全文 - ヒューマンサイエンス振興財団

平成 27 年度国立研究開発法人日本医療研究開発機構研究費
創薬基盤推進研究事業
研究課題名:産学官連携研究の促進に向けた創薬ニーズ等調査研究
医療ビッグデータの活用並びに
バイオマーカー実用化の最新動向
‐創薬並びに個別化医療や予防医療への可能性を探る‐
創薬資源調査報告書
平成 28 年 3 月
公益財団法人
ヒューマンサイエンス振興財団
本報告書は、国立研究開発法人日本医療研究開発
機構(AMED)の【創薬基盤推進研究事業】によ
る委託研究として、公益財団法人ヒューマンサイ
エンス振興財団が実施した平成 27 年度「産学官
連携研究の促進に向けた創薬ニーズ等調査研究」
の成果を取りまとめたものです。
発行元の許可なくして転載・複製を禁じます。
はしがき
公益財団法人ヒューマンサイエンス振興財団(以下、HS 財団)創薬資源調査班は、調
査研究の更なる充実のため、従来の研究資源委員会及び創薬技術調査ワーキンググループ
が母体となり 2014 年度に新設され、2013 年度の研究資源委員会でのバイオバンク事業に
関する調査に続き、2014 年度はコホート研究並びにゲノム等の関連技術を調査対象として
取り上げる等、一貫して個別化医療・予防医療並びに創薬へ向けた諸技術について調査し、
提言を行ってまいりました。
昨年、2015 年は、1 月のオバマ大統領の一般教書演説の中で示された“プレシジョン・
メディシン・イニシアチブ”にあるように、個人にあった質の高い医療を提供するため、
如何にして多様化したデータを収集・解析し、効率よく医療に活用していくべきか、とい
った動きに注目が集まりました。今日“ビッグデータ”時代の始まりが訪れ、患者ベース
の“医療ビッグデータ”だけでなく、ウェアラブルデバイス等の急速な普及により、消費
者レベルにおいても多様な生体情報、即ち、
“生体モニタービッグデータ“が得られるよう
になり、これら潜在的なビッグデータの活用が、次世代の予防医療、先制医療へ繋がるも
のと期待されています。しかしながら、国内ではまだまだ医療ビッグデータに対する体制
の整備が、欧米と比べ遅れており、この多様化したデータの収集・管理・解析について、
科学面、倫理面、規制面における早期の対応が必要な状況下にあります。一方、適切な医
療を実現するため、また創薬のためには、バイオマーカーは欠かせ無いものとなっていま
す。しかし、科学技術の進歩する中、その実用化への課題も少なくありません。産官学の
協力による新規バイオマーカーの探索と医療及び創薬への実用化の推進が、科学面のみな
らず規制面でも望まれています。
本調査では第一章にて、次世代医療へ向けたビッグデータの活用について、医療ビッグ
データの将来展望から、解析事例、ウェアラブルデバイス、ゲノムビジネス、米国での動
向等について幅広く言及し、第二章では、バイオマーカーの実用化推進の現状について、
がんゲノム医療の取組み事例から、各種オミックス技術による新規バイオマーカー探索並
びに実用化の事例、さらにはバイオマーカー探索への応用が期待されている基礎研究等に
ついても調査を実施し、行政の施策構築状況(第 3 章)も併せて、報告書としてまとめま
した。一連の調査に当たっては、創薬資源調査班で各調査課題に適合した研究や開発を行
っておられる学識経験者や専門家を選定し、ヒアリングを行いました。
なお、本調査は「平成 27 年度日本医療研究開発機構研究費(創薬基盤推進研究事業)
研究課題:産学官連携研究の促進に向けた創薬ニーズ等に関する調査研究」の一環として
実施しました。この報告書が関連の研究や技術開発に関心のある方々の参考となり、関係
各位の研究開発等のヒントとして役立つことを願っています。
最後になりましたが、ご多忙な中、ヒアリングや研究室の見学に多大な時間を割いてい
ただいた学識経験者の先生方、調査活動全般に協力いただいたヒューマンサイエンス振興
財団創薬資源調査班の皆様、また、事務局として本報告書の作成をサポートいただいた株
式会社シード・プランニングのスタッフに感謝申し上げます。
平成 28 年 3 月
(公財)ヒューマンサイエンス振興財団
研究企画部(創薬資源調査班・事務局)
加藤
i
正夫
本調査にご協力いただいた学識経験者及び機関
(敬称略、所属機関 50 音順、所属はヒアリング実施時点)
田中
拓
P5 株式会社 プロダクト&サービスディベロップメント
ゼネラルマネージャー
菊池
秀法
P5 株式会社 サービス&オペレーションディベロップメント
シニアマネージャー
朝長
毅
国立研究開発法人医薬基盤・健康・栄養研究所
プロテオームリサーチプロジェクト プロジェクトリーダー
奥野
恭史
京都大学大学院医学研究科 臨床システム腫瘍学 教授
吉田
優
神戸大学大学院医学研究科 准教授
病因病態解析学(疾患メタボロミクス)分野長
土原
一哉
国立研究開発法人国立がん研究センター 先端医療開発センター
トランスレーショナルリサーチ分野 分野長
南野
直人
国立研究開発法人国立循環器病研究センター
創薬オミックス解析センター センター長
織田
梶
雅直
裕之
国立研究開発法人産業総合技術研究所 創薬基盤研究部門 部門長
国立研究開発法人産業総合技術研究所 創薬基盤研究部門
糖鎖技術研究グループ 研究グループ長
久野
敦
国立研究開発法人産業総合技術研究所 創薬基盤研究部門
糖鎖技術研究グループ 上級主任研究員
山口
建
静岡県立静岡がんセンター 総長
橋本
康弘
株式会社シリコンバレーテック 代表取締役社長
桜田
一洋
株式会社ソニーコンピュータサイエンス研究所 シニアリサーチャー
田中
博
東京医科歯科大学 名誉教授
東北大学東北メディカル・メガバンク機構 機構長特別補佐
佐藤
康博
日本電信電話株式会社 デバイスイノベーションセンタ
ライフアシストプロジェクト プロジェクトマネージャ 主席研究員
小泉
弘
日本電信電話株式会社 NTT 先端集積デバイス研究所
ソーシャルデバイス基盤研究部 バイタル情報処理研究グループ
グループリーダ 主幹研究員
星野
隆之
日本ユニシス株式会社 総合技術研究所 技術研究室 上席研究員
平野
久
横浜市立大学 名誉教授 学長補佐 文部科学省イノベーションシステム整備
事業 翻訳後修飾プロテオミクス医療研究拠点の形成プロジェクト 研究統括
林崎
良英
国立研究開発法人理化学研究所 理事長補佐
産業連携本部 予防医療・診断技術開発プログラム プログラムディレクター
ii
ヒューマンサイエンス振興財団 創薬資源調査班メンバー
(敬称略、50 音順、所属は 2016 年 2 月時点)
瀬戸
孝一 (リーダー)
ゼリア新薬工業(株)中央研究所
杉崎
肇 (サブリーダー)
(株)エスアールエル
鈴木
雅 (サブリーダー)
田辺三菱製薬(株)渉外部付
医薬開発研究部
技術開発部
(日本製薬工業協会医薬産業政策研究所出向中)
西村
健志(サブリーダー)
日本新薬(株)東京支社医療政策部
青木
郁夫
MSD(株)クリニカルリサーチ領域
天野
賢一
持田製薬(株)研究企画推進部
菊池
紀広
バイエル薬品(株)開発本部オープンイノベーションセンター
北川
誠之
旭化成ファ-マ(株)経営企画部
清末
芳生
ビジネスコンサルタント
具嶋
弘
(株)久留米リサーチパーク
小紫
俊
大正製薬(株)医薬事業部門
佐々木
康夫
(公財)静岡県産業振興財団
臨床薬理開発
ファーマバレーセンター
鈴木
良邦
(株)アイ・バイオ・コンサルティング
多田
秀明
小野薬品工業(株)筑波研究所
伊達
睦廣
和光純薬工業(株)臨床検査薬研究所
田中
弘一郎
藍野大学
冨田
久夫
冨田バイオテクノロジーコンサルタント
中田
勝彦
参天製薬(株)法務部
根木
茂人
エーザイ(株)診断薬開発部
野津
克忠
(株)ユイメディック 取締役
濱里
史明
(株)日立製作所
東本
浩子
(株)エスアールエル
深水
裕二
科研製薬(株)開発ポートフォリオ推進部
松久
明生
扶桑薬品工業(株)研究開発センター
山本
啓一朗
日本化薬(株)医薬研究所
渡辺
雅尚
興和(株)東京創薬研究所
五十嵐
夕子(事務局)
取締役
医療保健学部
研究開発グループ
代表
基礎研究センタ
臨床検査事業商品企画開発部門
(株)シード・プランニングリサーチ&コンサルティング部
高橋
直子
(事務局)
(株)シード・プランニングリサーチ&コンサルティング部
加藤
正夫
(事務局・研究開発分担者)
(公財)ヒューマンサイエンス振興財団
iii
研究企画部
目次
ページ
はしがき
ⅰ
本調査にご協力いただいた学識経験者及び機関
ⅱ
ヒューマンサイエンス振興財団
ⅲ
目
創薬資源調査班メンバー
次
ⅳ
第一章 医療ビッグデータの医療及び創薬への活用
はじめに
1
(1)医療ビッグデータと Precision Medicine、創薬/Drug Repositioning
3
(2)データ主導型イノベーションによる保健と医療のパラダイム転換
13
(3)医療ビッグデータからの創薬、予防医療並びに京大病院 Biobank &
Informatics for Cancer プロジェクトの概要
22
(4)オバマケアがもたらす健康・医療技術への影響
36
(5)日本ユニシスにおける医療ビッグデータ関連の取組みについて
41
(6)P5 株式会社における健康管理ゲノム情報提供事業
51
(7)「hitoe」をはじめとするウェアラブルセンサ技術の概況
59
第二章
バイオマーカーの実用化における課題
はじめに
69
(1)静岡がんセンター「プロジェクト HOPE (High-tech Omics-based
Patient Evaluation)」におけるマルチオミクス解析に基づくがんの個
の医療への取組み
71
(2)SCRUM-Japan の概要
84
(3)イノベーションシステム整備事業「翻訳後修飾プロテオミクス医療
研究拠点の形成」における新規バイオマーカー探索
96
(4)プロテオミクス技術を活用したバイオマーカーの探索
104
(5)糖鎖解析によるバイオマーカー探索:肝線維化糖鎖マーカーの実用化
について
110
(6)メタボローム解析によるがん診断バイオマーカーの探索と検査機器の開発 123
(7)多層的オミックス解析によるバイオマーカー探索
131
(8)FANTOM5 データベースの医療への活用:今後の展開について
142
第三章
154
行政の動向
第四章 考察
167
第五章 今後の課題
173
iv
第一章 医療ビッグデータの医療及び創薬への活用
第一章 医療ビッグデータの医療及び創薬への活用
はじめに
個別化医療が推進され、質の高い医療・新薬創出が望まれる一方、新薬開発においては、
標的となるタンパク質が枯渇傾向にあり、画期的な治療薬の出現にブレーキがかかりつつ
ある。そうした中で、昨年(2015 年)は、米国における Precision Medicine Initiative の
立ち上げや我が国におけるゲノム医療実現推進協議会の設立等、ゲノム医療を目指す動き
が本格化している。ゲノム医療実現のための基盤となるのが、個人のゲノム情報を初めと
する医療ビッグデータであり、今後の新規医療技術の開発や創薬への活用が期待されてい
る。
本章では、まず、医療ビッグデータがもたらす今後の可能性について、医療ビッグデー
タを取り巻く現状と今後の動向並びにデータ主導型解析からの創薬研究・先制医療への取
組みと課題について報告する。患者情報の電子化、ゲノム情報等のオミックス情報の蓄積
によりデータが多様化し、患者の層別化、疾患の細分化が進むと言われており、従来のよ
うな属性の少ない集団での研究手法から、属性の多い集団での解析手法に変わっていくと
予想される。今後、如何に疾患・患者を細分化し適切な標的分子やパスウェイを探索する
かが、新薬創出のカギとなる。この時必要とされる多様化されたデータこそが医療ビッグ
データである。従来の科学は、仮説主導型が主流で、ある目的と仮説のもとで必要なデー
タを選択して研究を進めていくが、データ主導型解析では、大きな目的はあるものの、多
くの場合、仮説には依拠せず多くのデータからどんな法則(関連分子や因果関係等)が導
き出せるのかを推論する。そのため、解析に必要なデータの組み合わせをどうするのか、
について知っておく必要がある。試料やデータを収集することはできても、どんなデータ
を収集すればよいか、データをどう扱い、どう解析していけばよいのか、という課題が解
決されなければ研究は進んでいかない。本報告が、医療ビッグデータ活用の方向性や戦略
についての理解を深め、我が国における医療ビッグデータ活用基盤構築の一助となれば幸
いである。
医療ビッグデータといっても、患者カルテ情報、薬歴、各種オミックスデータ等から、
健康診断情報に加え、ウェアラブルデバイス等から得られる健康情報等の「生体モニター
ビッグデータ」まで様々である。これら医療ビッグデータより、より疾患(患者)に近い
情報を選択、活用して治療薬の開発、医療現場での治療方針の決定等に役立てなければな
らない。がん患者の実臨床データを用いた解析による余命予測、副作用情報からの毒性予
測シミュレーション等の解析事例についても紹介する。一方、生体モニタービッグデータ
においては、予防医療や先制医療にどう活用できるか注目されている。そこで、健康情報
サービスやウェアラブルデバイスからの生体モニタービッグデータの健康管理への活用の
現状についても報告する。
また、米国において進んでいる医療ビッグデータの活用については、医療保険改革との
関連性が深いため、そちらについても本章で報告する。
本章では次頁の表に示した有識者、専門家にヒアリングを行った。
-1-
第一章 医療ビッグデータの医療及び創薬への活用
第一章関連ヒアリング先とヒアリング概要
カテゴリー
医療
ビッグデータ
米国
医療情報
ヒアリング先
1
東京医科歯科大学
田中 博 名誉教授
(東北大学東北メディカル・メガ
バンク 機構長補佐)
2
(株)ソニーコンピュータサイエン
ス研究所
桜田一洋 シニアリサーチャー
3
京都大学大学院医学研究科
臨床システム腫瘍学
奥野恭史 教授
4
(株)シリコンバレーテック
橋本康弘 代表取締役社長
5
日本ユニシス(株)
総合技術研究所
星野隆之 上席研究員
6
P5(株)
田中 拓 ゼネラルマネージャー
菊池秀法 シニアマネージャー
7
日本電信電話(株)
デバイスイノベーションセンタ
佐藤康博 主席研究員
NTT 先端集積デバイス研究所
小泉 弘 主幹研究員
健 康 ・ 医 療
サービス
ウェアラブル
デバイス
概要
-2-
属性の多様化が生み出すビッグデー
タ、”Big Small Data”から”Small Big
Data”へ。オミックス・患者データ等の
医療ビッグデータの医療・創薬研究へ
の活用の可能性。
医療ビッグデータを活用した研究事例
として、データ主導型研究の先制医療
への活用に着目。従来からの仮説主
導型研究との違いについて。
スパコンを用いた実臨床データ(がん
患者)のビッグデータ解析。余命予測、
副作用情報からの予測解析事例につ
いて。
ビッグデータ時代におけるオバマケア
戦略について、保険制度改革から医療
機器、ウェアラブルデバイスの活用状
況まで。
コホート研究におけるビッグデータ解析
から、予防医療を見据えた地域医療ネ
ットワークの推進ビジネスの展開につ
いて。
東京医科歯科大と提携した医療事業と
して、従来の消費者向け遺伝学検査サ
ービス DTC とは異なる新しい予防医療
ビジネスの紹介と展望。
ウェアラブルセンサー・デバイスがもた
らす健康医療への可能性について。生
体信号を高感度に検出できる最先端
素材“hitoe”の実用化を中心とした紹
介。
第一章 医療ビッグデータの医療及び創薬への活用
(1) 医療ビッグデータと Precision Medicine、 創薬/Drug Repositioning
ヒアリング先:
東京医科歯科大学名誉教授
東北大学東北メディカル・メガバンク機構
機構長特別補佐
田中
博 先生
要約
医療分野においては、臨床検査データや疫学情報等、従来のタイプのデータが大容量化
したことによる医療ビッグデータに加えて、ゲノム・オミックス情報や生体センシングに
よるデータ等、
これまでは無かった新たなタイプの医療ビッグデータも集まり始めている。
ビッグデータは、ただ容量が大きいというだけではなく、データの質そのものがこれまで
のデータとは異なり、それを利用することによりもたらされる影響が非常に大きい。医療
ビッグデータの活用により、従来の集合的医療(population medicine)から個別化医療/
高精度医療(personalized medicine/precision medicine)へのパラダイム変換がもたらさ
れる。
また、医療ビッグデータは、創薬におけるパラダイム変換ももたらす。ヒトにおける有
効性や安全性の予測精度向上を目指して、薬剤特異的遺伝子発現シグネチャアと疾患特異
的遺伝子発現シグネチャアの相関を調べたり、薬剤特異的遺伝子発現シグネチャアの薬剤
間の類似性を調べたりする手法を取ることが想定される。また、医療ビッグデータを元に
医薬品や疾患の類似性を解析し、ドラッグリポジショニングに役立てることも想定される。
医療ビッグデータの活用により、臨床医学知識が増加し、医療の的確性が上昇すること
が期待される。
1.はじめに
田中博教授は、ゲノム・オミックス医療の実現を目指す研究に従事されており、著書に
「先制医療と創薬のための疾患システムバイオロジー」(培風館)等がある。2015 年 3 月
に東京医科歯科大学を退官され、現在は東北メディカル・メガバンク機構長のアドバイザ
ーとして、また、東北メディカル・メガバンクの情報システム構築の責任者としてご活躍
されるとともに、名誉教授として東京医科歯科大学にもオフィスを構えられている。創薬
資源調査班は、医療ビッグデータが主に医療及び創薬(ドラッグリポジショニング)にも
たらす革新についてお話を伺った。本稿においては、お話の内容を総括するとともに、そ
れに対する報告者の所感を記すこととした。
2.医療ビッグデータを取り巻く状況と医療のパラダイム転換
(1)新しいタイプの医療ビッグデータ
インターネットの普及やコンピュータの処理速度の向上等に伴い生成される、大容量の
デジタルデータをビッグデータと呼ぶ(知恵蔵 2015)。ただし、ビッグデータの特徴は、
ただ単に容量が大きいというだけではない。ビッグデータは、これまで取り扱われてきた
データとは質が全く異なっており、また、それを利用することによりもたらされる影響が
-3-
第一章 医療ビッグデータの医療及び創薬への活用
非常に大きい。
医療におけるビッグデータには、大別すると、臨床診療情報(臨床検査、医用画像、処
方、レセプト等従来の医療情報)や社会医学的情報(疫学情報等集団単位での疾患の罹患
に関する情報)といった、旧来タイプの医療データの大容量化によるものと、ウェアラブ
ルデバイスで得られる生体情報(モバイルヘルス)や網羅的分子情報(ゲノム・オミック
ス)といった、新しいタイプのデータの 2 種類がある。
従来の医療データは、1 人につき 20~30 程度の測定項目を 1,000~10,000 人分の規模
で集められていた。その場合には、属性数が個体数よりも小さいため統計学的手法(平均、
多変量解析等)の適用が可能であり、これにより「医療の集合的法則」を見ることができ
ていた。これに対して、新しいタイプの医療ビッグデータにおいては、1 個体から得られ
るデータ属性数が膨大で個体数を大きく上回っており、従来の統計学は無効である。この
ため、新しいデータ科学が必要となってくる(図 1)
。
米国では、次世代シーケンサによるゲノム・オミックス医療の普及による臨床シーケン
ス情報の大量蓄積に対応して、“Big Data to Knowledge (BD2K)” Initiative が 2013
年に開始された。BD2K は NIH 全規模での優先計画とされている。BD2K においては、
生命医療研究に喫緊の重要性を持つ、指数的に増大する生命医療データを活用するために、
様々な異なった種類のデータに対するアクセスの統合・分析において、NIH が主導的な役
割を果たすとされている。
図1.タイプによる医療ビッグデータの違い
(東京医科歯科大学/東北大学・田中博氏提供資料)
(2)医療ビッグデータを巡る状況
-
High Throughput 技術発展によるゲノム・オ
ミックス医療情報の急増
2010 年 に Wisconsin 医 科 大 学 小 児 病 院 で 、 原 因 遺 伝 子 が 未 知 の 未 診 断 疾 患
-4-
第一章 医療ビッグデータの医療及び創薬への活用
(undiagnosed diseases)に対して全ゲノムシーケンスによる分子診断(原因遺伝子同定)
が行われ、その結果治療が成功した。そのインパクトが非常に大きかったため、米国では
多くの有名病院が診療のためのゲノムシーケンスを実施するようになり、現在ではそれが
日常化している。また、民間保険会社がゲノム医療にかかる費用の保険還付に応じており、
ゲノム医療を実施しても患者の負担が増えるわけではない。米国では既にゲノム・オミッ
クスビッグデータを活用した医療の時代が始まっており、2010 年からの 5 年余りである
程度の規模のゲノム・オミックス医療のデータが蓄積されている。次はこれらの医療ビッ
グデータをゲノム医療知識としてどう活用していくかを考え始める段階になっている(図
2)
。これに対して、日本では、ゲノム・オミックスビッグデータの波はまだ臨床現場に到
達していない状況である。しかし、数年のうちに医療ビッグデータの波が押し寄せること
は確実であり、今から対応を準備しておく必要がある。
図2.医療ビッグデータ時代の到来
(東京医科歯科大学/東北大学・田中博氏提供資料)
我が国でも、国立がん研究センター東病院、静岡県立がんセンター等で、遺伝子検査に
よるがんドライバー遺伝子の診断や分子標的薬の治験グループへの割り当て等、研究費を
用いたゲノム・オミックス医療が試行されている。また、我が国には、東北メディカル・
メガバンク、福島県立医大等、様々なバイオバンクが存在し、それらすべてが連携すれば、
疾患型バイオバンクもポピュレーション型バイオバンクも両方あり、データの宝庫である
と言える。ゲノム・オミックス医療の臨床実装という点では、日本は米国に水を開けられ
ているが、バイオバンクやゲノムコホートでは遅れているとは考えにくい。
ゲノム・オミックス医療として最初に試みられたのは、SNP 等疾患の生まれもったゲノ
ム(生得的ゲノム情報)の変異や多型を調べることであった。それにより、今後病気にな
る可能性をある程度予測できるようになった。
その後、DNA チップ等でがん等の予後を調べたり、病気のタイプを分けたりすること
が試みられた。ここで検出される変異は病変部位でしか検出されず、また、治ってしまう
と発現も変わってくるというものであり、DNA チップの出現により後天的オミックスの
-5-
第一章 医療ビッグデータの医療及び創薬への活用
時代がスタートした。さらには、集められた生得的ゲノム情報や後天的オミックス情報を
解析し、疾患時における細胞分子ネットワークの歪みや構造変化を解明して治療に役立て
る、システム分子医学の時代も始まっている(図 3)
。
図3.ゲノム・オミックス医療の世代区分
(東京医科歯科大学/東北大学・田中博氏提供資料)
前述のように、ゲノム・オミックス医療の臨床現場への実装という点において、米国は
我が国よりも先を進んでいる。病因未知の遺伝疾患に対して全ゲノムシーケンス(WGS)
や全エキソームシーケンス(WES)で原因遺伝子の同定を行う Wisconsin 医科大学や
Baylor 医科大学病院、同じく WGS/WES で難治性のがんドライバー遺伝子変異の同定を
行っている Mayo Clinic や MD Anderson、薬物代謝酵素の多型性判定と電子カルテへの
DNA カルテの実装を行っている Vanderbilt 大学病院等、進んでいる米国においても、実
施されている内容のほとんどは生得的ゲノム情報を取得する第一世代のゲノム・オミック
ス医療である。
(3)医療ビッグデータを巡る状況
-
日常的センシング(mHealth, wearable sensing)
これからの医療では Life-long(course)healthcare という概念が重要になる。そのよ
うな概念に基づくと、医療は、これまでのような医療施設中心型から、患者中心の患者参
加型に移行していく。
患者参加型医療では、日常的に生理的情報のモニタリングが行われ、
健康状態に変化があった時点での先制医療が可能となると予想される(図 4)。
-6-
第一章 医療ビッグデータの医療及び創薬への活用
図4.近未来のライフコースと医療
(東京医科歯科大学/東北大学・田中博氏提供資料)
先制医療実現のためには、これまでのように表面的な変化を調べるだけでなく、オミッ
クス・バイオマーカー等で生体内の情報も調べていかなければならない。ただし、これま
でのように手術時に摘出した組織のみを調べていては、オミックス・バイオマーカーに着
目しても予後を予測することは難しい。経時的変化をとらえるためには、患者の臨床経過
を追って頻回の試料採取が可能な血液や体液等のリキッドバイオプシーによって測定でき
るバイオマーカーが必要である。現在では、技術の進歩により miRNA 等の様々なマーカ
ーを測定できるようなってきており、また、がんのサブタイプの診断マーカーとなる
miRNA の研究も進んでいる。
(4)プレシジョンメディスン(高精度医療)
米国のオバマ大統領の 2015 年の年頭教書で、今後はプレシジョンメディスンを推進し
ていくという発表があった。NIH のホームページ等によると、パーソナライズドメディス
ンとは個人個人に合った医療を考えることだが、プレシジョンメディスンは、患者を層別
化し、それぞれのパターンに対して適切な診断、治療、投薬ができるようにしていくもの
とされている(図 5)。プレシジョンメディスンの実現に向けて、米国では 100 万人コホー
トの組織化が計画され、200 億円を超える予算が割り当てられた。
-7-
第一章 医療ビッグデータの医療及び創薬への活用
図5.プレシジョンメディスンとパーソナライズドメディスンの違い
(東京医科歯科大学/東北大学・田中博氏提供資料)
(5)医療ビッグデータ・高精度医療が変革する医療・創薬のパラダイム転換
医療におけるビッグデータの活用は、集合的医療から個別化医療/高精度医療へのパラダ
イム変換をもたらす。患者の層別化においては、ゲノム・オミックスの情報だけでは不十
分であり、これに表現型の情報を組み合わせることが必要である。その上で、膨大なデー
タの中から多様なパターンをどれだけ見出せるかが重要となる。
また、医療ビッグデータの活用は、創薬のパラダイム変換ももたらす。従来は、臨床研
究を科学にするための無作為化比較対照試験(randomized controlled trial: RCT)が標準
的手法であった。しかし、RCT は通常の医療システムの範囲外で実施されていることから、
「RCT は本当に医療を反映しているのか」という意見も存在する。
米国では、EBM(Evidence-Based Medicine)/RCT に変わるパラダイムとして、
「学習
する医療システム」
(Learning Health System: LHS)が 2007 年に提案された。臨床研究
ではなく日常の医療活動から集められたデータが LHS を支える鍵であるとされ、このよ
うなデータの共有により、学習して医療システムを改善していくことを目指している(図
6)
。
-8-
第一章 医療ビッグデータの医療及び創薬への活用
図6.学習する医療システム
(東京医科歯科大学/東北大学・田中博氏提供資料)
3.創薬と医療ビッグデータ – データ駆動型創薬へ
(1)オミックス創薬
創薬においては、非臨床試験を終えて臨床試験を開始する段階で、ヒトにおける有効性
と安全性に関する予測が必要である。臨床予測性を向上させるための手法として最近注目
されているものに、疾患 iPS 細胞を使う方法と、ヒトの医療ビッグデータを使う方法があ
る。
医療ビッグデータを利用したオミックス創薬の一例として、薬剤特異的遺伝子発現シグ
ネチャアと疾患特異的遺伝子発現シグネチャアの相関を調べる方法がある(図 7)。両者が
負に相関すれば、その薬剤はその疾患に有効であると考えられる。このような方法で見出
されたドラッグリポジショニングの例として、
「炎症性大腸疾患にトピラマート」、
「骨格筋
萎縮にウルソール酸」等がある。逆に、両者が正に相関する場合には、その薬剤により副
作用・毒性が発現することが予想される。副作用・毒性の予測については、薬剤特異的遺
伝子発現シグネチャアの薬剤間の類似性を調べる方法もある。
薬剤特異的遺伝子発現シグネチャアに関する情報は、米国 Broad Institute が提供する
CMAP(Connectivity Map)から得ることができる。CMAP では、MCF7、PC5 等 5 種
の株化細胞に 1,309 化合物を作用させた際の 7,000 遺伝子の発現プロファイルが提供され
ており、創薬における様々な計算論的研究を生み出したデータベースであった。
一方、疾患特異的発現シグネチャアに関する情報は、米国 NCBI が提供する GEO
(Gene Expression Omnibus)から得ることができる。GEO では、2 万 5 千実験から得
られた 70 万件のプロファイルが提供されている。
-9-
第一章 医療ビッグデータの医療及び創薬への活用
図7.オミックス創薬の原理
(東京医科歯科大学/東北大学・田中博氏提供資料)
CMAP は薬剤による遺伝子発現プロファイルの種類が比較的少なく、それが実用性を減
じ て い た 。 最 近 、 CMAP と 同 じ 研 究 者 ら に よ る LINCS ( Library of Integrated
Network-based Cellular Signature)研究計画の成果として、新しく LINCS データベー
スが公開された(Nucleic Acids Research, 42W449-W460, 2014)
。LINCS は、化合物の
添加だけでなく、遺伝子のノックダウン、遺伝子の過剰発現等の様々な摂動に対するゲノ
ムワイドな遺伝子の発現変動を、ヒト由来細胞株で観測した結果を格納した大規模データ
ベースである。CMAP のように従来の DNA アレイ方法を使用せず、L1000(ビーズを使
用した発現計測)技術を用いて、1,000 個の遺伝子の発現の観測から、相関性に基づいて
全遺伝子(2 万 2 千)の遺伝子発現を推定する。56 の細胞(ヒト初代培養細胞、がん培養
細胞)に対して、16,425 種類の化合物の添加や、5,806 種類の遺伝子ノックアウトと過剰
発現の摂動を加えた時の、合計約 100 万種類の遺伝子発現プロファイルの変動が利用でき
る。
(2)ドラッグリポジショニングにおける医療ビッグデータの利用
ヒトでの安全性と体内動態が十分に判っている既承認薬や開発が中断された化合物の、
標的分子や作用パスウェイ等を体系的・論理的・網羅的に解析することにより新しい薬理
効果を発見し、その薬を別の疾患治療薬として開発する創薬戦略をドラッグリポジショニ
ング(DR)と呼ぶ。DR においては情報が豊富な化合物を利用するため、予想外の副作用
や体内動態の問題による開発中止のリスクが低く、また、既にあるデータや技術(動物で
の安全性データや製剤の GMP 製造技術等)を再利用することで、開発にかかる時間とコ
ストを大幅に削減できる。医療ビッグデータを利用した DR の手法としては、医薬品の類
- 10 -
第一章 医療ビッグデータの医療及び創薬への活用
似性に着目する方法、疾患の類似性に着目する方法、及び両者を融合させた方法がある1)
(図 8)
。なお、疾患の類似性とは表現型の類似性ではなく、疾患メカニズムの類似性とい
う意味である。
疾患メカニズムの類似性評価においても、ゲノム・オミックス医療と同様の世代区分が
存在する。すなわち、第一世代は生得的な遺伝子の変異・多型、第二世代は後天的なオミ
ックスプロファイル、第三世代は細胞分子ネットワークの歪み、構造変化に着目した評価
手法である。
第一世代の例としては、Goh、Barabasi らによる疾患関連遺伝子による Diseasome が
ある。Goh らは NCBI の疾患関連遺伝子データベース OMIM から 1,284 疾患と 1,777 疾
患遺伝子を抽出し、疾患の集合と疾患関連遺伝子の集合を結び付けるネットワークを構築
した。
第二世代の例としては、Butte の GENOMED がある。Butte は、NGBI の遺伝子発現
プロファイルデータベースである GEO から約 20 万疾患の遺伝子発現プロファイルを抽出
し、これを疾患ごとに平均化して、疾患に特徴的な遺伝子発現プロファイルを決定した。
GENOMED は、疾患時の遺伝子発現プロファイルを根拠とした疾患分類である。この分
類では、
「心筋梗塞とデュシェンヌ型ジストロフィー」や「糖尿病性腎症と脊髄損傷」が近
い疾患であった。
GENOMED と同様に、遺伝子発現から疾患ネットワークを作成し、かつ、薬剤ネット
ワークを融合させた例として、Hu らの研究がある。Hu らは 645 の疾患を解析して、
5,008 の疾患-薬剤リンクと 164,374 の薬剤-薬剤リンクから成るネットワークを構築し
た。その結果、
「双極障害と遺伝性痙性麻痺」や「クローン病とマラリア」が近い疾患であ
るとされ、実際にクローン病に対する抗マラリア薬の有効性が確認されている。
図8.合理的ドラッグリポジショニング(DR)へのアプローチ
(東京医科歯科大学/東北大学・田中博氏提供資料)
- 11 -
第一章 医療ビッグデータの医療及び創薬への活用
4.執筆担当者所感
ゲノム・オミックス医療の臨床実装という点において、米国は我が国よりも先を進んで
いるが、その米国においても、実施されている内容のほとんどは生得的ゲノム情報を取得
する第一世代のゲノム・オミックス医療である。また、バイオバンクやゲノムコホートと
いった点では、我が国もさほど遅れているわけではない。今後の取組み方次第では、我が
国もゲノム・オミックス医療最先端国の一つとなることが可能だと思われる。そのために
は、米国と同様に国の主導により、オールジャパン体制で効率的にデータを蓄積し、解析
して利用するシステムの構築を推進することが必要である。厚生労働省は 2016 年度の概
算要求で、新規項目として「ゲノム医療の実用化に向けた取組の推進」に 44 億円を計上
した。日本も国の主導によりゲノム医療の実用化に向けて第一歩を踏み出すこととなり、
今後の進展が期待される。
また、厚生労働省が 2015 年 9 月に発表した「医薬品産業強化総合戦略~グローバル展
開を見据えた創薬~」2)の中では、新薬メーカーに対して、「グローバルに展開できる革
新的新薬創出」が求められ、また、DR を促進するための施策を実施することが記載され
ている。臨床予測性向上が期待される医療ビッグデータの利用は、革新的新薬創出の一助
となり、また、効率的に DR を推進するための有力な手段となることが期待される。医薬
品産業強化を達成するためにも、国を挙げての医療ビッグデータ利用体制整備が必要であ
ると考える。
【参考文献】
1)
田 中 博 . ド ラ ッ グ ・ リ ポ ジ シ ョ ニ ン グ と 疾 患 ネ ッ ト ワ ー ク . 実 験 医 学 , 33(9):
1476-1481, 2015.
2)
厚生労働省. 医薬品産業強化総合戦略~グローバル展開を見据えた創薬~. (2015 年
9 月 4 日)
http://www.mhlw.go.jp/file/06-Seisakujouhou-10800000-Iseikyoku/0000096430.pdf
3)
田中博. 網羅的分子情報のビッグデータと医学・創薬へのインパクト. 実験医学増刊
「ビッグデータ―変革する生命科学・医療」, 34(5): 709-716, 2016
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第一章 医療ビッグデータの医療及び創薬への活用
(2) データ主導型イノベーションによる保健と医療のパラダイム転換
ヒアリング先:
株式会社ソニーコンピュータサイエンス研究所(Sony CSL)
桜田
一洋
シニアリサーチャー
要約
同じ病名で診断された患者も、その原因や発症までの経緯は一人ひとり異なる。現在の
医療はこのような多様な患者を病気という平均の概念に基づいてデザインされた治療を行
っている。現在の医療にはもう一つの特徴がある。それは病気が発症してから治療が開始
されることだ。しかし慢性疾患では健康と病気の境界が明確ではなく、病気が進行すると
根治することは困難になる。世界の死亡原因の 60%以上が慢性疾患を原因としているのに
は「平均的な患者に基づく治療のデザイン」と「事が起こってから問題解決を実施すると
いう戦略」が背景にある。この問題を解決するには、予測と予防の医療を実現する必要が
ある。慢性疾患では遺伝的素因は発見されておらず、予測と予防の医療を実現するにはバ
イオマーカーや環境変数を経時的に計測して推論を行う必要がある。近年の技術革新の中、
予測・推論の技術と計測・解析技術が組み合わさることで、医療ビッグデータに基づく、
従来とは違った医療ソリューションが提供されようとしている。ビッグデータ時代の医療
とは仮説主導型研究からデータ主導型研究への転換によって生じる。個別のデータから個
別の予測を行い、事が起こる前に問題を解決していくことで現在の医療のパラダイムが転
換されていくことが考えられる。
1.Precision Medicine Initiative と保健と医療のパラダイム転換
オバマ大統領による 2015 年新年の一般教書演説で Precision Medicine Initiative とい
う戦略が提唱された。オバマ大統領は「従来型医療は“平均的な患者”のためにデザイン
されてきた one-size-fits-all 型の医療であった。これに対して Precision Medicine では、
遺伝子、環境、ライフスタイルに関する個人の違いを考慮した予防や治療法を確立する。」
と述べている。また Precision Medicine を実現するために 100 万人規模のゲノムコホート
を実施するという計画が打ち出された。現時点ではその具体的な詳細は明らかになってい
ないが、国内でこのような大規模なコホートを実施するのは困難であり、日本の健康問題
を解決するにはこれとは別の方法が必要となる。
個別レベルでの予測と予防の医療を実現するには基礎生物学と臨床科学の統合が不可
欠である。基礎生物学では、研究の増大に伴い知識量は劇的に増加してきた。しかし、多
くの研究が領域ごとに細分化しており、俯瞰的な視点での知識は十分に蓄積していない。
一方、臨床の側も多くのデータが蓄積されてきたが、慢性疾患の治療や予防に目処が立っ
ているとは言えない。これは単にデータを増やしただけでは問題は解決できないことを意
味している(図 1)
。
- 13 -
第一章 医療ビッグデータの医療及び創薬への活用
図1.基礎生物学と臨床の課題
(Sony CSL・桜田一洋氏提供資料)
基礎生物学は仮説空間の中での説明である。仮説空間とは仮説の集合であり、仮説に当
てはまらないデータや新しい仮説は捨象される傾向にある。また、先行する仮説に合わせ
て実験結果を論文として発表する必要があることからねつ造を生む原因と考えられる。例
えば、米国 Amgen の社内調査では、がんの主要な論文 53 報のうち結論が再現できたのは
わずか 6 報にすぎないという衝撃の結果が報告されている。再現性が否定された論文の中
には、800 回あるいは 1,900 回も引用されている論文もあった
1)
。これは、基礎科学のシ
ステムに対する信頼性を大きく損なっている。仮説主導型のアプローチには認知バイアス
というもう一つの課題がある。生物学において、因果関係を明らかにするためには対照群
を設定する。対照研究とは他の条件をすべてそろえて興味のある変数の役割だけを調べる
ことである。したがって、研究者が興味を持たない変数はたとえ現象に深く関与していて
も解析対象とはならない。
臨床試験、臨床研究とは、仮説空間という限定された空間の中でのデータ主導型の解析
である。これは臨床で計測される変数が仮説に依存して選択されるからである。データは
有害事象や有効性を発見することが目的であり、疾患の理解を深める方向で使われること
は余りない。これに対して本格的なデータ主導型の研究とは、データ空間の中で現象を説
明しようとすることである。しかし、身体状態の変数(バイオマーカー)、環境変数、ゲノ
ム情報をただ集めてもそこから有用な情報を得ることはできない。ビッグデータ解析とは
変数間の相関を発見する手法であり、生命現象の場合、余りにも多数の相関が発見されそ
こから臨床上有用な意味づけを行うことができない。したがってデータ主導型の解析を成
功させるにはデータをどのように構造化するかを考える必要がある。データの構造化は対
照(生命現象)をどのように認識するかと深く関係する。不適切な認識に基づきデータを
構造化しても正しい推論を行うことはできない(図 2)。
- 14 -
第一章 医療ビッグデータの医療及び創薬への活用
図2.基礎生物学と臨床の統合
(Sony CSL・桜田一洋氏提供資料)
生命現象をはじめとする複雑系は、機械論(メカニズム)に基づく因果モデルでは現象
を正しく表現できないことが明らかになっている。複雑系の現象を表現するにはコンピュ
ータ・シミュレーションを用いた構成論的な手法が不可欠である。しかし、シミュレーシ
ョンを実施するには生命は余りにも複雑であり、変数をすべて高い精度で計測することが
できない。また、たとえ計測に関する技術的課題が克服されたとしても、一人ひとりの身
体状態の変化をシミュレーションによって推論するのは余りにもコストがかかり、実用性
に限界がある。メカニズムの特性は、実体が普遍的な機能を持った構成要素に分解して理
解できると考えることだ。遺伝学や分子生物学はこれを前提として組み立てられている。
しかし、複雑系である生物の構成要素の機能はシステム全体の状態によって変化するので、
普遍的な機能というものを措定することはできない。メカニズムという認識論の限界は、
生物実体の様々な階層に状態を定義し、生物の変化を状態変化として記述することで克服
できる。具体的には、身体の表現型と関連する変数を多次元のベクトルとして表現し、状
態変化を状態空間モデルによって表すことである。この方法によって状態変化の相同性(図
3 のX、Y、Z)から推論を行うことが可能となる。このように、データ主導型解析の鍵
を握るのは状態の概念である。
- 15 -
第一章 医療ビッグデータの医療及び創薬への活用
図3.状態の概念の導入
(Sony CSL・桜田一洋氏提供資料)
データ主導型の解析は、従来の仮説主導型の解析では発見されなかった生命や疾患の本
質に迫る重要な方法である。しかし、そのことは仮説主導型の研究が不要であることを意
味しない。データ主導型解析は帰納的推論であり、過去に生じたのと似た現在の現象の推
論には威力を発揮するが、初めての現象の予測を行うことができない。また、データ主導
型解析が可能なのは層別化と相関関係の発見であり、因果を見つけることはできない。相
関解析の場合、交絡バイアスのように誤った形式で現象を解釈する危険性がある。したが
って、仮説主導型の知識とデータ主導型の推論を組み合わせることで因果モデルを実世界
の問題へと橋渡しすることが必要となる(図 2)。
2.情報幾何学に基づく新たな推論の開発
複雑系とは、構成要素の局所の相互作用の変化がシステム全体の性質に影響を与え、シ
ステム全体の変化が構成要素間の相互作用の前提条件を変化させるという階層間の相互作
用からなるシステムである。生物は DNA、染色体、細胞、組織、臓器、身体という階層
構造がある。複雑系では、下位の階層の変化が直接上位の階層と因果関係を持つダイレク
トインパクトという関係は存在するものの、多くの場合、下位の階層での変化は上位の階
層では消失したり、増幅したり、創発を生じたりする。したがって、DNA 情報から疾患
形質をメカニズムによって説明することは多くの場合できない。これが「見つからない遺
伝素因(missing heritability)」の原因である。したがって、表現型を計測と推論の中心
に置くことでゲノムをベースとした推論の課題を克服することができる。
生物学では生物の各階層の性質は表現型(Phenotype)によって説明されてきた。細胞
の表現型、組織や臓器の表現型、身体の表現型、疾患の表現型等である。表現型の多くは
レキシコン(語彙目録)によって表される場合が多い。推論のためにはこれをバイオマー
カーによる定量的な表現に変換する必要がある(図 4)。
- 16 -
第一章 医療ビッグデータの医療及び創薬への活用
図4.バイオマーカーを用いた階層連結並びにヒトデータと実験動物データとの連結
(Sony CSL・桜田一洋氏提供資料)
人と動物とでは計測できる変数に大きな違いがある。動物モデルは原理的にどのような
変数でも計測可能である。しかし人の場合、一般的に計測可能なのは血中のサイトカイン、
増殖因子、ホルモン、代謝物、自律神経刺激、体内時計等の細胞間情報伝達、環境要因並
びにゲノム情報である。バイオマーカーとは、この中で細胞間情報伝達を意味する。
計測したバイオマーカーは、数値記述子に変化し多次元のベクトルとして表現する。同
様に環境情報も数値記述子に変換する。このような数値記述子を用いた身体状態の記述例
を図5に示した。同様な方法を用いて、細胞の状態、染色体の状態を表現することができ
る。このようなアプローチを情報幾何学と称する。
図5.センサーで取得したデータの構造化
(Sony CSL・桜田一洋氏提供資料)
- 17 -
第一章 医療ビッグデータの医療及び創薬への活用
具体的な推論法を簡単に述べる。まず、患者の状態変化の経時データを多数集め、機械
学習によって相同性を発見し患者を層別化する。この層別化された患者を今度は別のアル
ゴリズムを用いて分析し、疾患の症状の原因と関連する変数を発見する。この方法によっ
て、先行事例のある疾患現象の場合は予測と予防の医療が可能となる。また、治療効果の
ない患者や重篤な副作用の出る可能性のある患者を発見することも可能となる。したがっ
て、情報幾何学を用いたデータの層別化によって新しい創薬ターゲットの探索の機会が生
み出される。
このような創薬ターゲットの探索の場合、人のデータと動物モデルの連結が必要となる。
この連結は、各階層並びに人と動物間の状態の相関によって連結する(図 4)。この方法に
よって、動物を用いて行われた仮説主導型の因果モデルを人のデータ解釈に応用すること
が可能となる。
3.ライフコースソリューション
データ主導型の保健と医療のイノベーションを実現するには、社会の仕組みそのものも
変換していかなければならない。それは、データ主導型のイノベーションであるのにその
データが存在しないからだ。膨大な医療データが蓄積してきたが、それは病気が発症して
からのデータであり、仮説に基づく変数の選択である。今後、疾患の発症前から発症後に
至る経緯を記録していくことが必要となる。しかし、現状では大きな国家予算を使ってデ
ータを取得することはできない。実世界の市場の中で、データ提供、データ分析、分析結
果のサービスへの反映のサイクルを回していく必要がある(図 6)。その具体的な戦略とし
て、
「妊婦、乳幼児、子供の健康サービス」と「働く世代の健康」というサービスの中でソ
リューションサービスのサイクルを回していく方法を Appendix の中で紹介した(これ以
外、実験医学増刊 33 (7): 1182-1189, 20152)を参照)。
図6.ライフコースソリューションの社会実装
(Sony CSL・桜田一洋氏提供資料)
- 18 -
第一章 医療ビッグデータの医療及び創薬への活用
しかし、バイオマーカーを中心とした予測と予防の医療はこのような保健サービスから
生み出すのは簡単ではない。臨床の研究者、基礎の研究者、情報の研究者が集うハブを形
成し実際の患者のデータを用いて疾患の多様性に関する研究を行う必要がある。これはコ
ホート研究のような大規模な研究ではないが、臨床現場の problem oriented(問題志向)
に基づき情報幾何学の手法を実施し、問題解決の中でコンセプトを実証していくことであ
る。このような learn on the fly 方式によってコホート研究とは異なるレベルで疾患の理
解を深めていけるだろう。
【Appendix】
(1)発生・発達の問題解決による小児に対する先制医療
これまでの医療は、病気の症状が出た時に、その症状に対する対処をしてきたので、時
間の関係性は余り考えられてこなかった。先制医療の場合、データの種類が増え、更に長
い時間の中で医療を見ていかなければならなくなる。そこで重要になってくるのがライフ
コースソリューションの考え方である。例えば、妊娠してから 2 歳の誕生日を迎えるまで
の 1,000 日間
(生涯を通じた疾患を考える上でのクリティカルピリオドであるとされる)、
この時期をコントロールし、思春期、成人期、老年期、それぞれに対して将来の疾患制御
のためにどういった先制医療を行うのかといったことが重要になってくる。
少子化の中で、子供を支援していくということは、その子供たちが大人になる将来の日
本の未来を支えることである。しかし、現在、発達障害や喘息が右肩上がりで増えるとい
う深刻な状況となっている(図 7)。どちらの疾患も 3 歳までに発症することから妊娠から
2 歳の誕生日までの環境要因が 2 つの疾患の原因となっている可能性がある。
図7.発達障害・喘息の増加
(Sony CSL・桜田一洋氏提供資料)
このような環境要因として考えられるのが、①妊婦のカロリー、栄養不足、②妊婦のス
トレス、③内分泌かく乱物質の影響、である。いずれも現時点で明確な因果関係が実証さ
れているわけではない。葉酸や多価不飽和脂肪酸の不足は神経の発生・発達に影響するこ
とがモデル動物で実証されている。妊婦が過剰なストレスにさらされると、子供の脳機能
- 19 -
第一章 医療ビッグデータの医療及び創薬への活用
が影響を受け、不安神経症、多動性障害(注意散漫、衝動性)、行為傷害(約束を守れない、
攻撃性)が増加し、認知機能や視床下部下垂体副腎経路の機能が低下することが多数の疫
学的研究から報告されている。妊婦のストレスは子供の免疫系にも影響を与え、アレルギ
ーを起こしやすくすることも報告されている。このことは妊婦の生活をサポートするケア
の開発が健康な未来を創る上で極めて重要であることを示している。
一方で、発達障害や喘息発症のリスクを持って生まれた子供に対する対策も必要である。
認知機能や視床下部下垂体副腎経路の機能低下の結果、リズム障害を持って生まれてきた
子供は出生後の不規則な生活の中から睡眠障害を発症する。睡眠障害は脳の発達を阻害す
るので、結果として発達障害が生じる場合がある。この場合、乳幼児の睡眠パターンを計
測し、問題があれば早期に介入する仕組みを作ることで、発達障害の発症の一部を抑制で
きる可能性がある(文部科学省 COI・神戸拠点の成果より)。
(2)成人期疾患に対する先制医療としての慢性炎症制御
慢性疾患の共通因子として慢性炎症の問題がある。前項でも述べたように、一つには母
親の胎内の状態から慢性炎症が起きやすい状況が形成される場合がある。出生後も、両親
が離婚する等で、ストレスホルモンの脆弱性が現れると、思春期に慢性炎症を起こしやす
くなる。また、肥満も内臓脂肪の炎症状態であり、この慢性炎症がインスリン抵抗性やイ
ンスリン分泌不全を起こす。さらに、炎症によって破壊と再生を繰り返すことは最終的に
はがん化につながる。これだけ炎症が重要なのに、現状では治療薬として COX-2 インヒ
ビター等しかなく、ストレスに伴う慢性炎症の薬がない。
人はストレスを感じると、自律神経と副腎の経路の両方が活性化する。その時、交感神
経は炎症に対してアクセルの働きを、副腎から出たグルココルチコイドは炎症に対してブ
レーキの働きをする。しかし、ストレスが続くとストレスホルモンの影響でエピジェネテ
ィカルモディフィケーションが起こり、グルココルチコイドによる抑制が効かなくなる。
すると免疫系はアクセル(自律神経の活性化)だけの状態になり、ちょっとした刺激で自
然免疫が活性化する状況になる、これが慢性炎症仮説である(図 8)
。
図8.社会的ストレスから慢性炎症へ
(Sony CSL・桜田一洋氏提供資料)
- 20 -
第一章 医療ビッグデータの医療及び創薬への活用
この慢性炎症を早期に発見し炎症の進行を抑制することが、慢性疾患に対する先制医療
の鍵となる。炎症の早期発見には、自律神経の状態を心拍変動によってモニターする方法
と、末梢血中の炎症関連サイトカインを計測する方法とがある。
慢性炎症を抑制する薬剤としては、ニコチンアミドモノヌクレオシド、チオレドキシン、
先端医療センター研究所で開発されているワサビの中にある成分(6-MSITC)等がある。
間葉系幹細胞の抗炎症作用も強力であり、難治性の炎症には有効だと考えられる。
4.執筆担当者所感
ビッグデータ時代のこれからの医療の考え方について、従来の考え方の中でも標的とさ
れている炎症が例であったために、データ主導型と仮説主導型の区別がどこにあるのかに
ついて最初は難解な部分もあったが、時系列でデータを取得し、スナップショットではな
くライフコースとして見て、そのパターンをコントロールしていくことが重要であるとい
うことがよくわかった。
多様なデータが取れるようになり、医療が変わっていく中で、ビッグデータがあっても
因果を説くことは非常に難しいため、いきなり画期的なソリューションが出てくるわけで
はないが、まず、状態によって病気の早期診断ができるようになる時代、その後に因果に
関係するものや関係しないものが介入として試される時代、それから介入できるものが提
供される時代がやってくる、ということでそれぞれの時代に合わせた対応が必要になって
くると考えられた。
さらに、診断や行動変容がビジネスになりやすく、どこに薬の出番があるかという疑問
に対しても、
「薬は自分で選択して介入できるので、自分の意識で選択することが重要であ
る。行動変容が人を幸せにするとは思えず、例えば、妊婦が完璧な生活を送れないとして
も、薬による介入でケアができることでリラックスをしてその時間を過ごせることが肝要
である。」、と言っていただいたのは、印象深かった。行動変容による予防医療の最大の欠
点は、行動を守ろうとするとそれが精神的なストレスになることであり、薬として早期に
介入するソリューションを発見することが今後のポイントになるように感じた。
データの重要性が実感できた一方で、日本人の健康に関するデータが Google をはじめ
とした海外企業に流出する懸念についても触れておられたが、日本としてデータを保護・
活用できるようにし、日本人の健康医療ビッグデータを使って、日本人の健康ソリューシ
ョンを提供できるような社会に向けて、より一層日本の産官学連携が進むことを期待した
い。
【参考文献】
1)
Begley CG. et al. Drug development: Raise standards for preclinical cancer
research. Nature, 483: 531-533, 2012.
2)
桜田一洋.
データ主導型研究による先制医療の実現. 実験医学増刊 「先制医療 実現
のための医学研究」33 (7): 1182-1189, 2015.
- 21 -
第一章 医療ビッグデータの医療及び創薬への活用
(3) 医療ビッグデータからの創薬、予防医療、並びに
京大病院 Biobank & Informatics for Cancer プロジェクトの概要
ヒアリング先:
京都大学大学院医学研究科
臨床システム腫瘍学
奥野
恭史
教授
要約
京都大学では治療や創薬への応用を目指して、大量の臨床情報を統合データベースとし
て整備し、スーパーコンピュータや人工知能などの技術を組み合わせて、医療ビッグデー
タの解析を行っている。京都大学医学部付属病院(京大病院)では「Biobank & Informatics
for Cancer Project」を立ち上げ、各種臨床情報とサンプルの両方の収集を開始した。また
並行して、過去に化学療法で治療したがん患者の医療データを利用して、具体的に設定し
た課題(余命の予測や抗がん剤投与時の骨髄抑制の発現予測等)の予測モデル作成に取り
組んでいる。さらに、臨床データ(将来的にはゲノム情報も含めて)からの病態分類及び
細胞・実験動物への薬剤添加/投与時の各種データと臨床データとのブリッジングやシミ
ュレーションによる将来予測を行う計画が進められている。
1.はじめに
最近、医療ビッグデータが世界的に注目されている。データ量が非常に多いため、人間
の頭で理解するには限界が来ていることは自明である。そこで、スーパーコンピュータや
人工知能の技術開発を行いながら、それらの技術を利用して、医療や創薬への応用を目指
している京都大学の奥野教授に今後の医療ビッグデータの創薬への活用についての展望、
並びに、京都大学病院 Biobank & Informatics for Cancer Project(以下、京大病院 BIC
プロジェクト)の現況について話を伺った。
2.臨床での副作用の予測
奥野らは、過去(2002 年~2012 年)に厚労省・トキシコゲノムプロジェクト(TGP)
を進めた際に、ヒトでの副作用を予測するためには各薬剤の臨床での副作用情報を利用す
ることが必須であったが、それらの情報を入手することは困難であった。そこで、臨床情
報を入手する手段として、米国 FDA が 1969 年から構築している有害事象自発報告システ
ム(Adverse Event Reporting System:AERS)に注目した。本システムは患者自身が報
告でき、現場の生の情報が収集されているという点で優れている。しかし、データの精度
が低く、また、検索できない状態で保存されていたので、京都大学では、1997 年から 2012
年までの約 450 万件のデータについて、医薬品名の統一や重複データ除去といったクリー
ニングと日本語への翻訳を行い、医療現場での利用を可能にした(図 1)。
- 22 -
第一章 医療ビッグデータの医療及び創薬への活用
図1.臨床副作用情報のデータベース化
(京都大学・奥野恭史氏提供資料)
TGP においてラットで肝毒性あるいは腎毒性の試験を実施した 170 種類の薬剤の中で、
AERS にも副作用情報が掲載されていた 56 種類について、ラットの毒性所見とヒトでの
副作用がクラスタ解析にて比較された(図 2)。図 2 の赤の箇所は薬剤と有害事象との関連
が統計的に有意であることを示している。その結果、1つ有害事象のパターンはヒトとラ
ットで隣り合わず、ヒト又はラット同志で一群を形成した。つまり、ラットの解剖所見は
ヒトの有害事象に外挿できず、毒性の種差を顕著に反映している結果であった。このこと
から、ヒトの副作用をラットで予測することは困難であると考え、ヒト培養細胞を用いた
試験が実施された。
図2.ヒト副作用情報とラット毒性所見の比較
(京都大学・奥野恭史氏提供資料)
- 23 -
第一章 医療ビッグデータの医療及び創薬への活用
ヒト培養細胞の遺伝子発現データを TGP ですべて取得するのは費用面から困難であっ
たため、1,310 種類の化合物をヒト培養細胞に投与して遺伝子発現プロファイルを取得し
た Broad Institute の CMAP プロジェクトの公開データが利用された。1,310 種類の化合
物のうち、AERS で副作用情報が掲載されていた 433 種類の薬剤のデータで解析が進めら
れた。図 3 は、これらの薬剤の中で、AERS から、臨床で肝毒性あるいは間質性肺炎が統
計的に有意に関連している薬剤が赤色の点で示されている(青色の点はそれぞれの有害事
象との統計的関連性が低い薬剤投与細胞を示す)。次に、433 種類の薬剤投与時におけるヒ
トの培養細胞での遺伝子発現プロファイルを部分最小二乗法(PLS)判別分析により分類
した。その結果、有害事象の有無である程度 2 群に分類され、各毒性予測に特徴的な発現
パターンを示す遺伝子群が抽出された(図 3)。
図3.ヒト培養細胞の遺伝子発現データからの臨床副作用の予測
(京都大学・奥野恭史氏提供資料)
このデータが偶然得られたものでは無いことを確認するために、薬剤を添加した細胞の
遺伝子発現プロファイルの代わりに、薬剤の化学構造情報での分類が試みられた。AERS
で副作用情報が掲載されていた 969 種類の薬剤を用いて、肝毒性あるいは間質性肺炎を有
意に発現する薬剤が赤色で示されている。その結果、図 4 に示すとおり、化学構造ではヒ
トの有害事象を分類できなかった。このことから、臨床での有害事象を化学構造情報から
は予測することは困難であるが、細胞の遺伝子発現データからは予測可能と考えられた。
- 24 -
第一章 医療ビッグデータの医療及び創薬への活用
図4.化学構造情報からの臨床副作用の予測
(京都大学・奥野恭史氏提供資料)
3.臨床情報の整備
医療ビッグデータに関して、最近では論文で「リアルワールドデータ」という言葉が使
われている。これは、実世界を反映したデータという意味である。また、コホートとはビ
ッグデータ収集のための一つの手段であるが、集団から解析したデータや知見を得るだけ
では十分ではなく、それらを如何に個人にフィードバックするかが重要である。つまり、
ビッグデータの従来型の統計処理だけでは意味がなく、集団統計から個人のモデリングを
実現し、個別化医療をどのように進めるべきかを考える必要がある。
このような状況の中で、一昨年より、京大病院がんセンターで Biobank & Informatics
for Cancer (BIC)Project が立ち上げられた(図 5)。開始してまだ 1 年で、現状はがん
患者の試料を収集している段階である。他のバイオバンクと同様に、試料に加え臨床情報
が収集されている。がん組織(手術摘除やバイオプシ―による採取)のゲノム解析は今後
開始される予定である。収集されている試料は、全血(800μL)、血漿(300μL)、全血
DNA、血漿 DNA、手術摘除組織(がん部及び非がん部)
。治療前(手術、化学療法及び放
射線療法)及び治療後 1、3、5、12 か月に経時的に収集されている。化学療法を受けた患
者については、有害事象が起こった時点の試料が採取されている。2015 年 1 月の時点で、
合計で 13,255 本の試料が集積されている。
2015 年 4 月からは、原発不明がん、希少がん、標準治療不応の再発進行がんの臨床ゲ
ノム測定が開始された。実際の解析は、三井情報(株)を介して米国の CLIA 準拠ラボに
委託している。この解析については、京都大学では自由診療扱いとしており、患者が解析
費用を自ら負担している。三井情報は、同じ形式で岡山大学、北海道大学及び千葉大学に
も同臨床ゲノム測定を拡大しようとしている。現状、ゲノム解析の費用は高額であり、す
べてのバイオバンク登録者を研究予算ではまかない切れないが、解析コストは年々減少し
ていくことは確実である。京大病院 BIC プロジェクトではコストの低下を待ちつつ、試
料の収集を急いでいる。
- 25 -
第一章 医療ビッグデータの医療及び創薬への活用
図5.京大病院 Biobank & Infomatics for Cancer Project
(京都大学・奥野恭史氏提供資料)
京大病院がんセンターのデータ整備について図 6 に示した。基本的なデータとしては電
子カルテがある。そこには検査値等のラボデータ等様々なデータが含まれているが、一番
の問題は治療の結果を追跡できていない点にある。
