ブロニスワフ・ピウスツキ日本暦 - 北海道大学スラブ・ユーラシア研究

ブロニスワフ・ピウスツキ日本暦
沢田
凡
#
和彦
例
1. ブロニスワフ・ピウスツキが日本列島を訪れたのは、現在判明している限りで 1902 年 8−9
月の間の 3 週間、1903 年 7−10 月の 3 カ月間、1905 年 10−11 月の 1 月半、そして 1906 年 1 月
初め(または 1905 年 12 月末)− 8 月 3 日の 7 カ月間、の都合 4 回である。
2. 暦は新暦で統一した。丸括弧内は旧暦で、その項目の内容が元来旧暦で記録されていること
を示す。
3. 各項目の最後に、その典拠となる文献の著者名と頁数(同一人物の著作が複数ある場合は発
行年も)のみを「かぎ括弧」内に示した。ピウスツキのマニュスクリプト(Rękopis)類は、ポー
ランド科学アカデミー図書館が付した整理番号(Sygnatura/ Sygn.)とページ数(stranica/ s.)
を示した。
4. 末尾に利用した文献のリストを掲げた。まずピウスツキの著作と彼に関する文献に分け、次
いで言語別に分けた。
「ピウスツキの著作」は発表年順、
「ピウスツキに関する文献」はアルファ
ベット順に配列し、同一人物の著作が複数ある場合は発表年順に並べた。
5. 日本人の人名は姓、名の順とした。外国人の名前と外国語の図書・雑誌・文献名は、初出時に
括弧内に原文を示した。また編者による注は「かぎ括弧」内に示した。
6. 文献によって食い違う情報を併記したケースが 2 個所(1904 年 7 月と 8−11 月、及び 1905
年 11(月末)と 12 月 17 日)ある。それぞれいずれをとるべきか、現時点では不明だからであ
る。
7. ピウスツキの日本滞在に間接的に関わる出来事も採録した。
8. なおピウスツキの全生涯のうちサハリン時代については、イルクーツク大学の B.S.ショスタ
コーヴィチがピウスツキの 1891−1892 年の「サハリン日記」
("Сахалинский дневник", Известия
Института наследия Бронислава Пилсудского, № 1, 1998)を紹介しており、またヨーロッパに戻
ってから亡くなるまでの足取りは、ピウスツキの妹の孫にあたる W.コヴァルスキ(Kowalski)
が「ブロニスワフ・ピウスツキの遍歴−日本出国から自殺まで」(井上紘一訳、
『ポロニカ』4、
1994 年。原文は "Европейский календарь (Бронислав Гинет-Пилсудский в Европе 1906-1918)", В
кн.: Б.О. Пилсудский − исследователь народов Сахалина, Т. 1, Южно-Сахалинск, 1992)の中でた
どっている。
#
改訂版。初版はURL: http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/inoue/calendarium/top.htm にて公開中。
145
【1866 年】
11 月
2(10/21)
ロシア領リトワのズーウフに誕生
【1902 年】
8月
19(6)
真岡(現ホルムスク)出港[Маевич, 225]
コルサコフに戻る最後の手段として、函館へ向かう漁船に便乗して来函。ここで 3 週間コルサコフへの便
船を待つ[Пилсудский, 1907, 23-24; 荻原訳、222; Маевич, 225; Латышев, 17; 井上、2003、12]
9月
12(8/30)
コルサコフへ戻る[Маевич, 225; 井上、2003、15]
【1903 年】
(4 月頃)
ポーランドの民族学者で作家セロシェフスキ(Wacław Sieroszewski)、長崎に到着[吉上、84]
(6 月中旬)
セロシェフスキ、函館に到着し、
「キト旅館」に投宿[吉上、84; 井上、2003、18]
7月
20(7/7)
ロシア帝室地理協会の依頼によりセロシェフスキとともに北海道アイヌの調査を行うために、千徳太郎治
(樺太アイヌと日本人の混血児)を連れて北海道へ出発。当初の出発予定は 7 月 3 日(6 月 20 日)
[Пилсудский,
1907, 10; 荻原訳、226; Маевич, 226; 井上、2003、13, 21]
(中旬)
函館でセロシェフスキと対面する[吉上、82、85−86]
23
東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)でグルックの歌劇「オルフォイス」初演、R. ケーベル(Raphael
von Koeber)伴奏、柴田環(たまき、後の藤井環)ら出演[『近代日本総合年表 第三版』、175;下川、305]
146
函館で立ち往生していた北海道胆振(いぶり)管内白老(しらおい)町のアイヌ人野村シパンラムらと知
り合う[吉上、86; 井上、2003、22]
28
函館船渠、1 万トン用のドックを竣工し仮開業式を挙行[北海道、350]
30(17)
函館から L. Ja.シュテルンベルグ(Лев Яковлевич Штернберг) に書簡を送る[Пилсудский, 1996, 206−209]
8月
4
函館からシュテルンベルグに書簡を書く[Пилсудский, 2000, 64]
5
函館から「アジア研究協会」にアイヌ民話 11 編とシュテルンベルグ宛の書簡を発送。セロシェフスキ、千
徳太郎治とともに「肥後丸」で海路室蘭に到着。室蘭からは鉄路白老へ向かう[井上、2003、23, Пилсудский,
1998, 21; 「室蘭船客」]
12
白老の野村シパンラム宅を訪問した飯島桂、
「生田文学士」と会う[飯島、1903、17; 1904、36−38; Утида,
72−73]
12(7/30)
ロシア、旅順に極東総督府を設置し、アレクセーエフ(Е.И. Алексеев) を総督に任命[
『近代日本総合年表
第三版』、175]
9月
15
平取から札幌に来て、
「豊平(ほうへい)館」に投宿。北海道庁に出頭して農園、博物館の見学を願い出る
