開発秘話:シリコンメサトランジスタから( 100)結晶面特許へ

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開発秘話:シリコンメサトランジスタから
(100)
結晶面特許へ
元 株式会社日立製作所 半導体事業部 大野 稔
■ はじめに
時期にシリコンの開発
最近、
CMOSにおいて最適な結晶面方位、
電流方向、
ひずみの
を重視され、その仕事を
選択などの研究開発が盛んである。一方、50年に亘って、MOSIC
担当させてくださった
製品には最適結晶面方位として
(100)面が用いられて来た。本
宮城さんには、いくら感
稿では、私が桃井敏光さん、川地陽二さんとともに1963年出願し
謝してもしきれないも
た
(100)
面特許の発案に至る開発の経緯と秘話をまとめてみる。
のを覚えている。これな
■ 開発の経緯
くしては、私のその後の
1948年、私が名古屋大学工学部電気科に入学したころ、米国
シリコン、MOSに続く仕
でトランジスタが開発されたというニュースが伝えられたが、1951
事は考えられないからで
年、大学卒業後、半導体を研究しようにも研究室が大学になく、
ある。
物性研究ができる磁性体を選択し、
6年間ほど研究生活を送った。
図1 MOS開発のきっかけとなった二重
拡散メサ型シリコントランジスタ
の写真
シリコンメサトランジスタの開発がほぼ完成した1960年、フェア
その後1957年、日立中央研究所の只野文哉氏のご紹介により同
チャイルト社がプレーナトランジスタの開発に成功したというニ
所に入所し、創設間もないトランジスタ部
(部長 宮城精吉氏)
に
ュースが入って来た。それは強烈なショックだった。メサトラ
配属された。長年の夢であった半導体研究に携わってみると、研
ンジスタの製作でSiO2はすでに馴染みの材料であり、ベル研の
究所とはいえ、
トランジスタ部は工場の製造部門を目指す部署
論文などでSiO2で被われたシリコンの表面がきわめて安定なこと
で、
当時、
ラインを流れていたのは低周波用、
高周波用の2系列の
を熟知しながら、なぜ、私自身がプレーナトランジスタの発想に
トランジスタと点接触型ダイオード程度で、すべてRCAから送
至らなかったのか大変悔しく思うと同時に、今後すべてのシ
られてくる製造仕様書に基づいて製造されていた。私の仕事も
リコントランジスタはこの構造に替わり、メサトランジスタは陳
その翻訳や、インチをセンチに換算して図面を書き直すもので、
腐化するに違いないと判断した。1961年3月から3ヵ月間RCAに
目の前で毎日トランジスタが製造されていくことに感動を覚え
出張し、技術研修、調査を行ったが、ちょうどその期間にRCA
つつも、研究は全くできず、日本屈指の研究所ですらこうかと、日
においてもプレーナに切り替えるという大方針が打ち出され、
米の技術差に愕然としたことを記憶している。1958年、
トランジ
現場はその切替えの真最中であった。信頼性の点でプレーナが
スタ部が独立事業所として武蔵工場の場所に移転し、この工場
断然有利だと、
担当の技術者が深刻な表情で私にささやいたの
で開発部門が作られるという話を聞き、当時の主任の阿部氏に、
が印象的だった。帰国した私が真っ先にプレーナトランジスタ
「ぜひその仕事をやらせて貰いたい、さもなくば会社を辞するこ
開発に取りかかったのは言うまでもない。
とも考えている」
と脅迫めいた言辞を弄し、強硬にお話した結果、
ちょうどこのころ、ラインで量産されていたメサトランジス
部長の宮城精吉氏からシリコントランジスタの開発が命ぜられ、
タのあるロットに不良発生事故が起こった。これは、100∼120°
C
喜び勇んで引き受けたことは言うまでもないことであった。
の高温で動作寿命試験をすると、エミッタ接地時のコレクタの
シリコンについてはまったくの素人の我々数名が、わずかばか
リーク電流が数桁以上増加するというものであった。開発責任
りの文献知識を頼りに、拡散炉など必要な設備の設計から始め、
者として直ちに対策に乗り出したことは言うまでもないが、私
不純物拡散、エッチング、蒸着、組立など必要なプロセスを一通
はこの際本格的にこの問題に取り組んでみようと決心した。し
り開発し、着手して半年ぐらいで外国技術によらず、自らの手で
かし、生産工場における開発部門ということで、そう簡単ではな
二重拡散メサ型シリコントランジスタの開発に成功したのであ
く、道楽とも見えかねない基礎研究を実行するのはかなりの覚
る
(図1)
。この間、水素炉を爆発させかけたり、酸で火傷をした
悟が必要で、残業時間や休日出勤などを利用、人目をはばかるい
り、文字通り辛酸を嘗め尽くして一通りのシリコンに関する技
わばもぐり研究に近い状況だった。表面現象を扱える物理計測
術を経験し、我々のグループにとってもかけがえのない財産に
などの道具もなく、最初はあり合せの装置でできる浮遊電位の
なった。同時に、この経験を通し、シリコンに対するある種の勘
測定による表面反転眉の検定から始めた。これは、エミッタ、ベ
のようなものを感得し得たように思う。このような勘は、自分で
ース間に逆バイアスを印加し、コレクタ、ベース間に現れる浮遊
手を下して体験することによって初めて獲得されるもので、文
電位を測定するもので、容易にエミッタ、コレクタを連結する反
献を読んだり、人からの話だけでは決して得られるものではな
転眉の存在をチェックすることができる。npnトランジスタの場
く、新技術の開発や発明など創造的な仕事を進めるために重要
合は、ベース表面に形成されるn型反転層が問題となる。反転層
な要素であり、筆者の場合も以後の研究開発を進める上で計り
の温度特性を測定する目的でだんだんに加熱していった。およ
知れない役割を果たすことになった。それにしても、かなり早い
そ70∼100°
Cを超えると測定値に急に異常が現れ、またもや表面
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SEMI News • 2008, 9-10
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現象固有の泥沼に陥っ
たかと落胆しかけたこ
とがあった。
この時、
ふ
と大学でやっていた磁
性材料における磁場冷
却効果という現象が頭
図2 最初にFC 処理をしたMOSトラン
ジスタの平面写真(昭和36年電子
通信学会全国大会)
の中をかすめた。これは、
ある種の磁性材料を磁
場の中で加熱冷却する
と、その材料が磁場方向に磁化されやすくなる現象である。もし
かすると、pn接合を加熱した際形成された反転層も冷却する
とそのまま凍結されるのではないかと考え、磁場冷却(Field
Cooling)
という言葉を借用し、FC効果と名づけた
(図2)
。あま
り適切な命名でなかったのか、その後IBMの研究者によるBT
(Bias Temperature)
処理という名前にとって代わられてしまった。
図3 (100)
結晶面特許
(米国)
の一部
1963年当時のSiO2は、今日のいわゆるクリーンプロセスとは程
遠く、C-V特性はFC処理により派手にシフトする。このシフトは
立した。なんと、特許成立まで20年かかったわけである。この特許
SiO2中の可動イオンによるものと見当はつけたものの、Naイオ
は、出願と同時に内外の半導体各社から一斉に意義申立てを受
ンがその元凶と突き止めるまでには至らなかった。MOSの金属
けた。それに対する反論、あるいは証拠集めなどに全力を挙げて
電極側を負バイアスしたマイナスFC処理では、C-V特性がそれ
取り組んだ薄田幸治さん、桶田吉紀さん、灰野潤一さんらの若さ
以上シフトしないある安定した最小値に達する。私は、FC処理後
とバイタリティに溢れた奮闘がなければ、この特許は成立しな
の最小値こそがSi-SiO2界面の本質を現しているのではないかと
かったと思う。長く厳しい論争の連続であった。この特許は内
考え、この最小値はMOS構成要因の何と関連しているのか考え
外各社とライセンス契約が結ばれ、半導体技術の米国依存から
て、磁性材料のある現象を思い出したのである。
脱却するきっかけともなったのである。
純鉄はSiと同じ立方晶で、
〈100〉
〈110〉
〈111〉
という三主要軸
がある。
〈100〉
〈110〉
〈111〉方向の順序で磁化されやすいという、
■ おわりに
特許取得後も、私にはひとつの疑問が残っていた。この特許は
元東大 茅総長の発見された有名な現象がある。MOS系でも界
複雑な構造や難しい理論に基づくものでもなく、MOSをやって
面電荷は
(100)
面で最小になるのではあるまいか、
論理的な根拠
いれば誰でも気がつきそうな単純明快なものである。特許成立
があるわけではないが、
私は直感的にそう感じた。
当時、
Geは言う
後、
何年か経ってRCAのO. Johnsonさんが東京RCA研究所の所
に及ばず、Siでももっぱら
(111)
面が使われていた。これは合金
長として東京にやって来られ、赴任間もないころ学会でお目に
接合を形成する際にフラットな接合面を得るための、基本技術
かかり、
自分が
(100)
特許の発明者である旨を告げた。
O. Johnson
になっていたからである。われわれの実験でも大変苦労して
さんは、まじまじと私を見つめ、
「おまえがそうだったのか。自分
(111)結晶から
(100)
(110)面を切り出して3種類のMOSダイ
もそのころ、部下に結晶面を変えて見るよう指示したが、
(100)
オードを作製し、不純物イオンの影響を除去するためにそれぞ
面が一番悪いという実験報告が出され、それきりになってしまっ
れにマイナスFC処理を施した後、C-V特性を計ると、界面電荷の
た。おまえは良くそれを見つけた。You are great!」
とお褒め
最小値が
(100(
)110(
)111)
の順に並ぶ。あまりにも見事な予想
の言葉をいただいた。ベル研究所のMOS開発者、D. Kahng
の的中に驚くとともに、単なる偶然か実験の誤りではないかと
さんが武蔵工場を訪問される機会にも、かねての疑問をぶつけ
いう疑いも消えなかった。表面現象は、ばらつきが大きく不確実
てみた。KahngさんがMOSFETを試作して、遭遇した第一の
なものという固定観念にとらわれていた私にとっては、きれい
問題はしきい億電圧が異常に大きく正常に動作しないというも
すぎる結果だったからである。何度も確認実験を繰り返し、やっ
ので、その原因がSiO2の汚染によるものと推定、そのクリーン
と本物だと確信するに至ったのは、最初の実験から2ヵ月経って
化で解決したというものであった。それ以上はお聞きしなかっ
からであった。終始誠実に私の実験助手を努めてくれた桃井敏
たが、SiO2のクリーン化ですべて解決したと判断されたように
光さん、川地陽二さんとの3名の共願で特許申請を行った。1963
お見受けした。
年4月と記憶している。この出願は、米国では1970年5月
(図3)
、
日本で1963年6月、審判で有効性が認められ工業所有権が確立
<参考文献>
した。いちばん長くかかったのが西独特許で1983年3月22日、
ミュ
1. 大野「私の半導体体験 その6」1986年11月∼87年1月 電子材料
ンヘンの特許裁判で丸1日かけた長時間審理の結果、権利が確
2. 大野他「昭和38年度 電子通信学会前項大会」
9-10, 2008 • SEMI News
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開発秘話:LDD発明物語
エ サキ ヒデ ヤ
元 松下電器産業株式会社 中央研究所
(現パナソニック) 江崎 豪彌
■ はじめに
LDDとは Lightly-Doped Drainのことで、
MOSFETの構成要素であるソース・ドレイン拡
散層の構造に関する言葉である。微細化ととも
に強まる接合近傍での電界強度を低下させるた
めに、ソース・ドレイン拡散層の不純物分布を緩
やかにする事を目的としたものである。
(製法
は右図1参照)
■ 当時の半導体技術の課題
研究していた1976-77年ごろ、業界としては、
設計寸法は4-5µmで、16K-DRAMが生産され
図1 LDDの製造工程概略図
ていて、64K-DRAMの開発が進んでいた時期
であった。さらに将来を見た場合、デバイスが1µm近傍まで微細
しかし、ちょうど新しい期が始まっていて、研究計画とその予
化した時に、外部印加電圧を下げるにしても、局所的な電界強度
算が確定した直後だったために、既存のプロジェクトに編入さ
が高まり、信頼性が劣ることは基礎的な研究から予測された。
れず、研究テーマ設定とその進め方が完全に筆者個人の自由に
そこで、拡散層の不純物分布を緩やかにする必要が生じたが、
任された。
当時利用できたのは、マスク合せにより、薄い不純物拡散と濃い
この自由な研究環境を許してくださった当時の課長、石原健
不純物拡散を少しだけずらして作り込む方法であった。国際学
氏の寛大な措置がLDDの製法発明へ至る大きな契機となった。
会では、1970年のIEDMで、米IBMからその方法によるMOSFET
ただし、緊急事態が発生した場合は、課の仕事を手伝うこと、ま
の試作が発表されていた。
しかし、
マスク合せ精度は、
0.3µm程度
た、予算は課全体予算の中でやりくりできる範囲で、つまり、在
もあったので、たとえば、0.3µm幅の低濃度層を作ろうとしても、
庫に余裕のあるウェーハと少々の化学材料が使える、という条
できてくるデバイスでは、0-0.6µmものばらつきが生じてしまう。
件付だった。当然、部下ナシ、一人だけの自主プロジェクトであ
これでは、寸法の大きな高耐圧デバイスは作れても、1µm近傍
の微細な超LSIデバイスは作れない。
った。
に参加
そのころ、松下は国家プロジェクトの
「超LSI研究組合」
できなかったために、独自に中央研究所で3-4µmの微細プロセ
■ 研究着手時の状況
スの研究開発を開始していた。
筆者は昭和38年に松下電器に入社して、中央研究所で
MOSFETの研究に従事していた。
この発明を生み出す研究の数年前に、主に自動車電話用の
■ 発明の経緯と展開
“技術の実用
テーマ設定では、それまでの経験で痛感していた
CMOS-ICのロジック回路設計、プロセス開発、試作、信頼性試
にこだわり、今後の微細化へ向けて大きな障害になりそうで、
性”
験とサンプル出荷などをしていた。この仕事を通じて、技術の実用
しかも、上記プロジェクトで取り上げられていないテーマ、
「信
化における信頼性と生産性(特に製造ばらつき)
の重要性を実
を目標に設定した。そして、
頼性の高い微細MOSFETの開発」
感していた。
そのこだわりから、生産性、つまり製造ばらつき低減も必要条件
35歳になる直前、全社技術企画部門へ企画スタッフと
その後、
とした。
して移籍させられ、現場で研究開発に従事できなくなった。とこ
そのためには、どうしても、マスク合せではなく自己整合的な
ろが、偶然にも、約10ヵ月後にその組織が解散になった。これを
プロセスであるべきだ、という方針が、取組み開始のはじめのこ
もう一度現場で働ける良い機会と捉え、現場復帰を決心して、元
ろに、はっきり固まって行った。文献や特許調査をし、その方針
居た職場に戻してもらった。
に沿って、いろいろなアイデアを出して、それらを虱潰しに実験
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SEMI News • 2008, 11-12
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した。中には学会発表や特許出願へこぎつけたものもあったが、
不純物濃度を変えてイオン注入すれば、ゲート端部に対して、高
生産性の問題は依然残っていて、実用性という観点からは満足
精度に位置が制御され互いにわずかにずれた低濃度と高濃度の
の行く結果ではなかった。
二つの拡散層が形成されるのである。
このころには、すでに着手から1年半が経過して、図が書き込
1年経ったころから、展示会向けのサンプル作りのための設計
や試作、および製造現場への技術引継ぎも急ぐ必要が出てきて、
まれた実験ノートの頁の日付は1977年6月13日であった。歳も
37歳になっていた。
課としての重要テーマが繁忙をきわめ始め、それらの支援に狩
り出される頻度が増えきた。自主テーマ研究はもう終りかな、と
焦りを感じ始めていた。
かくして、
“自己整合法”
を使った実用的な微細なMOSFETの
製造技術の着想を得た。すぐ、本社知財部門に相談して、福本徹
そのころ、当時の配線材料であるアルミニウムのエッチング
氏を中心とする知財専門家の助言を受け、
特許明細書を7件書い
において“ウエット・エッチング”から“ドライ・エッチング”への
た。日曜日に、子供をスイミング・スクールへ連れて行き、待って
切替えが模索され始めていた時期であった。そして、松下でも、
いる間に車の中で書いたものもあった。
業界動向に敏感な石原健氏がその装置を導入し、若手技術者
の石河大典氏がその実験を担当することになり、その実験が筆者
の研究と同時進行していた。
1)
特許庁に届けられたのは1977年9月14日 であった。取り組
み始めてから、2年近くが経過していた。
当時としては、知財部門が着想時点から明細書作成に参画す
石河氏は平坦面上のパターン形成に成功し、段差のある下地
るのはきわめて異例であったが、そのお蔭で立派な明細書がで
の上のアルミのエッチングへと移行したが、それから、アルミが
きて、後に、他社からの異議申し立てに対して迅速かつ有効に対
うまく切れない問題にぶつかっていた。自分の研究が壁に突き
処できた。
当たってしまって、進退窮まったので、実験の待ち時間に困って
発明は
【生みの親】
だけでは駄目で、知財専門家という
【育て
いる人の相談にでも乗ってあげようかと思い、
ドライ・エッチン
の親】
がいないと大きくは育たないと痛感した。本発明は、後に、
グ実験の詳しい話を石河氏に聞いた。
この時、
直接関係ない人の
欧米先進企業からの知財攻勢に有効に戦える特許となった。
お節介な干渉に石河氏が率直に対応してくれたことが、次の展
開への大きな契機となった。
■ おわりに
転勤先から元の職場への思いがけない帰還、自由な研究環境
問題は、段差を越えて平行に走るアルミ・パターン間がショー
を与えてくれた上司のお蔭による自由な目標設定、ドライエッ
トすることであった。筆者はドライ・エッチングは素人であった
チング技術の黎明期との遭遇、行き詰った時に他人の問題解決
ので、その基礎を勉強して、素朴にそのメカニズムを考えた。そ
へのお節介な介入、それに率直に対応してくれた人の存在、その
して、夜自宅で、課題を図解している時に、ある条件の下では段
問題から偶然気づいたヒントを生かした発想、明細書作成に着
差部でアルミが残ることに気づいた。それは、段差部でのアルミ
想時点から参画して相談に乗っていただいた知財専門家などな
の膜の被覆度合いとエッチングの異方性の度合いとが関わって
ど、自分の経験と決断と周りの支援の上に、幸運な偶然が折り重
いるはずだった。
なり合って、発明者の資質を超えた有用性の高い発明が生み出
そこで、異方性を軽減する条件を入れて実験してもらったら、
された。
アルミのショートは解消された。石河氏は、残された問題、パタ
ーン精度と異方性軽減という矛盾する要因の妥協点を見出す実
験を始めた。
LDDという言葉とその技術内容が国際学会に出てきたのは、
注)
そして、この段差部での膜残り問題は、微細な幅の膜形成がで
1980年に、IBMのS.Ogura氏が発表した論文2)が始めてであ
きることを示唆していて、いくつかの条件が整えば、自己整合的
る。S.Ogura氏が特許出願したのは1980年12月17日である。
で精度のよい微細パターン形成の製法になりうるのではないか、
<参考文献>
と考えた。そこで、石河氏に、アルミに代えて、段差のあるパター
1)
江崎豪彌 石河大典、特公昭62-31506(出願番号 昭和52-
ン上に堆積させた絶縁膜の全面にドライ・エッチングをしても
110724、出願1977年9月14日)
らったところ、予想通り、段差部に沿って自己整合的に側壁を覆
2)
S.Ogura et al. “Design and characteristics of the lightly doped
う微細な幅の絶縁膜が形成できることが実証された。側壁の幅
drain-source(LDD)
insulated gate field-effect transistor”, IEEE
この絶縁膜側壁の形成前後に、
は0.3µmでも高精度に作られた。
Trans. Electron Devices, Vol.ED-27, pp.1359-1367, 1980.
11-12, 2008 • SEMI News
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開発秘話:高エネルギーイオン注入
株式会社ルネサステクノロジ 代表取締役社長 塚本 克博
■ はじめに
半導体素子が世の中に普及し始めてからほぼ40年経ち、最先
晶損傷の影響が完全には拭えなかったイオン注入の量産導入に
は慎重論も強かった。筆者らは膨大なロット実証試験を繰り返し、
端のLSIでは数億個のトランジスタがシリコンチップに集積さ
リフレッシュ特性への悪影響がないということを証明して、よ
れるまでになった。この発展のまっ只中で我が半導体人生を送
うやく64K DRAMから採用に漕ぎ着けることができた。しかし、
ってきたが、これほどまでの微細化と高集積化、高機能化が進展
会社の主要などジネスであったDRAMへの世界で初めての量
するとは、今さらながら驚くばかりである。
産適応であったため、本当にリフレッシュ特性に影響が出ない
私は1973年に電機メーカーに入社し、イオン注入の開発に取
かどうか、かなり心配したものである。
り組むこととなった。それ以来、私の半導体人生の約半分はイオ
ン注入とそれに関連するプロセス・デバイス技術の開発に従事
■ 高エネルギーイオン注入の実用化
したことになる。当時の開発を振り返りながら、イオン注入の多
大電流イオンビームによる高濃度イオン注入が量産レベルで
様な発展、特に高エネルギーイオン注入の開発と、それによって
定着した後、さらにエネルギーの高い、いわゆるMeV
(10 eV)
領
実現された多様なデバイス構造の発展を述べる。
域のエネルギーでイオン注入する技術が出始めていた。
6
MeV領域のイオン加速器として、原子核研究用にタンデム型
■ イオン注入の多様な発展
70年代初頭にMOS ICが登場し、その閾値電圧制御に最初の
イオン注入技術の応用が開けた。
の静電加速器が開発されていたので、最初にこの方式での高エ
ネルギーイオン注入装置が登場した。500K∼1,000KV程度の高
電圧を取り扱うため、高電圧発生部や加速系全体はSF6ガスで満
MOS ICの閾値電圧制御に定着したイオン注入技術ではあ
たした高圧タンク内に収納される。また、発生するX線の遮蔽に
るが、ひとつ厄介な基本的課題を抱えていた。イオン注入による結
大量の鉛板を張り付けているため、重量が20トンを超える大型
晶構造の損傷、特に高濃度に注入すると完全に非晶質化してし
装置であった。導入当事、開発ラインの2階に設置するには重過
まう問題への対処である。多くの研究の結果、高濃度注入された
ぎたため、柱を補強して装置を設置した。余談になるが、1995年
非晶質化層でさえも適切な熱処理を行えば、固層エピ成長の原
の阪神大震災では、私たちの開発ラインも大被害を蒙った。この
理で格子欠陥のない元通りの結晶に復元されて、注入原子も
(固
時、幸いにも床が抜けることはなかったが、装置全体が数本のア
溶度を超えない限り)全数がドーパントとして作用することが
ンカーボルトを引きちぎって約50cmも移動していた。地震エネ
見出された。
ルギーの凄さを改めて実感させられたものである。
筆者らはこの時期、
トランジスタのベース形成にボロン注入
最初に高エネルギーイオン注入の応用として取り組んだのは、
を採用し、電流増幅率hFEの制御性・均一性が極めて優れてい
CMOSのウェル形成であった。高エネルギーイオン注入でウェ
るとともに、結晶欠陥に敏感なノイズ特性にも遜色がないことを実
ルを形成すると、表面よりも内部の方が濃度の高い、いわゆるレ
証して、バイポーラ素子のベース形成は急速にイオン注入法に
トログレード
(Retro-Grade)型ウェルとなる。この内部の高濃
置き換わっていった。
度層は、ラッチアップに強いデバイス構造を提供し、さらに、パ
さらに濃度の高いエミッタ層やソース・ドレイン層の形成が
ッケージなど鉛含有物質から放出されるアルファ線や宇宙線な
次のテーマであった。当時はN型層形成としてリンの熱拡散法
どによって誘発されるソフトエラーを抑制する効果も発揮する。
が一般的であったが、ヒ素が固容度も高く、かつ急峻な深さ方向
高エネルギーイオン注入を実用化する上で大きな課題は、注
濃度分布が得られるため、エミッタやソース・ドレインに最適な
入マスク材料に何を使うかということであった。通常のイオン
不純物と言われていた。毒性の強いヒ素化合物は熱拡散法
(開
注入では、フォトレジストがマスク材料として広範に使用され
管式)
では取扱いが困難なため、イオン注入によるヒ素ドーピン
ている。ところが、高エネルギーイオン注入のマスク材には、膜
グを開発した。こうしてボロン注入ベースとヒ素注入エミッタ
厚が数µm以上のフォトレジスト必要になる。このような厚い
で形成した高周波高出力トランジスタは、急峻なエミッタ濃度
フォトレジストでパターンを形成するのは困難であった。この
分布の効果で極めて高性能のトランジスタとなり、当時需要が
ころ、KrFエキシマ露光用として化学増幅型のフォトレジストが
伸びていた自動車無線用の出力トランジスタとして、ビジネス
開発され始めていた。波長の短いエキシマレーザー光は吸収が
的にも大きな成功をもたらした。
強く表面層しか露光されないが、このタイプのフォトレジスト
当時はDRAM隆盛の時代で、各社とも大容量化を目指して微
では露光後化学反応が深さ方向に進行して、最終的に膜厚全体
細化・大容量化競争を繰り広げていた。
DRAMでは、微小なリー
が現像液に可溶状態となる。フォトレジストメーカーに依頼し
ク電流に左右されるリフレッシュ特性への影響が懸念され、結
て、5-7µmの膜厚でもパターン形成が可能なi線用ネガ型化学増
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SEMI News • 2009, No.1
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ネルギーイオン注入により、基板内部の任意の深さ/位置に不純
物層を形成できるようになり、熱拡散法ではまったく実現でき
なかった新しいデバイス構造、さらには回路方式が生み出され
た。基板内部の不純物層を自由に構造設計できるという意味で、
基板エンジニアリングと名付けた。
前述したように、最初の応用は16M DRAMのTwin Well形成
であったが、さらに進化させてTriple Wellが考案された。P型基板
に深いN型層を形成し、この領域内にP型ウェルを形成すると、
P型基板から電気的に分離されたウェルとなる。電気的に完全に
分離されたP型およびN型ウェルを手に入れることで、さまざま
な回路を構成することが可能になった。LSI回路に必要な正負の
電圧をチップ内で自在に発生させる、回路ブロックごとにある
いは任意のタイミングで基板電位を与える、フラッシュメモリ
ではウェルに正または負の高電位を印加してメモリの書込/消去
動作を行わせる、等々多様なデバイス構造と回路構成をもたら
図1 高エネルギー注入のシリコンデバイスへの応用
した。
マスクROMでは記憶トランジスタの閾値電圧を制御して
幅型フォトレジストを開発してもらい、マスク材の課題は解決
ROMデータを書き込むが、高エネルギーイオン注入では配線層
した。
などを通してイオン注入できるので、最終の製造工程でROM
私たちが高エネルギーイオン注入を採用した最初の製品は、
16M DRAMのウェル形成であり、世界で最初の適応であった。
の書込みが可能になる。
CCD/CMOS撮像素子では、暗電流の抑制や受光感度の向
イオン注入されたウェル領域にメモリ素子を作り込むので、リ
上が大きな技術課題であった。高エネルギーイオン注入によって、基
ーク電流とリフレッシュ特性に悪影響を与えないか、多くの実
板内部に複雑な構造の不純物層を形成できるようになって、大量
験を繰り返した。幸いにもリフレッシュ特性への影響はまった
生産に向いた撮像素子が開発され、
今日の隆盛がもたらされた。
くないことが実証され、高エネルギーイオン注入を採用した
BiCMOSデバイスでは埋込みコレクターや素子分離領域を形
DRAMを世に送り出すことになった。ところが量産に移行して
成した後ウェル形成を行う必要があるが、高エネルギーイオン
間もなく、イオン注入装置で大きな問題を引き起こしてしまった。
注入ではウェル形成に高温の熱処理を必要としないため、埋込
量産工場に導入したイオン注入装置は、開発ラインに設置し
た装置と同型の装置であったが、ディスク型のウェーハ注入処
みコレクターや素子分離領域の再拡散を抑制することができ、
素子の微細化や高性能化をもたらしている.
