世界プロレス150年史

第50回プロレス文化研究会レポート
2015年2月21日(土)八文字屋
世界プロレス150年史
1.報告 小林正幸さん(社会学者)「いま一度、プロレス史概説を試みる」
@南北戦争前
近代プロレスの起源は通常カーニバルであるとして、よってプロレスの本質はワークであるとされ
ることがある。しかし、それは単純な見方である。正確には、次の3つの流れが総合し、近代化された
スポーツによる産業となり、変容してきたのである。その3つの流れとは、⑴カーニバル、⑵退役軍人
を集めた興行、⑶酒場や集会場での賞金マッチである。カーニバルは前近代的な祝祭空間なのであり、
プロレスをこれにのみ回収することはできないし、近代プロレスのはじまりとされる南北戦争後は正
真正銘のスポーツとして発達してきたと考えられる。
中世ヨーロッパでは、レスリングは田舎の娯楽であり、正統な競技会があったわけではなく、気晴
らしとして楽しまれたのであり、付随して賭けの対象でもあった。ルネサンス期は、人気のある見る
(スペクテーター)スポーツとなり、貴族の前で御前試合が行われたりした。エンターテイメントと
してのプロレスのはじまりは、16世紀の英国に遡るとされ、サーカスの中で、アクロバットや喜劇と
一緒に催された。この頃、イギリス全土で軍事訓練に利用されるようにもなっている。上流階級にと
っては軍務に就くための準備であり、農民層にとっては娯楽であり、田舎で名をあげる手段となって
いた。
アメリカではニューイングランドに入植したピューリタンが持ち込んだが、レスリングは暴力的で
あり、有害とみなされており、控えめに行われる限り大目に見られるといった扱いであった。慣習的
には、レスリングは祝祭日の恒例行事であったり、労働者間の揉め事を収める手段であったり、また
は酒場で見物人から金をとってレスリングの試合が行われてはいた。レスリング自体は人気があった
が、暴力的であり、無学の者たちが行う品格の落ちる娯楽との位置づけが一般的であった。18世紀後
半から19世紀にかけては、ラフ・アンド・タンブルという武器の使用は禁止というルールで、目玉を
くり抜いてもOKという過激なジャンルがあったが、あまりに野蛮であるとして、すぐ廃れてしまった。
このジャンルの修正が、キャチ・アズ・キャッチ・キャンの基礎となる。
19世紀はじめには、身体健康増進が社会的に関心を集め、その流れでスポーツへの関心も高まって
いく。さらに、その流れが組織化されたプロスポーツの出現に拍車をかけた。1831年、初のスポーツ
専門誌「スピリット・オブ・ザ・タイム」創刊。レスリングをはじめ、野球、耐久競歩、競馬、ボク
シングを報じるようになる。この時代には八百長が横行しているが、レスリングは上質のものとみな
されている。1832年「スピリット・オブ・ザ・タイム」誌には、ニューヨークで行われたレスリング
の“模範試合”が報じられている。“模範試合”というのは競技会ではなく、真剣勝負を模した試合
を行うことによって、そのスポーツや選手を紹介し宣伝するために行われた。
この背景には、移民が入ってきて、民族スポーツとしてのレスリングが伝えられたことがあげられ
る。特にアイルランド移民のレスリングは荒っぽいと評判であり、人気があった。彼らがもたらした
スタイルが、スタンドもグラウンドもあるカラー・アンド・エルボーであり、パンチ禁止ではあった
が、グランドでのホールドを認める過激な競技であった。この中心がバーモント州南西部の農耕地帯
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であり、19世紀プロレス誕生の地とみなされることもある。特に教会が奨励し、祝祭日の催しで地元
のチャンピオンを決め、各地のチャンピオンが集まる大きなトーナメントの開催など活動が広がる。
1850頃には、ここで名のあるものたちはプロとして地方巡業し、生計を立てるものが出現してくる。
まさにプロ化が生じ、有名性によるプロスポーツの産業化が具体化していくはじまりである。と同時
にバーモントのひとたちが兵隊となり、北軍の野営地に広がり、帰還兵はこのスポーツを地元に伝え、
アメリカの広範な地域に広げていくのである。
@南北戦争の頃から(カラー・アンド・エルボーからグレコ・ローマン)
南北戦争後、人口増大・都市化・産業化 により都市で富裕な中流層が増大していく。中流層はスポ
ンサーや興行主に健全なスポーツとその場所の提供を要求するようになる。低賃金労働者もまた増加
し、彼らの中にスポーツで食べていくことを志すものが現れるようになる。
この時代、酒場はスポーツにとって重要な場所であった。酒場はスポーツの情報をやりとりするな