[「波蘭人の土人研究」
]
バチェラー(John Batchelor)宅に2,3日宿泊[バチラー、289]
この頃
(中旬)
セロシェフスキ、青森から汽車で東京、大阪、神戸をへて長崎へ向かう[吉上、87]
この月
函館開港 50 年祭を執行[北海道、351]
この月
孫文、東京青山に秘密軍事学校を設立[下川、305]
147
10 月
7(9/24)
コルサコフスクに着く[Пилсудский, 1907, 10; 荻原訳、226; 吉上、88; Маевич, 226]
12 月
(初旬)
セロシェフスキ、長崎から朝鮮半島に渡る[吉上、87−88]
この年
長男木村助蔵誕生[和田、上、311]
【1904 年】
2月
10
日露戦争勃発
この月
セロシェフスキ、ワルシャワへ戻る[吉上、88]
7月
8
ユゼフ・ピウスツキ(Józef Piłsudski)、日本に来着[木村毅、173]
9
ユゼフ、林菫ロンドン公使の紹介状をもって外務省を訪ね、川上俊彦(としつね)に覚え書きを手交する
[木村毅、206]
13
ユゼフ、東京の下町でドモフスキ(Roman Dmowski)と出会い、翌朝彼の宿を訪ねて、延々9 時間にわた
り議論をする[木村毅、206]
8−11 月の間
ユゼフ、3 週間日本に滞在[安井、32]
【1905 年】
5月
30
148
ラッセル(Николай Константинович Судзиловский= Руссель)、ハワイから横浜に来着[桧山、1989、80−
81]
6月
(初旬)
日本人によるサハリン占拠の 1 月前に大陸へ脱出[Тригони, 52]
ロシアが敗れる約 2 カ月前に、一日本人の義侠により発動機船に乗ってサハリンを脱出して一旦函館に渡
り、その後帰国の途につく[服部、154]
7月
5
ラッセル、神戸に来る[桧山、1989、81−82]
8
神戸でロシア人、ポーランド人俘虜のための絵入り週刊露字新聞『日本とロシア』
(Япония и Россия)出始
める
8月
この月
東京で孫文を総理として「中国革命同盟会」が結成される
9月
5
日露講和条約調印
この月
日本郵船、函館・コルサコフ間航路の営業開始[『近代日本総合年表
第三版』、184]
秋
南サハリン、アイ村の家族の元へ行く[Маевич, 226]
10 月
初旬
神戸に来てラッセルの事務所を手伝う[Судзиловский, 170; ラッセル、119; 和田、上、311]
9
「平民社」解散[『近代日本総合年表
第三版』、185; 下川、323]
26(13)
149
ペテルブルグに初の労働者代表ソビエトが成立し、第 1 回総会を開催[『近代日本総合年表
下川、323]
第三版』、185;
30(17)
ニコライ 2 世(Николай II)、「十月詔書」公布[『近代日本総合年表
この月
宮城・岩手・福島県で大凶作[『近代日本総合年表
第三版』、185]
第三版』、184; 下川、320]
11 月
2
文部省、清国留学生取締規則を公布[下川、320]
3(10/21)
露亜銀行職員キゼヴェッテル(Владимир Густавович Кизеветтер)、ウラヂヴォストークからピウスツキに
書簡(露文)を送る[Rękopis: sygn. 4646, t. 2, s. 7; Пилсудский, 1999, 20 ]
10
社会主義雑誌『新紀元』創刊 [13 号(1906 年 11 月)まで発行][『近代日本総合年表
第三版』、185]
11(10/29)
クリヴォボーコフ(Григорий Кривобоков)、ピウスツキに書簡(露文)を送る[Rękopis: sygn. 4646, t. 2, s. 28
−29]
15
日本の各紙がウラヂヴォストークの反乱を報じ、同日かの地の上陸解禁の知らせが流れる[「東京電報
塩上陸解禁公報」]
中旬
浦
ウラヂヴォストークへ渡る[和田、下、45]
17(4)
ディボフスキ(Benedykt Dybowski)教授を「アムール地方研究協会」名誉会員に推挙する[Хисамутдинов]
18(5)
ハバロフスク市住民集会に参加し、
「労働ビューロー」設立を提案して、そのために 100 ルーブルを寄付す
る[Rękopis: sygn. 4646, t. 1, s. 10]
20
社会主義新聞『光』創刊 [31 号(1906 年 12 月 25 日)まで発行][『近代日本総合年表
第三版』、185]
21(8)
ハバロフスクの集会議長ブルダロフ(Н. Блударов)、ピウスツキに感謝状(露文)を送る[Rękopis: sygn. 4646,
150
t. 1, s. 10]
26(13)
ウラヂヴォストークで「人民の意志」党執行委員会のメンバー・トリゴーニ(Михаил Н. Тригони) と会う
[Тригони, 52; 和田、下、45]
26(13)
マトヴェーエフ(Николай Петрович Матвеев)、ウラヂヴォストークからピウスツキに書簡(露文)を送る
[Rękopis: sygn. 4646, t. 2, s. 54−55]
この頃
中央・東アジアの歴史・考古・言語・民族学研究ロシア委員会書記宛に手紙を書く[Пилсудский, 1905]
(月末)
マトヴェーエフとともにウラヂヴォストークから日本へ出発[Хисамутдинов; Маевич, 226]
12 月
初旬 女性ナロードニキ、リュドミーラ・ヴォルケンシュテイン(Людмила Александровна Волкенштейн) 来
日[Судзиловский, 170; ラッセル、119-120; 和田、下、45]
4
清国留学生、文部省の清国留学生取締規則に抗議のスト[『近代日本総合年表
第三版』、185;下川、320]
17(4)
マトヴェーエフとともにウラヂヴォストークから日本へ出発[Матвеев]
18[?]
サハリンのアイ村で娘キヨ誕生[Маевич, 226]
この年
中国人留学生数は約 1 万人[
『近代日本総合年表
第三版』、185]
【1906 年】
1月
初旬[1905 年 12 月末?]