理機構が未熟でトラブルが続出し、量産機としては使用に耐え
一方、高エネルギーイオン注入で基板内部に発生する結晶損
なかった。高電圧発生部の安定性やイオンビームの安定性には
傷が、その近傍に存在する結晶欠陥のアニール過程に大きな影
何とか合格点が付けられたが、ウェーハ処理機構のトラブルは
響を及ぼすことが見出された。結晶欠陥のアニーリング機構の
致命的であった。責任を感じた私は、他のメーカーの装置を急速
解明とともに、今後高エネルギーイオン注入が結晶欠陥制御に
導入することに意を決し、その装置メーカーが日本に持ち込ん
も道を開くことが期待される。
で間もないデモ装置を、大至急量産工場に移設してもらうこと
をお願いした。この装置は、RF高電界を使用する四重極型加速
方式で、最初に導入した装置とはまったく加速方式が異なるが、
■ おわりに
イオン注入の開発ならびに高エネルギーイオン注入の開発を
ウェーハ処理機構はこのメーカーの大電流装置で実績があっ
スタートしてから、各々約35年と20年が経過した。当時からす
た。幸いにもそのメーカーからは快諾をいただき、デモ機移設に
れば考えられないほど、今日では普遍的な製造技術として広く
すぐさま取りかかってくれた。お陰で約2ヵ月後には、移設した
定着し、LSIの高性能化・高機能化に貢献している。これらの技術
装置が順調に稼働を始めた。社運のかかっていた16M DRAM
で先駆的な研究・開発に携われたことは、私の技術者人生にとっ
の量産初期に、イオン注入装置で大きな機会損失を出す寸前の
て望外の幸せである。師事した先輩、苦労を共にした同僚・後輩
ところで、何とか挽回することができて本当に有り難かったこ
に多謝あるのみである。
とを鮮明に記憶している。
<参考文献>
■ 高エネルギーイオン注入が拓いたデバイス構造
従来、半導体基板といえば一様な濃度と決まっていたが、高エ
No.1, 2009 • SEMI News
塚本克博、小森重樹、黒井随、赤坂洋一:
「高エネルギーイオン
注入技術の半導体デバイスへの応用」応用物理60,1087,1991
29
Innovation Stories
開発秘話:NANDフラッシュメモリ
株式会社東芝 メモリー事業部長附 中根 正義
■ はじめに
セルは、
東芝研究所が1987年に学会発表した後、
高集積の特徴
半導体メモリは開発と実用化が1960年代後半から進み、イン
を活かして磁気メモリに対抗する大容量不揮発性メモリ製品化の
テル社の1KビットDRAMが大型コンピュータの主記憶装置に
検討が始まった。
使用されてから、その市場は飛躍的に発展した。
■ 4メガビット製品化失敗と世界標準化構想
その半導体メモリは、世代ごとの技術革新を重ねて大容量、低
学会発表したメモリセルは、4メガビットNANDフラッシュ
価格、高速、低電力を成し遂げ、さまざまな応用機器を生み出し
メモリとして1990年に製品化したが、書換えを重ねるたびに高
て産業に貢献してきたが、書換え可能な大容量の不揮発性メモ
電界による酸化膜の疲労劣化を引き起こし、さまざまな動作不
リの実現が死角にあった。それまでの不揮発性メモリは
良を発生させて、
市場からの戻入が続いた。
当時はその製品の応
EEPROMで代表されるように、容量と価格で磁気メモリに大き
用機器が限られ数量も少なかったが、独自で代替え品のない製
く後れをとり、またその差異を小さくする技術開発に苦戦をし
品が故に、大変な混乱を来し危機が訪れた。
ていて、莫大な磁気メモリ市場に参入することができなかった。
これらの動作不良は、物理現象に基づくこの種のデバイス特
この積年の夢を、NANDフラッシュメモリが磁気メモリとの
有の内容であるが、研究段階から推しては予想外に高い不良率
格差を一気に小さくして、半導体ストーレージ市場創造を実現
であり、テスト工程での除去や製造プロセス対策などあらゆる
してきた東芝の開発について述べる。
手段を試みたが、不良を低減する解決策は見出せずに製品の生
■ NANDフラッシュメモリのセル基本構造
産を断念した。
動作原理は従来のEEPROMと同じあるが、集積化するときに
この4メガビット製品の失敗は、実用の書換え回数の多さを把
余分な配線を省略できる回路構成にした技術が特徴である。従
握できてなかったため、それに伴う事象の分析や商品企画の未
来は1ビットごとにデータ入出力用の配線を有していたのに対
熟にあった。
数万、
数十万の書換えを可能にして且つ安定供給の
(16、32、・・・ビット)
ごとにデータ入出力用配
して、Nビット
ための高い歩留りを維持する製品にするには、従来のメモリ動
線を共有する回路構成であるために、メモリセルの占有面積は
作から脱皮した特別な動作システムに発想を変える必要があっ
DRAMやEEPROMの半分に縮小でき、大容量化と低価格化を
た。この失敗を教訓に、NANDメモリセルを活かすメモリ動作シ
可能にさせた。
ステムの研究を重ねたが、データ書込み時の酸化膜劣化は避け
またNANDフラッシュメモリセルへのデータ書込みは最適な
FNトンネルを使う方式をとり入れて、従来のホットエレクトロ
られず、辿り着く結論は不良を救済して使用するシステムにす
るというものであった。
ン注入方式に比べてきわめて小さい電力でデータ書込み可能に
しかしながら、コンピュータシステム知識と経験が不足して
(512、1,024・・・バイト)同時書込みの高速ペー
なり、Nバイト
いるメモリメーカーがCPUとのデータやりとりを考慮して仕様
ジプログラム方式を実現させた。このNANDフラッシュメモリ
を提案するのは技術的に困難で、しかもメモリ側からの一方的
な不良救済提案では使用者側に受け入れられるのは到底困難
で、再び失敗するであろうとの懸念があった。
この問題を解決するための結論は、CPUバスから離れた外部
記憶装置に決め付け、ファイル応用に特化したアプリケーショ
ンスぺシフィックメモリとするなら、メモリ側から提案できる
だろうということであった。
こうした新しいNANDフラッシュメモリの仕様案を内外のコ
ンピュータメーカーに提案し、議論を重ねて世界標準化メモリ
への構想を固めた。これまでのメモリ標準化は、DRAMで代表
されるようにすべて米国発であり、初めて日本メーカーが企画
設計した仕様で世界標準化をめざす目標を掲げて、1991年に16
メガ製品を開発着手し、再び磁気メモリ市場への参入に取り組
図1 メモリセル基本構造
24
んだ。
SEMI News • 2009, No.2
Innovation Stories
その仕様のコンセプト
1 酸化膜劣化不良を救済するメモリ構成と利用技術
2 NANDの長所活かすHDD互換のページプログラム
3 NANDの短所補うシリアルアクセス
4 将来のメデアカードを意識した最少ピン数のコマンドアドレス方式
これらの仕様は、16メガビット製品以降サムスン電子に開示
してセカンドソースを確保するとともに、現在のNANDフラッシ
ュメモリの基本仕様になっている。
■ 苦難の時代
ファイル応用に特化した新仕様の16メガ製品は生みの苦しみ
があった。1992年に岩手東芝で量産が開始されたがプロセス
図2 NANDフラッシュ市場規模推移
パラメーターの最適解をなかなか見い出せず、出荷は半年にわ
たりゼロで、その後も低歩留り状態が続き極端な供給不足に陥
った。このため新しく応用機器を開発した顧客では、NAND
立することが最重要であった。この目的でカメラメーカーなど
フラッシュメモリの採用断念が始まり、新規市場に急ブレーキ
と、NANDフラッシュメモリの使い方を画一化する標準化団体
がかかる状況に直面した。
のSSDCフォーラムを1996に設立して世界的な活動を始めたの
さらに、新規市場では懸念していた不良ビット救済の利用技
が功を奏して、デジタルカメラ、携帯音楽機器、PC周辺機器など
術が、従来のメモリ応用文化の中では細部にわたり理解が得ら
の応用が始まり、やがてはすべてのフラッシュカードがNAND
れず、システムトラブルを多分野で発生させて、折からの供給問
フラッシュを搭載することになった。
題とともに16メガNANDフラッシュメモリは死に体となり、次
の危機が訪れた。
もし、SDカードやメモリステックなどのNAND制御のコント
ローラLSIチップを搭載するカードが先に出現していたら、
この当時はDRAM事業が支配的で、お荷物状態のNANDフ
NAND不良救済などの利用技術は画一的に広まったかどうか疑
ラッシュメモリは、工場側では従来概念の不良品を製品とするテ
問である。SSFDCはNANDチップそのものであり、フォーラム
スト混乱、営業側では供給難、事業面でも撤退すべき内容。また
の仕様書とツールがNAND応用のバイブル的なものになり、ま
市場では、不良救済のフェールセーフシステムがなかなか理解
た内外100社を超える賛同会社の協力が大きな力で後押しして
されずにシステムトラブルが相次ぎ、まさに四面楚歌の状況が
くれて、新しいメモリ利用技術文化を築くことができ市場喚起
1994年まで続き、不揮発性メモリ事業から撤退が話題になっ
させた。その後は年2倍の大容量化を実現していくNANDフ
“ナンドやってもダメ
たが、I社とのSSD共同開発契約が残り、
ラッシュ微細化技術によって、この市場は一層拡大していくこと
と囁かれていた危機も首の皮一枚で生き延びた。
なNAND”
になった。
やがては命綱だったSSD共同開発も、HDDとの価格競争に
■ おわりに
追随できずに幕を閉じることになる。
世界標準化構想のアドバルーンは批判の的になり、半導体ス
DRAM事業が最盛のとき、雑草のごとく芽生えたNANDフラ
ッシュメモリは、いく度かの危機を乗り越えて困難な大容量化
トレージ市場創造は夢と終わる思いの苦しい時であった
を技術革新で達成してきたが、1兆円を超える市場を顕在化させ
■ デジタル家電の基幹部品として市場喚起
たパワーソースは多値技術の実現と導入である。
1995年には、32メガビット製品の量産から岩手東芝の歩留り
多値技術は、半導体の歴史の中で長らく研究室のテーマであ
が著しく向上して、供給体制確立と同時に、デジタルカメラなど
ったが、それの量産化を実現させ、
“大容量化なるが性能は後退
のデジタル家電でフラッシュカードを戦略部品として採り上げ
する”難問を解いたのは、小林
(現メモリ事業部長)
の慧眼と専
られる幸運の時がやってきた。この応用は、比較的小容量用途で
制的指導であろう。開発リーダーとしての彼は、反対意見を退け
小型・軽量が重視され、まさにNANDフラッシュメモリが待ち望
て多値NAND一辺倒の戦略でデジタル家電応用に適合させ、
んでたHDDと棲み分けできる分野だった。
画期的な大容量化と市場拡大の期間を大いに短縮させた。
またこのとき、超薄型カードパッケージに32メガ製品を組み
しかしながら、市場が成熟してきた昨今は応用機器も多様化
を開発して、デジタルカ
立てたSSFDC(のちのスマートメデア)
して、エンタープライズSSDのように性能重視のシステムでは、多
メラ応用の準備を始めたが、SSFDCを用いてNANDフラッシュ
値製品だけでは到底対応は困難になり、性能、価格、容量の
メモリの応用をこの業界で普及させるには、機器間の互換を確
バランスとれた製品ラインアップが必要になっている。
No.2, 2009 • SEMI News
25
Innovation Stories
開発秘話:HEMT
(高電子移動度トランジスタ)
株式会社富士通研究所 三村 高志
■ はじめに
ープ超格子という馴染みのない構造でのことでもあり、その時
1980年に誕生したHEMT
(High Electron Mobility Transistor)
点では何らのアイデアも生まれなかった。
は、異種半導体からなるヘテロ接合界面に形成される2次元電
HEMTのアイデアを得たのは1979年の7月である。アイデ
子ガスを、電界効果によって制御するトランジスタである。素子の
アのポイントは、n型AlGaAsとGaAsとのヘテロ接合構造とし、n
基本構造や製作技術において、従来デバイスとは一線を画する
型AlGaAs層表面に空乏層を作り出すショットキ接合を導入して
ナノテクノロジーを駆使したユニークなデバイスであったため、
n型AlGaAs層中の電子を排除し、GaAs層内の2次元電子ガスに
実用化にはかなりの困難が予想されたが、5年後の1985年には電
電界効果が及ぶようにしたことである。空乏化したn型AlGaAs
波望遠鏡の低雑音増幅器としてデビューした。1987年ごろには
層をSiO2のようなゲート絶縁膜と見なせば、HEMTのデバイス
衛星放送受信機、さらに近年では携帯電話機等にも広く普及し、
概念は構造的にはMOSFETに類似することが理解されよう。ま
現在全世界で年間約10億個の量産デバイスにまで成長した。
た、n型AlGaAs層を空乏化させるのに利用したショットキ接合
ここではHEMTの開発経緯を振り返り、発明の背景や実用化
は、GaAs MESFETのゲート電極の機能そのものである。つまり、
GaAs MESFETという既存のデバイスとMOSFETという既存の
を成功させた要因等について述べる。
デバイス概念が結合して、新しい形態、つまりHEMTという新規
■ 発明の背景
。
なデバイス概念が生まれたといえる
(図1参照)
HEMT発明当時( 1979年)
、筆者はGaAs MESFET
( GaAs
Metal Semiconductor FET)
を開発する職場に所属していた。
■ 最初の製品化
GaAs MESFETは、1966年にC. A. Meadによって発明された究極
現在HEMTは、衛星放送受信用コンバータや携帯電話機、自
の高速デバイスであり、これを改良する仕事しか残されていないの
動車レーダ等に広く使われている。しかし、このような量産家電市
ではないかと思っていた。しかし、後追いの研究テーマでは面白
場向けの製品化プランが当初からあったわけではない。
味がないため、MESFETとは異なるGaAs MOSFETに関する研
究を約2年ほど進めていた。
1980年代初期には、既存のマーケットに投入するには技術的
な問題が山積していた。とりわけコストパーフォマンスの観点
周知のようにMOSFETはLSIには不可欠のデバイスであり、
から、GaAs MESFETのような実績のある従来デバイスに到底太
GaAs MOSFETによるLSIの可能性を探るのが研究の目的であ
刀打ちできなかった。いろいろ検討した末、可能性のある応用分
った。研究のポイントは、GaAsとゲート酸化膜との近傍に存在す
野として、マイクロ波帯の衛星通信分野に挑戦してはというこ
る界面準位を除去し、電子の反転
(蓄積)
層を実現させることで
とになった。そこでHEMTの低雑音増幅器を試作し、1983年の
あった。しかし、いろいろ試みたが結論的に言えば、反転が起き
で発表することになった。
国際固体回路会議
(ISSCC)
るほどには界面準位密度を低減させることはできなかった。
HEMTの商品化のきっかけは思いがけないところから始まる。
GaAs MOSFETの研究の継続に危機感をも
っていた1979年の2月ごろ、GaAs MOSFETとは
異なる技術分野の仕事に目を奪われた。その前
年の1978年10月に、Appl. Phys. Lett. に発表され
た「変調ドープ超格子」である。この論文は、
AlGaAsとGaAsからなる超格子中の電子移動度
に焦点を当てたものであったが、そのことより
むしろ、両側をn型AlGaAsに挟まれた「ノンド
ープ」のGaAs層に電子が蓄積するという実験事
実に強く印象づけられた。GaAs MOSでは実現
できなかった電子の蓄積が、紛れもなくそこに見
られたからである。印象的ではあったが、変調ド
24
図1 既存のデバイス概念の新しい結合により生まれたHEMT
SEMI News • 2009, No.3
Innovation Stories
実は、この発表を行ったわれわれの仲間が席にもどると、今あな
指数0.3dBに到達した。衛星放送受信機の低雑音化に向けた素
たが発表したHEMTを売ってほしいと請われたのである。依頼
子技術に関し、一応の完成をみたと言える。典型的な低雑音
主は米国の電波天文台の関係者であった。
発表したHEMTの液
HEMTの構造断面図と電子顕微鏡写真を図3に示す。
体窒素温度での雑音性能が、GaAs MESFETに比べ若干優
れており、また従来から彼らが使っていたパラメトリック増幅器より、
長時間安定に動作する可能性を持っていたためである。
このことがひとつの契機となり、1985年に野辺山電波天文台
の直径45mのパラボラアンテナに設置された低雑音増幅器が、
HEMTの初めての製品である。このHEMT増幅器は、暗黒星雲
■ おわりに
HEMTの発明経緯と製品開発経緯を振り返り、現在ものづく
りの現場で活躍しておられるとりわけ若い方々の何かの参考に
なればとの思いから、二、三のトピックについて述べた。
アイデアの本質は既存概念間の新しい結合、融合であること、
の中にあった未知の炭化水素分子の発見に貢献し、その後世界
これらの新しい結合、融合を見つけ出す能力が創造性であり、日
中の電波天文台に設置されるようになった。
ごろからの訓練や感受性を研ぎ澄ます失敗を含めたさまざまな
低温環境での低雑音性能と動作安定性という当時のHEMT
経験を積むことにより、創造性を高めることができると思って
の唯一の長所を活かせるニッチマーケットに開発初期にめぐり合
いる。また、新しいデバイスが実用化に成功するためには、新デ
えたことは、その後のHEMTの発展にとって決定的に重要な意
バイスの長所を活かせるマーケットの早期発掘と、それによる
味をもったと思う。マーケットの出現によって技術進化のフィ
技術進化のフィードバックループの形成を図ることが重要であ
ードバックループが形成され、イノベーションに向けた第一歩
ることを指摘した。若い方々のチャレンジを大いに期待したい。
が踏み出されたからである。
■ 量産家電製品へのイノベーション
HEMTが本格的に普及し始めたのは1987年
ごろからである。従来からのGaAs MESFETに
替わり、衛星放送受信用コンバータの低雑音増
幅器として使われるようになった。HEMTを
使うことで、パラボラアンテナのサイズが従来
の半分以下にまで小さくなり、衛星放送は日本
やヨーロッパにおいて爆発的に普及した。この
ような急速な普及が可能となった背景には、
MBE(Molecular Beam Epitaxy)
やMOCVD
(Metal Organic Chemical Vapor Deposition)
といった原子層レベルで結晶成長を制御するナ
ノテクノロジーや素子構造の最適化、選択ドライ
エッチングなど、HEMTに固有な量産化技術
が開発されたことが挙げられる。
図2 各種デバイスの雑音指数の年代推移
における
図2は、12GHz(衛星放送周波数)
雑音指数の年代推移である。図からわかるよ
うに、1983年ごろの時点では、HEMTとGaAs
MESFETの性能には有意差がない。ゲート電極
の微細化技術や寄生抵抗低減化技術などが未
熟であったためである。その後、徐々にユーザ
ーに評価され始め、ユーザーからのフィードバ
ックと競争的市場原理により低雑音化技術の
進歩が一層加速され、1995年にはパラボラアン
テナのサイズ縮小化効果の限界である最小雑音
No.3, 2009 • SEMI News
図3 低雑音HEMTの断面構造と電子顕微鏡写真
(右)
25
Innovation Stories
開発秘話:DZIGシリコンウェーハ
元 日本電気株式会社 研究開発グループ 津屋 英樹
■ はじめに
欠陥がなく、逆に欠陥がある場合には表面に微小欠陥がない
1974、5年ごろ、IBMが超大型コンピュータを開発しているとい
ことを知っていた。IG効果は学問的にも面白く、有効なゲッタリ
う噂が広まった。これには当然、集積度の高いLSIの使用が予想
ング方法として、その後多くの研究者の注目するところとなった
され、我が国でも超LSI技術の研究開発の必要性が大きく叫ばれ
が、利用できるウェーハの素性が限定されるとか、月に何百万個
た。そこで1976年、当時の通産省・電総研と汎用コンピュター
も量産されるデバイスの製造に耐えうる方法なのだろうか、さ
(富士通、日立、三菱電機、日本電気、東芝)
が超LSI
メーカー5社
らにはIG源をつくり過ぎると、かえってウェーハ強度が弱くなっ
技術研究組合・共同研究所を組織し、さらに、日本電気と東芝が
たり、表面に欠陥が突き出したりして、逆にデバイスの歩留り
日電東芝情報システムにNTIS研究所を、日立、三菱電機、富士通
を低下させるという制御性の問題など、工業的なレベルでLSIの
がCDL研究所を設け、三つの新しい組織で超LSIの研究が行わ
製品に適用するためには多くの課題が残されていた。
れることになった。もちろん、デバイスメーカー各社や電電公社・
通研でも独自に研究開発が続けられたのは言うまでもない。
筆者はそれまで酸化物単結晶の研究開発に従事していたが、
■ 研究目標の設定とその経過
筆者らは、デバイス量産に耐えうるウェーハとして、以下に示
これを契機にテーマをシリコンに切り替え、NTIS研究所兼務と
す具体的な目標を設定し、その解決に傾注した。
なった。当時、シリコン結晶の研究はもうやることはないのでは
①新規な熱処理法を開発してIG源となる結晶欠陥の生成・消滅
と、専門家に言われたこともあった。ところが首を突っ込んでみ
を完全に制御すること。
ると、結晶欠陥の研究はテーマのひとつであったが、面白いこと
②従来のIG効果はウェーハの酸素濃度や切り出されたインゴッ
が山ほどあり、このとき出会ったのがイントリンシック・ゲッタ
ト位置に強く依存していたが、それらの制約を解消し、利用し
効果で、これは超LSI時代に役立つのではないかと
リング
(IG)
うるウェーハの範囲を大幅に拡大すること。
直感し、工業化を目指して共同研究者とともに、基礎研究から
実用化まで精力的に研究開発を継続した。
③デバイスの種類や生産ラインに依存しない普遍的に使用でき
るウェーハ品質を実現すること。
研究開発・実用化の経緯を三つの期間に分けて述べる。第1期
■ ゲッタリング技術との出会い
は1977年から1983年にわたる基礎研究の時代で、主にNTIS研
新しいプロセス技術の導入やデバイス構造の提案は、デバイス
究所が活動の中心であった。余談であるが、1982年まで続いた
の性能を向上させてきたが、それと同時に、Fe、Cu、Niなどの好
NTIS研究所の第二研究室では、日電側が欠陥防止技術、エピタキ
ましからざる重金属不純物汚染の機会が増大し、またデバイスの
シャル成長技術、ウェーハ加工技術を担当し、東芝側はバルク成
局所的なひずみの導入をも招くことになった。重金属不純物は
長技術、洗浄技術を担当し、毎月一回集まって議論し合ったの
ひずみのある場所に集まり、歩留り低下の原因のひとつになる。
は、懐かしい思い出である。
重金属不純物をデバイス領域から除去し領域外に捕捉する
(ゲ
共同研究者は志村史夫さん、丹野幸悦さん、小川賢さんらで、
ッター)
ゲッタリング技術は、デバイスの歩留り・信頼性向上に
高温や低温の繰返し多重熱処理を施すことで、シリコン結晶中
きわめて重要な技術である。
では酸素の析出・溶解現象が再現性よく起こることが明らかに
ゲッタリング技術としては従来、ウェーハ裏面にひずみをつ
された。また、この期間に開発された低温からの多段階熱処理法
ける手法やP拡散による転位の導入など、いわゆるエクストリン
では、ウェーハの熱履歴によらずにインゴットのトップからボトム
シック・ゲッタリング(EG)が1960年代から用いられてきたが、
まで均一な酸素析出が生じ、IG源の精密な制御ができるように
これらは超LSI時代に向けて必ずしも最適な方法ではなかった。
なった。その結果、IG効果が利用できるウェーハの酸素濃度
一方、ウェーハ内部にゲッタリング効果をもたせるIG 効果は、
範囲が拡大し、シリコンインゴットの利用効率が大きく向上した。
1976年の学術誌に報告され、学問の場に登場した。このような現
ここで開発した基板をDZ(デヌーデッドゾーン)IGウェーハと
象は当時、現場の技術者がしばしば体験することであった。つま
呼ぶことにした。これらの研究では赤外分光光度計をよく用
り、熱処理したウェーハをエッチングすると、表面にヘイズと呼
いたが、データは膨大な量に達し、測定装置のベルトが磨耗