当がんセンターでは、電子カルテとは別に有害事象や転帰といった治療結果の情報を医
療従事者が登録するためのデータベースを別に作成している。さらに、有害事象に関して
は、AERS に倣い、患者自らがタブレット入力できるようになっている。また、がん領域
では、日本で全国的にがん登録の標準化が進められているので、そのがん登録情報も併せ
て集積してデータベース化している。さらに、データを経時的に追跡できることが重要で
ある。
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第一章 医療ビッグデータの医療及び創薬への活用
図6.京大病院がんセンターの統合医療データベース
(京都大学・奥野恭史氏提供資料)
4.実臨床データを用いた医療ビックデータ解析と医療シミュレーション
2014 年の 4 月から、京大病院のがん患者の医療データを用いたがん治療における予測
問題が取り組まれている。解析対象は、京大病院がんセンターで化学療法を受けるがん患
者のうち、図 6 のデータベースに登録されている約 5,300 名である。そのうち、死亡者数
は約 2,800 名、最長生存日数は約 5,900 日で、平均生存日数は約 800 日である。
はじめに、従来型の臨床統計で非常に広く用いられている生存時間解析による予後解析
を行った。好中球数とリンパ球数の比率(Neutrophil-to-Lymphocyte Ratio: NLR)が
高値を示す患者は、炎症反応が進み、予後が悪いという先行研究の報告があることから、
京大病院のデータで検証が行われた。まず、初診時の NLR 値が 4 以上と 4 未満の 2 群に
分けて生存時間曲線を描いた(図 7)。その結果、NLR≧4 の群では予後が悪いという既報
と同じ結果が得られた。一方、同一患者の NLR 値は時間経過とともに大きく変化してい
ることから、初診時の NLR 値だけを用いた解析に意味があるのかは明確ではなかった。
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第一章 医療ビッグデータの医療及び創薬への活用
図7.京大病院の臨床データを用いた医療ビッグデータ解析
-従来型の医療統計による時系列データ解析(京都大学・奥野恭史氏提供資料)
次に、死亡した患者 2,863 名のみを抽出し、死亡日を起点に NLR 値を逆向きに並べ替
えてプロットした。その結果、やはり同一患者では、経時変化と共に NLR 値が高値を示
したり、低値を示したりしていたが、死亡直前、死亡日の 220 日頃前から、NLR 値が上
昇し、高値を示すことが明らかとなった。この結果から、NLR 値は予後の予測因子よりも
むしろ余命関連因子ではないかと考えられた(図 8)。ただし、NLR が高値であっても長
期間生存するケースもある。集団からの統計値では、各個人へフィードバックできない。
本当に知りたいことは、各個人の寿命であって、集団全体の平均寿命は参考にすぎない。
図8.京大病院の臨床データを用いた医療ビッグデータ解析
-ヒットマップによる時系列データ解析(京都大学・奥野恭史氏提供資料)
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第一章 医療ビッグデータの医療及び創薬への活用
さらに、既に取得していた 40 種類の臨床検査値データも利用して、最も予測精度が高
く、個人にフィードバックできるようなモデルの構築が行われた。その結果、最終的に選
択された指標は、アルブミン、NLR、乳酸デヒドロゲナーゼの 3 種類の組み合わせであっ
た。これら 3 種類の指標を組み合わせた予測モデルでは、年単位の予測は困難であるが、
予測正答率(AUC)が余命 1 か月で 90%、余命 3 か月で 85%であった(図 9)。従来の余
命予測のプログラムに加えて、客観的な指標として医療への実用化が進められている。
図9.ロジスティック回帰モデルによる個人の余命予測
(京都大学・奥野恭史氏提供資料)
この解析のように、1 時点だけのデータを用いた予測だけでなく、時系列のデータを使
った予測モデルが現在作成されている。余命予測は、終末期医療の開始の判断、無駄な治
療の回避及び医療費の削減においては重要である。一方で、患者への説明をどう行うか等
の医療倫理上の問題も惹起しかねない。
次に、抗がん剤の副作用である骨髄抑制の発現の有無という短期的な予測が問題として
設定された。抗がん剤を投与すると、骨髄機能の低下に伴い、単球数や好中球数が低下し、
重篤な場合、感染症により死に至る。医療現場では、非常に慎重な経過観察、管理がなさ
れており、必要に応じて、造血因子を投与し、骨髄機能を維持、改善させる。このような
状況から、抗がん剤投与時の血球の変動を早期予測できれば、より安全に化学療法を実施
できるという点で重要である。そこで、がん患者で日常的に測定されている 24 種類の検
査値の時系列データを用いて、ベクトル自己相関モデルによるシミュレーションが行われ
た。一例として、図 10 において、検査値 C の未来 t を予測するために、過去の t-1 から
t-4 の全データから t の回帰モデルを作成するということが行われた。
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第一章 医療ビッグデータの医療及び創薬への活用
図10.個人の時系列データ解析
(京都大学・奥野恭史氏提供資料)
その結果、好中球数の変動に関しては、個々の患者において、変動の絶対値には差があ
るものの、変動パターンは予測可能であった。重要な点は、各患者の変動の振る舞いが異
なっているにもかかわらず、1 つのモデルで、多数の患者の変動をある程度予測可能であ
ることである。つまり、薬剤を投与して体内で起こっている現象は、何らかの法則性を持
っており、得られたデータを基に予測式を立てることで、その法則性を捉えることが可能
であったと言える。一方、1 つのモデルでは、誤差の大きな患者も存在した。これらの患
者には異なるモデルを作成する必要がある(図 11)
。今後、各患者のゲノム情報が得られ
れば、このモデルにフィットする患者集団と遺伝的背景との関連性を検証し、遺伝的背景
の違いで変動パターンを区別して、各々の予測モデルを作成することが可能であるかもし
れない。
図11.好中球数変動のシミュレーション
(京都大学・奥野恭史氏提供資料)
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第一章 医療ビッグデータの医療及び創薬への活用
5.個別化薬剤治療のための分子シミュレーション
米国では、今年の 1 月にオバマ大統領よりゲノム規模の遺伝子型に基づく個々の体質に
最適な医療を推進するという声明(Precision Medicine Initiative)が出された。いずれの
疾患領域にも、現在の標準治療で効果が認められない患者層が存在することから、ゲノム
情報を用いて効果のある患者のみにその薬剤を投与することを目指している。日本の医療
現場では、倫理等の問題から実際にはまだゲノム情報の取得を進めるのが困難な状況であ
る。その中で、京大病院では希少がん、標準治療不応の再発進行がんの臨床ゲノム測定を
開始した。
もう 1 つの問題として、ある時点でのゲノム配列を決定してもその後の抗がん剤投与に
より遺伝子変異が生じて、薬剤耐性が出現することである。そこでゲノム情報が集まる前
にできることとして、標的遺伝子の変異とその薬剤の結合親和性をシミュレーションする
ことで、計算科学による薬剤耐性の予測が行われた。
がん研究会がん研究所の片山量平博士との共同研究の事例を具体的な例として、ALK 融
合遺伝子による非小細胞肺がんの治療薬を対象にして、Crizotinib、Alectinib、Ceritinib
という 3 種類の上市薬について解析を行った。例えば Crizotinib では、投与 1 年後でがん
が縮小するが、投与 2 年後には、薬剤耐性が生じて、がんが再度増大するといった例が認
められている。このような薬剤耐性を示すがん組織では、ALK タンパクの薬剤結合ポケッ
トの周辺にアミノ酸変異が生じていることが確認されている。
そこで、スパコン「京」を用いて、ALK タンパクと各薬剤との分子シミュレーションが
行われ、結合自由エネルギー値が算出された。さらに、実験的に各薬剤の野生型及び実際
の臨床で生じた変異型 ALK に対する阻害活性が求められ、上記の計算値と比較された。
その結果、例えば Crizotinib の F1174V 変異体等で、一部計算値と実験値に差が生じてい
たが、概ね阻害活性を予測可能であった(図 12)。
図12.ALK 変異に対する ALK 阻害剤の阻害活性-計算値と実測値の比較(京都大学・奥野恭史氏提供資料)
さらに、Alectinib を例に、変異体に対して結合親和性が低下しているメカニズムが分子
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第一章 医療ビッグデータの医療及び創薬への活用
レベルで可視化された(図 13)。I1171T 変異体では、αC helix の位置が下にずれて、E1167
の位置もずれた結果、薬剤との水素結合が切れて、結合親和性が低下したと考えられる。
V1180L 変異体では、薬剤ポケットの中にあるバリンがロイシンに変異した結果、側鎖の
メチル基が 1 つ増えることで薬剤が結合するスペースがなくなり、結合親和性が低下した
と考えられる。
図13.ALK 変異に対する Alectinib の結合
(京都大学・奥野恭史氏提供資料)
このシミュレーション結果は、実際に患者で認められている薬剤耐性の変異に対して、
各薬剤の親和性低下を計算機上で再現したことになる。さらに現在、3 つの薬剤のいずれ
もが効果を示さないスーパー変異が計算上で探索されている。今後これが予測できれば、
標的タンパクの薬剤耐性の変異に対して、先回りして創薬を行うことも可能になると考え
られる(図 14)
。
図14.個別化医療のための分子シミュレーション
(京都大学・奥野恭史氏提供資料)
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第一章 医療ビッグデータの医療及び創薬への活用
6.今後の研究について
前述のがん患者の予後イベントについて、ある時点でスイッチが入って、死亡約 200 日
前から急激に検査値が変化し、死に至るというイベントが認められる。奥野らは、このス
イッチが入った時点で、体の状態がどのように変化するのかを分子レベルで解明できれば、
「なぜヒトは死ぬのか」という根本的な問題に迫ることができ、また、そのメカニズムを
知ることで、死を遅延させることも可能になるかもしれないと考えている。
さらに、もっと一般的に疾患の発症の起点が分かれば、病気の予防や早期発見に繋がり、
創薬にも有用である。そのために重要な点は、ゲノム情報だけでなく、各患者の時系列の
データを入手し、生体の状態変化を高品質、高精度で解析することにあると考えている(図
15)
。
図15.先制医療のためのライフコースデータ解析
(京都大学・奥野恭史氏提供資料)
奥野らは、これまでの解析経験から、臨床情報を対象とした計算科学によるシミュレー
ションは創薬研究に有用であり、基礎研究にもフィードバックできる解析結果も出てくる
と考えている。
また逆に、基礎研究のデザインを見直すことも重要であるとも考えている。
最近、①実臨床データからの病態分類、と疾患サンプル(試料)の選択、②ヒト(臨床)
と実験動物・細胞(基礎)のブリッジング、の 2 点について検討が開始された(図 16)。
①に関しては、様々な治療のパターンに基づいて、検査値がどのように変動するかの関
連性が検証されている。さらに将来的には、ゲノム情報を取得することで患者の遺伝的背
景との関連も見ること可能となると考えられ、具体的には、腎疾患について試みが開始さ
れている。②に関しては、細胞や動物での薬剤投与のデータを取得し、臨床データと比較
することにより検討されるが、具体的には抗がん剤での検証が開始された。
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第一章 医療ビッグデータの医療及び創薬への活用
図16.臨床データから創薬へ
(京都大学・奥野恭史氏提供資料)
さらに、今後は臨床の医療ビッグデータと基礎のデータを融合させたシミュレーション
により、個人の健康状態の可視化と将来予測を行う Virtual Human(Patient/Doctor)の
開発が計画されている(図 17)。
図17.Virtual Human(Patient/Doctor)の開発
(京都大学・奥野恭史氏提供資料)
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第一章 医療ビッグデータの医療及び創薬への活用
7. 執筆担当者所感
これまで個人の治療のために取得された臨床検査値等の臨床情報を統合し、ビッグデー
タ解析が可能となりつつある。医療ビッグデータを利用したデータ先導型の研究は、既存
知識をベースにした仮説主導型の研究だけからは絶対に得られない画期的な治療法を提供
する可能性がある。つまり、医療ビッグデータ解析は、先制・予防医療における様々な臨
床的な課題を高度に解決する手法として期待される。現時点では、取組みを開始したばか
りであるものの臨床医との対話による医療現場での治療に対する課題の抽出・設定、ビッ
グデータ解析やシミュレーションを可能にする医療情報の統合とデータベース化が進んで
いることを実感した。これに更に各患者のゲノム情報が加われば、個別化医療への応用に
も繋がることも期待できるが、まだ一部のがん患者でサンプル収集が始まったばかりであ
る。今後、がん以外の全ての患者を対象にゲノム情報を取得するためには、ゲノムシーク
エンスの研究費捻出とゲノム解析用サンプルを入手するための同意取得や環境整備といっ
た倫理面の両方の課題を解決する必要がある。また、日本国内でも様々なコホート研究が
進められている中で、これらの医療データを統合して、優秀な情報科学者がアクセスでき
る体制ができれば、更なる研究の進捗が期待される。そのためにも、日本国内での臨床サ
ンプル収集のための倫理面の整備や医療情報の標準化、統合といった前競争的な研究の更
なる進展に期待したい。
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第一章 医療ビッグデータの医療及び創薬への活用
(4) オバマケアがもたらす健康・医療技術への影響
ヒアリング先:
株式会社シリコンバレーテック
橋本
康弘
代表取締役社長
要旨
2010 年に米国で法制化されたオバマケア(医療保険制度の変更)が医療 IT に及ぼして
いる影響について、現地のバイオベンチャー等の状況に詳しい、株式会社シリコンバレー
テックの橋本康弘社長より情報提供いただいた。
2009 年 に 法 制 化 さ れ た HITECH Act ( The Health Information Technology for
Economic and Clinical Health Act of 2009)により米国民全員に EHR(Electric Health
Record)を持つことが義務づけられた。また、オバマケアの医療改革が推進され、インタ
ーネットや医療ビッグデータ管理、さらにはそれらデータの AI 解析等、IT 技術の医療へ
の積極活用が急速に進んでいる。この急速な変化の背景には、オバマケアの医療費削減キ
ープレイヤーである民間医療保険会社(医療費の支払者)の医療提供に対する考えが大き
く変化していることがある。保険会社は疾患発症の予防や、疾患リスクの高い患者予備軍
に先制的に医療介入を行い、疾患を未然に防ぎ、あるいは疾患早期に介入することで、ト
ータルの医療コストを低減できると考えている。そのため、民間保険会社は疾患予防のた
めの検査・検査技術・医療機器に開発参入する多くのベンチャー企業を支援することも積
極的に行っている。このように、オバマケアが導火線となり、予防医療へのシフト、そし
て IT(インターネット、医療ビッグデータ、AI 解析)の医療への積極活用が米国での現
在のトレンドとなっている。
1.はじめに
オバマケアとは、米国において進められている国民のすべてを健康保険に加入させると
いうユニバーサルヘルスケアカバレッジ制度である。2010 年 3 月にオバマ米国大統領が
署名して法律として成立した。法文は全体で 2,000 ページを超える膨大なもので、患者の
保護及び医療費負担の適正化という主に 2 つの法律から構成される。
法律の骨子は、市場原理に基づく医療供給、米国市民に医療保険加入の義務を課したこ
と、企業に医療保険給付の義務を課したこと、保険業界に対する規制の強化、徹底した医
療レコードの電子化、財源の確保及びメディケア・メディケイドの改革からなる。
医療レコードの電子化(Electric Health Record: EHR)
・クラウド化の徹底的な促進は、
医療ビッグデータの集積をもたらす。ビッグデータは適切に解析され、医療の効率化・コ
スト低減に役立てられている。米国においては、Apple Watch 等のウェアラブルデバイス
やスマートフォンを利用した自己セルフケア(Do-It-Yourself Healthcare)が民間及び州
政府のイニシアチブの下に進められている。オバマケアは、このような動きを加速し、健
康・医療技術の研究開発にも有意な影響をもたらすものと考えられる。
このような背景認識をもち、ヒューマンサイエンス振興財団創薬資源調査班は、2015
年 10 月 16 日に、株式会社シリコンバレーテックの橋本康弘代表取締役社長に面談してお
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第一章 医療ビッグデータの医療及び創薬への活用
話を伺った。同社は、米国カリフォルニア州のシリコンバレーにおいて、医薬・バイオ企
業の投資支援や技術ライセンス業務を勢力的に行っている。バイオ・医療開発、IT の先端
の地で、オバマケアの法制化後にどのようなことが展開しているか、緊迫感あるお話を伺
った。以下に、その内容をまとめた。
2.加速する民間保険会社の寡占化、保険償還は、医療行為から医療効果への支払いにシフト
オバマケアは 2010 年に法制化され、これにより、米国内の無保険者は全員が健康保険
に加入することを義務づけられた。保険の財源は、税金と保険者及び被保険者の負担であ
る。メディケア・メディケイドにカバーされる貧困層及び老齢者を除き、米国民は民間会
社と健康保険契約を結ぶこととなる。民間保険会社の利益指向は強く、会社内のコストダ
ウンの自助努力に加え、医療供給者である病院・診療所に対するコストカットへの要求に
は厳しいものがある。米国においては、保険会社間の競争は激しく、既に数社が大部分の
市場シェアを占めるまでに寡占化が進んでいる。
米国では、保険償還に当たっては、検査、診断、治療、投薬等の個々の医療行為
(fee-for-service)に支払われるのではなく、最近では総体としての医療効果に重きをおい
た評価・支払いが行われる方向にある。医療の効率化に対して、医療供給者である病院及
び医師、財政負担を行う政府、そして保険会社の関心は強く、いずれのステークホルダー
も赤字を忌み嫌うことは言うまでもない。米国で医療効果が重視されつつある一方で、日
本の健康保険制度においては、個々の医療行為に保険支払いがなされており、両国の保険
制度は著しく異なると言える。
3.民間保険会社が疾患予防の検査や機器・装置の開発を支援
米国において、民間保険会社の損益が医療にもたらす影響は非常に大きい。特に検査に
関して、日本では疾患の予防に関わる技術、検査や機器・装置は一般的に保険償還の対象
とはならない。然るに、米国の保険会社から見れば、これらの技術によって疾患の発症が
防止され、
結果として全体の医療コストが下がれば経済的合理性があるということになる。
例えば、州によって異なるようだが、カリフォルニア州では昨年まで 30 ドル程度の支払
いを求められたインフルエンザワクチンが無料となった。疾患発症予防に対して、財政的
な観点からも積極的に取り組んでいこうという姿勢が生じている。
米国のベンチャー企業が疾患リスク診断や予後予測診断に関わる技術の研究開発を考え
たとする。ただし、イメージング検査薬のような体内に投与するため安全性リスクが伴う
ものは除く。その際、米国ベンチャーがまず考えることは FDA の承認ではない。FDA の
承認を得ても販路が広がらず、有意な販売額とならない予防技術はいくらもある。ベンチ
ャー企業から見れば、マーケットシェアの高い数社の保険会社にその使用価値を認めても
らい、保険会社と契約関係にある病院で使用されれば技術・製品の売上がそれなりに確保
できるため、保険会社がその予防技術を用いた結果を試算して、償還額が減ればそれで良
いわけである。保険会社からは、このような技術・製品仕様で、これ位のコストでという
提案が積極的にあり、ベンチャー企業はそれらを目標として研究・技術開発を進めること
になる。保険会社にとって、予防技術は一つの大きな投資分野であり、開発に対してファ
ンディングを行うこともある。コスト削減効果を実証するための臨床試験・評価を保険会
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第一章 医療ビッグデータの医療及び創薬への活用
社が主導して実施する場合もある。
米国では実際に多くの医療技術(予防診断技術や機器)
が FDA の承認無しに販売されているが、然るに、前述したように日本ではそもそも疾患
リスク診断や予後予測診断は保険償還の対象とならないため、有意な市場は期待できない。
医薬品の場合には、予防技術と比較して副作用の発生等安全性リスクは格段に高く、そ
のため、FDA の承認が必要である。医薬品を投与しなかった場合、投与した場合、副作用
が発生した場合等、想定されるあらゆる場合で訴訟リスクが存在するが、FDA の承認があ
れば訴訟リスク・コストを政府と分け合うことができるからである。米国では医薬品の価
格は、医薬品企業と保険会社の交渉によって決められ、公定価格で決まる日本の医療費と
は異なり全くの自由経済である。例を挙げれば、米国では病院の会計窓口で医療費の値引
きや分割払いの交渉さえできると言う。
4. 医療レコードの電子化・クラウド化の徹底、ビッグデータの解析により診断・治療は高効率
化・低コスト化
米国では、医療行為の事前及び事後の適切かつ効率的な評価のために、個々の被保険者・
患者に対して行われた診断・治療及びその効果の記録が IT データとして保存され、それ
らがいつでも追跡できるシステムとなっている。そのために、オバマケアの法制化に先立
ち、2009 年に病院・診療所の医療データの IT 化を義務づける法律が作られた(HITECH
Act)。この法律の強制力は強く、IT 化しない医療供給者にはペナルティが課せられ1)~3)、
このような医療データがビッグデータとして蓄積され解析されれば、治療プロセスの評価
とその先には最良の治療プロセスが生みだされるに違いない。
その後のオバマケアの法制化により、医療データの IT 化(クラウド化及び人工知能(AI)
による解析)が更に急速に進められている。例えば、データ解析により、治療による有害
事象が確認された場合や不必要な投薬が認められた場合には、個々のケースについて保険
償還額を削減すること、さらには削減ケースの多い病院についてはペナルティを課すこと
も想定される。ただし、これらのケースにおいて客観的な評価を行う第三者機関はまだ機
能していないようである。
5.ウェアラブルデバイスによる自己セルフケアの普及、人工知能(AI)の利用
オバマケアにおいては、医療データをクラウド上に蓄積し、ビッグデータとして解析し
有効活用することに大きな力が注がれている。医療・健康器具としてウェアラブル(モー
ビラブル)な医療機器・器具をインターネットでつなぐ IoT (Internet of Things)技術
の使用が大いに進んでいる。機器・器具で取られたデータ(例えば、血圧や血糖値等の経
時的データや、Google 及び Novartis が開発している血糖測定用のコンタクトレンズや小
型血圧計のデータ)がスマートフォンの Bluetooth を介してクラウド上に蓄積、解析され
れば、ポピュレーション及び個々人の健康維持に役立つことは確実である。
AI による解析も進められている。Massachusetts Institute of Technology(MIT)で開
発された聴診器は、心音の検出部で受けた信号がスマートフォンに伝えられてクラウド上
で AI により解析され、その心音異常の検出精度は、一般医師の診断能力よりも優れてい
るとのことである。Stanford University では、医師の診断能力と IBM Watson の診断能
力を比較する研究が進められている。
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第一章 医療ビッグデータの医療及び創薬への活用
6.地域医療の改善と遠隔治療関連の技術開発
米国においては、その国土が広大であるために、地域医療は長年大きな課題になってお
り、オバマケアでは地域医療の改善を大きな目標にしている。そのために遠隔で治療を行
う多くのデジタル医療関連の技術開発が行われている。
遠隔治療では、ビデオ面談で簡単な問診や、センサーやデジタル医療機器を通じて測定
された検査に関してのアドバイスを与えたりしている。このように、クリニックや病院を
訪問すること無しに、
ネット経由オンデマンドで受診が容易にできるネット環境、ビデオ、
モバイル技術等の通信技術のプラットフォームを開発するスタートアップが現れている 4)。
日本国内でも医師不足や地域医療での医療サービスが大きな問題で、今後されに深刻化
すると言われている。日本でもこのような取組みや、技術開発が必要となると思われる。
7.最後に
保険会社のコスト削減圧力は、医師数の削減にも向かっている。米国の医師はほとんど
が病院勤務のサラリーマン医師であり、医師数及び医師の診療時間はコスト削減の対象と
なる。従来の病院医療、特にプライマリーケアは、診断・予防技術、IT 技術及び医療ビッ
グデータの利用により、大きく変わりつつある。医師は医療データを見て健康管理につい
て助言するアドバイザー、治療方針を決めるのは保険会社、という状況に進みつつある。
米国と日本は医療制度が異なり、医療技術に関わる規制・基準も異なる。しかしながら、
オバマケアで進められる米国の医療保険制度の変更、予防医療へのシフト、そして IT(イ
ンターネット、医療ビッグデータ、AI 解析)の最大利用からは学ぶことが多い。特に疾病
の予防に関わる技術については、このままでは日本は大きく立ち遅れることとなる。
8.執筆担当者所感
橋本康弘社長からは、オバマケアの施行と前後して変化をとげる米国医療のダイナミズ
ムを大いに感じることができた。米国の医療供給が専ら市場の自由経済原理にゆだねられ、
それゆえ民間保険会社が有意な影響力を持つことに今さらながらに驚かされる。医療コス
トの削減のために、疾患の予防のための検査・検査技術・機器に多くのベンチャー企業が
参入していること、そしてそれを保険会社が支援するという図式は合理的である。疾患の
発症が防止でき、またある時点でハイリスクな患者予備軍に先制的に医療介入ができれば、
トータルの医療コストは低減できる。
一方、最近 FDA は興味深い報告書5)を開示した。米国の特定のラボ(多くはベンチャ
ー企業 )で開 発され 提 供され てい る 20 種 類 の実験 室開発 検査( LDT:Laboratory
Developed Test)が、被験者及び公衆衛生上に実害・経済的損失をもたらしていることを
厳しく指摘する内容である。その中には、被験者の乳がんや卵巣がんの発症リスクを評価
する検査も含まれる。乳がんの予後及び術後補助化学療法を決める検査は、米国の大手民
間保険会社の保険還付対象となっている。これは、FDA という規制当局が、保険会社の施
策を良しとしない例である。FDA は、2016 年中に LDT の規制基準を発行する予定である。
他方、ウェアラブルデバイスを用いる健康・医療管理については、米国において Bloom
Technologies、Scanadu、Google や IBM 等、既に多くの企業が開発又は販売を開始して
いる。例えば、Scanadu の Scanadu ScoutTM デバイス6)は、体温、脈拍、血圧及び酸素
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第一章 医療ビッグデータの医療及び創薬への活用
圧をモニタリングできる。これらの装置で測定された個人データを、ネットワークを介し
てコミュニティレベルで統合できれば、その地域やコミュニティでの栄養状況の把握や感
染症の流行の予知等、多方面の公衆衛生の向上に役立つ。国内においても、NTT 等いくつ
かの内資企業が開発に着手し、一部は健康器具として販売されている。医療における開発
商業化が遅れないように一層の奮起を期待したい。
【関連情報、参考文献】
1)
オバマケアの法制化に先立ち、米国では HITECH Act(The Health Information
Technology for Economic and Clinical Health Act of 2009)が 2009 年に法制化され
た。この法律は、米国民全員に EHR(Electric Health Record)を持つことを義務づ
けた。個々の患者が全米でどこにいても、最適な診療が受けられるように情報交換が
可能である。EHR 導入に当たり、医療施設・医師にインセンティブとペナルティを課
した。
2)
EHR の導入促進の結果、米国人の約半数に当たる約 1 億 5 千万人が Blue Button
Project により自分の EHR(服薬情報、アレルギー情報、検査結果、保険請求額、診
療情報)にアクセスできるようになった。
3)
Health Insurance Marketplace は、オバマケアの法律化後に、州政府が開設・運営を
続けるオンライン医療保険の購入登録サイトである。2015 年には、登録者は全米で約
1,140 万人にのぼり、無保険者の現象に結び付いている。
4)
橋本康弘. 米国デジタル医療産業の背景と現状(後編)
目標はデジタル技術による
診療の質向上と医療費削減. 日経バイオテク ONLINE(2016 年 1 月 5 日)
https://bio.nikkeibp.co.jp/atcl/news/p1/16/01/04/00010/
5)
Peter Lurie. Why FDA Should Oversee Laboratory Developed Tests. FDA Voice.
(2015 年 11 月 16 日)
http://blogs.fda.gov/fdavoice/index.php/2015/11/why-fda-should-oversee-laboratory
-developed-tests/
6)
Scanadu ホームページ:SCANADU VITALS
https://www.scanadu.com/products/vitals
- 40 -
第一章 医療ビッグデータの医療及び創薬への活用
(5) 日本ユニシスにおける医療ビッグデータ関連の取組みについて
ヒアリング先:
日本ユニシス株式会社
星野
総合技術研究所
隆之 上席研究員
要約
日本ユニシス株式会社では、自社の強みである ICT(情報通信技術)の基盤構築・導入・
保守・運用等を活かし、佐渡医療圏における医療問題を解決することで、小さな地域にお
ける医療効率化の情報基盤構築において実績を上げている。また、「ながはま 0 次健診」
のゲノムコホート研究において、ビッグデータを利活用する統合情報基盤のシステム構築
に取り組んでおり、現在もその研究支援を継続している。一方、それらの情報基盤の構築
活動を通じ、データ利活用サービスとして、健康情報共有に基づいた健康支援サービス事
業を展開しており、さらに、医療情報・医療ビッグデータを統合・解析するために必要な
「医療テキスト情報の標準化」や「画像を用いた診断支援」等の技術開発にも取り組んで
いる。
1.はじめに
ゲノムコホート研究は、集団を対象に追跡調査し、遺伝子と病気の発症等との関係を探
ることを目的とした研究である。診療情報、健康診断情報、ゲノム情報等の様々な情報を、
長期間、収集・蓄積し、解析するため、大量且つ複雑な非構造化データを扱う解析基盤の
構築が必要となる。日本ユニシス株式会社は、
「ながはま 0 次健診」のゲノムコホート研
究において、統合情報基盤のシステム構築を行っている。また、これと並行し、ゲノムコ
ホート研究において得られる多種多様なデータを統合的に解析するヒト生命情報統合研究
において、それを支えるための技術開発も行っている。日本ユニシスにおけるこれらの取
組み、及び同社が行っている医療ビッグデータ関連のその他の取組みについて、星野上席
研究員から話を伺った。
2.地域医療連携:佐渡地域医療連携ネットワークシステム「さどひまわりネット」1)
「さどひまわりネット」とは、過疎化が進む新潟県佐渡島の住民の QOL 維持を目的に、
島内の病院・診療所・歯科診療所・調剤薬局・介護施設を双方向に結び、患者の情報を共
有・活用し、島民の健康を支える仕組みである。
日本ユニシスでは、佐渡医療圏における「極端に少ない医療資源」、「島民の高齢化に伴
う患者数の増加」という 2 つの課題を考慮した上で、現状の医療情報提供環境維持のため
には、島内の医療資源の有効活用の必要性と、複数の医師でより多くの患者を診る体制が
有効と考え、特徴ある医療連携ネットワーク構築により、その解決に取り組んだ。この佐
渡島医療の問題解決、即ち社会問題(公益問題)解決を対象とすることは、様々な企業問
題解決を対象としてきた日本ユニシスにとって、チャレンジ的な取組みであった。
佐渡島医療における問題解決方法の特徴は次の 2 つである。1 つ目には、島内のすべて
の医療機関を仮想「佐渡島病院」と見立て、患者の状況に応じ最適な施設を選択できるよ
- 41 -
第一章 医療ビッグデータの医療及び創薬への活用
うにする「患者毎の医療情報をデータセンタに集約」である。2 つ目には、歯科診療所・
調剤薬局・介護福祉関連施設等広範囲の施設がその設備の種類、規模を問わず参加できる
「‘双方向性’ネットワークによる活用」である。即ち、この地域医療連携システムは、診療
情報を集める「データ収集」と、それを参照する「データ参照」の 2 つの仕組みで構成さ
れる。
参加施設は、病院・医科診療所・歯科診療所・調剤薬局といった医療機関、検査会社、
健診センター、介護関連施設である。このうちデータ収集元は、医療機関、検査会社、健
診センターである。各参加施設にデータ収集用の端末を設置し、既存の医療情報システム
からデータ収集用のネットワーク接続クライアントを介して診療情報を収集する。収集さ
れた診療情報はデータセンタに保存されるが、情報提供に同意した患者の情報に限られる。
また、収集する診療情報の種類は参加施設の医療情報システムによって異なる。各参加施
設は、データセンタに保存された同意患者の診療情報を自他施設問わず参照することがで
きる。Web アプリケーションを採用し、各参加施設にデータ参照用の端末を設置し、Web
ブラウザ上で同意患者の診療情報を参照できる。
このように、島全体の医療効率を上げることを目標として、現実的な地域医療の問題解
決に初めてトライし、診療情報をデータセンタに蓄積する「情報集約型」の地域医療連携
システムを構築することで、医療情報というセンシティブな情報を安全に扱う技術を確立
することに成功した。このシステムは、佐渡に限らず他の地域でも有効活用可能であり、
日本全国の地域医療の課題解決に寄与できるものである。
図1.佐渡医療圏の課題と対策-日本ユニシスの理解-
(日本ユニシス・星野隆之氏提供資料)
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第一章 医療ビッグデータの医療及び創薬への活用
3.ゲノムコホート研究
医療問題には、「さどひまわりネット」のような小さな地域における医療問題だけでな
く、以下に挙げる国家レベルの医療問題がある。
・健康寿命の延伸及び健康格差の縮小の実現
・生活習慣病の発症予防や重症化予防
・社会生活を営むために必要な機能の維持及び向上
・生活習慣の改善及び社会環境の整備
日本ユニシスは、これらの問題解決に取り組むため「先制医療」の実現を目指す「なが
はま 0 次健診」のゲノムコホート研究の支援を行っている。なお、「先制医療」とは、発
症前にゲノム・診断マーカー・画像等を駆使して診断を行い、個人に適した治療・投薬を
発症前から行う介入医療を実施する、新しいコンセプトの予防医学のことである。
(1)ながはま 0 次健診2)での役割
「ながはま 0 次健診」は、市民との健康づくりの推進と医学発展の貢献を目的に、滋賀
県長浜市が京都大学医学研究科付属ゲノム医学センター(京都大学ゲノムセンター)と共
同で行っている全国初の 1 万人規模の大規模ゲノムコホート事業である。2007 年から 2010
年まで第 1 期を実施し、2012 年より第 2 期の追跡調査を開始している。
日本ユニシスは京都大学ゲノムセンターと共に、2011 年よりゲノムコホート研究のため
の情報基盤開発に取り組んでいる。これは、予防医学に向けた疾患発症追跡のための研究
基盤であり、2012 年よりその運用を開始している。将来の全国レベルでの展開を視野に、
高品質かつ安全にデータや試料の収集・統合・蓄積・提供を可能とする汎用性の高いシス
テムの構築が進められている。
(2)統合情報基盤のシステム全体概要3)
「ながはま 0 次健診」におけるゲノムコホート研究の統合情報基盤システムの全体概要
を図 2 に示す。京都大学ゲノムセンターのデータセンタに、プライベートクラウドを構築
しており、以下の点に留意しながらシステム化されている。
・各機能に対して、個人情報の保持方法と保有管理責任を明確にする。
・システムのパッケージ化により複数拠点からの情報を容易に統合可能とする。
・参加医療機関が増える度に個別にシステム連携するのではなく、複数医療機関のデー
タを統合した EHR(Electronic Health Record)システムを診療情報のデータ源泉と
する。
システム構成は、「マスタサーバ」「情報収集管理サーバ」「匿名化サーバ」「ゲノム連携
サーバ」の 4 種類のサーバで物理的に分離されている。研究者が研究プロトコールを定め
(マスタサーバ)、臨床情報管理部門が匿名化し(匿名化サーバ)、法令やガイドラインを
遵守しながら、食生活や生活習慣を追跡し(情報収集管理サーバ)、解析部門においてゲノ
ム・タンパク質や代謝物等の網羅的解析結果(ゲノム連携サーバ)を合わせつつ、健康や
発病にどう結びついたかを調査する、というシステムとなっている(図 2:実線はオンラ
イン連携、点線はオフライン連携)。
- 43 -
第一章 医療ビッグデータの医療及び創薬への活用
図2.京都大学ゲノム医学センター
大規模ゲノム疫学研究の統合情報基盤全体概要
(日本ユニシス・星野隆之氏提供資料)
(3)データの統合/公開
日本学術会議の提言書「100 万人ゲノムコホート研究の実施に向けて」4)において、現
在の日本の疾患発症率をもとに多くの重要な疾患病因に迫ることが可能となる集団規模を
100 万人と設定し、100 万人コホート計画が提言されたが、その実現に向けた動きは無い。
一方で、日本の健康・医療戦略において、10 万人規模のコホートを統合して数十万人にす
るという構想5)が出されている。「ながはま 0 次健診コホート」や各コホート研究拠点に
蓄積された情報が、バイオサイエンスデータベースセンター(NBDC:National Bioscience
Database Center)に公開情報として格納され、利用される形がその構想であるが、デー
タベース構築活動は進んでおらず、現在、データを広く公開している状況でない。
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第一章 医療ビッグデータの医療及び創薬への活用
図3.ゲノムコホート・データの統合/公開6)
(日本ユニシス・星野隆之氏提供資料)
4.健康医療情報を活かしたサービス提供
日本ユニシスとしては、ゲノムコホート研究の統合が進まない状況の中、「ながはま 0
次健診コホート」を中心としたデータベース構築活動を活用すること及びこれまで進めて
きた疫学研究等の成果を用いることで提供可能なサービスについて、その仕組みづくりを
進めている。具体的には、
「ゲノムコホート研究を支援し、健康医療情報を解析・活用する
ことで、どのようなサービスが生まれるか」ということを考え続けた結果、現在、以下に
挙げたサービス展開をリストアップしている。いずれも「異業種協業」が必要なサービス
であり、集積・統合された健康医療情報を高度に解析・活用することで、更なるビジネス
展開を期待できるものである。
(1)ゲノム疫学データの利活用サービス
ゲノム情報と臨床情報を組み合わせて、創薬研究用のデータ等の各種データ提供
サービスを展開
(2)Drug Repositioning サービス
投薬効果や副作用情報等を蓄積し、ビッグデータ的解析を行い医薬品適応拡大に
繋がる情報提供
(3)健康支援サービス
疾患の発症・進展のリスクをゲノム疫学手法により解析する個人・法人向けリス
ク診断サービス
(4)ニュートリション・サイエンス系サービス
- 45 -
第一章 医療ビッグデータの医療及び創薬への活用
食品や栄養素の臨床効果を解析し、健康食品事業へデータ提供及びデータ活用シ
ステムを開発
(1)と(2)については、そのデータ集約・統合は可能だが、データの解析・活用・
提供において、医療・医薬に直接関与したことが無い企業である日本ユニシスにとって、
その取扱いが難しく積極的に取り組めていない。一方、
(3)、
(4)については、医療情報
より手前の情報である健康医療情報を多く用いること、サービスを受けたい協力者からの
自発的な情報提供でサービス提供が可能なため、既にスモールエリアでその取組みが行わ
れている。以下にそのサービスを挙げる。
①
健康支援サービス
日本ユニシスによる取組みの 1 つは、健康に対する意識改革・意識付けを良くするため
の図 4 のような健康医療情報の共有に基づく健康支援サービスである。
サービスのコアとなるデータは、一般ユーザーが自発的に溜めたパーソナルライフログ
であり、これを中心にサービスを展開する。臨床データの匿名化や様々な規制や制度への
対応を回避するため、ユーザーが自発的にデータを登録する仕組みを構築している。採血
キット等を利用して、電子健康記録(EHR:Electronic Health Record)に近いデータを
収集・格納し、健康指導サービスを行う人が疾患リスクチェックを行う。疾患チェックを
行うことで健康予防指導等を実施し、生活習慣病予防等につなげる。これだけではサービ
スとしてシンプル過ぎるため、これを行うことの意義という点から、企業の健康組合で行
われているデータヘルスを支援するサービス(健康に関して情報を収集し、PDCA サイク
ルを回して健康状況を改善させるサービス)に展開している。既に日本ユニシスの健康組
合において、試験的に取り組まれている。
図4.健康情報の共有に基づく事業例7)
(日本ユニシス・星野隆之氏提供資料)
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第一章 医療ビッグデータの医療及び創薬への活用
②
ニュートリション・サイエンス系サービス
日本ユニシスは、上記のような健康支援サービスにニュートリション・サイエンス系サ
ービスを加えた、利用者密着/地域密着型のエコシステム「スマートヘルシーシティ」の
実現に取り組んでいる(図 5)
。この「スマートヘルシーシティ」は、「社会生活を営むた
めに必要な機能の維持及び向上」という課題に対する取組みから生まれたコンセプトの 1
つである。蓄積した臨床情報等をベースに、エビデンスのある健康指導・カウンセリング
系サービスや健康食品を創出し、医療機関等も含めた大きなネットワークの中で、高齢者
の健康意識を高め、健康改善のための努力の継続をサポートする。
具体的には、高齢者や糖尿病患者への食事提供サービス、それらの摂取による健康改善
度合いの「見える化」サービス、健康支援と健康食品宅配サービスを結び付けたサービス
等である。体重・体組成改善や疾患予防を目的とした健康性食品のエビデンス取得として、
生活習慣病関連学会や栄養学系の大学の研究者らと共同研究も行っている。
少子高齢化、独身老人の増加が進行している地域社会を支える基盤を社会構築し、3 つ
の分野(医療、食、決済)において、地域あるいは遠隔地(子ども世帯)から暖かく見守
るコミュニティを実現することを目指している。
図5.新たな社会「スマートヘルシーシティ」8)、9)
(日本ユニシス・星野隆之氏提供資料)
- 47 -
第一章 医療ビッグデータの医療及び創薬への活用
ニュートリション・サイエンス系サービスの新しいバリュー・チェーンを生み出すため
の他業種産学連携の取組みの 1 つとして、Cell Alive System(CAS)技術開発を行ってい
る。CAS とは、株式会社アビーが開発した細胞を生かす技術で、凍結装置と組み合わせる
ことによって細胞破壊を最小限にとどめ、凍結時の鮮度や風味、旨味等を維持する技術で
ある。CAS 技術を活用した冷凍食品は、素材そのものの風味や食感が維持され、低塩分・
低カロリーでも旨みを感じるため、味付けで塩分やカロリーが増すという問題を回避する
ことが期待できる。糖尿病患者へ継続提供する臨床試験において、その効果が確認されて
いる。現在は、この技術を食品から医療分野へシフトさせ、iPS 細胞の保存法に応用する
ため、慶應義塾大学と共同研究を行っている。
5.医療ビッグデータの解析に関する取組みについて
医療情報・医療ビッグデータは、Volume(規模の大きさ)、Variety(多様な形式)、Velocity
(高い発生頻度)を持つ多種多様な非構造データである。近年、このようなデータから「知
りたいことの姿を映し出す」ことが可能となる解析技術へのニーズが高まっている。日本
ユニシスでは、自社が持つ ICT を活かし、医療テキスト情報の標準化、画像を用いた診断
支援(CAD:Computer-Aided Diagnosis)に取り組んでいる。その取組みを以下に紹介
する。
(1)医療テキスト情報の標準化10)
医療テキスト情報の標準化とは、テキストマイニングや機械学習を用いカルテ情報等の
医療のテキストをコンピューターで解析しやすい標準フォーマットへ変換することである。
病歴等は患者・対象者から問診によって聞き取るため、記憶違いや忘れることがあるが、
あ る 程 度 の 精 度 を も っ て デ ー タ 化 に 成 功 し て い る 。 こ の 分 野 は 、 Medical Natural
Language Processing(Med NLP)と呼ばれており、京都大学の荒牧英治先生と連携して
研究を行っている。
この研究の難点は、学習すべきデータである医療情報(カルテ)を簡単に入手できない
ことである。原理やアルゴリズムはある程度固まっているが、現在、医療・看護系の学校
の実習で用いる模擬データ等を有償で利用しており、研究に手間と苦労がかかっている。
(2)画像を用いた診断支援(Computer-Aided Diagnosis:CAD)
画像を用いた診断支援(CAD)とは、コンピュータによる画像処理の定量化及び解析の
結果を画像診断に利用する手法である。具体的には、内臓の位置等解剖学的データを入れ
て補正しながら、CT 画像 600 枚程度を 3D 化し、正常・異常それぞれの場合の特徴量を
比較することで診断するシステムを開発している。このシステムは、飽くまで判断材料を
提供するだけの意志決定支援システムであり、最終的な診断は医師が行う。医師は、CAD
システムから提供された情報を参照することで、読影精度・速度の向上につなげることが
できる。開発中のシステムは、精密検査レベルでなく、健康診断レベルを想定したシステ
ムであり、スクリーニングの効率化や疾患の早期発見につながる。読影医には専門を超え
た広い医学知識や経験が求められるが、長期にわたって診断知識の蓄積が可能である CAD
システムは医師の知識・経験の補完としても役立つ。
- 48 -
第一章 医療ビッグデータの医療及び創薬への活用
この研究の難点も、技術開発用の医療データが少ないことである。画像の場合もテキス
トと同様に、多量・多様なデータを蓄積することで診断精度が上がって行くが、日本人の
データが特に少ない。白人のデータを使えばデータ自体は増え、精度向上に繋がるが、日
本人の体格・体質に合わせたシステム開発が難しくなる。
6.執筆担当者所感
星野氏は、「医療ビッグデータ」を、患者を診断・治療する時の医師の判断サポートの
システム化やテーラーメイド医療の実現のような、臨床医療において治療方針を考える場
合の判断材料を提供する素材と捉えている。そして、データ間の現象的な相関関係を見出
すことが重要な「一般的なビッグデータ」の解析に対し、
「医療ビッグデータ」の解析では、
ある特定のデータに基づき、効果に加え有害事象も起こり得る医療行為を意思決定するた
め、データ間の相関関係に加えてデータ間の因果律を捉えることが必須と考えており、
「医
療ビッグデータ」と「一般的なビッグデータ」を明確に区別していた。日本では、この「医
療ビッグデータ」を安全且つ適切な自由度で流通させるしくみ(社会システムデザイン、
規制緩和、異業種・産官学連携、人材)への取組みが遅く、そのデータベース構築やその
活用において、欧米と比較すると大きく後れを取っている。
このような環境の中、日本ユニシスでは、自社が持つ ICT の基盤構築・導入・保守・運
用等での強みを活かし、消費者から集める「一般的なビッグデータ」と、自社内で蓄積し
てきた「医療ビッグデータ」とを利活用して、他の業種体のサービスと結び付く「スマー
トヘルシーシティ」のような一般消費者向けのビジネスを、社会システムモデルとして優
先的に展開している。一方で、現在も「ながはま 0 次健診コホート」におけるゲノムコホ
ート研究支援を継続することで、常に最新の「医療ビッグデータ」に触れ続け、新しいコ
ンセプトの予防医学である「先制医療」実現のための統合情報基盤の構築や多種多様な非
構造データの解析技術の向上に対する取組みも続けている。今後、日本における「医療ビ
ッグデータ」の環境整備が進むことで、日本ユニシス独自の「医療ビッグデータ」を利活
用した事業連携やサービス創出が更に大きく展開されることを期待したい。
【参考文献】
1)
渡辺和彦ら. 地域完結型医療を実現する情報集約型医療連携ネットワークの構築. ユ
ニシス技報. 121: 55-65, 2014.
2)
滋賀県長浜市ホームページ:
「ながはま 0 次予防コホート事業」
https://www.city.nagahama.shiga.jp/index.cfm/11,3709,96,558,html
3)
沖俊吾. 大規模ゲノム疫学研究の統合情報基盤の構築事例 . ユニシス技報. 122:
147-157, 2014.
4)
日本学術会議 第二部 ゲノムコホート研究体制検討分科会. 提言「ヒト生命情報統合
研究の拠点構築-国民の健康の礎となる大規模コホート研究-」(2014 年 8 月 8 日)
http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-22-t155-1.pdf
5)
日本学術会議 第二部 ゲノムコホート研究体制検討分科会. 提言「100 万人ゲノムコ
ホート研究の実施に向けて」(2013 年 7 月 26 日)
http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-22-t176-1.pdf
- 49 -
第一章 医療ビッグデータの医療及び創薬への活用
6)
松田文彦. トーゴーの日シンポジウム2013「大規模ゲノム疫学研究の統合情報基盤の
構築」(2013年10月4日開催)
http://biosciencedbc.jp/gadget/rdprog_over/H25-s10_matsuda.pdf
7)
「ユーザー事例:日本ユニシス健康保険組合」Club Unisys + PLUS, 48: 18-23, 2015.
http://www.unisys.co.jp/club/pdf/vol48/uni-48_12-23.pdf
8)
日本ユニシス株式会社ホームページ:「社会基盤の事例.ICTを活用した社会基盤」
http://www.unisys.co.jp/solution/lob/healthcare/social_infrastructure/
9)
星野隆之.
医療ビッグデータの利活用によるサービス創出の枠組み.ユニシス技報,
123: 181-189, 2015.
10) 福田健太. ヒト生命情報統合研究を支える ICT 活用. ユニシス技報, 121: 67-76, 2014.
11) 中山健夫(監修)、21 世紀医療フォーラム(編集). 医療ビッグデータがもたらす社
会変革. 2014 発行:日経 BP 社
- 50 -
第一章 医療ビッグデータの医療及び創薬への活用
(6) P5 株式会社における健康管理ゲノム情報提供事業
ヒアリング先:
P5 株式会社
田中
拓
菊池
秀法
ゼネラルマネージャー
シニアマネージャー
要約
P5 株式会社は、日本においてゲノム情報を有効活用したサービスの提供を通じて、個別
化医療やヘルスケアへ貢献するゲノムサービスプラットフォーム事業を行う会社である 1)。
そのビジネスは、遺伝子・ゲノム情報をベースにして、医療機関と連携しながら予防医療
の新しいサービスを提供するというもので、以下の 3 点を特徴としている。
(1)通常の健康診断とゲノム解析を組にして行う。
(2)健康診断及びゲノム解析の結果に対して、医師や専門家が説明や指導を行う。
(3)結果に基づいて個人の行動の変容を促し、健康管理や疾病予防へと繋げる。
重要なのは、ゲノム解析の結果を如何にして健康管理や疾病予防へと繋げるかというこ
とである。近年、DTC(Direct-to-Consumer)遺伝子検査サービスが普及し始めているが、
検査結果に対する医師による説明や指導等は行われず、被検者としては結果の解釈や健康
管理への対応等に困ることが多い。P5 のサービスでは、このような問題点を解決すること
を狙っている。すなわち、結果に対して対応可能な、いわゆるアクショナブルなゲノム情
報に解析対象を絞っており、医師の説明を受けながら遺伝学的リスクを踏まえた上で健診
結果を理解する。そして、遺伝学的リスクを考慮しながら、医師や専門家による指導に基
づいて自らが健康管理や疾病予防に向けての行動を起こすのである。
P5 では予防医療への取組みとして、2015 年 10 月に東京医科歯科大学との共同研究と
いう形で、ゲノム解析と健康診断とを組み合わせた個人向けサービス「健康管理ゲノム情
報の提供事業」を開始した。これをパイロットスタディーとして、今後のサービスのあり
方について検討を進めている。将来的には、東京医科歯科大学をはじめとして、多くの医
療機関を通じてのサービス提供を計画している。
今回、本調査班では P5 へのヒアリングを行ったので、東京医科歯科大学との共同研究
を中心として P5 のビジネスについて報告する。
1.会社概要及びビジネス概要
P5 株式会社は、2014 年 2 月に設立された。株主は、ソニー株式会社とエムスリー株式
会社で、そこに米国 Illumina, Inc.がマイノリティとして出資している。ソニー出身の大
塚博正氏が代表取締役社長を務めており、取締役の勝本徹氏及び谷村格氏は、それぞれソ
ニーのメディカル部門のトップ及びエムスリーの代表取締役社長である。社名の「P5」は、
P4 Medicine(predictive(予見)、personalized(個人化)、preventive(予防)、participatory
(参加する))に加え、
“paradigm shift(パラダイムシフト)”を目指したいという意気込
みを込めて名付けられた。目指しているパラダイムシフトは、ゲノム情報を有効活用し、
医療機関と密に連携し、予防医療の新しいサービスに挑戦するというものである。
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第一章 医療ビッグデータの医療及び創薬への活用
通常の DTC(Direct-to-Consumer)遺伝子検査サービスでは、被検者に唾液や口腔粘
膜等のサンプルを送付してもらい、遺伝子・ゲノム解析を行った結果を被検者に提供して
いる。検査には医療機関は介在せず、連携も行われていないため、ウェブ等を通じて解析
結果とそれに基づいて判定された疾患リスクを閲覧する形になっている。遺伝子・ゲノム
情報に基づく疾患リスクに関しては、遺伝子・ゲノム情報に対するリテラシーがないと解
釈が難しく、被検者としては結果をどのように解釈して健康管理に反映させれば良いのか
戸惑うことが多い。最近では、DTC 遺伝子検査サービスの結果を持って医師への相談に訪
れる被検者もおり、医療機関側も対応に困るというような状況が生じている。さらに、遺
伝子・ゲノム解析に基づくリスク判定の根拠そのものが曖昧な場合もあり、各サービスに
よって結果が異なる等、検査の信頼性が疑われることもある。P5 のサービスでは、研究機
能を持つ大学病院と連携することによって、これらの問題点を解決することを狙っている。
そこでは、科学的根拠の明確なゲノム情報を提供し、それに基づいて健康管理を行って疾
病予防に繋げるという、新しい形のサービスを行う予定である。
予防医療を考えた場合、医療機関との連携なしに予防を行うことは難しいが、P5 ではゲ
ノム情報をベースに、医療機関と密に連携しながら行う予防医療を新しいサービスとして
立ち上げる予定である。このサービスでは、ゲノム解析、健康診断、医師の個別説明、そ
の後のフォローアップまでを一貫して実施する。検査の結果、例えば、がんに何倍罹患し
やすい等の情報が得られるが、それをそのまま提供するのではなく、被検者への伝え方や
ソリューションの提示等について、東京医科歯科大学で実際に診療を行っている専門医と
協力しながら検討したのちに、被検者に提供することを考えている。このサービスを人間
ドックや毎年の健康診断のオプションとして導入してもらい、実績を積み上げて行く予定
である。ビジネス化に向けて解決すべき課題は多いが、ゲノム情報をどのように説明する
か、被検者に行動変容をどのように継続してもらうか、フォローアップをどのように行う
か、等の点が重要である。これらについて検討を進めて行く過程で、研究的要素として被
検者が情報をフィードバックしてくれる仕組みを作り上げて行く予定である。
2.東京医科歯科大との共同プロジェクト「健康管理ゲノム情報の提供事業」
P5 では予防医療への取組みとして、2015 年 10 月に東京医科歯科大学との共同研究と
いう形で、遺伝子解析と健康診断とを組み合わせた個人向けサービス「健康管理ゲノム情
報の提供事業」を開始した。この共同研究は、東京医科歯科大学医学部附属病院の長寿・
健康人生推進センター2)において 2015 年 10 月~2016 年 4 月の期間で実施するもので、
遺伝子解析の結果を健康行動に繋げる仕組みを構築することを目的としている。今後のビ
ジネスに向けてのパイロットスタディーとなるもので、被検者はソニーグループとエムス
リーの従業員、東京医科歯科大学の職員の合計 100 名程度である。被検者の一般公募は行
わず、参加者は自らの意志で検査実費を払って参加している。ソニーからの参加者につい
ては、メールで従業員に募集を行ったところ、すぐに必要数が集まったということで、関
心の高さを示している。収集するデータは、ゲノム情報のほかに、健診情報、活動データ、
アンケート調査等である。P5 としては、このサービスが直ちに大きなビジネスに繋がると
は考えていないが、まずは今回の共同研究の枠組みの中で成功させ、その価値を示すこと
が重要であると認識している。このパイロットスタディーの成果を踏まえて、2016 年度中
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第一章 医療ビッグデータの医療及び創薬への活用
に東京医科歯科大学で本格的にサービス提供を開始し、さらに他の医療機関にも展開して
行くことを計画している。将来的には、ゲノム情報をはじめとした蓄積データを活用して、
医療分野の研究の促進、創薬支援、薬剤の副作用原因の解明等に貢献したいと考えている。
3.「健康管理ゲノム情報の提供事業」について
(1)遺伝子解析
P5 のサービスにおけるゲノム解析はマイクロアレイによるもので、解析作業は Illumina
のマイクロアレイを用いて Illumina の認定ラボで行っている。解析に用いる DNA マーカ
ーは、東京医科歯科大学疾患バイオリソースセンター 3)とソニーとの共同研究によって選
定した。また、ゲノム情報解析とリスク判定に用いる「ゲノム情報解釈アルゴリズム」も
両者の共同研究によって開発した。DNA マーカーに関しては、科学的正当性を示すため
に、選定の根拠となった論文を公開している。選定に際しては、論文のキュレーションを
行い、1 塩基多型情報やオッズ比をデータベース化した。このデータベースに基づいてゲ
ノム情報を解析し、ある疾患のリスクが何倍であるという数字を算出する。さらに、解析
結果に基づいて、当該疾患の専門医グループが臨床現場向けのレポートや予防対処法の作
成や監修を行っている。また、被検者への説明や対処法についても個別に検討を行ってお
り、最終的な結果レポートは、
「あなたのゲノムプロフィール」として提供される。その内
容は、ゲノム解析の結果、現在の健康状態、問診結果、活動データ等を含むものとなって
いる。活動データの取得には、ソニーモバイルコミュニケーションズ株式会社が販売して
いる SmartBand というウェアラブルデバイスを使用している。
本サービスでは約 50 の項目を解析している。そのうち疾患関連のものは 30 であり、リ
スクに関する科学的根拠が明確なものを扱っている。また、疾患リスクを下げるために被
検者が取れる行動が存在するアクショナブルな疾患を対象としており、誰でも罹患する可
能性のある生活習慣病やがん等について、個人が将来その病気に罹患するリスクを遺伝子
の側面から分析して提供している。すなわち、対象疾患は、
「多因子遺伝病」と呼ばれるも
ので、遺伝子的側面からのリスクだけで直ちに発症を予知できる疾患ではなく、生活習慣
も大きく関与している。そこで、個人の遺伝子側からのリスクを説明した後に、その疾患
についてどのような生活習慣がリスクを高めるかを示すとともに、生活習慣の側からリス
クを減らすために必要なアドバイスを提供する。具体的には、がんや心疾患、糖尿病等の
疾患について、上記の観点から予防、早期発見に結び付く厳選した約 30 の疾患を選んで
いる。30 の疾患の中にはがんも含まれているが、これはリスクを認識することによる早期
発見がアクショナブルであるという考えによるものである。一方で、家族性のがんや単一
遺伝子疾患は扱っていない。これらの疾患は、カウンセリングのプロセス等も異なってお
