新潟大学人文学部情報メディア論コース 2005 年度卒業論文概要 青山未央 電話空間についての考察 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 1 浅井洋美 私的空間に響く音楽 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 2 石原翔太郎 近現代日本における新生児の命名について . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 3 伊藤雅人 監視にみるテクノロジー依存社会の帰結 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 4 井上聖美 携帯テレビ電話の利用行動:テレビ電話が利用されない理由 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 5 岩佐環 ニートをめぐる議論について . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 6 大平直毅 地域社会におけるコミュニティ・メディアの役割についての考察:コミュニティ FM を事例として . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 7 小野英恵 アバターによる自己表現 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 8 加藤麻依子 情報化社会におけるブランド力:E コマースにおけるブランドの重要性 . . . . . . . . . . . . . . 9 川口真奈美 テレビ CM に見る現代のコミュニケーション:携帯電話の CM を中心に . . . . . . . . . . . . . 10 神崎純子 韓流ブームの意義と限界:韓国ドラマの商品性 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 11 佐藤真美 情報化による口コミ様態の変化と新しい情報行動 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 12 紫竹陽介 域情報共有としての CMS . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 13 神保愛子 J-POP における英語のメディア論 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 14 鈴木優香理 地域における市民の情報発信の可能性:メディア文化における「東京」対「地域」の 権力関係の転換に向けて . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 15 高橋智里 パノプティコン化するインターネット・コミュニティ . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 16 土屋佑亮 携帯メディアのコミュニケーション機能について . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 17 仲下友梨 結婚式の現代化 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 18 中林真理 電子新聞における現状と課題 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 19 能瀬由季子 図書館の変容:日本における図書館サービスのあり方をめぐって . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 20 橋本裕子 市民参加型メディアの普及に伴うジャーナリズム形態の変容 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 21 波多野なつ美 監視技術をもたらすもの . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 22 原田孟 国際情報化時代における韓国語:韓日両国の比較を通して . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 23 松井昭洋 技術の標準化と市場原理 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 24 丸山亨子 日本のサブカルチャーに見る「かわいい文化」:ハローキティとリカちゃんを生んだ 少女文化の考察 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 25 宮腰健男 映像メディアにおけるコンテンツ規制のあり方:青少年とテレビをめぐって . . . . . . . . . . 26 元木亜紀 情報化による時間意識の変化 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 27 安田奈津美 映画の広告についての考察:予告篇と映画 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 28 若林春奈 「キレイ」になりたい男性の増加 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 29 渡邉拓也 インターネット時代の消費 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 30 2005 年度卒業論文概要 新潟大学人文学部情報メディア論コース 電話空間についての考察 青山 未央 本論は、電話コミュニケーションを、対面的コミュニケーションと比較することによってその特性を明らか にし、電話コミュニケーションが非常に親密だということを明らかにしようと試みたものである。 電話コミュニケーションと対面的コミュニケーションは、「手紙やテープのような記録媒体を経ることなく、 対話する二人の声を直接リアル・タイムで結びつけるという点では、通話する二人を対面的な対話に酷似した、 近い、身体的に隣接した場所におくことになる。(若林、1992)」、また「電話と対面的なコミュニケーション は個人的で双方向という点で、同じカテゴリーのメディアとみなすことができる(林、1988、p.97) 」 。しかし 一方で、電話コミュニケーションと対面的コミュニケーションには相違点も多くある。電話コミュニケーショ ンでは、話し方等によって表現される精神的距離によってのみ、自分と相手の関係が示されるため、全く知ら ない相手に対しても話し方しだいでは、対面的コミュニケーションよりも親密な距離をとることができる。ま た、電話コミュニケーションの、相手の顔が見えないという特性、また場合によってはそれに伴う匿名性が、 電話風俗と呼ばれる、ダイヤル Q2 のようなサービスを可能にした。これはさらに、電話が見ず知らずの他人 と性愛的な会話をするといったような、親密なコミュニケーションであることも示している。それから、例え ば家族の前で友達と電話するときの気まずさの原因について考えたとき、ゴッフマンのフレイム概念から説明 をつけることができるが、それだけでなく、電話が家族の共同性を不安定なものに感じさせるほど親密な空間 をつくり上げているからだという説明も可能だと言えるだろう。 会話への集中の度合いを考えても、電話コミュニケーションでは対面的コミュニケーションに比べ、より集 中を必要としていると言える。電話ではお互いの姿が見えないため、対面しているときに比べて身振りなどの 非言語コミュニケーションによる情報が極端に少ない。電話中に、意味のない落書きをしたり、ついタバコに 手が伸びたり、空いている耳をふさいだりという、意識を耳に集中させるための行為は、相手の声により集中 するために、ほかの五感をもコントロールさせなければならないということを示している。 このような性質をもった電話コミュニケーションは、「電話空間」でなされる。電話空間は、 「対面的に出会 う関係の空間とは異なるパターンやモードをもった関係の空間」、 「人々と、対面的な世界とは異なる自分に なって出会い、関係の回路を開きうる可能性をもった空間」である。そこでは、身体から切り離して考えるこ とのできない「声」によって、擬制的な身体的ふれあいが可能である。また、お互いの顔を知らず、匿名の存 在であることで、新しい自己を形成することも可能である。これらの可能性によって、電話空間での会話はよ り親密なものとなりうるのである。 –1– 2005 年度卒業論文概要 新潟大学人文学部情報メディア論コース 私的空間に響く音楽 浅井 洋美 ポータブルオーディオで音楽を聴きながら、外を歩いている人々を多く見かける。 本論文では、人が外に出てまで音楽を聴きたがるのはなぜかということから、ポータブルオーディオの役割 について考察した。そのために、ポータブルオーディオによって、自分が周囲の人々とは異なる空間にいるよ うな感覚になるような経験、ポータブルオーディオによって見慣れた風景がいつもとは違って見えるという経 験といつもの自分がいつもの自分とは違って感じられるという経験について取り上げた。 しかし、まずは、ポータブルオーディオの先駆け、ウォークマンの歴史と受容の様子を追った。そこで、 ウォークマンに対する批判の中からウォークマンが「場違いな」なものであるというキーワードを得た。この 「場違い」とは何かということを考えるため、16∼20 世紀初頭くらいまでの音楽聴取の場について調べ、現在 の音楽聴取の場と比較した。すると、現在の都市の性質が人々の不安や孤独を生じさせるものであるという言 説を得た。 そこで、ポータブルオーディオはその使用者に、公的空間の中で使用者の快適な私的空間を作り出すことに よって、不安や孤独を軽減させているのではないかという考えに至った。ポータブルオーディオの使用によっ て、周囲に多くの人がいる公的空間の中でも自分の快適な私的空間を作り出すことができるため、使用者は周 囲とは異なる空間にいるような感覚になるのだろう。さらに、使用者の私的空間と周囲の人々が存在する公的 空間の間には目には見えない「しきり」が存在しているのではないか、ということを述べた。様々な「しきり」 の役割を見ていくことでポータブルオーディオが作り上げる「しきり」が、自己を認識させるもの、自分を守 るためのものであることがわかり、さらに、前に述べた、公的空間の中においても私達に快適さを与えてくれ るものであることを合わせ、これら 3 つの機能を同時に実現させるのがポータブルオーディオの 1 つ目の役割 であるとした。 次に、ポータブルオーディオによって、見慣れた風景が異なって見えるという経験と自分がいつもの自分と は異なって感じる経験について考えた。 ここでは、ポータブルオーディオが完全には周囲と使用者を遮断することができない性質をもつために、使 用者は周囲に対して自由に意識を持つことが可能となり、新しいものの見え方、新しい自己認識の機会を与え られているということを述べた。 また、音(音楽)は刺激と興奮を与えるものとして私達に働きかける機能があるが、現代は音が溢れかえり すぎていて逆に私達は音を刺激として受け止めることができずにいる。しかし、ポータブルオーディオは刺激 としての音楽をきちんと私達の耳に届けることができる。だから、ポータブルオーディオのスイッチを入れれ ば、私達は刺激的で変化に富んだ環境を自ら作り出すことができる。つまり、私達が自在に私達の環境をコン トロールできる刺激発生装置という役割、これがポータブルオーディオの 2 つ目の役割である。 