手賀沼が海だったころ - 手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会

_____________________________________________________________歴史・環境・遊び・夢_
手賀沼が海だったころ
活動報告
●4月 26 日(日)
手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会会報
2015 年 7 月 31 日
第 30 号
4月~6月
平成 27 年度総会&
歴史講演会『城の楽しみ方と関東の名城』
午前 10 時より柏中央公
民館会議室にて、
「平成 27
年度総会」が開催されまし
た。昨年度の活動報告がな
されるとともに、本年度の
事業計画や新役員等が、右
記の通り承認されました。
本年度は新しい試みも
ありますので、会員の皆様
はぜひ積極的にご参加く
ださい。
同じ日時間をおいて、午
後 1 時半より場所を 5 階の
講堂に移して、歴史講演会
を開催いたしました。
演目は、歴史雑誌等への
執筆の他、テレビなどでも
活躍中の城郭ライターで
あり「城メグリスト」でも
ある萩原さちこ氏による
『城の楽しみ方と関東の
名城』
。143 名という大勢
の参加者を集めて、城郭の
基礎知識や変遷から鑑賞
のポイントなどを分かり
やすく楽しく解説してく
ださいました。
また休憩をはさんで、当
会のDVDでレポーター
を担当し、この日も司会進
行役を務めてくださった
富澤美奈子さんによる萩
原氏へのインタビューコ
ーナーもあり、大変充実し
た内容の濃い講演会とな
りました。
<本年度事業計画>
・歴楽講座の継続実施
・松ヶ崎城跡の保存と自然探索に関する活動の継続
・地域史に関する研究&資料作成等の活動実施
・松ヶ崎城祭り&桜祭りの開催
・近隣の史跡見学等の実施
<本年度の役員(敬称略)>
会長:森 伸之
副会長:山崎 舜造
監査:北 紘子
小柳 満雄
顧問:古井戸 龍介
幹事:岸 勝朗(事務局)
新名 克子(会計)
勝野 正明
川上 利男
藤田 理恵子
山野辺 恭夫
若山 善幸
渡辺 成子
→広い講堂いっぱいの参加者は、
皆さんお城がお好きなよう。どな
たも熱心に聞き入っていました。
で
、
フ
ァ
ン
も
多
い
方
。
※インタビューの要約は4~7
ページに掲載しています。
-1-
↓
荻
原
氏
は
分
か
り
や
す
い
解
説
手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会会報
2015 年 7 月 31 日
第 30 号
●5月 24 日(日)
歴史散歩『小金城跡と周辺史跡』
本年度第 1 回目の歴楽
講座となる歴史散歩が、爽
やかな5月晴れの下、23
名の参加者を集めて行わ
れました。講師・案内役を
務めてくださったのは、当
会の活動にも以前よりご
協力くださっていた「小金
の緑と文化財を守る会」の
代表・田嶋昌治氏。
小金地域は、貝塚等の遺
跡も多く、古くから栄えた
場所であったようです。そ
んな小金の台地にあるの
が、高城氏の本拠地であっ
た小金城です。
小金城は、15~16 世紀
に築城され、秀吉の小田原
攻めの時に高城氏が北条
方だったために廃城とな
ったと伝えられています。
東葛飾地域における戦
国期の最大規模を誇る城
郭だったと言われていま
すが、昭和 30 年代後半か
らの宅地化で、現在当時を
想像させるものは、公園化
して保存された一部分の
みとなっています。とはい
え、今回ご案内いただいた
周辺の寺社等にも、確かに
戦国時代に高城氏がこの
地で大きな勢力を誇って
いた事を伺わせるものが、
いくつも残っています。
予定時間を超えて熱心
にご案内いただいた今回
の史跡散歩。まだまだ他に
も、この周辺には見るべき
ものが多いとのこと。東葛
地域の歴史の奥深さに感
心した約 3 時間でした。
だ
さ
っ
た
田
嶋
昌
治
氏
。
→広徳寺にある
高城氏の墓所。
<行程>
北小金駅南口(10 時集合)
↓
鹿島神社
↓
慶林寺
↓
小金城跡達磨口
↓
↓歴史公園にて。堀の発掘の
様子を真剣に伺う。
小金城跡大谷口
↓
本城跡
↓
中城跡
↓
↑歴史公園の一角にて。
神明社
↓
馬屋敶跡
↓
歴史公園
↓
広徳寺
↓
↑高城胤吉の妻・月菴桂林尼が、夫の死後に住んだ庵
殿平賀遺跡跡
跡に建てられたのが、現在の慶林寺だとか。もちろん
↓
東平賀遺跡公園解散
慶林寺の墓所には、月菴桂林尼の墓もあります。
-2-
↓
熱
心
に
ご
案
内
し
て
く
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2015 年 7 月 31 日
第 30 号
●6月 28 日(日)
歴楽講座『松ヶ崎城跡と周辺の見学会』
本年度第2回目の歴楽
講座は、昨年の当会 15 周
年記念講演会の内容を踏
まえて、今一度松ヶ崎城跡
やその周辺を見直そうと
