満州鉄道、撫順炭鉱での技術習得の環境

創業者の歩み
② 南満洲鉄道、撫順炭鉱での技術習得の環境
職に就いてみると気宇が広大で伸び伸びと仕事をしていたし、任せても貰えた。撫順炭鉱は東洋一
の規模の炭鉱であった。鉱脈の概要を示すと上層部から順次に緑色頁岩、油母頁岩、石炭層よりなり、
炭層は東西17.4㎞、南北1.2∼2.5㎞の狭長な面積に分布し、走向東西傾斜約20∼40度、南端
は炭層が露出により露天掘りで石炭を採掘し、昭和4年頃より炭層の上部の油母頁岩(オイルセール)
より石油が生産できることに着目して製油工場を建設して油を生産する様になった。
露頭が現れていた西部炭層厚は130mもあり、全炭田の炭層は平均40mで南北傾斜は約18度、
その埋蔵量は石炭10億トン、油母頁岩54億トン、この炭田より採掘した石炭は1.5億トンで、昭
和13年には年間出炭量が900万トンにもなっていた。また油母頁岩は製油工場で乾溜してオイル
セールを採油していた。昭和18年油母頁岩の年産900万トン、粗油生産約36万トン、付帯事業
として火力発電所31万 kw を有し、そのうちの7万 kw をもってアルミを生産していた。またオイル
セールの乾溜過程で出る硫黄分で硫安、ピッチ、タールや染料を生産する化学工場もあった。
露天掘と坑内掘の経済限度比率いわゆるマイニングレセウは3.5で、すなわち表土を3.5トン剥離
して1トンの石炭を産出することが露天掘の経済効果限度といわれていた。したがって深部の石炭層
では坑内掘を行っていた。西より東7.5㎞地点に大断層があり、西露天掘と東露天掘に分かれ、西は
石炭とオイルセール、東はオイルセール専用に開発され、生産設備は終戦の2年前に完成。総ての事
業が生産軌道に乗った時点での終戦であった。そのまま残された設備に後ろ髪を引かれる思いがする。
また、特殊鋼は戦略物資であったため、アメリカの経済封鎖にあい入手できず、鞍山の鉱石山、大
狐山、関門山の鉄鋼石が遼河に流れ、大石橋、営口間の河川敷で砂鉄となり採集し、撫順炭にて製錬
をしていた製鉄所もあった。撫順の石炭は6,000∼7,000カロリーの瀝青炭であった。以上の様
な石炭採掘を基礎に露天掘2ケ所、坑内掘7ケ所、製油工場2ケ所、化学工場、コークスガス工場、
製鉄・アルミ・石炭液化・セメント・窯業の各工場、火力発電所、機械製作所、運輸事務所、車輛工
場、機関車工場等があり重工業地帯をなしていた。
我が母校は国内で一番早い頃にできた工業学校で、明治34年に第一回卒業生を出している。南満
洲鉄道(株)入社当時には30名余りの同窓生がおり、会社でも重要な地位にいられた。終戦時には80
名余りは在籍していたと思う。外地で身よりや縁者がいない状況だったので、同窓生といえば兄弟以
上の親近感を覚え、先輩宅に徒党を組んで集まり天下国家を論じたりした。また集まっている者の職
種も広範囲で多岐に亘っていたため、それぞれの技術を披露しあう良き勉強の場でもあった。新卒か
ら定年に近い年齢の方など年齢も職種もさまざまであった。思い悩むことがあれば相談に乗ってもら
い、先輩の生き様をみて自分の進む道の選択をした。私が入社した当時は、大馬力を要する機械は蒸
気機関が残っていて、電機に切り替わりつつあった。しかし日本メーカーでは出来ないので、外国製
であった。米国の GE、ウェスチングハウス、ドイツのシーメス、AEG 等が入っていた。その図面を
日本の三大電機メーカーに渡して製作させた時代である。大馬力を要する原動機の電機化の揺籃期で
あり故障も多かった、それだけに勉強するいい機会でもあった。特に電気ショベル、電気機関車はワ
ンマンコントロールであったので、自動制御の方式が電気では出来ない所は機械の機構方式を使って
機能していた、西露天掘の設備概要を挙げると…。
イ.鉱量及び品位
ロ.設
備
A.主 捲
可採量
1億3,200万トン
発熱量
6,800∼6,950カロリー
西スキップ捲−28トン積 3,000馬力 2台 リンケホフマン製
東スキップ捲−25トン積 1,500馬力 2台 シーメス製
その他部分捲−100HP・200HP 各1台、300HP 3台
B.電気ショベル
(頁岩用)200−B型
