Information 窶・蝗帶婿鬢ィ縺ョWork Shop - 山頭火-四方館

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どかりと山の月おちた
―表象の森― 蛇状曲線的-痙攣的
対比-コントラスト-と逆説-パラドックス-の「蛇状曲線様式」による幻視者的な「高速度撮影-像」は、ヨーロッパ精
神史の中でいくつかの頂点を閲している。こうした「爆発的に凝固した」頂点の一つがティントレットの傑作、ヴェ
ネツィアのスクオーラ・ディ・サン・ロッコの「キリスト昇天」である。天使の翼の「爆発」に目をとめるがいい。こ
れは全ヨーロッパ芸術の中にみずからの姿に似たものを探し求める一種の「異常-静力学(パラ・スタティック)」で
ある。つぎにやや奥まった画面の中心点を見よう。すなわち「イデア」の世界からきたエーテル様の、テレプラズマ
風なものの像-かたち-、さらにまた画面下方に重心をおく古典的構図が右手でなく左手へとずらされている点に注目
しよう。すぐれて反古典的なのは天使の足である。それはまるで天使らしい点がないという怪物性を物語るように、
エーテル様の中央のものの像をおそろしく非審美的な仕方で脅かしている-左画面の縁の上半-。何という対比、何と
いう独創的な逆説! 対比と逆説はティントレットにおいて、-グレコにおけるとともに-当時のマニエリスムの頂
点に達した。
-「キリスト昇天」ティントレット(1518-1594)-
フランスとイタリアのマニエリスムを識っていたグレコは、瑕瑾のない創造的な純粋性のうちに、このヨーロッパ的
様式を適用し、ゴンゴラとともに、「形式と内容」のある醇乎たる、幻視者的な一致に到達したのであった。その蛇
状曲線様式の傑作「ヨハネ幻視」は、グレコの先行者たちにとってのラオコオン群像のように、後の時代にとってひ
とつの「原像」となった。その今日の例としては、ピカソの「アヴィニヨンの娘たち」やマックス・エルンストの「動
かない父親の幻視」などが挙げられる。
而して、ドヴォルシャックとともに、こう断言して差し支えないだろう―「芸術的幻想はマニエリスムにおいてこそ、
先行する幾世紀の間に創られたもの一切をささやかな序曲と想わせる飛翔にまで高められる」と。
-「ヨハネ幻視」エル・グレコ(1541-1614) -
―G.R.ホッケ「迷宮としての世界-上-」岩波文庫より
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-248
9 月 14 日、晴、多少宿酔気味、しかし、つつましい一日だつた。
......
身心が燃える-昨夜、脱線しなかつたせいかもしれない、脱線してもまた燃えるのであるが-、自分で自分を持てあま
す、どうしようもないから、椹野河へ飛び込んで泳ぎまはつた、よかつた、これでどうやらおちつけた。-略いつもリコウでは困る、時々はバカになるべし-S 君に-。
イヤならイヤぢやとハッキリいふべし、もうホレタハレタではない-彼女に-。
.....
大きな乳房だつた、いかにもうまさうに子が吸うてゐた、うらやましかつた、はて、私としてどうしたことか! -略月がよくなつた、蚊もゐなくなり、灯による虫も少くなかつた、暑くなし寒くなし、まことに生甲斐のあるシーズン
となつた、かうしてぶらぶらしているのが勿体ないと思ふ。
新町はお祭、月夜、四十八瀬川のほとりに組み立てられたバラツクへ御神輿が渡御された、私も参拝する、月夜、瀬
音、子供の群、みんなうれしいものだつた。
此頃はよく夢を見るが-私は夢中うなるさうな、これは樹明兄の奥さんの話である-、昨夜の夢なんかは実に珍妙であ
つた、それは或る剣客と果し合ひしたのである、そして自分にまだまだ死生の覚悟がほんとうに出来てゐないことを
知つた。
夢は自己内の暴露である。 -略※表題句の外、11 句を記す
-2Photo/北の旅-2000 ㎞から―ランプの宿・森つべつのロビーにて-’11.07.26
20110917
鳴くかよこほろぎ私も眠れない
―行き交う人々― 浜田スミ子篇
RYOUKO の命日も近い 10 日だった。
長年音信の途絶えていた人から供物が届けられた。中身はお線香。
届け主は浜田スミ子、もう 25、6 年は逢っていない。
添えられた書面には、
「逆縁」拝読しました。
本のタイトルに心がざわつきました。
その扉をそっと開けると、すっかり大人になった私の知らない僚子さんがいました。
その下に゛RYOUKO よ、おまえは悲母観音になるのだ」とありました。
僚子さんが亡くなったのだと想いました。
本の内容は心に重くのしかかり、父としての思いの深さが伝わってきました。
この訃報に接したとき、ご命日に何かお届けしようと考えていました。
‥‥、などと綴られていた。
浜田スミ子-
彼女が私の作品に初めて登場したのは、’77 年秋の「太陽のない日-One day the Sun has gone.」だった。
稽古場に初めてやってきた頃の彼女は、軽い対人恐怖症のようなところがあるように見受けられた。そんな気質を少
しでも積極的な性向になれるようにと、友人に勧められて門を叩いてきたらしかったが、芯の強さはあったのだろう、
つねに控えめではあったが、真面目な姿勢で励み、徐々に頭角を現してくる。
メロス以後、’80 年に入って、稽古場では即興的な表現が中心になっていくが、そんななかで彼女の資質は開花して
くる。’80 年、尼崎ピッコロシアターでの「アンネ・ラウ」で体現してみせた山中優子との対照は、この作品の中軸を
成したし、’84 年、島之内小劇場での「秋夜長女芝居女舞三噺篇-少女貝/道成寺絵解/水蜜桃」のなかで、Solo
「天国の駅」は、その持ち味に適った佳品であった、と思う。
‘86 年頃までのほぼ 10 年、それは私自身の破綻と再生を挟んだ 10 年であるが、彼女の 20 代前半から 30 代前半を、
自身のもっとも華やいだ季節として、私とともに歩んでくれたことになる。
そんな彼女に、お礼の文を綴る-
些か驚きつつも、
お供えの品、ありがたく頂戴しました。
私の家には、仏壇や位牌はないのだけれど、
彼女の写真と、小さな小さな遺骨の入ったロケットが、
机の前の書棚にあります。
なるべく一輪挿しの花を絶やさぬように、
また、日々、お線香を薫らせてもいます。
過分なお志とともに、御文しみじみと拝読、感謝。
ありがとう。
-3-
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-247
9 月 13 日、起きたい時に起き、寝たい時に寝る、食べたくなれば食べ、飲みたくなれば飲む-在る時には―である-。
-略めづらしい晴れ、ときどきしぐれ、好きな天候。
摘んできて雑草を活ける、今朝は露草、その瑠璃色は何ともいへない明朗である。
母屋の若夫婦は味噌を搗くのにいそがしい、川柳的情趣。
白船老から来信、それは私に三重のよろこびをもたらした、第一は書信そのもの、第二は後援会費、第三は掛軸のよ
ろこびである。
蛇が蛙を呑んだ、悲痛な蛙の声、得意満面の蛇の姿、私はどうすることもできない、どうすることはないのだ!
........
廃人が廃屋に入る、―其中庵の手入れは日にまし捗りつつあると、樹明兄がいはれる、合掌。-略いやな夢ばかり見てゐる。‥
唖貝-煮ても煮えない貝-はさみしいかな。
根竹の切株を拾ふ、それはそのまま灰皿として役立つ。
※表題句の外、15 句を記す
Photo/北の旅-2000 ㎞から―釧路湿原展望台-’11.07.26
20110914
樹影雲影に馬影も入れて
―日々余話― たまらぬ残暑に
からだが怠い、いささか夏バテ‥‥。とにかく蒸し暑い‥、今日はいったい何日だっけ?
9.14‥、とたんにはっと気づいた、RYOUKO の‥‥。
そうだ、礼状を書かなければ‥、遠い昔の知友から供物の線香が届いていた、二、三日前だ。
春先に送った書への応当だが、それが半年も経てとなったのは、即座に読むに重すぎた所為だろう。平静さを取り戻
してから、じっくりと読んでくれたと見える。添えられた短い書面からもそのことは覗える。
6 月 29 日から「山頭火の一句」の日付と同じく、道行と洒落込んでブログの更新を励んできたのに、とうとうその
禁を破ることに‥。
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-246
9 月 12 日、晴曇不定、厄日前後らしい天候である。
昨夜は蚊帳を吊らなかつた、昼でも障子を締めておく方がよい時もある。
自己勘検は失敗だつた、裁く自己が酔ふたから!
樹明兄から米を頂戴した、これで当分はヒモじい目にあはないですむ、ありがたや米、ありがたや友。
憤独―自己を欺かない、といふことが頻りに考へられた、一切の人間的事物はこれを源泉としなければならない。
古浴衣から襦袢一枚、雑巾二枚を製作した。
夕ぐれを樹明来、蒲鉾一枚酒一本で、とろとろになつた。
今日の水の使用量は釣瓶で三杯-約 1 斗 5 升-。
近来少し身心の調子が変だ、何だかアル中らしくもある-ただ精神的に-。
..
今夜も楽寝だつた。
※この日句作なし、表題句は 9 月 10 日記載の句
Photo/北の旅-2000 ㎞から―釧路湿原駅-’11.07.26
-4-
20110911
萩の一枝にゆふべの風があつた
―日々余話―
たった一泊の白馬、あわただしい休日-
ラフオーレ白馬美術館で Chagall を鑑賞、銅版、木版の、多くの板画が展示されていた。彼の生涯と作品を解説す
る映像は、入門には好適。
宿泊のログハウスは、もうかなり年代物だが、それでも家族水入らずの一夜には快適に充分愉しめる。
明くる朝はレンタサイクルで 2 時間ほど白馬遊輪-とくれば爽快感あふれそうだが、まだ暑気もたっぷりで汗びっし
ょりと青息吐息、帰路の長丁場の運転が堪えたこと。
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-245
9 月 11 日、曇、夕方から雨、ほんとうに今年は風が吹かない。
ふつと眼がさめたのは 4 時、そのまま起きる、御飯をたいて御経をあげて、そしたらやつと夜が明けた。-略昨日の日記を読んで驚いた、それは夢遊病者の手記みたいだつた-前半はあれでもよからう-、アルコールの漫談とで
もいはうか、書かなくてもよい事が書いてある代りに、書かなければならない事が書いてない。-略昨夜、樹明兄を見送つて、日記を書きはじめたのは覚えてゐる、書いてゐるうちに前後不覚になつたらしい。
...
意識がなくなる、といつては語弊がある、没意識になるのである-それは求めて与へられるものぢやない、同時に、
拒んで無くなるものでもない-。
その日記を通して自己勘検をやつてみる。
案山子二つ、‥赤いとあるだけではウソだ。
...
その前のところに、―即今無-とある、無意味だ、といふよりも欠陥そのものだ、無無無といつた方がよいかも知れ
ない、とにかくムーンだから! -略※表題句の外、11 句を記す
Photo/白馬村―薬師の足湯に居並ぶ石仏たち-’11.09.11
20110910
また逢ふまでのくつわ虫なく
―表象の森― <日暦詩句>-45
「眼」
西脇順三郎
白い波が頭へととびかゝつてくる七月に
南方の奇麗な町をすぎる。
静かな庭が旅人のために眠つてゐる。
薔薇に砂に水
薔薇に霞む心
石に刻まれた髪
石に刻まれた音
石に刻まれた眼は永遠に開く。
―詩集「Ambarvalia」所収-昭和 9 年―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-244
-59 月 10 日、とうとう徹夜してしまつた、悪い癖だと思ふけれど、どうしてもやまない、おそらくは一生やまないだ
らう、ちようど飲酒癖のやうに。 -略身辺に酒があると、私はどうも落ちつけない、その癖あまり飲みたくはないのに飲まずにはゐられないのである、且
浦で酒造をしてゐる時、或る酒好老人がいつたことを想ひだした、-ワシは燗徳利に酒が残つてをつてさへ、気にか
かつて寝られないのに、何と酒屋は横着な、六尺の酒桶を並べといて平気でゐられたもんだ、―酒に「おあづけ」は
ない! -略今夜は此部屋で十日会-小郡同人の集まり-の最初の句会を開催する予定だつたのに、集まつたのは樹明さん、冬村さ
んだけで-永平さんはどうしたのだらう-、そして清丸さんの来訪などで、とうとう句会のほうは流会となつてしまつ
た、それもよからうではないか。
みんなで、上郷駅まで見送る、それぞれ年齢や境遇や思想や傾向が違ふので、とかく話題はとぎれがちになる、むろ
ん一脉の温情は相互の間を通うてはゐるけれど。 -略焼酎のたたりだらう、頭が痛んで胃が悪くなつた、じつさい近頃は飲みすぎてゐた、明日からは慎まう。
※表題句の外、6 句を記す
Photo/北の旅-2000 ㎞から―富良野麓郷、五郞の石の家-’11.07.25
20110909
起きるより土をいぢつてゐるはだか
―日々余話― 三年前の今日
とうとう、か‥、やっと、か‥、
とにかくも、あの夜から、丸三年が経った
あの、忌まわしい事故が起きたのは、午後 8 時 15 分頃
私の携帯に、報せが入ったのは、午後 9 時を少し過ぎていたか‥
事故直後より、おまえは、ただ眠りつづけ、5 日後に逝った
その一周忌に、私は、「おまえは悲母観音になるのだ」と祈った
今日、久しぶりの墓参、ただ独りきり、花を手向け、観音経を読誦したが‥
おまえは、もう、悲母観音になったかい‥‥
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-243
9 月 9 日、相かはらず降つてゐる、そしてとうとう大雨になつた、遠雷近雷、ピカリ、ガランと身体にひびくほどだ
つた、多分、どこか近いところへ落ちたのだらう。
午後は霽れてきた、十丁ばかり出かけて入浴。
畑を作る楽しみは句を作るよろこびに似てゐる、それは、産む、育てる、よりよい方への精進である。
出家-漂泊―庵居-孤高自から持して、寂然として独死する-これも東洋的、そしてそれは日本人の落ちつく型-生
活様式-の一つだ。
魚釣にいつたが一尾も釣れなかつた、彼岸花を初めて見た。
夕方、樹明兄から珍味到来、やがて兄自らも来訪、一升買つてきて飲む、雛鳥はうまかつた、うますぎた、大根、玉
葱、茄子も、そして豆腐も。
生れて初めて、生の鶏肉-肌身-を食べた、初めて河豚を食べたときのやうな味だつた。Comfortable life 結局帰する
ところはここにあるらしい。
※表題句の外、8 句を記す
Photo/「Soulful Days 逆縁-或る交通事故の顛末-」表紙
-6-
20110908
日照雨ぬれてあんたのところまで
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-242
9 月 8 日、酔中、炊いたり煮たり、飲んだり食べたりして、それを片付けて、そのままごろ寝したと見える、毛布一
枚にすべてを任しきつた自分を見出した。
雨がをりをりふるけれど、何となくほほゑまれる日だ。 -略其中庵へ行つた、屋根の葺替中だつた、見よ、其中庵はもう出来てゐるのだ、夏草も刈つてあつた、竹、黄橙、枇杷、
蜜柑、柿、茶の木などが茂りふかく雨にしづもり立つてゐた。‥
米は K さんが、塩は I さんがあげます、不自由はさせませんよといつて下さる、さて酒は。‥
百舌鳥の最初の声をきいた、まだ秋のさけびにはなつていない。 -略けさ撒いてゆふべ芽をふく野菜もある、昨日撒いたのに明日でなければ芽ふかないのもあるといふ、しよつちゆう、
畑をのぞいて土をいぢつて、もう生えた、まだ生えないとうれしがつてゐる、私までうれしくなる。 -略いろんな虫がくる、今夜はこほろぎまでがやつてきて、にぎやかなことだつた。
※表題句の外、3 句を記す
Photo/北の旅-2000 ㎞から―富良野、フアーム富田にて-’11.07.25
20110907
枯れようとして朝顔の白さ二つ
―日々余話― 由らしむべし知らしむべからず
そのとき、私は愕然とした――
そうか、そうだったのか、それが事の本体か‥、なんということ、これは‥、この問題は、そういことだったのか。
問題の渦中にある者、それがのっぴきならない問題であればあるほど、肝心の当事者が、その問題の本質を見きわめ
るということはほんとうに難しい、困難極まることだと、つくづく思い知った。
事はもう 25 年前、’86-S61-年 5 月の出来事、一方の当事者は私自身である。それは一定の法的手続きが採られるに
至ったことなのだが、その手続きの採りよう、それがどうしても臓腑にしっかりと落ちず、小さな瘡蓋のようなもの
になったまま、とうとう今日まできてしまったのだが‥。
この両三日ほど、否やもなくまたぞろこの問題に向き合わねばならなくなって、それこそ文字どおり肚を据えて考え
ていたのだが、雷にでも打たれたかのごとく突然、問題の本質が見えたのだった。それはまさに有ってはならぬ、人
としてとんでもない事なのだが、その事にはっきりと思いあたったのだった。
これはまさしく「由らしむべし、知らしむべからず」の支配者の論理――
人が他方を人として侮り、知-無知の、支配-被支配の構図に置かなければ、けっして為しえないこと――
それが事の本質だったのだ。
考えてみれば、仮に私が当事者ではなく、交わりのあるなしに拘わらず他者からの相談ごととして、このような類似
の問題に第三者として直面していたとすれば、おそらく大した苦労もせずその問題の本質を見ぬき得ていた筈だろう
に、当事者であったがゆえに私は、四半世紀もの間、見れども見えぬ、朦朧とした雲霞のなかにうち過ごしてきてし
まったのだ。
――この件については、あまりに極私的ゆえ、これ以上具体的には綴れないのです――
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-241
9 月 7 日、朝、天地清明を感じた、いはゆる秋日和である、寒いほどの冷気だつた。
-7-略-、今日の午後は、樹明さんと冬村君とが、いよいよ例の廃屋を其中庵として活かすべく着手したとの事、草を刈
り枝を伐り、そしてだんだん庵らしくなるのを発見したといふ、其中庵はもう実現しつつあるのだつた、何といふ深
切だらう、これが感泣せずにゐられるかい。
..................
明日は私も出かけて手伝はう、其中庵は私の庵じやない、みんなの庵だ。
樹明さんからの贈物、-辛子漬用の長茄子、ニンヂンのまびき薬、酒と缶詰。
真昼の茶碗が砕けた、ほがらかな音だつた、真夜中の水がこぼれた、しめやかにひろがつた。‥
一つの風景-親牛仔牛が、親牛はゆうゆうと、仔牛はちよこちよこと新道を連れられて行く、老婆が通る、何心なく
見ると、鼻がない、恐らくは街の女の成れの果だらう、鐘が鳴る、ぽかぽかと秋の陽が照りだした、仰げばまさに秋
空一碧となつてゐた。‥
※表題句の外、4 句を記す
Photo/北の旅-2000 ㎞から―札幌の時計台-’11.07.25
20110906
まがつた風景そのなかをゆく
―四方のたより― 樹木希林の CM-雑草篇
「やっぱりひとりがよろしい雑草」と、山頭火のよく知られた句を呟く樹木希林――
バツクには福山雅治が歌う「家族になろうよ」が流れ、
ややあって、前句をひとひねりしたかのように「やっぱりひとりじゃさみしい雑草」と呟く――、
そんなモノローグの CM がこのところ眼を惹くが、これはどうしても耳に触る。
山頭火には、前句に対照するかのように「やっぱりひとりはさみしい枯草」という句があるのを、ご存じの人も多い
筈、
ひとりがよろしい雑草-は昭和 8 年、ひとりはさみしい枯草-のほうは昭和 11 年と、句作の時期が離れるが、とも
に小郡其中庵時代の句作で、後者は、いわば対句のように、前者の存在を抜きにしては生まれ得ない。
CM の制作者も、また樹木希林も、このことを知らぬわけでもなかろうに、あえてそういうデフオルメをしたのだろ
うが、これでは下手をすると、山頭火の句作においても
「やっぱりひとりがよろしい雑草」-「やっぱりひとりはさみしい枯草」の対照が、
「やっぱりひとりがよろしい雑草」-「やっぱりひとりじゃさみしい雑草」へと転移してしまう誤解が生じかねない
し、実際そういう受けとめをしている人たちをかなり生み出してしまっているようだ。
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-240
9 月 6 日、3 時になるのを待つて起きた、暫時読書、それから飯を炊き汁を温める。‥
気分がすぐれない、すぐれない筈だ、眠れないのだから。
昨日は誰も訪ねて来ず、誰をも訪ねて行かなかつた、今朝は樹明さんが出勤途上ひよつこり立ち寄られた、其中庵造
作の打合せのためである、いつもかはらぬ温顔温情ありがたし、ありがたし。
-略-、夜は樹明、冬村の二兄来庵、話題は例によつて、其中庵乃至俳句の事、渋茶をがぶがぶ飲むばかりお茶うけも
なかつた。
今日うれしくも酒壺堂君から書留の手紙がきた、これで山頭火後援会も終つた訳だ-決算はまだであるが-、改めて、
私は発起賛同の諸兄に感謝しなければならない、殊に緑平老の配慮、酒壺堂君の斡旋に対して。
※表題句の外、3 句を記す
Photo/北の旅-2000 ㎞から―苔の洞門にて-’11.07.25
-8三日月、遠いところをおもふ
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-239
9 月 5 日、曇、どうやらかうやら晴れそうである。
つつましい、あまりにつつましい一日であつた、釣竿かついで川へ行つたけれど。――
彼から返事が来ないのが、やつぱり気にかかる、こんなに執着を持つ私ではなかつたのに!
ふと見れば三日月があつた、それはあまりにはかないものではなかつたか。――
三日月よ逢ひたい人がある –彼女ぢやない、彼だ待つともなく三日月の窓あけてをく –彼のために...
.....
この窓は心の窓だ、私自身の窓だ。
-略- とうしても寝つかれない、いろいろの事が考へられる、すこし熱が出てからだが痛い、また五位鷺が通る。
..
..
とぶ虫からなく虫のシーズンとなつた、虫の声は何ともいへない、それはひとりでぢつと聴き入るべきものだ。
味覚の秋―春は視覚、夏は触覚、冬は聴覚のシーズンといへるやうに―早く松茸で一杯やりたいな。-略※表題句及文中句の外、3 句を記す
Photo/北の旅-2000 ㎞から―支笏湖にて-’11.07.25
20110904
雨ふるふるさとははだしであるく
―四方のたより― 鳴り物入りの不発弾
台風 12 号は山陰沖に去ったというのに、なお近畿南部などには豪雨警報もあり、台風一過とはなかなかいかないら
しい。
その台風襲来のなか、3、4 日の両夜、木津川縁の一隅で催されているのが件の催し。
音楽、ダンス/舞踏、パフォーマンス、映像、朗読等、
ミクストメディアのアーティストによるコラボレーション、即興表現の祭典-
その名も「PERSTECTIVE EMOTION WEST」と題されている。
出演のメンバーは全国各地から駆けつけているが、さすがに昨夜は台風の影響で、予定のメンバーが 3 名欠けたなか
で行われた。
さりながらこのイベント、出演者たち関係者たちにとってある種の祝祭空間となりえたとしても、残念ながら、関係
者以外の観者らにとっては、はっきりいって苦行以外のなにものでもない。
集まった多彩な顔ぶれも、それぞれにおいて技倆的落差もはげしいのだが、そんなことよりも、この祝祭を貫く方法
論的仕掛自体に大いに問題がある、と言わざるをえない。
その仕掛とは、第 1 部「シャッフル 1」Duo、第 2 部「シャッフル 2」Trio、第 3 部「生まれくる集合による即興」
といういたって単純なものだが、私はこれを私流の解釈で、たとえば第 1 部においては、聴覚系と視覚系のパフォー
マーをそれぞれに Duo、すなわち Duo×Duo として供されるものとばかり思っていたのだが、その予想はまったく
外れ、なにもかもひとまとめに、そのなかから偶然のクジにまかせ、単なる Duo を行うものだったのだ。
したがって、聴覚系×視覚系ばかりでなく、聴覚系のみの Duo もあれば、視覚系だけの Duo も生まれるわけだが、
この程度の組合せでは、即興表現を成立させる磁場として、あまりにポテンシャルが低いというものだ。なにしろ出
演者は 20 名余りいるから、10 組以上の沈滞せるシーンの羅列に延々と付き合わされるのだから堪らない。
第 2 部の Trio になってもポテンシャルにおいて大差はない。唯一観どころ聴きどころとなりえたのは、偶々ビオラの
大竹徹も入った聴覚系のみの Trio となった演奏、このシーンだけで、この時ばかりは演奏後の拍手も、さすがに客席
は正直なもので、他と比べて一段と大きかった。
-9―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-237
9 月 3 日、今朝も早かつた、四大不調は不思議に快くなつた、昨夜、樹明さんからよばれたタマゴが効いたのかも知
れない、何しろ、薬とか滋養物とかいふものがききすぎるほどきく肉体の持主だから。
.....
夕立がきた、夕立を観ず、といつたやうな態度だつた。
午後、周二さん来訪、予期しないでもなかつた、間もなく敬治君も来訪、予期したやうに、そして樹明兄は間違なく
来訪。
汽車弁当で飲んだ、冬村君もやつてきて、小郡に於ける最初の三八九会みたいだつた。
よい雨、よい酒、よい話、すべてがよかつた、しかし一人去り二人去り三人去つて、私はまた独りぼつちになつた、
かういふ場合には私だつてやはり寂しい、それをこらへて寝た、夢のよくなかつたのは当然である。
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-238
9 月 4 日、雨、よう降りますね、風がないのは結構ですね。
午前は、樹明さん、敬治さん、冬村さんと四人連れで、其中庵の土地と家屋とを検分する、みんな喜ぶ、みんなの心
がそのまま私の心に融け入る。‥‥
午後はまた四人で飲む、そしてそれぞれの方向へ別れた。
夕方から夕立がひどかつた、よかつた、痛快だつた。
さみしい葬式が通つた。-略故郷へ一歩近づくことは、やがて死へ一歩近づくことであると思ふ。
――孤独、――入浴、――どしや降り、雷鳴、――そして発熱――倦怠。
私はあまりに貪つた、たとへば食べすぎた-川棚では一日五合の飯だつた-、飲みすぎた-先日の山口行はどうだ-、そし
て友情を浴びすぎてゐる。‥‥
かういふ安易な、英語でいふ easy-going な生き方は百年が一年にも値しない。
あの其中庵主として、ほんとうの、枯淡な生活に入りたい、枯淡の底からこんこんとして湧く真実を詠じたい。
※表題句の外、2 句を記す
Photo/北の旅-2000 ㎞から―苔の洞門、小さな石ころにも苔が覆っている-’11.07.25
20110902
いちじくの実や、やつとおちついた
―四方のたより― 異常台風
台風 12 号の上陸もまぢかというのにずいぶんと蒸し暑い。
それにしても異常な進路、うろうろ、のろのろと、今年の台風は従来型からほど遠いのは、どうにも気にかかるが、
そういった問題については、気象庁なども情報が乏しい。
<日暦詩句>-44
台風の所為で海上は荒れに荒れ、強風と豪雨が列島を広範囲に襲っているというのに、あろうことか今夜は、茨木の
り子の「四海波静」を挙げる。
四海波静 -茨木のり子
戦争責任を問われて
その人は言つた
そういう言葉のアヤについて
文学方面はあまり研究していないので
お答えできかねます
- 10 思わず笑いが込みあげて
どす黒い笑い吐血のように
噴きあげては 止り また噴きあげる
三歳の童子だって笑い出すだろう
文学研究果さねば あばばばばとも言えないとしたら
四つの島
笑-エラ-ぎに笑-エラ-ぎて
三十年に一つのとてつもないブラック・ユーモア
野ざらしのどくろさん
カタカタカタと笑ったのに
笑殺どころか
頼朝級の野次ひとつ飛ばず
どこへ行ったか散じたか落首狂歌のスピリット
四海波静かにて
黙々の薄気味わるい群衆と
後白河以来の帝王学
無音のままに貼りついて
ことしも耳すます除夜の鐘
-詩集「自分の感受性くらい」所収-S52-、初出 S50.11「ユリイカ」
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-236
9 月 2 日、おだやかな雨、ことに昨夜は熟睡したので、のびのびとした気分であつた。
4 時に起きて 5 時に食べ 6 時には勤行もすました、この調子で其中庵生活は営まれなければならない。
発熱倦怠、身心が痛む、ぢつとしてゐると、ついうとうとする、甘酸つぱいやうな、痛痒いやうな気分である、考へ
るでもなく考へないでもなく、生死の問題が去来する、‥‥因縁時節はどうすることも出来ない、生死去来は生死去
来だ、死ぬる時は死ぬる、助かる時は助かる。‥‥
...... ..
..
..
事実を活かす、飛躍よりも漸進、そして持続。
快い苦しみ、苦しい快さ-今日一日の気分はかうだつた-。
夕方、樹明さんに招かれて、学校の宿直室で 11 銭のお弁当をよばれる、特に鶏卵が二つ添へてある、飯盒を貰つて
戻る、御飯蒸器では-飯釜を持たないから-どうも御飯の出来栄がよろしくないので。
ごろりと横になつて、襖の文字を読む、―一関越来二処三処、難関再来一関覚悟、
此家の主人が若うして不治の疾にとりつかれたとき書きつけたのださうな。
※表題句の外、1 句を記す
Photo/北の旅-2000 ㎞から―大沼湖-’11.07.24
20110901
後悔の朝の水を泳ぎまはる
―四方のたより― 茶谷祐三子のインド舞踊講座
インド古典舞踊 Odissi Dance を踊る花の宮こと茶谷祐三子から講座開設の案内が送られてきた。
- 11 1989(S64)年 6 月4日の天安門事件、その 2 週間前の 5 月 19 日から 24 日、われわれ一行は上海・瀋陽・北京を巡って
いた。一行とは瀋陽(満州時代の奉天)で開催中の中国評劇交流祭に現代舞踊の公演をするため組織した 12 名の訪中
交流団である。
茶谷祐三子もこの一行の一人であった。彼女はその後、中国西域を経てインドに渡り、Odissi Dance と出会うのだ
が、そのあたりの事情については以前の Blog で書いているので参照して貰えれば‥。
「行き交う人々」-茶谷祐三子篇。
http://blog.goo.ne.jp/alpha_net/e/f70f9a18ef5e157bc5f4fef7813e11a7
また、彼女のインド舞踊講座に関する情報は此方-いちょうネット-に詳しく掲載されている。
http://www.manabi.city.osaka.jp/Contents/lll/kouza/inview.asp?CONTENTNO=41102
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-235
9 月 1 日、朝の汽車でいつしよに戻る、そして河へ飛びこんで泳いだ、かうでもしなければ、身心のおきどころがな
いのだ、午後また泳いだ、六根清浄、六根清浄。
二百十日、大震災記念日、昨日の今日だ、つつましく生活しよう。
今日も夕立がきた、降れ降れ、流せ流せ、洗へ洗へ。すべてを浄化せよ。
とにかく、更生しなければ、私はとても生きてはゐられない、過去一切の舊習を清算せずにはゐられなくなつた。
※表題句の外、3 句を記す
Photo/北の旅-2000 ㎞から―五稜郭の真新しい箱館奉行所-’11.07.24
20110831
雨の蛙のみんなとんでゐる
―四方のたより― 大塔村星の国
後醍醐の皇子護良親王が拠った大塔宮にその名を由来する大塔村は、地図上ではすでに姿を消してしまっている。
旧大塔村は、隣接した吉野郡西吉野村とともに、’05 年 9 月、五條市に合併編入されていたのだ。現在は五條市大塔
町。
その大塔町にある星の国へ、二日つづきの晴天に満点の星空など子どもに鑑賞させてやれればと、昨夕、家族ととも
に車を走らせた。
ところが出かける頃から、夕空には雲がちらほらとと目立つようになってきた。午後 7 時にはまだ少し間のある頃、
目的の地に着いたが、暮れかかった空は雲にさえぎられわずかにしか望めない。
正面円形の建物は道の駅「吉野路大塔」、右の坂が星の国へのアプローチ。
坂を登っていくと左右にいくつかのドーム付バンガローやログキャビンが配され、登りきった辺りに天文台、その奥
手にロッジがある。
天文台に入って望遠鏡を覗くも、まったく星は見えず、やむなくプラネタリウムへと移動、スクリーンでの星座鑑賞
と相成ってしまった。
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-234
8 月 31 日、曇后晴。4 時半起床、朝食 7 時、勤行 8 時、読書 9 時、散歩 11 時、それから、それから。‥‥
裸体で後仕舞いをしてゐたら、虫が胸にとまつた、何心なく手で押へたので、ちくりと螫された、蜂だつたのだ、さ
つそく、ここの主人にアンモニヤを塗つて貰つたけれど、少々痛い。
駅まで出かけて、汽車の時間表をうつしてくる、途上で野菜を買ふ、葱 1 束 2 銭也-この葱はよくなかつた-。
- 12 川棚から小郡へきた時、私の荷物は三個だつた、着物と書物とで岳行李が一つ、蒲団と机とで菰包みが一つ、外に何
やら彼やらの手荷物一つである、ずいぶん簡単な身軽だと思つてゐたのに、樹明兄は、私としてはそれでも荷物が多
過ぎるといふ、さういへばさうもいはれる。
ざーつと夕立がきた、すべてのものがよろこんでうごく、川棚では此夏一度も夕立がなかつたが。
午後、樹明さんが黒鯛持参で来訪-モチ、銘酒註文-、ゆつくり飲む、夕方、山口まで進出して周二居を驚かす、羨ま
しい家庭であつた、理解ある母堂に敬意を表しないではゐられなかつた。
そけから-、それからがいけなかつた、徹宵飲みつづけた、飲みすぎ飲みすぎだ、過ぎたるは及ばざるにしかず、と
いふ事は酒の場合に於て最も真理だ、もう酒には懲りた、こんな酒を飲んでは樹明さんにすまないばかりでなく世間
に対しても申訳ない、無論、私自身に対し、仏陀に対しては頭を石にぶつけるほどの罪業だ。
我昔所造諸悪業、皆由無始貪瞋癡、従身語意之所生、一切我今皆懺悔、
―ほんとうに、懺悔せよ。
※表題句の外、1 句を記す
Photo/北の旅-2000 ㎞から―函館、トラビスチヌ修道院-’11.07.24
20110830
稲妻する過去を清算しやうとする
-表象の森― 今月の購入本
・B.エルンスト「エッシャーの宇宙」朝日新聞社
エツシヤー自身との共同作業で、その全作品の制作動機やアイデアなどの成長過程をまとめあげた労作。訳は坂根巌
夫、初版’83 年刊の第 15 刷板-‘90-の中古書
・ヘーゲル「歴史哲学講義 上」/「 々 下」岩波文庫
長谷川宏という訳者を得て、新しい読者層をひろげたヘーゲルの世界史講義。
・G.ブルーノ「無限、宇宙および諸世界について」岩波文庫
地動説や宇宙の無限を唱え、異端者として焚刑に処された修道士ブルーノの、長らく禁書とされてきた書。
・長谷川宏「いまこそ読みたい哲学の名著」光文社文庫
アラン・シエークスピアにはじまりウイトゲンシユタイン・M.ポンテイまで、12 著作を採り上げた鑑賞ガイダンス。
・竹下節子「聖者の宇宙」中公文庫
驚いたことに巻末には 50 頁に及ぶ詳細な聖者カレンダーなるものが併載されている。
・秋山巌「山頭火版画句集-版画家・秋山巌の世界」春陽堂
100 の句と版画を掲載した廉価版の秋山巌版画集
・「つなみ-被災地のこども 80 人の作文集」文藝春秋
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-233
8 月 30 日、風が落ちておだやかな日和となつた、新居三日目の朝である、おさんどんと坊主とそして俳人としての
カクテル。
今日もまた転居のハガキを書く-貧乏人には通信費が多すぎて困る、といつて通信をのぞいたら私の生活はあまりに
殺風景だ-。
樹明兄から、午後 1 時庵にふさはしい家を見に行かう、との来信、一も二もなく承知いたしました。大田の敬坊-坊
は川棚温泉に於ける私を訪ねてくれた最初の、そして最後の友だつた-から、ありがたい手紙が来た、それに対して、
さつそくこんな返事をだしてをいた。-
- 13 .....
‥‥私もいよいよ新しい最初の一歩-それは思想的には古臭い最後の一歩-を踏みだしますよ、酒から茶へ-草庵一風
の茶味といつたやうな物へ-山を水を月を生きてゐるかぎりは観じ味はつて-とにもかくにも過去一切を清算しま
す。‥‥
.....
-略-、樹明兄に連れられて、山麓の廃屋を見るべく出かけた、夏草ぼうぼうと伸びるだけ伸んでゐるところに、その
家はあつた、気にいつた、何となく庵らしい草葺の破宅である、村では最も奥にある、これならば「其中庵」の標札
をかけても不調和なところはない、殊に電灯装置があつたのは、あんまり都合がよすぎるよ。
帰途、冷たいビール弐本、巻鮨一皿、これだけで二人共満腹、それから水哉居を訪ねる-君は層雲派の初心晩学者と
して最も真面目で熱心だ-。
樹明兄の人柄が渾然として光を放つた、その光に私はおぼれてゐるのではあるまいか。
其中庵、其中庵、其中庵はどこにある。
廃屋から蝙蝠がとびだした、私も彼のやうに、とびこみませう。
水哉居でよばれた酢章魚はほんたうにおいしかつた、このつぎは鰒だ。
ふけてから、ばらばらと雨の音。
今夜は寝つかれさうだ、何といつても安眠第一である、そして強固な胃袋、いひかへれば、キヤンプをやるやうなも
ので、きたないほど本当だ。
※表題句のみ記す
Photo/北の旅-2000 ㎞から―函館、トラビスチヌ修道院にて-’11.07.24
20110829
風のトマト畑のあいびきで
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-232
8 月 29 日、厄日前後らしい空模様である、風のために木まで動く、炊事、掃除、読書、なかなか忙しい。
処方の知友へ通知葉書を出す、三十幾つかあって、ずゐぶん草臥れた。-略新居第一日に徹夜して朝月のある風景ではじまつた。
あせらずにゆうゆうと生きてゆくこと。
夜おそく、樹明兄来訪、友達と二人で。
いろいろの友からいろいろの品を頂戴した。樹明兄からは、米、醤油、魚、そして酒!
友におくつたハガキの一つ。-
「何事も因縁時節と観ずる外ありませんよ、私は急に川棚を去つて当地へ来ました。庵居するには川棚と限りません
からね。ここで水のよいところに、文字通りの草庵を結びませう、さうでもするより外はないから。山が青く風が涼
しい、落ちつけ、落ちつけ、おちつきませう。」
いつとなく、なぜとなく-むろん無意識的に-だんだんふるさとへちかづいてくるのは、ほんとうにふしぎだ。
野を歩いて、刈萱を折つて戻つた、いいなあ。
どこにもトマトがある、たれもそれをたべてゐる、トマトのひろまり方、。たべられ方は焼芋のそれを凌ぐかも知れ
ない、いや、すでにもう凌いでゐるかも知れない。
※表題句の外、3 句を記す
Photo/北の旅-2000 ㎞から―小樽運河、中央橋より-’11.07.30
20110828
秋風のふるさと近うなつた
―四方のたより― 琵琶のゆかた会
- 14 今夏で 3 回目となる筑前琵琶奥村旭翠門下の「ゆかた会」が、今日の午後、藤井寺駅近くの料亭こもだで催された。
毎年 2 月の「びわの会」は欠かしたことはないが、このゆかた会に関しては前 2 回とも失礼してきた。三度目のなん
とやら、今回はひょいとその気になって、出向いてみた。
会場は、普段は宴会場に供されるのだろう、ずいぶんと広い和室。プログラムは全 12 曲、末永旭濤こと Junko は 4
番目の登場で、演目は明智光秀の最期を詠ずる「小栗栖」、山崎旭萃の代表曲にも数えられる作品だから自ずと稽古
にも身が入っていたろう。
旭翠師についてすでに 10 年、発声は学生演劇から鍛えているから一応問題なしだが、歳も四十を越えたことだし、
そろそろ節に艶が欲しい頃ではないか、というのが第一感。
「ゆかた会」そのものについて一つ難を挙げれば、会場が座敷であること。12 曲延べ 3 時間余を座敷で聴くのは些
か堪える。いや聴くほうだけではない、演ずるほうも先番たちを聴きながら同じ座敷で出番を待つのはやはり堪えよ
う。実際、出番が後になるほど、年期の入ったベテランなのだが、それにもかかわらず少々集中力を欠いていたよう
に見うけられた。
そんななかで、ひとり存分に演じていたのは新家旭桜のみである。彼女には自身の技倆的課題がつねに明確に見えて
いるからだ。琵琶の奏法については余人の追随を許さず、すでに群を抜いた存在である彼女であってみれば、語りに
おけるいわば心技体がいかにあるべきか、といった地点に向かっているからだ、と思われる。
宴会用の広い座敷は、本来当座の一同みな胸襟を開いて和やかに、さらにはくだけてよしとする空間だ。そんな場所
で、長時間の集中を持続させるのは甚だ難しい、我知らずどうしてもダレが忍び寄るというものだ。
「ゆかた会」を今後も継続していくとすれば、会場については一考されたほうがよいだろう。
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-231
8 月 28 日、小郡町柳伊田、武波憲治氏宅裏。
朝から二人で出かける、ちようど日曜日だつた、この雑座敷を貸していただいた-ここの主人が樹明兄の友人なので、
私が庵居するまで、当分むりやりにをいてもらふのだ-。
駅で手荷物、宿で行乞道具、運送店で荷物、酒屋で酒、米屋で米。
さつそく引越して来て、鱸のあらひで一杯やる、樹明兄も愉快さうだが、私はよつぽど愉快だ。夜、冬村君が梅干と
らつきようを持つて来て下さる、らつきようはよろしい。
一時頃まで話す、別れてから、また一時間ばかり歩く、どうしても寝つかれないのだ。
※表題句の外、1 句を記す
Photo/北の旅-2000 ㎞から―札幌自動車道、金山 PA にて-’11.07.29
20110827
けふはおわかれのへちまがぶらり
―四方のたより― ご帰還
先週来トラブルの PC が修理を終え、ご帰還あそばした。
修理報告書に曰く、マザーボードとパワーサプライを交換した、と。
今夏の暑熱地獄ではかなくも炎上?したものとみえる。
保証期間を 2 年としていたからよかったものの、でなければ 2、3 万円を請求される憂き目をみたことだろう。
使用者としては、マシンのデリカシーというものにもう少し気を配れないといけないのだが、なかなか‥。
―表象の森― <日暦詩句>-43
「大儀」
山之口獏
- 15 躓いたら転んでゐたいのである
する話も咽喉の都合で話してゐたいのである
また、
久し振りの友人でも短か振りの友人でも誰とでも
逢へば直ぐに、
さよならを先に言ふてゐたいのである
すべて、
おもふだけですませて、頭からふとんを被つて沈殿してゐたいのである
言ひかへると、
空でも被つて、側には海でもひろげて置いて、人生か何かを尻に敷いて、膝頭を抱いて
その上に顎をのせて背中をまるめてゐたいのである。
-「山之口獏詩文集」講談社文芸文庫より
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-230
8 月 27 日、樹明居。
晴、残暑のきびしさ、退去のみじめさ。
百日の滞在が倦怠となつただけだ、生きることのむつかしさを今更のやうに教へられただけだ。、世間といふものが
どんなに意地悪いかを如実に見せつけられただけだつた、とにかく、事ここに到つては万事休す、去る外ない。
けふはおわかれのへちまがぶらり –留別これは無論、私の作、次の句は玉泉老人から、
道芝もうなだれてゐる今朝の露
正さん-宿の次男坊-がいろいろと心配してくれる-彼も酒好きの酒飲みだから-、私の立場なり心持なりが多少解るのだ、
荷造りして駅まで持つて来てくれた、50 銭玉一つを煙草代として無理に握らせる、私としても川棚で好意を持つた
のは彼と真道さんだけ。
午後 2 時 47 分、川棚温泉よ、左様なら!
川棚温泉のよいところも、わるいところも味はつた、川棚の人間が「狡猾な田舎者」であることも知つた。
山もよい、温泉もわるくないけれど、人間がいけない!
立つ鳥は跡を濁さないといふ、来た時よりも去る時がむつかしい-生れるよりも死ぬる方がむつかしいやうに-、幸に
して、私は跡を濁さなかつたつもりだ、むしろ、来た時の濁りを澄ませて去つたやうだ。
T 惣代を通して、地代として、金壱円だけ妙青寺へ寄附した-賃貸借地料としてはお互いに困るから-。
ふるさとちかい空から煤ふる –再録この土のすゞしい風にうつりきて –小郡小郡へ着いたのが 7 時前、樹明居へは遠慮して安宿に泊る、呂竹さんに頼んで樹明兄に私の来訪を知らせて貰ふ、樹
明兄さつそく来て下さる、いつしよに冬村居の青年会へ行く、雑談しばらく、それからとうとう樹明居の厄介になつ
た。
Photo/北の旅-2000 ㎞から―小樽のガラス市で-’11.07.29
20110826
いつも一人で赤とんぼ
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-229
8 月 26 日、川棚温泉、木下旅館
- 16 秋高し、山桔梗二株活けた、女郎花一本と共に。
いよいよ決心した、私は文字通りに足元から鳥が飛び立つやうに、川棚をひきあげるのだ、さうするより外ないから。
‥‥
形勢急転、疳癪破裂、即時出立、-といつたやうな語句しか使へない。
其中庵遂に流産、しかしそれは川棚に於ける其中庵の流産だ、庵居の地は川棚に限らない、人間至るところ山あり水
あり、どこにでもあるのだ、私の其中庵は!
ヒトモジ一把一銭、うまかつた、憂鬱を和げてくれた、それは流転の香味のやうでもあつたが。
精霊とんぼがとんでゐる、彼等はまことに秋のお使いである。
今夜もう一夜だけ滞在することにする、湯にも酒にも、また人にも-彼氏に彼女に-名残を惜しまうとするのであるか。
‥‥
※表題句のみ記す
Photo/北の旅-2000 ㎞から―旭山動物園-’11.07.29
20110825
一人となればつくつくぼうし
―表象の森― 感覚と脳と心と
人間の知覚システムの研究が進むに従って、知覚と実在の関係そのものが変わってきた。色や味や音や匂いは、人間
の脳が処理して初めて「存在」するからだ。物質の塊があってそこから揮発する分子があったからといって、「匂い
が存在する」とはいえないし、空気や地面が震動するからといって「音が存在する」とももういえない。匂いも音も、
色も味も、知覚する人間の存在と無関係に存在するという考え方は、たとえ自然に思えても実は正しくない。たとえ
ばバラの花を見る人間は、素朴には、バラによい香りがついていて、美しい色がついていると思うが、実はバラの香
りも色も、人間の知覚器官と脳の働きを離れて外界に「実在」するものではない。それは、たとえ人がバラの棘に指
を指されれば「痛い」と感じるとしても、「痛み」がバラの棘の中に内在しているわけではないのと同じことである。
また、匂いや音や痛みを認識したとしても、それをどのように受け止めるかという主観的内容までは説明できない。
見神者による神の存在の知覚と認識についても同じだ。人によって「何かが存在する」ことは、物理的刺激を人間の
感覚受容細胞が生体の電気信号に変換したものを通じてキャッチされるわけであるが、たとえそのように「神」をキ
ャッチしても、そのクオリア-実感-の量的質的な計測は不可能である。実際、脳科学が発達したといっても、たとえ
ば「心」がどのようなものかは、科学の言葉によって表現できていない。脳の活動は心の生成の「必要条件」ではあ
るが、「十分条件」であるかどうかについては、証拠もなければ理論もない。
世界を分節して法則を発見し単純化しようとした科学は、発展するに従って、世界が決して単純なハーモニーやシン
プルな秩序で構成されているわけではないことを明らかにした。科学の対象は、全体から分けられて切り出されるも
のではなく、常にさまざまな要素が複合的に作用しあう「複雑系」の世界にあるのだ。それでも、この世界を解明し
ていくには、科学研究の鉄則として、正しいタイミングで正しい問題に取り組み、その問題を正しいレベルに設定し
て問うということが要求される。
-竹下節子「無神論」-P255-「素朴実在主義と神の存在の問い」より
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-228
8 月 25 日、朝の散歩、そして朝の対酌、いいですね!
彼は帰る、私に小遣までくれて帰る、逢へば別れるのだ、逢うてうれしや別れのつらさだ、早く、一刻も早く、奥さ
んのふところに、子供の手にかへれ。-略残暑といふものを知つた、いや味つた。
- 17 「アキアツクケツアンノカネヲマツ」
-秋暑く結庵の金を待つ- 緑平老へ電報
夕方、S 氏を訪ねる、これで三回も足を運んだのである、そして土地の借入の保証を懇願したのである、そしてまた
拒絶を戴いたのである、彼は世間慣れがしてゐるだけに、言葉も態度も堂に入つてゐる、かういふ人と対座対談して
ゐると、いかに私といふ人間が、世間人として練れてゐないかがよく解る、無理矢理に押しつけるわけに行かないか
ら、失望と反抗とを持つて戻つた。
夜、K さんに前後左右の事情を話して、此場合何か便法はあるまいかと相談したけれど乗つてくれない-彼も亦、一種
の変屈人である-。
茶碗酒を二三杯ひつかけて寝た。
※表題句の外、1 句を記す
Photo/北の旅-2000 ㎞から―層雲峡・銀河の滝-’11.07.28
20110824
家をめぐる青田風よう出来てゐる
―表象の森― <日暦詩句>-42
「崖」
石垣りん
戦争の終り、
サイパン島の崖の上から
次々に身を投げた女たち。
美徳やら義理やら体裁やら
何やら。
火だの男だのに追いつめられて。
とばなければならないからとびこんだ。
ゆき場のないゆき場所。
(崖はいつも女をまっさかさまにする)
それがねえ
まだ一人も海にとどかないのだ。
十五年もたつというのに
どうしたんだろう。
あの、
女。
-茨木のり子「言の葉Ⅱ」より-石垣りん詩集「表札など」-S43 年刊―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-226
8 月 23 日、何となく穏やかでない天候だつたが、それが此頃としては当然だが、私は落ちついて読書した。
旅がなつかしくもある、秋風が吹きはじめると、風狂の心、片雲の思が起つてくる、‥しかし、私は落ちついてゐる、
もう落ちついてもよい年である。
此句は悪くないと思ふが、どうか知ら。
- 18 -
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-227
8 月 24 日、晴れてきた、うれしい電話がかかつてきた、-いよいよ敬坊が今日やつてくるといふのである、駅まで
出迎に行く、一時間がとても長かつた、やあ、やあ、やあ、やあ、そして。――
友はなつかしい、旧友はとてもなつかしい、飲んだ、話した、酒もかういふ酒がほんとうにうまいのである。
※表題句のみ記す
Photo/北の旅-2000 ㎞から―網走の監獄博物館-’11.07.28
20110822
逢うて別れる月が出た
―表象の森― 金子光晴 Memo
「おれは六十で
君は、十六だが、
それでも、君は
おれのお母さん。
‥‥‥‥‥‥‥ 」 -光晴「愛情 2」
金子光晴を語ろうとすることが、われにもあらず、なぜ日本男性攻撃へと傾くのだろうか? このたびの、これは一
つの発見だ。-茨木のり子
「男とつきあわない女は色褪せる
女とつきあわない男は馬鹿になる」-チェホフ
「大統領と娼婦とは本来同じ値打だ」-ホイットマン
「金子さんほど歩き廻る日本人は見たことがない」-魯迅
「堕っこちることは向上なんだ」-光晴「人非人伝」
「僕が死んだら、よく考えてみて下さい」-光晴
-茨木のり子「言の葉2」より
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-225
今日も家の事で胸いつぱいだ、売家が二つ三つある、その一つが都合よければ、其中庵も案外早く、そして安く出来
るだらう、うれしいことである。
※表題句のみ記す
Photo/北の旅-2000 ㎞から―カムイワッカの湯の滝-’11.07.27
20110821
星あかりをあふれくる水をすくふ
―四方のたより― 丸一年で PC ダウン
私が日ごろ主に使ってきた PC は、DELL 製品の Inspiron Desktop 580S、いわゆるスリム型というやつ。
昨年 8 月上旬に購入したものだから、ちょうど 1 年経ったばかりというのに、あろうことかこ奴、一週間ばかり前に
突然ダウンした。起動してもプログラム修復の画面が立ち上がるだけで、以後は空回りするだけ、ON と OFF を数秒
ごとに繰り返すのみ。BIOS 画面へも移れないし、リカバリ DISK もまったく受けつけないという始末。
そんな訳で、この 1 週間は、予備にある ASUS の Eee Box の世話になっているのだが、此方のほうはメモリが 2GB
で、処理速度が少々遅いので、ちょいと焦れ気味に作業をしている。
- 19 DELL のカスタマーサービスには、なかなか繋がりにくいのだが、19 日の深夜になってやっと繋がった。保証期間が
2 年なので、さしあたり引取修理の運びとなったが、なお 10 日間くらいは、不便ながらこのままいくしかないだろ
う。
―表象の森― 壁は厚く高く‥
今日はいつもの稽古を早めに切り上げて、まこと久しぶりに大宮の「芸創」に足を運んだ。JUNKO も AYA も一緒だ。
「息吹の生まれるところ」と題されたダンス公演。
主催は森洋子という若手だが、彼女の師にあたる中川薫と、近大で神澤の薫陶を受けた村上和司が、この新人をサポ
ートしている。
出演も 3 人、Solo 三題と Duo ひとつ。実時間なら 40 分ほどか。
参ったのは音の選曲、どれも hard で重たい。
創作舞踊というものの骨法が、Dancer たちの主観的なやや観念過剰ともみえる呪縛のなかで、古色蒼然とした世界
をしか現出しえぬものと見えてくるとしたら、それは方法論の瑕疵ではなく、表現主体の側の問題だ。
主題性やイメージに必要以上に拘泥するまえに、まずは身体や動きの過剰なまでの奔出を望みたいものだが‥、なか
なかそうはいかないのです。
会場で出会した、懐かしい顔ふたつ-I 女と F 女。
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-224
8 月 21 日、ほんとうに秋だ、なによりも肌ざわりの秋。
正さん-此宿の二男-と飲んだ、お嫁さんのお酌で、気持よく飲みあつた、ちと新課程を妨げなかつたでもないらしい。
売家があるといふので問合にいつた。
※表題句は 8 月 1 日付の句
Photo/北の旅-2000 ㎞から―知床半島の主峰、羅臼岳-’11.07.27
20100820
うぶすなの宮はお祭のかざり
―表象の森― <日暦詩句>-41
「他人の空」
飯島耕一
鳥たちが帰つて来た。
地の黒い割れ目をついばんだ。
見慣れない屋根の上を
上つたり下つたりした。
それは途方に暮れているように見えた。
空は石を食つたように頭をかかえている。
物思いにふけつている。
もう流れ出すこともなかつたので、
血は空に
他人のようにめぐつている。
<すべての戦いのおわり Ⅰ>
-飯島耕一詩集「他人の空」-S28-より
- 20 -
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-223
8 月 20 日、やつと心機一転、秋空一碧。
初めてつくつくぼうしをきいた、つくつくぼうし、つくつくぼうし、こひしいなあ。
いよいよ身心一新だ、くよくよするな、けちけちするな、ただひとすぢをすすめ。
※表題句は 8 月 4 日付の句
Photo/北の旅-2000 ㎞から―長大な砂嘴、野付半島-’11.07.27
20110819
ふるさとの空の旗がはたはた
―四方のたより― 橋下知事のいかがわしさ
どうも夏バテのようだ、この二日、寝ると爆睡といった調子だし、起きても身体が怠いし重い。
ところで、橋下知事が WTC への府庁舎移転を断念した、のニュースが朝から躍っている。
3.11 の東北大地震の際、震度 3 で思わぬ被害を出した WTC であってみれば、本来この時点で断を下すべきだったに
もかかわらず、これまで頑なに拘泥しつづけた挙げ句、今に到っての断念は笑止千万というしかない。
この男の饒舌、上滑りのお調子乗りにすぎないことは、マスコミの寵児となっていた頃から明々白々のことだろうに、
堺屋太一なんぞが持ち上げるに及んで、圧倒的支持を得て知事にまでなってしまった。
そして今、知事・市長のダブル選を仕掛けるなか、これを目前にしつつ 180 度の政策転回=移転断念をするなら、その
反省の弁はどれほどの言を費やしても言い尽くせるものではないと思われるが、この男、多くを語らず、イケシャー
シャーとしてござる。
この期に及んでの断念は、救いがたい失政であり、政治生命が断たれるべきものである筈、と私などにはどうしても
映るのだが、マスコミはじめ府政周辺での反応がどうにも鈍いのはどうしたことか。
―表彰の森― 秋山巌の版画世界
「山頭火版画句集-版画家秋山巌の世界-」春陽堂刊-1575 円
山頭火の句を独自の世界へとさまざまに変奏した秋山巌氏の版画が計 100 作品掲載されている。氏の版画世界を知る
には格好の書であり、かつ廉価版なのがうれしい。
あとがきで氏は、「長い生涯の中で、私は二人の師と出会った」といい、その一人は棟方志功であり、もう一人は山
頭火であった、と綴られている。
志功師の口癖にも似た「化けものを観ろ、化けものを出せ」の言が、後年、山頭火の句との出会いによって交錯、火
花散らすことになったのであろう。このあたりの創造の契機というものは、よくわかるような気がする。本来関わり
のない、結びつく筈のない二つのものが、氏の内部で突然結ばれる。氏にとって<山頭火の句=化けもの>は電撃的な
閃きであったのだろう。以来、氏は、氏の<化けもの>を顕わにせんと、山頭火の句を板に彫りつづけ、今日に到る。
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-222
8 月 19 日、何事も因縁時節、いらいらせずに、ぢつとして待つてをれ、さうするより外ない私ではないか。
入浴、剃髪、しんみりとした気持になつて隣室の話を聞く、ああ母性愛、母といふものがどんなに子というものを愛
するかを実証する話だ、彼等-一人の母と三人の子と-は動物に近いほどの愛着を体感しつつあるのだ。‥‥
父としての私は、ああ、私は一度でも父らしく振舞つたことがあるか、私はほんとうにすまなく思ふ、私はすまない、
すまないと思ひつつ、もう一生を終わらうとしてゐるのだ。‥‥
※表題句は 8 月 4 日付の句
- 21 Photo/北の旅-2000 ㎞から―神秘的な水面の摩周湖-2-’11.07.27
20110818
けさも青垣一つ落ちてゐて
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-221
8 月 18 日、近来にない動揺であり、そしてそれだけ深い反省だつた、生死、生死、生死、生死と転々とした。
アルコールよりもカルチモンへ、どうやらかういふやうに転向しつつあるやうである、気分の上でなしに、肉体に於
て。
待つ物来らず、ほんとうに緑平老に対してすまない、誰に対してもすまない。
※表題句は 8 月 16 日付の句
Photo/北の旅-2000 ㎞から―神秘的な水面の摩周湖-’11.07.27
20110817
あてもない空からころげてきた木の実
―表彰の森― 聖職者ジャン・メリエの悲劇
ジャン・メリエ-1644~1729-、フランス北東部アルデンヌ地方の寒村で、一介の司祭としてなんの波風もなく 40 年間
の長きを務めあげた彼は、その陰で「すべての宗教は誤謬とまやかしとペテンにすぎない」といった驚くべき文書を
営々と綴っていた。神々と宗教の虚妄なることを論証したこの遺言の書というべきこの手稿は、全 8 章からなる長大
なもので、その死後、彼が属した教区裁判所の文書課に託されたのだが、非合法の地下文書として秘かに流布してい
く。早くも 1730 年代にはその写本をヴォルテールの知るところとなり、後-‘61-2 年-に、彼によってその抜粋「ジャ
ン・メリエの見解抜粋」が秘密出版され、部分的ながらその思想が知られるようになっていく。
全 8 章の章立ては以下の如く-
1. 宗教は人間の発明である
2. 「盲目の信心」である信仰とは、誤りと幻想と詐欺の原理である
3. 「見神」や「啓示」と称されるものの誤謬
4. 旧約聖書における預言と称するものの虚栄と誤謬
5. キリスト教の教義と道徳の誤謬
6. キリスト教は権力者の悪習と暴政を許す
7. 「神々」の存在の虚偽
8. 霊性の概念と魂の不滅の虚偽
表面的にはあくまでも忠実なる神の僕として寒村の一司祭の役割を生きるしかなかった彼が、その陰で黙々と書き綴
った無神論或いは先駆的唯物論の書、その全訳書は「ジャン・メリエ遺言書-すべての神々と宗教は虚妄なることの
証明」として、’06 年に法政大学出版局から刊行されている。なんと 1365 頁の大部の書で、税込 31,500 円也だ。
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-220
8 月 17 日、やつぱりいけない、捨鉢気分で飲んだ、その酒の苦さ、そしてその酔の下らなさ。
小郡から電話がかかる、J さんから、K さんから、-来る、来るといつて来なかつた。
.....
また飲む、かういう酒しか飲めないとは悲しい宿命である。
此句には多少の自身がある、それは断じて自惚れぢやない、あてもないに難がないことはあるまいけれど-あてもな
いは何処まで行く、何処へ行かう、何処へも行けないのに行かなければならない、といつたやうな複雑な意味を含ん
でゐるのである-。
- 22 ※表題句の外、句作なし
Photo/北の旅-2000 ㎞から―津別の森の散歩道-’11.07.27
20010816
虫が鳴く一人になりきつた
―四方のたより― ゲノム解析
私の読んでいるメルマガ「明快!森羅万象と百家万節の系譜」によると、ゲノム解析はめまぐるしく進み、そのコス
トは飛躍的に安価になってきているという。以下は 8/13 付のメルマガから-
「DNA を読み書きするためのコストは、この 10 年間で 100 万分の 1 になりました。そのスピードは、LSI 上のト
ランジスタ数が、時間経過とともに指数関数的に増加するという<ムーアの法則>を超えているそうです。
そのおかげで、たくさんの一般的な病気への「罹りやすさ」を決める遺伝子変異がすごい勢いで発見されています。
ただ、それぞれの遺伝子変異はご く限られた貢献度しかもっていないらしく、総合スコアで罹りやすさを計算しま
す。例外的には、病気の罹りやすさをほぼ決定する遺伝子変異(遺伝病の原因遺伝子)があります。
個人のゲノムを決めても現在では 100 万円ほど。ゲノム・データはマイクロ SD に入ります。あらゆる病気に対する
罹りやすさを計算することができるので、健康を維持するための注意をあらかじめ知ることができます。人間的な一
生を全うするための強力な武器となることでしょう。さらに、健康保険の費用を大幅に節約できるならば、健康保険
程度の費用で運営できるかもしれません。
個人ゲノムをベースにした健康管理システムを利用するには、たくさんの人がこのシステムを利用し、疫学データと
遺伝情報データを一定の期間、蓄積する必要があります。すなわち、個人のすべての病院名、受診結果、健康診断の
結果、投薬を記録する必要があります。データ管理のために、IC カードが保険証に組み込まれます。診療報酬のレセ
プトも含めてシステムに組み込めば、費用の節約になります。ドクターショッピングや過剰診療の防止に役立つこと
になります。」
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-219
8 月 16 日、いよいよ秋だ、友はまだ来てくれない、私はいわゆる「昏沈」の状態に陥りつつあるやうだ。
待つてゐる物が-それがなければ造庵にとりかかれない物が来ない。
今日もやつぱり待ちぼけだつたのか。
※表題句の外、1 句を記す
Photo/北の旅-2000 ㎞から―雄阿寒岳と阿寒湖-’11.07.26
20110815
ふるさとの蟹の鋏の赤いこと
―四方のたより― えっ、朝刊休み?
今日は終戦記念日だが、新聞大手五紙は休刊となっている。
はて、こんなことはこれまでにあったのだろうか? どうも記憶がないが‥、初めてじゃないのかしらん、とすると
少々問題だろう、なにも今日でなくとも、8 日でも 22 日でもよかったのじゃないか。
昨日早朝から、単身、車で出かけた。京都東から湖西道路を走り、敦賀へと抜け、越前海岸を北上、越前岬の少し向
こうまで。復路は、敦賀から若狭へと足を伸ばし、三方五湖を廻り、鯖街道を走り、湖西道路は渋滞とみて、琵琶湖
大橋を渡って、栗東から名神に上がった。U ターンラッシュで名神の渋滞を観念していたが、案に相違、スムーズに
- 23 流れて、午後 8 時半ほどに帰着できたのは幸い。延べ 500 ㎞余りの行程で、おまけに前夜は寝不足だったから、途上、
睡魔に襲われては小休止を繰り返したものだった。
と、日帰りの強行軍といった次第だったから、もうヘロヘロだった。とうとう今朝まで起き上がれなかったので、昨
日は言挙げできず。異例だが、山頭火の日記も昨日と今日、二日分を掲載しておく。
Photo/三方五湖を望む-‘110814
今日、15 日付の、山頭火の日記では、川棚での一向にはかどらない造庵の件に業を煮やしたか、絶叫にもひとしい
自棄気味の詞を連ねている。
「やつぱりムリがあるのだ、そのムリをとりのぞけば壊滅だ、あゝ、ムリか、ムリか、そのムリは私のすべてをつら
ぬいてながれてゐるのだ、造庵がムリなのぢやない、生存そのものがムリなのだ。」
私のひとり語りでも、この詞を挿入しているが、ご覧になった方にはご記憶があるかもしれない。
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-217
....
.....
8 月 14 日、朝から墨をすつて大筆をふりまはす、何といふまづい字だらう、まづいのはいい、何といふいやしい字
だらう。
うれしいこころがしづむ、晴れて曇る!
