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概論1
概論1
概論1
ような意味を持つ二つの言葉がまったく別の起源を持ち、そのためまったく違っ
た響きを持つことがあります。時には、二つの言葉の想起させるイメージがあま
りにも違うため、類義語とは考えにくいこともあります。例えば、『草枕』の一節
で漱石は、「うつくしき人」という表現を用いています。確かに、「うつくしい」は
■やまと言葉と漢語:アングロサクソン語とラテン語
「美」という漢字の訓読み で、「ひと」は「人」の訓読みだとしても、これを「美人」と
するとまったく印象が違ってくるのは明らかです。ここにはまた別の要素もから
英語と日本語は、多くの点で非常に異なっています。例えば、英語は分離する
んでいます。つまり仮名と漢字の違い、そして文語体の語尾「き」の使用です。こ
言葉(孤立語)で、日本語は膠着する言葉(膠着語)であると言われています。つま
の訓読みと仮名と文語体という三つの要素がすべて合わさって、特有のイメージ
り、単純に言うと、日本人が文語体で「行くべからず」という言葉を使うとき、「べ
をつくり出しているのです。仮名と漢字の問題については、Unit 2 Lesson 7 で詳
きである」という要素と「∼でない」という否定の要素が動詞の語幹についています
しく述べることにしましょう。
が、英語ではこれらの要素を別々に表現し、 ought not go となるということです。
英語でも、同様な選択が可能なケースは数え切れないほどあります。例えば
さらに、日本語圏と英語圏における伝統的な文化の違いを考えると、英語と日本
“vocabulary(語彙)” と “words(語、言葉)” という二つの言葉をとってみましょう。
語にはまったく共通点がないように思いがちです。しかし、それは誤りです。英
前者はラテン語由来の言葉で、後者は古英語からきた言葉です。大人の知識の程
語と日本語には、歴史的な背景により語彙が二層構造になっているという共通点
度について話す場合は、「彼は語彙(vocabulary)が豊富だ」のように言うかもしれま
があるのです。
せんが、1∼2 歳の子どものことを話すのにこんな表現を使ってしまうと、もった
日本語には、「やまと言葉」といわれる日本古来の言葉があり、それに何世代も
いぶった感じに聞こえるに違いありません。とくにあらたまった文章の中でない
の間に大量の漢語が継ぎ足されてきました。その結果、日本語はとても豊かな言
かぎり、「○○ちゃんはだいぶ言葉(words)を覚えた」のように言うことでしょう。
葉になり、話したり書いたりするとき、起源の異なる二つの言葉から選ぶことが
翻訳者は、和文英訳、英文和訳のどちらにしろ、元の言語の話し手、書き手に
できるようになったのです。例えば「車」にするか「自動車」にするか、状況によっ
語の選択の余地があったことを理解し、実際にある一つの語が選ばれたことの重
て、あるいはどんな印象を持たせたいかによって、使い分けることができます。
要性を考えなければなりません。そうして初めて、目標言語(TL = T a r g e t
英語にも同じような状況があり、歴史的にみると古英語、中英語、近代英語に
Language)の中で、元の語に相当する語を見つけることができるのです。
大まかに分けられます。古英語は、アングロサクソン語とも呼ばれることからも
日本語と英語に見られるこうした語彙の二重性は、翻訳者にとっては言語レベ
分かるように、ゲルマン系の言語です。何世紀もの間に、他の言語が入り込ん
ルや使用域に関わるより大きな問題として意味を持ちますが、これについては次
で、元からあったゲルマン語に継ぎ足されてきました。大量のラテン語がキリス
のセクションで扱います。
ト教を通して英国に入ると同時に、11世紀に英国を征服したノルマン人の言語で
あるノルマンフレンチの言葉がたくさん入って来たことにより、非常に多くのロ
マンス語系の要素が加わり、日本語と同じように、語彙に二重性を持つことに
なったのです。上記の「車」と「自動車」のような簡単な例を挙げると、同じ「自由」
という概念を表すのに freedom と liberty という二つの言葉が使えます。
やまと言葉はゲルマン起源の英語に、漢語はロマンス系の語に(英語を日本語に
翻訳する場合はその逆)いつも翻訳できるならば、翻訳者にとっては非常に都合が
よいのですが、残念ながらそう単純なものではありません。それでも、翻訳者が
日本語にも英語にもそれぞれ語彙には二つのレベルがあるのを知っていることは
有益でしょう。それは一つひとつの訳語の選択の際だけではなく、翻訳する文章
全体の調子を決める時にも役立つからです。
類義語(synonym)はどんな言語にもありますが、日本語と英語の場合は、同じ
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■方言と使用域
ハリデイらは1964年に、言葉の変種(language variety)を、使い手に関するもの
と、使われ方に関するものの二種類に分類しました。前者の例として方言を挙
げ、それをさらに地理的方言、時代的方言、社会的方言、標準的・非標準的言
語、個人語(idiolect)に分けています。
小説などのフィクションでは、よく方言が会話文に使われており、翻訳者はそ
れをどう訳すか決めなければなりません。私が夏目漱石の作品を英訳したときに
出てきた例を二つ挙げましょう。『草枕』に出てくる江戸っ子の床屋と『坊っちゃ
ん』のべらんめえ調、坊っちゃんの教え子たちの「∼ぞなもし」言葉です。最初の例
では、江戸っ子をコックニー(ロンドンっ子)のようなものと考え、コックニー訛
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概論2