ど、労働者や中間層の共同性の拠点となる。つまり、孤立しがちな都市の中に連帯が生じ、彼らの関
心事の中心のひとつとしてスポーツが位置づけられていく。また、酒場で試合条件の交渉がなされた
り、おおきな酒場はレスリングやボクシングの試合会場にもなった。
1830年ごろ、ニューイングランドにアイルランド移民が入り、先に記した通り、カラー・アンド・
エルボー・スタイルを伝える。これが主流となり、南北戦争後のプロレスの原型となるわけである。
肩口だけの小さなジャケットを着て、一方の手で肩から襟元を、もう一方で肘をつかみ合うことから
始まるスタイルであり、ロックアップの原型でもある。南北戦争後、カーニバルでも取りいれられ、
それらレスラーにカラフルな名前が付いていたり、コスチュームが凝っていたりなど、見世物として
の工夫が味付けされていた。
カーニバルの強者には地域の力自慢が賞金を賭けて挑戦する。3 カウントのフォールを奪うか、15
分時間切れというルールで行われた。ここでフックという技術が使われたといわれ、またワークによ
って利益を守っていた。なお、現在のプロレスの 3 カウントフォールの原型がカラー・アンド・エル
ボーにあると思われる。
アメリカでのプロレスのはじまりは南北戦争(1861〜65)の終わり以降というのが定説である。軍
隊でレスリングをしていた退役軍人を集め、仲介人となる者がイベントを行ったことがはじまりであ
って、カーニバルは前近代的な興行としてみた方がいいと思われる。
試合は厳格なスポーツ競技として競技場、劇場、球場で行われるか、サーカスやお祭りのアトラク
ションとして行われていた。カーニバルはコンアート(騙し) といわれ、賭けの対象であることを利
用してサクラを使ったり、仲間を先に開催地に行かせ、彼に挑戦させるようにするなどの手法を使っ
て利益を上げていた。そして、カーニバルはレスラーが訓練する最高の場所とも考えられていた。そ
のため、プロレスラーはこのカーニバルの慣習が多く使われた。日本で相撲の慣習が使われたことと
似ていると思われる。特にそれは業界用語によく現れている。ベビーフェイス、ヒール、ジュース、
ジョブ、マークなどなど。
1860年代に、ニューヨーク(以下、NY)出身のジェームズ・マクラフリンが登場する。1867年、公式
記録として最古のプロレス・タイトルといわれるカラー・アンド・エルボー王座を獲得している。彼
はそれまでプロレスの中心にあったバーモント出身者に勝ち続け、名を挙げ、プロレスで大金を稼ぐ
ようになった第一人者である。彼の時代になると、一回の賞金で工場労働者の年収を超えるほどにな
る。非常に荒っぽく、大怪我や死亡者がいたとの報告もあったが、低賃金で苦労するより、身を投げ
だす覚悟で成功を志す者がプロレスに賭ける状況が具体化したというわけである。
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彼の時代からグレコ・ローマンが台頭する。時代的に筋肉信仰や健康意識の高まりがあり、グレコ
は筋肉自慢の大男の競技とみなされたため、人気が出てきたのである。と同時に、キャッチ・アズ・
キャッチ・キャンも台頭してきたが、このスタイルは荒っぽいランカシャー・スタイル、カラー・ア
ンド・エルボー、ラフ・アンド・タンブル、そして柔術の要素が組み合わさったものと理解される。
競技者の得意領域があるため、公平を期すため、これら3つ、あるいは2つの形式をミックスした試合
が行われるようにもなった。
そして、プロレスを全国規模にしたのが、”アメリカ・レスリングの父”ウィリアム・マルドゥー
ンであり、カーニバルの催しものを競技場のスポーツへと導いた人物と評される。スポーツ選手は禁
欲主義、健康増進運動の象徴と考えられ、マルドゥーンはその中心的人物であった。彼は NY の警察官
であり、スポーツ界の“真面目男”といわれ、250 ポンドの体躯を誇った。1880 年にシーバード・ボ
イヤーを破り、全米グレコ王者となり、名声を獲得。一座を結成、全米に巡業し、主に模範試合を行
いアピールする。1883 年にはグレコ・ローマン世界チャンピオンとなっている。1880 年の対プロフェ
ッサー・ウィリアム・ミラーでは 9 時間 35 分戦い引き分け。1881 年の対クレランス・ウィスラーで
は 約 7 時間戦い、
朝 4時まで試合が行われたとの記録が残っている。
多くのファンは帰宅してしまい、
退屈な時間であったようである。1889 年には対ソラキチ・マツダが行われている。パンチ・頭突き OK
の試合で無効試合となっている。
この頃、ヨーロッパのグレコ・チャンピオンたちが来米しマルドゥーンと対戦している。おおよそ
