啓蒙思潮事典

関東学院大学文学部 紀要 第111号(2007)
ヴェルナー・シュナイダース編
啓蒙思潮事典
佐 藤 茂 樹 訳
要 旨:
本稿は、ヴェルナー・シュナイダース編『啓蒙思潮事典―ドイツおよびヨー
: Lexikon der Aufklärung―Deutschland
ロッパ―』
(Werner Schneiders(Hrsg.)
und Europa― München 1995)の抄訳である。原著の体裁は、編纂者による序
文・導入部小論を含む462ページ、見出し語は240項目に及び、思想・制度・社
会事情…等々の各領域に渉る啓蒙の重要概念を縦横に網羅している。この事典
を特色付けているのは、啓蒙とはひとつの社会的プロセスである、という理解
である。その前提に立って、各事項の記述は個別的でありながらも、啓蒙とい
う時代の生の全体像の把握に寄与している。
この度訳出した箇所は、原著の221ページから298ページで、見出し語の項目
にして〈コスモポリティズム〉から〈パリ〉までに当たる。この選択は、単に
外的な事情によるものだが、それでもこの事典の概要を垣間見るには充分な項
目内容を含んでいると考える。
キーワード:
18世紀、啓蒙、文化史、思想史、制度史、概念史
凡例
*見出し語の配列は、原著のままにアルファベット順にとどめてある。
*訳文中の外国語ゴチック文字は、原著ではドイツ語に添えられた各国語のタ
ームならびに書名である。
*訳文中の日本語ゴチック文字は、原著ではイタリックで印刷されたドイツ語
のタームである。
*訳文中の〈 〉で括られた語もしくは文は、原著では《 》に括られた語も
しくは文である。
*訳文中の(
)で括られた語もしくは文は、原著でも(
)に括られた語も
しくは文である。
*訳文中の【独】【伊】等は、訳者による補足である。
*→は、この事典内に独立した見出し語のある参照項目の指示を表す。
*各項目の記述後尾のカッコ内は、その項目の執筆者を表す。
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ヴェルナー・シュナイダース編 啓蒙思潮事典
コスモポリティズム(世界市民主義)
Kosmopolitismus
啓蒙思想と世界市民主義は、密接に結びついている。世界市民 Weltbürger
という語の所在はすでに1701年には証言されているが、博愛主義者
Menschenfreund や、1750年以降にはフランス語の影響でコスモポリート
Kosmopolit も同義語として用いられている。市民的コスモポリティズムの
前提条件は、
(自然法的)普遍主義であった。それによると、人間はどこで
もいかなる時代にも平等ということである。ウェストファリア条約によっ
て強まった諸邦分立主義は、18世紀前半には地域的に限定された道徳的な
愛国主義に到ったが、コスモポリティズムはこの欠落を補うのに不可欠な
ものと見なされた。それゆえ初期の啓蒙思想家の中には、世界全体を祖国、
人類全体を同胞と見なすものもいた。旅行や旅行記は精神的な視野の拡大
に不可欠な情報をもたらし、異国の制度や習俗との比較を通じて愛国主義
者の民族至上主義の克服を容易にした。博愛主義者やフリーメイソンは、
ヨーロッパ・コスモポリティズム擁護の発言を行った。ヴィーラントにと
っては、世界市民(例えば、ディオゲネス)は精神的にも物質的にも自立
した存在であった。気候・言語・習俗・制度といった〈偶然的な相違〉に
とらわれず、世界市民は苦境にある人には誰にでも手を差し伸べるべしと
された。先入観にとらわれず、世界市民は人間の果たすべき真の役割を実
現するはずであったが、それを果たしたものは極少数にとどまった。
七年戦争の結果、愛国主義とコスモポリティズムの関係は、問題をはら
んだものとなった。愛国的になればなるほど、世界市民であり続けること
は難しくなったのである。ヘルダーは、同時代の民族至上主義的立場を批
判したにもかかわらず、ドイツ人は〈祖国を持たない〉が世界市民である、
と嘲笑し、彼の弟子たちは、高貴な愛国者に対立するのは臆病で恩知らず
な世界市民であるとした(シューバルト)。レッシングは『賢者ナータン』
Natan der Weise の結末で世界市民的同胞主義の一例を示し、ヴィーラント
は急進的すぎて啓蒙思想と〈世界市民〉に対する権力者の裁判沙汰を招い
た〈似非世界市民〉の撲滅に努めた。こうした沙汰は、バイエルン選帝侯
カール・テオドールが、1784年、啓明修道会を廃止し、全ドイツ規模の論
争を惹き起こしたときにも生じた。〈世界市民共和国〉を樹立するために
〈宗教的・政治的諸情勢〉と絶縁しようとした〈世界市民修道会〉に対する
E. A. フォン・ゲヒハウゼンの攻撃もこの流れの出来事である。ヴィーラン
トも啓明主義者たちに似非世界市民の烙印を押しはしたが、転覆ではなく、
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持続的な啓蒙によって人類の完成に携わる、というコスモポリティズムの
真の原理への喚起を怠らなかった。革命の支持者と対立者の間の抗争を通
じて、愛国者とコスモポリタンの間の論争も新たな現実との密接な関わり
を持つに到り、
〈反動主義者〉は祖国を、
〈自由主義者〉は人類を擁護した。
ツァハリアス・ベッカーの論は、それに対して、世界市民は「同時に愛国
者であらねばならない。というのも、愛国者は世界市民としての役割をど
こかで果たさねばならないからだ」というものであった。A. G. フォン・ハ
ーレムが、ドイツ人は「ドイツという祖国」を持たないのだから「いずれ
かの一国民以上に世界市民」であると強調したことは、理由のないことで
はない。確かに、コスモポリティズムはドイツ啓蒙思想の中で重要な役割
を演じはした。しかし、フランスとの著しい違いは、後者は1750年以降、
現実的な対案を提示して色恋に明け暮れる貴族社会とブルボン家の専制政
治の両者の問題点を批判的に明るみに出した点にある。フランスでも馴染
みの愛国主義とコスモポリティズムとの対決を度外視すれば、コスモポリ
ティズムはドイツではとりわけ道徳的な役割を演じたのである。
(ゴンティ
エ=ルイ・フィンク)
文献:U. Bitterli: Die〈Wilden〉und die〈Zivilisierten〉
, Die europäischüberseeische Begegnung 1976. G.-L. Fink: Le cosmopolitisme,
Rêve et réalité au siècle des lumières dans l’
optique du dialogue franco-allemand; in: W. Schneiders(Hg.)
: Aufklärung als
Mission 1933. G.-L. Fink: Kosmopolitismus-PatriotismusXenophobie, Eine französisch-deutsche Debatte im Revolutionsjahrzehnt; in: O. Gutjahr u.a.(Hg.): Gesellige Vernunft, Zur
Kultur der literarischen Aufklärung, Festschrift für Wolfram
Mauser 1993. A. Horstmann: Kosmopolit, Kosmopolitismus; in:
Histor. Wörterbuch d. Philos. Bd. 4, 1976.
→ 愛国主義 Patriotismus
戦争
Krieg
啓蒙の時代が始まるまでに、戦争一般と特にキリスト教徒間の戦争に関
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しては、様々なことが明らかにされてきた。すなわち、中世の議論全体を
支配する戦争と義――戦争とは、原則的に義をめぐる争いである――の関
連が時代遅れになり、戦争の〈ユスティティア(正義の女神)
〉をめぐる根
本問題がそれに伴って衝撃力を失ったこと、戦争遂行の権限が統治権の担
い手、つまり全権 summa potestas の所持者に限定されたこと、そして軍事
的力を行使する〈専制的支配者〉の管轄権が戦争それ自体と同様に疑問視
されなくなったこと、がそれである。全面的な受容がとりわけドイツ帝国
においては19世紀への転換期以前であったとしても、国家間の関係の文脈
での理論的な戦争研究は、18世紀初頭にはトマス・ホッブスの『リヴァイ
ヤサン』Leviathan の影響下にあった。その書が広く喝采を博したのは、絶
対的な平和の国内空間と、国家間の領域にかろうじて一機能だけが割り当
てられた戦争区域とを明確に区別した点であった。それに比べてはるかに
批判的な評価を得たのは、国家間では原理的に戦争が自然の状態である
〈bellum omnim contra omnes〉というホッブスの前提であった。
18世紀のドイツの議論の中心は――旧来の議論に則った場合は――戦争
を双方的に〈合法〉と位置づけるためには、どのような国際法上の基準が
満たされていなければならないか、という問題であった。しかしその後、
フーゴ・グロティウスの画期的な著作(
『戦争と平和の法』De iure belli ac
pacis 1621)に伴って、とりわけ戦争の規制、すなわち多かれ少なかれ拘
束力をもつ戦争法規の作成が議論の的となった。さらに、思考のもう一方
の引綱も力強さを増し、国家間の戦争とその恒久性を啓蒙思想の見地から
批判した。そうした著述家たちは、国家的絶対主義と、社会的紛争をラデ
ィカルに収拾すると同時にそれから目を転じるこの主義の傾向の中に一連
の国家間戦争本来の原因を見ていた。国内的非平和状態のベクトルの和と
しての国家間戦争は、こうして、戦争を縮小する(戦争それ自体は、政治
の手段として依然として疑問視されなかった)ためには、国家は変革され
なければならないというテーゼに到った。18世紀の多くの戦争が、実際に
は主として君主の野心に、獲得すべき〈栄光〉という狂躁に基づいており
(クーニッシュ)、構造的な必然性から生じることはまれであっただけに、
こうした姿勢は、1795年のカントの平和論出版まで、強まる一方であった。
モンテスキューの論に伴い、君主制と征服戦争が同等視されることも珍し
くなくなる一方で、共和制の政体には平和的なイメージが増した。しかし
ながら、原理的な絶対主義批判や、それに伴う戦争批判は、過大評価され
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てはならない。それは、フランスでさえもけっして啓蒙思想家の論究の中
心ではなかったのである。ヴォルテールでさえ、例えばプロイセンの皇太
子フリードリヒ二世に、戦争を最高の生の充足の表現と見る考えを吹き込
んだのであった。
戦争とその前提となる軍事が〈国家濃密化〉の本質的な動機であり、行
政的・経済的な近代化のはずみ車であったことは、それにもかかわらず異
論の余地がない。実際に、名誉欲に由来する戦争や、その時代特有の、制
度に起因する王位継承戦争と並んで、貿易や植民地をめぐる紛争に与えら
れる重要度が増す一方で、宗派その他の〈イデオロギー的〉理由に由来す
る戦争は、ほぼ完全に姿を消した。もしくは、せいぜい悲壮ぶってそうし
た称号を冠して行われたにすぎない。ドイツでも、一般の人々の意識にと
って後々まで影響力を有していたのは、アメリカ独立戦争では自由と人権
の要請の下でその時代の最強の軍事力を屈服させるのに成功したというこ
となのである。
(ハインツ・ドゥヒハルト)
文献:W. Janssen: Art. Krieg; in: Gesch. Grundbegriffe Bd.3, 1982. J.
Kunisch: La guerre−c’
est moi! Zum Problem der Staatenkonflikte im Zeitalter des Absolutismus; in: Zeitschr. f. histor.
Forschung Bd. 14, 1987.
→ 平和 Friede
批判
Kritik
啓蒙末期に、カントは18世紀を〈まさに批判の時代〉と呼んだ。こう呼
ぶことで同時に、自分自身の批判哲学を啓蒙思想の中心的意図の実現であ
ると表現したのである。とはいえ、書名として批判という言葉に行き着い
たのは長い逡巡の末であり、批判は彼の哲学の文脈では、本来、境界設定
を意味するに過ぎなかった。この言葉によって彼は、啓蒙思想が批判であ
るというある種のメタ解釈に、ならびにこの批判の起源が芸術もしくは政
治にあるとする一般の推測に加勢した。言葉のもっとも広い意味で常に批
判が存在してきたのは言うまでもないが、事実上、批判という言葉は起源
的にはとりわけ哲学的・文献学的意味を有していた。この言葉は、形容詞
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kritikos ないしは criticus から派生して名詞 krisis ないしは crisis(断定)に
なり、おそらくは ars critica を経て、新たな名詞になった。しかもまず最初
は、フランス語においてこうした変化が生じたらしい。この ars critica は、
一方では、ars judicandi として論理学の一部であり、他方では、テクストを
(歴史的・文法的・美学的等々に)評価する術である。この後者の意味にお
いて(前者と様々に交差するのだが)
、批判はとりわけテクストの(例えば、
成立の観点で)歴史的・批判的評価であり、他方では、前提とされる規範
に従った美学的評価である。そしてこれは、後には単に文献(literary critisism)にとどまらないものになる。とはいえ、テクスト批判・芸術批評と
しての批判の経歴が始まるのはようやく近代初期になってのことであり、
ルネッサンスの人文主義における古代テクストへの再評価および宗教改革
や対抗宗教改革時代の信頼できる聖書テクストの探索と軌を一にしている。
まずこの意味で、すでにライプニッツが同時代を批判の時代と呼んでいる。
次にテクスト批判から事項批判への概念の転用が考えられ、後の『百科全
書』Enzyklopädie の例に見るように、現に行われることもあったものの、
批判という言葉は、この意味では18世紀には何の役割も演じていないに等
しい。その代わりに多くの人々が用いたのは、検証 Prüfung、検閲 Zensur
もしくは非難 Tadel であり、その一方で、芸術批評家は概して芸術審判家
Kunstrichter と呼ばれた。その際に注目すべきことは、今日批判という言
葉の占める場所がもともとは今日では廃語になったふたつの言葉によって
も占められていたことである。ひとつは折衷 Eklektik(選択 Auswahl の肯定
的な意味での)で、特に様々の審判の批判的比較考慮を意味する。もうひ
とつは理性的懐疑 vernünftiger Zweifel で、デカルトの全体的懐疑に比べ
て〈理性的〉検証へと緩和された懐疑である。その上、すでに啓蒙初期に
理性的懐疑が位置していた場所は、まさにカントもその批判ないしは批判
哲学を据えようと欲したその場所、要するに独断論と懐疑論の間なのであ
った。カント以後ようやく(そしてカントと対立して)
、徐々に批判の近代
的・普遍的・否定的な意味ができあがったのである。
(ヴェルナー・シュナ
イダース)
文献:M. Fontius: Critique; in R.Reichardt u.a.(Hg.): Handbuch politisch-sozialer Grundbegriffe in Frankreich 1680-1820, Heft 5,
1986. R. Koselleck: Kritik und Krise 1959. W. Schneiders:
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Vernünftiger Zweifel und wahre Eklektik, Zur Entstehung des
modernen Kritikbegriffs; in: Studia Leibnitiana 17, 1985.
→ 折衷主義 Eklektik、判断力 Urteilskraft
文化
Kultur
文化を表すドイツ語の借用語 Kultur は、英語ないしはフランス語の新造
語〈civilisation〉と同様に、啓蒙が進む中で新たな世界関係と世界理解の
生まれたことを告げている。この概念の守備範囲は漠然としており、それ
によって新たな公共圏で効果的な社会広がりをも獲得している。ラテン語
の cultus agri ないしは cultura agri と結びついている畑の手入れや家畜の世
話のイメージは、古典ラテン語では様々な領域に転用される元となってい
る。
〈精神の育成〉というイメージは、近代初期(例えば、ベーコンの場合)
には、認識や自分の力と方法の開発への人間の義務という意味で、新らた
な評価を獲得している。
学術語であるラテン語の目立たない語から近代的・国語的概念へと発展
する中で、様々な段階が形成される。サムエル・プーフェンドルフの場合、
この語が表すのは自然法と啓蒙の連関である。ここでは、社会と歴史の体
系的な考察の内にあって、
〈自然状態〉を越え出ようとする人間の努力を表
す言葉として定着するのである。〈cultura〉は、彼の場合、肯定的に評価
され、すでに 2 格の付加語を伴わずに用いられることもある。文明的・技
術的な諸能力の習得ならびに発現を言い表すことによって、この語は自然
法論の内部では労働、モラルおよび公共性の意味を獲得する。ドイツ語と
しては、1700年頃にはすでにクリスティアン・ヴァイゼやライプニッツの
使用が見受けられる。しかし、より広範な普及を見せるのは、官房学者た
ち(例えば、ハインリヒ・ゴットリープ・フォン・ユスティ)が社会一般
の安寧の向上に対する絶対主義国家の義務について思案し、その際に学者
よりは(国語で)領邦国家の官吏に意見を求めて以来のことである。この
語は、精神の教育・作法の穏和化・学問や芸術の育成・土地の手入れ・商
業や産業の発達が論じられる場合、機能上の意味で用いられることがよく
ある。領邦国家の体系的な改善に方向を合わされることで、文化は、新た
な世界関係を指し示してはいるものの、まだ省察を要する世界理解には達
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ヴェルナー・シュナイダース編 啓蒙思潮事典
していない。通常、明らかなのは、この語の対象なのである。
文化は、こうして近代の運動概念として18世紀後半に成立する。それぞ
れの国語によって名称が異なるにもかかわらず、この概念は西ヨーロッパ
共通の知的問題状況に関わっている。フランス語ないしは英語の civilisation 同様に、この概念は自然・自分自身・他者に対する人間の活動総体を
包括している。文化は、世俗化し、市民公衆における議論の活力に促され
て、新たな複合的意味内容を獲得し、意味連関を拡大する。啓蒙・歴史・
進歩・国家・教育もしくは教養といった他の概念と結びつくことで、文化
には結果やプロセスや目標イメージを表現することが可能となる。文化は、
人間の課題、その社会と歴史の課題の新たなイメージを指し示す。この概
念の持つ意味の幅を証言しているのは、〈主観的〉文化と〈客観的〉文化、
〈精神的〉、〈肉体的〉、〈美的〉、〈道徳的〉、〈経済的〉、〈実践的〉、〈技術的〉
文化といった概念内の細分化である。もしくは〈精神文化〉
(ガルヴ)
、
〈文
化史〉
(D. イェーニッシュ)
、
〈国民文化〉
(ヘルダー)といった複合語であ
る。F . ニコライにとって、〈文化と啓蒙〉は「多用されながらも、概念が
ふさわしく規定されずにいる」言葉である。まさにこの不明確さゆえに
――通俗哲学の成果計算に促されもして――新たな公衆の間で〈真〉と〈偽〉
の文化の諸要素、その程度、その推進力と目標が論議されるのである。啓
蒙の幅広い文化概念に伴って、市民の保護観察領域が(絶対主義的繁栄論・
支配論から離れて)可能な進歩の保証人として現れた。とはいえ、この文
化概念は、新人文主義とドイツ観念論哲学によって、決定的な、社会史的
に影響力も大きい価値の引き下げを被る。自分自身を完成する道徳的な人
間という新人文主義の観念は、今や厳密に芸術・学問・言語に限定される
文化に媒介されて全体的な理念となる。そして、それと結びついているの
が、啓蒙の文化概念が肯定的評価内実とした実践的な物事を過小評価する
ことなのである。(ゲオルク・ボレンベック)
文献:G. Bollenbeck:《Bildung und Kultur》, Glanz und Elend eines
deutschen Deutungsmusters 1994. J. Fisch: Zivilisation; in:
Gesch. Grundbegriffe Bd. 7, 1992.
→ 自然 Natur
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美術 Kunst
ヨーロッパ啓蒙の歴史にドイツ美術が参入するのは、きわめて遅い。し
かもルーペで探して、たいていは目を凝らさなければならない。ドイツ美術
は、12折版の小さな年鑑や著作の挿絵の形で、歴史や物語を補助的に註解
してきたのである。このジャンルは、ほとんどもっぱらダニエル・コドヴ
ィエツキとその模倣者たちの名と結びついている。啓蒙思想と結びつける
ことができるその他の一流のドイツ美術は、ほとんどすべて――肖像画に
おける例外(アントン・グラフ)を度外視すると――ドイツ領土ではなく、
主にローマで、まれにはパリで生まれている。この流れは、アントン・ラ
ファエル・メングスからヴィルヘルム・ティシュバインを経てアスムス・
ヤーコプ・カルステンスとヨーゼフ・アントン・コッホに及んでいる。そ
して建築家も、ローマやパリで修行を積んでいる。これは、もちろんドイツ
の小国分裂状態と首都の欠如のせいではある。しかし、局地的啓蒙絶対主
義は美術革新に努め、たいていは芸術院を、少なくともデッサン学校を再
編したり新設したりした。芸術院の数は、18世紀の後半に著しく増加した
が、以前より水準の高い美術作品を結実させることは少なかった。宮廷美
術は、相変わらずフランスの模範に従うばかりで、都市的・市民的美術は
兆しが見えるにすぎなかった。17世紀ネーデルランドの伝統に連なる風景
画が蒐集され、社会生活の記録として肖像画の依頼が行われた。特徴的な
ことは、明白に啓蒙思想の基本方針に従った肖像画蒐集が、ハルバーシュ
タットのグライム友愛神殿、ベルリンの出版業者フリードリヒ・ニコライ
あるいはヴェルリッツ城図書館に見るように、一方では、文筆家もしくは
啓蒙領主の努力に負っていることであり、他方では、質的にはむしろ慎ま
しいものにとどまったことである。その魅力は、基本方針にあるのである。
同様に特徴的なことは、18世紀の(全ヨーロッパへの影響の点でも)も
っとも重要であるかも知れないドイツ啓蒙思想の美術作品が、同時代の油
彩歴史画(30×41cm)の版画再製であることである。ダニエル・コドヴィ
エツキの『カラスの家族との別れ』Abschied des Calas von seiner Familie
がそれで、1765年に描かれ、1767年にエッチングが作られた。コドヴィエ
ツキは、宗教的理由から誤って子殺しの嫌疑を掛けられ、ヨーロッパで最
後に車刑に処せられたトゥールーズの織物商人の事件をもとに、サミュエ
ル・リチャードソン調のお涙頂戴ものを制作し、大変な成功を収めている。
リチャードソンには、他のイギリスやフランスの同時代の詩人たちに対し
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ヴェルナー・シュナイダース編 啓蒙思潮事典
てと同様、挿絵を制作したこともあった。彼が挿絵を制作した一連のドイ
ツ作家たちを見ると、レッシング、ズルツァー、ニコライ、ビュルガー、
ヴィーラント、ゲレルト、グライム、ゲーテ、シラーに到るまでの、もっ
とも重要な啓蒙思想家をリスト・アップした観がある。バーゼドー、ザル
ツマン、カンペ、ペスタロッツィといった啓蒙思想の中心的な博愛主義的
教育者の著作にも、数多くの挿絵を添えた。バーゼドーの『初級入門書』
Elementarwerk には、「人間知と人間愛の促進のために」という独特の副
題を持つラヴァーターの『観相学的断章』Physiognomische Fragmente
同様、百科事典風に図版が添えられている。コドヴィエツキは、18世紀に
はドイツのホガースと呼ばれた。グローズをフランスのホガース、ロンギ
をイタリアのホガースの肩書きで呼んだのに等しい。ホガースは、アディ
スンやスティールの「道徳週刊誌」Morarische Wochenschriften やロッ
クの伝統に連なる風刺的な〈履歴書〉によって、市民道徳理解のための図
像目録を供給した。彼の名で呼ぶことは、コドヴィエツキのモティーフ上
の手本が〈モダーン・モラル・サブジェクト〉の偉大なイギリス人発案者
であることを人々が正しく見取っていた証左である。とはいえ、風刺はコ
ドヴィエツキの意に沿うものではなかった。
まったく異なった観を呈するのが、イタリア在住のドイツ古典主義芸術
家の美術である。彼らがかならずしも明白には啓蒙思想の思考伝統に属さ
ないことは、道徳教育的観点よりはむしろ彼らの歴史観や美学によって明
らかである。第一世代(とりわけメングスとティシュバイン)は、古典古
代への感激に負うところが多い。メングスの場合は、とりわけヴィンケル
マンとの交友や枢機卿アレッサンドロ・アルバーニのためのヴィラ・アル
バーニにおけるもはやバロック的・幻想的ではない天井画『パルナス』Der
Parnaß(1761)の仕事を通してであり、ティシュバインの場合は、ナポリ
宮廷での活動や、特にウィリアム・ハミルトン卿の膨大なギリシア壷コレ
クションための挿絵(1791)を通してである。これは、ヨーロッパのデッ
サン・モードの前提のひとつに数えられる。ポンペイやヘルクラネウム
(1757以降)の発掘品の複製によって、ポンペイ壁画様式はすでに拘束力を
持つ装飾様式としての地歩を固めていたが、これがナポリからドイツに到
来し、ワイマールからミュンヘンのレオ・フォン・クレンツェに到るまで
広範な影響を及ぼし続けた。すでにそれ以前に、ティシュバインはローマ
で絵画『コンラーディン・フォン・シュヴァーベン』Konradin von
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Schwaben(1784)によって、ラヴァーターやボードマーの影響の下に愛
国的・中世的ドイツ史のテーマを取り上げていた。これに匹敵するものは
ドイツ領土では皆無に等しく、ベルリンのヨーハン・ベルンハルト・ロー
デの(わずかに先行する)歴史版画が挙げられるくらいだった。ティシュ
バインにとって、この絵は例外にとどまり、古典主義的な形式が以後もっ
ぱら中心をなした。ティシュバインとイギリス人フラクスマンによってイ
タリアで形成された輪郭銅版画の理想に多くを負っているのは、18世紀末
では、とりわけアスムス・ヤーコプ・カルステンスである。極端な様式化
によって古典的な理想は異化された姿を取り、現実と過去の理想との越え
難い溝が問題として観察者に引き渡されるのである。この手法は、ダヴィ
ドやゴヤのような画家の同時的手法と同様、歴史化と美学化を一緒に成し
遂げる。どちらも、啓蒙的世俗化の結果とも見なすことができる。
とはいえ、留意すべきことは、本来的な啓蒙思想の美術伝統はドイツに
は存在しないことである。建築においても同様である。18世紀の70年代に
は、多くの場所で、南ドイツの教会美術においてさえも、具象性の厳格さ
を増した擬古典主義による幻想的ロココ伝統との徹底的な断絶が確認され
はするが、これはけっして綱領的に啓蒙思想的なわけではない。単発的な
外国の影響は存在する。例えば、18世紀末、ホーエンローエッシェンに郊
外が造成されたが、これは重農主義的経済観に関連してフランスの革命建
築を転用したはしりである。あるいは、フリードリヒ・ジリーのベルリン
伝統はフランス仕込みだが、ここにはワイマールの先鋭的な擬古典主義が
根を下ろしている(ヨーハン・アウグスト・アーレンス、ヨーハン・ハイン
リヒ・ゲンツ)
。同様の事情は、カールスルーエのフリードリヒ・ヴァイン
ブレンナーあるいはヴュルツブルクのペーター・シュペートにも見られる。
ふたりとも大公付きの職にあり、個々の処理に革新性は認められるにせよ、
結局は体制順応的な建築を供給している。そして、園芸においても、啓蒙
思想が直接の基礎を成しているとは言いがたい。確かに、遅くともクリス
ティアン・カイ・ローレンツ・ヒルシュフェルトの五巻本の『園芸の理論』
Theorie der Gartenkunst(1779−85)によってイギリス庭園の流行が始ま
り、それが市民公園や民衆公園の成立に繋がることは疑いない。しかし、
宮廷的なドイツのイギリス庭園は、イギリスにおけるより政治的自由思想
に負うところははるかに少なく、むしろ感傷的な自己経験による(道徳的
にも)浄化のイメージに基づいているのである。
(ヴェルナー・ブッシュ)
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ヴェルナー・シュナイダース編 啓蒙思潮事典
文献:F. Büttner: Wilhelm Tischbeins Konradin von Schwaben; in
Kunstsplitter, Beiträge der nordeuropäischen Kunstgeschichte
1984. W. Busch: Das sentimentarische Bild, Die Krise der
Kunst im 18. Jahrhundert und die Geburt der Moderne 1993.
