イタリア ・ カリアリの都市空間にみる広場文化の創出

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イタリア・カリアリの都市空間にみる広場文化の創出
外国語学部ヨーロッパ学科教授 竹中克行
1.はじめに−広場をみる視点
地中海都市における広場
ヨーロッパの都市空間を対象とする研究は,広場の存在に注目することが多い。とくに,古典古
代の都市文明が胚胎した地中海において,広場は,政治的な意思決定,生活物資の交換,権力の誇
示と市民の異議申立てなど,市民生活のほとんどあらゆる局面で中心的な場をなしてきた。,イタリ
ア語の「広場」(piazza)は,公の場所に集まる民衆をも指す言葉である。また,「広場に降りる」
(scenderelnpiazza)といえば,示威行動に加わることを意味する。たしかに,日本都市との比較
考察を行った三浦金作が指摘するように,イタリア都市は,広場の数のみならず,広場の中心性を
際立たせる都市の空間デザインにおいても,持筆すべき存在である(三浦,1993)。
地中海の都市空間に占める広場の重要性は,都市と広場に関する古典的研究というべきポール・
ズッカーの著作(ズッカー,1975)を引くまでもなく,気候的な要因によるところが大きい。地
中粘性気候は,昭夫続きの乾いた夏と温暖で少雨のみられる冬によって特徴づけられる。天候変化
を憂慮することなく,屋根のない広場で活動できる期間が【【・年を通じて十分確保できることは,生
態環境の共通性を基盤とする地中海都市の大きな魅力である。
気候条件とともに広場成立の重要な背景としてあげられるのは,神内秀信ら多くの論者が強調す
る中世自治都市の伝統である(陣内,2005)。これは,イタリアでいえば,シエナの市庁舎がたつ
カンポ広場の例でしばしば取り上げられるような,都市自治の象徴的中心をなす広場のあり方であ
る。空間構成からみると,困続性が高く記憶しやすい形態をもつことを特徴とし,『南欧の広場』
(加藤,1990)などの広場研究で知られる加藤晃規の所論に従えば,ゲシュタルト質(結晶形態質)
の高い「建築的広場」に含まれると考えられる。
他方,広場の発達を促す共通の基盤にもかかわらず,地中海ヨーロッパがそれ自体,きわめて多
様な都市空間の形成と展開を内包していることは,改めて指摘するまでもない。)そもそも,広場と
一口にいっても,古典古代のアゴラやフォールム,中世イタリアなどで宮殿や教会の前に確保され
た広場,しばしば市壁外の市場から発達したスペインのマヨール広場,建築物,噴水,公園などを
統合的に配置したバロック都市の広場など,実に多様な態様を示す。中世イタリアで形成された広
場のみをとっても,世俗杵力と教会という二重の構造を背景として,都市によって異なる具現化の
様相を示すのが常である。当然ながら,自治都市としての成り立ちを元来もたない都市も多い。
また,生態環境についても,単純化されがちな気候条件以外の面に目を向けると,むしろ都市に
よって異なる空間形成のあり方と結びついていることが少なくない。とくに筆者が注目するのは,
地形条件である。T.G.ジョーダンらが整理しているように,古代ローマ郡市の多くは,情勢の安
定化を背景として,交通の便を優先した平地への立地を志向した。しかし,中世になると,防衛上
の優位性を重視し,丘上集落として成立する都市が多くなる。また,交易に便利な平地であっても,
河川の蛇行部や砂州など,軍事上の要請に応える場所がしばしば選ばれた(ジョーダン=ビチコ
−179 −
フ/ジョーダン,2005,254−306)。
カリアリにおける広場の発達過程
以上のことを前提に,本稿では,イタリア・サルデーニヤ州の中心郡市カリアリにおける広場の
発達過程を検討する。後述するように,カリアリにおける広場の本格的な形成は近代にようやく始
まる。また,現在のカリアリに広場の名が付された場所は少なくないが,閣続性が高く,明確に定
義された空間構成を有する広場は,ごく一部の例外を除いてみられない。むしろ,地中海都市につ
いて−【【Ⅳ磯に議論されているのとは,対極的な性格をもつ広場がほとんどといっても過言ではない。
そうしたカリアリを対象とする本稿がめざすのは,たんに,地中海都市における広場の多様な出現
形態を事例研究を通じて実証することではない′。むしろ,遅れて始まったにもかかわらず,多数の
広場を生み出すにいたる変化の過程を追うことで,公共空間たる広場を創出する強い営力の存在を
軋認することができるのではないかと筆者は考える。また同時に,空間構成からみた広場の態様や
苗艮による利用実態の親祭を通じて,各都市の地理的条件や歴史的経緯を下敷きとする固有の広場
文化の胚胎も明らかになるのではないか′)
そうした問題意識のもとに,以下では,現在のカリアリにみられる広場をおおむね時代の流れに
沿って取り上げ,形成時斯,空聞構成,空聞利用の大きく3つの側面から検討する。対象エリア
は,カステッロ(Castello),マリーナ(Marina),スタンパーチェ(Stampace),ヴィッラノー
ヴァ(Vlllal10Va)からなる歴史地区のほか,20世紀初めに市街化されたサン・ベネデット(San
Benedetto)地区を加えた計5地区とし,各地区から特徴を異にする広場を抽出する方法をとる。
考察の土台をなすのは,2011年3月から4月上旬にかけて筆者が行った現地調査である。調査では,
対象とするすべての広場を曜[い時間帯を違えた継続観察に付すと同時に,古地図・建築史を・半帰、
とする文献資料を蒐集した。これにもとづいて,上記3つの側面に関する基本データを論文中ほ
どの表にまとめ】),併せて広場の状況が把握できる写真を1点ずつ掲載した。写真は本文中に挿入
するものを含めて,すべて筆者自身が現地調査中に撮影したものである。
なお,本稿は,カリアリ大学からの招将を受けて筆者が実施した,地中海都市の公共空間をテー
マとする調査研究の成果の山部である。より総合的な研究成果については,機会を改めて公表する。
2.広場づくりの始まり
カリアリの生態環境
カリアリは,西地中毎,サルデーニヤ.紬有邦の湾奥に位置する人口15万7000人(2009年)の
都市である。サルデーニヤの中心都市として,1948年のイタリア共和国違法のもとでサルデーニヤ
特別州の州都に指定された。
カリアリの年降水量は426mm,うち夏季6∼8月の雨量は21mmにすぎない2)。筆者が現地調
査を始めた3月初句は,まだ冬季から完全に抜け出ておらず,小雨模様の目が多かった。しかし,
屋外活動が生活の不可欠な一一一・部をなす地中海において,祝祭や記念式典などの屋外行事は雨天決行
が基本である。実際,イタリア統一150周年記念行事が行われた2011年3月16∼17日は,あ