模範試合中心であったと思われる。当時プロスポーツでは八百長は日常茶飯事であったが、ちゃんと
した真剣勝負は有料入場者を多数集めて大金を稼ぐ時に当たり前のように行われていた。アスレチッ
ク・ショーで何度も同じ対戦がなされていることで、プロレスの正当性が揺らぐこともあった。ただ、
どうもその程度のことは寛容に受容されてもいて、
「プロレスは正真正銘のスポーツ」との評価であっ
た。アスレチック・ショーは通常 AT ショーと呼ばれており、各地を旅して稼ぐカーニバルの中に大抵
組み込まれていた見世物である。それはレスラーやボクサー、そして力自慢の曲芸師等が含まれた一
座によって行われていた。特にレスリングは 15 分の時間制限を設けたコンテストを行っていた。この
時代アスレチック・ショーは稼ぐための場所であり、賞金を取れる試合で負け続けていれば、実はプ
ロでいられないという強者でなければならないという現実もあった。
長時間の退屈な試合が多く、グレコの人気は落ち、キャッチ人気が出てくる。そこで時間制を取り
入れたりしたが、結局時間切れの結果が八百長との非難を浴びてしまう。マルドゥーンのあとを受け
たアーネスト・ローバーはヨーロッパのベック・オルセンに負け、ヨーロッパまでタイトル奪回に向
かうが失敗。しかし、帰国後タイトル奪還の主張を行い、これが嘘であると暴かれてしまう。また1901
年に小さい選手に負けるが「ポリス・ガゼット」が八百長と批判。ついにグレコの正当性は失墜して
しまう。
@キャッチの時代
1890 年代になると、真剣勝負は急激に減少する。理由は真剣勝負の大試合より、模範試合で回る巡
業の方が利益がよかったこと。もうひとつは、プロレスの組織的後ろ盾がないため、勝敗よりも儲け
を大事にする興行主に牛耳られるようになったことがあげられる。特に興行や巡業で生計を立てるプ
ロレスラーが増加していき、興行主、プロモーターはカーニバルをそのビジネスモデルとしていく。
ちょうどこの時代、グレコは退屈ということもあり、素早く多様な動きのあるキャッチ・アズ・キ
ャッチ・キャンが主流となっていき、グレコはアマチュアのレスリングと位置づけられていく。キャ
ッチ・アズ・キャッチ・キャンはランカシャー・スタイルのレスリング、ラフ・アンド・タンブル、
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柔術が組み合わされたスタイルであり、よって、
“なんでもあり”スタイルといわれるようになる。多
様なレスリングを組み合わせたスタイルであることが、多様な民族が組合わさったアメリカ国家をイ
メージさせ、アメリカ産のスポーツという意識を作り出し、アメリカ固有のレスリング形式と見られ
るようになる。実際の起源はイギリスで柔術の技術が加えられたものと思われる。
普通に競技も行われたが、ワークが中心となっていく。1905 年の「ポリス・ガゼット」紙では「プ
ロレスの試合の十中八九は事前に打ち合わせ」との報道がなされている。しかしながら、
「この試合は
明らかに公明正大」との報道がなされることもあり、真剣勝負も行われていた。第一次世界大戦頃に
は興行会社が手を結び、真剣勝負はほぼ見られなくなる。
有名なレスラーをあげておこう。エヴァン・ストラングラー・ルイスはサブミッションで地位を築
く。チョークが有名だが、実際は一部で禁止であった。試合は非常に荒く、徐々にラフ・アンド・タ
ンブルのような様相になることがよくあったという。しかし、危険な試合は忌避されるようになる。
なぜなら、同じプロレスラーという労働者意識をもつようになるからである。ちなみに 1893 年にアー
ネスト・ローバーにミックスルールで勝利する。ここがグレコ終焉の地点といっていいだろう。
次に出てくるのが、ファーマー・バーンズ。エヴァン・ストラングラー・ルイスに勝利し、チャン
ピオン(おそらくワーク)となる。もともとカーニバル・レスラーとの交流が深く、カーニバル、巡
業を行う。巡業に多くの弟子を参加させ選手育成を行ってもいる。その傑作がフランク・ゴッチであ
る。また、彼はいろんなスポーツ選手とレスリングを行い、勝ったら賞金を与えるとして、人寄せな
どの商才もあった。
そしてフランク・ゴッチの時代となる。アメリカン・プロレスで最初のスーパースターであり、”
比類なきチャンピオン“といわれた。巡業で来たバーンズらに歯が立たなかったが、バーンズが気に
入り、弟子入り。その後、アラスカの金鉱街の賭けレスリングで活躍した。彼の活躍は「ポリス・ガゼ
ット」紙にその後取り上げられ、大衆は彼の物語を共有するようにもなる。ライバルにはトム・ジェン
キンスがいたが、1906 年、彼を破り、名実とも世界チャンピオンとなる。ゴッチの得意技はステップ
