愛の蟻 畠山 拓 「愛の蟻、と言う詩です。 『私の小さな体よりも、この激しい思いを見てください。 山の向こうに愛するお方がいます。 何があろうとも、私は山を切り崩さなければなりません。 もしも、お会いしたいという心のうちに私が命を落としたら、 王様よ、か弱い蟻から愛の力をお学びください』 愛シリーズの作品に入れたいと思いました」 私はメールを送信した。メール画面に紙飛行機が飛んだ。どんな技術者がこ の映像を思いついたものか。Eメールが飛んだ。麻子に。 麻子に送った詩は誰のものか分からない。引用するなら作者名、名前を記す 事が必要だろうか。 私は何故、麻子を愛しているのだろう。二十歳も若い女だからか。稀に見る 美人だからか。性格がきつく、じゃじゃ馬だからか。そうではない。愛してい るのは「俗悪」だからだ。私は気取っているのでもなく、嘘を言っているので もない。私は俗悪が好きだ。 八年間付き合っている。最初の二年間は夢中だった。次ぎの二年は麻子の離 婚裁判で過ごした。次ぎの二年は麻子の自活のために過ごした。次ぎの二年は 麻子と子供達との生活のために過ぎた。 私は定年退職して、無能な老人になっていた。 離れて私は那須に暮らしている。職の無い、老人が大都会の喧騒に暮らす理 由は無い。楢林の中で無為に暮らしている。 県内の観光地や名所旧跡を歩き回る。 松尾芭蕉の奥の細道行脚で立ち寄った、栃木県の黒羽に紫陽花の名所がある。 黒羽の城跡は記念館になっている。樹林の坂の遊歩道は真昼でもひっそりと暗 い。紫陽花が一面に青く燃えている。 「紫陽花祭り」と、記した旗が各所にある。イベント会場から音楽が流れてく る。演奏会が催されているらしい。 鮎や地元の野菜、名産品がテント作りの店に並び、祭りの会場になっている。 テントのステージが設営されている。ジャズバンドが演奏している。 「友と語らん・・・鈴駆けの道」曲名は知らないが、懐かしい曲。記憶が突然 蘇ってきた。 二十歳を少し過ぎた私は東京の下町のアパートにいた。無職に近い生活だっ た。仲間を募って「同人雑誌」を主宰していた。作家志望の青白い青年だった。 少し年上の女と知り合った。詩を書いている。私は小説を書くことを勧めた。 女は「狂気への道」と、いう小説を私が主宰する「えぬ・あーる」という同人 雑誌に発表しだした。一回七十枚ぐらいで、作品は連載で三回まで発表された。 小説は女の経験を綴った私小説風なものである。 私生児の「私」は満州国の高官だった男が芸者に産ませた子供で、幼い頃か ら、里親の元をてんてんと預けられて育った。奔放な生活をしていたが、同時 に早稲田大学の学生でもあった女は二十歳のとき、気まぐれのように、父親に 認知を要求する。久しぶりに現われた父は、実の娘を抱く。それだけ女は魅力 的でもあり、父親は放蕩者でもあった。 女は何人か愛人がいて、彼等の誰にも縛られずに、誠実を尽くすため、くた くたに疲れきっていた。小説では結婚していた、と書かれている作曲家の男が いて、私と知り合った頃は、男と下町のアパートにいた。 私は、恋人とわかれて、辛い時期だったので、女と直ぐに関係が出来た。愛 とは思わなかったが、互いの小説は認めていた。小説の中では不感症のように 描かれていたが、私は違った印象をもった。女は三十歳に近くなっていた。 小説には弁護士のR、と作曲家の G と、父親が出てくる場面だ。 「外に出ると私は直ぐにGに手を差し伸べた。Gは微笑んでとった。私達は父 とRを置き去りにして先を歩いた。 『行っておいで。待っているよ』と彼は言った。 『僕達って悲しい夫婦だね』 『うん』私は胸が一杯になった。Gを置いてゆきたくなかった。南の海辺で私 はきっと悲しがるだろう。そしてGは冬の東京である日ひっそりと死んでしま うかも知れない。 <友と語らん鈴駆けの道 通いなれたる学びの舎> 彼は歌い始めた。私も歌った。だが、彼が次ぎの節を歌い始めると、私はこ の切ないような共犯から、もう、外れたがっている自分を感じた。そして何時 までも陶酔を持続しているGを羨ましく思った。のみならず、感謝や尊敬を失 わないために、Gが歌を中止してくれる事を望んだ。」 曲名は「鈴駆けの道」なのだろうか。四十年以前の小説の一説が思い出され る。那須、黒羽、陽射しの強い広場。私はしばらく呆然とした。あのころの事 が細部まで蘇ってきそうだけれど、実は曖昧である。女とどのように別れたの か、小説がどのように終わったのか、分からない。女の気まぐれか、私の気ま ぐれか。遠い昔の事だと、片付ける積りは無い。女の白い顔が浮かぶ。紫陽花 のように白い顔だったかと、思う。比喩の間違いだ。奇妙だ。 「太郎が彼女を変えた。年上。落ち着いたいい女。貴方も何時までも那須に引 っ込んでいると、捨てられるよ」と、麻子からのメール。 「大丈夫。愛の蟻さ」 那須で何をしていると言うのでもない。今年は例年に無く暑い夏だ。体調が 思わしくない。小説も全く書けない。テレビも面白くない。好きな映画もあま り観ようとは思わない。 