創刊号(平成2年発行)

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題字揮毫:「関東」=山名昭二/「せいうん」=中村除夜
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会報/創刊号
発行
函館東高等学校関東地区
青 雲 同 窓 会 事 務 局
335埼玉県戸田市本町1 −19−3
戸田中央総合病院内
昔0484リ2)1111 (内線211)
会報発刊を祝う
絵:田辺三重松(函館出身)
関東青雲皿t皿こ中村隆俊
道一創刊に寄せて
発刊にあたり一言御挨拶申し上げます。
市中・市高・東高とそれぞれに分かれて開催されておりま
した関東地区同窓会を一本化しようという声が高まり,昭
青雲同万々=a=田中仁
和58年8月新橋第一ホテルに於いてビアパーティーを開催
しましたのが産声でした。
かつて連は,栄光のローマに通じ,シルクロードは東西
当時は各期の世話人役も知り得ず,函館本部で発刊され
文化の交流の道であった。日本列島にはいま,人類の汗と
ておりました同窓会名簿だけを頼りに,関東地区在住の会
叡知を結集した青函トンネルが開通して,瀬戸大橋を渡っ
員を拾い上げ,御案内状を1,000通ほど送付いたしました
て縦横に道が連なる。だが,道には初めから古ちんとした道
が,当然のことながら,転居先不明で半数以上返送されて
はない。進み,迷い,時には引き返し,野を越え,谷を渡
きたものです。その後,幾度もの役員会を経て大同団結し,
って,それは道な古道を往く人生に似ている。道には愛か
関東地区青雲同窓会設立総会が昭和60年5月正式に発足い
おり未来かおる。そして私達の青春の出発点には共通に
たしました。以来,第5回を重ね,新年会・納涼会・ゴル
『青雲台』かおる。自由と希望と高古理想あふれた建学の
フコンペなど,活動も年々盛んになってまいりました。
同窓会が第5回を経過したその節目として,今日,ここ
精神『青雲の志』は今もなお私連の心のなかに息づいて,
希望に向かい愛を求めている。道には目的かおり進歩かお
に関東地区独自の会報「関東・青雲」を発刊できましたこ
る。人はその人生のなかで生涯をかけて『自分を形成する』
とは誠に感慨深く,御同慶にたえません。 しかし,ここま
旅に出るという。そこには発見かおり感動かおる。人は『自
でたどり着くことができましたのも,各期幹事・役員及び
分への旅』によって,視ることの累積しさ,識ることの喜
会報編集委員の方々の御努力の賜物であり,その御苦労に
び談目り合うことの輝きを覚えてゆく。それらの出合いや知
心から敬意を表したいと思います。
識の集積が,やがてものの見方の根底に投影されて,そこ
に新しい自分の発見がある。
青雲台で青った我々が「青雲の志]を持って上京し,関
東一円に根を降ろし,各界において活躍されております。
道は様々である。ある人には哲学の道であり,ある人に
創刊号として発刊されましたこの「関東・青雲」が,これ
は芸術への道であるだろう。やがて,歳月を経て振り返る
まで同窓会に出席できなかった方連への情報交換の役目を
一連の道,そこには自分が生きた証しの道かおる。道は歩
果たし,連帯の一層の絆となりますことを心から希望いた
む人々が跡絶えるとやがてまた自然に戻り消えてゆく。 し
します。また,この会報が関東地区青雲同窓会の歴史とな
かし『青雲の志』は後輩達に引き継がれ,研かれ,催かめ
るべく未来永劫,継続されますことを念じてやみません。
られて故郷の土の匂いを持ちながら創造され世界の各地で
最後に,青雲同窓会会員各位のますますの御健勝をお祈
生きている。同窓生諸兄のますますのご健勝を祈念しつつ,
り申し上げ,発刊の御挨拶と致します。
ここに創刊のメッセージといたします。
関東青雲同窓会
'90新年会の記
1月13日(土)/芝公園・
東京郵便貯金会館/夜
お別れの挨拶を終え,後任の新林さん岩
の紹介をする相川里美さん
新年会風景
当日は,あいにくの雨。東京郵便貯金会館の広い会場に
65名の同窓生が集まった。東高8回生が当番幹事の平成2
年,5月19日(土)の第6回総会をひかえての当番にとって
は試金石でもある。
午後5時半から辻改良幹事の司会で,会長の年頭あいさ
つから始まった。円卓に,同期を固定しない先輩・後輩同
席方式。名刺交換が行なわれたり,互いの期をたすね合っ
たり,担任の先生のことで話がはずんだりと,和気合々の
交歓風景があちこちのテーブルでくりひろげられている。
食事はバイキング形式。
ケ大会では励る先輩も・,, 7
後半,カラオケ大会に8回生が口火を切ってから挑戦者
続出,女性のカラオケを市中卒の大先輩が踊りで盛り上げ
るとか,正調江差追分を無伴奏で高唱,満場の拍手を浴び
'90新年会に出席された女性会員から寄せられたお便りです。
るなど楽しい会となった。
そこでふんいきが一変する。長い間,事務局の仕事を担
青雲同窓会のみなさま。
当して下さった相川里美さんが,結婚のため仙台に去るこ
お元気でいらっしゃいますか。会合に出席させていただ
とになり,お別れのあいさつをされる。仕事に就いた当初
くたびに,いつもいつも感じるのです。なんともいえない
からの思い出を語っていくうちに,雨の目から涙が伝う。
開放感。そして人と人との心のぬくもり。函館での青春時
言葉がとぎれる。中村会長も眼鏡を外してハンカチを眼に
代を共にした仲間。言葉のはしばしに懐かしい函館弁。大
あてている。とくに,熱心に彼女とともに会を支えてきた
声で笑う,この時は大先輩にだって,なんだって言えちゃ
先輩諸氏には,淋しくつらいお別れだろう。テーブルで涙
う。まるで父親か兄貴のように心を開けます。そして,少
をぬぐう姿が見受けられる。 ’辞めるな/’の声が飛ぶ。
し生意気でしょうが,後輩のみなさまには,遠くに離れて
相川さんが,彼女の仕事を継ぐ新林恵子さんを紹介。葛西
た弟か妹に出逢ったように,声をかけたくなるのです。
幹事長が,会場諸兄に彼女の名誉会員推せんを動議提案し
こうして遠くに過ぎ去った日々は,私達それぞれの心の
て,大きな賛同の拍手を受ける。
中ですばらしい歴史となって,この喜こびの中で次から次
厳しゅくと和気と熱気があって,そして,多くの人たち