オーバー・トーホールド、ジェンキンスはフェイス・ロックであった。非常に優れたレスラーである
と同時にショーマンで、国民的な有名性を獲得したが、業界内では劣るレスラーには無慈悲で野蛮で
あるとの悪評もあった。ゴッチと彼の取り巻きはこのビジネスのサイコロジーをよく理解しており、
興行の成功のためにあえて負けることもあった。
ゴッチに対峙するのがジョージ・ハッケンシュミットであり、ヨーロッパでトーナメントを制し、
敵なしの状況となり、アメリカに稼ぎにやってくる。1905年、ジェンキンスに勝利し、世界選手権者
を名乗り、アメリカでも有名になっていく。ゴッチとどちらが強いのかと評判になる。この対戦は新
大陸対旧大陸という見方を伴うようになっていく。ゴッチから何度も試合を要求したが、おそらくグ
レコが得意なハッケンシュミットはやりたくなかったのではないかと思われる。しかし、ヨーロッパ
での対戦相手もなく、アメリカを稼ぎ場所にしたいということもあり、またゴッチの挑発に腹を立て
ていたことから、当時破格の1万ドルのファイトマネーで承諾することになる。
1908年、シカゴのデクスターパーク・パビリオンで両雄の大一番が行われる。アメリカ的な喧嘩ス
タイルとヨーロッパ的なマナーのよいスタイルの対決、そしてファンはジェンキンスの雪辱というナ
ショナリズムも見ていたようである。しかしながら、2時間ほど試合をして、両者疲弊してしまい、つ
いにはハッケンシュミットがマットを降り勝手に試合を止めてしまう。結果、勝者ゴッチであった。
この試合はプロレス史で最も論争となった大一番である。ゴッチがオイルを塗っている、ルール外
の攻撃、噛みつき、不正な打撃など不正な戦術を使っていたと非難が生じる。多くのメディアで試合
のごたごた報道が続き、ゴッチ側は「マンチェスター・ニュース」で弁明する。当時黒人ボクサーの
ジャック・ジョンソンの強さに人種的偏見から、彼を悪役とみなす風潮が支配していたが、それと比
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して、白人であるゴッチは彼らの“白い希望の星”であった。このような背景をもとにゴッチの人気
は絶頂となり、巡業や模範試合で荒稼ぎする。ちなみにテーズによれば、この試合はシュートであっ
たという。
しかしながら、ゴッチは対戦相手不足に悩むことになる。そこでジャック・カーリーはハッケンシ
ュミットに目をつけ、アメリカに呼び巡業し雪辱戦をアピールさせる。「シカゴ・トリビューン」紙
などは再戦キャンペーンを展開する。
1911 年にシカゴ・コミスキー・パークで両雄は再戦することになったが、試合前ハッケンシュミッ
トが膝を怪我、八百長を企画するが、ゴッチがダブルクロスして、ファンにとって不満足な試合とな
ってしまう。結局、メディアが内情を報道し、八百長と叩いた結果、大衆の信頼は失墜してしまうこ
とになる。
1913年にゴッチは引退する。ジョー・ステッカー時代が到来するが、ビジネスは下降してしまう。
1917の対アール・キャドック戦で、3本目をステッカーは放棄してしまう。この結果が賭け事としての
信頼性を失わせ、ビジネスは下降し冬の時代となってしまう。ちなみに1916年には、ジョー・ステッ
カー対エド・ストラングラー・ルイスが行われ、5時間もの試合(レフェリーが止める)が行われてい
る。おそらくこの試合が真剣勝負として企画された最後のタイトル戦であったと思われる。
この時代のプロレスは、トーナメントなど競技会、賭け事の対象として行われる試合で強いと言わ
れる者達が有名性を獲得し、スポーツのビジネス化に組み込まれていく。その時、かれらはカーニバ
ルに入ったり、自ら巡業団を作り、各地を回りレスリングを仕事とし、大規模興行となるプロレスの
試合に参戦するという形を作り上げていた。その成功者の一番手がゴッチであったわけである。
@第一次大戦以降(ワークの時代、プロモーターの支配とプロモーター間の争い)
1920 年代に入ると、プロレスは沈滞し、いかがわしいスポーツとの評判で、一般の人々の関心外に
なってしまう。プロレス内に目を落とすと、ビッグ・フォー時代と呼ばれている。ビッグ・フォーと
はジャック・カーリー、トニー・ステッカー、 スタニスラウス・ズビスコ, アール・キャッドックで
ある。この関係ではステッカーとキャドックが対立していたため二人は対戦を回避し続け、両者共に
ズビスコ兄弟とよく試合していたようである。
この時代、レスリングは退屈な新鮮みのないイベントとみなされており、そこでプロレス改革が行
われる。ジャック・カーリーはプロレスの試合にカーニバル独自の考えをより組み込んでいく。彼は
