マーシュホテルパリ

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1.品 川 駅 の歴 史
品 川 駅 は、わが国 の鉄 道 駅 の中 で、最 も古 い駅 で
あります。明 治 5(1872)年 10 月 14 日 新 橋 、横 浜 間
の6駅 中 、新 橋 からの最 初 の駅 として開 業 。木 造 平
屋 2棟 、現 在 の位 置 よりやや横 浜 方 、海 に面 したの
どか な 駅 で 、 駅 前 線 路 の 築 堤 か ら 釣 も できま した。
品 川 駅 からすぐ海 岸 線 が迫 り、 海 上 の 築 堤 上 を 走
って行 き、のどかな風 景 が望 めました。
2.高 輪 プリンスホテル 貴 賓 館
鹿 鳴 館 時 代 を想 わせる品 格 のある建 物 のこれは「貴
賓 館 」と呼 ばれ、ジョサイア コンドルに師 事 して、赤
坂 離 宮 (現 迎 賓 館 )を設 計 した片 山 東 熊 氏 がこれも
設 計 したものです。明 治 43 年 に完 成 し、フランス・バ
ロック様 式 といわれています。現 在 は結 婚 式 やミニコ
ンサートなどに使 われ、ホテルに断 れば内 部 も見 るこ
と が で きま す。 この 敷 地 は 、 明 治 に 入 っ て か ら 北 白
川 ノ宮 の屋 敷 のあったところです。江 戸 期 は隣 のパ
シフィックホテルも含 めて薩 摩 藩 下 屋 敷 のあったところで、慶 応 4 年 3 月 14 日 に、西 郷 隆
盛と勝 海 舟 が江 戸 城 無 血 開 城 について会 見 が行 われたところです。
3.東 禅 寺 イギリス公 使 館 跡
れい な ん ぜ ん じ
東 禅 寺 は、徳 川 家 康 、秀 忠 の禅 学 の師 であった嶺 南 禅 師 が虎 ノ門 に開 山 したのち、1636
年 にこの地 に移 転 してきた。禅 宗 の大 寺 院として、多 くの大 名 家 が菩 提 寺 としており、12 家
の大 名 墓 地 があったと言 われています。現 在 でも、
日 向 飫 肥 藩 、備 前 岡 山 藩 池 田 家 、伊 予 宇 和 島 藩
伊 達 家 の大 名 墓 群 がある。安 政 6 年(1859)にイギリ
ス公 使 館 が置 かれた。同 寺 は攘 夷 派 に志 士 達 の標
的となり、2度 の襲 撃 事 件 が起きている。1度 目 は水
戸 藩 脱 藩 の攘 夷 派 浪 士 有 賀 半 弥 ら 14 名が押 し入 り、
書 記 官 や領 事 が殺され、英 国 公 使 オールコックは、
あやうく難を逃 れた。彼 はアメリカのハリス、フランスの
ベルクール、オランダのデウィト各 公 使 たちと共 に幕
府 へ強 硬 な抗 議 をした結 果 、日 本 側 警 備 兵 の増 強 、
賠 償 金 1万 ドルの支 払 いという条 件 で事 件 は解 決をみた。2 回 目 は、東 禅 寺 警 備 の松 本
藩 士 伊 藤 軍 兵 衛 が起こした事 件 で、警 備 により自 藩 が多くの出 費を強 いられている事 や、
外 国 人 のために日 本 人 同 士 が殺 し合 う事を憂 い、公 使 を殺 害 し自 藩 の東 禅 寺 警 備 の任
を解 こうと考 えた末の犯 行 で、警 備 のイギリス兵 2 人 を戦 闘 の末、倒 したが自 らも負 傷 し、
番 小 屋 で伊 藤 は自 刃 した。オールコックや後 任 のハリー パークスたちが駐 在 した奥の院
は、当 時 のまま残 されている。この時 期、外 国 人 殺 傷 事 件 が相 次 いでおこり、3ケ月 後 の文
久 2 年 8 月 21 日 には生 麦 事 件 が起きている。
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4.高 輪 消 防 署 二 本 榎 出 張 所
港 区 の重 要 歴 史 建 造 物 にも指 定 されている高 輪 消 防 署 二 本 榎 出 張 所 で、
昭 和 8年 に完 成 され、都 内 で唯 一 望 楼 が残 されている消 防 署 です。内 部 も
外 側 のデザインも丸 い曲 線 を多 く使 っており、建 築 上 ドイツ表 現 派 といわれ
ています。高 層 ビルのなかった時 代、海 の方 から見 て「陸 の上の軍 艦 」といわ
れていたそうです。内 部 はアールヌーボー風 の曲 線 の高 い天 井 で古 いガス
燈もそのまま保 存されています。
5.承 教 寺
元 禄 文 化 を代 表 する画 家、英 一 蝶 の墓があり、都 の旧 跡に指 定 されている。
