レジュメ

世界のなかの日本国憲法
印西・九条の会 第2次学習会第5回
2007年3月25日、サザンプラザ
水先案内人・講師:彦坂 諦
はじめに
低次元の議論が横行しています。なにが低次元なのか? 日本国憲法は占領軍から押し
つけられたものだから「日本人」の手で日本の「伝統」に合ったものに書きなおさなけれ
ばいけないという議論がです。根拠は二つあります。一つは国家と人民(ピープル)とをご
ちゃまぜにしていること、二つめはなにが「伝統」なのかわかっちゃいないことです。
1.だれがだれに押しつけたのか?
日本国憲法はたしかに占領軍によって押しつけられた。だれにか? 当時の「大日本帝
国政府」にです。当時の日本人民(ピープル)にではありません。
なぜ「大日本帝国政府」に押しつけたのか?「大日本帝国政府」が本気で民主主義的新
憲法をつくろうとしてなかったからです。この政府が GHQ に提出した「憲法改正要綱」
(「松本試案」)がどうしようもないシロモノであったからです。だからこそ、それまでこ
の政府の自主性を尊重してきた GHQ も腹をくくったのです。
ですから、当時の「大日本帝国政府」にとっては、新憲法はまぎれもなく GHQ から押
しつけられたものでした。しかし、この国の人民(ピープル)は、押しつけられたどころか、
GHQ といっしょになって「大日本帝国政府」にこれを押しつけたのです。
「大日本帝国政府」の提出した「憲法草案」を拒否して、GHQ 作成の草案を呑めと「強要」
したさい、GHQ は「大日本帝国政府」をなんと言って脅したか? あなたがたがこれを拒
否するなら、直接日本人民に草案を公表するといって脅したのではなかったか?!
憲法というものはそもそも押しつけるものなのです。だれがだれにか?人民が政府に対
してです。政府は、人民の側が命令しないかぎり、人民の利益になることなどしない。だ
からこそ、人民は政府に命令しなければならない。政府に対する人民のこの命令こそ憲法
と言われるものではありませんか。
2.大日本帝国憲法自体が「西欧風」なのだ
「日本国憲法」は日本の「伝統」にそぐわない西欧風のものだといった言いかたそのもの
が浅薄です。なぜなら「大日本帝国憲法」それ自体この「くに」の「伝統」になどもとづ
いてはいないからです(1)。だいいち「大日本帝国憲法」を必要とした「大日本帝国」と
いう国家それ自体がすぐれて西欧近代的思想の産物なのです。「大日本帝国」と名乗るこ
とそれ自体、帝国主義時代に突入しつつあった西欧列強の思想的影響なしにはありえなか
ったことではありませんか。
さて、このようなことを、わたしは、日本国憲法の世界史的意義を説いてきたアメリカ
-1-
人政治学者が書いた本『憲法は、政府に対する命令である』(ダグラス・ラミスが日本語で書
きおろしたもの、平凡社、2006)を下敷きにして、お話しています。むろんわたしにとっては、
このひとのこうした指摘は、この本を読むまで考えもしなかったことではありません。で
も、この本を読むことによって、いっそう根底的に考えなおすことができました。ラミス
さんには心からありがとうって言いたい(2)。
なぜ、この本を枕にしたのか? このユニークな本を書くことのできたダグラス・ラミ
スは日本に暮しつづけてはいるけれど民族的には「日本人」じゃない。この事実それ自体
「日本国憲法」が国境など飛びこえて世界の人民(ピープル)のものになっているのだって
ことを物語っている、と思ったからです。
今日のテーマは「世界のなかの日本国憲法」です。どういう意味なのか?
まず、この
憲法は、その成立そのものが世界史の一段階と深くかかわっていること、つぎに、この憲
法における「戦争放棄」「戦力不保持」「交戦権否定」という理念はまさに世界史に新時
代を拓くものであったこと、第三に、この九条の存在そのものが、世界の平和運動のなか
で重要な牽引力となっているだけでなく、東アジアの安全保障においてもまさに鍵となっ
ていること、おおむねこの3点についてこれからお話しようと思っています。
A.世界史のなかでの日本国憲法――戦争違法化への道
戦争放棄の思想は日本国憲法にとつぜん出現したものではなく、世界史のなかでいくつ
もの悲惨な経験と試行錯誤を重ねた末にたどりついた、いわば人類の悲願の結晶でもあっ
たのだ、ということについては、昨年の第1次学習会第2回でお話したことと重複します
ので、割愛しますが(気になるかたは『九条の根っこ』の pp.54-59「日本国憲法第九条は人類の悲願
の結晶でもあったのだ」をご参照あれ)、戦争違法化という人類史的流れがどのようにして日
本国憲法前文および第9条にいたりついたのかについてだけは補足しておきましょう。
1899 年オランダのハーグで開かれた平和会議が戦争違法化の歴史のはじまりであった
と考えられています。この当時は、欧米列強がアジアで猛烈な植民地争奪戦をくりひろげ、
後発の日本帝国主義までがこの競争に参入しようとしていました。このような情勢のもと
で開かれたこの会議には、日本をも含む26カ国が参加し「国際紛争平和的処理条約」が
締結されました。
この条約によって締結各国は戦争予防のため紛争の平和的処理に全力をつくすことを約
束していますが、条約は戦争そのものを禁止してはいませんでした。それかあらぬか、6
年後の 1905 年には日露戦争がおこってしまいました。
1907 年の第2回ハーグ平和会議では、戦争そのものを禁止するにはいたらなかったもの
の、交戦者同士が「非人道的」行為をおこなうことは防止するために、戦争遂行上の基本
ルール(「戦時国際法」)が定められました。
どのようなルールかというと、たとえば、宣戦布告なしにいきなり攻撃してはならない
-2-
とか、戦闘員と非戦闘員とは区別しなければならないとか、捕虜を殺してはいけない、「不
必要の苦痛」をあたえる兵器や「投射物その他の物質」(毒ガスなど)を使用してはならな
い、などといったようなものでした。