レスラーではあるが、それ以上に商売人であった。プロレスは中央組織をもたず、長時間の真剣勝負
は退屈であり、レスラーは自主独立であったが、このありようを変えようとする。まずはプロモータ
ー間を連合し、試合はスピードあるプロダクトに、さらにプロレスラーをプロモーションが抱えると
いう新しい運営方法を考えだす。さらにプロモーター間でルール変更の合意を行い、時間制限、一本
勝負とし、さらに試合スケジュールの調整タイミングを計り、人気レスラーを投入、独立自尊のレス
ラーをプロモーター間が結束することでコントロールし、全面的にワークとして運営しやすいプロダ
クトにしたわけである。
このようなプロダクトの実態を「ベースボール・マガジン」誌が暴露するも、レスラーは気にして
も、プロモーターは気にせず、ワーク化を押し進める。プロレスの試合を競技者ではない商売人がい
いように利用していると批判の矢が放たれてもいた。
1917 年 12 月、NY でトーナメント戦を開催しチャンピオンを決める企画はレスラーよりプロモータ
ーが強くなる象徴的事例と考えられる。
ステッカーがチャンピオンにすることを要求する。ステッカーとキャドックの対立がまずあって、
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当初カーリーはキャドックをチャンピオンとする気でいたが、ステッカーが異議申し立てしたため、
キャドックは試合から降りてしまう。二人は試合をしたくなかったし、やればシュートになるか、ダ
ブルクロスを恐れなければならなかったからであろうか。結局ズビスコがチャンピオンになり、ステ
ッカーの意向、実力は軽視されてしまう。この経過はレスラーの意向ではなく、プロモーターの意向
が絶対となる象徴的出来事であった。この時代のハイライトはカーリーによる興行で、1920 年に マ
ジソン・スクエア・ガーデン(MSG)で行われたステッカー VS キャドックの世界ヘビー級王座統一戦
であり、ステッカーが勝利している。ちなみにワークと思われる。
ウィリアム・マルドゥーンをコミッショナーとしたニューヨーック州体育協会はボクシングとレス
リングの指導に乗り出す。試合形式や危険な決め技(ヘッドロック含む)を禁止、レスラーとプロモ
ーターをライスセンス制にした。この目的のひとつにカーリーの活動の制約があったようである。特
に MSG 利用が困難になってしまう。
この時代に最高の実力を持ちはじめたルイスはカーリーから離れ、新しい勢力を作り出すようにな
る。カーリーの力が衰えたところに現れた新勢力がゴールド・ダスト・トリオであり、彼らは成功す
る。ルイスはリング上のスターでありチャンピオン、ビリー・サンドーが経営とスカウトを、トーツ・
モントがブッカーとして力を付けていく。ルイスとサンドーの出会いはサンドーがルイスビルで行っ
た興行でトラブルが起こり、ユセフ・ハッサンとシュートでルイスが完勝。ここに新しいスターが誕
生する。またモントはファーマー・バーンズから紹介される。ここにビッグ・フォーの影響を考えず
にビジネスできる勢力が生み出される。そこにルイスの力量があったからでもある。20 年代半ばには
ルイスが頂点と業界内で認識されることになる。
モントがおこなったプロレス改革は試合を“ブック”に従うプロダクトにしたことである。彼は試
合をより楽しいもの、
娯楽化できるものにする必要があると考え、
試合のペースをスピードアップし、
新しいエキサイティングなムーブ、時間制限、場外カウントアウト、ドラマチックな結末となるよう
な“振り付けされた”動き・試合展開、頭突きによる引き分けや一方が優勢になり勝利一歩手前で時
間切れとなる“ブロードウェイ”など新しい方法を考えだした。プログラムと標準化された試合を取
り入れていったわけでる。プログラムとは挑戦者の価値が上がるような一連の試合を組むこと。標準
化された試合とは、場所を変えることによって、毎日同じような試合展開を行うことである。新しい
ムーブ、パフォーマンスをいつも作り出すのは大変であり、ルーティーン化した試合展開を行い、毎
日同様の試合を行うことによってドラマチックなパフォーマンスが洗練されるというわけである。こ
こにプロレスが単にスポーツであるというよりも、
また業界用語としてのワークという意味を超えて、
”
労働“になったとみなすことができるように思われる。
ここにいたって、プロレスは競技性をおおよそ後退させてしまう。まずカーリーがレスラーのレス
リングにおける力量とは別次元で、プロモーターの意向による勝敗の決定を制度化し、続いて、ゴー
ルド・ダスト・トリオが試合の内容をレスリングがもつ競技性ではなく、物語化された試合展開をパ
ターン化させ、プロレスを労働として自律させることになったのである。