マトヴェーエフ、その病気の長女ゾーヤ(Зоя Николаевна Матвеева, 11 歳)とともに函館に来航[「浦汐よ
り二人の珍客」;「浦塩よりの珍客」; 桧山、1995、193]
初旬[1905 年 12 月末?]
151
上京し、築地のセントラルホテルや松田[東京外国語学校露語科の卒業生・松田衛?]の家に仮住まい
[Rękopis: sygn. 4648, s. 10, 27;「浦塩よりの珍客」]
6
鈴木於菟平、ピウスツキに書簡(露文)を送る[Rękopis: sygn. 4646, t. 4, s. 36]
7
西園寺公望内閣成立[『近代日本総合年表 第三版』、186]
この頃
二葉亭四迷のもとを訪れる[和田、下、124]
11−17(12/29−1/4)
ロシアでエスエル党第 1 回大会[
『近代日本総合年表 第三版』、187]
14(1)
ルコスーエフ(Ив. Рукосуев)、モスクワからピウスツキに書簡(露文)を送る[Rękopis: sygn. 4646, t. 3, s. 58
−59]
中旬
上田将(すすみ)と知り合う[Пилсудский, 1999, 19]
下旬 信大蔵(しん・たいぞう)の商店「函館屋」
(東京市京橋区尾張町 2 丁目 9 番地)の 2 階に居を据え
る(7 月初旬まで)
21
「函館屋」からラッセルに書簡を送る[Пилсудский, 1999, 18]
23(10)
ウラヂヴォストークの争乱でリュドミーラ・ヴォルケンシュテインが殺戮される[和田、下、84]
23-24(10-11)
クリヴォボーコフ、イルクーツク県からピウスツキに書簡(露文)を書く[Rękopis: sygn. 4646, t. 2, s. 30]
25
『日本とロシア』最終の第 16 号出る
27
二葉亭四迷、
「函館屋」のピウスツキに電報を打つ−《Ne mogu itti hasegawa》
[Rękopis: sygn. 4646, t. 1, s. 65;
『二葉亭四迷全集』7、230]
29
マトヴェーエフから書簡を受け取る[Пилсудский, 1999, 21]
152
31
ラッセル、神戸から長崎へ赴く。[桧山、1989、86]下(さが)り松南山手 12 番地に居を据える
2月
1
ラッセルに書簡を送る[Пилсудский, 1999, 19]
4
樺太内淵の千徳太郎治に書簡を送る[Сэнтоку, 90]
初旬
二葉亭四迷に連れられて毎日新聞社に木下尚江を訪問[木下、244]
6
午後 6 時より「吉田屋」
(神田三崎町 3−1)で開かれた片山潜の帰国歓迎会に出席し、加島汀月(本名、
加島斌(ひん))の通訳でロシア語で演説する。席上、幸徳秋水夫人千代子から絹手巾に老梅を描いて贈ら
れる[「片山潜氏歓迎会」;「同志之運動 ●片山潜氏歓迎会」]
8
『東京朝日新聞』に「露国人類学者」が載る
9
大雪のなか夜遅くに鳥居龍蔵(東京帝国大学理科大学講師)宅を訪れるが会えず[Rękopis: sygn. 4648, s. 47]
10
鳥居君子(鳥居龍蔵の妻)、東京市内からピウスツキに書簡(ローマ字表記の日本文と仏文の混交)を送る
[Rękopis: sygn. 4648, s. 47]
11
午後 1 時より東京音楽学校で催された東北地方の凶作救済のための慈善音楽会に行き、大隈重信の演説、
東京音楽学校ピアノ科教授橘糸重(いとえ)、同校研究科声楽科学生藤井環(前・柴田環、後の三浦環)、
ケーベルの演奏を聴く[沢田、1996、211−212]
11(1/29)
ウラヂヴォストークでマトヴェーエフの週刊誌『極東の自然と人々[東洋週報]』
(Природа и люди Дальнего
Востока [Восточная неделя])発刊
14
パヴィト(Павит) へ書簡を送る[Пилсудский, 1999, 20]
14
153
A.A. ヴォルケンシュテイン(Александр Александрович Волкенштейн)への書簡をラッセル宛に送る
[Пилсудский, 1999, 20]
14
「北海道土人教育会主任 米国文学博士」小谷部(おやべ)全一郎の名刺を受け取る。北海道虻田(あぶた)
の彼の自宅に滞在してアイヌ研究をしないかという誘いを受ける[Rękopis: sygn. 4646, t. 2, s. 81]
15
ゾーヤ・マトヴェーエワ、福岡医科大学医院から函館屋方のピウスツキに書簡を送る[Rękopis: sygn. 4648,
s. 18−19; マツウエーワ、30−31; 桧山、1995、193]
20
橘糸重、函館屋方のピウスツキに書簡を送る[Rękopis: sygn. 4648, s. 2−3, 33]
20
関場不二彦、札幌から函館屋方のピウスツキに書簡(独文)を送る[Rękopis: sygn. 4648, s. 37−39]
22
宗宮幸子(そうみや・こうこ)
、横浜からピウスツキに書簡(不正確な露文)を送る[Rękopis: sygn. 4646, t.