1914 年から 18 年にいたる第一次世界大戦の戦後処理として、アメリカ大統領ウイルソ
ンは、軍備縮小、国際平和機構の設立、民族自決権の確立、戦争による領土獲得の禁止、
植民地問題の公正な解決など 14 カ条におよぶ平和原則を関係各国に提唱します。このう
ち平和機構の設立だけは受け入れられて国際連盟が設立されましたが(1920)、あとはイ
ギリスやフランスに無視され、戦敗国ドイツに対して高額の賠償など苛酷な条件が押しつ
けられたため、つぎの大戦の温床となったと言われています。それにしても、しかし、世
界史上はじめて、平和的手段による紛争の解決を目指す国際機関が誕生したのは画期的な
できごとだったと言わなければなりません(3)。
国際連盟は、1921 年にワシントンで、1930 年にはロンドンで軍縮会議を開いたり、1925
年の「ジュネーブ議定書」で毒ガス・細菌兵器の禁止を決めたり、1932 年にはいわゆる「リ
ットン調査団」を満州に派遣して「満州事変」は違法な侵略戦争であると認定したり(こ
れがもとで日本は連名を脱退することになるのですが)といった一定の成果はあげています。
わけても 1928 年にパリで締結された「戦争の放棄に関する条約(通称ブリアン=ケロッグ
条約)」は画期的なものであり、ここで、人類史上はじめて、戦争は違法であるという確
認がなされています。それに、この条約こそ日本国憲法第9条の直接の原型と言っていい
ものです。
昨年の学習会の第二回でも触れたことですが、この条約の第1条「戦争の放棄」は、国
際紛争を解決するため戦争という手段に訴えることそれ自体を非難し、国家政策の手段と
しての戦争は放棄すると明言しています。日本国憲法第9条の第1項はこれと基本的にお
なじ内容を持っています。
また、この条約の第2条には、国際紛争に関しては「平和的手段」による解決以外は求
めないと明記されています。したがって、当然のことながら、平和的でない手段である武
力行使はしないし、したがってその手段である軍隊は持たない(戦力の不保持)、あるいは、
かりに持っていたとしても使わない(武力の不行使)ということになります。これが日本国
憲法第9条第2項と密接に関連していることはあきらかです。
「パリ不戦条約」というのはこのようにすばらしいものであったのですが、残念なことに、
条約そのものは成立したものの、調印国の一部が自衛権と自衛戦争の除外を主張したため
に、実効性の弱いものになってしまいました。とはいえ、1931 年に制定されたスペイン共
和国憲法はこの条文をそのまま取りいれて戦争放棄を宣言していますし(第 6 条「国策の手
段としての戦争の放棄)、1935 年制定のフィリピン憲法にも同じ条文がある(第2条第3項「国
策の手段としての戦争を放棄する」)ように、この条約の影響はけっして小さなものとは言え
ません。
-3-
にもかかわらず、第二次世界大戦はおこってしまったし、この戦争の惨禍は第一次世界
大戦のそれなどおよびもつかぬほど大規模で深刻なものでしたから、このような惨劇を二
度とくりかえしてはならないと決意した国々によって「国際連合」が設立されました。
国際連合憲章の前文にはつぎのように記されています。「われら連合国の人民は、われ
らの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の被害から将来の世代を
救い(……)国際の平和および安全を確保するためにわれらの力を合わせ、共同の利益の
場合を除くほかは武力を用いないこと(……)決意して、(……)われらの努力を結集する
ことに決定した。」
また、「すべての加盟国は、その国際紛争を平和的手段によって(……)解決しなけれ
ばならない」(第2条3項)「すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇
または武力の行使を(……)慎まなければならない」(第2条4項)とも規定しています。
これまで見てきたように、戦争は違法であると認めこの世界から戦争を追放しようとす
る人類の歩みの行きつくところとして、日本国憲法における「戦争放棄」「戦力不保持」
「交戦権否認」の原則は確立されたのでした。
しかも、日本国憲法は国連憲章よりさらに一歩進んだ内容になっています。どの点にお
いてか? 国連憲章が「共同の利益の場合」には武力の行使を認めており、「安全保障理
事会が(……)必要な処置をとるまでの間」という条件つきながら「個別的または集団的
自衛の固有の権利」を認めているのに対し、日本国憲法は、あらゆる武力行使(威嚇をも含
む)、すべての戦争(自衛のための戦争を含む)、いっさいの戦力の保持を、無条件に放棄し
ているのですから。
B.世界各国憲法の実情――戦争放棄の視点から
1.各国憲法における平和主義的条項
世界各国の憲法のなかで平和政策の推進を謳ったり国家目標として平和を掲げているも
のはけっこう多いのです。国連憲章や世界人権宣言の遵守を掲げているもの、非同盟政策
や中立を謳っているものもあります。いま世界では平和を謳わない憲法のほうが少ないと
言ってもいいでしょう。なのになぜこの地球上からいまだに戦争を根絶しえないのか?
どうやら、こうした憲法上の規定と現実の政治的動向との乖離は日本国憲法だけではない
らしい。
たとえば、フランスでは「大革命」後まもない 1791 年制定の共和国憲法のなかで、早
くも、フランス共和国は「征服を目的とするいかなる戦争も企てず、かついかなる人民の
自由に対してもその武力を行使しない」といった形で征服戦争の禁止を謳っています。こ
の条項は、その後、1848 年の憲法(前文)、1946 年の第四共和国憲法(前文)を経て 1958
年の第五共和国憲法にまで引き継がれています。
このように世界に先駆けて戦争放棄の理念を示した憲法を持つはずのフランス共和国
が、しかしその後、ベトナムで、アルジェリアで、現実になにをしてきたのか?