2、フリーディスカッション
【マスコミの対応】
●読売新聞から「プロレスの始まり」についての取材を受けた。記者にプロレス史を語ったところ、
勘所はまったく無視された。世界のプロレスの始まりについて、記事では 19 世紀末~20 世紀初めと
なっていた。そんなことは一言も言っていないのに。ヨーロッパでグレコ・ローマンの全盛期ではあ
ったが。→ 『力道山をめぐる体験』を書いたことで、力道山没50年の際、共同通信、東京新聞の
取材を受け、共同の記者とは会いもした。力道山体験は対米コンプレックスの昇華にのみ回収できな
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い広がりをもつことを強調したが、結局出来上がった記事は対米コンプレックスの昇華論になってい
た。→ あらかじめ世間が理解する(できる)歴史の枠組みが岩盤のようにある。ワークやギミック
といった話は通用しない。→ 新聞社は自分たちが語りたいことを誰かに語らせることで紙面を構成
している。→ プロレスを表現するのに八百長という言葉は不適切と力説しても反映されない。
【レスリングとボクシングをめぐって】
●「フォックスキャッチャー」という映画には、アメリカ北部の富裕層にレスリングは下品という見
方があることが描かれていた。→ リー・トンプソン氏は、アメリカ人がレスリングやボクシングに
抱く感覚と、日本人が柔道や空手に抱く感覚は違う、と言っていた。アメリカ人にとって格闘技は単
に荒っぽい個人競技という感覚らしい。
→ 日本のように武道として神聖視する感覚はないのだろう。
トンプソン氏はスポーツ社会学の世界ですらレスリングを扱う際に荒っぽいイメージの写真が使われ
がちだとこぼしていた。→ トンプソン氏自身レスリングをやっていて下に見られると嘆いていた。
結局のところ、
アメリカ人の捉え方は、
単に身体を使った余暇活動という程度の位置づけなのだろう。
● 柔道には型があって先手なしという感じだが、レスリングやボクシングは先手必勝だ。両国の民
族性が関係しているのか。→血の問題ではなく、ジャンルの出自の問題だ。柔道は嘉納治五郎によっ
て教育と結び付けられて発展した。大道塾にもその傾向がある。アブダビ・コンバットも格闘技を教
育と関連させて高度化を図っている。→ アメリカには格闘技を教育と結び付ける発想はないのか。
→ 更生のために利用されるということはあるが。
● レスリングとボクシングはつながっていて、ボクシングはかつてほとんど八百長だった。→ ボ
クシングは 20 世紀以前暴力そのものと見なされていた。レスリングはそうでもなかった。クインズ
ベリー・ルールが導入されて近代化し、ルールが確立した。以前はベアナックルで、ラウンドも不明
確、頭突きもOKといった喧嘩まがいのものだった。近代化されて暴力性が減少し、社会的に受け入
れやすいものとなった。
【フォールとは】
● レジュメに「1904 年にジェンキンスが反則勝ち」とあるが、どういう反則なのか。→ この時代
の反則とは何か、よくわからない。 → 私はシュートの世界では3カウントはありえないと思って
いる。→ この試合が3カウントかどうかもわからない。着衣なので押さえ込みはありうる。You Tube
で確認できるステッカー対キャドックも3カウントをとっていないように思われるほどだ。→ 裸体
でも3カウントのフォールは可能だろう。国際プロレスでストロング小林に改名する前の小林省三が
イアン・キャンベルにクルス・フィックス(回転十字架固め)でフォールをとられたことがあったが、
通常のプロレスのようにダメージを与えてのフォール、あるいは瞬間の返し技のフォールでもなく、
同じ技を何回も繰り返して肩をつける技術によるフォールだった。未熟なレスラー相手だったら3カ
ウントのフォールは可能だと思う。
→ いつから3カウントのフォール制になったのかわからない。原型はカラー・アンド・エルボウだ
ろう。カラー・アンド・エルボウにはタックルも関節技もあった。→ フランク・ゴッチがスタニス
ラス・ズビスコに勝った試合は「4分の1秒フォール」と言われていて、試合前に握手してその手を
離さずにそのままフォールまで持っていき、わずか6秒で決着をつけた。
【グレコ・ローマンの語源とは】
● なぜレスリングに限って「グレコ・ローマン」という言い方をするのか。→ 「グレコ・ローマ
ン」はフランス人のジャン・エクスブロイヤが創始者で本来フレンチ・スタイルというところを 19
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世紀特有の古代回帰趣味から大げさに「グレコ・ローマン」と称した。→ 私が聞いているのは、建