3, s. 79−80]
24
「日本社会党」第 1 回大会[『近代日本総合年表
第三版』
、186]
25
牛屋「いろは」[「常盤」?](神田小川町)で開かれた『新紀元』の晩餐会に出席し、横田兵馬、石川三四
郎、木下尚江、安部磯雄、熊谷千代吉、福田英子、逸見菊枝、木下操子、逸見斧吉、柴田三郎らと写真撮
影を行う[
「新紀元集会」; 石川、1939;『明治社会主義史料集 第 3 集 新紀元』
、口絵写真;『石川三四郎
著作集』8、口絵写真]
25
早稲田大学西洋史の教員煙山(けむやま)専太郎、上田将に書簡を送る[Rękopis: sygn. 4648, s. 8]
27
横浜へ出かける[Пилсудский, 1999, 20]
27
橘糸重、牛込区の上田将宛でピウスツキに書簡を送る[Rękopis: sygn. 4648, s. 4, 34 ]
28
午後 1 時に上田将とともに早稲田大学で煙山専太郎と会う[予定]
[Rękopis: sygn. 4648, s. 8]
154
この月
二葉亭四迷を福田英子に紹介する[福田]
この月
新聞によると、日本一稼ぎの多い女性は華族女学校学監の下田歌子[下川、324]
この月
鳥居君子が蒙古喀喇沁(カラチン)王府女学堂の教師に決定[下川、324]
この月 明治座で川上音二郎一座による『モンナヴァンナ』
(メーテルリンク作・山岸荷葉訳)初演を観る
[Rękopis: sygn. 4648, s. 36;『近代日本総合年表 第三版』、187]
この頃
二葉亭四迷とともに島田三郎、大隈重信、板垣退助、巌本善治らを訪問
2−3 月の間
堺利彦、ピウスツキに書簡(英文)を送る[Rękopis: sygn. 4648, s. 36]
3月
2
横浜へ出かける[Пилсудский, 1999, 20]
3
ヴァヂェーツキイ (Вячеслав Константинович Вадецкий)から書簡を受け取る[Пилсудский, 1999, 21]
3−4
ラッセルに書簡を書く[Пилсудский, 1999, 20−22]
4(2/19)
『極東の自然と人々[東洋週報]』4 に「日本人支配下の南サハリン」("Южный Сахалин под властью
японцев")と「日本より」("Из Японии")を発表
5
午前 10 時、3−4 日付のラッセル宛の書簡をポストに投函する[Пилсудский, 1999, 22]
5
鳥居君子が東京から蒙古へ発つ時、見送って彼女に写真を手渡す[Rękopis: sygn. 4646, t. 2, s. 5−6; 鳥居]
9
『報知新聞』に「日本婦人の研究(波蘭人ピルスドスキー氏)」が載る
10
午後、「大光」(芝区芝橋)で宮崎民蔵の仲介で早稲田大学の中国人留学生宋教仁(Sung Chiao-jen, Сун
Цзяожэнь)と会見する[和田、下、190−191]
155
10 頃 鳥居君子、門司から函館屋のピウスツキに書簡(ローマ字表記の日本文、ポーランド語訳の試みあ
り)を送る[Rękopis: sygn. 4648, s. 28; sygn. 4646, t. 2, s. 5−6]
11(2/26)
『極東の自然と人々[東洋週報]』5 に「日本人支配下の南サハリン」と「日本より」を発表
11
東京市電値上げ反対市民大会[『近代日本総合年表 第三版』、186]
この頃 宮崎民蔵、宮崎滔天と民報 [「中国革命同盟会」の月刊機関誌] 社を訪ね、黄興(Huang Hsing, Хуан
Син)、宋教仁、その他多くの中国人革命家、及び宮崎兄弟、その他の日本人とともに記念撮影をする[萱
野; 和田、下、108、126、191]
13
モリタ・リョウコ、
「函館屋」のピウスツキに葉書を 2 通(露文と英文、露文)送る[Rękopis: sygn. 4646, t.
2, s. 69−70]
14
宗宮幸子を訪問[Rękopis: sygn. 4646, t. 2, s. 25]
15(消印)
宗宮幸子、横浜から「函館屋」のピウスツキに絵葉書(キリール文字表記の露文・邦文混交)を送る[Rękopis:
sygn. 4646, t. 2, s. 25]
15
横山源之助、
「露国革命婦人」
[リュドミーラ・ヴォルケンシュテインの一代記]を執筆[沢田、1987、74]
15
東京市電値上げ反対デモが暴徒化し、軍隊と騎馬巡査が鎮圧[
『近代日本総合年表
第三版』、186]
18
横山源之助、
「来遊中の布硅(ハワイ)砂糖王(露国革命党の金主)
」[ラッセルの一代記]を執筆[沢田、
1987、74]
19
東京地方裁判所刑事第一部法廷で「武林男三郎(おさぶろう)事件」[二葉亭四迷の東京外国語学校露語科
の教え子・武林男三郎が、人肉がライ病に効くと信じて、ライ病である自分の恋人の兄のために殺人を犯
した事件]の公判が開かれる(5 月 16 日まで 5 回)[沢田、1986、9]
中旬
ラッセル、ハワイへ帰る[9 月まで]
20
156
『北海タイムス』に「外人の日本婦人研究」が載る
20
リヴォフのディボフスキに書簡を送る[Пилсудский, 1999, 67]
21
ミツザワ・フサヨの写真(「白百合」写真館)を贈られる[Rękopis: sygn. 4648, s. 50]
25[15?]
日比谷公園で社会党党員の発起にかかる集会が開かれ、それが暴動に発展したのを見に行く[Пилсудский,
"Из Японии", 26 марта 1906 г. [по старому стилю], 5]
25(12)
『極東の自然と人々[東洋週報]
』7 に「日本より」を発表
29
アイヌ研究者村尾元長、
「函館屋」のピウスツキに葉書(邦文)を送る[Rękopis: sygn. 4648, s. 1]
30
H・ヨコタ[社会主義者・横田兵馬(ひょうま)?]