いう講座となりました。梅
雤時とは思えない青空の
下、森会長を案内役に、32
名の参加者で開催されま
した。
松ヶ崎城跡を見学した
後、途中松ヶ崎町の集会場
をお借りしての解説と休
憩を挟んで、周辺の万松寺、
香取神社境内、覚王寺参道
等の石仏・石塔等も見学。
参加者の中には、松ヶ崎
に深い歴史がある事を初
めて知って感激したとい
う人も。近隣在住の方でも、
今でも意外と知らずに過
ごしている人がまだまだ
多いようです。
今後も、当会では松ヶ崎
城跡等を広く皆さんに知
って頂き、先の事を共に考
えていただけるよう活動
していきたいと感じた回
でした。
↑松ヶ崎城跡の郭内を一つ一つ丁
寧に見学。
※森会長の石仏についての原稿
をP8~10 に掲載しています。
↑松ヶ崎町会のご厚意により、集会
場をお借りしての解説&休憩タイ
ムです。
↑腰郭の一角に、今は湧水だけが残るお不動様跡。江
戸から明治にかけては有数な観光地だったとか。
等
の
石
仏
が
祀
ら
れ
て
い
ま
す
。
こ
の
境
内
に
は
庚
申
様
、
弁
天
様
↑
香
取
神
社
の
入
り
口
に
て
。
こ
↑香取神社境内にある百庚申。年代も様々な石仏が
多数集められて庚申様として祀られています。
-3-
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第 30 号
●4月 26 日(日)
歴史講演会でのインタビューより
(講師萩原さちこ氏のご厚意により、一部抜粋を掲載させていただきました。
)
↑講演会時のインタビューの様子
左:講師:萩原さちこ氏、右:司会:富澤美奈子さん(以下敬称略)
富澤 山城を歩くのは、結
構大変そうですが、どうで
すか?
萩原 山城といっても、本
格的な登山が必要なすご
い場所ばかりではないの
で。時代によりますので、
立地も。そういう所もあり
ますし、結構登山道として
整備されているお城もあ
りますので、その辺も、も
し行かれる場合は整備さ
れている城から行く方が
行きやすいと思います。い
きなり、よじ登らなくては
ならない所ですとハード
になりますので。
あとは動物とか気をつ
けていただければと。季節
柄熊が出ることもありま
すし、去年私は蜂に頭を刺
されました。足長蜂だった
ので、良かったのですけれ
ど。最近、マダニも多いで
すし、去年はヤマビルにも
遭遇しましたし、あまりな
めてかかると自然の猛威
に。マムシも多くて、八王
子城には最近マムシが出
ていると聞いていますの
で、石垣の間にちょっと手
を突っ込むと出てきたり
しますので、その辺の対策
も、露出しない服装とか対
策をして頂ければ良いと
思います。
富澤 この季節、皆さん行
こうかなと思う方も多い
と思うので。
萩原 梅雤に入ると気を
付けた方が良いです。足場
も悪いので。
富澤 そうですね、お天気
の良い時期に、なるべく肌
を出さずに、危険だなと思
った所には手を出さない
ということですね。はい、
ありがとうございます。
山城のお話が出たので
すけれども、山城の場合は、
麓に館があって、城主は普
段は館で生活していたの
でしょうか?
萩原 そうですね。よく一
般的に山上の詰城と山麓
の居館の二元構造という
のが、よく言われていので
すが、必ずしも二元構造で
はないのですね。二元構造
で有名なところでは、武田
信玄の躑躅ヶ崎館なんか
皆さんよくご存じかもし
-4-
れません。今行くと武田神
社になっていて、若干信玄
ファンの人はがっかりす
るという場所ですけれど
も、そこは元々城館があっ
て、単郭方形の館があって、
割と正統なもので使って
いるのですけれど、そこで
は当たり前ですけれどす
ぐ攻められてしまうので、
背後の詰城という山城を
築くのですね。それで二元
構造になっていて、躑躅ヶ
崎館の場合は少し離れた
場所に要害山城という、3
kmほど離れた場所です
が、そういう構造の所もあ
ります。
あと二元構造で有名な
のは一乗谷。山麓が朝倉の
一乗谷、一乗谷遺跡になっ
ている所ですけれども、そ
こも背後に、すごい結構気
軽にはいけない詰城があ
ります。
↑一乗谷遺跡に面した唐門
ただ必ずしも二元構造
になっているかといえば、
そんなこともなく、さきほ
どご紹介した飯盛山城な
どですと、石垣を積んで近
世のような感覚で実際に
住んでいた所もあります
し、居館と一体になってい
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た城もあります。
一乗谷の朝倉は守護の
館として元々あって、そこ
に暮らすということなの
で、時代によって二元構造
ということでもないので
す。
富澤 実際に山城に行っ
て、ここでそういう暮らし
があったんだとか、色々想
像をめぐらしたりして、な
かなか楽しそうな感じが
いたします。
近世のお城について、お
うかがいしたいのですが、
近世のお城は天守閣があ
ったり、大広間などもある
ようですが、城主の方はど
ういう暮らしをしていた
のでしょうか?
