持義務と情報の交換43
2 訴訟上の証言拒否権46
….43
目次
Vll
lx
……47
刑法の指導機能および強化機能・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
第2章生命の保護
―法制史的比較から見た現在のドイツ法―・・・・・・・・・ ……49
……51
1 カロリナに至るまでの生命の刑法上の保護・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
H
現在の法とその展開・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・……即
m結語・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・……即
第3章比較法的に展望した治療行為の規制について・・・ ……71
1
出発状況・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
……71
……76
H 治療行為のための特別な構成要件・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1 治療行為のための特別な犯罪構成要件を有する法秩序76
2 構成要件上の諸々の除外を有しない法秩序78
m 専断的治療行為に対する保護・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
……80
W 暇庇ある治療に対する保護要求・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
……83
V
……85
刑法上の答責性の一般的な諸限定・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1 構成要件の次元で85
2 主観的要件に関して87
3 刑事訴追の次元で88
Vl 専門分野別の特別な諸規定・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
……89
Vll
……90
終結的考察・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
第4章人体実験―その複雑性と適法性について―・・・・・・・・・ ……92
1 研究者の倫理的および法的責任・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
……4
H 人体実験およびその法的枠組の複雑性・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・
……98
m
人体実験の適法性・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
……107
W
手続的保障・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
……116
第5 章ある法律家から見た臨死介助の可能性と限界・・・ ……9
1 生きることと死にゆくこととの限界領域における刑法の諸課題
1 早期の生命短縮に対する保護
2 不適切な延命に対する保護
119
120
…19
x
II 最も重要な基本的諸原理および事例の形態化・・・・・.’・・・・・・・・・・・・・・・
1 他殺の禁止
121
2 自殺の自由
121
3 「要求に基く殺人」の可罰性
4 たんなる自殺関与の不処罰
122
122
5 承諾を得て死にゆくにまかせること
6 一方的な治療中断
123
124
7 医師への委任の目標設定にまで立ち帰って考える
8 人間の尊厳の確保
128
9
経費の不均衡性?
129
10
「技術的な処罰の中断」
11 積極的な殺害
127
130
130
12 生命短縮の危険を伴う苦痛緩和
13 目的的な殺人
131
131
直接的積極的安楽死の合法イヒについての賛否・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
III
1 積極的安楽死に賛同する諸論拠
2
……121
……132
132
積極的安楽死の合法化に対する異論
134
Iv 臨死介助のための新しい法律草案・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
……138
第6章新たな道へ向けての出発、道半ばでの停止
一一連邦憲法裁判所 1993 年5 月28日妊娠中絶判決の
最初の評価―・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
……142
I 新たな見方・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
……142
II欠陥・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
……144
III
……150
「立法者に」残された余地・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
第7章国際的に比較した妊娠中絶
所見一認識一提案・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
……153
序文・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ……153
目標設定(コ、》ホ)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
…154
II 比較法上の諸々の所見と傾向(ェーザー)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
……155
I
目次
1 規制の多様性
xi
155
2 評価依存性157
3 モデルを形成する諸要素
158
4 「医療化」、「手続化」、「社会化」
5 基本モデル
III
162
163
規制モデルと妊娠中絶の頻度(コッホ)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1 疑わしい連関
166
2 諸適応事由の、とくに医学的適応事由の多様性
3 影響諸要素
170
諸々の帰結
172
4
……166
169
Iv 法政策上の諸認識―ひとつの規制提案(ェーザー)・・・・・・・・・ ……173
1 「第3 者判断」から「答責意識的対話」へ174
2 適法な妊娠中絶の全般的な上限としての「生存能力」
174
3 窮迫状態に方向づけられて相談を受けた後の妊娠中絶の適法性
附:ひとつの規制提案・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1 原則と指針
177
……178
178
2 妊娠中絶を規制するための法律草案180
第8章比較的視,点から見た生命医学上の進歩の法的諸
問題ードイ、ソ月玉保護法を巡る改正論議のために ―…186
I序文・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…"186
II 現在のドイツ」不保護法の基本的な様相・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ……188
III ドイツ法を他のョーロッパの諸規制 と比較した場合における
個別的な問題領野・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1 婚姻外受精
……192
192
2 試験管受精およびこれに類する処理
3 卵子提供と代理母であること
4 月引こ関する研究の新種の諸形態
195
196
198
5 着床前診断(PID) 207
Iv 締め括りとしての比較法上の考察・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ……211
第9 章ドイツの新臓器移植法・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
……4
1
はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
……214
11
死および死の判定・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
……215
1 見解の対立
215
本稿の立場
217
2
3 新臓器移植法における死の観念
219
m 死者からの臓器摘出における意思の役割・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1 「反対表示モデル」「=反対意思表示方式)
221
2 「承諾表示モデル」「=承諾意思表示方式」
222
3 「通知モデル」
224
W 新法における臓器摘出の適法化要件・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1 総則規定
V
……220
……225
225
2
提供者が死者である場合の臓器摘出の要件
3
提供者が生きた人であるときの臓器摘出の要件
226
228
ドナーとレシピエン「の選択・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
……30
1 ドナーの選択231
2 レシピエントの選択
232
3 実務における臓器の分配
Vl
233
臓器売買・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
……235
Vll展望・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ……237
第10章中間の道を求めて―原理主義と気儒との間 ―……9
個人的な序言・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
……239
H 結果に方向づけられた立場決定―論争的な想定・・・・・・・・・・・・・・・
……240
m いわゆる生命保護の「絶対性」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
……46
W 人間の尊厳のインフレ的平価切下げ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
……250
V 法解釈論の限界・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
……254
1
Vl 一般的-実践的な討議一一倫理上の窮極的な根拠づけの不可能性
Vll
締め括りの事例:妊娠中絶における「中間の道」・・・・・・・・・・・・・・・・・・
…256
……259
目次
VIII
結語・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
xlii
……263
第11章医事(刑)法のパースペクティブ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ …265
I
課題設定と目的設定・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
……265
II
医事法の展開の回顧・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
……266
III
セク「的医事法から統合的医事法ヘ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
……272
1 専門的に:円心からの医事法的鳥鰍
人的に:領域内的な医事法学者
275
3 方法論的に:固有の医事法理論
277
2
274
領域を超越して:境界を跨いだ学間の導入
4
5 制度的に:アカデミックな確立
278
278
Iv 医事刑法の新たな問題領域・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1 伝統的な犯罪構成要件の範囲において
新規の構成要件
2
280
283
3 基本的スタンスの変化
V
284
刑法の退却傾向・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1 民事司法による刑事司法の排除
刑法の意識的自制
2
3 手続による予防
……284
285
286
288
VI 刑法の指導的機能と強化機能・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
資料
対案:臨死介添( AE-Sterbebegleitung) 394
296
ドイ、ソ連邦憲法裁判所第2 次妊娠中絶判決の判決要旨
305
ツ新妊娠中絶法
315
、ソ』玉保護法
っJ
22
、ソ臓器移植法
ーー
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J
ィ任ニ
イイイイ
ニュールンベルク綱領、ヘルシンキ宣言
、ソ幹細胞法
……279
302
……289
患者の生前の意思表示(患者遺言)に関するドイツの新規定
立命館大学連続セミナー「医療と刑法」レジュメ集
著者略歴
352
編訳者あとがき
355
332
330
初出「初訳」一覧xv
初出「初訳」一覧
第1章医学と刑法一一保護利益に向けられた問題の概観―【初版
1-53 頁】: freidok
3814 (freidok につき資料9 参照)
Albin Eser, Medizin und Strafrecht:Eine schutzgutorientierte Problemtibersicht, in:
ZStW 97 (1985), Heft 1, S. 1ff. (初出:上田健二訳・同志社法学191号( 1985 年)81頁以下)
第2章生命の保護―法制史的比較から見た現在のドイツ法―【初版
55-78 頁】
Albin Eser, Schutz des Lebens-Das gegenwartige deutsche Recht in seinem rechtshistorischen Vergleich, in:A. Eser, A. Schneider, A. Urlich, J. G. Ziegler (Hrsg.),Schutz
des Lebens, 1985, Katholische Akademie Schwerte, 5. 9 ff.: freidok 3739
第3章比較法的に展望した治療行為の規制について
Albin Eser, Zur Regelung der Heilbehandlung in rechtsvergleichender Perspektive, in:
T. Weigend (Hrsg.),Festschrift fur Hans Hirsch zum 70. Geburtstag am 11, April
1999, de Gruyter, 1999, 5, 465-483:freidok. 3736
第4章人体実験―その複雑性と適法性について―
Albin Eser, Das Humanexpriment. Zur Komplexitat und Legitimitat, in:Gedachtnis
-schrift fUr Horst Schr6der, Hrsg. von Walter Stree, Thodor Lenckenr, Peter Clammer, Albn Eser, 1989, 5. 191-215 (初出:甲斐克則訳・広島法学21巻2号( 1997 年) 239
頁以下、21巻3号( 1998 年)209頁以下=甲斐克則『被験者保護と刑法』(成文堂、 2005
年)165頁以下) :freidok 3597
第5 章ある法律家から見た臨死介助の可能性と限界
Albin Eser, Moglichkeiten und Grenzen der Sterbehilfe aus Sicht eines Juristen, in:
Walter Jens (Hrsg.),Emn Pladoyer ftir Selbstverantwortung, Piper, 1995, 5. 151-182.:
freidok 3920
第6章新たな道へ向けての出発、道半ばでの停止―連邦憲法裁判所 1993 年5月28日妊
娠中絶判決の最初の評価―
Albin Eser, Au 釦 ruch zu neuem Weg-Halt auf halber Strecke. Erste Einschatzungen
zum Schwangerschaftsabbruch-Urteil des BVerfG. vom 28. 5. 1993 (初出:浅田和茂=
上田健二訳・同志社法学234号( 1994 年)巧7頁以下【同志社大学における講演】 ): freidok
3672
第7章国際的に比較した妊娠中絶―所見、認識、提案―
Albin Eser, Hans-Georg Koch, Schwangerschaftsabbruch im internationalen Vergleich: Befunde-Einsichten-Vorschlage, 2000, MPI-Forschung akutuell.
(初出:上田
健二訳・同志社法学287号( 2002 年)275頁以下)
(甲斐克則=松尾智子訳・ジュリスト 1220 号( 2002 年)68頁以下、 1221 号(同年)134頁以
下参照)
XVI
第8章比較的視,点から見た生命医学上の進歩の法的諸問題ードイツ月不保護法を巡る改
正論議のために―
Albin Eser, Rechtsproblerne biornedizinisher Fortschritte in vergleichender Perspektive. Zur Ref orrndiskussion urn das deutsche Ernbryonenschutzgesetz, in:Gedachtnisschrift fUr Roif Keller. Hrsg. von den Strafrechtsprofessoren der TUbinger Juristenfakult 谷 t und vorn Justizrninisteriurn Baden-WUrttenberg, 2003, S. 15-36.: freidok 3868
第9 章ドイツの新臓器移植法
(原題: Die neue Regelung der Organtransplantation in Deutschland. 1998 年3 月19日に
上智大学で行われた講演。長井園・井田良共訳・ジュリス「 1138 号( 1998 年)87頁以下、
1140 号(同年)125頁以下))
第10章中間の道を求めて―原理主義と気債との間―
Arbin Eser, Auf der Suche nach dern rnittelen Weg:Zwischen Fundarnentarismus und
Beliebigkeit, in:Unterwegs rnit Visionen. Festechrift fUr Rita SUssrnuth. Hrsg. von M.
Langer, A. L ひ schet, Verlag Herder Freiburg irn Bleisgau, 2003. S. 117-136. (初出:上
田健二訳・同志社法学299号( 2004 年)123頁以下) :freidok 3672
第11章医事(刑)法の展望
Albin Eser, Perspektiven des Medizin (straf) renchts, in:Wolfgang Frisch(Hrsg.),
Gegenwartsfragen des Medizinstrafrechts:portugiesisch-deutsches Syrnposium zu
Ehren von Albin Eser in Coinbra, Nornos 2006, S. 9-31. (初出:甲斐克則=福山好典訳・
甲斐克則編『医事法講座第1巻ポストゲノム社会と医事法』(信山社、 2009 年)31頁以
下) :freidok 3723
第1章医学と刑法1
第1章医学と刑法
ー一ー保護利益に向けられた問題の概観―
医学と刑法―このテーマは刑法上の文献において長い伝統のうえに成り
立っている(
(1)。医療行為の集中的な問題化がはじめて開始された前世紀の変
わり目頃にはもちろん、問題を全面的に展開するのに、おそらくはひとつの
雑誌論文で十分でありえたが、今日では―本稿がここで「ZStW 1985, 97
Heft 1 〕開始するような―浩翰な特集号でさえ、なお問題の一断面を提示
しうるにすぎない。その理由は、ここ数10年のまさに息を呑むばかりの医学
の発達にある、というばかりではない。同様に進展してきた刑法理論の細分
化と、今日では医事法上のテーマとして選別されて扱われている専門化の促
進ということにも、少なからざる理由がある。
I 問題の範囲=医療行為における刑法上の保護利益
最近のほとんど見渡し難いほどの文献に直面すれば、ひとつの概観的な論
文で完全な理解を得ることは可能ではなく、また、そもそもそのように努め
るべきでもない。他方、医事刑法上の諸問題のどちらかといえば窓意的なリ
ストアッフ0を避けるためには、ある種の重点形成は不可欠である。それに
は、たとえば法史に近づけて重要な発展段階を浮き彫りにする、ということ
が考えられよう(
(2)。また、より刑法理論的に、様々な細分化とニュアンスづ
けにより医療行為の意味を追求することもできよう(
(3)。ここでは、これらの
(1)これについてはすでに、 Heimberger, Strafrecht und Medizin, 1899, von Bar, Zur Frage
der strafrechtlichen Verantwortlichkeit des Arztes, GS 60 (1902),S. 81ff.; Behr,Medicin
und Strafrecht, GS 62 (1903),S. 400 ff.; Kahi, Der Arzt im Strafrecht, ZStW 29 (1909),S.
351 ff.; Eb. Schmidt, Der Arzt im Strafrecht, 1939;Bockelmann, Strafrecht des Arztes,
1968;ders., Der a rztliche Heileingriff in Beitragen der ZStW im ersten Jahrhundert ihres
Bestehens, ZStW 93 (1981),S. 105 ff.,参照。
(2) しかしこの種の回顧は、すでに科学書籍出版社Darmstadtで編集されているシリーズ
「研究の方途」のために企画されているから、ここでは省略してもよいように思われる。
2
代わりに、これまで一見渡すことができるかぎりでーいまだ踏み出され
ることのなかったもうひとつの道、すなわち医療行為と接して特殊刑法的制
裁に値すると思われる保護利益に関心を集中させる、という方法が選ばれる
べきである。このやり方が正当とされるのは、とりわけ次のような事情にも
よると言えよう。すなわち、いっさいの医療行為を傷害罪の構成要件に該当
すると見る―判例において支配的な―包括的な理解(')によって、背後
にある諸法益が、いずれにせよ法の素人にはもはや十分明確に認識されず、
その結果として、ある医師の義務―たとえば説明義務―も、医療の側か
らはより法技術的な犯罪体系論のたんなる帰結であると感じられるという事
情による。このように狭められた見方は、新種の事例形成の理解に当たっ
て、しばしば有害である。それゆえに、刑法のより実質的な保護機能をいっ
そう際立たせるためには、医療侵襲では一定の保護利益がどの程度まで(可
罰)構成要件的に保護され、またどのような条件のもとで、ある法益侵害が
構成要件に該当しているにもかかわらず、法秩序に一致するとされうるのか
ということが、とりわけ以下において問題とされなければならない。そのさ
い構成要件の面では法益関係が明らかであっても、正当化の問題でも―対
立するが優位に立ちうる―法的に保護された利益の確保が重要である。
そこでまず、H. 健康と身体の完全性の保護、W. 生命の保護、V. 出生
前の生命の保護を前面に立てなければならないことは、明白である。
111 . 構
成要件的には間接的にしか把握されない自己決定権の保護も明らかにされ、
とりわけ身体上の健康の保護とは分離されなければならない。さらには、
Vl. 秘密保護の増大した問題性にも考慮が払われるべきである。最後にな
お、 Vll. 刑法の指導的機能および安定化機能について若干の補充的な思想が
付け加えられる。
保護に方向づけられたこのような問題視点では、医学が刑法に関係するす
べての側面が把握されるわけではないことも、もちろん無視されてはなら
(3)しかし、これは大部分、 Bockelman% ,の概観的な論文 ZStW 93(1981),5. 105 ff .と一致
することから、これからも距離を置かなければならなかった。
(4) RGSt25,375 以来の判例がそうである。今日の意見の状況について詳しくは、 Eser,in:
Schグ% ke/Schr0'der,21,Aufl. 1982 , §223 Rdn. 27 ff.;H. f Hirsch,in:LK,10. Aufl. 1981,
Vorbem. 3 ff. vor§223.
第1章医学と刑法3
ず、いわんや過少に評価されてはならない。このことはとりわけ、医学が刑
法の(規制)対象ではなく、まさに反対に刑法に役立つ問題領域について言
うことができる。医学のこの「刑法の補助科学としての」役割は、とりわけ
刑事訴訟上の真実発見にとって軽視できない意義を有している。医学上の専
門鑑定がなければ多くの傷害、殺人、暴行事件の手続きを貫徹することがで
きないだけでなく、責任無能力または限定責任能力(ドイツ刑法第 20. 21 条)
の認定に関しても、刑事司法は医学なしで済ますことができない。同じこと
は、一定の刑事訴訟上の捜査手続についても言うことができるのであるが、
ここでは簡潔に、刑事訴訟法第81条、同条C、同条d、第87条を挙げるだけ
にしておく。医学と刑法との―対立よりも共通のパートナーとしての面に
向けられたーこの結びつきを追求することも、魅力的であり遣り甲斐もあ
ろうが、ここでは紙数の関係で割愛せざるをえない(
(5)
II 健康および身体の完全性の保護
これらの法益保護にとって中心となる構成要件は、ドイツ刑法第223条
(傷害罪)であり、第223条a から第226条までの様々な変形がこれに加わる。
このほかにもなお、―刑法第229条(毒物使用)のような―身体と生命の
一定の危険に対する保護に結局は役立っている構成要件があり、―升lj法典
以外で医療とも関係してくる若干の例を挙げれば―薬剤検査についての規
定( §§40-42 AMG) 、性病についての規定( §§9, 10 GeschlKrG )その他の伝染病
の治療についての規定( §30, 69 BSeuchG) もそうである。しかし、そこで扱
われているのは特殊な問題であり、したがって他の関連でこれに立ち戻る必
要のないかぎり、これらの規定は、通常の治療行為の場合にとって重要では
ない。救助不履行罪(ドイッ刑法第323条C)の構成要件もまた、間接的ながら
生命と身体の保護に役立ってはいる。しかし、そこで問題となっている救助
(5)これについてたとえば、 H. W. Schreiber/Rodegra, Die Entwicklung der Medizin im
Einflul3bereich juristischer Kategorien, in:H. W. Schreiber/Ju 昭( Hrsg.),Arzt und
Patient zwischen Therapie und Recht, 1981, S. 27, 41 If.; H. L. Schreiber/M観ler-Dethard,
Der medizinische Sachverstandige im Strafprozell, DAB1. 1977, 373 If. 参照。
4
義務は、何人に対しても生じうるものあり、また実質的な危険があるだけで
侵害されうるものである(
(6) ことからすると、この構成要件も「医学と刑法」
という視点からは中心的な意義を有していない。それゆえに、われわれは、
ここではドイツ刑法第223条に関心を集中させなければならない。
1 医療行為一般の刑法的理解のために
ここで「医療上の処置」というきわめて広い意味が意識的に問題とされる
のは、これによってすでに、実体刑法では―刑事訴訟法⑦とは異なって
―医師とその他の医療従事者とは区別されず、医師の侵襲が医師でない者
のそれとは異なって扱われるのでもないことが表現されているからである。
同様に、医師にはその職業に基づいている一種の特別法が存在するわけでは
なく、治療領域に従事 している者力ー努力の及ぶ範囲で足りるというよう
な意味で⑧―一般的処置規定の例外を要求できるわけでもないかぎり、
すべてが同じ関係にある⑨。このーいずれにせよ刑法にとって―治療行
為に従事する者のすべてが基本的に同じ地位にあるということは、しかし、
他面で「医師」という用語を、これらの者すべてを含む類語として用いるこ
とを許す。それというのも、以下で「医師」の処置が問題となる場合、それ
は医師を中心に置いた医学上の視点からではなく、医学上の「治療行為者」
または医療=看護領域におけるその他の従事者の集団全体のために、一般に
採用されている概念が存在していないことによるのだからである。したがっ
て、別に断りのないかぎり、以下の論述は医療に従事する他の職業集団にも
当てはまる。
医師が一般刑法から免れていないにもかかわらず、治療行為上の諸処置が
(6)
Dreher/T: で冗 die, 41. Aufi. 1983,§ 323c Rdn. 3 .さらにまた、 Cramer, in: Sch 伽 ke/
Sch 元)
(der,§ 323c Rdn. 5. 参照。
(7) ここでは、医師の証言拒否の場合( 553 Abs. 1 Nr. 3, StPO) と―結論的に同視される
「補助者」 (553a StPO )のそれとでは異なっている。これについては、後述 VI. 2 参照。
(8) たとえば、Va冗 Liszt. Lehrbuch des deutschen Strafrechts 8. Aufi. 1897, S. 150; Kahi,
(注1);さらに今日では、 Gailwas, Zur Legitimation a rztlichen Handeins, NJW 1976, 1134,
f.
(9)これについてはすでに、 RGSt. 25, 375, 379 ;さらに、 Bockeimann, Strafrecht des Arztes
(注 1)S. 50 f. ,参照。
第1章医学と刑法5
そもそも犯罪構成要件によって捕捉されうるということが直ちに自明である
わけではない。医師は、まさに刑法も目標としていること、すなわち患者の
健康と生命をはり大きな)損害から保持することを行っているのではない
か。したがって、もっぱらこの保持意思に注目するかぎり、刑法と医学とは
完全に一致するであろう。それゆえ、両者に衝突が生じうるのは、せいぜい
のところ、医師が健康の改善をではなく、悪化を予知したような場合であろ
うが、―この場合はしかし、もはや「医師」としての行為は問題となりえ
ないのであるから、刑法と医学との矛盾のない同方向性は再び確保される。
医師の行為がそもそも刑法の対象となりうると見ることを医師に理解し難く
させているのは、おそらくはまさにこのような思考範型であろう(10)。より
よき理解のための鍵は、おそらく、刑法の保護利益について、健康(の維持
または回復) を目指す医師の往々にして狭い視野で求められるものよりもい
っそう明確なものを鮮明にするということにあろう。そのための中枢的な構
成要件である刑法第223条では健康保護だけではなく、身体の完全性の保護
も重要だからである(
(11) 。また、これはこれで本人の保持意思に依存してい
ることから、その自己決定の利益もともに役割を演じているのである。
相互に関連はするが区別は可能でありまた必要でもある、法益側面のこの
多重性(法益の細部に至るまでそうではないにせよ)のために、医師の行為ももち
ろん、刑法上の保護目的と容易に衝突することがありうる。一定の法益が侵
害された場合、医師の行為は、つねに刑法的に重要になりうることから出発
すると、医学と刑法との衝突が考えられるのは、健康悪化を通して患者の身
体の健康が侵害され、これによって刑法の目標も医学の目標もともに誤るこ
とになった場合にかぎらず、一一健康を悪化しなくとも、さらには健康を改
善したときでさえ―身体の完全性に侵襲が加えられるか、もしくは患者の
自己決定権が無視された場合にも、両者の衝突というものが考えられるから
(10)その意味でたとえば、 Mikorey によれば、医師の手術を「外部から人為的に病的組織体
に対して加えられる暴力的な侵襲として把握されてはならず、あらゆる生命領域を通して広く
行き亘っている自然処理による諸調整の極度の増強である」とみなすべきである( Kern/
Laufs, Die a rztliche Aufkrarungspflicht, 1983, S. 4 からの引用。
(11)刑法上の文献でも必ずしも十分に明瞭に重視されてはいないこの差違は、とくに Hirsch,
in: LK, Vorbem. 1 vor § 223 によって強調されている。
6
である。いずれにせよ、―判例(12)とともにーどのような法益侵害も、
それ自体ですでに犯罪構成要件に該当すると見るのは、その首尾一貫した帰
結である。このような見方は、しかし、すでに2つの理由からして疑間であ
る。第1 に、これよって法益関係が一面的に絶対化され、この絶対化は―
健康、身体の完全性および自己決定という形をとったー一保護目的の3 重性
によってさらに高められるからである。それゆえ、患者を中心に置いた保護
側面を超えて、(とりわけ医術の準則に従った行為というような)医師に関係づけら
れた要素も視野に収めなければ、医師の行為を適切に把握することもできな
いのである(13)。
もともと患者を中心に置いた刑法の保護機能を一方とし、医師の健康観に
本来的に根差す医学を他方とした、両者の、部分的には一致するが部分的に
相反しもする、諸利益の均衡をどのように保たせるかには、評価というもの
を必要としているのであるが、それがまた、医師の行為の構成要件的理解
が、医学者と法律家とでは異なって判断されるだけでなく、法律家の内部で
もーとくに判例と法学説との間で―評価の差違が存在しうることの証明
になりうるであろう(1')。このことが医師の行為の判断にどのように影響す
る(しうる)のかについて、ここでは完全に描写することはできず、若干の
モデルを提示することしかできない( 15)o
(a)
刑法にとっては、 健康を中心に置いた医学の視点の意味において、
もっぱら患者の「身体上の健康」が重要なのであれば、傷害罪の構成要件
は、もともと、医療行為が身体の健康の侵害を招いたときにのみ実現されう
ることになるであろう。それというのも、健康を促進した侵襲では傷害とい
う「結果無価値」が欠如するであろうし、しかもその場合、医師が健康の改
善(または健康の悪化の阻止)を医術の準則を尊重して達成したのか、それとも
(12)注4 参照。
(13)ここで、この利益考量はすでに構成要件の段階で問題となるのか、それとも正当化の段階
ではじめて問題になるのかは、たしかに犯罪論的には重要であるが、当面の脈略ではこの問題
を前面に押し出すことは必要でない(Arzt/Weber,Strafrecht Bes. Teil,Delikte gegen die
Person,LHI,ZAufl. 1981,5. 118f. )。
(14)たとえば、 Bockelmaルn,ZStW 93 (1981),5. 107 ff. によるhal顧を参照。
(15)意見の状況について詳しくは、 Hl'rsch,in:LK,Vorbem. 3 ff.,vor §233;Eser,in:
Sch伽 ke/Schr0'der , §§223,Rdn. 28 ff.
第1章医学と刑法7
まさにこれを無視したにもかかわらず達成したのか、ないしは患者の同意を
得て行ったのか、それともこれを得ずに行ったのかは、顧慮されないからで
ある。身体上の健康のこうした絶対化は、しかし、医師を重大な結果危険に
さらす。これによれば、医師が医術の準則を細心に遵守した場合でも、望ま
れない健康悪化が傷害罪を構成することになるであろうからである。たんな
る薬剤の処方であれ、根本的に すべての医療処置には個別的に異なる患者の
体質を顧慮すれば全く排除することができない危険が伴うことを度外視する
にしても、このことは、とりわけ、成功の機会を健康悪化の危険を代償とし
て購うほかはない治療法が用いられる場合に、決定的な阻害要因として働く
であろう。それゆえ、「身体上の健康」という、原則として異論の余地のな
い保護側面でさえ、「医術の準則」という行為要素をともに顧慮することな
しには貫徹することができないのである。この準則が医師によって遵守され
ていたならば、一一健康悪化という「結果無価値」にもかかわらず一―傷害
という「行為無価値」が欠如することがありうるからである。したがって、
もっぱら「身体上の健康」が重要だとすれば、医師の行為の構成要件該当性
は、健康を促進するか、もしくはいずれでもない侵襲では、結論的に否認さ
れることになるであろうが、さらにこれを超え、健康悪化を招いた処置であ
っても、それが(α)医学的に適応し、(β)医術的に適正に実施され、
(γ)主観的に治療目的に従っているときは、いずれにせよ否認される。こ
のような視点からであれば、医学の見方と刑法のそれとは十分に調和するこ
とができるであろう。
(b)
とはいえーこれの代わりにまたはこれと並んで―「身体の完全
性」というものの保護が目標とされるや否や、構成要件の範囲は広げられ
る。それというのも、身体の「基体」の保持という意味におけるこの完全性
は、―とりわけ切断とか機能変更のように―医療侵襲が身体全体の健康
を保持または改善したときであっても侵害されうるからである。それゆえ
に、この法益側面のもとでは健康を促進する基体への侵襲でさえ、「結果無
価値」として構成要件的に捕捉されうる。「健康こそ最高の法( salus aegroti
supreme lex) 」であると信じて、健康というより高い利益を求めて日常的に
基体への侵襲を企てなければならない医師にとって、このことが理解し難い
のも無理はないであろう。そこで、法的にも構成要件該当性からの突破口を
見出そうとするならば、それを再び行為要素に訴えるほかはない。すなわ
ち、治療に適応性があり、かつそれが治療目的をもって医術的に適正に実施
されたときは、健康を悪化させた処置であっても「行為無価値」を欠如しう
るということが、基体を変更する侵襲にも当てはまると見られなければなら
ないのである。
(c)
もちろん、身体の基体への侵襲がすでに構成要件的に刑法の捕捉か
ら免れるとすることについては、このような行為の必要条件が同時にそれだ
けですでに十分条件でもあるのかという疑間が残る。この疑間は、とりわけ
第3 の法益側面である患者の自己決定権に依存している。
―医師たちとの議論でしばしば遭遇するようにーーーイ建康と身体の完全性
が、ある程度は純客観的に、患者の意思よりは状態に関係する利益と見られ
るかぎり、治療についての患者の承諾は、重要な意味をもたないように見え
る。すなわち、すでに健康を促進するか、もしくは少なくとも客観的適応性
に基づいて医術的に適正に実施された治療であるならば、それだけで、はじ
めから治療が本人の同意のもとに実施されたか否かにかかわりなく、傷害罪
の構成要件には捕捉されないことになるであろう。
しかし、このような見解は、「身体の完全性」の保護側面にはすでに主観
的な自己決定の要素が含まれているという理由から、支持し難いように,思わ
れる。それというのも、人間がその人格と形態との内外両面にわたる主人で
あるとされるのであれば、完全性の有効な保護は、本人の相応の承諾なしに
はその基体が侵襲されてはならない、ということを前提としているからであ
る。それゆえ、基体への本質的な侵襲または変更があった場合には、それが
なお健康を促進し、また医術的に適正に実施されたものであっても、それが
本人の承諾を得て実施された場合にのみ、構成要件的重要性が否認されうる
のである。
さらにもうひとつの、より包括的な疑間は、この自律性の側面が自己決定
権を健康と完全性の保護に付け加わる独自の法益と見ることを余儀なくさせ
るのかということである。判例が、―実行行為の結果と陛質を顧慮するこ
となくーいっさいの治療行為をそれ自体として傷害の構成要件に該当する
第1章医学と刑法9
とし、同意による正当化を根拠としてはじめて違法性が阻却されうるとする
とき、結局は、この見解に帰着する。そこではすでに、もはやーここで間
題になっている―一健康と身体の完全性の保護ではなく、自己決定権の保護
が重要であるとされていることから、これとかかわる全論点(後述の
III.
)の
なかでこの問題に立ち戻ることにする。
2 医術の準則の侵害としての医術および治療の過誤
健康という法益への医療的侵襲による侵害の古典的な場合としては、以前
にはそう呼ばれていた「医術過誤(
(Kunstfehler) 」が重要であり、今日では
―幾分中立的に―多くはそれを「治療過誤(
(Behandlungsfehler) 」と言い
表されている(16)。しかしながら、この種の侵害態様をこのように言い表す
ことに異論がないわけではない。それというのも、ある治療が医術の準則に
従って実施されないときにすでにこの種の過誤が存在するとされるのであれ
ば、それは純粋に行為に関係づけられているのであって、結果とは無関係だ
からである。このことは、治療過誤の危険があっても、必ずしも健康の侵害
を伴うとはかぎらないことを意味している。したがって、治療過誤が存在し
ているということは、直ちにある治療侵襲が「傷害罪」の構成要件に該当し
ているということを意味しているわけではない。たとえば、治療過誤が、治
療の経過においても到達した状態においても、無結果―健康とは無関係
―のままにとどまった場合がそうである。
すでにこの理由から、医術過誤ないし治療過誤の概念が刑法上格別に有益
であるかは、疑間となる(
(17) 。この概念の内容と意味を確定しようとする無
数の、そしてきわめて雑多な試みにもかかわらず、というよりおそらくはま
さにそのゆえに、それらは刑法上の問題を解明するよりはむしろ隠蔽するの
に役立っている。故意による医療過誤というきわめて稀な事例( 18) をひとま
(16) W雪ner,Zur historischen Entwicklung des Begriffs a rztlicher Kunstfehler, Zeitschrift
ftir Rechtsmedizin 1981, 303; Rod 碧 ra, Zur historishen Entwicklung des a rztlichen Kunst
fehiers im 19. Jahrhundert, Med. Welt 1981, 370 f. 参照。刑事訴訟法第81条a も「医術の準則
に従い」と規定している。
(17) Schreiber, Abschied vom Begriff des hrztlichen Kunstfehlers, Der medizinische
Kunstfehler im 19. Jahrhundert, Med. Welt 1981, 379 f. 参照。
10
ず括弧でくくると、治療過誤の問題性は、原則として過失の問題として現れ
る。それゆえ、治療過誤ないし医術過誤の事例を過失犯の一般原則と概念に
従って評価するのは、当然のことである。そのさい治療過誤ないし医術過誤
の概念は、一定の事例群の類型を言い表すものとしては有益でありえても、
だからといって明確な輪郭づけをする技術的用語にまで高められはしないで
あろう。
医師の誤った行為を過失犯(ドイツ刑法第230条)の枠内で把握する場合、す
でに因果関係が問題になりうる。過失犯は、健康悪化という形をとった構成
要件該当結果が、まさに医師の(誤った)治療に帰せられることの証明を前
提としているからである。そこに生ずる問題の多くは、しかし、むしろ経験
的=自然科学的な性質のものである。とはいえ、ある健康悪化が一定の医療
的侵襲に起因するのか、またどの程度まで起因するのか、それともたんに左
右しえない宿命的な病気の経過の帰結にすぎないのか、という問題において
でさえ、一定の判断の余地、したがって一定の評価を完全に排除することは
できない。この評価は、実際のところ広い範囲にわたって医学鑑定人の手に
委ねられているめであり、また、鑑定人は―意識的にせよ、無意識的にせ
よ―患者側よりもはるかに医師側に傾いた先入見から出発しがちであるか
ら、定評ある専門家による鑑定でさえ、いっさいの疑間を超越しているわけ
ではない(1の。そこからすでに「医学鑑定人による証明の危機」 (20) ということ
が話題とされているのであるが、その除去のためのすべての側に満足のゆく
ような処方筆は存在しないであろう。
因果関係の問題は、しかし、このような、より裁判=訴訟的な問題を超え
て、実体刑法的にはおそらくいっそう大きいともいえる問題へと導く。それ
というのも、健康悪化がたんに医師の行為に帰せられるだけでは十分でな
(18)この種の事案の大部分では、もはや許容し難い治療方法を用いる故意行為が問題になって
いるといえようにれについては、 II. (3),(4) 以下で述べる。
(19)たとえば、医師の時代遅れの仲間意識に対する連邦裁判所の制約について、
BGH NJW
1975, 1463 f.; Luthe, Bemerkungen zur Krise der Begutachtung, NJW 1975, 1446 ,参照。
(20) Friedrichs, Der medizinische Sachverstandige, 1972, 62 .しかしまた、 Waschsmuth,
Zur Problematik des medizinischen Sachverstandigen im Arzthaftungsprozell, DRiZ 1982,
412 ff. 参照。
第1章医学と刑法11
く、義務違反関係にとっては、まさに何らかの落ぢ度のある態度への帰属可
能性が決定的であるとすれば、そこから医師は本来何を正しく行わなければ
ならなかったのか、という問題が生ずるからである。注意義務の可能な侵害
の存在と射程を間う、ここで提起される問題については、本稿の枠内では、
その要件をすべての事例にわたって一般的に規定することはできず、それは
個別事例の諸事情に依存して いるとしか言うことができない。そのさい、例
示的にいえば、ある侵襲が仔細に計画された(計画されえた)のか、それとも
緊急処置として診断および治療上の手持ちの手段を駆使して敢行されたの
か、実施したのは専門医かそれとも一般医か等々(21)が問題となってくる。
もっとも、そのための手がかりは、ともかくもいくらかの職業集団が発達さ
せた水準から察知することができよう(22)。この点でも法律家は、個別事例
についてそのつど、医学の専門家との協働のもとに、具体的かつ個別的に注
意義務を認定することを免れてはいないのである。
注意義務の規定に当たっては、これに加え、分業の増加(
(23)により、また
技術装置の投入(
(24)に伴って、諸々の難間が生ずる。医師は、たしかに原則
として自らの落ち度ある態度にのみ責任を負う。それは、しかし、補助者と
技術的措置への監視の欠如または不十分さによることもありうる。
実務に関していえば、大多数の治療過誤事例は民事裁判所によって扱わ
れ、そこでそれらは、最近、特殊な証拠法を発達させてきた(25)。とはいえ、
それは当事者主義に依拠していることから、民事訴訟上の証拠原則を、すで
に根本からして直ちに、職権主義の支配する刑事訴訟に移し変えることはで
きない。民事訴訟と刑事訴訟とにおける証拠要件のこの差違もまた、多くの
医学者を誤らせる点となっているのは無理からぬことである。それだけにい
(21)医師の刑法における過失概念について詳しくは、多くの例証を伴う Ulsenheimer, Aus
der Praxis des Arztstrafrechts, MedR 1984, 161 f. 参照。
(22)多くの例証を伴う Seibma 冗 n, Qualitatssicherung a rztlichen Handeins 1984 ,とくに、s,
161 ff.,参照。
(23)これについては、
Wilhelm, Verantwortung und Vertrauen bei Arbeitsteilung in der
Medizin, 1984.
(24)これについては、 Mirtschi 昭, Haftung fur den Einsatz von Technik in der Medizin,
1980.
(25)とく1こ、 D. Franzki, Die Beweisregein im ArzthaftungsprozeB, 1982.
12
っそう、法律家は親身になって啓蒙に努めなければならないのである。この
ことはもちろん、実体法上の「権利を有していること」と、訴訟的に得るこ
とができる「権利を獲得すること」との違いが、どうしてもわからない患者
に対しても言えることである。
3 素人療法
医学上の素人療法( AuBenseitermethoden )が、治療過誤に急速に―早す
ぎるということではないカー接近している。ところで、健康悪化と身体へ
の重要な侵襲が構成要件的に捕捉されないためには、たしかに侵襲が医術の
準則に従って実施されることを前提としている。しかしながら、この原則は
時代の最新の知識を教える大学医学のそれと同じと見ることはできな
い((26) 。大学医学の内部でもすでに様々な方法がありうること、医師は適用
すべき方法の選択において原則として自由でなければならないこと(治療な
いし一般的方法の自由(27りを度外視するにしても、医術の準則を一度達成され
た水準に、たとえばある一定の大学医学のそれに固定することは、それによ
ってすでに医学のどのような進歩発展も,阻害されるであろうがゆえに、否認
されるべきである。医学上の素人療法に対する、法律家の側からも時おり表
明されるような抗議(28)は、大学医学のいっそうの発展が、とくに慣行には
ない療法の提唱者たちによる外部からの刺激にも依存していることを無視し
ている。後者が、伝統的な(大学)医学自体にはその方法的固定化ゆえに可
能性が閉ざされている新しい治療方法に注目させることも稀ではない。それ
ゆえ、素人の治療効果も、それには大学医学上の説明の糸口が欠けていると
いう理由だけでは、否認することができないのである。
とはいえ、水準からの逸脱はつねにある一定の危険に結びついていること
から、判例と法学は、一方では、医術水準を承認された治療法に早計に固定
することによって医学の発展の道の障壁となることを阻止するとともに、他
(26)
RGSt 67, 12, 23 f.; 74, 91, 95; Geilen, Einwilligung und Srztliche Aufkl 谷 rungspflicht,
1963, S. 71 If. ,参照。
Bockelmann, Strafrecht des Arztes (注( 1)),S. 86 1. ,参照。
(28)たとえば、 Wimmer, Paramedizinisches Kurpfuschertum, Nds. Arztebl. 1982, 277 1. ,参
(27)
照。
第1章医学と刑法13
方では、しかし、治療を求める患者を無責任で生半可な素人療法から保護す
るという、二重の課題の前に立たされる。とりわけ後者では、患者の自己決
定権と承諾が援用されるだけで十分ではない。どのような療法に承諾の意』思
表示をするかは、たしかに患者の専決事項である。しかし、保健機関の有効
な機能と信頼という利益のためには、法秩序はこの立場にとどまることな
く、健康上の不測の危険から保護するための諸規則を、それがドイツ刑法第
228条(=旧226条a 「被害者の承諾を得て傷害を実行する者は、所為が承諾にもかかわ
らず善良な風俗を侵害する場合にのみ違法に行為する」)の倫理条項に対応した処理
によるものであれ、―より適切には―医術の準則に対応した理解による
ものであれ、準備しなければならないのである。いずれにせよ、実質的に
は、慣行にない治療法は次のような条件のもとでのみ、これを受け容れるこ
とができよう。第1 に、治療行為者は、彼自身が用いる療法の提唱者によっ
て一般に承認されている基本原理を遵守すべきこど29)、第2 に、慣行の治
療方法に比べてその効果がはるかに劣る事情にあるときは、その方法に固執
してはならないこと(30)である。とくに第2 の原則は、具体的な個別事例に
関連して、そのつどさらに修正されなければならない。たとえば、慣行の治
療方法に伴う副作用も、療法選択の決断のなかに組み入れられなければなら
ないのである。そのさい、効き目が多いが侵襲度も高い癌治療の代わりに、
穏やかではあるが効き目が少ない療法が個別事例について決定されるなら
ば、それは完全に医術の準則を満たしうる。もっとも、いずれの場合にせ
よ,、患者が慣行上の治療の可能性、その利点と危険についても説明を受ける
ことを条件としている(
(31)
4 実験的療法
非大学医学的医療法の問題性は、もちろん、幾分別の仕方においてである
(29)すでに、RGSt 67, 12がそのように述べている。
(30)全体として、 (Wimmer ,注(28)への回答として) Backes, Medizinischer Aul3enseiter
- AuBenseiter der Rechtsordnung?, Arztrecht 1982, 148 If.; さらに、 BGH NJW 1962, 1780,
参照。
(31) (後に扱う実験的処理についても)Si卿 rt, Strafrechtliche Grenzen a rztlicher Therapiefreiheit, 1983 ,参照。
14
が、実験的侵襲の領域においても現れる。素人療法では、医学的適応性はい
ずれにせよそれが適切に適用されていれば肯定されるのに対して、試験的な
治療または実験的な性質を有するその他の侵襲の場合では、少なくともそれ
は疑わしい(32)。したがって、被験者の有効な同意がある場合であっても、
この種の療法はドイツ刑法第223条にいう身体の完全性に対する構成要件的
侵害と見られるべきである。実験的侵襲を実施するに当たって、ここに要求
される特別に厳しい要件に医師の注意が対応しなかった場合には、まさにそ
のように言えるであろう。とはいえ、このような領域でも許容性の要件には
ある一定の差違が考えられ、そのさいとくに「治験(
(Heilversuch) 」と「人体
実験(
(Humanexperiment) 」との区別に考慮が払われるべきである(33)。またと
りわけ薬剤の検査では、さらに薬事法の特別規定がこれに加わる。
(a) ほかに有効な療法がない ために、投入される治療法がひとつの救助
機会を意味していること、しかし、また(積極的または消極的でありうる)効果
に関して生じうるような望まれない付随効果がいまだ十分に検査されていな
いということが、「治験」を特徴づける。この種の「治療的実験( therapeutic
reserch) 」では、治療行為と人体実験との中間的な位置づけを生み出す。す
なわち、治験は、前者とは主観的な治療関心をともにし、後者とは客観的な
実験的性格をともにするのである。
この種の治験が必ずしもつねに構成要件に該当するというわけではない。
たとえば身体上の健康の侵害という「結果無価値」は、ほかに治療法が存在
していないか、もしくはそれが十分でないことが明らかであり、治験を実施
しないといっそうの健康悪化を招くおそれがあるような場合は、いずれにせ
よ否定されうる(34)。それ以外の場合では、治療を求める患者の同意を通し
て違法性が阻却され、 正当となりうるであろうが、その場合にはもちろん、
本人が新しい方法の性質、利点、危険について、またとりわけその方法の実
験的性格について包括的に説明されていることが条件となる。
(32) Grahlmann, Heilbehandlung und Heilversuch, 1977 ,とくに S. 11ff. 参照。
(33) Eser, Heilversuch und Humanexperiment, Der Chirurg 50 (1979), S. 215, 217 .同じ意味
においてすでに、 von Bar, Medizinische Forschung und Strafrecht, Festschrift fur Regelsberger, 1901, S. 229 1. 参照。
(34)
Grahlma 冗n,(注( 32)),5. 43 1 .参照。
第1章医学と刑法15
(b) 方法として実験的性格を有しているばかりでなく、目標のうえで
も、もはや(もしくはせいぜいのところ付随的にしか)具体的な当の本人の治療に
向けられてはおらず、(もっぱら、もしくは主として)科学上の認識関心を追求
する(35)「人体実験」では、この正当化問題はいっそう強く提起される。こ
の種の「非治療的実験(
(non-therapeutic reserch) 」の場合に身体の完全性に対
して侵襲を被るならば、それが刑法第223条の構成要件に該当することに疑
間の余地はない。したがって、これには特殊な正当化を必要としているので
あるが、この場合はドイツ刑法第216条「要求に基づく殺人」、同228条「傷
害の承諾」に由来する正当化条件が意味を有しうる。これが意味しているの
は、同意によってでさえすべての種類の実験を正当化することはできないの
であり、しかも被験者が致死の危険にさらされているかぎり、正当化するこ
ともできないということである。それというのも、刑法第216条の同意の限
定がこれに異議を申し立てるであろうし、また求められた知識の獲得が予測
される危険との均衡を全く失する場合、行為は刑法第228条にいう倫理違反
と見られるかぎりにおいて、正当化されえないからである。この種の利益=
危険=衡量が、これに関係しているすべての医の倫理の指針によって要求さ
れているからには(36)、そこに遵守すべき倫理の基準を求めなければならな
いのである( 37)
(c) 医学研究の実際上とくに重要な部分である、人体に対する薬剤の検
査は、 1976 年の薬事法によって特別法上の諸規定を持つに至った( §§40-42
AMG) (38)。これらの規定は本質的に前述の諸原則を志向するものであり、と
(35)これについて一般的には、 Eser, Das Humanexperiment, Ged 谷 chtnisschrift fur
Schroder, 1978, 191 If.; Schimikowsky, Exptriment am Menschen, 1980 ,ならびに民法上の見
方から、 Deutsch, Das Recht der klinischen Forschung am Menschen, 1979.
(36) 1947 年のいわゆるニュールンベルク宣言ならびに( 1954 年と 1975 年の)ヘルシンキ=東京
宣言、参照。 Deutsch, Das internationale Recht der experimentellen Humanmedizin, NJW
1978, 570 ff. では、音II分的にではあるが、これらが文字どおり再録されている。さらに、 Deutsch, Arztrecht und Arzneimittelrecht, 1983, S. 331 fI. では、その他の医の倫理宣言が加えら
れている。
(37)その正当化の可能性についても、 Eser, (注( 35), S. 209 If .参照。
(38)これについては一般的に、 Staak/ Weiser, Klinische Prufung von Arznaimitteln, 1983, S.
331 fI.; Eser,Kontrollierte Arzneimitttelprulung in rechtlicher Sicht, Internist 23 (1982),
5. 218 II .参照。
16
くに被検者への説明のために一定の個別的要件を設けている。これらの検査
条件の無視に対しては刑罰または秩序罰が科せられる( §§96. 97 AMG) が、
このことによって刑法第223条以下の一般刑法上の構成要件が排除されるわ
けではない。このことは、とりわけ、薬事法に明確な規定が欠如している場
合、とくに二重盲検( Doppe1b1indversuch)(39 )の場合、もしくは薬剤の被投与
者が、治療または研究する医師の責任によってではなく、薬剤を生産または
販売する企業の組織上または監督上の過誤によって、損害を被る場合に重要
である。
一般刑法も、これに関連する保護要求にこれまでほとんど適切に対処して
こなかった(40)のであるが、とりわけこの分野では、因果関係および帰責の
問題に、十分な解決が待望されている。たとえば保健機関の技術的=組織的
な環境では、医師から多数の協力者および補助者への作業の移動が、以前に
は医師に集中していた責任の分散と並行して現れる。刑法は、この移動に対
して刑事制裁を適合させることをこれまで怠ってきた。分業の増大から生ず
る特殊な注意義務の構成を通したのでは、せいぜいのこところ、医師にも見
渡すことができる領域しか把握されえないであろう。これでは、しかし、薬
品審査官、器具納入業者その他これに類する仲介者には、少なくとも及ばな
い。他の危険を伴う技術の場合と同様に、薬品製造における刑法上の法益保
護も、予防的な性質を持つ公法上の規定によって、実際的に完全ではないに
せよ、補充されつつある(41)。このことは、個人的な制裁を対象とする責任
の精算という問題、すなわち薬品製造と結びつきうる危険は不可避であると
いう理由から甘受しうるものなのか、それとも回避可能でありまた受け容れ
難いものなのかという、法政策上の問題を提起する。
(39)これについては一方では、 Fincke, ArzneimittelprUfung -Stralbare Versuchungsme-
thoden, 1977,他方で、Samsoル,Zur Stra釦arkeit der klinischen ArzneimittelprUfung, NJW
1978, 1182 参照。「なお、二重盲検とは新薬の有効性を確認するために医師にも患者にも知らせ
ないで実施する検査方法をい う。……訳者注」
(40)
Armin Kaufmann, TatbestandmaBigkeit und Verursachung im Contergan-Verfahren,
JZ 1971, 569 ff .参照。
(41) Deutsch, Arztrecht (注( 36)),S. 262 ff. 参照。
第1章医学と刑法17
5 治療的性格が疑わしい侵襲
医師によって実施される医療的侵襲のすべてが、すでにそれだけで必ずし
もつねに治療的性格を有しているというわけではない。このことは、すでに
人体実験の例で示されたところであるが、―医師が医術の準則に従って実
施するものであっても―医学的適応性が欠如するために治療行為とはいえ
ないような医師による他の侵襲、たとえば純美容手術、さらには断種および
去勢ならびに提供者側の臓器摘出についても、明らかにされるであろう。と
はいえ、―たとえば患者に少なくとも精神的に著しい負担となりうる奇形
または傷跡の整形外科的除去のようにーこの種の侵襲に例外的に医学的適
応性を挙げることができないかぎり、すでに刑法第223条にいう「傷害」の
構成要件該当性を否認することはできないのであり、それゆえに違法性は正
当化する承諾によってのみ阻却されうるのである( 42)
III
自己決定権の保護と尊重
一見すると冗語的なともいいうる響きを持つこのような標題「保護と尊
重」が選ばれたのは、仔細あってのことである。それというのも、自己決定
権は2つの側面から侵害されうることから、それぞれに対応する保護を必要
としているからである。すなわち、一方では、患者の意思に反して侵襲が行
われてはならないーそのかぎりで患者は医師の専断的な行為に対して保護
を必要としているーのであり、他方では、患者の承諾を得て、さらには要
求に基づいて実施された侵襲は医師にも制裁を免れさせるーそのかぎりで
患者の意思の処罰阻却的尊重が問題になっているーのである。
1 医師の専断に対する患者の保護
もっぱら患者の、客観化が可能な「健康」の保持または改善が問題となっ
ているのであれば、刑法的保護は、健康にとって有害な、もしくは医術的適
性を欠いている医療的侵襲の阻止に限定されうる。これは、しかし、患者が
(42)細部ではまことに複雑なこの問題の詳細については、多くの例証を伴う、 Eser, in:
Sch 伽 ke/Sch ガder , §223 Rdn. 50 参照。
18
いわば医師の客体とされかねない結果を招来するであろう。それというの
も、医師が客観的な健康水準に依拠しているーそのうえこの水準が医師の
先入見に依存し、結局のところ医師の「理性の高権」に帰着することがあり
うるーかぎり、患者の反対意思さえ重要ではなくなるであろうからであ
る。しかし、これではーなお顧慮すべき特殊な場合を超えて―全く一般
的に強制治療のための門戸を開くことになるであろう( 43)
とりわけこの種の展開を回避するために、ライヒ裁判所は、すでに、医師
によるすべての侵襲に傷害の構成要件該当性を認め、患者の同意が違法性阻
却の前提であるとしたのである(刊。そのことが関連判例のなかでそれほど
明言されているわけではないにしても、特殊正当化の要件を同意によって構
成するという方法を通して、自己決定権の構成要件的保護が独自の法益侵害
として確保されてはいるのである(旬。このような保護目的それ自体に対し
ては、たしかに異論の余地はない。それどころか、遅くとも人間の尊厳が、
身体の不可侵性および人格の自由な展開への人間の権利とともに、基本権と
して保障されてはじめて(基本法第1 条第2 項)、患者の自己決定権も、その発
露として尊重の要求度は高まる。
とはいえ、この保護は、必ず刑法に拠らなければならないのかという、こ
れとは全く別の問題が生ずる。刑法による保護は、いずれにせよ、専断的治
療行為について民法的になしうることが限られている以上、たしかに原則と
して断念することはできないとしても、しかし、ドイツ刑法第233条がそれ
に適した手段でありうるのかは、きわめて疑わしいように思われる。それと
いうのも、一方で、身体上の「健康」という法益側面は、すでに本人の表象
を度外視した純客観的な基準に従って規定することはできないということが
ー■ーー昌叫、A
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って全く放棄されるということにより、その基礎となっている法益をノら理的
なものに解消してしまうほどに、推し及ぼしてはならないからである。「身
(43)これについては、III. (3) (d)で詳述する。
(44) RGSt 25, 375 以来、この,点では不変である。
(45)この意味においてとくに BGHSt. 11, 111, 114 (子宮筋腫=事件)は、同意が欠如する場
合を「人間の人格と自由と尊厳への違法な侵害である」という。
第1章医学と刑法19
体の完全性」という法益も、これと同じ関係にある。身体上の形態と基体の
不可侵性がこれに対応する本人の保持関心に依存しているかぎりで、そこに
有意味的要素も含まれているにせよ、そのような自己決定権の側面を刑法第
223条の独自の保護法益と見るのは、行き過ぎであろう。それというのも、
ドイ、ソ刑法第242条の窃盗構成要件では、所有者の自己決定が独自に加わる
ものとしてではなく、たんに財物に関係づけられた処分権として(ともに)
保護されるにとどまっているのと同様に、刑法第223条の場合も、身体の完
全性についての自己決定権の保護は、本人がその健康または身体の状態につ
いて、その承諾なしにはどのような実質的な損害をも甘受する必要はないと
みなされるかぎりでのみ、重要だからである。それゆえ、基体への本質的な
変更を加えることなく、全健康状態を維持または改善するだけの治療処置に
関するかぎり、実質的な身体(的利益)の侵害ということは問題にはなりえ
ないのである。これに対して、苦痛緩和のための注射でさえ、同情からであ
れ承諾なしに打たれたときには身体の完全性を侵害するという異論は、刑法
第223条では自己決定権それ自体の保護が重要であり、それゆえに「苦痛へ
の権利」でさえ保護されると見る場合にのみ、これを貫徹することができよ
う。しかし、これは、虐待と健康侵害に方向づけられてい る構成要件の任務
ではありえない。
とはいえ、患者の自己決定権は、医師の専断的な治療処置に対して、それ
がなお健康を促進するものであれ、または医術的に適正なものであれ、相応
に保護に値しているということは、決してこれを否定することができないで
あろう。しかし、升Ii法第233条の身体の完全性のうえにさらに自己決定権の
保護をも「積み重ねる」ということを通してこれを達成しようとするのは、
確信をもって専断的に行為する医師に対するものであっても、誤りであろ
う。それというのも、判例がすべての治療行為を構成要件に該当すると見る
のであれば、患者の同意が欠如している場合には、医師に正当化を与えずに
おくほかはなく、その結果、医師を「傷害犯」として処罰することによっ
て、判例は、医師に過度な汚名を着せることになるからである。医師は、そ
の専断によってたんに患者の意思を無視したにすぎないのに、彼は医療技術
をマスターせず、そのために患者の健康に奉仕するという、まさにその真の
20
職命を誤ったという、医師の職業上の声望にとってはるかに不利な印象が喚
起されるのである。
これを避けようとすれば、傷害罪の構成要件と並べて「専断的治療行為」
のための構成要件を新設することにより、身体の完全性の保護を自己決定権
のそれから分離する以外にはない。これを目指す努力は、前世紀「19世紀」
の変わり目にまで遡る(46)にもかかわらず、いまだ達成されるには至ってい
ない。しかし、このことは決してそれを断念する理由にはならない(切。最
近、オース「リアの立法者に成功したこど48)が、ドイツの立法者にもでき
ないはずはないであろう。
2 説明による自己決定権の保障
患者の自己決定権がどのように把握されようとも、構成要件阻却には承諾
(Einverstandnis )が必要であり、正当化には同意( Einwilligung )が必要である
が、・いずれにせよ、これには医師による患者に対する事前の説明が条件とな
る。このことは、本来、すでに一般的な同意原則から生ずる(49)。同意の有
効性は、法益の担い手の相応の認識および判断能力ならびに保護放棄の射程
の認識を条件としていることから、―たとえば年齢のためまたは十分な専
門矢日識がないために―本人に必要な判断能力が欠如している場合には、彼
はあらかじめ相応に説明されていなければならない(50)。このことは、しか
(46)たとえば、の penheim, Die a rztliche Bedeutung der Eingriffe, SchwZStr. 6 (1983), S.
332, 347;Stooss, Chirurgische Operation und a rztliche Behandlung, 1898, S. 38; Beli 昭, Die
strafrechtliche Verantwortlichkeit des Arztes bei Vornahme und Unterlassung operativer
Eingriffe, ZStW 44 (1924), S. 220 f. ならびに近時のものから、 1962 年草案第 161, 162 条、対
案第123条。さらに、A肌 ur Kaufmann, Die eigenmachtige Heilbehandlung, ZStW 73
(1961),5. 341 1.; KrauI3,Zur strafrechtlichen Problematik der eigenmachtigen Heilbehand
lung, Festschrift fUr Bockelmann, 1979, 5. 557. 参照。
(47)これによって「眠れる獅子を呼び起こす」かもしれないという ―Deutsch, Arztrecht
(注( 36)), S. 120 がいう―不安は、決して決定的な反論ではない。
(48) 1974 年のオーストリア刑法典第110条によって。これについては、z河, Probleme eines
Straftat be standes der eigenmSchtigen Heilbehandlung, Festschrift fUr Bockelmann, 1979,
S. 577 f.
(49)以下では同意についてのみ問題とされるが、同じことは承諾についても当てはまる。もっ
とも、 Jescheck, Allg. Teil, 3. Aufi. 1973, 5. 300 ,ならびに注(67)をも参照。
(50) Jakobs, Allg. Teil, 1893, S. 360.
第1章医学と刑法21
し、他の生活領域ではほとんど実際的な意味を持たない(
(51)が、治療行為の
場合、医師による患者の説明は、中枢的な役割を演じる(52)。説明の要件と
限界を明確にしてきた判例(
(53)に即していえば、このことが医師と法律家と
の間の「不和の種」とさえなっているように思われる(54)。失敗したか、も
しくは健康を悪化させた場合に、治療過誤を証明することの困難に直面し
て、患者サイドが好んで説明の欠如に対する非難へと鞍替えするときは、い
っそうそうである(55)。とりわけ「危険の証明」について医師サイドを嘆か
せている判例の過剰な要求を度外視するにしても、まさに説明問題におい
て、様々な態度が―本人の保護利益に関しても―見られる。すなわち、
医師は、主として患者の「健康」を念頭に置き、患者はその病気と侵襲に結
びついている危険をできるだけ知らないほうが往々にして患者を最もよく守
りうる、と信じるのに対して、患者の権利のためには、可能なかぎり広い範
囲にわたる説明を通した自己決定権の保障が(も)重要である。患者が自分
の健康をどのように見、それを医療的侵襲によってどの程度まで保護または
回復したいと望むのか、またどのような危険をそのために甘受する用意があ
るのかを判定するのは、医師でなく、患者自身であると言いうるからであ
る。しかし、これは、患者の諾否の決断を可能にさせるほどに、医師の侵襲
の性質、意味および範囲が、いずれにせよその基本的な様相において、患者
に矢日らされていることを条件としている。そのさい、患者がもともとある要
素を識別することができず、意味すらはっきりと分からない場合であって
も、いずれにせよ「思慮ある」患者の決断にとって重要でありうる事情が説
明されなければならない。もちろんそのさい、説明の範囲と密度を抽象的に
確定することはできないのであり、具体的な状況に応じて調整するほかはな
いのであるが、そこでも説明の厳密度は、侵襲の緊急度が減少する程度に応
(51)ここから、たとえばLenckner, in: Sch伽ke/Schガder, Vorbem. 29 If. vor § 32 の解説で
は、一般的な同意原則について説明要件が全く触れられていないことを明らかにしておく必要
カ‘あろう。
(52)これについて一般的には、 Kern/Laufs, Die a rztliche Aufklarungspflicht, 1986.
(53)たとえば、 Rieger, Lexikon des Arztrechts, Rdn. 253 ff. の例証を参照。
(54) Kuhlendahl, Die krztliche Aufklarungspflicht oder der kalte Krieg zwischen Juristen
und Arzten, DAB1, 1978, 1984 If. 参照。
(55) Laufs, Arztrecht, 2. Aufi. 1978, Rdn. 67 If.; Hirsch, in :LK,§ 226a Rdn. 19 参照。
22
じて増加する。要するに、治療処置が、』思慮ある患者の眼から見て容易に遷
延することができるものであればあるほど、それゆえに必要度が減少すれば
するほど、説明義務は広がる、ということである。反対に、処置に専念する
ことができないか、もしくは生命にかかわるときは、それだけ医師もより大
雑把な説明で足りる。侵襲がその性質からして重大であればあるほど、思慮
ある患者も、ある程度の危険は覚悟しなければならないのである( 56)
自己決定権の保障のためのあらゆる努力にもかかわらず、少なくとも傷害
の構成要件(第223条)の枠内で、この権利は完全に孤立したものではなく、
健康と身体の完全性という第一次的な法益を排除するものではないとして
も、その上に重なるものであるのかについて、これまでよりもいっそう意識
的に考慮が払われるべきであろう。それというのも、ドイツ刑法第223条の
法益規定にとって、自己決定の要素は、健康と身体の完全性が本人の主観的
な保護関心に(も)依存しているかぎりでのみ、意味を有するのと同様に、
説明義務についても、医学的侵襲の性質と範囲およびそのさい甘受すべき危
険についての自己決定的な決断を可能にさせる以外には、何も重要ではあり
えないからである。それゆえに、説明にとってまさに促進されるべきもの、
すなわち健康が、危険にさらされてはならないのである。すなわち、説明義
務は「配慮義務」によってすでに内在的に制約されているのである。これに
よれば、どのような説明も、それによって懸念される患者の危険が自己決定
権の侵害よりも重大でありうるかぎりでは、必要ではない(
(57)
このような制限は、判例によっても承認されている(58)。とはいえ、それ
は、たんに過大化を回避するための実際的な要件と見られるにすぎないの
か、それとも法益としてのその原理的な重要性においても認められるのか
(56)この原則とともに説明の主要なタイプについても詳細に紹介したものとして、
Eser . in:
Sch 伽 ke/Sch 元)'der , §223 Rdn. 40 ff.
(57)これについて詳しくは、 Deutsch,Das therapeutische Privileg der Arztes-Nichtaufklarung zugunsten der Patienten,NJW 1980,1980,1305 ff. もっともこの場合、アメ リカで
採用されている「治療特権( therapeutic
Privilege) という概念は、このような場合の説明の
制限が医師の「専権」から生ずるかのような印象を与えるがゆえにあまり適切ではない。しか
し実際に眼目となっているのは、患者への特別な配慮である。
(58)これにかかわる衡量基準について争われている個別問題については、ここでは触れないま
まにしておく。これについて詳しくは、 Eser,in:Sch 伽 ke/Sch ガder , §223 Rdn. 42.
第1章医学と刑法23
は、疑間であるように思われる。これはとくに、判例によってたとえば危険
の説明と同様に要求される診断の説明について疑間となるであろう(59)。と
いうのは、このように同置することは、刑法第223条の枠内では―専断的
治療行為ではなく、もっぱら傷害罪の構成要件がここでは問題である―
「自己決定のための説明」(60)という慣用の表現形式に事実上接近しうるよう
な、自己決定それ自体の保障も重要であるときにのみ、正当化されるであろ
うからである。とはいえ、自己決定を保障する説明をーすでに医術の準則
の一部として理解すべき―「治療上の説明」と区別する(61)ために、この
用語がどれほど重要で歯切れがよくても、それは、言葉の独り歩きによって
容易に自己決定の絶対化を招きかねない。それというのも、患者に余すとこ
ろのない、したがって所見をも含む説明を保障する専断的治療行為の構成要
件の場合(62)とは異なり、第一次的に健康および完全性に関係づけられた構
成要件の枠内では、患者に思慮ある決断を可能にさせることだけが重要であ
りうるからである。しかし、この場合、ある侵襲の諾否を識別するうえで、
診断が患者にとって決断上の重要な意味を有しているかぎりでのみ、所見の
伝達が条件となる。そこには、傷害の構成要件の枠内では「自己決定のため
の説明」でさえ、付随的にのみ身体の完全性保護に役立つが、独立した自 由
保護機能は持たないということが(63)、新たに示される。もちろん、後者の
機能も刑法的保護の正当な関心事ではある。しかし、これはたんに刑法第
223条の上に積み重ねられるのではなく、たとえば専断的治療行為というよ
うな、自由に関係づけられた構成要件によって確保されるべきものであろ
う。それゆえ、刑法第223条の適用領域については、民事判決によって別の
符号のもとに展開された要件を、吟味抜きに刑法へ移そ うとする試みにも反
対しなければならないのである。
(59)すでにRGSt. 66,181,182が、原則的にそうである。さらに、BGH NJW 1959,814,815:
通説も同じであることについては、多くの例証を伴う Hl'rsch,in :LK 5226a Rdn. 24 参照。
(60)Geile ル,(注( 26)) ,とくに 5. 80 ff .と結びついて。
(61)Eser,in:Schb'nke/Schr0'der , §223 Rdn. 35 参照。
(62)注(46)参照。
(63)同じことは「自己実現の説明」についても言うことができよう。これについては、 Eser,
Arztliche Aufklarung und Einwilligung des Patienten,besonders in der Intensivtherapie,
in:Becke/Eid(Hrsg.),Begleitung von Schwerkranken und Sterbenden,1984,5. 188,202.
24
3 患者の意思の尊重とその限界
前項では、医師の専断的治療行為に対する患者の保護が問題であったが、
いまや逆に、まさに医師が患者の意思を尊重することから、どのような刑法
上の帰結が彼に生じうるのか、ということが問題とされなければならない。
ここでは、医師は、必ずしもつねに患者の意思に従わなければならないとは
かぎらないこと、否、事情によっては患者の意思を無視することさえ医師に
は期待されること が示されるであろう。とはいえ、ここでも、問題を論じ尽
くすということはできず、いくつかの論点を重点的に指示することしかでき
ない。
(a) 患者の意』思の完全な尊重は、一方では、医師に専断的な治療を禁
じ、他方では、医師は患者の治療要求に応じなければならないという帰結
を、容易に生じさせかねない。しかし、それはそういうことではない。それ
というのも、緊急の場合を除けば、医師は、対応する契約によって義務づけ
られていないかぎり、治療の引き受けについての決断において自由であるか
らである(64)。そのかぎりで、同意という要件は、たんに患者の防御権を根
拠づけるにすぎないのであり、それに対応した医師の治療義務を発生させる
ことはない。
(b) しかし、医師が患者の治療要求に事実上従い、所与の同意の範囲に
とどまる場合には、何らかの健康悪化を招いたときであっても、彼は原則と
してどのような升0法上の効果をも恐れる必要はない。そのかぎりで、彼には
患者の自己決定が処罰を免れるのに役立っている。医師が患者の要求に応じ
るときは、患者の自損が許されるかぎりで、医師も原則として処罰されるこ
とはないからである( 65)o
(c) とはいえ、原則として処罰を免れさせるこの患者の意思の尊重も、
無制限に妥当しているというわけではない。それというのも、法秩序が個人
の自己決定権を、自傷が罰せられず、自殺でさえ許されるかぎりで尊重す
(64)Bockelma れ冗, Strafrecht des Arztes (注( 1)),5. 19;Deutsch,Arztrecht (注( 36)),5.
21参照。
(65)もっとも、手術願望の「非合理性」から認識能力の欠如を引き出した BGH NJW 197&
1206 (抜歯事件)をも参照。これについてはしかし、 Hj.uschka,JR 1978,519 ;R 昭、 a11,NJW
1978. 2344 ;ならびに Eser,. in :Sch び% ke/Schrb'der , §223 Rdn. 38,50 参照。
第1章医学と刑法25
る(66)といっても、第三者のそれへの関与まで直ちに処罰の外に置かれる、
というわけではないからである。これは、とりわけ、生命保護の範囲内で妥
当するのであるが、それについては自殺問題のところでいま一度立ち入るこ
とにする。しかし、他の侵襲の場合であっても、患者の自己決定権がつねに
医師に不処罰を保障しているわけではなく、侵襲が患者の同意があるうえに
善良の風俗( gute Sitten )に反していない場合(刑法第228条)にかぎられる( 67)
患者の同意は原則として必要であるが、しかしそれだけでは医師の侵襲が適
法であるための十分な条件でないことを、この制限が示している。そのかぎ
りで同意は、医師の行為にとって必ずしも不可欠な正当化事由ではなく、た
んに正当化の限界にすぎないのである。要するに、医師は、患者が許容する
以上のことをしてはならないのであるが、他方、しかし、 患者が要求するす
べてのことをしてもならない、ということである。
ドイツ刑法第228条にいうこの倫理違反の制限は、とりわけ断種の場合に
大きな役割を演じてきた。そこでは、一定の―医学的、社会医学的または
優生学的に根拠づけられた―適応性がある場合にのみ倫理的に適合すると
見られる一方で、―半ばは的を射ているが見下してそう呼ばれもする―
「願望断種( Gel alligkeitssterilisation) 」は倫理的であるとは見られず、それゆ
えに、患者の相応の要求があっても医師の処罰を招くとされてきた(68)。断
種がドイツ刑法第226条bで特別に構成要件化され( 1933-35 年)、後にそれ
が廃止された( 1946 年)ことから、連邦通常裁判所が自発的な断種は、もは
や刑法によって捕捉されない(69)と帰結して以来、このことは、たしかに実
際的には時代遅れのものとなっている。しかし、そのための理由づけがほと
んど支持し難いものであるからには、断種は依然として倫理違反の検討を受
(66)ドイツ刑法第109条「自傷または同意傷害による兵役拒否」および軍刑法第17条における
自損行為の例外的禁止は、国防力の維持といった他の法益にかかわっている。 Schrdder, in:
LK§ 109 Rdn. 1 参照。
(67)ここでの制限はもちろん、正当化する同意にとってのみ重要であって、構成要件該当性を
阻却する承諾にとっては重要でないとされる。 Lenckner, in: Sch 伽 ke/SchrOder, Vorbem.
32, vor§ 32.
(68)この発展史について詳しくは、 Eser/Hirsch, Sterilisation und Schwangerschaftsab-
bruch, 1980, S. 56 If.
(69) BGHSt 20, 81 (Dorn -判決)。
26
けなければならないであろう(70)。これには、しかし、他方で、今日では刑
法第228条が要求している一義的で一般的な倫理違反の判断が欠如している、
という反論もありうる(
(71) 。同じことは、その刑法的制裁が60年代に入るま
で慎重に検討されていた(72)「非配偶者間人工授精」についてもいえる。こ
れに対して、今日では、自然の生殖過程へのこの種の―積極的または消極
的な―介入の問題性は、刑法よりも民法の領域に現れている。したがっ
て、この種の介入ではせいぜいのところ、同意の錯誤または医術的適正性の
欠如が医師に対する刑法上の効果を誘発することがありうるにすぎな
い((73) 。そのさい、有効な同意が問題であるかぎりでは、去勢法の実体法お
よび手続法上の諸規定が模範的な性格を有しているのである(
74)
が、それら
が、早計な決意から患者を保護するためのものであることはいうまでもな
い。とはいえ、―押し付けられた「自分自身からの保護」がつねにそうで
あるようにーこれによって自己決定権が裏をかかれて効果を失うことも十
分にありうるのである。
(d)
.刑法第228条の場合、医師には、たんに患者の意思に応ずることが
禁止され、したがって彼には何もしないことが要求されるにすぎないのであ
るが、他の場合には、患者の意思に対抗する積極的な行為をすることさえ、
義務づけられてはいないにせよ、許されることがある。もっとも、ここ で
は、本人の身体の完全性と決断の自由への強制的介入が問題となっているこ
とから、これには、すでに憲法上の理由から特別法上の権限付与が必要とな
る。既決囚および未決囚のハンガーストライキにおける強制的栄養補給につ
いては、この種の根拠は、拘禁法上の諸規定( §119 Abs. 3 StPO,§ 101 StVollzG)
からも(75)、健康政策上の諸規定からも、導き出されるのであり、そこから
70)通説がそうである。多くの例証を伴う Hirsch, in: LK § 226a Rdn. 38 If. ,参照。
71) Jescheck (注( 49)),S. 305; Eser/Hirsch (注( 68)),S.59 ,参照。
72) Schwalm, Strafrechtliche Probleme der kunstlichen Samenubertragung beim Menschen, GA 1959, 1 参照。
73) Eser/Koch, Aktuelle Rechtsprobleme der Sterilisation, MedR 1984, 6, 10 ff. ,参照。
74) Eser,in :Sch 伽 ke/Schrdder , §223 Rdn. 54. ff. 参照。
75)詳細については、Gel功 ert, Freiheit und Zwang im Strafvollzug, 1976; NtJldeke/ Weich
brot, Hungerstreik und Zwangsernahrung, NStZ 1981, 281 ff.; Ostendoif, Das Recht zum
Hungerstreik, GA 1984, 308 If. ならびに多くの例証を伴う Eser, in: Schtinke/Schrdder,
第1章医学と刑法27
患者の特別な受忍義務およびこれに対応する医師の介入権が発生する(7の。
(e)
老齢または病気のために、必要とされる認識能力および判断能力を
欠いている患者の場合、患者の意思の尊重ということが格別に問題になって
くる。この場合については、本人自身の同意を法定代理人または推定的同意
に代える試みがこれまでになされてきたのであるが、今日ではすでに、本人
に一部の分別があれば、それが尊重される(77)。しかし、これについてここ
では深入りすることはできない。
Iv 死との限界領域における生命の保護
すでに II. のところで扱った諸構成要件は、もちろん、健康と身体の完全
性という法益の保護に役立っているばかりでなく、結局のところ人の生命の
保護にも役立っている。そのかぎりで傷害の構成要件( 78)― 同じことは
様々な種類の危険構成要件についてもいうことができるーは、同時に、生
命の刑法的保護の一部分でもある。以下ではしかし、とりわけ自殺や安楽死
といった、死と死にゆく者に直接的にかかわる医療行為だけが問題とされ
る。とはいえ、これについても、思考可能なすべての事例状況を包括的にリ
ス「アッフ0して升Ii法的解釈を試みること(79)は、ここではできないのであり、
むしろーこの論考の基本的な関心事に即して―法益に関係づけられた評
価の側面に力点が置かれる。
Vorbem, 45 vor § 211 参照。
(76)たとえば §§1 f. ImpfG u.§§ 3, 17 GeschiKG; Gallwas, NJW 1976, 1134 ;このことから発
生する、一般的な強市1」治療については、 Rieger (注( 53)), Rdn. 2003 If. の概観を見よ。
(77)これについては一般的に、 Kern ノ Laufs (注( 52)), S. 24ff. ,ならびに特殊な年少者と精神
障害者の断種という部分については、 Eser/Koch, MedR, 1984, 8. 参照。
(78)上述 II. (1 )以前を参照。
(79)これについてはとくに、私は他の場所で私見を表明している。とくに、 Eser, Sterbehilfe
und Euthanasie in rechtlicher Sicht, in:Eid (Hrsg.), Euthanasie oder soil man auf
Verlangen t6ten?, 1975, S. 45 If.; ders., Neues Recht des Sterbens?, in:Eser, Suizid und
Eutanasie als human- und sozialwissenschaftliche Problem, 1976, S. 392 If.; ders., Lebens
erhaitungspflicht und Behandlungsabbruch aus rechtiicher Sicht, in:Auer/Menzel/Eser
(Hrsg.), Zwischen Heilauftrag und Sterbehilfe, 1977, 5. 75 If. ,ならびに、多くの例証を伴う
ders., in :Schdnke/Sch ガ der,Vorbem. 16 If., 33 If. vor § 211 参照。
28
1 死の時期の問題の法益内容
法的評価の問題は、臨死介助ないし自殺患者に対して生じうる治療義務の
可能性限界を問う問題においてはじめて現れるのではなく、すでに死の決定
的な時点という、一見して純医学的な問題のなかに立ち現れている。その法
的重要性は、ドイツ刑法第211-216条「謀殺、故殺、要求に基づく殺人」、第
221条「遺棄」、第222条「過失致死」の生命保護構成要件では、まだ生きて
いる人に制限されているが、すでに死んでいる人は、死体として部分的にの
み升甘法的保護を受けることから生ずる(80)。そこで必要とされる、「生」と
「死」との境界を、もっぱら純自然科学的な基準に従って規定するのは、あ
まりにも皮相であることが明らかになってきた。フォン・サヴィニーのよう
な偉大な法律家でさえ、前世紀「19世紀」の中葉にはなお、死は「きわめて
単純な自然現象」であって、「誕生と同様にこれをその要素について厳密に
規定することを必要としていない」(81)と述べていたが、これは、明らかに死
を純経験的=記述的に理解するものであり、遅くとも現代の蘇生可能性とと
もに、時代遅れになっている。それというのも、心臓と呼吸の停止は、法的
にも何ら議論の余地がないほどに「必然的に」生命を終結させる事象であ
る、という以前の考えに対して、最近では、このような「心臓死」は、必ず
しも人の生命の終末を意味するものでも 、変更の余地のないものでもないこ
(80)これはとくに、臓器移植と病理解剖の許容性にとって重要であり、そこではとくに、人間
のその死に対する自己決定権がどの範囲まで及ぶのかという問題が提起される。現在の刑法
は、それが故人のその遺体に対する―継続して効果を有する、ないしは関係者によって行使
される―自己決定権の保護を保障することができる関連構成要件を欠いているために、この
疑問の解明にはほとんど寄与しない。と,くにドイツ刑法第168条「死者の永眠妨害」は、通説
によれば、専断的な臓器摘出に適用することはできないとされている。 Lenck 冗 er, in: SchOnkeノ& hrdder,5 168 Rdn. 6, 8 .の紹介を参照。すでに長期にわたって計画されてきた臓器移植法
(これについては、 1978 年の臓器移植法草案各則を抜粋して転載したものを付した、R効1昭,
Fur emn Tranplantationsgesetz, in:Medizin-Mensch-Gesellschaft (MMG) 1982, 77 ff .参
照)が可決されるまでは、それゆえにせいぜいのところ民法的方法をもって考慮が払われたに
すぎない。多くの例証を伴う Thomas, in: Pala ル dt, BGB, 43. Aufi. 1984,§ 823 Anm. 15 B e 参
照。この種の移植では、しかし、現在の法状態が全く正当に評価していない臓器摘出のための
確定した許容条件に即して、別の患者の治療利益はもちろん、移植医の正当な利益をも顧慮さ
れるべきであろう。同じことは、医学研究と資質管理のために不可欠の病理解剖の許容性につ
いてもいうことができる。B域留 er/K 虎 hn, Sektion der menschlichen Leiche, 1979; Laufs,
Die Entwicklung des Arztrechts 1979/80, NJW 1980, 13 ff. 参照。
(81) von Savigny,System des r6mischen Rechts, Bd, 2, 1840, 5. 17.
第1章医学と刑法29
と、それどころか、事情によってはーとくに移植目的について―移植体
の機能が脳の壊死を超えて生命を維持するということに利益さえ生じうるこ
とが、指摘されてきた(82)からである。これとともに死のための本質的な基
準を新たに確認することが、実際的な理由からだけでなく、法倫理的な理由
からも、必要となった。それというのも、統一的な取り扱いのために、すな
わち、生命保護機能が及んで原則的 に生命維持が要求され、ないしは移植体
からの臓器摘出の限界を規定するためにも、死の時点の(新たな)定義づけ
が不可避となったからである。これは結局のところ、―あえて単純化すれ
ば―「心臓死」を「脳死」へと移行させることに、しかも主として、最近
ではほとんど一般に承認されているドイツ外科学会の指針(83)に基づいてそ
うすることに、帰着した。
ところで、当面の脈略にとってこの成り行きについて関心の対象となるの
は、このような新しい死の定義の実質的な正当性というよりは、むしろその
法益的に重要な内容である。一瞥すると、実際、外科医たちは―同じこと
はもちろん、諸医学団体による他の類似の死期の規定についてもいうことが
できる―、もっぱら医学的=経験的な事態のみを記述しており、評価の痕
跡は全くないかのように見える。このような見方が広く普及しているが、し
かし、この見方は、「脳死」を強調するということは、それだけですでに医
学的にではなく、規範的に、人間とその要保護性についての一定の価値観に
基づいて説明することができるということを無視しているがゆえに、皮相な
ものにとどまる。死の時点の移行がそもそも正当とされた根拠と、このよう
な医師の組織の私的な合意が、結局のところ、暗黙裡に法秩序の承認さえ得
ている理由が間われるならば(84)、このことが明らかになるであろう。要す
るに、脳が精神性の本拠であり、まさにこの精神性が人間存在の本質をなす
とされるからであろう(85)。遅くともこの最後の言明において、われわれは、
(82)多くに代わるものとして、
Wawerski, Reanimation und ihre Grenzen, in: Eser, Suizid
(注( 79)), S. 125ff. 参照。
(83) Der Chirurg, 1968, 196 に転載されている。さらに、連邦医師会のガイ「’’ライン、 JZ 1983,
593 をも参照。
(84)たとえば、 1978 年9月13日の臓器移植法政府草案理由書17頁以下でこのように問われてい
る。Rゆ1昭,(注(8の)参照。
30
しかし、純医学的=生物学的な認定とではなく、規範的な評価とかかわって
いるのである。精神は人間にとって特有のものであり、それはもはや純然た
る記述からではなく、人間的評価に基づく判断から生ずるものであり、その
判断はそれ自体、哲学的=倫理的な洞察、さらにはとくに宗教的=世界観的
な信念に由来するからである(
(86)
ところで、このことはもちろん、―そしてこの方向への一面化には、少
なくともはっき りと警戒しておくことを必要としている―死というものが
純規範的な問題であることを意味していない。むしろ、ここでは、―あえ
て単純化するならば―規範設定の次元とも規範適用の次元とも言い表すこ
ともできる2 つの次元が対置されなければならないのである。すなわち、そ
れは、(規範的な)死の概念(a) と、(医学的な)死の認定基準(b) へと導く。
(a)
死の概念、すなわちその不可逆的喪失をもってわれわれが人間存在
の終末としての死ということができる人の生命の特性がどこにあるのか、と
いう問題にかかわるかぎり、われわれは規範的な域を出ない。すなわち、
-―倫理的、職業倫理的、法的に承認された―慣行に、それはそれで人間“
存在、人間の尊厳等々についての一定の人間学的前=判断( Vor-Urteil) に由
来する慣行に基づいて、われわれは「精神性」が人間の本質を特徴づけるも
のであり、それゆえに、その不可逆的喪失をもって本人は「死んだ」とみな
すことができる、ということから出発するのである。このような規範設定に
はーここではたまたま、精神性が人間存在の決定的基準と説明されうるが
ゆえに「設定」なのであるが―、もちろん医学者も関与する。この関与
は、しかし、自然科学者または医師としてのその働きにおいてというより
も、むしろ共同体の価値決定に(ともに)責任を負う市民としての役割にお
いてであり、また、より高い専門知識において勝ってはいるが、しかし、原
(85)多くに代わるものとして、 Bockelma 冗ル, Strafrecht des Arztes (注( 1)), S. 109;
Stratenwerth, Zurn juristischen Begriff des Todes, Festschrift fUr Engisch, 1969, S. 528, 543,
参照。
(86) Leuenberger,Probleme urn das Lebensende, in:Herz,u. a. (Hrsg.),Handbuch der
christlichen Ethik, Bd. 2, 1978, S. 95 If. ,参照。そのかぎりではいずれにせよ、死の概念はど
のような純「記述的要素」をも含んでいない。死はひとつの過程であり、定義上、一定の基準
(たとえば精神性)を手がかりに決定的な境目を設定するほかはないからである。
第1章医学と刑法31
則としてどのような政策的=規範的な特権をも有していない。それというの
も、どのような本質的特性が人間存在にとって決定的であるのかという、生
命保護の根拠と範囲にとって決定的な問題は、言葉の最も広い意味において
「政治的なもの」であり、それは、とくに法共同体としての「ポリス
(polis )」が責任を負うべき、それゆえにまた原則としてすべての市民が(と
もに)担うべき、法共同体の根本的な価値決断であるからである。もちろ
ん、死を定義するに当たっては、純私的な団体、もしくはせいぜいのところ
職業倫理的に権威のある団体の原初的権限に、多くは残されていないという
ことも無視することができない。けれども、これに何らかの変更があったと
しても、死の時期の定義に含まれる規範的な根本的決断はーつまり「精
神」を人間存在の本質的特性とすることは―、それが法共同体によって
ーたとえ(通例として)暗黙裡のものにすぎなくとも―承認されるときに
のみ、またその場合にはじめて法的拘東性を要求することができる、という
ことを見誤ってはならないのである。この次元では、その限度で、医学者は
固有の権限によってではなく、せいぜいのところ法共同体の代理人として、
任務を遂行するのである。
(b)
これに対して死の認定基準が問題となっているかぎり、つまりは、
どのような器官に人間の「精神性」はその生物学的基礎を有しているのか、
またどのような症候にこの機能の不可逆的喪失を見て取ることができるの
か、という問題にかかわるかぎり、それゆえにまた、死の徴候を間うかぎり
では、医学者は、市民としてではなく自然科学者としてのその特性において
間われるのである。それというのも、精神性の中枢としての脳がまだ生きて
いるか、またどの範囲まで生きているか、どのような徴候がその壊死を示し
ているかは、―いずれにせよ原理的には―人間学的評価の問題ではな
く、自然科学的経験の問題であって、立法者が死の認定基準を法律的に規定
しようとする場合であっても、これに変わりはないからである。立法者は、
これによって基本的に、経験的事実を統一的な適用目的のために宣言的には
っきりさせようとするにすぎない。それゆえ、医学者の私的団体による死の
定義が、いっさいの精神性の喪失という―規範的に(暗黙裡に)予定され
た―目標に、脳死という医学的=経験的な基準に照らし合わせることに限
32
定されている以上、これに対しては、何ら法的にも異議を申し立てる余地は
ない( 87)
具体的な当てはめの過程、つまり、個別的場合にこの認定基準を手がかり
にある人が死んだと見られるのか、という問題においても、それに応じて経
験的な事実と決定的にかかわるのであり、したがって、その証拠に基づく解
答では、法律家も、典型的な場合では医学者の特殊専門知識に頼らないわけ
にはゆかないのである。
(c)
さ らに、集中治療を一方とし、臓器移植を他方として、部分的に対
立する利益を死の異なる概念によって調整しようと試みられる(88)ならば、
死の概念の法益的に重要な含意がいっそう明らかになるであろう。これによ
れば、たとえば、もっぱら患者の生命維持利益が問題となっているところで
は、死の時,点はできるだけ遅く設定されなければならないのに対し、臓器移
植の場合は、臓器受容者の救助利益を顧慮して、提供者の死をできるだけ早
い時期に認定することになるであろう。しかし、これでは死の定義の評価的
性格力ーー方では生命維持に、他方では他者の救助にというように―、
一定の利益によって決定的に規定されることになるが、このことは無視でき
ない問題であろう。
この種の方向づけが考慮にも値しない、というつもりはない。ただ、死の
概念を明らかに曲げることや分裂させることが、そのための正道であるのか
は、決定的に疑問としなければならない。一見して純医学上の必要から死の
概念の定義変更を行うのであれば、そこに含まれている価値内容が容易に隠
蔽されることになる、というばかりではない。生命保護にとって本質的な死
(87)このような死の徴候について詳しくは、 Schwerd, Rechtsmedizin, 1979, S. 199 If .このよ
うな徴候を認定するに当たってさえ規範的な前域への憂慮すべき境界逸脱がどれほど紛れ込み
やすいか は、先に触れた外科医の指針 I, 2 号{注( 83) }のなかで、「脳死はすでに心臓停止の
時点で捉えられやすい」と前提されていることが示している。それというのも、脳死は』ふ臓停
止後、通常、5秒から6秒の時間的隔たりをもって起こることから、このような前提の下では
脳死の医学的認定基準だけでなく、死の概念の規範的に重要な前倒しが問題となるからであ
る。したがって、徐々に、また不可逆的に死にゆく者への(あり得る)蘇生術を辛うじて消極
的な臨死介助のための基本原則に従って断念することができても、すでに心臓停止をもって本
人は死んだということを、それが正当化するわけではない。
(88)これについてたとえば、 Saerbeck, Beginn und Ende des Lebens als Rechtsbegriffe,
1974 ,とくに S. 123 If. 参照。
第1章医学と刑法33
の定義が、ありうる移植体受容者の救助のためという、他律的な側面によっ
て改窟されようとするならば、そこからはほとんど予測し難い結果を招来す
ることもありうるからである。受容者の救助利益がどれほど正当であろうと
も、それを顧慮することは、―たとえば同意原則および/または緊急避難
の原則を志向した移植法によって、というように―他の方法で考えるべき
であろう。それゆえに、ョーロッパ議会もすでに、正当に も死期の規定に当
たって死にゆぐ者自身以外の利益を考慮に入れることには、はっきりと反対
したのである(89)。他者の利益の影響をこのように警戒することほど、死の
概念の規範的内容を明確に表現しているものはほとんどないということがで
きよう(9の。
2 治療中断における価値的側面
この種の保護問題は、少なくない衝撃力をもって、死にゆく現象の前面に
立ち現れる。そのために、さらに、「臨死介助( Sterbehilfe) 」という広い領
域のなかから、医師の間では好んで純医学的関心事として理解されるが、厳
密に見ると一連の評価問題を含んでいる問題、つまり治療中断を通して死に
ゆくに委ねるという問題が、しかも、患者のどのような意思表明もこれに対
応していない場合について、さらに選び出されるべきであろう。それという
のも、自己決定権の尊重とは異なり、それゆえにまた、自殺の問題性と関係
づけられる「承諾を得て死なせる」場合とは異なり、ここで問題となってい
る「一方的な」治療中断は、生命保護それ自体にかかわっているからであ
る。
医師は、:いつーそれも自らの決断に基づいて―治療の引き受けを見合
わせること、ないしはすでに開始した治療を中断することが許されるのかと
いう問題も、死期の問題と同様に、純医学的関心事として理解されることが
稀ではない(
(91) 。しかし、ここでも、この種の決断の持つ評価内容が無視さ
(89) 1976年ョーロッパ議会「患者と死者の権利に関する」613号決議第4 項=「死の時,点を確
定するに当たっては死にゆく者の利益以外の利益が考慮されてはならない。」
(90)全体としてはさらに、Geilen, Legislative Erwagungen zum Todeszeitproblem, in:
Eser, Suizid (注( 79)),S. 301 ff. ,参照。
(91)とくに(最近物故した)麻酔専門医 R. Fたクが 1976 年4 月26日付の Spiegel 紙との会見、
34
れているのである。このことは、いまだ脳死には至っていないが、しかし重
大な脳損傷の結果として不可逆的な無意識状態に陥り、徐々に死に近づいて
いる失外套症候群患者「 Apalliker =植物人間」について明らかである。こ
の場合、生命維持を継続する義務は、端的に死の時点を前に移すことによっ
て免れうる、と多くの人によって信じられている。しかし、いわば「生ける
屍」(92)の無限の看護から病院の負担を免除するこ とに、どれほど理解を示す
ことができるにしても、この種のはっきりとした術策によって死の時点を前
に移すことには、ある種の評価が潜んでいることが決して見逃されてはなら
ない。しかも、もはやすべての精神性の喪失ではなく、すでにコミュニケー
ション能力の障害が目標とされ、これを人格的存在の特性と説明される場合
は、なおさらである。それゆえ、医師の使命の内在的制約ということにまで
遡って、よく考えられなければならないのである。医師の使命が生命の量
的=生物学的延引それ自体のためにあるとは言い難く、患者に最小限度の自
己実現もしくは少なくとも自覚を得させることにある、というほかないので
あれば、いずれにせよ不可逆的意識喪失をもって(継続的)治療義務がなく
なるということもありうるわけである( 93)
とはいえ、医師の努力の継続が「無意味」と思われるがゆえに、医師がそ
れをやめようとする場合( 94) であっても、その決断は、医学的要素とならん
で最終的には規範的な、それもとくに「生命の意味」に方向づけられた価値
によって、ともに規定されるのである。「無意味」ということが、より医学
的に「無目的」もしくは「見込みがない」という意味において理解される場
合でさえ、その決断は、目標基準値に依存しているからである。そこではた
んに、この目標を達成することがもはやできないという認定にかかわるにす
ぎないかぎりでは、事実上、結果回避が不可能であり、それゆえに保障義務
も脱落するという、純医学的な所見が問題となっている。これに対し、―
Nr. 18, S. 92, 94 ,でこのように言っている。既述の外科医の指針もこれと同じ傾向にあること
について、 Eser, in: Auer/M と冗 zel/Eser (注(7の) ,S. 120 Fn. 163 ,参照。
2) Geilen, (注( 90),S. 308.
3)これについて詳しくは、 Eser, in: Auer/Menzel/Eser (注( 79)), S. 129ff. 参照。
4) とりわけ医師層に支配的な見解がそうである。 Eser, in: Auer/ ルた nzel ノ Eser (注( 79))
S. 126 Fn. 182
第1章医学と刑法35
その(結果回避は不可能とする)所見の前提となっている―目標設定にかかわ
るかぎり、規範的要素もひとつの役割を演じる。医師は、どのような前提の
もとに生命維持の継続的処置を「無意味」もしくは「無目的」と見るのか、
ということが彼に間われるならば、このことが明らかになるであろう。死の
発現が医療手段の投入をやめさせるときにはじめて、彼がそのように考える
という立場であれば、そこでは生命それ自体が、それもこの生命がなお何ら
かのコミュニケーション能力のある質を有しているかとは関係なく、承認さ
れている。これに対して、医師にはすでに、主たる病気が不治であることが
明らかであり、生命維持のための刺激を与えても根本的には死にゆく者の苦
痛を延ばすだけにすぎない場合、さらに癌患者に併発した肺炎を、その過酷
な確実さが意識される前に患者を死なせるために、利用するという場合、そ
の背後には、より質的な生命観、それゆえにまた、再び一定のーそれも前
のとは異なる―評価が潜んでいる。あるいは、奇形のままに生まれてきた
子を、たとえば医師がその子を過酷な運命から、そしてまた家族と社会を看
護に要する過度の出費から、免れさせなければならないと信じたがゆえに死
なせるとき、そこにはーーイ也人の生命の意味の評価と並んで―生命の相対
化ということも隠されているのである。そこでは、生命が、損得計算が可能
で衡量する ことができる、実質的な利益のもとに)順位づけることさえできる
価値となっているのである。しばしば同情の念から娩曲に表現されてはいて
も、この種の「早期安楽死」では、まさに社会功利的な優生学も問題になっ
ているのである( 95)
一方的な治療中断のための可能な基準を間う、ここで提起された問題を、
これ以上に追及することはできないが(96)、問題は、結局のところ、生命保
護は厳格に、生物学的生命それ自体の「神聖さ」に向けられているのか、そ
れともここでも何らかの「質的な」側面がともに顧慮されるのか、という原
(95)この問題性について詳しくは、
Eser, Grenzen der Behandlungspflicht aus rechtlichen
Sicht, in:Lawi 冗/ II加 th (Hrsg.),Grenzen der a rztlichen Aufklarungs- und Behandlungs ・
pflicht, 1982, S. 77 ff.; Artur Ka げ加an冗, Zur ethischen und strafrechtlichen Beurteilung der
sog. Frtiheuthanasie, JZ 1982, 481ff.; R. Schmidt, Eugenische Indikation vor und nach der
Geburt, Festschrift fUr Kiug, Bd. II, 1983, S. 329 ft.
(96)これについて詳しくは、 Eser, in: Auer/Menzel/Eser (注(7の) ,S. 83 ff.
36
則問題に帰着する。これに対する法史の解答は―他の箇所で述べたよう
に((97)― いずれにあるともいうことができない。そして将来に向けても、
一面的な絶対化の代わりに、何とか耐えうる妥協が求められることになるで
あろう。それというのも、一方において生命の「神聖さ」の尊重が形式的な
口実のために固執され、具体的な人の意味のある要求が抑圧されるようなこ
とがあってはならず、他方で、生命の質を求めるあま り、その優先的な実存
要求の根底が掘り崩されるようなことがあってもならないからである。
3 自殺意思の尊重
先に言及された問題は、自殺の場合にも要求に基づく殺人の場合にも、と
もに立ち現れる、生命の保護と自己決定との緊張関係において、いっそう明
らかになる。ここでも、結局のところ、生命の「神聖さ」と「質」とが問題
となっているからである。純然たる神聖観では、生命は、個人の意思や評価
を顧慮することなく保護に値する利益を意味しているのに対して、質的な見
方では、一定の器官、能力または機能の(事実上のまたは想像上の)喪失があれ
ば、個人に、その生命はもはや生きるに値しないと』思うことを許し、またそ
こから、彼に自殺または安楽死に訴えることを許す。生と死についての自己
決定の要求には、そのかぎりで、「質的な」生命理解への根本的な要請が含
まれているのである。
この2つの考え方に対して、ドイツ法は、周知のように一種の折衷的な立
場に立.っている。すなわち自殺(ないしはその未遂)が処罰されない可能性を
本人自身には認容するのであるが、第三者には(ドイッ刑法第216条により)本
人の自殺要求に応ずることを禁じているのである。もっとも、この禁止が妥
当するのは、第三者が正犯として(他人の被殺要求を満たすたためにその)他人
を殺す場合に限られているのであって、本人の自殺への関与は処罰されな
い。ただし、(不可罰的)自殺関与と何罰的な)要求に基づく殺人という、こ
のような一一」固別的な限界には困難を伴うが、いずれにせよ原理的には明確
(97) Eser,Zwischen ,,Heiligkeit" und ,,Qualitat" des Lebens, in:Tradition und Fortschritt
im Recht, Festschrift zum 500 jahrigen Bestehen der Tubigener Juristenfakultat, 1977, S.
377 If.
第1章医学と刑法37
な―区別(
(98)は、自由答責的に行われた自殺の場合でさえ、いずれにせよ
自殺者が行為無能力であれば、保証人は救助を義務づけられているのであ
り、この義務は、ドイツ刑法第323条C 「救助不履行罪」により何人にもあ
るとする連邦通常裁判所の判例(99)によって、その大部分が失効させられて
いる。自殺関与の(法律上の)不可罰が、このように広い範囲にわたってそ
の反対のものに逆転しているのは、根本的には自殺意思が無視されているこ
とに基づいている。そのかぎりで、そこに神聖さを志向する生命の保護が表
現されているのである。その一方で、この問題領域に関する最近の連邦通常
裁判所の判決( Wittig 事件)(10のが医師に生命救助処置の採否についての自己
答責的決断を認容したことには、それだけにいっそう驚かずにはいられな
い。そこでは、医師は「法秩序と職業倫理の準則」に従わなければならない
とはいえ、同時に、他人の生命に対する一種の処分権が、それも本人の自己
決定が無視されることがありうる場合であっても、認容されているのであ
る。それというのも、患者の自殺意思は医師の決断の内部における他の衡量
諸要素のひとつにすぎないのであり、それゆえに無視されることもありうる
ということからすると、患者の自己決定は、実際上、医師による他者決定に
転化させられることになるからである。自己の生命についての自己決定をそ
もそも「権利」という意味において用いることができるのか、については争
いがありうるにしても、たんなる自己決定の利益でさえーまさに生と死に
関する他人の決断に対してー―何ら顧みられなくなるであろう。それゆえ、
判例におけるこの新たな変更には重大な疑念があり、とくに自殺の場合を超
えて、その他の「承諾を得て死なせる」領域にも及びうる波及効果は、見通
し難い。この問題についてはすでに他の論文で詳しく触れた(
(101 )ので、ここ
ではこのような問題点の指摘だけでよしとしておこう。
OJC
ソ
8)iの
n
判例と学説における様々な限界づけの試みについて詳しくは、多くの例証を伴う Eser
Schtinke/Schrdder , §216 Rdn. 11.
これについて基本的なのは、BGHSt 2, 150; 6, 147,ならびに最近のものとしては、 Wittig
mff囲01)
-事件に関する BGH JZ 1984, 893 m. Anm. R. Schmidt 、その他の詳細については、 Jah戒e,
:LK, Vorbem. 21ff. vor§ 211; Bottke, Suizid und Strafrecht, 1982 ,とくに、 S. 57 ff., 272
参照。
これについて詳しくは、 Eser, in: Eser, Suizid (注( 79), S. 394 ff.
Eser, Sterbehilfe und a rztliche Verantwortung, MedR 1985, H. 1, S. 25 ff.
38
V 出生前の生命および健康の保護
妊娠中絶は、治療侵襲における説明および医術過誤の問題性とならんで、
疑いもなく、医事刑法の主要な問題領域に属している。それゆえに、判例
が、すでにきわめて早い時期からこれと取り組んできた(
学の特別な関心を喚起してきた(
(103) のである。とはいえ、
102)
のと同様に、法
1976 年の改正以降
も、妊娠中絶は、刑法理論にとっても刑事政策にとっても、ひとつの問題児
であり続けている。山積する問題群のうち、ここでは再び、第一次的に法益
に関係づけられたいくらかの側面に言及することしかできない。
1 保護の欠訣性
出生前の生命の保護構成要件にとって特徴的なのは、それらが、すでには
じめから断片的な性格を有しているということである。
(a) このことは、すでに、生成中の生命の健康悪化と身体の完全性への
侵襲についていうことができる。出生後の人であってはじめて、ドイツ刑法
第223条「傷害罪」のなかで保護されている「他人」に当てはまるのであり、
そのさい―殺人構成要件の場合と同様に―出生にとって決定的な時期は
陣痛の開始時にあるとされる( 104) からである。これに従えば、出生前の侵襲
が胎児の死を招来しないかぎり、それが出生後にまで影響を及ぼし始める場
合にのみ、刑法第223条によって刑法的に捕捉される(
(105) 。これは、たとえば
出生前に子宮内で羊水穿刺によって生じうるような傷害は、何らかの実験的
操作と同様に、刑法的には捕捉されず、そのさい、この不処罰を治療行為に
組み入れる必要すらないことを意味している。それゆえに出生前の胎児は、
せいぜいのところ妊婦の身体の完全性を通して間接的にしか保護されていな
(102) RGSt 61, 242, 249 ff .の論証を参照。
(103 )多くに代わるものとして、 Radbruch, Geburtshilfe und Strafrecht, 1907 参照。
(104 )これについては、最近のものとして、 BGHSt 32, 149; L 虎 ttger, Geburtsbeginn und
pranatale Einwirkungen mit postnatalen Folgen, NStZ 1983, 481 If. 参照。
(105 )これについて詳しくは―異説との限界づけについても ―Eser. in: SchOnke/
Schrdder,§ 223 Rdn. 1 a.
第1章医学と刑法39
いのであり、それも妊婦がその身体の完全性への侵襲を拒絶した場合にかぎ
られる。
(b) しかし、出生前の生命の段滅に対する保護が問題となっている場合
であっても、刑法的保護は断片的なものでしかない。それというのも、受精
卵の子宮内膜への着床が完了する前に作用を及ぽす行為は、「改正前の」ド
イツ升Ii法第219条によれば妊娠中絶には当たらず、その時点でこれを段滅ま
たは壊死させても、もともと処罰されること はないからである。それゆえ、
この段階での侵襲には、適応性も「改正前の」ドイツ刑法第218条、218条a
にいう医師による実施も必要ではなく、何らかの助言または適応認定基準
(「改正前の」刑法第 218. 219 条)を顧慮する必要もない。
(c) 早期段階におけるこのような無保護は、もっぱら着床を阻止する侵
襲から妊娠中絶という汚名を除去するかぎりでのみ、これを是認することが
できよう( 106) 。しかし、最近では、 人間遺伝学と生殖医学の急速な発達の結
果として、こうした刑法的に自由な余地にも問題がないではないことが明ら
かにされてきた。それらカー対外受精や」不移入のように―治療目的のた
めに用いられるに当たって、婦人科医が「過剰な」月玉をどのように処理して
も、すなわち、それを後の授精のために凍結保存しても、ただたんに捨て去
っても、彼は、いずれにせよ現在は刑法的には全く自由である、という理由
によるばかり でない。』玉細胞における遺伝子組み換えといった科学目的を追
究するための月玉の産出を含め、生命工学上のいっさいの実験のためにも、こ
うした自由な余地は開かれているのである( 107) 。とりわけ「貸与母( Leihmutter) 」の場合では、遺伝子上の母親性と懐胎上の母親性との一致が崩壊する
ために、最小限、解明を必要としている、家族法および身分法上の問題が生
じうる((108 )のであるが、これを度外視するにしても、―刑法的にも重要で
(106) Gropp,Der straflose Schwangerschaftsabbruch, 1981, S, 35 ff. 参照。
(107)この種の処置を「治療行為」もしくは「人体実験」として法的に編別することについて詳
しくは、 Eser, Recht und Humangenetik, in: Koswolowski/Kreuzer/Ldw (Hrsg.), Die
Verfugunf durch das Machbare, 1983, S. 49 ff. 卵子および/または精子提供者の一種の処分権
から生じうる何らかの告1」約について詳しくは、 Koch, In- Vutri - Fertilisation und Embryotransfer-Moderne Fortpflanzungstechnik auf dem Prtifstand des Rechts, MedR 1985,
H. 2 参照。
(108)これについても、Koch(注(107)),さらに、Bilsdo施r, Rechtliche Probleme der In-
4O
ありうる一一保護の問題が、とりわけ次の2 つの観点において現われる。
第1 には、受精卵が子宮内膜に移植されないかぎり、それを任意に、また
任意の期間にわたって実験の対象とすることが許されるか、ということが間
題となる。それというのも、ある男子の精子によって受精したある女子の卵
子では、ともかくもヒ「という種に特有の(したがって純植物的ではない)生命
が問題になっているからであるa こうした状況のもとで、これを恐意的に操
作し、さらには段滅することさえ許されるとすべきであろうか。この種の生
命は、どのような法益の担い手でもないがゆえに、これを肯定することがで
きる、と信じる者は、法秩序は、ほかにも多くの実質的な財貨を、たとえば
文イヒ的な収集品(ドイツ刑法第304条)のように十分な価値があると見るとき
は、たとえその所有者に対してであっても保護していることを考えるべきで
あろう。これに対して、人工的に受精させられたヒ「の胎児であれば、何ゆ
えに実際上「無保護の」もとに置かれ、どのような実験の対象にもされうる
のかを、人の造ったものであれば任意に破壊することも許されると,信‘じるこ
とによって、たしかに音「分的には説明することができよう。創造者、支配者
そして審判官としての研究者―これは、長い眼で見れば、おそらく、全く
抑制のない人間遺伝学から生じうる、人間的ないっさいのものを随意に操作
し、処理することができるという、危険きわまりない態度である。こうした
危険を防止するには、直ちに刑法的禁止ではなくとも、ヒ「の種に特有の生
命との関わりに当たって、濫用を阻止する何らかの規制を考えるべきであろ
う(109)。
またこのことは、第2に、人口政策上の理由からも、すなわちーョーロ
ッパ議会でそのように規定された―「ヒトの遺伝形質が模造されない権
利」( 110) の保護のためにも、言うことができる。この種の権利は、―その
Vitro-Fertilisation und des Embryotransfers,MDR 1984,803 ff.1 Coester-U 乞 lt;'en,Befruchtungs-und Gentechnologie beim Menschen,FamRZ 1984,230 ff. 参照。
(109)多くの国ですでに実施されている、ヒ「と動物の卵子細胞と精子細胞との融合が問題とな
っているときはャ、っそうのことそうである。これについては次に述べることとともに、Eser.