へと想い出されていきます。このかけがえのないひととき
には思いもかけぬ別れが待っていた新年令が,ほろ苦く終
を大切に,そして又,新たな私達の歴史となり,明日への
った。
エネルギーにむけられていくことを信じております。
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
この楽しい語らいがもてますのも,会長さまはじめ,各
役員のみなさまのお陰と,私達は心から感謝いたしており
なお,相川里美さんは2月4日旧),仙台東急ホテルで結婚
式を挙げられ,現在の住所は下の通りです。
ます。幹事のみなさま,そして,長い間色々廓世話下さい
ました相川さま,ありがとうございました。後任の新林さ
ま,これからも大変でしょうが,私達のためによろしくお
願いします。
青雲同窓会のみなさまの御健康を心からお祈り申しあげ
一一−
−−−−
柳沢 里美
2
(旧性
相川)
ます。
特技拝見
趣味拝見
芸が身を肋けたけれど…
の釈明を断念することにした。
によるカツオ1本釣り,鎌倉・湘南
ことなどももって,空手の方は,す
で江の島や富士山を仰ぎ潮風に吹か
っかり過去のものとなり,たまにO
れてアジ・サバに挑戦……。いまは
B会で後輩たちに大事にされてイイ
多くの仲開か増え,ときには釣り談
気になっている程度の縁しかなくな
議で戦場の空気もなごむ。 しかし,
朝倉敏夫(東高10回)
った。
なんといっても休日に垂れる糸は最
1975年の秋,政治郎記者として当
だが,例の「真相」の方だけは,
大の心の休養となる。
時宮沢喜一外相訪米に同行した際の
いつまでたっても,析にふれては現
私かもし函館で青っていなかった
ことだった。ニューヨークのホテル
在形で話題にされ続けてしまうので
なら,釣りのダイゴ昧は覚えなかっ
自室で,雲突くような大女二人組の
ある。
だろう。
強盗に襲われた。
つい最近も,科学部出身の大先輩
夏は漁火の海峡,冬は白銀に浮か
同行記者の中で最も小柄だったの
と,宇宙ロケット開発問題について
ぶ異国情緒のロマンにあふれた函館
が標的にされた理由らしいが,小生
話をしている最中に,突然,聞かれ
の姿は絵になり,多くの人々を魅了
は学生時代,空手をやったことかあ
た。
する。
り,駆け出し記者としての地方支局
「話は全然違うけど,ニューヨー
新春のテレビには,宝石をちりは
勤務期間も,暇をみては地元の道場
めたような夜景の市街が全国ネット
で稽古を続けていたりしたので,そ
クの事件の真相はどうだったんだい
?」
の頃はまだ体が勤いた。
まったく,話は全然違う…。
ない美しい街が郷愁を駆り立てる。
二人とも叩き伏せて,一人は逃げ
(読売新聞論説委員)
に乗りお茶の間に届く。季節を問わ
80年の青函連絡船の航跡は消え,
北洋の海へ勇躍船出した四百余隻の
られたけれども,残る一人は警察に
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
突き出した。
故郷の海と釣り
ここまでは,芸が身を肋けたよう
府金重一(東高6回)
な気はしている。
ところが,この事件は,昭和天皇
乗シナ海の紺碧の海原に,沖縄か
の歴史訪米の直前の時期で,しかも,
ら飛び立ったYS11が機影を映し,
間もなく天皇陛下がお泊まりになる
石垣島へと機首をとる。窓からは西
予定のホテルでのことだった。たち
表島もくっきり。
まち,天皇訪米取材の先遣隊として
石足高でチャーターした釣り舟に
米ていた社合邦記者のエジ午となり,
乗り込み,南国の灼熱の陽射しの海
出港風景もいまは遠いむかしとなっ
たが,そこで育った私の身体には故
郷の海から得た「ぬくもり」が永遠
に燃え統けている。(朝日新聞記者)
4/
j;eこT年。ょ楽レA,。・す;
/ゝ 青雲会コルフコンペ。
社会面のトップ記事として報じられ
に釣り糸を垂れる。
第3回関東地区青雲同窓会(昭和
てしまった。
私を釣りに誘い込んでくれたのは
62年5月18日)総会時,誰ともなく
記者が記事のネタになってしまう
故郷函館の海だ。
同窓生のゴルフ好きでゴルフをやろ
なんて,それ自体なんとなくサカサ
中学2年(的場)のころ悪童と連
うではないかと話しかおり,そこは
マだが,それよりも問題は,帰国し
れだって,学業もそこそこにし,校
狂のつくゴルフ好きのこと,さっそ
てみたら,女強盗に襲われるに至っ
舎の裏の砂山を駆け抜け大森海岸で
く第1回青雲会ゴルフコンペが始ま
た経緯について,「これが真相だ」
カレイ釣りに興じたときからとりこ
りました。以来,年2回青空の下で
という何種類もの「確定販」が,既
になった。休日には万代町の岸壁へ
中にはかなりの腕の方もおりますが,
に社内に出回っていることだった。
また有川桟橋へとよく足を伸ばした
大多数が参加することに意義を見出
困ったことに,小生がム牛になっ
ものだ。
し楽しい1日を送っています。また,
て,「イヤ,真相はこうなんだ]と
社会人になってからも九州の波荒い
最近は女性の参加者も増え,さらに
説明すればするほど,「真相」の数
玄海灘でタイ,また黒潮渦巻く中で
が増えていくという泥沼状態になる
男性美を誇る奇岩奇石,そしてキリ
色々な趣向でゴルフコンペを企画し
ていますので,時間に余裕の取れる
ので,ついに,ある時点から,一切
シタンの町でもある五島列島・福江
方はぜひ多数ご参加下さい。
した。本業で仕事が7本もバッテイ
ンダしていた期間の作業でした。
次号から編集にたずさわる皆さんが,
●いちばんうれしかったのは,ご依
どしどし企画を出しあって,会員諸
●やっと会報づくりから手が雛れま
頼した方々が,予定どおりのペース
兄諸姉が発行を楽しみにするような
す。集まった原稿の整理にもっとも
で原稿を寄せていただいたことでし
会報をつくってくれることを期待し
ウェイトがかかりました。文章リラ
た。それらたいへん興味ぶかく魅
ます。 (N)
イト,若い世代でも読めるよう漢字
力ある文章を……。そしてもうひと
加らひらがなへの書き加え,文章自
つ。編集の担当者それぞれが,原稿
<編集委員>
体の言いかえ,写真のキャプション
付け,そして書体,級数の指定,さ
依頼に,広告依頼に,写真の取り寄
府金 重一,葛西 真一(各6回生)
せにずばやい対応をしていただいた
中島 勇,辻 政良(各8回生)