萩原 そうですね。私も知
りたいですね。時代にもよ
りますけれど、近世に関し
ていえば、城の天守にはも
ちろん住んでいないので
す。城主は御殿に住んでい
ますので。
子供の頃など、天守に登
って、お殿様はこういう景
色を見ていたんだと思っ
たのですけど、違うのです
ね。城主によっては、城主
になった時に一回だけ登
るということだったよう
ですし、天守というのはシ
ンボルタワーだったので
すね。外側は意味があって、
中はそんなにという。
御殿というのがなかな
か残っていなくて、御殿の
全容が分かるというケー
スがありませんので、想像
も説明も難しいのですが、
生活というと城主でも将
軍家になりますが、江戸城
の例では本丸御殿の研究
というのは結構研究で明
らかになっていて、結構ハ
ードな生活をなさってい
たようです。
もう時間通りにかなり
のタイムスケジュールで
動いていたようですし、江
戸城というと大奥が有名
ですが、大奥の女性たちも
結構つらい生活というか、
そういう生活をしていた
ようです。一日三回も四回
もお召替えがありますし、
朝の総触といって一列に
なって将軍を何時間も待
ってお出迎え、そういう生
活をしていますし、夜の生
活も好きに将軍が大奥に
行ける訳じゃないのです
ね。事前申請が必要でした。
今日は誰々、明日は誰々の
所に何時に行くというの
が事前申請してというこ
となので、今日暇だから夜
ちょっと行こうかなとい
うことは全くなかったよ
うです。余暇という時間も
ありますが、結局はお勉強
したりとか、政務が終わら
なくてやったりとか、そう
いう生活をしていたよう
です。
江戸城ですと、今東御苑
の芝の広場になっている
所、あそこが本丸御殿なの
ですね。そこに 130 棟くら
いの、時代によってちょっ
と違いますけれど、平屋根
のものがびっしり建って
いたということなります
ので、広いようでいて、結
構狭いんですね。130 あっ
たと考えたり、そこにいた
人が何百人もいたと考え
-5-
ると、結構狭いので、なか
なか時間にも追われ、狭い
中で生活してようです。
富澤 城主といえども、優
雅な生活というよりかは、
色々制約があり、分刻みの
スケジュールがあったか
もしれません。そのあたり
はこれから一つずつ解き
明かされていったら面白
いと思います。
さて、今日はお若い方が
チラホラ会場にみえてい
るのですが、最近は歴史が
大好きな歴女、歴男ブーム
ということですが、お城好
きの女性はどうですか、最
近増えていらっしゃるの
でしょうか?
萩原 そうですね。かなり
増えていると思います。7,
8年位前だと思うのです
が、『日本百名城』という
のを日本城郭協会で制定
しまして、スタンプラリー
があったのですが、それで
年代も男女も関わらず、割
と増えたような気もしま
すし、あと5,6年前の歴
女ブームにより、結構女性
を見かけるようになりま
した。歴女ブームで来た女
性は、結構去って行った方
も多いのですが、あと最近
は旅ブームですとか、山ガ
ールが山に行ったら城だ
ったというようなことか
らハマって、果敢に来てい
る方もたくさんいるので、
最近は狭まってなくて良
いですね。お子さんとも、
整備されている所なら行
けると思うので。すごい若
者が生まれてくるかと。
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富澤 それこそ、小さい時
からは自分のうちの地域
に、お城があったんだよ、
お母さんが教えてあげた
りすると、地域の活性化に
もつながりますし。
萩原 それが今課題だと
思いますし、ですから保存
なども会の方でやられて
いますが、すごい重要な課
題ですし、私も割とそうい
うお話を頂くことが多い
です。観光面だけではなく、
地域活性化、お話のご依頼
を受けるときは、地元の方
が余り地元のお城の良さ
を知らないということが
割とありますので、そうい
うところも愛着もてれば
変わってくるのかなと思
います。
富澤 先程の姫路城や松
本城も、何百年も周りの市
民、住民によって守られて
きて、多分幾度となく存続
の危機があったと思うの
ですけど守られてきて、今
回の主催であります手賀
沼と松ヶ崎城の歴史を考
える会の皆さんが行政に
働きかけたりとか、地域住
民にお願いしたりとかし
て、結構保存していこうと
いう気持ちで守っている
ところがあるのですけど、
そういう気持ちは大事で
すよね。
萩原 そうです。結構城と
か歴史は過去のもの、切り
離されたイメージがある
のですが、決してそうでは
なくて、いつも時代も街に
地域のシンボルというか、
中心地にあって、その時代
の人たちが守ってきたか
↑復元された名古屋城本丸御殿
らこそ今ある訳で、今守ら
れなければ未来はないで
すし、未来に残すためには
今守らなくてはならない
ですし、それをやっていく
のは地域の方になるので
すよね。今奇跡的に残って
いる城なんかも、運だった
りもありますけど、戦争の
影響を受けなかったとか、
そういうのもありますけ
ど、色々な分岐点があるな
かで、地域の方が守ってい
るから残っているのです
よね。
地域の方でお金持ちが
