発表日:2010/10/13 日治時代台湾文学(一) テクスト:楊逵「新聞配達夫」 (中島利朗編『日本統治期台湾文学台湾人作家作品集第一巻』緑陰書房 1999.7) 発表者:金城恵 楊逵「新聞配達夫」試論 1.はじめに 「新聞配達夫」は 1932 年 5 月(19 日から 27 日)に『台湾新民報』1に、「台 湾プロ文芸の元老」2として楊逵が文学だけでなく人として尊敬していた頼和に よって掲載されることになるが、前半のみで後半は掲載禁止となってしまった。 その後、楊逵本人により 1934 年 10 月文学雑誌『文学評論』に寄稿、第二席に 入選し、全文が掲載され、台湾人作家が初めて日本の文学賞を獲得することと なった。 筆者が注目するのが、1934 年の『文芸評論』の「『新聞配達夫』について」の 日本文壇男女 6 人の批評3である。みな「小説の技巧には欠けるが、読者を引き つける強い力を感じる」と述べているのである。確かに、限られた字数の中で の批評であるため、作品に対する強い印象が強調されるはもちろんであるが、 文学の専門家である彼らが同じ場所に着目するという点は大変に興味深い。彼 らが同じ場所に着目するということは、作者である楊逵が故意に仕向けたこと のように筆者には思えてならない。 そこで、多くの先行研究や文献をもとに「新聞配達夫」の内容を自分なりに 整理しながら、物語の中で〈私〉に初志を貫徹させる不思議な〈私〉の「母」 を中心に考察したい。 2.「新聞配達夫」と楊逵の関連性 2.1 農民運動と楊逵 のつながり 楊逵は、1906 年 10 月 18 日、台南縣新化鎮新化街(旧・臺南州大目降街)に生 1 1927 年 7 月から『台湾民報』の名前が変わり、また東京発行ではなく島内発行となり 1934 年 4 月 15 にから日刊新聞となる。 2 楊逵「台湾文壇の明日を担ふ人」 『文芸案内』1936 年 6 月、p.10。参考資料として編.中島利朗他『日本 統治期台湾文学文芸評論集第三期』(2001 年 4 月、緑陰書房)を使用した。引用部分のページ数などはす べてこれによる。 3 1934 年 7 月、徳永直・中条百合子・武田麟太郎・亀井一郎・藤森成吉・窪川稲子の 6 人。 1 まれる。錫細工職人の父・楊鼻、母・蘇足、3 人兄弟の一番下で(女の兄妹 2 人は 幼いうちに死亡)本名を楊貴と言う。 子供時代は、大変に体が弱く 10 歳で新化公学校に入学。12 歳の時、楊逵の家 に同じ年で同級生の姉である、町で 2、3 番目の地主の娘が楊逵の媳婦仔(童養 媳)としてやってくる。その理由は、父である楊鼻が楊逵を 2 番目の兄と同じ 医者にするための経済的支援からであったと思われる4。しかし、楊逵はその女 性と馴染むことができなかった。 台南州立第二中学(現在・台南一中)に入学した 18、9 歳の頃、夏休みの帰省 中に両親によって自分の部屋に押し込まれたこの女性と一夜を過ごすことにな る。楊逵は当時のことを「僕は一晩中床に入ることが出来ず、机の前に座って 夜を明かしてしまった。」5「実に怖しかった」6と述べ、 「日本に行く決意をした」 7 としている。この経験が非常に怖かったためだけではないと思われるが、1924 年、台南州立第二中学を中退、2 番目の兄がくれたバイオリンを売り、1 番目の 兄にもお金の工面してもらい 4、50 円を持ち、東京へ渡ることになる。 1925 年、日雇労働や新聞配達などで、学費や生活費を稼ぎながら日本大学専 門部芸術科夜間部に入学。楊逵自ら文化学研究会を結成し文学活動8や労働運動 に参加、1927 年には朝鮮人の演説会に参加し、逮捕9(第 1 回目)されている。 また、同時期台湾では農民組合10が組織され農民運動が勃発している。