いにくの雨だったが,歴史地区の十才吊こあるイタリア殉死者広場などでは,楽隊の漬奏に合わせた
三色旗の掲揚をはじめ,各種の行事が晴れの口に負けない盛況ぶりを呈していた。
イタリア半島南部やシチリア島とは違って,サルデー二ヤ畠の地盤は安定していて地震はほとん
どない。古生代に遡る岩鰍は長期にわたる侵食を受け,聖や靴の蹄に喩えられる形の残丘が多数出
ー180 −
現した。東側をモレンタルジュス湿
地,西側をカリアリ湿地に挟まれた
カリアリの市街地も,標高数十m
から100mほどのいくつかの丘と
その裾野をなす傾斜地に発達した
(図1)。湿地帯に面した低平な土地
が市街化されたのは,第二次世界大
戦後の急激な都市圏拡大の過程にお
いてである。カリアリ中心部を訪れ
る人の視界に最初に飛び込んでくる
のは,港から少し北上した所に聾え
るカステッロ地区の切り立った丘で
ある。
丘上を中心に発達した前近代のカ
リアリでは,広大な広場を聞くこと
は,地形条件の制約ゆえにそもそも
困難だった。その日一方で,丘の上か
らはすばらしい眺望が得られるの
図1カリアリとその周辺の他勢
力リアリの市街地は,両側を持出鋸こ挟まれた稽丘とその紬湘こ発達した′ カ
リアリ掛こ近いカスチッロが.131日ご紀にピサ人が支配拠点とした丘である。
なお,本図は,地矧rliからみたカリアリの特徴をわかりやすく表現した例と
して掲載したものである。等高線の才仙Fi沌とが必ずしも正確でないことに留
意されたいノ
憤粁IDeplalm(2008:8)にもとづく′
で,堅牢な囲壁で守られた要塞都市
を建設しようとする支配者には好都合である。カリアリにおける都市空間のあり方を考えるさいに
は,このような地形条件が及ぼす効果に注目する必要がある。
前近代カリアリの広場
カリアリには,貯水槽や霊廟など,フェニキア人やローマ人が築いた苗代都市の姿を伝える遺構
が多数残されている。都市考古学研究で知られるカルラ・デブラーノらは,古代ローマ時代のカ
リアリについて,カルミネ広場(図2)付近を中心とする範囲を想定している(Deplano,2008:
10−21)。しかし,古代のカリアリは,中世以降の都市構造にほとんど何の痕跡も残していない。カ
ルミネ広場も,古代のフォールムとは関係なく,19世紀の都市計画によって開かれたものである。
現在に繋がるカリアリの骨格を築いたのは,初めて丘上に都市の中心を据えた中世ピサ人である。
1258年にジェノヴァ人の勢力を排してカリアリ支配を確立したピサ人は,湾奥の海を見下ろす丘
に拠点を構え,堅牢な囲壁で固めた。これが,のちに城塞を意味するカステッロの名でよばれるこ
とになる地区の起源である。13世紀末にカタル一二ヤ人を中心とするアラゴン連合王国の脅威が
迫ると,ピサ人らは,カステッロ地区の囲壁を強化し,要所にいくつもの巨大な塔を建てた。その
大部分はすでに失われているが,地区南西を固めるエレフアンテ塔と北端に蟹えるパンクラツイオ
塔だけは保存され,要塞建築に特有の無骨な姿でカステッロ地区のスカイラインを特徴づけている。
中近世のカリアリには,どの程度の広場があったのか。近代的な測還技術にもとづくカリアリの
地図が得られるのはおおむね19世紀以降である。幸い,ディオニジ・スカーノが1920年代に著
した『カリアリの都市形態』には,各種資料を動員した14世紀以降のカリアリの推定復原図が掲
載されているので,ここでは,同書の復刻版(Scano,1989)をもとに若干の検討を行う。
スカーノの復原図は,前近代のカリアリについて興味深い事実を教えてくれる。教会前や街路が
交わる地点に成立した広場らしき小空間はあるが,空間構造として一般の街路から明確に差異化さ
ー181−
【広場 一覧】
1一カルロ・アルベルト広場
2インディペンデンツア広場
3,サン・ジャコモ広場
4.サンテウラリア広場
5サンテフイジオ広場
6.サヴオイア広場
7.イタリア殉死者広場
8.マッテオッティ広場
9一カルミネ広場
10.サン・ベネデット広場
11共和司広場
12サン・ドメニコ広場
13.宮殿広場
14.コツコ・オルトウ広場
15.ジョヴァンニ23坦広場
16イェンネ広l汝
17.ガリパルティ広場
18。グラムシ広場
19.憲法広場
20.サン・コジモ広場
21.アメンドラ広場
22オルー広場
23サン・レミー砦屋上広場
24 レジーナ・エレナ針山機屋卜広場
図2 カリアリ中心部の主要広場
本机で取り上げる広場を出色で血潮表示した、広場番りは後掲の表と調応している「ノ
ほ賃料]サルデーニヤ州政府が提供しているWebGIS,Sa、degnaMapl)eの航空ぢ貢を卜咄とし,′イモ者が作成
れているのはごく一郭にすぎない。18世紀の段階においてすら,カステッロ地区,旧市庁舎下の
「小広場」(LaPiazzatta)とヴィッラノーヴァ地区のサン・ジャコモ教会前の広場くらいしか,広
場の名前を与えられていない。これら以外には,市街地と港の間の広場や市壁の外側,スタンパー
チェ門前の広場が兄い出せる程度であり,実態は,港湾活動のための作業場ないし土地利用が末確
立の都市外縁の空地ではなかったか。
こうした前近代カリアリにおける都市空間のあり方は,外部勢力による支配の歴史と密接に結び
ついている。1324年,ピサ人からカリアリを奪い取ったカタル一二ヤ人は,カステッロ地区を支
配拠点とし,マリーナ地区を通じて行われる海洋交易を独占した。カステッロ地区とマリーナ地区
を守る圃壁と塔は,カタル一二ヤ人によってピサ人の時代にもまして堅牢なものに造り変えられ,
地区全体が要塞化した。対象的に,カステッロ地区の両側を挟むスタンパーチェ地区とヴィッラノー
ヴァ地区を因む周壁は,荒廃するに任された。これらは,カステッロ地区への居住を許されなかっ
た地元サルデ“ニヤ人らの居住地であり,カタル一二ヤ人にとっては守るに植しない,いわば庶民
街だったからである。スカーノが描くカステッロ地区の縁辺には,広場のような開けた空間がいく
つもあるが,そのほとんどは,実際には大砲が据えられた砦だった。
一182 −
歴史地区の広場の現在
「小広場」は,のちに19担:紀前半のサルデーニヤ王の名をとって,カルロ・アルベルト広場(写
真1)と命名された。サルデーニヤの本土との平等を実現したとして,当地では評価が高いピェモ
ンテの国王である。,広場の中ほどには,同国壬を顕彰する彫像が立っている。ぎっしりと建て詰まっ
たカステッロ地区にあって,カルロ・アルベルト広場の一一一角は,百人単位の人が集まれる数少ない
空間のひとつである。東側,数メートル上には旧市庁舎がたち,その奥にピサ・ロマネスク様式の
大聖堂のファサードがみえる。さらに,大聖堂の造形を象ったと思われる舗石デザインが,広場の
モニュメント性を高めている。
しかし,1907年に市庁舎が港湾の近くへ移転したことを契機として,カステッロ地区はカリア