Humangenetik:Rechtliche und soZialpolitische Aspekte,in:Reiter/Theile(Hrsg.),
Genetik und Moral,1986 参照。
(11の遺伝子操作4・1号に関するョーロ、ソパ議会勧告93号( 1982 年)、 BT-Drucks,9/1983 5. 1
f.
第1章医学と刑法41
実存的なありよう( So-sein) にとって構成的であるがゆえにーすでに未生
の生命にも与えられてしかるべきものだからである。そのうえ、公共の利益
のためにも、人間飼育的な優生学の試みは、統制のもとに置かれなければな
らないのである。
いずれにせよ、こうした危険が、そうこうするうちに国の内外を間わず、
すでに様々な委員会が、これに必要な法的規制に従事するほどに(
(111) 、差し
迫ったもの と見られているのである。これが、どの程度まで一一行政上のガ
イドラインや民法上の説明および責任規定を超えて―升り法上の保護構成要
件にも及ぶのかは、現時点では、いまだ見極めることができない。
2 出生前の生命と他の利益との衡量
しかし、出生前の生命が刑法的に保護される場合でさえ、「改正前の」ド
イツ升Ii法第218条a の適応事由により、様々な妊婦の反対利益のために後退
を余儀なくされている。しかも、この反対利益は、妊婦が生命または健康上
の危険にさらされている場合にかぎらず、心理的または社会的な葛藤状態に
ある場合にも、認められる。そしてこのことは、出生前の生命には、原則と
して、出生後のそれより低次のどのような質的価値も帰せられないとされて
いる((112 )にもかかわらず、全くそうなのである。純社会的な要求の優位さ
え、なお正当化事由として把握することに、人間として無理からぬ事情があ
り、これを理論的に根拠づけることのできる方法がありうるとしても(
(11叱
これによって出生前の生命が、衡量可能となり、実利的利益によって排除し
(111) Eser, Genetik, Gen-Ethik, Gen-Recht?, in:Mitteilungen Dt. Gesellschaft fur Chirurgie
13 (1984), 135 ff.
そこに言及された箱根会議の討議内容は最近、公表された。 The Japan
Foundation, Conference on Life Science and Mankind, Tokio 1984. (同じくそこに言及さ
れた)連邦議会調査委員会ならびに省際的な「体外受精、ゲノム分析および遺伝子治療に関す
る研究班」は、とりわけ連邦科学技術省における専門家の議論の記録に基づいている。(同省
編)Ethische und rechtliche Problem der Anwendung zellbiologischer und gentechnischer
Methoden am Menschen, 1984 参照。
(112) BVerfGE 39, 37, ならびに―反対意見についても ―Eser. in; Sch 伽 ke/Sch ガder,
Vorbem. 5 vor § 218 参照。
(113)― もっとも議論の余地がなくもないーこの見解については、一方では、Gro効,(注
(106)), 5. 52ff. 他方で、 Eser, Die Rechtswidrigkeit des Aborts, MedR 1983, 57 ff. 参照。
私の立場について詳しくは、 Eser, in: Sch 伽 ke/Schrdder,§ 218a Rdn. 5 f.
42
うる価値になること、つまりは(母体の)生命の質が(子の)生命の実存に優
先することになるということが、看過されてはならない。妊婦のための他の
人的処罰阻却事由がこれに加わると(
(114) 、胎児の保護要求は、いずれにせよ
その母親に対しては、いっそう例外へと逆転させられるように思われるので
ある。
3 医師の特殊な答責性
とくに医学と刑法との関係を問題とする論考においては、この側面を不間
にしておくわけにはゆかない。当該法益の保護が、妊娠中絶の場合ほど集中
的に医師の答責性のもとに置かれるような領域は、ほかにはほとんど存在し
ていないからである(
(115) 。関連諸規定の遵守についての最終的な統制は、刑
事司法に留保されているとはいえ、法律上の保護目的の実際的な有効性は、
何といっても医師の良心に大き く依存している。医師は、一定の判断の幅を
加えて認容されている「医師の認識」(「改正前の」ドイツ刑法第218条a 第1 項第
2号、第2項)に準拠して、適応条件を認定しなければならない(「改正前の」
同第219条)というばかりでない。彼はまた、妊婦に助言を与え(「改正前の」同
第218条b)、中絶の実施の責任を引き受けなければならない(
(116)
「改正前の」同
第218条a第1項)のである。およそ80'ぐーセン「にも及ぶ驚くべき高率の社
会的適応事由による妊娠中絶の申し立て(
(117) にかんがみて、とりわけ恐れら
れるのは、医師層が立法者の保護期待を全く正当に評価していないというこ
とである。
(114)受精後22週以内に医師による助言に従って実施される適応事由のない中絶の場合(「改正
前の」刑法第218条第3項第2文)、特別な苦境にある場合(「改正前の」同第218条a)、たん
なる未遂の場合(「改正前の」同第214条第4 項第2 文)ならびに一般的に、補充的ないっさい
の保護規定(「改正前の」同第218条b第1項第2号、第219条第1項第2文、第219条C第2
項)の場合がそうである。
(115) Lilie (注( 124)),S. 111 ff .参照。
(116 )医師が妊娠中絶に関与しうる諸々の役割について詳しくは、 Eser, in: Eser ノ Hirsch
(Hrsg.),Sterilisation und Schwangerschaftsabbruch, 1980, S. 125 f. 参照。
(117) Statistische Jahrbuch fur die Bundesrepublik Deutschland, 1984, S. 384 参照。
第1章医学と刑法43
VI 医師と患者との間の信頼性の保護
医師の職業上の秘密の保持は、昔から医事法と医師の職業倫理の根本的な
規範となってきた(
(118) 。それは、信頼ある治療関係の根本的前提であり、そ
れゆえに、究極的には患者の健康上の利益にも役立っている(
(119) 。その根拠
は、患者個人の秘密保持への、それもその一般的な人格権の発露(基本法第
1条第1項、第2条第1項)としての、患者の利益のなかに見出される(
(12の。こ
の要保護性に、刑法は、二重の仕方で考慮を払っている。すなわち、一方で
は、医師に刑法的制裁のもとに秘密保持義務を課すことにより、他方では、
訴訟上の証言拒否権を認容することによってである。
1 秘密保持義務と情報の交換
とは・いえ、ドイツ刑法第203条の秘密保護構成要件は、患者のこのような
個人的法益を超え、職業関係者の守秘への信頼に決定的に依存している保健
機関の有効な機能という公共の利益にも、優先的ではないにせよ、役立つべ
きものとされる(
(121)
(118 )これについてはすでに、 Sauter, Das Berufsgeheimnis und sein strafrechtlicher Schutz,
1910, S. 17 f .さらに、 Lenc たル er, Arztliches Berufsgeheimnis, in: Gdppi 呼 r (Hrsg.); Arzt
und Recht, 1966, S. 159 f. 参照。
(119 )医師と患者との関係における信頼の要素の格別な意義については、 とくにC戒ル del と
Buchborn とによる論考、 in: F. -X ん叱加 ann (Hrsg.), Arzliches Handein zwischen
Paragraphen und Vertrauen, 1984, S. 130 ff., 152 ff. 参照。
(12の BVerfG NJW 1972, 1123 :Laufs (注( 55)),S. 73 1. 参照。
(121 )とくにLeル ckner, in: Schdnke ノ& hrdder,5 203 Rdn. 3 カー反対意見との論争において
―このように述べている。この見解はもちろん、保健機関に従事する一定の職業集団の人的
範囲を制限することから導き出されるのであるが、それだけでは完全に納得させることができ
ない。それというのも立法者が刑法第203条で名宛人の範囲を選別「医療関係では第1 項で、
医務、歯科医、薬剤師もしくは業務の遂行または業務名称の使用が国家的に規制された訓練を
必要としている他の医療関係者に限定されている……訳者注」することにより、類型的にとく
に敏感な秘密領域を刑事制裁の対象とし、このようにして刑事司法を(たとえば一般的な「う
わさ話」に見られるような)重要でない純私的な秘密侵害には、はじめから刑事制裁を省くこ
とにしたとすれば、行為者の範囲の制限は、刑法第203条の法益に関係する決断というよりは、
むしろ立法技術の問題だといえよう。それはともかく、公共の保健機関の優先的保護を認める
場合でも、治療師「 Heilpraktiker =医師ではないが正規の許可を受けている者……訳者注」
44
しかし、このような社会的保護機能を強調すると、直ちに反対利益も同時
に現われてくる。分業による医療看護と管理という今日的条件のもとで、保
健機関がその役割を果たすことができるためには、有効な秘密保護だけでな
く、おそらくは有効な情報の流れということが、いっそう大きな意味を持つ
であろうからである。秘密保護の利益とにこでは医学の進歩という形をとった)
健康の利益との間の、このような内在的な緊張関係は、とりわけ「診療簿」
の整理と範囲をめぐる論争において顕著なものになっている(
(122) 。それ自体
が刑法第203条にいう秘密保持義務に属する事実に関係しているこうした情
報の需要は、とりわけ次の3 つの領域において生じる。
.
.
.
●●.
●.
●●
(もっぱら具体的に当該患者自身の利益における)医療的処置に
一ひとつには
複数の医師、看護婦および間診補助者が協働しているだ
おいて。ここでは
けでなく、その他の (専門)医、救急、検査、作業療法その他の部門にまで
広がりつつある。
●●
一いまひとつには、健康保険において。ここでは、(やはり患者の利益にお
いて)処置データが給付の保証と控除のために捕捉されていなければならな
しユ。
.
.
.
.
一
●●
一最後に、(潜在的な患者のための)医学的研究において。ここでは、統計
学的方法に基づく疫学が、まさに(癌の場合のように)広く蔓延した病状の場
合に、有望な成果を期待することができるが、そのためには、できるだけ広
くかつ使用可能なデータのストソクを頼りとするほかはない。
このような情報量の膨張については、すでにドイツ刑法第203条第1項第
1 号と第6 号の新設規定において、(旧第300条の規定と比べて)守秘義務の範囲
を拡大することを通して、部分的には考慮が払われた。しかし、データ処理
技術の進歩と研究および行政における情報の渇望カーもちろんこれにはつ
の排除は、これを容易に説明することができる。彼らは、患者の視点からは本来、医師と同じ
秘密保持義務に服していなければのであるが、社会的な視,点からすれば、彼らには明らかに
(疑問があるにしても)、保健機関の有効な働きにとってはほとんど重要でないことが証明され
るであろうからである。この問題性について歴史的に啓発されるところが多いものとして、す
でに Kahi, ZStW 29 (190 の, S. 351 ff.
(122 )たとえば、Leれ ze, Datenshutz und Krebsregister, Off. Gesundheitswesen 43 (1981), S.
524, 583 ff ;さらに、 Das Protokoll einer Diskussion zwischen Arzten und Datenschutzern,
in :Buld der Wissenschaft 1982, H. 10. S. 148 ff.,参照。
第1章医学と刑法45
ねに情報の客観的な需要が対応しているとはかぎらない―、秘密保持に対
する今日の刑法的規制を不十分にさせているように,思われる。たとえば、あ
る秘密の開示は、刑法上の基準によれば、特殊な正当化事由がそのために存
在しているときにのみ、なしうるのであり、そのさい、とくに同意、推定的
同意、正当化する緊急避難および義務衝突、ならびに開示権または開示義務
についての特別法上の規定(
(123) が問題となる。大量のデータが流動する必然
性にかんがみ、事実的同意も推定的同意も、データの交通量が見渡し難いた
めに、個人にとっては擬制されることがますます多くなり、また、正当化す
る緊急避難と義務衝突の適用も稀にしか許されないことから、そこでは後者
「特別法上の規定」の重要性が、いやがうえにも増してくる。刑法以外の医
事情報法一―ここではとくに情報保護が重要である→のこうした振替え
により、刑法第203条とも重複して、その見通しがますます複雑なものとな
る((124) 。とりわけ公務上の告知義務(
(125) を顧慮すれば、守秘の問題は、医師
にとってはもはや義務としてではなく、権利として立ち現われてくる。そこ
では、しかし、医師=患者の紛争領域は、もはやそれほど問題ではなくな
り、医師と患者に共通する利益としての医師の守秘利益のほうが問題となっ
てくる。
こうしたデータ保護にかかわる紛争の克服については、 実際的にも理論的
にも、いまだ決着はついていないが、これを度外視するにしても、刑法第
203条の内部においてさえ、守秘義務の範囲について、なおいくつかの不明
瞭な,点が存在している。たとえば、守秘義務は守秘義務者同士の間でも、と
くに他の医師に対しても妥当するのであり、したがって、開示には、原則と
して先に挙げた正当化事由のひとつを必要としているというこど 126) が、医
師層にはいまだ全く一般に知られていないのである。医師の職業規則が、患
者が「何か別に指定しない」かぎり、すでに守秘義務が解除されているとみ
23)個別的な,点については、 Lenck れ er, in: Schdnke-SchrOder,§ 203 Rdn. 21ff. ;参照。
24)この問題,点については一般的に、 Lilie, Medizische Datenverarbeitung, Schweigepflicht
und Personlichkeitsrecht, im deutschen und amerikanischen Recht, 1980;さらに、Deutsch,
Arztrecht (注( 36)),S. 131 ff.
25) Lilie (注( 124)), S. 111 ff. ,参照。
26)個別的な点については、 Lenck 冗 er, in: Sc/i 伽 ke-Sch 庖der,§ 203 Rdn. 19, 27 ,参照。
46
なす(
(127) ときも、この厳格な守秘命令を必要とされる明確性において、表現
していないのである。
2 訴訟上の証言拒否権
医師と患者との信頼性がいきなり訴訟のなかに紛れ込むことのないように
するために、守秘義務は、対応する医師の証言拒否権( §§53, Abs. 1 Nr. 3, 53a,
76 StPO) およびその補足規定としての押収禁止( 597 StPO) によって守られ
ている( 128) 。もっとも、守秘義務者と証言拒否権者との範囲は、完全に一致
しているわけではない。証言拒否をなしうる者は、治療任務のある関係者だ
けであり、保険および清算部門にある協働者には及ばないからである(
(129)
これは、さしあたり一貫していないようにも見えようが、しかし、訴追利益
の重視によって正当化される。この利益が、治療任務の関係者ほどには患者
の私的領域に密接に関係しない職業集団の守秘義務を、刑事手続きのために
例外的に抑制することを許すのである。しかし、刑事訴訟法第53条、第97条
に含まれていない職業的心理学者の集団は、このような論拠には納得がいか
ないであろ う。彼らがこれに含まれていないということは、彼らの守秘義務
が刑法第203条第1 項第2号のなかで実体法的に固定されていることからも、
首尾一貫していないし、とりわけ(とくに犯罪を犯しやすい)噌癖性精神病者の
治療は心理学者が引き受けるというその働きからして、法政策上の議論を呼
ぶ。彼らは、ある紛争状況においてせいぜいのところ刑事訴訟法第53条a
「業務補助者の証言拒否権」を援用することができるにすぎない。しかし、
だからといって、当該事案ではつねに、彼らが医師の「補助者」として働い
ていたことを前提とするわけにもいかないことは、いうまでもない(
(130)
ここでは、あまりにも多く周辺的な問題が扱われたかもしれないが、それ
(127 )ドイツの医師のための模範職業規則第2 条第6 項。さらに、 Laufs, (注( 55)), S. 77 参照。
(128 )同じことは広く、民事および行政上の手続についても言うことができる。 5383 Abs. 1 Nr.
6 ZPO,§ 98 VwGO.参照。
(129) Kleink ル echt/M り er, StPO. 36. Aufi. 1983,§ 53 Rdn. 16 参照。もっともそのさい、(たと
えば社会保険における)公務に従事する者についての刑事訴訟法第54条から生じ得る一定の制
限が顧慮されなければならない。
(13のこの問題性についてはほかに、 BVerfGE 33, 367
(噌癖相談所のカルテの押収)参照。
第1章医学と刑法47
でも、患者の健康回復にとっても重要な信頼性保護が、依然として十分に広
い範囲で保障されていないことが明らかにされているのである。
VII 刑法の指導機能および強化機能
●●●
医師と患者との関係において危険にさらされることがありうる特殊刑法的
保護が、ここで強調されたからといって、それは、決して、刑法が第一次的
.
または排他的な保護手段でなければならない、というように理解されてはな
らない。反対に、刑法は、ここでも法益保護の最後の手段( ultima rati ので
しかありえないのであり、医師と患者との関係においても、他の社会秩序機
構または法的な規制システムが保護の 必要に十分適切に対応することができ
ないときにはじめて、刑法が発動されるべきであろう。そこで、医療の領域
●●●
●
. ●.
. ●
●.
では、職業法や医の倫理だけではなく、公法および私法上の規制システムを
通して、一部は予防により、一部は賠償により、保護が考えられるべきであ
る。とりわけ、医学的に必要とされる治療水準の確保ならびに説明義務の遵
守は、関連する民事判例を通して広く保障されるのであろう。具体的な法益
保護を超えた一般予防的保護と答責意識の強化についても、とくに私法上の
医療過誤訴訟は、すでにその数量ゆえに、数少ない刑事手続きよりもむしろ
少なからざる感銘力を、医療に携わる人々に対して有しているといってよ
く、それゆえにまた、不法行為法の予防的機能は、刑法のそれに劣らないと
いえよう。
とはいえ、これらすべてが刑法に完全に取って代わることができるわけの
ものでもない。ここでも、刑法規範の意義と有効性は、刑事手続きの数量を
見るだけで読み取ることはできないのであり、医療の領域でも、もっぱら関
連判例が相対的に少ないということだけで、すでに刑法を不必要としている
わけではない。一定の法益が刑法的に保護されるということを通して、この
法益が格別に重要であることが強調されるのであって、この補充的な保護力
の有効性は、数量で決まるのではないことが、そのような考えでは無視され
し
ている。 保護を安定したものにする刑法のーそれもただ存在しているとい
●.
●.
うことだけで有しているーこの強化機能が、すでにその公的な声望ゆえに
48
原則としてまさに法的に忠実な態度が求められる医師のような職業階層の場
合、過少に見積もられてはならない(
(131) 。さし、らに、刑法の指導機能も、過少
に評価されてはならない(
(132) 。このことはとりわけ、医の倫理そのものが変
革中であり、とくに遺伝子技術と生殖医学の領域におけるような、医学上の
可能性の新しい分野が開かれつつある時代において、妥当する。刑法は、こ
こでも、いっさいの濫用を阻止する万能薬ではありえないとしても、刑法的
保護の保障によって一定の利益にとって価値があるということが、一般の意
識のなかに高められはするのである。この意味において刑法は、―医師と
患者双方にとって利益となる―「倫理形成力」というものを有しているの
である。
(131 )だからといって、医師はすでに軽微な過失によるどのような治療過誤にも刑法的に責任を
負わなければならないのかとなると、全く別問題である。誤判という形をとった「法的技術過
誤」の場合では、裁判官の刑法上の責任を故意による「法の歪曲」「ドイツ刑法第336条―裁
判官、公務員、仲裁裁判官が法律事件の運営または裁判に際し一方当事者の利益または不利益
になるように故意に法を歪曲したときは、5 年以下の自由刑に処せられる……訳者注」に限定
し、それには直接的故意さえ要求することにれが以前の通説であった。とくに BGHSt 10,
294 参照。これについて今日の論争状況も含めて詳しくは、 Cramer, in: SchOnke ノ& hrOder,
§ 336 Rdn. 7; Rudoiphi, in: SK,§ 336 Rdn. 19 f. )に全く十分な理由があったのと同様に、医師
からもいっさいの過失を犯罪とすることによって阻害要因となりうるような不安が除去される
べきであろう。その,点でも、 1975 年の新ォーストリア刑法が模範となりえよう。その第88条第
2 項によれば、医術の実施に際して傷害が生じても医師にはどのような重い責任も間われず、
また健康悪化の結果が一定の(時間的および重大性に限定した)枠内にとどまるときは、医師
は処罰されない。個別的な,点については、Kie冗姐ル 1, GrundriB des osterreichen Strafrechts,
Bes. Teil I, 2 Aufi. 1984, S. 125 1 .参照。この種の「医師の特権」の法技術上の理解について
は争いがありうるにしても、原則的に重大な過失に限定することから実質的な正当化を否認す
ることは困難であろう。同じ意味において、 Deutsch, Arztrecht (注( 36)), S. 1251.
(132 )一般に医師と患者との関係におけるーそれもとくに倫理との関係における―法の役割
については、 Eser, Der Arzt zwischen Eigenverantwortlichkeit und Recht, in: Mieth/
Weber (Hrsg.),Anspruch der Wirklichkeit und und christlicher Glaube, 1980, S. 166, 183
If. これに加筆した版としてさらに、 ders., in: F. -X, Kauft 冗a冗n (注(11の、 5. 111, 124 ff .参
照。
第2章生命の保護49
第2章生命の保護
―法制史的比較から見た現在のドイツ法―
この種の学会は、いま切望されている。そうでなければ、このように集ま
って議論する必要もない。この種の学会は、多くは一定の先行理解から出発
している。このことは、たいていは学会のプログラムの序言から読み取るこ
とができる。そこでは、まずは未出生の生命およびその保護の縮減について
語られている。それも、生命の保護がどのみち次第に後退じているという考
え方を背景として語られているのである。そしてその背後には、生命―す
なわちまだ生まれていない人の生命とすでに生まれている人の生命―が、
人類の歴史において、まさに現在におけるほど高度に危殆に瀕したことはな
かった、ということの広汎な承認が置かれている。それはまた、人間が死を
独断的に惹起することによって死を乗り越えようとし、しかもそのさいに、
それによって生命が窓意にゆだねられてしまうことを認識しない、という点
に表われている。そして最後に、それは、とりわけ生命の創造についても、
その実さらには抹殺についてさえ、何ら超え難い限界がないように思われる
生物学および医学の全能思想へと収束することになる。
このような傾向が進行するなかでは、伝統的に不可侵で「神聖な」ものと
考えられてきた生命が、次第に強く「質的な」評価にさらされ、これによっ
て同時に必然的に、他の諸価値との比較衡量にさらされるように思われるこ
とも、驚くには値しない。このことは、「神聖性」に方向づけられた生命の
保護から、より「質的な」考察への展開が、はたしてまたどれほどに、長期
にわたって実際に確認されうるのか、その原因はどこにあるのか、という間
題を追及するのに十分な理由となっている。以下では、この目的のために、
とりわけ近代の初頭における刑法上の生命の保護と現在のドイツ法における
それとを比較することにしたい。
まさにこのような比較の対象が選ばれるのは、刑法の歴史上きわめて重要
な記念の年という幸運な偶然のなせる業である。それというのも、いまから
50
ちょうど450年前が、当時の「神聖ローマ帝国」にとって帝国統一の刑法典
すなわち1532年のカール5世の「刑事裁判令」の誕生の年だったからであ
る。ところで、ョーロッパ大陸の広範な部分においておおよそ350年の間、
少なくとも補充的に通用していたこの「カロリナ刑事法典(CCC)」と現行法
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る種の頂,点であったことを意味しているからである。すなわち、この法律に
おいて、ローマ法系の地方で差別的に穴だらけにされていた生命保護および
ゲルマン法上の贈罪金実務に、神聖性に方向づけられた生命観という教会法
の影響のもとで、ひとつの融合が生じたのであり、これが、生命の保護をそ
れまでには達せられることのなかった高みにまで導いたのである。
このような経過に立ち入る前に、方法上の前置きを述べておくことが許さ
れよう。ここでは生命の「神聖性」と「質」とが対置されているが、これに
よって強調されようとしているのは、たんにある種の方向づけの観点だけで
ある。そこにいう「神聖性」とは、人間の生命それ自体を、何らかの身体
的-精神的な欠陥もしくは社会的有用性を顧慮することなしに、尊重しよう
1_1
一r、ヘフートーさープ/ア×1レ石己コナ、+ヒ1
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(ーしノN 、-0ノ7
うことで意味しているのは、生命をすでにそれ自体として不可侵かつ衡量不
能なものと宣言するのではなく、質的に段階づけることができるもの、いず
れにせよ必ずしも最初から他の諸利益とのいっさいの衡量を排斥するもので
はないとする、すべての考え方である。この2 つの識別基準は、これを意識
的に漠然としたものにしたのであり、生命の「神聖性」および「質」という
ように、それぞれに括弧付きのものと考えることが求められる。
」沫一工1工グロナ,
XEH×
プ1プ七ナっ_七戸14 「士山耳口,Hト1 1一ーtご「台1ノfl千戸わナブ箱石浩1み×ニわ
とも「質」に方向づけられた傾向かという問題を、以下の2つの展開の歩み
において跡づけることにしたい。まず第1の歩みにおいて、1532年のカロリ
ナが比較の対象に据えられ、次いで第2 の歩みにおいて、当時、達成されて
いた水準と今日の刑法における生命保護とが比較される。そこでは、生命の
保護についての特別のウイークポイント、すなわち堕胎・嬰児殺・自殺・安
楽死の各点を扱うことにしたい。
第2章生命の保護51
I カロリナに至るまでの生命の刑法上の保護
●●.
(a)
●●.
.
●.
.
●●●●
本題に入る前にまず、人間の生命が原則的に保護に値することにつ
●●
いて述べることにする。この点に関するかぎり、カロリナの殺人諸構成要件
のなかに、堕胎と嬰児殺とをひとまず除外するならば、何らの人的な制限も
か
見て取ることはできない。たしかに殺人の客体については、たんに「人」、
「子供」もしくは「被殺者」と述べられているにすぎない。しかし、カロリ
ナがそれによって人間として生を受けた者すべての存在を考えていたこと、
それも性別・年齢・身分もしくは健康状態を考慮に入れていなかったこと
に、疑いの余地はない。これによれば、精神病者も病気により衰弱した者
も、あるいはすでに瀕死の状態にある者も、同様に完全な生命の保護を享有
していた。その例外をなしていたのは、いわゆる奇形体( Monstrum) および
無権利の宣告を受けた者だけであった。この点については、後にまた触れる
ことにする。
. ●●●
このような原則的な平等評価とは異なって、ローマ法においては、人間は
必ずしも平等ではなかった。たしかに実際の実務については多くのことが不
明であるが、それにもかかわらず、十二表法のもとではなお「自由人
(homo liber) 」を殺害した者だけが謀殺者であるという古代ローマ法が通用
していたといえる。公的な生命保護をこのように自由な市民に限定すること
は、奴隷の殺害力ー奴隷は人間でなく、たんなる物であるという理由から
ーたんなる私的な財産犯、すなわちたんなる器物損壊にしか該当しないと
いう帰結を有していた。しかもこの帰結でさえ、問題となっているのは他人
の奴隷であることを前提としているのであり、主人が自分の奴隷を殺害して
も何らの制裁も受けることはなかった。不自由人もまた人間として認められ
るようようになってはじめて、殺人法についての基礎法である1 世紀の「殺
人に関するコルネリア法( lex corneria de sicariis) 」が、次第に奴隷の殺害に
も適用されるようになったのである。とはいえ、実務上それを完全に殺人の
構成要件に含めることが達成されたのは、ようやくコンスタンチヌス帝のも
とにおいてであったといってよい。
52
古代ローマ法における人間の生命の身分によるこのような差別、それゆえ
にまた質的な差別について特徴的なのは、特定の階級の者が、すでに根本か
ら人間として保護に値するとは認められていなかったということであり、そ
れゆえにまた、生命が、それぞれ個としての実存および実在とは認められて
おらず、それぞれの社会的役割においてのみ認められていたということであ
る。
同様にゲルマンの法思想にとっても、奴隷は 「人」ではなく、たんに「法
律上の動産」にすぎなかった。そのようなものとして奴隷は、彼の所有者の
支配権に服していたのであり、その支配権は、場合によっては殺害にも及ん
でいた。それほど明瞭とはいえないが、民衆法的に構成された制度である相
異なった贈罪金の査定もまた、同様に身分に方向づけられた生命の評価に基
づいていたということができるであろう。そのような査定は、一部では中世
の末期に至るまで維持さ れえたのである。これによれば、人間の死に対する
贈罪の実行としての「頭格評価( aestimatio capitis )」に基づき、自由人の人
頭金(Wergeld) に合わせて整序され、身分・性別・年齢に従って段階づけ
られた贈罪表が決められていたのであり、そこでは、たとえば婦人に出産能
力があること、あるいは子供が洗礼を受けていることが、査定におけるプラ
スの得点として考慮に入れられていた。
生命のこのような価値的段階づけが認識されてはじめて、カロリナの人間
像を十分によく評価することが可能になる。たとえ個人が、依然として封建
法によって配置され、社会階層に従って段階づけられることが可能であった
にせよ、またそういうところにおいてであったにせよ、刑法的に人間として
保護に値するという,点では、カロリナは、主人と奴隷、男と女、学識者と無
学者、健康な者と重病者を、原則として平等のもとに置いていたのである。
それ以前の質的差別をこのように克服したということは、キリスト教の影響
なしには考えることができない。ギリスト教によれば、生命は神の贈り物で
あり、それは賜物であると同時に使命であると理解されなければならないか
らである。ところで、すべての人間は、神の被造物として、他の人間とその
本質において原則として平等である。それというのも「神が人間の創造者で
あり、守護者であり、救済者であるということが、最もみすぼらしい生命を
第2章生命の保護53
もまた、神の前では生きるに値するものにする」 (Bonhoeffer )からである。
そのかぎりで人間の生命は、身分的な質あるいは社会的な身分を顧慮するこ
となく、それ自体として「神聖」であり、不可侵である。中世法に対する教
会的諸原則の影響が増大するに従って、このような生命の即自的価値として
の評価が、ついにカロリナへの入り口をも見出したのである。
(b)
このように精神化された生命の見方は、堕胎および嬰児殺の可罰性
の,点に、より明瞭に表現されている。すでに出生した生命は、身体的に把握
可能であり、それゆえにその保護も容易に理解されうるのに対して、未出生
の生命を尊重することは―今日においてもつねに繰り返し排除されている
―次のような考え方をその前提としている。すなわち生命権というもの
は、r自立可能性( Auf-eigenen-Fuf3en-stehen--Konnen) 」に依存しているのでは
なく、萌芽として設定された人に属するものであるという考え方である。身
体的な自立性を公然と過大に評価する立場からすれば、ローマ法が帝政時代
に至るまで堕胎を不間にしていたということも、何ら驚くには当たらない。
堕胎は、たしかに不道徳であると感じられていたのであり、家長はそれを懲
戒の対象とすることができた。その後、共和制の終わり頃には、とりわけ上
層階級において次第に堕胎が蔓延し、社会的な害悪として公に非難されるに
至り、さらにセべロ帝( Septimus Severus )の時代(紀元200年頃)以来、刑が科
せられるようになったのである。しかし、堕胎が不妊術と同列に置かれてい
たことが示しているように、そこで問題とされていたのは、個人の生命の保
護というよりも、むしろ人口政策的な利害であったといってよいであろう。
ちょうど、まだ落ちていない木の実が木の一部とみなされるように、胎児は
たんに「母体の内臓の一部( mulieris portio vel viscerum) 」とみなされていた
のである。ここ数年来のデモにおいて「私の腹は私のもの」というスローガ
ンによって声高に表現されていたのに見られるように、その点に解放にとっ
てのスローガンをローマ法上に見出したいと考える者は、もちろんローマの
男性の利己的利益を過少に評価していることになる。それというのも、今日
ではたしかに、男性は子供を作り出し、子供が生まれた場合には扶養するこ
とが許されているが、出生の前にそれを抹殺するのを妨げてはならないのに
対し、それとは異なって、ローマ法は、堕胎を父親の権利に対する侵害と見
54
ていたからである。その理由は、堕胎によって父親はその正統な後継者を奪
われるということにあった。生まれてきた子供を捨てる父親の権利は、諸皇
帝のもとではじめて抑制されたが、このような権利の背後にも社会衛生的な
諸理由があったと推定することは、許されよう。これは、いずれにせよ奇形
児(MIBgeburt) の場合に行われていたことであり、その殺害は、古い習俗に
よれは父親の義務としてさえ通用していたのである。
事情はギリシャの偉大な哲学者にとっても同様であり、人間の生命にはそ
れ自体として価値があるのではなく、その社会的有用性に依存していると考
えられていた。すなわち、プラ「ンがその『国家( Politeia )』のなかで教示
していたように、婦人たちは「番人たる家系を純粋に維持する」ために、そ
れぞれ生まれた子供を管轄当局に連れて行かなければならず、もし「損傷の
ある子供が生まれてきた場合には、人を寄せ付け ない知られざる土地にその
子供を埋めなければならない」とされていたからである。同様の意味でアリ
ストテレスは、すでに両親が扶養することができる限度の子供を有している
場合には、堕胎するように助言しなければならないと考えていた。
すでに社会ダーウィニズムの印象を与えるこのような生命の評価は、未出
生の者および新生の者の固有の権利について、いまだ何らの理解も示してい
ないように』思われるのであるが、これに対してゲルマンの民衆法およびラン
ト法においては、堕胎および嬰児殺が次第に強く断罪されるようになってい
た。このような生命の保護の強化もまた、教会の影響を離れて説明すること
はできない。そのさい決定的な要点になったのは、霊魂についての教会の教
義であった。すなわち、人間にとってその霊魂が(あるいは霊魂もまた)本質
的であるとするならば、生命の保護はもはや身体の状態または社会にとって
の有用性を志向するものであってはならないのであり、むしろ霊魂もまた尊
重されなければならないという教義である。この新しい神学的=人間学的な
見方は、とりわけ次の3様のあり方で発現した。
一第1 に、未出生の者に対する生命の保護を強化し、独立化することを通
して。それというのも、もし霊魂が人間的存在の本質的な部分を構成してお
り、しかもすでに胎児に注ぎ込まれているとするならば、胎児は、その霊魂
吹き込み(Beseelung)の時点から、人間的存在として、すなわち、独自の権
第2章生命の保護55
利に基づく個別的な人格の萌芽として保護に値することになり、たんに母親
の身体の一部ではないことになるからである。かくして教会法大全( CorPus
Juris Cannonid )は、アウグスティヌスに依拠して、堕胎者を「殺人者
(homicida)」と称することが許される、と考えたのである。
一第2 に、生命の「神聖性」について語ることもまた、このような人間の
精神化された見方にその淵源を有していると いえよう。それというのも、も
し人間がその霊魂を通して神の生命に関与しうる者であるとするならば、人
間は、肉体と霊魂の統一体として、自然を超えて神聖なるタブーの領域へと
高められるからである。
一しかしながら、第3 に、他面において、人間を霊魂に根拠づけるという
ことは、その保護を限定することにも導かないわけにはいかなかった。それ
というのも、もし生命の尊重が霊魂が吹き込まれた人間にのみ値するのであ
れば、その霊魂が否認されなければならないと考えられたすべての存在者
は、保護されなくてよいことになるからである。このことは初期の段階にお
ける胎児に妥当し、とりわけいわゆる奇形体に妥当するものとされていた。
この種の教会法的人間学が刑法に及ぽした影響は、最終的にはカロリナの
なかにも明瞭に読み取ることができる。すなわち、一方では、堕胎・嬰児.
殺・新生児の遺棄が通常の殺人と原則として同列に置かれることにより、保
護を拡大する方向において見出され、他方では、堕胎について「生存可能な
(lebendig)」子供の堕胎と「生存不能な(nichtlebendig)」子供の堕胎とが区別
され、「生存不能な」子供の場合、その処罰は法に精通せる者の裁量にゆだ
ねられ、いずれにせよ死刑は適用されないのに対して、すでに「生存可能」
と認められる胎児の男性による堕胎は、殺人として同様に斬首によって、妊
婦によるそれは、溺殺によって贈うべきものとされたことにより(カロリナ
刑法第133条)、保護を限定する方向において見出されるのである。これによ
って、「生存可能な存在」という基準に、堕胎者の運命にとっても文字どお
り生死にかかわる意義が与えられたのである(最も逆符号付きに、ということに
なるが)。この「生存可能」については、それを「生存能力( lebensf 加19」と
いう意味において解釈することができるとする少数説に対して、むしろ教会
法の意味において、それを「霊魂が吹き込まれた」と解釈するほうが多数の
56
支持を得ていた。それは、とりわけ当時では、「形成された( formatus )」、
「生気が与えられた( vivificatus )」もしくは「霊化された( animatus )」といっ
た表現が一般に同じ意味に理解されていた、という理由による。
このようにして、実務は、いつからそのような霊魂の吹き込みが開始され
るのかという、ほとんど解決不能な時間の問題に直面することになった。一
部は、90日以降の胎児は霊魂が吹き込まれたものとみなしたアリス「テレス
に依拠し、また一部は、モーゼ書の誤った解釈から、男性の胎児( Fαus )は
女性のそれよりも2 倍早く霊魂が吹き込まれると信じていたように思われる
のであるが、そのような解釈に基づいて、決定的な境目は圧倒的に妊娠40 日
目に置かれていた。今日の視点から見れば、このような争いはお笑い種とさ
れるのが通常であろう。しかし、今日、初期の胎児にはたんなる「細胞の
塊J としての僅少な価値しか認めない見解がきわめて進歩的なものとして主
張されているのである。しかし、それは、かの「形成された」と「形成され
ていない」とを区別した考え方とそれほど隔たっているわけではない。それ
はそれとして、いずれにせよ歴史的意義を有しているのは、人間存在にとっ
て本質的なものとされた霊魂吹き込みの問題が、たんに講壇理論家たちの頭
を働かせていたばかりでなく、堕胎司法をも支配していた、 という事実であ
る。
さらに、この霊魂吹き込み説「生気説」のきわめて問題をはらんでいる反
面が隠蔽されてはならない。すなわち、それによればいわゆる奇形体の殺害
が一般的に許容されるということである。このことは、たしかに霊魂が排除
されうると信じられる存在、それゆえにその時代の見解によれば人間の本質
的な徴しが欠けている存在は、はじめから全く生命の保護によってカヴァー
されないとするかぎりでは、理論的に一貫しているように』思われる。それと
いうのも、その基礎におかれている人間学に基づくならば、そのことによっ
て生命の「神聖性」に触れられることはないからである。もちろん、問題
は、それがどのような犠牲のもとに行われるのかである。そこでは、体系内
在的な首尾一貫性が、望ましくないと考えられた生命を最初から人間の概念
から排除することによって贈われているのである。そのかぎりにおいて、霊
魂吹き込み説によっても、生命は生物学的に実在しているという理由からす
第2章生命の保護57
でに神聖なのではなく、ただそれが特定の人間学的な質に合致しているかぎ
りにおいてのみ神聖なのである。
(c)
生命の初期段階と同様に、生命の終結についての考察もまた、刑法
上の生命の評価についてある種の解明を提供することができるであろう。そ
れというのも、法が「いかなる犠牲を払っても」かつ「最後の一息に至るま
で」生命の維持を命じているのか、それとも自らの手もしくは第三者の手に
よる生命の短縮を許容するのかに応じて、それぞれ生命の不可侵性か、それ
とも操作可能性かについての推論が、逆に導き出されるからである。このこ
と同時に、自殺および安楽死の許容性という問題が投げかけられるのである
が、この問題については、カロリナ自体からはたんに断片的な考え方を知る
ことしかできない。
まず「自殺に対する升り罰( straff eygener t ひ tung )」に関してカロリナ(第 135
条)は、生命および財産を喪失すべく宣告された犯罪者の自殺と身体的また
は精神的な障害の結果として自殺した場合とを、たしかに区別している。し
かし、この区別から導き出される帰結は、たんに遺産の運命にかかわってい
るだけである。すなわち、「通常の」自殺の場合では、遺産は相続人にその
まま残されるのに対して、財産没収と結びついた死刑を自殺によって未然に
防ごうとした犯罪者の財産は、相続人から(領主の利益のために)奪われるの
である。もっとも、カロリナからは、自殺未遂に対する刑罰も自殺帯助に対
する刑罰も読み取ることはできない。また、その他のインフォーマルな制裁
についても沈黙している。そのことから、カロリナが自殺を原則として許容
している、少なくとも免責されると考えている、もしくはいずれにせよ犯罪
ではないと考えている、といった帰結を導き出すことができるか否かは、カ
ロリナの通用した全期間にわたっ て争われ続けた。いずれにせよ、実務に関
していえば、教会法の影響を過少に評価することはできない。教会法は、ア
ウグスティヌス以来、自殺を一般的に神の殺人禁止に対する侵害として否認
してきたのであり、教会に埋葬することの拒否によって、それに制裁を科し
てきたのである。そこから皮剥ぎ場でのいわゆるロバの埋葬( Eselbegr 加-
nis)」による自殺既遂者に対する市民的名誉の剥奪までは、ほんの一歩であ
ったのであ り、結局のところ、それは自殺未遂者に対する処罰へと至る歩み
58
であったのである。
それゆえに、カロリナから少なくとも当時の財産没収実務の濫用に制限的
に対処しようとする善意を想定することは、たしかに許されるのであるが、
しかし、それを越えて自殺否認の放棄、あるいはさらに自殺の自由の公言を
引き出そうとするのであれば、それはかの時代の精神と矛盾することになる
であろう。それというのも、自己の生命もまた、―たとえそれがどれほど
惨めなものであろうとも―神から与えられたものであるがゆえに、神聖で
あったからである。かくして、精神的な打撃から生命を放棄した者だけが、
神の恩寵と人間の慈悲とを当てにすることが許されたのである。
(d) このような基盤に立った上で、カロリナにおける同意に基づく殺人
の許容を援用して、臨死介助( Sterbehilfe) を少しでも容易にしようと試み
ることは驚くに値しないが、しかし、これは無駄な努力である。すなわち、
生命の自己の手による放棄が決して許されないとすれば、他人の手による殺
害は、はるかに許されることの少ないものではないであろうか。そのことに
よって、カロリナがローマ法と対立しているわけでもない。それというの
も、(事情によっては)処罰されない自殺とは異り、要求に基づく殺人の場合
には、それが「欲する者には害は無きはずなり( volenti non fit injjuria)J の原
則に従って、正当化されたものとして通用することができたか否かは、何ら
確実ではないからである。いずれにせよ、瀕死の患者を死にゆくにまかせた
場合、古代人は、医師に対してそれ以上の治療を意味のないものとして禁止
することを通して、ある種の容認を行っていたように思われるのである。
(e) 全体として高度で包括的な生命の保護を示しているこのような観念
像は、しかし、このような防壁に対する様々な破壊を視野に入れていないも
のであるとしても、なおきわめて椀曲的なものにとどまる。そこでは(たと
えば古代ローマ法における奴隷、カロリナにおける奇形体のように)生物学的な生命
に対して、最初から人間存在であることが排除される諸事情は、あまり問題
とされず、人間の殺害が正当化されるように思われる諸事例が問題にされて
いるのである。それが、犯罪者に対して平和喪失宣告により人権を剥奪し、
直ちに射殺するために彼を平原に解き放つことによって行われるのか、ある
いは、た とえば正当防衛の場合のように、殺害に対する特別の正当化事由が
第2章生命の保護59
認められることによって行われるのかといった、この種の構成上の差違はこ
のさい重要ではない。それというのも、ここで問題になっているのは、どの
ような利益がその代わりに人間の生命を死の犠牲に供するほどに重要なもの
とみなされるのか、ということだからである。そのかぎりで、それぞれに生
命と他の諸利益との衡量が存在しているということは、たとえあの評価のメ
カニズムカt'--法律または慣習に よってすでに一般化された形で先取りされ
ているために一一」固別事例においてもはや認識することができないとして
も、これを否定することはできないのである。
このような見地からカロリナにおける生命の評価を考察するならば、その
神聖性のマン「は厭うべき穴だらけの様相を呈していることになる。戦争に
おける敵の殺害が、明文の許容なしに正当化されるとみなされてきたこと
は、人間の権力噌好の結果とはいえ、憂うべきことであるが、長い伝統に基
づくものであって驚くには値しない。正当防衛における殺人の許容も、今日
までに慣習化されてきたことの枠内において、これを維持することができ
る。それだけにますます惜然とさせられるのは、死刑による権利喪失宣告が
問題となっている場合における生命の廉価性である。死刑は、(カロリナの場
合)生命が生命と対置している殺人罪(カロリナ130条以下)にのみ科せられた
わけではない。?責神者(同106条)および悪意の魔術師(同第109条)も死刑に
処せられたのであり、同様に通貨偽造者(同第nl条)、性犯罪者(同第116条)
および強姦犯人(同第119条)、裏切り者および逃亡兵(同第124条)、放火犯人
(同第125条)および誘拐犯人(同第127条)とりわけ強盗犯人(同第126条)およ
び加重的窃盗犯人(同第160条、第162条、第171条)も、死刑に処せられたので
ある。たとえそのさいには、その当時の人々の観念によれば価値の高い諸法
益が問題となっていたことを顧慮するにせよ、なお、生命が必ずしもすべて
の衡量から免れることはなかったということ、さらには必要とあれば純物質
的な所有の利益のために生命を犠牲に供することが許されていたということ
は、看過することができないものとして残る。
ところでしかし、これによって同時に、もはや生命の絶対的な不可侵性を
話題とすることはできないことになる。権利喪失の理論は、すでに平和喪失
の根拠に置かれ、また死刑の擁護者によってつねに繰り返しでっち上げられ
60
てきたが、このように案出された権利喪失理論によっては、せいぜいのとこ
ろ、そのことを隠蔽することができるだけであって、事柄に即して解明し尽
くすことはできないのである。それというのも、死刑を正当化事由と解し、
それゆえにまた、その侵害に制裁が科せられるべき法益の犯罪者に対する優
位を認めるのか、それともすでに犯行によってその生命は喪失したものとみ
なされるのかにかかわりなく、生命は衡量可能なものか、あるいは社会的=
法的に質的な区別を受けうるものなのか、いずれかであるという,点は、その
解明を避けて通ることができないことだからである。しかし、それによって
同時に、生命は、もはや絶対的に不可侵的なものではなく、せいぜいのとこ
ろ相対的に不可侵的なものとなる。そして、あたかも段階づけられた生命尊
重の相対性が、さらに見かけの上でも可視的なものにされるべきであるとす
るかのように、中世においては、まさに犯罪的な空想を用いて、さらに恐る
べき死刑の強化が考え出されたのであり、そこでは、惨殺および絞首刑が、
溺殺もしくは火刑,車裂きの刑、研磨の刑あるいは生き埋めの刑に比べて、
なお人道的なものとして例外とされていたのである。
以上によって、カロ.リナにおける生命の評価は、まさに分裂した像を呈し
ていることが明らかになる。すなわち、死者に熱中するあまり、生者に対す
る人道性が忘れられていたよ うに思われるのである。生命の保護を生命の抹
殺によって貫徹しようとするならば、それによって神聖性の要求自体が廃棄
されることになる。また、他の法益を保護するために生命が抹殺されること
を許すのであれば、それによって、生命は、衡量可能な客体となるのであ
る。
II 現在の法とその展開
カロリナの検討から、それと現在のドイツ法およびその発展傾向との比較
に焦点を定めようとする場合には、とりわけ以下のような展開が注目に値す
るように思われる。
(a)
原則的に、人間の生命は、今日すべの利益のなかでも最も高い位に
置かれている。連邦憲法裁判所の表現によれば、生命は「人権のきわめて重
第2章生命の保護61
大な基盤であり、他のすべての基本権の前提条件」である(BVerfGE 39,1/
42)。生命に対するこのように高い評価は、すでに1813年のバイエルン刑法
典の半ば公式的な注釈のなかで、それまでにはほとんど見られかかったほど
に明瞭に表現されている。そこでは「胎児に対しても、息の絶えそうになっ
た老人に対しても、死が迫っている病人に対しても、死刑の宣告を受けた犯
罪者に対しても、同様にまた国籍・宗教・身分・年齢にかかわりなくすべて
の人間に対して、殺人という犯罪が行われうるということが、ここで人間と
いう言葉によって表現されているのである」と述べられているのである。
このようにすべての者に対して等しい生命への権利が承認されるというこ
とから、生命と生命とは相殺不可能であり、それゆえに、他人を殺すことに
よってのみ自らが救助されうるような、生命にとって危険のある緊急避難
(カルネアデスの板の例)も、せいぜいのところ免責されるだけであって、正当
化されることはない。このようにして「いかなる犠牲を払っても」かつ「最
後の一息に至るまで」生命を維持する義務が、憲法上の厳命ということにな
るのである。積極的安楽死のすべてが許容されなくなるということも、いう
までもない。要するに、生命には不可侵性という位階が与えられるというこ
とである。そしてこの位階を「神聖」』と呼ぶことについては、自らが不可知
論者として、すべての宗教的な強調に対して衡平に判断することができるよ
うな論者もまた、悼るところがないのである。
(b)
問題は、このような絶対性の要請が、どの程度まで、たんなるプロ
グラム規定にとどまらず、実際にも貫徹されているのかにある。この,点につ
いての疑間をーカロリナの場合と同様に―、今日の生命保護に対するい
くつかのウィークポイントについて明らかにすることにしたい。
そこでまず、殺人の禁止に対する3 つの「古典的な」例外(正当防衛、戦争
における殺人、死刑)について検討する。その第3 の死刑は、たしかに「旧」
西ドイツでは、憲法上遮断されていた。とはいえ、死刑は、意識の上ではな
お感染性を有しており、外国におけるセンセーショナルな死刑執行を通し
て、その効果および正当性が疑われているにもかかわらず、つねに繰り返し
現実の問題とされることがありうる。
死刑に対するこのよう な比較的に阻止的な傾向とは異なり、正当防衛にお
62
ける殺人はーそれが、個人的に特定の攻撃者に対するものであるにせよ、
あるいは「戦争における敵」に対するものであるにせよ―、いずれにせ
よ、実際にはむしろ拡大されてきた。さらに、個人の生命がどれほど低価値
のものであるかは、決して皮肉ではなく、核兵器の作用が「百万人の死
(Megatoten 」を単位として測られるにもかかわらず、その国際法上の放逐
をなお実現することができていない、ということによって表現されていると
いえよう。
(c)
ところで、殺人禁止に対するそのような「古典的な」例外の論拠と
して持ち出されるのは、ともかくも、それらカーいずれにせよ理念型とし
てーたんに違法な侵害に対する反作用であることを意味しているのであ
り、それゆえに抹殺された生命それ自体が前もって自らを危険にさらしてい
たのだ、ということである。この点に関するかぎり、正当防衛、死刑および
防衛戦争における殺人は、抹殺された生命が、攻撃者ではなく被害者である
ような、以下において考察されるべき諸事例、すなわち妊娠中絶、安楽死お
よび自殺の場合とは、根本的に異なっているのである。
生命保護にかかわるどのような構成要件も、妊娠中絶の場合ほどに、一方
では神聖性への傾向、他方では諸利益への顧慮というように、互いに対立し
た2つの方向性が歴然としてはいない。一面では、生成中の生命に対する原
則的な要保護性が、カロリナ以来、 持続的に強化されてきている。霊魂が吹
き込まれた生命と吹き込まれていない生命との区別は、普通法の実務が、霊
魂吹き込みの徴しとして身体的形成の程度、成熟度もしくは生存能力を指摘
するようになり、母体内で子供が動くことをその証拠とみなすようになった
かぎりで、なおその後も影響を持ち続けてきたのは確かなことである。そし
てこのような実務は、また、 1794 年のプロイセンー般ラント法に至るまでに
ドイツのラントで制定されたいくつかの地方法が、端的に妊娠の前半期にお
ける堕胎よりも後半期におけるそれを重く処罰したことによって、さらにそ
の基準が大まかなものになった。これに反して、すでに 1787 年のョセフィー
ナ升甘法典では、このような区別が試みられはしたが、しかし放棄されていた
のである。それが完全に克服されたと思われるのは、その後、すなわち 1813
年のバイエルン刑法典においてである。同法は、すべての堕胎を同等に処罰
第2章生命の保護63
することにした(第172条)。その他のラント法もそれに従ったので、1871年
の帝国刑法典では、堕胎の全般的な処罰、すなわち受胎時点からの処罰が、
問題なく認められたのである。
そこに表現された未出生の生命の要保護性は、原則として、 1974 年のドイ
、ソにおける「期限的解決」(妊娠3 カ月終了までに実施された中絶の不処罰)におい
てさえ否定されなかったのであり、ましてや現在の「改正前の」「適応事由
規定」(一定の適応事由が存在している場合にのみ刑罰から解放する=刑法第218条a)
には、そのまま当てはまる。それというのも、連邦憲法裁判所が「期限的解
決」の無効を宣告するに当たって法律と同様の効力を持って確定したよう
に、「すべての者」に保障されている生命への権利は、すでに胎児に対して
もまた、母親の保護意思には依存しない独立の法益として与えられているか
らである( BVerfGE 36,1 ノ 30 ff, )。これによって同時に、未出生の生命は、こ
れまでに達成されることのなかった高みへと引き上げられたのである。
とはいえ、他面においてーこれはメダルの裏面であるカー、生成中の
生命は、その近年の歴史のなかで、まさに今日におけるほどに様々な対立利
益にその優位を譲らなければならないことはなかったのである。生成中の生
命のための刑法上の保護の壁に向けられた第1 の破壊は、 1927 年のライヒ裁
判所による、いわゆる医学的適応事由の是認に見ることができる。これによ
れば、胎児は、母親の生命の利益だけでなく、その健康の利益に対しても、
後位に置かれるべきものとされた( RGSt 61,242 )。・ところで、これによって
問題とされたのはたんなる優先問題にすぎなかったのであるが、しかし、そ
の後、 1933/35 年のナチスの優生保護法に基づく優生学的適応事由によって
根本的に問題とされたのは、すでに生命権それ自体であった。すなわち、遺
伝的疾患のある子孫のためのどのような場所も、もはや社会には存在しない
とされたのである。このことを全く公然と人種政策=人口政策的な衡量によ
って根拠づけるか、あるいは利他主義的に、どのみち病気またはその他の望
まれない生命にとっては総じて生まれないほうがよかった、ということによ
って根拠づけるかはともかく、事実上、そにれよって、物理的に現存してい
る生命が、もはやそれ自体で神聖なものとしては妥当しない、むしろそのう
えに社会衛生的な「質の統制」というものが幅を効かせる、ということにな
64
らざるをえないことになるのである。
とりわけこの10年来の堕胎「法」改正を通して、未出生の生命は、次第に
評価と衡量の客体になってきた。それは、独自の人間の生命としての質が、
受精卵それ自体に対してすでに与えられているのではなく、最終的に「個体
化された」胎児に対してはじめて与えられるとし、したがってまた、刑法上
の保護が、そもそもいわゆる着床の完了によってはじめて設定されるとする
ことによ って(刑法第218条)、. すでに始まっている。このような資格認定は、
最初の3 カ月における妊娠中絶の自由化を、この生命段階があまり重要では
ないとすることによって根拠づけようとし、それによって同時にーたしか
に意図的ではないにせよーとうの昔に克服されたはずの霊魂吹き込み理論
を復活させようとするような様々な試みを通して、さらに続けられているの
である。最後に、このような傾向が、その資格認定上の低い評価の底,点を見
出すのは、ローマ法の諸々の考え方へと無意識的に逆戻りして、胎児が「子
宮の一部( portio ventris) 」に、したがってまた母親の従属的な部分にまで格
下げされるところにおいてである。
もっとも、現在の「改正前の」堕胎規定(刑法第218条a)における適応事
由規定も―胎児の独立的かつ全般的な生命権に基づいて整序されていると
はいえ―、その相対的に低い評価を理解するのに役立っている尺度であ
る。 このような低い評価は、実際のところ、生成中の生命に対して、妊婦の
精神的、身体的および社会的な危殆化との葛藤が問題となる場合には、なお
残存しているのである。たしかに、純粋に社会的な窮境を優先して正当化事
由とみなすことには、人間的に理解しうる根拠も、理論的に主張しうる根拠
も存在しているといってよい。それにもかかわらず、これによって同時に未
出生の生命が衡量可能な価値になるということは、看過されてはならないこ
ととして残る。(母親の)生命の質が、(子の)生命の実存に優先しているので
ある。さらに、それに加えて妊婦に対する広範な人的処罰阻却事由が採用さ
れるとき(「改正前の」刑法第218条第3項)、胎児のための保護の要請は、実際
には、むしろ例外へと転化させられているように』思われるのである。
(d)
生命の神聖性への要請が、さらに厳しい試練に立たされていること
を矢日らせるのは、いわゆる奇形体の場合である。妊娠中絶は、ともかくも妊
第2章生命の保護65
婦のために、という緊急避難の観点から説明することができるのに対して、
奇形体の場合は、人間の質、それゆえにまたすでに人間の原則的な要保護性
が、問題にされているのである。カロリナは、奇形体には霊魂が欠けている
という理由から、要保護性を否認することができると考えた。しかし、この
ような「無邪気な段階」は、結局のところ、すでに霊魂吹き込み説の放棄と
ともに過ぎ去っているのであり、遅くともナチスの安楽死行動を通して、完
全に信用を失っているのである。生物学や医学も、この問題を必ずしも容易
にするものではなかった。それらは、先天的奇形体と後天的奇形体とを明確
に限界づける可能性を、両者の流動的な移行を指摘することを通して争い、
さらに多くの障害が技術的に除去することができることを指示してきたので
ある。他面において、精神的または身体的に重い障害を有している者は、慈
悲深い死が彼らを急襲しない場合には過酷な運命に直面することもありうる
こと、そしてそれが家族にとっては筆舌に尽くし難い負担を意味することが
ありうることも、看過することはできない。このようにして、実際には、あ
らかじめ人間の質を否認することによって、保護のすべての義務づけを最初
から回避しようとする誘惑が大きくなり、新生児を、たとえ積極的に殺害は
しないとしても、いずれにせよ生存のために必要とされる処置を放棄するこ
とにより、死ぬにまかせることが許される、と考えるようになる。このよう
に死ぬにまかせるということは、すでにひそかに、決してもはや稀にではな
く、行われているのである。
それだけにますます差し迫って、このような歩みの基本的な意義を自覚す
るということが必要とされるのである。それというのも、もはや身体的な存
在それ自体が人間の本質をなすのではなく、身体の形態、精神的能力の程
度、固有の自己保存能力、あるいはさらに社会的な有用性が、決定的な基準
とされるや否や、質的な生命へのルビコンは、完全に越えられたことになる
からである。
(e)
同様の問題は、生命の終結についても生ずる。それもすでに死の概
念について生ずるのである。死は、その要素を確定する必要がないほどに
「単純な自然現象」であるとしたサヴィニーの見解のように、以前の法は、
なお素朴な見解を持つ余裕があったのに対して、われわれは、 今日、次のよ
66
うな死の生物学的=医学的な認定と対決させられている。すなわち、それに
よれば、様々な生命の機能は異なった速度で壊死するのであり、また部分的
にそれらを互い独立して蘇生させることができるのである。これによって同
時に、とりわけ心臓、循環および呼吸の停止という古典的な死の指標は、疑
間の余地のあるものとなった。それというのも、もしこのような出来事を死
と同置するとすれば、それと同時に生命の保護義務も終結することになり、
その結果として循環は停止したが脳の諸機能はいまだ完全に無傷である場合
でさえ、蘇生の義務が否認されることになるからである。逆に、完全に脳が
破壊された事故の被害者の場合でさえ、ただ心臓が拍動しているかぎり、生
命維持のためのすべての処置が継続されなければならないことになる。ここ
で、その被害者が臓器提供者として問題になっているわけではないことは、
いうまでもない。
この問題が最終的にどのように解決されるべきかは、本稿ではペンディン
グにしておくほかはない。ここでは、死の時,点という問題が、―たしかに
広く行われているように―医学的=実用的な事柄の性質に由来する強制の
問題に倭小化されることを通して基本的に見誤られているということの原理
的な確認だけを、本質的なこととして指摘するだけにしておく。それという
のも、特定の死の概念に賛成するか反対するかの決断は、同時に特定の人間
像についての規範的な先行決定を含意しているからである。人間存在にとっ
て決定的なのは身体的=生物学的な生命だけであると見る場合には、原則と
して、そのような生命の一片でもなお存在しているかぎり、それを延長する
義務が存在していることになり、他方、そうではなくて、脳死というものを
顧慮しようとする場合には、人間であることの徴しをその精神性に認めるこ
とが前提になっているからである。このよう にして、しかし、われわれは、
またしても「質的な」生命観の傍らに置かれていることになる。それは―
人間学的な評価に基づいているがゆえに―規範的な性質を有しているので
あり、それゆえにまた、法的な再制約を必要としているのである。
(f)
かくして、見かけの上では純粋に医学的な事実的決定に対して、そ
の規範的な含意をどこまでも顧慮し続けることが、死の前地において、つま
りは臨死介助の場合に、より差し迫って必要とされるのである。様々なその
第2章生命の保護67
現象形態のなかから、ここでは、「神聖性」に方向づけられた生命の保護と
「質」に方向づけられたそれとの緊張関係のなかで、これまでには予想もさ
れなかったあり方で明瞭になるようなものだけを明示することにしたい。す
なわち、重病患者および瀕死の者を死にゆくにまかせる、という事例であ
る。このような「消極的安楽死」が、患者の明示的な同意もしくは少なくと
も推定的な同意を得て実施されるかぎりにおいて、この種の治療中断は、,す
でに自己決定権の優位を通して根拠づけることができると信じられているの
であり、そしてそれは結論的に正当でもある。しかし、それよりもはるかに
問題をはらんでいるのは、医師が、その患者の真の意思について十分な明確
性を獲得することができないような諸事例である。たとえば、意思疎通が可
能でない慢性の病的衰弱者の場合、もしくは意識を喪失した状態で運び込ま
れた事故の被害者の場合であって、たしかに蘇生させることは可能である
が、しかし、それによって激痛に苦しみ、最終的に救助することができない
ような生命が取り戻されるにすぎないような場合である。もし、そのような
諸事例において「生命の神聖性」の原則が実際に貫徹されることが望まれる
とすれば、「いかなる犠牲をはらっても」かつ「最後の一』息、に至るまで」と
いう生命の維持は、たしかに必須の命令ということになるであろう。これに
対して、そのような生命の延引は、なお本来的にその人に対する真の救助と
みなすことができるのか、という問題が、次第に強く提起されるようになっ
てきており、その背景には、人間の本質が、その身体的=生物学的な存在に
尽きるのか、それともそれを越えてさらにある種の精神的な質がその前提と
されなければならないのか、という根本的な問題が置かれているのである。
「無意味な」生命維持の処置を実施す る義務からの解放という医師たちの要
求もまた、とりわけ「意味に満ちた存在」という人間像に基づいているとい
えよう。
このような要望を、もはや完全な行動能力のない人間を見放すことなし
に、正当に評価することは、将来の大問題のひとつであろう。おそらくは、
たしかに生命に対するすべての質的評価―したがってまたその低評価―
をやめること、その結果として、人間の生命は、それがいまだ脳死に至って
いないと認め られるかぎり、すべての積極的な抹殺に対してタブーであり続
68
けること、しかしまたこのことは、生命の延引への義務が、その生命があら
ゆる形態のコミュニケーション能力を最終的に喪失した場合にはなくなると
いうことを排除しないということ、これらのことが認められる場合、そこで
は、一方では、純粋に生物学的な生命の保存、他方では、いわゆる「生きる
に値しない生命」の犠牲という両者の間に、ある種の危険な綱渡りが置かれ
かねないということになるであろう。もちろん、 その点にもまた、人間学的
な評価というものが存在している。とはいえ、すでに他の箇所で述べたよう
に、この種の治療の限界は、基本的には、すでにすべての医療上の治療委託
の内在的な制約から明らかになる。すなわち、治療委託の目標設定が、生命
の延引それ自体のためにではなく、当の人間の自己実現のために、もはや身
体的=生物学的な生命の延引には認められなくなるのであれば、医師の治療
義務は、おそくとも明白な不可逆的意識喪失に基づいてコミュニケーション
能力の回復があらゆる点で排除されている場合には、終結しないわけにはい
かないのである。
この種の評価問題は、もはやたんに当該患者の独自の利益(生命維持、苦痛
緩和)だけが問題になっているのではなく、「外的な」衡量もまたかかわっ
てくるところでは、いっそう増強されることになる。たとえば、とりわけ他
の患者の利益を顧慮する場合(器械の不足の場合における選別的選択)、もしくは
全く一般的に出費と効果との均衡性が問題とされるような場合である。この
ような場合に、すでに治療が、なおどの程度まで「遣り甲斐がある」とみな
されるのか、という問題を強調することは、生命が実質的にもすでに衡量可
能な価値になっていることを示しているのである。
(9)最後に、このテーマにはもうひとつの全く別の側面が含まれてい
る、ということも指摘しておかなければならないであろう。それはすなわ
ち、生命の保護と自己決定権との緊張関係であり、これは、たとえば自殺の
場合にも要求に基づく殺人の場合にも立ち現われる。この,点については、こ
こでは以下のことを述べるだけにとどめておく。すなわち、この種の殺人現
象においてもまた、最終的に問題になっているのは、生命の「神聖性」と
「質」とである、ということである。「神聖性」というのは、生命が、個々人
の意思や評価を顧慮することなしに、保護に値する財であることを意味して
第2章生命の保護69
いるかぎりにおいて、問題になってくる。他方で「質的な側面」において
は、その(現実的または想定的な)喪失が、個々人に彼の生命がもはや生きる
に値しないものと思わせ、その結果として自殺や安楽死に訴えさせるよう
な、すべての価値および要因が総括されうる。そのかぎりにおいて、生およ
び死に関する自己決定の要求には、「質的な」生命観の急進的な要請が存在
しているのである。
TTT
玄士呈五
III 乃1口ロ口
生命の刑法的保護に関する変化に富む歴史から、もしひとつの結論を引き
出すとすれば、とりわけ生命もまた、もっぱら神聖性の厳命に従って保護さ
れるべきでも、一面的に質的な側面によって保護されるべきでもなく、この
2 つの原則が、互いに最適な仕方で調和させられることが求められるという
ことになるであろう。そしてまた、かつての高度な生命保護からただただ後
退してきただけであるというような、広く流布している 見解が偏見であると
いうことの実体も明らかにされた。むしろ、そのような一方通行的な生命に
対する低評価は存在していないのであり、生命の保護はーちょうど振り子
のようにーまさに様々な振幅を通して特徴づけられるのであり、そこでは
神聖性の側面と質の側面とは、たんにありうべき極限値を記しているにすぎ
ないということが示されたのである。
この意味において将来にわたっても十分に問題になりうるのは、生命の
「神聖性」とその「質」との間に、まずまずの妥協を獲得することができる
ように努める、ということだけである。一方では、生命の「神聖性」への敬
意が、それによって具体的な人間の意味ある要求を抑え込むための形式的な
言い訳にまで硬直化するものであってはならない。他方では、生命の「質」
を求めるあらゆる試みにおいて、生命の優先的な存在要求が掘り崩されるよ
うなことがあってはならないのである。このことはとりわけ、自分の生命で
はなく、他人の生命が問題になっている場合に当てはまる。このことが容易
に看過されるということは、しばしば、まさにもともと全体的解放を標傍し
てきた者の態度が証明している。それというのも、たとえば(望まれなかった
70
がゆえに)未出生のままに終わった生命、あるいは(もはや介護に適していない
がゆえに)消えつつある生命について、生まれなかったほうがよかった、も
しくはすでに死んでいたほうがよかったと想定される場合、それによって同
時に、独自の質的な考え方が、他人の生命に対してまさに後見的なあり方で
優先されているからである。「われわれは、ただ君のためを思っているのだ」
というのは、そうでなくとも自分自身にとってべターなことを確保するため
の言い訳にすぎないことが稀ではない。ヒューマニズムのマントを着たエゴ
イズム、これに対してもまた、生命の保護は妥当するのである。
第3章比較法的に展望した治療行為の規制について71
第3章比較法的に展望した治療行為の
規市1」について(1)
I 出発状況
―病気の除去、健康の改善、あるいはたんに人の身体の内部におけるま
たは人の身体に対する作用によって苦痛を緩和する処置であっても、これら
を目的として実施されるいっさいの種類の医療上の処置の集合概念としての
―治療行為は、ドイツでは周知のように、それもこの種の処置を行うのが
医師か、それとも医療の素人かにかかわりなく、特別な規定で規制されては
いない。その結果として、治療行為は、―いわば「治療目的は法からも救
済する」というモットーに従って―原則的に刑法から除外されるのか、そ
れともーいっさいの種類の専門職上の特典に対する不信のもとに一一」也人
の身体の完全性に対する侵襲は、それが医師によって行われるというただそ
れだけの理由からすでに一般的な刑法から除外されているわけではないの
か、という点については争いがある。医師に有利な結果になるような治外法
権的な極端も、患者に有利な結果になるよう な保護主義的な極端も、受け容
れ難いように思われることから、その経過が、一部は犯罪体系論的な諸基準
値に、一部は特定された法益的諸側面に、依存しているような中間の道を歩
むことが試みられることになる。
その意見状態をその多面的なニュアンスを含めてここで完全に説明するこ
とはできないことから(
(2)、少なくとも何らかの新規制を行うに当たって決定
(1)
ハンス・ョアヒム・ヒルシュ(Haれ s Joahim Hirsch) が繰り返し携わってきた問題領域
には医師による治療概念も属している(脚注 2, 6. 9 における文献指示を参照)。そこで、
ここにごく最近の規制の試みについての法政策上の諸考慮を、その70歳の誕生日のために彼
に捧げることにしたい。―外国法の調査については、外国および国際升IJ法のためのマック
ス・プランク研究所における各国担当の報告者の協力に、またとくに資料の整理と草案の作
成に当たっては、カティア・ラングネフ
(Katja Lang 冗eff)の協力に、感謝しなければな
らない。
(2)これについてはすでに、 Hirsch, in: LK, 10. Aufi. 1991, Vorbem. 3-5 vor§ 223 の概観な
72
を必要としているように思われる主要な諸立場を、以下に銘記しておくこと
にする。
確定的な判例によって代表される立場によれば、医師による、身体の完全
性に触れるいっさいの処置は、その侵襲が成功したか、それとも失敗に終わ
ったのか、あるいはまた医術的に適切に実施されたか、それとも誤って実施
されたか、に依存することなく、刑法第223条にいう傷害の構成要件に該当
する。したがってまた個々の医師の不処罰は、患者の同意を介した違法性の
次元でのみ、それを達成することができる(
(3)。この見解の提唱者のすべてに
よってそのように意図されているわけではないとしても、それは、健康に良
い諸々の効果や医師の行為の医術的適正性は重要でないとすることに基いて
おり、やはり結局のところ、患者の幸福ではなく、その意思こそが最高の原
理と法益にまで持ち上げられる、ということに帰着する。
このような一面性に対して、学説の多数は、治療行為の刑罰からの解放
を、患者の正当イヒ的同意を通してはじめてではなく、すでに犯罪構成要件か
ら除外することを通して達せられる、とすることによって対応しようと試み
ている。このことは、様々な仕方で、最終的には法的利益についての相異な
る効果を伴いつつ、以下のように行われている。
構成要件阻却を、侵襲の成功に、つまりは結果において患者の健康が全面
的に高められたか、もしくはいずれにせよ保持されたことに、依存させる場
合には、そのかぎりにおいて(
(4)「身体(利益)説」という意味におい
て―患者の幸福に(その意思を無視して)重,点が置かれていることになる。
らびに最近のものから Eser, in: Sch 伽 ke/Schrtider, Strafgesetzbuch, 25. Aufi. 1997,§ 223
Rdn. 28-55 参照。
(3)すでに
RGSt 25 (1894), 375 以来のライヒ裁判所から BGH NStZ 1996, 34 mit Anm.
Ulsenheimer, NStZ 1996, 132f. に至るまで。法理論のなかでもこのような見解は個々ばら
ばらに、Aル t/ Weber, Strafrecht, Besonderer Teil, LH1, 3. AufI. 1988, Rdn. 320;
Schwalm, Festschrift fur Bockelmann, 1979, S. 539, 547 ;結論的には同様に、 Horn, in: SK
StGB,§ 223 Rdn. 33 ff.; K たッ, Strafrecht, Besonderer Teil I, 10. Aufi. 1996, Rdn. 219 ff ,な
らびに結論において、 Cramer, Festschrift fUr Lenckner, 1998, S. 761, 776 If ,にも見られ
る。
(4)たとえば、 Bockelmann, Strafrecht des Arztes, 1968, S. 67 If.; Hardw な, GA 1965, 161;
Arthur Kaufmann, ZStW 73 (1961),341 372 1.; H. Mayer,Strafrecht, Aligemeiner Teil,
1953, 5. 170. 同じ意味において Hirsch (Fn. のにおける文献指示を参照。
第3章比較法的に展望した治療行為の規制について73
これに対して、医師の行為の医術的適正性が決定的なものとして目標とさ
れる場合には、そのかぎりにおいて(
(5)、患者の幸福もその意思も医師の専門
性に対する信頼性の背後に退き、その結果として個人の保護が、(医師自身の
不可侵性といった)社会的な利益によって凌駕されるほどではないにしても、
補われるということになる(
(6)
たしかに、これ以外にもなお意見の諸々のヴァリエーション⑦があり、さ
らに、たとえば独自の道⑧というように、異なった諸々の道が存在してい
る。しかしながら、これらについてここでは、全ての意見状態の検討と同様
に不間のままにしておくことができよう⑨。それというのも、この冒頭の記
述で示されなければならなかったのは、すでに明瞭に示されているといって
(5)とくに、E昭isch, ZStW 58 (1939), 1, 5 ff.; Eb. Schmidt, Der Arzt im Strafrecht, 1939,
S. 69 ff.; Welzel, Das Deutsche Strafrecht, 11. Aufi. 1969, S. 289. 参照。
(6)市民的な見方からのこのような評価にとっての視点が、解釈論的な見方からは成功した
侵襲の場合はすでに結果無価値が、医術的に適正な侵襲の失敗の場合はすでに行為無価値
が欠如する、ないしはより重大な場合はすでに客観的な構成要件が、そして後者の場合は
主観的な構成要件が否認されなければならないといったことによって、曇らされてはなら
ない( Hirsch, Recht in Ost und West. Festschrift zum 30-jahrigen Jubilaum des Instituts
fUr Rechtsvergleichung der Waseda Universitat, Tokio 1988, S. 853, insbes. 862 ff. ,なら
びにすでに、 ders., in: LK, Vorbem. 3 ff. vor§ 223) 。それというのも、あらかじめ患者の
意思を結果無価値から除外するか、ないしは医師の注意およびこれとともに専門職上の要
素を決定的な価値にまで高めることなしには、このような犯罪体系論的な組み込みは可能
でないからである。
(7)
Hirsch, in: LK, Vorbem. 3 1 vor§ 223 の概観、ならびに Horn, in: SK StGB§ 223 Rdn.
31ff.の概観を参照。
(8) つまりは,傷害がそこでは承諾がなくてもすでに構成要件該当性を阻却している成功し
た治療処置を一方とし、―本人の同意を含む―他の諸要件のもとでのみ傷害が脱落す
る本質的な基体の変更および健康を悪化させる侵襲を他方とすることにより、両者を細分
化することを通して。より詳しい根拠づけについては、 Eser, in: Sch6nke/Schroder,§ 223
Rdn. 32 ff. 参照。
(9) たんにひとつの,点においてのみ私が選考する細分化( Fn. 7) に関して、被祝賀者に対し
明確にしておくことを許されたい。彼が自己決定権と身体の健康との間には「第三のもの」
は与えられていないと言明する( Hirsch, in: LK, Vorbem. 4 vor 5 223) とき、本質的な基
体または機能の喪失もしくはこれに類する重大な変更へと導くこともありうる諸々の侵襲
が、それらが患者の「健康」のためでありうるような場合でさえ、人間がその内的および
外的な人格と形態の主人であり続けることが求められるならば、その意思なしに実施する
ことは許されていないということを、彼は見過ごしているといってよい。―さらに顧慮
すべき保護の側面と構成要件理解への影響については、 Eser, ZStZ 97 (1985), 1. とくに 3 If.
参照。
74
よいこと、つまりは治療行為にとっての特別な法律上の規定の欠如が、法的
不安定性を結果としてもたらしているばかりでなく、様々に先へと進んでい
る保護および処罰解除の構想についての価値的決定もまた、判例に委ねられ
たままだということだからである。
このことがひとつの善き状態であるというにはほど遠いことからすると、
今世紀における様々な改正努力と関連して、医師の治療概念の法律上の規定
というものへの試みが繰り返して企てられてきたということは、歓迎すべき
ことであった(
(10) 。もっとも、これらが成功へと導くことはなかったといっ
てよい(11)。それだけにいっそう、1996年に連邦司法省によって討議のため
に提示された第6 次刑法改正の草案( §§222, 230 BMJE-StGB)('2 )をもって、治
(10) Vgl.§ 279 des E 1911;§ 313 des E 1919 ; §235 des Radbruch-E 1922 ; §238 des E 1925:
§§263,281 des E1927/1930 ; §§286, 299 des E 1933;§§419, 431 des E 1936;§§419, 431 des E
1939:§§ 161, 162 des E 1962 und§ 123 des AE-BT 1970 .さらに Hirsch によってひとつの規
制提案が提示されたのであるが、そこでは 1962 年草案の意味においても対案の意味におい
ても明らかに 、成功しかつ医術的に適正な治療行為はどのみち傷害の構成要件から除外さ
れ、もはや専断的治療行為しか可罰的でないとされた結果、彼にとってはとりわけ避妊お
よび臓器提供のための適法性の要件が問題であった。 Hirsch, ZStW 83 (1971), 140 ,とくに
156, 174 1.
(11)もっともこの挫折が、 Schroeder (Besondere Strafvorschriften gegen Eigenmachtige
und Fehierhafte Heilbehandlung?, 1998, S. 11 )カぐ推定しているように、政治体制の急変を
指摘することで説明することができるのかは、疑わい、ように思われる。
(12) BMJE-StGB のこの規定の文言は次の通りである。
第229条専断的治療行為
(1)
有効な同意を得ることなく他のある人に、その人もしくはその胎児に現存してい
るか、もしくは将来的に生ずるような、身体的または精神的な病気、苦痛、故障ま
たは障害を診断し、治療し、緩和するかもしくはそれらを予防するために、身体上
の侵襲または他のある人の身体もしくはその健康状態に重大でなくもない影響を与
える処置を実施する者は、5年以下の自由刑または罰金刑に処せられる。第226条は
その意味に従って有効である。
(2) とくに重い場合では刑罰は6月以上10年以下である。とくに重い場合に当たるの
は、通例として、
1. それが処置を受ける人または胎児にとって必要とされていないのにある新しい処
置方法の治験に役立てる場合、または、
2. それによって追及される目的を衡量して、処置を受ける人がそれと結びついた危
殆化に対して責任を間うことができる場合である。
(3)
所為は、次の場合を除き告訴に基いてのみ訴追される。
1. それが第2 項第2文に挙げられた要件のもとになされている場合、または、
2. 刑事訴追当局が刑事訴追に対する特別な公共の関,らを理由に職務上必要と考える
場合。
第3章比較法的に展望した治療行為の規制について75
療行為の法律上の規制というものへの新たな一撃が企てられたのは、,思いが
けないことであったといわざるをえない。規制複合体のこの部分が、第6 次
刑法改正法の残りの部分の早急な採決のために再び切り離されたことによっ
て、このような滑り出しは、またしても停滞するに至ったのであるが、たと
えそうであったとしても(
(13) 、これによって改正論議は改めて動き始めたの
である(
(14) 。そこで問題となっているのが、実際のところどのような法秩序
も提起するような規制の問題であることからすると、評価の地平の拡大のた
めに、他の諸国の諸経験を取り入れることもまた、得策であるように』思われ
る。それゆえに、この草案は、以下において比較法上の見方のなかで光に当
てられることが求められるのであるが、そのさいーとりわけ時間的および
紙幅的な理由から―接近可能なョーロッパの諸法秩序に限定することにせ
ざるをえなかった。
とはいえ、事前になお法政策上の事前理解を明らかにしておくことは、当
を得ているように思われる。すでに他の箇所で示されたように、医学上の治
療的諸処置の法的理解において問題になっているのは、その健康の維持とそ
の自己決定権の尊重についての患者の利益を一方とし、刑法上のリスクから
免れた職務活動についての医師の利益を他方とする、両者の間の最善の調整
である。そのさい、とりわけ医師の行為というものは、傾向として患者の幸
福に向けられているのであって、必ずしもまとめて非-愛他的な虐待や健康
障害と同じ価値的段階に置かれているわけではない、ということにも注意さ
れなければならない(
(15) 。これに従えば、一方で、患者は、医師の専断に対
するその意思の保護についての、そして医師の治療過誤に対するその身体上
第230条暇庇ある治療行為
(1)
過失により、ある処置の過誤を通して、第221条第1項第2文に示された目的に役
立つ処置の枠内で、他人の健康を害する者は、3年以下の自由刑または罰金刑に処
せられる。
(2) 第229条第3項第1文第2文を準用する。
(13) Vgl. BT-Drs. 13/164. によれば、 1998 年1 月26 日の第6 次刑法改正法は、 1998 年 4 月1
日に発効している。
(14)すでに挙げられた Cramer (Fn. 3) と& hroeder (Fn. 11 )の論文が示しているとおりであ
る。Fル und, ZStW 109 (1997), 455 ,とくに 475 ff ,ならびに Katze ル meiier, ZRP 1997, 156.
による刑法学者たちの作業グループの態度表明に関する報告をも参照。
(15) Vgl. Eser, in: SchOnke/Schrdder.§ 223 Rdn. 31 ,ならびに ders., ZStW 97 (1985), 3. If.
76
の幸福の保護についての正当な利益を有している。他方で、医師は、患者の
このような保護利益を超える「それ以外の」ことはすべて処罰から免れてい
ると期待することが許される。連邦司法省草案は、犯罪構成要件を「専断的
治療行為」(第229条)と「暇庇ある治療行為」(第230条)しか定めないことに
よって、このような法政策上の基準値に相応しているように,思われる。歓迎
に値するこれらの自己制限が、どの程度まで個別的な形態化においても成功
しているのかは、これを最終的な総括に留保しておくことにしたい( WI)0
けれどもその前に、諸々の限界を超えて視線が投じられるべきであろう。そ
のさい問題になってくるのは、最初に、治療行為のための何らかの特別な構
成要件を求める間い( II) であり、次いで、特殊的に専断的治療行為( III)
および暇庇ある治療行為( IV) に対する保護、ならびに医療関係者の刑法上
の答責性のありう る一般的な限定(V) ないしは何らかの専門分野別の規制
要求(VI)について間うことである。
II 治療行為のための特別な構成要件
最初に、他のョーロッパ諸国では、どの程度まで、医療上の行為のために
そもそも特別な規定が存在しているのか、ないしはどの程度まで、そこでも
ードイ、ソ法におけるのと同様に―一般的な傷害構成要件で間に合わせ、
医師の行為の場合にありうる特別な諸要求を、判例を通して顧慮するという
ことが試みられているのか、を間うことが当を得ているように思われる。後
者が原則であって、特別の規定は、ほんのわずかなョーロ ッパ諸国にしか見
られないことを確認することができる。
●●●●●
.
.
.
.
●●●
.
●●●●●
. ●.
●●●
1 治療行為のための特別な犯罪構成要件を有する法秩序
●.
この道をこれまでのところおそらくはもっとも広く歩んできたのが、ポル
●.
.
トガル刑法(
(Codigo Pena1)' のである。その第150条によれば、「医学の認識と
経験の現状によれば適切であり、医の準則( lege artis) と一致して、医師ま
(16) 1995 年3 月15 日の新公布の正文における 1982 年9 月23 日のポルトガル刑法。
第3章比較法的に展望した治療行為の規制について77
たは、医師としての権限が与えられた者によって実施された治療行為は、傷
害行為とはみなされない」 (17)
「医療-外科的な諸々の侵襲および治療」を一般的な傷害構成要件から明文
で除外することは、しかしながら患者が完全に無保護な状態に置かれている
ことを意味するものではない。それというのも、1つには、第150条のなか
で挙げられている侵襲と治療は、それら が患者の同意なしに実施される場合
は、第156条によって特別に刑罰のもとに置かれているのであり(
(18) 、 2 つに
は、ある(健康を悪化する)治療行為の場合、それはポルトガル刑法第148条
による過失による傷害として可罰的だからである。もっとも、その場合、医
師の行為が8日を超えない病気または労働不能を結果として有するにすぎな
い場合は、刑を見合わせることができる(ポルトガル刑法第148条第2 項a)
オース「 リアにおいても、「専断的治療行為」は、 1974 年のオース「リア
刑法第110条において特別に刑罰のもとに置かれている。しかし、ポルトガ
ルにおけるように治療行為が全体として明示的に一般的な傷害構成要件から
除外されているというわけではない。それにもかかわらず、一般的な傷害構
成要件は、問題となっているのが「医学の原則に従った」治療であるかぎり
で、排除されるのであり(19)、そのさい治療を行う者が医師である必要は全
くない((2の。むしろ医師としての職業上の資格づけは、過失による傷害の一
般的な構成要件(ォーストリア刑法第88条)によって可罰的であるような「暇庇
のある」治療行為が問題となっている場合にはじめて、ひとつの役割を演じ
るのである。しかし、このことさえ、医師の業務の遂行の場合は「重大な落
ち度」のある場合についてしか問題にならない(ォーストリア刑法第88条第2 項
(17)これと類似する規定は 1962 年草案の第161条にも見られる。
(18)そこでは、とりわけ遷延する場合には生命の危険または重大な健康上の危険が生ずるこ
とを回避するために、同意をもって開始された治療を拡大するか、もしくは修正しなけれ
ばならない場合のように、同意要件からの例外が存在している(ポルトガル刑法第156条第
2項)。
(19)この結論における広範囲な一致にもかかわらず、しかし傷害構成要件から明示的に除外
することについては、たしかに多くの理論的な論争が残されているといってよい。これに
Schmoller, in :乃女fterer (Hrsg.), StGB.Kommentar (Stand: Juli 1997),§ 110
Rdn. 5, 7.
(20) Vgl. Schmoller (Fn. 19) , §110 Rdn. 21.
ついては、
78
第2号)。このようないく分かはより強化された医師の特典化の側面(
21)
をい
ったん別にすれば、オース「リアにおいてもーすでにポルトガルにおける
のと同様に―問題となっているのは、身体の完全性それ自体の保護ではな
く、たんにある治療の実施ないしは許容についての自由な決断という意味に
おける自己決定権の保護なのである( 22)
.
.
●●●●●●●●
.
.
●●●
. ●. ●
2 構成要件上の諸々の除外を有しない法秩序
たしかに、他のいくつかの諸国でもなお、たとえば説明と患者の同意(第
6条第3項)ならびにその義務に違反する場合の医師の可罰性(第18条)につ
.
●.
●●
いてのデンマークの医師法におけるように、医師の治療行為についての特別
.
.
●●●●
規定が存在している。暇庇ある治療行為についてのスロヴェニアの特別な規
定にも、言及されるべきであろう(23)。しかし、そこではそれらと一般的な
傷害構成要件との関係が不明瞭であることを全く間わないにしても、これら
の国でも、治療行為は、いずれにせよ特別構成要件という形式で一般的な構
成要件から除外されているわけではない。
したがって、以上のことから明らかになるとおり、―より進んだ立場の
なかに挙げられる諸国は別にして―残るョーロッパの諸法秩序では、ドイ
ツにおけるのと同様に、はた してまたどの程度まで、医師の治療行為の場合
についてすでに傷害の構成要件該当性が欠けているのか、ないしはこの種の
行為も構成要件には該当しており、したがってたとえばとくに患者の事前の
同意による特別な阻却というものを必要としているのかについて、どのよう
な一致も存在していないのである。このような諸国の内で、しかし、それら
をいくつかの種類のグループ別に分けることができる。
●●●●
●●●●
●●●
●
●
イギリスの法律学も、フランス、イタリア、ノルウエー、スロヴェニア、
スェーデンの法律学も、医師の治療侵襲の場合、原則的に構成要件に該当す
.
.
.
.
.
.
●
. ●.
.
.
●●●
-―一■国一■一一■ー一■円■―叫■■■■一一叫■■国■円一一一一一一一一一一一■ー―一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一
(21)このことはとくに、z勿 f, Festschrift fur Bockelmann, 1979, S. 577, 578 によって強調さ
ル
れている。
(22) Kienap 1, GrundriB des 6 sterreichischen Strafrechts. Besonderer Teil I, Delikte
gegen Personenwerte, 4. Aufi. 1997,§ 110 Rdn. 3しかしまた、Schmoller (Fn. 19),§ 110
Rdn. 12.
(23)後のIv を参照。
第3章比較法的に展望した治療行為の規制について79
る傷害が存在するということから出発している。それにもかかわらず、大多
数の事例では、治療侵襲が、実際に存在する同意というものを通して、もし
くは少なくとも推定的な同意というものを通して、正当化されるがゆえに、
どのような可罰的な傷害も存在しないものとされている。
これとはいくらか別の道を追求しているのはフランスである。そこでは人
の生命と同様に身体の無傷性が不可処分的なものと考えられており(殉、フ
ランス刑法第 122- 4 条第1項で明示的に規範化されているように、法律に
よって承認されている( auto 腐ation de Ia loi )場合にのみ、正当化事由が考慮
に入れられる。しかし、これによって同時に、治療行為に対する(有効な)
同意が本来の意味における正当化事由であるとみなされることはなく(
25)
それが不処罰のひとつの必要条件であるように見えることもない。かく し
て、フランスでは明らかに、患者の意思に対して、公共の秩序( ordre public)
ないしは客観化された治癒利益のほうが前面に登場するのである。
スロヴェニアの刑法においてもまた、同意の正当化効果は、この関連では
知られていない。むしろ独自の正当化事由が、伝統的に、医術の諸原則に
(「医学と専門医の諸原則」)に従った行為に認められているのである。もっとも
この用語には、スロヴェニア人の見解によれば、たんに 「技術的な原則」が
含まれているだけであり、患者の同意を求めることは、これには当てはまら
ないものとされている。これを首尾一貫するならば、専断的治療侵襲は、そ
れが「技術的に」理解された諸原則を遵守して行われるかぎり、スロヴェニ
ア升Ii法によれば、どのような犯罪行為をも意味するものではない。他方で、
しかし、患者の同意は、「技術の準則」に従っていない侵襲の違法性を除去
することもできないのである。
これに対して、他の諸国群では、同意による特別な正当化というものと結
びついた諸問題を、医師の治療侵襲を解釈という方法で傷害の構成要件から
除外することによって、避けようと試みられている。現にフィンランドとデ
ンマークにおける支配的な見解によれば、傷害というものを想定すること自
体が医師の行為の基本的な考え方と調和しえないという理由から、身体の完
(24) Vgk. Doucet, La protection penale de la humaine, Band 1, 2. Aufi. 1993, Rdn. 64.
(25) Vgl. auch Stefani/Levasseur,Droit penal general, 15. Aufl. 1995, Rdn. 409.
80
全性に対する、専断的ではあるが、しかし成功した治療侵襲の場合、傷害の
構成要件は充足されないものとされている( 26)
スペインにおける支配的な意見によってもまた、承諾を得た治療侵襲の事
例では傷害の構成要件該当性が否認されている(
(27)
以上の,点を総括的に言えば、すでに治療行為の諸々の特殊性に均衡のとれ
た仕方で考慮を払うために必要とされるような理論に担われたある根拠づけ
を用いるだけで、それを明確化するような特別規定に賛成することになるの
であり、とくにそのさい立法者は、適切な価値決定について責任を引き受け
なければならないことになるのである。
III
専断的治療行為に対する保護
「専断的治療行為」についての特別規定というものに対して、最近、自己
決定権のこの種の切り離された保護は、治療侵襲に対してのみそもそも正当
であるのか、それともこのことは包括的な自己決定権の枠内においてのみ根
拠づけられるのか、という問いが提起されている(28)。このことからすると、
はたしてまたどの程度に、他のョーロッパ諸国において医師の専断的な行為
が刑罰のもとに置かれているのかを知ることは、教示に富んでいるように思
われる(29)。これについては、―保護要求というものの原則的な承認にお
ける広範囲な一致のもとにーまさにヴァリエーションに富んだひとつの像
が明らかになる。これについていくつかの例を示そう。
(26) Vgl. Lahti, in:Westerhdll/Phill ゆ s (Hrsg.),Patient's Rights, 1994, S. 207, 213.
(27) Tamarit Sumalla, in:Quintero Olivares u. a.; Comentarios a la Parte Especial del
Derecho Penal, 1996, Art. 155 Anm. 2 ,ならびに Suarez Gonzalez, in: Rodr なuez Maurul.
to/Jo 卿 Barreiro (Hrsg.), Comentarios al Codigo Penal,1 996, Art. 155 Anm. 1 .もっと
も患者の同意に関しては、後の Fn. 37 を参照。
(28)連邦司法省刑法改正草案の評価のなかで刑法学者たちの作業グループは、明らかにこの
ように述べている。 Vgl. Fル und, ZStW 109 (1997), 476.
(29)―明らかに多くの医師に見られるようにーこれによって医師たちに、彼らにとって
は全く縁遠い患者に対する一人の「権力追及者」が想定されるという理由により、「専断
的」という用語が妨げになっているとすれば、そう考える者には、本質的な内容上の損失
なしに 「望まれない」または「請われない」治療行為という呼び方によっても歩み寄るこ
とができよう。これについてはすでに、 Schroeder (Fn. 11) S. 23 を参照。
第3章比較法的に展望した治療行為の規制について81
●.
リアでは、もっぱら医師の専断性に、すなわち患者の同意を欠く
・
ル
・ポ
オースト
●●●●
その行為に 照準が合わされている。侵襲が医の準則に即して、
または成功裡
に、実施されたのか否かは、そのさい重要ではない( 30)
トガルでも、
これと同じ事情にある( 31)
.
.
●. ●
デンマークでは、医師法第6条第3項から患者の同意という要件が明らか
になる(32)。窮迫した生命の危険の場合もしくは無意識状態の事例において
のみ、推定的同意というもので十分である(33)。医師が患者の意思に反して
ある治療処置を実施した場合は、医師法第18条により、医師の過誤として罰
金刑または拘禁刑をもって罰せられる。これとならんで強要(デンマーク刑法
第260条)を理由とする、または公務解怠(デンマーク刑法第157条)を理由とす
る可罰性が問題となる。
●●.
.
●
ポーランドでも、本人の同意は医師の行為の合法性にとっての基本的要件
である(34)。もっとも、それが明示せられた言葉をもって( expressis verbis)
要求されるのは、手術の実施についてのみである(35)。他の、非手術的な諸
侵襲の場合、同意の要件は、憲法に定められた自己決定と身体の完全性に対
するすべの人の権利から導き出される(36)。 もっとも、医師の専断的ではあ
るが医の準則に即して実施された治療侵襲は、ポーランド刑法では、傷害と
してではなく、もっぱら患者の自由の侵害として(つまりポーランド刑法第 165
条第1項による自由剥奪もしくは第167条第1項による強要として)罰せられる。それ
にもかかわらず、ポーランドでは、このような法状態に対する批判が増えて
きており、それに代えて、オーストリアの規定と同様に「専断的治療行為」
という独自の犯罪構成要件が要求されている。
●.
. ●
スペインでは、支配的な意見によれば治療侵襲というものは、どのような
)Kienap ル 1 (Fn. 22) , §110 Rdn-9 f.
)ポルトガル刑法第巧6条。これについては先のII. 1. 参照。
)1995 年 7 月 20 日の lovbekendtgorelse nr. 632 の正文における laegeloven.
)1992年9 月22 日の健康行政回覧公報第12条。
)VgI. Zoll, Odpowiedzia1nog6 karna lekarza za niepowodzenie wleczeniu (治療行為の
失敗に対する医師の刑法上の答責) ,Warshau, 1988, S. 16 ff. Reiman, Odpowiedzia1no 己
karna lekarza
(医師の刑法上の答責) ,Warschau 1991, S. 51ff.
)とくに 1950 年の医業に関する法律第17条を参照。
)Vgl. Zoll (Fn. 34),S. 17.
82
構成要件上の傷害も意味しておらず、医師の専断性の場合には強要構成要件
該当性が問題となる(37)。もっとも、これは、場合によっては緊急避難(スペ
イン刑法第20条第5 号)によって、あるいは適法な業務行為(スペイン刑法第20条
第7号)によって正当化され、したがって処罰されないことがありうる。
これに対して、医師によるどのような治療侵襲の場合も、たしかに傷害の
構成要件を充足しているものとみなされるフ ランスとスロヴェニアは、同意
を正当化事由と認めることを否定している。そのようにして、フランスでは
もっぱら客観化された治療利益が、スロヴェニアでは「技術的な意味におい
て」医術の諸原則の遵守が、重要になる(
(38)
総括的に言えば、医師の専断的治療行為は、ョーロッパ諸国の多数におい
て升0罰のもとに置かれていることを確認することができる。とはいえ、この
ために問題となってくる犯罪構成要件に関しては諸々 の差異が見られる。治
療行為を傷害構成要件から―明示的にまたは解釈により―除外していな
い法秩序では、首尾一貫するならば、成功裡に終った技術的に適正な治療行
為であっても、それが専断的なものであれば、この構成要件が適用されう
る(39)のに対して、他の諸国では、(強要および自由剥奪のような)自由に関する
犯罪が引き合いにだされる(40)。オース「リアとポルトガルにおける専断的
治療行為に関する独自の規定 もまた、この線上にある。後者の見解の根本思
想は、治療侵襲を実施する医師はーたとえ彼が患者の同意なく行為すると
しても―本人の生命権ないしは健康への権利を侵害しているわけではな
く、逆にこれらを救助ないしは保護しようとしているというところにある。
それゆえに、医学的に適応しており、医の準則に即して実施され、健康を改
善するような治療侵襲に、それを組み入れることには、抵抗感がある。この
点については、後にまた触れられるであろう。
(37) Romeo Casabona, El medico y el derecho penal I, 1981, S. 288;Jorge Barreiro,La
relevancia jurIdico-penal del consentimiento del paciente en el tratamiento medicoquirUrgico, in:Cuadernos de politica criminal Nr. 16 (1982),S. 17.
(38)これについては、先の II. 2. を参照。
(39)現にドイツ、ベルギー、イギリス、イタリア、ノルウエー、スェーデンおよびスロヴェ
ニアにおいてそうである。
(40)現にデンマーク、ポーランド、スペインにおいてそうである。
第3章比較法的に展望した治療行為の規制について83
Iv 暇庇ある治療に対する保護要求
この問題は、はじめから、治療行為がある種の仕方で一般的な殺人および
傷害構成要件から除外されているような諸国の場合でのみ、特別な問題とな
る。すなわち、もしこれらの構成要件が余すところなく医療上の諸処置に適
用されうるのであれば、それらは、―適応性の欠如を理由とするものであ
れ、技術的に暇庇のある実施を理由とするものであれ、あるいは何らかの同
意の欠如を理由とするものであれーいっさいの種類の暇庇ある態度の場合
に威力を発揮することになり、そこでは、連邦司法省草案第230条において
提案されるような、「暇庇ある治療行為」のための特別な構成要件というも
のを必要としないであろう。そのことが意味しているのは、「暇庇ある治療
行為」のための何らかの特別規定は、はじめから、一般的な殺人および傷害
の構成要件の限定を根拠に空隙を埋めなければならないか、もしくは暇庇あ
る医師の行為に対する諸々の優遇ない しは特別扱いが当を得ているように思
われるところでのみ、それを規定するように指示されるということである。
それというのも、明らかにとりわけ医師層において厳罰化と誤解されたがゆ
えに、誤って判断された連邦司法省刑法草案第230条における「暇庇ある治
療行為」のための特別な構成要件の導入も、原則的に故意的な専断に限定さ
れた可罰性とならんで、過失による暇庇ある治療行為(連邦司法省刑法草案第
230条)もまた可罰的であり続けるとされること、これに対して、たとえば過
失による同意の欠如は、これによれば罰せられないままであるということが
明確にされる場合にはじめて、その本来の意義において理解されるからであ
る( 41)
(41)連邦司法省刑法草案のための理由書 S. 92, 141 f. もまた、このような意味において理解さ
れなければならないであろう。明らかに刑法学者たちによる作業グループさえいくらか途
方に暮れさせた(Vgl. Fルund, ZStW 109 [19971, 477)このような構成が、法律技術的に
も成功しているということができるのかは、これとは全く別の問題である。このような疑
間は、暇庇ある治療行為の健康を害する諸効果への、明らかに同様に意図的な限定に関し
ても提起されている(「効果のない」治療を排除している後の Fn, 50 を参照)。 Schroeder
(Fn. 11). S. 381. による批判的な間いも参照。
84
それゆえに、一般的な保護構成要件に対する空隙の埋め合わせおよび/ま
たは修正という意味において、どのみち疑間をはらんでいる規制要求が念頭
に置かれるならば、他のョーロッパ諸国で「暇庇ある治療行為」のための独
自の構成要件というものをあまり見出すことができないということは、ほと
んど驚くに当たらない。その例外をなしているのは、明らかに分かるかぎり
では、ドイツの草案ときわめて近接している「過失による治療行為」のため
の構成要件を有しているスロヴェニアだけである(スロヴェニア刑法第190条)。
しかしながら、独自の特別構成要件のこのような欠損が意味しているの
は、一般的な構成要件につき暇庇ある医師の態度を顧慮したある種の修正を
見出すこともできない、ということではない。このことはとくに、暇庇ある
治療行為それ自体は過失による傷害の一般的な構成要件に該当するが、しか
し、特定の場合について刑の見合わせが規定されているオース「リアとポル
トガルに当てはまる。現にポルトガルでは、暇庇ある治療が8 日を超えない
何らかの羅病または労働不能状態を結果としてもたらすような事例では、刑
が見合わせられる(ポルトガル刑法第148条第2項
a)(42
。そしてオーストリアで
は、14 日までの健康上の欠陥は許容されるものとみなされ、その場合は、医
師にいかなる「重大な落ち度」も帰せられないとすることにより、さらに大
きく医師たちに歩み寄っている(ォーストリア刑法第88条第2号)。
逆に、刑罰強化的な方向において、オランダでは、それが公務または業務
として行われた場合には、過失による傷害の場合に刑罰が加重される可能性
が存在している(ォランダ刑法第308条)。
これに類する厳罰化を定めているのはスペイン刑法であり、そこでは、3
つの異なる過失、すなわち軽微な(
leve)
過失、重大な( grave )過失および
業務上の( profesional) 過失が認められている。そのさい、最後の業務上の過
失には、相応する準備なしに行われた危険な行動の実行も、このような職業
に就いている平均人に要求することができる」!真重さの欠如に基いた熟練と知
識の不適切な適用も、含まれている(43)。このような刑罰強化は、過失致死
(42)軽微な過失の広範囲に及ぶ刑法上の処罰解除によるこのような「医師たちの特典」はオ
ーストリアでは治療行為の広範囲に及ぶ非犯罪化と関連して見られる。Kieれゆ危 1 (Fn.22),
§ 88 Rdn. 46 und § 110 Rdn. 2 参照。
第3章比較法的に展望した治療行為の規制について85
(スペイン刑法第142条第3 項)の場合にも過失致傷(スペイン刑法第第152条第3 項)
の場合にも、威力を発揮しうるものである。
ほかでは、暇庇ある治療行為の場合につき、一般的な傷害構成要件に対し
て次のように限定することもありうる。すなわち、構成要件充足にとっては
何らかの身体上の侵害だけでは十分でなく、(連邦司法省刑法改正草案によるよう
に)「健康の損傷」 (44) または(スロヴェニア刑法第190条におけるように)「それと認
められる健康の悪化」 (45) が要求されるようにすることである。
V 刑法上の答責性の一般的な諸限定
前述のところですでに様々に感じ取られるように、医療の領域における刑
法上の答責性の諸限定は、治療行為のための特別構成要件の形成を通して達
せられるだけではない。むしろ個別的な構成要件要素についての特別な要求
によって、あるいは特別な刑事訴追要件によっても、刑法上の答責性の諸々
の限定が生じうるのである。ここで完全な説明はできないが、この,点につい
ての以下のような比較法上の観察は注目に値するよう に思われる。
●●●●
.
.
●.
1 構成要件の次元で
この次元で何よりも先ず問題になっているのは、たとえば連邦司法省刑法
改正草案第229条において提案されているように、「身体への侵襲」および他
の身体の完全性または健康状態に「重要でないとはいえないような影響を及
●●●.
●
ぽす処置」のみしか捕捉されないようにすることによって、軽微な侵襲を除
外することである。これによって同時に、たとえば脈拍感知、聴診および血
圧測定のような医療上の諸処置は、すでに構成要件の段階で除外されること
になる(46)。これと同様の限定は、他のョーロッパ諸国にも見られる。現に
■■■■■■■■司国■巨■■■曲
(43) VgI. Tamarit Sunzalla (Fn. 27),Art. 125 Anm. 4.
(44)しかにれについては、Suhroeder (Fn. 11), S. 38. を参照。
(45)これについては、V. 1. をも参照。
(46)連邦司法省刑法改正対案第229条についての理由書S. 135 参照。同じ意味においてすで
に、 Koch, in:Eser /八万shihara (Hrsg.),Rechtfertigung und Entschuldigung IV, 1995, S.