概論2
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おそらく、テクストについて言える最も基本なことは、互いに分離したセンテ
ンスの集まりではないということでしょう。そこには結束(cohesion)がありま
す。テクストの結束を生み出している要素はたくさんあります。結束は、一つに
はすでに考察したパラダイムの軸とは対照的なシンタックスの軸に沿い、文法や
■ コンテクスト化
統語法といった基本的なレベルにおいて生じます。
ひとまとまりの言葉がテクストとみなされるには、首尾一貫性
(coherence)
と結束
Unit 1∼2の各Lessonでは、語の直前直後のコンテクストがその語の意味の決
が必要です。テクストとは、単なるセンテンスの集まりではありません。次の例を見
定、つまりあいまいさの解決にいかに役立つかを考察し、冠詞と名詞、あるいは
てみましょう。
冠詞と形容詞の関係といったテーマを取り上げました。
何かを手がかりにしてある語がどのように用いられているかを決めるとき、そ
の語をコンテクスト化(contextualization)すると言います。これまでは主に単独の
John came into the room. Mary says she thinks she’ll buy a
new car. We found a stray dog in our garden yesterday. Would
you like a drink of water?
センテンスだけを扱ってきましたが、ここからはもっと広い範囲で考えていきま
す。というのも、テクストの理解の手がかりとなる要素は直前直後のコンテクス
この文には首尾一貫性がないので、テクストとは言えません。つまり、文を読
トに限定されることはなく、テクスト全体、さらにはテクストを超えた範囲にま
んでもそれが現実の世界と結び付かないということです。それぞれの文は文法的
で及ぶこともあるからです。翻訳者はテクストの翻訳に取りかかる前に、できる
には正しいのですが、全体として概念を成していません。
だけ広い意味でテクストを理解しておかなければなりません。このことを心に留
また、ひとまとまりの言葉がテクストと見なされるには結束も必要です。つま
めて、コンテクスト化情報(contextualizing information)をできる限り集める努力
り、テクスト全体を理解可能なまとまりとする言語レベルでの「論理的な連結」
をするのです。つまり、テクストの意味を理解するのに役立つあらゆる情報をす
べてのレベルにおいて集めるのです。
(logical links)がなくてはなりません。そのような談話の連鎖(chains of discourse)
は、さまざまな形をとります。もっとも分かりやすい例としては、接続詞による
連鎖があります。接続詞は、節や文を結び付けるだけでなく、それらの関係をも
■ コーテクスト
長年、翻訳する際の単位について、大いに論議が交わされてきました。30年ほど
前なら、翻訳の単位はセンテンスであるという意見が多数派だったでしょう。これ
は、語ごとに翻訳すべきだという考えから見れば、格段の進歩でした。1991年に
なって、ロジャー・ベルは、「翻訳の単位は単語から連語、節にわたる」
と指摘しま
した。彼の見解では、「単位は可能な限り小さく、そして必要なだけ大きく」
という
ことになりますが、
「翻訳の唯一の単位はテクスト全体だという翻訳者もいるであろ
う」と結論づけています。上で述べたようにコンテクスト化要素(contextualizing
factor)
はテクスト内だけでなく、テクスト外にも存在します。
「コンテクスト」とい
う言葉はあいまいです。テクスト内の要素の相互関係
(文脈、前後関係)
を表すこと
もあり、またテクスト外の要素という意味もあるからです。このため、あるイギリ
スの言語学者たちは、そのようなあいまいさを解決するため、テクスト内の言語的
コンテクストを表す語としてコーテクスト
(co-text)
という言葉を作り出しました。
Unit 1∼2では主にセンテンスについて論じてきましたが、これからは言語のさ
らに大きな範囲にわたるコーテクストについて見ていきましょう。
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示唆する連結要素なのです。ほとんどの場合、英語の接続詞は、日本語に訳す際
は問題になりません。 and は訳す必要がない場合もあるくらいです。しかし indeed
は、用法によって副詞にも間投詞にも分類されますが、ときに文頭に使われて接
続詞のような機能を果たす場合があります。そのような場合の indeed の機能は、
後の文が前の文を敷衍していることを示すものです。例えば、H e ’ s n o t v e r y
cheerful. Indeed, he’s depressed. という文章の場合、適切な訳は「彼は元気どころ
かとても沈んでいる」となるでしょう。
談話の連鎖において、連結の役割を果たす最も重要な要素の一つは、代用形
(proform)です。代名詞や代動詞がこれに分類されます。例えば do は代動詞とし
て、Why don’t you go for a run every morning like I do? のように使われます。こう
した do は日本語では多くの場合「する」と訳されますが、いつもそうであるとは
限りません。例えば I was told to stop, so I did. は、日本語にすると「止まれと言わ
れたから止まった」となります。
これは英語と日本語の興味深い相違点を示しています。つまり英語は、日本語