-4-
侵略戦争の否認を規定している憲法は他もいくつかあります。たとえば大韓民国憲法
(1987、第 5 条)、ドイツ連邦共和国基本法(1949、第 26 条)、キューバ共和国憲法(1976、
第 12 条)などです。
国際紛争解決の手段としての戦争を放棄すること、また、逆の表現ですが、国際紛争を
平和的に解決することを謳った憲法も少なくありません。1928 年の「不戦条約」の影響を
1931 年のスペイン憲法と 1935 年のフィリピン憲法が受けていたことは先に指摘しました
ね。現在憲法にこういった規定を持っているのは、イタリア(1947 年、第 11 条)、ハンガ
リー(1989 年、6 条)、エクアドル(1998 年、第 4 条)、アゼルバイジャン(1995 年、第 9 条)、
ウズベキスタン(1992 年、第 17 条)、キルギス(1993 年、第 9 条)、カタール(1970 年、第 5
条)など 30 カ国以上にのぼります。現行フィリピン憲法(1987 年、第 2 条)のように「国
家の政策を遂行する手段としての戦争」の放棄を明記しているものもあります。
問題は、「国際紛争を解決する手段としての戦争」には「自衛のための戦争」あるいは
「制裁の手段としての戦争」は含まれない、つまりこれは「侵略戦争」だけを意味するの
だといった理解があることです。現にイタリアは、憲法には「他国民の自由を侵害する手
段および国際紛争を解決する手段としての戦争を否認する」という規定がある(第 11 条)
けれど、自衛のための軍隊を保有しているし、「国際平和と安全の確保」「人道支援」の
ためにコソボやアルバニアや東チモールに、そしてイラクにも「派兵」しています。
このように、「国際紛争解決の手段としての戦争」を否認しながら自衛のための軍隊(国
防軍)を保有し、「国際協力(国際社会の秩序維持)」のために「派兵」することのほうがむ
しろ一般的と言っていいでしょう。じじつ、イタリア憲法(第 52 条)、ハンガリー憲法(第
70H 条)、エクアドル憲法(第 188 条)、アゼルバイジャン憲法(第 76 条)などには国防・
兵役の義務が規定されています。
こうした事実を根拠に、日本が「自衛のための戦争」もできないのだとするのは世界の
常識に反する、と主張するひともいます。とはいえ、これまでの戦争がいずれも「侵略」
ではなく「自衛」を名目になされてきたことも歴然たる事実ではないでしょうか。
こう見てくると、やはり鍵になるのはじっさいに軍隊を持つか持たないかではないかと
いう気がしてきます。
2.軍隊を持たない国家
1.コスタリカ(Costa Rica) 1949 年以来、平時における常備軍の保有は憲法によって
禁止されている。地方警備隊(7,500 名ほど)はある。
2.ドミニカ(Dominica)
軍によるクーデタがあったため 1981 年以来常備軍を持って
いない。国家警察(300 名ほど)はある。
3.グレナダ(Grenada)1983 年のアメリカの侵攻以来、常備軍を持っていない。警備隊
(750 名ほど)はある。
-5-
4.ハイチ(Haiti)1994 年に軍事政権が退陣したのち、軍を解体した。反政府武装勢力
に
よって国内は混乱したが軍の再保有は行わず。国家警察隊(7,300 名)は保有。
5.キリバティ(Kiribati)警察と沿岸警備隊のみ保有。
6.リヒテンシュタイン(Liechtenstein)
1868 年に、費用が高くつくという理由で軍隊
を解体し、警察のみを保有(100 名ほど)。
7.パナマ(Panama) 1990 年に軍を解体、1994 年の憲法改正によって軍の不保持を宣
言した。警察、沿岸警備隊などはあるが、人員は 11,800 名以下に抑えられかつ交戦
能
力が制限されている。
8.セント・ルシア(Saint Lucia)
軍は保有せず。特殊部隊を持つ。
9.セント・ヴィンセントおよびグレナディーン諸島(Saint Vincent and the Grenadiens)
軍は保有せず。特殊部隊を持つ。
10.サンマリノ(San Marino) 警察、国境警備隊のほかは 50 名ほどの儀仗隊のみ。
11.ソロモン諸島(Solomon Islands)1998 年から 2001 年にかけての深刻な民族衝突を
経験したので、民族和解の政策を採り、平和省を設置。常備軍は保有せず。
12.ツバル(Tuvaru) 軍は保有しない。警察が海難救助隊をも持つ。
13.バチカン(Vatican City)
儀式用のスイス衛兵が警備兵を兼ねている。
3.軍隊は持たない(か、ごく小規模の軍隊しか持たない)が防衛を他国に委ねている国家
1.アンドラ(Andora) フランス、スペインの両国と 1993 年に同じ協定を締結して防衛
を依頼。
2.マーシャル諸島(Marshall Islands) アメリカ合州国が防衛責任を持つ。
3.パラオ(Palau) 非核憲法を持つが、アメリカ合州国が防衛責任を持つ。
4.ミクロネシア(Micoronesia) アメリカ合州国が防衛責任を持つ。
5.モナコ(Mobaco) 17 世紀に軍事費の支出を停止。フランスが防衛責任を持つ。
6.ナウル(Nauru) 非公式の協定によりオーストラリアが防衛責任を持つ。
7.サモア(Samoa) 常備軍を持たず。防衛責任はニュージーランドが持つ。
8.モーリシャス Mauritius) 1968 年以来、軍に準ずる警察隊を保有(1800 名ほど)防衛
は非公式にインドが責任を持っている。
9.クック島(Cook Island) ニュージーランドが防衛責任を持つ。
10.ニウエ(Niue) ニュージーランドが防衛責任を持つ。
4.コスタリカ人民の憲法意識
世界中の国のなかで「国際紛争解決の手段としての戦争」を憲法で否認している国家は
かなり多い、ということは先にのべました。けれども、「戦力の不保持」つまり常備軍を
持たないことを明確に規定した憲法を持つ国家はほとんどありません。そのなかでも、日
本国とコスタリカとはまさに正反対のコースを歩んで今日にいたっています。
日本が、憲法九条で「戦争放棄」「戦力不保持」「交戦権否定」を明確に規定している