213, 223. その点でいまだ1992年草案の第161条は異なっている。
86
スペインでは、必要とされるたんなる医師の監視または処置の継続は「医療
上の処置」とはみなされず、したがってより重くない事例とみなされてい
る(47)。さらにたとえば、デンマークとフィンランドでは、過失による傷害
の可罰性は、身体と健康への著しい損傷に限定されている(
(48)
その他の限定が、同意要件の限定によって行われることもありうる。その
ひとつの例をイギリスのコモン・ロ一に見ることができる。たしかにそこで
は、いっさいの治療行為が構成要件に該当する傷害( batte 励を意味してお
り、その可罰性は、有効な同意(CO麗 ent) が現存している場合には排除され
るものとされている。そのうえ特定の場合、たとえば永続的または一時的な
無能力(
(permanent or tempora ク inCo ゆ etence) の場合ならびに本人が年少者で
ある場合、医師の侵襲は、患者の同意がなくても正当化される。もっともそ
のさい、医師の侵襲が必要であ り、かつ、患者の最善の利益において執り行
われることが、条件とされている( 49)
さらに行為者領域に関して、たとえば特定された諸々の処罰解除および/
または処罰緩和を、医師にのみ利益になるような仕方で、細分化することが
考えられる。連邦司法省刑法改正草案がこのような細分化を見合わせたの
で(
(50) 、これに対する批判を招いている(
(51)のに対して、オース「リアとポル
トガルは、先に言及された暇庇ある治療行為における特典化( 52) は医師にの
み認容されるべきであると考えた。ほかにこの種の行為者に特殊な細分化を
見出すことができないのは、一見したところ驚くべきことであるが、しか
し、医療上の人員の密接な相互作用が、いかに病院経営のなかだけで観察さ
れるものではないのかということ、ならびにいよいよ真剣に受け止められな
(47)スペイン刑法第147条参照。
(48)デンマーク刑法第249条およびフィンランド刑法第10条参照。
(49)これについては、 Kenne む/ Grubb, Medical Law, Text with Materials, 2. AufI. London
1994, S. 324 If .参照。このような場合とのドイツの並行関係が推定的同意であろうにれに
ついては、 Koch, [Fn. 46], S. 232 ff. 参照)。連邦司法省刑法改正草案第229条についての理
由書S. 139をも参照。
(50)この意味においてすでに1962年草案第161. 162条。これについては、BT-Drs. IV/650, S.
298 における理由書を参照。
(51)現に Cramer (Fn. 3), 5. 766, Schroeder (Fn. 11), 5. 35 1. によって主張されている。
(52)これについては、先の Fn. 42 を参照。
第3章比較法的に展望した治療行為の規制について87
ければならないようになってきている選択的医学の新しい諸形式を考慮に入
れるならば、結局のところ驚くには当たらない。ありうるいかさま師やもぐ
りの医者を決して一般刑法から除外することがあってはならないとしても、
その場合でさえ、このことは、いずれにせよ様々な種類の医療スタッフの間
の差別を通してではなく、せいぜいのところ承認に値する医療活動の性格に
即して行われなければならないことであろう( 53)
●.
●●●
. .
.
●
2 主観的要件に関して
この次元では、とりわけ、構成要件の実現について、たんなる過失では十
●.
●.
.
●●●●
分とされず、故意もしくは少なくとも加重された過失が要求されるという仕
方で、限定することがありうる。
●●●●●●
●●●
.
●
この点に関しては、再びオーストリアとポルトガルを例として挙げること
●●●
ができる。専断的治療行為についてのそれら構成要件の場合に問題になっ て
いるのは、いずれも故意犯である(54)。そのためには、有効な同意の欠如が、
客観的構成要件要素として理解されなければならないのであるから、医師の
故意もこれに関係づけられなければならない。これに従えば、同意があると
誤信した場合には、専断的治療行為を理由とする処罰は排除される。もっと
もポルトガルでは、それだけで済ませてはいない。つまり、同意の誤信に関
して行為者に甚だしい過失があると非難される場合は、―もっとも本質的
に軽い科刑(故意事例における3 年の最高刑に代えて6 月の刑)によって―可罰
的とされているのである(ポルトガル刑法第165条第1項ないし第3項)。専断的治
療行為のための特別な構成要件を欠如している残りのすべての国では、存在
していない同意が存在すると誤信した場合は、過失致死という形式において
可罰的である。
●.
ー
.
●
通例は過失致死として可罰的である治療過誤に関しても、すでに何らかの
h
過失があるというだけでは十分ではないという仕方で、答責性を限定するこ
とがありうる。そのための一例を示しているのは再びオーストリアであり、
そこでは、医師は、彼が「医術を用いて」行為しており、彼にどのような
■■■■■■■■■■■■■■■■
(53) Koch (Fn. 46), S. 224 をも参照。
(54)オース「リア刑法第110条第1項ないしポルトガル刑法第巧6条第1項。先の II. 1 参照。
88
「重い落ち度」も帰せられず、かつ、健康を侵害する諸効果がーその時間
および重大さに関してーある一定の枠内にとどまっている場合には、過失
致死を理由とする可罰性から除外される(第88条第2 項))(55) 。このような「医
師の特典」といったものを法技術的に規定することについては争いがありう
るとしても、いっさいの種類のJ解怠を犯罪化することに対する不安、あるい
は決断を阻止するような不安を取り除くために、 甚だしい過失への原則的な
限定に、ある種の理由があることを否認することはできない(56)。そのさい
もちろん、このことが一一他の医療スタッフを差別するようなーある一定
の「大学医学」の優先というものに帰着するようなことがあってはならない
であろう。
●.
●●●●●●
3 刑事訴追の次元で
先に挙げられた実体法上の種類の諸限定に与しない場合であっても、もち
●●●●●
.
ろん、なお刑事訴追の次元で、起訴便宜主義を用いて軽微な諸々の過誤を除
外することが可能である( 57)
●●●●
もうひとつの阻止闘を、刑事訴追の開始を本人の刑事告訴に依存させるこ
とによって設定することができる。専断的治療行為の場合についてこの道を
●●●
.
.
●
●●
.
●●
歩んでいるのは、再びオース「リアとポルトガルである(58)。連邦司法省刑
法改正草案もまた、専断的治療行為における告訴の要件(第229条第3項)に
よって、この道を踏み出したのであるが、草案は、(新しい治療方法の他人の利
益になるすぎない治験の場合または責任を負いきれないほどの不均衡な場合のような)と
くに重い諸事例、ないしは刑事訴追に対して特別な公共の利益がある場合に
は、告訴の要件を脱落させる(第3 項)と いうようにして、この道を最後ま
で歩んではいない。もうひとつの,点においても、オーストリアと新しいドイ
ツの草案とは異なる道を歩んでいる。つまり、他の生活領域においておそら
くはあまり重要でないであろう告訴権の相続についてである。告訴権がオー
-―一■一ーーー一一咽■■■一円―-―ーー■ー一■―一■一■―一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一■―一ー
一
(55)これについて詳しくは、Kieル姐ル 1 (Fn. 22),§ 88 Rdn 29 If.
(56)これについてはすでに、 Eser, ZStW 98 (1985), 540 mit Anm. 131.
(57)現にとくに、 Schroeder (Fn. 11), S. 345 1. が刑事訴訟法第153条、153条a による軽微な
責任における手続き中止を指示している。
(58)オース「リア刑法第110条第3項ないしはポルトガル刑法第156条第4項。
第3章比較法的に展望した治療行為の規制について89
ス「リアでは相続により存続することはないのに対して(59)、むしろその存
続が、すでに1962年の対案で、それも十分な根拠をもって規定されていたの
である(60)。何といってもやはり、患者が突然に死んだような事例では、調
査のための刑法上の諸処置をとることが、きわめて当を得ているように思わ
れる。
VI 専門分野別の特別な諸規定
治療行為の諸規定の完全な像を得るために、内科医学と外科医学の「通常
の」型通りの諸処置を超えて、さらにーいまだ完全に水準化されていない
治験、新たに開発中の諸々の手術および臓器移植から人体実験における特別
の保護要求に至るまで―「通常外の」侵襲を顧慮することが必要とされる
であろうということは、当然である。その検討は、すでに紙数上の理由から
可能でないことからーたとえば人体実験についての諸規定に 関する簡潔に
企図された概観だけでもすでに、ここで全体として用いることができるより
も多くの紙数を必要とする(
(6 1).
、ここでは、治療行為に関する一般的な
諸規定とならんで、大多数の国では、さらに医療上の活動の特定された専門
分野別の領域に関する特別規定が存在している、ということの指摘をもって
よしとしなければならない。
このような確認は、すでに一般的な殺人および傷害の構成要件から区別さ
れた(専断的または暇庇ある)治療行為についての特別構成要件を有している
諸国においてばかりではなく、―それほど多くはないにせよ―治療行為
を一般的諸原則に従って「傷害」の正当化すべき事例と見る法秩序にも当て
はまる。それというのも、後者のような規制状態の場合、臓器移植、避妊手
術、断種から実験的な処理および臨死介助に至るまでの「通常外の」医療上
(5のこれについては、 Bertel/Schwaig ん ofer, Osterreichisches Strafrecht. Besonderer Teil I,
3. Aufi. 1993,§110 Rdn. 11.
(6の1962年草案第162条第5 項。同様に1970年対案各則第123条第2 項ならびにいまや連邦司
法省草案第229条第3項第2文もそうである。
(61) Eser,in:Noble/ Vi れ cent (eds.),The ethics of life, UNESCO Publishing 1997, 5. 125155.
90
の諸侵襲に、特別規定を通して考慮を払う必要は、いっそう差し迫っている
からである。したがって、治療行為の一般的な諸原則を超えて何らかの専門
分野別の諸規制がともに顧慮されていない場合には、そのかぎりにおいて、
完結的な全体的評価も差し控えられなければならない。
VII 終結的考察
前述の留保を銘記するならば、ひとつの包括的な規制提案を呈示すること
は言うに及ばず、ひとつの完結的な評価を企てるという不能な試みについて
も、はじめから距離が置かれるべきであろう。その代わりに、外国の規制事
例を背景にして、連邦司法省刑法改正草案における最新のドイ、ソの規制の試
みについて、いくつかの一般的な所見を述べることを許されたい。
1. 法律技術上の条文化の諸々の難点を無視しようとするもの ではないが、
いまや、「通常の」傷害から際立っている「治療に関係づけられた」身体の
完全性への諸侵襲を、構成要件的にも際立たせ、そのさい保護方向を本質的
に2 つの利益に、すなわち患者の自己決定権の尊重と医療上の質の確保に、
集中すべき時であるように思われる。すなわち、ーオース「リアとポルト
ガルの模範に従って―「専断的な(
(62)治療行為」について、ならびにー
その点ではこれらの外国の模範をさらに越えて―「暇癌ある治療行為」に
ついて、特別構成要件を通して考慮が払われなければならないであろう。そ
のさいには、どの範囲にまでーオース「リアの模範に類似して―升り法上
の答責を故意および甚だしい過失に限定されるべきであるかも、熟慮されな
ければならないであろう。
2. 治療行為のための特別構成要件へのこのような一歩を踏み出すことが決
断されるならば、ーオース「リアにおけるのとは異なってーいずれにせ
よポルトガルでなされており、またすでに以前のドイツの諸草案でも予定さ
れていたように、一般的な殺人および傷害構成要件との関係が明確にされな
ければならない。それというのも、刑法が行動原則という意味において真剣
(62)私見によれば「望まれない」ないしは「請われない」という言い方もありうる。これに
ついては、先の
Fn. 29
を参照。
第3章比較法的に展望した治療行為の規制について91
に受け止められるようにしようとするならば、刑法の側もまた、市民を真剣
に受け止め、そして一方ではけべての「医療スタ、》フ」という意味における)医
師に、彼が尊重しなければならないのは何であるかを可能なかぎりはっきり
と述べなければならず、他方では治療を求める人々に、彼が保護のために何
を期待することができるのかを知らせなければならないからである。 これに
対して、連邦司法省刑法改正草案第229条、第230条の現在の条文が、部分的
にはなお、いまだに適用可能な一般的な傷害構成要件との関係における区別
を、それに関連した経験を有する法律家たちに要求していることは(63)、ま
ったくナンセンスである( 64)
3. 法律上の規定というものがなされるべきであり、そのさいとくに問題と
なっているのが専断に対する保護であるとすれば、医師による説明と患者の
同意といった、そのために必要とされるギーワードが、全く規定されないま
まになっていることは、許されないであろう。この,点についてもーたとえ
ばフィンランドのような―ー外国の模範を見出すことができるのである(
65)
4. とりわけ法律で規定する場合には、―とくに新たに開発された諸々の
処理、移植および不妊手術についてというように―専門分野別の特別規定
が、ともに規定されるか、もしくはいずれにせよ互いに歩調を合わせられる
ように努められなければならない。
この種の包括的なプログラムにあってはもちろん、すでに 1981 年に被祝賀
者「ヒルシュ教授」によって早晩期待されるものとされていた治療行為の法
律上の改正(
(66)が、いま暫く人を待たせることになる、ということも懸念さ
れなければならない。
(63)先の Fn. 41 を参照。
(64)一般的にほかでもなおあまりにも無視されている本来の名宛人については、
schrift fur Lenckner (Fn. 3), S. 25 ,とくに 39 ff.
(65) Vgl. Lahti (Fn. 26),S. 217 If.
(66) Hirsch, in:LK, Vorbem. 6 vor§223.
Eser, Fest-
92
第4章人体実験
―その複雑性と適法性について―
ナチス時代に濫用により信用を失墜した他の多くの実践と同様、人体実験
(Humanexperiment)
も、なおいたるところでタブー視されている。新たな医
学的処置と医薬品の開発がヒ「を対象とする実験的テス「 (experimentelle
Erprobung am Menschen) を抜きにしてはできないものであるということは知
られているが、そのことについて論じる者はいないーいまもなおいない。
そうであるならば、人工妊娠中絶や安楽死の議論がまずアングロ・アメリカ
地域で始められ、すぐにョーロッパ大陸にも広がったのと同じように、人体
実験の場合も、それと比肩可能な傾向が期待できる。わが国では医学上の職
業倫理および研究者の個人的な責任意識によってなお十分に保護されている
と考えられているものが、アメリカ合衆国ではすでに数年来、激しい論争(
(1)
と改革の諸努力②の対象になっている。遅くとも、適法な人工妊娠中絶を
(1) 見渡すことのできないほどの文献の中から、特に j Katz による資料集 Experimentation
with Human Beings, New York 1972 ,さらには H. K. Beecher, Research and the Individual, Boston 1970, S. 319-347 および J. M. I石lmber -R. F. Almeder, Biomedical Ethics and
the Law, New York-London 1976, S. 299-304所収のビブリオグラア ィー参照。The Hast
ings Center Report (hrsg. von Institute of Society, Ethics and the Life Sciences, Hastings
-on-Hudson, N. Y.)における一連の報告も、情報を与えてくれる。
(2) 関連の法律、規定および指針の記録は、 N. Hershey -R. D. Miller, Human Experimen-
tation and The Law, Germantown 1976, 5. 105-162に見られる。1974年のNational
Research Act (後出注(5) 参照)によって設置され、部分的にはそれどころか指針権限を
も授けられている、ヒト被験者の保護のための国家委員会( National Commissio 冗 for the
Protection of 1:1 加 man Subjects )の諸々のレポートや勧告は、経験的資料の宝庫でもあるし、
また倫理的・法政策的観点の宝庫でもあって、同委員会はこれまで、以下のような個別報告書
を提出している(それぞれ U. S. Department of Health, Education and Welfare'=DHEW,
Washington, D. C.編)。Research on the Fetus, DHEW Publication No. (05) 76-127,
Appendix 76-128;Research ん volvi 昭 Childre ル, DHEW Publ. No. (05) 77-0004, App. 77
-0005;Research 玩 volvi 智 Those Institutio 冗alized As Mentally Infirm, DHEW Publ. No.
(05) 78-0006, App. 78-0007; Psychosurgery, DHEW Pubi. No. (05) 77-0001, App. 770002, Institutional Review Boards, DHEW Publ. No. (05) 78-0008, App. 78-0009 .さらに、
部局草案として存在する国家委員会の基礎資料のペーパーについては、1977年4 月1 日付の
Ethical Principles for Research Invo
man Subjects
ん1智B加
(いわゆるベルモント・ペーパ
第4章人体実験93
免れて生き延びていた胎児、そして殺害することが許されていたがゆえにお
そらく研究の客体にすらされることが許されるとされていた胎児を使った、
かの華々しい実験以来、そうである(
(3)。このような論理がもちろん倫理学上
も主張可能であり、かつ研究の目的があらゆる手段を正当化するかどう
か(')、この驚くべき問題は、そうこうするうちに、まさに研究を敵視する興
ざめたフ0ロセスへと導いてしまった⑤。
それによってヒ「を対象とする研究者( Humanforscher) が晒されると思わ
れる良心喪失という意識下の非難が、一方では落胆にならず、そしてそれゆ
えに長期的にはこの研究領域の停滞に至らしめず、他方ではその領域を事実
上良心のない実験者に委ねるべきでないとすれば、ヒトを対象とする研究
は、現在のその梨明期から脱出して、「立派な良心」の研究者が主張しうる
基盤を確立すべきである。―言うまでもなく、その特別な関心が医学的な
諸々の措置に対する身体の統一性および個人の自己決定の保護に向けられて
いたホルス「・シュレーダー( Horst SchrEJder)6 )の栄誉ある記念を祝して
(Belmont Paper))参照。また、Curraル,Governmental Regulation of the Use of Human
Subjects in Medical Research:The Approach of Two Federal Agencies, in P. A .戸死加%d,
Experimentation with Human Subjects, London 1972, 5. 402ff. も、・情報を与えてくれる。
(3) なぜなら、例えば、 P. Adam のように、妊娠12週目と20週目の間に人工妊娠中絶された
胎児の研究の批判者に対して、「胎児が生きないであろうとすでに決めてしまっているとき、
われわれは、いかなる権利を保護しなければならないのか」、と異議を唱える者もいるからで
ある(Medical World News v. 8.6.1973 5. 21, zit. nach P. Krauss, Medizinischer Fortschritt
und Srztliche Ethik, Munchen 1974, 5. 74)。
(4 )この種の研究の問題性について詳細なのは、 J. P. Wilson, A Report on Legal Issues
Involved in Research on the Fetus, in National Commission, Research on the Fetus App.
Teil 14 (前出 Anm. 2 )である。
(5) この不安は、様々な「審査委員会( review board) 」や「倫理委員会」の良心的なコント
ロール活動を観察し、あるいは当該研究者と話し合ってみるとーこれは、私が1977年の夏に
アメリカ合衆国に研究滞在していた間になしえたことであるカs'--、新聞・雑誌で表現されて
いる以上に雰囲気として感じられる(また、 R. J. Levine, Ethische Regein fr Humanexper.
imente; Spannungen zwischen der biomedizinischen Forschergemeinschaft und der U. S.
-Bundesregierung, in;A. Eser,Forschung im Konflikt mit Recht und Ethik, Stuttgart
1976, 5. 379ff. をも参照)。いずれにせよ、もとより、国家による推進の撤回と関係した、 1974
年の国家研究法( National Reserach Act )による胎児についての一定の研究のためのモラト
リアム( Public Law No. 93-348, Title II,§ 213, 88 Stat. 353 )は、すでに生物医学的研究にお
ける認識可能な方向転換となった。 R. J. Levi 冗 e, The Impact on Fetal Research of the
Report of the National Commission for the Protection of Human Subjects of Biomedical
and Behavioral Research, in Villanova Law Review 22 (1976/77) 5. 367ff. 参照。
94
―この,点について若干の考察を行うのが、本稿の目的である。
もちろん、この限られたスペースでは、ごくわずかの基本的諸問題しか、
しかもこれらすらも大雑把にしか論じることができない。このことを、4 段
階に分けて試みてみよう。まず、研究者一般の倫理的および法的責任につい
ての若干の基本的考察によって(I)。つぎに、たびたび誤解されている人
体実験の事実上および法律上の複雑性の解明によって(
(II) 。そ して、特に
承諾の問題性および衡量の問題性に関して論究する必要のある人体実験の適
法性の解明によって( III) 。それから最後に、なお若干の手続的保障につい
て考察することが残されている( IV).
I 研究者の倫理的および法的責任
すでに文書で確定された人体実験のための包括的な諸規制が存在するかぎ
りでは、これらは、 -1947 年のいわゆるニュルンベルク・コード( NUrnberg-Code (= NC) )をひとまず別とすれば⑦―倫理的拘束性しか有してい
ない。例えば、 1954 年の世界医師会の原則宣言( Grundsatzerklarung des
Weltarztebundes)(8 )がそうであるし、さらには 1964 年のヘルシンキ宣言( Deklaration von Helsinki)― これは 1975 年の東京宣言によって修正を受けてい
る( =HTD)(9― もそうである。
(6)特に H. Schrdder, Eigenmachtige Heilbehandlung im geltenden Recht und im Entwurf
1960, NJW 1961, 951ff .参照。シュレーダーによって展開された治療侵襲の刑法的把握のため
の原則のいまなお残っている意義については、
A. Eser in Sch ひ nke-Schr6der, StGB, 19.
Aufi. 1978,§ 223 Rdnr. 31ff ,参照。
(7)
ニュルンベルク・コード( =NC) で重要なのは、10原則であって、それらは、アメリカ
の軍事第1 法廷が医師訴訟において1947年8 月20 日の判決の基礎に据えたものである。起訴状
および証言からの抜粋も付いているKaた, (Anm. 1) S. 292 参照。 S. Wille, NJW 1949, 377 に
ドイツ語訳が掲載されている。また、後出注(2のをも参照。
(8)「研究および実験に携わる人々のための諸原則( Principles for Those in Research and
Experimentation) 」は、 1954 年の世界医師連盟第8 回総会で採択された( World Medical
Journal 1955, H. 2. S. 14f.) 。 Krauss, (Anm. 3), 5. 142/3 に r'' イ、ソ語訳が掲載されている。
(9)「被験者を伴う臨床研究における指導医への勧告( Recommendations Guiding Doctors
in Clinical Research Involving Human Subjects) 」は、 1964 年の世界医師連盟第18回総会で
可決され、(BGesundBl. v. 16.7.1971, 5. 189f.), 1975年の東京における第29回世界医師連盟総
会により修正された( Dt. ArzteBl. 1975, 3163 にドイツ語訳が掲載されている。成立史につい
第4章人体実験95
その際、私的団体のこのような宣言が、単に研究者の自己答責性( Seibstverantwortlichkeit) へのアピールとしてのみ理解されるにすぎないのか、そ
れとも職業倫理上の帰結をも有するべきなのかは、すでに心もとない。すな
わち、それは、所轄の職業組織による承認がなければ、ほとんど考えること
ができないのである(
(10)
しかし、このようなコードがどのように理解されるべきだとしても((11)
それらがそれ自体のみで十分かどうかという問題は、依然として残る。過去
の諸経験は、必ずしもその点について保障してはいない。なぜなら、知らな
いという理由によるものか、単に「勧告( recommendation 」としてのみ理解
され、拘束力ある行為規範としては理解されないという理由によるものかは
ともかくとして、事実上、世界医師連盟のアピールも
1964
年のヘルシンキ宣
言も、人体実験的研究の種類と範囲に重要な影響を及ぼしてこなかったとい
ってよかろう(
(12)― とりわけアメリカ合衆国におけるのと同様に―正
式のコン「ロール委員会を組織し始めたり、倫理的に問題のある研究プロジ
エク「に財政的援助を打ち切り始めたり(
(13) 、また、ェデリン医師( Dr.
ては、
Deutsch, NJW 1975, 22421.
参照)。さらに、
1970 年12月1
日のスイス医学アカデミーの
[人体に対する研究のための指針( Richtlinien fur Forschungsuntersuchungen am Men-
schen) 」 (j Wunderli -K. Weisshaupt, Medizin im Widerspruch, Olten-Freiburg i. Br.
1977, S. 253-256に掲載されている)ならびにアメリから理学会の「心理学者の倫理的基準」
の中で定められている「研究の事前対策( Research Precautions)] (Principle 16; Katz,
Anm. 1, S. 315 に掲載されている)参照。 1977 年1 月30 日の新規定は、 "Monitor' 、の 1977 年 3
月号に掲載されている。
(10)しかしながら、ドイツ連邦医師会がこれまで東京決議の引受けをいまだなしえなかっ たの
で、ドイツ連邦共和国においては、まだそれすらもない。
(11)この,点については―特にドイツ語圏における初期の規制の諸努力についても―B.
Deutsch, Das internationale Recht der experimentellen Medizin, NJW 1978, 570ff. 参照。
(12)その倫理的問題性が認識されていなかったり、あるいはそれどころかそれを認識していた
にもかかわらず世間に対して公表できると考えられていたところの、公にされた研究の驚くべ
き数を、さもなくばいったいいかに説明すべきであろうか。この,点について啓発されるところ
が多いのは、特に
M.H. ル加 worth, Menschen als Versuchskaninchen, Zurich 1968 および
H. K. Beecher,Ethics and Clinical Research, in Humber -Almeder,(Anm. 1),S. 193ff .に
よって呈示された資料である。さらに、パaた( Anm. 1), S. 284ff. ならびに E. Deutsch, Medi.
zin und Forschung vor Gericht, Karlsruhe 1978, S. 35ff. および NJW 1978, 571 によって報告
された諸事例参照。
(13)この,点について啓発されるところが多いのは、 B. H. Gra ッ, Human Subjects in Medical
Experimentation, New York 1975, 5. 10ff .である。
96
Edelin )の研究グルーア0に対する故殺訴訟( Totschlagsprozess )を通して、事
情によっては可能な刑事責任すらも意識された(
14)
ときにはじめて、真撃な
態度の変化をーことによると部分的には戦術的配慮からのみ(
(15) 、もちろ
ん被験者のことが眼中にないがむしゃらな習熟者( probandenblinder Forschereifer) が自己批判的に熟考していることからも―感じ取ることができたの
である。
ところで、単なるセルフコントロールの効率に対するこのような疑念は、
あたかもそれゆえに倫理的諸規範が単純に法的諸規範によって取って代わら
れるかのように解釈されるべきではないーまた、このような誤解を防止す
ることは、まさに刑法学者にとって重要である。なぜなら、倫理的な基礎づ
けや内面化がなくとも、(刑)法上の諸規範は、場合によっては、戦術的適
応を強要することができるが、保護を要する諸価値の積極的尊重へと動機づ
けることはできないからである(
(16) 。しかし、同様に、もし被験者の尊厳、
自己決定および身体の統一性の保持が研究者の自己答責性、そしてそれゆえ
に研究者のーおそらくは良心的な、しかしことによるといいかげんでもあ
る―裁量に委ねられるべきだとすれば、逆に法律による明確化と保障なし
で済ませることもできないであろう(17)。そのかぎりで、医師に妥当するも
のは、まさに研究者にも妥当しうる。すなわち、治療行為が「法的に空虚
な-j 領域( rechtsfreier Raum )を表していないのと同様に(18)、研究者もまた、
基本法上保障された研究の自由を引き合いに出すことによって、いっさいの
法律上の責任から免れるというわけにはいかないのである(
(19)
(14)ェデリン医師( Dr. Edelin) は、少なくとも24週の胎児を、子宮壁から胎盤を取り出すこ
とにより窒息死させたことで非難された。このセンセーショナルな訴訟および類似の訴訟手続
Wilso 冗, (Anm. 4), S. 4ff. に掲載されている。
(15) Levi れ e, (Anm. 5),Villanova L. Rev. 22 (1976/77) 5. 3741. 参照。
(16) JRたbれ er,Versuche am Menschen in ethischer Sicht, in E. Kramnz,Experimente am
Menschen, Stuttgart 1971, 5. 53, 69ff. 参照。
(17) A. Laufs, Arztrecht, Munchen 1977, 5. 4ff. 参照。
(18) 「医師の裁量」のこのような誤解はよくあることだが、その詳細については、 A. Eser in
A. Auer/H. Menzel/A. Eser, Zwischen Heilauftrag und Sterbehilfe, K6ln 1977. 5. 78ff.
についての詳細は、
「同書の紹介として甲斐克則=井上祐司・判タ395号(197の38頁以下がある。〕
(19)研究倫理の規制の法的コン「ロールの原則的問題性について一般的なものとして、 M. B.
巧sscher,
Ethical Constraints and Imperatives in Medical Research, Springfield 1975, 5. 16
第4章人体実験97
ところで、かの倫理コードも、研究者の法的免責を決して獲得L ようとは
しなかったが、 HTD 「ヘルシンキ・東京宣言)の前文においては、むしろ、
勧告を遵守することによって「いかなる医師も自国の法の刑事上、民事上お
よび身分法上の責任から免れるわけではない」ということが明確に強調され
ている。・また、NC 「ニュルンベルク・コード」の諸原則は、いずれにせよ
その本質的な中核の部分において、法的拘東力あるものとして理解されてい
る(20)。そして、もとより、 1966 年の「市民的及び政治的権利に関する国際
規約」(=JP)の7条第2文―これによれば「何人も、その.自由な同意な
しに医学的又は科学的実験を受けない( ZI)J とあるーの中にも、少なくと
も調印国の国際法上拘東力ある保護義務規定を見いだすことができる。それ
でもなお、このような法規範ですら、これまでは倫理的な自己責任と身分コ
ン「 ロール以上には決して作用してこなかったとすればーいったいわが国
においては、すでに研究者は、例えば、被験者の自己決定権の蔑視についーて
どこで刑法上責任を間われてきたのであろうか―、このような法の効果の
欠訣は(そしてそれもまた)、とりわけ2つの点に基づくものといえよう。
―第1 の原因として、研究者には従来、いずれにせよ事実上、コントロ
ールを受けない自由裁量の権限があった、ということが挙げられる。しか
し、医師に対して患者が自己の権利および制裁可能性を相当程度に認識して
いるのと同様に、研究者もまた、被験者保護に注意を払ったコントロール利
益を強く当てにすべきである。
―しかし、第2 に、従来の法の言明も、これと同一、すなわち、研究に
対して最終的に拘束力ある諸規範に関して不明確でありかつ不確実である。
純粋な治療行為における医師の責任を法的に把握すること、そして万一の場
合には手続的に一貫させることがすでに困難だとすれば、研究者に対して法
ff. がある。また、Eser,Forschung (Anm. 5),5. 20ff. をも参照。
(20)確かに、かの絶対不可欠な法的核が最終的に明確に示されなかったので、裁判所は、いか
なる要件が「性質上純粋に法的なもの」とみなされるべきかを未解決のままにしておくことが
できると考えた。第10原則に続く命題( bei Kdtz,Anm. 1,5. 306) 参照。NC (ニュルンベル
ク・コード」のその他の弱点については、 Deutsch,NJW 1978,573 をも参照。
(21)1966年12月19 日の「市民的及び政治的権利に関する国際規約」(BGBI. 1973 11 5. 1534)
は、ドイツ連邦共和国では、1976年3 月23 日に公布され、1976年6 月14 日に発効した(BGBI.
1976 11 5. 1068)。以下、JP と略記する。
98
状態は、彼の研究の自由が共に考慮されるべきであるということによって、
なお複雑になるであろう。
それだけいっそう、彼の法的責任の基盤と限界を明確にすることが必要と
される。このことは、しかしながら、過去の克服という意味においてという
よりも、むしろ法政策的な目的設定によって、そうなのである。研究者およ
び研究の正当な諸利益にとっても、またそれに関する当事者の諸権利にとっ
ても正当であるためには、法律はいかにして作られなければならないのか。
前所与的領域にあるこの問題に最終的に答えようと欲することは、あつかま
しいといえよう。しかし、ことによると、本質的な正当化の問題を苦心して
抽出し、それについてとりあえずきわめて包括的な問題領域を標示しようと
試みることによって、その問題に寄与できるかもしれない。
II 人体実験およびその法的枠組の複雑性
..
人体実験の規範的克服の諸々の試みは、その眼が特定の研究領域(例えば、
一方で医薬品検査、あるいは他方で胎児を利用した実験のようなもの)に固定されて
おり、それによってその他の領域、方法あるいはリスクが絞り込まれたまま
である点で、すでに破綻することがまれではない。このことによって、すで
に解決の端緒が狭められ、それゆえに必然的に結論も歪められてしまう。し
たがって、倫理的・法的正当化の問題および保護の問題一般が有意義に取り
組まれる前に、何よりもまず、枠づけすべき問題領域は、限界づけと構造化
を必要とする。それも、ここではすべてを汲み尽くして行うことはできない
が、規制にとって重要な要素とその最も重要なバリエーションを呈示し、し
かも構成要件上の枠組と正当化という異なった規範的問題性を示すことによ
って、少なくともモデルとなる試みだけはやっておこう。
●●
1. まず、ヒトが実験対象とされうる研究領域は、その対象が表面上の考察
において見られる以上に多様である。問題を内包しているのは、とりわけ4
つの研究領域である。
.
●
1. 1 最も目立つのは、疑いなく、手術と投薬による臨床実験(klinische
第4章人体実験99
Versuche )である。これらのカテゴリーには、医薬品の臨床試験( klinische
Prufung )ならびに新たな治療処置のテス「も含まれる。
1. 2
さらに、心理学上のテス「(例えば、周知のミルグラム( Milgram)
Verhaltensbeeinflussungen )に
の服従研究のようなもの)あるいは行動の相互作用(
よっても、人が研究対象とされうる。
1.3 人は、さらに、例えば、ォープンにされた、あるいは人目につか
ない関与的観察( teilnehmende Beobachatung )の場合のように、社会科学的観
察によってもこの役割に陥ることがありうる。
1.4
特に遺伝子操作(
(Gen-Manipulation )によるように、生物学的実験
もまた、広い意味では人体実験の領域に属する。なるほど、それによって、
(まだ)特定の人個人は関与してはいない。しかし、やはり将来のヒトに対す
る潜在的作用を考慮すると、入念な保護が必要である。
われわれがこれらの様々な研究領域の法的重要性を間うてみれば、生物遺
伝学(
(Biogenetik) (1. 4 )は、従来、いかなる方法でも構成要件上枠づけさ
れていない (22) 。社会科学的観察( 1.3) も、今日、場合によっては、民法上
制裁可能な人格侵害(民法823条)として捕捉することができる(23)。これに対
して、臨床実験( 1.1) の場合は、身体の統一性の保護についての諸構成要
件(刑法223条、229条、230条)ないし致命的結果をもたらす場合には生命保護
についての構成要件(刑法212条、218条、226条)が考慮されうる。同じことは、
傷害罪の構成要件によって精神的幸福( seelisches Wohi) も保護されたものと
みなされうるかぎりで、心理学的実験( 1.2) にもあてはまる。さらに、被
験者がその意』思に反して引き止められたり(刑法239条)、あるいは協力へと
強いられる(刑法240条)場合には、自由に対する罪を考慮することができる。
(22)ともかく、わが国でもその危険性は認識されてきている。 1978 年2 月15日に連邦政府によ
って公表されたr試験管内において新規に組み合わせされた核酸による危険性に対する保護に
ついての指針( Richtlinien zum Schutz vor Gefahren durch in-vitro neukombinierte Nuk-
leins 谷 uren) 」を参照。遺伝子研究一般の問題性については、 B. Han 昭, Ethics of Manipula
tion, New York 1975, S. 159ff .および Th. R. Merte れ s, Human Genetics, New York 1975 参
照。
(23)この点について基本的なものは、C.互 ese, Pers6nlichkeitsrechtliche Grenzen sozial-
psychologischer Experimente, in Festschrift ftir K. Duden, MUnchen 1977, 5. 719ff .である。
100
2. 構成要件上の重要性は、当然ながら、必ずしも必然的にその人体実験の
違法性という結論をもたらすものではない。とりわけ、侵襲の目的は、その
結論と対時しうるであろうーしかも、すでに構成要件を阻却するのかそれ
ともはじめて違法性を阻却するのか、という犯罪体系上の問題にもかかわら
ず、そうである。このことは、とりわけ3つの点で重要である。
2. 1
薬剤を用いる場合、まず、具体的な当該患者の治癒が問題となる
のであれば、これは、同時に研究利益(例えば、優越性の証明のようなもの)も
それに結びつけられるという理由ですでに「治療( Heilbehandlung 」という
性格を失うものではない。なぜなら、基本的にいっさいの医学的処置は、そ
れ自体、その有効性ないし優越性の確認ないし反証を意味し、そしてすでに
その点に科学的認識価値があるということを度外視しても(24)、その処置な
いし薬剤が具体的事案において客観的に指示され、個々の治療利益が優越的
であり、あるいは少なくとも本質的に共同決定されるかぎり、動機の集東な
いし目的の集東( Motiv-oder ZweckbUndelung) 、は、無害だからである。それ
ゆえ、そのためには、―いずれにせよ事情によっては可能な対照被験者
(Kontroliprobanden )ではなく当該患者が問題となるかぎりでは■一一侵襲に関
する一般的規則が決定的であり、その結果、基本的には、ともかく患者の事
実上のもしくは推定的承諾に基づいて違法性が阻却されることになる( 25)
2. 2 しかしながら、これは、ある処置だとか薬剤がその(肯定的もしく
は場合によっては否定的)有効性に関してなお十分にはテストされておらず、
それゆえに厳密にとれば客観的に指示されたものとみなされえない場合、す
でに疑わしいのであるが、しかしながら、この治療の投入は、すでに間違い
ないことが証明されたかテスト済みのその他のより良い処置がなければ、唯
一の救助のチャンスを示すものである。このような「治療的実験(Heiんersuch) 」は、基本的にはヒ「を利用するいっさいの最初のテストにおいて、
(24)すでに L. v. Bar, Medizinische Forschung und Strafrecht, in Gottingen Festgabe fur
Regeisberger, 1901, S. 229, 231 が、ドイツ語圏における人体実験についてのおそらくは最初の
包括的研究においてそう述べている。
(25)その際、ここでは、治療侵襲の構成要件上の扱いと承諾の体系上の地位をめぐる論争が未
解決のままとなりう る。この,点についての詳細は、 Eser. in Schdnke-Schrdder5 223 Rdnr. 28
f.
第4章人体実験
101
しかも厳密にとればそれ自体テス「された処置においてもこの施術者による
最初の実施において存在するように、なるほど、客観的には実験的性格を有
しているが、主観的治癒利益を通して治療行為のカテゴリーに近い。それゆ
えに、それらの規則は、基本的にはこのような「治療的実験」にも適用可能
であるが、その際、もちろん、この種の侵襲においては承諾は「許されたリ
スク」もしくはその他の利益衡量といった正当化要素によって補完されるべ
きでないかどうかは、考慮する余地がある(
(26)
2. 3 この問題は、本来の意味における「人体実験」において強く表れ
ている。つまり、そこでは、総じて具体的な当該人間の医療行為がもはや
(あるいは場合によってはおよそ)重要ではなく、もっぱら(あるいはいずれにせよ
第1次的に)科学的目的が重要である。それは、患者に対して、その患者の
本来的苦痛にとり客観的に指示されてもいないし目的連関もない処置もしく
は薬剤がテス「される場合にも(27)、また、投与された薬剤がなるほど治療
の目的にも役立つが、―治療的実験の場合と異なり――他の相当な治療が
ないというのではなく、第1次的にテス「目的(無害性・有効性・優越性の証明)
のために用いられる場合にも、そういえるのである(28)。この科学的目的設
定は、当然ながら、医療行為以外でもいっそう明確に表れている。心理学上
の諸テス 「(1 ・2)、社会科学上の調査研究(1 ・3) あるいは人類遺伝学
(Humangenetik) (1 ・4)においても、そうである。
ここで、「人体実験」の定義について一言しておく必要があるように思わ
れる。人体実験を特定のメルクマールの積極的定義づけによって概念的に限
界づけることが繰り返し試みられてきた。その際、たいてい、その目的設定
および/またはその処置の「科学性( Wissenschaftlichkeit) 」が強調されてい
る(29)。それは、その際に、―まずここでも同様だが―単にあらゆる種
G. Grahimα れ n, Heilbehandlung und Heilversuch, Stuttgart 1977 である。
(27)例えば、 Gray, (Anm. 13), 5. 56ff. によって報告されている断食中絶研究( starvation
(26)まだいたるところで未解決のこの問題性について詳細なのは、
abortion study )においてはそうであり、そこでは、妊婦の断食によって、全体的なカロリー
抑制に対する胎児の新陳代謝反応が研究されることになっていたのである。
(28)例えば、陣痛誘発研究( labour induction study) (G 九り, a. a. 0., 5. 59ff. )におけるよう
なものであり、そこでは、何ら医学的必然性がない場合に人工的に陣痛を誘発させる新しい薬
剤がテストされることになっていたのである。
102
類の科学方法論的観察あるいはヒ「への影響の分類上のまとめだけが問題に
なるかぎりでは、そしてその際、本人の個人的幸福ではなくて、それを超え
る目的が重要であるかぎりでは、問題である。要するに、そこでは、当該人
間は、知見の獲得に向けられた処置の恩恵を受ける者(
(Benefizient) ではな
く、その土台( Substrat) とされているのである(30)。これに対して、このよ
うな定義獲得の努力が規範的拘束力ある概念形成にも役立つべきだとすれ
ば、必ずしも危険がないときには、それは役に立たない。それは、限界が流
動的であるし、空虚な概念が多いという理由で、すでに役に立たない。それ
は、方法論的に違背した、あるいは利己的な実験力ー場合によってはより
危険であるけれども、しかし「科学的」でないがゆえに―枠づけされない
ままとされざるをえないという理由から、危険である。しかし、われわれ
が、治療行為と比較して人体実験に対してこそむしろ強い保護が要求される
ということをひとたび先取りすれば、場合によっては保護目的から消極的定
義づけによ‘ってそれが把握される。これによれば、人体実験に関する法律上
の保護規定は、その実験が治療行為( 2.1) もしくは治療的実験( 2.3)
でないかぎり、ヒ「を用いた、あるはヒ「を対象としたいっさの実験に適
用されるべきである。それゆえ、規範的観点からは、消極的にのみ限界づけ
られたこ の全領域は、「人体実験」が論じられるときには、考慮されるべき
である。それゆえ、 HTD 「ヘルシンギ・東京宣言」においても、正当にも、
治療的研究と「科学的」研究とを区別しようとせず、むしろ治療的研究と
「非治療的」研究とを区別しようとしているのである(
(31) 。もちろん、このよ
うな消極的定義づけは、実際上は、第3 節において再び「純粋な科学的応
用」が論じられ、それによって厳密には非科学的テス「が捕捉されないとい
うことによって、再び価値を下げられるであろう( 32)
(29)例えば、 F. BOth, Das wissenschaftlich-medizinische Humanexperiment, NJW 1967,
1493/4, D. Giesen, Die zivilrechtliche Haftung des Arztes bei neuen Behandlungsmethoden
und Experimenten, Bielefeld 1976, S. 18 参照。
(30) H. Jonas, Philosophical Reflexions, in II 加 mber-Almeder, (Anm. 1),S. 217/9 参照。
(31)しかしまた、 Levi 冗 e (Anm. 5), Villanova L. Rev. 22 (1976/77), S. 377ff .をも参照。
(32)限界づけの問題性については、 Deutsch, Medizin (Anm. 12) S. 38ff. をも参照。
第4章人体実験
103
本質的な定義メルクマールとしての「科学的な目的設定」を外すことが被
験者保護にとって問題となるということは、いうまでもなく、可能な研究目
的の多様性についても明らかとなる。―それについては、研究者の主観的
な認識利益だけですでに十分というべきであろうか。それとも、「純粋な真
理」のためだけで十分というべきであろうか。それとも、「知的な自己実現」
の目的のためでもよいのだろうか。それとも、職業上の威信からだけでよい
のであろうか(
(33)
―それとも、客観的に利用可能な知見の獲得が重要というべきであろう
か。しかし、いつ、何のために利用可能か。ひとつの具体的な欲求充足のた
めだけでよいのか。それとも、一般的な「貯蔵知識( Vorratswissen) 」として
も重要でなければならないのか。短期かそれとも長期か。欠陥の除去につい
てのみか(
(34) 。それとも、人類の幸福の増幅のためにも重要でなければなら
ないのか(
(35) 。このような様々な側面は、規範的に把握するのが困難である
が、ともかくリスクを伴う研究の正当化に際して、衡量要因としては考慮で
きるであろう。
.
●●●●
3. 実験の要件の程度も、様々な意義を持ちうる。テストすべき抗生物質
が、ある新しいバクテリア類を支配するための最後の手段( ultima ratio) と
みなされるならば、背負い込まれるべきリスクに対する衡量は、すでにテス
「された等価の代替物が用いられる場合とは完全に異なる。それゆえ、単
に、―すでに現存するが決して改善されていない薬剤と比較して―新た
な薬剤の有効性だけが問題となるにすぎない場合、より熟考された手段を期
待する場合よりも、より厳格な諸要件が必要だというべきであろう。
(33)このような経歴および威信に関係づけられた動機が人体実験の発展にとって小さからざる
意義を有していることは、関係する有識者たちによってしばしば認められている。 Beecher,
(Anm. 12),S. 195 参照。
(34)例えば、 Jonas, (Anm. 3 の, S. 220ff. は、人体実験の目的設定をこのような「惨事を防止
すること」に限定しているように思われる。
(35) A. I 功 ck/H. W. Richardson, Moral Justification for Research Using Human Subjects, in 1/ 加 mber-Almeder, (Anm. 1), S. 243ff. は、このような「人類の希望を増進させるこ
と」の中に、まさに正当な研究目的をも見出しているといえよう。しかし、これについては、
後出 III 3 の3注(68)をも参照。
104
4. かくして、方法論にも左右されるリスク要因と結果要因のことがすでに
論じられていることになる。ここでは、ヒ「を利用する、また.ヒ「を対象と
する実験の様々な構成要件上の重要性が特に明確になっている。
4. 1 研究方法が観察ないし診察に制限され、これが被験者の何らかの
精神的撹乱に至ることがなくても、その中には(例えば、人目につかない関与的
観察の場合だとか編して承諾を得る場合のように)場合によっては民法上の人格侵
害が存在しうる(
(36)
4. 2 これに対して、身体の統一性への侵襲は、刑法上基本的に重要で
ある(刑法223条)。より厳密にいえば、リスクだとか効果すらも考慮しない
(承諾がなかったり、あるいは承諾が無効であったりする)自己決定権の蔑視の場合
が・そうである( 37)
4. 3 身体の統一性への侵襲が、健康を害する結果となれば、これは、
刑法230条による過失、刑法223条によるリスクの引受けにおいて捕捉可能で
ある。
4. 4それどころか、傷害が死の結果をもたらせば、刑法226条もしくは
―死を背負い込めば―升廿法212条が重要となる。
4. 5
なるほど、健康損傷に至ることも死に至ることもないが、ともか
く致命的リスクに至るならば、この種のリス、クへの承諾がなかったり、ある
いは刑法216条を考慮すると承諾が無効である場合、それでもなお考慮され
うるのは、刑法223条(または230条)である( 38)
4.6 被験者の影響を超えて、第三者に対してもリスクがありうること
を考慮しようと試みるならば、法的枠組は、きわめて困難である。例えば、
なるほどテスト条件の下ではないがおそらく(非常に概観困難な)利用条件の
下では設定されうるような諸効果を飲み込むこつをいかにして獲得するの
か( 39)
Wiese, (Anm. 23),S. 725ff. 参照。
これは、人体実験の場合には―治療行為と治療的実験の場合とは異なりーすでに客観
的な適応性( Indiziertheit )が欠けるという理由による。 Eser in Sch び% ke-Schrdder § 223
Rdnr. 32 bzw. 49f. 参照。
Le れ ckner in Sch 伽 ke-Schrfider Vorbem. 36, 103ff. vor § 32 参照。
例えば、食料品研究における殺虫剤実験( Pestizidversuchen) の放射作用の場合がそう
第4章人体実験
105
5. かくして、潜在的当事者が視野に入ってくるが、その際、人体実験のさ
らなる/ぐリエーションが見えてくる。
当該人的範囲に関してそうである。その際、直接的被験者である
5.. 1
研究者自身(自己試験)も、またそれを超えて、そのつど異なった法的諸効
果を伴う対照被験者も関係してくる( 40)
発育状態、年齢もしくは本人の状態も、様々な意義を持ちうるが、
5. 2
その際、ここでは、様々な問題性が、胎児の場合、妊婦の場合、小児の場
合、精神障害者の場合、患者および瀕死者の場合に指摘できる。その際に
は、とりわけ承諾の問題が登場するということにとどまらない。また、患者
を対象とする試験は、いうまでもなく、これが実験のためにきわめて容易に
利用可能であり、その一般的無防備さにおいてまさに研究プロジエク「とし
て現れるがゆえに、問題となる( 41)
●.
●●.
6. 以上で論じられた承諾の問題も、いろいろな側面を有している。
準公式の諸宣言における任意性の要件の厳粛な断言(42)にもかかわ
6. 1
らず、実際上、前提とすべきことは、・取るに足りないとはいえない数の、本
.
.
●.
人の承諾なき試験が実施されているということである(43)。他の正当化事由
である。ら ck-Richardso ル, (Anm. 35), S. 246f. 参照。
(40)対照被験者の場合の特別な問題性に注意を向けさせたのは、疑いなく M. Fincke, Arz-
neimittelprufung -Stratbare Versuchsmethoden, Karisruhe 1977 の功績である。もちろん
彼がそこで、プラセボや二重盲検( Doppelblindversuch) はそれによって対照患者に検査す
べき(そしてたぶんよりよい)薬理が知ららされないであろうがゆえに原則として可罰的であ
るという警告的な結論に到達するとき、彼は、不作為による(いずれにせよ可能な)帰責のた
めには通常、相応の保障義務が欠けているといえるであろうことを誤解しているように思われ
る。なぜなら、治療義務は、原則として、検査済みの有効な薬剤の投与にのみ向けられうるか
らであり、そして事前に予測されたこの安全性は、まさに試験によっては じめてもたらされる
べきだからである。また、 S. Kaller, Angriff auf den Fortschritt der Medizin, in Fortschritte der Medizin 42 (1977) S. 2570ff. をも参照。
(41) J. Fletcher,Realities of Patient Consent to Medical Research, in Humber/Almeder,
(Anm. 1), 5. 261ff .ならびに Jonas ebda. S. 234ff .参照。それゆえ、薬事法41条により医薬品
検査に患者を関係させることについての特別な要件は、正当な根拠を有しているのである。
―同じような注意は、受刑者についての研究の場合にも必要である。
the Unfree, in Law and Human Behavior 1 (1977) 5. 1ff. 参照。
(42)後出IIIの2参照。
P. Singer, Consent of
(43) Beecher, (Anm. 12), 5. 196, 205 は、とりわけ危険な研究の場合にこの結論を引いてこな
106
―これについてはまた論じることになるであろうーが、効果がないとす
れば、このことは、本来的に、研究者の処罰という結果をもたらさざるをえ
ないであろう。
6. 2 しかし、たとえ、(書面または口頭による)承諾の意思表示が存在す
るとしても、その有効性の諸条件は、問題となりうる。若干の問題点を述べ
ておこう。
―何歳から、またいかなる状態であれば、本人の理解能力があることが
前提とされるのか。
―試験目的を隠したり、圧力ないしその他の制度上の強制に対して、任
意閏まいかにして保護されるのが 44)
―説明はどの程度可能であるか、あるいは命じられるのか。研究計画一
般に関してのみか。それとも、その具体的適用およびそれに結び付いた諸リ
スクに関してもそうか。同時に、(おそらく放棄できないであろう)盲検
(Bliodversuch)についてはどの程度の余地がなお残されているのか。
6. 3
本人が承諾無能力である場合、特に胎児であったり、理解能力の
ない未成年者であったり、精神障害者であったりする場合には、付随的諸問
題が生じる( 45)
―その代わりに、推定的承諾で十分というべきか。しかし、同時に本人
の幸福には役立たない諸々の侵襲の場合、この法理の濫用可能性のことはさ
ておき、それについては、いっさいの現実的基盤がなくならないのか。
―それとも、その代わりに、法定代理人が承諾してもよいというべき
か。 しかし、この種の決定は、きわめて人格的なものであり、本人自身の幸
福に役立たないという理由からして、そもそも代理能力があるといえるの
ければならないと考えている。また、乃加 worth, (Anm. 12), S. 13, 20, 361., 52, 62ff., Krauss,
(Anm. 3), S. 93 ならびに興ざめするほど率直ながらKieル le in einer Bundestags-Anhorung
zum ArzneimittelG (連邦議会での薬事法についての聴聞意見)をも参照。「(臨床実験を)し
たいとき、彼らは、患者に説明する必要がない」。「彼らが患者に説明をするとき、彼らは、そ
れ(試験)をしているのではない」 (Fincke, Anm. 40, S. 128 より引用)。
(44)被験者のリクルートがどの程度うまくいっているのか、そして彼らの内面的なあり方がい
かに多面的であるかは、例えば、Groツ,(Anm. 13), S. 127ff.が明らかにしている。
(45)この,点について一般的なものとして、「子どもに関する研究」と「精神遅滞者」に関する
委員会報告書( Anm. 2) がある。
第4章人体実験
107
か(4の。
すでに以上の若干の指摘から明らかになることは、ヒ「を使った試験の広
い多様な領域のうち、承諾要件を現実に真面目に取り入れれば、許されるべ
く残っているのは比較的わずかな領域でしかない、ということである。それ
によって、他のすべてのことが禁止されるべきなのか。かくして、規範的な
原則的問題が生じることになる。
III ,人体実験の適法性
前述した問題領域の解明から明らかなように、この問題領域は、それが一
定の種類の人体実験に通常固定化される場合に明らかにされる以上にはるか
に複雑であるのみならず、法的な落とし穴( rechtliche Falistricke )によって
も確信されない。たとえ多くの刑法上の諸々の現実化が最終的に、まさにあ
る正当化事由によって排除されるとしても、研究者の帰責リスクおよび刑事
訴追のリスクは、許された人体実験( Humanversuche) の領域がそれほど明
確に輪郭づけられていない以上、評価するのは難しい(47)。しかし、それに
より、まさに良心的な研究者の場合、彼が約東を果たしえないこととなる
が、そのことは、科学の利益にもなりえないし、公共の福祉にもなりえな
い。それゆえ、現行法を明確化したいという欲求は、思いきった改正とまで
はいかないにせよ、避けられない。それについては法技術上、2 つのことが
考えられる。
―ひとつは、人体実験に関係するすべての法律問題のための包括的な特
別規定を設けることである。それは、望ましいことではあるが、たぶんそれ
ほど簡単な企てではない。というのは、この企ては、何よりもまず、すべて
(46) v. Bar, (Anm. 24), S. 243 は、すでに原則としてこのことを否定している。臓器提供の場
合について、 Laufs, (Anm. 17), S. 441 .も同旨である。また、 Giese ル, (Anm. 2 の, S. 23 も、こ
れに疑念を抱いている。それゆえ、薬事法40条4項では、未成年者の承諾の補充は、正当にも、
原則として付加的な利益衡量に依存せしめられているが、その際、ここでは、この解決策が十
分うまくいくかどうかは、もちろん留保しておかなければならない。
(47)被験者のための努力の中で研究者の権利も忘れ去られてはならないことは、とりわけ「医
学研究職の観点」から、 M. B. Shimkin, in B加 mber-Almeder, (Anm. 1), 5. 207, 214ff. によ
って強調されている。
108
の重要な諸問題に光を当てることを前提とするだろうからである。
―もうひとつは、一方で、特別な保障を必要とする被験者群のための保
護構成要件と特にリスクのある種類の研究に対する保護構成要件とが創設さ
れ、他方では、許された研究のためのきわめて重要な正当化の諸原則が明確
にされるという具合に、一定の部分規定を設けることである。それは、こと
によると、予見不可能な道路の窪みをもったまま実施される 方法なのかもし
れないが、その方法は、健全な感覚を有する理由がなければ、アメリカ人の
プラグマチズムに代わって歩めるものではなかろう。
もちろん、最終的にどの方法を選択するのかをまずもって説明するために
は、人体実験がそもそも正当なものと認められるかどうか、もしそうだとす
ればどの程度にそうなのか、という原則的問題が残されている。さらに、実
質的視点においては、とりわけ3つの問題が基本的に重要である。すなわ
ち、研究者の研究の自由、被験者の自己処分権、ならびに利益とリスク(危
険)の衡量である。
.
.
.
●●
1. 研究の自由が一般的な人格権あるいは公共の福祉の必要性からやっとの
ことで基礎づけられざるをえない他の諸国とは異なり(48)、わが国では、基
本法5 条3 項により学間と研究が形式上「自由なもの」として基本法上保障
されているとみることができる状態にある。したがって、人を手段とし対象
とする研究も、それについて特別に社会的有用性の証明を必要とすることな
く、原則として適法である( 49)
適法性は、しかしながら、無制限ではない。なるほど、研究の自由は、
―言論の自由や教授の自由(基本法5条2項、3項2文)とは異なり―形式
的な法律の留保の下に置かれていない。それでもなお、研究の自由といえど
も限界がないというものではありえず、衝突事案においては、内在的な憲法
の留保に基づいて、同等もしくは高次の憲法上の諸価値にその制限枠を見い
(48)この,点については、例えば、
V. Blasi, Das Journalistenprivileg und das Forscher-
privileg, in Eser,Forschung (Anm. 5),S. 100ff. 参照。
(49) Schmitt Glaeser, Die Freiheit der Forschung, in Eser, Forschung (Anm. 5),S. 78ff
照。
.参
第4章人体実験
109
だす、という,点については、原則的な一致がある(50)。そのことは、なるほ
ど、あらゆる単一の法定構成要件から研究の自由が後退する結果をもたらす
ものではないが、影響を受ける法益が、一方で憲法上(も)保障され、また
基本法上の価値秩序の基準に従い、またあらゆる事情を考慮して高次のラン
クのものとみなされるべき場合には、おそらくそうなるであろう(
50a)
。その
ことは、明らかに次のことを意味する。すなわち、基本法上保障された財の
保護に役立つ民法上ないし刑法上の構成要件―そしてそれは、つまり、人
間の尊厳の保持についての保護構成要件(基本法1 条、民法823条)ならびに生
命および身体の完全性の保持についての保護構成要件(基本法2 条2 項、刑法
212条以下、223条以下)の場合がそうであるーが人体実験によって実現され
るかぎり、その人体実験は、それがある特別な正当化事由によって適法とさ
れる場合はともかく として、違法である。したがって、研究の自由という基
本法上の保障にもかかわらず、人体実験の適法性は、結局、特別の正当化事
由の問題に帰着する(
(51)
●●
2. その際、被験者の承諾に最も重要な意義がある(52)。確かに、一見した
ところ、むしろ被験者の自己処分権が一般に人体実験の唯一の基盤となって
おり、また枠ともなっているように思われる。なぜなら、NC「ニュルンベ
ルク・コード」が第1 原則において被験者の任意的同意を「絶対的に重要な
もの」とみなしており、また、世界人権規約B規約7 条が任意性のない服
従だけを人体実験の下で気にかけているとすれば、人体実験の適法性は、ま
さに承諾の問題にほかならないように思われるからである。しかし、被験者
の固有の承諾無能力が彼の法定代理人の―ー―一他者処分による!―承諾によ
(50) Schmitt Glaeser,a. a. 0., S. 87ff., 92ff.
(50a) 最近では、ヘッセン)吋の大学法( UnivG )について連邦憲法裁判所が同旨の判決を下し
ている。BVerfG NJW 1978, 1621ff.
(51) 14死Se, (Anm 23), S. 741ff. 参照。特に、当初は国家による干渉からの防衛に向けられて
いた研究の自由が研究者と被験者との関係にとってもどの程度重要であるかとい う問題につい
ても、同文献参照。
(52)その際、承諾の犯罪体系上の位置づけがすでに構成要件を阻却するものか違法性を阻却す
るものかは、ここでは留保しておくこととする。この,点について一般的なものとして、
Lenck 冗 er, in Sc/s 伽 ke-Sch 功der, Vorbem. 29ff. vor§ 32 がある。
110
って代替可能とされるべきだということは、この自己処分原理といかにして
合致しうるのか(53)。また、承諾と並んで公然と利益とリスクの衡量も要件
とされるべきだということは、どのように理解すべきなのか(54)。様々な種
類の側面のこうした混同が、あれやこれやの形態においていたるところで見
られるように、矛盾しているように思われること(55)、このことは、2つの
ことから説明されるであろう。
―ひとつは、倫理的 ・理念的な最大限のものと法的に絶対必要な最小限
のものとの区別がないことから、それが証明される。すなわち、侵害に至る
実験を(例えば、被験者の承諾によるように)法技術的意味において「正当化さ
れたもの」とみなすためにはどのような条件が無条件に充足されなければな
らないか、あるいは、それ以外でどのようなさらなる防止措置が理念として
なお望まれるのか(例えば、研究者の一定の学間的適格性(5のとか倫理的考察のプロト
コール化のようなもの((57)) について、たいていは十分に解明されていない。
―もうひとつは、特に承諾に関して、これが人体実験の唯一にしてそれ
自体のみで十分な適法化にもなるべきものかどうかは、たいてい不明確であ
る。承諾が唯一の適法化根拠だとすれば、それは、一般に被験者が相応の説
明を受けた後に承諾した場合にのみ人体実験は適法になりうるのであり、そ
れゆえにその他のいっさいの正当化事由は(例えば、正当化的緊急避難すらも)
排除されるということを意味するであろう。承諾が十分な適法化根拠だとす
れば、それ以外になおその他の防護柵(例えば、利益とリスクの衡量のようなも
の)を必要としなくても、承諾があるだけですでに研究者は法的に救済され
るという結果になるであろう。
まず、最後に挙げた問題に立ち向かうことが、目的に適っているように思
(53)例えば、一方では HTD 「ヘルシンギ・東京宣言」1 ・9、 III ・2 による承諾の要件、他方
では HTD I ・11による法定代理人の合意による補充可能性を参照。
(54) NC 「ニュルンベルク・コード〕原則第6原則によればすでにそうである。さらに HTD
1 ・4-6参照。
(55)このことは、とりわけ最初に承諾が放棄不可能な「構造的価値」として示されるときのこ
とであるが、しかしその場合、この価値は、むしろ意外にも「主張者」としての医師によって
補充されるべきである。ら ck-Richa 濡。ル, (Anm 35), S. 24Sf. ないし 252f .が、そうである。
(56) HTD I ・3参照。
(57)
HTD I ・12ならびに後出Ivの2参照。
第4章人体実験111
われる。より厳密には、法的な最小限度の考察という意味において、そうで
ある。(構成要件上重要な)人体実験への被験者の承諾は、それだけで正当化の
ために十分たりうるであろうか。これに対する解答は、一様ではないし、明
確でもない。一方では、例えば、国際人権規約B規約は、事実上、被験者
の承諾だけを前提にしているように思われるーその際、これは、確かに承
諾の意味においても重要なもの と解されるが、しかし、唯一十分な正当化要
素とは解されないであろう。他方、NC 「ニュールンベルク・コード」にお
いても、また HTD 「ヘルシンキ・東京宣言」(58)においても、承諾のほか
に、利益とリスクの衡量もまた要求されているのであるーしかし、その
際、倫理的義務づけだけが重要であるべきなのか、それとも承諾のほかに正
当化を構成する補充となるものが重要であるべきかは、はっきりと認識可能
だとはいえない。
ここで、必要最小限度で、さしあたり私の解答を与えると、実際上後者に
なるであろう。つまり、承諾のほかに、なお利益とリスクの衡量が要求され
るべきである。より厳密には、その中に自己処分権の制限が見いだされるべ
きだとしても、そうである。自己処分権が無制限でありえないことは、現行
法上、明確な殺害要求にすらも正当化を認めていない刑法216条が示してい
るところである(59)。死に致らしめる実験を単純に甘受することはーそし
てこれは、ことによると期待された研究成果を考慮することなしにーほと
んど正当化されえないであろう。そして、身体の統一性に関する処分も決し
て無制限でないことは、刑法226a条の良俗違反条項が示している。最近、
同条の理解に関しては、きわめて争いもあるが、いずれにせよ重要なのは、
その中に具現化された考え、すなわち、身体の統一性も任意に処分できるも
のではなく、その保護の放棄が明らかに社会倫理的価値観に違反しないかぎ
58)前出注(54)参照。
59)そして、この正当化の禁止が立法論上も揺るがせられるべきでないということは、安楽死
擁護に取り組んでいる人々によっても容認されている。このことは、当然ながら、責任がある
と宣告されるにもかかわらず主観的事由(重病者に対する同情による動機づけ、優越的研究利
益)を顧慮して刑を免除することを排除しないであろう。Eser, Suizid und Euthanasie als
human- und sozialwissenschaftliches Problem, Stuttgart 1976, 5. 400 〔紹介として、甲斐克
則=井上祐司・判タ353号( 1978) 69 頁以下がある)およびそこに掲載されている文献参照。
112
りでのみ処分可能であるという考えである(60)。しかし、この限界は、遅く
とも、その自己放棄が基本法1 条により不可侵とされている人間の尊厳の侵
害に当たるか(
(61) 、あるいは甘受される侵害の態様と程度が、追求された目
的との関係の外に完全にある場合には、踏み越えられることになるであろ
う(
(62) 。人体実験に移してみると、このことは、被験者は実験者の言いなり
の客体にまで品位を販められてはならないし、 また、そのリスクの範囲と重
さが期待可能な知見の獲得により決して大方のところ埋め合わせされないよ
うなリスクに晒されてはならない、ということを意味する。かくして、利益
とリスクの衡量という職業倫理上の原則は、最終的に法的意義をも獲得する
のである。すなわち、被験者の承諾は、人体実験にとっては、なるほど重要
ではあるが、それだけでは十分な正当化条件とはいえないのである。さら
に、実験目的が実験リスクに対して適切な関係になければならないのであ
る( 63)
3.
承諾とリスク衡量のこのような「累積(
(Kumulation) 」に基づいて、同時
に、最初に未解決のままにしておいた唯一の正当化事由としての承諾の問題
も、予先採決されるように思われる。いったい、承諾にこのような重要な意
義が付加されるとすれば、それと並んでその他の、承諾とは別個の正当化事
由に対して、いかにしてなお余地が残されることになるのか。それにもかか
わらず、この点においても、要求と現実は、相互に分離されて然るべきであ
(60) Stree, in Sch ひ nke-Schr6der,§ 226a Rdnr. 5.
(61) SchmidhOuser,Strafrecht, Aulg. Teil, Tubingen 2. Aufi. 1975, S. 272.
(62) Hirsch, in Leipziger Kommentar zum StGB(=LK),Berlin 9 。 Aufl. 1970,§226a Rdnr
7, Stratenwerth, Strafrecht, Alig. Teil, 2. Aufi. K6ln 1976, S. 127 参照。
(63) NC 「ニュルンベルク・コード」 (Grundsatz ii. V. m. 4-6) およびHTD「ヘルシンギ・
東京宣言」 (1.4 i.V.m. 1.'9,111.2) も、すでに承諾要因と利益・リスク要因とのこのような
「累積的」結合の意味において理解することが許されるであろう。おそらく、 Both, NJW
1967, 1495, Deutsc ん, NJW 1978, 574, Giesen, (Anm 29), 5. 23 ならびにすでに Heinits, Arztliche Experimente am lebenden Menschen, JR 1951, 333/4も同旨であろう。利益とリスクの衡
量にとって重要な諸要因についは、例えば、ら ck-Richardson, (Anm. 35), S. 249ff. ならびに
R. J. Levine, The Role of Assessment of Risk-Benefit-Criteria in the Determination of the
Appropriateness of Research Involving Human Subjects, 1975(Bericht fur die National
Commission, Anm. 1 )参照。
第4章人体実験113
ろう。なぜなら、国際人権規約B 規約が自発的意思に基づかない人体実験
を退けることによって事実上言質を取られているとすれば、胎児、小児、あ
るいはその他の決定能力のない被験者への実験的侵襲は、個人的に承諾なく
実施されるので、そもそもいかにしてなお正当化できるというのであろう
か。確かに、それにもかかわらず法定代理人の承諾が要請されることで落ち
着くよう試みられてはいる(64)。しかし、この種の高度に人格的な決定が本
人自身の幸福に役立たない場合に、そもそも代理能力があるかどうかは別と
して(65)、このような構造により、まさにもはや自己処分ではなく他者処分
がすでに問題となることが隠蔽されるであろう(66)。同じことは、結局のと
ころ、―被験者の真の意思が多かれ少なかれ穏やかな圧力によって行わ
れ、あるいはそれどころかきっぱりと無視される場合はまったくさておいて
―本人に対して十分なリスクの説明をすることができるとは考えず、それ
ゆえに「インフォームド・コンセン「」についてはもはや論じることができ
ない場合にもあてはまる( 67)o
一方での厳粛な承諾の公準と他方での事実上の他者処分の実践とのこのよ
うな相互分裂に直面して、いまや確かに、公然とした濫用に正当化の橋を架
けることが重要ではありえない。それでもなお、規範と現実が他の方法で相
互に歩み寄ることができないものかどうかという問題は、正当にも残されて
いる。そのための第1歩は、公然と国際人権規約B規約7条や多くの他の
原則宣言の念頭に置かれているように、理解能力ある被験者に狭く限定しな
いで、何よりもまず、先に展開された人体実験の複雑性を偏見なく承知し、
適法な研究目的の実現が、承諾能力のない被験者の投入をもどの程度必要と
するのか、ということを現実感覚をもって吟味すべきであろう。その際、事
実上、承諾能力および説明能力のある被験者に限定して研究の必要性が充足
(64)とりわけ HTD 「ヘルシンギ・東京宣言」1 ・n、スイス医学アカデミー指針( Anm. の
11 . 8,Deutsch,NJW 1978,574 (V. 5 )参照。
(65)前出注(46)参照。
(66)それゆえ、 R. f Bo%%ie-P. B. H 切加 a%%,A Reappraisal of Informed Consent,in R. L.
B昭01町, Human Experimentation,Dallas 1975,5. 52ff .が、代行承諾の中に「/J\さな変化」
のみならず、「インフォームド・コンセント・ドクトリン」からの「逸脱」をも見いだしてい
るとき( 5. 69f. )、それは適切である。
(67)前出注(43)参照。
114
されうることが明らかになれば、承諾原理から出発しなければならない理由
は存在しないであろう。確かに、その場合、承諾原理を尊重することも、よ
り真撃に受け止められなければならないし、また、それを蔑視すれば厳格に
訴追されるべきであろう。しかしながら、一定の人体実験は、例えば、それ
が胎児、小児、あるいは精神病患者のためになるはずだという理由で、同じ
ように承諾能力のない被験者に対するのとま ったく同様に実施されうるこ
と、あるいは、方法の効率は、例えば、盲検( Blindversuch) の場合のように
十分な説明をまさに排除すること、こういうことが明らかになるはずだー
そしてそのことについてはかなり蓋然性があると言われているーとすれ
ば、問題を隠蔽する承諾の構造に代わって、まさしく率直に、承諾とは別個
のその他の正当化の可能性を求めるべきであろう。
それについてすでに最終的なものとなる立場決定をな しえないならば、事
実上の承諾を請うことができず、かつ推定的承諾についても十分な手がかり
すら見て取れない事案については、少なくとも2 つの方法が考えられること
になろう。
―ひとつは、過失行為における「許されたリスク( erlaubtes Risiko) 」で
ある。それは、とりわけ、研究者がなるほど一定のリスクを知ってはいる
が、そのとき事実上生じた侵害が故意でもなく条件付故意でもなく背負い込
まれた事案にとって意義がある( 67a)
―もうひとつは、その侵害発生が少なくとも条件付故意で背負い込まれ
た場合の「正当化的緊急避難」(刑法34条)という原則を相応に引き合いに出
すことによって、である。確かに、この方法は、最初から、単なる「備蓄研
究( Vorratsforschung 」が問題でもなく、また一般的な息災の増進だけが間
題でもなく、むしろ差し迫った生命ないし健康の危険が除去される知見の獲
得が問題となるような事案においてのみ考慮されうるにすぎない。なぜな
ら、アメリカの哲学者ョナスの nas) がまさに立体的に区別したように、被
験者の侵害は、もともと「人類の快楽を増加させる」目的のためにではな
(67a) 「許されたリスク」の基盤と限界についての一般的なものとして、Le冗ckル er, in Schdnke
-SchrEider, Vorbem. 100, 107 b vor § 32 およびそこに掲載されたその他の文献がある。また、
Fincke, (Anm. 40), S. 194ff .をも参照。
第4章人体実験115
く、むしろ場合によっては「病気を避ける(68)」目的のために背負い込まれ
るべきだからである(69)。さらに、追求された利益は、釣り合っていなけれ
ばならないのみならず、被験者に背負わされたリスクを明白に克服するもの
でなければならない。したがって、死に致らしめるリスクは、そもそも、場
合によっては研究目的のための際立った例外事案においても、健康損傷を背
負い込むことができないし、困難でもある。
―それ以外に、「正当な(研究)利益の承認( Wahrnehmung berechtigter
(Forschungs-) Interessen) 」のために刑法193条を持ち出すことも許されるべ
きかどうかは、これが最近、例えば、「治療的実験(
(Heilversuchen) 」の正当
化について提案されているように(70)、きわめて疑わしいように思われる。
たとえこの許容構成要件において、まさに研究の自由の承認すらも含む一般
化可能な正当化事由が認められるべきだとしても(71)、この正当化原理の展
開機能が、原則として(自由と名誉のような)社会に関連した法益に対しての
み効果的たりうるにすぎず、身体や生命のような純人格的法益が問題となる
かぎりではそうではないということは、依然として疑わしいままであ
る( 72)
以上ですでにすべての正当化の問題が汲み尽くされたわけではないが、人
体実験の原則的適法性については、ともかく非常に多くのことが確認され
る。本人の承諾は、なるほど、構成要件上重要な人体実験について、ひとつ
の重要な正当化事由ではあるが、それだけで十分な正当化事由でもないし、
唯一の正当化事由でもない。なぜなら、一方では、承諾のほかに、なお利益
とリスクの衡量も加えられなければならないからである。他方、本人の高度
に人格的な承諾に代わり、―承諾を得ることができない場合には―「許
(68) Jonas, (Anm. 30), S. 220ff. また、前出注(34)、 (35)をも参照。
(69)また、NC 「ニュルンベルク・コーV] 第5原則をも参照。
(70) Grahlmann, (Anm. 26),S. 36ff.
(71) Eser, Wahrnehmung berechtigter Interessen als aligemeiner Rechtfertigungsgrund,
Bad Homburg 1969, 5. 40ff.
(72) Eser, a. a 0., 5. 4Sf .これに対して、社会科学的観察および調査によるその他の人格侵害
の場合には、正当な利益の承認( Wahrnehmung berechtigter Interessen )という正当化事由
を引合いに出すことは、いずれにせよ、原則として排除されない。'4互 ese, (Anm. 23), 5. 742
ff.参照。
116
されたリスク」だとか「正当化的緊急避難」の諸原則に応じた正当化も考慮
される余地がある。
Iv 手続的保障
あらゆる内音「的適法性は、それが実践的にコン「ロールできない場合には
問題となるであろう。それゆえ、濫用防止がすでに HTD 「ヘルシンギ・東
京宣言〕の中にあり、これは、アメリカの規制努力においては正当にも特別
な意義をもって強化されている。この点については、とりわけ次のような保
障が、スローガン的ながら考慮されるべきである。
.
.
●.
●
いわゆる倫理委員会の設置( HTD 「ヘルシンキ・東京宣言」 1.2) 。倫理委員
1.
会は、そのプロジェク「が(利益とリスクの衡量を含め)
(73)
倫理的・法的に問題
がないということも、また、特に被験者の承諾の有効性(ないし不要性)も審
査すべきであろう(
(74) 。この2つの機能が一方で同じ委員会によって、ある
いはフ0ロジエクト志向型の「審査委員会( review board) 」によって、他方で
被験者志向型の「コンセント委員会( consent committee) 」によって主張され
-
るかどうかは(75)、原則問題というよりも、むしろ実践問題である。すなわ
ち、それは、委員会の構成や手続方法と同様、いうまでもなく、プロジエク
トの種類や制度の在り様によっても左右される問題である。
●.
.
●●●.
●
2. 研究プロ「コールの作成。ここから、審査可能な方法で、実験の目標設
定および実施にとって重要なすべての要因(つまりそれらと結び付く諸リスクも
そうである)ならびに研究者の資格および責任も生じる( HTD 「ヘルシンギ・東
京宣言」 1. 2, 12) 。なぜなら、文書による確定がなければ、すべての重要な,点
の十分な意識形成や理解も保障されないし、また、信頼できるコントロール
3)勿 ck-Richardson, (Anm. 35),S. 249ff .参照。
4)この,点については、特に
Fletcher, (Anm. 41), S. 274f.
5) この,点についての詳細は、 Hershey-Miller (Anm. 2) S. 13ff., 47ff. さらに「施設内審査
委員会( Interna) Review Boards) 」に関する国家委員会レポート( Anm. 2 )をも.参照。
第4章人体実験
117
も保障されないからである( 76)
●.
3. 潜在的な損害に対する被験者の万がーのための保険。その際、落度ある
者の責任に対して危殆化責任( Gefahrdungshaftung )が優先されるべきであ
る(77)。なぜなら、その治療から自己の幸福を期待する患者とは異なり、被
験者は、公共の福祉のための「特別な被害者( Sonder 叩 fer) 」となるからで
ある。このことは、何らかの損害の補償が個々の落度ある者にも責任を負う
研究者にも左右されないときにのみ期待できるように』思われる。
4. これに対して、倫理的・法的に許容されない人体実験のためのいろいろ
●●●●
と出されている公表禁止( HTD 「ヘルシンキ・東京宣言」 1.8) は、両刃の刃で
ある。なるほど、公表の機会がなければ、学間的刺激は、問題ある実験に逆
戻りするかもしれない。しかし、それでもなお公表禁止が実施されれば、公
表もないので、公的なコントロールや制裁化の可能性もなくなる(
78)
保障の問題性は、以上のような簡潔な指摘だけで、当然ながら汲み尽くさ
れたわけではない。例えば、倫理委員会により危険性がないという証明がな
されるような一定の手続に対して正当化を構成する意義がどの程度付加され
るか(79)、あるいは、倫理委員会を無視した場合には事情により秩序違反な
いし職業違背として制裁可能とすべきか(
(80) 、という問題も、さらに研究を
(76)また、この,点について示唆深いのは、
Hershey-Miller, (Anm. . 2), S .
巧 ff.
ならびに
Shimkin, (Anm. 47), S. 208ff .である。
(77)薬事法40条1 項8 号、3 項、ならびに Deutsch, Medizin (Anm. 12), S. 44ff. 参照。この
,点については、 1977 年1 月の国家委員会の「被験者の補償( Compensation of the Injured
Research Subjects) 」に関する部局員草案( Anm.1 )をも参照。すでに、トリウム実験
(Thorotrastversuche )についての BGHZ 20, 61/6ff. は、「被害補償( Aufopferungsentsch 谷 digung)] と同義である。
(78) Shimki れ, (Anm. 47), 5. 212 ならびに R. J. Levi 冗 e, Ethical Considerations in Publication of the Results of Research Involving Human Subjects, in Clinical Research 22(1973)
Nr. 4 をも参照。
(79)代案の一定の人格危殆化犯において予定されている審査機関とほぽ比肩可能なものであ
る。 §§152ff. AE-BT, Straftaten gegen die Person, 2. Hbbd. Tubingen 1971, Begr. S. 49f .参
照。
(80)狭義の人工妊娠中絶(刑法218条)との関係では制裁が緩和されている相談義務および適
応性確認義務違反(刑法 218b 条、219条)にほぽ類似のものである。
118
要する。なぜなら、ここで問題となったのは、以上のことによって人体実験
の適法性を根本的に問題とするためではなく、ヒ「を対象とする研究者に正
当化の途を開くために、―一方での適法な研究と他方での人間の尊厳の
保持との間にある困難な尾根を歩きつつーーイ可よりもまず、人体実験の複雑
性を示すことによって、問題点があまりに簡略化されることを防止すること
だけであったからである。
(甲斐克則・訳)
第5 章ある法律家から見た臨死介助の可能性と限界119
第5 章ある法律家から見た臨死介助の
可能性と限界
ひとが法律家としてこのテーマについて語らなければならないとき、不快
感なしにそれをすることはない。それというのも、死にゆくということは、
ここに法が入り込んで指図するとき、それはいかにもそぐわないものとして
作用せざるをえないほどに、内密な過程ではないであろうか。それにもかか
わらず、法はこの領域をも保護することを試みなければならない。それとい
うのも、死にゆくことがともかくも意味しているのは、 たしかに生命の終末
であり、そのかぎりで国家はーある意味において生命のための「砦」とし
て―、人の生命がどこまでも保護されることに、心を配らなければならな
いからである。
I 生きることと死にゆくこととの限界領域における刑法の諸課題
.
●●
.
●●.
●.
.
●.
●
1 早期の生命短縮に対する保護
このことは、われわれが語らなければならない第一の保護側面である。刑
法は、濫用を阻止しようとする法として、「疑り深い」法である。刑法は、
心を煩わせている近親者や善意の医師を念頭に浮かべることができるばかり
でなく、相続事例の発生を促進すべきだと考えているような遺産相続人を、
もしくは不治の病者を介護することが彼にとって無意味であると思われるほ
ど負担となっている介護人を、あるいはまた、おそらくは逆に、彼の療法の
効果をそれで確かめることができるためには、生命をなお維持しなければな
らないと考えている医師をも、考慮に入れなければならないのである。われ
われが患者の自己決定の利益に照準を合わせようとするかぎり、この世から
訣別しようとする人に対して、社会はその道を強制的に塞いではならないと
しても、法秩序は、それでも、その真意を思い入れをもって見守るならば、
本当はいまだ全くこの世から抜け出ようとは欲していない人々が、この世か
.
●
●.
●●.
ら脱落するか、もしくは追い出されさえしないように、配慮しなければなら
120
ないのである。言い換えれば、刑法は、自殺の許容が社会的な諸々の怠慢の
アリ/ぐイになることや、臨死介助が死にゆくことの後押しになることを、阻
止しなければならないのである。そのかぎりで、問題になっているのは、伝
統的に前面に置かれてきた刑法の保護目的、すなわち早期の生命短縮に対す
る患者の保護である。
●.
●●●.
●.
●●●●
2 不適切な延命に対する保護
そのような伝統的な見方に対して、しかしながら、よく考えてみなければ
ならないのは、最近では、患者のための配慮がこれとは逆行する利益から規
定されることもありうるということである。それというのも、死を、生命を
早期に短縮するという仕方においてだけでなく、これとは逆行する方向にお
いても、たとえば現代の蘇生技術を通して、生命がそのいわゆる「自然の終
末」を超えて引き延ばされるというようにして、操作することができるから
であるーこの延命は、たしかに無制限にではないが、しかしともかくも社
会の見方から、はたしてまたどの程度まで、個々人はこのような延命処置の
投入をそもそも要求することができるとされるべきなのか、あるいはまた、
彼に対してどの範囲までこのような生命延引もしくは死にゆくことの引き延
. ●●
ばしを、その意思に反してまでも押し付けることが許されるのか、というこ
とが問題視されるほどに重大な程度にまで達するものである。これによって
同時に、刑法には2つの全く新しい課題が提起される。すなわち、
.
.
●
.
●●●
一ひとつには、医師はどの範囲まで患者の過剰な生命延引要求から免れる
ことが許されるべきなのかを明らかにすることである。そのさい、すでにこ
のことを医師は端的に独自の処置裁量に基いてすることができるとされるべ
きなのか、それ とも特定された諸基準に結びつけて、あるいは他の患者の競
A
合する利益を顧慮して行われるべきなのかが問題となっている。
一しかし逆に、たとえば死の引き延ばしをいかなる犠牲を払っても試みる
ことが許される、それどころか試みなければならない、と信じているような
. ●●●
.
●●
●●
医師によって押し付けられた生命の延引に対する患者の利益が、同様によく
考えられなければならない。私が当時は先駆的な本であったパウル・ムーア
(Paul Moor )の本『死への自由』 (1973 年)を正しく理解したとすれば、同書
第5 章ある法律家から見た臨死介助の可能性と限界
121
は、とりわけ彼が人間を保護しなければならないと信じたまさにこの方向に
あった。ここにひとつの保護要求が存在していることは、ほとんど否認しえ
ない。すなわち、現にある一定の研究関心に支配されているような医学者に
対する、しかしまた、病者の全人格的な幸福が、その第一次的な目標を医療
上の処置の効率に見出すか、もしくは新しい客観的な諸認識の獲得に見出す
成果原理によって押し退けられるように迫る医学に関しても問題となるよう
な、保護要求である。
II 最も重要な基本的諸原理および事例の形態化
ところで、このことは臨死介助の諸々の可能性と限界にとって何を意味し
ているのか。この間いには容易に答えることはできない。それというのも、
後でさらに考察する予定の「要求に基く殺人」の場合に、減刑を定めている
刑法第216条は措くとしても、ドイツ法では、明示的に臨死介助を扱ってい
るようなどのような法律上の規定も、いわんや完結的なそれも存在していな
いからである。
.
.
.
.
.
1 他殺の禁止
I
まず第一に、他人を殺すことの原理的な禁止が挙げられなければならな
い。そのかぎりで、他者は致死的な処理から免れてあるべし、という厳格な
禁忌が呈示されているのである。これに対しては、次の3つの重要な例外し
か存在していない。すなわち正当防衛の場合、戦争における殺人の場合なら
びに多くの国でなお残されている死刑の場合である。
●●.
.
●
2 自殺の自由
どのような殺人の禁止にも―見かけの上でそれと合致しないだけである
1
カー自殺の処罰解除が、もちろんそれがいわゆる「自由答責的な」意思に
基いていることを前提にして、対立している。
122
よlr七1コニー」コー,ー叫竺』■,又n、.1 一円三ーrlコココ1_、I
vl コ人つ×、ーCエコAりン人ノ×」vノ、、J員リ
I-J
他殺の禁止を一方とし、自殺の自由を他方とする、2つの原則は、死にゆ
くことを決意した者が生からの訣別のために他の者の援助を役立てようとす
る場合には、互いに衝突することになる。この第三者は、その場合、生きる
ことに疲れた者と同様に不処罰とされるべきなのであろうか。 それとも、こ
のような場合であっても他殺の禁止が妥当すべきなのであろうか。ドイツ法
は、―そしてこれが第3 の基本原理となる―「被殺者の明示的かつ真撃
な要求によって決定づけられている」―これが刑法第216条の文言である
―者については、「通常の」故殺に対して軽減された刑(
(6 月以上15年以下の
自由升Ii)を定める、というようにして中間の道を採ることに決めてきた。そ
こには、次の2 つのことが表現されている。1 つには、このような「要求に
基く殺人」の場合は、不法とともに責任もまた、明らかにその他の故殺の場
合よりも重くはないということである。2つには、同情によって動機づけら
れた行為者でさえ、どのような完全な処罰解除も保証されてはいないとする
ことによって、他殺の禁止が原則的に破られないことがどこまでも固定され
ている、ということである。もっともこのことは、次の場合には妥当しない
ものとされている。
●●.
.
●●.
●●.
.
.
4 たんなる自殺関与の不処罰
自殺それ自体が、既述のように、処罰から免れていることから、ドイツで
はーたとえばわれわれの隣国であるオース「リアやスイスとは異なって
―、自殺への教唆と帯助もまた、一般的な諸原則によれば、可罰的ではな
い。これが意味しているのは、死にゆくことへの積極的な援助の場合に決定
的に問題になっているのが、この援助を可罰的な「要求に基く殺人」として
理解すべきか、それともたんに不処罰の「自殺への援助」として理解すべき
かである、ということである。どのようにしてこの困難な、たしかに問題を
はらんでいなくもない、限界線が個別的に引かれるべきかという問題は、判
例および法理論にすでに多くの謎を課してきたのであり、今日でもなお余す
ところなく解明されているとみなすことはできない。ともあれ、しかし、現
I
在の支配的な見解を次のように総括することができる。すなわち、死の招来
第5 章ある法律家から見た臨死介助の可能性と限界
123
についての最終的決断が本人に残されているかぎり、それへの援助行為は、
自殺への不処罰な帯助とみなされなければならないということである。これ
に対して、死の発現についての決断が最終的に第三者の手中に置かれるや否
や、可罰的な要求に基く殺人が問題になってくるーそのさいもちろん、ど
のような場合においても、本人の決断が十分に熟慮されており、認識能力お
よび判断能力の段損から免れているということが、前提とされなければなら
ない。
しかし、このようにある程度までは明瞭な限界づけに対して、判例によ
り、場合によっては義務に反する不作為を理由とする可罰性が、それも次の
ような二重の仕方で考慮に入れられなければならないとされることによっ
て、不安定さが持ち込まれている。1 つは、「事故事例」と見られなければ
ならないような自殺の場合であって、.誰かある者が、自殺者を救出するため
に彼に可能で、期待することができるような救助を果さない場合、彼は、刑
法第323条C による「救助不履行」として処罰されうるということである。
2 つは、さらに、近親者とならんで治療を担当している医師もまたそのよう
な者として問題になってくるのであるが、本人の保護の責任を負っている
「保障人」が、不作為による殺人として処罰されることになりうるというこ
とである。救助義務者が、あ る自殺者を、この者にははじめから自由答責的
な自殺意思というものが欠如していたか、もしくは意識の変化というものを
見て取ることができるにもかかわらず、死にゆくにまかせる場合にそのかぎ
りにおいて、このことは争われていない。これに対して、死にゆく意思が自
由答責的であると見られなければならない場合には、この意思の尊重を通し
て救助義務が、したがってまたこれとともに、死にゆくにまかせた場合の可
罰性も また、脱落することがありうるのか、という間いが提起される。これ
によって同時に、もう1 つの問題群が視野のなかに登場することになるので
ある。
●.
●●●.
●.
●●.
●●●●●
5 承諾を得て死にゆくにまかせること
われわれの法秩序は、被殺者の同意に、それどころかその要求にさえ、何
らの正当化力も付与しておらず、それゆえにこのような行為が適法であると
124
はみなされていないにもかかわらず、それでも患者の自己決定権がどのよう
な意義をも有していないというわけではない。たしかに、これによって積極
的な殺人は遮断される。これに対して、これまでのところ自己決定権は、い
ずれにせよ、たとえば患者が安静のうちに死んでゆくことができるために、
治療の継続を謝絶することにより、死にゆく過程に影響を及ぽすことが許さ
れるべきであるとされるかぎりで、尊重されて きた。そのかぎりで、法律家
の見方からは、もはや患者の幸福ではなく、何よりも先ず患者の意思こそが
医師の行為の最高位の原理であるという原則が妥当してきたのである。
しかしながら、このような原理も、連邦通常裁判所( BGH) の判例を通し
てある種の動揺を被ることになった。それ自体として患者の自己決定権は、
まさに医師-患者-関係の内部においてBGHによってもきわめて高く考えら
れてきた。それゆえに、患者の自己決定権は、身体の無傷性に対する基本権
の表現として ―BGH が以前にかつてそのように言い表していたように
―「彼がそれによって生命にとって危険な苦痛から解放される場合でさ
え、その身体の無傷性を犠牲にすることを拒絶している」ところでも、顧慮
されなければならな.い。ところがこれに対して、BGHの判例によれば、死
にゆこうとする意思は原則的に顧慮されなくてもよいとされているのであ
る。このことは、ヴィテッヒ医師事件( 1984 年)において確証された。それ
にもかかわらず、BGHは、その内音Bで患者の自己決定権を顧慮することが
できるような自己答責的な裁量を医師に認容することによって、この事件で
も無罪判決に至った。ともかくもこのことは、ごく最近、BGHがケンプテ
ン事件においてはっきりと、信頼しうる仕方で確認することができる患者の
推定的意思に基いて、すでに終末的な死の過程が始まる前であっ ても治療を
中断することが許されるというごとを承認したかぎりで、さらに補強された
(1994年9月13日判決)。
.
●●●●●●
.
6 一方的な治療中断
患者が明示的にある処置の不開始または中断を懇願したような、先に挙げ
られた事例群とは異なって、ここで問題になっているのは、一方的に死ゆく
にまかせるという、はるかに困難な事例群―すなわち、患者が、たとえば
第5 章ある法律家から見た臨死介助の可能性と限界
125
無意識状態に陥った事故の被害者として搬入されたために、完全に判断無能
力状態にあるか、もしくは少なくとも語りかけることができない結果とし
て、治療が中断されるべきかという間いについて彼と全く相談することがで
きないような諸事例―である。そこでは、患者とこのような間いをもって
対面することが、精神的に期待できるような場合もあれば、老齢または病気
のために患者の知能が、すでに彼に対してこのような間いについてもはや説
明しえないほどに低下している場合もある。この場合、はたして医師は、
一一今日の見解によれば、人間が法的な意味において「人」であることを止
める、それゆえに傷害および殺人の諸規定の保護もまた終結する時点、すな
わち―脳死の発生に至るまで、必要なすべてをなすことが義務づけられて
いるとすべきであろうか。このような考えは、数年前までは有力であり、
(この間に亡くなった)ミュンヘンの刑法学者パウル・ボッケルマン( Paul Bockdmα%功の見解でもあった。これに対して、今日、全く支配的な見解は、そ
れについて患者自身に間い合わせることができない場合でさえ、すでに脳死
の発現の前に処置を中断することが可能でなければならない、という考えに
まで行き着いている。ところで、それは医師の一般的な裁量の内におかれて
いるとすべきか、それとも法秩序は医師もまた特定された諸基準を知るよう
に義務づけられているということに関心を有していなければならないのでは
ないか、ということについては争いがある。それもとりわけ、患者が病院に
搬入されたときには、ある一定の時,点に至るまですべてのことが彼のための
なされるということーそれゆえにどれほど多くのことが個々の患者のため
になされなければならないのかということーは、もっぱら医師の個人的な
評価のみに委ねられているわけではない、ということを患者は知っていなけ
ればならない、という理由からである。そのうえ、もちろん医師自身も、結
局のところ、このようにしてのみ必要な信頼を勝ち得ることができるのであ
るから、そのような安定性と明瞭さの,点で利益を有しているものというべき
である。問題は、そのためにどのような諸基準が問題となってくるのかとい
うことのみである。
このことに関する医師による文献を通覧するならば、たいていの場合は、
生命維持処置の継続になお何らかの「意味」があるのか、ということに照準
126
が合わせられている。すなわち、意味-基準こそが決定的であるとされてい
るのである。しかし、これに対しては、このような意味問題の場合、最高度
に主観的な評価が問題となりうるということを懸念しなければならないこと
にはならないであろうか。というのも、ある者には完全に無意味であるよう
に思われる苦痛に耐えることが、他の者にとっては、道徳上の確証のための
行為を意味するということも、ありえないわけではないからである。ここ
で、延命になお意味があるのか、それともすでに無意味になっているのかと
いう判断は、医師の理性の高権に委ねるべきであるという理由で、医師を後
見的に介入させることは、人間の、したがってまた死にゆく者の、ほかでは
高く考えられている自己決定権との疑わしい矛盾に陥ることになる。
他の人々は、それゆえに、意味すなわち「生命の意味」というきわめて漠
然としたこのような主観的な基準から立ち去り、はたして患者の死が「宿命
的」であって、かつ回避し難く「あらかじめ決定されている」かということ
に照準を合わせようと試みている。しかし、これに対しても、自然の宿命を
繰り返し技術的な手段をもって阻止することこそが、まさに医学の根源的な
課題ではなかったのか、と間われなければならないであろう。医学が繰り返
し技術的に死にゆく過程に介入することを断念するならば、それは医学であ
ること自体を放棄することになりはしないであろうか。
それらに代わって他の人々は、医師にはいずれにせよ義務づけられるべき
であるような「通常の」延命処置を一方とし、その投入が医師の裁量にゆだ
ねられているような「通常外の」諸処置を他方として、両者の間を区別しよ
うと試みているーこれは、すでに法王ピウス12世によって、有名な1957年
の麻酔医-会議においてなされ、とりわけアメリカ合衆国におけるクインラ
ン事件の訴訟( 1975 年)のなかで引き合いに出された区別である―。しか
し、このような区別に対しては、それはあまりにも医学のそのつどの状態に
依存しすぎるのではないか、それどころかむしろ、信頼できる限定基準を呈
示するためには、個々の病院の、あるいは停滞していることもありうるよう
な諸々の慣例や設備にさえ依存することになるのではないか、ということが
間われなければならないのではないであろうか。
第5 章ある法律家から見た臨死介助の可能性と限界127
7 医師への委任の目標設定にまで立ち帰って考える
私見によれば、医師への委任の目標設定は本来何であるのかにまで立ち帰
ってよく考えられる場合にのみ、これらすべての難間から抜け出ることがで
きる。それは、しかし、これとともに特定されるべき人間学的な根本的言明
への信奉を告白することなしには、可能ではない。それというのも、遅くと
もその目標を間うにあたっては、高度に技術化された医学であっても、それ
は、たんに応用された自然科学以上のものであること、つまりは人間を助け
てその人格的な自己実現のための物理的および心理的な諸前提を獲得させ、
可能なかぎりこれを維持することに、同意し、ていなければならないからであ
る。そして医師の委任の目標を間うこの間いは、すでに歴史の流れのなかで
きわめて様々に、つまり部分的に拡大され部分的に限定されて、答えられて
きたのである。私には、われわれがこの問題においても、今日、ある種の変
革の場に置かれているように』思われる。たしかに医師の任務については、繰
り返し、治療義務および苦痛緩和義務とならんで生命維持義務および延命義
務もまた、その任務に属していると記述されてきた。その結果として、たと
えば 1955 年になお、ウィリー・ヘル/心ソハ( mllx HellPach) ほどに著名な医
学者であり文化政策家が、医師は「無条件的に生命維持者であるか、それと
も医師であることを止めるか」ということを要求することができた。けれど
もこれに対して、すでにョーロッパ議会は、延命それ自体に「医療実務のど
のような排他的な目標も」もはや認めることができないと信じている。これ
は、私にはきわめて重要な言明であるように思われる。すなわち延命それ自
体は医療実務のどのような目標でもない、ということである。たとえ様々な
ニュアンスをもってであれ、ョーロッパ議会は、このような見解によって、
すでにかなりの期間にわたって、もはや孤立しているわけではない。それと
いうのも、自然科学的-技術的な成果思想からの方向転換において、医学は、
正当にも再び、その第一次的な人間的任務をよく考えること、すなわち人間
の全体幸福に役立つことを始めているのであり、技術的になしうることある
いは個々の器官の切り離された維持と回復のみには、それほど重要な目標を
見ていないからである。すなわち、その目標は、生命の量的-生物学的な延
引それ自体のためではなく、これによって同時に少なくともなお人格的な自
128
己実現の点で最小限のことを可能にするために、生命を延引することが高く
掲げられてはいるが、しかし同時に限定されてもいるのである。このような
目標がもはや達成可能でないことが明らかになるならば、それ以上の医療上
の努力は、根本的にすでにもはやその人に対する奉仕ではない。その場合
は、しかし、法的にももはやそれを要求することはできない。
われわれがここから刑法上の諸帰結を引き出そうとするならば、たしかに
一方で生命維持義務が堅持されなければならない。けれども他の側面では、
原則的に断念しえないこの生命維持義務は、人間になお自己実現の最小限と
いうものを可能にすることにしか方向づけられている必要はない。それゆえ
に、生命維持義務はいずれにせよ、いっさいの反応能力の回復不可能な喪失
に基いて、人間からそれ以上の自己認識および自己実現の可能性が奪われて
いるところでは、それを終結することが許されているのでなければならな
い。遅くとも不可逆的な意識喪失が証明される場合は、これに当たる。
1977年の臨死介助のためのスイスの指針のなかで、患者が「自己の人格の
形成を伴うどのような意識的で環境に関係づけられた生活も」もはや送るこ
とができない場合には、医師は処置を停止することが許されるといわれると
き、この指針もまた、それと類似する規制に帰着しているように思われる。
このような定式化に対しては、しかし、それはあまりに漠然としているので
はないかと疑われるであろう。というのも、法の立場からすれば、意識があ
り環境に関係づけられたどのような生活ももはや送ることができないという
時,点を、何とかしてある一定の医学的な基準に即して確定することにこそ関
心があるといわざるをえないからである。その時,点は、不可逆的な意識喪失
の時点でありうる。しかも、それは決定的な時点であるといえよう。これに
よれば、処置の中断は、医学上の評価によればこの患者は決してもはや意識
に立ち帰ることができないという時点から、許容されることになる。
●.
●●●●●●
8 人間の尊厳の確保
もう1つの側面は、人間の尊厳という原理から生ずる。とはいえ、このよ
うに言うことで私は誤解されたくはない。私は、人間のある装置への付着す
べてについて、すでに人間の尊厳が害されていると考えるような人々に属し
第5 章ある法律家から見た臨死介助の可能性と限界129
ているわけではない。それというのも、そのことが意味しているのは、実
に、われわれが全ての現代的な医学を前世紀にまで巻き戻さなければないで
あろうということだからである。むしろ私見によれば、人間の尊厳は、問題
になっているのがまさにこの人間の維持ではなく、個人カーたとえば純医
療上の熟練といったーもはや他の利益のための客体としてしか役立てられ
な い場合に、あるいは死の発生の引き延ばしが、もっぱら金銭上の利益によ
って条件づけられている場合にはじめて、侵害される(たとえば、おじいちゃ
んには次の年金支給の月まで持ち越してもらいたいということを理由とする近親者、もし
くは、これはとりわけ合衆国で重要でなくもない役割を演じているのであるが、その患者
を可能なかぎり長く留めておくことに病院が証明上の利益を有している場合)。このよ
うな場合、-人格としての患者が問題となっているわけではない。彼自身に対
しては、もはやどのような奉仕も提供されるわけではなく、その生命維持を
もって、他の、その人格の外に置かれている諸利益を満たすことが求められ
ているのである。このような仕方で患者がたんなる客体にまで販められる場
合、医師は、処置を中断する権利だけではなく、義務さえ有している。それ
ゆえに、彼は、そのかぎりで近親者のこれとは逆行する要求にも逆らう こと
ができるのである。
●.
●●●●●●
9 経費の不均衡性?
最後に、このような領域においては、なおもう1 つの側面が、無条件にこ
れを主張するのではないにしても、よく考えられなければならない。すなわ
ち目的と経費との不均衡性、したがってまた、処置の中断にあたって、物質
的な利益がひとつの役割を演じることが許されるのか、またどの程度まで
か、という問題である。生命がそもそもこれと結びついた経費との関連のな
かに置かれるということは、たしかに一見して衝撃を受けもしよう。それと
いうのも、伝統的な諸原理に従えば、生命と生命とはまったく差引勘定され
てはならないものとされてきたのであるが、そうであれば、物質的な諸財に
対して生命はどれほど相殺されてはならないことになるのであろうか。しか
しながら、この点においても崇高な法的諸原理は、すでに現代の病院の現実
によって時代遅れになっているように思われる。すでに医師が、その限定さ
130
れた諸々の手段を選択的に投入する必要性が生じていること、あるいは生命
にとって重要でありうる療法に対する支払いが不可能であるのにそれをさら
に継続することといった問題は、それ自体としては可能な延命処置の投入が
そもそも害Iiに合っているのか、という間いにおいて終ることも、すでにもは
や全く稀なことではないのである。
●●●.
●●.
●.
10 「技術的な処置の中断j
われわれは、これまで処置の中断を話題にしてきたのであるが、そこで第
一次的に考えられていたのは、療法からの撤退の事例である。だが同様の基
本的諸原則は、結論的に、いわゆる技術的な処置の中断の事例―したがっ
てある装置のスイッチが切られる事例、もしくはある患者がいわゆる「ライ
フ・アイスランド」.から取り出され、この処置がその死を惹起するか、もし
くは少なくとも促進しうるという事例―にとっても当て はまらなければな
らない。これを積極的な作為とみなすことができるのかについて、たしかに
法律家たちは互いに争っている。それが作為であれば禁じられているし、そ
れがたんに死にゆくにまかせることであれば、先に論じられた「薬剤投与に
よる」処置の中断と同じ原則に従って、処罰が解除される。全く圧倒的な見
解は、いずれにせよ、この場合に問題になっているのがこの種の取り外しの
社会的な意味である、ということに行き着いている。すなわち医師がマッサ
ージによって開始した蘇生処置を中断する場合、彼の態度は不作為である
(不作為でしかない)のと同様に、彼がより高度な、より技術的な次元である
機械の作業を中断する場合は、それもまた不作為でしかない、ということで
ある。
●.
.
●●●
11 積極的な殺害
以上をもって、私は、この領域を後にし、積極的安楽死についていくつか
の視点を分かりやすく示すことにしたい。この問題もまた無視できないこと
は、すでに1977年に、国民決定を通して立法者に、積極的安楽死がある一定
の領域において許容されるべきではないかを検討することが課せられたとき
に、スイスのカントンで現実化された。(私的な)人間的に死にゆくことのた
第5 章ある法律家から見た臨死介助の可能性と限界
131
めのドイツ協会の現実的な要求も、これと同様の結論に帰着している。そし
てとりわけ最近のーもっともより手続き的な―積極的および消極的臨死
介助の広範囲にわたる非訴追についてのオランダの規定は、同じ方向に向け
られた自由化の努力にいっそうの刺戟を与えた。現在のドイツ法に関してい
えば、大体において次のように区別することができる。
. ●●
.
●●●.
●●.
●●●
12 生命短縮の危険を伴う苦痛緩和
積極的な殺害の場合のうち、医師にとって、苦痛を緩和することが問題で
あって、あるいは生ずるかも知れない致死的なリスクが甘受されているにす
ぎない事例は、差し当たって比較的問題をはらんではいない。たしかにいわ
.
.
●.
.
.
ゆる間接的安楽死のこのような事例でも、法的にはかなり扱いにくい。なぜ
かというに、そのモルヒネの配量が死を促進しかねないということを自覚し
ている医師は、たしかに法的に見るならば「条件付の故意」をもって行為し
ているからである。それゆえに、長く支配している見解によれば、このこと
さえ禁止されていた。しかし、今日では全く圧倒的な見解が、医師が第一次
的に苦痛を緩和するという関心をもって行為しているところでは、致死的な
リスクというものは意図されておらず、したがって甘受されているにすぎな
いのであり、このことが患者の事実的または推定的な承諾のもとで行われて
いる場合、医師の行為は正当化されなければならないことに(もっともそのさ
い、これが正当化する緊急避難と呼ばれるべきか、それとも―私が考えているように
―「許された危険」として扱われるべきかは争われている)行き着いている。
.
.
●●●●
13 目的的な殺人
たとえば死を目標とし、かつ、意識的に死を招来していることが問題とな
ったオランダの女医ゲルトルーデ・ポスツマ・フアン・ボウフェン( Gertrude Postma van Bouve 司の事件( 1971 年)におけるように、死がリスクとして
甘受されるばかりでなく、苦痛を除去することを目標とする手段として求め
●.
.
られるような事例では、事態はこれとは全く異なっている。この種の直接的
.
.
●
安楽死に対しては、全くの明瞭さと厳しさにおいて、それはドイツ法によれ
ば許されておらず、ここでは刑法第216条が6月を下限とする刑をもって断
132
固たる処置をとるであろう、といわれなければならない。このことはもちろ
ん、なおいっそう、問題となっているのが苦痛緩和ではなく、―たとえば
ナチスー安楽死-運動の場合のようなーいわゆる「生存の価値なき生命の段
滅」の諸事例に当てはまる。生命価値によるこの種の差別を、わが憲法は端
的に許していない。
直接的積極的安楽死の合法化についての賛否
III
現行法が、現にとりわけ患者が、死を\自らの手で死をもたらすことを
望んでいるが、しかし(たとえば麻庫状態にある場合のよう)それをおそらくは
全くできない場合、しかしまた、ただたんに死にゆくままにまかせること
が、場合によっては、なお必要としているすべてが患者から奪われている状
態が1つの苦悩であるがゆえに、相当ではないと思われるところでも、医師
が自己の確信との葛藤に追い込まれることがありうるということは、明らか
である。ここで医師にはーそしておそらくは同様に近親者にも―、何ら
かの仕方でやはり、必要とあらば明示的な要求に基いて死を招来する可能性
が与えられていてしかるべきではないであろうか。
●.
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●.
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1 積極的安楽死に賛成する諸論拠
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ある新しい規定に有利な結果になること、すなわち積極的安楽死をある程
度許容することについては、一見して現在の法の厳しさが話題になるように
思われる。それを許容することについてわれわれが今日われわれの法のなか
に有している諸々の細分化は、それらが窓意に従っているような外観を呈し
ているがゆえに、何としても納得がゆかないよ うに思われる。
●.