以上、これまでにあげた 2 つの役割が、ポータブルオーディオが私達に果たしている役割であると考える。 –2– 2005 年度卒業論文概要 新潟大学人文学部情報メディア論コース 近現代日本における新生児の命名について 石原 翔太郎 近現代日本における子供の名前に対する社会的関心は、高いものであるといえる。それは子供が生まれれば 名前を与えられるという摂理が存在する限り、当然の事である。皇太子夫妻の第一子誕生が国民から盛大に祝 福されていたことは記憶に新しく、タレントやスポーツ選手等、著名人の子供の誕生というのも年中のように 報道され、マスコミの話題となる。「子は国の宝」といわれるように、生まれてきた赤ちゃんに向けられる社 会的関心の高さが伺えるところである。このとき、子供が誕生したという事実と共に、父母が生まれてきた赤 ちゃんにどういう名前をつけるかということも大いに注目され、国民の関心事となる。 この子供の名前に対する社会的関心を示すものとして、育児雑誌や姓名判断に関するホームページ、地方自 治体など複数のメディアや機関で調査・発表がなされている「名前ランキング」が挙げられる。 このランキングによってどんな名前がその年に流行したのか、多くの名前に使われている漢字はどんなもの があるかなどがわかるわけだが、この名前ランキングに載っている名前というのは、その名前になっている” ことば”が多くの人から人の名前としてつけられるものとしてみなされ、その”ことば”を見れば、日本人の名 前だと思い浮かべることができるといえる。そのためにはその”ことば”を見て読み取ることができる情報に、 何らかの「名前らしさ」が含まれていなければならないと考えることができる。 つまり名前ランキングに載っている名前は多くの人が「名前らしさ」を感じ取れる名前であるといえる。 そこで『明治安田生命名前ランキング 2005』と『ベネッセコーポレーションたまひよ 2005 年名前ランキン グ』という最新の名前ランキングを参考にいくつかのトピックや傾向を見出し、それについて考察を行うこと によって日本人の「名前らしさ」を産み出している、名前を名前たらしめている最も重要な要因は何なのかと いうことを、ありとあらゆる名前が持つ機能である、物事を識別し、特定する、という社会的な機能とそれ以 外のいわば個人的な機能という二つの観点から調査を進め、結論付けた。 –3– 2005 年度卒業論文概要 新潟大学人文学部情報メディア論コース 監視にみるテクノロジー依存社会の帰結 伊藤 雅人 今日、テクノロジー(情報通信技術)に依存し、ルーティン routine 化・常態 normal 化・インフラ infrastructure 化した監視 surveillance が、日常茶飯事のように行われている。当たり前のように監視が行われているわけで あるが、しかしながら、監視が日常生活の不可欠な一部と化しているために、実際には何が行われているか を、我々は良く分かっていないまま監視システムに取り込まれ、その一部として機能している。そのことが表 面化・顕在化し、その現実に我々が気づかされるのは、事故や不法行為、またはシステムが広く機能不全に陥 るといったイレギュラー irregular なアクシデント accident に見舞われた時くらいのものである。すなわち、 監視システム自体はますます目立たなくなる一方で、ますます体系的かつ巧妙になっているのである。 テクノロジーは生活の向上のために使うこともできるし、テロリストが悪用することもできる中立的なも のである。そして、情報通信技術によってもたらされた電子情報の集積は、その速度や正確さといったコン ピュータそのもののパワーのために、皮肉にも突然のデータの消失や改ざんといったリスクを被る可能性が常 に存在する。つまり、人が根本的にテクノロジーに依存しているがゆえに、現代社会は攻撃を受けやすく、崩 壊しやすい脆弱な社会となっている。これこそが監視社会(情報社会、または現代社会)、しいては監視を巡 る問題の本質ではないだろうか。 そこで本論文では、監視の特徴とその歴史背景(序章)を踏まえ、監視システム・監視社会について、技術 的な視点と社会学的な視点での理論考察(第 1 章・第 2 章)、及び、諸分野で行われている監視活動の具体的 な現状分析による理論検証(第 3 章)を通して、監視システムの不可視の背景(仕組み、及び何が行われてい るか)と監視社会の全体像を理解し、どう世の中が変わっていくか(または、変わりつつあるのか) 、社会現象 として監視を捉え、その根底にある人とテクノロジーの関係を問い直す(終章)ことを目的とする。 ケ ア コントロール 監視は、本質的に、「配慮」と「 管理 」をほとんど同時にもたらす両義的なものであるため、人が更なる 利便性(よりパーソナル化されたサービス)や安全・セキュリティ(日常生活が滞りなく円順に進んでいくこ ケ ア コントロール と)という「配慮」を望む以上、「 管理 」の側面を持つ監視をある程度容認していく必要がある。しいてい えば、今日においては、社会の進歩(望ましい社会の実現へのプロセス)、監視、そしてテクノロジーの 3 つ が不可分に結びついており、それが監視システムという形で具現化されているのである。 コントロール しかしながら現在、世界は「 管理 」に傾倒した監視の強化・拡大へと向かっている。自動化によって人の 意思決定力を奪い、シミュレーションを伴う類別化によって、社会格差の拡大をもたらし、個人のライフチャ ンスを強力に左右し始めており、ある意味、暴走しているような状態にある。 そのため、すべての人(技術者はもちろんだが、ローカルなレベルで技術的決定に対して責任を取る一般市 民)が、テクノロジーの現実(その可能性と限界)を知ることで、監視の両義性、及び監視システムの最低限 ケ ア コントロール の仕組みを理解し、「配慮」と「 管理 」の適切なバランスが保たれた状態で監視システムを運用していくこ とが必要となる。人はミス(間違え)を犯す。そして、その人の生み出すテクノロジーもまた同様に完璧には なりえない。つまり、絶対的な存在ではありえないことを前提にそれを抑止するための対策、そして、実際に 事故が起きても被害を最小限にとどめることが必要なのである。 –4– 2005 年度卒業論文概要 新潟大学人文学部情報メディア論コース 携帯テレビ電話の利用行動 — テレビ電話が利用されない理由 — 井上 聖美 近年、携帯電話は爆発的な普及を見せ、今や国民の約二人に一人が持つほどになった。携帯電話はその名の 通り携帯できる電話機であるが、今では、メール機能やカメラ機能、音楽再生プレーヤー機能など様々な機能 が付いている。2001 年、NTT ドコモはテレビ電話機能を搭載した FOMA を発売した。当初売れ行きは伸び 悩みはしたものの、現在はその売れ行きを伸ばしている。それは同時に携帯テレビ電話の広まりを意味する。 しかし、この広がりが携帯テレビ電話の使用率の大きな上昇につながるとは思えないのである。現在、私の周 りでもテレビ電話機能付きの携帯電話を持つ人々は増加しているが、その機能を使用してい人を見かけたこと がない。それは単に、テレビ電話機能付きの携帯電話の普及率がさほど高くない現状や、テレビ電話の通信 料、画面の解像度、互換性の問題など、料金面や技術面だけが要因となっているわけではないのではないか。 たしかにそれらの問題も大きな要因だと考えられるが、それよりもコミュニケーション状況や、心理的な作用 が強く働いているのではないかと私は考えている。 第一に、実際に会って話す場合と画面上で話す場合のコミュニケーションの違いがある。実際に会って話す 場合、相手の顔を見続けるという行為はほとんどしない。また、実際に会っている場合は相手と同じ空間を共 有し、目の前に見えている相手の言葉だけではなく、その動作や視線の先、周囲の状況なども読み取りながら 会話を成立させていく。だが、テレビ電話でのコミュニケーションとなると互いに存在する場が異なり、視覚 的に読み取れるのはほぼ、画面上に映った相手の顔だけである。そうなると相手の顔にだけ注意を払う状態に なる。そしてさらに、カメラが自分を捉え続けていることが、「見られる」という緊張した状態を作り出して しまうのではないだろうか。 第二に、多くの知らない人の中で携帯テレビ電話を使って話すことへの抵抗感も大きな要因ではないだろう か。携帯電話は携帯できるために、大勢の知らない人の前で使うことも多い。街中での通話やメールのやり取 りをする姿は日常的なものとなったが、テレビ電話はまだそうではないのである。携帯電話の画面に向かって 話しかける姿に多くの人は興味の目を向けてしまうだろう。そうした周囲の目に対する「羞恥心」もあって、 携帯テレビ電話の利用が避けられているのではないだろうか。 この論文では、このような人対人のコミュニケーションに使用される携帯電話のテレビ電話機能が使用され ない理由、そして、携帯テレビ電話使用する際の周囲との関係を考察していく。 –5– 2005 年度卒業論文概要 新潟大学人文学部情報メディア論コース ニートをめぐる議論について 岩佐 環 近年、フリーターという定職につかない若者が問題とされてきた。しかし、最近になって、教育、雇用、職 業訓練のいずれもしていない、「ニート」という存在が注目され始めた。その存在は、フリーター以上に社会 に影響を及ぼすとされ、若年者の労働問題が語られるときに、必ずと言っていいほど話題に上げられている。 そして、ニートに対する世間のイメージは、 「だらしない」 「怠けている」 「最近の若者はなっていない」などマ イナス面が強調され、嘆かわしい存在として非難されることがほとんどである。しかし、本当にニートは個人 の怠惰や就労意識の低下が原因となっているのだろうか。 そこで、本論では、今現在ニートと認識される人々の姿を明らかにした上で、ニートが増加した原因を、社 会の変化の面から捉えて考察した。 第1章では、ニートという言葉の由来である、イギリスのニートの姿を見た上で、日本のニートの姿を調査 した。その結果、ニート出現の社会的背景の違いから、イギリスとは異なった特徴を持つ日本独自のニートが 形成されていることを明らかにした。第2章では、ニート出現率の高い 19 歳と 23 歳という年齢に注目して、 その期間にある若者を、小此木啓吾の『モラトリアム人間の時代』から引用して「モラトリアム青年」とした。 そして、現在の日本が「消費社会」であることを示し、この「消費社会」がこの青年期の若者に及ぼす影響を 述べた。 第3章では、現代の若者に特徴的な、 「適職志向」 「やりたいこと志向」という仕事に対する考え方、そして、 それを助長するものについて示した。現代の若者は、恵まれた経済環境のおかげで、「消費社会」に生きなが らも、お金のために働くという感覚が薄くなった。一番の関心ごとは自己の発展であって、自分のやりたいこ とを仕事にすることが、美徳とされるようになった。そして、その傾向をメディアが後押しし、若者の「自分 探し」へは、ほぼ脅迫めいたものとなった。そんな中で、 「自分探し」が思うようにいかず、働くことをあきら めてしまった人々が、ニートになってしまうのではないだろうか。つまり、ニートは、この社会の変化に付随 して、増えるべくして増えてしまった存在だと考えられる。 –6– 2005 年度卒業論文概要 新潟大学人文学部情報メディア論コース 地域社会におけるコミュニティ・メディアの役割についての考察 — コミュニティ FM を事例として — 大平 直毅 現代の日本社会では多くのメディアが乱立し、多くの情報があふれている。だがその一方で、巨大化しすぎ たマスメディアは「地域情報」を汲み上げることができなくなっている。 この論文では、上述したような地域社会における「地域情報」の欠如を解決する役割を「コミュニティ・メ ディア」に見いだしている。