W. Geismeier: Daniel Chodowiecki 1993. Revolutionsarchitektur( Ausstellungskatalog): Ein Aspekt der europäischen
Architektur um 1800, 1990.
→ 美学 Ästhetik、庭園 Garten、
芸術理論/芸術批評 Kunsttheorie/Kunstkritik、
風景 Landschaft
芸術理論/芸術批評
Kunsttheorie/Kunstkritik
啓蒙思想の芸術理論・批評は、感性と悟性の両極を揺れ動いている。趣
味による判断が正当化されることで、古典的・規範的な芸術法則に適って
いるかどうかの基準は徐々に失墜していく。判断力が識別と選択の能力で
あり、趣味を規定はするが、趣味の方は立場を表明する主体の反応の結果
から生じるとすれば、一方では感情が理性を、他方では経験に基づいた常
識があらゆる抽象的な形而上学を駆逐し始める。絶対的な美の概念は、相
対的なものに道を譲る。あらゆる判断が相対的であることが理解できれば、
一方また、芸術が歴史的であることも理解できる。感傷的なものというシ
ラーの概念は、感情と歴史性の両者を把握している。どの議論も、啓蒙期
のドイツの芸術理論をとことんまでは突き止めていない。例えば、イギリ
スにおけるロックからスコットランド連想美学派に到るような感覚論の伝
統は、フランス唯物論に匹敵する伝統と同様、ドイツには存在しないに等
しい。あまりにもドイツの理論家たちは妥協を求めているのであり、結局
は古典主義理論の規範的芸術概念を完全には捨て去ろうとしないのである。
とはいえ、ドイツの啓蒙思想的芸術理論の立場については、ふたつの偉
大な総括が存在する。クリスティアン・ルートヴィヒ・ハーゲドルンの『絵
画についての考察』Betrachtungen über die Mahlerey(1762)とヨーハ
ン・ゲオルク・ズルツァーの『美術一般理論』Allgemeine Theorie der
Schönen Künste(第 1 巻1771、第 2 巻1774)である。どちらも、一方で
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関東学院大学文学部 紀要 第111号(2007)
は、ヴォルフ流の道徳哲学から出発して、芸術を道徳的改善に奉仕するも
のと捉えている。また一方では、ハーゲドルンの場合は主にデュボス、ズ
ルツァーの場合はボードマーといった具合に、感覚論の影響が明白である。
両者とも、理性と感情間の妥協主義者的な立場のせいで、シュトゥルム・
ウント・ドラングによって痛烈に批判された。ハーゲドルンはハーマンと
ヘルダーに、ズゥルツァーはメルクとゲーテによってである。両者ともに、
感性への信頼が不充分であることを非難された。感性は、相変わらず有用
性の公準の管轄下に置かれている、というわけである。とはいえ、両者に
はそれなりの功績があった。特にフランスの理論伝統に並外れて通じてい
るハーゲドルンは、すでに1775年の『ある絵画愛好家への手紙』Lettre à
un amateur de la peinture においてフランスのサロン批評の伝統(1737以来)
にある程度連なり、ロジェ・ド・ピル(『概論』Abrégé 1699、
『絵画講義』
Cours de peinture 1708)の伝統に立って、線に対して色彩の価値を引き
上げる発言をし、それによって間接的に古典主義的なジャンル・ヒエラル
キーを疑問視して、オランダ人さらには同時代のドイツ美術の高評価に寄
与していた。彼の目標は、収集家や愛好家に芸術実践を直接手ほどきする
ことによって、追体験しつつ理解する趣味判断を育成することであった。
ズルツァーの『一般理論』も、同様の目標に役立った。事典的構成の点で
は『百科全書』Encyclopèdie の後継者であるが、彼の場合にも、主題への
関心から自己経験としての芸術感受へというドイツ的な重心の移動が見ら
れる。彼は美術作品の力もしくはエネルギーについて語っている。それは、
反省と感受との間に位置する静観へと通じるものなのである。
こうして趣味判断の正当化を経て、最終的に市民的な芸術概念が成立す
る。この概念は、ハーゲドルンとズルツァーの術語に基づいてとりわけ書
評機関紙上で広まる。ニコライの「自由学芸叢書」Bibliothek der schönen
Wissennschaften und der freien Künste(1757−1765、クリスティアン・
フェリクス・ヴァイセ主筆の「新叢書」Neue Bibliothek としては1765−
1806)
、クリスティアン・ゴットロープ・ハイネが長い間主筆を務め、すで
に1739年以来存在していた「ゲッティンゲン学識者新聞」Göttingische
Gelehrte Anzeige、1772年に刊行され、短命に終わったメルクの保護によ
る「フランクフルト学識者新聞」Frankfurter Gelehrte Anzeige、クリスト
フ・マルティーン・ヴィーラントの「ドイツのメルクーア」Teutsche
Merkur、ニコライの半年刊行誌「一般ドイツ叢書」Allgemeine Deutsche
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ヴェルナー・シュナイダース編 啓蒙思潮事典
Bibliothek、ヨーハン・ゲオルク・モイゼルの1780年以来刊行された「ミシ
ュラン芸術案内」Miscellaneer Artistischer Inhalt 等々、がその舞台であ
る。いずれの所でも詳細な批評が掲載されたばかりでなく、新刊行物から
の、とりわけイギリスやフランスの論文からの抜粋も提供された。例えば、
エドマンド・バークの崇高なものに関する1757年の有名な論文は、翻訳は
遅れたものの、1758年にモーゼス・メンデルスゾーンによる詳細な抜粋と
注釈付きでニコライの「叢書」に取り上げられて、遍く知られた。しかし
雑誌も、非常に詳細に芸術品のコレクションを紹介し、大々的に新作の複
製版画の宣伝をした。それに加えて、フランスの手本に倣ったいわゆるギ
ャラリー作品が出現し、版画の形でコレクションの主要作品を紹介した。
18世紀も後半になると、ギャラリー・カタログやオークション・カタログ
が出版された。これらは、ますます美術史的な時系列に従い、各コレクシ
ョンに見る新傾向を通時的な形で流派ごとに映し出していた。
しかしこの図は、ヨーハン・ヨアヒム・ヴィンケルマンの立場に言及し
なかったら不完全であろう。この立場は、アーダム・フリードリヒ・エー
ザーとハーゲドルンのドレスデン派、すなわちデュボスの感傷の美学に基
礎を置く穏健な擬古典主義を出発点としていた。ヴィンケルマンは、フラ
ンスの「新旧論争」Querelle des Anciens e des Modernes の継承者でも
あり、古代と近代の比較不可能性を理解し、それによって古代芸術を歴史
的に把握できたのはこの書のお陰である。この結果、必然的に古代芸術の
規範的性格も疑問視されることになった。美学的批判と歴史的意識は、メ
ダルの両面である。ヴィンケルマンの捉え方は、特に代表作である1764年
の『古代芸術史』Geschichte der Kunst des Alterthums において、ギリ
シア芸術の特有な本質を共和制的な自由の直接の結果と見なし、この自由
を現代に対して請求している点では、政治的である。この考えはまた、歴
史的でもある。というのも、ヴィンケルマンはギリシア芸術の隆盛との類
似例を15世紀および16世紀フィレンツェに突き止め、現代のローマのロー
マ国民にはいずれにせよ共和制的ポテンシャルは失われていると見なした
からである。その一方で、辛辣の限りを込めて対立像として暴君的な専制
政治を据え、それがフリードリヒ二世のプロイセンにおいて具現されてい
ると見なしている。長いこと見逃されてきたのは、擬古典主義と共和主義
との同一視がフランス革命のダヴィトの芸術ばかりでなく、カルステンス、
コホもしくはジェネッリといったドイツの古典主義芸術家にもまったく当
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関東学院大学文学部 紀要 第111号(2007)
てはまることである。ヴィンケルマンの立場は、感情移入的な叙述の言葉
を含め、叙述の戦略が一貫して時代の自然科学的水準に対応している点で
も啓蒙思想的なのである。(ヴェルナー・ブッシュ)
文献:A. Baeumler: Das Irrationalitätsproblem in der Ästhetik und
Logik des 18. Jahrhunderts bis zur Kritik der Urteilskraft 1923,
Repr. 1981. C.S. Cremer: Hagedorns Geschmack, Studien zur
Kunstkennerschaft in Deutschland im 18. Jahrhundert 1989.
J.Dobai: Die bildenden Künste in Johann Georg Sulzers
Ästhetik 1976. T.W. Gaehtgens( Hg.): Johann Joachim
Winckelmann 1717-1768, 1986.
→ 美術 Kunst
ラント法、プロイセン一般ラント法 Landrecht, Preußisches Allgemeines
1794年 6 月 1 日 に 発 効 し た プ ロ イ セ ン 一 般 ラ ン ト 法 Preußisches
Allgemeines Landrecht は、ほぼ 2 千の条項を備え、依然として近代最大
の法典である。1804年のフランスの民法典 Code Civil および1811年のオー
ストリアの一般民法典 Allgemeines Bürgeriches Gesetzbuch とともに、
啓蒙期の三大法典のひとつである。しかし後者の 2 法典とは対照的に、こ
の法典は私法ばかりでなく、刑法、行政法、封建法、教会法ならびに憲法
の一部をも含んでいる。プロイセン法典の最大部分をなす私法の基本的な
部分が1900年 1 月 1 日のドイツ連邦法典 Bundesgesetzbuch の発効時まで
有効であったのに対して、他の部分は19世紀中葉までには立法改革によっ
て大幅に改正された。法典編纂作業は、完結に到らなかった18世紀半ばの
先行プロジェクトに引き続いて、1780年に始まった。1784年と1788年の間
に、まずは草稿として印刷され、プロイセン当局と身分議会、さらには教
養市民一般に、とりわけ立法技術的な観点での批判および改善提案を要請
して公開された。それまでに例を見ないこのプロセスは、カントの『啓蒙
とは何か』Beantwortung der Frage: Was ist Aufklärung? においてフリ
ードリヒ二世に対する高い賛辞をもたらした。彼は、立法に関しても「自
分自身の理性を公共のために使用する」ことを臣下に許したからである。
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91
ヴェルナー・シュナイダース編 啓蒙思潮事典
寄せられた批判は、プロイセン法務大臣兼大法官ヨーハン・ハインリヒ・
カシミール・フォン・カルマーとそのもっとも親密な協力者カール・ゴッ
トリープ・シュヴァレツといった立法推進の実力者によって詳細に討議さ
れ、その改訂版が1791年にプロイセン国家のための一般法典 Allgemeines
Gesetzbuch für die Preußischen Staaten のタイトルで公刊された。1792年
6 月 1 日に予定されていたその発効は、それでも、1792年 4 月18日の勅令
によって不定期の停止を命ぜられた。全内容の修正と憲法内容の幾つかの
規程(反動的な批判者の見解によれば、革命的な体制原理が含まれている
ということであった)の削除を経て、この法典は1794年にようやく最終的
に法的効力を発効するに到った。新名称は、法を記載し保存するラント立
法の古くからの伝統に連なることを明白に示すために、意識して選らばれ
たものである。
プロイセン一般ラント法は、本質的な部分で、起草当時に有効であった
ブランデンブルク=プロイセン法の統合であり体系化である。貴族および
職能階級の特権を条文化して是認し、個人の権利を農民・市民・貴族の各
身分の特別規程に振り分けることによって、この法典は後の諸法典に比べ
てはるかに後期絶対主義的ブランデンブルク=プロイセン国家の政治的・
社会的秩序を尊重し、強固にしている。それに対して、1792年以後に削除
された規程を引き合いに出して、この法典によって〈上からの革命〉やフ
リードリヒ二世の国家を一種の立憲君主制に変えることが意図されていた、
と主張されたことがある。その場合、この主張の基にあるのは、起草者の
能力および目標と1807/11年のプロイセン改革との混同なのである。夫婦財
産法や離婚法、非嫡出の子どもの権利といった個々の分野では、とはいえ、
著しい法政策的進歩が達成されている。その他の点では、市民権に関する
部分は、とりわけ1814年のフリードリヒ・カール・ザヴィニの批判以来、
ほとんど好ましい評価を受けなかった。その後の立法への挙げるに足る影
響は、認められていない。(アンドレアス・シュヴェニッケ)
文献:H.Conrad: Das Allgemeine Landrecht von 1794 als Grundgesetz
des friderizianischen Staates 1965. R. Koselleck: Preußen zwischen Reform und Revolution. Allgemeines Landrecht,
Verwaltung und soziale Bewegung von 1791 bis 1848, 1967.
H.Thieme: Die preußische Kodifikation; in: Zeitschr. d. Savigny― ―
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関東学院大学文学部 紀要 第111号(2007)
Stift. f. Rechtsgesch. Germ. Abt. 57, 1937. A.Schwennicke: Die
Entstehung der Einleitung des Preußischen Allgemeinen
Landrechts von 1794, 1993.
→ プロイセン Preusßen
風景
Landschaft
政治的風景概念や地理的風景概念と並んで、美的・哲学的風景概念が普
及するのは、比較的後の時代になってのことである。確かに、風景を美的
に体験した最初の重要な証言と見なされるものに、1336年 4 月24日付けの
モン・ヴェントゥー登攀に関するペトラルカの書簡がある。しかし、風景
の美的自然仲介は、近代自然科学の影響を受けてようやく特別な意味を獲
得する。そして18世紀になってはじめて風景は、芸術的描写においても哲
学的省察においても、優勢な対象となるのである。近代になって〈全体な
る自然〉を風景として美的に描出することは、自然科学や工業技術によっ
て解体され、疎外された自然の補償であり、芸術的救済なのか。それとも、
すでに存在し、合理的に確認しうる人間と世界との調和の美的表現なのか。
いずれにせよ、自然の科学的客体化と風景の美的描出との関連には、疑う
余地がない。
内容的にも形式的にも、18世紀の風景描写には、理想的な風景記や風景
画という定型的・トポス的な蓄積の一部をなす言葉とイメージの伝統が生
き続けている。しかしその伝統も、見方や感じ方の変化によって新たな質
を獲得する。例えば、啓蒙初期の北ドイツの詩人バルトホルト・ハインリ
ヒ・ブロッケスには伝統的な風景描写のあらゆる要素が窺われるが、それ
らは綿密な自然観察から得られた多様な細部によって豊かにされ、新たな
機能連関の中に据えられる。美しい自然の断片の観察者たる彼は、綿密に
観察し、見たものを省察し、その喜ばしい体験を通して神の現前の認識を
得るのである(
『神における地上の喜び』Das irdische Vergnügen in Gott
1721−48)
。もうひとりの初期啓蒙思想家、スイスの自然研究者であり作家
でもあるアルブレヒト・フォン・ハラーは、1729年に教訓詩「アルプス」
Die Alpen を著した。その中で彼は、絵画や素描や版画に何世紀にもわたっ
て取り入れられてきた風景主題を継承し、その意味を一段と高め、それに
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93
ヴェルナー・シュナイダース編 啓蒙思潮事典
社会的ユートピアの特質を与えている。これによってアルプスは、清廉で、
慎ましく、幸福な住人の理念型的な居所のイメージを得るのである。これ
は、ジャン=ジャック・ルソーが30年後に小説『新エロイーズ』Julie ou
la Nouvelle Héroïse, Lettres de deux amants habitants d’
une petite ville
au peid des Alpes で作品化するアルプス・ユートピアの先駆といえよう。
風景イメージの変化にとって決定的なのは、人間と自然の関係の変化で
ある。観察者と対象となる風景の間の距離は、18世紀が進むにつれ、ます
ます縮小されていく。感性的経験・想像力・理性と悟性は、美しい自然を
体験する中でひとつになる。風景の中には「単に目を楽しませるばかりで
なく、思考を呼び覚まし、素質を活性化し、感性を誘い出す何かがあるに
違いない」と、ヨーハン・ゲオルク・ズルツァーは『美術一般理論』
(Allgemeine Theorie der Schönen Künste 1773−1775)に記し、それに
よって後期啓蒙思想の風景概念の一定義を提供している。クリスティアン・
カイ・ローレンツ・ヒルシュフェルトは、これを 5 巻本の『園芸の理論』
(Theorie der Gartenkunst 1779−85)で継承している。この理論は、美学理
論および造園実践の分野の先達であったイギリスに遅れて、18世紀末の35
年間にドイツで生じた重要な歩みを際立たせている。すなわち、作用美学
に基づく風景概念への方向転換である。確かにここでも風景を体験する際
の重要な機能が感覚に帰属すると認められてはいるが、描写対象の風景と
体験する主体の間の距離はまだ廃棄されるには到っていない。外部の風景
が心象風景のシンボルへと昇格するのは、啓蒙思想以後の時代のことなの
である。(ハインケ・ヴンダーリヒ)
文献:A. Ritter(Hg.): Landschaft und Raum in der Erzählkunst 1975.
M. Smuda(Hg.)
: Landschaft 1986. H. Wunderlich: Landschaft
und Landschaften im 18. Jahrhundert 1995.
→ 庭園 Garten、美術 Kunst、
芸術批評/芸術理論 Kunsttheorie/Kunstkritik
農業
Landwirtschaft
フランスでは、フランソワ・ケネーのような重要な啓蒙思想家が『経済
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関東学院大学文学部 紀要 第111号(2007)
図表』Tableau économique(1758)で農業の位置に抜きん出た価値を認
め、イギリスでは、アダム・スミスが『国富論』Wealth of Nations(1776)
で農業を徹底的に論じている。一方ドイツでは、啓蒙思想運動が文学的・
哲学的な方向に目標を定めていたため、農業は例外的に視野に入るにすぎ
なかった。農民は、とりわけ東部では未だに封建的な性格の強いグーツヘ
ルシャフト(農場領主制)に、西部ではほとんど常に荘園制に組み込まれ
ていた。領邦国家も、両支配体制に関与していた。直轄領では農場領主制
を採り、その他の農民には荘園制を採って、より大きな裁量の余地を与え
る代わりに貢租や奉仕の義務を負わせる、という具合である。こうした束
縛は、農民解放という目標の実現に努めるあらゆる啓蒙思想家にとって、
ほとんど克服不可能な障害であった。
この硬直した体制によって、ドイツの領邦は少なからぬ困難に陥った。
とりわけ1750年以降は、人口が著しく増加した。農業経営は、自由な展開
を妨げられて、生産と歩調を合わせることができず、農産物の価格は著し
く上昇した。農産物の価格はさらに、当時領主にとって重要であったマニ
ファクチュアの伸張を妨げた。したがって、領邦の経済とその予算に携わ
る官房官吏たちが啓蒙思想を展開したとしても、矛盾のないことであった。
必然的に、啓蒙思想は、第一により効果的な農業生産を目指した。それゆ
え、共同放牧権や家畜の通行権といった封建主義的もしくは協同組合的条
件の桎梏を除去することが重要であった。官房官吏たちは、さらにまた、
精神的に柔軟な農民だけが高度化した要請に応じる力のあることも知って
いた。
いわゆる農民啓蒙家たちは、生活水準の改善を図ることで農民が世俗的
な幸福感を得るために充分な活動をしたと信じた。したがって、農民たち
に新たな生産方法を周知させること、さらにまた、彼らを道徳的に揺るぎ
ないものにし、男たちが余剰の利益を賭け事や飲酒に、女たちが不相応に
高価な衣類の購入に浪費しないようにするが肝要であった。ここで、啓蒙
思想はその矛盾を内包した性格を露呈している。都市に悪徳を見出し、農
民の小屋に純粋な生活態度を探し求めた啓蒙思想家は少なくなかった。彼
らは、こうして農業ロマン主義を助長した。ジャン=ジャック・ルソー同
様、まずは農民の性格形成をしなければならない、しかる後に彼らの自然
のままの本性を頼りに全民衆を再び健全にすることができる、と考えた啓
蒙思想家もいた。しかし、農民に現状批判の能力を与えることは、ほとん
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ヴェルナー・シュナイダース編 啓蒙思潮事典
どすべての啓蒙思想家の力に及ばなかった。精神的能力の開発に関しては、
農民がこれまでよりも生産力を上げ、物質的窮状が軽減された程度で、彼
らには充分であった。いずれにせよ、農民は自分の身分の限界内にとどま
らざるを得なかった。こうした考え方に照らせば、農民啓蒙家の著作では
宗教が、農村学校のカリキュラムの場合と同様、第一の位置を占めること
は驚くに当たらない。農民は、ほとんどすべての啓蒙思想家の意見に従え
ば、身分秩序をいまだに神の秩序として甘受せざるを得なかったのである。
(ヴァルター・アヒレス)
文献:W.Achilles: Aufklärung und Fortschritt in der niedersächsischen
Landwirtschaft; in: Niedersächsisches Jahrbuch Bd. 59, 1987.
H.O. Lichtenberg: Unterhaltsame Bauernaufklärung, Ein Kaptel
Volksbildungsgeschichte 1970.
→ 農民 Bauer、経済 Ökomomie
教訓詩
Lehrgedicht
教訓文芸は、劇や叙事詩と異なり、非虚構的な種の文学表現である。そ
れでも、長めの教訓詩は、日常・歴史・神話に題材をとった例示的物語を
内容とし、気楽なものであることが多い。教訓詩の体系的分類に関しては、
18世紀にはかなりの程度合意ができており、教訓詩および記述詩、書簡詩、
押韻風刺詩、エピグラム、寓話がそれに数えられる。特例の寓話を除くと、
このラインアップは当時まだ序列的に考えられていた文芸の体系における
順位でもある。教訓ものはジャンル全体として、この体系の中では劇、叙
事詩、讃歌や頌歌といった高級な抒情諸形式より後の順位を占める。狭義
の教訓詩は、1730年と1760年の間に最盛期を迎えた。この期間に、200以上
の詩が出版され、その一部は長大である。代表的なものに、5 巻本で約2, 500
行に及ぶアレクサンダー詩格(教訓詩や風刺詩にもっともよく用いられた
詩体)でヴォルフの自然法を韻文化したマグヌス・ゴットフリート・リヒ
トヴェールの「理性の権利」Recht der Vernunft(1758)やゴットフリー
ト・エフライム・シャイベルのその 2 倍の長さの押韻気象学「気象」Die
Witterung(1757)がある。他には、ヴェルギリウスに倣って農業を主題に
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関東学院大学文学部 紀要 第111号(2007)
した詩や、ダニエル・ヴィルヘルム・トリラーの「試された天然痘予防」
Geprüfte Pocken-Injoculation(1766)のような医療を主題にした詩もあ
る。流星や人間に似た宇宙人などをめぐる天文学的な問題は、様々に取り
上げられている。言うまでもなく、教訓詩の作者は、モラルや幸福の問題
もしくは哲学的・神学的探求にも打ち込んである。ハラーの「悪の起源に
ついて」Über den Ursprung des Übels(1734)やヨーハン・ペーター・ウ
ツの「弁神論」Theodicee(1756)がその例である。同様に、詩作そのも
のについての詩も作られ、ホラティウス、ホープ、ボワローといった範例
の刺激でドイツでも韻文の作詩法の数々が生まれている。教訓詩とは、ま
じめな調子と〈教育的な冷静さ〉で、博物誌・哲学・文芸批評などの新発
見や見解をわかりやすく大衆向きに詩作したものなのである。
60年代になって、教訓詩も変化する。独白的要素や対話的要素を取り入
れ、時には感傷的な抒情詩にされたり、ヴィーラントの擬古的な「ムザリオ
ン」Musarion(1768)のように、完全に物語化されたりもしている。この
発展の先には、この世紀末のシラーの歴史哲学的な悲歌「散歩」Der
Spaziegang(1795)とゲーテの自然哲学的な「植物の変態」Metamorphose der Pflanzen(1798)がある。(ハンス=ヴォルフ・イェーガー)
文献:L. L. Albertsen: Das Lehrgedicht 1967. H.-W. Jäger: Zur Poetik
der Lehrdichtung in Deutschland; in: Dt. Vierteljahresschr. f.