ばれる微小欠陥が観察されるが、この場合にはウェーハ内部に
して取り替えるはめにもなったりした。
20
SEMI News • 2009, No.4
Innovation Stories
また結晶育成時の熱履歴の検討も行った。大阪チタニウム製
第2期までに行った256K DRAMなど各種デバイスに適用した
造のご好意で、尼崎工場の結晶引上げラインを使用させてもら
DZIGウェーハの評価結果は上々であったが、メガビット時代に
い、結晶引上げ時の温度分布の測定や熱的環境を変えた成長
DZIGウェーハを本格的に量産に適用するチャンスがやってき
実験を行うことで、熱履歴が析出に与える影響を詳しく調べた。
た。1989年ごろから各社は4M DRAMの量産試作をスタート
当時、シリコン微小欠陥の研究は、ゲッタリングも含めて国内
させ、日本電気も当然のことながらトップの座を狙っていた。生
でも活発な議論がなされていた。1980年春の応用物理学会の講
産技術、量産技術に関する会議が、生産基地のメンバーも加わっ
のシンポジウムも開催
演会では、
「Si微小欠陥の発生とその応用」
て連日開かれていた。
された。デバイスメーカーでは、歩留り向上にゲッタリング技術
DZIG基板の採用も歩留り向上の有力な候補であり、報告され
を積極的に採用する派と、洗浄プロセスを重要視する派に分か
るデータに一喜一憂した。厳しい日々が続いたが、必ずやうまく
れていたようであった。後者では、製造ラインに非常に多くの洗
いくという自信めいたものはあった。今でもよく覚えているが、
浄装置を設置しているという情報も聞こえてきた。
その年の6月末に、耳よりなファックスが生産技術部隊から届い
1983年から1988年に至る第2期では、それまでに得られた成
た。
「DZIG基板を使った4M DRAMのホールド特性が著しく改
果をベースに各種のデバイスに適用し、関係者の協力を得て膨
とあった。これをきっ
善され、以後DZIG基板の投入を促進する」
大な量産試作評価を行い、問題点の抽出と改良を行った。CCD
かけに、多くの量産デバイスでも歩留り向上のデータが続出し
ではプロセスで誘起される反りが白点傷の原因になるので、反
た。1M SRAM、大規模高速ロジック、高耐圧MOSICなどで、
りと酸素析出量との相関、バイポーラでは減圧エピ成長条件が
坂本充さん、鈴木毅さん、池田和子さんなどが中心になって対応
ゲッタリング能力の持続性に与える影響、DRAMではホールド
してくれた。ウェーハメーカー3社の技術開発や協力によるとこ
特性と初期酸素濃度との関係など、豊富なデータが蓄積できた。
ろも大きい。酸素濃度を均一に制御する結晶成長技術の進展は
その結果、ウェーハ強度の改善、熱処理法の簡素化、酸素濃度
大きな力になったし、DZIG量産時には積極的に熱処理炉の
範囲の大幅な拡大などに、良好な見通しが得られた。
設備投資をしてくれた。
この間、1984年秋に、筆者は研究開発グループから半導体事
業グループの開発部門に移った。当時日本電気では、両グループ
のトップが、超LSIにはシリコンウェーハが重要になっていくとの
認識のもとに、事業グループの超LSI開発本部に結晶開発部を新
設した。某デバイスメーカーの同業者から、
「日電はさすがです
ね。結晶の名前をつけた開発部を設けたんですから」
と言われ
た。一緒に異動した三上雅生さんは、その後のDZIGウェーハの
事業化に尽力してくれた。この機会に、多くのプロセス開発者、
デバイス技術者、現場の技術者との交流が深まり、実用化研究
が加速した。以後、6年半にわたって半導体デバイス事業の最先
DZIGシリコンウェーハの断面エッチング光学顕微鏡写真
端に触れることができた。
■ おわりに
■ 実用化への挑戦
DZIG基板の実用化を通して半導体デバイス事業の発展に寄
第3期は1989年以降の超LSIでの量産化の時代である。メガ
与できたのは、企業に属する研究者として本望であった。日本電気
ビット時代に入り、デバイスの微細化、高集積化が一段と進行す
では、事業部サイドがゲッタリング技術に大きな関心を持って
るとともに、高度な生産設備や製造技術が要求されるようにな
協力してくれたが、お互いに歩留り向上という共通の目的意識
り、マスク枚数も必然的に増加した。そのため投資も加速度的に
を持ち、社内で情報を広くオープンにし、組織の壁を越えて議論
増大した。このような背景のもとに、製造コストの低減に有用な
を戦わせた。このようなやり方は当時の日本企業の風土になじ
役割を果たす歩留りの持つ意味は重大であった。この時期、ゲッ
むものであったと思う。基礎研究から実用化までの道のりは遠
タリング技術はデバイスメーカーやウェーハメーカーでいっそう
い。信念を持って粘り強く継続することが成果につながる。さ
「シ
の関心が深まり、1989年春の応用物理学会の講演会では、
らに重要なことは、研究開発担当者と量産現場の担当者相互の
リコン結晶のゲッタリング技術と欠陥制御」
のシンポジウムが開催
信頼感であり、これは工業化を推進していくための決定的な力
された。
になると信じて疑わない。
No.4, 2009 • SEMI News
21
Innovation Stories
開発秘話:MoSi位相シフトマスクへの道のり
レーザーテック株式会社 取締役会長 渡壁 弥一郎
■ MoSiとの出会い
昨年11月11日ルネサスのYから突然メールが送られてきた。
“マスクのクロムはトキのように絶滅するのか”というタイトル
の論文が出ているという内容で、米 Toppan Photomask社の
Franklin Kalk氏が2008年11月のSEMICONDUCTORのIndustry
Newsに発表したものであった。従来マスク材料に使われている
CrがMoSiに変わっていくだろうという内容だが、なぜ今MoSi
なのか。
「その特徴は、材料そのものの純度とドライエッチングが
容易であり、微細化に適しているからである」
と氏は述べている。
振り返れば、私が三菱電機LSI研究所においてマスク技術に
携わっていた1985年1月、MoSiマスクの新聞発表を行った。MoSi
図1
マスク開発のきっかけは、LSIが微細化するに従ってマスク上での
Crパターンが洗浄で剥がれる現象が頻発したことである。当時
常に役立ち、窒素、酸素ガスをパラメータとして開発は順調に推
LSIのゲートプロセスに当たり前のように使われていたシリサ
(∼5%)
を得
移し、Crで得られた低反射膜とほぼ同様の反射率
イド材料としてのMoSiを、マスクの遮光材として使ってみては
ることができた。この開発により、上層に低反射膜を付けた2層
どうかと思いつき、当時成膜技術に携わっていたOに石英基板
膜が完成し、その他低反射膜1層のシースルーマスクを完成させ
を渡し、MoSiをスパッタ成膜してもらった。一般的には、シリコ
(HT)の原型
た。これが後で述べるMoSiハーフトーンマスク
ンウェーハラインに異質な材料を流すことは嫌われることが多
である。
いが、彼には非常に気軽に引き受けてもらった記憶がある。
しかし、このMOSiマスクは1985年に新聞発表し、マスクメー
そのままEBレジストを塗布し、電子ビーム露光装置でパター
カーおよびブランクスメーカーに技術供与したものの、三菱電
ン形成し、現像後エッチング処理した。三菱電機は当時からマス
機のR&Dで採用した後、日の目を見ずに終わった。理由は、量産
クのドライエッチングが進んでいたため、エッチングは容易で
工場での保守的で実績のない材料への拒絶反応であり、Crマス
あった。加工後レジストを剥離し、いよいよ洗浄工程に入った。
クの巻き返し、つまり剥がれ対策がなされた新しい材料の出現
シリコン酸化膜上のMoSi膜がそう簡単に洗浄で剥がれることは
であった。
ないと予想してはいたものの、同じ材料である石英基板上の
MoSiパターンが剥がれない保証は何もない。実験には、当時三
■ MoSi-HTへの新たな展開
菱電機北伊丹製作所のHが協力してくれた。必死になってスクラ
超解像技術のひとつとしてのHTマスクは古く、MITからX
ブ洗浄を繰り返し、
「絶対剥がして見せる」
と、少し憎たらしいこ
線リソグラフィの中で提案されていた。その後、日立の長谷川
とを言いながら実験をやってくれたことを、今では懐かしく思っ
昇雄氏により光リソグラフィで論文発表され、三菱電機として
ている。図1に示しているように、洗浄回数を繰り返し行って
もいち早く開発に乗り出した。当時MITから三菱電機社長
も、全くパターン剥がれは生じなかった。その後の開発は、当然
宛に、このHT技術のライセンス供与の話が入り、私の所に検討
のことながら、評価テストパターンの繰返し洗浄実験と製品本番
するよう打診があった。ビックリするほど安いライセンスフィー
パターンの洗浄評価が繰り返された。もちろん、マスクとしての評
であり、全く迷わずに契約をしたことを覚えている。
価はこれだけで済むことではない。MoSi膜の反射率、パターン
最初のHT材料はSOGとCrの2層膜が多かったが、我々LSI
形状、低反射膜の開発等が残っている。パターン形状はドライ
研究所としては、MoSi単層膜で開発に集中した。その後、SiNの
エッチングが容易で、むしろCrより優れていた。課題は低反射
単層膜がMoSi-HTの発表後に世の中に出てきたが、大きな進展
膜である。MoSiがマスク材料として極めて優れていることで、
はなかった。単層MoSi-HTは非常に新しい技術として、1993年
成膜装置(スパッタ)
の設備投資申請を行った。設備投資申請
のIEDMに採択され注目された。MoSi-HTの開発は、三菱
には大きなハードルもなく無事認められ、いよいよ低反射膜開
電機とアルバック成膜との共同開発でスタートした。アルバ
発がスタートした。ウェーハプロセスでのMoSi成膜データが非
ック成膜を共同開発の相手として選んだ理由は、ブランクス
20
SEMI News • 2010, No.1
Innovation Stories
0.9
i線
透過率
(λ=365nm)
T =5%
:MoSiO
0.8
:MoSiON
T =1%
:CrO
0.7
:CrON
Cr系シフタ
0.6
消衰系数 κ
T =10%
0.5
T =15%
MoSi系シフタ
0.4
0.2
0.1
共同開発の成功にあったことを忘れてはならない。と同時に、新
っていることであった。
しい材料開発にはいくつかの新たな技術が生まれることもあり、
MoSi-HT 膜の共同開
さらに他部門、他社との技術の共有化
(共同開発)
がいかに必
発は、図2に示すように、
要か、つまり開発効率と開発スピードの短縮に非常に有効であ
MoSiとCrの酸化、酸化
ることが、このMoSi-HT開発を通じて身にしみてわかった。
窒化の成膜評価からス
2.0
■ おわりに
マスクブランクスでは、素人の人間が新しい発想でMoSiマス
から、MoSiの方が透過
クを開発したことは、専業のメーカーから見たらショッキング
T =30%
率が高く、かつKrFエキ
なものであっただろう。聞くところによると、上からかなり厳し
T =40%
シマレーザーを使った
く言われたとのことだし、悔しい思いがあったと思う。もちろん、
次世代リソグラフィの
同じ時期に類似したHT材料を考えていたと、あるブランクスメ
可能性が見えてきたこ
ーカーから聞いたことがある。マスクを使うユーザーから違っ
T =50%
1.5
膜技術と装置技術を持
の光学特性の評価結果
T =20%
1.0
に微妙なHTマスクの位相差を、高精度に測定できたことがこの
タートした。MoSiとCr
0.3
0
メーカーとしての高い成
2.5
3.0
屈折率 n
と、また、加工性が優れ
た角度で新しい発想が生まれることは、よくあることではない
MoSiO,MoSiON,CrO,CrON膜のi線
(λ=365nm)に対する屈折率nと
消衰係数の関係
ていたことからMoSiに
だろうか。MoSi バイナリーからスタートし、さらに進化した
注力し、開発を加速した。
MoSi-HTへの道のりは、開発環境に恵まれ、かつ多くの社内社
図2
透過率の開発は相当苦
外の人たちの協力の賜物であり、それがうまく機能したお陰でも
労した。M(現 ASML )
ある。非常にご理解のあるブランクスメーカー、マスクメーカー
と前出のYは解像性と膜質の最適値をi線で8%にしたが、KrFで
の方も多く、この材料の優位性を指摘していただいたのは本当
は8%がなかなか達成せず、妥協点として6%を選択、現在でもこ
に感謝している。
れが世界標準の透過率として使われている。i線およびKrF対応
最後に、感動の一瞬があった時のことを述べたいと思う。MoSi
のMoSi-HT開発は、約半年といった非常に早い期間で行った。
ハーフトーンマスクが量的に普及したのは、2000年の初めだっ
もうひとつ、単層にチャレンジした発想の基点は、既存のバイナ
たと思う。三菱電機が1990年前半にCrとMoSi-HTの両方を比
リマスクの設備を利用して新規投資をできる限り押さえ、早期
較しながらHTを16Mに適用していた記憶があることを考えれ
開発を実現する意識があったからである。ドライエッチンッグ
ば、まだ10年程度なのかと思う。これは新材料の変更が極めて時
装置の開発には、三菱電機の中央研究所も参加した。当時の開
間がかかることを物語っている。私が今のレーザーテック入っ
発者は、このエッチング装置すべてを自分たちでやると言い張っ
てヨーロッパ出張した際に、フランスのあるデバイスメーカー
ていたが、私は拒否。理由は明らかで、理論は分かっていても実
の玄関のショーケースでMoSi-HTマスクを見た時、驚きと感動
用化の経験の少ない研究所に任せるには、非常に大きな抵抗
と、少し誇りを感じたことを覚えている。
があったからである。しかし、マグネトロンの高い技術を持っ
決して新しい材料でもないMoSiが、HTマスクの基本的な材
ている中央研究所の技術は、しっかりと適用させてもらった。ア
料に使われるようになった。ちょうど、光学リソグラフィにおけ
、
ルバック成膜では、T氏(現アルバックコーポレートセンター)
る最小寸法が波長を超えた時でもある
(図3)。
A氏、三菱電機側はY、そしてN
(現Neo Solar Power Corp.)
に本当に活躍してもらったが、いちばん苦労したのは開発費であ
った。限られた予算の中で双方の厳しい交渉、説得、根回し、
懇願と、あらゆる手段で何とか費用を捻出した思いがある。
しかし前述したように、やはり実用化の段階では量産ライン
の保守的な考えから、業界(特にマスクメーカー)
でのMoSi系
HTの実用化には時間を要した。しかし、幸運なことに三菱電
機では北伊丹製作所
(量産)
の理解もあり、開発当初から採用
方向にあり、64M 開発には大いに役立っていたと思う。また、
MoSi-HT開発で忘れてはならない技術がある。K(現レーザー
テック)
が当時開発したHT膜の位相差測定装置である。非常
No.1, 2010 • SEMI News
図3
21
Innovation Stories
開発秘話:1M
DRAM
株式会社東芝 セミコンダクター社 社長 齋藤 昇三
■ はじめに
DRAMの誕生は、1971年にインテル社が1,024(1K)
ビット
体事業において世界レベル
(World)
で勝つ
(Win)
ことであり、
し、
また社の中で事業として大きく売上げと利益に寄与
(Victory)
DRAMを開発/製品化し、磁気コアメモリに置き換わってコンピ
東芝のシステム事業に対しキーコンポーネントとしての価値を
ュータの主記憶装置として採用された時である。その後、ほぼ
する、2つのVの組み合わせでもある。その後、シ
提供(Value)
3年に4倍のビット容量というペースの大容量化と、新しい市場を
リコンサイクルの波に動揺しない一貫した設備投資による土台
ビット
(20
開拓することで発展を続けてきた。現在は2G(ギガ)
作り、技術者の重点配分による技術力強化を実施した。1M
億ビット)
の製品まで進化を続けてきている。
DRAM開発にあたり、東芝では、社内で「Cチーム」
「Nチーム」
東芝におけるDRAM の歴史は、1973 年にこの 1Kビット
と呼ばれる2つの開発チームが組織された。NとCはICの代表
DRAMをインテル社に遅れること2年で開発した時に始まる。
(N型金属酸化物半導体)
」
と
「CMOS
的な構造である
「NMOS
ICの最新技術であるPチャンネル・シリコンゲート技術を駆使
(相補型金属酸化物半導体」の文字からとられている。このN、
した3トランジスタ/セルであった。しかし、米国の先行メーカー
C双方の開発を同時進行させ、社内競争の原理を導入し、開発
との技術力の差はまだ大きく、本格的な量産まで至ることがで
を推進しようという試みであった。私はCMOSチームの設計責任
きなかった。
者として従事した。私の会社生活の中でこの時期が一番働いた
その後、現在も使用されている1トランジスタ+1キャパシタ/
セル構造による4KビットDRAMを開発、Nチャンネル・シリコ
ような気がする。とにかく、DRAMで世界一になるのだという
夢は人一倍あった気がする。
ンゲート技術など、各種技術を吸収していった。16Kビット
この時点で競合他社の多くは、動作速度が速くコストを最も
DRAMの世代になり、ようやく月産100万個を生産できるレベ
低くできるNMOSで1M DRAMの開発を進めていたが、何とし
ルまで達することができた。1978年には、5V単一電源の64Kビ
ても1M DRAMでトップに立ちたい東芝は、あえてCMOSに注
ットDRAMが誕生、大型コンピュータ主体の応用から、多方面
目した。プロセスが長く、コストが高いためDRAMに不向きと
のシステムに応用分野が拡大していった。生産面でも月産300
いわれていたCMOSであったが、低消費電力と小型というメリ
万個を達成し、DRAM生産の基盤をようやく確立することがで
ットを活かせないかと考えたのである。また、東芝において
きた。しかし、依然として性能競争と開発競争の熾烈さに遅れ
CMOSは、10年以上も前から電卓や時計において実績があり、
をとり、DRAMメーカーとしては他社の後塵を拝していた。256K
量産化に時間のかからないという強みもあった。そうした理由か
ビットDRAMは、10年以上にわたる長い技術、製造面での苦難
ら、NMOSとCMOSの2面作戦で開発をスタートさせたのであ
を乗り越えて1982年に登場した。性能、品質ともに一流メーカー
る。1984年、それぞれの開発チームは試作品を完成した。多くの
の領域に達し、月産700万個の生産を記録したが、不況により極
議論の結果、東芝が下した決断は、CMOS開発一本に絞ると
端な供給過多となり、作っても売れないという悲劇の世代とな
いうものだった。まず、私は東芝社内で勝ったのであった。
った。そして、東芝が半導体メーカーとして確かな地歩を築いた
のは、1MビットDRAMの時代に入ってからである。
と
「NMOS」の並列開発と同時に、
また、東芝では「CMOS」
微細加工技術面でも並列開発を実施した。
「プレーナ法」
と
「ト
レンチ法」
による開発である。その結果、他社がトレンチ法を採
■ 1M DRAMの開発
用する中、東芝は、製品の開発時期を優先するため、難易度の
「東芝、DRAM事業から撤退」
と日
この始まりは、1981年末に
高いトレンチはあえて避け、プレーナ法による開発に絞ることに
経新聞に報道されてからである。これを契機にDRAM事業への
なった。プレーナ法の方が速く量産化にこぎ着けることができ
再挑戦が始まったといえる。東芝の半導体事業は、技術、シェアの
るという読みからである。
「プレーナ法」
とは、シリコン基盤の
面で苦境に立っていた。
「挽回か撤退か」
、決断が迫られる状況下
上に平面状にキャパシタンスを設ける方法で、256K DRAM世
で、
トップは半導体事業への大型投資を決めた。以来、
トップから
代までは各社が採用していた技術である。しかし、ビット容量を増
スタッフまで、半導体関係者一丸となっての巻き返しが始まった。
やすためにはセルのサイズを縮小する必要があり、1M DRAM
1982年の社長年頭挨拶で、開発専用クリーンルームの建設計
時代からはシリコン基盤に穴を掘って、実質的にキャパシタの
画が発表され、1983年から開始されたW作戦の重点戦略とし
面積を増やす「トレンチ法」が採用され始めた。ほかにも、4M
「W」
の意味は、半導
て、1MビットDRAMの開発がスタートした。
DRAM以降に開発された技術として「スタック法」がある。こ
22
SEMI News • 2010, No.2
Innovation Stories
れは、シリコン基盤の上に作ったトランジスタの上にキャパシタ
メモリの大好況期にあった。半導体市場が年間40%もの成長
を積み重ねるように作る技術である。ちなみに、東芝は、4M
率を達成したのは、DRAMの好況に負うところが大きい。東芝
DRAMからトレンチ法を採用し、256M DRAMまで採用していた。
DRAMは世界ランキングで5位程度であったが、1995年には過
ついに、1984年秋に、世界に先駆けて1M CMOS DRAMの開
発に成功した。翌1985年2月に、ニューヨークで開催された半導体
去最高の売上高と経常利益を達成した。
64MビットDRAMの時代になって、プロセス技術開発の遅
(国際固体回路会議)
に、私が発表に行った。
世界会議ISSCC
れを取り戻すため、256Mビットの技術開発としてスタートし
世界で始めてCMOSでDRAMを作った。それも1Mビットとい
ていたIBMとSiemensと東芝の共同開発プロジェクトの成果
う容量を、世界一の性能で完成させたということで、一躍有名
を64Mビットに適用、1996年にユーザーにサンプル
(TRiAD)
になった。これで、世界のトップに君臨することができた。同時
出荷した。東芝のメモリ事業は、96年から市場の悪化とともに急
に、大手ユーザーへのサンプル出荷と製品開発段階で、他社に
速に売上高の低下と赤字化が進んだ。また、体力的にも、他社
大きく先行した。さらに、DRAM事業はその量産体制がいかに短
に比較して技術力の低下、コスト力の低下が目立ち始めた。さら
期間で整うかにかかっていると言われる。それは、東芝が過去に
に、新規参入してきた韓国、台湾メーカーに比較してコスト的に追
味わった64K DRAM開発競争の出遅れからも自明のことであ
いつかず、苦しい戦いを強いられた。
る。そこで、東芝は1M DRAMの生産開始を1985年12月と定め、
1997年以降、東芝はDRAM事業の再構築を開始した。ま
1M DRAM生産に関するすべてに対し、全力で取り組んだ。その
ず、コスト力強化の展開とスケーラビリティのあるプロセスによる
結果、予定より早い1985年10月に、月産1万個の規模で生産を開
新規投資削減から始めた。さらに、製造拠点のグローバル展
始。長年の夢だった1M DRAM量産の各社に先がけての成功
開として、米国にIBMとDRAM工場(ドミニオン・セミコンダクタ
である。これにより、東芝は1M DRAMの開発で世界有数の半導
社)
を設立、台湾ウィンボンド社と提携し、台湾での生産を開始
体メーカーに躍り出たのである。
した。また、後工程生産でも米国、台湾に進出した。開発面で
1M DRAMは、毎月巨額の利益を上げ、東芝半導体の技術を
も、アライアンスによる外部リソースの活用と研究投資削減を行
世界的レベルにまで高め、全社においても東芝のヒット商品の
った。また、ビジネスも、アフターマーケット向け中心から最重要
ひとつとなった。東芝半導体事業の中で、売上げ、利益規模、国
顧客へ再参入を果たした。世代も64Mビットから128Mビット、
際化への広がり、知名度アップなど広い面で、1M DRAMほど大き
256Mビットと進み、製品もシンクロナスDRAM 、ラムバス
な貢献をした製品はないとさえ言われている。
DRAMと高付加価値製品へのシフトを加速していった。こうし
て、DRAMは半導体事業の中で大きな柱として事業展開をして
■ その後
4MビットDRAMでも2世代制覇へ向けて、全社一丸となって
いくとともに、技術のリーディング・デバイスとして技術開発を
牽引し続けてきた。
開発を進めた。競合他社と激しい競争を繰り広げたが、東芝は依
然として優位に立ち、1989年には他社に先駆けてサンプル出荷
■ おわりに