特にコミュニティFMを事例とし、現状や課題を論究している。さらに細分化し て「災害情報の提供」と「地域の活性化」という視点から分析を加えた。 コミュニティFMによる「災害情報の提供」は近年、大きく注目されている分野である。コミュニティFM の地域密着性やラジオの携帯性は大変優れたものであると考えられる。そのため、コミュニティFMが災害時 に活躍する事例は数多い。だが、制度的にも未整備な点(財政支援等)が多く課題が山積していることも明ら かになった。 「地域活性化」という点ではコミュニティFM自身も模索中な面が多いことが見られた。そのような中でも、 この論文においてインタビュー調査に協力していただいたFMにいつでは多くの取り組みが行われている。 「『町をどうにかしたい』と考える人々を後押しする」というFMにいつの考えは評価に値するだろう。 前段で紹介したようなFMにいつの取り組みも参考にしながら、本論文では「地域活性化」を地域住民によ る問題の共有化の可能性とした。つまり、コミュニティFMを使うことにより、地域の問題が地域住民の間で 共有化され、議論されるということを「地域活性化」の第一歩と定義した。地域住民とともに問題を解決へと 導く「シビック・ジャーナリズム」の考えを援用し、地域住民が地域問題に主体的に関わっていくきっかけ作 りをコミュニティFMが提供することが可能であるか論究を行った。 以上、コミュニティFMについて二つの事柄をこの論文では論究している。現在のコミュニティFMはこの 二つの点が大きな柱と言えるだろうが、今後新たな役割を担う可能性もあると考えられる。そのためには、財 政問題などを解決することと共に、より一層地域住民との関係を深めることが不可欠であると思われる。 結論としては、人々は全国区の情報も必要としているが、 「地域情報」もまた必要としており、そのような需 要がある限り「コミュニティ・メディア」は地域社会において存立しえるということである。FMにいつのイ ンタビュー調査結果から言葉を借りるなら、「人々は東京の情報だけでなく、回覧板のような情報も必要とし ている」ということである。小さいながらも「回覧板」としての役割を忘れずに地域に根ざしていれば、様々 な面で「コミュニティ・メディア」は地域社会に必要とされ続けると思われる。 –7– 2005 年度卒業論文概要 新潟大学人文学部情報メディア論コース アバターによる自己表現 小野 英恵 近年、ブロードバンド化が進み、インターネット上で多くのコンテンツが配信されるようになった。その中 の一つがアバターを使ったコミュニティやチャット等のサービスである。写真ではなくアバターであっても、 姿の見えない文字だけのコミュニケーションよりも人物の印象をより感じることができ、親しみがもてるよう に思う。アバターは服装、表情を変えることができ、従来の非言語メッセージのないテキストによるコミュニ ケーションと比べて相手に自分の意図することを相手に的確に伝えることができる。そこで、本稿ではアバ ターがあることによってコミュニケーションにどのような効果があるのか、また、アバターを通して利用者は どのような自己表現をしているのかということを指摘する。 第一章では、アバターについての現在の状況を説明する。現在、チャットや掲示板などアバターと連携した サービスが数多く提供されているが、近年ますますアバターと連携したサービスは多様化してきている。ま た、年々アバターの認知度やアバターの衣装等購入に対する抵抗などが変化しており、アバター利用者の増加 に影響を与えていると考えられる。そこで、アバターによるサービス、利用者の実態とアバターに関する研究 についてまとめる。 第二章では、対面でのコミュニケーションとテキストによるコミュニケーションとを比較し、テキストによ るコミュニケーションの問題点を挙げる。アバターは、テキストでは表現しきれない非言語メッセージを補う ことができると考えられる。そこで、第一章で挙げたアバターに関する研究をもとに、アバターによって支援 される点を述べる。ここでは、アバターのメリットとして主にフレーミング抑制、発言者の特定の支援といっ た社会性支援について挙げる。 第三章では、アバターによる自己表現にはどのようなものがあるかをアバターの例とともに示す。アバター の最大の特徴は、服装や髪型などを自分好みに自由にカスタマイズすることができる点にある。ユーザは、ア バターに自分で選択した服装や装飾品を身につけさせることによって意識的、無意識的にかかわらず自己表現 をしている。そこで、服装の持つ非言語コミュニケーションについての研究をもとに、アバターの着用してい る服やアクセサリーなどがどのような意味を持ち、どのような自己表現と関っているのかを考察する。また、 アバターの外観によって相手との関係や信頼にどのような影響を与えるかについても述べる。 アバターは、利用者がそれに自己投影するしないにかかわらず、その人自身と見られる可能性がある。何気 なく利用されているアバターだが、使い方仕方次第でより自身を魅力的見せることも、対人関係や信頼などに 影響を与えることも可能である。第四章では、アバターの得失を考察し結論とする。 –8– 2005 年度卒業論文概要 新潟大学人文学部情報メディア論コース 情報化社会におけるブランド力 — E コマースにおけるブランドの重要性 — 加藤 麻依子 昨今巷にはさまざまなブランドがあふれている。ブランドとして昔から認識されている海外の高級ブランド だけではなく、お菓子、清涼飲料水など、われわれの身近なものがブランドとして認識されるようになった。 われわれは日常的にブランドに接しながら生活している。また、昨今ブランド戦略やブランディングという言 葉をよく聞くようになった。本論分は、なぜ今ブランドなのか。ということに端を発し、情報化社会の象徴と してのインターネット、そしてインターネットを通じた消費の舞台である E コマースに焦点をあて、E コマー スにおけるブランドの重要性を解明し、論じるものである。 第一章では、ブランドの起源、また歴史的概念を紹介している。また、現代的なブランドの概念を紹介し、 現代においてブランドを消費するとはどういうことなのかを論じる。 第二章では、ブランドを取り巻く環境として、E コマースの概要、そして E コマースの現状を説明してい る。また、消費者における E コマースならではの特徴(時間と距離の制約からの解放、透明な市場の誕生、選 択、除法収集の範囲の拡大、物理的店舗不在の不安、五感から二感にたよる消費、セキュリティに対する不安) を、消費者の立場から分析している。 第三章では、第二章を踏まえ、E コマースにおける消費者特有の不安や企業と消費者の関係性の変化につい て考察している。 第四章では、これまでを踏まえ、E コマースにおける消費者の心理と、ブランドの持つ機能の結びつきをそ れぞれ分析し、企業と消費者との関係性の変化とともに、ブランドも企業の側からのアプローチのみではな く、消費者と供に作り上げていくものになると言及している。そして、E コマースにおいて、ブランドはこれ まで以上に消費者にとって重要なものになっていると述べている。 –9– 2005 年度卒業論文概要 新潟大学人文学部情報メディア論コース テレビ CM に見る現代のコミュニケーション — 携帯電話の CM を中心に — 川口 真奈美 今や、ほとんどの人が所持しているといっても過言ではないコミュニケーションツールである携帯電話。こ の携帯電話の出現によって、われわれのコミュニケーションに何らかの変化が生じたのは明らかであり、それ を携帯電話そのものではなく、携帯電話の機能や魅力をアピールしている携帯電話事業者のテレビ CM から 探っていくのがこの論文のねらいである。 第 1 章では、携帯電話の歴史的な変遷を見ることで、携帯電話そのものの変遷をたどった。登場当初は「オ ヤジ」の持ち物というイメージの強かった携帯電話であるが、その料金が安価になるにつれて、ユーザーの年 齢も低くなり、電話の最も優れた機能である通話だけでなく、電子メールやインターネットへの接続、画像な どの各種データの添付も可能となった。また、それと同時にデジタルカメラや音楽プレーヤーといった機能が 携帯電話に内蔵されるようになったのも顕著な変化である。これらによって、通話という耳に依存するコミュ ニケーションが、メールや画像などをはじめとする目に依存するコミュニケーションが重視され始めたといえ るように思われる。 第 2 章では、何かと比較されやすい固定電話についてみていった。固定電話は携帯電話の出現により、その 勢力は衰退しているようであるが、携帯電話にはない特徴もみられた。その中のひとつとして、固定電話の置 かれる場所があり、以前は玄関といったいわば社会とつながる位置にあったのが、次第に居間の中に進入し、 それがコードレス電話の登場により家族それぞれの部屋での利用という形態に変化した。携帯電話の出現はま さにこのような状態をさらに促進させるものであったのである。 第 3 章では、携帯電話のテレビ CM を記号論の視点で考察した。顕著に表現されていることとしては、携 帯電話とそれを利用しているわれわれの距離、あるいは携帯電話との一体化である。もはや、携帯電話は「携 帯するもの」というよりは、自分の一部というくらいなくてはならないものであり、これらからも見て取れる ように、携帯電話が現代におけるわれわれのコミュニケーションには不可欠なものというようにあらためて感 じられた。 第 4 章は先に述べたことのまとめである。第 3 章で述べた携帯電話との距離のほかに、通話の際には想像力 を必要としていたが、視覚に依存するコミュニケーションが勢力を増すにつれて、それを必要としなくなって きたように感じられる。また、かかって来た電話を選択するといった、自分の望ましい人間関係を構築するの に携帯電話が役に立っているということも明らかとなった。 これらのことから、繰り返し言っているが、携帯電話はわれわれにとって、なくてはならないものであり、 これによってコミュニケーション形態や、人間関係の構築などにおける大きな変化が生じたのは明らかであ る。人間は機械の登場によって、常に影響を受け続けてきたが、携帯電話においてもその通りであり、携帯電 話に新しい機能が追加されていくにつれて、われわれもまたさまざまな影響を受けていくのである。 – 10 – 2005 年度卒業論文概要 新潟大学人文学部情報メディア論コース 韓流ブームの意義と限界 — 韓国ドラマの商品性 — 神崎 純子 韓流は、日本だけではなく主にアジア地域に広がる韓国ポピュラー文化への人気現象として捉えられ、その 対象には地域的偏差が見られる。そのなかで、日本における韓流ブームは「『冬のソナタ』を発端とし、それ 以降の韓国ドラマとそれに関連したものへの人気に対する社会現象」と定義する。本論文では、日本における 韓流ブームの意義と限界を韓国ドラマの商品性のうちに見出していく。その方法として、韓国ドラマの形成過 程と日本での受容過程で位置づけられてきた韓国ドラマの商品性についてそれぞれ提示していく。 さて、日本での韓国ドラマ受容を通じた韓国ドラマの商品性をどう捉えていくか。「トランスナショナルな 文化権力」を自他の生活空間における意味の構築に重要な影響を及ぼすイメージ・シンボル・語りを生産する 能力と定義するならば、日本での韓国ドラマ受容に生じる日韓の文化権力は、日本の視聴者が韓国ドラマを受 容する過程に大きく作用していると考えられる。よって、日本での韓国ドラマの受容に生じる様々な文化権力 がどのように作用しているのかを分析し、そこで受容される韓国ドラマの商品性を明らかにする。 まず、韓国ドラマの形成過程からその商品性を提示する。韓国ドラマはグローバル商品として韓国特有のに おいを取り消すこと、韓国社会の価値体系に適合した独自の視点を反映させることが必要とされ、日本ドラマ 様式などの模倣と韓国の独自性によって形成されている。