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●●●
●
このことをすでに、(不処罰的な)自殺への帯助を一方とし、(可罰的な)要
.
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.
●.
.
求に基く殺人を他方とする、両者の限界づけを手がかりにして示すことがで
きる。医師が過分量の睡眠剤を、患者の自殺を可能にするために、ナイトテ
ーブルの上に置かせたときは、彼はたんなる自殺への帯助として処罰から免
れていることができよう。これに対して、同じ過分量が医師によって注射さ
れるとき、彼は、刑法第216条によって6月を下限とする刑を予期しなけれ
第5 章ある法律家から見た臨死介助の可能性と限界133
ばならない。そしてわれわれが、その場合に、このような刑罰には執行猶予
が付せられると仮定することができるとしても、それは、医師にとってはほ
とんど慰めにもならないであろう。ここに、この2 つの行為態様の倫理的な
無価値内容が、実際に、このように異なる帰結を正当化するほどに異なって
いるのか、という問題が浮かび上がってくるのである。
(正当化される)致死的リスクを伴う苦痛緩和を一方とし、苦痛緩和の手段
とした(許容される)目的的な殺人を他方として、両者を区別することもま
た、医師を容易に偽善へと誘い込むことになりかねない。このために彼は、
その注射の致死的なリスクについてはどのような別段の考えもする必要がな
いか、もしくは必要とあればうまい出口への希望を装って許された危険とい
う正当化事由を楯に取ることもできるであろう。
同様に、積極的な臨死介助と消極的なそれとの区別もまた、窓意性から免
れていないように見える。なぜかというに、たとえばレスピレーターのスイ
ッチを切る場合の不処罰を、実際に、このことが解釈論的にたんなる不作為
として把握されるべきか、それとも作為として把握されるべきか、に依存さ
せることができるであろうか。はたして即効性のある注射というものは、原
則的にかつどのような場合であっても、死にゆくことの苦しみを長びかせる
栄養補給を奪うことよりも、倫理的および法的により多くの非難に値するの
であろうか。
あまりにも苛酷であると感じられる臨死介助の規定の社会-心理学上の効
果は、かなり重大であって、それというのも、公共の意見の圧力のもとに、
たとえばオランダにおけるように一週間の刑罰といった事態が生じていると
き、法は、立法者の意思と判決とのこのような不一致を通して、事実として
無視されることになるからである。
とはいえ、安楽死の処罰解除を求める要求が薄弱な基盤の上に立っている
とすれば、そのためには、現行法の不十分さを論拠として持ち出すことしか
できない。はるかに重要なのは、1 つ積極的な要求、すなわち尊厳に死にゆ
く権利である。自殺の 1000 年以上にもわたる異化、そしてその後、人間の弱
さの絶望的な行為としてそれが徐々に甘受されてきたことが、よく考えられ
るならば、「自己の死を求める権利」という要求には、私はほとんどこう言
134
いたいのであるが、生きるということへの内心的態度における1つのコペル
ニクス的転換が置かれている。死にゆくこともまた、なお人格性の部分、す
なわちそれと同時に生きることの部分、として把握されるのである。そこで
は、生きることにおいても重要なのは、その量、つまりその時間的な次元と
長さだけではなく、その質、つまり人間には、彼にとって意味があると思わ
れる展開の諸々の可能性についてなお残されているも のである。このような
考慮からは、要求に基く殺人の処罰解除を通して、患者のこのような自己決
定および自己実現の利益に考慮が払われるべきではないか、という間いを立
てることは、まさに必然的である。
●●●●●●
.
●.
.
●●●●●●
2 積極的安楽死の合法化に対する異論
もちろん、このような要求に対して多くの疑念があることも無視されては
ならない。ここで私が、中枢をなしている点、すなわち死への権利を持って
始めることを許されたい。そうするとすでに、このような権利はそもそも存
在しているのかということが問題になってくるのであって、それというの
.
.
●
も、わが国の多くの憲法学者が考えているように、生きることを求める権利
というものを認容しているわが基本法(第2条)が、これとともに直裁に生
●. ●
きることを越える権利というものを認めているわけではないからである。と
ころで、基本権はもちろん、人はいずれにせよ国家の側からの自殺の尊重と
いうものを主張することができる、ということを排除することを必要として
はいない。とはいえ、このような「死にゆくことへの自由」をもってして
は、いまだ決して要求に基く殺人の基盤は獲得されない。それというのも、
われわれは、要求に基く殺人が適法であると言明されようとするところで
●.
●.
●●●●
.
. ●●
は、死にゆくことへの権利から殺されることを求める権利というものが作り
出されるということを、はっきりと認識していなければならないからであ
る。しかし、このようなことを認める者は、殺されることを求める権利とい
うものにあってはなお必然的に、他の人が殺すことへと組み込まれなければ
ならないこと、それゆえに厳密に見詰められるならば、このような請求権の
承認とともに、このような殺人のために誰にも利用することができる国家の
義務が対応していなければならないことになるであろう、ということを見過
第5 章ある法律家から見た臨死介助の可能性と限界
135
ごしているのである。そこから、たとえばスウェーデンでは、すでに、たと
えば積極的安楽死が許されるのであれば、このような請求権がそのなかで履
行されうるような設備をも国家は準備して待機しなければならないのではな
いか、という問題が議論されているのであるが、それも驚くには当たらな
い。医師がこのような役割に対して自衛するとしても、人は彼をほどんど恨
みに思うことはできないであろう。そこから、せいぜいのところ1つの中間
の道が、つまりは生きることに疲れた者が死にゆくことの自由を自力によっ
て実現しようとする場合に、それを積極的な関与を通して手助けしようとす
る者を処罰することを、国家が断念するという道が残される。
ほかでは討議の対象となったあのーたとえば苦痛が耐え難いこと、死が
目前に迫っていること等々といった―限定的な諸基準も、当然のことなが
ら、すべてありうる濫用に開かれているということ、そして医師が、たとえ
ばこの人はもはや一週間しか、ーケ月しか、または一年しか、生きられない
ということをはっきりと断言することに1軍りの念を有しているということは
分からないでもなく、そのことがこのような解決の問題性を強めているので
ある。しかし、私見によれば、最も困難なのは、殺人要求の現実的な任意性
というものを証明することである。なぜかという に、まさにこのような願望
の表明のなかには、変えることができないことであっても何とかして避けた
いというような最後の希望の叫びが差し込まれているのではないであろう
か。まさに重病者の場合では、希望と諦念との間の甚だしいアンビバレント
「両価並存的感情」が想定されるのではないであろうか。. 諸々の苦痛のもと
で、そもそも自由な決意というものは可能なのであろうか。どのようにして
外からの圧力から身を守ることができるのか。ところで、このような歪曲
は、同意が少なくとも決定的な行為の3 日前に、それも証人の同席のもと
で、手書きによる署名によって与えられていなければならないとすることに
よって防止することができる、と信じられている。他の人々は、何らかの委
員会が介入することさえ求める。しかし、確実さを求めるこのような努カが
どれほど歓迎に値するものであるにもせよ、それでもやはり、まさにこれを
通して「尊厳な死」として、自分が自分であることの最後の実現としての死
にゆくことがむしろその反対物に逆転させられるという雰囲気が、死にゆく
136
部屋に持ち込まれるのではないか、ということが間われなければならないで
あろう。
しかしまた、このような実践的な問題のすべてを越えて、重要な社会政策
上の後続効果が、殺人禁忌にある種の例外が作られる場合には、あるいは生
ずるでもあろうダム決壊の効果が、いったんはよく考えられなければならな
いであろう。たしかに何人に対しても、彼が、任意性のある安楽死の許容と
同時に任意性のないそれへの第一歩を踏み出したい気になる、ということが
はじめから想定されてはならないであろう。しかし、ともかくも考えられて
しかるべきであろうことは、―たとえばルース・ラッセル( Ruth Russel)
の『死ぬことへの自由( Freedom to Die)J (1975 年)もしくはマーヴィン・コ
ール(Marvin Kohl)の『慈悲深い安楽死(Beneficient Euthanasie) J (1975年)と
いった―多くの本のなかで、厳密に見詰められるならば、実質からしてす
でに任意性のない安楽死に味方をしているのであるが、しかし、それでもこ
のことが問題を墳末視する任意性を様々にでっち上げることをもって飾-り立
てられるということである。たとえばラッセルが精神的に障害を負った子供
または年老いた人々を殺すことが許されることに肩入れするとき、このよう
な人々の場合に、そもそも死にゆくことへの「自由な」決断を話題とするこ
とができるのであろうか。あるいは、―ともかくも現に甘受されている
―「ヴォランタリーな安楽死( voluntary euthanasia) 」が「ノン・ヴォラン
タリーな安楽死( non-volantary euthanasia) 」と同置され、このような語呂合
わせが、次にはたんに「ヴォランタリーな安楽死」にまで単純化されるなら
ば、この種の言葉遊びをもって真の問題は覆い隠される。いったい誰にとっ
ての「慈悲深い」死なのであろうか。根本的には周囲にとってでしかないの
ではないか。しかし、私にとりわけ決定的であると思われるのは、安楽死の
処罰解除によっていま一度生命保護という不滅の原則が破られるとともに弱
体化されるということである。それというのも、その任意処分を通して生命
が同時にその不可侵性を失うであろうからである。この禁忌-限界がいった
ん踏み超えられるとすれば、なにゆえに生命は他の諸事例においても任意に
処分すること ができないとされるのであろうか。なにゆえにある人が自分を
自ら放棄するところでしか認められないのであろうか。社会的に無益にまた
第5章ある法律家から見た臨死介助の可能性と限界137
は負担になっている生命がなお、近親者ま,たは社会によって手足まといにさ
れることから切り抜けるために、どのような請求権を有しているのであろう
か。見通しのない病人は、殺されることを求めるその権利をやはり結局のと
ころ行使するであろうというその周囲の予期に対して、どのような論拠を有
しているのであろうか。このような死ぬことへの自由は、結局のところは生
きることの不自由へと逆転されかねないのではないか。
最後に、安楽死の許容が、容易により重大な社会の怠慢にとってのひとつ
のアリバイになりうる、という疑念も拭い切れない。医学は、いまだ決して
その歴史のなかで現代におけるほど、苦痛緩和の領域において甚だしい進歩
をなしたことはなかった、ということがよく考えられるならば、よりによっ
て今日、安楽死の処罰解除を求める叫び声が特別に高く鳴り響いてい るとい
うことは、/「ラドックスであるかのように見える。その説明の1つは、人間
が一方でますます年齢を重ねているが、しかし、他方では社会におけるその
機能をきわめて早くに失っているということにありうる。すなわち、生理学
的な死にしばしばもうすでに「社会的な死」が先行しているのである。そし
てこれと同時に、生き続けること自体が一見するところいっさいの意味を失
っているのである。人間は、しばしば共同体の外で、非人格的に老人ホーム
または病院のなかで、もはやその終末しか期待しない状態にある。人間が、
死を再び人格的なものにすることを通じて―彼が死の発現をともに決定し
ようとすることを通してだけであっても―、孤独のうちのこのような文字
通りの「枯死」に逆らおうと試みることは、分からないことではないように
思われる。しかし、このことは現実に、彼が本来求めようとしているところ
のものなのであろうか。それは、むしろ絶望的な反応であり、彼がまさに老
人に優しくない社会の怠慢によって自分自身に委ねられていることからの発
露ではないのか。そして、安楽死の処罰解除を通して、このような怠慢がさ
らに固定化されるとすれば、それは社会にとってあまりにも安易なことでは
ないであろうか。
このことから、私が、同情の動機にも顧慮を払おうとする試みにも耳を貸
そうとしないかのように受け止められてはならない。けれども問題をはらん
でいるのは、切り出されるべき道である。現に様々な専門分野の学者たちが
138
国の内外から集まってきたビーレフェル「のシンポジウム「人間科学的およ
び社会科学的問題としての自殺と安楽死」
(1975 年)において、当時、たとえ
ばゲルハル「・シムソン( Gerhard Simson) (スウェーデン)のような積極的安
楽死のまさに全く特別な積極的主張者が、会議の終わりに、生命保護義務と
いうものを停止しようとしないのであれば、たしかに国家は積極的に殺すこ
とを決して言明することができない、ということを認容しなければならなか
ったのは、私にとってはきわめて印象的であった。しかし、このことはー
そしてこれはたしかに真剣に議論するに値することであるカー、それにも
かかわらず、法の側から同情という動機に顧慮を払うことを排除するもので
はない。諸々の可能性の1 つは、たしかに有罪は固持されるが、しかし、こ
のような事例では刑が見合わせられるというものであろう。これによって次
の2つの利益に考慮が払われる、と私は信じている。すなわち一面では、人
はすでに生れている生命の侵害を決して適法であると言明することができな
いのであり、そこから有罪判決を断念することができないということを国家
が表現することができる、ということである。多面ではしかし、たとえばあ
る要求に従う医師の場合の動機圧が、主観的な諸々の理由から科刑を断念し
なければならないほどに強いものでありうるということを容認しなければな
らない、ということである。
Iv 臨死介助のための新しい法律草案
先に論評され、提案されたものの多くは、もちろん今日では法的に不安定
な基盤の上を浮動している。それゆえに数年前に「刑法と医学の教授たちか
らなる作業グループ」が企てた「臨死介助に関する法律対案」(シュツ、,トガ
ルト、
1989 年)のなかで臨死介助の諸形式を法律上明確化することは、今日で
は広い範囲において受け容れることができるものとして通用している。私
は、この草案に本質的に自らともに寄与しており、その理由づけそれ自体
に、そう願いたいのであるが、賛成していることから、ここでは、その目標
と指導思想についていくらかの標語的な指摘をすることをもってよしとした
し
A_
第5 章ある法律家から見た臨死介助の可能性と限界
139
一すべての関与者にとって法的明確性を作り出すこと、
一可能なかぎり包括的でそれ自体から理解できる規定を試みること、
一生命強制のない生命保護を確保すること、
一生命はその「価値」によるどのような細分化をも否認して保護に値する
こと、
一最善の苦痛緩和を可能にすること、
一規制基盤としての本人の自己決定、
一死にゆくことのための援助に対する死にゆくことにおける援助の優先、
一本人の意志に反する救助義務を限定することによる自由答責的な自殺の
尊重、
一答責性が疑わしい場合では生命保持を優先すること、すなわち疑わしき
は生命の利益に( in dubio pro vita),
一要求に基く殺人の可罰性を原則的に維持し、そこからせいぜいのところ
例外的に刑を見合わせること、
一医師の裁量を客観化が可能な判定諸基準に拘東すること、
一ある患者の死にゆくことの要求に従うことの拒絶を明示的に犯罪化する
ことを断念すること。
このような意味において、「生命に対する犯罪行為」に関する刑法第16章
を次のような規定によって補充することを「対案-臨死介助」は提案する。
第214条生命を維持する諸処置の中断または不開始
(1)
生命維持諸諸処置を中断するか、または開始しない者は、次の場合
には違法に行為するものではない。すなわち、
1. 本人がこのことを明示的かつ真撃に要求している場合、
2. 本人が医師の診断によれが意志を不可逆的に喪失しているか、ある最重
度障害新生児の場合では決して獲得しないであろう場合、
3. 本人が医師の診断によればほかに処置の開始または継続について意』思表
明というものをすることができず、信頼し得る諸々の手がかりに基け
ば、彼はその見通しのない苦痛状態の永続性および経過を、とくにその
目前に迫っている死にかんがみてこのような処置を拒絶するであろう場
140
合、または、
4. 死が目前に迫っている場合では、本人の苦痛状態および治療行為の見通
しのなさにかんがみて生命維持諸処置の開始または継続が医師の診断に
よればもはや当を得ていない場合。
(2) 第1項は、本人の状態が自殺未遂に基いている場合にも当てはま
る。
第214条a 苦痛を緩和する諸処置
医師としてまたは医師としての権限をもって死病者にその明示的または推
定的な承諾をもって重大な、ほかでは除去することができない苦痛状態を緩
和するための処置を採る者は、たとえそれによって回避することができない
付随効果として死の発現が促進される場合であっても、違法に行為するもの
ではない。
第2巧条自殺の不阻止
(1) 他人の自殺を阻止しない者は、自殺が自由答責的な、明示的に表明
されたか、または諸事情から認識することができる真撃な決断に基いている
ときは、違法に行為するものではない。
(2) 他人がいまだ18歳未満である場合、またはその自由な意思決定が刑
法第20条、第21条に相応して侵害されている場合は、とくにこのような決断
から出発されてはならない。
第216条要求に基く殺人
(1) 何人かが被殺者の明示的かつ真撃な要求によって殺すことへと決定
づけられている場合、6月以上5年以下の自由刑が言い渡されるものとする
(不変更)。
(2) 殺すことが、他の諸処置によって除去するか、または緩和すること
ができない重大な、本人によってもはや堪えることができない苦痛緩和に役
立っている場合には、裁判所は第1 項の前提のもとで刑を見合わせることが
できる。
(3) 未遂は可罰的であるにれまでの第2項)。
このような提案はすでに、その刑法部門で「自死を求める権利?」が扱わ
第5 章ある法律家から見た臨死介助の可能性と限界
141
れた1986年の第弱回ドイツ法曹会議で異常に大きな注目を見出した。たしか
にそこでは―要求に基く殺人(刑法第216条第2 項)の場合は「刑を見合わせ
る」という勧告を除いて―人々はこれに続くどのような立法者の行動に向
けて決意することもできなかった。しかしこのことはたとえば対案の提案が
受け容れられなかったからではなく、その提案がすでに支配的な見解に相応
しており、裁判実務の基底に置かれていたからである。このように見られる
ならば、いずれにしても実質からして対案は、これを現行法の顕現として理
解することができるものである。
その他の点で、私は、刑法はもともとありうる諸々の濫用を防止するため
の緊急制動装置でしかありえないことを、まさに法律家として強調すること
なしに締め括りたくない。それゆえに何よりも先ずいま一度、現代の諸要求
が適切な仕方で正当に評価されるために、社会政策上の前地が明らかにされ
なければならないであろう。そこから病院経営においてのみならず、当該家
族の内部においても、死を背負わされた者にその死にゆくことがなおその自
己実現の部分として経験されるために、いっそう多くのことがなされるべき
であろう。おそらくはこれによって―犠牲に供された者の根本的には不自
由な見せかけの解放という―「操作された」死の問題は自然に決着がつく
であろう。
上述したことのより詳細な根拠づけは、(参考文献含めて)とりわけ私の次の論文にある。
A. Eser,Suizid und Euthanasie als human- und sozialwissenschaftliches Problem, Stuttgart 1976, S. 392-407,; ders., Lebenserhaltungspflicht und Behandlungsabbruch aus rechtli
cher Sicht in:A. Auer-H. Menzel-A. Eser(Hrsg),Zwischen Heilauftrag und Sterbehife.
Zum Behandlungsabbruch aus ethischer, medizinischer und rechtlicher Sicht, K6ln 1977, S.
72-145. 。とくにヴィテ、ソヒ事件については Ders., Sterbewille und hrztliche Verantwortung,
in: Medizinrecht 1985 (Heft 1) S. 6-17 参照、新しい改正論議については、 Ders., Freiheit
zum Sterben, Kein Recht auf Totung, in:Juristenzeitung 1986 (Heft 17),5. 786-796
への自由―殺害を求める権利ではない」『先端医療と刑法』 119- 156 頁」参照。
「「死
142
第6章新たな道へ向けての出発、道半ばでの停止
一一づ皇邦憲法裁判所1993年5 月28 日
妊娠中絶判決の最初の評価―、
短期間に見解を表明するという時間的圧迫のもとで、しかもここに前もっ
て与えれれた紙幅のなかでは、評価を完全なものに仕立て上げることも完結
的に行うこともできないことを留保したうえで、ここでは、 1993 年5月28日
のドイツ連邦憲法裁判所判決につき、以下の3 つの観点からのみ、私の立場
を明らかにしておきたい。すなわち、「本判決に示された」新たな見方
(I)、そこで明らかになった欠陥( II) ならびに立法者に残されている余地
(III )についてである。
I 新たな見方
.
●.
(1) 連邦憲法裁判所が、1992年新規定の基礎となっている「相談構
.
想」 (1) について、従来の諸規制モデルとは異なる特殊性と独自性を認め、そ
のかぎりではあっても、全員一致でこれを承認したことに、過少に評価する
ことができない突破口を見出すべきあるということに争いの余地はない。
(たとえ多くの場合に明示的でないにせよ、そこでは外国における類似の改革諸傾向が顧
慮されているように見受けられる のも特筆に値する。)―たとえそれがどのような
名称で呼ばれようとも―純粋に自己決定に方向づけられた「期限モデル」
を一方とし、第三者によって判断される「適応事由モデル」を他方とする両
者の間に、「第3 の道」というべきものを獲得しようと努力してきた人々の
すべてが、これによって自分の立場が是認されたと見ることができるであろ
う。その反面、妊娠中絶の処罰解除というものは「古典的な」適応事由モデ
ルを基盤としてのみ考えることができると信じている人々は、この中間の
道(
(2)への第1歩を敗北と感じないわけにはいかないであろう。
■■■■■■一■■■■■■■■ 山
(1) とくに連邦憲法裁判所判決要旨の11ならびに連邦憲法裁判所判決理由の D. I, II. 参照。
(2) 「中間の道」というものに至るための私自身の準備作業については、 A. Eser, Schwanger-
第6章新たな道へ向けての出発、道半ばでの停止143
(2) 同様に過少評価されてはならないのは、相談後12週以内に医師によ
り実施される妊娠中絶に関与した者のすべてが完全に不処罰とされており、
すでにそれだけで広範な非犯罪化というものがもたらされているということ
である。
(3) 医学的、胎児病性的および刑事学的適応事由という「古典的な」事
例とならんで、もうひとつの可能な正当化事由として一般的な窮迫適応事
由(
(3) というものを承認する可能性もまた―多数意見が原則的に譲歩とし
て認めたものであっても―、これまでに刑法第218条a第2項第3号に対
して加えられてきた攻撃のことを考えると注目すべきことであり、しかもそ
れは、連邦憲法裁判所が同時に、窮迫状態の個別的多様性ということから、
それを詳細に記述することは不可能であることを容認したという理由で(
(4)
とりわけ注目に値する。
(4) 「相談構想」の原則的承認によって切り開かれた道は、しかしなが
ら最後にまで行き着かなかった。それというのも、12週以内に規定通りの相
談を受けた後に医師によって実施される妊娠中絶が、たんに「罰せられな
い.j とされる結果として、違法であることに変りはない(
(5) とされることに
よって、たしかに非犯罪化は容認されたのであるが、完全な合法化というも
のは否認されたからである。
(5) そのうえ、この非犯罪化への一歩でさえ、新規定が違法性を脱落さ
schaftsabbruch zwischen Grundvotierung und Strafrecht-Eine rechtspolitische Uberlegungsskizze, Zeitschrift fur Rechtspolitik 1991, S. 291-298 ,ならびに、 A. Eser/H.-G.
Koch, Schwangerschaftsabbruch:Auf dem Weg zu einer Neuregelung, 1992, S. 163-239 参
照。
(3)
これについてはとくに、理由の E. V.5. a) 参照。それによれば、健康保険担当者は、一
般的窮迫状態適応事由の構成要件の解釈および適用の過度の拡張に直面して、その「適法性」
,には必ずしも「直ちに」従うことは許されないが、一般的窮迫状態を想定することが「医師
の認識によれば是認できなくもない」ことを彼らが確認した場合には、それに従うことも可
能であるーそこでは方向づけとして、連邦通常裁判所(BGH)によって展開された諸原則
が指示されている( BGHSt 95, 199, 204 ff. )が、これは、他方において、刑法新規定第218条
a第2項第3号は正当化する性格を有する、ということから出発しているのである(同じ意味
においてすでに立ち入って検討したものとして、 Eser, in: Eser ノ Koch (前注( 2)), S. 13ff.,
49 ff.)
。
(4 )判決理由 E. V. 5.a), bb )参照。
(5)とくに、要旨15および理由 D. III. 2. E. I .参照。
144
せるに当たって考慮に入れられるべきであるとはおよそ考えなかったほどに
狭隆に制約されることになった。とりわけ相談の目標設定と実施のための諸
要件の強化ならびに相談所の認可と監視を通して(
(6)、さらには医師の引受義
務の強化を通して⑦、というようにである。
(6) 多数意見によって要求された、社会保険上の一定の給付の差し控え
による否認手段としての社会法の投入にも、新たな見方を見出すことができ
る( 8)
(7) 規定どおり相談後12週以内に実施される妊娠中絶を「違法である」
として否認するにもかかわらず、それと関係する医師および病院との契約お
よび社会扶助「生活保護」的給付は有効でありうる⑨とされたことは、そ
れだけにいっそう驚かずにはいられない。
II欠陥
ここで詳細に明らかにすることができない多くの疑間,点が他にもあるが、
それらとならんで本判決の根本的な欠陥を、とりわけすでに示唆されたその
矛盾に見出すことができる。すなわち多数意見は、第1 歩で、相談後に医師
により実施される12週以内の妊娠中絶を非犯罪化し、第2 歩で、しかしそれ
を完全に合法化せず、それに続く第3 歩で、存続している非合法性から迫っ
てくるはずの帰結を引き出そうともしないのである。 こうした歩行のジグザ
グな誠意に欠けた中途半端さだけですでに、多数意見が失敗するものと定ま
っているイデオロギーの円を法律的に四角にするという不可能事を試みたこ
との徴である。
(1) このような不可能事の理由―というよりはむしろ、意識的または
無意識的な諸動機といったほうがよいであろうーを探り出すとすれば、そ
れは、―市民が行動の方向づけとして真面目に受け止めることができない
(6)とくに、要旨12および理由 D. IV. E. II .参照。
(7)とくに、要旨13および理由 D. V .参照。
(8)理由 E. V. とくに 2. b )参照。
要旨16および理由 D.V.6. 、 E.V.2.c) 参照。
(9)
第6章新たな道へ向けての出発、道半ばでの停止145
ような―調和しない諸々の目標設定、倫理的-法的な限界の消去、伝統的
で視野の狭い正当化の理解およびとり,わけ教義学的-内向的な概念法学とい
った、音ト分的には逆方向を辿っているものの混合物のなかに見出すことがで
きよう。ここではこれをひとつひとつ分説することはできないが、以下で
は、少なくともその若干の側面について言及することにしたい。
一かく してたとえば、妊婦の行動への動機づけということに関していえ
ば、非犯罪化への心構えという,点で、次のような、ほとんど克服し難い目標
葛藤というものが存在することになる。すなわち、そのために認容された期
限内において、妊婦は相談を通して子の懐胎を続けるように口説き落とされ
るのであり、、たとえ彼女が相談の基準値をすべて遵守した場合でさえ、それ
でも彼女の「中絶への」行動は否認されるのである。か、ぐして妊婦は、その
ような仕方で一方的に懐胎へ向けて固定されているのであり、「それでも彼
女が」中絶を決意する場合には、結局のところそれをあまり真剣に受け止め
なかったということになるのであるが、しかし、それでは相談の真価がはじ
めから切り下げられることになり、相談がかえって動機づけに逆作用を及ぽ
さないわけ、にはいかな・いのである,。
・一これに対して多数意見は、正当化というものはある窮迫状態に関係づ
けられた衡量を前提としているのであり、つねに例外的なものでしかありえ
ないという理由から、合法化へとさらに一歩突き進むことはできないと考え
たわけであるが、そこからさらに正しい諸帰結が引き出されるかぎり、その
こと自体は、その出発点において異議を申し立てることができる筋合いのも
のではない。けれども刑法新規定第218条a 第1 項第1 号にすでに含まれて
いる窮迫状態要件を、合法化を可能にするために、 衡量という意味において
相応に強化する代わりに、多数意見は、明らかに十分に考えたうえで、要件
の面でのこの欠損をそのままにしておいたのであり、その結果として、法的
効果の面ではもはやたんなる非犯罪化以上のものにまで譲歩するには及ばな
いとしたのである。また「多数意見は」中絶の例外的性格を、より表面的=
統計学的に、懐胎し続けられた妊娠と中絶された妊娠との数量関係という点
に位置づけているのであるが、それでは妊娠とその中絶は人口政策的な比率
化の要素にまで販められることになる。それに代えてむしろ正、しくは、妊娠
146
中絶の非常態性は、個々の妊娠葛藤という個人的なレベルで正当に評価され
なければならなかったであろう。
一多数意見がこのことを認識することができなかったのか、それとも認
識しようともしなかったのかはともかくとして、多数意見は「単一体におけ
る二体性」をたしかに言葉のうえでは誓っているが、しかしながら伝統的な
正当化カテゴリーをもって、その実質が真剣に考えられているとはとてもい
えないような妊娠葛藤の特異性と不可避性に接近することによってもまた、
窮迫性に方向づけられた相談後の妊娠中絶の合法化への道を狂わせたのであ
る(それも、私のほうから提案した(1のような、さらに先へ導く正当化モデルに対して、
せいぜいのところ表面的な弁明にとどまることなく、さらにそれを超えて実質的に対決す
ることもなしに、である)。とはいえ、多数意見によって主張されている基盤に
立った場合でさえ、相談構想と正当化とは原則的に調和しえない(
(11)とする
その大仰な帰結は、長時間をかけてじっくり考えてみた後も、私にはとても
理解できることではなかった。それとも、望ましい帰結を顧慮するならば、
正当化作用の物差しは、現在の形式においてもより改善された形状において
もそれで挫折しないわけにはいかないであろうほどに、意識的に高い所に据
え付けられるべきである、とでもいうのであろうか。
一このことの説明としては、妊婦が完全に規則どおりに相談を受けたと
いう場合であっても、多数意見にとっては妊娠中絶の「法的否認」こそが重
要であったのであり、それに到達することができるためには、それが違法で
あることをどこまでも持ち堪える以外にはないと』思われたのだ、ということ
ができよう。
A Eser, Das neue Schwangerschaftsabbruchsstrafrecht auf dem PrUfstand, NJW
1992 S. 2913-2925,とくに、S. 2923 If. 「アルビン・ェーザー(上田・浅田訳)「試験台に立つ
(10)
新妊娠中絶法」同志社法学227号121頁以下、とくに147頁以下」連邦議会の委託により作成さ
れた1992年10月16 日の私の法律鑑定書》Rechtsgutachten im Normenkontrollverfahren vor
dem Bundesverfassungsgericht zur Prufung der Verfassungsmal3igkeit des Schwangeren
- und Familienhilfegesetzes vom 27. 7. 1992 (BGB1. I S. 1398)《のIv, VおよびVIIでは、こ
のことがより深められている。「なお、この法律鑑定書は、 A. Eser, Schwangerschaftsab-
bruch: Auf dem verfassungsrechtlichen Prufstand, Baden-Baden 1994 ,として公刊されて
いる。」
(11)とくに理由 D. III. 1. 参照。
第6章新たな道へ向けての出発、道半ばでの停止147
(2)
では、それが違法であるということを持ち堪えることの諸効果と
は、いったい何であろうか。あるいはまた、それを一貫させた場合は、どう
いうことにならざるをえないのであろうか。その最も重要なものを挙げると
すれば、次のようになる。
一第1に、そこからは、すでに心理学的に見て、妊娠中絶に関与した者
たちの行動が、法律を最も凡帳面に遵守したにもかかわ らず、それでも違法
であるとされることになるという、ほとんど彼らに納得させることができな
いほどの矛盾が明らかとなる。
一第2に、このことは、国家は、結局のところ違法とみなすことになる
ような、ありうべき決断と行為についての手続きを定めるという、国家論的
に見て支持し難い帰結へと導くことになる。
一第3に、それによって同時に、国家は、それと承知のうえで、‘―こ
れ以外の場合にははっきりと否認される ような(
(1 2)........ 「不法への関与」を
可能にするだけでなく、そのために国家それ自体の諸施設を利用に供しさえ
する、ということも避けて通ることはできない。
一これらの批判は、だからこそ社会保険上の諸給付を拒絶するという,点
で、多数意見にとっては、たしかに当を得た批判であったが、そうであれ
ば、それに続いて同時に否認すべきであった医師および病院との契約の効力
については、相応の帰結を引き出していないのであり、このことからすれ
ば、多数意見にとっては医師による妊娠中絶を阻止するということよりも、
資金援助の要求をはねつけることのほうが重要であったのだ、という印象を
抑えることができない。医師との契約および病院との契約の有効性を扱った
くだり(
(13)は、全く形式的な主張に尽きているのであるが、それを読めば、
このような印象はますます強くなる。
一また、(拒絶される)健康保険上の給付と(保障される)社会的扶助「生
活保護」との間に区別を設けるということには、いっそう納得がいかない。
何といっても国家は、後者を通して、相談を受けたにもかかわらず違法に段
階づけられる堕胎への関与を、いっそう強められることになるからである。
(12)とくに理由
E. V.2. a )参照。
(13)理由 D. V.3.
148
(3)
規則どおりに相談を受けた後に医師によって実施される妊娠中絶の
違法性が、それによって維持されると考えているらしい「構成要件阻却」( 14)
という刑法解釈論的方法には、とりわけ驚かずにはいられない。これ以外の
場合には通例として司法はにの種の問題に対しては」謙抑的であることを
度外視するにしても、それとは逆に、とりわけ憲法裁判所が犯罪解釈論上の
理論闘争に立ち入り、. そのうえに体系問題を憲法上の問題にまで上等らしく
仕立て上げさえしたことに対しては、その種の教義論的な加担という点で、
ほとんど見渡し難いほどの刑法解釈論の側からの諸々の非難をおそれなけれ
ばならないであろう。
一社会心理学上の副次効果のひとつが、すでにマーレンホルツとゾムマ
ーの特別票決のなかに挙げられている。すなわち、初期3 ケ月内の妊娠中絶
を構成要件から除外することは、未生の生命「保護の」解除として理解され
かねない(15)という危険がそれである。
一それに劣らず重要であるのは、一定の行動とそのために招来すること
もありうる諸々の反作用との間の、これまでは自明のことと考えられてきた
評価の連関が破られるということである。すなわち、
(a) 一方では、適法な行動に対しては、刑法の側から(優遇という意味に
おける)肯定的な諸効果、場合によってはしかし(肯定的または否定的な
諸効果の断念による)中立的な効果を持っ て反応されるのであるが、これ
に対して、
(b) 他方では、違法な行動は(損害賠償の義務づけ、許可の取り消しおよび/
または升り罰を通して)ある制裁を、場合によっては制裁の断念をも、その
効果として招来することはあるが、(優遇という形をした)肯定的な効果
を招来することは困難である。
(c) このありうべき行動とその反作用との連関が、多数意見によってい
まやその本質的な,点において破られたのである。すなわち、妊娠中絶
がそれに帰せられる違法性にもかかわらず国家的に統制された相談手
続きの対象とされ、その実施に向けられた医師および病院との契約は
(14)連邦通常裁判所命令HZ号ならびに理由の D.Hl.2.E.1.2 参照。
(15)マーレンホルツとゾムマーの反対意見 H.2.b. 参照。
第6章新たな道へ向けての出発、道半ばでの停止149
法的に有効とみなされ、場合によってはある種の社会的給付(賃金の継
続的支払い、社会扶助)もありうるとされることによって、違法とみなさ
れた行動に肯定的な反作用が結びつけられているのである。
(4)
そのさい、もし多数意見が、行動原則としての禁止規範および許容
規範とそこから引き出される制裁原則としての帰結との区別をよくわきまえ
てさえいたならば、ほとんど納得のゆかないこのような矛盾を避けることが
できたであろう。前者が市民に対して行動を決定づけるように作用し、人間
相互の共同生活にとって明確な活動領域の限界線を引くべきものとされる場
合、それは、可能なかぎり広い範囲において普遍的なものでなければならな
い。これに対して制裁規範と恩典化規範との場合には、徹頭徹尾、法領域ご
とに特殊な差異性を考えることができる。すなわち、
(a) いずれにせよ一定の適応事由の証明なしにたんなる相談後に実施さ
れる妊娠中絶に対して社会的給付を差し控えることが、多数意見にと
って重要であったと見る場合でさえ、このことは、この種の妊娠中絶
を適法と位置づけたとしても十分に可能だったであろう。
(b) もし多数意見が、これに反して、この種の妊娠中絶に適法性「の承
認」を差し控えなければならないと考えたのであるとすれば、その首
尾一貫するところとして、あらゆる種類の支援または優遇措置をも拒
絶しなければならなかったであろう。
これに対して、その両者を同時に獲得することは、そのために一定の種類
と重さ「質と量」の知的犠牲を招来することなしにはできないのであるが、
このような犠牲は、社会的給付を否認するという利益の前では明らかにあま
り重大なものではなかったようである。
(5)
違法性が保持されているために中途半端なものでしかない非犯罪化
も、もしそこから未生の生命のよ り望ましい保護というものに期待がかけら
れるのであれば、おそらくはそれを甘受することも容易だったであろう。だ
がその,点でも、懐疑的な態度を採るほうが適切であるように思われる。
一このことは、すでに医師の領域について言うことができる。もし医師
が、規定どおり相談が行われたにもかかわらず、彼によって実施される中絶
が「違法である」と言われなければならないとすれば、まさに良心的な医師
150
たちは自分自身の殻に引きこもることになる結果として、妊婦たちを相談よ
りも利益をもたらす妊娠中絶のほうに関』心を有する医師たちの手に追い立て
ることになりはしないであろうか。
一また病院はどのようにふるまうべきであろうか。病院は、たとえその
契約の有効性を恐れる必要はないとしても、「違法な」妊娠中絶に関与して
いるという陰口がたたかれないことを望むのではないか。
一相談員と相談所は、結局は国家によって否認される妊娠中絶へと繋が
ることがありうるような相談に関与することが、国家によって期待される場
合、どのようにふるまうべきであろうか。
一これらすべてが、多数意見によって望まれた、妊娠の継続へと「励ま
して決意させる」ことを最もよく期待することができる、まさにその努力の
後退へと導くことになりはしないか。
(6)
このような反生産的な諸作用は、とりわけ多数意見による相談の峻
厳化という ことからも恐れられなければならない。このことをここで詳細に
論証することはできないが、とりわけこの種の相談は、関連職に通じた人々
によるほうがはるかにうまくゆくものである。多数意見の意思によれば、相
談がそのもとに服すべきものとされる委細をきわめた諸々の目標値と方法上
の諸々の監視は、未生の生命の利益のために婦人が意識的に受け止める決断
に至ると考えられているが、それは望むに値するような、不安から 免れた率
直さで相談対話が執り行われるという希望に結びつくような契機を、ほとん
ど与えるものではないのである。細音6 にわたる記録についての諸規定も、監
視目的のためであればそれも当然のことではあろうが、信頼に満ちた話し合
いの場を創り出すのに寄与するものではない。
III
「立法者に」残された余地
多数意見は「相談構想」への道を切り開きはしたが、しかしこの道カt’ーー
マーレンホルツとゾムマーの少数意見のなかにも説得的に論証されているよ
うに―一貫して行き着くべきところにまで行かないことになったその中途
半端さに直面して、立法者は、自分に課せられた事後修正に当たって困難な
第6章新たな道へ向けての出発、道半ばでの停止151
課題の前に立っている。何といっても立法者には、―その内容を全く度外
視するとしても―立法と司法との間の権力分立原理とはとても調和すると
は思われない類の具体的な基準値が、連邦憲法裁判所の多数意見から贈られ
たのである。立法者に残された余地については、ここではごく簡単に以下の
ような所見を述べることしかできない。
(1) 基本モデルの選択が問題になって いるかぎりでは、連邦憲法裁判所
によって「相談構想」カーしかもその点ではその全体にわたって一一優先
されたということは、それから離れることが憲法的に疑わしいと見られる後
退であろうほどに、無視できることではない。それゆえ、簡明であることを
旨として現在の適応事由にとどまり、―たとえば刑法旧規定第218条a 第
2 号第3 号による一般的な窮迫状態適応事由のように―周辺的な事後修正
で十分ではないかといった 、すでに広まっている考え方は、たとえ憲法的に
は可能であるにしても、いずれにせよ法政策的には、今後さらに追及すべき
ものではないであろう。
(2) むしろこれとは逆の方向で、相談モデルが、具体的な窮迫状態の衡
量に方向づけられた相談後に一定期間内に実施される妊娠中絶の正当化を許
容しようとするために、どの範囲まで相談モデルを仕立て直さなくてもよい
のかということを検討すべきであろう。そのさい連邦憲法裁判所によって要
求された医師の関与のもとでの窮迫状態確認という最小限度の要請に、どの
ような考慮を払うことができるのかについての理論的端緒は、すでに「私
の」以前の諸提案のなかで具体的に明示されている(
16)
(3) ところでいずれにせよ、窮迫状態に方向づけられた相談後に実施さ
れる中絶の仕立て直しによる方法が正当化されるような場面に辿り着くこと
はありえないと考えられる場合には、旧規定における「医学的適応事由」を
復活させることが必要であろう。明らかに多くの人によってそれとは気づか
れていなかったのであるが、刑法旧規定第218条a第2項第2号は、生命お
(16) Eser/Koch (前注( 2)), S. 202 II. ないしは S. 239 f., Zur Sache 1/92: Schutz des
ungeborenen Lebens, 1992, S. 324 ないしは S. 494 If. ,にも搭載されている討議草案、さらに、
NJW 1992, 5. 292 If., 「前注(10)の訳141頁以下」ならびに私の法律鑑定書(前注(1の)、と
くにVIIの、憲法に適合する解釈という意味において提示された改正諸草案参照。
152
よび健康上の危険を確認するに当たっては「妊婦の現在および将来の生活諸
関係」をも顧慮しなければならないとすることを通して、すでに「医学的=
社会的適応事由」と理解されなければならないものだったのである(
(17)
1992年の妊婦および家族援助法第218条a の新規定では、これに対して、も
はやそのようなくだりは見られないのであるが、それは、12週以内に相談後
に実施される妊娠中絶を違法でないとすること を可能にさせることを通し
ーフーた七戸十去一L、L一かみ1ノX 1一ー 1-. f すーユーつ子」プーーョ白i-I紅玄1一J「fA》一濡1は手ー干ーつト
1_Ls
ーつ六コヒつ
-C、ラk力矢乏)よひイ士ち令1こ1ョ引七つる序首々ひフ里刀稼覧1こも」ークナ1こ問n」魚つること刀x-Cいさる
と考えられたことによる、ということで説明することができよう。連邦憲法
裁判所の基盤のうえでは、いまや将来的にもこれに正当化が否認され続ける
ことになった以上、医学的適応事由が、その趣旨を一貫させて、これまでの
刑法旧規定第218条a第1項第2号にいう「医学的=社会的」という、その
本来の理解において復活されなければならないであろう。連邦憲法裁判所
が、その「判決の」全体を通して、刑法旧規定第218条a第2項第3号によ
る、きわめて広い範囲に及ぶ一般的な窮迫適応事由に正当化の効果を必ずし
も原則的に拒絶しなかったことだけからしても、すでにこれに反対するもの
は何もないであろう(
(18)
11
ノ
It.IQO
ノ
ーー
『ノーIX
\ノ
ーワ
ワ
1
これについて詳しくは、 Eser, in: Schonke/Schr6der, StGB. 24 Aufi. 1991,§ 218a Rdn. 2,
1 f.
11
×t
11
これについては、すでに前注(3)参照。
第7章国際的に比較した妊娠中絶所見一認識一提案
153
第7章国際的に比較した妊娠中絶
所見一認識一提案
序文
絶えず膨大化しつつある出版物と諸々の情報についての提供がいよいよ増
大している時代にあっては、学間的な活動の中枢的な諸成果の現在的に貴重
な提示への需要が増してくる。
フライブルクに所在するマックス・プランク外国刑法国際刑法研究所は、
学問上の諸認識に関して急速に接近することができる情報へのこのような需
要に対し、ひとつの新しい刊行形式である『研究の現在( forschung
aktuelle)J―
『調査を手紙で( reserch in brief) 』を通して、将来的に増強さ
れた規模において応じようとしている。同時にそれを通して、重要な学間的
帰結を簡潔な形式で叙述するとともに、狭い専門領域を超える刊行物に接近
することができるようにとの、繰り返しメディアおよび関心のある公衆によ
って研究所に持ち込まれる依頼に関心を払うことが求められている。
アルビン・ェーザーとハンス=ゲオルク・コッホによって起草されたプロ
ジエクト報告『国際的に比較した妊娠中絶』は、2000年2 月25 日の専門諮間
委員会および大学管理機構会議を機会とした同名のプロジェク「の公的発議
に遡る。そのための誘引となったのが、最近の国際的法発展の記録、比較法
上の横断的分析ならびにーそのうえに構築されるーひとつの改革提案に
流れ込む法政策上の終結的諸考察を伴う、このプロジエクトを締めくくる第
3 部の刊行である。ここでプロジエクト報告という形式で呈示された諸々の
所見、認識および提案は、もちろん、様々な個別分冊で展開し、また根拠づ
けられたプロジエクト諸帰結の正確な書物と取り替えようとするものではな
いし、またそうできるものでもないが、しかしそれへの関心を呼び起こしは
するであろう。このような理由から講演スタイルが意識的に保持されてい
る。構成から明らかな役割配分は、いくらかは最終版を執筆するさいの作業
154
分担にも対応している。
フライブルク、
2000
年3月
/\ンス=ョルク・アルブレヒト
マックス=フ0ランク外国刑法国際刑法研究所所長
I 目標設定(コッホ)
非合法な堕胎と合法的な妊娠中絶は、世界に広がって実践されかつ激しく
討議されてきたひとつの現象である。過去数10年において、伝統的な堕胎法
の領域におけるほど、国際的に大きな波を体験した他の法領域はほとんどな
い。そのさい様々な法秩序においてきわめて相異なる方途が踏み出された。
妊娠中絶を回避するために適した解決方法に関する背馳した諸々の考え方を
もってするだけでは、このことを説明することはできない。むしろ明らかに
すべての目標設定―つまりは、未生の生命の、とくに婦人の自己決定権と
関連した当保護性「保護に値すること」の程度を間う根本的な疑間―が、
対立的に判断されているのである。同じことは、妊娠中絶実務の種類と程度
と頻度に対する相異なる規制の効果についてもいうことができる。
とはいえ、妊娠中絶を可能なかぎり回避するという目標においては、国際
的に広範な一致が成り立っている。
これとともに、妊娠中絶を塞き止めるに当たっての刑法の役割を間う疑問
が提起されることになる。―相互に結びついている―指導的な諸々の疑
間のなかで、
・どの程度にまで、またどのような要件のもとで、特殊刑法的な規制とその
実際的な取り扱いにそもそも行為統制的な効果が帰せられるのか、
・他のどのような規範が、妊娠中絶実務にとって(ともに)規定的であるか、
・刑法外の保護機構は、より相当ではなくとも、十分でありうる のか、
という間いが、マックス・プランク外国刑法国際刑法研究所が妊娠中絶を防
圧するに当たって刑法が有する役割についての、広く設定された比較法およ
び経験的-刑事学的プロジエク「を実施するに当たって、詳細に追及されて
いる。7 ケ国以上についての法的規制、社会的枠条件および経験的なデータ
第7章国際的に比較した妊娠中絶所見一認識一提案
155
の叙述を伴う国別報告は、包括的な2 分冊の形ですでに数年前に公刊されて
いる(
(1)。刑事学上の部分的プロジ. ェク「も、長期にわたってすでに完結して
いる②。比較法上の横断面とならんで最近の法的展開の記録ならびに「法政
策的な最終的考察」を含んでいる比較法上の第3分冊(
(3) の公刊には、プロ
ジェク「に関係した100以上の刊行物が先行していた(')。そこでは、国別報
告に時間的な間隔があったことから、そのつどの一時的な採用しか示すこと
ができなかった他のプロジェク「に対して、法状態のより新しい法的展開を
考察のなかに組み入れる機会があった。
II 比較法上の諸々の所見と傾向(ェーザー)
1 規制の多様性
その側に立つか否かは別にして、法史と比較法とが、望まれない妊娠の終
結への諸々の介入がこの、またはあの方法で、つねにまたどこにでも存在し
ていたという事実については、どのような疑問をも許さない。たとえば、人
の殺害というものが人類の歴史と無縁でないにせよ、それと本質的な差違が
(1)Eser, Arbin/Koch, Ha 冗 S-Geo 智( Hrsg.),Schwangerschaftsabbruch im internatitionalen Vergleich. Rechtliche Regelungen-Soziale Rahmenbedingungen-Empirische
Grundfragen, Teil I:Europa 1774 Seiten, Baden-Baden 1988:Teil 2: Aullereuropa, 1353
Seiten, Baden-Baden 1989. Rechtsvergleichender Untersuchungen zur gesamten Straf
rechtswissenschaft, 3. Folge, Bande 21, 1 und 21, 2.
(2)万乞幼 lwe-Sczepan, Monika:Arzt und Schwangerschaftsabbruch. Eine empirische
Untersuchung zur Implementation des Reformierten§ 218 StGB. Reihe ,,Kriminologische
Forschungsberichte", Band 39, Freiburg 1989, 291 Seiten;Horzhauer, Brigitte:Schwanger.
schaft und Sachwangerschaftsabbruch. Die Rolle des§ 218 StGB bei der Entscheidungsfin.
dung betroffener Frauen. Reihe ,,Kriminologische Forschungsberichte", Band 38, Freiburg
1989, 436 Seiten (2., unveranderte Auflage 1991);Lieble, Kahihaus:Ermittlungsverfahren,
Strafverfolgungs-und Sanktionspraxis bei Schwangerschaftsabbruch. Reihe
,,Kriminologische Forschungsberichte", Band 40, Freiburg 1990, 199 Seiten.
(3)Ese乙Aib飢/Koch, Haルs-Geo管:Schwangerschaftsabbruch im internationalen Verg.
leich, Teil 3:Rechtsvegleichender Querschnitt-Rechtspolitische SchluBbetrachtungen
Dokumentation zur neueren Rechtsentwicklung, 934 Seiten, Baden-Baden 1999. Rechtsvergleichnde Untersuchungen zur gesamten Strafrechtswissenschaft, 3. Folge, Band 21, 3.
(4)これについては、 Eser, Albi 冗/ Koch, Hans-Geo 管 1Schwangerschaftsabbruch im internationalen Vergleich, Teil 3, S. 901-910.
156
無視されてはならない。すなわち、すでに生まれている生命がほとんど欠け
るところがない保護壁で取り囲まれているのに対して、未生の生命「の殺
害」は同じ範囲でタブー視されているわけでも、同じ厳格さをもって制裁の
対象にされているわけでもない、ということである。
妊娠中絶の比較法上の取り組みの驚くべき印象に属しているのは、それゆ
えに完全に内容的に同じであるような、どのような2 つの堕胎規定も世界に
は存在していない、という事実が確認されたことである。謀殺と故殺に対す
る様々な国の規定もまた、たしかに文言上、完全に同じではない。けれども
未生の生命に対する処罰構成要件の場合では、動機づけおよび実行に関係づ
けられた制裁上の差違がともに顧慮されている場合でさえ、このような段階
的な分散は、それが非合法な堕胎と許されている妊娠中絶とのかかわりにお
いて観察されるような質的な諸々の差違と比較すれば、最小限のものとして
現われているにすぎない。
このような多様性の諸々の理由を探ってみるならば、それらがとりわけ最
、近になって顕在化しているように、それらをすでに次のような様々な規制動
機と規制利益に見出すことができるのであり、また、それらは部分的に背馳
しているがゆえに、互いに衝突することもありうる。
・未生の生命の保護
・妊娠中絶の回避
・婦人の健康および/または自己決定権
・父/配偶者の利益
・社会的な諸々の変化への」ILR応
・人口政策上の諸々の目的表象
・刑事訴追の枠内での差別の除去
・社会環境の活性化
・手続上の諸々の簡略化
決して完全でないこのようなリストからあらかじめ見出される指導的目標
と利益とを詳細に解説することはできないとしても、妊娠中絶の法律による
規制は、どのような側面により大きな、もしくはより僅少な意義が帰せられ
第7章国際的に比較した妊娠中絶所見一認識一提案
規制類型
純刑法的モデル
157
国(易
べルギ一、アイルラント、エジプト、バ一レイン、ブラジ
ル、コス夕リ力、その他ラテン・アメリ力諸国、ガ一ナ、イ
スラエル、チュニジア
ドイッ連邦共和国、イギリス/ウエ一ルズ、ギリシャ、ルク
Ii)
「補足的」な刑
法モデル
センブルク、オルトガル、オ一ストリア、ポ一ランド、オル
トガル、オ一ストラリア(部分的)、ョルダン、力ナダ、レ
バノン、シリア、アメリ力合衆国(部分的)
白地刑法モデル フインランド、フランス、オランダ、ノルウ工一、スイス、
社会主義諸国家、トルコ、インド、日本、ペル一、ザンビ
ア、セネガル、台湾、
るのかに従って様々な結果になる。現に未生の生命を一方とし、妊婦の健康
上の利益を他方とした、両者の、もしくは手続的な諸規定の、予防的な効果
の相異なる比重の置き方が、様々な規制地において見出される。
ある国で、もっぱらでないにせよ、第一次的に刑法を手段としてのみ未生
の生命の保護が問題になっている場合、規制は「純刑法的モデル」に近接す
る。それに代えて相談に賭けるか、もしくは妊婦の利益に優位をさ え容認す
ることが多ければ多いほど、それだけ多く補足的な諸規定による「刑法的モ
デルの補足」が見られるのであるが、その場合1部の国では、刑法には刑法
外の諸規定をもって充足すべき「白地禁止」しか存在せず、さらには、妊娠
中絶が、たとえば保健法の一部分としてしか現われることがない国にまで至
る。
2 評価依存性
相異なる評価および問題意識をもってするのとほとんど異なって、妊娠中
絶の場合にかかわってくる法益に関する議論は、国から国へと最高度に異な
った強度で展開されており、それがドイツ連邦共和国において確認すること
ができるほどの頻度に達しているのは、どこにもないのと同然である。この
確認は、妊娠中絶の処罰解除の法的性質に関していっそう多く当てはまる。
158
すなわち、たとえばドイツ連邦共和国では、相談後に医師が中絶する場合の
違法性阻却がひとつの憲法問題の地位にまで高められた(そしてこのことが周
知のように、 1992 年の改正法の部分的無効を結果としてもたらした)のに対して、他
の多くのーそれも刑法解釈学が高度に展開されている―国では、これと
比較しうるような議論が全く存在していない、それどころか一度も問題とし
てさえ意識されていな、い。そのさ い、一般的な価値意識と、解釈論的な論争
に対する法律専門職のより大きな関心またはより小さな関心との交互作用と
いうものがどの程度まで存在しているのかということを知るのも、関心を引
くところであるが、ここでは、国によって特殊な評価上の差違が価値的な次
元のうえにだけでなく、法律家階級の問題意識にも公共の世界観的な根本的
確信にも存在していることしか確認することはできでない。
最後に、評価依存性は一定の立法上の基本的態度からも明らかになる。こ
\
のことはおそらく、象徴主義と現実主義との対置において最も明瞭に示され
るであろう。すなわち、立法者が宣伝効果の多いデモンス「レーションに賭
けることが多ければ多いほど、それだけいっそう彼は単純かつ明確な禁止の
象徴力を、たとえ刑事訴追を欠くという現実が高い規範的な要求の背後に退
くとしても、例外規定によって骨抜きにされることを好まない。これに対し
て、立法者の関心が可能なかぎり現実に即した規定にあることが多ければ多
いほど、それだけいっそう彼は相応の細分化を行う用意がある。差違は広範
囲に及んでいるが、それでも最近の改正傾向は現実主義的な方向に進んでい
るように思われる。
3 モデルを形成する諸要素
妊娠中絶の制裁または処罰解除における、繰り返し驚かされるような規制
の多様性を類型化することを試みようとする場合、とりわけ次の/ぐラメータ
ーが特徴的なものとして現われる。
・それは第1 に、それが相異なる期間において表現され、避妊を一方とし、
すでに生まれている生命を他方とする、両者の限界づけにとって本質的で
あるような時間的要素である。
・それは第2 に、とくに諸々の適応事由のような、実質的な許容の要件であ
第7章国際的に比較した妊娠中絶所見一認識一提案
159
りうる。
・さらに増大する程度において、鑑定および/または相談のような、手続的
条件がひとつの役割を演じている。
・さらに、違法性の阻却、そしてまたたんなる可罰性の阻却としての処罰解
除が重要でありうる。
これらの要素の様々な組み合わせからどれほど変化に富んだ変異型が生じ
うるかは、「許容される」中絶の国別配置についての図表(図表1) を通して
明らかになる。
全体の詳細に立ち入ることはできないので、ここではいくつかの主要なカ
テゴリーを指示しておくだけにしたい。
・―図表1 の上部にあるようにーどのような処罰解除も存在していない
ところでさえ、いわゆる「適応事由解決」におけるように、可罰性は、そ
れがすでに受精時にではなく、着床時にはじめて開始するというようにし
て、時間的にいくらか後退させられていることがありうる。また適応事由
という形態の処罰解除事由が、様々な手続き上の条件に依存していること
もありうる。
・期限に即して処罰を断念している場合であっても、この点については同じ
でありうるが、その場合は(図表の下部におけるように)適応事由に類似した
諸制限も存在していない。
・当然のことながら―図表の中部に見られるように―期限的な処罰解除
に追加的に適応事由方式による諸制限が続く場合、これらはこれらで際立
って様々でありうるから、最も錯綜したものとなる。
これらからーたとえ表面的であれーひとつの印象を伝えるために、
承認された諸適応事由に一瞥を投じられたい(図表2)。そこでは無数の組
み合わせが、そのうえになお相異なる期限を通して増大しうる。加えて実
際的な取り扱いを通して見かけ上は純「医学的」適応事由から、立法者が
もくろんでいるのとは全く別のものが生じることもありうる。諸適応事由
のこのような「可塑性」については、以下の III. で立ち返るであろう。
160
II 3
。
中絶の
:[
される
許容」
1
図表
種類と程度によ
る国別配
置一的件
アセネガル南
規定回ルクセンブ
ザンビアシリア
ルクポルトガ
ルル一マ
ニアスペイン旧規
定囚べ
ルギ一新
ナイジエリ
ア南アフリカ新
本―一
手諸囚ア
ルジエ
―土V続要
リアョル
規定
レノぐノンリビ
ンラン
ドイタ
ダンクエ一ト
リアポ一ラ
ンド新規
メキシコ台湾
フーソペル一
タリ
クアド
エ
ラク回ガ一ナコス
アイ
イ
ドラン
一
・要ee
we
・的・件一・
ル回べルギ
Iチエコ
ア
着床から
雲.3回
づワ一
ノシア規 旧
コオ一
マンカタ一
回モロ
定インド
定
規
一旧
ッ
I
ド/いノ立斤
1 _ 回デンマ一受精
プらヴ/アnT
GI ル加{疋m
弓
ル
G
和国
民主共
旧 定 GI
.
1.3
連ーギソノルウエ一GIアメ
リカ合衆国GIー・ I
GI=「対立適応事由(
ドイッ
Gegenindikation) 」が存在する場合の中絶の排除
第7章国際的に比較した妊娠中絶所見一認識一提案
図表
加之墜学約
生命の危険(のみ),
アイルランド→G
レノぐノン→G
リビア→G
オマール→G
カタール→G
セネガル→G
シリア→G
ベルギー新規定→G3
161
2 :承認された諸適応事由
(のみ)
健康の危険(も)
Ab 医学一社会的
社会的、部分的には優性学的および/
または刑事学的要素をも顧慮するに
心理的
身春的
アルジェリア→G
南ナイジェリア→G
チリ旧規定→G
モロッコ→G
ョルダン→G
ペルー→G
部分的オーストラリア→G
アメリカ合衆国
(FIM)4-'-G
とも)
スイス→G
エジプト→G
コスタリカ→G
部分的にオーストラリア→G
カナダ→G
ドイツ民主共和国(
VAE-'-G
ソ連邦( FIM)-'G
スーダン旧規定→G
FIM)-'-G
諸々の組み合わせ
匝」医学的+優性学的
イラク→G
クウエート→16WノGS
インド→12ノ20WノG
部分的にオーストラリア→14
/23W/G
チュネジア(FIM)→ 12 W/G
トルコ(FIM)→ 10 W/G
匝」医掌的+優生学的+刑」国可図
医学的+優生学的
―事的
1- +社会的
ルクセンブルク→12WノG ベルギー新規定→12WノG
24W/G
ポルトガル→12ノ16WノG
ボツワナ→16
スペイン→12ノ22WノG
ガーナ→G
南アフリカ→G
日本→23WノG
イギリス→
フランス→10WノG
図
医学的+優性学的+そ
の他
ザンビア→28WノG
オーストリア→12WノG
台湾→24WノG
部分的にメキシコ→12WノG
ギリシア(
WノG
ユーゴスラビア(
FIM) -12/19/24
FIM) -10
W/G
回医学的+刑事学的1回 医学的+刑事学的+社 匝」医学的+優生学的+刑事学的+その他
アルゼンチンー→G
ブラジル→G
エクアドル→G
ドイツ連邦共和国新規定
会的
ポーランド旧規定→ノG
ウルグアイ→12WノG
イスラエル→G
(FIM) -'-12 W/G
匝」医学的+優生学的+刑1庫」医学的+その他
―事学的+社会的1ドイツ連邦共和国旧規定→12
/22 W/G
イタリア→ 12 W/G
南アフリカ新規定→12ノ20
W/G
スウェーデン
/24 W/G
(FIM)-'12/18 I
匝」医学的+優生学的+刑事学的+社会的+その他
アインランド→12/24
12/20/24 W/G
ルーマニア→
W/G
j\ンガリー→ 12/16/18/20/24Wノ G
:2, ルガリア( FIM) -'10/20 W/G
チェコスロバキア( FIM)-12/24 W/G
デンマーク( FIM)-'12W ノG
/ルウェー( FIM) -'12/18/24W ノ G
1 この概観では独立して承認されている諸適応事由のみカ挙げられている。このことは、とくに(節)
に挙げられている事例群におけるように、この種の適応事由の内部でもなお、ある適応事由の
主要標識で表現している衡量諸要素とは別の要素が共に顧慮されていることもあり得ることを
排除していない。
2 位置Aa、 Ab等々は本文に対応する群形成に関係している。
3 -'-G= 「禁止モデル」 (\TM [Verbo 加 odell] ; vgl. II . 2. 4. 2. )または「無段階的適応事由モデル」
(UIM [Ungestuftes Modell] ;四 1. II .2. 4. 3. B )の意味における出産(G)に至るまでのこの適
応事由の適用可能性。
4 FIM= 「承継的期限一適応事由モデル「 Sukzessives Fristen-Indikationsmodell] (四 1. II . 2. 4. 4.)
を基盤とした、挙げられた週(w)に至るまでの、ないしは出産(G)に至るまでのより狭い諸
条件のもとでの適応事由の適応領域。
5 -"WノG =届け出られた週(w)に至るまでの諸適応事由、ないしは次の切れ目(w)に至るま
で、または「段階づけられた適応事由モデル」 GIM [Gestuftes Indikationsmodell], vgl. II . 2. 4.
3. B) の意味における出産(G)に至るまでの継続効力。
162
4 「医療化」、「手続化」、「社会化」
規定のこうした詳細から解放されてそれらの背後に置かれている基本的傾
向を間おうとするならば、とりわけ次の3 つの基本的様相が注目に値するよ
うに,思われる。
・第1に、それによって医師にますます大きな役割が帰せられる、おそらく
は医療化( Medizinierung) 」と呼ばれる傾向である。これは、最も基本的に
は、可罰性が第一次的に妊婦から医師に移される重点の移行と いうことで
示されよう。現在に至るまでは妊婦が第一次的に刑法上の責任を負う者で
あった(またせいぜいのところ関与した素人の堕胎者と比較して恩典に浴していた)
のに対して、妊婦が処罰から解放される国の数が増大する結果として、も
ぐりの医師その他の堕胎者から事実上撤退して、医師が実際上、刑罰威嚇
の主要な名宛人になる。刑法上の予防措置がもっぱら医師に設定されてお
らず、―依然として多数の国におけるよう に―妊婦自身が責任を負う
者とされているところでさえ、妊娠中絶が医師によって実施される場合に
のみ処罰から解放されるというようにして、医師には鍵の役割が割り当て
られているのである。
この展開の不可避的な帰結が妊娠中絶法の手続化(
(Prozedualisierung )の
増大である。このことは、部分的に(適応事由の確認および/または相談といっ
たような)前提条件を遵守しなければならないとすること、(とくに中絶の実
施の点では医師により、および/または病院で、というように)中絶それ自体にあ
たって一定の方法で処理しなければならないとすること、もしくは(中絶
の記録または主務官庁への申告といったような)事後的にもなお一定の手続を充
足しなければならないとすることという、3つの段階と形式において観察
することができる。そのさい無視されてはならないのは、次のような見方
の基本的な変更である。すなわち、以前の諸時期には、堕胎は抑止的に介
入する刑法によってのみ克服されることが試みられていたのに対して、予
防により多くが賭けられるようになってきたということである。この意味
においてすでに妊娠は、これを説明と避妊によって最もうまく防止するこ
とができる。また、それでも妊娠した場合には、援助と助言によってその
中絶を回避することが必要となる。
第7章国際的に比較した妊娠中絶所見一認識一提案163
最後に、妊娠中絶と関わることの社会化( Sozialsierung )として特徴づけ
ることができる多くの傾向もまた、これと同じ線上に位置している。妊娠
中絶は、純個人的な問題として理解されるのではなく、妊娠葛藤という社
会のなかに埋め込むことにおいて見られるというようにすることにより、
このことを適応事由の「社会的」理解において表現することができる。こ
のように社会的環境を組み入れることによって、たとえば妊婦の夫、もし
くは彼女の子の父に助力義務が課せられるか、あるいは妊婦が第三者側か
らの圧迫に対して刑法的に保護されるということによって、周囲の者も義
務づけられていると見ることができるであろう。
5 基本モデル
規制諸要素のこのような多様性に偏見に囚われることなく真価を発揮させ
るならば、どれほどの視野の狭窄をもってこの国「ドイツ」では、あたかも
時間的な要素か、それとも、適応事由に依存した第三諸判断かのいずれかに
しか存在しないような、規制がある側または他の側に属するとされる、「適
応事由モデル」と「期限モデル」との対置に人々が固執してきたのかに、た
だ繰り返し驚かされるばかりである。このことをここで詳細に根拠づけるこ
とはできないが、妊娠中絶の場合ではせいぜいのところ第三者判断および/
または裁判所による事後審査に服する適応事由に基づいてのみ許容されると
する古典的な「適応事由解決」と、妊娠中絶は一定の期限までは妊婦の自由
な決断にゆだねられるとする比較的最近の「期限モデル」との間にはなお、
規市1]モデル
「適応事由解決」
簡潔な特徴づけ
多少とも広い範囲にわたり(たいていの場合は)第3
者判断に服する許容諸条件が存在している場合にのみ
妊娠中絶は許される。
「期限解決」
164
われわれがそのために「窮迫状態に方向づけられた対話モデル」という呼び
方をしてきたような「第3 の道」が存在していなければならない。
最後に挙げられた立場にとっては、次の,点が特徴的である。
・未生の生命を優先的な保護利益として承認すること、
・窮迫状態または葛藤状態にある場合には例外的に中絶を許すこと、
・ならびに妊婦が相談に応ずること、
・そのさい中絶の賛否についての最終的決断は自己答責的な、裁判所による
事後審査から広い範囲において免れている妊婦の(良心的な)決断にゆだ
ねられていること。
すでに現代の諸立法にかなり多く見られ、またドイツでは1992/1995年の
新立法によって相談モデルとして妥当しうるこのモデルは、次のように特徴
づけることができる。すなわち、妊婦のための相談と援助は子を壊胎する心
積もりによって、―より厳しい妊娠中絶立法を有している国々からの経験
が示しているように―広い範囲にわたってすでに紙の上に載っているにす
ぎない升Ii罰による威嚇よりも、希望に満ちた刺激になるとみなされるという
ことである。妊娠中絶は原則として回避されなければならず、未生の生命の
価値という,点で全般的に否認されるが、ある種の窮迫状態または葛藤状態の
事例のためには例外が認められるのである。その評価、したがってまた妊娠
中絶への決断は、しかしながら(広い範囲にわたって)妊婦および彼女の医師
にゆだねられているのである。中絶を考えている妊婦が相談を受けることを
要件とすることもしくは少なくとも相談の提供を通して、具体的な場合に子
に向けられた決断の招来が試みられ、将来的に望まれない妊娠に対抗措置が
講じられ、とりわけまた全般的な仕方で未生の生命が保護に値することが表
現されることも可能である。性教育、適切な避妊薬の入手を通しての、しか
しまたすでに教育水準の高揚と、とり わけ婦人に相応の健康上の配慮を通し
ての、望まれない妊娠の回避には、妊娠中絶の克服にあっては本質的な意義
が帰せられる。
こうした基本的立場から出発すると、以下のような全体像(図表3) が示
される。
第7章国際的に比較した妊娠中絶所見一認識一提案
165
・一方でーすでに生まれている生命の場合における殺害禁止とは異なって
―われわれが調査したどの国にも、受精の時,点から始まる全体的な堕胎
禁止というものは見られないのであり、ーアイルランドのように―
「治療的堕胎」が構成要件的に排除されているところでもそうである。
・他方において、しかし、妊娠中絶の全面的許容国とされる中華人民共和国
についても疑間符が付せられなければならない。
・「適応事由モデル」が視覚的に見て最大の支持国を有しているが、それは、
詳しく見ると圧倒的に改正がなされていないラテン・アメリカ諸国から成
り立っているのに対して、このモデルはョーロッパでは後退しつつある。
・つまりは、ョーロッパ地域では最初の改正段階で「期限解決」へ向けての
一歩が踏み出されたのに対して、
・最近では「窮迫状態に方向づけられた対話モデル」への注目が高まりつつ
図表3 :妊娠中絶を禁止するに当たっての基本的立場
回
囚
全厩的禁止 第三者判断を基
盤とした禁止/
‘適応事出モデル
ベルギー旧規定
ドイ、ソ連邦共和国
年まで)
アイルランド
フィンランド
ポル「ガル
ルーマニア
スイス(?)
スペイン
アルゼンチン
チリブラジル
コスタリカ
エクアドノレ
(1992
/\ンガリア旧規定
ウルグアイ(?)
ノ叉ノレー
舞
回
回
自巳決定を慕盤
全面的許容
とした期織によ
る処罰解除
ベルギー新規定
デンマーク
ギリシア
イギリス/ウェー1ユーゴスラビア
ノレズ
オーストリア
フランス
スウェーデン
ドイ、ソ民主共和国
イタリア
トルコ
ンヤーンー
ルクセンブルグ―チュニジア
オランダ
ノノレウエー
旧ソ連邦
(?)
南アフリカ新規定
アメリカ合衆国
ポーランド(?)
/\ンガリー新規定
メキシコ(?)
イスラエル
中華人民共和国
(?)
166
西オース「ラリア
アルジェリア
イラク
ョルダン
エジプト
クウエート
レノぐノン
リビア
モロッコ
オーマン
カターノレ
ザンビア
セネガル
南アフリカ
スーダン
シリア
VAE
南アフリカ旧規定
ガーナ(?)
オーストラリア
インド
中国/台湾
あるということである。このことに考慮が払われるべきであろう。
m 規制モデルと妊娠中絶の頻度(コッホ)
妊娠中絶を考慮に入れているような立法者であれば、規制モデルと妊娠中
絶の頻度との間の―成り立っているか、もしくは欠如している―関連に
ついての諸認識を無視することは、ほとんどできないであろう。このような
関連を経験的に裏づけることはできるのであろうか。
1 疑わしい連関
われわれがこの国で法政策上の議論が進行するなかで、多くの者が相応の
認識を受け容れることにてこずっているか、もしくはわれわれの諸帰結が自
らの法政策上の願望思想という意味において解釈されようとしたという経験
をしないわけにはゆかなかったが、それにしても、規制モデルと妊娠中絶の
一
第7章国際的に比較した妊娠中絶所見一認識一提案167
頻度との間の明白な関連というものを、われわれの調査を通して明らかにす
ることはできなかった。ここで比較分析というものの、数多くの方法上の困
難に立ち入ることはできないが、図表4 (図表3 との構造上の類似性は偶然なこ
とではない)は、同様な規制モデルを有する国々がーそれにもかかわらず
―妊娠中絶の頻度では、そのつどばらつきが大きな広がりを示しているこ
とを認識させてくれる。
許容的な諸規定が平均以上の高さの頻度(たとえばアメリカ合衆国、東ョーロ
、》/つとも、注目するに値するほどに低い頻度(たとえばオランダ、チュニジア)
とも結びつくことがありうるということが眼に飛び込んでくる。すでにこの
図表4 :妊娠中絶の普及と法的規制モデル*
中絶禁止の適応事由方式による例外
むしろ「広い」規制
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ユーゴスロバキア
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750-2240)
270
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アメリカ合衆国 430
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手続的
諸要件
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......
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補足的適応事由方式による例外を伴う期限的処罰解除
むしろ「狭い」規制
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諸要件
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手続的
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囚
回
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360
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適応事由方式による制限のない期限的処罰解除
出産児 1,000 に対する申告数:多く
回
120中華人民共和国
は 1980 年一 1982 年にわたる中間値
500
168
図表5 :妊娠中絶の普及と「早期」侵襲のための手続的(最少限)条件*
任意的槽談
規制そデル
ノ義務的相談 鑑定ないしfま
認可
「段階を付し
た」適応事由
モデル
鑑定/認曹
イスラエル
カナダ
南アフリカ10
「無段階的」
スイス
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ノレ
任意的相談+
180
210
160
フランス ル一マニア フインランド
スコットランド イ夕リア
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200
220
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スウエ一デン キアドイッ民主共
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「承継的期限」
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950
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チュネジア90 和国
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アメリカ合衆国
430
270
ソ連邦
(2080)
*出産児 1, 000 に対する届出数:時間帯は図表4に同じ。中絶を実施する人員(特に医師)に対す
る諸要件は顧慮されていない。
観察だけからして、許容の要件の(刑-)法的な規定は妊娠中絶の流布にとっ
て必然的な意義を持ちえない、という帰結が引き出されなければならないの
である。
このことは手続き上の次元についても、とくに国際的には同様に著しく変
化に富んだ変異型を示している相談規定にとって当てはまる(図表
5)0
それゆえ、使用可能な数的資料では、障壁の多さが必然的に妊娠中絶の少
なさを意味しうるという、当然のことと思われる予期を裏づけることができ
ないのである。
とりわけ、妊婦がその関心事を中絶医にだけでなく、それを超えてより広
第7章国際的に比較した妊娠中絶所見一認識一提案169
い公共機関に伝えなければならないような2 段階的相談の要件が、格別に低
い率に繋がっているということを証明することはできない。
しかしまた、法的規制の行為指導的な効果が限られているということも、
たとえば多くの国(たとえば中華人民共和国、トルコ)で著しい都市-地方-落差
が、もしくは(たとえばドイッ連邦共和国、かつてのユーゴスラビア、アメリカ合衆国
でのように)見渡し難いほどの地域的な差違が報告される場合に、様々な広
がりを持つ観察から明らかになる。刑法上の見方からは、緊縮的な規制とい
うものが自動的に妊娠中絶の低い頻度に導くということはなく、明白に許容
的な法状態でさえ、注目に値するほどに低い頻度と並行していることがあり
うることは、とくに注目すべきことということができよう。このようなー
すでに以前の暫定的な価値評価に基づく意見表明で公表されている―所見
は、オランダの諸経験に決定的に依存している。それは、ドイツにおいて、
しかるべきサークルにより、―実質的な挙げることができない仕方でー
そこからドイツの諸事情にとって諸々の帰結が引き出されうるのか否か、ま
た引き出されうるとしてもどのような条件のもとでかという問題に立ち入る
代わりに、基底に置かれている経験的なデータの信頼性に対して疑義が申し
立てられたほどに、際立って明らかであるように思われる。
2 諸適応事由の、とくに医学的適応事由の多様性
最後に、たんに妊娠中絶禁止の適応事由方式(たとえどのように明文化されて
いるにせよ、重,点が医学的適応事由に置かれた)の例外しか知らない諸国に関して
は、多様性というものが目立っている。とりわけ、解釈に余地を開いている
医学的適応事由が明らかにそうである。許容領域が狭いと考えられる記述で
さえ、大きな程度において「柔軟な」取り扱いから免れていないこと 、つま
りは、とくに「医学的=社会的」適応事由へと定義換えされることからも不
死身ではない。そもそもデータが使用可能であるかぎりで、実際は明らか
に、疑わしきはそのつど「最も柔軟な」処罰解除事由を優先的に適用すると
いうことについては、様々な例(ドイツ連邦共和国、スイス、フィンランド、イス
ラエル、ハンガリー、スペイン)を挙げることができる。われわれが経験的なデ
ータを用いることができる数少ない諸国だけが、このような傾向から免れる
170
ことができたーもしくはより正しくは、これらの国のいくらかにおいての
み(とくに南アフリカでは 1996 年の現行法に至るまで)医学的適応事由の厳格な解
釈に「耐え抜いてきた」のである。
3 影響諸要素
優先的に妊娠中絶の頻度に影響を与えているのが最終的にどの要素である
かについては、結局のところ、どのような明白な因果的証明をも導き出すこ
とができないのであり、せいぜいのところ、いくらかの手がかりが挙げられ
るにすぎない。
固く宗教的に形づくられている社会では、宗教に由来する堕胎の道徳的断
罪がこれまでのところ低い率を結果的にもたらしてきたでもあろうが、他方
で、しかしまた「闇市」 を(ともに)惹き起こす原因にもなってきたことが
注目される。妊娠中絶に対して道徳的に)順応することが明らかに少ない社会
では、それにもかかわらず実用的に妊娠中絶の回避へと方向づけられた政策
が確立されており、これが相応の意識を形成していること、ないしは効果的
な予防行動というものを結果としてもたらしていることもありうる。他方
で、このような道徳上の(比較的な)無関心が、ーメディアの報道を通し
て掻 き立てられた「ピル」の健康上の危険に対する心配といった―世俗的
な「障害要素」が、望まれない子孫には最終的にはそれでも妊娠中絶という
手段をもって対応し、これを比較的に「最も僅少な」悪として把握する心構
えという結果を促進していることもありえよう。多くの国で高い堕胎率が、
経口避妊薬および/または家族計画的に動機づけられた自由意思による不妊
手術に関しては、制限的な諸規制と並行して現われており、それゆえ、両現
象の間には何らかの関連が置かれていることを、当然のこととして推定する
ことができる。しかしこれは、避妊は堕胎よりもましであるという要請が広
い受容を期待することができることをも意味しうるであろう。
国毎に全く異なっている家族ないしは母に対する社会的な、とくに経済的
な援助諸措置に関しても、妊娠中絶の回避という意味における諸々の影響を
数的な比較を通して裏づけることはできず、ただ質的な意味において推定す
ることしかできない。これらの援助措置は一般的にいって、特殊的に妊娠中
第7章国際的に比較した妊娠中絶所見一認識一提案171
絶を阻止することに向けてではなく、むしろ一般的な形式において子供の養
育と結びついているような諸々の負担を軽減することに向けて設定されてい
ることからすると、このような所見はほとんど驚くに当たらないように思わ
れる。同じことは大家族ないしは親族における子の受け容れおよび養育にも
当てはまるーこれは、現在の工業化社会では明らかに例外事例においてし
か掴み取ることができないような可能性である。
おそらくはいくらかは誇張されてもいようが、多くのところでーそれも
「医療業務」として侵襲を用いることができるところにかぎらず―未生児
は広い意味においてひとつの「功利主義的な」衡量要素であり、これには経
済的な困窮、社会的な熔印押しまたは生活設計が危険にさらされていること
への心配と比較して、あまりにも僅少な比重しか帰せられていない、という
主張を敢えてすることができるであろう。20世紀の後半において多くの法秩
図表6 :選定された諸国における長期にわたる展開
(『日)ドイツ
民主共和繍
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35
172
序がこの種の衡量に対してひとつの安全弁を創設してきた。妊娠の回避を目
標とした諸々の戦略は、当該婦人によって受け容れられることができなくて
も、全体として見れば、妊娠発現後の「損害を限定する」ための諸措置より
も有望であるように思われるのである。
入1!一、1
一
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1
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一
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Irm-11 ー曹.r 、、、》_一
程度の影響を侵襲の普及にそれぞれの国において及ぽしていることを代弁し
ている。けれどもこの影響は、しばしば一時的なものにすぎないように』思わ
れる。とりわけしかし、立法上の、諸措置の影響を推定するには、比較可能
な妊娠中絶法上の枠条件には高度に相異なる仕方で登録された中絶頻度が付
随しているという観察が妨げとなっている。これを背景とすれば、許容的な
法状態を有している国々(たとえばオランダ、カナダおよびチュニジア) が、それ
にもかかわらず長期にわたって比較的低い中絶率にとどまり続けているか、
もしくは同様に緊縮的な立法措置を有していない他の国々伽つてのドイツ民
主共和国、フィンランドおよび 1975 年以来のノルウエー、
ておそらく
1980 年以来のデンマーク、そし
1985 年以来の日本も。これについては図表6参照)も、長い眼で見ると登
録された妊娠中絶数の減少への明白な傾向が見られる。
4 諸々の帰結
これらの帰結が、このプロジェク「と結びついていた多くの予期の背後に
とどまっているとしても、それでも(刑-)法上の規制構想が切り離された要
素として有している諸効果が妊娠中絶の頻度にとって過大に評価されてはな
らないということを重要な認識として心にとどめておくことができよう。こ
のことは、あるいはありうるでもあろう「規範提訴的な」作用に関しても当
てはまるといってよいのであるが、しかし、これについてはほとんど思惑の
域を出ない。それゆえに(書かれた)言葉の行動指導力へのあまりに高めら
れた期待には警戒を要するのである。厳格な禁止が著しい数量と並行して現
われているのを見るかぎり、このことが意味しているのは、それぞれの行為
者(婦人)は、(要求度の高い)規範提訴に従うよりもむしろ彼女の私的な価値
体系に即して行動しているということである。ある社会が、妊娠中絶の実用
的=効果的な方法に訴えるために政治力を振り絞るということは、明らかに
第7章国際的に比較した妊娠中絶所見一認識一提案
173
自明のことではないのである。
どのような次元で問題が見られなければならないのかは、ある国のどれほ
ど多くの婦人が彼女の生活史のなかで妊娠中絶へと駆り立てられるのか、そ
れゆえに彼女の生活記録のなかに中絶を書き留めているのかが、評価される
場合には、とくに明らかになる。その点では、とくにアイルランドに関係し
ている報告が印象的である。―これは決して自明のことではないのである
カーありのままに伝える とすれば、イギリスで妊娠中絶手術を受けるため
に緑の島からやって来るアイルランド婦人の数だけを取り上げてみた場合、
8 人に1 人のアイルランド婦人が彼女の生涯史のなかで妊娠を中絶させてい
るということであるが、そのために刑法上の責任を間われてはいない。この
ことが意味しているのは、厳格な法状態にかんがみると、「許される」と
「禁じられる」というカテゴリーに還元された規範命令力が条件付きのもの
でしかないことである。
Iv 法政策上の諸認識―ひとつの規制提案(ェーザー)
ここではいくらかの基本的様相と切り子面しか言及することができなかっ
た、この種の大規模なプロジェク「を締め括るに当たってはもちろん、それ
が何をもたらしたのかと間われる。このような間いは、公衆の視角から、し
かしまた私自身の確信に関しても立てることができる。
公衆に関していえば、その判断が待たれるところであろう。とはいえ、と
もかくもいますでに言うことができるのは、われわれの諸々の所見と認識を
中間的に改正論議のなかに持ち込むことが、以前の「適応事由解決」と「期
限解決」との前線態勢が破られ、今日の「相談モデル」への中間の道が打ち
込まれたという点で、影響力がなくもなかったということである。
このフ0ロジエク「の発案者である私自身に関していえば、われわれの「法
政策上の終結的諸考察」においておよそ100頁にわたって展開した多くの個
別的な見解の中から、このプロジエクトの印象のもとにもともとの見解の変
更へと導いた3つのものだけを、以下において際立たせることにしたい。そ
のさい私はあらかじめ、このプロジェクトの参加者全員とは直接には分かち
174
合っているのではない、私の個人的な見解にかかわっていることを強調して
おきたい。
1 「第3 者判断」から「答責意識的対話」へ
私は、このプロジエクトの開始時にはーそれゆえ「改正前の時期」には
ーすでに始まりつつあづた疑間にもかかわらずなお「適応事由モデル」を
信じていたが、研究の進展とともにいよいよこの方向が失当であることに確
信をもたないわけにはゆかなった。それには多くの理由があるが、そのうち
の2つだけを挙げることにしたい。
そのひとつは、―妊婦にとって重大な生命にとっての危険という稀な事
例を越えてーある妊婦の個人的な葛藤を、客観化が可能で、第3 者によっ
て十分に統制することができるような諸適応事由に言い換えようとするすべ
ての試みは、妊婦の個別的な生活展望と優先設定を第3 者を通して申し立て
ることも評価することもできず、いわんや決定することはできないという,点
で挫折しないわけにはいかないという認識である。
もうひとつは、妊婦は刑法上の危険に対する不安から免れて包括的な相談
に向けて開かれており、それを通して彼女は最終的に答責を意識した決断を
見出すという、根拠がなくもない希望である。そのためには、刑罰という人
質を撤回し、まずは援助の手を先行させるほかには、どのような道も残され
ていない。そのさい、よりによって生命保護には格別の義務を負っているカ
トリック教会がこの協働から免れようとしているのは、「教会とともに感ず
(sentire cum ecciesia) 」という誠意が示されるとしても、理解し難いことであ
る。
2 適法な妊娠中絶の全般的な上限としての「生存能力]
妊娠が進行した段階で子の障害が確認されたことを理由に実施される妊娠
中絶(いわゆる「後期堕胎」)をめぐる今日の公的な議論に関していえば、そこ
では―様々な側から呼び起こされる印象とは異なって ―1995 年の法改正
によってはじめて生み出された問題にかかわっているのでは決してなく、す
でに1975年以来のドイツにおける現行法のもとで、妊娠22週以降でもかなり
第7章国際的に比較した妊娠中絶所見一認識一提案
175
の範囲で胎児の障害のおそれをその原因とした中絶が実施されていた。とは
いえ、この現実的な契機を顧慮しなくとも、より根本的にこの問題と取り組
まなければならないという印象が、いよいよもって私の心に浮かび上がって
きた。そのさい私は、2 つの点で以前の立場を修正することを余儀なくされ
ていると考えた。
・これは、ひとつにはすでに生まれてきている生命と いまだ生まれていない
それとの等価性と称している、広く行き渡っている想定とかかわってい
る。この想定との私の取り組みが長ければ長いほど、この,点で道徳上の要
求と法的な評価とが分離しているという認識から心を閉ざすことが難しく
なってきた。これについては、たんに2つの側面に言及するだけにしてお
こう。ひとつの側面で問題になっているのは、未生の生命の殺害に対する
制裁は、既生の生命の場合にそうであるよ りも、世界的にも伝統的に厳し
くはなく、むしろ例外に属しているという、無視することができない比較
法上の現象である。第2 の側面として社会心理学的契機により多くの注意
が注がれるならば、このような法的等級づけを容易に説明することもでき
よう。すでに受精とともに発生したヒトとしての能力と、そこから生じて
くる原則的な当保護性に固執する場合であっても、それでも後者は生命が
発達すればするほど大きくなって くる。たとえば、まさにその妊娠を自覚
するようになったばかりの人が彼女の体内で芽吹きつつある生命を、9 ケ
月目にそうするのと同じ仕方で評価するであろうと想定するのは、妊娠が
喜んで歓迎される場合であっても大いに例外的であろう。法形成に当たっ
ていっさいの社会的現実を全面的に無視しようとしないのであれば、生命
の道徳的および法的な保護要求にとっての基盤がすでに受精をもって始ま
ると見られる場合であっ ても、この生命は発育とともに価値帯有性が増し
てくることを避けて通ることは難しいのである。
・価値帯有性の増大という現象から同様に増強される生命保護にとって生じ
てくるもうひとつの、より重要なーとくにこれまでほとんど気づかれる
ことのなかった―帰結が、適法な妊娠中絶にとっての全般的な上限の設
定である。発育生物学的に、受精とともに新しい「生命プログラムの単一
性」が完結的に現存しているのであり、こ れはいずれにせよ、それまでは
176
なお可能であった多生児形成がその時,点からは締め出され着床からは、も
はや本質的な切れ目なしに発育することだけを要しているということから
出発すべきであるが、その場合でさえ、母と子との関係には2 つの発育時
点が目立ったものとして注目されなければならない。そのひとつは出産で
あり、これとともに子は母体から外へと姿を現わし、いまや完全な自立性
をもって生き続けなければならない。もうひとつは通例として妊娠22週を
もって至Ii達する生存能力である。たとえこの発育状態を超えて胎児が(事
実として)引き続いて母の胎内に居残ることによって母に依存し続けてい
るとしても、それでも胎児は(仮定的に)すでに母体の外で生き続けるこ
とができるのである。伝統的に質的な保護増強が、いまやより厳しい殺人
構成要件が適用されるというようにして出産と結びついている一方で、生
存能力の発達をもってーいずれにせよドイツ法ではーこれまでのとこ
ろこれと比較可能などのような著しい保護増強が並行して現われるという
ことはない。このことは、生命が発達するとともに増してくる価値帯有性
とは調和していないように思われるのである。
このような欠陥を除去するためには、進行した妊娠の場合、中絶はとりわ
け次の2つの視点から制限されるべきであるとすることによる、根本的な軌
道修正というものを必要としている。ひとつには、―たとえば、 適応事由
に条件づけられた12週時というような、他の先行する切れ目とは別に―妊
娠中絶は原則的に胎児の生存能力の発現に至るまでしか可能でない、とされ
るように全般的な歩調を整えることによってである。このようにすれは、現
在では期限が付せられずに可能であると考えられている胎児病性の中絶もま
た防止されるであろう。もうひとつには、この時点を超えれば、すでに出産
に近い発育段階にかんがみて、医師による中絶でさえ、もはや母または子の
側に厳格な生命適応事由が存在している場合にしか許容されない、とすべき
であろう。
いわゆる「後期堕胎」をこのように制限するとすれば、この,点でドイツ連
邦共和国だけが孤立していることには決してならないであろう。むしろ注目
すべきことにまさにノルウエー、スェーデンおよびオランダといった国々で
は妊婦の初期段階での中絶は比較的に広い範囲で許容されているのである
第7章国際的に比較した妊娠中絶所見一認識一提案177
が、妊娠の後期段階ではそれだけにいっそう厳しく処理されていることが観
察されるのである。
3 窮迫状態に方向づけられて相談を受けた後の妊娠中絶の適法性
法倫理的におそらくは最も重要な、_ドイツの改正論議がそれによって他の
諸国から最も際立っている現象は、法律に適合した妊娠中絶を「適法であ
る」とするか、それとも「処罰は免れるが、しかし違法である」と表現する
か、ということをめぐる激しい論争である。ここでは、このことを詳細に根
拠づけることができないが、妊娠中絶にとっては、それに関与した者が「法
に適合して」行為していると理解することを許すような規定を見出すこと
が、私にはこの間、たんに主張可能であるばかりでなく、必要とさえなって
きているように』思われるのである。論争を通してそこへと立ち至ることがで
きるためには、ある行為を「違法でない」と特徴づけることは「社会倫理的
に是認に値する」ことと同置されうるというような誤った表象から免れてい
なければならない。そのうえになお、窮迫状態に方向づけられた対話および
相談構想には、今日ではただひとつ上首尾と思われるような方向として、そ
の社会的貫徹のために必要とされる法的承認を調達することに全力が尽くさ
れなければならないのである。これに対して、現行法によれば同じ妊娠中絶
を一方では違法であると言明し、他方でこれを法的に否認の余地はない、な
いしはその実施において法的に有効であるとしてこれを防護することは、反
生産的である。この種のそれ自体が矛盾している規範的な通告は、妊娠中絶
がその答責のもとに置かれ、これに応じたその行為がそれにもかかわらず違
法であると判定される、医師に対する不当な要求である。これとともに、他
では法に忠実な行為が予期されるような職業階層が、それと知りながら不法
の小道へと誘い込まれることになるのである。
現行法に対するこのような異議申し立ては、あたかも現在の処罰解除を理
屈ぬきにひとつの正当化事由に集中する必要があるかのように理解されては
ならない。それという,のも、われわれの法政策上の終結的諸考察で詳細に論
証されているように、法律改正にーそしてこれとともにわれわれは「窮迫
状態に方向づけられた対話モデル」に立ち返る―妊婦には他の方法では回
178
避することができないと思われる窮迫状態および葛藤状態に関連した相談お
よび対話というものが必要であるということが、これまでよりもいっそう明
瞭に表現されているからである。
この方向がどのような様相を呈しうるのかを、われわれは以下の改正提案
において明文化しようと試みた。妊娠中絶に関する法政策上の議論を、原則
的な次元で新たに切り開くことが今日ではどれほど幻想的であると思われよ
うとも、それでも懸案の「生殖医療法」をめく・る議論は、ここで例示的にの
み論じられた諸点についてーしかしまた年少者における妊娠中絶という、
対立的に議論されている問題といった他の諸側面についてもーその改善と
明確化とに取り組むための契機と機会を提供することができよう。そのさい
法政策の比較法的研究が別種の認識と新種の展望を、われわれは、この多く
の出費を要したプロジェクトを通して示すことができたことを望みたい。
附:ひとつの規制提案
この標題における不定冠詞「 eine =ある、または、ひとつの」は、たんにたま
たまそうなったというのではなく、全く意識的に選定されている。すなわちこれ
によって、妊娠中絶については唯ひとつの真かつ正なる規制が存在しているので
はなく、諸々の目標設定と優先)lt位に応じて異なってくる様々な内容と形成形式
を考えることができる、ということが示されているのである。この意味において
以下の提案も、それが A. Eser/H. -G. K 加h, Schwangerschaftsabbruch im
internationalen Vergleich, Teil 3, S. 518-608 に表現されてはいるが、しかし部
分的に暗黙裡に不問に付せられている諸々の考え方のひとつの言い換え以上のも
のではない。これについては、あらゆる形で、この規制提案はこのプロジエクト
の参加者全員に分かち合われているのではなく、本書の著者両名の個人的見解に
よるものであることを、明確にしておかなければならない。
この規制提案には、「終結的諸考察」において本質的なものとして析出され、
そこから最大限に可能な法律形式に移し変えることができた原則と指針が前置き
される。
1 原則と指針
. 人間の生命は、人間の生命として、すでにその出産前において保護に値し、
第7章国際的に比較した妊娠中絶所見一認識一提案
179
保護を必要としている。
2. 妊娠に当然に結びついている諸々の危険と日常的な負担を超えて、妊婦には
とくに生存にかかわる窮迫状態に至るまで葛藤を帯びた仕方でその生活形成
が侵害されることがありうる。妊娠した婦人の胎内で成育しつつある子との
共生的な「単一体における二体性」から生ずる葛藤は、その一回性と回避不
可能性において他の利益衝突と比較するこ とができない。
3. 妊娠中絶によってこの葛藤を除去することは、妊婦自身の尊厳と権利の確保
に尽きるものではなく、同時に胎児に対する他人処分でもある。妊婦にはど
のような純然たる自己決定も与えられていないのであるから、妊娠中絶は正
当化を必要としている。
4. ある妊娠中絶を正当化するために必要とされる利益衝突の衡量に当たって
は、子が成長するとともに価値を帯びてくるとともにその価値が増してくる
とい うことが顧慮されなければならない。子がそれに基づいて母胎の外でも
生き延びることができるであろう自らの生存能力に到達することをもって、
妊娠中絶は原則的に排除されなければならない。
5. 未生の生命の保護は、それに相応しい範囲において、刑法上の防護策をもっ
てするだけでも、また何らかの刑法上の防護策なしにも、これを実現するこ
とができない。それゆえ、望まれない妊娠の回避は、すでに答責を意識した
避妊 をもって始まり、妊娠が発現した場合であっても中絶の防止には援助と
相談が刑法の投入に優先されなければならない。
6. 相談は、妊婦に彼女の答責を意識してその妊娠を継続するか、それとも中絶
するかかを良,ら的に決断することを可能にさせ、必要とあらば適切な措置を
もって彼女を支援することを目標としている。社会的環境もまた、そしてそ
の場合はとくに自分によって作り出された生命に対してともに責任を負って
い る夫が、適切な仕方で相談に組み入れられなければならない。
7. とりわけ妊娠中絶と結びついている諸結果を可能なかぎり僅少に保つため
に、中絶は医師によって実施されなければならない。これとともに割り当て
られる共同答責に基づいて、彼は妊婦に助言を与え、彼自身の決断発見のた
めにも彼女の中絶理由について説明を受けなければならない。
8. 許容されている領域についての明確な情報とそのために充足すべき要求を与
えることが求められる行為原則として、法的規範は自己矛盾から免れていな
ければならず、すべての法的条件を誠実に充足しているという理由により合
法的かつ法的に忠実でありながら、それにもかかわらず違法であるとされる
ような、どのような行為も、当事者に推定されるようなことがあってはなら
180
ない。それゆえ、合法的な妊娠中絶のための諸事由は、それらが充足されて
いる場合には、中絶は適法であるとみなすことができるように形成されてい
なければならない。
9. 目標諸設定のこのような相違は、「窮迫状態に方向づけられた対話ないし相
談モデル」によって最も適切に処理することができる。一方で、妊娠中絶を
妊婦の一方的な自律的決断と見るような「自己決定を基盤とした期限モデ
ル」と結びついている誤った評価に対抗し、他方で、「第三者の判断を基盤
とした適応事由モデル」の根底に置かれている妊婦の良心的な最終的決断の
無視に逆らいながら、ここで優先されるモデルによって、とりわけ次の2 つ
のことが達成される。すなわち、そのひとつは、妊娠中絶による以外には回
避することができないような妊婦の葛藤状態への、衡量要件にとって不可欠
な方向づけであり、もうひとつは、相応する相談と答責意識的な検討に基づ
けば、葛藤の重大さと妊娠を継続することの個人的な期待不可能性は、医学
的な事態がかかわっていないかぎり、最終的には妊婦自身による以外には他
の誰も適切な仕方で評価することができないということへの信頼である。
10. 妊娠中絶がそれ自体として適法であっても、それによってはいまだ費用支弁
または他の社会法または保険法上の諸給付の問題は残されている。たしか
に、この種のものは一方で、違法な妊娠中絶の場合では一貫して排除されな
ければならないようには排除されていないが、しかしそれでも他方で、それ
自体として適法な医療上の諸処置が直ちに費用支弁というものを惹起すると
はかぎらないことから、それは必然的に前置きされているわけでもない。そ
れゆえこの,点からしても、ここで提案される規制モデルの基盤にうえには、
立法者による大きな決断の幅が残されているのである。
2 妊娠中絶を規制するための法律草案(
(5)
第1条適用領域
(1)
妊娠中絶とは、出生前の生命を母胎内で死滅させるか、もしくは侵襲の
結果として母胎外で生き長らえさせないにとを目的とし、またその)ような方
法で受精卵の子宮内での着床完結後に妊娠を終結させることをいう。
(2 )妊娠中絶は、避妊と価値的に等しい産児制限の方法であると理解されて
はならない。
(5)
以下に続いて見込まれている「」による補1足部分は、別に指定のないかぎり、実質的に
は等価のニュアンス付けとして理解されたい。
第7章国際的に比較した妊娠中絶所見一認識一提案
181
第2条原則的禁止
妊娠中絶は可罰的であり、以下の〔第3 条に挙げられている〕諸条件のもとで
のみ「例外的に〕許容される。
第3条医師による妊娠中絶の条件づけられた許容性
(1 )妊婦の同意を得て医師により妊娠12週に至るまでに実施される妊娠中絶
は、次の場合に許容される〔許される、適法である/違法でない〕。
1. 妊婦が、先行する第4 条による相談とそれに連結する少なくとも3 日間の熟
慮の後に「も〕、「それにもかかわらず妊娠を継続することが〕期待可能でな
く、他の方法で回避することもできないと思われるような窮迫状態または葛
藤状態に置かれており、かつ、
2. 医師が妊婦の利害事項と彼女の中絶理由について説明を受け「また、彼女と
話し合いをし)た場合。
(2)
子の生存能力の達成に至るまでは、次の場合は第1 項と同じとみなされ
る。すなわち、
1. 医師の認識によれば、妊婦の現在および将来の生活諸事情を顧慮すれば「も
しくは予期される子の重大な障害または発育障害に基づけば」(6)、妊婦の身
体または精神上の健康状態に重大な侵害を被る危険を回避するために妊娠の
中絶が適当であり、彼女に期待可能な他の方法ではこの危険を回避すること
ができず(7)、かつ、
2. 中絶を実施する前に挙げられている諸条件が中絶医以外のもう一人の医師に
よって書面により確認され、中絶医に提示されている場合。
(3)
医師の認識によれば、子はすでに母胎の外で生き延びることができるで
あろうことを出発点とすることができる場合、妊娠中絶は次の場合にのみ許容さ
れる。すなわち、
1. (a)
妊娠を継続する場合には妊婦にとって重大な危険が生ずるか、もしく
(6) この選択肢の法律への明示的な採用は本質的に、1995年の改正では胎児病性適応事由の
削除へ、また現行刑法第218条a 第2 項の医学=社会的適応事由にそれらを解消することへと
導いた社会心理学上の諸理由から、障害を負った生命の差別という外見のいっさいが避けら
れようとするのか、それともこの間の諸々の経験から、現実に即してもいるし明確でもあろ
うという理由で、子の障害を妊婦にとって懐胎の最終的に決定的な期待不可能性のための可
能な一要素として明示的に挙げておき、後者を通してまさに、あたかも予期される胎児病が
すでにそれ自体としてもっぱらひとつの十分な中絶理由であるかのような印象に対抗するほ
うがよいのではないかということに依存している。
(7) これらの条件が違法に無理強いされた妊娠の場合でも与えられ得ることから、付加的な
刑事学的適応事由というものはなしで済ませることができるように思われる。
182
は、
子が最重度の障害または発育障害のためにその出生後に生き延びない
(b)
であろうという場合で、かつ、
2. 中絶が実施される前に挙げられている諸条件が、中絶医から独立した、関連
事項について修練を積んだ2 人の専門医によって書面により確認され、中絶
医に提示されている場合。
第4条相談義務
(1)
第3条第1 項にいう窮迫状態および葛藤状態というものが現存している
ことを明白に認定するために、妊娠の中絶を受けようとする妊婦は、以下の諸原
則に従って認可された一人の相談員により、個人的な会話形式で助言を受けるこ
とが義務づけられている。
1. 相談は、未生の生命の保護と妊婦のための配慮に奉仕する。彼女には、相談
を通して、妊婦自身の理解事項の他に未生の生命に相応しい尊重に対する義
務づけをもそこで見出すような答責意識的な決断を下すことができるように
なることが求められる。彼女の現在および将来の生活諸事情の包括的な検討
のもとに、彼女の妊娠に条件づけられた窮迫または葛藤状態の除去にとって
重要でありうるような、事実として使用可能なすべての援助が彼女に提示さ
れ、場合によっては斡旋されなければならない。相談には、将来的に望まれ
ない妊娠を回避するためにも寄与することが求められる。
2. 相談は、認可された相談所、またはこの規定にいう相談員として認可され
た、自らは中絶を実施することのない医師によってこれを執り行うことがで
きる。
3. 相談は、遅くとも考慮されている侵襲の3 日前までに行われなければならな
しA。
4. 妊婦の事情聴取においては、相談には可能なかぎり他の人々、とくに子を作
り出すことを通して共同責任を負っている夫が組み込まれていなければなら
ない。
5. 相談は、相談員により、妊婦の求めに応じた日付を付して遅滞なく書面によ
って彼女に認可されなければならない。
6. 〔専門的に管轄を有する〕閣僚は、相談の目標、内容および形式について別
途に詳細を、さらには妊婦、家族、母と子のための公的および私的な援助へ
の要求がある場合における妊婦への支援、相談所の公的促進ならびに相談員
を認可する諸条件を、命令によって規定しなければならない。
(2)
〔妊娠中絶が予期される子の重大な障害に基づいて適当であるとされる〕
第7章国際的に比較した妊娠中絶所見一認識一提案
183
第3条第2 項の場合、妊婦には専門医による相談が提供されなければならない。
第5条同意
妊娠中絶の実施は、以下の諸原則に従い、妊婦の同意を条件とする。
1. 妊婦の同意は、医師による相談と侵襲の意義およびその危険についての説明
の後に書面によってなされなければならない。
2. 侵襲の時点でいまだ17歳に至っていない妊婦の場合には、彼女自身の同意の
他に一人の〔複数の〕監護権者の同意も必要とされる。第4 条第1 項第2 号
にいう相談員が、妊娠を中絶する医師に書面により、監護権者「たち)がと
もに関与すれば、相当の意義を有する妊婦の、保護に値する利益がとくに持
続的な仕方で侵害されるであろう場合、または第3条第2項もしくは第3項
の場合に一人の〔複数の〕監護権者の説明を適時に求めることができない場
合のみ、これを見合わせることができる。
3. 妊婦が妊娠中絶の意義およびその危険を把握することができない状態に置か
れている場合には、妊婦の死の危険または健康上の重大な障害を避けるため
にのみ、また一人の〔複数の〕監護権者「たち)の同意を得てのみ、妊娠中
絶を実施することができる。いずれの場合も、妊婦はその理解力に対応した
仕方で説明を受けていなければならない。
第6条適切な施設における実施
妊娠中絶は、病院またはそのために認可されている施設においてのみ、これを
実施することができる。〔専門的に管轄を有している〕閣僚は、この施設が相応
していなければならない諸条件を、命令によって規定しなければならない。その
さいとくに、妊婦の適切な医療上の介護が確保され、施設経営者の信頼性が保障
されているように配慮されていなければならない。
第7条医師によらない妊娠中絶の可罰性
(1)
医業を遂行する権限を有することなく妊娠を中絶する者は、3 年以下の
自由刑または罰金刑に処せられる。
(2)
とくに重大な諸事例では、刑罰は7 月以上5年以下の自由刑とする。と
くに重大な事例に当たるのは通例として、
1. 妊婦の同意を得ずに行為するか、または、
2. 妊婦の死の危険または重大な健康障害を惹起する場合である。
(3)
行為者が妊婦の「明らかにされた〕意思に反して行為するか、または意
思の欠如を利用して行為する場合には、1年以上10年以下の自由刑に処せられ
る。
(4 )未遂は 、これを罰する。
184
第8条医師の可罰性
(1)
医師として受精後12週以内に、第3 条第2 項の諸条件が与えられていな
い場合に、
1. 第5条に従った妊婦の同意がないか、
2. 妊婦が中絶の少くとも3 日前までに相談を受けていないか、または、
3. 彼女の説明「および検討)のもとに第3 条第1 項にいう、他の方法では回避
することができない窮迫状態および葛藤状態に置かれている理由が確認され
ていることなしに、
妊娠を中絶する者は3年以下の自由刑または罰金升IJに処せられる。
(2) 医師が受精後12週を経過した後に、第3 条第2 項または第3 項の条件が
充足されることなく妊娠を中絶した場合には、第1 項と同じとみなされる。
(3)
行為者が妊婦の「明らかにされた〕意思に反して行為するか、またはそ
の意思の欠如を利用して行為する場合は、自由刑は1 年以上10年以下とする。
(4) 未遂は、これを罰する。
(5)
医師としてよりすぐれた知識に反して不当な認定を、第3条第2項第2
号によって提出した者は、2年以下の自由刑または罰金刑に処せられる。
(6)
医師が、他では許容されている妊娠中絶を病院またはそのために認可さ
れている施設の外で実施したときは、秩序違反の行為である。この秩序違反には
1 万マルク以下の過料を科す。
第9条妊婦の可罰性
(1 妊婦は、以下の場合にのみ罰せられる。すなわち、
1. 妊娠を自ら中絶するか、もしくは医業を遂行する権限を有していない第3 者
によって中絶させる場合、
2. 受精後12週の経過に至るまでに、第3 条第2 項の諸条件が与えらていない場
合に、少なくとも3日前までに第4条による相談を受けることなく医師によ
って妊娠を中絶させる場合、または、
3. 受精後12週を経過した後に、第3 条第2 項または第3 項の諸条件を充たすこ
となく妊娠を中絶させた場合。
第10条統計上の目的のための届出義務
医師としてこの法律にいう妊娠中絶を実施し た者は、これを4 半年度の経過に
至るまでに以下についての関係書類、すなわち、
1. 妊娠中絶の理由、
2. 妊婦の家族状態ならびに彼女が養育している子供の数、
3. 先行の妊娠数とその結果、
第7章国際的に比較した妊娠中絶所見一認識一提案
185
4. 中絶された妊娠の期間、
5.侵襲と観察された合併症の種類、
6. 侵襲が実施された場所および入院の場合はその期間、ならびに、
7. 妊婦の住所番号の最初の3 数字ないしは場合によっては、妊婦がその住居ま
たは通例として居所を有している国名を、
〔所轄〕官庁に統計のために届け出なければならない。その場合、妊婦の姓名が
挙げられてはならない。
第11条拒絶権
何人も、妊娠中絶にともに関与することを義務づけられない。このことは、他
の方法では回避することができない死または重大な健康障害を婦人から逸らせる
ために関与が不可欠である場合には、当てはまらない。
186
第8章比較的視点から見た生命医学上の進歩の
法的諸問題
ードイツ』玉保護法を巡る改正論議のために―
I序文
まさに10年も古くなっているが、しかし、それでもまだ数年しか経ってい
ない―1991年1月1日に発効した」玉の保護のためのドイツ法(EschG=月玉保
護法)の現状は、このように記述することができよう。
月玉保護法がすでに短期間の後に改正を必要としているとみなされていると
いう事実は、この法律が過去数年にわたって高位の諸会議の多数回の対象で
あったことからすでに読み取ることができる。現に2000年5 月には、連邦保
健省の発意に基づいてベルリンで数日にわたるシンポジウムが「ドイツにお
ける生殖医学」という題名のもとに開催され、そこで39を上まわる講演のな
かで、その1 音5ではまさに論争的な改正提案が論じられた((1)。そこで問題と
なっていたのは、決して、とりわけ着床前診断や幹細胞研究にというよう
な、最近の医学-生物学上の発展への何らかの適合だけではなく、むしろ卵
細胞提供の現在の禁止もまた疑間視さ れ、もしくは婚姻外受精の規制の必要
性についても議論されたのである。そのさい法技術的にいえば、結局のとこ
ろ、月玉保護法は包括的な「生殖医療法」にまで拡充されるべきではないか、
ということが問題になっていた。部分的に背馳する諸要求が、 2000 年10月に
生殖医学者たちによりフライブルクにおいて実施された学際的な会議で表明
された②。これらの催しにはすでに、1998年の省際的な作業グループの、そ
(1 )これについては、 Barbara B びckenJ り庖 e, in: Medizinrecht (MedR) 2000, S. 417 f. を参照。
諸々の講演と議論は次の会議録に記録されている。 Das Bundesm 玩 isterium fr Gesundheit
(Hrsg.), Fortpflanzungs medizin in Deutschland, Baden-Baden 2001 -そこに掲載されてい
Ha ル s-Georg Koch, Uberblick ti ber die internationale Rechtslage, S. 176-184.