り、遺伝子診療科等で扱う必要があるためである。アルツハイマー病に関しては、議論の
分かれるところで、実際に被検者に情報を提供するまでに検討を行う予定である。残りの
20 項目は、LDL コレステロールや HbA1c 等の検査値に関連する遺伝形質・体質等を調べ
ており、健康診断での生化学的検査の結果に、自分が持っている遺伝的ベースラインの情
報として記載する。また、薬剤応答関連遺伝子の項目も扱っている。
50 という検査項目数は、DTC 遺伝子検査サービスの MYCODE や GeneQuest で扱う
200~300 項目の遺伝形質に比べると少なくなっている。その理由は、ゲノム解析の結果
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第一章 医療ビッグデータの医療及び創薬への活用
によって、
「検査を受けよう」
、
「痩せよう」、
「栄養バランスの良い食生活に改善しよう」等、
何らかの行動変容に繋がるものだけに解析対象を絞っているためである。すなわち、項目
数を増やすことよりもアクショナブルであることを重視しており、被検者にとって情報提
供されても対処できない項目は含まれていない。将来へと繋がるゲノム解析結果を他の健
診結果と一緒に提供し、行動変容を促して行きたいというのが基本コンセプトである。
(2)データ管理
ゲノム解析に使用しているマイクロアレイはカスタムメードで、独自の項目を追加して
いる。サービスの対象とするのは 50 項目であるが、実際には他のデータも取得しており、
被検者からの同意は、東京医科歯科大学との共同研究への同意と、将来何らかの研究に用
いる場合は別途倫理審査を行った上で利用するという同意に分けて、個別に同意を取得し
ている。倫理審査を経ずにデータを二次利用するという包括的同意は取っていない。この
ような同意を踏まえて、将来の研究への同意をしている被検者の 50 項目以外の情報につ
いては、東京医科歯科大学と P5 の倫理審査を経て今後の研究に利用する可能性がある。
データの二次利用に同意をしていない被検者の情報に関しては、今回の研究終了時点で廃
棄する予定である。研究という観点からは網羅的に解析したいが、検査の効率化や被検者
の誤解を避けるためには解析範囲を狭める必要があり、そのバランスに配慮している。
今回の共同研究のデータの保管及び管理は、すべて東京医科歯科大学で行っている。
「健
康管理ゲノム情報の提供事業」のデータ活用については、P5 は共同研究者として共同研究
の目的の範囲内において個人情報を取り除いた形で利用することが可能である。他の民間
企業がデータを利用したい場合には、東京医科歯科大学と P5 の両者の合意が必要となる。
今回は共同研究であるが、将来の研究に関しても、その都度、倫理審査を行いながら進め
る予定である。
研究活動の継続のためには、データの共通基盤の構築が必要である。他の医療機関にお
ける実施については、まずは情報の散逸を防ぐような仕組み作りが必要である。ただし、
その場合、現在の国のデータシステムが統一化されていないことが障壁になる可能性があ
る。Yahoo や DeNA は独自の DTC 遺伝子検査サービスを通じて精力的にデータを集めて
おり、できるだけ自社で使えるようにすることによって新しい産業・サービスを生み出そ
うとしている。それに対して、P5 は、必ずしも 1 社・1 機関が占有的にデータを持ってい
ることが望ましいとは考えていない。データを共有して活用できる仕組み作りが将来的な
テーマであり、集めた情報を用いて何をすべきかという点を考えて行く必要がある。
(3)医師による説明及び指導
本サービスの特徴の 1 つは、解析結果を医師が対面で被検者に説明し、今後の予防のあ
り方について対話を通じて決めて行くことである。被検者への説明は、
「あなたのゲノムプ
ロフィール」に基づいて行うことになる。伝え方としては、被検者が理解できるような内
容のサマリーを用意し、それを踏まえて詳細な個別情報を説明した後、栄養士等の専門家
を交えて生活改善の指導等を行う。説明時には対処方法を提示し、被検者と医師が相談し
ながら今後の方針を決定する。予防においては被検者自身が意志をもって健康維持に努め
て行く必要があるので、提示した方法に納得してもらった上で方針を決めることが重要で
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第一章 医療ビッグデータの医療及び創薬への活用
ある。具体的には、栄養指導、ウェアラブルデバイスやスマートフォンアプリを用いた予
防行動等である。これらが実際に健康維持に役立てられるかどうかは、パイロットスタデ
ィーの中で検証する予定である。手厚いフォローアップも本サービスの特徴であり、追加
検診が必要な場合は提携医療機関で実施し、診療が必要な場合は外来診療への誘導を行う。
また、遺伝カウンセリングが必要な場合には、東京医科歯科大学医学部附属病院の遺伝子
診療科への紹介も行う。
このような P5 のサービスは、自由診療として医療機関を通じて提供される。その際に、
単独の商品としてではなく、人間ドックのオプション等でサービスを受けるというモデル
を想定している。すなわち、健康診断と併せて受けてもらい、その結果について包括的な
レポートを作成し、時間をかけて健康指導カウンセリングを行うというものである。特に、
高級人間ドックのようなモデルでのサービス提供が有望であるが、将来的な展開について
は、今回の共同研究の結果や利用者の満足度等を踏まえて検討する予定である。サービス
の価格についても検討中であるが、医師による相談や指導は不確定な要素が多く、価格設
定にも影響する。DTC 遺伝子検査サービスは数千~数万円の価格で提供されているが、医
師や栄養士による相談や指導等は含まれていない。一方で、P5 のサービスは、ゲノム情報
と健康診断結果や活動量データ等を併せて、より手厚く説明する付加価値のあるサービス
を目指しているので、DTC 遺伝子検査サービスの価格帯より高くなると想定している。
MYCODE でも、希望した被検者は遠隔で栄養士の指導が受けられるが、P5 のサービスは
それらがパッケージ化されており、問題や疾患が見つかった場合には医療機関での保険診
療にスムーズに繋げられるところが強みとなる。遺伝子解析による疾患リスク情報は、人
によって受け止め方が異なるため、伝えるタイミングや方法等も重要である。結果や検査
の限界についてきちんと医師が説明することが適切であり、商業ベースで行うためにはそ
こに価値を感じる利用者を増やして行く必要がある。
サービスの実用化に際しての懸念事項として、被検者に対して適切な説明ができる医療
関係者を如何に確保するかということが挙げられる。すなわち、一般の被検者の遺伝情報
に対する理解が進んでいないという前提で、医療関係者を通じて丁寧に情報提供する仕組
みを作る必要がある。
ただし、
取り扱う遺伝情報は飽くまでもリスク情報でしかないので、
臨床遺伝専門医である必要はなく、遺伝子・ゲノム情報に対するリテラシーを有して適切
な説明ができる医師であれば良いと考えている。将来的には、IT の仕組みを活用して専門
医に直接相談できるようなプラットフォームの構築も考えられ、そうすれば一般的なクリ
ニックでも受診可能になると思われる。さらに、遺伝情報に対する一般のリテラシーが高
まれば、遺伝子・ゲノム解析に関する状況は変わるかもしれない。
(4)ゲノム解析結果に基づく行動変容
通常の健康管理・生活指導との違いを考えた場合、疾患リスクが高いという遺伝子・ゲ
ノム情報を健診結果と一緒に知らせることで、より行動変容が起きやすくなることを期待
している。ただし、現時点ではゲノム解析のメリットは少なく、むしろ多くの被検者のサ
ービス利用を通じて情報が蓄積されることの方が重要かもしれない。例えば、現在は糖尿
病リスクが高いと判定されても、運動や食生活等の指導にとどまり、ゲノム情報を十分に
反映したソリューションは提供できていない。しかし、ゲノム解析を行った集団を追跡し
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第一章 医療ビッグデータの医療及び創薬への活用
て、どのような介入によって効果が上がったか等のデータが蓄積され、遺伝子型によって
効果のある介入方法が異なる等の結果が得られれば、効果的な個別指導も可能になると思
われる。そのような広がりを期待して現在の事業を行っている。P5 としては、予防医療、
ヘルスケア、健康行動等に関心を持っているが、成功事例が集まってきた時に、新たな情
報の使い方や社会的・産業的意義について知ることができれば良いと考えている。単にゲ
ノムを解析するだけでなく、ある意味で“生きたコホート”としてウェアラブルセンサー
を用いて睡眠や運動量等について継続的にセンシングすることも可能である。このような
多層的な情報が随時集まってくる仕組みは、将来的に価値を生み出す可能性を有しており、
P5 としてはその仕組みを作りたいと考えている。
これまでの結果によれば、被検者は自分の遺伝的背景を踏まえて検査値を理解すること
ができ、そこに納得感が生まれているようである。すなわち、検査値のベースラインにも
遺伝的背景による個人差があることを知り、必ずしも自分の生活習慣だけで検査値が悪く
なっているわけではないことを理解するのである。この事実を受け入れた上で、次の行動
変容を起こすことに繋がるという期待がある。今回のパイロットスタディーでも、どのよ
うな説明の仕方や内容が被検者に適しているのか、実績を積み上げて行く予定である。
4.ビジネス展開
今後の展開については、今回の東京医科歯科大学との共同研究によって、ゲノム情報を
活用した疾患の早期発見や予防を指向するサービス提供の仕組みをリーディングケースと
して構築する予定である。初めての試みであるため課題も多いが、研究途中で出てきた問
題点等を検証して、今後に展開できるような仕組みを構築する予定である。ゲノム情報提
供後の被検者のフォローアップについても、栄養指導等は 1 回きりで終わりにせず、継続
的に行う仕組みを作ることが重要である。一方で、医療機関を介した予防医療はビジネス
として困難な可能性もある。特に、ゲノム解析によって疾患リスクを見るという点がどれ
だけ利用者の共感を得るのか、難しいところである。
世界的なトレンドとして、予防医療の重要性が唱えられている。将来的には予防医療を
推進しなければ医療が成り立たなくなるとされており、予防医療市場の伸びが予想されて
いるが、そこに P5 がビジネスを展開して行くチャンスが期待される。P5 としては、この
分野の事業展開において、国の支援に頼るのではなく、まずは自らの手によって民間企業
主導で進められるモデルを構築することを考えている。厚生労働省の旗振りは重要である
が、民間企業でなければビジネスとしての規模感を作ることは難しいという認識である。
ただし、データベースを統合して国際的なレベルでゲノム情報を整備するという国の方針
は、P5 の方向性と一致している。したがって、ビジネス展開において 1 民間企業である
P5 に情報を集めるのではなく、医療機関やアカデミアとの共同事業を行い、皆が情報を使
える仕組みを構築するのであれば、
国の支援も期待できるであろう。他の可能性としては、
生命保険会社と連携して互いに有効活用できれば新しいビジネスに繋がることが考えられ
る。すなわち、保険給付を減らすといった価値をもたらすものとして、保険会社や健診サ
ービスとの親和性が高いと考えられる。
法律の整備等に関しては、現状ではゲノム指針で定められている研究の枠組みから大き
く逸脱する必要性はないと考えている。現在は DTC 遺伝子検査サービスに関する規制等
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第一章 医療ビッグデータの医療及び創薬への活用
は無いが、将来的に規制ができた際にビジネスとして問題が発生する可能性がある。一方
で、規制や指針が明示された方が扱える範囲が明確になるため、ビジネスとしては好都合
かもしれない。情報管理に関しては、遺伝情報が個人情報になるという指針等が出される
可能性があるが、この点に関しては、P5 では最初から遺伝情報を個人情報に準ずるものと
して扱っているので、ビジネスへの影響は少ないと考えられる。
将来的な展開としては、今回の共同研究の仕組みを基盤として、ゲノムをはじめとした
蓄積データを活用したビジネスを考えている。その際に、自社だけでデータを貯め込んで
独占的に使うという考えはなく、多くの方々に活用してもらえる仕組みを構築する予定で
ある。まだデータを集めている段階であるが、東京医科歯科大学や今後のパートナー企業
が納得できるような仕組みを作り、将来的には新しい価値を生み出すような基盤を整備し
たいとしている。
5.執筆担当者所感
P5 のサービスの特徴は、単にゲノム解析を行うだけでなく、それをベースにして健康管
理や疾病予防に繋げて行くことである。その際に、医師等の専門家による診察や指導を行
う点が、ゲノム解析のみを行うような通常の DTC 遺伝子解析サービスと大きく異なって
おり、P5 もその点を強調している。したがって、このような医療関係者を巻き込んだ体制
の構築と、それが世の中に受け入れられるような仕組みを構築することが、ビジネス上の
課題となっている。特に、ゲノム情報を疾病予防にどのように活用し、被検者のモチベー
ションをどのように維持するかが興味深い点である。これらの課題を検証するのが、今回
の P5 と東京医科歯科大学との共同研究であり、その結果を踏まえて将来的な仕組みを構
築して行く予定であるとのことである。
ゲノム解析に限らず、医療分野は国の規制や方針等に大きく影響を受けるが、P5 として
は自らの力でビジネスを展開して行くことを考えている。その際に、多くの方々に使って
もらえるような基盤を構築することを目指していると、繰り返し述べていたのが印象的で
あった。すなわち、P5 は人々の健康情報とゲノム情報を集める仕組みを作るが、その先の
新しい価値の創造は様々な方に自由に取り組んでほしいという考えである。場合によって
は商業ベースでなくても良いと考えており、多くの外部の方々が入って来て新しい価値を
生み出すところに、情報基盤として貢献したいと考えていることも印象的であった。遺伝
子診断サービスに関しては、現時点では短期的なビジネスとして利益を得ることは難しい
かもしれない。したがって、このような一見無欲なアプローチでとりあえずビジネスに参
入し、早期に仕組みを構築することが重要かもしれない。それを用いることによって将来
的な利益へと繋げるような方針が有効であろう。また、ビジネスモデル等に関しても、詳
細は定まっていないようであり、どのように利益を得るかという点も検討中とのことであ
る。今回のパイロットスタディーによってニーズを探り、課題を洗い出し、それをベース
にビジネスを考えて行くと述べていた。
ただし、1 企業として P5 を見た場合、設立から 2 年近くが経つが、まだ利益を上げて
いない点に注意が必要である。設立時に調達した資本金と資本準備金の合計 2 億 3,750 円
を使いながらビジネスの立ち上げを行っており、今回の東京医科歯科大学との共同研究が
ビジネスに向けての具体的な第一歩となる。また、遺伝子・ゲノム情報がどこまで健康管
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第一章 医療ビッグデータの医療及び創薬への活用
理に有用であるか、不明な点も多い。これに関しては、サービスの普及に伴って、ゲノム
情報と健康データ、健康管理の結果等との相関が蓄積されてくれば、将来的には有効に活
用されるようになるというのが希望的な予測である。例えば、遺伝子タイプに応じた適切
な健康管理も実現するだろう。さらに、そこにはウェアラブルな端末を介した身体データ
や行動データの取得等も組み合わされ、より効果的な健康管理へと繋がり、ビッグデータ
の活用等を含めてソニーとしての強みが発揮されることが期待される。このように、ゲノ
ム解析のみの DTC 遺伝子検査サービスが期待ほどには普及していない現状に対して、付
加価値を付けることによって状況を打破し、ゲノム情報の医療における利用をどのように
進めるか、1 つの野心的な試みとして期待したい。
【参考資料】
1)
P5 株式会社ホームページ:http://www.p5genome.com/
2)
東京医科歯科大学ホームページ:http://www.tmd.ac.jp/
3)
東京医科歯科大学 疾患バイオリソースセンターホームページ:
http://www.tmd.ac.jp/brc/
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第一章 医療ビッグデータの医療及び創薬への活用
(7) 「hitoe」をはじめとするウェアラブルセンサ技術の概況
ヒアリング先:
日本電信電話株式会社
デバイスイノベーションセンタ
佐藤
NTT 先端集積デバイス研究所
小泉
康博
主席研究員
弘
主幹研究員
要約
近年、ビッグデータのインプット端末としてウェアラブルセンサの技術革新が進んでお
り、民生用としては、Apple Watch、Google Glass、
「hitoe」に代表されるウェアラブル
端末が既にコンシューマ向けに提供される時代となっている。ウェアラブルセンサは、リ
アルタイム且つフルタイムで生体情報を収集できる有用なツールとなることから、医療用
途への展開が期待されている。現状ではウェアラブルデバイスは、一般コンシューマ向け
を中心に展開されているが、データ主導型医療のツールとしての展開を想定した場合、幾
つかの課題を解決していく必要がある。1 つ目は、医療用の生体センサとして安全性と有
効性が医療機器レベルの信頼性まで作り込まれているかどうかということで、2 つ目は、
作り込まれた製品で企業が容易に参入できる法規制運用体系(医療機器としての承認審査
の流れを明確化し、審査の迅速化を図る等)が、整備できているかどうかということであ
る。3 つ目は、ウェアラブルデバイスから得られた情報をどう解析し、どう治療にフィー
ドバックさせていくかという、データの解析と活用方法の確立であり、4 つ目は、取得し
た情報の管理体制の整備(法規制も含む)である。現在、実際の医療への応用は医療機器
規制の壁が高く、停滞しているが、ヘルスケアの意識の高まりもあり、セルフメディケー
ションを中心に非侵襲性タイプのウェアラブルデバイスが一般消費者の一部に浸透し始め
ている。今後はセンサの更なる技術革新により、医療現場に導入可能なウェアラブルデバ
イスの提供が予測され、予測医療や近い将来のデータ主導型先制医療のツールとして活用
され、ビッグデータと連携して個々の患者へのフィードバックによる医療の質の向上並び
に新たなビッグデータ解析による創薬への応用が図られる時代がやって来ると期待される。
1.はじめに
従来の生体情報取得ツールとしてのセンサは、医療機関等に設置され、持ち運び可能な
デバイスでは無く、その使用目的は飽くまでも医療機関におけるその時点のデータ収集に
限られている。リアルタイムでフルタイムの生体情報をモニタリングすることは、生体状
態のダイレクトな日常変化を視ることが可能となり、より適切な診断と治療ができること
から、古くからウェア型のデバイスによる生体情報の取得の試みがなされてきた。昔のウ
ェアラブルデバイスは、生体情報を取るという本質的な目的よりも、コンピュータを身に
着けて、先ずは歩けるようにしようという世界観でしかなかった。
近年、コンピュータと各種デバイスの小型化が急速に進み、特にスマートフォンの登場
と普及によりウェアラブルが現実的な形となってきた。実際、スマートフォンは、ここ数
年で CPU の性能が爆発的に向上し、昔のスーパーコンピュータを持ち運んでいるような
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第一章 医療ビッグデータの医療及び創薬への活用
環境を提供している。
また、スマートフォンの普及とともにインターネット環境の整備(通信速度の高速化と
高容量化)が進み、デバイスから取得したデータのインターネット環境での利用が容易に
なると共にクラウド環境も整備され、医療ビッグデータとの連携も可能な環境が形成され
つつある。
さらに 2015 年に入ってからは、IoT(internet of things)というモノに繋がるインター
ネットという概念にもあるとおり、デバイスと世の中にある環境情報(光の照明、温度、
振動、湿度等)がインターネットに繋がり、リアルタイムでクラウド環境に情報がアップ
される状況となっている。特に対象が人の場合は、デバイスを身に着けることで、心拍数、
心電位等をはじめとする生体情報を無意識にビッグデータ化していくことが可能である。
医療における将来的なウェアラブルデバイスの展開としては、人の生体情報(心拍数等)
と環境情報(温度、照度等)
、そしてビッグデータを結び付けることで、より適切な診断と
治療方針の決定に活用できると期待できる。また、フルタイムで生体情報が取得可能な特
徴を活かし、異常時の救急対応や、日内変動のデータ解析による新たな視点での創薬への
応用展開も期待できる。
2.ウェアラブルセンサを取り巻く医療情勢
近年医療費が増加し、ついに総額が 40 兆円を超え重要な社会問題になっている。平成
25 年度の医療白書によると、毎年 1 兆円ずつ増加していく傾向があり、2020 年には 47
兆円、2025 年には 52 兆円を超えてくると予測されている。総医療費のうち 65 歳以上の
医療費が、半分以上を占めており、医療費抑制には 65 歳以上の医療費をどう抑えるかが
鍵となっている。
現在の 65 歳以上の人口の大多数はアクティブシニアと言われており、大多数の人は健
康で、自らの健康維持に努める傾向が強くなってきている。我が国では、「日本再興戦略」
(平成 25 年 6 月閣議決定)の「戦略市場創造プラン」のもと、健康寿命の延伸をテーマ
として掲げ、社会環境としてもセルフメディケーションの機運が高まっている。健康のセ
ルフチェック(運動や食事、睡眠等生活習慣の改善/維持)を含めた広義のセルフメディケ
ーション(セルフヘルスケアシステム)が拡がれば、健康寿命が延伸し、医療費が削減で
きるのではないかと予防医療の観点で各種施策が実施されている。
3.「hitoe」に見るウェアラブルデバイスの技術開発
着用型デバイスの開発は、欧米では以前から取り組まれていたが、実際には非常に着心
地が悪く、測定するためだけに身に着けるようなもので、ウェアラブルとして本格的に普
及していくようなデバイスではなかった。NTT では、現実的なウェアラブルデバイスを開
発する上で、日常のウェアとして違和感の無い着心地で、実際に医療や健康のために使え
るようにしていくことを想定して開発を行い、「hitoe」(human to expand intelligence)
の商品名で、2014 年 1 月より東レ株式会社と共同で市場投入を図ってきた。
これまで、世の中にある心電計は、ホルター心電計の様にジェルを付けることを必要と
したり、汗をかけば剥がれたり、人によってはかぶれたりする問題を有していた。一方で、
ウェアとしてスポーツ時に身に付けるものは、銀のテキスタイルを使い、固めで長い時間
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第一章 医療ビッグデータの医療及び創薬への活用
付けるには不快であった。そこで NTT では、生体親和性の高い導電性高分子 PEDOT-PSS
とシルクとの複合素材を用いることで心電計としての生体電極が実現できると考えた(図
1)
。実現化に当たっては、ウェアとしての実績と繊維技術の蓄積がある東レとの共同開発
により進めた。ウェアラブルデバイスである「hitoe」では、ウェアとしての着心地と心電
計としての機能を両立させるため、先述の導電性高分子:PEDOT-PSS の採用と通常の化
学繊維の径 15 ミクロンより小さいナノファイバーを採用にすることで皮膚との接触感と
抵抗性を改善すると共に、伸びてもきつくないという特徴がある東レ素材のプログレスキ
ンを採用し、心電計としての密着性を解決した(図 2)。
図1.ウェアラブルデバイス「hitoe」開発に当たっての技術的ポイント
(NTT・小泉弘氏、佐藤康博氏提供資料)
図2.ウェアラブルデバイス「hitoe」に採用された技術
(NTT・小泉弘氏、佐藤康博氏提供資料)
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第一章 医療ビッグデータの医療及び創薬への活用
また、ウェアとして機能を低下させないようにするためのトランスミッターの着脱機能
の付加や、デバイスとして機能させるために使用時にショートしない配線設計、V5 に相
当するような波形が得られる CC5 誘導域近傍への電極設定を行っている。さらに着脱式ト
ランスミッターから取得した心電位データを Bluetooth を使ってスマートフォンへ転送し、
アプリ画面で医療用の貼り付け電極とほぼ同じような波形を確認することができる使用環
境を提供している(図 3)。
「hitoe」の開発コンセプトからも分かるように、センサを意識
しないウェア感、センサとしての必要十分な性能、そして適切なデータ管理環境を提供で
きることが、継続して使用できるウェアラブルデバイスとしての条件である。これらを満
たすためには、異業種との連携や、素材技術を含め新しい技術の開発が促進されることが
要求される。
図3.ウェアラブルデバイス「hitoe」の心拍数・心電位連続測定システム
(NTT・小泉弘氏、佐藤康博氏提供資料)
4.「hitoe」にみるウェアラブルデバイスの応用範囲
「hitoe」は、心電位センサとしてのウェアラブルデバイスとして開発され、一般消費者
向けと言うだけでなく、将来の方向性として医療機器としての活用も考慮している。現在
の医療用電極は、一度剥がれてしまうと再び貼り付けることは困難であるが、
「hitoe」は、
トランスミッターの着脱を可能とし、必要な時に容易にリアルタイムで心電位を計測し、
デバイスとなっている。現在は医療機器ではないため診断することができない仕様となっ
ており、異常値が出た際のアラームには対応していないが、数値データを表示し、電極が
外れてしまった時には、電極接触の不良も表示できる様になっている。「hitoe」では、心
電位が見られることと脈拍数(心拍数)揺らぎが連続 40 時間程度リアルタイムで測れる
ことから、心拍の揺らぎが測れるため、状態変化がモニタできる。そのため、単なるヘル
スケア用途以外への展開が試みられている。
現在は、ランナーのトレーニング用ウェア兼心拍計測デバイスとして普及し始めている
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第一章 医療ビッグデータの医療及び創薬への活用
が、上述のように、装着している人の状態が管理・確認できることからメンタル面の変化
のチェックや睡眠時状態のチェック、安全管理適用等への応用が検討されている。ウェア
ラブルのデバイスであれば、心拍に加えて、脈拍間隔の R-R 波の抽出による揺らぎを解析
できることから、リラックス状態等メンタルの変化の把握に応用できる。例えば、社員の
重要面接のときに着用させてデータを取ってみると、面接前はリラックスしているが、あ
るタイミングの R-R の間隔で見ると、緊張している時は R-R の間隔が一点に集約して来
る(図 4)。一方、睡眠中の心拍数を採取、解析すると、就寝前は少し緊張しているが、就
寝して熟睡するとリラックスした状態であることを確認することができる(図 5)。
図4.ウェアラブルデバイス「hitoe」の使用例:緊張・リラックスの度合いの把握
(NTT・小泉弘氏、佐藤康博氏提供資料)
図5.ウェアラブルデバイス「hitoe」の使用例:睡眠中の心拍変動
(NTT・小泉弘氏、佐藤康博氏提供資料)
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第一章 医療ビッグデータの医療及び創薬への活用
また、NTT コミュニケーションズと大林組は安全管理への応用展開として、クラウド環
境とウェアラブルデバイス「hitoe」の利点を活かし、建設現場や屋外作業のような熱スト
レスが掛かっている職場環境でのデータ収集と解析を行い、情報フィードバックを行うこ
とで安全管理が強化できないかという実証実験も進めている(図 6)。
図6.ウェアラブルデバイス「hitoe」のビジネス展開:安全管理への活用
(NTT・小泉弘氏、佐藤康博氏提供資料)
上述の NTT の取組みからも分かるように、現在のウェラアブルデバイスには日常生活
を阻害せずに、且つ長時間リアルタイムの生体情報を取得できることが要求事項となって
いるが、近年技術的にも可能なレベルとなってきていることから、医療、健康管理、スポ
ーツ等のフィジカル面だけでなく、学習、安全管理等のメンタル面を含めた広い範囲への
応用展開が期待できる。また、利用対象もパーソナルユース対象だけでなく、安全管理等
を含めたコモンユースへの展開もあり、ソーシャルデバイスとしての拡がりを見せている。
5.NTT に見るウェアラブルセンサを指向した取組み
NTT グループでは、心電位や脈拍等のバイタルデータを採取する以外にもウェアラブル
デバイスへの応用を指向した様々なセンサ技術の開発を進めている。
先ず、非侵襲の血糖値センサ技術の開発を紹介する。ウェアラブルという言葉と親和性
の良い非侵襲という言葉を取り上げ、体を傷付けない、できれば触れないでデータを取る
ことができるということをコンセプトに、2 つの波長の光を生体内のグルコースへ交互に
照射する方式で目的とするグルコース量を非侵襲的に測定する方法を研究している。この
測定原理は、血糖成分への吸収が大きな波長の光(A)とその波長から少しずれた波長の
- 64 -
第一章 医療ビッグデータの医療及び創薬への活用
光(B)を交互に当てると、波長によってグルコースが吸収する光量差が生じる現象を利
用したものある。光が当たった箇所はエネルギーを吸収した時に熱膨張し、光が当たって
いない時は逆に収縮することから、A、B を繰り返し当てることで超音波が発生する。光
は生体内で強い散乱を受けるが、超音波は水の中の通りが良いので解析しやすく、その光
量差が反映した音波を解析することでグルコース量を測ることができるというものである
(図 7)
。
図7. 非侵襲性血糖値センサの作動原理
(NTT・小泉弘氏、佐藤康博氏提供資料)
次にテラヘルツ帯の波長を使用したフルバンド分光分析技術の紹介をする。NTT では、
電波を通信媒体として利用してきたという強みがある。マイクロ波から赤外光までの広い
周波数帯を分析すると、単波長の光ではわからなかった物質特有のプロファイルが見える
ことを突き止め、フルバンド分光分析手法での生体成分の非接触型センサ実現化を検討し
ている(図 8)
。
- 65 -
第一章 医療ビッグデータの医療及び創薬への活用
図8. フルバンド分光分析手法による非接触型生体成分センサの開発
(NTT・小泉弘氏、佐藤康博氏提供資料)
特に、テラヘルツ帯で連続光(continuous wave)の検波を利用し、吸収と位相解析の
両面でのアプローチにより、
「コクリスタル」(共晶:ある結晶の中に違った結晶が入り込
んでいる構造)の測定を実現化し、例としてカフェインとシュウ酸の構造を特定している
(図 9)
。この分光イメージング技術は、物質の分光による特定と、どこに求める構造があ
るのかという位置情報を画像として解析できる環境を提供してくれている。
図9. テラヘルツ帯で連続光の検波を利用した錠剤の「コクリスタル」の測定
(NTT・小泉弘氏、佐藤康博氏提供資料)
- 66 -
第一章 医療ビッグデータの医療及び創薬への活用
NTT では上述した 2 つのセンサ技術以外にも抗原抗体反応による細菌検査を行う表面
プラズモン共鳴センサやレーザードップラー方式による血流センサ、耳の浅側頭動脈別枝
を捉えて測るといったような血圧センサ等の各種センサを開発してきたと共に、デバイス
からのデータを管理運用するクラウド環境等の情報処理の技術開発を進めている。
6.ウェアラブルデバイスと法規制、社会動向
ウェアラブルデバイスは身に付けることを前提としている性格上、ベネフィットと共に
多くのリスクが潜在的にある。利用者保護の観点から、安全性、環境、電磁波や電波、化
学物質等、多くの法規制により守られている。加えて、ウェアラブルデバイスでは生体情
報という重要な個人情報を取り扱うことになる事から、個人情報保護法の対象として、情
報の取得から保管、利用に亘る全般的な情報セキュリティ管理体制の整備が運用上の今後
の課題である。既にウェアラブルデバイスの多くは、すぐに医療用途へ転用できる性能レ
ベルとなっていることから、早急な法規制の体制作りが必要である。
一方、現実の課題として「hitoe」の例を挙げると、NTT ドコモのホームページでも紹
介しているとおり、心電位が取れる機能も入っており、心電位を診ることができるソフト
を提供すれば、すぐにでも医療領域での利用が可能となる現状にあるが、医療用途適用へ
はさらなる信頼性の高いエビデンスの蓄積とともに認知度を高めていくことが必要なため、
現在は、ヘルスケアの範疇に留め心拍に限定したサービスとしている。ウェアラブルデバ
イスに係る多くの企業が医療機器レベルを指向してデバイス開発を進めているが、日本で
は医療機器としての使用を目的とした場合、審査期間が長いことや、膨大なデータが要求
される等、デバイス開発への障壁は高く、企業にとってはウェアラブルデバイスの出口を
ヘルスケア等のコンシューマ向けとしているのが現状である。今後、医療領域でウェアラ
ブルデバイスを活用する場合、医療機器の審査期間の短縮や審査基準の明確化等を含め、
法規制の柔軟な運用と体制の整備が望まれる。
7.執筆担当者所感
ウェアラブルデバイスはコンシューマ向けにヘルスケア市場を主なターゲットとして、
世の中に拡がりつつある。この状況下、最終的に企業は、ウェアラブルデバイスを医療機
器で活用することを視野に入れていることが分かった。しかしながら、現状は医薬品医療
機器等法による規制と審査期間の長期化等もあり、企業の医療機器としての開発参入が遅
滞しているように受け止められる。今後、有効性と安全性を有していることが前提である
が、関連する種々の規制緩和を進めると共に審査の迅速化と簡略化を図り、医療領域での
ウェアラブルデバイスの応用展開ができる環境が整備されていくことを期待する。
一方、ウェアラブルセンサの技術革新は日進月歩で進んでおり、バイタルサインを非侵
襲的に計測するセンサ技術だけでなく、生体成分分析を含む生体情報を侵襲タイプから非
侵襲タイプで計測するセンサ技術へと進展してきている。また、クラウド技術を含むデー
タ通信の技術に加え、データ解析技術等、ウェアラブルデバイスを取り巻く環境も整備さ
れ始めていると感じた。ウェアラブルセンサの技術革新により、24 時間のリアルタイム生
体情報が正確に取得、解析できるようになると、また違った視点で創薬や医療に活用でき
ると考える。
- 67 -
第一章 医療ビッグデータの医療及び創薬への活用
今後、ウェアラブルデバイスを取り囲む環境は、IoT の技術革新等により、ヒトとモノ
とがインターネットに繋がり医療が連携する時代に突入していくことになると想像できる。
その際には、個人情報でも最も重要な生体情報がネットワーク上からアクセスできること
が想定されることから、ますます、プライバシー管理体制を含めた情報セキュリティの強
化とその信頼性の向上が今後の課題と考えられる。
最後に、ウェアラブルデバイスを医療領域並びに関連領域で個人レベル並びに社会レベ
ルで有効活用し、医療の質の向上や健康長寿社会の実現に向け、産官学が連携して更に進
むことを期待したい。
- 68 -
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
はじめに
厚生労働省の 2016 年度創薬関連予算として、AMED の“疾病克服に向けたゲノム医療
実現化プロジェクト”に 89.4 億円が配分される等、国を挙げてゲノム医療の実用化に向け
た事業が推進されている。しかし、ゲノム医療の実現に向けては、技術的な問題、産学官
の連携、データベースの整備、診断システムの整備、電子カルテの標準化、保険償還の可
否、薬事規制・審査基準の明確化、個人情報の保護等々、まだまだ課題は多い。
そんな中、静岡がんセンター「プロジェクト HOPE」及び国立がん研究センター
「 SCRUM-Japan 」 で は 、 が ん 組 織 中 の 遺 伝 子 変 異 を 次 世 代 シ ー ク エ ン サ ー (Next
Generation Sequencer:NGS)により解析し、早期診断や新たな治療法開発に繋げる研究
を実施している。本章の最初(第 1、2 題)に、これらゲノム医療関連プロジェクトの取
組みと成果を紹介する。特に「SCRUM-Japan」は、全国の医療機関と製薬企業が一体と
なったプロジェクトであり、産学連携のモデルとしても参考になると思われる。
プロテオーム(グライコプロテオームを含む)及びメタボローム関連では、アカデミア
が、質量分析器(Mass Spectrometer:MS)を用いた解析による新規バイオマーカーの探
索及び実用化の研究を精力的に進めている。本章の中盤(第 3~6 題)では、これら 4 つ
の取組みと成果を紹介する。横浜市立大学では、タンパク質の翻訳後修飾異常を検出・同
定する新しい技術を用いた卵巣明細胞腺がんの新規診断マーカーの探索に成功した。医薬
基盤・健康・栄養研究所(基盤研)では、三連四重極質量分析装置を使った SRM/MRM
(Selected reaction monitoring/Multiple reaction monitoring)法を使い、再発大腸がん
の新規バイオマーカー候補 3 種類を見出した。産業総合技術研究所(産総研)では、糖鎖
プロファイリングを行う高感度レクチンマイクロアレイ法と N-型糖鎖結合タンパク質の
網羅的構造解析法を活用し、肝線維化のバイオマーカーの開発に成功した。最後に、神戸
大学では、血液試料中のメタボロームバイオマーカーを、MS を用いたメタボローム解析
手法により特定し、それらを安定的に定量する検査・解析機器の開発を行っている。特に
産総研の研究成果は、企業の協力のもと、検査キットとして薬事承認され、横浜市立大学
と神戸大学の研究成果についても企業との協力で薬事承認を目指している等、一定の成果
が得られている。
本章の最後(第 7、8 題)では、さらに先進的な取組みとして、多層的オミックス解析
及び転写産物解析への取組みを紹介する。国立循環器病研究センターでは、拡張型心筋症
と動脈硬化性大動脈瘤を主な研究対象とし、多層的オミックス解析データを統合してバイ
オマーカーを探索している。理化学研究所では、ある特定遺伝子の転写制御不良が疾患の
原因となっている事例が多数報告されていることから、CAGE(Cap Analysis Gene
Expression)法による転写開始点解析と FANTOM5 データベースを用いて転写制御ネッ
トワークを明らかにし、新規でユニークなバイオマーカーの探索に繋げようとしている。
本章では次頁の表に示した有識者、専門家にヒアリングを行った。
- 69 -
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
第二章関連ヒアリング先とヒアリング概要
カテゴリー
ヒアリング先
概要
ゲノミクス
(がん一般、肺が
ん、消化器がん)
静岡がんセンター/プロジェ
クト HOPE
(セミナー参加、山口 健 総
長からの情報提供)
国立がん研究センター
先端医療開発センター
トランスレーショナルリサーチ
分野
土原 一哉 分野長
820 の細胞がん化関連遺伝子(SCC820)
及び 62 の分子標的になり得る遺伝子のエ
キソン解析及び全遺伝子発現解析結果に
ついて。
肺がんを対象とした LC-SCRUM-Japan と
消 化 器 が ん を 対 象 と し た
GI-SCREEN-Japan を統合した産官連携
“がんゲノムスクリーニングプロジェクト
「SCRUM-Japan」”の概要について。
タンパク質の翻訳後修飾異常を検出・同定
する新しい技術を活用した「病気の予防」、
「修飾異常の治療薬開発」及び「修飾異常
の診断薬開発」の早期実現化への取組み
並びに卵巣明細胞腺がん及び肺腺がんの
マーカーについて。
最先端のプロテオミクス技術を駆使したが
ん(大腸がん、前立腺がん、腎がん)や神
経疾患等(アルツハイマー病、家族性高コ
レステロール血症、重症薬疹、COPD 等)
の新規バイオマーカータンパク質の探索に
ついて。
糖鎖解析基盤技術として開発した、糖鎖プ
ロファイリングを行う高感度レクチンマイク
ロアレイ法と N-型糖鎖結合タンパク質の網
羅的解析法を活用した、肝線維化バイオ
マーカー「M2BPGi」の探索と開発につい
て。
質量分析(MS)を用いたメタボローム解析
手法による、がんの早期診断、治療効果、
毒性や再発予測等に役立つメタボローム
バイオマーカーの特定とそれらを安定定量
する検査・解析機器の開発について。
国立高度専門医療研究センター(6 施設)
とオミックス解析研究者との研究共同体に
よる「多層的疾患オミックス解析研究(平成
22~27 年度)」の成果。拡張型心筋症と動
脈硬化性大動脈瘤の疾患バイオマーカー
を中心に。
FANTOM5 プ ロ ジ ェ ク ト の 成 果 。 eRNA
(enhancer RNA)によって制御されるプロ
モーター活性と疾患の対応関係より、転写
開始点解析からの新たなバイオマーカー
探索や予測医療への道が開けつつある。
1
2
3
横浜市立大学
平野 久 名誉教授
4
医薬基盤・健康・栄養研究所
/プロテオームリサーチプロ
ジェクト
朝長 毅プロジェクトリーダー
5
産業総合技術研究所
創薬基盤研究部門
織田雅直 部門長
糖鎖技術研究グループ
梶 裕之 研究グループ長
久野 敦 上級主任研究員
メタボロミクス
(大腸がん)
6
神戸大学大学院医学研究科
病因病態解析学(疾患メタボ
ロミクス)
吉田 優 分野長
多層的オミックス
(拡張型心筋症、
動脈硬化性大動
脈瘤)
7
国立循環器病研究センター
創薬オミックス解析センター
南野 直人 センター長
8
理化学研究所/予防医療・
診断技術開発プログラム
林崎 良英 プログラムディレ
クター
プロテオミクス
(卵巣明細胞が
ん、肺腺がん、大
腸がん、アルツハ
イマー病)
グライコプロテオ
ミクス
(肝線維化)
転写制御ネットワ
ーク
- 70 -
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
(1)
静岡がんセンター「プロジェクト HOPE (High-tech Omics-based Patient
Evaluation)」におけるマルチオミクス解析に基づくがんの個の医療への取
組み
静岡がんセンター・プロジェクト HOPE セミナー(2015/7/17 開催)及び
静岡がん会議サテライトフォーラム第 2 部(2015/9/8 開催)にて情報収集
要約
プロジェクト HOPE は、「近未来のがんゲノム医療のシミュレーション」を目的として
静岡県立静岡がんセンター(SCC)で立ち上げられたプロジェクトであり、全エキソン解
析、全遺伝子発現解析を主軸とし、必要に応じてプロテオーム解析、メタボローム解析を
加え、オミクス解析データに基づくがんの個別化医療実践のための基盤形成を目指してい
る。プロジェクト HOPE の特徴は、がん患者治療件数で我が国トップスリーの一角を占め
る静岡がんセンター単独の研究で、登録患者から摘除、採取されたがん・正常組織及び血
液試料の解析データと診療情報とが紐付いて統合解析され、解析データを一人ひとりの治
療に活用することが可能である。
プロジェクト HOPE では、820 個の細胞がん化関連遺伝子 SCC-820(細胞の分裂・不
死化・分化及び浸潤・転移・血管新生・免疫抑制等のがんの微小環境改変に関わる因子等
を含む)と、62 の細胞がん化には関連しないが分子標的に成り得る遺伝子に着目しながら、
現時点で、全エキソン領域のシークエンシング解析(エキソン解析)と全遺伝子発現解析
を実施している。その結果、94%(解析検体数 1,101)の試料で腫瘍特異的な一塩基バリ
アント(SNV)が検出され、遺伝子発現解析においては、99.4%(解析検体数 909)の試
料で腫瘍特異的な発現変化(正常組織の 10 倍以上、あるいは 1/10 以下)が見られること
を明らかにしている。
さらに、キナーゼドメインを有する遺伝子等、がんの発生に深く関与している可能性が
強い遺伝子の構造に注目した場合、全エキソン解析において、684 試料(62%)に腫瘍特
異的 SNV が検出された。いわゆる“ドラッガブル(がんの原因となる遺伝子変化に対し
分子標的薬が存在している)”な観点から分析すると、これらの 684 試料は、既承認分子
標的薬の適応となる変異が 59 試料(5%)、既承認分子標的薬の適応外処方となる変異が
103 試料(9%)
、臨床治験中薬剤の対象となる変異が 31 試料(3%)となり、これらのデ
ータや症例は、既承認分子標的薬の適応拡大、そして治験中薬剤の対象疾患のリクルート
に有用な情報となる。
また、プロジェクト HOPE では、分析対象となっているすべてのがん腫について、いわ
ゆるパッセンジャー変異(がん化には関与しないが免疫療法の標的となるタンパク質レベ
ルの変化には関与する)についても解析データが集積されており、免疫チェックポイント
阻害剤のバイオマーカーである腫瘍特異的 SNV 数のデータが、我が国では初めて数千例
単位で蓄積されつつある。
ちなみに、プロジェクト HOPE にリクルートされている症例の多くは、ステージ II あ
るいは III に属する各種のがんであり、将来、約半数が再発すると考えられ、今回得られ
た解析データは再発時の治療方針決定にも重要な役割を果たすものと期待される。
- 71 -
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
プロジェクト HOPE は、マルチオミクス解析データに基づくがん医療を、以下の 3 点
で促進し得る。
(1)患者の遺伝的背景情報を整備することで「個別化医療」を促進し、更
に豊富な量の臨床検査サンプルを確保することで、新規方法論や技術の進展に応じ、例え
ば全ゲノムシークエンスやエピジェネティック解析等に繰り返し利用できる点、
(2)生殖
細胞系列の遺伝子変異の解析により患者体質の遺伝情報が得られ、遺伝性疾患の発症リス
クを予見でき予防的治療が可能になる点(これは患者のみならず血縁者にとっても有用)、
(3)医療スタッフが、患者の遺伝的変化と臨床症状との関連性について学び、ゲノム医
療を習得する機会を提供することでがん治療の改良に繋げる点である。さらに本プロジェ
クトにおいて、がん組織の解析で見つかった新規の遺伝的変化が、新規分子標的薬剤、バ
イオマーカー及び腫瘍マーカーの開発に繋がることが期待される。
1.はじめに
静岡県立静岡がんセンター(静岡がんセンター)は、マルチオミクス解析から得られる
情報を臨床応用することに病院ベースで取り組んでおり、当センターの立ち上げたプロジ
ェクト HOPE は、その情報を創薬、診断薬の開発のみならず、個々の患者に適した治療の
ために活用することを目指している。今回、7 月 17 日(静岡がんセンター)及び 9 月 8
日(丸の内トラストタワー)で実施された「静岡がんセンター・プロジェクト HOPE セミ
ナー1)」及び「静岡がん会議サテライトフォーラム 2)」に参加し、プロジェクトの中核施
設である静岡がんセンター(病院・研究所)を見学すると共に、山口建総長及びプロジェ
クトメンバーの講演から、プロジェクトの概要、研究成果及び今後の展望について情報を
収集してまとめた。なお、セミナー後、解析数等最新の情報を山口総長から提供いただい
た。
2.プロジェクト HOPE の概要3)
(1)プロジェクト HOPE の目標
プロジェクト HOPE は、2014 年 1 月から開始された。第一次となる 3 年間の研究期間
内に、静岡がんセンターで外科手術を受ける 3,000 人のがん患者の臨床試料(手術時に摘
除されたがん・周辺正常組織、血液)及び臨床情報を収集する予定である。患者登録、試
料採取は順調に進み、2015 年 12 月末の段階で、2,100 症例あまりが登録され、1,700 症
例あまりの解析を終えている。
プロジェクトの目標は、試料のマルチオミクス解析と臨床情報を統合解析し、がんの本
態解明のため細胞のがん化(分裂・不死化・分化)や微小環境の変化(浸潤・転移・血管
新生・免疫抑制)等が生じるメカニズムを明らかにすることにある。その過程で、腫瘍マ
ーカーやバイオマーカーの開発が進められる。また、既存の抗がん剤の適応拡大、さらに
は新規分子標的薬の標的探索が行われる。実地医療の観点からは、患者ごとの臨床情報と
オミクス情報が照合されることから、personalized medicine(個別化医療)を更に発展さ
せた individualized medicine(個の医療)を実現し、ひいてはがん患者の全人的医療の実
現を指向している。
- 72 -
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
(2)実施体制
プロジェクト HOPE の実施主体は静岡がんセンター病院及び研究所であり、職員約 200
名が参加している(図 1)。株式会社エスアールエル(SRL)からは共同研究契約により 3
名の技術人材が派遣されている。プロジェクトに対して国等からの経済的な支援はなく、
独自の予算で実施している。
図1.静岡がんセンターにおけるプロジェクト HOPE 実施体制
センターあげての取組みで約 200 名の様々な職種が参加している。
(静岡がんセンター・山口建氏提供資料)
(3)プロジェクトの特徴
プロジェクト HOPE の特徴と実験デザインを図 2 及び図 3 に示した。がん患者の手術
時の摘除組織及び血液について、体細胞遺伝子変異及び生殖細胞系列遺伝子変異の両面か
ら解析される。新鮮な手術摘除組織が十分量、凍結保存されるため、解析精度が確保でき、
試薬等が変更されたときにも繰り返し解析して検証できる。さらに、マルチオミクス(ゲ
ノミクス、トランスクリプトミクス、プロテオミクス、メタボロミクス)解析が可能とな
る。
個々の患者ごとに、解析データ(遺伝子構造変化と遺伝子発現変化)と臨床データが統
合された臨床・マルチオミクス統合データベースが構築される。このデータベースは、将
来の個の医療実現の基本となり、がんの易罹患性の評価、がん患者の予後予測のほか、特
定薬剤の薬物代謝酵素遺伝子の遺伝子多型データ等から効果・副作用予測等にも役立つも
のである。
このプロジェクトでは、生殖細胞系列遺伝子変異が解析されることから、遺伝性がんに
加えて、遺伝性疾患のリスク診断にも応用可能で、その結果は、本人のみでなく血縁者に
も影響を与えることとなる。この分野は、いわゆる incidental findings(偶発的所見)と
して生命倫理学的な議論が始まっており、後に述べるようにプロジェクト HOPE のデータ
が、我が国では先鞭を付け、全国的に注目を集めている。
- 73 -
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
図2.プロジェクト HOPE の特徴
(静岡がんセンター・プロジェクト HOPE セミナー1)資料)
図3.プロジェクト HOPE の研究デザイン
(静岡がんセンター・プロジェクト HOPE セミナー1)資料)
(4)患者試料及び倫理的対処について
静岡がんセンターで外科手術によりがん組織が摘出される患者は年間約 3,000 例に達す
る。その中で、試料提供に文書同意し、かつ解析に十分な量の組織が確保できる年間約
1,000 例から試料が採取されている。多くはステージ II 又は III の患者であり、早期がん
(ステージ I)はほとんど含まれない。したがって、対象となる患者の約半数が 5 年以内
- 74 -
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
に再発や転移を起こすと予測される。
患者の臨床データは電子カルテ上に保管され、手術時の摘出組織試料(約 0.5g)と血液
はセットで保存される。組織については、腫瘍組織と共に周辺の正常組織の双方が採取さ
れ、新鮮凍結組織と病理標本とが保存される。血液は血球細胞と血漿とにそれぞれ分離さ
れ、凍結保存される。臓器別にみると、組織を採取しやすい大腸・直腸、肺、胃、頭頸部、
乳腺、肝、肝転移、膵の順に多く、これらのがんが 8 割以上を占める(図 4)
。2015 年 6
月 1 日現在で 1,058 症例(1,101 試料)について解析を終えている。
図4.これまでに解析を終了したがん患者の内訳
(静岡がんセンター・山口建氏提供資料)
臨床試料は静岡がんセンターから持ち出すことはできない。患者から取得するインフォ
ームドコンセントには共同研究先企業でも使用を可とすると記載されているが、その場合
には共同研究契約を締結の上で、センター内のレンタルラボでの解析が許される。また、
患者の臨床情報はすべてが開示されることはなく、必要性のあるもののみが共同研究を担
当するセンター研究所の研究者にのみ開示される。
一方、静岡がんセンターでは生殖細胞系列の遺伝子解析により得られた偶発的所見を患
者に開示している。開示される変異には、米国臨床遺伝学会で勧告された臨床上対応可能
な 28 疾患 56 遺伝子以外に、最近、がん関連で報告のあったいくつかの遺伝子変異も含ま
れている。薬物代謝酵素の遺伝子多型や生活習慣病の発症リスクに有意に関わる遺伝子変
異が見つかった場合には、治療法選択や生活習慣の改善指導に利用されている。遺伝カウ
ンセラーは 2 名が配置されている。
(5)これまでの研究成果
①
がんの本態解明
遺伝子解析・発現解析の研究対象としている遺伝子は、820 の細胞がん化関連遺伝子(含
- 75 -
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
分子標的)及び細胞がん化には関連しないが分子標的に成り得る 62 の遺伝子(抗体薬の
標的となる細胞表面抗原等)である。遺伝子解析においては、13 のシグナル伝達パスウェ
イ内の遺伝子変異が解析される。他方、がんの微小環境(浸潤・転移・血管新生・免疫抑
制)にかかわる 15 の遺伝子発現が解析されている。
本プロジェクトにおいて細胞増殖のシグナル伝達パスウェイ等の情報をもとに規定した
がん関連遺伝子 820(SCC-820)の中には、Vogelstein によりがん化への寄与が確実なド
ライバー遺伝子として分類された 138 遺伝子、既に上市又は開発中の薬剤の標的となって
いる 75 遺伝子が含まれている。さらに、細胞のがん化には関係しないが、薬剤の分子標
的となる 62 遺伝子が含まれる。
図 5 に、プロジェクト HOPE において認められたがん関連遺伝子の腫瘍特異的エキソ
ン構造変化と遺伝子発現異常のまとめを示した。SCC-820 については、94%(解析数 1,101)
の試料で腫瘍特異的な SNV が検出され、1 試料当たり平均 194 の SNV が見つかった。が
ん関連遺伝子の遺伝子発現の変化は 99.4%(解析数 909)の試料に見られた。SNV 及び遺
伝子発現解析の結果を統合すると、99.8%(解析数 909)に、がん関連遺伝子の腫瘍特異
的変化が見いだされたこととなる。Vogelstein がドライバー遺伝子(がんの発生を支配し
ているがん関連遺伝子)として分類した 138 遺伝子に限った場合、その割合は 97%になる。
図5.プロジェクト HOPE におけるがん関連遺伝子の腫瘍特異的変化
(静岡がんセンター・山口建氏提供資料)
②
創薬・適応拡大・バイオマーカー
プロジェクト HOPE においては、これまでに 1,101 試料の腫瘍特異的な SNV が解析さ
れた。このうちドライバー遺伝子変異の一部には分子標的薬が開発されており、ベッドサ
イドで用いられている。図 6 に、プロジェクト HOPE におけるがんの分子標的薬対象症
例のまとめを示した。
- 76 -
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
図6.プロジェクト HOPE におけるがんの分子標的薬対象症例のまとめ
(静岡がんセンター・山口建氏提供資料)
キナーゼドメインを有する遺伝子等、遺伝子変異に伴って生じる機能変化ががん発生に
深く関与している可能性が強い遺伝子の構造変化に注目した場合、全エキソン解析におい
て、684 試料(62%)に腫瘍特異的 SNV が検出された。いわゆるドラッガブル遺伝子(が
んの原因となる遺伝子変化に対し分子標的薬が存在している)の観点から分析すると、こ
れらの 684 試料は、既承認分子標的薬の適応となる変異が 59 試料(全体の 5%)、既承認
分子標的薬の適応外処方となる変異が 103 試料(9%)、臨床治験中薬剤の対象となる変異
が 31 試料(3%)であった。これらの試料・患者から得られた解析データは、既承認標的
薬の適応拡大そして治験標的薬の対象疾患のリクルートに有用な情報となる。残りの 491
試料(45%)においては、既承認又は治験中の標的薬の対象とはならない遺伝子変異(例
えば、p53、APC、KRAS)が見られた。これらの試料・患者は創薬研究の対象となる。
プロジェクト HOPE の患者は、多くはステージ II 又は III の患者であり、早期がん(ス
テージ I)はほとんど含まれない。これらの患者の約半数が 5 年以内に再発や転移を起こ
すこととなる。実地医療の観点からは、予めがんの遺伝子プロファイルを参照し対応する
既承認標的薬があれば、再発時に速やかに治療を開始することができる。
プロジェクト HOPE では、分析対象となっているすべてのがん腫について、いわゆるパ
ッセンジャー変異(がん化には関与しないが免疫療法の標的となるタンパク質レベルの変
化には関与する)についても解析データが集積されており、免疫チェックポイント阻害剤
のバイオマーカーとなる可能性が高い腫瘍特異的 SNV 数のデータが、我が国では初めて
数千例単位で蓄積されつつある。
がん関連遺伝子の変化が観察された 816 試料中の 44 試料(5.4%)においては、腫瘍特
異的 SNV が 500 以上存在した(図 7)。SNV が多数存在するがん(hyper mutation load)
、
例えばメラノーマ、肺扁平上皮がんや大腸がん(リンチ症候群)は、免疫チェックポイン
ト阻害剤(PD-1、PD-L1 抗体医薬)の奏功が期待できると報告されている。
- 77 -
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
図7.腫瘍特異的 SNV 数の分布
(静岡がんセンター・山口建氏提供資料)
プロジェクト HOPE では抗がん剤を中心に薬物代謝酵素の遺伝子多型についても解析
を進めている。545 試料の生殖細胞系列遺伝子変異の解析から、1 例の CYP2D6 遺伝子の
ホモ欠損(タモキシフェン活性化不能)、11 例の CYP2B6 遺伝子変異(シクロフォスファ
ミドの代謝異常)、20 例の UGT1A1*6 遺伝子変異(イリノテカンの代謝異常)及び 60 例
の COMT 遺伝子変異(エンドルフィンの放出低下、痛みの増加)が見いだされた。これ
らのデータは、今後、当該症例が抗がん剤治療を受ける場合、参考データとして臨床医に
提供されている。
生殖細胞系列の遺伝子変異は、その症例に対して、遺伝性がんあるいは非がん遺伝性疾
患についての情報を提供する。現時点で、1,058 症例中の解析の結果、41 症例(4%)に遺
伝性がんについての生殖細胞系列遺伝子変異が検出された。一方、がん以外の遺伝性疾患
の発症にかかわる遺伝子変異(偶発的所見)は、約 1%に見いだされた。それらは、マル
ファン症候群(FBN1 遺伝子)、ファブリ病(GLA)、高コレステロール血症(LDLR)、心
筋症(MYH7、MYL2、TNNT2)であった。これらの変異については、確認シークエンス
後に患者に対して、無料の遺伝カウンセラーによる支援の下、診療が進められている。
(6)解析技術
①
遺伝子解析
Life Technologies の Ion Proton System7 台と Illumina の MiSeq システム 2 台がこの
プロジェクトで稼働しており、それに加えて Hiseq 4000 の稼働準備が進められており、
全ゲノムシークエンスも可能となる。データは専用ストレージと外付け HDD に保管され、
データ量は現状 2 ぺタバイト以上に達している。
プロジェクト HOPE では、正確性を期すため、すべてのがん組織について全エキソンシ
ークエンスとパネル解析とを同時に実施している。Ion Proton System における全エキソ
- 78 -
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
ン解析では、毎日 5~8 例分のエキソンシークエンス(The Ion AmpliSeq Exome Kit を使
用し、18,835 遺伝子の 55,466 のホットスポット変異を検出できる)を行っている。解析
用の核酸ライブラリーの調製(前処理)に 2~3 日を要する。シークエンスは 1 サンプル
当たり半日で終了する。シークエンス結果が疑わしい場合には、サンガー法、パイロシー
クエンス法又はデジタル PCR 法により検証し、精度を保持している。体細胞変異と生殖
細胞系列変異の両方の変異を参照し、個々のサンプルについて、体細胞変異から生殖細胞
系列変異をサブトラクトして体細胞に固有の変異を特定している。
これまでに解析した 1,101 サンプルの解析の結果、137,518 の変異(非同義変異)、1 サ
ンプル当たり平均 125 の SNV 変異を検出している。
SNV の解析に加え、独自に開発した検出系(HOPE Fusion Panel)により 490 の既知
がん融合遺伝子の有無も同時に調べている5)。896 例を解析した時点では、13 例でがんの
原因となる融合遺伝子が検出された。
解析を終えた全症例について、がん関連遺伝子の種類別に分類し、変異数順で見てみる
と、上位の遺伝子は、TP53(40%で、米国のデータベースとほぼ同じ)、APC(大腸がん
で多く発現)、CDC27、KRAS、SYNE1 であった(図 8)
。
このうち、既に分子標的薬が存在し、臨床的に重要な変異(ドラッガブル変異)は、こ
れまでの報告どおりに KRAS、PIK3 及び EGFR 遺伝子変異が代表的なものであった。
図8.がん関連遺伝子別の変異数順位
(静岡がんセンター・山口建氏提供資料)
また、がんの発生した臓器別で分類すると、TP53 のように大部分のがんで共通して変
異が見られる遺伝子と、APC のように特定のがんのみで変異が見られる遺伝子とが存在し
た(図 9)。前出の腫瘍特異的 SNV 数も、また、がんの種類別の遺伝子変異の特性も、多
数の日本人がん患者を対象としたデータとしては、プロジェクト HOPE の研究デザインに
よって初めて明らかにされた所見と言える。
- 79 -
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
②
遺伝子発現解析