(頁岩用)120−B型
(頁岩用)103−C型
(採炭用) 50−B型
(採炭用) 30−B型
バケット容量3.83m3 4台(ビサイラス製2台、神戸製鋼製2台)
バケット容量3.06m3 14 台(ビザイラス製6台、神戸製鋼製8台)
蒸気ショベル
1台
13台 ビサイラス製
その他
C.エキスカベーターコンベア
D.穿孔機
撫順式
E.電気機関車
F.ダンプカー
ハ.就業人員
2台
6台、サイクロン及びキーストン式
18台
85トン型 50台 油母頁岩輸送用
50トン型
7台 採炭輸送用
25トン型
5台 採炭用
27m3積 450台、23m3積 20台、15m3積
G.露天掘排水設備
H.選炭設備
西選炭場
東選炭場
3,500m3/日
1,200馬力ポンプ 3台、460馬力ポンプ 3台
1,500馬力ポンプ 2台、900馬力ポンプ 2台
80トン/時 ピッキングベルト8台、80トン/時
50トン/時 ピッキングベルト2台、60トン/時
樋流水洗機2台
57台
その他ポンプ多数
レオラバー水洗機9台
レオラバー水洗機4台
約15,000人
以上が終戦当時の状況で、この様な環境の中で技術を学んでいった。以後油母頁岩を採掘する大型
の電気機関車の運転に7年、物動計画事故監査に3年、大型電気ショベルの業務に4年7ケ月従事し、
最後の4年7ケ月は西露天掘北工作係の電気班長を務めた。(日本の組織でいえば係長にあたる)日本
の資金を資源地満州に投入し、生産設備を新設。増強と生産に全知全能を傾け、ようやく生産が軌道
に乗った時に敗戦。同施設を放棄せねばならなかった。慙愧の極みである。
昭和7年の入社当時には16台だった85トン電気機関車が終戦時には50台。電気ショベル20
0−B型は2台が4台、120−B型は6台が14台になっていた。この他総ての施設が拡大、炭鉱・
製鉄・諸鉱山・製油・化学・電力・通信・鉄道・行政・商事・学校・研究所等、数え挙げればきりが
ないほどの投資がされていた。満洲を中心に北朝鮮、中国揚子江以北に投入された資金は膨大な額に
なる。そうした環境の中で体験し、知識を授かってきた。図らずも日本の敗戦によって引き揚げるこ
とになった私は、炭層の油母頁岩から油(オイルセール)を採る仕事をしていたので、兵役免除となり、
終戦引上げまでの14年7ケ月間、仕事一筋に生きてきた。
昭和21年11月21日、日本へ引き揚げ。当時は国内企業が混乱し、経済活動が不透明で安定し
た就職先も見つからない状況であったため、今更勤め人でもなからうと、自分自身で会社を興そうと
思い立ち今日に至っている。ここで思うことは【環境が人を作る】としみじみと思う。先輩諸氏より
色々の分野の仕事に携わった人から仕事を倣い、最高学府を出た多くの方々に接し、それによって己
の程度を知ることができる職場環境であった。それを自分自身がどれほど消化実行できたのだろうか
と思う今日この頃である。
従事した85屯型電気機関車及び電気ショベルについて述べたい。
入社は16名、中間幹部養成の目的で電気機関車整備工場主任(工場長)高木康夫氏(東大卒)
、藤田節
夫氏(南満高専卒)の両講師より一年間教育を受けた。教育終了後、私は機関手養成講師助手を務め、
年々軍隊を除隊して来る人を機関手として養成する教育にあたってきた。後には私が主役になって仕
事片手に約8年間、本職と兼務しながら講師を務め、ここで電気機関車について確固たる自信をつけ
た。
機関車は直流1200V、主電動機325馬力4台(計1300馬力)、コンプレッサー10馬力2
台、電動発電機15HP∼10kW、制御電源直流1200V を100V に、架線電圧が変わりモータ
ーの回転が変わっても発電機の電圧は定電圧を得られる方策が講じてあった。故障や消耗が多かった
のはハンタグラプの破損、摺動舟の磨耗、銅板不足の時代であったので、摺動舟上の銅帯2枚の間に
グリース層を作って減磨効果をあげていたが、銅帯の磨耗には頭を悩ませた。当時東北大学で三元磨
耗法と言って、鉛をグリースと共に使用したりもした。またブレーキ靴の減磨防止に鉛を部分的に埋
め込みもした。連結器内部の緩衝用のバネが折れて困った。バネ材が丸材を角材にして強度を上げる