その中 で特に注目したいのが、1926 年 6 月 28 日に結成された台湾農民組合の始まりと 言われている「鳳山農民組合の結成」である。この暴動は「鳳山に於いて第一 の気勢を挙げた小作人の反抗は、実に台湾農民運動に歴史の第一ページを成す ものであって…」11と宮原次郎が述べるように、小作人たちの要求がある程度通 り、地主・製糖会社と対抗するには、一致団結することが自らを有利に導くこと を小作人自身が自覚するものであった。 1925 年の鳳山農民組合の結成後、農民組合が関係する暴動が多く見られるよ 「僕の父は錫細工の職人である。こんな階級の者が三人息子を全部学校に上げたことは、当時の僕の故 郷としては珍しかった。 (中略)この僕に媳婦仔を貰つたもつとも重大な理由が経済的なものであつたこと は容易に理解できる。」と「再婚者の手記」の中で述べている。 4 5 楊逵「再婚者の手記」 『民俗台湾』1944 年 2 月、東都書籍台湾支店、p.31。 6 同注 5、p.31。 7 同注 5、P.31。 8 大正・昭和時代、プロレタリア演劇で演出家・俳優の佐々木孝丸の演劇研究会に参加している。 http://dig.nmtl.gov.tw/yang/timelife/timelife-1.php 楊逵文物数位博物館 9 日本統治期、楊逵は 10 回逮捕、投獄されている。 http://dig.nmtl.gov.tw/yang/timelife/timelife-1.php 楊逵文物数位博物館 10 宮本次郎「台湾の農民組合」 『台湾、南支、南洋パンフレット(6)』1927 年 9 月、拓殖通信社、p.1。 1925 年高雄州鳳山農民組合、1926 年台中州下に大甲農民組合、台南州下に竹崎農民組合、曾文農民組合 が設立。1926 年 6 月 28 日台湾農民組合が確立される。 11 同注 10、p.3。 2 うになる。1925 年 10 月 22 日「林本源製糖株式会社に対する原料代値上げ運動 による暴動」、1926 年 6 月 13,14 日「退官者の土地払い下げに関し無断開墾者 の公務執行妨害」、1927 年 6 月「退官者土地払い下げに関し租穀不納者による公 務執行妨害」、1927 年 7 月「納税不納同盟」1927 年 7 月 31 日租穀減少運動によ る組合員幹部留置の釈放要求」、1927 年 8 月 23 日「芭蕉実生産者を煽動」など が挙げられる12。 2.2 鳳山農民組合と「新聞配達夫」 鳳山農民組合結成に繋がるこの事件の発端は、新興製糖会社の社長であり地 主である陳中和の横暴が原因であった。陳中和の所に永久小作の口約束で新竹 州付近の農民 20 名が 1922 年頃移住、ところが突然、地主側から新興製糖会社 がサトウキビを自作するため土地を引き渡すように迫られ、小作人たちは反対 したが負けてしまう。1923 年に新竹州から移住してきた黄石順にも 1925 年 5 月 に地主の陳中和より土地の引き渡しを強要される。しかし、黄石順は小作人た ちと団結し、土地の引き私を強固に反対する。結果、小作人たちの要求が認め られることになる。 小作人たちをまとめた黄石順13は、公学校教員を免職させられたのち、内地で 農民運動を実際に見て帰ってきた、 「義侠心に富み、親分肌であり、素行は善好」 14 の簡吉と出会い、意気投合し 2 人により小作人の組織から農民組合へと大きく 展開をしていくことになる15。そして 1925 年 11 月 15 日、鳳山農民組合16を結成 する。 また、楊逵の年表によれば 1927 年台湾農民組合の要請に応じ日本から台湾へ 戻り、指導者である簡吉のもとを訪ね、後に台湾全土を回り農民の指導に当た る。楊逵は台湾農民組合の特別活動隊で政治、経済、教育などを担当すること になる17。 