Agilent Technologies の DNA マイクロアレイを使用している。mRNA の品質管理は
Agilent Technologies の RIN(RNA Integrity Number)を使用し、RIN 値が 6.0 以上の
ものを分析に用いている。これまでに、1,600 あまりの試料について、腫瘍組織、正常組
織間の遺伝子発現変動を解析できている。RNA-seq 法の実施は今後の課題である。
図9.がんの種類別にみたがん関連遺伝子変異の出現頻度
(静岡がんセンター・山口建氏提供資料)
③
プロテオミクス
がん細胞が特異的に産生するタンパク質を同定するための質量分析による構造解析研究、
さらにその細胞内での機能、血液中での分子存在型、濃度、腫瘍特異性等の解析研究を行
い、腫瘍マーカーあるいはバイオマーカーとして有用であるタンパク質の測定系の開発を
目指している。現状、プロジェクトの試料の解析には着手していない。HPLC で分離後
MS/MS による解析を実施、ELISA 系を開発する。がん組織を無血清培地で培養し、放出
されるペプチド・タンパク質の解析を行う。
④
メタボロミクス
現状、プロジェクトの試料の解析には着手していない。LC-TOF-MS で水溶性代謝物の
解析を行う。
⑤
免疫チェックポイント阻害剤のバイオマーカー等
プロジェクト HOPE では、以下について検証を行う予定である。1)PD-L1 を産生す
る腫瘍での免疫チェックポイント阻害剤の薬効、2)遺伝子変異の多い(hyper-mutation)
腫瘍での阻害剤の効果の検証、3)PD-L1 以外の候補分子を発現する腫瘍での検証、であ
- 80 -
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
る。免疫チェックポイント阻害剤(PD-1 抗体医薬、ニボルブマブ)の薬効を予測するバ
イオマーカーの検索のために、免疫関連の 100 遺伝子の発現解析を行っている。
一方、816 試料中の 44 試料(5.4%)においては、腫瘍特異的 SNV が 500 以上存在し
た(図 7)
。SNV が多数存在するがん(hyper mutation load)は、免疫チェックポイント
阻害剤(PD-1、PD-L1 抗体医薬)の奏功が期待できると報告されている。変異数が新し
いバイオマーカーになるかもしれない。治療用のキメラ及びヒト化抗体を作製できる体制
を整えている。
薬効評価系として改良型 NOG マウスを用いたゼノグラフトモデルを構築中である。こ
のマウスは、免疫チェックポイント阻害剤の薬効評価に使用できる。
免疫細胞療法を更に多くのがん患者に適用するために、次世代シークエンサーを用いて、
遺伝子変異ペプチドを同定している。HLA ペプチドの結合予測と in vitro、in vivo 評価
で絞り込み、ペプチドワクチンの開発も計画中である。
(7)静岡がんセンターの関連活動
①
腫瘍・バイオマーカー開発研究会
静岡がんセンターの患者試料と臨床データを用い、腫瘍マーカー、バイオマーカー、コ
ンパニオン診断薬の新規開発、製品評価を目指す。試料としては、本プロジェクトには含
まれないがん患者血清、28,000 検体と本プロジェクトの 1,500 症例分の DNA、RNA、血
漿、及び正常者血清を使用する。試薬メーカー5 社と検査センター3 社が参画している。
これまでに、ユーイング肉腫の腫瘍マーカーとして ProGRP(ガストリン放出ペプチド前
駆体)を見いだしている4)。現在、ProGRP は小細胞肺がんのマーカーとして臨床現場で
診断薬が使用されている。
②
処方別がん薬物療法説明書の作成
静岡がんセンターで頻用される 50~100 種類の処方について、患者にとって分かりやす
い独自の説明書を作成することを目指している。内容については副作用面を重視、製薬会
社に協働作業を依頼している。既にプロトタイプの 4 種を作成し、臨床研究を立ち上げて
評価を行っている。
③
人材育成
製薬企業の研究者、MR、安全性関連部署の社員を対象とした 1~3 ケ月の研修を計画中
である。自社製品による副作用を臨床現場で体感している企業関係者は極めてまれであり、
患者が副作用をどう感じているか考慮することは薬剤開発を進めるうえで重要なポイント
である。この研修は、腫瘍内科グループと共に同意を得た患者を観察、自社製品が患者に
どのような薬効、副作用をもたらすのか体感できる機会を提供するものであり、製薬企業
の社員が病院に入り込み、効果と副作用を感じることができるよう体制を整えている。
④
ファルマバレープロジェクト
静岡がんセンターは、健康増進と健康関連産業の振興を目指して進められているファル
マバレープロジェクトの拠点としての役割を担っている。本プロジェクトの中核支援機関
であるファルマバレーセンターは、革新的ながん診療技術等の開発と企業の医療健康産業
参入支援により、医療健康産業クラスターの形成を推進している。創薬、医療機器、精密
部品、医療情報に関わるイノベーション事業の創出を促進するために新たな拠点を築いて
- 81 -
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
いる。プロジェクト HOPE とファルマバレー構想のコラボレーションは、当該領域におけ
る研究開発の活動を強化している。
3.今後の展望と課題
プロジェクト HOPE の目標は、患者個々人向けの(1)がんの個別化医療の推進、
(2)
未病医学の実践(予防的、発症前治療)、
(3)医療スタッフ・研究者の学習、
(4)がんの
診断薬・治療薬の研究と開発、の 4 点であり、それぞれの展望と課題は以下のとおりであ
る。
(1)がんの個別化医療の推進
プロジェクト HOPE は、遺伝的背景に基づき個々の患者に適した治療を目指している医
療スタッフと研究者達が意見を出し合い、病院ベースで立ち上げられたプロジェクトであ
り、このような背景は、がん患者の個別化医療を強く推進している。例えば本プロジェク
トに登録された患者のほとんどはステージ II 又は III の患者であり、これら患者の約半数
は今後がんを再発するリスクを有している。プロジェクト HOPE では、個々の患者のがん
の性質、特にがんのドライバー遺伝子やがんの微小環境の調節因子に関する情報が得られ
るため、がんが再発した場合に、個々のがんの特性に見合った分子標的薬の選択を確実か
つ迅速に行うことができる。
また、マルチオミクス解析に基づく医療は、医学の世界においても始まったばかりで、
その方向性については不透明な部分もあるが、本領域における技術の進歩は著しい。プロ
ジェクト HOPE に関して言えば、今後、全ゲノムシークエンスやエピジェネティック解析
による試料の再調査が必要になるであろう。プロジェクト HOPE では、豊富な量のがん及
び正常組織試料が確保されているので、新規方法論や技術の進展に応じて、繰り返しサン
プルの利用、解析が可能である。
(2)未病医学の実践(予防的、発症前治療)
プロジェクト HOPE は、「予防的・発症前治療」又は「未病医学」の実践の機会を提供
する。血液細胞を用いた生殖細胞系列の全エキソン解析結果より得られる患者体質に関す
る遺伝情報より、遺伝性がんのみならず非がん性遺伝性疾患の発症リスクを予見できるた
め、予防的・発症前治療が可能になる。このことは、患者のみならず血縁者にとっても有
用であり、適切な医学的介入により、罹患率や死亡率を低下できることは注目すべきであ
る。
(3)医療スタッフ・研究者の学習
プロジェクト HOPE は、医療スタッフと研究者にマルチオミクス解析について学ぶ機会
を提供する。静岡がんセンターの医療スタッフは、患者のがんと体質に関する遺伝的変化
について学んだ後に、患者を診療することになる。このことは、がん治療の改良に繋がる
だけでなく、医療スタッフがゲノム医療を習得することの手助けとなり、遺伝的変化と臨
床症状とが如何に関連しているかについて、より詳細に学ぶようになる。その結果、遺伝
子解析に基づく臨床検査が、より広く認知され、社会的なコンセンサスが形成されること
- 82 -
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
に繋がる。
(4)がんの診断薬・治療薬の研究と開発
本プロジェクトの完遂により、がん医学において重要な研究開発のシーズが創出される。
がん組織の解析で見つかった新規の遺伝的変化が、新規分子標的薬剤、バイオマーカー、
及び腫瘍マーカー等の開発に繋がることが期待される。
4.執筆担当者所感
マルチオミクス解析されたがん患者組織のデータと診療情報とが厳格に 1:1 で紐付き、
統合解析された情報が個々の患者に適した治療のために活用されることは注目に値する。
また、全エキソン解析において、がんの分子標的遺伝子に注目した場合、既承認標的薬の
適応となる変異、既承認標的薬の適応外処方となる変異、治験標的薬の対象となる変異が
見つかっていることから、これら情報に基づき、今後、既存薬の適応拡大や、新規分子標
的薬の治験が更に進展することが期待される。
現状においては、プロジェクトの試料は、全エキソン解析と遺伝子発現解析のみが実施
されているが、将来的に、血中のタンパク質や代謝物等の中間形質を含め、総合的なオミ
クス情報を追跡していくことで、患者の予後や疾患罹患率等をより正確に予測でき、適格
な治療法の選択に繋がる可能性がある。
また、医療の質の評価は今後の重要な課題であるが、そこで問題になるのは一人ひとり
の患者のフォローアップ体制である。世の中で広く実施されている研究では、個々の解析
症例についての追跡調査が困難であるが、プロジェクト HOPE は静岡がんセンターの患者
のみを対象としているため、常に解析結果と臨床データとの突合が可能であり、また、セ
ンターで手術を受けて退院した患者の 95%以上については 5~10 年間の厳格な追跡調査が
実施されている。したがって、プロジェクト HOPE は、近未来のがんゲノム医療のシミュ
レーションを実施できる初めての大規模研究として評価できる。
【参考文献】
1)
「プロジェクト HOPE」セミナー(2015 年 7 月 17 日開催)講演資料
2)
静岡がん会議サテライトフォーラム第 2 部 「がんゲノム医療の臨床応用と研究開発
-1000 症例についての全エキソン解析と全遺伝子発現解析-」(2015 年 9 月 8 日開
催)講演資料
3)
Yamaguchi K. et.al. Implementation of individualized medicine for cancer patients
by multiomics-based analysis - the Project HOPE -. Biomedical Research(Tokyo),
35(6):407-412, 2014.
4)
Yamaguchi K. et al. ProGRP is a possible tumor marker for patients with Ewing
sarcoma. Biomedical Research (Tokyo), 36(4): 273-277, 2015.
5)
Urakami K. et al. Next generation sequencing approach for detecting 491 fusion
genes from human cancer.
Biomedical Research (Tokyo), (in press).
- 83 -
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
(2) SCRUM-Japan の概要
ヒアリング先:
国立研究開発法人国立がん研究センター
先端医療開発センター
トランスレーショナルリサーチ分野
土原
一哉
分野長
要約
2015 年 2 月、国立がん研究センターを核として、全国の医療機関、製薬企業を結び付
けた産学連携“がんゲノムスクリーニングプロジェクト「SCRUM-Japan」”が始動した。
肺がんを対象にした LC-SCRUM-Japan と、消化器がんを対象にした GI-SCREEN-Japan
とを統合して全国の契約医療機関からがん組織計 4,500 検体を収集し、マルチプレックス
遺伝子検査法で遺伝子の点変異、増幅、融合等を調べ、臨床情報と共に遺伝子情報をデー
タベース化することで、治療の適正化、診断の早期化、新薬開発の促進等を目標として掲
げている。近年上市された、又は開発中の抗がん剤の多くが分子標的薬であることを踏ま
えると時宜を得た活動であり、参加企業のみならず、国内外のがん治療関係者及びがん患
者からもその成果に期待が寄せられている。
1.はじめに
2015 年 2 月、国立がん研究センターを核とした全国の医療機関、製薬企業を結び付け
た産学連携“がんゲノムスクリーニングプロジェクト「SCRUM-Japan」”が始動した。
既に国立がん研究センターの活動として、肺がんを対象にした LC-SCRUM-Japan
(2013 年開始)と、消化器がんを対象にした GI-SCREEN-Japan(2014 年開始)が実施
されていたが、この 2 つのゲノムスクリーニング活動を統合し、学界と製薬企業とが一体
で個別化医療を実現することを目指し活動を展開している(図 1)。
LC-SCRUM-Japan
GI-SCREEN-Japan(消化器がん対象)
(肺がん対象)
2013 年開始
2014 年開始
全国 209 施設
全国 20 施設
目標症例数* 2,250
目標症例数* 2,250
SCRUM-Japan
(がんゲノムスクリーニングプロジェクト)
2015 年開始
合計目標症例数 4,500
図1.SCRUM-Japan 設立の経緯
- 84 -
* SCRUM-Japan 統合後の
目標症例数を示した
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
今回、国立がん研究センター
分野
先端医療開発センター・トランスレーショナルリサーチ
土原一哉分野長から SCRUM-Japan の現状と今後の展開、及び遺伝子解析に基づ
く医療の将来像に関して伺うことができたので以下に報告する。
2.SCRUM-Japan の目標
新規抗がん剤は分子標的薬が開発の中心となっているが、バイオマーカーによって治療
効果が期待できる患者を的確に見極めた上で投与しないと分子標的薬は効かないことが明
らかとなって来た。新たな課題として、ゲノムバイオマーカーで分類すると、大腸がんや
肺がんのように患者数が多いがんであっても細分化されてしまい、希少がん種として位置
付けられることもわかってきた。
このように対象患者を希少化してしまう遺伝子スクリーニングを、日本の臨床で技術的
に可能にしなくてはならない課題があった。さらに、スクリーニングができたとしても、
それに対して適切な薬剤が提供できるのかという問題もあった。適切な薬剤が無い場合、
新規抗がん剤の開発が必要だが、対象の患者を選び出して臨床試験を実施できる効率の良
いシステムを確立する必要があった。
これらの状況を踏まえて、SCRUM-Japan では、全国の医療機関からがん患者の検体を
収集し、大規模な遺伝子解析を行うことで、コンパニオン診断薬の開発等個別化医療を推
進し、マルチプレックスの診断薬をできるだけ早く日本で使えるような環境作りを支援す
ることを主眼として、下記 4 点を目標として設定した。
(1)がん遺伝子情報と診療情報とを突合したデータベースを構築する
(2)特定の遺伝子に異常を持つがん患者を見つけ出すシステムを構築する
(3)希少頻度の遺伝子異常を持つ患者に新たな治療選択を提供する
(4)複数の遺伝子を同時に解析できるマルチプレックス遺伝子診断システムの臨床
応用を推進する
3.SCRUM-Japan の組織体系
図 1 に示したように、SCRUM-Japan は LC-SCRUM-Japan(以下 LC-SCRUM)と
GI-SCREEN-Japan(以下 GI-SCREEN)の 2 つのプロジェクトが母体となっており、
SCRUM-Japan 事務局が統合する組織体系となっている。2015 年 12 月 31 日現在、
SCRUM-Japan に参加している医療機関は LC-SCRUM が 47 都道府県 209 施設、
GI-SCREEN が 20 施設である。製薬企業からは 14 社が参加している。
LC-SCRUM と GI-SCREEN の発足経緯と活動実績を以下に述べる。
(1)LC-SCRUM について
LC とは lung cancer の略で、LC-SCRUM は肺がんを対象にしたゲノムスクリーニング
臨床研究である。図 2 に進行肺がんに対する薬物療法の選択を示した。従来の肺がん治療
では、肺がんを病理学的組織型に分け、例えば、腺がん、扁平上皮がん、小細胞がん等に
分類をして治療方針を決めていた。しかし、近年の分子生物学の進歩により、がん細胞に
おける遺伝子異常に基づき治療薬を選択する治療への転換が進んでいる。遺伝子異常とし
ては、EGFR 、KRAS 、 ALK、ROS、RET、MET、PIK3CA 、MEK1 、ERBB2、BRAF
- 85 -
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
等が知られており、患者のがん遺伝子異常に適した薬物を選択するには、効率的なゲノム
検査法の開発が求められている。また、いまだ治療薬が無い遺伝子異常に対しては新薬の
開発が求められている。
実際、LC-SCRUM でのスクリーニング結果を利用して RET 融合遺伝子の低頻度遺伝子
変化陽性肺がんに対する抗がん剤バンデタニブの医師主導治験等が行われている。
図2.進行肺がんに対する薬物療法の選択
(SCRUM-Japan 記者発表会(2015 年 3 月 10 日)資料1))
(2)GI-SCREEN について
GI は Gastrointestinal の略で、GI-SCREEN は消化器がんを対象にしたゲノムスクリ
ーニング臨床研究である。図 3 に示したように、発足当初は大腸がん領域の遺伝子検査か
ら始まった。
肺がんと同様に、大腸がんにおいてもがん細胞における遺伝子異常に基づき治療薬を選
択する治療への転換が進んでいる。KRAS 遺伝子検査から RAS 遺伝子検査へ、さらに
BRAF、PIK3CA 等の遺伝子検査へと対象が広がり、短期間でプロファイルリングするこ
とが求められている。GI-SCREEN は対象を大腸がんから消化器がんへとがん種を拡大し、
多施設共同がん遺伝子スクリーニングプロジェクトとして発足した。
- 86 -
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
図3.大腸がん領域における遺伝子検査
(SCRUM-Japan 記者発表会(2015 年 3 月 10 日)資料1))
4.ゲノムスクリーニングの手法
ゲノムシークエンスはこれまでは一般の研究室レベルでシークエンシングやタイピン
グを行っていたが、SCRUM-Japan では、NCI-MATCH 試験2)で採用しているマルチプ
レックス診断パネルである Oncomine® Cancer Research Panel(OCP)を採用して遺伝
子スクリーニングを実施している。
LC-SCRUM-Japan では、信頼性の高いデータを得るために、肺がんの組織に関しては、
国内で International CLIA 認証ラボ、具体的には株式会社エスアールエルで検査を実施
することを決定した。DNA、RNA 等の品質に関する精度管理も検体の取扱い状態から情
報収集できる体制を構築している。
GI-SCREEN-Japan では、消化管がん組織は各医療機関から直接米国の CLIA ラボに送
付する。米国の病理担当者がマイクロダイセクションして、その後 OCP で遺伝子を解析
し、ゲノムシークエンスデータレポートを日本に返している。解析に用いた検体はもちろ
ん、オリジナル電子データも日本に返し、米国のデータは一定期間が過ぎたところで消去
する。日本と米国の病理担当者間で見解の相違があることもあるので事務局で調整を行う
体制を取っている。
肺がんの融合遺伝子に関しては、RT-PCR や FISH による確認を並行しているが、ほぼ
相関している結果となっている。OCP の検査精度についても次世代シークエンサーとして
問題ないと見ている。
- 87 -
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
また、本プロジェクトは OCP に含まれているがん細胞由来のゲノム DNA、RNA の遺
伝子解析による遺伝子変異、増幅及び融合遺伝子の同定あるいは発見を意図しており、同
一被験者の非がん部、末梢血由来のゲノム DNA 解析による生殖細胞系変異、多型解析は
行わない方針としている。
(1)OCP について
OCP は、143 のがん関連遺伝子を対象とした Thermo Fisher Scientific 製のマルチプ
レックス遺伝子診断パネルである。FFPE 等のサンプルから、ゲノム DNA 及び RNA を
抽出し、それらを鋳型としたマルチプレックス PCR を行い、増幅された PCR 産物
(Amplicon)をライブラリーとし、それをシークエンサーに供し、配列情報を取得、変異
解析を行う。
PCR のプライマーはそれぞれ、143 遺伝子の特定の領域を増幅できるように設計され
ており、使用する核酸量は、DNA の場合 20 ng、RNA の場合は 10 ng とされている。
(2)SCRUM-Japan で行う検査
OCP を用いて SCRUM-Japan で実施する遺伝子検査を図 4 に示した。微量の検体から
DNA、RNA を抽出し、次世代シークエンサーで解析してレポートにするまで約 2 週間で
行えるようにした。データの信頼性確保の観点から、CLIA 基準で品質管理をできる検査
機関に試験を委託している。
図4.SCRUM-Japan での遺伝子解析結果の流れ
(SCRUM-Japan 記者発表会(2015 年 3 月 10 日)資料1))
(3)検査に用いるサンプル
SCRUM-Japan の前身となる先行研究の実施様式にならい、肺がんでは LC-SCRUM で
の新鮮凍結検体、消化器がんでは GI-SCREEN での OCP の標準プロトコールにならった
- 88 -
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
ホルマリン固定検体を核酸試料としている。ホルマリン固定検体由来試料を用いた時の分
析学的妥当性は、米国で OCP を導入する際と全く同じ方法で行っており、Thermo Fisher
Scientific が保証している条件で分析している。凍結検体由来試料を用いた分析学的妥当
性についても、検査導入時に臨床検査室で分析学的妥当性を確認している。肺がんでは、
胸水のような液性検体も受け入れている。
組織が不均一である場合の課題は認識されており、病理医が見て 50%程度の腫瘍細胞で
あれば、提出された薄切組織からそのまま核酸を抽出する。間質が比較的多くある検体に
関しては、顕微鏡下で腫瘍細胞が濃縮している箇所に病理医がマーキングをして、検査室
で手動で削り出した試料を使用する。治療選択に利用できるようなバイオマーカーは、発
がん初期、あるいは進行がんが転移をする前に獲得するような変異が多く、同一組織内に
複数のサブクローンが存在する場合でも共通して検出が可能と考えられることから、現状
の方法で臨床的には問題がないと思われる。
しかし、実診療で得られる検体においては、固定や保管の方式によって試料の質に差異
が生じる可能性もある。そのため、解析時の核酸試料の品質を記録することで、客観的に
評価することが可能なデータとして集積を行い、事後において臨床的有用性を担保する、
より最適な検査法の開発を継続することとしている。
(4)余剰検体
OCP は微量の核酸サンプルで検査することが可能であり、多くの場合、余剰検体が出る。
余剰検体を利用しやすいように管理して、必要時には使用可能なように体制を整えている。
余剰検体と原データの帰属については、各参加機関は権利を一旦放棄し、研究主体である
国立がん研究センターが保有することとしている。患者から取得する IC についても、産
業利用を含む二次利用の可否も加えた内容としている。余剰検体の利用に関する規則につ
いては現在整備を進めている状態である。
5.ゲノムスクリーニングの事業内容
図 5 に、SCRUM-Japan のがんゲノムスクリーニング事業の概略を示した。
LC-SCRUM あるいは GI-SCREEN は各医療機関と契約を締結し、登録を行う。各医療
機関は検体を収集し、検査室に送付し、検査室は OCP によるゲノムシークエンス結果を
医療機関と LC-SCRUM あるいは GI-SCREEN に報告する。SCRUM-Japan では臨床情
報と遺伝子情報の両方を備えたデータベースを構築する。契約した製薬企業はこのデータ
ベースを閲覧利用することができ、新薬の開発に活用できる。2 つの研究はもともと素地
が違う研究であるが、
一体化してデータ管理を行うためにデータセンターを構築している。
今回お話を伺った土原一哉先生はデータセンターを担当し、LC-SCRUM は国立がん研
究センター東病院の呼吸器内科科長の後藤功一先生が、GI-SCREEN は同病院の消化管内
科科長の吉野孝之先生が代表研究者となっている。契約管理は国立がん研究センターの産
学連携室所属の大野源太先生が担当している。4 名を統括する形で、先端医療開発センタ
ー・センター長の大津敦先生が事務局の一員として加わっている。
外部アドバイザーは、PMDA の矢守隆夫氏、がん研究会の野田哲生先生、東京大学の間
野博行先生で、3 名の有識者が研究全体について助言する体制になっている。
- 89 -
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
図5.SCRUM-Japan のゲノムスクリーニング事業
(SCRUM-Japan 記者発表会(2015 年 3 月 10 日)資料1))
以前から次世代シークエンサーの時代に即したスクリーニングシステム構築の要望が
あったが、1 検体当たり検査費用が数十万円もかかり、公的研究費だけでは賄えないこと
から、資金面での制約があった。スクリーニングシステムを構築すれば、抗がん剤開発を
行っている製薬企業にメリットがあるのではないかと考え、産学連携プロジェクトの提案
に至った。
2014 年 10 月に準備委員会が発足し、産学連携の研究の枠組み、利益相反の管理、被験
者保護等の観点から議論をし、
「企業コンソーシアムとがん研究センターの共同研究」では
なく、がん研究センターが参加各社と「個別の共同研究契約」を締結するという枠組みを
策定した。製薬会社に SCRUM-Japan 構想を紹介し、共同研究という形での参加を呼び
かけた。2015 年 3 月時点で契約をした製薬企業は 10 社だったが、12 月現在では 14 社ま
で増えた。ゲノムスクリーニング事業として研究基盤ができたと考えられる。
6.目標例数
SCRUM-Japan では 2017 年 3 月末までに肺がん(腺がん、扁平上皮がん)2,250 例、
消化器がん(大腸がん、胃がん、食道がん)2,250 例、計 4,500 例の登録、解析を目標に
している。LC-SCRUM では既に 1,500 例以上の登録と毎月 100 例程度の実績があり、達
成可能な目標数と思われる。大腸がんの領域でもほぼ同程度の症例集積能力があり、妥当
な目標数である。国立がん研究センターが公表したがん統計予測結果によれば、2015 年の
肺がんの罹患数は約 13 万人で、大腸・胃がん罹患数は約 27 万人3)とされており、2,250
例という症例数は、肺がんで全体の約 1.7%、消化器がんでは全体の約 0.8%をサンプリン
グしていることになる。希少がんの発見と治療薬の創出を念頭に入れると、第 2 相試験に
- 90 -
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
は少なくとも数十例の被験者が必要であり、適正な規模と考えられる。一方、試験に必要
な資金も確保する必要があり、参加企業による共同研究費、公的研究費等を考慮して、無
理の無い目標症例数が設定されていると言える。
7.情報管理
SCRUM-Japan の臨床情報・ゲノム情報管理システムを図 6 に示した。契約医療機関の
担当医から臨床検体が検査機関に送付され、OCP で遺伝子検査を行い得られたゲノム情報
が SCRUM-Japan 事務局に送られる。一方、担当医は患者情報と治療情報をプライバシ
ーの保護を行って SCRUM-Japan 事務局に送る。これらのデータを一括管理することで、
臨床情報とゲノム情報を突合させて治療選択を行う。治療薬として、承認されている薬剤、
治験中の薬剤、又は未承認薬の救済的使用、既承認薬の適応外使用等、幅広く治療薬を選
択可能にしている。
これらの情報管理システムを通して、分子疫学情報の共有、臨床試験情報の共有が可能
となり、新しい診断・治療法の開発に利用することが可能となる。
SCRUM-Japan の研究によって得られた臨床病理、ゲノム解析にかかわる情報は個人を特
定できない形で LC-SCRUM と GI-SCREEN の各事務局及び SCRUM-Japan データ管理
センターで共有され、各研究事務局の責任において解析が行われ、その成果は学会、論文
等に公表される。
図6.臨床情報・ゲノム情報管理の構築
(SCRUM-Japan 記者発表会(2015 年 3 月 10 日)資料1))
(1)担当医への情報提供
担当医は、SCRUM-Japan で得られたゲノム解析情報に基づき、各種の治験への参加を
通して国内未承認薬の使用等を検討することが可能となる。担当医に対してどれだけ正確
- 91 -
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
な治験情報が伝わるのかということが課題と考えられる。SCRUM-Japan ウェブサイ卜を
通した情報提供に加えて、事務局のメンバーとゲノム情報や臨床開発に関して双方向で情
報交換ができる仕組みを検討している。ゲノム医療に造詣の深い研究者を核とした拠点作
りも検討している。
従来、試験を行う医療機関が患者を個別に募集していることが多く、遠隔地の患者にと
っては適格性を満たしているかどうかの判断すら困難であった。SCRUM-Japan では被験
者、担当医向けに国内で実施されている関連した治験の情報を公開し、参加医療機関と双
方向性のデ一タベースを構築することで、情報共有を密にして的確な情報を患者に届け、
試験治療への参加を後押しすることを目標にしている。
ゲノム情報を取得することが患者に必ずしも利益をもたらすということはないが、情報
共有のシステムを整備して医療側が利用しやすい体制を構築することが、医療全体の向上
には重要であるという共通理解を広げる必要がある。今後、マルチプレックス診断パネル
が実際の医療現場に導入される時にも同様のことが起こると想定され、精度の高い診断シ
ステムを作ると共に情報を共有できる仕組み作りが SCRUM-Japan には期待されている。
(2)企業への情報提供
SCRUM-Japan 参加企業はデータセンターを介して公開前の分子疫学情報を研究進捗
に関わらず閲覧することができる。
企業が閲覧可能な情報としては、登録時の被験者の年齢、受診した医療機関、臨床病理
的な情報(検体採取の方法、部位、組織型等)、治療歴に加え、定期的な追跡調査による登
録後の治療歴、転帰等の情報が含まれる。ゲノム解析情報には OCP を用いたがん関連約
140 遺伝子の点変異、遺伝子増幅、遺伝子融合の有無に関するアノテーション結果を含ん
でいる。
各社におけるこれらの情報の二次的な解析等については原則として制限は設けておら
ず、自由な発想での研究、開発が行われることが期待される。SCRUM-Japan の共同研究
契約下で提供される情報に加えて、更に詳細な情報が必要な場合には、国立がん研究セン
ター等と別途共同研究契約を締結した上で研究開発を行うことが可能である。
現在、SCRUM-Japan の参加企業は製薬企業のみとなっているが、他業種の企業の参加
要件については、今後、官学及び参加各社の代表者からなる SCRUM-Japan 運営委員会
で検討される予定である。
(3)情報公開
研究の進捗に伴い、登録数や検出された遺伝子異常のカタログ情報等は運営委員会へ報
告された後、随時学会等で発表する。
詳細な臨床情報を含む研究成果の発表も随時行う予定だが、データの公開は運営委員会
で定めた一定のリード期間の後、参加企業のメリットを損なわないように行われる。
(4)知的財産の扱い
昨今の遺伝子関連特許の状況からは、遺伝子変異プロファイルのみから知的財産権が発
生することは比較的考えにくい。
- 92 -
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
一方、詳細な治療経過の情報をゲノム解析結果と併せて得られることから、診断、治療
に関連するバイオマーカー候補が見いだされる可能性は十分に考えられる。集積されるデ
ータや余剰検体が国立がん研究センターに帰属することは、参加各医療機関、参加企業の
了承を得ているが、閲覧が許されたデータをもとに各企業が個別に解析を行った結果、新
たに創薬シーズが探索された場合には、その知的財産権は各企業に属するものとしている。
国立がん研究センターと各企業は個別の共同研究契約を締結しており、ある 1 社が取得し
た知的財産権が他の企業に影響を及ぼすことがないように配慮している。
(5)第三者利用
SCRUM-Japan が収集した組織検体を第三者(企業・研究機関)が利用できるかについ
ては現在検討中である。
解析に使用した組織や核酸の残余検体は国立がん研究センターに帰属する。産業利用を
含めた残余検体の二次利用が可能であることは LC-SCRUM 及び GI-SCREEN の研究実施
計画書に明記してあり、その具体的なルールについて現在検討中である。
(6)偶発的所見の取扱い
ゲノム解析結果は登録を行った参加医療機関の医師(研究者)を通じて被験者に開示が
可能であり、同意説明文書でも解析結果の開示希望の有無を確認している。しかし、生殖
細胞系列変異を目的にした解析は積極的には行っていない。OCP で対象としている遺伝子
について被験者のがんゲノム解析結果中に重要な偶発的所見の可能性が否定できないもの
が明らかになった場合は、参加医療機関の医師と LC-SCRUM 及び GI-SCREEN の各研究
事務局が専門家から臨床遺伝学的なアドバイスを得ながら、被験者への開示の方法を含め
た対処法等の協議を行う。
一方、PARP 阻害剤の感受性に影響する BRCA タンパク質群の機能不全を引き起こす生
殖細胞系列変異や、免疫チェックポイント療法の効果を予測するマイクロサテライト不安
定性の原因となる DNA 修復酵素群をコードする遺伝子の生殖細胞系列変異等、がん領域
において治療法決定に重要な生殖細胞系列変異や多型が増えつつある状況も踏まえ、ゲノ
ム研究倫理、被験者保護に十分に配慮した体制を構築した上で生殖細胞系列の変異や多型
解析の実施についても検討中である。
8.NCI-MATCH との相違
米国の NCI-MATCH(NCI-Molecular Analysis for Therapy Choice)は抗がん剤の臨
床試験を行うことを目的としてゲノムスクリーニングを実施する仕組みになっている。全
米の NCTN(National Clinical Trials Network)のネットワーク傘下の病院から、バイオ
プシーサンプルを必須として数千例単位で検体を集め、OCP で解析する。一方で、
NCI-CTEP(Cancer Therapy Evaluation Program)に各企業から未承認薬が拠出され、
OCP の結果を元に患者に割り振り、各治験薬の臨床第 2 相試験を実施する。臨床第 2 相
試験の規模は 1 つのポピュレーション当たり 20~30 例ではないかと推定される。第 2 相
試験で有望な結果が得られれば、各企業が承認に向けた次の試験を計画する。登録可能な
症例数が少なく開発が中絶する恐れのある薬剤を次のステップに持っていくための仕組み
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第二章 バイオマーカーの実用化における課題
とも考えられる。
これに対して SCRUM-Japan は、もう少し緩やかな仕組みである。シークエンスデー
タを事務局が管理し、参加企業だけでなく患者の担当医にもデータが返却されるので、担
当医はその結果を見て日本国内で行われているどのような治験にも参加することができる。
あるいは適用外使用のようなことにも応用ができる。事務局の方で、バイオマーカーをベ
ースにしたような一覧を作り、参加施設と共有し、担当医にどのような治療方法の選択肢
があるのかを示す。定期的に追跡調査を行い、何%程度の患者が臨床試験に参加したのか
を調査している。
NCI-MATCH も SCRUM-Japan も目指す到達点は同じだが、方法論でやや異なってい
ると言える。
NCI MATCH と SCRUM-Japan は約 1 年前から交流をしており、ある程度症例が蓄積
してきた時点で将来的な共同研究の可能性について検討をする予定である。OCP に関して
も技術的側面で情報共有することとしている。
9.今後の計画
SCRUM-Japan は、肺がん及び消化器がんのゲノムシークエンス解析について 2017 年
3 月までに目標症例数を達成する計画で進められている。2017 年以降のことは現在のとこ
ろ決まっていないが、対象がん種を広げる、アジア地区を巻き込んで地域的な拡大を行う
等、様々な案が出ており、事業を継続する方向で検討がなされている。
10.執筆担当者所感
LC-SCRUM は RET 融合遺伝子発現による非小細胞性肺がんの治療を目的としたプロ
ジェクトであるが、今回のヒアリングを通して SCRUM-Japan の取組みは、希少がんの
遺伝子異常検出と治療薬開発、マルチプレックス診断パネルの開発促進を主眼とした、よ
り広範な目標を設定した産官学連携プロジェクトであることが良く理解できた。
米国において NCI-MATCH という SCRUM-Japan に類似したプロジェクトが進行中だ
が、今回の両者の研究活動では日米で同じ検査キットを採用する等、国際協調が意図され
ており、がん治療に大きな変革をもたらすのではないかと感じた。
ALK 融合変異に見られたように、がん遺伝子異常は人種により出現頻度が異なることが
あるので、日本でこのようなプロジェクトが進みつつあることは、日本国民に留まらず、
アジア地域にとってもがん治療の大きな進歩が期待できる。
本プロジェクトはマルチプレックス診断パネルの開発促進という目標も掲げているが、
土原分野長の談話の中で、
「現在のようなコンパニオン診断薬による段階的診断は、費用が
かかる、人手が必要になる等の問題点を指摘する意見もあるが、診断にかかる時間の長さ
が一番の問題と考える。がんのように進行が速い疾患では、1 か月以上もかかる診断では
手遅れになりかねないので、迅速な診断法開発を推進する意味がある」というご意見が最
も印象に残った。既に認可されているコンパニオン診断薬との同等性の担保、新規項目追
加による保険点数加算の方法等、難問が山積だが、患者を中心に考えれば SCRUM-Japan
で推進しているマルチプレックス診断パネルの臨床応用が今後必須になるのではないかと
感じた。
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第二章 バイオマーカーの実用化における課題
【参考文献・関連情報】
1)
大津
敦. 産学連携全国がんゲノムスクリーニング(SCRUM-Japan)の概要,
吉野
孝之. GI-SCREEN-Japan の紹介
後藤
功一. LC-SCRUM-Japan と SCRUM-Japan の紹介
土原
一哉. SCRUM 臨床ゲノムデータベース.
産学連携全国がんゲノムスクリーニング-SCRUM-Japan 記者発表会 (2015 年 3 月
10 日) http://www.ncc.go.jp/jp/information/press_release_20150310.html
2)
NCI ホームページ:NCI-MATCH について
http://www.cancer.gov/about-cancer/treatment/clinical-trials/nci-supported/nci-match
SCRUM-Japan と同様に患者を登録し、がんサンプルを採取して遺伝子異常を検査
し、適切な治療薬を見いだすことを目的とした米国国立がん研究所(NCI)と NCI
が 出 資 す る National Clinical Trials Network ( NCTN ) の 一 部 門 で あ る
ECOG-ACRIN Cancer Research Group による共同研究である。
3)
がん情報サービスホームページ:がん登録・統計
http://ganjoho.jp/reg_stat/statistics/stat/short_pred.html
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第二章 バイオマーカーの実用化における課題
(3) イノベーションシステム整備事業「翻訳後修飾プロテオミクス医療研究拠点の
形成」における新規バイオマーカー探索
ヒアリング先:
横浜市立大学
平野 久
名誉教授
要約
横浜市立大学では、翻訳後修飾プロテオミクス医療研究拠点の形成を目指し、先端医科学
研究センターを拠点として、現在、多くの課題が進められている。その基盤となるのが「分
析技術を創る」であり、タンパク質の翻訳後修飾異常を検出及び同定する新しい技術の開
発に取り組んでいる。次に、開発された新しい分析技術を活用することで、
「修飾異常を探
す」
(疾患関連タンパク質の翻訳後修飾異常の検出する)及び「修飾異常を知る」(翻訳後
修飾異常の生理的機能及び疾患との関連の検証する)ことが可能となっている。こうして
得られた情報を基に、
「病気を予防する」、「修飾異常を治す」(異常タンパク質の発現を制
御する薬剤の開発)及び「修飾異常を診る」
(診断薬の開発)の早期実用化に取り組んでい
る。また、拠点形成を促進するために、大学の改革や大学院の整備、産学連携ラボの設置、
バイオバンクの充実及び人材の育成等を行っている。バイオマーカーの探索においては、
卵巣明細胞腺がんに対する新規診断マーカーで実用化の目処が立つ等、早くも成果が見ら
れている。
1.はじめに
横浜市立大学では、文部科学省の「イノベーションシステム整備事業」
(平成 20 年度~
29 年度)において、先端医科学研究センターを拠点として、産学協同で新規プロテオーム
解析技術の開発並びに革新的診断薬、治療薬及び予防技術の開発、さらには早期実用化に
取り組んでいる。先端医科学研究センターでは、新規の基盤技術を開発することで、最新
の質量分析装置及び分析技術によるタンパク質の分析を行い、画期的な診断薬・治療薬及
び予防技術の開発を進めている。その中で、卵巣明細胞腺がんの診断に利用できるマーカ
ーとして見いだされたタンパク質は、診断薬として 2 年以内に実用化できる見込みである。
他にも、予後予測マーカー候補となる上皮間葉移行(EMT)関連タンパク質等の有力候補
を見いだしている。また、同時に、横浜市立大学附属病院と連携したバイオバンクの設置
及び拡充、治験研究ネットワークの構築並びにバイオインフォマティクス分野等の人材育
成等も進めている。
ヒューマンサイエンス振興財団創薬資源調査班は、イノベーションシステム整備事業(翻
訳後修飾プロテオミクス医療研究拠点の形成)研究統括である平野久名誉教授を訪問し、
施設を案内していただくと共に、プロジェクトの概要、バイオマーカーの探索及び今後の
展望と課題についてお話を伺った。
2.研究プロジェクトの概要
(1)背景
横浜市立大学の研究プロジェクトの基盤は、平成 20 年度に採択された文部科学省「イ
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第二章 バイオマーカーの実用化における課題
ノベーションシステム整備事業」
(旧名称:科学技術振興調整費)の「先端融合領域イノベ
ーション創出拠点形成プログラム」で採択された「翻訳後修飾プロテオミクス医療研究拠
点の形成」である。当該事業は当時の科学技術振興調整費の中で最も大規模かつ長期間(10
年間)の事業で、現在も進行中である。
(2)目的
研究プロジェクトの目的は、新しいプロテオーム解析技術を駆使して、タンパク質、特
に翻訳後修飾の異常と疾患との関連をみつけること、創薬ターゲット、予防技術や診断バ
イオマーカーの研究開発を進めることを研究目標に掲げている。最終的には、個人のタン
パク質翻訳後修飾のマップを作成し、疾患時の変化から治療戦略を立てるというオーダー
メイド医療実現を目指している(図 1)
。
企業は、マッチングファンド方式によって研究開発に参加している。事業の目的は、横
浜市大を中心にして、産学協同の翻訳後修飾プロテオミクス医療研究拠点を形成すること
にある。また、協働機関以外の企業等とも共同研究を進めている 1)、2)。
図1. 翻訳後修飾プロテオミクス医療研究拠点の戦略
(横浜市立大学・平野久氏提供資料)
(3)イノベーションの創出
横浜市立大学では、拠点の研究基盤となる新しい(画期的な)タンパク質の分析技術の
開発を目指している。さらに、短期間かつ少ない労力で、画期的な診断薬・治療薬及び予
防技術を開発することも目標として挙げられている。
新しいタンパク質解析技術の開発は、当初は(株)島津製作所及び(株)日立ハイテク
ノロジーズにより横浜市立大学と共同で進められ、現在では、横浜市立大学が核となり、
(株)メディカル・プロテオスコープ及び(株)セルフリーサイエンスが中心となって進
められている。
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第二章 バイオマーカーの実用化における課題
最終的には、開発された基盤技術を用いて、個々人のタンパク質翻訳後修飾のマップを
作り、疾患にかかった際のタンパク質の変化を見ることで、タンパク質翻訳後修飾異常に
基づいた個々の治療戦略を立てるオーダーメイド医療の実現を目指している。
3.拠点形成を促進するための改革
拠点形成促進のため、先端医科学研究センターの建設及び増築だけでなく、大学の改革
や大学院の整備(新研究科の創設等)、企業の占有スペースである産学連携ラボ(ライオン
(株)等が入居)の設置並びにバイオバンクの充実等を行っている。
バイオバンクでは、手術時の余剰組織検体を収集し(現時点で約 12,000 検体)、昨年か
らは健常人の血液サンプルの収集も開始し(現時点で約 400 検体)、コントロール用の検
体として、実際の利用も始まっている。大学附属病院が隣接しているため、必要な検体が
ある際は、タイムリーに臨床医に対応して貰える等、小規模な大学ならではの連携がとれ
るのがメリットである。また、治験研究ネットワークを構築し、神奈川県内(主に横浜市
内)の 14 病院(7,500 床)の協力が得られる体制である。
産学連携の研究を行うためには大学シーズが重要となる。シーズ開発のため、先端医科
学研究センターが中心となり研究開発プロジェクトを推進し、1 期 3 年で、数十課題を選
定し、費用補助やディスカッションの場の提供等の支援を行っている。現在、第 3 期目で、
22 の課題を推進している。課題の中には、大型国家プロジェクト(「iPS 細胞を用いた代
謝性臓器の創出技術開発拠点」及び「遺伝子難治疾患の網羅的遺伝子解析拠点研究」等)
に採択されているものも含まれている。
4.人材の育成
海外研修の導入並びに研究会及び勉強会を開催することにより、若手研究者の教育及び
養成に注力している。また、バイオインフォマティクス分野の専任教員をリクルートする
ことで、若手研究者の育成を促進している。
5.質量分析装置を用いたバイオマーカー探索: 分析技術の開発
タンパク質の翻訳後修飾に関する研究が遅れた最大の理由は、翻訳後修飾を分析する技
術が十分に発達していなかったことが挙げられている。横浜市立大学では、翻訳後修飾を
効率よく検出する方法等の基盤技術の創出及び開発が、診断薬候補のバイオマーカーや創
薬候補化合物等の効率的な発見に繋がるとの考えから基盤技術の研究を行っている。
タンパク質(プロテオーム)解析のキーテクノロジーの一つは、質量分析装置である。
また、本装置においては、イオン源(測定物質をイオン化する装置)及び質量分析計(イ
オンを質量に応じて分離検出する装置)が重要なパーツである。種々あるイオン化の方法
のうち、タンパク質を余り傷付けずに測定することができるソフトイオン化法のマトリッ
クス支援レーザー脱離イオン化(MALDI)又はマトリックス支援レーザー脱離イオン化
(ESI)を用いることで、また、イオン化効率の向上及び翻訳後修飾ペプチド解離法の開
発等により、高感度な分析が可能となった。現在では、1 滴の血液で 2,000 以上のタンパ
ク質の種類及びその組成を明らかにすることが可能である。中でも、オービトラップ質量
分析計(Orbitrap MS)は、高感度で最も良い成績を上げている3)。タンパク質は種類に
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第二章 バイオマーカーの実用化における課題
よって性質が異なり、分析方法も異なるため、1 台ですべてのタンパク質を分析すること
は難しい。このため、Orbitrap MS を更に 2 台追加することを検討している。
6.診断マーカーの探索
多くの疾患を対象とした診断及び予後予測等のマーカーの探索の試料は、血液が最適と
考え、研究を進めている。血液採取は患者にとっても比較的低侵襲である。一方、尿につ
いては、侵襲性は低いものの、すべての疾患に対応することは難しいと考えられている。
これまでのマーカーの探索研究では、最初の試みとして、血漿又は血清から直接タンパ
ク質を検出及び同定する試みがなされたものの、個人差が大きいこと、また、血液中に存
在する約 5,000 種類のタンパク質の中から、特定の疾患関連のタンパク質だけを検出する
ことは困難という結果であった。したがって、次に、がん組織又は培養細胞内の疾患関連
タンパク質の検出及び同定に方針は変更となった。しかしながら、疾患と関連して発現が
変動するタンパク質を同定することは可能となったものの、組織又は培養細胞中のタンパ
ク質は血液中に容易に漏出してこないため、同定されたタンパク質は創薬標的分子として
利用は可能であるものの、診断バイオマーカーとして活用するには至らなかった。現在で
は、その方向性は、培養細胞分泌タンパク質を検出するセクリトーム(secretome)解析
に移行し、腫瘍細胞由来のエクソソーム又はマイクロベシクルに含まれるタンパク質を分
析して、がん等の疾患と関連するタンパク質を見つける研究が世界的に進められている。
国内では、公益財団法人がん研究会の植田幸嗣博士や国立研究開発法人医薬基盤・健康・
栄養研究所の朝長毅博士による研究がよく知られている。なお、セクリトーム解析は、培
養細胞から分泌される疾患関連タンパク質は、罹病組織・細胞から血液に分泌される可能
性が高いとの仮説に基づいたものである(図 2)。
図2.診断マーカー探索の戦略
(横浜市立大学・平野久氏提供資料)
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第二章 バイオマーカーの実用化における課題
横浜市立大学においては、先端医科学研究センターで 6~7 年前からセクリトーム解析
に取り組み、培養細胞から分泌されるタンパク質を網羅的に解析することにより、一般的
な卵巣腫瘍マーカーCA125 では検出が難しい卵巣明細胞腺がんの診断候補マーカーが見
いだされた。
(1)卵巣明細胞腺がんの新規診断マーカーの開発
横浜市立大学で開発された技術を活用したプロテオーム解析により、良性腫瘍や組織型
の異なる卵巣腫瘍(漿液性、粘液性及び明細胞)と比較して、卵巣明細胞腺がん特異的な
新規タンパク質が見いだされた。mRNA やタンパクレベルでも当該タンパク質の発現量は
高く、新たに作製したモノクローナル抗体による評価では、血液中にも当該タンパク質が
存在することが確認された。一連の評価により、当該タンパク質は、卵巣明細胞腺がんと
他のタイプの卵巣がん、さらには子宮内膜症と区別することができる特異的なマーカーで
あることが示唆された。
420 人の患者から収集した検体を用いてマーカーとして有用であることが検証された後、
抗体診断キットを作製し、その有用性の検証を進めている。今後、1 年半~2 年で実用化
できる見込みである。当該診断キットが承認された場合、プロテオミクスの手法により見
いだされた診断マーカーの実用化の日本初の事例となる。一方、アメリカでは、プロテオ
ーム解析で見いだされた卵巣がん関連のタンパク質で、診断マーカーとして FDA に承認
され、実用化されているものが既にある4)。
(2)肺腺がんの予後予測マーカーの開発
予後予測マーカーとして、候補タンパク質が見いだされた。がん細胞の線維化や浸潤に
関与すると考えられている EMT(Epithelial-Mesenchymal Transition; 上皮細胞が非上
皮細胞に形態変化する現象)に関連するタンパク質である。
増殖因子 TGF-β が EMT の最重要誘導因子で、TGF-β が増加すると E-カドヘリン等
の細胞接着タンパク質が減少し、細胞が遊離するため、転移が促進されると考えられてい
る。
TGF-β 処理前後で発現が変動するリン酸化タンパク質 100 種以上のうち、処理後に極
端に上昇するもの 3 種類に着目した。処理後、mRNA の発現には差が無いか又は低下が見
られるが、リン酸化のレベルに大きな差が見られている。予後不良モデルである TGF-β
処理細胞では、発現の上昇が見られた。これら 3 種類のタンパク質について、早期肺腺が
ん予後不良群(手術後 5 年以内に再発)と予後良好群(再発なし)の患者間で、リン酸化
レベルを比較したところ、予後不良群で大きな発現の上昇が見られた 5)。
実用化はまだ道半ばであるが、手術直後の検体を用いてリン酸化レベルを調べることで
5 年後の予後予測ができるマーカーの可能性が期待されている。
これまでの診断マーカー探索研究は、研究者の勘や運に頼っている部分があり、さらに
は、検証実験等に多くの時間と労力が必要であった。かつて、前立腺がんの診断マーカー
PSA(prostate specific antigen、前立腺特異抗原)の開発には 150 年の長い年月を要した。
しかしながら、当該卵巣明細胞腺がん診断マーカーは、6 年間で PMDA による承認申請準
備段階まで進めることができた。今後、横浜市立大学では、最新のプロテオーム解析技術
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第二章 バイオマーカーの実用化における課題
を駆使することで、数年~10 年以内の短期間で効率的にバイオマーカーを実用化すること
を目指す(図 3)。なお、横浜市立大学では、卵巣明細胞腺がんマーカー以外にも多くの診
断マーカー候補タンパク質が同様の手法により見いだされている。
プロテオミクスや翻訳後修飾解析からの新規バイオマーカー探索は、がん以外の疾患で
は神経疾患において進められている。横浜市立大学では、附属病院の小児科と協力して川
崎病の研究を進めており、免疫と関連するタンパク質が明らかになりつつある。その他の
疾患については、循環器系疾患を小規模で研究しているのみで精神・神経疾患については、
まだ取り組んでいない状況である。
図3.プロテオミクス手法を用いた診断マーカー探索研究の流れ
(横浜市立大学・平野久氏提供資料)
7.今後の展望と課題の克服
プロテオミクス解析や翻訳後修飾解析で探索された新規バイオマーカーを短期間で効
率的に臨床現場へ提供するためには、新しい技術を開発すると共に臨床での検証を迅速か
つ適切に進めることが重要である。
バイオマーカー候補タンパク質の分析や診断バイオマーカーの測定には、抗体の利用が
不可欠であり、抗体の作製に時間と労力を要している。このため、将来的には、抗体を用
いずに質量分析装置のみで検出できる方法を開発する方向が世界的に進んでおり、多重反
応モニタリング法(MRM)がその候補として期待されている。現状では、MRM により、
多数の性質の異なるタンパク質が混在する血液等の試料からダイレクトに特定のタンパク
質を検出することは難しい。横浜市立大学では、一旦、ポリクローナル抗体でタンパク質
を必要なレベルまでに沈殿・濃縮したフラクションを用いて MRM で分析することで、
ELISA と同程度の感度(pg/mL オーダー)で検出できることを見いだした。1 種類の抗体
処理だけでは、アイソフォームやスプライシングバリアントを持つタンパク質が混在して
結合してしまうものの、その後に MRM を行うことで、翻訳後のリン酸化状態等が異なる
タンパク質を明確に区別することが可能となり、診断マーカーとして用いるタンパク質を
- 101 -
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
より正確に検出することが可能となった。最終的には抗体を使わない方法で検出する技術
の開発が、究極の課題である。
その他、目的のペプチドを濃縮したり、目的外のものを除去したりするような、質量分
析装置の周辺技術の開発も非常に重要である。質量分析装置は、診断マーカータンパク質
の探索のための画期的な方法ではあるが、その限界を克服する周辺技術の開発を更に促進
することで、実用化可能なマーカータンパク質が今後いくつも出て来ると期待されている。
疾患に関連したタンパク質が同定された後は、そのタンパク質の翻訳後修飾異常の生理
的機能を解析することが重要となる。横浜市立大学では、解析方法としてイメージングに
よる観察を進めており、より高精度の in vivo 細胞分子イメージング技術の開発を目指し
ている。
また、これまで多くの研究機関では、臨床医との連携が取れないために患者での検証が
実施できず、マーカーの検出・同定~特性解析までの段階で研究がストップしてしまうこ
とが茶飯事であった。横浜市立大学では、卵巣明細胞腺がん診断マーカーについて患者で
の検証が必要になったことを機に、横浜市の支援を受けて先端医科学研究センター内に次
世代臨床研究センター(Y-NEXT)を設立(2015 年 4 月開設)、トランスレーショナルリ
サーチの支援体制を構築すると共に、横浜臨床研究ネットワーク参加の 14 病院の協力を
得て臨床研究をサポートする体制を整えた。
8.執筆担当者所感
プロテオーム解析では標準的な技術がいまだ確立されておらず、研究基盤は脆弱と言わ
れている中、基盤技術の開発こそが「病気を予防する」、
「修飾異常を治す」
(異常タンパク
質の発現を制御する薬の開発)及び「修飾異常を診る」
(診断薬の開発)の早期実用化への
近道であるとして、
「分析技術を創る」ことに拠点としての力が注がれている。また、その
技術を活用することにより得られた新たな技術的な課題を技術開発にフィードバックし、
更なる技術の開発が推進されている。短期間で卵巣明細胞腺がんの新規診断マーカーを実
用化間近まで進めることができたのは、このような取組みの賜であると考えられた。今後、
更に技術開発が進み、標準的なプロテオーム解析技術が確立され、世界に先駆けてバイオ
マーカーの探索が進むことを期待する。
また、バイオマーカーの探索には、バイオバンクの持つ意義は大きいと考える。しかし
ながら、数ある国内のバイオバンク関係者の間で、品質の高いサンプルを収集し保管して
おくことの重要性、バイオバンクの意義について、まだまだ共通の理解が得られていない
のが現状のようである。バイオバンクによって検体の取扱いが様々であるため、検体の質
によっては結果が異なることや結果が得られないこともあり、検体の取扱い及び保管方法
を統一する等、国が主導でバイオバンク運用のルール作りをすべきであると考える。
質量分析はハイレベルの機械があれば期待どおりの結果が出易いが、導入費用の面から容
易に購入できるものではない。このため、国内の研究開発の底上げを図るには、拠点とな
るセンターを設置し、常に最新の機械を揃え、また、専門知識及び技術のある人材を育成
し、様々なニーズに対応できる体制を整える必要がある。このような課題についても
AMED 等国が主導で議論し、プロテオミクス及び翻訳後修飾解析において世界をリードで
きる体制が構築されることを期待する。
- 102 -
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
【参考文献】
1)
「翻訳後修飾プロテオミクス医療研究拠点の形成」プロジェクト中間報告(横浜市立
大学・平野久名誉教授提供資料)
2)
Mochida K. et al. Receptor-mediated selective autophagy degrades the
endoplasmic reticulum and the nucleus. Nature, 522: 359-362, 2015.
3)
坂本
茂.Orbitrap 質量分析計の装置と性能.TMS 研究, 3: 59-66, 2010.
4)
FDA NEWS RELEASE: Sept. 11, 2009. FDA Clears a Test for Ovarian Cancer
Test can help identify potential malignancies, guide surgical decisions
5)
Okayama
A.
et
al.
Identification
of
Tyrosine-Phosphorylated
Proteins
Upregulated during Epithelial-Mesenchymal Transition Induced with TGF-β. J.
Proteome Res., 14: 4127−4136, 2015.
- 103 -
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
(4) プロテオミクス技術を活用したバイオマーカーの探索
ヒアリング先:
国立研究開発法人医薬基盤・健康・栄養研究所
プロテオームリサーチプロジェクト
朝長
毅
プロジェクトリーダー
要約
質量分析技術のめざましい進歩により、特に最近では三連四重極質量分析装置を使った
SRM/MRM(Selected reaction monitoring/Multiple reaction monitoring)法によって、
一度に 100 種類を超えるタンパク質の正確でハイスループットな定量が可能となった。国
立研究開発法人医薬基盤・健康・栄養研究所(プロテオームリサーチプロジェクト)にお
いては、最先端のプロテオミクス技術を駆使したがんや神経疾患の新規バイオマーカータ
ンパク質の探索が行われている。その探索方法は、がんの場合には、初めに、ヒト臨床検
体(がん組織)を用いた大規模なショットガンプロテオミクスにより、バイオマーカーの
候補となるタンパク質が同定、選定される。次に、SRM/MRM 法を使ってがん組織と比較
する組織で候補タンパク質の発現量の検証が行われる(ターゲットプロテオミクス)。検証