韓国ドラマはその形成過程から日韓の文化混成化商 品であり、日本のグローバルな様式に独自な視点を付け加えた韓国のローカル化商品として位置づけることが できる。 次に、日本での受容を通じた韓国ドラマの商品性を提示する。日本での受容には韓国での視聴と異なる側面 があり、本稿ではそれらを受容に生じる文化権力として分析した。日本の社会的文脈のなかでの韓国ドラマ受 容には、その視聴対象が限られていることから、韓国でローカル化された韓国ドラマは日本でグローバル商品 の一部として消費されるようになったが、それは必ずしもグローバル商品とはなりえない側面を示し、韓国の ローカル化商品としてのグローバル化に限界が見られる。また、NHK による翻訳や吹き替えは、韓国ドラマ を日本でローカル化されたドラマとして位置づける。また、日本の技術的状況が促した反復視聴は、韓国ドラ マの背景である韓国文化などに関心を集め、韓国ドラマに独自の物語性を再構築され消費されていることを示 している。また、韓国とは異なる日本の価値体系での韓国ドラマの認識は、韓国ドラマに新しい価値体系が創 造されてきたことを示している。さらに、この新しい価値体系での好意的に受容は、韓国ドラマにとって韓国 のローカルな商品形成をも揺るがしているということを指摘した。 最後に、韓流ブームを通じてこのような韓国ドラマの商品性の発現やローカルな商品形成への影響を韓流 ブームの意義と限界としてまとめている。また、韓流ブームの動向から今後の韓国ドラマの商品形成について 提案し、新たな韓国ドラマの商品性が見出されていくだろうと予測している。 – 11 – 2005 年度卒業論文概要 新潟大学人文学部情報メディア論コース 情報化による口コミ様態の変化と新しい情報行動 佐藤 真美 インターネットの普及は人々の生活を大きく変えた。特に消費行動において大きな変化が見られる。消費者 は各人が欲しい情報を気軽にインターネットで検索し、入手することが可能になった。企業 HP をはじめ、同 じ消費者同士での情報交換や市場での評価情報など多岐に渡る情報が、消費行動の参考にされるようになっ た。インターネットの普及は、消費者の情報摂取量を劇的に増やし、かつて消費者と企業の間にあった商品情 報の非対称性を崩した。 しかし、こうした情報源が多量化した現代において、古来からの情報伝達方式である「口コミ」に注目が集 まっている。口コミが注目されている背景には、情報氾濫社会において自己を防衛するために、信頼のおける 身近な人物や利用経験者の声を採用するという消費者の情報行動がある。さらにインターネットの持つ双方向 性と個別性が、口コミの伝達範囲・速度を広げ、口コミの影響力を高めることを後押しした。 本論文では、口コミの影響力拡大の視点からインターネットの普及が消費行動にもたらした変化を捉えるこ とを目的としている。さらに変化した消費者の消費行動は消費者の中に階層を生み出し、情報格差が生じてい る。また、このような多様化した消費者にマーケティングを行う企業にも同様に変化が求められている。多様 化した消費者に対して企業は個別的な対応が求められるようになり、相対的に消費者の権力を強めることにつ ながった。 第一章では現代社会における口コミの役割と消費行動の関連を考察している。口コミがインターネットに よってどのように変化したかを捉える。また、現在のインターネットの普及をロジャースの普及過程になぞら えて検証し、インターネットの活用に差が見られる消費者の消費行動について論じる。 第二章では新たな口コミ発生の場として、企業のマーケティング活用の場として注目を集めているネットコ ミュニティについての考察を中心としている。自分と似た他者との意見比較により自己の評価を確立する社会 的比較過程理論の観点からもネットコミュニティ利用について考察する。 第三章ではインターネットと消費行動の関連を探るべく実施したアンケート調査の分析を中心としている。 インターネットと消費行動、利用率と情報収集力、信頼する情報源の比較など分析している。 第四章ではまとめとして、新しい消費行動確立の可能性について考察する。情報化社会の中での口コミ、消 費行動の中で果たす役割、消費者と企業の関係という三つの柱を基に論じる。 インターネットの普及により脚光を浴び始めた口コミではあるが、その限界と影響力の大きさを考慮したう えでの付き合い方が必要となる。私たちには情報を吟味し、各情報源の特性を踏まえて情報行動を行う情報リ テラシーが求められるだろう。 – 12 – 2005 年度卒業論文概要 新潟大学人文学部情報メディア論コース 域情報共有としての CMS 紫竹 陽介 本論文では、個人メディア (CGM) としての CMS(コンテンツ管理システム) 利用がもたらす参加者像とコ ミュニケーション空間を社会学的に捉え、さらにそこへ技術的なアプローチを行うことで地域情報共有システ ムのシステム提案を行う。 ブログや SNS では自己紹介のような自己開示(日記やブログの継続)を行う形で、<主体らしきもの>が できあがる。互いの自己開示を知ることにより、共通の話題を見つけたりし自然な共同性が生まれてくる(コ ミュニティの自己形成化)。様々ところで情報縁による大小色々なグループが形成され、グループごとで異な る話題が弾む。交換されるコミュニケーションは、自分の評価(編集)を付与した情報である。しかし、どこ でどんな話題が盛り上がっているのかはわからず、さらに、そもそも何かの話題が盛り上がっているかどうか も知らない。それを知るには、輪の中にはいって会話をするか、マスメディアが取り上げている話題が盛り上 がっている話題だと考えて、それをきっかけに話題を探り(掲示板や検索で探す)、時には自分から良質の情 報を発信する(話題に関する自分の評価を交えながら、興味があることを開示する)ことで情報の交流を引き 込む。 つながっている一人より先の様子は自分の立っている位置からは見ることができない。そのため、情報の 「ハブとコネクタ」が 1 次のネットワークにいない限り、1次のネットワークより先の情報を得るには、自ら が場を渡り歩く必要がある。その話題単位で切り取った人(メッセージとしての記事)を渡り歩く過程におい てそれぞれの人の価値観と話題を総合的に判断(間主観性)し、そのパーティーがどんなものだったか(小公 共圏の集合で成り立つコミュニティ)を個々それぞれが判断していくのである。多元的多層的な個人の帰属意 識でグループ間を行き来する個々人によって、情報だけの伝達ではなく表情(感情)の共有も行われるため、 それぞれの小グループの表情も豊かになり、グループの一体感や活性化も図られる。 掲示板のような CMS と異なり、実際には共有される特定・単一のテーブルを持たないものの、人のネット ワークのつながりによる意識された空間が自然と生成され、そして、その話題が終焉へ向かっていくととも に、自己組織化されていたそれらの空間としてのグループは、いつのまにか自然に解散されていくのである。 このシステムの中には、地域を表現するメタデータが意識されてこなかった。そこで、 「地域に関する情報」 と「地域の人からの情報」を明確にわけて考慮し、他ジャンルの情報への接触を、 「話題になっているもの」と いう情報縁でつなぐ形で、地域においての情報の共有を行うことが有効だと考えられる。 小公共圏群が複合 的に重なり合っている多元的な帰属意識を持ったコミュニティでは、それぞれが単独の独立と従属変数の二項 の関係には捉えられない、オートポイエーシスなシステムだと考えられる。地域情報共有を促す CMS 利用の システムもそれに応える形で、単独の解決策としてではなく複数のシステムが段階的かつ相互補完的・重層的 にはたらくシステムとして運用される必要がある。 – 13 – 2005 年度卒業論文概要 新潟大学人文学部情報メディア論コース J-POP における英語のメディア論 神保 愛子 私たちの身の回りには、カタカナ英語や、英語そのものであるアルファベットを使用しているものがたくさ ん溢れている。現在の日本で使用されている外来語の 80 %以上は英語であり、商品名、店名、会社名、雑誌 の名前、あらゆるものに英語が使用されている。これが、慣れ親しんでいない外国語に対する憧れからの使用 であるのならば英語だけがこれほどまでに使用されることはないだろう。もっとも、義務教育である中学で習 う外国語が英語である通り、日本人が英語に慣れ親しんでいないということも考えにくい。 あらゆるものに英語を使用するという行為は、日本における言語ヒエラルキーの頂点に、英語があるからで ある。このヒエラルキーが存在することで、様々な商品に英語が使用されるのである。母国語よりもヒエラル キーの上に位置する言語は、羨望の対象なので、日本人の憧れの気持ちを利用し、商品価値を高めるために日 本では英語を頻繁に使用しているのだ。 本論文では、日本における、どんどんと広がっていく英語使用を日本人の内部に存在する英語ヒエラルキー、 英語帝国主義からのものであるとし、この現象が実際にどのように日本に浸透しているのかを述べる。その上 で、J-POP の歌詞における英語使用がただ単に日本語の代わりに、英語という言語を使用したというだけの ものではないと考え、J-POP における英語使用がどのようなものであるかを探っていく。 第一章では日本と英語の関係を、教育や、実際に生活の中で使用されている英語を見て、日本にいかに英語 ヒエラルキーが存在しているかを述べる。第二章では、戦後からバブルまでの日本の歌謡界における歌詞の中 の英語使用を、日本の歌謡界の歴史を見ながら検証する。ここ最近増えてきたと思われる英語使用は、戦後直 後にもカタカナ英語として使用されていたことが分かった。しかしアルファベット使用は戦後直後には見られ なかったもので、どんどんとネイティブライクを求める日本人の結果が現在の J-POP におけるアルファベッ ト英語の氾濫であると考えられた。第三章、第四章では、バブル以後時代を引っ張っていった歌手である、安 室奈美恵、宇多田ヒカルを取り上げその代表曲の分析を行う。安室奈美恵の曲での英語使用は、歌詞、発音共 に擬似英語であることが分かった。また、宇多田ヒカルも同様であった。「世は歌につれ、歌は世につれ」と いう言葉から、以上二人が活躍していた時期の社会背景にも考察を加え、さらに同時代の他の歌手の英語使用 の特徴も探る。そして、第五章では、今まで見られなかったような英語使用という点、そして 2005 年シング ルヒットチャート上位 20 曲に入った BENNIEK の「Dreamland」に分析を加える。 J-POP 界も日本の言語ヒエラルキーの中に組み込まれていて、英語を母国語として使用する国が持つ経済 力や軍事力、最先端の科学技術といったような、言語の背景にあるイメージを利用し、かっこよさを演出する ために使用されていた。つまり、英語を言語として使用しているのではなく、自分たちよりもアメリカ(戦後 は主に欧米というよりもアメリカの影響が強かった)が優れた国だとし、その優れた国が使う言語を入れれば 曲にかっこよさが増すと思い使用されていたのだ。さらに、世の中の英語の流れに乗り遅れたくないと不安や コンプレックスを抱く人たちの不安解消として、J-POP で英語を使用しているとも考えられた。 – 14 – 2005 年度卒業論文概要 新潟大学人文学部情報メディア論コース 地域における市民の情報発信の可能性 — メディア文化における「東京」対「地域」の権力関係の転換に向けて — 鈴木 優香理 本論文における問題関心は現在の日本社会のもっとも重要な文化装置のひとつであるメディアの中におけ る、「ナショナル」対「ローカル」という、「ナショナル」を中心とした権力関係についてである。 私たちを取り巻くメディアはいまや強力な文化装置としての働きをなしている。