にもかかわらず、世界でも 10 位以内に入る戦力を「自衛隊」という名で保有し、国外に派
兵するまでにいたっているのに反して、コスタリカでは、憲法の条文に「戦争放棄」はな
-6-
く、常備軍の不保持は明記されているけれど条件付であって緊急時の再保有は認められて
いる、にもかかわらず、現実にはついに一度も軍隊を再保有したことがない、つまり常備
軍の禁止という憲法の規定は厳格に履行されているのです(4)。
憲法に対する人民(ピープル)の意識も、日本とコスタリカでは大ちがいです。日本人民
(ピープル)には憲法が自分自身の権利と義務に結びついているといった感覚はないようで
す。どこかで、なんとなく、そういえば憲法ってのがあるんだなという意識はあっても、
それが自分自身の日常生活に活かされていない、それどころか、かかわりがあるのだとい
うことさえ意識されていません。
したがって、日本国憲法における「戦争放棄」「戦力不保持」「交戦権否認」の理念に
しても、たしかにその制定当時には熱い思いで歓迎しはしたのでしょうが、「戦後復興」
から「高度成長」への戦後史のなかで、いつのまにか忘却の霧の奥に消えてしまっていた。
警察予備隊が創設されたときにはまだ残っていた違和感も、それが自衛隊と名を変えて実
質的に急成長していくにつれ、いつしか薄れていき、ついに自衛隊の海外派兵といった重
大かつ深刻な事態を招いてしまってさえ、なにか他人事のようにしか感じなくなっていま
す。それどころか「もし攻めてこられたらどうする?」といった旧態依然の発想から抜け
られずに、利己的な安全感を得たいばっかりに、国を守るにはやはり「必要最小限」武力
が必要なのだと言い、そのくせ、国を「守る」とはどういうことなのか、「武力」とはな
にか、それがなぜ必要なのか、などについては一度だって真摯に考えたことがない。
こういった日本人民(ピープル)の憲法意識とまるで正反対なのがコスタリカ人民(ピー
プル)の憲法意識であるようです。かの地を訪れたひとびとが異口同音に語るのは、コスタ
リカのごくふつうのひとびとが、この国に「軍隊がない」ことを誇りに思っていることへ
の驚きです。バスガイドのいかしたお兄さんの口から「この国には二つよいところがあり
ます。一つは美しい自然環境、もう一つは軍隊がないことです」なんて台詞がサラッと出
てきたり、小学生までが、この国には軍隊がないから平和なのだと、なんでもないことの
ように語るのだそうです。
このような市民意識がこの国にできあがっているのにはちゃんとして理由があるので
す。この国は、軍隊を持たないということを根拠として近隣諸国との紛争あるいは近隣諸
国同士の紛争に関して積極的な平和・仲裁外交を展開し、いくつかの局面でみごとに成功
を収めてきもしました。現アリエス大統領にかつてノーベル平和賞が贈られたのもこうし
た平和外交を国際社会が高く評価していたことの証です。大統領自身を中核とする歴代の
外交当局がきわめて有能であったことはもちろんですが、現実に軍隊を持っていないとい
う事実がコスタリカの平和外交に格段の迫力と説得力を与えていたことは否めません。
国内的には、この国は、立法・行政からはもとより司法からさえ独立した「選挙裁判所」
という特殊な機関を持っていて、選挙がきわめて明朗清潔に実施され、政治的対立が泥沼
化することは避けられています。教育と福祉の充実に力を注いできたために市民生活が向
-7-
上し、市民意識も高まってきています。
注目すべきは、教育予算の国家予算のうちに占める比率がコスタリカでは中南米のどの
国よりも高いことです。一時は国家予算の三分の一を占めるまでにいたりました。現在は
緊縮財政のおかげで減らされ 20%を切りつつあるそうですが、それでも、国内総生産の 6
%を教育費に充てるという基本方針は貫かれているそうです。
それもこれも軍隊を持たないおかげなのです。近隣諸国がおしなべて軍事予算による国
家財政の圧迫に苦しんでいるというのに、コスタリカだけは、軍隊を持たない、したがっ
て軍事費の支出が要らない、その分だけ教育に振り当てることができる、というわけです。
小学生までがこの国は軍隊を持たないから平和なんだなんて言うと驚いたひとの話を先
ほど紹介しましたが、これはコスタリカにおける「平和教育」の成果でしょうね。などと
言うと、すぐに、そこまで「洗脳」教育が進んでいるのかなどと思うくせが「日本人」に
はついてしまっているようですが、どっこい、コスタリカの教育とりわけ初等教育はまる
でちがう。平和を「教える」のではなく体験させるのです。
どこの国でも子どもはすぐケンカをはじめます。そのさい、教師は、ケンカしてはいけ
ませんと止めたり叱ったりするのではなく、ケンカが殴りあいであれ罵詈雑言であれ暴力
的になっていかないように、ケンカしてる者どうしが、暴力以外の手段で「あらそい」を
解決していけるように、辛抱強く手助けするのです。このようにして、子どもたち自身が
自分で解決の糸口を見つけ和解するといった体験をあじあわえるように、教師はひたすら
手助けするのです。
高学年になっていくにつれ、ますます、この方式は徹底されていきます。たとえば、上
意下達式に知識を詰めこむのは民主主義的でないとして、教師はできるだけ質問を投げか
けるだけにとどめ、結論は生徒がたがいに話しあって出してくるまで辛抱強く待っている。
あるいは、生徒と教師との対話によってものごとを決定していく。生徒には「おぼえる」
ことではなく「考える」ことを身につけさせたいので、教師は、質問するにあたってせっ
かちに答えを求めはしない。答えを出していくプロセスを重んじる。といったふうに、学
校のいたるところで民主主義的方法が貫徹されていきます。
こういう方針が貫かれているので、たとえば、小学校二年生のクラスで教師が「あなた
たちの権利はなんですか?」と質問すると、「遊ぶこと!」とか「愛されること!」とか
いった答えが生徒たちから返ってくる、といった光景もふしぎではないそうです。一年生
の社会の教科書に子どもの義務と権利のことが書いてあって、子どもたちはそこですでに
義務や権利について考えることを学んでいるからです。
ですから、大学生ならむろんのこと、かりに小学生が、これこれは憲法違反ではないか