小さな書庫に潜り込んで、裸電球の元に蹲っている。自分が小さくなってし まった。身体が縮んでいく。仕舞には蟻の大きさになってしまう。 「男の歌」 〔昭和詩の万葉人〕芸風書院が発刊した。詩集が目に付いた。アンソ ロジーの詩集だ。週刊誌で募集していたものだ。私の作品も一編載っている。 手にとってみる。あの頃はどんな気持で詩を書いていたものか。昭和か。今 は、平成二十三年だ。 < 夏の女 戸を開けると夏の夜風のように立っている 女の胸に水が光る 蛍も死に絶えた 暗闇を 女は体の中を流れる水を頼りに歩いてきた 夜の匂いのする 女の唇は 露草のように 発熱している 縁側で足の爪を切っていると体の中で何かが叫ぶの 庭先の苔に散る爪 夏の虫のようにこぼれる爪 青い水の中で 女は夏を嘔吐する 花のような酢のような匂い 水の匂い 光の匂い 苔の匂い 女の足の匂い 蛹がつるりと割けて成虫になるように 女は見も知らぬ虫になる その目を覗き込むと 納戸の黴の匂いがする > 辛い恋をしていたのか。辛くない恋などあるものか。 夏の女、と題した詩は誰がモデルだったろう。恋を多く経験したと言う意味 ではない。モデルは居ず、抽象的な概念だったろうか。 若い女が、中年男に興味を持つ事がある。少女に父がいなかったとか、情緒 不安定だったとか言う事ではない。大人の男の不幸な暗さに、ふと引きずり込 まれる事がある。 構える必要は無い。単なる好奇心が向いただけだ。 四十歳で二十歳の女と再婚した詩人が居た。詩人は既に七十五歳になってい た。 「中年の男が魅力的に思えるものだよ」 「何処が、ですか」 「性行為だよ」 ああ、そうですかと、若かった私は老詩人の言葉に頷く振りをした。 「今では役立たずチンポコを風呂上りに拭いて、罵るのじゃ」 ハハハハ、と詩人と私は笑い転げたものだ。 確かに色々な思い出はある。 「会いたいから電話したの・・・迷惑だったらいいです」 「こちらから・・・連絡もとりようが無い」 少女と呼ぶに相応しいような女は言った。 「あの詩は・・・私の事ですか」 そうだよ、と答えると、みるみる涙がこぼれる。詩集「夏の女」のモデルだ ったのだろうか。 麻子との間に、また同じような、記憶は作りたくない。人は同じような事を 繰り返すものでもある。 散歩を繰り返している。楽しみと言うより、家に篭っていると、虫になって しまう。虫は動く。蟻などは始終働いている気がする。 散歩に出かけるが、日によって時間は違う。家はなだらかな、坂道の途中に ある。右に行けば、上り坂、左に行けば下り坂である。元気な時は右だが、帰 りは楽だし、左に行けば帰りは昇りだ。同じ道を歩かないと決めても、何処か でのぼり、何処かで下る。緩やかな円周をたどる事になる。三十分で帰り着け る道から、二三時間掛かる大きな円周の道も選んである。 樹木の茂る林、稲田が広がる農道、観光施設が点在する県道、草の生い茂る 別荘地の細道、風景は変化に富んでいる。 散歩に出る。左側の道を選ぶ。坂道を降りると、平地に出る。直ぐに舗装の 無い道をのぼる。石ころだらけの道は、夏草に覆われて狭くなる。ゆっくりと 昇っているが、次第に体が熱くなる。 雨が降ると道の土は流れ、大きな石が露になる。歩きにくい道を進む。 石の上を動く帯があった。小型の蟻が道を横切って行進している。蟻の群れ は絶え間なく、流れている。獲物と巣の間を往復しているのだろう。一匹一匹 は芥子粒のようなものだが、群れになると、不思議に躍動を感じる。 私はしばらく、黒い帯を眺めていた。子供の時は熱心に踏み潰したものだ。 夏の那須は突然の雨がある。山岳の天候なのだ。 雨が落ちてきた。私は目についた無人の別荘の軒下に逃れた。にわか雨なの で、直に上がるだろう。雷が鳴った。 無人の、と思ったけれど、人が居るかも知れない。広い軒先なので、濡れず にすむが、足元は駄目だ。窓があいて、誰かが顔を出したら、どうしよう。雨 の音に身を竦めていた。冷たい空気が群れ騒ぐ。 しばらくすると、雨は止んだ。日が差してくる。美しい風景の幕開けだ。ど うした弾みか、先ほどの蟻の群れを思い出した。蟻達は天候の急変を敏感に察 知して、雨より早く、安全地帯に逃れたろう。 私は道を少し戻った。石は濡れており、蟻は見当たらない。幾筋かの水が細 く流れていた。黒く濡れた石をしげしげと覗き込む。蟻は見当たらない。死骸 も無い。溺れずに逃れたのだ。 私は散歩を続けた。青空を仰いだ。山の緑が鮮やかである。 虹が出た。 中国の神話や伝説の中には、虹には雄と雌があると言う。雄の虹は大きく鮮 やかで、雌はやや小さくて色も薄い。多くの鳥や獣の特徴でもある。 虹が生き物であると言う考えは面白いと思った。虹は生きていて、川の水を 飲みに長い体を曲げて首を水に差し出している、とも言うのだ。いかにもそう だ。虹の鮮やかさと、説の新鮮さに驚いた。 雨上がりの虹は麻子の姿かもしれない。
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