(2) この催しにおいて、産婦人科内分泌学および生殖医学ドイツ協会( DGGEF) 、産婦人科
および助産ドイツ協会( DGGG) 、再生医学ドイツ協会( DGRM )および連邦連合生殖医療セ
る
第8章比較的視点から見た生命医学上の進歩の法的諸問題187
れもとくに、細胞核の交換を介したクローン技術の発達からどのような立法
上の諸帰結が引き出されるべきかという、現在では他のョーロッパ諸国で熱
く議論されている問題についての意見表明(
(3) が先行していた。控え目であ
るようにと警告した連邦大統領の演説(')、連邦首相による25人からなる国家
倫理-諮間委員会の設置(
(5)「赤い」遺伝子工学についての数時間にも及ぶ議
会での討論(
(6)、およびヒト幹細胞を用いた研究のためのドイツ研究共同体の
態度表明⑦は、最近の出来事の1部にすぎず、それらは、ロルフ・ケラー
もまた詳細にーそしてとりわけ法政策上の方向へ向けて―携わったよう
な⑧主題を具象化している。
現実的な議論の素材にとっては、ごく最近イギリスの立法者によってなさ
れたいわゆる「治療上のクローン」の「解禁」⑨、ならびにーこれと結び
ついたこれまでの立場の対立を放棄してーデンマークの倫理-諮間委員会
の相応の勧告(
(10)が取り上げられた。スイスにおいてもオース「リアにおい
ても「生殖医学」というテーマは法政策的に盛況を呈している。現に同盟国
ンター(BRZ)の各意見書が提出されている(雑誌, ,Reproduktionsmedizin'‘ に公刊されてい
る)。
(3)BT-Drs. 13/11263, v. 26. 6. 1998.
(4)Johannes Rau, ,,Wird alles gut?"-Fur einen Fortschritt nach menschlichem Ma13",
Frankfurter Rundschau v. 19. 5. 2001, S. 7 にその一部が転載されている。この演説の完全な
http://www.bundespraesident .
内容はインターネットを通してアクセスすることができる。
de/top/dokumente/Rede/ix 41073.
(5 )Suddeutsche Zeitung v. 14. -16. 4. 2000, S. 2 ;Badische Zeitung v. 9. 6. 2001, S. 2参照。
(6 )Suddeuteche Zeitung v. 1. 6. 2001, S. 5. 6. 参照。
(7)Empfehlungen der Deutschen Forschungsgemeinschaft zur Forschung mit menschlichen Stammzellen vom 3. Mai 2001; Soddeutsche Zeitung v. 5. /6. 5. 2001, 5. 6 をも参照。
(8)Rolf Keller/Ha ル s-Ludwig G庇% ter/Peter Kaiser,Kommentar zum Embryonenschutzgesetz, Stuttgart 1992 およびその5. 108に挙げられているロルフ・ケラーの次の刊行物に見
られる。Die Formel ,,Dies gilt nicht" in strafrechtlichen Vorschriften unter besonderer
Berucksichtigung von§ 3 des Embryonenschutzgesetzes (verbotene Geschlechtswahl),in:
Gunther Aルt u.a. (Hrsg.),Festschrift fur Jurgen Baumann zum 70. Geburtstag, Bielefeld
1992, 5. 227-239; Klonen, Embryonenschutz und Biomedizin-Konvention, in:Albin Eser/
Ulrike Schittenhelm/Heribert Schumann (Hrsg.),Festschrift fur Theodor Lenckner zum
70. Geburtstag, MUnchen 1998, 5. 477-494.
(9)Frankfurter Allgemeine Zeitung vom 21. 12. 2000, 5, 1; Neue Zuricher Zeitung v. 21.
12. 2000, 5. 3 (下院)ないしは24.. 1. 2001, 5. 6 (上院)参照。
(10) Suddeutsche Zeitung vom 2. 3. 2001, 5. 12 参照。
188
「スイス」では 2001 年の初めに生殖医療法が発効しており、ウイーンでは今
日すでに存在している
1992 年の生殖医療法の改正が思案されている(
(11)
現代の生命-工学のすべての問題をここで扱おうとするならば、使用可能
な枠が十分ではないであろう。それゆえにわれわれは、いくらかの現代的な
問題領野に集中し、他の領野―むしろ伝来的な諸問題―については、簡
単に触れるだけにしておこう。とはいえ、あらかじめ現時点で妥当している
法の現況を調べておくことにしよう。
II 現在のドイツ」玉保護法の基本的な様相
1978 年における最初の「試験管ベビー」の誕生後間もなく、多くのョーロ
ッパの国は、生殖医療の領域が規制を必要としていると認めた。そのさい、
やがて様々な解決の方法が、それも規制を必要としているとみなされる実質
的な諸問題の選択に関しても、―よりいっそう重大な―禁止に値するも
のとして、もしくは―一定の条件のもとで―許容されるものとして、特
定された処理の査定に関しても、浮かび上がってきた。
ド イツの立法者に関していえば、」不保護法によって刑法による規制方法を
選んだのであり、そのさい、とりわけ「許容される」という範瞬とーさら
には―「禁止される」という範時とのなかで考えた。月玉保護法は、ひとつ
の自立した法律として構成されているにもかかわらず、そこでは実質的には
刑法各則の一章が問題となっているのであるが、しかし各則のなかに形式的
に統合されているわけではない。このことは、月不の保護は実質的に未生の生
命の保護に属していることから、」玉保護法が刑法典のなかで規定されている
妊娠中絶と類縁関係にあり、何といってもやはり両素材の場合に問題になっ
ているのは出産前の生命であるという、すでにその理由からして残念なこと
である。それにもかかわらず、立法者が、両素材を刑法典のなかに据えるこ
とによって、体内的に生み出された生命と対外的に生み出された生命との等
価性を明示することを悼ったのであるとすれば、ii玉保護法の刑法の外部での
(11)司法省の指示に基いて、2000年11月22 日に開催された専門家公聴会の記録が公刊される
ことが求められている。
第8章比較的視点から見た生命医学上の進歩の法的諸問題189
特別な位置づけを通して、月玉の取り扱いを事情によってはいつの日にか、よ
り包括的な生殖医療法のもとに収納することが、いずれにせよ容易にされる
であろう。
月玉保護法の基本的,思想を数少ないいくつかの点に総括しようとするなら
ば、それは、標語的にいえば以下のような立場に特徴的に現われる。
医学的に根拠のある生殖の試験管内での処理は原則的に受け容れられる
カぐ、
一それは、医師の職業法(
(12)と社会的健康保険法(
(13)における相応の諸制
限を通して原則的に婚姻内制度(夫婦間)に制限される。
「余剰」月不の発生に対して規制的に防護策が講じられる(腫保護法第1 条
第1号および第5号)。
一それにもかかわらず余剰月玉が生ずるという事態に至った場合、そうで
ない場合にはタブー視される』玉の提供が許容される。
しかし、以下のことはどこまでも禁じられる。
一研究目的のための月玉を「消耗的に」用いること(月玉保護法第1条第1項
第第2号、第2条第1項)、
一意図的な生殖系細胞への介入(月不保護法第5条)、
ークローンの形成(月不保護法第6条)および、
ーギメラまたはハイブリット.の形成によるヒトー動物-混合物の産出(月玉
保護法第7 条)。
「関係者」(14)の生命と健康を保護するために許容される生殖医療上の諸
処置の実施は医師に留保されるが、
一しかし、それに関与することはどこまでも任意である(月不保護法第10
条)。
」玉保護法の基本的思想の以上の大まかなスケッチは、もちろん様々な視,点
のもとに補完されなければならないであろう。このことはとくに、当該婦人
(12)最終的に:Richtlinien der Bundesarztekammer zur Durchfuhrung der assistierten
Reprodukution, Deutsches Arzteblatt 1198, S. C-2230 If. 参照。
(13)§ 27a Abs. lNr. 3 und 4 SGB V 参照。
(14) BT-Drs, 11/5460, S. 13 If. (月玉保護法:草案についての連邦参議院の態度表明) ;BT-Drs.
11 ノ 8057, S. 17 (政府草案と他の諸草案についてのBT-法務委員会の決議勧告と報告).
190
の同意のない受精ないしは月玉移転を通した医師による専断の禁止(月玉保護法
第4条第1 および2号)、さらに遺伝的に関与した男性の死後の受精の処罰可能
性(月玉保護法第4 条第1 号第3 号)に当てはまる。
まさに最後に挙げられた禁止の場合、月玉保護法が「月玉の保護のための法
律」という呼び方に必ずしも正確に従っているわけではないことが明瞭にな
る。それというのも、月玉保護法のなかで問題になってい るのは、すでに存在
している月玉の保護だけではなく、―たとえば人工受精の場合または「余
剰」受精の禁止の場合のように―月玉の発生それ自体のある種の事態に対す
る月玉の保護でもあり、そうであれば、そこで問題になっているのは、月不の保
護というよりもむしろ月引こ対する保護だからである。しかし、このような批
判的所見をもって、この種の制限の正統性が疑間視されてはならないのであ
って、たんに法律の名称が正しくないことを意識することが求められている
だけである。
生殖医学と人間遺伝学の領域における最も現代的な諸々の発達が問題とな
っているかぎりにおいて、多くの処理が、』玉保護法のなかにはいまだ全く明
瞭に捕捉されていない。これはとくに着床前診断と着床前選別の処理に当て
はまる。この場合には、まさに月玉の保護が疑問視されるにもかかわらず、こ
の新しい生命医学上の処理には周辺的な顧慮のみしか払われていない。つま
り、せいぜいのところ、性の選択のための精子の選別が特別に重大な、性と
結びついた遺伝病の回避を目的として許容されるとみなされるかぎりでのみ
顧慮を見出すのである(月玉保護法第3条)
)(15) 。着床前診断術もまた、正確には
言及されていない。そのため、その許容性は、いわば「通過諸段階」の法的
な評価に依存しているのである。現に一方で、試験管-3不の冷凍保存が明示
的に禁止されるのに対して、他方で、 月玉保護法はすでに、(あるいは生じるでも
あろう)「余剰」月劉こ対して、つまり1 月経周期内で移入することが求められ
る場合にはもはや卵細胞は受精されてはならないとすることを通して、対抗
(15)月玉保護法は第3 条ではっきりとデュシエンヌ型筋ジス「ロフィーを挙げ、これに類似す
る重大な、連邦諸ラントの主務官庁によってこのようなものとして承認された性と結びつい
た遺伝病を定めている。知られているかぎりでは、いまだどのようなラントでもこれに相応
する「適応性カタログ」は仕上げられていない。
第8章比較的視点から見た生命医学上の進歩の法的諸問題
191
措置を取ろうとしている(月玉保護法第1条第1 項第1 号)。代理母制の禁止(月玉保
護法第1条第1号第5-7号)および卵子提供の禁止(月玉保護法第1条第1項第1
項)の場合も、」玉の体外での発育に作用を加えることによる体外発生の場合
(月玉保護法第2 条第2 項)と同様に、月不保護法は、月玉の保護というよりもむしろ
タブーの保護を促進している。 それというのも、ある月劉こそれによってまさ
に生命を獲得させることができるにもかかわらず、代理母であることや卵子
の提供が禁止されているのであり、そうであれば、決定的な禁止の動機は生
命の保護ではなく、母であることの伝統的な考え方への配慮ということにな
るからである。
月玉保護法を妊娠中絶の一般刑法上の諸規定から限界づけようとするなら
ば、それは標語的に次のように言い表すことができる。すなわち、』玉保護法
が試験管内での(したがって体外での)』玉の状態にかかわっているのに対して、
子宮内への着床後の(それゆえに体内での)』玉への介入または攻撃は、もっぱ
ら升0法第218条に従って評価されるということである。後者は、胎児殺を意
味するいわゆる多胎児削減(16)にも関係している。本来的に望まれる子供よ
りも多くの受胎に対する「非常用制動機」として、月玉保護法は、1 妊娠周期
内に3 つの月不よりも多く の月不の「暫定的な」移入が禁止される(月玉保護法第1
条第1項第3項)とすることによって、すでに予防的に対抗措置を講じようと
している。
人の生命の当保護性にとって決定的な時,点は、」玉保護法においては受精の
時,点である。このような基本思想は、とりわけその表現を月玉保護法第8 条第
1項におけるきわめて広く把握された「月玉」の定義に見出される(
(17) 。これ
によれば、この法律にいう月劉こ該当するのは、 受精した(2)、発育能力を
(16)これについて詳しくは、
Christoph I] た isma %冗, Produktion und Reduktion von Mehrlin-
gen, Stuttgart 1992 ,とくに 5. 150 ff. 婦人の「状態」はり適切には:「境遇」?)としての妊
娠の意図的な継続にもかかわらず、刑法第218条以下の適用がありうるのかという問題につい
ても触れられている。
(17)月玉保護法第8 条第1 項は次のようにいう。
「この法律にいう月不とは、すでに受精している、核融合の時,点から発育能カを有するヒト腫
であり、さらには、そのために必要とされる他の要件が存在している場合には分割して、一
個の個体に発育することができる、8玉から取り出された全能性を有するすべての細胞であ
る。」
192
有している(3)、核融合の時点からの(5)、ヒ「の細胞(1) であり、さ
らに、そのために必要とされる他の要件が存在している場合には、分割する
か、もしくはひとつの固体へと発育することができるような、月玉から作り出
された全能性を有するすべての細胞である。月玉として保護に値するために
は、それゆえ、問題となっているのが一個の(1) ヒ「細胞であり、(2)
受精されていて(3)発育能力を有しており、 さらに(5) 「全能性」とい
う要件から明らかになるように、一個の個体へ向けての継続的な分裂と発育
への能力が考えてられており、このための最も初期の段階として(5) 核融
合が際立たせられている。これに対して、」玉が置かれているのが子宮外かそ
れとも子宮内かは、この定義に従えば重要ではない。この定義によれば、着
床前の諸侵襲、つまり受精卵の子宮内での着床が完結する前の侵襲は、妊娠
中絶には当てはまらないことになるので、ii不保護法と刑法との間にある種の
車L繰が生ずる。月不の概念と関連しているこのような問題については、後に改
めて立ち帰ることになるであろう。
III
ドイツ法を他のョーロッパの諸規制と比較した場合にお
ける個別的な問題領野
以下では、現在、最も多く議論されている問題領野について、比較法的に
考察する。そのさい、たとえョーロッパ諸国にーそしてこれとともに比較
的に同質的な文化領域に―限定する としても、全く対立しているのではな
いにせよ、部分的に異なる諸規制に行き当たることになる。
●●.
.
●
1 婚姻外受精
国際的な意見の相違はすでに、どのような要件のもとに他の男性の精子を
用いた体内受精が許容されるべきかという間いに関して明らかになる。とは
いえ、このいわゆる「婚姻外受精」で間われているのは、許容性一般の問題
ではない。それというのも、婚姻外受精を刑罰のもとに禁止するという、
1962 年のドイツ刑法草案で予定されていたような、婚姻および家族上の統合
についての厳格な考え方は、奇妙なことといってよいからである(18)。むし
ろ婚姻外受精の場合に問題になっているのは、大体において、精子提供者が
第8章比較的視点から見た生命医学上の進歩の法的諸問題193
匿名であり続けるべきか、またはあり続けることができるのか、それとも逆
に、その素性を知ることについての子の利益の点で、卵子提供者の匿名性が
否定されるべきなのか、という係争問題である。後者は―法律上の規定は
ないがーすでに長きにわたってドイツの最高裁判例の立場(19)である。し
かし、それはこの原理を自然による生殖の場合でも、子の母の意思に反して
までつねに貫徹するつもりのものではないであろう( 20)
国際的な見方においても、同様の傾向を観察することができる。とりわけ
健全な家族の像が特別に重要であるように考えられることにより、提供者の
匿名性を放棄することに困難を来たしているローマン諸国の場合でさえ、子
が自分の遺伝的な由来を知る権利は、ますます貫徹されることになっている
ように見える。
多くの望まれない扶養法上の帰結を理由に恐れら れているこのような遺伝
学上の透明性は、しかしながら、子にとっての遺伝学上の由来と扶養法上の
義務づけとが、並行的に進行しなければならないということを意味している
わけではない。むしろその,点では、ますます、まさに医学的に根拠のある生
殖の事例の場合「生物学上の」(遺伝学上の父性というものが必ずしも(相応
の扶養法上の義務を伴う)「社会上の」父性と結びついていることを要するもの
ではなく、「社会上の」父が、とりわけ通常の母と夫のように、懐胎前の養
子縁組の承諾によってすでに意思表明ができる、という認識が貫徹している
ように』思われる。これに対応して、多くの国においてすでに、婚姻外におい
て出産した子供の「法律上の」父に対する扶養法上の防護策も、(精子提供者
という形をとった)「遺伝学上の」父の金銭的な要求に対する防護策も、その
なかで規定されるような法律上の諸規定が存在している。
そのうえ ョーロッパの法秩序のなかに、「質の確保」という概念のもとに
総括することができるような諸規定も、漸次多く見出すことができる。それ
らは、とくに次のようなものである。
(18)これについてはすでに、 Albin Eser, Gentechnologie und Recht: Der Mensch als Obje-
kt von Forschung und Technik, in:Herta Doubler-Gmelin/ Wolfgang Adlerstein (Hrsg.),
Menschengerecht, Heidelberg 1986, S. 149-172 (156 )参照。、
(19) BVerfGE 79, 256 ff. ,とくに 269 ff. を参照。
(20)たとえば、 BVerfGE 96, 56 If.; LG Passau, NJW 1988, 114 ff. 参照。
194
一(とくに健康上の類の)精子選択の基準、
一必要とされる承諾を得るための説明の法的な形式的手続
一利潤を上げることの制限
一実施された精子提供の数の限定、または、
一精子提供者のデータの記録および保存である。
この種の問題についての異なる種類の規定は、後掲の図表から読み取ること
ができるように、とりわけオース「リア、スイス、フランス、イギリス、ス
ペインおよびスカンジナヴィア諸国のように、 すでにョーロッパの数多くの
国に見出すことができる。他方、ドイツではとりわけ扶養法上の問題性に関
して、立法によってのみ除去することができるような著しい法的不安定
が、いまだに存在している。そのさい、立法者が、婚姻外受精の問題に寛容
であるばかりでなく、当該夫婦にとっても負担を軽減しようとするのであれ
ば、現在のように、健康保険が使えないとすることによって「汚名を着せる
こと」もまた除去しなければならない。
法政策的にドイツにおいて、現在、とりわけ夫婦のためにのみ開かれてい
る(婚姻外または婚姻内の)受精は、独身の人々または(「社会的な」父としての生
涯の女性パートナーを伴う)同性愛のカップルにも可能とされるべきではない
か、という問題も議論の対象とされている(21)。たとえこのような拡大が一
事実上または仮定上の―子の幸福に対立することがありうるとしても、し
かしそれでも、どれほど広くこの種の受精の背後に、事実として、「両親」
としての2 人の婦人のように、たんに異常なものとしての悼りよりも多くの
ものが隠されているのか、ということは批判的に間われなければならないで
あろう(22)。いずれにせよ、特別な医学上のいかなる専門知も必要としてい
(21)これについてはたとえば、
Peter Derlede 名 DagmαγCoesteγ - mlt;'en,Ruth Bauma %ルー
Hoe加eおよびDie加 αγMidh による、(先の
Fn. 1 で)言及されたベルリン会議( Tagungs-
bund 5. 154-157,158-162,163-168 ないしは 169-175 )での「どのような要件と限界が婚姻外
において両親性のために医学的に根拠のある生殖に基いて妥当すべきか」という指導問題4
についての諸論稿、ならびにフライブルクのシンポジウム( oben Fn. 2 )を契機としたMb房-
ka Frommd の論稿を参照。
(22)Comelia Burgert,ProFamilia Magazin 1/2001,5. 16 f.
のインタビューをも参照:互い
に共同生活をしており、共通して教育している二人の婦人は、同じ卵子提供者からの人工授
精によって産出された子のそれぞれの母である。
第8章比較的視点から見た生命医学上の進歩の法的諸問題
195
ない受精処理の比較的単純な実施可能性が、法的な諸限定による統制とその
貫徹の可能性に限界を設定しているということに、ほとんど目を閉じること
はできないであろう。
.
●.
●.
●●.
●.
●●●.
.
●
2 試験管受精およぴこれに類する処理
とりわけカトリック教会のように、特定のギリスト教会の道徳上の疑念を
いったん別とするならば、試験管受精の原則的な法的許容性はーそのうえ
に打ち立てているかもしくはそれと規範的に比較可能な諸処理と同様に―
今日では議論の対象になっていないように,思われる。このよう方法で生れて
きた子供について、以前はわれわれのほうからも恐れられたような健康にと
っての危険も確証されていないように』思われるのであり、そのことが、今日
では以前にもまして、この処理の法的禁止に契機を与えることはできない。
このことは、これと結びついて高められる異形成率が恐れられていた細胞質
内精子-注入((ICSI )という処理についても当てはまるといってよい。
道徳上の諸々の留保がヒト生殖の技術化または変性化に対して向けられる
ところでは、―」玉保護法でなされてい るように(月玉保護法第10条)―医師
の拒絶権を通して法的に考慮が払われている。
このような処理の場合、説明と助言もまた実際的な重要性を有している
が、ここで個別的に立ち入ることはできない。この場合、ドイツにおいては
とりわけ、結婚していないか独身の人々の間における試験管受精の実施に限
界を設定している医師の職業法がひとつの役割を演じている。このような限
界はとりわけ、生殖医療法がその妥当している表現形式において試験管受精
をその婚姻内制度においてしか、つまりは提供者の卵子を用いない結婚して
いる者同士または生活の同伴者の間でしか許容していないオース「リアにお
いて(オーストリア生殖医療法第3条)、疑問視されている。これはもちろん驚
くべきことであって、何故かというに、他方で婚姻外受精は一定の要件のも
とに許容されているからである。,それにもかかわらず、オーストリアの憲法
裁判所は、(許容さ れる)婚姻外受精と(許容されない)婚姻外試験管受精との
間の異なる取り扱いに、憲法上の平等原則に対するどのような侵害をも認め
ることができなかったのである( 23)
196
3 卵子提供と代理母であること
卵子提供の今日の禁止(腫保護法第1 条第1 項第1 号)もまた、多くの側面か
ら法政策的に疑間視されている。現に、とくにフェミニス「の観点から精子
提供の優遇が批判されている。それほど以前ではない時点で、平等な取り扱
いのこのような欠如から婚姻外受精の禁止が導き出されていたのであるが、
これに対して今日では、むしろ卵子提供の許容も要求されている(24)。けれ
ども仔細に観察するならば、精子提供と卵子提供との異なる取り扱いは、こ
れを十分に根拠づけることができる。それというのも、婚姻外受精の場合
は、「生物学上の」遺伝的な父にはせいぜいのところ―必ずしも必然的に
ということではないカー「社会的な」父が対時するのに対して、卵子提供
の場合は、ある婦人によって卵細胞が提供され、これがその受精後に他の婦
人によって懐胎されるというようにして、すでに「生物学上の」母の役割の
分裂というものが生ずるからである。他に、しかし、卵子提供に反対するた
めに子の幸福の危殆化というものを引き合いに出すためには、これまでのと
ころやはり経験上の確証を要するのである。
比較法上の観点からは、卵子提供の許容性がョーロッパの内部ではきわめ
て対立的に評価されていることに注目されなければならない。とくにデンマ
ーク、フランス、イギリスおよびスペインにおいては、原則として禁じら
れ、その諸々の差異についてここでは詳述することができないが、特定の要
件のもとに許されると言明されている。これに対して、ドイツのほかスウエ
ーデン、イタリアおよびスイスにおいて、卵子提供は禁じられている。ベル
ギー、イタリアおよびオランダにおけるように、多くの国では関連する法律
上の規定が欠如しており、このことは当然のこととして実務に自由な領域を
許している。
(23) Ervin Bernat, MedR 2000, S. 349 ff. の批判的な所見を伴う Osterr. VIGH, Erkenntnis
vom 14. 10. 1999, MedR 2000, S. 389 ff.=D 昭mar Coerser-U 乞 Itfen, Fortpflanzungsmedizin,
EMRK und 6 sterreichische Verfassung, FamRZ 2000, S. 598 ff ,の批判的な論評を伴う
FamRZ 2000, S. 601 If.参照。
(24)たとえば、
Dogmar Coerster- Waltje 冗, Erternschaft aul3erhalb der Ehe-Sechs juristische Pramissen und Folgerungen fUr die kUnstliche Befruchtung, in:Fortpflanzungsmedizin in Deutechiand (oben Fn. 1),5. 158-162 (160 )参照。
第8章比較的視点から見た生命医学上の進歩の法的諸問題
197
これに対してーいずれにせよョーロッパにおいては―、事前に固めた
意図に従って、後に「社会的な」母の役割を引き受けようとはしない女性が
遺伝学的に異なる胎児を!裏胎するというような、一種の「妊娠提供」を通し
た「貸与母であること」に対しては、広い範囲にわたる否認が存在してい
る。このために「代理母制」という概念が確立している。このことは、 流布
してはいるが、しかし決していたるところで禁じられているわけではない。
とくにこの禁止は、そのために仲介活動をする第三者に当てはまる。このこ
とについては十分な理由が存在している。現にとりわけ、懐胎した母が子
を、たとえばこの間に育ってきた紐帯に基づいて、引き渡さない場合、もし
くは逆に、最終的な受取人として考えられた「社会的な」母が子を、たとえ
ば障害を負って生れているという理由で、引き取ろ うとしない場合に、生じ
うる諸々の紛争を考えることができる。とはいえ、このような問題を相応す
る法的な明確化と防護策を通して和らげることができる場合であっても、個
人心理学的にも社会心理学的にも問題をはらんだ母性的紐帯の空洞化は言う
に及ばず、一個の商品生産のようにあちらこちらと引っ張りまわされる子
の、いわば「母なし児」という倫理的および社会政策的な問題が、どこまで
も残るのである。自然の母性による「分娩」ではない、これと類似した状態
はすでに通例の養子縁組の場合にも存在しているということは、説得力を有
するような反対の論拠ではない。それというのも、養子縁組の場合は、いっ
たん生れてきた子には少なくともこれを助けた母を手に入れることができる
のに対して、代理母制の場合、子はすでに移転の意図をもって産み出される
のであり、このことによってはじめから客体にまで販められてしまうように
思われるからである。
これに対してこのような疑念は、いわゆる「月玉提供」に関しては、すなわ
ちある』玉が試験管内で生み出されたが、後にもともとの意図に反して何らか
の理由から、その月玉が由来する婦人には移植することができないような事例
に関しては、同じあり方では生じない。このような事情のもとで、いったん
は存在することになる』玉が他の婦人の懐胎に委ねられるとするならば、ここ
ではこのような仕方で助けられて生き延びることができるようないわば「見
捨てられた」月玉の救出が問題になっているのである(25)。このことを明確に
198
してはいないが、現行のドイツの」玉保護法もまたこのようなやり方について
行為の幅を許容している。
4 膝に関する研究の新種の諸形態
腫に関する研究がドイツのn玉保護法(腫保護法第1条第1項第2号、第2条)
によるのと等しく厳しく禁止されている国は、ほんの僅かしか存在していな
い(26)。それにもかかわらず、今日では、このような禁止によって「腫性幹
細胞」ならびにいわゆる「治療的クローン」もまた捕捉される(べきである)
のか、ということについて、激しい議論が燃え上がっている。このことが肯
定されなければならないという場合、とりわけ胎生学者と遺伝子学者によっ
て緩和が要求されている。これに対して、法状態が不明瞭である場合、法政
策上の立場に応じて、一方では制限の強化による法的明確化が、他方では自
由化によるそれが予期される。
この問題をめぐる議論は、部分的にはすでに、特定の諸概念カーいまだ
に確立された語葉が欠けているために―、実質的な諸問題の意識的な隠蔽
を目的としてではないにしても、部分的に異なる意味において用いられると
いうことによって損なわれることになる。それゆえ、まずもっていくつかの
事前説明をしておくことが当を得ているように』思われる。
「月を陛幹細胞」が話題とされる場合、関連する情報が前もって与えられて
いない素人には、すでに諸々の細胞それ自体が月玉保護法第8条(
(27)の広く把
握された定義にいう「月玉」であるということの認識を有していない以上、一
個の8劉こまで発育するこ とができる(ヒトの)細胞がこの場合に問題になっ
ている、という考えを呼び起こしうる。しかし、月を陛幹細胞の場合、実は、
「月を陛」という連体修飾語によって示されるのは、―いわゆる「大人の」
(25)この意味においてすでに、 Albin Eser, Neuartige Bedrohungen ungeborenen Lebens-
Empryoforschung und ,,Fetozid" in rechtsvergleichender Perspektive, Heidelberg 1990, S.
57 1.
(26)これについては、Deク ck
B り leveld/Shaun D. Pattiso れ, Embryo Research in the UK: Is
Harmonisation in the EU Needed or Possible?, in:Minou Bernadette Friele (ed.),Embryo
Experimentation in Eurooa, Bio-medical, Legal, and Philosophical Aspects, Bad Neuena
hr 2001, S. 58-74. (62 ff. )参照。
(27)先の Fn. 17 参照。
第8章比較的視点から見た生命医学上の進歩の法的諸問題
199
幹細胞とは違って―1 個の月玉への独自の継続発育という意味におけるその
潜在能力ではなく、その細胞が月玉から由来したことを意味しているにすぎな
いのである。これが意味しているのは、「月を陛幹細胞」は、たしかに月引こ由
来しているが、それ自体が1個の月不でありうる、ないしは月玉へと発育しうる
ということではないのである。それゆえに「月を性幹細胞」の作出または使用
の場合に、事実として問題となっているのは、法的な意味において8玉である
か否かは、用いられた処理に応じた説明が、それも事実的に何が生じている
のかを顧慮して、規範的にどのような地位が研究の対象に帰せられるかとい
うことであり、ひとはどのようにこれに関わることが許されるのかを顧慮す
ることが必要なのである。
「治療的クローン」もまた、誤解を招きやすい。「クローン」の名のもと
に 一般には遺伝学的に同一の生命体の発生に作用を加えることが理解され、
それには」玉が含まれている(28)。それが存在しているか否かは、とりわけ
「月不の核交換」(細胞核をあらかじめ核が抜かれた細胞被に移入すること)を通したク
ローンの場合には疑間でありうる。なぜなら、それによってどのように完全
な遺伝学的な同一性にも作用が加えられてはいないからであり、そのような
同一性はさらに先に続いて伝えられてゆくものだからである。その理由は、
いくらかの遺伝子情報は細胞核を通してではなく、ともに交換されることが
ないいわゆるミトコンドリアを通して、先へと伝えられるということにあ
る。しかし、月玉保護法は「同一の」遺伝情報を問題としているだけであり、
このことは数学的な意味においてではなく、質的な評価の意味において理解
されなければならない。そのことからすると、遺伝学上の同一性について
は、いかなる完全性も要求することができないのである(29)。これに対して、
はるかに問題をはらんでいるのは、「クローン」という概念に「治療的」と
いう連体修飾語をあてがうことである。それというのも、これによってすで
にクローンそれ自体によって何らかの治療上の効果が生み出されるべきであ
(28)腫保護法第6 条参照。
(29)これについては、 Rolf Keller,Klonen(Fn. 8),5. 486 ff .ならびに石 k%5-Geo 智 KOch,
Rechtliche Voraussetzungen und Grenzen der Forschung an Embryonen:Nationale und
internationale Aspekte,Geburtshilfe und Frauenheilkunde 2000,5. M 67-M 72(M 69 )参
照。
200
り、また産み出すことができるというような、あるいは治療が新たに発生す
るクローンに利益をもたらすというような、印象が喚起されるとすれば、そ
の2 つの視点は、ともに誤った表象だからである。それというのも、治療上
の効果にはせいぜいのところ、あるクローンの使用もしくはそこから獲得さ
れた「素材」を通してはじめて達することができるか、もしくは達すること
が求められるのであり、そうすると、クローンそれ自体は治療ではなく、ま
さに逆に新しいクローンないしはそれから獲得された素材がある患者の利益
になるものとされるのだからである,。また、この場合に、その患者自身から
「大人の」幹細胞がクローンするために抜き取られる場合には、それがクロ
ーンされうるのであって、クローンすることが患者の利益になるわけではな
いからである。いわゆる「再生的クローン」とは違って「治療的クローン」
の場合、もともと妊娠を招来させるために婦人の性器への移入は意図されて
いないのであるが、しかし理論的には相応の「考えの変更」後に実施される
こともありうるであろう。他にも、「治療的クローン」と結びついた現実的
な医療上の諸々の希望があまり大げさに書かれてはならないであろう。それ
というのも、具体的な個別事例における治療目的への適用からすれば、この
処理は明らかにいまだに遠く隔たっているからである。
ありうると』思われる医療上の諸利益に対するこのような疑念は、法倫理上
の評価にとっても重要である。それというのも、長期にわたって追及された
目的が有望でないと』思われれば思われるほど、それだけいっそう大きな比重
が、どの範囲まで様々なクローニング処理がそれ自体としてそもそも許容さ
れるのか、という問いに帰せられるからである。この問いに一括して答える
ことはできない。それというのも、問題となっているのが』玉-分割か、細胞
核の核が抜かれた卵細胞への移入か、それとも大人の(幹)細胞の再プログ
ラミングかに応じて、ドイツの8不保護法によれば異なる規制と禁止がひとつ
の役割を演じるからである。
このように多面的な疑間の諸領域から、ここではたんに今日最も激しく議
論されている(月劃細胞を用いた研究に簡潔に光を当てることにする。これ
については差し当たり、」劉こ関するいっさいの研究がドイツの」玉保護法では
禁止されているが、このような制限の程度は、世界的に見てほとんどそれを
第8章比較的視点から見た生命医学上の進歩の法的諸問題201
上回るところはない、ということが想起されなければならない(30)。そして
このことは、「研究」という概念が月玉保護法にはそもそも全く言及されてい
ないにもかかわらず、実際そのとおりである。むしろ」玉保護法が優先させて
いるのは、JJ玉に関する研究が促進されようとするならば許容されていなけれ
ばならないはずの、」玉とのいっさいの種類の交渉が禁じられるということで
ある。月玉に関する研究のこのような排除は、次の2段階を通して達成され
る。すなわち、第1 に、妊娠を招来させることを目的としてのみ体外的な方
法で月玉を産出することが許される(31)ということを通してであり、第2に、
体外的に産出された」玉は、その保存に役立つ目的のためにのみこれを保存す
ることが許される(32)ということを通してである。これによって同時に、生
殖に役立っていない」玉との交渉のいっさいが禁止される。そしてこのこと
は、これによって』を陛幹細胞の作出が目的とされている場合であっても、こ
のような細胞は全能性を(もはゃ)有していないがゆえに、それ自体が法的
な意味における」玉ではない場合でさえ、当てはまる。
このような制限が将来に向けても同じ排他性をもって維持されるべきかに
ついては、音6分的にではあるが、法政策的に激しく争われている。現に一方
では、生殖とは異なる目的のための3玉の意図的な産出の禁止の場合について
は、それは続けて維持されるべ』きであるということについて、広い範囲にわ
たって合意が成り立っているといってよい。とはいえ他方では、少なくとも
妊娠の招来に向けたいかなる移入の機会をももはや有していない「見捨てら
れた」月玉を月を陛幹細胞の作出のために利用することが許されてしかるべきで
あると、次第に強く要求されるようになってきている。これにとともに再
び、すでに3玉保護法の前地において、省際間にわたって設置されたベンダ委
員会( Benda-Kommissio 功によって展開されていたように、余剰月玉を用いた
試みは、「それらが当該」玉の病気の認識、阻止または除去に、もしくは確定
(30)これについてはすでに、Albin Eser, Forschung an Embryonen in rechtsvergleichender
und rechtspolitischer Sicht, in:Hans-Ludwig Gunther/Rolf Keller (Hrsg.),Fortpflan
zungsmedizin und Humangenetik-Strafrechtliche Schranken?, Tubingen 2. Aufi. 1991, S.
263-292 (273 If. )参照。
(31)月玉保護法第1 条第1 項第2 号参照。
(32)
』不保護法第2 条第1 項。
202
された、高位にある医学上の諸認識に役立つ」( 53) かぎりにおいて許容される
べきである、という考え方が難ってくる。けれどもドイツの立法者は、この
提案には、とりわけ科学が相応する高位の研究目的を明確な仕方で記述する
ことには成功していないという理由から、従わなかった。それだけにいっそ
う、この間の進歩にかんがみれば、今日、幹細胞研究の側から提案される
様々な構想が、当時ベンダ委員会によって意図された諸尺度を充足すること
ができ、8玉保護法を相応に改正しなければならないのか、またそれはどの範
囲までかを、捉われれない仕方で検証すべき時に至っているのではないであ
ろうか。
この種の法律改正が行われず、そのために月を陛幹細胞に関する研究が実際
に禁止されているかぎり、それだけにいっそう大きな期待が、成長したヒト
の細胞素材から獲得することができ、再プログラミングすることができる
「大人の」 幹細胞の使用に置かれることになる。しかしこのことは、再プロ
グラミングが多重的または多元的な能力の再獲得に立ち帰るのではないかぎ
りでは問題をはらんでいる。それというのも、問題となっているのが全能性
を有している細胞を発生させるための技術であるとなるや否やーそれがた
んなる「通過時点」としてであれ―、そこには再び、研究目的のために作
出することも、そのために用いることも許されない「月玉」を認めることがで
きるからである。とはいえ、全能性にまで至るために再プログラミングされ
た大人の月不を、このように月玉保護法第8 条にいう「月不」と解することは争わ
れていない。その判定は、最終的に、どのような意義がすでに月玉保護法第8
条において際立たせられた受精の諸基準に帰せられるのか、また3玉の概念に
とっての発育能力に帰せられるのか、ということに依存している。「受精」
という基準に本来的な意義が帰せられなければならないのであれば、そして
これが卵細胞と精子細胞との「正常な」融合という意味において理解されな
ければならないのであれば、「大人の幹細胞」は、それが全能性の再獲得に
まで再プログラミングされる場合でさえ、月玉保護法第8 条にいう「月玉」とい
(33)In-vitro-Fertilisation,Genomanalyse und Gentherapie. Bericht der gemeinsamen
Arbeitsgruppe des Bundesministers ftir Forschung und Technologie und des Bundesministeriums der Justiz,Munchen 1985,5. 286(A. 2. 4. 1. 2.).
第8章比較的視点から見た生命医学上の進歩の法的諸問題
203
う性格を否認されなければならないであろう。このように解釈することは、
しかしながら決して必然的ではない。それというのも、」玉保護法第8 条第1
項前段によれば、ある月玉から抜き取られた「全能性を有する」月玉が、一度こ
とさらに受精させられたものではなくても、」玉として理解されなければなら
ないとすれば、このような概念について問題となってく るのは、むしろ一個
の個体への全能性を有している発育能力の獲得なのであり、そのさいに適用
された方法ではないからである。このようにして、そこへと導く方法よりも
むしろそれを通して獲得された全能性を有する発育能力の帰結が目標とされ
なければならないとすれば、「受精」というメルクマールにはもはや時間的
または例示的な意義しか帰せられない。つまりは「すでに」受精をもって
ーすなわちたとえば着床をもっては じめてということではなく―」玉の存
在は始まるとしなければならないが、しかし「古典的な」受精は、月玉という
概念にとっては本質的ではないということを明確にするという意義しか帰せ
られない(34)。これによって」玉保護法における』玉の概念が十分に可塑的なも
のとして示されることになるとしても、法律上の明確化を求める間いはなお
残されている。とはいえ、この,点では、ョーロッパ諸国の他の規定もまた、
ほとん どこれより優位にあると評価することはできないように』思われる。
幹細胞研究をめぐる諸々の論争においてどのような解決に至ろうとも、こ
のような議論はやはり何といっても、これまでのところまだほとんどよく考
えられてこなかったといってよい問題、つまりは試験管-技術が用いられる
場合の受精(ないしはこれに相応する技術的な代替物)と移入/着床との関係を間
うという問題、あるいは月不の地位にとって重要でありう る問題を、集中的に
論じる契機を与える。より以前の諸々の態度表明では、月玉の地位のある種の
相対化が、その母体への移入が可能でない時期に(はじめて)可能になると
考えられていた(35)。けれどもこれに対して、試験管技術が適用される場合
には移入と着床が自然に生ずるのではなく、相応の意図によって担われたも
うひとつの人間の行為を必要としているということからすると、よく考えら
れなければならないのは、―用語的にはもちろん誤解を招きやすい―
(34)この問題については、Haれ s-Geo 管 Koch (Fn. 2 の, S. M 961. をも参照。
(35) Albin Eser, Neuartige Bedrohungen (Fn. 25),S.45 参照。
204
「前-月不」にこでは記述的に「前-充損-月到という意味において理解される)という言
い向しにおいても表現されるように(
(36) 、ある種の相対化がすでにこのよう
な出来事の複数回性から生ずるのではないか、ということである(37)。この
点については、十分な経験的論拠(a) と規範的論拠(b) が存在している。
(a) 仕来りどおり、試験管-月玉の法的地位および/または道徳的地位に
ついての諸々の相対化を理由づけ るために、そのように初期の発育段階にお
ける月玉は一種の分化されていない「細胞の堆積」である、ということが繰り
返し指摘されてきた。治療的クローンの「解禁」についてのイギリスの下院
における論議においても、このような論拠を聞くことができた(38)。しかし、
このような論拠が月玉の発育の継続性にかんがみれば説得的ではないというこ
とについては、正当にもすでにこれまで数回にわたってコメン「が加えられ
てし-3る(39)。これに相応することは、受精と着床との間の「自然の」喪失率
についても当てはまる(40)。しかし、試験管-月玉の特別な,点は、それが試験管
内での受精にとどまっているかぎり、さらなる発育へのどのような機会をも
有していないということに基づく「計画された暫定性」にあるのではない
か(
(41) 。これに続く移入がなければ、その運命は決まっていたであろう。し
かし、この移入は(自然の事象経過における着床のように)どのような自然の出
来事でもなく、「人の手による生命の開始」に向けての第2 の作用なのであ
(36)このような概念が国際的に慣用化されていることについて、すでに、 Albi冗 Eser, Neuartige Bedrohungen (Fn. 25), S. 26 ff. ならびに―批判的にこれによって追及された[格下げ
傾向」を顧慮した―S. 40 を参照。
(37)この意味において最近では、 Hans- Geo 管 Kcch, (Fn. 2 の, S. M 71 、およびたしかに日刊
紙 Die Welt (6.3. 2001 )のなかで公刊された論稿に おける Hubert Markl (「諸概念の早計な確
実さ―生命倫理においても道徳と法律とは区別されなければならない」)。
(38)これについては、下院議員 Anne B 墜恐とのインタヴィユー、 Suddeutsche Zeitung v. 22.
12. 2000 (評論)参照。
(39) Ro ゲ Keller, Beginn und Stufungen des strafrechtlichen Lebensschutzes, in:HansLudwig Gunther/Roll Keller (Hrsg.),Fortpflanzungsmedizin und Humangenetik (oben
Fn. 30),S. 111-135 (115 )参照。
(40) Hans-Ludw なG虎% ther, Strafrechtlicher Schutz des menschlichen Embryos u ber§§
218 If. StGB hinaus?, in:Hans-Ludwig Gunther/Roll Keller (Hrsg.),Fortpflanzungsmedizin und Humangenetik (oben Fn. 30),S. 173-176 (150 )参照。
(41)とくにその体外での継続発育が許されていないことからすれば(月玉保護法第2 条第2 項
参照)そうである。
第8章比較的視点から見た生命医学上の進歩の法的諸問題205
る(
(42) 。物事が自然に経過する場合についてはすでに、着床という形をとっ
た婦人による月玉の生物学的「受け入れ」に月玉の地位を刻印づける機能が帰属
するということに、多くの者が賛成している(43)。それだけにいっそう以上
のことは、医学的に根拠のある生殖の試験管内処理にとって当てはまらなけ
ればならないであろう。
(b)
注目すべきことに、月玉保護法はーそのかぎりでは他の諸国の関連
する他の規制方法と一致して―、試験管内での受精に成功した後の移入を
(刑罰によって強制される)義務として言明することを見合わせている。むしろ
医師による専断的な移入には、月不保護法第4 条第1 項によって刑が科せられ
さえするのである。試験管受精に成功した後に、医師が移入を実施しないと
決心するほどに、移入を望んでいる両親に突然に共感がもてなくなるという
ような仮定的な事例では、このような態度が職業階級上の処分を招くか、な
いしは民法上の損害賠償を誘発することもありうるであろう。しかし、それ
は刑法的には重要ではない(
(44) 。試験管内で産出された』玉をたんに死滅して
ゆくままにしておくことは、とくに月不保護法第2 条第1 項にいう「濫用的な
使用」を意味していない。これは見過ごされてはならないのはもうひとつの
側面である。すなわち、ヒト生殖の一定の形態について、月玉保護法は、』玉の
相応の産出に刑を科している(45)ばかりでなく、これに加えてさらに刑罰に
よる移入禁止さえ定めている( 46). ということであるーこれによって3玉保
護の思想はその反対物に逆転することになる―。言い換えれば、』玉保護法
(42) Erw 玩 Bernat によって編集された論文集( Graz 1985) には、このような表題が冠せら
れている。
(43)これについては、刑法第218条第1項第2文も参照。
(44)一定の要件のもとに移入を見合わせることが許されるという適応事由を提案していた
Rolf Keller (Fn. 39, S. 132 If. )の意見に、立法者は同調しなかった。しかし、この適応事由の
思想を、ここで展開されたモデルによれば、どのような要件のもと に(余剰の)試験管-腫を
研究目的のために用いることが許されるのか、という問題のために利用することができよう
―この意味において、 Rolf Keller (Fn. 39), S. 134 f.; ders., Fortpflanzungstechnologie
und Strafrecht, in: Hans-Ludwig GUnther/Roll Keller (Fn. 39, S. 139-207 (200 )をも参照。
(45)腫保護法第第6 条第1 項参照。
(46)これについては、 Eric Hilge れdoげ,
Kionverbot und MenschenwUrde-Vom Homo
sapiens zum Homo xerox?, Uberlegungen zu§ 6 Embryonensschutzgesetz, in:HansWolfgang Arndt/Max-Emanuel Geis/Dieter Lorenz (Hrsg.),Staat-Kirche-Verwaltung,
206
は、試験管内で産出された8不の保護の場合については、実際に一貫して処理
してはいないのである。結局のところ、試験管内で産出された月玉の「移入要
求」の刑法的保護というものは、実質的にそもそもそれが肯定されるとして
も(
(47)― 腫保護法のなかには定められていないのである。
最後にこの関連で、ドイツの連邦憲法裁判所は、その堕胎判決( 48) のなか
で、受精と着床との間における段階での(自然に産出された) 」玉の基本権的地
位について明確な立場を採ることを、わざと回避したことも想起されなけれ
ばならないであろう。
比較法的に見ると、月玉に関する研究については、ョーロッパ中でまさに
様々に評価されているということが確認されなければならない。すなわちド
イツ、オース「リアおよびスイスといったドイツ語圏の国々ならびにノルウ
ェーカー詳細な点である種の差異をもってではあるにせよ―原則的な禁
止を言明しているのに対して、デンマーク、フランス、イギリス、スペイン
ならびにスェーデンといった国々は、濫用を阻止する諸規制を置くことに限
定しており、試験管内での月玉に関する研究を全面的に禁止してはいない。
(たとえば治療的クローンについてのイギリスの規制(49)におけるように)以前に行われ
ていた幹細胞研究に関する特別な規制は、これまでのところ稀にしか見られ
ない。とはいえ、この点についてはますます現実的な改正の必要性が認めら
れるように思われる(
50)
Festschrift fur Hartmut Maurer zum 70. Geburtstag, Munchen 2001, S. 1147-1164(1161 f.)
の批判をも参照。
(47)
(48)
(49)
Ha 麗- Ludw なG虎 nther (Fn. 40), S. 巧 9 ff. も批判的である。
BVerfGE 39, 1ff.; BVerfGE 88, 203 ff. ;とくに S. 251.
2001 年1月31日に発効した Human Fertilisation and Embryology Regulations 2000
―とはいえ、ここでも治療的クローンは明示的に主題化されていない。その許容性はむし
ろ、(余剰)月玉を用いた研究の可能な許容にとっての諸基準がヒト受精と胎生学上の作用を通
して広く把握されたのであり、いまや病気の治療のための療法の展開をも含んでいるという
ことから帰結する。再生的クローンの禁止というものは顧慮されているが、しかし明らかに
いまだ実現されていない。
,,Die Welt" vom 20. 4. 2001
「イギリスはヒトのクローンを法律で
禁止しようとしている」参照。
(50)全体についてはにの間に部分的に時代遅れになっているとはいえ) Albi れ
Gunther/Keller (Fn. 30), S. 291 ff. を参照。
Eser, in:
第8章比較的視点から見た生命医学上の進歩の法的諸問題207
5 着床前診断( PID)
英語圏でーたしかに言明力のある ―,,Preimplantation Genetic Diagnosis" (PGD)
と呼ばれるこの処理は、これを月劉こ関する研究の特別事例と
して理解することができる。より厳密にいえば、問題となっているのは、そ
れが現存しているためにすでに(たとえば家族の既往歴からの)特定された諸々
の徴憲が生じている場合に、特定された望まれない特性について「」玉を調べ
尽くすこと」である。この技術はたしかに、今日では最も争われている生殖
医学と人間遺伝学のテーマ領域に属している(
(51) 。そのさい、次のような異
例の同盟を確認することができる。すなわち一方では、核心において未生の
生命のいっさいの段滅または道具化の批判者から成り立っている拒絶的な戦
線(
(52)が、他方では、妊娠中絶にどのような問題をも有していないが、しか
し PID による、あるいは生じ得る遺伝学上の濫用を恐れる声によって補強
される(53)。逆にこの処理は、妊娠中絶に対しては抑制的な態度をとる科学
者たちと医師たちに弁護者を.見出している(54)。連邦医師会(55)は、ーライ
ンラントープファル、ソ)小!の倫理委員会(
56)
と同様に―、着床前診断上の処理
を一定の諸前提のもとに合法とみなし、そのさいとりわけ、拒絶することが
実際のところ困難であるよう なシュレスヴィヒ・ホルシュタイン)吋から報告
されている個別事例を取り上げることによって、ひとつの中間の立場を代表
(51)医の倫理上の議論の状態については、総括的に、
Gisela Bockenheimer-Lucius, Pr 謝 m-
piantationsdiagnostik-Anmerkungen zu einem ethisch umstrittenen Verfahren, Hessi
sches Arzteblatt 2000, S. 263-268 参照。
(52)たとえば、 Rainer Beckmann, Zur Stralbarkeit der Prbimpiementationsdiagnostik
nach dem Embryonenschutzgesetz, Zeitschrift fUr Laborrecht 2001, S. 12-16;Ado
Laufs,
Soil eine Praimpiantationstechnik eingesetzt werden dUrfen?, in:Schriftenreihe der
Juristenvereinigung Lebensrecht e. V. zu K ひ in, Nr. 17, K6ln 2000, 5. 81-89 参照。
(53)たとえば、Regine Kollek, Praimpiantationsdiagnostik: Juristische und geselischaftiiche Aspekte, in :Juristenvereinigung (Fn. 52),S.53 参照。
(54)たとえば、 Hermann B ゆp, Praimplantationsdisagnostik-medizinische, ethische und
rechtliche Aspekte, Deutsches Arztebiatt, 2000, 5. C-930-937 を参照。
(55) Diskussionsentwurf zu einer Richtiinie zur Praimpiantationsdiagnostik, Deutsches
Arzteblatt 2000, 5. A-525-528.
(56) Peter Caesar (Hrsg.),Praimpiantationsdiagnostik, Thesen zu den medizinischen,
rechtiichen und ethischen Probiemsteiiungen, Bericht der Bioethik-Kommission des
Landes Rheinland-Pfaiz vom 20. Juni 1999, Alzey 1999.
ゲ
208
している(57)。 1995 年のこの事例では、ある婦人が先に遺伝学上の原因を有
している勝繊維症に曜患していた子を出産していたので、着床前診断によっ
て同じ曜患の素因が確認された後に、2回にわたって妊娠を中絶させ
た( 58)
比較法上の概観もまた、どのような統一的な像も明らかにしていない。す
なわちオース「リアおよび、最近ではスイスにおいても、PIDが禁止され
ている(59)一方で、デンマーク、 フランス、イギリス、スペインでは、そし
て(部分的にいっそう厳い、実施規定はひとまず留保するとして)ノルウエーでもま
た、様々に異なる他の手続上の要件のもとで、遺伝学上の重大な欠陥の疑い
のある場合には、その許容性が肯定されている( 60)
このような国際的な評価の差異に直面すると、PIDが、ドイツにおいて
も、それも法政策的にばかりでなく今日の法状態に関しても争われているこ
とは驚くには当たらない。この法状態は、歴保護法がPID についてどのよ
うな明示的な言明をも含んでいない、という法技術上の理由からしてすでに
争いへと誘っているのである。それゆえに、これが禁止されていると見よう
とする者は、いわば回り道をして(ある月玉を遺伝学的に徹底して調べるという)ど
のような目的も、(ある月玉またはそのクローンを道具化もしくは段滅さえすることもあ
りうるような)どのような手段も、神聖化しないということによ って、これを
動機づけなければならないのである(61)。
PID
はそもそも許容されるのかそ
れとも許容されないのかという一括的な評決に対しては、しかし、この処理
(57)これについては、 Gisela Ku れ khammer, Deutsches Arzteblatt 2001, S. C-1148-1150 の第
104回ドイツ医師会議での論争的に導かれた討議についての報告をも参照。
(58)この事例については、 Christian Ne た er, Fuhrt uns die Praimplantationsdiagnostik auf
eine schiefe Ebene?, Ethik in der Medizin 1998, S. S. 138-151 参照。
(59)スイス生殖医療法第5 条第3 項によれば、ある月不から試験管のなかで一個または複数個
の細胞を剥離することは禁止されるーオース「リア生殖医療法第9条第1項によれば、発
育能力のある月玉を医学的に根拠のある生殖のため以外の目的のために用いることは許されて
おらず、このことが医学と経験の状態によれば妊娠の招来のために必要であるかぎりにおい
てのみ、これを診断し、治療することが許される。
(60)これについては、ル智eれ Simon, Rechtliche Aspekte der Praimplantationsdiagnostik
in Europa, Ethik in der Medizin 1999, S. S62-S69 および Sohie E. Bastij 冗, Genetische
Praimplantationsdiagnostik (PGD) in europaischer Perspektive, Ethik in der Medizin
1999, S. S70-S76の概観をも参照。
(61)石勿 ns-Georg Koch (Fn. 1),S. 180 参照。
第8章比較的視点から見た生命医学上の進歩の法的諸問題209
は様々な仕方で実施することができるのであり、それに相応して法的な細分
化というものをも必要とされているということが、よく考えられなければな
らない。
一全能性を有している細胞の分裂を介してPIDが行われるとすれば、
そこには月玉保護法によって禁止されているクローンというものを認めうるこ
とになるが、同じことは一卵性双生児の人為的な作成を通してすでに実現さ
れている。このような事例は、ほかに月玉の法定の定義の第2 部分継保護法
第8条第1項前段)でも捕捉されている。
一これに対して、診断のために予定されている』不が全能性の喪失後には
じめて分離されるとすれば、たしかにクローンの禁止は、もはやこれに対抗
するものではない。しかし、このようなやり方に月不の禁止されている「目的
に反する使用」を認めることができるのか、ということについては激しく争
われている(62)。一部では、この構成要件が、遺伝学的に特異なものと認め
られた月玉を後に「ぶちまけて捨てる」ことを通して実現されるとみなされて
いる( 63)
一いまだ全能性を有していることと、もはや全能性を有していないこと
との区別を際立たせることを回避しようとすること、とくにたんなる多能性
との限界づけが、単純に確定することはできず、実際に統制することが困難
であるとすれば、受精がもっぱら着床の質的統制を目的として行われること
から、 PID の全般的な禁止というものを、意図された着床前診断の場合の
試験管受精に妊娠を招来させるという目的以外の目的のための受精の禁止
(腫保護法第1 条第1 項第2 号)に対する違反を認めることによって理由づける、
(62)処罰可能性に賛成しているのは、たとえば、Adolf Laufs (Fn. 52), S. 86; Reimr Beckma%冗( Fn. 53), S. 16. (全能性の喪失後の分割の場合の)処罰可能性に反対しているのは、たと
えば、 Hans-Ludw な Schreiber, Von rechtlichen Voraussetzungen ausgesehn, Deutsches
Arzteblatt 2000, S. A-1145-A-1136; Rudolf Ratzel/Nicola Heinemann, Zulassigkeit der
Praimp)atationsdiagnostik nach Abschnitt D. IV Nr. 14 Satz 2 (Muster-) Berufsordnung
-Anderungsbedarf, Medizinrecht 1997, 5. 540-543,とくに541 1.; RudoげNeidert, Pr谷im
plantationsdignostik-Zunehmendes Lebensrecht, Deutsches Arzteblatt 2000, S. A-3483-A
-3486; Margott vo れ Renesse, Zur Vereinbarkeit der Praimplantationsdiagnostik nach dem
Embryonenschutzgesetz, Zeitschrift fUr Lebensrecht 2001, 5. 10-12.
(63) 再び、AdoゲLaufs (Fn. 52), S.85がこのように見ている。
210
という可能性が残る( 64)o
PID についての立法者の沈黙によって挑発された、このような解釈論上
の諸々の「逃げ口上」は、一方では、遺伝学上の透明性に対する両親の利益
によるそれ、他方では、遺伝的な差別に対する障害者諸団体の恐れによるそ
れのように、実際に重要な領域において必要とされるような明瞭性と法的安
定性を創り出すことには適していない。この明瞭性と法的安定性に到達する
ことは、しかしながら、法技術の問題であるばかりでなく、きわめて大きな
社会政策的な重要性を有している。というのも、何といっても究極的に間わ
れているのは、予防と選別との限界がどこに引かれるのか、ならびに―後
者「選別」の場合ー―医学をどの範囲まで遺伝学上の選別のために投入する
ことが許されるのか、という間いだからである。このことを原則的に否認す
る者は(65)、それを一貫するならば、すでに発生している妊娠の間における
出生前の処理の否認に、再び立ち戻らなければならないであろう。それゆえ
に、このような帰結を持ち出そうとする者は、この間に確固として確立して
おり、毎年数万回にもわたって実施されてきた妊娠を看護するための道具立
てに属しており、「母であることの備え」として広い範囲において健康保険
によっても弁済することができるものとして承認されている、羊水穿刺と卵
膜生検の禁止にも肩入れする心積もりがなければなら ないことになるであろ
う(66)。着床前診断の禁止を一貫させるために、このような着床後診断を逆
行させることは、規範受容というものにとって不可欠な社会的合意を期待す
ることができないような一歩を意味するであろう。かくして、PIDを全般
的に禁止することはできないが、それでもーそれもいっさいの種類の出生
前診断について等しく―遺伝学上の診断の濫用に対する予防的な諸々の防
護策を講じておくことが目指されなければならないであろう。その場合、実
(64)現に Adolf Lαufs(Fn. 52),5. 84 f .がこのように見る。―Hb町- Ludw な& kreiber
(Fn. 62),5. A-1135 はこれとは別の見方をしている。
(65)たとえば、 Adolf Laufs (Fn. 52),5. 81 ff. ,とくに 5. 88 f. 参照。
(66)これについては、 1998 年10月23日の正文における妊娠中および分娩後の医師による看護
に関する医師および健康保険に関する連邦決議の指針( Mutterschafts-Richtlinien )第B 章
参照。ここでは Hans-Jurgen Sabel (Hrsg.),SGB-Sozialgesetzbuch,Funftes Buch (V)
Gesetzliche Krankenversicherung,St. Augustin,Stand 1. 9. 1999,Anhang 2. 03 zum SGB
Vからの引用による。
第8章比較的視点から見た生命医学上の進歩の法的諸問題
211
施された PID 後に、試験管内にある初期』玉を(.死滅させるという意味において)
「利用すること」は、さらに進展した妊娠段階において実施される出生前診
断の後に実施される妊娠中絶に対して、より小さい害悪であることを意味し
ているであろう。初期段階における PID と、』玉のより後の発育段階におけ
る妊娠中絶との「2つの害悪」を衡量するに当たっては、 とりわけ月玉の体内
的地位と体外的地位とがどの程度まで完全に等しいのか、あるいは両者はあ
る種の仕方で段階づけられているとみなされるべきか、というすでに先に触
れられた間いが重要になってくるであろう。
Iv 締め括りとしての比較法上の考察
国家的な限界を超えて視線を向けるならば、様々な生殖医学上の処理がど
れほど異なっているのかについては、何回となく話題となってきた。他の刑
法上の諸領域にも見られることがまれでないこのような差異は、繰り返し好
んで法政策上の任意性または可能なかぎり広い範囲に及ぶ規制からの自由の
ための論拠として用いられてきた。そのさい問題となっているのが特定され
た行為態様の許容か、それとも禁止かということであれば、国際的な諸々の
差異を指摘することが、結局、可能なかぎり寛大な水準に適合することを求
める要求に終わってしまうこともまれではない。この種の荒っぽい道具化の
試みに対しては、しかし、比較法は全力をもって異議を申立てなければなら
ないのである(
(67)
他方で、比較法上の諸々の差異は、国際的に見て極端な特別の道というも
のに対するひとつの警戒信号でもありうる。すなわち、他のすべての国が何
かを許容するか、もしくは何かを禁止している場合に、まさにその反対の道
を歩もうとするのは、国家的な頑なさでありうるというごとである。それゆ
えに、自国の諸原則を擁護することと他の諸国および他の法文化の価値観に
考慮を払うこととの間に、理性的な中間の道を探し求めることが、法政策に
おいてもーそしてそのさい、とりわけ現代の生殖医学と人間遺伝学の領域
(67)比較法上の諸認識の法政策上の議論における位置価値については、 Ha麗- Georg Koch
(fn. 1), S. 181 ff.; Hans LudwなCだルther (Fn. 40), S. 176 をも参照。
212
表:欧9羽にける生殖医学に関する法規制の概観
国
べルギ一
デンマ一ク
人工授精(卵 体外受精
取得無し)
と8玉移植
り旦子提供 代理母
研究
診断
ニング
体外8不 着床前 生殖クロ一
R
R
R
V
R
R
V
フランス
(R)
R
V
V
V
(V)
V
R
R
R
R
R
イギリス
R
R
R
R
R
V
V
R
ドイッ
イタリア
オランダ
ノノレウエ一
R
(V)
(V)
オ一ス「リア
R
R
V
R
R
V
V
V
V
(V)
スペイン
R
R
R
V
R
R
V
スウエ一デン
R
R
V
R
V
V
V
R
V
V
V=禁止。
(V)=条件付き禁止ないし禁止されているか疑わしい。
R=規制がある。
--=規制がない。
におけるようなグローバルな展開の場合は―必要とされているのであ
る(68)。このことが簡単ではないということを「生命医学についてのョーロ
ッパ人権協定」をめぐる諸々の議論( 69) が示している。そこでは、とくに月玉
に関する研究について、多くの国々とってーそしてとくにドイツ連邦共和
国にとって―、解決の異なる諸々の考え方をもつ他の法秩序もまたそれぞ
れの立場にとって十分な理由をもちうるということを討議の出発点として受
け容れることがどれほど困難であるか、ということが明らかになった。われ
われドイツ人が、この関連で、われわれの基本法の現代性をナチズムの人間
(68)腫に関する研究における寛大なモデルの普及に向けられた中期的から長期的にわたる傾
向については、 Deryck Beyleveld ノ Shau 冗 D. Pattinson (Fn. 26), S. 72 を見よ。
(69)これについては、 Albin Eser (Hrsg.), Biomedizin und Menschenrechte, Freiburg 1999,
ならびにRoゲ. Keller (Fn. 8), S. 489 参照。
第8章比較的視点から見た生命医学上の進歩の法的諸問題
213
を蔑視した現実に対する反作用として持ち出す傾向にあることからすれば、
われわれは、フランスまたはイギリスといった諸国が、民主主義と人間的諸
権利の発達をめぐるその文化史上の功績を指摘し、これを通してありうる濫
用に対して抵抗力を有していると見ているとしても、そのことに驚いていて
はならないであろう。トラウマ化した過渡性も独善的な無頓着も問題にはな
らないのであり、そうであるとすれば、諸原則を意識するのとひとしく現実
に即した警戒心を持つことは時代の要請なのである。
第9 章ドイツの新臓器移植法
I はじめに
ツでは、1997年11月5 日、「臓器の提供、摘出および移植に関する法
律(臓器移植法)が公布された(
(1)。新法は1997年12月1 日から施行されている
が、これによりはじめて、ドイツにおける臓器移植が法律による規制を受け
ることとなった。新立法に至るまでに、臓器移植の倫理的・医学的・法的側
面をめぐり多様な議論が行われてきたが、他方、すでに医療の現場において
は、一定の(医学上一般に承認された)要件のもとで、生きた人および死者から
の臓器移植が実施されてきた。
本稿の目 的は、これまでドイツにおいて臓器移植をめぐりどのような議論
が行われてきたか、そしてその議論の結果として、新臓器移植法がどのよう
な内容のものとなったかについて、その概略を紹介することである。とく
に、臓器提供者が死者または生きた人であるとき、それぞれ臓器摘出を法的
に許容する要件(IIから IV) がどのようなものかに重,点をおいて説明したい。
それに引き続き、ドナーとレシピエン「の選択をめぐる問題(V) について
論じ、最後に、臓器売買の問題(VI)を取り上げたいと思う。
新臓器移植法の規定を個別的に紹介する前に、解決がめざされた諸論点を
より良く理解してもらうために、まずは、従来のドイツにおける移植医療の
実務、および新法に至るまでに行われた議論について触れておきたい。
ドイ、ソにおいては、すでに 1970 年代末に、臓器移植に関する法律を制定し
ようとする動きが生じた。しかし、この立法者の試みは、 何が「正しい」立
(1) Bundesgesetzblatt 1997 I, S. 2631 「法案段階の翻訳として、国立国会図書館調査立法考
査局ドイツ法研究会訳・レフアレンス558号(平成9 年7 月号)81頁以下がある」。いち早く新
法を論評するものとして、 E. Deutsch, Das Transplantationsgesetz vom 5. 11. 1997, Neue
Juristische Wochenschrift (NJW) 1998, S. 777-781 および U. Schroth, Die strafrechtlichen
Tatbestande des Transplantationsgesetzes, Juristenzeitung (JZ) 1997, S. 1149-1154 がある。
第9 章ドイツの新臓器移植法215
法モデルであるかをめぐる政治的対立のせいで頓挫するに至った②。いくつ
かの法案がつくられたものの法律にならなかったので、それまでの移植医療
の実務がそのまま維持される結果となった。すなわち、臓器提供者が死者で
ある場合、生前にその者が移植用臓器の摘出に同意していたか、または(死
者の生前の意,思が明らかでないときは)死者の監護権を有する親族が臓器摘出を
許諾する ときに、脳死判定の後、死体からの臓器摘出が行われた((3)。これに
対し、生きた人からの移植用臓器の摘出については、摘出が医師により医学
上適正に実施され、かつ、提供者が包括的な説明を受けた後に臓器摘出に同
意していた場合であれば適法であると考えられた(')。
新臓器移植法は、この移植医療の実務を追認して法的基礎を与えるととも
に、臓器摘出が法的に許容されるために充足されることを要する一連の個別
的な要件を 定めた。この要件は、臓器提供者が生きた人であるか、それとも
死者であるのかにより大きく異なっている。そこで、死の判定と死亡時期の
確定が決定的な意義をもつことになる。したがって、まずこの問題を取り上
げることにしよう。
II 死および死の判定
1 見解の対立
ドイツの学説における死亡時期の確定をめぐる議論は、現代の集中治療技
術の進歩のために新たに生じてきたものであるにもかかわらず、すでに「歴
史的発展」をたどる形でこれを回顧することが可能である。かつては、人の
死を診断するためには、心臓と呼吸の停止(いわゆる臨床死)を基準とするこ
とで足りた。なぜなら、心臓と呼吸の停止は「疑いの余地なく」生命を終わ
らせる出来事であり、そこでは解釈の対立が生じる可能はなかったからであ
る。しかし、やがてこの「心臓死」は(医学の発達により蘇生が可能となったた
(2) A.La 示, Arztrecht, 5. Auflage 1993, Rn. 272; また、 Deutsch, NJW 1998, S. 977 も参照。
Koc ん, Jenseits des Strafrechts, mitten im Medizinrecht: Uber einige Rege1ungs
probleme der Organtranspiantation, in:J. Arnold U. a. (Hrsg.),Grenzuberschreitungen,
Freiburg 1995, S. 318-339 ,とくに S. 319.
(4)La 示(前注( 2))Rn. 275.
(3)互- G.
21 6
め)必ずしも確定的に人の生命の終了を意味するものでないことが明らかに
なった。むしろ、死はーつのプロセスであって、そこにおいては、各臓器と
それらの機能が場合によっては相互に独立し、また時間的なずれをもって死
滅していくのであり、まさに臓器移植が目的とされるときには、脳という器
官が完全に死を迎えた後まで当該の移植用臓器の機能を生かしておくことに
関心が向けられるのである。しかも、実際的理由からだけでなく、さらに法
的・倫理的理由からも、死の本質的な基準は何かについて検討し直すことが
必要となった。というのは、統一的な取り扱いのためにも、また、生命保護
に関する法の諸規定が及ぶ限界、したがって原則的に生命保持が命じられ、
移植用臓器の摘出が禁じられる限界を確定するためにも、死の時期の(新し
回定義づけが不可欠となったからである。ここから、医学その他の自然科
学の専門領域でも、また法律学の分野でも、死の時点を「心臓死」から脳死
の時点へと移す考え方が通説となり、そこでは、大脳、小脳および脳幹の全
機能の不可逆的消失を基準とする見解が大多数によって支持されるようにな
った(5)。その根拠としては、脳の死により、人の人格的存在の本拠であり、
その生命体としての中心をなすものの本拠(6)が失われることがあげられる
のがふつうである。
この立場は、過去何年もの間ほとんど争われることがなかっ たが、移植医
療の拡大につれて脳死を死の時点とすることへの批判が強まり、いわゆる
「エアランゲン事件」が起こるに至って決定的に疑問とされるようになっ
た⑦。その後の議論は数年にわたって続けられたが、新法の法案が可決され
(5)f-F. sPitter,Der menschliche K ひ rper im Hirntod,ein dritter Zustand Zwischen
lebendem Mensch und Leichnahm?,JZ 1997,5. 747-751 ,とくに 5. 749.
(6)A . Eser,in:A . Scho.nke/H. Schr0'der,StGB,25. Auflage,Munchen 1997,Vorbem. 18
vor§§211 ff. Rn. 18.
(7) Kbch (前掲注( 3))5. 323 を参照(そこに文献も詳しい)。簡単に説明しておくと、
1992
年の秋に起こった「エアランゲン事件」では、エアランゲン大学病院の医師たちが、脳死と
判定された妊婦の身体的機能を生命維持装置によって維持し、妊娠を継続させて生命保続可
能な子を出産させようとしたのであった。このもくろみは失敗し、18歳の脳死の女性は6週
後に流産してしまったのであった。この事件は、一般世論においても専門的な医学者の間で
も、激しい論争を引き起こした。この事件について法的見地から検討したものとして、 H-G
Koch,Hirntod und Schwangerschaft:Uberlegungen aus rechtlicher Sicht,in:J.
Bednarikova/F. Chapman:Festschrift fUr Jan Step 豆 n,Zurich 1994,5. 187-199 がある〔エ
第9 章ドイツの新臓器移植法217
る前の段階でふたたび盛り上がった。この議論のなかで、脳死説の批判者た
ちは、とりわけ、完全な死は「全体としての有機体の死」⑧の後にはじめて
認められると主張し(いわゆる「人全体としての死」)、脳死の段階の人は「死に
つつある人」にすぎず、したがってなお生きている人として完全な権利を認
められなければならない(9)としたのである。
2 本稿の立場
「死」およびその「判定」についての「正い、」理解はどのようなものか
をめぐる論争において自分の立場を決するにあたっては、まず次のことを確
認する必要がある。すなわち、「脳死」は、それが「医学的・経験的事態を
ただ定義的に記述したものにほかならず、それが医学上の所与の事実であ
る」というような理由で「正しい」死の時点とされるのではない、というこ
とである。むしろ脳死を基準とすることは実は規範的なコンベンション(
10)
なのであり、それはわれわれの社会の価値観では「脳が本来の意味での人間
の生命の基礎であり、脳にすべての精神的・心理的営みが結びついてい
る」 (11) ことから広い承認を得ているにすぎないのである。
もちろん、だからといって、死がもっぱら規範的レベルの問題ということ
にはならない。むしろ、ここでは次の3 つのレベルを区別して論じなければ
ならない。すなわち、(1)(規範的レベルにおける)死の概念、(2) 生物学
的・経験的な死の基準、(3)医学的・手続的な死の判定であって、これら
はにく単純化していえば)規範定立から規範適用に至る異なった3 つのレベ
ノレといい得るのである(
(12)
アランゲン事件については、井田「脳死説の再検討」『西原春夫先生古稀祝賀論文集・第3
巻』 (1998 年)45頁以下およびそこに引用された文献も参照〕。
(8)J. Hoff, Das ,,Hirntod"kriteriurn und die Achtung vor der Unverletzlichkeit des
anderen, in:Evangelische Akadernie Baden (Hrsg,),Organspende, aber: Wann ist em
Mensch tod?, Herrenalber Protokolle Bd. 102, Kahisruhe 1994, S. 43-59 ,とくに S. 57.
(9)W.R 可ii昭, Urn Leben und Tod: Transplantationsgesetzgebung und Grundrecht auf
Leben, JZ 1995, S. 26-33 ,とくに S. 31f.
(10)
Eser, in: Schびれke/SchrOder (前掲注(6))Vorbern. 18 vor §§ 211 ff.
(11) G. Stratenwerth, Zurn juristischen Begriff des Todes, in: P. Bockelrnann u. a. (Hrsg.),
Festschrift ftir Karl Engisch zurn 70. Geburtstag, Frankfurt arn Main 1969, 5. 528-547 ,と
くにS. 543.
21 8
(1) 死の概念の問題、すなわち、その不可逆的喪失を人間存在の終了と
しての死と同一視できるような人間存在の特性は何かという問題は、規範的
レベルの問題である。人の人格的存在およびその尊厳等に関する人間学的共
通認識にもとづく伝統的了解(しかも、それは道徳的・職業倫理的・法的にも承認
されている)を前提として、われわれは次のように考えてよい。
すなわち、「精神性」こそが人間生命をして人間生命たらしめており、そ
れが不可逆的に失われたとき、その人はすでに「死亡した」ものと認められ
るということである。これは一定の規範の定立にほかならず、そこでは「精
神性」こそを人間存在の決定的基準として承認するという規範的レベルの
「決定」が行われているのである。
(2) これに対し、生物学的・経験的な死の基準の問題、すなわち人間の
「精神性」にとっての生物学的基礎はどの器官にあり、いかなる徴候があれ
ば、この器官の全機能の不可逆的喪失を肯定できるかの問題は、自然科学者
としての医学者がその資格において答えるべき問題である。なぜなら、精神
性の本拠である脳がまだ生きているのか、どの程度生きているのかの問題
は、もはや人間学的評価の問題ではなく、自然科学的・経験的レベルの問題
だからである。
(3) 第3 のレベルである、死の基準の具体的あてはめの場面についても
同様のことがいえる。ここでは、個々のケースで、右に述べた死の基準をも
とに、ある人がすでに死亡したと認められるかどうかが間われ、それは死の
判定に関する医学的・手続的問題であることから、裁判官としては基本的に
医学者の専門的知識を頼りとするほかないのである。
右のように問題を区別して検討したとき、脳死説( HimtodkonzePtion )を
とることは妥当と認め得るように』思われる。少なくとも脳死説に対し、それ
が何よりただ合目的性の考慮にもとづくものであり、たとえば証明の困難さ
をのぞくため、またはできるだけ早い段階で移植用臓器の摘出を可能にする
ため等の理由で主張されている、という非難を加えることはできないであろ
う。むしろ脳死説は、究極的には、ョーロッパ文化圏において支配的な、哲
(12)本文に述べるところの全体については、 A. Eser,Medizin und Strafrecht,Zeitschrift fur
die gesamte Strafrechtswissenschaft (ZStW)97 (1985),5. 1-46 ,とくに 5. 29 ff. を参照。
第9 章ドイツの新臓器移植法
219
学的・倫理的な根本認識を基礎とするものなのであり、またその重要部分に
おいてギリスト教的世界観への信仰に根ざすものともいえる見解なのであ
る。他方、実益を重視して、場面場面に応じて異なった死亡時期を認める見
解はし〕ずれもこれを支持することはできないであろう。たとえば、治療中止
1/,、--、-一-
--,,
-一-
が問題になる場面ではなるべく遅い時点で死を認定し、移植用臓器を摘出し
ようとする場面ではなるべく早い時点で死と認めるという基準で区別を行う
見解(
(13)などは、正当にも一般にしりぞけられている(
(14)
もちろん、死の概念をめぐる議論から、合目的性の考慮を完全に排除でき
ないことは否定しようもないことである。脳死説に反対する論者自身もこの
ことを認めざるを得ない。なぜなら、論者たちも移植用臓器の摘出の必要性
は原則的に肯定するのだからである。しかしながら、そうなると、脳死の時
点でいまだ人の死は到来していないと考えるかぎり、提供者は臓器摘出の時
点で死につつあるがいまだ生きていると考えざるを得ない(
15)
という問題が
出てくる。もし提供者の同意を根拠として、生きた者を死なせることを正当
化しようとするならば、それは同意殺を処罰する刑法216条と決定的に矛盾
することになる。というのは、同条によれば、かりに提供者が事前に同意し
ていたとしても、いまだ生きている時,点で臓器摘出が行われて死亡の結果が
発生するというのであれば、その臓器摘出は犯罪とならざるを得ないからで
ある。脳死説をとることによりはじめて、そのような現行法との矛盾も回避
することができるのであり、脳死説は、(刑法との矛盾を回避できるという)実際
的な理由からも、他の諸見解にまさるものなのである。
3 新臓器移植法における死の観念
ドイ、ソの立法者は、世界観に密接に関わる問題については謙抑的な態度を
とる傾向にあることはよく知られているところである。したがって、新臓器
(13)
K. Saerbeck, Beginn und Ende des Lebens als Rechtsbegriffe, Berlin/New York 1974,
S. 123 ff.
(14)
Eser, in: Schonke/Schr6der (前掲注 (6)) Vorbem. 17 vor §§ 211ff ;この種の実益重
視の死の定義に対しては、欧J、ト1審議会の総会も反対している( Resolusion 613 Nr. 4 vom 29.
1. 76) 。
(15)法的観点からこのように述べるのは、 Hafli 昭(前掲注( 9)) S.31.
220
移植法が正面から人の死を定義する規定を置かなかったことも意外なことで
はないであろう。とはいえ、同法には、「摘出前に、臓器提供者について、
大脳、小脳および脳幹の全機能の最終的で回復不能な消失が、医療上および
科学上の知見の水準に合致する判定手続のルールにより確認されていないか
ぎり」、臓器の摘出は許されないと規定されている(法第3条第2項第2号)。
したがって、ドイツの立法者は、事実上、全脳機能の最終的消失の時,点を基
準として採用しているのであるから、少なくとも黙示的には脳死説をとるこ
とを表明しているのである(
(16)
ただし、脳死は、臓器摘出の必要条件ではあるが、十分条件ではない。提
供者の身体にメスを入れるにあたっては、その意思を尊重することもまた、
ぜひ必要だからである。これが臓器移植をめぐる議論において激しぐ争われ
たもう1 つの争点であるので、次にはこれについて述べることにしよう。
III
死者からの臓器摘出における意思の役割
生きている人の身体への医的侵襲の場合におけるほど自明のことではない
かもしれないが、死体にメスを入れる場合でも、やはり本人の意思を無視す
ることは許されない。死んだ人といえども命なき物体と同一視することはで
きず、死者に対する第三者の行動は、死の時,点をこえて憲法的に保障される
人格権による規制を受け続けるのである(17)。学説上の議論においては、死
者の意思が考慮されなければならないという基本的な考え方自体については
広く見解の一致が見られる。しかし、きびしい見解の対立が見られた(そし
(16)互-C.助Cん, Uberlegungen zum neuen Transplantationsgesetz ,とくに S. 8 (Vortrag
BAD 12. 11. 1997. 未公刊の講演)の評価も同旨である。ただし、本文との関係で注意すべき
ことは、新臓器移植法によれば、「心臓と循環の最終的で回復不能な停止が訪れ、 かつ3 時間
以上経過した] 場合には、死の判定のためには(2 人ではなく)1 人の医師で足りるとされ
ていることである(法第5条第1項第1文)。このことからドイチュ( Deutsch, NJW 1998, S.
778) は、新法においては2 つの死の概念が認められている、としている。しかし、そこにお
いては、(規範的レベルで統一的な)死の概念(脳死。本文 112 (1) を見よ)と(医学的・
手続的問題であり、場合によっては複数のものとなり得る)死の判定(本文 112 (3) を見
よ)という2つの異なったレベルが混同されているように私には』思われる。
「メフィスト事件決定」「=ドイツ憲法判例研究会編『ドイツの憲
(17) BVerIGE 30, 173 (149)法判例』 (1996 年)147頁以下を参照〕。
第9 章ドイツの新臓器移植法221
て現在でも見られる)のは、臓器提供者の意思表明に関し、どのような要件を
充足することを求めるのかの問題である。この点をめぐり、いくつかの意思
表明の方法に関するモデルが考案され、それはにく単純化すれば)「反対表示
モデル( Widerspruchsmodell)], 「承諾表示モデル( Zustimmungsmodell)], [ 通
知モデル( Informationsmodell) 」の3 つに区別すること ができる( 18)
1 「反対表示モデル」(=反対意思表示方式〕
すでに 1978 年に連邦政府(
(19)により提案されていた「反対表示モデル」に
よれば、人々は死後に臓器を提供するかしないかにつき、生存中に決定して
おかなければならない。生前の意思が明らかでないときには同意があったも
のとみなされるのであり、臓器摘出に反対の意思は、それが実際に十分明確
に表明されているかぎりで考慮されることになる。このモデルによると、移
植用臓器の摘出は、原則的に禁止され例外的に許容されるというのではな
く、逆に、原則的に許容され、明示的に反対意思が表明されている場合にか
ぎって禁止されることになるのである。
こうした解決方法は、移植用臓器の恒常的不足という以前からの問題を解
消できる可能性をもつにもかかわらず、大方の支持を得ることができなかっ
た。なぜなら、人がはっきりと拒否していなかったというだけで、その人か
らあるものを奪うと いう基本思想が根本的に疑わしいものだからである。ド
イツ法においては、一般論として「沈黙は同意とみなす」ことは認められて
いないが、そのことも反対表示モデルをとり得ない理由となる。そればかり
でなく、臓器を摘出することは、たとえ死後であっても人の身体への強度の
侵害と感じられるものであり、事実上も、過半数の人が臓器または身体の一
部を移植のために提供する意思をもっているとは到底いえないから、同意を
推定する方向で取り扱うことはできないはずなのである( 20)
(18)この類型化は、 J. Ta ゆ itz, Urn Leben und Tod: Die Diskussion urn emn Trans-
plantationsgesetz, Juristiche Schulung (JuS) 1997, S. 203-208 ,とくに S. 204 If .にしたがっ
たものである。さまざまなモデルについては、 Koch (前掲注( 3)), S. 325 If. も参照。
(19)
BR-Dr. 395/78 v. 29. 9. 1978.
(20)
E. Deutsch, Die rechtliche Seite der Transplantation, Zeitschrift fur Rechtspolitik
(ZRP) 1982, S. 174-177,とくにS. 177.
222
2 「承諾表示モデル」(=承諾意思表示方式〕
(1) これと正反対のモデルが、とりわけ脳死説の反対者によって支持さ
れている(ただし、脳死説の論者のなかにも賛成者がいる)厳格な承諾表示モデル
ないし厳格な同意モデルである(21)。これによると、臓器を提供しようとす
る者が生前において明示的に同意していたときにかぎって臓器摘出は可能と
なる。
このモデルのもつ実際上の欠陥は、これを採用すれば、ほぽ間違いなく、
あまりにもわずかな数の臓器提供しか行われなくなるであろうということで
ある。なぜなら、ョーロッパ社会では、自分の死について正面から深く考え
ることはふつうのことではなく、ましてや自分が死んだときのことを考えて
あらかじめ積極的に何かをするということはむしろ稀なことだからである。
多くの人は遺言さえ行わないのである(22)。そこで、厳格な承諾表示モデル
は、道徳的問題さえ生じさせる。すなわち、すでに生前において臓器摘出に
同意する意思表示を行うことを要求するとすれば、それは、臓器提供をあえ
て拒まない気持ちでいる人々に対して、自分が死んだときのことについて正
面から考えることを無理強いすることになってしまうのである。大多数の人
が、生きている間は自分が死んだときのことをあえて考えようとしないのは
よく理解できることであり、厳格な承認表示モデルはこれとまさに矛盾する
ことになる。
(2) そこで、拡大された承諾表示モデルないし拡大された同意モデル
は、上のような問題を回避するため、本人みずからが生前に承諾を表明して
いた場合に臓器提供を可能とするばかりでなく、本人の承諾表示がない場合
には、近親者にその決定をさせようとする。したがって、死後の臓器摘出に
関する決定は、本人自身のほか、その死後に近親者によっても行われ得るこ
とになる。
拡大された承諾表示モデルのもつ弱点は、なぜ、およ そ本人以外の者が臓
器摘出の許否を決めてよいのかが必ずしも明らかでないところにある。この
問題の解決を容易なものとするためには、まず手はじめに、本人が臓器摘出
(2 1)Hmi 昭(前掲注( 9))5 . 33 .
(22)De%tsch (前掲注( 20))5. 177.
第9 章ドイツの新臓器移植法
223
についての同意・不同意を決めてそれを表示するプロセスに、そもそも近親
者が関与することは許されるか、たとえば、近親者が本人の死後にその意思
をそのまま医師に伝えるというようなことが許されるかについて考えてみる
とよいであろう。こうした方法を認めれば、医師は死者の提供意思を確認す
るにあたり、あらかじめ文書化された同意ばかりでなく、本人が近親者に対
し打ち明けた形での同意をも考慮できるようになる。そのとき近親者は、医
師との関係でいわば死者の提供意思を伝える「使者」として行動するのであ
る。このような形での提供意思の伝達は認められてよいと考えられるが、そ
れはまず、それにより死者の意思がより良く考慮されることになるからであ
るし、また、たとえ本人による文書化された明示の提供意思の表明がない場
合でも、ふつう近親者はその者が臓器提供に対しどのような気持ちでい たか
について知っていると考えてよいからである。
それでは、本人が近親者に対し臓器移植に対する考えをそれと分かる形で
は打ち明けていなかったとき、近親者自らが臓器提供の許否を決めることが
できるであろうか。それは、次のことを条件として認めてよいであろう。す
なわち、近親者に対し「本人の現実の意思が明らかでなければ、本人が選択
したであろうところにしたがう」ことを義務づけることである。しかも、近
親者を関与させれば、かりに一度は書面による意思表示を行ったが、その後
に移植の問題に関する考え方を変更していたというとき、近親者を通じてよ
り新しい時点での本人の意思を考慮できるという,点で、もっぱら死者本人の
明示の意思表示のみを考慮する方式よりもすぐれている。私の理解が正しけ
れば、近親者をも決定のプロセスに関与させる、この拡大された承諾表示モ
デルは、日本の伝統的な考え方にもマッチするものである(23)。たしかに、
(23)日本の旧臓器移植法(「角膜及び腎臓の移植に関する法律」)第3 条第3 項は、臓器摘出
が合法とされるための必須の要件として遺族の承諾を要求する規定として解釈されていた。
本人が拒否していた場合でさえ、遺族が本人の死後に臓器摘出に同意すれば臓器摘出は可能
とされた。この,点については、マックス・プランク外国刑法・国際刑法研究所における川口
浩一氏の報告(未公刊)による( H. Kaw 昭αchi,Rechtliches Problem der OrgantranS-
plantation im Internationalen Vergleich §3 c),Vortrag im Gaste-und Doktrandenseminar des Max-Planck-Instituts ftir auslandisches und internationales Strafrecht,
Freiburg 1,Br. Im WS 1990/91 )。現在では、近親者の同意の要件については、新しい「臓器
,
の移植に関する法律」の第6条に規定されているが、それによれば、本人自身の同意となら
224
このモデルによるとき、近親者に決断を迫ることによって重い心理的負担を
課すことになり、しかもそれが、愛する人が(しばしばまったく突然に)死亡す
るという状況に直面したときであるというところが、このモデルの看過でき
ない欠点であるかもしれない。しかしながら、これに対しては、次のように
反論することが可能であろう。すなわち、悲劇を克服するためには、まさに
その出来事を正面から集中的に受け止めて立ち向かうことがしばしば必要で
あることからすれば、臓器摘出に同意するかどうかの間いかけは、悲劇を』ら
理的に克服するための「最初の手助け」と理解することもできるということ
である。
3 「通知モデル」
1990 年のことであるが、ドイツ臓器移植センターの eutsche Transplantationszentren e.V. )およびドイツ臓器移植財団( Deutsche Stiftung Organtranspiantation )の研究グループが、拡大された承諾表示モデルを基礎に
して、いわゆる通知モデルを提案した(24)。このモデルによっても、本人自
身が外部から認識可能な形で意思表明をしていなかったとき は、近親者が関
与することになる。ただし、近親者が何らかの意思決定を行うことを義務づ
けられない点で、拡大された承諾表示モデルとは異なる。すなわち、近親者
は、臓器摘出の可能性があることについての通知を受けた後、一定の期限内
に承諾または拒絶の意思を表明をすることができる。また、近親者は、その
期限内に何らの意思も表明しないこともでき、そのときは臓器提供は許容さ
れることになるのである。なぜこのよ うな手続にするかといえば、近親者に
対し、本人の死亡した後の困難な状況のもとで、臓器摘出に関する重大な決
断を求めることは過酷なことになるおそれがあるからなのである。
しかし、通知モデルは、重大な欠,点をもっている。というのは、このモデ
ノレによるときも、沈黙が同意とみなされることになってしまうのである。意
んで近親者の同意がやはり必須の要件である。この,点については、川口浩一氏の論文(H
Kaw 昭uchi, Das neue Transplantationsgesetz (TPG) in Japan, III )による(ただし、同論
文は現段階では未公刊である)。
(24) H.-L. Schreiber/G. Wolfslast, Emn Entwurf fur emn Transp)antationsgesetz, Medizinrecht (MedR) 1992, S. 189-195 ,とくに S. 190 ff.
第9 章ドイツの新臓器移植法
225
思決定を回避する可能性が保障されるというけれども、実際問題として、そ
のような可能性はまったく存在しないであろう。なぜなら、このモデルによ
るとき、意思決定を回避することも、結局はーつの意思決定、すなわち臓器
摘出を許す意思決定を意味するからである。それゆえに、批判者は、通知モ
デルは「詐りの仮面を付けた反対表示モデルにほかならず、実質は反対表示
モデルと同一に帰すると評価するのである( 25)
こうして、ドイツの新臓器移植法は、通知モデルにしたがわず、拡大され
た承諾表示モデルを採用することにした。そこで次には、その詳細について
述べることにしたい。
Iv 新法における臓器摘出の適法化要件
新臓器移植法の制定に先立ち、1994年に、ドイツ連邦憲法の改正が行わ
れ、従来は)州こ立法上の管轄があるとされてきたこの問題について、連邦の
立法者が立法権限を有することが憲法上明記された。新臓器移植法の個別的
内容を見,ると、臓器提供者が生きた人の場合と死者である場合のそれぞれに
おける臓器摘出、そして臓器の配分とあっせんの要件について定めている。
これらの規定にあわせて、若干のデータ保護の規定および臓器売買に対する
処罰規定が含まれている。
1 総則規定
本法の適用範囲は第1 条に定められている。これによると、本法の規定は
「他人への移植を目的とする人の臓器、臓器の一部または組織の提供、摘出
およびそれらの移植ならびにこれらの措置の準備」に適用される。さらに、
本法は臓器売買の禁止を‘規制内容とする。
同時に、本法は、人の身体の部分のうち、血液および骨髄、ならびに月玉と
胎児の臓器および組織については適用されないことを明記している(第1条
(25) H. Crewel, Gesellschaftliche und ethiche Imprikationen der Hirntodkonzeption, in: J.
Hoff/J. in den Schmitten (Hrsg.),Wann ist der Mensch tod?, Erweiterte Auflage, Reinbeck bei Hamburg 1995, S. 332-349 ,とくに S. 343.
226
第2項)。
立法の過程でたびたび指摘されたのは、移植医療が効果的に行われるため
には、とりわけ国民がこれを理解しこれに協力することが重要だということ
である。そのための基盤としてぜひ必要なのは、国民に対し包括的な情報提
供が行われることである(26)。そこで、新臓器移植法第2 条は、その第1 項
において、)小!法および連邦法上の所轄の諸機関および健康保険組合に対し、
臓器提供の可能性・臓器摘出の要件・臓器摘出の意義につき国民に情報提供
すべきことを義務づけている。とくに注意すべきことは、この包括的な情報
提供が、たんに公的機関による一般的な広報活動というにとどまらず、およ
そ臓器摘出への同意が有効となるための必須の要件とされていることであ
る。新法が次の第2 項において、情報提供を受けた後に行われる意思表示の
方法と内容について規定しているのはその趣旨にほかならない。そこでは、
具体的には3つの選択肢が規定されている。すなわち、臓器提供に同意する
か、それを拒否するか、それとも近親者の決定にゆだねるかである「第2 条
第2項第1文」。そのとき、意思表示を特定の臓器に限定してこれを行うこ
ともできる「第2条第2項第2文」。さらに本法は、臓器摘出への同意は満
16歳から、摘出の拒絶についてはすでに満14歳から行うことができると定め
ている「第2条第2項第3文」。
新臓器移植法第2 条第3 項およ び第4 項には、いわゆる「臓器提供者登録
簿」の作成についての詳細な規定がある。この登録簿には、意』思表示を行う
者の希望に応じてその意』思表示の内容が記録される。
2 提供者が死者である場合の臓器摘出の要件
提供者が死者であるときの臓器摘出の要件は、法第3 条に規定されてい
(26) j Taupitz (前掲注( 18)) S. 208 (文献もそこに詳しく引用されている)。
(27)日本の「臓器の移植に関する法律」第6条は、死体からの臓器摘出について定めるもの
であるが、脳死説と反脳死説の中間的立場の規定を含んでいる。以前の草案においては脳死
モデルがとられていたのに対し、新法は死に関する自己決定を認める立場をとっている。す
なわち、同法第6条第3項は、本人自らがあらかじめ書面により脳死判定にしたがう意思を
表示することを要求しており、この要件が充足される場合にのみ、およそ脳死の判定が許さ
れるのである。しかも、そのような意思表示があっても、ただちに臓器の摘出が許されるこ
とにはならない。臓器摘出が許容されるためには、さらに、その,点に関し本人およびその遺
第9 章ドイツの新臓器移植法
227
る。すでに詳しく述べたように、ドイツにおいては(たとえば日本(27)における
のとは異なり)規範的レベルでは「脳死モデル」が(若干の批判はあったものの)
承認されるに至った。法第3 条には、臓器摘出の個別的要件として次のもの
が規定されている。すなわち、
医師による手術の実施、
(1) 脳死の判定、
(2) 本人の同意、
(3)
(4) 近親者への通知(ただし、法第4 条により近親者
の同意により摘出が可能となる場合があるが、その場合には、本人が摘出に反対していな
かったことが要件となる)である。立法者は、このうち近親者への通知という
(4 )の要件は別にして、いずれの要件も重要なものと認め、要件にしたが
わずに臓器を摘出する行為を犯罪として、3 年以下の自由刑または罰金とい
う処罰を予定している(法第19条第1 項)。
以上が基本的要件であるが、さらに若干の特別な規定が設けられており、
これらについても簡単に紹介しておきたい。
本人の意思表示がない場合には、(5) それ以外の人々(とくに近親者)の
同意が問題となるが、この,点につき新臓器移植法第4 条第2 項には、決定へ
の関与における優先)順位が定められている。その規定によると、決定権をも
つのは常に第一」JE位者である(28)。しかも、当該親族が本人の死亡する前の
過去2年間に本人と接触があったことが必要である「法第4条第2項第2
文」。また、同一順位の複数の親族がいるときにはそのうちの一人が同意す
ることで足りるが、そのうちの一人でも反対の意思表示を行うときには臓器
摘出は行われてはならない「法第4 条第2 項第4 文」。最近親者と等順位と
されるのは、本人が死亡するまで本人と「特別の個人的結びつきがあり公知
の親密な間柄であった」者である「法第4 条第2 項第6 文」。これは、現在
のドイツでは「婚姻関係にない生活共同体」という同居の形態が広まってい
ることを考慮したものである( 29)
族による書面による同意が必要なのである(同法第6 条第1 項)。以前の法案には「脳死体」
という表現が含まれていたが、これが「脳死した者の身体」という文言に変更されたのは、
脳死と人の死とが必ずしも同一視できないことを明らかにするためであった。日本法の理解
については、 H. Kawaguchi, Das neue Transplantationsgesetz (TPO) in Japan
(前掲注
(23) )を参照。
(28)すなわち、親族間において、配偶者、成年の子、両親、成年の兄弟姉妹、祖父母の)llRで
優先)順位が認められる。
(29) St. Heuer/Ch. Conrads, Akutueller Stand der Transplantationsgesetzgebung 1997,
228
さらに、新臓器移植法第5 条には、
(6) 脳死判定の方法に関する規定が
ある。すなわち、脳死の判定は「その資格を有する」2 人の医師によって行
われねばならず、しかもその2 人はそれぞれに独立に対象者を検査しなけれ
ばならない(30)。脳死判定を行う医師は、臓器摘出に関与する者であっては
ならず、また、臓器摘出に関与する医師の指示を受ける者であってもならな
い(法第5条第2項)。
最後に、日本の臓器移植法と同様に(
(31) 、ドイツの臓器移植法にも、
(7)
臓器提供者の尊厳の尊重を要求する規定がある。すなわち、第6 条第2 項に
よると、遺体は尊厳が保たれた状態で埋葬のために引き渡されなければなら
ないのである。
3 提供者が生きた人であるときの臓器摘出の要件
生きた人からの臓器摘出が許容されるための要件については、新臓器移植
法第8条から主として6つの要件を読み取ることができる。
(1) 提供者が成人であり、かつ同意能力があることが必ず必要である。
したがって、未成年者や精神病等のため判断能カが完全でない者は、臓器提
供者となり得ないことになる。精神障害者を対象としないことはなお理解で
きることだとしても、未成年者については問題が生じ得る。なぜなら、たと
えば免疫学的理由から未成年の双生児の間で移植が行われる場合にのみ成功
の見込みがあるといった場合が考えられるからである。もっとも、白血病の
ケースで輸血ないし骨髄の移植のみが行われる場合であれば、新臓器移植法
は血液および骨髄には適用されないのであるから(法第1条第2項)、この点
に解決を求め得るかもしれない。しかし、本法が適用されない場合に、それ
が許容されるための要件がどのようなものとなるかについては、まだ明らか
にされていない。
MedR 1997, S. 195-202 ,とくに\ S. 201.
(30)ただし、例外的に、心臓と循環の回復不能な停止が基準とされるときには、 その診断と
判定は一人の医師によってもこれを行うことができる(法第5条第1項第2文。 前出注( 16)
も参照)。
(31)日本の「臓器の移植に関する法律」第8条。
第9 章ドイツの新臓器移植法
●●
.
229
.
(2) 次に、臓器提供者が説明を受け、かつ臓器摘出に同意することが必
要である。この場合の説明については体法第2 条に規定されている国民に対する
一般的な情報提供に加えて)本法第8 条第2 項により一定の説明の方法が規定さ
れている。すなわち、説明にあたっては、説明する医師のほかにもう1人の
医師が同席しなければならない。しかも、説明の内容は文書に記録され、そ
の文書には医師らおよび提供者が署名 をしなければならない。また、説明に
おいては、手術にともなう危険性ばかりでなく、後に提供者に生じ得る障害
や移植の成功の見込みについても明らかにされなければならない。
●.
(3) また、臓器摘出の要件として、その者が「医師の判断によれば臓器
●●.
●●.
●
提供者に適して」おり、かつ「手術にともなうリ‘スク以上の危険にさらされ
ることはないと見込まれ、また摘出の直接的な結果のほかに健康がはなはだ
し く損なわれることがないであろうと見込まれる」ことが必要である「法第
8条第1項第1号」。
.
.
.
●●
.
.
●.
.
.
(4) さらに、予定される臓器受容者(レシピエント)への摘出臓器の移植
が、医師の判断によれば「この者の生命を維持するため、またはその重い病
●●●
気を治療し、その悪化を防止しもしくはその苦痛を緩和するため」に適した
●.
ものであることが必要である。しかも、死者から摘出された適切な臓器が使
用可能である場合には、生きた人からの摘出は認められない。また、当然の
●●
ことであるが、臓器摘出は医師によって行われなければならない〔法第8条
第1項第2号一4号〕。
●.
●.
(5) 臓器提供者と受容者は、医師の勧める事後ケアに参加することを義
務づけられる〔法第8条第3項第1文〕。
. ●●
(6) 最後に、各)吋法により権限を与えられた委員会が、臓器提供への同
意が任意に行われたものでなかった こと、またはその臓器が禁止された臓器
売買の客体であることを十分に疑わせるような事実上の根拠が存在しないこ
とについて鑑定的意見表明を行うことも要求される〔法第8条第3項第2
文〕。
(7) これらの要件のうち、提供者が成人であること、提供者の同意があ
ること、手術が医師の手によって行われることは特に重要な要件であり、こ
れらのいずれかを欠いて行われた臓器摘出は犯罪となり、自由刑または罰金
230
刑をもって処罰される〔法第19条第2項〕。刑罰の上限は5年の自由刑とさ
れており、これは死体から違法な臓器摘出が行われた場合の法定刑よりも重
いものとなっている。
これらの一般的許容要件のほかに、とくに再生不能な臓器の摘出について
は、さらに特別な要件が付加されている。すなわち、法第8条第1項第2文
によれば、新たに再生されることのない臓器の摘出は、その移植が一親等・
二親等の親族けなわち、 子、両親、および兄弟姉妹) (32) 、配偶者、婚約者、また
は、提供者と「特別の個人的結びつきがあり公知の親密な間柄である」者に
対して行われるときにのみ、許容されるのである。最後にあげたグループに
ついていえば、ここでも現在「婚姻関係にない生活共同体」という同居の形
態が広まっていることが考慮されているのである。上のような形で最近親者
のみに臓器移植を制限したのは、とりわけ、提供者の健康が過度に損なわれ
るおそれの回避、臓器提供の任意性の保障、臓器売買の阻止をねらいとした
ものである(33)。たしかに、このような制限により、臓器移植の商業化が阻
止され得るように思われる。しかし、場合によっては、家庭の内部で、まっ
たくの他人に対する臓器提供の場合には考えられないような強い情緒的圧力
がはたらいて臓器提供を強制することにならないかは、少なくとも問題とし
て意識しておく必要があるように思われる( 34)
まさに最後に論じた問題は、その重要性においてまさるとも劣らない次の
問題にわれわれの目を向けさせることになる。すなわち、摘出臓器の配分の
問題である。
V ドナーとレシピエントの選択
まさに現在のように、集中医療の進歩がとどまるところを知らない時代に
おいては、摘出臓器をどのように配分するかの問題がとくに重要な意味をも
つ。というのは、すでにずっと以前から、臓器移植を必要としている人にと
(32)ドイ、ソ民法第 1924 条第1 項、 1925 条第1 項を参照。
(33)
(34)
Hと uer/Co 冗 rads (前掲注( 29))S. 201.