と裁判所に訴えたとしても(そんなことそれ自体、日本では考えられもしないことなのですが)そ
-8-
の訴えは正当に受理され審理されるのだといいます。
コスタリカでの教育のありかたについて話しだしたらきりがないのでまたべつな機会に
ゆずりましょう。
C.世界の平和運動と日本国憲法
日本国憲法の「前文」にはつぎのような決意表明があります。「日本国民は、恒久の平
和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛
する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」
この部分を甘っちょろい理想論だと非難するひとびとは、いわゆる「改憲論者」でなく
てもけっこういるでしょう。なにしろ、人類史は戦争につぐ戦争、欺瞞と脅迫と背信とに
充ち満ちているのですから。騙しあいでしかない国際関係において、どうして他国を「信
頼」できるのでしょう。
そのとおり。しかし、こういった批判をするひとが見おとしている重要な点があります。
上記の文章をよくよく読んでみてほしい。「日本国民」は「国家」を信頼するなんてどこ
にも書いてない。「国民」を信頼すると書いてあるのです。「国家」と「国民」とを厳密
に区別しているのです。しかも、全人類を信頼するなんてできもしないことは書いてない。
書いてあるのは「平和を愛する」諸国民を信頼する、ということです。
つまり、限定されている。「平和を愛する」という形容句が「諸国民」のなかのどうい
うひとびとなのかを限定しているのです。としたら、そういうひとびとは、どこの国にも、
どんな体制のもとでも、どんなに少数であったとしても、かならずいます。
そういうひとびとがいれば、そういうひとたちによる戦争反対・平和構築の運動が、ど
この国でも、どんな体制のもとでも、どんなに弱い勢力しかいまのところ持っていないに
しても、かならず、この地球上には存在します。
では、わたしの知るかぎり、そのようなひとびとの運動のなかで日本国憲法9条の理念
がどのようにかかわっているのかを、これから紹介していくことにします。
1.アメリカ「九条の会」の発足(1991 年)
ブッシュのアメリカは大嫌いだけれど、国全体がどんなにひどい状態になっても、この
アメリカ「九条の会」会を自発的につくったチャールズ・オーヴァビー(Charles M. Overby)
のようなひとがかならず出てくる、そうしたアメリカが、わたしは大好きです。
このひとがこの会をつくったのはいわゆる「湾岸戦争」のあとです。あれを「戦争」な
-9-
んて呼びたくない、あれはたんなる「大量虐殺」にすぎなかったじゃないか、とわたしは
思っていますが、その軍事行動はけっきょく「石油資源」の獲得のためだったのだ、とオ
ーヴァビーは断言します。
このひとの著書『地球憲法第九条』を翻訳した國弘正雄氏によると、この軍事行動に入
る前アメリカでは「自動車の燃費の向上を図る法案が廃案に」なっていたのですが、もし
これが
「実現していれば毎年クエートの産油量の二倍もの節約ができるようになったはず」
だそうです。ところがアメリカはそうしないで、武力を行使することによってクエートの
石油資源を確保する道をえらびました。
アメリカのような「軍事大国」になると、資源獲得のためなら「武力にも訴え」ます。
しかし「戦争は資源を浪費し環境も汚す」のです。「この愚行から人類が抜け出るには暴
力に変わり法が支配する国際秩序が必要」になります。そのためにこそ、もともと「良心
的参戦拒否」の資格を憲法によって国家として持つ日本国の「役割が求められる」のです。
この考えかたは大いに示唆的です。個人に「良心的兵役拒否」が認められているのなら、
国家にも「良心的参戦拒否」が認められるべきでしょう。そして、個人の「参戦拒否者」
が「代替奉仕」を求められるように、国家も、参戦するのとはちがった形で「代替奉仕」
をすればいいのです。
2.ハーグ平和会議(1999 年)
1999 年の 5 月、平和会議にとってはゆかりの地であるオランダのハーグに、非政府組織
(NGO)の呼びかけに応じて 100 以上の国家からほぼ 8000 人のひとびとが集まって「平
和市民会議」が開かれました。第1回平和平和会議からちょうど 100 周年に当たるこの年
のこの会議は「戦争のない21世紀」に向けた「行動計画」を作成することを目的として
いました。しかし、このときはちょうど NATO 軍によるコソボ空爆が続いている時期でし
た。会議は終始重苦しい雰囲気につつまれていたといいます。
この会議に、日本からは 400 人ほどが参加して会の運営に積極的にかかわっています。
沖縄の大田昌秀元知事や広島の秋葉忠利市長、長崎の伊藤一市長なども参加、「『戦争と
女性への暴力』日本ネットワーク(VAWW-NET ジャパン)」の松井やよりさんや「ピースボ
ート」の吉岡達也さん、核軍縮 NGO「平和資料協同組合」の梅林宏道さんの名も見えます。
5月 11 日から 15 日までの会期中、13 日には「ジャパン・デー」が会議場で開かれ、アメ
リカ「憲法九条の会」会長のオーヴァビー氏も「全人類の普遍理念である九条への支援」
を訴えたといいます。
会議は、最終日に「公正な世界秩序のための基本 10 原則」(5)を含む「21 世紀の平和
と正義のための課題(ハーグ・アジェンダ)」を採択し、アナン国連事務総長に手渡して、
四日間の日程を終えました。この「基本 10 原則」の第1項に「各国議会は、日本国憲法第
九条のような、政府が戦争をすることを禁止する決議を行うべきである」という文言が入
- 10 -
っているのです。
3.「武力紛争予防のためのグローバル・パートナーシップ GPPAC」(2001 年)
聞き慣れない名前でしょうが、GPPAC とは「Global Partnership for the Prevention of Armed
Coflict」つまり「武力紛争予防のための地球規模の協同」といった意味です。2001 年、国
連のアナン事務総長が、「紛争予防」には「市民社会の役割がたいせつ」であると言って、