Lit.-u. Geistesgesch. 1970. C. Siegrist: Das Lehrgedicht der
Aufklärung 1974.
→ 寓話 Fabel
読書
Lesen
広範な住民層に渡る読書能力の養成の強化と書籍市場の拡大が、18世紀
の西ヨーロッパ全域に啓蒙理念の行き渡った前提条件である。あらゆる意
見の対立にもかかわらず研究上大幅な合意に達しているのは、1700年と1800
年の期間に文盲者の割合が著しく低下し、書籍や雑誌の生産が飛躍的に上
昇したことである。このふたつの基本傾向は、ヨーロッパ諸国でも国によ
っては時期的なずれがあり、宗派的・社会的・地域的な特殊性に基づいて
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ヴェルナー・シュナイダース編 啓蒙思潮事典
強度も様々に異なっている。旧神聖ローマ帝国に関しては、次の評価が当
てはまる。
(1)1700年と1800年の間では、毎年、新刊書の数が約1, 000タイ
トルからほぼ4, 000タイトルにまで増加している。
(2)宗教的・教化的テク
ストの割合が18世紀半ば以降19パーセントから5. 8パーセントに減少する一
方で、フィクションおよび通俗哲学的な出版物が同時にほぼ倍増している。
(3)到る所で、ラテン語の著しい後退が見てとれる。(4)読書クラブの数
が大々的に増加している(世紀末頃には400以上)。(5)1773年と1787年の
間には、著者の数が3, 000から6, 000に倍増している。(6)1700年前後には
80, 000人から85, 000人の読者が見込まれるのに対して、1800年前後には
35, 0000人から55, 5000人の潜在的な読者を基点にすることができる。住民
の約25パーセントは能動的な読者の範囲に含められるという見積もりは、
適切な状況認識かもしれない。
重大なのは、読書の仕方の変化である。これは、
〈集中的読書〉から〈拡
散的読書〉への移行という、取っ付きやすい反面、場合に応じて慎重を要
する定式(エンゲルジング)にまでなった。一冊もしくは少数の宗教的・
教化的テクストの熟読に代わって、雑多な書籍雑誌の多読が始まるという
ことである。重大な節目は、テクストの提供の仕方にも存在する。啓蒙思
想は、イギリスの範例にしたがって何よりもエッセイ・小冊子・
「道徳週刊
誌」への寄稿といった文学的小形式において仲介される。大勢に読まれ、
比較的短期間だけ出版されることの多い定期刊行物が果たすべきは、新た
な哲学的見解の大衆化に突出した役割を演じることなのである。
このように、18世紀半ば以降のドイツでは〈読書革命〉を語るに足る十
分な根拠が存する。この教養史的・文化史的に注目すべきプロセスの担い
手は市民階級であり、これが民主主義的に組織化されて数々の読書クラブ
を生むことになる。
読書熱は、貴族・学者・官吏・上流市民といった伝統的な読者層の範囲
を越えている。新たなターゲットの消費者層、とりわけ女性、さらには社
会的に抑圧された層に訴えるのは、小説や大衆的な出版物である。18世の
終わりの35年間には、〈読書病〉という標語が流行する。とはいえ、〈読書
狂〉の現実の規模については研究上の評価が定まっておらず、読書に対す
る数多くの警告の評価についても統一的な立場は存しない。
(ヴォルフガン
グ・アーダム)
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関東学院大学文学部 紀要 第111号(2007)
文献:O. Dann: Die deutsche Aufklärungsgesellschaft und ihre
Lektüre, Bibliotheken in den Lesegesellschaften des 18.
Jahrhunderts; in: Arbeitsstelle des 18. Jahrhunderts(Hg.):
Buch und Sammler, Private und öffentliche Bibliotheken im 18.
Jahrhundert 1979. R. Engelsing: Der Bürger als Leser,
Lesergeschichte in Deutschland 1500-1800, 1974. M. Nagl:
Wandlung des Lesens in der Aufklärung, Plädoyer für einige
Differenzierungen; in: W. Arnord u. W. Vodosek( Hg.):
Bibliotheken und Aufklärung 1988. R.Schenda: Volk ohne
Buch, Studien zur Sozialgeschichte der popularen Lesestoffe.
1770-1910, 1970.
→ 図書館 Bibliothek
リベラリズム
Liberalismus
リベラリズムは、ドイツではもともと政治闘争の概念で、当初、王制復
古期の反自由主義的な論争文書に使用例がみられる。語史的には、liberal
(一般的な語用法では、freigiebig〔物惜しみしない〕と同様に、もともと
は gütig〔善良な〕、後には freisinnig〔自由思想の〕を意味する)という
語が政治的に用いられたのは、スペインの政党名称 liberales に遡る。こち
らは、革命以後の秩序である自由思想 idées libérales のためのナポレオンの
プロパガンダに結びついている。ヨーロッパ全域に渡って自由主義的 liberal/保守主義的 konservativ という対概念が浸透するのは、19世紀の20年
代以降である。この概念を肯定的に用いた例は、それ以後のドイツでは、
南西ドイツ自由主義者たちの間に認められ、彼らが政治的啓蒙思想および
カントに結びついていることは明らかである。批判者にとっても擁護者に
とっても、リベラリズムは野党的・闘争的概念である。ドイツにとって政
治的な変革への最初の自由主義的な衝撃はフランス革命に由来するが、こ
の概念と17世紀イギリスの諸論争との結びつきは、フランス革命に遡るの
とはまったく種類の異なる連関が存在することを示している。
理論史的に見て、自由主義的理念は、ヨーロッパ諸国のどこでも自然法
に根差している。スペイン・ネーデルランドの離反、17世紀初頭のフラン
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ヴェルナー・シュナイダース編 啓蒙思潮事典
スにおけるプロテスタント党の自己主張、イギリス革命、さらにはウェス
トファリア条約(1648)の国際法上の承認審理といった政治的な抵抗の諸
形式は、法的自己主張というこの一般原理を政治的原則に転換することに
寄与している。寛容・三権分立・自治は、17世末にジョン・ロックによっ
て政治的共同生活の試金石に高められる。同じ時期に、経済的リベラリズ
ムの基本的原理が表明されている。ピエール・ド・ボワジルベールは、1695
年頃、ベルナール・ド・マンデヴィルの『ミツバチの寓話』Bienenfabel
(1714)やアダム・スミスの『国富論』Wealth of Nations(1776)が後に
取り上げる〈非強制〉という厳格なジャンセニスムの原理をまとめ上げて
いる。作用史的に見ると、18世紀30年代のフランスの贅沢論争は、
〈楽しい
交際〉すなわちプーフェンドルフの原則に応じた交際を規則にしようとす
る可能な社会化の諸形式をめぐる政治的・社会的・経済的な諸解釈間の決
定的な媒介である。後に libaral の意味を表す理念となる Freiheit は、この
段階ではどっちつかずにとどまっている。永遠の平和とのヨーロッパ諸国
の国内情勢に対するルソーの挑発的な解釈によって、ようやく身分上の意
味とはすっかり絶縁した言葉となるのである。
自由や権力の問題に対するルソーの徹底した取り組みは、この世紀末に
カントの統治方法と統治形式との区別にひとつの応答を見出している。フ
ランス革命の下で道が開かれた特殊自由主義的な立場(シエース、スター
ル、コンスタン)は、そのような考察を肯定的な憲法の原理に高めている。
ドイツの初期リベラリズムの伝統(ロテック/ヴェルカー、ヨルダン)で
は、こうした形式原理は、自由主義的な法治国家をひとつの国家ジャンル
にする法治国家的な国家目標規定の背後に退いている。自由な法治国家は、
彼らの観点では、
〈…への自由〉とまったく同様に〈…からの自由〉によっ
て定義される。しかし自由主義的原理をもっとも納得のいく表現にしたの
は、憲法における理論と実践の関係を考察した際のカントである。
「市民の
状態はしたがって、単なる法的な状態としては、以下の原理にアプリオリ
に基づいている。1 .社会の成員は誰でも、人間として自由である; 2 .臣
下として、他のどの成員とも平等である; 3 .市民としての共通の本質を
有する成員は誰でも、自立している。」(ヨーヘン・ホーク)
文献:R. Vierhaus: Liberalismus; in: Gesch. Grundbegriffe Bd. 3, 1982.
Liberalismus; in: Staatslexikon, Bd. 3, 3.Aufl. 1910. H. Kunst u.
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関東学院大学文学部 紀要 第111号(2007)
S. Grundmann: Liberalismus; in: Evangelisches Staatslexikon
1966. C. Schmitt: Verfassungslehre 1928.
→ 自由(政治的) Freiheit(politisch)
愛
Liebe
18世紀の哲学的および文学的テクストで愛が論じられるのは、神の愛と
隣人愛というキリスト教的・宗教的伝統、自己愛ないしは自尊心 amour
propre をめぐる啓蒙思想的・道徳的議論、および感傷的で情念的な愛とい
う新たに成立する次元の三者が作る緊張の場においてである。愛は、エロ
スや情欲とは区別して論じられ、18世紀にはもはや、原罪を負った人間が
現世的な事柄や刹那的な事柄に絡み取られていることのひとつではなくな
っている。啓蒙初期の愛の観念にとってもっとも重要な根本前提のひとつ
は、理性によって愛が左右できるかという問題に他ならない。意志と欲望
を理性の力に従属させることは、
〈理性的な愛〉という倫理の土台をなして
いたのである。それに対するトマージウスの論は、合理主義の伝統と――
多かれ少なかれ世俗化された――キリスト教の伝統の両者を取り入れ、そ
の上、古代とりわけヘレニズムの哲学者の発言を啓蒙思想の英知論と結び
付けている。イギリスやフランスでは、合理主義的な思考から啓蒙思想へ
の移行期には他の影響の方が克明である。フランスではとりわけモラリズ
ムの伝統であり、これが、古代からルネッサンスを経て啓蒙時代 siècle des
lumières に到るまで、愛と倫理の議論上まさに重要な影響を及ぼしているの
である。
18世紀に多く論議された問題のひとつは、真の愛の無利害性というキリ
スト教の公準をあらゆる愛の形態の前提にして手本である自己愛という啓
蒙思想的考えといかに調和させることができるか、という問いである。理
性的な自己愛もしくは自尊心 amour propre は、独我論を排し、秩序を損な
わずに最大限可能な完成と至福を目指す。
「愛は、完成もしくは至福への欲
求に他ならない」、愛することとは、他者の幸福を享受する〈felicitare
alterius delectari〉
(G.W.ライプニッツ)ことなのである。自己愛は、こう
して他者に対する愛の手本となる。その前提は、自尊心 amour propre を、
それとともに他者に対する愛を形作る可能性、すなわち理性的な自己愛を、
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ヴェルナー・シュナイダース編 啓蒙思潮事典
啓蒙化された自尊心 amour propre éclairé を育成する可能性である。この可
能性への揺るぎない信仰の代表者は、例えば「道徳週刊誌」である。有徳
のものは「ふさわしいときに、ふさわしいやり方」で愛し、その愛し方は、
「自分の境遇、自分の義務、宗教と徳の定めに目を向けている。」利己愛
amour de soi と対立する正しい自尊心 amour propre をめぐる議論は、特に
フランスで徹底的に行われた。さらにはイギリスでも、例えばアレクサン
ダー・ポープは自己愛 self-love の肯定的な概念の精通者である。イギリス
では、愛はその上さらに、モラル・センス論議の枠組みで論じられている。
18世紀末頃には、哲学や学術文献よりもむしろ文学において愛の捉え方
の決定的変化が際立っている。主題となるのは、今や、激情や情緒を理性
に従属させる努力のむなしさに他ならない。ゲレルト(『Gスエーデン侯爵
夫人の生涯』Das Leben der schwedischen Gräfin von G. 1747/48)やゾ
フィー・フォン・ラ・ロッシュ(『シュテルンハイム嬢』Das Fräulein von
Sternheim 1771)では、啓蒙思想的な調和形成をめぐる文学的努力がすで
に幾分不自然な印象を与えている一方で、S.リチャードソンは書簡体の小
説『クラリッサ』Clarissa(1748)で、すでに金銭、権力、暴力、官能と
愛の結びつきを主題にしている。Ch. ラクロの『危険な関係』Liaisans dangereuses(1782)でも、愛はデモーニッシュな相を帯びている。J.-J. ルソ
ーの『新エロイーズ』Nouvelle Heroise(1761)によって、激しい恋情
grande passionのあの手本が輪郭を描かれる。ふたりの心のこのきわめて親
密な結びつきは、この場合、けっして現実の生の場での結びつきを前提に
してはいない。ヴィーラントの『アガトン』agathon(1766−94)と『ア
リスティップ』Aristipp(1800/01)に描かれる愛は、なおざりにされた愛、
死に脅かされた愛、もしくは誤解でしかない。理性と愛の完全な一致は、
もはや考えられないかのようである。その反対に、ふたつは宥和し得ない
対立であることが明らかになるのである。ロッテに対するヴェルターの愛
は、何の論拠にもならない。非利己的で〈能動的な好意〉でも、カントの
『人倫の形而上学』Metaphysik der Sitten の意味における〈他者の至福の
囚われのない促進〉でもない。情熱としての愛は、今や自律性の支配下に
置かれている。これは、自己の維持や完成を目指す代わりに、狂気や自己
喪失や死を結果として伴うものなのである。啓蒙思想の宗教批判とは、愛
をめぐる感傷的な論議に公共の場を調達するものに他ならない。そこで愛
をめぐる論議は、特に隆盛を極めつつある小説文芸の中で次第に啓蒙的理
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関東学院大学文学部 紀要 第111号(2007)
性の諸規則から自己を解放するばかりでなく、さらには理性批判的な機能
をも手に入れるのである。(ドロテー・キミヒ)
文献:J. Greis: Drama Liebe−zur Entstehungsgeschichte der modernen Liebe im Drama des 18. Jahrhunderts 1991. P. Kluckhohn:
Die Auffassung der Liebe in der Literatur des 18. Jahrhunderts
und in der deutschen Romantik 1922. N. Luhmenn: Liebe als
Passion 1982. D.d. Rougemont: Die Liebe und das Abendland
1987. W. Schneiders: Naturrecht und Liebesethik, Zur
Geschichte der praktischen Philosophie im Hinblick auf
Christian Thomasius 1971.
→ エロティック Erotik、友情 Freundschaft、社交 Geselligkeit
ドイツ文学
Literatur, deutsche
啓蒙のドイツ文学を促す最初の衝撃は、フランスを迂回してイギリスか
ら到来した。イギリスは、「スペクテイター」Spectator その他の〈モラ
ル・ウィークリー〉で市民文学の先例を生み出していたが、それらは1720
年と1760年の間にハンブルク、チューリヒを始めとするプロテスタント共
和諸都市で大きな反響を見出した。さまざまな小編の形式を借りて、市民
が日常生活で直面するあらゆる問題が論じられ、勤勉・誠実・倹約・有用
がすべての人々を拘束する試金石として喧伝された。そして、それにした
がって貴族、フランス人、
〈フランス人もどき〉の値踏みが行われた。その
際、道徳週刊誌 Morarische Wochenschrift は、一方では市民の愛国的政
治参加を擁護し、他方では友人同士の静かな、引篭もった生活を賛美した。
この新たな始まりは、同時にバロックや宮廷のパトロンに後援された文学
との決別をも意味していた。しかし、こうして詩人の地位も低下した。敬
意を払われることも少なく、市民として生き、たいていは匿名で本業の傍
ら詩作に専心するにすぎなかった。
しかし1730年以降、ゴットシェートが諸身分を横断する新たな文学への
支持を表明した。これは、理性に則り、ミメーシスを援用しながら、あら
ゆる世界の最高の形である理性的秩序を映すべき文学であった。宮廷的・
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ヴェルナー・シュナイダース編 啓蒙思潮事典
貴族的フランス古典主義の模範に倣い、その規範詩学と身分条項に従って、
彼は英雄悲劇に第一の席を認めた。その一方で、風刺的な嘲笑喜劇は市民
の愚行を笑いものにした。上流貴族は引き続きフランスに同調していたの
で、ドイツ演劇を創始するゴットシェートと弟子たちの試みは、組織的な
宣伝活動にもかかわらず、萌芽的成功にとどまった。これをようやく成功
に導いたのは、シュトゥルム・ウント・ドラングであり、レッシングがフ
ランス古典悲劇の克服に努め、ヘルダーがフランスによる異文化支配に烙
印を押した後のことであった。
チューリヒのボードマーとブライティンガーは、想像力の名誉回復を行
い、読者のイリュージョンを目標とし、ミルトンやミンネ歌人たちへの注
意を喚起したが、彼らと並んで80年代まで指導的役割を演じ続けたのは、
プロテスタントの北方人であった。1750年と1760年の間にゲレルトの『道
徳講話』Morarische Vorlesungen と教訓詩と寓話とが人気を博したこと
は、教訓的で、しばしば滑稽な要素によって寛いだものとなっているジャ
ンルへの偏愛を証言している。そして彼は、小説や催涙喜劇において市民
の声価を高め、徳と沈着を説き、感傷主義を正当化し、同時にまた個人の
領域を宮廷や世間から切り離した。他方、古代やフランス啓蒙思想やイギ
リスの小説を通して修養を積んだヴィーラントは、美学的要求の高く、世
の中に開かれた社交界を相手どり、小説や詩では語り手の虚構性を強調し、
心理分析を掘り下げ、主人公の目を世の中に向けて開かせ、意識的な倫理
性と人間性を備えた人物に仕立てた。
『救世主』Messias の詩人クロプシュ
トックは、それに対して、宗教と徳と愛国主義を旗印にし、賛歌形式の頌
歌で愛と自然と友情を歌って宮廷と社交界にかみ合わせては漁夫の利を占
め、見者としての詩人の使命を聖別した。レッシング、クロプシュトック、
さらにはハーマンとヘルダーは、様々な仕方で、ドイツ啓蒙思想において
宗教がどれほど重要な役割を演じたかを証言している。クロプシュトック
がドイツで感傷的な頌歌の詩人として称賛されたのに対して、レッシング
は啓蒙思想をヨーロッパ中で高い評価を受ける高みへと導いた。市民劇の
開拓者として、彼は身分条項と決別し、主人公と観客の間の類似性を主張
して、その同情に訴えた。彼は圧倒的なフランスの影響を手厳しく批判し、
ドイツ人とイギリス人の親縁性を引き合いにしてシェイクスピアをモデル
にするよう促した。同時に、人種的・宗教的・民俗的偏見と戦い、領主の
恣意と市民の無力を対決させる作品を描いた。
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関東学院大学文学部 紀要 第111号(2007)
文学を民族の特質の鏡と理解したヘルダーは、個人と民族の独自性に重
点を置き、啓蒙思想の進歩の原理とは対照的に、歴史と自然の中に発展と
消滅のプロセスを見た。ハーマンの母語の弁護、ルソーやヘルダーの社会
批判・文化批判に基づいて、シュトゥルム・ウント・ドラングの詩人たち
は古典詩学の規則、社会的因習および市民的道徳から自己を解放した。彼
らは、天才の自由に拠り所を求めた。創造性を天才は自然に負っていると
いうのである。彼らは、自然をもはや神の秩序の鏡とは見なさず、現に創
造を続ける神の力と見なし、子どもや未開人はまだ文明によって自然から
隔てられてしまっていないから、この力は彼らの中にまだ生きている、と
考えた。これに伴って、彼らは新たな審として心情に拠り所を求めた。心
情は、抒情詩においては感情の一見直接的な表現を生み出す一方で、ドラ
マは情念に駆られた個人や自然のままの個人が没落してゆく有様を演じて
見せた。
80年代にはすでに退場したシュトゥルム・ウント・ドラングの詩人たち
とは対照的に、それ以前の啓蒙の世代は啓蒙絶対主義と妥協の用意があっ
た。後期啓蒙思想は、それに対して、アメリカ独立戦争を歓迎し、1789年
には自由・平等・友愛の支持を表明した。1793年以降、急進派はジャコパ
ン主義の信奉を表明し、一方、自由主義派はジャコパン支配に血塗られた
ものの烙印を押し、古典主義同様、革命の代わり変革処置を支持した。同
じ時期には、書籍市場が成長し、著述家の数が増大して、市場を当てにし
た通俗文学(舞台と小説を支配した)とエリート文学が分裂する事態に到
った。
ワイマール古典主義は、啓蒙思想にもシュトゥルム・ウント・ドラング
にも負うところは多い。しかし、これらとも百科全書派とも対照的に、個
人における普遍的なものを表現する自律的芸術のために、時代史的・政治
的・経済的な現実を考慮の外に置いた。これは、個人を調和した人格に形
成して市民となし、人間性へと導くことを望んでのことであった。
(ゴンテ
ィエ=ルイ・フィンク)
文献:E. Bahr(Hg.)
: Von der Aufklärung bis zum Vormärz, Geschichte
der deutschen Literatur Bd. 2, 1988. R. Grimminger(Hg.):
Deutsche Aufklärung bis zur französischen Revolution 16801798, Hansers Sozialgeschichte der deutschen Literatur Bd. 3,
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ヴェルナー・シュナイダース編 啓蒙思潮事典
1980. G. Kaiser: Aufklärung. Empfindsamkeit. Sturm und
Drang, Geschichte der deutschen Literatur Bd. 3, 2. Aufl. 1976.
H. Graser(Hg.): Deutsche Literatur, Eine Sozialgeschichte: Bd.
4, 1740-1786. Zwischen Absolutisumus und Aufklärung 1980;
Bd. 5, 1786-1815. Klassik. Romantik 1980.
→ 寓話 Fabel、教訓詩 Lehrgedicht、メルヘン Märchen、
小説 Roman、演劇 Schauspiel
イギリス文学
Literatur, englische
スチュアートの王政復古(1660)と同時に、理性の時代が始まる。古代
の範例に倣った擬古典主義者の〈英雄的野心〉の系譜は、J. ドライデンに
始まり、18世紀初頭のA. ポープ、J. スウィフト、J. グレイを経て、世紀中葉
のS. ジョンソンへと到っている。しかし、古典古代の詩人たち(ドライデ
ンのヴェルギリウス翻訳、ポープのホメロス翻訳)への崇拝は、叙事詩や
悲劇といった最上位のジャンルで英雄的理想を実現する方向には向かわず、
悪徳や愚行に対する風刺詩の領域に重心を移している。ドライデンの世代
には、宮廷文化の頌歌風の身振りが詩や劇や風刺詩でも有効で、詩人は政
治的な影響を及ぼすことができた。ドライデンは、エッセイの形で文学を
批判的に考察し、イギリス文芸批評の基礎を固める。その批評は、教条的・
集大成的なものではなく、規範や趣味を形成する議論の形をなすものであ
った。一世代後には、名誉革命(1688/89)後の政治的・社会的変化に伴っ
て、啓蒙思想の道徳的基本姿勢が優勢を占める。ホイッグ党政権と結んだ
ハノーヴァー家の王位継承によって、ポープ、スウィフト、グレイといっ
たいわゆる〈道化詩人〉たちの間でトーリー党の政治的・社会的影響力は
失われる。彼らは思い上がった三文文士の精神の欠如や悪徳政治家の逸脱
した価値観を軽妙に、さらには辛辣かつショッキングに攻撃した。対の韻
を踏んだ弱強格のペンタメーター(英雄詩体二行連句 heroic couplet)を
用いて、擬古典主義者たちは〈モック英雄叙事詩〉のような哲学的書簡詩
で、脅威に曝された文化の価値を防衛する揺るぎない詩人の役割を描いた。
すでにローチェスター伯によって定式化された文化ペシミズム(
『人類への
風刺』Satire against Mankind 1679)は、ポープの『愚人列伝』Dunciad
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関東学院大学文学部 紀要 第111号(2007)
(1728/43)やスウィフトの『ガリヴァー旅行記』Gullivers Travels(1726)
において頂点に達している。このペシミズムの矛先は、ホイッグ党政権や
ウォルポールによる道徳の腐敗に向けられ、啓蒙的な理性の光がいかにし
て封殺さられるかを世に示している。慰めのない時代に、彼らは自分自身
の慰めのなさによって、自らを慰めた。J. グレイの『乞食オペラ』Beggars
Opera(1728)は、政治的な風刺とオペラのパロディーを自由に結びつけ
て、その作者を裕福にさえした。H. フィールディングの政治的笑劇におけ
る風刺的時代批判は、1737年に導入された劇の検閲制度を終焉させた。
王政復古期の〈風俗喜劇〉の影響は、はるか18世紀にまで及んでいる。
W. ウィッチャリー(
『田舎女房』The Country Wife 1675)や筆一本で生計を
立てた最初の女性作家アフラ・ベーン(
『放浪者』The Rover 1677)は、W.