、東京本郷からピウスツキに葉書(仏文)を送る[Rękopis:
sygn. 4646, t. 4, s. 22]
この年初頭
「浦港の某新聞」[ポドパーフ(Леонтий Павлович Подпах)編集・発行の『ウラヂヴォストーク新報』
(Владивостокский листок)か]の求めで、二葉亭四迷(実際は井田孝平)と共同で『舞姫』を露訳する話
がもちあがるが、結局実現せず[
『二葉亭四迷全集』7、249]
2−4 月の間
東京帝国大学理科大学人類学教室で坪井正五郎博士の研究談を傍聴する。その帰途の夕暮れ時、二葉亭四
迷とともに湯島天神町の伏龍(ふくりゅう)館に横山源之助を訪ねる。お成道(なりみち)の西洋料理店
で夕食を共にした後、横山の下宿で談話する[横山、1909、278−279; 横山、1909、上ノ 215−216]
4月
1(3/19)
『極東の自然と人々[東洋週報]
』8 に「日本より」を発表
1
横山源之助、
「来遊中の布哇砂糖王(露国革命党の金主)」を雑誌『商業界』5−4 に発表[沢田、1987、74]
3
157
上海から青山女学院英文科に留学した 18 歳の呉弱男
(Wu Ruo-nan)と会う[Rękopis: sygn. 4646, t. 3, s. 56; 和
田、下、192]
4
呉弱男、「神田、三崎、381、秋穂方」から葉書(英文)
、自分の写真と姉・呉亜男(Wu Ya-nan)の写真、自
著『20 世紀自由の鐘』
(The Twentieth Century Liberty Bell, 1905)をピウスツキに送る[Rękopis: sygn. 4646, t.
3, s. 56; 和田、下、192]
5
二葉亭四迷に書簡を送る−「ポーランド革命家の消息」[『二葉亭四迷全集』別巻、114−116]
5
宗宮幸子、「神奈川町字幸ケ谷(こうがや) 吉田方」から「函館屋」のピウスツキに書簡(キリール文字表
記の邦文と露文混交)を送る[Rękopis: sygn. 4646, t. 5, s. 1−3]
5
横山源之助、「露国革命婦人」を雑誌『女学世界』
(松原岩五郎編集)6−5 に発表[和田、下、129]
8(3/26)
『極東の自然と人々[東洋週報]』9 に「日本より」を発表
9?
ピウスツキ撮影の樺太アイヌとギリヤーク人の写真4葉と、ピウスツキ自身の写真1葉が雑誌『世界』の
第 25 号に載る
10
ラッセルに書簡を送り、
「民報社」のメンバーの中国人留学生の書簡と『新時代』
(Новое время)紙の切り
抜きを同封する[Пилсудский, 1999, 23−24]
15(2)
『極東の自然と人々[東洋週報]』10 に「日本より」を発表
15[2?]
雑誌『音楽』9−6 に「露国人類学者ピルドウスキー」が載る
26
東京からウラヂヴォストークの「アムール地方研究協会」の主要メンバー、ソロヴィヨーフ(Митрофан
Александрович Соловьев)に書簡を送る[Пилсудский, 1992, 170−171]
27
長崎でヴァヂェーツキイ、オルジフ(Борис Дмитриевич Оржих )らが露字新聞『ヴォーリャ(自由)』
(Воля)
158
を発刊[和田、下、109−110; Пилсудский, 1999, 22]
28
『民報』第 4 号に『ヴォーリャ』刊行の紹介文が掲載される[和田、下、108−109、191]
この月
鳥居龍蔵、蒙古入国[下川、324]
この月
第 2 回ライ患者実態調査実施[下川、326]
この月
ニコライ、日本正教会大主教に叙階され、日本は独立教区となる
この頃[イチゴの出盛りの頃] 松山俘虜収容所の元救護班員 K 看護婦の案内で、2 人のロシア婦人(と
もに 30 歳すぎ)とともに日光見物に出かける[才神、262]
5月
1
横山源之助、「露国革命党の金主」を『商業界』5−5 に発表[沢田、1987、74]
10 (4/27)
ロシアで第一国会開設、立憲民主党(カデット)が最大多数[『近代日本総合年表
第三版』、187]
12(4/29)
ディボフスキ、リヴォフからピウスツキに書簡(ポーランド文)を送る[Rękopis: sygn. 4646, t. 1, s. 30-31;
Пилсудский, 1999, 67−68]
13(4/30)
『極東の自然と人々[東洋週報]』14 に「日本より」を発表
16
東京地方裁判所刑事第一部法廷で「武林男三郎事件」の第一審判決、死刑が下される[沢田、1986、9]
17
『ヴォーリャ』11 号よりヴァヂェーツキイに代わってオルジフが編集長になる[和田、下、120]
20(7)
『極東の自然と人々[東洋週報]』15 に「日本より」を発表
この頃
ラッセルに自分の書簡と在日中国人革命家たちの書簡を送る[Rękopis: sygn. 4646, t. 3, s. 61−62]
6月
4[?]
159
千徳太郎治、樺太内淵から東京のピウスツキに書簡(露文)を送る[Rękopis: sygn. 4648, s. 9; Сэнтоку, 89
−90]
5
デンプスキ(Aleksander H. Dębski)、ニューヨークからピウスツキに書簡(ポーランド文)を送る[Rękopis:
sygn. 4646, t. 1, s. 23; Пилсудский, 1999, 25, 72]
9
文相牧野伸顕(のぶあき)
、学生の思想・風紀の振粛について訓令、
「社会主義防止」の語句が初めて登場
[『近代日本総合年表 第三版』、187]
12
東京で日本エスペラント協会設立
10 [?]
ピウスツキ撮映の樺太アイヌとギリヤーク人の写真 4 葉と、ピウスツキ自身の写真 1 葉が雑誌『世界』の
第 25 号に載る。
13
ニューヨークのデンプスキから長崎経由で電報を受け取る[Пилсудский, 1999, 24]
13
ラッセルに書簡を送る[Пилсудский, 1999, 24−25]
15[?]
千徳太郎治、樺太内淵から東京のピウスツキに書簡(キリール文字表記のアイヌ語)を送る[Rękopis: sygn.
4648, s. 40−43; Сэнтоку, 90−92]
15[?]