らに,担当する白分自身の文章と,
こと。
朝倉 敏夫(10回生)
作業は続きます。整理した原稿をタ
●本会報は,これから続くだろう2
鈴木 雅子(12回生)
イブ屋さんに渡しだのが3月3日で
号,3号への,いわばタタ半白です。
厚谷延実(16回生) J
記
後
集
︱編
ご
島で朝もやを突いてのトローリング
その後,ギックリ腰に見舞われた
本誌の企画や構成,内容を見本に,
●●●●e●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
白
株式会社
横山
日研
夫︵束8︶
スナック・ラグーン
表 渡 辺
子︵東17︶
扁︵○三︶五六八七−六四五一㈹
企業内研修/講演
日比野朋子︵東7︶
オフィス ハイビノ
代表取締役
東京都目黒区上目黒二土二四丿一一
k︵○三︶七六〇−六〇四四
田村良人︵東17︶
株式会社 東洋興産
代表取締役
社 長
雪印乳業株式会社
和仁
皓 明
︵東1︶
東京都新宿区本塩町一三
包︵〇二︶ニ二六大ニ二六
勝︵東H︶
浩︵東10︶
東京都板橋区成増一丁一八−七
訟︵○三︶九七七−八六〇二
富沢
三郷市鷹町ご丁四三
珀︵○四八九︶八一−四〇六二㈹
﹁富沢﹂
専務取締役
割烹
代表取締役藤井英司︵東10︶
マルイチ藤井有限会社
ブローモールディング
函館市豊川町こーIT一
E︵○一三八︶二六1一八一
代表取締役 柳 沢
株式会社 魚長食品
博
士事
バッグ製造
代表取締役
株式会社 ミツワ
武︵東6︶
東京都文京区湯島三上二七︱三
R・Mビル3F
珀︵○三︶八三七−七六四七
幸
東京都豊島区長崎ニー三五I四
据︵○三︶五五四i七ご二ー
農理
学
やま内科胃腸科医院
明︵東10︶
東京都台東区千東四−二九−八
101︵○Ξ︶八七五圭一九六八㈹
保坂好昭︵東9︶
香辛調味料の
水牛食品株式会社
代表取締役
社 長
松
東京都千代田区神田和泉町一−一一
部フ
長 山
︵東6︶
東京都大田区池上八−ニ○−一五
包︵○三︶七五九︱九七七一㈹
三和シャッターエ業株式会社
車京都豊島区巣鴨一︱一一−一
碧︵○三︶九四四−九六四一㈹
匹西村正義︵東6︶
早稲田大学
授田辺洋二︵東1︶
業ル
盛
東京都新宿区西早稲田鶴巻町五一三
珀︵○三︶二〇三−七八二ーー六
川
代
事ゴ
函館串東山町ニー五−ニ○
M︵○一三八︶五一−一一八〇
府金重
東京都中央区築地五−三
E︵○三︶五四五iO百二㈹
新山春
仁︵東2︶
都地
英
足立区南花畑二上下一〇
M︵○三︶八五九−一〇四一㈹
八
東
朝日新聞社
足立信用金庫
花畑支店長
青雲同窓会
長 田 中
事東
業京
教
局社
函館串湯川町ニー八−八
珀︵○一三八︶五七−四五八八︵自宅︶
11
-
-
院
編東
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鯖
会
W
八
一
五Z
人材派遣/パーティ企画
高野勝
株式会社 ロータリー企画
代表取締役
芳︵東8︶
日本大学
授 武
官紀
調布串入間町三︱七1二八
雄︵市中3︶
木雅子︵東12︶
珀︵○三︶四八四−五八四四︵自宅︶
都立江東養護学校
頭 鈴
東京都衛生局
公衆衛生部長
医学博士田
中 明
岡清
︵東3︶
︵東4︾
車京都千代田区丸の内三−五−一
如︵○三︶ニTT五一 一 一㈹
員 島
東京都北区議会
有限会社
啓晴水産
西康
高橋市二郎商店
代表取締役
株式会社
高橋
実︵東6︶
函館市万代町一1五
珀︵OT一八︶四一1三九五三
専務取締役
東京都中央区築地七−T一−ハ
E︵○三︶五四一圭一七〇一㈹
雄︵市高2︶
東京都北区豊島五i五︱七丿一二二九
珀︵○三︶九一 一︱六八六五︵自宅︶
美
東京都中央区勝どきニーーハーー
黎明スカイレジテルー304
珀︵①ニ︶五三一−三七二七㈹
︵東9︶
陽 T東8︶
珀︵①二︶六一五−二二四一
東京都江東区東陽四i︸一
新都市企画
木下
議
菅原経営研究所
菅原正樹
総合建設業
株式会社
代表取締役
四
五
彦︵重12︶
横浜市港北区新横浜三−ニ○−ニ
E︵○四五︶四七ご∇○二三三㈹
新座片山診療所
長 近 江
新座市庁山ニー一一−一六
M︵○四八四︶八一−○二六〇
小
東京都新宿区百人町一−三−二九−ニ○五
M︵○三︶ニOOj五四六〇㈹
田修 T東1︶
北海道東北開発公庫
事 角
東京都千代田区大手町一−九︲
公庫ビル
E︵○三︶二七〇−ヱ八五五㈹
電算写植/ワープロ
有限会社 千恵ビジネスサポート
代表取締役 石塚千恵︵真寿美︶
︵東4︶
東京都新宿区北新宿四−一︱一七
寿コーポ308
E︵○三︶三六〇︱一五一五
株式会社
代表取締役
彩華
田 中
邦夫
︵東3︶
東京都中央区銀座七−一四i一五
杉山ビル
E︵○三︶五四五土入六七
奥村組工業株式会社
専務取締役 瀬戸山輝男︵東9︶
隆章
︵東7︶
東京都中央区日本橋箱崎町二七−八
奥村本社ビル
拓︵○三︶六六九丿七〇五一㈹
ダクト部品総合商社
近 正
有限会社 タカ商
代表取締役
充︵東10︶
川口市末広一1一〇−七
E︵○四八二︶二三−一二回㈹
角 庸
桜富士産業株式会社
代表取締役
珀︵○三︶六六八−二ー七八㈹
東京都中央区日本橋小網町一−四
厚相ビル
初
一
教
教
院
ぐ
理
-
一
一
前の失念に対するおわびを言上しようにも,もはやそのす
べはない。職員室での初めてで最後だった,先生とのたっ
特別寄稿
発刊に寄せて
倉 橋 俊 雄
た一回のあのふれあいを想い返すたびに,゛足ずり泣けば陽
関東青雲同窓会々報の刊行をお祝い申し上げます。
も白むなり″の想いが胸板をよじるのである。
昭和15年,弥生坂上の旧商船学校々舎を仮校舎として誕
思い出そうにも出世なかった先生の名−-一同期のだれに
生し,松並木を仰ぐ素晴らしい自然環境の3万坪の青雲台
きいても首をひねるばかりだった先生の名を言下に教えて
の新校舎へ移って,はや半世紀を迎えるまでになりました。
くれたのが,ワシントンから十年ぶり万国際交流基金の東
「とき肇国の源遅く」の市中校舎から「今蘇える曙の」
京本都にもどってきた渡道央允君(市中4回)である。持
の東高校歌へ。「栄ある学舎青雲の」第一応援歌,「旭日
つべきは包のおぼえのよい友の感に打たれたものだが,同
輝く蝦夷の地に」「北辰支う若人が」「南渡島の風うけて」