守ってくれたとかもあり
ますけれども、姫路城もそ
うですが、今名古屋城の本
丸御殿の復元をしていま
すが、あそこは障壁画が
1047 枚残っているのです
が、空襲の直前に地域の方
が外して避難させている
のですね。本丸御殿自体は
消失してしまったのです
が、そういう障壁画が残っ
ていることで復元の材料
にもなっています。
そういうふうに守られ
ていっている所もありま
-6-
すので、私たちは今歴史を
造っていっている、現在進
行形で造っているという
考え方が良いかなと、私も
思っていつもお城に接す
るようにしています。
富澤 次の世代に伝える
役割を私たちは果たして
行かなければならないの
ではないか、と思います。
さて城郭検定というも
のがあるくらい、本当にお
城がブームになっている
のですけれど、最後に萩原
さんから、先程のお話にも
あったのですが、お勧めの
お城などあれば、あと皆様
にお伝えしたいことがあ
れば、お話頂けますか。
萩原 そうですね。お勧め
のお城は結構たくさんあ
るのですけど、増尾城は皆
さん結構行っていらっし
ゃるので、地元のお城って
気軽に行くのが一番良い
と思います。旅費を出して、
すごく遠いところにわざ
わざ行かずとも、お城はた
くさんありますし、それで
楽しんでいただければ良
いと思います。意外とお城
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は身近な存在といいます
か、どこにいってもありま
すので、旅行のついでに寄
っても見てもいいですし、
そんな中で今日お話しし
たようなことをちょっと
思い出して頂いて、ただ行
って帰ってくるのではな
くて、ちょっと思うところ
があれば嬉しいと思いま
す。関東も良いところ、い
っぱいありますので、行っ
て頂きたいなと思います。
はい、お知らせは、城フ
ェスというのを開催して
いまして、6 月 21 日にあ
りますので、よろしかった
ら、お越し下さい。
富澤 ありがとうござい
ます。
HP*などもご覧になっ
て頂いて、萩原さんの活動
を随時チェックできるよ
うになっていますので、み
て頂きたいと思います。
今日は本当に楽しいお
話、まだまだ聞きたいこと
がいっぱいあるのですけ
れど、お時間の関係でここ
までとさせて頂きたいと
思います。今日は『城の楽
しみ方と関東の名城』と題
しまして、萩原さちこさん
に色々お話をうかがいま
した。
本日はどうもありがと
うございました。
※URL:http://46meg.jp/
【追記】城フェス vol.6 in TOKYO に参加して
6 月 21 日(日)、今回の講師萩原さちこ氏のお誘いにより、城フェス vol.6 in TOKYO に参加
しました。6 月 21 日の 10 時半から開演で、終了は 15 時過ぎ。場所はゆりかもめの青海駅に近
い、東京カルチャーカルチャーだったのですが、土地勘もなく、事前に道順をよく調べていなか
った筆者はたまたま駅にいた見ず知らずのご夫婦に聞いたりして何とかたどり着きました。
出演者である滋賀県立大の中井均教授や織豊期城郭研究会の加藤理文氏はバリバリの関西弁
で、紹介された城も観音寺城とか関西の城が多かったような気がします。講演というより、掛け
合いのトークショーに近いと思いました。講演中の映像でも、加藤氏と萩原さんが一緒に切岸を
登る画像など、見ているだけで面白いものもありました。
「韮山城&天ヶ岳レポート」
、中井均先
生講演「戦国城郭の石垣」など、いくつもの講演やトーク、その他のイベントが割合短い時間で
織り込まれており、普段我々が参加する講演会とはだいぶ趣きが違いました。
会場には、全国から集まった若い方から、筆者と同じくらいの年齢の方まで来ていましたが、
特に若い女性が目立ちました。なお、筆者が特に印象に残ったのは、萩原氏の講演であった、ス
マートフォンを利用した城郭の観光ガイドシステムや城跡のレーザー測量が実用化されている
こと。日進月歩で、城郭研究や色々なものが変わって来ています。(森)
テ
ム
や
測
量
技
術
に
つ
い
て
の
情
報
も
。
↑城フェスで講演する中井均教授(中央)と
加藤氏(右)
、萩原氏(右端)
。
-7-
↓
萩
原
氏
の
講
演
は
、
最
新
の
観
光
シ
ス
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会員便り
●柏市松ヶ崎にある弁財天などの石造物
少し前になりますが、平成
23 年(2011)10 月 23 日(日)
に篠籠田、高田の歴史散歩
を行い、篠籠田の西光院、高
田の熊野神社、松ヶ崎香取
神社をまわりました。最後に
まわった松ヶ崎香取神社に
は、優美な石仏として弁財天
が二体あります。また、百庚
申として集められたものでしょ
う、庚申塔が 46 基あります。
これは、いずれも江戸時代後
期のものですが、一つ一つ
の年代を見ると違っておりま
すので、後付けで百庚申にし
たのではないかと思います。
百庚申というと、個々の庚申
塔の信仰ではなく、数に価値
を置くことになり、例えば名戸
ヶ谷の香取神社は本当に百
あるそうです(数えたことはあ