その内側を細かく見てみる とメディアにおける言説には「ナショナル」対「ローカル」という権力関係がくっきりと顕われている。この 「ナショナル」対「ローカル」を、 「東京」対「地域」としてみてみる。この場合の「東京」とは「東京にメディ アが集中していることに代表されるナショナルなメディア文化を持つ空間」である。 全国にあまねく広がるメディアの網の目によって、それを受ける全ての人が情報の受け手の対象となる。 「東京」発信の情報は全国に送り届けられるために、われわれ日本人の意識が向けられている「東京」の価値 基準を基に制作される。そのなかにももちろん同じ日本として、「地域」は含まれているのであるが、それは 「東京」の考える「地域」像であり、本来の「地域」とは異なるものが多い。それぞれの「地域」に暮らすわれ われを考えたときに、そこには大きなずれが生じてくるのである。「地域」の文化や表象は「東京」発信の文 化のなかに埋もれてしまっているのである。 このようなメディアにおける文化的な権力関係を転換しうる力として、「市民がメディアを使って「地域」 の中で情報発信していくことが重要なのだと考える。「東京」発信の情報は、全国に送られるため、どこか特 定の「地域」の情報のニーズや「地域」独自の文化の基準で制作することはできない。ナショナルなメディア が、選ばなかった情報のなかには必ず「地域」にとっては重要なものも含まれているはずなのである。このよ うな状態を転換するためには、今まで「東京」発信の情報の受け手であった市民が情報の送り手となり、自ら メディアを使って表現し、地域に向けて発信していくべきではないかと考える。 本論文では、現在のメディア文化における「東京」対「地域」の文化的な権力関係のなかで市民が「地域」 の中で情報を発信していくことにある可能性を考察する。どのような可能性かというと、一つ目は、メディ アにおける「東京」対「地域」の権力関係の転換に繋がる可能性。二つ目は、市民におけるメディア・リテラ シーの発展に繋がる可能性。そして、三つ目は、地域アイデンティティが再構築される可能性である。そし て、具体的に地域の中で市民自身が能動的にメディアを使って発信した事例として、2002 年から 2003 年まで の中の半年近くにわたり岩手県盛岡市で起こった「戸ノ岡プロジェクト」をとりあげ分析する。 – 15 – 2005 年度卒業論文概要 新潟大学人文学部情報メディア論コース パノプティコン化するインターネット・コミュニティ 高橋 智里 この論文では,不特定多数の非有名人がインターネット・コミュニティを利用することによって生じる「監 視」について検討し,そのゆくえを明らかにすることを目的としている. 第 1 章では,インターネット・コミュニティのユーザーの増加が「監視」を生むことや,インターネット上 の「監視」とリアルの監視との違いについて考えた.違いとは,「監視」が時空間的な制約から解放されてい るということだ.しかし,ユーザーの IT リテラシーが不十分なため, 「監視」の危険性に気づいていないとい う問題を指摘できる. 第 2 章では,ユーザーがどのような「監視」を行っており,それはどのような心理によるものかということ について触れた.彼らは,情報収集のツールだけではなく,リアルの人間関係で満たされない欲求を満たす ためにも,インターネット・コミュニティを利用する.このような目的のユーザーは,過度に自分のプライ ベートを露出させ,他者を「監視」する行為に走るようになる.そもそもユーザーが「監視」を行う背景には, ポストモダン化という社会の変容がある.ポストモダン化は,多様性を推奨する一方で,地縁・血縁・職縁と いった地域コミュニティの希薄化を招いた.それは,インターネットという技術の進歩によるものであるとも いえる. 第 3 章では,はじめに,現代社会が管理システムに依存した「管理社会」であることを確認した.そこで, 管理システムに焦点を当て,それらを受容するユーザーの意味を考察した.監視が受容される理由は,セキュ リティを実現させるためであり,情報の取捨選択が行われるためである.また,インターネット・コミュニ ティ上の「監視」が受け入れられている理由には,匿名への抵抗感が薄れ,フィルタリングという見せかけの 自由を好むというユーザーの意識の変化が考えられる.これらの変化は,プライバシーの侵害問題だけでは済 まず, 「規律の解体」を引き起こし,社会をも解体させる危険性が指摘できる. 第 4 章では,行政が SNS の実証実験を行っていることと,ポスト・リトル・ユーザーの出現という二つの 新しい動きを紹介した.どちらも行き過ぎた「監視」の始まりであると位置づけた.行き過ぎた「監視」に は,ユーザー側とシステム側の両方から対策を講じる必要がある.それには,ポスト・パノプティコンをパノ プティコンに回帰させると効果的だと考えられる.この対策がうまく機能すれば,ユーザーに規律は育ち,い ずれは「監視」も落ち着きをみせる可能性が期待できる.ただし,インターネット・コミュニティの利用を能 動的に拒否する「意図的なデジタル・デバイド」を選択するユーザーも出現することが予測される. 以上が本論文で明らかにできた,「監視」の現状およびゆくえである. – 16 – 2005 年度卒業論文概要 新潟大学人文学部情報メディア論コース 携帯メディアのコミュニケーション機能について 土屋 佑亮 現代社会において、電子メディアの発展は過度といっていいほど急激に進んでいる。特にケータイは、ここ 数年でさまざまな機能の付属とともに、端末のモデルや容量などの変化が激しく起こっている。そして今では マルチファンクション・メディアとなり、私たちが現代の都市生活を行ううえでなくてはならないメディアと して広く普及している。ただ、どれだけさまざまな機能が付属しようと、ケータイは「電話」という通信メ ディアであり、遠く離れた人物と会話するため、つまりコミュニケーションすることを目的としたメディアで あるということに関しては、電話が世に姿を現したときから今に至るまで変化していない。ある場所では早く スムーズな連絡手段として利用され、またある場所では友人とのおしゃべりに利用されるなど、コミュニケー ションツールとしての役割が非常に大きいといえる。 ケータイを利用するにあたり、通話やメールなど、つまりケータイを介した仮想的な空間での利用ではコ ミュニケーションのためと言えるだろう。しかし、そのコミュニケーションツールであるケータイは、コミュ ニケーションを行うためだけに、日々肌身離さず携帯されているのだろうか。現実空間の身体的な面でケータ イの利用を考えてみると、コミュニケーション機能だけではない機能をケータイは持っているのではないだろ うか。 このことを考察するにあたり、本論第一章・第二章では、私たちの対人関係にコミュニケーションをもたら すと考えるケータイを、ケータイの普及の観点と電子メディアとしての観点からケータイを利用することでみ られるコミュニケーション変化を捉え、ケータイがコミュニケーションツールであるということをケータイの 機能の前提として考察している。ケータイは常態的接続願望のもとに成り立ち、また多機能端末となったこと から利用者に主体的能動的コミュニケーションが促されたことを示している。 次の第三章ではそのケータイを身体的な側面から捉え、ケータイが利用者の周囲空間に特殊な空間を形成さ せていることを、境界のあいまい化とアーヴィン・ゴッフマンの「フレイム概念」を参考に考察している。本 論ではこの空間のことを「ケータイ空間」と定義し、その空間が私たちの周囲に一種の不安定さをもたらして いるということを示している。そして、そのことを踏まえたうえで、ケータイが現実空間において周囲とのコ ミュニケーションを調節するディスコミュニケーション機能を持っていること、また、自分の身の置き場を形 成する機能を持っていること、すなわち空間調節機能を持っていることを取り上げ、第四章で考察している。 第五章ではケータイはコミュニケーション機能としてではないさまざまな機能を持っているということを補 うためにも、映画『セルラー』(2004、アメリカ)内で使われているケータイの利用方法や目的を考察してい る。このように、ケータイがコミュニケーションツールとしての機能や機器的な機能だけでない、さまざまな 機能を持っているということをこの論文で示していくのが目的である。 – 17 – 2005 年度卒業論文概要 新潟大学人文学部情報メディア論コース 結婚式の現代化 仲下 友梨 挙式・披露宴の市場は 2 兆円規模といわれている。ブライダル産業は、何ヶ月も前から予約をとれ、しかも まとまった金額を得られる。それゆえ、魅力的な分野として注目を浴び、最近ではレストランや一軒家のほか にも、水族館や競馬場などでも挙式が執り行われ、メディアで紹介されている。 近年の結婚式・披露宴のキーワードとしては、「オリジナルウェディング」があげられる。二人らしい、温 かみのある結婚式である。挙式や披露宴に使われるさまざまな小物を手作りしたり、演出を工夫したりしてゲ スト全員が楽しく和やかな雰囲気になるような挙式が人気のようだ。 しかし、以前の結婚式は現在のような形式ではなかった。新郎新婦は高砂に座り、ただ人形のように座って いるだけで、ゲストとの触れ合いのない結婚式や、一日に何組もの結婚式をこなすため能率重視のどれも同じ 内容の結婚式もあったのである。 この論文ではこれまでの結婚式の変遷を探りつつ、抽象的な感じを受けるオリジナルウェディングについて 明らかにしたい。 第1章では日本古来の婚姻儀礼について述べている。日本古来の婚姻形式は神前式だと考える人も多いが、 実は人前式である。古くから伝わるこの形式は、地方によって内容にばらつきがある。そこで、代表的なもの について触れた。 第2章では明治時代が起源とされる神前結婚式について述べている。神前結婚式は明治の皇太子の婚姻の儀 が神前で行われたことから民間に広まった形式である。しかし、すぐには民間に広まらず、地方では根強く古 くから伝わる形式が行われた。ここでは、神前結婚式が民間に広まっていく様子や、神前結婚式が歴史的に果 たした意義、そして次第に派手になってゆく披露宴について述べている。 第3章ではキリスト挙式について述べている。キリスト教式は、現在約 70 %の人が選ぶ形式である。かつ ては多くの人に選ばれた神前結婚式はいまや 15 %前後にとどまっている。ここでは、キリスト挙式の台頭し ていくさまや、画一的な披露宴に対する考え方の変化、ジミ婚の流行などについて触れた。 第4章では、最近の結婚式・披露宴について述べている。最近よく耳にするようになったオリジナルウェ ディングという言葉は 1990 年代半ばころから使用されるようになったようである。ここではオリジナルウェ ディングの事例を挙げるとともに、なぜ結婚式・披露宴に自分たちらしさを求めるようになったのかについて 述べた。また、結婚式・披露宴を執り行っている会場に話を聞くことにより、実情はどうなっているのかを分 析した。 – 18 – 2005 年度卒業論文概要 新潟大学人文学部情報メディア論コース 電子新聞における現状と課題 中林 真理 新聞社が電子新聞事業を開始し始めてから 11 年が経過したが、未だ多くの新聞社では事業として成功して いると言えるところまではいっていない。いずれの新聞社においても、これまでの事業では、社員を教育し、 設備を整え、サービスを整えることに力を注いできた。そのため、どうしても内側のほうに意識が向けられて しまい、利用者への意識は欠けてしまいがちであったように思われる。しかし、今ようやくその土台となる部 分は出来上がりつつある。そこで本論文では、どのようにすれば利用者に求められ、また利用しやすい電子新 聞になるのかといったようなことについての提案を述べていきながら、今後の電子新聞事業の可能性を考察し ていく。 