君はその後,パリ支所長をみごとにこなし,現在は,財団
法人国際フォーラムの理事におさまっている。
の第四応後歌と情熱と希望を胸一杯に歌った若い瞳たちの
姿が,今ふつふつとして,目の底に浮かんできます。
なおも作曲にまつわるエピソードを披露する。一期か二
開校以来,職に連なった私個人にとっても,ワッパ帽姿
期上だからといって先翠嵐を吹かしていたら,どえらい目
で愛宕山や船見附,弥生町と走り回ったこと。ラグビー都
に会うどえらい後輩というのがかならずいるものである。
選手と共に北海道代表として,金沢国体に出場し,名だた
広瀬量平呑(市中5回)がその人である。ここでは一応の
る強豪を退けて初の全国優勝をした時のあの感動。約40km
嵐を吹かせて君づけ万呼んでみるが,彼は京都市立芸人教
の大沼公園へ徒歩遠足した時の苦しかったこと等,すでに
授という肩書きもさることながら,武満 徹をおびやかす
遠い過去となった今もまだ一つ一つが皆懐しい想い出とな
位置にいる押し包押されもせぬ作曲家である。
って走馬燈のように次から次と蘇ってきます。
かれこれ十年にもなるであろうか。一夜,同期の久保雄
三君(竹中工務店常務(市中4回)),広瀬君,私の三人万
60年5月18日の薦渓会館で,関東地区青雲同窓会が誕生
函館にゆかりの深い数寄試植の゛ニュー・トー牛ョー″で
流と親睦が,より緊密に図られることになりました。
し,そして今回はその会報が刊行され,地区同窓会員の交
ジョッ牛を傾けたことがあった。
今後とも,青雲の火を燃えたたせ,母校と結ぶ絆の一つ
早稲田グリー・クラブ上がりの久保君が,けろ酔い気分
として,各界各層で大きく前進発展されることを心より願
に誘われて「武富の応長歌を唱おう」と『栄ある学舎……』
っています。
を口すさみはしめた。音痴である私は同調はさしひかえて,
倉橋先生のお住い
「久保は設計包うまいが,歌もうまいな」と彼の声に耳を
〒184東京都小金井市本町2-17-16-202
傾けていた。
TEL(0423)8卜0382
らかしたとたん,量平君がたなごころをよって制止した。
「ちがいますよ,久保さん。武富さんの歌のここは万すね
義﹂﹂﹂云
ところが『希望にもゆる若人が』のくだりを久保君がや
花の事務局スタッフ、ご紹介/
……」,言いも終らず目の前のペーパー・ナプ牛ンをつまみ
とると,ボールペン万引いた五線紙の上に,オタマジャク
シの数々をさらさらと散らしてみ世たの万ある。久保呑の
歌唱指導をするとともに,私か絶版にしてしまった譜面を
復刻してくれた披を以来,量平さんとさんづけ万坪ぶよう
になった。
応長歌募集に寄せられた作品が何点だったか,まったく
記憶にない。ただ,三等に輝いたのは同期入学で四年の時,
新林恵子(しんばやし・けいこ)
出身地:秋田県
生年月日:S44・12・10生
好きなスポーツ:バスケット
一言:10月の末から戸田中央総合病
院院長室に入りました。
七戸由美子(しちのへ・ゆみこ)
出身地:青森県
石垣福雄先生クラスで鉢合わ世し,友を結ぶようになった
生年月日:S44・12・25生
ヤクルト本社専務の宮田険呑(市中4回)であったことだ
趣味:音楽鑑賞・英会話
けは,鮮明におぼえている。五回,これが彼のポケットに
スポーツ:ソフトボール
人った賞金だったはずだ。なぜなら「なんて武富が三始圓
万,俺がたったの五回なんだ」と口をとんがらした彼の姿
一言:今年短大を卒業数しまして,
が,いまなお目にや古ついているからである。
ります。
戸田中央総合病院院長安で働いてお
ずうっと後のことだが「どう始末した?あの時の賞金」
ときいたら,いかにも披らしい答が返ってきた計俺がもら
役職名
氏 名
ったっけ? そうだったかなぁ」。
六十という年齢からより返れば,応後歌は若気のいたり
会 長
中村 隆俊(市中2回)
削会長
小西 康雄(東高2回) 三橋 秀夫(東高1回)
の産物万しかない。よくもまあ,臆面もなく……と身が縮
んでしまう。
顧 間
荒木 輝雄(東高2回) 厚谷 我見(東高3回)
朝倉 敏夫(東高10回)
和仁 浩明(東高I回) 小林 清苔(東高4回)
鈴木 相子(東高10回)
だが椎く拙い代物ながら,市中,市高,東高と三度も名
を変えなければならなかった母校の風雪を越え,いまなお
武富 紀雄(市中3回) 青木 良昭(市中5回)
相談役
井部 勉(市中1回) 桜庭 節義(市中1回)
中島喜一郎(市中2回) 久保 雄三(市中4回)
山名 昭二(市中2回)
第一応長歌として唱い継がれていることは事実である。
かくて耳にするたびに頬が染まり,冷や汗が流れるのだ
監査役
が,応長歌のはうが作者よりずうっと健気に生きているな
幹事長
葛西 真一(東高6回)
ぁという想いに遥さぶられて,じ−んとなるのである。
副幹事長
日比野朋子(東高7回) 辻 政良(東高8回)
(市中三回・日本大学教授)
会計幹事
新山 晋一(東高II回) 鈴木 稚子(東高12回)
渡辺 宏司(市高2回) 菅原 正樹(東高9回)
リ
第一応援歌の思い出 。
SI
左側を歩いていた弟が叫んだのである。「兄貴,見れや!」
頭のてっぺんが辺り出した,としか言いようのない声だっ
た。往古町をかすめている時だった。
生まれて初めて私に自力で゛マネー″を稼がせてくれた
のは,母校が募った応援歌の一等賞金である。額は三拾開
也,時は1946年二月十六日のことであった。
完膚なきまでに叩きのめされた戦争のつけであるインフ
レという化け物が,すでにのさばり出していた。それでも
三拾開は,十六歳になったばかりの私にとって,目眩く大
企てあったし,大金になるはずであった。
になるはずであったというのは,ならなかったというこ
とに他ならない。私にとってずしりと重くてしかるべき三
拾開を軽くしたのは,インフレ以上の絶対者として君臨し
ていだ日本占領連合国軍総司令官″ダグラス・マッカー
サー元帥である。
もともと応長歌の表彰は,私もその片割れである四年生
の修了式ないしは卒業式に:一一三月四日一一一に行われる予
定であった。それがにわかに,二月十六日にくり上げられ
ることになった。
マッカーサーがインフレ退治のために,いきなり二月十
弟がしゃくる顎につられた私の目に,『あんこ,あります。
一回五十銭』と大書した張り紙がとび込んできた。二人で
三回,これで三袷回の一割がいのちびろいした!