紛争予防に関する NGO の国際会議を開くよう呼びかけました。この呼びかけに応えて発
足したプロジェクトが GPPAC です。
これは、「紛争予防」を目的とした世界的な NGO プロジェクトであり、紛争がおこら
ないような世界をつくるために、市民が、政府や国連と協力しあいつつ、どのような役割
をはたせるのかを討議する大規模なプロジェクトです。
この組織は「欧州紛争予防センターECCP」を国際事務局とし、世界各国の NGO が「地
域プロセス」に参加しています。2005 年にニューヨークの国連本部で開かれた国際会議で
は、それぞれの地域からの提言を討議して、「平和を構築する人々――紛争予防のための
世界行動提言」を採択しています。
注目すべきは、この提言のなかで日本国憲法9条が、つぎのように、地域紛争予防のメ
カニズムとして評価されていることです。
世界には、規範的・法的誓約が地域の安定を推進し信頼を増進させるための重要な役
割を果たしている地域がある。例えば日本国憲法9条は、紛争解決の手段としての戦争
を放棄すると共に、その目的で戦力の保持を放棄している。これはアジア太平洋地域全
体の集団的安全保障の土台となってきた。
この指摘はとても重要です。なぜなら、いま憲法9条の原則を破ろうとしているひとた
ちは、だれ一人、この9条が「アジア太平洋地域全体の集団的安全保障の土台」であると
いった認識はたぶん持っていないだろうからです。つまり、九条変改の問題は国際問題で
あるということを無視しているのです。だからこそ、声を大にして、このことを広く知ら
しめる必要があるでしょう。
この組織の日本での受け皿「GPPAC ジャパン」は「NPO ピースボート」が引き受けて
います。「ピースボート」は、韓国や香港の NGO と協力しあって東北アジア地域での活
動を進め、2005 年 2 月には東北アジア地域からの提言「東北アジア地域アジェンダ」を採
択し、さらに 12006 年 3 月には北朝鮮の金剛山で「GPPAC 金剛山会議」を開き、GPPAC 東
北アジア声明「地域行動計画(2006--2010)」(6)を採択しているのですが、その一部に
「日本国憲法第九条を保持するとともに、世界の非軍事化を促進するための平和憲法の役
割を促進すること」という文言が見えます。
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日本国憲法9条は、実態として、日本だけの問題なのではなく、国際的意味を持ってい
るのです。GPPAC の「東京アジェンダ」では、九条変改の動きが「東北アジア諸国に対す
る脅威になろうとしている」ことを指摘して、「九条は日本の軍事主義を封じ込めること
で地域の民衆の安全を確実なものにするための規範であるとされて」きたこと、とりわけ、
紛争解決の手段としての戦争および戦力の保持を放棄したという九条の原則は「普遍的価
値を有するものとして認知されるべきであって、東北アジアの平和の基礎として活用され
るべきである」と述べています。
また、05 年 8 月 15 日には世界各地の新聞に日本国憲法九条の広報キャンペーン広告を
掲載、11 月には朝日新聞にも掲載しています。このように「GPPAC ジャパン」は「ピー
スボート」を中心として「グローバル9条キャンペーン」を展開していますj。
また、「ピースボート/GPPAC ジャパン」は「国際法律家協会 JALISA」と協力して「九
条世界会議」を 2008 年に東京で開くことを提唱しています。「国際法律家協会(国法協)」
の新倉修会長をはじめとする一行は、2006 年の 3 月、この会議の下準備のために訪問した
先のパリで記者会見を開き、ここで市会を努めたロラン・ベイユ国際民法連副会長は、日
本国憲法九条を守るたたかいへの支援は「世界の憲法に九条を書きこませる」たたかいと
も連動すると述べ、9条を拡げるグローバル・キャンペーンの推進に取り組む姿勢を打ち
だしています。
4.「平和省プロジェクト JUMP」(2005)
「JUMP」というのは「平和省プロジェクト」の英語名「Japan United for Ministry of Peace」
の頭文字をとったものですが、「飛びあがる」「跳びはねる」イメージもあるのだと、わ
たしはかってに思っています。
この集団は、読んで字のごとく、この日本国に「平和省」という名の官庁を創設するこ
とを目的としたひとびとの集まりです。とっぴな考えだとお思いですか? しかし、むか
しは環境省なんて名の官庁はなかったし、考えられもしなかった。それがいまではちゃん
と存在して、まあ、十分にとは言えないことも多いのですが、この国の環境を守るための
仕事をやっています。おなじように、防衛省だけがあって平和省がないのはヘンだって思
ったとしてもふしぎはないでしょう。
もし平和省ができたら、このお役所はなにをするのか? 内外のあらゆる紛争の非暴力
的手段による解決法を調査・立案し政府に提案する。と同時に国内的にも家庭内暴力から
反乱にいたるまであらゆる段階の暴力への対処法を調査・立案して、最終的に暴力を根絶
する方策を立てる。こんなところでしょうか。
平和省をつくろうという動きはまずアメリカではじまりました。提唱者は、イラク攻撃
に反対した下院議員 126 人(435 人中)のリーダー的存在であったデニス・クシニッチ(Dennis
Kucinich、オハイオ州、民主党)です。彼は、いくど否決されても懲りずに「平和省設立法案」
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を議会に提出しつづけています。
このクシニッチと意気投合したきくちゆみが、日本にも平和省をつくろうと動きだした
ころ、日本には早くから平和省の設立を提唱しているひとがいました伊藤隆二と今本秀爾
です。このひとたちと力をあわせて創り出したのが「平和省プロジェクト」でした。きく
ちゆみが平和省創設運動を始めたのは、平和憲法(憲法9条)を持つ日本にこそ、その理念
を実践し世界に広める平和省があるべきだと思ったからです。
きくちゆみは、2005 年 9 月ワシントンで開かれた全米平和省会議に出席し(7)、帰国