トテコーベ(?)、樺太東部から函館屋のピウスツキに書簡(露文?)を送る[Rękopis: sygn. 4648, s. 26]
17
二葉亭四迷に葉書を送る−「会えぬ断り」[
『二葉亭四迷全集』別巻、116]
19
本郷の「中黒」写真館、二葉亭四迷に写真[ピウスツキと二葉亭四迷の写真?]を発送[Rękopis: sygn. 4648,
s. 15]
20
「平民病院」院長の加藤時次郎宅に食事に招かれる[予定][『二葉亭四迷全集』別巻、116]
160
23
幸徳秋水、米国より帰国[『近代日本総合年表 第三版』、185]
24(11)
『極東の自然と人々[東洋週報]』20 に「日本より」を発表
24
ラッセル、ハワイの Manubaiu View からピウスツキに書簡(露文)と『フィリピン委員会報告書』
(Report
of the Philippine Commission)2 巻を送る[函館屋宛、「長崎市下リ松 12 ウォーリア新聞社」宛に回送]
[Rękopis: sygn. 4648, s. 22−23; 4646. t. 3, s. 61-62; Пилсудский, 1999, 34−35]
24
宗宮幸子、横浜を出発[Rękopis: sygn. 4646, t. 2, s. 67]
25
岩野泡鳴、評論「神秘的半獣主義」を発表[『近代日本総合年表
第三版』、187]
27
中国人留学生(?)、ピウスツキに書簡(露文)を送る[Rękopis: sygn. 4646, t. 4, s. 31−32]
28
ソーボレフ(Г. Соболев) ら敦賀からウラヂヴォストークへ出発[Rękopis: sygn. 4646, t. 2, s. 67]
この月 肉親がピウスツキにパリ経由の電信で長崎の Cregate の住所(
『ヴォーリャ』紙の住所)宛に 500
−600 ルーブル送金するが、受け取られず。長崎で放置された後、クラクフで受け取る[『二葉亭四迷全集』
別巻、120、124−125、126、128]
1−6 月の間
I・シガ、東京四谷から函館屋のピウスツキに絵葉書(英文)を送る[Rękopis: sygn. 4646, t. 3, s. 71]
鉱物学者でアイヌ語研究者の神保小虎(じんぼ・ことら)、東京本郷から函館屋のピウスツキに書簡を送る
[Rękopis: sygn. 4648, s. 17]
7月
初旬
長崎へ行く[和田、下、131]
1(6/18)
『極東の自然と人々[東洋週報]』21 に「日本より」と「モンゴルの覚醒」
("Пробуждение Монголии")を
発表
5
161
『ヴォーリャ』第 32 号に「中国女性革命家」
("Китайская революционерка")と題して呉弱男の編集長宛の
手紙が掲載される
10
上田将訳「樺太アイヌの状態」(上)とピウスツキの写真が雑誌『世界』第 26 号に発表される
10
R・ミツザワ、東京神田区から長崎市下り松 12 番地宛にピウスツキに書簡(露文)を送る[Rękopis: sygn. 4648,
s. 20; 4646. t. 2, s. 67]
11
『ウラヂヴォストーク新報』のコラム担当者ガルフィルド(С.А. Гарфильд)、横浜の The Club Hotel から
長崎稲佐の志賀親朋(ちかとも)
[わが国最初のプロのロシア語通訳]方のピウスツキに書簡(露文)を送
る[Rękopis: sygn. 4646, t. 1, s. 39−40; Пилсудский, 1999, 21]
11
加藤時次郎、東京新宿から長崎稲佐の志賀方のピウスツキに葉書(独文)を送る[Rękopis: sygn. 4646, t. 2, s.
4]
12
軍司義男、上田から書簡を受け取り、ピウスツキに書簡(露文)と「翻訳」を送る[Rękopis: sygn. 4646, t. 1,
s. 62]
15(2)
『極東の自然と人々[東洋週報]』23 に「日本より」を発表
16
キリーロフ(Николай Васильевич Кирилов) 医師の書簡を受け取る[『二葉亭四迷全集』別巻、116−117;
Пилсудский, 1999, 22]
17
長崎稲佐の志賀方から二葉亭四迷に葉書と文集『ズナーニエ(知識)』(Знание)1 巻[クプリーン『決闘』
所載]を送る−「キリーロフ博士の消息」
[和田、下、131; 『二葉亭四迷全集』別巻、116−117]
17
遠藤清子、東京赤坂区桧 (ひのき) 町 10 の城倉方から長崎稲佐の志賀方のピウスツキに書簡(英文)を送
る[Rękopis: sygn. 4646, t. 1, s. 32−34]
19
ガルフィルド、朝に横浜を出発して神戸、長崎経由でウラヂヴォストークへ向かう[Rękopis: sygn. 4646, t. 1,
s. 39, 81−82]
162
19
上田将、東京牛込区から長崎稲佐の志賀方のピウスツキに書簡(露文)を送る[Rękopis: sygn. 4648, s. 31; 4646,
t. 1, s. 81−82]
19(6)
M(?)・ヤマグチ[ロシア人と日本人のハーフ・山口茂一?]、ウラヂヴォストークから長崎稲佐の志賀方の
ピウスツキに書簡(露文)を送る[Rękopis: sygn. 4646, t. 4, s. 20−21]
20(新暦?)
ウラヂヴォストークの「アムール地方研究協会」運営委員会に書簡(露文)を送る[Хисамутдинов; Латышев,
13]
21
二葉亭四迷、「浦塩エスペラント協会会員長谷川二葉亭著」[二葉亭四迷の本名は長谷川辰之助]として『世
界語(エスペラント)』を刊行[『二葉亭四迷全集』別巻、490]
21(8)
ロシアで第一国会解散[『近代日本総合年表
第三版』、187]
22(9)
『極東の自然と人々[東洋週報]』24 に「日本より」を発表、「異民族のなかの B.O.ピウスツキ」("Б.О.