リの政治的中心としての地位を失う。同じ歴史地区でも,掛こ面するマリーナ地区が現在,商業空
間としての賑わいを取り戻しつつあるのに対して,カステッロ地区は,少なからぬ市民にとって半
ば忘却された空間になっている。カルロ・アルベルト広場の西辺をなすアルベルト・ラ・マルモラ
通りには若干の店舗が開かれているが,幅員の小さな坂道ゆえに駆け下りる自動車の存在が歩行者
の脅威となり,商業空間としての地区のポテンシャルを削いでいる。広場を往来する人影はまばら
で,北辺に面したカフェは扉を閉ざしたままである。賑わいの欠如ゆえに,中近世の権力の中心だっ
た場所のもつモニュメント性が,かえって空疎な印象を与える。
類似した状況は,カステッロ地区最上部のインディペンデンツア広場(写真2)にもみられる。
この広場の起源は,ピサ人が建てたパンクラツイオ塔を取り囲む軍営地である。複雑な多角形の輪
郭をもつのは,広場として計画されたのではなく,地区を這い上がる街路の終点をなす残余地だっ
たからだろう。床面に優美な舗石のデザインが施されているが,行き交うのは車ばかりで,歩行者
の往来は非常に少ない。
ヴィッラノーヴァ地区のサン・ジャコモ広場(写真3)の場合は,教会前広場であることが広場
の成り立ちだけでなく,現在の空間利用をかなりの程度規定している。19世紀に新古典様式のファ
サードで装いを新たにしたサン・ジャコモ教会は,教会そのものもさることながら,同じく広場に
面してたつオラトリオ(oratorlO)rミ)を活動拠点とする信徒会のコーラスで広く知られる。聖週間に
なると,5つの声部に分かれた地区の男たちが聖像とともに町を練り歩き,かれらの歌が街路に響
き渡る。1990年頃の写真には,この広場が一面駐車スペースとして使われていた様子が写っている。
その後,広場を斜めに横切り両端でサン・ジャコモ通りに繋がる動線を明確化し,若干の段差を設
けて歩行者空間と区別する再デザインが施された。教会前広場が元来もっていた,生活空間のなか
の中心性を回復する言式みといえるだろう。
歴史地区内にある教会前広場の代表的な事例としては,他にサンテウラリア広場(写真4)やサ
ンテフイジオ広場(写真5)をあげることができる。カタル一二ヤ・ゴシック様式の優美な身廓を
擁するサンテウラリア教会の前は,階段と小さなパルテールを組み合わせた広場として整備されて
いる。オープンスペースの少ないマリーナ地区では,責重な子どもの遊び場である。サンテフイジ
オ教会前の面積わずか2001n2余りの広場は,鉄柵で囲われ,ふだんは自由に出入りできない。し
かし,サンテフイジオ祭が行われる毎年5月1日になると,色彩豊かな行列が聖人像を載せた牛
車とともに30km離れたノーラの教会まで移動する,華やかな祭りの[泥、舞台となる′。
歴史地区の広場についてもうひとつ見落とせないのが,街路が交わる辻に聞かれた小空間である。
加藤晃規による広場の分類でいえは結晶形態質に乏しいアモルファスな「場所的広場」に入るの
ではないか。建築的な外形はほとんど空間を定義せず,そこに人が集まることによってはじめて広
場としての意味を獲得する空間である√)スカーノの復原図では広場の名は与えられていないが,カ
−183 −
表 カリアリの主要な広場
名称 聖霊諾 空間構成 空間利用
1雪苦言モ豊ン篭る誓‰苧還諾ふ芸票警芙望遠警慧箸人通。少ない;⑧閉鎖店舗あ
広場 タル モニュメント,舗石デザイン
インディペ 血糊 ①複雑な多角形;②1,950;・③全辺建物,
2ンデンツア要塞芸地霊碧葱禦蒜ニノ;還現会警孟富農遠雷前近代の軍営
広場
中世
3笠憲 教会前
①変則長方形;②1,060;③建物3辺,段⑧参列者の往来;⑧閉鎖店舗あ
差1辺;④東側サン・ジャコモ教会,オラり;⑥聖歌隊の活動;⑧駐車ス
4 ∴∴′」∴
駐長方形;②17010;(強建物2辺,遊技場④参列者の往丸子どもの遊び
1辺,街路1辺;④東側サンテウラリア教会;場;⑥オラトリオの遊技場を子
トリオ;⑤斜めに街路 ペースからの転換
⑤傾斜地に階段 どもが利用
5七 詣 孝品
6サ憲ア 近世
交差点
¢長方形;(参210;③建物2辺,街路2辺;⑧参列者の往来;⑧東側に宿泊
④南側サンテブイジオ教会;⑤街路側鉄柵施設;⑥サンテフイジオ祭
牡多角形(4差路);②720 ③全辺街路④店舗利用者の往来;㊤グルッ
挟み建物;(彰テラス状整地,中央に郁子のポ・チュルモの文化活動;⑨駐
木 車スペースからの転換
イタリア ユ仁膵 ①ほぼ三角形(Y字路);②380;③全辺建物;
− _二 ∴ ∴ 二 ̄ ̄l、 ̄ ̄−∴ ̄ ̄∵ニ∴∵
三 _’二二l・一、  ̄∴ ∵二㍉ ̄一 ̄‥一二一一一一∴
公園広場 観光案内所 の始点
;∴ ∴ ‥l  ̄  ̄一 一 ㌦∴一二∵㌧二
都市計画 彫像 市
サン・ベネ聖霊慧馴形(6差路);(拍7。。;③交互に街路璽自動車の交通路;⑧消費者
10幸二ト広場票誓言遠蒜;\㌫蒜遠州’\少人肌1月柑サ ̄ビス堅調;⑨中央のロ ̄タ
■ さヽ 一・つ pこr7=.!三T _ /=\ ⊥ −し. ▲.、
リーを撤去
ムッソリー①変則多角形:②14,680:③全辺街路挟④輩の交通路,駐車場 ⑧所々
11共和国広場 二体制期 み建物;④東側裁判所,北粧一部軽便鉄道に飲食店;⑥裁判所前でデモ活
交差点 駅;⑤裁判所前スロープ,駐車場,小公園動等
⑧近傍に工房等;⑨爆撃による
12㌢三憲表装宗霊慧芸子悪霊謡‡5㌦讐芸望,
教芸志 郎駐車場;④東側サン・ドメニコ教会;⑤破壊・駐車スペースからの山部
一角に椰子の木 転換
④県庁への往来,観光客;⑧県
中世∼現代誓∼塁葱雪空Jヲ禦三空=攣建物,2辺段差;
13営殿広場 去蒜機蒜 禦璧享讐。.轡讐聖′杢聖堂,南側庁で展示会等;⑧爆撃による破
旧市庁舎;⑤西側から上る階段 壌後,広場拡大
14∴∵−
第二次世界
嘉窓’▼認諾…篭認諾禦票讐誓欝,票露語霊讐孟宗警な往来:⑧
ジョヴァン 第二次世界動ほぼ正方形;②47,130;含・3辺街路挟
15 こ23世
広場
・工、・・_.∴_一 ∴‥∴∴∴● ∴十十■仁・\・∴二二∴:∴芦
都市計画 中にサン・パウロ教会
(甜圭んだ長方形;②5,120;③・2辺建物,
16イ議ネ 羞覧
者サービス堅調:⑥デモ活動等
④目抜き通りの往来,テラス利
1辺街路挟み建物,1辺街路;④目抜き通 用者;⑧消費者サービス活発;
りが交差;⑤大面積の歩行者空閥,モニュ ⑥祭り・イベントでの利用;⑧
メント
市門前広場からの転換
−184 −
ニ体制期 他は街路挟み建物;④西側小学校;⑤西半ス活発;⑥デモ活動等;⑧地下
17雲プ憲絹壷蓋一萎誓葱雷角形;帥0;③1辺建物’④車の交通路;⑧消費者サーゼ
駐車場計画あり
18グ詣シ蓋箋壷芸芸去志造詣豪語与塞慧禦墓宗暇空間;⑨消費者サービス
19憲法広場 交差点
①複雑な多角形;②3フ180;③交互に街路④目抜き通りの往来,サン・レ