されたバイオマーカー候補のタンパク質について、患者血液等での検出・定量を行い、臨
床診断マーカーとして応用できるかどうかが検討されることとなる。これまでに、プロテ
オームリサーチプロジェクトでは、大腸がんの再発マーカー、アルツハイマー病の早期診
断マーカー、家族性高コレステロール血症マーカー、尿中の前立腺がんマーカー、腎がん
の薬剤感受性マーカー、重症薬疹マーカー、COPD のマーカー等の探索が行われてきた。
その中で、大腸がん再発の早期発見のための新規バイオマーカー探索が行われ、血中マー
カーとして 3 種類の候補タンパク質が見出された。
さらに、血液サンプルを抗体による免疫沈降の前処理を行うことで、SRM/MRM 法によ
る血中の超微量のアルツハイマー病診断マーカーAPL1β の定量法が確立された。
1.はじめに
最近のプロテオミクス技術の進歩はめざましく、質量分析計を用いたタンパク質の定量
が正確にハイスループットでできるようになった 1)。三連四重極質量分析装置を使った
SRM/MRM(Selected reaction monitoring/Multiple reaction monitoring)法2)では、目
的タンパク質のトリプシン消化断片のうち特異的に検出されるペプチドを内部標準ペプチ
ドとして用い、安定同位体標識合成ペプチドを試料(組織や細胞ライセートのトリプシン
消化ペプチド)に添加して同時測定し、マススペクトルを比較することで目的とするタン
パク質の定量が可能となった。SRM/MRM 法の特長は、バックグラウンドを取り除くこと
ができることから、S/N 比が格段に改善されて高感度の定量が可能となったことである。
さらに、1 回の測定で 100 種類ものタンパク質の同時定量が可能で、測定も短時間なので
スループットが高いことがあげられる。また、従来から汎用されている ELISA 法とは異
なり、抗原に対してペアで使用する特異抗体は必ずしも必要とせずに、多くのタンパク質
に対して特異的な定量が可能となる。
- 104 -
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
プロテオームリサーチプロジェクトでは、質量分析機器を使用した SRM/MRM 法によ
るプロテオミクス技術を駆使し、がんや神経疾患の新規バイオマーカーとなるタンパク質
の探索が行われてきた。その探索方法は、初めに、ヒト臨床検体(組織)を用いた大規模
なショットガンプロテオミクスによりバイオマーカーの候補となるタンパク質を同定、選
定する。次いで、SRM/MRM 法を使って候補タンパク質の検証を行う(ターゲットプロテ
オミクス)
。最終的に検証されたバイオマーカー候補タンパク質について、血液、尿中等の
体液中で検出・定量が可能かどうか検証される。定量値と疾患の発症あるいは進行との関
連が検討され、臨床診断マーカーとして応用できるかどうかが評価される(図 1)
。
大腸がんにおいては、術後の 10 年生存率はステージが進むに従って大きく低下する。生
存率向上のためには、再発を早期に発見し治療を開始することが重要である。しかし、現
状、画像診断では約 8mm 以下の腫瘤は検出できない。したがって、微小転移の有無を検
出できる早期のバイオマーカーが臨床上、必要とされている。このような背景から大腸が
んの転移・再発予測のための新規バイオマーカーの探索を行った。
図1.バイオマーカーの探索から応用までの流れ
(医薬基盤・健康・栄養研究所
朝長毅氏提供資料)
2.大腸がんの新規バイオマーカーの探索
最初に良性腫瘍(ポリープ)群と大腸がん組織群(転移なし群と転移あり群)のそれぞ
れの膜タンパク質画分の iTRAQ 法による網羅的プロテオミクスが実施され、5,566 種類の
タンパク質が同定された(この数値は過去のプロテオーム解析の同定数を超えるものであ
った)。それらタンパク質の中の 263 種類で、良性腫瘍群に比べて転移の無いがん組織群、
又は転移の無いがん組織群に比べて転移のあるがん組織群で発現量が 2.0 倍を超える又は
- 105 -
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
0.5 倍未満の変動が見られた。そのうち、膜タンパク質及び細胞外タンパク質は 105 種類
であった。これら 105 種類のバイオマーカー候補タンパク質について、SRM/MRM 法を
用いたターゲットプロテオミクスにより各組織群間での発現量の変動の検証が行われた。
別の組織サンプルセットも使って検証された結果、最終的に 44 種類のタンパク質が大腸
がんのバイオマーカー候補となった。次に、それらバイオマーカー候補について、診断マ
ーカーとして用いるために血中での検出が検討された。血液試料の測定においては、アル
ブミン等の血中に存在量の多いタンパク質の影響を如何に回避し、質量分析計で微量なタ
ンパク質の変動を検出できるかが大きな課題となる。そこで、細胞から分泌される細胞外
小胞(exosome)での測定が検討された。細胞外小胞を用いるメリットは、
(1)細胞から
分泌されるので細胞の状態を反映している、(2)膜で覆われているのでタンパク質や
miRNA が安定して存在する、(3)血液サンプルから exosome を分離することで、血中
に存在量の多いタンパク質が除かれる、等が挙げられる。健常者群、大腸がん患者群(転
移なし;ステージ I 又は II)、大腸がん患者群(転移あり;ステージ IV)の血液サンプル
より exosome 画分を調製し、定量を試みたところ、105 種類の候補タンパク質のうち、20
種類のタンパク質が exosome 画分中で定量が可能であった。最終的に、新規大腸がん再発
マーカーとして 3 種類のタンパク質が選択され、解析が継続されている(図 2)。
図2.大腸がんバイオマーカーの探索
(医薬基盤・健康・栄養研究所
朝長毅氏提供資料)
3.アルツハイマー病の血液中での早期発現マーカー(APL1β )の微量測定法の開発3)
SRM/MRM 法は、上記のように新規バイオマーカー探索にも利用できるが、従来の
ELISA 法では測定できなかった血中の極めて微量なタンパク質を定量する超高感度な測
定法となり得る。実際に、血中に fmol/mL 以下しか存在しない超微量のアルツハイマー病
診断マーカーAPL1β の定量法を確立することができた。
- 106 -
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
アルツハイマー病はβ−アミロイド前駆体タンパク質(βAPP)から産生されるアミロ
イドβ42 ペプチド(Aβ42)の脳内異常蓄積が原因で発症すると考えられている。しかし、
診断のために脳内 Aβ42 の蓄積量を直接測定することはできない。これまでの研究から患
者髄液や血液中の Aβ42 量は脳内蓄積量を反映していないことが分かっているため、脳内
Aβ42 の蓄積量を反映した血液の代用マーカーが必要となる。Aβ42 は βAPP が
β-secretase(BACE)と Presenilin/γ-secretase で切断されて生成されるが、βAPP 類
似タンパク質 APLP1(Amyloid-like protein 1)も同じ機構で切断されて APL1βが生成
し、細胞外へ分泌される。これまでの研究により、患者髄液中の APL1β(総 APL1β
(APL1β25+APL1β27+APL1β28)に対する APL1β28 比)はアルツハイマー病の代
用マーカーと成り得ることが分かっている。しかし、髄液中の個々の APL1β濃度は ELISA
で測定できるが、血液中では APL1β濃度が髄液中の数千分の 1 以下になるので ELISA
では測定することができない。
そこで、SRM/MRM 法を用いてヒト血漿中の個々の APL1β濃度の定量が検討された。
この場合も、アルブミン等の血中に存在量が多いタンパク質の影響を如何に回避し、質量
分析計で超微量なタンパク質を検出できるかが大きな課題となる。検討の結果、血液サン
プルの前処理法は、抗 APL1βモノクローナル抗体により免疫沈殿させた後、アセトニト
リル沈殿で抗体を除くこととされた。従来の前処理法に比べ 10~20 倍低い SN 比となり、
SRM/MRM 法で血中の超微量 APL1βを定量する方法が確立された。なお、定量限界 0.3
fmol/mL は世界最高レベルである (図 3)。
図3.血中超微量アルツハイマー病マーカーAPL1β の定量法
(医薬基盤・健康・栄養研究所
- 107 -
朝長毅氏提供資料)
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
4.リン酸化プロテオミクス技術について
分子標的薬(主にキナーゼ阻害剤)の薬効予測が、患者組織のゲノム解析により一般的
に行われている。典型的な例は、進行大腸がんの EGFR 抗体医薬の処方を、がん組織の
KRAS 遺伝子の変異の有無により判断しようというものである。しかし、ゲノムの変異と
タンパク質の機能は 1 対 1 の相関関係にない。特定のキナーゼ活性が亢進したがんにおい
ては、対応するキナーゼ阻害剤の効果が直ちに予想できる。そのため、標的となるキナー
ゼタンパク質の活性定量解析が重要となる。
EGFR 遺伝子のシグナル伝達経路の場合には、途中の KRAS 遺伝子に活性変異があると、
下流の RAF や MEK 遺伝子が恒常的に活性化するとも説明されている。しかし、セルラ
イン等で検討してみると必ずしもそうではなく、シグナル伝達のクロストークの存在が指
摘された。それゆえ、朝長らのグループでは、リン酸化プロテオミクス技術により薬剤標
的となるタンパク質の網羅的解析が進められている。
これまでの研究により、セルラインを試料とした場合には、3 万数千のリン酸化サイト
が検出されている。これらの多くは、セリン及びトレオニンのリン酸化である。通常の方
法では検出の難しいチロシンリン酸化サイトについては、抗体を用いた前処理により 2 千
数百のリン酸化ペプチドサイトの検出が実現されている。これにより、リン酸化チロシン
を含む多くのリン酸化ペプチドの定量解析ができるようになり、その定量値から独自のバ
イオインフォマティクスを用いてキナーゼ活性を予測できる見通しが立った。
プロテオミクス技術により、細胞内の増殖シグナルのどのキナーゼが活性化しているか
特定できれば、ピンポイントでそのキナーゼ阻害剤を処方できるのではないかと考えられ
ている。
5.実用化に向けた課題
上述したように、プロテオミクスに関する基盤技術の進歩は目覚ましいものである。し
かし、診断マーカーといった点においては、いまだ実用化されたバイオマーカーはほとん
ど無い。今後、新規バイオマーカーの効率的な発見と実用化を達成するためには、多くの
課題の克服と環境整備が必要である。
一つは、マルチマーカーを如何に組み合わせて行けるかという点である。しかし、規制
当局である PMDA の薬事審査においては、いまだマルチマーカーという概念には対応し
ていない。また、新しいマーカーを新しい測定方法で測るということについても承認され
にくい。質量分析計を用いるメリットは、感度が優れており、一度に多くのバイオマーカ
ーの定量が可能で、設備投資分の減価償却を除けば低コストで済むことである。しかし、
実用化に近づけるには前処理法の簡略化や自動化・高速化が必要で、一般の病院の臨床検
査技師ができなければならず、簡便にできる LC 等を使った質量分析装置が望まれる。将
来的に、血中のタンパク質群を抗体で濃縮し、その濃縮したものを普通の LC を使った質
量分析装置で測ることができれば、従来の ELISA に比べてバックグラウンドは低いため
高性能で、かつ複数同時測定が可能となり、コストダウンが期待できる。そのためには、
マルチマーカーの実用化に関して柔軟に規制緩和されることが必要である。
一方、実用化に向けた環境整備としては、プロテオミクス等の基盤研究だけでなく、診
断マーカーが必要と感じている臨床現場の医師の協力が必要である。診断マーカーの探索
- 108 -
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
研究において、臨床に関わっている臨床医がどれだけいるかというと、現段階では非常に
少ない。臨床医が関わらない研究というのは実用化に結び付きにくく、臨床医と研究者が
うまく共同でマーカー開発を実施できる環境整備が必要である。
また、バイオバンクの整備についても、それなりに進んではいるものの、タンパク質等
の分子の変動と患者背景(カルテ情報)の関連性を検証することは極めて重要なことにも
関わらず、基盤技術開発に携わる研究施設ではカルテ情報の入手は極めて非効率的な環境
である。バイオマーカーの実用化達成に向けては、基盤技術の進歩だけでなく、基礎と臨
床の連携、患者情報を効率よく収集・入手できる環境整備についても、国が積極的に進め
て行くことが必要である。
6.執筆担当者所感
最新の質量分析計を駆使した大腸がんの新規バイオマーカー探索の試みにより、大規模
ショットガンプロテオミクスで同定された 5,566 種類の大腸がん組織のタンパク質の中か
ら、最終的に 3 種類のタンパク質が新規大腸がんマーカーとして選ばれた。実際に臨床の
場で早期再発の診断手段として使用できるバイオマーカーとするためには血液サンプルで
測定できることが重要であり、その点がバイオマーカー探索の大きな課題となっているの
ではないかとの印象を持った。特に今回、血中に存在量の多いタンパク質の影響を回避す
るために、細胞外小胞(exosome)画分での測定とし、3 種類のタンパク質が選ばれたが、
逆に、この測定条件により選ばれなかった候補タンパク質も多い。現在、この 3 種のマー
カーについて更なる検討が行われている。これらのマーカーについては、単独の診断マー
カーとしては、感度・特異性のみを見れば CEA と同程度である。悪性度(転移の程度)
と発現量の変動とがよく相関し、血液サンプルで高感度に測定可能な理想のバイオマーカ
ーとなり得るタンパク質は予想以上に極めて少ないのかもしれない。しかし、今回の 3 種
のマーカーも CEA と組み合わせることで、診断効率は相補的かつ有意に向上するとの結
果が得られているので、マルチマーカーとしての今後の研究の進展に期待したい。また、
他のがん種についても、このような網羅的な探索を実施して、真に有用な診断マーカーが
見出されることを期待したい。
【参考文献】
1)
朝長
毅ら. 定量的プロテオミクス技術の疾病診断への応用. 医学のあゆみ, 251(10):
970-974, 2014
2)
フナコシ株式会社ホームページ:LC-MS/MS MRM(SRM)によるタンパク質質量分
析ツール「MRMplus」製品 新着情報
3)
国立研究開発法人
http://www.funakoshi.co.jp/contents/8056
医薬基盤・健康・栄養研究所ホームページ:「次世代質量分析計を
用いた血中超微量アルツハイマー病診断マーカー定量法の確立」に係る論文掲載につ
いて (2014 年 1 月 6 日) http://www.nibio.go.jp/news/2014/01/000796.html
- 109 -
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
(5)糖鎖解析によるバイオマーカー探索:肝線維化糖鎖マーカーの実用化について
ヒアリング先:
国立研究開発法人産業総合技術研究所 創薬基盤研究部門
織田 雅直 部門長
糖鎖技術研究グループ
梶
裕之
久野
敦
研究グループ長
上級主任研究員
要約
産業総合技術研究所(産総研)糖鎖技術研究グループは、糖鎖解析基盤技術として開発
した、糖鎖プロファイリングを行う高感度レクチンマイクロアレイ法と N-型糖鎖結合タン
パク質の網羅的構造解析法を活用し、肝線維化バイオマーカー「M2BPGi」の開発に成功
した。成功した要因として、
(1)糖鎖が細胞(組織)の種類や生存環境により変化する特
性に着目し、その変異糖鎖を付加したタンパク質をバイオマーカー探索の対象としたこと、
(2)探索ソースとして病巣部位病理切片や疾患由来細胞培養液等の病態由来が担保され
た試料を用いたこと、
(3)血液検査を想定し、血液タンパク質の大部分が由来する肝臓の
疾患を対象としたこと、
(4)実用化を第一としたこと、即ち、臨床現場の測定環境に合わ
せ、それに合ったバイオマーカーを基礎研究で選択したこと、
(5)病理医をはじめとする
臨床医との良好な共同研究を展開し、臨床上のニーズや患者利益を見極めた開発目標を掲
げたこと、
(6)産官連携による実用化研究において、官の基礎研究と産の実用化研究の役
割分担を超えて、互いの研究課題に踏み込んだ基礎検討を積み重ね、死の谷を克服したこ
と、等が挙げられる。
1.はじめに
これまでの治療主体の医療から予防医療、さらに、先制医療へ移行する必要性が叫ばれ
ている。これらを実現するためにはバイオマーカー整備が重要項目のひとつとして取り上
げられている。バイオマーカー発見の論文報告が数多く見られるが、その多くは研究報告
止まりで実用化に至らないという現状がある。その中で、産総研の糖鎖技術研究グループ
は、検査薬企業と協力して肝線維化バイオマーカーの製品開発に成功し、健康保険収載さ
れ広く臨床現場で使用されている。ヒューマンサイエンス財団創薬資源調査班は、産総研
の糖鎖技術研究グループの研究者と面談し、糖鎖バイオマーカー実用化までの経緯と成功
した要因について伺った。
2.産総研における糖鎖研究の概要
産総研において糖鎖研究が本格的に開始されたのは、2001 年より開始された GG
(GlycoGene)プロジェクト(糖鎖合成関連遺伝子ライブラリーの構築)からである。糖
転移酵素の網羅的クローニングが実施され、データベースとして公開されている1)。次に、
2003 年から開始された SG(Structural Glycomics)プロジェクト(糖鎖構造解析技術の
開発)では、高感度に糖鎖構造をプロファイリングするレクチンマイクロアレイ法 2、3)、
及び、糖鎖付加位置特異的安定同位体標識法(isotope-coded glycosylation site-specific
tagging:IGOT)と液体クロマトグラフィー-質量分析(LC-MS)ショットガン法を組み
- 110 -
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
合わせた大規模タンパク質同定法(IGOT-LC-MS)4、5)が開発された。レクチンマイク
ロアレイ法は、レクチンと結合した糖鎖のみを特異的に高感度で検出することが可能で、
疾患由来糖タンパク質のプロファイリングや特定糖タンパク質を捕集するためのプローブ
選択等に活用できる技術である。また、IGOT-LC-MS 法は、疾患関連糖鎖結合タンパク質
の網羅的同定に有用な構造解析技術である。
2006 年から開始した MG(Medical Glycomics)プロジェクト(糖鎖機能活用技術開発)
では、糖鎖疾患バイオマーカー開発を中心とした研究が行われている(図 1)
。
図1.産総研における糖鎖研究の概要
(産総研・糖鎖技術研究グループ提供資料)
3.血液中バイオマーカー開発の問題点
がんバイオマーカー開発では、がんを発症した場合、がん細胞は多くのタンパク質の他
にがん特異的タンパク質を産生していると考え、このがん特異的タンパク質を探索、同定
し、血液中がんバイオマーカーとして開発することが試みられているが、実際は多数の血
液検体を用いた有効性検証においてその変動幅を有意な差として検出することが困難なた
め、実用化に至らない場合が多い。例えば、肝臓組織の肝細胞全体の 1%ががん化し、そ
のがん細胞が、あるタンパク質を正常細胞の 10 倍量産生したと仮定した場合、血液中の
そのタンパク質の存在量(濃度)は、健常時の 1.1 倍の変化にすぎず、血液検体を用いた
有効性検証ではその差は個人差の変動幅より小さく、バイオマーカーとしての有効性を示
せないといった理由から実用化に至らないと考えられる(図 2)
。
- 111 -
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
図2.血液中バイオマーカー開発の問題点
(産総研・糖鎖技術研究グループ提供資料)
4.糖鎖バイオマーカー開発戦略
大部分の血液中タンパク質や細胞膜タンパク質は糖鎖修飾されている。また、糖鎖は、
細胞(組織)の生理的、病理的状態の違いや種類により構造が異なるという特性が知られ
ている。したがって、同じタンパク質でも病変部の細胞(組織)を反映する糖タンパク質
では糖鎖構造が異なり、バイオマーカーとして利用することが期待できるという考えにも
とづいて糖鎖バイオマーカー探索が行われている(図 3)。疾患早期に新規に出現するバイ
オマーカーの探索をタンパク質の量的変動に糖鎖の構造変化を加味して行うアプローチが
とられている。
図3.血清中糖タンパク質バイオマーカー探索コンセプト
(産総研・糖鎖技術研究グループ提供資料)
- 112 -
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
5.糖鎖の局在、構造と特性
タンパク質に結合する糖鎖には、アスパラギン結合型の N-型糖鎖とセリン及びトレオニ
ン結合型の O-型糖鎖がある。単糖が連結した鎖の構造をとり、ヒトの場合は構成単糖が
10 種類ある。糖鎖結合位置は最大 5 箇所あり分岐構造をとることができる。さらに、結合
には、αグリコシド結合、βグリコシド結合の 2 方向性がある。糖鎖結合反応には鋳型が
なく、それぞれの反応が別々の酵素により触媒されるため、糖転移酵素がどのような割合
で存在するか、どういう配置で並んでいるか、により合成される糖鎖が異なってくる。そ
のため、合成される糖鎖構造は、複雑で多様且つ不均一という特性を持っている(図 4)。
図4.糖鎖の局在、構造と特性-1
(産総研・糖鎖技術研究グループ提供資料)
N-型糖鎖は、前駆体合成が単糖転移で行われた後、少しずつ切断されるトリミングが行
われた後に糖付加反応が進み、糖鎖の伸張や横への分岐、さらに側鎖に別の糖が付加する
等の複雑な糖鎖合成が行われる。細胞内では、混合物の状態で糖鎖合成が行われており、
この糖鎖合成に関与する糖転移酵素類の組成が細胞の種類や状態により異なるため、合成
される糖鎖の種類が細胞や細胞の存在する環境により異なってくると考えられている。し
たがって、がん化した肝細胞では、どの酵素反応を触媒する酵素に量的変化が起こったか
により合成される糖鎖のバラエティが違ってくる。この違いを見出しバイオマーカーとし
て利用することが考えられている(図 5)。
- 113 -
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
図5.糖鎖の局在、構造と特性-2
(産総研・糖鎖技術研究グループ提供資料)
6.糖鎖バイオマーカー探索
(1)基本戦略
糖鎖バイオマーカー探索の基本戦略は 3 段階になっている(図 6)。第 1 段階では、注目
した疾患における糖鎖変化の有無と変化した糖鎖構造を確認する。第 2 段階では、変化し
た糖鎖を付加しているタンパク質を同定する。がんを例にすると、バイオマーカーとして
有用である糖タンパク質は、がん性変異を伴う糖鎖を付加したタンパク質で、がんに由来
する細胞が産生するタンパク質である。肝がんであれば、肝細胞の産生するタンパク質で
糖鎖にがん性変化を有するタンパク質である。このような糖タンパク質は肝細胞がんの存
在を示唆すると考えられている。第 3 段階では、標的糖タンパク質の糖鎖構造の確認と多
検体測定による臨床的有用性の検証を行う。臨床的有用性が確認できた場合は、企業との
連携による製品化に向けた実用化研究が進められる。
図6.糖鎖バイオマーカー探索の基本戦略
(産総研・糖鎖技術研究グループ提供資料)
- 114 -
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
探索開始段階で用いられる試料は、病理組織標本のがん組織部位切片や対象がん由来が
ん細胞の培養上清である。変化した糖鎖構造を確認した後に、その糖鎖変化を最も表現し
ているタンパク質を探索し、バイオマーカー候補としている。このアプローチは、探索開
始ソースに患者血清等の体液を用いる場合と比較し、探索されてくるバイオマーカー候補
が疾患に関与する細胞(組織)由来であることが明確である、という特徴を有している。
(2)糖鎖構造プロファイリング
どのような糖鎖変化が生じているかを検出する糖鎖構造プロファイリングには、レクチ
ンマイクロアレイ法が用いられる。レクチンは、糖鎖に結合するタンパク質の総称で多く
の種類がある。久野らが開発し、グライコテクニカで製品化されたレクチンマイクロアレ
イは、45 種類のレクチンがアレイ化されている。エバネッセント波と呼ばれる極めて射程
距離の短い光を利用して、レクチンと結合した糖鎖のみを特異的に検出することができる。
ELISA のような洗浄操作が必要でないために、レクチンとの結合力の弱い糖鎖も検出する
ことが可能である。測定試料を蛍光ラベルすることで 5 m の厚みのホルマリン固定病理
薄切組織標本から切り出された 1 mm3 の断片や 1,000 個の細胞で糖鎖構造プロファイリン
グが可能な感度を有している。蛍光ラベルされた正常試料(非がん部)及びがん試料(が
ん部)をこのアレイに添加することで、がん化により変化した糖鎖の有無を検出すること
ができる(図 7)。また、結合したレクチンをプローブとして用い、変化した糖鎖を付加し
たタンパク質を捕集し同定することにも活用できる。
図7.レクチンマイクロアレイ法による疾患特異的糖タンパク質の探索
(産総研・糖鎖技術研究グループ提供資料)
(3)糖鎖構造が変化した糖タンパク質の同定
レクチンマイクロアレイによる網羅的糖鎖構造プロファイリングにより見出された、糖
鎖変化を認識するレクチンをプローブとして糖鎖結合タンパク質を捕集した後、
IGOT-LC-MS 法により糖鎖結合タンパク質が網羅的に同定された。1 回の操作で 200~
1,000 種類のタンパク質が同定される(図 8)。
- 115 -
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
図8.グライコプロテオミクスによる網羅的糖タンパク質の同定
(産総研・糖鎖技術研究グループ提供資料)
細胞培養上清や血清等の解析対象試料をトリプシン等のプロテアーゼで消化し糖タン
パク質は、糖ペプチドに分解した後、糖ペプチドを親水性相互作用クロマトグラフィー
(HILIC:hydrophilic interaction chromatography)により濃縮した。濃縮した糖ペプチ
ドをレクチンプロファイルで選択した疾患関連糖鎖認識レクチンにより精製し、レクチン
捕集した N-型糖鎖ペプチドをペプチド-N-グリカナーゼ(PNGase)により切断した。同
時に、タンパク質の糖鎖切断部位のアスパラギン(Asn)側鎖へ 18O を導入する IGOT 法
を用いて標的ペプチドをラベル化し、LC-MS により測定することで候補タンパク質を同
定すると共に糖鎖結合部位を決定した。その後、細胞、組織特異性や疾患特異性等のイン
フォマティクス解析により 30~50 個の候補タンパク質に絞り込み、疾患発症により糖鎖
変化が誘導されているかを検証した。
7.肝線維化糖鎖バイオマーカーの実用化
(1)肝線維化バイオマーカー開発の有用性
日本では、年間約 4 万人が肝がん、肝硬変により死亡している。その原因の約 90%以上
は肝炎ウイルスの感染によるといわれている。国内には B 型肝炎患者が 100 万人以上、C
型肝炎患者が 200 万人前後存在すると推測されている。発症後約 40 万人が慢性肝炎を発
症する。C 型慢性肝炎患者は、治療しない場合約 20 年で肝硬変を発症し、肝硬変を発症
した人は、年間約 8%の割合で肝細胞がんへ移行すると言われている(図 9)
。
- 116 -
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
図9.肝線維化マーカー開発の背景
(産総研・糖鎖技術研究グループ提供資料)
肝線維化状態が低いと肝がんになり難いことが明らかになっているので、長期間に渡っ
て肝線維化状態を把握することは、患者自身や担当医にとって重要な情報となっている。
現在、肝線維化を診断する最も確実な方法は肝生検である。1 週間程入院し、バイオプシ
ーにより肝組織を一部採取し病理診断を行う。侵襲的で出血リスクを伴う、高額である等
の問題があり、受診率が低いという現状がある。安全、安価で正確な診断を行う方法が求
められている(図 10)
。
図10.肝線維化マーカーの有用性
(産総研・糖鎖技術研究グループ提供資料)
(2)肝線維化バイオマーカーの性能
肝線維化バイオマーカー探索プロジェクトから見出された糖タンパク質について、健常
- 117 -
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
な状態とがん発症状態においてその存在量に明らかな差があることを確認した後、肝炎発
症後の肝線維化、肝硬変、肝がん、のいずれの病態でどのように変化するかを解析した。
線維化の進展に相関して上昇してくる糖タンパク質であることが確認された(図 11)
。
図11.肝線維化バイオマーカーの病態における変動
(産総研・糖鎖技術研究グループ提供資料)
肝がんのバイオマーカー探索の結果、肝線維化バイオマーカーが見出された。当初の目
的(がんバイオマーカー)とは異なり、線維化マーカーの実用化が進められた。それが成
功した要因としては、肝線維化の進展を把握するバイオマーカーのメディカルニーズや患
者にとっての有益性等、マーカー開発の必要性を見極めたことが指摘されている。さらに、
健康診断の一環として実施するのではなく肝炎ウイルス感染患者を対象とした診断に適用
することで、利用する機会を明確にしたことや、臨床情報が付加された試料で、ウイルス
肝炎発症から肝硬変を経て肝がんを発症するまでの長期間に渡って収集された臨床試料
(同一患者の時系列的な収集試料)を利用できたこと等が成功要因と考えられている。
バイオマーカー開発には、バイオマーカーの探索や有効性検証に有用な臨床試料が望ま
れている。疾患の進展に沿って収集された試料であること以外に、既存バイオマーカーの
測定値を含め、臨床情報が揃っている臨床試料が求められている。現状では、そのような
臨床試料の利用には限界があるため、バイオバンク保管試料の活用が注目されている。バ
イオバンクに保管されている試料について、バイオマーカー探索の初期段階や検証段階で
利用できる試料としてどういうものが保管されているか、使用目的に応じたカタログ化、
等の工夫が望まれている。
(3)肝線維化バイオマーカーM2BPGi
肝線維化バイオマーカーとして選択されたのは、Mac2-binding protein(M2BP)とい
う糖タンパク質である。この糖タンパク質は、電子顕微鏡下ではドーナツ様形態として観
察される巨大分子で、1 分子当たり 7 本の糖鎖付加部位を有し、10 個前後の分子がドーナ
ツ状に会合した構造をしている(図 12)
。
- 118 -
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
図12.肝線維化バイオマーカーM2BPGi の実用化
(産総研・糖鎖技術研究グループ提供資料)
M2BP を検出するレクチン探索が実施され、M2BP と特異的に結合するレクチンとして、
健常人血清とはほとんど反応せず、線維化患者血清と特異的に反応するノダフジの種子か
ら得られるフジレクチン(Wisteria floribunda agglutinin:WFA)が選択された。WFA
を固相化したマイクロプレートに血清を添加し糖鎖を介して M2BP を補足し、酵素ラベル
した抗 M2BP 抗体により検出するサンドイッチ法が確立された。血清検体を解析しその有
効性を確認した後、自動化を目指し、M2BP モノクローナル抗体、検量用標準物質として
用いるリコンビナント M2BP、を作製し安定供給できる体制が整備された。この検出系を
市中病院に広く設置されている自動免疫分析装置(シスメックス HISCL)に適用するこ
とを決定し、シスメックスと検出キット開発の共同研究が進められた。その結果、採血し
血清調製後 17 分で検体測定を完了する検出キットの開発に成功した。
M2BP は、HISCL を改良なしに、試薬のみ交換するだけで使用することを念頭に選択
されたバイオマーカーである。比較的存在量が多い、レクチンイムノアッセイにおいてバ
ックグラウンドが低い、結合糖鎖が多く洗浄操作にも耐えることができるという性質から
選択されている。実用化段階で橋渡しする企業の検出機器により測定可能なバイオマーカ
ーを選択し、検出キットを開発するというアプローチは、PMDA 製造販売承認を早期取得
する点で非常にメリットが大きく、事前相談を含めて約 2 年という短期間での製造販売承
認取得に成功している。また、17 分で測定を完了することで、肝炎ウイルス感染の初診や
定期検査の際に、医師の診察と同時に検査結果を知ることができ、患者にとって負担軽減
となっている。
PMDA より製造販売承認を取得し、約 7,000 人の血液検体について臨床検証が行われた。
その結果、現在使用されているサロゲートマーカーのヒアルロン酸、FIB4、血小板、等と
比較しても(M2BP は)高い診断能力を示すことが明らかになった(図 13)
。2015 年 1
月に保険収載(200 ポイント)され、当初目的とした、安全、安心で正確な診断法を実用
化することができた。
- 119 -
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
図13.M2BPGi の製造販売承認と性能
(産総研・糖鎖技術研究グループ提供資料)
その後の研究で、病院で検査した時の初期値を「1 以下」、
「1 から 4」、
「4 以上」と分類
し、その後の病態の進行を統計的に解析し、初期値が「4 以上」の患者は、10 年後に約 50%、
15 年後では約 80%の方が肝がんを発症し、「1 以下」の患者は肝がん発症がほとんどみら
れない、という結果を得ている(図 14)
。M2BP は肝の線維化マーカーに加え、肝がんの
リスクマーカーとしての応用についても可能性が注目されている。
今回の産官共同プロジェクトは、基礎研究を官が担当し、実用化研究を産が担当する一
般的な体制であったが、分担領域以外の課題についても互いにサポートし合い、死の谷を
克服したことが成功のキーポイントとして指摘されている。産総研は実用化研究の PMDA
承認を得るまで協力し、シスメックスは基礎研究の予備検討も実施し、小さな成功体験を
積み重ね信頼関係を構築した。
図14.M2BPGi の値と肝がん発症率
(産総研・糖鎖技術研究グループ提供資料)
- 120 -
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
8.糖鎖バイオマーカー探索の応用と今後の方向性
肝線維化バイオマーカー開発に成功した戦略は、肝内胆管がん(バイオマーカー:
MUC1)、肝がん/肝硬変(バイオマーカー:CSF1R)、卵巣がん(バイオマーカー:
Ceruloplasmin)
、肺腺がん(バイオマーカー:Fibronectin)、肺小細胞がん(未発表)に
対しても応用され、バイオマーカー探索研究が進められている。バイオマーカーが同定さ
れたがん種については、実用化に向けて企業と製品化研究が進められている。また、がん
に加えて線維化のような進行に長時間を要する疾患にも適用できることが検証されたこと
から、生活習慣病や慢性疾患等への展開も計画され、一部は開始されている。
新たな試みとして、疾患特異的膜結合型糖タンパク質を薬剤送達や病巣イメージングの
標的分子として利用する応用が考えられている。そのために、細胞膜結合糖タンパク質の
糖鎖変化を体内で補足する技術、イメージングする技術の開発が進められている。また、
今後開発する技術基盤として、糖鎖プロファイリングで探索される 100 個から 200 個のバ
イオマーカー候補糖タンパク質をハイスループットに評価する技法や、O-型糖鎖結合タン
パク質の網羅的同定法の開発が考えられている。レクチンマイクロアレイ法についても、
現状 1,000 個の細胞数で解析可能であるが、血液がん等ではより少ない細胞数で解析する
必要性が想定され、更なる検出感度向上が求められている。
9.執筆担当者所感
糖鎖解析基盤技術を開発し、糖鎖の特性を利用した特異性の高い糖タンパク質を探索し
肝線維化バイオマーカー開発に成功している。実用化の出口戦略に合わせて、探索段階の
バイオマーカー選択や測定系構築を考える、という考え方は実践的で大変興味深かった。
1つの探索プロジェクトで特異性のあるバイオマーカー候補を複数発見できる、高い技術
レベルとノウハウの蓄積がこのアプローチを可能にしていると推察された。
バイオマーカー開発の成功には、探索や検証試験に適した臨床試料を用いることが重要
で、その収集に基礎研究現場が苦労していることも理解できた。バイオバンクが保管して
いる臨床試料のバイオマーカー探索、検証への利用が期待されている。バイオバンクには、
利用者側のニーズを詳細に調査し、保管試料が多方面のライフサイエンス研究に広く活用
されるような仕組みと工夫を望みたい。
また、実用化研究の成功には産官の役割分担を超えた協力が重要で、そのためには、互
いの領域に踏み込んだフォローの積重ねによる信頼感醸成が必要である、ということをあ
らためて認識させられた。
肝線維化バイオマーカー開発と同じ戦略で進行している、各種バイオマーカー開発の成
功と糖鎖研究分野で世界をリードする研究を期待したい。
【参考文献】
1) 日本糖鎖科学統合データベース
2) Kuno A.et al.
http://jcggdb.jp
Evanescent-field fluorescence-assisted lectin microarray: a new
strategy for glycan profiling. Nat.Methods, 2: 851-856, 2005.
3) Kuno A. et al. Focused differential glycan analysis with the platform
antibody-assisted lectin profiling for glycan-related biomarker verification. Mol.
- 121 -
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
Cell.Proteomics, 8:99-108, 2009.
4) Kaji H. et al. Lectin affinity capture, isotope-coded tagging and mass spectrometry
to identify N-linked glycoproteins. Nat.Biotechnol., 21: 667-672, 2003.
5) Kaji H.et al.
Mass spectrometric identification of N-linked glycopeptides using
lectin-mediated affinity capture and glycosylation site-specific stable isotope
tagging. Nat.Protoc., 1: 3019-3027, 2006.
- 122 -
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
(6) メタボローム解析によるがん診断バイオマーカーの探索と検査機器の開発
ヒアリング先:
神戸大学大学院医学研究科
病因病態解析学(疾患メタボロミクス)
吉田
優
分野長
要約
吉田分野長の研究室においては、血液試料中の質量分析(MS)によるメタボローム解
析(メタボロミクス)手法により、がんの早期診断、治療効果、毒性や再発予測等に役立
つメタボロームバイオマーカーの特定とそれらを安定定量する検査・解析機器の開発が進
められている。この検査・解析機器システムの特長の 1 つは、手指採血等による微量血液
試料で測定することができる点である。メタボロミクスのメリットには、解析対象となる
生体内の代謝産物(低分子化合物)数が 3,000~4,000 とゲノミクスやプロテオミクスと
比較して少ないこと、動物種特異性がないこと、食品由来低分子化合物も同定できること
等がある。しかしながら代謝産物は、極性(疎水性、親水性)及び分子量の大小により物
理的・化学的性質が多様である。そのため、数種の異なるクロマトグラフィー/MS システ
ムが必要となり、当研究室では水溶性カチオン性代謝物、水溶性アニオン性代謝物、脂溶
性代謝物等、その代謝物の特性に従い、いくつかの分析システムを確立し使い分けている。
これまで、大腸がんの診断バイオマーカー探索では、ガスクロマトグラフィー(GC)/MS
により解析した実例がある。患者血清を前処置後に GC/MS にて測定、ステップワイズ変
数選択により 4 つの化合物(2-ヒドロキシ酪酸、アスパラギン酸、キヌレニン、シスタミ
ン)を選択し、多重ロジスティック回帰の統計解析からなる予測式が作成された。この大
腸がんの MS 検査機器システムは、完全自動化を目指して計測機器企業との協力関係のも
とに開発が進められており、将来は、薬事承認を目標としている。さらに、実際の健診利
用をめざして、被験者のさまざまなデータ(身長、体重、臨床検査、生活情報、家族歴、
治療歴等)をすべて統合し、ビッグデータからより精密な健診システムの確立を目指した
研究開発を行っている。
1.次世代のヘルスケアシステム
吉田らの研究室においては、血液試料中の生体内の低分子代謝産物を網羅的に解析する
研究手法であるメタボローム解析(メタボロミクス)によって、がんの診断に役立つメタ
ボロームバイオマーカーの特定とそれらを定量する検査・解析機器の開発が進められてい
る。
吉田らは、次世代のヘルスケアシステムを明解に次のように語る。今後 5 年くらいの間
にヘルスケアシステムは大きく変わることに間違いはない。その背景には、病院の医療デ
ータ(診断・治療のカルテデータ)のクラウド化、個人レベルで取得される健康・医療デ
ータ(遺伝子情報や日々の生活情報: 血圧、運動量、食事内容等)のクラウド化及びそれ
らのビッグデータの医療従事者の介入や人工知能(AI)による解析がある。個人情報への
配慮はもちろん必要である。しかし、これらの解析により、疾病の予防、先制医療及び個
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第二章 バイオマーカーの実用化における課題
別化医療の観点から、
健康・医療に関わる適切な助言をクラウド情報に基づき医師から個々
人が受けられるような社会が到来するに違いない。医師、特に健康診断に従事する内科系
の医師の存在意義が、未来社会では異なるものとなる。
背景となるもう 1 つの技術革新は、微量血液試料(手指採血)によって解析できる臨床
検査機器の実現である。生命保険への新規加入者については、既に年間約 10 万人の血糖
値を含めた各種臨床検査が手指採血検査により行われている。一方、健康診断の未受診者
は約 2,000 万人と言われている。未受診者が、コンビニ、薬局あるいはスポーツクラブ等
で採血器具を手に入れ、自身で手指採血(医療法上許される)して臨床検査を受けること、
そして検査結果がクラウド化され自身のスマートフォン等に返却されたり、健康・医療デ
ータと統合された後 AI により解析されるようになれば、上記のような社会の到来はより
現実性を持つ(図 1)。
図1.次世代のヘルスケアシステム
(神戸大学・吉田優氏提供資料)
2.メタボロミクスのメリット
メタボロミクスは生命現象に関係する低分子代謝産物(メタボローム)の網羅的解析で
ある。メタボロミクスのメリットは、次の 5 点である(図 2)。(1)解析対象となる物質
数が少ないこと。代謝に関わる酵素の遺伝子は、ヒトでは 1,100 くらいである。そのため、
メタボロームは 3,000~4,000 くらいと見積られている。(2)低分子であること。これま
での生化学研究により、解糖系、TCA サイクルやペントースリン酸サイクル等生理学的・
病理学的意義が明らかにされている。
(3)表現型に近いこと。代謝物は生命現象が実行さ
れたときに産生され表現型に最も近く、その変化が観察しやすい。
(4)種特異性が無いこ
と。多くの代謝物は多くの種において共通であるため、分析手法を種ごとに変える必要が
ない。
(5)食品由来の物質も同定可能であること。食生活、健康食品や人工添加物(防腐
剤、増粘剤や人工甘味料等)の追跡も可能である。
- 124 -
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
図2.メタボロミクスのメリット
(神戸大学・吉田優氏提供資料)
3.メタボロームの分析法
最近では、質量分析計の臨床検査への導入が熱心に進められている。MALDI/MS によ
る細菌・真菌の迅速同定、GC/MS や LC/MS による先天代謝異常スクリーニング、治療薬
モニタリング(TDM)、そして臨床化学検査(ステロイド、ビタミン D、脂質、タンパク
質・ペプチド等)への応用である。法医学分野では、中毒性薬物の検出にも使用できる。
近年、日本医用マススペクトル学会でも医用質量分析認定士制度が開始された。病院や検
査会社等、医療現場にて質量分析計を使う臨床検査技師はこの資格の習得が勧められてい
る。
メタボロームは、極性(疎水性、親水性)及び分子量の大小により物理的・化学的性質
が多様である。そのため、数種のクロマトグラフィー/MS システムが必要となる。当研究
室では以下のように使い分けている。ガスクロマトグラフィー(GC)/MS(GCMS-QP2010
Ultra、島津)
(イオン化:EI、誘導体:シリル化等、移動相:気体)は、主に水溶性カチ
オン性代謝物(有機酸、アミノ酸、脂肪酸)や糖・糖アルコールの分析に使用している。
液体クロマトグラフィー(LC)/MS(UHPLC Nexera + LCMS-8040、島津)(イオン化:
ESI、誘導体:なし、移動相:液体)は、
(1)逆相カラムを用いて脂肪酸及び脂質の分析
に使用、
(2)イオンペア試薬を用いて水溶性アニオン性代謝物(有機酸及び糖リン酸・補
酵素・ヌクレオチド等)の分析に使用、
(3)PFPP カラムを用いてアミン及びアミノ酸の
分析に使用。これらにより、血中の約 600 種類の化合物(代謝物)の分析が可能であると
いう。
MS 分析は、クロマトグラフィー分離の溶出時間及びフラグメントピークのパターンで
代謝産物を分析する。溶出時間は、市販カラムの種類や機器により異なるために、研究室
で予め標品を用いたデータベースを構築することが重要となる。GC/MS の場合には、研
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第二章 バイオマーカーの実用化における課題
究室では約 550 化合物からなるライブラリーを保有している。バイオマーカー候補となる
代謝物の同定後、個々の代謝物の定量には、安定同位体標識代謝物を用いて安定定量系を
構築している。
4.GC/MS メタボロミクスによる大腸がんの診断バイオマーカーの探索及び検査法の開発
大腸がんは、初診時に 4 割から 6 割の患者が進行がんで発見される。既存の検査(臨床
検査、画像診断及び内視鏡検査)は早期診断には馴染まないために、簡便で正確しかも非
侵襲的なスクリーニング検査法が開発されるようになった。
大腸がん患者血清(8 時間以上の空腹時血清、50μL、EDTA 採血、速やかに遠心分離、
−80℃保存・輸送)に混合溶媒(メタノール、クロロホルム、純水)及び内部標準(2-イ
ソプロピルリンゴ酸)を加えてメタボロームを抽出、凍結乾燥後にオキシム誘導体化して
GC/MS 分析(GCMS-QP2010 Ultra)を行った結果、糖・有機酸・アミノ酸・脂肪酸等を
検出し、131 の化合物が同定された。その中から、血清由来成分でない化合物、分析上で
不安定な化合物、及び日間日内変動の有意な化合物を除外し、大腸がん患者と健常者との
間で有意な差を持ち、診断に役立つ 27 種類の候補化合物が選択された(図 3)。
図3.血清サンプルのメタボロミクスによる候補化合物の選択
(神戸大学・吉田優氏提供資料)
その後に、ステップワイズ変数選択及び多重ロジスティック回帰の統計解析により(図
4)
、4 つの化合物(2-Hydroxy-butyrate、Aspartic acid、Kynurenine、Cystamine)か
らなる予測式が作成された(図 5)。この統計解析法は、あらゆる化合物の組み合わせから
予測式を作成するものである。単純に健常者とがん患者の鑑別で P 値の低いものを選択し
たわけではない。メタボロミクスの場合には代謝経路を見るため、P 値が低いものを選択
しても、それが同一経路に属するものであれば情報は増えない。健常者と大腸がん患者の
鑑別の学習例でのレシーバー・オペレーティング・キャラクタリスティック曲線(ROC)
による感度・特異度の評価において、曲線下面積(AUC)は 0.9097 と、感度・特異度並
- 126 -
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
びに精度は保たれており、特に早期大腸がん(ステージ 0~II)に対して感度が高いこと
が既存のマーカーには無い特長である(学習例で 83.3%、検証例で 82.8%)1)。
吉田らのグループは、同様の方法論により、早期膵がんのメタボロームマーカー(Xylitol、
1,5-Anhydro-D-glucitol、Histidine、Inositol)からなる予測式も見出している。他のがん
への展開も可能とのことである2)。
図4.ステップワイズ変数選択及び多重ロジスティック回帰の統計解析
(神戸大学・吉田優氏提供資料)
図5.大腸がんの診断に用いるステップワイズ多重ロジスティック回帰による予測式
(神戸大学・吉田優氏提供資料)
- 127 -
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
5.全自動超早期大腸がんスクリーニングシステム
神戸大学と国内計測機器企業は、JST(現在 AMED に移行)プログラム(AMED 先端
計測分析技術・機器開発プログラム、平成 25~27 年度、全自動超早期大腸がんスクリー
ニング診断システムの実用化)への提案が採択され、3 年間で約 1.6 億円の研究助成を受
けている(図 6)。プログラムの目的は、メタボローム解析によるがん診断マーカーの MS
医療機器の開発である。上記 4 に記した大腸がんマーカーの自動分析のために、一度に 96
試料が処理可能な自動抽出装置・自動誘導体装置(シリンジディスペンサー、ボルテック
ス、遠心、チップボックス、抽出溶媒)及び安定同位体試薬を用いた高精度高速定量法に
よる MS(GCMS-TQ8084 MRM 法)システムの開発が進められている。20~30 種類のメ
タボロームを短時間で正確に安定分析できるシステムが開発される。前処置の自動化によ
り、より正確で安定な分析が可能となっている。分析時間は、1 試料当たり数分で終了す
ることを目標としている。臨床評価は、神戸大学並びに関連施設、国立がん研究センター
等において実施される予定である。
機器の仕様が確定後、将来は薬事承認を目指している。
図6.全自動超早期疾患スクリーニングシステムの実用化に向けた今後の展開
(神戸大学・吉田優氏提供資料)
6.CREST プロジェクトの展開
LC/MS を用いたメタボロミクスによるバイオマーカー探索と実用化は、昨年度から
CREST プロジェクト、
「包括的メタボロミクス・ターゲットプロテオミクスによるがん診
断・薬効診断マーカー探索と革新的統合臨床診断ネットワーク構築」でも行われ、5 年半
で約 2.5 億円の研究助成を受ける。包括的メタボロミクスとターゲットプロテオミクスで
発見されたマーカーを実際に診断に応用する医療機器開発が目標にされている。
疾患スクリーニング用マーカーの実用化を意図する場合には、マーカーの特異度に加え
て罹患率を考えなければならない。がんの罹患率は、多い肺がんで 10 万人当たり 130~
- 128 -
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
140 人くらいであり、多くのがんは 100 人以下である。感度及び特異度 90%の検査におい
ては、がん診断の陽性発見率は 0.89%に留まる。したがって、まず、治療効果や毒性予測、
再発予測、特定集団中の高い発症率の疾患等、1,000 人中 100 人~数百人を同定するマー
カーにターゲットを絞りマーカー探索を行う。また、上述の罹患率を考慮した正確な超早
期診断のために、被験者のさまざまなデータ(身長、体重、臨床検査、生活情報、家族歴、
治療歴等)を加味、統合したシステムの有用性を検討している。実臨床現場での本システ
ムの実現には、医療クラウドシステムの構築が必要とのことである。
このプロジェクトでは、患者情報並びに SOP(標準作業手順書)の下に採取された質の
高い臨床試料が用いられ、神戸大、関連病院の検診センター及び国立がん研究センターで
収集される。がん診断マーカーの同定は神戸大学(包括的メタボローム解析を担当)及び
熊本大学(ターゲットプロテオーム解析を担当)、各種マーカーの試料採取から定量的安定
自動分析システムの開発までを計測機器メーカーが担当している。研究用医療クラウド化
の推進は神戸大学及び情報システム企業が担当して進められている。
7.執筆担当者所感
吉田らの研究室においては、他の医療施設及び計測機器企業との協力体制の下に、がん
の診断に役立つメタボロームバイオマーカーの探索及び機器開発が進められている。開発
成果の産業化出口は明解であり、産業界にとってはとても好感を持てる内容である。
“全自動超早期大腸がんスクリーニングシステム”は、臨床検査機器システムとして薬
事承認を取得する予定とのことである。将来はがんに関わる健康診断項目の 1 つとして利
用されることとなる。健康診断の場合には、健康保険の償還対象になるとは考えにくい。
自費健診となるため、是非とも経済的な検査となることを期待する。
一方、上記の機器においては、4 種の化合物を質量分析系で定量し、その結果をステッ
プワイズ-多重ロジスティック回帰法により決定された予測式で計算し、最終解析を得るこ
ととなる。厚労省は、最近の通達3)で、医療機器の範囲に“プログラム又はこれを記録し
た記録媒体”を加えた。質量分析計で得られたデータを加工・処理し、診断又は治療に用
いるための指標、画像、グラフ等を作成するプログラムは、厚労省の薬事規制の対象とな
る。
次世代シークエンサーや質量分析計等、新しい検査・解析プラットフォームを用いて得
られたデータを解析するシステムの薬事規制の審査基準は、規制当局において検討が開始
されたようである4)。規制・基準面においても前例のない臨床検査機器であり、協力企業
と共に、是非とも商品化を実現していただきたい。
【参考文献】
1)
Nishiumi S. et al. A Novel Serum Metabolomics-Based Diagnostic Approach for
Colorectal Cancer. PLos One, 7: e40459, 2012.
2)
Kobayashi T. et al. A Novel Serum Metabolomics-Based Diagnostic Approach to
Pancreatic Cancer. Cancer Epidemiol Biomarkers Prev, 22:571-579, 2013.
3)
厚生労働省. プログラムの医療機器への該当性に関する基本的な考え方について. 薬
食監麻発 1114 第 5 号(平成 26 年 11 月 14 日)
- 129 -
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
http://www.mhlw.go.jp/file/06-Seisakujouhou-11120000-Iyakushokuhinkyoku/2611
14.pdf
4)
PMDA、
NGS 用いた診断システムを体外診として審査・承認へ. 日経バイオテク(2015
年 11 月 17 日)
- 130 -
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
(7) 多層的オミックス解析によるバイオマーカー探索
ヒアリング先:
国立研究開発法人国立循環器病研究センター
創薬オミックス解析センター
南野
直人
センター長
要旨
心血管疾患、がん、アレルギー疾患、認知症、肥満症、アルツハイマー病等は死亡率や
罹患率が高く、
長寿健康社会の実現に向け克服すべき疾患であり、それら疾患を対象とし、
オミックス解析技術を駆使して革新的な創薬標的候補分子の発見を目指す研究が平成 22
年度に開始された(平成 27 年度 3 月終了)。この「多層的疾患オミックス解析研究」では、
6 か所の国立高度専門医療研究センターとオミックス解析研究者とが研究共同体を構築し、
疾患発症や病態形成の機序解析に基づく新しい創薬標的候補分子の発見を目的とし、患者
情報、臨床検体からのアプローチを主軸としたものである。
国立循環器病研究センターでは拡張型心筋症及び動脈硬化性大動脈瘤を研究対象とし、
オミックス解析に基づき、創薬標的分子や重症度マーカー、鑑別診断用バイオマーカーの
探索を重要課題として研究を進めている。
拡張型心筋症の重症度のバイオマーカーについては、補助人工心臓を入れた時の回復率
と発現量の類似した変化を示す候補遺伝子が見いだされてきており、いくつかのマーカー
を組み合わせることによって、将来的には高精度の診断法が作成できる可能性がある。同
疾患の鑑別診断用バイオマーカーについては、DNA メチル化率の評価が最適と判断され、
分子刻印を用いた線形判別分析により、6 つのパスウェイの遺伝子が候補となり、ネット
ワーク・クラスタリングで明確に分離された。今後、DNA メチル化率の評価により、鑑
別診断等の診断システムの確立が予定されている。
一方、動脈硬化性大動脈瘤については、解析に用いる組織試料の種々の問題点、非常に
不安定な mRNA、大きい個人差、部位による差等を克服しつつ、プロテオーム、トランス
クリプトーム、エピゲノムで変動の見られたマーカー候補について有効性を評価しつつあ
る。
1.はじめに
今回、国立研究開発法人国立循環器病研究センター
創薬オミックス解析センターの南
野直人センター長より、国立高度専門医療研究センターを中心に行われている多層的疾患
オミックス研究の最新状況に関し、国立循環器病研究センターが担当している拡張型心筋
症、動脈硬化性大動脈瘤のバイオマーカー探索研究の成果の概要並びに多層的オミックス
研究の課題についてお話を伺った。また、2015 年 4 月に開設された創薬オミックス解析
センターの今後の活動や、国立循環器病研究センターのバイオバンクの現状についても話
を伺った。
2.多層的疾患オミックス解析研究の概要
心血管系疾患、がん、アレルギー疾患、認知症、肥満症、アルツハイマー病等の 11 疾
- 131 -
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
患は死亡率や罹患率が高く、長寿健康社会の実現に向け克服すべき疾患である。それら疾
患を対象とし、ゲノム・トランスクリプトーム・プロテオーム・エピゲノム・メタボロー
ムの 5 種類のオミックス解析技術を駆使して革新的な創薬標的候補分子の発見を目指す研
究が、医薬基盤研究所(当時、現在は医薬基盤・栄養・健康研究所、以下「基盤研」)のリ
ーダーシップの下、2010 年度に開始され、2015 年 3 月に終了した。なお、昨年度の本調
査班の調査報告書(次世代医療に向けたコホート研究の動向―創薬並びに個別化医療や予
防医療への貢献の道を探る-)においても、プロジェクトの一部について紹介しているの
で参考にしていただきたい。この「多層的疾患オミックス解析研究」では、6 か所の国立
高度専門医療研究センターとオミックス解析研究者とが研究共同体を構築し、各オミック
ス解析手法の標準化を行い、各オミックスの解析拠点ごとに解析を行うことにより、疾患
発症や病態形成の機序に基づく新しい創薬標的候補分子の発見を目指している。全体像を
図 1 に示す。
図1.「多層的疾患オミックス解析研究」の全体像
(国立循環器病研究センター・南野直人氏提供資料)
国立がん研究センターでは成人固形腫瘍の 4 種(肺、乳、腎、胃がん)、国立循環器病
研究センターでは拡張型心筋症と大動脈瘤、国立長寿医療研究センターではアルツハイマ
ー病と脊柱管狭窄症、国立精神神経医療研究センターではてんかん(統合失調症はサンプ
ル数が少ない状況が続き、途中で中止)、国立国際医療研究センターでは肥満症と NASH、
国立成育医療研究センターではアレルギー疾患と小児白血病の組織試料等の収集・保存と
詳細臨床情報データベースの構築、試料の多層的疾患オミックス解析を実施している。
上記センター以外に、メタボロームについては慶應義塾大学先端生命科学研究所の曽我
朋義教授のグループと国立医薬品食品衛生研究所の斎藤嘉朗部長が、またエピゲノムにつ
いてはがんの研究で東京大学先端科学技術研究センターの油谷浩幸教授が参加している。
- 132 -
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
単一のゲノムやプロテオームの解析では疾患の要因として意味のある結果が出難いため、
多層化をすることによってデータの信頼度を高めることが行われている。また、単一遺伝
子疾患であればゲノム解析だけでも良いが、情報伝達系の異常等で疾患が起こる場合は、
単一ポイントの異常で起こるわけではないため、ネットワークの中で変動する疾患の分子
機序が明らかになることを期待して解析が進められている。
当初、基盤研では SNP 解析研究を行う予定であったため、いわゆるシークエンシング
を網羅的に実施するという形でのゲノム研究は本研究には入っておらず、エピゲノム、ト
ランスクリプトーム、プロテオーム、メタボローム研究が中心となっている。
国立循環器病研究センターでの心血管系疾患に関する研究については、これからゲノム
解析が実施される予定で、エピゲノムについては国立がん研究センター研究所分子病理分
野の金井弥栄分野長がサンプルを 450k の array で解析を実施している。トランスクリプ
トームについては、国立成育医療センター免疫アレルギー・感染研究部の松本健治部長が
Agilent の array を使って、mRNA は 43,000 弱、miRNA は 1,400 弱のプローブでの解析
を実施している。プロテオームについては、ノンラベルのショットガンである 2DICAL 法
で、2 次元のマップを描いて比較をする方法で実施しており、1,000 から 3,000 のタンパ
ク質を解析している。メタボロームについては、水層性分画は慶應義塾大学先端生命科学
研究所の曽我朋義教授のグループにより、疎水性分画は、国立医薬品食品衛生研究所の斎