一も二もなく,「入るべ!」と言って,私は斜めにかしい
だ店のすべりのわるい戸をこじ開けた。
垢じみたよれよれの割烹着ともんぺ姿のお婆さんが「な
んてまた,こんなあんちゃんたちが?」といった式に剥い
だ目で二人を迎えた。
私が口を開くより早く,弟が言った汗あんこ下さい,二
つ/」
だが結果として,どす黒さが木目を消しているテーブル
にのっけられたのは,あんこう鍋だったのである。私と弟
が確信をもって期待していたのは,゛まがい″であろうと
゛もどき″であろうと,゛あんこ汁″,つまり゛しるこ〃だ
ったのにである。
食糧は底をついていたとはいえ,さすが函館ということ
で,゛あんこう″にはさして不自由のない日常だった。私と
七日を施行日としで金融緊急措置令″なるものを布告し
弟はあん然かつあ然と開けた口に,あんこうを押し込まざ
たからである。経済事典はこの措置を次のように解説する。
るをえなかった。そしてあんこうの昧ではなく,三拾円か
『新開(新日本銀行券)の発行とともに,従来の五回券以
上の旧聞の通用を停止し,凍結(強制預金)した』。
母校もあわてたにちがいないS大枚の懸賞金をはずんだ
のに,二月十七日以降に授与したのでは画にかいた餅にな
ってしまう……。
ということで当選者たち一--一応援歌ど市中健児の歌″
の一等から二等までが,表彰された−--一一の使途裁量権がぎ
りぎり留保される十六日に急速,日程がくり上げられたの
である。
どかんと目減りはしたものの,とにかく三拾円は楽譜と
もども,一九四六年二月十六日の朝令の席上,一千余の全
校生徒の見守る中で岡村威儀校長先生の手から,しかと私
の手に渡された。
授業が終わって校門を出ると,当時二年に在学していた
弟が待ちかまえていて「一緒に帰ろうや」と,体をすり寄
せてきた。これまで登校する時にも先駆けし,下校時に
「一緒に帰るか]と誘ってもいっさい乗ってこなかった弟
がである。
私にはてきの魂胆が手にとるように読めた。私が人を阪い
よせずにはおかない金の魔力を認識したのは,じつにこの
時である。
敗戦とともに愚かしい精神主義も姿を消し,市電に乗っ
ても罰をくうことはなかったが,私は弟と肩をならべて電
車道沿いに,函館公園裏のわが家をめざした。つぎはぎだ
らけのゴム長の下で,きゅっきゅっと雪が鳴った。
二人とも暗黙のうちに了解し合っていた。以心伝心であ
`詣。ひたすら足を勤かすことによって,なんらかの投資対
象を据りおこし,今日をかぎりに死んでしまう三袷円の生
命をわずかにでもくいとめようと思っていたのである。
千代が台を越え,大門(いまの松風町)を過ぎ,蓬(宝)
来町にさしかかっても,恩寵はいっこうにやってこなかっ
た。
走り去っていく市電を横目にしながら,「はんかくさか
った,歩くんではなかった」そんな悔恨が私の胸を焼いた
瞬間だった。
ら三回がむなしく消えたという現実の昧をひたすらに噛み
しめたのである。
ふたたび戸をがたぴしいわせながら店をおん出た二人は,
肩を落して家路への歩をひろった。弟は私よりさらに元気
を喪失していた。あんこではないあんこうを喰わされたあ
げくのはてに,雪に足をとられてぶっ転びでもしたら,元
も子もない-ちなみに弟の名は元雄である-といった
落ち込みざまであった。
「あんこう」と書いてしかるべきところを,お婆さんな
るがゆえの老檜さで,「う」をはしょったのか,お婆さんゆ
え老化現象で「う」を書き落してしまったのか,いまさら
真実はつきとめようもない。
あんこう事件を思い出しては,ときどき弟とげらげら笑
いあうのであるが,お婆さんをうらむ気持ちはさらにない,
『遥かなるものみな青し/洵の青/はた空の青』−-一三好
達治のこの三行詩はまさに絶唱である。
話を応援歌そのものに戻す。私の詞に曲をつけてくれた
のは高鳴厳先生である。「楽譜は,学校に出したのと君に
贈られた分と私の手許に残す三部あるんだが,君にはいち
ばん気を入れて書いたのをあげたのだよ」。これが表彰日の
昼休み,職員室に私を呼んで打ち明けてくれた先生の言葉
である。
楽譜用紙が底をついていたうえに,コピー機など影さえ
なかった当時にあって,三部も楽譜をつくるということは
なみたいていの苦労ではなかった筈である。
しかし,そのかけがえのない,まるで印刷機にかけたよ
うに端整な楽譜をまことにうかつながら,私は行方不明に
してしまったのである。
その年の四月,私が早稲田に進学したことと,それから
三年後に家をあげて東京に引っ越したというどさくさが貴
重な楽譜を消息不明にしてしまったのであるが,いずれに
しても弁解の余地はない。
高鳴先生に対して申し開きの立たないことがまだある。
先生の名前をいつのまにか忘却の淵に沈めてしまったこと
である。先生はすでに彼岸の人だと聞く。楽譜の紛失と名
中 村 隆 俊
本学非常勤講師
のことである。バスの窓から外の
岡山の山奥へ巡業に行ったとき
卵の頃からの話を教えた。
食べて鮭や鱒のフライが出れば産
るとその火山の話をした。駅弁を
汽車の窓から有名な火山が見え
くようにした。
形成や社会常識も努めて教えてい
ていたら自然に深まるだろう人間
したくなかったので、学校に通っ
一編の詰め込み主義の教え方には
科書や参考書をなぞっていく通り
った。一般の家庭教師のように教
所はいつも巡業先ということにな
が増えるに従って彼女に教える場
を主に教えたが、地方ロケや巡業
り返した。そうして一週間ほど続
し涙を流しながら何度も失敗を繰
滑れないのかと腹を立てて、くや
手に滑るのにどうして自分だけが
あきらめない。付き人の人達が上
連続だった。しかし彼女は決して
きりで教えたが、始めは尻もちの
ただけに、ひばりちゃんにつきっ
身の私はスケートはお手のものだっ
単に滑れるはずがない。北海道出
とのないひばりちゃんは、そう簡
かしスケート靴を一度も履いたこ
スケ∼トをすることになった。し
に天然リンクがあって付き人達と
ルに泊まったときのこと、ホテル
またある日、箱根の湯の花ホテ
抜いてその毛根などを観察させた。
当時東京医大のインターンであっ
弘前には﹁りんご園の少女﹂の
詳しく説明した。
会の家庭へ運ばれる流通経路まで
的な知識、かまどの話、それが都
し、そこから木炭についての化学
と言えば質問の答えになる。しか
﹁あれは炭を焼く煙ですよ﹂
教える側も張り合いがあったし、
ることのない負けず嫌いの彼女に
みてもわかるように途中で挫折す
た。スケ∼トのことを例にとって
の朗読など感心するばかりであっ
読解力や感情豊かに表現しながら
唱力に加え、国語を教える中でも
天才少女歌手と言われる程の歌
幼き日の
美空ひばりと私
景色を見たひばりちゃんは突然、
ここ一週間、NHK、日本テレ