Пилсудский среди инородцев", 筆者不明)も掲載される
27
ポドパーフとの間の「私的契約条件」
(Домашнее условие) [47 葉の写真の売買契約書]を執筆[Rękopis:
sygn. 4647, s. 37−38]
30
大北汽船株式会社(Great Northern Steamship Co.)の「ダコタ号」
(Dakota)で同志 3 名とともに長崎を出発
[Rękopis: sygn. 4648, s. 5; 4646, t. 4, s. 76; 「露国革命党員の奔走」]
30
神戸寄港前に「ダコタ号」上でラッセルに書簡を書く[Пилсудский, 1999, 27; Rękopis: sygn. 4646, t. 3, s. 60]
30
神戸付近の「ダコタ号」上でディボフスキに書簡を書く[Пилсудский, 1999, 51−52]
31
『ヴォーリャ』第 43 号に伝記「ニコライ・コンスタンチーノヴィチ・ラッセル」
("Николай Константинович
Руссель") が載る
163
1−7 月の間
東京外国語学校露語科の卒業生大井包高(かねたか)、東京麹町区よりピウスツキに書簡を送る[Rękopis:
sygn. 4648, s. 12]
8月
1
二葉亭四迷、東京本郷より「ダコタ号」のピウスツキに書簡(露文)を送る[Rękopis: sygn. 4648, s. 30; 4646.
t. 1, s. 63−64; 『二葉亭四迷全集』7、234−235]
2
「ダコタ号」、横浜に入港
2
『ヴォーリャ』第 46 号に「ニコライ・コンスタンチーノヴィチ・ラッセル」が載る
3
「ダコタ号」、横浜を出港
5 頃
「ダコタ号」で横山実語(?)という密航者が見つかり、寒さに震えていた時にピウスツキに毛氈を恵与さ
れる[Rękopis: sygn. 4648, s. 11]
7
清朝、留日学生派遣を中止[『近代日本総合年表 第三版』、189]
10
上田将訳「樺太アイヌの状態」(下)が雑誌『世界』第 27 号に発表される
11(7/29)
マトヴェーエフ、ウラヂヴォストークで官憲に逮捕される[桧山、1995、193; Пилсудский, 1999, 28, 29]
12(7/30)
『極東の自然と人々[東洋週報]』最終の第 27 号出る
13[?]
イシイ・ヨシナオ、樺太幌内近郊の収容所からピウスツキに書簡(露文)を送る[Rękopis: sygn. 4646, t. 4, s.
33−35]
14[?]
164
千徳太郎治、樺太からピウスツキに書簡(露文)を送る[Rękopis: sygn. 4648, s. 18; Сэнтоку, 92−93]
23
ラッセル、ホノルルからピウスツキに書簡(露文)を送る[Rękopis: sygn. 4646, t. 3, s. 60]
10 月
ガリチア(オーストリア領ポーランド)のクラクフに帰着
【1907 年】
1月
1
福田英子、雑誌『世界婦人』を発刊(38 号(1909 年 7 月 5 日)まで発行)
2月
15
二葉亭四迷、ポリワーノフ(Петр Сергеевич Поливанов) の『志士の末期』を『世界婦人』4−6、9、11、
15 号に訳載する(8 月 15 日まで)
3月
8
『ヴォーリャ』最終の 98/99 号出る
【1908 年】
1月
18
ポドパーフ、横浜で絵入り露文雑誌『東洋』(Восток)を発刊(6 号(1908 年 4 月)まで発行)
22
ポドパーフ、横浜からピウスツキに書簡(露文)と『東洋』第 1 号を送る[Rękopis: sygn. 4646, t. 3, s. 37]
3月
5
二葉亭四迷、ネモエフスキ(Andrzej Niemojewski)の『愛』を『世界婦人』23 号に訳載する
4月
5
165
二葉亭四迷、プルース(Bolesław Prus)の『椋のミハイロ』を『世界婦人』24 号に訳載する
6月
12
二葉亭四迷、『朝日新聞』露都特派員としてペテルブルグへ出発
7月
15
二葉亭四迷、ペテルブルグに到着
【1909 年】
1月
30(17)
二葉亭四迷、マリア(Maria)夫人らとともにコミサルジェーフスカヤ劇場へ行く[『二葉亭四迷全集』6、
498]
5月
10
二葉亭四迷、
「賀茂丸」で日本への帰途ベンガル湾上で死去
【1910 年】
ポーランド語の雑誌『世界』
(Swiat)にピウスツキによる二葉亭四迷の追悼記掲載[Piłsudski, 1910, 8−10]
ロンドンの英日博覧会で、北海道沙流(さる)地方から来た男女 4 人ずつのアイヌ人から 50 以上の物語を
記録する。コレージュ・ド・フランスの音声学の教授ルスロ(Abbe Rousselot)の調査によって、書き取り
のチェックをする[Piłsudski, 1912, XIV-XV; 北海道ウタリ協会札幌支部アイヌ語勉強会訳、『創造の世界』
46、108−109]
【1911 年】
5月
10
鳥居龍蔵訳「樺太島に於ける先住民」上(ドイツ語版《Die Urbewohner von Sachalin》
(1909)より)が雑誌
『世界』第 84 号に発表される
20
鳥居龍蔵訳「樺太島に於ける先住民」が雑誌『人類学雑誌』27−2 に発表される
6月
166
3
鳥居龍蔵訳「樺太島に於ける先住民」上が雑誌『北斗』2−6 に発表される
10
鳥居龍蔵訳「樺太島に於ける先住民」下が雑誌『世界』第 85 号に発表される
20
鳥居龍蔵訳「樺太島に於ける先住民」が雑誌『人類学雑誌』27−3 に発表される
7月
3
鳥居龍蔵訳「樺太島に於ける先住民」中が雑誌『北斗』2−7 に発表される
10
鳥居龍蔵訳「樺太島に於ける先住民」が雑誌『人類学雑誌』27−4 に発表される
8月
3
鳥居龍蔵訳「樺太島に於ける先住民」下が雑誌『北斗』2−8 に発表される
【1913 年】
石川三四郎、フランス船で日本を脱出
【1914 年】
晩春
石川三四郎、ブリュッセルのフランス人アナーキスト、ルクリュ(P. Reclus)家に落ち着く
6月
月末
ルクリュ家を訪問、石川三四郎と再会する[石川、1914; 石川、1939]
【1918 年】
5月
17
パリのセーヌ川へ身を投げる
21
167
午前 8 時 15 分、セーヌ川のミラボー橋のたもとで水死体となって発見される
【1921 年】
孫ミドリ(長女キヨの子)誕生[服部、154]
【1924 年】
ユゼフ、日露戦争に参加してまだ存命の日本人高級将校 21 人に勲章を贈る。川村景明元帥 [鴨緑江軍司令
官] にはポーランド最高の勲章ビルチュチ・ミリタリを贈る[木村毅、232]
【1931 年】
孫ナミ(長女キヨの子)誕生[服部、154]
【1936 年】
孫瞳(長女キヨの子)誕生[服部、154]
【1955 年】
北海道中央の東山で孫木村和保(長男助蔵の子)生まれる[Кимура, 64; 木村和保、8]
【1971 年】
長男・木村助蔵、富良野で没する[「樺太アイヌろう管秘話」]
【1983 年】
7月
3
62 本の蝋管、ポズナン大学から北海道大学に到着[井上、1983]
【1984 年】
1月
4
長女・大谷キヨ、大樹町で没する [「樺太アイヌろう管秘話」]
168
参考文献
1.