を始め、大手ユーザーの認定をいち早く取得した。続く16Mビッ
東芝のDRAMは、このように華々しく、かつ浮き沈みの多い
トDRAMでも、1990年にサンプル出荷を始めた。一方、生産面
歴史を持っている。しかし、1981年に撤退の報道があってから20
でも主力ラインとするために、大分工場に多額の設備投資を行
年経った2001年の春に、本当に事業から撤退することになった。
い、生産体制を着々と整えていった。また、1993年には、メモリの
これも、私が1M DRAMの開発を担当してから、ずっとDRAM
主力工場として四日市工場を生産スタートさせた。しかし、開発/
事業に従事し、そしてDRAM事業撤退の責任者として取り仕切
サンプル出荷まで順調なすべりだったが、認定サンプル以降で
らせていただくまで継続した。何の因果か分からないが、DRAM
トラブルが多発、他社に少しずつ遅れ始めていった。また、シス
の長い歴史の真ん中で、最初から最後まで仕事ができたことを
テム不良が多発し、顧客からのクレームが相次いだ。次第に重要
有り難いことだと思っている。また、DRAMの事業を撤退に追
顧客から締め出され始め、比較的価格の安いアフターマーケッ
いやったという十字架を背負った人間が、その後もメモリ事業
ト向けの顧客にビジネスの主体が移っていった。また、微細化
に携わらせていただいており、NANDという新しい事業で再び
技術で他社に遅れをとり、チップ・サイズが大きくなり、コスト力
メモリの東芝を蘇らせることができたのも幸せであると思ってい
が低下してしまった。最終的には量産段階で他社に遅れをとり、
る。これも、東芝メモリは決して負けない、必ず世界一になる
首位の座をニューカマーたちに明け渡すことになった。かつて
という強い意志のDNAを持っているからだと思う。私のこれか
2世代制覇したメーカーはないというジンクス通り、開発戦争の
らの仕事は、この良きDNAを後継者に伝えていくことだと認識
厳しさを味わった。こんな状況の中でも、1994∼95年は世界的に
している。
No.2, 2010 • SEMI News
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Innovation Stories
開発秘話:CCDイメージセンサ
元ソニー株式会社 常務 半導体事業本部長 工学博士
■ CCDイメージセンサ発明のころ
越智 成之
■ 日本企業の活躍
CCD
(Charge-Coupled Device)の発明者Willard BoyleとGeorge
CCDにノーベル賞との発表の翌日、日本経済新聞2009年10
E. Smithが、2009年度ノーベル物理学賞を受賞した。心から祝福
月7日朝刊は「日本企業陰の立役者」と報じている。その記事
を贈りたい。Boyleはカナダ海軍で活躍した後、持続動作するル
を要約すれば、「ソニーは70年代にCCDの開発に着手、半導体の
ビーレーザを発明。Smithもアメリカ海軍で活躍した後、レーザ
製造法などを改良して画質や感度を大幅に高め、解像度の飛躍
の研究者となっている。彼らはベル電話研究所を退職した後も
的向上に成功。85年に25万画素のCCDを搭載した初の8ミリ
海を愛し、筆者がコンタクトをとったときも、Boyleは日々カナダ
ビデオカメラを発売した。カシオ計算機やキヤノンなども90年
の海に潜り、Smithは南太平洋をヨットで航行中であった。
代にデジタルカメラを製品化。オリンパスは85年にCCD搭載
時代背景として、1960年代はコンピュータ技術が著しく発展
し、そのメインメモリの性能、コストの改善に注力。ベル研でも
の内視鏡を開発」と記されている。
■ 研究ターゲットの設定
1967年、磁気バブルメモリが開発された。1969年当時、磁気部門、
筆者は、1970年にソニーでCCDの研究開発を始めた。後日、
半導体部門を統括していたJack Mortonは、磁気バブルメモリと
MBA、Management of Technology(MOT:技術経営)やジャーナ
のシナジーで半導体メインメモリを開発するよう、BoyleとSmith
リストの方々から、「CCDというダイアモンドをどのようにして
に指示したと言われている。彼らは1日(2時間以内とも)で
見つけたのか?」という質問をしばしば受けた。しかし、「石こ
CCDを発明した。ノーベル物理学賞が、高度に理論的な深い洞
ろをどのようにして至宝にしたのか?」と聞くのが真相に近い。
察や独創性とともに、永年にわたる苦闘の研究開発の結果によ
1969年に発明は瞬間芸で成し遂げられたが、1980年の世界最
る受賞が多い中で、CCDは言わば瞬間芸による成果と言える。
(ソニーXC-1)
の商品化、1985年のCCD
初のCCDカラーカメラ
メインメモリをターゲットにしたCCDの発明も、1970年、
カムコーダ
(ソニーCCD-V8)
まで、日本の技術者はそれぞれ、10
ISSCCで発表されたHoneywell/Intelの1Kbit MOS DRAMが主役
年、15年間の死の谷と呼ばれる苦闘の商品開発を経験した。
に躍り出て、その目的を失う。当時、ベル研の親会社は撮像管な
当時のソニーはいかなる状況にあっただろうか。1968年にト
どによるテレビ電話の開発に熱中。しかし、約5億ドル(1,500
リニトロンカラーテレビを発売。1969年にはU-matic VTRの規
億円以上)
もの開発投資の後、1972年撤退に至り、ベル研のCCD
格を統一、1975年のBetamax発売に向けて家庭用VTRの商品開
はイメージセンサとしての道も断たれた。アメリカの主たる企
発に集中。ビデオカメラの市場はVTRの3%産業規模と言われ
(MBA:経
業で、技術経営者からMaster of Business Administration
ていたが、筆者はVTRの次は未開拓の家庭用ビデオカメラ市場
営修士)
に権力が移行し、当時の経営判断に多くの技術的誤りが
だと狙いをつけて、1970年CCDの研究開発を始めた。学生時代、
あったと言われている。本社機構による行き過ぎた企業統治、過
エサキダイオードをソニーに買いに来て、入社。世の中で扇情的
剰な垂直統合、長期ビジョンを持たない短期間での利益回収な
に扱われている半面、ソニーでは既に開発を断念。エサキダイオ
どが指摘されている。テレビ電話は、市場の誤判断、回線投資の
ードの革新的応用商品がなかったそうだ。CCDで同じ轍を踏ま
不足、画像圧縮、撮像素子技術の不足、顧客クレームなどで打撃
ないよう、社内で応用商品のアンケートをとり、同一組織内で
を受けたようだ。
CCDデバイスとビデオカメラシステムの両輪を同時開発するこ
■ CCDイメージセンサの技術的背景
とにした。また、8画素、64画素の画出しを行ったが、嬉しさより
CCDが1969年に発明され、1970年に発表される以前に、時代
も画質の酷さに驚き、商品開発に最低10年はかかるという印象
背景がCCDイメージセンサやビデオカメラに技術的影響を与
を受けた。そして、低照度での画質最優先というターゲットを立
えた。
て、ランダムおよび固定雑音との長い戦いが始まった。幸い、こ
セルロイド・ロールフィルムは1889年に商品化。最初のMOS
の考えは、未だにソニーのイメーセンサに受け継がれ、画質の良
構造は、1925年から1928年にかけて特許出願。最初の蓄積型撮
さを誇っている。CCDは半導体の欠点がそのまま理論通り画質
像管は1930年から1933年にかけて開発。電荷転送の概念は1948
に現れる。この面白さに熱中し、絶望的で長い研究開発期間では
年に示され 、1967 年にはバイポーラ電荷転送素子を報告。
しばしば救いになった。結晶起因の固定欠陥を抜本的に改善す
Bucket-Brigade Device(BBD)
は、1969年、1970年に発表された。
るために、石英るつぼから不純物や酸素の引き込みを抑制する、
24
SEMI News • 2010, No.3
P24-25_26-03 10.7.22 5:45 PM ページ 25
Innovation Stories
磁界をかけてシリコン単結晶引き上げを行うMCZ法が考案さ
カ」を開発した。もう写真フイルムやフイルムカメラは要らな
れた。不純物拡散ではなく、 原子炉で素粒子を打ち込み 、
いとセンセーショナルな報道がされた。イメージセンサ特許は、
transmutation dopingによる純度の高い不純物発生などを、島田孝
この時期からフイルム写真3社からも出願が急増した。
さんたちが実用化。生産には海外の原子炉を使用した。また、画
■ CCD8ミリカムコーダの商品化
素効率を上げるために、画素の市松配列、蛇行読出し構造を考案、
当時のCCDは、固定雑音、歩留り、解像度、縦輝線状偽信号「ス
実証。筆者らが発明した、等価残像を半減したフィールド蓄積イ
ミア」など、多種多様の問題点を抱えていた。CCDの画期的な
ンターライントランスファ
(IT)CCD、汎用的な可変速電子シャ
画質向上に伴い、撮像管で商品化計画を進めていた8ミリカムコ
ッタ付IT-CCD、スミアを1/100に改善した可変速電子シャッタ
ーダは急遽CCDに変更され、1985年1月、CCD8ミリカムコー
付放送、映画制作用FIT-CCD、静止画用垂直解像度倍増CCDな
ダ「CCD-V8」を商品化できた。
どが、後日次々と主要特許成立となった。
■ 航空用CCDカラーカメラの商品化
研究開始の10年後、1980年になってようやく成果が出始めた。
事業本部トップの河野文男さん、高橋昌宏さん、清木正信さん
(現㈱バイテック代表取締役社長)
が中心になり、経営革新を断
行、ビジネス環境が整った。
1976年、アメリカ上院公聴会でロッキード事件が発覚、丸紅―田
1985年3月にCCD事業部が発足し、本格的なビジネス展開を
中角栄首相(当時)への5億円贈収賄ルートが解明され、全日空
開始。1985年9月にはCCD事業部長として、筆者は岩間社長の
はロッキード社トライスターから、ボーイング社スーパ
(ANA)
墓前で、「月産10万個体制を完成し、世界市場の90%以上を占有
ージャンボB747に機種変更した。搭乗客に外界を見せるサービス
し、年間売上高見込みは約150億円」と報告できた。
として、当初撮像管カメラを予定していたが、B747の狭いコック
■ 液晶ビューファインダの開発と商品化
ピットには入る余地がなく、CCDカラーカメラの開発依頼をいた
CCDカムコーダのビューファインダ(VF)
は依然として白黒
だいた。1980年1月、B747への搭載を新聞発表し、世界最初のCCD
ブラウン管で、1983年に液晶VFを開発した。しかし、残念にも開
カラーカメラ「XC-1」を商品化した。衝撃テストなどCCDには
発禁止となり、1989年に解禁された。本社人事に無謀な求人を行
100Gをかけ、テスト法の規定もない運輸省航空機仕様承認試験に
ったが、水嶋康雅人事部長が顔を見に来られ、CCD事業部への別
無事合格させた。プロセスは困難を極め、厚木工場のCCD専用ラ
枠、大量配属の英断となった。この生産技術は、高温ポリシリコ
インで連日連夜作り続け、1年がかりで必要な52個のCCD
ンプロジェクタ、低温ポリシリコンVF、ディジタルシネマの
「ICX008」を完成させた。歩留りは%表示でなく、100万分率
LCOSや有機ELテレビ駆動へと発展した。
の良品出現率で表現した。1973年11月に、岩間和夫副社
(PPM)
■ 技術革新の継承
長から指示された5年での商品化は、6年2ヵ月で実現できた。
その後CCD技術はCMOSセンサにも引き継がれ、同僚、後輩
また、「XC-1」のCCD出力のフロントエンドで撮像信号をAD
たちの挑戦でソニーにおける技術革新が続いている。1981年
変換し、全デジタルカラーカメラを開発。デジタルカメラの先駆
CCDプロセスデバイスシミュレーションの開発、1984年 暗信
性が評価され、IEEEよりOutstanding Papers Awardを1981年に受賞
(HAD)構造の実
号を1/10に改善したHole Accumulation Diode
した。
用化、1986年オンチップカラーフィルタの実用化、1989年 縦構
■ CCDカラーカメラ一体型8ミリビデオと電子スチルカメラの開発
の実用化、1989
造を容易にしたメガイオンインプランタ
(MeV)
1980年にCCD8ミリカムコーダの原型「ビデオムービー」を
開発した。Eduald Rhein Preisをベルリンで受賞。
翌1981年にはデジカメの原型、CCD電子スチルカメラ「マビ
年オンチップマイクロレンズの実用化(1994年エミー賞受賞)
、
1990年 High Definition( HD)用 200万画素 CCDの開発( 1991
年エミー賞受賞)
、2004年CMOS読出し回路の共有化技術、そし
て2006年 高速度CMOSイメージセンサ、2008年開発
の高感度裏面照射CMOSイメージセンサは圧倒的な
商品価値を誇っている。成功の要因は、面白い仕事、絶
え間ない独創性、組織のダイナミズムといったところ
か。イメージセンサは技術、ビジネスともに、依然と
して日本が世界をリードしている。
<参考文献>
1)
越智成之「イメージセンサのすべて」
ビデオムービー
(写真左)
とマビカ
(写真右)ソニー
(株)
発表資料より
No.3, 2010 • SEMI News
工業調査会 2009年11月10日初版第2刷
25
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Innovation Stories
開発秘話:IGBT(Insulated Gate Bipolar Transistor:絶縁ゲート型バイポーラトランジスタ)
株式会社東芝 セミコンダクター社 ディスクリート半導体事業部 秀島 誠
■ 高速大電力スイッチング素子の黎明期
(MOSFETの閾値電圧)
測定時にラ
求め調査した。中にはVth
1980年ごろ米国では、バイポーラトランジスタとMOSFET(金
ッチアップ現象を起こすものもあり、いずれも完成度は低かっ
属酸化膜型電界効果トランジスタ)
を組み合わせ、電圧駆動の大
た。かかる状況下、当社のIGBTの設計コンセプトは非常に明確
電流スイッチ半導体素子の開発が始まっていた。1983年年末に、
であった。すなわち、ノンラッチアップ構造という全く新しい概念
私自身初めて海外での学会発表の機会を得て、デトロイトで開
の導入であった。IGBTは、内部に寄生サイリスタ構造を有す。
催されたモーターコンファレンスに参加した。そこで初めてGE
この寄生サイリスタは、IGBTをオンさせ電流を流すとターンオ
社のIGT
(Insulated Gate Transistor)
の発表を聞くことができた。
ンしてしまうことがあり、ゲートではターンオフ制御ができなく
当時、IGBTの原型のひとつであるIGTは、サイリスタ設計から
なる。これが寄生サイリスタのラッチアップ現象であり、それ
発展したようであり、逆耐圧を有する設計であった。
によりIGBTは破壊に至ってしまう。IGBTの開発は、いかにこの
帰国後、当社半導体事業部のトップから、このIGBT開発に着
寄生サイリスタをノンラッチアップの性能にできるかにあった。
手するよう命が下った。正確に言えば、出張の直前にIGBT開発
の命が下されていた。当時、半導体事業部では、モータ制御用途
の半導体素子として、数百Vかつ数百Aをスイッチする大電流バ
イポーラダーリントントランジスタを量産していた。スイッチン
グに伴い駆動回路の消費電力が非常に大きいため、電流駆動
から電圧駆動にして駆動回路簡素化を図るべく、バイポーラト
ランジスタのベース駆動入力部に、MOSFETをカスケード接続
した製品の開発を行っていた。この代替として、高速大電力スイ
ッチング半導体素子としてより適したIGBTに白羽の矢が立っ
たのである。
他方、当時、総合研究所では、1983年の2月に留学先米国から
帰国した中川氏
(現所属:中川コンサルティング事務所)
が、既に
IGBTの開発に着手していた。中川氏は、以前GTO
(Gate Turn Off
国際会議で発表したノンラッチアップIGBTの構造(1984年)
Non-Latch-Up 1200V75A Bipolar Mode MOSFET with Large ASO Tech.
Digest IEDM-1984, 16.8, A. Nakagawa, et. al
サイリスタ)
の開発研究者で、パワー半導体の動作原理に精通
していることは元より、パワー素子シミュレータも自ら開発をし
当時、総合研究所も半導体事業部も、IGBTのアプリケーショ
てしまうほどの実力者であった。半導体事業部と総合研究所の
ンはモータ制御であると認識していた。社内システム事業部か
関係は、総合研究所が先端の研究開発を行い、目途が得られて
ら開発要請があったからである。モータ制御用途の大電力スイ
後、半導体事業部に技術移管をして製品開発、量産化を行う役
ッチング半導体素子として、大電流、高速
(高周波)
、電圧駆動の
割分担であった。通常、半導体事業部は暫くおとなしく開発を見
スイッチング素子の誕生が切望されていた。これによって、従来
守っているのが暗黙のルールであったが、当時の半導体事業部
のバイポーラトランジスタに比べ、高周波動作時、駆動電力損失
トップはIGBTの将来性を高く評価し、最善の開発加速をするべ
の大幅な削減が期待される。開発するIGBTの目標耐圧は、500V
く、事業部のリソースを割いて、敢えて並行して開発を行う決断
と1,000Vに設定された。100V入力、200V入力のモータ制御用
をしたのである。私が30歳のときであった。
途に必要な定格である。
■ 開発着手、破壊しないIGBT実現に向けて
■ ノンラッチアップIGBT製品化に成功
1984年の初め、総合研究所から設計指針の伝授を受けた。総
当時、半導体事業部で私が所属していた個別半導体開発課で
合研究所としては、前述GE社に加え、RCA社、モトローラ社と技
は、隣のグループでパワーMOSFETを開発していた。900V耐
しのぎ
術開発競争に鎬を削っていた。各社から、それぞれのペットネ
圧のMOSFETの開発であった。当時の製品開発技術者は、自分
ームでIGBTの原型ともいうべき素子が発売された。即座に買い
で設計したパターンマスクと製造プロセスで、自ら試作を行って
24
SEMI News • 2010, No.4
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Innovation Stories
いた。試作ラインが全くなかったという訳ではないが、ディスク
リート
(個別)半導体では、独自プロセス設計をするため、自ら
試作することが多かった。試作をしながら、隣のグループの先輩
の話を聞く機会がきわめて多かったと記憶している。半導体素
子試作でウェーハを拡散炉の中に入れる前の洗浄工程では、10
分おきに薬品を入れ替えることが多く、この10分間に会話が弾
むのである。900V耐圧のMOSFET開発者はいつも愚痴を言っ
ていた。試作しても耐圧性能が出ないのである。MOSFETは、
必要な耐圧にぎりぎりに設計する必要がある。耐圧に余裕を持
たせると、MOSFETを流れる電流に対する抵抗成分が増えて
しまい、性能が著しく低下する。
この耐圧の問題を解決するには、抵抗成分が増えてしまうが、
ある部分の不純物拡散を深くするしかないと、いつもぼやいて
いた。拡散を深くすると表面の反転チャネル部分が長くなって
しまうので、そこを電気が流れるときの抵抗が増えてしまうの
である。したがって、普通のMOSFET設計は拡散を浅く作り、チ
ャネル長を短くするのが常識である。
IGBT は、MOSFETと基本的に同じような構造である。
市場に出た最初のノンラッチアップIGBT(1985年)
500V25A定格の1in1 IGBTモジュール
■ 雑学・雑知識(雑音)と自由な開発環境
私の開発者としての経験の中で、周りから得られる知識(雑
音)
が助けになったことは数多くある。しかし、当時のIGBT開
MOSFETの裏面にもう一つP-N接合を加えた構造である。チャ
発ほどに役立ったことは記憶にない。この後、IGBT開発も順調
ネル部分が抵抗になるのも、MOSFETと同一である。中川氏の基
に進み、後刻、大河内記念技術賞を受賞させていただいた。また、
本設計も、MOSFET設計の常識に習った設計であった。中川氏の
今年、電気学会から電気の礎として表彰をいただいた。もちろん
基本設計指針を受けて、パターンマスクを設計した。500V耐圧に
前述の偶然の助けもあったが、若手技術者に、自由に開発させ
適したパターンと1,000V耐圧に適したパターンを作成した。そ
ることを可能にした環境があったからこそ成果に結び付いた、と
れぞれに適したパターンとするために、拡散領域の間の距離を
今振り返って思う。
変える必要がある。1,000V耐圧用には広い間隔が必要とされ
る。プロセスの設計も基本は中川氏の指針に従った。
この後、一年の間で、メンバーは3人であったが、ウェーハ接着
技術を使ったIGBT、拡散型ウェーハを使ったIGBT、アノードシ
実際に試作をする段になると、MOSFET開発をしていた先輩
ョート型IGBT、高放熱モジュール外囲器開発、等々、何でも挑
の愚痴が思い出された。試作をして耐圧がまともにできないと、
戦させてくれた開発環境を提供してもらったことには、とても感
評価もままならない。この思いが私を動かした。試作のプロセ
謝している。
スに常識的な拡散深さのプロセスと別に、非常識な深い拡散の
プロセスも用意した。500V耐圧、1,000V耐圧、それぞれに適し
最後になるが、これらIGBT製品開発の上で必要不可欠な、ウ
た設計のウェーハを二種類、パターンも二種類、プロセスも二種類。
ェーハ気相成長技術開発、ウェーハ直接接合技術開発、高熱伝
これを混ぜていっぺんに試作する。少ない試作で要領よく結果
導セラミックス技術開発、そして本製品の応用機器であるパワー
を出そうとしたのであった。
エレクトロニクス製品開発、これらの部隊が全て社内に存在し
最初の試作の結果、深い拡散のプロセスの中にきわめてラッ
チアップしにくい素子が見つかった。モータ制御用途の場合、負
ていたことが、短期間にIGBTを世に送り出せる成果に結び付い
た非常に大きな要因であることを記しておきたい。
荷が短絡しても保護を掛ける一定期間は、素子が破壊しないこ
とが非常に重要である。その短絡耐量もある程度得られるとこ
SEMI News「開発秘話」について
ろまで実証できてしまった。学会で発表を聞いてからわずか半
本ページでは、半導体業界において、技術革新や商品開発の
年後のことであった。IGBTの高速スイッチ性能を実現するには、
さまざまな場面でご苦労された方々の体験を共有する中から、
製造プロセスの中で、キャリアライフタイム制御を行うが、この
技術として当時既に電子線照射技術を有していたことも、短期
間での開発の助けになった点も、忘れてはいけない事実である。
No.4, 2010 • SEMI News
この業界に関係する方々を少しでも勇気付け、ともに成長するき
っかけを作れたらよいのではないかと、記事のご提供をお願い
しています。
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Innovation Stories
開発秘話:液晶 ディスプレイ
シャープ株式会社 研究開発本部 技監 石井 裕
■ はじめに
はなかった。その後、社内では、2層構造では高精度のセル厚制
近年、家庭の中ではCRTを液晶テレビに置き換え、放送番組や
御が必要なことやコストが問題となることから、やはりシンプルな
DVDを楽しむ生活が一般的になってきている。一方、街を歩く
1層構造を追求することになった。1983年ごろには、材料改善
と若者がモバイル液晶搭載のスマートフォンに釘付けになって
と光学的な工夫で1/200デューティまで可能であることを検証
いる光景や、駅中、街頭のあちらこちらでインフォメーション用
し、この方式によるカラーテレビ画像も確認した。しかしこの当
大型液晶ディスプレイも目にするようになった。液晶ディスプ
時、切り捨てた2層構造が後になって非常に有用なものである
レイ
(LCD: Liquid Crystal Display)
は1968年、RCA社のG. H.