こともした。コンプレッサー能力低下にも困った。空気の圧縮熱で入気弁や排気弁が空中の湿気とク
ランク軸の潤滑油と混合した物が熱で焼きつき動作を悪くし、入気量が減って、運転時間を長引かせ
圧縮空気不足で困った。主電動機の整流子の火花発生(フラッシュオーバー)にも困った。主電動機軸承
の油がモーターの回転により真空ができ、そこに軸承油を呼び込み整流子に吹付けて障害の原因とな
っていた。また機関車の索引力については色々の条件があるが、布設された路線の上では車輛1輛多
く引けるか否かは車輛8輛編成で32ケ列車も稼動している時だから大きな輸送力向上になる。それ
は制御器(コントローラー)でつかさどるモーターの起動抵抗を逓減する段階の選定である、ノッチの数
にもある、電動制動との関係もある。その現場に適した起動抵抗を抜く数値曲線(ノッチングカーブ)
を確立した。当時鉱石運搬用に広く85屯型凸形電気機関車が使われ、鞍山の製鉄所から15名、阜
新炭鉱から20名余りの機関手の養成も引き受けていた。
次に電気ショベルについて述べてみたい。
電気ショベルは交流3相、2200V、60Hzでケーブルで受電していた。200−B 型、自重2
00屯、ブーム長さ13m交流を始動回転力が強く、回転数変換が自由にできる直流に変換して使っ
ていた。ワードレオナード方式である。
電動発電機は一本の軸に交流同期電動機300KVA直流発電機、捲上用(ホイスト)60KW、旋回
用(スイング)40KW、デッパーの出し入れ用(スラスト)40KW、の4台が機毎の間には中間軸承が
あり各機の軸承には自動調心形ボール又はローラーベアリングが使用されていた、ドイツ製SKFを
使用していた。(注:日本は戦前のモーター発電機にボールベアリングは使用していなかった。ボール
やローラーベアリングを使うようになったのは戦後3年位経ってからである。)モーターは各発電機に
単独で電気的につながっていた。その容量はホイスト60HP(コントローラーで切替え本体の移動
用プロペリングと兼用で走行は戦車と同様、キャタピラーであった)スイング40HP、スラスト4
0HP、他に励磁機(電動発電機30HP、20KW)デッパー底板開閉用5HPの電動機がついていた。
この制御回路の特徴は発電機電圧を自由に調整する事によってモーターの出力を変える事ができた。
発電電圧は界磁電流である低い電流で調整できるので小さいコントローラーで大出力のモーターを制
御できる特徴がある、従ってホイスト、スイング、スラストの単独の発電機があり、コントローラー
は両手足踏みで3動作して操作していた。120−B型は自重120屯、ブーム長さ10m、電動発
電機は200HP、誘導電動機籠型、直流発電機、ホイスト40KW、スイング30KW、スラスト
30KW、エキサイター15KW、計5機直結、他にモーター、ホスト40HP、スイング30HP、
スラスト30HP、トリップ5HPが付属していた。
電気ショベルは故障個所が多くて枚挙に暇がないので一部を述べて止めたい。
入力ケーブルを本体のキャタピラーで踏みデットショート事故である、変電所の停電。短絡電流によ
る配電用架空線の振動による空中短絡、発電機やモーターの故障、振動による制御線被服の磨滅によ
る短絡、発電機・電動機の励磁方式が他励磁、自励磁の組み合わせになっていて、ホイスト、スイン
グ、スラストの三種のモーターに1つの励磁機から励磁しているので、各々は独立した制御器で操作
しているので、他機が動くはずがないのに他が動くことを引き起こしていた。それは励磁回路が網状
回路となり短絡状況によっては異状が起きる。その故障検出に頭を悩ませたものである。
電動機に供給する電圧が可変方式であるから各々別々の発電機が入ることになる。露天掘りであるか
ら底までは20数段に及び広域に散在するショベルの故障には現場に行くのに時間がかかり、故障の
複雑さに悩まされ、復旧に手間取り困らされた。岩山を掘るので無限大の力に抗じて掘削を進めるこ
とで歯車の歯が折れ、シャフトの捻れ切れ発電機やモーターの故障が頻発していた。そうした環境の
中で諸機械の運転、交直流各種の電動機や発電機の修理や制御の技術が身についていた。