と建物;①北西サン・レミー砦;⑤南東側ミー砦屋上広場へのアクセス;
】一部を公園化 ⑧消費者サービス活発
一二‘㌧ 二■㍉∴∴ 一二一、∵∵ ご●∴∵、十∴●∴:.′し■三一∴∴、∴:
二二 二∴二∴ −1∵  ̄ll・∴∴__−_ 二一
21アメンドラ公志望場蓋議急警豊?;諾豊墓義昭空間;⑧潤者サービス
広場
22オルー広場公志望壷琵諾土浩警詣警讐諾‰要語荒⑧小規模な店舗・
23ミー砦屋上施霊芝場萱事等琶箪芸子認諾讐講義慧至芸警欝漂警護し鷺
r三・一ET
広場 〝巴隅′小切 屋上テラス 上に建設された近代建築
レジーナ・第二次世界①不規則な多角形;②4,890;笥駐車場屋上
24l−‥ト・∴亘l ∴∴∴‥‘了、−∴・、言‥♪∵三賞∴㌍
場屋上広場 施設広場 場へのアクセス
空間構成相は,①広場の外形,②面損(一一一ゴ),③広場の輪郭,④広場周辺の一日帥肱⑤広場内の特徴,また空閃利川欄は,
@日常的な利札⑧≠業所柑鋸蔦,垣吊」民闇路,⑨川途・転操をよす′いずれも特徴的な点を中心とし,記絨弼項がない場
合は現上目と卜休を省略したい
[即日酬瞞成および空闘利川は現地調査による(〕形成日用は,Al・tlZZlle紬Z.(1989),KlrOVae細目1985,1995),
丸Jlasalae上山(199U,PrlnClpe(1981),RoIllagnino(2005),Scano(1989)′こ1の文鵬ケ淵にもとづく(、l妬机に闇しては,
サルデーニヤ州政府が提供しているWebGIS,Sa】・degnaMappeのLでtl該広場の輪狛こ合わせたポリゴンを作成し,その
面確を計測する方法をとった′/」ミしたのは,広場と一休化した空Uをなす術路部分および広場内の施識等を含むl妬紋である(〕
リアリに限らず,歴史地区にはこの種の不定形な広場が多い。
そうした広場のひとつ,サヴォイア広場(写真6)の起源は,中世のマリーナ地区の町外れを通っ
ていた小道の交差点である。駐車スペースと化していた時期もあるが,市艮の手による地区再生を
求めるグルッポ・チュルモなどの活動が実を結び,歩行者専用地区化と広場デザインの変更が施さ
れて以来,小規模な商業や文化活動が活気を生みはじめている。同じマリーナ地区の北東,後出の
サン・レミー砦のすぐ近くにあるイタリア殉死者広場(′′力‡7)は,リソルジメント(イタリア統
づ璽勤)で亡くなった殉死者に捧げられた広場である。Y字路の小さな空間だが,オリベスクの周
りは若者がよく待合せ場所にしている。2011年3月のイタリア掛目一150周年記念行事は,このオ
リベスクを背景にした国旗の掲揚と楽隊の演奏とともに始まった(写真27左)。
3,近代に計画された広場
近代都市計画による広場の開設
カリアリの都市空問が大きく変化しはじめるのは,19世紀のリソルジメントの時代である。
1858年,スタンパーチェ地区西の高台に,扇形の特徴的な平面をもつサン・ジョヴァン二・ディ・
ディーオ市民病院が創業した。かノアリの近代都市計画に大きな功績を残したガエターノ・チーマ
ー185 −
∴∴∴∴∴
写真1カルロ・アルベルト広場
写真2 インディペンデンツア広場
酢史的な椰力の申心をなすソ:雄.jに聞かれた広場りィ,トの
軒伸二一合の奥にピサ・ロマネスク様式の人聖非のファ
広場の床面に優エな舗右のデザインが施された,カリア
リでは数少ない広場のひとつ、)ピサ人が建てたパンクラ
ツイオ塔から兄下ろす。、
サードがみえるく−
写真3 サン。ジャコモ広場
写真4 サンテウラリア広場
サン・ジャコモ教会とオラトリオが両する広吸 は場を
構切る交通の動線を限定するために,合1日イーパターンの異
なる街路を斜めに適すデザインに変えられた
カタル一二ヤ・ゴシック様⊥しの内部をもつサンテウラリ
ア教会前の傾斜地に造られた広脇 オープンスペースが
少ないマリーナ地lX▲では,H重な」′どもの遊び場。
写真5 サンテフイジオ広場
写真6 サヴオイア広場
サンテフイジオを祀る教会の前の小さな広吸∴柵で…っ
れ,ふだんは人形が少ないが,サンテブイジオ祭の日に
は,㌘りの行列とu物人で理め尽くされるぅ
歴史地区では,辻が広がって広上射ヒしている場所が少な
くない、マリーナ地メ ̄のこの広場は,テラス状に聖地す
−186 −
ることで,似斜地に水判l′蔓lをつくり川しているL
写真7 イタリア殉死者広場
写真8 マッテオツティ広場
カリアリ馳・のショッピングモールをなすマッノ通りを
広場の中からカリアリ駅〟=rHをとらえた‘′J宜∫ fl嗣こ11J
亜進すると,このY字形の交差点広場に州るく」夕刻には,
Ⅲ物や散策を楽しむ人々が街路 一附こ繰り出すくノ
バスの停留所があるノ広場を被う樹木のおかげで.地申
海の強い日差しのもとでも,涼しい日陰が保たれているし、
写真9 カルミネ広場
写真10 サン。ベネデット広場
q幣のとれたカジュマルの亜木が広場を取り巻く。舶こ
カリアリのエトワールj という俗称をもつ広場だが,内
木に隠れて郵蝕局の建物がみえる(、卜川桁学才には,広々と
したオープンスペースを使ってHjが、∫/つ
部の茫涙とした空問が視党的印象を薄めている‖空申を
縦横に走っているのは,路面■.別一人の架線であるり
「▼ 」.1Lh
写真11共和国広場
写真12 サン・ドメ二コ広場
大雨齢の交差点広場は,全休的な空理構成が附みにくく,
カメラの被′′J’休として小向きである。広場裾榊)木々の
宮路の椰fの木を小心とする空聞緑∴鍬的釦こ幣附され
たばかりである 獅路を挟んだ奥にサン・ドメニコ教会
背後は粧車場になっている。
がたっているが,広場側人目はふだんは聞ざされている′
−187 −
写真13 宮殿広場
写真14 コツコ・オルトウ広場
旧帝付合の窓から広場を亡?!む′/日用のl’‡い建物か鋸県庁
の紳LH■:左’殿であるし、広場が無味・紛既な駐車スペースに
なっている現状がよくわかる
ヨーロッパも達人級の2椚建て損両市場ガ履、場の中火に瀧
澤されている 公蔓鋸」場は,郊外の新しい11瓶地に地区
としてのまとまりをノ卜みたすことに貢献している「,
写真15 ジョヴァンニ23世広場
写真16 イェンネ広場
丹柚Ⅰ抱く場の場合と相槌,広場の全体像は空から兄ない
と掴めない∴ぢ貢は,サン・パウロ教会西側の公園とし
奥にみえる彫像がかレロ・フェリーチェのモニュメント′
屋外テラスを閲に挟み,いちばんF前がサルデーニヤ北
てj一読近整備されたエリア′
l舶l;へ向かう街道の始点を小す道檻である(、
写真17 ガリパルディ広場
ノ「側がアルベルト・リーヴァ小学校とその前のテラス(− カリアリに点在する「緑の11傘」広場のありノノを端的に
カジュマルの木が′しい茂る空鉦軋交光点内に酬毒され ヵミすのが,この広場である、Ii糾ナと風通しを由1′二させ
た公園エリアである′ る木一′二であることが,一1上して州仰される.