Hと uer/ Conrads (前掲注( 29)) S. 201.
第9 章ドイツの新臓器移植法
231
って、移植の際の複雑な手術だけが唯一のリスクというわけではなくなって
いるからである。少なくとも同程度に大きな危険は、それじたいとしては自
分に適合した臓器があっても「その割り当てが自分に回ってこない」危険で
ある。たとえば、ドイツ連邦共和国では、1994年の死亡件数は約90万件であ
ったが、そのうちの約 0. 6 パーセントの 5000 人について臓器摘出の可能性が
あった。そのなかで(かなり多くの部分については臓器摘出が拒否された)わずか
1000件(20/ぐーセント)について臓器摘出が実施されたにすぎない。1995年に
つき、登録された移植用臓器の必要数と現に実施された移植の件数とを比較
すると、肝臓、腎臓、心臓の移植ではようやく50/ぐーセン「を超えるほどの
需要が充たされたにすぎないことが分かる。したがって、移植を待つ患者が
死を迎えるケースが生じることは避けられない。1995年には、移植を待っ心
臓疾患者と肝臓疾患者のうちの約3分の1 が死亡している(35)。このような
高い数値に鑑みるとき、臓器の提供者と受容者を選択するための個別的基準
がどうあるべきかについて詳しく検討することが必要であろう。
1 ドナーの選択
臓器摘出の要件につき前述したところで、すでに臓器提供者の選択のため
の基準のいくつかをあげた。たとえば、未成年者でも、満14歳になれば(死
後の)臓器摘出に反対の意,思を表明することができるし、16歳以上であれば
臓器摘出を承諾する意思を表明することができる(法第2条)。ここで問題と
なるのは、そもそも未成年者は満16歳に達する前の何歳の頃からおよそ提供
者になり得るのかということである。新臓器移植法第2 条が14歳になれば反
対意思を表明できるとしているところからすれば、満16歳になる以前はまっ
たく提供者になり得ないと考えることは誤りであろう。むしろ、未成年者
も、死後の臓器摘出についてはその年齢を間わず原則として提供者たり得る
と解される。もちろん、実際に未成年者が提供者となるかどうかは、保護権
者けなわち原則として両親)の同意があるかどうかにかかっている。子の問題
に関する両親の代理権は、ド イツ法においては原則的に承認されており、民
)個々の数値とデータは、I-Iとuer/Conrads (前掲注(29)) S. 198から引用した。
)ドイ、ソ民法第1626条、第1629条。
232
法典に規定されているばかりでなく(36)、一般的に医師の治療行為の際の身
体への侵襲についても適用されている(37)。ただし注意すべきことは、民法
に規定があり、かつ一般的に承認されている原則にしたがい、もし保護権を
もつ両親のうちの一人が反対すれば、臓器摘出は許されなくなる(なお、こ
れは、近親者による同意の場合に、権限をもっ複数の者のうち一人が反対したときでも同
じである〔法第4 条〕)ことである(38)。これに対し、生きた人からの臓器提供に
ついては、両親の代理権は認められず、そしてまた同意権も認められていな
い。というのは、すでに述べたように、生きた人からの臓器摘出について
は、提供者は成人でなければならず(法第8条第1項第1号a)、未成年者から
の臓器摘出は完全に否定されているからである。
なお、生きた人からの臓器摘出については、一定の臓器の摘出にかぎり、
最近親者であることが提供者に なるための要件とされていることを再度確認
しておきたい(法第8条第1項第2文)。
2 レシピエントの選択
はるかに重要なのは(そして部分的に見解の対立があるのは)、受容者の選択で
ある。問題の深刻さは、とりわけ提供臓器が大幅に不足していることからす
れば、容易に理解できるところであろう。ある人が臓器を必要としているの
に、別の人を優先させることは、移植を受け得なかった人を死亡させる結果
ともなり得る。刑法上、場合によっては(たとえば、2人の患者を治療している
医師がいわゆる「保証者としての義務」を有する場合がそうであるが)不作為による
殺人罪(刑法第212条、第13条)の成否が問題となり得るのである。ただし、こ
こで注意すべきことは、医師にとり2 つの作為義務があるものの、事柄の性
質上その医師はそのうちの1 つしか履行できないことである。このような場
合、ドイツ刑法では、衝突する作為義務のうちでより価値の高い義務を履行
するか、同等の価値をもつ複数の義務のうちの1 つを履行する ことにより、
随伴する不作為については「義務衝突の適法性」の原則にもとづき違法とは
(37) Laufs (前掲注( 2))Rn. 223.
(38)
イ、ソ民法第 1629 条第1 項。 Laufs (前掲注( 2)) Rn. 223.
(39) Le れ ck ル er, in Sch 伽 ke/Sch ガder (前掲注( 6))Vorbem. 73 vor §§32 ff.
第9 章ドイツの新臓器移植法
233
されないのである(39)。移植可能な臓器が1 つしかない場合に、どちらがよ
り高い価値の作為義務であるかは、当該の法益の抽象的な優先」 Ilfi 位および具
体的な状況に鑑みて決定される。すなわち、生命の保護は健康の保護に優先
するし、より差し迫った必要性のある治療はそうでない治療よりも優先す
る。もし保護されるべき法益が厳密に等価値的であるときには、医師は、義
務にかなった裁量にしたがい、誰が治療されるべきかを選択することができ
る。
3 実務における臓器の分配
法的な要件については上に述べたので、ここでは、実務での取り扱いにつ
いて簡単に紹介しておきたい。ョーロッパ大陸のように多くの国が存在する
ところでは、国境を越えた制度が重要な意味をもっており、とくに中央ョー
ロッ/\o’こついていえば、オランダにある「ユーロトランスプラント」という
組織が大きな役割を演じている。ユーロ「ランスプラン「は、各地の移植セ
ンターが協力して運営する私的な組織であり、国はその運営に関与していな
い。提供者が現われたとき、臓器摘出に先立ってユーロ「ランスプラン「に
連絡が行く。複雑なコンピュータプログラムにより、医学的に臓器が適合す
るかどうか、また緊急性がどの程度あるかにより、もっとも適切な受容者が
選ばれ、それに引き続いて組織適合性が十分に吟味される。もし完全な適合
性があると判断されれば、その臓器は、ユーロ「ランスプラン「が選び出し
た 受容者に提供されるべきことになる。もし免疫学的に見て中程度の適合性
にすぎないというのであれば、提供者を確保した移植センター自身が、その
判断で、移植センター周辺の地域から受容者を見つけ出すか、またはユーロ
トランスプラントによる配分にしたがうかを決めることができる( 40)
実務上は、上のような各移植センターの裁量的判断が必要になる場合の方
.がふつうであり、医師による受容者選択の問題が現実のものと なるのもこの
場合なのである。医師がけでに述べた理由により)法益の価値と移植の必要性
という観点から選択を行う義務が原則的に存在するとしても、選択にあたり
(40)ユーロ「ランスプラントを介した臓器あっせんの流れについては、K加h (前掲注( 3))
S. 333 1 .を参照。
234
医学的判断以外の判断要素を考慮すべきでないのかどうかがくり返し議論さ
れてきた。そこにおいて特に注目されたのは、「連帯モデル」(41)ないし「ク
ラブ・モデル」m)と呼ばれる考え方であった。それは、自分からドナーとし
て臓器提供を申し出ていた人を、そうでない人よりも優先的に受容者として
選択するというものである。このモデルは、統計的にもはっきりと現われて
いる移植用臓器の不足の問題の緩和をね らいとするものであり、一見したと
ころ、まったく「正義にかなった」もののように思われるかもしれない。し
かしながら、こうしたモデルに対しては反対の見解が強い。なぜなら、民法
的にも刑法的にも、医学的必要性以外のものを基準とする治療上の判断は医
療過誤にあたると考えられており、したがって、そこからは、移植を受ける
ことができなかった患者による損害賠償請求権および(前述のような)刑法上
の法的効果が生 じざるを得ないからである。もちろん、法律の規定を設ける
ことにより、そのような民事上・刑事上の責任が生じないように工夫するこ
とが可能であるかもしれない。しかし、たとえそれが可能だとしても、上の
ようなモデルには根本的な問題がある。なぜなら、現在のわれわれの社会
は、労働と給付とが各自の能力に応じて配分されることを基本原理として組
織されており、その際だった長所はまさに厳格な給付と反対給付の関係を 拒
否することにもとづいているのであるが、上のモデルはこれと相容れないも
のをもつからである(43)。すなわち、「クラブ・モデル」は、一種の交換取引
社会への回帰を意味するものとなってしまうのである(44)。さらにまた、こ
のモデルは、もし問題となる複数の人が同じように臓器提供を申し出ていた
とき、または複数の人のうちの誰も臓器提供を申し出ていなかったときに
は、何の役にも立たない。
こうして、新臓器移植法においては、この種の規定を設けることも断念さ
れた。新法によれば、受容者の選択は、もっぱら医学的観点にもとづいて行
われなければならない。すなわち、臓器は「医学的知見の水準に応じた諸基
)R 乞 uer/ Conrads
)Koch (前掲注(
)Koch (前掲注(
)Koch (前掲注(
(前掲注( 29)) S. 200
3))S. 336.
3))S. 339.
3))S. 339.
第9 章ドイツの新臓器移植法235
準にしたがい、とくに成功の見込みと緊急性を考慮して、適切な患者に対し
あっせんされなければならない」(法第12条第3項)のである。ここで緊急性
を判断するにあたっては、法益の価値および危険の程度、そしてまた治癒の
可能性も考慮されなければならない。さらに、新法は、今後も不足するであ
ろう臓器の配分を可能なかぎり効率的に行うために、すべての病院に対し、
臓器提供者とな る可能性のある人(ポテンシャル・ドナー)について脳死が生
じたときは、これを所轄の移植センターに通知することを義務づけた(法第
11条第4項)
)(45) 。さらに、新法は、臓器のあっせんを、国際的な組織に委託す
ることを可能としている(法第12条第2項)。これは、たとえばユーロ「ラン
スフ0ラントを通しての国境を越えた協力との関係でとくに意味をもつ規定で
ある。
ところで、移植用臓器の恒常的な不足は、臓器を適切に配分しようとする
際に問題を生じさせるばかりでなく、真剣な対応を要するもうーつの問題を
引き起こすことにもなる。すなわち、臓器売買の問題である。
VI 臓器売買
移植用臓器の不足がどのような状況をもたらし得るかを想像することは、
必ずしもむずかしくない。重病患者は、臓器移植に一纏の望みをかけるが、
臓器が得られないというのであれば、(健康に)生き延びることを切望するあ
まり、どのようなことでもしようとする。他方、良心なき商売人たちは、ま
さにこのような状況にある人から金もうけをしようとたくらむのである。ド
イツの立法者は、生命の危機にさらされた重病患者の切迫した状況を利用し
て経済的利得を得ようとする非難すべき所為を防止するため、臓器に関する
取引を犯罪とし処罰の対象とすることにした(法第17条、第18条)。この禁止規
定の目的とするところは、人の健康上の緊急状態につけ込む行為を抑止する
(45)従来、病院は、脳死者が出現したときの移植センターへの連絡については、これを必ず
しも確実・迅速には行っておらず、このことも移植用臓器の不足のーつの原因となっていた
が(Bとuerノ Conrads 〔前掲注( 29)) S. 198) 、新法の規定はそのような実務のあり方を変え
ようとするものである。
236
とともに、同時にまた、経済的に貧しい人が金銭と引き換えに臓器提供を迫
られることがないようにすることである。後者のようなことは、ドイツのよ
うな社会国家では実際上それほど考えられないことであり、それはむしろ国
際的な議論(
(46)の影響を受けたものであって、そこでは特に第三世界の人々
の仮借のない搾取が念頭に置かれていたのである( 47)
新臓器移植法第17条第1 項第1 文は、臓器の取引を禁止しているが( 48)
しかし臓器移植に対して金銭的な対価を支払うことのすべてを禁じているわ
けではない。法第17条第1 項第2文により、2つの場合の金銭の支払いが許
容されている。すなわち、「治療行為の目的を達成するために必要とされる
措置、とりわけ臓器摘出、保存、感染防止処置を含む移植の準備、保管およ
び輸送に対する相当な対価の提供または受領」と、「臓器から製造され、ま
たは臓器を利用して製造された医薬品の販売」である。これらの金銭の授受
は、出費に対するまったく当然の埋め合わせであって異とするに足らず、臓
器の「代金」と解されるものではないから、ここでは臓器移植の「商業化」
といったことは問題になり得ないのである( 49)
法第17条の禁止に違反する行為に対しては、5年以下の自由刑または罰金
が法定されており、業として臓器取引が行われたときは、刑の下限が1 年以
上の自由刑となり、したがって重罪に格上げされる(50)。臓器取引の未遂も
また処罰される〔法第18条第3 項〕。ただし、臓器の提供者と受容者につい
ては、刑の任意的減軽または免除が可能とされている〔法第18条第4項〕。
これは、臓器の提供者と受容者はまさに禁止規定により保護されるべき者た
ちであり、しばしばやむを得ぬ状況で行為するものであるから、これらの者
たちの所為は(少なくとも部分的には)免責可能なものと考えられることを理
由とするものである。したがっ て、この場合において、刑法上の一般的な免
(46)
(47)
Heuer/Conrads (前掲注( 29))S. 202.
Schroth, (前掲注(1))とくに S. 1150.
(48)この場合の「取引」は、ドイツ薬物取締法( Betaubungsmittelgesetz )についての判例
にしたがって、「自己の利益をはかるために財の売り上げの獲得をめざして行われる活動のす
べて」として理解することができる。たとえば、 BGHSt. 29, 239 (24 の参照。
(49) Taupitz (前掲注( 18)) S. 208.
(50)刑法第12条第1項。
第9 章ドイツの新臓器移植法
237
責事由をさらに適用することは必要でない。
臓器売買の禁止規定は、それが施行されてほとんど時間が経っていないの
に、すでに批判にさらされている。とりわけ批判の対象とされているのは、
臓器の取引はすでに一般の刑法の規定により犯罪となるのであるから、今回
シンボリツク
の新立法はただ象徴的機能をもつにすぎないという,点である(
(51) 。しかしな
がら、これに対しては、次のよう に反論することができよう。たしかに、臓
器摘出にあたっての提供者の同意が公序良俗違反で無効とされれば(臓器取
引の場合にはふつうそうであろう)、医師については傷害罪の刑事責任を間うこ
とができるかもしれないが(52)、取引を行う人や臓器の受容者については、
一般の刑法には特別の禁止規定が存在しないのである(53)。したがって、新
臓器移植法の処罰規定は単に当然の可罰性を確認した規定というにとどまら
ず、 処罰をはじめて可能にした規定なのであり、しかも、合法的に行われる
臓器移植を保護するためにも、そして移植医療への国民の信頼を確保するた
めにも適切な規定と考えられるのである。
VII展望
ドイツにおける臓器移植は長年にわたり「法律上の規制を欠いた領域」の
なかで行われてきたが、ドイツの立法者は、昨年「1997年〕末に可決された
新臓器移植法により、これに法律上の基礎を与えることに成功した。このこ
とは、臓器移植が個人の身体への重大な侵害をともなうことに鑑みて不可欠
のことであったというばかりでなく、ョーロッパ諸国間の関係が緊密となる
に応じてどうしても必要とされるところであった。 というのも、他の大部分
の西ョーロッパ諸国は、すでに臓器移植につき法律上の規制を行っているか
らである(54)。新法は、現代の集中医療の一領域に対し法的基礎を与えると
ともに、より効率的な移植医療に道を開くものである。というのは、新法の
(51) Schroth (前掲注(1))S. 1152.
(52)刑法第223条以下。
(53)せいぜい考えられるのは、傷害罪の共犯として処罰することであろう。しかし、それは
この種のすべてのケースについて可能だとはかぎらない。
(54) Koch (前掲注( 3))S. 319.
238
制定により、今や一般国民に対しこれまで以上に移植医療に関する情報提供
を行うことが可能となり、また、本法制定の過程で部分的にはすでにメディ
アにおいて行われたような、公共的な討議を喚起することが可能となるよう
に思われるからである。まさに、こうした公共的討議こそが、移植医療を前
進させるためには最良のものである。そこにおいて、各個人は臓器移植の間
題を冷静に受け止め検討するように啓発され るのであり、ともすればタブー
視されるこのテーマから神秘のヴェールが剥ぎ取られることにより臓器提供
の気運が高まることも期待されるからである。
*本稿の準備にあたり司法修習生のバーバラ・ラッハ( Barbara Lach) 女史から得
た助力に対し、格別の謝意を表したい。
(長井園=井田良訳)
第10章中間の道を求めて:原理主義と気俺との間
239
第10章中間の道を求めて:
原理主義と気儀との間(
(1)
I 個人的な序言
当時の連邦議会議長リタ・ズュスムートにとって、彼女が90年代の初め
に、東と西とで対立していた妊娠中絶についての諸規定をひとつの統一法に
よって克服するという統合条約の委任を、包括的な「生命保護法」によって
充足しようとしたのは、まさに「第3の道」であった②。ドイツ連邦共和国
の「適応事由モデル」を一方とし、ドイツ民主共和国の「期限解決モデル」
を他方とした、両者の間の腰着した二正面作戦から抜け出すために、私自身
はむしろ「中間の道」という言い方をしたのであるが(
(3)、それにもかかわら
ず、われわれの基本的な関心事は同一であった。すなわち、これまでの規制
諸モデルが役立たなかったことにかんがみて、未生の生命の保護にも妊婦の
利害とその個人的な答責にもより以上に考慮が払われなければならない、と
いう新しい道を見出すことが問題であったということである。このことが、
繰り返し、やがて他の法政策的に衝撃的な諸問題にとっても刺激的な政策的
(1) 資料の整理と草稿に当たってのその共同作業に対して私は、
Tobias Frische に格別に感謝
すべき立場にある。
(2) これについての Rita S 偽smuth の最初の公刊された意見表明は、見渡しうるかぎりで
は、 ,,Vorschlag eines Lebensschutzgesetzes", in:Zeitschrift fur Rechtspolitik (ZRP)
1990, S. 347-368 であった。これに基づく『生命保護法のための討議草案( Diskussion-
sentwurf eines Gesetzes zum Schutz des Lebens) 』を彼女は、 1991 年初めに、ソ、ソチングで開
催された新教アカデミー会議で『統ードイツにおける未生の生命の保護―ひとつの第3 の
道』と題する講演のなかで説明し、後に S. Heil (Hrsg.),§ 218-Emn Grenzfall des Rechts.
Tutzinger Materialien Nr. 68 (1991), S. 36-44, 117-122 において公刊された。
(3)A . Eser,Schwangerschaftsabbruch zwischen Grundwertsorientierung und Strafrecht
-Eine rechtspolische Uberlegungsskizze, in:Zeitschrift fur Rechtspolitik (ZRP) 1991, S.
291-298; auch ver6ffentlicht in:A. Eser/H.-C. Koch, Schwangerschaftsabbruch:Auf
dem Weg zu einer Neuregelung, Baden-Baden 1992, 5. 85-107. さらに、前掲、ソ、ソチング会
議における私の報告, ,Schwangerschaftsabbruch: Zwischenergebnisse eines internationalen Vergleichs" (Fn. 2),5. 63-72 ,参照。
240
-学間的な思想交換において話題になった対象との選遁へと導いたのである。
非常に豊かな成果をもたらしたこの諸経験に対し、ここに親愛なる被祝賀者
にその65歳の誕生日に寄せて感謝の意を表したい。
諸々の意見が一致している、もしくは異なっていることもありうるこの道
を辿ることはやりがいのあることであろうが、それもかかわらず、ここでは
折に触れての例示的な関連づけをもって、やはり妊娠中絶を問題とすること
が求められる。そのさいとりわけ、固まった両前線の間に中間の、第3の、
もしくはそれがどのように呼ばれようとも新しい種類の、一方とも他方とも
完全に歩調を合わせることのない道が求められる場合、明らかに避けて通る
ことができない諸々の経験が問題とならざるをえない。すなわち、ひとはー
つの立場にこそ落ち着きを取り戻すことができ、それによって一方または他
方の正体が暴き出されるのであって、両方を考量する諸々の試みは弱い妥協
として信用を失うのである。要するに、対立的な「あれかーこれか」が尊敬
されるのに対して、架橋的な「あれもーこれも」は尊重どころか、そもそも
注目を見出すことさえ難しいということである。
この種のあらゆる偏見にもかかわらず、ここでは、多くの生命領域にとっ
て(より)妥当するような道、すなわち、絶対的な原理主義を一方とし、原
理のない気儀を他方とする、両者の間のひとつの基本的な態度である「中間
の道」の「名誉挽回」を試みたい。そのさい問題になっているのは、一方ま
たは他方の立場の実質的な正当陛というよりも、むしろ、多かれ少なかれ明
らかにされている、続けて先へと行く認識目標に到達するための道具とされ
る論証のやり方である。
II 結果に方向づけられた立場決定ー一論争的な想定
道徳的、法的、政治的な、もしくはその他の人間的および社会的な行為に
とって重要な、遠くまで及ぶ諸々の目標設定もしくは深く根ざしている動機
づけと基本的な内心的態度についての諸々の確信と立場が、前もって決定さ
れていることがありうるということは、それを否定することが好まれるとし
ても、それでもひとつの自明の理である。これは、人と人との間のこの種の
第10章中間の道を求めて:原理主義と気億との間241
「前-判断(
(Vor-Urteil) 」が自覚され、これを意見が相違する場合に開示する
心積もりがあるかぎりでは問題をはらんでいない。しかしこのことは―認
識の欠如からであれ、政治的な術策からであれ、あるいは弱い立場に肩入れ
することができないという理由からでさえあれ―常にそうされるとはかぎ
らない。これらによって視野が狭められるのである。色は白かそれとも黒
か、という見方しかなされない。木目の細やかさについてもその意味が消失
する。妥協への心積もりが枯渇する。どの立場も硬直化し、和解し難く対立
し合う。こうしたことからは、中間の道にとって通り抜けのできる道はほと
んど残されていない。
このことをいくつかの例で明らかにするために、すでに触れたリタ・ズュ
スムー「のアンガージュマンにかんがみて、妊娠中絶法改正に向けた諸努力
をもって始めるのは当然のことであるように思われる。そこで当初は、もっ
ぱら「適応事由モデル」と「期限解決モデル」としか対立していなかった。
しかしこの両極的な前線配置は、われわれがフライブルクのマックス・プラ
ンク外国刑法・国際刑法研究所において80年代の半ばに、包括的な比較法上
の調査を通して公開することができたように(')、妊娠中絶の取り扱いにおけ
る多様なニュアンスを正当に評価していないことが判明した。それゆえに、
少なくとも 基本モデルとしては3 極性から出発されなければならないにもか
かわらず(
(5)、これによって切り拓かれたーたとえば「窮迫状態に方向づけ
られた対話モデル」もしくは「自己評価を基盤とした適応事由モデル」とい
った形態のような―中間の道という可能性は、そもそもそれが注目される
にじても、独自の道として受け容れられるのではなく、たとえ中傷されると
いうことはないとしても、「適応事由モデル」の亜型か、あるいは「期限解
決モデル」の亜型と呼ばれてきた。立場に応じて「適応事由前線」にか、そ
(4 )様々な個別的刊行物とならんで、 A. Eser/H. -G. Koch (Hrsg.), Schwangerschaftsab-
bruch im internationalen Vergleich, Rechtliche Regelungen-Soziale Rahmenbedingungen
-Empirische Grunddaten, Teil 1:Europa, Baden-Baden 1988, Teil 2:Aul3ereuropa. 1989,
Teil3:Rechtsvergleichender Querschnitt-Rechtspolitische Schlussbetrachtungen-Dokumentation zur neueren Rechtsentwicklung, 1999 ,の全3 巻に記録されている。
(5)これについてはすでに、 H. -G. Koch, Recht und Praxis des Schwangerschaftsabbruchs
im internationalen Vergleich, in:Zeitschrift fUr die gesamte Strafrechtswissenschaft
(ZStW) 97 (1985), S. 1043-1073 ,さらに、 Eser (Fn. 3), in: Tutzinger Materialie ,参照。
242
れとも「期限解決前線」に配され、―その中間の道としての承認が少なく
ない人々によって依然として拒絶される、この間に法律になっている「相談
モデル」に至るまでーリタ・ズュスムー「の「第3 の道」では、事態はう
まく運んではこなかった。このような論争的な性格を伴うこともまれではな
い前線配置を、中間モデルの法律上の構成を説明することだけで済ませるの
は困難である。それというのも「相談モデル」はーそこへと導く他の中間
の道と同様に―適応事由様式の衡量諸要素も時間的な段階づけも共に含ん
でいることから、―両様式の諸要素の新しい組み合わせを根拠に―新し
い中間の道を見出すことはできないと考える場合には、一方の前線にも他方
の前線にも配置することができるからである。それゆえに、このような拒絶
的な態度は、深いところに根差している根本的な内心的態度のなかに見出す
ことができる以下のような他の理由を有しているに相違ないのである。
〇根本的な立場を2 つにのみ際立たせるとして、未生の生命に(も)ひと
_1==コーLー一、一ーr一上」一、一ー『1、一ー」一1
、、」t、
、、、、一.入1,Lー七=」―一L、一一》一、一、
つひフ耳支尚1皿1但と認め勺石一、もし又(ま、たしかにョE有庁も倒一重円月芭て、めるか、し
かしその決定を決して妊婦にではなく、やむをえない場合には―可能なか
ぎりなお裁判所の事後審査を伴って―第3 者にゆだねることができると信
じる者は、これから逸脱する反対者のいっさいの解決をーあるいは諸々の
細分化がありうるにもかかわらず―反対説へと追いやり、それゆえにまた
受入れ難いという理由で、ありうる細分化には目もくれずに拒絶することに
傾いている。このような見方からは、どのような中間の道も邪道である。こ
れとともに、ひとはもちろん、ニュアンスには盲目になり、未生の生命を法
的-宣言的に告知するばかりでなく、実際的-効果的にも貫徹すべき本来の最
高目標に関しても近視眼的になる。
〇これに対して、妊婦の自己決定権の優位を認容するか、もしくはいずれ
にせよ彼女に一定期間にわたって理由づけから免れた妊娠中絶を可能にしよ
うとする者は、すでに相談義務というものを婦人に対する不適当な制限と
見、彼女の最終決断を何らかの窮迫状態に適合させるがゆえに、これをひと
つの偽装された適応事由と 推定する傾向にある。この見方でもまた、立場は
結果に準拠して規定される。すなわち、妊婦の諸利益を広く認めさせるため
に、未生の生命にそもそも一個の独立した生命権が帰属している場合であっ
第10章中間の道を求めて:原理主義と気催との間243
ても、それは優先権を有していないものとして段階つけられなければならな
いのである。これに従えば、未生の生命にも原則的な優位しか認容していな
い規定のすべては、反対説へと追いやられることになる。要するに、妊婦の
ほうに力日担しようとすればするほど、未生の生命の立場は可能なかぎり押さ
え込まれる、ということである。
思考と論証がこのように結果に方向づけられているということはーそこ
では出発点での立場が、前もって決定されている法政策上の要求に到達しな
ければならないというように整えられている―、9劉こ対する研究をめぐる
論争においていっそう明瞭に観察することができる。月玉は、―研究が禁止
される―権利主体なのか、それとも―研究が許容される―客体なの
か、という」玉の道徳的および法的な地位が問題になっているかぎりで、すで
にこの問題のポイン「は切 り替えられているのであるが、しかしこの場合、
その問題は、予断から免れているわけではなく、研究者にとって自由な余地
が望ましいのか、それとも望ましくないのか、いずれかの意味において答え
られることになる。
〇そのさい月玉に対する研究を可能にさせようとする者は、月玉の人としての
質を最初から否認しなければならないと信じるのであり、そこでは、即座に
着床前の段階における妊娠中絶の処罰解除も、これによっ て根拠づけること
ができると考える。
〇これとは逆に、妊娠中絶と同様に月劉こ対する研究をも阻止しようとする
者は、このことをすでに、」玉は受精の時点から人としての個性と人格とが承
認されることによって防護されていると信じている。
この2つの極端な立場は、しかしながらすでにそれ自体において必然的な
ものではない。それというのも、一方では』劉ますでに人としての人格を有し
ている場合でさえ、それによって どのような侵害からも免れているわけでは
ないということは、すでに生まれている人の場合であってもそれを免れてい
ないのと同様である。このことには、生命の法的保護の、いわゆる「絶対
性」との関連で、後にまた触れることにしたい。他方で、これとは逆に、妊
娠中絶の部分的な処罰解除が月不の当保護性(
(Schutzwurdigkeit) 「保護に値し
ていること」の欠如を帰結する結果として、月玉をいわば「無保護のままに
244
(vogelfrei) 」研究目的のためにどのような気僅な利用にであっても供するこ
とができると主張することは、誤っていないとはいえない。それというのも、
初期月引こ「人」としての人格性を否認すべきであるとするか、もしくは、ど
のみち「出生」からはじめて「人」ということができる場合であっても、こ
れをもって3不の―肯定すべきか、もしくは否定すべき―当保護性につい
ての前-判断が必然的にも確然的にも言明されているわけではないからであ
る。せいぜいのところ、理由づけがより困難になるということであろう。す
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が、さりとて他方で、研究者の8玉への手出しのために理屈ぬきで気儀な門戸
が開かれているというわけでもない、ということである(
(6)。そこから、多少
とも広い範囲にわたる保護的立場を根拠づけるためには、これとは別の実質
的な根拠を必要としているのであるーこれとともに極端な前線というもの
を回避する中間の道の可能性が開かれることになることはいうまでもない。
先入見に囚われた前線配置という、これと同じ現象を、幹細胞研究、治療
クローンおよび着床前診断術をめぐる現在の議論に観察することができる。
これらすべてにーどのような理由からであれ―反対する者には、彼が受
精卵にすでに2 分割段階において人の生命の地位を認容し、すでに生まれて
いる人と同じ生命権と人間の尊厳を帰属させることによって、防衛線はすで
に勝利を収めていると見られる。これに対して、こうした新しい種類の研究
が有している諸々の可能性と医学上の処理に門戸を開こうとする者は、初期
月玉に固有の法的地位を否認し、そのさいこれを見かけのうえで気儒に処分す
ることができるようにすれば、このことを最善の状態で達成することができ
ると考えている。ところで、この両者の道のいずれのうえにも結果に準拠し
た極端な立場が構築されるのであり、それは、前もって捕捉されている目標
を決して水泡に帰せしめないために、一方では突破を、他方では制御を、す
でにその前地においてブロックすることが求められるのである。
(6)
私はすでに他の箇所でこの2 つ誤謬推論につき詳細に検討したので、ここではそれを指示
しておくにとどめる。 A. Eser, Neuartige Bedrohungen ungeborenen Lebens. Embryofor-
schung und )Fetozid( in rechtsvegleichender Perspektive, Heidelberg 1990, insbes. S. 39 If.
第10章中間の道を求めて:原理主義と気儀との間
245
前もって名指しされている類の立場決定を、その背後にある関心事ーす
なわち一方では絶対的な生命保護、他方では研究の自由―がそれぞれに真
剣に考えられているものとして、ともかくも大目に見ることができたとし
て、それならばある立場に、そこから引き出すことができる帰結に関してし
っかりと根拠が与えられているのかとなると、もはやそれほどの確信を抱く
ことはできない。しかしこれは、出発点での立場が正しいと考えられたから
ではなく、まさにこれとは逆に、その実行を一貫させていないことからそれ
を支持できないことが証明されうるがゆえに、そういうことになるのであ
る。胎児は生命権を有しているのかという問題に関してノルベルト・ホェル
スターが「徹底的な処罰か、それとも徹底的な許容かという、それ自体にお
いて一貫した立場」しか認めないとき⑦、この種の打算的な動機によるもの
であることが、この国「ドイツ」ではとく に彼の場合に懸念されるのであ
る。この生命保護の原則的な提唱者は、そのさい相談モデルの徹底した制圧
を称揚するのであるが⑧、しかしこれは、彼がこの生命保護の立場それ自体
を正しいと考えたからではなく、妊娠中絶の徹底した処罰が欠如しているこ
とから、彼自身の―」劉こ独自な生命権を否認する―立場のために、最後
の弾丸を引き抜いておきたかったからである⑨。この主の論戦的な立場の想
定で問題になっているのが最終的には前線への潜入であるにしても、その』思
考範型は同じである。すなわち、原理的な帰結に到達するか、それとも可能
なかぎり自由な余地を保持することができるために、後頭部で前もって決定
されている目標をもって、ある一定の立場が採られるかもしくは想定され、
あるいは逆に否認される、ということである。
(7)N. Hoerster, Forum:Abtreibungsvebot-Religiose Vorausetzungen und rechtspolitische Knsequenzen, in:Juristische Schulung (JuS) 1991, S. 190-194 (194).
(8) とりわけ、どのような「中間の道」であっても旗職を鮮明にしたその敵対者である、H.
Tr ひ ndle に捧げられた N. Hoerster, Das )Recht auf Leben( der menschlichen Leibesfrucht
-Rechtswirklichkeit oder Verfassungslyrik?, in:Juristische Schulung (JS) 1995, S. 192-197
(192) という論稿のようにである。
(9)
G ・ヤコブスがその最高度に高い「人格」の概念を衡量することができない生命権に依存
させる一方で、しかしこれを明らかに(普通の)立法者の任意処分のもとにあっさりと置いて
いるとき、その論証の仕方は、同じ明解さをもってではないにせよ、それでもやはりこの思考
図式から遠く隔たってはいないように思われる。後の Fn. 28 参照。
246
原理主義的なーそれに対応して、反対の側によって激しく疑間視される
―立場にとっての主証人は、生命保護の「絶対性」と人間の尊厳の「不可
侵性」である。それゆえ、これによって同時に、実際上、何らかの中間の道
が遮断されるのかということが間われなければならない。
HI いわゆる生命保護の「絶対性」
すでに初期月劉こは「人の生命」としての性格が承認されているということ
をもって、必然的にというわけではないにしても、「絶対的な」生命保護が
保障されているということであれば、たしかに、実際のところ―未生・既
生を問わず―生命の段滅についての、これ以上の議論はいっさい不要とい
うことになるであろう。生命の段滅に対しては、断定的であるとともに例外
なき殺害禁止が、そのうえさらに無条件的な生命維持義務 というのではない
としても、立ちはだかることになるであろう。この種の生命保護の「絶対
性」を、ジャーナリステックに安っぽく盾に取ることに対してその法的根拠
づけが尋ねられるならば、所見は、もちろん―無条件的であって例外がな
いという意味における「絶対性」というものが、いずれにしてもそのような
ものであるように―否定的ではないとしても、かえって興醒めといったと
ころに落ち着く(
(10)
たしかに一方で、生命は「処分権から端的に免れた財」と呼ばれてお
り(
(11) 、同様に基本法第2条第2項第1文から帰結する「譲り渡すことので
きない権利」とされている(
(12)のに、どうして妊娠中絶のための新しい規定
(10)とくに歴史的な視,点から見た生命保護の諸々の破砕については、 A. Eser, Zwischen
)Heiligkeit( und )Qualitat( des Lebens, in:J. Gernhuber (Hrsg.),Tradition und Fortschrtt im Recht, Tubingen 1977, S. 377-414. (チュービンゲン大学法学部に捧げられた記念論
集)参照。ないし今日の刑法上の見方から、 W. Grog 功, Der Grundsatz des absoluten Lebensschutzes und die fragmentarische Natur des Strafrechts, in:A. Kreuzer, u. a. (Hrsg.),
FUhlende und denkende Kriminalwissenschaften. Ehrengabe ftir Anne-Eva Brauneck,
Monchengladbach 1999, S. 285-313.
(11) R. M励 rach/F. C. Schroeder/M. M 漉wald, Strafrecht, Besonderer Teil, Teilband 1, 8.
Aufi. Heidelberg 1995,§111 Rn. 6.
(12) H. J加 ndle Strafgesetzbuch und Nebengesetze, 48. Aufl. Munchen 1997, Rn. 12 vor§
218.
第10章中間の道を求めて:原理主義と気儒との間247
では、この「任意処分可能でないもの」が任意処分可能であるとされている
のであろうか(
(13) 。やはり何といっても、すでに表向きには絶対性を示唆し
ている多くの意見表明のなかに、隠されている留保を見出すことができるの
である。現にたとえば、連邦憲法裁判所にとって生命の基本権が「基本法秩
序の内部におけるひとつの最高価値」を意味している( 14) という場合、どの
ような例外をも耐え忍ぶことができない最上級である「最高」という表現を
不定冠詞「ひとつの(
(em)」と組み合わせることによって、連邦憲法裁判所
も、結局は諸々の相対化を承認していることが考慮に入れられている( 15)
ように思われるのであ。るいは、最近着床前診断術をめぐる議論のなか
で、かつての連邦憲法裁判所所長のエルンスト・ベンダが、ごくまれに「根
拠づけられた例外」しか存在しない「絶対的な生命保護」という言い方をし
たとき((16) 、すでに諸々の例外を許容するだけで、そのような絶対性は基本
的に放棄されているのである。さらにとりわけ、たしかに「法律に基づい
て」のみ「生命への権利」を侵害することができるとしている基本法第2 条
第2項第3文の法律の留保―これによっていずれにせよ、諸々の侵害に道
が開かれているーを通して、基本法それ自体によって、生命の保護はその
絶対性が制限されている。そのさい、 これよって可能になった生命への侵害
を正当化するために中枢的な尺度として比例性の原則が挙げられるとすれ
ば(17)、これによって同時に保護に値する他の財に対する生命の衡量という
可能性も認容されていることになる。
国家が人間それ自体を生命の危険に晒すか、もしくは、その殺害を許容し
ている個別的な状況のすべてをここで列挙することはできないが(
(18) 、基本
(13) H. 乃び% die, Uber das Unbegrundbare der Zweiten Bonner Fristenlosung, in:H.
Thomas/W. Kiuth (Hrsg.),Das zumutbare Kind, Herford 1993, S. 161-190(164).
(14) BVerfGE 39, 1, 42 参照。 C. Beiii 昭, 1st die Rechtfertigungsthese zu § 218a StGB haltbar?, Berlin! New York 1987, S. 78.
(15) BVer1GE 88, 203, 253 f. 参照。
(16) Frankfurter Rundschau v. 16. 06. 01, S. 5 参照。
(17)多くに代えて、 D. Lorenz, Recht auf Leben und korperliche Unversehrtheit, in: J.
Isensee!P. Kirchfhof (Hrsg.),Handbuch des Strafrechts der Bundesrepublik Deutschland,
2. Aufl. Heidelberg 2001, Bd. VI. 3-39 ( §128 Rn. 38).
(18)致死的正当防衛、戦争における殺人および死刑という古典的な「正当化・3 対」と並ん
で、ここではたとえば人質事件における「射殺による最終解決」もしくは許容された交通危険
248
法は生命保護の絶対性からというよりも、むしろその相対性から出発してい
るという印象を抑えることができない。周知のように、根拠のないどのよう
な相対化に対しても可能なかぎり包括的に基本権に肩入れするという点では
何の疑いも有していないギュンター・デューリッヒの言葉で言い表すなら
ば、「国家的に遂行されるか、もしくは甘受されるすべての生命の段滅を、
実際のところこの種の事例においては生命への具体的な基本権には……『何
も残っていない』にもかかわらず、単純に基本権の侵害であると考えている
とすれば、それは法というものを思い違えている」のである(
(19)
おそらくは驚くに値するようなこの所見が、ある者にとってどれほど気に
入られないとしても、それでもやはりこの絶対性要求は、「絶対的である」
ということを「あらゆる事例にわたって不可侵である」という意味において
理解するのではなく、たとえば衝突事例において許容される比例性の検討に
当たって、秤にかけられている生命と衝突している他の財との」119位において
アフ0リオリに前者に有利な結果になるようにすることから出発するというよ
うに試みるとしても、これを救い出すことはできないのである(20)。たとえ
このため、衝突している両利益間の衡量のためにそこからひとつの「価値段
階秩序」を読み取ることができるような(21)、連邦憲法裁判所によって読み
取られた 「価値に結びついた秩序」が引き合いに出されるとしても(22)、こ
に基づく死亡犠牲者を考えることができよう。多くに代えて、
Th. Lenck ルγ, in: A, Sch6n-
ke/H. Schroder, Strafgesetzbuch, 26. Aufi. MUnchen 2001,§ 32 Rn. 43 ff.; Ph. K 況冗 ig,
Grundgesetz-Kommentar, 5. Aufi. Mtinchen 2000, Art. 2 Rn. 85 ; D. Murswiek, in:M. Sacks
(Hrsg.),Grundgesetz, 2. Aufl. Munchen 1999, Art. 2 Rn. 182, 203;H. D. Jarass/B. Pieroth
(Hrsg.),Grundgesetz fur die Bundesrepublik Deutschland, 5. Aufi. Munchen 2000, Art. 2.
Rn, 69 ならびに、 A. Eser, Recht und Schutz des Lebens, in: Gorres-Gesellschaft (Hrsg.),
Staatslexikon, Bd. 3, 7. Aufi. Freiburg 1987, Sp. 858-862.
(19) C. D 虎腐, in:Maunz/Durig u. a. (Hrsg.),Grundgesetz, Munchen, Stand August 2001,
Art. 2 Abs. II Rn. 13.
(20)現に Beth 昭( Fn. 14), 5. 78 f. ,がこのように言明している。
W. Kiuth, Das Grundrecht
auf Leben und die ))ratio( des Gesetzgebers, in:Golddammer's Archiv fur Strafrecht (GA)
1988, 5. 547-555 が言う「より高い憲法的価値としての生命」という考量も同様である。
(21)このことが最初に言及されたのは、 BVerfGE 2, 1, 12 においてである。さらに、 BVerfGE 5, 85, 139 声, 32, 40f .参照。最後に、「客観的価値秩序」としての基本権の断面について根
底的には、 BVerfGE 7, 198, 205.
(22) BVerfGE 7, 198, 215 .がそうである。
第10章中間の道を求めて:原理主義と気僅との間249
の点については、これまで連邦憲法裁判所によって呼び覚まされた価値段階
秩序がはたして完全かつ完結的に描き出されることに成功しているのか、方
法上の問題としてよく考えられなければならない。それというのも、たとえ
全般的に規定された―生命、自由、平等というような―価値に際立たせ
られた)―頂位が承認される場合であっても、ひとはそこで、具体的な衝突事例
にとってどのような言明力のあるシステムも明らかになっていない一般的な
次元に置かれているからである(23)。ある段階秩序において価値が衝突して
いるあらゆる事例にわたって必然的であるような解決策を導き出すことがで
きる(24)ような仕方で固定することは、可能でないと思われる場合、法益の
一般的な次元では、生命には表見的に( prima facie) にのみ、優位が帰属し
ていることを争うべきではない(25)。しかしながら生命権のこの原理的な優
位をもってすでに、どのような衝突事例であれ関係するすべての法益との具
体的かつ全般的な衡量から解放されるということにはならないのである。こ
の衡量の次元では、「絶対的な生命保護」もしくは「最高価値」という言い
方が問題解決を助けて先へと進ませるものではない。むしろ、おそらくは憲
法によって必然的に前もって与えられている価値段階秩序へと立ち返ること
は、―憲法裁判所の裁判官となったエルンス「=ヴォルフガング・ベッケ
ンフェルデがかつて言い表したようにーそれによって合理的な外見が維持
され、実際的な根拠づけが回避されるような、別の方法で下された衝突につ
いての決断を覆い隠す結果として、この種の処理がいわば「……解釈論的決
断主義にとっての隠蔽公式」として役立っているのである(26)。そのさい問
題になっているのは、結局のところ、決定的な現実諸連関に対処するという
負担を軽くすることを超えて論証的に論駁を加えることができない尊大な立
場へど 27)― そしてこれに対応して絶対性のたんなる見せ掛けへと―導
(23) R. Alexy,Theorie der Grundrechte, Frankfurt 1986, S. 139.
(24)これについて包括的なのは、 H. Goerlich, Wertordnung und Grundgesetz, BadenBaden 1973, S. 131 ff.
(25)これについてはすでに、 A. Eser, in: Eser/Koch, Schwangerschaftsabbruch Teil 3 (Fn.
4),S. 571.
(26) E. W. BdckenJり庖e, Grundrechtstheorie und Grundrechtsinterpretation, in:Neue
Juristische Wochenschrift (NJW),1974, 5. 1529-1538(1534).
(27 )現に、 E. De ル% inger, Der geb 谷 ndigte Leviathan Baden-Baden 1990, 5. 146 f.
250
く価値主張による正当化なのである。
他方、「人格」としての月玉の地位が、そもそも他の諸利益との衡量が許さ
れるか否かという問題と結び合わされる場合(28)、この絶対性は、よりいっ
そう内部から弱体化させられる。すなわち、どのような衡量も排除されてい
るところで、ただ生命権というものに対応してのみ「人格」という言い方が
できるとすれば、そうではなくて衡量することが許されているところーそ
して、これは「相談モデル」においてもやはり許されているーではどこで
あれ、人格的存在が否認されうることになり、この憶測上の価値増強は、詰
まるところ、それほど大した価値を有してはいないということになる( 29)
これとともに表見的には衡量に抗う価値にまで高度に様式化された「人格」
という価値は、結局のところ、その法的承認に依存しているがゆえに、(た
んなる)立法の任意な産物となってしまうのである(30)。しかしこれでは、」玉
については、気儀な使用が可能になるという、これに対応した側面が開かれ
ることになり、生命への権利というものは全く残らないことになってしまう
であろう。
Iv 人間の尊厳のインフレ的平価切下げ
未生の生命に対して絶対的な保護の防壁というものが、すでに生命への権
利によって確保されていないとすれば、そのようなものは、基本法第1 条に
おいて「不可侵である」と宣言された「人間の尊厳」によっても確保されな
いということも、たしかに予期することができるように思われる。とはい
(28)とくに、 G. Jakobs, Rechtmai3ige Abtreibung von Personen?, in: Juristische Rundschau
(JR) 2000, S. 404-407 がそうである。
(29) Jakobs, (Fn. 28), JR 2000, S. 406 「ある生命を抹殺することが許されるか否かが考量され
るところでは、生命権というものは問題にならない。」ならびに、 5. 407
「堕胎すること が許
されるかぎり、また相談後であっても妊娠中絶が許されているかぎり、胎児を人格として把握
することはできない。」
(30)個別事例における法的承認のこの種の「遂行的な」手続きについては、JRん schka, Der
Gegenstand der Debatte uber die Abtreibung, in:W. Bottke/H. Lampert/A. Rauscher
(Hrsg.),Schutz des menschlichen Lebens. Ethische, rechtliche und sozialpolitische Aspe
kte, St. Ottilien 1997, 5. 97-115 (111).
第10章中間の道を求めて:原理主義と気僅との間
251
え、「これを尊重しかつ保護することはすべての国家権力の責務である」に
もかかわらず、やはり人間の尊厳もまた、人の生命へのどのような侵害に対
しても原理主義的な防波堤として役立つことは困難であろう。
たしかにこの防壁は、人間の尊厳がたんなる原則としてではなく、―生
命への権利とは異なって―法律の介入の留保というものによって突破が可
能ではない結果と して、ここでは他の諸利益に対する人間の尊厳の、場合に
よってはありうる衡量に対して、どのような余地もないと言明されるかぎり
においては、たしかに難攻不落である( 31)o
とはいえ、「人」の生命としてのその概念上の理解が、その時間的な始ま
りと終わりと同様に、周知のように争われていない「生命」への権利より以
上に、人間の尊厳の貫徹力は、決定的に定義上の次元で解明されなければな
らない。それゆえ、人間の尊厳の保障を楯に取るということは、せいぜいの
ところ人間の尊厳カーどのような事情の下であってもーどのような侵害
をも甘受しないかぎりで、「勝者の論拠」の最たるものである(32)。一見して
絶対的なこの防壁は、しかしながら「人間の尊厳」の概念についてもその
「侵害」についても意見が一致していないことにより、それを相対化しよう
とする攻撃にさらされているのであり、このことはとくに未生の生命につい
て効果を現わす。それというのも「人の生命が現存しているところでは、そ
れに人間の尊厳が帰属」し、「発育しつつある生命」もまたこの保護を分有
する、ということに帰着する連邦憲法裁判所の見解に従う場合でさえ、連邦
裁判所自身が、この保障を「いずれにせよ」受精卵の子宮内での着床以降の
時間帯において想定しているのであり(33)、これを受精の時,点にまで早める
ことは、たしかに排除されないとしても、しかし争いの外に置かれているわ
けではないからである。
(31)Alexy,Grundrechte(Fn. 23),5. 95 f.1 W Bmi 昭, Die Unantastbarkeit der Menschenwurde,JuS 1995,5. 857-862 (858 )参照。 BVerfGE 75,369,380 をも参照。
(32)U Ne%ma
Die Wurde des Menschen in der Diskussion um Gentechnologie und
Befruchtungstechnologien,in:U. Klug/M. Kriele(Hrsg.),Menschen-und Burgerrechte,
ARSP-Beiheft 33,Stuttgart 1988,5. 139 1 H Dreier,Menschenwtirdegarantie und Schwangerschaftsabbruch,in:Die Offentliche verwaltung (DOv)1995,5. 1036-1040 も同様にr安
ルル,
》
直な魔法公式」という言い方をしている。
(33)BVerfGE 39,1,41.
《
252
人間の尊厳の概念とその侵害をめぐるほとんど見渡し難い議論を、ここで
たとえ暗示的な仕方であったとしても詳しく展開することはできない
が(
(34) 、それでもいずれにせよ、連邦憲法裁判所の政治的に影響力の多い判
例との関係で確認できるのは、連邦憲法裁判所が―人間の尊厳の内容的に
積極的な定義を断念して―本質的に侵害の成り行きから消極的に把握され
たデューリッヒの「客観公式」に立ち戻っているというこ とである。それに
よれば、その主体としての質を根本的に疑間視し、彼をたんなる手段にまで
販めるような取り扱いにさらすことは、人間の尊厳と矛盾することにな
る(
(35) 。とはいえ、このことは、一般的にではなく、具体的な事例を考慮に
入れてしか言明することはできないのである( 36)
したがって、たんに人間の尊厳という「ジョーカー」を、現代の生殖医学
と人間遺伝学のここでは背後に退いている諸問題について、好ましく ないと
思われる諸々の展開を禁止するために負担しなければならないどのような根
拠づけからも解放されるため、という理由で引き合いに出すことはできな
い。反対にこのカードは、具体的な側面を調べることによってその正当化基
盤が奪われることがあり、そのため、インフレ的にそれが投入されればされ
るほど、その価値がますます切り下げられることになるのである。わが法秩
序の当の根本的規範が、個別事例に方向づけられ た論証の代わりに、社会的
な合意とは到底いえないとしても、ひとつの問題解決についていまだ諸々の
議論があるところに投入される場合には、その把握可能な言明の内実が拡散
してしまうことになるであろう(
(37)
(34)根底的であるのは、
G. D 虎腐, Grundrechtssatz von der Menschenwurde, in: Archiv
des 6 ffentlichen Rechts (AひR) 81 (1956), S. 117-157. キリスト教的ないしは自然法-観念論的
な、とくにカントによって鼓舞されたか価値理論については、 Dreier (Fn. 32), D ひ V 1995, S.
1038;R. Z伽 elius, Recht und Gerechtigkeit in der offenen Gesellschaft, 2. Aufi. Berlin
1996, S. 272 ff.,ならびに最近のものとして、M. Herde彩n, Die Menschenwurde im Fluss des
bioethischen Diskurses, in: Juristen Zeitung (JZ) 2001, S. 773-779 ,参照。さらに、N.
Luhmann, Grundrechte als Institution. Emn Beitrag zur politischen Soziologie, Berlin 1965,
S. 68 ff. ,の「給付理論」ならびに、HR功no%れ, Die versprochene Menschenwurde, A ひ R
118 (1993), S. 353-377 の「コミュニケーシ。ン理論」を参照。
(35) BVerfGE 9, 89, 95; 27, 1, 6; 30, 1, 26; 50, 166, 175 .詳しくは、 W. Graf Vitzthum, Die
Menschenwurde als Verfassungsbegriff, JZ 1985, S. 201-209, insbes. S. 203 f.
(36) BVerfGE 30, 1,25.
第10章中間の道を求めて:原理主義と気億との間253
進行しつつあるグローバル化とともに増大する不安もまた、これを抑える
ことができないであろう。「人間の尊厳」の理解に、たんなる個人的ないし
は特異な世界観上の考え方や綱領が、それらの根底に置かれている評価基盤
の別段の根拠づけなしに押し込まれることが(38)、排除できなければできな
いほど、少なくとも同じく高度の法治国家的立場を有する同じ文化圏の他の
諸国において人間の尊厳と調和するとみなされるような出来事が、基本法第
1条第1 項とは調和しないと言明される場合には、それだけにいっそう参加
した諸集団の個人的な立場を早計に拘東力のある憲法解釈として妥当させな
い慎重さこそが、推奨されるのである(39)。マックス・プランク協会の会長
であるフーベルト・マルクルもまた、多くの注目を集めたベルリン談話のな
かで、いずれにせよ、われわれが「道徳上の窮極的な根拠づけという高い
岸」を占領しようとするよりも前に、他のョーロッパ諸国の諸論拠が何であ
るかを聞きながらよく考えることを、われわれに対するよき助言として示し
たとき((4の、それは、実質的には―論戦的でなくはないにもかかわらず
ーほとんどこのような意味以外に理解されることを望んではいなかった。
そのかぎりにおいて、これらの問題においても比較法は、絶対的な真理への
迷妄に対する最善の医薬なのである( 41)
(37) Dreier (Fn. 32), S. DOV 1995, S. 1039 が、適切にもこのように指摘している。この「消耗
的危険」についてはすでに、 R. Herzog, Die Menschenwurde als Mal3stab der Rechtspolitik, in:H. Seesing (Hrsg.),Technologischer Fortschritt und menschliches Leben;die
Menschenwurde als Mal3stab der Rechtspolitik, Teil 1, MUnchen 1987, S. 23-32 (26 )なら
びに、Eser, Neuartige Bedrohungen (Fn. 6),S. 36 ff. 参照。
(38)このような危険について詳しくは、とくに、 Dreier (Fn. 32), DOV 1995, S. 1039; E.
Hilgendo げ, Scheinargumente in der Abtreibungsdiskussion, NJW 1996, S. 758-762 (759 f.).
(39 )すでに、z伽 elius, Recht (Fn. 34), 5. 277 の警告を参照。
(40) H. Markl, Freiheit, Verantwortung, Menschenwurde:Warum Lebenswissenschaften
mehr sind als Biologie, in:52. Jahresversammlung der Max-Planck-Gesellschaft in Berlin
2001, S. 55-66 (60), in: Suddeutsche Zeitung v. 25. 06. 01, S. 14 に刊行前に掲載。
(41)これについてはすでに、 A. Eser. Funktionen, Methoden und Grenzen der Strafrechtsvergleichung, in:H. -J. Albrecht u. a. (Hrsg.),Internationale Perspektiven in
Kriminologie und Strafrecht. Festschrift fUr Gunther Kaiser, Berlin 1998, 5. 1499-1529
(1529).
254
V 法解釈論の限界
新たに燃え上がっているバイオェシックスをめぐる論議は、法的な論証の
役割に関して、部分的にまさに逆説的な様相を露呈させた。一方で、基本法
の条文と連邦憲法裁判所の判例を援用することによって、より確実な基盤の
うえに立っていると錯覚しているとしても、そのことはたしかに法的な討議
の参加者たちにあっては驚くには当たらない。非法律家たちもまた、それに
よって幻惑され、―とりわけ「原理主義的な」立場が受け容れられる場合
に―法的な諸論拠をもって最も安心していられるように見えるかといえ
ば、もちろんそうではない。他方、人の生命の保護についての諸々の論争
は、もうとうに法的な討議の参加者たちの閉鎖的なサークルから離れ、重要
な社会集団すべての協働のもとに公共的な討議に道を開いていなければなら
なかったのである。
このような展開は、解釈論上の論証というものが、記述的-経験的に現行
法を描き出し、論理的-分析的に現行法を概念的-体系的に一貫させることに
制限されると考え、問題をはらんでいる諸事例の解決を案出する途上にあっ
て、それでもやはりそこでは純法的なものを超えて政治的なものを指し示し
ているような、その規範的-実践的な任務を顧慮しない者にとってのみ驚く
に値することである(42)。憲法の成文は、まさに人間の尊厳をめぐる議論の
なかで明らかになったように、その言語形式からして、現行法を内容的に一
義的に明らかにしていないことからすれば、そしてまた、法の適用はたんな
る説明的な解釈に尽きるものではなく、規範の内容を具体化する充足的な働
きを意味するということからすれば(43)、そのような規範的-実践的な任務
は、とりわけ憲法上のーそしてそのさい基本権についての―諸規定との
関わりにおいて重要である。しかし、この発見的な機能によってさえ( 44)
(42)解釈論的論証のこの3つの本質的な営みについて詳しくは、
R. Alexy, Theorie der juristischen Argumentation, 3. Aufi. Frankfurt, 1996, S. 307 ff.
(43) E. W. Bdckenfdrde (Fn. 26),NJW 1974, S. 1529.
(44 )これについて詳しくは、Ale易ノ, Theorie(Fn. 41), S. 332; K. Lore 冗 z/G. -W. Canons,
Methodenlehre der Rechtswissenschaft, Berlin/Heidelberg/New York, 3. Aufl. 1995, S.
第10章中間の道を求めて:原理主義と気僅との間
255
規範的-実践的な解釈論は、それが、―まさに未生の生命もしくは治療的
クローンの保護という社会的および法的に高度に争われている緊張領域にお
けるようにーーイ也でもそうであるように法的な日常作業において問題をはら
んだ事例状況を満足に解決することができるような、法的に特殊な道具立て
を提供することができない場合には、限界に突き当たることになりう
る(45)。
このことを明らかにするために、ここで簡単に、法解釈論的手段をもって
憲法的に獲得することができる帰結を総括しておくことが望ましいであろ
う。受精卵の人の生命としての法的格づけーしかもとりわけ基本法第2 条
第2項第1文の意味におけるそれーが問題となっている場合であっても、
―文法的解釈とならんでとりわけ歴史的および目的論的解釈といった―
法解釈の古典的な方法をもってこれを論証することがで きる(46)。その場合
でも、すでに未生の生命は国家の保護義務のもとにおかれているのであ
り(47)、またーなお広い範囲にわたって―胎児にもすでに基本権の担い
手としての特性が承認されなければならない、という帰結に至ることがあり
うる(48)。これによって獲得された基盤のうえであってさえ、しかし、原則
的に保障されている保護を、同様にすでに言及されている基本法第2条第2
項第3 文における法律の留保に基づいて―後に連邦大統領となったローマ
ン・ヘルツォークによって言い表されたように―「説得的な諸論拠から突
破する」ような(49)、先に示された立法者の権能が残されているのである。
276.
(45)これに対応して国法学者たちの間でさえ、彼らカーごく最近の Herdege%(Fn. 34) JZ
2001,778f. の事件におけるように―科学倫理学者から際立つことを試みるとき、(法)政策
上の諸検討はすでにもはや法解釈論上の論議にとどまっていない。「憲法解釈者の開かれた社
会(P.万乞 beγle )というこの次元では、もはや討議参加者の専門家の由来ではなく、論証の質
しか価値を持ちえないのである。
(46)たとえば、BVerfGE 39,1,36 ff. 参照。この関連における様々な解釈方法の比重判断につ
いては、多くに代えて、 R. Herz 昭, Der Verfassungsauftrag zum Schutze des ungeborenen
Lebens,JR 1969,5. 441-445(441 f.).
(47)現に、 BVerfGE 39,1,36 ff.;88,203,251 ff. もっともそこでは、月玉が基本権の担い手であ
るのかは、これまでのところ不問に付せられている。
(48)多くに代えて、また多くの出典を伴って、 Murswick,in:Sachs,GrundgesetZ (Fn. 18),
Art. 2 Rn. 146.
(49)これは、Heル 09 (Fn. 46),JR 1969,5. 444 における表現形式である。
256
これによって同時に、われわれは、原則的な生命保護を相対化するため
の、本来の決定的な問題、すなわちわれわれの社会のどのような根拠から原
則的な生命保護の相対化を「説得的である」と思わせるのか、という問題の
前に立たされているのである。遅くともこの評価的問題には、しかし、憲法
によってはもはや法的に必然的な仕方で答えることはできない。これによっ
て同時に、人の生命と、これと衝突している諸々の原理および利益との合理
的な衡量という原則が、唯一の基準値として残されることになるのであ
る(5の。
VI 一般的-実践的な討議一一倫理上の窮極的な
根拠づけの不可能性
憲法-法解釈論から一般的-政治的な討議への越境が、法理論上の諸々の衡
量に基づいて憲法上の拘東から解放されうると』思われるような相対主義への
引渡しとして理解されたとしても、それは驚くには当たらないであろう。と
ころで、ひとは生命保護の問題領域においては「原理主義者」であるか、そ
れとも「無定見」であるかのどちらかでしかありえないというのは、実際そ
の通りなのであろうか(
(51) 。この種の誤解に対しては、全く決然として、先
の叙述には、われわれが、はたしてまたどのように人の生命をわれわれの社
会において保護しようとしているのかということを問題とする場合に、われ
われが置かれている出発点となる立場の記述以上のものはさしあたり含まれ
てはいない、という指摘をもって対抗することができる。法の諸概念を現行
法がまさに明瞭に前もって与えておらず、それゆえ、評価による具体化を必
要としている場合、ひとは、 このような概念から憶測上の必然的な諸帰結を
引き出すのでなく、このことを率直に認めるべきである。
人の生命の保護に関してこのことが意味しているのは、先立って提示され
ている原則的な保護義務の彼方に、特殊法的な討議の領域が残されていると
(50)この考量の構想について詳しくは、 Alexy, Grundrechte (Fn. 23), S. 143 ff.; K. Hesse,
Grundzuge des Verfassungsrechts der Bundesrepublik Deutschland, 20. Aufi. Heidelberg
1995, Rn. 317ff.
(51) G. vo 冗 Ra れ dow, in: Die Zeit v. 28. 06. 01 (Nr. 27), S. 1 の(彼によって否認された)疑
間である。
第10章中間の道を求めて:原理主義と気憧との間
257
いうことに他ならない。しかし、その場合に問題になっているのは、もはや
素朴な解釈学( Hermeneutik) の意味において(表見的には)客観的に与えられ
ている憲法上の内実の解釈論的再構成ではありえず、実践理性に源を発し、
その正当性へ向けて検討しなければならないような価値的言明である(
52)0
そのさい、価値的言明をもって主張される一定の妥当要求の検討が、 一般的
な実践的討議において成し遂げられなければならないのは、自明のことであ
る(53)。
表見的に必然的な法的帰結を伴う概念上の確定に対するもうひとつの差異
が強調されるに値する。すなわち、「生命か、それともどのような生命でも
ないのか」という択一的配置にしたがい、思考作業が(あれか、それともこれ
かの帰結をもって)終了してしまうような見解とは異なり、月不の原理的な当保
護性の承認と共に本来の評価作業が始まる。すなわち、―原理的には排除
されていない―未生の生命の不可侵性は、逆方向にある諸々の原理および
利益を根拠に許容されるのか、またいつ許容されるのかという評価作業であ
る。そこでは、諸々の侵害を正当化するための根拠づけの負担から解放され
る代わりに、むしろその負担がいっそう高められさえするのである( 54)o
(52)H.-M. Pawlowski,Methodenlehre fur Juristen, 3. Aufl. Heidelberg 1999,Rn. 735 :「堕
胎が憲法上、許容されているのか否かを、基本法第2条も第1条も第6条も確定してはいな
い。堕胎を許容しているような法律の憲法違反性を確定するような判断は、憲法正文は(そし
て諸資料も)その他に何も提供していないことから、世界観的および政治的な諸理由(諸評
価)を根拠とする他はない。憲法は、妊娠中絶の(社会的な)問題性を規制する立法者の権限
を制限していない」という論定はきわめて明瞭である。また、 W Bn 稽曾eγ , Abtreibung-ein
Grundrecht oder ein Verbrechen?,NJW 1986,5. 896-901(900 f.);R. 2 伽 elius,Kommentar
zum Bonner Grundgesetz,73. Lieferung,Heidelberg 1995,Art. 1 Abs. 1 u. 2 Rn. 78 :「それ
ゆえ、新しい諸問題に結びついていることから、憲法からのたんなる解釈という方法でそれに
答えることは、それが倫理的に必要な細分化に至るまでいまだ論じ尽くされていないだけに、
いっそう困難である。このような問題で必要とされるのは、憲法解釈論ではなく、法政策であ
り、それゆえに開かれた社会において正当と認められるように、多数派の理性に導かれた法的
良,らに準拠しなければならない立法者なのである。」参照。
(53)これについて基本的なのは、 f Habermas,Wahrheitstheorien,in :H. Fahrenbach
(Hrsg.),Wirklichkeit und Reflexion,in:Festschrift fur Walter SchulZ,Pfullingen 1973,5.
211-265(220,250 ff.) .さらに、 ders.,Faktizitat und Geltung:Beitrage Zur Diskurstheorie
des Rechts und des demokratischen Rechtsstaats,2. Aufl. Frankfurt 1992,5. 277 ff. 法的な
討議と一般的な実践的討議との関係については、Ale,り, Theorie (Fn. 42),5. 324 f.,333f.,346
ff.,349ff. そこでは( 5. 161--177) 、真理理論としてのその要求における討議理論に対する批判
についても論じられている。
258
これに対して、原理主義的な諸見解の自負する難攻不落さこそが生命保護
のために優位を承認するに値すると考える者に対しては、認識論上の異論を
もって立ち向かわなければならないであろう。道徳上の根拠づけの枠内で、
抽象的な諸原理から必然的にどのような具体的事例にとっても規範的な基準
値を引き出すことができると信じている者は、その論証を、普遍性それ自体
を要求することができるような倫理学上の理論のうえに根拠づけなければな
らない。そのような理論の例が、カントの伝統における義務論上の諸々の倫
理学、宗教上の道徳論であり、さらには、そこからたしかに正しい行為と誤
った行為にとっての諸基準が帰結するとされるかぎりにおける、様々な形式
における功利主義である(55)。批判的合理主義の影響のもとに、普遍的かつ
客観的な真理の認識および証明可能性という認識論上の理想を放棄し
た((5の、一般的な科学理論と は異なって、倫理学の領域では様々な流派の多
くの提唱者によって、規範的な諸々の確信をある一定の理論に還元し、そこ
から究極的な根拠づけという意味においてそれを説明することが、いまなお
試みられている(57)。しかしながら、このような究極的根拠づけには―少
なくともポスト形而上学的思考の諸条件の下ではーどのような倫理学上の
理論も成功していない。極端な言い方をすると、原理主義的な諸見解は、認
(54)これに対応して、もっとも妊娠中絶と関係した基本権解釈上の見方からではあるが、w.
Hafling, Die Abtreibungsproblematik und das Grundrecht auf Leben, in:Thomas/Kiuth
(Fn. 13), S. 119-144 (123) げつまりは、ある基本権的構成要件との関連性を否認するために
狭い構成要件という根拠に立ち至る者にとって、憲法上の作業はすでに終わっているのであ
る。続く諸問題と根拠づけの負担を、彼は明らかに担っていない。これに対して、……表見的
保護……に達する者にとって憲法上の議論が、いまやはじめて本来的に始まる,のである。彼
は、基本権保護についてのひとつの断定的な判断を提示することができるというよりも、場合
によっては、逆方向にある諸々の原理と向き合い、おそらくは困難な考量と関わり合わなけれ
ばならないのである。] 参照。 Eser, Neuartige Bedrohungen (Fn. 6), S. 40 If. ,ならびに in:
Eser/Koch, Schwanger schaftsabbruch, Teil 3 (Fn. 4), S. 561 ff.
も参照。
(55)倫理学の様々なパラダイムについての概観として、 Nida-R 虎 melin, Theoretische und
angewandte Ethik, in:ders. (Hrsg.),Angewandte Ethik. Die Bereichsethiken und ihre
theoretische Fundierung. Emn Handbuch, Stuttgart 1996, 5. 7 ff.
(56)基本的なのは、K. 即加 er, Logik der Forschung, 10. Aufi. Tubingen 1994. 一般的な科学
理論の諸問題については、さらに、 G. Voilmer, Evolutionare Erkenntnistheorie, 4. Aufi.
Stuttgart 1987.
(57) Nida-R 庇 melin (Fn. 55), 5. 41 If. ,の所見。もっとも彼はそこで、「倫理学上の討議の原理
主義的極端性」を確認している。
第10章中間の道を求めて:原理主義と気億との間
259
識論的に見ればどのような原理も有してはいないのである。
他では、まさにーたとえば臨死介助の許容もしくは、妊娠が期待可能で
ない場合におけるような―特定の葛藤状況の限界的性質を顧慮すれば、
―道徳上の評価の出発点として疑いもなく正しい諸原理に立ち戻る代わり
に―状況倫理学上の考慮が、結局のところ適切でありうるのではないか、
という問題が提起されるべきであろう。オズヴァルド・シュヴェンマーによ
って適切に言い表されているように、われわれは、「それでもなお理論的に
先取りすることも完全にモデル化することもできないような生命現象に直面
した場合、……われわれの経験に支えられた判断力の衡量に差し向けられた
ままなのである」 (58) 。この点に関しては、ここでいま一度、リタ・ズュスム
ー「にとって彼女が仲裁して成立させた妊娠中絶における「第3 の道」とと
もに、特別な関心事であった問題領域に立ち返らなければならない。
VII 締め括りの事例:妊娠中絶における「中間の道」
原理主義と気僅との間の「中間の道」がどのような様相を呈しうるのか
を、われわれは、すでに冒頭で触れたマックス・プランク研究所の比較法的
-経験的プロジエクトの最終的な帰結として(59)「窮迫状態に方向づけられ
た対話モデル」(60)を基盤にしたひとつの規制提案に定式化することを通じ
て、試みた(
(61) 。そこでは、われわれにとって、憲法上の基準値を無視する
ことなく、しかし、―妊娠中絶のための規制モデルを必然的に憲法から引
き出すことができると考える解釈論的論証方法とは異なって―憲法をまさ
に一般的な政治的合意を必要としている評価にとっての憶測上の主証人とし
て煩わさない、ということが問題であった。
未生の生命の原則的な当保護性が問題になっている最初の評価次元では、
(58) 0. Schwemmer, Ethische Untersuchungen, RUckfragen zu einigen Grundbegriffen,
Frankfurt 1986, S. 88
59 先の Fn. 4 参照。
60
A. Eser/H.-G. Koch, Pladoyer fr emn )notlagenorientiertes Diskursmodefl(, in:
Eser/Koch, Neuregelung (Fn. 3),S. 173-226.
(61) Eser/K 加 h, Schwangerschaftsabbruch Teil 3 (Fn. 4),S. 609-620.
260
なお広い範囲にわたる意見の一致を確認することができるが、他方で、説得
的な諸々の根拠からどの範囲まで未生の生命の原理的な保護からの例外があ
りうるのかという問題とともに、ひとは衡量の次元に立たされることになる
のである。ここではーそれも全く連邦憲法裁判所の見方と同様に―人の
生命を保護する国家の義務を一方とし、生命および健康への婦人の基本権
(基本法第2 条第2 項)とその一般的な人格権(基本法第1 条第1 項と結びついた第
2条第1項)を他方とした、両者が向き合っているのであるが(62)、後者の諸
利益は、自律という概念に東ねることができる。そこで問題になっているの
は、婦人の自己決定権それ自体のためにというのではなく、そこに挙げた彼
女の諸権利・諸利益に対する自己答責的な主張なのである( 63)
衝突している諸利益の比重判定が問題になっているかぎりでいえば、この
次元での価値言明が分かれてい ること、そのさい、その規範的な妥当要求を
「より優れた論拠の強制なき力」(64)を通して、全員が納得のいく仕方で実行
することができたような見方を、これまで討議理論上の意味において結晶と
して取り出してこなかったということは、見過ごすことができない。この比
重判定に当たって顧慮されなければならない諸要素のなかから、ここで、私
にはきわめて重要であると思われる2つの要素だけを強調しておきた
い( 65)
第1 の要素は、ほとんど全く支配的な見解によって主張されてきた( 66)
未生の生命と既生の生命との等価性に関係しており、私自身もそこから出発
している。しかしながら私は、この間に、このように論定することには諸々
の理由から疑問があると思うようになってきた。それというのも、生命の具
(62) BVerIGE 88, 203, 254 参照。
(63)とくに妊娠論議において繰り返し論戦的な諸々の誤解にさらされたこ の内容に関係づけら
れた自律の概念について詳しくは、 A. Eser, Schwangerschaftsabbruch: Auf dem verfassungsgerichtlichen PrUfstand. Rechtsgutachten im Normenkontrollverfahren zum
Schwangeren- und Familienhilfegesetz von 1992, Baden-Baden 1994, S. 44 ff. 「上田健二訳
「試験台に立つドイツ妊娠中絶法」(同志社法学第227号(1992年))」
(64) Habermas, Schulz-Festschrift (Fn. 53),S. 240 参照。
(65)他では、 Eser, in: Eser/Koch: Schwangerschaftsabbruch Teil 3 (Fn. 4), S. 560 ff., 569
ff.参照。
(66) A . Eser,in: Sch6nke/Schroder, Strafgesetzbuch, 26. Aufi. MUnchen 2001, Vorbem. 9
vor 55 218 ff. における包括的な文献紹介を参照。
第10章中間の道を求めて:原理主義と気億との間261
体的-個別的な見方に有利な結果になるように、抽象的-一般的な見方から離
れるならば、法史および比較法上の理由も社会心理学上の理由も、その発育
の流れのなかではじめて人の生命の価値性が増大することから出発すべきこ
とに賛成しているからである(
(67)
第2 の視点は、それと比較可能な先鋭化された形では他のどのような人間
的葛藤状態にも目の当たりに見ることができないような、母と子との肉体的
な紳を理由に、そのつど一方の犠牲においてしか解決することができない、
連邦憲法裁判所によって「単一体における二体性( Zweiheit in Einheit) j(68 )と
して記述されたジレンマである。この特異な一回性において、未生の生命の
保護が、場合によっては―真剣に受け止められなければならない唯一の葛
藤の相手方としての―妊婦に対して、その期待不可能な例外状態の承認の
もとに撤回されてもよいとされる場合、このジレンマの回避を適切な衡量の
実行を通して求められるのは誰であるのか、妊婦自身か、それとも彼女の上
位に位置している審査機関か、という問題が提起される。ここで「中間の
道」は妊婦の最終的答責性に賛成するのである。しかしながらこれは「気
債」という意味においてではなく、同等の保護に値する未生の生命に対す
る、妊婦に期待される答責意識においてである。その さいとくに、未生の生
命の効果的な保護は、妊婦に衡量の必要性が意識され、彼女にこの最終決断
がゆだねられていることが多ければ多いほど、それだけいっそう彼女はこれ
を真剣に受け止めなければならないことになるというようなあり方で、妊婦
によって可能になる、という実際的な認識もまた、ひとつの役割を演じてい
るのである(
(69)
(67)この種の個別的な理由について詳しくは、 Eser, in: Eser/Koch, Schwangerschaftsab ・
bruch Teil 3 (Fn. 4), S. 577 If .私としては、それによってその諸々の段階づけとその理由を自
らのものにしようとしたわけではないカーとくに冒頭で批判的意味において紛れもなく、結
果志向的に論証しているとおりである―、ごく最近 Herdegen (Fn. 34), JZ 2001, S. 773 If.,
も、「人間の尊厳の段階づけられた保護」に賛意を表している。
(68) BVerIGE 88, 203, 252, 276. Mahrenholz/Sommer (BVerIGE 88, 341ff. )の少数意見は、
そこからさらに別段の帰結を導いている。「単一体における三体性」という視,点についての神
学的見方からする評価は、C. Creutz, Die )Zweiheit in Einheit( von Mutter und ungeborenem Kind, MUnster 1997 に見られる。
(69)この側面は、とくにリタ・ズュスムートの「第3の道」にとってひとつの役割を演じてい
る。 R. S如 muth (Fn. 2) ZRP 1990, S. 368 bzw. Tutzinger Materialien, S. 39, 42.
262
この種の「窮迫状態に方向づけられた対話モデル」は、抽象的-図式的な
考慮によって導かれているのではなく、むしろそれは、具体的な葛藤状況を
正当に評価しようと試みているのである。他の規範的諸科学のなかに並行す
る行為モデルを捜し求めるとすれば、哲学と神学において、道徳的に高く掲
げられた諸原理からでさえ、個別事例にとって無矛盾的にひとつの「正し
い」当為命題を導き出すことに成功していないよ うな諸々の状況が存在する
ことがありうるということを同様に強調している、かの状況倫理学に行き当
たる(70)。それゆえ、倫理学上のいっさいの決断にあって、状況に条件づけ
られた「変型」は、規範的ないしは「一般的な」定型と同様に重要であ
る(71)。とくにその直観論的な主観主義への悪化の危険という状況倫理学の
問題性は、たしかに常に意識されていなければならない(m。それにもかか
わらず、―まさに妊娠中絶と 臨死介助にかかわる医の倫理において争われ
ている諸領域におけるように―特定の狭く把握された限界領域において
は、個別事例において何が期待可能であるのか、期待可能でないのか、何が
正しいのか、何が誤っているのかを、苦もなく事前に、無関係な第3 者が、
確定することはできない、という認識に目を閉じることは許されないであろ
う(73)。
たとえ妊娠中絶の領域において最終的に法律になった「相談構想」が、と
くに窮迫状態への方向づけとその中絶医に対するその説明に関して見られる
ように(74)、様々な視点においてわれわれの「窮迫状態に方向づけられた対
(70)Br 婆碧 er (Fn. 52),NJW 1986,5. 900f. は正当にも、普遍主義的な、純粋に原理に方向づ
けられた態度の妊娠中絶問題における状況に関係づけられた衝突を指摘している。
(71)f FletCher,Moral ohne Normen?,Gutersloh 1967,5. 23 は、一般倫理学の見地からこの
ように言明している。特殊なキリスト教的な見方については、D. BO冗hoe施γ,Ethi k,2 . AufL
Munchen 1953,5. 14 f.,5. 161 ff. ,をも見よ。
(72)他の多くの文献指示を伴っている、 F. Fu 卿 r,Einfuhrung in die Moraltheologie,2.
Aulf. Darmstadt 1997,5. 193f. 参照。
(73)これについては、妊娠中絶についてのキリスト教・教義上の視点から、 K. Barth,Kirch-
liche Dogmatik,Bd. 111/4,Die Lehre von der Sch6pfung. Zurich 1951,5. 480 :「それらは稀
な状況になるであろう。……それらは、本来的にすべての関与者が大きな孤独のうちに神の前
に責めを負い、そこから彼らの決断を実行しなければならないような状況になるであろう。」
参照。 5. 482 をも参照。
(74)Eser/KOch,Schwangerschaftsabbruch Teil 3(Fn. 4),5. 614 ff.,(§§3,4)、さらにすで
に、Eser,Rechtsgutachten (Fn. 63),5. 53 ff.,83 ff.,100 ff.,110 ff. 参照。
第10章中間の道を求めて:原理主義と気儀との間263
話モデル」に比べて後退しているとしても、それでもこの「中間の道」は、
それが手続による正当化のひとつの特殊事例を表わしているという点で共通
している(75)。実質的-実体的な衡量が優位に値するような通常の事例が、規
制する国家が一定の衡量事項に関して認識論上の諸々の限界に行き当たるに
もかかわらず、しかし何らかの決定を断念することができないがゆえに、も
はやありえないところでは、手続を通して、またとくに相談を通して、真理
と正義の探究を確実にすることが試みられることになるのである(76)。これ
を基盤にして、もっともこの場合は何らかの手続を通してであるが、一貫し
て獲得された帰結は、もちろん法秩序によっても受け容れられなければなら
ない((77) 。これとともに「中間の道」は、「規範ないしは法律の理性は……そ
の諸原理の徹底性に義務づけられている個々人の道徳上の理性ではなく
……、その理由づけの偶然性を知っている政治上の理性であるーすでにそ
れだけの理由からしても、その拘束性を断念することはない」
(78)
という(多
元論的に方向づけられた)認識にも従っているのである。
VII!結
三五
口口
人間の尊厳の不可侵性あるいは生命の法的保護のいわゆる絶対性が疑間視
されざるをえない場合には、これらの原理的な価値を十分に真剣に受け止め
ていないという嫌疑に容易にさらされる。この種の想定は、個人的な道徳上
の確信が、多元的な社会の世俗的な法秩序へと変換されうるものよりも厳し
(75)これについて詳しくは、
W. Hassemer, Prozedurale Rechtfertigungen, in: H. DaublerGmelin (Hrsg.),Gegenrede:Aufklarung, Kritik, Offentlichkeit. Festschrift fur Mahrenholz, Baden-Baden 1994, S. 731-751 参照。
(76) A. Eser,Sanktionierung und Rechtfertigung durch Verfahren, in:Kritv-SonderheftWinfried Hassemer zum 60. Geburtstag, Baden-Baden 2000, S. 43-49 (45).
(77) BVerfGE 85, 203 の判決がその「違法であるが、しかし構成要件に該当しない」という解
決の,点で批判されなければならないとすれば、それはとりわけ、この判断がこの一歩を踏み出
すつもりがなかったからである。これに対する、規範の名宛人に対する透明な行動通知の側面
という観,点からの批判については、 A. Eser, Verhaltensregeln und Behandlungsnormen, in:
A. Eser/U. Schittenhe)m/H. Schumann (Hrsg.),Festschrift fur Th. Lenckner, Munchen
1998, 5. 25-54 参照。
(78)
Schwemmer (Fn. 58), 5. 99. (傍,点はすでに原典にある)
264
い場合には、それだけ重くのしかかってくるであろう。このような社会は、
それが絶対的な原理主義と原理なき気僅との間にひとつの中間の道を見出す
ことを心得ている場合にのみ、調和の取れた均衡を維持することができるで
あろう。おそらくはこのことこそが、結局のところ、唯一のまことに人間に
相応しいことでさえある。すなわち、ある普遍的なーしたがってまた必然
的に高度に抽象的な―人間像を追い求める代わ りに、可能なかぎり具体的
な人間の個人的な能カと確信とを正当に評価しているということである。
トーマス・マンは、『魔の山』のなかで、対立的な両極端のなかで演じら
れるナフタとセッテムブリーニとのヒューマニズム論争を、ハンス・カスト
ルプの眼に次のように見せている。「彼らは何でも極端にまでもってゆく
・……方で、それでも彼らには、あたかもどこかの真ん中に、……人間的な
ことまたは人間に相応しいことと して個人的に要求されてよいものが置かれ
ているにちがいないと思われたのである。」
人間的に相応しいものをその政治活動においてつねに獲得しようと努めて
きたこと、これこそ、リタ・ズュスムー「の少なからざる功績である。
第11章
第11章医事(刑)
医事(刑)法の/ぐースペクティブ
法のパースペクティブ
265
I 課題設定と目的設定
本稿のタイ「ルの奇異な枠組みによって何が重要であるかに関して驚く人
がいるとすれば、それは、私にとっては驚くほどのことではない。すなわ
ち、本稿は、いつもと同じような「医事刑法( Medizinstrafrecht) 」について
のみ論じるのではない。また他方で、医療行為に関わる法でもって特徴づけ
てきたような「医事法( Medizinrecht 」についてのみ論じるのでもない。む
しろ本稿は、なるほど、「医事(刑)法( Medizin (straf) recht) 」について論
じるが、しかしながらその際に、刑法は括弧に入れられる。
すでにそれによって、ここで、なるほど、重,点的に医事刑法が重要となら
ざるをえないが、このことは、通常重要であるほどに無条件というわけでは
ない。しかし、このような留保は、何なのであろうか。私は、医事刑法の将
来にわたり私にとって特に重要と思われるとりわけ2つの現象を取り上げた
しA。
ひとつは、刑法、民法、社会法、および公法といった様々な法学上の主要
領域によって多かれ少なかれ結び付きのないまま相互に運用されてきた従来
のセクト的医事法( sektorales Medizinrecht )を統合的医事法( integratives Medizinrecht )へと発展させるという原則的必然性である。このような包括的医
事法においては、当然ながら、医療と関連のある刑法もまた、依然として重
要な一言を述べるべきである。しかしながら、刑法は、セクト的独自性の中
に存在するのではなく、包括的医事法のひとつの統合的部分としてそうする
べきである。そのかぎりで、刑法は、依然として医事法に寄与すべきであ
る。しかしながら、刑法は、もはや独自の医事刑法としてではなく、―
「医事(刑)法」という括弧によって示されているようにーより大きな全
体の一部として医事法に寄与すべきである。私は、第3 部においてそのこと
266
について述べることにしよう。
明確に設定された(刑)法によって示唆されるべき他の現象は、ことによ
るともっと重要である。すなわち、刑法が長年にわたり医療行為について抜
きん出て演じてきた役割は、重要性を減じるように思われることである。し
かも、とりわけ、非刑法的規制、それどころか刑法以外のコントロール・メ
カニズムによってますます押しのけられることによって減じられるように』思
われることである。そこには、ただちに誤った展開を見いだすことはできな
い。しかし、おそらくこのことは、第4部において新たな課題を、そして第
5 部において医事(刑)法の限界が論じられることになるときに、心に留め
ておくべきであろう。
しかし、何よりもまず、過去を一瞥することが適切なように思われる。な
ぜなら、そうしなければ、一定の発展が現実に新たなものであるのか否か、
そしてどの程度にそうなのかを評価すること はできないからである。
II 医事法の展開の回顧
医の倫理は、長い伝統を振り返ることができ、その際、ここでは紀元前4
世紀以来の「ヒポクラテスの誓い」だけを想起すれば足りるが((1)、医事法
は、最近になって初めて創られたものであるように思われる。もちろん、民
法および刑法の中に医事法の起源があることを推定し、さらに19世紀後半以
前に遡る必要がないと主張されるとき、これは、―明らかに広く流布して
はいるカー誤った推測であり、何しろ現実に、公法の領域ではそうであっ
たのであり、今日の医事法の前近代的先駆者たちをそこに見いだすことがで
きるのである。なぜなら、ウィーンの医事法学者クリスチャン・コペッツキ
ー( Christian K ゆeたhi)によって再発見されたように((2)、ドイツ語圏では、す
(1)
このような医の倫理上重要であるとともに、その成立時および影響史に関して争いのあ
る、ヒポクラテス(およそ紀元前 460-370 年)の時代に由来するテギストについて、詳細はA.
Labisch /凡ル ul, Arztliche Gel6bnisse, in: W. Korff/L. Beck/P. Mikat (Hrsg.). Lexikon
der Bioethik, 1998, Band I ,S. 249-255 (249f. )参照。
(2)Ch. Kopetzki, Entwicklung des Medizinrechts:Buick uber die Grenzen, in:A. Eser/H.
Just/H.-G. Koch (Hrsg.),Perspektiven des Medizinrechts, 2004, S. 77, 78.
第11章医事(刑)法の/ぐースペクティブ
267
でに18世紀に、「医事政策( medizinis と he Polizey) 」という名称の下で定着した
科目が存在したのであり、それは、―今日の法医学の意味で理解される
べき「司法薬学( gerichtliche Arzneykunde)]
と並んで―中核においてすで
に、今日では医事法的なものとして資格づけられるようなすべての問題に専
念していたのである。例えば、18世紀末の、 2500 項目以上を含む有名なクリ
スチャン・フリードリヒ・ダニエル((Ch腐
万 房 の『国家薬学
tian Fried ch Da el)
叢書草稿( Entwurf einer Bibliothek der Staatarzneikunde) 』を一瞥すれば明らか
なように(
(3)、すでに当時、「医事政策」についての優れた文献がリストアッ
プできたのであり、そこでは、医業と療養所の職務法に紛れて、伝染病の法
的撲滅または患者の権利という今日でも通用する「 ポスの辛うじてひとつ
が、取り上げられているのである。確かに、そこでは法的観点と倫理的観点
と医学的観,点とが方法論上明確に区別されていないことが気にかかるかもし
れない。しかしながら、この点は、当時まだ医学と国家政策と行政法の境界
が流動的であったということから容易に説明することができるであろう。ま
た、そこには、衛生学上の戦略と行政法上の諸原則との間で当時の医事政策
学が揺れ動いていたことが表れているともいえる。
この種の医療職務学( medizinische Berufskunde )は法律学の1 分野というよ
り、むしろ医学の1 分野と考えられていたことを完全に度外視すると、当時
の医事裁判所法上は、医療従事者の公法上の地位が第1 次的な問題であり、
医療従事者と患者の関係はまだほとんど問題とされていなかった。それゆ
え、かの転換期における諸々の一般法において、医師のことがまったく定め
られていないも同然であることは、実際のところおそらく驚くべきことでは
ない。これは、近時、ベルントーリューディガー・ケルン( Bernd-R 癒如 r
Kern) (4 )が、 1794 年の「プロイセンー般ラント法( Aligemeine Landrecht fur die
preu 駈 schen Staaten) 」についてさえも確認せざるをえなかった,点であるー
この法典は、ありうべきあらゆる生活事態を約 19000 もの条項の中に事細か
(3)Ch. F. Daniel, Entwurf einer Bibliothek der Staatsarzneikunde oder der juristischen
Arzneikunde und medicinischen Polizey von ihrem Anfang bis auf das Jahr 1784, 1784.
(4)B.-R. Kern, Entwicklung des Medizinrechts:RUckblick und Bestandsaufnahme aus
der Sicht des Zivilrechts, in:A. Eser/H. Just/H.-G. Koch (Hrsg.), Perspektiven des
Medizinrechts, 2004, S. 55 .
268
に包摂していることでも知られているが、医師には単に3か所で注意を向け
ているにすぎず、しかも、それとて、医事法上、今日ではむしろ的外れと思
えるような状況を前提とするものなのである。医師は遺言状の作成に適した
人物であるものとする(第1編第12章第200条)、というのがそうであるーこ
れは、今日ではむしろ公証人の役割である⑤。さらに、例えば、臣民は、
「医師、外科医、産科医および助産婦の送迎」を行う義務を負うものとされ
る(第2編第7章第401条)―この特権を経済的見地からも「一般消費者」か
ら抜きん出た医師の自己理解の端緒と考える者も、あるいはいるかもしれな
い。それから、またもやかなり職務法的な規定なのだが、すでにむしろ未来
を写しているといえるようなものとして、医師は薬局を所有してはならな
い、医師は医薬品を加工してはならない、という規定が置かれていた(第2
編第8章468条、460条)。
民法および刑法において、このように驚くほどに長く広範囲にわたって医
師がーそしてそれゆえに患者もまた―等閑視されていたことに鑑みる
と、 1532 年のカロリナ刑法典( Constitutio Criminalis Carolina )にますます強
い光が当たる。その第134条によれば、医師は、「「彼が」医薬品を軽率で無
思慮に濫用し、または理由なく、認可なしに医薬品……を自己の管理下に置
いたにと によって」」、ある人を「勤勉さもしくは技術を欠いた」ために、
だが「故意によらずにその医薬品で死なせる」場合、処罰されうるのであ
る((6)。本条によって、少なくとも医師による技術上の過誤と濫用的な治療行
為への闘いが宣言されているが、その際に、患者の福祉と並んで、すでにそ
の意思までもが視野に入れられるところまではいかなかった。いずれにせ
よ、この比較的初期の刑法上の保護規定からすると、19世紀の幕開けととも
に医師の治療行為と患者の保護利益をめぐる法的な議論が始まるときにその
地平となったのが、民法ではなく刑法であったことが説明できる⑦。そのう
(5) しかし、少なくとも、危急時遺言状の作成(民法典2249条から2252条)に関する一定の知
識については、今日でも病院勤務医が当てにされている。
F. Pfl 智er, Krankenhaushaftung
und Organisationsverschulden, 2002, S. 225 参照。
(6) 本条では、この他、医薬品の使用に習熟せずにそれを使用する「軽率な人」も処罰され
る。最後に、本条は、死を意図的に惹起した医師は 「故意の謀殺者」として処罰されうること
をも明らかにしている。
第11章医事(刑)法の/ぐースペクティブ
269
え、医師の行為の正当性を多かれ少なかれ公的である職務法によって根拠づ
けること(
(8)から一層距離を置くかぎりで、医学的処置の適法性または違法
性を、刑法の領域それ自体についてだけではなく、その他の医事法的な部分
領域についても、一般的な刑法上の保護法益に照らして判断するのが自然で
あることになる。それゆえ、当時―主として医師に向けられていたことか
らーいわゆる「医師法(
(Arztrecht) 」の大家として、20世紀中頃までに、
とりわけエベルハルト・シュミッ「
(Eberhard Schmidt)
、カール・エンギッ
シュ( Karl E 智isch), 1 ぐウル・ボッケルマン( Paul Bockelmα れn) といった刑法
学者を見いだしうることは、偶然ではないのである⑨。
しかしながら、こうした医師刑法の主導的役割には、 1900 年の民法典施行
後、民法に定位した医師法が一層強力な競争相手として登場すること になっ
た。民法典が医師に明示的に言及することはなくとも、本来刑法上のもので
ある技術過誤概念がただちに債務法に転用されたことによって、損害賠償の
可能性が患者に開かれることになったし、同様の損害賠償は説明義務違反に
ついても認められた(1の。この点で、帝国大審院の2つの画期的な判決に言
及しないわけにはいかないであろう。ひとつは、 1894 年5 月31日の刑事部判
決(
(RGSt25, 375) である。本判決では、治療行為の正当化には患者の同意が
必要であると宣言されることによって、患者の意思の尊重に本質的な重要性
が付与されている。もうひとつは、 1912 年3 月1 日の民事部の判決( RGZ78,
である。本判決は、―少なくとも原則的に―患者の同意が有効と
432)
なるには医師による説明が要件とされるとし、本件では否定しているもの
の、説明が欠ける場合について損害賠償義務を排除していない。
このような刑法的および民法的な主要セクトでは、医師の行為の一般的な
正当性、患者の保護利益、および逸脱行動がある場合における相応の制裁が
(7)
Kern (前出注 4), S. 571 .参照。
(8) このことをすでに 1894 年にきっぱりと、しかも―最後に判明するように―完全に拒否
するのが、別の理由からも強調されるべき帝国大審院刑事判決( RGSt25, 375, 3791. )である。
(9)この点について、詳細は A. Eser, Beobachtungen zum ,,Weg der Forschung" im Recht
der Medizin, in:A, Eser (Hrsg.),Recht und Medizin. Wege der Forschung, 1990, S. 1-24
およびそれに続いて掲載されている代表的な医事法文献( S. 43-412) ならびに文献目録(S.
423-428 )参照。
(10)この点および以下の,点については、 Kern (前出注 4), 5.571. 参照。
2スフ
特に問題とされるわけだが、これらのセク「と並んで、―一部はこれら
と同時並行的に―少なからぬ重要性を有する医事法的な領域が展開してき
た。
このような展開は、ひとつには、例えば、刑法が、安楽死、自殺、断種お
よび人工妊娠中絶という医学的な諸問題に重点的に取り組み、さらには、臓
器移植や人体実験、あるいは近年に至り生殖医学や遺伝子工学という諸問題
にまで注意を向けることによって、上述した2 つの法的セク「そのものの内
部において認められる。特に断種および生殖医学のような部分的に同一の間
題領域について、失敗に対する責任、未成年者の場合の同意の特殊性または
家族法上の扶養義務が問題とされるときには、民法的な視点から同じことが
行われている。もちろん、この,点は、治療契約、および医師側での不完全な
履行または患者側での報酬支払の拒絶によるありうべき契約違反という本来
的な民法上の問題にもいえるこ とである。その間に、これらの領域の大部分
において、一部では僅かに、関係する「専門家」だけが実際に見通すことが
できるような、ある種の「特殊解釈学」が形成されてきた。
、多かれ少なかれ同時的に刑法および民法の外部で形成されてきた医事法的
セクトには、こうした事情がより強く当てはまる。19世紀までの医事法は、
上述のように、どちらかといえば公法の分野であったが、それでも、行政法
的な医事法は、例えば、薬事法が制定されたこと、情報保護が講じられたこ
と、医師でない者による医業の認可条件について命令が発せられたこと、お
よび公的な保健法のようなものがそもそも初めて創り出されたこと、これら
のことが可能になったことで20世紀後半に初めて咲き誇るに至ったといえよ
う(11)。この事態は、社会法と社会保険法がなければ起こりえなかったに違
いなく、これらは明らかに、医事法の中にとどまることなく浸透してい
る((12) 。こうして、一方では、確かに、ともかく初めて医療扶助が保障され
(11)その間に実現された状態については、 H.-D. Lippert, Entwicklung des Medizinrechts
aus der Sicht des ひ ffentlichen Rechts, in:A. Eser/H.Just/H.-G. Koch(Hrsg.),Perspe
ktiven des Medizinrechts, 2004, S. 37, 39ff. 参照。
(12)この,点および特に、19世紀の幕開けとともに導入された法律上の健康保険ならびにその医
師への義務づけが果たした役割について、詳細は 0. Seewald, Entwicklung des Medizinrechts aus sozialrechtlicher Sicht, in:A. Eser/H. Just/H.-G. Koch(Hrsg.),Perspektiven
第11章医事(刑)法のパースペクティブ
271
ることにより患者に恩恵がもたらされ、そしてまた、社会保険制度によって
医師の大部分が生活の基盤を保護されることになるがゆえに、医師にも恩恵
がもたらされる。しかし、他方で、その際、かつては個人的なものであった
医師・患者関係が、ますます濃密に社会法的に覆われることにより、いわば
「社会化」されてしまうことを見逃してはならない。
このような医事法の展開の回顧を完全なものにするには、とりわけ医師の
職務法(
(13)のような他の側面に関する説明も必要であることは否めないもの
の、示すべきことは、さしあたり明らかになったというべきであろう。すな
わち、手近にある特定の個別問題はすべからく、様々な法律上の主要領域か
ら対応されているのである。しかしながら、これによると、図 1 (29 頁:本
書290頁)からわかるように、医事法が分割されてしまう。すなわち、民法学
者が債務法および治療契約の問題に取り組むとともに、治療行為概念、説明
と同意、そしてまた過失といった関連する基本問題を民法上の視点から考察
するのに対して、刑法学者は、人工妊娠中絶、臨死介助または機密保持とい
う諸問題に取り組むときにも、〔治療行為概念などの」部分的に同一の問題
を刑法上の視点から捉えがちなのである。あるいは、公法学者が、第1 次的
には認可問題、薬剤コン「ロール、情報保護および予算問題に気を配るのに
対して、社会法学者によると、部分的に同一の問題が保険法と扶助法の視点
から論じられるのである。
しかしながら、様々な法律上の各部分領域の視,点からなされる医学的な事
柄へのこうした取組みには、共通の円心が欠けている。すなわち、個々の部
分がばらばらに並存しているのである。かくして、医事法をこのようにセク
ト的に分解するところにとどまるべきか、という未来の間いが設定されるこ
とになる。 私の考えは、否、であり、私はこれを簡潔に根拠づけてみたい。
なぜなら、従来のセク「的医事法を統合的医事法へ向かって乗り越えること
は、当然ながら医事法をーその課題と限界を含めてーさらに展開するた
des Medizinrechts, 20 叫, S. 37, 39ff. 参照。
(13 )この,点について、詳細はR. Hess, Richtlinien, Berufstandische, in:A. Eser/M. v.
Lutterotti/P. Sporken (Hrsg.),Lexikon Medizin-Ethik-Recht, 1989, S. 943-950, H. Narr,
Arztliches Berufsrecht, 15. Erganzungslieferung 2002.