一 蝶 は承 応 元 年(1652)伊 勢 亀 山 藩 の侍 医の子 として大 阪 の藩 邸 で
生 まれた。15 歳 で父とともに江 戸に出 て、狩 野 安 信 に絵 画 を学 んだ。
絵 画 のほかにも書 や俳 諧、音 曲 に優 れた才 能 を発 揮 して、風 流 人 と
して名 声が高 まり、芭 蕉 らの元 禄 文 化 人 とも交 流 が深まった。しかし、
「当 世 百 人 一 首」「浅 妻 船」などの作 品 が、五 大 将 軍 綱 吉 や大 奥を風
刺 しているとされ、三 宅 島 に流 罪となった。流 人 生 活 中 でも絵 を描 き
続 け、12 年 後、綱 吉 死 去 に伴う恩 赦 で、58 歳 にして江 戸 に帰った。
その後、一 蝶と名 のり、人 気 絵 師 として 73 歳 で没 するまで狩 野 派 の
大 家 として描 きつづけた。
き ん き し ょ が ず びょうぶ
き ん き し ょ が み た て び じ ん ふ う ぞ く ず びょうぶ
名 作「琴 棋 書 画 図 屏 風 」「琴 棋 書 画 見 立 美 人 風 俗 図 屏 風 」(右 図)は
有 名 である。
6.泉 岳 寺
1612(慶 長 17)年、徳 川 家 康 が今 川 義 元 を弔 うために門 庵 宗 関 和 尚
(今 川 義 元 の孫 )を拝 請 して、外 桜 田 に創 建 。1641(寛 永 18)年 、寛
永 の大 火 によって焼 失 したことで、この地 に移 転 した。創 建 時 は七 堂
伽 藍 を完 備 し、諸 国 の僧 侶 が参 学 する学 寮 でした。「それまではただ
の寺 なり泉 岳 寺」と川 柳 に読まれたように、元 禄 15 年(1702 の赤 穂
浪 士 の吉 良 邸 討 入 り後 、日 本 中 に知 れわたった。討 入 りした義 士 た
ちは預 け置 かれた大 名 家 で切 腹 したが、主 君 浅 野 内 匠 頭 が眠 る同
寺 に大 石 蔵 之 助 ら46名 の志 士 たちは並 んで葬 られた。戒 名 にはい
ずれにも「刃 」「剣 」の文 字 が使 われている。関 係 者 への報 告 役 であった足 軽 の寺 坂 吉 衛
門 は但 馬 の大 石 夫 人 に顛 末 を伝 えたのち自 首 したが不 問 に付 され、放 免 となり、秋 月 家
に奉 公し 74 歳 まで長 寿 した。毎 年 12 月 14 日と 4 月 1~7 日 に赤 穂 義 士 祭 が開 催される。
7.大 石 内 蔵 助 切 腹 の地
当 地 は大 石 内 蔵 助 ら 17 名の赤 穂 浪 士 が切 腹 した熊 本 藩 細 川 越 中
守 の下 屋 敷 でした。細 川 家 は大 石 たちが切 腹 するまでの間 、彼 らを
丁 重 にもてなしたと言 われています。細 川 邸 は 54 万 石 の大 名 家にふ
さわしく、この付 近 を敷 地 とする広 大 なものでした。明 治 から大 正 にか
けては高 輪 御 所 になったこともあり、現 在 も高 松 宮 邸 が近 くにある。
敷 地 内 にはシイやいちょうの大 木 が生 い茂 っている。これは震 災 や戦
災 を免 れた幸 運 もあるが、ここが旧 大 名 家 や皇 室 の用 地 であったこと
から開 発 の波を受 けずに済んだからといわれています。
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8.覚 林 寺
覚 林 寺 は寛 永 8 年(1631),熊 本 藩 の中 屋 敷だった当 地に日 延 上
人 が開 いた寺 であり,祀 っているのは熊 本 藩 主 の加 藤 清 正 である。
文 禄 元 年 (1592)から始 まった朝 鮮 出 兵 で清 正 は二 番 手 で一 万 の
兵 を率 い,朝 鮮 に渡 った。その後 ,破 竹 の勢 いで首 都 京 城 に達 し
た。だが,しばらくすると日 本 軍 の旗 色 が悪 くなり,帰 国 命 令 が出 る。
慶 長 2 年 (1597)に秀 吉 は再 び朝 鮮 出 兵を命 ずる。清 正 は再 度 一
万 の兵 を率 いて朝 鮮 半 島 へ上 陸 するも,前 回 とは違 い,初 めから
苦 戦 続 きであった。明 の大 軍 に襲 われ,九 死 に一 生 の思 いで帰 国
した清 正 は,6 歳の女 の子と 4 歳 の男の子を連 れて帰った。この 4 歳 の男の子 が,後の日
延 上 人 である。何 故 ,清 正 が王 族 の子 供 を日 本 に引 き連 れてきたのかは謎 だという。親 と
離 ればなれになって日 本 にやってきた日 延 は,日 蓮 宗 に帰 依 していた清 正 の計 いにより,