ことは知 る由もなかった。
Heilmeirらが公表して以来、今や9兆円を超える巨大な産業に成
1985年、T. J. Schefferら
(スイスBrown Boveri社)
から液晶 の
長し、LCDを用いた商品は完全に生活に密着したデバイス・シス
ねじれ角を270°
にして液晶の複屈折を巧みに表示に利用する
テムになっている。
ところで、LCDの長い歴史を振り返り、エポックな一時代を挙
SBE
(Super-twisted Birefringence Effect)
モードが学会発表され、
大きな注目を浴びた。このモードは背景色(黄色もしくは青色)
げるとすると、まず1980年代から1990年代初頭に焦点を当てた
が付くものの、急峻な立ち上がり特性を示すことから1/300デュ
いと思う。なぜなら、液晶テレビやモバイル液晶の原点が、この
ーティまで可能であることが示された。ただし、課題の一つとし
時代に誕生しているためである。そこで、この時代のシャープの
て液晶配向法の量産性にあった。一方、シャープでは1982年ご
舞台裏の一端を次にご紹介しよう。
ろから、量産性の高い配向方法で液晶のねじれ角が360°
まで
の表示特性を研究していたので、この知見を生かして、上記学
■ 液晶テレビの揺籃期
筆者は、シャープに入社後、学生時代に液晶のテーマを専攻し
会発表後すぐに、液晶ねじれ角を220°
∼240°
に設定したSTN
(Super-twisted Nematic)
モードの開発・量産に乗り出した。
ていたこともあり、すぐに中央研究所でLCDを用いたテレビ開
次に、本格的なマルチカラー/フルカラー表示を目指した。この
発グループに配属された。当時、シャープではCRTを持っていな
ためには白黒表示が基本となるので、STNの黄色や青色の背景
かったため、テレビ用デバイスを開発する意欲は極めて高く、液
色を消すことが必須となり、議論を尽くした結果、再登場したの
晶グループの活気も溢れていた。1980年には2方向を検討して
が上記2層構造のアイデアである。すなわち、2層目のSTNパネ
いた。一つは透明電極を短冊状に形成した1組のガラス基板を
ルの液晶ねじれ方向を、1層目と逆方向に設計して重ね合わせる
互いに直交するように貼り合わせた構造で、線順次に駆動する
構造で光学補償を行い、完璧な白黒表示が可能となった。シャ
単純マトリクス型、もう一つは薄膜トランジスタ
(TFT: Thin Film
ープでは、この構造をDSTN
( Double-layered Super-twisted
Transistor)
を各絵素に形成し、TFTのオン/オフで駆動をするアク
Nematic)
と名づけ、1988年にはマイクロカラーフィルタを付けるこ
ティブマトリクス型である。ただし、後者の方式は開発の緒に就
とにより、画質が格段に改善された単純マトリクス型カラーLCD
いたばかりであったので、前者に多くのリソースをかけていた。
の開発に成功した。研究所と事業部とが一体となって取り組ん
この方式では、デューティ比を上げてコントラストを稼ぐため
だこれら一連の開発・量産技術は、TFT事業が順調な軌道に
に、液晶パネルを2枚重ねた構造で、さらに各パネルには2重電
乗るまでの間、ワープロ用、OHP用やワークステーション用LCD
極構造を施して動画をモノクロ表示していた
(5.5型160x120画
として、収益面で液晶事業を支える基盤技術となった。
素、1/15デューティ)
。この試作品を見た時、テレビ画像 をLCD
現在、液晶パネル表示特性の課題改善
(例えば視角、色付き
で実現していることには大変感激したが、画質としては視角が
等)
には、パネルの上に光学補償フィルムを使用することが常套
狭く、残像も認められ、CRTには程遠いものであった。さらに、
手段になっている。このフィルム光学技術の基盤には、液晶2層
同じ方向に90度ねじれている液晶層を重ねていたために、液
構造の発想が生きていると考える。したがって、無意味であっ
晶のリタデーション値が増大して干渉色が付くことから、まずは
たように思えたアイデアやその材料は、時代が変われば新たな
この解決が先決と思った。そこで、上司との討議の中で2層目
技術創出のきっかけになることを、改めて経験の中で学んだ。
の液晶ねじれ方向を1層目と逆にするアイデアが生まれ、そのた
めの材料(コレステリック液晶)
の調査をすることになった。当時
■ 液晶テレビの誕生
の研究所が入手できるあらゆる文献を探し、その中からある材
1980年代の中ごろ、シャープでは、テレビ用途には画質の点か
料を見つけた。その結果、1層目の液晶層の光学的性質が2層
ら単純マトリクス型よりTFTを用いたアクティブマトリクス型
目で補償され、完全に干渉色が解消されることが確認された。こ
を本命として、カラー液晶テレビの開発に注力していた。すでに
の成果はシャープから学会発表されたが、取り立てて大きな反響
他社では、多結晶Siを用いたTFTカラー液晶テレビの製品
(2.14
16
SEMI News • 2011, No.1
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Innovation Stories
型240x240画素)
が発売されていたので、シャープとしても開発
に話を持ち込み、1988年から共同開発を開始した。同大学では、
を急ぐ必要があった。この背景から、1984年にアモルファスSi
基本コンセプトの中で特に重要な反射板形状を理論解析により
(a-Si)
を採用し、性能、歩留りの向上を目指した緊急プロジェク
明らかにされていたので、シャープでは生産性に優れたプロセ
トがスタートした。この開発には多くの課題があるために、筆者
スでこの形状を実現することを目指し、開発に着手した。各種材
を含めた研究所の開発陣も総力を挙げてこのプロジェクトを支
料を検討した結果、ある樹脂をプロセス処理することで理論形
援した。特に、開発項目の中でも、表示方式が重要ポイントの一
状に近くなることを見出し、この上にAlを形成することで反射
つになっていた。そこで、液晶光学特性として旋光、干渉、散乱、
板を完成させた。さらに、TFTの上部にも反射板を形成すること
さらに光学補償を加えて、当時考えられる構造を片端から試作
で画素面積を最大にできるため、樹脂の誘電率や膜厚などの最
し、特性を取り、構造の絞り込みを行った。その中で、旋光特性を
適化を図り、TFTプロセスの確立を行った
(シャープではこの高開
利用するTN
(Twisted Nematic)
LCDで、電圧無印加時に黒、電
口率技術をSHA技術と名付けた。SHA: Super High Aperture)
。
圧印加時に白表示になるノーマリブラック
(NB)
モードと、逆の電
一方、表示方式に関して、明るさを優先させる場合には相転移
圧無印加時に白、電圧印加時に黒表示になるノーマリホワイト
モードが最適であるとの同大学からの設計指針に基づき、黒色
(NW)
モードの2種類が候補に残った。各モードには特徴があ
色素を添加した相転移液晶材料を用いて、4色表示
(白、黒、シア
る。例えば、前者では駆動電圧が低いためTFTへの負荷が
ン、マゼンタ)
のa-Si TFT反射型カラーLCDを試作した。この成
小さく、またTFTの欠陥が目立ちにくい反面、黒レベルが十分
果を1992年にディスプレイ国際会議
(SID)
で発表し、さらに1995
でないこと、低階調特性に難点があること、温度依存性が大き
年には、ISSCCでも招待講演を受ける等大きな反響があった。
いことなどの短所がある。一方後者では、コントラストが高く、
その後、SHA技術は透過型カラーTFT-LCDに適用され、透過
階調特性に優れ、また温度変化にも強いという長所がある反面、
率向上策としてシャープの基幹技術になり、PC用途の事業拡大に
駆動電圧が高い
(TFTに負担がかかる)上に、TFTの欠陥が
大きく貢献した。しかし、反射型カラーLCDの方は、材料改良
目立ちやすい
(歩留りが低くなる)
という短所がある。1986年、
を進めるもののマルチカラーの領域を脱することができず、ユー
シャープでは、TFTに負担が少ないNBモードを採用した試
ザーからの反響は芳しくなかった。そこで、フルカラー表示の可
作品を完成させてディスプレイ国際学会
(SID)
で公表したが、
能性を目指して、表示方式の見直しを行った。具体的には、1枚
実際はNBモードとNWモードとの画質差は歴然で、後者の方が
の偏光板と光学補償フィルムを用いて中間調表示が可能な方式
画像の締まりは圧倒的に優れていた。この時、画質における黒の
の開発に切り替え、1996年のエレクトロニクスショーに試作品を
重要さを改めて認識したものの、プロジェクト内ではTFTの歩留り
出展した。その結果、業界から高い評価を受け、その声が開発陣
を第一優先に考えて、NBモードを採用することを内定していた。
の背中をさらに押した。
ところが、事業化判断を迎えた時、辻社長
(現在相談役)
から
結局、この技術が実を結んだのは1998年である。開発から実
「店頭に2つの商品が並んだ場合、君達はどちらを購入するだろ
に10年の歳月が流れていた。消費電力が従来の1/7、明るさ
うか?」
との問いで、NWモードの採用が急遽決定された。この
30%、コントラスト比20:1、26万色という高性能・低消費電力デ
時、技術は技術者のためではなく、ユーザーのためにあることを
バイスが完成し、携帯ゲームに採用されて大ヒット商品になった。
思い知らされた。この判断を受けて、1987年5月に3型カラー液
また、その翌年、屋内外での視認性を向上させる目的で、透過/反
晶テレビ
(384x240、デルタ配列、NWモード採用)
の商品化
(ク
射機能を有するフルカラーLCD
(Al電極画素の一部に透過領域
リスタルトロン)
に漕ぎ着けた。その後、この開発技術をベース
を形成)
を開発した。これらのデバイスが、携帯電話等モバイル
にし、特に黒を重視して、1988年に14型TFT-LCDの開発、1995
分野におけるシャープのシェア拡大に大きく貢献し、液晶事業を
年に8.4型/10.4型液晶テレビの商品化から、2000年以降の大
支えるもう一つの柱に成長した。
型液晶テレビの製品展開に繋がっていく。
■ 終わりに
■ 低消費電力型モバイル液晶の誕生
以上述べてきたように、液晶技術開発を通して学んだ教訓 は
クリスタルトロンが市場投入された1987年、研究所では事業
極めて大きい。例えば、開発に携わる技術者の視点として、技
本部への支援が一段落し、次の開発テーマを模索する期間に入
術は常にユーザーに置くこと、失敗と考えた技術も時が変われ
った。この時、電卓競争を勝ち抜く有力手段として超低消費電力
ば有用になる可能性あるので、確実に検討データを残しておくこ
を実現した電卓
(1973年液晶電卓の商品化)
の視点に戻り、
「低
と、革新技術の創出/量産には組織マネージメントとして、特に開
消費電力を追求したカラーLCD」が必ず市場から要望されるで
発/事業部間とのタイムリーな距離感が極めて重要、等である。
あろうとの読みで、低消費電力化を次期テーマに設定した。折し
LCDの性能、コストには、構成材料の比重が非常に大きい。
も1985年、東北大学内田龍男助教授
(現在東北大学名誉教授、仙
したがって、液晶事業がさらに飛躍するためには、グローバルな
台高等専門学校校長)
から、バックライトを不要とする反射型カ
視点とともに、再度、材料・部品開発の原点に立ち戻る必要が
ラーLCDの基本コンセプトが学会発表されていたので、同大学
あると考えている。
No.1, 2011 • SEMI News
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Innovation Stories
開発秘話:ウェーハレベルパッケージングによるMEMS
東北大学 マイクロシステム融合研究センター センター長、
原子分子材料科学高等研究機構(WPI-AIMR)教授 江刺 正喜
■ はじめに
半導体微細加工でチップ上に機械的に動くものなどを製作す
圧力でダイヤフラムが変形した時の微小静電容量の変化を検出
するのに、容量検出回路を集積化すると、寄生容量による感度低
(Micro Electro Mechanical Systems)
は、センサなどシ
るMEMS
下や不安定性が解消するためである。製作方法は図1のように、
ステムの鍵を握る要素として用いられている。普通の集積回路の
CMOS回路を形成したシリコンウェーハに孔の開いたガラスを
ように樹脂封止すると動かなくなるため、チップ上に空間を持た
陽極接合し、エッチングでダイヤフラムを形成した後ダイシング
せて蓋をして配線を取り出す必要がある。ウェーハ状態で一括
すると、パッケージングされた状態になる。陽極接合時に回路
封止すると、MEMS部が保護され、ダイシング時にも汚染され
が破壊されないようにする研究も行った。このセンサは豊田
ず信頼性も高く、チップの組立設備やパッケージが不要で安価
で微圧用として実用化された。
工機㈱(現在JTEKT㈱)
になる。本稿では、このようなウェーハレベルパッケージングに
その後同じようにして、集積化容量型加速度センサなどもウ
よるMEMSの開発について述べる。
ェーハレベルパッケージングで製作したが、この場合は、錘がバ
■ 陽極接合によるウェーハレベルパッケージング
ネで支えられた構造を持つシリコンウェーハの両面に、ガラス
1969年に、米国でバッテリを製作していたマロリー社から陽極
を陽極接合した。静電容量を検出する電極は、電圧を印加する
接合の技術が発表された。ガラスとシリコンの研磨面を重ね、
と静電アクチュエータになるため、静電サーボ方式や力補償方式
400℃程でシリコンに対しガラス側に数百Vの負電圧を印加する
の加速度センサや、後で述べる静電浮上が可能になる。
と、界面でガラス側に負の空間電荷層が形成され、シリコンとの
間で静電引力が生じるため接合する。この技術を用いて、ウェー
ハレベルパッケージングされた圧力センサや加速度センサなど
が、1970年代にスタンフォード大学で開発された。当時は接合界
面を通して配線を横に取り出すもので、リーク電流などの問題
があった。1984年に、ガラスを貫通させて配線を取り出す方法に
よる体内埋込酸素飽和度モニタが、スタンフォード大学から発
表された。
このウェーハレベルパッケージング技術を用いて、1990年に
東北大学では、ピエゾ抵抗型絶対圧センサを開発した。これは、
補助人工心臓に取り付けて装着中の長期間血圧モニタなどに
用いられた。
■ 集積化容量型圧力センサ
(Ion Sensitive FET)
筆者は、1970年から1980年にかけてISFET
を開発した。これはウェーハ状態で加工し、カテーテル先端に装
着しやすい形にしたため、㈱クラレや日本光電工業㈱でカテー
テル先端型pH・CO2モニタとして実用化された。しかし血管内
では較正できず、精度を確保することが難しいため、その後製造
中止になっている。1980 年から1990 年にかけて、東北大学に
図1 ウェーハレベルパッケージングによる集積化容量型圧力センサ
CMOS集積回路の設計・試作環境を整備したり、集積回路設計
の教科書を書いたりして、集積回路の教育・研究活動を行った。
このパッケージングのためのウェーハプロセス技術と、
■ 真空パッケージング
封止された内部を真空にすると、振動子では気体の粘性による
CMOS技術で、ウェーハレベルパッケージングによる集積化容
振動減衰が、熱型赤外線センサでは対流による熱伝導がなくな
量型圧力センサを開発し、1990年に発表した。これは、現在慶応
る。このため、ウェーハレベル真空パッケージングの研究を行った。
大学の松本佳宣准教授が博士課程時代に研究した成果である。
1992年に、薄いダイヤフラムを持つシリコンをガラスに真空
16
SEMI News • 2011, No.2
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Innovation Stories
中で陽極接合し、大気に取り出した時にダイヤフラムが凹にな
加速度センサのパッケージングなどでは、バネで支えた錘が
るか凸になるかを、空洞の体積を変えて調べた。その結果、空洞
ダンビングされず共振もしないように、低真空の一定圧力の空
体積が大きい時は大気圧で凹になるが、体積が少ない時は凸に
洞にする必要がある。そのため、ゲッタを入れて発生した酸素は
なることが分かった。この原因は、接合界面でガラスが電気化学
除去しながら、ゲッタに吸着されないアルゴンガス雰囲気の中
的に分解し、酸素ガスが発生しているためと考えられた。1994年
で接合する技術を、1997年に開発した。実際にできる空洞圧力
に、酸素ガスなどを吸着するゲッタをイタリアのサエスゲッタ
は、接合雰囲気のアルゴンガス圧力の半分程度になるが、これ
社から入手して、空洞内に入れることで真空の空洞を作ること
はボイル・シャルルの法則で圧力が絶対温度に比例し、接合時
ができた。このゲッタは非蒸発型ゲッタと呼ばれるもので、陽極
の絶対温度は室温の絶対温度のほぼ2倍であることによる。
で活性化
(表面の酸化物などが内部
接合時にその温度
(400℃)
■ MEMSスイッチ
に拡散)
する。
上で述べた静電浮上に較べ、接点を持つスイッチでは長期信
この真空封止で10-3Pa以下の圧力の空洞を作れるため、ダイ
頼性を確保することは難しい。アクチュエータの力が弱いとバ
ヤフラムを薄くすると、図2のようなシリコンダイアラム真空センサ
ネを強くできず、接点が離れにくいためである。このため、MEMS
を作ることができる。これは㈱リケンや㈱アルバックの研究員も
スイッチの研究発表は多いが実用化されてこなかった。2001年
開発に関わったが、使われない特許は他社で活かせるようにし
に、薄膜ヒータを用いて熱膨張の違いで動き、接点を導通させる
ているため、キヤノンアネルバ㈱や大亜真空㈱で実用化された。
MEMSスイッチを、ウェーハレベルパッケージングで製作した。
図4のようなMEMSスイッチが、仙台にある㈱アドバンテスト
コンポーネンツで生産され、アドバンテスト㈱の最新のLSIテス
タであるT2000シリーズに搭載されている。このMEMSスイッ
チは、高周波特性が20GHzまで広いだけでなく、従来トランジ
スタで問題となっていた静電破壊がない。接点の信頼性に関わ
る歩留りが問題であったが、そのころ景気低迷でテスタの出荷が
減少し、その期間中に開発が進展して問題は解決された。
図2 シリコンダイヤフラム真空センサ
1999年に、ウェーハレベル真空パッケージングを静電浮上回
転ジャイロに応用した。これは図3のように、シリコン円盤が内部
で浮上し毎分20,000回転する。静電容量で円盤の位置や傾き
を検出し、その電極に電圧を印加することで、静電引力により浮
図4 MEMSスイッチ
上・回転させている。多数の電極を用い、高速ディジタル制御
する。粘性摩擦をなくして高速回転させるために、真空空洞にし
■ ウェーハレベルパッケージングのための貫通配線付LTCC
てある。これは、東京計器㈱で高精度の2軸回転、3軸加速度セ
2006年にインテルに呼ばれ、㈱ニッコーとインテルが開発して
ンサとして実用化されて、ナビゲーションなどに用いられている。
(低温焼成セラミックス)
を見せていただ
いた貫通配線付LTCC
この実際の製品では、円盤でなく円環にして15Vに低電圧化し、
いた。その後、インテルが開発を止めたため、ニッコーにお願い
毎分74,000回転している。真空封止はチップを入れるセラミッ
し、LTCCの熱膨張をシリコンに合わせて陽極接合ができるよう
クパッケージ内で行っているが、このような付加価値の高いデ
にしてもらった。この貫通配線付LTCCは、いろいろな会社で使
バイスの場合は、セラミックパッケージでもそのコストは無視でき
われ始めている。これを陽極接合し封止する時に同時に電気的
るためである。
な接続を可能にするための、金属接合技術なども開発した。
チップ上に動くものなどを製作するMEMSにおいては、可動部
分を確保する必要がある。一括で蓋をしてMEMS部を保護し、
安価で小形にするウェーハレベルパッケージングについて、回
路集積化、真空パッケージング、MEMSスイッチ等の一連の開発
図3 静電浮上回転ジャイロ
No.2, 2011 • SEMI News
について述べた。
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Innovation Stories
開発秘話:CDSEM(Critical Dimension Scanning Electron Microscope)
株式会社日立ハイテクノロジーズ 研究開発本部 主管技師長 佐藤 貢
■ はじめに
エネルギーのばらつきも約1/10と極めて小さい。まさに、SEM
1984年に誕生したCDSEMは、それまで「観る」世界にあった
にとって理想的な特性である。しかし、FE電子源は電子を安定に
走査電子顕微鏡
(SEM: Scanning Electron Microscope)
を「
、測る」
放出させるのが大きな課題であり、当初は簡単に使える技術で
世界に特化させた初めての装置である。CDSEMの分解能は、半
はなかった。中央研究所と那珂工場では、Crewe教授の指導を受
導体デバイスの微細化に呼応して継続的に向上され、当初の
けて放出電子の安定化に取り組み、10年間に及ぶ研究開発の末、
15nmから1.8nmになった
(図1参照)
。これに伴い、測長再現性
ようやく安定な電子放出を実現した。そして、1981年にこの技術
も20nmから0.3nmに向上している。
を適用したS-800形FE-SEMを発売した。
筆者は、1982年に日立製作所那珂工場
(現日立ハイテクノロジ
ーズ)
に入社以来、一貫してSEMの高分解能化の仕事に従事し
■ CDSEM開発プロジェクトのスタート
てきた。本稿では、SEM開発者の視点からCDSEMの開発経緯を
当時、中央研究所リソグラフィ研究ユニットのリーダであっ
振り返り、継続的な計測精度向上を成し得た要因等について述
た大林秀仁(現日立ハイテクノロジーズ会長)は、S-800 形
べる。なお、誌面の都合上、諸先輩・関係者のお名前は、敬称を略
FE-SEMに着目し、この技術を使えば直面している1MDRAMの
して記述させていただくことをお断りしておきたい。
寸法計測の隘路が解決できると考えた。装置の試作には、中央研
究所で電子顕微鏡の研究をしていた市橋幹雄の参加を仰いだ。
時を同じくして、デバイス開発センタ
(現マイクロデバイス事業
部)
と半導体事業部(現ルネサステクノロジ)
でも、新たな計測
技術としてCDSEMの設備試作が提案された。一方、那珂工場で
は、S-800形で成功したFE技術を適用した研究向けの超高分解
能FE-SEMの開発計画が進んでいた。
1982年に中央研究所から那珂工場に設計部長として赴任した
岡野寛は、伝統ある電子顕微鏡を研究用から産業用に方向転換
開発当初の分解能
現在の分解能
図1 CDSEMの分解能の推移
して成功するか相当悩んだと述懐する。そして、社内ユーザの強
力な要望と半導体の技術動向、世界市場動向を冷静に判断して、
CDSEMの開発を決断した。岡野は、装置開発のキーマンとなる
■ CDSEM開発の背景
齊藤尚武、古屋寿宏、大高正、山田理、森弘義を自宅に招いて、
こ
1948年にトランジスタが発明され、1958年にそれが集積回路
の決定を伝えた。当時珍しい洋酒をご馳走するから土曜日に遊
(IC)
になった。ICはその後、大規模集積回路
(LSI)
、VLSI
(Very
びに来ないかと誘われた結果が、この重大指名であった。1983年
LSI)
、ULSI
(Ultra LSI)
と微細化が進み、素子の最小設計寸法は
夏の出来事である。こうして、半導体を開発・製造する立場から、
数μmから数十nmに至っている。1MDRAMの開発拠点であっ
中央研究所、デバイス開発センタ、半導体事業部、それに電子顕
た日立製作所中央研究所では、
トランジスタ特性のばらつきを
微鏡メーカの那珂工場が加わり、CDSEMのプロジェクトがスタ
検討する過程で、線幅が1μm程度になると、光学顕微鏡やレー
ートし、大林がプロジェクトリーダを担った。同じ社内にニーズ
ザー散乱光を用いた従来の寸法計測技術では計測信頼性が決定
とシーズがタイムリーに出会うチャンスがあり、これがCDSEM
的に不足することを見出した。1979年のことである。計測信頼
誕生のトリガになった。
性の不足は光の波長限界に起因するため、
「光の波長限界」
を超
える新たな計測手段の探索が始まった。
このころ、電子顕微鏡の世界ではメーカ各社が分解能競争に
■ CDSEM高精度化の課題と解決へのアプローチ
CDSEMの特長は、測りたいパターンをSEM像として高精度
しのぎ
鎬を削っている時期であり、中央研究所と電子顕微鏡メーカの
に画像化して、ピンポイントに計測する点にある。したがって、
那珂工場では、SEMの分解能を飛躍的に向上する新たな電子源
パターンの微細化に呼応してSEM像の分解能を向上させること
技術の研究開発を進めていた。電子源は、SEMの画像生成に必
が、高精度化の基本的なアプローチである。1984年にCDSEMの
要な電子線を作り出すSEMの心臓部である。開発中の電子源は、
商用1号機
(S-6000形)
が誕生し、15nmの分解能で線幅の計測
1966年にシカゴ大学のA.V. Crewe教授が提案した電界放出形電
が可能になった。この分解能は、光を用いた従来の計測技術に比
子源
(FE電子源、FE: Field Emission)
と呼ばれるもので、それまで
較して1 桁以上の向上にあたる。しかし、インテル社のGordon
の電子源に比べて放出電子の密度が約1,000倍高く、放出電子の
Moore氏が提唱した「ムーアの法則」
に従って、3年で70%とい
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SEMI News • 2011, No.3
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Innovation Stories
う速度でデバイスの微細化が進み、15nmの分解
電子ビーム
磁路
能はいずれ計測信頼性の要求を満たせなくなる。
電子
子レンズ)
の磁極(N、S)
で磁場を発生させ、磁
場の作用で電子を集束して観察対象(試料)
に
電子のスポットを作る。この電子スポットを探
針として画像化したい領域にくまなく当てて、
磁路
磁極(N)
SEM像を得るには、図2に示す対物レンズ
(電
磁極(S)
磁場領域
(電子を集束)
試料
電子スポット
スポットの各照射点から二次的に発生する信号
電子の量を画像信号としたのがSEM像である。
励磁コイル
磁極(S) 磁極(N)
磁場領域
試料
(a)当初の対物レンズ
(b)磁極を試料に対面させるアイデア
図2 SEMの対物レンズ構造
したがって、SEM像の分解能を向上するには、探
針の太さに相当する電子スポットの直径を小さくしなければな
開発プロジェクト員の賛成が得られなかった。しかし、CDSEM
らない。その相談が筆者に舞い込んで来た。筆者は、CDSEMの
の電子光学系を担当した江角真がリターディング法で鮮明にな
開発と並行して進められた研究向けの超高分解能FE-SEMの開
ったSEM像を取得すると、反対していたプロジェクト員の気持
発を担当し、観察試料を対物レンズの磁場中に配置すると、分解
ちも動いた。こうして、1994年にSE電子源とリターディング法
能が飛躍的に向上することを実感していた。このSEMは試料を
を採用したS-8000シリーズが開発され、電子放出の高安定化と
レンズ磁場中に配置するため、インレンズSEMと呼ばれる。こ
高分解能化
(8nm→5nm)
の両立に成功した。
の経験が幸いして、磁極(N、S)
を試料に対面させるアイデアに
辿り着いた。磁極
(N、S)
を試料側に対面配置すると、レンズ磁
