『フォーラム』33 号(秋田大学教育推進センター,2014 年 10 月出版予定)に寄稿した草稿。 異文化の人々を理解する方法――文化相対主義という考え方 国際資源学部資源政策コース 田所聖志 大学に入るまで,ここ数年のきみたちは,慌ただしく,気楽には過ごせなかったかもし れない。両親と口論したり,成績に一喜一憂したり,先生や友だちとの関係に絶望したり, 自己嫌悪に陥ったり,言いようのない怒りや不安を感じてきたかもしれない。自分の回り の世界は,いや,この世界全体は混沌としていると思っているかもしれない。現代ではグ ローバル化が進み,世界はますます混沌としてゆく。 大学は,混沌としたこの世界を,きみが理解する方法を学べる場所である。世界の混沌 のひとつの理由は,個々の文化や人々の間に現実の捉え方の違いがあるからだ。ぶつかり あっても尊重しあえれば幸せだ。他者と分かりあえないややこしさが,私たちにはつきま とう。 ここでは,私の専門である人類学の立場から考えた,異文化の人々を理解する方法を, 教養の授業を装って書いてみたい。人類学とは,人類の普遍性と差異について科学的に整 理する学問である。 ◇ まず,世界の食文化を例に考えてみよう。 クモ ネコ 土 イナゴ これらは,世界のどこかで人類が今も食べているものである。きみにとって食べものに みえるだろうか。もし食べものにみえないとしたら,なぜだろうか。理由をあげてみよう。 クモは虫であり,虫は食べられない。ネコはペットである。土にはバイ菌がいる。イナ ゴは日本で食べられることを知っているが,しょせんは虫だ。もちろんイナゴを食べもの とみた人もいるはずだ。 1 どの考えもみな,素直な感覚だろう。クモは,パプアニューギニアでは,足を取って火 にあぶって食べられる。ネコは,中国南部では煮込んで調理され,強壮効果のある食べも のとされる。土は,珪藻土を煮込んだスープがフランス料理にある。イナゴは,日本では 甘辛く煮付けて食べられる。 何を食べものとみなし,何を食べものとみなさないかは,社会によって異なる。その慣 習と価値判断の基準は,あまりにも当たり前だから,私たちの身体に感覚として染みつい ている。だがそれは,私たちの生きる社会の中だけのものだ。別の社会に生きて異なる文 化をもつ人々のものは違う。そうした文化的な他者と接する時, 「文化には優劣がなく,他 者の慣習と価値観を尊重する」ことが大切な原則である。この点は,直感的に納得してく れるだろう。 ◇ では,この原則を踏まえ,次の例を読んでみよう。私が研究してきたパプアニューギニ アの人々から実際に聞いた話をもとにした。今度は,極端な例で少し刺激が強く,複雑だ。 問題 きみは,医師や看護師などの医療専門家,あるいは途上国の教育や村落開発に 詳しい政策専門家,または人類学を専門とする研究者である。今回,国際協力機関の 依頼を受け,パプアニューギニアのある地域における村落保健指導プロジェクトに参 加することになった。この地域では,異性の双子が生まれた場合,女の子の方を殺し てしまうという慣習が問題となっていた。プロジェクト責任者として,きみはこの問 題をどのように解決したらよいだろうか。 聞き取り調査を行った結果,異性の双子の女の子を殺してしまう慣習には,次のよ うな考えがあることが分かった。この地域では,子どもは男性の精液と女性の経血が 混じり合うことで生まれると考えられている。たくさんの精液があれば,双子が生ま れることもあるが,精液が同じ男性のものであれば,その双子は必ず同性であるはず である。ということは,双子が異性であるのは,母親の経血が 2 人の男性の精液と混 じったからであると人々は考える。異性の双子を産んだ母親は,人々に浮気をしたと いわれて罰を受けるのをおそれ,女の子を殺してしまうのだった。男の子ではなく女 の子を殺すのは,双子のうち男の子が父親の子ども,女の子が浮気相手の子どもだと 考えられているからである。 私は,授業では,参加者をいくつかのグループに分け,次の課題を出したい。 課題 双子のうち女の子を殺してしまう慣習について,(1)是認すべきか,(2)是 2 認すべきでないか,グループごとに結論を出しなさい。