千 葉・小 湊 の日 蓮 宗 誕 生 寺 に入 門 し,やがて最 高 位 の 18 代 貫 主 までつとめあげた。貫 主
を退 きのいた後,加 藤 家 の下 屋 敷 の一 角に覚 林 寺を開 く。彼 は,この寺 で 30 年 ほど余 り,
寺 の境 内を花 畑 にしたりして静かに余 生を過 ごしていたという。
9.立 行 寺
天 下 のご意 見 番 で有 名 な大 久 保 彦 左 衛 門 (1560-1639)は三 河 松 平 家 の家 臣の家 に生ま
れました。(彼 の実 兄 は小 田 原 城 主 大 久 保 忠 世)彼 は多 くの兄たち
とともに家 康 に従って数 々の戦 さで活 躍 し、家 康を守 って徳 川 幕 府 の
成 立 に多 大 の貢 献をしました。しかしひとたび平 和 な時 代 が訪れると
時 代 は武 威 に優れた者 よりも政 治に必 要 な官 僚 を求 めるようになりま
した。大 久 保 家 は所 領 を減 らされ閑 職 に追 いやられて不 遇 な時 代 が
続 きました。また家 康 が苦 労をしていた頃に家 康を裏 切 ったりしたよう
な元 家 臣 が復 権 して高 い地 位 に付 いたりしているのを見 るにつけ彦
左 衛 門 の憤 懣 は募 るのでした。その彦 左 衛 門 に光を当 てたのは家 康
の孫・三 代 将 軍 家 光 です。彼 は彦 左 衛 門 を自 分 の伽 衆に加 え、祖 父
家 康 公 の話 や戦 国の世 の苦 労 話 などを進 んで聞 いたと言 われていま
す。神 田 の駿 河 台 に屋 敷を構 えていましたが、隠 居 後 は、現 在 の八
方 苑 の地に住 み79歳 まで長 寿 しました。一 心 太 助 は実 在 の人 物 で、
若 いころ大 久 保 彦 左 衛 門 の草 履 取 りだったという説もある
彼もここ立 行 寺 に眠っております。
10.大 信 寺 ・石 村 近 江 の墓
石 村 近 江 は、名 工 として知 られた江 戸 時 代 の三 味 線 製 作 者 でした。
石 村 家 は代 々名 を継 いだが、とくに2代 から5代 までは名 工 と謳 われ
ました。バイオリンで言 えば、アントニオ・ストラディバリに匹 敵 すると評
価 する人 もいます。3代 目 が作 った作 品 の「雷 電 」、「小 蝶 」は紀 伊 国
屋 文 左 衛 門 に愛 用 されたと言 われております。3代 が初 期 に製 作 し
た三 味 線 は「古 近 江」と呼 ばれて特 に珍 重されています。
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11.長 松 寺
お ぎ ゅ う そ らい
荻 生 徂 徠 のお墓 があることで有 名。徂 徠 は柳 沢 吉 保 や八 代 将 軍 徳 川 吉 宗 への講 学 や政
治 的 助 言 者 として活 躍 した儒 学 者。赤 穂 浪 士 の処 分 裁 定 論 議 で、賛 美 助 命 論 が高 まる
中、徂 徠 は「義 は自 分 を正 しく律 するための道 であり、法 は天 下を正 しく治 めるための基 準
である。今、赤 穂 浪 士 が主 君 のために復 讐するのは、武 士 としての義 を知 るもので、それ自
体 は理 に適 うものである。だが、それは彼 ら見 た論 理 にすぎない。そもそも浅 野 長 矩 は殿 中
をも憚らず刃 傷 に及んで処 罰 されたのに、これを赤 穂 浪 士 は吉 良 上 野 介を仇 として幕 府の
許 可 も得ずに騒 動を起 こしたのは、法として許 せぬことである。今、赤 穂 浪 士 の罪 を明 らか
にし、武 士 の礼 でもって切 腹に処 せられれば、彼 らも本 懐 であろうし、実 父 を討 たれたのに
手 出 しすることを止 められた上 杉 家 の願 いも満 たされよう。そして、忠 義 を軽 視 してはならな
いという道 理も立 つ。これこそが公 正 な政 道 というものである」と私 義 切 腹 論 を主 張 し、これ
を綱 吉 が採 用 して赤 穂 浪 士 の切 腹 が決まった。
12.済 海 寺 ・フランス公 使 館 跡
済 海 寺 は第 26 番 江 戸 観 音 霊 場 札 所 として知 られた浄 土 宗 の寺 院 。
安 政 6年 (1859)日 仏 修 好 通 商 条 約 によりフランス公 使 館 が置 かれま
した。伊 予 松 平 家 の菩 提 寺 で、同 地 は三 田 の高 台 にあることから、江
戸 湾 を一 望 できる名 所 として知 られていました。初 代 フランス公 使 とし
て、ベルクールはここに駐 在 しました。文 久 3年 (1863)に着 任 した後