−188 −
写真19 憲法広場
写真20 サン・コジモ広場
サン・レミ一方号がl両するこの広舶ま,・㍑すると,たん 紀元5∼Gll〔紀に起源をもつサン・サトウルニーノ教会
なるU−クリ一式の交通空問にすぎないが,南東別j(」′J:前の広場′この教会は,建築史や建造物の修復・1杵を
真挺)には小規模な公園が造閂でれている′ノ 他強するにはもってこいのフィールドであるノ
写真21アメンドラ広場
写真22 オルー広場
自動車の往来が激しい淘常用宮、のr]−マ通りの傍らで,カリア中辛心部ではもっとも落ち羞きのある広場のひと
忠つくことのできる馴jく\カリアリのウオーターフロ つ、了拝やかさはないが,日常牛前のリズムに榊ナ込み,
ントは,まだlり′仁途卜であるし
地区の人々によく利用されている空榊である
写真23 サン・レ三一砦屋上広場 写真24 レジーナ・エレナ駐車場屋上広場
榊)尻仁広場は 鎚滞船こなっている√ウノ′穴は,=如、 へ耐こスプレーの落パきがみられるり地中海酢!滝と落壬1;
ら見卜ろした風力沌とらえている 奥の裾判い構造物の きには比較的覧容美が,この場合は,人l−対円㌧き届かず
卜が憲法広場へ卜りる大理√−のスロープとなっている 梢緑化されたソ:刑の失態を去しているように思われる′
一189 −
(GaetanoClma)の代表作である。病院西側の斜面には,まもなく植物園が開かれた。19世紀後
半になると,スタンパーチェ地区の南側,ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世通りから港までの
エリアが市街化される。この通りは,サルデーニヤ北西部に通じる前近代カリアリの主要街道の起
点部分をなし,ピサ人が建設した園部のすぐ南側を走っている。通り北側の中田こ起源をもつエリ
アをスタンパーチェ上手地区,南側の近代の町を同下手地区とよぶことにする。
近代都市計画が最ネ別こ開発の矛先を向けたのがスタンパーチェ下手地区である。その過程で,マッ
テオッティ広場(写真8)とカルミネ広場(写真9)という2つの広場が開かれることになる(〕い
ずれも,それまでのカリアリにはなかった大面積の長方形の広場であるが,100年以上を経た現私
広場らしい求心力のある空間になっているかどうかは,疑問なしとしない。
馬車や自動車を導き入れた近代以降の広場は,達接した建物が囲続する中近世の広場のような心
地よいまとまり感を欠いている。この点は,ヨーロッパの多くの都市に共通するが,近代のカリア
リに聞かれた2つの広場には,もうひとつ抜け落ちているものがある。市民にとって象徴的な意
味をもつ建造物が,広場全休の雰囲気をまとめる役割を果たしていないのである。
カリアリの市庁舎は,1907年にカスチッロ地区大聖堂横の宮殿を引き払い,マッテオッティ広
場向かい側の新しい建物に移った。しかしこの広場は,もともと市庁舎建設を見越して開かれたの
ではない。19世紀後半における都市発展の榊由となったのは,1879年に港の西側に開業した駅を
起点とする鉄道であった。駅のすぐ前に整備された樹木の生い茂るパルテールのごとき空間が,マッ
テオッティ広場の始まりである。世紀末には,広場の北側にネオゴシック様式のヴィヴァネット宮
殿が威容を現す。そして,その東隣に後から進出したのが市庁舎である。
たしかに,市庁舎の移転は,都市権力の重心がカステッロ地区から離れ,港湾エリアへ降りてき
たことを強く印象づける。移転を決めたのは,世紀の変わり闘こ通算30年も市長を務めたオットー
ネ・バカレッダ(OttoneBacaredda)が率いる市議会である。「市民宮殿」(palazzocIVico)の名
でよばれる新市庁舎は,白い大理石をふんだんに使い,当地ではリバティ様式とよばれるアール.
ヌーボー風の意匠を,カタル一二ヤ・ゴシックを想起させる八角形の2本の塔で引き締めている。
しかし,市庁舎ができた後も,マッテオッティ広場は多種の樹木が生い茂る公園広場のままであり,
もともと弱かった市庁舎と広場の関係性は,問を走る海岸沿いの基幹道路,ローマ通りによってほ
とんど断ち切られている。鉄道駅に加えて南側にバスターミナルが開かれたこともあって,広場を
取り巻く空間を往来する市民の動きは活発である。また,交通の結節点ならではの商業や飲食業の
賑わいもある。しかし,それらは広場の存在から刺激を受けたものとはいいがたい。カーニバルの
行進の始点は,マッテオッティ広場の周りに定められているが,これも,駅前のバスの溜まり場と
ローマ通りがつくる広いオープンスペースの存在によるところが大きいのではないか。
とはいえ,マッテオッティ広場は,市民にとっての象徴性とは別の領域で,その後のカリアリの
広場の特徴を大きく方向づけることになる。エキゾチックな樹木がつくる木陰の空間である。この
ほとんど椀物園のような様相の広場に柚えられた樹木のなかでも,イチジク科のカジュマル(Fi。uS
retusa)とオーストラリアバニヤン(FicusmagnollOides),スペイン・カナリア諸島原産のカナ
リア榔子(FhoenlXCanariensis)などは,他の多くの広場にも応用された(写真25主
みごとなカジュマルの木に囲まれた広場の例は,マッテオッティ広場の近傍,スタンパーチェ下
手地区の中に開かれたカルミネ広場にみることができる。マッテオッティ広場と同様,近代都市計
画の産物のひとつであり,興味深いことに,広場の雰囲気を規定する中心建造物を欠くという意味
でも共通している。北側には道を挟んでカリアリ中央郵便局がたっている。郵便局は,国家の存在
を象徴しているといえなくはないが,かノアリ弓 ̄喚局の場合は,広場の計画とは関係のない1930
−190 −
写真25 カリアリに木陰をつくる樹木
イチジク科のカジュマルとオーストラリアバニヤンの亜木ほと,カリアリの広場錆摘観を特徴づけるものはない、)カジュマルの
ある広場では,イェンネ広場の例にみるように,多数の美の落卜による路面の汚れを防ぐために,美を一都ナるネットがしばし
ばと‡ ̄拍つけられている(ノー)(、カスチッロ地区北軋車力二美術ギャラリーに累がる公陸iでは,地拍lに最うように立派な相通を
広げたオーストラリアバニヤンをみることができる拓))
年代の建築である。広場から見ると,大きく成長したカジュマルの並木がファサードを隠している
ことからも,広場のデザインにおいて,郵便局の存在を強調する意図のないことがよくわかるぐ〕広
場の景観に与えるインパクトとしては,剥き出しの煉瓦に白い石材を組み合わせた新[l埴主義様式
のセバステイアーノ・サッタ小学校をあげるべきかもしれない。1904年に創立された歴史ある学
校で,カルミネ広場の血側にたっている。
カルミネ広場をマッテオッティ広場と比べると,カジュマルの並木に囲まれているとはいえ,内
狛こ十分な広さの開放空間をもつ点が,デザイン上の特徴として浮かび上がる。また,駅前の広場
とは違って,足早に広場を耕切る歩行者や日動車の通過交通が少なく,落ち新いた雰囲気がある。
このため,午後や週末は,子ども連れの家族が遊び場としてよく利用しており,即断二前には,広
場内にサルデーニヤの特産品や皆董品を並べた苗が立つ。
モニュメント性の追求
1920年代に入ると,巨大な交差点広場が開かれ,カリアリの都市景観は大きく変わりはじめる。
ムッソリーニ体制のもと,イタリアの多くの都市でモニュメンタルな都市改造が推進された時代で
ある。とくに著しい変化を経験したのは,サルデーニヤ西部カンピダーノ地方などから激しい入日
流入を受けたヴィッラノーヴァ地区だった。人口増加に対応するするために計画された当時の郊外
地区において,中心をなしたのがサン・ベネデット広場(写索10)である。
6本の放射状街路が集まるこの広場は,「カリアリのエトワール」という俗称が象徴するように,
見る者の視線を意識し,郡市景観を刷新する明確な意図のもとにデザインされた。他の多くのイタ