藤嘉朗部長のグループにより、それぞれ実施している。検出される代謝物の総数はかなり
の数であるが、実際に検出、定量できている代謝物数は約 800 種類である。現在、これら
多層オミックス解析研究の結果については、基盤研を中心にデータベース化が進められて
いる。
3.国立循環器病研究センターにおけるオミックス解析研究
国立循環器病研究センターでは、拡張型心筋症と大動脈瘤を主な研究対象としている。
以下、マーカー探索の背景、
並びに当研究センターが実施したマーカー探索研究である、
拡張型心筋症重症度マーカー探索研究、拡張型心筋症(DCM)と拡張相肥大型心筋症
(d-HCM)の鑑別マーカー探索研究、大動脈瘤の疾患マーカー探索研究について紹介する。
(1)循環器領域におけるマーカー探索の背景
①
特発性心筋症
日本の心不全患者数は、現状では多く見積もって約 80 万人と考えられている。2020~
2030 年頃には 135 万人ぐらいの患者が心不全で入院すると予想され、心不全患者の総数
では更に多く、心不全パンデミックが到来する、との意見も出されている。1 回の入院費
は 100 万円程度なので、国内全体で 1 兆円以上の医療費になる。本疾患は病態改善と悪化
の周期が徐々に短くなることが特徴で、心機能改善は難しく、機能が低下しないようにす
ることが治療の基本である。
特発性心筋症は原因不明の難治性疾患で、拡張型、肥大型が大部分(約 95%)を占め、
他に拘束型と不整脈源性右心室変性症がある。1999 年の統計では 10 万人当たり拡張型心
筋症が 14 人、肥大型心筋症が 17.3 人であるが、この数字は、難病登録をするような患者
を対象にした非常に厳密な診断によるものであり、実際には、この 10 倍程度の罹患率と
- 133 -
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
推定されている。
拡張型心筋症の患者はかなり高い割合で心不全で亡くなっている。拡張型心筋症は、若
年発症で予後が悪い症例があり(5 年生存率 75%、10 年生存率 50%程度)、慢性の重症心
不全となるものの、拡張型心筋症の明確な診断基準はなく、心電図と心臓カテーテルでの
検査、ANP や BNP が上昇、逆にトロポニンは上昇しないこと等で判断している。慢性期
になると、CRP はそれほど増加しない。テネイシン C 等の線維化のマーカーが増えてい
くことで推察はできるが、一番正確な診断は心エコーである。
一方、肥大型心筋症では心不全患者は数パーセントである。肥大型心筋症では心機能の
低下は少ないが、心筋症を持っている患者は不整脈を持っている例が多いため、不整脈が
心機能を悪化させ、心不全状態を誘導することがあり、経過観察していないと心筋症の種
類を正しく診断することは困難である。特に、拡張相肥大型心筋症では拡張型心筋症とは
一見区別がつかない状態になる。そこで、拡張型心筋症と拡張相肥大型心筋症についての
鑑別診断用バイオマーカーの探索を、重症度マーカーの探索とともに重要課題として研究
を進めている。
②
動脈硬化性大動脈瘤
大動脈瘤の原因の大部分は動脈硬化症で、脳梗塞や心筋梗塞、大動脈解離の主因でもあ
る。人は血管とともに老いると言われているが、動脈硬化症がその原因であり、心不全と
共に循環器疾患領域における 2 大重要課題となっている。大動脈瘤並びに大動脈解離は自
覚症状のないまま進行し、破裂による死亡率は今なお高く、発症や進行度評価のマーカー
が強く求められている。
動脈硬化性大動脈瘤の罹患率は 10 万人当たり 20 人で、大動脈瘤破裂後の死亡率は専門
病院での治療では 30%程度になっているが、一般病院では 80~90%と極めて高い。頸部エ
コーでのプラークの状態をかなり観察できるようになってきているが、実際に動脈硬化の
進展度はどうなのか、あるいは動脈瘤の有無がどうかを判断するマーカーがあれば医療現
場としては非常に有用である。
(2)拡張型心筋症重症度マーカー探索研究
拡張型心筋症重症度マーカーの探索及び検証のスキームを図 2 に示す。本研究に用いら
れた疾患症例は 34 例あり、対照が 9 例である。患者群では剖検が 3 分の 1、残り 3 分の 2
は手術(左室形成術や移植等)である。
疾患症例は、病理診断による病型分類により、特発性の拡張型心筋症が 22 例、肥大型
心筋症の拡張相が 12 例となっている。現状、病型を区分する優れたマーカーが無いため、
重症度のマーカーである ANP と BNP の組織濃度を測定している。患者群で BNP が非常
に低い症例があったが、移植を待機している間に装着した LVAD による回復を反映してい
ると思われる。このような回復例と非回復例や、健常人との比較で新たなバイオマーカー
の発見ができる可能性がある。
- 134 -
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
図2.拡張型心筋症の重症度バイオマーカーの探索及び検証の手順
(国立循環器病研究センター・南野直人氏提供資料)
トランスクリプトーム解析は、ゲノムワイドで情報が得られるので、解析の出発点とし
て、他のオミックス解析の結果と比較する際の中心となっている。疾患群 32 例、対照群 8
例で本解析が実施されたが、発現量に関し 3 倍以上の差が有り、有意(p<0.05)に変動し
た因子(394 プローブ)でクラスタリングをすると、対照群と回復した患者群は、類似の
遺伝子発現プロファイルを示した。疾患群では、主に発現亢進したのが既知マーカーであ
る BNP や ANP であったが、発現が低下したものには、種々の機能に関連する遺伝子があ
り、バイオマーカー候補として面白いものもある。その他、タンパク質、あるいは DNA
メチル化の変動との相関が認められたものや、BNP と相関した変化を示すもの、逆に、
BNP とは相関しないもの等を意図的に解析している。
LVAD による回復度マーカーについては、回復群と疾患群で遺伝子発現が有意に変動、
かつ、正常群と回復群では有意差が無い 264 プローブを選択、クラスター解析を行った。
回復群は正常群に類似した発現プロファイルを示し、LVAD による回復例に特徴的な遺伝
子群を同定できており、回復度の評価に使用できるかどうか検証が進められている。
BNP と相関しないバイオマーカーを探索するため、相関しない臨床パラメーターを用い
た探索も実施している。LVAD を装着した後の回復率は BNP との独立性が高いというこ
とが分かったので、回復率と相関・逆相関するプローブの探索を進めた結果、これと相関
した変化を示す遺伝子が見いだされてきた。
一方、臨床の現場で用いるバイオマーカーとしては、現場での測定の容易さ等を考慮す
ると、血液で測れる分泌タンパク質が望ましく、この点を意識した探索も行っている。拡
張型心筋症重症度マーカーの選択の基準としては、プロテオーム解析やエピゲノム解析と
の相関性、あるいは拡張型心筋症(DCM)との関連の報告の有無の他、心臓に特異的に発
現するものや、発現量が大きいことも考慮している。これまで、13 個の候補遺伝子が見い
だされてきており、これらの中から重症度や回復度との相関が出るようなマーカーが見い
- 135 -
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
だせるのではないかと期待している。候補遺伝子の中には、組織での mRNA の発現量が
対照群で低くて疾患群で高く、タンパク質レベルでもかなりそれに近い変化が出ているも
のも見出されている。血中で明確な差が出るものは少ないものの、一つの遺伝子について
は、急性心不全患者 60 例の入院時と退院時の血中のタンパク質濃度を比較すると、差は
小さいものの退院時で有意に低下することを確認している。
臨床の現場では大部分の検査が血液で実施されているが、バイオプシーで得られた試料
で測ることができれば、もっと精度の高い診断マーカーとなる可能性がある。心臓移植部
門と共同で研究を進めており、LVAD を入れる際に得られる組織を用いてオミックス解析
で多様な分子を測定し、対象者の回復可能性について判断することを一つの目標としてい
る。LVAD による治療を進めた後、心筋細胞機能の回復を示す複数のパラメーターが回復
していれば、恐らく離脱して大丈夫という判断が可能になると期待される。そのようなマ
ーカーの探索のための前向き研究が進められている。将来的には、このような探索研究の
中から BNP と相互補完するような機能を反映し、不全心の機能を多面的に評価できるマ
ーカーが出てくれれば一番良いことであり、これらのいくつかのマーカーを組み合わせる
ことによって、精度が上がってくる可能性がある。
(3)拡張型心筋症(DCM)と拡張相肥大型心筋症(d-HCM)の鑑別マーカー
本研究は産業技術総合研究所創薬分子プロファイリングセンターの堀本勝久副センター
長と共同で実施している。この 2 つの疾患を区別するために、最初にプロテオームとトラ
ンスクリプトーム等、オミックス解析技術としてどれが適切かということを調べている。
その結果、エピゲノムが最も明確に分離するということが分かってきたため、できれば、
エピゲノムを使って診断ができないかということを検討している(図 3)。
図3.拡張型心筋症の病型分類用マーカーの探索:
表現型相異指向型解析による分子刻印を用いた線形判別分析
(国立循環器病研究センター・南野直人氏、産業技術総合研究所・堀本勝久氏提供資料)
- 136 -
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
DCM と d-HCM 間の分離が可能な変動因子を検討した結果、DNA メチル化が最適と判
断され、表現型相違指向性解析法により、6 つのパスウェイで約 300 の遺伝子が候補とな
り、線形判別分析で明確に分離された。上記についてネットワーク解析を行ったところ、
DCM と d-HCM が明確に分類され、DCM 症例では 2 つのサブグループに分離された(図
4)
。
図4.拡張型心筋症の病型分類用マーカーの探索:
ネットワーク構造推定とそのネットワーク・クラスタリング
(国立循環器病研究センター・南野直人氏、産業技術総合研究所・堀本勝久氏提供資料)
カルテ情報を調べると、DCM 症例の 1 つのサブグループは、特定の既往症を有する可
能性が示唆されている。特定部位の DNA メチル化率の評価により、先ず DCM、d-HCM
間の鑑別診断を行うとともに、DCM 内のサブグループの分離を目指し、診断システムの
確立を進める予定である。
上記とは別に、通常の統計的解析法で病型間(DCM、d-HCM)に有意差のある遺伝子、
タンパク質を探索した結果、DNA メチル化率、mRNA やタンパク質の発現量で差のある
12 種類の候補遺伝子を選出し、検討を進めている。DNA メチル化率はこの解析でも有望
である可能性が示唆されている。
(4)大動脈瘤の疾患マーカー探索
大動脈瘤の診断、治療、創薬に活用できるバイオマーカーの探索及び創薬標的分子の同
定までのスキームを図 5 に示す。
動脈硬化性の大動脈瘤を解析すれば、大動脈瘤の発症に関してだけではなく、動脈硬化
の発症についても踏み込めるのではないかと考えている。多層的オミックス解析に使用で
きる組織量を確保できる動脈硬化性組織の入手は困難で研究が難しい状況であるが、動脈
- 137 -
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
硬化性大動脈瘤では人工血管置換術で血管ごと置き換えるので、大きい摘出血管を入手で
きるため、本疾患が良い研究対象となる。
図5.大動脈瘤のバイオマーカーの探索の流れ
(国立循環器病研究センター・南野直人氏提供資料)
大動脈瘤は非常にヘテロな組織であり、動脈壁組織全体のタンパク質を解析しても、な
かなか何を見ているのか分からない。そこで、再現的に剥離が可能で、均一な組織が入手
できる中膜平滑筋層のみで解析が行われている。また、石灰化も高頻度に発症、進行して
おり、軽度であればそこを避けて採取し、中等度以上であれば対象外にすることにしてい
る。
解析用試料の調製及び解析に当たっては、多くの問題点に直面している。大動脈組織の
mRNA は非常に分解が速く、液体窒素凍結では品質保持ができず、指標とされる 18S、28S
の RNA においても急速に分解が進んでしまう。これはヒトだけではなく、ブタでも共通
の問題である。バイオバンクでの組織収集や、オミックス解析を行う際には、目的に合わ
せた採取法や保存法を考える必要があるが、現実に多様な解析に対応することは大きな課
題である。
また、大動脈瘤で通常実施される形態に基づく瘤部、移行部、正常口径部の組織での比
較では、既報の豊富な分子の変動は観測されるが、疾患発症の原因となるような新たな変
動分子の発見は非常に困難である。また、腹部大動脈瘤では症例間のばらつきが非常に大
きいことが判明し、最終的には胸部大動脈瘤を中心に解析を行うことになった。実際に、
既存のマーカーを見ていると、組織構造の病理学的変化に非常によく対応しているという
ことが分かってきた。例えばアクチンやペリオスチン等であるが、これらを見てみると、
対応した変化が進行度の区分として分子の変動に表れているので、変化を反映する進行度
で分類しないと、有効な解析結果は得られないのではないかということになった。
そこで大動脈瘤の場合は、進行度の分類基準を作り直すことによって個々の組織の進行
- 138 -
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
度を見直し、その結果に基づき再度丁寧に解析をしていけば、有意差を示す分子が、もっ
と沢山見えてくる可能性がある。また、疾患の発症や進行において動いている細胞内の分
子パスウェイを見るという意味では、リン酸化のプロテオームも有望である可能性がある。
4.多層的オミックス解析研究における課題
オミックス解析研究の成果として、上述したとおり、従来と比べてより詳細かつ多様な
情報の取得が可能となり、より確度の高いバイオマーカー分子の取得が期待できる状況と
なっている。しかしながら、この研究を更に充実していくためには、課題も残されている。
ナショナルプロジェクトとしての多層的オミックス研究については、その後バイオマーカ
ーや創薬標的の候補の探索研究が進行中とのことであるが、個々のオミックス解析の結果
の統合的解析による成果はまだ出てきていない。現状では“多層的”といっても、実際に
同じ試料を用いて 3~5 種類の解析を多層的に行っているが、データ解析においては、単層
解析の解析結果を個々に行って積み重ねているのが大部分である。その理由の一つは、多
層的、すなわち属性が膨大に増えた際の統合的なデータ解析手法が、現状ではまだ十分に
開発できていない点にある。各拠点における専門家の育成、解析方法の開発、標準化等の
データ解析の充実が必要である。
5.国立循環器病研究センターにおける関連施設
(1)創薬オミックス解析センターについて
国立循環器病研究センター内に、2015 年 4 月から新たに創薬オミックス解析センター
が設立された。ゲノム系、プロテオーム系と情報系の 3 つの研究室がある(図 6)。次世代
シークエンサーや質量分析計等、様々な最新機器があり、種々の大きなプロジェクトに対
応できるように組織作りが行われている。
図6.創薬オミックス解析センターの機能と役割
(国立循環器病研究センター・南野直人氏提供資料)
- 139 -
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
ゲノム医療については、各国の取組みが活発化している。イギリスは 10 万人の全ゲノ
ム解析を行うということになっており、アメリカも Precision Medicine ということで、100
万人のゲノム解析を行うことになっているが、日本でもまず、単一遺伝子疾患で成果を出
していくことになっている。当センターでは遺伝性の QT 延長症候群の研究を行っており、
過去 10 年間で約 3,000 例の不整脈の患者やその家族のサンプルが集まっている(図 7)
。
全エクソン解析や全ゲノム解析が単一遺伝子疾患では主たる研究手段であるが、日本で
は対応する研究者が少ない状況にある。できるだけ多くの解析を実施してリスクが分かっ
たものについては、50 遺伝子ぐらいをパネルとして解析を行い、キャラクターを十分に明
らかにした上で患者にフィードバックしていく必要がある。特に、不整脈は一番典型的で、
臨床的に突然死するリスクが高い人とそうでない人を見極める必要があり、遺伝子検査で
高い割合で判定が可能である。創薬オミックス解析センターでは臨床検査部遺伝子検査室
と共同して、遺伝性不整脈をはじめとする遺伝性循環器疾患の遺伝子検査システムの構築
や、新しい原因遺伝子の探索も担当している(図 7)
。
国立高度専門医療研究センターではゲノムセンターを立ち上げつつあり、遺伝子診断で
も使えるシステム作りが 2014 年度から始まっており、ゲノム医療は、今後、非常に重要
な課題になる。
図7.国立循環器病研究センターでの遺伝性不整脈のゲノム医療への取組み
(国立循環器病研究センター・南野直人氏、相庭武司氏提供資料)
(2)バイオバンクについて
国立循環器病研究センターでは、2011 年にバイオバンクが設立され、2012 年から収集
が始まっており、研究に使用するというケースも出てきている。パンフレットを作成して、
患者にも協力を呼び掛けている。
6 つの国立高度専門医療研究センター共通のバイオバンクも設立しており、2015 年の 9
- 140 -
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
月末で、約 5,000 人から同意を得てサンプルを収集している。心臓血管内科と心臓外科の
サンプルが多いが、血液から血球細胞、血清、血漿を取り、血球から DNA も抽出し保管
している。将来的には、収集試料数を更に増やし、内外の研究所や企業での研究にも使え
るようにする予定である。
6. 執筆担当者所感
多層的オミックス解析においては、各オミックス解析の技術基盤はおおむね確立してき
たと思えるが、各オミックス解析で得られたデータを統合してバイオマーカー探索へ進め
るにはまだまだ課題があるように思われた。例えば、個々のオミックスデータを統合する
ための解析手法の確立や多層的オミックス解析のメリットを生かした研究プランの策定が
必要であろう。バイオインフォマティクス分野の研究者は欧米と比較して、日本ではかな
り少ない現状にあり、せっかく質の高い優れた試験データが得られても、十分な解析が困
難な状況にある。国は大学教育等の中で、人材を育成できるようシステムに積極的に補助
をしていくべきと思われた。
患者情報と臨床検体を用いたオミックス解析から創薬標的等を探索する AMED コンソ
ーシアム、
「産学官共同創薬研究プロジェクト(GAPFREE)」が、2016 年度より開始され
るが、この中で、今回の「多層的疾患オミックス解析研究」で判明した課題を克服した上
で、多層的オミックス解析が更に発展することを切望する。
本研究のような、多層的オミックス解析研究を進めるために、優れたバイオバンクシス
テムの構築も非常に重要となってくる。欧米では国若しくは何らかの非営利団体が大規模
なバイオバンクシステムの構築、管理、運営を実施しているが、日本ではまだ出遅れてい
る状況にある。データの再現性や正確性を確保するためには、健常及び病変組織試料の取
扱い方法(採取法や処理法、保管法)を標準化し、各施設で標準操作法に則りバイオバン
クシステムを運営することが求められるが、まだ十分とは言えない状況である。個人情報
保護の観点もあることから、国が主体となりバイオバンクシステムを構築していくべきと
思われる。さらに、各解析に最適な試料の取扱い方法は異なり、多層的疾患オミックス解
析研究を進める上で、試料を効率的に取り扱うシステム(人的、物的)を併せて構築する
必要があると思われた。
- 141 -
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
(8) FANTOM5 データベースの医療への活用:今後の展開について
ヒアリング先:
国立研究開発法人理化学研究所
予防医療・診断技術開発プログラム
林崎
良英
プログラムディレクター
要約
FANTOM(FUNCTIONAL ANNOTATION OF THE MAMMALIAN GENOME)5 プロジェ
クトは、約 1,000 種類の細胞や組織のサンプル(このうち約 180 種類は正常な初代培養細
胞)で転写される RNA を CAGE(Cap Analysis Gene Expression)法にて解析し、その
主たる成果として、プロモーター約 185,000 個、エンハンサー約 44,000 個の活性を測定
し、これらの遺伝子制御部位の多くが細胞特異的に働いていることを見出した。これまで
の FANTOM プロジェクトでは、ヒトゲノムプロジェクト以降、ジャンク DNA と呼ばれ
ていた領域において、セントラルドグマを覆すほど多数の non-coding RNA(ncRNA)の
存在を明らかにした。FANTOM4 では、Basin ネットワークのコンセプトを示すとともに、
実際に、プロモーターごとの遺伝子発現を階層化することにより、転写制御ネットワーク
を描出した。さらに、FANTOM5 では、プロモーターの発現プロファイルが細胞の属する
組織特異性を表現していることを明らかにしたことが最大の成果と言える。
転写制御ネットワークは生命の基本単位である細胞の性格を決めており、従来に無い細
胞の定義ともなる可能性を秘めている。この原理の発見は、これからの再生医療領域から
遺伝性の希少疾患の原因解明・治療、予防医療領域まで、広い分野での疾患研究の大きな
進歩をもたらすと思われる。例えば、再生医療領域では、山中 4 因子の導入によりリプロ
グラミングされた多分化能細胞の創製や、組織特異的ネットワークをもとにしてある細胞
から狙った細胞へ直接転換する技術にも応用できる。
GWAS(Genome-Wide Association Study:ゲノムワイド関連解析)等の解析結果とリ
ンクさせ、疾患との関連についても検討され始めている。これによると、エンハンサー上
の変異と関連性のある疾患が 63 疾患も見出された。また、がん細胞では、正常の細胞で
は使われていないがん特異的なプロモーターが使用されている例が明らかにされ、今後が
んのバイオマーカーとして有用になるであろう。
以上の成果は理化学研究所独自で開発された CAGE 法によるものであり、現在、転写開
始点を網羅的かつ正確に見る最も使われている標準的方法である。今後、in vivo からの単
一細胞採取技術の向上、ハイスペック次世代シーンサーの解析力と 1 コピーRNA CAGE
法が更に改良されれば、予想だにされなかったエポックメイキングな生命像が提示される
時が早晩やって来るであろう。
1.はじめに
日本分子生物学会の生みの親であり、日本の分子生物学の黎明期に活躍された故渡辺格
先生(1916-2007)は、かつて世界的なヒトのゲノムプロジェクトが進行していく最中に、
RNA ワールドの重要性を説いておられた。恐らく FANTOM プロジェクトの行方を見てお
られたのであろう。その FANTOM3 プロジェクトでは、ゲノムの 70%以上が転写され、
- 142 -
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
転写産物の 50%以上が ncRNA であり1)、この RNA は非常に重要かつ多彩な機能を持っ
ていることが報告され、RNA 大陸への新しい扉が開かれた。さらに、FANTOM4 プロジ
ェクトにおいては、プロモーター解析とデータベースの構築により、Basin Network とい
う新しい細胞の定義が提案された。その後、FANTOM5 プロジェクトでは、改良された
CAGE 法と次世代シークエンサー(NGS)を駆使して転写開始点(TSS:Transcription
Start Site)の全貌が明らかにされた。これによって、正常な細胞単位において、細胞の
性質を決定付けているのはプロモーターとエンハンサーの発現であるという細胞のマスタ
ープランとも言うべきものが描かれた。これは、各々の器官・組織を支えている細胞の性
質、機能はプロモーターとエンハンサーにより制御され、決定されているというものであ
る。このシステムは転写制御ネットワークと定義されるが、このネットワークを利用すれ
ば、組織特異的に分化した細胞も、脱分化あるいはリセット(iPS 細胞)できるし、他の
細胞に分化誘導でき、生命の基本単位である細胞についての従来の知識を根底から覆すも
のである。それはまた、ワトソン・クリックのゲノムから mRNA への転写、そしてタン
パク質への変換というセントラルドグマが 1 シナリオでしかなく、ゲノムは遺伝子の青写
真、設計図という意義以外にも、ゲノム上に書き込まれている ncRNA の存在がタンパク
質の発現、各組織内の細胞の性格を決定していることを示している。そして、正常な組織
下での細胞は転写制御ネットワークによって恒常的に維持されるということも明らかにな
った。細胞が正常に機能しなくなったことにより起こるがん等の多くの疾患について、他
のゲノムデータベース(例えば GWAS)と突き合わせることで、遺伝子をコードしていな
い領域で疾患関連の SNP が見られる等、ゲノム上で起こっている正確な情報としても、
コンセプトの正当性が得られつつある。
国際コンソーシアム FANTOM プロジェクトを 2000 年に立ち上げ、先導してこられた、
理化学研究所予防医療・診断技術開発プログラムディレクターで、理事長補佐であられる
林崎良英先生に、CAGE 法と FANTOM5 プロジェクトの現状と転写制御ネットワークの
概要、そして今後の FANTOM プロジェクト、これらのデータベースの成果から予測され
るバイオマーカーと疾患との関連、並びに今後の展望についてお伺いした。
2.CAGE 法
(1)測定原理
遺伝子の発現は、これを制御するプロモーター領域の転写開始点に対応する CAGE 配列
(約 20 塩基のゲノム配列)の同定と解析により、この遺伝子の転写パターンが組織特異
的にどのように制御されているか明らかにすることができる。
測定原理は、total RNA の中から 5’末端に Cap 構造を有する RNA(mRNA、long
non-coding RNA、enhancer RNA、small RNA precursor 等が含まれる)の 5’末端のみを
次世代シークエンス法(NGS)で配列解読しゲノム上に配置することで、位置(転写開始
点)を 1bp の精度で決定し、配置された配列の数から発現量(発現頻度)を測定し、当該
細胞の組織特異的な活動状況を把握する方法である(図 1)。改良された 1 分子 CAGE 法
(非増幅 deep CAGE 法)では、1 分子シークエンサーを採用することで、増幅反応を回
避して、数個から 10 個の細胞中にある 1 分子の RNA を 99%以上の確率で検出できる。
- 143 -
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
図1.CAGE 法の測定原理と測定の実際
(理化学研究所・林崎良英氏提供資料)
CAGE 法は理化学研究所が独自に開発した技術であり、遺伝子制御部位の活性を高感度
に計測でき、胚性幹細胞、人工多能性幹細胞、初代培養細胞を対象に、時系列における各
細胞固有の活動、即ち現在その細胞で働いているプロモーターの活性とその動態を把握で
きる。技術的には、生体内にある細胞を capture して測定しているが、現状ではこれらの
細胞の採取法は単一の細胞ではない場合や、機械的な刺激、あるいはトリプシン消化等を
伴い、生体と同じ環境である細胞の状態とは厳密には言えない。しかし、実際に生細胞を
そのまま凍結あるいは固定し、コンタミネーションが無いように分離し、1 細胞を処理す
るような技術にも取り組んでおり、近い将来に技術的に解決できると考えられる。
(2)他技術との比較
CAGE 法の特徴として、非常に高感度にプロモーター発現を測定できる点が挙げられる。
例えば、後述する eRNA は非常に発現レベルが低いが、これを測定することが可能である。
また、RNA-Seq 法では RNA 全長をシークエンスするので、プロモーター活性を判定する
ための転写開始点を同定しにくい。
また、1 つの遺伝子に平均 5 個以上の exon1 がある現実が分かってきた。RNA-Seq で
もマイクロアレイでも、exon1 が判定できないうえ、選択的スプライシングによるアイソ
フォームに対して、プロモーターの活性に関係なく検出するので、着目したプロモーター
以外のプロモーターに支配される RNA とは正確には区別して解析できない。即ち、プロ
モーターに着目した、転写制御系を解析するような目的には使用できない。 それに対して
CAGE 法では、特定のプロモーターの支配下の RNA の発現レベルを計測し、転写制御系
の解析に使用可能である。
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第二章 バイオマーカーの実用化における課題
3.FANTOM4 から FANTOM5 を繋ぐ Basin ネットワーク
(1)FANTOM4
FANTOM は、理化学研究所のマウスゲノム百科事典プロジェクトで収集された完全長
cDNA のアノテーション(機能注釈)を行うことを目的に、2000 年に結成された国際研究
コンソーシアムであり、FANTOM4 は 2006~2010 年に実施された 4 番目の FANTOM プ
ロジェクトで、ゲノム上に同定された要素同士が互いにどのように作用しているかという
転写制御ネットワークの解明を目的とした。ヒト白血病由来細胞株(THP-1)が単芽球様
から単球様に変化する際の転写開始点の動態を、 CAGE 法により経時的に測定し、それ
ぞれの時点において活性なプロモーターと、その発現量とをモニターした。これらのデー
タから転写因子結合部位の予測、転写制御ネットワークの解明、転写因子の抽出等が進め
られた。成果として、CAGE 法の結果と転写因子結合部位予測よる転写因子ネットワーク
を構築し、急性骨髄性白血病細胞株(THP-1 細胞)を用いた単球分化過程に関与する転写
因子群を同定することに成功した。
(2)Basin ネットワークとは(図 2)
Basin ネットワークとは、FANTOM4 で実測したデータに基づいて得られた重要なコン
セプトである。細胞がある分化状態を保持しているのは、細胞の形質を制御する特異的な
特定の転写因子群と ncRNA が、ネガティブフィードバックにより、濃度(活性化の度合
い、有効活性化濃度の数値)が一定になり、平衡状態に達しているからである(振動して
いることもあるが、決して発散しない)。この特定の転写因子と ncRNA が、特定の細胞の
平衡状態(Core Regulation)を維持するプログラムがゲノム上に書かれている。この安定
状態を“Basins”と呼ぶ。この安定状態が決まると、特定の転写因子群と ncRNA が、そ
の細胞の形質を決める末梢の遺伝子(Peripheral Gene)を制御する。
図2.Basin ネットワークの概念
(理化学研究所・林崎良英氏提供資料)
- 145 -
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
例えば、THP-1 細胞を腫瘍プロモーターPMA(phorbol myristate acetate)で刺激す
ると、貼り付くような形態になる。この時に経時的に 10 個の Basin ネットワークを実測
できるとしたら、どれがどれを制御しながら転写因子ネットワークが変化するかが分かる。
そこで、10 点について解析したところ、29,857 個のプロモーターが働いていることが分
かった。同様に、転写因子の濃度が変化することで、 Core Regulation が一旦決まると、
末梢の遺伝子の制御が決まる。肝細胞核因子 HNF-family 同士が肝細胞内でネットワーク
を形成すると、アルブミン等を作る末梢の遺伝子が制御されるわけである(図 3)
。
図3.細胞が変化する際の Basin ネットワーク解析の例:
THP1 細胞を PMA 刺激したケース
(理化学研究所・林崎良英氏提供資料)
(3)Basin ネットワークによる細胞表現系の制御
いかなる組織に属する細胞も、共通の転写ネットワークに基づいたマスタープランを保
有しているということである。ということは、既に分化した細胞と言えども、このマスタ
ープランに従い、望む分化細胞を規定している転写ネットワーク関与遺伝子を人工導入す
れば、別の分化した細胞を望む細胞タイプに変換できると言うことを意味している。現在、
完全にはこのマスタープランを描けているわけではないが、着々と現実化されている。山
中先生らによる iPS 細胞創製の成功例は、このマスタープランから細胞のリセットプログ
ラム、即ち山中 4 因子(4 転写因子遺伝子)を人工導入することで、ES 細胞とほぼ同等に
定義される多分化能を有する細胞に変化させることができた実証例と考えられる。別の例
では、単球特異的なネットワークから選出した転写因子を線維芽細胞へ導入すると単球様
細胞に変化させることができた(図 4)
。
- 146 -
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
図4.Basin ネットワークによる細胞表現型の制御
(理化学研究所・林崎良英氏提供資料)
4.FANTOM5
以上に述べた成功例は、Basin ネットワークが細胞表現型のマスタープランであるとい
う作業仮説の正しさを支持するものであった。そこで、FANTOM5 では、単一な細胞の時
系列的な解析だけではなく、組織から約 180 の初代培養細胞とソートされた純粋な細胞を
含む様々な細胞種にまで拡張され、同様な手法で解析された。
FANTOM5 は 2011 年から始まり、正常な細胞を含む各種細胞や組織を収集し、これら
の細胞のゲノム DNA に書かれている情報やそれによって制御される RNA に焦点を当て、
細胞機能の解明を目標とした。そこで、RNA への書き写しをコントロールする遺伝子配列
の網羅的な解析を実施し、遺伝子近傍にあるプロモーター(遺伝子近位制御部位)約 18
万 5,000 個、遺伝子遠方にあるエンハンサー(遺伝子遠位制御部位)約 4 万 4,000 個の活
性を世界に先駆けて測定し、遺伝子制御部位の多くが細胞特異的に働いていることを明ら
かにした(図 5)。
図5.FANTOM5 及び CAGE 法で明らかにされたプロモーターアトラス
(理化学研究所・林崎良英氏提供資料)
- 147 -
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
この成果は Nature ほかのジャーナルに報告された2~5)。その他の関連情報は、理化学
研究所 Web サイト(http://fantom.gsc.riken.jp/jp/)、国立遺伝学研究所の日本 DNA デー
タバンク(DNA Data Bank of Japan:DDBJ)、バイオサイエンスデータベースセンター
(NBDC)から得ることができる。
これらプロモータ・エンハンサーのネットワーク的な働きにより、各組織の中での細胞
機能が制御されており、この同じネットワークよって各組織での現に生存している細胞レ
ベルでの働きを定義づけることができた。つまり、そのレベル内であれば正常なネットワ
ークによって細胞が制御されており、このネットワーク的な働きが外れた場合、異常なネ
ットワークに取って変わった場合が病気(病態への移行、例えばがん化)であることにな
る。このような細胞レベルでの病気と正常という概念が、転写制御ネットワークという枠
組みで初めて定義づけられたことになる。
5.エンハンサー、eRNA の医療への活用
(1)エンハンサー研究における新たなる展開:FANTOM5 の貢献
2010 年、Kim らが c-Fos 遺伝子を神経細胞分化モデルとして PC-12 細胞株に導入した
ところ、c-Fos のエンハンサー領域から両方向に転写産物が作られていた6)。このエンハ
ンサーから両方向に読まれる RNA が eRNA である。この eRNA をノックダウンすると、
ターゲットである RNA の発現量が低下し、eRNA は機能的にリンクしていることが明ら
かとなった7)。エンハンサーによる転写制御は、転写の早期に関与するものと推測され、
早期応答転写因子をコードする遺伝子の転写制御に関与している 8)。
このエンハンサーの役割の新たなる展開に導いたのは CAGE 法に拠るところが大きい。
即ち、CAGE 法では転写開始点を感度良く計測できるので、両方向に読まれている領域―
エンハンサー領域を 1 塩基単位の精度で検出できる。これによって、エンハンサー約 44,000
個の活性を測定可能にしたのはまさに FANTOM5 の貢献であった。
eRNA による転写制御における詳細な機能はよく分かっていないが、エンハンサー領域
をプロモーターに近づける役割を持つコヒーシン(cohesin)と結合していることが明らか
となった。コヒーシンは細胞の分裂・増殖時における染色体の高次構造を維持するのに必
須のタンパク質である。実はこうした機能以外にも転写制御において重要な役割を担うこ
とがわかってきた。即ち、コヒーシンはゲノムをループ状に束ね、離れたエンハンサーを
空間的にプロモーターの近傍に配置させ、この包括的な遺伝子発現調節により細胞の分化
制御に広く関わっていることが示唆されている(図 6)。
- 148 -
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
図6.コヒーシンを介したエンハンサー、プロモーター、eRNA の立体配置
(Kim et al. (Nature)の論文6)を元に創薬資源調査班で作成)
エンハンサーの各組織での発現パターンについて系統樹を描くと、小脳、前頭葉、心臓、
リンパ組織、生殖器等、臓器や組織ごとによく似ていることが分かった。また、これと関
連して、エンハンサーの配列は生物種を超えて保存されている。ヒトとゼブラフィッシュ
でも共通な配列がある。YFP レポーター遺伝子、プロモーター、エンハンサーを繋いでゼ
ブラフィッシュに導入すると、もともと発現していた組織に発現する。つまり、エンハン
サーは組織特異性を決定している因子であると言える。
(2)GWAS で同定された表現型関連 SNPs マーカーとエンハンサーとの関連
ゲノムと疾患の解明の重要な流れに、ゲノムコホート研究等による展開がある。これら
の研究成果から環境因子と特定ゲノム(遺伝因子)上での複合的な association が疾患発
症の原因となることが定説化されてきている。更に GWAS 解析によって、従来の 1 遺伝
子変異(責任遺伝子)=1 疾患のメンデル遺伝病的な概念は 1 疾患=複数変異によって書
き換えられつつあり、事実、多くのありふれた疾患(高血圧、糖尿病等の生活習慣病を
common disease という)は複数の SNPs(バリアント)が関与する多因子疾患であるこ
とが突き止められてきている。しかしながら、GWAS 解析の始まりが Breakthrough of the
Year と呼ばれた割には、現在までに同定されているバリアントの大部分は個々の疾患の発
症機序やゲノム診断に役立っていない。
その突破口として、GWAS と FANTOM のそれぞれのデータベースをリンクさせること
も 1 つの方策であろう。実際、CAGE 法を駆使した FANTOM5 のデータと GWAS 解析に
よるデータを重ねると、多数の疾患リスクと関連する SNPs がエンハンサー上に存在して
いることが明らかになってきた。代表的な例として、直腸がん、バセドウ氏病、サラセミ
アのβ-globin、ヒルシュスプルング病等はエンハンサー上に疾患関連突然変異が見つかっ
ている。これは今まで述べた観点から言えば、環境因子と遺伝子因子による複雑な相互作
用によって発症する common disease をも含め、遺伝子の発現制御の異常により発症して
いる可能性が非常に高いことを示唆している。実際、驚くべきことに、63 疾患で疾患と関
連あるエンハンサー変異が見つかっている。しかも発現した遺伝子には変異が見つかって
いない(図 7)
。
- 149 -
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
図7.エンハンサー上の SNPs と疾患の関連
(理化学研究所・林崎良英氏提供資料)
6.予防医療(予測医療)における RNA のバイオマーカーへの応用と展望
以上の知見を踏まえたバイオマーカーとしてのゲノム配列の使い方として、疾患発症の
リスク予測と現在進行している疾患がどのようなステージにあるのか、という様に大別で
きる。前者では、生まれつきのリスクファクターである生殖細胞ゲノム変異であり、例え
ばがん発症のリスクのある変異の配列がバイオマーカーとなり、発がんリスクを予測でき
る。これはアンジェリーナ・ジョリーの乳腺切除手術の場合で有名であろう。後者では、
体細胞ゲノムやエンハンサー等の変異の配列をモニタリングすることで、例えばがんの早
期診断や転移能、浸潤の評価やがんの個別化医療を可能にする。
これを現実化するためのキーポイントは、正確な解析力と疾患時の転写制御ネットワー
クの把握である。それによってリアルタイムで計測時の細胞の性質(正常、異常、がん化、
進行中、非がん化)を定量的に記述でき、これによってゲノム上で進行している疾患のリ
スクファクターをすべて確率的に予後予測も含めて予測できる(図 8)。この点を踏まえて
ゲノム上のエンハンサー、プロモーター配列の変異が疾患のバイオマーカーとして応用で
きるようになりつつある。以下が具体例である。
- 150 -
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
図8.予防医療へ向けて RNA のバイオマーカーとしての活用
(理化学研究所・林崎良英氏提供資料)
(1)薬物応答プロファイリング
非増幅 deep CAGE 法を用いて、薬物の効果又は副作用をプロモーターレベルでの遺伝
子変化(この場合は mRNA)としてプロファイルできる(プロモーター活性プロファイル)。
例えば、抗がん剤を投与する場合、投与前と投与後に変化したプロモーター活性を、mRNA
のプロファイルを作成することで、薬剤の作用点をプロモーターレベルで知ることができ
る。これを応用して、特定の薬剤の組み合わせで、より有効な薬剤治療が可能となる。こ
れは従来のマイクロアレイ法では不可能なことであった。
(2)手術様式の変更
リンパ節転移のない結腸がんで、手術時に原発巣の完全切除の必要性の有無を判断する
場合、細胞の悪性度・転移性・非転移性等の性質が把握できるマーカーで予後予測できれ
ば、外科的手術法の変更を可能にする。実際、このマーカーを見つけている。通常、子宮
体がんの手術では、転移の可能性を考慮してリンパ節を剥離するが、この副作用としてリ
ンパ節浮腫が発生し患者の QOL が非常に低下することがある。この場合も、がん細胞の
性質が分かれば、リンパ節郭清を回避できる。実際、この場合のマーカー候補も明らかに
できている。このような臨床ニーズに応じて単離されたバイオマーカー候補として、肺が
んでの扁平上皮がんと非扁平上皮がんとの鑑別、大腸がんでの肝転移の予測因子やリンパ
節転移の予測因子、子宮体がんでのリンパ節転移の予測因子、血液腫瘍での非ホジキンリ
ンパ腫の診断マーカー等が挙げられる。(図 9)
。
- 151 -
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
図9.RNA 解析によるがんの悪性度、転移能及び予後判定
(理化学研究所・林崎良英氏提供資料)
(3)再生医療における利用
再生医療におけるマーカー検索では、加齢黄斑変性の治療のための iPS 細胞シートが生
着できるかどうかを、移植前の網膜色素上皮細胞の性質により把握できれば手術予後は期
待できる結果となるであろう。また、iPS 細胞自身も他の細胞がコンタミネーションして
いる可能性があり、それが予後を悪くすることがある。これもマーカーがあれば弁別でき
る。このように、再生医療の分野ではこの種の医療作業的なプロトコールガイドラインが
必要不可欠であり、今後確立されていくであろう。
7.今後の FANTOM プロジェクト
今後の FANTOM プロジェクトの動向については、FANTOM6 では、Piero Carninci 氏
(ライフサイエンス技術基盤研究センター副センター長)が、non-cording RNA のネット
ワークにフォーカスを当てて進めている。FANTOM7 では、疾患関連のマーカー探索の可
能性を考えているとのことである。このような今後の展開の中では企業との協働は欠かせ
ないと考えられるが、これまでの FANTOM のような国際的なコンソーシアムの形態を採
らないで、テーマごとに個別に各企業と提携し、実用化を目指して進めるのが良いのかも
しれない。
8.執筆担当者所感
FANTOM5 が達成した転写制御ネットワークの概念による新しい細胞の定義、さらには、
これらのネットワークの中枢を担っているのがプロモーターとエンハンサーであるという
林崎先生のお話は、新しい生命のセントラルドグマの誕生を予感され、非常にインパクト
のある内容であった。今後、新しい生命システムを把握した医療への応用、特に新しい多
様なバイオマーカーによる疾患の診断と治療法の劇的な変更が予想され、現在着々と進め
られているゲノムコホート研究の推進による GWAS と疾患との関連解明への加速化、あ
るいはコンパニオン診断薬を含めた個別化医療への発展をバックアップする強力なツール
- 152 -
第二章 バイオマーカーの実用化における課題
となることが確信できる。
こうした状況を踏まえて、日経 BP 社の宮田満氏は、
「殆どの疾患リスクは遺伝子の変異
等ではなくエンハンサー上の変異によるものであり、転写ネットワークマシンの機能不全
や異常活性化により疾患が誘導されてくる。そのカスケードを正常に戻す創薬、
“エンハン
サー創薬”を進めるべき」との意見を述べている 9)。これまで理化学研究所がその完成に
貢献した日本発の基盤技術、CAGE 法や FANTOM データベースはこのエンハンサー創薬
を進めるための重要なツールとなるが、我が国の産官学においては、創薬のみならず新規
診断法の開発やバイオマーカー探索に対しても、更なる CAGE 法や FANTOM データベー
スの活用策を検討し利活用を進めるべきであろう。
しかしながら、新規な知見や技術、バイオマーカーを活用しての診断薬や診断機器の開
発に関し、レギュレーション面、例えば PMDA のこうした先端技術への保険診療をベー
スにした薬事承認という制度的な対応もさることながら、日本の診断・検査現場での対応
可能性とその現状を考慮するとかなりのギャップがあるように思える。例えば、欧米諸国、
特に OECD 加盟諸国では遺伝子診断関連対応施設に対し、ISO による強制規格が義務化
されている。一方、日本ではその対応は任意事項であり、規格整備を前提とした日本版ガ
イドラインの確立がやっと検討され始めているレベルにある。こうした先端技術によって
獲得されたツールを、早期に欧米レベルにまで如何に迅速に診断施設で認定・実施させる
べきか、という大きな課題に対し官民挙げて対応すべきである。
【参考資料】
1)
Carninci P. et al. The transcriptional landscape of the mammalian genome.
Science, 309: 1559-1563, 2005.
2)
Suzuki H. et al. The transcriptional network that controls growth arrest and
differentiation in a human myeloid leukemia cell line. Nature Genetics, 41:
553-562, 2009.
3)
Suzuki T. et al. Reconstruction of Monocyte Transcriptional Regulatory Network
Accompanies Monocytic Functions in Human Fibroblasts. PLos One, 7: e33474,
2012.
4)
Andersson R. et al. An atlas of active enhancers across human cell types and
tissues. Nature, 507: 455-461, 2014.
5)
Forrest AR. et al. A promoter-level mammalian expression atlas. Nature, 507:
462-470, 2014.
6)
Kim TK. et al. Widespread transcription at neuronal activity-regulated enhancers.
Nature, 465: 182-187, 2010.
7)
Li W. et al. Functional roles of enhancer RNAs for oestrogen-dependent
transcriptional activation. Nature, 498: 516-520, 2013.
8)
Arner E. et al. Transcribed enhancers lead waves of coordinated transcription in
transitioning mammalian cells. Science, 347: 1010-1014, 2015.
9)
宮田満.Wm の憂鬱、日本企業の最後?のチャンスは、エンハンサー創薬だ.日経バ
イオ ONLINE, Vol.2358(2015 年 12 月 3 日)
- 153 -
第三章 行政の動向
第三章 行政の動向
はじめに
本章では、ゲノム医療と創薬支援を中心に、政府関連機関の発表資料並びに報道機関の
記事を元に、情報収集し、行政及び関連団体の取組みについて取り纏めた。
2015 年 4 月に日本医療研究開発機構(AMED)が発足、医療関連の研究開発予算の一
元化が達成され、より戦略的かつ効率的な新規医療技術の開発や治療薬の創製に向けて体
制が構築され、日本発の革新的医療技術や治療薬出現の可能性が高まった。
平成 28 年度(2016 年度)予算による新規研究事業の立ち上げが文部科学省、厚生労働
省、経済産業省及び AMED の協働の下、現在(本稿執筆中の 2016 年 2 月)、進められつ
つあるところであるが、ここではゲノム医療及び創薬支援に関するプロジェクトの取組み
状況について概説する。
(1) ゲノム医療実現に向けての取組み
1.健康・医療戦略におけるゲノム医療への取組み
2014 年 6 月に閣議決定された健康医療戦略に基づき、健康・医療戦略推進本部が 2014
年 7 月に決定した「医療分野研究開発推進計画」では、医療分野での研究開発等の施策に
ついて、
「基礎研究成果を実用化につなぐ体制の構築」、
「医薬品、医療機器開発の新たな仕
組みの構築」等をはじめとする 10 の基本方針及び具体的な達成目標が示されている。ま
た、基礎研究から実用化ベースへ一貫して繋ぐ、各省連携プロジェクトとしては、①医薬
品創出、②医療機器開発、③革新的な医療技術創出拠点、④再生医療、⑤オーダーメイド・
ゲノム医療、⑥がん、⑦精神・神経疾患、⑧新興・再興感染症、⑨難病、の 9 つを実施す
ることを謳っている。オーダーメイド・ゲノム医療は再生医療とともに、世界最先端の医
療の実現に向けた取組みとして、2020-30 年ころまでに認知症等のゲノム医療にかかわる
臨床研究の開始等を目標として設定された。
この「医療分野研究開発推進計画」を具体化するため、2015 年 1 月に開催された第 9
回健康・医療戦略推進会議では、ゲノム医療実現推進協議会の設置を決定した 1)。以後の
関連組織の動きについては図 1 に纏めた。
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第三章 行政の動向
年.月.日
主催機関/委員会・審議会
内容
2015.1.21
第 9 回健康・医療戦略推進会議
ゲノム医療実現推進協議会の設置を決定
2015.2.13
ゲノム医療実現推進協議会
第 1 回会合を開催、現在の課題を議論
2015.3.10
ゲノム医療実現推進協議会
第 2 回会合開催
2015.6.17
ゲノム医療実現推進協議会
第 3 回会合開催 7 月に中間とりまとめを行うことを決定
2015.7.15
ゲノム医療実現推進協議会
第 4 回会合 中間とりまとめを行い、29 課題を提示
2015.7.21
第 9 回健康医療・戦略推進本部
2015.9.7
厚生労働省
2015.11.17~
ゲノム情報を用いた医療等の実用
化推進タスクフォース
今後の健康・医療戦略の取組み方針と 2016 年度医療分野研
究開発予算等の資源配分方針を決定
大臣直轄のゲノム医療実現推進本部を設置し、初会合を開催
ゲノム情報を用いた医療等の実用化推進タスクフォース(以下「タ
スクフォース」)の設置を決定
2015.11.17、12.2、12.25 及び 2016.1.27 に第 1 回~第 4
回の会合を開催
図1.ゲノム医療実現推進協議会並びにゲノム情報を用いた医療等の
実現化推進タスクフォースの動き
(健康・医療戦略室ホームページ、厚労省ホームページ、
各種報道を元に創薬資源調査班で作成)
2.ゲノム医療実現推進協議会
ゲノム医療実現推進協議会は、2015 年 2 月に第 1 回会合が開催されている2)。議長は
健康・医療戦略室長、事務局は文部科学省、経済産業省、厚生労働省の協力の下、健康・
医療戦略室が担当する。
本協議会は、2014 年 7 月に健康・医療推進本部で策定された、「医療分野研究開発推進
計画」に掲げられた、各省連携プロジェクトである、「疾病克服に向けたゲノム医療実現
化プロジェクト」について、
(1)次代のゲノム研究・コホート研究の方向性、(2)効果
的・効率的な推進、(3)同プロジェクトの再構築と関連する取組との有機的連携につい
て、産業界も含めて議論する場として設立された。
4 回の会合の後、2015 年 7 月に「中間とりまとめ」が公表された3)。図 2 に示すような、
29 項目に亘る今後取り組むべき課題が提示されているが、内容的には、オミックス検査の
品質・精度管理の基準設定、高い専門性を持った機関の整備、遺伝カウンセリング体制の
整備、国民及び社会の理解と協力、関連人材の育成等に関するものが多く取り上げられ、
研究基盤であるバイオバンクに関しては「貯めるだけでなく、活用されるバンクとして再
構築する」として、3 大バイオバンク(東北メディカル・メガバンク、バイオバンク・ジ
ャパン、ナショナルセンター・バイオバンクネットワーク(NCBN))を研究基盤・連携
のハブとして再構築、正確な臨床、健診情報が付加され、かつ品質の確保された生体試料
を供用できる体制整備、生体試料の品質(採取、処理、感染症検査、保存等)の標準化を
図るとしている。
取組み課題の抽出に加え、2018 年度までの取組みの工程表が、「医療に用いることので
きる信頼性と質の確保された試料・情報の獲得、管理」、
「国民及び社会の理解と協力」、
「研
究の推進(知見の蓄積・活用に向けた取組)及び臨床現場・研究・産業界の
協働・連携」、
「人材育成及び医療従事者への教育強化」に関して作成されている。
- 155 -
第三章 行政の動向
1. 医療に用いることのできる信頼性と質の確保された試料・情報の獲得・管理
(1) 医療に用いる各種オミックス検査の、国内における品質・精度の確保
① 国内における品質・精度管理の基準設定(CLIA、CAP、ISO 等)等の必要性に関する検討及びLDTに関
する検討
(2) ゲノム情報等を用いた医療の実用化に向けた体制等の構築
② ゲノム医療に係る高い専門性を有する機関の整備(求められる機能、整備方法等を検討)
③ 医療従事者(開業医、一般臨床医含む)に対する教育、啓発
④ 各種オミックス検査の実施機関(医療機関又は衛生検査所等)の確保
⑤ 各種オミックス情報の臨床的な解釈(系統だったアノテーション)
⑥ 遺伝カウンセリング体制の整備、偶発的所見等への対応に関する検討
⑦ ゲノム情報等の付随した患者の正確な臨床・健診情報の包括的な管理・利用に関するインフラ整備
⑧ 保険収載の検査項目数の充実及び保険診療なのか、先進医療なのか
2. 国民及び社会の理解と協力
(1) 倫理的、法的、社会的課題への対応及びルールの整備
⑨ 医学研究や医療における遺伝情報の利活用する上での保護に関するルール作り
⑩ 提供者の保護に留意しつつ、プロジェクト間、産業利用等も考慮したインフォームドコンセントに関するルール作り
(知的財産権及び所有権の帰属への対応やゲノムの解析範囲等を含む)
⑪ 関連指針との整理
(2) 戦略的広報
⑫ 研究対象者の研究参画等の促進
⑬ 国民に対する啓発・コミュニケーション活動の促進
3. 研究の推進(知見の蓄積・活用に向けた取組)及び臨床現場・研究・産業界の協働・連携
(1) ゲノム医療実現に向けて推進すべき対象疾患等の設定と知見の蓄積
⑭ ゲノム医療実現に向けた段階的な推進すべき対象疾患の設定
⑮ 疾患予防に向け、ゲノム情報等を用いた発症予測法等の確立
⑯ 各種オミックス情報の臨床的な解釈に資するエビデンスの蓄積
(2) ゲノム情報等の付随した患者の正確な臨床、健診情報の包括的な管理、利用
⑰ 必要な臨床情報の同定、標準化されたデータの収集・利用
⑱ 必要なコンピューターリソースの整備
(3) 正確な臨床・健診情報が付加されたゲノム情報等のプロジェクト間でのデータシェアリング
⑲ 正確で効率的な医療情報の突合に必要な仕組み(医療等分野の番号等)の導入及び公的資料(レセプ
ト、健診情報、介護保険等)の活用についての検討
⑳ 研究における国際的なゲノム情報等のデータシェアリングに関する検討
(4) 研究基盤の整備 -オールジャパン体制の構築と、関連する取組との有機的連携㉑ 正確な臨床、健診情報が付加され、かつ品質の確保された生体試料を供用できる体制整備
㉒ 生体試料の品質(採取、処理、感染症検査、保存等)の標準化(患者疾患部位の生体試料を健常部位
の生体試料と比較する必要もあることに留意)
㉓ 3大バイオバンクを研究基盤・連携のハブとして再構築:貯めるだけでなく、活用されるバンク
㉔ 基礎研究の成果をゲノム医療に橋渡しする拠点の整備
㉕
医療研究開発の他の各省連携プロジェクト
(5)産業界の利用の促進に資する仕組みの創生
㉖ 提供者の保護に留意しつつ、プロジェクト間、産業利用等も考慮したインフォームド・コンセントに関するルール作り
(知的財産権及び所有権の帰属への対応やゲノムの解析範囲等を含む)<⑩の再掲>
㉗ 正確な臨床、健診情報が付加され、かつ品質の確保された生体試料を供用できる体制整備<㉑の再掲)
4. 人材育成及び医療従事者への教育強化
(1) 人材育成
㉘ 基礎研究段階、データ取得段階から医療までの各ステップ及び各プロジェクトにおける多岐にわたる専門的人材
(臨床遺伝専門医、ゲノムメディカルリサーチコーディネーター、バイオインフォマティシャン、生物統計家、遺伝統
計家、IT 専門家、疫学専門家、倫理専門家等)の育成・確保のための新しいキャリアパスの創設等を推進す
る。
(2) 医療従事者への教育強化
㉙ 医療従事者(開業医、一般臨床医含む)に対する教育、啓発 <③の再掲>
図2.ゲノム医療実現推進協議会の中間とりまとめで提示された取組み課題
(健康・医療戦略室ホームページ3)を元に創薬資源調査班で作成)
- 156 -
第三章 行政の動向
3.ゲノム医療等実現推進タスクフォースの動き
ゲノム医療実現推進協議会の中間とりまとめと今後の取組み方針を受けて、厚生労働
省では 2015 年 9 月に、厚生労働大臣の直属組織として、厚生労働審議官を本部長とす
る、
「ゲノム医療実現推進本部」を設置、同月に第 1 回会合を開催した4)。ゲノム医療を
めぐる現状と課題が総括された後、今後、この分野の有識者による、「ゲノム医療等実
現推進タスクフォース」を立ち上げ、以下の課題について重点的、かつ迅速に取り組む
こととなった。
(1)遺伝学的検査の品質・精度の確保:
検査の品質・精度を確保するためのルール等の整備
(2)遺伝カウンセリング体制等の整備:
検査の意義やその結果を、誤解無く適切に国民に伝えるためのルール等の整備
(3)遺伝情報に基づく差別の防止:
雇用、保険、就学等あらゆる場面での、遺伝情報に基づく差別の防止
(4)データの管理と二次利用:
生涯不変である遺伝情報を適切に管理し、効果的かつ安全にり活用するための
ルールの整備
以上については医療に限定せず、消費者向け遺伝子検査ビジネス等医療周辺領域も対
象としている。健康・医療戦略室、文部科学省、経済産業省の協力のもと、厚生労働省
が事務局となる。
第 1 回のゲノム医療等実現推進タスクフォースの会合は、2015 年 11 月に開催され5)、
当面の検討課題として、
(1)改正個人情報保護法におけるゲノム情報の取扱い
(2)「ゲノム医療」等の質の確保
(3)「ゲノム医療」等の実現・発展のための社会環境整備
について 2016 年の夏を目処に検討を終えることを目標にしている。2015 年 12 月に開
催された第 3 回会合までで最初の改正個人情報保護法におけるゲノム情報の取扱いの議
論が尽くされ、ゲノム(遺伝子配列)データが個人識別情報と成り得ること、ゲノムデ
ータを診断情報等と関連付けたゲノム情報については、要配慮個人情報となり、慎重な
取扱いの対象となり、何らかの政令の形に纏められる模様である。また、ヒトゲノム研
究の倫理指針である、「ヒトゲノム・遺伝子解析研究に関する倫理指針」の個人情報保
護法改定に関連する部分の見直しについても 3 省合同で検討に入る見込みである。
2016 年 1 月開催の第 4 回会合以降は、
「ゲノム医療」等の質の確保に関し、特に遺伝
子関連検査の品質・精度の確保及び、その結果の被験者への伝え方に関しての議論が開
始されている6)。
4.ゲノム医療実現化プロジェクトの 2016 年度(平成 28 年度)予算の概要
2015 年 7 月に開催された、第 9 回健康・医療戦略推進本部会合では、それまでの健康・
医療戦略の実行状況のレビューと今後の取組み方針(今後の取組方針 2015)の策定が行わ
れた7)。この中で、ゲノム医療実現推進協議会が設定した研究開発における 4 つの方針、
「ゲノム医療実現に向けて推進すべき対象疾患等の設定と知見の蓄積」、「ゲノム情報の付
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第三章 行政の動向
随した患者の正確な臨床・健診情報の包括的な管理、利用」、「正確な臨床・健診情報が付
加されたゲノム情報等のプロジェクト間でのデータシェアリング」、「研究の基盤整備」
に則った取組みが行われることとなる。
2016 年度医療分野の研究開発関連予算等の資源配分方針に関しても、この推進本部会合
で決定され、この方針に基づき、予算要求が担当各府省から提出されることとなる。ゲノ
ム医療実現化プロジェクトでは重点化すべき研究領域として以下が挙げられた。