コングリーヴ、G. ファーカー、O. ゴールドスミス、R. B. シェリダンに後継
者を見出した。王政復古期の喜劇に登場する気の利いた放蕩者は、ひたす
ら快楽(と持参金)を追い求めた。この唯物的快楽主義に止めをさしたの
が、17世紀末頃の演劇の不品行に対する激しい攻撃である。以後、市民の
道徳的教化と教養のために、主人公の模範性が求められる。理性の洞察に
よる共感に感動が加わって、滑稽な持ち味を背景に押しやり(R. スティー
ル)
、感傷喜劇が生まれる。王政復古期の〈英雄〉悲劇は、大げさな修辞法
の点でまだホッブズの人間観に負うところが多く、古代や異国の舞台設定
を優遇していた。それに対して、17世紀末の悲劇は新たなモデルを開発
する。自分の情念を抑える模範的な主人公、もしくはその運命が感動や
共感を呼び起こす悩める犠牲者である。『ロンドンの商人』The Rondon
Merchant(1731)によって、G. リロは市民悲劇を創始する。性の非合理
性(女性)による堕落に抵抗できることを、商人の徳という父性的合理主
義は示さなければならない。唆されて殺人を犯した陰険な見習い商人は、
悔いて罰を受け入れ、劇の結末は文学的正義の倫理性を称える。ここでは、
日常世界の単純な人間が、擬古典主義の規範詩学に反して、悲劇を担いう
るものとされており、これがイギリスや大陸(レッシング)で大きな成果
をもたらしたのである。
この時期は多彩で緊張感に満ちており、なかでも清教徒の遺産や商業の
躍進もあって、擬古典主義は次第に市民的・文化的価値観念から押しのけ
られ、緻密な自然観察や独自の自然体験が古代の文学的範例の模倣優先に
代わって席を占める。それは、イギリスでは、日常世界に目を向け、語ら
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ヴェルナー・シュナイダース編 啓蒙思潮事典
れた内容の真実らしさに多くを負う小説の成立に好都合に働く。筆頭は、
アフラ・ベーンの『オルーノコ』Oroonoko(1688)で、スリナムに売られ
た王家の奴隷のロマンス風の物語である。自身の体験を基に、ベーンはス
リナムの植民地世界を写実的な正確さで描写している。D. デフォーの世俗
化された清教徒的小説『ロビンソン・クルーソー』Robinson Crusoe
(1719)は、自伝を装っている。自分が一歩一歩文明化された生活境遇を作
り出せることを、ロビンソンは神の定めと解釈する。S. リチャードソンの
書簡体小説(『パメラ』Pamera 1740、『クラリッサ』Clarissa Harlowe
1747/48)によって、女性的(市民的)徳の不屈さが心理的・感傷的物語の
道徳的中核になる。それに対して、擬古典主義者H. フィールディングは、
『ジョゼフ・アンドルーズ』Joseph Andrews(1742)と『トム・ジョーン
ズ』Tom Jones(1749)でリチャードソンの〈散文の喜劇的叙事詩〉をパロ
ディー化する。道徳的混乱は、ここではアイロニカルな考察的距離をとっ
て、複雑な社会的現実の中に置かれて描かれている。ロックの観念連合理
論に想を得たL. スターンの『トリストラム・シャンディ』Tristram Shandy
(1760−67)は、規則に則ったすべての語り観と因習的な読みの期待を遊戯
的に無効にする。人間の本性は、語りのプロセス同様に制御不能・計画不
能なのである。認識ならびに行動の規範の最終審としての理性ratioは、滑
稽に無力化される。復権させられるのは、心的感性である。
〈心情〉は、道
徳的なものの本性に洞察を与える。『センティメンタル・ジャーニー』
Sentimental Jouney(1768)でスターンは、旅行の途上で感傷的に心の感動
(特に同情の中で生じる)が生じるのを待ち受ける田舎牧師を描いている。
スターンの両作品は、根強くドイツの小説に影響を与えた。(マルグレー
ト・シューヒャルト)
文献:L. Damrosch, Jr.(Hg.): Modern Essays on Eighteenth-Century
Literature 1988. H.-J. Müllenbock( Hg.): Europäische
Aufklärung Bd. 2, 1984. J.Spencer: The Rise of the Woman
Novelist: From Aphra Behn to Jane Austen 1986.
フランス文学
Literatur, französiche
〈文芸 belles lettres〉は、18世紀のフランスでは、他の思想領域ときわ
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関東学院大学文学部 紀要 第111号(2007)
めて密接に絡み合っている。例えば、ヴォルテールは歴史家であり、詩人
であり、哲学者であり、自然科学者である。ディドロの哲学的問題設定に
対する意見の述べ方は、当然、小説を書き、基本的な演劇理論を展開し、
『サロン』Salons で近代芸術批評を築き、『百科全書』Encyclopédie を編
纂するのとまったく同様である。社会変化や、例えば生成途上のジャーナ
リズムもしくは著作業における世論の形成によって、ますます活動余地は
広がる。摂政下で1715年以降ついに公然化する自由主義的傾向は、たとえ
世紀半ば以降、弾圧が増し検閲が強化されても、世紀が進むにつれもはや
抑圧されることはない。自然科学で育まれたような進歩と楽観主義が、他
の領域をも巻き込んでいく。
〈感性 sensibilité〉へ向かう美学の根本変革は、あらゆる社会階層の好み
の第一位を占める演劇に影響を与えずにはいない。1680年には、モリエー
ルの劇団がオテル・ド・ブルゴーニュの俳優たちと提携して、コメディー・
フランセーズ(テアトロ・フランセーズとも呼ばれる)がレパートリー劇
場として成立した。コルネーユ、ラシーヌ、モリエールがここの演目であ
る。摂政時代に二番目に重要な劇場になるのは、リッコボニの監督下で即
興喜劇(コメディア・デラルテ)を演目とする新イタリア座 Nouvelle
Troupe Italienne である。イタリア人との接触を通じて、マリヴォーは喜
劇に新たな言葉・新たなスタイル・新たなテーマを与えるのに成功する。
愛の芽生えは、さまざまに変奏され、これに試練と役割の取替えのテーマ
が加わる。女性登場人物は、フェミニズム的特徴を担うこともある。1762
年以降になると、イタリア演劇はオペラ・コミック Opéra Comique に吸
収される。
風刺やパロディーや歌芝居を得意とする広場や路上の芝居は、たいへん
な人気を博する。リュリに始まるオペラの伝統は、王立音楽院に継承され、
ラモーで大成功を収める。悲劇は、古典の模範に従うが、独自の道を歩ま
ないわけではない。クレビヨンは、形式的には規則に従い、アレクサンダ
ー詩行で書きながら、桁外れの露骨な表現でショッキングなもの、ぞっと
させるものを強調している。ヴォルテールの目標は、同時代でもっとも人
気があり、もっとも偉大な劇作家たることである。古典悲劇の伝統に立ち
ながら、改革の必要をも意識していたことは、彼のおびただしい理論的著
作が証言している通りである(『悲劇論』Discours sur la tragédie 1731、
『古代悲劇と近代悲劇』Dissertation sur la tragédie ancienne et moderne
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ヴェルナー・シュナイダース編 啓蒙思潮事典
1748)。啓蒙思想のプロパガンダも続々と流入し、それに対応して、彼は
『マホメット』Mahomet(1742)で宗教的狂信を攻撃している。喜劇は、
世紀転換期に風俗批判に取り組み、それによって社会の変化を映し出す。
例えば、ルザージュの『チュルカレ』Turcaret(1709)では、金融業者が
舞台に登場している。道徳化の傾向を表しているのは、デストゥーシュの
喜劇(『女哲学者』Le philosophe marié 1727)である。ニヴェル・ド・
ラ・ショセにおいて、涙ぐましい要素が優位を占め、徳が悪徳に勝利する
〈催涙喜劇 comédie larmoyante〉が出現する(『メラニード』Mélanide
1741)
。世紀半ば以降になると、百科全書派とその対立派の争いも舞台に登
場する。
演劇理論の本来の改革者は、やはりドニ・ディドロである。
『私生児』Fils
naturelは、〈市民劇 drame bourgeois〉構想の最初の一例である。しかし
それより意義深いのは、理論的著作の『私生児についての対話』Entretiens
sur le fils naturel(1757)および『演劇論』Discours sur la poésie dramatique(1758)である。ディドロは選ばれた人々という古典的原理に背
を向け、テーマの一般的・普遍的妥当性の観点に目を向けている。日常の
中の特殊、社会の現実、社会的環境との関係の中にある人間、義務といっ
たものが描出されるに値するものなのである。第三身分とその困難・苦悩・
不幸こそが舞台にふさわしい。民衆と市民階層にこそ、特権階層よりも豊
かな徳や有能さや気高い心や人間性が見出されるからである。美学の主要
問題は、それでも、幻想と現実との関連に向けられる。それゆえディドロ
は、本質的には覗き箱舞台の創出に寄与しているのである。
18世紀フランス演劇の発展の頂点と終結をなすのは、ボーマルシェの喜
劇『セヴィリャの理髪師』Le barbier de Séville(1775)と『フィガロの
結婚』La mariage de Figaro(1784)である。ここには、この時代のもっと
も重要な劇の諸要素が溶け合っている。すなわち、路上芝居の滑稽さと厚
顔無恥、リアリズムを求める正劇drameという新たな美学、そして最後は
哲学者philosophesの風刺的要素である。
詩には事欠かなかったにもかかわらず、18世紀はフランス文学の〈非抒
情的〉な時代と見なされている。ギリシア・ラテンの神話体系に基づく教
養財の過多な、もっぱら知に走った文学なのである。感情が新たに発見さ
れて、後にようやく抒情詩への道が見出される。
近代小説は18世紀に成立し、文学ジャンルとしての地歩を固める。ド・
― ―
110
関東学院大学文学部 紀要 第111号(2007)
グラフィニ夫人の今日では忘れられた『ペルー女性の手紙』Lettres d’
une
Péruvienne(1747)は、ベストセラーになる。この時代の自然科学に等し
く、小説は語りの実験場で、ディドロの『宿命論者ジャックとその主人』
Jacques le fataliste et son maîtreではそれがきわめて遊戯的に行われてい
る。ここでは、主人=召使関係の弁証法と並んで、語り手=読者関係の間
にあるものが隅々まで試されるのである。このジャンルは再三不道徳と現
実離れという非難に対して防戦を強いられるが、その有効な詩学は、それ
でも成立しなかった。アベ・プレヴォーの『騎士グリューとマノン・レス
コーの物語』L’
histoire du chevalier des Grieux et de Manon Lescaut
(1731)は、たいていは女性主人公の名によってのみ呼ばれる。高級売春婦
のマノンは、19世紀芸術で重要になる女性タイプである。この小説は、そ
の当時まで非ロマネスク的な空間である大都市パリを舞台とし、写実性に
富んでいるにかかわらず、言葉の点では宮廷的恋愛の用語を継承している。
マノンも、マリヴォーの『マリアンヌの生涯』La vie de Marianne(1731−
1742)のマリアンヌ同様、生の目的を、気に入られること、魅力的な印象
を与え、欲望を目覚めさせることに見ている。ここで扱われるのは虚構の
生涯だが、J.-J. ルソーは『告白』Confessions(1782)において、ごく私的
な告白も文学になりうることを示して、自伝に新たな形を与えている。社
会との対決ならびに内面の、矛盾することの多い諸経験は、過去や来るべ
き幸福への憧れに担われて、体験の意識の流れに従っている。
〈哲学的〉物語は、ヴォルテールの考案である。最近の時代の出来事に関
係した緊密な筋を持つ短編である。例えば『カンディードもしくは楽観主
義』Candide ou l’
optimisme(1759)では楽観主義と充足理由律というラ
イプニッツの原理が論じられるが、
〈哲学的〉と呼ばれる理由は、その哲学
的なテーマ性にとどまらない。啓蒙のプロパガンダ文書として機能する、
というその意図も〈哲学的〉なのである。
書簡体小説は、18世紀にもっとも好まれた物語形式のひとつである。手
紙は、私が主観的印象と感情、経験と憧れを書きとどめ、情報を伝達し、
他者に印象を与えるものであり、それによって、ドキュメントとして一片
の現実である。書簡体小説は、現実と思い込ませるという要請に特に適っ
ている。語られる出来事は現在感を保っているが、反面、経験される現実
感が主観的な視点からしか語られないので、パースペクティブは制約され
ている。すでに1721年には、モンテスキューが台頭するオリエンタル流行
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111
ヴェルナー・シュナイダース編 啓蒙思潮事典
と書簡形式を『ペルシャ人の手紙』Lettres persanes で啓蒙思想のプロパガ
ンダにうまく利用している。それに続くルソーは、書簡体小説『新エロイ
ーズ』La Nouvelle Héloise によって社会を、さらには小説をも改革しよう
とする。この書は、個人の幸福に立ちふさがるばかりでなく、遍く人間の
本性にも反する社会的制約に対するひとつの反乱なのである。感情が解放
される場としての自然の描写は、新しい。1782年には、ショデルロ・ド・
ラクロの『危険な関係』Les liasons dangereuses が出版される。この書
簡体小説では、手紙がその書き手の利に反する証言となることによって、
革命前夜の貴族社会の腐敗が暴かれるのである。(ペーター=エックハル
ト・クナーベ)
文献:J. Grimm(Hg.): Französische Literaturgeschichte 1994. P.-E.
Knabe(Hg.): Frankreich im Zeitalter der Aufklärung 1985. C.
Pichois(Hg.): Littérature française: Bd. 9: J. Ehrard: Le XVIIIe
siècle II 1720-1750, 1974; Bd. 10: R.Mauzi u. S. Menant: Le
XVIIIe siècle II 1750-1778, 1977; Bd. 11: B. Didier: Le XVIIIe
siècle III 1778-1820, 1976.
論理学/理性学 Logik/Vernunftlehre
理性学 Vernunftlehre という用語は、1691年、クリスティアン・トマー
ジウスの論文「理性学入門」Einleitung zur Vernunftlehre および「理性学
実論」Ausübung der Vernunftlehre を通じてドイツの比較的広範な読者に
広まる。それと平行して、論理学を表す用語として、ドイツ語では
Vernunftkunst(理性術)が、ラテン語では、とりわけ logica(論理学)、
philosophia rationalis(論理哲学)、philosophia instrumentalis(道具哲
学)が用いられる。理性学は、事実に即し、責任を伴い、原理に従った行
為(それは、個人もしくはその創作の完成に役立つ)を対象とする実践学
もしくは術(ars ないしは techné)である。あらゆる論理学上の議論は、
多かれ少なかれ共通して、論理学を悟性ないしは高次の認識力(例えば、
悟性や理性のそれ)を導く学と捉えている。議論間の相違は、その志向(主
観的・客観的分別の完成、高次の認識力の限界の規定、等)や論理学の位
置付けに対する学術的な理想によって生じる。
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112
関東学院大学文学部 紀要 第111号(2007)
もっとも広義の理性学を提示したのは、G. F. マイアーである。理性学
は、心の四つの能力すべての完成に役立つという説である。この論理学は、
〈理性に類するもの〉の論理学と〈理性的なもの〉の論理学に分かれている。
前者には、情動の論理学(情緒理論)と感性の論理学(美学)が、後者に
は、より狭義の理性学および行為と決断の論理学(倫理学)が含まれる。
マイアーにとって、美学と理性学と倫理学はひとつの心理的基盤に立つ三
幅対である。美学の目標は、下位の認識力を完成し、主観性(感覚的認識)
を生産的な行為に統合可能にすることである。理性学は、上位の認識力を
完成し、自律的思考を可能にする。すなわち観察的、模倣的ないしは理論
的思考の能力を付与する。倫理学(道徳哲学)は、上位の欲求能力である
意志力を完成し、自由で、理性的で、責任ある行動の能力を与える。1759
年にはイエナで、C. G. ミュラーの『論理学と美学』Logik und Ästhetik が
出版される。この書は、この両分野を〈正しく思考する術〉と概括してい
る。麗しく該博な精神の囚われない用い方を道徳的規範と価値のコンテク
ストにおいて規範的に法則化するはずの倫理学は、その一方で、すでに考
慮の外に置かれている。18世紀末には、トマージウスの理性学 Vernunftlehre
という用語はほとんど論理学 Logik に取って代わられ、美学・論理学・倫理
学の三幅対は当分問題にされることはなくなる。
イギリスでは、論理学は専門学の領域では利用されるものの、理論的な
論理学研究はないに等しい。数学者ジョン・ウォリスは、この時代のもっ
とも重要な論理学者と見なされている。彼にとって、論理学は〈悟性使用〉
の術である(
〈Logica est ars ratiocinandi〉
)
。特に注目すべきは、形相的・
論理的問題である。ドイツ人の観点からは、ジョン・ロックも強調しなけ
ればならない。論理学書は著していないものの、
『人間悟性論』Essay concerning human understanding においては論理学を記号論の方法として駆使
している。記号論は、彼にとって理解と知識の再現に際して記号使用の教
則の役割を果たしている。ドイツに受容されると、理性学において製図に
応用され(J. H. ラムベルト)、言語哲学や解釈学の発展を促している(G.
F. マイアー)。
フランスでは、ピエール・ベールが啓蒙思想の直接の〈準備者〉と見な
されている。論理学は、彼にとっては、悟性に真実の認識に役立つ手段を
調達する術である。特に、彼は推論の諸関係の問題に専心している。啓蒙
の論理学に後々まで残る影響を及ぼしているのは、デカルトの伝統に立つ
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113
ヴェルナー・シュナイダース編 啓蒙思潮事典
ポール=ロワイヤルの論理学である。この論理学で明確化された〈操作的
方法論〉は、概念・判断・結論・方法という論理学の 4 区分に発展する。
フランスの啓蒙思想を生き延びた唯一の論理学の労作は、コンディヤック
の『論理学』Logique である。その方法論的な基調は、言語に立脚する論
理学を経験の分析を通して、体系としてではなく、理性的な思考の方法と
して提示することにある。(ギュンター・シェンク)
文献:W. Risse: Die Logik der Neuzeit 1964.
→ 美学 Ästhetik、認識 Erkenntnis、方法 Methode、
学問 Wissenschaft
ロンドン
London
ロンドンは、クロムウエル革命が挫折し、王政復古とペストと大火を切
り抜けた後、新たな相貌を得た。確かに1666年に焼け落ちた街区の再建は
以前の路面図に従い、新たなものも中世の土台に立つことが多かった。し
かし、規格化された軒の高さ、建築工法、暖房装置は、飛躍的な近代化を
はっきりと示していた。1688年の名誉革命以降、75万人のロンドン住民の
相当数の生活はより快適なものになり、快適に暮らす居住者の多くにとっ
ては、より安全なものにさえなった。大火後に築かれた80を越える市教会
は、やがて御伽噺のような白大理石色に輝き始めた。ロンドンは、世界帝
国を主宰し、〈アウグストゥスの〉と称し、〈ホイッグ党帝国の夢〉を使命
の委託として夢見た。世界最大のこの港湾都市に、総トン数と耐航性では
勝るもののない帆船団が、史上最大規模の商品積み替え作業をもたらした。
1694年に設立されたイギリス銀行は、世界最大の銀行であり、1600年に営
業開始した西インド会社は、もっとも有力な商事会社であった。際限のな
い富がオックスフォード街をヨーロッパでもっとも華やかなショッピング・
ストリートにした。サー・リチャード・グロスヴェナーやバーリントン卿
のような地方貴族は、ポートランド、ベッドフォード、デヴォンシャーの
公爵たちと都市開発の大プロジェクトで競い合っては、地方の貴族階級
nobility と紳士階級 gentry には季節別荘を、自分たち自身には利回りを確保
し、ウェストエンドの地名を不朽のものにしようとした。業績のよいマニ
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関東学院大学文学部 紀要 第111号(2007)
ファクチュア、模範的経営の病院、堅実な学校制度が、そしてジョン・グ
レイの『乞食オペラ』Beggars Opera が1728年に描き出したような類を見
ない商品売買が存在した。都市の日常の陰の面、闇の中に生きるものの困
窮については、ホガースの連作絵画が証言している。この価値を相応しく
知るものは、1769年にロンドンを初めて訪れたリヒテンベルクをおいてい
ない。
ロンドンの博物館、遊園地、書店、美術品店、読書サロンは、全世界に
先駆けていた。ここでも、読書市民層が政治的に自己解放するずっと以前
に啓蒙思想を可能にした〈公共圏の構造変化〉が生じた。クラブやカフェ
で、人々は多くの日刊紙や週刊紙を読んだ。これらの多くは短命であった。
成功した少数のものは、揃いで復刻され、
〈道徳週刊誌〉としてフランス語
やドイツ語に翻訳されて、さまざまな形で模倣された。
光の世紀が翳ったとき、ロンドンにはほぼ百万の人間が居留しており、
その中には大勢の戦傷病者や物乞いや 5 万人の娼婦が含まれていた。白い
大理石の教会は、この間に、数千人の 4 歳から 5 歳の煙突掃除夫 chimny
sweeps の働きによって稼動し続ける煙突の排気で真っ黒になった。フラ
ンス革命の 9 年前に〈ゴードン暴動〉が巨大都市の統治不可能性の始まり
を予告し、街頭の暴動が街全体を数日にわたって気違い病院に変えた。狂
信的なプロテスタント教徒たちは、下院によって議決された徹底的なカト
リック教徒差別の緩和策に反対して大暴れした。ニューゲート監獄は、攻
撃され、放火される。二千人以上の囚人――その大半は支払不能のために
収監されていた――が解放され、そのとき残りの市刑務所でも看守自身が
門を開放する。その上、ベドラム精神病院の収容者やロンドン塔の動物の
檻のライオンも釈放される。富裕者の住宅は破壊され、家具は公道で火を
つけられる。戒厳令の適用によって、軍隊が秩序を作り出す。
この出来事に印象を受けて、啓蒙思想のもっとも輝かしい政治演説家エ
ドマンド・バークが自由主義者から徹底した保守主義者に転向する。死の
1 年前、彼は、首都が1780年 6 月にイギリスのバスティーユ監獄になりか
ねなかった様子をもう一度回想して戦慄する。トマス・ペインの『人間の
権利』Rights of Man(1791)に描かれた〈不吉な流星〉が当時すでに見え
ていたならば、とバークは1796年に追想している。
「フランスではなく、イ
ギリスが民主革命の死の舞踏を率いる栄誉に浴していた」ことだろう。
(ホ
ルスト・メラー)
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115
ヴェルナー・シュナイダース編 啓蒙思潮事典
文献:M. Gassenmeier: Londondichtung als Politik 1989. M. D.
George: London Life in the Eighteenth Century 1925. D.
Marshall: Dr. Johnson’
s London 1960. B. Weinreb u. C. Hibbert
(Hg.): The London Encyclopaedia 1983.
→ イギリス England
抒情詩
Lyrik
1700年頃、ドイツ〈抒情詩〉は後期バロック的・衒学的な洞察芸術から、
散文に近い、比喩の乏しい詩へと改宗する。そして、ボワロー(1674)や
クリスティアン・ヴァイゼ、後にはヴォルフ哲学やゴットシェートの『批
判的詩学』Critische Dichtkunst(1730)に従って、理性とポエジーの調和
を目指す。それでも、賛美歌や機会詩が、教訓的な特徴を増しながら、こ
の世紀半ばではまだ詩全体の大勢を占める。18世紀前半のもっとも重要な
革新は、ハンブルクとスイスで生じる(シュレージエンは文学的指導権を
譲り渡す)
。ブロッケスは、物理神学に基づき、自由韻律のマドリガル詩形
で描写的(
「絵画的」
)ポエジーを創始する(1721以降)
。自然科学と理神論
の影響を漂わせた自然礼拝の詩である。ベルンの自然研究者ハラー(1732
以降)は弁神論に絶望し、近代天文学による感覚の危機に直面して思い煩
う主体の挫折を記録する。ポエジーは、真理発見の道具となるのである。
それとともに崇高な文芸の伝統が始まり、感傷主義と友愛礼賛の影響を漂
わせてとりわけクロプシュトックに継承される。ハーゲドルン(1738以降)
は、官能的欲望と社交の喜びを公認し、フランスの範例に倣って韻文物語
や寓話を改良し、市民的で慎ましい生の享楽や自然なモラルに相応しいも
のにする。彼とともに、青年時代のゲーテに到るまでの、生動的で、軽妙
と機智を旨とするロココ文芸が始まるのである、ハーゲドルンを引き継ぎ、
古代の範例に擁護されて、敬虔主義のハレでアナクレオン派が誕生する
(1744以降)。そのエロティックでほろ酔い機嫌の小編抒情詩において、文
芸は押韻の強制のみならず神学や道徳哲学からも自己を解放するのである。
これは、美学的自律性へ向けての重要な一歩であった。その後(1748以降)
、
ホラティウス風の頌歌を詩作することでクロプシュトックも擬古的な形式
を選び、
『救世主』Messias の詩人の高揚感のうちに新たな感傷主義詩人の
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関東学院大学文学部 紀要 第111号(2007)
理想像を具現している。それが特に認められるのは、彼が育んだ自由なリ
ズムのパトスと宗教的イメージを世俗化する野心的な詩的言語のパトスに
おいてである。副業抒情詩の時代が終焉し、抒情詩にも市場開拓の必要が
増す。民衆のための歌謡、ミンネザングの再発見、フランスのロマンツェ
やスコットランドのバラードの翻案によって、この期の末(この場合、60
年代)には民謡へ関心が向かう下地が作られる。相変わらず修辞法に基づ
く試作から、個人的主観を表出するポエジーならびに非合理的で恐ろしい
深層の意識的な発掘(例えば、ビュルガーの初期創作バラード)へと変化
が見られるが、このため60年代(
『詩神年鑑』の開始)の抒情詩を啓蒙思想
のカテゴリーに分類することは困難に等しい。ちょうどその時代には、叙
事的・劇的・抒情的文芸という近代の三幅対も世の認めるところとなり、
特に抒情詩はようやく固有の機能を有した文芸ジャンルと理解される端緒
が開かれるのである。(ユルゲン・シュテンツェル)
文献:H.-G. Kemper: Deutsche Lyrik der Frühen Neuzeit 1991, Bd. 5/I:
Aufklärung und Pietismus 1991, Bd. 5/II: Frühaufklärung 1991.