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-218
8 月 15 日、何といふ苦しい立場だらう、仏に対して、友に対して、私自身に対して。
やつぱりムリがあるのだ、そのムリをとりのぞけば壊滅だ、あゝ、ムリか、ムリか、そのムリは私のすべてをつらぬ
いてながれてゐるのだ、造庵がムリなのぢやない、生存そのものがムリなのだ。
茗荷の子を食べる、かなしいうまさだつた。
※この両日句作なし、表題句は 8 月 4 日の句。
Photo/北の旅-2000 ㎞から―釧路湿原-’11.07.26
20110813
夏草ふかく自動車乗りすてゝある夕陽
―四方のたより― 闘病、この残酷なるもの
妹の亭主殿、ようするに義弟だが、今年 64 歳の彼が、昨年 11 月末頃に肺癌を発症した。健康診断のレントゲンでひ
っかかり、精密検査をしたところ判明したわけだが、それより以前のほぼ 2 年間、彼は糖尿病の新薬である DU-176b
の治験をしていたという。見つかった癌の診断は小細胞型ですでに最悪のステージ 4 だった。
以後、今年の 6 月までに、抗癌剤の治療をほぼ毎月のように 6 回受け、7 月になって今度は脳への転移-脳腫瘍-が見
つかった。時に歩行バランスが取れなくなったりして、ある日突然倒れ込むような発作が起こって、緊急入院した所
為で判明したのだった。彼にとっては最初の衝撃からさらに加えて第二の衝撃に見舞われたわけだが、入院直後に訪
ねた時の彼の様子たるや、正視するに耐えぬものがあった。
その後、一週間ほどのあいだか、脳部には放射線治療が施され、肺癌にはまた抗癌剤治療が施されたという。
それらの治療が功を奏したか、一応の小康状態を得て、一週間ほど前から退院して自宅療養していると聞いたので、
今夕、久しぶりに見舞いに行ってみた。
元々、身長 185 ㎝ほど、体重は 90 ㎏を越す巨躯の持ち主であったが、それが 60 ㎏余りにまで痩せて、腕も脚もこ
そげるように筋肉が落ち、関節裏は皺だらけになってしまっている。ところが本人はいたって元気そうに振る舞って
- 24 おり、いつになく饒舌すぎるほどによく喋るのである。妹と一人娘の二人を相手に、お互い歯に衣着せぬ悪態をつき
あっているのだ。
私は、この様子を見ながら、痛烈に思い到ったのだった-闘病というものの苛酷さ、残酷さに‥。
突然降りかかった最初の衝撃、手術のすべもない、もはや抗癌剤治療しか手段のない手遅れという事態に、遅かれ早
かれ否応もなく死と直面せざるをえないその事態に、彼の心はうち萎れていたはずだ。
ところが巨漢ゆえに体力は人並み以上に恵まれていたか、過度に負担のかかる度重なる抗癌剤治療にもよく耐え得て
きたのだろう。だからこそか、そして第二の衝撃、追い打ちをかけるように脳への転移が襲いかかった。これはもう
絶望以外のなにものでもない。神は我を見捨てたもう、だったろう。だから、彼はいま、開き直っている。死はすで
に約束されている。ならば生きられるだけを、生ききるしかない、そうはっきりと思い知ったのだろう。それが病者
と介抱者たち、家族三人の、悪態にも似た言いたい放題ぶりの姿なのだ。
そして、これが闘病というもの、その本質なのだ。
彼は、この 23 日、またも抗癌剤治療のため一週間ほどの入院をする、という。これで 8 回目か 9 回目の投与となる
筈だが‥、この是非についても熟慮が必要だろう。
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-216
8 月 13 日、空晴れ心晴れる、すべてが気持一つだ。
其中庵は建つ、-だが-私はやつぱり苦しい、苦しい、こんなに苦しんでも其中庵を建てたいのか、建てなければな
らないのか。―
※表題句の外、句作なし。
Photo/北の旅-2000 ㎞から―ノロッコ号の走る釧路湿原の駅-’11.07.26
20110812
ふるさとの水だ腹いつぱい
―四方のたより― KAORUKO 紙芝居板「北の旅」最終篇
「六日目 七月二九日」
宿のすぐそばに黒岳ロープウェイの乗り場があります。私たちもロープウェイに乗って、山に行き景色を見たり散歩を
しました。
層雲峡から旭川の旭山動物園までは一時間くらいで行きました。動物園は人、人、人がいっぱいそれにとても暑かった
けれどお母さんと一緒に、ペンギン、アザラシ、レッサーパンダ、チーター、キリンなどいっぱい見てまわりました。こ
こでは「もぐもぐタイム」といって、いろんな動物のエサやりを見せてくれるのですが、その時はどこも人がいっぱいで
、並んで待つのが大変でした。お父さんは「暑さにダウン」といって、途中から車の中で休んでいました。
動物園のそばにある中華のお店で昼食をとって、それからは小樽をめざしてまっしぐらです。高速の道央道に入ると
、スピードもどんどん上がります。四時前にはホテルにチェックインして、すぐ市内見物に出かけました。ちょうど「小
樽がらす市」というのがあって、いろんなガラスのお店が並んでいました。私はあるお店でマグネット作りを体験しまし
た。四センチの四角のガラス板に、色とりどりの小さな丸いのや三角のガラス玉を自由に並べてもようを作るのですが、
材料がいっぱいあって、あれかこれか迷っては、なかなか形が決まりません。おもしろいけれど意外とむずかしいもので
す。
それから町を歩いて、いくつかお店を見てまわりましたが、ホテルの夕食の時間が迫ってきて、ゆっくりできなかっ
たのはちょっと残念でした。
「七日目 七月三〇日」
- 25 朝早く起きたお父さんは、ひとり車で出かけ、小樽運河などを見てきたそうです。
お母さんと私は八時過ぎに起きましたが、そのときにはもうお父さんは帰りのしたくをしていました。朝のバイキングを
しっかりと食べて、ホテルを出たのは九時過ぎでした。
車は昨日通ってきた道央道を引き返します。飛行機の時間のこともあって、今日はどこへも立ち寄れません。車を返し
て空港に着いてから、お母さんといっしょに、いろんなお店を歩きながら、おみやげやお弁当を買いました。
飛行機は長いかっ走路を走って、勢いよく空へ飛び立ちました。高い空の飛行機の窓から北海道の景色が見えます。心
の中で私は「さよなら」とお別れを言いました。
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-215
8 月 12 日、曇、よいおしめりではあつた。
今朝の湯壺もよかつた、しづかで、あつくて、どんどん湯が流れて溢れてゐた、その中へ飛び込む、手足を伸ばす、
これこそ、優遊自適だつた。
緑平老から返信、それは珍品をもたらしたのである。
早速、小串町まで出かけて買物をする、両手にさげるほどの買物だ、曰く本、曰く線香、曰く下駄、曰く何、等、等、
等。
南無緑平老菩薩! 十万三世一切仏、諸尊菩薩摩訶薩、摩訶般若波羅蜜。
※この日句作なし、表題句は 8 月 4 日の句。
Photo/小串の駅舎-小串町は昭和 31 年豊浦町に編入された
Photo/机の上に盆の花-ぽんぽん菊
20110811
朝焼すゞしいラヂオ体操がはじまりました
―四方のたより― KAORUKO 紙芝居板「北の旅」その 3
「四日目 七月二七日」
宿を出たのは八時。曲がりくねった峠を越えると、屈斜路湖が見えてきました。湖を左に見ながらしばらく走って、摩
周湖の展望台に着きました。摩周湖は不思議な湖です。水面がちっとも波立たないで、静かに空の雲を映していて、湖を
見ているのか、空を見ているのか、わからなくなります。
神秘の湖にサヨナラして、次に向かったのは野付半島です。一時間あまり走っていると、前の方に青い海がどんどん広
がってきました。お父さんが「オホーツク海だ」と言いました。どこまでも長くつづく野付半島は、砂しでできているそ
うです。砂しというのは、海から運ばれた砂や土が、何万年もかけてたまってできた、鳥のくちばしのような形の砂地で
す。
半島の途中にあるレストランで食事をしてから、いよいよ知床半島に向かいます。急にお父さんが眠たくなって、運
転をお母さんと代わりました。海に沿って走りつづけ、羅臼に着いたところで、眠気の取れたお父さんがまた運転をしま
した。
知床峠で見た羅臼岳は、山の頂上に雲が少しかかってはっきり見えませんでした。峠を越えて、今度は半島の奥へ奥へ
と進みます。細い山道をどんどん行くと、とうとう行き止まりになりました。そこがカムイワッカの滝でした。裸足にな
って、お母さんといっしょに、温かいお湯が流れる滝をそろりそろりと登って行きました。すると滝つぼのように広くな
ったところに出ましたが、そこでは泳いだりして遊んでいる人が何人もいました。
今度は道を引き返して、知床五湖へ行きました。鹿を何度も見かけました。小さな子鹿がおいしそうに草を食べていま
した。親子づれの鹿も見かけましたが、見つけるたびワクワクドキドキしました。
そのあと宿の岩尾別温泉に行きましたが、それは知床五湖からすぐのところでした。
- 26 -
「五日目 七月二八日」
遊覧船で半島めぐりをしようと、朝早くから出発して、ウトロの港に行きました。黄色い救命具を着て、小さい船に乗
りました。めずらしい岩や小さな滝を見ながら、船はカムイワッカの滝のところまで行って、もどってきました。
それから海にそって北へ北へと走り、網走まで行き、監獄博物館を見学しました。たくさんのマネキンで監獄の様子を
表わしているのが、とても気持ち悪かったです。
お昼は能取湖のレイクサイドパークで食べ、それからまた北に向かって走り、サロマ湖の展望台に上がりました。広い
サロマ湖のその向こうにオホーツク海が広がって、水平線が見えました。
今度は西へ西へと走ります。山と山の間を通りぬけ、長くてけわしい峠を越えると、そこは二つの大きな滝がある層雲
峡でした。勢いよくまっすぐに落ちる流星の滝、途中で岩にさえぎられて「く」の字に曲がって落ちてくるのが銀河の滝
です。
そこから宿の朝陽亭まではすぐでした。夕食のあと、ロビーで花火を見て、それからビンゴゲーム大会に、私たちも参
加して楽しみました。
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-214
8 月 11 日、コドモ朝起会の掃除日ださうで、まだ明けきらないうちから騒々しい、やがてラヂオ体操がはじまる、
いやはや賑やかな事であります。
何となく穏やかならぬ天候である、颱風来の警報もうなづかれる、だが其中庵は大丈夫だよ。
若い蟷螂が頭にとまつた、カマキリ、カマキリ、ウラワカイカマキリに一句デヂケートしようか。
宿のおばさんが「あかざ」の葉をむしてゐる、あかざとはめづらしい、そのおひたし一皿いただきたい。
今日此頃は水瓜シーズンだ、川棚水瓜は名物で、名物だけの美味をもつてゐるさうだが-私は水瓜だけでなく、あま
り水菓子を食べないから、その味はひが解らない-。
.....
1 貫 12 銭、肥料代がとれないといふ、現代は自然的産物が安すぎる。
刈萱を活けた、何といふ刈萱のよろしさ!
今日は暑かつた、吹く風が暑かつた、しかし、どんなに暑くても私は夏の礼讃者だ、浴衣一枚、裸体と裸体のしたし
さは夏が、夏のみが与へる恩恵だ。
※表題句の外、1 句を記す。
Photo/北の旅-2000 ㎞から―TV「北の国から」の五郞の石の家-’11.07.25
20110810
去る音の夜がふかい
―四方のたより― KAORUKO 紙芝居板「北の旅」その 2
「二日目 七月二五日
朝食の後、すぐに出発して、一時間くらい走ったら、支笏湖のそばにある苔の洞門に着きました。苔だらけの大きな岩
がいっぱいでびっくりしました。案内のおじさんが三人の写真を撮ってくれました。
それから湖のそばを走って、峠の山道を越えて、札幌へ向かいました。時計台に着いたのはもう十二時ごろでした。平日
なのに観光の人が次々と来ていました。私たちは時計台のそばのお店に入って昼食にしました。私はまたマグロとサーモ
ンのお寿司を食べました。
それからまた車で移動です。二時間あまりかかって、やっと富良野に着きました。
ファーム富田に行って、広いお花畑の中を歩きました。紫、黄、赤、白、いろんな花がいっぱい咲いていました。
- 27 それから五郎の家にも行きました。富良野演劇工場にも寄ってみました。宿のノースカントリーに着いたのは六時半ごろ
でした。
「三日目 七月二六日」
富良野の宿を出たのは八時。今日のはじめの目的地は釧路湿原で、その距離は二七〇㎞もあります。高速の道東道を走
りましたが、十勝平野は見わたすかぎり緑の畑と牧草地で、建物が一つも見えませんでした。
やっと釧路湿原駅に着いたのは、もう十二時をすぎていました。車を降りて森の小道を歩くと、アブやヤブカの虫が次
から次とおそってきて、はらいのけるのに大変でした。
今度は湿原の道路を走って、丘の上の展望台の方へ行きました。湿原というのは、草原が広がっている湿ったところ
だそうです。釧路湿原は、ものすごく広くて、展望台から見てもずっと草原がつづいていました。その後下のレストラン
でやっとお昼を食べました。
それからまた車で走って阿寒湖に行きました。阿寒湖では、白鳥の足こぎボートに乗りました。お母さんといっしょで
したが、三十分こぎつづけるのは、とてもしんどかったです。でもすごく楽しかった!
そしてまたどんどん車を走らせて、奥屈斜路温泉の森つべつの宿に着いたのは六時ごろでした。ランプの宿という名が
ついていて、そのロビーは、いろんな電灯で、とてもやさしいふんいきでした。
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-213
8 月 10 日、晴れて、さらさら風がふく、夏から秋へ、それは敏感なルンペンの最も早く最も強く感じるところだ。
昨日今日、明日も徴兵検査で、近接の村落から壮丁が多数やつて来てゐる、朝湯などは満員で、とてもはいれなかつ
た。
妙青寺の山門には「小倉連隊徴兵署」といふ大きな木札がかけてある、そこは老松の涼しいところ、不許葷酒入山門
といふ石標の立つところ、石段を昇降する若人に対して、感謝と尊敬とを捧げる。-略S からの手紙は私を不快にした、それが不純なものでないことは、少なくとも彼女の心に悪意のない事はよく解つて
ゐるけれど、読んで愉快ではなかつた、男の心は女には、殊に彼女のやうな女には酌み取れないらしい、是非もない
といへばそれまでだけれど、何となく寂しく悲しくなる。
それやこれやで、野を歩きまはつた、歩きまはつてゐるうちに気持が軽くなつた、桔梗一株を見つけて折つて戻つた、
花こそいい迷惑だつた!
夕の散歩をする、狭い街はどこも青年の群だ、老人の侵入を許さなかつた。
真夜中、妙な男に敲き起された、バクチにまけたとか何とかいって泊めてくれといふ、無論、宿では泊めなかった、
その時の一句が前記の最後の句-表題句-である。
※表題句の外、3 句を記す。
Photo/北の旅-2000 ㎞から―中富良野町の富田フアーム-’11.07.25
20110809
炎天の電柱をたてようとする二三人
―四方のたより― KAORUKO、奮闘中
KAORUKO の学校の、夏休みの自由作品に、紙芝居風に「北の旅」のアルバムを作ろうと、本人はもちろんだが、親
父殿-私のことだ-も一緒に、只今奮闘中である。
題して「2011 夏、北海道 2000 ㎞の旅」」、作品は四切り画用紙 8 枚の大作?
今日はとりあえずその内の、初めの 2 枚をご披露。
- 28 この夏休みは、お父さんと、お母さんと、私と、三人で、「北海道に行く」というのが一番の楽しみでした。
7 月 24 日の朝早くから、それぞれの大きなバッグを持って、北海道に出発しました。帰ってきたのは、30 日の夕方、午後
四時ごろでした。
ちょうどまる一週間、北海道の広い大地を、西から東、南から北へと、レンタカーの車で走り回ったような、めまぐるし
い旅でしたが、その一日一日の記録を、思い出の写真で このようにまとめてみました。
題はお父さんが考えてくれ、「2011 夏、北海道 2000 ㎞の旅」と名付けました。
「1 日目 7 月 24 日」
函館空港について、車をかりて、一番はじめにトラピスチヌ修道院にいきました。次に函館朝市にいって、お昼ごはん
にしました。私はお寿司を食べました。
その後に五稜郭タワーに行きました。エレベータで、一番上まで行って、大きな星の形をした五稜郭を見ました。マスコ
ットのGO太くんと写真もとりました。そのあと広い五稜郭の中を散歩しました。
それから車に乗って、大沼湖まで行きました。きれいな湖でした。それからずっと二時間くらい走って、洞爺湖に着きま
したが、私は疲れてぐっすり寝ていました。
宿のペンションおおのに着いたのは六時過ぎでした。お母さんと一緒に温泉のお風呂に入って、それから三人で夕食をし
たあと、洞爺湖の遊覧船に乗って、花火を見ました。
グーの花火やチョキの花火など変わったのもあって、とても楽しかったです。
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-212
8 月 9 日、朝湯のきれいなのに驚かされた、澄んで、澄んで、そして溢れて、溢れてゐる、浴びること、飲むこと、
喜ぶこと!
野を歩いて持つて帰つたのは、撫子と女郎花と刈萱。
夜、掾に茶托を持ちだして、隣室のお客さんと一杯やる、客はうるさい、子供のやうに。-後記よいお天気だつた、よすぎるほどの。
ああ、ああ、うるさい、うるさい、こんなにしてまで私は庵居しなければならないのか、人はみんなさうだけれど。
独身者は、誰でもさうだが、旅から戻つてきた時、最も孤独を体験する、出かけた時のままの物すべてが、そのまま
である、壺の花は枯れても机は動いてゐない、ただ、さうだ、ただ、そのままのものに雪がふつてゐる、だ。
当分、酒は飲まないつもりだつたが、何となく憂鬱になるし、新シヨウガのよいのが見つかつたので、宿のおばさん
に頼んで、一升とってもらつた、ちようど隣室のお客さんもやつてこられたので、だいぶ飲んで話した、‥ふと眼が
さめたら、いつのまにやら、自分の寝床に寝てゐる自分だつた。
※表題句の外、句作なし。
Photo/北の旅-2000 ㎞から―透明度も高く、最深 363m の支笏湖-’11.07.25
20110808
秋草や、ふるさとちかうきて住めば
―表象の森―
<日暦詩句>-40
「卵」
吉岡実
神も不在の時
いきているものの影もなく
死の臭いものぼらぬ
- 29 深い虚脱の夏の正午
密集した圏内から
雲のごときものを引き裂き
粘質のものを氾濫させ
森閑とした場所に
うまれたものがある
ひとつの生を暗示したものがある
塵と光りにみがかれた
一個の卵が大地を占めている
-吉岡実詩集「静物」-昭和 30 年-より
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-211
8 月 8 日、川棚温泉、木下旅館。
立秋、雲のない大空から涼しい風がふきおろす。
秋立つ夜の月-7 日の下弦-もよかつた。
5、6 日見ないうちに、棚の糸瓜がぐんぐん伸んて、もうぶらさがつてゐる、糸瓜ういやつ、横着だぞ!
バラツク売家を見にゆく、其中庵にはよすぎるやうだが、安ければ一石二鳥だ。
今日はめづらしく一句もなかつたが、それでよろしい。
※表題句は 8 月 7 日の句
Photo/北の旅-2000 ㎞から―苔の洞門-’11.07.25
20110807
秋めいた雲の、ちぎれ雲の
―表象の森― 一抹の違和
「マロニエの花が言った-下巻-」やっと読了。
その終りはやや唐突気味に幕を下ろした感があるが、それにしても愉しくも長い旅路だったように思う。
この詩と散文と批評の壮大な織物が書き起こされたのは 1989 年、月刊誌「新潮」の 1 月号からだった。その後、95
年 7 月から数年の中断を挟みつつも、98 年 5 月号に一挙に 480 枚を上梓し完結編とされた、という。
読後、ふっと心に湧いた小さな疑念がある。それは下巻全体のかなりを占める金子光晴に関する部分においては、藤
田嗣治や岡鹿之助、あるいはブルトンらのシュルレアリストたちに触れた他の部分に比して、なんとなく滞留感とい
うか一抹の重さのようなものがつきまとう、そんな気がする。その因は光晴という素材の資質によるものか、あるい
はパリにおける嗣治と光晴の、実際の接点があったのには違いなかろうが、他の登場人物たちに比して、その関わり
の稀薄さといったものにあるのかもしれない。さらにいえば光晴と三千代のパリ滞在の暮らしぶりやパリ在住の日本
人やパリ人たちとの交流ぶりに、資料不足だったのか、嗣治や鹿之助ほどの詳細な活写が乏しいように覗われ、些か
精彩を欠いたかのように思われる。
先に挙げた、95 年 7 月の連載中断を挟んで、98 年 5 月に 480 枚を一挙に掲載して完としたという事情も、このあた
りの問題が加味していたのではないか。480 枚に相当する部分が終盤の 4 章「二人の詩人の奇妙な出会い」「『パリ
の屋根の下』をめぐって」「日本人の画家さまざま」「あとどれほどの夏」にあたるとすれば、そんな小さな瑕疵も
止むを得なかったのかと、なんだか腑に落ちてくる気もする。
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-210
- 30 8 月 7 日、まだ雨模様である、我儘な人間はぼつぼつ不平をこぼしはじめた。
此宿の老主人が一句を示す。―
蠅たゝきに蠅がとまる
山頭火、先輩ぶつて曰く。―
蠅たゝき、蠅がきてとまる
しかし、作者の人生觀といつたやうなものが意識的に現はれてゐて、危険な句ですね、類句もあるやうですね、しか
し、作者としては面白い句ですね、云々。
動く、秋意動く-ルンペンは季節のうつりかはりに敏感である、春を冬を最も早く最も強く知るのは彼等だ-。
山に野に、萩、桔梗、撫子、もう女郎花、刈萱、名もない草の花。
焼酎一杯あほつたせいか、下痢で弱つた、自業自得だ。
※表題句の外、2 句を記す
Photo/北の旅-2000 ㎞から―一日目の宿、壮瞥温泉のペンションおおの-’11.07.24
20110806
すずしく自分の寝床で寝てゐる
―四方のたより― 季節が移りつつ‥
夕食の後、ベランダに出て煙草を一服。かすかな涼風が心地よい。西南の空には八日の月か、右から左から盆踊りの
唄が競うように聴こえてくる。この頃になると過ぎゆく夏を感じて、なんだか和やかな気に満たされてくるような、
そんな落ち着いた気分になれるものだ。
―表象の森― 岡鹿之助の「積雪」1935 年
画面の中景において右の方から現われた小川は、その真中を下方に向かって縦に流れ、前景にある橋をくぐってまた
右に消えて行く。小川の両側には人家がばらばらに立ち、樹木も少しある。遠景には丘や樹木が見える。そのような
眺めの全体に降りやんだ雪がたっぷり残って、まったくの積雪の景色であり、遠くの空だけが青い。-この油彩につ
いて、鹿之助は後年次のように書く。
「雪の景色を描くつもりではなかった。
自分で拵えたキャンヴァスが、この時は大変に面白くできたので、その白い、少しザラザラした艶消しの面を出来る
だけ生かしたのものだと思った。雪の構図はそれから考えついた。白のなかに、ごく僅かな色でリズムやハーモニイ
をもって、一つの秩序をつくってみようと試みた。」
画家はふつうモチーフからマテイエールへと行くものだろうが、ここでその順序は逆だ。画面における好ましい白と
いうマティエールへの強い関心があり、ついで、それに対応する適切なモチーフとして、雪が過去の記憶のなかから
呼びだされているわけである。
これは極度に図式化された言いかただろうが、鹿之助の油彩の美学における一方の真実であるにちがいない。そして、
それは思いきり一方に傾いているために、鹿之助がもう一方において白に対し、なんらかの別の特に強い関心をもつ
という均衡の成立を暗示するものだろう。その均衡こそ、彼の芸術がめざす「静的な浄福」にも深くかかわるはずで
ある。
鹿之助が後年語っているところによれば、あらゆる色彩のなかで、彼にとっていちばん自分の言いたいことがいえる
もの、そんな風に基調として親しみやすく、なじみも多く、執着もあるものは褐色であるが、これに対し、いちばん
好きなものはほかならぬ白であり、「白の非情なあの美しさを出したい」と思っていたという。
そうなると、
「静的な浄福」を画面に実現することをめざす鹿之助が、あるときマティエールとしての白い油絵具を、
造形や構図のために雪という対象と広く結びつくかたちで深く望んだとすれば、それは同時に彼が、胸のなかの悲し
- 31 みや怒り、欲望や失望などを、そのまま秘めるかやがて消すかするために、きびしく抑制あるいは批判していたとい
うことだろう。
いいかえれば、「白の非情なあの美しさ」をかたどって降り積もった雪が、画面に浮かぶ具象でありながら一種抽象
に近い観照の表情として、画家のそのときの人生に似合わしかったということであるにちがいない。
-「マロニエの花が言った-下巻-」P506-554「日本人の画家さまざま」より
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-209
8 月 6 日、暁の雨は強かつた、明けても降つたり晴れたりで、とても椹野川へ鮒釣りに行けさうもないので、思ひ切
つてお暇乞する、ここでもまた樹明さんの厚意に涙ぐまされた、駅まで送つて貰つた。
何といろいろさまざまのお土産品を頂戴したことよ! 曰く茶卓、曰く短冊掛、曰く雨傘-しかも、それは其中庵の文
字入だ-、曰く何、曰く何、そして無論、切符から煙草まで、途中の小遣までも。
汽車と自動車だから世話はない、朝立つて昼過ぎにはもう宿にまひもどつた、一浴して一杯やつて、ごろりと寝た。
やつぱり、川棚の湯は私を最もよく落ちつかせてくれる、昨日、学校の廊下で籐椅子の上の昼寝もよかつたが、今日
の、自分の寝床でのごろ寝もよかつた。
朝湯と昼寝と晩酌とあれば人生百パアだ!
※表題句の外、1 句を記す
Photo/川棚の湯の神、青竜権現を祀る松尾神社
Photo/北の旅-2000 ㎞から―洞爺湖、晴朗ならば左側に羊蹄山が望める筈だが‥-’11.07.24
20110805
ふるさとの水だ腹いつぱい
―四方のたより― おみやげ?
どうせ一回こっきりの北の国への旅なれば、なにがしか記念になるものを購ってもよかろうと買い求めたのが写真の、
つがいの島梟とグラスたち。
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-208
8 月 5 日、曇、眼がさめるとまたビールだ、かうしたアルコールはいくらのんでもよろしからう。
名残は尽きないけれど、東路君は勤人、私は乞食坊主なので、再会を約して別れる。
8 時の列車で小郡へ。―
農学校に樹明さんを訪ねる、いつもかはらぬ温顔温情の持ち主である、ここでもまたビールだ、いかな私もビールよ
りも巻鮨の方がうまかった!
樹明さんの紹介で永兵さんに初相見した、私たちの道の同行に一人を加へられたことを喜ぶ。
防府で、小郡で、その他、山頭火後援会の会員が 10 口くらい出来たのは-いや出来るのは-うれしい。
学校として、農学校は好きだ、動物植物といつしよに学び、いつしよに働いてゐるから。
樹明居の一夜は一生忘れることの出来ない印象を刻みつけた、酒もよい、肴もよい、家も人も山も風もみんなよかつ
た、冬村君もよかつた、君のおみやげの梅酒もよかつた、ああよかつた、よかつた。
あんまり物みなよくて一句も出来なかつた。
※表題句は 8 月 4 日の句
国森樹明-じゅみょう-は本名信一(1897-1960)、層雲の同人で、山口農学校の事務長をしていた。
柳井市金屋地区に、白漆喰に入母屋土蔵造りで 18 世紀後半の建造とされる油問屋だった国森家住宅が、重要文化財
として今に残るが、樹明はこの国森家の縁戚に連なる人ではなかったか。
- 32 Photo/柳井市金屋の国森家住宅
Photo/北の旅-2000 ㎞から―洞爺湖遊覧船乗場の盆踊り風景-’11.07.24
20110804
お墓の、いくとせぶりの草をぬく
―表象の森― 光晴と貘、承前
1943 年ごろ、二人でよく戦争のさなかの東京の町を歩き、二人にしか通じない、そして他の人たちに喋ると危険な
ことを、まったき信頼のうちに語り合った。それは文壇、詩壇、政治、戦争などを思いきりこきおろし、その後が爽
快な気分となるものであった。。
1944 年 8 月、貘・静江夫妻と数ヶ月前に生まれた長女の泉という一家族が、吉祥寺の金子家に同居した。すでに戦局
は暗澹とし、空襲の多い東京から地方へ疎開する人たちが多かった。貘の一家は二ヶ月ほど同居したのち、12 月に
は静江の故郷である茨城県結城郡石下に疎開した。金子一家も 12 月に、山梨県南都留郡中野村平野に疎開した。
戦後の 1952 年 12 月、光晴は詩集「人間の悲劇」を出したが、そのなかに「山之口貘君に」という献呈の辞を添え
た短い詩を入れた。二人は喫茶店でよくコーヒーを飲みながら雑談したが、その多くの思い出をある一つの情景の幸
福感のなかに集中させようとしたような作品である。
-「マロニエの花が言った-下巻-」P178-228「恋情と友情」章より
<日暦詩句>-39
「山之口貘君に」
金子光晴詩集「人間の悲劇」より
二人がのんだコーヒ茶碗が
小さな卓のうへにのせきれない。
友と、僕とは
その卓にむかひあふ。
友も、僕も、しゃべらない
人生について、詩について、
もうさんざん話したあとだ。
しゃべることのつきせぬたのしさ。
夕だらうと夜更けだらうと
僕らは、一向かまはない。
友は壁の絵ビラをながめ
僕は旅のおもひにふける。
人が幸福とよべる時間は
こんなかんばしい空虚のことだ。
コーヒが肌から、シャツに
黄ろくしみでるといふ友は
「もう一杯づつ
熱いのをください」と
- 33 こっちをみてゐる娘さんに
二本の指を立ててみせた。
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-207
8 月 4 日、曇、どうやら風雨もおさまつたので、朝早く一杯いただいて出立、露の路を急いで展墓-有富家、そして種
田家-、石古祖墓地では私でも感慨無量の体だつた、何もかもなくなつたが、まだ墓石だけは残つてゐたのだ。
青い葉、黄色い花をそなへて読経、おぼえず涙を落した、何年ぶりの涙だつたらうか!
それから天満宮へ参拝する、ちょうど御誕辰祭だつた、天候険悪で人出がない、宮市はその名の示すやうにお天神様
によつて存在してゐるのである、みんなこぼしてゐた。
酒垂公園へ登つて瀧のちろちろ水を飲む、30 年ぶりの味はひだつた-おかげで被布を大枝にひつかけて裂いたが-。
故郷をよく知るものは故郷を離れた人ではあるまいか。
東呂君を訪ねあてる、旧友親友ほどうれしいものはない、カフエーで昼飯代りにビールをあほつた、夜は夜でおしろ
いくさい酒をしたたか頂戴した、積る話が話しても話しても話しきれない。
三田君にちよつと面接、ゆつくり話しあふことが出来なかつたのは残念だつた、またの機会を待たう。
※表題句の外、13 句を記す
Photo/防府天満宮の社殿
Photo/北の旅-2000 ㎞から―大沼湖-’11.07.24
20110803
松もあんなに大きうなつて蝉しぐれ
―表象の森― 光晴と貘
ひさしぶりに清岡卓行の「マロニエの花が言った-下巻-」を読み継いでいる。
上巻を読み終えたのはもう 3 年余り前、その折、次いで下巻に取りかかったものの、すぐ積読状態になって、そのま
ま年月ばかりが過ぎ去ってきたが、それでも鮮烈な印象はずっと脳裏に保持され続けていた。それほど私にとっては
類い稀な良書なのだろう。
下巻冒頭は、パリ国際大学都市で華々しい活躍を見せる日本人大富豪薩摩次郎八の登場に始まり、藤田嗣治・ユキ夫
妻の栄光の帰国エピソード、ブルトンらのシュルレアリスム内の対立抗争劇へと分け入っていく。
これらを序章として、いよいよ登場するのが詩人金子光晴だが、以後この巻の大部はほぼ光晴の詳密な評伝と化して
いくかと見えるのだが、とにかくおもしろい、実作者が実作者について肉薄し掘り下げていく作業というものは、ま
さに表象世界の内奥に迫って実に説得力ある像を結ばせてくれるものだ、とつくづく感じ入る。
妻の三千代を伴った放浪ともいうべき二度目の長いヨーロッパ旅行から帰国した光晴は、ほどなく 8 歳下の山之口漠
と初めて出会う。以後、貘の胃がん発症による’63-S38-年の死にいたるまでの 30 年を、光晴と貘は互いに恋情にも
ひとしい友情に生きたようである。
光晴は、貘の処女詩集「思弁の苑」の序文において、「日本のほんたうの詩は山之口のやうな人達からはじまる」と
題し、「貘君がもし、自殺したら、僕は、猫でも、鳥でも、なおほしてんたう虫でも自殺できるものであるといふ新
説を加へる」と書き、さらに「貘君によつて人は、生きることを訂正される。まづ、人間が動物であるといふ意味で
人間でなければならないといふ意味で人間でなければならないといふ、すばらしく寛大な原理にまでかへりつく」と
書いている。
<日暦詩句>-38
「生活の柄」
山之口貘詩集「思弁の苑」より
- 34 歩き疲れては、
夜空と陸との隙間にもぐり込んで寝たのである
草に埋もれて寝たのである
ところ構はず寝たのである
寝たのであるが
ねむれたのでもあつたのか!
このごろはねむれない
陸を敷いてはねむれない
夜空の下ではねむれない
揺り起こされてはねむれない
この生活の柄が夏むきなのか!
寝たかとおもふと冷気にからかはれて
秋は、浮浪人のままではねむれない。
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-206
8 月 3 日、風、雨、しみじみ話す、のびのびと飲む、ゆうゆうと読む-6 年ぶりにたづねきた伯母の家、妹の家だ!-。
風にそよぐ青竹を切つて線香入をこしらへた、無格好だけれど、好個の記念品たるを失はない。
..........
省みて疚しくない生活、いひかへればウソのない生活、あたたかく生きたい。
東京からまた子供がやつてきた、総勢 6 人、いや賑やかなこと、東京の子は朗らかで嬉しい、姉―彼等の祖母―が生
きてゐたら、どんなに喜ぶだらう!
風雨なので、そして引留められるので、墓参を明日に延ばして、さらに一夜の感興を加へた。
※表題句の外、2 句を記す
Photo/大道の種田酒造場廃墟跡の傍にあった酒店-’01.09.06
Photo/北の旅-2000 ㎞から―五稜郭に復元された箱館奉行所-’11.07.24
20110802
あかつきのどこかで何か搗いてゐる
―四方のたより― 山頭火ふるさと会のことなど
今日の「山頭火の一句」、その行乞記にあるごとく、この日、山頭火は大種田破産で故郷を追われる直接の因ともな
った種田酒造場のあった大道に、妹とその縁戚を訪れているのだが、この一事に因んでちょうど 10 年前に防府を訪
ねたことを思い出しつつ記しておこう。
Photo/山頭火の家業だった大道の種田酒造場廃墟の跡-‘01.09.06
Photo/第 10 回全国山頭火フォーラムの会場-’01.09.06
昭和 54-1979-年に発足したという「山頭火ふるさと会-全国山頭火の会-」の、年に一度の催しに私が初めて参加した
のは、といってもこれまでのところ後にも先にもこの折の一回こっきりなのだが、先述したように平成 13-2001-年の
秋、彼の出生地である防府開催のときで、その名も「第 10 回・全国山頭火フオーラム」と題されたものだった。
一泊二日のあわただしい旅に同行してくれたのはフリーカメラマンの山崎武敏君。4 歳下の彼は熊本出身で、実家は
代々黒田藩の御殿医だったという家柄で、彼自身も一旦は熊本大の医学部に進んだものの、なにしろ団塊世代のこと、
60 年代後半に吹き荒れた大学紛争に自らを投入していった挙げ句に、180 度ともいえるような転身をしていったのだ
ろう。
Photo/護国寺の山頭火墓所にて-’01.09.06
- 35 Photo/山頭火の生家跡にて-’01.09.06
そんな彼と同行二人よろしく、山頭火の墓所である護国寺や大道に残る種田酒造場の廃家跡、あるいは防府天満宮な
ど山頭火ゆかりの地を廻りつつ、フォーラムに顔を出し、またその二次会ともいえる懇親のパーティに出席したのだ
った。この席上、生前の山頭火と交わりのあった人々、一昨年 3 月に 97 歳の天寿を全うされた下関在住の俳人近木
圭之介翁や、1915 年生れの山口市在住で詩人の和田健翁とお会いしたのをはじめ、山頭火終焉の一草庵を世話した
高橋一洵の子息高橋正治氏、山頭火ふるさと会の会長富永鳩山氏ら、さらには版画家秋山巌氏とも面識を得、名刺を
交換したりしているのも懐かしい一齣だ。
Photo/和田健さんと名刺交換の図-’01.09.06
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-205
8 月 2 日、朝から酒-壁のつくろひは泥だといふがまつたくその通りだ-、宿酔が発散した。
11 時の汽車で大道へ、追憶の糸がほぐれてあれこれ、あれこれといそがしい。
7 年目ぶりに S 家の門をくぐる、東京からのお客さんも賑やかだつた、久しぶりに家庭的雰囲気につつまれる。
伯母、妹、甥、嫁さん、老主人、姪の子ら。‥‥
夕食では少し飲みすぎた、おしゃべりにならないやうにと妹が心配してゐる、どうせ私は下らない人間だから、下ら
なさを発揮するのがよいと思ふけれど。
酒は甘露、昨日の酒、今日の酒は甘露の甘露だつた、合掌献盃。
よい雨だが、足らない、降れ、降れ、しつかり降つてくれ。-略樹明兄が貸して下さつた「井月全集」を読む、よい本だつた、今までに読んでゐなければならない本だつた、井月の
墓は好きだ、書はほんとうにうまい。
石地蔵尊、その背景をなしてゐた老梅はもう枯れてしまつて花木が植ゑてある、ここも諸行無常を見る、一句手向け
よう。
※表題句の外、8 句を記す
Photo/同じく、大道の種田酒造場廃墟の跡-‘01.09.06
Photo/北の旅-2000 ㎞から―函館の五稜郭タワー-’11.07.24
20110801
逢へてよかつた岩からの風に
―四方のたより― 螺線館だより
一週間の北の旅に発つ二日前だったか、ベルリンを拠点に活動をつづける「螺線館」の嶋田三朗君から近況を知らせ
る便りがあった。
暑中お見舞い申し上げます ―2011 年 7 月 22 日
みなさまのご活躍とご健康をお祈りします。
2 月に上演した最新作「カフカ開国」は、西ベルリンにある 100 席の『ベルリン日独センター』で 6 回上演しました。
インターネットなどの情報で見つけてきたという人やカフカに興味があるという人々の合計 544 人の観客から、「綿
密なカフカの理解だ、表現がたくましい、多面的で、深く、オリジナルだ、、」等の批評がありました。
4 月 16 日に、映画「カリガリ博士」で知られる東ベルリンの『ブロートファブリック劇場』の 60 席のホールで「サ
ンチョ・パンサ」第一場を 2 回上演し、「アバンギャルドの洞察」等の意見があり、2 回とも満席でした。
4 月 30 日にベルリンの工場地域にある20席ほどの『ドドハウス劇場』での「旅をする裸の眼」第4章 The Hunger
の演劇的朗読公演で、「日本的アクセントのドイツ語の違和感を使うのではなく、演劇的に意図されたドイツ語の発
音や発声や話し方の効果を使って演じている、ことがはっきりわかる」と好評でした。
- 36 今年 3 月 11 日の地震があった時、ドイツ人の共演者やスタッフが知らせてくれました。ドイツのテレビや新聞が速
報を出していたからです。私達はテレビを置いていないのでインターネットで地震速報を見ました。12 日にはドイ
ツのすべての新聞が第一面で大きな写真入りで報道しました。また、ドイツ、スペインなどの知り合いが、心配して
メールを送ってきてくれました。私達の頭によぎったのは、阪神大震災の時のことです。とにかく、遠くても何か出
来ること、と考えて、
劇団らせん館は、3 月 19 日(土)に、ベルリンの中心地のひとつであるアレクサンダー広場の、人々が待ち合わせ
る場所「世界時計」の下で、太鼓コンサートをしました。普通の人々が集まる広場、数々の反戦デモもいつも出発す
る広場で、地震の経験のないベルリンの人々に切実さを知ってもらいたいと思いました。午後 4 時から 30 分ほどの
コンサートを 2 回しましたが、たくさんの人が観て 150 人ほどの人々が募金をしてくれました。「らせん舘コンサー
トの観客からの募金」として、日本赤十字に送ってくれるドイツ赤十字に振込みました。
このことは、ベルリンのイベント情報誌『Tip』(2011 年 3 月 31 日発行号)に劇団らせん舘の演劇活動についての
嶋田三朗へのインタビューとして紹介されました。
そのほか、3 月 25 日フンボルト大学の日本学の教員学生の被災者支援募金の催し、4 月 1 日英国大使館勤務の人々の
被災者支援募金行事、5 月 30 日ベルリンメトロポリタンスクールのチャリティーバザー、それぞれの催しに協力を
して太鼓演奏をしました。
わたしたちは、太鼓公演のときも、独自の構成や演技、衣裳の工夫で、ヨーロッパ人の従来の「日本らしさ」のイメ
ージをはみ出し、破りつつ、現代のわたしたちの太鼓演奏をしています。それは「何」とも呼ぶことができないで、
観客は Lasenkan 風と呼んで、そのように感じてくれる人々がいます。
今度の震災と原発についての世界での報道によって、ドイツの人々が日本に対して持っていた考えが、今、変化しつ
つあります。
そのことを私達も充分に理解して受け止め、これからも、ベルリン・関西・様々な公演地で、Lasenkan 風に交流し
て演劇創造をしていきたいと思います。
これからの予定:
10 月 12 日 兵庫県県民芸術劇場として、小学校公演「泉のそばのガチョウ番の娘」(グリム童話より)
12 月 8 日 ベルリン ブレヒトハウス文学館にて「旅をする裸の眼」第 5 章 INDOCHINE1992 演劇的朗読公演
2012 年 4 月 13 日・14 日 「白熊のトスカ」(多和田葉子作「雪の練習生 第 2 部」より)初演
オペレッタ風演劇公演 演出:嶋田三朗
兵庫県立芸術文化センター 小ホール
これからもよろしくお願い申し上げます。
皆様にお会いする日を楽しみにしています。
劇団らせん舘 嶋田三朗(代表・演出)
/市川ケイ(俳優・制作部)とりのかな(俳優・制作部)
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-204
8 月 1 日、歩いて 3 里、汽車で 3 里、そして樹明居だ、いつもかはらぬ友情にひたつた、うれしかつた。
夜は飲んだ、冬村、二三男の二君来訪、4 人でおそくまで話しつづけた。
午前中 2 時間は厚狹裏町行乞、午後の 2 時間はまた船木町行乞、時々気分がみだれた、没分暁な奥様、深切なおかみ
さん、等、等。
昨日は蓮華のうつくしさ、今日は木槿のうつくしさを見た。
糸根-愛寝-といふ紫式部の古蹟、寝太郎餅といふ名物。
馬占山の最後に一滴の涙をそそぐ。
- 37 朝御飯がもっともおいしいほどの健康と幸福とを私は恵まれてゐる、合掌。
.....
樹明居、夏はすずしく冬はあたたかい、主人は道としての俳句に精進しつつある、私は是非とも樹明居の記を書かな
....
ければならない-緑平居の記、白船居の記、そしてい其中庵記と共に-。-略※表題句の外、11 句を記す
Photo/山陽小野田市厚狹の寝太郎権現堂
Photo/北の旅-2000 ㎞から―函館の五稜郭-’11.07.24
20110731
何と涼しい南無大師遍照金剛
―四方のたより― 亀岡、楽々荘にて
7 日間の北の旅からやっと帰宅し、ほっと息つくまもなく出かけたのは 5 時過ぎ。車で向かったのは亀岡の楽々荘。
阪神高速池田線から都市高池田木部線を走って木部第一 IN を下りると国道 423 号線に出る。箕面の西部を通り豊能
町を抜けて豊岡へと抜けるこの峠道は、何度か走ったことはあるが、休日の所為もあってか対向車にほとんど会わな
い。
亀岡市役所のごく近く、市の中心街に占める広大で閑静な空間、明治から大正、京都にあって関西の政財界に君臨し
た田中源太郎の旧邸、国の登録有形文化財でもある楽々荘に着いたのは、約束の 7 時にまだ十数分余裕があった。
約束とは、秋山巌画伯のお嬢さんこと町田珠美さん提唱の、此処=楽々荘でのビアパーティだ。
山頭火の句やふくろうを題材にした版画で知られる秋山巌氏は 1921 年生まれというから今年 90 歳。
そのお嬢さんが仙台で「秋山巌の小さな美術館—ギャラリーMami」を運営しており、ネツトを通してお近づきにな
ったのは昨年の 10 月だった。
3.11 の被災以後、夫と二人暮らしの彼女たちの日々もずいぶんと大変なものだったらしい。その辛苦と奮闘の 4 ヶ月
余にひとときの慰安を求め、さらには三田で夫君の大腿部の義足新調も兼ねての関西への小旅行、その一夕に設けた
知友たちとのパーティといった趣向で、集った人数は 12 名ほどだが、みな一家言ありの猛者揃い-失礼!-で侃々諤々
賑やかに酒も食も進む。初お目見えの此方は車だからウーロン茶で、文字どおり茶を濁すしかないのだが、それでも
結構愉しく時間を過ごした三時間だった。もちろん初会のパーティなんぞにわざわざ遠出をしてまで顔を出すについ
ては、ただ山頭火縁りばかりでなく、想う一事あってのことなのだが、その所期もさしあたりは果たせたかと思われ
る。
午後 10 時を過ぎた帰りの峠道の運転は些か堪えたが、眠りたくなるほどのこともなく一時間余で無事帰参。やっと
のんびりと冷や酒にありついて、あとはばったりと倒れ込むように眠り込んだ。
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-203
7 月 31 日、いよいよ出かけた、5 時一浴して麦飯を二三杯詰めこんで勢よく歩きだしたのである、もう蝉が鳴いてゐ
る、法衣に飛びついた蝉も一匹や二匹ではなかつた。
暑かつた、労れた、行程 8 里、厚狹町小松屋といふ安宿に泊る、掃除が行き届いて、老婦も親切だが、キチヨウメン
すぎて少々うるさい。
行乞相はよかつた、所得もわるくなかつた、埴生 1 時間、厚狹 2 時間、それだけの行乞で食べて飲んで寝て、ノンキ
に一日一夜生かさせていただいたのだから、ありがたいよりも、もつたいなかつた。
明日は是非小郡まで行かう、そして宮市へ、そこで金策しなければならない。‥‥歩くはうれしい、水はうまい、強
烈な日光、濃緑の山々、人さまざまの姿。-略※表題句の外、4 句を記す
Photo/川棚温泉から埴生、厚狭への道程
- 38 Photo/北の旅-2000 ㎞から―函館、トラビスチヌ修道院-’11.07.24
20110730
日ざかり、われとわがあたまを剃り
―四方のたより― 北の大地へ―第 7 日
小樽市内から札幌市内、新千歳空港へ
新千歳発 12:15―関空着 14:25
帰宅 16 時頃予定
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-202
7 月 30 日、晴、晴、晴、一雨ほしいなあ!
緑平老から来信、それは老の堅実を示し、同時に私の焦燥を示すものだつた、人生不如意は知りすぎるほど知つてゐ
る私であるが、感情的な私はともすれば猪突する、省みて恥ぢ入る外なかつた-造庵について-。
今日は特種が一つあつた、私は生来初めて自分で自分の頭を剃つた、安全剃刀で案外うまくやれた、これも自浄行持
の一つだらう。
※表題句の外、6 句を記す
Photo/青海島奇巌めぐり-’11.05.01
20110729
あおむけば蜘蛛のいとなみ
―四方のたより― 北の大地へ―第 6 日
層雲峡から旭川へ、そして小樽へ
宿泊地―小樽市築港、グランドパーク小樽
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-201
7 月 29 日、朝曇、日中は照りつけるだらう。
修証義読誦、芭蕉翁発句集鑑賞、その気品の高いことに於て、純な点に於て、一味相通ずるものがある、厳かにして
親しみのある作品といふ感じである、約言すれば日本貴族的である。
みんなよく水瓜を食べる、殊に川棚水瓜だ、誰もが好いてゐる、しかし私の食指は動かない、それだけ私は不仕合せ
だ。
隣室の旅人-半僧半俗の-から焼酎と葡萄とをよばれる、久振にアルコールを飲んだので、頭痛と胃痛とで閉口した。
私はたしかにアルコールから解放された、ニコチンからも解放されつつある、酒を飲まなくなり、煙草も喫はなくな
つたら、さて此次は何をやめるか!
山百合、山桔梗、撫子、刈萱、女郎花、萩、等等等、野は山はもう秋のよそほひをつけるに忙しい。
※表題句の外、1 句を記す
Photo/秋の七草イラスト画
20110728
炎天のポストへ無心状である
―四方のたより― 北の大地へ―第 5 日
知床から網走、サロマ湖へを経て、層雲峡へ
- 39 宿泊地―層雲峡、朝暘亭
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-200
7 月 28 日、晴、風がすがすがしい、そして何となく雨の近い感じがする、今日はきつとよいたよりがあるだらう。
よいたよりといへば、昨日うけとつたたよりはうれしいものであつた、緑平老からのたよりもうれしかつたが、幸雄
さんからのそれは殊にうれしかつた、それは温情と好意にあふれてゐた。-略野百合と野撫子を活けた、百合はうつくしい、撫子は村娘野嬢のやうな風情でなくて-百合のやうに-深山少女といつ
た情趣である、好きな花だ、一目何でもないけれど、見てゐるとたまらなくよいところがある、西洋撫子はとてもと
てもだ。-略貧乏はとうとう切手を貼らない手紙を出す非礼を敢てせしめた、それを郵便配達夫がわざわざ持つてきて見せた厚意
には汗が流れずにはすまなかつた、それでなくても暑くてたまらないのに、―そしてまた、次のやうな嫌味たつぷり
の句を作らないではゐられなかつた。
-略- 長い暑い一日がやうやく暮れて、おだやかな夕べがくる、茶漬さらさら掻きこんで出かける、どこへといふあ
てもない、何をしようといふのでもない、訪ねてゆく人もなければ訪ねてくる人もない現在の境涯だ、ただ歩くので
ある、歩く外ないから。―
※表題句の外、4 句を記す
Photo/浜撫子の花
20110727
暑さ、泣く子供泣くだけ泣かせて
―四方のたより― 北の大地へ―第 4 日
摩周湖から野付半島へ、羅臼を経て知床五湖へ
宿泊地―知床半島岩尾別温泉、ホテル地の涯
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-199
7 月 27 日、今日は土用の丑の日。
鰻どころか一句もない一日だつた!
だが、夕方になつて隣室から客人から蒲焼一片を頂戴した。
まことに夢ひときれの丑の日だつた!
だから駄句一つの一日でもあつた!
※表題句の外、句作なし
Photo/川棚、大楠の森の若宮-’11.04.30
20110726
水底の雲から釣りあげた
―四方のたより― 北の大地へ―第 3 日
ガーデン街道から十勝、帯広を経て、釧路湿原、そして阿寒湖へ
宿泊地―津別町奥屈斜路温泉、ランプの宿森つべつ
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-198
7 月 26 日、相かはらず暑い、夕立がやつて来たさうでなかなかやつて来ない、草も木も人もあえいでゐる。
- 40 約束通り、ここの息子さんと溜池へ釣りに行く、鰻は釣れないで鮒が釣れた、何かと薄倖な鮒だつたらう、せいぜい
3 時間位だつたが、ずゐぶんくたぶれた。
※表題句の外、4 句を記す
Photo/川棚、妙青禅寺境内、雪舟の庭-’11.04.30
20110725
押売が村から村へ雲の峰
―四方のたより― 北の大地へ―第 2 日
洞爺湖から支笏湖を経て、美瑛、富良野へ
宿泊地―富良野市下御料、ノースカントリー
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-197
7 月 25 日、何と朝飯のうまいこと! -現在の私には、何者でも何時でもうまいのだが-私はほんとうに幸福だ!
..
茗荷の子三把で 4 銭、佃煮にして置く、当分食卓がフクイクとしてにほふだらう、これもまた貧楽の一つ。―
怪我をするときは畳の上でもするといふ、まつたくさうだ、今朝、私は縁側でしたたかに向脛をうつた、痛い、痛い。
ここの息子さんと土用鰻釣に出かける約束をしたので、釣竿を盗伐すべく山林を歩いてゐると、仏罰覿面、踏抜をし
た、こんこんと血が流れる、真赤な血だ、美しい血だ、傷敗けをしない私は悠々として手頃の竹を一本切つた、いか
にも釣れそうな竿だ、しかし私は盗みを好かない、随つて盗みの罰を受け易い、どうも盗みの興味が解らない。
※表題句のみ記す
Photo/青海島奇巌めぐり-’11.05.01
20110724
夾竹桃、そのおもひでの花びら燃えて
―四方のたより― 北の大地へ―第 1 日
空路、北海道へ。関空発 9:05―函館着 10:45
函館市内めぐりの後、大沼を経て内浦湾を北上、洞爺湖へ
宿泊地―洞爺湖畔の壮瞥温泉ペンシヨンおおの
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-196
7 月 24 日、今日も暑からう、すこし寝過ごした、昨夜の今朝で、何となく気分がすぐれない。
.......
野の花を活けた、もう撫子が咲いてゐるが、あの花には原始日本的情趣があると思ふ。-略―百雑砕―
...
燃ゆる陽を浴びて夾竹桃のうつくしさ、夏の花として満点である。
...........
色身を外にして法身なし、しかも法身は色身にあらず、法身とは何ぞや。
..........
貧時には貧を貧殺せよ。
....
.....
私は拾ふ、落ちた物を拾ふ、落した物を拾ふにあらず、捨てたる物を拾ふなり。
緑平老からの来信は私に安心と落ち着きとを与へてくれた。-略―一箇半箇―
捨猫がうろついてゐる、彼女は時々いらいらした声で鳴く、自分の運命を呪ふやうな、自分の不幸を人天に訴へるや
うに鳴く、そし食べるものがないので、夜蝉を捕へる、その夜蝉がまた鳴く、断末魔の悲鳴をあげる。‥‥
- 41 近眼と老眼とがこんがらがつて読み書きに具合がわるくて困る、そのたびに、年はとりたくないなあと嘆息する。※
表題句の外、5 句を記す
Photo/燃えるような夾竹桃の花
20110723
事がまとまらない夕蝉になかれ
―四方のたより― 琵琶五人の会
今日もまた催しの御案内、毎年この時期、恒例の「琵琶五人の会」公演。
題して「百花繚乱、戦国武将」の絵巻とや。
関西で活躍する師範衆五人組なれば堪能できること請合いなれど、
これまた小生は参上叶いません、悪しからず、ご紹介のみでご容赦。
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-195
.....
7 月 23 日、土用らしい土用日和である、暑いことは暑いけれど、そこにわだかまりがないので気持がよい。-略夕食後、M 老人を訪ねて、土地借入証書に捺印を頼んだら、案外にも断られた、何とかかかとは言訳はされたけれど、
然諾を重んじない彼氏の立場には同情すると同時に軽蔑しないではゐられなかつた、それにしても旅人のあはれさ、
独り者のみじめさを今更のやうに痛感したことである。
これで造庵がまた頓挫した、仕方がない、私は腰を据えた、やつてみせる、やれるだけやる、やらずにはおかない。
‥‥
敬治さん、幸雄さんのたよりはほんとうにうれしかつたのに!
今日は暑かつた、華氏 97 度を数へた地方もあるといふ、しかし私はありがたいことには、樹木の多い部屋で寝転ん
でゐられるのだから。
幸雄さんの供養で、焼酎を一杯ひつかける、饅頭を食べる、端書を 10 枚差出すことが出来た。
※表題句の外、2 句を記す
Photo/川棚の三恵寺山門にて-’11.04.30
20110722
虫のゆききのしみじみ生きてゐる
―四方のたより― イベント二題
縁の深い昔の仲間から、明後日に催しがあると誘いがあつた、それもふたつ。
ひとつは蕎麦屋「凡愚」の真野夫妻からの案内で、蕎麦切り職人衆 8 人が集結した以下の如き催し。
昔はこの夫婦、夫は写真で、妻は衣装デザイン、初期の頃から 80 年代初め頃まで、共にスタツフとして付合ってく
れた。
もうひとつは、私が研究所を立ち上げたときのメンバーで加藤鈴子からで、朗読の会へのお招きで、会場は文楽劇場
の小ホール。
ところがどっこい、折悪しく、此方はこの日から小旅行に出かけるべくすでに計画を立ててしまっている。何事もな
ければ両者共に顔を出さずばなるまいところだが、時すでに遅しでどうしようもない。
と、まあそんな次第だから、せめてこの場で広報よろしく、ご紹介だけしておく。
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-194
7 月 22 日、朝曇、日中は暑いけれど朝晩は涼しい、蚊がゐなければ千両だ。
- 42 感情がなくなれば、人間ぢやない、同時に感情の奴隷とならないのが人間だらう。
さみしくいらだつからだへ蝿取紙がくつついた、句にもならない微苦笑だつた。
※表題句の外、4 句を記す
Photo/下関市豊浦町宇賀、福徳稲荷神社にて-’11.04.30
20110721
伸ばしきつた手で足で朝風
―表象の森― キリスト教と無神論
<無神論>の問題は、キリスト教的自由意志の問題とセットになっているのだ。
どの文化の<神>の周りにも不信心の輩は生まれたが、キリスト教の神だけが、無神論者を育み、無神論の枠組に守ら
れて自らを存在させ続けたのだ。逆にいえば、権威主義的な統一主義こそが、異質な思想を生み、創造的な緊張を生
んだ。神の恩寵と人間の自由意志というパラドクスが、歴史のダイナミクスをもたらしたのだ。
エジプトやバビロンの影響を濃く受けながら、「受肉」による一回性をスタートさせて永劫回帰的な古代呪術世界と
決別したパレスティナ生まれのキリスト教は、ギリシャ哲学の弁証法の最良の部分と、ローマ帝国の秩序の最良の部
分を糧として、ヨーロッパを形成し、近代世界を出現させた。近代的自我に拠って思考する私なるものは間違いなく
その延長にある。この世界で考え続けていくためには、歴史の原動力となった形而上の世界を無神論という舞台裏か
ら眺め直さなくてはならない。―竹下節子「無神論」P277 より
―今月の購入本―
・G.ベイトソン「精神と自然」新思索社
副題に-生きた世界の認識論-、初訳版は 82 年だが 01 年の改訂版。
前著の「精神の生態学」と本書を読んでみるのが当面の私の課題。それからオートポイエーシス論に入る予定だが‥。
・辻邦生「春の戴冠」新潮社
96 年刊の全一冊新装版。ボッティチェルリを軸にフイレンツエの栄養と没落を描いた大長編 3000 枚。P956 の中古
書にて廉価の掘出し物。いずれ近いうちに読むべし。
・小川環樹他「千字文」岩波文庫
四字一句で 250 句でなる中国古代の文字教科書だった千字文の注解書、P469。
・小出裕章「原発のウソ」扶桑社新書
既に本ブログで紹介済。
・古賀茂明「日本中枢の崩壊」講談社
経産省大臣官房付という閑職にほされた現役官僚という著者。もはや末期症状を呈する政と官の病根を詳述した話題
の本だが、まさに実務家らしく具体性をもって語られるその内容は、いかにも同工異曲の重複が多く、ハードカバー
で P381 もの重装備にする必然は感じられない。この程度の内容ならば、もっとしっかりと削り込んで、新書版にて
出版したほうが、より多くの読者に触れてよかったのではないかと思われるが、この重厚な単行本化には別次の背景
があるのだろう。
・西森マリー「レッド・ステイツの真実」研究社
副題に-米国の知られざる実像に迫る-とあり、1998 年以降、アメリカのテキサスに住み、福音主義者らと政治に関わ
り、選挙現場の取材等に力を入れているという著者が、アメリカの半分を占めるレッド・ステイツ、福音主義者を始
めとする保守派キリスト教徒たちのメンタリティを理解し、現代アメリカのキリスト教を深掘りする。
・「芸術新潮―11/07 青木繁特集」
特集の青木繁、知らない部分に触れえたのはちょっぴり収穫。
- 43 「非常にうまい画が拵へてみたい、-略-、又同時に平淡な適当な、誰にも分るうまくない絵が作ってみたい、後者が
我目的である」。また「うまい画」と「平凡な画」を、「エカキの画」と「ニンゲンの画」とも言換えてもみる青木
繁。この両極端がやりたいといい、なおかつ、真に目指すところは「平凡な画」であり「ニンゲンの画」だというの
は、表現者として非常に解る話だ。
愛人だった福田たね、落し胤の福田蘭堂、その子の石橋エータロー、そのまた子の石橋鉄也と、四代にわたる数奇な
宿縁の物語も読ませる。
・「芸術新潮―11/05 狩野一信特集」
江戸末期の絵師、全 100 幅五百羅漢のめくるめく綺想グラフティ。4 月末から 7 月初めまで江戸東京博物館で「五百
羅漢-狩野一信」展が催され話題に。
―図書館からの借本―
・竹下節子「無神論―二千年の混沌と相克を超えて」中央公論新社
10 年 5 月初版。著者の専門は比較文化史だが、傍らバロツク音楽のアンサンブルグループを主宰するという。
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-193
7 月 21 日、曇、しかし朝蝉が晴れて暑くなることを予告しつつある。
山へ空へ、樹へ草へお経をあげつつ歩かう。
黒井行乞、そのおかげで手紙を差出すことが出来た。
..
安岡町まで行くつもりだつたが、からだの工合がよくないのでひきかへした、暑さのためでもあらうが、年のせいで
もあらうて。
...............
....
物を粗末にすれば物に不自由する-因果応報だ-、これは事実だ、少くとも私の事実だ!
※表題句の外、5 句を記す
Photo/JR 山陰本線の黒井村駅
20110720
紫陽花もをはりの色の曇つてゐる
―表象の森― 負の遺産//原発
小出裕章「原発のウソ」より簡約
◇放射能とはどういうものか
・放射能の怖さは、DNA を破壊し遺伝子異常を引き起こすこと。JCO 臨界事故では、被曝者の細胞が再生されず、
全身が焼けただれるようにして亡くなった。
・今回の事故で、すでに原爆 80 発分の放射性物質が飛び出している。いま問題なのは内部被曝。ベータ線やアルフ
ァ線は、進む距離は短いがエネルギーが大きい。体内の細胞に付着すると、そのごく近傍の細胞に継続的に影響を与
える。
◇放射能汚染から身を守るには
・人体への影響は LNT モデル(=線量の増加に伴い危険性が増える)で説明される。原発推進派はこれを認めず、一
定量以下の被曝なら影響ゼロとの立場を取る。だが、人体に影響のない被曝はない。最近では低線量被曝がむしろ危
険度が高いとの研究も出ている。
・事故での被曝を防ぐには、まず事故の場所から遠ざかること。風向きと直角の方向に逃げる。雨を避ける装備やマ
スクなども必要。国の発表は過小評価なので、ネットなどで情報ルート開拓をする必要。
- 44 ・文科省の「20 ミリ Sv まで安全」は狂気。表土除去など被曝を少しでも減らす方策が必要だ。汚染されたゴミは原
発周辺に送るしかない。また周辺の農地はすでに再生不能。気の毒だが、もう住民は元に戻れない。
・放射線は若い人ほど影響を受け、50 歳以上ではガン死の可能性が劇的に下がる。汚染された食物は隠さず流通さ
せた上で、大人が引き受けるべき。
・原発を容認した大人にも責任があるのだから、被害を福島だけに押し付けてはならない。周辺住民の重荷は社会全
体が共有し、支える必要がある。
◇原発の“常識”は非常識
・原発の運転により、日本国内にある死の灰は広島型原爆の 80 万倍に及ぶ。国は原発の危険性を分かっていたので、
原賠法で電力会社の賠償責任の上限を設定。電力会社に建設を促した。
・電力会社の利潤は、市場原理ではなく資産で決まる。原発は作れば作るほど資産になるから、電力会社は建設をや
めない。一方で電力料金は高騰する。
・「原発は低コスト」は嘘。再処理や開発費用を加えると火力より高い。ウランの採掘や濃縮で多量の CO2 も排出。
さらに、発生した熱の 3 分の 2 は水に伝わり、海に捨てている。こんな原発のどこがクリーンなのか。
◇原子力は未来のエネルギーか?
・化石燃料枯渇への恐怖が原発推進を容認してきた。だが石油可採年数は増加。むしろウランの方が先に枯渇する。
◇「石油がダメだから原発」は誤り。
・資源不足を解決するべく始めた核燃料サイクル計画も失敗続き。もんじゅは 1 兆円を注ぎ込んで1kw も発電して
いない。実用化は無理だろう。
・プルトニウムを処理するために、MOX 燃料対応の原発(大間原発)を建設中だ。原発の問題をクリアするためにま
た原発。悪循環から抜け出せない。
◇地震列島・日本に原発を建ててはいけない
・地震多発地域に原発を 54 基も作ったのは日本だけだ。浜岡原発は、必ず起きる東海地震の想定のど真ん中。今回
の停止を、津波対策のみならず全原発の安全対策検証の契機にするべき。
・六ヶ所村の核燃料再処理工場には大量の使用済み燃料が集まる。本格稼働すれば日常的に放射性物質を廃棄するこ
とに。コスト減でフィルタも取り付けられない。
・高速増殖炉もんじゅの冷却材はナトリウム。空気に触れると火災が発生する。水に触れても爆発するから、消防車
も使えない。地震で施設が破損したらすべてが終わる。
◇原子力に未来はない
・原発は、先進国では縮小傾向にある産業。その上、日本は原発技術の後進国だ。原発は止めなければいけない。実
は全原発を止めても、火力の稼働を 7 割(通常 5 割)にするだけで必要量は賄える。
・核のゴミは、六ヶ所村では 300 年監視が必要という。もう、原発で得たエネルギーより、処理のデメリットの方が
大きいではないか。
・代替エネルギーの開発と普及を考えよう。日本はかつて太陽光発電では世界トップの技術を誇った。一方で、エネ
ルギー大量消費を前提とした生活を考え直す必要がある。
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-192
7 月 20 日、曇、土用入だから、かんかん照ればよいのに。
朝の山へ、蜘蛛の囲を分けて登つて萩を採つて来て活けた、温湯に挿したが、うまく水揚げしてくれるとうれしい。
昨夜はとろりとしただけだった、こんなでは困る。-略私は今、庵居しようなどといふ安易な気分に堕した自分を省みて恥ぢてゐる、悔いてもゐる、しかも庵居する外ない
自分を見直して嘆いてゐる、私はやむなく背水の陣を布いた、もう血戦-自分自身に対して-する外ない。
- 45 緑平老へ、そして S 子へ、S 女へ手紙を書いた、書きたくない手紙だつた、こんな手紙を書かなければならない不徳
を憤つた。
眠れない、眠つたと思へば悪夢だ。
アルコールが私に対して、だんだん魅力を失ひつつあることは、むしろ悲しい事実だらう。
※表題句の外、3 句を記す。
Photo/川棚の紫陽花
20110719
はだかではだかの子をだいてゆふべ
―四方のたより― 台風 6 号接近
大型の台風 6 号が、午後 3 時現在、高知県足摺岬の東南東約 30 ㎞にあり、進路は北北東、15 ㎞/h とか。
四国上陸は時間の問題だが、今夜半から明日にかけ、気圧配置ゆえだろうが大きく東へ向きを変えて、近畿・中部一
円を襲う模様だ。
どうやら被災地の東北地方は避けられるようで、かりに豪雨のおそれもないとなれば、不幸中の幸いなのだが‥。
<日暦詩句>-37
「ことばの円柱」
谷川俊太郎「詩人たちの村」より
ヨーハンセバスチアンバツハは、虚空に音の伽藍を築
いたのであるが、私は虚空にことばの円柱を築くので
ある。その円柱は真実という巨大な中空ゆえに、なに
がしかの強度を有する一本の管の構造をしていて、装
飾はすべてそれぞれの無数の毛根で管の中心にむすば
れている。
即ちそれは瘡の全種類を含んでいると云えよう。
円柱の支えているものは、あらゆる重みなのであつ
て、この重みには当然円柱自体のこうむつている地球
の引力も加わつているが、円柱の上に何か目に見える
ものがのつかつているかというとそうではない。円柱
の上には目に見えるものは何ものつかつてない。
ただ時折、ごく僅かな塵(おそらくは流星塵)が、し
ばらくの間つもることがあるけれど、やがて強い偏西
風のために吹き飛ばされてしまう。
他の人間たちが、有史以前から築きつづけた円柱も、
そこここに残つていて、或るものは既に廃墟のもつ落
ち着きと気どりを有しているが、それらの円柱に関し
ては、その強度も高さも直径も、いまだかつて正確に
測量されたためしがない。だからそれらが支えてきた
重みの総量を計算するすべは、依然として失われてい
るのである。
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-191
- 46 7 月 19 日、晴れ、いよいよ天候もきまつたらしい、私の心もしつかりしてくれ、晩年の光を出せ!
此宿の漬物はなかなかうまい-木賃自炊だが、朝の味噌汁と漬物とは貰へる、今日此頃の私は無一文だから漬物でお
茶漬さらさら掻きこんでゐる-、殊に今朝は茗荷がつけてあつた、何ともいへない香気だ、暑さを忘れ憂鬱を紛らす
ことが出来る。
夏は浅漬がよい、胡瓜、茄子、キヤベツ、何とか菜、時々らんきようも悪くない、梅干しもありがたい。
※表題句の外、3 句を記す
Photo/川棚温泉、大楠の全景-’11.04.30
20110718
朝からぴよんぴよん蛙
―表象の森―原発終末論
小出裕章「原発のウソ」扶桑社新書
3.11 震災による福島原発の破局的状況を抱える現在において、本書がベストセラーとなるのは当然すぎることだろう。
とにかく解りやすい、一気呵成に読める。原発破局の実態が、客観的事実に裏づけられつつ簡潔明瞭に解き明かされ
いくコンパクトな全 7 章 182 頁。
終盤の 6 章で取り上げられる、浜岡原発や上関原発、六カ所村の再処理施設、高速増殖炉もんじゅ等の問題点などに
いたっては、その終末的実態にただもう暗澹とするほかない。
初版三刷、いま話題の本ではあるが、日経新聞ベストセラー-6/29-1 位、ジユンク堂-3 位、紀伊国屋-5 位、Amazon総合 12 位、新書 1 位といった売れ行き、さらに広く読まれることを期す。
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-190
7 月 18 日、晴れて暑い、ぢつとしてゐて汗がにじみでる、湯あがりの暑さは、裸体になることの嫌いな私でも、褌
一つにならずにゐられない。
昨日の行乞所得の残金全部で切手と端書とを買つた、それでやうやく信債の一部を果した。
酒が好きなために仏門に入るやうになり、貧乏になつたために酒毒から免れてゐる、世の中の事は変なものであるわ
い-酒のために自己共に苦しみ悩んだ事はいふまでもないが-。
※表題句の外、3 句を記す
Photo/青海島の奇巌めぐり-’11.05.01
20110717
雲がいそいでよい月にする
―四方のたより― D.マリィの「成田屋/暑中 Me 舞」
デカルコ・マリィたちの成田屋シリーズも近頃は 2 ケ月毎ペースになっている。
5 月の折は日程が合わず見逃していたので、昨夜はなにはともあれ山王町交差点の成田屋へと家族でお出ましと相成
った。
とにかく暑い、その夏の夜の、暑気払いの一席-
踊る阿呆に見る阿呆だが、こんなに暑くてはそう長くもやっておれないか、20 分ほどで幕となった。
あとは成田屋名物のおでんで酒宴の一席、それぞれに話の花を咲かせて‥。
余談ながら、今日は私の誕生日とて、思わぬ御仁から祝詞のメールを頂戴した。
恥ずかしながらはや 67 歳、近頃は体力の衰えに自嘲しきりにて、今のところ減量に取組中。
- 47 Photo/宵闇迫る頃、東の空にまんまるまるいお月さま-’11.07.15、ベランダにて
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-189
7 月 17 日、小月町行乞、往復 9 里は暑苦しかつたけれど、道べりの花がうつくしかつた、うまい水をいくども飲ん
だ、行乞はやつぱり私にはふさはしい行だと思つた。
行乞所得はよくなかつたが、句の収穫はわるくなかつた。―
一銭のありがたさ、それは解りすぎるほど解つてゐる、体験として、―しかも万銭を捨てて惜まない私はどうしたの
だらう!