りませんが)。松ヶ崎香取神
社の弁財天は本殿の横のあ
まり目立たない場所にありま
すが、その造形美は素晴らし
く、どちらも穏やかな表情を
浮かべています。
↑元禄 16 年(1703)造立の「巳
待供養塔」(後ろが延 宝 5 年
(1677)の弁財天)
。
一つは「奉巳待供養取願成
就処」として、「元禄十六年癸
未十月吉日」の日付があり、
蛇冠をかぶった二臂(二本の
腕)の像で、左手に宝珠、右
手には宝剣を持って、背景に
鳥居が刻まれています。巳待
供養とは、巳の日の晩に講の
仲間が集り掛軸を掲げ、お祈
りをしたことをいい、弁財天信
仰の一つになります。
↑千葉県最古の石仏弁財天とい
う、延宝 5 年の弁財天。
奥にある二つ目の像は、手
前より古く、「奉造立弁財天」
とあり、日付は「延宝五丁巳
天 十月十八日」で、当地の
吉野家が個人で造立した弁
財天のようです。この弁財天
は腕が四本の四臂像で、右
手第一手に宝剣、右手第二
手に金剛鉤、左手第一手に
宝珠、左手第二手に鉄輪を
もっています。実はこの弁財
天は、千葉県で最古のものと
房総石造文化財研究会が平
成 11 年(1999)に出版した
「房総の石仏百選」(たけしま
出版)に掲載されたもので
す。
弁財天は、天部に属する仏
であり、芸能・音楽を司るとい
いますが、起源はインドのサ
ラスバティー川の河神であり、
水神のように水辺に祀られる
ことが多かったようです。竹生
-8-
会長
森
伸之
島の弁天様は琵琶湖の中の
島、江ノ島の弁天様は東京
湾の島、布施の弁天様も現
在の利根川の近くと、弁天様
は何れも川や海、湖の近くに
あります。上野不忍池の弁天
様のように、池の中に祀られ
ていることも多いです。松ヶ
崎城跡の台地下には水神を
祀った場所がありますが、当
地の弁財天もまた川の近くや
湧水の出るような場所などに
祀られたのでしょう。
松ヶ崎香取神社には、他に
も宝暦 3 年(1706)造立の大
きな青面金剛像や、山神宮
や疱瘡神の石祠などがありま
すが、少し離れた覚王寺門
前、一本杉の南の丁字路の
どんつきにも、石仏、石塔が
集まっている場所がありま
す。
その場所は、もともと覚王寺
の参道が西側に約2m幅で
続いていたのを道路の拡張
工事にともなって、参道脇に
散在していた石仏・石塔群を
移動したもので、小さな御堂
に地蔵尊が祀られ、その向か
って右に覆屋があります。覆
屋内は天保 2 年(1831)造立
の子育地蔵が子を抱きかか
えています。その左脇には、
文政 8 年(1825)の需道大権
現石祠があります。
御堂の向かって左側には、
二列になって石塔群がありま
すが、目をひくのは古い庚申
塔で「奉造立庚申供養取願
成就所 敬白」とあり、「元禄
十三庚辰年 十月吉祥日」の
日付と「松ヶ崎村 同行二十
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第 30 号
六人」と建立者が刻まれてい
ます。お決まりの三猿は、動
きが余りなく彫も簡素です。
元禄 13 年(1700)は今から
315 年前、しかしこの庚申塔
が、他の年代が新しい石塔よ
り、保存状態が良いのです。
石が安山岩質で、固いものを
しっかり彫っており、逆に新し
い年代の砂岩質のものは作
られた当初はきれいに彫って
↑地蔵尊の御堂と覆屋(左)、→元禄
あったのでしょうが、今は風
十三年の庚申塔(右)
。
化したり、欠けたりしていま
す。
他に面白いのが、廻国塔が
元禄 13 年の庚申塔と同じ
2基あることです。廻国塔とは、 並びにある廻国塔には「奉納
通常法華経と呼ばれる大乗
大乗妙典日本回國供養也」
妙典という経典を諸国巡礼し
として、「寛延三庚午天十月
て寺々に納め、結願した記
十三日」という日付が入って
念に建てられますが、巡礼の
います。その日付の下に「念
途中で他郷で亡くなった方を
西」とありますが、廻国納経の
葬り供養したものもあるそうで
巡礼をした行者の名前でしょ
す。人々の喜捨を受けながら
うか。上に大日如来と思いま
諸国巡礼したのは手甲脚絆
すが、仏像のレリーフがありま
姿の廻国聖といわれる修行
す。この念西も、他の多くの
者で、法華経を 66 回書写し、 修行者と同じように、厨子を
それを一部ずつ 66 ヶ所の霊
背負い、納経のために諸国
場に納めて歩いたため六十
をめぐったのでしょうが、その
六部、あるいは六部とも言わ
道のりは苦しいものだったか
れますが、今のように電車も
もしれません。松ヶ崎からは
バスもありませんし、食糧や
少し離れていますが、柏市高
雨風をしのぐ場所にも困った
柳には笈を背負い、右手に
こともあるでしょう。
錫杖、左手に数珠を持つ行
者の姿を浮彫にした正徳 4
年(1714)の珍しい廻国塔が
あり、まさにその姿で行脚し
ていたのでしょう。
もう一つの廻国塔は、正面
に「天下泰平 日月清明」と
祈念の文字と「奉納大乗妙
典日本廻國供羪塔」「当村願
主又七」とあり、左側面に「文
化八辛二月吉兆日」という日
付と、「妙閤信女 寶暦二申
八月弐三日」「寂光信士 天
明四辰二月弐六日」「妙等信
女 天明八申三月□日」と戒