任 のロッシュは幕 府 と好 意 的 な外 交 を展 開 したことで幕 府 とフランス
の関 係 は、かなり良 好 なものでした。1865 年 (慶 応 元 年 )、徳 川 幕 府
はフランスから人 材 ・資 材 の提 供 を受 け、横 須 賀 村 に横 須 賀 製 鉄 所 および港 湾 施 設 を建
設 することになり、小 栗 上 野 介 忠 順 と、フランス海 軍 技 師 のレオンヴェルニーが中 心 となり
推 進 されることになりました。この建 設 工 事 は幕 府 が倒 れた後 も、新 政 府 はそのままフラン
スに建 設 を委 ね、明 治 4年 に完 成 しています。ここに日 本 近 代 化 の基 盤 が築 かれました。
最 後 の将 軍 である徳 川 慶 喜 もフランスびいきとして知 られており、フランスから幕 府 に贈 呈
された伝 習 生 の軍 服 や装 備 の一 切 を喜 んで受 け入 れ、自 らも陸 軍 の軍 服 を着 用 して写 真
に収 めています。
13.龍 源 寺
わかりやすい仏 教 の本 や講 演 で人 気 だった松 原 泰 道 さんが住 職 をして
いた臨 済 宗 の寺 院。
松 原 泰 道 さの教 え「七 福 」 ・・・戒 めの幸 福 論 とは
1.「惜 福」・・・福を使 い尽 くし取 り尽 くしてしまわないこと。
2.「分 福」・・・自 分の幸 福を他 の人 と分 かち合 うこと。
3.「植 福」・・・未 来に生 きる人のために徳を積 み、種を植 えること。
4.「知 足 福」・・・足 るを知 る心を養 うこと。
5.「逆 縁 福」・・・うまくいく縁 に恵まれることを“順 縁”という一 方 で、物 事 が裏 目 裏 目 に進ん
でしまうことを“逆 縁 ”といいこの、逆 境 のときにこそマイナスをプラスに変 えていく努 力を
できるチャンスで、それを人 さまにおすそ分 けしていくと説 いている。
6.「点 灯 福」・・・心に灯 をともせること。これはまた幸 福 なことであり、どんなときでも心 に灯を
ともすことが大 事 であると説 く。
7.「保 福」・・・いまの幸 せは、いろいろな方 や先 達 からいただいたというより預 かっている預
かり物 である。いまは自 分 のもとに保 留 しておいて、やがてそれはまた他の人 にお預 けし
ていく、そのためにいまの福を使 い減 らさないようにと言 っている。
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14.光 林 寺
アメリカ公 使 館 の通 訳 ヒュースケンの墓 がある。ヒュースケンはオランダ人 であるが、米 国
公 使 ハリスの片 腕 として日 米 修 好 通 商 条 約 の締 結 に活 躍 した。蘭 語 、英 語 はもちろんのこ
と仏 語 、独 語 も堪 能 で、日 本 語 にも精 通 していて、アメリカ公 使 館 のみならず、駐 日 の各 国
代 表 団 と幕 府 のあいだを奔 走 していた。ハリスの病 中 には実 質 的 な代 理 公 使 を務 め、イギ
リスやプロシャなどの対 日 本 交 渉 でも活 躍 するなど、在 日 外 交 官 の中 でも重 要 な人 物 の一
人 でした。万 延 元 年 12 月ロシア使 節 が滞 在 していた赤 羽 接 遇 所 からの帰 途 、中 の橋 近く
の路 上 で薩 摩 藩 の伊 牟 田 尚 平 ら攘 夷 派 浪 士 に襲 撃 され落 命 した。この事 件 の各 国 の外
交 官 の衝 撃 は大 きく、イギリス、フランス、オランダの公 使 達 は江 戸 から横 浜 に避 難 すること
で抗 議 の意 思 を表 明 した。幕 府 側 も、老 中 安 藤 対 馬 守 が外 国 奉 行 堀 織 部 正 を強 く責 め、
その後、堀 が自 決するという事 件 まで起 きてしまうのである。享 年 28 歳。
15.善 福 寺 アメリカ公 使 館 跡
善 福 寺 は天 長 元 年 (824)、弘 法 大 師 が関 東 一 円 に真 言
宗を広 げるために、西 の高 野 山に模 して開 山 したのが始
まりと伝 えられ、都 内 で最 古 の寺 のひとつと言 われている。
鎌 倉 時 代 に親 鸞 聖 人 が滞 在 し、その教 えに帰 依 した了
海 住 職 が、浄 土 真 宗 に改 宗 している。幕 末 の安 政 6 年に
アメリカ公 使 館 が置かれタウンゼント ハリスや通 訳 官 ヒュ
ースケンらが駐 在 した。ハリスは、5年 余 り、同 寺 に滞 在 し、
通 貨 交 渉 において、 金 貨 も銀 貨 も同 質 同 量 の原 則 すなわ
