Inspiring Minds: Carl Burtis インスピレーションを与えてくれる人:Carl

Inspiring Minds: Carl Burtis
Misia Landau
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インスピレーションを与えてくれる人:Carl Burtis
1950 年代初頭に、住むのに理想的な場所を探していた家族にとって、コロラド州モントローズに住むことが
できたのは幸運だっただろう。サンワン山脈の近くにたたずむモントローズは、風光明媚なだけではなく、安
全なところであった。 5,000 人の住む町全体の中で最も危険な場所は、地元の高校の理科の授業だったのかも
しれない。
「そこは、私が本当に化学を、特にナトリウム、カリウム及び爆破物が、大好きになった場所だ。」と、オー
クリッジ国立研究所(ORNL: Oak Ridge National Laboratory)の保健サービス課の職員である Carl Burtis 氏は話し
た。 Burtis 氏と彼の友人は、希塩酸と少しのチョークで満たされたコルク栓付試験管を並べて、直接それらを
先生に手渡した。 「先生は、それらが爆発し始めたとき、授業をしようとしました。コルクが頭の右とかす
め飛んでいったが、先生は何事もなかったように振る舞っていた。」と Burtis 氏は話した。
先生こそが、本当の化学者であり、Burtis が後に習った一年間代理を務めた社会科学の先生ではなく、Carl
Burtis がクラスでいたずらを先導していたと、モントローズの次世代の学生に話していたかもしれない。そし
ていたずら好きな少年が、どのように最も本格的で著名な臨床化学者の一人になっていったか振り返っただろ
う。また彼が、いくつかの主要な機器、特に遠心分離器の開発だけではなく、臨床化学における大きな問題点
の解決策を見つけた、彼の不思議な能力を誉め称えたことだろう。
「カールは、手に負えないような問題に直面したときに、論理的に解決する才能が本当にある。」と、ニュー
ヨーク州健康局の Wadsworth Center の臨床化学のディレクターである Robert Rej は語った。
Burtis は、この才能によって、彼の分野の主な組織や機関の出世の階段を上っただろう。彼は、専門分野では
大物になり、骨格的にも 6 フィート 5 インチ(約 2 メートル)の身長になった。「みんな、カールを仰ぎ見な
くてはならない。(尊敬する、と背が高いので見上げる、の二つをかけている) "とユタ大学の病理学の Ed
Ashwood 教授は語っている。
しかし、モントローズの学生にとっては、この分野で最も広く使われている教科書のシニアエディターである
Bruin が、教室という場所からどのようにして偉大なキャリアを積み上げていったかを知るにつれて、思わぬ
展開に気づくかもしれない。
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誰よりも Burtis 自身が、自分の物語について驚きを隠せないだろう。彼のこれまでの人生について聞くという
ことは、あちこちに飛んでいったコルクを思い出すことである。「私のキャリアは、ちょっと複雑と言わなけ
ればならないだろう。」と彼は言った。彼の父親は、息子に家族経営の食肉事業をついでしてほしいと考えて
いた。子供の時は、Burtis と弟の Dick は工場内で作業して、父親の販売ルートに連れ添っていた。 「私と弟
は、食料品店、スーパーマーケット、レストラン、カフェに、いつも出入りしていた。」と彼は言った。
皮肉なことに、Burtis が化学に夢中になるきっかけを与えたのは彼の父親だった。 1937 年 7 月 3 日に生まれ、
Burtis は 7 月 4 日(アメリカ独立記念日で祝日)を自分の休日のように思っていた。その日が近づくにつれ、
彼の父親はサンダーボルト、スカイロケット、ローマンキャンドル、チェリー爆弾などの爆発装置をいろいろ
注文した。 「私は、間違いなく花火の虜になっていた。それらの作り方について、ブリタニカ百科事典を読
んだことが、私に化学の興味を持たせてくれたのだ。」と彼は言った。
その時が来たのは大学に入ったときであった。Burtis は化学を勉強したかったが、父親の期待によって引き裂
かれ、彼は動物栄養学を専攻した。まさにその場所、コロラド州立大学で、彼は彼が生涯続けることになった
“ダンス”を始めることになる。すなわち、一流の化学の世界から、現実社会でのアプリケーションの本質部
分まで足を踏み込んだということである。
彼の妻 Marvel に出会ったのは、本当にダンスをしているとき、男女混合のダンスパーティのときだった。 "私
はちょっと中に入っていたら、彼女に会った。まあそんなところだ。"と彼は言った。彼らは 1959 年に結婚し、
翌年に生まれた長女 Laura をはじめ 3 人の娘に恵まれた。Burtis は、大学を卒業したら、メディカルスクール