名と命日らしき日付が三人分
刻まれています。 右側面に
は「先祖代々精靈靈両親菩
提」とあり、左側面の宝暦 2 年
(1758)は造立年である文化
↑寛延 3 年(1750)の廻国塔(左)と、文化 8 年(1811)の廻国塔(右)
。
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手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会会報
2015 年 7 月 31 日
第 30 号
8 年(1811)の 53 年前、天明 4
年(1784)は 27 年前、天明 8
年(1788)は 23 年前になり、こ
れは造立者の先祖、両親の
戒名と命日と思われます。お
そらく造立者は何かの祈願と
先祖、両親の供養を兼ねて
諸国を回ったのでしょう。
わが松ヶ崎城跡の近くにも、
個人の墓地の中なのですが、
享和元年(1801)の廻国塔が
あります。目立ちませんが、
そこには中世の板碑もありま
す。
そして、松ヶ崎不動尊跡に
も、明治 5 年(1872)の手水鉢
が。これは「根戸邨中」「奉
納」とあり、「明治五壬申歳六
月吉日」の日付があります。
この裏にはびっしりと「一 金
二両」、「一 金一両」、「一
金一分二朱」、「一 金壱
分」・・・と奉納した金額の多
い順に個人名が刻まれてい
ます。明治 4 年(1871)に円・
銭・厘という新貨条例が制定
され、一両は一円に換算され、
明治 5 年(1872)4 月には
円を単位とする明治通宝とい
う新紙幣が発行されたそうで
すが、当時まだ流通していた
太政官札も通貨単位は両・
朱・分のまま、寄付金を集め
た時点では江戸時代と同じ
両・朱・分などの単位が使わ
れていたのでしょう。
それにしても、「根戸邨」が
91 名、「柏呼塚邨」が 1 名、
「呼塚新田」が 3 名と合計 95
名の記名があり、当時の松ヶ
崎不動尊の繁栄ぶりを窺わ
せます。
勿論、ほかにも周辺には
様々な石造物があり、それぞ
れに来歴があります。何気な
く見過ごしがちですが、路傍
の石仏、石塔など石造物に
は、それを建てた人たちの思
いと、地域の歴史が込められ
ているのです。
(参考文献)
『房総の石仏百選』
房総石造文化財研究会編
たけしま出版 (1999)
『柏の金石文(Ⅰ)』
柏市教育委員会 (1996)
『柏の金石文(Ⅱ)』
柏市教育委員会 (1999)
↑松ヶ崎不動尊跡の手水鉢。
画/若山
善幸
6 月 28 日の歴楽講座以前に書いてくださっていた原稿です。そのため、講座当日にも、
詳しい説明をしてくださいました。ありがとうございました。(編集部)
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手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会会報
2015 年 7 月 31 日
第 30 号
●犯罪人の更生活動と剣道人生
私はJICA(国際協力機構)
のボランティアとして 2001 年
(平成 13)4月から2年間、南
米のチリで剣道と居合道を指
導してきました。今は柏・流
山・我孫子を統括する柏地
区保護司会会長をしていま
す。
4月 28 日に新聞報道された
平成 27 年春の褒章受章者
は全国で 675 人、その中に私
の名前がありました。褒章は
社会や公共の福祉、文化等
に貢献した民間人を顕彰す
る国の栄典制度です。私の
場合は、藍綬褒章で法務省
管轄にある保護司として 23
年間活動したことに対する受
賞です。今回受賞した有名
人は、芸術と文化部門の浅
田次郎・谷村新司・観世清
和・吾妻徳穂など紫綬褒章
受章者で、文部科学省の管
轄です。
保護司とは法務大臣の委
嘱を受けて、刑務所出所者
の住居確保、就業・自立支援
等の更生保護活動をする民
間篤志家です。全国に5千
名、柏地区保護司会に 100
名います。
5月 15 日、皇居豊明殿にて
配偶者も参加して天皇陛下
に拝謁しました。
豊明殿は新年一般参賀の
時、皇族方が2階ガラス越し
にお立ちになる宮殿です。
↑拝謁の様子(皇室写真集より)
山野辺
恭夫
私は整列の最前列しかも陛
下のお立ち台のすぐ前に立
ちましたので、近くで拝謁し
てお言葉を聞くことが出来ま
した。
「このたびは、公共および国
のため永年尽力され、本日
栄誉ある受賞をされました。
これからも健康に留意して、
社会のために尽くされるよう
願っています」
菊の紋章つき和菓子折りと
皇室写真集を拝領して退席
しました。
チリやアルゼンチン南部の
パタゴニアでは、恐竜の化石
がたくさん出ます。アンデス
山脈でも巨大サメの歯が発
見されていて、山奥の住民が
20 センチもある歯を売ってい
るのを見ました。巨大サメが
展示されていました。
1963 年(昭和 38)早稲田大
学商学部卒業、剣道部所
属。
1999 年(平成 11)日本アイ・
ビー・エム㈱退社。
2000 年(平成 12)JICAの剣
道ボランティアに合格。剣道
7段の他、居合道が指導でき
ることが評価されたようです。
↑巨大さ、分かりますか?