なぜだか、けふは亡友 I 君の事がしきりにおもひだされた、彼は私の最初の心友だつた、彼をおもひだすときは、い
つも彼の句と彼の歌とをおもひだす、それは、―
おしよせてくだけて波のさむさかな
我れちさう籠るに耳は眼はいらじ
土の蚯蚓のやすくもあるかな
労れて戻つて-此宿へは戻つたといつてもいい、それほど気安くて深切にしてた下さる-そして酒のうまさは!
※表題句の外、11 句を記す
Photo/山里の道を往復 9 里とは、さすが現在の我々には及びもつかぬ健脚ぶり
20110716
朝の土から拾ふ
―四方のたより― ウナギの回遊生態
土用の丑も近い。
子どもの頃、親父と一緒に田舎-徳島南部-へ帰ると、必ずといっていいほど、水田近くの小川やあるいは海沿いの川
渕へとウナギ取りに行ったものだった。そんなわけで、ウナギは我が家の食習慣にはずいぶんと馴染みも深く、家族
内の誰もが好物としてきた。
それほど親しんできたウナギなのに、先日-7/11-の報道で話題となった、グアム島近くの海域で採取されたウナギの
卵を見るまで、その生態、3000 ㎞にも及ぶ大回遊をしているということなど、恥ずかしながらまったく知らず、驚
き入った次第だ。
ウナギの生態の不思議に頭を悩まされたギリシャの哲人アリストテレスは、泥中発生説を唱えたそうだが、そのアリ
ストテレス以来の謎が、二千数百年を経た今日までずっと謎のままだったというのにも驚き入ったが、その生態は下
の写真にみられるように変態を重ねつつ壮大な回遊をしているという事実、まこと生物のダイナミズムというものに
いまさらながら圧倒されるばかり。
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-188
7 月 16 日、曇、日和癖とでもいふのか、午前中は雨模様、午後になると晴、頭痛がして困る。―
朝の散歩はよい、ことに朝の山路を逍遙する時は一切を忘れて一切に合してゐる気分になる、歯朶がうつくしい、池
水がおだやかだ、頬白の声がすがすがしい、物みなよろしとはこの事だ。
そこにもここにも句が落ちてゐる、かくべつ拾ひたいとも思はないが、その二つ三つ。
晴れた、晴れた、お天気、お天気、みんなよろこぶ、私も働かう、うんと働かう、ほんとうに遊びすぎた。
何だかノスタルヂヤにでもかかつたやうだ、これも造庵や生活やすべてがチグハグになつてゐるせいかも知れない。
※表題句の外、8 句を記す
Photo/三恵寺境内の石仏たち-’11.04.30
- 48 -
20110715
あすはよいたよりがあらう夕焼ける
―表象の森― 七つの社会的罪-Seven Social Sinsマハトマ・ガンジーが 1919 年から 32 年にかけて英語で毎週刊行していた「Young India」という小誌-「七つの社
会的罪 -Seven Social Sins-」は、1925 年 10 月 22 日付に掲載された。
最近、この中の「道徳なき商業」を引用し、参議院行政監視委員会-5/23-において原発批判をくりひろげたのが小出
裕章氏だが、このことによってあらためて注目されたガンジーの「七つの社会的罪」
・理念なき政治 -Politics without Principle・労働なき富 -Wealth Without Work・良心なき快楽 -Pleasure Without Conscience・人格なき学識 -Knowledge without Character・道徳なき商業 -Commerce without Morality・人間性なき科学 -Science without Humanity・献身なき信仰 -Worship without Sacrifice―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-187
7 月 15 日、一切憂鬱、わづかに朝湯が一片の慰藉だ。
ただ暑い、空つぽの暑さだ。
南無緑平老菩薩、冀はくは感応あれ。
夕の散歩で 4 句ほど拾ふたが、今年はじめて蜩を聴いたのはうれしかつた、峰と峰とにかこまれたゆふべの松の木の
間で、そこにもここにも蜩がしづかにしめやかに鳴きかはしてゐた-みんみん蝉は先日来いくたびも聴いたが-。
※表題句の外、3 句を記す
Photo/妙青禅寺山門下の左にある湯が自慢の寿旅館-’11.04.30
20110714
水をたゞようて桐一葉
―四方のたより―神田代舞に疑問?-住吉の御田植祭先月の今日すなわち 6 月 14 日は住吉大社の御田植祭だった。
この日、私は物見遊山よろしくこれを見学に行ったのだけれど、此処に書く機会を失したままとうとう 1 ケ月が経っ
てしまったわけだが、この機に触れておこう。
大社本殿の南に位置する御田は約 2 反歩-2300 ㎡-の広さという。
その御田の周囲には、仮設の観覧席が設えられてあり、その席料は 1000 円也。ずいぶんと大勢の人だかりで、観覧
席の外にも立ち見の人がかなりの数。
御田中央には三間四方はあろうかという屋根付の舞台があり、橋懸りよろしく渡り廊下が架かっているが、これらも
年に一度の行事のための仮設であるらしい。
Photo/住吉大社御田植祭、苗を植える植女たち-’11.06.14
午後 1 時過ぎからはじまった御田植祭の次第は以下のとおり
・修祓-神田を祓い清め、神水を田に注ぐ
・早苗授受-中央舞台で植女から替植女に早苗が渡され、替植女は田に植付をはじめる
・田舞-巫女姿の八乙女が舞台中央の風流花傘を軸に円形で舞う
- 49 ・神田代舞-御稔女が豊穣祈願の神楽を舞う
・風流武者行事-中央舞台で侍大将が武運長久を祈る所作を演じる
・棒打合戦-御田の畔の東西から甲冑武者が陣太鼓・陣鐘・法螺貝を吹き鳴らし、紅白に分かれた雑兵が六尺棒にて合
戦を演じる。
・田植踊-舞台と畔にて早乙女らによる田植踊
・住吉踊-舞台では住吉踊大傘の柄を叩きながら、畔では百人以上の童女らが歌に合せて踊る
といった流れでざっと一時間半近くを要したか。
Photo/住吉大社御田植祭、八乙女たちが渡り廊下をゆく-’11.06.14
それぞれの役を演じる人々だけで 300 人は要したろうという大所帯で、老若男女の氏子衆ばかりか、住吉踊の童女な
ぞは近くの小学校からの学校ぐるみの参加なのだろう。
眼前に繰り広げられる賑やかにショーアップ化された運びを見ながら、この神事のスタイルが現在のような形にいつ
ごろ定着してきたものかといろいろ思いめぐらせていた。
「社伝によれば、約 1800 年の昔、第四本宮御祭神の神宮皇后が大社を御鎭祭の後、長門国植女を召して御供田を植
えさせられたに始まる」というその由緒についてはいわば伝承の世界、その真偽のほどを云々する要もあるまい、。
いつの頃からか、「植女の役を代々担ってきたのは嘗て社領でもあった堺乳守の遊女だった」ともある。乳守-今の
御陵前南半町東辺り-は、龍神-今の宿院栄橋町辺り-と並んで堺の二大遊郭といわれ、その歴史も戦国の自治都市堺の
時代に遡りうるから、その頃からかあるいは江戸の頃からか、乳守の遊女たちが植女の奉仕をしてきたのかもしれな
い。
時代は下って、明治維新の頃には中断された時期があるという。その中断をはさんで以後は昭和の戦前まで新町廓の
芸妓衆が植女を務めてきたといい、そして現在は上方文化芸能協会による奉仕である、という。もちろんこの団体も
大阪の芸妓衆が寄る近代化した組織だから、その内実は同じことで、浪速の街の芸妓衆が植女を演じてきたわけで明
治から連綿と続いてきたことになる。
さらにつけ加えると、この御田植神事の「芸能」が無形文化財に選定されたのが昭和 46 年、そして昭和 52 年には、
芸能ばかりでなく農事も含め御田植神事全般が重要無形民俗文化財に指定された、とのことである。
Photo/住吉大社御田植祭、武者たちの行列-’11.06.14
ネットで調べてみたが、現在各地で催されている御田植は、此処の形式や構成に比べてかなり素朴なもののようだが、
その詳細まではよくわからない。ひとつ参考になるのが、多賀大社と住吉大社の御田植の模様を解説並記したサイト
だ。
「多賀大社においては田植えとほぼ同時進行で、田楽・弓舞・湯立神楽・豊栄舞・囃し田そして尾張万歳が奉納される。」
とあり、それらの写真が添えられているが、その構成・運びは、源平よろしく棒打合戦など挿入した住吉の場合ほど
に劇的な構成とはいえない。形式において多賀のほうがより古式を伝えているかと見受けられる。
さて、私はこの稿の表題に「神田代舞に疑問?」と掲げた。
「神田代舞」は「みとしろまい」と読むが、これを奉納する舞手を「御稔女-みとしめ-」と呼称している。その舞が、
豊穣祈願の神楽といい、能の手振りをとり入れた、雨乞を祈願する龍神の舞だとされているが、私の眼にはとてもモ
ダンなものにしか映らなかったのである。踊り手が芸妓さんなら日舞の手練れということだろうが、その日舞にも古
式もあればちょっぴりモダンな味わいの表現もある。しかしこの舞は神楽としている、ならばその振付といい、また
その動き、身のこなしといい、このモダン臭はいくらなんでも相応しくなかろう、なんでこうなるの!?
そう見て取ってしまったから、この不思議を自分なりに落着させねばならない。
「神田代舞の歌」として小誌にその歌詞が掲載されている。前歌-短歌/本歌-長歌/後歌-短歌/後詞-長歌の 4 部形
式となっているが、意外にもこの歌に作詞者と作曲者の名が記載されていた。作詞は安江不空、作曲は杵屋佐吉。
- 50 「安江不空」-1880~1960 明治-昭和の歌人・画家。明治 13 年 1 月 1 日生れ、奈良県出身、名は廉介。京都で富岡鉄
斎に師事、東京に出て正岡子規の門で歌を,岡倉天心に絵を学ぶ。明治 33 年根岸短歌会に入り「馬酔木-あしび-」な
どに投稿掲載。43 年関西同人根岸短歌会を結成した。昭和 35 年 3 月 23 日死去、享年 80 歳。-出典:日本人名大辞典
「杵屋佐吉」のほうはご存じ長唄三味線の家元だから、この作曲者がはたして何代目の佐吉にあたるのかだが、4 代
目-1884~1945-なら襲名が 1904-M37-年、5 代目-1929~1993-なら 1952-S27-年の襲名とあり、5 代目佐吉との協働
だったと考えるのが妥当だろう。
要するに「神田代舞の歌」が新しく創作され成立したのは、歌人安江不空最晩年の昭和 30 年代前半、ということに
なるのではないか。そう考えれば、このモダン臭の強い「神田代舞」の振付所作も合点のいくものとなるのだ。
ならば抑も、この御田植神事の内に、古来から「神田代舞」が伝承されてあり、何らかの事情で途絶え、元の歌も舞
の資料も保存なく、これを復活させるため新たに作られたものか、あるいは昭和 30 年代のこの時にまったく新しく
挿入付加された神事なのか、それが問題だが、そこのところは住吉大社側に直かにあたらないことには明らかにはな
るまい。
Photo/住吉大社御田植祭、神田代舞の御稔女-’11.06.14
ところで、無形文化財などの制度が成ったのは、1950-S25-年制定の文化財保護法に拠るものである。
しかし、当初の制度では「現状のまま放置し、国が保護しなければ衰亡のおそれのあるもの」を選定無形文化財とし
て選定するという、消極的保護施策であったから、1954-S29-年の改正により、選定無形文化財の制度は廃止され、
「衰亡のおそれ」あるか否かではなく、あくまでも無形文化財としての価値に基づき、重要なものを「重要無形文化
財」に指定する、という積極的な保護制度に変わっている。
おそらくはこのあたりの背景が、御田植祭の形式・構成のありようを膨らませ、より劇的なものに改良させたのでは
ないかという推量も成り立つ。
先に掲げた式次第をあらためて眺めてみれば、神事の古層を伝えると思われるものは、修祓/早苗授受/田舞/田植
踊くらいではないか。田舞自体に豊穣祈願の意味が込められていたろうから、神事の原型としてはこれで充分な筈だ。
そこへ神田代舞/風流武者行事/棒打合戦と加われば、俄然劇的な構成となりまた壮大な絵巻世界ともなってくる。
おそらく住吉踊は、神社に別様に伝わるもので、神事の最後に置かれた。この歌詞はどう見ても明治以後の成り立ち
だろうが、メデタメデタと言祝ぐ踊りだから、これを付け足せば立派なエピローグともなって、一座は大団円のうち
に幕となるわけだ。
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-186
7 月 14 日、曇、まだ梅雨模様である、もう土用が近いのに。
今日も待つてゐる手紙がない、旅で金を持たないのは鋏をもがれた蟹のやうなものだ。手も足も出ないから、ぼんや
りしてゐる外ない、造庵工事だつて、ちつとも渉らない、そのためでもあるまいが、今日は朝から頭痛がする。‥‥
山を歩く、あてもなしに歩きまはつた、青葉、青葉、青葉で、ところどころ躑躅の咲き残つたのがぽつちりと赤いば
かり。
めづらしく句もない一日だつた、それほど私の身心はいぢけてゐるのだらうか。
※この日句作なし、表題句は 7 月 10 日記載の句
Photo/川棚の大楠の森に立つ山頭火句碑-’11.04.30
20110713
ひとりなれば山の水のみにきた
―表象の森― 浮遊する世界
- 51 ・B.カスティリオーネの「廷臣論」1528
Dicendo ogni cosa al contrario –
すべてのことを「裏返しに」いえば、万事がずっと美しくなる-
この書は、マキァヴェルリの「君主論」の現実主義に対する「理想主義的」反論であり、ヨーロツパの宮廷生活様式
のみならず、芸術・文学・音楽上の bella maniera-美しい手法-を牛耳ることになった。
・パルミジァニーノ「子イエスと天使たちのもとなる聖母」の優雅と繊細
繊細さは「綺想異風」芸術の不可欠の要素。それは精巧さの一構成因子であり、精神性豊かな美の一要素、秘匿され
たものを可視的なものにする手段である。
血の色をした胸にかすかに触れたおそろしく長い手の聖母は、坐っているというより「浮遊」しているように見える、
さなから中心の「真空」を創り出すために、重みのあるものを周辺に排除するように。
―G.R.ホッケ「迷宮としての世界-上-」岩波文庫より
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-185
7 月 13 日、雨、雨、雨、何もかもうんざりしてゐる、無論、私は茶もなく煙草もなく酒もなくてぼんやりしてゐる
が。
正法眼蔵啓迪「心不可得」の巻拝読。
白雲去来、そして常運歩-其中庵は如何-。
とうとう我慢しきれなくなつて、おばさんからまた金 20 銭借る、それを何と有効に使つたことか―郵券 2 銭 1 枚、
ハガキ 2 枚、撫子一包、そして焼酎一合!
私もどうやらかうやらアルコールから解放されさうだ、といつて、カルチモンやアダリンはまつぴらまつぴら。
午後、ぶらぶら歩いて、谷川の水を飲んだり、花を摘んだりした、これではあまりに安易すぎる、といつて動くこと
もできない、すこしいらいらする。
※表題句の外、1 句を記す
Photo/下関市豊浦町宇賀の福徳稲荷神社-’11.04.30
20110712
なく蠅なかない蠅で死んでゆく
―四方のたより― エッ!? 三枝が文枝襲名
上方落語の定席小屋として天満の繁昌亭を成功させ、現在も上方落語協会の会長を務める桂三枝が、文枝襲名をする
という報道に、我が耳を疑う思いがよぎった。
上方落語の大名跡を襲名といった形容が躍るが、60 年代末から一躍マスコミの寵児となり半世紀近くも君臨しつづ
けるかたわら、創作落語なる独自の話芸世界を創りあげ、落語家としても押しも押されぬ名題となった「三枝」を、
由緒ある名跡とはいえいまさらなぜ「文枝」に改めなければならないのか、どうにも首を傾げざるをえないものがつ
きまとう。
角界でいえばあの大鵬が一代年寄大鵬であるように、三枝はどこまでも三枝でよいではないか。だいいち三枝が六代
目文枝となって、ならばいったい三枝の名跡を襲うに足る者がはたしてありうるのか。いまの上方落語会界を見渡し
て、六代目文枝の候補なら三枝以外にも居ないわけではなかろうが、三枝を託せる者など居るはずがないではないか、
というのが門外漢からみたニユートラルな感覚だ。
門外漢とは世間さまというものの眼、圧倒的なひろがりをもつ大衆というものの幻想だ。その幻想のうちに半世紀近
くもあざやかに存在しつづけた「三枝」を消滅させてしまってまで文枝襲名を為そうという、そんな愚を犯す上方落
語界とは、いったいなにさま、いかほどの伝統芸能の殿堂だというのだろう。
- 52 嘗て露の五郎が、晩年になって露の五郎兵衛を名乗ったのなんざ、粋人の洒落っ気ですむだろうが、この襲名話、業
界臭芬々として、こちとら門外漢には嫌な気が先に立つ。
だが、それにしても、三枝も三枝だねェ、重い立場に座りつづけて、とうとう彼もヤキがまわったか。
<日暦詩句>-36
「風にしたためて」
川崎洋
眼がさめると少年は
ろうたけた藤色に透けていた
そんな物語りの始まりのような
或る涼しい朝に
風にしたためて
いくつかの山や川を越えて
村を越えて
白い柵の向こうで栗毛の馬が
悪戯な子に麦藁帽子を噛まされて
大変迷惑千万な
そんな風景をずんずん越えて
せきれいのように越えて
とある家の
くるみ色に明るい窓をくぐって
あのやさしく美しかった人へ
こうして
かぜにしたためて
-川崎洋詩集-S43-より
Photo/’93 刊の「教科書の詩を読み返す」
川崎洋-1930 年、東京生れ。’44 年に福岡へ疎開。西南学院英文科に学ぶも父の急死により’51 年中退。上京し、土
工や日雇労務者、警備員、通訳などを経て、放送作家となる。
1953 年茨木のり子らと詩誌「櫂」を創刊。詩集「はくちょう-‘55」「木の考え方-‘64」「川崎弘詩集-‘63」。「ビス
ケットの空キカン-‘87」など。
1971 年には文化放送のラジオドラマ「ジャンボ・アフリカ」の脚本で、放送作家として初めて芸術選奨文部大臣賞を
受けた。日本語の美しさを表現することをライフワークとし、全国各地の方言採集にも力を注いだ。’04 年没。
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-184
7 月 12 日、雨、降つたり降らなかつたりだが、小月行乞はオヂヤンになつた、これでいよいよ空の空になつた。
..
.........
啓迪を読みつづける、元古仏の貴族的気凛に低頭する。‥‥
- 53 ありがたい品物が到來した、それはありがたいよりも、私にはむしろもつたいないものだつた、―敬治君の贈物、謄
写器が到來したのである、それは敬治君の友情そのものだつた、―私はこれによつてこれから日々の米塩をかせきだ
すのである。
今夜も千鳥がなく、虫がなく。‥‥
Photo/「川棚温泉開基」の看板が掛かつた三恵寺のお堂
※表題句の外、1 句を記す
20110711
ふたゝびこゝに花いばら散つてゐる
―表象の森―「一致する不一致」
D.E.テサウロの長い題名をもった著書「神聖なるアリストテレスの原則によって解説せられたる‥アリストテレスの
望遠鏡、あるいは機智鋭い文章作法の理念」-1645<discordia concors> 一致する不一致
....
......
「鋭い明察にめぐまれた者は、おのずと凡人とは区別される。彼はまず切り離し、しかるのちに結び会わせるのであ
る」
...........................
「真の詩人とは、もっともかけはなれた関係にあるものをたがいに結びつける才のあるものである」
ルネッサンス―古典時代の崇高な様式化から新しい「マニエリスム的」表現に向かう決定的で生命力の横溢した移行
は、老ミケランジェロの作品にいたってようやくひとつの精神史的な事件となる。
..................
曰く「絵は手で描くのではない、頭で描くのだ」。
システィーナ礼拝堂の「最後の審判-1541-」、パオリーナ礼拝堂の「パウロの改宗-1545-」および「ペテロの磔刑-1550-」
、あるいは彼の晩年の諸素描をみればよい。この老ミケランジェロのやむにやまれぬ表現への衝動によって、静止的
な調和概念とその合理的な収斂技術は木端微塵に砕けさり、その劇的情景を生む躍動、人目を驚かす奇抜な構図によ
る衝撃作用は、一朝にして自然の模倣者たちを俗物的存在へと貶めてしまうのだ。
Photo/ミケランジェロ「パウロの改宗-1545-」
―G.R.ホッケ「迷宮としての世界-上-」岩波文庫より
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-183
7 月 11 日、4 時前に起きた、掃除して湯に入つて、朝課諷経してゐるうちに、やうやく夜が明けた。
........
すなほでない自分を見た、同時に自分の乞食根性を知つた。‥‥
今日はどうやらお天気らしいので近在を行乞するつもりだつたが、どうしたわけか-酒どころか煙草すらのめないの
に-痔がわるくて休んだ、コツコツ三八九復活刊行の仕事をやつた。-略夜は妙青寺の真道長老を訪ねて暫時閑談、雪舟庭の暗さから青蟇の呼びかけるのはよかつた、蛍もちらほら光る、す
べてがしづかにおちついてゐる。
正法眼蔵啓迪を借りて戻る、これはありがたい本であり、同時におもしろい本である-よい意味で-。
また不眠だ、すこし真面目に考へだすと、いつも眠れなくなる、眠れなくなるやうな真面目は嘘だ、少なくとも第二
義第三義的だ。
しかし不眠のおかげで、千鳥の声をたんまり聴くことができた。
どこかそこらで地虫もないてゐる、一声を長くひいてはをりをりなく、夏の底の秋を告げるやうだ。
※表題句の外、2 句を記す
Photo/妙青禅寺境内の渡り廊下-’11.04.30
- 54 -
20110710
ゆふべのラヂオの泣きたうなつた
―四方のたより―同行二人?
お気づきだろうか、7 月に入ってから「山頭火の一句」の行乞記日付と、ブログ投稿の日付が一致しているのを。
偶々6 月 30 日時点でちょうどピタリと重なったのだが、その折り、このところ何日も空けたり滞りがちだった投稿
を以前のように連日書き起こし、同行二人よろしく行けるところまでいってみようと、些か大袈裟だが一念発起した
次第。
とはいうものの、山頭火行乞記のほうは、念願の其中庵がめでたく小郡で結庵にいたる 9 月 20 日まで、一日も欠か
さず続いているのだから、これは少しばかり難行。元来飽き性で不精者のこの身には、果たしてどこまで伴走できる
ものか、心許ないかぎりではあるが‥。
<日暦詩句>-35
「burst―花ひらく」
吉野弘
事務は 少しの誤りも停滞もなく 塵もたまらず
ひそやかに 進行しつづけた。
三十年。
永年勤続表彰式の席上。
雇主の長々しい讃辞を受けていた 従業員の中の一人が
蒼白な顔で 突然 叫んだ。
――諸君
魂のはなしをしましょう
魂のはなしを!
なんという長い間
ぼくらは 魂のはなしをしなかったんだろう
――
同輩たちの困惑の足下に どっとばかり彼は倒れた。
つめたい汗をふいて。
発狂
花ひらく。
――またしても 同じ夢。
―詩集「消息」-S32-より
- 55 -
吉野弘―1926 年、山形県酒田市に生れる。県立酒田高校卒業後、就職。徴兵検査を受けるが、入隊前に敗戦を迎える。
1949 年労働組合運動に専念し、過労で倒れ、肺結核のため 3 年間療養。
1953 年同人雑誌「櫂」に参加。1957 年、詩集「消息」、1959 年詩集「幻・方法」。1962 年に勤務を辞めて詩人として自
立。詩画集「10 ワットの太陽」、詩集「吉野弘詩集」「叙景」、随筆集「遊動視点」「詩の楽しみ」など。他に合唱曲や
中・高校歌の作詞がある。結婚披露宴などでよく引用される「祝婚歌」は著名。長く埼玉県狭山市に居住したが、現在は静
岡県に在住。
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-182
7 月 10 日、ほんとうによくふると、けさはおもつた、頭痛がしてぼんやりしてゐた。
夢精! きまりわるいけれど事実だから仕方がない、もつともそれだけ vital force が残つてるのだらう!
※表題句の外、3 句を記す
Photo/小郡の其中庵、句碑「いつしか明けてゐる茶の花」-’11.04.30
20110709
おちつかない朝の時計のとまつてる
―表象の森― 鏡の魔術
「壁の間に影は重く沈む/そしてわたしはわたしの鏡のうちへと降りる/死者がその開かれた墓へと降り行くよう
に」ポール・エリュアール
「鏡の中に/わたしは見る/夢を 鏡の中の夢を 夢見る/やさしい男を」E.E.カミングズ
表現主義・超現実主義芸術にあっては、反映するものと反映されるもの、映像と歪曲―鏡映の例は枚挙にいとまがな
い。
鏡の隠喩-メタフオー-は古代以来、文学にはしばしば見受けられる。とりわけヘレニズムと中世期に愛好された。盛
期ルネツサンス以後、「マニエリスム」において、この隠喩は、不安、死、時間のモテイーフと同様に、ほとんどひ
とつの幻覚とまでなる。
レオナルドはローマ滞在中、八角形の鏡の間を構築しようとした。視覚の迷宮である。
フランチェスコ・マッツォーラというパルマ生まれの男が、1523 年、凸面鏡を前にして、一幅の奇怪な自画像を描い
た。
時あたかも、マニエリスムの名をかちえた、新しい、一世を風靡する様式、その初頭にあたっていた。以来 150 年間、
この先端芸術は、ローマからアムステルダムにいたるまで、マドリードからブラハにいたるまで、時代の精神的社会
的生活を決定することになったのである。
Photo/フランチェスコ・マッツォーラ「凸面鏡の自画像」
仮面美を思わせる少年の貌は、なめらかで測り難く、謎めいている。表面の分解を通じて、それはほとんど抽象的な
印象をさえ喚起する。凸面鏡による遠近法の歪曲の中で、画面の前景を、一個の巨人症的な、解剖学的にはもとより
不可解な手が占めている。部屋は眩暈を起こさせるような痙攣的な動きの中に展開する。窓はそのごく一部分だけが、
わずかに、やはり歪んだ形で見えていて、それが弧状の長辺三角形を形づくっており、光と影がそこに異様な徴を、
驚異を喚び起こす象形文様-ヒェログリフ-ょ生みなしているように見える。
このメダル状の形をした画面は、機略縦横の才智を生む定式の解説図の用をなしている。それは、当時の概念を援用
していうなら、才気煥発の綺想体-Concetto-すなわち視覚的形態における、鋭敏な先端絵画である。
「マニエリスムはヨーロッパ文学のひとつの常数」また「あらゆる時期の古典主義への相補-現象である」E.R.クルテ
ィウス
- 56 <五つのマニエリスム的時代>
・アレクサンドレイア期-BC350―BC150 頃
・ローマの白銀ラテン時代-AD14―138 頃
・中世初期、とりわけ中世末期-1520―1650 に及ぶ「意識的な」マニエリスム時代
・ロマン派運動期-1800―1830
・そして現代直近の 1880―1950 の時代
これらの時代、そのマニエリスム形式は、いずれもはじめは「擬古典主義」に捕らわれているが、やがてその表現衝
動を強化していく。それは「表現的」になり、ついには「歪曲的」「超現実的」「抽象的」になっていく。
―G.R.ホッケ「迷宮としての世界-上-」岩波文庫より
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-181
7 月 9 日、空は霖雨、私は不眠、相通ずるものがあるやうだ。
あの晩からちつとも飲まないので、一杯やりたくなつた!
星城子さんの厚情によつて、飯田さん仙波さん寄与の懐中時計が到着した、私が時計を持つといふことは似合はない
やうでもあるが、すでに自分の寝床をこしらへつつふる今日、自分の時計を持つことは自然でもあらう-その時計の
型や何かは、私の望んだほど時代おくれでもなくグロテスクでもなけれど、三君あればこそ私の時計があつたのであ
る、ありがたいありがたい、ただ口惜しいのはチクタクがちよいちよいと睡ることである、まさか、私のところに来
たといふので、酔つ払つたのでもあるまい!-。
動かない時計はさみしく、とまる時計はいらだたしいものである。
うれしいたよりが二つあつた、樹明君から、そして敬治君から。
花ざくろを活ける、美しい年増女か!
....
石を拾ふついでに、白粉壜を拾うた、クラブ美の素といふレッテルが貼つてあつた、洗つても洗つてもふくいくとし
てにほふ、なまめかしい、なやましいにほひだ、しかし酒の香ほどは好きでない、むろん嫌いではない、しばらくな
らば-これは印肉入にする-。
...
-略- 当地に草庵をつくるについて、今更のやうに教へられたことは、金の魅力、威力、圧力、いひかへれば金のき
..
きめであった。
..
私は私にふさはしくない、といふよりも不可能とされてゐた貯金を始めることになつた、保証人に対する私の保証物
として!-毎月 1 円そして、私がしみじみと感じないではゐられないことは、仏教の所謂、因縁時節である、因縁が熟さなければ、時節
が来なければ、人生の事はどうすることも出来ないものである。
※表題句の外、1 句を記す
Photo/ハナザクロの赤い花
20110708
墓に紫陽花咲きかけてゐる
―表象の森―<日暦詩句>-34
「繭」
那珂太郎
むらさきの脳髄の
瑪瑙のうつくしい断面はなく
ゆらゆらゆれる
ゆめの繭 憂愁の繭
- 57 けむりの糸のゆらめくもつれの
もももももももももも
裳も藻も腿も桃も
もがきからみもぎれよぢれ
とけゆく透明の
鴇いろのとき
よあけの羊水
にひたされた不定形のいのち
のくらい襞にびつしり
ひかる<無>の卵
がエロチックに蠢く
ぎらら
ぐび
る
びりれ
鱗粉の銀の砂のながれの
泥のまどろみの
死に刺繍された思念のさなぎの
ただよふ
レモンのにほひ臓物のにほひ
とつぜん噴出する
トパアズの 鴾いろの
みどりの むらさきの
とほい時の都市の塔の
裂かれた空のさけび
うまれるまへにうしなはれる
みえない未来の記憶の
血の花火の
―詩集「音楽」-S40-より
那珂太郎―1922 年福岡市生れ。福岡高校在学中、矢山哲治・真鍋呉夫・島尾敏雄・阿川弘之らの「こゝろ」創刊に参加。
43 年東京大学国文科卒。50 年詩集「エチュウド」。51 年「歴程」に参加。65 年詩集「音楽」により室生犀星賞・読
売文学賞。以後、詩集「はかた」、随想「鬱の音楽」、評論「萩原朔太郎私解」、評論「詩のことば」、詩集「鎮魂
歌」など。現在なお存命にて東京杉並の久我山に住む。
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-180
7 月 8 日、雨、少しづつ晴れてくる。
痔がよくなつた、昨春以来の脱肛が今朝入浴中ほつとりとおさまつた、大袈裟にいへば、15 ヶ月間反逆してゐた肉
塊が温浴に宥められて、元の古巣に立ち戻つたのである。まだしつくりと落ちつかないので、何だか気持悪いけれど、
安心のうれしさはある。
とにかく温泉の効験があつた、休養浴泉の甲斐があつたといふものだ、40 日間まんざら遊んではゐなかつたのだ。
..................
建ちさうで建たないのが其中庵でござる、旅では、金がなくては手も足も出ない。
- 58 ゆつくり交渉して、あれやこれやのわずらひに堪へて、待たう待たう、待つより外ない。
...
臭い臭い、肥臭い、ここでかしこで肥汲取だ、西洋人が、日本は肥臭くて困るといふさうだが、或る意味で、我々日
.............
本人は糞尿の中に生活してる!
※表題句の外、9 句を記す
Photo/山口ふたり旅―山口市小郡の其中庵にて-’11.04.30
20110707
畦豆も伸びあがる青田風
―表象の森― 古典様式とマニエリスム
古典様式は神秘という「秘匿されたもの」を、「悟性的な」単に「昇華された」自然において描き出そうとし、
マニエリスムは「秘匿されたもの」を、「寓意的な」「イデア」のうちに往々にして「デフォルメされた」自然にお
いて力を発顕せしめようとする。
かくて形而上学的意味でも、二つの相異なった、とはいえ存在論的関連においてはいずれもそれなりに存在関連的な、
「人間性の原身振り-ウル・ゲベルデ-」と関わり合うのである。
そのいずれもが―それぞれ相異なるあり方で―深淵的なものに関連づけられている。
古典主義者は神をその本質-エッセンス-において描き出し、
マニエリストは神をその実存-エクジステンツ-において描き出す。
古典様式の危険は「硬化」であり、マニエリスムの危険は「解体」である。
緊張としてのマニエリスムなき古典様式は擬古典主義に堕し、抵抗としての古典様式なきマニエリスムは衒気生へと
堕するのである。
―G.R.ホッケ「迷宮としての世界-上-」岩波文庫より
Photo/ヤコボ・ダ・ボントルモの「十字架降下」1523-1530
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-179
7 月 7 日、雨、空は暗いが私自身は明るい、其中庵が建ちつつあるのだから。―
しかし今日も行乞が出来ないので困る、手も足も出ない、まつたくハガキ一枚も出せない。
時々、どしやぶり、よう降るなあ!
昨日も今日も、そして明日も恐らくは酒なし日。
どこの家庭を見ても、何よりも亭主の暴君ぶりと妻君の無理解とが眼につく、そしてそれよりも、もつと嫌なのは子
供のうるさいことである。
歯痛がやんだら手足のところどころが痛みだした、一痛去つてまた一痛、それが人生だ!
※表題句の外、4 句を記す
Photo/山口ふたり旅―青海島の奇巌めぐり-’11.05.01
20010706
ほつくりぬけた歯を投げる夕闇
―表象の森― G.ベイトソン「天使のおそれ」
...............
「天使おそれて立ち入らざるところ」とはいかなる場所か‥
図書館で借りた G.ベイトソンの遺著というべきか、「天使のおそれ」を一応読了。
読むには読んだが、茫としてまとまった評の紡ぎようもない、というのが正直なところ。
やはり「精神の生態学」や「精神と自然」から読むべきなのだろう。
- 59 -
mind in nature ―自然の中の精神-こころ―精神過程の世界― 本文 P40 より
1. 精神-こころ-とは相互に作用しあう複数の部分ないし構成要素の集合体である。
2. 精神-こころ-の各部分のあいだで起こる相互作用の引き金を引くものは差違である。
3. 精神過程は傍系エネルギーを必要とする。
4. 精神過程は、循環的-またはそれ以上に複雑な-決定の連鎖を必要とする。
5. 精神過程においては、差違のもたらす結果をそれに先行する出来事の変換形-コード化されたもの-と見なすこと
ができる。
6. これら変換プロセスの記述と分類によって、その現象に内在する論理階型の階層構造-ハイラーキー-が明らかに
なる。
<日暦詩句>-33
Photo/二十歳の頃の山之口貘
「鼻のある結論」
山之口貘
ある日
悶々としてゐる鼻の姿を見た
鼻はその両翼をおしひろげてはおしたゝんだりして 往復してゐる呼吸を苦しんでゐた。
呼吸は熱をおび
はなかべを傷めて往復した
鼻はつひにいきり立ち
身振り口振りもはげしくなつて くんくんと風邪を打ち鳴らした
僕は詩を休み
なんどもなんども洟をかみ
鼻の様子をうかゞひ暮らしてゐるうちに 夜が明けた
あゝ
呼吸するための鼻であるとは言へ
風邪ひくたんびにぐるりの文明を掻き乱し
そこに神の気配を蹴立てゝ
鼻は血みどろに
顔のまんなかにがんばつてゐた
またある日
僕は文明をかなしんだ
詩人がどんなに詩人でも 未だに食はねば生きられないほどの
それは非文化的な文明だつた
だから僕なんかでも 詩人であるばかりではなくて汲取屋をも兼ねてゐた
僕は来る日も糞を浴び
去く日も糞を浴びてゐた
詩は糞の日々をながめ 立ちのぼる陽炎のやうに汗ばんだ
あゝ
- 60 かゝる不潔な生活にも 僕と称する人間がばたついて生きてゐるやうに
ソヴィエット・ロシヤにも
ナチス・ドイツにも
また戦車や神風号やアンドレ・ジイドに至るまで
文明のどこにも人間はばたついてゐて
くさいと言ふには既に遅かつた
鼻はもつともらしい物腰をして
生理の伝統をかむり
再び顔のまんなかに立ち上つてゐた
-「山之口貘詩文集」講談社学芸文庫より
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-178
7 月 6 日、雨、今日も行乞不能、ちよんびり小遣いが欲しいな!
終日歯痛、歯がいたいと全身心がいたい、一本の歯が全身全心を支配するのである。
夕方、いたむ歯をいぢつてゐたら、ほろりとぬけた、そしていたみがぴたりととまつた、―光風霽月だ。
これで今年は三本の歯がなくなつた訳である、惜しいとは思はないが、何となくはかない気持だ。
くちなしの花を活ける、町の貴公子といつた感じがある。
※表題句の外、1 句を記す
Photo/昭和 7 年 1 月、市街を行乞する山頭火-春陽度文庫「山頭火アルバム」より
20110705
明日は出かける天の川まうへ
―四方のたより―「市岡 OB 美術展」開催中
3 日の日曜日から 9 日の土曜日まで、もう何回目かな、11 イヤ 12 回か―。
市岡高校 OB 美術展が、
例によって、西天満の大阪現代画廊・現代クラフトギャラリーにて開催している。
昨夕、行ってきた。
お馴染みのメンバーの、絵画・彫刻から書や写真、凝り型から付焼刃-失礼!-まで、相変わらず玉石混淆の作品が並ぶ
が、
これが―ICHIOKA、これぞ―ICHIOKA なのだ。
実は同期の 3 名を誘って、会場で落合おうといっていたのだが、そのうちの一人がいつまで経っても姿を見せない。
携帯で連絡を取ると、どうにも聞き取れない声が途切れ途切れに響く。どうやら梅田地下あたりですでに呑んだくれ
ているらしい。
雨がぽつぽつと降り出した中を移動、ようやく 4 人揃って、めでたく飲み会とはなったが、ひとり先行馬はすでに酩
酊状態だから話題も混戦模様。
二軒目、長い長いコーヒーブレイクとなった店では、椅子に腰掛けたままひたすら眠りつづける酩酊氏をよそに、延々
と 2 時間ばかり三人で喋りまくっていた。
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-177
7 月 5 日、曇、例の風が吹くので、同時に不眠の疲労があるので、小月行乞を見合わせて籠居。
- 61 きのふのゆふべの散歩で拾うてきた蔓梅一枝-ねぢうめともいふ-を壺の萩と挿しかへたが、枝ぶり、葉のすがた、実
のかたち、すべてが何ともいへないよさを持つてゐる、此木は冬になつて葉が落ち実がはじけた姿がよいのだが、か
うした夏すがたもよかつた。
句集「鉢の子」がやつときた、うれしかつたが、うれしさといつしよに失望を感ぜずにはゐられなかつた、北朗兄に
はすまないけれど、期待が大きかつただけそれだけ失望も大きかつた。装幀も組方も洗練が足りない、都会染みた田
舎者! といつたやうな臭気を発散してゐる-誤植があるのは不快である-、第二句集はあざやかなものにしたい!
払ふべきものを払へるだけ払つてしまつたので、また、文なしとなつちやつた、おばさんにたのんでアルコール一壜
をマイナスで取り寄せて貰ふ、ぐいぐいひつかけて昼寝した。‥‥
夜は宿の人々といつしよに飲んでしまつた、アルコールのきゝめはてきめん、ぐつすりと朝まで覚えなかつた。
※この日句作なし、表題句は 7 月 4 日記載の句
Photo/三恵寺の石仏たち-’11.04.30
20110704
山路はや萩を咲かせてゐる
―四方のたより― 再び、K へ
今朝は 4 時に眼が覚めた。
久しぶりに 4 時半頃から散歩に出た。住吉公園を周回し大社の方へとお定まりのコース。
住吉大社の御田では、先月の御田植祭の折り設えられていた神楽舞台も橋懸りの渡り廊下も姿を消して、稲は水面か
ら一尺ほどにも育って青一色。
石舞台の門前で一息入れて、こんどは住吉川の沿道コースへ。ここでも途中一息入れたが、帰着が 6 時 10 分頃の計
1 時間 40 分で 9587 歩。久しぶりなのに長丁場だったから少々へばり気味なのは無理もないか。
Photo/今年の住吉大社御田植祭の一齣―’11.06.12
以下は前日の K からの便りへの返し。
お便り拝見―
神戸空襲の直撃だけでなく、あの太平洋戦争の所為で、貴方の家族や親族はずいぶん酷い目に遭っていたのですね。
短い文の中に詰まった悲惨な出来事の数々に驚き入ってます。
私の家族も大阪空襲-私自身は生後 8 ヶ月-に遭っていますが、身内ではとくに犠牲者を出すこともなかったようで、
昔語りに聞きかじって記憶していることは、日支事変の頃は徴兵でとられていた親父も、その頃は兵役も終え、鉄工
所の経営に専念できていたのでしょう。空襲に備えて自宅兼鉄工所の地下にわざわざ自前の防空壕を造っていたとい
います。すわ空襲という時、みなその防空壕に入って息をひそめたはいいが、なにしろ商売が商売、家には在庫の鉄
材や座金などの製品がそれこそ山ほどあるのですから、爆撃が続くほどにそれらが焼けて焦熱地獄の直下の防空壕と
あいなるわけです。こりゃいかんとみんな飛び出して、近くの防空壕に駆け込んだ、などと笑えぬオチがついた話を
聞かされたことがあります。その焦熱と化した鉄の山は、一週間ほども燻りつづけていたっけ、という尾ひれまでつ
いて‥。
さて、「弟の壁」問題ですが、不動産を担保に多額の借金をするというのは、私の知らなかった新事実―家屋が母親
と彼-弟-の名義―を前にしては、到底彼の承諾を得られますまいから、諦める外ないと思います。ただ念のため、土
地も建物も実際はどうなっているのか登記事項を確認するため、法務局の伊丹支局へ行ってみようとは思います。
そして彼女のこと―、この秋の来日は延ばして、貴方がこんどネパールへ行って、次に戻ってくる際に一緒に、とい
うのは承知、それがよいのではと思います。
- 62 彼女や彼女の家族のために、なにがしかのものを遺してやりたい、という気持は分ります。そこでこれまでの生活パ
ターンを変える工夫をしたほうがいいのではないかと提案したい。要するに、ポカラでの滞在を主体にし、日本で過
ごす期間を必要最低限にするのです。
貴方の年金収入なら、そうすることで余計な支出を節約し、預貯金をぐんと増やすことが出来る筈です。これまでは
ほぼ半々のポカラと宝塚の生活ですが、これを 9:3 あるいは 10::2 くらいにまですれば、かなりの余剰が出てくる
のではないですか。100 万貯めることも容易にできるでしょう。
仮にその方法を採るなら、二階の居候氏の問題も、そのまま最低家賃を貰って、留守番代わりに置いておく、という
のが賢明な策となりましょう。もちろん、彼の同居人などはいっさい認めない、また家屋の改変はしてはならない、
とか最低必要な約定を交わしてのことですが。
また、今度、そちらへ行った時に詳しく話をしましょう。 ―7 月 3 日、返信
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-176
7 月 4 日、晴、一片の雲もない日本晴。
発熱、頭痛、加之歯痛、快々として楽しまず、といふのが午前中の私の気分だつた。
裏山から早咲の萩二枝を盗んで来て活ける、水揚げ法がうまくないので、しほれたのは惜しかつた。
萩は好きな花である、日本的だ、ひなびてゐてみやびやかである、さみしいけれどみすぼらしくはない、何となく惹
きつける物を持つてゐる。
訪ねてゆくところもなく訪ねてくる人もない、山を家とし草を友とする外ない私の身の上だ。
......
身元保証-土地借入、草庵建立について-には悩まされた、独身の風来坊には誰もが警戒の眼を離さない、死病にかゝ
つた場合、死亡した後始末の事まで心配してくれるのだ!
当家の老主人がやってきて、ぼつりぼつり話しだした、やうやく私といふ人間が解つてきたので保証人にならう、土
地借入、草庵建立、すべてを引受けて斡旋するといふのだ、晴、晴、晴れきつた。
豁然として天気玲瓏、―この語句が午後の私の気分をあらはしてゐる。
それにしても、私はこゝで改めて「彼」に感謝しないではゐられない、彼とは誰か、子であつて子でない彼、きつて
もきれない血縁のつながりを持つ彼の事だ!
夜ふけて、知友へ、いよいよ造庵着手の手紙を何通も書き続けてゐるうちに、何となく涙ぐましくなつた、ちょうど
先日、彼からの手紙を読んだ時のやうに、白髪のセンチメンタリストなどゝ冷笑したまふなよ。
とうとう今夜も徹夜してしまつた。
※表題句の外、2 句を記す
Photo/小郡、其中庵の前にて―’11.04.30
20110703
みんな売れた野菜籠ぶらぶら戻る
―四方のたより― K からの返信
一昨日の便りで「人間の歴史は有史以来どの時点でも末法だった」と言われましたが、正にその通りで、ぼくは以
前から痛感していました。
7 歳の時の神戸大空襲の体験が地獄そのものでした。逃げまどうぼくらの前に爆弾が落ち、地中の水道管に当たって
不発になり、危うく一命は維持したものの、火が横に飛び、死体が転がる中を逃げ回り、なんとか助かりましたが、
家は全焼してしまいました。歯はガタガタと鳴りつづけていました。それでも鉄道員の父は、家族を非番の友人に頼
んで出勤していきました。その時ぼくは、このよの非情さを知ったのです。
- 63 その直後に父は過労死し、可愛がってくれた叔父は戦死、祖父は船の転覆で、大事にしてくれた従姉妹の姉さんまで
肺病で逝きました。その後のぼくは文盲の祖母と二人の極貧の暮しをつづけたわけです。そのあいだに村の図書館を
利用して知識だけは水準まで持っていけたはずです。
こうした幼い時からの非情な体験から、末法のような境地を持つようになっていったようです。それで割と平気な
顔をしながら、曲がった遅い足取りで世界を歩けました。そして阪神大震災のとき崩れた本に埋まりながらも、燃え
さかる石油ストーブをなんとか消し止めることができました。その助かった命をネパールで具体的に生かせました。
だから西洋やキリスト教の言う天国なんてものは信じません。萩原朔太郎の詩に「天上縊死」というのがあり、天国
に行き退屈のあまり首吊って死ぬという内容なのです。もちろんアイロニーですが、ここに人間の興味や悲しみが見
える気がします。要するに人間は、どうしようもないオモロイ存在なのでしょう。
貴兄の「末法」から、ぼくの思いを少し書いてみました。
さて問題の彼女のことですが、現在こちらへの直行便もないし、来日も初めてのことなのでこの秋はあきらめ、条件
が整えば、来年ぼくと一緒に来るようにしようかと考え直しています。彼女は母親と大学 2 年の妹を、月給 1 万円足
らずで抱えていますので大変です。ある程度のまとまったものは遺して逝きたいと思っています。向こうは利息が高
いので、始末すれば相当期間暮らせるはずです。これを得るのに弟との壁が難関です。
またいろいろお力添え頂けるようにお願い致します。
二階に住む居候氏のことは S 君から聞いて下さったと思いますが、会った時に話をしますので、よろしく‥。それ
から会報の件ですが、近く原稿や写真をそろえますので、版下印刷のほうをよろしくお願い致します。
暑さ厳しき折、いっそうのご自愛をお祈り申し上げます。
―7 月 2 日、K.Y―
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-175
7 月 3 日、晴、これで霖雨もあがつたらしい、めつきり暑くなつた。
朝は女魚売の競争だ、早くまはつてきた方が勝だから、もう 6 時頃には一人また一人、「けふはようございますか」
「何かいらんかのう」。
農家のおぢいさんが楊桃を売りに来た、A 伯父を想ひだした、酒好きで善良で、いつも伯母に叱られてばかりゐた伯
父、あゝ。-略朝の散歩はよいものである。孤独の散歩者であるけれど、さみしいとは思はないほど、心ゆたかである。
振衣千仞岡、濯足万里流-といふ語句を読んでルンペンの自由をふりかへつた。
いつしよに伸べてゐた手をふと見て、自分の手が恥づかしかつた、何と無力な、やはらかな、あはれな手だろう。略今日は日曜日のお天気で浴客が多かつた、大多数は近郷近在のお百姓連中である、夫婦連れ、親子連れ、握飯を持つ
.........
て来て、魚を食べたり、湯にいつたり、話したり寝たり、そして夕方、うれしげに帰つてゆく、田園風景のほがらか
...
な一面をこゝに見た。
※表題句の外、4 句を記す
Photo/妙青禅師門前の風景-’11.04.30
20110702
ほつくりぬけた歯で年とつた
―表象の森― cargo cult
「本当のカーゴ・カルト-cargo cult 積荷信仰-の特徴は、結果の生産そのものよりも結果の期待を優位におく点にある。
- 64 これまで期待通りには決して起こらなかった、ありえないような成功を予告するという点で、開発政治―発展主義の
イデオロギー―もまた、ある意味カーゴ・カルト―欲望の対象となっても、実際には決して生み出されることのない
財を救済史観的に期待する行為―ではないだろうか。」 ―Bernard Hours
<日暦詩句>-32
「根府川の海」
茨木のり子
根府川
東海道の小駅
赤いカンナの咲いている駅
たっぷり栄養のある
大きな花の向こうに
てーいつもまっさおな海がひろがっていた
中尉との恋の話をきかされながら
友と二人ここを通ったことがあった
あふれるような青春を
リュックにつめこみ
動員令をポケットに
ゆられていったこともある
燃えさかる東京をあとに
ネーブルの花の白かったふるさとへ
たどりつくときも
あなたは在った
丈高いカンナの花よ
おだやかな相模の海よ
沖に光る波のひとひら
ああそんなかがやきに似た
十代の歳月
風船のように消えた
無智で純粋で徒労だった歳月
うしなわれたたった一つの海賊箱
ほっそりと
碧く
国をだきしめて
眉をあげていた
- 65 菜ッパ服時代の小さなあたしを
根府川の海よ
忘れはしないだろう?
女の年輪を増しながら
ふたたび私は通過する
あれから八年
ひたすらに不適な心を育て
海よ
あなたのように
あらぬ方をながめながら‥‥。
-詩集「対話」1955-S35-年より
Photo/根府川の海
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-174
7 月 2 日、同前。
雨、いかにも梅雨らしい雨である、私の心にも雨がふる、私の身心は梅雨季の憂鬱に悩んでゐる。
入浴、読経、思索、等、等、等。
発熱頭痛、まだ寝冷がよくならないのである、歯がチクチク痛む、近々また三本ほろほろぬけさうだ。
聞くともなしに隣室の高話しを聞く、在郷の老人達である、耕作について、今の若い者が無智で不熱心で、理屈ばか
りいつて実際を知らないことを話しつづけてゐる、彼等の話題としてはふさはしい。-略夕方、五日ぶりに散歩らしい散歩をした、山の花野の花を手折つて戻つた。
今夜初めて蚊帳を吊つた、青々として悪くない-私は蚊帳の中で寝る事をあまり好かないのだが-、それにしてもかう
した青蚊帳を持つてゐるのは彼女の賜物だ。
夜おそく湯へゆく、途上即吟一句、-
「水音に蚊帳のかげ更けてゐる」
※表題句の外、11 句を記す
Photo/青海島、奇岩の絵模様-‘11.05.01
2011.07.01
何でこんなにさみしい風ふく
―表象の森― 詩とはなにか
金子光晴は「腹の立つときでないと詩を書かない」といい、
北川冬彦は「なぜ詩を書くか、私にとっては、現実の与えるショックが私に詩を書かせるのだ、というより外はない」、
高橋新吉は「自然の排泄に任すのである」と。
また、村野四郎は「私は詩の世界にただ魅力を感じるから詩を書きます」といい、
深尾須磨子は゛私が存在するゆえに私は詩を書く」、
田中冬二は「私はつくりたいから、つくるまでであると答えたい」という。
そして、山之口貘自身は、
- 66 「詩を象にたとえて見るならば、詩人は群盲なのかも知れない」と呟く。
<日暦詩句>-31
「座蒲団」
山之口貘
土の上には床がある
床の上には畳がある
畳の上にあるのが座蒲団でその上にあるのが楽といふ
楽の上にはなんにもないのであらうか
どうぞおしきなさいとすゝめられて
楽に坐つたさびしさよ
土の世界をはるかにみおろしてゐるやうに
住み馴れぬ世界がさびしいよ
-「山之口貘詩文集」講談社学芸文庫より
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-173
7 月 1 日、木下旅館。
雨、終日読書、自省と克己と十分であつた、そして自己清算の第一日-毎日がさうだらう-。
伊東君に手紙を書く、愚痴をならべたのである、君の温情は私の一切を容れてくれる。
....
私は長いこと、死生の境をさまようてゐる、時としてアキラメに落ちつかうとし-それはステバチでないと同時にサ
トリではない-、時として、エゴイズムの殻から脱しようとする、しかも所詮、私は私を彫りつゝあるに過ぎないの
だ。‥‥
..
例の如く不眠がつづく、そして悪夢の続映だ! あまりにまざまざと私は私の醜悪を見せつけられてゐる、私は私を
罵つたり憐れんだり励ましたりする。
彼―彼は彼女の子であつて私の子ではない-から、うれしくもさみしい返事がきた、子でなくて子である子、父であ
つて父でない父、あゝ。
.... ........
俳句といふものは-それがほんとうの俳句であるかぎり-魂の詩だ、こゝろのあらはれを外にして俳句の本質はない、
月が照り花が咲く、虫が鳴き水が流れる、そして見るところ花にあらざるはなく、思ふところ月にあらざるはなし、
この境涯が俳句の母胎だ。
時代を超越したところに、いひかへれば歴史的過程にあつて、しかも歴史的制約を遊離したところに、芸術-宗教も
科学も-の本質的存在がある、これは現在の私の信念だ。
ロマンチツク-レアリスチツク-クラシツク-そして、何か、何か、何か、-そこが彼だ。
※表題句の外、6 句を記す
Photo/豊浦町の福徳稲成神社-’11.04.30
20110630
かつと日が照り逢ひたうなつた
―四方のたより― K への通信
昨日は、お疲れさま、でした。
君にとっては、不本意なことも、いろいろとあったでしょうが、
兄と妹と弟、三人が揃った場に 2 時間余り立ち会って、家族としての、兄弟としてのさまざま来し方が、よくわかっ
たような気がしました。
- 67 父親の早世も背景にあったでしょうが、君の妹や弟はなんとしても、母-君を基軸にして、生きてこなければならな
かった-。そりゃそうだろうなあ、と痛いほど感じられました。
身内のあいだに、他者を介在させてみることは、問題解決にはとても大切なことですよ。
昔の家族制度なら、大概近くに叔父や叔母が居た。そういった存在が、他者の役割を果たして、縺れた結ぼれをほど
いたり、なにくれとサポートできた。
今朝の新聞に、「独り暮し、3 割超す」の見出しが躍っていました。
昨年の国勢調査に基づくものですが、
「一人暮し」31.2%、「夫婦と子ども」28.7%、「夫婦のみ」19.6%、「単親と子ども」8.8%、「その他」11.7%、
とあります。
人間の社会というものが家族を単位として形成されるもの、という基本的原理がこうまで痩せ細ってきては、その社
会に健全さを求められよう筈もなく、さまざまな病理現象があとを絶たないのも当然のことだろうし、世も末だと嘆
かれるのもあたりまえだと思うよね。
でも、よく考えてみたら、人間の歴史なんて、有史以来、どの時点をとっても、つねに末法だったんじゃないか、ほ
んとうのところは。
話が横に逸れた。
とにかく君としては、これまでの生を、母-君を基軸に生きてきたと思われる、あの妹や弟の存在を、率直に心の頼
みとすることが、ベターなんじゃないかと思います。彼らは、かなりの程度の甘えを許容してくれるよ、きっと。
もちろん、君の残りの生に寄り添ってくれ、その最後を看取ってくれようとしている存在を、排除しろなんてことを
言うつもりは毛頭ないよ。
ボクとしては、もうすぐ日本にやってくるというその若い子をこの眼で見、彼女の想いをきちんと受け止めたうえで、
君たちの関わりが、そんな嫌悪するべきものじゃないということを、僭越ながら君の妹や弟に助言できるようになれ
ば、と願っているよ。
Photo/「石川九楊展」の小皿に描かれた千字文
昨日は、宝塚の K 宅を訪ねる前に、伊丹の工芸センターで開催中の「石川九楊展」に立ち寄った。
彼の書論や書史論は頗る面白く読んでいるが、前衛書の鑑賞には、やはり期待薄で臨んで正解だった。
「源氏物語五十五帖」や小皿に描かれた「千字文」を一時間近くかけて拝見したが、心撲たれる感からは遠かった。
これがまさに営為として、そこに開陳される、即ちパフォーマンスとして行われたとすれば、それは一見の価値あり
かもしれないが、作品となった書の表層から、その途方もないような営為の過程を追体験出来よう筈もない。そんな
ことはほんの入口のところですぐ頓挫してしまうのが常だろう。
会場を出てその界隈を歩いていると、酒蔵の旧岡田家住宅があったので見学。
天井の高いガランとした広い空間、黒っぽい漆喰の酒蔵が、そのままイベント空間として利用されているらしい。
思わず食指が動いた。
Photo/酒蔵の旧岡田家住居外観
―今月の購入本―
G.ベイトソン「精神の生態学」新思索社
H.R.マトゥラーナ/他「オートポイエーシス-生命システムとはなにか」国文社
U.エーコ「薔薇の名前 -下-」東京創元社
D.H.ロレンス/福田恒存訳「黙示録論」ちくま学芸文庫
「現代思想 2011/02 特集-うつ病新論」青土社
夏樹静子「裁判百年史ものがたり」文藝春秋
- 68 山之口獏「山之口獏詩文集」講談社文芸文庫
々 「山之口獏-沖縄随筆集」平凡社ライブラリー
南伸坊「顔」ちくま学芸文庫
「文藝春秋 2011 年 07 月号」文藝春秋
―図書館からの借本―
U.エーコ「醜の歴史」東洋書林
G.ベイトソン/他「天使のおそれ-聖なるもののエピステモロジー」青土社
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-172
6 月 30 日、同前。曇、今日も門外不出、すこしは気軽い。
あさましい夢を見た-それはほんたうにあさましいものだつた、西洋婦人といつしよに宝石探検に出かけて、途中、
彼女を犯したのだ!-。
.....
私は、善良な悪人に過ぎない。‥‥
自戒三条
一、 自分に媚びるな
一、 足らざるに足りてあれ
一、 現実を活かせ
いつもうまい酒をのむべし、うまい酒は多くとも三合を超ゆるものにあらず、自他共に喜ぶなり。
Photo/KAORUKO と三恵寺の石仏と-‘11.04.30
20110628
のぼりつくして石ほとけ
-表象の森- 東寺見物と青木繁展
やっと青木繁展を見てきた。
7 月 10 日の最終日も近づいているし、休日などに行こうものならとんでもない混雑のなかの苦行となろうから、絶
対平日に行くべしと思っていた。
京都南のインターから国道 1 号線を北へ走ると東寺にぶつかる。その門前を通りながら、そうだ学生時代から京都に
は関わりある身でありながら、この歳まで拝観もせず素通りばかり、時間に余裕もありそうだからこの際ちょいと立
ち寄っていこう、独りだとこんな気まぐれもおきる。
四度焼失の災厄に遭ったという五重塔は、寛永 21-1644-年、将軍家光の寄進によって再建なったという。
金堂の薬師三尊、薬師如来の台座下部、その四面に配された小ぶりの十二神像たちに思わず見入ってしまった。
見応えのあったのは講堂の立体曼荼羅、広い堂内に所狭しと並ぶ 21 躯の仏像たち、その内の 15 躯が平安前期の創建
時のものでみな国宝指定、梅原猛によれば、この配置が空海の独創であろうというからおもしろい、必見の価値あり。
岡崎公園へと足を運ぶのは久しぶりだ。
京都国立近代美術館-没後 100 年の青木繁展。
青木繁については、作品「海の幸」-1904 年-との出会いにはじまって、4 年前になんどか書いたので、ここでは繰り
返さない。
ただ、遺された作品の、そのナマの姿に直に向き合えれば、それでよかった。
「黄泉比良坂」1903 年
- 69 「輪転」1903 年
「大穴牟知命」1905 年
夭折の天才画家と、今でこそ謳われ評価も定まっているが、当時の画壇は一旦はこの早熟の才能に着目しつつも、時
代の器はこれを受容もできず、結果として黙殺してしまったのだ。彼は不遇なまま、放浪の果てに病に倒れ、28 歳
の若さで死んでしまった。
わずか 10 年にも満たぬ画業のうちに、彼ならではの凝縮された作品世界がある。
その世界にひたすら耽溺できれば、ありがたいことこのうえない。
「自画像」1904 年
「自画像」1903 年
自画像が三点あった。
21 歳の時の、未完ともみえる荒々しいタッチの自画像には強烈な牽引力がある。
「幸彦像」1907 年
我が子に幸彦の名を与えた彼は、父親の危篤の報で久留米に帰郷、幼な児は 2 歳にしてそのまま生き別れとなった。
その幼な児がどのように育ったのか、気になって調べてみた。
作曲家にして尺八奏者の福田蘭堂、昭和 28-‘53-年の NHK ラジオ放送「新書国物語・笛吹童子」、懐かしやあのオー
プニングテーマを手がけた御仁だった、とはオドロキ。
その蘭堂の息子が、クレージーキャッツの石橋エータローだと、ずいぶん意想外なところへ結びついたものだ。
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-171
6 月 29 日、同前。晴、寝床からおきあがれない、悪夢を見つづける外ない自分だつた。
寝てゐて、つくづく思ふ、百姓といふものはよく働くなあ、働くことそのことが一切であるやうに働いてゐる。
私は悔恨の念にたへなかつた。
※句の記載なし、表題句は 6 月 26 日所収。
Photo/川棚温泉、クスの森の大楠
20110625
大きな声で死ぬるほかない
―表象の森― 懐かしの阪妻映画
今週月~金の 5 日間、毎朝 10 時前から昼頃までのひととき、WowWow の特番で、60 年近くもタイムスリップ、阪
妻主演の映画を堪能させてもらった。
‘52 年封切の「丹下左膳」を皮切りに、「大江戸五人男」-‘51-、「あばれ獅子」-‘53-、「稲妻草紙」-‘51-、「おぼろ
駕籠」-‘51-の 5 本。
Photo/阪妻主演の「あばれ獅子」
いまだテレビも登場していなかった子どもの頃、私が育った九条の町の繁華街には、5.6 館の映画館が建ち並んでい
た。昭和 30 年代の映画全盛の五社協定時代なら、そのすべての封切館があったし、加えて洋画の封切館も 1 館あっ
たくらいだから、とにかく休日となれば映画館に通うといった子ども時代だった。
阪妻映画は、’53 年の「あばれ獅子」が遺作だから、昭和 28 年、私が 9 歳の年である。こんな頃に独りで劇場に行
った訳もないから、たいがい父母に連れられて通ったことになるが、後の勝海舟となった勝麟太郎と小吉の親子を描
いたこの映画は記憶の片隅にいまも鮮やかに残っていた。それに「丹下左膳」も「大江戸五人男」も場面の断片が記
憶にあるし、「おぼろ駕籠」にもなんだか記憶があるような‥。ことほどさように映画漬けの幼い頃だったのだ。
- 70 そんな昔の映画だから、運びのテンポはのんびりと悠長なことこのうえないが、それでも伊藤大輔監督の「おぼろ駕
籠」など娯楽映画としてはよく出来た一級品の代物で、ずいぶんと愉しめた。
図版は面白いが、訳文がひどすぎる-エーコ編集の「美の歴史」「醜の歴史」
豊富な図版とこれらに付された引用文献の数々、その対置は博覧強記、Umberto.Eco の躍如たるものではあろうが、
如何せん翻訳が拙すぎる。訳者の川野美也子は「翻訳に関しては、原書に対応したレイアウトの関係上文字数に制限
があったためと、著者の思考回路をなるべくストレートに辿っていただくためにあえて直訳に近い形にいたしまし
た。」と記すが、直訳どころか逐語訳にもひとしく、文脈の辿れぬ熟さぬ日本語には辟易もいいところ。これでは Eco
の深意がどれほども伝わるまい。
これほど未熟な訳をもって、ぬけぬけと豪華本の如き体裁をなし、鳴物入りで出版する会社も非道いものだが、新聞
などでお先棒を担ぐかのような書評を書いている有識の御仁たちには呆れかえるばかり。
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-170
6 月 30 日、同前。晴、時々曇る、終日不快、万象憂鬱。
不眠が悪夢となつた、恐ろしい夢でなくて嫌な夢だから、かへつてやりきれない。
何もかも苦い、酒も飯も。
最後の晩餐! といふ気分で飲んだ、飲めるだけ飲んだ、ムチャクチャだ、しかもムチャクチャにはなりきれないの
だ。
何といふみじめな人間だらうと自分を罵つた、-こんなにしてまで、私は庵居しなければならないのでせうか-と敬
治君に泣言を書きそへた。
※句の記載なし、表題句は 6 月 27 日所収。
Photo/川棚温泉、クスの森の大楠
20110618
拾ふことの、生きることの、袋ふくれる
―四方のたより― お出かけ二題
朝から岸里の関西芸術座スタジオへと出かけ、
東日本大震災被災地支援チャリティ公演と副題した、河東けい構成の「宮沢賢治を誦む」の午前の部を観る。
関芸の老優たち-失礼!-、おけいさんをはじめ、藤山喜子、小笠原町子、寺下貞信、山本弘、梶本潔ら、懐かしい顔
ぶれと若手の劇団員たちによる協働の舞台は、舞踊家上甲裕久の振付も得つつ、抑制を効かせ過剰に陥らずあくまで
静謐に進行した。観るべきほどの特段の表象があった訳ではないが、企画趣旨の取組みからしてそこまでは此方も期
待していないから一応の納得。
とはいえ地下鉄岸里の駅から歩くのは遠い。この地の利の不便さが、関芸スタジオを使いにくいものにしている。本
拠稽古場をそれまでの美章園から此の地へと移したのが’78 年だったとすると、もう 33 年も以前のことだ。それな
のに私自身、足を運んだのはこの日でたった二度目。それほどに外部団体などからの利用がきわめて乏しいというこ
とだろう。
雨が激しくなってきたが、今日は夕刻からもう一つお出かけの予定。
陶芸の石田博君が、昨日から寝屋川の市民ギャラリーで個展を開催している。
個展のたびにいつも凝った案内状が届く。
今回は会場もずいぶんと広いらしく、タイトルどおり積年の作品群がひしめくようで、愉しめるのじゃないか。
- 71 -
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-169
6 月 27 日、同前。曇、梅雨らしく。
朝蜘蛛がぶらさがつてゐる、それは好運の前徴だといはれる、しかし、今の私は好運をも悪運をも期待してゐない、
だいたい、さういふものに関心をあまり持つてゐない、が、事実はかうだつた、東京から送金して貰つた、同時に彼
女から嫌な手紙を受取つたのである。
二三日前からの寝冷がとうとう本物になつたらしい、発熱、倦怠、自棄-さういつた気持がきざしてくるのをどうし
ようもない。
小串へ出かける、月草と石ころを拾うてきた、途中、老祖母の事が思ひだされて困つた、父と私と彼女と三人が本山
...
まゐりした時の事が、‥八鉢旅館の事、馬の水の事。‥‥
近来、妙な句ばかり出来る、私も老いぼれたのかも知れない、まだ老いぼれるには早すぎるが!