ち、1 ドル銀 貨 は同 じ質 量 に相 当 する一 分 銀 3 枚 と交 換 す
べきとの主 張 を貫 いた。この結 果 、国 内 の金 貨 (小 判 )が著 しく海 外 に流 出 し、日 本 の経 済 は
混 乱 に見 舞 われることになった。ハリスは安 政 5 年 6 月 、アメリカに有 利 な日 米 修 好 通 商 条 約 を
幕 府 と締 結 し本 国 から賞 賛 された。経 済 の混 乱 は攘 夷 派 浪 士 たちの怒 りを増 長 し、 文 久3年
(1859)には、水 戸 浪 士 たちが同 寺 を襲 撃 して放 火 し、書 院を消 失 してしまう事 件 も起 きま
した。境 内 には、樹齢 700 年と伝 えられる「逆 銀 杏」があります。また、三 井 物 産 の創 設 者
益 田 孝 が建 てた「ハリス記 念 碑」、作 詞 家 岩 谷 時 子 らによる「越 路 吹 雪 の碑」そして、昭 和
52 年に上 大 崎 の常 光 寺 から転 墓 した「福 沢 諭 吉 の墓」がある。
16 綱 町 三 井 倶 楽 部
緑 豊 かな庭 園 を背 景 に優 雅 な佇 まいを見 せる綱 町 三
井 倶 楽 部 本 館 は、三 井 家 の迎 賓 館 として鹿 鳴 館 の設 計
者 として知 られる「ジョサイア・コンドル」の設 計 によって建
てられました。大 正 2 年 竣 工。昭 和 4 年 に改 修 。その原
型 を崩 すことなく改 修 工 事 を施 しました。 その後 幸 いに
も第 2 次 大 戦 の戦 禍を免 れ、昭 和 28 年 から三 井グルー
プ企 業 による会 員 制 倶 楽 部 として再 生 し今 日 に至 ってい
ます。現 在 はわが国 の明 治 、大 正 建 築 史 上 貴 重 な建 造
物 としてまた西 洋 建 築 の傑 作 として注 目 されています。その隣 に位 置 する別 館 は、緑 多 い
庭 園 を見 晴 らせる宴 会 場 として本 館 とともに、多 くの方 々にご利 用 されております。都 心 と
は思 えない静 寂 な環 境 、古 き良 き時 代 から受 け継 がれた伝 統 が脈 々と息 づき「三 井 グルー
プの迎 賓 館 」にふさわしい風 格 ある社 交 場 になっております。
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17 慶 応 義 塾 三 田 キャンパス
福 澤 諭 吉 は幕 末 の蘭 医 学 者 の緒 方 洪 庵 の適 塾 に学 んだ。
1860(安 政 7)年 、木 村 摂 津 守 従 者 として咸 臨 丸 で渡 米 して以 降 、
度 々欧 米 諸 国 を見 聞 した福 澤 は自 らが設 立 した慶 応 義 塾 におい
て、古 いしきたりや慣 習 にとらわれない教 育 を実 践 していきました。
明 治 5年 に出 版 した『学 問 のすゝめ』では、「天 は人 の上 に人 を造 ら
ず人 の下 に人 を造 らずと言 われている。今 日 、人 間 世 界 を見 渡 す
と、賢 い人 愚 かな人 貧 乏 な人 金 持 ちの人 身 分 の高 い低 い人 とがあ
る。その違 いは何 だろう?人 は生 まれながらにして貴 賎 上 下 の別 は
ないけれどただ学 問 を勤 めて物 事 をよく知 る者 は貴 人 、富 人 となり、無 学 なる者 は貧 人 となり下
人 となるのだ。」と広 く教 養 を高 めることを説 いている。この福 沢 諭 吉 の自 由 ・平 等 ・権 利 の尊 さ
を訴 求 する教 育 理 念 は、慶 應 義 塾 に今 も脈 々と受 け継 がれています。
18 イタリア大 使 館
イタリアの大 使 館 の庭 は、伊 予 藩 松 平 隠 岐 守 の中 屋 敷 跡 で、東
京 でも有 数 の風 雅 で由 緒 ある名 園 である。17世 紀 にはすでにでき
ていたのは確 かで、何 世 紀 もの歳 月 を経 てきた樹 木 がその生 き証
人 である。澤 庵 和 尚 の設 計 によるといわれ、典 型 的 な日 本 庭 園 の
様 式 をとどめている。小 山 の一 つには今 も祠 が残 っているが、これ
も造 園 当 初 からあったものと思 われる。江 戸 時 代 、ここは、赤 穂 浪
士 の大 石 主 税 、堀 部 安 兵 衛 ら 10 名 がこの庭 で切 腹 したところで、
中 庭 にはこの事 件 について日 伊 両 国 語 で刻 まれた記 念 碑 が建 立 されている。明 治 になってか
らは内 閣 総 理 大 臣 をニ回 つとめた松 方 正 義 が住 み、松 方 コレクションの松 方 幸 次 郎 はこの邸