後、報告会を行うとともにクシニッチとの電話会議などを開催、同年 10 月にロンドンで開
かれた「第1回国際平和省会議(ピープルズ・サミット」にも出席します。この会議には 11
カ国から 40 人弱が参加しました(8)。
この会議できくちは、日本政府が日米同盟を強化し戦争できる国にするため憲法改訂を
企図していると伝え「憲法9条の条文を読み上げ、これは未来からの贈り物であり、人類
が目指す理想であり、世界のすべての国が採択すべきものなのだ」と訴えた。「その瞬間、
会場から大きな拍車がわき起こる。憲法9条を、これから平和省の運動を通して、世界の
憲法にしよう!」と彼女は書いています(「きくちゆみのブログとポッドキャスト」05/10/20)。
この会議のあと、2006 年の 4 月には「平和省プロジェクト JUMP」が活動を開始します。
そして同年6月にはカナダのビクトリアで開かれた「第2回国際平和省会議(ピープルズ・
サミット)」に参加しました(9)。この会議では、世界中に平和の文化を広め、平和省を
創設し、武力外交を終焉させることを目的として国際組織「平和省グローバルアライアン
ス」(Global Alliance for Ministries and Departments of Peace)が創設されました。
この会議で、感動的なできごとがありました。つぎの第三回の会議はインドで開かれる
ことになっていたのですが、そのインドの代表が発言を求めて、いま日本では平和憲法(9
条)が棄てさられようとしていて、その憲法9条を守り抜くためにひとびとが必死に運動
しているところだから、そういったたたかいを励ます意味でも次回は日本で開催したいと
提案したのです。ですから、第三回の会議(ここからは「平和省地球会議」という名称が日本語
での正式名称として採用されます)はこの日本で開かれます。時期は 2007 年9月、千葉−東京
−広島−沖縄をつないで行われます。
いま、「平和省プロジェクト JUMP」に集うひとびとは、むろん、この「地球会議」の
準備に献身しているのですが、それだけではなく、この国にそして自分自身の内部に平和
の文化を創りだし、そのことによってこの世界の構造的暴力に終止符を打とうとする活動
にも積極的にかかわろうとしています。こうした活動のなかでこそ、憲法9条の精神は十
全に活かされていくことでしょう。
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5.その他の動き
長くなりますので、あとはは順不同にはしょってお伝えするにとどめます。
「第2回平和省国際会議」が開かれていた同じころ同じカナダのバンクーバーでは「世界
平和フォーラム(WPF2006)」が開かれていました。こちらには 97 カ国から 5000 人が集ま
って、会期中大小 350 にのぼる全体会やワークショップが行われました。日本からの参加
者は 200 人あまりでした。
ここで、「ピースボート」「ハーグ平和アピール」原水協、原水禁、被団協、「バンク
ーバー9条の会」の共催で「日本国憲法9条――平和のための人類共通の財産」というワ
ークショップが開かれました。
2007 年の 2 月、ナイロビで「世界社会フォーラム(WSF)2007 ナイロビ」が開かれ、そ
の4日目の 24 日、「ピースボート」と国際法律家協会が企画した「非戦へのグローバル9
条キャンペーン(Global Article9 Campaign to Abolish War)」の第2セッションが開かれ、日本
国憲法9条の戦争放棄と非武装の原則について、その意義と、それをどう広めていくかが
討議されたといいます。
2007 年 3 月、来日中のボリビア大統領モラレス(Juan Eva Morales Aima)が日本貿易機構(ジ
ェトロ)での講演のなかで、「新憲法では戦争を放棄する」と語りました。ボリビアには
現在徴兵制が布かれており約 46,000 の兵力を擁しているのですが、モラエスは「戦争は解
決策にならない」「唯一の良かった戦争である独立戦争でも、混血の人たちや先住民の人
命が失われた」「軍隊なしでも人命を救える。軍隊をなくしながら、社会的な戦いを続け
る」と述べたといいます。
また、モラエスは、安倍首相との会談のさい、「ボリビアは日本のような大国ではない
が、人々が手に手を取って平和に生きる社会を作るため、戦争放棄を憲法改正で掲げた」
と語ったともいいます。(サウンドどステップ開発者三浦陽一のブログ「ごきげんようチャンネル」
07/03/11)。
註
1.「大日本帝国憲法」それ自体この「くに」の「伝統」になどもとづいてはいないから
です(p.1) 「大日本帝国憲法」も近代憲法であることにちがいはありません。つまり近
代西欧のモデルにもとづいたものでした。ただ、それは、イギリス、フランス、アメリカ
の政体をではなくプロイセンの「立憲君主制」をモデルにしたものでした。
プロイセンといえども近代国家ですから、それをモデルにした「大日本帝国」には西欧
的合理主義にもとづいた立法・行政・司法組織も官僚組織に警察・軍隊もあり法典も整備
されていました。ただ、それらはすべて現人神という神秘的専制君主によって根拠づけら
れ正当化されている、という意味で、イギリス型の立憲君主制とはちがうものでした。
この「大日本帝国」憲法の「思想」は、明治政府がこの国において西欧諸国に匹敵しう
る近代国家を組織していくために「発明された伝統」(このうまい言いかたはラミスによる)
だったのですが、これを「本当の」日本の伝統だと「錯覚」したことが「日本の近代史を
かなりわかりにくくしている」ともラミスは言っています。わたしに言わせればこれは「錯
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覚」なんかじゃなく、まさに詐術です。
この詐術的明治憲法から脱して、この国の人民(ピープル)がはじめて言葉本来の意味
において「近代的」(むろん、この概念自体西欧的ではありますが)な憲法を持てたその時期が
日本国憲法の成立の時期であった、ということができるでしょう。