※表題句の外、4 句を記す
Photo/川棚、三恵寺の石仏たちに混じって
20110613
ひさしぶり逢へたあんたのにほひで
―四方のたより― しっかり-6159 歩
久しぶりに早朝の散歩。
二日つづきの大雨がやっと霽れて、夏至も近い頃合の午前 5 時はすでに薄明りで、歩くにつれどんどん明るくなって
いく。
住吉公園をぐるりと周回してから大社の方へと足を運んだが、どっこいいずれの門扉も閉じられていて、境内には入
れない。開門は 4 月~9 月は午前 6 時、10 月~3 月は午前 6 時 30 分と表札にあり、時計を見ればまだ 5 時半、やむ
をえず社塀に沿って南の方へ廻ると、ほぼ正方形の広い御田に出会す。
田圃の中央には櫓造りの舞台が設えられてあり、細
い橋懸りが手前の岸へと伸びている。明 14 日が例年行われる御田植祭だそうで、なるほど周囲にはテントが張られ
パイプ椅子も所狭しと並べられていた。
あまりご無沙汰だった所為か、歩き始めて 30 分も経つと、情けないことにへばってきて運びが緩む。やっぱり日々
継続してなくてはダメだネと、ちょっぴり反省しつつも、あとはのんびりと歩いて帰参。
歩行計によれば「しっかり-6159 歩-53 分」とあった。
記憶では 70 年代後半から 80 年代にかけてほぼ毎号のように購読していた青土社の月刊誌「現代思想」、30 年ぶり
くらいになるか、特集「うつ病新論」の 2 月号を取り寄せ、このほど通読、雑誌をほぼ隅から隅まで読み切るなどと
んと久しいことだけれど、私にとってはそうさせるだけの内容であった。
以下、参考になった論考を目次順に列挙しておく-
・立石真也「社会派の行き先-4」連載
・特集対談討議-内海健/大澤真幸「うつ病と現在性-<第三者の審級>なき主体化の行方」
・鈴木國文「<うつ>の味-精神科医療と噛みしめがいの薄れた<憂うつ>について」
・津田均「<うつ病>と<うつの時代>」
・熊木徹夫「<らしさ>の覚知-診断強迫の超克」
・村上靖彦「固有名とその病理」
・小泉義之「静かな生活-新しいことは起こらないこともありうる-アレント」
- 72 ・粥川準二「バイオ化する社会-うつ病とその治療を例として」
・柳澤田実「ノンコミュニケーション-生の流れを妨げない思考のために」
・美馬達哉「ホモ・ニューロエコノミクスの憂うつ」
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-168
6 月 26 日、同前。
曇、近郊散策、気分よろし、御飯がうまい、但し酒はうまくない、これも人生の悲喜劇一齣だらう。
蚤はあたりまへだが、虱のゐたのにはちよいと驚いた、蝿や蚊はもちろん。
......
-略- 青龍園-妙青寺境内、雪舟築くところ-を改めて鑑賞する、自然を活かす、いひかへれば人為をなるたけ加へ
ないで庭園とする点に於てすぐれてゐると思ふ、つゝじとかきつばたとの対照融和である-萩が一株もう咲いてゐた-。
....
午後はあてどもなく山から山へ歩く、雑草雑木が眼のさめるやうなうつくしさだ、粉米のやうな、こぼれやすい花を
無断で貰つて帰つた。
おばさんが筍を一本下さつた、うまい、うまい筍だつた、それほどうまいのに焼酎五勺が飲みきれなかつた!-明日
は間違なく雨だよ!ほんたうに酒の好きな人に悪人がゐないやうに、ほんたうに花を愛する人に悪人はゐないと思ふ。
改造社の俳句講座所載、井師の放哉紹介の記録を読んで、放哉は俳句のレアリズムをほんたうに体現した最初の、そ
して或は最大の俳人であると今更のやうに感じたことである。
...
「刀鋒を以て斬るは勝つ」、捨身剣だ、投げだした魂の力を知れ。
-略- 今朝はめづらしくどこからも来信がなかつた、さびしいと思つた、かうして毎日々々遊んでゐるのはほんたう
に心苦しい、からだはつかはないけれど、心はいつもやきもきしてゐる、一刻も早く其中庵が建つやうにと祈つてゐ
る。‥‥
近頃また不眠症にかかつて苦しんでゐる、遊んで、しかも心を労する私としては、それは当然たらうて。
※表題句には「緑平老に」前書あり、この句の外 7 句を記す
Photo/妙青禅寺境内の雪舟作と伝えられる庭
20110610
待つてゐるさくらんぼ熟れてゐる
―表象の森― 「江戸の紀行文」を読む
著者板坂耀子は’46 年生れ、昨年 3 月、福岡教育大教授を定年退官した、と。
曰く、芭蕉の「おくのほそ道」は名作だが、江戸時代の紀行としては異色の作であり、作為に満ちて無理をしている
不自然な作である。この異色の名作「おくのほそ道」でもって、江戸期に花開いた二千五百二余る数多の紀行が、正
当な評価も得ることなく、文学史から顧みられることなく終始してきたことに対し、まず一石を投じ、俳諧の世界で
はともかく、紀行作家たちの中では、芭蕉の影響は皆無に近く、彼やその作品と関係ない場所で、近世紀行を生み育
てる営みは行われていた、と。
その背景には、「参勤交代というシステムが、各大名を軸として中央の文化と地方の文化を上手に混ぜ合わせ-略-、
各藩毎の地方文化を、少なくともその上澄みの部分に於いては極めてハイ・レベルで均質なものとする事に成功し
た。」という中野三敏-西国大名の文事-の説を引き、旅が娯楽化し、都から鄙へという図式が崩れていったことがあ
る、と。
芭蕉より少し時代を下った江戸中期の上田秋成が、紀行「去年の枝折-コゾノシヲリ-」の中で、旅先で会った僧の意見とし
て、芭蕉に対し悪態をついているとして引用している。
- 73 「実や、かの翁といふ者、湖上の茅檐、深川の蕉窓、所さだめず住みなして、西行宗祇の昔をとなへ、檜の木笠竹の
杖に世をうかれあるきし人也とや、いともこゝろ得ね。-略- 八洲の外行浪も風吹きたゝず、四つの民草おのれおの
れが業をおさめて、何くか定めて住みつくべきを、僧俗いづれともなき人の、かく事触れて狂ひあるくなん、誠に尭
年鼓腹のあまりといへ共、ゆめゆめ学ぶまじき人の有様也とぞおもふ。」
以下、二章から十章までほぼ時代を追って、異色の芭蕉ならず、主流となった江戸紀行の作者たちを紹介していく。
名所記としての、林羅山「丙辰紀行」-1616 頃寺社縁起としての、石出吉深「所歴日記」-1664 頃実用性と正確さに徹した、博物学者貝原益軒の紀行「木曽路紀」-1685-「南遊紀事」-1689益軒の曰く、「詩のをしへは温厚和平にして、心を内にふくみてあらはさず。是、風雅の道、詩の本意なるべし。略-ことばたくみにしかざり、ことやうなる文句をつくりて、人にほめられんとするは、詩の本意にあらず。故に詩
を作る人、学のひまをつひやし、心をくるしむるは、物をもてあそんで、志をうしなふ也。かくの如くにして詩を
作るは、益なく害ありて無用のいたづら也。風雅の道をうしなへり。歌を作るも又同じ。」-文訓古学者本居宣長の「菅笠日記」-1795宣長は、見るもの聞くもののみならず、自らの心の内にわきおこる、さまざまな相反する感情まで何一つ切り捨てず、
最大限にとりいれてこの紀行を書こうとした。彼の文体は、明晰で平明で、かつ雅文の格調や品位を失うことがない。
益軒が生み出した力強さや多彩さをとりいれつつ、ひとりの個人の内面を描く古来からの日記文学とも合体し、新し
い時代の紀行文学として成立させている、と。
奇談集としての、橘南谿「東西遊記」-1795 頃古川古松軒の蝦夷紀行「東遊雑記」-1788 頃女流紀行としての、土屋斐子「和泉日記」-1809 頃江戸紀行の集約点としての、小津久足「青葉日記」
<日暦詩句>-30なんといふ駅を出発して来たのか
もう誰もおぼえていない
ただ いつも右側は真昼で
左側は真夜中のふしぎな国を
汽車ははしりつづけている
駅に着くごとに かならず
赤いランプが窓をのぞき
よごれた義足やぼろ靴といっしょに
真っ黒なかたまりが
投げこまれる
-石原吉郎詩集「サンチョ・パンサの帰郷」所収「葬式列車」より-昭和 38 年―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-167
6 月 25 日、同前。晴后曇、梅雨の或る日は、といつたやうな気分。
朝焼けはうつくしかつた-それは雨を予告するのだが-、自然のうつくしさが身心にしみいるやうだつた。
朝、青草-壺に投挿すために-5.6 本を摘んだ、露も蜘蛛もいつしよに。
燕の子が、いつのまにやら巣立つてゐる、それらしいのがをりをり軒端近く来ては囀づる。
水田もまた、いつのまにやら、いちめんの青田となつてゐる、そして蛙が腹いつぱいの声でうたうてゐる。
- 74 生きのよい鯖が一尾 8 銭だつた、片身は刺身、塩焼きにして食べた、おいしかつた、焼酎一合 11 銭、水を倍加して
飲んだがうまくなかつた。
たしかにアルコールに対する執着がうすらぎつつある、酒を飲まないのではなくて飲めなくなるらしい、うれしくも
あり、かなしくもあり、とはこのことだ。
捨てられて仔猫が鳴きつづけてゐる、汝の運命のつたなきを鳴け、といふ外ない。
新聞配達の爺さんが、明日からは魚を持つてまゐりますから買うて下さいといふ、新聞と生魚! 調和しないやうで
調和してゐると思ふ。
※記載は表題句のみ。
Photo/妙青禅寺境内にある山頭火句碑
20110601
蝿がうるさい独を守る
―四方のたより― 承前、ふたり旅 Repo-2
4 月 30 日、曇、宿で朝食を摂って津和野を発ったのは午前 9 時頃、またも国道 9 号線へ出て一路山口市へと向う。
街の中心部を通り過ぎるとやがて小郡。その小高いあたりに山頭火の其中庵がある。以前に訪れたのはかれこれ 15.
6 年前になるのだろうか、復元されたのが平成 4 年というから成ってまだまもない頃だった訳だ。
其中庵を後に、今度は国道 2 号線を走って下関市へ入り、川棚温泉へと向うため国道 491 号線へ。
Photo/其中庵前庭の句碑「母よ、うどんそなへてわたしもいたゞきまする」
川棚に着いたのはもう昼近く。此の地に庵居を求めた山頭火が、昭和 7 年 6 月から百余日滞在したという宿の木下屋
は、妙青禅寺山門下に山頭園と名を変えて今も残っている。寺の本堂裏には小ぶりながら瀟洒な佇まいの雪舟築庭。
門前の坂道を少し下った所にはモダンな建築の川棚温泉交流センター。
卵白などのアレルギーがある KAORUKO に瓦そばは無理だろうと、昼食には近くのイタリアンカフェでパスタを賞
味。
腹も満たされ、次に訪れたのがこんもりと茂った森深くにある三恵-さんね-寺。愛敬たっぷりにさまざまな表情をた
たえた石仏たちに混じってパチリ。
それからまた少し車を走らせて川棚のクスの森へ。この大楠殿には KAORUKO もさすがにビックリの態。
Photo/三恵寺境内の石仏たちと
Photo/大楠を背景に KAORUKO
これで川棚ともおさらば、山陰本線と並行するように国道 191 号線を北上するが、数キロも走らないうちに海岸近く
の小高いところにあって、遙か洋上に北九州の山脈や壱岐を見はるかす福徳稲荷神社へと立ち寄る。
Photo/海辺の山腹に建つ福徳稲荷神社
次に目指すは 2000 年の完成以来、山口県下で人気の観光スポットになったという角島大橋。響灘の海岸沿いをしば
らく北上すると、やがて191 号と分かれて県道275 号となるが、それも5 分ばかり走って左へ折れると、全長1780m、
中ほどにアップダウンのあるラインが碧い洋上に浮かんでいるのだが、折悪しく天気は雨混じりの荒れ模様。
車から降りてゆっくり眺めるほど時間もないから、ただ角島へと渡って折り返すのみ。
Photo/雨にけむる角島大橋
あとは長門の仙崎を目指してひた走る。仙崎の港に着いたのはかれこれ午後 4 時半頃だったろう。
今夜の宿のある青海島へ渡る前に、金子みすゞの記念館に立ち寄る。いまどきの子どもにとってみすゞの詩はお馴染
だ、KAORUKO も小 3 の教科書に出てきた「不思議」ですでにご対面している。
「私は不思議でたまらない、
黒い雲からふる雨が、
- 75 銀にひかっていることが。」
「私は不思議でたまらない、
青い桑の葉たべている、
蚕が白くなることが。」
「私は不思議でたまらない、
誰もいじらぬ夕顔が、
ひとりでぱらりと開くのが。」
「私は不思議でたまらない、
誰にきいても笑ってて、
あたりまえだ、といふことが。」
Photo/みすゞ記念館の金子文英堂
館内を一巡して、金子文英堂の玄関を出ると、真向かいに「みすゞこうぼう」の看板があったので、そろりと入って
みると、60 年配のおじさんが独り、ぼそっと座っていた。
もりいさむというその御仁、みすゞの詩ばかり 90 編も曲にのせて唄っているというフォークシンガーだそうで、話
をしているうちに興が乗ったか、店の奥に設えた小さな stage で一曲ご披露していただいたので、お礼に彼の CD
を買い求めてサヨナラした。
Photo/みすゞの詩を唄うへんな小父さんもりいさむ氏と
橋を渡って青海島の宿へ着いたのが午後 6 時過ぎ。此処では夕食の予約をしていないので、ひとしきり寛いでからま
たぞろ仙崎の町へと車で出かける。アレルギー体質の所為でとかく偏食のKAORUKO には寿司なんぞがよかろうと、
港に面した店で舌鼓。
翌朝、小さな旅のちょっとしたアクセントにと、船で青海島めぐりをするべくまたも仙崎の港へ。海からぐるりと青
海島を一周するコースで、所要時間が 90 分、大人 2200 円と小学生 1100 円、計 3300 円也。乗船待ちのあいだに開
けたばかりの土産物屋の軒先で名代の蒲鉾を買い求めた。
雨まじりの風が吹きつける荒れ模様の天候のなか、定員 30 人ばかりの小さな船が島を廻って外海へとピッチをあげ
る。そそり立つような断崖、数々の奇岩や洞窟など、次から次と経巡って船は走る。その景観と船の運びのリズムが
ずいぶんと変化に富んでいた所為か、心配された船酔いもなく KAORUKO は元気にタラップを降りた。
Photo/青海島奇岩の一、仏岩
このぶんならこのまま帰路に向かわず、昨日立ち寄れなかった油谷の棚田へと遠回りしても大丈夫とみて、国道 191
号を引き返す。
油谷の東後畑あたりは、もう 11 時を過ぎているというのに深い霧の中、棚田の絶好ポイントも視界はまったく霞ん
でいるばかりで、わざわざ来たのにこれでは拍子抜け。このまま立ち去る訳にも行かず、狭い農道を海岸線の方へと
さらに降りていけば、霧も切れてきて、やっと棚田の景色とご対面が叶い、不承々々ながらもとりあえずは納得。
Photo/油谷東後畑の棚田
あとは一目散に帰路をとる。191 号線から美祢線の 316 号線へ、美祢 IN から中国道、山口 JC から山陽道と、途中
三度のトイレ休憩を挟んで、530km 余りをひたすら走らせるも、案の定、三木 JC の手前あたりから渋滞の憂きの目
に。挙げ句、宝塚トンネルまでの渋滞を抜けるのに 1 時間半を要したものの、午後 7 時前には無事三日ぶりのご帰還
となった。
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-166
6 月 24 日、同前。やうやく晴となつた。
妹から心づくしの浴衣と汗の結晶とを贈つてくれた、すなほに頂戴する。
- 76 血は水よりも濃いといふ、まつたくだ、同時に血は水よりもきたない。
小串へ出かけて、予約本二冊を受取る、俳句講座と大蔵経講座、これだけを毎月買ふことは、私には無理でもあり、
...........
贅沢でもあらう、しかし、それは読むと同時に貯へるためである、此二冊を取り揃へて置いたならば、私がぽつかり
死んでも、その代金で、死骸を片づけることが出来よう、血縁のものや地下の人々やに迷惑をかけないで、また、知
人をヨリ少く煩はして、万事がすむだらう-こんな事を考へて、しかもそれを実行するやうになつただけ、私は死に
近づいたのだ-。
近来、水-うまい水を飲まない、そのためでもあらうか、何となく身心のぐあいがよろしくない、よい水、うまい水、
....
水はまことに生命の水である、ああ水が飲みたい。
....
蝿取紙のふちをうろうろしてゐる蝿を見てると、蝿の運命、生きもののいのち、といつたやうなものを考へずにはゐ
られない。
終日終夜、湯を掘つてゐる、その音が不眠の枕にひびいて、頭がいたんできた。
........
今日は書きたくない手紙を三通書いた、書いたといふよりも書かされたといふべきだらう、寺領借入のために、いひ
かへれば、保証人に対して私の身柄について懸念ないことを理解せしめるために、-妹に、彼に、彼女に、-私の死
病と死体との処理について。-
鬱々として泥沼にもぐつたやうな気分だ、何をしても心が慰まない、むろん、かういう場合にはアルコールだつて無
力だ、殊に近頃は酒の香よりも茶の味はひの方へ私の身心が向ひつつあることを感じてゐる-それは肉体的な、同時
に、精神的なものに因してゐると思ふ-。
※この日句作なし、表題句は 6 月 21 日所収
「書きたくない三通の手紙」-その相手、妹は防府近在大道の富農家に嫁いだという 3 歳下のシズのこと、彼は息子
の健だが、この頃は秋田県の鉱山専門学校に在籍していた筈、そして彼女はむろん別れた妻咲野、熊本市内で二人で
はじめた文具屋「雅楽苦多」を独りで営んでいる。
Photo/妙青禅寺の鐘撞堂
20110527
炎天の影ひいてさすらふ
―四方のたより― 炭鉱の記録画「世界の記憶」へ
..
「世界記憶遺産」というのもあったんだ。不明にして知りませんでした。
昨日の新聞紙面に載った、狭い坑道で働く半裸姿の男女を描いた絵。
半世紀を炭鉱で働いたという山本作兵衛-1892~1984-氏が、その記憶をたよりに描きつづけた墨画や水彩画が 1000
点以上、絵の余白にはどれも細かな筆跡で解説文が添えられているという。
その作品の内 584 点が田川市石炭歴史博物館などに寄贈され、福岡県有形民俗文化財に指定されているのだが、この
..
たび日本初の「世界記憶遺産」に登録されたというのだ。
ならば、世界の記憶遺産とは、他にどんなものが居並んでいるか。
英の「マグナカルタ」、仏の「人権宣言」、「グーテンベルクの聖書」、「ニューベルンゲンの歌」、ベートーヴェ
ンの「交響曲第 9 番自筆譜」、イプセンの「人形の家筆写本」、「アンネの家」などなど。
その他、「英国カリブ領の奴隷達の登録簿(1817-1834)」や「ベルゼンの癩病記録文書」、韓国の「訓民正音解例本」、
カンボジアの「ツゥールスレン虐殺収容所博物館」などまでも網羅されている。
※写真は「田川市ホームページ」より拝借転載
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-165
6 月 23 日、同前。
- 77 空模様のやうに私の心も暗い、降つたり照つたり私の心も。‥
.......
....
ふりかへらない私であつたが、いつとなくふりかへるやうになつた、私の過去はただ過失の堆積、随つて、悔の連続
脱多、同一の過失、同一の悔をくりかへし、くりかへしたに過ぎないではないか、ああ。
.............
払ふべきものは払つた、といつてはいひすぎる、ほがらかになつたやうである。
多少、ほがらかになつたやうである。
※この日句作なし、表題句は 6 月 19 日所収
Photo/妙青禅寺の山門と石段- 11.04.30 撮影20110525
ひとりをれば蝿取紙の蝿がなく
―四方のたより― <脱成長>と<ポスト開発>
「経済成長なき社会発展は可能か?」セルジュ・ラトゥーシュ著、中野佳裕訳
3.11 の大震災以後、日本中が福島原発事故のもたらす深刻な恐怖下にある事態のなか、折しも本書を繙くのは時宜に
適ったものとは思われつつも、じっくりと読み進めるのはかなりの根気を要するものであった。
本書は 4 つの部分から成っている。第 1 部と第 2 部は、04 年と 07 年にそれぞれフランスで刊行されたラトゥーシュ
の二著を合本翻訳されたもの。短かく挿入的な第 3 部は仏雑誌「コスモポリティーク」による著者へのインタビュー
記事-06-。そして訳者による詳細なラトゥーシュ解説が第 4 部といった構成。
第 1 部<ポスト開発>という経済思想―経済想念の脱植民地化から、オルタナティブ社会の構築へ
序章 <ポスト開発>と呼ばれる思想潮流
第 1 章 ある概念の誕生、死、そして復活
第 2 章 神話と現実としての発展
第 3 章 「形容詞付き」の発展パラダイム(社会開発、人間開発、地域開発/地域発展、持続可能な発展、オルタ
ナティブな開発)
第 4 章 発展主義の欺瞞(発展概念の自文化中心主義、現実に存在する矛盾―実践上の欺瞞)
第 5 章 発展パラダイムから抜け出す(共愉にあふれる〈脱成長〉、地域主義)
結論 想念の脱植民地化
第 2 部 <脱成長>による新たな社会発展―エコロジズムと地域主義
序章 われわれは何処から来て、何処に行こうとしているのか?
第 1 章 <脱成長>のテリトリー(政治家の小宇宙における未確認飛行物体、<脱成長>とは何か?、言葉と観念の
闘い、<脱成長>思想の二つの源泉、緑の藻とカタツムリ、維持不可能なエコロジカル・フットプリント、人口抑制と
いう誤った解決法、成長政治の腐敗)
第 2 章 <脱成長>-具体的なユートピアとして(<脱成長>の革命、穏やかな<脱成長>の好循環―八つの再生プロ
グラム-再評価する、概念を再構築する、社会構造を組み立て直す、再分配を行う、再ローカリゼーションを行う、
削減する、再利用する/リサイクルを行う、地域プロジェクトとしての<脱成長>-地域に根差したエコロジカルな民
主主義の創造、地域経済の自律性を再発見する、<脱成長>的な地域イニシアチブ-縮小することは、退行を意味する
のか?、南側諸国の課題、<脱成長>は改革的なプロジェクトか、それとも革命的なプロジェクトか?)
第 3 章 政策としての<脱成長>(<脱成長>の政策案、<脱成長>社会では、すべての人に労働が保障される、<脱
成長>によって労働社会を脱出する、〈脱成長〉は資本主義の中で実現可能か?、<脱成長>は右派か、それとも左派
か?、<脱成長>のための政党は必要か?)
結論 <脱成長>は人間主義か?
- 78 第 3 部 インタビュー「目的地の変更は、痛みをともなう」
第 4 部 日本語版解説―セルジュ・ラトゥーシュの思想圏について(中野佳裕)
1. セルジュ・ラトゥーシュの研究経歴と問題関心(フランス社会科学におけるラトゥーシュの位置付け、ラトゥ
ーシュの思想背景、科学認識論プロジェクト―経済想念の解体作業)
2. 解題『〈ポスト開発〉という経済思想』(開発=西洋化―われわれの<運命>の問題として、発展パラダイムの
超克―インフォーマル領域の自律性)
3. 解題「<脱成長>による新たな社会発展』(<脱成長>論――その歴史と言葉の意味、エコロジカルな自主管理運
動としての<脱成長>論)
4. 日本におけるラトゥーシュ思想の位置付け
5. 結語 日本社会の未来のために―平和、民主主義、〈脱成長〉
―今月の購入本―
エルンスト.H.カントローヴィチ「王の二つの身体-上」ちくま学芸文庫
エルンスト.H.カントローヴィチ「王の二つの身体-下」ちくま学芸文庫
03 年刊行文庫版の第 2 刷が昨秋発刊され、ようやく手に入る。
亀井孝編「日本語の歴史-別巻-言語史研究入門」平凡社ライブラリー
中川真編「これからのアートマネージメント」フィルムアート社
板坂耀子「江戸の紀行文-泰平の世の旅人たち」中公新書
佐藤春夫他「方法の実験-全集現代文学の発見-第 2 巻」学藝書林
大岡昇平他「存在の探求-下-全集現代文学の発見-第 8 巻」学藝書林
野間宏他「青春の屈折-下-全集現代文学の発見-第 15 巻」学藝書林
学藝書林の上記 3 冊は 60 年代に編まれたシリーズの新装版、中古書
萩尾望都「残酷な神が支配する」-全 10 巻-小学館文庫
その昔、光瀬龍の「百億の昼と千億の夜」は、萩尾望都の劇画でも読んだことがあった。この 10 巻本は吉本ばな
なの薦めにのせられて。
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-164
6 月 22 日、同前。
晴曇さだめなし。
小串へゆく、もう夾竹桃が咲いてゐた、松葉牡丹も咲いてゐた。
あんまり神経がいらだつので飲んだ、そして飲みすぎた、当面の興奮はおさまつたが、沈衰がやつてきた、当分また
苦しみ悩む外ない。
笑へない喜劇、泣けない悲劇、それが私の生活ではないか。
寺領借入の交渉が頓挫した、時々一切を投げだしたいやうな気分になる、こんなにまでして庵居しなければならない
のか。‥‥
子供はほんたうに騒々しい、耳をふさいでゐた。
※表題句の外、2 句を記す
Photo/山頭火が長逗留した山頭園のすぐ坂下に建つ、コルトーゆかりの音楽ホールを併設するモダンな外観の川棚
の杜-川棚温泉交流センター-が Open したのは昨年 1 月。
20110510
- 79 いたゞきは立ち枯れの一樹
―四方のたより― J.P.デュピュイの「プロジェクトの時間」
過去と未来の閉じた回路である時間―未来はわれわれの過去の行為から偶然に生み出されるが、その一方で、われわ
れの行為のありかたは、未来への期待とその期待への反応によって決まるのである。
「大惨事は運命として未来に組み込まれている。それは確かなことだ。だが同時に、偶発的な事故でもある。つまり、
たとえ前未来においては必然に見えていても、起こるはずはなかった、ということだ。‥‥たとえば、大災害のよう
な突出した出来事がもし起これば、それは起こるはずはなかったのに起こったのだ。にもかかわらず、起こらないう
ちは、その出来事は不可避なことではない。したがって、出来事が現実になること―それが起こったという事実こそ
が、遡及的にその必然性を生み出しているのだ。」
もしも―偶然に―ある出来事が起こると、そのことが不可避であったように見せる、それに先立つ出来事の連鎖が生
み出される。物事の根底にひそむ必然性が、様相の偶然の戯れによって現われる、というような陳腐なことではなく、
....
...
これこそ偶然と必然のヘーゲル的弁証法なのである。この意味で、人間は運命に決定づけられていながらも、おのれ
..........
の運命を自由に選べるのだ。
環境危機に対しても、このようにアプローチすべきだと、デュピュイはいう。大惨事の起こる可能性を「現実的」に
見積もるのではなく、厳密にヘーゲル的な意味で<大文字の運命>として受け容れるべきである―もしも大惨事が起こ
ったら、実際に起こるより前にそのことは決まっていたのだと言えるように。このように<運命>と(「もし」を阻む)
自由な行為とは密接に関係している。自由とは、もっと根源的な次元において、自らの<運命>を変える自由なのだ。
つまりこれがデュピュイの提唱する破局への対処法である。まずそれが運命であると、不可避のこととして受けとめ、
そしてそこへ身を置いて、その観点から(未来から見た)過去へ遡って、今日のわれわれの行動についての事実と反
する可能性(「これこれをしておいたら、いま陥っている破局は起こらなかっただろうに!」)を挿入することだ。
―S.ジジェク「ポストモダンの共産主義」P247-248 より
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-163
6 月 21 日、同前。
昨夜来の風雨がやつと午後になつてやんだ、青葉が散らばり草は倒れ伏してゐる。
水はもう十分だが、この風では田植も出来ないと、お百姓さんは空を見上げて嘆息する。
私にはうれしい手紙が来た、それはまことに福音であつた、緑平老はいつも温情の持主である。
....
自分でも気味のわるいほど、あたまが澄んで冴えてきた、私もどうやら転換するらしい、―左から右へ、―酒から茶
.
へ!
何故生きてるか、と問はれて、生きてるから生きてる、と答へることが出来るやうになつた、此問答の中に、私の人
生観も社会観も宇宙観もすべてが籠つてゐるのだ。
※表題句の外、「花いばら、こゝの土とならうよ」を含む 4 句を記す
Photo/川棚温泉から東へ 1km 程、閑静な山腹にある三恵寺の山門
20110509
笠ぬげば松のしづくして
―四方のたより― ふたり旅 Repo-1
4 月 29 日、天気晴朗、午前 9 時過ぎ出発。
- 80 玉出~池田間の阪神高速はスムーズに流れたが、中国道は池田入口から渋滞、宝塚のトンネルを抜けるまで 1 時間余
りを要し、社 PA でトイレ休憩。
中国道は、山陽道に比べ、道路面が荒れ傷みが進んでいるように思われる。次の休憩地は七塚原 SA だったか、いず
れも車と人で溢れている。レストランでのんびり昼食などとても望めそうもないので、腹の足しになりそうなものを
買い求め、またぞろ車を走らせる。
そのまま走れば、宿泊予定の津和野には 3 時半過ぎには着いたのだろうが、気分を変えて、山陰へ抜けるべく千代田
JCT から浜田道へと方向転換。日本海に沿って国道 9 号線を走る。その国道 9 号、しばらくは海沿いがつづくが益田
市からは山間部へと分け入って山口市へと連なっていく。
遠回りしたので津和野に着いたのは午後 4 時過ぎ。ひとまず旧城下を通り抜けて、津和野城の山裾にある太鼓谷稲成
神社へ。
Photo/太鼓谷稲成神社全景と、社殿を背にして
津和野の城下町、保存地域の殿町の堀割には無数の鯉が泳いでいるが、これがなべて大きく些か気味が悪いほどにメ
タボときているから、KAORUKO は怖がって近寄ることもできないでいた。
Photo/堀割に泳ぐ大きな鯉たち
宿は旧城下界隈から少し離れた町外れにある民宿のごとき「若さぎの宿」、さっそく内風呂をもらって、それから夕
食。
食後の小一時間ほど、黄昏時の散策と洒落込んでみたが、宿で借りた婦人ものの下駄で歩くのに疲れたとみえて、
KAORUKO のほうはなんだか精彩がない。此方もこちらで長い運転の疲れがどっと出てきて、早めの就寝となった。
<日暦詩句>-29
生きていることが
たえまなしに
僕に毒をはかせる
いやおうなさのなかで
僕が殺してきた
いきものたちの
なきがらを沈めながら
いまでは僕も
神のように
僕自身をゆるしているけれど
まもなく
あの暗い天の奥から
僕をめがけて
ふつてくる雪が
邪悪な僕の
まなこをとざすとき
僕になきがらが
なきがらだけの重みで
そのまましずかに
沈んでいくように
―会田綱雄詩集「鹹湖-カンコ-」所収「鹹湖」
- 81 -
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-162
6 月 20 日、同前。
雨、梅雨もいよいよ本格的になつた、それでよすい、それでよい、終日閉ぢ籠つて読書する、これが其中庵だつたら、
どんなにうれしいだらう、それもしばらくのしんぼうだ、忍辱精進、その事、その事。
雨につけ風につけ、私はやつぱりルンペンの事を考へずにはゐられない、家をもたない人、保護者を持たない人、そ
して食慾を持ち愛慾を持ち、一切の執着煩悩を持つてゐる人だ!
..
ルンペンは固より放浪癖にひきずられてゐるが、彼等の致命傷は、怠惰である、根気がないといふことである、酒も
........
飲まない、女も買はない、賭博もしない、喧嘩もしない、そしてただ仕事がしたくない、といふルンペンに対しては
長大息する外ない、彼等は永久に救はれないのだ。
今日も焼酎 1 合 11 銭、飛魚 2 尾で 5 銭、塩焼きにしてちびりちびり、それで往生安楽国!
※表題句の外、8 句を記す
Photo/復元保存されている山口市小郡の其中庵
20110505
梅雨の満月が本堂のうしろから
―四方のたより― スローな一日
「新しきものの真の新しさを捉える唯一の方法とは、古きものの「永遠」のレンズを通して世界を見ることだ。実際コ
ミュニズムが「永遠の」思想であるのならば、それはヘーゲル哲学における<具体的普遍性>として機能する。どこにで
もあてはまる抽象的で普遍的な特質というのではなく、新しい歴史状況がめぐりくるごとにモデルチェンジされるべ
きだという意味で、永遠なのである。」
「資本主義のパラドクスは、実体経済といあ赤ん坊を健やかに育てながら、金融投機という汚水は捨てられないこと
にあるのだ。」
「古典様式は神秘という「秘匿されたもの」を、「悟性的な」単に「昇華された」自然において描き出そうとし、マニエリ
スムは「秘匿されたもの」を、「寓意的な」「イデア」のうちに往々にして「デフォルメされた」自然において力を発現せし
ようとする。
かくて形而上学的意味でも、二つの相異なった、とはいえ存在論的関連においてはいずれもそれなりに存在関連的な、
人間性の原身振り-ウルゲベルデ-と関わり合うのである。そのいずれもが―それぞれ相異なるあり方で―深淵的なも
のに関連づけられている。
古典主義者は神をその本質-エッセンツ-において描き出し、マニエリストは神をその実存-エクジステンツ-において描
き出す。
古典様式の危険は硬化であり、マニエリスムの危険は解体である。
マニエリスムなき古典様式は擬古典主義に堕し、抵抗としての古典様式なきマニエリスムは衒奇性へと堕するのであ
る。」
さすがに今日は出かける当て処とてなく、日なが一日まったりと読書に勤しむ。
S.ジジェクの「ポストモダンの共産主義」と G.R.ホッケの「迷宮としての世界」、まったく分野も異なる 2 冊を、気
分転換よろしく並行して読んでみているが、内容が内容だけに進捗具合は遅々としたものだ。
<日暦詩句>-28
- 82 栂の杖にささへられ
ひとつの伝不詳の魂がさすらっていく
影は巌にも水のうへにも落ち
硬い時雨のそそぐ田舎-プロヴァンス-にきて
その魂の鴫のにはかに羽ばたく。
―安西均詩集「花の店」所収「西行」-昭和 30 年
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-161
6 月 19 日、同前。
曇、時々照る、歩けば暑い、汗が出た、田部、岡林及、岡町行乞、往復 6 里、少々草臥れた。
朝の早いのは、私自身で感心する、今日も 4 時起床、一浴、読経回向、朝食、―6 時前に出立して 3 時過ぎにはもう
戻つてきた、山頭火未老!
-略- 途中、菅生のところどころにあやめが咲いてゐた、「あやめ咲くとはしほらしや」である、山つつじを折つて
きた、野趣-山趣?-横溢、うれしい花である。-略笠から蜘蛛がぶらさがる、小さい可愛い蜘蛛だ、彼はいつまで私といつしよに歩かうといふのか、そんなに私といつ
しよに歩くことが好きなのかよ。
今夜は行乞所得で焼酎を買ふことが出来た-十方の施主、福寿長久であれ、それにしても浄財がそのままアルコール
となりニコチンとなることは罰あたりである-、そしてほろほろ酔ふた-とろとろまではゆけなかつた、どろどろへは
断じてゆかない-。
※表題句の外、6 句を記す
Photo/川棚温泉近く豊浦町黒井菖蒲園のあやめ
20110504
霽れて暑い石仏ならんでおはす
―四方のたより― 箕面の滝道で
選挙が絡んだ所為で、彼岸のときに墓参に行きそびれたままだったのを、やっと昨日の午後に。
その足で、昨年から、この時期、川床を始めたという箕面へと足を伸ばし、滝道を歩く。
新緑の楓群は陽射しに照り映え色鮮やか、その中に山がのこのあたりゆえか、ぽつりぽつりと真つ赤に咲いた椿の花
に眼を奪われた。
滝でのひと休みを挟んで往復2時間、駅前の小粋なカフェで珈琲タイム、此処の珈琲がソフトだけれど美味しかった。
<日暦詩句>-27
旅人が草になげた仮面は光る
物質のめまいすずろぐ谷
するどい沙漠の匂いをちらす木の下に
流刑人の帽のような果実が
投身する その水しぶき
巌の水よ ゆうべの底にかがやき
いなずまは遠い熱情のきざはしもて
橄欖石の肌にこすりつける
ひといろの楔形文字を
- 83 きのう果てた嵐の遺書を
起ち そしてあゆめ 時よ
くちずけせよ 朝の岸辺に わがしかばねよ
えたいのしれぬ愛
それこそ「明日」なのだ
-谷川雁詩集より「わが墓標のオクターヴ」-昭和 35 年―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-160
6 月 18 日、同前。
快晴、梅雨季には珍らしいお天気でもあるし、ちようど観音日でもあるので、狗留孫山へ拝登、往復 6 里、山のよさ、
水のうまさを久しぶりに味つた。
道を間違へて、半里ばかり岨路を歩いたのは、かへつてうれしかつた、岩に口づけて腹いつぱい飲んだ水、そのあた
りいちめんにただようてゐる山気、それを胸いつぱい吸いこんだ、身心がせいぜいした。
狗留孫山修禅寺、さすがに名刹だけあるが、参詣者が多いだけそれだけ俗化してゐる、参道の杉並木、山門の草葺、
四面を囲む青葉若葉のあざやかさ、水のうつくしさ、―それは長く私の印象として残るだらう。
田植を見て「土落し」を思ひだした、それは私が少年時代、郷里の農家に於ける年中行事の一つであつた、一日休ん
で田植の泥を落すのである、何といふ、なつかしい思出だらう。
昨日も今日もサケナシデー、すこし切ない。
近頃、ひとりごとをいふやうになつた、年齢の加減か、独居のせいか、何とかいふ支那の禅師の話を思ひだしておか
しかつたり、くやしかつたりしたことである。
※表題句の外、10 句を記す
Photo/狗留孫山修禅寺の山門
〃 /祖師堂内からの遠望
〃 /参詣道中にある岩谷の十三仏
20110503
さみしいからだをずんぶり浸けた
―四方のたより― 国芳展を観る
昨日、連休の谷間の 2 日、旅から帰った KAORUKO にとっては 4 日ぶりの登校日、此方は昼前から出かけ、大阪市
立美術館で開催中の国芳展へ。
ごった返すほどというほどの人出ではないがかなりの盛況、ものが版画という小さな平面だけに、なかなか進まぬ列
に従って順繰りに鑑賞するのは相当な根気を要する。
途中、会場なかほどにある休憩所で一息入れたのも併せ、最後の shop まで辿り着くのに一時間半はかかったか。
400 に余る作品を前後期に分けて展示するというこの催し、後期は連休明けの 10 日からだそうだが、もう一度足を
運ぶ気力は起こりそうもないので、このたびの展示作品すべてを網羅した記念誌-2500 円也-を購って美術館をあとに。
昼下がりの新世界の横丁は人人の波、どの店も客でいっぱい、名高い串カツ屋などでは順番待ちの列が狭い路地を埋
めていた。
<日暦詩句>-26
もう何日もあるきつづけた
- 84 背中に銃を背負い
道は曲がりくねって
見知らぬ村から村へつづいている
だがその向こうになじみふかいひとつの村がある
そこに帰る
帰らねばならぬ
目を閉じると一瞬のうちに想いだす
森の形
畑を通る抜路
屋根飾り
漬物の漬け方
親族一統
削り合う田地
ちっぽけな格式と永劫変らぬ白壁
柄のとれた鍬と他人の土
野垂れ死した父祖たちよ
追いたてられた母達よ
そこに帰る
見覚えある曲り角から躍りだす
いま始源の遺恨をはらす
復習の季だ
その村は向うにある
道は見知らぬ村から村へつづいている
-黒田喜夫詩集「不安と遊撃」所収-昭和 34 年-「空想とゲリラ」より
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-159
6 月 17 日、同前。
梅雨日和、終日読書、さうする外ないから。
アイバチといふ魚を買つた、10 銭、うまくていやみがなかつた-ナマクサイモノを食べたのは、何日目だつたかな-、
そしてうどん玉二つ、5 銭、これもおいしかつた、今晩は近来の御馳走だつた。
このあたりも、ぼつぼつ田植がはじまつた、二三人で唄もうたはないで植ゑてゐる、田植ゑは農家の年中行事のうち
で、最も日本的であり、田園趣味を発揮するものであるが、此頃の田植は何といふさびしいことだらう、私は少年の
頃、田植の御馳走-煮〆や小豆飯や-を思ひだして、少々センチにならざるを得なかつた、早乙女のよさも永久に見
られないのだらうか。-略土地借入には当村在住の保証人二名をこしらへなければならないので、嫌々ながら、自己吹聴をやり自己保証をやつ
てゐるのだが、さてどれだけの効果があるかはあぶないものだ、本人が本人の事をいふほどアテになるものはなく同
時にアテにならないものもない。
一も金、二も金、三もまた金だ、金の力は知りすぎるほど知つてゐるが、かうして世間的交渉をつづけてゐると、金
の力をあまり知りすぎる!
..
..
私の生活は-と今日も私は考へた-搾取といふよりも詐取だ、いかにも殊勝らしく、或る時は坊主らしく、或る時は
俳人らしくカムフラーヂユして余命を貪つてゐるのではないか。
- 85 法衣を脱ぎ捨ててしまへ、俳句の話なんかやめてしまへよ。
それにしても、やつぱりさみしい、さみしいですよ。
※表題句の外、7 句を記す
Photo/川棚温泉近くにある豊浦リフレッシュパークに咲き乱れる菜の花
20110429
水は澄みわたるいもりいもりをいだき
―四方のたより― ふたり旅
この一月半ばかりで少々ストレスを溜め込んだらしい。
何処か、小さな旅をしたくなった。
ところが、連合い殿にはこの連休も思うにまかせずお休みとはいかぬらしい。
で、4 月に 4 年生となった娘と、ふたり旅をすることになった。
もう 10 歳になるし、この二年で背丈は伸びに伸びて 142 ㎝にまでなったものの、まだ幼さばかりが先立つ子どもだ。
そんな娘と、もうすぐ 67 歳になる老親の、ふたり旅。
おそらく、今後とも、そんな機会は訪れないだろう。
彼女の、記憶に残る、旅をしよう。
<日暦詩句>-25
≪根失い毬となってころげ
風のなかに生きる沙漠の木≫
海をのんで
脳の皺かたどり 化石した鉱滓の陸
さらに液状の鉱滓-ノロ火の舌抜かれつつ散乱し
陽なく 陽炎もえる
嘔吐しきれぬトロッコを捨て 誰もいないが
製鉄所裏のそこには
いつも僕を抜けでた僕がいる
黄いろく風が吹く日
鎔鉱炉はスフィンクスに変り
頭をふると沙漠の木が走る
-関根弘詩集「絵の宿題」所収「沙漠の木」より
―今月の購入本―
セルジュ・ラトゥーシュ「経済成長なき社会発展は可能か?」作品社
鎌田東二.他「モノ学の冒険」創元社
グスタフ・ルネ・ホッケ「迷宮としての世界-上-マニエリスム美術」岩波文庫
グスタフ・ルネ・ホッケ「迷宮としての世界-下-マニエリスム美術」岩波文庫
加藤隆「新約聖書の<たとえ>を解く」ちくま新書
佐藤泰志「海炭市叙景」小学館文庫
- 86 ―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-158
6 月 15 日、同前。
午前は晴、午後は雨、これでとうやら本格的な梅雨日和となつた訳だ、空梅雨ではあるまいかと心配してゐた農夫の
顔に安心と喜悦との表情が浮んでゐる、私も梅雨季は梅雨季らしい方を好いてゐる、行乞が出来ないので困ることは
困るけれど。-略午前は松谷の松原を散歩した、一句も拾へなかつたが、石を一つ拾つた。
昨日今日はまことにきゆうきゆううつうつである、酒の代りにがぶがぶ茶を飲み、たびたび湯にはひつた。‥‥
-略ここに滞留してゐて、また家庭といふもののうるさいことを見たり聞いたりした、独居のさびしさは群棲のわずらは
しさを超えてゐる。
このあたりは、ほんたうにどくだみが多い、どくだみの花が家をめぐり田をかこんで咲きつづいてゐる。
自殺した弟を追想して悲しかつた、彼に対してちつとも兄らしくなかつた自分を考へると、涙がとめどもなく出てく
る、弟よ、兄を許してくれ。
昨日も今日も連句の本を読む、連句を味ふために。
どうやら「其中庵の記」が書けそうになつた。
だんだん心境が澄みわたることを感じる、あんまり澄んでもいけないが、近来あんまり濁つてゐた。
清澄、寂静、枯淡、さういふ世界が、東洋人乃至日本人の、つゐの棲家ではあるまいか-私のやうな人間には殊に-。
柿、栗、筍、雑木、雑草、杜鵑、河鹿、蜩、等々々。
いづれも閑寂の味はひである。
さみしい夜が、お隣の蓄音機によつて賑つた、唐人お吉、琵琶歌、そして浪花節だ、やつぱりおけさ節が一等よかつ
た。
※表題句の外、3 句を記す
Photo/川棚温泉松谷にある若宮神社
20110428
冴える眼に虫のいろいろ
-四方のたより- 選挙の公費負担と収支報告
なんと 40 日ぶりの言挙げとなってしまった。
例年 3 月は、いくつかの確定申告と身内の会社の決算準備に追われ、ブログの更新も滞りがちになるのだが、このた
びはそんな事情に加えて、或る候補者の選挙-大阪府議選-にかかずらったために、とうとうこんな仕儀になってしま
ったのだ。
まず選挙準備に 2 週間もなかったのだから、破天荒もいいところ、寝る暇もあらばこそ、こんな無茶なスケジュール
はない。おかげで告示日を迎えた朝、すでに極点に達したかと思うほどに疲労困憊だった。
急遽集めた僅か 5 人のウグイスたちと有償の街宣車用運転手、それに日によって増減甚だしいが延べ 10 人前後の初
老ボランティア軍団-、といったところが 9 日間の選挙を支えた実働部隊だったのだが、そんな経験もまったく乏し
いこの不揃いの兵士たちも、選挙戦後半ともなってくると逞しく当千の強者たちに変貌してくるのだから、この騒擾
劇、ただバカバカしいだけの熱狂というわけでもない。ひと握りの素人集団ながら、よくぞここまで闘えり、と彼ら
に賛辞を捧げてもよい 9 日間ではあった、と思う。
一炊の夢、闘いは終えても、後始末の務めは残る。収支報告などという事務は、精確を期そうとすればするほどに煩
わしさは増す。
- 87 100 円、200 円の少額のレシートから数十万の額が記された大小 200 枚ほどに及ぶ領収書を精査仕訳し、最終的に仕
上がったその報告書は、領収書写しの綴りも含め、計 48 頁に及ぶ厚手のものとなった。
だが、それにしても、公職選挙法というもの、どうせ政治家たちのご都合が端々に込められた自家撞着だらけのもの
なのだろうが、こんな奇妙奇天烈なものはない。
公営選挙と称され、選挙運動のための自動車や推薦葉書、選挙用ポスターなど、選挙費用の一部公費負担制度が導入
されたのは、小選挙区・比例代表制へと変わった 1994-H4-年の改正公職選挙法からだが、今に至るもこの公費負担制
度と収支報告のありようが、いったいどういう論理で貫かれているのか、面食らってしまうばかりなのだ。
このたび私が関わった候補者は、街宣車に関する費用を公費負担の請求せずとしたのだが、この姿勢が却って収支報
告を複雑なものにする羽目と相成った。
たとえば簡単な例で街宣車のガソリン代、この費用は狭い選挙区内を毎日走り回ったとてほぼ 1 万円前後にしか過ぎ
ないが、この僅かな額を公費負担とするには、ガソリンスタンドの会社と所定の契約書を交わし、尚かつ請求は売り
手側のほうからなされなければならないという、彼らにとっては面倒なばかりの業者泣かせの制度だ。
これを公費負担とせず、給油のつど現金で払ったのだから、私は当然の如くこれを収支報告に記載した。ところが選
管の職員に言わせると、公選法第 159 条にこの計上は禁止されているから削除せよ、と曰う。
さらには、当方は街宣車をその看板や拡声器と込みでレンタルし、これを公費請求もしなかったものだから、その全
額を計上していたのだが、公費負担の対象とされている車両のレンタル料分は記載するな、と仰る。
要するに、公費負担の対象となっているモノについては、此方がこれを請求せず、たとえ自弁で対処したとしても収
支報告に計上してはならないのだ。
ところが他方で、ポスターの作成・印刷代については、公費負担であるのに、その単価・枚数などの詳細を記載しなけ
ればならないなど真逆の規定があるから、当然、収支報告なるものはバランスを欠き、選挙の実体を映すものとはな
らない。
抑も公費負担のものもすべて収支報告に明示・記載されるような制度であってこそ、選挙の実体を映すガラス張りの
収支報告となるのだが、公選法はまったくそのようにはなっておらず、此方が精確を期せば期すほど、奇妙な報告書
とならざるをえないのだ。
<日暦詩句>-24
祈らうとひざまづくと
背後から襟がみ掴まれ蹴つとばされて
俺は火口の一つにつきおとされた
耳もとを過ぎる熱気が夢の膜を払いのけ
俺は落下と速度の悲しみに気付き始める
青い煙のなかを落ちてゆく
卵
不安定な楕円
俺はいま位置をもたない
-山本太郎詩集「かるちえ・じやぽね」-昭和 29 年刊-より
―3 月の購入本―
亀井孝編「日本語の歴史-7-世界のなかの日本語」平凡社ライブラリー
茨木のり子集「言の葉-2-」ちくま文庫
茨木のり子集「言の葉-3-」ちくま文庫
- 88 スラヴォイ・ジジェク「ポストモダンの共産主義-はじめは悲劇として、二度目は笑劇として-」ちくま新書
松岡和子「深読みシェイクスピア」新潮選書
結城浩「数学ガール-乱択アルゴリズム」Softbank
小島寛之「キュートな数学名作問題集」ちくまプリマー新書
M.ワトキンス「公式の世界」創元社
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-157
6 月 14 日、同前。
晴、朝の野べから青草を貰つてきて活ける、おばさんから貰つて活けてをいた花は、すまないけれど、あまり感じよ
くないから。
青草はよい、葉に葉をかさねて、いきいきとしてゐる。
来信数通、みんなうれしいたよりであるが、殊に酒壺洞君、緑平老、井師からの手紙はうれしかつた。
返事を書かうと思つても端書がない、切手を買ふ銭がない、緑平老への返事は急ぐので、やうやくとつておきの端書
一枚を見つけて、さつそく書いた。
-略- 嚢中まさに一銭銅貨一つ、読書にも倦いたし、気分も落ちつかないので、楠の森見物に出かける、天然記念保
護物に指定されてあるだけに、ずゐぶんの老大樹である、根元に大内義隆の愛馬を埋葬したといふので、馬霊神とも
いふ、ぢつと眺めてゐると尊敬と親愛とが湧いてくる。
往復二里あまり、歩いてよかつた、気分が一新された、やつぱり私には「歩くこと」が「救ひ」であるのだ。
-略- けふもサケナシデーだつた、いやナツシングデーだつた、時々、ちよいと一杯やりたいなあと思つた、私は凡
夫、しかも下下の下だ、胸中未穏在、それは仕方がない、酒になれ、酒になれ通身アルコールとなりきれば、それは
それでまたよろしいのだが、そこまでは達しえない、咄、撞酒糟漢め。
夕方また歩いた、たゞ歩いた。
自から嘲る気分から、自からあはれみ自からいたはる気分へうつりつゝある私となつた、さて、この次はどんな私に
なるだらうか。
-略※表題句の外、15 句を記す
Photo/川棚温泉大楠の森
20110319
樹かげすゞしく石にてふてふ
―四方のたより― この恐怖から逃れきれるか
3.11、宮城沖に発した地震、M9.0 という、その激甚さ―
直後に襲来した未曾有の大津波―
三陸海岸ばかりか、東北の太平洋岸一帯にもたらされた、想像を絶する惨劇をまえに
ただ鬱々と黙するほかない日々がつづく
とりわけ原発破壊による放射能漏れの事態収拾は未だ解決せず
その恐怖は果てしない精神的抑鬱となってこの列島を覆いつくしたままだ
想定外だった、と口を揃えていう―
だが、自然の猛威は、つねに想定の外にありうるものなのだ
想定の外にあることが、起りうる、ということ
- 89 いや、現に、あってはならぬことが、起こってしまったのだ―
人は、われわれは、この恐怖から逃れきることができるのか
この恐怖を克服することなど、はたしてできるのだろうか
<日暦詩句>-23
この衰残をきわめた地方を何としよう
花田民の嵐が立ち去つたあとのように
赤茶けた土塊はぼろぼろとくづれるばかり
喬木には鳥さへもなかず
疎らなる枝々はひたすらに大地をねがう
ああこの病みほけた岸辺に立つて潟を望めば
日没はあたかも天地の終焉のごとく
あるいは創世の混沌のごとく
あの木小屋の畦りで人間のむれは
愛のささやきも忘れはてた‥‥
とおく不毛の森林のかげに
村落の集団のいくつかがかくされているのであろうか
わたくしは知らない 昔ペテロが
何故に滂沱たる涙をながしたか –以下略―中村稔詩集「無言歌」所収「ある潟の日没」より
花田民-かでんみん-―嘗て朝鮮半島山岳地帯で焼畑農業を営んだ生活困窮の農民たちのこと。とりわけ日本総督府支
配下において増加、半島北部の山林はほとんど禿山と化した、という。
―2 月の購入本―
亀井孝他編「日本語の歴史-5-近代の流れ」平凡社ライブラリー
〃
「日本語の歴史-6-新しい国語への試み」平凡社ライブラリー
加藤隆「歴史の中の『新約聖書』」ちくま新書
茨木のり子集「言の葉-1-」ちくま文庫
神田千里「宗教で読む戦国時代」講談社メチエ
宮本徳蔵「力士漂泊-相撲のアルケオロジー」講談社文芸文庫
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-156
6 月 13 日、同前。
-略-、三恵寺へまた拝登する、いかにも山寺らしい、坐禅石といふ好きな岩があつた、恰雲和尚-温泉開基、三恵寺中
興-の墓前に額づく、国見岩といふ巨岩も見た、和尚さん、もつと観光客にあつてほしい。
酒はもとより、煙草の粉までなくなつた、端書も買へない、むろん、お香香ばかりで食べてゐる、といつて不平をい
ふのぢやない、逢茶喫茶、逢酒喫酒の境涯だから―しかし飲まないより飲んだ方がうれしい、吸はないより吸ふた方
がうれしい、何となくさみしいとは思ふのである。
南無緑平老如来、御来迎を待つ!
今日は句数こそ沢山あるが、多少でも自惚のある句は一つもない、蒼天々々。
- 90 どうやら寺領が借れるらしい、さつそく大工さんと契約しよう、其中庵まさに出来んとす、うれしい哉。
※表題句の外、9 句を記す
Photo/三恵寺にある伝承の国見岩、現下関市豊浦町
Photo/三恵寺境内の石仏たち
20110303
考へてをれば燕さえづる
―四方のたより― 春の日長に‥
「SOULFUL DAYS―逆縁-ある交通事故の顛末-」をひとまずは一書とし、読んでもらうには重きに過ぎるのを承知で、
親類縁者や生前の RYOUKO と交友のあった人あるいは私の旧知の人々など 180 名ほどに、勝手ながら一方的に送っ
たのは 1 月も晦日近くだった。
それから一ヶ月余、はや 3 月になってしまったが、この間断続的ながらさまざまの反応があったし、なかには丁重な
書面や思いもよらぬ供物まで届けられたりで、心にひとくぎりをつけるべし筈だったのに、送り主たちの心慮に恐縮
しつつも、そのたびにふりかえっては些か沈潜気味となる日がくりかえされる。
一昨日、近くの仏具屋を尋ねて香炉を買い求めてきた。
供物として届けられた木箱入りの線香がそれも二つ、古い知友からのもので、ひとりは千葉に住む中高時代の同期生
で半世紀近くも逢えぬままの友、もう一人は私が泉北に在る頃サンデー太極拳に集ってくれた仲間だから三十年来の
知己。
このほどようやく調った机まわりなのだが、そこで日長おりふし線香を灯しては仄かな香りが室内に漂う。
壁に掛かった狩野芳崖の悲母観音が微かな笑みを投げかけている。
Photo/狩野芳崖の悲母観音図軸装より
<日暦詩句>-22
薔薇いろの鉱石質の陽がはいまわる。
いま地上には、
下界をおおいつくそうとする灰色の湿地がはびこる。
それはおれたちのえいえいとしたいとなみの何億倍かの速度で殖える。
しかし、ああ、おれたちがその不毛の影を消す悲願を持ちはじめてから久しい。
おれたちはあの日以来二本の足で歩きまわることをやめた。
さればといつて手の長さと脚の長さのちがつてしまつたおれたちは、
もう四足で歩くことは永久に御免だ。
おれたちは二本の手を
それが最大の忍従のように、べつたりと前へ突き、
嬉しそうに膝ではいずりまわる。
―安東次男詩集「蘭」所収「死者の書」より
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-155
6 月 12 日、同前。
曇、今日から入梅。
山を歩いて山つつじを採つて戻る、野の草といつしよに、―花瓶に活けて飽かず眺める。
- 91 川棚名物の「風」が吹きだした-湯ばかりが名物ぢやない-。
16 銭捻出して、11 銭は焼酎 1 合、5 銭は撫子一包、南無緑平老如来!
リヨウマチ再発、右の腕が痛い。
※表題句の外、7 句を記す
Photo/’02 年 2 月、高砂市にある山頭火句碑の園にて、抱かれた Kaoruko はまだ生後 4 ヶ月だったか
20110226
からつゆからから尾のないとかげで
―四方のたより― 琵琶の会
以前は、雛の節句にあわせたかのように、きまって 3 月初めの日曜に行われていたのだが、
数年前から 2 月末の日曜開催が定着した感の、奥村旭翠一門の琵琶の会。
明 27 日、日本橋の文楽劇場小ホール、開演は午前 11 時から。
連合いの末永旭濤が奏する演目は「一の谷」だそうな。
<日暦詩句>-21
わたしの屍体に手を触れるな
おまえたちの手は
「死」に触れることができない
わたしの屍体は
雨にうたせよ
われわれには手がない
われわれには死に触れるべき手がない
わたしの屍体を地に寝かすな
おまえたちの死は
地にやすむことができない
わたしの屍体は
立棺のなかにおさめて
直立させよ
地上にはわれわれの墓がない
地上にはわれわれの屍体を入れる墓がない
わたしの屍体を火で焼くな
おまえたちの死は
火で焼くことができない
わたしの屍体は
文明のなかに吊るして
腐らせよ
- 92 われわれには火がない
われわれには屍体を焼くべき火がない
―田村隆一詩集「四千の日と夜」所収「立棺」より-昭和 31 年
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-154
6 月 11 日、同前。
快晴、明日は入梅だといふのに、これはまた何といふ上天気だらう、暑い日がキラキラ照つた。
農家は今が忙しい真盛りだ、麦刈り、麦扱-今は発動機で麦摺だが-、やがてまた苗取、田植。
しかし今年はカラツユかも知れない、此地方のやうな山村山田では水がなくて困るかも知れないな、どうぞさういふ
事のないやうに。―
歯が悪くなつて、かへつて、物を噛みしめて食べるやうになつた-しようことなしに-、何が仕合せになるか解つたも
のぢやない。-略また文なしになつた、宿料はマイナスですむが、酒代が困る、やうやうシヨウチユウ一杯ひつかけてごまかす。
やつぱり生きてゐることはうるさいなあ、と同時に、死ぬることはおそろしいなあ、あゝ、あゝ。
※表題句の外、3 句を記す
Photo/川棚温泉の名物「瓦そば」は、西南の役で薩摩軍の兵士が瓦を使って肉や野菜を焼いて食べたという故事に
倣って考案されたという。
Photo/その瓦そば発祥の、元祖瓦そば「たかせ」本店
20110223
あるだけの酒のんで寝る月夜
―四方のたより― チカラビトの世界
力士―チカラビトはいつ、どこで生まれたか。
草原と砂漠のまじりつつ果てもなくつらなるアジアの北辺、現在の地図でいえばモンゴル共和国のしめているところ
だったろう
と、始まる宮本徳蔵の「力士漂泊」は、
「相撲のアルケオロジー」と副題するように、まさに相撲の考古学-Archaeologyというに相応しい。
本書の初版は 85(S60)年 12 月、翌々87 年の読売文学賞を受賞している。
とにかく面白い、前半のⅠ-チカラビトの彷徨、Ⅱ-チカラビトの渡来、Ⅲ-チカラビトの栄光と悲惨、Ⅳ-鎮魂のパフォ
ーマンスの四章は、とりわけ愉しく秀逸だ。
高句麗の旧都だった現在の中国吉林省集安県の片田舎に残る「角抵塚-かくていづか-」のこと、
なぜ、中国にチカラビトが見あたらないのか、
現在の朝鮮半島において盛んに行われるシルム-いわゆる韓国相撲-と呼ばれる競技、
日本へと渡来したチカラビトたちは「健児-こんでい-」とも呼ばれ、また「隼人」でもあった、
桓武天皇の代に始まる「相撲節」、またこれに関わる「部領使-ことりづかい-」のこと、
金剛力士信仰に基づく金剛界曼荼羅との関連、等々、
歴史的民俗学的知見に富んでおり、このところ八百長問題で騒擾とした相撲関係者らやマスコミに、あらためて本書
を繙くべしと言いたいくらいだ。
八百長騒動といえば、このたびの問題が発覚、表面化したのが今月 2 日のことで、奇しくも同じ日、この著者宮本徳
蔵氏は、肺炎のため、80 歳で死去しているのだが、この奇妙な偶然をなんとみるべきか‥。
- 93 <日暦詩句>-20
空は青い
空は他人の恋でいっぱいだ
おれはおれの悲しい肺臓の重たい石に手をあてる
それをたたくと錆びた牡蠣殻の音がする
それはつめたい
それは動かない
おれの生きている肉体の中でその部分だけが死んでいる
死んでしまった地球の半分
おれはそれをかかえて海へ出る
海は青い
海は魚の恋でいっぱいだ
海は青い炎をあげて
海の言葉をしゃべる
化石したおれの恋が
海の鏡を流れる
―三好豊一郎詩集「囚人」所収「四月馬鹿」より-昭和 24 年
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-153
6 月 10 日、同前。
晴、めづらしい晴だつたが、それだけ暑かつた。
朝、宿の主人が、昨夜の寺惣代会では、私の要求は否定されたといふ、私はしみじみ考へた、そして嫌な気がした、
自然と人間、個人と大地。‥
野を歩いて青蘆を切つて来て活けた、何といふすがすがしさ、みづみづしさぞ、野の草はみんなうつくしい、生きて
ゐるから。
つばくろがよくうたふ、此宿にも巣をかけて雛をかへしてゐる。-略彼女から送つてくれた荷物が来た、フトン、ヤクワン、キモノ、ホン、チヤワン、ヰハイ、サカヅキ、ホン、カミ、
等、等、等。
その荷物の中から二通の手紙が出て来た、一つは彼に送金した為替の受取、他の一つは S 子からのたより、前者はと
もかくも、後者はちょんぴり私を動かした、悪い意味に於て、―なるほど、私は彼女が書いてゐるやうに、心の腐つ
た人であらうけれど、―これは故意か偶然か、故意にしては下手すぎる、私には向かない、偶然にしてはあまりに偶
然だ。-略夕方散歩する、いそがしい麦摺機の響、うれしさうな三味の音と唄声。
今日はいやにゲイシヤガールがうろうろしてゐる。
私の因縁時節到来! 緑平老へ手紙を書きつつ、そんな感じにうたれた。
昨夜は幾夜ぶりかでぐつすり眠つたが、今夜はまた眠れないらしい、ゼイタク野郎め!
若夫婦の睦言が、とぎれとぎれに二階から洩れてくる、無理もない、彼等は新婚ほやほやだ。
どうしてもねむれないから、また湯にはいる、すべてが湯にとける、そしてすべてがながれてゆく。‥‥
※表題句の外、6 句を記す
Photo/山頭火句碑「湧いてあふれる中にねてゐる」―川棚グランドホテルのロビーにある
- 94 20110218
柿の葉柿の実そよがうともしない
―四方のたより― 就活地獄と‥
毎日の夕刊三面記事「就活漂流」を読んで、新卒大学生の就活事情もここまできたかと思わず絶句、暗澹とした気分
に襲われた。
今夜の記事の事例は法政大経済学部 4 年の男子学生、就活の始まりから数えて 536 日間の苦闘の果て、都内の IT 関
連の中小企業にやっと内定を手にしたという。この間、挑んだ会社はエントリーだけに終ったものも含めれば 269 社
にのぼり、些か上がり性の気質とて、その対策に説明会や面接内容などをこまめに書きとめてきた記録がなんとノー
ト 15 冊に及んだというのだから、まさに凄まじいの一語に尽きる。
ことのついでにネットで、男女年齢別の非正規雇用者比率の、1990 年から 2010 年までの推移を具に見てみたが、こ
れまた愕然とする上昇曲線を描いている。とりわけ 15 歳~24 歳の若年層においては、ほぼこの 10 年、男性で 4 割
強、女性では 5 割強の高止まりで推移している、といった深刻さである。
これら若年の非正規雇用者たちが、この先の 10 年で、はたしていったいどれほど正規雇用へと転身できるのだろう
か‥。
<日暦詩句>-20
死んだ兵士を生きかえらせることは
金の縁とりをした本の中で
神の復活に出会うことよりもたやすい
多くの兵士は
いくたびか死に
幾たびか生きかえってきた
(聖なる言葉や
永遠に受けとることのない
不思議な報酬があるかぎりは――)
―鮎川信夫詩集「神の兵士」より-昭和 43 年
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-152
6 月 9 日、同前。
晴、といつても梅雨空、暗雲が去来する。
今日は寺惣代会が開かれる日だ、そして私に寺領の畠を貸すか貸さないかが課せられる日だ。
-略- 年をとると、身体のあちこちがいけなくなる、私は此頃、それを味はひつつある。
川棚温泉には犬が多い、多すぎる。
野を歩いてゐたら、青蘆のそよいでゐるのに心ひかれた、こんなにいいものがあるのに、何故、旅館とか料理屋とか
は下らない生花に気を採られてゐるのだらう、もつたいない、明早朝さつそく私はそれを活けやう。
※表題句のみ記す
Photo/山頭火句碑「花いばら、ここの土とならうよ」―川棚温泉近くの高砂墓地の中にある
20110212
さみしうて夜のハガキかく
- 95 ―四方のたより―
<日暦詩句>-19
ぼくたちは自分の脂で煮つめられ
自分の脂に浮いていた
眼をあけたまま
錫びきの罐に密閉されて――
何の音もきこえなかった
或る日 ぼくたちは解放された
そして
途方もなく巨きい屋敷の塀の外へ
空罐は抛り出された
だが その時
ぼくたちは もう無かった
―村野四郎「魚における虚無」-昭和 29 年
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-151
6 月 8 日、同前、吉見行乞。
夜が明けきらないのに眼がさめたので湯へゆく、けふもよい日の星がキラキラ光つてゐる。‥
朝湯千両、朝酒万両。
朝から子供が泣きわめく、あゝ、あゝ、あゝ。
吉見まで 3 里歩いて行乞 3 時間、また 3 里ひきかへす、私の好きな山道だからちつとも苦にならない。
満目の青山、汝の見るに任す、―といつた風景、いつまでもあかずに新緑郷を漫歩する。
農家は今頃よつぽど忙しい、麦刈り、麦扱ぎ、そして蚕だ、蚕に食はせるためには人間は食う隙がない、そして損だ!
今日の行乞相は最初悪くして最後がよかつた、彼等が悪いので私も悪かつた、私が善いので彼等も善かつた、行乞中
はいつも感応といふ事を考へさせられないことはない。
暑かつた、真ツ陽に照らされて、しばらく怠けていたために。-略ここはおもしろいところだ、妙青寺山門下の宿で、ドンチャン騒ぎをやつてゐる、そしてしづかだ!
私は一人で墓地を歩くのが好きだ、今日もその通りだつた、いい墓があるね、ほどよく苔むしてほどよく傾いて。―
川棚温泉の欠点は、風がひどいのと、よい水のないことだ、よい水を腹いつぱい飲みたいなあ!