で育 った。
19 薩 摩 藩 上 屋 敷 跡
ここは薩 摩 藩 江 戸 藩 邸 の上 屋 敷 があったところです。
13代 将 軍 家 定 に嫁 いだ篤 姫 も嫁 入 りまで、2年 間をこの屋 敷 で
過 ごしたが、安 政5年 の大 地 震 で建 物 の多くが倒 壊 し、一 時 渋
谷 の方に転 居 する。後 に再 建され、ここから江 戸 城 に輿 入 れをし
た。この藩 邸 には500余 人 の薩 摩 武 士 たちがいて、西 郷 隆 盛 の
指 示 で、江 戸 城 下 に数 々の狼 藉 をはたらき、犯 人 の所 在を突 き
止 めた町 奉 行 方 が犯 人 の引 渡 しを求 めたが拒 絶 され、いがみ合
いが端を発 して、幕 府 側 は屋 敷 を焼 打 ちする挙 にでた。この結
果、屋 敷 は全 焼 し、周 囲 の寺 社も消 失 した。このことを契 機として、薩 摩・長 州 は戦 の大 義
名 分を得 て幕 府 に宣 戦 布 告 し、慶 応4年 1月2日 の鳥 羽 伏 見 の戦 いが起った。
20 西 応 寺
オランダ公 使 館 跡
安 政 5年 (1858)日 英 修 好 通 商 条 約 の締 結 のためにイギリス使 節 エ
ルギン卿 一 行 10名 が宿 泊 した浄 土 宗 の寺 。エルギン卿 らは上 陸 前
から礼 砲 を打 ち鳴 らし、上 陸 後 も軍 楽 隊 付 きのパレードを行 って西
応 寺 までを行 進 したため、見 物 客 が押 し寄 せてお祭 り騒 ぎになった
と言 われています。同 寺 は、のちにオランダ公 使 館 として使 用 され、
初 代 公 使 クルティウスが駐 在 しました。慶 應 三 年 (1867)12月 の幕
府 による薩 摩 藩 邸 襲 撃 事 件 の兵 火 により類 焼 して全 焼 。その後 オ
ランダ公 使 館 は伊 皿 子 の長 応 寺 に移 転 しました。
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21 勝 海 舟 、西 郷 隆 盛 会 見 の地 戦 火 を避 けた平 和 的 解 決
ここは薩 摩 藩 の蔵 屋 敷 があったところで、慶 応4年3月14日 に勝
海 舟 と西 郷 隆 盛 との間 で会 見 が行 われ、駿 府 での予 備 折 衝 で
取 り交 わした約 定について、第 一 条 の徳 川 慶 喜を備 前 藩 に預 け
るという項 目 を水 戸 に隠 居 して謹 慎 するという内 容 に改 正された
以 外 は、ほとんど西 郷 が提 示する要 求を幕 府 側 が承 諾 すること
で、江 戸 城 総 攻 撃 が回 避 された歴 史 的 な場 所 です。
この一 連 の議 題が済 んだ後、西 郷と勝 は、友 人 同 士 としての会 話 を成 し、会 談 終 了 後
は、西 郷 が勝を見 送 りに外まで出 て両 者 は別 れた。勝 はこの会 談 で西 郷 が取った「礼 儀を
失 わず、勝 者 振 ることもなく、敗 軍の将 に接するようなところが少しもなかった」と氷 川 清 談
で賞 賛 している。 西 郷 はこの会 談 の一ヶ月 ほど前 までは、江 戸 城 総 攻 撃を断 固 遂 行 する
考 えでいた。しかし、イギリス公 使・パークスが西 郷 に将 軍 ・慶 喜 の処 遇をどうするのか尋 ね
たところ、西 郷 が「大 逆 無 道、その罪 は死 にあたるをもってす」と意 気 込 んで答 えると、パー
クスは「どこの国の法 律 でも、恭 順 し、降 伏 する姿 勢を見 せているものに更なる攻 撃を加 え
る法 はない。まして徳 川 氏 はこれまで天 下 統 治 の政 権 運 営 を300年も続 けてきた。その徳
川 氏をあくまでも討 ち滅 ぼすというのであれば、英 仏 は合 同 して徳 川 氏を助 け、新 政 府 に
攻 撃を加 える」という手 厳 しい非 難 を西 郷 に浴 びせたという。 この諸 外 国 行 使 らの意 見 が
江 戸を戦 火 から守 る一 因 にあったことも特 筆 すべき点 である。
参考
幕 末 の外 国 人 襲 撃 事 件
文 久 元 年 (1861) 5月 28日
文 久 元 年 (1861)12月 4日
文 久 2年 (1862) 5月 29日
文 久 2年 (1862) 8月 21日
東 禅 寺 第1次 襲 撃
ヒュースケン暗 殺
東 禅 寺 第2次 襲 撃
生麦事件
ハ リ ー ・ パ ー ク ス ( 1828 - 1885 年 )
幕末期の英国外交官。
イングランドのスタッフォードシャーの鉄工場主の長男として生