築や絵画、文学の世界では、ギリシア・ローマと言うのに、レスリングだけなぜ「グレコ・ローマン」
と言うのかということだ。スペインの画家にエル・グレコがいるが。→ フランス人が始めたが、名
付け親はイタリア人だった。
【カーニバル・レスリング】
● S・ズビスコの弟のウラディック・ズビスコがカーニバル・レスラーに負けたというのを読んだ
ことがあるが、カーニバルの人は強かったのか。→ カーニバルにはレベルの高い人がいた。Hooker
でテーズが書いている。そのレスラーはフレッド・グラマイヤー。カーニバル・レスラーとしてキャ
リアがはじまっている。ウラディック・ズビスコと対戦。30分引き分けだが、グラマイヤーが圧倒
している。試合後、ウラディックはグラマイヤーを偉大なレスラーだと讃えるが、グラマイヤー曰く
「俺は偉大なレスラーじゃあないよ。あなたも偉大じゃあないけど」
。→ Hooker と流智美版テーズ
自伝は違う本だ。→ 格闘技は過去の記録がいい加減だが、Hooker も信用できるのか。→ つねに
複数の資料の照合が必要だ。→ 田鶴浜弘の本に、昭和初期にサーカス団が来日し、怪力男の中にウ
ラディック・ズビスコがいたという記述があった。→ 強いレスラーは必ずカーニバルに行って学ん
でいる。そこで興行の方法を学び、バーンストーマーズ(独自の巡業)を行う者が多かったと思われ
る。
● リオデジャネイロでは有名な 2 月のカーニバルに踊るダンサーが一流とされている。それとは別
にショー・パブで毎日カーニバルを見せる店がある。ダンサーはもちろんプロだが、2 月に踊る人の
方が格上である。カーニバル・レスラーとショー・ハウスのレスラーの力関係はわかりませんが。
【ローマ帝国とアメリカ合衆国】
● アメリカン・プロレスは万単位の観客動員に成功している。これはローマ帝国以来のことだ。人
民の憂さ晴らしに殴り合いを供する歴史というスケールで考えた場合、スポーツ社会学はルールの近
代化といった小さい問題にこだわっている印象がある。ワークがいつ始まったのかという問題はファ
ン的好奇心を呼び起こし、スポ社的枠組みに適う問題なのだろうが、ローマ帝国とアメリカ合衆国を
比較しての格闘技の人類史的意味を検討するような研究を望みたい。→ ヨーロッパのグレコの全盛
期でも万は動員できていない。→ 2000 年前に万単位を動員したローマ帝国はすごい。→ 『古代ロ
ーマの遊びとスポーツ』という本によると、レスラーは何かと守られていた存在で裏ルールも存在し
た、とある。昔のオリンピックは八百長がはびこっていた。→ ローマ帝国はゲルマン人との戦いに
明け暮れ、親族に戦士者がいるのは当たり前だった。そのストレスを発散するのに見世物が必要だっ
た。それでは、アメリカ合衆国のストレスは何なのか。→ 人種対立のストレスか。
【模範試合と長時間試合】
● 模範試合はエキシビジョンのことか。→ 柔道家でもいきなり本当の試合はしない。エキシビジ
ョンで本気のチョークスリーパーはしない。→ ムエタイでは、メインの前に型を披露する。ゆるや
かなテンポで進むが、殴るときは本気だ。
● 9 時間も試合をやるのは何か事情があったのか。→ オリンピックでも、1910 年代に 5 時間の試
合がある。時間制限がなかった。→ エンドレスの軟式野球もあった。→ ルイス対ステッカーも長
時間の試合があって、ルイスは「こんなことはやりたくない」とプロレスの改革を目指した。時間制
限があるのが近代スポーツだ。アマレスは昔マラソンのような競技であったが、今では 100 メートル
走のようになっている。レフェリーも昔は単に試合を裁定する人だった。
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【エンタテインメント発達史観】
● ヨシヒコの話が出たが、エンタメ発展史観は考えられるのか。ヨシヒコはひとつの到達点だ。→
棚橋とオカダの技のスムーズなやりとりは競技にすらみえてしまうときがある。→ その秩序を守る
ために、武藤敬司は東京ドーム(2015.1.4)に出場を希望していたが、新日本側に拒否された。→ ま
さにプロレスに芸術点を導入しようという発想に近い。
ブック上の技術の競い合いが存在する。
→ 昔
のレスラーとちがって棚橋やオカダは頭が良い。→ 中邑には文化人路線という選択肢もあるかも。
→ バラエティ番組の出演者は生の飯伏の試合を見て圧倒されていた。→ かつて猪木やテリーはホ
ウキとプロレスができると豪語していた。→ 桜庭対ヨシヒコに期待したいが。→ 創造力のある世
界だから可能なので、
桜庭に可能かもしれないが、
それがエンターテイメントになるかはわからない。