この一連の事件、「鳳山農民組合の結成」は「農民運動の歴史の第一ページ」 あって「新聞配達夫」の物語の中で雇用主の横暴な振る舞いに労働者が団結す ることを知り、勝利に終わることなどが似ているのである。 12 同注 10、p.20。 13 「台湾赤色救援会事件の概要」 『台湾警察時報』出刊年月日不明、台湾警察協会。 「主なる被告の身元、闘争略歴」に黄石順の名前、顔写真が掲載されている。 14同注 10、p.10。 15 「大湖、竹南事件の概要」 『台湾警察時報』1934 年 8 月 1 日、台湾警察協会。 「主なる被告の身元、闘争略歴」林章梅の部分で「特に農組幹部にて台湾共産党員たる趙●(印字不明瞭の ため確認できず)簡吉等の指導を受けて共産思想を抱持するようになり…」と述べられている。簡吉が農 民運動であった頃が伺える。 (傍線引用者) 16 組合長・簡吉、主事・黄石順。同注 9、p.10。 17特別活動部隊で後の妻である葉陶と知り会う。 http://dig.nmtl.gov.tw/yang/timelife/timelife-1.php 楊逵文物数位博物館 3 確かに、同じように団結して闘った事件〈三菱と竹林事件など〉は他にもあ るが、宮原が述べた「台湾農民運動に歴史の第一ページを成すもの」というこ の点や意気投合する 2 人、のちに組織される農民組合などに注目すれば、 「新聞 配達夫」の物語の中に類似している点が多いように思える。 「その人(伊藤とか言つたが)特に私に会いたがつてゐると言ふ田中の話に、 私は非常に喜んだ。」(テクスト p.33)楊逵が台湾農民組合の要請で台湾に戻り 簡吉を訪ねていることや、〈私〉が伊藤と会った後を この会見が済んで三日後、私は伊藤君の世話で玩具工場に働くことが出 来た。そして、私は規則正しく閑な時間を利用して、日本労働組合議会の この人達と行き来し、ストライキの応援にも幾分●18を出し、会議にも参加 し、演説会にさえ立つた。19 (テクスト p.34。網かけ検閲で消された部分) 以下のように述べていることなども簡吉の姿に「新聞配達夫」の伊藤の姿を 垣間見ることができないだろうか。 つまり、楊逵は台湾農民組合に繋がる事件や人物を「新聞配達夫」の中に取 り込んでいると考えられるのである。 3. 「新聞配達夫」の中の母の役割 3.1 楊逵の家族から 上述したように台湾農民組合に繋がる事件や人物が取り入れられていると考 えられるのだが、 〈私〉の初志を貫徹させるため、物語の中で重要な位置にある と思われる〈私〉の「母」と楊逵の接点は見当たらない。 物語の中の「母」の役は「妹」「恋人」「祖母」「親友」でもいいはずである。 では、なぜ「母」でなくてはいけなかったのだろか。 楊逵の医師である 2 番目の兄・楊趁は 1930 年に自殺をしている。これについ ては「養家の婆さんの虐待に耐え得ずして一度は広東まで奔つたが、子供達の ことが諦められず舞い戻つて来て一年そこそこで自殺してしまった。 (中略)金 や義理や縁●その他でぐるぐるに縛りつけられたら、到底そこから脱すること のできない性格であり…」20と述べられている。 次に、楊逵の母はどうであろうか。『民俗台湾』の「納鞋底」21の中では、手 作りの靴を作ってくれる温かい母の姿を妻を見ながら思い出しているが、特別 変わった母の姿ではない。また、上述したように「媳婦仔として楊逵の家に入 18 印刷不明瞭の為解読不可。以下●の場合も解読不可の意味とする。 19 検閲で消されている部分は楊逵文物数位博物館「電子書専区」から 1932 年 6 月 1 日に書かれた「郵便 配達夫」後半の原文読むことができる。そこから引用した。 