272
めにも根本的に重要性なことだからである。
III
セクト的医事法から統合的医事法へ( 14)
法学的な医師法のセクト的段階においても、比較を踏まえた、完全とまで
はいえないが共通性のある判断を可能とするような問題設定一一多IIえば、医
師による説明と患者の同意という刑法と民法にとって同等の重要性を有する
要件はそもそもどのようなものであるのか、あるいはそもそも適法な治療行
為はどのように理解されるものであるのかーをすることは、十分に可能で
あったし、それは今でもそうである。しかしながら、刑法と民法とをこのよ
うに架橋しうる議論が行われることはなかった。この,点は、公法と社会法を
念頭に置いても同様に確認できることである。すなわち、医事刑法的な問題
設定のための新たなセク「が、医業の認可、医薬品検査、情報保護またはコ
ス「削減という公法上の諸問題を契機として開拓されたことは確かであり、
同じく、それが保険問題と扶助問題を念頭に置くと社会法を通じて行われた
ことも確かなのであるが、しか し、その場合にも、その都度ばらばらな専門
領域特有の考察にとどまっており、深層に存在しうる共通の問題設定が目に
とまるには至らなかったのである。
領域内的に( intradisziplin 訂)視野がセクト的に狭められたままでいるな
ら、全体の鳥轍が学際的な( interdiszi 叫n証)視,点からなされる見込みは、ま
すます薄くなる。しかし、それでも、図 2 (30 頁:本書291頁)において法領
域間に加えられた学間領域から看取されるように、法学外の専門領域のもの
の見方をも開拓することは、ますます多くの成功を収めきた。すなわち、そ
こでは、医療倫理と医師の職業規則が特別な仕方で刑法と密接な関係に立つ
ものの、それらは公法にとっても重要であるのに対して、経済は、公法と民
法の間にその第1 次的な場を占め、とりわけ、社会医学が社会法にとって有
する重要性に及ぶとはいわないまでも、そうなのである。他方、精神医学と
(14)以下の叙述は、私がすでに 1996 年に国際的・学際的コロキウムで展開したものをアップ・
デー「して再論するものであり、このタイトルですでにA. Eser/H. Just/H.-G. Koch
(Hrsg.), Perspektiven des Medizinrechts, 20
叫,
S. 247-253 に掲載されている。
第11章医事(刑)法のパースペクティブ
273
法医学は、社会法および刑法と最も多くの接点を有するといえよう。
しかし、このような学際的な視野の拡大によって得られる認識でさえ、法
学外のパースペクティブがセクト的な法的専門領域とのセク「的な結び付き
に囚われたままでいるならば、ほとんど活かされることはない。それによっ
て、紋切り型の法的なものの見方がさらに学際的にも強化される、というだ
けではない。むしろ、それによってさらに、様々な専門化された法学の視点
からは捉えることができなかった問題を学んだ関係を、例えば、民事責任、
刑法上の制裁可能性、社会法上の義務のいずれが問題となるかに応じて、未
成年者に対する医師の責任を「分割」するという、医療倫理的な視,点からす
るとほとんどありえないようなそれを、法学外の領域という上位の視点から
発見する機会を逸することにもなるのである。
法と医学の境界を跨いだ諸問題を処理するにあたり諸々の「古典的」法学
者がその専門領域の拡張によって獲得してきた利益がどれほどあるにせよ、
そしてまた、専門特有の焦,点化から将来も引き続き得られるであろう意義が
どれほどあるにせよ、この種のセクト的アプローチは、最終目標ではありえ
ない。最終目標はむしろ、独自の医事法に存するのでなければならない。こ
れによって、図 3 (31 頁:本書291頁)が暗示するように、固有の中心点が形
成され、そこから外側へ放射して古典的な主要領域の各関連部分を統合する
ことが試みられるとともに、関連部分側でも融合が試みられることになるの
である。
これまで述べてきたことからでも、次の点が十分明らかになったはずであ
ろう。すなわち、自主的に展開されるべき医事法において重要なのは、その
自己目的的な〔他領域との)同権化( Emanzipierung )ではなく、包括的であ
るとともに一貫した形で、常に複合的に生成する生活領域が法理論的に再検
討され、法政策的に導かれ、とりわけ経験的・法倫理的にもより大きな脈絡
の中に位置づけられることになるような方法で、法領域への要求を満たしう
るか、ということなのである。そのような課題が、法と医学の境界を跨いだ
領域から遠く離れたところに自己固有の重点を有する法的な個別領域のばら
ばらでセクト的な付属物「の集合」によって、長期的にみて実現不可能なも
のであることは、明らかである。この不可能性は、いくつかの,点で示され
274
1 専門的に:円心からの医事法的鳥臓
医事法が固有の領域上の中心点が欠くがゆえに、その都度単にその他の主
要領域の視点のみから運用されているうちは、様々な古典的法領域にとって
等しく重要性を有する問題設定が、その都度単に分割的な仕方でのみ、それ
ゆえ全体的でない仕方でのみ光が当てられるにとどまり、それによって、結
局その十分な複合性に照らした解決がなされない危険がある。
例えば、医師の治療行為の枠内での未成年者の役割がその社会法的な利害
を含めて問題とされる場合、当然、それに関係するあらゆる法領域の視点か
ら個々の解答を得ることができる。しかしながら、このことが、―ー伝統的
にそうであったように―〔領域相互間の〕領域内的な調整なしに行われ、
そのうえ稀なことではないのだが、様々な専門家によってさらに人的にも行
われているうちは、利益状況の、表面には現れない全体性を、あるいはまた
その隠れた相違を発見することを可能とするような重要な問題把握が欠ける
のである。
これと同じことは、例えば、説明と同意、立証責任の分配といった問題、
あるいはまた、例えば、遷延性植物状態にある患者の治療のような特殊な医
学的状況に関わる問題についてもいえる。もちろん、「人間の生命」の理解
への根源的な問い、とりわけその始まり―受精、着床、出生またはその他
の何かによって確定されるのが常であるーだけではなく、 その終馬―死
およびその規範的な定義と経験的・医学的な証明によるーが様々に解答さ
るものであるということは、いうまでもない。例えば、後者の問題に、様々
な法的個別領域がその都度多少とも寄与できる場合でさえ、ばらばらな見方
によるならば、制約なく見通したり、見晴らしたりするといった、十分な間
題把握にとって必要であるとともに、とりわけ法的ルールに関わる者もまた
果たさなければならないようなことは、なお決して保障されることがないの
である。あるいは、法律家は、例えば、説明と同意の内容についての、また
は医師の技術に関わるルールへの要求についての間いに対して、刑法および
民法の視点から異なる解答を得ることをそれほど厭わないかもしれないが、
第11章医事(刑)法のパースペクティブ
275
それでも、このことは、医師を困惑させざるをえない。その主な理由は、医
師に期待される注意が民法と刑法のいずれから導かれるのか、そしてそれに
応じて注意の厳格さが違ってくるのかは、医師にとって最終的にはまったく
どうでもよいことでありうる、という,点にある。すなわち、医師には明確な
行動ルールが必要なのであり、それがどこに組み込まれているかは重要でな
いのである。これと類似することだが、様々な法領域から患者に提供される
個別的な情報を、患者が、全体的な脈絡の中で見通すことができず、さら
に、当該情報が自分自身の行動と予想にいかなる影響を実際に及ぼすのかを
見通すこともできない場合、それは、患者への説明に寄与するというより
も、患者を不安させることに寄与するものなのである。
遷延性植物状態の患者の場合にあるような一定の特殊な問題状況、あるい
は特に生殖医学およびバイオテクノロジーの分野において見られるような新
たな医学的発展についても、それに単にセクト的にアプローチするだけで
は、首尾よく処理することはできない。前者の例において、臨死介助の一般
原理へと純粋に刑法的に定位するなら、無制限に要請されていると思える生
命維持の社会法上の効果およびコス「に関わる事後負担を見誤りかねない
し、この,点は、逆に第1 次的に保健法上のコス「削減に定位した考え方が、
それに関わる個々人の人間的側面を視界から消失させてしまう可能性がある
のと少しも変わらない。生殖医学の分野においても、婚姻法・家族法上の血
統および扶養に関わる側面、私法上の債務問題、一般的な説明・同意要件と
特殊なそれ、後見法上の手続、保険法上の補償問題、行政法上の広告禁止か
ら、升0法による産出禁止および利用禁止に至るまでを通覧することなしに
は、十分な問題把握が保障されることはありえない。このときに多くの法律
家によって各々の専門特有の個別知識が提供されるかもしれないが、それで
も、部分の単なる組合わせから確かな全体像が難なく導かれることはないの
である。
2 人的に:領域内的な医事法学者
一般の民法、刑法、行政法、社会法またはその他の法的な個別領域に軸足
を置く法律家によるこのような全医事法的な通覧を期待することは、完全に
276
幻想に基づくものである。確かに、今日でも、その時代の本質的な知識の理
解を可能にする医師法百科事典が出されることは、なおあるかもしれな
い((15) 。しかし、その場合でさえ、仔細に見れば、専門化された基本領域へ
の一定の傾斜があることを、見誤ることはできない―医事法の全体を表向
きはきわめて調和的であるかのように描写することによっても、諸問題をモ
ノグラフ的に詳細に取り扱うことを代替するのは不可能だということは、い
うまでもないことである。しかし、医学的な事実関係の複合性が高まってき
ていること踏まえると、医事法をセクト的に狭められた仕方で単に他の専門
領域の附属物としてのみ運用することに慣れ親しんできた者では、このよう
な取扱いを行うことは不可能なのである。
この人的な側面は、過小評価されるべきではない。様々な法的専門領域が
いつの間にか、それに関係する現役の研究者または実務家でさえ 自己の主要
専門領域ですら見通すことをほとんど不可能にするほどの細分化と特殊化を
達成し、多量の情報の集めた後では、単に自身の主要領域を医事法的な問題
設定の中へと拡張するだけでも、知的能力の限界に達する可能性がある。そ
うだとすれば、こうしたセク「的なアプローチにとどまらず、その他のー
あるいはすべてのーーイ固別領域の視点から専門的に問題を把握することに期
待を寄せようとするなら、それは、ディレ ッタンティズムへの誘惑にほかな
らない。しかし、真撃であるべき医事法学が、これに満足することは許され
ないのである。
しかしながら、問題は、かなりの専門知識を備えた法律家でさえ、自己の
重,点分野を超えてその資料を理解し、処理することができる事柄の範囲が限
られているということだけではない。むしろ、彼らは、きわめて自己批判的
に方法論上の自覚を持つ場合でさえ、医事法的な問題設定をその都度自己の
主要領域の視点から見ることによって、その視点の特性ゆえに事と次第によ
るとそうした問題設定をやり損なう危険に対して、抵抗力を備えていないの
(15)例えば、ドイ、ソについては、 A. Laufs/ W. Uhlenbruck, Handbuch des Arztrechts, 3
Aufi. 2002 ,オーストリアについては、 K. Stellamor/J. W. Stei れ er, Handbuch des 6 sterrei
chischen Arztrechts, 2 Bande, Wien 1999 ,スイスについては、H.石勿冗 sell, Handbuch des
Arztrechts. Zurich 1994 参照。
第11章医事(刑)法の/ぐースペクティブ
277
である。セク「的医事法のこのような根本的な弱,点は、すぐ後にいま1 度取
り上げられるであろう。
個々の専門家によって、その都度個人的な利益と親和的な問題設定だけが
取り上げられることで、場合によると一定の問題領域が完全に等閑視されて
しまうという、同様にセク「的で人的なものに起因する危険性は、僅かとは
いい難い。確かに、特定の分野の選択と取扱いが、とりわけ個々の研究者の
利益によって左右されると いうことは、これ以外でも学間の世界では決して
珍しいことではない。しかしながら、ここで問題としているのは、ある医事
法上の問題領域が別のそれよりも多くの注意を惹くのが一時的であるという
ことだけではない。セク「的に視界を狭め、遮断する場合、一定の問題設定
が、文字通り2 つの領域の間を(通り抜けて)落ちてしまうために、正しく選
択されることさえなく、いわんや取り扱われることもない、ということもま
た問題となるのである。医事法を、他の領域からいわばセクト管( sektorale
R め ren) を通して把握しようとするのではなく、それ固有の中心的な課題領
域から展開させようとするなら、このような捉えようのない中間領域が生ず
る余地は、まったく存在しないのである。
3 方法論的に:固有の医事法理論
外側からではなく内側から医事法を発展させることは、とりわけ固有の医
事法的な方法論を展開するためには根本的に重要なことである。例えば、有
効な同意の要件を、単に、その都度の医学特有の利害がせいぜいのところ末
梢的なものとして注目を浴びうるにとどまる一般の刑法または民法上の同意
ルールの、ことによると特異ですらあるとまではいわないけれども、特殊で
はある適用問題としてのみ把握するのかそれとも、医学的な生活状況を出発
点としつつ、患者が自己の福祉と意』思を保護され、医師が民事責任と刑事訴
追のいずれも懸念する必要がなくなり、社会法および保険法上の利益が守ら
れ、行政的な利益が充足され、そしてまた、様々な法領域に接するその他の
医学的現象も、中心点から関係する様々な法領域へとその都度放射されるこ
とによって探求され、当該現象「に関する判断・理解)が―終局的には全
体的なものとして本質的に―互いに調和させられるようにするために、い
278
かなる要件が適切であるかを間うのかは、ともかく違うのである。しかし、
これは、領域を超越した( transdisziplin 谷r) 特殊な医学的・法学的な方法論な
くしては、行うことができないのである。
4 領域を超越して:境界を跨いだ学間の導入
様々な(図 2 [30 頁:本書291頁」から看取されうる)法律学以外の学間が取り
入れられるべきであるが、だからこそ、このような独自の医事法理論の必要
性がますます大きくなるのである。治療中止の可能性と限界をめぐる問題に
は、升0法的な側面だけではなく、職務法的な側面および医師法的な側面もあ
るし、そこでは、さらに、家族の利害を考慮して、家族法および世話法の知
見とならんで、とりわけ心理学の知見も必要となりうる。そのためにも、そ
の他のものの見方をさらに加えて並置するというだけでは十分とはいえず、
むしろ、様々な領域の相応の予備知識を用いた固有の統合的方法論が必要と
なるのである。
5 制度的に:アカデミックな確立
このような統合的医事法を観念的に展開するためだけではなく、現実に確
立するためにも、とりわけ相応の制度的基盤が創設されなければならない。
そのためには、民法学者、刑法学者、公法学者および社会法学者が、医事法
上の問題についても自己の専門領域から論じるかぎりで医事法関係の諸学会
に集まり、そこで医事法をセクト的にのみ運用するというだけでは十分とは
いえないのであり、 同様に医事法関係の雑誌も、それがいかに称賛に値する
ものでありうるにせよ、単にセクト的な論稿によるだけではもはや、追求さ
れた統合を成し遂げることはできないのである。セクト的な医事法教育にも
同じことがいえる。これによると、終局的にそれに至るべき全体の鳥轍が、
依然として聴講者頼みのままなのである。これら視野の狭いやり方では、医
事法を領域的な,点でも人的な,点でも制度化しうるような医事法の統合は、実
現されえないのである。
専門〔領域」的な点で重要なのは、他の主要領域の専門家がもたらす多か
れ少なかれ偶然的な医事法上の利益のおかげで自己の存在が可能となり、そ
第11章医事(刑)法のパースペクティブ
279
れに応じて、その他の一領域の単なる周辺領域として運用される、というの
ではなく、自己の存在理由を自主的に備え、自己の範囲と方法論のいずれに
ついても自主的に展開する、そのような独自の領域として、医事法を確立す
ることである。これは、医事法が法学部のカリギュラムの中で固有のアカデ
ミックな場を占めなければならず、それに対応するためも、できるかぎり
〔科目として〕設けられるべきである、ということを意味する。
医事法のこうした独自性は、人的な,点でも、主に医事法を専門とする者に
よって示されなければならない。医事法が統合的に理解され、運用されるべ
きであるなら、それをその他の主要領域の単なる附属部分とすることは、場
合によってはその専門領域に過大な要求を課すことになるという理由だけで
ももはや不可能なのであって、医事法は、関係する専門家の中心に立たなけ
ればならないのである。加えて、追及されるべき統合は、セクト的な個別領
域の同権化なしには、ほとんど期待することができない。それゆえ、将来の
医事法学者は、少なくとも、彼らが法と医学の境界を跨いだ諸問題において
全体像を獲得することができるようになるくらいにまで、様々な法的個別領
域に精通していなければならない。そのため、個別のケースにおいてセクト
的な領域の専門知識を追加する必要が生じる場合でさ え、医事法学者は、
様々な個別領域の問題設定を見抜き、―必要とあれば専門家に相談しつつ
―全体的解決を見いだすことができるようになるというかぎりで、法学分
野の「ジェネラリス「」であらねばならない。そのため、われわれは、セク
ト横断的であるとともに、法律外の問題設定にも開かれた医事法学者を必要
としているのである(
(16)
Iv 医事刑法の新たな問題領域
しかしながら、このように統合的医事法に賛成するからといって、それを
(16)
一
G.
そのほかの関連する側面については、「統合的医事法への挑戦」という部に掲載されたH
コッホ、
Ch.
コペッツキー、
J.
タウピッツおよび H . ヘルムヒエンの論文および意見(A.
Eser/H.Just/H.-G. Koch (Hrsg.),Perspektiven des Medizinrechts, 2004, S. 257 (Koch),
273 (Helmchen), 277 (K 叩 etzki), 285 (Ta ゆ itz) )をも参照。
280
決して、あたかも医学と法の境界を跨いだ領域にはもはや特殊刑法的な問題
が存在しないかのように理解してはならない。なぜなら、統合. (Integration )とは、止揚(
(Aufhebung )ではなく、単により大きな全体への包摂を意
味するにすぎないからである。それゆえ、医事刑法は、余計なものとなりつ
つあるのでは決してなく、、―反対に―新たな問題領域の前に立たされて
いることが分かるのである。
目下議論されている特殊刑法的な医学的問題領域を見通すために、それに
関連する雑誌を渉猟することが容易に想起された。しかし、結果的に、それ
は、必ずしも実り豊かなものではなかった。ここ7年( 1995 年から 2001 年)分
の「全刑法雑誌( Zeitschrift
fur die gesamte Strafrechtswissenschaft)J―
した
がってドイツ刑法のいわば中枢器官―では、同意、機密保持、臨死介助お
よび ドーピングに関する論文が散発的にのみ見いだされるにすぎないのであ
る。同様のテーマは、指導的な一般誌である「医事法( Medezinrecht) 」の
2002 年2 月までを含めた 2001 年分でも取り上げられており、そこではさら
に、同意、救急医療と犯罪者に対する医療( Tatermedizin) 、人に対する研
究、それから、とりわけ第三者資金を用いた研究の範囲内での詐欺および汚
職といった問題も、ときおり注意を向けられていた。しかしながら、これら
刑法に関する論文は、「医事法」という雑誌の中で民法および社会法上の間
題について論じているものと比べると、ほんの僅かにすぎない。かくして、
一般的な問題意識の指標としての雑誌掲載論文の意義を過小評価するつもり
はないけれども、目下公表されているものよりも多少視野を広げ、医学と法
の境界を跨いだ領域において、ほかならぬ刑法に新たな挑戦状を突きつける
可能性のある問題を発見することが適切であるように思われる。これは、
―境界は流動的であるが一一特に以下の3点において認められる。
1 伝統的な犯罪構成要件の範囲において
この,点で重要なのは、現行の犯罪構成要件が部分的に新たな保護利益を捕
捉し、場合によっては排除し、あるいは修正して取り扱わなければならない
のかどうか、もしそうだとしてどの範囲でそうであるのか、という問題であ
る。この,点につき、完壁を期することを断念して、とりわけ次のような諸現
第11章医事(刑)法のパースペクティブ
281
象を考えることができる。
a) 「古典的な」治療的侵襲の領域―この点についてドイツ法上は刑法
223条―に関していえば、美容整形のための侵襲と性転換のいずれについ
ても、そのような侵襲が精神的苦痛の除去に資するものとなればなるほど、
新たに評価を加える必要性は大きくなるであろう。その際には、侵害から保
護されるべき健康に関するこれまでの肉体一辺倒の理解が、外見的特徴に起
因する精神的苦痛もまた刑法上重要な疾患としての価値を有しえないのか、
という観点から吟味されなければならないであろう。
スポーツでのドーピングもまた、とりわけそれに未成年の選手が関わる場
合には、
2002 年冬季ソルトレイクシティ・オリンピックのドーピング騒動以
降は、ますます切実に可罰的な傷害罪の問題状況を内包したものとなってい
る。
しかし、このような構成要件にかかわる新たな問題と並んで、一般的な注
意の標準もまた、医療上の作為および不作為の場合に、次第に困難さを増し
つつある問題の前に立たされていることがわかる。すなわち、例えば、コス
「削減という理由から、具体的には指示された定額報酬または予算のため
に、一定の薬剤を処方し、または一定の新規治療法を投入することが許され
ない場合、あるいは労働法が一定の最高労働時間および休憩時間の遵守を
〔医師等に〕強制する場合、これまで個々の患者の必要と最善の治療の投入
を旨としていた注意の標準も、何らかの影響を受けざるをえないのである。
さらに、刑法、公法、労働法/社会法といった様々な個別領域がこのように
交差する箇所においてこそ、セクト的な視野の縮小の不十分さが、ただちに
判明する。明らかにますます距離を伸ばしている「遠隔医療(
(Telemedizin) 」の刑法上の含意もまた、ほとんど認識されておらず、いわんや解明さ
れてもいない。
b) 主として治療行為にとって重要なものである傷害構成要件以外でも、
医師がますます多くの刑事責任に直面していることがわかる。例えば、同意
を拒絶する者または完全に同意能力のない者を医師が援助して入院させ、か
つ/または強制治療を施す場合がそうであり、そこでは、身体統一性の侵害
とならんで、(特に刑法240条の強要罪のような)自由に対する罪の問題もまた、
282
設定され余地がある。
同様に、ある感染症患者が、(エイズの場合にはとりわけ先鋭化するのだが)配
偶者またはその他の性的/ぐートナーに自己の感染を知らせることに消極的で
あり、その代わりに医師が、危殆化される人物に説明する義務があると感じ
る場合には、医師の職務上の秘密の保持(刑法203条1 項1 号)も問題となる余
地がある。
c) 上記の諸事例では、どちらかといえば通常は医師特有の処罰リスクが問
題となるのかもしれないが、その一方で、医師は、とりわけ決算制度の枠内
での詐欺のような日常的犯罪の場面でも、驚くべきことにますます多く登場
するようになっている。諸々の医師組織が、このような逸脱行動について、
どの職業にも「異端者」はいる、という説明の試みで満足する場合でさえ、
これと同時に―社会的な扶助網への負担だけではなく―医師の威信の失
墜も生じるのであり、その場合には、それが終局的には医師と患者の信認関
係にも何らかの影響を及ぽすことが懸念されうるのである。
これに対して、とりわけ大学の研究において、現役の医師が、スポンサー
からの資金を受領する場合に汚職で訴追されるというようなことは、ドイツ
ではどちらかといえば稀な出来事に属するといえよう。この場合に、個人的
な利得ではなく、研究計画の遂行のための当該資金の真撃な利用が問題とな
るかぎりでは、汚職刑法の投入は理解に苦しむといわ ざるをえないように』思
われる。
その重要な原因が―学間的な野心および方法論的な粗雑さとならんで
―研究のために絶えず新たな資金源を得なければならないという強迫観念
にあるのかもしれない別の現象として、公刊物でのglJ窃および握造による研
究者の逸脱行動があるーこれは、私が数年前に、きわめてセンセーショナ
ルな事件での検証委員会の委員長として関わらなければならなかった問題群
である(17)。その際、研究資金を故意の欺岡行為によって取得するかぎりで
(17)この,点についての詳細は、この検証の結果作成された「学間の自制」のためのフライブル
ク大学の指針およびルールの文面とあわせて、 A. Eser,Die Sicherung von 、 Good Scientific
Practice 、 und die Sanktionierung von Fehlverhalten,in:H.-D. Lippert/W. Eisenmenger
(Hrsg.),Forschung am Menschen. Der Schutz des Menschen-Die Freiheit des Forschers,
1999,5. 123-157.
第11章医事(刑)法のパースペクティブ
283
は、詐欺罪が問題となる。だが、損害は証明できないことが多く、また、単
なる「文書上での嘘(
(sdhriftliche Lugen) 」としてのその他の虚偽の言明は、
文書犯罪には当たらないので、このような逸脱行動の事例は、その大部分が
不可罰にとどまる。ただ、懲戒法違反があれば別なのではあるが、これを使
うことに、所轄官署は明らかにただただ消極的な姿勢しか示すことがないの
である。このような状況にも、満足することはできない。
2 新規の構成要件
第2 に、伝統的な犯罪構成要件によっては捕捉できないまったく新たな補
充領域についてもまた、考えることができる。
このことは、とりわけ情報保護の領域に当てはまる。そこでは、近時、殊
に遺伝情報がとりわけセンシティブなものと認められており、目下、特に着
床前診断が、議論の激しい問題を内包した事例となっている。これらの領域
においては、まずはとにかく許される利用の限界をいったん確定し、それか
ら必要とあれば、濫用可能性によってその限界が越えられることを刑法的に
も防止することが、重要である。
移植医療にも同じことがいえる。そこでは、特に、生体臓器提供および
(動物の臓器を人間に移植することによる)異種間移植の可能性と限界が議論され
ている。これとの関連で、商業的な臓器売買に対しても、刑法的な手段によ
る対応がなされている。
最後に、幹細胞株の利用および輸入を含めた』玉研究の全領域も、ここで挙
げることカ‘できる。
これらの問題には、ペ一タ一・ヒュナーフェルト( Peter Hne 施庖)の論
文(
(18)とハンスーゲオルク・コッホ( Hans-Georg Koch )の論文(
(19)が詳細に取
り組んでいるので、私はここでは、とりわけイデオロギー的にも争われるこ
のような問題領域においては、制裁を加えることよ,りも、むしろ許される行
為を確定することが重要である、という・ことを指摘するにとどめたい。この
点については、刑法の指導的機能と強化機能のことを指摘する本稿の最後
(18)
P.1-I たルe施id,本書後出 S. 93 If.
(19)
H.-G. Koch ,本書後出 S. 127 If.
284
で、再び立ち戻ることになるであろう。
3 基本的スタンスの変化
ここで述べた意識形成という点は、さらに第3の刑法的な観点にとって
も、すなわち、とりわけ刑法によって刻印づけされる基本的スタンスの理解
にとっても、重要であるかもしれない。
このことは、特に自殺と臨死介助の理解に当てはまる。そこでは、―特
にベルギーとオランダにおいてみられるように―古い倫理観が、次第に崩
れつつあるように思われ、自律および人間らしく死ぬこと( humanes Sterben)
という新たな概念に取って代わられている。
臨死の領域においてなされるものであれ、臓器移植のためになされるもの
であれ、次第に広がりつつある患者の事前指示の中にも、個人というものが
姿を見せているのだが、その新たな自己理解を刑法が無視することはできな
いであろう。未成年者の役割にも同じことがいえる。未成年者が両親の異な
る意思表示に反して最終的な決定を下すことはまだないかもしれないが、そ
れでも、未成年者自身の考え方には、伝統的に示されていたよりも大きな尊
重が示されなければならないであろう。しかし、この,点についても、私は、
ここではヴォルフガング・フリッシュ( Wolfga 昭Fお ch) の論文( 20) があるこ
とを指摘するにとどめたい。
V 刑法の退却傾向
その代りに私は、ここで、「医学と法の境界を跨いだ領域からの刑法の退
却傾向」と呼ぶことができるような展開について論じたい。その際、ここで
も完壁を期することを断念して、3 つの特徴的な現象だけを指摘するにとど
めることができる。
(20) W.
戸ソisch ,本書後出 S. 33 If.
第11章医事(刑)法のパースペクティブ
285
1 民事司法による刑事司法の排除
これを統計学的に調査することはできなくとも、公刊されている法律雑誌
中の判例にざっと目を通すだけでも、医療過誤に関する民事判例は次第に増
えている、ということが観察できるのに対して、刑事判例はむしろ減少して
いるように』思われる(
(21) 。このような排除が進んでいる理由を探ると、特に
2つの説明が考えられる。
ひとつは、自己の利益が医師によって侵害されたことについて、公的な処
罰を通じて感情的満足を得るだけではなく、何よりも損害賠償および慰謝料
を現金で得ることに対する患者の要求が高まっていることである。その際に
は、とりわけ次の点が影響を及ぽしているのかもしれない。すなわち、医師
が、患者に対して今日、個人的に信頼を寄せられる人物としてではなく、む
しろ、過誤行為がある場合に「金銭を要求する」相手たる、多額の報酬を支
払われうる専門家として接していること、さらに、医師が次第に保健制度の
交換可能な部分と考えられるようになり、それによって次第に同胞たる個人
とは考えられなくなることを通じて、伝統的な〔患者の〕遺巡が除去されて
いる,点、がそれである。
もうひとつは、民事判例が、本来は原告患者が負担する、自らが主張する
損害についての立証責任を、ますます多くの事例群で医師に転換することを
(21)いずれにせよ最高裁判所判例のレベルでは、この印象を受ける。このレベルでは、増え続
ける民事判例の数に、刑事判例はますます引き離されている。例えば、 A. Eser, Arztliche
Heilbehandlung, in:A. Sch6nke/H. Schr6der, StGB-Kommentar, 26. Auflage 2001,§223
Rn. 35a bzw. Rn. 47 による裁判に現れた医療過誤事例および同意欠訣事例の報告参照。その
際、最高裁判所判例の数とそれに占める有罪判決〔の数)が第1 審裁判所のそれらと一致する
とはかぎらない、ということは考慮すべきだが、それでも、民事司法によって刑事司法が次第
に排除されているという本稿が抱く印象は、クラウス・ウルゼンハイマー( Klaus Ulse ル
heimer )の裁判経験によると、医師に対する刑事手続の増加が嘆かれうる( K. Ulsenheimer,
Arztrecht in der Praxis, 3. Auflage 2003, S. 1ff.; ders., Die Entwicklung des Arztstrafrechts
in der Praxis der letzten 20 Jahre, in:A. Eser/H. Just/H.-G. Koch [Hrsg.],Perspektiven
des Medizinrechts, 2004, S. 71 )ということよっても消し去ることはできない。なぜなら、民
事訴訟もまた、犯罪捜査と比べて不均衡に増えているとまではいわないが、それと並行してそ
れ相応に増加していると思えることを完全に度外視しても、ウルゼンハイマーの確認するとこ
ろによれば、刑事手続の大部分―約90パーセントーは公訴提起されることなく打ち切ら
れ、しかもその70/ぐーセン「には十分な犯罪の嫌疑が欠けており、さらに、最終的に確定力を
得る有罪判決の数は5パーセントと比較的非常に僅かだからである( Ulse 冗 heimer, in: Eser/
Just/Koch ,前出 S. 71).
286
通じて、民法上の損害賠償の獲得が容易化されてきたのに対して、刑事手続
においては、可罰的行為についての立証のリスクは、検察官、および例えば
公訴参加者としての患者が依然として負っている、という点である。この点
を踏まえると、患者が財産的利益の期待される民法的手段を優先し、負担の
かかるもう一方の刑事手続を担う検察官が患者を放置していることは、合点
がいく。そうでなければ、ドイツの刑事司法が、健康を悪化させる治療過誤
が明白な多くの事例、および説明ならびに同意が明らかに欠如する場合でさ
え、ためらいがちに振る舞い、あるいはまったく何もしない、ということは
説明できないと私には思われるのである。
2 刑法の意識的自制
このように刑事司法がその力を十全に発揮することを妨げる実務上の強制
とは異なり、第2の傾向としては、医療分野における刑法の意識的自制を語
ることができる。もっとも、このことは、数年前に私が治療行為の近時の規
制に関する比較法的研究において確認することができたように、ドイツの医
事刑法というよりも、その他の国々における展開についてより強く当てはま
る(22)。このような自制傾向を3点指摘しよう。
この傾向がこれまでのところ最も進んでいるのは、おそらくポルトガルで
あろう。これは、「医学の知識および経験の水準によれば指示され、レー
ゲ・アルティスに合致する医師またはその他の資格ある人物による治療行為
は、傷害とはみな(され)ない(
(23) 」とする刑法150条に表れている。確かに、
このように一般の傷害構成要件から「医的侵襲または治療」を明示的に除外
することは、患者が完全に保護されない状態に置かれることを意味するわけ
(22) A. Eser,Zur Regelung der Heilbehandlung in rechtsvergleichender Perspektive, in:
Th. Weigend/G. Kupper(Hrsg.),Festschrift fur Hans-Joachirn Hirsch zurn 70. Geburtstag, 1999, S. 465-483.
(23) Art. 150 Codigo Penal:
As intervencOnes e os tratarnentos que, segundo o estado dos conhecirnentos e da
experiencia da medicina, se mostrarern indicados e forern levados a cabo, de acordo corn
as leges artis, por urn rn6dico ou por outra pessoa legairnente autorizada, corn intengSo de
prevenir, diagnosticar, debelar ou rninorar doenca, sofrirnento, lesSo ou fadiga corporal,
ou perturbacSo rnental, nSo se considerarn ofensa S integrrdade fisica.
第11章医事(刑)法のパースペクティブ
287
ではない。しかし、患者は、刑法156条の「専断的治療行為」に関するポル
トガルの特別構成要件によっては、その意思だけを保護されているにすぎ
ず、その健康までも保護されているわけではない。それゆえ、健康侵害に刑
法上の制裁を科せるのは、医師が、レーゲ・アルティスを故意的または過失
的に無視して患者の健康を侵害することにより、刑法148条の一般の構成要
件によって可罰的となりうる場合にかぎられることになる。しかしながら、
この場合、医師の行為が8 日以内の疾患または労働無能力を惹起するもので
あるときには、単なる過失の事案では刑が免除されうるのである。
この,点に表れている、軽微な侵襲を除外しようとする傾向は、デンマーク
およびフィンランドにおいても一般的に確認できることであり、そこでは、
過失傷害の可罰性が、身体および健康に対する重大な被害の惹起に限定さ れ
ている。
こうした客観的な基準とならんで、あるいはそれに代えて、主観的な次元
での升甘事責任の限定もまた、みられる。このことは、とりわけオーストリア
に当てはまる。オース「リアは、ーポルトガルと同じように―「専断的
治療行為」に関する特別構成要件を導入したし、また、健康を侵害する治療
過誤の事例について、医師の行為が「医術の実施中」のものであり、当該医
師に「重大な過失」がなく、健康侵害的な結果カー〔治療に要する〕期間
および重大性の点で一一定の枠内に収まっている場合には、医師を過失傷
害による可罰性から解放している(ォーストリア刑法88条2項)。
同様の制限は、そのほか 1996 年のドイツ連邦司法省の草案においても議論
された( 24) が、実現には至らなかった。この草案に対する批判は法技術的な
点で正当であったかもしれないが(25)、それでも、その法政策的な意図、す
なわち、「通常の」傷害から明確に区別される身体的統一性に対する「治療
関係的な」侵襲を特別規定で捕捉すること、そしてその際、主として患者の
自己決定権の尊重および医療の質の保障という2 つの利益に保護を集中的に
Eser (前出注 22), S. 468 Fn. 11 に掲載されている。
5) このような批判は、特に刑法学者の研究チーム側から加えられた。 G. Freund, Der
4)
Entwurf eines 6. Gesetzes zur Reform des Strafrechts, ZStW 109(1997),455ff. (475-478)
参照。
288
向けることは、正当なことであると私には思われるのであるーポルトガル
の新規定も、明らかにこれを意図するものである。
3 手続による予防
刑法のある種の退却を見いだす者がいるかもしれない第3の傾向は、ます
ます好んで利用されるようになっている手続による予防である。危険な施設
または汚染を一定の届出義務または行政の認可留保に服させることにより、
一層手厚い環境保護が試みられているのと同様に、医療の分野でも、特定の
医療行為については特定の手続を履践しなければならないとすることによっ
て、患者の福祉と意思を一層考慮することが試みられている(26)。例えば、
医薬品試験のための倫理委員会の導入(薬事法40条1項第2文)または臓器提
供者の親族の立会を含めた臓器移植の際の証明手続(臓器移植法3 条以下)が
これに当たる。フランク・ザリガー(Fra庇Sal如r) による「刑法なき臨死
介助か」への真撃な寄稿からわかるように(27)、安楽死の領域でさえ、近時
は、補助的な手続的ルールで何とかやっていくことができると考えられてい
るのである。
確かに、このような手続および義務は、結局、刑罰または過料による威嚇
によって大幅に担保されるので、この点にそれどころか刑法の拡大を見いだ
す者がいるかもしれない。それにもかかわらず、この,点に退却傾向を看取す
ることができるとするならば、それは、とりわけ、刑法が、患者の生命、身
体的統一性および自己決定という本来保護されるべき法益にまで進出する必
要がもはやほとんどなくなり、刑法がなすべきこ とは、あとは予防線の担保
のみとなるように見えるという理由による。刑法が予防に役立つならば、そ
れに越したことはない。しかし、その際には、裏側にも注意を向けなければ
(26)この,点について原則的な視,点から―特に人工妊娠中絶の際の相談要件を例証としつつ
―論じるのは、 A. Eser, Sanktionierung und Rechtfertigung durch Verfahren, in: Kriti-
sche Vierteljahresschrift fur Gesetzgebung und Rechtswissenschaft (KritV). Sonderheft
一 Hassemer zum 60. Geburtstag, 2000, S. 43-49 である。
(27) F. Saliger,Sterbehilfe ohne Strafrecht? Eine Bestimmung des Anwendungsbereich
svon Sterbehilfe als Grundstein fUr emn Interdiziplinares Sterbehilferecht, in:Kritische
Viertel] ahresschrift fur Gesetzgebung und Rechtswissenschaft (KritV),84 (4/2001),S.
382ff.(特に385 f., 420 f., 434 ff.).
第11章医事(刑)法のパースペクティブ
289
ならない。すなわち、法益が完全に「刑法の〕直轄地から外されることに伴
い、升Ii法もまたその価値内容を喪失し、それによってその重要性までもが減
じられる可能性があることにも、注意を向けなければならないのである。
VI 刑法の指導的機能と強化機能
統合的医事法への賛成意見と、最後に指摘した刑法の退却傾向とが、刑法
は法と医学の境界を跨いだ領域において歯止めなく落ち目となっている―
そして一、これは場合によっては正当でさえある―、という印象を万一抱か
せるものであったとすれば、そのような誤解には、最後にきっぱりと立ち向
かっておかねばならない(
(28)
医学的に要求される治療水準の保障および説明義務の遵守は、関連する民
事判例によって広く担保されているように,思われるし、行政的な安全対策に
よるだけでも実行可能であるし、そして特に、医師の職務法も抑止的な制裁
を用意することがあるかもしれないが、それでも、これらのいずれによって
も、完全に刑法が代替されることはありえない。さらに、刑法規範の意義と
有効性が刑事手続の数からしか読み取れないわけではないのとまったく同様
に、医学の領域においても、関連する有罪判決の数が比較的少ないというた
だそれだけのことで、刑法が不必要であることが示されるわけではない。仮
にそのような想定に依拠するならば、一定の法益の刑法的な保障によって当
該法益の特別な地位が確証されること、そしてこの付加的な保護効果の有効
性は数で測定できるものではないことが見逃されることになるであろう。刑
法のーしかも、それが単に存在することを通じたーこのような保護を安
定化する強化機能は、医師の職務のように、公衆による評判が得 られるとい
う理由だけでも原則的に法に忠実な態度を心掛けるであろう職務の場合に
は、少なからず見込まれうるものである。
刑法の指導的機能も、過小評価されてはならない。これは、医療倫理自体
が変革に晒され、部分的に甚だ異なる立場から描かれる時代には、特にいえ
(28)この,点については、さしあたり A. Eser, Medizin und Strafrecht: Eine schutzgutori-
entierte ProblemUbersicht, ZStW 97 (1985),1ff. (44ff. )参照。
290
ることであるーとりわけ遺伝子工学および生殖医学の分野のような、医学
の可能性を広げる新たな地平が開拓されているところでは、特にそうであ
る。ここにおいては、升Ii法があらゆる種類の濫用を防止する万能薬ではあり
えないとしても、刑法的保護の保障を通じて、特定の法益の価値が公共の意
識の中で高められる。それも、真の「人倫形成力」として―医師と患者双
方の利益ために、高められるのである。
(甲斐克則・福山好典訳)
図1 :セクト的医事法
民法
債務法
治療契約
治療行為
説明/同意
過失
保険
公薬剤コントロール
扶助
法情報保護
世話法
予算
過失
説明/同意
治療行為
人工妊娠中絶
臨死介助
守秘義務
刑法
社会法
認可
第11章医事(刑)法の/ぐースペクティブ
図2 :セクト的医事法と学際的医事法
民法
債務法
治療契約
治療行為
説明/同意
過失
経済
\
公薬剤コントロール
保険
扶助
法情報保護
予算
社会法
認可
社会医学
世話法
/
医療倫理
過失
職業規則
説明/同意
精神医学
法医学
治療行為
人工妊娠中絶
臨死介助
守秘義務
刑法
図3 :統合的医事法
民法
債務法
治療契約
治療行為
説明/同意
経済
過失
保険
薬剤コントロール
情報保護
扶助
世話法
予算
医療倫理
過失
職業規則
説明/同意
治療行為
人工妊娠中絶
臨死介助
守秘義務
刑法
精神医学
法医学
社会法
公法
認可
社会医学
291
292
【訳者あとがき】
本章は、 Albin Eser, Perspektiven des Medizin (straf) rechts, in Wolfgang
Frisch(Hrsg.),Gegenwartsfragen des Medizinstrafrechts, Portugiesisch
deutsches Symposium zu Ehren vom Albin Eser in Coimbra, Nomos
Verlagsgesellschaft 2006, SS. 9-31
を、アルビン・ェーザー博士の了解を得
て訳出したものである。本論文は、ェーザー博士が説いておられる「統合的
医事法」構想が最もよく展開されている。また、同旨の主張は、 Albin
Eser,Von sektoralem zu integrativem Medizinrecht, in A. Eser/H. Just/
H.-G. Koch(Hrsg.),Perspektiven des Medizinrechts, 2004,SS. 247-256 で
もすでに説かれている。なお、本訳稿は、甲斐克則編『医事法講座第1 巻ポ
ストゲノム社会と医事法』
(2009 年・信山社)に収められたものを、信山社の
ご好意で、微修正のうえ本書に所収されることになった(甲斐克則・記)
294
対案・臨死介添
諸考察は、苦痛緩和およびその他の鎮痛医療上の処置に関する医師の記録義務がそのな
かに規定されている臨死介添:刑法対案および臨死介添法の提案へと導く。
臨死介添:刑法対案
第214条生命維持処置の終結もしくは不開始
(1)
生命維持諸処置を限定し、終結し、または開始しない者は、次の場合には違
法に行為するものではない。
1. 本人がこのことを明示的かつ真撃に要求している場合、
2. 本人が、有効な書面による患者処分のなかで、同意無能力の場合につきその
ことを指示していた場合、
3. 本人が、医師の認識によれば処置の開始または継続について説明を受けるこ
とができず、信頼し得る諸根拠に基いて、彼がその曜病の種類、継続および
経過を顧慮してこのような処置を拒絶するであろうことを想定することがで
きる場合、または、
4. 死が目前に迫っている場合では、本人の苦痛状態と治療行為の見通しのなさ
にかんがみて生命を維持する処置の開始または継続が医師の認識によればも
はや適していない場合。
(2)第1項は、本人の状態が自由答責的な自殺未遂に基づく場合にも当てはま
る。
第214条a 苦痛を緩和する諸処置
医師としてもしくは医師としての権限を与えられた者として、死に至る病者にそ
の明示的な同意もしくは有効な書面による患者処分のなかで表明されている意思に
基いて、または推定的な同意に則して、医学の諸原則に従い、重大な、他では除去
することができない苦痛状態を緩和するために諸処置を施す者は、それによって回
避することができない、意図されていない死の発現という付随的結果が促進される
場合であっても、違法に行為するものではない。
第215条自殺の不阻止
(1) 他人の自殺を阻止するか、または自殺未遂の後に他人を救助することをしな
かった者は、自殺が自由答責的で真撃な、明示的に表明されるか、または諸般の事
資料295
情から認識することができる決断に基いている場合には、違法に行為するものでは
ない。
(2) とくに他人が18歳未満である場合または刑法第20条、第21条に相応してその
自由な意思決定が害されている場合、そのような決断から出発してはならない。
(3) 第2 項の排除事由が存在していないかぎり、死病に曜患している患者の場合
であっても自由答責的な自殺は排除されない。
第2巧条a 自殺の利欲に駆り立てられた支援
他人の自殺を利欲に駆り立てられて支援する者は、5年以下の自由刑または罰金
刑に処す。
第214条要求に基く殺人(不変更)
(1)
ある者が被殺者の明示的で真撃な要求によって殺すことへと決定づけられて
いる場合には、6月以上5年以下の自由刑が言い渡される。
(2)
未遂は、これを罰することができる。
II. 臨死介添法:対案
第1条鎮痛医療における記録義務
(1)
死に至る病者にその明示的または推定的な承諾を得て、重大な、他では除去
することができない苦痛状態を緩和するために、致死的な付随結果を伴うこともあ
り得る薬剤を、とくに麻酔薬を投与する医師または医師から権限を与えられた者
は、療法の経過を、とくに薬剤投与と薬剤の配量ならびに患者によって表明された
諸々の苦痛感得を書面によって記録しなければならない。
(2 )きわめて高い配量または配量の通例外の嵩上げの場合は、もう一人の医師に
相談し、その態度表明を書面によって記録しなければならない。
(3 )麻酔剤法第17条による記載義務を準用する。
第2条生命を維持する諸処置の不開始と医師によって帯助された自殺の場合にお
ける記録義務
(1)
医師としてまたは医師によって権限が与えられた者として生命を維持する諸
処置を限定し、終結するか、もしくは開始しない者は、その理由を書面に よって記
録しなければならない。
(2 )同じことは、死に至る病者に、その明示的で真撃な要求に基いて本法第4 条
による不処罰の自殺援助を行う医師にも当てはまる。
(3)
事前配慮後見または法律上の看護が付けられている場合は、後見人または看
護人の態度表明を書面によって記録しなければならない。
第4条医師によって謝助された自殺
296
(1) 医師は、死に至る病者の明示的で真撃な要求に基づいて堪え難くて治癒が可
能でない曜病を回避するために療法的に可能なすべての手段を尽くした後に、自殺
への帯助を行うことができる。
(2) 医師はこのような援助へと義務づけられてはいないが、患者の明示的な願望
に基いて、可能なかぎりそのために備えているもう一人の医師を指名することが求
められる。
ニュールンベルク綱領、ヘルシンキ宣言
ニュールンベルク綱領(Nの:国際軍事裁判所
人間に対するある種の医学的実験は、それが充分納得のいく範囲内で、医療の倫
理に依存して行われるときは、われわれに明証性の大きな重みを提示するものであ
る。人体実験の推進者たちは、そのような実験が他の研究法や手段では得られない
社会の善となる結果を生むという理由で、その見解の正当性を主張している。しか
しながら、道徳的、倫理的および法的な考え方を満足させるためには、いくつかの
基本原則を遵守しなければならないことについては、だれしもが認めるところであ
る。
1. 被験者の自発的同意は絶対的本質的なものである。これは、被験者本人が法的
に同意する資格のあることを意味するが、さらに暴力、欺購、虚偽、強迫や他
の制約や強圧の間接的な形式のいかなる要素を除いた、自由な選択力を働かし
うる状況におかれていること、および実験目的を理解し、啓発された上での決
断をうるために被験者に充分な知識を与えなければならない。そのためには、
被験者によって肯定的判断を受ける前に、実験の性格、期間および目的、行わ
れる実験の方法、手段、予期しうるすべての不利と危険、実験に関することか
らおこりうる健康や個体への影響などを知らされなければならない。
同意の性格を確認する義務と責任は、実験を計画するもの、指導するもの、
実施するもののすべてにかかわる。これは個人的な義務と責任であり、罰を免
れている他人に委ねることはできない。
資料297
2. 実験は社会の善となる結果を生むべきものであり、他の研究方法手段をもって
はえられないものであり、さらに放縦・不必要な実験であってはならない。
3. 実験は、動物実験の結果、病気の自然史の知識、または研究上の他の問題によ
り、あらかじめ実験を正当化する結果が予想されることを基礎として設計され
なければならない。
4. 実験は、すべて不必要な肉体的ならびに精神的な苦痛や障害をさけるよう設計
されなければならない。
5. 死や回復不能の障害がおこると信ぜられる理由が演縄的にある場合は、この限
りでない。
6. おこりうべき危険の程度は、その実験によって解かれる問題の人間への貢献度
を越えるものであってはならない。
7. 被験者を傷害、死から守るため、いかに可能性のすくないものであっても適切
な設備を整えておかなければならない。
8. 実験は科学的に資格のあるものによってのみ行われなくてはな らない。実験を
指導する者、実施する者は、実験の全段階を通じて最高の技量と注意を必要と
する。
9. 実験中、被験者は、実験を継続することが彼にとって不可能な肉体的精神的状
態に達したときは、実験を中止する自由がなければならない。
10. 実験中、責任をもつ科学者は、実験の続行が、被験者に傷害や死を結果しうる
と思われるときに要求される誠実性、技量、判断力の維持に疑念を生じたとき
は、いつでも実験を中止する用意がなければならない。
「中川米造『日本医師会雑誌』 1990 年、 193- 4 号所収参照」
II ヘルシンキ宣言( HTD )ーヒトを対象とする医学研究の倫理原則一
WMA Declaration of Helsinki
Ethichal Principle for Medical Reserch Involvung Humann Subjects
1964 年6月フィンランド・ヘルシンキの第18回WMA総会で採択
1975 年10月東京の第29回WMA総会で修正
1983 年10月イタリア・ベニスの第35回WMA総会で修正
1989 年9月香港・九龍の第41回WMA総会で修正
1996 年10月南アフリカ共和国・サマーセットウエストの第48回WMA総会で修
正
2000 年10月イギリス・エジンバラの第52回WMA総会で修正。
298
A. 序言
1. 世界医師会は、ヒトを対象とする医学研究に関わる医師、その他の関係者に対
する指針を示す倫理的原則として、ヘルシンキ宣言を発達させてきた。ヒ「を
対象とする医学研究には、個人を特定できるヒト由来の材料及び個人を特定で
きるデータの研究を含む。
2. 人類の健康を向上させ、守ることは医師の責務である。医師の知識と良心は、
この責務達成のために捧げられる。
3. 世界医師会のジュネーブ宣言は、r私の患者の健康を私の第一の関心事とする」
ことを医師に義務づけ、また医の倫理の国際綱領は、「医師は患者の身体的及
び精神的な状態を弱める影響の可能性のある医療に際しては、患者の利益のた
めにのみ行動すべきである」と宣言している。
4. 医学の進歩は、最終的にはヒトを対象とする試験に一部依存せざるを得ない研
究に基づく。
5. ヒ「を対象とする医学研究においては、被験者の福利に対する配慮が科学的及
び社会的利益よりも優先されなければならない。
6. ヒトを対象とする医学研究の第一の目的は、予防、診断及び治療方法の改善並
びに疾病原因及び病理の理解の向上にある。最善であると証明された予防、診
断及び治療方法であっても、その有効性、効果、利用し易さ及び質に関する研
究を通じて、絶えず再検証されなければならない。
7.現在行われている医療や医学研究においては、ほとんどの予防、診断及び治療
方法に危険及び負担が伴う。
8. 医学研究は、すべての人間に対する尊敬を深め、その健康及び権利を擁護する
倫理基準に従わなければならない。弱い立場にあり、特別な保護を必要とする
研究対象集団もある。経済的及び医学的に不利な立場の人々が有する特別のニ
ーズを認識する必要がある。また、自ら同意することができないまたは拒否す
ることができない人々、強制下で同意を求められるおそれのある人々、研究か
らは個人的利益を得られない人々及びその研究が自分のケアと結びついている
人々に対しても、特別な注意が必要である。
9. 研究者は、適用される国際的規制はもとより、ヒ「を対象とする研究に関する
自国の倫理、法及び規制上の要請も知らなければならない。いかなる自国の倫
理、法及び規制上の要請も、この宣言が示す被験者に対する保護を弱め、無視
することが許されてはならない。
B. すべての医学研究のための基本原理
資料
299
10. 被験者の生命、健康、プライバシー及び尊厳を守ることは、医学研究に携わる
医師の責務である。
11. ヒトを対象とする医学研究は、一般的に受け入れられた科学的原則に従い、科
学的文献の十分な知識、他の関連した情報源及び十分な実験並びに適切な場合
には動物実験に基づかなければならない。
12. 環境に影響を及ぼすおそれのある研究を実施する際の取り扱いには十分な配慮
が必要であり、また研究に使用される動物の生活環境にも配慮しなければなら
ない。
13. すべて人を対象とする実験手続きの計画及び作業内容は、実験計画書の中に明
示されていなければならない。この計画書は、考察、論評、助言及び適切な場
合には承認を得るために、特別に指名された倫理審査委員会に提出されなけれ
ばならない。この委員会は、研究者、スポンサー及びそれ以外の不適当な影響
を及ぼすすべてのものから独立であることを要する。この独立した委員会は、
研究が行われる国の法律及び規制に適合していなければならない。委員会は進
行中の実験をモニターする権利を有する。研究者は委員会に対し、モニターの
情報、特にすべての重篤な有害事象について情報を報告する義務がある。研究
者は、資金提供、スポンサー、研究関連組織との関わり、その他起こり得る利
害の衝突及び被験者に対する報酬についても、審査のために委員会に報告しな
ければならない。
14. 研究計画書は、必ず倫理的配慮に関する言明を含み、またこの宣言が言明する
諸原則に従っていることを明示しなければならない。
15. ヒ「を対象とする医学的研究は、科学的な資格のある人によって、臨床的に有
能な医療担当者の監督下においてのみ行われなければならない。被験者に対す
る責任は、常に医学的に資格のある人に所在し、被験者が同意を与えた場合で
も、決してその被験者にはない。
16. ヒトを対象とするすべての医学研究プロジエクトは、被験者または第三者に対
する予想し得る危険及び負担を、予見可能な利益と比較する注意深い評価が事
前に行われていなければならない。このことは医学研究における健康なボラン
ティアの参加を排除しない。すべての研究計画は一般に公開されていなければ
ならない。
17. 医師は、内在する危険が十分に評価され、しかもその危険を適切に管理するこ
とが核心できない場合には、ヒトを対象とする医学研究に従事す ることを控え
るべきである。医師は、利益よりも潜在する危険が高いと判断される場合、ま
たは有効かつ利益のある結果の決定的証拠が得られた場合には、すべての実験
300
を中止しなければならない。
18. ヒ「を対象とする医学研究は、その目的の重要性が研究に伴う被験者の危険と
負担にまさる場合にのみ行われるべきである。このことは、被験者が健康なボ
ランティアである場合は特に重要である。
19. 医学研究は、研究が行われる対象集団が、その研究の結果から利益を得られる
相当な可能性ある場合にのみ正当とされる。
20. 被験者はボランティアであり、かつ十分説明を受けた上でその研究プロジェク
「に参加するものであることを要する。
21. 被験者の完全無欠性を守る権利は常に尊重されることを要する。被験者のプラ
イバシー、患者情報の機密性に対する注意及び被験者の身体的、精神的完全無
欠性及びその人格に関する研究の影響を最小限に留めるために、あらゆる予防
手段が講じられなければならない。
22. ヒトを対象とする研究はすべて、それぞれの被験予定者に対して、目的、方
法、資金源、起こり得る 利害の衝突、研究者の関連組織との関わり、研究に参
加することにより期待される利益及び起こり得る危険並びに必然的に伴う不快
な状態について十分な説明がなされなければならない。対象者はいつでも報復
することなしに、この研究への参加を取りやめ、または参加の同意を撤回する
権利を有することを知らされていなければならない。対象者がこの情報を理解
したことを確認した上で、医師は対象者の自由意思によるインフォームド・コ
ンセン「を、望ましくは文書で得なければならない。文書による同意を得るこ
とができない場合には、それは正式な文書に記録され、証人によって証明され
ることを要する。
23. 医師は、研究プロジエク「に関してインフォームド・コンセン「を得る場合に
は、被験者が医師に依存した関係にあるか否か、または強制の下に同意するお
それがあるか否かについて、特に注意を払わなければならない。もしそのよう
なことがある場合には、インフォームド・コンセントは、よく内容を知り、そ
の研究に従事しておらず、かつそうした関係からまったく独立した医師によっ
て取得されなければならない。
24. 法的無能力者、身体的若しくは精神的に同意ができない者、または法的に無能
力な未成年者を研究対象とするときは、研究者は適用される法の下で法的な資
格のある代理人からインフォームド・コンセン「を取得することを要する。こ
れらのグループは、研究がグループ全体の幸福を増進させるのに必要であり、
かつこの研究が法的能力者では代替して行うことができないか不可能である場
合に限って、研究対象に含めることができる。
資料301
25. 未成年者のように法的無能力者であるとみられる被験者が、研究参加について
の決定に賛意を表することができる場合には、研究者は、法的な資格のある代
理人からの同意のほかにさらに未成年者の賛意を得ることを要する。
26. 代理人の同意または事前の同意を含めて、同意を得ることができない個人被験
者を対象とした研究は、インフォームド・コンセントの取得を妨げる身体的/
精神的情況がその対象集団の必然的な特徴であるとすれば、その場合に限って
行われなければならない。実験計画書の中には、審査委員会の検討と承認を得
るために、インフォームド・コンセントを与えることができない状態にある被
. 験者を対象にする明確な理由が述べられていなければならない。その計画書に
は、本人あるいは法的な資格のある代理人から、引き続き研究に参加する同意
をできるだけ早く得ることが明示されていなければならない。
27. 著者及び発行者は倫理的な義務を負っている。研究結果の刊行に際し、研究者
は結果の正確さを保つように義務づけられている。ネガティヴな結果もポジテ
ィヴな結果と同様に、刊行または他の方法で公表・利用されなければならな
い。この刊行物中には、資金提供の財源、関連組織との関わり及び可能性のあ
るすべての利害関係の衝突が明示されていなければならない。この宣言が策定
した原則に沿わない実験報告書は、公刊のために受理されてはならない。
C. メディカル・ケアと結びついた医学研究のための追加原則
28. 医師が医学研究をメディカル・ケアと結びつけることができるのは、その研究
が予防、診断または治療上価値があり得るとして正当であるとされる範囲に限
られる。医学研究がメディカル・ケアと結びつく場合には、被験者である患者
を守るためにさらなる基準が適用される。
29. 新しい方法の利益、危険、負担及び有効性は、現在最善とされている予防、診
断及び治療方法と比較考量されなければならない。ただし、証明された予防、
診断及び治療方法が存在していない場合の研究において、プラシーボまたは治
療しないことの選択を排除するものでない。
30. 研究終了後、研究に参加したすべての患者は、その研究によって最善と証明さ
れた予防、診断及び治療方法を利用できることが保障されていなければならな
しA。
31. 医師は、ケアのどの音5分が研究に関連しているかを患者に説明しなければなら
ない。患者の研究参加の拒否が、患者と医師の関係を断じて妨げるべきではな
しA。
32. 患者の治療の際に、証明された予防、診断及び治療方法が存在しないときまた
3(昭
は効果がないとされているときに、その患者からインフォームド・コンセント
を得た医師は、まだ証明されていないまたは新しい予防、診断及び治療方法
が、生命を救い、健康を回復し、あるいは苦痛を緩和する望みがあると判断し
た場合には、それらの方法を利用する自由があるというべきである。可能であ
れば、これらの方法は、すべての例において、新しい情報に記録され、また適
切な場合には、刊行されなければならない。 この宣言の他の関連するガイドラ
インは、この項においても遵守されなければならない。
「日本医学会訳参照」
ドイツ連邦憲法裁判所第2次妊娠中絶判決の判決要旨
(以下の訳文はドイ、ソ連邦憲法裁判所 1993 年5 月28 日の第2 次妊娠中絶判決 Das Urteil
des Bundesverfassungsgerichts zum Schwangerschaftsabbruch vom 28. Mai 1993, in:
Juristenzeitung [JZ],Sonderausgabe 7. Juni 1993, S. 1ff.; Neue Juristiche Wochenschrift [NJW],Heft 28, S. 1751 ff,; Neue Justiz [NJ],Sonderheft 1993, 47. Jahrg., S.
1ff.; Kritische Vierteljahrschrift fUr Gesetzgebung und Rechtswissenschaft, Sonderheft 1/1993, S. 1ff.; Bundesverfassungsgerichtsentscheidung [BVerfGE] 88 5. 203392. 「上田健二・浅田和茂(訳・要約)同志社法学第233号159頁以下」のなかから判決要
旨の部分のみを摘記・邦訳したものである。)
妊婦および家族援助法(SFHG) の諸規定の憲法適合性に関する1993年5月28日
の連邦憲法裁判所第2 小法廷判決
判決要旨
1. 基本法は、人の生命を、そして未生の人の生命をも保護することを国家に義務
づけている。この保護義務は、基本法第1 条第1 項「人間の尊厳の保障」をそ
の根拠としている。その対象とーそれに由来するーその程度は、基本法第
2 条第2 項「生命および身体の無傷性への権利」によって詳細に規定される。人
間の尊厳はすでに未生の生命に帰属する。法秩序は、未生児に固有の生命権と
資料
303
いう意味において、その展開の法的諸条件を保障しなければならない。この生
命権は、母親の側からの受諾によってはじめて根拠づけられるものではない。
2. 未生の人の生命のための保護義務は、人の生命一般にのみでなく、個別的な生
命に関係づけられる。
3. 法的保護は、母親に対しても、未生児に保障される。このような保護は、立法
者が彼女に妊娠中絶を原則的に禁止し、それによって子を懐胎し続ける原則的
な法義務 を課する場合にのみ可能である。妊娠中絶の原則的禁止と子の懐胎を
続けるという原則的義務は、憲法的に命じられた保護の分かち難く結びついた
2つの要素である。
4. 妊娠中絶は妊娠の全期間にわたって原則として不法とみなされ、それゆえに法
的に禁止されなければならない( BVerIGE 39, 1 く44)の再確認)。未生児の
生命権は、たとえ限定された「初期の」期間についてのみであれ、たとえそれ
が母親自身であっても、第3者の法的に拘束されない任意な決断にゆだねられ
ることがあってはならない。
5. 未生の人の生命のための保護義務の射程は、保護されるべき法益の重要性と保
護の必要性を一方とし、それと衝突する諸利益を他方とする、両者の視点のも
とに決定されなければならない。そのさいに未生児の生命権と抵触する諸利益
として顧慮されるのは―妊婦が彼女自身の人間としての尊厳(基本法第1 条
第1 項)の保護と尊重を求める 請求権から出発して―、とりわけ彼女の生命
および身体の無傷性を求める権利(基本法第2 条2 項)ならびに彼女の人格権
(基本法第2 条第1 項)である。これに対して婦人は、妊娠中絶と同時に発生
する未生児の殺害のために、基本法第3 条第1 項「法の前の平等」において基
本権として保護されている法的地位を要求することはできない。
6. 国家は、その保護義務を充足するに足りる十分な規範的および事実的な種類の
諸々の措置を講じなければならず、それらは、―対立する諸法益を顧慮して
―適切かつそれ自体として有効な保護が達成されることに導くものでなけれ
ばならない(過少「措置」の禁止)。そのためには、予防的な保護ならびに抑
制的な保護の諸要素が相互に結びついた保護構想というものが必要である。
7. 婦人の諸々の基本権は、子を壊胎し続けることの法義務カーたとえ一定期間
についてのみであれ―一般的に放棄されるような程度に までは及ばない。と
はいえ、婦人の基本権との関連における地位は、このような諸義務を課さない
ことが例外状態においては許容され、この場合の多くにおいては、場合によっ
てはそれが命じられていることへと導く。このような例外構成要件を期待不可
能性の基準に従って個別的に規定することは、立法者の管轄事項に属する。そ
304
れには、妊婦に期待することができないほどに生命に固有の諸価値を犠牲にす
ることを要求しているような諸々の負荷が存在していなければならない
(BVerfGE 39, 1 <48 ff. )の再確認)。
8. 過少「措置」の禁止は、人の生命の保護のために刑法を投入することおよびそ
れに由来する保護効果を任意に断念することを許さない。
9. 国家の保護義務は、未生の人の生命にとって妊婦の家族的またはその他の社会
的環境による影響に由来するか、もしくは婦人および家族の現在の予測可能で
現実的な生活諸関係に由来し、かつ子を懐胎し続ける心積もりに対抗的に作用
するような危険からの保護をも含む。
10. 「国家的法秩序への」保護委託は、さらに未生の人の生命の法的な保護請求権
を公共の意識のなかに維持しかつ根づかせることも国家に義務づけている。
11. 立法者が、未生の人の生命の保護のために次のような構想へと移行すること
は、憲法上、原則として妨げられていない。すなわちその構想とは、妊娠葛藤
にある妊娠の初期段階においては、妊婦に子を!裏胎し続ける気を奮い起こさせ
るために、彼女への相談に重点を置き、そこでは適応事由によって規定される
処罰や第3 者による適応事由構成要件の確認を行わないというものである。
12. このような相談構想は、婦人の行動が未生の人の生命に有利な結果と結びつく
ような積極的な前提を創り出す諸々の枠条件を必要とする。国家は相談手続き
の実施について完全な責任を負う。
13. 国家の保護義務は、婦人の利益という点で不可欠な医師の関与が、同時に未生
の人の生命のための保護効果をもたらすことを要求する。
14. ある子が現存していることを損害の源泉として格づけをすることは、憲法上の
理由(基本法第1条第1項)からして問題にならない。それゆえ、子に対する
扶養義務を損害として把握することは禁じられている。
15. 相談規定に従ってある適応事由を確認することなく実施される妊娠中絶は、正
当化される(違法でない)と言明されてはならない。それには、その前提条件
の存在が国家の責任のもとに確認されなければならない場合にのみ例外構成要
件には正当化の効果が帰せられるという、断念することができない法治国家上
の原則が対応する。
16. 基本法は、その適法性が確認されていない妊娠中絶の実施のために、法定健康
保険の給付請求権を保障することを許していない。これに対して、相談規定に
従った刑の科せられない妊娠中絶のために、経済的に困窮している場合に、社
会扶助を保障することには、労働対価の継続的支払いと同様に、異議を唱える
ことができない。
資料 305
17. ある連邦法規定が単に諸ラン「が遂行すべき国家的任務を規定しているだけ
で、当該行政官庁によって執行され得る細則規定を置いていない場合は、諸ラ
ントの組織体の権限が無条件に妥当する。
―資料4
ドイツ新妊娠中絶法
1995年8月21日の妊婦および家族援助法改正の正文における、1992年7月27日の出産
前・生成中の生命の保護のための、妊娠葛藤における援助のための、および妊娠中絶を規
市1」するための法律―妊婦および家族援助法―(Gesetz Schutz des vorgeburtlichen/
werdenden Lebes, zur Forderung einer kinderfreundlichen Gesllschaft, fUr Hilfen im
Schrangerschaftskonflikt und zur Regerung des Schwangerschaftsabbruchs (Schwangeren- und Familienhilfegesetz- SFHG) v. 27. Juli 1992(Bundesgesetzblatt 1992, Teil
1, S. 1397-1403) in der Fassung des Gesetzes zur Anderung des Schwangeren- und
Familienhilfegesetzes (SFHAndG) v. 21. August 1995 (Bundesgesetzblatt 1995, Teil S.
1050 - 1057) )にの法律の全訳は、成立に至るまでのドイツ妊娠中絶法史の年譜を
伴って、上田・浅田訳として同志社法学246号473頁以下に掲載されている」
妊娠諸葛藤の回避と克服のための法律=妊娠葛藤法(Gesetz zur Vermeidung
und Bewaltigung von Schwangerschaftskonflikten-Schwangerschaftskonfliktgesetz - (以下、下線の箇所が今回の改正の部分)
第1章啓蒙、避妊、家族計画および相談
第1条啓蒙
(1) 保健衛生上の啓蒙と健康教育に管轄を有する連邦保健衛生啓蒙センターは諸
ラントの協カのもとに、家族相談施設のすべての担い手と協働して、保健衛生上の
備えと妊娠中絶の葛藤の回避と解決のために、相異なる年齢集団および人的集団ご
とに調整された性教育のための諸計画を作成する。
(2) 連邦保健衛生啓蒙センターは、第1 項に挙げられた目的のために、諸々の避
妊手段と避妊薬とが包括的に説明されている連邦統一的な啓蒙のための教材を配布
する。
306
(3)
啓蒙のための教材は、要求に応じて無料で、窄H固人に、さらに学校および職
業教育上の諸施設に教材として交付され、また、相談所ならびに少年労働と職業労
働のための全施設にも交付される。
第2条相談
(1) すべての婦人およびすべての男性は、第1条第1項に挙げられた目的のため
に、性教育、避妊および家族計画の諸問題について、ならびに妊娠に直接的または
間接的に結びつくすべての問題について、そのための予定されている相談施設から
情報を獲得し、序言を受ける権利を有している。
(2 )相談を求める請求権は、以下の事項についての情報獲得を含む。
1. 性教育、避妊および家族計画、
2. 既存の家族を促進する援助および労働生活における特別の権利を含む子
供と家族のための諸援助、
3. 妊娠に際しての準備のための診察および分娩の費用、
4. 妊婦のための社会的および経済的諸援助、とくに資金調達上の諸給付な
らびに住居、職場またはそれらの保持を求めるに当たっての諸援助、
5. 身体上、精神上または心理上の健康状態に障害のある子の出産の前後に
任意に用いることができる障害者とその家族のための諸援助手段、
6. 妊娠中絶の実施のための諸方法、中絶に伴う心神上の諸効果およびそれ
と結びついている諸々の危険、
7. 妊娠と関連している心理的一社会的諸葛藤を解決するための諸手段、
8. 養子縁組と関連した法的および心理学的な諸々の見方。
さらに妊婦は、以上の諸請求権の主張に当たり、子のための監護手段を求めるに当
たり、また彼女の教育を継続するに当たって、支援されるものとする。妊婦の願い
により、第三者の相談への参加が認められなければならない。
(3 )妊娠中絶の後または子の出産の後の事後的監護を求めることも、相談を求め
る請求権に含まれる。
第3条相談所
諸ラントは、第2 条による相談のための住居に近い相談所の十分な提供を確保す
る。その場合には民間の相談所も奨励される。相談を求める者は、世界観的に相異
なる方向性を有する相談所のなかから選ぶことができるものとする。
第4条相談所の公的促進
(1)
諸ラントは、第3 条および第8条による相談所が少なくとも住民 40. 000 人に
つき、全日制の女性相談員1名もしくは男性相談員1 名が、またそれに見合った定
時制従業者を随時に利用できるように配慮するものとする。予定された人員を有す
資料
307
る相談所の活動が長期にわたって規則どおりに実施され得ないときは、この基準か
ら逸脱したものとされるべきである。その判断に際しては、妊婦が彼女の住居から
適当な距離内で相談を求めることができるということにも考慮が払われなければな
らない。
(2)
第3 条および第8 条により十分な提供の確保のために必要とされる相談所
は、人件費および物件費につき相応の公的助成を求める権利を有する。
(3 )詳細は、諸ラントがこれを規定する。
第2章妊娠葛藤相談
第5条妊娠葛藤相談の内容
(1) 刑法第219条により必要とされる相談は、結果にこだわりなく実施されなけ
ればならない。相談は、婦人自身の答責性から出発する。相談は勇気づけて分別を
喚起すべきであり、教え込んだり指図するようなものであってはならない。妊娠葛
藤相談は、未生の人の生命の保護に奉仕する。
(2) 相談は、以下の事項を含む。
1. 葛藤相談へと歩み入ること。そのためには、妊婦が彼女の相談員に彼女
がそのために中絶を考えている諸理由を打ち明けることが期待される。
相談は、妊婦の対話と協働への心積もりが強制されることを排除する性
質のものでなければならない。
2. 事態に応じて必要とされる医学的、社会的および法的なすべての情報の
提供、母と子の諸請求権および可能な実際的諸援助、とくに妊娠の継続
と母と子の状態を緩和するような援助についての説明、
3. 妊婦が諸請求権を主張するに当たり、住居を求めるに当たり、子のため
の看護手段を求めるに当たり、および彼女の教育を継続するに当たっ
て、支援することの用意のある申し出、ならびに事後的看護の申し出。
相談は、妊婦の願いにより、望まれない妊娠を回避する手段についても教示する
ものとする。
第6条妊娠葛藤相談の実施
(1) 助言を求める妊婦は、遅滞なく相談を受けることができなければならない。
(2) 妊婦は、その願いにより、彼女に相談員に対して匿名であり続けることがで
きる。
(3 )必要である限りにおいて、妊婦との合意のもとに、次の者に相談への参加が
認められなければならない。
1. 他の者、とくに医学的、専門医的、心理学的、社会教育的、ソシァルワ
3a8
ーカー的または法的に修養を積んだ専門家、
2. 障害児の早期庇護につき、特別の経験を有する専門家、および、
3. その他の者、とくに子の父ならびに近親者。
(4)
相談は、妊婦および第3 項第3 号により参加を求められた者に対しては無料
で行われるものとする。
第7条相談証明書
(1) 相談所は、妊婦に対する相談の終結後に、相談が第5 条および第6 条に従っ
て行われたことについての証明書を、名前と日付を記載して発行しなければならな
しユ。
(2) 相談員が相談のための対話の後に、この対話をさらに継続することが必要で
あると考えるときは、その継続は遅滞なくなされなければならない。
(3)相談のための対話を継続することによって刑法第218条a第1項に規定され
た期限の遵守が不可能となり得るときも、相談証明書の発行が拒否されることがあ
ってはならない。
第8条妊娠葛藤相談所
第5 条および第6 条による相談のために、諸ラントは、住居に近い相談所に十分
な複数人の提供を確保しなければならない。これらの相談所は、第9 条により国家
による特別の認可を必要とする。民間の諸施設および医師も、これを相談所として
認可することができる。
第9条妊娠葛藤相談所の認可
ある相談所が第5 条による専門家に適性な妊娠葛藤相談を行うことを保障してお
り、かつ、第6 条による妊娠葛藤相談の実施のために、とくに以下の事項が可能な
状態にあるときにのみ、その相談所を認可することができる。
1. 人物的にも専門的にも十分な資格があり、数の上からも十分な人員を用
いることができ、
2. 相談の実施のために必要とあれば短期に、医学的、専門医的、心理学
的、社会教育学的、ソシァルワーカー的に、または法的に修養の積んだ
専門家の参加を求めることが確保されており、
3. 母と子のための公的および私的な諸援助を保障しているすべての部署と
協働しており 、かつ、
4. 妊娠中絶が実施される施設と、相談施設の実質的な関心が妊娠中絶の実
施にあることが排除できないような仕方で、組織的に、または経済的な
諸利益によって、結びついていないこと。
第10条妊娠葛藤相談所の報告義務と審査
資料
309
(1) 相談所は、その相談活動の基礎にある諸基準および相談活動の際に収集され
た諸経験を、年度ごとに書面による報告書に記載する義務を負う。
(2) 第1項による書面による報告書の基礎として、相談員は、相談のための対話
のすべてについて記録を作成しなければならない。この記録は、妊婦および相談の
ための対話に参加が求められた他の人々の身元についての逆推理を可能にするよう
なものであってはならない。 記録は、相談の本質的な内容および提供の申し出がな
された諸援助措置を書き留めておくものとする。
(3) 所轄官庁は、少なくとも3 年間隔以内に、第9 条による認可のための諸条件
がいまだ存在しているか否かについて審査しなければならない。所轄官庁は、この
目的のために、第1項による報告書を提出させ、第2項によって作成されるべき記
録を閲覧することができる。第9条による条件の1つがもはや存在しないときは、
認可は取り消されなければならない。
第11条経過規定
1993年5 月28 日の連邦憲法裁判所判決の判決正文II. 4 (BGB1. I S. 82のに基づく
相談所の認可は、この法律の第8 条および第9 条に基づく認可と同等である。
第3章妊娠中絶の実施
第12条拒絶
(1) 何人も、妊娠中絶に関与することを義務づけられてはいない。
(2) 婦人の、他の方法では回避できない死または重大な健康侵害の危険を回避す
るために関与が必要であるときは、第1項は適用されない。
第13条妊娠中絶のための諸施設
(1) 妊娠中絶は、必要な事後的治療も保障されている施設においてのみ、実施す
ることが許される。
(2) 諸ラン「は、妊娠中絶の実施のために外来用およ び入院用の諸施設の十分な
提供を確保するものとする。
第14条過料規定
(1) 第13条第1 項に違反して妊娠を中絶した者は、秩序違反行為とする。
(2) この秩序違反行為に対しては、10. 000 ドイツ・マルクの過料を科すことがで
きる。
第4章妊娠中絶に関する連邦統計*
第巧条連邦統計としての指定
刑法第218条a第1項から第3項までの要件のもとに実施される妊娠中絶は、連
310
邦統計の対象になる。この統計は、連邦統計局によって収集され、整理される。
第16条収集項目、報告時期および周期
(1)
収集は、毎年四半期について実施され、次の収集項目を含む。
1. 報告期間内における妊娠中絶の実施(誤申告も含む)、
2. 妊娠中絶の法的要件(相談規定によるか適応事由の認定によるか)、
3. 家族状態および妊婦の年齢ならびに彼女の子供の数、
4. 中絶された妊娠の期間、
5. 侵襲の種類と観察 された合併症、
6. 妊娠中絶が実施された連邦ラント名および妊婦が居住している連邦ラン
ト名または外国の国名、
7. 開業医での実施か、それとも病院での実施か、および病院で手術が実施
された場合における入院期間。
以上の場合において妊婦は、その名前を挙げられてはならない。
(2) 第1 項による申告ならびに誤申告は、四半期ごとの期末に連邦統計局に伝え
られなければならない。
第17条補助的諸要素
収集の補助的諸要素は次のとおりである。
1. 第13条第1項による施設の名称および住所、
2. 再照会のために利用可能な者の電話番号。
第18条情報提供義務
(1) 収集に対しては情報提供義務が存在する。情報提供義務を有するのは、当該
四半期終了前の2 年以内に妊娠中絶が実施された診療所の持ち主および病院の長で
ある。
(2) 第17条第2号についての申告は任意である。
(3) 収集の実施のために、連邦統計局に対して、その要求に基づき、次の事項が
伝達されるものとする。
1. ラント医師会は、その認識するところによれば、その属する施設で妊娠
中絶が実施されたか、または実施される予定である医師の住所を伝達す
る。
2. 管轄の健康保険局は、その認識するところによれば、妊娠の中絶が実施
されたか、または実施される予定である病院の住所を伝達する。
妊娠葛藤法第巧条から第18条b までの規定は、1996年1 月1 日に発効する。
刑法(刑法第218条から第219条b まで。妊婦および家族援助法( SFHAndG) に基
資料311
づく改正箇所は工線部分)
第218条妊娠中絶
(1)
妊娠を中絶する者は、3 年以下の自由刑または罰金刑に処せられる。受精卵
の子宮への着床が完成する前にその効果が生ずる行為は、この法律にいう妊娠中絶
には該当しない。
(2)
とくに重大な場合、刑罰は6 月以上5年以下の自由刑とする。とくに重大な
場合が存在するのは、原則として次の場合である。すなわち、行為者が、
1. 妊婦の意思に反して行為した場合、または、
2. 軽率に妊婦の死の危険 もしくは重大な健康障害を惹起した場合。
(3)
妊婦自身が行為を実行したときは、刑罰は1年以下の自由刑または罰金刑と
する。
(:4)
未遂は罰せられる。妊婦は、未遂を理由としては罰せられない。
第218条a 妊娠中絶の不処罰
(1)
次の場合、第218条の構成要件は実現されなかったものとする。すなわち、
1. 妊婦が妊娠中絶を要求し、かつ、彼女が手術の少なくとも2 日前に助言
を受けたことを第219条第2項第1文による証明書によって医師に明ら
かにし、
2. 妊娠中絶が医師によって実施され、かつ、
3. 受胎後12週を経過していない場合。
(2)
妊婦の同意を得て医師により実施される妊娠中絶は、妊婦の現在および将来
の生活事情を顧慮した場合、医師の認識によれば、妊婦の生命にとっての危険また
は身体上の、もしくは精神上の健康状態に対する重大な侵害の危険を回避するため
に、妊娠の中絶が適切であり、かつこの危険が彼女に期待可能は別の方法では回避
され得ない場合には違法でない。
(3)
第2 項の要件は、医師の認識によれば、刑法第176条から第179条まで「性的
な自己決定に対する罪」による違法な行為が妊婦に対して犯されており、妊娠がこ
れに起因していることを認めるに足りる十分な理由が存在している場合であって、
かつ、受胎後12週を超える期間が経過していないときも、妊婦の同意を得て医師に
よって実施される妊娠中絶であれば、充足された ものとみなされる。
(4)妊娠中絶が相談(第219条)の後に医師により実施されており、かつ、受胎
後22週を超える期間が経過していないときは、妊婦は第218条によっては罰せられ
ない。妊婦が手術の時点で格別の苦境にあったときは、裁判所は第218条による刑
を免除することができる。
312
第218条b 医師の認定のない妊娠中絶・医師の不正な認定
(1) 第218条a 第2 項または第3 項の事例において、自らは妊娠を実施しない医
師の第218条a 第2 項または第3 項の要件に関する書面による認定が呈示されてい
ないのに、妊娠を中絶した者は、当該行為につき第218条において刑が科せられて
いないときは、1年以下の自由刑または罰金刑に処せられる。医師として誤りと知
りながら第1文による呈示のために不正な認定をした者は、2年以下の自由刑また
は罰金刑に処せられる。妊婦は、第1 文または第2文によっては罰せられない。
(2) 医師が本条第1項、第218条、第219条a もしくは第219条bによる違法な行
為のために、または妊娠中絶と関連して犯した他の違法な行為のために、有罪判決
を受け、それが確定しているという理由により、所轄官庁が禁じたときは、その医
師は第218条a第2項または第3項による認定を行ってはならない。医師に対して
第1 文に示されている違法な行為の嫌疑を理由として公判が開始されたときは、所
轄官庁は、当該医師に対して第218条a 第2 項または第3 項による認定を行うこと
を、仮に禁止することができる。
第218条C 妊娠中絶に当たっての医師の義務侵害
(1) 1. 妊娠の中絶を求める婦人の要求につき、その理由を医師である彼に説明
する機会を彼女に与えることなしに、
2. 手術の意義について、とくに経過、諸結果、 諸危険もしくは生じ得る身
体的および心理的な諸効果について、妊婦が医学上の助言を受けたこと
なしに、または、
3 . 第218条a 第1 項から第3 項までの事例において事前に妊娠の期間につ
いての医学的診断に基づく確信を有することなしに、または、
4 .彼自身が第218条b第1項の事例において第219条によってその婦人に
助言をしたにもかかわらず、
妊娠の中絶を行った者は、当該行為につき第218条において刑が科せら れていな
いときは、1年以下の自由刑または罰金刑に処せられる。
(2) 妊婦は、第1 条によっては罰せられない。
第219条窮迫・葛藤状態における妊婦の相談
(1) 相談は、未生の生命の保護に奉仕する。相談は、婦人をして妊娠の継続へと
勇気づけ、彼女に子との生活のための展望を開かせる努力によって導かれなければ
ならない。相談は、彼女が答責的で良心的な決断を下すことができるように援助す
べきものである。その場合、その婦人には、妊娠のすべての段階において未生児
は、彼女に対してであっても、生命への固有の権利を有していること、したがって
法秩序によれば、妊娠中絶は、期待可能な上限を超えるほどに重大かつ異常な負担
資料
313
が子を壊胎し続けることによって婦人に生ずるような場合にのみ、考慮の対象にな
り得るということが、意識されていなければならない。相談は、助言と援助を通し
て、妊娠と関連して生ずる葛藤状態を克服し、窮迫状態を除去することに寄与すべ
きである。その詳細は、妊娠葛藤法の定めによる。
(2) 相談は、妊娠葛藤法の定めに従い、認可された妊娠葛藤相談所によって行わ
れなければならない。相談所は、本条第1 項に関する相談の終結の後に、妊娠葛藤
法の基準に従って最後の相談のための対話の日付および妊婦の名前を記載した証明
書を、妊婦に対して発行しなければならない。妊娠の中絶を実施する医師は、相談
者になることができない。
第219条a 妊娠の中絶に関する宣伝
(1)
集会においてもしくは文書(第11条第3項)の頒布を通して、公然と、自己
の財産的利益のために、または甚だしく人の感情を害する方法で、
1. 妊娠の実施もしくは促進のための自己もしくは他人の業務を、または、
2. 妊娠中絶に適している薬物、物品もしくは処置方法を、
その適性を指示して、申し出、広告し、推奨し、またはその種の内容の説明を公示
した者は、2年以下の自由刑または罰金刑に処する。
(2)
医師または法律に基づいて認可された相談所が、どのような医師、病院また
は施設が刑法第218条a 第1 項から第3 項までの要件のもとに妊娠中絶の準備を整
えているか につき教示を行う場合には、第1 項第1 号は適用されない。
(3) 当該行為が、医師または第1 項第2 号に挙げられた薬物もしくは物品を取引
する権限を有する者に対して行われた場合、または医学もしくは薬学の専門誌への
掲載という形で行なわれた場合には、第1 項第2号は適用されない。
第219条b 妊娠の中絶のための手段の供給
(1) 第218条による違法な行為を奨励する意図のもとに、妊娠の中絶に適してい
る薬物または物品を流通に置いた者は、2 年以下の自由刑または罰金刑に処せられ
る。
(2) 自己の妊娠の中絶を準備する婦人の関与行為は、第1項によっては罰せられ
ない。
(3) 当該行為に関係する薬物または物品は、これを没収することができる。
その他の刑法関連規定(第5 条、第170条b、第202条および第240条。妊婦および家族援助法に
基づく改正箇所は傍線部分)
第5条国内の法益に対する外国での行為
ドイツ刑法は、行為地の法とはかかわりなく、外国において行われた次の犯罪行
314
為に適用される。
1.一
8.……
「略」……
9.行為者が行為の時,点でドイツ人であり、かつ、その生活基盤を本法の場所的適
用範囲内に有している場合における妊娠中絶(第218条)、
10. 以下……「略」……
第170条b 扶養義務の不履行
(1) 法律上の扶養義務を怠ったために、扶養を受ける権利を有する者の生活の需
要が危殆化されるようにした者は、3 年以下の自由刑または罰金刑に処せられる。
(2)妊婦に対して扶養義務を負っているにもかかわらず、この扶養を非難すべき
仕方で差し控え、そのことによってその妊婦の妊娠中絶を惹起した者は、5年以下
の自由升0または罰金刑に処せられる。
第203条私的秘密の侵害
(1) 他人の秘密、とくに個人的な生活領域に属する秘密または営業上もしくは業
務上の秘密であって、
1.一
4.……
「略」
……
4a. 妊娠葛藤法3条および第8条により認可された相談所の構成員もしく
は委員、
5. …… 「以下略」……
として自分に打ち明けられ、またはその他の方法で知るところとなった秘密を権限
なく開示した者は、1年以下の自由刑または罰金刑に処せられる。
(3) 第1項に挙げられた者の業務に従事している補助者および第1項に挙げられ
た者の許でその業務の準備に従事している者も、第1項に挙げられた者と同じであ
る。……「以下略」……
第240条強要
(1)
暴力により、または著しい害悪を伴う脅迫により、他人をして違法に行為、
受忍または不作為へと強要した者は、3 年以下の自由刑または罰金刑に処せられ、
とくに重大な場合には6 月以上5年以下の自由刑に処せられる。行為者が妊婦に妊
娠中絶を強要したときは、原則としてとくに重大な場合が存在する。
(2)追求される目的のための暴力の使用または害悪による脅迫が非難すべきもの
と認められる場合には、行為は違法である。
(3 )未遂は罰せられる。
資料
315
ドイツ臓器移植法
Gesetz iiber die Spende, Entnahme und Ubertragung von Organen (Transplantationsgesetz-TPG) vom 5. November 1997, BGB1. 1997 S. 2631-2638
連邦議会は連邦参議院の賛同を得て以下の法律を採択した。
第1章一般的諸規定
第1条適用領域
(1) この法律は、他のヒトへの移植を目的としたヒ「の臓器、臓器部分または組
織(臓器)の提供および摘出のために、ならびにこのような処置の準備を含む臓器
の移植について適用される。この法律は、さらにヒトの臓器の売買の禁止に適用さ
れる。
(2) この法律は、血液および骨髄ならびに月玉および胎児の臓器と組織については
適用されない。
第2条住民の啓発、臓器提供についての説明、臓器提供の記録、臓器提供の証明
ラント法によって管轄を有する部署、その管轄の枠内における連邦官庁、と
くに健康上の啓発のための連邦センターは、この法律に基づいて住民を臓器提供の
諸々の可能性、臓器摘出の諸条件および臓器移植の意義について啓発するものとす
る。これらの部署は、臓器提供についての説明のための証明書をも適切な説明関連
資料とともに準備していなければならない。健康保険組合と私的保険業は、この関
連資料を一定の間隔で16歳を終えたその被保険者の臓器提供についての説明を求め
る願いに従ってその利用に供するものとする。
(2) 臓器提供について説明を受けた者は、第3 条による臓器提供に同意するか、
それに反対するか、もしくは彼が信頼するとくに挙げられた人の決断に委ねること
ができる(臓器提供についての説明)。同意と決断の委任は、16歳を満たした時か
ら、反対は14歳を満たした時から、これを表明することができ る。
(3) 連邦保健省は、法規命令に従い、連邦参議院の賛同を得て、ある部署に、説
明する者の願いに基づいて臓器提供についての説明を記憶装置に入力し、これに関
して権限を有している人々に情報を提供する任務を、委任することができる(臓器
提供記録)。入力された個人に関係するデータは、説明を受けていた者に第3 条ま
たは第4条による臓器摘出が許されているかを確認することを目的としてのみ、こ
316
れを用いることができる。法規命令はとくに次の事項を規定する。
1. 臓器提供についての説明の受領またはその変更に管轄を有する公的部署
(始動部署)、用紙の使用、それに申告すべきデータおよび説明者の身許
の審査、
2. 臓器提供記録への始動部署による説明の送達ならびに説明およびそこに
含まれているデータの始動部署および記録簿への入力。
3. 連邦データ保護法第10条により自動化された手続きにおけるすべての呼
び出しを、その他の臓器提供記録簿からの情報を間い合わせと回答の審
査を目的として、書きとめておくこと、
4. 第4項第1文によって問い合わせの資格のある医師の個人データの入力
ならびにその間い合わせ資格のためのコード番号の授与、入カおよび合
成、
5. 入力されたデータの抹消、および、
6.臓器提供記録の資金援助。
(4) 臓器提供記録からの情報は、これをもっぱらあり得る臓器提供者の臓器の摘
出にも移植にも関与しておらず、またこのような処置に関与している医師の指示に
も服していない、病院によって記録簿から情報を獲得する権限を有する者として指
名された医師に与えることができる。間い合わせは、これを第3条第1項第2号に
従って死が確認された後にはじめて行うことができる。情報は、これを臓器摘出を
実施することが求められる医師および、第3 条第1 項によって意図された臓器摘出
または第4条によって問題となっている臓器摘出について情報が与えられなければ
ならない人員にのみ、回送することができる。
(5 )連邦保健省は、一般的な行政規定に従い、連邦参議院の賛同を得て、臓器提
供の範型を確定し、連邦公報においてこれを告知することができる。
第2章死体の臓器提供者における臓器摘出
第3条臓器提供者の同意を得た臓器摘出
(1) 臓器の摘出は、第4 条において別段の規定が置かれていない限り、
以下の場
合に許される。すなわち、
1. 摘出する臓器の提供が同意されており、
2. 臓器提供者の死が医学の諸認識の状態に相応した諸原則によっ て確認さ
れており、かつ、
3. 侵襲が医師によって実施される場合である。
(2)臓器の摘出は、以下の場合は許されない。すなわち、
資料
317
1. その死が確認されている人が臓器摘出に反対していた場合、
2. 臓器提供者における摘出の前に、大脳、小脳および脳幹の全機能の終局
的な、除去することができない脱落が、医学の諸認識の状態に相応して
いる処理原則によれば確認されていない場合。
(3) 医師は、臓器提供者の最も近い近親者に、意図された臓器提供について情報
を提供しなければならない。彼は、臓器摘出の経過と範囲を記録に書き留めておか
なければならない。近親者は、その閲覧を求める権利を有する。彼は、彼が信頼し
ている人を招致することができる。
第4条本人以外の人々の同意を得た臓器摘出
(1 )臓器摘出を実施することが求められる医師に、あり得べき臓器提供者の書面
による同意も書面による反対も存在していない場合には、その最も近い近親者に、
彼に前者によって臓器提供についての意見表明が知らされているか否かについて問
い合わされなければならない。 近親者にもこのような意見表明が知らされていない
とき\摘出は、第3条第1項第2および3号および第2号の諸条件のもとに、医師
が近親者に問題となっている臓器摘出について情報を提供し、近親者が彼に同意し
た場合にのみ許される。近親者は、その決断に当たって、あり得る臓器提供者の推
定的同意を顧慮しなければならない。医師は、近親者にこれを指示しなければなら
ない。近親者は、医師と、彼がその意見表明をある一定の取り決められた期間内に
撤回することができることを取り決めることができる。
(2)
この法律にいう最も近しい近親者とは、その)―頃位を列挙すれば、
1. 配偶者、
2. 成人に達した子供、
3. 両親、または可能な臓器提供者が死亡時にはその人の保護がこの時,点で
片親、後見人または看護人に置かれていた限りで、その保護者、
4. 成人に達した兄弟姉妹、
5. 祖父母である。
最も近しい近親者は、彼が可能な臓器提供者の死の前の最後の2 年間にわたって
後者との個人的な接触を有していた場合にのみ、第1 項によって決断を下す権限を
有している。同位の近親者が複数存在している場合、彼らの1 人が第1 項によって
関与し、決断を下すならばそれで十分であるが、しかし彼らのうちに反対がある場
合は、どの反対も顧慮されなければならない。上位の近親者と適切な時間内に連絡
がとれないときは、次に連絡がとれる次位の近親者の関与と決断で十分である。そ
の死に至るまでの可能な臓器提供者と特別な個人的結びつきにおいて明らかに親密
な間柄であった成人に達した者は、最も近しい近親者とつねに同JIt位に置かれる。
318
この者は最も近しい近親者と同等である。
(3) あり得る臓器提供者が臓器提供についての決断を一定の人に委ねていたとき
は、この人が最も近しい近親者に代わって立ち現れる。
(4) 医師は、近親者ならびに第2項第6文および第3項による人々の関与の経
過、内容および帰結を書き留めておかなければならない。第2 条2 項による人々は
閲覧を求める権利を有する。第1 項第5 文による取り決めは書面による形式を必要
とする。
第5条証明手続き
(1) 第3 条第1 項第2 号および第2 項第2 号による認定は、それぞれ、臓器提供
者を互いに独立して診察した、そのために資格を有する2 人の医師によって下され
なければならない。第1文とは異なり、第3条第1項第2号による認定について
は、心臓と循環の終局的な、除去することができない停止が発現しており、それ以
降3 時間以上を経過していない場合には、1 人の医師の診察と認定で十分である。
(2) 第1 項による診察に関与した医師は、臓器提供者の臓器の摘出にも移植に
も、関与することができない。彼らは、. このような諸処置に関与している医師の指
示に服することもできない。診察の諸帰結の認定とその時,点は、医師によってその
根拠に置かれている諸所見を申告して、そのつど書面に書き留められ、署名されな
ければならない。最も近しい近親者ならびに第4 条第2 項第6 文および同条第3 項
による者には閲覧の機会が与えられていなければならない。彼らは、彼らの信頼す
る人を招致することができる。
第6条臓器提供者の尊厳の尊重
(1) 臓器摘出およびそれに関連するすべての処置は、臓器提供者の尊厳を尊重
し、医師の注意義務に相応する仕方で実施されなければならない。
(2) 臓器提供者の遺体は、尊厳ある状態のもとに埋葬されなければならない。前
もって最も近しい近親者には遺体を見分する機会が与えられなければならない。
第7条情報提供義務
(1)
可能な提供者につき、第3 条または第4 条によって臓器摘出を意図している
医師に、または調整部署(第11条)によって委託された人に、これらの規定による
臓器移植が許されているか、およびそれには医学上の諸理由が妨げになっているの
かを確認するために、ならびに第3 条第3 項第1 文による情報提供のために必要と
されている限りで、要求に基づいて情報が提供されなければならない。医師は、社
会法第5 第第108条によるか、もしくはその摘出を彼が意図している臓器の移植に
ついてのその他の規定によって許されている病院、またはこの種の病院とこのよう
な臓器の摘出を目的として協働しでいる病院で、就業していなければならない。情
資料
319
報は、その摘出が意図されているすべての臓器について獲得されるものとする。情
報は、第3条第1 項第2 号に従って可能な臓器提供者の死が確認された後に始めて
これを提供することができる。
(2)
次の者は、情報提供へと義務づけられている。
1. あり得る臓器提供者につき、死に先行していた曜患を治療していた医
師、
2. あり得る臓器提供者について、ある情報を第2条第2項による臓器記録簿
から獲得した医師、
3. あり得る臓器提供者に検死を実施した医師、
4. その保管の下にあり得る臓器提供者の遺体が置かれている官庁、また
は、
5. 調整部署によって委託された人、ならびに第1項から情報を獲得した人。
第3章生きている臓器提供者の場合における臓器摘出
第8条臓器摘出の許容性
(1)
生きている人の臓器の摘出は、次の場合にのみ許容される。すなわち、
1. その人が
a) 成人に達していて同意能力があり、
b) 第2項第1文によって説明を受けていて摘出に同意しており、
c) 医師の診断によれば提供者として適性を有しており、手術のリスクを
超えて危険にさらされないか、もしくは摘出の直接的な結果を越えて
健康上重大な侵害を被らないことが予見され、
2. 予定された受容者への臓器の移植が医師の診断によれば、この人の生命
を保持するか、彼においてある重大な病気を治療し、その悪化を阻止す
るか、もしくはその苦痛を緩和するのに適しており、
3. ある提供者「死体」の適切な臓器が第3 条または第4条により臓器摘出
の時,点において任意に用いることができず、かつ、
4. 侵襲が医師によって実施される場合である。
再び形成することができない臓器の摘出は、さらに第一または第二親等の親族、
配偶者、婚約者もしくは提供者と特別な個人的な結びつきにおいて明らかに親密な
関係にある人への移植を目的としてのみ許される。
(2)
臓器提供者は侵襲の種類、意図された臓器摘出の範囲、および可能な、間接
的でもある諸効果および後続的諸効果について、ならびに臓器移植の予期される結
果の見通し及びその他の、彼が見分けがつくように臓器提供にとってひとつの意義
320
を付与している諸事情について医師によって説明されていなければならない。この
説明は、第5条第2項第1文および第2文に相応した立場にあるもう1人の医師の
立ち合いのもとで、また、必要とされる限りで、専門知識を有している他の人々の
立ち合いのもとでなされなければならない。説明の内容と臓器提供者の同意の意見
表明は文書に書き留められ、説明する人々、もう1 人の医師および提供者によって
署名されなければな らない。この文書は第1 文による健康上の諸リスクの保険法上
の防護についての申告も含んでいなければならない。同意は、書面または口頭によ
り撤回することができる。
ドイツ膝保護法
Embryonenschutzgesetetz-EschG vom 13. Dezember 1990(BGB1. I, 2764)
第1条生殖技術の濫用的な利用
(1) 次の者は3年以下の自由刑または罰金刑に処せられる。
1. ある他人の未受精の卵細胞をある婦人に移入する者、
2. その卵細胞が由来する婦人の妊娠を招来させる以外の目的のためにある
卵細胞を受精させることを企てる者、
3.
1 月経周期内に3個以上の」玉をある婦人に移入することを企てる者、
4. 卵管内での配偶子移入を通して1 月経周期内に3 個以上の卵細胞に受精
させることを企てる者、
5. ある婦人に1月経周期内に移入されるはずのものよりも多くの個数を彼
女の卵細胞に受精させることを企てる者、
6. 子宮内でのその着床が完結する前に、他の婦人に移入するか、もしくは
その維持には役立たない目的に利用するためにその」玉を抜き取ることを
企てる者。
7. その子を出産後には第3 者に長期にわたって委ねる心積もりのある婦人
(代理母)に人工授精を実施するか、もしくは彼女にヒト月玉を移入する
ことを企てる者。
資料
321
(2) その卵細胞が由来する婦人の妊娠を招来させようとすることなしに、以下の
ことを行う者も、同様に罰せられる。
1. あるヒト精子細胞があるヒ「卵細胞に侵入するように作用を加える者、
または、
2. あるヒト精子細胞をある卵細胞に人為的に注入する者。
(3) 次の者は罰せられない。
1.第1号、第2号および第5号の場合において卵細胞または月不が由来する
婦人、ならびに卵細胞が移入されるか、もし くは』玉が移入されるはずの
婦人、および、
2. 第1項第7号の場合において代理母ならびに、子を長期にわたって引き受
けようとする人。
(4) 第1 項第6号および第2 項の場合、未遂を罰する。
第2 条ヒト膝の濫用的な使用
(1) 体外で産出されたか、もしくは子宮内へのその着床が完了する前にある婦人
から取り出されたヒト』玉を譲渡するか、もしくはその維持には役立たない目的のた
めに交付し、取得し、または使用する 者は、10年以下の自由刑または罰金刑に処せ
られる。
(2) 妊娠を招来させること以外の目的のためにヒト月玉を体外で発育するように作
用を加える者も、同様に罰せら.れる。
(3 )未遂を罰する。
第3条禁止される11生の選択
あるヒト卵細胞を、それに含まれている性染色体に従って選別されている精子細
胞と人為的に受精させる者は、1 年以下の自由刑または罰金刑に処せられる。ある
医師による精子細胞の選択が子をデュシエンヌ型「脊椎病」の筋ジストロフィー
躍患またはこれと類似している性と結びついている病気から守るのに役立てってお
り、子を脅かしている擢患がラント法上の主務官庁によってそれ相応に重大である
と認められている場合は、これに該当しない。
第4条専断的受精、専断的腔移入および死後の人工授精
(1)
次の者は3年以下の自由刑または罰金刑に処せられる。
1. その卵細胞が受精させられる婦人と、その精子細胞が受精のための用い
られる男子とが同意をしたという事情が存在していないのに、ある卵細
胞を受精させることを企てる者、
2. ある婦人にその同意がないのにある月玉を移入することを企てる者、また
は、
髭2
3. 情を知りながらある卵細胞をある男子の精子とその死後に受精させる
者。
(2)
第1 号および第3 号の場合において人工授精が実施された婦人は罰せられな
しA。
第5 条ヒト生殖系細胞の人為的変更
(1) あるヒト生殖系細胞の遺伝情報を人為的に変更する者は、5 年以下の自由刑
または罰金刑に処せられる。
(2) 人為的に変更された遺伝情報をもつあるヒト生殖系細胞を受精のために用い
る者もまた、同様に罰せられる。
(3 )未遂を罰する。
(4)
第1 項は、次の場合には適用されない。
1. それが受精のために用いられることが排除されている場合における、体
外に置かれているある生殖系細胞の遺伝情報の人為的変更、
2. ある死亡した胎児、あるヒ「またはある死者から抜き取られた、その他
の身体にとって特有な生殖系細胞であって、次のことが排除されている
場合、すなわち、
a) これがある月玉、胎児またはヒトに移入されるか、もしくは、
b) それからある生殖系細胞が生ずること、
ならびに、
3. それを用いて生殖系細胞の遺伝情報の変更というものが意図されていな
い予防接種、放射線療法、化学療法または他の諸処置。
第6条クローン
(1)他のある月玉、ある胎児、あるヒトまたはある死者と同じ遺伝情報を有するヒ
ト月不が発生することに作用を加える者は、5 年以下または罰金刑に処せられる。
(2)
第1 項に示されているある月玉をある婦人に移入する者もまた、同様に罰せら
れる。
(3 )未遂を罰する。
第7 条キメラおよびハイブリットの形成
(1)
以下のことを企てる者は、5年以下の自由刑または罰金升Iiに処せられる。
1. 異なる遺伝情報をもつ」不を少なくとも一個の8玉を用いて一個の月玉連合を
形成すること、
2. あるヒト月不に、他のある遺伝情報を31玉の細胞として含んでおり、これと
ともにさらに分化すことができるある細胞を結合すること、もしくは、
3. あるヒト卵細胞をある動物の精子細胞をもって受精させるか、またはあ
資料
323
る動物の卵細胞をあるヒ「の精子細胞をもって受精させることを通して
分化することが可能なある』玉を産出すること。
(2)以下のことを企てる者もまた、同様に罰せられる。
1.第1項による行為を通して発生した8玉を
a) ある婦人に、または、
b) ある動物に
移入するか、もしくは、
2. あるヒト8玉を動物に移入すること。
第8条概念規定
(1) この法律にいう月玉とは、受精した、核融合の時点から発育能力を有するヒト
』玉であり、さらには、そのために必要とされる諸前提が現存している場合には分割
し、一個の個体に発育することができる、ある1玉から取り出された全能性を有する
すべての細胞をいう。
(2) 核融合後の24時間内に受精したヒ「卵細胞は、これを発育能力を有している
ものとみなす。ただし、すでにこの時間帯が経過する前にこれが第1段階を超えて
発育することができないことが確認される場合は、これを除 く。
(3) この法律にいう生殖系細胞とは、ある細胞-線上において受精したヒト卵細
胞からそれに由来したヒ「の卵および精子細胞に至るまでのすべての細胞、されに
は精子細胞の注入または侵入から核融合をもって完結した受精に至るまでの細胞を
し“う。
第9条医師留保
以下のことを実施するのは医師にしか許されない。
1. 人工授精、
2. あるヒト細胞を婦人に移入すること、
3. あるヒト3玉の保存、ならびに、すでにヒト精子細胞が侵入しているか、もしく
は人為的に侵入させられているヒ「8玉の保存。
第10条任意による協働
何人も第9 条に示されている種類の諸処置を実施するか、もしくはそれに協働す
ることへと義務づけられていない。
第n条医師留保に対する違反
(1)
医師であることなく以下のことを実施する者は、1年以下の自由刑または罰
金刑に処せられる。
1. 第9 条第1 号に違反して人工授精を実施するか、もしくは、
2. 第9条第2号に違反してヒト」不をある婦人に移入すること。
324
(2) 第9 条第2 号の場合において人工授精が実施される婦人または、その精子が
人工授精のために利用される男子は罰せられない。
第12条過料規定
(1) 医師であることなく、第9条第3号に違反してヒト腫もしくはそこに示され
ているヒ「卵細胞を保存する者は、秩序違反とする。
(2) 前項の秩序違反には5000マルクの過料を科すことができる。
第13条発効
この法律は1991年1 月1 日付をもって発効する。
ドイツ幹細胞法
Gesetz zur Sicherstellung des Embryonenschutzes im Zusammenhang mit Einfuhr
und Verwendung menschlicher embryonaler Stammzellen (Stammzellgesetz) StZG
vom 28. Juni 2002(BGB1. I 2277) zuletzt ge谷ndert am 25. November 2003.