に比べて繰り返しを避ける傾向があるので、英語の代用形をそのまま日本語の代
用形に置き換えると、不自然な日本語になりかねません。
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概論3
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概論3
の語尾変化にあります。英語の二人称にはそうした区別はありませんが、ドイツ
語の翻訳者は、誰に対する呼びかけなのかを考えなければなりません。
重要なことは、3 語だろうと300ページだろうとテクストは全体で一つのもので
あって、翻訳者もそのように意識しなければならないということです。それより
■ コンテクスト化とコンテクスト
もさらに重要なのは、翻訳者の言葉の選択は、テクスト内の要因に左右されるだ
けでなく、テクストを超えたものによっても左右されるという事実です。これが
コンテクスト化(contextualization)によってあいまいさが解決されるのは、テクス
状況のコンテクストです。この意味で「コンテクスト」という語をとらえると、先
ト内だけの要素によるとは限りません。テクスト外の要素によることも多いので
に見たように翻訳者の言葉の選択はコンテクストに強く影響されることが分かり
す。そのような要素は状況のコンテクスト(context of situation)という概括的な項目
ます。ある与えられたテクストのコンテクストについては、次のような質問を提起
に分類されます。
することで多くの情報が引き出せます。
例えば、Slow children crossing と書かれた紙片だけを渡され、それを訳すよう
求められたとします。語と語の関係を理解するしかその意味をつかむ手だてはあ
りません。slow は名詞 children を修飾する形容詞であるという結論に達するとし
て、では slow children と crossing はどういう関係でしょうか。また、slow はど
1.このテクストを誰が書いたか
2.このテクストは誰に対して書かれたか
3.このテクストは何の目的で(なぜ)書かれたか
4.このテクストはいつ書かれたか
んな意味なのでしょう。「遅い」でしょうか、それとも「(知能や情緒の発達が)遅れ
た」でしょうか。結局、それらの語からは何の意味も引き出せず、考えあぐねてし
このことから分かるように、上記の質問に対する答えによって、どんなテクス
まうことになるでしょう。
トを翻訳しようとしているのかが明らかになります。また方言(例えば時代的方
では、交通標識に同じ語が次のように書かれているとしましょう。
言)や使用域などといった、言葉の変種に注意を向けることもできます。
SLOW
CHILDREN CROSSING
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書かれたテクストそのものを実際に翻訳する際の問題について詳しく検討する
前に、翻訳者は、まずコンテクストをよく吟味し、TLのテクストのコンテクス
トは、SLのテクストのコンテクストとは異なるものになるということを理解し
今度は Please go slow, because children cross here. の意味だということが難なく
なければなりません。例えば、そのSLテクストが、別の時代に書かれたもの
つかめるはずです。語の配置と、交通標識に書かれているという事実が意味の理
だったとしたらどうでしょう。言葉の選択によって、これが時代物だということ
解を助けてくれます。語だけを手がかりに意味を決定しようとしたときは、ほと
を示そうとするでしょうか。
んどテクストになりえなかったものが、テクスト以外の、非言語要素(non-verbal
さて、この問題を別の角度から取り上げ、しばらくの間読者の視点に立って
factor)の存在によって理解可能なテクストになるのです。
コーテクストとコンテクストの関係を考えてみることにしましょう。というのも
翻訳者がざっと原文を訳すときには、言葉の比較的短いまとまりを意識するで
翻訳者は最初の読者であるからです。読者が契約書であれ短編小説であれ、ある
しょうが、最終的には、原文は(したがってその翻訳も)テクスト全体で一つのも
読み物(テクスト)をそれが何なのか知った上で手に取った場合、読者はある程度
のであるということを意識しなければなりません。ここで問題になるのが、テク
予想しながら読むことになります。それは、書かれているであろう内容、構成、
ストとは何かということです。
使用される言葉の種類にいたるまでの予想です。つまり、まったく読まないうち
小説、短編小説、映画の脚本などを訳す人は、テクストというと何十ページ、
から、テクストについて何らかのことが分かっていることになります。その後、
何百ページもあるものだと思いがちですが、広告の分野の翻訳者にとっては、テ
コンテクスト化要素を探しながらテクストを読み進む過程において、こうした知
クストはたった二、三語で書かれたキャッチフレーズかもしれません。
識が役に立ってきます。不確かな意味をすべてこの知識と照らし合わせたり、と
コカ・コーラの広告のキャッチフレーズはもちろん、DRINK COCA COLA. で
らえた意味とそのテクストに関する知識とを照らし合わせることができるので
す。私が十代でドイツに行った時に見たドイツ語の広告は、T R I N K T C O C A
す。どんなタイプのテクストを読んでいるのかを知っていることが、コンテクス
COLA. と訳されていました。違いは、フォーマルでない間柄を示すドイツ語動詞
ト化要素となります。こうした知識はテクストをとりまく状況のコンテクストの
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