-略- 緑平老から、いつもかはらぬあたたかいたよりがあつた、層雲 6 月号、そこには私のために井師のともされた
提灯が照つてゐた。‥
※表題句の外、7 句を記す
Photo/下関市吉見町あたりの全景
Photo/吉見港から望む竜王山
20110210
朝の水くみあげくみあげあたゝかい
―四方のたより― アルブル木工教室
平林木材団地の一隅にアルブルという名の木工教室がある。
Arbre―フランス語で<樹木>、Open は 08 年の 4 月だったらしい。
- 96 ほとんど PC 作業しかしない我が家の書斎机だが、ずいぶん痛みもきていたし、連合い殿の机も必要とて、手狭な空
間を機能的に使えるようにと、以前から模様替えの機会を考えていたのだが、なかなか望むような机が見当たらない。
そこで、この教室に通っている知人に、机の製作を頼める人はいないかと相談したところ、関係者で受注製作をして
いる個人が居るとのことで、昨日の午後、依頼を兼ねて訪ねることになったのだった。
紹介された相手は、なんと偶然にも私と同姓の 40 歳前後とみえる男性、初会から他人と思えぬ親しみが湧く。材質
や工法の説明などを聞きながら、図案も固めて、無事お願いをすることに相成る。
その後しばらくは知人に案内されて教室の様子などを見てまわる。
本業は創業 70 年にもなろうという製材所で、この新しい事業をはじめた当主は昭和 40 年生れというから、おそらく
三代目と思われる。製材業務との兼業のようだが、その転身や良しではないか。
そういえば此処から運河に架かった小さな橋を渡れば、今は亡き辻正宏君の実家だった辻二製材があったのだが‥。
帰路、その橋のたもとにさしかかった時、懐かしい風景とともに彼の面影が脳裏をよぎった。
<日暦詩句>-18
風は強く
泥濘川に薄氷浮き
十三年春の天球は 火を噴いて
高い巻雲のへりに光つてゐる。
枯れみだれた葦の穂波
ごうごうと鳴りひびく一眸の原。
セメント
鉄鋼
電気
マグネシウムら
寂莫として地平にゐならび
蒼天下
終日人影なし。
―小野十三郎詩集「大阪」より「白い炎」-昭和 14 年―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和 7 年-150
6 月 7 日、木下旅館
転宿、チョンビリ帰家穏座のここち。
壺を貸して下さつたので、すい葉とみつ草とを摘んで来て活ける、ほんによいよい。
小串へ行つて、買物をする、財布を調べて、考へ考へ、あれこれと買つた、茶碗、大根おろし、急須、そして大根 3
本、茶 1 袋、―合計金 43 銭也、帰途、お腹が空いたので、三ツ角の茶店で柏餅を喰べつつ、酒を飲みつつ、考へる。
―
うつくしいものはうつくしい、うまいものはうまい、それが何であつても一銭饅頭であつてもいいのである、物その
ものを味ふのだから。
飲める時には、飲める間は飲んだがよいぢやあないか、飲めない時には、飲めなくなつた場合には、ほがらかに飲ま
ずにゐるだけの修行が出来てゐるならば。
私も酒から茶へ向ひつつあるらしい、草庵一風の茶味、それはあまりに東洋的、いや日本的だけれど山頭火的でない
こともある。
- 97 茶道に於ける、一期一会の説には胸をうたれた、そこまで到達するのは実に容易ぢやない。
日にまし命が惜しくなるやうに感じる、凡夫の至情だらう、かういふ土地でかういふ生活が続けられるやうだから!
此宿はよい、ホントウのシンセツがある、私は自炊をはじめた、それも不即不離の生活の一断面だ。
※表題句の外、3 句を記す
Photo/山頭園という名で現在に残る木下旅館
20110207
捨てたものにしづかな雨ふる
―四方のたより― 修羅の道
近い者の死―、その重さは
畢竟、のこされた者の生
生きることの重さ、でもあるのでしょう。
言い換えるなら
人はだれでも、おのが生の中で
いくつかの修羅場をくぐりぬけてきているもの
と、思われますが
その重さを生きる、とは
まさに、そんな修羅の道を生きる、ことなのでしょう。
不慮の事故から
あれこれと綴ってきたものを
一書にまとめる作業もほぼ終えたころ
そんな感懐がよぎったものでした。
<日暦詩句>-17
薔薇は口をもたないから
匂いをもつて君の鼻へ語る、
月は、口をもたないから
光りをもつて君の眼に語つている、
ところで詩人は何をもっ語るべきか?
四人の女は、優に一人の男を
だまりこませる程に
仲間の力をもつて、しゃべり捲くるものだ、
プロレタリア詩人よ、
我々は大いに、しゃべったらよい、
仲間の結束をもって、
仲間の力をもって
敵を沈黙させるほどに
壮烈に――。
―小熊秀雄「しゃへり捲くれ」より-昭和 10 年―
- 98 ―山頭火の一句― 行乞記再び -149
6 月 6 日、同前。
雨風だ、ここはよいところだが、風のつよいのはよくないところだ。
まるで梅雨季のやうな天候、梅雨もテンポを早めてやつてきたのかも知れない。
さみしさ、あつい湯にはいる、―これは嬉野温泉での即吟だが、ここでも同様、さみしくなると、いらいらしてくる
と、しづんでくると、とにかく、湯にはいる、湯のあたたかさが、すべてをとかしてくれる。‥
安宿にもいろいろある、だんだんよくなるのもあれば、だんだんわるくなるのもある-後者はこの中村屋、前者はあ
の桜屋-、そしてはじめからしまゐまで、いつもかはらないのもある-この例はなかなかむつかしい-。 -略隣室の萩老人とおそくまで話す、話してゐるうちに、まざまざといやしい自分を発見した。 -略源三郎君から来信、星を売り月を売る商売をはじめます-天体望遠鏡を覗かせて見料を取るのださうである-、これに
は私も覚えず微苦笑を禁じえなかつた。
※表題句のみ記す
Photo/山頭火句碑「波音お念佛がきこえる」
下関市豊北町は大浦街道-国道 191 号-沿にある
20110205
お寺のたけのこ竹になつた
―四方のたより― 書の甲子園
書の甲子園こと高校生の選抜書展が天王寺美術館で開催中とかで、休日の暇つぶしと子連れで観てきた。
美術館地下フロアーには所狭しと夥しい作品群がならんで壮観、まずその量に圧倒される。
書に造詣の深いわけでもない私だが、そんな眼から観ても玉石混淆、ハッとさせるものもあればどうにも首をひねる
ものもあるのだが、それがまた愉しいといえばいえる展示だ。
Photo/書の甲子園で、ちょっぴりお気に入りの作品
そういえば昨年だったか、「書道ガールズ」なんて映画もあった。てっきり漫画が原作かと思えば、愛媛県の高校生
たちがモデルになった街おこしの実話からだったという。
<日暦詩句>-16
そらのふかさをのぞいてはいけない。
そらのふかさには、
神さまたちがめじろおししてゐる。
そらのふかさをみつめてはいけない。
その眼はひかりでやきつぶされる。
そらのふかさからおりてくるものは、永劫にわたる権力だ。
そらにさからふものへの
刑罰だ。
―金子光晴「燈台」より-昭和 24 年―
―山頭火の一句― 行乞記再び -148
6 月 5 日、同前。
- 99 朝は霧雨、昼は晴、夕は曇つて、そしてとうとうまた雨となつた。
朝の草花―薊やらみつくさやら―を採つてきて壺に投げ挿した。
今日は日曜日であり、端午のお節句である、鯉幟の立つてゐる家では初誕生を祝ふ支度に忙しかつた-私のやうなも
のでも、かうして祝はれたのだ!-。
方々からたよりがあつた、その中で、妹からのそれは妙に腹立たしく、I君からのそれはほんたうにうれしかつたそれは決して私が私情に囚はれたためではないことを断言する-。 -略山下老人を訪ね、借りたい妙青寺の畠を検分する、夜、ふたたび同道して寺惣代の武永老人を訪ねて、借入方を頼ん
だ。 -略※表題句の外、3 句を記す
Photo/遠景―川棚温泉と響灘
20110203
更けて流れる水音を見出した
―四方のたより― 茶器づくり初体験
サン・イシドロ窯を称する陶芸家石田博君の招きを受け、期友の女性ふたりと連れ立って寝屋川の彼の自宅を訪ねた
のは師走の 11 日、土曜日の午後だった。
この折、先に来ていた石田夫人の友人 3 人と一緒に、思いもよらず石田陶芸教室の体験入門とあいなり、この歳にし
て初めて土をこね茶器を作るなどという仕儀になったのだった。
石田君の指導のもと中高年の男女が 6 人、いわれるがままにロクロの上の粘土と格闘すること 2 時間半ほどか、最後
の仕上げはそれぞれ石田君の手を少しばかり煩わせつつ、ひとまずは形になった茶器をおいて、お疲れさんとばかり
あとは飲み会となったのだが、此方は夕刻までの訪問と時間を限っていた所為もあって、石田夫人手作りの馳走など
折角のもてなしも堪能すること叶わず、足早の退散となって石田君には失礼この上ない反省しきりの訪問に終ってし
まったのだった。
年が明け小正月も過ぎて 20 日頃だったか、その石田君から電話があり、そろそろ茶器の窯焼きをするから釉薬をど
んなものにするかそれぞれ希望を、と訊ねてきた。門外漢の此方は釉薬の種類など唐突に訊かれても分かろう筈もな
い。しどろもどろに狼狽えつつも彼の説明を聞きながら、「じゃ、利休の黒っぽいので」と、なんとか応じたものだ
った。
それが焼き上がったというので、またぞろ期友ふたりと訪ねたのが昨夕のこと、石田君の指導よろしきを得て、見事
に仕上がった私(?)の茶器とご対面となって、あとはまたまたしばしの宴、雑談放談飛び交う飲み会と相成ったのだ
った。
Photo/利休天目で焼き上がった茶碗三態
<日暦詩句>-15
さはれ去年の雪いづくにありや、
さはれ去年の雪いづくにありや、
さはれ去年の雪いづくにありや、
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥意味のない畳句が、ひるがへり、巻きかへつた。美しい花々が、
光のない空間を横ぎつて没落した。そして、遙か下に、褪紅色の月が地平の上にさし上つた。私の肉体は、この二重
の方向の交錯の中に、ぎしぎしと軋んだ。このとき、私は不幸であつた、限りなく不幸であつた。
―富永太郎「鳥獣剥製所一報告書」より-昭和 2 年―
- 100 ―山頭火の一句― 行乞記再び -147
6 月 4 日、同前。
曇后晴、読んだり歩いたり考へたり、そして飲んだり食べたり寝たり、おなじやうな日がつづくことである。
午後、小串まで出かける、新聞、夏帽、ショウガ、壺を買ふ、此代金 51 銭也。
帰途、八幡の木村さんから紹介されて、森野老人を訪ねる、初対面の好印象、しばらく話した、桑の一枝を貰つてス
テッキとする、久しぶりにうまい水を頂戴する、水はいいなあ、先日来。腹中にたまつてゐたものがすーつと流れて
しまつたやうにさへ感じた。
人は人中、田は田中、といひますから‥とは老人の言葉だつた。
-略-、今夜も睡れない、ちよつと睡つてすぐ覚める、4 時がうつのをきいて湯にはいる、そして下らない事ばかり考
へる、もしここの湯がふつと出なくなつたら、‥といつたやうな事まで考へた。
杜鵑がなく、「その暁の杜鵑」といふ句を想ひだした、私はまだまだ「合点ぢや」と上五をつけるほど落ちついてゐ
ない。
隣室の客の会話を聞くともなしに聞く、まじりけなしの長州弁だ、なつかしい長州弁、私もいつとなく長州人に立ち
返つてゐた。
カルチモンよりアルコール、それが、アルコールよりカルチモンとなりつつある、喜ぶべきか、悲しむべきか、それ
はただ真実だ、現前どうすることもできない私の転換だ。
※表題句の外、5 句を記す。
Photo/川棚温泉のはずれ、中小野にある岩谷の十三仏
20110131
水音、なやましい女がをります
―四方のたより―
<日暦詩句>-14
せめて死の時には、
あの女が私の上に胸を披いてくれるでせうか。
その時は白粉をつけてゐてはいや、
その時は白粉をつけてゐてはいや。
ただ静かにその胸を披いて、
私の眼に副射してゐて下さい。
何にも考へてくれてはいや、
たとへ私のために考へてくれるのでもいや。
―中原中也「盲目の秋」より-昭和 5 年―
―今月の購入本―
・亀井孝/他「日本語の歴史 3―言語芸術の花ひらく」平凡社ライブラリー
・亀井孝/他「日本語の歴史 4―移りゆく古代語」平凡社ライブラリー
・柳田聖山/梅原猛「無の探求<中国禅>―仏教の思想 7」角川文庫
・塚本善隆/梅原猛「不安と欣求<中国浄土>―仏教の思想 8」角川文庫
・紀野一義/梅原猛「永遠のいのち<日蓮>―仏教の思想 12」角川文庫
・安西冬衛/他「言語空間の探検 全集現代文学の発見-13」新装版、学芸書林
- 101 ・茨木のり子「倚りかからず」ちくま文庫
・後藤正治「清冽―詩人茨木のり子の肖像」中央公論新社
―12 月の購入本―
・G.ドゥルーズ/F.ガタリ「千のプラトー-上-資本主義と分裂症」河出文庫
・G.ドゥルーズ/F.ガタリ「千のプラトー-中-資本主義と分裂症」河出文庫
・G.ドゥルーズ/F.ガタリ「千のプラトー-下-資本主義と分裂症」河出文庫
・梶山雄一/上山春平「空の論理<中観>―仏教の思想 3」角川文庫
・鎌田茂雄/上山春平「無限の世界<華厳>―仏教の思想 6」角川文庫
・白川静「孔子伝」中公文庫
・小島寛之「世界を読み解く数学入門」角川文庫
・小島寛之「無限を読み解く数学入門」角川文庫
・草刈民代「BALLERINE」幻冬舎
・草刈民代「草刈メソツド」DVD&Book-マガジンハウス
―図書館からの借本―
・吉田伸之「成熟する江戸―日本の歴史 17」
―山頭火の一句― 行乞記再び -146
6 月 3 日、同前
雨、まるで梅雨のやうだ、歩いたり、考へたり、照会したり、交渉したり‥、ただ雨露を凌ぐだけの庵を結ぶのもな
かなかである。
早朝、雷雨に起きて焼香し読経する。
温泉饅頭を坊ちやんに、心経講話をパパに送つてあげる-伊東君にあてて-。
夕方、一風呂浴びて一本傾けて、そしてぶらぶら歩く、ここにも温泉情調はある、カフヱーと自称するもの二軒、百
貨店と自称するもの一軒、食堂二三軒、そこかしこに三味線の音がする、‥いやまて、ビリヤード二軒、射的場も一
軒ある。‥
妙青寺拝登、長老さんにお目にかかつて土地の事、草庵の事を相談する-義庵老慈師の恩寵を感じる-、K 館主人にも
頼む、すぐ俳句の話になる、彼氏も一風かわつた男だ、彼は何だか虫の好かない男だ、とにかく成行に任せる、さう
する外ない私の現在である。
山はうつくしい、茶臼山から鬼ケ城山へかけての新緑はとてもうつくしい、希くはそれをまともに眺められるところ
に庵居したいものだ。
-略- 今夜もまた睡れさうにないから、寝酒を二三杯ひつかけたが、にがい酒だつた、今夜の私としては。――
アルコールよりもカルチモン
ちよつと一服盛りましよか
※表題句の外、3 句を記す
Photo/妙青寺山門
Photo/妙青寺境内にある雪舟の庭
20110129
旅のつかれの夕月がほつかり
- 102 ―四方のたより―
一昨日の午後、「SOULFUL DAYS」の一次発送を近くの郵便局に持ち込んだ。
昨日から、受領したとのメールやハガキなどいくつか寄せられている。
突然不躾にも重いものを送られてきた知友あるいは未知の人-生前の RYOUKO の友人など-、その何人かのひとたち
が、いま現に手に取りつつ読んでいるかも知れないのだ、と思うとじっとしても居られず、先程まで数時間かけて、
自身またまた再読してみた。
それもほぼ終えかけるころ、電話が鳴った。古い神沢の弟子、昔の仲間だった。
<日暦詩句>-13
赤い林檎の頬をして
眠っている 奈々子。
お前のお母さんの頬の赤さは
そっくり
奈々子の頬にいってしまって
ひところのお母さんの
つややかな頬は少し青ざめた
―吉野弘「奈々子に」より-昭和 34 年―
―山頭火の一句― 行乞記再び -145
6 月 2 日、同前。
雨、そして関門地方通有の風がまた吹きだした、終日、散歩-土地を探して-と思案-草庵について-とで暮らした。
午後、小串へ出かけて、必要欠くべからざるものを少々ばかり買ふ。
山ほとゝぎす、野の花さまざま。
老慈師から、伊東君から、その他から、ありがたいたよりがあつた。隣室の奥さん-彼女はお気の毒にもだいぶヒス
テリツクである-からご馳走していただいた。
自己を忘ず―そこまで徹しなければならない。
ここはうれしい、しづかにしてさびしくない。
だんだん酒から解放される、といふよりもアルコールを超越しつつある、至祷至祝。
緑平老から貰つた薬を、いつのまにやら、みんな飲んでしまつた、私としては薬を飲みすぎる、身心がおとろへたか
らだらうが、とにかく薬を多く飲むほど酒を少く飲むやうになつたわい。
昨夜はよく寝られたのに、今夜はどうしても睡れない、暁近くまで読書した。
※表題句の外、3句を記す
Photo/下関市小串の駅舎
Photo/同じく小串の海
20110124
ほうたるこいほうたるこいふるさとにきた
―四方のたより―
「SOULFUL DAYS」の印刷製本がやっと UP。
すぐさま引取りに走り、夕刻から半日、読み返していた。
- 103 昔からよく知った印刷屋のこととて、ずいぶんと安くしてくれている。
いや、ほんとうのところ、
印刷に出す段まですっかり失念していたのだが、
RYOUKO が二十歳頃だったか、おそらく半年くらいの期間だったろうが、
この会社にアルバイトとして勤めていた、という縁もあったのだ。
社長が高校の一期下という親しさもあって、私から頼んでの就職だった。
Y という顔馴染みの古い社員が、RYOUKO のことをよく覚えてくれていた。
おそらくそんな事情もあって、格安に、と便宜を計ってくれたのだろう。
<日暦詩句>-12
どこから世界を覗こうと
見るとはかすかに愛することであり
病患とは美しい肉体のより肉体的な劇であり
絶望とは生活のしっぽであってあたまではない
きみの絶望が希望と手をつないで戻ってくることを
きみの記憶と地球の円周を決定的にえらぶことを
夜の眠りのまえにきみはまだ知らない
―清岡卓行「氷った焔」より-昭和 34 年―
―山頭火の一句― 行乞記再び -144
6 月 1 日、川棚、中村屋
曇、だんだん晴れて一きれの雲もない青空となつた、照りすぎる、あんまり明るいとさへ感じた、7 時出立、黒井行
乞、3 里歩いて川棚温泉へ戻り着いたのは 2 時頃だつたらうか、木下旅館へ行つたら、息子さんの婚礼で混雑してゐ
るので、此宿に泊る、屋号は中村屋-先日、行乞の時に覚えた-安宿であることに間違はないが、私には良すぎるとさ
へ思ふ。
すべてが夏だ、山の青葉の吐息を見よ、巡査さんも白服になつた、昨日は不如帰を聴き今日は早松茸を見た、百合の
花が強い香を放ちながら売られてゐる。
笠の蜘蛛! ああお前も旅をつづけてゐるのか!
新しい日、新しい心、新しい生活、――更始一新して堅固な行持、清浄な信念を欣求する。
樹明君からの通信は私をして涙ぐましめた、何といふ温情だらう、合掌。
此宿はよい、ていねいでしんせつだ、温泉宿は、殊に安宿はかういふ風でなければならない、ありがたいありがたい。
※表題句のみ記す
Photo/昨年 10 月、全国山頭火フオーラムが川棚温泉で開催されている
Photo/その主会場となったモダンな川棚の杜こと川棚温泉交流センターは建築家隈研吾の設計
20110122
ふたゝび渡る関門は雨
―四方のたより―
<日暦詩句>-11
ひげが生える
ひげが生える男のあごに男の唇のまわりにひげが生え
- 104 る夜明けと共にひげが生える見知らぬ植物の芽のよう
にひげが生える女の柔い頬のためにひげが生えるサル
バドルダリと共にひげが生えるいつしようけんめいひ
げが生える耐用に向つてひげが生える男たち
―谷川俊太郎「今日のアドリブ」より-昭和 37 年―
―山頭火の一句― 行乞記再び -143
5 月 31 日、曇が雨となり風となつた、小倉まで 3 里、下関から風雨の 4 里を吉見まで歩いた、関門通有のシケで、
全身びしよぬれになつて、やつと宿についた、石風呂があるので石風呂屋といふ、子供が多いので騒がしいけれど、
おかみさんもおばあさんもしんせつなので居心地がよい。
昨夜の宿は予想したほどよくなかった-水だけは、筧から流れてくる水だけはよかつた-、しかし、期待したやうに山
ほととぎすを聴くことが出来たのはうれしかつた。
石風呂は防長特有のものではあるまいか、その野人趣味を興ふかく思ふ。
ノミ、シラミ、アメ、カゼに責められて、なかなか寝つかれなかつた、落ちついて澄んでゆく自分を見詰めつづけた。
長かつた夜が白みかかつてきた、あかつきの声が心の中から響く、生活一新の風が吹きだした。
とにもかくにも、昨日までの自分を捨ててしまへ、ただ放下着!
※表題句の外、改作・再録併せて 15 句を記す
Photo/下関市吉見の海岸に浮かぶ岩島-加茂島Photo/龍王山の麓に建つ龍王神社の楼門
20110121
山の家のラヂオこんがらがつたまゝ
―四方のたより―
<日暦詩句>-10
ベルが鳴るいつでもベルが
星のない熱い肉のひだに
柔らかな瞬きから生まれた一人の男が
遠くから咽喉がつらぬきにきた一挺のかんざしに
つらぬかれたまま続けている会話の間中
ベルが鳴るいつでもベルが
―天澤退二郎「星生れの男」より-昭和 41 年―
―山頭火の一句― 行乞記再び -142
5 月 30 日、晴、行程 5 里、高津尾といふ山村、祝出屋
早く起きて別れる、そして川棚へ急ぐ、疲れて途中で泊る、この宿はほんたうにしづかだ、山の宿の空気を満喫する。
例の後援会の成績はあまり良くないけれど、それでも草庵だけは結べさうなので、いよいよ川棚温泉に落ちつくこと
になつた、緑平老の諒解を得たから、一日も早く土地を借りてバラツクを建てなければならない、フレイ、フレイ、
サントウカ、バンザアイ!
近来とかく身心不調、酒も苦くなつた、―覚醒せずにはゐられない今が来たのである。
しつかり生きなければならない、嘘の多い、悔の断えない生き方にはもう堪へられなくなつた。
- 105 酒をつつしまなければならない、酒を飲むことから酒を味ふ方へ向はなければならない、ほんたうにうまい酒ありが
たい酒をいただかなければならないのである。
伊東君に手紙を出して、私の衷情を吐露しつつ、お互に真実をつかまうと誓約した。
少し飲んでよく寝た。
※表題句の外、再録 1 句を記す
Photo/高津尾は、現在の小倉南 IC 付近一帯
Photo/その里に古くからある西大野八幡神社の参道
20110119
ボタ山へ月見草咲きつゞき
―世間虚仮― やっと捜査の手
「人体の不思議展」にやっと捜査の手が伸びた。
もう 10 年近くにもわたって全国各地で興行的展示を開催し、リアルな人体標本で興味本位な耳目を集め、延べ 600
万人以上もの動員をしてきたという「人体の不思議展」については、私も嘗て-05 年-に大いに問題ありと指摘してい
るが、このほどやっと厚労相は「遺体と認識している」との見解を示し、現在開催中の京都で、府警が捜査へ乗り出
している、というニュースが駆けめぐっている。
人権や倫理上において重大な問題を孕んでいるのは当然のことだが、法律違反即ち「死体解剖保存法」に抵触したも
のか否か、というのが捜査のあるいは司法の争点になってくるもよう。
これに先んじてフランスでは、09 年 4 月、バリで開催されていた人体展を中止させる司法判断が出されていたのだ
が、ようやくこの国においてもそうなる公算が高くなったわけだ。
―四方のたより―
<日暦詩句>-9
いやだと ぼくは叫べば よかった
なぜだと ぼくは問えば よかった
それだのに 灰色の獣のように走っていた
次々とうしろで堆積する出口の数におびえて
いやだと叫べばよかった
いやだと問えばよかった
それだのにだまっていた それだのに走っていた
―入澤康夫「いやだとぼくは」より-昭和 30 年―
―山頭火の一句― 行乞記再び -142
5 月 29 日、晴、電車と汽車で緑平居へ、葉ざくらの宿。
朝から四有三居を襲うて饗応を強要した。
緑平老はあまりに温かい、そつけないだけそれだけしんせつだ、友の中の友である。
夕方、連れ立つて散歩する、ボタ山のここそこから煙が出てゐる、湯が流れてくる、まるで火山の感じである、荒涼
落漠の気にうたれる。
※表題句の外、1 句を記す
Photo/山頭火句碑「ふりかえるボタ山ボタン雪ふりしきる」―糸田町の糸田小学校前
- 106 Photo/隣町香春町の金辺川沿には「山頭火遊歩道」が整備され、10 もの句碑が建つ
20110118
星がまたたく草に寝る
―四方のたより―
<日暦詩句>-8
檸檬絞り終えんとしつつ、轟きてちかき戦前・遙けき戦後
<欧州の怪>ポケツトにふくれつつ真逆様に吊らるるズボン
甲虫の叛乱、つねに少年は支配者にして傍観者
―岡井隆「少年行」より-昭和 36 年―
―山頭火の一句― 行乞記再び -141
5 月 28 日、晴、船と電車、酒と魚、八幡市、星城子居。
星城子君の歓待は恐縮するほどだつた、先日来の心身不調で、ご馳走が食べられないで困つた、好きな酒さへ飲めな
かつた、この罰あたりめ! と自分で自分を憫れんだ。
夜、いつしよに仙波さんを訪ねる、ここでも懇ろにもてなされた、お布施までいただいた。
葉ざくら、葉ざくら、友のなさけが身にしみる。
工藤君からハガキをうけとつたのはうれしかつた、伊東君からも、国森君からも。
私は、私のやうなものが、こんなにしてもらつていいのだらうか、と考へずにはゐられない。
※表題句の外、3 句を記す
<星城子について> 本名は飯尾由多加。八幡署に勤務していた警察官で剣道の達人。晩年の尾崎放哉とも交友が深く、
「放哉居士消息」は、放哉が最晩年の 1 年間に星城子宛に書き送った 138 通にも及ぶ書簡集。
Photo/山頭火句碑「水を前に墓一つ」、所在は北九州市八幡東区河内平原
Photo/々「訪ねて逢へて赤ん坊生まれてた」、同じく八幡東区大蔵の或る酒屋の軒先に
20110117
初夏の坊主頭で歩く
―四方のたより―
<日暦詩句>-7
なんという駅を出発して来たのか
もう誰もおぼえていない
ただ いつも右側は真昼で
左側は真夜中なふしぎな国を
汽車は走りつづけている
―石原吉郎「葬式列車」より-昭和 37 年―
―山頭火の一句― 行乞記再び -140
5 月 27 日、晴、行程 7 里、安岡町行乞、下関、岩国屋
- 107 ぢつとしてはゐられないので出発する、宿料が足らないので袈裟を預けて置く、身心鈍重、やうやく夕暮の下関に着
いた。
久しぶりに地橙孫君を訪ねて歓談する、君はいつも温かい人だ、逢ふたびに人格が磨かれつつあることを感じる。
夜更けてから馴染の宿に落ちつく、今夜は地橙孫君の供養によつて飲みすぎた、安価な自分が嫌になる。‥
※この日句作なし、表題句は 24 日付所収の句
<地橙孫について>
名は兼崎理蔵、山口市出身、1890-M23-年生れだから山頭火より 8 歳年少。旧制五高-熊本-を経て、京大法学部卒。
1924-T13 年-下関市にて弁護士開業。俳句は中学時代から始め、碧梧桐門下として過ごす。また六朝書体の最後の書
家であり、山頭火の墓表も書いた。
Photo/下関市豊浦町川棚クスの森の山頭火句碑
Photo/同じく、妙青寺境内の山頭火句碑
20110116
大楠の枝から枝へ青あらし
―四方のたより―
<日暦詩句>-6
ぼくの漂流は
どこまで漂流していくのであろう
退屈な楽器や 家財道具をのせて
いまにも沈みそうではないか
畢竟 難破だけが確実な旅程の一つであろう
―村野四郎「春の漂流」より-昭和 34 年―
―山頭火の一句― 行乞記再び -139
5 月 25 日。26 日、雨、風、晴、発熱休養、宿は同前
とても動けないので、しようことなしに休養する、年はとりたくないものだ、としみじみ思ふ。
終日終夜、寝そべつて、並べてある修養全集を片端から読みつづける、それはあまりに講談社的だけれど。――
病んで三日間動けなかつたといふことが、私をして此地に安住の決心を固めさせた、世の中の事は、人生の事は何が
どうなるか解るものぢやない、これもいはゆる因縁時節か。
嬉野と川棚を比べて、前者は温泉に於て優り、後者は地形に於て申分がない、嬉野は視野が広すぎる、川棚は山裾に
丘陵をめぐらして、私の最も好きな風景である。
とにかく、私は死場所をここにこしらへよう。
※この日、句作記載なし、表題句は 6 月 14 日付記載の句
この後、山頭火は、川棚の地に庵を結ぼうと、先ずは金策のため田川市糸田の緑平を訪ねては舞い戻り、8月末頃ま
でのほぼ 100 日をこの地に滞在している。
Photo/下関市豊浦町川棚温泉界隈の全景、鬼ヶ城連山からの眺望
Photo/山頭火が表題句-大楠の枝から枝へ青あらし-を呈した大楠
Photo/幹周 9.5m、樹齢 1000 年といわれ、一本の樹なのに森のようにも見えることから「クスの森」と呼称されて
いる。
20110115
- 108 ふるさとはみかんのはなのにほふとき
―世間虚仮― 大阪 7.7%、全国 81.6%
この圧倒的な数値の差はなにか、といえば中学校における完全給食実施率。
滋賀 46.0%、京都 61.7%、奈良 69.2%、和歌山 55.6%、兵庫 50.7%と、総体に近畿府県での普及は低いが、それに
しても大阪の低さは他を圧倒している。因みに神奈川が 16.1%で、大阪と神奈川がその低率において双璧だ。
統計は 09 年 5 月 1 日現在の状況だというが、これはいったいどういう背景や行政事情あってのことか、理解に苦し
む。
その昔、私が小六の時だったから、半世紀以上にもなるが、小学校における完全給食実施三周年とかの記念イベント
が中之島公会堂で開かれ、学校から児童代表で出席させられた記憶がある。
舞台にあがって、各学校からの児童代表たちがシンポジウムよろしく意見交換をするといった躰の場面があったが、
たしかこれには、ご丁寧にも事前にリハーサルのための場が設定されていたりして、ヤラセもいいところだったが‥。
それはともかく、小学校における完全給食実施に関して大阪は、おそらく当時としては、全国に先駆けその普及を誇
っていたのだろう。
それが半世紀を経た今日、中学校の完全給食実施率において逆転現象どころか、きわめて特異な現実にあるというの
は驚きを超えてあまりあるというもの。
―四方のたより―
<日暦詩句>-5
わたしの屍体に手を触れるな
おまえたちの手は
「死」に触れることができない
わたしの屍体は
群衆のなかにまじえて
雨にうたせよ
―田村隆一「立棺」より-昭和 31 年―
―山頭火の一句― 行乞記再び -138
5 月 24 日、晴、行程わづかに 1 里、川棚温泉
すつかり夏になつた、睡眠不足でも身心は十分だ、小串町行乞、泊つて食べて、そしてちよつぽり飲むだけはいただ
いた。
川棚温泉―土地はよろしいが温泉はよろしくない-嬉野に比較して-、人間もよろしくないらしい、湯銭の 3 銭は正当
だけれど、剃髪料の 35 銭はダンゼン高い。
妙青寺-曹洞宗-拝登、荒廃々々、三恵寺-真言宗-拝登、子供が三人遊んでいた、房主さんの声も聞える、山寺としては
いいところだが。―
歩いて、日本は松の国であると思ふ。
新緑郷―鉄道省の宣伝ビラの文句だがいい言葉だ―、蜜柑の里だ、あの甘酸つぱい匂ひは少年の夢そのものだ。
松原の、松のないところは月草がいちめんに咲いてゐた、月草は何と日本的のやさしさだらう。
※表題句の外、4 句を記す
Photo/寿永 2-1183-年の開湯といわれる下関の奥座敷、川棚温泉
Photo/曹洞宗龍福山妙青寺の山門
Photo/三恵寺境内の石仏たち
- 109 -
20110113
波音のお念仏がきこえる
―四方のたより―
<日暦詩句>-4
野良犬・野良猫・古下駄どもの
入れかはり立ちかはる
夜の底
まひるの空から舞ひ降りて
襤褸は寝てゐる
夜の底
見れば見るほどひろがるやう ひらたくなつて地球を抱いてゐる
―山之口漠「襤褸は寝てゐる」より-昭和 15 年―
―山頭火の一句― 行乞記再び -137
5 月 23 日、晴、行程 6 里、小串町、むし湯
久しぶりの快晴、身心も軽快、どしどし歩く、久玉、二見、湯玉といふところを行乞、小串まで来て宿を探しあてた
が、明日は市が立つので満員で断られる、教へられて、この蒸湯へ来た、事情を話して、やつと泊めて貰ふ、泊つて
見れば却つて面白い、生れて初めて蒸湯といふものへはいる、とても我慢が出来なかつた。-略旅寝の目覚の窓をあけたら、青葉若葉に朝月があつた。
このあたりの海岸は日本的風景。
蚤と蚊と煩悩に責められて、ちつとも睡れなかつた、千鳥が啼くのを聞いたが句にはならなかつた。‥
先日からいつも同宿するお遍路さん-同行といふべきだらうか-、逢ふたびに、口をひらけば、いくら貰つた、どこで
ご馳走になつた、何を食べた、いくら残つた、等々ばかりだ、あゝあゝお修行はしたくないものだ、いつとなくみん
な乞食根性になってしいまふ!
※表題句の外、2 句を記す
Photo/長門二見あたりの海辺
Photo/湯玉近くにある福徳稲荷の壮観
20110112
けふは霰にたゝかれてゐる
―四方のたより― 善意のパフオーマンス化
<日暦詩句>-3
冬といふ壁にしづもる棕櫚の影
冬といふ日向に鶏の坐りけり
落葉やんで鶏の眼に海うつるらし
―三好達治「落葉やんで」より-昭和 5 年―
- 110 タイガーマスクの伊達直人を名告り、群馬県の児童相談所前にランドセル 10 個が置かれていた-昨年暮れの 25 日-、
という報道がなされるや、波状的に全国に伝播して、いまやひきもきらせぬこの善意運動、あしたのジヨーや桃太郎、
せんとくんまで名告る匿名氏も現れた、という。
一過性のものとはいえ、いいことにはちがいない。
いいことにはちがいないが、なんだかこの現象、「善意のパフオーマンス化」と言えない向きもない。
便乗型の心性に些か底が浅かろうなどと揶揄する気は毛頭ないが、触発され動いたその一回性の行為が、それぞれの
個の中で、一定の持続性をもちうる志にまで深まることになれば、と思う。
実際のところ、この騒ぎのように世間に知られることのない匿名の善意というものは、全国津々浦々至る所にある筈
だし、地道にコツコツと積み上げてきた尊い善意のタネは、このパフオーマンス化とは遠いところで、人知れずさま
ざまな花を咲かせている筈だ。
この騒ぎのなか、毎日新聞の夕刊記事「ランドセル贈り続けて半世紀」の見出しにはさすがに眼が釘付けになった。
三重県四日市の鞄店主二代にわたっての話だが、掲載された写真の姿、その表情がさすがにいい。
―山頭火の一句― 行乞記再び -136
5 月 22 日、あぶないお天気だけれど休めない、行乞しつつ 4 里は辛かつた、心身の衰弱を感じる、特牛-コットイ-港、三
国屋
此宿はおもしろい、遊郭-といつても四五軒に過ぎないが-の中にある、しかも巡査駐在所の前に。
山、山、山、青葉、青葉、青葉。
今日の行乞相はまづ及第、所得はあまりよくない。
棕櫚竹の拄杖はうれしい、白船老はなつかしい。
附野-津津野-のお薬師さまにまゐる、景勝の地、参拝者もかなりあるらしい。
※表題句のみ記載、改作と註あり
Photo/海岸線を眼下に望む丘の上に建つ附野薬師
Photo/附野薬師東山寺近く観涛園にある奇巌「俵石」
20110111
ふるさとの言葉のなかにすわる
―四方のたより― この冬一番
<日暦詩句>-2
骨片は、飢えた海の光である。華やかな庭は鳥のやうに消え去つた。花を祝えば、橋は頬桁を歪めて一本の道を示す。
花に膨れ上がつた一本の道は、墜ち凹み一本の道の中の一本の道となつて、安堵の霰を吐く。
――――
ひとかたまりの光は、少女から離れないであろう。筋肉のやうに。ひとかたまりの光は骨片の中に潜んでゐる。骨片
を翳す少女は幸福なるかな。
―北川冬彦「光について」より-昭和 4 年―
零下 1.0℃、この冬一番の冷え込み、奈良では―4.7℃だったという。
扇町公園の噴水には、うっすらと氷が張ったそうだ。
―山頭火の一句― 行乞記再び -135
5 月 21 日、曇后雨、行程 6 里、粟野、村尾屋
- 111 今にも降り出しさうだけれど休めないやうになつてゐるから出かける、脱肛の出血をおさへつつあるく。
古市、人丸といふやうな村の街を行乞する、ホイトウはつらいね、といつたところで、さみしいねえひとり旅は。
行乞相はまさに落第だつた、昨日のそれは十分及第だつたのに-それだけ今日はいらいらしてゐた-。
今日の道はよかつた、丘また丘、むせるやうな若葉のかをり、ことに農家をめぐる蜜柑の花のかをり。
今日はよく声が出た、音吐朗々ではないけれど、私自身の声としてはこのぐらゐのものだらうか。
油谷湾―此附近―は美しい風景だ、近く第一艦隊が入港碇泊するさうだ。
今日の昼食は豆腐屋で豆腐を食べた、若い主人公は熊本で失敗してきたといふ、そこで私独特の処世哲学を説いてあ
げた。
どうも夢を見て困る、夢は煩悩の反影だ、夢の中でもまだ泣いたり腹立てたりしている。‥
※表題句の外、2 句を記す
Photo/棚田から望む油谷湾の夜景
Photo/上空から捉えた仙崎の港と青海島
20110110
こんやの宿も燕を泊めてゐる
―四方のたより―
<日暦詩句>-1
在らぬたましひの在らぬこゑ
在ることの怖れはもはやない
在らぬことは怖れではない
在らぬことの怖れは在らない
すべての在ることの怖れは在らぬことへの予感であり
すべての在らぬことは在ることの怖れからの解脱である
―那珂太郎「鎮魂歌」より-昭和 40 年―
朝 6 時の目覚め、午後からは初稽古だが、年越しからかなりバタバタしてきて、なんだかやっと新年を迎えた気分。
昨日は夕刻より、新年早々からバレエの講習会参加のため神戸に戻つてきているという、ありさとありさパパと久し
ぶりのご対面。
一昨年の 9 月以来だから、その変貌ぶり、おとなの女になり初めていく少女は、すでに仄かな色香を周囲の空間へと
放っていた。
仕事のため東京に残ったというゆりママの不在が、この少女の成長と変容の内実をよく物語っているともいえそうだ。
したがって、話の主筋は一成パパが担って進むから分かり易く見とおしも効く。
結論は一言だ、なにがなんでも、ワガノワへ行っちまうこと。
この日の午前、波除に、TK とその父とその弁護士との、三人の焼香を迎えた。
Ikuyo は、ひたすら儀礼的に、にこやかにさえして、彼らに応接し、見送った。
遅れて Daisuke も家族を伴ってやってきたが、これまたなんのわだかまりも見せずに終始した。
ひとり私だけが、少しばかり異空間に座している観があったのではなかったか。
一昨日-1/8-は、週明けにと思っていたのだが、作業を了えてしまえば早いに越したことはないとばかり、最終校正を
持って大正の国際印刷へと出向いた。
- 112 表紙の紙質も決めた。200 部で充分と思っていたが念のため 300 部に指示。印刷 up の予定は 23 日の週かという。
―山頭火の一句― 行乞記再び -134
5 月 20 日、曇、行程 4 里、正明市、かぎや
いやいや歩いて、いやいやホイトウ、仙崎町 3 時間、正明市 2 時間、飯、米、煙、そしてそれだけ。
此宿の主人は旧知だつた、彼は怜悧な世間師だつた、本職は研屋だけれど、何でもやれる男だ、江戸児だからアツサ
リしてゐる、おもしろいね。
同宿 6 人、みんなおもしろい、ああおもしろのうきよかな、蛙がゲロゲロ人間ウロウロ。
空即空、色是色、―道元禅師の御前ではほんたうに頭がさがる、―日本に於ける最も純な、貴族的日本人、その一人
はたしかに永平古老仏。
ここで得ればかなたで失ふ、一が手に入れば二は無くなる、彼か彼女か、逢茶喫茶、ひもぢうなつたらお茶漬けでも
あげませうか、それがほんたうだ、それでたくさんだ、一をただ一をつかめば一切成仏、即身即仏、非心非仏。
初めて逢うた樹明君、久しぶりに逢うた敬治君、友はよいかな、うれしいかな、ありがたいかな、もつたいないかな、
昨日今日、こんなにノンキで生きてゐるのはみんな友情の賜物である、合掌。
※表題句の外、1 句を記す。
20110104
雲がない花の散らうとしてゐる
―日々余話― 佐賀と長崎を廻って
暮れの 28 日から正月の 1 日まで、北九州の佐賀と長崎を周回する旅へ。
高校時代の修学旅行は此の地だった、以来まったく訪れたことはないから 50 年ぶりか。
鳥取に大雪が降って 1000 台からの車が立ち往生、雪中の越年と騒がれたように、我々の旅も、雨と風と雪と、天候
不順の連続だった。
1 日目、太宰府で高速を降りて先ずは天満宮へ、それから武雄温泉を経由し、嬉野温泉泊。
2 日目、祐徳稲荷へ参り、有明海を横目に島原半島へ、半島をほぼぐるりと周回して、長崎市内泊。
3 日目、大浦天主堂からグラバー園、唐寺の崇福寺、浦上天主堂と廻って、西海、佐世保を経由して平戸島泊。
4 日目、生月島を廻りザビエル教会を見て、松浦経由で雪降り積む伊万里へ、呼子から土谷棚田へと廻り唐津へ、唐
津城、虹の松原、佐用姫の鏡山-領巾振山-と廻り、佐賀へと抜けるが、この峠道-国道 323 号-が雪、雪。合流する国
道 263 号へと回り込んで、やっと佐賀市郊外の三瀬ダム湖畔へ無事着、此処で大晦日の夜を過ごし新年の朝を迎える。
5 日目、帰路はひたすら高速の筈が、山口に入ると通行規制にかかり、下関から熊毛-岩国の手前-までは国道 2 号を
走る。以後、山陽道は渋滞もなく走行し、午後 8 時ジャスト帰宅。
5 日間の全走行は 2000 ㎞をわずかに上回っていた。
―山頭火の一句― 行乞記再び -133
5 月 17 日、18 日、19 日、降つたり吹いたり晴れたり、同じ宿で。
仏罰覿面、痔がいたんで歩けないので休養、宿の人々がまたよく休養させてくれる、南無――。
同宿の同行はうれしい老人だつた、酒好きで、不幸で、そして乞食だ!
何といふ山のうつくしさだらう、このあたりに草庵を結ばうかと思つたほどのうつくしさだつた。
終日黙想、労れたら寝た、倦いたら読んだ、曰く、講談本、――新撰組、相馬大作、等、等、等。
自動車パンク、そしてガソリン発火、こんな山村にもこんな事件が起つた、そして狂人、そして死人。‥‥
晴、風、そして雨、それがホントウだ。
- 113 またここで、一皮脱ぎました、たしかに一皮だけは。
※表題句は 5 月 16 日記載の句より
20101227
わらや一つ石楠花を持つ
―四方のたより―
寒風が吹きつける EVE の夜、予想通り?数のうえでは寂しい客席だっが、
演者たちは舞も奏も心を尽していい出来だった。
約束の会合があるのですぐにも退散しなければと云っていた O さんも、
気の毒に?その機を逸したまま最後までご覧になっていた。
終ってからオーク 1 階の居酒屋でお疲れさん会、
一年の垢を落とすがごとき仲間との語らいは熱く、終電近くまで続いた。
―日々余話― Soulful Days-45- Postscipt-あとがき詩人田村隆一の「四千の日と夜」のなかに
一篇の詩を生むためには、
われわれはいとしいものを殺さなければならない
これは死者を甦らせるただひとつの道であり
われわれはその道を行かなければならない
という四行がある。
詩と死――
不慮の事故、逆縁の死
などという災禍が降り来たった
その母は、また、その父は
語るべき言葉など、ほんとうはなにもない
ただ、それぞれの残された生に
言葉にはなりえぬ、無言の詩を刻みつけるだけなのだ。
―山頭火の一句― 行乞記再び -132
5 月 16 日、晴、行程 4 里、三隅宗頭、宮内屋
すつかり初夏風景となつた、歩くには暑い、行乞するには懶い、一日も早く嬉野温泉に草庵を結ぼう。
けふの道はよい道だつた、こんやの宿はよい宿だ。
花だらけ、水だらけ、花がうつくしい、水がうまい-酒はもう苦くなつた-。
途上で、蛇が蛙を呑まうとしてゐるのを見た、犬養首相暗殺のニユースを聞かされた。
※表題句の外、4 句を記す
Photo/長門市三隅上宗頭にある宗頭大歳社
20101223
葉桜となつて水に影ある
-表象の森- 親鸞の悪人と凡夫
今村仁司「親鸞と学的精神」より
- 114 <悪人―存在>
親鸞の「悪」は存在論的概念
「屠はよろづのいきたるものをころしほふるものなり、これはれうし-猟師-といふものなり。沽はよろづのものをう
りかうものなり、これはあき人-商人-なり。かやうのものどもは、みないし-石-・かわら-瓦-・つぶて-礫-のごとくな
るわれらなり」
親鸞のいう「われら」とは現世-五濁悪世-において煩悩に縛られ、すべての煩悩をかかえたままに生きる「例外なく
すべての人間たち」である。
現世のなかにいるかぎり「汚染され濁った人間」つまりは「悪であるほかはない人間」であり、「悪人」の対概念は
「善人」ではなく「浄人」あるいは「覚者-覚醒した人」である。
人間はおしなべて例外なく「悪-人」である、人間であることは悪人である宿命を免れることはできないのだ。
問題は自分が世俗的本質、世俗的人間としての本質を自覚するかどうかであり、社会的規定が何であれ自分が世俗的
人間であるかぎり、全面的に悪人であると自覚する者だけが、自我に執着して自己の力量を自慢し誇示することの絶
対的不可能を認識し、自力救済の不可能の確信から他力への信頼を腑に落ちるようにして自覚できる。
救済とはこの我執的存在をはっきりと知るに至りながら、我執を自分で取り去ることができないという根源的な事態
に直面する人、これが悪人であり、その人だけが厳密な意味で救済の対象になる。
この臓腑的知こそ親鸞が力説する「信」である。
<人間なるもの-凡夫>
凡夫とは「煩悩具足」の存在であり、煩悩とは玄奘の訳語で云えば「計所執性」
遍計所執性とは
1. 遍く計らうことであり、これには、①-自己を計らうことと、②-自分以外の周り-対象を-計らうこととがある。
2. はからうことに執する-はからう自我に執する
3. はかられたものに執する-はかられたものに執する-はかられた対象に執する。
4. 執することに執する
「我はからう」-根源的な「生きる欲望」-「力への意志」
―山頭火の一句― 行乞記再び -131
5月 11 日、12 日、13 日、14 日、15 日
酒、酒、酒、酒、酒、‥遊びすぎた、安易になりすぎた、友情に甘えすぎた、伊東君の生活を紊したのが、殊に奥さ
んを悲しませたのは悪かつた、無論、私自身の生活気分はメチャクチャとなつた。‥‥
いよいよ 15 日の夕方、大田から 1 里ばかりの山村、絵堂まで送られて歩いた-このあたりは維新役の戦跡が多い、鍾
乳洞も多い-。
秋吉台の蕨狩は死ぬるまで忘れまい。
しつかりしろ、と私は私自身に叫ぶ外なかつた、、ああ。
――赤郷絵堂、三島屋
※表題句の外、16 句を記す
Photo/高杉晋作の奇兵隊ゆかりの大田・絵堂の戦の本陣跡
Photo/現・美祢市美東町の赤郷八幡宮
Photo/秋吉台の原生林、長者ケ森
20101221
- 115 けさの風を入れる
―山頭火の一句― 行乞記再び -130
5 月 10 日、晴、2 里ばかり歩いて 3 里は自動車、伊東宅-大田樹明君がどうでも大田までいっしょに行くとの事、職務妨害はいけないと思ったが-君は農学校勤務-、ちつとも妨害
にはならないといはれるので、一杯機嫌で伊東君の宅へころげこんだ、幾年ぶりの再会か、うれしかつた。
街の家でまた飲む、三人とも酒豪ではないが、酒徒であることに間違はない、例によつて例の如く飲みすぎる、饒舌
りすぎる。
葉山葵はおいしかつた、苣膾-チシャ-はなつかしかつた
※句作なし、表題句は 5 月 9 日所収の句
小郡は、この後、山頭火が其中庵を結び、6 年間におよび常住する地であるが、昭和 40 年代、50 年代の時ならぬ山
頭火ブームの所為だろう、今では市内各所に 20 数ケ所の句碑を数えるという。
Photo/小郡市内にある山頭火句碑の変わり種、「ポストはそこに旅の月夜で」
Photo/同じく、「蛙になりきって跳ぶ」
20101219
こんやはここで寝る鉄瓶の鳴る
―日々余話― 嵐山花灯路
昨夕、親子三人連れで、嵐山の花灯路へ行ってきた。
さすがに阪急電車のに乗った段階からかなりの混みようで、桂からの嵐電はさらに輪をかけて満杯状況。
渡月橋は人、人、人であふれかえり、左側通行に規制された歩道は数珠つなぎで、ぞろぞろと歩いては止まり、また歩
いては止まりで、ただ渡りきるだけで 20 分近くかかったのではないか。
天竜寺の門前を通り、竹林の小径、大河内山荘、常寂光寺、去来ゆかりの落柿舎と経めぐって、また門前へと戻って
くるのに 1 時間半は要したろう。
ほっと息抜きのつもりで出かけたのだが、豈図らんや、かえって疲れを溜め込んだような始末。
とんだ災厄となったのは子どものほうで、よほど消耗したとみえて、しばらくご無沙汰だった喘息の気が、昨夜の就
寝前からまたぞろ出てきたようだ。
かほどの人出を予想しなかった私のしくじりと、反省しきり。
―山頭火の一句― 行乞記再び -129
5 月 9 日、曇、歩いて 3 里、汽車で 5 里、樹明居-小郡文字通りの一文なし、といふ訳で、富田、戸田、富海行乞、駅前の土産物店で米を買うていただいて小郡までの汽車
賃をこしらへて樹明居へ、因縁があつて逢へた、逢ふてうれしかつた、逢ふだけの人間だから。
街の家で飲んで話した、呂竹、冬坊、俊の三君にも逢つた、呂竹居に泊る、樹明君もいつしよに。
戸田では S 君に逢ひたくてたまらなかつた、君は没落して大連にゐるのに。
椿峠で二人連れのルンペンに逢つた、ルンペンらしいルンペンだつた。
今日の行乞相は 90 点以上。
防府を過ぎる時はほんたうに感慨無量だつた。
樹明居は好きになつた、樹明君が好きになつたやうに。
※表題句の外、17 句を記す
Photo/周南市と防府の境の椿峠あたりから富海の海を望む
Photo/富海宿の本陣跡
- 116 -
20101217
ふるさとの夢から覚めてふるさとの雨
―日々余話― Soulful Days-44- 事の本質とは
この稿は、今年 3 月に書きかけていたのを補綴し言挙げするものである。
交通法規以前の、法以前の、事の本質というものを考える
たとえば、小沢一郎問題、
仮にこのまま政治資金規正法等からは罪に問われず落着したとしても、これはやはり、悪徳きわまるものと受けとめ
ざるをえない。それが事の本質だ。
新生党や新進党あるいは自由党と、立党解党を繰り返したはてに、政党交付金の余剰を 5 億あるいは 6 億と懐にした
と巷間伝えられる。立証は出来ないがさりとて逆の証明もできない、疑いなく事実であろう、と世間はみなそう考え
ている。政党交付金という国民の血税をも含めたカネが原資となって、10 億の不動産へと化け、陸山会に帰属せし
めているという事実、しかも政治資金管理団体は不動産を登記できないから、小沢一郎名義の登記物件だ。
これらを決して私しない、と検察特捜部に一筆取られたというから、政治資金管理団体陸山会への帰属は動かせなく
なるだろうが、小沢はそんなこと端から百も承知、私することなど要せず、どこまでも陸山会所有のままでよい、こ
れら不動産が政治団体帰属であるなら、小沢一郎個人の登記物件であろうとも、個人財産として相続税の対象にはな
らない、政治団体はただ継承されるものなのだから、仮に小沢の親族が後継となれば、不動産もろともそっくりその
まま引き継がれることになる。
法にはかからぬが、こんな全容を知れば、いやおおかたの国民はすでにそんなものかと推量していようから、多くの
人がこんな悪はないと思っているだろう。
さて、RYOUKO を死に至らしめた事故の、事の本質とは‥
現場は中央大通りという阪神高速の高架も走る広い道路、速度制限は 60km/h、その辰巳橋南詰交差点内、
RYOUKO を乗せたタクシー-M 車-が最徐行しながら、右折から直進行為に入った時、直進の対抗車-T 車-が後部左側
に激突した。衝突時、直進車の速度は時速 70km/h だったと推定され
ている、制動操作はまったく間に合わなかったのか否か‥。
交通法規においては、直進車優先の原則があるが、午後 8 時 15 分頃という事故発生時において、この直進車が無灯
火であったり脇見運転であったりすれば、どういうことになるか。
そういった法以前の、事実関係のみでいえば、最徐行で右折から直進へと移行しつつあった M 車に、その横合いか
ら T が急ブレーキも間に合わないままぶつかってきたもので、このとき、正確には衝突の 1.0 秒前から 1.5 秒前、T
車は次の瞬間に起こる出来事を予知できている訳である。一方、M がぶつかりくる T 車にどの時点で気づきうるかと
考えると、T 車が前照灯を灯火していれば、横合いからとはいえ迫り来るその灯りを 2 秒前にも気づくことはありう
るが、仮に無灯火であった場合にはぶつかってくる瞬間まで気づきえないことになる。ましてや乗客であった
RYOUKO にとってはまったく無防備なままに激突の衝撃をまるごと受けることになる。
もはや避けえない衝突を、ほんの一瞬とはいえ直前に予知できた T 車の運転手は、次の瞬間に起こる衝撃に対し咄嗟
に身構えることも出来るが、M 車の運転手とその乗客 RYOUKO にとっては、そのわずかな抵抗すら、咄嗟に怯むこ
とさえ不可能である。
この違い、この差は、決定的に大きなものではないだろうか、と私は思う。
この事故を考えるとき、私は過去の私自身の経験のなかでの二つの出来事を思い出さずにはいられない。
- 117 ひとつは、まだ幼い頃の遠い昔のこと、私が小 2 の時であった。朝、学校へ登校してまもない始業前の時間、たくさ
んの児童が運動場で遊んでおり、何をしていたか記憶にないが、私も校庭に居た。そこへ突然、背後から強い衝撃に
襲われ転倒、固い地面に頭部を打ってそのまま気絶してしまったのである。
当時、上級生の男子ならほとんどだれもが遊んでいた、軍艦ごっことか水雷・艦長と呼ばれた遊び、これに興じて走
り回っていた 6 年生の男子が、なにかほかに気を取られていたからだろうが、私にぶつかってきたというのが事の経
緯だった。
気を失ったまま眠り込んでしまっていた私が、気がついたのは 1 時間後だったかそれとも 2 時間後だったか、気がつ
いたとき真っ先に眼に映ったのは、私の顔を心配そうに覗き込んでいる次兄-当時 6 年生だった-の姿だった。
もう一つは、私が 40 歳を過ぎたばかりの頃、居眠り運転で自身が乗っていた車を大破させてしまった事故のことだ。
当時の私は自宅で小さな学習塾をしていたのだが、収入も心許ないことから深夜のアルバイトを始めてまだまもない
頃で、たしか 2 週間目くらいだったと記憶する。私が運転していたのは積載 1 屯の保冷車、時間は午前 0 時を 30 分
もまわっていたろうか、梅田の北側のコンビニに配達をして次の店に向う途中、高速の高架下を走っていたのだが、
睡魔に襲われフッとなっては眼を凝らすといったことが二、三度繰り返されただろうか、ハッと気がついたとき暗い
前方に停車している大きな車-ダンプ車だったか工事用の大型車両だったか-が眼に入った、大慌てで急ブレーキをか
けたがもう間に合わない、ガシャーンと金属音をたてて衝突、運転していた保冷車は大型車の後部へめり込むように
へしゃげて止まった。ほんの数秒気を失っていたと思うが、ペシャンコになった運転席で気がついた私は、容易に身
動きはならないのだが、身体にはほとんど異状がない、車前部大破で保冷車はそのまま廃車となった損傷の大きさに
比して、軽い打ち身や擦り傷はあったものの五体満足、ほんの一瞬の差で大怪我ともならず命拾いをしたのだった。
この二つの事例からみても、能動的に自らぶつかりゆく者と受け身的にぶつけられる者、その違いが事故の衝撃によ
って受ける損傷において、被害の度合を大きく分け隔てることにもなるのは明白だろう。
ぶつかり来たった者=T は、その一瞬先に起こる衝撃に対し、身を挺しつつぶつかりゆくのであり、ならばこそその衝
撃に比し軽傷で済む場合は多々あり得るが、ぶつけられた者=RYOUKO は、まったく不意を突かれることであってみ
れば、その激しい衝撃を 100%そのまま身に蒙らざるを得ないのだ。
それが、この事故の、法以前における、事の本質なのだ、と私は思う。
RYOUKO を帰らぬ人としてしまった直接の原因は、脳外傷による急性の硬膜下出血であり脳浮腫であったが、治療
にあたった医師の説明によれば、他に、肝臓部に外傷、脾臓にも傷痕、ともに変色がみられ、左胸部肋骨の上部に骨
折、骨盤の仙骨部左右が骨折、右脚部膝下部位に骨折、と身体の各所に異状や損傷が見られたという、その衝撃の凄
さと悲惨さを物語るものであった。
―山頭火の一句― 行乞記再び -128
5 月 8 日、雨、しようことなしの滞在、宿は同前。
終日読書静観、ゲルトがないと坊主らしくなる。
同宿 4 人、みんな世間師だ、世間師はそれぞれ世間師らしい哲学を持つてゐる、話してもなかなかおもしろい、世間
師同士の話は一層おもしろい-昨日今日当地方の春祭だから、それをあてこんで来たものらしい-。
痔がいたむ、酒をつつしみませう。
この宿のおかみさんはとても醜婦だ、それだけ好感が持てた、愛嬌はないが綺麗好きだから嬉しい。
世間する、といふ言葉は意味ふかい、哲学するといふ意味のやうに。
ひょう
※表題句の外、2 句を記す
- 118 Photo/厳島の合戦で毛利元就に敗れた陶晴賢の居城だった周防若山城跡、二の丸から市街地を望む
Photo/陶の道とよばれた嘗ての武者道は、徳山の陶氏居館跡とをつなぐ
20101215
バスが藤の花持つてきてくれた
―日々余話― Soulful Days-43- これで終り?
