咸世德の『舞衣島紀行』再考−−『漁船天佑丸』との関連を中心に

咸世德の『舞衣島紀行』再考−−『漁船天佑丸』との関連を中心に
金牡蘭(早稲田大学)
1.はじめに
朝鮮半島の近現代劇の歴史の中で、咸世德(ハムセドク)は特異な存在である。植民地
朝鮮における近代演劇が、主に日本留学を経験した文学青年たちによって主導されたとい
う事実から見て、咸世德が劇作家の道を歩むことになった背景、つまり商業学校の卒業生
としては珍しく、京城の日韓書房に就職し、これをきっかけに金素雲に柳致真を紹介され
ることで、劇作を始めたというその経歴がまずそうである。そのために咸世德は、当代の
朝鮮作家の一般的な場合とは異なり、劇作家として正式に登壇した後の 1942 年に初めて日
本に渡ることになるが、これは処女作『サンホグリ』(『朝鮮文学)1936 年 9 月)が発表さ
れてから 6 年後のことであった。
しかし、このような咸世德の特異性は、決して他の作家たちに比べて、彼における外国
文学との接点が少なかったことを意味するわけではない。李海浪の懐古でも窺えるように、
彼が書店で働きながら読破した戯曲は、西欧の古典劇や現代劇、日本の歌舞伎のような伝
統劇など、その幅が広く、
「イプセンやオニールに、愛蘭劇まで読んで話題にする」彼に対
して、大学の芸術科に在学中だった李海浪の方が負い目を感じるほどであった1。咸世德の
こうした外国の劇作に対する関心が彼自身の創作に影響しなかったはずはなく、その様子
は 1980 年代末の解禁とともに本格化した咸世德研究においても、ある程度明らかにされて
いる。
かつて柳敏滎は、咸世德の戯曲の相当数が外国作品の模作であり、彼は模倣の天才に過
ぎないと主張したことがあるが2、チャンへジョンは柳敏滎のこの主張が具体的な検証を経
たものではないと指摘しながら、咸世德の作品に現れた外国作品の受容と変容の振幅を綿
密にかつ深く検討する作業に挑んだ3。その一方で、イヒファンは、それ以前にあまり知ら
れていなかった戯曲『碧空』を紹介したが、この作品は0.ヘンリーの『最後の一葉』と類
似したものであった。そのためにイヒファンは、咸世德における西欧文学の影響を論じる
際にアイルランドのそれに偏ってきた既存の研究動向が改められるべきだと主張し、改善
を促した4。
本発表は、以上のように現在も研究が進行中である咸世德と外国作品との関係について、
新たな事実を提示し、その意味を探求しようとする試みである。それはつまり、咸世德の
代表作である『舞衣島紀行』とオランダの劇作家ハイエルマンス(Herman Heijer-mans)
1
2
3
4
李海浪『虚像の真実』
(セムン社、1991)pp.283-4、 徐淵昊「咸世德と日本演劇」韓国劇
芸術学会編『咸世德』(演劇と人間、2010)pp.201-2 から再引用
柳敏榮『韓国現代戯曲史』(ホンソン社、1982)pp.301-26; pp.333-38、チャンへジョン
「咸世德の戯曲に現れた外国作品の影響問題」韓国劇芸術学会編『咸世德』
(前掲)p.83
から再引用
チャンへジョン(前掲)pp. 82-4
イヒファン「新資料から見た咸世德の家系と文学――戯曲『碧空』と解放期の資料を中心
に」韓国劇芸術学会編『咸世德』
(前掲)p.394
の『漁船天佑丸(Op Hoop Van Zegen)』に関することである。これまで『舞衣島紀行』は、
『サンホグリ』と並んで、アイルランドの劇作家シング(J.M. Synge)の影響が顕著な劇
作として知られてきた。しかし、本発表では、『舞衣島紀行』がむしろ『漁船天佑丸』を基
礎にして書かれた作品であることを明らかにし、それとともに咸世德の劇作をめぐる、外
国作品との関連性に関する規定という問題にまで考察を進めてみたい。
2.