→ ドイツ文学 Literatur(deutsche)
メルヘン Märchen
メルヘンの形式・内容・意味に関する今日のイメージは、大部分、ロマ
ン主義と19世紀初期に成立したメルヘン研究に影響されている。メルヘン
の概念は、それ以来、一方ではロマン派の創作メルヘン(ノヴァーリス、
L.ティーク、C.ブレンターノ他)の文学的形式と、もう一方ではいわゆる
民間メルヘン(グリム兄弟『子どもと家庭のメルヘン集』Kinder- und
Hausmärchen)のそれと結びついている。これらのモデルや、とりわけロ
マン派と初期のメルヘン研究者の18世紀のメルヘンに対する一方的で過小
な評価に導かれて、啓蒙はメルヘンを敵視し、この世紀はメルヘンに乏し
い、という画一的イメージが成立し、固定化してきた。しかし実際は、18
世紀にはかなりの数のメルヘンが生み出されており、メルヘンの評価も、
例えば啓蒙の文学理論では、従来の判断に反して多種多様なのである。
18世紀には、メルヘンの概念はまだ漠然としたものである。一方には妖
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ヴェルナー・シュナイダース編 啓蒙思潮事典
精メルヘンやオリエントの物語の文学的伝統、もう一方には口頭の民衆的
物語の形式、という具合に並存している。この民衆的物語は、それ自体さ
らに類別を重ねることができる。そのひとつは、民間に流布したジャンル
不定の物語で、とりわけ民間信仰の諸表象を色濃くとどめている。これら
の物語は、
〈迷信〉として啓蒙の時代の人々の並々ならぬ反感を誘った。口
伝えの民衆的物語の主たる伝統形成的な要素をなしたのは、よく乳母のメ
ルヘンと呼ばれる文学的先例の自由な再話である。子ども向けの物語に機
能を変えて(例えば、怖がらせによる教訓メルヘン)
、これらの口頭伝承の
痕跡は、グリム兄弟の『子どもと家庭のメルヘン集』タイプの、その後の
いわゆる民間メルヘンの中に再び見出されることが多い。この民間メルヘ
ンの文学的基点として第一の地位にあるのは、しかし、妖精メルヘンなの
である。妖精物語 Conttes de
(s)fées のジャンルは、フランスの影響をとど
めるヨーロッパの娯楽文学に限って見れば、ほぼ18世紀全体を規定する流
行の趨勢である。17世紀の後半に、妖精メルヘンはフランスのサロンで宮
廷的娯楽の一形式として発達した。世紀の末頃には時代を代表する娯楽文
学になり、まる 1 世紀にわたって時代に刻印を与えることになる。口伝え
の物語財を借用したものの他には、とりわけ前の時代のジャンフランチェ
スコ・ストラパローラとジョバンニ・B・バジーレの物語集が重要である。
妖精メルヘンの上げ潮は、フランスでマリー・カテリーヌ・ドルノワ夫
人の『妖精物語』Le Contes des fées(1696)
、マリー=ジャンヌ・レリテ
ィエの物語集、とりわけシャルル・ペローで始まった。そしてペローの『過
ぎし日の物語』Histoires ou contes du temps passé(1997、それよりは
むしろ「ガチョウおばさんの話 Contes de ma mère loye」の副題で知ら
れる)は、後に続く妖精メルヘン流行のもっとも影響力の強い模範となっ
た。ほぼ1705年まで続くこの第一期の妖精メルヘン文芸は、民衆的物語財
と宮廷文化の典型との結びつきに特色がある。これらの物語に特有なのは、
個別的な違いはさまざまに見られるものの、教訓的・道徳的な効果の仕掛
けと娯楽的な効果の仕掛けである。文学的なメルヘンの伝統は、続いてジ
ャン・A・ギャランによる『千夜一夜物語』1001 Nacht のフランス語部分訳
(1704−1717)によって後世にさらに引き継がれる。素材の点では、妖精メ
ルヘン文芸は次第に自国のまだ若い文学伝統に着手するようになる。ジャ
ンル特有のスタイルは、よりアイロニカルでパロディー的になっていく。
妖精メルヘンのもともとは宮廷的であった作風は、次第に市民的な作風に
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関東学院大学文学部 紀要 第111号(2007)
押しのけられ、それに際して、このジャンルの道徳的・教訓的な要素は目
に見えて強化され、ときには反宮廷的に方向を転じられるのである。
フランスの妖精メルヘン文芸は、フランス文化の影響に染まった貴族や
大市民といった上層階級によってドイツではすでに早くから受容されてい
た。それにもかかわらず、ジャンルとしての翻訳活動が確認されるのは、
18世紀の60年代以降になってのことであり、それに続くのが、多かれ少な
かれフランスの範例に倣った妖精メルヘン創作である(Chr. M. ヴィーラ
ント、Chr. A. ヴルピウス、J. G. シュンメル他)。ドイツの妖精メルヘンは、
フランスよりも強く教育的な役目を受け持たされている。18世紀の80年代
以降、ドイツでは独自の民衆文芸的な要素がメルヘン文芸に場を占めるよ
うになる。ムゼーウスの『ドイツ人の民間メルヘン集』Volksmährchen der
Deutschen(1782−1787)とともに、メルヘン文芸における本来のドイツ
的素材の伝統が始まり、そのもっとも重要な基点をグリム兄弟の『子ども
と家庭のメルヘン集』に見出すことになるのである。
(ローター・ブルーム)
文献:G. Dammann: Conte de
(s)fées; in: Enzyklopädie des Märchens
Bd. 3, 1981. M. Grätz: Das Märchen in der deutschen Aufklärung 1988. F. Karlinger: Geschichte des Märchens im
deutschen Sprachraum 1988. M. Lüthi: Märchen 1990.
→ 寓話 Fabel
唯物論
Materialismus
観念論的傾向の強い文化は、キリスト教ヨーロッパで神が創造主である
という理念に基づいて形成され、何世紀もの昔から支配的であった。この
傾向は、ドイツではルターの宗教改革以後も引き続き存続した。この観念
論的な伝統の代表者たちは、考えの異なるものの迫害に関わるときは、当
局の熱心な後援を得た。したがって、唯物論的な諸動向は、難産の末に、
たいていは地下組織として生じた。
唯物論の萌芽は、すでに啓蒙初期に現れていた。一方では、F. W. シュト
シュとT. L. ラウがスピノザ的な立場から出発して、霊魂の物質性という命題
を主張していた。霊魂をシュトシュは脳の中の物質的プロセスと、ラウは
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119
ヴェルナー・シュナイダース編 啓蒙思潮事典
軽量微細な物質と見なしたのである。もう一方では、
『霊魂の本質について
の往復書簡』Briefwechsel vom Wesen der Seele(1713)の著者、おそら
くは医師のU. G. ブーファーとG. ワーグナーが、機械的唯物論の信奉を表
明していた。前者は、さらに物質の力学的法則を用いて人間の霊魂の機能
を説明し、後者は、世の成り行き一般を説明した。また一方では、霊魂の
不滅がそれといった立証もなく否定された。1688年の、ホルスタインの学
生 J. H. ラームの遺言状とM. クヌッツェンのビラの中でのことである。こ
の最初の唯物論的動向は、18世紀の20年代には枯渇し、啓蒙後期になって
ようやく唯物論は、無神論と同様に、新たな表現形式を得るに到った。し
かもそれは、人間学的唯物論と言ってもよければ、主観的唯物論かつ客観
的唯物論と言ってもよいものであった。G. C. リヒテンベルク、J. G. A. フォ
ルスター、K. フォン・クノープラオホの場合、客観的唯物論はスピノザの一
元論の解釈を通じて強化された。ゲーテの友人のK. L. フォン・クネーベル
は、彼なりに同じ立場を発生論的な見地から基礎づけた。世界と人間を物
理的・有機的で、繊細化し続ける発展プロセスの必然的な産物と説明した
のである。しかし、唯物論者たちは当時、事物の本性よりはむしろ人間の
本性と取り組み、とりわけ肉体と霊魂の問題を再び取り上げた。F. H. ツィ
ーゲンハーゲンとK. シュパツィーアは、霊魂は単に〈繊細な部類の肉体〉
のひとつにすぎない、という意見を代表した。しかし、たいていの唯物論
的思想家は、フランスとイギリスの同類と同様に、力学的・心理学的立場
につき、精神的力はすべて、環境と結びついた身体器官の純粋な機能に帰
するとした。これは、自由思想家のプロイセン国王フリードリヒ二世、J.K.
フォン・アインズィーデル、H. F. フォン・ディーツ、J. H. シュルツ、そ
してとりわけM. ヒースマンとM. A. ヴァイカルトの見解でもあった。
イギリスとフランスでは、さらに著名で哲学的により重要な思想家が唯
物論の形成に与った。イギリスは、17世紀にはすでに人間学的唯物論が萌
したことで際立っていた。経験論の先駆者F. ベーコンとT. ホッブス、感覚
論の創始者 J. ロックは、唯物論的に方向づけられた認識論の基礎を作った。
A. コリンズは、人間の幸福を確保する実践的な手段としての徳を擁護するこ
とを通して、道徳の領域で同じ方向を示した。その一方で、J. トーランド
は、自然界の生と死を物質の変容プロセスに帰して、客観的・機械的唯物
論を説いた。18世紀には、人間学的唯物論への新たな道筋がD. ハートリー
と J. プリストリーの多かれ少なかれ機械論的心理学およびD. ヒュームの進
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関東学院大学文学部 紀要 第111号(2007)
歩的経験論によって開かれた。しかし、唯物論的思考が強まったのは、特
に18世紀中葉のフランスにおいてである。エピクロスの原子論を受け継い
だP. ガッサンディ、あるいは人間の死を最終的なものと見なしたJ. メスリエ
といった散発的な先行者たちの後に、フランス啓蒙思想家のもっとも急進
的な代表者たちが近代唯物論の最初の真の学派を創始した。真実の根拠は、
彼らの見解によると、唯一人間と事物の本性の境界内部に存在し(一元論)
、
そこに彼らは内在的でダイナミックな自己組織化の能力を帰したのである。
ここにおいて、機械論的唯物論はC. A. エルヴェシウス、J. ド・ラ・メトリ
ー、P. H. ドルバックによって認識論的・道徳的に練り上げられたばかりで
なく、後に挙げたふたりによって全世界に広められた。この唯物論学派の
指導的頭脳といえば、しかし、D. ディドロであった。彼は、機械論的立場
と関係を絶ち、有機的構造をダイナミックな物質の諸要素のより密な関連
としてイメージした。この考え方は、K. L. フォン・クネーベルによって18
世紀も終盤になってようやくドイツに受け継がれたのである。
(ダニエル・
マイナリー)
文献:O. Finger: Von der Materialität der Seele, Beiträge zur Geschichte des Materialismus und Atheismus in der zwieten
Halfte des 18. Jahrhunderts 1961. A. W. Gulyga: Der deutsche
Materialismus am Ausgang des 18. Jahrhunderts 1966. G.
Stiehler(Hg.): Beiträge zur Geschichte des vormarxistischen
Materialismus 1961.
→ 無神論 Atheismus
数学
Mathematik
18世紀の数学は、17世紀にライプニッツとニュートンによって創始され
た微分法と積分法の拡充に特徴がある。同時に、この新たな方法を物理学、
特に力学の多くの問題に応用して多大な成果を挙げ、自然科学の理論的研
究と実験的研究の結びつきはこの世紀が進むにつれますます緊密になって
いく。それに比べると、この輝かしい成功の陰で、無限小数学の厳密な論
理的基礎付けをめぐる努力はむしろなおざりにされた。
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ヴェルナー・シュナイダース編 啓蒙思潮事典
世紀前半の数学では、イギリスのニュートン派と大陸のライプニッツ派
間の対立が中心を占め、イギリス派はライプニッツの諸発見の独創性を
否定したばかりか、ライプニッツの計算法をもことごとく斥ける。この計
算法は、それでも、ニュートンの幾何学的・物理学的な流率法よりも教え
易く習得も易しいので、実用的でもあった。この結果、数々の重要な貢献
(R. コーツ、C. マクローリン、A. ド・モワヴル、J. スターリング、B. テイラ
ー)にもかかわらず、世紀後半にはイギリス数学は硬直化する。これに対
して大陸では、まず始めにとりわけヤーコプ(ジャック)とヨハン(ジャ
ン)のベルヌーイ兄弟とふたりが創始したバーゼル学派(ダニエル・ベル
ヌーイ、ニコラ・ベルヌーイ 1 世および 2 世、ヨハン・ベルヌーイ 2 世、
ヤーコプ・ベルヌーイ 2 世、J. ヘルマン、そして、とりわけL. オイラー)
がライプニッツ数学の普及に努め、著しい成功を収めた。それに際して、
多くの出版物、講義、往復書簡等で個々の問題が解明されるにとどまらず、
同時に、確率論・変分法・流体力学・微分幾何学もしくは解析整数論とい
った新たな学問分野も成立した。
新たな数学のこの拡充・拡大に際して特別な役割を演じたのが、学問研
究の中心としてのアカデミーである。パリでは、ライプニッツ数学はヨハ
ン・ベルヌーイの文通相手であるP. ヴァリニョンを通して地歩を築く。ベル
リンやザンクト・ペテルスブルクの新設アカデミーには、多くのベルヌー
イ門下が招聘される。ド・ロピタール公爵に対するヨハン・ベルヌーイの
私的講釈に基づいて、微分法の最初の教科書(『無限小解析』Analyse des
infiniment petits 1696)が成立する。多くの新たな機関誌が学問的思索を
交換する手段としてますます往復書簡を掲載するようになる。
「アクタ・エ
ルディトルム」Acta Eruditorum、「フィロソフィカル・トランスアクショ
ンズ」Philosophical Transactions、パリ・アカデミーの「メモワール」
Memoiresに続いて、ベルリンの「メモワール」Mémoires とザンクト・ペ
テルスブルクの「コメンタリイ」Commentarii ならびに「ジュルナール・エ
ルヴェティク」Journal Helvetique、
「ジョルナーレ・デレッテラーティ・デ
ィターリア」Giornale deLetterati dItalia のような国民シリーズあるいは
ヒンデンブルクによるライプツィヒ版「アルヒーフ」Archiv が刊行される。
多くの大学にも、今や新たなライプニッツ数学が浸透する。ドイツにおけ
る中心は、ハレとゲッティンゲンである。そこでは、Chr. ヴォルフ(『基
礎』Anfangsgründe 1710、『エレメンタ』Elementa 1713、『数学事典』
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関東学院大学文学部 紀要 第111号(2007)
Matematisches Lexicon 1716)ならびにJ. A. ゼグナーとA. G. ケストナーの
数学入門書が成立し、それと同時に独自のドイツ語による専門用語が作ら
れ、広められる。先駆者として、ヤーコプ・ヘルマンとニコラ・ベルヌー
イ 1 世がパドゥアを拠点にイタリア人研究者たち(G. C. ファニャーノ、G.
マンフレディ、J. リッカティ)を新たな数学と結び付ける。『百科全書』
Encyclopédie(1751以降)においては、ダランベールとコンドルセが、急
変の渦中とはいえ、数学的知の現状の見取り図を提供している。同時期に、
最初の包括的な数学史(J. E. モントュクラ、A. G. ケストナー)が成立す
る。
〈役に立つ〉学としての数学は、新設の技師学校、砲兵学校、行政学校
で育成されるが、パリの高等師範学校や理工科学校(J. L. ラグランジュ、
P. S. ラプラス、G. モンジュ)の教授法はすでに新世紀を先取りしていた。
18世紀半ばの数学研究の鍵となる人物は、レオンハルト・オイラー
(1707−1783)である。この時代のもっとも天才的で生産的な数学者は、ほ
とんどすべての数学上の領域に決定的な寄与を果たした。彼の解析学と
代数学の入門書は、18世紀を通して標準教科書となる。数学の領域拡充の
輝かしい成果は、しかし、無限小数学の基礎確立をめぐる同様に成果に富
んだ努力とは別の歩みであり、このことはすでに18世紀初頭の多くの論争
(G. バークリー、B. ロビンス)に明らかである。極限値の概念は、ダラン
ベールによって論議の的にはされるが、例えば厳密な収束基準による数列
理論の成果が根付いたとは言いがたい。J. L. ラグランジュになってようや
く、微積分学に代数学への還元を通して確固たる基礎を与える試みがなさ
れた。基礎概念(関数、極限値、収束、連続性)の精確な定義による持続
的で厳密な基礎付けを果たしたのは、それでも、19世紀の数学者たち(A.L. コシュ、C. F. ガウス、K. ヴァイアーシュトラス)の功績なのである。
(フリッツ・ナーゲル)
文献:J. E. Hofmann: Geschichte der Mathematik, Dritter Teil, Von den
Auseinandersetzungen um den Calculus bis zur französischen
Revolution 1957. J. Peiffer u. A. Dahan-Dalmedico: Wege und
Irrwege−Eine Geschichte der Mathematik 1994. D. J. Struik:
Abriss der Geschichte der Mathematik 1980.
→ 学問 Wissenschaft
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ヴェルナー・シュナイダース編 啓蒙思潮事典
人間 Mensch
18世紀は、人間把握の歴史の中で重要な地位を占めている。キリスト教
世界の宗派的分裂によって暴力的な対決が生じたこと。人間の肉体を見る
目にも自然の関係の合理化が進み、歴史に対する関係も変化したことに伴
って、非ヨーロッパ社会についての知識が増大して、視野が拡大されたこ
と。これらによって、人間の自己評価が根本的に変化したのである。人間
の使命の脱神学化の萌しは、まだキリスト教的自己理解からの決定的な離
反を意味しなかったものの、人間を機能的に理解することは、神学の影響
の強い実体的な理解の仕方にますます取って代わった。この〈人間学的転
換〉という深刻な変化の中で、近代の主観性が解放されたのである。人間
とは、世界の方向付けや自律や自己形成を通しての人間存在の個体的な実
現である、という理解が一段と強まった。啓蒙思想的な人間理論の中核は、
知的で道徳的な個人の自立であった。人間の省察能力に一段と強調が置か
れたことは、個体化の傾向が強まったしるしであった。
人間存在とは生まれながらの状態ではなく、自らの素質と能力の開発を
通じて果たさなければならない課題である、という見解が人間の本質に関
する啓蒙思想的省察を支配していた。次にこの意味で、自分自身へと投げ
戻される個体としての人間が自分自身の創造者であると捉えられた。人間
存在の本性に関するこのダイナミックでプロセス的な捉え方は、完全志向
能力が人間の基本性格であるという仮定を基礎付けている。それでも、肉
体的人間 homme physique から道徳的人間 homme moral への移行、す
なわち粗野な自然状態から文化の洗練された状態への、野蛮から文明への
移行は、けっして単一直線的で危険の無いものと考えられたわけではない。
人間の自己実現は、18世紀が進むにつれ、ますます教育と形成のプロセス
と解釈されるようになった。人間存在の全体性を個体的に実現する可能性
は、とはいえ、近代の人間にとっては到達不可能なものと言われるのが常
であった。自律的人間の理想的統一と調和という観念は、すでに近代の分
権と分業を反映していたのである。
啓蒙の中心思想は、人間本性の本質的な平等であった。それによると、
個々の人間は属の本質に分かち難く結びついた諸特性の一変異と考えられ
た。地球規模の統一と有限性に鑑みて、啓蒙思想家たちの間には、人類の
統一は歴史的に人間の実践によって成立するという認識が増大した。これ
によって、人類を歴史の主体として、そしてつまるところ歴史を人間解放
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関東学院大学文学部 紀要 第111号(2007)
のプロセスとして理解することができたのである。同時に、人間はあらゆ
る社会的関係に対して、理論的には孤立可能であることによって、ひとつ
の出発点が得られた。ここから出発すれば、この人間は理論的には社会に
対して、国家に対して自己を貫き通すことができるのである。人間は、自
分自身を規定する政治的主体として、国家市民 citoyen として、ならびに
法の主体として構想された。単なる理論にとどまらない人間の個別化は、
社会の合理的構成と符合していた。政治権力は、以後、
〈人間〉から派生し
た副次的な値となる。もはや時間を超越して自明に、人間の生存に先立つ
自然のものと正当化することはできなくなったのである。
(ハンス・エーリ
ヒ・ベーデカー)
文献:H. E. Bödeker: Menschheit, Humanitat, Humanusmus; in
Gesch. Grundbegriffe Bd. 3, 1982. C. Grawe u. A. Hügli:
Mensch III, Die anthropologischen Hauptstränge; in: Histor.
Wörterbuch d. Philos. Bd. 7, 1980. W. Sparn: Mensch VII, Von
der Reformation bis zur Aufklärung; in: Theolog. Realenzyklop.
Bd. 12, 1984.
→ 人間学 Anthropologie
重商主義 Merkantlismus
重商派 commercial もしくは mercantile school という概念は、アダ
ム・スミス(
『国富論』Wealth of Nations 1776)によって初めて流布された。
幸福を貨幣もしくは金の蓄積と同等視し、それゆえ黒字の収支決算を国政
の目標として要請する経済政策的方向を一般法則化して記述するためのも
のであった。さらにこの概念は、幸福の促進を一連の人工的な手段(関税、
輸入禁止、輸出奨励金)によって図る経済政策を表していた。一方、スミ
スによれば、そのような処置は経済的自由によってのみ達成されうる国民
経済の繁栄の十全な展開を妨げものであった。それ以来、重商主義
Merkantilismus という言葉は、経済成長を国家の指導によって達成しよう
とするすべての経済政策の流派を表す集合概念となった。この名称は、し
かし、けっして通称〈重商主義者〉の自己理解と対応していない点では、
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ヴェルナー・シュナイダース編 啓蒙思潮事典
非歴史的である。さらに、スミスはそれほど明白には特定の著者や政治家
を引き合いに出さなかったので、それに基づく経済史記述の前提によると、
近代の経済理論家たちはスミスの先駆者か重商主義者かのどちらかに分類
される。G. マルシェは、すでに1885年にこの弱点を指摘し、その後のF. K.
マン(1914)も同様の指摘をした。グスタフ・フォン・シュモラーがはじ
めて、この概念を帝国の歴史を記述する際の重要成分としてプラスの意味
で用い、重商主義を〈国家形成力〉
(1871年の視点から)と見なした諸措置
と同一視した。したがってフォン・シュモラーにとって、例えばプロイセ
ンの18世紀の国政は重商主義的であった。すなわち、領邦国家を新たな中
央集権的・官僚的管理国家へと改造する主要手段としての経済政策なので
あった。統一のプロセスに役立つすべての規律・規定・文書は、それゆえ
彼にとっては無条件に重商主義的であった。これに対して、スウェーデンの
歴史家E. F. ヘクシャーは、1931年、重商主義に関する大著を出版したとき、
ドイツの経済理論に関しては比較的わずかしか言及の必要を認めなかった。
この書は、とりわけイギリスとフランスの貿易関係の文献と政策を論じて
いるが、それらを国家形成要素と解釈するのは無理があろう。20世紀初頭
のドイツの歴史家は、重商主義という用語にしても限定した意味で継承し
たに過ぎなかった。またブリュックナー(1977)とトゥリーベ(1988)の最
近の研究はこの概念の適用をはっきり拒絶している。
(カイト・トゥリーベ)
文献:J. Brückner: Staatswissenschaften, Kameralismus und Naturrecht 1977. F. K. Mann: Der Marschall Vauban und die
Volkswirtschaftslehre des Absolutismus 1914. G. Marchet:
Studien über die Entwicklung der Verwaltungslehre in
Deutschland von der zweiten Hälfte des 17. bis zum Ende des
18. Jahrhunderts 1885. G. v. Schmoller: Das Merkantilsystem in
seiner historischen Bedeutung; in: Umrisse und Unter-suchungen zur Verfassungs-, Verwaltungs- und Wirtschaftsgeschichte 1914. K.Tribe: Governing Economy, The Reformation of German Economic Discourse 1750-1840, 1988.
→ リベラリズム Liberalismus、重農主義 Physiokratie
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メスメリズム(動物磁気療法) Mesmerismus
メスメリズムとは、ウィーンの医師フランツ・アントン・メスマー
(1734−1815)によって開発された〈動物磁気〉療法のことである。17世紀
末頃に妖しげな施療と非難された磁気療法は、18世紀が経過する中で、ニ
ュートンの重力説と技術革新(人工磁石の製造、蓄電器の設計)の刺激を
受けて、新たに甦った。しかも、とりわけメスマーの力学に基礎を置く磁
気療法がそれに与っている。その考えは、重力は計測不能な流体の形で宇
宙に配分され、それゆえ人間の身体の中でも働いている、流体の流れが不
均衡になると不調和、すなわち病気を引き起こす、というものである。調
和を再生するために、当初はまだ磁鉄鉱を利用していたが、やがて素手で
磁化を行うようになり、開発が進むにつれ、とりわけバケート、
〈ライドン
の瓶〉に倣った液体蓄電池を導入した。この療法の物議をかもし出す点は、
〈磁気発症〉にあった。その症状は、痙攣性の単収縮もしくはいわゆる夢遊
症、場合によっては千里眼 Clairvoyance と結びついた一種のトランス状態
を呈するものであった。
啓蒙の産物であると同時に、それに対する挑発でもあるメスメリズムは、
18世紀の70年代にドイツばかりでなく、10年後にはフランスでも啓蒙の代
表的人物の側からの反対にあい、それにもかかわらず――もしくはまさに
それゆえに――成功を収め、流行の療法として西ヨーロッパの近隣諸国へ
浸透した。しかし、普及に伴って、メスメリズムはその力学的な基礎と同
様にその独自性を失い、一方では心霊術的見世物へ、他方では後の催眠法
や精神分析の前型へと分かれていった。
(アンネ・エーゴ)
文献:R. Darnton: Der Mesmerismus und die Geschichte des Mesmerismus 1985. A. Ego: Animalischer Magnetismus oder
Aufklärung, Eine mentalitätsgeschichtliche Studie zum Konflikt
um ein Heilkonzept im 18. Jahrhundert 1991. H. Schott(Hg.)