↑チリの大統領官邸にて
2001 年(平成 13)4月、チリに
赴任。首都サンチャゴ市にア
パートを借り、市内2カ所の
道場と地方3か所の道場を巡
回指導。同年5月、ラゴス大
統領夫人から昼食会に招待
されました。上の写真は大統
領官邸モネダ宮での記念写
真で、真中が夫人と私です。
サンチャゴ日本人学校での
演武は小学生から喝采され
ました。
- 11 -
本年5月、57 カ国が参加し
て日本武道館で行われた第
16 回世界剣道大会でチリは、
剣道後進国ながら大いに活
躍し注目を集めました。チリ
で共に汗を流した選手・スタ
ッフ・応援団が 30 人も来日し
て旧交を温めました。大会後、
希望者を東京・京都・奈良に
案内しました。彼らは、赤穂
四十七士の泉岳寺、上野公
園の彰義隊墓地、新撰組討
ち入りの池田屋、奈良公園の
鹿に特に興味を表しました。
これからも、①保護司活動
を通して犯罪のない安全な
社会つくりと②剣道を通して
国際親善に尽くしたいと思っ
ています。
↑受賞した勲章と賞状
手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会会報
2015 年 7 月 31 日
第 30 号
●「更生保護の父」原 胤昭の生涯
手賀原氏の子孫である江
戸町奉行・与力 原 胤昭に
ついての講演会がありました。
その内容を要約しました。ご
承知の内容と思いますが、ご
一読ください。
*南町奉行所の与力をつと
めた原 胤昭 [1853(嘉永
6)年~1942(昭和 17) 年 ]
は、最後の町与力として明治
維新に直面。
*1883(明治 16)年に筆禍
事件で3ヶ月間投獄され、囚
徒の窮状を目撃して、監獄
改良・釈放者保護・自宅にて
釈放者を収容保護・東京出
獄人保護所開設など後半生
を出獄人保護活動に捧げ、
「更生保護の父」と言われた。
キリスト教としても犯罪者の救
済に努めた。
山野辺
*原氏の遠祖は桓武平氏。
高望王 ― 平忠常 ― 千葉
常胤(頼朝の後見人)と続く。
千葉一族が下総国香取郡
原郷(現多胡町)を領有して
原氏を名乗り、千葉氏本家の
重臣として鎌倉~戦国期を
過ごす。
武田信玄の武将・原美濃守
虎胤、家康の小姓でキリシタ
ンとして処刑された原主水胤
信も同族。
*一族の原筑前守胤親が現
在の柏市興福院のある地域
に1585(天正 13)年、手賀
城を築き、千葉本家とともに
北条氏に属す。
恭夫
*家康により胤親の子が町
奉行与力に抜擢され、与力
原家が誕生。
*最後の与力、13 代目 原
胤昭が手賀城址に墓を建て
る。
以上は常総歴史研究会定
例研究会(平成 27 年 6 月 7
日、柏市教育福祉会館)での
山下洋輔氏の研究発表およ
び千代田区立四番町歴史民
俗資料館発行の冊子「江戸
町与力の世界―原胤昭が語
る幕末」をまとめたものです。
平成 27 年 6 月 27日 記
*豊臣秀吉の小田原征伐に
より1590(天正 18)年、千葉
氏、原氏滅亡。
←明治元年 5 月、江戸町奉行所授
受に関係した与力生存者ら。後列、
与力原胤昭・与力佐久間・与力安
藤・与力仁杉、前列、与力高橋・
土佐藩士土方久元(後、伯爵)
・与
力都築(
「江戸町与力の世界―原胤
昭が語る幕末」より)
。
※山野辺さんは長年の保護司としの活動が認められ、今回の变勲となったそうです。ここ
に記された原胤昭は、タイトルにもある通り「更生保護の父」として知られる人物です。
この初夏は、素敵な偶然があったようです。
(編集部)
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手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会会報
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第 30 号
●『お気楽散歩会』からのご報告
風薫る5月10日(日曜日)、
お気軽散歩と称し、7名の女
性たちで23区内唯一の渓谷
である等々力渓谷に一日遊
んできました。
先ずは、世田谷区の名木
百選の一つである“保存樹木
ケヤキ”が出迎えてくれました。
その大きさ、素晴らしさを愛
でつつ、「等々力渓谷入口」
看板そばの階段を10メート
ルほど降りていくだけで、まる
で別世界のようです。
矢沢川がゆっくりと流れて
います。小さな橋の上で男の
子が流れを指さしながらニコ
ニコ顔です。私も覗いてみま
すとアメンボが何匹もスーイ、
スーイと水面を回っていまし
た。
微かに聞こえる水音に耳を澄
ましながら遊歩道に沿って歩
く途中、ふと振り返りますとゴ
ルフ橋の赤色が水面に映っ
て印象的でした。
両側の急斜面には豊かな
武蔵野の雑木林が織りなす
青葉若葉の美しい空間を見
せてくれています。樹木から
の自然の恵みを頂きながら、
横穴式古墳をガラス窓越しに
覗いてきました。この横穴式
新名
古墳は古墳時代末期から奈
良時代にかけて形成された
野毛地域の有力な農民の墓
と推定されています。完全な
形で残っていた3号式古墳が
発掘調査され、人骨とともに
耳環や土器などが出土した
そうです。
交通の激しいことでも知ら
れています環八通りの下を潜