ピウスツキの著作
北海道ウタリ[アイヌ語で「同胞」の意]協会札幌支部アイヌ語勉強会訳「樺太アイヌの言語と民話について
の研究資料」『創造の世界』46−83 号、1983 年 5 月−1993 年 6 月
荻原眞子訳「B. ピウスツキのサハリン紀行」『北海道立アイヌ民族文化研究センター研究紀要』6、2000 年、
219−240 頁
"Письмо командированного на о.Сахалин Б.О. Пилсудского (на имя секретаря Комитета)", Известия Русского
комитета для изучения средней и восточной Азии в историческом, археологическом, лингвистическом и
этнографическом отношениях, № 5, СПб., 1905. С. 25−30.
"Из Японии", Природа и люди Дальнего Востока [Восточная неделя]. № 4, 5, 7-10, 14, 15, 20, 21, 23, 24 (19
фев., 26 фев., 1 марта - 2 апр., 30 апр., 7 мая, 11 июня, 18 июня, 2 июля, 9 июля 1906 г. [по старому стилю]).
"Отчет Б.О. Пилсудского по командировке к айнам и орокам о.Сахалина в 1903-1905 гг.", Известия Русского
комитета для изучения средней и восточной Азии в историческом, археологическом, лингвистическом и
этнографическом отношениях, № 7, СПб., дек. 1907 г., С. 20−52.
"Письма Бронислава Пилсудского на Дальний Восток", Вестник Дальневосточного отделения Российской
Академии наук, 1992 № 1−2, С. 164−178.
"Дорогой Лев Яковлевич ..." (Письма Л.Я. Штернбергу. 1893−1917 гг.), Южно-Сахалинск, 1996.
"Исходящий и и разносная [книга] на 1903, 4 и 5 гг., командированного Императорской Академией Наук в
С.-Петербурге Б.О. Пилсудского", Известия Института наследия Бронислава Пилсудского, № 1, 1998, С. 21
−26.
"Неопубликованная переписка Бронислава Пилсудского с Бенедиктом Дыбовским и Вацлавом Серошевским
(1903−1912 гг.)", Известия Института наследия Бронислава Пилсудского, № 3, 1999, С. 49−80.
"Письма Льву Яковлевичу Штернбергу (1903 г.)", Известия Института наследия Бронислава Пилсудского,
№ 4, 2000, С. 64−65.
"Shigi Hasiegawa", Swiat, 1910 № 12, s. 8−10.
Materials for the Study of the Ainu Language and Folklore, Cracow: "Społka Wydawnicza Polska", 1912.
Rękopisy: sygnatura 4646, tom 1−5; sygn. 4647; sygn. 4648. [The call numbers of the manuscripts relating to
Bronisław Piłsudski, which are preserved in the Polish Academy of Sciences Library, Kraków, Poland. Their
microfilm and printed versions are available at the Slavic Research Center Library, Hokkaido University].
169
2.
ピウスツキに関する文献
飯島生「北海道紀行」
『博物学雑誌』4−40、1903 年 9 月、17 頁。4−42、1904 年 1 月、36−38 頁
石川三四郎「亡国民の偉業」『新日本』4−12、1914 年 10 月
石川三四郎「ピルスヅスキイの想ひ出」
『月刊ロシヤ』5−11、1939 年 11 月。以上ともに『石川三四郎著作
集』第 6 巻に所収、青土社、1978 年、272−273、279−284 頁
井上紘一「ピウスツキ兄の復権を」下、『朝日新聞』夕刊、1983 年 7 月 22 日
井上紘一「B・ピウスツキと北海道―1903 年のアイヌ調査を追跡する―」井上紘一編『ピウスツキによる
極東先住民研究の全体像を求めて』に所収, 北海道大学スラブ研究センター、2003 年、11−31 頁
「浦塩よりの珍客」『馬関[下関の古名]毎日新聞』
、1906 年 1 月 10 日、第 2 面
「浦汐より二人の珍客」
『北海タイムス』、1906 年 1 月 10 日、第 1 面
「外人の日本婦人研究」『北海タイムス』、1906 年 3 月 20 日
「片山潜氏歓迎会」『光』1−6、1906 年 2 月 5 日、第 7 面
萱野長知『中華民国革命秘笈』 帝国地方行政学会、1940 年
「樺太アイヌ・ろう管秘話」、NHK テレビ、1984 年 6 月 25 日放送
木下尚江「長谷川二葉亭君」『神・人間・自由』に所収、中央公論社、1934 年、236-267 頁
木村和保「ピウスツキと我が父」
『サハリンと B.ピウスツキ』に所収、ピウスツキをめぐる北方の旅実行委
員会、1992 年、8−9 頁
木村毅『五人の革命家』 講談社、1972 年
『近代日本総合年表 第三版』 岩波書店、1991 年
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