『漁船天佑丸』
、
『舞衣島紀行』の「原作」としての可能性
1)1990 年代『舞衣島紀行』の「初演」とある老俳優の感想
①『舞衣島紀行』の上演記録
・1998 年、仁川市立劇団
・1999 年、国立劇団(BeSeTo 演劇祭出品作に選定)
*学生劇を公演史に含めるなら、初演は 1948 年の光州で朝大芸術学会第1次公演として上
演された時点に遡らなくてはならない。なお、この公演に対しては李泰俊(「芸術評論家」)
が『東光新聞』
(7 月 15 日)に観劇評を寄稿している。
②『舞衣島紀行』と『天佑丸』の類似性に関する言及
「特別企画プログラム:文化芸術 20 世紀の整理と 21 世紀展望①演劇/元老に聞く—−金
東元」5
李ヘギョン:最近国立劇団が咸世德の『舞衣島紀行』を公演しましたが、隔世の感を感じ
たりはしませんか?
金東元:時代がそれだけ変わったと思います。ところで、今回の公演ではプロローグは余
計に付けられたような気がします。しかも下手な日本語でやるのが、とてもぎこ
ちなかったです。咸世德は他の作品からの借用が好きでした。
『舞衣島紀行』も今
回見たら、私が日本で見た『天優丸』(引用者注:『天佑丸』の誤記)という翻訳
劇の匂いがけっこうしました。また、咸世德の『落花岩』には顔が綺麗だからと
いって焼き鏝を当てる場面が出てきますが、それは日本の『おくどとささき』と
いう大衆小説から借用したようです。
2)
『漁船天佑丸』と『舞衣島紀行』
①日本の新劇界における『漁船天佑丸』
・オランダの代表的な劇作家ハイエルマンス(1864-1924)の Op Hoop Van Zegen(直訳する
と「天佑を望んで」の意、船の名前)を明治末に小山内薫が「天佑丸」と命名したおり、
5
http://www.arko.or.kr/zine/artspaper99_08/38.htm(最終閲覧: 2015 年 5 月 24 日)
以降日本ではこの名称で呼ばれ、新劇関係者の間では広く知られていた作品6。
・日本語訳は久保栄が、ドイツ語訳を土台に英訳も参照して重訳したもの7。『漁船天佑丸』
の題目で『世界戯曲全集 白耳義・和蘭近代劇編』
(1928)に収録。
・日本における上演記録(1950 年代まで)8
劇団
題目
公演時期
公演場所
新築地劇場
帆船天佑丸
1934.4.10-22
築地小劇場
大阪協同劇場
天佑丸
1936.3.26-28
大阪文楽座
参考事故
&神戸八千代座
新協劇団
天佑丸
1936.5.15-26
築地小劇場
演出:久保栄
装置:伊藤熹朔
舞台監督:安英一
前衛劇団
帆船天佑丸
1947.1.?
大連
劇団民芸
漁船天佑丸
1957.6.19-7.7
俳優座劇場
装置:伊藤熹朔
②『舞衣島紀行』との内容上の類似性
『漁船天佑丸』(全4幕)
『舞衣島紀行』(全2幕)
1幕:
・先月軍隊から追い出された A バレン
1幕:
・陸地で働きだしてから1年ぶりに舞
クニエ
トは、母の B クニエルチェと従姉妹の
10 月上
衣島に連れ戻される A 天命
ルチェ
ヨオにも臆病だとからかわれている
旬、孔
・天命の母 B 孔氏の弟である C 孔主学
氏の家
は自分の漁船に天命を乗せようとし、
の家の ・日常的な船乗りの死と 12 年前父と二
居間
人の兄を海で亡くしたバレント家族の
これに反対して天命を婿にして医者に
悲劇
育てようとする漢医の亀さんと対立
・バレントを天佑丸に乗船させようと
・朝鮮の漁業の変化と近代化に対する
する船主の C ボスと以前の悲劇を思い
対応に関する会話
出しながら抵抗するバレント
・二人の兄を海で亡くした天命家族の
・バレントの兄ゲエルトは、海軍での
過去、乗船を迫る大人たち(父の落京、
反抗罪で服役した後に帰省し、上官を
孔氏、孔主学)とそれに抵抗するが止
暴行した事情と海軍、監獄での非人間
む無く受け入れる天命
的な生活を暴露
6
7
8
2幕:
・天佑丸の出航1時間前という時点、
2幕:
・孔主学の誕生日に集まった魚師たち
一ヶ月
ゲエルトとバレント兄弟も乗船に署名
翌日、
の話から、日本の漁船との競争で失敗
後、ク
した状況
孔主学
し貧民に転落した落京の不運な過去が
ニエル
・船大工の D ジモンが酔っ払って天佑
の誕生
明らかに
チェの
丸の肋材が腐っていることを漏らす
日
・D 亀さんが成書房から聞いた船の欠
北条元一「解説 2:久保栄の自然主義評価をめぐって−−「漁船天佑丸」を中心に」『久保
栄全集』第9巻(三一書房、1962)p. 440
内山鶉「解題」
『久保栄全集』第9巻(前掲)pp. 421-2
これは内山鶉(前掲)pp. 423-5 における上演記録に、ウェブ上(chinokigi.blog.so-net.