リア都市で行われた透視効果をねらうバロック的な都市づくりが,遅れ馳せにカリアリでも試みら
れたのだろうか。しかし,パリの凱旋門が有するようなモニュメント僅は,サン・ベネデット広場
にはない。また,起伏の豊かなカリアリにありながら,もっとも平坦なエリアのひとつに計画され
たため,1眺望が得られず,広場の景紬ま抑揚を欠いている。建設当軋路面電車が構切っていた広
場中央のロータリーも,自動車交通の活発化にともなって撤去され,その跡に視覚的なまとまりを
欠く茫漠とした空間が生まれた。
現在のサン・ベネデット広場は,もっぱら自動車交通のための場所となっている。人口の多い地
ー191−
区の中心部を占める広場だけに,歩行者は少なくないが,交差点の反対側に出るには,広場を周回
しつつ信号機のある街路を2∼3回渡る必要がある。歩行者の利便性を重視したデザインとはい
いがたい。歩道上にテラスを設置しているカフェが1軒あるが,交通の結節点をなす場所のわり
に消費者サービスは活発でない。
他方,ファシズムの痕跡を色濃く残しているという意味では,サン・ベネデット広場を南北に貫
通するカリアリの新しい目抜き通り,ダンテ通りを下ったところにある共和国広場(写真11)を
あげなければならない。この広場は,東辺のやや高い位置にたつ裁判所を中心にデザインされてい
る。裁判所の両脇を固める街路が広場の中心に向けて収赦し,角度を変えてダンテ通りと交わる。
街路部分を含めると面積1万50001n2弱となり,同時代のサン・ベネデット広場と比べても突出し
て大きい。裁判所の建物は,幅約150mのファサードの中央に地面から最上階までを貫く列柱の
門をおき,見る者の視覚を圧倒する(写真26左)。これはムッソリーニ体制が好んで使った建築
意匠であり,ローマ大学学長室やミラノ裁判所など,類似の事例は多い。
組織の偉大さを強調するようなヒューマン・スケールを超えた構造物は,町のなかの賑わいの創
出に貢献しない。共和国広場にあっては,全体の雰囲気を規定する裁判所の建物が巨大であると同
時に,広場そのものも大きすぎて見通しが利きにくい。また,モニュメント性を大きさで表現して
いるがゆえに,かえって市艮の空間認知を妨げているのではないかと思われる。広場の名がついて
いるが,駐車場と化した裁判所前のいささか仰々しいスロープと若干の植栽以外は,絶えることな
き自動車の流れを整理するための空間になっている。広場の外縁をなす街路に面して飲食店が数軒
聞かれているが,広場空皿への統合度は低いく)
なお,附言しておくが,ムッソリーニ体制期の建築がその後忌み嫌われてきたかといえば,必ず
しもそうではない。興味深いことに,ファシズム様式と通称される特徴的なスタイルは,第二次世
界大戦後も,1950年代頃まではイタリア建築のひとつの流れとして存続した。筆者が客員教授と
して滞在したカリアリ大学外国語・文学部の現校舎がその一例である。カステッロ地区西側の岩を
穿った土地に戦後できたこの建物は,ファシズム様式の特徴である極端に縦長の半円アーチのエン
トランスを中央に配している(写真26右)。当初は病院として建てられたが,数年前に大学が取
得して再利用している。
第二次世界大戦下の爆撃の痕跡
イタリア都市は,ドイツなどに比べて戦災が全体に軽微であったといわれる。しかし,カリアリ
は,第二次世界大戦中の1943年に適合制こよる激しい空爆を受け,中心郡の建造物の多くを失った。
戦後復興の過程では,少なからぬ土地が街路の直線化・拡幅などを目的とする収郡)対象となった。
現在のカリアリにある広場にも,爆撃による破壊を契機に開かれたものがある。
マリーナ地区,ローマ通りの一一・本要筋にあたるサルデーニヤ通りでは,身廓と左側の小礼拝室を
すべて失ったサンタ・ルチア教会が無残な姿を晒している。右側の3つの小礼拝室は爆撃を受け
た当時の姿のまま残されており,崩れ落ちた部分がオープンスペースになっている。廃墟を前に小
規模なイベントを開くことが可能だが,柵で囲われふだんは鍵がかかっている。ヴィッラノーヴァ
地区の聖ドメニコ修道院も,空爆でほぼ完全に崩壊した。1950年代の再建時には,教会の入日と
鐘楼のあるサン・ドメニコ通り側が,なだらかな幅広の階段で街路に繋がるデザインとされた。
般家屋があったと思われる通りを挟んだ反対側は,長らく空地状態で放置され,駐車スペースと化
していたが,数年前,白い石材を敷き詰め椰子の木を配した広場に再整備され,教会側と連続する
開放的な空皿をなしている(写真12)。
ー192 −
写真26 カリアリのファシズム様式建築
ムッソリ ̄ニ†棚は,rl「代ローマ遺J糾)紺挿須こ・重きをおいた都市改造を実行するとともに,イタリア絡地に特徴的な建築物を
威した=カリアリでは・共帥肱場にたつ裁判所の建物(ノ圭二)が代表的であるが,他にも,相克三石号矧塚(cal−al)1111el・l)木部
の建物やカリアリ人里掴綱川い文学邦の鋸校合(相などがある日1950肘仁に建てられたカリアリ人一一の建桝もファシズ
ム様⊥にが第・次世非人戦後もしばらく継承されたことを小すが例であるノ
しかし,爆撃の痕跡を示すもっとわかりやすい事例は,カステッロ地区の歴史的権力の中枢部に
ある。14世紀にカリアリを征服したカタル一二ヤ人が支配拠点とした,副王宮殿の前の広場であ
る(写真13)。宮殿は現在,サルデーこヤを構成する8つの県のひとつ,カリアリ県の庁舎として
使われている。表面的な空間構成のみをみるとスペインのマヨール広場を連想するが,この場所に
広いオープンスペースを聞くきっかけをつくったのは空爆による破壊である。紬読広場が現在の
大きさになったのは,1972年,爆撃の後遺症で崩壊の危機に瀕していたサン・プラチド館が取り
壊されたときである。紆余曲折を経て実現した広場であるが,歴史地区最上部を飾る庁舎前の空間
であるにもかかわらず,現在の用途はもっぱら駐車場となっている。
4 溜まり場をなす広場
交差点での広場空間の構築
さきにヒューマン・スケールを超えると述べた大面積の交差点広場は,第二次世界大戦後もつく
られつづけたが,都市の空間整備の視点から多様な工夫がみられるようになる。そのひとつは,整
地と街路建設だけではたんなる交通整理の空間になってしまう広場に,公共性の高い施設をセット
で配置するというものである。とくに,サン・ベネデット地区に典型的な事例を兄い出すことが
できるっこれは・前出のサン・ベネデット広場から南北に延びるダンテ通りを基軸に形成された,
20世紀カリアリの拡張地区というべき性格の中間層の居住地区である。
サン・ベネデット広場にほど近いコツコ・オルトウ広場(写真14)は,1万850m2もの面積を
占める長方形の空間で,周りを囲む街路まで含めれば1万5000m2を超える。ここでは,大部分が
1957年に開設された公設のサン・ベネデット市場の敷地に充てられた。増大する地区人口の需要
に応え,同時にカリアリ全体の中心市場となることをめざして開設された施設であり,屋内市場と
してはヨーロッパ最大級に位置づけられる。広場は毎弧市場に出入りする買物客の往来や建物の
外側に展開する行商人の露店の賑わいで包まれる。また,生活感が溢れる中間層の居住エリアらし
く,広場周辺の街路には,凝ったショーウィンドウの小規模店舗が多数展開しているぐ)
ダンテ通りを北に進むと,突き当たりがジョヴァンニ23世広場(写真15)になっている。第二
−193 −
次世界大戦後の復興都市計画で誕生した広場であるが,4万m2超という,全体像を掴むことがも
はや困難な規模である。ここでは,サレジオ会のサン・パウロ教会と併設のオラトリオが広場中央
の広い敷地を使い,公園が取り囲むレイアウトになっている。集会所は,サレジオ会の若いリーダー
らが1980年代に立ち上げたゴスペルのグループ,「ブラック・ソウル」の活動拠点でもある。地
元カリアリやサルデーこヤはもとより,他の団体と連携してフィレンツェをはじめとするイタリア
都市,そしてスペインのサンティアゴ・デ・コンポステラなどにも活動を展開している。