ま れ た 。 1865 年 ( 慶 応 元 年 閏 5 月 ) に は オ ー ル コ ッ ク の 後 任 と し
て 駐 日 全 権 公 使 に 就 任 。( 37 歳 )フ ラ ン ス の 駐 日 公 使 ロ ッ シ ュ が 徳
川将軍権力の絶対主義路線を支援し自国の政治的有利を確立しよ
う し た の に 対 し て 、パ ー ク ス は 通 訳 官 ア ー ネ ス ト・サ ト ウ の 助 言 も
あ り 薩 摩 藩・長 州 藩 と 接 近 し そ の 支 援 を 行 な い 、高 杉 晋 作 と 会 談し
た り 、鹿 児 島 や 土 佐 を 訪 問 す る な ど し て 倒 幕 、明 治 新 政 府 樹 立 の政
治 路 線 を 大 き く 推 進 し た 。一 方 、英 仏 米 蘭 の 連 合 艦 隊 を 兵 庫 沖 に派
遣 し 威 圧 的 に 幕 府 と 交 渉 、条 約 に お け る 税 率 の 改 正 、兵 庫 開 港 を実
現 さ せ る な ど 、 巧 み な 外 交 手 腕 を 見 せ た 。 1868 年 の 戊 辰 戦 争 で は
局外中立を保ち、江戸開城を斡旋、他の列強諸国が日本に介入することを防止す
る役目も果たした。明治政府を最初に承認し政府が対外的難局に直面すると政治
的基盤の確立に力を貸し、自国の指導的立場を確固たるものにすることに尽力し
た 。 1878 年 の 条 約 改 正 問 題 で は 日 本 側 の 税 権 回 復 要 請 を 拒 絶 し た が 、 日 本 に 対し
て西洋文明の導入を推進するなど、日本の近代化と日英交流に貢献している
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ミシェル・ジュール・マリー・レオン・ロッシュ
( 1809 年 - 1900 年 )
1864 年 、 初 代 駐 日 公 使 で あ っ た ド ゥ シ ェ ー ヌ ・ ド ・
ベ ル ク ー ル の 後 任 と し て 横 浜 に 来 日 し た 。ロ ッ シ ュ は
ア ラ ビ ア 語 に は 堪 能 で あ っ た が 、日 本 語 に は 疎 か っ た
た め 、函 館 の 宣 教 師・メ ル メ・カ シ ョ ン を 呼 び 出 し て
公 使 館 の 通 訳 と し て い る 。そ の 後 は 本 国 フ ラ ン ス が イ
ギ リ ス と 対 立 し て い る 関 係 か ら 幕 府 に 接 近 し 、積 極的
な 軍 制 改 革 な ど に お い て 幕 府 を 支 援 し た 。 65 年 横 須
賀 製 鉄 所 建 設 の 請 け 負 い 、横 浜 仏 語 学 校 の 設 立 を 行 っ
た 。 66 年 経 済 使 節 団 を 来 日 さ せ 借 款 ・ 武 器 契 約 の 売
しょうへい
り 込 み を 結 び 67 年 軍 事 顧 問 団 を 招 聘 し 幕 府 に 軍 制 改
革 を 着 手 さ せ た 。徳 川 慶 喜 が 将 軍 と な る と 幕 政 改 革 の
構 想 を 建 言 し 幕 府 中 心 の 統 一 政 権 確 立 に 努 め た 。一連
の政策はイギリスの対日政策に対抗するものであっ
た 。67 年 パ リ 万 国 博 覧 会 へ の 日 本 の 参 加 を 全 面 的 に 支 援 し た 。 し か し 、本 国 で 自
らの親幕府外交を支持した外相が罷免され、後任の外相が親薩摩藩・長州藩政策
を 採 用 し た た め 、 ロ ッ シ ュ は 公 使 を 罷 免 さ れ て 1868 年 に 帰 国 し た 。
アーネスト サトウ
1843 年 、 ロ ン ド ン で 生 ま れ た 。 1861 年 イ ギ リ ス 外 務
省 に 入 省 、 通 訳 見 習 と し て 清 国 に 赴 き 、 1862 年 9 月 、
英 国 駐 日 公 使 館 の 通 訳 見 習 と し て 来 日 し た 。そ の 直 後
の 9 月 14 日 、 生 麦 事 件 が 勃 発 し た 。 翌 年 に は 薩 英 戦
争 の 現 場 に 立 会 い 、四 国 艦 隊 下 関 砲 撃 事 件 に も 立 ち 会
っ た 。後 に 正 規 の 通 訳 官 及 び 書 記 官 に 昇 進 し て 、駐 日
公 使 ハ リ ー ・ パ ー ク ス の 下 で 活 躍 し 1883 年 ( 明 治 16
年 ) ま で 、 20 年 間 日 本 に 滞 在 し た 。 そ の 後 、 シ ャ ム 、
ウ ル グ ア イ 、モ ロ ッ コ 駐 在 領 事 を 経 て 、1895 年( 明 治