:
Franz Anton Mesmer und die Geschichte des Mesmerismus
1985. R. Tischer u. K. Bittel: Mesmer und sein Problem 1941.
形而上学 Metaphysik
哲学は、当初から本質的には形而上学もしくは第一哲学 philosophia
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ヴェルナー・シュナイダース編 啓蒙思潮事典
primaであった。特に(その意図に従えば)超越的存在の超越的認識であ
り、それゆえキリスト教世界ではとりわけ神学に方向付けられた存在論で
あった。スコラ派の形而上学が没落し、近代自然科学が勃興した後、デカ
ルト、スピノザ、ライプニッツは17世紀に再度、新たな形而上学の展開を
試みた。それは、個別の諸学よりもさらに普遍的で根本的な学となるはず
のものであった。それに対して、啓蒙思想はほぼ一貫して形而上学には批
判的であり、もしくは敵対的でさえある。その理由の一部は、認識論的な
考慮からであり、一部は、人間の方に関心を向けていたせいである。かつ
ての〈学の女王〉は、
〈闇の女王〉と嘲笑されるに到る。哲学上の諸説には
常に無自覚な形而上学的前提が見られるが、それらをまったく度外視して
も、それでも、意識的な形而上学の試みは繰り返し存在するのである。
イギリスの初期啓蒙思想は、当初、ベーコン以来慣例の17世紀の形而上
学批判を引き継ぐ。ロックにとって、形而上学はもはや学問ではなく、その
対象(神を含めて)は自然哲学に属するものなのである。しかし、近代思
想を表面的として退けるバークリーになるとまたしても、現象を越えて事
物の真の由来を問い、とりわけ魂や精神を扱う第一哲学の必然性が擁護さ
れる。ロックの認識論の助けは借るが、その認識批判的な志向には背を向
けて、バークリーは、事物の物質的な存在を否定する(
〈esse est percipi〉
)
新たな非唯物論的形而上学の創始を試みている。形而上学批判者と見なさ
れるヒュームでさえも、無思慮な形而上学非難に反論し、偽(脈絡のない)
の形而上学と人間学と認識論に基づく真(明晰な)の形而上学を区別して
いる。フランスの啓蒙思想は、ヴォルテールによるイギリス経験主義の通
俗化から出発して、形而上学に関しては軽蔑的言辞に終始し、それによっ
て自身の唯心論的形而上学の伝統(デカルト、マルブランシュ)に背を向
けている。世紀半ばになってようやく、コンディヤックが、現行の認識論
をより確固たる土台に載せるために、不可避のものとして形而上学の復権
を試みる。この目的のために、彼はヒューム同様、偽(あいまいで、尊大
な)の形而上学とロックの認識論から出発する真(明晰で、謙虚な)の形
而上学を区別している。ダランベールは『百科全書』Encyclopédie では形
而上学を通り一遍に〈事物の理由の学 science des raison des chos〉と定義
するにとどまるが、その彼にしても、
『序論』Discour préliminaire では形而
上学の系統的分類に努め、
『百科全書』から決別した後には、さらに形而上
学の新たな基礎付けに腐心した。
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ドイツでは、クリスティアン・ヴォルフが、スコラ的・デカルト的定理
を受け入れ、部分的にライプニッツの影響を受けながら、包括的な形而上
学体系を展開した。しかも、一巻本のいわゆる『ドイツ形而上学』Deutsche
Metaphysik と数巻に及ぶそのラテン語版の二本立てのスタートである。こ
こで彼が展開したのは、形而上学の効果的な区分である。ひとつは一般形
而上学 metaphysica generalis で、存在者を存在者として論ずる存在論で
あり、もうひとつの特殊形而上学 metaphysica specialis は、神学・宇宙
論・心理学の三部門からなり、神・世界・魂を論ずるものであった。この
区分は、カントが学としての形而上学に限界を定めようと試みた『純粋理
性批判』Kritik der reinen Vernunft の観念論に対しても決定的な役割を果た
している。カントは、もっとも成果を上げた形而上学批判者と見なされて
いるが、彼自身の言葉によれば、それでも不幸にも形而上学に惚れ込んで
いた、ということである。形而上学を学であらしめるならば(これが彼の
出発点である)
、それは何をおいても人間理性の限界についての学であらね
ばならない。しかし、純粋理性の批判が示すのは、人間は形而上学的な欲
求は有してはいるものの、形而上学的な認識の能力は有していない、とい
うことである。その能力は、認識論としてあらゆる形而上学の不可欠な前
段階であり、
〈形而上学の形而上学〉として、ある意味で、すでに形而上学
の第一部なのである。(ヴェルナー・シュナイダース)
文献:J. Ecole: La métaphysique de Christian Wolff 1990. T. Borsche:
Metaphysik; in: Histor. Wörterbuch d. Philos. Bd. 5, 1980.
→ 哲学 Philosophie
方法
Methode
18世紀哲学の方法論に特徴的なのは、17世紀のより創造的であった方法
省察(ベーコン、デカルト、ロック)を食い潰していくことである。17世
紀には諸学(代数学さえも)が方法的に保証された可能性を手に入れよう
と努力を重ねるが、18世紀には方法的に確定された物理学の所与性を疑う
ことはもはや不可能になる。したがって主要問題のひとつは、いかにして
ニュートンの方法論を認識の他の領域に応用することができるか、になる。
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ヴェルナー・シュナイダース編 啓蒙思潮事典
分析的と総合的(異なった諸解釈との)
、代数学的と幾何学的、先験的と経
験的といった基本区分も、制定済みである。論理学の構成も同様で、ガッ
セティ以降、そしてとりわけポール・ロワイヤルの論理学(1662)以降、
概念・判断・推論(アリストテレス著と称される『オルガノン』Organum
に基づく)の論に第四の地位として続くのが方法論である。
英語による哲学の方法論の主流は、ロックの原則およびニュートンによ
るとされる原則に倣い、自然そのものの方法に従って、独自の理論や仮説
は考案しないというものである。哲学は、この先与基準の下で、人間(さ
らには同時に動物)の精神プロセスを探求する経験的な学になる。例えば、
ヒュームは『人性論』Treatise of Human Nature(1739/40)で〈精神
mind〉の要素として、
〈印象 impressions〉と〈観念 ideas〉に分かれる表
象を見出している。それらは、ある種の牽引法則ないしは連想法則にした
がって作用し合う。そして、非経験的もしくは経験に還元し得ない実在と
いう幻想を生み出すところでも、観察できるのである。政治的哲学におい
ては、「通常の方法で自然に従いながら」(ロック)という方法的な先与基
準は、歴史的に成長した諸情勢が恒常的に継続することの肯定である。バ
ークは、自然の持続性の原則を引き合いに出しながら革命を論駁している。
革命とは、人間が考案した理論に基づいて成立するものだからである。
フランスでは、ルソーが『人間不平等起源説』Discours sur l’
origine de
l’
inégalité(1755)において仮説的歴史記述に二重の意味で賛意を表してい
る。ひとつには、聖書がそれによって対立審としての力を巧妙に失効され
られるという意味において、もうひとつには、仮説や推測が未だ現実の人
類史調査の到る所で現れる資料の隙間を塞ぐことができるという意味にお
いて、である。
『起源説』は、その他の点でも、人間の精神における自然な
観念の生成を探求するロックの〈自然の方法〉に従ってはいる。しかしル
ソーでは、もはや個体ではなく人類全体が問題である。こうして、まずは
一定の社会的・経済的条件の下で、財産の観念が生じる。『百科全書』
Encyclopédie の方法省察に、ベーコンは継承されているのである。
ドイツにおける方法省察は、当初、数学的色合いが強い。クリスティア
ン・ヴォルフは、初めは代数学(三段論法に代わって)に哲学的認識の手本
を見ていたものの、後には、認識はいずれも存在者の本性と人間精神の中
に基礎付けられていると見なしている。アンドレアス・リューディガーが
三段論法的方法の新解釈を提唱する一方で、ランベルトは幾何学的計算法
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の手本に従った方法の開発に努める。カントの場合には、すでに最初の著書
『生きた力の評価』Schätzung der lebendigen Kräfte(1747ないしは1748)
において方法の問題が前面に出ている。
『自然神学と道徳の原則の明証性に
関する論考』Untersuchung über die Grundsatze der natürlichen
Theologie und Moral(1764)は、最終的に哲学を数学の手本から解放してい
る。1770年の学位論文が強調するのは、哲学において方法解明は既成の学問
の後に続くのではなく、それに規則を与えるものとして先行しなければな
らないことである。こうして遡った視点から見ると、
『純粋理性批判』Kritik
der reinen Vernunft は〈方法に関する論考〉と呼ぶことができる。『実践
理性批判』Kritik der praktischen Vernunft において、カントは善と悪の内
容規定(そして動機による行動の規定)に先立って法則が存在することを
〈方法の逆説〉と呼んでいる。道徳は、自然の順序を逆転させ、仮借なく定
言的命令を先に置くことを要求する。同一の逆転図は、カントが逆説と呼ん
だコペルニクス的転回においても用いられる。正しい思考法では、悟性は
認識の対象を規定し、その逆ではない。その反対に、ライトはロックを継承
しながら、自然の歩みの代わりに自分自身の理論に従う著作家たちの、神
そのものに向けられた方法的な誤りを非難した。
(ラインハルト・ブラント)
文献:R. Brandt: Kants Paradoxen der Methode; in: R. W. Puster
(Hg.): Veritas filia temporis? 1995. H. Schepers: Andreas
Rüdigers Methodologie und ihre Voraussetzungen, Ein Beitrag
zur Geschichte der deutschen Schulphilosophie im 18.
Jahrhundert 1959. F. Todesco: Riforma della metafisica e
sapere scientifico, Saggio su J. H. Lambert(1728-1777)1987.
→ 学問 Wissenschaft
モード
Mode
モードの概念が表すのは、18世紀においても、一般に受け入れられた態
度や流通している趣味の推移、ならびに――限定された意味で――衣服や
装飾品の推移といった現象である。この時代の著作家たちは、服装を歴史
に条件付けられた変化する記号体系と捉えている。この体系は、集団の社
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ヴェルナー・シュナイダース編 啓蒙思潮事典
会的構造やその成員個人の自己理解に関して情報を提供するものなのであ
る。彼らは、服装による人間の身体の形表現、隠蔽、露出をその基になっ
ている社会的・道徳的・美学的・医学的・エロス的理念を顧慮して分析す
る。しかし、実際には服装は習慣化しているために、着用者と服装の一致
というお定まりの理想イメージは現実には認められず、それゆえに批判を
招く。服装は常に着用者の社会的身分に対応するものでもなければ、必ず
しも体形と合致するものでもない、というわけなのである。社会階層をも
はや反映しない〈服装の無秩序(Kleiderunordnung)〉を法的な〈服装規
定(Kleiderordnungen)〉によって規制する試みは、すでにそれ以前の数
世紀にもそうであったように、実施不可能なことは明らかである。長期間
にわたってそれより成果の見込めるのは、市民自身が行う道徳的呼びかけ
である。教育的著作(ルソー、バーゼドー)や礼儀作法書(フォン・ロー
ル、クニッゲ)がその場となり、身分にふさわしい服装と市民的な自意識
へのふたつの要請を結び付けている。多くの著作家たちは、服装のモード
の急速な推移をとりわけ道徳的・経済的理由から非としている。モード批
判は、贅沢批判と結びついていることが多い。後者に関しては、(服装の)
贅沢は個人の経済的破綻に繋がるという意見や、繁栄する社会の証しであ
るという意見があって、議論は平行している。ドイツでは、フランスの影
響の強いモードが経済的・国家主義的動機に基づく抵抗に出会う。改革者
たちは、ドイツの国民服の導入を迫るが成果はなかった。
市民階級を労働プロセスに組み入れるためには、それに応じた服装が必
要である。身体とその運動法則に対応した衣服の開発を支えたのは、人間
の身体および健康に対する服装の影響の医学的究明であり、自然らしさを
増すことへの尽力である。多くの論文が、それぞれの衣類(コルセット、
靴)による身体変形の悪影響や子どもに適した衣服の要件に取り組んでい
る(ウィンスロー、キャンパー、ファウスト)
。同時に、身体の衛生への要
求が高まる。肌着の着用や規則的な下着の着替えが、一般に浸透する。市
民的な自然さと簡潔さが、貴族的な見せかけと道楽に対置され、外見と内
的本質の対応が服装と人間を判断する基準に昇格させられるのである。
(ヴ
ォルフガング・キレセン)
文献:An Elegant Art, Fashion & Fantasy in the Eighteenth Century,
Ausstellungskatalog Los Angeles County Museum of Art 1983.
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関東学院大学文学部 紀要 第111号(2007)
D. Roche: La culture des apparances, Une histoire du vêtement
XVIIe-XVIIIe siècle 1989. N. Waugh: The Cut of Womens Clothes 1968.
→ かつら/弁髪 Perücke/Zopf
修道院制度/修道院組織
Mönchtum/Klosterwesen
カトリシズムは、18世紀には修道院制度と修道院組織の影響が強かった。
牧師職は、修道司祭によって占められることが多かった。カトリックのギ
ムナジウムや多くの大学が、イエズス会の廃止(1773)まではその手中に
あった。さらには、フランシスコ会各派の修道士、あるいはプレモントレ
会修道士もギムナジウムを担っていた。イエズス会士は、その上、カトリ
ック諸侯の聴罪司祭の大半を供給していた。古式豊かな修道会の所領を有
する(〈財源の安定した〉)修道院は、領地の管理や学芸の育成に力を注い
だ。大ベネディクト会修道院は、特殊なケースでは他の修道会の修道院も
だが、帝国直属のことが多く、自領内では領邦君主権を行使し、エルヴァ
ンゲンやケンプテンのように自票(単独票)を持った帝国議会の一員でな
い場合は、2 票の共同票(複数の選挙権者が集まって 1 票分と認められる)
を獲得した。
古式、財産、文化的重要性の点で見れば、ベネディクト修道会士が頂点
に位置し、それに続くのが、11/12世紀に成立したシトー修道会士、アウ
グスティノ修道会参事会員、プレモントレ修道会士であった。13世紀以降、
ドミニコ会・カルメル会・フランシスコ会・聖アウグスティノ隠修士会の
四つの大きな托鉢修道会(メンディカント)によって新たな要素が加わっ
た。16世紀には、テアチノ会・バルナバ会・イエズス会(Societas Jesu)
が成立した。これらは、従来の修道会とは、とりわけ修道服や共誦祈祷を
放棄した点で異なっていた。これらの修道会の成員は、すでに托鉢修道士
がそうであったように、もはや修道士ではなく、修道司祭であった。
〈第二
の修道会〉として女子修道会を育成した例に等しく、托鉢修道会は〈第三
の修道会〉
(第三会)によって在俗の人々のための信心会を司った。この会
によって、イエズス会信心会あるいはマリア信心会の場合と同様、
〈一般信
徒〉の間で多大な影響力を得たのであった。
― ―
133
ヴェルナー・シュナイダース編 啓蒙思潮事典
ルターが修道院制度の根底にある宗教的理想を退けた後、プロテスタン
ティズムには修道院制度や修道院組織は存在しなかった。修道院が名前だ
け存続した場合には、その内実は、地方貴族の未婚の娘の養育施設として
の(一部は宗派混合の)世俗的な女学校、新教の神学校、主として牧師の
子弟のための上級学校であった。
啓蒙思想は、もはや修道院制度に対して理解がなかった。1760年頃から
増え始め、1780年以降さらに増加した反修道院ジャーナリズムでは、とり
わけ学校運営における修道司祭の役割が批判された。
〈財源の安定した〉修
道院を批判するものもいた。不可欠な農業改革の障害と見なされたのであ
る。修道会の成員は、
〈われらが修道院制度のペテン〉に対抗する著作を著
したり、反修道院風刺詩を作ったりした。1780年以後、ヨーゼフ二世治下
のオーストリア君主制ではイエズス会修道会が廃止され、700から800に及
ぶ修道院の財産が没収された。その後ドイツでは、大半の修道院が1802/03
年の世俗化策(教会財産の没収)によって廃止された。フランスは、すで
に1789/93年の包括的な世俗化策によってこれに先んじていた。(ハルム・
クリューティング)
文献:G. Bazin: Paläste des Glaubens, Die Geschichte der Klöster
vom 15. bis zum Ende des 18. jahrhunderts 1980. B. Duhr:
Geschichte der Jesuiten in den Ländern deutscher Zunge
1907-28. K. Hengst: Jesuiten an den Universitäten und
Jesuitenuniversitäten 1981. H. Klueting(Hg.): Katholische
Aufklärung - Aufklärung im katholischen Deutschland 1993. R.
Nolte:《Pietas》und《Pauperes》, Untersuchungen zur klösterlichen Armen-, Kranken- und Irrenpflege im 18. Jahrhundert
1993. A. v. Reden-Dohna: Reichsstandschaft und Klosterherrschaft, Die schwabischen Reichsprälaten im Zeitalter des
Barock 1982.
→ イエズス会士 Jesuiten、カトリシズム Katholizismus、
世俗/世俗化 Säkularisation/Säkularisierung
― ―
134
関東学院大学文学部 紀要 第111号(2007)
君主制
Monarchie
君主制の名称と意味はギリシア古代に由来し、その政体学は王政を肯定
的に見ていた。ラテン中世は、この概念域に rex(君主)
、regnum(王政)
ならびに princeps(支配者)もしくは principatus(帝位)という言葉を
用い、世俗的な身分階層の頂点を imperium(皇帝権)と名付けた。しか
し、その統治権は、国民国家が形成される過程で段々と正当性を疑われる
に到った。中世的・キリスト教的終末ヴィジョンの意味で皇帝の世界支配
という観念が失われると、ゲルマン帝国 Imperium Germanicum はヨーロッ
パの君主制の序列において一種の主賓席を占めた。18世紀の世俗化された
政治観は、ヨーロッパ列強の均衡という理想像を好み、原則的に全世界的
君主制の可能性は否定した。
13世紀半ば以降、アリストテレスの政治学が受容され、それによって等
しく規範的な政体である貴族政体とポリス政体の競合が生じたが、それに
もかかわらず、神学的に解釈された君主制観が宗教改革と反宗教改革の時
代には依然として支配的であった。支配機関と政治的秩序は神の援助の結
果生じたものであり、君主はキリスト教信徒の従僕として神の恩寵によっ
て統治を行うという考えである。いわゆる絶対主義(16−18世紀)の統治
理論と実践の中でようやく、この恭順と名目だけの所有者を表す慣用句は、
君主の人物の点で神の掟に従って内実を伴うものとなった。そして資格認
定と代表機能を表す目的に適ったものとなり、ヨーロッパ王侯社会に相応
しく形を整えながら、個人崇拝にまで行き着いたのである。それでも、い
わゆる絶対君主制(国法的には、ボダンの主権説に由来することが多い)
は、ヨーロッパの通常形態においては基本法 leges fundamentales に、
(キ
リスト教的)自然法ならびに臣下の安寧のための統治という観念世界に依
然として結びついていた。いわゆる限定君主制は、帝国においては理想像
になり(プーフェンドルフ、ヴォルフ、
)国家権力の統一性と貫徹能力を保
証し、同時に君主の恣意的行為から被支配者を保護する政体と見なされた。
絶対主義時代の論争は、君主の権限、その法的形態ならびに権力行使の際
の身分制議会の協力の問題に関わっていた。いわゆる暴君放伐論者の議員
たち Monarchomachen によって陪臣化された人民主権は、君主制最初の
権限の喪失を生じさせた。そして君主制の絶対主義的な変形は、後に世俗
的な自然法の影響の下に、無制限の権力の権化(1760年のユスティ以来、
あらゆる自由主義的絶対主義批判の根本をなす非難)であり、独裁制かつ
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135
ヴェルナー・シュナイダース編 啓蒙思潮事典
共同生活の全体的な軍事化の表れであり、そもそも理性に反す僭主政治(専
制政治)である、と弾劾された。身分制議会の中間的権力を通じて穏健化
された貴族君主制(モンテスキュー)は、ドイツではかならずしも肯定的
な反響は呼ばなかった。それにもかかわらず、身分議会的君主制というド
イツ的形態は改革能力がある(改革絶対主義)と見なされた。
アメリカならびにフランスの革命の影響で、権力参加の思想がよみがえ
った。人権、自由権の観念ならびに憲法の思想は政体としての君主制の伝
統的優位を弱め、プロイセンのフリードリヒ二世のような統治者をして自
分の職務(自分自身統治者であり軍事君主)を解釈して、ブランデンブル
ク家の世襲財産的な統治法のもはや時代に適合しない代表者であると思わ
しめた。軍事に基づく統治主権は、結局のところ、政治的地位としては未
成年の子どもである臣下に対する領邦君主の権力に基づいており、国家権
力を唐突に君主の身に集中させ、権力の分割も市民階層の国民の協力とも
無縁であった。この行き着く先は、
(例えば、ルソーやカントの場合のよう
に)国民主権という対立構想であった。
19世紀前半(三月前期)の革命後の王政復古期には、君主的・領邦国家
的統治体制がドイツでは、イデオロギー的不安定化が進んでいるにもかか
わらず、依然として優勢であった。新たな概念の合成(立憲君主制、間接
君主制、議会制君主制)が試みられ、それによって、共和主義的原理(憲
法、主権在民、分権)とそのような自力による領邦君主統治との根本的に
は矛盾した宥和が試みられた。
(クラウス・ブレーク)
文献:W. Conze u. a.: Monarchie; in: Gesch. Grundbegriffe Bd. 4,
1978. H. Dreizel: Monarchiebegriffe in der Fürstengesellschaft,
2Bd., 1991.
→ 民主主義 Demokratie、共和制 Republik、憲法 Verfassung
成年/解放
Mündigkeit/Emanzipation
カント以前には、成年 Mündigkeit は(経済的に)自己扶養可能な状態
を意味する単なる法律上の概念であった。カントは、論文「啓蒙とは何か」
Was ist Aufklärung?(1784)において成年を人間学的・歴史哲学的な啓蒙の
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136
関東学院大学文学部 紀要 第111号(2007)
根本概念に昇格させた。
「啓蒙とは、自分自身が招いた未成年状態から抜け
出ることである。未成年状態とは、自分の悟性を他人の導きがなければ用
いることができないことである。
」この意味において、法律上ないしは自然
法上成年であっても、とうていまだ誰しもが成年であるわけではない。そ
して成年になるのは、後見人によるのではなく、精神的な自己解放への自
身の努力によるのである。成年は、したがって、自力で思考しなければあ
り得ない。しかし、それにとどまらない。成年とは、知性の単純な仕事で
はなく、全人的達成であり、自立へ向けた(不快な)決断のなせる業なの
である。
「したがって、いかなる個人にとっても、ほとんど習い性となった
未成年状態から抜け出ることは、困難である。…しかし公衆が自分自身を
啓蒙することは、むしろ可能である。それどころか、公衆に自由を認めさ
えすれば、そうならずにはすまない。というのも、そこには常に自力で思
考するものが幾人か見出されるからである。そうしたものたちは、未成年
状態のくびきを自ら投げ捨てた後は、自身の価値と、自力で思考するとい
ういずれの人間にも課せられた使命とを理性的に評価する精神を周囲に広
めることだろう。
」
啓蒙後期には、成年は特にいわゆるドイツ・ジャコバン党員(例えば、
フィヒテ、フォルスター、クニッゲ)のもとで政治的な主張になって、三月
前期を経て1848年の革命時に到るまで影響を及ぼした。しかし、成年の概念
の役割は、1830年以降は、あっという間に解放 Emanzipation の概念に引
き継がれ、こちらが〈あらゆる概念の中でもっとも重要なもの〉となった。
両概念が1965年頃までどこでも相補的な関係になかった原因は、起源の違
いにある。成年は、ドイツ法に由来する。それに対して、解放 emancipatio
は、ローマ法に由来する。解放とは、息子を父親の権力から民事法上の自
立へと解き放つ審理であった。フランス革命の影響を受けて以後、この概
念用法が変化して、恒常的に(1)解放とは、受動的ではなく、自発的な行
動であり、(2)集団(身分、階級)も自らを解放することができる、とい
う意味になった。1945年以降、まずは、成年の概念は教育学において、さ
らには神学において復活した。成年の市民、成年のキリスト教徒が求めら
れたのである。60年代半ば以降になると、解放の要求も復活して、今度は
(そしてここに到ってようやく)成年と結びついた。解放の概念は、次に翻
って18世紀に対しても(例えば、ユダヤ人解放に対しても)適用されたの
である。
(ミヒャエル・アルブレヒト)
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137
ヴェルナー・シュナイダース編 啓蒙思潮事典
文献:K. M. Grass u. R. Koselleck: Emanzipation; in: Gesch. Grundbegriffe Bd. 2, 1975. N. Hinske: Kant als Herausforderung an
die Gegenwart 1980. G. Ebersold: Mündigkeit, Zur Geschichte
eines Begriffs 1980.