2003年11月25日に最終改正された2002年6月28日の「ヒ「月玉陛幹細胞の輸入および使用
に関し月玉保護を保障するための法律(幹細胞法= StZG)i
*後掲の【 2008 年改正】参照
第1条本法の目的
本法の目的は、人間の尊厳および生命に対する権利を尊重し、保護し、かつ、研
究の自由を保障する国家の義務にかんがみて、
1. 月玉性幹細胞の輸入および使用を原則として禁止し、
2.月玉陛幹細胞の獲得またはI玉陛幹細胞の獲得のための月玉の産出が、ドイ、ソ
から起因することを回避し、かつ、
3. 研究目的のための』を性幹細胞の輸入および使用が許容される要件を規定
することである。
第2条適用領域
本法は、8玉陛幹細胞の輸入および使用について適用される。
第3条概念規定
資料月昭5
本法の意味において、
1. 幹細胞とは、相応の環境において細胞分裂により増殖する能力を有し、
自己または娘細胞が適切な条件の下で異なる特殊な細胞に発育すること
はできるが、個体に発育することはできない、すべてのヒトの細胞をい
い(多能性幹細胞)、
2. 8を陛幹細胞とは、体外で産出され、妊娠の惹起のために使用されなかっ
た』玉、または子宮への着床が完了する前に女性から採取された』玉から獲
得された、すべての多能性幹細胞をいい、
3. 8を陛幹細胞系とは、培養されたまたはそれに接続して冷凍保存された、
すべての幹細胞をいい、
4.月玉とは、それに必要な要件が存在する場合に、分裂して個体へと発育す
ることができる、すべてのヒトの全能性細胞をいい、
5. 輸入とは、本法の適用領域内に月劉生幹細胞を持ち込むことをいう。
第4条膝性幹細胞の輸入および使用
(1)
(2)
月玉陛幹細胞の輸入および使用は禁止する。
第1 項の規定にかかわらず、研究目的のための月を陛幹細胞の輸入および使用
は、第6 条の要件の下に、以下の場合には許容される。
1. 認可官庁の確信するところによれば、
a) 月玉陛幹細胞が、その産出国における法状態に合致してその地において
2002 年1 月1 日より前に獲得され、かつ、培養されまたはそれに接続
して冷凍保存されたものであること、
b) そこから月玉陛幹細胞が獲得された月玉が、医学的に支持された体外受精
の方法により妊娠を惹起する目的のために産出されたが、結局のとこ
ろ妊娠目的に使用されなかったものであって、かつ、その不使用が月玉
それ自体に存する理由から行われたことを認めるに足る手掛かりが存
在しないこと、
c) 幹細胞獲得のための月玉の譲渡につき、対価その他の金銭的利益が保証
されまたは約束されていなかったことが、
認定される場合であって、かつ、
2. 月を陛幹細胞の輸入または使用が、他の法令、とりわけ0玉保護法の規定に
違反するものでない場合。
(3)
認可は、月を陛幹細胞の獲得が、明らかにドイツの法秩序の諸原則に反して実
施された場合には、拒絶されるものとする。ただし、拒絶は、幹細胞がヒトの月玉か
ら獲得されたことをその理由とすることはできない。
喝昭
6
第5条腔性幹細胞の研究
』を陛幹細胞の研究は、科学的に以下のことが説明されている場合にのみ、これを
実施することが許される。すなわち、
1. それが、基礎研究の枠内における科学的知識の獲得に関して、または、
人間に対して適用するための診断、予防もしくは治療の手続きの発展に
際しての医学的知識の拡大に関して、高度の研究目標に役立つこと、お
よび、
2. 科学および技術の是認されている状態によれば、
a) 研究計画に記述されている問題設定が、可能なかぎり、動物の細胞を
用いた試験管内のモデルにおいて、または動物実験において、すでに
解明されており、かつ、
b) 研究計画によって志向されている科学的な知識の獲得が、月を陛幹細胞
を用いてのみ達成されうると見込まれること。
第6条認可
(1) 月を陛幹細胞のすべての輸入およびすべての使用は、管轄の官庁による認可を
必要とする。
(2) 認可の申請は、文書によ ることを必要とする。申請者は、申請用紙に、とり
わけ以下の事項を記載しなければならない。すなわち、
1. 研究計画につき責任を有する者の氏名および職業上の住所、
2. 研究計画が第5 条の要求に合致していることについての科学的に根拠づ
けられた説明を含む研究計画の記述、
3. 輸入または使用が予定されている11を陛幹細胞につき、第4 条第2 項第1
号の要件が充たされていることに関する資料、ただし、この資料は、 以
下のことを証明するものでなければならない。すなわち、
a) 予定されている月を陛幹細胞が、科学的に認められ、公的に利用可能
で、かつ、国家または国家的に権威づけられた機関によって作成され
た登録簿に登録されているものと同一であること、および、
b) この登録により、第4 条第2 号第1 号の要件が充たされていること。
(3) 管轄官庁は、申請者に、申請およびそれに添付された書類を受け付けたこと
を、遅滞なく文書で通知しなければならない。同官庁は、直ちに、幹細胞研究に関
する中央倫理委員会の意見表明を求める。その意見表明を受け取った後、同官庁
は、申請者に、その意見表明および幹細胞研究に関する中央倫理委員会の議決の日
時を伝達する。
(4)認可は、.次の場合に与えられなければならない。すなわち、
資料月昭7
1. 第4条第2項の要件が充たされており、
2. 第5 条の要件が充たされており、かつ、同条の意味において研究計画が
倫理的に支持しうるものであり、かつ、
3. 監督官庁による関与後にるされた幹細胞研究に関する中央倫理委員会の
意見表明が存在している場合。
(5 )完全な申請書類ならびに幹細胞研究に関する中央倫理委員会の意見表明が存
在する場合、管轄官庁は、申請につき、2 カ月以内に文書で決定を下さなければな
らない。同官庁は、その決定に当たって、幹細胞研究に関する中央倫理委員会の意
見表明を顧慮しなければならない。監督官庁が、その決定において、幹細胞研究に
関する中央倫理委員会の意見表明に従わない場合、同官庁は、その理由を文書で示
さなければならない。
(6 )認可は、第4 項の認可の要件の充足またはその継続的維持のために必要な場
合には、遵守事項および条件を付して与え、かつ、期限を付すこ とができる。認可
が与えられた後に認可に反する事実が生じた場合、認可は、将来にわたってその全
部もしくは一部を撤回し、遵守事項の充足に依存させ、または、第4 項の認可の要
件の充足またはその継続的維持のために必要な場合には、期限を付すことができ
る。認可の取消もしくは撤回に対する異議申立および取消の訴えは、延期の効果を
有しない。
第7条管轄官庁
(1) 管轄官庁は、連邦健康社会保安省の規則により定めら れた同省の官庁とす
る。同官庁は、本法によりそれに委託された任務を連邦の行政任務として遂行し、
連邦健康社会保安省の専門的監査に服する。
(2) 本法による職務行為については、費用(手数料および経費)を徴収しなけれ
ばならない。行政費用法が適用される。公益的と認められた研究機関は、行政費用
法第8 条第1 項に挙げられた権利者を除き、手数料の支払いを免除される。
(3) 連邦健康社会保安省は、連邦教育研究省の同意のもとに、規則により、費用
支払義務の要件を定め、その際、固定金額または一定枠の金額を規定する権限を有
する。その際には、手数料債務者にとっての意義、経済的価値その他の利益を適切
に顧慮しなければならない。規則には、終結に至らなかった職務行為についても、
その理由が職務行為を行わせた者の責に帰す場合には、手数料を徴収することがで
きる旨を規定することができる。
(4) 認可手続きの枠内で告知義務を充足する際に生じた申請者の独自の支出は、
返済されないものとする。
第8条幹細胞研究に関する中央倫理委員会
駿沼
(1) 管轄官庁に、学際的に組織された独立の幹細胞研究に関する中央倫理委員会
が設置される。同委員会は、生物学、倫理、医学および神学を専門とする9 人の専
門家によって組織される。専門家のうち4人は、倫理および神学の専門分野から、
5 人は生物学および医学の専門分野から任命される。委員会は、その委員から委員
長および委員長代理を選任する。
(2) 幹細胞研究に関する中央倫理委員会の委員は、連邦政府によ り、任期3 年で
任命される。再任は許容される。各委員につき、原則として代理委員が任命され
る。
(3) 委員および代理委員は、独立であり、指示に拘束されない。委員および代理
委員は守秘義務を有する。行政手続法第20条および第21条を準用する。
(4) 連邦政府は、規則により、幹細胞研究に関する中央倫理委員会の招集および
手続き、外部専門家の召喚ならびに期限を含む管轄官庁との共同作業について、詳
細を規定する権限を有する。
第9条幹細胞研究に関する中央倫理委員会の任務
幹細胞研究に関する中央倫理委員会は、提出された書類にもとづき、第5 条の要
件が充たされているか否か、および研究計画がこの意味において倫理的に支持しう
るか否かを、審査し評価する。
第10条情報の内密性
(1)
第6条の申請書類は、内密に扱われなければならない。
(2)
第1 項の規定にかかわらず、第11条の登録簿への登録のために以下の情報を
使用するこ とができる。すなわち、
1. 第4 条第2 項第1号の」玉陛幹細胞に関する情報、
2. 研究計画につき責任を有する者の氏名および職業上の住所、
3. 研究計画の基本データ、とりわけ研究の高度性、それを実施する予定の
機関およびその予定期間を含む計画されている研究の総括的説明。
(3)
申請が、認可に関する決定の前に取り下げられた場合、管轄官庁は、申請書
類に関して蓄積されているデータを消去し、申請書類を返還しなければならない。
第11条登録簿
月を陛幹細胞に関する情報および認可された研究計画の基本データは、管轄官庁に
より、公的に利用可能な登録簿に登録されるものとする。
第12条届出義務
研究計画につき責任を有する者は、月f'l生幹細胞の輸入または使用の許容性に関す
る事後的に生じた重要な変更を、遅滞なく、管轄官庁に届け出なければならない。
第6 条の適用を妨げない。
資料駿汐
第13条罰則
(1) 第6条第1 項の認可なしに月を陛幹細胞を輸入または使用した者は、3年以下
の自由刑または罰金に処する。故意に虚偽の情報を用いて入手した認可に基づき行
為した者も、第1文の意味における認可なしに行為した者に当たる。未遂を罰す
る。
(2) 第6 条第6 項第1 文または第2 文の実行可能な遵守事項に違反した者は、1
年以下の自由刑または罰金に処する。
第14条過料規定
(1)
以下の者は秩序違反に該当する。すなわち、
1. 第6条第2項第2文に反し、そこに挙げられた情報提供を正しく行わ
ず、もしくは不完全に行った者、または、
2. 第12条第1文に反し、届出を行わず、正しく行わず、不完全に行い、も
しくは適時に行わなかった者。
第巧条報告
連邦政府は、ドイツ連邦議会に、2 年毎に、最初は 2003 年の終了時に、本法の実
施に関する経験報告を行うものとする。報告書は、他の形態におけるヒト幹細胞の
研究結果も含むものとする。
第16条施行
本法は、公布に続く月の初日に施行する。
[2008年改正)
*幹細胞法は、激論の末、2008年に改正され、改正法は同年8 月21日に施行され
た。この改正により、 2007 年5 月1 日より前に産出された月を陛幹細胞の輸入および
使用が許容されるとともに、ドイツの研究者が外国で(たとえば国際的研究プロジ
エクトで)研究する場合については、処罰の対象から除外されることになった。
Gesetz zur Anderung des Stammzellgesetzes vom 14. August 2008
2008 年8 月14 日の「幹細胞法改正法」
第1編幹細胞法の改正
1 第2条は、以下のとおりに規定される。
第2条適用領域
本法は、』を陛幹細胞の輸入および国内にある」を陛幹細胞の使用について適用され
330
2 第4条第2項第1号a) の「 2002 年1月1 日」は「 2007 年5月1 日」に置き換
えられる。
3 第13条第1項第1文は、以下のとおりに規定される。
「第6条第1項の認可なしに、以下の行為をした者は、3年以下の自由刑または
罰金に処する。すなわち、
1. 」を陛幹細胞を輸入し、または、
2. 国内にある月を陛幹細胞を使用した者。」
第2編施行
この法律は、公布の日に施行する。
1資料8
患者の生前の意思表示(患者遺言)に関するドイツの新規定
Das 3. Gesezes zur Anderung des Betreuungsrechts vom 29. Juli 2009, in:Bundesgesetzblatt 2009 Teil I S. 2286-2287
民法典( BGH)
第 1901 条a 患者遺言( Patientenverfugung)
(1 同意能力を有する成人が、彼が同意無能力状態に陥った場合のために、書き
留めの時点ではいまだ目前に迫っていない特定の健康状態のなかで治療行為または
医師による侵襲に同意するか、もしくはこれを拒絶するかについて書面によって書
き留めていた場合には、看護人はこの書面が現実の生活状況および処置状況に当て
はまるか否かを検証するものとする 。これが現実に合致している場合には、看護人
は被看護人の意思に表現と妥当を獲得させなければならない。患者の遺言は、いつ
でも定型なしにこれを取り消すことができる。
(2)
どのような患者の遺言も存在していないか、もしくは患者の遺言の文書によ
る固定化が現実の生活状況および処置状況に当てはまっていないときは、看護人は
被看護人の処置の願望または推定的な意思を確定し、これを基盤にして、彼が第1
項による医師の何らかの処置に同意しているか、もしくはそれを拒絶しているかを
資料331
判定しなければならない。とくに被看護人の以前の口頭または書面による意思表
示、倫理的および宗教上の確信およびその他の個人的な世界観が顧慮されなければ
ならない。
(3) 第1 項および第2 項は、被看護人の病気の種類および段階に依存することな
く適用される。
(4) 何人も患者遺言の作成へと義務づけられない。患者遺言の作成または呈示
は、何らかの契約締結の条件にされてはならない。
(5) 第1 項から 第3 項までは代理人にも準用される。
第 1901 条b 患者の意思を確認するための対話
(1) 主治医は、医師によるどのような処置が患者の健康状態と予後診断にかんが
みて適応しているかを検査しなければならない。彼および看護人は、患者の意思を
顧慮すればこのような処置が第 1901 条a によって下すべき決断にとっての基盤で
あるかを検討する。
(2) 第 1901 条a第1項により患者の意思を、もしくは第 1901 条a第2項により
推定的意思を確認するに当たっては、被看護人の近親者およびその他の信頼の置け
る人々が、それが著しく遅滞することなく可能である限りで、意見表明をする機会
が与えられるものとする。
(3) 第1 項および第2 項は代理人にも相応に適用される。
第19叫条医師による処置の看護裁判所による認可
(1) 健康状態の診察への、治療行為または医師による侵襲への同意は、被看護人
が処置に基づいて死亡するか、もしくは重大な、長期にわたって継続する健康上の
損傷を被るという、根拠のある危険が生ずる場合には、看護裁判所の認可を必要と
する。この認可がないときは、危険が遅延に結びついている場合にのみ、処置を実
施することが許される。
(2) 健康状態の診察への、治療行為または医師による侵襲への被看護人の不同意
または同意の取り消しは、処置が医学的に適当であり、被看護人が処置の不開始ま
たは中断に基づいて死亡するか、もし くは重大かつ長期にわたって継続する健康上
の損傷を被るという、根拠のある危険が生ずる場合には、看護裁判所の認可を必要
とする。
(3)第1項および第2項による認可は、同意、不同意または同意の取り消しが被
看護人の意』思に相応している場合には与えられなければならない。
(4 )第1 項および第2 項による認可は、看護人と主治医との間で、同意の付与、
不付与または取り消しが第 1901 条によって確認された被看護人の意,思に相応してい
ることについて合意が成り立っている場合には必要とされない。
332
(5)
第1 項から第4 項までは代理人についても適用される。彼は第1 項第1 文ま
たは第2項に挙げられた諸処置に、委任がこれらの処置を明示的に包括しており、
書面によって与えられている場合にのみ同意し、同意しないか、もしくは同意を取
り消すことができる。
家族事件および自発的な裁判管轄事項における手続に関する法律( FamFG)
第289条民法第19叫条の諸事例における手続
(1)
裁判所は、看護人または代理人の健康状態の診察、治療行為または医師によ
る侵襲への同意を、それが本人から事前に聴取されていた限りで認可することがで
きる。裁判所には、その他の関係者に聴取することが求められる。裁判所は本人の
要求を、それが著しく遅滞することなく可能である場合には、彼に最も近しい人を
聴取しなければならない。
(2)裁判所には、民法第 1904 条第2項によって認可を与える前に、その他の関係
人を聴取することが求められる。
(3 )手続の対象が民法第 1904 条第2 項による認可である場合には、手続遂行人の
選任がつねに必要とされる。
(4 )認可を与える前に鑑定人による鑑定意見が求められなければならない。主治
医が鑑定人であってはならない。
立命館大学連続セミナー「医療と刑法」レジュメ集
ェーザー教授は、2008年度・前期、立命館大学法学部に客員教授として滞在さ
れ、「医療と刑法に関するセミナー」と題する講義を、1 回2 限で、8 回にわたり
実施された。以下に、その講義のレジュメを邦訳し本書の資料とする。それが現代
医事刑法の概観を提供するものと思われるからである。
医療と刑法に関するセミナー
ープログラムー指針一
一般的文献「以下、著者名のないものはェーザー教授の論文である」
資料
333
私の公表文献は(日本語文献を含めて)、インターネットで下記のアドレスで参
照することができます(以下には、rfreidok xxxx」と表示します)。
http://freidok.uni-freiburg.de/volltexte/xxxx/
Perspektiven des Medizin (straf) rechts, 2006. freidok 3723
・アルビン・ェーザー(上田健二=浅田和茂編訳)『先端医療と刑法』(成文堂、
・
1990年).freidok 4759 (以下『先端医療』と略)
・
Medizin und Strafrecht. Eine schutzgutorientierte Problemtibersicht, ZStW
1985, freidok 3814 =先端医療 freidok 4759
・
Beobachtungen zum ,,Weg der Forschung" im Recht der Medizin, 1990.
freidok 4025
・「生命の保護―法制史的比較から見た現在のドイツ法―」先端医療 freidok
4759
第1回入門・方法論的前提問題:医師と患者の関係における法の役割
文献
・, ,Medical
・
discretion" in the patient-physician relationship, 2000. freidok 3787
Der Arzt im Spannungsfeld von Recht und Ethik, 1988. freidok 3902
・ Die Rolle des Rechts im Verhaltnis von Arzt und Patient, 1984. freidok 4741.
Kurz-fassung. Freidok 3603
・*セミナーでは、とくに最後の文献に従い、医師と患者の関係について説明・
質疑が行われた。
第2回治療行為一治験一人体実験―医師の説明と患者ないし被検者の同意―
文献
・
Arztliche Heilbehandlung, in:Sch6nke/Schroder, Strafgesetzbuch, 27. Aufi.,
2007, S. 1909-1929
・
・
Zur Regelung der Heilbehandlung in rechtsvergleichender Perspektive, 1999,
freidok 3736
Legal aspects of experimentation on the living: a comparative survey, 1997,
freidok 3518
・アルビン・ェーザー(甲斐克則=訳)「人体実験一その複雑性と適法性について
一(一)に・完)」広島法学21巻2号239一248頁( 1997 年) '3 号 209-222 頁
(1998 年)、 freidok 4875
・
Functions and requirements of informed consent in German law and practice,
334
Lotta Westerhall(Hrsg.):Patient's right, Stockholm:Nerenius&Sant6rus,
1994, S. 235-253, freidok 3490.
・「健康および身体の完全性の保護」『先端医療』
3 -15 頁、 freidok 4759
・「自己決定権の保護と尊重」『先端医療』 15-23 頁、 freidok 4759
・
Humanexperiment, Heilversuch-Recht, Albin Eser u.a.(Hrsg.):Lexikon
Medizin, Ethik, Recht:Darf die Medizin, was sie kann?;Information und
Orientierung. Freiburg;Basel;Wien: Herder, 1989, 5. 503-514 1989, freidok
4281.
・ Arztliche Aufklarung und Einwilligung des Patienten, besonders in der Inten-
sivtherapie, Paul Becker(Hrsg.):Begleitung von Schwerkranken und Sterbenden. Mainz:Matthias-Grtinewald-Verl.,1984, 5. 188-207, freidok 3771
・ Heilversuch und Humanexperiment:zur rechtlichen Problematik biomed-
izinischer Forschung, Der Chirurg 50(1979),5. 215-221,freidok 3786
医師の説明
・目的:「医療の準則」の一部としての「治療的」説明
患者の身体的・精神的完全性に対する医療侵襲を正当化する「自己決定のた
めの説明( Selbstbestimmungsaufklarung)]
・「自己決定のための説明」の指針は、患者に侵襲の是非の判断を可能にするため
に、彼に侵襲の種類、意味および射程を、いずれにせよその基本部分において認
識可能にすることである(連邦憲法裁判所、連邦通常裁判所)。その際、説明の
範囲および強度は、抽象的に確定することはできず、むしろ具体的な事態に合わ
せて決められるべきである。
・説明が必要なのは、とりわけ以下の諸点である。
一侵襲の種類および目的(診断、治療など)、治療の選択肢に関する「侵襲の説
明」
一ありうる苦痛、手術後の状態、失敗のリスクに関する「結果の説明」
一その種類、重大性、見積もりの点で理解力のある患者にとって重要でありう
る、望ましくない副作用に関する「リスクの説明」
一悪い所見の場合に重大なショックが予期されない限りにおいての「診断の説
明」、争点は「病床の真実」
・説明義務の限界
一患者の有する事前情報、「看護原理」(いわゆる「治療の優先」)
資料335
患者(あるいは被検者)の同意
◆本質的な要件
一同意権限:患者自身
あるいは患者の法律上の代理人
一同意権限:
―民法上の成年によらない
―自然な弁識力および判断力
―話しかけることができない場合、「推定上の同意」
◆説明と同意の形式:
一口頭で十分である。
一立証根拠のために書面を薦める。
一説明は、書面を用いることによって有益になるが、個別の助言で補充する。
一人体実験の場合、書面が必須。
◆説明と同意の時点:
治療行為
要素:主観的
客観的
要件
治験
人体実験
個人的な治癒目的
個人的な治癒目的 H鋤勺な知見の獲得
実証済みの標準
実験的方法
実験的方法
医学的適応
医学的適応
望まれる
医学的適用可能性
治療的
治療的
一時緩和的(姑息、的)
一時緩和的(?)
診断的
診断的
予防的
+
説明と同意
+
++
説明と同意
説明と同意
+
道徳的是認可能性利益・危険の衡量
+
標準・医療の準則
++
科学的な実験的方法論
++
手続的な防護
倫理委員会(?)
倫理委員会、
研究計画・記録・モニタ=・
保険など
一患者に賛成と反対を考量するのに十分な時間が残っている時,点が、適時であ
る。
◆同意の取消:以下の範囲内であれば、いつでも可能。
一今の衝撃あるいは一時的な不安によるものではなく、
一真剣かつ最終的とみなされること。
医学的侵襲の刑法上の位置づけ
(1) 判例
構成要件上傷害罪
(2)一部の学説(3)一部の学説
( (2) 説と(3) 説)医学上の適応あれば傷害罪では
ない
++
(2説)成功したとき
(3説)準則に従っているとき
説明と同意によって正当化
それ以上の正当化は不要
ここでの問題:
専断的治療行為からの保護?
改正提案
(1) 傷害罪の構成要件から治療的侵襲を除外。
(2) 「専断的治療行為」のための特別規定。
(3) 故意の場合にのみ、治療過誤の可罰性を認める?
第3回積極的臨死介助および消極的臨死介助(自殺関与を含む)
文献
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begrundet von Adolf Sch6nke, fortgefuhrt von Horst Schr6der, mitkommentiert von Peter Cramer Strafgesetzbuch:Kommentar, 27.,neu bearbeitete
Auflage, 2006, S.1776-1791. www.beck-online.de .
・
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・ Kenji Ueda, Bioethische Beurteilung der rechtlichen Unterscheidung zwischen
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Recht und Ethik im Zeitalter der Gentechnik:deutsche und japanische
Beitrage zu Biorecht und Bioethik, 2004, S. 300-329
・ Kenji Ueda, Die Sterbehilfe in Japan als Beispiel der Japanisierung westlicher
資料337
Rechtskultur, in; Heinrich Scholler, Silvia Tellenbach(Hrsg.),Die Bedeutung
der Lehre vom'Rechtskreis und der Rechtskultur, 2001,S. 103-127
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・ Selbsttotung-Juristische Beurteilung, in; Staatslexikon, 7. Auf 1. Bd. 5(1989),
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・ Freiheit zum Sterben-kein Recht auf Totung:emn Beitrag zum strafrechtli-
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119 一 156 頁
・
Grenzen der Behandlungspflicht aus juristischer Sicht, P. Lawin(Hrsg.):
Grenzen der a rztlichen Aufklarungs- und Behandlungspflicht:interdisziplinare Tagung,1982, S. 77-94, freidok 3791
・ Lebenserhaltungspflicht und Behandlungsabbruch in rechtlicher Sicht, A.
Auer(Hrsg.),Zwischen Heilauftrag und Sterbehilfe:zum Behandlungsabbruch aus ethischer, medizinischer und rechtlicher Sicht, 1977, S. 75-147,
freidok 3596
・
Der manipulierte Tod?:Moglichkeiten und Grenzen der Sterbehilfe aus rechtlicher Sicht, J. Schwartlander(Hrsg.):Der Mensch und sein Tod, 1976, S. 61
-81,freidok 3773
・
Neues Recht des Sterbens:einige grundsatzliche Betrachtungen, Albin Eser
(Hrsg.):Suizid und Euthanasie als human- und sozialwissenschaftliches
Problem, 1976. (Medizin und Recht;1),S. 392-407, freidok 3745
要求による殺人一自殺関与一臨死介助
I . 出発点となる規範:ドイツ刑法216条:他者の要求による殺害(のみ)原則的
に可罰性あり。
《帰結》
>完全には正当化されない「同意の遮断」
338
>しかし、刑罰減軽
一被害者の要求に基づく
一明示的で
一真撃な
一実行行為の原因となる要求
>刑罰減軽の根拠
一同意に基づく不法の減少
一(法律上推定される)同情の動機づけに基づく責任の減少
>自殺の不処罰
一その結果として一可罰的な正犯行為が欠けているため一自殺関与の不処罰
一代案:自殺関与の処罰のための特別規定?
例:オーストリア・スイス・改正提案、日本刑法202条
《限界設定》
(可罰的な)要求に基づく殺人什→(不処罰の)自殺関与
一正犯意思あるいは共犯意』思?
一行為支配?現在の連邦通常裁判所
一その際、関与者の最後の行為寄与の後、被害者になお生死に関する自由な決定
が残されているべきことの示唆:その場合に(のみ)不処罰の自殺関与
一行為無能力発生後の救護義務( BGH)
II. 安楽死一臨死介助一治療の中断
◆いわゆる「生きるに値しない生命」の処分:処罰
否定:オランダ、ベルギー
◆瀕死者の積極的殺害(「薬で苦しませずに殺害する( Einschlafern)]) :処罰
◆命生命短縮の危険を伴う苦痛緩和
=いわゆる「間接的安楽死」
一支配的見解によると、不処罰
一しかし、理由づけについては争いあり:
故意の欠如?正当化的緊急避難?許された危険?
>「合意に基づく」治療中断:不処罰
一「患者の任意の処理」に基づくのか?
>「片面的」治療中断:意識不明一自己主張できない状態
一それ以上の生命維持措置は「無意味」か?
一死が「宿命的であって」、不可避的に決定されているのか?
資料
339
一(必要な)「通常の」措置と(必須ではない)「特別な」措置との区別?
>医師の使命の目的の顧慮:
一生命それ自身のための量的一生物学的な延命ではなく
一人間に、なお人格的自己認識と自己実現の最小限を可能にするため
>それに応じて、生命維持措置の開始および/あるいは継続の断念は、以下の場
合に許される
一(生物学的一医学的に確証された)不可逆的な意識喪失の後
一(瀕死者が道具としてだけ利用されるあるいは他者の利益となるような)処遇
の「客体」となるような場合に、人間の尊厳を保持するため
一費用が過度にかかりすぎるため?
>「技術的」治療中止:積極的作為による人工呼吸器の停止?あるいは単なる不
作為による人工呼吸器の停止?
第4回妊娠中絶:比較法と改正提案
文献
・ Schwangerschaftsabbruch ( §§218-219b StGB),in:Sch ひ nke=Schr ひ der=
Cramer, Strafgesetzbuch, 27.,neu bearbeitete Aufi.,2006, S.1827-1896
・ Albin Eser and Hans-Georg Koch; translated by Emily Silverman, Abortion
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H.-G. Koch, Schwangerschaftsabbruch und Recht:vom internationalen Vergleich zur Rechtspolitik, 2003
・アルビン・ェーザー、ハンスーG ・コ、,ホ(甲斐克則、松尾智子=訳)「人工妊娠
中絶の国際的比較(上)一所見・洞察・提言」ジュリス「 1220 号 68-75 頁
(2002)
、
freidok 3678=Albin Eser, Hans-Georg Koch, Schwangerschaftsab-
bruch im internationalen Vergleich:Befunde-Einsichten-Vorschlage, 2000,
freidok 3688
・ Kenji Ueda, Die Abtreibung in Japan in rechtsvergleichender Perspektive ,同
志社法学52巻1 号1 一41頁(270一310頁)
(2000 年)
・ Albin Eser, Hans-Georg Koch(Hrsg.),Schwangerschaftsabbruch im internationalen Vergleich: rechtliche Regelungen, soziale Rahmenbedingungen,
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(mit einem Beitrag Uber J 即 an von Shibahara). Teil 3:Rechtsvergleichender
Querschnitt -Rechtspolitische Schlussbetrachtungen- Dokumentation zur
neueren Rechtsentwicklung, 1999
340
・アルビン・ェーザー(上田健二、浅田和茂=訳・解説)「比較法的視点から見た
ドイツ妊娠中絶法の改革」同志社法学48巻2 号1 ---63頁(379-441頁)(1996年)
・アルビン・ェーザー(上田健二、浅田和茂=訳)「妊娠中絶・連邦憲法裁判所判
決の具体化のための改正諸試案」同志社法学46巻1号 211-234 頁( 1994 年)
freidok 3643
・アルビン・ェーザー(上田健二、浅田和茂=訳・解説)「新たな道へ向けての出
発,道半ばでの停止―連邦憲法裁判所 1993 年5 月28 日妊娠中絶判決への最初の
評価―」同志社法学45巻5 号157一194頁(1994年)freidok 3672
・アルビン・ェーザー(上田健二、浅田和茂=訳)「試験台に立っ新妊娠中絶刑法」
同志社法学44巻3号121一167頁( 1992 年) freidok 3961
・ Albin Eser, Hans-Georg Koch, Pladoyer ftir emn "notlagenorientiertes Diskursmodell",J. Baumann(Hrsg.):§218 StGB im vereinten. Deutschland:die
Gutachten der strafrechtlichen Sachverstandigen im Anhorungsverfahren des
Deutschen Bundestages, 1992,S. 21-79, freidok 3760
・Schwangerschaftsabbruch zwischen Grundwertorientierung und Strafrecht:
eine rechtspolitische Uberlegungsskizze, Arzt und Christ 37(1991),S. 231-246,
freidok 3661
・アルビン・ェーザー(野村稔、関哲夫=訳)「ドイツ刑法の変遷における生命の
保護一比較法史における生命の「神聖性」と「質」について一」比較法学21巻2
号179一200頁( 1988 年)、 freidok 4882
・アルビン・ェーザー(浅田和茂=訳)「ドイツ堕胎刑法の改革一その展開と現状
一」大阪市立大学法学雑誌32巻3 号159一186頁(1986年)
・ Aspekte eines Strafrechtlers zur Abtreibungsreform, Dietrich Hofmann
(Hrsg.):Schwangerschaftsunterbrechung:Aktuelle Uberlegungen zur
Reform des§218, 1974 (stw ; 238),S. 117-177, freidok 4757
ドイツ法における未生の生命の保護についての概論
A. 母胎外での保護
1 . 1990年胎児保護法
◆絶滅に対する保護ではない。
◆特に胎児を用いた研究の禁止によるような、特定の利用方法からの保護のみ。
2 . 2002/2008年幹細胞法(Stammzellgesetz)
◆一定の期日(当初は 2002 年1 月1 日、現在は 2007 年5 月1 日)の後に獲得され
た胎性幹細胞の輸入および利用の禁止
資料341
B. 母胎内での保護
1993年妊婦及び家族援助法の規定による刑法55218条一219b 条
I. 保護利益
>独自の、高度に人格的な、母親の生命および保護意』思から独立した法益として
の、未生命の生命
>付加的に、妊婦の健康(218条2 項2 号参照)。
>妊婦の決定の自由も?(218条2 項1 号参照)
II. 時間的保護段階
1 着床までの初期段階においては、例外なく不処罰けなわち、通常、受胎か
ら2週目の終わりまで、つまり実際は、最終月経開始後4週間以内)。
2 着床から妊娠第12週の終わりまで:相談後の医師による中絶の場合、218条
の構成要件阻却:219条と結びついた218a 条1 項
>刑事学的適応事由による正当化:218a 条3 項
3 第22週まで:医学的適応事由による正当化: 218a 条2 項
>正当化されない場合:相談後の医師による中絶の場合における、妊婦の一身
的刑罰阻却(218a条4項1文)
4 第23週から最終段階:医学的適応事由による正当化: 218a 条2 項
>正当化されない場合、妊婦の苦境を理由とする刑の免除がありうる(218a
条4項2文)
5 「妊娠中絶」(218条)と人の「殺害」(211条以下)の限界:陣痛の開始
III. 218a 条1 項による構成要件阻却
1 妊婦の要求
2 219条2項2文に従った相談を受けたことの証明
3 医師による実施
4 12週の期限内
>しかし、構成要件阻却にもかかわらず、この場合でさえ「妊娠中絶の原則的
禁止はそのまま(維持されている)」ので、(連邦憲法裁判所命令Nr.II/2 S.
2に従い)中絶は違法とされる
Iv.
適応事由による正当化
最も重要な要件:
1 現在、適応事由として顧慮されているもの:
342
a) 医学的(一社会的?) 適応事由:218a 条2 項
b) 刑事学的適応事由:218a 条3 項
2 公式の適応事由の確認も必要:219条2 項
3 妊婦の同意
4 医師による実施
5 医師による技術的準則の尊重(争いあり)
6 客観的正当化要件を認識した上での主観的な行為
>救助意思
>「良心的な吟味」?
7 中絶期間の尊重
>刑事学的適応事由の場合は第12週の終わりまで( 218a 条3 項)
>しかし、医学的適応事由の場合、時間的には無制限( 218a 条2 項)
V. 妊婦に対する一身的刑罰阻却事由:
(218a 条4 項1 文)
A. (医師によるおよび社会的な)相談の後
B. 受胎後22週以内という期限の正当性
C. 医師による実施(しかし医師自身は不処罰ではない!
VI. 補充的な保護構成要件および制御構成要件
A. 適応事由確認の義務( 218b 条)
1 中絶を行う医師とは異なる医師によること
2 適応事由についての意見表明のみが(中絶を行う医師の決定を補助するため
に)必要であり、必ずしも賛成票を投じるものでなくてもよい
3 中絶を行った医師が、事前の適応事由の確定なしに中絶を行った場合:可罰
自勺
>妊婦は、一新的刑罰阻却事由に基づき不処罰(218b 条1 項3 文)
B. 相談を受ける義務( 218a 条1 項1 文);妊娠葛藤法( SchKG )における相談
の実施は以下のとおり規定している
1 相談の目的(219条1項):
>妊娠継続のために女性を激励すること
>子ともと共に生きる展望を開くこと
>答責的で、良心に基づく決断のための援助
2 相談の方法(219条1項):
>妊婦の中絶理由の説明の下での葛藤相談
資料343
>医学的、社会的、法的な情報提供
>請求権の主張、住居探しなどについての援助
>避妊についての教示
3 公設の相談所による相談のみ(219条2 項1 文)
4 とりわけ以下のような第三者の導入
>他の専門家
>未生の子の父親
>未生の子の両親のその他の親族
5 女性の希望に基づく、相談の匿名性( SchKG6 条2 項)】しかし、6 を尊重
6 相談証明書の発行(219条2項2文)
>この中で、氏名申告は必須。
妊娠中絶:比較法一改正提案
I. 比較法による所見
1 規制の多様性一規制モデル
2 改正の傾向:
>「医学化」
>「手続化-J
>「社会化]
3 規制モデルと妊娠中絶の多発との関係
>疑わしい相関関係
>適応事由のヴァリエーション
>影響する諸要素
II. 法政策的洞察
1 「第三者評価」から「責任を自覚した論議」まで
2 合法的な妊娠中絶の一般的上限としての「生存能力」
3 窮迫状態に方向づけられた相談による妊娠中絶の合法性
III. 規制の提案
第5回
人間遺伝学:再生医学と遺伝子工学
文献
・
Albin Eser, Hans-Georg Koch, Carola Seith(Hrsg.),Internationale Perspe-
344
ktiven zu Status und Schutz des extrakorporalen Embryos:rechtliche
Regelungen und Stand der Debatte im Ausland, International perspectives on
the status and protection of the extracorporeal embryo, 2007
・ Carola Seith, Status und Schutz des extrakorporalen Embryos:eine rechtsver-
gleichende Studie, 1. Aufi, 2007
・ Aspekte der Stammzellentechnologie-Tm Besonderen in Grossbritannien,
Deutschland, Osterreich und der Schweiz-,Zeitschrift fur Rechtsvergleichung
Internationales Privatrecht und Europarecht (ZfRV) 48(1),5. 18-24, 2007
・ Niels Petersen, The Legal Status of the Human Embryo in vitro:General
Human Rights Instruments, Zeitschrift ftir auslandisches 6 ffentliches Recht
und V6lkerrecht (Za6RV) 65, 2005, pp. 447-466
・ Kazushige Asada, Die Gentechnik und der Schutz des menschlichen Lebens, K.
Asada et al. (eds.),Das Recht vor den Herausforderungen neuer Technologien
:Deutsch- japanisches Symposium in Ttibingen vom 12. bis 18. Juli 2004, 5. 179
二
190, 2005
・アルビン・ェーザー(甲斐克則=訳)「比較法的観点からみたバイオテクノロジ
一の進歩の法的諸問題ードイツ月玉保護法をめぐる改正論議一」現代刑事法32号
62一72頁(2001年),freidok 4829 vgl. freidok 4876, freidok 3868
・浅田和茂「遺伝子医療の限界としての法J 龍谷法学36巻1号巧7-171頁(2003
年)
・ Albin Eser, Hans-Georg Koch, Forschung mit humanen embryonalen Stamm-
zellen im In- und Ausland, Rechtsgutachten zu den strafrechtlichen Grundlagen und Grenzen der Gewinnung, Verwendung und des Imports sowie der
Beteiligung daran durch Veranlassung, Forderung und Beratung, 2003, freidok
4091
・ Rechtliche Fragen im Rahmen des Embryonenschutzgesetzes, K. Grtinwaldt
(Hrsg.),Was darf der Mensch?Neue Herausforderungen durch Gentechnik
und Biomedizin, 2001,S.86-107, freidok 3713
・ Albin Eser, Wolfgang Frtihwald et al.,Kionierung beim Menschen:biologis-
che Grundlagen und ethisch-rechtliche Bewertung, Jahrbuch ftir Wissenschaft
und Ethik 2(1997),5. 357-373, freidok 3691
・アルビン・ェーザー(吉田敏雄=訳)「現代の生殖医学の進歩に対する代償医
学補助生殖、月玉研究および多胎減数の法的問題について」北海学園大学法学研究
29巻3号611一628頁( 1995 年)、 freidok 4823
資料
345
・ Der Preis ftir Fortschritte moderner Reproduktionsmedizin:zur rechtlichen
Problematik medizinisch assistierter Fortpflanzung, Embryoforschung und
Mehrlingsreduktion, S. WaltoS (Hrsg.),Problemy kodyfikacji prawa karnego,
1993, S. 227-248, freidok 3698
The legal status of the embryo in comparative perspective, International
journal of medicine and law 11(1992),S. 579-590, freidok 3798
・アルビン・ェーザー「1 『月玉子保護法の成立と意義について』2 『ドイツ統一
―刑法における経過措置の諸問題―」」関西大学ノモス2 号( 1991 年) 238274 頁
・アルビン・ェーザー「比較法的・法政策的視点における人の月玉子の研究」ギュン
タ一、ケラー編著(中義勝=山中敬一監訳)『生殖医学と人間遺伝学:刑法によ
って告IJ限すべきか?』 283-316 頁( 1991 年、成文堂)、 freidok 4939, vgl. freidok
3385
・アルビン・ェーザー(甲斐克則=訳)「法と人間遺伝学一人間の遺伝的形質操作に
ついての法学的考察一」海上保安大学校研究報告第1 部31巻2 号 87-112 頁
(1986) vgl. freidok 4759
・アルビン・ェーザー(上田健二=訳)「人間遺伝学の領域における刑法的保護の諸
側面」同志社法学40巻1 号128一160頁( 1988 年) vgl. freidok 3855
・ The status of the human embryo:legal view, U. Bertazzoni(Hrsg.),Human
embryos and research:proceedings of the European bioethics conference,
Mainz, 7-9 November 1988, 1990, S. 105-145, freidok 3537
・ Neuartige Bedrohungen ungeborenen Lebens:Embryoforschung und "Fet-
ozid"-Schutzaspekte aus rechtsvergleichender Sicht, Stiddeutsche Zeitung
(1989),Tl. 1:Nr. 5, 7./8. Jan.,Tl. 2:Nr. ii,14./is. Jan, freidok 3638
・ Research on the embryo:legal aspects in comparative perspective, Law in
East and West:on the occasion of the 30th anniversary of the Institute of
comparative law, 1988, S. 61-88, freidok 3546
・ Gentechnologie und Recht-Der Mensch als Objekt von Forschung und
Technik:Thesen zur modernen Reproduktionsmedizin und Gentechnologie,
H . Daubler- Gmelin(Hrsg.),Menschengerecht:Arbeitswelt, Genforschung,
neue Technik, Lebensformen, Staatsgewalt; Dokumentation, 1986, S. 149-172,
freidok 3894
・
Medically assisted procreation:ethical and legal aspects, International
Conference on Bioethics:Rambouillet 19-21 Avril 1985, 1985, S. 269-277,
346
freidok 3712
・アルビン・ェーザー(西田典之訳)「ドイツ法からみた人間遺伝学一人間の遺伝
的形質操作についての法的、社会政策的考察一」ジュリスト840号 80-89 頁
(1975 年)
・アルビン・ェーザー(甲斐克則訳)「人間遺伝学:法的・社会政策的側面」海上保
安大学校研究報告第1 部31巻2 号113一 133頁( 1986 年) vgl. freidok 3740
. 現代のバイオテクノロジー(生物工学)の進歩と危険
利益衝突一世界観的な評価の差異
◆一方では
ーとりわけ生殖における健全な生育の,点での、発達の自由という個人の利益
一研究の自由という個人の利益
一とりわけ健康の分野における学間の進歩という一般的利益
◆他方では
一研究目的のために胎児を犠牲にすること
ーたとえばクローンによる人間の尊厳への脅威
一非配偶者間授精による婚姻および家族の伝統的理解の破壊
一学間志向的な生物学者や遺伝子工学者による、個人的な患者の福祉に向かう医
師の排除
一異なる文化に条件づけられた諸評価
II. 様々な規制方法
◆戸籍法
◆予防的一行政的:認可システム
◆刑法上:抑止的諸制裁
III .
ドイツ法における重要な法源
1. 刑法典:
>§§211. 212, 216 :生まれた生命の保護
>55 218-219b :母胎内にある未生の生命の保護
>55 223 :身体の不可侵性の保護
2 . 1990 年月不保護法( ESchG):
母胎外の未生の生命の保護
』玉保護法の基本思想:
資料
347
>処分からの保護ではなく、一定の利用方法からの保護のみ
>医学的援助を受けた生殖の試験区管手続の原則的受け入れ
一ただし、医師の業法および社会的健康保険法における相応の制限により、配偶
者間(夫婦間)システムに原則的として限定されている
>「過剰な」月玉の生成に対する規制的予防措置(月玉保護法1 条1 項3 号、5 号)
一それにもかかわらず「計画に反して」「過剰な」月不が生じた場合、他の場合に
は厳禁 されている8玉の提供が許容される
>禁じられたままであるのは
一研究目的のための月不の「消耗的」使用(1 条1 項2号、2条1 項)
一意図的な月玉の道程への介入(5条)
ークローン生成(6条)
ーキメラまたはハイブリッドの形成による人間・動物・混合体の創出(7条)
>関係者の生命および健康の保護のために、許された生殖医学上の措置の実施が
医師に留保されている(11条)
一しかしながら、その協力は医師の任意にとどまる(10条)
3. 2002 年・ 2008 年幹細胞法( Stammzellgesetz)
主目的:段滅に対する月玉の間接的保護
>一定の期日(当初は 2002 年1 月1 日、現在は 2007 年5 月1 日)以降に獲得され
た、n玉性幹細胞の輸入および利用の禁止
V. 特別の問題領域
1. 非配偶者間の受精
>原則として許容
>しかし、以下につき規制を要する
一提供者選択の基準
一同意・説明
一商業化の制限
一実施される精子提供の数の制限
一提供者のデータの記録
一提供者の匿名性か、あるいは、子の自身の血統を知る権利か?
2. 試験管内受精およびそれと比較可能な措置
<>原則として許容されているが、オーストリアでは配偶者間のみ許容
>特別の啓発および助言の必要性
3. 卵細胞の提供および代理母
348
基本問題:「生物学上の」母親の役割の分裂
>ドイツでは禁じられている
>他のョーロッ/ぐ諸国では許されている
クローン生成およびキメラとハイブリッドの形成による人間・動物・混合体の
倉り出
基本問題:人間の尊厳の侵害
>ドイツでは例外なく禁じられている
>他の諸国では、一特に連合王国のように一許容されている?
. 』不および」を!生幹細胞の研究
>異なる』玉の概念
一月玉保護法:
(1) 人間の卵細胞であって、 (2) 受精により生成し、 (3) なお
全能性を有し、 (4) 生育能力を有するもの、さらに(5) 月不から採取された
全ての全能性細胞をいう
一幹細胞法:受精による生成は必須ではなく、それゆえ細胞核の移植による生成
の場合も」引こ含まれる
ソ法状態は、世界的に非常に様々である:
一大抵は、「過剰な」月玉の利用は認められている(ドイツでは認められていない)
一大抵は、研究目的での」玉の生成は禁じられており、 さらに一部ではドイツのよ
うに升IJ法によって禁じられている
一大抵は、」玉の段滅ないし死滅については規制されていない
>月を陛幹細胞:製造と利用
一特に日本のように(浅田論文参照)許されているというのがほぽ支配的
一逆に、ドイツにおいては広範に制限されている:それゆえ、国境を越えた研究
の際に刑法上の危険がある( DFG-Gutachten Eser/Koch 参照)
. ゲノム分析一遺伝子治療
一医療上の適応事由が存するかぎりにおいて、治療行為および治験に関する一般
準則に従って判断される
・一特に労働契約や保険制度における、遺伝的な調査や差別に対する防御を要する
. 着床前診断
一特に、「生きるに値しない」生命の差別的な段滅のために濫用されやすいとい
う点で、世界的にきわめて争いがある
VI. 展望
多種多様な文化の伝統を尊重しつつ、世界的調和を目指す
資料
349
第6回生体ドナーおよび死体ドナーからの臓器移植一死の概念と確定
文献
・
Bijan Fateh-Moghadam, Die Einwilligung in die Lebendorganspende:die
Entfaltung des Paternalismusproblems im Horizont differenter Rechtsordnungen am Beispiel Deutschlands und Englands, 2008
・ Albin Eser, Organtranspiantation, in:begrundet von Adolf Sch ひ nke ; fortgefuhrt von Horst Schr6der;mitkommentiert von Peter Cramer, Strafgesetzbuch
・
:Kommentar, 27. Aufi.,2007,§223 Rn. 34, 50c(S. 1926-1928)
Hirokazu Kawaguchi,Kurt Seelmann (eds.),Rechtliche und ethische Fragen
der Transpiantationstechnologie in einem interkulturellen Vergleich, ARSPBeiheft 86,2003
・ Hirokazu Kawaguchi,Strafrechtliche Probleme der Organtransplantation in
Japan, 2000
・アルビン・ェーザー、長井園、井田良(共訳)「ドイツの新臓器移植法(上)
(下)]ジュリスト 1138 号 87 -92 頁、 1140 号 125-130 頁( 1998 年)、 freidok 4708
(Auch nach seiner Neufassung durch das deutsche Transplantationsgesetz
von 1997 in semnen wesentlichen Teilen unverandert geblieben)
・ Albin Eser, 、、 1. Die Todeszeitproblematik",Die Rolle des Rechts im Verhaitnis
von Arzt und Patient, Franz-Xaver KAUFMANN(Hrsg.),Arztliches Handeln zwischen Paragraphen und Vertrauen, S.ill-129,1984, freidok 4741
I. 法源
>生命、身体の完全性および自己決定の保護のための一般規定
一その際、臓器レシピエン「と臓器ドナーの様々な治療利益と保護必要性を尊重
する
>この間、多くの国々において臓器移植のための特別法が存在する、最近ではス
イス
II. 死の概念、基準、確認:
>伝統的には:心臓活動の停止および呼吸活動の停止
>今日優勢なのは:「脳死」を指示するもので、部分的に異なる基準によって認
定されている
III. 死亡したドナーの場合の主たる問題:彼の(実際のあるいは推定的)意思の尊
重
最も重要な選択肢
>「同意による解決」
>「反対意思による解決」
>親族による同意
第7回未成年者および精神障害者の治療における特別問題
文献
・
Sterilisation geistig Behinderter:zur Reformdiskussion im Inland mit Buick
auf das Ausland, Hans-Heinrich Jescheck(Hrsg.):Festschrift fur Herbert
Tr ひ ndle zum 70. Geburtstag am 24. August 1989, 1989, S. 625- 645, freidok 3720
・ Ziel und Grenzen der Intensivpadiatrie aus rechtlicher Sicht, Hans Kamps
(Hrsg.):Arzt- und Kassenarztrecht im Wandel:Festschrift fur Prof. Dr. iur.
・
Helmut Narr zum 60. Geburtstag, 1988, S.47-64, freidok 3752
Contraception and abortion of mentally handicapped female adolescents
・
under German law, Medicine and law 4(1985),S. 499-513, freidok 3774
Konzeptionsverhtitung und Schwangerschaftsabbruch bei geistig behinderten
Adoleszentinnen aus rechtlicher Sicht, Helmuth Muller(Hrsg.):Ethische
Probleme in der Padiatrie und ihren Grenzgebieten, 1982, S. 105- 123, freidok
3751
第8回最終討論
文献
・
Perspektiven des Medizin (straf) rechts, Wolfgang Frisch (Hrsg.):
Gegenwartsfragen des Medizinstrafrechts:portugiesisch-deutsches Sympo.
sium zu Ehren von Albin Eser in Coimbra, 2006, 5. 9-31,freidok 3723
・ Auf der Suche nach dem mittleren Weg:zwischen Fundamentalismus und
Beliebigkeit, Michael Langer(Hrsg.):Unterwegs mit Visionen:Festschrift
ftir Rita Stissmuth, 2002, S. 117-139, freidok 3676
・、、 Sanctity"
and "quality" of life:an historical review from a German perspec-
tive, Israel yearbook on human rights 29(2000),S.11-22, freidok 3812
・アルビン・ェーザー、吉田敏雄=訳「現代の生殖医療の進歩に対する代償医学
補助生殖、月玉研究および多胎減数の法的問題について」法学研究29巻3号
611一628頁、原文;
Der Preis ftir Fortschritte moderner Reproduktionsmed-
資料351
izin ,法学研究29巻3 号662一631頁( 1994 年)、 freidok 4823
・ Humanitat im Angesicht moderner Bedrohungen:eine Herausforderung ftir
Recht und Ethik in der Medizin, Zbigniew Cwiakalski(Hrsg.):Problemy
odpowiedzialnosci karnej:ksiega ku czci profesora Kazimierza Buchaly,
1994, S. 45-57, freidok 3697
・アルビン・ェーザー、野村稔、関哲夫=訳「ドイツ刑法の変遷における生命の保
護一比較法史における生命の「神聖性」と「質」について」比較法学21巻2号
179一200頁( 1988 年)、 freidok 4882
・
Lebensrecht, Albin Eser u. a.(Hrsg.):Lexikon Medizin, Ethik, Recht:Darf
die Medizin, was sie kann?;Information und Orientierung. Freiburg, 1989, S.
696-703, freidok 4282
・
Zwischen
、、 Heiligkeit"
und "Qualitat" des Lebens:zu Wandlungen im stra-
frechtlichen Lebensschutz, Joachim Gernhuber(Hrsg.):Tradition und Fortschritt im Recht:Festschrift zum Soojahrigen Bestehen der Ttibinger Juristenfakultat, 1977, S.377-414, freidok 3556
352
著者略歴
1934 年1月26日
ウンターフランケンのライダースバッハにおいて裁断師の息子
1954年一1958年
ヴュルツブルク大学、チュービンゲン大学およびベルリン自
として生まれる。
大学で法学を学んだ後、
国家試験に合格。
1958 年9月
1958 年7
月、ヴュルツブルクで第一次
ヴュルツブルクにおいて司法準備修習に就くにの修習は
H・ランゲ教授の助手を勤めるために一時中断した後、
1964
年
4月まで続く)。
1962 年1月
「犯罪行為と秩序違反との限界づけ」と題する論文により ヴァ
ルター・ザックス教授の指導の下に博士号を収得。
1962年7月一1964年4月
ヴュルツブルク大学P ・ミカート教授の法制史の助手を勤め
る。
1963
年2月
「犯罪概念における『危害』の原理」と題する英文の比較法の
論文によりニューョーク大学から比較法学修士( M.C.L. )の
学位を収得。
1964 年5月一 1969 年2月
1964 年4
月に司法官試補試験(第二次国家試験)に合格の後
ホルスト・シュレーダー教授のもとで助手を勤めるためにチュ
ービンゲン大学に移る。
1968 年12月
「財産に対する刑法上の制裁」と題する論文と「一般的正当化
事由としての正当な利益の承認」というテーマでの試験講演に
よりチュービンゲン大学法学・経済学部から教授資格を獲得。
年5月
1971 年8月
1969
1971 年/72年
1974
年3月
チュービンゲン大学講師に就任。
/\ム/ヴェス「ファーレン上級裁判所第5 刑事部判事に就任。
ビーレフエノレト大学法学部長。
ビーレフェルト大学国際研究センターにおいて「法と倫理との
葛藤についての研究」というテーマで国際シンポジウムを組織
し、司会を務める。
1974 年9月
ホルスト・シュレーダー教授の後継者としてチュービンゲン大
学に招かれる。
1975 年2月
シュ、ソットガルト上級裁判所第3刑事部判事に就任。
1975 年5月
ビーレフェルト大学国際研究センターにおいて「人間学および
社会学」と題するテーマのもとに国際シンポジウムを組織し、
司会を務める。
ドイツ学術振興会( DFG) の要請により「刑法上の生命保護
の学際的限界問題」研究のためにアメリカ合衆国へ。
1977
年夏学期
1977
年以降
年2月以降
1982
ドイ、ソ学術振興会評議員。
/\ンス=/\インリヒ・イエシェック教授の後任としてフライブ
ルク/マックス・プランク外国刑法・国際刑法研究所の所長と
なる。
著者略歴
353
1982 年以降
/\ンス=/\インリヒ・イエシェック教授の後任としてフライブ
1984年3月
東京・箱根において開催された「生命、科学および人類」とい
ルク大学に招かれる。
1984
うテーマの「先進国首脳会議」準備会議に出席。
フライブルクのマックス・プランク外国刑法・国際升り法研究所
年4月
1985 年2月一3月
1985年5月
において刑法と刑事学についての第2回ドイツ=ポーランド刑
法コロッキウムを組織し、司会を務める。
日本学術振興会の招きにより日本への講演旅行。
フライ ブルクのマックス・プランク外国刑法・国際刑法研究
において升IJ法と刑事政策についてのドイツ=スカンジナヴィ
ア・コロッギムを組織し、司会を務める。
1986年3月一4月
1986/87
1989
年
年冬学期
ニューョーク州コロンビア大学客員教授。
フライブルク大学法学部長。
「医療における倫理と法の研究の場」 (FERM )をェデュアル
ド・ザイ「ラー博士(フライブルク大学医学部教授)とともに
創設。
1988年9月一1994年9月
1989年7月一1992年7月
1991
年5月
1944 年6月一 1997 年6月
1995 年5月
1996 年
2000 年10月1日
2000
年11月
2000 年12月以降
2000
年4月1日
2001 年7月
2002
年1月/2月
ドイツ法曹会(DJT)常任代表委員。
ドイ、ソ学術振興会(DFG)副会長。
クラカウ・ヤギオネレン大学(ポーランド)より名誉博士
(Dc. h. C. )の称号をもって顕彰。
マックス・プランク協会精神科学部門長および評議員会委員。
/\ンガリー科学アカデミー(ブダペス「)名誉会員。
フライブルク大学病院 FERM の「医療における倫理と法のた
めセンター」 (ZERM )への組織変更以来その理事会構成員。
フライブルク大学教授を定年退職。
ワルシャワ大学(ポーランド)大学賞が授与される。
ョーロッ/「評議会「汚職に対する国家統制集団( Groupe
d'Etats Contre la Corruption= GRECO) 」の科学専門家。
東京・早稲田大学より名誉博士をもって顕彰。
国連総会の命により先のユーゴスラヴィアのための国際法廷
(ICTY )訴訟裁判官に選任。
アメリカ合衆国/テキサス大学医道研究所/ギャルヴェス「ン医
療支部客員教授。
2003 年12月以来
2003 年2月1日
2003 年 2/3
月
2004 年3月6日
2004 年9月6日
ベルリン・シェリング財団評議会委員。
フライブルクノマックス・プランク研究所所長を定年退職。
アメリカ合衆国ノニューョーク・コロンビア大学ロースクール
客員教授。
フライブルク/マックス・プランク研究所所長の公式延期。
ベルリンにおいて連邦司法相、ブリギッテ・ツイプリーズによ
りドイ、ソ連邦国功労賞第1 級連邦功労十字勲章が授与される。
354
2004年9月一2006年7月
デン・ハーグにおけるかつてのユーゴスラヴィアのための国際
刑事法廷判事。
2008年4月一7月
京都/立命館大学客員教授。
編訳者あとがき
もF言ニ rt
4 プ‘」■1
355
》ぐコー
可涌訂又イElめと刀、さ
*共編訳者である上田健二先生は、2010年2 月3 日、急性肺炎のため逝去され
た。これまで『先端医療と刑法」の編訳をはじめ多くの仕事を一緒にさせて
いただいてきたが、研究一筋に生きてこられた敬愛する先生を喪ったことは、
痛恨の極みである。先生は、まさに本書の「編訳者あとがき」を執筆中にご
他界された。さぞ心残りであったものと拝察する。本書は、病気療養中の先
生が、「体カはともかく時間は十分にある」 といわれたのに甘えて、先生が新
たな翻訳を含めてそのすべてをJ順次ワードに打ち出し、浅田がその都度補正
し、再度先生が打ち直して原稿を整えるという手順を経て、できあがったも
のである。この「編訳者あとがき」は、すでに先生が書いておられた第5章
および第6章についての草稿を大幅に圧縮するとともに、他の章について浅
田が簡単な解説を加えたものであり、まことに繋簡宜しきを得ないものとな
ったが、事情ご賢察のうえご容赦いただきたい。なお、ェーザー先生には、
この間の事情を説明し、当初の「序文」を書き直していただいた(浅田・記)。
1 アルビン・ェーザー教授は、 2008 年度前期、立命館大学の客員教授と
して、同大学法学部で連続セミナー「医療と刑法」を開講された。編訳者2
人もそれに参加し、その1 人(浅田)が通訳に当たった(本書資料9 参照)。そ
の機会に、『先端医療と刑法』
(1990 年)の第2
版を出版する計画が持ち上が
り、株式会社成文堂の快諾を得たが、編集作業を重ねるうちに、初版の第1
章・第2 章の他は、すべて新しいものに入れ替えることにした。その結果、
ェーザー教授の要望もあり、書名も『医事刑法から統合的医事法へ』とする
ことにした(そのような次第で、『先端医療と刑法』を「初版」と呼び、その序文を掲
載した)。なお、第4 章「人体実験―その複雑性と適法性について―」は
甲斐克則訳、第9 章「ドイツの新臓器移植法」は長井園=井田良訳、第11章
「医事(刑)法のパースペクティブ」は甲斐克則=福山好典訳を再録したも
のであり、 他はすべて編訳者2人の共訳である。当初は、 2009 年夏までには
出版の予定であったが、諸般の事情で大幅に遅れ、ようやくここに発刊に至
った。原著者ェーザー先生に、この場を借りてお詫びしたい。
356
2 本書第1 章「医学と刑法一一保護利益に向けられた問題の概観―」
(1985 年)および第2 章「生命の保護―法制史的比較から見た現在のドイツ
法一一」(同年)は、人の生命の「神聖性」とその「質」との差異的な調和を
目指すという死生観を含む著者の基本的な立場を示したものとして、初版の
論文を再録した。この2 つの章と本書第n章「医事(刑)法のパースペクテ
ィブ」( 2006 年)とを読み比べることによって、著者のこの分野における基本
的立場が一貫していることを確認すると同時に、この間の医事(刑)法の飛
躍的な発展を看取することができるであろう。
第3 章「比較法的に展望した治療行為の規制について」( 1999 年)は、治療
行為についての特別な立法がない状態で、医師の治外法権を認めるような極
端、患者保護主義的な極端、中間の道といった議論がなされてきたとし、ド
イツ連邦司法省の「専断的治療行為」および「暇庇ある治療行為」について
の刑法改正案( 1996 年)を念頭に置きつつ、ョーロッパ各国の立法例を検討
したものであり、ドイツにおける規制の試みについての所見として以下の諸
点を挙げている。
第1 に、治療行為について、患者の自己決定権の尊重と医療の質の確保に
焦,点を当てた「専断的治療行為」「暇庇ある治療行為」の規定が置かれるべ
きであり、刑事責任を故意および甚だしい過失に限定することについての検
討を要する。第2 に、治療行為の特別構成要件を規定する以上は、そこに医
師が尊重すべきものや患者が期待できるものについて明確に規定すべきであ
る。第3に、そこには医師による説明と患者の同意といったギーワードが明
示されるべきである。第4 に、それに加えて臓器移植や不妊手術などについ
てともに規定するか、少くともそれらについての特別規定と歩調を合わせる
必要がある。
日本におけるこの分野の議論は、ョーロッパ諸国とりわけドイツに比べて
著しく遅れている。現行刑法の解釈論のレベルでは、治療行為であって.も傷
害罪の構成要件には該当し、違法性阻却(正当業務行為ないし被害者の同意)の
レベルで処理するしかないように思われるが、国民の常識レベルでは、通常
の治療行為が(一応とはいえ)傷害罪に当たると考えられてはいないであろ
う。違法性が阻却されれば適法であるから、とくに問題はないようにも』思わ
編訳者あとがき357
れるが、違法性が阻却されない場合、たとえば成功した専断的治療行為の場
合に、常に傷害罪で処罰すべきかについては疑間が残る。医療過誤を、その
特殊性を顧慮せずに業務上過失致死傷罪で処理することにも同様の問題があ
る(たとえば医療過誤の原因を解明するために訴追しないことを要件として医師の申告を
促す制度も考えられる)。本章の検討を参考にしつつ、わが国でも治療行為の分
野について個別問題を意識した新たな法制度の検討が進められるべきであろ
う。
第4 章「人体実験―その複雑性と合法性について―」 (1978 年)は、か
なり古い論文であるが、上記セミナー第2 回で強調された「治療行為」と
「治験(治療的実験」と「人体実験」の区別を明らかにするために、とくに掲
載することにした。資料9 の連続セミナー第2 回のレジュメに示された上記
3 者の比較および資料2 の「ニュールンベルク宣言、ヘルシンキ宣言」も併
せて参照されたい。
3 第.5 章「ある法律家から見た臨死介助の可能性と限界」 (1995 年)は、
上記セミナー第3 回のレジュメの文献のうち、最新かつ最も包括的な論文で
ある。初版では、第3章「死ぬ医師と医師の刑事責任」
(1985 年)、第4章
「死への自由―殺害を求める権利ではない」 (1986 年)の2論文が掲載され
ていたが、本章は両論文で示された著者の基本的な考え方を1995年の時,点で
再現したものである。
初版第3 章・第4 章は、現代の延命技術の飛躍的な発達がもたらした死の
限界領域における新しい問題状況に刑法がいかに対応すべきであるかという
当時まさに焦眉の急になっていたテーマを追及したものであった。同じテー
マを扱った著者のそれまでの論考は、現行法を基に解釈論で対応しようとす
るものであったが、初版第3 章の論文を境にして法政策論から立法論へと方
向転換することになった。その契機となったのは、 1981 年のヴィテッヒ事件
と 1984 年のハッケタール事件であった(初版資料⑧⑨参照)。連邦通常裁判所が
医師に広範な裁量を認容したことは、それまでの自己答責的な自殺意思の尊
重に向けられていた傾向に対する反動として驚きをもって受け止められた
が、判例の論理は解釈論を逸脱し立法論に踏み込んでいるのではないか、と
358
いう批判が続出したのである。
ヴィテッヒ事件判決をめぐっては賛否両論が展開されたが、その後、批判
者たちは一斉に刑法の改正に向けて動き出した。当時の著名な刑法学と医学
の教授23名による共同作業の結果として 1986 年に公表された「臨死介助に関
する法律対案」(初版資料④)はその成果であり、ここでも著者が中心的な役
割を演じていた。 1986 年のドイツ法曹大会では、対案を法律とすることは否
決されたが(初版資料⑥)、重要なことは、対案の諸提案は医師の決断のため
にも法実務にとっても指導的な補助手段として有益である、という議案が圧
倒的多数で議決されたことである(初版資料⑨)。このことが意味しているの
は、対案を支えている基本思想、すなわち本書第5 章で展開されている著者
の基本』思想が、当時の西ドイツの刑法学者たちによってほ1ご全面的に支持さ
れていたということである。ハッケタール事件に 対して、ミュンヘン上級裁
判所が 1987 年に公判不開始を決定したのはその顕著な1 例である。
しかし、臨死介助の領域における法的明確化と法的安定性をめぐる動きが
ドイツにおいてこれで停滞したわけではない。セミナーでは、検討資料とし
て 2005 年にドイツの主な刑法学者たち20名によって提案された「臨死介添:
対案」(本書資料1) が紹介された。これは、著者がその作成に主導的な役割
を果した1989年の「臨死介助:対案」を基調としているが、両者を対比して
みると重要な表現上の変更が認められる。法案の名称も、臨死介助( Sterbehilfe )から臨死介添( Sterbebegleitung )に変更された。その変更は、(許容され
る)消極的臨死介助と(許容されない)積極的臨死介助との限界線を明確化す
る必要性、および不可逆的無意識状態にある患者の事前の意思(,) ヴィング・
ウィル)が明確でない場合の取り扱いという 問題に関わっている。
先ず注目されるのは、積極的臨死介助の許容性をめぐる問題を再考させる
契機となったオランダの(次いでベルギーの)新安楽死法の成立である。オラ
ンダ議会第2 院は2000年n月28 日に「要求に基づく殺人および自殺援助を審
査するための法律」を104対40で可決、第1 院も 2001 年4 月n日に46対22で
可決し、2002年から施行されている。この新安楽死法は、たしかに積極的臨
死介助の原則的な構成要件該当性を変更したものではなく、オランダ刑法
293条1 項は、要求に基づく殺人を依然として処罰している。新法は、この
編訳者あとがき359
原則を維持しうえで同条2 項に「1 項にいう行為が、要求に基づく生命終結
と自殺援助を審査するための法律2 条にいう注意義務の要件を遵守した医師
によって実施され、かつ遺体処理法7 条2 項によって自治体の検死医に申告
されたときは、処罰されない」という例外規定をおいた。その要件は新法2
編「注意義務」で次のように定められている。
1 刑法293条2項にいう注意義務は以下のことを含む。すなわち、医師
が、 (a) 患者の自由意思による熟慮された永続的な要求が存在してい
るという確信に至っていること、
(b) 患者の見通しのない堪え難い苦
痛が存在しているという確信に至っていること、
(c) 患者が置かれてい
る状況およびその見通しについて彼に説明したこと、
(d) 患者が置か
れている状況にとって他に合理的な解決策が全く存在していなかったと
いう確信に至っていること、
(e) 患者を診察し、
(a) から(d) までに
いう注意義務について判断を形成した、少なくとももう1 人の医師の相
談を受けたとこと、および生命終結を注意深く実施したこと。
2 16歳以上の患者が、もはや意思表示することはできないが、その状態
に陥る前に生命終結についてその利害を合理的に判断することができ、
かつこの判断を明らかにしていたとき、医師は、彼自身が患者の要求は
保証されていないという根拠のある理由を有している場合を除き、1 項
に従って患者の要求に応じることができる。
3 患者が12歳以上18歳未満であり、かつ事態についての利害を合理的に
判断することができると認められるとき、彼に対して親権を行使してい
る片親もしくは両親またはその後見人が決断に関与した後に、医師は、
生命終結または自殺援助を求める患者の要求に応じることができる。
4 患者が12歳以上18歳未満であり、かつ事態についての利害を合理的に
判断することができると認められるとき、彼に対して親権を行使してい
る片親もしくは両親またはその後見人が生命終結または自殺援助を承諾
している場合、医師は、生命終結をもってこの患者の重大な不利益を未
然に防ぐことができるという確信に至っているときは、患者の要求に応
じることカ‘できる。
ところで、積極的臨死介助が、生命倫理から見て、消極的臨死介助よりも
360
格別な非難に値するとはいえない。しかも、実際問題として両者の限界はか
なり流動的である。オランダ新安楽死法の条文を見ても、著しく明確性を欠
いており、とても法的安定性が保障されているとはいえない。これまでの実
務において多くの濫用例があったという報告もある。
H=L・シュライノくーは、オランダ・モデルには実際の適用に関して重大
な疑義が残されているとして、「オランダの規定は、緊急避難とその効果の・
考量に基づいている。自己決定の理念だけがそれを支えているのではない。
本人の内心的な見方から生き続けることが死よりも大きな害である場合、ほ
とんど明瞭に輪郭づけられていない適応事由にあっては、積極的殺人の許容
性は1 つの単純な手続に見出される。病者の絶望的な状態を他のそれから限
界づける問題は困難であり、拡大への内在的傾向が生じていることをオラン
ダでの論争は示している。患者自身によって要求されていない殺人の決定的
な時点をめぐる論争は、積極的臨死介助を許容することの問題と危険性を示
している」と指摘している(龍谷大学「遺伝子工学と生命倫理と法」研究会編『遺伝
子工学時代における生命倫理と法』(2003年、日本評論社)140頁以下)。
このような見方は、ドイツの刑法学者たちに共通した受け止め方であると
いってよい。とりわけ積極的臨死介助と消極的臨死介助との法的区別が疑間
視され、両者の大きくなりつつある灰色地帯が問題とされ、積極的・消極
的、自然的・人為的といった法的概念の区別は流動的であることから、積極
的臨死介助の例外的許容規定を置くことによって生じうる「ダム決壊効果」
が懸念されているのである。
臨死介助の領域において、不治の病に擢患し判断能力のない患者の推定的
意』思をどのように認定するかという問題について法的明確化を緊急に必要と
思わせるもう1 つの事件が発生した。いわゆ るケンプテン・マリエンハイム
病院事件である。この事件に対する連邦通常裁判所判決(
(BGHSt 40, 257) が、
その後の立法活動、すなわち患者の遺言に関するドイツ民法の新規定(本書
資料8) へと導いた。
事案は次のとおりである。70歳のS 婦人は、クリニックでの数ケ月に及
ぶ診察の後に、アルツハイマーの疑いのある老人性痴呆症の枠内での脳障害
による心理症候群と診断され、医師の助言に基づいてケンプテン・マリエン
編訳者あとがき
361
/\イム病院に再入院したが、そこで1990年9月始めに心停止に陥り12分から
15分後に蘇生した。それによって不可逆的な最重度の脳損傷を負った5 は、
それ以来嚇下ができず、歩くことも立ち上がることもできず多くは眠り込ん
でいたが、痛覚刺激に対しては険の微動をもって反応し、強い光刺激に対し
ては視線を逸らすことで反応し、大きな音の刺激には身を疎ませた。1992年
以来、胃ゾンデを通して栄養と水分が補給されていた。主治医であるT医
師は、「病状悪化および/または生命にとって危険な状態の場合、延命処置
ではなく対処療法(苦痛緩和、窒息発作:吸引)のみ」という処方を記し、これ
には5の息子で後見人に選任されていたU も署名した。Uは、5が8年な
いし10年前に同じような状況に陥っている患者の看護事例のテレビ放映を見
たさい「あんなふうにして私は死にたくない」と漏らしていたことを知って
いた。これを理由に、1993年3月15日以降は、5への補給は水分のみに切り
替えられ、その結果、1993年12月29 日に肺水腫で死亡した。
連邦通常裁判所は、被告人T とU に故殺として有罪判決を下した原判決
を破棄し、5 の推定的同意を解明するために差し戻した。ケンプテン地方裁
判所は、5 の推定的同意を認定する手がかりが他にも存在していることを理
由に1995年5 月に被告人両名に無罪を言い渡したQ ここで注目されなければ
ならないのは、連邦通常裁判所が差し戻すに当たって患者の推定的意思を解
明するために新たに提示した基準である。すなわち、
1. 不治の病気に羅患しており、もはや決断能力のない患者の場合、医師
による治療または処置の中断は、連邦医師会によって採択された臨死介
助のための指針の要件が、死にゆく過程がいまだ始まっていないという
理由で存在していない場合であっても、例外的に許容される。決定的な
のは患者の推定的意』思である。
2. 推定的同意を認定するためには厳格な要件が設定されなければならな
い。この場合、とりわけ患者の以前の口頭または書面による意思表示、
その宗教的確信、その他の個人的な価値表象、その年齢に条件づけられ
た生命予期あるいは苦痛に苛まれていることが問題となる。
3. 必要とされる慎重な検討が行われたにもかかわらず、患者の推定的意
思を見出すことができなかった場合には、一般的な価値表象に立ち戻る
362
ことができ、また立ち戻らなければならない。その場合はしかし控え目
であることが求められる。疑いのある場合は、人の生命保護が医師、近
親者またはその他の関与者にとって優先する。
この第3 の基準、すなわち「一般的な価値表象」という新基準を設定する
ことにより、連邦通常裁判所は、従来の障壁を乗り越えて新開地に踏み込ん
だ。すなわち、「個々の事例にあってはもちろん、決断は医師の予後診断が
どれほど見通しのないものであり、また患者がどれほど死に接近しているか
に依存している。一般的な価値表象によれば、人たるに相応しい生命の回復
を予期することができなければできないほど、死が目前に迫っていればいる
ほど、その分だけ治療中断を是認することができるようになる」
263)
(BGHSt 40,
というのである。
連邦通常裁判所の新基準は、当然のことながら多くの批判を被ったが、こ
れとともに議論が再燃し、その結果と して 1998 年にドイツ連邦医師会は『医
師による死にゆくことの介添についての基本原則』を提示した。ここでは、
いまだ直接的には死にゆく過程には置かれていないが、絶望的な予後を伴う
生命にとって危険な病気に曜患している患者の取り扱いに重,点が置かれてい
る。この場合、患者の遺言は自己決定のための最も重要な道具であり、医師
にとっての本質的な手がかりとみなされる。この『基本原則』は、ドイツに
おいて支配的な見解に従ったものであり、この領域における立法者の沈黙に
かんがみると当時は重大な意義を有していた。連邦通常裁判所の新基準に対
し、「全般的に見て予後が良好でないにもかかわらず見通し可能な時間内で
死にゆくことはないような生命に危険な病気を伴っている患者は、すべての
患者と同様に、治療、介護および思い遣りを受ける権利を有している。した
がって、延命治療は(場合によっては人工的な),栄養補給を含んで必要とされ
る。このことは、最重度の大脳損傷および持続的な意識喪失を伴っている患
者についても当てはまる(失外套症候群患者いわゆる「覚醒昏睡」)」と指摘して
対抗した。
周矢日のとおり、日本では積極的臨死介助の許容性についての法的な基準
は、 1962 年の名古屋高裁判決(高刑集15巻9号674頁)によってはじめて確立さ
れ、 1995 年の横浜地裁判決(判時 1530 号28頁)で新たな基準が示された。臨死
編訳者あとがき363
介助の許容性につき、後者が前者の6 要件を4 要件に縮小したのは、諸外国
とくにドイツとオランダにおける最近の傾向を顧慮して、患者の自己決定に
より多くの比重が置かれるようになったことによる。さらに注目されるの
は、患者の推定的意思でもよいとする多くの学説に対抗して、横浜地裁が、
積極的臨死介助の場合、患者の意思は明示的に表明されたものに限られると
したことにある。他方、法改正の動きは、現在までのところほとんど存在し
ていない。その理由は、この種の領域でも医師層の自律規範に頼るという傾
向が日本ではとりわけ強いことにあるように思われる。そのうえ、問題とさ
れる事例も諸外国と較べると格段に少ない。さらに立法化された場合にそれ
が濫用される危険も懸念されている。
このような日本の法状態は、おそらく著者には、患者にとっても行為者に
とっても人間的に相応しいものかについて疑間を抱くようなものであったと
思われ、セミナーでは率直にいくつかの問題点も指摘された。それらのうち
今後さらに討議されるべき事項として、ドイツ法と日本法とで顕著な相違点
をなしている次の3 点を指摘しておきたい。
(1)
この領域における最も顕著な差異は、ドイツでは要求に基づく殺人
は処罰されるが、自殺が真撃かつ自由答責的に決意されるかぎり自殺への関
与は可罰的ではなく、1979年の「臨死介助:対案」はこのた めの明文規定を
置き、2005年の「臨死介添:対案」もこれをほぽそのまま踏襲しているのに
対し、日本では自殺帯助も同意殺人と同様に可罰的であり、これを疑間視す
る声もこれまでのところほとんど聞かれないことである。先の横浜地裁判決
も、積極的臨死介助の場合について患者の現実的な意思を要件としつつ、こ
れと自殺意思の無視とがどう関係するのかには全く触れていない。
そもそも生命倫理から見て要求に基づく殺人が自殺関与よりも格別に高い
非難に値すると見ることには何の根拠も存在しない。逆に(アルトウール・カ
ウフマンの挙げる例に従えば)、死の病に羅患しているわけではない配偶者を説
得して自らを絡死させ、またはこれに手を貸す行為は、頭部から下半身へと
麻庫が進行した夫の懇願に基づいて死なせる妻の行為より疑いもなくより重
い非難に値する。援助者が要求に基づく殺人の正犯になるかどうかは、情況
次第であり、時として病者が自分で生命を絶つ機会をもはや有していないと
364
いう事実に依存している。そこからカウフマンは両者の法的区別を原則的に
否認し、「被殺者の明示的かつ真撃な要求に基づきこれを殺した者は、行為
がこの要求にもかかわらず善良な風俗に反する場合にのみ、罰せられる」と
いう規定を提案した。
このような見方には生命倫理から見て十分に根拠があるように』思われる
が、現在のドイツで圧倒的な見解がこれに与していないことにも理由がない
わけではない。それは、ひとたび他殺の原則的禁止に例外規定が設けられれ
ば、自己決定が他者決定に転化しかねない、という恐れにある。著者もまた
この立場であり、刑法は、濫用を阻止しようとする「疑り深い法」であり、
心を煩わせている近親者や善意の医師を念頭に浮かべることができるだけで
はなく、相続事例の発生を促進すべきだと考えている遺産相続人、不治の病
者を介護することが無意味と思われるほどに負担になっている介護人、ある
いは逆に、その療法の効果を確かめるために生命をなお維持しなければなら
ないと考えている医師をも、考慮に入れなければならないと述べている。こ
の立場に立つかぎり、(許容されない)要求に基づく殺人と(許容される)自殺
援助との間に解釈論的にどのようにして限界線を引くべきかという難間に直
面するのを避けることはできない。セミナーでもこの問題に詳しく触れられ
た。
両者ともに刑罰のもとに置いている日本刑法の場合は、幸いにして(?)
解釈論がこのような難間に巻き込まれることを要しないともいえるが、その
代わりに自殺関与の処罰根拠を間う、より根本的な問題を避けて通ることは
できなくなる。自殺が違法であることを前提としつつその論証を欠くよう
な、たんなるドグマにいつまでも固執することが許されないことだけはたし
かであろう。
自殺は違法でないという前提から出発する場合であっても、われわれは自
殺とその援助を どのように法的に格付けするのかという、もはや解釈論の限
界を超える問題に遭遇する。著者は、初版第4 章のなかで自殺意思の尊重が
法的に意味しているのは「死にゆくことへの自由」であって「殺害を求める
権利」ではないことを強調し、これを解釈論的に綿密かつ説得的に論証して
いた。それというのも、自殺を法的な意味において権利として把握するなら
編訳者あとがき365
ば、そもそも権利にはつねに義務が対応していなければならないことから、
関係者に「殺害義務」が生じる結果として、たとえば担当医は「被殺請求
権」に応じるように義務づけられていることになりかねないが、これは倫理
に反するからである。 2005 年「臨死介添:対案」のH ・臨死介添法案4 条2
項もまた、このことを明文で表現しようとしている。
自殺は違法でなく、しかしまた「自殺権」というものも承認することがで
きないとすれば、それは法的にどのように位置づけられるべきであろうか。
編訳者の一人(上田)は、アルトウール・カウフマンによって主張されてい
る「法的に自由な領域」(アルトウール・カウフマン(上田健二訳)『法哲学第2
版』(ミネルヴァ書房、
2006 年) '289 頁以下参照)というカテゴリーにそれを編入す
る以外には、どのような可能性も存在しないと考えているが、これに賛成す
る者は必ずしも多くはない。しかもそれは、理由がないことではない。なぜ
なら、この道を踏み出すためには、刑法202条の存在意義に関して「自由答
責的な自殺意思」の尊重という理念の承認に向けての「パラダイムの転換」
が要求されるからである。著者もまた、これと同じ考えを「『自己の死を求
める権利』という要求には、……生きるということへの内心的態度における
コペルニクス的転換がある」と表現している。死にゆくというこ ともまた、
なお人格の実現の、したがってまた同時に生きることの一部として把握され
ているのである。そこでは、生きることにおいて重要なのは、その量つまり
時間的な長さだけでなく、その質つまり人間にとって意味があると思われる
発展の諸々の可能性の,点でなお残されているものである、という洞察が働い
ているのである。
(2 )積極的臨死介助と消極的臨死介助とのいずれがより重い非難に値す
るかは、具体的個別的な状況次第である。たしかに「臨死介助」という概念
を法的な視点から様々な要素を顧慮して細分化することは可能であり、著者
も、初版第4 章において、これをn に再分化していた。しかし、これらは必
ずしも現実に相応したものではなく、とりわけ(原則的に禁止される)直接的
および間接的な積極的臨死介助と(原則的に許容される)消極的臨死介助との
間の限界づけは、実際には流動的であり、しばしばグレーゾーンが存在して
いるとも指摘していた。そうであれば、ここで決定的な意義を有するのは殺
366
害の態様(積極的に殺すか、それとも死にゆくにまかせるか)ではなく、まさに患
者の意思でしかなく、それゆえにここで無条件的に妥当しなければならない
のは「その者の意思こそ最高の法」という生命倫理上の最高原則なのであ
る。現に横浜地裁判決でさえ、他の要件とともに患者の現実的な意思が存在
している場合には積極的安楽死をも容認している。
ドイツで一貫して積極的臨死介助の原則的禁止が固持されているのは、オ
ランダでの経験的事実からして、患者の現実的な意思が明確でない場合に諸
般の事情からそれが推定される場合は、きわめて濫用されやすいからにほか
ならない。まさにそれゆえに、2005年の「臨死介添:対案」は1989年の「臨
死介助:対案」に較べて信頼するに足りる患者の遺言の確保のための一段と
高い手続上の諸基準を設定し、濫用に対する特別な防護策を新たに提案して
いるのであり、それが2009年の患者の遺言に関する民法上の新規定にも導い
たのである(本書資料1 ・8 参照)。
さらに注目すべきは、推定的同意(患者遺言)に基づく臨死介助に関して
1989年の「臨死介助:対案」で用いられていた生命維持処置の「中断」とい
う表現が2005年の「臨死介添:対案」ではことさらに回避され、これに代え
て「生命維持処置の終結もしくは不開始」という表現が選択されているとい
うことである。これは、いわゆる「末期医療における医師の生命維持義務の
限界」の問題に密接に関連する。著者は、すでに本書第1 章で、このような
「一方的治療中断」ための許容基準を医師の使命の内在的制約に求め、それ
が生命の量的-生物学的な延引それ自体にあるのではなく、患者に最小限度
の自己実現または自己意識を獲得させることにあるというのであれば、不可
逆的意識喪失をもって治療義務はなくなりうる、という見方を示していた。
10年後の本書第5 章でも、延命処置による生命維持義務は、人間から自己認
識および自己実現の可能性が奪われているところでは、それを終結すること
が許されていなければならず、遅くとも不可逆的な意識喪失が証明される時
点がこれに当たると述べられている。
このような見方は、おそらくは人間の本質的存在が人格の自己実現の可能
性にあると見る西欧的死生観に相応している。しかし、不可逆的意識喪失と
いう予後診断を、たとえば死が目前に迫っているという予後診断とととも
編訳者あとがき
367
に、医学的に100/ぐーセン「の確実性をもって下すことはおそらく不可能で
ある。不可逆的意識喪失という判断が確実であったか否かは、事後的にのみ
(つまりは本人がこの判定に基づいて死んだ場合にのみ)判明するのであって、延命
処置「中断」の決定的な基準にはなりえないのである。仮にこの時点で患者
に対する医療処置の投入に何らかの変更がありうるとして.も、この「中断」
は延命処置を 中止して患者を「一方的に死にゆくにまかせること」の許容を
意味するものではありえないし、またそうであってはならない。この時点以
降の医療処置の投入のあり方は、もはや医学的適応性に応じた延命処置の段
階的縮小でしかありえないのであり、そのさいいかなる場合であってもいわ
ゆる基本看護が放棄されるようなことがあってはならない。
2005年の「臨死介添:対案」もまた、まさにこのような意味において「中
断」 という言葉を使用することを回避したのであり、その理由として、医師
の側からも「積極性」や「中断」という概念に対して異議が申し立てられて
いること、および「患者はどのような看護中断も恐れる必要はなく、治療的
な医療諸処置から一時押さえのそれらへの移行が考えられていることを明ら
かにするために、「ドイツ〕連邦医師会はもはや消極的臨死介助という言い
方ではなく、療法の限界づけと施療目標の変更という概念を 用い、基本看護
への医師の義務を強調していることを理由として挙げている。
(3)
最後に、現在審議中の 2005 年「臨死介添:対案」は、日本において
将来的に臨死介助のための新立法が必要とされる場合に、そのための検討素
材として多くの示唆を含んでいる。しかし、日本ではこのような臨死介助の
立法化への機運がいまだ高まっているとは見受けられない。これは、臨死介
助の立法は、その構成要件の明確化という利益より もそれが濫用されること
によって生ずる危険のほうが大きいと見られていることによる。平成4年3
月9 日の日本医師会第3 次懇談会の「末期医療に望む医師の在り方」も、率
直に次のように述べている。「立法によって安楽死が許される要件を予め明
らかにしておくことは、予測によって将来の行動のしかたを可能にするとい
う点では、望ましいことである。ただ、それは、一定の要件があれば安楽死
を合法的に認めるということ であり、違法性を阻却するだけの特別の事情が
あれば安楽死を認めるという現状よりは、合法的な安楽死の範囲を広げるこ
368
とになる。また、合法的な安楽死の要件を明示すれば、それに合わせるよう
にしてそれが濫用されることも起こりうることを考えておかなければならな
い。こうしてみると、立法によってこの問題の解決を図るには疑間があり、
大方の賛同を得ることには困難がある。諸外国で安楽死の立法の成功してい
ないのも、この疑間を解くに至っていないことを示すものといえよう」。
しかし、この意見表明の少なくとも最後の部分がもはや当たっていないこ
とは、オランダ、ベルギーそしてドイツの現在の動きからして明らかであ
る。そのうえ、生死の決断状況における自己決定権尊重の理念、とりわけ自
殺意思尊重の理念も現在の発達した延命技術に関する医学上の知識も、全く
念頭に置くことができなかったような時代の立法者によって制定された刑法
上の諸規定に、今日の臨死介助をめぐる錯綜した状況への対応を期待するこ
とがもはやできないことも明らかである。さらによく考えてみなければなら
ないのは、自己の確信に基づいて患者の利益のために行動している医師にと
っては、つねにそのために生ずることもありうる法的制裁を恐れなければな
らない状態よりも、その確信が同時に明確化された法規定によっても保障さ
れていることに信頼がもてる状態の方がはるかに利益であるとともに、患者
にとってもひいては公共にとっても、その方が利益になるのであって、この
利益は新規定を設けることよって生じうる濫用よりもはるかに重要ではない
か、ということである。濫用は使用を廃せず( Abusus non tollit usum!) 。明確
な法的基盤に基づく法的安定性、これは正義の1 つの厳命である。
4 第6章「新たな道へ向けての出発、道半ばでの停止一一連邦憲法裁判
所 1993 年5月28日妊娠中絶判決の最初の評価―」 (1994 年)は、初版5章
「ドイツ堕胎刑法の改革」 (1985 年)以後、東西ドイツ統一と絡んでいわばド
ラマティックな展開を見せた中絶立法問題について、総括したものであり、
第7章「国際的に比較した妊娠中絶―所見、認識、提案―」 (2000 年)
は、著者が所長を勤めるマックス・プランク外国刑法国際刑法研究所によっ
て大がかりに実施された比較法上の経験的調査である。
初版第5 章では、ドイツの堕胎法改革の歴史を踏まえ、当時のドイツ堕胎
法の運用状況、とくに胎児保護の現状と問題点を伝えたうえ、当時の刑法に
編訳者あとがき369
おける堕胎規定が胎児の生命保護のために十分に機能していないばかりか、
妊婦自身にとっても過酷な作用を及ぽしていることが示された。
ドイツにおける妊娠中絶法改正をめぐる議論のなかで刑法解釈論的に最も
「熱い鉄」であったしこれからもあり続けると思われるのは、とりわけ相談
後12週以内に医師により実施された中絶の不処罰の法的根拠づけである。エ
ーザー説に立脚したと見られる1992年の「妊婦および家族援助法」は、刑法
218条aで、これに「違法でない」という法的効果を明確に付与していた
が、これがドイツ連邦憲法裁判所によって槍玉に挙げられることになった。
1993年連邦憲法裁判所判決(本書資料3) で、これは「未生の人の生命のため
の憲法上の保護義務と調和し得ず、無効である」と宣告された。すなわち、
ェーザー説が最も力点を置いていた核心部分が憲法違反とされた_わけであ
る。著者は、1992年に同法が規範統制訴訟の対象になってからも、連邦議会
の委託を受けて、それが憲法に適合することを論証しようとした浩潮な「法
律鑑定書」・を作成したばかりでなく、連邦憲法裁判所の聴聞会においても数
次にわたり新法の合憲性を主張した。この場合における「違法でない」とす
る根拠が通例用いられる意味とは異なっていることを明らかにしておくたーめ
に、その実質的根拠を再現しておきたい。それによれば、
一「違法でない」ということが意味しているのは、「法に規定されている
諸条件を遵守している者は『法秩序と一致して』行為しているのであり、し
たがってそのように行為することは許されているのであって、その行為を
『法を侵害するもの』、さらには『犯罪的なもの』と呼ばせる必要はない」と
いうことであり、. それは一種の社会的な整序機能を有しているにすぎない。
法的に許されていることが「道徳的な是認に値する」こと、 さらには「社会
的に望ましい」ことと理解されるとすれば、それは、「法的に許されている」
という概念に必然的に内在しているわけでばない割増しである。
一もし立法者が一定の法律上の基準に相応する行為を「免責される」と
規定するとすれば、解決不能の矛盾に巻き込まれることになる。①妊婦は、
免責されるにしても行為が違法であれば本来それを思い止まらなければなら
ないのであるから、国家は、妊娠中絶を容易にする ような一切の措置を止め
なければならず、その結果、中絶を望んでいる妊婦を外国にまたは儲け主義
3 70
のもぐりの医師の下に駆り立てることになる。②国家がこのマイナス効果を
避けるために、「より小さな悪を」の原理に従って相談施設を設け、妊婦に
はその心理的な例外状況を考慮して免責を認めるとしても、自らそのような
例外状況に陥っているわけではない医師その他の関与者を不処罰とする道は
閉ざされる。③さらに、相談制度を設け資格が与えられた医師による中絶の
実施を黙認する国家も、これによって自らが 「不法関与者」ということにな
る。国家が、これに伴う有害な付随効果を避けたいのであれば、「違法でな
い」とする以外に選択の道はない。
一他方、この矛盾を、国家によって認可された妊娠中絶事例を「罰せら
れない」あるいは「適用されない」と規定することによって避けようとする
ならば、それは必然的に、未生の生命の保護要求にとってマイナスに(ブー
メランのように)跳ね返ってくる。このことを認識するには、ある法的構成に
よっていかなる「規範的メッセージ」が規範の名宛人としての市民に向けて
発せられ(う)るか、が間われなければならない。
「罰せられない」という定式の場合は、たんに処罰が断念されるだけで当
該行為が違法であることに変わりはないと理解されるであろう。これに対し
て「この構成要件は適用されない」とする場合、事ははるかに厄介である。
ある行為を非構成要件化することが、多様に根拠づけが可能な処罰の断念か
ら始まり、当該法益が保護に値することの否認にまで至る、全く相異なる効
果をもちうることは、通例、法律の専門家にしか意識されないであろう。禁
止構成要件がそれ自体として存在しながら、一定の保護段階・行為態様では
それが適用されないという場合、規範の名宛人としての市民には、まさに最
後に挙げられた印象(当該法益の保護の否認)が沸いてくるであろう。この場
合、非構成要件化された行為が「禁じられて いない」とみなされるという規
範的メッセージが、当該法益は刑法的に保護されてはいないという、もう1
つの効果を伴って発せられることになりうる。
禁止が構成要件的に限定されるのではなく、構成要件に該当する行為が一
定の条件のもとに「違法でない」とされる場合にのみ、このような帰結を避
けることができる。これによって当該法益が原則的に保護に値していること
がいささかも疑間視されず、たんに個別事例について一定の条件のもとで対
編訳者あとがき
371
立する諸利益に優先権を譲っているにすぎないことが示されるからである。
一「違法でない」と明記することは、とくに法治国家的明確性と法的安
定性から要求される。(改正前の)刑法218条a の「罰せられない」という定
式化が、判例と学説においてほとんど救い難いほどの「宗教戦争」に導いて
いたことからすれば、立法者は、以下の点に決着をつけなければならない。
すなわち、①妊婦が「非合法」と 呼ばれないで済むにはどのような行為をす
ればよいのか、②医師および病院関係者は、中絶を合法的に行っているの
か、それとも、少なくとも客観的には「非合法な」営みに関与しており、そ
の結果としてこれに関する契約も無効となるのか、ということである。
このような問題は、社会政策上の援助措置にとって過小評価しえない意義
を有している。立法者が違法性阻却を断念するならば、それによって必然的
に中絶と直接に関連したすべての社会政策上の援助措置も遮断されるであろ
う。これに対して、ある中絶が「違法でない」と明記されるならば、そのよ
うな社会政策上の諸措置へ向けての門戸は開かれたままであり、そのための
条件と範囲がすでに強制的に一方あるいは他方へとあらかじめ決定されるこ
ともない。違法性阻却による許容の限界という問題についてはさらに検討さ
れなければならないが、いずれにせよ妊婦と医師の行為は「違法でない」こ
とが明確にされていなければならない。第三の道は与えられていないのであ
る( teritium non datur )。
一「法(的評価)から自由な領域の理論」にまで遡り、妊娠中絶の違法性
と適法性との間に、すべての側に満足のゆく第三の解決の方法、すなわち
「禁じられていない」という法的カテゴリーを提唱するアルトウール・カ
フマンの試みもまた、貫徹することはできない。彼が、正当化事由と同置さ
れる中絶の是認と、それを「違法である」と表現すること(違法性モデル)
による非合法の熔印とが、合意の発見を困難にさせていることに注目させた
のは、たしかに急所を突いている。さらに、この種の婦人は、彼女に公的な
諸援助を拒んだりすることはできないような、答責的で尊重されるべき諸理
由から行為に及んでいるのであるから、違法性モデルは行為者(妊婦)を正
当に評価していないという彼の出発点も、著者の立場を補強するも のであ
る。これに対して、彼が、中絶は違法に人の生命を抹殺しているのであるか
372
ら、違法性モデルは行為を適切に評価していると考えているのは、①未生の
生命の殺害の場合、正当化は原理的に排除される、②正当化と「道徳的是
認」とは同置される、という2つの誤った想定に基づいている。さらに、
「禁じられていない」というカテ,ゴリーによって提案される刑法の後退は、
中絶の場合のように、ある行為が法律によってすでに構成要件に該当してい
ることが明確にされている場合には、もはや可能でない。
以上が、不処罰の中絶の「違法阻却テーゼ」の実質的な論拠である。注意
を要するのは、それが純法益衡量説に立脚した「正当化テーゼ」と同じでは
ないということである。著者にとっても、未生の生命と既生の生命とは価値
において等しいという、連邦憲法裁判所によって打ち立てられ、学説におい
ても広範な合意に達している原理は不動のものである。
著者のテーゼの特色は、純刑法解釈論上の構成ではなく社会政策上の考慮
に基づいている,熱こある。しかし、解釈論的な見地からすれば、彼のテーゼ
は、実質的には責任阻却事由に他ならない。というもの、著者は別のところ
で、犯罪体系論的には、(改正前の)刑法218条aは、刑法34条〔正当イヒ的緊
急避難〕の意味における法定の先行的「利益〕衡量に基づいて、妊婦の期待
不可能な葛藤状況を顧慮した正当化事由であると見られなければならない、
といっているからである。しかし、期待不可能性は、ドイツ刑法35条「免責
的緊急避難」に固有の要素である。適法行為の期待不可能性に正当化効果を
付与することは、刑法解釈論的には原則的にありえない(もっともわが国では
内田文昭説が期待可能性を違法論に位置づけている)。
それにもかかわらず著者があえてこの解釈をとるに至ったのは、妊娠中絶
という特殊事例については、とくに妊婦と医師に向けて発せられる「規範的
メッセージ」と、彼らに「違法行為者」という汚名を着せないーしたがっ
て社会政策上の援助措置を可能にするーという後続の効果に考慮が払われ
たからに他ならない。後者は、カウフマンの「禁じられていない」という法
的カテゴリーの実質的な根拠と合致している。とはいえ、両者の間にはたん
なる言葉の問題を越えた、法的に重要な差異が存在している。「違法阻却=
正当化テーゼ」では、後続の諸効果ーーーイ呆険給付、社会扶助、医師との契約
等々―はすべて適法ということになり、胎児の生命のための緊急救助は許
編訳者あとがき
373
されないということになるのに対し、「禁じられていない」という公式の場
合は、その点がいまだ未解決であるというだけではない。違法かそれとも適
“法かという排中律的な発想それ自体が、まさにここにおいて問題の核心をな
しているからである。この問題にここで深入りすることは、編訳者の任では
ない。いずれにせよ、この二者択一的な考え方が、連邦憲法裁判所によっ
て、いわば逆手に取られたとい ってよい。同裁判所は「胎児の生命保護を保
障しながら、妊婦に妊娠中絶を求める権利を認容するというような差引勘定
は存在しない」体書資料3参照)という。要するに、通例の理解に従って
「正当化テーゼ」が斥けられたのである。
連邦憲法裁判所は、その代わりにーより狭く限定された医学的=社会的
適応事由および刑事学的適応事由の場合に正当化を承認するほかは―相談
規定に従った妊娠中絶の処罰解除の方法として、「構成要件から除外する」
という解決策を採った。これによってのみ「立法者は、相談の枠内で、婦人
が……初期段階の妊娠を医師に中絶させた場合に、彼女には刑が科せられな
いという望ましい帰結に、憲法的に疑間の余地のない在り方で到達すること
ができる」というのである。その理由は、①婦人の中絶の決意が相談後であ
れば是認されるというのでは、相談が彼女の答責意識を強化することはでき
ない、②期待不可能な例外状態が確認されていない妊娠中絶を適法とするこ
とは未生の生命の保護を弱体化する、という威嚇的および積極的一般予防上
の考慮に基づいた2 点に尽きる。
著者のーそしてまたカウフマンの―立場と連邦憲法裁判所の立場との
根本的な差異は、結局のところ、相談後に中絶を決意した妊婦の答責意識に
ついての見方の相違に帰着する。前者は、「相談後に中絶を決意する婦人は、
通例、答責的で尊重されるべき諸々の理由から行為に 及ぶ」ということを出
発点にしているのであるが、連邦憲法裁判所の多数意見は、これを全面的に
斥けたのである。多数意見は「例外状態において、子を!裏胎し続けることが
重大な理由から彼女に期待可能でない場合にのみ、彼女が妊娠中絶を決意す
るというような経験法則は存在しない」という。これを、たんなる見解の相
違といって済ませることはできない。というのも、著者の前記法律鑑定書に
よれば、中絶の場合、特別予防と威嚇的一般予防という意味における予防効
374
果は全く認められないことが、本書第7 章の経験的調査によって紛うことな
く実証されているからである。そこでは、一方で、より許容的な規制が必ず
しもより高い中絶数に結びついているわけではないこと、他方で、より抑圧
的な規制がより低い数値に導いているのでもないこと、したがって、妊娠中
絶の頻度にとっては、(刑)法的規制とは別の諸要素がより大きな意義を有
していることが明らかにされている。連邦憲法裁判所の多数意見がこれを等
閑に付したのは、そうとでもしなければ、同裁判所の「積極的一般予防」の
構想に動揺を来たすことが恐れられたからであろう。
著者にとって連邦憲法裁判所のこのような前提と、そこから帰結される
「違法でないと言明されてはならない」という帰結が、到底受け容れること
ができるものでないことは明らかである。このような判決の言い渡しの後、
著者がこれに対して批判を浴びせたのが第6 章の論文である。そこでは、規
定どおりに相談を受けた後に医師によって実施される妊娠中絶の違法性がそ
れによって維持されると考えているらしい「構成要件阻却」という方法には
驚かずにはいられず、とりわけ憲法裁判所が犯罪解釈論上の理論闘争に立ち
入り、そのうえに体系問題を憲法問題にまで仕立て上げさえしたことに対し
ては、升Ii法解釈論の側からの諸々の非難を恐れなければならないであろうと
いって、この判決を難詰している。
とはいえ、この「構成要件阻却」は、1995年8 月21 日に公布された改正刑
法218条a 第1 項に、ほぽ連邦憲法裁判所の設定した基準どおりに条文化さ
れた(本書資料4)。理由書では、刑法上類型化された不法からの除外として
の構成要件阻却により、挙げられた要件のもとで実施される妊娠中絶が(刑
法において)不法と扱われてはならないとされている。しかし、相談規定の
もとでは、未生児の利益のための妊娠中絶を目的とした緊急救助(ドイツ刑
法32条)も考慮される余地はないといった説明以外には、解釈論上の根拠づ
けは見あたらない。とはいえ、「法秩序の統一」という原理からして、その
十分な根拠づけが法理論的にも刑法解釈論的にも可能か否かは、難間中の難
間といわなければならない。
5 第8 章「比較的視点からみた生命医学上の進歩の法的諸問題ードイ
編訳者あとがき
375
ツ』玉保護法を巡る改正論議のために―」( 2003 年)は、ドイツ』玉保護法
(1990 年)の諸規定につき、ドイツにおける議論をフォローするとともに、ョ
ーロッパ各国の法制と比較しつつ、改正の方向を探ったものである。この分
野における技術の急速な発展は目を見張るものがあり、初版第6 章「法と人
間遺伝学―人間の遺伝的形質操作についての法学的考察ー」( 1984 年)お
よび初版第7 章「人間遺伝学の領域における刑法的保護の諸側面」( 1987 年)
が公表された時点のみならず、本章執筆時点以後も、多くの変化が見られ
る。上記セミナーでは、いわゆる「幹細胞法( Stammzellgesetz )」( 2002 年、
2008 年)についても詳しい紹介・検討がなされた体書資料7)。
ドイツ膝保護法の特徴は、1990年というかなり早い時期に、ヒト生殖系細
胞の遺伝情報の人為的変更やクローン・キメラ・ ハイブリッドの形成を処罰
し(いずれも5年以下の自由刑)、代理母のための人工授精および」玉の移入や妊
娠を招来させる目的以外の目的のための卵細胞の受精の企てを処罰するとと
もに(いずれも3年以下の自由刑)、とりわけ妊娠を招来させる目的以外の目的
でヒ「1玉を体外で発育させた者を処罰(10年以下の自由刑)している,点にある。
これに対して、日本のクローン規制法( 2000 年)は、「人クローン』玉、ヒト
動物交雑月玉、ヒ「性融合月玉又はヒ「性集合月玉を人又は動物の胎内に移植」す
ることを禁止し処罰(10年以下の懲役もしくは千万円以下の罰金または併科)してい
るにすぎない。
初版第7 章において、著者は、「刑法的禁止が疑いもなく必要と思われる
のは、ヒトのクローニングならびにヒトと動物とのハイブリッド生物に対し
てだけ」であると主張していた。ドイツの3玉保護法は大き,くそれと隔たり、
日本のクローン規制法こそが著者の主張に合致していたことがわかる。
この間、ドイツの厳しい規制がとくに問題になったのは、ES 細胞(月を陛幹
細胞)研究の分野である。「万能細胞」と喧伝され、再生医療の領域におけ
る革命的研究課題として世界的規模で研究が進められようとしている状況を
眼前にしつつ、ドイツ月不保護法の下では、その研究が不可能と思われたから
である。ES細胞が受精卵から作成される以上、妊娠以外の目的で受精卵を
作成することを禁止する同法の下では、その作成は不可能であり、この分野
でドイツだけ世界から取り残されることになるとして、研究者サイドはもち
376
ろん国民的レベルで議論が巻き起こった。ドイツの立法者は、苦肉の策とし
て「作成はできないが研究はできる」という途を追求し、 2002 年の幹細胞法
によって、2002年1月30日時,点までにすでに存在するES細胞について輸入
および研究を認め(主としてイギリスからの輸入が想定されている)、さらに同法
2008年改正では、2007年5 月1 日までに獲得されたES 細胞についてまでそ
れが認められた(本書資料7)。現在、わが国を中心に開発・研究されている
ipS細胞「人工(ないし誘導圏多能性幹細胞」は、受精卵を用・い,ないで作成
される点で、まさにドイツの研究者にとって福音といえよう。
遺伝子研究や幹細胞研究の規制!のあり方は、世界的レベルで検討すべき課
題である。というのも、規制の厳しい国では研究できないから規制の緩やか
な国で研究するといった事態に問題があることはもちろん、そこで得られた
成果(たとえば新薬)を規制の厳しい国で利用できるのかといった問題にも,繋
がるからである。「人間の尊厳」を基本においたドイツの規制のあり方、さ,
らに研究の進展に伴い余儀なくされたその修正等を参考にしつつ、日本にお
いても新たな法的検討が必要であろう。
6 第9 章「ドイツの新臓器移植法」 (1998 年)は、 1997 年に制定された新
臓器移植法について、制定までの議論および新法の内容について紹介・検討
しつつ自説を展開したものであり、問題点が的確に示され分かりやすく解説
されている。上記セミナーでは、「同意による解決」「反対意思による解決」
「近親者の意思による解決」について、それぞれの問題,点が検討された体
書資料9)。ところで、著者は、「死」の概念については、全脳死説が適切で
あるとし、新法も黙示的にこれに従っているとしている。とくに死者からの
臓器摘出については、反対意思表示モデル、承諾意思表示モデル、通知モデ
ルを対比し、新法は「拡大された承諾意思表示モデル」体人の生前の意思表示
によるほか、それがない場合には近親者による決定を認める)に従ったとして、それ
に賛成している。
翻って日本では、1968年の和田心臓移植事件がいわば姪桔となって、長く
心臓移植はタブー視されてきたが、1992年の脳死臨調答申に基づいて立法作
業が開始され、ドイツと同じく1997年に「臓器の移植に関する法律」が制定
編訳者あとがき
377
された。制定直前に「死体(脳死体を含む」という表現が「死体(脳死した者
の身体を含む」と修正され、脳死が人の死か否かはペンディングにされた。
また、臓器摘出のみでなく脳死の判定に従うことについても本人の意思表示
が必要であるとされ、さらに遺族・家族がそれを拒まないとき(または遺族・
家族がないとき)にかぎって臓器摘出が認められることとされた。同じ脳死状
態の者が、ドナーカードを有していれば死体、そうでなければ生体というこ
とになり(脳死選択説)、刑法的には問題があるところであるが、そこには心
臓移植に慎重を期すという姿勢が見られた。しかし、臓器提供はドナーカー
ドを有している者のみにかぎられ、かつそれを作成できるのは(遺言年齢に合
わせて)15歳以上とされた結果、15歳未満の者からの臓器提供は不可能とさ
れ、移植を推進する方向での見直しが求められていた。
2009年7 月13 日、改正案が参議院本会議で可決・成立した(施行は公布から
1 年後)。改正臓器移植法は、旧規定の場合に加えて、臓器摘出につき「遺族
が当該臓器の摘出について書面により承諾しているとき」、脳死判定につき
「その者の家族が当該判定を行うことを書面により承諾しているとき」を追
加した。これはドイツ法の「拡大された承諾意思表示モデル」と同様であ
る。これによって、ドナーカードを有していない者および15歳未満の者から
の臓器提供が可能となったのであるが、それは「脳死は人の死」であること
を(それを前提にするものと解することは可能であるとしても)正面から認めている
わけではない。脳死状態を人の死とすることについては、将来、本人の意思
の軽視や脳死体に対する実験に結びつくのではないかという点について検討
を要する。さらに、提供者は「親族に対し当該臓器を優先的に提供する意思
を書面により表示することができ る」とされた。この点は、提供の意思表示
をしている者を需要者として優先することを否定したドイツの場合と比較し
て検討を要するところである。
7 第10章「中間の道を求めて―原理主義と気儀との間―」
(2003 年)
は、妊娠中絶の議論で示された「中間の道」を主題としつつ、生命倫理の諸
領域において同様の考察が必要であることを簡潔に述べたものである。そこ
では、人間の尊厳の不可侵性と生命の法的保護の絶対性が疑間視されなけれ
378
ばならないところでは、そのことが十分真剣に受け止められていないという
嫌疑に容易にさらされるが、開かれた社会では、絶対的な原理主義と原理な
き気侭( Beliebigkeit げ随意」ないし「窓意」とも訳せるがここでは上田訳に従う)と
の間に「中間の道」を見出すことを心得ている場合にのみ、調和の取れた均
衡を維持することができるのであって、むしろこのことこそが人間に相応し
いことであり、具体的な人間の能力と核心を正当に評価することになる、と
述べられている。まさに著者の基本的立場を表わしているといえよう。
第11章「医事(刑)法のパースペクティブ」
(2006 年)は、現時,点における
著者の医事(刑)法に対する基本的立場を総括的に示したものであり、まさ
に本書の最終章に相応しい。そこでは、これまでの医事(刑)法を回顧した
うえ、今や、専門分野別の医事法から統合的な医事法へと展開されるべきで
あると され、医事刑法にとっての新たな問題領域が、謙抑的に示されてい
る。ここで著者が、「医事刑法」ではなくあえて「医事(刑)法」としてい
るのは、本書で扱った諸問題が、狭くもっぱら刑法の対象とされるようなも
のではなく、民法・公法・社会法を含めた総合的な規制と保護の対象であ
り、さらに「手続による予防」をも視野に入れる必要があること示そうとし
たことによる。『医事刑法から統合的医事法へ』という本書の表題は、まさ
にこのことに由来している。もっとも、著者が、統合的な医事法に伴う刑法
の後退傾向を指摘しつつ、民法・行政法や医師の職業法のすべてをもってし
ても刑法に完全に取って代わることはできず、刑法なしに済ませられるわけ
ではないとし、刑法的規制がその存在自体で保護を安定化させる補強機能を
持ち、指導機能を有すること、刑法があらゆる種類の濫用を防止する万能薬
ではありえないとしても「倫理形成力」を有 していることを積極的に評価し
ていることは、看過されてはならないであろう。
8 以上のとおり、本書は、医事(刑)法の分野における初版以降の展開
をフォローするとともに、各分野における著者の立場を示したものである。
編訳者としては、本書から、まさにこの分野における第一人者である著者の
叙述を通じて、日本においても、世界的な動きとりわけドイツを含むョーロ
ッパ諸国の動向を受け止め、そのうえで真撃に議論する素地が築かれること
編訳者あとがき379
を願ってやまない。編訳者の一人(浅田)は、プライヴァシーの保護や患者
の自己決定権、障害者差別の問題にも関わる遺伝子医療の領域では、すべて
をガイドラインに委ねるのではなく法的規制が是非とも必要であり、それら
を含めた「生命科学基本法」(仮称)を制定すべきであると主張してきた。そ
のうえで、問題となる領域ごとに法律事項とガイドライン事項とを区別し、
あらたな規制方法を整えるべきであろう。もっとも、この領域で刑事規制が
はたす(べき)役割は、必ずしも大きくはなく、またそうあるべきでもない
と考えている。編訳者のこれらの問題に対する所見については、上田健二
『生命の刑法学』(ミネルヴァ書房、
2006 年)および本書資料9
に挙げられてい
る編訳者の論文を参照していただきたい。なお、冒頭に挙げた連続セミナー
の準備および本書の校正段階では、立命館大学大学院法学研究科博士課程の
松倉治代氏にお世話になった。
本書も、成文堂・阿部耕一社長の御好意と同取締役・土子三男氏の変わら
ぬ御厚情により出版に至った。厚く御礼を申し上げたい。
2010年7月
上田健二
浅田和茂
◆訳者紹介
上田健二(うえだ・けんじ)
元同志社大学法学部教授
浅田和茂(あさだ・かずしげ)
立命館大学大学院法務研究科教授
甲斐克則ゆい・かつのり)
早稲田大学大学院法務研究科教授
長井園(なかい・まどか)
中央大学大学院法務研究科教授
井田良いだ・まこと)
慶慮義塾大学大学院法務研究科教授
福山好典(ふくやま・よしのり)
早稲田大学大学院法学研究科博士後期課程
医事刑法から統合的医事法へ
2011年2月20日初版第1刷発行
二茂
編訳者。毛
健 和
田田
著者アルビン・ェーザー
上
1え
発行者阿部耕一
〒 162-0041 東京都新宿区早稲田鶴巻町514番地
発行所株式会社成文堂
電話 03 (3203) 9201 (代表) Fax 03 (3203) 9206
http://www.seibundoh.co.jp
製版・印刷株シナノ
製本佐抜製本検印省略
☆乱丁・落丁本はおとりかえいたします☆
⑥ 2011 K. Ueda, K. Asada
Printed in Japan
1SBN978-4-7923-1898-7 C3032
定価(本体7000 円+税)