いちばん大きなちがいは、「臣民」から「市民」へと変ったことでした。「大日本帝国」
もそのひとつであった絶対君主制の国家では、統治権は神から直接あたえられているもの
だと信じられています。現に「大日本帝国」を統治する天皇は現人神でした。であるなら、
その政府は神聖なものであり、その政府に従うことそれ自体が倫理的に正しい行為となり
ます。「臣民」には国家や社会に関して自分の考えを持つことなど期待されていないばか
りかむしろ禁止されています。
この期待されていないどころか禁止されてさえいることをしっかと身につけているのが
「市民」です。「市民」には、国家・社会のことについて深く考え、行動し、その自分の
行動の結果には責任をとる能力と義務とが要求されるのです。
2.ラミスさんには心からありがとうって言いたい(p.2) このひととは一度だけ「反天皇
制運動連絡会(通称「反天連」)」の学習会であったことがあります。はっきりはおぼえて
いないのですが、ともに講師をつとめたはずです。そのとき以来わたしはこのひとの隠れ
ファンなのです。このひとの書いたまたべつの本(『影の学問、窓の学問』加地永都子ほか訳、
晶文社、1982)を授業でとりあげ、芝浦工大の学生たちに紹介したこともありました。
3.国際機関が誕生したのは画期的なできごとだったと言わなければなりません(p.3) 国
際連盟の加盟国ははじめ 42 カ国でしたが、最終的には 60 カ国以上に達しました。とはい
え、提唱国のアメリカがモンロー主義を唱える上院の反対で加盟できなかったり、ドイツ
は 26 年、ソ連邦は 34 年まで加盟を認められなかったなど、大国の不参加や、日本とナチ
・ドイツの脱退(33 年)、イタリアの脱退 37)やコスタリカ(25)ブラジル(26)の脱退、
ソ連邦の除名(39)などもあり、国際連盟が十分に機能することはできませんでした。
4.常備軍の禁止という憲法の規定は厳格に履行されているのです(p.7) コスタリカ憲
法は全 197 条で、その第1編「共和国」の第 12 条がつぎのように規定しています。
恒久的制度としての軍隊は禁止する。
公共秩序の監視と維持のために必要な警察力は保持する。
大陸間協定によりもしくは国防のためにのみ、軍隊を維持することができる。いずれの
ばあいも文民権力に従属し、単独もしくは共同して、審議することも声明・宣言を出す こ
ともできない。
5.公正な世界秩序のための基本 10 原則(p.10) つぎに全 10 カ条を引用しておきます。
1.各国議会は、日本国憲法第九条のような、政府が戦争をすることを禁止する決議を
行うべきである。
2.すべての国家は、国際司法裁判所の強制管轄権を無条件に認めるべきである。
3.各国政府は、国際刑事裁判所規定を批准し、対人地雷禁止条約を実施すべきである。
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4.すべての国家は「新しい」外交をとり入れるべきである。「新しい外交」とは、政
府、国際機関、市民社会のパートナーシップである。
5.世界は人道的な危機の傍観者でいることはできんばい。しかし、武力に訴える前に、
あらゆる外交手段がつくされるべきであり、
仮に武力に訴えるとしても、
国連の権
威
のもとでなされるべきである。
6.核兵器廃絶条約の締結をめざす交渉がただちに開始されるべきである。
7.小火器の取引はきびしく制限されるべきである。
8.経済的権利は市民的権利と同じように重視されるべきである。
9.平和教育は世界のあらゆる学校で必修にすべきである。
10.「戦争防止地球行動」の計画が世界秩序の基礎になるべきである。
6.GPPAC 東北アジア声明「地域行動計画(2006--2010)」(p.11) 以下、引用です。
a)六者協議プロセスを支援し、日朝および米朝の国交正常化を促進すること。
b)紛争予防および機関構築のために東北アジアに非核地帯を設置することを促進す
るための具体的措置をとること。
c)民衆間の和解を実現するたqめに、過去の植民地支配および侵略戦争を含む、事実
に基づく共通の歴史認識を促進すること。
d)日本国憲法第9条を保持するとともに、世界の非軍事化を促進するための平和憲法
の役割を促進すること。
e)台湾海峡両岸問題や、クルリ諸島/北方領土および尖閣諸島/釣魚第諸島問題など
の領土問題について、市民社会間の信頼醸成のための対話を促進すること。
f)諸国政府に対し、軍縮を進め軍事予算を社会福祉に転換するよう働きかけること。
7.2005 年 9 月ワシントンで開かれた全米平和省会議に出席(p.13) きくちゆみに誘われ
てこの会議に出席した冨田貴史は、そのときの印象を長い「詩のような報告」(きくちゆみ)
として綴っているのですが、そのなかで冨田は「数え切れないほどの仲間に、9条を伝え
ました。9条の存在を知っていた人、知らなかった人、感動して涙ぐむ女性もいました」
と、そのときの感動を語っています(「きくちゆみのブログとポッドキャスト、05/09/17)。
8.この会議には 11 カ国から 40 人弱が参加しました(p.13) ヨーロッパからはイギリス、
オランダ、イタリア、スペイン、中東からイスラエル、パレスチナ、ヨルダン、北米から
はアメリカ、カナダ、オセアニアからはオーストラリア、そしてアジアからは日本。残念
ながらこのときはアジア、アフリカ、中南米諸国からの参加はなかった。旅費や滞在費を
含む会議参加費が高すぎたからです。この欠陥を補うために、その後「平和省基金」が創
設されることになります。
9.カナダのビクトリアで開かれた「第2回国際平和省会議(ピープルズ・サミット)」に
参加しました(p.13) このときは第三世界からの参加者も加え 19 カ国から 45 名が参加し
ています.。カナダ、イスラエル、パレスチナ、ウガンダ、リベリア、ネパール、インド、
フィリピン、ソロモン諸島、アメリカ、コスタリカ、イギリス、日本、オーストラリア、
ニュージーランド、イタリア、スペイン、オランダ、ルーマニア。日本からは4名が参加
しています。
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