その結論に至った一番大きな 理由を述べなさい。 きみの考えは決まっただろうか。 「他者の慣習と価値観を尊重する」という原則どおりに 判断すると,この慣習は「是認すべき」である。だが,その結論は,女の子を殺してよい という殺人の是認になってしまう。逆に,女の子を救おうとし,原則を破って「是認すべ きでない」と結論づけると,母親が罰を受ける危険にさらされる。そこで,女の子と母親 を救うため,この慣習も考え方もそもそも悪習だからやめさせるという結論を出せば,や はり原則を破ることになる。 この例から分かることは,この原則は,必ずしも絶対的な定理ではないことだ。現代世 界では,人間の生存する権利,すなわち生存権が冒される危険のある場合,文化にしたが った判断よりも生存権が優先されてよいと判断されることが多い。今回は,是認せず,こ の慣習を改めるよう人々を教育するという判断が,穏当な結論となろう。 ◇ ここで,最初に戻って考えてみよう。異なる社会の人々と接する時, 「他者の慣習と価値 観を尊重する」という原則は,時々破ってよい,頭の片隅にあればよい程度のエチケット にすぎないのだろうか。人類学者としての私の考えは,それでもやはり,この原則は常に 意識されるべき原則であるというものだ。 この原則は,人類学では「文化相対主義」という主張として整理されている。文化相対 主義は, 「個々の文化は違っており,そのすべてが平等で相対的な価値をもつ」とする考え 方である。文化が違うということは,現実を捉える概念体系と価値判断の基準が異なるこ とであり,根本的に世界の見え方が違うということだ。だとしたら,そのような相手とな ど,そもそも対話など成り立たないだろう。実は,この考えには,絶対に理解不可能な他 者の存在が想定されている。だが,この「想定」は,次のように,他者理解の道筋に必要 なのである。 文化は違うと前提し,絶対に理解できない他者を想定することで,私たちは,自分の価 値基準が通用しない他者がありうることを自覚できる。その自覚は,異なる社会の人々と つきあって気づいた表面的な差異を,自分の概念や基準で測ってしまって「文化による違 いだ」と早合点することを回避させる。自分の概念や基準を相手に押しつけることも控え させる。それは同時に,自分が現実を捉える概念枠組みと価値基準を相対化することにつ ながる。そして,現実を理解する相手のやり方へと想像が展開する。これが他者理解の道 3 筋である。 この反面,文化が違うという文化相対主義の主張には, 「文化が違うのだから分からなく ても仕方ない」という他者理解の断念を正当化してしまう危険もある。文化相対主義は, 他者との共通の理解へ進む道にも,他者理解を断念する道にもつながる両面性をもつ。他 者との真の理解を切りひらく方法は,この点に注意しつつ,文化相対主義を,戦略として かなり意識的にとることなのである。 ちなみに人類学者の場合は,異文化の人々と分かりあえる世界を築く実践として,自分 の概念枠組みと価値基準を相対化して組み直し,相手の現実の捉え方と基準にそった首尾 一貫したものとしてその文化を描くエスノグラフィーを書くという仕事をする。 ◇ 国境を超えた人々の交流により,異文化との出会いはさらに増える。グローバル時代を 生き抜くのに必要な能力は,世界にあふれているさまざまな現実の捉え方や,多様な文化 が育んだ知恵を,自分の力として取り込む能力であると思う。そうした能力を習得しよう とする時,文化相対主義は参考になるだろう。 混沌としたこの世界にあふれるたくさんの分からない事柄に好奇心旺盛に向きあってほ しい。それはきっと,きみの知恵と想像の引き出しを豊かにさせるはずだ。 参照文献 浜本満 1997 「文化相対主義―異なる文化をもつ人々のあいだで相互理解は可能だろうか」 山下晋司・船曳建夫編『文化人類学キーワード』有斐閣,pp. 88-89。 栗田博之 1989 「民俗生殖理論と家族・親族」清水昭俊(編) 『家族の自然と文化』弘文 堂,pp.93-118。 『エコノミスト』2014 年 8 月 5 日号,特集「強い大学」。 4
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