とはいえ,交差点広場に対して親しみや生活感を与える工夫としてもっとも定着しているのは,
広場の一部を広い歩行者空間とし,公園を造営したり,オープンテラスとしての便剛こ供する方法
である。その典型は,現在のカリアリ随一一の目抜き通り,カルロ・フェリーチェ通りの最上部に位
置するイェンネ広場(写真16)にみることができる。これは,前近代の市門前広場から転換され
た空間であり,カルロ・フェリーチェ通りのほか,ショッピングモールをなすマッノ通りや前近代
の主要街道に繋がるヴィットーリオ・エマメェーレ21旦通りが交差している。ロータリーの中心
にカルロ・フェリーチェのモニュメントが置かれ,それを視界に収めるかたちで整備された歩行者
空間に飲食店のテラスが多数展開している。カリアリ中心部にある屋夕けラスの空間として,もっ
とも成功しているのがイェンネ広場であろう。
交差点広場の一一一・部を公園にしている潮列としては,ヴィッラノーヴァ地区とサン・ベネデット地
区の境をなすガリパルディ広場(写真17)が特筆される。1万m2近い広大な交差点広場であるが,
アルベルト・リーヴァ小学校の近代建築がたつ西側の約半分をカジュマルの並木に覆われた公園と
することで,広場の名にふさわしい市民の溜まり場をつくり出している。また,規模やデザインは
各々異なるが,治安警察隊本部の対面をなすグラムシ広場(写真18),サン・レミー砦が而する憲
法広場(写真19)をはじめ,カリアリの多くの交差点広場に同様の空間を兄い出すことができる。
樹木とともに育った広場文化
カリアリの多くの広場や街路に使われているカジュマルは,元来,熱帯に育つ樹木である。日本
では沖縄に自生しており,カジュマルという言葉も沖縄での呼び名である。熱樺性の樹木のなかで
は耐寒性があるとされるが,舗装で覆われた都市的環境に適するかどうかは議論の余地があろう。
垂れ溶ちてくる気相を処理しなければならないし,放置すると枝葉が過剰に成長して街路が暗くな
る。実際,成長した主幹の根が舗装や路肩の石を壊しているのを幾度も目にした。
しかし,実際の広場の様子をみると,この手間のかかる木が実に快適な木陰を提供していること
に感心させられる。発適した柑冠が地中泡の強い日差しを遮り,それでいて,カリアリを特徴づけ
る風は幹の閥をすがすがしく吹き抜ける。街路網の所々を穿つように開かれたそれらの空闘ま,広
場か公園かという制度上の区別とは無関係に,夕方や週末の時間をすごす身近な憩いの場として,
カリアリ市民の生活リズムのなかに定着しているようである。固い構造物にはないはどよい包まれ
感が,溜まり場にふさわしい雰囲気を醸し出している。
また,注意深く観察すると,同じ木々が生い茂る広場でも,場所によって集まる人々の層が異なっ
ている。カリアリでもっとも古いとされる初期キリスト教会,サン・サトウルニノ教会前のサン・
コジモ広場(写真20)は,親に連れられた小さな子どもの恰好の遊び場である。前近代の船渠の
跡地に整備されたアメンドラ広場(写真21)は,昼前や夕刻になるとおしゃべりに夢中の中高年
で賑わう。オルー広場(写真22)は,マッノ通りから繋がるモールをなすガリパルディ通りのす
ぐ近くにあるが,喧騒とは無縁のヴィッラノーヴァ地区住民の溜まり場になっているようである。
ヨーロッパ都市で木々が生い茂る公園といえば,産業化がもたらした煤煙からの解放を訴える
−194 −
19世紀の衛生思想が想起される。当時の人々は,近代化・産業化とともに息苦しくなる都市のな
かに,生き物にとっての肺のような呼吸するための空間を求めた。そうした思想的潮流からカリア
リがどの程度影響されたのかは,それ自体,ひとつの研究テーマになりうる。非常に穿った見方を
すれば,街中に点在する縁の日傘を被せたような空間は,遅れて到来した近代の流行が固形化し,
現代の都市空間に居座りつづけた残澤のようにみえなくもない。しかし,マドリードのマヨール広
場ですら,19世紀後半には,樹木が整然と植えられたパルテールだったのである。とすれば,カ
リアリが近代以来つくりつづけてきた公園広場は,たんなる公園の域を超えて,将来に向けて継承
すべきひとつの広場文化のかたちというべきなのかもしれない。
屋上の「固い広場」
他方,木々に覆われた癒しの空間であっても,大掛かりなセレモニーやイベントを行うには不向
きであることは否定しがたい。前近代から受け継いだ中心広場を欠くカリアリは,意外なところに
ハレの場となりうる空問を創り出した。白い石材を敷き詰めた屋上の「囲い広場」である。
カリアリの固い広場を代表するのは,すでに言及した憲法広場に而してたつサン・レミー砦の屋
上広場(写真23)である。19世紀末,中近世の複数の砦を取り込み,その上に建設されたこの砦
は,当時まだ都市権力の中心だったカステッロ地区をヴィッラノーヴァ地区やマリーナ地区と繋ぎ,
カステッロ地区の新しい玄関口となる使命を負っていた。しかし,20世紀初頭に新しい砦が完成
すると,すでに市庁舎はマッテオッティ広場向かい側の新しい建物に移り,カリアリにとってのカ
ステッロ地区の中心性はほとんど失われていた。結局,サン・レミー砦は,町を一望できる一一一種の
公共テラスとして市民の利用に供されることになり,砦内部の広々した回廊は,展示会などの催し
物に活用されている。2011年3月のイタリア統一記念行事では,サン・レミー砦屋上広場がメイ
ン会場のひとつとされ,広場の舗石を舞台とする市の三楽隊の合同演奏が夜空に響き渡った(写真
27右)。また,工芸品・美術品市など,より日常的なイベントにも頻繁に利用されており,広場北
側には.眺望を楽しむことができるカフェの屋外テラスが設営されている。
屋山こ固い広場をつくったのはサン・レミー砦だけではない。一例が,結近代のパラツツオ砦の
跡地に建設されたレジーナ・エレナ駐車場の屋上空間(写真24)である。カステッロ地区のスペー
ス不足を理め合わせる役割をもつ駐車場であり,傍らには,圧上の副王宮殿(鋸県庁)横の広場に
至る公共のエレベータが設置されている。さらに,駐車場の屋上を開放しているわけだから,空間
の活用法としては,まずまず工夫されているといえる。もっとも,建物そのものが低いので眺望が
得られないし,駐車場の利用率が低迷している現状では,市民生活の重要な勤線上に位置している
ともいいがたい。ときおり少年たちが平らな屋上面でスケートボードに興じているのをみかけるが,
それを除けばサン・レミー砦の活発な利柳こはほど遠い状況にある。
5.おわりに−公共空間としての広場
「緑の日傘」広場
これまでの分析が示すように,カリアリは,市庁舎を中心にしたシエナのカンポ広場や大聖堂と
総督府がたつヴェネツィアのサン・マルコ広場のような,都市全体にとって明らかな中心性をもつ
広場を欠いている。市庁舎と対面する広場がないことの基本的な理由は,ピサ,カタル一二ヤ,ピ
エモンテなど,外部勢力による支配を次々と受けた中近世のカリアリにおいて,イタリアの他の地
域にみられるような自治都市が成立しなかったという歴史的経緯にある。要塞都市の原型を築いた
−195 −
写真27 かノアリにおけるイタリア統一150年記念行事
リソルジメントの起点となったのはサルデーニヤ日刊であるが.董二回の申心はピエモンテにあり,サルデーニヤは洞内で従
属的な地相におかれていた′Jサルデー二ヤにとってのイタリア統一は,本_上とのゝ巨等の速成をも意味した′ノまた,南北和の粋
済精力′に特徴づけられるイタリアにあって,卜掴〕朝をなすサルデーニヤは,瞞家財政を通じたn勅封州己分の恩恵を受ける、董′二
場にある それだけに,イタリア統▲に対して塵い思いを抱いているサルデーニヤの人は多い∫)
ピサ人からからカリアリを奪い取ったカタル一二ヤ人は,カステッロ地区の高台に副王宮殿を造り,
身分制議会を大聖堂を挟んだ南隣に置いた。
政治・宗教権力の存在を際立たせる広大な広場が開かれたわけでもない。カステッロ地区への居