先の 11 月 29 日午後 2 時、損害賠償請求の民事訴訟における最後の公判期日。
この日も前々回に続いて、一方の被告 T.K 本人が出席した。無論、過保護な親の意向が強く働いていたこととはいえ、
これまでは親任せ、代理人任せにしていた訴訟ごと万事が、最後の最後になって、和解調停の解決へと運ぶ関門とし
て、遺族と対面して直々に詫びの言葉を、という裁判官からの要請によって、やむなく公判の席に臨んだ 9 月のとき
から、自己の社会的責任において否応もなく逃れえぬ最低限のこと、そんな場面に初めて彼は立たされた訳だし、そ
の延長として自ら出席することを選択して来たのだろう。
数日後、K 弁護士から、この日の公判で成立した和解条項の、正本の写しが送られてきた。
<和解条項>
1. 被告両名は、原告らに対し、本件交通事故に基づく損害賠償債務として、連帯して、既払金を除き、合計××万
円の支払義務があることを認める。
2. 被告両名は、原告らに対し、連帯して、前項の金員を平成 22 年 12 月 30 日限り、原告ら代理人の指定する下記
記載の銀行口座に振込んで支払う。ただし、振込手数料は被告両名の負担とする。
3. 被告 M 株式会社と被告 T.K とは、本件事故の過失割合が、訴外 M.M7 割、被告 T.K3 割であることを相互に確認
する。
4. 原告らは、被告両名に対するその余の請求をいずれも放棄する。
5. 原告ら、被告両名及び利害関係人は、原告らと被告両名との間及び原告らと利害関係人株式会社 N との間におい
て、本件交通事故に関し、本和解条項に定めるもののほか、何らの債権債務のないことを相互に確認する。
6. 訴訟費用及び和解費用は各自の負担とする。
これで刑事民事双方に及んだ訴訟事は、すべて終り、幕は降りたのだ。
RYOUKO がその命を落とすこととなった事故の顛末は、顛末という限りにおいては、その事故の当事者、M.M と T.K
双方の、それぞれの向後の人生に降りかかる軛の重さ、その軽重に、その明暗にどう考えても不条理としか思えぬ大
きな差違を残しながら、すべて終ったのである。
そしてわれわれ遺族、同じ遺族とはいえ母のIkuyo と父の私は、すでに一つの家族として共にはなく、Ikuyo にはIkuyo
の孤独な軛が、生きている限り逃れえぬものとしてのしかかり、ただひたすら哭くしかない日々がずっと続くのだろ
う。
そう、彼女には、同じ<な>く行為だとしても、<哭>という表記がふさわしい、と思われる。
そして私はといえば‥。
―山頭火の一句― 行乞記再び -127
5 月 7 日、晴、行程 2 里、福川、表具屋
ほがらかに眼はさめたのだが、句会で饒舌りすぎ、夜中飲みすぎたので、どこかにほがらかになりきれないものがな
いでもない。
さうさうとして出立する、逢うてうれしさ、別れのつらさである、友、友の妻、友の子、すべてに幸福あれ。
- 119 富田町行乞-そこは農平老の故郷だ-、そして富田よいとこと思つた、行乞相は満点、いつもこんなだと申分ない。
けさ、立ちぎはの一杯二杯はうれしかつた、白船老の奥さんは緑平老の奥さんと好一対だ。
ここまで来ると S 君のことが痛切に考へられる、S 君よ健在なれ、私は君の故郷を見遙かしながら感慨無量、人生の
浮沈を今更のようにしみじみ感じた。
此宿は飴屋の爺さんに教へられたのだが、しづかできれいで、気持ちよく読んだり、書いたりすることが出来る、そ
れにしても私はいよいよ一人になつた。
※表題句のみ記す
Photo/富田は現在の周南市富田だろう。この町には中央に大きな風車を設置した永源山公園がある
Photo/その永源山公園から周南市街地や瀬戸内海を望む
Photo/公園から西南の麓には山崎八幡宮があり、その節分祭風景
20101214
そよいでる棕櫚竹の一本を伐る
―表象の森― <見る>ことを超え出て
辻邦生ノート「薔薇の沈黙-リルケ論の試み」より –参<見る>とは、対象の外-前-に立って、対象をそこに現前させることだ。<見る>行為は、その意味では、対象-世界-を
現象として浮かび上がらせるが、対象から離れることはできず、むしろ対象に依存-従属-している。いかに視覚が働
こうと、事物がなければ何も見ることはできない。同時に、最後まで自己性を超えられないゆえに<見る人>は<対象
>-世界-の前に立つのであり、対象-世界-と外面的な関係を持つに過ぎない。世界とのいかなる内的関係も失って、世
界自体の合理性の上に築かれた<近代>社会では、人間は<見る人>であることを強いられる。誰もが<見る>以上のこ
とはできない。だが、それは人間が根源的に排除・疎外されている証拠でしかない。「マルテの手記」以来、リルケ
が<愛する女><内から外へ溢れる薔薇><天使>の映像で<純粋意欲>―欲求対象を決して所有しない、自己性を克服し
た純粋活動としての意欲―を追求したのも、ただひたすら近代人を孤独と窮乏の中に投げこむ<近代>を克服するには、
それによるほかに方法はないと、確信できたからだった。というより、リルケがパリの孤独と<誰のでもない死>から
自らを救い出そうとして苦悩するあいだに、救済の道としてみえてきたのが、この休止することのない<純粋意欲>
だったというべきだろう。それはニーチェの「力への意志」とほとんど同質の「生への意欲」といっていいものであった。
この<純粋意欲>が「転向」では<愛>という言葉でよばれている。<見る仕事>が終り<心の仕事>を始めなければならな
いとは、<見る>ことが宿命的にもつ「物の外にあること」と「物への依存」を超えてゆくことにほかならない。そしてそ
れは<見る>ことの制約を確認することから始まる。「転向」における「見ることには一つの限界がある」と「よく見られ
た世界は/愛のなかで栄えたいと願う」という詩句は、リルケが直覚した<見る>の限界の一地点を示している。それ
からあとは、<見る>営みが「物たちが愛のなかで栄える」ことを目ざして、<愛>の力を借りつつ自己超克してゆくプ
ロセスとなってゆく。<見る>はこうして「物の外にある」ことを超えて「もののなか」へと入ってゆく。「外」とは、近代
人の無関心、いかなる熟視も内側に抱え込んでいる無関心のことだ。「転向」において「それらは/お前が擒にしたも
のでありながら さて、お前はそれを知ってはいない」と表現されている近代人の無知のことだ。それを愛の熱情で
溶かし、無関心の原因である自己性を解体・超克してゆく。
青空を見るとき、われわれは単に青空がそこにあると思うにすぎない。家を見るとき、単に家がそこにあると思うに
すぎない。だが、<見る>を超えた感受にとっては「青空」は何かそれによって心をときめかせるものとなる。「家」は
寛ぎと強く結びついた存在となる。すくなくとも、それはただ空が青いという現象的事実ではなく、その青さによっ
て絶えず無限の物想いを語りつづける存在となる。それは時にゴッホの画面に深く沈むオーベールの麦畑の上の青空
のように、無限の悲しみを語りつづける。またセザンヌの「大水浴」の遠い青空のように地上の悦楽の極点にある至福
を象徴する。
- 120 ここでは<見る>は「青空という物」の外にあるのではないし、その現象的事実に従属しているのでもない。逆に、そ
こに「青空」という新しい現実を生みだし、われわれはその中に入り、無限の内容を生き始めるのだ。「青空」はもはや
現象的事実ではなく、感受力は現象する青空の単一性を超え、そこに無限に開かれる青空の映像を映してゆくことに
なる。それは喜びから悲しみまであらゆる調音を響かせるが、その根底には存在の歓喜が横たわっている。なぜなら
<見る>を超えた感受力は、何よりも、存在に内在する生命力と交歓するからだ。それはパリ時代のリルケがロダンの
なかに鋭く見出していったものであった。
―山頭火の一句― 行乞記再び -126
5 月 6 日、曇、后晴、ふつてもふいてもよろしい白船居
悠々として一日一夜を楽しんだ、洗濯、歓談、読書、静思、そして夜は俳句会へ。
糞ツ南無阿弥陀仏の話はよかつた、その「糞ツ」は全心全身の声だ、合掌して頂戴した。
句を拾ふーこんな気持にさへなつた、街から海へ、海から森へ、森から家へ。
――
棕櫚竹を伐つて貰ふ、それは記念の錫杖となる。
よく話した、よく飲んだ、よく飲んだ、よく話した、そしてぐつすり寝た。
※表題句の外、11 句を記す
久保白船は、山頭火と同様に句誌層雲の同人、また選者としても活躍した。後の昭和 15 年、山頭火が四国松山の一
草庵で急死した際、報せを聞いて駆けつけ、遺体を荼毘に付したという生涯の友。その彼もまた翌年に急逝している。
Photo/白船が住んでいたのは現在の周南市徳山、その岐山地区に白船の句碑が立つ
Photo/白船の生地は、周南市よりさらに南東部の平生町、その沖合に浮かぶ佐合島。
20101212
あざみあざやかにあさのあめあがり
―表象の森― リルケにとってのロダンとセザンヌ
・辻邦生ノート「薔薇の沈黙-リルケ論の試み」より –弐リルケはマルテと一体化することによって、<近代>の空虚な生を徹底的に経験することになるが、同時に、その空虚
な拡がり・深化のなかで、それに匹敵する強度をもって、それを克服する力-求心力-を探求しなければならなくなる。
いわばこの圧倒的な水圧に抵抗して、必死で克服するプロセスが、リルケを単なる詩人から、「ドゥノイの悲歌」の詩
人へと鍛え上げてゆく。というのは、問題の全体を意識しうる地点に登高する苦悩に満ちた過程で、リルケはマルテ
と別れ、自ら生き残る道を見出し、同時に、それが後期の詩的世界へつながることになるからだ。
この<近代>の空虚化・疎外化する生を克服するとは、リルケ=マルテにとって、生の内実・プロセスを、内側から満た
すという形による快復に他ならない。それは<近代>の要求する業績-仕事の成果-万能主義に対して、仕事のプロセス
こそが意味を持つとする生き方の確立だった。「ひたすら活動しつつ決して自己意識に戻らず、全的に外に向って開
いた精神」―それこそがリルケ=マルテが願った生き方だった。外に向って<働く>けれど、<働いた結果>を顧慮しな
い意識、<見る>けれど、<見られる>ことを期待しない意識、<愛する>けれど、<愛される>ことを乗り超えた意識―
それが<近代>の空疎化された生を、根底から逆転する道だった。
リルケはこの反転の契機をロダンとセザンヌから学んでゆく。それは芸術制作の場だけではなく、時間の性格をも、
空間の意識をも、<近代>のそれと決定的に異質なものに変えてゆく。時間でいえば、ロダンの不屈な忍耐力、セザン
ヌの孤独な持続力は、計量化された<近代>的時間意識からは理解できないし、だいいちそれを実践することなど思い
も及ばない。また空間における<近代>性の特徴とは、都市のビルが典型的に示すように、そこから生の内実を消去し
て、空虚な計量的・幾何学的・非生命的な空間となってゆくことだ。その空間を反転させ、ロダンがいかに豊穣な官能
- 121 生と精緻な運動感で満たしていったか、彼の多彩な彫刻群を見れば納得がゆく。セザンヌの絵画空間の根源的な透明
な重さも同じような空間の生命化の意志から生れている。そこに湛えられているのは「神さまから、永遠のむかし、
わたしにつくれと命ぜられた甘美な<蜜>」なのである。この二人は<近代>の空虚化の圧力に抵抗し、心の内部をか
かる<生命>の<蜜>で満たしながら、それを孤独な仕事を通して、内から外へ実現-レアリザシオン-してゆく。リルケ
が「マルテの手記」のなかでマルテと同化しながら一つの典型として示すのは、この<内から外へ>を純粋に徹底して成
し遂げた人間たちーすなわち<愛する女>とは芸術家の原型といってもよく、<近代>が歪める以前の、人間の本源の
在り方といってもいいものなのだ。それはハイデッガーが「元初の能力、それぞれのものをそれ自身へ集中する能力」
と呼んだものであり、「存在者はすべて、存在者として意志の中にある」と規定した「意欲するもの」の根源の姿なので
ある。
―山頭火の一句― 行乞記再び -125
5 月 5 日、雨、破合羽を着て一路、白船居へー。
埴生―厚狭―舟木―厚東―嘉川―8 里に近い悪路をひたむきに急いだ、降る吹くは問題ぢやない、ここまで来ると、
がむしやらに逢ひたくなる、逢はなくてはおちつけない、逢はずにはおかない、といふのが私の性分だから仕方がな
い、嘉川から汽車に乗る、逢つた、逢つた、奥様が、どうぞお風呂へといはれるのをさえぎつて話しつづける、何し
ろ 4 年振りである。―
今日ほど途中いろいろの事を考へたことはない、20 数年前が映画のやうにおもひだされた、中学時代に修学旅行で
歩いた道ではないか、伯母が妹が友が住んでゐる道ではないか、少年青年壮年を過ごした道ではないか-別に書く-。
峠を 4 つ越えた、厚東から嘉川への山路はよかつた、僧都の響、国界石の色、山の池、松並木などは忘れられない。
雨がふつても風がふいても、けふは好日だつた。
端午、さうだ、端午のおもひでが私を一層感傷的にした。-略話しても話しても話しつきない、千鳥がなく、千鳥だよ、千鳥だね、といつてはまた話しつづける。
長州特有のちしやもみ-苣膾-はおいしかつた、生れた土地そのものに触れたやうな気がした、ありがたい、清子さん
にあつく御礼申上げる。
※表題句の外、11 句を記す
Photo/西国街道-旧山陽道-の嘉川~厚東間の山路にある熊野神社
Photo/その街道筋に「どんだけ道」と呼ばれる山路が今に残る
20111211
露でびつしより汗でびつしより
―日々余話― Walking と朝湯
とりあえず三日坊主を克服? Walking は 5 日目。
眼が覚めたのは 5 時、小一時間は読書、東の空が少し明るくなるころ家を出る、玄関ロビーの時計を見ると 6 時 15
分だった。
いまのところコースは住吉公園と住吉大社廻り、公園に行き着くまでに 15.6 分かかる、ぐるりと園内を廻る、園の
中央辺りに設置されたスピーカーからラジオ体操の放送が流れ、広い園内のあちらこちらで、延べ数十人くらいだろ
うか、三々五々体操をしているなかを、此方はただひたすら歩きつづける。
大社の境内も公園に比すほどに広い、初詣などでは太鼓橋を渡って、本殿たる 4 つの本宮を廻る程度だが、摂社・末
社やさまざまな石碑の類、付随の施設など、まあいろいろとあるものだ。
帰り道の粉浜や東粉浜の町は、戦後の区画整理事業の区域外なのだろう、狭い路地ばかりの街並みだから、コースの
Variation はいくらでもあり、それもまたよろし。
- 122 7 時半頃帰宅、きょうは朝風呂をゆったりと堪能、これ極楽々々。
―山頭火の一句― 行乞記再び -124
5 月 4 日、曇、行程 8 里、埴生、今井屋
行乞しなければならないのに、どうしても行乞する気になれない、それを無理に行乞した、勿論下関から長府まで歩
くうちに身心を出来るだけ調整して。
長府はおちついた町で感じがいい、法泉寺の境内に鏡山お初の石塔があつた、乃木神社二十周年記念の博覧会-と自
称するもの-が開催されてゐた、それに入場する余裕もないし興味もないので小月まで、小月では宿といふ宿から断
られた、しようことなしにここまで歩いた、電灯がついてから着いて、頼んで泊めて貰つた、何といふ無愛想な、う
るさい、けちな宿だらう!-しかし野宿よりはマシだ、30 銭の銅貨は泣くだらうけれどどこへ行つても日本の春は、殊に南国の春は美しい、美しすぎるほど美しい。
※表題句の外、3 句を記す
Photo/室町の大内氏、戦国の毛利氏らの城下町長府には著名な神社仏閣が多い、その内の一、攻山寺は奇兵隊の高
杉晋作決起の寺としても知られるが、写真はその参道。
Photo/長府の街並み古江小路の風景
Photo/毛利綱元建立の覚苑寺にある狩野芳崖の像
20101209
晴れておもひでの関門をまた渡る
―表象の森― 森そのものが神だった
岡谷公二「原始の神社をもとめて」は、副題の「日本・琉球・済州島」が示すように、海洋でつながる朝鮮半島や沖縄諸
島、あるいは北九州及び近郊の島々などに伝わる古層の神々のかたちに、さまざまに共通なものを見出していく旅と
いったもので、刺激的な知見が随所にみられる地道な労作。
以下、本書の目次各章に掲げられた小見出しを網羅すれば、その射程のひろがりと具体的な個々の内容がかなりの部
分想像できようか。
1.済州島の堂との出会いー堂という聖地/済州島へ/蜜柑畑の中の堂/島の北西岸の堂/海女の村々/忘れ難い堂
2.韓国多島海の堂―閑麗水道の島々/智島の堂の森/祭天の城あとと乙女の亡魂を祭る堂/羅老島の馬神/済州島
とほかの島々の堂との相違
3.済州島の堂とその祭―堂の種類とその立地/堂に祀られる神々/司祭者神房/ピニョムとクッ/迎燈祭
4.沖縄の御嶽―御嶽の発見/御嶽に残る古神道の俤/社殿のない神社/神社と女人司祭/御嶽の神社化/斎場御嶽
/琉球王国の神女組織/御嶽のありよう/御嶽の起源
5.済州島と琉球―済州島と日本/済州島・琉球・倭寇/済州島と沖縄の相似/済州人の沖縄漂着/琉球人の済州島漂
着
6.神社と朝鮮半島―渡来人が祀った神社/奈良―三輪神社その他/京都―賀茂神社、平野神社、松尾大社、伏見稲荷、
八坂神社/伊勢神宮と朝鮮半島/堂信仰のあらまし/堂と神社
7.神社をめぐるいくつかの問題 1-縄文・弥生と神社―神社の起源は縄文時代か/神域内に縄文遺跡のある神社/諏訪
信仰の問題/弥生時代と神社/縄文土偶をめぐって
8.神社をめぐるいくつかの問題 2-神社は墓かー死穢観念の成立/古墳の上に建つ神社/裏手に古墳のある神社/山
頂や山の中腹の古墳を祀る神社/名高い神社と古墳/御嶽葬所起源説/堂と墓
9.聖なる森の系譜―貝の道高麗瓦その他/対馬の天道山/ヤボサ神/薩摩・大隈のモイドン/種子島のガロー山/ト
カラ列島の女人司祭/奄美の神山/藪薩の御嶽
- 123 付.神社・御嶽・堂-谷川健一氏との対話―済州島というトポス/堂の祭/御嶽の発生/聖地とは何か/御嶽の聖性
/対馬の問題/五島列島と済州島/問いとしての御嶽
―山頭火の一句― 行乞記再び -123
5 月 3 日、晴、行程 7 里、下関市、岩国屋
よい日だつた、よい道づれもあつた、11 時頃小倉に入つた、招魂祭で人出が多い、とても行乞なんか出来さうにな
いし、また行乞するやうな気分にもなれないので、さらに門司まで歩く、ここから汽船で白船居へ向ひたいと思つて
ゐたのに、徳山へは寄港しないし、時間の都合もよくないので、下関へ渡つていつもの宿へおちつく、3 時前とはあ
まりに早泊りだつた。
同宿十余人、同室弐人、おへんろさんと虚無僧さん、どちらも好人物だつた。-略関門を渡るたびに、私は憂鬱になる、ほんたうの故郷、即ち私の出生地は防府だから、山口県に一歩踏み込めば現在
のわたしとして、私の性惰として憂鬱にならざるをえないのである、といふ訳でもないが、同時にさういふ訳でもな
いこともないが、とにかく今日は飲んだ、飲んだだけではいけないので、街へ出かけた、亀山祭でドンチヤン騒ぎ、
仮装行列がひつきりなしにくる。‥
-略※表題句の外、4 句を記す。
Photo/下関市中之町の、関の氏神こと亀山八幡宮
Photo/境内から鳥居越しに望む関門海峡
20101207
あるけばきんぽうげすわればきんぽうげ
―表象の森― 不壊のものへ、捨身の生
辻邦生ノート「薔薇の沈黙-リルケ論の試み」より -壱「どのような小さなかけらのなかにまで、充実したレアリテ-現実-が存在する。どんな場所を歩こうと、僕にはよろ
こびがあり、愉悦があつた」と 1907 年 6 月にクララに宛てて書くとき、彼は<もの>の本質を透視し、いわばセザン
ヌが絵の中に封じこめた<もの>の生命観をセザンヌ展に先駆けて予感的に掴んでいたといっていい。このように「そ
の日常的なリアリティは最終的な「絵画的な実存」のためにすべての重量を失っている」とセザンヌの絵画の本質を的
確に示しえたのは「マルテ」をかかえたリルケが、同じ質のレアリテに達しようと苦悩していたからである。リルケは
セザンヌが通念的な日常的現実の一切を排除し、物の本質へ迫るという意味での<即物性>に強く共感する。「最初は
まずこの仮借なさから出発せねばならぬ。芸術の「見る」ということは、おそろしいもの、一見いとわしいもののなか
に、「存在者」を見るまでの、苦痛な自己克服の道なのだ」。
この「自己克服」の対象となる自己とは、なお主観の圏内に真実を探し、自己を他者や<もの>たちに対する意味の根拠
と信じる主体に他ならない。芸術家は「存在者」という「新しい祝福」-通念的現実の奥に見透かされる本質-に達するた
めに、この自己を破壊・克服し、「あらゆるものと伍し、目立たず、言葉なく、孤独に生き抜く愛」に生きる。それは
本質への捨身の生といってもいい。だが、この「苦しいこころみに耐える」ことができるのは、<もの>の運命を見ぬき、
それを最後まで担ってゆく意志だけだ。主観性と結びつく愛をすら芸術家は越えてゆかなければならないことをセザ
ンヌは教える。彼は愛を示すのではなく「愛も何もかも仕事の中に溶けてしまって、初めてかかる絶妙な<もの>が生
れてくる」のを教えるのだ。リルケはセザンヌの絵の前で突然このことに気づく。自己をほとんど無と見なし、一切
の評価、生活、愛を無視し、ただ「存在者」を掴み、それを作品という「不壊のものに高めるためのレアリザシオン」を
貫くことーそれがセザンヌの仕事だった。リルケはセザンヌが叫んだ「他人のことにいらぬ心配はするな。君の仕事
- 124 をはげんで強くなれ」という言葉を引用している。だが、それはよほどの忍耐と不屈の意志がなければ不可能な道だ
ろう。
―山頭火の一句― 行乞記再び -122
5 月2 日
5 月は物を思ふなかれ、せんねんに働け、といふやうなお天気である、かたじけないお日和である、香春岳がいつも
より香春岳らしく峙つてゐる。
早く起きる、冷酒をよばれてから別れる、そつけない別れだが、そこに千万無量のあたたかさが籠もつてゐる。
4 里ばかり歩いて歩いて、ここまで来て早泊りした、小倉の宿はうるさいし、痔もよくないし、4 年前、長い旅から
緑平居へいそいだときの思出もあるので。-略今日の道はよかつた、いや、うつくしかつた、げんげ、たんぽぽ、きんぽうげ、赤いの白いの黄ろいの、百花咲きみ
だれて、花園を逍遙するやうな気分だつた、山もよく水もよかつた、めつたにない好日だつた-それもこれもみんな
緑平老のおかげだ-、朝靄が晴れてゆくといつしよに歯のいたみもとれてきた。
麦の穂、苗代つくり、藤の花、鮮人の白衣。
此宿の田舎らしいところはほんたうにうれしかつた、水もうまかつた、山の水としてもうまかつた、何度飲んだか分
らない、何杯も何杯も飲んだ、腹いつぱい飲んだ、こんなにうまい水はめつたに飲めない。-略今夜といふ一夜は幸福だつた、地は呼野、家は城井屋、木賃 30 銭、中印をつけて置くが上印に値する、私のやうな
ものには。
※表題句の外、12 句を記す。
緑平居の糸田から香春町へ出ると、国道 322 号線に寄り添うように日田彦山線が走っている。
Photo/香春岳全景、右手から一の岳、二の岳、三の岳
Photo/一の岳の麓にある香春神社、その参道から社殿へ
Photo/その鳥居からは一の岳が覗く
20101206
夕空、犬がくしやめした
―表象の森― EVE の夜に
いっかな御輿を上げないままとうとう師走がきて、今年唯一の DANCE CAFÉ は、会場取りの関係もあって、EVE の
夜となってしまった。
きのう作ったその案内ページを以下にご紹介しておく。
―山頭火の一句― 行乞記再び -121
5 月 1 日、まつたく五月だ、緑平居の温情に浸つてゐる。
熱があるとみえて歯がうづくには困つたが、洗濯したり読書したり、散歩したり談笑したり。
彼女からの小包が届いてゐた、破れた綿入を脱ぎ捨てて袷に更へることが出来た、かういふ場合には私とても彼女に
対して合掌の気持になる。
廃坑を散歩した、アカシアの若葉がうつくしい、月草を摘んできて机上の壺に挿して置く。
放哉書簡集を読む、放哉坊が死生を無視-敢て超越とはいはない、彼はむしろ死に急ぎすぎてゐた-してゐたのは羨ま
しい、私はこれまで二度も三度も自殺をはかつたけれど、その場合でも生の執着がなかつたとはいひきれない-未遂
にをはつたのがその証拠の一つだ-。
- 125 筍を、肉を、すべてのものをやはらかく料理して下さる奥さんの心づくしが身にしみた-私の歯痛を思ひやつて下さ
つて-。
緑平老は、あやにく宿直が断りきれないので、晩餐後、私もいつしよに病院へ行く、ネロ-その名にふさはしくない
飼犬-もついてくる。
緑平居に多いのは、そら豆、蕗、金盞花である、主人公も奥さんも物事に拘泥しない性質だから、庭やら畑やら草も
野菜も共存共栄だ、それが私にはほんたうにうれしい。
※表題句の外、7 句を記す。
Photo/山頭火と木村緑平
Photo/緑平は柳川の人、その終焉の地に立つ顕彰碑
20101203
窓一つ芽ぶいた
―表象の森― 辻邦生の小説世界と現代詩の森
きのうに続いて 11 月の購入本など。
この月は辻邦生特集といった趣き。それと 30 年代から 60 年代へと現代詩が辿った変遷、詩人ら 51 人を網羅したア
ンソロジー「言語空間の探検」など、学芸書林の「全集現代文学の発見」シリーズに特色。亀井孝ら編集の「日本語の歴
史」シリーズもいずれ読んでみたい。
―11 月の購入本―
・辻邦生「背教者ユリアヌス」中央公論社
著者自身の語るところ「時代の大きな変革期には、つねに時代を象徴するごとき人物が、壮大な悲劇を強いられて、歴
史の中に立ちはだかる。背教者ユリアヌスが立たされたのは、まさに古代的現実が、激しくゆすぶられ、古代を支配し
たあらゆる精神、人間観、価値観が危機に立たされた四世紀から五世紀への過渡期である。現在のイスタンブールに
ローマから都をうつし、コンスタンティノボリスを建設し、キリスト教を国教として承認し、ピザンツ帝国の基礎をひ
らいたコンスタンテイヌス大帝の甥にうまれ、自らキリスト者として洗礼を受けたユリアヌスは、その燃えつきるよ
うな 32 年の短い生涯を、すべて古代異教の復興に賭け、音をたてて崩れる地中海古代を支えようと最後の悲劇的な苦
闘をつづけるのである。」と。「音楽的で絵画的で、光り輝くような、それでいて抑制の効いた文体はそれだけでも至宝
のようで、まさに読み終わるのが惜しくなる。辻邦生を読まずして「本読み」というなかれ。」と、旧制高校時代からの親
友である北杜夫に絶賛させた長大な叙事詩。72 年初刊の中古書。
・辻邦生「辻邦生が見た 20 世紀末」信濃毎日新聞社
90 年代とはどんな時代だったのか、辻邦生が 90 年 8 月から 99 年 7 月までの 10 年、信濃毎日夕刊「今日の視角」に連
載した 433 回の掌編エッセー。
・辻邦生/山本容子「花のレクイエム」新潮社
月ごとの花をテーマに、版画家と共作した 12 の幻想的掌編。96 年初版、中古書。
・辻邦生「辻邦生歴史小説集成-1」岩波書店
安土往還記、十二の肖像画による十二の物語、十二の風景画への十二の旅、を収録。93 年出版の中古書。
・増谷文雄/梅原猛「知恵と慈悲「ブッダ」-仏教の思想-1-」角川文庫
角川の仏教の思想シリーズ、ブッダの偉大なる知恵と慈悲の思想をギリシア哲学やキリスト教思想と対比しつつ、そ
の現代的意義を探る。
・櫻部建/上山春平「存在の分析「アビダルマ」-仏教の思想-2-」角川文庫
同上第 2 巻、5 世紀頃に輩出した世親の仏教思想を軸にその哲学的側面を根源から捉え直す。
- 126 ・亀井孝/他「日本語の歴史-1 民族のことばの誕生」平凡社ライブラリー
日本語を日本人の歴史をとおして把握しようとした昭和 40 年代前半初版の全 7 巻・別巻 1 の復刊シリーズ、その第 1
巻は、日本語の起源と日本人の起源から説き明かす。
・亀井孝/他「日本語の歴史-2 文字とのめぐりあい」平凡社ライブラリー
同上、第 2 巻は、音韻構造も統語構造も異なる中国の漢字を如何にして数百年の歳月をかけ日本語の文字へと取り込
んできたか。
・ミシエル・レリス「幻のアフリカ」平凡社ライブラリー
刊行当初は発禁の憂目にあったという、大戦間期のアフリカの貌が立ち現れる長大な民族誌的日記。1068 頁もの大部
の文庫本化が話題になっている。
・安西冬衛/他「言語空間の探検 全集現代文学の発見-13」学芸書林
「軍艦茉莉」の安西冬衛や西脇順三郎の「Ambarvalia」など、30 年代から 60 年代に到る現代詩の成立を鳥瞰する 51 人
の詩人、歌人、俳人を網羅する、69 年出版の中古書。
・井伏鱒二/他「日常のなかの危機 新装版全集現代文学の発見-5」学芸書林
同上シリーズ全 17 巻の新装版で、02 年から順次再版されているその一、太宰治の「桜桃」、椎名麟三の「神の道化師」な
ど 14 作を収録、中古書。
・大岡昇平/他「証言としての文学 新装版全集現代文学の発見-10」学芸書林
同上、大岡昇平の「俘虜記」、長谷川四郎の「シベリヤ物語」など 15 作を収録、中古書。
・吉岡幸雄「日本の色を歩く」平凡新書
著者は京都の老舗染屋の当主、化学染料には出せない日本の伝統の色、朱・赤・藍・黄・黒・白・紫を求め全国を旅するな
かで、染色と色の知識が存分に語られてゆく。
・近藤太一「知的発見の旅へ」文芸社
06 年初版のツアーコンダクターによるエッセイで著者は高校同期、その誼で中古書を購ってみたが、扉に「ご恵仔」と
署名あり、どうやら贈呈本が古書店に廻ったものとみえる。
―図書館からの借本―
・「世界の文字の図典」吉川弘文館
古代文字から現代の文字まで歴史上に現れた全ての文字を網羅、1200 点もの図版でわかる、文字の大図鑑。
・横田冬彦「天下泰平 日本の歴史-16」講談社
元和偃武が成り、<東照大権現>の鎮護のもと、対外的には鎖国という虚構の華夷秩序をうち立て、国内には徳川の平和
を実現する。武力を凍結された軍事集団、武士は自らをどう変えていくのか。戦乱の世を通じて獲得された人々の自
治は、この新しい武家国家とどう折り合いをつけ、近世の町・村の仕組みを生み出していくのか。
・辻邦生「辻邦生全集 15」新潮社
小説への序章-神々の死の後に/森有正-感覚のめざすもの/トーマス・マン/薔薇の沈黙-リルケ論の試み、を収録。
―山頭火の一句― 行乞記再び -120
4 月 30 日、雨后曇、后晴、再び緑平居に入る。
雨、雨、かう雨がふつてはやりきれない、合羽を着て、水に沿うて、ぶらぶら歩いて、緑平居の客―厄介な客だと自
分でも思つてゐるーとなる。
雨後の新緑のめざましさ、生きてゐることのよろこびを感じる。
夕方、予期した如く、緑平老が出張先から戻つて来た、酒、話、ラヂオ、‥友情のありがたさよ。
※表題句の外、5 句を記す
- 127 当時、明治鉱業豊国病院の内科医であった木村緑平は、田川郡糸田町に住んでいた。現在なら平成筑豊糸田線で田川後
藤寺駅から大藪、糸田と二駅。
Photo/その糸田駅からほど近い皆添橋のレリーフには「逢ひたい捨炭山が見えだした」の句碑
Photo/その糸田の木村緑平旧居跡下にある緑平の句碑「聴診器耳からはづし風の音聞いてゐる」
Photo/同じく緑平旧居のそばに立つ山頭火句碑「逢うて別れてさくらのつぼみ」
20101202
逢ふまへの坊主頭としておく
―表象の森― なぜだか‥?
またまた月遅れの購入本などの紹介、とりあえず 10 月分。
この月はなぜだか仏教及び宗教系がきわだって多くなった。
―10 月の購入本―
・吉田武「オイラーの贈物」東海大学出版会
代数、幾何、解析。数学の多くの分野は唯一つの式に合流し、それを起点に再び奔流となって迸る。ネイピア数、円周率、
虚数、指数関数、三角関数が織りなす不思議の環=オイラーの公式。本書はこの公式の理解を目標に、数学の基礎を徹底
的に解説する。
・末木文美士「仏典を読む-死からはじまる仏教史」新潮社
仏教のような宗教では、思想と言いつつも下部構造と深く関わっている。仏典のテキストに即しながら、仏教思想のダ
イナミズムを時代の変遷とともに明らかにしていく 2 部 13 章。
・井上順孝「新宗教の解読」ちくま学芸文庫
新宗教はなぜ生まれ、どのような道をたどってきたのか‥。天理教、創価学会から幸福の科学、オウム真理教に至るま
で、時代や社会を反映する<近代日本に出現した新しい宗教システム>としての新宗教を読み解く。
・佐藤任「密教の神々―その文化史的考察」平凡社ライブラリー
聖天さん・馬頭観音・不動明王など、多くの日本人に親しまれてきた多彩な密教の神々を、インドの古代文化に遡って、
文化的、歴史的意味を解き明かす。
・松原秀一「異教としてのキリスト教」平凡社ライブラリー
東方の一民族の一小集団の信仰であったキリスト教、異教として新しい世界に入ったこの宗教が、その地の要素をと
りこみ、出自の母斑を脱色しながら、少しずつ変容していったありさまをまざまざと映し出す。
・岡谷公二「原始の神社を求めて-日本・琉球・済州島」平凡新書
御嶽、天道山、モイドン、神山、そして堂‥。沖縄にはじまり、済州島にたどりついた、森だけの聖地を求めての長い遍歴
の旅。
・武澤秀一「神社霊場 ルーツをめぐる」光文社新書
著者は建築家、日本の神々を訪ね歩き、その絢爛な社殿や伽藍をその職業ならではの知見で分析し、神社・霊場をめぐ
る旅へと誘う。
・佐々井秋嶺「必生 闘う仏教」集英社新書
煩悩なくして生命なし、必生、この大欲こそが大楽金剛、煩悩は生きる力。流浪の果てにインドへ辿り着いてより 40 年、
現在はインド仏教徒の指導者として活躍する破格の僧侶が、その半生と菩薩道を語る。
・服部正明/上山春平「認識と超越「唯識」-仏教の思想-4-」角川文庫
中観思想とともに仏教思想の最高の理論的達成とされる「唯識」は、日本仏教の出発点であり、またヨーガの実践と深
い関わりをもつが、その唯識思想の本質を浮き彫りにする。
・田村芳明/梅原猛「絶対の真理「天台」-仏教の思想-5-」角川文庫
- 128 中国仏教哲学の頂点を示す天台教学、「法華経」をもとに天台智顗によって確立され、日本文化の母胎ともなった思想
体系を読み解く。
・大畑裕史「太極拳四十八式 DVD 付」愛隆堂
74 年生まれの著者は、北京体育大学に留学、97 年武術太極拳技術等級国家 1 級取得、98 年同大学武術学部卒業して帰
国。現在、埼玉県を中心に関東各地で指導を行っている。
―図書館からの借本―
・池上裕子「織豊政権と江戸幕府 日本の歴史-15」講談社
信長の天下布武から、秀吉の検地や刀狩り、そして無謀な朝鮮出兵、さらには家康の身分固定支配などで、民衆はどう
生き始めたか。中世から近世への激動を経て、保たれ続けた町村の自治とはどんなものだったか。
・佐黨哲郎「大アジア思想活劇」サンガ
教談師野口復堂、神智学協会オルコット大佐、スリランカ人仏教徒ダルマパーラ、そして田中智学などなど、19 世紀か
ら 20 世紀、明治から昭和を貫く近代仏教の使徒たちが、アジアを股にかけ疾駆する近代裏面史としての仏教絵巻。
・久留島典子「一揆と戦国大名 日本の歴史-13」講談社
応仁・文明の乱を機に、未曾有の地殻変動を経験する中世社会。大名・領主から百姓・町人まで広汎な人々が、支配のた
め、抵抗のため、自治のため、一揆を結び、近世の夜明け前=新時代に向かって統合の運動を生きる。
―山頭火の一句― 行乞記再び -119
4 月 29 日、晴、後藤寺町行乞、伊田、筑後屋
すつかり晴れた、誰もが喜んでゐる、世間師は勿論、道端の樹までがうれしさうにそよいでゐる。
やつぱり行乞したくない、したくないけれどしなければならない、やつと食べるだけ泊るだけいただく。-略歯が痛む、春愁とでもいふのか、近くまた二本ぬけるだらう。
後藤寺町の丸山公園はよろしい、葉桜がよろしい、それにしても次良さんをおもひださずにはゐられない、一昨年は
あんなに楽しく語りあつたのに、今は東西山河をへだてて、音信不通に近い。
白髪を剃り落してさつぱりした。-略香春岳にはいつも心ひかれる、一の岳、二の岳、三の岳、それがくつきりと特殊なる色彩と形態とを持つて峙えてゐ
る、よい山である、忘れられない山である。-略※表題句の外、句作なし。
Photo/後藤寺町にある丸山公園の桜
Photo/十二祖神社の大鳥居、同公園内
20101201
ぬかるみをふんできてふるさとのうた
―表象の森― 江戸の御触書
江戸期の三大都市、京都・大坂・江戸の自治と行政のしくみを支えた「御触書-町触制度」について詳しく説いてくれた
講談社版の「日本の歴史 16-天下泰平」。
秀吉時代の京都でその端緒をひらき、徳川期に入って京都所司代のもと確立していく。家光の寛永年間-1640 年代頃には江戸・大坂にも採り入れられ本格化していった、と。
「触れ」は、町方支配の町奉行所から、京都では<町代>へ、江戸では<町名主>、大坂では<惣年寄>へと示達され、そ
れぞれの町組から各町々へと流され、一両日も経ずに各町の隅々までいきわたるのだが、さしづめ京都でいえば千町
を越える町々、約 4 万軒の町民たちに触れ回ったということになる。
- 129 本書では、その量的な変遷ぶりも示してくれているが、これがまた一驚、眼を瞠らされる。例を京都にとると、所司
代から町方支配を分離して京都町奉行所が成立した 1660 年代-万治年間-から急速に増加しはじめ、1700 年前後の元
禄期には年間 50 件ほどに、享保期-1720 年代-には年 100 件ほど、18 世紀後半の宝暦~寛政期には 180~190 件ほど
にも達している。つまりはこの時期、二日に一度は「触れ」が出され、町方を駆けめぐっていたというわけである。
こういった事情をみれば、町中における寺子屋の普及も察せられようし、幕末期におけるこの国の庶民の識字率が、
近代ヨーロッパをもしのぐ高率にあったという事実も肯けようものである。
―山頭火の一句― 行乞記再び -118
4 月 28 日、雨、休養、終日読書、宿は同前、なかなかよい、もつと掃除が行届くといいのだが。
悠然として春雨を眺めてゐられる、それも緑平老のおかげだ、夜はあんまり徒然だから活動見物、日活映画のあまい
ものだつたが、十銭はとにかく安い。
同宿数人、その中の二人は骨董仲買人、気色が変つてゐて多少の興味をひいた。
ちょんびり焼酎を飲んだら腹工合があやしくなつた、もう焼酎には懲りた、焼酎との絶縁が私の生活改善の第一歩だ。
※表題句の外、4 句を記す
Photo/炭鉱の町田川市、昭和前期の風景
Photo/石炭資料館に残る採掘櫓
Photo/彦山川の川渡り神幸祭風景
20101127
ボタ山なつかしい雨となつた
―表象の森― 辻邦生「小説への序章」
ぽつりぽつりと読み進んでやっと「小説への序章」-1967 年初刊、辻邦生全集 15 所収-読了。
辻邦生といえば「西行花伝」を読んでいたきりだったが、先程、北杜夫との往復書簡「若き日の友情」にはじまって、
長編「背教者ユリアヌス」を読み、この評論に到つていた。
高踏的かつ粘着質の、精緻な言葉の連なり、読む者を否応なく深遠な文芸の森へと惹き込まずにいられぬ、こういっ
たものに触れていると、自身の来し方が蜉蝣のごとき淡く泡沫のものにもみえ、もし叶うものなら、まだなにも知ら
ない幼かった頃に立ち返って、もう一度生き直してもみたいなどと、そんな妄執に憑かれもする。
以下は、本書の結語に置かれた一文より―
小説こそは「嘆き」の徹底からうまれてくる時間の究極的な「反転」によって現前する「祝祭としての時間」である。小説
..
は読者にかかる時間のもつ積極的な効果を通し「物語的形態」という全一的な同体感を与える装置によって時代の達
成した、眼に見えない本質の生を生活させるところに、より本源的な役割をもつ。
小説の中に「よろこばしく限定」された具象的世界は意味の世界となって、霧の中からカテドラル-寺院-が現れてくる
...
ように、堅固に生き生きと現れてくる。われわれは小説の世界を生きることによってわれわれをとりまく現実の生活
....
....
をもう一度象徴的に生きるのである。「生」を純粋によろこびとして生きるのである。われわれは小説という行為によ
って無意味な偶然的な空間を真に人間的な空間へと「反転」させ、神秘的な共同体的な非合理性ではなく、人間として
の生命を快復する可能性を創造するのだ。
この意味で小説はわれわれの理性の支配の進む方向に、より意味深い役割を担いつづけるであろう。そして小説が物
語という古い過去の泉から尽きない水を汲みだすとすれば、この物語の行為は太初にかえる行為であり、しかし太初
の蒙昧へでなく、太初の純粋にかえる行為であるといいうるであろう。
―山頭火の一句― 行乞記再び -117
- 130 4 月 27 日、晴、后曇后雨、後藤寺町、朝日屋
雨ではあるし、酔はさめないし、逢ひたくはあるし、-とても歩いてなんかゐられないので、急いで汽車で緑平居へ、
あゝ緑平老、そして緑平老妻!
泊るつもりだったけれど、緑平老出張となったので私もここまで出張した。
※表題句の外、10 句を記す
炭坑節発祥の地とされる田川市は、1943-S18-年、後藤寺町と伊田町が合併してなった。
Photo/日田彦山線の田川後藤寺駅ホーム
Photo/田川市内から香春岳を望む
20101124
ルンペンとして二人の唄□
―日々余話― 8 年ぶり、黄葉の熊野路
休日を利用して日帰りの熊野路、処々に見られた銀杏の大木の黄葉ぶりは、陽光を浴びて見事なものだった。
JR 和歌山駅の東側付近にある東横インで、茶谷祐三子を乗せて、4 人連れの道中となった往路、以前なら吉備インタ
ーを降りて、山間路を中辺路へと入ってゆくのだが、このたびは時間に余裕もないことから、平成 19 年に南紀田辺
まで伸びたという阪和道路をそのまま走らせた。
近露に着いたのはもう 1 時近く、今春オープンなったという、食事処や特産品販売を集めた観光施設、その名も熊野
古道ちかつゆを眼前にしたときは、古道を訪れる人や車の多いこととともにそのさま変わりように驚かされた。
インド舞踊の茶谷祐三子が、この近露のはずれ、日置川上流にある小さなログハウスに居を移したのは 6 月、もう 5
ヶ月にもなろうというが、その間、イベントなどがあるたび各地を経巡っているというから、実際にはその半分も滞
在していないのだろう。
そのログハウスは、日置川の岸辺に建つ民宿まんまるを経営する主人の所有といい、そこから急斜面を少しばかり登
った山際にあった。
家族 3 人と彼女と、遅い昼食やらしばしの語らいに時を過ごすも、付近を散策するなどの時間の余裕もなく、大塔村
平瀬の稲文醸造さんへと向かう。
稲垣夫妻とは、娘が生れて 5 ヶ月余りの頃だったから、8 年ぶりの再会、こんなにご無沙汰になろうとは思いもしな
かったのだが‥、やっと訪ねることが出来た。互いに年を重ねて老いの風貌が覗く。
短い逢瀬だったが、細君は相変わらず能弁で、話はあちこち弾んで愉しかった。
山家の日暮れは早い、すっかり黄昏れた 5 時頃に辞し、何度も合宿に使わせてもらった懐かしの旧い校舎をあとにし
た。
―表象の森― 三位一体の図像学
宗教学専攻の編集者でもあり翻訳家でもあるという中村圭志の「信じない人のための<宗教>講義」、
神をコカコーラの缶に喩えると、父、子、聖霊は、それぞれ缶の上面、底面、ぐるっと回った側面の三つに相応する、
即ち三位一体。
この缶をテーブルの上に立てる、テーブルは人間世界、広い面上に救いを求める哀れな衆生がうごめいている、そこ
に神=コーラの缶が出現する、といったかたち。缶の底面と机との接触面がイエス・キリスト、この円い接触面は缶の
底面-子なる神-として神に属するが、同時に机の面でもあるから、併せて人間界にも属し、キリストには神と人間の
二重性があることに。
- 131 このように人間の歴史的世界という苦界-机の面-と神なる救済の原理-コーラの缶-との境界面にあるキリストは、たん
なるシンボルでも絵物語の登場人物でもなく、歴史的人物であることによって救済のリアルな根拠が示される。キリ
ストは人間であり、かつ神でもあった、ここに信仰の要訣がある‥、と。
―山頭火の一句― 行乞記再び -116
4 月 26 日、曇后晴、市街行乞、宿は同前。
雲雀の唄-飼鳥-で眼が覚めた、ほがらかな気分である、しかしぎょうこつしたいほどではない、といつて毎日遊んで
はゐられないので-戸畑、八幡、小倉では行乞しなかつた、今日が五日ぶりで-5 時間行乞、行乞相は悪くなかつた、
所得も、世間師連中が取沙汰するほど悪くもなかつた。
朝のお汁で山椒の芽を鑑賞した。
花売野菜売の女群が通る、通る。
午後はまつたく春日和だつた。
このあたりを勘六といふ、面白い地名である、そして安宿の多いのには驚いた、3 年ぶりに歩いてみる、料理屋など
の経営難から、木賃宿の看板をぶらさげてゐるのが多い、不景気、不景気、安宿にも客が少ないのである、安宿がか
たまつてゐるのは、九州では、博多の出来町、久留米の六軒屋、そしてこの勘六だらう。
遠賀川の河床はいいと思つた、青草の上で、放牧の牛がのそりのそり遊んでゐる、-旅人の眼にふさはしい。
洗濯したり、整理したり、裁縫したり、身のまはりを少しきれいにする、男やもめに蛆がわく、虱がぬくいので、の
そのそ這ひだして困りますね!
夜は三杯機嫌で雲心寺の和尚を攻撃した、鮭、鮭、そして酒、酒よりも和尚はよかつた、席上ルンペン画家の話も忘
れない、昆布一壜いただいた。
※表題句の□字は不明、その他に 1 句を記す
Photo/遠賀川に架かる昭和 9 年竣工の勘六橋-老朽化で現在架替が検討されている-。
Photo/勘六橋付近の遠賀川河床風景
Photo/勘六橋から僅か 200m 余下流に架かっている沈下橋
20101116
風の中から呼びとめたは狂人だつた
―日々余話― 無事終了、なれど‥
日曜日-15 日-、場所は弁天町の大阪ベイタワーホテル、71 名の同期生と二人の恩師が集った三年ぶりの同窓会は、
冒頭の受付段階からまったく意想外のトンデモ事件を惹起しながらも、まずまず賑やかに愉しく、成功裡に終わった
といえるだろう。
それもこれも、ゲスト出演してもらった現役高校生たち吹奏楽部の、総勢 68 名による演奏会あってのことであった。
73 名の老年男女の群れに、ほぼ同数の 68 名、孫のような若い演奏団が、対峙するという特異な場面の現出だけで、
参加者ひとり一人の胸にどんな感懐が去来するものか、そんなことは少しばかり想像しただけで見当がつきそうなも
のだが、いかんせん幹事諸氏のなかにはこれを予期できない者たちが大半であったのは、ちょっぴりカナシイ。
―表象の森― ハングルとはどういう言語か
ハングルの祖型「訓民正音」成立の詳細な背景などから説きだす野間秀樹著「ハングルの誕生」-平凡社新書-は、歴
史的にも言語論的にも非常におもしろく興味つきない書である。
このほど本書は、毎日新聞社と社団法人アジア調査会が主宰するアジア・太平洋賞-第 22 回-の大賞を受賞したという。
以下はその選考委員でもある田中明彦氏による毎日新聞掲載評-11/14-からの引用-
- 132 著者は 20 世紀言語学のさまざまな概念を紹介しつつ、ハングルが、音素、音節、形態素の三層を一つの文字のなか
に透明な形で併存させる極めて精巧な文字であることを、読者の知的好奇心を満たすように次から次へと論証する。
音素も音節も形態素も、いうまでもなく現代言語学の概念であって、ハングルの創造者たちは、この現代的概念を 15
世紀にすでに自家薬籠中のものとしていたのであった。
もちろん、いかに優れた文字も発明されただけで真の文字になるのではない。使われなければ、文字として「誕生」
しないのである。本書後半は、漢字漢文原理主義の強固であった韓国で、どのようにしてハングルが国民の文字とし
ての地位を獲得していったかの経緯の叙述であり、この部分もまた読み応えがある。
ハングルの誕生は、東アジア文化の歴史の中での一大事件であった。ハングルの誕生を語りつつ、本書は、日本語も
含め東アジアにおけるきわめて興味深い言語史ともなっている。本書によって得られる東アジア文化理解は大きい。
-略―山頭火の一句― 行乞記再び -115
4 月 25 日、行程 7 里、直方市郊外、藤田屋
どうしても行乞気分になれないので、歩いて、ただ歩いてここまで来た、遠賀川風景はよかつた、身心がくつろいだ。
風が強かつた、はじめて春蝉を聞いた、銀杏若葉が美しい、小倉警察署の建物はよろしい。
此宿はほんたうによい、すべての点に於て-最初、私を断つたほどそれほど客を選択する-。
Photo/遠賀川の風景-1
Photo/遠賀川の風景-2
20101113
晴れたり曇つたり籠の鳥
―世間虚仮― 深刻、就職氷河期
若者受難の就職氷河期はいよいよ深刻さを増しているようだ。
今朝の新聞によると、大学生の就職内定率が、10 月 1 日時点で、最低を記録しているという。全国平均で 57.6%、
大都市が集中する関東圏でも 61.0%、近畿圏では 60.5%といずれも過去最低だった昨年の同時期をさらに割り込んで
おり、とくに理系の下げ幅は大きく過去最大だそうな。
但し、この調査比較はバブル崩壊後の就職氷河期が始まった頃、96 年以降のものらしいが‥。
それにしても若者たちにとっては過酷な状況だとつくづく思わされる。
―表象の森― 埒をあける
どうにも低調だった読書ペースが少しばかり回復してきている。
前回に引き続き、石田梅岩の語録から「手前ヲ埒アケル」。
いにしえの和語の用法というものは、直観的に感応はできるものの、理において得心するのはなかなか難しい。
「埒」とは、白川静「字通」によれば、声符は寽-ラツ-、[説文]に「 庳-ひく-き垣なり」とあり、ませがきの類を
いう。小さな土垣-ドエン-や、また馬場の柵などをもいう。競べ馬を見る人は、柵外で久しく待たされるので、漸く
入場が許されることを「埒が開-ア-く」という。上賀茂神社の神事である競べ馬から出た話されている、と。
松岡正剛は「千夜千冊」第 807 夜で、石田梅岩の「都鄙問答」を採りあげ、「手前ヲ埒アケル」について念入りに説
いている。
「‥、自分の性格の積層構造を知ることだ。雲母のように重なっている性格の地層をひとつひとつ知る。-略-、そし
て、いったいどの層に自分のふだんの悪癖が反射しているかを突きとめる。そのうえで、その使い慣れてしまった性
格層を別の性格層での反射に変えてみる。」
- 133 或は、「自分という性(さが)をつくっているのは、年代を追って重なってきた自分の地層のようなものである。性
層とでもいうべきか。その層を一枚ずつ手前に向かって剥がしていく。そうすると、そのどこかに卑しい性格層が見
えてくる。そこでがっかりしていてはダメなのだ。そこをさらに 埒をあけるように、進んでいく。そうするともっ
とナマな地層が見えてくる。そこを使うのだ。
だから、別の性格に変えるといっても、別種の新規な人格に飛び移ろうとか、変身しようというのではなく、自分の
奥にひそむであろう純粋な性層に反映して いる性格を、前のほうに取り出せるかどうかということなのだ。このよ
うに使い慣れた性格を剥がすこと、あるいは新たな性格を取り戻すことを、それが<手前の埒をあけていく>なのであ
る」、と。
以下は未記載の 8、9 月の購入本など。10 月以降は次回にでも‥。
-8 月の購入本-
・結城浩「数学ガール - フェルマーの最終定理」SoftBank
・渡辺公三「闘うレヴィ=ストロース」平凡新書
・野間秀樹「ハングルの誕生 - 音から文字を創る」平凡新書
・梯久美子「散るぞ悲しき - 硫黄島総指揮官栗林忠道」新潮文庫
-9 月の購入本-
・結城浩「数学ガール - ゲーデルの不完全性定理」SoftBank
・辻邦生/北杜夫「若き日の友情 - 辻邦生・北杜夫往復書簡」新潮社
・梯久美子「硫黄島 - 栗林中将の最期」文春新書
・松原久子「驕れる白人と闘うための日本近代史」文春文庫
-図書館からの借本-
・大井玄「環境世界と自己の系譜」みすず書房
現在の地球環境危機をまねいた要因は、<開放系>と<閉鎖系>という相異なる社会環境の系譜にある。「ヒトは、歴
史的にその生活・文化・環境へ適応しなが ら、自己観や生存戦略意識としての倫理意識を形成してきた。狭く貧しい
〈閉鎖系〉で譲り合い助け合う生存をつうじて、典型的日本人のつながりの自己観と<関係志向>の倫理意識が作られ
た。広漠たる<開放系>で競争し、闘いながら欲望追求の自由をつうじて、アトムのようなアメリカ人の自己観と<個
人志向> の倫理意識が形成されてきた」。
競争型社会と協調型社会が成立するための生存戦略は、環境世界と自己観のあり方に動機づけられる。開放系-資源
と領土が無限にひろがっている状態-としての古代ギリシアから開拓期アメリカ、閉鎖系-資源も領土も限られている
状態-としての古代日本から江戸時代へと文 明史をたどりながら、自立自尊の<アトム的自己>によって富の分極化を
加速させるグローバリズムから、<つながりの自己>によって他者や環境へ配慮する来 るべき倫理への転換を模索す
る。
著者は内科医にして元国立環境研究所所長。認知症診察、エイズ研究、唯識、文化心理学、脳科学、歴史学、そして
社会経済学まで、幅広く深い実践と思索が結晶した、類い稀なる未来への提言。
・中村圭志「信じない人のための<宗教>講義」みすず書房
―山頭火の一句― 行乞記再び -114
4 月 24 日、
- 134 雨、春雨だ、しつぽりぬれる、或はしんみり飲める、そしてまた、ゆうぜん遊べる春雨だ、一杯二杯三杯、それはみ
な惣三居士の供養だ。
朝湯朝酒、申分なくて申分があるやうな心地がする、さてそれは何だらう。
読書、けふはすこし堅いものを読んだ。
昨夜はたしかに酔うた、酔うたからこそエロ街を散歩したのだが、脱線しなかつた、脱線しないといふことはうれし
いが、同時にかなしいことでもある-それは生活意力の減退を意味するから、私の場合に於ては-。
此宿はよかつた、よい宿へとびこんだものだと思つた、きれいで、しんせつで、何かの便利がよろしい。
同宿 4 人、老人は遊人だらう、若者は行商人、中年女は何だか要領をえない巡礼さん、最後の四十男はお稲荷さん、
蹴込んで張物の狐をふりまはす営業、おもしろい人物で、おしやべりで、苦労人で辛抱人だ。
夕方、そこらを散歩する、芭蕉柳塚といふのがあつた、折からの天神祭で、式三番叟を何十年ぶりかで見た、今夜は
きつと少年の日の夢を見るだらう!
※表題句の外、1 句を記す
Photo/「八九間 空で雨降る 柳哉」と芭蕉の句が書かれた芭蕉柳塚
Photo/芭蕉柳塚のある小倉の安国寺
20101029
びつしよりぬれてゆくところがない
―日々余話― 都心のなかの古民家たち
大阪で育ち、この年までずっと大阪で過ごしてきながら、不明にもつい最近になってその存在を知ることになったの
が、服部緑地公園の一角にある「日本民家集落博物館」。そのきっかけはなんのことはない、小 3 となった幼な児の、
秋の遠足地だったからなのだが‥。
飛騨白川郷の古民家を移築保存したのを皮切りに、民家集落の博物館として誕生したのが、1956-S31-年だというか
らすでに半世紀あまり、今でこそかように移築保存された古民家集落群は全国各地にみられるが、いわばその先鞭を
つけたものといえようか。
すでに今月初旬の遠足で見学体験済みの先輩たる幼な児と連れ立って、休日の午後を過ごそうと出かけたのは先週の
土曜-23 日-だった。
以前は辺り一帯が竹林だったのだろう、1 万坪あまりの起伏のある敷地内に、北は岩手、南部の曲家から、南は鹿児
島、奄美大島の高倉まで、12 棟の民家が点在する。これらのほとんどが昭和 30 年代に移築されているそうな。
ゆっくり観て廻ればたっぷり 2 時間は要するのだろうが、子どもが退屈気味に先を急かすのでそうもいかない。それ
でも 1 時間半くらいは過ごしたか、ちょっとした心の洗濯にはなった気がする。
―山頭火の一句― 行乞記再び -113
4 月 23 日、雨、風、行程 3 里、小倉市、三角屋
わざと風雨の中を歩いた、先日来とかく安易になつた気持を払拭しようといふ殊勝な心がけからである。
小倉まで来て、放送居士、ではない、放送局下の惣三居士を訪ねる、初相見にして始中終見、よばれて、しやべつて、
いただいて、それから。-
酔うた、酔うた、エロ街散歩、何とぬかるみの変態的興味、シキシマを一本づつ彼女達に供養した。
廃棄工場-発電所-、そこにはデカダン的で男性的なものがあつた、なかなか句にならない。
寝十方花庵、月庵-惣三居士の面目。
雲水悠々として去来に任す、-さういふ境界に入りたい。
雨なれば雨をあゆむ
- 135 此一句-俳句のつもりではありません-を四有三さんの奥さんに呈す。
JOGK、ふるさとからちりはじめた
此一句-俳句のつもり-を白船老に呈す
雨がふつてもほがらか
此一句を俊和尚に呈す。
※表題句、掲載句の外、4 句を記す
Photo/細川忠興が築城した小倉城-S34 再建Photo/JOGK-現在の NHK 北九州放送局社屋
20101018
帆柱ばつかりさうして煙突ばつかり
-表象の森- 石田博個人展
具体の作家たちなど、関西の現代美術を半世紀にわたって支えてきた信濃橋画廊が、今年いっぱいで閉じるという記
事が夕刊紙面で紹介されていた一昨日-16 日-の夕刻、地下鉄に乗って淀屋橋へと降りたつと、約束の友はすでに来て
いた。
幕を閉じゆく画廊もあれば、産声をあげ幕を開けようという画廊もある。
裁判所西側近くの大阪法曹ビルの 2 階に誕生した楠画廊、そのオープン記念に開催されたのがサン・イシドロ窯の石
田博個人展。狭いスペースに陶器と絵画の作品が居並ぶ。会期は週末の 23 日-土-までとか。
Opening Party とあってすでに知友らの客で室内はいっぱい。しばらく滞在したあと、U 君や I 君らと近くの居酒屋
へと流れる。
Photo/陶器作品「甲山と夙川の桜」
Photo/絵画作品「JR からの贈物、軽井沢-横川間の廃線によりバイパスで出会った山々」
―山頭火の一句― 行乞記再び -112
4 月 22 日、曇、あちらこちら漫歩、八幡市、山中屋
朝酒、等、等、入雲洞さんの厚情が身心にしみる、洞の海を渡つて、木村さんを訪ねる、酒、それから同行して小城
さんの新居へ、また酒、そしてまた四有三居で酒、酒、酒。
木村さんに連れられて、やつと宿を見つけて泊る、ぐつすり寝た、二夜分の睡眠だ。
四有三さんに-23 日小倉から-
「昨日はまるで酔ひどれの下らなさ図々しさを見せるためにお訪ねしたやうなものでしたね、寄せ書きした頃から何
が何だか解らなくなりましたよ、でも梅若葉のあざやかさ、おひたしのおいしさは、はつきり覚えてゐるから不思議
です。‥」
-略-、洞海-ドウカイ-或は洞の海-ホラノウミ-はいい、此の海を中心として各市が合併して大都市を形成する計画があ
るさうだが、それはホントウのスバラシイ事業だ。
美しい女が美しい花を持つてゐた。
子供の遊び、今日此頃は軍隊ごつこ、戦争ごつこだ、子供は正直で露骨、彼等は端的に時代の風潮を反映する、大日
本主義!
※表題句の外、7 句を記す
洞海湾を囲む八幡・若松戸畑・小倉・門司の 5 市の合併話が現実となったのは、この年-S07-から 31 年を経た昭和
38-1963-年のことである。
Photo/現在の洞海湾全景
- 136 Photo/伊能忠敬測量地図の洞海湾付近図
20101014
煙突みんな煙を吐く空に雲がない
―日々余話― 半世紀ぶりの能楽堂
昨日は友からの誘いに相伴し、久しぶりの能楽鑑賞とあいなった。
大阪観世会定期能の普及公演と銘打つもの、場所は北区中崎町の大阪能楽会館だ。
大槻能楽堂には何度か足を運んだことがある、同じく谷町の山本能楽堂にも二、三度あると記憶するが、この会館に
来た記憶は、どう手繰っても高 2 の時に観た「月光の会」の舞台だけしか思いあたらない。だとすれば、往時 16 歳、
なんとなんと 50 年ぶり、まさに半世紀を隔てての推参だ。
建物の外観など、まったく記憶にないが、四間四方の舞台や橋懸りはおそらく昔のままなのだろう。初めの演目「高
砂」を観ながら、ふと 50 年前に観た「火山島」の一シーンが脳裏をよぎる。
能組は休憩をはさんで二部構成、正味 90 分を要した「高砂」のあと、若手の仕舞が 3 曲、これが一部。二部は「吉野天
人」のあと、狂言「竹生島詣」をはさんで、トリの演目が「春日龍神」とある。これでは 4 時間余を要するものとなろう
から、今は東京に住まいするという大蔵流の大倉源次郎君が小鼓方を務める「吉野天人」、もう 50 代の半ばにもなろ
うというに、凛々しくも若々しいその懐かしい演奏姿を遠目にたっぷりと拝見させてもらったところで、退散するこ
とにした。
「高砂」も「吉野天人」も、シテやツレ、ワキなどの主な役どころを務めていたのが、いずれも若手や中堅といった体に
見えた。普及公演と銘打ったあたり、いわばおさらい会の発展系といったところか。客席は結構な賑わいだったが、
能の愛好者というより実際に仕舞や謡いを習う中高年の男女がずいぶんと多かったのではないか、と見受けられた。
―山頭火の一句― 行乞記再び -111
4 月 21 日、晴、申分なし、行程 3 里、入雲洞房、申分なし
若松市行乞、行乞相と所得と並行した、同行の多いのには驚いた、自省自恥。
若松といふところは特殊なものを持つてゐる、港町といふよりも船着場といつた方がふさはしい、帆柱林立だ-和船
が多いから-、何しろ船が多い、木造、鉄製、そして肉のそれも!