http://dig.nmtl.gov.tw/yang/timelife/timelife-1.php 楊逵文物数位博物館 20 同注 5、P.32。 21 楊逵「納鞋底」 『民俗台湾』1943 年 2 月、東都書籍台来北支店、p.13。 4 りながら楊逵に気に入られなかった女性」がいた。東京へ行った後、 「勉強した 22 いのでこの話を破談にしてほしい」 と手紙を出すが、父や母からは「存分に勉 強したらよい」23「好きな女が出来たら妾にすればよい」24と言ってきて閉口し たと楊逵は述べている。やはり、 〈私〉の「母」の印象とは違うように思われる。 「新聞配達夫」の「母」の性格や自殺の原因が楊逵の母や兄弟、家族の背景 から取り込まれている可能性は、ほとんど無いように思われる。 3.2「新聞配達夫」の母の不思議 「新聞配達夫」の中の〈私〉の「母」は、どのような女性だろうか。〈私〉の 父・楊明が印鑑を押さないため引っ張られていったことを聞き「卒倒」してしま う。そして、 「父が帰って来る迄の 6 日間は、殆んど泣き通しで、三度も卒倒し、 見違えるほどに痩せてしまった。」 (テクスト p.20)そして、 〈私〉の父が死んで しまうと「同じ頃に母も寝ついてしまったので、私は一つと三つと四つの弟妹 を抱へて、途方に暮れたことか!」 (テクスト p.21)と夫に頼って生計を立てる 生活力のない女性であり、また、〈私〉が東京に行ってしまった後、3 人の弟妹 の内 2 人を死なせてしまうなど非常に弱い母を思わせるのである。 しかし、手紙や遺書の内容からは上述した弱い母の姿を見ることはできない。 しっかりとした信念を持った強い母を感じずにはいられない。 「弱気を出して帰 つて来やうなんて考えを持つてはいけません。」(テクスト p.24)と〈私〉を励 まし、警察官になって村の人たちをいじめた兄と「キツパリ離縁を主張」 (テク スト p.28)し、〈私〉も「母は決断力の強い女だった。(中略)自分の信ずると ころ、決心したことに向かつては、何時も断乎として、てきぱきだつた。」(テ クスト p.28)と強い母であるとことを主張する。 〈私〉の「母」は強いとも弱いとも取れる不思議な性格の「母」なのである。 おそらく、楊逵にとって、「母」の性格はそれほど重要でなかった。なぜなら、 他に「母」を利用する目的があったからである。 今考えることだが、母に、若し・・・・・・・・を読ませる機会があつたら、ツ エトキン婆さんのような働きをしたであろうし、父が畑を売ることを拒絶 したために捕らえられた時も卒倒なんかしまいで何かの行動を取つたであ ろうと思われる。(テクスト p.28)(傍線引用者) 1932 年に書かれたものを参考に検閲で消された部分を見てみると「●●多少と も学問をする機会があつたら」25と書かれており「ツエトキン婆さん」は「クラ 22 同注 5、p.31。 23 同注 5、p31。 24 同注 5、p.31。 25 同注 17。 5 ラ・ツエトキンさん」26と書かれている。このクララ・ツエトキン(Clara Zetkin) 27 とはドイツの婦人革命家で「婦人の解放は労働を通してのみ可能」28と考え「婦 人運動の理論的基礎をきづいた」29人であった。 上記の引用から伺えるものは「母」ではなく、家父長制の抑圧的な社会の下 で取り残されがちであった「女性」に目を向けさせるためであったと考えられ るのである。男尊女卑の社会の中で階級にも関係なく大衆に受け入れられる女 性像はやはり「母」ではないだろうか。 楊逵は文学評論に「芸術は大衆のものである」30と頻繁に書いており、「少数 者のみ理解出来きるものは芸術ではない!真の芸術は大衆の心をかきむしり、 彼ら等のここを揺り動かす作品である。」31このような作品を作らなければなら ないのであれば大衆である誰もが同じ思いを理解できなければならない。