り抜け、暫く川の両岸を行っ
たり来たりしていますと、斜面
から水が滲み出して、苔の色
も鮮やかな不動の滝に出合
いました。今でいうところのパ
ワースッポットでしょうか。思
わず手を合わせました。
少し高台にある等々力不動
尊の境内でお参りの後、しば
し一休憩。流石に高台だけあ
って風が心地良かったです。
約1キロの遊歩道を歩き終
え、元気いっぱいで野毛大
塚古墳公園に向かいました。
広い公園の一角に古墳はあ
り、ブランコや滑り台で遊んで
いる小さな子供たちが沢山い
て平和そのものです。
野毛大塚古墳は全長82メ
ートル、直径66メートル、高さ
11メートルの円墳に小さな前
方部が付いた帄立貝式古墳
克子
る
お
不
動
様
。
↓
不
動
の
滝
に
安
置
さ
れ
て
い
としては日本国内でも有数の
規模を誇るそうです。古墳の
周りに馬蹄形の溝(周豪)が
めぐらされ、沢山の埴輪が並
べられていて、いにしえの時
代がふと偲ばれました。
最後の仕上げは遅めのラン
チです。等々力駅まで戻り、
築120年以上の日本家屋を
利用した「中国料理 ざいもく
屋」で美味しい飲茶を頂きな
がらおしゃべりを楽しみまし
た。
またいつの日か、楽しい散
歩をご一緒しましょうねと言い
ながら、お別れしました。
↑珍しい帆立貝式古墳の野毛大
塚古墳。
編集部に届いた参加者の声
会設立当初から関わってきました
が、ここ数年は足が遠のいていまし
た。等々力渓谷散歩に参加して、新
→都区内唯一の渓谷
緑の中を歩きリフレッシュして楽し
である等々力渓谷に
く、道中いろいろ話し合え、これか
は、新緑の季節を迎
らは顔を出すようにしようと思いま
え、多くの散歩者が訪
す。
れていました。
松平 信子
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手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会会報
2015 年 7 月 31 日
第 30 号
編集部より
情報広場
このコーナーでは、会員の
皆様から寄せられた情報や、
編集部が見つけてきた情報
いよいよ夏本番です
●東京都墨田区・江戸東京
博物館で、『徳川の城~天守
と御殿~』展を8月4日(火)
から開催。
が、皆さんはいかがお過
ごしですか?
ん暑さに負けず、歴史ロ
等、様々な情報をご紹介い
たします。
●『お気楽散歩会』の企画第
2 弾が決まりました!
5月の等々力渓谷散歩は
女性だけ7名の参加でしたが、
今度は男性も参加してほしい
と9月 21 日(月・祝)に東京の
運河ツアーを企画したそうで
す。ただし、ツアー会社に申
し込むため、今回は早めの
参加者確認が必要とのこと。
興味を持った方は、8月 10
日までに編集部へ問い合わ
せ・申し込みをしてください。
●佐倉市・国立歴史民俗博
物館で『ドイツと日本を結ぶも
の~日独修好 150 年の歴史
~』展開催中。
幕末のプロイセンとの修好
通商条約から始まる日独交
流の歴史を、様々な資料を
用いて紹介します。
1860 年にプロイセン王国は
東アジアへ使節団を派遣しま
した。その使節団と徳川幕府
は、翌1月 24 日に修好通商
条約を締結したと言います。
この時の外交文書やプロイセ
ン国王から将軍家茂への贈
答品などをはじめ、近世の日
独の交流が分かる資料まで、
多数の展示物で両国の歴史
を解き明かしていきます。
9月6日(日)まで開催して
います。
もちろ
日本史上最大の規模を誇
る江戸城。その江戸城を、さ
まざまな研究者の協力を得て
映像で再現したNHK。その
映像を駆使して、江戸城を体
感しようとい展示会。
また、合わせて徳川家に関
わる城郭や、江戸幕府が築
いた城について考える展示も
行われます。
9月 27 日(日)までの開催
です。
マンに思いをはせてい
るのでは。ぜひ、皆さん
の近況を編集部にもお
教えください。お待ちし
ております。
次回の会報発行予定
10 月 25 日(日)
原稿締め切り
9月 30 日(水)
●千葉市・千葉県立中央博
物館で『妖怪と出会う夏 in
Chiba 2015』展が開催中。
原稿内容
研究論文、紀行文、エ
ッセイ、小説、写真、イ
妖怪の世界を、古くからの
伝承はもちろん、現代でも親
しまれるその魅力に迫る展示
会です。熊本県に伝わる河
童の手のミイラも、8月には展
示される予定。
また各種イベントの中には、
大人向けに、千葉県の妖怪
伝承についてのフォーラムも
開催予定だとか。
会期は9月 23 日まで。
ラスト、なんでもOKで
す。字数の制限などもあ
りません。会報の 1 ペー
ジには約 1700 字ほど入
りますので、それを目安
にしてください。
原稿の宛先
郵送:〒277-0841
柏市あけぼの 2-4-5
藤田理恵子
Eメール:
s-rieko-y@
jcom.home.ne.jp
手賀沼が海だったころ
手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会会報
発行人:森伸之 編集人:藤田理恵子
年会費 2 千円
振込先:千葉銀行
- 14 -
柏支店
第 30 号
2015. 7. 31
口座番号3461475