諺文の立札がある、それほど鮮人が多いのだらう、檣のうつくしい港として、長崎が灯火の港であることに匹敵する
如く。-略入雲洞君はなつかしい人だ、三年ぶりに逢うて熊本時代を話し、多少センチになる。‥
金魚売の声、胡瓜、枇杷、そしてここでも金盞花がどこにも飾られてゐた。
酢章魚がおいしかつた、一句もないほどおいしかつた、湯あがりにまた一杯が-実は三杯が-またよかつた、ほんに酒
飲はいやしい。
徹夜して句集草稿をまとめた、といふよりも句集草稿をまとめてゐるうちに夜が明けたのだ、とにかくこれで一段落
ついた、ほつと安心の溜息を洩らした、すぐ井師へ送つた、何だか子を産み落としたやうな気持、いや、私としては
糞づまりを垂れ流したやうな心持である-きたない表現だけれど-。
※表題句の外、5 句を記す
文中の檣-ショウ-は船のマストのこと
Photo/帆柱林立する大正時代の若松港
Photo/現在の若松港全景
20101010
- 137 けふもいちにち風をあるいてきた
―表象の森― 梅岩の心学
「士農工商、おのおの職分なれども、一理を会得するゆえ、士の道を云へば、農工商に通ひ、農工商の道を云へば、
士に通ふ」-石田梅岩 1685-1744大井玄はその著「環境世界と自己の系譜」-みすず書房 ‘09 年刊-のなかで、
江戸時代は、完全な閉鎖系で環境を崩壊させることなく、生産性からみて収容能力の上限に近い人口を維持し、しか
も平和に洗練された生活を営むことを可能にした時代であったとし、その閉鎖系への適応と倫理のモデルとして石田
梅岩の心学を取り上げている。
彼は士農工商の身分制度を職能的区分として受け入れている。したがって商人が正直に「利を得る」のは武士が「禄を
得る」のと同等であり、その職分であると説いた。「職分」とは、プロテスタンティズムなどが言うところの「天職」に
似たニュアンスがある。梅岩によれば、それぞれの職分は形では異なっていても、重要であるのは職分をつうじて人
の「道」を行うことである。
つまりは「一理」を会得すれば、それぞれの身分の区別を越えて、共通な人の道を歩んでいるのであって、万民は同等
なのだ。その一理とは「心を知る」こと、その意味は、私心を去り、本来の心を見出すことである。本来の心とは「天
地の心」であって、私利私欲とは関係のないもの。そしてそこにいたる生活の行動様式が「倹約」にほかならず、さら
にその根本が「正直」である、という。
その梅岩が、現在の京都中京区車屋町通りの御池を上ったあたりの借家で「性学」-後に石門心学と称される-説きはじ
めたのは 45 歳の時。梅岩存命の最盛期には門弟 400 人を数え、没後も手島堵庵ら門弟たちによって流布し、心学を
学ぶ学舎は 19 世紀半ばには諸藩 34 カ国 180 カ所に及び、断書-武芸でいえば免許皆伝の証書-を与えられた者が 18
世紀半ばからのほぼ 1 世紀のあいだに 36000 人以上に達したというほどに流布したともいうから、これはもう当時
としては心学運動ともいうべき広汎なひろがりであったろう。
―山頭火の一句― 行乞記再び -110
4 月 20 日、曇、風、行程 4 里、折尾町、匹田屋
風にはほんたうに困る、塵労を文字通りに感じる、立派な国道が出来てゐる、幅が広くて曲折が少なくて、自動車に
はよいが、歩くものには単調で却つてよくない、別れ路の道標はありがたい、福岡県は岡山県のやうに、此点では正
確で懇切だ。
行乞相はよかつた、風のやうだつた-所得はダメ-。
省みて、供養を受ける資格がない-応供に値するのは阿羅漢以上である-、拒まれるのが当然である、これだけの諦観
を持して行乞すれば、行乞が修行となる、忍辱は仏弟子たるものの守らなければならない道である、踏みつけられて
土は固まるのだ、打たれ叩かれて人間はできあがる。
同宿は土方君、失職してワタリをけて放浪してゐる、何のかのと話しかける、名札を書いてあげる、彼も親不孝者、
打つて飲んで買うて、自業自得の愚をくりかへしつつある劣敗者の一人。
※表題句の外、4 句を記す
立派な国道というのは 3 号線か、宗像市の赤間から遠賀町に入り、遠賀川を渡って水巻町を経て、現北九州市の西の
外れ折尾-八幡西区-の町へ。
Photo/折尾の駅そばにある鷹見神社の鳥居
Photo/イルミネーションに彩られた現在の JR 折尾駅
20101006
水音を踏んで立ちあがる
- 138 ―日々余話― Soulful days-42- 和解案提示さる
昨夕、K 弁護士からの封書が届いた。書面は、10 月 4 日付、大阪地裁から和解案が提示された、その写しであった。
A4 紙 3 枚、第 1 面は「事務連絡」と表題され、それぞれ原告代理人と被告代理人宛と並記され、「頭書の事件につ
いて、別紙のとおり和解案を送信します。」とあるから、各宛に Fax で送信されたものらしい。いまどきはこういう
重要事項まで封書ではなく Fax で事足りるとは、少々驚かされる。
和解案本文は 2 葉、請求の項目が列記され、項目ごとに原告の主張と和解案の提示額が並記され、その算定根拠や理
由が付されているといった仕様で、ずいぶんと判りやすく合理的な体裁に、これまた驚かされる。
提示の額については特段の感慨はない。この事故がここまで争わなければならなかったのはもっと別次の理由があっ
たことだし、これを一個の命の値段と受けとめるような愚を犯せば、またまた不条理の底に沈み込むだけだ。
さらに客観的にみるならば、この提示額は、予想されえた範囲内とはいえ、その上限に匹敵するものだった。
そんなことよりも、私の心を捉えたのは、末尾に付された一文である。
「本件事故は、別冊判例タイムズ 16 号 133 ページ<60>図に該当する事案である。基本的な過失割合は、直進車 2 割、
対抗右折車 8 割であるけれども、被告 T.K が対抗右折車の前照灯を認識していたにもかかわらず、特段の注意を払っ
ていないことも斟酌し、本件事故における過失割合-負担割合-は、被告 T.K 3 割、M.K 7 割とする和解案を提案する。」
8:2 が 7:3 へと、たかが右と左で 1 移動しただけとはいえ、この過失評価がなされたことは大きい。刑事の法廷では
どうにもならなかったことが、ここで一矢報いえたのは、我々にとっても、また M にとっても、僅かな慰めとも救
いともなるだろう。
―山頭火の一句― 行乞記再び -109
4 月 19 日、晴、そして風、行程 3 里、赤間町、小倉屋
奥さんが夜中に戻つてこられたので、俊和尚も安心、私も安心だ、しかしかういふ場合に他人が介してゐるのはよく
ないので、早々草鞋を穿く、無論、湯豆腐で朝酒をやつてからのことである。
行乞気分になれないのを行乞しなければならない今日だつた、だいたい友を訪ねる前、友を訪ねた後は、所謂里心が
起るのか、行乞が嫌になつて、いつも困るのだが。
もう山吹が咲き杜鵑花が蕾んでゐる、紫黄のきれいなことはどうだ。
同宿 5 人、-略-、筍を食べたが、料理がムチャクチャなので、あまりおいしくなかつた、うまい筍で一杯やりたいも
のだ。
※句作なし、表題句は前日記載の中から
現在の宗像市赤間は、唐津街道の宿場町赤間宿。近くには福岡県教育大-赤間文教町-がある。
Photo/赤間宿の街道筋にある熊越池公園
Photo/その公園に接するようにある法然寺と須賀神社
20101003
ひさびさきて波音のさくら花ざかり
―日々余話― 無事開催すれど‥
秋天蒼穹の空ならず、垣間見えるかすかな青空は、いまにもどんよりと厚い雲に覆われようとしている。
そんな朝、KAORUKO の運動会は、ともかくも無事幕を開けたのだが‥。
10 月初めの日曜日は、ずいぶんと降水確率が高いらしく、校長の開会挨拶によるば、今の 6 年生が 1 年生の時以来、
5 年ぶりの日曜開催という。昨年は新型インフルエンザ騒ぎであえなく中止となったのだったが、それ以外はずっと
雨に祟られっぱなしで延期、平日開催となっていたらしい。
- 139 その久しぶりの日曜開催も、11 時頃には無情にもパラパラと雨が降り出し、午前のプログラムを終えて、それぞれ
に家族とお弁当を囲む頃には、とても空の下でとはいかず、体育館やら廊下やらにみな避難しての昼食となる始末。
ごった返す体育館で、親子 3 人で弁当をつついていたら、続行困難とみたか無情にも、「残された午後のプログラム
は火曜日に延期、実施します」との放送が流れたのだった。
―山頭火の一句― 行乞記再び -108
4 月 18 日、けさも早く起きたが雨だ、起きてくる誰もが不機嫌な顔をしてゐる、雨ほど世間師に嫌なものはないの
に、此不景気だ、それやこれやで、とうとう喧嘩がはじまつた、怒鳴る、殴る、そして止める。
うるさいから、ぢつとしてゐるのもいやだから、10 時過ぎてから、合羽を着て出立する、1 時間ばかりで晴れてきた、
どしどし歩いて神湊まで 8 里、久々で俊和尚に相見、飲んで話して書いて。‥
俊和尚が浮かない顔をしてゐると思つたら、夫婦喧嘩して奥さんが実家へ走つたといふ、いろいろ宥めて電話をかけ
させる、私と俊和尚とは性情に於て共通なものを持つてゐる、それだけ一入他人事とは思へない、彼も憂鬱、私も憂
鬱になる。
筑前の海岸一帯は美しい松原つづきだが、殊に津屋崎海岸の松原は美しい、津屋崎の町はづれの菜の花も美しかつた、
いちめんの花菜で、めざましい眺めである-ここでまた、筒井筒振分髪の H 子をおもひだした-。
風がふいた、笠どころか、からだまで吹きまくるほどの風だ、旅人をさびしがらせるよ。
今夜は俊和尚の典座だ、飯頭であり、燗頭であつた、ふらん草のおひたし、山蕗の甘煮、蕨の味噌汁、みんなおいし
かつた、おいしく食べてぐつすり寝た。
かういふ手紙を書いた、それほど俊和尚はなつかしい人間だ。-
「また松のお寺の客となりました、俊禅師猊下の御親酌には恐入りました、サービス百パーセント、但しノンチップ、
折から庭の桜も満開、波音も悪くありません。‥」
※句には隣船寺と前書あり、表題句の外、6 句を記す
「筒井筒振分髪の H 子をおもひだした」とあるが、「筒井筒」は、世阿弥の「井筒」の原典ともなった「伊勢物語」
-第 23 段-の故事、どうやら山頭火にも初恋の、幼馴染みの面影があったとみえる。
Photo/恋の浦から東に伸びる白砂青松、津屋崎町
Photo/津屋崎海岸の夕景
Photo/いちめんの菜花畑、津屋崎町
20100929
おわかれのせなかをたたいてくれた
―世間虚仮― 恫喝外交中国のバブル危機
中国人船長逮捕の尖閣諸島沖事件、中国のあの手この手の恫喝に船長釈放をしてしまった政府に対し、国内では非難
囂々の嵐だが、恫喝するだけしておいて目下の利を収めた中国はさっさと矛を収めようとしているようで、さすが眼
も鮮やかな恫喝外交というところだが、中国の国内事情、バブル崩壊の危機は、もうそれどころじゃないのではない
か。
いまだ大都市圏で建設ラッシュが続き、林立する高層マンションでは 50%以上の空室が常態といわれ、延べ 8000 万
もの空室を生み出しているという。この居住者なき膨大な不動産は、なべてひと握りの富裕層たちの投機の対象でし
かないわけだ。-その件については此処に詳しいhttp://premium.nikkeibp.co.jp/em/column/itou/80/index.shtml
- 140 それよりも深刻なのは爆発的なエネルギー消費のほうだろう、IEA-国際エネルギー機関-の統計によれば、中国の総消
費エネルギーはこの 10 年で倍増、09 年時点において、すでにアメリカのそれを上回り、世界一の消費国となってい
る。-参照http://www.garbagenews.net/archives/1483913.html
これにともなう石油の輸入依存は急速に強まってきた、世界 5 位の産油国でありながら、93 年に純輸入国へと転落
して以来、急激な原油輸入の拡大は、やがて中国発のオイルショックを招いては、世界中を恐慌の嵐に巻き込んでし
まうだろう。
―山頭火の一句― 行乞記再び -107
4 月 17 日、花見日和、午前中行乞、宿はおなじく
わざと中洲-福岡市に於ける第一流の小売商店街-を行乞した、行乞相はよかつたけれど、所得は予想通りだつた、
2 時間で 15 銭、まあ百軒に一軒いただいたぐらゐだらう、いただかないのになれて、いただくと何だかフシギなや
うに感じた。
大浜の方は多少出る、少し歩いて、約束通り酒壺堂房を訪れる、アルコールなしで、短冊 60 枚ばかり、半切 10 数枚
書いた-後援会の仕事の一つである-、悪筆の達筆には主客共に驚いたことだつた、折々深雪女来訪、酒がまはれば舌
もまはる、無遠慮なヨタはいつもの通り、夕方、酒君と共に農平居を襲ふ、飲んだり話したり、山頭火式、農平式、
酒壺堂式、10 時過ぎて宿に戻る、すぐ、ぐつすり寝た。
どうも近来飲みすぎる、友人の厚情に甘えるのもよくないけれど、自分を甘やかしてもよくない。-略※表題句の外、1 句を記す
大浜地区は、博多駅前から大博通りを海岸のほうへ行った、呉服町や大博町の界隈。
Photo/その大浜で 8 月下旬に行われる流灌頂祭りの大武者絵灯籠
Photo/祇園山笠が行われる櫛田神社は、祇園町近くの上川端町にある
20100927
昼月に紙鳶をたたかはせてゐる
―日々余話― バイオフィルム
いくつか購読しているメルマガのなかに、たしか以前にも触れたことがあるが、(財)生物科学研究所の主任研究員を
務める I.A 氏による「明快!森羅万象と百家万節の系譜」というのが、毎週土曜日に配信されている。
普段、あまり熱心な読者ではないのだが、最新号の「生体防衛論」のなかで話題に供されていた「バイオフィルム」
の語に眼が惹かれた。以下、その一文から引用させていただく。
「多細胞生物のような細菌社会」
-細菌も目に見えるような巨大な社会を作り上げる-
小さな細菌が目に見えるような巨大な社会を作り上げることがわかってきました。バイオフィルムと呼ばれます。原
始の海ではバイオフィルムのような 原核生物の社会が存在していたのではないでしょうか。
バイオフィルムとは微生物が排泄するスライムで包まれた微生物の集合体です。無生物もしくは生きた表面に付着し
ています。歯の上に付いたプラー ク、パイプのヌルヌル、花を 1 週間いけておいた花瓶の内部のゲル状の薄膜など。
バイオフィルムは水があるところならどこでも、台所でも、コンタク トレンズでも、免疫力が弱っていれば、動物
の腸にもできます。自然界の細菌の 99%以上はバイオフィルム社会に住んでいます。ほとんどの細菌は無害です。
- 141 中には有益な働きをする細菌もいます。たとえば、汚水処理プラントはバイオフィルムの働きで水から汚染物を除去
します。一方、問題も起こします。 バイオフィルムは金属性のパイプを腐食させたり、水フィルターを詰まらせた
り、病院でインプラント(留置器具)の拒絶反応を起こしたり、飲料水を 汚染させる細菌を保持します。
微生物学者は病原菌をターゲットにしてきましたから、伝統的に実験室内の培地に発育する細菌に焦点を当ててきま
した。菌を分離して、純粋培養した 菌を感染させることで病気が起こることを確認します。コッホの三原則といい
ます。ワクチンを作るにも菌を純粋培養する必要がありました。しかし、 微生物学者は最近になって自然界では多
くの細菌はバイオフィルムとして集って暮らしていることに注目しています。培地の中とバイオフィルムの中では細
菌の振舞いは異なっています。
-細菌は多様な環境下で生きるための仕組みを持っている-
微生物はきれいな水に落ちるといった飢餓状態に直面すると、固体表面への親和性を高めるために細胞壁の構造を変
化させます。外膜のタンパク質と脂質の構成を変化させ、細胞壁を疎水性にします。疎水性の細菌表面はプラスチッ
クのパ
イプ表面に引きつけられます。
細菌は持っている遺伝子セットの中から、環境の変化に合わせて異なるセットの遺伝子のスイッチを入れて変身しま
す。たとえば、菌がガラスにつく と、アルギン酸塩(スライムの粘着性物質)の合成に関与する遺伝子にスイッチ
が入り、細菌がアルギン酸塩に取り囲まれるとそのスイッチを切りま す。固着菌と浮遊菌とでは、細菌細胞壁に存
在するタンパク質のうち、30~40%が異なっています。
大腸菌の遺伝子は約 4000 ありますが、培養液で増やす場合、そのうちの半分しか使いません。つまり、半分あれば
基本的な増殖ができるわけです。 残りの半分は何のためにあるのでしょうか。現在の仮説では多様な環境下に適応
するための遺伝子であると考えられています。多様な環境下とは、他の 生物体内、清浄な環境下、捕食者の多い環
境下、低温、高温。乾燥状態などです。いままでの細菌学は実験室内での分離培養に力点が置かれていたた め、こ
れらの遺伝子の存在自体がわかっていませんでした。
-細菌もコミュニケーションする-
バイオフィルムのような複雑な社会を作るにはコミュニケーション分子が必要です。細菌のコミュニケーション・シ
ステムをクオラム・センシングと呼 びます。細菌には目も耳もないですから、コミュニケーションには水に溶ける
分子が使われます。たとえば、細菌はシグナル分子(オートインデュー サ-autoinducer)の量を測ることで、自
分達の細胞密度を感知できます。
Autoinducer はビブリオ属細菌における菌数依存的な蛍光物質の生産という現象から見つかりました。緑膿菌をは
じめとする多くの病原細菌がクオラ ムセンシングを用いて病原因子の発現をコントロールしていますし、
autoinducer 分子が生体細胞に対しても多彩な影響を及ぼすことが報告 され、菌側と生体側の両面から感染症の発
症に関与することがわかってきました。
人間に限らず、脊椎動物は腸内やそのほかの粘膜にたくさんの細菌が棲みついています。お互いの存在が、お互いの
利益になっている=相利共生が成 り立っていると、細菌と人間が共同生活をしていることになります。ゲノムの面
から俯瞰すると、進化(遺伝子の変化)が急速な細菌ゲノムと、ゆっく りとした人間ゲノムがお互いに助け合って、
地球環境の変動に立ち向かい、うまく立ち回っているように見えます。時にはけんかすることもあります。 人間と
細菌叢はユニークな生態系(ecology)を形成し、共に進化(co- evolution)しているのでしょう。
―山頭火の一句― 行乞記再び -106
- 142 4 月 16 日、薄曇、市街行乞、宿は同前
福岡は九州の都である、あらゆる点に於て、-都市的なものを感じるのは、九州では福岡だけだ。
今日の行乞相はよかつた、水の流れるやうだつた、-まだ雲のゆくやうではないけれど-、しかし福岡は-市部はどこ
でも-行乞のむつかしいところ、ずゐぶんよく歩いたが、所得はやつと食べて泊つて、ちよつぴり飲めるだけ。
一銭、一銭、そして一銭、それがただアルコールとなるばかりでもなかつた、今日は本を買つた、-達磨大師につい
ての落草談-、読んで誰かにあげやう、緑平老にでも。
春を感じる、さくらはあまり感じない、それが山頭火式だ。
夜は中洲の川丈座へゆく、万歳オンパレードである、何といふバカらしさ、何といふホガらかさ。
-飲んだ、歩いた、歩いた、飲んだ-そして今日が今夜が過ぎてしまつた、ただそれだけ、生死去来はやつぱり生死
去来に御座候、あなかしこ。
夜は万歳を聞きに行つた、あんまり気がクサクサするから、そしてかういふ時にはバカらしいものがよいから、-可
愛い小娘がおぢさんおぢさんといって好意を示してくれた。
世の中味噌汁! 此言葉はおもしろい。
今夜、はじめて蕨を食べた、筍はまだ。
※表題句の外、2 句を記す
Photo/寄席の川丈座は、中洲の川丈旅館の隣にあったという
Photo/屋台が建ち並ぶ現在の中洲夜景
20100923
松風のゆきたいところへゆく
―表象の森― 韋駄天商店街
狭いアーケードの中に設えられた直線のトラックを、老いも若きもアスリートたちが、それぞれの記録をかけて駆け
抜ける-韋駄天商店街は、今日 23 日、12 時から開始、今年で 4 回目か。
今年は「韋駄天尊像」がお目見得する、平城遷都 1300 年のマスコット「せんとくん」をデザインした藪内佐斗司に
制作を依頼し、出来上がったもの、という。
夕刻からは、その韋駄天さんを囲んで、繁栄韋駄天尊祭りも催されるのだが、そこにデカルコマリィの一味も出没す
ることになった。
朝から嵐のような雨だが、はて、いかさまどんなことになるやら‥。
―山頭火の一句― 行乞記再び -105
4 月 15 日、夜来の雨が晴れを残していつた、行程 2 里、福岡へ予定の通り入つた、出来町、高瀬屋
この町-出来町-はヤキとヤキを得意とする店ばかりだ-久留米の六軒屋と共に九州のボクチン代表街だ-。
早く起きて松原を散歩した、かういふ旅にかういふ楽がある。
午前中の行乞相はよくなかつたが、午後のそれはよかつた、行乞もなかなかむつかしいものである。
山吹、連翹、さつき、石楠花、-ことしはじめて見る花が売られてゐた。
博多名物-博多織ぢやない、キツプ売-電車とバス-、禁札-押売、物貰、強請は警察へ-、と白地に赤抜で要領よく出来
てゐる-西新町のそれはあくどかつた、字と絵とがクドすぎる-。
西公園を見物した、花ざかりで人でいっぱいだ、花と酒と、そして、-不景気はどこに、あつた、あつた、それはお
茶屋さんの姐さんの顔に、彼女は欠伸してゐる。
街を通る、橋を渡る、ビラをまいてゐる、しかし私にはくれない、ビラも貰へない身の上だ、よろしい、よろしい。
酒壺洞君を搾取した、君は今、不幸つづきである、君に消災妙吉拝。‥
- 143 さくら餅といふ名はいい、餅そのものはまづくとも。
此宿はよい、何となくよい、-略-、今日もよい日だつた、ほんたうにほどよい日だつた、ほどよく酔ひ、ほどよく眠
つた。
よい食慾とよい睡眠、これから人生の幸福が生れる。
※表題句の外、6 句を記す
Photo/出来町公園は旧博多駅のあったところ、「九州鉄道発祥の地」の碑がある
Photo/公園内にある白い桜の樹
20100921
すこし濁つて春の水ながれてくる
―日々余話― 息抜きの小旅行
息抜きといっても、日頃息抜きばかりのような私自身には要らぬもの。
元来気質として対人恐怖症的な一面をもっている連合い殿の、それなのに仕事は対人の応接、サービス事業が主体で、
それも些か責任ある立場におかれては、おそらくは同僚たちより倍して自身を鼓舞、強いなければならないだろうか
ら、彼女にとっては時折の息抜き・ガス抜きが欠かせないものとなる。
そこで気は心、ないよりはましの、一泊の小旅行を、急場しのぎのように、この三連休に挟み込んだ。
とにかく企図したのがつい 2 週間ほど前、思うようには宿泊先もとれないから、友人の力を頼みとした。急遽押さえ
てもらったホテルは、嘗て彼自身が総支配人として君臨したというもの、顔の利かない訳はない。
日曜-19 日-の稽古を終えてから、そのホテル-草津-へと直行、1 号線から京滋バイパスをとったからか、思ったより
スムーズに走行、早々と 4 時過ぎにはホテルに着いた。
ゆったりまったりと寛いだ後、夕食に外へと出た。食事を終えてもまだ 7 時前という宵の口、此処、JR 草津の西口
駅前は東口に比べて新興の街並みなのだろう、その街路を少し散策してから、A-SQUARE なる大きなショップセンタ
ーに入っていく。なにしろ駐車場 3000 台を収容するというから、かなりの規模の複合施設。こういう類を目的もな
く散策するなど、初老の男にとっては、あまり時間持ちのしないものだが、女と子どもにとってはけっこう楽しめる
ものらしい。結果、2 時間近く過ごしてしまったか。
翌朝-20 日-、ゆるりと 10 時前に出立。琵琶湖畔に沿って車を走らせ、先ずは近江八幡の八幡堀界隈へ。いわゆる近
江商人発祥の町並を散策というもの。「近世畸人伝」を著したという伴蒿蹊ゆかりの、明治には小学校や女学校にも
使われたという壮大な 3 階構造の旧・伴家住宅、平屋造りだが、その広い平面を、商いとしての公と居宅としての私
をいかにも合理的に分割構成した間取りをもつ旧・西川家住宅など。
文化財保護法の改正によって「伝統的建造物群保存地区」の制度が発足したのは昭和 50 年だったそうだ。修理修景
費用や関連費用に国からの補助金がつき、税制優遇措置もあることから、以来、全国各地から相次いで名告りが挙が
り、現在では 74 市町村で 87 地区、約 16,180 件の伝統的建造物が保存すべき建造物として特定されているそうな。
次いでさらに足を伸ばして彦根へと向った。彦根城の大手門前筋、
「夢京橋キャッスルロード」と名付けられた 300m
余りの行楽客向けに整備された街並には、ちょいと吃驚させられた。ゆるキャラ「ひこにゃん」の誕生は 4 年前だそ
うだが、それより以前、平成 11-‘99-年にはほぼすべての整備を終えたという、この些か恥ずかしいような名を冠し
た街並み、どう考えても長浜の黒壁スクエアの成功に刺戟されてのことだろう。自動車の通行も多く、スローモーに
しか進まぬ車中から眺めただけだが、なんだかあざとい臭いが先に立つような光景だった。
その彦根城を少しばかり通り過ぎて、次の目的地、龍潭寺に着いたのは 2 時頃だったか。石田三成の居城でもあった
という佐和山城趾の麓に座すこの寺は、小堀遠州ゆかりの寺というので訪ねてみた。
- 144 方丈の南庭は、枯山水で「ふだらくの庭」と称されるという。あの竜安寺の石庭は、大小の石が 15 個使われている
だけだというが、こちらの庭ではその数 48 個、その数の差が、発想の違いを表し、また造形の違いともなる。この
枯山水の作庭は、寺のパンフによれば、小堀遠州ではなく、開山僧の昊天-コウテンと読むか-であるらしい。
奥の書院東庭は、背後の佐和山を借景した「蓬莱池泉庭」と称されるが、こちらはその昊天と遠州の合作とされる。
なんとなくわずかに窮屈そうな感じがするのは、地形的条件からくる制約の所為か。
もう一つの瀟洒な庭、書院の北庭は、小さな裏木戸から茶室へと通じる路地の庭といったものだが、文字通り瀟洒な
という形容が相応しく、自然で控えめな感じのするものだった。
方丈の裏側には、小さな 4 つの座敷があり、その 3 つには、それぞれ襖絵が描かれていたが、これらの絵の作が森川
許六とあり、芭蕉の弟子、蕉門十哲にも数えられる許六その人であり、その許六が狩野派の絵師でもあったことは寡
聞にして知らなかった。
帰路もまた琵琶湖畔を走り、石山で京滋バイパスへ、三連休の終日というのに渋滞に巻き込まれることもなく午後 6
時半無事帰着。
Photo/龍潭寺の方丈南庭、枯山水のふだらくの庭
Photo/同じく書院東庭、蓬莱池泉庭
―山頭火の一句― 行乞記再び -104
4 月 14 日、雨となるらしい曇り、行程 3 里、生きの松原、その松原のほとりの宿に泊る、綿屋
行乞途上、わからずやが多かつたけれど、今日もやつぱり好日。
女はうるさい、朝から夫婦喧嘩だ、子供もうるさい、朝から泣きわめく、幸いにして私は一人だ。-略どうでもといはれて、病人のために読経した、慈眼視衆生、福聚海無量、南無観世音菩薩、彼に幸あれ。
今年はじめての松露を見た-店頭で-、松原らしい気分になった、私もすこし探したが一個も見つからなかった。-略此宿はよい、家の人がよい、そして松風の宿だ、といふ訳でずゐぶん飲んだ、そしてぐっすり寝た、久しぶりの熟睡
だつた、うれしかつた。
途中、潤-うるふ-といふところがあった、うるほさないところだつた。
私は此頃、しゃべりすぎる、きどりすぎる、考へよ。
同宿 6 人、みんなおへんろさんだ、その中の一人、先月まで事件師だつたといふ人はおもしろいおへんろさんだつた、
ホラをふいてエラがる人だけれど憎めない人間だつた。
木賃宿に於ける鮮人-飴売-と日本人-老遍路-との婚礼、それは焼酎 3 合、ごまめ一袋で、めでたく高砂となつたが、
かなしくもうれしいものだつた。
※表題句の外、新句 4、再録 6 句を記す
Photo/生の松原は現在の福岡市西区
Photo/生の松原の東側には、今に残る元寇の防塁跡
20100919
春あおあおとあつい風呂
-日々余話- きしもと学舎だより
些か旧聞になるが、ネパールの「きしもと学舎だより」-vol.12-が 8 月に出されていたのだが、ここに紹介しておこ
う。
2 面には彼、岸本康弘の古い詩集-1977 年発行というからもう 33 年も前だ-から一篇の詩が掲載されている。
「地球のヘソのあたりで」
- 145 -
闇を一瞬 光をかえて
夜行列車が走りすぎて行く
それを見送るのが ぼくは好き
闇の底に沈んで行くテールランプを見つめてるのが好き
そう
大地を汽車が走りつづける
数々のロマンや悲しみを創るために
地上をひたすら駆けまわっている
今も生れようとしている
そしてとにかく
生きつづけている
人間・ぼくは生きつづけている
地球のヘソのあたりで
エロスの香りをかぎながら。
ヘソは観念ではない
生きることである
創-キズ-をつくり
血を流し
汗を流し
もだえて
三十何年 生きつづけた今
ぼくは 地球のヘソのありかを知った
歌とは腹の底からうったえる(訴える)ことからきているという
そしてヘソは 体内の神経が集中しているところだという
ぼくは
地球のヘソのあたりで
根限り生きまくる
腹から地声をはりあげて
へたなうたを歌いつづける!
―山頭火の一句― 行乞記再び -103
4 月 13 日、晴、行程 2 里、前原町、東屋
からりと晴れ、みんなそれぞれの道へゆく、私は一路東へ、加布里、前原を 5 時間あまり行乞、純然たる肉体労働だ、
泊銭、米代、煙草銭、キス代は頂戴した。
今朝はおかしかつた、といふのは朝魔羅が立つてゐるのである、山頭火老いてますます壮なり、か!
- 146 浜窪海岸、箱島あたりはすぐれた風景である、今日は高貴の方がお成になるといふので、消防夫と巡査で固めてゐる、
私は巡査に追はれ消防夫に追はれて、或る農家に身を潜めた、さてもみじめな身の上、きゆうくつな世の中である、
でも行乞を全然とめられなかつたのはよかつた。
初めて土筆を見た、若い母と可愛い女の子とが摘んでゐた。
店のゴム人形がクルクルまはる、私は読経しつづける。
犬ころが三つ、コロコロころげてきた、キッスしたいほどだつた。
孕める女をよく見うける、やつぱり春らしい。
日々好日に違ひないが、今日はたしかに好日だつた。
此宿は見かけよりもよかつた、町はづれで、裏座敷からのながめがよかつた、遠山の姿もよい、いちめんの花桑畑、
それを点綴する麦畑-此地方は麦よりも菜種を多く作る-、その間を流れてくる川一すぢ、晴れわたつた空、吹くとも
なく吹く風、馬、人、犬、-すべてがうつくしい春のあらはれだつた。-略酒については、昨日、或る友にこんな手紙を書いた。-
「‥酒はつつしんでをりますが、さて、つつしんでも、つつしんでもつつしみきれないのが酒ですね、酒はやつぱり
溜息ですよ-青春時代には涙ですが、年をとれば-、しかし、ひそかに漏らす溜息だから、御心配には及びません。‥」
※句作は表題句のみ
佐賀から福岡へと県境を越えた。
Photo/福岡県志摩町の陸続きにある箱島神社
Photo/福岡県前原市、加布里の漁港
20100915
朝ざくらまぶしく石をきざむや
―日々余話― Soulful Days-41- 猿芝居は幕切れ近く‥
9 日の夜、障害者の作業所に勤める息子の Daisuke に、やはり福祉関係に従事する若い友人を引き合わせ、三人で 2
時間半ほど語り合った。まるでタイプの異なる二人だが、年も近いし、意義のある出会いになればと思ってのことだ
った。
そのお喋りを終えて帰宅したのはもう日も変わろうかというころだったが、そこではたと気がついた。そうだ今日は
9 月 9 日、RYOUKO の、あの事故が、起こった夜‥。
それから朝まで、とうとう眠れなかった。いつもは居間の片隅に立てかけてあるままの写真を、その左右に置かれた
父と母の写真にもお出まし願い、三人を眼の前に、ただとりとめもなく時を過ごしたのだった。
もう大詰めは近い。これまでいろいろと手を盡してはきたものの、やればやるほどに、却って虚しさばかりを大きく
させてきたような気がする。冷静に考えれば然もあろうと思われるのだが、そのことがまた気鬱の種となる‥。
13 日午前 10 時 45 分、大阪地裁の 9F、細長い楕円のテーブルを挟んで、私と Ikuyo は T.K と対峙した。私にとって
は一昨年の 12 月以来、Ikuyo にとってはまったく初対面の青年は、ウェイクボードのプロ生活にはすでに見切りを
つけこれからは研究者の道に歩み出そうとしているのか、日焼けした顔以外、端正に背広を着込んだ姿からはマリン
スポーツに興じてきた若者の匂いはすっかりぬけているようにも見えた。
裁判官から提案要請され、裁判官と書記官、双方の弁護士らも同席、囲んだこのテーブルが調停の場と呼ぶには相応
しくはないだろう、いわば和解協議に入る前のセレモニー、通過儀礼にはちがいないが、この場において裁判官の抱
く心証が、これからどんな和解勧告案を出すことになるのか、その決め手になるのだけは確かだろう。
予定の 1 時間をこえて 70 分あまりか、話はさまざまに飛んで散漫に過ぎたようにもみえ、私を苛立たせる場面もい
くつかあったが、事故の事実関係の疑惑や、この青年の利己的な不実も垣間見えたのではないかとも思われ、訴訟解
決のためにはきわめて有意義なものではあったろう。
- 147 最後に、裁判官は、双方の弁護士たちに、次なる和解協議の場を 17 日の金曜日と決め、この場を閉じた。
これから先、もうこれ以上、私が関与しうることはない、なにもない。否応もなく幕は降りる。
こんな間の抜けたようなクライマックスでいいのか、こんな埒もない猿芝居を見たかったのかおまえは‥。
裁判所から家に戻った私は、空きっ腹に茶漬けをかきこんで、宇治にある黄檗山萬福寺に行くべく、ひとり車を走ら
せた。この 23 日にあるイベントに絡んで韋駄天像を拝顔してこようというものだが、そんな理由よりただ気晴らし
がしたかっただけかもしれない。嘗て二度ばかり訪れてはいるのだが、布袋さんの背後に居るとてもハンサムな韋駄
天像にはうかつにも気がつかなかったか、記憶にないので、三度目の正直でご対面となった。
Photo/萬福寺の天王殿、布袋さんの背後にある韋駄天立像
とっぷりと暮れた帰路、運転しながら私は、それまで散り々々になっていた思いが、なんだか少しずつ凝り固まって
くるような、そんな感じがしていた。どうやらいくらかは気分転換にはなったようだった。
夜中になってから、依頼者としてはずいぶん我が儘で世話のやけるだろう私に、この 2 年根気よく付合ってくれてい
る K 弁護士宛に手紙を書き出した。
K 弁護士 様
昨日はどうもお疲れさまでした。
明けて今日は RYOUKO の 3 回目の命日です。
いわば二年間の総決算、解決への通過儀礼としての山場が、命日の前日という因縁めいた符号ではありましたが、そ
の T.K との対面、対決を終えてみて、あらかじめ半ば予測されたこととはいえ、なんだか徒労感と虚しさばかりがつ
のるといった、そんなところです。
7 月の公判期日の折にいただいた書類、証拠説明書の一覧を見ていてふと気がついたことがあり、この件につきご意
見も聞かねばと思っていたのですが、先日の打合せのときも、また昨日も切り出す機会を得ぬまま打ち過ぎてしまい
ましたので、以下遅まきながら書面にしております。
いまさらのことではありますが、疑義を挟まねばならない問題は、M の刑事裁判で検察側から出された 4 つの実況見
分調書-甲 8 号証の 3,4,5,8-と鑑定書-甲 8 号証 7 における作成日の不思議です。
甲 8 号証 3 は、事故のその夜、直後の現場検証から作成された実況見分調書でしょう。甲 8 号証 4 は、二日後の 9
月 11 日、MK タクシー北営業所で甲乙両者の車の破損状態を詳細に調べておりますが、それに基づいて作成された
ものと思われます。よってこれら二点にはなんの問題はありません。
次に甲 8 号証 5、この内容はドライブレコーダーの映像に関する調査とあり、作成日が H21.2.18 となっています。
これはもうお笑い種としかいいようがありませんが、初めに担当した N 検事に呼び出され、Ikuyo と私が初めて地検
に行ったのが H21.1.30 で、この席で医学生だったことを知らされるのですが、それは措いて、その席で私どもは T.K
の過失に対する疑義を問うておりますし、さらに、私どもが T.K に対する刑事告訴の書面を検察に提出したのが 2 月
10 日付でしたから、これに対処すべくまるで付焼刃のように急遽西署に作成させたものということになりますか。
そして、ドライブレコーダーをやっと手に入れた私どもが、これを証拠として書面とともに検察に提出しに行ったの
が 4 月 9 日でしたが、このとき N 検事は書面のみ受取り、記録画像はウィルスの問題もあり受け取れぬと拒否する
わけです。この席で、ドライブレコーダーについてもこれこの通りちゃんと検証していると言いつつ、私どもに件の
調書の静止画像などをご披露なさるわけです。まるでその実況見分調書が送検の初めから付されてきた証拠資料であ
ったかの如くに。これでは姑息なスタンドプレイそのものではありませんか、まったくふざけた話です。
- 148 さて、問題なのは、甲 8 号証 8 です。この作成日が H21.9.17 とあります。そして甲 8 号証 7 のドライブレコーダー
による鑑定書の作成日がなんと H22.3.26 とずいぶん開いています。
鑑定書はドライブレコーダーの機械的不備から起こるタイムラグを修正したうえで詳細なタイムレコードを作成し
たもののはずです。甲 8 号証 8 の実況見分調書は、検察の意を受けてあらためて、その詳細なタイムレコードに基づ
き、事故車とは別の用意された車で実況見分し作成されたものですから、実際には甲 8 号証 7 の鑑定書の原形となっ
ている鑑定書が存在し、それは当然、甲 8 号証 8 の作成日以前に作成されたものであるはずです。本来なら、その原
形である鑑定書と甲 8 号証 8 の実況見分調書がセットになって証拠として提出されるのが自然な形でしょう。ところ
が原形の鑑定書にどんな不具合があったものか、わざわざ作り直させているわけです。しかも、作成日の 3 月 26 日
といえば、森田の起訴と T.K の略式起訴の決定通知がともに 3 月 19 日付で、その後裁判所へ提出するべき証拠資料
の精査段階でなんらか補正する必要があり作成されたものらしいということになります。
しかし、さきの甲 8 号証 5 の付焼刃的作成も、この鑑定書の補正作成も、大切な事実関係を意図的に歪めるようなそ
んな問題ではないでしょう。取るに足らないことなのだろうと推測します。
私が問題にしたいのは、甲 8 号証 7 の実況見分調書が昨年 9 月 17 日付で作成されたものであり、その作成が甲 8 号
証 3 及 4 と同様に西署でなされ、その担当者もすべて同じ T 何某であったということです。これはお確かめください。
どうやら T 何某は科学捜査班の一員であり且つ西署に配属されている署員であったのではないかと推量されます。
N 副検事から担当を引継いだ O 副検事が私どもに強く印象づけようとしたのは、ドライブレコーダーを精査したう
えで、あらためて行った実況見分であり、その実施された時期も、ごく直近、早くとも昨年の 12 月あるいは今年に
入った 1 月中のことかと推量されるような物言いだったのですが、なんのことはない昨年 9 月段階でとっくに出来て
いたものだった。それも私どもは当然、当初よりこの事件の捜査を担当してきた者たちとはまったく別の手によって
なされたものとばかり受けとめていたのですが、同一人の手になるものだったということです。
こんなことでは、当初からの実況見分調書に事実関係を補完し強固にするものとはなっても、そこから矛楯するよう
な新事実など出てこようはずはありません。
「府警から再捜査の報告が上がってきたので、11 月中あるいは遅くとも 12 月には、審判を下せるだろう」と、私が
O 副検事から電話で報告を受けたのは昨年の 11 月 9 日でした。ところが待てど暮らせど、年が明けてもなんの音沙
汰もありません。結局のところ、次に連絡を受けたのは 3 月に入って 10 日でした。「審理報告のため 15 日に来られ
たし」と。
それより先、T.K が呼出しに応じて出頭したのが受験を了えた 2 月 16 日、この日彼は略式起訴を受容れ最終調書に署
名押印したのでしょう。
そして M の出頭が 3 月 9 日、公判請求する旨を伝えられ、同意書に署名しています。
11 月の初めに再捜査書類の上がってきたものが、なぜ年度末の 3 月に至るまで、4 ヶ月も徒らに処分決定を待たねば
ならなかったのか、私としてはやはり奇異に感じざるを得ません。
K さんには、「それは邪推に過ぎましょう」と一笑に付されるかもしれませんが、どうしても私は、ここで T.K の医
師免許受験日程と、このタイムラグを重ねてみたくなります。
試験実施日が、2 月 13、14、15 日の三日間、
合格発表が、3 月 29 日、
試験の応募期間は、厚労省発表の 23 年度実施分が、22 年 11 月 15 日から 12 月 3 日迄となっており、ほぼ同時期、
昨年の 11 月中旬から 12 月初旬の間だったでしょう。
11 月には上がっていた再捜査資料を、3 月の年度内ぎりぎりまで引っ張って、処分決定をし、それぞれ略式起訴と起
訴の手続きを完了させる、はたしてここには作為の一片もなかったのか。
- 149 T.K には格別の情実がはたらいている、それをはたらかせる力が T.K サイドにはある、ということに思い到らざるをえ
ないのです、結局は。
重ねてなんども言いますが、私は在日にはなんの偏見も持っていません。もちろん日本の問題、歴史の負の遺産とし
ての在日問題には、私なりに相応の関心はあります。この年になって偶々集英社新書の小熊英二・姜尚中編「在日一
世の記憶」を読んでおったくらいですから。これはちょっとした大部の著です。52 人もの在日一世たちひとりひと
りの貴重な語りですから、ずしりとずいぶん重いものでした。
最後に、昨日も言いましたように、やはり私としては、これ以上法廷での証言などを求める気は毛頭ありませんが、
まったく個人的に、しかし事の本質において問題解決のために、M と T.K と私と三者で、ドライブレコーダーを見る
ことが出来るか、と。
最終的に事実関係はどうでもよいことなのです、RYOUKO にだって落ち度はあるのです、私は M に確かめています、
あの交差点で右折することを彼女が求めたのだということ、彼女がシートベルトをしていなかったことを。
K さんは、私刑のようだと言われましたが、私はそうは思いません。彼が昨日どれほどの覚悟をもってあの場に現れ
たかはよく判りませんが、これまでのように逃げ回らないで、一身をもって事にあたれ、ということです。それだけ
の気概を示せる場面は、では他にどんな場面が想定できるのでしょうか。
Ikuyo は、息子の Daisuke とともに迎えるから、T.K 独りでお参りにお出でなさい、と言いましたが、これはこれで
よく判ります。赦しの論理です。あえていえばカタルシス=浄化の論理です。
墓前にあるいは仏前に、互いに涙して洗い清めましょう、これからもずっと怨みを抱きながら生きることほど悲しく
も過酷なことはないのですから。
2010.9.14
林田鉄 拝
―山頭火の一句― 行乞記再び -102
4 月 12 日、雨、滞在休養、ゆつたりと一日一夜をあじはつた
久しぶりに朝酒を味ふ、これも緑平老の供養である、ありがたしともありがたし。
同宿は 5 人、みんな気軽な人々である、四方山話、私も一杯機嫌でおしやべりをした。
しとしとと降る、まつたく春雨だ、その音に聴き入りながらちびりちびりと飲む、水烏賊 1 尾 5 銭、生卵 2 個 5 銭、
酒 2 合 15 銭の散在だ、うれしかつた。
終日句稿整理、私にはまだ自選の自信がない、しかし句集だけは出さなければならない、句集が出せなければ、草庵
を結ぶことが出来ないのである。
今夜の同宿は 5 人、その中に嫌な男がゐるので、私は彼等のグループから離れてゐた、彼は妙に高慢ちきで、人の揚
げ足を取らう取らうとしてゐる、みんなが表面敬意を見せて内心では軽蔑してゐるのに気がつかないで、駄法螺を吹
いて威張つてゐる、よく見る型の一種だが、私の最も好かない型である、彼にひきかへて、鍋釜蓋さんは愉快な男だ、
いふ事する事が愛嬌たつぷりである、お遍路婆さんも面白い、元気で朗らかだ、遊芸夫婦-夫は尺八、妻は尼-にも好
意が持てた、ここで思ひついたのだが、出来合の旅人夫婦は、たいがい、女房の方がずつと年上だ、そして妻権がな
かなか強い、彼は彼女の若い燕、いや鴉でもあらう。
夜は読書、鉄眼禅師法語はありがたい。
※表題句は 4/10 の句、句作なし
佐用姫の伝承をもつ風光明媚なこの地は、山頭火にとってひととき安寧を与えてくれるものであったのだろうか。
Photo/領巾振山-鏡山-から見渡す虹ノ松原
Photo/領巾振山の頂きにある鏡山神社
Photo/鏡山の道しるべとなる石碑
- 150 -
20100909
松風に鉄鉢をさゝげてゐる
―日々余話― よしなしごと
九州西北部をかすめるように日本海に到つた台風9号は北陸路に上陸して関東をぬけるというまことに変則なコース
を描いて熱帯低気圧に変わつた、と。おかげで昨日今日と、酷暑も和らいでしのぎやすい。河川の氾濫や浸水など、
被災報道のかたわら、漁港や農家などには恵みの雨ともなるといった報道もあり、自然の猛威のプラスマイナスは一
概には測りがたい。石川県では 30℃以上の真夏日の連続記録を更新していた小松が、最高気温 25.9℃で前日までの
54 日間でストップ。金沢も 26.1℃にとどまったそうだ。
2.3 日前だったか、連合い殿が、神尾真由子の「Paganini-24 Capricci」を自分のポータブルオーディオにダビン
グしてくれ、という。長引く酷暑のなかで心身ともにボロボロ状態でなお仕事に出かけているが、これを聴いては気
分一新、ヤル気を引つ張り出すのだ、と曰う。
私も、いま、その 24 Capricci を聴きながらこれを書いているのだが、そりゃ変幻自在おもしろくも見事な演奏だが
文字通り奇想の曲とも呼ばれる些か狂気じみた世界でもある。これを聴いてリフレッシュとは、どう考えてもやはり
彼女、めずらしい神経の持ち主、変わった御仁というしかないようである。
―山頭火の一句― 行乞記再び -101
4 月 11 日、晴后曇、行程 6 里、深江、久保屋
歩いてゐる、領巾振山、虹ノ松原、松浦潟の風光は私にも写せさうである、それだけ松原逍遙、よかつた、道は八方
さわりなし。
今夜はずゐぶん飲んだ-緑平兄の供養で-、しかし寝られないので、いろいろの事を考へる-其中庵のこと、三八九の
事。
酒は嗜好品である、それが必需品となつては助からない、酒が生活内容の主となつては呪はれてあれ。
木の芽はほんたうに美しい、花よりも美しい、此宿の周囲は桑畑、美しい芽が出てゐる、無花果の芽も美しい。
※表題句の外、7 句を記す
Photo/領巾振山-鏡山から-虹ノ松原を望む
Photo/唐津城の天守から眺望した虹ノ松原
20100905
石がころんでくる道は遠い
―日々余話― 1960~、十五の春から半世紀
三日前-2 日-にようやく発送を了えた高校同期会の総会案内。
入学が 1960 年だったから、今年でちようど 50 年が経ったことになるので、案内の表題をかようにした。
「1960〜 十五の春から半世紀。」
ICHIOKA 青春のはじまり、あの頃ぼくらは 21 世紀に生きることなど想像の埒外だった。
このたびは、特別ゲストとして現役の高校生たち「吹奏楽部」に出演してもらう予定なのだが、そんな企画や入学か
ら 50 年ということもあって、幹事諸氏には遠い昔となった高校生活を振り返って、市岡時代の今も鮮やかに記憶に
残ることなどを、短いコメントとして書いて貰って、案内紙面に網羅することにした。結果 18 のコメントが並ぶこ
とになった。
そのいくつかを紹介しよう。
- 151 「60 年安保でゆれた高一生活! 高三の文化祭でのあのフォークダンス!! 未だに青春が生きてます!!!」
「入学当初は野田阪神前から路面電車通学でした。いつから環状線に乗るようになったか思い出せません」
「ホームルーム、文化祭、フォークダンス etc.…、そして 50 年経っても青春を語れる友を得た」
「先生と生徒の間が友達のように近くて驚きでした。私の通った中学は厳格すぎたのか? ありえないことでした」
「初めての革靴と市電通学、ESS、先生方のお顔‥。文化祭で生物部の血液型判定 O 型が、成人後 AB 型と判明!?」
「2時間連続のロングホームルームで靱公園等へ出かけたり、与えられたテーマで討論会をしたこと」
「一年生の遠足の岩涌山ハイキング、喉は渇くワ、きついワ、翌日からは筋肉痛になるワ、の苦行でした」
「演劇部の部室、照明用ライトで弁当を暖め早飯。昼休みはフルタイムで遊ぶ。試験中の卓球三昧でずいぶん上手く
なった」
「チャイムと同時に教室に入る手島先生に、一歩負けて何度も遅刻になり悔しかった事!」
「昭和 36 年 9 月 16 日の第二室戸台風、自宅床上浸水、泥水の中登校、教室も浸水、壁の白片が散らかっていた」
「アルバムの中で着用している夏の制服、家庭科の授業で悪戦苦闘しながら頑張って仕上げた作品です」etc.
そして私のは、「入学まもない 6.19、200 人ほどの生徒らが気勢を上げながら校庭を周回して御堂筋デモへ。心ざわ
めきつつ 3 階の講堂の窓からただ眺めやっていたぼく‥」と。
特活や全校集会で安保議論が熱を帯びていった当時、演劇部だった私には新人公演の稽古が重なっていたから、御堂
筋デモへ参加すべく気勢を上げている 200 人ばかりの集団を、講堂の窓から眺めやるしかなかった訳だが、その中に
同じクラスの何人かの顔馴染みを見出しては、あちらとこちら、その距離がなんだか居心地の悪さやら落ち着かなさ
をもたらしたのだろう、忘れ得ぬ光景としていまも鮮やかに残っているのだ。
―山頭火の一句― 行乞記再び -100
4 月 10 日、曇后晴、行程 8 里、唐津市、梅屋
8 時から 6 時まで歩きつづけた、黒川と波多津とで行乞、海岸路山間路、高低曲折の 8 里を歩いて来たのだから、山
頭火いまだ老いず矣-但し途中キツケ水注入-。-略さすがに田舎は気持がよい、手掴みで米を出すやうな人もなく、逢ふ人はみな会釈する、こちらが恥づかしくなるほ
どだ。
御大典記念の時計台がこしらへてある、いい思ひつきだけれど、あんなところにこしらへたのが、さて、どりくらゐ
役立つだらうかとも考へられる。
今日、はじめて蟇を聞き蛇を見た。
やつぱり南国の風景は美しすぎる、築山のやうな山、泉水のやうな滝、‥まるで箱庭である。
山ざくらはもう葉ざくらとなつてゐた。
山村のお百姓さんはほんたうによく働いてゐる、もつたいないと思つた、すまないと思つた。
同宿 4 人、二人は夫婦、仲のよいことである。
今夜の酒はうまかつた、酒そのものはあまりよくないのに。
さつそく留置郵便をうけとる、どれもありがたかつたが、ことに緑平老のそれはありがたかつた。
私は何も持つてゐない、ただ友を持つてゐる、よい友を持つてゐることは、私のよろこびであり、ほこりでもある。
緑平老のたよりによれば、朱鱗洞居士は無縁仏になつてしまつてゐるといふ、南無朱鱗洞居士、それでもよいではな
いか、君の位牌は墓石は心は、自由俳句のなかに、自由俳人の胸のうちにある。-略人間に対して行乞せずに、自然に向かつて行乞したい、いひかへれば、木の実草の実を食べてゐたい。
※表題句の外、7 句を記す
伊万里の中心街から唐津街道-国道 204 号線-を歩くと唐津市までほぼ 32km 余、8 里である。伊万里市の黒川町、波
多津町あたりまでは海岸線が続き、以後は長い山間路となる。
- 152 Photo/黒川町には、嘗て大阪市内の木津川筋にあった名村造船が昭和 49 年から移転している
Photo/波多津の近く、高尾山公園から望む伊万里湾風景
Photo/波多津から福島へと橋を渡れば、名高い土谷の棚田がある
20100903
夫婦仲よく鉄うつやとんかん
―日々余話― Soulful Days-40- 三回忌に迎える山場
午後 1 時前、地下鉄淀屋橋の駅から地上にあがるとうだるような暑さ。堂島の川風も湿気をいっぱいに含んでなんの
慰めにもならない。裁判所近くの弁護士事務所までの 5.6 分の距離も、右に左にと、わずかなビルの日陰を求めな
がら歩く。
明日は RYOUKO の三回忌の法要を内々に執り行うことになっているが、その前日に弁護士と会うことになったのは、
この 13 日に控えた公判期日の打合せのためだ。7 月 30 日の前回公判で裁判官からの提案で、いわば和解勧告へ向け
た布石としてだろうが、被告と原告双方が直に向き合い話し合う機会を得たいと、次の公判期日が設定されたのであ
る。事故から丸 2 年、事故究明に端を発した刑事・民事双方の訴訟も、刑事は 5 月に決着をみ、民事もまた解決へと
急転していくその山場を向かえようとしているわけだが、その日があろうことか、命日の前日というのはなんという
符号か。それが決められた際に私は同席していたのだが、思わず RYOUKO の面影が脳裏を走り、小さく呻ってしま
ったものだった。
さかのぼって、5 月 21 日付、われわれは被告 T に対し「請求の拡張申立」を行っていた。
被告側がわれわれの損害賠償請求に対し冒頭より無過失を主張したり、医師免許国家試験受験の欠格事由にあたる罰
金刑となるのは必定であったにもかかわらず、どさくさに紛れるかのように 2 月に本年度試験を受験したりといった
行為が、まったく事故責任を省みないものであり、また一片の反省の色なく、被害者心情を著しく傷つけるものとし
ての申立てであり、損害賠償請求に加えての慰謝料請求といったものである。
この申し立ての際に付した「T.K 宛慰謝料請求のために」と題した陳述書は、その殆どの部分が先の「述べられなか
った意見陳述草稿」に重なる。
この申立てに対し、6 月 25 日付、被告代理人から答弁書が出されてきたのだが、その内容がまたこちらの心情をい
たく逆撫でするものだった。よって私は反論の反論のため、またまた長い文書を書く仕儀となってしまった。先の文
書が、自身のための、いわば総括的なものであっただけに、どうにも腰が重かったのだが、そうもいっておられず、
無理強いにのようになんとかモノしたのが以下の文書で、7 月 30 日付、裁判所に提出したものである。
陳述書
平成 21 年(ワ)第****号 交通事故による損害賠償請求事件
大阪地方裁判所 第 15 民事部**係 殿
平成 22 年 6 月 25 日付、被告代理人が提出した「請求の拡張申立に対する答弁」における、主に「第 3-被告 T の主
張」に関して
1 について-
事故当夜における対面は、事故当事者である両者-M と T-からともに当事者である旨の挨拶を受けたものであり、こ
の一言二言の自己紹介的な挨拶を謝罪と数えあげるのは、事故直後の救急車で運ばれる時より被害者 RYOUKO が意
識不明の重篤にあったことを認識していなかったわけでもなかろうに、事態の深刻さをあまりにも軽んじた言い分で
ある。
また、この折、T に付き添ってきた婦人が母親であることは、名告りも受けていないし、まったく接触もしていない
のだから、私としては母親と知る由もない。
- 153 よって、この両者から謝罪の言葉を頂戴したという主張は、まったくもって人を喰った話というしかない。
以下、2 から 5 について-
まず反証資料として、
1.平成 20 年 9 月 23 日付、私から T.K 宛送付した書面の写し、
2.同 9 月 30 日付発信の、T 親子から送付された返書の写し
3.同 10 月 2 日付、私から T.K 及び父 A に送付した書面の写し
4.同 10 月 10 日付発信の、T 親子から送付された返書の写し
の 4 つの書面を付したい。
とくに、10 月 2 日付の私からの書面にあるように、被害者 RYOUKO が生死の境にあって集中治療室にある以上、な
によりもその家族と接触を図り、それが被告らにとってどんなに耐え難いことであろうとも、直々に謝意を伝え、相
手の心の傷みや苦しみを正面から受け止めようとするのが喫緊のことであり、人倫としての務めであること。
その喫緊の人倫の務めを怠りながら、被害者家族にまったく見えないところで、回復祈願をし、さらには冥福を祈り
供養をしたとて、それは何のための誰がための祈願であり供養だろうか、なによりも自分たち自身のため、自分たち
自身の心の呵責を癒すためのものでしかなく、いわば自慰行為にも等しいものだということであり、被告及びその両
親は、私からの書面に発したこれら 4 つの書面のやりとりまでは、RYOUKO の死という犠牲を招いてしまった事故
の、この悲劇的な事態にまったく正面から向き合おうとせず、逃避行を決め込んでしまっていたのである。自分たち
は自分たちなりに回復祈願を、あるいは供養をというのは、被害者及び被害者家族の沈痛な嘆きや心情を無視した、
あまりに偽善、あまりに身勝手な善人面の仮面というしかない。
6 について-
まず注意を喚起しておきたいことは、10 月 9 日の午前、被告 T とその両親は、前触れもなく原告 H.I 宅を訪ね、不在
であったためメモを残しているというのは確かであるが、被告らのこの行為が、私の再度の書面に対し返信-10 月 10
日付発信-する前日のことだということに留意してもらいたい。
被告側からの返信はすべて被告 T の父 A が書いたものであることは一目瞭然であるが、父 A は、私からの二度目の
書面を読んで返答に窮したと容易に察せられる。そこでいわば局面打開の実力行使に出た、私とは別居してきた被害
者 RYOUKO の位牌のある場所即ち原告 I 宅を突然訪ね、直々にお参りをという行為にでたのである。ところが折悪
しく不在であったため名刺のメモを残したということだ。
そして、その日のうちに、私宛の返信を書き、翌日投函しているわけだが、その朝の原告 I 宅訪問については、近日
中に参りたいと思いますと記すのみで、不在だったものの既に訪問してみたことはなぜだか伏せている。
同じ 9 日の午後、原告 I から私に電話があった。「私が留守中でよかった、もし居たとしたら、今の自分にはとても
冷静に応接など出来るはずもない、自分自身なにを口走るか、考えるさえ怖い。だから来ないようにして欲しい。」
とそんな内容だった。
そこで私は夕刻になってから、被告 T の携帯に連絡をした。電話といえばこの携帯しか知らなかったからだ。単刀直
入、「父親に電話をするように」と。
折り返し、父 A からの電話に、「勝手に実家-原告 I 宅-を訪ねるようなことは、今後けっしてしてくれるな。本人は、
突然またいつ来られるかと思えば、それだけで胸苦しくさえなると訴えている。何をするにも私を通してもらいたい。
いずれ受け容れられるようなときがきたら、私から連絡もしよう。」といった旨を伝えたにすぎない。
7.8 について-
このたびの請求の拡張申立における書面において、私自身記したように、交通事故とは偶然に満ちたものであり、運
転者双方の些細なミスによって生じるものであり、誰も故意に起こすものではない。ならばその僅かな不注意で、人
一人を死に至らしめるというとんでもない事態を招いたとすれば、その原因となった事故当事者たるもの、犠牲者及
- 154 びその家族とはまた別次の責めや傷みを負わざるをえないと容易に察せられる。だから相手を恨んだり責めたりはす
まい、しないと自分を律してきたつもりである。
そのことは現在に至るも同じで、今も被告 T を恨んだりはしていない。なんで事故なんか起こしたんだなどと責める
つもりもない。そういった責める思いと、誰にも起こりうることであってみれば、責めるのは可哀相だ不憫だと、ジ
レンマに陥らざるをえないのはむしろ被告 T の両親のほうだろう。
そんなことは分かりすぎるからこそ、私は、被告 T 自身の謝罪に対してというよりは、父 A の子を思う真摯な謝罪に
対して、一定の受容をしてきたのである。
現に被告 T 代理人によって提出された答弁書全容からも容易に覗えることは、被告 T 自身による一連の謝罪行為とい
うよりは、どこまでも父 A が主体となった謝罪であり、私とのさまざまの応接である。
もう 30 歳にもなろうかという立派な成年男子でありながら、被告 T が自ら主体的に、私に向かって、はっきりと物
を言い、また何かを為したということはなく、親に伴われて、借りてきた猫のごとく、そこにただ居合わせてきただ
けである。
それでも私は、母親である原告 I や、被害者のたった一人の弟の、被告 T への心情的な受け容れがたさを知りつつ、
私自身が彼らになりかわり、批判は批判としつつ無念は無念としつつも、受け容れていかざるをえないと考え、応接
してきたのである。
それが 11 月 8 日の父 A と被告 T 両者との一時間余の対面であり、12 月 25 日における私のみの立会いでの故人への
お参りの許容であった。
9.10 について-
たしかに、このまま推移すれば、時日はかかったにせよ原告 I や弟の、被告 T に対する心情もやがては和らいでいっ
た筈である。
ところが、180°の急転を見せるのは、年が明けて 1 月 30 日、私と原告 I が検察庁の呼び出しに応じて、初めて担当
検事の N 副検事に会い、事故原因に関する概況や、M 並びに T 被告への刑事処分に関する検察判断等を聞かされて
からである。
とりわけ、被告 T が、元医学生であったこと、さらには事故の反省から医師免許国家試験をめざそうとしている有意
の青年であるから不起訴処分に、という温情的判断が示されたことは、私にとってまさに驚天動地の出来事だったの
だ。
元医学生、それも大阪市立大学の医学部卒業である。さすれば世間知はともかく、知識もあれば知恵も人並み以上に
ある。その被告 T の、事故当初の被害者及び被害者家族への無関心ぶりは一体なんだというのか。そして私からの怒
りの書面を受けてからも、被害者家族に対して、いっさい自らは行動を起こさず、直かに物を言おうとせず、親の傍
らに隠れるようにしてその場をやり過ごしてきた彼という人間は、一体どういう恥知らずなのか。
これは被告 T の高等戦術なのだ、彼は親の前でもどこまでもよい子を装い、もちろん私の前でもそうして演技してい
る、そんな仮面を被った狡知に長けた人間、それが被告 T の本性なのだと、私が受け取ったのは事の成り行きからし
て必然だったのである。
それからの私は、自ら事故状況を詳しく知らねばならぬと、俄然行動的になった。
まず、私の方から事故当事者 M に連絡を取り、事故状況について説明を求めた。被告 T の「もらい事故」なる怪し
からぬ噴飯物の発言は、この席で M から聞かされた話である。これが翌日の 1 月 31 日。
M の雇用者、MK タクシーには、ドライブレコーダーのコピーを是非見たいと要請した。その傍ら、2 月 10 日には、
被告 T を刑事告訴した。
待望のドライブレコーダーをようやく手にしたのは 3 月 13 日、なんどもなんども繰り返し見た。記録画像は、1/2
と 1/5 のスローモーションでも見られるようになっている。
- 155 M 車が右折行為にさしかかろうとする、事故より 6 秒ほど前から対向車線を軽四のトラックが、2.5 秒ほどかけてゆ
っくりと広い交差点を通り過ぎているが、この車の前照灯は鮮明に映っている。また、事故直後の対向車線上には、
赤信号に変わって信号待ちで停止している乗用車の前照灯も、路面を照らしているのがよくわかる。
軽四トラックが通り過ぎてから、M 車が右折から直進へと移行しつつあるが、この前照灯による路面変化もスローモ
ーション画像なら見て取れる。
ところが、70km/h 以上で直進してきたという被告 T 車の前照灯による路面変化は、直交してくる横合いからの光
だからはっきりと映るはずなのに、スローモーションでさえもまったく見られないのである。
そしてまた、ドライブレコーダーに基づく調査とされる甲 8 号証の 8「実況見分調書」における、事故発生 3 秒前の
被告 T 車の想定位置写真や同じく 2 秒前の位置写真、この場合の仮想 T 車は前照灯を灯したものであるが、これを見
れば、少なくとも 2 秒前において、M が T 車を視認しないはずはないとするのが至当であるのに、M が T 車にまった
く気づきえなかったのは、T 車の無灯火運転を証拠づけるものである。
ドライブレコーダーをごくニュートラルな眼で、素直に見る限り、これが事実である。被告 T 車は無灯火であったと
しかいいようがない、というのが記録画像の明らかに語るところだ。
ところが、大阪府警科捜研は、ドライブレコーダーの画像は高精度ではないからと、あえて検証対象から外した。そ
して、この記録の機械的構造から起きるタイムラグを微修正しながら、詳細なタイムレコーダーのみを作り上げ、事
故原因の分析対象とした。それが 6 月 28 日付、被告 T 側から提出された準備書面 2 が根拠にもしている甲 8 号証 7
の鑑定書である。
これは、はっきりいってインチキだ。科捜研は府警西警察署が作成した事故の概況及び調書等にまったく矛盾しない
報告書を作るべく腐心しただけの苦心の作だ。畢竟それは検察の意志でもあったろう。
またご丁寧なことに、M 被告の刑事裁判では、公判の法廷において、このドライブレコーダーをスローモーションで
はなく実際の速度で液晶画面に映し出している。それも裁判官の要請で二度までも。しかし、ほんの 10 秒ほどの出
来事を実際のスピードで法廷の画面に映し出し、これを遠目に眺めてみたところで、詳細のほどは知れようもない。
いかにも法廷では画像のほうもちゃんと実況見分したよといわんばかりで、まるでセレモニーの具にされたようなも
のだ。
先に記したように、M 車の右折行為は、軽四トラックが交差点内を進行しはじめるあたりから始まっており、いよい
よ右折から直進へと移るまでに 5 秒ほどかかっているというまことにゆっくりとしたものである。その間、被告 T に
とって、M 車の姿は見えずとも前照灯の移ろいは、前方を注視していれば3 秒も4 秒も前から気づいて当然のものだ。
このことからも、被告 T は無灯火であったばかりか、2 秒あまりの脇見運転までもしていたとしか考えられないので
ある。
これら無灯火についても脇見についても、被告 T にとっては消し去りようのない事実であり記憶である。彼は、事故
当初より、この事実を隠蔽し通さねばならなかった。もし自分の過失が大となれば、一人息子として両親から庇護さ
れ保証されてきた手厚いまでの恩恵、医者になるよりもまた留年してまでも趣味を活かしたウェイクボードのプロの
道、申し訳程度にしたい時出来る時にしかしない家業の手伝い、高層マンションの広い上階に独り住む優雅な独身貴
族の日々、これらがすべて反古になりかねないのだから。だからこそ、被告 T にとって、生死の境を彷徨う被害者の
ことも、その家族たちのことも、関心の埒外に置かねばならなかったし、自分の罪科を微罪にするべく事実に背を向
け、西警察署の取り調べや聴取に専心、自らの保身のみを図ろうとしたのである。
となれば、これは未必の故意とさえいいうるような欺瞞行為であり、非道卑劣な行為といわざるをえないではないか。
刑事告訴にはじまり、こういった事実が明らかになるにおよんでは、初盆や一周忌に送られてきた供物を、どうして
黙って受け取られよう。私が送り返すのも当然のことではないか。
あまつさえ許し難いのは、当該の民事訴訟において、ぬけぬけと無過失を主張したことである。その論拠を刑事事件
の捜査未了であったことにおいているが、被告 T は、事故直後の府警西警察署の取り調べ段階からずっと一分の過失
- 156 は認めており、いずれの段階においても過失ゼロを主張した形跡はどこにもない。それなのにこれをしも法廷戦術だ
などというのなら、まったく低劣なことこのうえないと思うばかりだが、「原告等の気持を逆撫でする」行為とは、
まさにこれ、そのものずばりではないか。
またさらに、被告 T は、本年の 2 月初旬、検察からの最終的呼び出しの要請を受けたものの、これを 2 月 16 日以降
に延ばしてもらっている。医師免許国家試験が同月 13 日から 3 日間あり、これを受験するためだったのだが、この
合格発表は 3 月 29 日である。しかるに、検察の刑事処分決定通知はそれより先の 3 月 21 日付、罰金 30 万円となっ
た。
不起訴ならともかく、当該処分を受ければ、少なくとも数年間、受験資格はなくなる。実際の合否がどうであったか
知る由もないが、発表前に処分が下った。仮にこの処分を厚労省管轄部署の知るところとなれば、合格していたとし
ても一定の留保期間がおかれる仕儀となるが、その結果については私のあずかり知るところではない。
この受験と合否発表の日程、そして検察の最終呼び出しから刑事処分の日程とが、綱渡りのように錯綜してあるのは、
父 A の子可愛さ、将来を憂えての強い干渉と意志が関わった所為なのだろうけれど、あろうことか、父 A は、突然
私に連絡をよこして、試験前日の 2 月 12 日に面会を求め、今年の医師試験を受験する旨を伝えたのである。
これはもう親の盲目的愚としかいいようもないが、先に処分ありきでは 2.3 年は受験も叶わず、処分の下る前に駆
け込み受験といった料簡見え見えで、この受験が親としてよほど切望していたことにせよ、こういった事情を被害者
家族の私に報告してくるにおよんでは、なにをか況んや。これまた被害者家族「逆撫で」の最たる一件である。
最後に繰り返し言う、被告 T は、傲岸不遜な利己主義の権化、狡知に長けた欺瞞の徒である。両親の恩寵の陰に隠れ、
おのれの利害の外はまったく省みようとしない輩、幼い頃から親の前では、よい子できる子を演じつづけてきた虚飾
に満ちた卑劣漢、人の心の欠落してしまったまるで未熟な大人なのだ。
一片たりともそうでないと主張するなら、私たち原告の前に自ら姿をあらわし、潔く法廷の場に立てばいい。その時
が、人の人たる心を取り戻しうる、唯一大きな機会なのだから。
平成 22 年 7 月 30 日
―山頭火の一句― 行乞記再び -99
4 月 9 日、申分ない晴、町内行乞、滞在、叶屋
今日はよく行乞した、こんなに辛抱強く家から家へと歩きまはつたことは近来めづらしい、お天気がよいと、身心も
よいし、行乞相もよい、もつとも、あまりよすぎてもいけないが。-略花が咲いて留守が多い、牛が牛市へ曳かれてゆく、老人が若者に手をひかれて出歩く、子供は無論飛びまはつてゐる。
花、花、花だ、満目の花だ、歩々みな花だ、「見るところ花にあらざるはなし」「蝕目皆花」である。南国の春では、
千紫万紅といふ漢語が、形容詞ではなくて実感だ。-略夕食後、春宵漫歩としやれる、伊万里も美しい町である、山も水も、しかし人はあまり美しくないやうである。
今夜の同宿は 3 人、一人は活動に、一人は浪花節にいつた、私は宿に残つて読書。
今夜もまた眠れないのでいろいろのラチもない事を考へる-酒好きは一切を酒に換算する、これが一合、いや、これ
で一杯やれる、等、等、等。
私はしよつちゆう胃腸を虐待する、だから、こんどのやうに胃腸が反逆するのはあたりまへだ。
聖人に夢なく凡人に夢は多すぎる、執着のないところに夢はない、夢は執着の同意語の一つだ、私はよく悪夢におそ
はれる、そして自分で自分の憎愛の念のはげしいのにおどろく。
※表題句に鍛冶屋の註、外に 4 句を記す
Photo/伊萬里神社のトンテントン祭り
Photo/秘窯の里大河内山のボシ灯ろうまつり
- 157 20100831
腹底のしくしくいたむ大声で歩く
―日々余話― もう、うんざり‥
とうとう8月も晦日というに記録破りの猛暑は続く。真夏日も熱帯夜も、94 年の過去記録を各地で更新していると
いう。この分だと 9 月半ばあたりまで続きそうな気配さえして、ほとほとうんざり‥。
酷暑に、不況と円高、二重苦三重苦のわが列島だというのに、参院選をしくじった管直人に政局の嵐は避けられず、
民主党はとうとう代表選突入というお粗末に、これまたうんざり‥。
ところで「うんざり」の「うん」は「倦む」からきているのだろうが、どうして「うんざり」と成ったのか、語源が
よくわからない。広辞苑などではそんなことは教えてくれない。
で、net で検索してみたら、「倦むずあり」が略されて「うんざり」と変化してきた、という説が多く散見される。
しかし、この説だと、なんだか「倦むず」と「あり」の合成語にもみえ、動詞句のようなことになってしまうから不
味いのではないか。「うんざり」とはどう見ても副詞であって、「うんざり+する」となって動詞句となるからだ。
もう一つ、この説とは似て非なるものが見つかった。Wktionary-ウィクショナリー日本語版-によれば、古語の「う
さ(当時の発音は unsa, unza)」+副詞語尾「り」が語源であると。名詞の「倦さ」に副詞語尾の「り」が接合さ
れて副詞「うさり」が「うんざり」へと表記変化してきたとの説に、どうやら軍配があがりそうだ。
―山頭火の一句― 行乞記再び -98
4 月 8 日、雨後の春景色はことさらに美しい、今日は花祭である、7 年前の味取生活をしぜんに思ひだしてなつがし
かつたことである。
今日は辛かつた、行乞したくないよりも行乞できないのを、むりやり行乞したのである、しなければならなかつたの
である、先日来毎日毎日の食込で、文字通りその日ぐらしとなつてしまつたから詮方ない。
やつと 2 里歩いて此町へ着いた-途中二度上厠-、そして 3 時間ばかり行乞した、おかげで飯と屋根代だけは出来た、
一浴したが一杯はやらない、此宿は清潔第一で、それがために客が却つて泊らないらしい、昨夜の宿とは雲泥の差だ、
叶屋。
旅に病んで、つくづく練れてゐない自分、磨かれてゐない自分、そしてしかも天真を失ひ純情を無くした自分、野性
味もなく修養価値もない自分を見出ださざるを得なかつた。
-略-、街上所見の一―これはまた、うどんやが硝子戸をはめてカフェー日輪となつてゐる、立看板に美々しく「スマ
ートな女給、モダーンな設備、サーピス-セーピスぢやない-百パーセント」さぞさぞ非スマートな姐さんが非モダー
なチヤブ台の間をよたよたすることだらう-カフエー全盛時代には山奥や浦辺にもカフエーと名だけつけたものがう
ようよしてゐた、駄菓子がカフエーベニスだつたりして、もつともそこは入川に臨んでゐたから、万更縁がないでも
なかつたが-。
もう蕨を触れ歩く声が聞える、季節のうつりかはりの早いのには今更のやうに驚かされる。
同宿 5 人、私はひとりを守つて勉強した。
※表題句の外、2 句を記す
楠久の町から 2 里ばかり歩いたというから、現伊万里市の中心部あたりだろう。
Photo/楠久から伊万里市中心部へと向かう道中、東山代の明星桜
Photo/伊万里市郊外の秘窯の里大川内山は、嘗ての鍋島藩御用窯だった
Photo/大川内山の町並みにそびえ立つ巨大な焼きもの
20100819
- 158 お地蔵さんもあたたかい涎かけ
―表象の森― 古里の香り匂い立つ
「今月の」ならぬ、月もとっくに変わって、7 月の購入本などのご紹介。
「100 年前の女の子」は佳品。
私の父母の田舎は徳島県南部や高知県の山里で、北関東の片田舎とはまた趣は異なるが、古里の香り匂い立つ田舎暮
しの片々が、中学を卒業する頃まで毎年のように夏休みに帰参しては過ごした田舎の光景や風情が喚起され、ひとと
き懐かしい郷愁に誘われては、心地よき時間を堪能させてもくれた。
―先月-7 月-の購入本―
・S.モアレム「迷惑な進化」NHK 出版
副題に「病気の遺伝子はどこから来たのか」とあるように、適者生存として進化してきた生物としての人類が、糖尿
病や皮膚がんなど、現代社会で「病気」として遺伝子資産をもてあましている様子が明快に説明される。
・船曳由美「100 年前の女の子」講談社
関東平野、群馬県館林の北西、県境の矢場川を越えると栃木県の足利、二つの町のあいだに高松という小さな村があ
った。明治 42-1909-年、そこに寺崎テイという女の子が生れた。里帰りしてテイを産んだ実母は、姑と折合いが悪か
ったか、生後 1 ヶ月のテイだけを嫁ぎ先へと送り返した。
実母に見捨てられるという数奇な運命を背負わされた乳飲み子の、健気で勝気で賢い女の子として成長を遂げていく
姿が心に沁みるが、大正頃の風俗や習慣が詳細に活写されており、民俗学的な関心からもたのしく読める。
・内田百閒「百鬼園随筆」新潮文庫
漱石門下の異才・内田百閒の昭和 8 年に上梓されたという代表的随筆。
―図書館からの借本―
・C.レヴィ・ストロース「パロール・ドネ」講談社メチエ
40 年代前半から 70 年代半ばまでの 32 年間を、コレージュ・ド・フランスで行った講義と研究指導の、その年々の詳
細で生々しい報告書を一冊に束ねたのが本書「パロール・ドネ」だそうだ。訳者は中沢新一。
―山頭火の一句― 行乞記再び -97
4 月 7 日、曇、憂鬱、倦怠、それでも途中行乞しつつ歩いた、3 里あまり来たら、案外早く降り出した、大降りであ
る、痔もいたむので、、見つかった此宿へ飛び込む、楠久、天草屋
-略-、今日は県界を越えた、長崎から佐賀へ。
どこも花ざかりである、杏、梨、桜もちらほら咲いてゐる、草花は道につづいてゐる、食べるだけの米と泊るだけの
銭しかない、酒も飲めない、ハガキも買へない、雨の音を聴いてゐる外ない。
此宿はほんたうにわびしい、家も夜具も食物も、何もかも、―しかしそれがために私はしづかなおちついた一日一夜
を送ることが出来た、相客はなし-そして電灯だけは明るい-家の人に遠慮はなし、2 階 1 室を独占して、寝ても起き
ても自由だつた、かういう宿にめつたに泊れるものでない-よい意味に於ても悪い意味に於ても-。
よく雨の音を聴いた、いや雨を観じた、春雨よりも秋雨に近い感じだつた、蕭々として降る、しかしさすがにどこか
しめやかなところがある、もうさくら-平仮名かう書くのがふさはしい-が咲きつつあるのに、この冷たさは困る。
雪中行乞で一皮だけ脱落したやうに、腹いたみで句境が一歩深入りしたやうに思ふ。自惚ではあるまいと信じる、先
月来の句を推敲しながらかく感じないではゐられなかつた。
友の事がしきりに考へられる、S 君、I 君、R 君、G 君、H 君、等、等、友としては得難い友ばかりである、肉縁は切
つても切れないが、友情は水のやうに融けあふ、私は血よりも水を好いてゐる!
- 159 天井がないといふことは、予想以外に旅人をさびしがらせるものであつた。
-略-、今夜も寝つかれない、読んだり考へたりしてゐるうちに、とうとう一番鶏が鳴いた、あれを思ひ、これを考へ
る、行乞といふことについて一つの考察をまとめた。
※表題句の外、3 句を記す
Photo/伊万里湾を望む楠久あたりの風景
Photo/創業 200 年という松浦一酒造
Photo/七福神の弁財天で名高い荒熊稲荷神社
20100816
忘れようとするその顔の泣いている
―表象の森― 神尾真由子の Paganini を踊ってみる
先月の 27 日以来、なんと 20 日ぶりの言挙げ。
ブログを始めてかれこれ 6 年にもなるが、これほどペースダウンしたことはない。これといって特段の事情があった
訳でもない。いくつか思いあたる節もあるが、どれも決定的というほどにはあらず、漫然と複合的に作用したのかな、
というしかない。
で、今日はとりあえず、今週末予定の「夏の夜の舞と小宴」と題した
6 年ぶりか、久しぶりに稽古場で行うイベントの紹介。
残暑御見舞。
ちょいと沈黙しているあいだに早くも盆の月となってしまいました。
かといってけっして稽古を休んでいた訳じゃありません。
Eric Satie の曲なぞかけて踊ってみると、ぐんと動きの発想がひろがります。
それにしても神尾真由子という Violinist は凄いですネ。音楽は門外漢の身でとても講釈なぞ出来ませんが、Paganini
の「24 Caprici」に脱帽、驚き入ってます。機会があればぜひ生の演奏を聴いてみたいものです。
いつもは稽古でご厄介になっているアソカ学園ですが、Work Shop よろしく即興なぞご覧いただいて、一夕気楽な
小宴を得たいと思いますが如何でしょうか。
但し席料 1000 円也をご喜捨願うことになりますが、お運び願えれば幸甚に存じます。
初秋とはいえ猛暑の砌
四方館亭主/林田鉄
―山頭火の一句― 行乞記再び -96
4 月 6 日、晴たり曇つたり、風が吹いて肌寒かつた、どうも腹工合がよくない、したがつて痔がよくない、気分が鬱
いで、歩行も行乞もやれないのを、むりにここまで来た、行程わづかに 2 里、行乞 1 時間あまり、今福町、山代屋
死! 死を考へると、どきりとせずにはゐられない、生をあきらめ死をあきらめてゐないからだ、何のための出離ぞ、
何のための行脚ぞ、ああ!