「妹」 「妻」「女友達」「恋人」等では同一の感情が弱いと考えたのだと思われる。つ まり、〈私〉の「母」は「芸術は大衆のものである」と伝える役割を持ち、上述 した「取り残された女性」へと目を向けさせる手段としても必要だったのであ る。 4. おわりに 楊逵は文芸批評の中で「自分でも訳のわからないものを書きながら、人がそ れを理解できないと言っては『文芸がわかららない。』と言って読者を叱る作者 が多いのも又現文壇の特徴である。」32と良い作品は文壇の人だけがわかればよ いと言う日本文壇の姿勢を批判する。 楊逵自身「私の『新聞配達夫』が喜び読まれた」33とも述べており、日本文壇 男女 6 人の批評を読んだ後、 「自分の考えていることは、けして間違っていなか った」と思ったに違いない。 そして、自らの信念は「新聞配達夫」によって確かなものとなり、1935 年 12 月 28 日、楊逵は『台湾新文学』34を創刊する。 人間として本来の要求は、不幸を悲しみ、不法を憤り、より良き生活を 26 同注 17。 27 http://www.jkn21.com/body/display/ジャパンナレッジプラス 28 同注 27。 29 同注 27。 30 『日本統治期台湾文学文藝評論集第二巻』編・中島利功他、2001 年 4 月、緑陰書房。 31 楊逵「文芸時評 文芸批評の基準」 『台湾文芸』1935 年 3 月、同注 30、p.127。 32 同注 29、楊逵「文芸時評 33 同注 29、楊逵「文芸時評 文芸批評の基準」1935 年 4 月、p.126。 芸術は大衆のものである」『台湾文芸』1935 年 2 月 34 台湾文芸連盟と機関誌『台湾文学』の運営並びに体質に不満を表示した楊逵らが創刊した。中日文の両 方が掲載された。 6 追求する。これ大衆の心である。従つて、この一般的なより大衆的な(勿 論その属する階級に従つて多少の変更は免れないが)要求に合ふもの、こ れらの切実なる一般的な問題ついての人々の感情を表現したものは、それ が真に大衆を動かし得る場合、最も高き芸術である。35 という楊逵の信念によって描かれた「新聞配達夫」は、その後の台湾人作家に 大きな影響を与え、1935 年には張文環「父の顔」 (『中央公論』第 4 位佳作)、呂 赫若「牛車」 (『文学評論』)、翁鬧「戇爺さん」 (『文芸』選外佳作)36の 3 名が日 本文壇へと進出していった。 さらには、1935 年 6 月に「新聞配達夫」は胡風により翻訳され(「送報扶」の 題名で)中国本土の雑誌『世界知識』に掲載され、翌年には同じく胡風の翻訳 で『山霊─朝鮮台湾短編集』(上海、文化生活出版社、4 月)に収められ、世界 知識社編『弱小民族小説集』(上海・生活書店、5 月)にも収められた37。 もちろん中国本土へ「新聞配達夫」が与えた影響は上述したことからもわか るように大きかったと思われるが、河原功が指摘するように「中国本土への台 湾人作家の積極的な働きがけは見られなかった。」38ようで、楊逵も『台湾文芸』 の中で「中国文壇よりも、日本文壇との関係がより密接である。我が台湾文壇 を知る為には、先づ、日本文壇を知らねばならぬ。」39と中国文壇を重要視して いなかったことが伺える。 35 同注 29、楊逵「お上品な芸術刊を排す」 『文学評論』1935 年 5 月、p.149。 36 河原功『台湾新文学運動の展開 日本文学との接点』1997 年 11 月、研文出版、pp.232‐233。 37 同注 36、p.235。 38 同注 36、p.235。 39 同注 33、p.21。 7
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