第 1 章では、電子新聞の種類や特徴から「電子新聞とはどういうものなのか」ということについて詳しく見 ていく。新聞社がインターネットを介して提供しているサービスは非常に様々な形態があるが、ホームページ タイプの電子新聞はどの新聞社でも提供しているサービスであり、またその他のサービスの大部分もそこから 利用できるようになっていることからも、現在の電子新聞の中では一番中心となっているサービスであると言 える。そこで本論文では、ホームページタイプのサービス全体を「電子新聞」と称し、その中で提供されてい る他のサービスについても電子新聞のサービスとして触れていく。 第 2 章では、電子新聞事業の歴史を全国五大紙 (朝日、読売、毎日、日経、産経) に焦点を当てて見ていく。 五大新聞社の電子新聞事業においては、朝日・読売・日経・産経が無料路線、毎日が有料路線のスタートで あったが、無料路線でスタートした 4 社に関しても、無料のサービスで利用者を引きつけ、その後に有料サー ビスへと誘導していくことを狙いとしており、どの新聞社でもニュース記事の有料化を視野に入れているとい う点で一致していた。しかし、現在に至るまでに有料化されたサービスはあるものの、日経新聞社の一部の サービスを除いては、うまく軌道に乗せることはできていなかった。そのような過程の中で、新聞社がどのよ うに事業展開を変えてきたのかということについて見ていく。 第 3 章では、実際には電子新聞がどのような状況にあるのかということを、「アクセス状況調査」、 「実態調 査」 、 「アンケート調査」の 3 つの調査に基づいて考察していく。これらの調査では、電子新聞の認知度の低さ や、利用者の不定期で二次的な利用スタイル、無料ニュース提供サイトの脅威、そして有料版サービスの利用 度の低さや支払い方法がクレジットカードのみといったような現状がうかがえた。 そして第 4 章では、前章までの調査結果や考察をもとに、電子新聞事業の問題点について、新聞社の記事有 料化志向、有料版の支払い方法、紙の新聞と電子新聞の補完関係という 3 つについて述べていく。これらを見 ていく際に共通していることは、利用者の側に立った事業展開という視点であり、それが今後電子新聞がメ ディアとしての地位を築いていく際に、必要不可欠になるものであると思われる。 – 19 – 2005 年度卒業論文概要 新潟大学人文学部情報メディア論コース 図書館の変容 — 日本における図書館サービスのあり方をめぐって — 能瀬 由季子 日本の本格的な図書館サービスは、戦後の図書館法の制定から始まった。図書館法が示した住民奉仕の姿勢 は、戦前の閉鎖的な図書館にはみられないものだった。そのため、図書館法の精神にのっとった図書館のサー ビスが開始されるまで、図書館は様々な模索をすることとなった。今日の日本における図書館サービスの基盤 となったのは『中小レポート』と『市民の図書館』という二つの報告である。住民奉仕の図書館サービスを運 営していくために、 『中小レポート』では図書館の機能を資料提供であると定義し、 『市民の図書館』は『中小 レポート』の実践に基づき、個人貸出しのサービスを重視した。しかし、コンピュータの発達により、貸出し の作業は機械でほとんどできてしまうようになった。このことは、図書館の運営において、大きな影響をもた らした。中でも、オンラインで閲覧可能な電子図書館の構想は、既存の図書館の役割を縮小させるものなので はないかという危惧を図書館員に抱かせるものであった。 その一方で現在の図書館では、貸出し以外の様々な取り組みを行っている。ビジネス支援は、図書館の新た なサービスの一つである。ビジネス支援では、経済関連の資料をそろえるだけではなく、図書館員によるビジ ネス支援相談も行っている。ここでは、相談者と資料とを結びつけることが、図書館員に求められている。こ のような調査の相談を図書館員が受けることは、レファレンス・サービスと呼ばれ、ビジネス支援だけでな く、そのほかの分野でも行うことができる。レファレンスは、図書館法制定直後の日本でも試みられていた が、『市民の図書館』で、個人貸出しが図書館の最も重要な機能であるとされてからは、あまり試みられるこ とがなかったのである。 戦後の図書館サービスの基盤となった『市民の図書館』では、資料提供が図書館の最も重要な機能であると していた。しかし資料提供という機能は、本来はただ貸出しをするということだけでなく、レファレンスを含 め、多様な手段を使ったサービスである。『市民の図書館』では、貸出しサービスを充実させた上でレファレ ンスなど他のサービスを行っていこうとしており、レファレンスを軽視してはいなかった。しかし、日本では 貸出し重視のサービスにより、図書館が発展していった時期と、コンピュータの導入の時期が重なってしま い、図書館はコンピュータの導入にかかりきりになってしまった。そこで、貸出しからレファレンスへという 展開が途切れてしまったのである。 しかし、現在の図書館では、貸出しだけでない様々なサービスを広めていこうとする動きがある。新しい サービスには、電子図書館のような、デジタル技術を使ったサービスと、図書館員によるレファレンスなどの 人的サービスを融合させたサービスもある。このように、デジタル技術の発達は、図書館の意義である資料提 供を充実させるための手段として使われているのである。 – 20 – 2005 年度卒業論文概要 新潟大学人文学部情報メディア論コース 市民参加型メディアの普及に伴うジャーナリズム形態の変容 橋本 裕子 本論文では、市民参加型メディアの新しいジャーナリズム形態について論及するにあたって、現状の既存マ ス・メディアとの差異を前提にしている。つまり、ジャーナリズムは既存マス・メディアのみに担われるもの ではなく、市民が自らメディアにアクセスし、能動的に情報発信していくことで担われるものであると提示す ることを目標にしている。 ここでの市民参加型メディアとは、マス・メディア企業の利益追求の経営体制や政治権力との癒着関係を批 判・対抗し、自らのジャーナリズム活動によって代案を提示していくメディアの総称である。市民主体の情報 発信活動は、これまでにも地域単位や NPO などの組織単位でみられたが、近年では双方向メディアであるイ ンターネットの普及に伴い、個人での情報発信が顕著にみられるようになった。また、インターネットが持つ リンク機能は、市民のメディアの同士を結びつけ、コミュニケーションの輪を広げている。 これに関して、第 3 章ではインターネットで活発な市民参加型メディアとして「インターネット新聞」と 「ブログ」を採り上げ、そのメディアの持つ特性とジャーナリズム性の是非を考察している。これらは日本人 の関心・政治参加意識の低さから、ジャーナリズム媒体として市民に普及させることは困難かもしれない。特 にブログの場合は、有名人の公式サイトや個人の日記のような自己表現の場として機能するに留まる可能性が 高い。また、匿名で行われる情報発信や言説の信頼に対する不安や、口コミのような世論をミスリードするメ ディアの危険性も表出し、重大な課題も多い。しかし、解決策として各ジャンルの専門家や既存マス・メディ アでのジャーナリスト経験者などが編集者として参加することで、市民のジャーナリズム活動に刺激を与えて いくことは期待できる。さらに、他のメディアを介してさらに言論を活発にさせるという言説の相互参照に よって市民参加型メディアがジャーナリズムとして機能する可能性も高い。市民主体のジャーナリズム活動を 実現させるためには、発信者自身のリテラシーの向上が最も重要であるが、単体としてのメディアではなく、 地域活性化の起爆剤として機能させるなどの取り組みも必要とされるだろう。 また、これらに刺激されることで既存マス・メディアも市民の信頼を取りもどすべく試行錯誤している。 終章では、ジャーナリズムの今後の展望として、時代の変化に対応するための既存マス・メディアの双方向 ジャーナリズムへの挑戦と期待について述べる。ジャーナリズム形態の変容の中で、市民参加型メディアと既 存マス・メディアがそれぞれの特徴を活かし、相互補完していくことによって、今後の可能性がみえてくる。 – 21 – 2005 年度卒業論文概要 新潟大学人文学部情報メディア論コース 監視技術をもたらすもの 波多野 なつ美 本論文では、まず現代社会における監視の定義を確認することで、監視技術が私たちの生活、意識や価値観 に与える影響をさまざまな角度から考察する。そして現代の監視における特徴、問題点を整理することで、監 視技術が受け入れられるようになった過程について論及した。 第一章 私たちに働く権力はどのようなものかを分類し、考察した。ここでは、東浩紀のいう「環境管理型権力」の 台頭が重要なポイントとして挙げられる。ローレンス・レッシグのいう「アーキテクチャ」の制約は、私たち の行動そのものをはじめから制約する。あるいは個人情報をデータベース化し、管理者が使用することを可能 とする。従来の監視形態に加え、このような作用をもたらす監視技術は身の回りで定着し始めている。現代社 会における監視形態は、もはや誰かが誰かを抑圧するといった簡単な図式ではとらえられないものとなって いる。 第二章 セキュリティと監視技術がどのように関連しているかについて考察した。私たちは、社会的不安の高まりと ともにセキュリティを重視する傾向を強めている。そして、セキュリティの確保・保障のためには、個人の自 由の制約が課されてもやむをえないという考えが受け入れられるようになっている。むしろ、セキュリティの ためには監視を進んで受け入れるという考えが強い。そのことを実際に証明したのが、アメリカにおける 9.11 だったといえる。そして、このような考え方はアメリカだけではなく、日本においても同様である。 監視技術は、セキュリティ対策にはもはや不可欠なものとなっており、監視技術への依拠をやめることは難 しい状況にある。しかし一方で、監視技術への依存はデイヴィッド・ライアンのいう「配慮(ケア) 」と「管理 (コントロール)」のバランスが崩れ、管理・統制の側面ばかりが大きくなる危険性をもたらす。いかに双方の バランスを取るかが、今後の重要な課題となる。 第三章 現代社会において信頼性がどのように得られ、監視技術がどのような影響を及ぼしているかについて考察し た。はじめに、監視技術によって「排除社会」の形成が強化される危険性について述べた。 「排除社会」は、特 定の人々に対して不当な制約を課す社会である。監視技術は、自動的な判定を行うというその特性により、彼 らに対する「ステレオタイプ・差別・社会的差異」を再強化する危険性がある。このことにより、技術に依存 した信用証明を行うことは慎重な判断が必要となる。そして次に、「監視技術の道徳的利用」について考察し た。現代社会が技術によってモラルの徹底を図るのは、そうすることで高度に発達した都市機能やシステムを 維持しなければならないからである。もはや個々人のモラルに頼るのではなく、アーキテクチャによる制約を 課すことでモラルを徹底させなければ、現代社会は簡単に崩壊する危険性がある。そして最後に、そのような 社会で生活するためには、相互に信頼性を得るための認証が必要となることを述べた。信頼性を得るための客 観的な証拠として、技術による認証が求められるのである。 – 22 – 2005 年度卒業論文概要 新潟大学人文学部情報メディア論コース 国際情報化時代における韓国語 — 韓日両国の比較を通して — 原田 孟 20 世紀後半以降の全世界規模の「国際化」と「情報化」は、現在の世界の特徴を端的に表現している。韓国 は、アジア通貨危機に端を発した IMF 以降の IT 政策の成功により、短期間で、世界で最も優れた情報インフ ラを構築することができたと同時に、すでに日本よりも一歩先行して、一般国民の日常生活とサイバー空間が 同化するという具体的ないくつかの現象が起き始めている。