28 年 )日 本 に 戻 り 、5 年 間 、駐 日 特 命 全 権 公 使 と し て
活 躍 し た 。そ の 後 、駐 清 公 使 と し て 北 京 に 滞 在 し 義 和
団 事 件 の 後 始 末 や 日 露 戦 争 を 見 届 け た 後 、日 本 の 枢 密
院顧問官に任命されている。英国大使館の桜並木は、
サ ト ウ が 植 樹 を 始 め た も の 。「 サ ト ウ 」と い う 姓 は ス ラ ヴ 系 の 希 少 姓 で 、当 時 ス ウ
ェーデン領生まれドイツ系人だった父の姓であり、もともと日本と関係はなかっ
たが、親日家のサトウはこれに漢字を当てて「薩道」または「佐藤」という日本
名を名乗った。本人も自らの姓が日本人に親しみやすいものだったため、大きな
メ リ ッ ト に な っ た と 言 っ て い た ら し い 。日 本 滞 在 は 計 25 年 間 に 及 び 、明 治 時 代 前
期の外国人キー・パーソンと言っても過言ではない。私生活は法的には生涯独身
で あ っ た が 、 明 治 中 期 に 日 本 滞 在 時 に 武 田 カ ネ を 内 妻 と し 3 人 の 子 を 設 け た 。カ
ネとは入籍しなかったものの子供らは認知し経済的援助を与えており、特に次男
の武田久吉をロンドンに呼び寄せ植物学者として育て上げた。また、最晩年は孤
独に耐えかね家族の居る日本に移住しようとしたものの、病に倒れ果たせなかっ
た。
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タ ウ ン ゼ ン ト ・ ハ リ ス ( Townsend Harris, 1804- 1878 年 )
ニ ュ ー ヨ ー ク 州 出 身 。上 海 で 貿 易 業 を 行 っ て い た ハ リ ス は 、
1853 年 マ シ ュ ー ・ ペ リ ー 率 い る ア メ リ カ 東 イ ン ド 艦 隊 へ の
同乗を望むが、軍人でないために許可を得られなかった。
ハリスは国務長官など政界人の縁を頼って政府に働きかけ、
日 米 和 親 条 約 の 11 条 に 記 さ れ た 駐 在 領 事 へ の 就 任 を 望 み 、
初代駐日領事に任命される。ハリスは日本を平和的に開国
させ、諸外国の専制的介入を防いでアメリカの東洋におけ
る貿易権益を確保することを目的に、日本との通商条約締
結のための全権委任を与えられる。ハリスは通訳兼書記官
ヘ ン リ ー ・ ヒ ュ ー ス ケ ン を 雇 い 、 1856 年 8 月 に 日 本 へ 到 着
ぎょく せん
し伊豆の下田 玉 泉寺に領事館を構える。
ハ リ ス の た び 重 ね 江 戸 出 府 を 要 請 に 対 し て 、水 戸 斉 昭 ら の 反 対
も あ り 、 幕 府 は 拒 ん で い た が 、 1857 年 7 月 に ア メ リ カ の 砲 艦
が下田へ入港すると、幕府は江戸へ直接回航されることを恐れて江戸城への登城、将
軍 と の 謁 見 を 許 可 し た 。 ハ リ ス 、 ヒ ュ ー ス ケ ン ら の 一 行 は 1857 年 10 月 に 13 代 将 軍
の徳川家定に謁見して親書を読み上げている。日本貨幣と米国貨幣との交換比率につ
いて幕府側と交渉を行ったハリスは金貨も銀貨も同質同量の原則すなわち、1 ドル銀
貨 は 同 じ 質 量 に 相 当 す る 一 分 銀 3 枚 と 交 換 す べ き と 主 張 し 、幕 府 側 と 対 立 し た が 、最
終的にハリスの主張が通され、この結果、短期間のうちに多額に上る小判が日本国外
へ流失する事態が発生した。翌年、日米修好通商条約を締結し、母国に有利な条約を
締結したことで賞賛を博した。結果、初代駐日公使に任命され、公使館を江戸の元麻
布善福寺に置いた。当時しきりに日本の領土を狙っている国があったが、それを排除
す る 行 動 を と り 幕 府 の 信 頼 を 得 て い た 。 1862 年 に 病 気 を 理 由 に 辞 任 し 5 年 9 ヶ 月 の
滞在を終えて帰国した。帰国後は特に公職には就かず、動物愛護団体の会員などにな
り、ニューヨーク市立大学シティカレッジの創設にも貢献している。反面、日本にお
い て は 、自 ら も 、日 本 国 内 と 海 外 に お け る 金 銀 比 価 の 違 い を 利 用 し て 小 判 を 買 い 漁 り 、
それを上海等で売却して私腹を肥やしていたという一面もあったと言われている。
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