た私は、幼くして芸能界入りし、
撮影のため同行し、近くにたまた
これほどの大スターを、感受性豊
ら教えた三年間であったように思
それがその後の美空ひばりにど
のような影響を与えたか定かでな
いが、家庭教師として過ごした一
日一日は忘れることのできない思
い出となった。
戦後の荒廃で焼け野原となった
日本に彗星のごとくあらわれた天
才少女ひばりは、日本人に希望と
勇気を与え、ついに五十二歳とい
う若さで天国へ飛び立っていった。
心からご冥福をお祈りします。
︵戸田中央総合病院長︶
中村隆俊会長プロフィール
北海道瀬棚町に生まれ,函館市中2回生。
北海道大学医学科卒業後,東京医科大学にて内科学・病理
学を専攻し,昭和37年戸田中央総合病院開設(ベット数
400床)。この間,厚生省医療審議委員,東京家政大学教授
・埼玉県医師今救急部今則今長,労働衛生コンサルタント,
・・・●●●●・11SI●111●●●SSI●●S111
保険支払基金審査委員,エフエム埼玉取締役,戸田中央看
護専門学校校長を経て現在に至る。
け箱根を去るときにはとうとうか
ピ、TBS、テレピ朝日、フジテ
学校へ満足に通えなかったひばり
ま知り合いの開業医がいたので、
かな大事な時期に預かって決して
フィリピンミンダナオ大学名誉教授,全日本病院協今代議
員会則議長,埼玉県医師会厚生年金基今代議員理事,社会
﹁あれはなに?﹂
レビの各テレビ局から追いかけら
ちゃんの家庭教師を兄弟三人で引
そこから顕微鏡を借りてきてのぞ
おろそかにできない。しっかり勉
なりの線までスケートをマスター
れる日が続いた。
き受けることになった。
かせた。木の葉の組織や、昆虫の
強を教えなければと肝に銘じなが
することができた。
話は三十年前にさかのぼるが、
はじめは新宿の神楽坂にある川
足、ひばりちゃん自身の髪の毛を
きの小屋の煙だった。
それはひばりが小学校六年生から
田旅館の一室で国語、数学、英語
と、問いかけてきた。見ると炭焼
中学校三年生までのことである。
g
この原稿は・東京家政大の後援会会 ? 。
芦;;r持!男蒔し
!g
報に掲載されたものです。 吟り
夢のマウンテンゴリラに逢えた/
黒鳥英俊(東高21回)
私は今,上野動物園で類人猿,つ
く相手にはしてくれません。糞をな
り,何日もかけ,やっと野生のマウ
まりゴリラ,オランウータン,チン
げるやら,水をかけるやら……。
ンテンゴリラに会うことができまし
パンジーというとても頭の良いサル
でも2∼3年たってやっとコミュニ
た。特にザィール・ウガンダ国境で
の係をしています。東烏では成績は
ケーションがとれるようになり,今
は,産時に立ち合うことができ,そ
あまりよくなかったのですが,生物
ではお互い信頼できるまでになりま
した。
のときの感動は何ともいえず,長年
だけが点がとれ,動物に目がいくよ
うになりました。私らは,理数科の
ゴリラというのは,かなりがんこ
の私の夢をはたすことができました。
今,動物園でオランウータンの子
クラスがはじめてできた一期生にあ
で,プライドがあります。おだてた
育てをしています。動物園では子育
たるわけですが,女性が3年間少な
り,しかったり,女性のようにコン
てのできない母親も結構いて,私た
かったのは,今でも残念な思い出で
トロールが大変です。でも,つきあ
す。大学院のあと職がなく,たまた
ま公務員試験で当園に配属が決まり
えばつきあうほどおもしろい動物で
す。昨年にかけて,世界のゴリラに
ちにまかせきりです。私にとっても
5頭目,2∼3年つきっきりで面倒
ました。
会うチャンスにめぐまれ,アメリカ,
をみるため,どの子もわが子のよう
です。上野まで寄られたら,ここに
今年ゴリラの係になって10年です。
ヨーロッパ,アフリカと3回に分け,
も東高卒の人がいると思い,動物園
相手は頭のいい連中ばかり,いつも
出かけました。欧米では,バルセロ
の方にも寄ってみてください。
油断はできません。昭和26年からい
ナの白いゴリラをはじめ,30の動物
今後の母校の発展を祈ります。
るチンパンジーを先頭に大先輩ばか
園へ,アフリカではナイロビからさ
り。新人が来て命令しても,まった
らに奥地,ルワンダ・ザィールに入
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
離れて知る函館の良さ
佐藤弘明(東高12回)
私が妻,次男,母の3人(長男は
という言葉の意味が初めてわかる夏
することもできる貴重な機会なので
2学期から合流)をひきつれて東京
の暑さ,目と足を敏捷にしてくれる
はないでしょうか。そうだとすれば,
へ赴任してきたのは,桜の上に舞っ
人込み,今まで「投げ」てきたゴミ
我々一家は,苦労しているのではな
た春の雪がまだ人々の記憶から消え
去っていない昭和63年4月12日こと
をなかなか「捨て」きれない函館弁
く,より人生を楽しむ機会を与えら
など,大小とりまぜて様々な環境の
変化にもまれながらも,今では全員
ません。
でした。
転勤がないはずの市役所なのに,
れた幸せな家族といわなければなり
が何食わぬ顔をして東京の生活を楽
しんでいます。
東京に来て函館が良く見えるよう
わが家は58年8月から1年7ケ月の
札幌暮らし(道庁派遣)を体験し,
札幌とはちがい,もっと大きな苦
港時代を迎えたかのように新しい血
今年は東京です。私自身は函館生ま
しみや困難を予測していた私にとっ
を導入し,内からも燃え上っていま
れといっても,小・中・大学時代は
て物足りないくらいのスムーズさで
すが,さらに大きく飛躍するために,
函館を離れて暮したという免疫かお
りましたが,函館に生まれ育った妻
東京に溶け込んだ妻や子供達に対し
離れているからこそ函館が良く見ら
て,大げさではありますが,素直に
れる皆さんから,今後とも貴重なご
や子供達にとっては本当に大変なこ
尊敬と感謝の念を表したいと思って
肋言・ご協力を賜りますよう心から
とであったろうと思います。
おります。
お願いいたします。
この,4月で東京生活も丸2年にな
考えてみると,慣れ親しんだ場所
(函館市東京事務所・副所長)
りますが,残しても心配,連れてき
を離れることは,新しい体験や発見
ても心配な息子達,「うだるような」
をすると同時に,自分自身を再発見
になりました。函館は今,第二の開
ミを埋め立て、その上に土を
監督就任当時、田んぼにゴ
サングラスをはずさない。
﹁ヤクザみたいで悪いな﹂
と、生徒にわぴてから授業を
と、涙が止まらなくなる。
店で一人S援した。川口工時
とはっぱをかけた子どもだっ
代には、﹁チームー下手だ﹂
トが上がらなかった。左目、