住権を独占したカタル一二ヤ人は,要塞化した地区の砦からサルデーニヤ人らが住む地区を見下ろ
し,不穏な動きに徹こ日を光らせていた。広場ではなくカステッロ地区の丘そのものが,眺望を支
配することによって権力を顕示する場所になったというべきかもしれない。皮肉なことに,副王宮
殿前にまとまった面積の広場が完成したのは,この宮殿が統一一国家イタリアの県庁となり,さらに
カリアリの市庁舎が港の近傍へ移されたのち,つまりカステッロ地区がもはや都市政治のl二圧、でな
くなった現代なのである。
19世紀後半には,近代都市計画のもとで,港と鉄道駅に近いスタンパーチェ下手地区にいくつ
かの方形の大きな広場が開かれた。しかし,それらは,前近代の不規則で狭小な街路空間と決別し,
周到に計画された市街地に縁豊かなオープンスペースを配置することを主眼としていた。駅前に開
かれたマッテオッティ広場の近くに新市庁舎が建った後も,両者の間に空間構成からみた銃血感が
生まれることはほとんどなかった。近代カリアリの広場は,市民アイデンティティを象徴する存在
にはならなかったし,かといって,権力を誇示するための空間として機能しているわけでもない。
他方,現在のかノアtJにおいて,都市空間に活気を生み出しているサヴオイア広場やイェンネ広
場などの例をみると,囲続性が高く境界の明瞭な広場ではないことに気づく。むしろ,徒歩交通の
結節点をなす交差点にあって,市民の存在によってはじめて広場らしい雰囲気になる,−【M・種の界隈
に近い空間的まとまりである。オラトリオの活動の拠点となっている教会前の広場も,多くは,計
画性に乏しい小規模な隙間空間というべきものである。もちろん,そうしたアモルファスな広場の
発達を促す立地や空間デザインが,必要条件として存在することはいうまでもない。
とはいえ,カリアリをもっとも特徴づけるのは,カジュマルやオーストラリアバニヤンの並木を
配した多数の公園広場であろう。そこには,家庭や職場の繋がりとは闇係のない者どうしが話し込
み,ベンチで読書に耽ったりパソコンのキーを叩いている人が,通りがかった顔見知りと言葉を交
わす日常性の空間があるこ,駅前にパルテールのようなマッチオッティ広場が開かれてから1世紀
余りを経た今日,「緑の日傘」広場は,気候風土への適応性と樹冠の連なりが生み出した独特の景
一196 −
一_二 一一 一 −_ r
正道町て
lil S
写真28 カリアリでの原発反対を掲げる示威運動
イタリアは,チェルノブイリの胴文を契機に,1987年の国民批】jtjで偵イカ発電所の励仁を決定した.いわば肌原究用である乙J
Lかしその後,フランスなどからの輸入に頼る7力政策が,猛署寸での付竜といった危機的状況をもたらしたく偵発回哺ほめ
ざすへルルスコ一二政権によって新月揖紬:紬射)ひとつされたサルデーニヤでは,以仁,州政府を兄頭とする広睡な反対運
動が巻き起こっているrノそうした状況のなかで,福島の涼発車故が発′‡iしたノ
観ゆえに,カリアリの文化遺産というべき域に達しつつある。近代以降の広場の発達過程からは,
権力が存在感を主張しない木陰の空間こそが,カリアリに育った広場のあり方だということがみえ
てくる。
市民が声を上げる場所
もちろんそれだけではないく⊃カリアリの広場は,しばしば市民が声を上げ,権力に異議申し立て
をする場にもなっている。2011年3月12日午前,ファシズム様式の裁判所がたつ共和国広場は,
政治によるメディア操作や公立学校教育の充実などを争点に,共和国憲法の堅持を訴える集会の場
と化した。メディア主たるベルルスコ一二首相の介入を批判し,報道の自由を訴える全国組織が仕
掛けたデモである。ときおり小雨の降る寒い朝にもかかわらず,強い風にはためく三色旗の間をイ
タリア憲法を手にした人抗議のプラカードを掲げる人集会のチラシを配り歩く人が埋め尽くし,
広場の雰囲気は盛り上がった。
2週間後の3月26日午後,5月中旬に予定されている原子力発電所建設反対をめぐるサルデー
ニヤ州の住民投票に向けて,反対の意思表明を呼びかける数多くの団体と持氏がジョヴァンニ23
世広場に集まった。先頭には,反対運動を指揮する委員会のメンバーが立ち,「原発反対住民投票
で“Yes”¢)投票を」(反対の意思表明を)とサルデーニヤ語で書かれた横長の垂れ幕を掲げ,ゆっ
くりと歩みを進める。共産党や労働組合などの左翼に加え,イタリア内でのサルデー二ヤの自立を
めざすナショナリストの存在が目立つデモ行進だった。とはいえ,サルデーニヤにおける原発反対
は,ベルルスコ“二の覚「刃由の人艮」に属するウーゴ・カッペラッチを【、・†班とする州政府を筆頭
に,右翼・左翼を問わぬ全島的な運動に発展している。そうした折,東日本大震災による福島の原
発事故が重なり,運動は,日本との連帯を訴えつつさらに勢いを増した(写真28左)。
地中海都市では,こうしたデモ行進でも神経を尖らせる雰囲気はなく,参加した人々はそれぞれ
の感覚と趣味で行列を盛りとげる。自転車に乗って地球環境保全を訴えるグループがトップを切り,
四輪駆動車の荷台に後ろ向きに立ち,大害響のポップスとともにユーモアの利いたアジ演説を繰り
広げる指導者が行列全体を引っ張る。その後に各種団体に混じって−一般の市民が続く。垂れ幕を背
中に巻いた若者,顔にメッセージをペイントした女性,幼児を乗せた乳母車を押し犬を連れて行列
−197 一
に加わる家族,アイスクリームを食べながら歩調を合わせる中年のグループ等々,運動への共感で
結ばれていれば形は関係ない。2キロメートルほどの行程を約2時聞かけて練り歩いた長大な行列
は.ガリパルディ広場に流れ込んだ。アルベルト・リーヴァ小学校前にある高さ数メートルのテラ
スの欄干に,運動の指導者たちがかわるがわる上って演説する。カリアリには見当たらないと思っ
ていた,大勢の市民にアピールするためのバルコニーが意外にもこんな場所にあったのである(写
異28右)。
独裁を経て民主化された地中海都市では,たとえば市役所前の中心広場にたつ家屋のファサード
のように,公権力の鼻先にある多数の人の目にふれる場所で,政治家への批判が公然とかざされる
ことも珍しくない。さまざまな立場の人が顔を見せ合い,意見表明するための場を保証するのは,
広場に代表される公共空間が果たすべき重要な役割のひとつである。そして,公共空間に市民が自
由にアクセスできるためのルール,市民の共有財としての公共空間の質を高めるためのデザインも,
市民的な議論を通じて成熟させることが望まれる。
ガリパルディ広場では,カジュマルの木の抜根を含む広場の再デザインを企図する市に対して,
共有財産というべき樹木の保護を求める市民グループが反対運動を起こしている。歩行者専用空間
の拡大を目的とする地下駐車場新設において木の根が邪魔になるといった,厄介な事情が背景にあ
るらしい。都市というものが,さまざまな利′吉闇係のおりなす複耕系の空間だからこそ起きる問題
である。そして,その複雑な多面体をなすということ自体が郡市の魅力であり,底力でもある。
注
1)広場の空間的範囲については,建造物の住所表示を現地調査で確認し,広場名に番号を付した住所をもつ建物
を広場の外郭とみなすことを基本とした。広場自体ではなくそれに揺する街路が住所表示の基準になっている
場合は,街路との接合線までを広場の制囲はしている。また,これらの原則を適用できない若干の瑚列につい
ては,空間構成面の−【一体性を重視しつつ,個々の広場のデザインに即して判断した。
2)世界気象機関(W0rldMeteol・OjoglCalOTganはat−0−1)による1961∼1990年の30年間の平均値。
釦 本稿でいうオラトリオは.狭い意味での礼拝所ではなく,カトリシズムの友愛を基礎におく文化・スポーツ活
動を通じて鮎壷の発達を促し,地区住民の交流を深めるために教区教会が併設している施設のこと。
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