■ 更なる挑戦
場が試料側に噴出してインレンズSEMと同じ状況になる。ち
デバイスの微細化はレジスト材料の進化を促し、これが
ょうど露光機の液浸レンズに似た状況である。この方式を採用
CDSEMにとって新たな課題を生み出した。レジスト材料が電子
したCDSEM
(S-6100形)
が1989年に発売され、分解能は15nm
線に敏感になり、電子線照射に伴う帯電やダメージを受けやす
から8nmに向上した。
くなったのである。さらに、計測対象が線幅からホール、エッジ
ラフネスと多様化するとともに、デバイスの多層構造化が進ん
■ 覚悟の決断
で、高アスペクト比のホール計測が課題になった。
1990年代に入ると、電子源からの電子放出の更なる安定化が、
こうしたニーズに対応するためには高分解能化技術(電子ス
計測再現性の向上に必要であることが分かってきた。このころ、
ポット径の縮小)
だけでは不十分で、信号検出技術、帯電制御技
L.W. Swanson博士らによって提案された新しい電子源技術が確
術、ダメージ低減技術、シミュレーション技術、画像処理技術
(パ
立し、海外のSEMメーカで採用され始めていた。この電子源は
ターンエッジ検出、デバイスパターンデザインとのマッチング
SE
(Schottky Emission)
電子源と呼ばれ、電子放出の安定性に極め
等)
など、技術の裾野を広げた総合的なソリューションが必要で
て優れた特性を有していた。一方、SE電子源から放出される電子
ある。この実現のため、研究所と工場が一体になった開発体制に
は、エネルギーのばらつきがFE電子源に比べて約2倍大きく、電
加えて、各種コンソーシアムと連携した研究開発が進められて
子スポット径がFE電子源よりも拡大する
(分解能が低下する)
。
いる。
CDSEMの開発チームは、ここで大きな決断を迫られた。これま
で培ってきたFE電子源技術を捨てて、自社ではまだ実績がなく、
■ おわりに
しかも分解能で不利なSE電子源に切り替えるかどうかの決断で
CDSEMは1984年に誕生して以来、半導体産業の発展に支えら
ある。
「FE電子源で何とかならないのか」
と詰め寄る工場幹部を
れて、今日まで高い世界シェアを維持している。CDSEMがこう
説得してこの決断にゴーサインを出したのが、1991年に中央研
した息の長いビジネスに成長できた背景として、シーズとニー
究所から設計部長として赴任した大林秀仁であった。
ズのタイムリーな出会いと幅広い層の人材、そして高い目標に
大林は、
「24時間365日安定に使用できるSE電子源でなければ、
向かって志を共有できたことが上げられる。一方で、FE電子源技
市場の要求に応えられない」
と確信していた。電子源の研究を
術はCDSEMのニーズから生まれたのではなく、高分解能な電子
継続的に行っていた中央研究所では、
この決断を受け、戸所秀男、
顕微鏡を作ろうとして苦節10年の末に生まれたものである。そ
福原悟、品田博之らが、SE電子源の実用化技術確立のために研究
れがCDSEMとして半導体産業の発展に貢献できたことは、要所
所・工場合同プロジェクトを進めた。しかし、SE電子源に換えた
要所で悩みながらも覚悟の決断をしてきた諸先輩の先見性とリ
だけでは分解能が劣化するため、この劣化を押し戻すだけの技
ーダシップ、そして次々に襲いかかる技術課題を乗り越えてき
術を新たに導入する必要がある。このとき戸所は、試料に数kV
た技術者の努力の結果である。
のマイナス電圧を印加する分解能向上法(リターディング法)
を
ここではごく一部の人しか紹介できなかったが、CDSEMの開
提案したが、試料ステージに高電圧を印加することに対して、
発には多くの人が関わっており、関係する方々に敬意を表する。
No.3, 2011 • SEMI News
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Innovation Stories
開発秘話:フラッシュメモリ搭載マイコン
半導体産業人協会 理事長 牧本 次生
■ ICBMで始まったプロジェクト
をかけずにROM変更
今日のマイコンではフラッシュメモリ搭載が主流になってい
が できる」という点 に
るが、90年代半ばまではマスク・プログラム方式が主流となって
あり、これを強調するた
いた。どのような経緯を辿って今日のような姿になったのか、そ
めに、ZTAT(ジータッ
の歴史を振り返ってみることにしたい。
ト)
と名づけることにし
私が日立武蔵工場の副工場長に就任したのは81年2月である
が、就任して間もなく、社内のVTR工場幹部からいきなりICBM
が飛んできた。
た。
“Zero Turn Around
Time ”の略 称であり、
という革
「 TAT がゼロ」
量産を開始したばかりのVTRのマイコンに不具合があり、大
新性を前面に出したの
至急ROMの変更を行わなければならなくなったとのことであ
であった。図1は世界初
る。通常の場合、ビジネス情報は担当営業部門を通じて工場に伝
の Z T A T マイコン 、
えられるのであるが、このような緊急事態において幹部から幹
63701Xのチップ写真で
部へ直接の電話が来ることをICBMと呼んでいたのである。
ある。
私は早速、関連部門の責任者を集めて、
「最短の日程でやるに
図1 世界初のZTAT(OTP方式)マイ
コン:63701X(2μCMOSプロセ
ス、RAM192KB, ROM4KB)
製品導入の直後から市
はどうするか?」
について打ち合わせを行い、直接ICBMへの返
場では大好評をいただき、一時期は生産が追いつかないほどで
事をするのであるが、このようなことが一度ならず起こったの
となって、
あった。ZTATマイコンは半導体部門の「希望の星」
である。
生産が立ち上がっていったのである。
しかし、マスク・プログラム方式をベースにする以上、いくら
がんばっても自ずと限界がある。当時、プロトタイプ用に使われ
■ ワインドダウン事件
ていたEPROM搭載方式は“フィールド・プログラム”ではあ
当時、日立は米国モトローラ社
(以下、モ社)
と技術提携を進
るが、そのままでは高価なため量産品に使うことはできなか
めており、マイコンの基本アーキテクチャはモ社の6800系に準
った。
拠していた。そのような関係で、ZTATマイコンについてもモ社
そこで、高価なセラミック・パッケージに入っていたEPROM
がセカンドソースとなる権利を有していたのである。85年9月
搭載マイコンをプラスチック・パッケージに封入して、大幅なコ
には、モ社から6名の技術者の来訪を受けて、ZTATマイコンの
スト削減を行うことにしたのである。これは、プログラムの書込
技術移転について数日にわたる協議がもたれた。この会議でモ
みが1度しかできないワンタイム・プログラム方式(OTP)であ
社の技術者にも基本コンセプトについて理解を深めていただき、
る。しかし、きわめて短期間に書込みができるので、ICBMのよ
両社で協力して推進することになったのである。
うな緊急事態には大いに力を発揮するだろうと考え、この製品
を量産品としても使えるレベルまで改善することにしたのだ。
技術的な観点からは、既存の技術を組み合わせたものであり、
それ自体に新鮮さやブレイクスルーはないが、
「時間軸を短縮す
る製品」
という画期的なコンセプトであり、
「コロンブスの卵」の
ような着想であった。
それから1年近くが経過して、思いがけない事態が出来したの
だ。モ社から突然の知らせがあり、
「ZTATマイコンをやるだけの
リソースがなく、セカンドソースできない」
とのことである。そ
して、その翌月にはさらに驚きの通知が入ってきた。すなわち、
「ZTATマイコンのセカンドソースができない以上、契約によっ
て特許のライセンス供与はできない。日立ではこの製品をワイ
そして、1983年に製品化の検討が始まった。当時のマイコン設
してほしい」
といった趣旨のレター
ンドダウン
(Wind Down)
計部がプロジェクトの中心となって、突貫工事の形で開発が進
が届けられたのだ。
「ワインドダウン」
とはあまり聞かない言葉
められた。歩留りや信頼性の面でいくつもの難しい課題があっ
であるが、とにかく、ZTATマイコンを店じまいしてほしいと
たが、84年末までに満足な製品を得るレベルに達したのである。
いう先方からの要求であった。
革新的なコンセプトの製品のマーケティングに当たっては、
そのネーミングが大事である。OTP方式のコンセプトは「時間
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われわれにとってはあまりにも唐突なことであり、大問題と
なった。先方で挙げている理由は「製品化のためのリソースが
SEMI News • 2011, No.4
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Innovation Stories
足りない」
ということであるが、それが本音であれば両社の協力
・定期的なキャリブレーションが必要な分野
(計測器など)
によって打開策があるはずである。当方から最大限の支援を惜
・仕向け先別の製品の差異化
(地域別あるいは顧客別など)
しまないという提案を含めて何回も交渉を重ねたが、すべて徒
日立では順次F-ZTATマイコンの製品系列を拡充し、98年時点
労に終った。モ社のアーキテクチャをベースにしたZTATマイ
では33品種に及んだ。また、日立における生産量は95年に10万
コンは「ワインドダウン」することに決まり、日立独自アーキテ
個だったものが、98年には4,800万個とブレイクし、2000年に
クチャのマイコンのみで細々と生産を続けることにしたのだ。
は1億個のレベルに達した。爆発的な勢いで市場に受け入れら
ワインドダウンによって、これまでZTATマイコンをご愛顧いた
れたのである。
だいた顧客には多大のご迷惑をかける結果となり、今日でも痛
■ マイコン・カーラリー
恨の極みとして胸に刻まれている。
さて、F-ZTATマイコンの持つフレキシビリティーのおかげで、
■ フラッシュメモリ搭載マイコンの開発
これまではできなかったことができるようになる。
世界初のZTATマイコンはいわば不完全燃焼のような形とな
に
そのような事例のひとつとしてマイコン・カーラリー
(MCR)
ったが、
「時間軸を短縮する製品」
という画期的なコンセプトは
ついて紹介したい。これは北海道の工業高校の先生方から提案
次の世代に引き継がれ、フラッシュメモリ搭載マイコンにつな
があり、日立が全面的にサポートすることにしたイベントであ
がっていく。
る。少なからぬコストがかかることではあるが、工業高校教育
フラッシュメモリに関
の大事な一環でもあり、マイコンの無償支給のほか、指導員
する最初の学会発表
(東
を含めたスタッフについても日立側で提供することにしたので
芝の枡岡氏)
は84年である
ある。
が、その後技術的な改良
第1回のカーラリーは96年1月13日、厳寒の札幌において開
が進み、90年ごろになると、
催された。このイベントは大きな成功をおさめ、回を重ねるごと
メガビット・クラスのメモ
に参加校が増えた。第3回大会からは全国大会の位置づけとな
リもできるようになった。
り、北は北海道から南は沖縄に至る全国の工業高校が参加する、
そのような状況で、日立
真冬のイベントに成長して今日に到っている。
でもフラッシュメモリをマ
イコンに搭載する開発が
図2 F-ZTAT(フラッシュメモリ搭載)マイ
進められた。そして、最初
コン第1弾:H8-538F(0.8μCMOSプ
RAM2KB, ROM60KB、
16MHz) のフラッシュ内蔵マイコ
ロセス、
を93年7月
ン
(H8-538F)
■“Someday, all micros will be made this way:ZTAT”
F-ZTATマイコンはフィールド・プログラマブル・マイコンの
先導役として大躍進を遂げ、今ではマイコンの主流として位置
づけられている。
に市場導入したのである。この製品は産業・OA分野をターゲ
最初のフィールド・プログラム方式としてZTATマイコンを市
ットにした16ビットマイコンであり、60KBのフラッシュメモリを
場導入したのは80年代の半ばであったが、まだきわめて少数派
内蔵していた。図2にチップ写真を示している。
であった。その当時、顧客向けプレゼンの中で使っていたフレー
市場開拓を推進するための手段として、新しいネーミングを
つけることにした。OTP版の商標がZTATだったので、この延長
ズを今でも忘れることはできない。
“Someday, all micros will be made this way:ZTAT”
「フレキ
線上の製品としてF-ZTATと名づけ、93年に登録した。
実はこの表現は、セイコーの水晶時計用のコマーシャルをも
シブル」のFを先頭につけたものであるが、それはフラッシュの
じったものであるが、マイコンの将来方向を端的に予言したもの
F、フィールド・プログラマブルのFとも通じるものである。
である。今日のマイコンの主流がフィールド・プログラム方式に
F-ZTATマイコンは、これまでにカバーすることのできなかっ
たさまざまな新市場の開拓に成功した。たとえば、
・テスト・マーケット用の少量生産製品
・業界の標準化が完全には決まらない段階での製品
(通信や家
電品など)
・市場に出荷された後でプログラム変更が起こりうる分野
(自動
車のエンジン制御など)
No.4, 2011 • SEMI News
なっていることを思うと、
「ついに”Someday”がやってきたのだ!」
と感慨深いものがある。
フラッシュメモリ搭載マイコンはFPGAとほぼ同時期に、90年
代の後半から立ち上がり、
「フィールド・プログラマビリティー」
の新時代を拓いた。
「時間の短縮でユーザーに便益を提供する」
ことを目指したこの技術分野は、今日
「リ・コンフィギュラブル・
デバイス」などをも含んで、さらに大きな広がりを見せている。
19
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Innovation Stories
開発秘話:半導体用電子ビームマスク描画装置
元株式会社ニューフレアテクノロジー 常務取締役 /
現エーエスエムエル・ジャパン株式会社 チーフ・テクニカル・オフィサー 滝川 忠宏
■ はじめに
ら、徹底的に長時間安定性を追求し、ビームドリフトフリー化を
現在、フラッシュメモリ、DRAM、CPU、ロジック等用の先端マ
目指したクリーンな真空設計、超高信頼性電源設計、恒温・防振
スクの大半は、ニューフレアテクノロジー
(以下NFT)が製造し
設計、磁気シールド設計などが行われた。この研究・開発に対し
マスク描画装置で生産されている。図1に
た電子ビーム
(EB)
て、東芝社内の研究所から多大な支援が寄せられ、後々の開発の
EBマスク描画装置の市場動向を示す。1999年度までは、米ベル
基礎が作られた。また、高輝度の単結晶LaB6電子銃を世界に先
研究所が開発し、米Etec Systems社が事業化したEBマスク描画
駆けて実用化するとともに、大電流密度の電子ビームを発生さ
装置MEBESが80∼90%の世界シェアを持ち、世界標準となっ
せる口径数の大きい電子光学系も開発された。超高安定・大電流
ていた。この当時、Etec Systems社にいかに食い込むかが、日本
密度の描画を可能とするEX-0シリーズの設計思想はずっと受
のEB従事者の夢であった。21世紀の幕開けとともに、我々NFT
け継がれ、現在のNFTの成功につながっている。
が彗星のごとく現れ、市場を席巻し、現在では世界シェア90%
を獲得するまでになった。
EBマスク描画装置は半導体の設計と製造をつなぐ隘路のため、
所要台数が少ない一方、高度な技術が求められる。したがって、
優れたEBマスク描画装置を社内グループで作ることができれ
売上げ(M$)
400
VLSI report special survey(プレスジャーナル)等を元に作制
350
ば、その戦略的意義は大きい。東芝機械が、将来のビジネスとし
て事業化を望んだので、EB描画技術は東芝機械に移転され、研究
NFT
300
所メンバーは東芝機械を支援する体制を取った。こうして開発
その他
250
200
日立
(以
された実用機は、1970年代後半から東芝のマスク製造ライン
下マスクショップ)
に次々と導入され、東芝のほとんどのマスク
はこの装置により生産された。1MDRAMの開発に際しては、マ
150
スクショップとともに安価なマスクを大量に提供し、デバイス
100
50
ETEC
日本電子
の短期開発に貢献できた点で、社内から評価された。しかし、1990
年代になると、製造する装置台数が3年に1台程度と限定的にな
0
年度 ’94 ’95 ’96 ’97 ’98 ’99 2000 ’01 ’02 ’03 ’04 ’05 ’06 ’07 ’08 ’09 ’10
図1 EBマスク描画装置の市場動向
■ 開発の揺籃と社内向け戦略装置としての開発・製造
当時、武石氏をはじめとする東芝の研究所の幹部は、将来のリ
ったため、十分なフィールドデータの集積ができず、精度やパタ
ーンエラーに関するトラブル対応に苦労した。
■ 戦略の変更と次世代EBマスク描画装置の開発
転機は1990年代半ばにやってきた。半導体の微細化が進み、
ソグラフィは、超高精度EBマスク描画装置で製作したマスクと
露光光の波長以下の解像力が要求されるようになり、光リソグ
光露光装置(ステッパ)
による組み合わせであると考えていた。
ラフィの革新が進んだ。そのころ、研究所では、計算機を駆使し
そのような戦略の下、1975年からガウシアンビーム・ステージ連
て将来の光リソグラフィの予測をしていた。それによると、光近
続移動・ラスタスキャン
(以下ラスタスキャン)方式のEX-0の
処理を行い、マスク寸法精度をその当時の
接効果補正
(OPC)
開発が始まった。その後、東芝は、この成果をベースに超LSI研究
70nm程度から5nm以下の極限までに向上させれば、光リソグラ
所
(以下共同研)
でのEB描画装置の技術開発に参画すると同時
フィは100nm以下の世代まで使え、しばらくはX線リソグラフィ
に、社内の装置開発も加速させた。
等の次世代リソグラフィに頼らなくともよいことが示された。
そのころ、国内他社は、ウェーハ直接描画を主なターゲットと
こうして、光リソグラフィの寿命を極限まで延ばすという、次世
し、それに適した描画方式を選択した。その帰結として、電子光
代型のEBマスク描画装置のコンセプトが決まった。また、次世代
学系の開発に大きな負荷がかかった。それに対し、東芝では、マ
機は開発費の高騰が予測されたため、社内装置用の設計・開
スク描画を主な目標とし、ラスタスキャン方式を選択した。この
発から、複数のパートナー向けの設計・開発に方針変更された。
方式では、電子光学系、計算機、ステージ、電子回路、ソフトに開
このころ、研究所では二つの基本的な技術を有していた。一つ
発要素を均等に分散でき、その結果、多方面の技術を統合した性
は1980年代初頭から開発してきた、パターンの切れを大幅に改
格の装置となった。特にマスク描画には長時間を要することか
善し、短寸法精度の向上に威力がある、加速電圧50kVの高電圧
20
SEMI News • 2012, No.1
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Innovation Stories
描画技術である。約10年間は従来の加速電圧20kVで十分であ
り、加速電圧50kVの高電圧描画は不要とも言われ、応用物理学
■ 新会社の設立とビジネスの成功
その後、東芝にとってコアコンピタンスではない技術開発は、
会での、高電圧の推進派の東芝とそれを不要とする派の論戦は、
社外に出すという決定がなされた。そのため、研究所のメンバー
実に熱が入ったものだった。二つ目は、可変成形ビーム・ステージ
30人余とともに東芝機械に出向し、東芝機械メンバーと一体と
連続移動・ベクタスキャン方式(ベクタスキャン)のEB描画装
なり、EBマスク描画装置のビジネスの立ち上げに専念すること
置技術である。東芝は、この要素技術を共同研以来継続的に開
になった。まず、年間製造数10台、市場占有率50%以上、健全な
発していた。それをベースに、ベクタスキャン型のマスク用の実
経営、を骨子とした実行計画が立てられた。それまでの10年間は、
用機が開発され、マスクショップで稼働していた。
3年に1台を作ってきたわけだが、一気に年間10台、従来の30倍
の生産性を上げることを狙った。楽観的すぎるとの意見が多か
超先端技術開発機
電子銃
ブランカー
レンズ
がスター
構( ASET )
トする一年前から、
第1成形アパーチャ
ったが、我々新メンバーは荒波の中を船出した。最も苦労した点
は、大量の中途採用者を含め急激に膨れ上がっていく組織のチ
各社から代表者が集
レンズ
ームワークを維持して、開発をいかに計画通り推進していくか
まり、主に次世代リ
成形偏向器
であったが、横串を刺したプロジェクト会議を強化するなどし
第2成形アパーチャ
ソグラフィをテーマ
て乗り越えていった。国内では市場が狭いので、最初から海外に
レンズ
に、ASETの計画を
ビーム位置制御用
偏向器
検討した。東芝は、
光リソグラフィを拡
張するために必須技
出た。大日本印刷、インテル、三星電子等から温かい支援をいた
だき、大変感謝している。
当初製造部が引き受けていたサービスを部として独立させる
ステージ連続移動
術として、加速電圧
図2 EX-11の描画方式
にあたり、東芝の研究所出身者など幅広く人材を集めた。さらに、
故障に迅速に対応するために、ベテランの技術者を半年から2年
50kVのベクタスキャ
間現地に張り付かせた。ドカ停、チョコ停が頻繁にあり、現地に
(図2)
し、
ンのEBマスク描画装置EX-11の要素技術開発を提案
張り付いた技術者は大変な苦労をした。彼らの努力もあり、顧客
ASETのテーマとして受理された。高電圧描画の実用化には、後
の信頼は上がった。現地から戻ってきた彼らはビジネスを理解
方散乱電子によるマスクパターン歪のリアルタイムの補正が必要
できる技術者に成長し、その後、組織の重要なポジションについ
であったが、新規の理論と技術により解決した。光リソグラフィ
た。彼らは、顧客のニーズに合った装置の開発を行い、後のNFT
のOPC補正の分野では、日本勢は海外勢に全く歯が立たなかっ
の発展に尽くしている。
たが、ASETを中心に開発されたEBの補正技術については、今
でも海外勢の追随を許してない。
選択と集中を行うために、マスク描画装置技術と並行して開
発していたウェーハ直接描画装置技術の開発は打ち切られた。
2002年には、ビジネス形態の違いから、我々は東芝機械から
NFTとして分離独立した。その後、2007年にはIPOを果たし、
現在、EBマスク用描画装置の世界トップシェアを有する会社に
成長している。
EX-11の装置開発を推進するため、東芝半導体事業サイドをリー
ダーとし、東芝機械とともに、会社・事業部を横断した大きなプ
■ まとめ
ロジェクトを結成した。従来、東芝の装置開発手順は、研究所が
このEBマスク描画装置は、1975年の開発開始からリソグラフ
プロトタイプを作り、その技術を東芝機械に移転して実用機を
ィにリンクし、その全体のシナリオに基づき開発されたと言っ
製造する、二階層方式であったが、このようなプロジェクト組織
てもよい。狙いが正確であったことが、まず、ビジネスとして成
の下、要素技術開発からいきなり実用機を開発する、一階層方式
功した大きな要因であったと思う。
が確立されていた。EX-11の初号機は半導体先端テクノロジー
東芝から離れた後は、ベンチャ的性格を持ったビジネスに変
に、二台目は東芝マスクショップに、続いて複数の
ズ
(SELETE)
質した。従来の常識にとらわれず、ビジネスに最適な仕組みと組
装置がパートナーに納入され、ユーザーと一体となって、装置の
織を開発した。開発は技術のみではなく、あらゆる分野で行われ
完成度を高めていった。そして、EX-11は寸法精度が極めて高く、
た。その結果、開発・製造技術者であっても、企画、マーケティン
OPC処理後の複雑なマスクを極めて早く描画できることが示さ
グ、営業、サービスなどに関わる機会が生まれ、仕事のダイナミ
れた。最初の計画からユーザーの支持を得て、開発開始から一
ズムにつながった。また、独りよがりにならず、顧客からも大変
気に実用機を作り、開発終了時には世界トップユーザーが使っ
大事にされた。さまざまな理由が絡み合い、国をはじめとする各
ている状況を作り出すことができ、新しいビジネスモデルとも言
方面からの支援があり、幸運も重なり、今のNFTの成功があった
われた。
のだと思う。
No.1, 2012 • SEMI News
21
P18-19_28-02/45L 12.4.17 2:39 PM ページ 18
Innovation Stories
開発秘話:ウェーハ・レベル・バーンイン技術の開発
元 パナソニック株式会社 デバイス社 半導体事業グループ 主幹技師 /
現 株式会社日本マイクロニクス 半導体機器事業部 システム統括部 中田 義朗
■ はじめに
外性であった。使用した部材は、バンプ付きのメンブレン、異方
DRAMや高信頼性を求められる車載半導体製品を中心に、バ
導電性ゴム、ガラス多層配線基板を組み合わせたもので、当時
ーンインスクリーニングと言われる検査工程が行われている。
WLBIを目指す者にはよく知られた材料であったことだ。しかし
これは、高温下で高い電圧の下デバイスを動作させることで、半
これらの部材には、線膨脹係数の不整合や加熱収縮特性、電極へ
導体製品の初期不良を除去し、市場不良率を低下させるために
のコンタクトの困難さ、シロキサンの溶出などの問題があり、ど
行われる工程である。しかしながら、半導体製品を一つひとつソ
れも実用化に耐え得るとは考えられていなかった。これらを組
ケットに挿抜しながら行うこの作業は、パッケージが無駄にな
み合わせ、それぞれの長所を生かしながら短所をカバーする構
るばかりか、それ自体非常にコストのかかる工程となっている。
(Three-Part Structure)
と呼ばれる
造を作り上げた。これがTPS
また、システムインパッケージや今後市場拡大が期待される
プローブのコンセプトである。さらに、将来のウェーハの大口径
三次元集積化デバイスなど、複数のチップを一つのパッケージ
化に伴うピン数の増大を見越し、機械的機構によらず、大気圧を
に実装する際には、実装前の品質保証されたチップ、いわゆる
利用してピンをウェーハに押し当てる大気圧加圧方式(APカセ
KGD(Known Good Die)が求められる。
ット)
も同時に提案したことも驚きを与えた。6インチでの発表
これを可能とする技術がウェーハ・レベル・バーンイン
(以下
WLBI)
であり、高温化でウェーハ状態のまま一括で電圧や信号
にも関わらず、これに続く8インチ、300mmへの実用展開をも既
に見越していたからである。
を与えながら、このバーンインスクリーニングを行う。
本稿では、世界で初めて松下電器(現パナソニック)
で量産
導入に成功し、品質保証とプロセス開発に大いに役立ったこの
WLBI技術のコンセプト考案から実用化、そして運用までの裏側
を振り返る。
■ 松下の発表は参加者の度肝を抜いた
1997年4月に米国で開催されたICEMCM'97での松下電器の
発表は、
『参加者の度肝を抜いた』
と驚きを持って報道された
。これは、それまで国の多額の補
(1997.5日経マイクロデバイス)
助金を得ながら開発を進めてきた米国大手半導体メーカーを中
(Microelectronics and Computer
心としたコンソーシアムMCC
Technology Corporation)
が、温度変化に追随できるウェーハ一
図1 TPSプローブとAPカセット
括プローブの実現が、当時の技術では実現不可能と匙を投げた
直後の発表であったからである。
■ 統計学的に実現不可能とまで言われた挑戦