疾患及び健常者バイオバンクを構築するとともにゲノム解析情報及び臨床情報等
を含めたデータ解析を実施し、疾患の発症原因や薬剤反応性等の関連遺伝子の同
定・検証及び日本人の標準ゲノム配列の特定を進める。

共同研究やゲノム付随研究等の実施により、難治性・希少性疾患等の原因遺伝子の
探索を図るとともに、ゲノム情報をいかした革新的診断治療ガイドラインの策定に
資する研究を推進する。

ゲノム医療実現に向けた研究基盤の整備やゲノム医療提供体制の構築を図るため
の試行的・実証的な臨床研究を推進する。
2016 年度予算に関しては、政府案が確定し、国会での審議を待つ段階ではあるが、医療
分野研究開発関連予算の総額としては、日本医療研究開発機構(AMED)対象経費が 1,248
億円、インハウス研究機関経費が 734 億円でいずれも 2015 年度予算に比べ、1%強の増額
となっている。ゲノム医療実現化プロジェクト関連予算では AMED89 億円、インハウス
24 億円、計 114 億円が投じられる8)9)。この予算で実施される事業の構成、全体像は図 3
に示す。
各事業の概要は以下のとおりである。
(1)ゲノム医療実現推進プラットフォーム事業(文部科学省・19.3 億円(新規))