したのか、高めの速球にミッ
督の気配に一年生捕手は緊張
捕手の後ろから見ていた。監
五年前の八月、投球練習を
なくてもいい。ヽ大事な所をき
が命名した。見た目はだらし
会の﹁ひょうたん命﹂は大脇
ちは三百五十人を超す。OB
野球部を巣立った教え子た
﹁心﹂を追ってきた。それぞ
たちのさまざまな﹁生﹂と
に、高校野球に魅せられた男
ひとりの監督を舞台回し役
× ×
始めている。
タネは善実に根づき、広がり
た。大脇ひょうたんがまいた
た。現役時代の新聞の切り抜
ちんと締め□は小さく、謙虚
始める。
のは、作中人物を性格づける
直撃。大脇は、そのまま救急
文学書が並ぶ。三分の一は原
きを見せ、失敗談を話した。
川口工のバックネット裏
文学にどこか似ていた。やめ
れの﹁白球一直線﹂はひたむ
書だ。﹁本当は野球より文学
であれ、の意味が込められて
に、鉄骨二階建ての監督窟が’
車で恵墨帝京病院に運ばれ
たはずの野球に、再ぴのめり
五十二郎には甲子園出場を果
の方が好きでね﹂とひょうひ
きな軌跡を共有していた。埼
ある。野球部OBと父兄らの
いる。
たした。
た。
込んでいった。照れて﹁子ど
玉大会に参加する百六十二校
ょうと話す。
会員名簿に浦和市立毀誉・
寄付で四月、完成したばかり
入院は三遊間続いた。退院
もとの遊びが好きだから﹂と
天気のいい日は、教室でも
山Wいり″ぃいy
︰
z回
u︸ 57rlEjlQ:
昭和三十九年、川口︸一一に国
の選手、監督たち。スタンド
しか語らない。
中村三四︵晋︶の名もある。昨
語の教師として赴任。当初、
後も自宅療養を続け、学校に
だ。 二年後に定年を迎える大
一
脇和雄︵晋︶は﹁ここに入る
で、ブラウン管の向こうで応
夏の大会が近づくと妻を実
夏の甲子園、大脇は練習を抜
野球の監督になる気は全くな
の縁を切った。専攻は爾文。
盛ったグラウンドは、隋が降
目日おわり
︵文中敬称略︶
を形づくる。
重なって真夏、球形のドラマ
いくつもの白球一直線が折句
と同じ数の軌跡が描かれる。
とりを座標軸にすれば、人数
援ずるファン。そのひとりひ
復帰した時は、十月になって
と、もう少し続けようという
家に帰し、生徒を自宅に泊め
東京・神田で一束十円の古本
ると沼のようになった。練習
;尚
旅一一
け出しては、学校近くの喫茶
かった。
¥pー洞
良゛¨¨¨・¨一¨¨¨¨’’゛¨0
を買いあさった。作家にあこ
はスコップを手にグラウンド
蕊
いた。いまも強い光を浴びる
気になる﹂ともらす。監督に
なって二十四年が過ぎようと
している。
愉y
>7<
日
JS反
1 2
木曜日
1989年(平成元年)7月13日
限罰
少年時代、函館の実家に小
説家のおじが疎開してきた。
同居するうち読書好きにな
なる前、一
時ノンプロ
大学生に
シア文学に傾
ともある球
で投げたこ
り、函館東高
倒した。昼、
がれ、出版社主催の文学賞に
ならしから始まった。
浦和市立との練習試合。今夏、大脇監督(有)
は教え子の中村監督(左)を追う立場にある
=浦和市営球場で
時代からはロ
グラブをはめ
長に懇願さ
胆を知る校
れ、引き受
た手で、夜、
けた。
文学書をめく
った。野球を
応募、短編が入選したことも
毎日変化ずる子どもを見る
バ励︸
統けながら
かった。
も、野球以外の世界が知りた
ある。
早大文学部に入学、野球と
今も、浦和市内の自宅には
市高第2回生(昭和25年卒)
先輩
後輩
 ̄『。H
芦芦李,久
︱○
//////////ジ.
中。事件の摘発も相次いでいしぱらくは陽かず飛ばずで、
増強など体制強化の真っ最発で名を上げた公取委だ司
に、公取委は違反審査部門の 石油危機の阿にカルテル摘
法強化を求めたのをきっかけ間溌っていなかったんです﹂
場のひずみ﹂を指摘し、独蔡た。我々のやってきたことは
構造協議で米国が豆本石機構の大切さを歴史が証明し
にもうれしそうだ。 欧を見てごらんなさい。市場
願の学究生活に入るのがいかさらされ続けた。ぞも、東
が姶まっちゃうからね﹂。念言われ、緩和を求める圧力に
し訳ないけど、新学期の授業を弱めるために作られた﹂と
蒔代の独禁法を見続けたいー
原理。今度は外から、国際化
高い。﹁装居は世界に共通の
ほど、この分野での研究で名
を独占している﹂といわれる
北大法学部は﹁独禁法学者
に責任を持とうとしない﹂
規制を求め、自分の購買行動
の消費者は何かあると政府に
買わないこと。なのに、日本
不当に高い商品や欠陥商品を
﹁消費者の畿大の武器は
る。そんな久々の裾える公欧州のマスコミからぶみつ
妻と娘二人を恵京都町田市
な
取営を支える一方、実務にかない番犬﹂とやゆされたこ
が、北海道ではゴルフを楽し
の自宅に残しての献身赴任だ
務めた。本来、海外への技
年半にわたって岡原理艮を
昭和六十二年一月から二
の詞拾と、行政ニーズの多
業務、各局にまたがるもの
を抱えているが、同原間の
と、幅広い陸田を持ってい
罫入開明哺淵禁脚造改J
﹁土油対策、宅油供梢
に人った。専門
学︵土木︶を卒業、釦設石
昭和二十に年に北海泊大
でもある。
いだろう、﹁国際四回は国
には、mみがある。そのせ
たさなくては﹂と附う討菓
って考疋て、その胃務を果
術ぶ力やほ肋をt似な業務
然に旨い岡れる。
を流し、酒は﹁ほどほど﹂。
目縮日にはジョギングで汗
ゴルフはタンザニアで覚え
つかうようになった︵笑︶﹂。
どまらず、海外
たという本格派︵?︶だ。
経験している。
もあてはまる。
んがいる﹁﹁まだまだ年は
大学生、高校生、中学生と
﹁日本は国際
一転して﹁EC、豪にも建
とれない﹂と良きパパぶ吋
訪れた国は石O
汁合のなかで火
設アタッシェをほかなくて
きれいに並ぶ三人の子供さ
くことのできない国になっ
は﹂と0:叫の話に戻った。
力国にのばると
楯扁だが、図面にいろ肢m
協力にしろ、川甲山・抑にな
ている。ODAの顛額はむ
か。
それは国円にと
ど五十歳に。﹁体には気を
円問回でむある﹂とごく自
る。逆に言えぱやりかいb
十二月二十八日にちょう
は沿路双近畿
隊化に伴う什事が僧疋てい
ある﹂。このほか良野オリ
水門公団といろ
咄咄、門川頌詞
るプ問長を支える噂議官・
運の油威誦紬猿陥の詞桔役
ンピック、関西国際回政関
いろなポストを
にしていたところ刈いき
技術分野の川快投に
なり外国企栗のμ入間咄の
沢㈲に立だされた。その後
国際企画室ができ、谷入の
話が員休的なものになるに
つれて建設業浬が対応する
ようにはなった刈
﹁いい経験だった。国際
誄としては大変だが、琲け
て通ることのできないテー
設省のだかにあ
マだから≒建
は建設頌で不
調査官クラスでは唯一の技
って建設経済図
削函業に対する
.ごある.