これには訳があった。開発は93年に着手、95年ごろには既に
このようにして、鳴物入りで事業部門での開発に着手した
学会発表できるだけのデータは揃っていたが、タイミングを待
WLBIであったが、実際に量産運用に耐え得る安定性を確保する
っていたのである。研究所で開発された技術を実用化するには、
のには、まだまだ課題があった。ウェーハ一括プローブの形がで
がむしゃらに頑張るだけでは上手くいかない。ニーズが高まり
きただけで、プローブそのものの安定性・耐久性の確保、また使
注目を集める追い風の中、一気に進めるのがよい。また、研究所
用部材の歩留り改善、安定供給体制の確立、ウェーハとプロー
での仕事は学会発表が目的となり、学会発表を終えるとある種
ブの位置合せを行うアライメント装置、それを使ってBIを行う
の達成感を感じてしまい、その後の実用化を前に足踏みしてし
試験装置の開発、どれも世に中に無いものばかり、しかもこれら
まうことにもなり得る。だから、学会発表は実用化に目途がつい
のすべてを同時に開発する必要がある。どれ一つが欠けても量
たタイミングでしか行わないと決めていた。その意味で、研究結
産への導入はできない。おまけに、世間の注目を集めたのはよか
果を事業部門と共有し、注目が高まったこの時期の発表は、事業
ったが、数百ピンのプローブカードやソケットでさえコンタクト
化推進への弾みになる絶好のタイミングであった。
不良で苦労している中、8インチですら一挙に2万電極を必要
もうひとつ、学会参加者を驚かせたのは、技術コンセプトの意
18
とする一括プローブの全点同時コンタクトの実現など、
『統計学
SEMI News • 2012, No.2
P18-19_28-02/45L 12.4.17 2:39 PM ページ 19
Innovation Stories
的にも実現不可能』
とまで専門誌に書かれる中でのコンカレン
■ 技術独占の功罪
ト開発となった。確かに、今から思えば無謀な挑戦だったかも
このように順調に効果を上げていたWLBI技術であったが、そ
しれない。プローブカードの専門家ではなかったため、怖いも
の効果と将来性を期待されたがゆえに、2003年には同社のブ
の知らずで挑むことができたのかもしれない。
ラックボックス技術として指定され、外部への販売や発表が実
開発は、バンプ付きメンブレンとガラス配線基板を開発した
質的に禁止された。これにより、今でもパナソニックが、完全な
HOYA、異方導電シートを開発したJSR、アライメント装置を担
WLBIを行う唯一のメーカーとして、安価に信頼性保証したデ
当する東京精密、温調部を担当するオリオン機械、テスター部を
バイスを供給できる。しかしその一方で、実質的な独占は部材
担当する松下通信工業、関わった技術者は社内外合わせると100
のコストダウンや改善を阻害し、プロセスの微細化や消費電力
名近くになった。それぞれが自分たちの担当する部分で足を引
の増大に伴い、むしろ工程単価は上昇し、導入当初に比べ、徐々
っ張ることがないよう、必死に頑張った。喧嘩に近い議論になる
にそのコストメリットが薄れていく結果となった。同時に開発費
こともしばしばだったが、皆、数ヵ月に一度開催された全体会議
の捻出も困難となり、次世代への展開も進まなくなった。この選
を楽しみに、お互い成果を披露した。
択は明らかな経営判断ミスであったが、危機感を強めながらも
1999年、新井工場で、6インチメモリーデバイスでの量産適用
誰も改めることができないまま、時間が過ぎて行った。
にこぎつけた。しかし、予期せぬトラブルの連続で、量産展開の
難しさを思い知らされた。大気圧を利用して加圧するために、ウ
■ ドリームチッププロジェクト
ェーハとウェーハトレーの間を真空に保つ必要があるが、クリ
そんな中、三次元集積化のためのプロジェクトが発足すると
ーンルーム内でのほんの僅かなダストが原因で真空が破壊され
の話があった。NEDOの委託事業として行われるドリームチッ
る。手作業で対応していた単純な挿抜作業中のコネクタの破損
ププロジェクト
(立体構造新機能集積回路技術開発)である。
の頻発。技術内容を理解していた技術者が何度繰り返しても発
その中で、ウェーハ状態でKGDを獲得する技術開発を行うと聞
生しないトラブルが、現場では頻発する。詰めの甘さを痛感し
いた。2007年4月のことである。この閉塞感を打破するために
た。発生したトラブルはすぐに開発にフィードバック、作業ミス
は好都合であった。早速、技術研究組合 超先端電子技術開発
の発生する部分は自動化するなどで装置改善を進め、2000年に
を通じ温めてきたアイデアに、他のメンバー企業
機構
(ASET)
は8インチロジックデバイスへの適用を魚津工場で開始した。
から持ち寄られた非接触通信技術のアイデアなどを加味して、
新井工場での経験が生き、その後、2003年には300mmデバイス対
革新的な次世代検査技術の確立を目指す提案が作られ、技術開
応へ、2004 年には魚津工場 300mラインの立上げに合わせ、
発がスタートした。メンバーは開発に没頭し、それまで溜めてい
1kA/3kWと将来の微細化も見越した大電力対応へと一気に拡
たものが堰を切ったように次々に成果を上げていった。直接参
大。これまでのバーンインはほとんど姿を消し、300mmプロセス
画していない開発企業のメンバーも、再びあの感動を味わいた
品種のほとんどすべての製品を含め、多くの重要な製品の品質
く開発に協力した。結果、2011年には、僅か3年という期間で
の砦として、大きな貢献を果たすようになった。
このプロジェクトは、①3.6万非接触1Gbps通信、②15万接触端
思いがけない効果もあった。プロセス開発への活用である。
子、③2,000チップ同時実速度試験、④12kA電源同時供給、⑤
このことはほとんど知られていないが、プロセス開発で使う
15kW冷却・温調を可能とする、画期的とも言える一括検査の要
TEG(Test Element Group)
ウェーハの信頼性評価を、ウェーハ
素開発を確立した。
状態で行うのである。これまで、TEGの評価は、ダイシングし
て個片に分割した後、パッケージに組み立てられた後に行わ
■ おわりに
れる。これでは評価を開始するまでに1週間ほどかかってしま
WLBIが実用化されて既に十余年が経つ。しかし、ウェーハ一
う。そのうえ、ウェーハのどの部位のTEGかを管理する必要も
括検査・バーンインの本当の出番はこれからである。多数の半導
あった。しかし、WLBI技術を応用しウェーハ状態で信頼性評価
体素子が立体的に積層された三次元集積化デバイスが、いよい
が行えることで、ウェーハが上がり装置に掛けて帰ると、翌日か
よ量産目前のところまで来ている。これらのデバイスの実現に
ら結果が随時確認できる。ネットワークで自宅から操作するこ
(Known Good
は、ウェーハ状態で検査と信頼性保証されたKGW
ともできるので、土日昼夜を問わず、プロセス開発技術者は評価
Wafer)
が必須となる。そこでは、WLBIではなくウェーハ一括検
結果を確認し、次の開発プロセスにフィードバックできた。もち
査・バーンインが必要となる。
ろん、ウェーハのどの部位の情報かも一目で分かった。これは、
最後に、私自身この開発を通し、諦めずにやり抜くことの大切
少人数で最先端のプロセス開発を維持してきた技術者に大いに
さ、また、技術者として人として多くのことを学ばせていただい
感謝され、事実きわめて短期間での先端プロセスの立上げに貢
た。共に苦労した多くの技術者、ご指導・ご支援いただいた関係
献した。
者の方々に深く感謝したい。
No.2, 2012 • SEMI News
19
Innovation Stories
開発秘話:低消費電力SHシリーズマイコン
株式会社日立超LSIシステムズ 取締役社長 馬場 志朗
■ 開発の背景1975年-90年
Intel社が世界初のマイコン4004を開発したのは、1971年であ
る。筆者が、日立製作所の半導体事業部に入社した1975年は、マ
イコン事業への参入の検討が行われていた時期であった。入社
ーができつつあった。しかしながら、当時はこれらの新しい
RISCCPUはMPUタイプを目指した製品であり、組込みシステ
ム向けのMCUタイプの製品ではなかった。
このような背景の中で、独自の16/32ビットアーキテクチャを
前に、インターフェース誌の創刊号に紹介されていた4004の記
開発するにあたっては、以下を目指した。
事を読んで強い感銘を受けていた私は、配属面接でマイコンを
1)得意とするMCU分野に最適となるCPUアーキテクチャを
希望したところ、即座にマイコン開発の部署に配属となった。日
新たに作り、MCUとしての飛躍的な性能向上を目指す。具体
立は、1976年、Motorola社と提携し6800系の技術導入を行い、マ
的には
「MIPS
(性能)
/チップサイズ、MIPS/Watt
(消費電力)
、
イコン事業への参入を果たした。その後、電卓で培ったCMOS
コード効率」
というMCUとしてキーとなる三つの性能指標
低消費電力技術を活用し、Motorola社のマイコンと命令セットコ
を定義して、その指標でダントツ世界一となること。
ンパチブルで、より低消費電力の6301シリーズを開発し、大きな
2)実現手法としては、RISC技術を含む最新の命令セットアーキ
成功を収めた。特に、世界に先駆けて開発したOTP
(One Time
テクチャ技術や、先端のプロセス技術、設計技術を採用。
Programmable ROM)内蔵で低消費電力の63701シリーズは、
そもそもCPUの命令セットアーキテクチャは、その上に膨大
「ZTAT
(Zero Turn Around Time)
」
というコンセプトを旗印に
なソフト資産が形成されるが故に、一種の文化圏を形成してお
掲げ、業界の流れを変えるヒット商品となった。6301/63701シリ
り、Intel社の86系キャンプ、Motorola社の68000キャンプなどが
ーズは、
「ソフト互換、ハード差別化」
の戦略の成功であった。し
できて、熾烈なシェア競争を繰り広げていた。このような状況下
かしながら、この成功が、技術導入元のMotorola社との間で軋轢
で32ビットクラスの新しいCPUアーキテクチャを開発するこ
を呼ぶ結果となった。Motorola社の主張は、命令セットアーキテ
とは、それまで進めてきた8/16ビットクラスの開発とはまった
クチャこそが価値であり、それにただ乗りしているというもの
く違った次元の困難が予想された。特に、Cコンパイラを含むソ
であった。紛争を避けるため、モトローラアーキテクチャから
フトの開発環境の整備に多額の開発投資が必要であった。それ
の脱却を図って、日立独自アーキテクチャのH8、H16シリーズ
が故に、社内でも新しい32ビットアーキテクチャの開発には懐
のマイコンを開発したが、軋轢は収まらず、ついに、1989年に双
疑的な見方も多かった。しかしながら、組込みシステム向けの
方が相手を特許侵害で訴える訴訟合戦に発展した。この紛争
MCUこそが日立のマイコンの生き残る道であること、さらには、
は1990年に和解で終結するが、その過程で、H16マイコンの撤
Motorola社との係争の苦い経験もあり、会社幹部の理解を得て開
退を余儀なくされ、その代わりとなる16/32ビットクラスのマイ
発のGOサインを得ることができた。
コン開発が必要となった。その結果生まれたのが、後にSH1
三つの性能指標で世界一となるという技術目標については、16
と呼ばれるようになるマイコンである。
ビット固定長命令のRISCアーキテクチャという世界初のアイ
■ SHの着想とSH1の開発 1990年-92年
デア
(後に特許が成立した)
と、先端プロセス技術/最新設計技術
1990年当時、マイコンのCPUは、Intel社の8086系に代表され
の相乗効果で克服した。従来のRISCアーキテクチャは32ビッ
るPCに使われる32ビットの製品
(MPU=Microprocessorと呼ば
ト固定長命令であり、性能は出るが、コード効率や消費電力効率
れる)
と、8/16ビット以下で組込みシステムに使われる製品
が悪くて、MCU分野には不向きであった。絶対性能の向上では
(MCU=Microcontrollerと呼ばれる)
の二つに分化して発展して
なく、コストパフォーマンスの向上(三つの性能指標向上)
を目
いた。MPUに傾注して業績を飛躍的に伸ばしたIntel社に対抗し
標としたことで、思いきった割り切りをすることができ、結果的
て、日本メーカーはMCUに注力していった。H8シリーズに代
には斬新なアーキテクチャの開発ができたものと思う。
表されるMCU製品は、日本の得意とする民生機器、産業機器、
技術開発と平行して、新しいアーキテクチャを受け入れても
自動車などに広く使われ、これらの製品のインテリジェント化、
らうための販売活動の強化も行った。Motorola社との係争で傷つ
高機能化に貢献し、日本のエレクトロニクス産業の発展に寄与
いた日立のマイコンのイメージ挽回のために、社内コード名で
した。
MGO
(Micon Grand Operation)
と呼ばれたプロジェクト活動は、
一方、技術面のトレンドでは、8086系に代表されるようにどん
特に大きな成果を上げた。MGOは設計/営業技術/営業から選抜
どん高度化複雑化するCPUの命令体系に対する反省から、RISC
したマイコンの売込み専任チームである。MGOのモデルとなっ
(Reduced Instruction Set Computer)
のコンセプトが発表され、大
たのは、Intel社がMotorola社の68000系の攻勢に対して、8086系
きな話題となっていた。RISCの製品化を目指して、MIPS社や
のシェア防衛のために組織した活動だった。製品は「製品単体
ARM社などのベンチャー企業が設立され、新しい製品カテゴリ
ではなく、
トータルのサービスで売れ」
と言うのが基本コンセプ
18
SEMI News • 2012, No.3
Innovation Stories
トである。この考えを元に、LSI開発と平行して、Cコンパイラや
SHシリーズはその後も展開製品を次々と開発して、応用分野
開発環境の整備、アプリケーション開発サポート、サポートのパ
を拡大していった。例えば、MCUの分野では、フラッシュメモリ
ートナーづくりなど、
トータルサービスの充実を図った。特に効
内蔵のFZTATシリーズを展開した。また、デジタル信号処理用
果的だったのは、お客様の要望を即座にフィードバックして、開
のDSP機能を内蔵したSHDSPシリーズは、マイコンとは別のマ
発中の製品に使い易さを向上するためのきめ細かな機能の追加
ーケットを確立していたDSP分野へ、マイコンの使い易さを融
を図ったことである。
合した製品を提案した大変ユニークな製品であった。上位機種
全く新しいアーキテクチャのCPUを成功させるためには、ま
への発展では、セガサターンの次の家庭用ゲーム機ドリームキ
ずはターゲットマーケットの選定がキーとなる。マーケットと
ャスト向けにSH4が開発された。SH4は、2命令同時実行のスー
しては、当時日本が世界をリードしていた分野、具体的には、TV
パースカラ機能の採用に加えて、3次元グラフィック計算向けの
やAV機器、電子手帳などのハンドヘルド情報機器、モータ制御
ベクトル乗算器を内蔵した製品である。SH4は後に、カーナビゲ
などの産業応用、さらには自動車などをターゲットとして、上記
ーション向けにも広く使われるようになった。一方、MCUの分
のMGO活動により、売込み、顧客ニーズ収集、製品へのフィード
野でも性能向上したSH2Aが開発された。SH2/SH2Aは、広温度
バックを進めた。大変有り難かったのは、SHマイコンのコンセ
範囲/高信頼度用途向けに開発された新フラッシュメモリ技術と
プトに共鳴していただき、ベータサイトとしてお客様自身の製
組み合わせて、自動車エンジン制御やモータ制御などの分野で
品開発も、SH1の開発と平行して進めていただいたケースが複数
広く使われている。
あったことである。
SH1は90年夏から基礎検討を開始して、92年秋には製品発表、
サンプル出荷にこぎ着けることができた。幸いにして、発売当初
より好評で、順調に採用を拡大することができた。中でも嬉しか
ったのは、例えばカシオ計算機社の世界初の小型デジタルカメ
ラQV-10のように、お客様の画期的な商品の開発に寄与できた
ことであった。
■ シリーズ化と発展 1992年-2000年
SH1は順調に採用を拡大していたが、
しだいに、当初想定のア
プリケーションとは異なる引合いも出てくるようになった。最
初の大きな転機は、92年秋のセガ・エンタープライゼス社からの
家庭用ゲーム機向け引合いであった。セガ・エンタープライゼス
(年)
社との共同開発の結果、SH1を大幅に性能アップしたSH2が開発
され、94年秋に発売されたセガサターンという家庭用ゲーム機
■ ARMとの戦いとSuperH Inc.の設立
へ搭載された。SH2の開発は、SH1の量産化の時期と重なり、設
SHシリーズは着実にビジネスを拡大していったが、一方で世
計部隊は超多忙となったが、SH1の設計経験を即座に次の開発
界的に見ると、ARM社がCPUライセンス専門会社として、複数
にフィードバックすることができて、結果的には非常に短期間で
の半導体メーカーにライセンス供与するビジネスモデルでシェ
開発、量産化を達成するという好結果となった。SH2のセガサタ
アを急速に拡大していた。特に、TI社と組んでNokia社の携帯電
ーンへの搭載により、SH1シリーズと併せて出荷数量は飛躍的に
話に採用されたことを契機に、携帯型の情報機器での標準CPU
拡大し、SHシリーズの知名度も格段に向上した。96年ごろには、
の地位を確立していった。日立でも、2001年にSTMicroelectronics
RISCCPUの出荷量で世界第二位の地位までシェアを一気に向
社と協同でCPUコアの開発ライセンス会社(SuperH Inc.)
を設
上させることができた。
立して巻き返しを図ったが、残念ながら遅きに失した。
次の大きな転機は、93年のMicrosoft社、Windows CE OS搭載
のPDA
(携帯型パーソナル情報機器)
開発の引合いだった。日立
■ おわりに
振り返ってみると、SHシリーズの成功は、技術面での差異化、
は、カシオ計算機社と組んでSH2をさらに改良したSH3を提案し
顧客とのパートナーシップ、展開製品で一歩ずつマーケットを
採用された。SH3は、OSのためにMMU
(Memory Management
拡大する、などなど、新ビジネス開拓の基本を忠実に実行した成
Unit)
を搭載した本格的MPU製品であるが、低消費電力を要求
果だと思う。一方、ビジネスの枠組みの急激な変化について行け
される携帯機器搭載を目標としており、MIPS/Wattで世界一を
ず、ARM社とのデファクト競争に敗れたことは大変残念であっ
目指す点では、従来のSHシリーズの開発戦略/マーケット戦略を
た。ちなみに、自分たちが作り出した命令セットこそ財産だと主
とった製品だった。組込みシステム向けのSH1開発からスタート
張していたMotorola社は、その後、自社コアを捨てて、IBM社の
して、わずか5年でWindows互換のOSを搭載する製品の発表に
PowerPC、さらにはARMコアの採用に早期に方針転換している
までこぎ着けたことは、大変感慨深いものがあった。
ことも、感慨深いものがある。
No.3, 2012 • SEMI News
19
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Innovation Stories
開発秘話:Cell
Broadband Engine
株式会社東芝 執行役常務待遇 セミコンダクター&ストレージ社 首席技監 斎藤 光男
■ はじめに
マイクロプロセッサは、1972年にIntel社で4004が電卓用に開
発されたのを皮切りに、半導体技術の進歩に伴い、高性能なもの
から超小型のものまでさまざまな用途に適したものが開発され、
が始まり、喧々諤々の議論の末、
① 単なるゲーム機のエンジンではない
② さまざまなものに組み込んで使えるようにスケーラブルで
なければいけない
現在では、いわゆる電化製品にはマイクロプロセッサが入って
③ ゲームやネットワーク上では、これまでのプロセッサが得意
いない機器を探すのが困難なほど、普及している。また、その長
としていたベストエフォート型処理ではなく、リアルタイム処
い歴史の中で、さまざまな新しい試みがなされてきたが、その中
理が基本になる
で大きなトピックとして、いわゆるX86アーキテクチャが最初
④ メリットがあれば新規アーキテクチャも許容される
の本格的な16ビットマイクロプロセッサとして開発されたこと、
という基本思想がまとまった。こうして、すでにあるソフトウェ
その後32ビット時代になってRISCプロセッサが隆盛を極めた
ア資産を利用するために、既存のPowerPCアーキテクチャに準
ことなどが挙げられる。その後、RISCに代わってX86の改
拠したプロセッサをコントローラとして、性能を出すためのメ
良版が隆盛を極めたり、いわゆるSOCとして組込み用途のLSI
インのエンジンとして、SPUと名付けた新規アーキテクチャの
に内蔵されるマイクロプロセッサが爆発的に増えたりと、常に
(Cell/B.E.)
の原
プロセッサを8個積んだCell Broadband Engine
半導体技術の進歩を促す中核の役割を果たしてきた。その中で
。
型のアイデアが固まっていった
(図1)
も、プレイステーション2用のプロセッサ Emotion Engineの後
(Cell/B.E.)
は、大きな
継として開発されたCell Broadband Engine
意味を持つ記念碑的なマイクロプロセッサのひとつである。
Cell/B.E.は、ソニー・コンピュータエンタテインメント
(以下
SCEI)
とソニー、IBM、東芝が共同で開発した、次世代ゲーム機や
デジタルハイビジョン時代のAV機器などのデジタルホーム、そ
してブロードバンドインターネット時代の分散コンピューティン
グの中心となる高性能マイクロプロセッサであり、それまで
のマイクロプロセッサの流れから飛躍し、現在主流になりつつ
ある1チップマルチプロセッサの原点とも言える、新しいコンセ
プトを提案している。
本稿では、Cell/B.E.がどうやって生まれてきたか、どう実際に
開発されてきたかを中心に解説する。
■ プレイステーション2を超えて
図1 Cell Broadband Engineのブロック図
■ Cell Broadband Engine(Cell/B.E.)開発プロジェクト
こうして基本的なアーキテクチャ構想が合意され、それをベ
東芝とSCEIを中心に開発していたプレイステーション2用
ースとして正式に契約を結び、2001年に開発が始まった。もと
のEmotion Engine開発が山を越えた1999年1月頃から、東芝と
もとIBMを開発に加える大きな目的として、そのプロセッサ開
して次機種の模索を開始した。当初は、Emotion Engine開発時に
発のノウハウとともに、アメリカの柔軟な労働市場から優秀な
苦労した開発人員の不足を解決しようとして、シリコンバレー
エンジニアが集めやすいことがあり、そのメリットを生かすた
を拠点とするベンチャー企業を立ち上げることを計画したが、
めに、開発拠点はIBMのAustinキャンパスに決めた。とはいえ、
やはりキーになるリソースの獲得がうまく行かなかった。そこ
にな
これだけの大プロジェクト
(ピーク時400人以上数年間)
で有力な会社と組んだ方が良いのではということになり、SCEI
ると、やはり単一の拠点で開発するのは無理で、どうしても複数
と相談しIBMに働きかけた。しかし、IBMがあまり興味を示さ
拠点になってしまった。Emotion Engine開発時は太平洋をまた
ず、3社の提携はうまく立ち上がらなかった。ところが、2000年
がる複数拠点で、マネージメントには苦労したが、今回はアメリ
に入り、プレイステーション2が世界的に大反響を巻き起こし
カ国内のIBM社の複数拠点が主であり、ネットワークインフラ
た頃、当時SCEIの社長であった久夛良木さんがIBMの上層部
もEmotion Engine開発時とはまったく違うほど進歩していたこ
に直接働きかけることにより、共同開発の基本合意ができた。そ
ともあり、それほど大きなトラブルは起きなかった。開発チーム
の基本合意をベースに、どのようなものを作るかについて議論
の構成方針として、会社ごとに担当機能ブロックを分けること
16
SEMI News • 2012, No.4
P16-17_28-04/45L 12.10.16 11:49 AM ページ 17
Innovation Stories
はせず、ひとつの機能ブロック開発チームに各社のメンバーが
果、次第にさまざまな分野に使われるようになって行った。
参加する、混成チーム構成とすることにした。最初は多少の非能
■ Cell Broadband Engine
(Cell/B.E.)
の応用分野と結果
率はあるかもしれないが、プロジェクト全体の一体感を高め、さ
Cell/B.E.の大きな目標のひとつは、プレイステーション3であ
らに出来上がった成果を各社が持ち帰る際に支障をきたさない
ったが、これは2006年11月に無事に発売にこぎつけた。発売当
ようにと考えてのことであった。開発途中では、やはり新規開発
初は、まだハイビジョンテレビがそれほど普及していなかった
の例に漏れず、リソース不足も生じたが、短時間に優秀なエンジ
こともあり、予想ほど売れなかったが、Cell/B.E.自体を最先端
ニアを追加することができ、これがアメリカあるいはIBMの実
プロセスで製造するなどのコストダウンと電力消費を抑えたこ
力なのかと感心したものである。
ともあり、順調に伸びて、現在時点で累計5,000万台を超えるヒ
IBMにもこのような大規模開発を複数社で行う経験がなか
ットとなっている。
ったことや、各社の文化の違いなどにより、開発の初期は多少の
また、IBMは、Cell/B.E.を拡張した浮動小数点演算の強化を
混乱はあったが、問題点を徹底的に議論することにより解決す
行ったマイクロプロセッサを使用し、Road Runnerと呼ばれる
ることができた。開発の設計インフラは、プロセッサの開発経験
スーパーコンピュータを開発して、その当時の世界最高性能を
豊富なIBMのものを基本としたが、各社のノウハウも持ち寄る
実現した。さらにそれを1年半保ち、性能対電力消費率に至って
ことで、複数の会社でひとつのものを開発する難しさを克服し
は、数年間トップを独占し続けた。これは技術革新の速いこの世
ただけでなく、きわめて能率の良い開発を行うことができたと
界では異例のことであった。
考えている。
一方、Cell/B.E.のもうひとつの狙いである組込み機器に対す
2004年4月に最初のチップが完成し、翌年の半導体関係の大
るチャレンジは、東芝が、オーディオ、ビデオ用ソフトウェアの
きな国際学会であるISSCCで最初の発表を行い、世界的に大反
枠組みを作り、48チャンネルのDVD同時再生などのデモを行
響を呼んだ。また、2005年10月の国内最大のIT関連展示会で
うなど普及に努めたが、当初は今ひとつうまくいかなかった。こ
あるCEATECでは、カメラから取り込んだ顔の動画像にリアル
れは、TVなどの機器は消費電力に対する要求が厳しく、最初の世
タイムで化粧を施す「魔法の鏡」
というデモを東芝が行った。
代のCell/B.E.では対応が難しかったためである。しかしこれも、
これは大評判となり、多くのテレビ局のニュースで流された。そ
Cell/B.E.をベースとしたPC向けコプロセッサSpursEngineを開
して、2006年11月SCEI社のプレイステーション3発売へと繋
発したり、Cell/B.E.自身の低消費電力化を進めたりすることに
がっていった。
より、PCやTVに使われるようになってきた。また、医用機器や
(Cell/B.E.)