ゲノム医療実現を目指し、既存のバイオバンク等を研究基盤・連携のハブとして再
構築するとともに、その研究基盤を利活用した目標設定型の先端ゲノム研究開発を
一体的に推進する。

研究プラットフォームを利活用する大規模ゲノム解析を必要とする疾患を対象と
した研究等を支援する。

既存のバイオバンク、スーパーコンピュータ等を有している研究機関を ネットワ
ーク化することにより、オールジャパンのプラットフォームを構築する。また、国
内バンクの試料・情報の利活用を促進する(ゲノム研究プラットフォーム利活用シ
ステム)。
- 158 -
第三章 行政の動向
図3.ゲノム医療実現化プロジェクト:2016 年度(平成 28 年度)予算での実施事業
(健康・医療戦略室ホームページより8))
(2)ゲノム医療実用化推進研究事業(厚生労働省・3.7 億円(継続))

適切なゲノム医療実施体制に係る試行的・実証的な臨床研究、これにかかわる医療
従事者の教育プログラムを確立する。
(有効・無効患者の層別化、至適投与量の予測等の個別化医療に関する研究等)
(3)臨床ゲノム情報統合データベース事業(厚生労働省・25.9 億円(新規))

オールジャパンのネットワークを形成・整備し、全ゲノム情報等を集積・解析した
情報を医療機関に提供することで個別化医療を推進する。

患者説明、臨床情報等の登録フォーマットを統一。

患者リクルートと全ゲノム解析等の実施。

臨床ゲノム情報統合データベースの管理・運営。
(日本人における疾患関連遺伝子の臨床での実用化等を促進)
(4)ゲノム診断支援システム整備事業(厚生労働省・10.0億円(新規))

国立高度専門医療研究センター(6施設)に、ゲノム情報を実際の診断で活用
す
るための診療基盤を整備し、ゲノム医療の提供を推進させる。

ゲノム情報を実際の診断で活用するため、 ゲノム解析結果を電子カルテ(EMR:
Electronic Medical Report)上に登録。

臨床的判断の支援(CDS Clinical Decision Support)を行うシステムを開発し、
各専門診療科の医師がゲノム診断を行う際の支援を提供(ゲノム医療対応電子カル
- 159 -
第三章 行政の動向
テシステム開発)。
(5)国立高度専門医療研究センター(NC)における治験・臨床研究推進事業
(厚生労働省・3.5 億円(継続))
 世界に先駆け革新的な医薬品開発等に結び付けるために質の高い臨床研究や治験
を推進する。そのために必要な体制を国立高度専門医療研究センター(NC)に整
備する。
(6)バイオバンク関連事業(継続)
 ナショナルセンター・バイオバンクネットワーク(厚生労働省・10.7 億円)
 オーダーメイド医療の実現プログラム(文部科学省・14.0 億円)
 東北メディカル・メガバンク計画(文部科学省・26.5 億円)
5.他のプロジェクトにおけるゲノム医療関連施策
ゲノム医療実現化プロジェクト以外のプロジェクトでもゲノム医療に関連するもの、あ
るいはゲノム情報を扱うものが存在する。以下のこれらのプロジェクト・事業及び研究課
題について概説する。
(1)ジャパンキャンサーリサーチ・プロジェクト

次世代がん医療創生研究事業(新規)
がんの生物学的な本態解明に迫る研究、がんゲノム情報等患者の臨床データに
基づいた研究及びこれらの融合研究を推進して、画期的な治療法や診断法の実用化
に向けて研究を加速し、早期段階で製薬企業等への導出を目指す。

がんのゲノム医療・集学的治療推進事業(厚生労働省(新規))
臨床研究実績のあるがん診療連携拠点病院を中心に、遺伝カウンセラーや臨床研究
コーディネーターを配置することで、国際基準に対応した多施設共同臨床研究をよ
り効率的・効果的に実施するための体制を強化し、迅速なゲノム医療・集学的治療
の確立を実現する。
(2)脳とこころの健康大国実現プロジェクト

認知症研究開発事業
認知症の実態把握、予防、診断、治療、ケアという観点に立って、それぞれ重点的
な研究を推進する。

認知症の原因解明、治療法開発、診断法開発、予防法開発等のためのコホート研究。
(3)難病克服プロジェクト

難治性疾患実用化研究事業
希少難治性疾患を対象として、病因・病態の解明、画期的な診断・治療・予防法の
開発を推進することで、希少難治性疾患の克服を目指す。ゲノム医療関連では以下
の 2 つの研究課題が設定されている。

疾患群ごとの集中的な遺伝子解析及び原因究明に関する研究(遺伝子拠点研究)

生体試料の収集と活用による病態解明を推進する研究(生体試料バンク)
6. AMED のゲノム医療関連の取組み : 未診断疾患イニシアチブ(IRUD)
AMED は未診断疾患イニシアチブ(Initiative on Rare and Undiagnosed Diseases:
IRUD)を立ち上げ、2015 年 7 月 22 日に小児疾患でのキックオフミーティングを開催し
た10)。本プロジェクトは希少疾患あるいは今までに知られていない新しい疾患の可能性
- 160 -
第三章 行政の動向
がある患者の診断を確定すること、及び病態解明を進める「IRUD 診療体制」を構築、将
来的には治療法を確立すること、そのための研究を促進することを目的とする。米国 NIH
(National Institute of Health)では既に 2008 年に Undiagnosed Diseases Program
(UDP)を立ち上げ、同様な活動を推進している。
具体的な活動拠点としては、(1)全国の IRUD 拠点病院、(2)IRUD 診断委員会、
(3)IRUD 臨床専門分科会、(4)IRUD 解析コンソーシアム(IRUD 解析センターを
含む)及び(5)IRUD データネットワークが設立若しくは指定される予定であるが、そ
れぞれの機能は以下の様である。
(1)IRUD 拠点病院
日本各地に IRUD 拠点病院を指定し、各施設に複数の診療科の医師で構成される
IRUD 診断委員会を設置する。
(2)IRUD 診断委員会
IRUD 拠点病院の幅広い診療科の医師で構成。地域のかかりつけ臨床医と積極的
に連携する。臨床遺伝専門医を中心に臨床カンファレンスを行って診断をつける。
そこで診断が難しい場合は、IRUD 臨床専門分科会に症例検討を依頼する、ある
いは IRUD 解析コンソーシアムに患者の検体を送付し解析を行う。
(3)IRUD 臨床専門分科会
中央に設置、疾患のエキスパートにより構成される。拠点病院の IRUD 診断委員
会による依頼を受け、専門的な症例検討を行う。検討結果を IRUD 診断委員会に
フィードバックする。必要に応じて IRUD 拠点病院で直接の診療も行う。
(4)IRUD 解析コンソーシアム
次世代シーケンサーを利用したエクソーム解析を含む遺伝子解析や、糖鎖解析等
のマルチオミックス解析を行って病態を解明していく。
(5)IRUD データネットワーク
インフォームド・コンセントを取った上、患者の遺伝子解析結果や臨床情報をデ
ータベースに登録する。このデータベースは国内外問わず、広く利用できる体制
とする。
2015~2016 年度は成育疾患克服等総合研究事業の研究開発課題名:「原因不明遺伝子
関連疾患の全国横断的症例収集・バンキングと網羅的解析」で、国立成育医療研究センタ
ーと慶應義塾大学病院臨床遺伝学センターが中心となって本プロジェクトを推進する。
国際連携として、AMED は 2015 年 7 月に希少疾患治療の研究開発を進める国際的なコ
ンソーシアムで、仏国パリに本部を置く、IRDiRC(International Rare Diseases Research
Consortium)に加盟している。IRDiRC については、ヒューマンサイエンス振興財団国外
調査班が 2015 年度に訪問しているので、詳しくはその調査報告書を参照されたい 11)。
一方、AMED の創薬支援戦略部が管轄する、オ―ファンドラッグの実用化支援事業(「創
薬支援推進事業-希少疾病用医薬品指定前実用化支援事業」)では、オ―ファン指定を受
ける前の開発段階で支援を行う、「事前オーファン制度」を新設し、2015 年 11 月に公募
を開始した12)。オーファンドラッグに取り組む企業にとって障害となる基礎研究と臨床
応用の間の「死の谷」を埋める可能性を期待している。
- 161 -
第三章 行政の動向
(2) オールジャパンでの創薬支援
2013 年 5 月に現在の創薬支援ネットワークの本部機能を担う創薬支援戦略室が旧医薬
基盤研究所に設置され、大学や公的研究機関等で生み出された優れた基礎研究の成果を医
薬品としての実用化につなげるため、医薬基盤研究所、理化学研究所、産業技術総合研究
所を中核としたオールジャパンの創薬支援体制が構築された。
2014 年 5 月 23 日に健康・医療戦略推進法及び日本医療研究開発機構法が成立し、2015
年 4 月からは、創薬支援ネットワークの本部機能は、新たな独立行政法人である日本医療
研究開発機構に移管され、現在は創薬支援戦略部として種々の創薬支援事業に取り組んで
いる。発足後、まだ1年を経過しないが、これまでの AMED の創薬支援に関しての諸施
策を以下に振り返る。
1.創薬支援ネットワーク/AMED 創薬支援戦略部の運営体制
2015 年 4 月の AMED 発足後、それまでの医薬基盤研の創薬支援戦略室は創薬支援戦略
部(英語名称:Department of Innovative Drug Discovery and Development, iD3)とな
ったが、創薬支援ネットワーク自体はアカデミアの優れた研究成果から革新的新薬の創出
を目指す実用化研究をオールジャパンで支援する創薬支援制度であることは従前と変わ
り無い。理化学研究所、産業技術総合研究所、医薬基盤・健康・栄養研究所からの技術的
支援を受けつつ、AMED・創薬支援戦略部が国内アカデミアの創薬シーズを探しだし、支
援テーマを選定、研究計画を策定、研究経費を負担、戦略、技術、資金面のボトルネック
を解消し、実用化を促進する。
具体的な支援策としては、創薬コーディネーターがアカデミア研究者からの創薬に関す
る様々な相談に対応する「創薬ナビ」、アカデミア・製薬企業・バイオベンチャーが保有
する種々の創薬技術に関する情報のデータベース「創薬アーカイブ」、選定された支援テ
ーマに対しネットワーク構成機関が保有する技術や設備を利用した HTS、構造最適化、非
臨床試験等の実施に関する支援と成果の実用化に必要な企業への導出あるいは医師主導
治験への橋渡しに関する支援を行う「創薬ブースター」、の 3 つが基本になる。
2015 年 9 月に開催された、創薬支援ネットワーク協議会では 2015 年 8 月末までの実績
として、相談及びシーズの評価が 357 件、有望シーズへの創薬支援が 34 件であったが、
企業への導出はいまだ無いと報告されている13)。
2.創薬支援ネットワークが支援中のテーマの現状
創薬支援ネットワークのホームページの情報 14)によると、2015 年 12 月末現在の支援
テーマは計 42 テーマである。その内訳をステージ別、創薬モダリティー別、疾患領域別
に纏めてみた。
ステージ別では、標的実用化検証段階が 15 テーマ、スクリーニング段階が 18 テーマ、
リード最適化段階が 6 テーマ、前臨床段階が 3 テーマである。
創薬モダリティー別では、低分子 29 テーマ、ペプチド 4 テーマ、抗体 3 テーマ、核酸 3
テーマ、ワクチン 4 テーマ、タンパク質 1 テーマ(複数のモダリティーを探索しているテ
ーマが 2 つある)で、約 3/4 が低分子化合物を探索している。天然物(低分子としてカウ
- 162 -
第三章 行政の動向
ント)を探索するテーマは 1 テーマのみ、抗体の中には抗体-薬物複合体(Antibody-Drug
Conjugate:ADC)が 1 テーマ含まれる。
対象疾患に関しては、がんが 13 テーマで最も多く、感染症 7 テーマ、神経系 6 テーマ
がそれに次いでいる。代謝性疾患、循環器疾患、炎症免疫領域のテーマは少ない。
由来の研究機関別では、大学由来 32 テーマ、国立研究機関(国立高度専門医療研究セ
ンターが殆ど)10 テーマであった。
3.創薬ブースター(創薬総合支援事業)による支援テーマの企業への導出
支援テーマより有望医薬品開発候補物質が見いだされた場合の、企業への導出に関する
ルールや手続きが既に決められている(「創薬総合支援事業(創薬ブースター)における導
出の基本的考え方」)15)。
導出の可否の判断は、
(1)得られている試験結果、
(2)知的財産権等の権利関係、
(3)
製薬企業等からの支援テーマに対する興味表明の有無、に基づいて行われ、創薬支援ネッ
トワーク運営会議で承認を得る。承認後、テーマの概要をホームページで公開し、興味を
示す企業に対しては秘密情報を開示した後。導入希望企業を募集する。
導出先企業の選定に当たっては選定基準を公開した上、候補企業から提出された、実用
化ロードマップ、知財戦略、導入対価等を比較検討して、創薬支援戦略部が最適企業を判
断、創薬支援ネットワーク運営会議で承認後、導出となる。導出先企業名は原則、公表さ
れる。最初の例として、国立循環器病研究センター研究所由来の筋変性疾患治療薬につい
て 2015 年 10 月に導出先企業の公募を開始した16)。導出先企業が 2016 年の初めには決
定される模様である。
4.創薬支援ネットワーク(創薬支援戦略部)が新たに開始した事業
(1)産学協働スクリーニングコンソーシアム(DISC)17)
DISC は Drug Discovery Innovation & Screening Consortium の略であり、既に官学で
保有するスクリーニング用ライブラリー(東京大学の低分子化合物、医薬基盤・健康・利
用研究所の抗体と核酸、次世代天然物化学技術研究組合の天然物)に製薬各社が保有する
ユニークな化合物群を追加し、創薬支援ネットワークの支援テーマでの開発候補物質の探
索への利用を図るものである。
2015 年 5 月に会員企業の募集が行われた結果、22 社が参加、合計 20 万化合物を収集す
る。2016 年の初めより、これらの化合物も含めたライブラリーにて、支援テーマの創薬標
的分子に対するハイスループットスクリーニングが開始される。スクリーニングの経費は
創薬支援戦略部が負担、実際の化合物の保管・管理やスクリーニング実施は外部受託機関
に委託する。このスクリーニングでのヒット化合物を提供した企業には導入、開発に向け
た優先交渉権が与えられる。
(2)創薬支援インフォマティクスシステム
創薬支援ネットワークの機能を強化するため、2015 年度から 5 か年計画で進められる、
データベース構築事業である。オールジャパンでの医薬品や化合物に関する情報を収集、
格納した統合型データベースを構築するとともに、新規化合物の薬効、毒性、代謝に関与
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第三章 行政の動向
する領域を予測できる多元的構造活性相関解析手法を平成 27 年度より 5 か年計画で開発
する。2015 年 10 月に平成 27 年度の採択課題が決定されている18)。
5.AMED 医薬品研究課が支援するプロジェクトとの連携
(1)次世代創薬シーズライブラリー構築プロジェクト 19)
2015 年度「創薬基盤推進研究事業」の研究開発課題 1 として、「次世代創薬シーズライ
ブラリー構築プロジェクト」が立ち上がっている。狙いは、従来の低分子化合物が不得手
であった、タンパク質-タンパク質相互作用(PPI:protein-pretein interaction)を阻害
できる、比較的分子量の大きい化合物(分子量 500 以上の中分子化合物)のライブラリー
(目標化合物数:15,000)を構築することである。
ペプチドリーム株式会社と株式会社 PRISM Biolab の提案が採択となっており、前者は
特殊環状ペプチドからのデザインにより、後者はヘリックス模倣骨格からのデザインによ
り、中分子化合物を作製する。
(2)構造展開プロジェクト20)
2012 年度より開始されている、「創薬等支援技術基盤プラットフォーム事業」の一環と
して、ライブラリー構築と連動させ、ヒット化合物からリード化合物の創製を促進する技
術基盤として、
「構造展開拠点」を整備する。合成可否、有用性の見極め、構造展開・デザ
イン、合成から成る「構造展開」を一体的に行えるようにする。
(3)産学官共同創薬研究プロジェクト(GAPFREE)
AMED 主導で開始された、産学官連携プロジェクトであり、アカデミアグループと製薬
企業グループのコンソーシアム構築により創薬を目指す。
アカデミアは前向きの臨床研究を実施し、良質な臨生検体収集とそれを用いたオミック
ス解析からの諸情報を提供、製薬企業はアカデミアからの臨生検体や臨床情報、解析情報
を用いての創薬標的分子の探索、バイオマーカーの同定、創薬(候補物質の評価)の実施
等を分担する。
本プロジェクトは疾患領域毎(最大 5 疾患領域)に立ち上げられ、1つの疾患領域には
1 企業のみ参画が基本であるが、複数の企業が協同して参加することも可能である。研究
資金は AMED と企業、双方からのマッチングファンド方式となっている。
2015 年 12 月に、研究課題名が「多層的オミックス解析による、がん、精神疾患、腎疾
患を対象とした医療技術開発」、代表研究機関が国立国際医療研究センター研究所となり、
製薬会社も何社か参画する形で採択された21)、22)。
【参考文献、情報】
1)
健康・医療戦略推進本部ホームページ:第 9 回
健康・医療戦略推進会議(2015 年 1
月 21 日開催)議事次第
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kenkouiryou/suisinkaigi/dai9/gijisidai.html
2)
健康・医療戦略推進本部ホームページ:第 1 回
年 2 月 13 日開催)議事次第
- 164 -
ゲノム医療実現推進協議会(2015
第三章 行政の動向
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kenkouiryou/genome/dai1_gijisidai.html
3)
健康・医療戦略推進本部ホームページ:ゲノム医療実現推進協議会
中間とりまとめ
(2015 年 7 月 30 日掲載)
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kenkouiryou/genome/pdf/h2707_torimatome.pdf
4)
厚生労働省ホームページ:第 1 回
ゲノム医療実現推進本部(2015 年 9 月 7 日開催)
資料
http://www.mhlw.go.jp/stf/shingi2/0000097716.html
5)
厚生労働省ホームページ:第 1 回
ゲノム情報を用いた医療等の実用化推進タスクフ
ォース(2015 年 11 月 17 日開催)資料
http://www.mhlw.go.jp/stf/shingi2/0000104356.html
6)
厚生労働省ホームページ:第 4 回
ゲノム情報を用いた医療等の実用化推進タスクフ
ォース(2016 年 1 月 27 日開催)資料
http://www.mhlw.go.jp/stf/shingi2/0000109824.html
7)
健康・医療戦略推進本部ホームページ:健康・医療戦略推進本部(第九回)(2015 年
7 月 21 日開催)議事次第
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kenkouiryou/suisin/suisin_dai9/gijisidai.html
8)
健康・医療戦略推進本部ホームページ:平成 28 年度予算における重点プロジェクト
の概要(2015 年 12 月 24 日掲載)
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kenkouiryou/siryou/pdf/h28_gaiyou.pdf
9)
2016 年度のバイオ関連予算.日経バイオテク 2016 年 2 月 1 日号
pp.4-13
10) AMED ホームページ:IRUD(未疾患診断イニシアチブ)について
(2015 年 7 月 30 日掲載)
http://www.amed.go.jp/content/files/jp/release/20150730.pdf
11) 平成 27 年度ヒューマンサイエンス振興財団国外調査報告書, pp.80-85, 2016 年 3 月.
12) AMED ホームページ:平成 28 年度「難治性疾患実用化研究事業」に係る公募(第 1
次公募)について(2015 年 11 月 13 日掲載)
http://www.amed.go.jp/koubo/010520151113-01.html
13) 健康・医療戦略推進本部ホームページ:
第5回
創薬支援ネットワーク協議会(2015 年 9 月 29 日開催)議事次第
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kenkouiryou/souyaku/dai5/gijisidai.html
資料 3-1「創薬支援ネットワークの活動状況」
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kenkouiryou/souyaku/dai5/siryou3-1.pdf
14) AMED ホームページ:創薬支援ネットワークの支援テーマ(平成 27 年 12 月末現在)
(2016 年 2 月 4 日掲載)
http://www.amed.go.jp/program/list/06/theme_list.html
15) AMED ホームページ:創薬総合支援事業(創薬ブースター)における導出に関する基
本的考え方(2015 年 7 月 10 日掲載)
http://www.amed.go.jp/content/files/jp/program/0601058_booster_policy.pdf
16) AMED ホームページ:支援テーマ「DNW-14002」の導出先候補企業募集(2015 年
10 月 28 日掲載)
- 165 -
第三章 行政の動向
http://www.amed.go.jp/program/list/06/05.html
17) AMED ホームページ:産学協働スクリーニングコンソーシアム(DISC)始動のお知
らせ―企業化合物提供によるアカデミア創薬シーズの実用化支援の加速―(2015 年
12 月 22 日掲載)
http://www.amed.go.jp/news/release_20151222-02.html
18) AMED ホームページ:平成 27 年度「創薬支援推進事業―創薬支援インフォマティク
スシステム構築―」に係る採択課題の決定(2015 年 10 月 9 日掲載)
http://www.amed.go.jp/news/program/060020150619_kettei.html
19) AMED ホームページ:平成 27 年度「創薬基盤推進研究事業(3 次公募)」に係る採択
課題の決定(2015 年 10 月 2 日掲載)
http://www.amed.go.jp/news/program/010120150708_kettei.html
20) 薬事日報
2015 年 6 月 22 日
21) AMED ホームページ:平成 27 年度「創薬基盤推進研究事業」に係る公募(4 次公募)
の採択課題決定(2015 年 12 月 4 日掲載)
http://www.amed.go.jp/news/program/010120151026_kettei.html
22) 日刊薬業
2015 年 12 月 19 日
- 166 -
第四章 考察
第四章 考察
本年度は、次世代医療や創薬へ向けた医療ビッグデータの活用とバイオマーカーの実用
化に焦点を当て、関連技術並びに研究アプローチの最新動向について調査した。本報告書
第一章では医療ビッグデータの医療や創薬への活用の現状と将来展望について、第二章で
はバイオマーカーの実用化に関しての現状の課題と克服法について、第三章では、行政の
動向として、医療分野における研究開発振興政策について、それぞれ報告した。
本章では創薬、医療ビッグデータの創薬、個別化医療及び予防医療に対する今後の活用
策、及び、バイオマーカーの実用化に関わる技術開発や研究開発の進め方に関する今後の
あるべき姿を念頭に置き、以下に考察を加えた。
1.医療ビッグデータを取り巻く現状と今後の動向
米国では、皆保険制度「オバマケア」の施行により、医療の効率化・コスト低減を目指
し、医療ビッグデータの蓄積・解析が産官学連携で取り組まれており、現在、そして将来
の医療に向けて有効活用することが期待されている。ゲノム・オミックス医療の臨床実装
という点において、我が国よりも先を進んでいるものの、現在米国で実施されている取組
みのほとんどは生得的ゲノム情報を取得する第一世代のゲノム・オミックス医療であり、
2015 年にオバマ大統領が提唱した Precision Medicine Initiative で目指している患者層別
化による高精度医療や先制医療は今後、種々の取組みが行われていくものと思われる。
米国と同様に我が国においても、医療ビッグデータの活用環境を整えるには、世界をリ
ードする実績を上げ整備が進んでいるバイオバンクやゲノムコホート研究を活用すること
が重要と思われる。高質なバイオバンクの試料や付随情報及びゲノムコホート研究の成果
を活用することによって、我が国がゲノム・オミックス医療における最先進国となること
も可能だと思われる。そのためには、産官学が連携したゲノムコホート研究を継続し、そ
の成果を国民の健康生活に反映しながら、先制医療実現のため、医療ビッグデータを統合
する技術基盤の構築や多種多様な非構造データを解析する技術の向上に継続して取り組ん
で い く こ と が 必 要 で あ る 。 2015 年 度 は 日 本 医 療 研 究 開 発 機 構 ( AMED ) の 発 足 や
SCRUM-Japan 等製薬企業の pre-competitive な研究参画があった。2016 年度は医療関連
分野の重点プロジェクトである「疾病克服に向けたゲノム医療実現化プロジェクト」に 114
億円の予算が配分される。ゲノム医療の実用化、医療ビッグデータの活用に向けて産官学
それぞれの取組み及び連携も進み始め,今後の更なる進展が期待される。さらに、米国で
進む Learning Healthcare System のように、医療を実施しながらそこで得られる臨床デ
ータを用いて医療を改善していく体制を構築し、基礎医学で得られた治験の臨床医学への
応用をより効率化させることが求められる。
データの管理・運用・解析においては、第一にクラウド環境の整備が求められる。膨大
なデータの管理にはクラウド活用が必要になってくると思われる。解析システムと連動し
たデータ管理、今後増え続けるデータへの対応、そして、個人情報保護の徹底等ソフト・
ハード面の充実が必要である。欧米では、データセンターを各地域に設置する、或いは、
中央センターでデータを一括管理する等のセンター構想を取り入れている。データ保存様
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第四章 考察
式の統一、ニーズに沿った情報の詳細な分類、そして情報漏洩のリスク低減、等を図って
いる。日本のデータ管理、運用のシステム構築の参考になるだろう。
第二に、ビッグデータ解析の技術水準の均質化や信頼性の確保が求められる。収集した
オミックスデータや医療・生体情報等の解析(方法・システム)については、個々の研究
施設の人材や能力に依存しており、データ収集の進捗と比較し、多層的な解析が必ずしも
進んでいる状況にはない。国内研究施設間で、その技術水準を一定に保つためには、個々
の施設での解析よりは、国内 1 施設、もしくは地域ごとに解析センターを整備することが
望まれる。
2.医療ビッグデータ時代の医療・創薬
ビッグデータ時代の医療は、時系列でデータを取得し、そのデータパターンを分析して
診断を行い、最良の治療法を選択し、病態をコントロールすることになる。医療ビッグデ
ータは、臨床現場において治療方針を考える場合の判断材料であり、因果関係を導き出す
ことができ得るものでもある。従って、蓄積された医療ビッグデータに基づいた病態進行
のシミュレーションが可能になれば、早期診断・早期介入が期待できるだろう。しかしな
がら、多様なデータが取得できても、即、画期的な診断、予防、治療に対するソリューシ
ョンに繋がるわけではない。状態把握によって早期診断を行う段階、早期介入を試行錯誤
する段階、早期介入が提供される段階、が順に訪れ、それぞれの段階に合わせた対応が必
要になる。将来的には、医療ビッグデータの利用が医師の診断・治療の判断サポートシス
テムや高精度医療、先制医療を実現し、臨床予測性を向上させることは間違いないであろ
う。一方、医療ビッグデータは、製薬企業においても、革新的新薬創出や効率的なドラッ
グリポジショニングを推進するための有力な手段となる可能性がある。今後、創薬に向け
たデータ解析手法の開発等、pre-competitive な企業間の協働作業として進めることも考慮
すべきであろう。
医療ビッグデータを活用するビジネスとして、個人レベルの行動変容をもたらす予防法
や診断が先行しているが、行動変容による予防医療の最大の欠点は、推奨された行動を守
ろうとすることが精神的なストレスになることである。それに対して、薬剤による予防的
介入は、精神的にリラックスして治療できると言う点が長所であり、薬剤を予防的介入さ
せることができる治療方法を確立することが、製薬産業としての今後の課題になると思わ
れる。例えば、Johnson & Johnson は 2015 年に先制医療チーム Disease Interception
Accelerator を世界に先駆けて設置し、疾患の治療でなく、根絶・排除を目指している。
3.健康・医療サービス
医療ビッグデータの更なる活用策として、他の業種で得られる一般的なビッグデータ
(直接医療に関連しないが相関関係があるデータ、運動、食事制限等)を消費者から集め、
これに医療ビッグデータを加えて利活用し、他の業種のサービスと結び付ける「スマート
ヘルシーシティ」のような一般消費者向けのビジネスの展開が考えられる。今後、日本に
おける医療ビッグデータの環境整備が進むことで、医療ビッグデータを利活用した複数の
業種間の事業連携・サービス創出が更に大きく展開されることが期待される。
また、遺伝子解析と連携した健康診断サービスからの医療ビッグデータ蓄積が進められ
- 168 -
第四章 考察
ている。試行的な取組みではあるが、実際の医療現場でデータの収集、解析、活用を進め
ることで、コストやデータの正確性、診断後の対応、医療者への教育の必要性や消費者に
対するアフターケア等、医療ビッグデータ活用ビジネスの課題を早期に抽出し、将来的な
サービスの拡大が期待される。さらに、データの二次利用に関する法整備が今後進むこと
で、得られた医療ビッグデータの新規医療技術の開発や創薬への活用も期待される。
4.ウェアラブルデバイス
ウェアラブルデバイスは、コンシューマ向けにヘルスケア市場を主なターゲットとして
世の中に拡がりつつあるが、医療応用も開発企業の視野に入れられている。日本において
は、医薬品医療機器等法による規制と審査期間の長期化等もあり、医療機器領域としての
企業の開発参入が遅滞している。一方、米国においては、多くの医療技術(予防診断技術
や機器)が FDA の承認なしに販売されており、ウェアラブルデバイスに対して多くのベ
ンチャー企業が参入し、民間保険会社の支援の下、医療コストの削減のために活発な研究
開発が行われている。今後日本においても、種々の関連する規制緩和を進めるとともに審
査の迅速化と簡略化を図り、医療領域でのウェアラブルデバイスの応用展開ができる環境
が整備されていくことを期待する。
ウェアラブルセンサーの技術革新は日進月歩であり、バイタルサインを非侵襲的に計測
するセンサー技術だけでなく、生体成分の分析や測定方法が侵襲タイプから非侵襲タイプ
のセンサーで計測する技術へと進展してきている。また、クラウド技術を含むデータ通信
の技術に加え、データ解析技術等、ウェアラブルデバイスを取り巻く環境も整備され始め
ている。ウェアラブルセンサーの技術革新により、24 時間のリアルタイム生体情報が正確
に取得、解析できるようになると、時系列でのデータ取得が容易になり、医療ビッグデー
タ時代の医療や臨床試験、更には創薬への活用が可能となる。
5.ゲノムバイオマーカーの研究開発の現状と展望
疾患バイオマーカーの研究開発では、がんの領域での展開が突出している。研究のプラ
ットフォームとなる解析技術は、がん組織・細胞中の遺伝子の体細胞性変異を解析する次
世代シークエンサー(NGS)
、体液中のタンパク質・ペプチド又は代謝物を解析する質量
分析器(MS)である。それらの機器から得られる多量のデータの医学生物学的に意味の
ある解析にするために、大容量のコンピュータに加えてバイオ統計処理技術等も欠かせな
いものとなっている。
国内においては、今回の調査対象に含まれていた国立がん研究センターや静岡がんセン
ター等で、がんの手術摘除組織や生検組織中の遺伝子変異について、NGS による全エキソ
ン解析又はがん関連遺伝子のパネル解析が進められている。解析対象のがん種は、肺がん
や消化器がんが多い。目標となる収集症例数は、先行的試行的な研究であるために、合算
すると 10,000 例ほどの規模である。
2016 年度の厚生労働省の創薬関連予算を参照すると、“疾病克服に向けたゲノム医療実
現化プロジェクト”に AMED 経費として 89.4 億円が配分された。厚労省は、臨床ゲノム
情報統合データベース整備、ゲノム医療実用化推進研究及びゲノム診断システム整備の各
事業を進めることとなる。事業の達成目標(2020~30 年)には、ゲノム医療による生活
- 169 -
第四章 考察
習慣病の改善、発がん予測、抗がん剤の効果や副作用の予測診断、認知症のゲノム医療に
かかわる臨床研究の開始等が掲げられている。
国立がん研究センター他で進められている先行的研究は、AMED のイニシアチブのもと
に、ゲノム医療実現化プロジェクトに統合、さらに他のがん診療施設の参画により拡大・
統合され、その結果として、量的にも質的にも国際的に通用するデータベースとなること
を期待したい。
多くの研究者及び業界関係者が指摘するように、データベースに含まれる情報には患者
試料中の胚性・体性遺伝子変異、疾患フェノタイプ及び治療転帰が含まれることが必須要
件となる。それらに加えて、他のオミックス情報があれば理想的である。国内のがん登録
制度(
「国内がん登録」
)は 2016 年 1 月から開始され、登録により少なくともがんの発症
数、死亡数及び治療内容の概要はデータベース化されることとなるが、それはゲノム医療
実現に向けた一里塚である。患者の臨床情報の統合的なデータベース化には、構造的デー
タ及び画像データ等の非構造的データの取り込みも必要となる。各医療施設で使用されて
いる電子カルテ(EHR)はソフト的に互換性があるとは考えにくく、すべての臨床データ
の取り込みには EHR の標準化等の悩ましい技術的課題がある。
がんのゲノム医療が実装される場合には、それに関わるコストを誰がどのように負担す
るのかという問題は避けて通れない。NGS 解析のコストは 1 試料あたり数十万円と高額
である。現行においては、保険償還の対象とはなっていない。通常、NGS などの解析機器
及びそれに用いる専用試薬、さらに解析用ソフトについては、医療用途であれば医薬品医
療機器等法の規制を受けることとなる。技術面の正確性そして臨床面の有効性と安全性が
PMDA の審査基準に合致することが必要である。ところが、NGS のような新しい解析機
器による診断検査については、今のところ規制基準が見あたらない。日本臨床検査薬協会
は、2015 年 6 月に“個別化医療及び先進的医療において体外診断用医薬品・臨床検査機
器が抱える課題とその対策に関する提言書”を厚労省に提出し、新しい解析機器に対する
薬事審査及びその後の保険償還のあるべき姿を提言している。行政当局の速やかな検討が
期待される。
ところで、仮に理想的なデータベースが構築された場合に、医療、特に創薬の観点から
のメリットについては、以下のように指摘されている。1 つ目は既承認薬の適応拡大(ド
ラッグリポジショニング)であり、2 つ目は新たな創薬標的遺伝子の特定である。様々な
がん組織に検出される変異には、既承認分子標的薬の適応となる変異及び適応外処方とな
る変異、さらに新たな創薬標的となる変異の 3 種類がある。ゲノム情報及び臨床情報は、
既承認薬の適応拡大及び新規分子標的薬の対象疾患の登録に有用な情報となる。これまで
の臨床試験の患者登録は、試験を行う医療施設が個別に実施しているが、既に取得されて
いるゲノム情報を元に参加者を募ることができれば必要症例数の確保がより容易になるも
のとなろう。
一方、がんゲノム情報のパスウェイ解析はこれからの大きな課題である。1 つの分子標
的に 1 つの標的薬を処方するという戦略は、複数の分子標的・パスウェイに、複数の標的
薬を併用処方するという治療戦略にシフトしていくと思われる。その場合には、NGS によ
るゲノムの解析結果は必須の情報となる。
他方、免疫チェックポイント阻害剤の抗がん効果は、殺細胞性抗がん剤や分子標的薬に
- 170 -
第四章 考察
比較して薬効の発現には時間はかかるとされているものの、難治性のメラノーマや肺がん
で長期に生存する患者が存在する。これらの長期生存患者のがん組織においては、数百を
超える遺伝子変異が起こっているとの予備的な報告もある。がん免疫療法の有効性を予測
するバイオマーカーの発見は、高額な薬剤の適正使用の観点からも重要なことである。
さらに、新たな創薬標的となる遺伝子(変異や融合遺伝子)が特定された場合に、前臨
床研究ではそれらを導入した培養細胞や担がん実験動物が必要となる。遺伝子変異情報が
付されたがん組織の生検試料や細胞株が官民の創薬研究者に提供されれば、創薬研究が促
進され、大いに魅力的なものになる。
6.プロテオーム・メタボロームバイオマーカーの研究開発の現状と展望
バイオマーカーの研究開発の現状については、バイオマーカー候補探索と実用化とでは、
目的、視点が異なるため、それぞれについて異なる課題があると言える。バイオマーカー
探索技術、特にプロテオミクスにおいては、2 次元電気泳動が主流だった時代から、MS
プロテオミクスへと変革しており、メタボロミクス同様 MS の活用は標準的なものとなっ
ている。しかしながら、以前から指摘されているように、MS プロテオミクスによるバイ
オマーカー探索での課題として、夾雑タンパクを排除するための前処理の必要性が挙げら
れる。第 2 章で述べたように、糖鎖を活用することによるアプローチ(産総研)、培養上
清の活用によるアプローチ(横浜市立大学)がこの課題を解決できた代表的な手法である
と言える。一方で、実用化に向けた課題は、MS 技術の感度向上が進んだことにより、探
索研究での MS から実用化段階での簡便なキットに簡単には置き換えられないこと、精度
が基準に達しないことであると考えられている。そこで、MS を直接医療機器として使え
ないかと研究されているのが神戸大(メタボローム)や基盤研(マルチマーカー)で、逆
に糖鎖を利用して簡便なキット化に成功したのが、産総研の研究成果である。
医療の領域では、質量分析器(MS)の臨床検査への利用に関しては、新生児の代謝異
常マススクリーニング及び病原性細菌の迅速検査に始まり、臨床化学検査への利用展開が
期待されている。アカデミアにおいては、プロテオーム及びメタボロームの MS 解析によ
り、疾患診断に役立つバイオマーカーの探索研究・実証研究が、精力的に進められており、
それらは、極めて近い将来に、検査薬・計測機器企業により薬事申請され、臨床検査キッ
トや臨床検査システムとして利用されることとなる。
プロテオーム及びメタボロームは種類により化学的性質が異なることから、単一の MS
で様々な分析をこなすことは難しく、異なる原理の装置を複数設置する必要がある。バイ
オマーカーの探索には、これらの装置の適切な使い分けが必要である。臨床検査への応用
を想定した場合には、体液試料の適切な採取法や保存法に始まり、MS 解析に先立つ試料
の簡便かつ確実な化学的前処理法、MS スペクトル解析の校正用キャリブレーターの検証、
標準化及びデータベースの構築、更には結果の統計解析手法の確立、そしてそれら各ステ
ップの操作手技の標準化が要求される。既に実用化されている臨床検査システムに MS プ
ラットフォームを応用するためには、多くの要素技術・技能の検証が必要である。
以上の様々な技術的要求が存在することを考えれば、プロテオーム・メタボロームバイ
オマーカーの探索及び実用化を、研究開発の早い段階からアカデミアと産業界が協業して
進めるメリットは大きい。それは、マーカー自体の知的財産の確保に加えて、産業界の知
恵により、MS 解析及び前処理法等にかかわる様々な要素技術の独占性確保が可能となる
- 171 -
第四章 考察
ところにある。
MS プロテオミクスによる疾患バイオマーカーの研究開発の場合、今回の調査で訪問し
た施設の例から学べたことの一つは、商業化の実現への道筋には少なくとも二通りあるこ
と、つまり検査キット又は臨床検査機器システムとして開発し販売するという道筋である。
横浜市立大学及び産総研の例においては、それぞれがん患者または肝線維症患者の血清の
プロテオーム解析により見つけられたバイオマーカーが、イムノアッセイ検査キットとし
て検証中又は開発が終了している。一方、神戸大学において進められているメタボローム
解析により発見されたがん診断マーカーの開発においては、新たに MS を測定装置として
用いるという臨床検査機器システムの薬事申請を含むものであり、大変に挑戦的である。
アカデミア側からみれば、研究を手がけたマーカーが論文作成や特許申請に終わらずに、
企業との協業により、PMDA 承認及び保険適用となる期待は特に大きい。
検査薬・計測機器企業から見れば、アカデミアの疾患バイオマーカーのシーズをもとに
製品開発を行うことは投資リスクの少ない開発手法とも思われる。しかし、企業からアカ
デミアに対してマッチングファンド方式のプロジェクトへの参加には年間千万円単位の研
究費の支払い、億円単位の MS 機器の設置あるいはやはり年間千万円単位の企業資金の提
供が必要となるようだ。製品開発に要する期間は、上記の例において総じてみれば数年間
を要していた。しかし、今回の調査においても、アカデミアと産業界の協業により、肝臓
の線維化マーカーの実用化や卵巣がんの診断マーカーの薬事開発が進められており確実な
成果が生みだされていた。
一方、メタボロームバイオマーカーの創薬の観点からのメリットについては、今回の調
査から受ける印象の限りにおいては、今後の研究への期待が大きい。MS 解析は微量の試
料を材料として、多種のメタボロームを同時定量できる。そのメリットを利用すれば、疾
患培養細胞中の中心代謝酵素を多数、同時に定量することが可能である。これにより、が
ん細胞に特徴的な代謝経路を特定できれば、その経路のみを抑制すれば副作用の少ない抗
がん剤の開発に結び付くと考えられる。培養細胞中のあるタンパク質(例えばキナーゼ)
の翻訳後のリン酸化状態を区別でき、基質タンパク質のリン酸化状態から活性を予測する
ことができれば、分子標的薬の創薬に役立つものである。
7.バイオバンクの充実: 貯めるだけでなく、活用されるバイオバンクへ
今回の調査の過程で、研究当事者から繰り返し受けた指摘は、国内の公的バイオバンク
の充実に関することである。新規バイオマーカーの探索・検証時の障壁として、バイオバ
ンク試料の施設間の品質の差異の問題がある。試料の取り扱いや解析手法等に関する標準
操作手順書(SOP)を整備し、多施設が共通の SOP に従って研究を進めることにより、
全国共通で試料やデータを使用できる環境を整えることが望まれる。標準化・共通化は、
アジア地区を巻き込んだ地域的な拡大、さらには国際協調への発展にも期待したい。さら
に、オミックスデータを統合するための解析手法の確立も望まれる。バイオバンクに蓄積
された試料やデータの取り扱いルールの策定は、一医療機関で対応できるものではない。
公的バイオバンクは、予後の状況把握が可能となる等のメリットが大きい半面、厳密な個
人情報の管理が求められる等の制約も多い。マイナンバーの利用も想定されるため、個人
情報保護の観点からも、国が主体となったバイオバンクシステムの構築、標準化が望まれ
る。
- 172 -
第五章 今後の課題
第五章 今後の課題
今年度の調査対象、医療ビッグデータの活用とバイオマーカー実用化についての調査結
果を元に、ヒューマンサイエンス振興財団創薬資源調査班では議論を重ねた結果、我が国
の製薬企業をはじめとする医療関連産業、関連する行政当局及びアカデミアが今後、克服
すべき課題を、進めるべき施策と共に以下に纏めた。
課題1
医療ビッグデータの収集並びに利活用の推進に向けての課題
今後、IoT(Internet of Things)の技術革新等により、ゲノム情報をはじめとする生体
情報がネットワーク上からアクセスできることが想定され、プライバシー管理体制を含め
た情報セキュリティの強化とその信頼性の向上が望まれる。個人情報保護とのバランスを
取る一方で、二次利用を含めた積極的なデータ活用が進み、医療の革新や国民の健康への
寄与を早期に実現することができる、政令、指針等法制度面の整備が望まれる。
医療ビッグデータ収集に関しては、日本の医療制度の下でも、米国で進む Learning
Healthcare System のような、臨床現場からデータを収集し、それを元に医療を改善する
システムを構築することが肝要と考えられ、そのためのインフラ整備の推進(医療機関に
対する補助金の交付等)が必要である。
医療ビッグデータの蓄積のためのデータ収集には、医療従事者が、医療ビッグデータの
取得を行い、将来の患者の治療に役立つことを理解し、データ取得のための患者説明、各
種臨床パラメーターの測定・解析、データ入力等を進んで行うとともに、医療環境(診療
報酬等への反映、労働環境の整備)が整備されることが望まれる。
ビッグデータの収集・管理については、バイオバンク事業とも連動させた ID 管理シス
テム構築を国も進めようとしているが、管理面だけでなく、今後増え続けるであろう膨大
なデータ量の推移を予測し、管理・解析に対応できるデータクラウドの整備、解析センタ
ーの整備、データの解析に当たる専門の人材の育成が必要である。
医薬品産業強化の面からも、産業界においても人材育成を含めた医療ビッグデータの利
用体制整備が必要である。
(進めるべき施策)

臨床現場からの医療ビッグデータ収集が可能となる法制度面の整備

臨床現場でのデータ収集に対する医療従事者の協力体制の構築、クラウドシステム
の整備並びにデータ解析センターの設置等、ソフト・ハード面の充実

企業は医療ビッグデータ活用に必要な人材育成を積極的に進めるべき
- 173 -
第五章 今後の課題
課題2
ウェアラブルデバイスの医療応用の推進に向けての課題
ウェアラブルデバイスの実用化における障壁に関して、日米間で大きな格差のあること
が今回の調査で明らかとなった。医薬品医療機器等法による規制と長期の審査期間等の課
題に対して、審査の迅速化と簡略化等を図り、医療領域でのウェアラブルデバイスの応用
展開が可能となる環境を日本においても整備することが望まれる。
ウェアラブルデバイスが今後の医療や創薬に活用されるためには、産出されるデータ、
測定値の信頼性の検証が必須となる。中期的な視野に立って産官学コンソーシアム等を形
成した上で、ウェアラブルデバイスを用いた臨床でのバリデーション試験等を行い、デー
タの再現性と信頼性の確保とともに、管理・解析、従来の医療機器との比較、その他課題
の発見等様々な情報を抽出する必要がある。その後、実利用に向けた開発ステージへと移
行していくのが現実的である。これらの成果によって、結果的に医療機器としての承認の
早期取得にも繋がっていくと期待される。
また、IT 企業やウェアラブルデバイス開発企業等においては、将来的な医療機関や製薬
企業での医療ビッグデータの活用を見据えて、異なる機器、ソフトウェアで産生されるデ
ータの標準化とデータ連携を意識したシステム・機器開発を行うことが望まれる。
(進めるべき施策)

ウェアラブルデバイスの医療応用の促進に向けての制度改革

ウェアラブルデバイスの実用化を目指し、そのデータの標準化や検証試験の官民共
同での推進
課題3
ゲノムコホート研究とバイオバンクの更なる推進・整備に向けての課題
昨年度の報告書においても、ゲノムコホート研究の成果の活用、特に民間における活用
について提言を行った。2016 年度予算における健康医療戦略や AMED のゲノム医療への
対応を見るに、バイオバンクやゲノムコホート研究に対し、それなりの手が打たれている
ことが分かる。今後、ここから発出される良質な医療ビッグデータや臨床情報を伴ったヒ
ト試料の活用機会を逃さないためにも、企業においては、早期からのゲノムコホート研究
への参画や、産業化の視点からの各種データの活用法に対して準備を進めること、あるい
はビッグデータの解析に当たる人材の養成等が望まれる。臨床試験等、企業主体で医療デ
ータを収集する際にも、データや試料の将来活用を意識した試験計画を立案することが必
要である。
(進めるべき施策)

ゲノムコホート研究の推進体制の更なる強化と高質化

ゲノムコホ―ト研究の成果の創薬標的分子の発見等新規治療薬や医療技術の開発に
向けての活用推進

バイオバンクの試料の質の面の標準化、取り扱い手順の SOP 化や施設間バリデーシ
ョンにより、全国共通で試料とデータを使用できる環境の整備
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第五章 今後の課題
課題4
新規バイオマーカー探索と実用化のための課題
新規バイオマーカーの探索については、本年度の調査において診断用マーカーでの成功
例を分析すると、研究初期から実用化後を見据えた研究開発を進めることが重要と思われ
る。現状のメディカルニーズの見極め、検査・測定すべき対象の見極め、開発期間を短縮
するための諸要件の調査、現行の診断機器・システムの利用可能性、等が重要である。ア
カデミアと企業の連携でマーカーの開発を進めるに当たっては、研究初期から実用化を視
野に入れた体制の構築が必要である。企業は、実用化の戦略を考案し、アカデミアは新規
技術開発、分析・解析といった技術的な面を担うことになるが、お互いの役割分担を越え、
互いの研究課題に踏み込んだ協力体制の構築が重要である。また、アカデミアにおいては、
基礎と臨床の更なる連携強化が重要であり、臨床のニーズを主眼に置いた研究の立ち上げ
を期待する。加えて、アカデミア間の連携を強化する等、アカデミア内の意識・構造改革
も必要である。
(進めるべき施策)

研究初期からの実用化を加速するための官民連携の研究体制の構築
課題5
オミックス医療の実現に向けての課題
我が国において、予防医療に対する保険償還の制度化はまだまだ進んでいない。将来的
には、新規のバイオマーカー、特に血中のバイオマーカーを利用した診断技術は、人間ド
ックや健康診断の項目の 1 つとして利用されることが予想される。その場合、診断効率の
確保のために、数種のオミックスマーカーの利用が必要となる。医療費が国の財政を大き
く圧迫している現状を考えると、疾患を未然に防ぐ、あるいは早期に発見することは極め
て重要であり、新規なオミックスバイオマーカーを利用した診断技術に対する新たな保険
償還制度の検討が望まれる。そのため、国及びアカデミアは、バイオマーカーを用いた新
規な診断法の医療経済効果を明らかにし、開発企業へインセンティブを与えるような施策
を検討することも必要である。
(進めるべき施策)

オミックスバイオマーカーの医療経済効果の官民連携による分析とその必要性につ
いての国民の理解の取得

オミックスバイオマーカー利用の診断薬について保険収載のルールの取り決めと公
表
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平成 27 年度
創薬資源調査報告書
医療ビッグデータの活用並びに
バイオマーカー実用化の最新動向
-創薬並びに個別化医療や予防医療への可能性を探る-
発行日: 平成 28 年 3 月 16 日
発
行: 公益財団法人
ヒューマンサイエンス振興財団
〒101-0032
東京都千代田区岩本町 2-11-1 ハーブ神田ビル
電話 03(5823)0361/FAX 03(5823)0363
(財団事務局担当 加藤 正夫)
印
刷: タナカ印刷株式会社
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