→ 自律 Autonomie、自力思考 Selbstdenken、
折衷主義 Eklektik
音楽
Musik
音楽における美の規範の新分野である音楽美学、音楽の素材の扱い方を
学問化する音楽理論および芸術性豊かな行為としての作曲実践は、それぞ
れ特有の仕方で、啓蒙時代の批判的文化に関与している。Ch. バトゥは『諸
芸術の近代的体系の完成』Vollendung des modernen Systems der Künste
(1746)において、機械的で有用を目指した芸術を排除しているが、遅くと
もこの書の完成とともに音楽は諸芸術の中に確たる場所を獲得する。
音楽は他の芸術に比べると悟性の判断が及ばないので、作用美学の観点
で判断を下せるのは、快/不快と美/醜のカテゴリーを持つ趣味だけであ
る。作用の力強さは、しかし、幾人かの著作家(ダランベール、ルソー、
ディドロ)によっては音楽に特有な目印と見なされている。音楽の漠然さ
を訴える声はよく聞くが、それは音楽の効力が大きいせいなのである。M.
グリムによれば、音楽の特色は、極小の模倣にして極大の効力である。そ
れでも、音楽に関する学問は、理論形成に際して音の物理的性質を拠り所
にする。例えば、20世紀でも通用する長調−短調システムを定着させた
J. Ph. ラモーの理論構造はそこから導き出されている。
批判的思考は、音楽のあらゆる領域を対象にする。J. マッテゾンの『ク
リティカ・ムシカ』Critica musica(1722)のような著作、J. A. シャイベ
の「批判的音楽家」Der crutische Musicus(1738/40)のような週刊誌、
あるいは F. W. マールプルクの『音楽についての批判的書簡』Kritische
Briefe über die Tonkunst(1759/64)は、タイトルにすでにそれが明らかで
ある。音楽史記述も、啓蒙思想の成果であり、最初の包括的結晶は Ch. バー
ニーの『音楽通史』A General History of Music(1776/89)と J. ホーキンズ
の『音楽の知識と実践の歴史』A General History of the Science and
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138
関東学院大学文学部 紀要 第111号(2007)
Practice of Music(1776)に認められる。これに続くものには、J. N. フォル
ケルの『音楽通史』Allgemeine Geschichte der Musik(1788/1801)があ
る。
音楽の模倣美学の基本的立場は、自然を間接的にのみ模倣するというこ
と、詩すなわちオペラ・テクストに予め描かれた感情や情熱を模倣するに
とどまるということである。当初議論の中心にあったのはフランスで優勢
な模倣美学であったが、これに対して、イギリスの表現美学やドイツの感
情美学が加わって対立構想が生まれ、作曲実践の発展に後々まで影響を及
ぼした。イギリスの表現美学は、いずれの音もいずれのメロディーも(模
倣しなくとも)人間を感動させ、楽しませるという経験に基づいている。
ドイツの感情美学は、J. A. ヒラーや J. G. ズルツァーの表現によると、音
楽を心情の純粋な表現と解釈する。最終的には、イギリスやそれに与する
ルソーやシャバノンでは自律美学が展開される。この美学は、模倣的性格
を完全に排除し、音楽の自律性を感覚的・知的追体験をもたらす喜びの観
点で捉えている。
あらゆる美学的議論の中心には、アンシャン・レジーム期の社交の中心
ジャンルであるオペラが位置していた。オペラは、ゴットシェートのよう
な少数の全面的拒絶を別とすれば、もっとも美しくもっとも純粋な劇ジャ
ンルと見なされていた。このジャンルは、フランス・オペラの不可思議な
ものとイタリア・オペラの熱情的なものを取り入れて、生とファンタジー
の理想例を作り出し、ルソーによれば、人間が社会的性質を取り戻す歩み
の上での重要な前進であった。オペラにおいて、啓蒙思想が不可欠の前提
とする心情の自由が最大の勝利を祝うことができた。フランス・オペラは、
どこまでもテクストを離れない。ビュフォン主義者たちの論争とC. W. グ
ルックによるフランス・オペラの改革がイタリア・オペラを受容させ、国
際的な様式に関心を向けさせるまでは、J. B. リュリによって作られたモデル
がラモーに到るまで維持される。全ヨーロッパ(フランスを除く)を支配
するイタリア・オペラの本質的特徴は、通奏低音付きのセッコー叙唱と場
の終わりをなすダ・カーポ・アリア(情動の表明によって筋を停止させる)
が絶えず交代しながら続く構造である。G. F. ヘンデルのような一流の作曲
家は、歌曲のメロディーに全音階を駆使して情熱と感情を模した具象性を
与えることができた。
オペラ・ブッファ Opera buffa【伊】やオペラ・コミック Opéra comique
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ヴェルナー・シュナイダース編 啓蒙思潮事典
【仏】といった滑稽なジャンルは、通俗的な、市民階級の日常から取り出し
た題材に基づくものである。これらは、芸術味豊かに例示的・アレゴリー
的祝祭劇に様式化されたオペラ・セリア Opera seria【伊】やトラジェデ
ィ・リリク Tragédie lyrique【仏】に比べると、ルソー(『村の易者』Le
Devin du Village(1752)で自ら一作品を作曲した)的な意味での自然な音
楽を取り戻す方向へと明確な一歩を踏み出している。音楽劇の市民化は、
J. ゲイと J. C. ペプーシュの『乞食オペラ』Beggar’
s Opera(1728)のよう
なイギリスのバラード・オペラ Ballad Opera や、イギリスとフランスの
刺激から生まれたこの世紀後半のドイツのジング・シュピールにおいても
明らかである。
声楽が主の美学的議論では、器楽は単に声楽を模倣したものと考えられ
る。この脈絡が失われるにつれ、広まりを見せる一方の器楽文化に、感傷
主義の流行ともなって、具体的理解の難しい内容を擬人化し、形式的構成
を分かり易くする必要が生じてくる。南ドイツ( J. シュタミッツとマンハイ
ム派)とオーストリア( J. ハイドン、W. A. モーツァルト)では、この歩み
は一貫して否認され、自律的な芸術が展開された。一方、中部ドイツと北ド
イツでは、音楽的な感情体験は、C. P. E. バッハ等に散見される一過性の特
殊文化に終わった。世紀も末になって、ハイドンの『天地創造』Schöpfung
(1798)とモーツァルトの『魔笛』Zauberflöte(1791)という、理性の光
を内容とするふたつの作品が成立する。そして、その影響は、それ相応の
屈折を伴って19世紀(L. ヴァン・ベートーベン)にまで及ぶことになるの
である。(クラウス・ホルシャンスキー)
文献:B. Didier: La Musique des Lumières, Diderot−L’
encyclopédie−
Rousseau 1985. J. Neubauer: The Emancipation of Music from
Language, Departure from Mimesis in Eighteenth-Century
Aesthetics 1986. W. Serauky: Die musikalische Nachahmungsästhetik im Zeitraum von 1700 bis 1850, 1929.
→ 美学 Ästhetik、美術 Kunst、
芸術理論/芸術批評 Kunsttheorie/Kunstkritik
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関東学院大学文学部 紀要 第111号(2007)
自然 Natur
啓蒙の自然理解の起源には、キリスト教=西洋的な自然観内部での重点
の移動がある。キリスト教の伝統では、自然は根本的に〈被造物 creatura〉
、
すなわち主体性を神に与えられた原理 creator の非自立的産物と理解され
る。しかしながら、どのような具合に創造主が自然の中に存在すると考え
るかという点では、著しい違いがある。〈堕ちた自然〉のモデルに従えば、
堕落はかつて完全であった自然をすっかり損なってしまったので、カオス
の中に没してしまわないためには、自然は絶えざる神の介入を必要とする。
ここでは、重点は神の直接的な世界統治にあり、それを表すのが、自然現
象は直接に神(もしく悪魔)の原因から説明することができるという考え
である。調和的=均衡的自然のモデルに従えば、反対に、被造物は創造主
から受け取った本質的な特性を保持している。そのような自然は、
〈間接的
な原因〉に従ってしか機能しない。すなわち神の介入は今やもはや当てに
することはできないのである。自然は、内的な秩序を有する準=自律的形
成物と見なすことができる。そしてその秩序は、理性が単純性の原理と幾
何学的な明確さに従って認識することができるものなのである。
啓蒙の自然観は自然科学の興隆と密接に結びついており、それゆえキリ
スト教的前提に従っていて、当初けっしてキリスト教と対立していない。
偉大な自然研究者ロバート・ボイル、アイザック・ニュートン、ジョン・
レイは、自然という書物の研究と啓示の読解を同権のものにしたいと望ん
でいる。18世紀初期の物理神学は、どれほど自然の中に秩序が存するかを
例示する多くの経験的な証拠を集めている。この秩序は、翻って全能の創
造神という秩序形成の原理に目を向けさせるものなのである。それにもか
かわらず、この収集と体系化の傾向の中には、神学的な諸前提からの解放
の傾向が存在する。そうした諸前提は、秩序や調和を推測するだけのもの
としてますます背景に退いていくのである。
支配的な自然像は、包括的・均衡的な秩序連関という像である。この連
関は、18世紀半ば以降、数々の大規模な体系的著作の中で詳述されている
(リンネ『自然の体系』Systema Naturae 1735、ビュフォン『博物誌』Histoire
Naturelle 1749、モーペルテュイ『自然の体系』Système de la Nature
1770、オルバック『自然の体系』Système de la Nature 1770)。同時に、
この自然の秩序は、直接的・感覚的にも体験することもできれば、芸術的
に造形することもできる。例えば、自然詩(ブロッケス、ハラー)
、風景画、
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ヴェルナー・シュナイダース編 啓蒙思潮事典
さらには収集物の目録作成から新たな風景タイプの美的な発見に到るまで
の日常文化的な自然への関心という形においてである。成立途上の社会科
学においても、規範的な自然秩序という観念は、重要な役割を演じるよう
になる。例えば、重農主義者は、現状的な事実秩序 ordre positif に理想的な
自然秩序 ordre naturel を対置し、アダム・スミスは干渉主義的政治に対
立するものとして〈自然的自由の体系〉を持ち出している。教育学におい
ても、自発性の理想が旧来の訓練と有害な情動の抑圧に代わる場を占めて
いる(ルソー『エミール』Emile 1762)
。合理主義的・形而上学的自然概念
は、懐疑的認識論(ヒューム)によって疑問視され、最終的にはカントに
よって解体される。ロマン主義では、自然は主体的なものと捉えられたり、
魔的な力を備えたものと見なされたりする。不変的自然体系論に対しては、
最終的には進化論が勝利をおさめる(ラマルク、ダーウィン)。(ロルフ・
ペーター・ジーフェルレ)
文献:J. Ehrard: Lidée de nature en France dans la première moitié du
XVIIIe siècle 1963. U. Krolzik: Säkularisierung der Natur,
Providentia-Dei-Lehre und Naturverständnis der Frühaufklärung 1988. R. P. Sieferle: Natur/Umwelt: Neuzeit; in: P.
Dinzelbacher(Hg.): Europäische Mentalitätsgeschichte 1993.
K. Thomas: Man and the Natural World 1984. B. Willy: The 18th
Century Background, Studies in the Idea of Nature in the
Thought of the Period 1940.
→ 文化 Kultur、自然科学 Naturwissenschaft
自然法/理性法 Naturrecht/Vernunftrecht
自然法 jus naturae, jus naturale の概念は、ポリスを支配した法の起源
と有効性をめぐる古代の議論で展開されたような、生得の権利と合意もし
くは規約によって効力を持つ権利との区別に遡る。生得の権利は、その後
とりわけストア派で強調されたように、統一的にすべての人間に妥当しな
ければならない。それに対して、制定法もしくは実定法は、まちまちで、
それぞれの国家でしか通用しない。中世では、自然法の公準は、神的掟の
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関東学院大学文学部 紀要 第111号(2007)
理論、すなわち神に由来する掟の理論ないしは神と一体の掟 lex aeterna の
理論と結び合わされた。その際、問題なのは、とりわけこの真の意味の法
もしくは超法規的掟の厳密な存在理由および有効理由についての問い、つ
まり、それが神の理性に発するのか、意志に発するのか、本質(本性)に
起因するのかという問いであった。近代では自然法は概ね人間本性から導
き出されたが、ここでは、とりわけ、真の生を根拠付けたり調整したりす
る本性(自然)がどこに存するのかは未決着のままであった。というのは、
本性(自然)に従って生きる secundum naturam vivere という一般的な
要請は、まずは、空疎な決まり文句にすぎないからである。自然法は後験
的に人間の経験的な性質に基礎を置くことができるのか、それとも先験的
にその本性(理性の性質)に基礎を置くことができるのかということも、
不明確なままであった。事実、自然法といえば、そう呼ばれることはまれ
に過ぎなかったにしても、概ね理性法、すなわち理性の中に基礎を置き、
理性によって認識可能な法のことであった。ともあれ、自然法論の教える
自然法とは、概して、普遍的で常に有効な規範の総括概念、つまりは掟と
要請もしくは義務の複合体と考えられており、次にそれらにさらに所定の
権利(基本権、後には人権もしくは自由権と呼ばれる)が対応するのであ
る。
〈イデオロギー的〉には、この自然法は〈保守的〉に正当性を認知する
ためにも、
〈革命的〉に実定法を制限するためにも用いることができた。そ
して、自明のことながら、個々の内容、特にいわゆる基本法規は、常に議
論の余地を残したままなのである。
17世紀には、自然法論(たいていは、短縮して自然法と呼ばれた)は宗
教戦争と内戦の結果、超党派的審判の可能性として関心の的となる。オラ
ンダ人フーゴー・グロティウスは、画期的な著作『戦争と平和の法』De
jure belli ac pacis(1625)においてストア派の自然法論に遡り、それを手が
かりに三十年戦争の勃発直後にとりわけ国際法の基を築く。人間は、理性
を授けられた社会的存在であり、自然法もそこに依拠している、という説
である。イギリス人トマス・ホッブスは、自然法を『リヴァイアサン』
Leviathan(1651)において政治的な意図で用い、内戦の混乱を前に強力な
国家を要求する。国家が法規を定め、平和を保障するために、それ自体社
会的な存在である人間は、理性に基づいて、つまり利害を考慮して、社会
契約においては自分の強引な自己保存を放棄し、あらゆる権力を国家に委
ねることができるし、しなければならない、という論である。社会契約と
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ヴェルナー・シュナイダース編 啓蒙思潮事典
いうそれ自体古い理念を更新し、そこに含まれる自然的状態 status naturalisと市民的状態 status civilis とを区別することによって、ホッブスは18世
紀の自然法論の基礎を築いた。それが、自分の世界観的諸前提と政治的意
図、特に絶対主義に反するものであったとしても、である。ふたつの『市
民政府論』Treatise on civil gouvernment(1690)において自然法論を用
いて、立憲君主制の正当化を図ったジョン・ロックにしてもすでに、自然
法だけが支配する自然的状態をもはや万人が相争う状態と見なしてはいな
い。自然的状態においても、すでに神に与えられた基本的権利(生、自由、
財産)が存在するのである。フランスに生きたスイス人ジャン=ジャック・
ルソーは、その上、自然的状態を文化的状態の倒錯度を測る規範的牧歌と
見なしている。とはいえ、この状態も、社会契約を通して公共の意志 volonté
générale に定められる共和国に有利になるように放棄されなければならな
い。ルソーが拠り所にした自然とは、人間の自然のままの本性のことなの
である。
ドイツでは、自然法をめぐる議論は当初は控えめにグロティウスをめぐ
る議論、ホッブスをめぐる議論として始まった。ハイデルベルクで暫定的
に自然法と国際法の最初の講座を持っていたサムエル・プーフェンドルフ
によってようやく、自然法の根本的な革新が始まった。プーフェンドルフ
は、主として共同生活の必然性を引き合いに出しながら、これまでよりも
明白に存在と当為、道徳神学と自然法論、完全な義務と不完全な義務なら
びに人間の義務と市民の義務(
『人間と市民の義務』De officiis hominis et
civis 1693)の区別を行った。彼に続いたのは、クリスティアン・トマージ
ウスであり、幾つかの笑話に倣って、社会的にして合理的なる人間の本性
natura hominis socialis ac rationalis ないしは常識 sensus communis を引
き合いに出しながら、自然法を完全に神学から(神をその著者として否認
することなく)切り離し、法と道徳の最初の系統立った区別を自然法に定
められた強制の義務と愛の義務の区別として成し遂げた。この広く流布し
た自然法論に、次にクリスティアン・ヴォルフが独自の遠大に練り上げた
自然法の理論を対置する。その中で彼は、プーフェンドルフやトマージウ
スの主意主義の法解釈の代わりに、再び(すでにライプニッツがそうであ
ったように)合理主義的な法解釈を行い、法と道徳の区別を完全な義務と
不完全な義務の区別の有利になるように取り消そうと試みた。ヴォルフに
とって、人間は根本的に自分自身の掟であり、自己完成が最上位の律法な
― ―
144
関東学院大学文学部 紀要 第111号(2007)
のであった。彼の弟子たちは、とはいえ、概ねヴォルフ主義のモティーフ
をトマージウス主義のモティーフに結びつけ、特に政治的理由から、とり
わけ法の規範と道徳の規範の区別がますます押し通された。この区別をさ
らに行為の合法性と心情の道徳性の区別へと発展させたカントは、次にあ
らゆる規範を実践理性から導き出した。彼の義務倫理は、自然法もしくは
理性法の継続でもある。
(ヴェルナー・シュナイダース)
文献:H. M. Bachmann: Die naturrechtliche Staatslehre Christian
Wolffs 1977. H. Denzer: Moralphilosophie und Naturrecht bei
Samuel Pufendorf 1972. W. Schneiders: Naturrecht und
Liebesethik, Zur Geschichte der praktischen Philosophie im
Hinblick auf Christian Thomasius 1971. S. Zurbuchen:
Naturrecht und natürliche Religion, Zur Geschichte des
Toleranzbegriffes von Samuel Pufendorf bis Jean-Jaques
Rousseau 1991.
→ 社会契約 Gesellschaftsvertrag、法 Recht、
法と道徳 Recht und Moral、法学 Rechtswissenschaft
自然科学 Naturwissenschaft
『百科全書』Encyclopédie(1751)の序で、ダランベールは自然科学を
数学と物理学に細分類し、それによってさまざまな個別学問の発展水準の
違いを明確にしている。数学の部に該当するのは、ガリレイやニュートン
といった近代自然科学の創始者たちによって17世紀に定式化された自然事
象の数学的記述という課題が十分に解き明かされたすべての分野であった。
分析力学(静力学、動力学、水力学、気圧力学、音響学等)の各部門と隣
接するのは、幾何学的光学と天文学であった。特に力学は、18世紀末にほ
ぼ今日の水準に達した。その数学化は、コンドルセが1794年に〈純粋計算
の学〉と呼ぶことができるまでに完成していた。この発展が可能となった
のは、ニュートンとライプニッツが築いた微積分計算法を駆使できるよう
になって以来のことであり、それを利用して18世紀後半には惑星天文学の
天体力学への拡充も可能となった。
― ―
145
ヴェルナー・シュナイダース編 啓蒙思潮事典
数学的自然科学と隣接して、
〈ベーコンの科学〉と呼びうる分野が存在し
た。これに属するのは、物理学諸分野(数学の浸透はまだはるか先のこと
で、19世紀後半になってようやく達成されることになる)の他には、化学
および、動物学、植物学、生理学、解剖学といった医学的・生物学的諸学
であった。この分野では、完全にフランシス・ベーコンの趣旨に則って、
営々と新事実が収集され、絶えず実験技術の改善を重ねながら、一部華々
しいものも含む多くの発見がなされた。しかし、一般的に定評のある諸現
象の理論的説明に関しては、数学の言語での記述と同様に、さほど話題に
はならなかった。数量化の最初の助走に成功したのは、熱学では、熱量と
気温の精確な計測によってである。とりわけ、それによって潜熱が発見さ
れることになった(ブラック 1762)。そして電磁気学では、電荷間ないし
は磁極間の力の法則の算定によってである(クロン 1785)。とりわけ電気
(電気盆、ライデン瓶、強烈な火花放電発生用の静電発電機、直流通電療法)
と化学(当初は特別な空気の一種と見なされた様々なガスの発見)の分野
における発見と、それと結びついた華々しい応用(避雷針、電気療法、気
球飛行)のおかげで、これらのまだ数学化されていない自然諸科学も広く
世に知られることになった。それらは、サロンで人気の話題であり、物理
学の陳列室は18世紀の多くの学者の個人蔵書の不備を補った。
化学は、医学や薬学(医化学)
、鉱業や治金の数世紀に亘る手工業的・実
用的伝統の上に築かれてきたが、18世紀になると、術 Ars から学 Scientia へ
と発展した。化学的プロセスを数少ない普遍妥当的原理に還元する試みの
例に、ゲーテが『親和力』Wahlverwandtschaften で触れたジョフロワと
バークマンの親和力説とシュタールが築いたフロギストン説(燃素説)が
ある。後者は、80年代になってラヴォワジエの燃焼理論にその座を奪われ
た。自然科学的な現象を全体として観察する新たな方法(数学への応用は
大幅に放棄された)は、18世紀末と19世紀初頭にかけて、とりわけドイツ
とスカンジナビア諸国でシェリングの自然哲学の影響の下に始まった。こ
の〈思弁的物理学〉
(シェリング)を克服した後ようやく、一貫した数学化
という18世紀の力学で実用化に成功したプログラムが、多くの他の自然科
学諸分野でも広範に完成した。
(アンドレアス・クライネルト)
文献:A. Ferguson(Hg.)
: Natural philosophy through the 18th century
and allied topics 1972. T. H. Hankins: Science and the
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146
関東学院大学文学部 紀要 第111号(2007)
Enlightenment 1985. A. Kleinert: Mathematik und anorganische
Naturwissenschaften; in: R. Vierhaus(Hg.): Wissenschaften im
Zeitalter der Aufklärung 1985. H. Schimank: Der Werdegang
der Chemie im 18. Jahrhundert von der Ars zur Scientia; in: H.
Schimank u. C. J. Scriba: Exakte Wissenschaften im Wandel,
Vier Vorträge zur Chemie, Physik und Mathematik in der
Neuzeit 1980.
→ 自然 Natur、学問 Wissenschaft
ネオロギー(新解釈) Neologie
1740年頃から、ドイツのプロテスタント地域では旧プロテスタント正統
主義が退潮した。敬虔主義、ヴォルフ主義ならびにポリヒストリーを相続
したのは、教会の指導層(A. W. F. ザック、J. J. シュパルディング、W. A. テ
ラー、J. F. W. イェルサレム)や、60年代以降は大学(とりわけハレ)でも
確固たる地歩を占めたひとつの神学であった。ネオロギーという(蔑称的
な)名で呼ばれることはむしろまれではあったが、その目標は、伝統的な
キリスト教を啓蒙思想と結びつけることであった。フランスの無神論的唯
物論との違いは、ここにある。この〈理性的キリスト教〉を養ったのは、
反理神論的護神論(W. ウォーバートン、J. バトラー)、イギリスの道徳哲
学の〈崇高なプラトニズム〉(A. S. C. シャフツベリー、F. ハチソン)、イ
ギリスとオランダの宗教的寛容の経験であった。
ネオロギーは、自己経験としての、神の好意の〈内的な知覚〉としての
宗教に立ち戻る。その〈素朴さ〉は、形式的な権威を必要とせず、教会の
伝統と制度を宗教的・道徳的有効性に応じて、つまりは、個人の良心と信
仰の自由を求める宗教改革的主張に応じて、自由に裁量することができる。
ネオロギーは、まだ信仰告白の義務は保たざるをえないにしても、個人的
な敬虔さと学問的な方法と〈社会的な宗教〉とを区別する。いかにもプロ
テスタント的(ルター的もしくは宗教改革的ではなく)なことには、ネオ
ロギーは教権主義の支配に対しては宗教的成年に達したヒーローとしてル
ターを、教条的強制に対しては聖書と〈イエスの教え〉を引き合いに出し
ている。キリスト教の〈完全志向能力〉を確信しながら、新解釈者たちは
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147
ヴェルナー・シュナイダース編 啓蒙思潮事典
啓蒙絶対主義と連携して社会的進歩に、特に教理問答書や説教や賛美歌書
の教育的改革に、〈徳〉と〈幸福〉という二重の目標を掲げて打ち込んだ。
ネオロギーの後世に及ぶ成果は、聖書的終末論(〈救済史〉)や旧ヨーロ
ッパ的宇宙論と形而上学(
〈自然神学〉
)から離れて、
〈不死の魂〉の主張を表
明する新たな宗教哲学(J. J. シュパルディング『人間の使命』Bestimmung
des Menschen 1748)に加勢したことである。宗教の文化的自律性を立証す
ることで、一方では、理性と啓示(S. H. ライマールス)の自然主義的な二
者択一に対して、キリスト教の〈超自然性〉を保持することが可能になっ
た。その一方で、正統キリスト教的宗教が許したのは、いやそれどころか
要求したのは、ドグマをドグマ批判的で、倫理的・実践的方向に沿った、
〈大衆向き〉にも〈キリスト教の本質〉に精力を傾けた〈信仰理論〉に作り
変えることであった。ヒストリーは、伝統的な妥当性の諸要求をヒストリ
ー的に批判するものとなった。すなわち非党派的〈ドグマ史〉
(J. S. バウム
ガルテン)になり、終いには聖書の歴史的・批判的解釈学(J. S. ゼムラー、
J. A. エルネスティ、J. G. テルナー、L. Th. シュピットラー)にもなったので
ある。ネオロギー的関心は、神学的な諸部門の外部でも追求された。とり
わけ歴史的研究(J. D. ミヒャエリス、J. G. アイヒホルン)
、哲学(J. A. エー
バーハルト)
、教会の支配から自己を解放する世論、そして新たな文学にお
いてである。ネオロギーに異論を唱えたものには、敬虔主義的な神学者た
ちばかりでなく、J. G. ハーマンやG. E. レッシングなどもいる。ときには、国
家の宗教政策(ヴェルナーの宗教勅令 1788)もその一員であった。(ヴァ
ルター・シュパルン)
文献:K. Aner: Die Theologie der Lessingszeit 1929, Repr. 1964. K.