1言づ言牡
百果構造協議の途巾で申 ﹁米軍の旧領政策で日ぶ経済
根差した独禁法研究で多数のとも。﹁刑事告発や民事訴訟
みにしている。
論文を著してきた。 など、あらゆる手段を最大限
﹁独蔡法は生まれが不幸だ活用してこなかったのは確
梨行政のばか、
(昭和33年卒)
回生
東高第8
︵林宣命誓︶
;171{サ茫aat£斉μ豺支雨μ丿査官に
(昭和28年卒)
東高第3回生
兄さん
谷
襄
や
厚
じょう
あつ
公取委事務局長から
北大教授に転身する
ったんですね]。財界からか。いま必要なのは習い革
四隣
いろいろなけ叫
づ
メディアに登場した同窓生をご紹介します
先輩
後輩
¬ご同輩
第6回青雲同窓会総会を前に
わるだろうという楽観の間にある今日この頃です。
第5回青雲同窓会総会終了時,当番幹事として紹介され
一応,日時と場所だけは早急に決め,事あるごとにPR
て早や7ケ月,年々歳々,先輩諸兄の努力の結果盛大にな
しようではないかと実行しています。今後,総会の内容運
る総会に圧倒され,当番幹事としての盛会の継続とさらに
営について仲間(特に頼りになる女性達)と2∼3回打ち
発展させるにばどうしたら良いのでしょうか″と悩み,
また使命を全うできるかという不安と同期の協力で無事終
合せを行ない,なんとか無事に次期当番幹事に引継ぎたい
と思います。 辻 政良(東高8回)
第5回関東青雲同窓会
ション作家・猪飼世紀君,皇居警察
ンパスに戻ってきた昨年の9月30日
総会をふりかえる
警務課長の佐山昭雄君,東京大学文
の夕方,我々第6回生は恒例の同期
早いもので,私たち7回生が幹事
学部教授の木村清孝君はインド哲学
を教えています。女子は,親離れに
,飯田橋会館へ向かった。
あと少しの子供の進学と,離れて暮
わが同期会は,昭和48年4月,菊
している両親の健康が気重と,男子
池君の発案で新宿駅ビルのレストラ
にも共通の悩みを抱えております。
ンに13名集まって聞かれたのが発端
そんな我々が,来年の平成3年に
となっており,以来,毎年開催され,
第7回関東地区青雲同窓会の当番幹
今回で17回目となる。
事として,会を切り盛りする役割を
幹事は毎回男女カップルで交替し,
担当させていただくことになってお
回を追うごとにその人脈で人の輪が
ります。が,さて,どんな企画及び
広がって,今では会員数総勢77名を
運営をやったらよいのやら? 場合
数える。 3年前の夏,函館で開催の
によっては,本年5月19日に向けて,
卒業30周年同期会には,結束して東
1年先輩の辻・高野両先輩が中心と
京から札幌を超える25名の参加をし
なって,昨年からいろいろと練りに
て気を吐き,また2年前の関東地区
練っておられる様子なので,そのま
青雲同窓会では葛西君を中心に皆で
まの踏襲も/
幹事を分担し,その成功が同期の絆
当番をしてから1年が過ぎようとし
ている。
楽しい思い出を数々残しながら,
8回生ヘバトンタッチである。
前回の総会で,私たちが幹事を引
継いだとき,幹事たちの順には’成
功させる″の一文字しかなかった。
M君をまず絶対の指揮者として選び,
ピラミッド型の団結の中で,運営を
どうするか,何度となく会合を重ね
た。
会がマンネリにならぬようアイデ
アを出し合った。諸先輩方の総会で
の言動を研究し,司会は男女ペアで,
カラオケはやめてプロの歌手を呼ぶ
ことにした。これは予算の制約もあ
り,交渉がたいへんだった。
司会は歌手だけ,受付は女性中心
に,閉会の辞も別の者が担当−とい
うように,全員が動いた。景品に函
館の珍味と当日の北海道新聞を用意
した。これは好評をいただいた。
7回生だけでも30名も集まった。
今までにはない集まり方だった。
会を終えて思うのは,集いの成功,
不成功は,何人集まったかではなく,
そこに参加した人たちが,それぞれ
にどんなふれあいを持ち,大切にし
ていくか,これではないか。その意
会へ出席するため,JRの駅近くの
この2月に,東京ドームで2つの
をいっそう強いものにした。
イベントが開催されました。ひとつ
同期会の歴史の中には悲しみの頁
は,世界ヘビー級ボクシングチャン
もあった。全学連で名前を馳せた唐
ピオン戦のタイソン対ダグラス戦で
牛君が初めて新宿での会に出席した
す。さすがにすごい迫力でした。
が,それからほどなく昭和58年3月
もうひとつは,長いことファンが待
癌で帰らぬ人となった。同期生も乙
ちに待った,少しオジンになったロ
数参列し死を犀んだ宝山寺での葬儀
ーリング・ストーンズのコンサート
が鮮やかに想い出される。
です。入場券を求めて徹夜をして列
今回の飯田橋での会は,赤尾君と
に並んだが,人手できなかったとい
沢田さんが幹事を引受け,1年ぶり
う話しです。人は,スリリングなノ
の再会を喜びあいながら,25名が集
ックアウトを期待し,また過ぎ去っ
た青春のメロディーを楽しむために,
珍客であり,中に1∼2名の新顔さ
高価な切符を求めて狂騒しました。
んがいる。懇談の後,一人ずつ恒例
まった。毎回7割が常連で,3割が
一口にイベントといっても,人集
の近況報告となった。
めはむづかしい。特に同窓会は,15
「上の娘が結婚することになった話]
∼18才まで学び,同じ学舎を巣立っ
「学生時代のバトミントンの腕が地
たとはいえ,それぞれの育った時代
域の人に役立ってる話」「趣味の詩
平成3年
青雲同窓会
に寄せて
背景や年令差の違いがあってことさ
らです。数年前の会の反省会の析に
吟で全国大会に出る話」などが続い
まずは,同窓会誌第1号の発行を
我々幹事団からもそんなセリフが聞
お祝い申し上げます。併せて,発行
けるように,努力をするつもりです。
味でも,今後の同窓会のますますの
発展を祈る次第である。
近正隆章(東高7回)
に至るまでにご尽力いただきました
委員の諸兄姉に敬意を表します。
私は,昭和34年,第9回の卒業で,
「50才の良い想い出ができました」
と語っていた先輩がおられました。
菅原正樹(東高9回)
○つ
●・W
た後,脳梗塞で倒れリハビリで奮闘
中の杉野君の様子が紹介された。色
紙に皆で『早く元気になって』と激
励の寄せ書きをした。三本/のあと,
恒例となった二次会のため,会場の
神楽坂のスナックヘ若やいだ雰囲気
をまといつつ揃って移動した。
この会を近況交換だけの場にせず,
関東地域では同期卒業の仲開か100
『一泊旅行やゴルフやお互いのノウ
名ほどおります。建設・自動車・金
ハウの交換もしては』という意見も
融・食品・情報・病院と,男子はい
ろいろな分野で活躍しております。
出色は火宅壮一貫候補のノンフィク
あり,わが同期会のますますの発展
同期会も盛んです/
夏季休暇を満喫した学生達が牛ヤ
を確信している。
(東高6回 市村義夫,保志正光記)
コ