の基本構成と結果
■ Cell Broadband Engine
放送機器にも使われるなど、徐々にその利用分野を広げている。
Cell/B.E.は、汎用処理用のPowerPCアーキテクチャのコアと、
■ 終わりに
8 組のデータ演算処理向けの新アーキテクチャコアSynergistic
ここに示した図は、開発を開始した当時、Cell/B.E.の目指すべ
Processor Element
(SPE)
とを組み合わせた非対称型マルチプロ
。特に携帯用機
き世界の説明のために作ったものである
(図2)
セッサで、特にメディア系の処理に重きを置いていた。このSPE
器など、必ずしもこれが全て実現されてはいないが、現在のモバ
は、データ処理に特化し、簡単な構造にもかかわらず高性能が発
イル端末の普及とクラウドコンピューティングの世界を予見して
揮できるように考えられていた。その実効性能は、計画時には、
おり、技術の革新にも大きな足跡を残した。この経験を生かして、
SPE1個の性能はその小ささにもかかわらず、実際の応用では既
更なる飛躍につなげて行きたいと考えている。
存の高性能CPUと同等を実現可能と考えられていた。それを
生かすために、ソフトウェア開発環境を整備し、CPUがどうい
う状態かを表示するツールを作り、性能のチューニングが容易
に行えるようにした。ところが、完成後に実際の問題に適用して
みると、数倍の性能を示す例が数多く報告された。そのため、
Cell/B.E.全体では、当時の最も高速なマイクロプロセッサに比
較して、数十倍の性能にも達した。この理由は、主として、SPEの
メモリ効率を含む命令実効効率の高さが、実際の問題では予想
以上に性能向上に寄与していたためであった。
この性能の高さから、Cell/B.E.は、RISC以来の計算機アーキ
テクチャの大変革である可能性があると考えられ、研究機関な
どにも呼びかけて、性能を生かすための新しいプログラミング
の方式や、利用分野を広げるための共同研究を行った。その結
No.4, 2012 • SEMI News
図2 Cell Broadband Engineプロジェクトを開始したころ夢見たネットワーク社会
17
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Innovation Stories
開発秘話:Si-MOSFETを用いた移動体通信用高周波モジュール
(Si-MOSモジュール)
元 株式会社日立製作所 半導体グループ 主管技師 吉田 功
■ はじめに
50%の性能を引き出すことができた。Si-MOSで50%
力との比)
移動体通信用携帯電
の高効率と胸を張ったが、GaAsデバイスにはかなわなかった。
話の世界規模の広がり
それでもSi-MOSでの世界トップデータであり、関浩一企画室
の中で、現在その生産量
長のバックアップをいただいて中央研究所で発表、さらにパワ
は月1億台を超えている。
ー半導体国際会議
(ISPSD92)
で発表した。この国際会議での
2004年の段階で、その
内容は、当時のモトローラ社の最初の論文に引用された。その
約 3 割の電話に日立の
後モトローラ社は、この構造にLDMOSと名付けて大々的に宣
伝したため、その名前が定着した。実はこの構造の基本形は、
Si-MOSモジュールが使
用されるという状況に
図1 Si-MOSモジュール(GSM対応)
チップ写真:11×13.75mm
なっていた
(図1、2参照)
。
発表したものであり、いわばその改良版の構造をモトローラ社
が追随する格好になった。
50
30
の高耐圧化に始まる。1972年当時、私は、徳山巍主管研究員の
L6
AI短絡型
Siゲート
10
L5
20
L4
5
Moゲート
2
(GHz)
1
すこし横道にそれるが、パワーMOSの歴史を遡るとMOSFET
たかし
20
遮
断
周
波
数
1982年の電子デバイス国際会議(IEDM)
で岡部主任研究員が
L3
10
L2
Siゲート
モ
ジ
ュ
ー
ル
出
荷
量
(百万個/月)
L1
1980
NHKからの要請で、このMOSFETの高耐圧化の研究を開始し
みのる
た。そして1974年、永田穣部長の指導に従って、これを大電流化
し、パワーMOSとして実用化を考えたとき、武蔵工場のMOSLSI
プロセスラインで製造開発するのがよいとのアドバイスを、久保
まさはる
征治主任研究員にいただいた。そしてオーディオ用パワーMOS
S1
1970
もとで MOS 構造へのイオン打ち込みの研究に携わっており、
1990
1995
2000
0
2005
を開始した。私はこのときから、
「パワーMOSは、LSI技術を取り
入れた最初のパワーデバイス」
という概念を持ち続けている。
図2 Si-MOSの高性能化とRFモジュールの出荷量の増大
1992年から、欧州の移動体電話の通信方式として、GSM方式
幸運にもこのような状況になった要因として、次の三つが挙
が本格的に立ち上がってきた。日立の戦略はこれをSi-RF-MOS
げられる。ひとつには、欧州を中心に広がっているGSM
(Global
で対応することであり、Si-MOSモジュールの量産化を進めた。
System Mobile communication)
マーケットの立ち上がりから参
■ Si-MOSの選択と他社の動向
入でき、顧客との連携が良かったこと、二つめは小型のセラミ
多くの人から、異口同音に
「どうして他社はRF-MOSの開発
ックパッケージの開発とその量産化がタイムリーに行えたこと、
をしないの?」
と聞かれた。正直、私自身よくわからないが、事
そして三つめの要因は、Si-MOSモジュールの開発に非常に長く
実として次のことがあり、大変興味深い。
時間をかけて取り組んできたことである。ここでは、その三つめ
MOSFETの大出力化を最初に検討したフィリップス社は、長
の要因に私が深く関わってきたので、Si-MOSモジュールの開発
年バイポーラトランジスタの開発に注力し、その当時もその開
に焦点を当て、開発秘話として述べてみたい。
発を積極的に進めていた。MOSFETの高周波化を最初に試みた
■ RF-Si-MOSFETの研究
富士通(後の富士通カンタム福田社長ら)
は、その後GaAsデバ
たけあき
1990年2月、私は、当時の中央研究所の岡部健明主任研究員
イスの高周波化を志向して、GaAsデバイスのトップメーカーに
よりRF-MOSの研究開発を引き継いだ。この時の研究開発グ
なっている。1980年代に、高周波・大出力を試みた松下電器
(石
ループは、勝枝嶺雄研究員と私の二人であった。まず、L3と呼ばれ
川氏ら)
は、GaAsモジュールで日本のトップシェアを誇ってい
る世代の開発に注力した。このLシリーズの研究は岡部主任研究
た。これらの背景には、彼らが、その当時のSi-MOSの性能に限
員によって始められたもので、後述のSiゲートの高耐圧MOS
界を感じて、他への展開を図ったものと推察される。当時、MOS
に、高周波化のための金属(Mo)
ゲート構造を取り入れたもの
の微細化技術は不十分であり、それをもとに高周波応用を考え
である。L3はMoゲート構造で、ゲート長が0.8μmの加工とオフ
たとき、バイポーラトランジスタやGaAsデバイスの選択が必然
セットゲート長の最適化が課題であった。約1年後、当時の高
だったのだろう。我々は彼らより少し遅れてRF-MOSの開発に
崎工場半導体設計部の大高成雄主任技師やプロセス開発部の
参入したが、理解ある上司にめぐり合い、MOSの開発に情熱
丸山泰男技師らとの共同開発により、動作周波数1.5GHz、電源
を持ち続けられていた点が、彼らとのデバイス選択を異にした理
電圧4.8V、出力電力1W、付加効率
(RF増幅出力と直流入力電
由と思われる。私は、デバイス性能はその種類に関わりなく、そ
20
SEMI News • 2013, No.1
P20-21_29-01/47L 13.1.18 4:00 PM ページ 21
Innovation Stories
の開発に従事する人の情熱に比例するような気もしている。
ゲート
ゲート
ソース ドレイン
ドレイン
一方、私自身は次のように考えてパワーデバイスの開発に取
り組んでいた。Si-MOSは、LSIの製造ラインが共用できるとい
う利点のほかに、物理的に見ても優れている。Siは、電界の小さ
Al
p+
n+
な時の速度、つまりキャリア移動度はGaAsのそれに比べて一桁
p
n-
n+
SiO2
n+
p-
p+
程度低いが、電界強度が大きい時の飽和速度はGaAsのそれを凌
駕すること、微細化の進んだサブミクロン領域のSi-MOSデバ
ソース
(a)Si-RF-MOS
イスは、GaAsデバイスに十分に比肩できる。また、熱伝導度が
n+
p-
(b)従来のMOS
図3 Si―MOSFETの断面構造
GaAsのそれに比べて3倍以上大きいことは、パワーデバイスと
して有利である。
ールに対する関心の高さを肌で感じることができた。この発表
■ Si-MOSモジュールの開発
の後、日立ヨーロッパ研究所の担当者とエリクソン、ノキア社な
1995年2月、我々のグループは、中央研究所から半導体事業
どを訪問し、日立のSi-MOSモジュールに対する期待を感じ取
しもひがし
部・半導体開発センターに移り、下東勝博本部長のもと、徐々に
開発体制が整備されていった。
ってきた。この時の感触がその後の開発の原動力につながった。
L6の予備検討は、1997年秋から開始した。ここでも、次は
Si-MOSの高性能化を、ゲートの微細化で対応するためには、
GaAsかMOSかの選択を迫られた。GaAsFETは高性能であり、
Moゲートの加工精度に限界があることが明らかになってきた。
効率という観点から比較するとGaAsに軍配が上がる。しかし
そこで、図3に示す構造を提案して、0.5μmゲートを達成した。
MOSは、電流が(ゲート)電圧によって増加する、いわゆるエ
この構造は、微細化したSiゲートの抵抗の増大をAl電極で短絡
ンハンスメント動作であり、かねてからの一電流動作がひとつ
することでカバーしたもので、約10GHzの性能を得ることがで
の拠り所だった。これに対して、GaAsヘテロ接合バイポーラト
きた。ちょうどこの時期に、携帯電話の小型軽量化の目的で、電
ランジスタ
(HBT)が発表された。これはバイポーラトランジ
源が従来のNiCd系から電流密度の高いリチウムイオン系に移
スタではあるが、GaAs基板のため耐圧が高くとれ、エンハンス
行すること、すなわち4.8Vから3.6V電源が主流になるという情
メント動作で、そのうえ高性能である。世の中の主流は、GaAs-
報があり、3.6Vの選択を迫られた。出力電力は
(電源)電圧の
HBTへと傾いていくのは自然の成り行きに思えた。おりしも、
2乗に比例するので、3.6V化には、パワーデバイスに約2倍の低
当時のRFマイクロ社やコネクザント社が、電話機メーカーへ
損失化(大電流化)
が要求されることになった。
の売り込みを強めていた。日立としてもHBTかMOSかと揺れ
1996年1月から試作を開始したが、4月になっても5月になっ
ていた。しかし我々は、MOSでやると決めて動き出していた。
ても目標性能が得られない日々が続いた。
「絶対にあきらめな
1997年のIEDMの情報交換が縁で、当時の半導体技術開発部
い、苦しくても逃げない」
をモットーに、いろいろな人の知見と
の池田修二主任技師と知り合った。また、蒲原史朗主任技師ら
かもはら
まさ お
援助を求めた。堀田正生本部長の指導のもと、中央研究所の近藤
を交えて共同開発を行い、微細化と高耐圧化との両立構造を追
博司主任研究員、関根健治主任技師らの討論を通じて、ゲートの
及した。1998年12月、第一次試作でRF-MOSの目標特性を得て、
更なる微細化が有効であること、後述のDD-CIMAで解決する
翌年には効率55%のGSM用Si-MOSモジュールを開発すること
以外に当面の道は開けないことを確認した。8月から、半導体グ
ができた。これがその後のSi-MOSモジュールの拡販に繋がっ
かずのり
ループの森川正敏主任技師、小野沢和徳主任技師らと共同でデ
ている。
バイス設計を行い、12月にチップの目標特性を得て、翌年の3月
■ おわりに
に3.6V対応のSi-MOSモジュールが目標特性を達成した。
以上述べてきたように、この開発にはいろいろな幸運が重な
その3.6V対応のRF開発のキーポイントとなったDD-CIMA
ったと感じている。例えば、この時期にGSMの市場が立ち上が
について、簡単に説明する。出力電力はゲート幅に比例して大き
らなかったなら、セラミックパッケージの開発と量産化がタイム
くならず、ある値で飽和する傾向を示すので、GSMで目標とす
リーに行えなかったなら、良き指導者たちに巡り会わなかった
る出力電力4Wは、1チップでは達成できない。そこで、チップ
なら、研究開発を共にした良き同僚がいなかったなら、微細化
を分割してインピーダンスの低下を防ぎ、整合回路で一括し
の進んだCMOSプロセスが活用できなかったなら……………。
て合成する方式を考案した。この方式をDivided Device and
どれ一つ欠けていても、Si-MOSモジュールの大量生産に繋が
Collectively Impedance Matched Amplifierと名付け、DD-CIMA
らなかったのではないか。この研究開発を通して、大きな夢を
と呼ぶことにした。比較的短いストリップ線路とコンデンサとを
持ち、これを持ち続けること、徹底してこれをやり抜くことの大切
用いて、インピーダンス整合を行う手法である。
さを学んだ。私の伝えたいメッセージは、チャレンジする心、感
実際にはこれをSi-MOSモジュールで実現し、オランダのハ
ーグで開催された欧州の学会(ESSDERC)
で発表した。発表
後、フィリップス社の研究者たちの質問攻めにあい、そのモジュ
No.1, 2013 • SEMI News
謝する心、人との出会いの大切さである。
参考文献:吉田 功「移動体通信用マイクロ波シリコンパワー
MOSFET」1999年12月 電気学会誌
21
P16-17_29-02/45L 13.4.13 10:39 AM ページ 16
Innovation Stories
開発秘話:ArFレジスト材料
−成長と創出−
元日本電気株式会社 中央研究所(現高分子学会フェロー) 長谷川 悦雄
■ はじめに
的な情報交換を始めていた。当時は、KrFに次ぐ次世代露光光と
のわれわれの研究グル
日本電気株式会社(以下NECと略)
して多くの選択肢があり、NEC内では、等倍X線、電子線、エキ
ープが開発した材料[脂環ラクトン(通称:NECラクトン)モ
シマレーザーに関する研究・開発が行われていた。事業部門とし
ノマー]
を図1aに示す。この材料と他材料との共重合体[コポ
「通常の光」
ては、水銀灯g線、i線、KrFエキシマレーザーと続く
リマー
(図1b)]が、ArFドライ露光用レジストとして2003年ご
が、製造プロセスの継続性から望まれていた
(と思う)
。しかし、
ろから半導体の90nm微細加工にデファクト材料として使われ
(波長:193nm)
「光源その
より短波長のArFエキシマレーザー
始め、最近では22nmのArFウエット露光にも使用されている。
もの」
についても全く見通しがついていない状況の中、
「新研究
部にふさわしい未来テーマを行うべき」
との新研究部の意気込
R2
R1
R
x
O
O
O
O
O
し、そのフォトレジストの研究に1991年ごろから本格的に着手
z
O
O
O
みから、
「次世代露光光はArFエキシマレーザー」であると判断
R3
y
OH
R4
O
a
■ 研究・開発方針
以上述べてきたように、当研究部でのArFエキシマレーザー
レジスト材料の開発は、ある意味で「無謀な挑戦」
とも言える。
O
O
した。
O
b
「10年後に使われるかどうかも分からない(ArFリソグラフィ
ー用)材料研究テーマを新人グループで開始」
と不安を感じる
図1 ArFリソグラフィー用レジスト材料(NECラクトン)
(R, R1∼R3:水素、メチル基;R4:アルキル基;
a:モノマー;b:コポリマー)
のが、担当する研究員の率直な思いであった
(だろう)
。研究員
のモチベーションの確保と維持が極めて重要であった。私はと
言えば、興味に溢れ、研究・開発に大きな期待を持った日々で
私が所属した
「有機機能材料研究部」
は、
「21世紀には有機材
あった。一方では、10年という長期が初めから決まっている
料が重要な技術になる」
との中央研究所トップによる先進的判
からこそ、ゆっくりではあるが着実な研究開発を進める余裕が
(修士)
断から、1989年夏に設置された。大半の研究者が新卒者
あると考え、10年計画で焦らず臨んだ。結果は10年後にしか出
であった。新鮮な研究員を育てながら研究を進める思想ではあ
ない。その時、研究員にとっての成果は知的財産権の形でしか
るが、事業部門との委託研究関係により、具体的な事業貢献が
残らないと考え、本研究テーマでは知的財産権の確立に特に注力
求められた。私は1991年に入部し、10名ほどの若い研究員とと
した。研究開始の数年間は若手の教育期間、その後に材料のオ
もに3テーマ(フォトレジスト、液晶、導電性高分子デバイス)
リジナルな設計手法を確立し、その後はその手法に基づき材料
を推進した。開発した導電性高分子コンデンサが「NEOキャ
を発展展開していくことを想定した。結果として、1995年ごろに
パシター」
として1993年に量産され、また高分子分散液晶型の
材料設計指針「機能統合型構造設計法」
を確立、1998年には
a-Si TFT駆動プロジェクションディスプレイを開発し、1995年
その手法に基づき
「NECラクトン」の創出に成功した。
コンファレンスで受賞した。
の国際情報ディスプレイ学会(SID)
企業での研究(および開発)
のポイントは新技術の開発にあ
しかし、いずれも知的財産に関わる課題の重要性が身に染
創造
るものの、私が若い研究員に折に触れて話したことは、
(1)
みた。
の発揮、
(2)
知的財産権の確保、
(3)
健康の維持、こ
性
(creativity)
■ 開発の決断
の3点である。フォトレジスト開発テーマでは、1990年から毎
1990年前後には、KrFエキシマレーザ(波長:248nm)
リソグ
年、新卒の化学系修士計3名を研究員として採用した。私はそれ
ラフィー以降の先端半導体回路製造用の露光技術
(露光光源、
をマネジメントする立場として1991年春に配属され、フォトレジ
露光装置、レジストなど)
について、世界中の半導体メーカーが
スト開発では主に4名のグループで10年間実施した。入社前
心配し始めていた。KrFリソグラフィーによる実際の半導体量
にフォトレジストの研究を経験した者はいない。すべての新卒採用
産は1995年ごろからであったので、KrF以降のリソグラフィー
者は、事業部門の開発研究所微細加工技術開発部に1年∼2年間
が量産適用になるのは2000年代の初期以降になることになる。
プロセスに携わり、最先端
派遣され、当時の最先端露光(KrF)
1990年ごろには、NECの事業部門と中央研究所との間に
「次世
リソグラフィープロセスを習得し、事業部門の状況を学んだ。こ
代リソグラフィー技術に関するプロジェクト」が設置され、定期
の間に指導していただいた世界トップレベルの事業部門開発部
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SEMI News • 2013, No.2
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Innovation Stories
の方々との人的交流が、その後のフォトレジスト開発推進に極め
て有効に働いた。また1990年代のNECは、世界トップ(第2位
の半導体メーカーであった。高い技術力を持ち、研究所
∼3位)
として学ぶべき多くの
「もの」
を有していた。国内の半導体装置メ
ーカーや半導体材料メーカーとの連携が強く、当時の最先端の
装置・材料の入手が極めて容易であった。フォトレジスト開発初
期に最先端の ArFレンズツール(ニコン製 1/20 縮小露光、
NA0.55)
を用いた材料の評価が可能であった点は、有機機能
材料研究部の研究の優位性確保に重要であった。
■ 学会動向
︵
学
会
発
表
/
特
許
出
願
︶
年
2005年
2004年
2003年
2002年
2001年
2000年
1999年
1998年
1997年
1996年
1995年
1994年
1993年
1992年
1991年
出願件数
学会件数
←ArFレジスト製品
←ArFレジスト研究終了
←「Photoplymer Sci&Tech Award」
←応用物理学会「講演奨励賞」
←応用物理学会「講演奨励賞」
←日本化学会「若手講演賞」
←ArFレジスト研究開始
0
5
10
15
件数/件
研究初期からフォトレジストの学会(フォトポリマーコンフ
ァレンス、応用物理学会など)
に参加するようになり、各社の学
←博士号取得(2004-2007)
図2 ArFフォトレジスト関係の学会発表 /特許出願件数
会動向から
「われわれのグループでも十分にやっていける」
と
いう確信を私は得た。ArFレジストに関する研究・開発は、世界
展開を図ったが、結局は原材料の量産コストが高く、採用されな
が
中の半導体メーカー
(IBM、AT&T、東芝、日立、富士通、松下)
かった。それ以後に絞り込んだ「脂環ラクトン」材料は、解像に
実施しているが、狭い世界であること、さらには化学メーカーが
おける優れた特性と原材料製造の低コスト特性を併せ持ち、量
ほとんど参入していないという幸運があった
(当時の化学メー
産用フォトレジスト材料として化学メーカーに採用された。
カーは、KrF対応の量産用フォトレジストの開発に注力してい
■ おわりに
た)
。化学メーカーは、学会発表で材料の化学構造を明かさない
NECでのArFレジスト材料開発は2000年ごろに終了した。
のが常である。これでは科学的議論ができない。一方、先端半導
開発の結果として「NECラクトン」成果は、各種の表彰(日本
(International Solid-State Circuits Confer体メーカーは、ISSCC
化学会技術賞、全国発明表彰経団連会長賞など)
を受けた。併せ
ence)
で見られるように、自社技術優位性を市場に一刻も早く開
て、携わった3名の「若手」研究員は、その間に研究者として大
示するため学会発表を積極的に行う。同様にArFレジスト研究
きく成長し、プロジェクト終了後に全員が博士号を取得した
(図
の学会発表も盛んに行われ、併せて材料の化学構造の開示が行
2)
。事業成果だけでなく個人成果を併せて得ることができた。
われた。結果的に、
「化学構造と特性の関連付け」
が第三者に相
真摯な個人の努力が報われ幸いであった。
当程度明確であった。構造−活性相関による材料設計は、私が
ArF光源に続く次世代光源であったF2光源(波長157nm)露
20年近く行ってきた深い経験が生かされる領域であった。この
光は、有名な2003年の「インテルショック」により中断され、
自信を
「研究員の自信」
にすることが、私のひとつの重要な役割
各社が開発に注ぎ込んだ労苦は吹き飛んだ。20年前にArF光源
であった。研究員には国内・国際学会での発表を積極的にや
に絞って始めた我々の開発が、このようなショックなしで終わ
。学会での若手講演賞を全員が受賞した。国内を
らせた
(図2)
れたことは幸いであった。ArF光源の次世代光源として「EUV
含む世界の先端研究者との頻繁な議論や接触は、研究員のモ
(波長13.6nm)
」技術が広く検討されているが、技術的に困難な
チベーションアップを可能とした。
問題がまだ残っている。2012年夏の報道では、IntelがASMLの
■ 知的財産権確保と化学メーカーへの展開
量産露光機開発に資金供与を行うとのこと。他方で、ArF光源で
研究員に成果の学会発表を推奨し、研究モチベーションを高
の液浸法、ダブルパターニング法の実用化を経て、マルチパター
。特
めるとともに、知的財産権の確保を積極的に行った
(図2)
ニング法などで11nmも可能との見方もある。光源・露光法での
許出願に関わる独自のシステムを研究部内に構築し、出願の促
「ショック」再来はあるか。
進と記載内容の向上を図った。すべての特許出願提案書、明細書
案について目を通し、出願後のフォローを徹底的に行い、権利の
<参考文献>
確保を支援した。これにより研究員の特許意識が高まり、皆が優
・長谷川悦雄、前田勝美「ラクトン骨格を有するポリマーの研
れた特許明細書を書ける技術を得た。この結果、
「NECラクト
究開発動向」
、
『高分子』
、57巻10月号、850-855(2008)
ン」
に関する特許出願は、特許庁からの異議なしで出願の1年半
後に成立した。
絞り込んだフォトレジスト材料の化学メーカーへの展開を、
1990年代後半に積極的に行った。研究としてのオリジナル性が
極めて高く且つ解像特性が高い「カルボキシ脂環骨格」材料の
No.2, 2013 • SEMI News
・稗田克彦、島 基之「フォトリソグラフィー材料の最新動向」
、
『高分子』
、55巻2月号、74-77(2006)
・長谷川悦雄、土田英俊「人工血液と人口赤血球」
、
『高分子』
、
38巻7月号、728-731(1989)
、
『高分子』
、60巻3月号、135-136(2011)
・野崎耕司「ArF液浸レジスト」
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