【プロレス女子論】
●プ女子はどこに惹かれるのか。→ プ女子は八百長がどうのこうのということは気にしていない。
八百長論を超えている。
プロレスのすべてを素直に受け入れている。
WWEはカミングアウトしたが、
日本はしていない。なのに、カミングアウトしたのと同じ状況が出現している。エンタメ力の強さか。
→ エンタメ受容力か。→ 言葉では説明できない。感性?→ この人気がいつまで続くのかという
不安はあるが、プ女子の存在は大きい。→ プ女子はちゃんとしたものを提供すれば、頭の中で勝手
に想像してくれる存在。→ プ女子が増えたら、それ目当ての男が増えてくる。→ プロレス好きの
女子学生は私の授業でいちばん成績がよかった。→ 観客も頭がよくなっている。
【かみあう試合】
● DDTの高木三四郎は、今勢いのあるのはDDTと新日本だけだと自負している。なぜ新日本に
勢いがあるのか問うたところ、かみあう試合をしているからチケットが出ているという回答だった。
その回答を聞いた高木はかみあう試合を作ろうと努力している。→ レスラーはよく「いい試合をし
たい」という。これはWWEともちがう。ザ・ロックはかつて「オレのプロレスは全日本でも通用す
るのかな」と不安を口走ったことがある。棚橋とオカダはクラシックな展開すらしていない。かつて
CIMAは 20~25 分のシングルをやっていたが、前半 10 分はクラシックな展開だった。中邑真輔は
ほとんど膝蹴りしかしていないのに、飯伏のポテンシャルをあそこまで引き上げた。これは凄いこと
ではないか。→ その点、内藤は力不足だ。→ プロレスの歴史はレスリングの解体過程だろうが、
そこから何かフレキシブルなものが生まれて自律運動を展開している。中邑対飯伏は格闘技的要素を
も導入して新しい地平を切り開いているようにもみえる。
■プロ文研ニュース
●ヘンリー・ミラーの自伝的小説『セクサス』にはアル・キャドックに関する描写があります。
「握力千人力の男」――当時キャドックはそう呼ばれていた。神のような体躯をもっていたが、
レスリングの試練に必要な、あの長時間つづけられる凄惨な組打ちには、すこしばかり線が細
すぎるように思えた。
ミラーには、プロ・レスリングは長時間行うものという認識があることがわかります。これでは、
興行としてこのジャンルが行き詰まってしまう。危機感を抱いた現役レスラー、プロモーターのグ
ループが 20 年代に「改革」を企て、
「プロレス」に生まれ変わったのです。
「ブック」といわれる
シナリオにもとづいて試合を行い、面白くしていく。これが主眼でした。それでも、まだレスリン
グ技術という枠組みまでは崩れませんでした。YouTube で 1920 年のジョー・ステッカー対アル・
キャドックを見ることができますが、現代人からみると、まるで退屈な試合です。
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●『ひとびとの精神史』第2巻『朝鮮の戦争-一九五〇年代』
(岩波書店)に「力道山-ヒーローと偏
見」を書いています。8 月 25 日出版予定です。興味のある方はぜひお読みください。
●7 月 18 日から「芦屋高校オープンカレッジ」という市民講座が始まります。芦屋市教育委会
との共催で、
来年 2 月まで毎月私がプロデュースします。
テーマは
「ジャズ文化と出会おう!」
です。毎回私の所属するバンド「呉川ウォークブリッジ」が出演し、ゲスト講師も呼んで演
奏付きの講義が展開します。もちろん、芦屋市民でなくとも参加できます。講師陣には井上
章一さんや小野原教子さんも予定しています。参加申し込みは [email protected] まで。
日時:7 月 18 日(土)
、8 月 29 日(土)
、9 月 19 日(土)
、10 月 11 日(日)
、11 月 21 日(土)
12 月 19 日(土)
、1 月 16 日(土)
、2 月 20 日(土)いずれも 14 時~15 時 30 分(開場 13 時 30 分)
場所:あしかび会館(芦屋高校向かい。JR芦屋より南に徒歩 10 分、阪神芦屋より東へ徒歩 8 分)
●恥ずかしながら、小生のプロモーション・ビデオができました。ちょっとした縁から「面白いこと
をしている大人」を探していた神戸芸術工科大学の学生で映像作家を目指しているM君の眼鏡に適っ
たもの。ジャズバーと、画廊を兼ねた喫茶店で撮影しました。5 分 44 秒の力作です。YouTube で「岡
村正史」か、あるいは「antiMOVIE」で検索するとヒットします。ご覧ください。
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(岡村正史)