に行くこともぼんやり考えていたが、新しく成長している家族と一緒に、父親の事業で働くためにモントロー
ズに戻った。最初は工場で働いて、配達もした。それは本来社交的ではない若者にとって、いささか背伸びし
たことだった。 "もともと私はセールスマンにはなりたくなかったが、それはおそらく今まで私の中に起こっ
た最高のことだった。私は人間についてたくさんの事を学んだ。"と、 Burtis は言った。
3 年後、家業が失敗し、Burtis は数年前に集めた大学院のパンフレットを覗き始めた。なかでも、パデュー大
学が際立っていた。そして 1 年後、彼はインディアナ州ウェストラファイエットで生化学を勉強することにな
った。お金を稼ぐために、飼料や肥料サンプルを分析するインディアナ州化学実験室で働き始めた。その仕事
により、トランスファーRNA を大量に精製する学際的なプロジェクトに取り組む、オークリッジ国立研究所分
析化学部門からの誘いにつながった。これが、オークリッジ国立研究所との生涯にわたる関係の始まりであっ
た。カリフォルニア州の会社で 1 年間、アトランタの疾病管理センターで 4 年間働いてから、Burtis はテネシ
ーを拠点にした機関に在籍している。
在職中の初期の段階で、Burtis は Chuck Scott と Norman Anderson と協力し、高速液体クロマトグラフ、遠心分
離器を開発して、名声を築いていった。これらの指導者たちとの付き合いは、個人的な信念につながっていっ
た。「いい人々や、いいことの中に身をおけば、必ずそうなっていく。」彼は 100 報以上の科学論文を書いた
が、Burtis はかつて内気だった自分自身が、ますます社会や行政の最前列に引き込まれていくのがわかった。
1989 年に、彼は米国臨床化学会の会長に選ばれた。翌年、彼は国際臨床化学学会の会頭として、過去最大の
18,000 人以上の化学者を集めた。
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1990 年代初頭、Burtis は Tietz Textbook of Clinical Chemistry と Tietz Fundamentals of Clinical Chemistry という臨床
化学の双子のバイブルといわれていた著名な本の編集を、Ashwood とともに Norbert Tiets から引き継いだ。
「私は一体、何に足を踏み入れようとしているのかわかっていなかった。」と Burtis は言った。彼の大局的に
見ることのできるスキルや人間関係のセンスの良さを生かし、この仕事は彼に完璧にフィットすることが判明
した。 「私たちがしなければならないことで最も大変なのは、内容のリストを作成することだ。それから、
誰に何を書いてもらうかを決めなければならない。」 と Burtis は言った。彼の貢献はそれだけではない。
「彼はまとまりの悪い章を取り上げ、魔法をかけることができるのだ。説得力があり、かつ簡潔に、それを再
編成していくやり方は素晴らしい。それは見事というより他ない。」と Ashwood は言った。
最も注目すべきだろうことは、その間もずっと、結びつきの強い家族との時間をどのようにして持っていたか
ということである。最近まで ORNL の環境科学部門で働いていた妻 Marvel、娘 Linda と Lisa(最初の娘 Laura
は故人)が、彼の周りにはいた。おそらく彼の人生の中で最も予期しない出来事は、Burtis と Marvel の孫娘
Lindsey が 2000 年に誕生したことだろう。「しばしばリンジーを育てれば、若さを保てると言う人もいるが、
私は違うと思う。彼女が私たちの中心であり続けているのだ。」そして彼はこう付け加えた。「彼女は天から
の賜物である。」
彼の家族やプロフェッショナル人生の中で、彼は家族から素晴らしいユーモアセンスを与えられた。 「私の
母は素晴らしいユーモアのセンスのある、大きなアイリッシュカトリックの家庭に生まれた。彼女はどのよう
に自分自身と世間を、笑って生きるかを教えてくれた。」と彼は言った。ずっと遡って彼の高校の化学の教室
での出来事で明らかなように、Burtis はジョークが大好きだったので、いまだに小さな噴火が起きる。
「おそらく週に一度は、彼は私に面白いと思ったことをメールしてくる。時々彼は、私だけに送ってくること
もあるので、私のユーモアセンスは彼と同じくらいすごい、と思われているのかもしれない。」とバージニア
大学の病理学教授である David Bruns は語る。 「ある時、彼が送ってきたものを見て、私はキーボードに唾が
かかるくらい抱腹絶倒したものさ。」
謝辞
Sponsored by the AACC History Division and the Department of Laboratory Medicine, Children’s Hospital Boston
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