ne.jp/2013-11-26-4、最終閲覧:2015 年 5 月 24 日)で見つけた「前衛劇団」の上演を付
け加えたものである。
誕生日
・ボスとゲエルトの間の階級的な対立
陥を孔氏に暴露するが、真実を確認し
が激化
ようとした孔氏に孔主学は怒ってこれ
・ジモンから船の欠陥のことを聞き逃
を否認
げてきたバレントとそれを信じない母
・孔氏夫婦の説得にもかかわらず、自
・警官たちに連れて行かれるバレント
分で船の底を確認したと言い、乗船を
3幕:
・町の老人に天佑丸の欠陥について漏
拒む天命
出航一
らすボスの娘クレメンチイネ
・天命は包丁をもって台所に逃げ込ん
ヶ
・女たちがそれぞれ海で死んだ男たち
だが、結局は連れて行かれて乗船
の話を聞かせる
・後日談の形で、船の破船と天命の死
月
後、悪
が知らされる
天候の ・悪天候の中で不安にかられる女たち、
夜
ヨオはゲエルトの子供を妊娠している
ことが明らかに
4幕:
・ジモンがボスの事務室に現れ、自分
出航6
の警告に耳を貸さなかった会社を非難
2
・天佑丸の一部とバレントの遺体が発
日
後、ボ
見されたという電報
スの事
・嗚咽するクニエルチェに、ボスの家
務室
族は再び掃除の仕事を頼む
・遺族扶助のための募金を宣伝する新
聞広告で終わる
・プロットの類似性:海を恐れ、乗船を拒む息子と、経済的な理由などでこの息子を乗船
させようとする母・船主との葛藤
・その他にも、産婦と赤子の死、魚を処理する時の苦労話など、共通するエピソードの存
在が認められる
③外的な条件から見た可能性
・咸世德の外国劇作との接点は主に読書によるもの。とりわけ李海浪に負い目を感じさせ
たその多様性は当時日本で出版された戯曲全集類が担保した多様性に由来すると類推す
ることが出来る
・咸世德が以下のような全集類を通じて外国の戯曲に接したとするなら、
『天佑丸』を読ん
だ可能性は極めて高い
・1920−30 年代に日本で刊行された外国戯曲全集類
全集名
近代劇大系
古典劇大系
規模
全 16 巻
全 19 巻
時期
刊行主体
1923
近代劇大
-24
系刊行会
1924
近代社
-27
アイルランド演劇
ハイエルマンス関
関連
連
9巻:英及愛蘭編
世界戯曲全集
全 40 巻、
1927
世界戯曲
別冊:世界
-30
全集刊行
近代劇集に『天佑
会
丸』、
『朝日商会』収
戯曲史
9 巻:愛蘭劇集
36 巻:白耳義・和蘭
録
近代劇全集
全 43 巻、
1927
別冊:舞台
-30
第一書房
25 巻:愛蘭土1
13 巻:独逸編に『永
26 巻:愛蘭土 2
遠の猶太人』収録
33 巻:イギリス及愛
36 巻:近代戯曲集に
戯曲集
『猶太街』収録
写真帳
世界文学全集
全 38 巻
第1期
1927
新庁社
-30
3.咸世德の劇作における「原作」の問題
1)
『舞衣島紀行』と『漁船天佑丸』の関係
2)咸世德の劇作における借用、翻案、改作
4.
「原作」の移動が持つ意味
1)
『海に騎りゆく人々』
(Riders to the Sea)から『舞衣島紀行』への変容が意味するも
の
2)
『漁船天佑丸』から『舞衣島紀行』への変容が意味するもの