Feiereis: Die Umprägung der natürlichen Theologie in
Religionsphilosophie 1965. E. Hirsch: Geschichte der neueren
evangelischen Theologie Bd. 4, 1952, 5. Aufl. 1975. G. Hornig:
Handbuch der Dogmen- und Theologiegeschichte 1984.
→ プロテスタンティズム Protestantismus、
プロテスタント神学 Theologie(protestantische)
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148
関東学院大学文学部 紀要 第111号(2007)
オランダ Niederlande
オランダ共和国は、ヨーロッパ啓蒙理念の普及に重要な役割を演じた。
1680年から1750年まで、その地に拠点を置く出版社は、啓蒙思想文献のも
っとも重要な供給者であった。それと並んで、オランダ知識人は、ヨーロ
ッパの啓蒙思想の中で明らかに独自の特徴を示す啓蒙の伝統を発展させた。
啓蒙の思想財のフォーラムの役割は、寛容の度合いが比較的大きい成果で
あった。オランダ共和国には数多くの宗教的少数派が存在し、それらの間
には相互の寛容によってのみ保つことのできる微妙な均衡が成り立ってい
た。それ以上に、著しく地方分権的な構造(共和国は主権を有する諸地方
からなるひとつの連邦であった)のせいで、少数派に対する国家の断固た
る介入は実際に非常に困難であった。この寛容は、自国を去らなければな
らなかったすべての人々にとって、共和国を魅力的な避難所としたのであ
る。これは、特に1685年のナントの勅令撤回後のフランスの多くのユグノ
ー派の人々に言えることであった。ジャン・ルイ・ド・ロルム、ピエール・
ベール、アンリ・バスナージュ・ド・ボーヴァールといった出版人、学者、
ジャーナリストの努力のおかげで、オランダの出版社はすでに17世紀には、
ヨーロッパのラテン語書籍市場における重要な役割を充実させることに成
功していた。その上、共和国はフランス語の書籍や雑誌の分配中心地とし
ての機能をますます果たすようになっていた。1750年以後、共和国はこの
役割を失った。他の大半のヨーロッパ諸国においても寛容の度合が増した
結果、知的移住者の数が減少したばかりでなく、共和国は書籍印刷の分野
での技術的優位をも失い、それによって、ブイヨンやヌシャトルといった
製造コストの安い中心地がその地位を受け継いだのである。
オランダ啓蒙思想は、ふたつの段階に区別することができる。第一の段
階は、1650年頃に始まり、デカルト主義を受容し、使い尽くした点に特徴
があった。第二の段階は、経済的景気後退と国際的権力衰退の問題が特徴
で、1750年以後に成立した。17世紀後半の議論は、急進的なデカルト主義
の哲学者・政治理論家・自然科学者のグループがデカルトの諸著作から引
き出した結論に集中した。スピノザの著作や、アードリアーン・クルバッ
ハやローデウェイク・メイエルといったオランダの同傾向者の著作は、例
えば、理性の優位という土台の上で宗教から切り離した道徳を展開しよう
と試みた。ピーテル・ド・ラ・クールといった政治哲学者たちは、共和制
の国家形態を理論的に正当化しようと腐心した。終には、クリスティアー
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ヴェルナー・シュナイダース編 啓蒙思潮事典
ン・ハイヘンスやアンソニー・ファン・レーウエンフックといった自然科
学者たちは、自然科学と信仰の厳格な分離を訴えるに到った。この急進的
なデカルト主義者のもっとも重要な敵対者は、ユトレヒトの教授ヘイスベ
ルト・フーティウスに率いられた正統派カルヴァン主義者たちであった。
1670年頃まで、急進的デカルト主義者は主導権を保持していたが、その後、
デカルトの穏健な支持者たちが行軍を開始した。攻撃を急進的デカルト主
義者の陣営に向けることによって、この穏健な知識人たちは自分たちに加
えられた正統派カルヴァン主義者たちの攻撃を中立化しようと試みた。彼
らは、新たな哲学、政治理論、自然科学が無神論に行き着く必要はないこ
とを示そうと試み、既存の宗教的秩序の擁護者であることを示した。ヘル
マン・レールのような哲学者は、キリスト教があらゆる宗教的傾向のうち
でもっとも理性的であることを示す合理的神学を展開した。法律家ウルリ
ヒ・フーバーは共和制の国家形態の弁明書を起草し、ベルンハルト・ニー
ウエンタイトのような自然科学者は近代自然科学と聖書が完全に一致する
ことを断言した。彼らは、急進的デカルト主義者たちがでっち上げた唯物
論的宇宙を近代自然科学的認識と一致しないものとして退けた。しかし、
理性と宗教のこの初期オランダ的妥協は、ヨーロッパ啓蒙思想の中では何
の役割も演じないに等しかった。ひとつには、これはこの議論に使用され
た言語によって説明がつく。それよりもずっと重要なのは、その特殊オラ
ンダ的な性格であった。妥協は、ヨーロッパで類を見ないオランダの宗教
的・政治的事情に適っていた。オランダでは、聖書研究は説教壇から奨励
され、識字率は高かった。さらに、すでに述べたように、相互的寛容が存
在したのである。
18世紀後半には、理性と信仰のこの妥協はまったく奇妙な広がりを得た。
共和国の経済的景気後退と、とりわけ、オーストリア継承戦争後に明白に
なったヨーロッパの政治力学の場での著しい影響の低下が、オランダの啓
蒙思想議論に後々まで残る影響を及ぼした。知識人たちは、この景気後退
と重要性喪失のプロセスを経済的・政治的概念で捉えることができず、そ
の代わりに道徳的退廃を主原因と見なした。共和国の諸問題の最善の解決
策は、啓蒙思想のメッセージを告知することと考えられた。そのメッセー
ジとは、人間の完成能力への信仰に基づいて、理性と宗教に支えられた道
徳を治療薬として推奨するものなのである。事実、例えば公共有用協会
Maatschappij tot Nut van’
t Algemeen のようなあらゆる学術アカデミー
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関東学院大学文学部 紀要 第111号(2007)
や改革を目指す団体の音頭をとったのは、そのような見解であった。ベチ
ュ・ウォルフやレインフィス・フェイトのような啓蒙作家たちは、自分た
ちの小説をこの理念の普及に利用した。その後、1795年にフランスの援助
で実現したバタヴィア革命では、ヨーロッパ啓蒙思想のこのヴィジョンは、
社会秩序の改革の導きの糸ともなった。
(ウェイナント・W. メインハルト)
文献:M. C. Jacob und W. W. Mijnhardt(Hg.)
: The Dutch Republic in
the Eighteenth Century: Decline, Enlightenment and Revolution
1992. T. Verbeek: Descartes and the Dutch, Early reactions to
Cartesian philosophy 1992.
有用(有用性) Nutzen
有用(有用性)は、啓蒙思想の中心概念である。とはいえ、たいていの
枢要概念同様、主題として扱われることはごくまれである。後世には悪名
高いこの有用思想――今日ならば、効率 Effektivität、有意性 Relevanz、あ
るいは意義 Sinn とさえ言うところだろう――の背景は、形而上学から人間
学へ、理論から実践へという、近代とともに始まる哲学の方向転換である。
この関連で言えば、18世紀末頃にはすでに月並み、幼稚と軽蔑されたもの
の、有用を問うことは、スコラ学者の思弁、いわゆる〈スコラ的妄想〉や
宗派主義の際限のない信仰論争に疑問を投げかけるのに、格好のやり方で
あった。この限りでは、有用は空虚さ(〈Vanität〉)の対立概念でもある。
有用性を言い立てる背後には、少なくとも元来は意味の問い(事実、現代
言語分析哲学もある種の問いを単純に〈意義なし〉で片付けようする)が
潜んでおり、有用は実際、後に現代のプラグマティズムで明白になるよう
に、真実の判断基準に格上げされる。同時に、有用性を言い立てることは、
常にではないにせよ、ある種の気取った慎ましさの表れでもある。例えば
哲学は、
〈必要で、有用なもの〉に自己限定するとよく言われる。形式の点
では、有用性の考えは、実践的・機能的考えである。有用とは相関概念で
あり、いわゆる相対的善 bonitas respectiva(ヴォルフ)あるいは〈外的
合目的性〉
(カント)といった具合に、あることとあることの肯定的・生産
的関係を表現するものなのである。その際、啓蒙思想にとって問題なのは、
概して、単なる個人的有用ではなく、例えば有用な市民に教育することな
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151
ヴェルナー・シュナイダース編 啓蒙思潮事典
のである。生じることはすべて〈人類全体の利益のために(in utilitatem
generis humani)
〉に生じなければならない、ということである。より正確に
言えば、
〈真〉の私利益(有用)と〈真〉の公共利益(有用)は、結局は一
致する、ということである。これは、ほとんどすべての功利主義的・幸福
主義的倫理の前提である。それゆえ、自分自身の〈真〉の利益(有用)を
求める努力は公共の幸福(マンデヴィル、エルヴェシウス、ベンサム)に
繋がるのである。そして、概して問題なのは、経済的な利益(有用)ばか
りではない。けっして現世の利益(有用)だけはない。例えば、一種の総
計で、魂の救済(来世の報い)も、したがって〈利益(有用)と敬虔〉も
しくは神の栄光も問題なのである。これは、神が自らの被造物から手にす
るいわば唯一の〈利益(有用)
〉である。(ヴェルナー・シュナイダース)
文献:G. Jüssen u. O. Höffe: Nutzen, Nützlichkeit; in: Histor. Wörterbuch d. Philos. Bd. 6, 1984.
→ 倫理/道徳哲学 Ethik/Moralphilosophie、幸福 Glück
公共圏
Öffentlichkeit
公共圏とは、世論が形成される場である。不均質な市民諸層の興隆に伴
って、公共圏の概念 esprit public, public sphere は、啓蒙の時代に大きく意
味が変化する。パリのサロン、ロンドンのカフェー・ハウス、ドイツ学識
者のテーブル・パーティーは、ヨーロッパの書籍出版業の急速な発展を通
じて拡大された。廷臣という〈公人〉は、上り坂にある市民という私人に
よって補充され、一部はすでに取って代わられた。それに伴って、私と公
の領域の境界線が消失したのである。この展開において決定的なのは、地
域的な境界を乗り越え、身分の違いを無視し、公共の構造を著しく変更す
る開かれた議論であった。
フランス絶対主義、イギリス立憲主義、ドイツ貴族支配といった相違に
かかわらず、議論的性格は全ヨーロッパ啓蒙思想運動の主要な特徴であっ
た。イギリスでは議会とカフェー・ハウスが、フランスではヴェルサイユ
宮殿とサロンが(身分的な)代表機関の役割を果たしたが、その一方、小
邦国家に支配され市民経済が脆弱なドイツは、別の諸前提の下にあった。
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関東学院大学文学部 紀要 第111号(2007)
首都がないために、ドイツ語圏では公共圏は別の方法で創出されなければ
ならなかった。他の諸国に増して、ドイツ諸領邦での啓蒙思想の浸透は、
主として書物によるところが大きかった。私的領域が公的領域になって、
ようやく文筆文化は非公開的な官房統治の対抗勢力となり、これまでに増
して検閲の対象となったのである。
この時期の発展に共通する前提のひとつは、あらゆる人間に付与された
悟性と理性の価値引き上げである。同時に18世紀には、公共圏概念の新定
義を強いられるほど急速に出版活動が増大する。この発展は、クリスティ
アン・トマージウスの『月刊雑話』Monatsgespräche(1688−1690)とと
もに始まり、『メルキュール・ド・フランス』Mercure de France に倣っ
た CHr. M. ヴィーラントの『ドイツのメルクーア』Teutsche Merkur
(1773−1810)にまで及んでいる。
『一般ドイツ叢書』Allgemeine deutsche
Bibliothek(1765−1805)および『ドイツ博物館』Deutsches Museum と
共に、『メルクーア』は啓蒙思想と大衆化と娯楽に力点を置きながらドイ
ツ・ジャーナリズムの新時代を導いた。スタイルと目標読者の点では、こ
の新しいタイプの定期刊行物は、例えば『アクタ・エルディトルム』Acta
eruditorum やイギリスの手本に倣い1760年までは人気のあった道徳週刊誌
Morarische Wochenschrift(例えば『ビーダーマン』Biedermann)のよ
うな学術的定期刊行物とは異なっていた。匿名だが学識のある公衆が、学
者サークルと地域的限界のある読者サークルを引き継いだ。国民的な影響
力を主張するためには、広範なテーマ設定、新たな形式、別の編集原理が
求められ、それには大勢の有能な協力者が必要であった。啓蒙的文筆文化
の役目は、人間とは批判的に思考する社交的な存在である、という規定を
実現することであった。この新たな公開の原理は、カントの箴言「他の人
間の権利 Recht に関係づけられた行為はすべて、その原則が公開と折り合わ
ないので、不正 unrecht である」(『永遠の平和について』Zum Ewigen
Frieden 1796)の中で的確に表現されている。これに従えば、公的にも正
当化できるものだけが、合法なのである。この原理は、倫理的であると同
時に法律的でもあり、原理的にはモラルと政治の両方を顧慮している。ド
グマ的な硬化ではなく、合意と寛容が望ましいのであった。最大限に可能
な理性の文化は、このように、最大限に可能な公開に基づいているのであ
る。不可欠の前提は、言論と出版の自由であり、これらは一段と基本的人
間の権利と解されるようになった。こうして、
(文書による)公共圏は社会
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153
ヴェルナー・シュナイダース編 啓蒙思潮事典
的変革の媒体ともなるのである。(ジョン・A・マッカーシー)
文献:C. Bürger u. a.(Hg.): Aufklärung und literarische Öffentlichkeit
1980. R. Darnton: The Literary Underground of the Old Regime
1982. E. Françoise(Hg.): Sociabilité et société bourgeoise en
France et en Suisse, 1750-1850, 1986. J. Habermas: Der
Strukturwan-del der Öffentlichkeit, 3. Aufl. 1973. O. Negt u. A.
Kluge: Public Sphere and Experience: Analysis of the
Bourgeois and Proletarian Public Sphere 1993. L. Hölscher:
Öffentlichkeit; in: Gesch. Grundbegtiffe Bd. 4, 1978. F.
Schneider: Pressefreiheit und politische Öffentlichkeit 1966.
→ 社交 Geselligkeit、市民社会 Gesellschaft(burgerliche)、
ジャーナリズム Presse
経済 Ökonomie
18世紀初頭には、Ökonomie と Wirtschaft(ともに現在、経済の意で用
いられる)の概念はまだ家庭と家計の意味領域にあった。〈Ökonom
(Ökonomie を掌る人)〉という言葉は、したがって、家父長を範にして理
解された。後者は、家族の暮らしを自身の労働によって保障し、家政を切
り盛りする人の意であり、ギリシア語の oikos(家)からの派生した概念
である。その直近の概念は、職人が経済主体からけっして除外されていな
かったにせよ、農民の農場経営であった。その一方で、この概念は明らか
にいかなる営利活動とも、すなわち、自然に密着した生ともはや直接的な
関係を有していない商業・金融活動とも一線を画していた。家政とは、し
たがって、必ずしも農業だけに限定されなければならない概念(農業経済)
ではなく、その活動が手工業的であり、天然の産物に基づいたものなら、
いわゆる都市経済のひとつと解することもできた。とはいえ、けっして都
市的な生業全体という意味ではなかった。この世紀半ばに発達する商人著
作は、しかし、純粋に実践的な性質のものであり、旧家父長著作に直接結
びつく近代の国家学の外側で生じた。
〈行動学〉が日常的実践に根差したま
まなのに対して、〈経済学〉は学術体系の確固たる構成要素に発達した。
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関東学院大学文学部 紀要 第111号(2007)
18世紀を通した概念の変化は、概して、ふたつのプロセスに特徴づけら
れていた。まず第一に、家父長の概念は領主に転用され、その際、御料地
は家長的な保護の対象と解釈を変えられた。ここでは、しかし、Wirtschaft
の語が好んで用いられた。この発展の影響は、ユスティツの研究
『Staaswirtschaft(財政)』(1755)に表れている。Staatsökomomie とい
う言葉は、引き続き、農業にしか用いられなかった。第二に、Wirtschaft
の概念も、国家の生命力と国家の特権の発達にともなってさらに拡大され
た。この世紀の末になってようやく、一方では統治の根拠としての国家と、
他方では市民が独立して行動する、国家から解放された領域としての市民
社会とが、はっきりと分離し始めた。富は、以前のように用心深い国家元
首の賢明な政策の成果ではなく、今や市民の自主的な活動の産物と捉えら
れた。経済の新たな学説が成立し、人間が需要を充たそうと努めるときに
従う諸規則を示そうと試みた。この新学説は、1805年のL. H. フォン・ヤー
コ プ と C. フ ォ ン ・ シ ュ レ ー ツ ァ ー に よ る 体 系 的 著 作 に 従 っ て 、
Nationalokönomie(国民経済学)の名で呼ばれた。それに伴って、経済学
を定義する幾つかの概念が流通した。Nationalökonomie(国民経済学)、
Politische Ökonomie(政治経済学)、Volkswirtschaftslehre(国民経済
論)、Staatswirtschaftslehre(財政学)がそれである。これらは、19世紀
を通して、一部は同義語として、あるいは微妙な概念的差異を表すために
用いられた。(カイト・トリーベ)
文献:J. Burkhardt: Wirtschaft V; Gesch. Grundbegriffe Bd. 7, 1992.
H. L. Stoltenberg: Zur Geschichte des Wortes Wirtschaft,
Jahrbücher für Nationalökonomie und Statistik Jg. 148, 1937.
K.Tribe: Governing Economy, The Reformation of German
Economic Discourse 1750-1840, 1988.
→ 商業 Handel、リベラリズム Liberalismus、
重農主義 Physiokratie
オーストリア
Österreich
オーストリアでは、啓蒙の時代に深刻な社会的・政治的変化のプロセス
― ―
155
ヴェルナー・シュナイダース編 啓蒙思潮事典
が生じた。とはいえ、ここで改革のために呼び出されたのは、哲学ではな
く、実践そのものであった。事実、マリア・テレジアは国家と社会の革新
に着手しなければならなかった。特にオーストリア継承戦争の間に他の諸
国に対する遅れが明らかになっていたからである。中央集権化と官僚機構、
領地および行政の改革、全体的義務教育および国家的学制の導入といった
さまざまな措置によって、これまでの連邦的なオーストリアは、自治を大
幅に削減し、同時に国家公務員と官僚の権力を強化した中央集権的な統一
国家に改造されなければならなかった。この啓蒙絶対主義の改革の本質的
貢献は、一部の下層階級をも含む中間層を生来の政治的な無関心から引き
出し、政治参加への意欲を強化したことであった。その際、これらの集団
の政治意識の形成のためには、とりわけ18世紀の70年代から顕著になった
政治色化が重要となった。これは、啓蒙著述家の社会的影響の拡大や政治
的な諸問題への関心の増大といった、さまざまな次元で明白な展開であり、
特に協会や団体がここでは重要な役割を果たした。これらの啓蒙結社は、
文学的、学問的、実践的・経済的、哲学的・倫理的諸傾向を有し、啓蒙的
議論のフォーラムを形成した。
ヨーゼフ二世は、1780年以後、啓蒙思想の影響を受けた諸改革を母より
もさらに推し進めた。彼にとって国家とは最上位の目的であり、すべてが
それに従属し、いかなる歴史的権利もその犠牲にならねばならなかった。
彼の革新の及ぶ先は、官僚機構のさらなる中央集権化、都市や身分制議会
による自治機構を意図的に排除した領地および行政の改革、法秩序の統一
化、農奴身分の廃棄、貴族の特権の廃止、宗教的寛容、国家による福祉、
国家と教会の関係の再調整、検閲の緩和であった。検閲を緩和は、
〈すべて
を国民のために、何ものも国民によらず〉という原則に従って、文学を改
革絶対主義に役立てる意図によるものであった。
素朴な人々の間に強い反発を招いたのは、反宗教改革の余波を最終的に
除去し、国家に依存した教会を作ろうという皇帝の教会政策であった。特
に、民衆の宗教的諸習慣への干渉は、民衆を憤激させ、反抗を誘発した。
この一連の改革(ヨーゼフ主義)が進行する中で、啓蒙思想の理念の影響
を受けて、統治に関する理解も著しく変化した。ヨーゼフ二世は、もはや
自分を国家の〈所有者〉ではなく、
〈第一下僕〉と見なしていた。正当性を
認知するのは、もはや神の恩寵ではなく、統治者の地位と一緒に継承した、
国家と臣民に対する義務と課題を果たすことなのであった。
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関東学院大学文学部 紀要 第111号(2007)
学校および大学改革の目標は、統治システムの能力強化であった。さら
に文学においても、啓蒙思想の影響は免れずにはおかれなかった。すでに
マリア・テレジアの下で、ヨーゼフ・フォン・ゾンネンフェルスが、ドイ
ツ文学とドイツ演劇に対する理解の促進を試みていた。詩作においては、
とりわけフランスとドイツの先例が模倣された。1741年にはブルク劇場が
設立され、ここではオペラも演目に数えられた。ジャーナリズムも、ヨー
ゼフ二世の下では非常に活発であった。検閲の緩和によって、啓蒙の理念
が流れ込むための門が開かれ、ヨーゼフ二世はジャーナリズムを道具とし
て利用し、自分の改革を宣伝し、世論に影響を及ぼしさえした。音楽では、
イタリアの模範と並んでドイツのオペラ音楽をも浸透させるのに成功した。
美術では、18世紀後半にオーストリア・バロックの時代が徐々に終焉に向
かった。それでも後期バロックが、まだ幾つかの注目すべき作品を生み出
していた。ヨーゼフ二世は、死の直前に自分の改革の大部分を撤回しなけ
ればならなかったが、それでも社会的に複雑な構造を持つ帝国をその没落
の時までひとつに支えたあの官僚機構という遺産を残したのである。
(ヘル
ムート・ラインアルター)
文献:E.Kovacs(Hg.): Katholische Aufklärung und Josephinismus
1979. H. Matis(Hg.): Von der Glücklichkeit des Staates, Staat,
Wirtschaft und Gesellschaft in Österreich im Zeitalter des
aufgeklärten Absolutismus 1981. R. G. Plaschka u. a.(Hg.):
Österreich im Europa der Aufklärung, 2 Bde., 1985. H.
Reinalter: Österreich im friderizianischen Zeitalter 1986.
H.Reinalter(Hg.)
: Die Aufklärung in Österreich 1991. E. Zöller
(Hg.): Österreich im Zeitalter des aufgeklärten Absolutismus
1983.
パリ
Paris
18世紀末のパリの住民数は、信頼できる算定によると、約60万人である。
この都市は、すでに多くの製作所や工房(例えば、タピスリー工房)を、
したがって多数の労働者を有していた。同時代者は、聖職者や修道院の多
いことに驚いている。また女中の数も非常に多かった。大学街は、多くの
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157
ヴェルナー・シュナイダース編 啓蒙思潮事典
学生を引き寄せた。外来者は、とりわけある角度から見た歴史的建造物や
邸宅・宮殿の美しさに感動したが、この都市は多くの点で相変わらず中世
的であり、田舎的であった。多くの悲惨、汚濁、暴力が支配していたこと
は、レティフやメルシエおよび警察の文書館が証言するところである。通
行料徴収所がある稜堡や要塞の帯域に取り込まれると、この都市は急速に
発展する。1760年には、真の建設ラッシュが始まった。そして幾人かの大
建築家がその際に才能を発揮した。建物は往々にして 8 階に達している。
街路は非常に活気があるが、大雨の際には急流に変わり、夜間には照明が
乏しかった。この世紀後半の30年間には再開発(下水網、墓地)への意欲
が表明され、幾つかの橋が建設され、家屋番号が付される。しかし水は、
相変わらずセーヌ川(浄化が試みられているものの)から引かれ、ポンプ
で井戸へと導かれている。上質の水は、
〈水売り〉の売り物である。
こうした旧弊は、同時代の他の大都会にも見て取れるが、それでもパリ
はモードや工芸品(例えば、家具の類やアクセサリー)の法則に決定的役
割を果たす。パリの芝居とオペラはヨーロッパ中に知られ、外国の侯爵た
ちでさえも演目や出演者の情報に通じたがる。大学都市としては極めて伝
統的なものにとどまっていたが、文化と文芸の地、そして同時に〈啓蒙
Lumiéres〉の発祥地なのである。ガリアーニ師は、政府によってナポリに
呼び戻されると、悲嘆に暮れる。文学的生活はサロンに掌られ、ブルジョ
ワ階級や貴族の貴婦人たちが作家やもっとも優れた思想家たちをそこに集
わせる。これらの傑出した人物たちと並んで、注文や企画によって生計を
立て、小冊子類の文学、特に自由思想家的内容の文学を制作する一群の文
筆家たちが存在する。パリにおける折々の話題の出来事は、地方や外国の
関心をも惹きつける。様々な書簡や私的な備忘録に見て取れるように、人々
は貪欲に最新のものを期待する。パリは、カラッチョリの言葉を借りれば、
明らかに〈ヨーロッパ・フランセーズ〉の中心なのである。
(ロラン・モル
ティエ)
文献:A. Farge: Vivre dans la rue à Paris au XVIIIe siècle 1979. P.
Gaxotte: Paris au XVIIIe siècle 1968. D.Roche: Le peuple de
Paris, Essai sur la culture populaire au XVIIIe siècle 1981.
→ フランス Frankreich
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