このような急速な韓国社会の情報化により、韓国 語という言語そのものも大きく変化してきており、社会文化を反映した言語の変化は今後の韓国的な情報社会 観を形成していく上でのひとつの領域をなしていくだろうと考えられる。 本研究では、 「国際化」 ・ 「情報化」という二つのトピックに重点を置き、韓国語という言語に対して、(1) 国 語情報化、(2) 国語の世界化、(3) ネットワーク化、という 3 つの大きな観点からの接近を試み、韓国語が「国 際化」・ 「情報化」という過程を経て「世界化」・「ネットワーク化」へと変貌していく将来的な概念定義をし、 それに対するいくつかの政策提案を行った。(1) では、英語圏の産物であるコンピュータが日韓両国にもたら されてからの国語と情報化の関係概念を簡単に整理し、日韓両国の共通点及び相違点を現在までの技術水準と ともに明確にした。(2) では、国語の世界化に関して、日韓両国民が歴史的に国際化・国際社会に対して抱い ている概念について整理し、論を展開した。そして、日韓の国語情報化における技術格差が技術的開発先進 国・後発国の違いだけでなく、既存言語学の性格の違いなど、他分野との関連性があることが分かり、両国の 社会的・文化的背景が国語に対して与えてきた影響があることが明らかになった。(3) では、(2) での考察を 踏まえ、国語としての韓国語が情報化の影響を受ける中でどのように変貌してきたのか、そして、今後韓国語 と情報化との関係はどのようになっていくと考えられるのかについて考察し、その将来的な予測・展望に基づ き、 「韓国語中上級者に対する通信言語教育」と「コンピュータ・プログラムの開発」というふたつの著者独自 の政策提言を行った。なお、本研究では、韓国における先行研究をもとに日本の事例と比較するという基本的 立場を維持することによって、韓国の先行研究にはあまり見られない著者独自の見解を提示すると同時に、本 論文を参照することになるであろう読者が必ずしも韓国語上級者でないことを念頭において考察を展開した。 したがって、本研究における成果は、日本人韓国語学習者に対する学習的提案はもちろんのこと、日韓文化比 較論という分野に対しても情報学の新しい視点を導入することによって、これまでにない独自の考察・論が展 開できたものと考えている。さらに、著者自身にとって本研究は、今後、既存の韓国朝鮮学と情報学の学際的 領域である韓国朝鮮情報学の必要性を提唱し、専攻するための導入的意味を持った研究という位置づけになっ ている。 – 23 – 2005 年度卒業論文概要 新潟大学人文学部情報メディア論コース 技術の標準化と市場原理 松井 昭洋 技術が実用化され発売間近である次世代 DVD には、二つの規格が存在する。二つに分かれて対立していた 陣営が、2005 年前半では双方歩み寄りの姿勢をとり、技術の標準化に向けて動き出した。しかし同年八月に 交渉は決裂し、発売前の標準化の可能性はなくなった。これは、それぞれの規格を推進する企業が、技術の標 準化よりも市場原理を優先したためである。 自社で開発した技術をもとに市場競争で打ち勝とうとする市場原理の優先は、各企業が足並みをそろえて行 なう技術の標準化とは相反する。本論文では、そうした技術の標準化と市場原理の関係について、企業と消費 者の両視点から考えたものである。 まず、市場原理が優先された例として VTR をとりあげた。VHS とベータという二つの規格が市場で競争 し、最終的に VHS が標準を獲得した事実は有名であるが、このような事実上の標準であるデファクト・スタ ンダードは、競争に勝った企業にとっては多くの利益をもたらすが、負けた企業は市場から締め出されてい く。また市場競争に負けた製品を購入した消費者は、ネットワーク外部性による恩恵を受けられないといった デメリットが生じる。一方メリットとして、他社と技術の標準化を進めた場合に比べ、開発から製品化までの 時間を短縮できる点などがあげられる。 次に、技術の標準化が優先された例として CD をとりあげた。CD は、企業側が VTR の標準化競争を反省 材料として消費者の利便性を考慮した結果、製品化前にフォーラム形式で標準化された。標準化が優先される と、消費者の混乱がなくなり、市場規模の拡大につながる。しかし企業にとっては標準化に時間を要すること になり、市場原理が優先された場合と比べ、開発から製品化までの流れがスムーズに行なえなくなるというデ メリットがある。さらに企業は、市場から締め出されるというリスクが軽減される反面、競争に勝った場合に 得られたような大きな利益を望むことができない。 市場原理が優先された場合と技術の標準化が優先された場合を比較していくと、やはり両者は相反する関係 にあることが再認識される。企業の観点からすると、自社の技術を頼りに市場原理を優先すれば、リスクは大 きいがそのぶん多大な利益を得られる可能性がある。他社と協力して標準化を優先させると、上述の場合に比 べて得られる利益は減少するがそのぶんリスクは軽減できる。消費者の観点からすると、市場原理が優先され れば競争が発生し、競争に負けた製品を購入した場合に損をするというリスクがあるが、競争による価格の低 下などが期待できる。標準化が優先されると、製品購入の際の混乱はなくなるが、価格の低下傾向は鈍化する と考えられる。 つまり技術の標準化と市場原理は、そのどちらを優先してもメリットとデメリットがあるということだが、 そこで重要になってくるのは両者のバランスである。どちらを優先していくかを実際に選択していく立場の企 業側には、臨機応変かつ消費者にとって混乱の少ない選択が求められる。そして消費者も、自身の消費活動が どんな意味をなしていくのかを考えながら、消費・選択していく必要があるのではないかと思う。 – 24 – 2005 年度卒業論文概要 新潟大学人文学部情報メディア論コース 日本のサブカルチャーに見る「かわいい文化」 — ハローキティとリカちゃんを生んだ少女文化の考察 — 丸山 亨子 現在、日本で「かわいい」はあらゆる所で溢れている。 「かわいい」がこのように普及し、定着するきっかけ となった時期は、1970 年代前半(昭和 40 年代後半)頃と言われており、ちょうど少女文化が花開いた時期で ある。リカちゃん人形が誕生し、ハローキティを代表とするかわいいキャラクターが登場したのもこの頃で、 「かわいい」は少女文化の発達により急速に注目されるようになった概念であった。 少女と「かわいい」は常に密接した関係にある。「変体少女文字」は、少女たちが作りあげた独自の丸文字 である。彼女たちがこの文字を使うのは、自分の持つかわいらしさを文字に置き換え、人々に知らしめるため であり、この文字は人に見せることに存在価値を有する。かわいい自分を表現し、アピールするための手段で あるのだ。また、少女マンガのヒロインの主流が「かわいいそうな少女」「かっこいい少女」から「かわいい 少女」に変化した。少女たちがかわいいことを重要視するようになった理由は「かわいい少女」の方が自己を 投影しやすく、親しみやすい存在であったからである。 「美しい」 「カッコいい」は誰もがなれる存在ではない が、 「かわいい」は誰もがなれるのだ。 「かわいい」は二次元的なマンガの世界にとどまらず、三次元的な人形の世界にも現れる。リカちゃん人形 の登場である。リカちゃんは、少女たちの理想とするかわいい少女像である。人形遊びをする時に、自己をリ カちゃんに重ね合わせ、自分のかわいい分身として見ているのだ。リカちゃんは時代を経るたびに表情の「か わいい化」が進む。リカちゃんがかわいくあり続けるのは、少女たちが「かわいい」から離れられないからで ある。 ハローキティは日本を代表する白い子ネコのキャラクターである。その人気は女性を中心として、幅広く支 持を集めている。彼女らがキティを好むのは、キティの見た目(赤ちゃんを思わせる幼さ・あどけなさ)に由 来するだけではない。かわいいキティを見に付けた自分自身をも「かわいい」と認識しているからだ。自分が かわいいと言われる存在になるために、かわいいキャラクターのハローキティグッズを身に付けるのである。 かわいいキャラクターの増加や、「かわいい」の頻繁利用など、現代において「かわいい」が普及する理由 は、 「かわいい」は誰にでも使える表現である、ということが挙げられる。また、 「かわいい」が生み出す関係 には優劣の差は生じないことも特徴である。「かわいい」と言うこと、もしくは言われることで、両者には満 足感が存在するだけであるのだ。「かわいい」は、互いを互いに「かわいい」と言い合うことで満足するという 相互満足の世界を生み出す。そして、「かわいい」という一つの共通項をもった仲間意識を形成するのである。 現代は平和を大事にするために、人と争うことが忌避され、誰かと比べて優劣をつけることより、皆が皆何 か良さを持っている、という考え方が普及している。「かわいい」の普及もこの考えと無関係ではない。 「かわ いい」と言い合うことで、お互いに良さを確認しているのだ。「かわいい」によってもたらされる関係は、今 後も拡大していくだろう。そして、我々が満足感を味わっている限り、この概念から決別することはないと推 測する。 – 25 – 2005 年度卒業論文概要 新潟大学人文学部情報メディア論コース 映像メディアにおけるコンテンツ規制のあり方 — 青少年とテレビをめぐって — 宮腰 健男 青少年を取り巻くメディア環境の多様化に伴い、彼らに悪影響を及ぼす情報について言及される機会も増え た。そのような悪影響を及ぼすとされる情報からいかに青少年を守るのか、悪影響だといかにして判断するの か、これらの要素も含みながら、本論文では日本のコンテンツ規制について、映像メディアの特異性とその影 響力の大きさからテレビ放送に焦点をあて、現状を述べるとともに他国の制度も踏まえてコンテンツ規制のあ り方を論究している。 日本の社会においてしばしば青少年にとって好ましくないと判断されてきた「暴力表現」と「性描写」を、 悪影響を及ぼす情報の中心として取り上げた。いずれも、「チャタレイ裁判」や映画『バトルロワイアル』と いった具体的事象や心理学的アプローチによって、どのような悪影響を及ぼすのか、なぜ規制対象とならなけ ればならないのかが浮かび上がらせた。 このような「暴力表現」や「性描写」をめぐって、わが国のコンテンツ規制の現状を探究すると、憲法と放 送法といった二つの法律にたどり着く。そして、憲法における「表現の自由」と「公共の福祉」 、放送法におけ る「放送番組編集の自由」と「放送番組編集準則」との関係をひもとくと、わが国のコンテンツ規制の中心は、 これらの各要素の調和によって成り立つ自主規制であるということができる。この他にも、あまり機能してい ない第三者機関、放送局が策定する放送番組基準などの問題が内在していることも判明した。また、映画にお いては第三者機関がうまく機能しており、出版物には事前表示がなされるといった他メディアのコンテンツ規 制についても参考とするべく言及している。 日本の現状を踏まえた上で他国の放送制度を概観する。本論文で主に取り上げたのは、アメリカ、イギリ ス、フランス、ドイツの四カ国である。各国によって注目した事象は異なるが、概要は以下のとおりである。 アメリカについては、度重なる自主規制の失敗から V チップの導入に至った経緯、「公正原則」の違憲判決の 二点を中心として述べた。イギリスについては、放送界がとっていくべき姿勢について触れた。フランスにつ いては、第三者機関 CSA の取り組みを中心として論じた。最後にドイツについては、 「放送の自由」の解釈が 他国と比べて特異である点を中心に概観した。 以上のような点を踏まえた上でわが国のコンテンツ規制のあり方について見直しを図り、特に V チップの 導入について否定的な見解を述べるとともに、第三者機関の有効活用について言及することをもって結論と した。 – 26 – 2005 年度卒業論文概要 新潟大学人文学部情報メディア論コース 情報化による時間意識の変化 元木 亜紀 本論は、現在私たちが持っているような時計時間に基づく時間意識の形成過程を探り、その時間意識が日本 社会の中でどのように変化してきたかを考察したものである。そして、近年の情報化の動きの中で時間意識は さらに変化してきたのではないかと仮定し、産業構造や経済状況、情報環境の変化等と関連させながら私たち の持つ時間意識について論じている。 14 世紀初期のヨーロッパで宗教的必要性から機械時計が誕生した。これをきっかけに不定時法から定時法 への転換が起こる。これが自然時間から時計時間への移行であり、その後、この近代的な時計時間意識が私た ちの行動・活動を支配するようになった。そして、産業革命を経てこの時間意識が人々の間に定着して行くこ とになる。この時期の工場制機械生産様式への移行や鉄道の発達は、新たな時間意識を生んでいった。 日本では幕末から明治期の近代化により、定時法・太陽暦へと改められた。これが日本に近代的時間意識が 生まれた時である。さらに戦後復興・高度経済成長を経て、人々は資源としての時間を意識するようになっ た。そして、今日の情報社会やサービス社会がこれらの時間意識に変化をもたらしていると考えられる。農業 社会、工業社会、そして情報社会・サービス社会へとシフトする中で、時間の節約が重視され時間効率が重要 となり、これに急き立てられるように人々が忙しいと感じるようになったのではないか。 これについて第 4 章の中で情報社会・サービス社会に見られる現象をあげ、人々の時間意識とどのように関 わっているのかを考察している。私たちの時間意識に影響を与えていると考えられるものとして、情報化にと もなう情報量の増加や情報端末の多様化、企業形態などを取り上げている。また、今日のサービス社会を時間 の商品化・産業化という点からとらえ、時間の短縮化・スピードアップ、予定・計画化といった特徴から論じ ることを試みた。 携帯電話等の移動型情報通信端末利用の増加やインターネットの普及は、人々の時間効率を高めたととも に、時間的無駄を解消するよう人々に働きかけているとも言える。また企業の就労形態における変化が時間約 束を重要なものにし、人々の時間意識をシビアなものへと変化させた。そして、時間の短縮化・スピードアッ プ等を売りにするサービスが数多く見られるようになり、人々は効率的な時間を購入するようになった。この ような社会の中で、人々の時間の稀少性に対する感覚が強まり、これが時間的ゆとりを感じられない原因に なっていると考えることができる。人々はせっかちになったと言うよりは、時間に対して神経質かつシビアに ならざるを得ない環境にあると言えるだろう。 最後に、柔軟な時間を手にすることへの期待を述べ本論の終わりとした。 – 27 – 2005 年度卒業論文概要 新潟大学人文学部情報メディア論コース 映画の広告についての考察 — 予告篇と映画 — 安田 奈津美 映画において、広告は重要な役割を果たしているといえる。なぜなら、映画は現物を見ること自体が購買と なるので、他の商品のように、商品自体についての検討を加えることができないからだ。よって、見る映画を 選ぶとき、広告による情報を頼りにするところは大きい。しかし映画は一般に 1 回見たら終わりという商品な ので、映画を見た後に、広告の内容と映画本編の内容が比較されることはあまりない。そのため、映画の広告 が映画本編の内容を適切に表していたかどうかは判断されにくいといえよう。だが、選ぶ際に重要な役割を果 たす広告は、映画本編を見たときの印象にも関わってくる。映画の広告から漠然と受けた印象と、映画本編を 見たときの印象が違ってがっかりしたという経験を持つ人は少なくないだろう。 本論では、そのような映画における広告の重要性に着目し、その中でも最も広告としての効果があると思わ れる映画の予告篇を取り上げた。予告篇が映画本編とは内容が離れてしまっているのではないかという仮説を もとに、予告篇と本編には実際にはどの程度の違いがあるのか、またなぜ予告篇と本編が離れてきてしまうの かについて論究し、映画の広告の特殊性について考察した。そこでまず、予告篇制作の社会的な背景から、予 告篇と本編が離れたものになる原因を探った。予告篇制作は、専門の制作会社によって作られるようになり、 広告としての機能を重視されるようになった。配給会社からの注文によって第三者的立場の会社が制作するよ うになったことから、予告篇は宣伝物として扱われるようになったのである。また洋画の勢力が強い現在の映 画市場では、日本との文化的な差を埋めるために、日本人に合った宣伝の仕方をすることが多く、それも予告 篇制作の特殊な背景といえるだろう。 次に、映画という商品の特殊性からも論究した。映画は基本的に 1 回しか見ない商品であるため、予告篇は 映画本編との比較はされにくく、そのため本編と多少離れた内容であっても批判されることがない。これも予 告篇と本編が離れたものになる原因であると思われる。しかし最近では、映画館以外でも予告篇を流すことが 多くなったため、予告篇を目にする可能性が高くなった。このような広告メディアの変容が、映画のもつ特殊 性に関わってくるのではないかという考察に至った。 予告篇が本編と離れたものになる原因としては、予告篇制作の社会的な背景と、映画自体の特殊性という 2 点が挙げられた。そして映画本編を見たときに、観客が予告篇とのイメージの感じてしまう背景には、予告篇 を流すメディアの多様化があった。映画を見る前に予告篇を何度も目にすることによって、予告篇による作品 のイメージが記憶に残り、映画本編を見たときにイメージの差が起こりやすくなると考えられる。予告篇は、 広告として誇大表現であるという指摘はされにくいものの、映画を見る際に多少の先入観を与えてしまう特殊 な広告なのである。 – 28 – 2005 年度卒業論文概要 新潟大学人文学部情報メディア論コース 「キレイ」になりたい男性の増加 若林 春奈 従来、男性の美容行為は髭を剃る、髪を整えるといった「自分という素材を磨く」というものであった。し かし近年、脱毛や眉の手入れ、ネイルケア、メークといった「自分という素材を変える」という美容行為を行 う男性が増加している。本論文では、なぜ今男性の美容行為が変わってきているのか、その要因を男性を取り 巻く状況の変化を基に論じる。 まず、男性の美容行為の変遷を時代ごとに述べ、現在の男性の美容行為の変化の要因を 1. メークのオープン化 2. 美が剥奪された男性身体 3. メディア化する身体における手段としての美 の3点とした。 1 では、メークなどの美容行為のプロセスが街中、テレビで公開されるようになったことで、「素顔を隠す」 という本来のメークの役割が薄くなり、「変身する」「変身願望を満たす」という役割が強くなった、というこ とを述べた。 2では、平安時代から江戸時代までは貴族から上流武士階級の間に白粉、お歯黒、眉の化粧といった男性 メークの習慣が受け継がれ、社会的に容認されていたが、明治時代、政府がお歯黒と眉の化粧を禁止したこと から男性のメークという習慣が廃れ、華やかさという意味での「美」が女性だけに専門化された。美が剥奪さ れた男性身体は「力」 「筋力」が価値となり、女性の身体=美、男性の身体=力という価値構造が生まれたとい う事を述べた。 そして3では、2の内容をふまえた上で、美容行為によってメッセージを持ち、華やかで視線を集める女 性の身体は非言語コミュニケーションメディアとなった。一方、工業化により「力」を発揮する場が失われ、 スーツで画一化された男性の身体は、発するメッセージも少なく、視線を集めないのでコミュニケーションメ ディアとしては役割が不十分であった。だが、近年情報化社会を迎え、視覚優位になり、コミュニケーション にも高速化・合理化が求められるようになると、スピーディーに得ることができる「外見からの情報」が重視 されるようになった。よって男性の身体も視線が集まるようになり、非言語コミュニケーションメディアとし ての役割が強くなったのだが、外見からの印象が重要になっても、 「自分という素材を磨く」という従来の男性 の美容行為では、外見から発することのできるメッセージは少なかった。そこで、同じく社会の情報化によっ て自分で情報を発信するという意識が高まったこともあり、外見が発するメッセージをより強くし、自分で作 り上げる手段としても使用できる、それまで女性だけのものであった「自分という素材を変える」という美容 を男性も行うようになった。そして1で述べた美容行為の役割の変化もその追い風となっている、とした。 まとめとして、近年、男性も「自分の素材を変える」美容行為を行うようになり、 「キレイ」を求めるように なってきた。しかし、女性の身体=美、男性の身体=力という価値観が今も変わらずあるので、「美しくなる こと」という外見そのものの評価を目的として美容を行う女性とは違い、男性は自分が内包している「力」を 身体で表象し、外見を通した内面の評価が目的で美容を行っている、とした。 – 29 – 2005 年度卒業論文概要 新潟大学人文学部情報メディア論コース インターネット時代の消費 渡邉 拓也 現代は消費社会であると言われている。その呼称が使われるようになったのはここ 30 年か 40 年程度のこ とであり、それは「消費」という行為が社会的に大きな意味を持つようになったのがここ最近のことであると いうことである。しかし、消費社会という言葉が生まれてから半世紀近く経ち、消費及び消費者達を取り巻く 環境は大きく変わってきた。その代表的な変化とは、インターネットの登場である。インターネットが登場 し、消費者達が連帯し、コミュニケーションを行うことによって消費者の消費のやり方は大きく変わってきた と考えられる。 消費が社会的にも大きな意味を持つようなほど人々に受け入れられていった要因を、ジャン・ボードリヤー ルは消費により差異化、他者への優越性であると考えた。ある商品には、その商品が本来果たす道具的な機能 だけではなくて、その商品を所持し、見せびらかすことにより他者への優位性を示すことが出来るという余分 な価値、記号が付帯されているというのである。 しかし本論では、それは消費者が互いに未組織であり、孤立し、消費を私的な趣味として楽しんでいる場合 に限られる事であると考える。消費によって他者への優越性を示せると思うのは、結局のところイメージであ り、空想でしかないからである。このような空想は際限が無いから、消費者を際限の無い欲望追求状態・アノ ミー状態へと追い込んでしまう。そして更に指摘すると、人間は他人の上に立ちたいとも感じるが、他人と仲 良くしたいと考える側面も持ち合わせている。つまり、ボードリヤールの言う消費による他者への優位性の表 示、他人の上に立ちたいという欲求は、人間のコミュニケーション過程の一つでしかない。 インターネットでは、人々は容易にコミュニケーションをとることが出来る。しかも、それは無料であり、 いつでもどこでも出来るものである。そのような状況で、コミュニケーションを求めて商品の消費を行う消費 者はいなくなるだろう。インターネットを利用したコミュニケーションで手に入れられるものと、消費におま け程度についてくるものではどちらが優れているか一目瞭然である。また、消費にコミュニケーション的価値 が求められなくなれば、企業は商品価値を高めるため、必然的に機能性を重視した商品開発に取り組まなけれ ばならなくなるだろう。 インターネットの登場により、あらゆる商品はより機能的になるだろう。そして、消費者達はアノミー状態 に晒されることなく、充実した消費生活を送れるようになるはずである。 – 30 –
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