此宿はよい、昨夜の宿とはまた違った意味で、-飲食店だけでは、此不景気にはやってゆけないので安宿をはじめた
ものらしい、うどん一杯 5 銭で腹をあたためた、久しぶりのうどんだつた、おいしかつた。-略人間の生甲斐は味はふことにある、生きるとは味はふことだともいへよう、そして人間の幸は「なりきる」ことにあ
る、乞食は乞食になりきれ、乞食になりきれなければ乞食の幸は味はへない、人間はその人間になりきるより外に彼
の生き方はないのである。
金のある間は行乞などできるものでない、また行乞すべきものでもあるまい、私もとうとう無一物、いや無一文にな
つてしまつた、S さん G さんに約束した肌身の金もちびりちびり出してゐたら、いつのまにやら空つぽになつてしま
- 160 つてゐる、これてせよい、これでよいのだ、明日からは本気で行乞しよう、まだまだ袈裟を質入してもに二三日は食
べてゐられるが。-略今夜も寝つかれなくて、下らない事ばかり考へてゐた、数回目の厠に立つた時はもう 5 時に近かつた-昨夜は 2 時-。
※表題句には夢と註記あり、この句の外 10 句を記す
Photo/鳴き砂で知られる、その名も所縁のぎぎが浜
Photo/松浦党水軍の梶谷城趾
Photo/隣町にある上志佐の棚田
20100727
まつぱだかを太陽にのぞかれる
―日々余話― iPad の一騒動
他人にお節介をするときは、端から相応の覚悟をしておくに若くはない。
先週の火曜から昨日の月曜まで、ちょうど 1 週間、このお節介から振り回される羽目になってしまった。
先日、車椅子の詩人こと畏友岸本康弘君宅を訪ねた際、「手の不自由な君でも、これならなんとか扱え、愉しめるの
じゃないか」と、iPad を取り出しご披露に及んでみたら、とりわけ彼は「青空文庫」を快適に読めるのが気に入っ
たとみえて、「欲しい!」と一言、その一週間後には早々と手に入れていた。
手に入ったと聞きつけては、奨めた立場上、設定やアプリのダウンロードなど、彼には出来そうもない面倒なことは
私がやってやらないと宝のもち腐れとなろうから、翌日また宝塚の彼宅へ駆けつけることに。
前日に、介護者が二人もついて、わざわざ心斎橋の直販店まで出向いて購い求めたものだが、担当した女性店員はず
いぶん懇切丁寧に応接したらしく 1 時間半ばかりもかかったというに、付属品の電源コネクタとケーブルがない。小
さなものだが、これがなければ充電も出来ないし、PC と接続してアプリなどのやりとりも出来ない、いわば命の綱。
これが騒動の発端で、問題の部品一つを無事手にするのに、メーカー側のカスタマーセンターの度重なる誤配などの
所為もあって、結局は昨日、私自身が関係書類を持って直販店へ出向いて貰い受けるという始末で、1 週間を要して
ようやく一件落着と相成った次第だが、この小さな部品、まだ私の手元にあるのだから、今日明日にも宝塚まで持参
してやらなければならない。
なに、余計なお節介をするものじゃない、と悔いたりしてるわけじゃない。事に関わった以上は、それも相手が相手
だけに、相当に面倒なことは百も承知のうえでのこと。ただ、ことさらハンデのある身が、文明の利器を自家薬籠中
のもののごとく利用しようと望んでも、いかにも初歩的なトラブルといえど、いったんそれに巻き込まれてしまった
ら、複雑なマニュアルどおりのシステムが立ちはだかって、もうどうにも手の打ちようがないという現実が、いささ
か腹立たしくもあり哀しいのだ。そんな思いで、このドタバタ騒ぎも記憶にとどめるべしと書き留めておく。
―山頭火の一句― 行乞記再び -95
4 月 5 日、花曇り、だんだん晴れてくる、心も重く足も重い、やうやく 2 里ほど歩いて 2 時間ばかり行乞する、そし
てあんまり早いけれどここに泊る、松原の一軒家だ、屋号も松原屋、まだ電灯もついてゐない、しかし何となく野性
的な親しみがある
自省一句か、自嘲一句か
もう飲むまいカタミの酒杯を撫でてゐる –改作自戒三章もなかなか実行できないものであるが、ちつとも実行できないといふことではない、或る時は菩薩、或る時
は鬼畜、それが畢竟人間だ。
今日歩いて、日本の風景-春はやつぱり美しすぎると感じた、木の芽も花も、空も海も。‥
- 161 風呂が沸いたといふので一番湯を貰ふ、小川の傍に杭を 5.6 本打ち込んでその間へ長州釜を挟んである、蓋なんかあ
りやしない、藁筵が被せてある、-まつたく野風呂である、空の下で湯の中にをる感じ、なかなかよかつた、はいら
うと思つたつてめつたにはいれない一浴だつた。
同宿二人、男は鮮人の飴屋さん-彼はなかなか深切だつた、私に飴の一塊をくれたほど-、女は珍重に値する中年の醜
女、しかも二人は真昼間隣室の寝床の中でふざけちらしてゐる、彼等にも春は来たのだ、恋があるのだ、彼等に祝福
あれ。
今夜もたびたび厠へ行つた、しぼり腹を持ち歩いてゐるやうなものだ、2.3 日断食絶酒して、水を飲んで寝てゐると
快くなるのだが、それがなかなか出来ない!
層雲 4 月号所戴、井師が扉の言葉「落ちる」を読んで思ひついたが-落ちるがままに落ちるのにも三種ある、一はナ
ゲヤリ-捨鉢気分-、二はアキラメ-消極的安心-、三はサトリ-自性徹見-である。
世間師には、ただ食べて寝るだけの人生しかない!
※表題句の外、改作も含め 12 句を記す
御厨から 2 里ばかりの松原とは、唐津街道の調川-つきのかわ-町近くか。
Photo/松浦市調川港の全景
Photo/松浦市中心部の公園にある松浦党水軍兜の碑
20100722
はなれて水音の薊いちりん
―日々余話― 炎暑の下でなに励む‥?
平年の 1.5 倍という降雨で、各地に豪雨禍をもたらした梅雨が明けたかと思えば、これまた記録的な猛暑、炎熱の日々
がつづく。午後 11 時現在ですら、気温 30℃、湿度 81%というから、当月生れの夏男の筈のこの身もヘタリ気味。
このところ手に入れた iPad に凝り型となっている所為もあるけれど、まとまったことなど記す意欲なし‥。
その iPad の青空文庫で時間潰しに読んでいた、懐かしの中原中也「山羊の歌」より-
「都会の夏の夜」
月は空にメダルのやうに、
街角に建物はオルガンのやうに、
遊び疲れた男ども唱ひながらに帰つてゆく。
――イカムネ・カラアがまがつてゐる――
その唇は胠-ひら-ききつて
その心は何か悲しい。
頭が暗い土地になつて、
ただもうラアラア唱つてゆくのだ。
商用のことや祖先のことや
忘れてゐるといふではないが、
都会の夏の夜の更-ふけ-――
死んだ火薬と深くして
眼に外燈の滲みいれば
- 162 ただもうラアラア唱つてゆくのだ。
―山頭火の一句― 行乞記再び -94
4 月 4 日、雨、曇、晴、行程 3 里、御厨、とうふや
ぼつりぼつり歩いてきた、腹がしくしく痛むのである、それでも 3 時間あまりは行乞した。
腹工合は悪かったが、行乞層は良かつた。
留置郵便を受け取る、うれしかつた、すぐそれぞれへハガキを出す、ハガキでも今の私にはたいへんである。
此宿はよい、電灯を惜むのが玉に疵だ-メートルだから-。
ゆつくり飲んだ、わざわざ新酒を買つて来て、そして酔つぱらつてしまつた、新酒一合銅貨 9 銭の追加が酔線を突破
させたのである、酔中書いたのが前頁の通り、記念のために残しておかう、気持がよくないけれど-5 日朝記-。
アルコールのおかげでグツスリ寝ることが出来た、昨夜の分までとりかへした、ナム アルコール ボーサー。
※表題句の外「笠へぽつとり椿だつた」を含む 7 句を記す
Photo/御厨町は現在の長崎県松浦市西部の港町、写真は姫神社に奉納される御厨くんち
Photo/御厨町の北に半島状に突き出た一角が星鹿町で、此処には説教節の石動丸所縁の刈萱城-城山-跡がある。写
真は夕陽に映える城山展望台の風景
20100716
酔ひどれも踊りつかれてぬくい雨
―表象の森― 肉筆と明朝体、円谷幸吉の遺書
「父上様、母上様、三日とろろ美味しゆうございました。干し柿、餅も美味しゆうございました。敏雄兄、姉上様、
おすし美味しゆうございました。克美兄、姉上様、ブドウ酒とリンゴ美味しゆうございました。
巌兄、姉上様、しめそし、南ばん漬け美味しゆうございました。喜久蔵兄、姉上様、ブドウ液、養命酒美味しゆう
ございました。又いつも洗濯ありがとうございました。
幸造兄、姉上様、往復車に便乗させて戴き有難ううございました。モンゴいか美味しゆうございました。正男兄、
姉上様、お気を煩わして大変申しわけありませんでした。
幸雄君、秀雄君、幹雄君、敏子ちゃん、ひで子ちゃん、良介君、敦久君、みよ子ちゃん、ゆき江ちゃん、光江ちゃ
ん、彰君、芳幸君、恵子ちゃん、幸栄君、裕ちゃん、キーちゃん、正祠君、立派な人になって下さい。
父上様、母上様。幸吉はもうすっかり疲れ切つてしまって走れません。何卒お許し下さい。気が休まることもなく
御苦労、御心配をお掛け致し申しわけありません。幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました。」
――円谷幸吉 -1968/01/09
Wikipedia の円谷幸吉の項によれば、その挫折と自殺について、
‘64 年の東京五輪のマラソンで栄光の銅メダルに輝いた円谷幸吉は、次の目標を次の「メキシコ五輪での金メダル」
と宣言した。しかし、その後は様々な不運に見舞われ続けた。所属する自衛隊体育学校の校長が円谷と畠野の理解者
だった吉井武繁から吉池重朝に替わり、それまで選手育成のために許されて来た特別待遇を見直す方針変更を打ち出
した。その上、ほぼ決まりかけていた円谷の婚約を吉池が「次のオリンピックの方が大事」と認めず、結果的に破談
に追い込んでしまう。直後に、体育学校入学以来円谷をサポート、婚約に対する干渉の際も「結婚に上官の許可-「娶
妻願」の提出-を必要とした旧軍の習慣を振り回すのは不当だ」と抵抗した畠野が突然転勤となり、円谷は孤立無援
の立場に追い込まれた。さらに円谷は幹部候補生学校に入校した結果トレーニングの時間の確保にも苦労するように
なる。その中で周囲の期待に応えるため、オーバーワークを重ね、腰痛が再発する。病状は悪化して椎間板ヘルニア
を発症、’67 年には手術を受ける。病状は回復したが、既に嘗てのような走りが望めるような状態ではなかった。
- 163 ‘68 年 1 月 9 日、カミソリで頸動脈を切って自死した。-Wikipedia「円谷幸吉」
この美しくも悲痛このうえない遺書を採りあげて、石川九楊は著書「文字の現在、書の現在」のなかで、肉筆とそれ
が活字となった明朝体との、表象のあらわれとしての差異について論じている。
野坂昭如が「円谷の実、三島の虚」において、「自衛官として自殺した円谷幸吉のそれ‥を、新聞で読んだ時、何と
いうすさまじい呪いであるかと、受けとった。」と書いたように、肉筆で書かれた遺書が、活字の明朝体に転換され
た場に、否応なく出現してくる呪の深さ、その衝撃といった表象の位相がここにはある。
円谷が肉筆で描いたものは、周囲を取りまく人々の好意と善意への率直な感謝と、その期待を裏切ることへの「わび」
であったにちがいない。ところが、いったん、この遺書が明朝体に転換されるや、怨みと呪いに満ちた陰画の世界が
現前する。「美味しゅうございました」のリフレーンが、ガソリンのように食物を給油され、車のように走れ、走れ
と急き立てられたことへの怨みの歌と化してくる。最後の一行「幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました」も
また悲痛な叫びであると同時に、人間としてわずかの望みさえ奪われてレーシング・マシンと化せられたことへの呪
いの韻きをもっている。
むろん円谷自身は怨みの遺書を残そうとしたわけではない。感謝や詫びの言葉の背後に、本人すら気づかぬほどに密
かにしのびこんでいた怨みや呪いを、明朝体が外被を剥ぎとってあらわにしたものに他ならないのである。
―山頭火の一句― 行乞記再び -93
4 月 3 日、雨かと心配したが晴、しかし腹具合はよくない。
婦負ばかりゐられないので、3 時間ばかり行乞する、行乞相は満点に近かった、それはしぼり腹のおかげだ、不健康
の賜物だ、春秋の筆法でいへば、シヨウチユウ、サントウカヲタダシウスだ。
湯に入つて、髭を剃つて、そして公園へ登つた-亀岡城趾-、サクラはまだ蕾だが人間は満開だ、そこでもここでも酒
盛だ、三味が鳴つて盃が飛ぶ、お弁当のないのは私だけだ。
昨日も今日もノン アルコール デー、さびしいではありませんか、お察し申します。
春風シュウシュウといふ感じがした、歩いてをれば。
平戸よいとこ旅路じやけれど
旅にあるよな気がしない
-略-
けふの道はよかつた、汗ばんで歩いた、綿入 2 枚だもの、しかし、咲いてゐたのは、すみれ、たんぽぽ、げんげ、な
のはな、白蓮、李、そしてさくら。‥
これだけの労働、これだけの報酬。-略とうとう一睡もしなかつた、とろとろするかと思へば夢、悪夢、斬られたり、突かれたり、だまされたり、すかされ
たり、七転八倒、さよなら!
-これから改正-
時として感じる、日本の風景は余り美しすぎる。
花ちらし-村総出のピクニック-味取の総墓供養。
※表題句の外、1 句を記す
Photo/寺院群のなかに聳え立つザビエル記念聖堂
Photo/寺塀に沿ったオランダ坂から覗く聖堂
Photo/平戸くんちの大祭が行われる亀岡神社
20100711
すみれたんぽゝ咲いてくれた
- 164 ―日々余話― 選挙初体験!?
朝から降ったりやんだりの雨が、夕刻からは風がつよくなって、なんだか嵐模様。
二十歳で選挙権を得て以来 40 数年、これまで投票を欠かしたことはない筈だが、図らずもこのたびは、私の選挙史
上初体験のものとなった。
なに棄権をしたわけではない、初めてというのは、国政に関して、嘗て一度も経験したたことのない、与党への投票
という選択である。これってなんだか落ち着きのわるい妙な感慨に襲われもすることだ。
いま TV 各局はどこも選挙報道で、その与党苦戦を伝えて喧しい。これも選挙戦途中から予測されていたことだから、
さして驚くことではないが、この選挙結果、深刻なのは、またしても政局騒動がつづくこと必至、という事態だ。
―表象の森― 異貌の装束
昨夜、新世界の山王町で、またまた D.Marie らの成田屋路上パフォーマンス、お題は照坊雨女。
成田屋の主人が考案したという、D.Marie の装束というか、その異貌の出立ちが秀逸だった。近来にないヒット作に
なるものだ。
―山頭火の一句― 行乞記再び -92
4 月 2 日、晴、また腹痛と下痢だ、終日臥床。
緑平老の手紙は春風春水一時到の感があつた、まことに持つべきものは友、心の友である。
April foo! 昨日はさうだつたが今日もさうらしい、恐らくは明日も-マコト ソラゴト コキマゼテ、人生の団子
をこしらへるのか!
しくしく腹がいたむ、読書も出来ない、情ないけれども自業自得だ、病源はショウチュウだつたのだ。
※句作なし、表題句は 3 月 31 日記載の句
Photo/寺院と教会のある風景、平戸
Photo/1931-S6-年に完成した、聖フランシスコザビエル記念聖堂-平戸カトリック教会-の偉容
20100705
弔旗へんぽんとしてうらゝか
―日々余話― 眠いし、蒸し暑いし…
眠いのと、蒸し暑いのと、そんな二重苦が、もうかれこれ 3 週間ばかりつづいているか。
昨日の稽古、2 ヶ月余りイギリスに遊んできた Aya が無事ご帰還なって 2 度目のもの。
さすがに 2 ヶ月も食糧事情のちがう異国に滞在してきたとあって、ぐっと痩身になって見ちがえるよう。やはり踊る
には、余計なものは刮ぎ落とした身体がいい。動きのなかになにやら繊細なものがふっと匂い立つことがある。
出立前より 3kg 減で、すでに 1kg リバウンドした、といっていたから、それ以上戻ったらダメ、今のままをキープ
しろと厳命しておいた。
神尾真由子の Paganini「24 のカプリース」、以前にも書いたが、とてもいい、音の運びが乱気流のように紡がれゆ
くといった感。
夕刻から朝にかけて、秋予定の市岡 15 期会の案内コピーやレイアウト原案に没頭、ほぼ輪郭は仕上がった。昼にな
って、代表幹事会の集まりに持参したのだが、約束の場所を探して、蒸し暑いなかを歩くことほぼ 30 分、草臥れた。
今夜も眠い。
―山頭火の一句― 行乞記再び -91
4 月 1 日、晴、まつたく春、滞在、よい宿だと思ふ
- 165 生活を一新せよ、いや、生活気分を一新せよ。
朝、大きな蚤がとんできた、逃げてしまつた、もう虱のシーズンが去つて蚤のシーズンですね。
9 時から 2 時まで行乞、-略「絵のやうな」といふ形容語がそのままこのあたりの風景を形容する、日本は世界の公園だといふ、平戸は日本の公
園である、公園の中を発動船が走る、県道が通る、あらゆるものが風景を成り立たせてゐる。
もし不幸にして嬉野に落ちつけなかつたら、私はここに落ちつこう、ここなら落ちつける-海を好かない私でも-。
美しすぎる-と思ふほど、今日の平戸附近はうららかで、ほがらかで、よかつた。-略平戸町内ではあるが、一里ばかり離れて田助浦といふ、もつとうつくしい短汀曲浦がある、そこに作江工兵伍長の生
家があつた、人にあまり知れないやうに回向して、‥
島! さすがに椿が多い、花はもうすがれたが、けふはじめて鶯の笹鳴をきいた。
鰯船がついてゐた、鰯だらけだ、一尾 3 厘位、こんなにうまくて、こんなにやすい、もつたいないね。
平戸にはかなり名所旧跡が多い、-オランダ井、オランダ塀、イギリス館の阯、鄭成功の‥
※表題句の外、1 句を記す
Photo/平戸藩松浦氏の居城だった平戸城、明治の廃藩置県で解体され、現状のように復元されたのは 1962-S37-年
Photo/オランダ商館跡へ連なるオランダ坂
Photo/オランダ橋-別名幸橋Photo/オランダ井戸
20100703
春寒い島から島へ渡される
―世間虚仮― 梅雨の不快も‥
今日も朝早くから、豪雨と形容するのが相応しいほどに、雨が降り続いているが、この蒸し暑さ、堪らぬ不快さには、
いまにも音を上げそうで、なんとかならぬものかと、辟易もいいところ。
今年の梅雨には、なんだかおぞましささえ感じているような私なのだが、そんな弱音も、自身の加齢の所為もいくら
か与ってあるのかもしれぬ。
まあ、これほどに降れば、各地のダムも、例年騒がれるような、渇水の心配もないのだろうけど‥。
それに加えて、これは梅雨とはなんの因果もないことだが、このところ老眼の度がさらに進んだらしく、いよいよメ
ガネが合わなくなってきている。細かい字を読むのも、PC に向かうのも、以前に増して気力を要するようだ。そん
な苦も重なって、他人様以上に、今年の梅雨に対し恨みがましく思っているのかも‥。
いずれにせよ、歳古るほどに、適応能力も劣ってくるのだからして、身に堪えようが違ってきているのだろう。
―山頭火の一句― 行乞記再び -90
3 月 31 日、晴、行程 8 里、平戸町、木村屋
早く出発する、歩々好風景だ、山に山、水に水である、短汀曲浦、炭車頻々だ。
江迎を行乞してゐて、ひよつこり双之介さんに再会して夢のやうに感じた、双之介さんはやつぱり不幸な人だつた。
双之介さん、つと立つて何か持つてきた、ウェストミンスターだ、一本いただいてブルの煙をくゆらす、乞食坊主と
土耳古煙草とは調和しませんね。
日本百景九十九島、うつくしいといふ外ない。
田平から平戸へ、山も海も街もうつくしい、ちんまりとまとまつてソツがない、典型的日本風景の一つだらう。
テント伝導の太鼓が街を鳴らしてゆくのもふさはしい、お城の練垣が白く光つてゐる、-物みなうつくしいと感じた
-すつかり好きになつてしまつた。
- 166 当地は爆弾三勇士の一人、作江伍長の出生地である、昨日本葬がはなばなしく執行されたといふ。-略此宿はしづかでよろしい、お客といつては私一人だ、一室一灯一鉢一人だ-宿に対してはお気の毒だけれど-。-略※表題句の外、2 句を記す
Photo/名勝九十九島の風景と、夕映えの眺め
Photo/平戸の対岸にある、田平の天主堂とその傍らの墓地
20100701
さくらが咲いて旅人である
―表象の森― 土門拳の鬼
いい写真というものは、写したのではなくて、写ったのである。計算を踏み外した時にだけ、そういういい写真が出
来る。僕はそれを、鬼が手伝った写真といっている。-「肖像写真について」1953 年ぼくは心のふるさとへ帰るように、日本の古典、弘仁彫刻と文楽人形浄瑠璃の撮影に没頭した。昭和 16-1941-年 12
月 8 日、対米宣戦布告の号外を見たのも、大阪四ツ橋の文楽座の楽屋だった。留守宅に赤紙が来てやしないかと、い
つもあやぶみながら、空きっ腹をかかえて、寺から寺への旅をつづけていた。-「古寺巡礼」1963 年報道写真家としてのぼくも、今日ただ今のアクチュアリティのある問題と取組んで、現場の目撃者として火柱の立つ
ような告発なり、発言なりを行いたい。-「デモ取材と古寺巡礼」1968 年死も生も絶対なのは、それが事実であるからだ。運命というようなメタフィジカルな思考を離れてむ゜、それは事実
そのものとしての絶対性において、人間の全存在を決定している。それは、死か生かというような決定的な瞬間を定
着するだけでなく、日常茶飯のすべてをも、その連鎖の上に成立させている。-「死ぬことと生きること」1974 年ぼくに対する憎悪と反発、それはとうてい長い時間そのままではいられない爆発寸前の状態だった。ぼくは梅原さん
の全身から、殺気に似たものを感じた。何よりも、ガバッと起ち上がって、カメラほけとばしはしまいかと、と恐れ
た。ぼくは、咄嗟のり間にもカメラを引抱えてうしろー退けるよう、油断なく気を配りながら、シャッターを切った。
そして、もはやこれまでと思い、「有難うございました」と、お辞儀した。
梅原さんは、むっくり起ち上がった。籐椅子を両手で一杯に持ち上げた。そして、「ウン」と気合もろとも、アトリ
エの床へ叩きつけた。すさまじい音だった。一瞬しーんとした。
-「風貌」1953 年、玄関払いを食わせるような手強い相手ほど、かえっていい写真が撮れる、という土門と、写真嫌
いで知られた梅原龍三郎の、火花が散るような対決のエピソードである。―山頭火の一句― 行乞記再び -89
3 月 30 日、晴、宿酔気味で滞在休養。
旅なればこそ、独身なればこそである、ありがたくもあり、ありがたくもない。-略昨夜は酔うたけれど脱線しなかつた、脱線料がないからでもあつたらうが、多少心得がよくなつたからでもあらう、
-略同宿の老人がいろいろしんせつに宿の事や道筋の事を教へて下さつた、しつかりした、おちついた品のよう老人だつ
た、何のバイ-商売-か知らないが、よい人が落ちぶれたのだらう。
私はさつぱりと過去から脱却しなければならない、さうするには過去を清算しなければならない、私は否でも応でも
自己清算に迫られてゐる。
- 167 ※表題句の外、2 句を記す
Photo/相浦富士とも称される愛宕山と相浦川河口付近
Photo/黒島天主堂で名高い九十九島最大の黒島へは、相浦港からフェリーで渡る
20100630
物乞ふとシクラメンのうつくしいこと
―表象の森― いまさらこの年齢で‥
今年上半期は石川九楊の書史論に明け暮れた感だが、
このところは、PC トラブルも影響しているが、それよりも近年にない不快きわまる蒸し暑さがきわだつ梅雨空の下
で、根と集中力の要る本格派読書はぐんと低調、iPad 相手に「青空文庫」の諸本を-こちらは一編々々ごく短いとい
う所為もあるのだが-、気楽に読むなど、のんびりと取り組めるものにならざるをえない。
そんなのんびりペースのなかで軸に据えてみたいと思っているのが「数学ガール」シリーズ、いまさらこの年齢で、
半世紀も前に眠りこけてしまったままの「数学センス」がいささかなりとも目覚めてくれれば、と半ば期待しつつ、
そんなのもう無理にきまってるさ、と半ば諦めつ、ぼちぼち繙いてゆこうか、と。
―今月の購入本―
・結城浩「数学ガール」ソフトバンク・クリエイティブ
’02 年から著者の Web で綴られてきた「数学ガール」が、若い読者らの評判と熱い支持で出版されたのが’07 年、以
後、’08「数学ガール-フエルマーの最終定理」、’09「々-ゲーデルの不完全性定理」と続刊され、初巻の「数学ガー
ル」はすでに初版 15 刷となるベストセラー。近くは電子書籍化もされ話題になっている。ネタの多くは「コンピユ
ータの数学」-R.L.グレアム、O.パタシュニク、D.E.クヌース-に依っているとされるが、ともあれコンピュータ科学の
世界で必要とされる数学的センスが身につくこと請合いと好評。
・保阪正康「昭和史の深層」平凡社新書
「昭和史を語り継ぐ会」を主宰するという著者は、その収集した膨大な資料・記録を「昭和史講座」に集約しようと
壮大な計画を試みている。本書は副題に「15 の争点から読み解く」とあるように、太平洋戦争、東京裁判、南京事
件、慰安婦問題、強制連行、沖縄戦、昭和天皇 etc.‥各章表題を掲げ、客観的に史実を整理しつつ問題の本質を絞り
込んでいく。
・前田耕作「玄奘三蔵、シルクロードを行く」岩波新書
仏法を求めてシルクロードを踏破、遥かにインドまで旅をした玄奘三蔵、それは文字通り命がけの冒険であった。じ
じつ彼以来、誰一人として同じ道を通ったことはなく、部分的なルートでさえ未だに踏査されていない箇所がいくつ
も残されているという。本書は、文化史の立場からも検討が行われ、玄奘の残した「大唐西域記」は、もはや単なる
古代の旅行記にとどまらず、その正確無比な記述は考古学の手がかりになり、また人類学の貴重な記録としても精彩
を放つ。
―図書館からの借本―
別冊太陽「宮本常一-『忘れられた日本人』を訪ねて」
々 「土門拳-鬼が撮った日本」
々 「長谷川等伯-桃山画壇の変革者」
―山頭火の一句― 行乞記再び -88
- 168 3 月 29 日、からりと晴れてゐる、まだ腹具合はよくないが、いよいよ出立した、停滞する勿れ、行程 3 里、相ノ浦、
川添屋
恋塚といふ姓、夫婦株式会社といふ看板、町内規約に依り押売・物貰・寄附一切御断りといふ赤札。
今晩は飲みすぎた、地球が急速度で回転した、私自身も急速度で回転した、一切が笑つた、踊つた、歌つた、そして
生滅してしまつた!-此貨幣換算価値 55 銭酔ひざめの夢を見た、息づまるほど悲しい夢だつた、ああ生れたものは死ぬる、形あるものはくづれる、逢へば別れ
なければならない、-しかし、ああ、しかしそれは悲しいことである。
※句作は表題句のみ
佐世保市内には旧石器終末期頃の洞窟遺跡が計 25 箇所あるという。松浦西九州線を佐世保駅から 5km 余り北へ行く
と泉専福寺駅があり、その駅近くには 12000~3000 年前といわれる世界最古級の豆粒文-とうりゅうもん-土器が出土
した泉福寺洞窟がある。
Photo/泉福寺洞窟と、復元された豆粒文土器
佐世保市相浦町は、その泉専福寺駅から西へ 8km ほど歩いたあたりの港町。
Photo/相浦の港
20100626
寒い夜の御灯またゝく
―日々余話― いつものように、いつもの宴が‥
例年の決まりごとになったかのように、市岡 OB 美術展打上の懇親会、一年ぶりの酒宴は、いつもの場所でいつもの
ように、懐かしくもありまた馴れあいからくる些か気重さの匂いも残すといった感がある。
喜寿を迎えた梶野さん-旧師-の記念講義(?)は、レジメも配られるほどにずいぶんと心の準備はあったろうに、やは
りいざとなるとお馴染みのカジノ流に終始する。ならばもう少し時間を短くして、焦点の定まった一滴を示して欲し
かったが‥。
この十年余、外観はなにごとも変わった様子をみせてはいないが、ただ年経りきたったばかりではない内からの変容
が感じられてならないのは、私だけではないだろう。
梅雨だから、あたりまえだといえばそうなのだろうけれど、それにしてもよく降りつづく‥、この鬱陶しさは、ちょ
っと堪らないものがある。
―山頭火の一句― 行乞記再び -87
3 月 28 日、曇后晴、病痾やや怠る、宿は同前、滞在。
午近くまで寝てゐたが、行乞坊主が行乞しないのは一種の堕落だと考へて、3 時間ばかり市街行乞、今日一日の生存
費だけ頂戴した、勿体ないことである、壮健な男一匹が朝から晩まで働き通して 80 銭くらいしか与へられないでは
ないか-日雇人足-、私は仏陀の慈蔭、衆生の恩恵に感謝せずにはゐられないのである-これを具体的にいへば袈裟のお
かげである-。-略行乞中、いただかなければならない 1 銭をいただかなかった、そしていただいてはならない 50 銭をいただかなかつ
た-行乞相はよかつたのである、与へられるだけ、与へられるままに受けるべき行乞でなければならない、行乞はほ
んたうにむづかしいと思ふ。
ここには滞在しすぎた、シケたためでもある、病んだためでもある、しかしだらしなかつたためでもある、明朝は是
非出立しよう。
夜に入つてからまた雨となつた、風さへ加はつた、雨は悪くないけれど、風には困る。雨は心身を内に籠らせる、風
は心身を外に向はしめる、風は法衣を吹きまくるやうに、私自身をも吹きまくる、旅人に風はあまりに淋しい。-略-
- 169 ※句作なし、表題句は 3 月 20 日記載の句
Photo/さるくシティ 4○3 のアーケード街
佐世保市の中心街を国道 35 号線に並行して伸びる全長 960m のアーケード街は、戦前から本通り沿に発展した三ヶ
町商店街と四ヶ町商店街を接続一体化したもので、1997-H9-年には中間点の佐世保玉屋を含め「さるくシティ 4○3」
と総称するようになった。「さるく」とは地元の方言で<歩き回る><散歩する>の意味、「4○」3 の 4 と 3 はそれぞ
れ四ヶ町と三ヶ町を、○は玉屋を表わす、という。
20100624
よろこびの旗をふる背なの児もふる
―日々余話― iPad の青空文庫
iPad で読む青空文庫、そのアプリ「i 文庫 HD」600 円也を download してみる。成程これはスグレモノだと思う。
すでに著作権が消滅した明治から昭和初期の文芸作品が大部分を占めるが、現在、収録作品は 9000 に余るという。
そのすべてをダウロードしたとしても 130MB ほどにすぎないというから、動画などに比べればわずかなものだ。
それらを現に本のページをめくるように読めるこのすぐれたデザイン環境で享受できるとなれば、話題にもなろうと
いうものだ。
早速、山頭火の著作をすべて download してみた。
「砕けた瓦」-或る男の手帳から私は此頃自ら省みて「私は砕けた瓦だ」としみじみ感ぜざるをえないようになった。私は瓦であった、脆い瓦であ
つた、自分から転げ落ちて砕けてしまう河原であったのだ。
玉砕ということがあるが、私は瓦砕だ。それも他から砕かれたのではなくて、自から砕いてしまったのだ。見よ、
砕けて散った破片が白日に曝されてべそを掻いている。
既に砕けた瓦は粉々に砕かれなければならない。木端微塵砕け尽されなければならない。砕けた瓦が更に堅い瓦と
なるためには、一切の色彩を剥がれ、有らゆる外殻を破って、以前の粘土に帰らなければならない。そして他の新し
い粘土が加えられなければならない。
家庭は牢獄だ、とは思わないが、家庭は沙漠である、と思わざるをえない。
親は子の心を理解しない、子は親の心を理解しない。夫は妻を、妻は夫を理解しない。兄は弟を、弟は兄を、そし
て姉は妹を、妹は姉を理解しない。―理解していない親と子と夫と妻と兄弟と姉妹とが、同じ釜の飯を食い、同じ屋
根の下に睡っているのだ。
彼等は理解しようと努めずして、理解することを恐れている。理解は多くの場合に於て、融合を生まずして離反を
生むからだ。反き離れんとする心を骨肉によって結んだ集団! そこには邪推と不安と寂寥とがあるばかりだ。
Evreryman sings his own song and follows lonely path.-お前はお前の歌をうとうてお前の道を歩め、私は私の歌
をうとうて私の道を歩むばかりだ。驢馬は驢馬の足を曳きずって、驢馬の鳴声を鳴くより外はない。
私達は別れなければならなくなったことを悲しむ前に、理解なくして結んでいるよりも、理解して離れることの幸福
を考えなければならない。
男には涙なき悲哀がある、女には悲哀なき涙がある。
自殺は一の悲しき遊技である。
- 170 溢れて成った物は尊い、絞って作った物は愛せざるをえない、偽って拵えた物は捨ててしまえ。
人生はミラクル-奇蹟-ではない、ローカス-軌跡-である。
真実は慈悲深くあり同時に残忍である。神に真実があるように悪魔にも亦真実がある。
苦痛は人生を具象化する。
酔わないうちに胃が酒で一杯になった、ということは悲しい事実である。
-荻原井泉水主宰の「層雲」-大正 3 年 9 月号-に所収された山頭火の短編寄稿文の抜粋である。
山頭火年譜によれば、大正 3 年といえば数えの 33 歳、若旦那として家業の種田酒造場の経営に携わりつつ、前年の
初めより井泉水に師事して「層雲」に投句しはじめ、俳号に山頭火を用いるようになっていた。また彼の住んでいた
防府で俳句・短歌の同人椋鳥会を主宰もしていた。
―山頭火の一句― 行乞記再び -86
3 月 27 日、曇、終日臥床。
とうとう寝ついてしまつたのだ、実は一昨夜つい飲んだ焼酎が悪かつたらしい、そして昨日は食べた豆腐があたつた
らしい、夜中腹痛で苦しみつづけた、今日は反省と精進とを齋らす。
旅で一人で病むのは罰と思ふ外ない。
病めば必ず死を考える、かういふ風にしてかういふ所で死んでは困ると思ふ、自他共に迷惑するばかりだから。
死! 冷たいものがスーツと身体を貫いた、寂しいやうな、恐ろしいやうな、何ともいへない冷たいものだ。
今日はさすがの私も飲まなかつた-飲んだのはアルコールでなくて水ばかりだつた-、飲みたくもなく、また飲めもし
なかつた。早く嬉野温泉に落ちつきたい、そして最少限度の要求に於て、最少範囲の情実に於て余生を送りたい
※表題句のみ記載、旗行列と註記あり
Photo/佐世保駅のすぐ近くに聳え立つカトリック三浦町教会
三浦町教会の前身は現市役所に近い谷郷町に明治 30-1897-年に建てられた。その後、昭和 6-1931-年には現在地へと
建替えられることになり、同年 10 月竣工したというから、この真新しい荘厳たる偉容に接して山頭火はなにを思っ
たか‥。
20100621
をとことをんなとその影も踊る
―山頭火の一句― 行乞記再び -85
3 月 26 日、晴、いよいよ正真正銘の春だ、宿は同前。
いやいやながら午前中行乞-そのくせ行乞相はよろしいのだが-、そし留置郵便をうけとる、緑平老からのたよりはし
んじつ春のおとづれだつた、うれしくてかなしうなつた。
一風呂浴びて、一杯ひつかけて、そして一服やるのは何ともいへない、まさに現世極楽だ、極楽は東西南北、湯坪に
あり、酒樽にあり、煙管にありだ!
空に飛行機、海に船、街は旗と人とでいっぱいだ。
午後は風が出てまた孤独の旅人をさびしがらせた。
季節は歩くによろしく乞ふにものうい頃となつた。
行乞流転に始終なく前後なし、ちぢめれば一歩となり、のばせば八万四千歩となる、万里一条鉄。
方々へハガキをとばせる、とんでゆけ、そしてとんでこい、そのカヘシが、なつかしい友の言葉が、温情かよ。
- 171 -略- 夕食後、佐世保会館を訊ねて行く、-略-、会館は堂々たる建物だつた、ホールも気持がよかつた、支那事変傷痍
軍人後援会主催、全国同盟新聞社、森永製菓株式会社後援、映画と講演の夕といふのである、ざつくばらんにいへば、
後援と商売とを一挙両得しようといふ愛国運動である、I 大佐の講演では少しばかり教へられた、軍事映画では大に
考へさせられた、「日本人が一番日本人を知らない」といふ言葉は穿つていると思つた。
※この日句作なし、表題句は 3 月 24 日付記載
佐世保の街は、明治になってからの海軍の軍港として建設が始まった当時は、人口 1000 人余りの寒村にすぎなかっ
た。明治 22-1889-年の鎮守府設置以後、急速に海軍施設と街の整備が進められ、同 35-1902-年には村から一足飛び
に市制を施行したほどに、九州でも五指に入る大都市に発展し、大正 9-1920-年には九州初の百貨店となる「デパー
ト田中丸呉服店-現在の佐世保玉屋-」が栄町に鉄筋 4 階建で開業するほどに繁栄していった。
この年-昭和 7 年-の 5 月 25 日、日本人初の国際的オペラ歌手として活躍していた三浦環の「蝶々夫人」公演が佐世
保会館で昼夜 2 回行われており、この折の木戸銭は 1 円 50 銭という高額なものだったという。
3 年後の昭和 10-1926-年 3 月 16 日、この佐世保会館において火災事件が起こつている。この日映画鑑賞会が開かれ
ていたのだが、フイルム引火による火災発生で、観客だった小学生 40 名余りが死傷したというもの。
Photo/夜の佐世保川と灯籠流し
Photo/佐世保川と佐世保公園
20100620
ヒヨコ孵るより売られてしまつた
―表象の森― 市岡高校 OB 美術展はじまる
恒例のとはいえ、会場の都合からか、昨年の 5 月から、今年は 6 月へとひと月ずれ込んで、2010 市岡高校 OB 美術
展は今日から一週間、例年のように西天満の現代画廊ではじまった。
今年の作品の寄り具合は、また出来具合はどんなものか、まだ私はなにも観ていないし、知らないのだから語るすべ
もないのだが、最終日の 26 日、土曜の午後には、これまた恒例の、関係者一同に会しての懇親会もあることだから、
その折りまで鑑賞の愉しみはとっておこう。
―山頭火の一句― 行乞記再び -84
3 月 25 日、晴、夜来の雨はどこへやら、いや道路のぬかるみへ!
今日も行乞しなければならない、食べなければならないから、飲まなければならないから、死なないから。‥
同宿の活弁の失業人と話し込んでゐるうちにもう 11 時近くになつてしまつた、急いで支度をして出かける、行乞相
はよかつた、所得もよかつた、3 時過ぎ戻つた。
例の塩風呂に浸つてから例の酒店で一杯やる、この店は安い、一合でも二合でも喜んで燗をしてくれる、-略九州西国 27 番清岩寺へ拝登した、なかなかよいところである、堂宇をもつと荘厳したらよからうと口惜しかつた。
夜は万歳大会を観た、どうも此頃どうかしたのかも知れない、見物気分がいやに濃厚になつてゐる、が、とにかく愉
快だつた、人間は何も考へないで馬鹿笑ひする必要がある、時々はね。
※表題句のみ記す
佐世保市内の街中にある九州西国 27 番札所の福石山清岩寺は俗に福石観音と称される。JR 九州の佐世保線に沿った
市街地の一角だというのに、小高くなった岩山に幅 50m/奥行き 7m/高さ 3m ほどもの海食洞の岩室があり、この
中の十一面観世音を本尊としているそうだ。
Photo/福石観音こと清岩寺本殿
Photo/海食洞の岩室に並ぶ五百羅漢たち
- 172 -
20100617
水が濁つて旅人をさびしうする
―世間虚仮― 初期不良につき‥
15 日-火曜-、新 PC 到着、
いろいろ迷った挙げ句、買い求めたのは Eee Box シリーズの新機種 EB1501、Mouse はワイヤレスで動くが、
keyboard のほうは動かない‥、まあ、この程度の初期不良は、ネット情報でも散見されることだから、ありがちな
ことだろうとこちらも驚かない。
まずは、Internet を接続したり、Partition を改変したり、さらには Data の入った外付 Harddisc を接続、File の配
列などを整える。
そんなこんなにずいぶん時間をかけて、やっと周辺整備完了、さあ、手持ちの Application Soft を Instal しようとす
るが、DVD ドライブ殿が起動はすれどもいっかな読み取りしてくれない、暫時空回りしては、呑み込んだ CD を吐
き出してござる、アプリの CD をいくつか取り替えてみるが同じことを繰り返すばかり‥。
こりゃ、魂消た、よりにもよって DVD ドライブまでが初期不良かい、こっちは徹夜同然でここまでこぎつけたって
いうのに、この始末とはそりゃないだろうぜ、こいつあしくじった、一等初めに check すべきだった、と後悔する
もあとのまつり‥。
すぐにも発売元のコールセンターへ TEL、曰く、修理ないし部品交換して戻ってくるまでに十日はみてくれ、と悪び
れた様子もないのには呆れかえるばかりだが、いかんとも仕方がない、とこれが昨日のこと。
今日の午前、手配された宅配業者に引き渡したが、さて、無事にご帰還なされるは一週間後か、はたまた二週間後か
‥。
そんなこんなで、この記事を up しているのは、少々作業効率の悪い、予備の古い PC、いささか疲れます。
―山頭火の一句― 行乞記再び -83
3 月 24 日、晴、春風が吹く
9 時から 3 時まで市内行乞、行乞相は悪くなかつたが所得はよくなかつた。
此宿もうるさい、早く平戸から五島へ渡らうと思ふ、それにしても旅はさみしいな、行乞もつらいね。
塩湯にゆつくり浸つてから二三杯かたむける、ありがたい。
近来、気が滅入つてしようがないので、夜はレビューを観た。
花はうつくしい、踊り子はうつくしい、ああいふものを観てゐると煩悩即菩提を感じる。
蛙の踊、鷲の踊、さくら踊などが印象として残つた。
※表題句の外、2 句を記載
Photo/佐世保の中心街から佐世保湾を望む
Photo/佐世保市八幡町にある亀山八幡宮
Photo/亀山八幡境内に立ち並ぶ屋台
20100614
骨となつてかへつたかサクラさく
―表象の森― 日本語とはどういう言語か-06・漢語、漢詩、漢文と和語、和歌、和文-二併の平安日本語
平安時代中期は、歌合、詩合、詩歌合、絵合、貝合、さらに和漢朗詠集などの「合-あわせ-」の時代であった。
- 173 「合」とは、漢字を媒介として漢語-音語-と和語-訓語-を合わせる二併性の象徴である。漢語と和語、つまり音と訓を
背中併せに貼りつけた漢字=日本文字-女手の書きぶりを忍び込ませ、もはや漢字とは思えぬ軟性の姿で現れた漢字と漢字・漢語の中に収めきれない意識の結晶、露岩体である女手、さらには漢詩、漢文を日本語として開く文字であ
る片仮名の三種類の文字が生まれ、二重複線言語たる日本語が姿を現した。
平仮名-女手-は、片仮名やハングルとは異なり、漢語からはみ出す部分を定着せんとする文字-これは片仮名で足りる
-ではなく、それ自体が語をなし、詩文をつくらんとする自立的指向性をもった野心的な文字である。それゆえ日本
には二つの仮名文字があり、平仮名は、語をなさんとして連続する姿をとどめている。つまり漢文、漢詩、漢語とは
異なるもう一つの文と詩と語をつくらんとするところに、片仮名やハングルとは異なった女手-平仮名-の特異な性格
がある。訓文、訓詩、訓語をつくらんとしたところが女手成立の意味である。誤解なきよう触れておけば、訓はむろ
んあくまで裏側にある漢字-音-を前提として存在している。
この女手その名称から女性の意識の表出の文と詩と語をもたらし、性愛-エロス-の文学と、四季賛美の歌と、女手の
延長線上に派生的に生まれた仮名文字葦手に象徴されるところの、絵画的具象に関わる言語の豊穣という日本語の特
質を生むことになったのである。
-石川九楊「日本語とはどういう言語か」より
/伝藤原公任「葦手古今集切」-11 世紀中 頃―山頭火の一句― 行乞記再び -82
3 月 23 日、雨后曇、休養、漫歩、宿は同前
小降りになったので、頭に利休帽、足に地下足袋、尻端折懐手の珍妙な扮装で、市内見物に出かける、どこも水兵さ
んの姿でいつぱいだ、港の風景はおもしろい。
プロレタリアホールと大書した食堂もあれば、簡易ホテルの看板を出した木賃宿もある、一杯5銭の濁酒があるから、
チョンの間 50 銭の人肉もあるだらう!
安煙草はいつも売切れだ、口付は朝日かみのり、刻はさつき以上、バツトは無論ない、チエリーかホープだ。
塩湯へ行つた、よかつた、4 銭は安い、昨日の普通湯 4 銭は高いと思つたが。
佐世保の道路は悪い、どろどろしてゐる-雨後は-、まるで泥海だ、これも港町の一要素かも知れない。
同宿は佐商入学試験を受ける青年二人、タケ-尺八吹-、そして競馬やさん、この競馬は面白い、玩具の馬を走らせる
のである、むろん品物が賭けてある、1 銭 2 銭の馬券で 1 銭から 10 銭までの品を渡すのである。
※表題句のみ記す、佐世保駅凱旋日と註がある
Photo/佐世保市内中心部の四ケ町商店街入口
Photo/佐世保市内を完全武装で行進する、戦前の水兵さんならぬ、西部方面普通科連隊-有事即応の対テロ特殊部隊
の隊員
20100613
ゆつくり湯に浸り沈丁花
―世間虚仮― PC 寿命はどんどん短く‥
昨日は一日中、PC 不調に振り回された。
数日前から、突然止まったりとトラブルは続いていたのだが、電源を入れても、空回りのごとく running すれど、一
向に起動しなくなってしまった。何度試してもごの仕儀でお手上げ、まだ 1 年半だというのにだ。
Gateway の FX7028i、写真と同じもので発売は 08 年 3 月だから、とくに型落ちでもないのにこのありさまはなん
とも情けない。
- 174 メーカー・サポートに電話をしてみたが、保証期間 1 年を過ぎているので承れない、修理をするにせよ、まず新たに
サポート申請をして料金の振込を確認できてから、サポートに応じますと宣うのにはアタマにきた。
そんな手間隙をかけて、修理に何万といわれてもあとの祭り、すぐに 2 週間や、悪くすればひと月以上もかかるだろ
うことは眼に見えている。
こいつはおシャカにするしかないと諦めたが、それからが大変、とにかく積もりに積もったデータだけは無事に避難
させなければならない。桿体を開けてハードディスクを取り出す。もう一つの ASUS の Eee Box があるので、一時し
のぎとはいえ、此方で使えるように配備する。Eee Box にはアプリケーション・ソフトが少ないから、最低限のもの
にしぼってインストールするとかなんとか‥、まったくかかりっきりの一日。
たしか、Dell は 4 年以上もった。次の Mouse はちょうど 2 年だった。そしてこの Gateway は 1 年と 6 ヶ月の寿命
とは、人間の寿命はずいぶんと伸びて、私もまだ 10 年やそこらは PC を相手に時間潰し-?-をしているだろうに、PC
寿命がこんなに短くなっているのなら、これは機種選びも含めてよくよく考え直さなければならないのじゃないか、
などと思案に暮れる始末だ。
―山頭火の一句― 行乞記再び -81
3 月 22 日、曇、暖か、早岐町行乞、佐世保市、末広屋
たしかに春だ、花曇と感じた。
行乞相がよくない、よくない筈だ、身心がよくないのだ。
佐世保はさすがに繁華街だ、なかなか賑やかだ、殊に艦隊が凱旋してきたので、町は水兵さんでいつぱい、水兵さん
大持てである。
留置郵便落手、緑平老、俊和尚、苦味生君、いつもあたたかい人々である。
夕食後、市街を観て歩く、食べもの店の多いのと、その安いのに驚く、軍港街の色と音とがそこにもあつた。
いっぱいひつかけて寝る、新酒 1 合 6 銭、ぬた一皿 2 銭!
※句作なし、表題句は 3 月 20 日記載
今も昔も佐世保の港は軍港であるが、地図を見ると一目瞭然、米軍基地が港の中央部を広く陣取り、周辺にはその関
連施設と海上自衛隊の施設がひしめく。
Photo/弓張岳展望台から望む佐世保港
Photo/同じ弓張岳から眺めた佐世保港夜景
Photo/’07 年 2 月 24 日、佐世保に入港する原子力空母ロナルド・レーガン
Photo/佐世保基地の 35 番錨地付近に停泊するロナルド・レーガン
20100611
ふるさとは遠くして木の芽
―日々余話― 84 歳、なお矍鑠たり
昨日、大阪地裁に行った折、裁判所の地下 1 階で、偶然にもばったりと大和田幸治さんと出会した。もう何年もお見
かけしてなかったので、つい声をかけて立ち話に及んだが、どうやら連合大阪を相手取って訴訟を起こしている要宏
輝氏の公判に来ていたらしい。
失礼千万なことだが、あらためて歳を確認させてもらって驚いた。昭和 2 年生れというから、誕生日がくれば 84 歳
になられるのに、いまなお全金港合同の事務局長や田中機械支部の執行委員長の職をまっとうしておられる。この闘
志の人には引退の二文字は眼中にないのだろう、よしんば病に倒れるようなことがあっても、象徴的なまでの圧倒的
な存在の大和田幸治その人を、周囲の人々は到底現職から外せないのではないかとさえ思われる。
- 175 私が大和田幸治の存在に触れたのは、関西芸術座の創作劇「手のひらの詩」の、劇中の主人公モデルとしてであり、
田中機械の労働組合のなかで、社外工の本工化・女性差別賃金撤廃など、先進的な労働条件改善を実現していく運動
を描いたものであった。1970 年のことで、この時の演出は道井直次氏、脚本は柴崎卓三氏だ。
そして時が流れて、劇中のではなく現実の大和田幸治本人とまみえたのは 88 年になってからのことだと思うが、こ
の折の印象は、眼光人を射るがごとくの強い眼差しに、まことに鮮烈なものがあり、脳裏に描いてきた想像の人物像
が、眼前の人物と見事に重なり合ったような気がしたものだった。
その大和田さんが関与しているらしい要宏輝氏の連合大阪訴訟がどんなものか、ネットで調べてみた。
要宏輝自身が立ち上げている Web サイトがあり、訴訟等についても詳細な報告がある。
これによれば、大阪地裁では、昨日-6/10-の午前 10 時から午後 4 時まで、被告側 2 名と、原告-要氏-側 1 名の証人
尋問があり、大和田さんはその原告側証人として法廷に立っていたことになるのだ。
http://kaname.news.coocan.jp/
―山頭火の一句― 行乞記再び -803 月 21 日、晴、彼岸の中日、即ち春季皇霊祭、晴れて風が吹いて、この孤独の旅人をさぴしがらせた、行程 8 里、
早岐の太田屋といふ木賃宿へ泊る
少しばかり行乞したが、どうしても行乞気分になれなかつた、嬉野温泉で休みすぎたためか、俊和尚、元寛君の厚意
が懐中にあるためか、いやいや風が吹いたためだ。
夕方、一文なしのルンペンが来て酒を飲みかけて追つ払はれた、人事じやない、いろいろ考えさせられた、彼は横着
だから憎むべく憐れむべしである、私はつつましくしてはゐるけれど、友情にあまり恵まれてゐる、友人の厚意に甘
えすぎてゐる。
※表題句の外、句作なし
山頭火はこの日、嬉野から県境を越えて長崎県の波佐見町を通り抜け、現在の佐世保市三河内へと入り鉄路に沿って
早岐へと歩いたか。
Photo/早岐-はいき-の町から見た佐世保市
Photo/現在では早岐駅のすぐ隣駅がハウステンボスだ。
20100610
湯壺から桜ふくらんだ
―世間虚仮― 50 円コピー、早々とダンピング
今朝、司法協会から電話あり、判決等の法廷資料の謄写が出来ました、と。
大阪地裁へと到着したのは、ちょうど昼休みどきだったが、さっそく地下一階の司法協会窓口へ。
先月の中旬頃だったか、前回の場合は、証拠資料などが入っていて、ずいぶん分厚いもので、5000 円余りを請求さ
れたが、今回はわずか A4 版 14 枚のみで、490 円也という。
まてよ、ということは、一枚 35 円ではないか。
行政刷新会議の事業仕分の最終日-5/25-に、コピー代 50 円は高額すぎると槍玉に挙がって、いたく話題になった司
法協会の事業である。これが早々と 50 円から 35 円へと、大幅ダンピングをなさったという訳か。
なんともはや、手回しのよいことで、こいつはオドロイタ。
だけど、大部とはいっても 100 頁もある筈のない前回のコピー代に 5000 円も請求なされたのは、どうしてなのかな
あ? まったく利用者には得体の知れぬ伏魔殿のようなものだネ、公益法人てやつは。
―山頭火の一句― 行乞記再び -79-
- 176 3 月 20 日、曇、小雪、また滞在してしまつた、それでよかよか。
老遍路さんと別離の酒を酌む、彼も孤独で酒好き、私も御同様だ、下物は嬉野温泉独特の湯豆腐-温泉の湯で煮るの
である、汁が牛乳のやうになる、あつさりしてゐてうまい-、これがホントウのユドウフだ!
応無所住而生其心 -金剛経
たゝずむなゆくなもどるなゐずはるな
ねるなおきるなしるもしらぬも -沢庵
先日来の句を思ひだして書いておかう。
※表題句の外、2 句を記す
Photo/嬉野川沿にある桜並木の遊歩道
Photo/嬉野川上流約 1 ㎞あたりにある轟滝
20100609
さみしい湯があふれる
―表象の森―言の葉/宮本常一
「日本人にとっての未来は子供であった。自らの志がおこなえなければ、子供にこれを具現してもらおうとする意 欲
があった。子供たちにも、またけなげな心構えと努力があった。」/日本の子供たち-1957「歩きはじめると歩けるところまで歩いた。そうした旅には知人のいることは少ない。だから旅に出て最初によい人
に出会うまでは全く心が重い。しかし一日も歩いているときつとよい人に出会う。そしてその人の家に泊めてもらう。
その人によって次にゆくべきところがきまる。」/民俗学の旅-1978「日本の村々をあるいて見ると、意外なほどその若い時代に、奔放な旅をした経験を持った者が多い。村人たちはあ
れは世間師だといっている。
明治から大正、昭和の前半にいたる間、どの村にもこのような世間師が少なからずいた。それが、村を新しくしてい
くためのささやかな方向づけをしたことは見のがせない。いずれも自ら進んでそういう役を買って出る。政府や学校
が指導したものではなかった。」/忘れられた日本人-1960―山頭火の一句― 行乞記再び -783 月 19 日、お彼岸日和、うららかなことである、滞在。
今朝は出立するつもりだつたが、遊べる時に遊べる処で遊ぶつもりで、湯に入つたり、酒を飲んだり、歩いたり話し
たり。
夢を見た、父の夢、弟の夢、そして敗残没落の夢である、寂しいとも悲しいとも何ともいへない夢だ。
終日、主人及老遍路さんと話す、日本一たつしやな爺さんの話、生きた魚をたたき殺す話などは、人間性の実話的表
現として興味が深かつた。
元寛君からの手紙を受取る、ありがたかつた、同時にはづかしかつた。
※句作なし、表題句は前日付記載
Photo/嬉野温泉全景
Photo/温泉名物の湯豆腐
20100607
春が来た旅の法衣を洗ふ
―世間虚仮― Soulful Days-39-予想外、重い判決
自動車運転過失致死傷事件、M 被告の判決が下された。
- 177 「禁固 1 年、執行猶予 3 年」
前回の公判で、検察の求刑は実刑の禁固 1 年というものであったのだが、M に対しもっと軽微な刑を望んでいた被害
者側としては、下された判決は予想外に重いものとなった。
判決主文に付し、補足的に語られた裁判官の説明のなかで、私としては聞き逃しがたい事実関係が語られていた。
それは検察が当初より主張していた、右折しようとしていた被告 M が、直進の T 車に気づいた時点が、事故発生の 2
秒前であり、直後に M が制動動作に入ったものの、この時点では事故の避けようがなかったことを、徐行時速や距
離関係の数値を挙げて詳細に解説したものであったが、この論理構成自体裏返せば、私が検察などで主張してきたよ
うに、ほんとうに 2 秒前の時点で M が直進の T 車に気づいたのであれば、このとき M は制動などせずそのまま右折
行為を遂行しさえしておれば、事故が起こるはずもなかった距離関係なのだという矛盾を孕んだものなのだが、その
ことにはいっさい触れず、事実関係の構成論理としてわざわざ裁判官が言及したことは、前回公判においてドライブ
レコーダーの記録動画が証拠資料として検察から提出され、わざわざこれを TV 画面で検証したことと併せて、裁判
官と検察の両者合同による作為を感じさせずにはおかないものである。
ところで、平成 21 年度犯罪白書によれば、自動車運転致死傷事件-H20 年度総件数 737,396 件-で公判請求されたも
のは、0.9%の 6636 件である。要するに 6600 件余りが起訴され法廷で裁かれた。その判決内容は、6 ヶ月以上 10
年未満の実刑判決が 9.7%、残りの 90.3%が執行猶予判決だが、その内訳は 6 ヶ月未満 0.6%、6 ヶ月以上 1 年未満
22.3%、1 年以上 2 年未満 54.0%、2 年以上 13.4%となっている。
また、飲酒や酒気帯びなどが絡んだ危険運転致死傷事件においては、H20 年総件数 307 件で、内 75.9%の 267 件が
公判請求され、96 件が実刑判決、171 件が執行猶予判決、2 年以上の執行猶予は 267 件中の 60 件、22.5%となって
ており、
これらの統計に照らせば、このたびの M への判決は、その重さにおいて実刑と執行猶予の 2 年以上を足した 23.0%
の範囲内にあり、これは危険運転致死傷事件における 2 年以上の執行猶予件数とほぼ同値となり、危険運転致死傷の
場合でさえ 2 年以下の執行猶予判決が 46%もあるという事実と照らせば、かなり厳しいものと言わざるを得ない。
犯罪事件における、警察の捜査、検察による起訴等の処分、そして裁判所の公判及び判決、これら司法三セットの構
造システムが、被疑者の人権を守りつつも、つねに夥しい数の事案を処理しなければならぬという状況下で、いかに
効率よい処理能力が求められているかを思いやれば、被告自身が根幹の事実関係を争うという訳でもなく、このたび
の私などのように、明々白々の事実でもって異議申立てが出来る訳でもなく、少なくとも彼ら司法サイドから見れば、
いかにも中途半端な事実認定への疑問なんぞで、本来ならたった 1 回の公判であとは判決言渡しとなるケースを、さ
らに余分の公判を煩わせたがために、謂わば見せしめ的に刑が重くせられたのではないか、とそんな下司の勘ぐりも
したくなるような判決ではあった。
―山頭火の一句― 行乞記再び -773 月 15 日、16 日、17 日、18 日、滞在、よい湯よい宿。
朝湯朝酒勿体ないなあ。
余寒のきびしいのには閉口した、湯に入つては床に潜りこんで暮らした。
雪が降つた、忘れ雪といふのださうな。
お彼岸が来た、何となく誰もがのんびりしてきた。-略方々からのたより-留置郵便-を受取つてうれしくもありはづかしくもあつた、味々、雅資、元寛、寥平、緑平、俊
の諸兄から。
緑平老の手紙はありがたすぎ、俊和尚のそれはさびしすぎる、どれもあたたかいだけそれだけひとしほさう感じる。
ここに落ちつくつもりで、緑、俊、元の三君へ手紙をだす、緑平老の返事は私を失望せしめたが、快くその意見に従
ふ、俊和尚の返事は私を満足せしめて、そして反省と精進とを投げつけてくれた。
- 178 とにもかくも歩かう、歩かなければならない。
ここですつかり洗濯した、法衣も身体も、或は心までも。-略※表題句の外、3 句を記す
Photo/10 年前から催されている嬉野温泉の冬の風物詩「うれしのあったかまつり」における灯籠の群れと、面浮立
-メンブリュウ-の踊り
Photo/嬉野茶の歴史は古く、永享 12 年(1440 年)平戸に渡来してきた唐人が不動山皿屋谷に居住して陶器を焼くか
たわら、自家用にお茶を栽培したのがはじまりといわれ、その製法は、日本でも珍しい釜炒り茶製法の流れをくんだ、
蒸製玉緑茶が主流、とか。
嬉野茶の声価は日本的-宇治に次ぐ-、玉露は百年以上の茶園からでないと出来ないさうである、茶は水による、水は
小川の流れがよいとか、茶の甘みは茶そのものから出るのではなくて、茶の樹を蔽ふ藁のしづくがしみこんでゐるか
らだといふ、上等の茶は、ぱつと開いた葉、それも上から二番目位のがよいさうである。
20100606
枯草の長い道がしぐれてきた
―日々余話― 呑むほどに、酔うほどに‥
昨夜の宴、集ったのは一人増えて 7 人となった。
いずれも昭和 19 年生れだが、お互いにとっては初めての人間もいる。いずれの者ともすでに面識あるのは M ひとり
の筈。
日頃、なかなか会えないのだが、それだけに、逢いたい奴と会うというのは、まことに心地よい。
お互いの太い糸、細い糸を手繰り寄せての集いである。これからも各々個別には相見えることはあろうけれど、この
7 人が一堂に会することは、もう二度と起こりえぬのかもしれぬ、そんな予感さえ孕む一夕。
誰かが、想いのありったけを、語り尽くす訳でもない。この年まで歩みきて、いまさらそんな必要はない。それぞれ
に空中戦のように飛び交う言葉の切れ端から、茫としたものながらも立ち上がってくるそいつの全体像といったもの
が仄みえてくる。それでじゅうぶんに堪能、腹が充たされてくるといった感じだ。
愉しかった。
―山頭火の一句― 行乞記再び -763 月 14 日、曇、時々寒い雨が降つた、行程 5 里、また好きな嬉野温泉、筑後屋、おちついた宿だ
此宿の主人は顔役だ、話せる人物である。
友に近状を述べて、-
嬉野はうれしいところです、湯どころ茶どころ、孤独の旅人が草鞋をぬぐによいところです。
私も出来ることなら、こんなところに落ちつきたいと思ひます、云々。
楽湯-遊於湯-何物にも囚へられないで悠々と手足を伸ばした気分。
とにかく、入湯は趣味だ、身心の保養だ。
※句作なし、表題句は 1 月 26 日付の句
Photo/武雄から嬉野へ向かう俵坂峠の番所跡
Photo/俵坂峠にさしかかる嘗ての長崎街道
Photo/嬉野温泉、嬉野川沿いの露天風呂
20100604
ここにおちつき草萌ゆる
- 179 -日々余話- 田の字ばかりの朋輩が‥
富山と石川の県境近く、久利須という山深い地に住む友人が、明日は久しぶりに大阪に出てくるというので、同年の
友らで逢おうじやないか、ということになった。
今のところ男女 6 人の同年の輩が集まるようだが、それにしてもこの顔ぶれ、6 人中 5 人までが「田」のつく苗字で
あることに、いまさら気づいて吃驚してしまった。
日本の苗字は、佐藤と鈴木の二者が他を圧して多いというのは、昔からよく耳にした噺だが、丹羽基二著「日本人の
苗字―三〇万姓の調査から見えたこと」-光文社文庫-によれば、姓にもっともよく使われているのが「田」字、次に
「藤」、以下、山、野、川、木、井、村、本、中、と続いているらしい。
ちなみに、明日の夜、相寄る「田」のつく朋輩たちを、苗字の多い順に並べてみれば、田中-4 位、石田-59 位、上田
-60 位、飯田-124 位、林田-416 位とあいなる。
友が住む富山県小矢部市の久利須村-?―山頭火の一句― 行乞記再び -753 月 13 日、曇、晴れて風が強くなつた、行程 6 里、途中行乞、再び武雄町泊、竹屋といふ新宿
同宿は若い誓願寺さん、感情家らしかつた、法華宗にふさはしいものがあつた。
※表題句は<改作>と註あり、他に句作なし
Photo/武雄町の遠景
Photo/武雄神社の大楠
Photo/大楠の内部には小さな祠が
Photo/武雄温泉の北はずれ、紅葉に染まる廣福寺の山門
20100603
きのふは風けふは雪あすも歩かう
―表象の森― 「平家物語」と慈円の「愚管抄」
源平両氏が交替で覇権を握るという認識は、平安末期の保元・平治の乱にはじまり、治承・寿永の乱にかけて形成され
た歴史認識である。しかし内乱の複雑な過程を単純化し、それを源平交替として図式化してとらえたのは平家物語で
あった。
平家物語の編纂が、比叡山-延暦寺-周辺で行われたこと、とくに天台座主慈円が、その成立になんらかのかたちで関
与したことは、「徒然草」226 段の伝承―後鳥羽院の御時、慈鎮和尚-慈円-の扶持した信濃前司行長が、平家の物語
を作りて、云々とする伝承-からもうかがえ、また、平家物語が延暦寺の動向に詳しいこと、慈円の「愚管抄」との
密接な本文関係が指摘されること、からも傍証される。
「愚管抄」が書かれたのは、承久の乱-1221 年-の前年、後鳥羽院と鎌倉幕府の関係が、修復不可能なまでに悪化して
いた時期である。そのような時期に、幕府を敵対的な存在としてではなく、むしろ「君の御まもり」として位置づけ
る慈円の史論とは、現実の危機を歴史叙述のレベルで克服する企てだったろう。
慈円の「愚管抄」によって意味づけられ、平家物語の語りものとしての広汎な享受によって流布・浸透してゆく源平
交替の物語とは、要するに、源平両氏を「朝家のかため」「まもり」として位置づける論理であった。いいかえれば
それは、武家政権を天皇制に組み入れる論理である。
王朝国家が、武家政権に対して最終的に発明した神話だが、しかしそのような源平交替の物語が、源氏三代のあと、
北条氏が桓武平氏を称したことで、以後の歴史の推移さえ規定してゆくことになる。
- 180 たとえば、鎌倉末期に起こった反北条-反平氏-の全国的な内乱が、あれほど急速に足利・新田-ともに源氏嫡流家-の傘
下に糾合されたこともまた北条氏滅亡ののち、内乱が公家一統政治として落着することなくただちに足利・新田の覇
権抗争へ展開した事実をみても、源平交替の物語が、いかに当時の武士たちの動向を左右していたかがうかがえる。
内乱が社会的・経済的要因から引きおこされたとしても、それは政治レベルでは、ある一定のフィクションの枠組み
のなかで推移したのである。そしてそのような物語的な現実に媒介されるかたちで、太平記はさらに強固な源平交替
の物語をつくりだしてゆく。
-兵藤浩己「太平記<よみ>の可能性」より
―山頭火の一句― 行乞記再び -743 月 12 日、また雨、ほんに世間師泣かせの雨だ、滞在。
札所清水山へ拝登、山もよく滝もよかった-珠簾庵-、建物と坊主とはよくなかつたが。
終日与太話、うるさくて何も出来ない、私も詮方なしに仲間入して暮らす。
名物小城羊羹、頗る美人のおかみさんの店があつて、羊羹よりいゝさうな!
※句作なし、表題句は 2 月 26 日付の句
Photo/俗に清水観音と呼ばれる九州西国第 22 番札所清水山宝池院
Photo/別名珠簾の滝とも呼ばれる名水 100 選の清水の滝
20100601
四ツ手網さむざむと引きあげてある
―表象の森― 桃中軒雲右衛門と宮崎滔天
幕末の浪人生活のあげくに、上州高崎で門付けのデロレン祭文の芸人となった吉川繁吉という人物がいた。
繁吉の次男幸蔵は、父の家業を継いで二代目吉川繁吉を襲名するが、まもなく新興の浪花節に転向して、桃中軒雲右
衛門を名告るようになる。
師匠三河屋梅車の妻と駆落ちして関西へ逃避行をするなど、とかく不行跡の噂の絶えない雲右衛門だったが、明治
35-1902-年に支那革命家の宮崎滔天と出会い、滔天のたっての頼みで、彼を一座の弟子に迎え入れる。
「窮民革命」を唱えて日本各地や大陸の満州を放浪していた滔天は、その思想宣伝の手段として浪花節を選んだもの
らしい。あえて無頼の悪評高い雲右衛門を選んだ理由は、赤穂義士伝を十八番としたその芸風にあったのだろう。仇
討ちの大義に艱難辛苦する雲右衛門の語る赤穂浪人は、まさに明治 20 年代以後の-民権運動に挫折した-鬱勃たる壮士
の姿であり、滔天にとって容易に彼自身が重ね合わされるものだったのではないか。
雲右衛門は、明治 36-1903-年、滔天の勧めで九州に下り、以後 4 年近く、博多を中心に活動する。雲右衛門はおもに
赤穂義士伝、弟子の滔天こと桃中軒牛右衛門は、支那革命軍談-革命に揺れ動く支那の現状を実録風に-を語るなどし
て、二人は九州で大成功をおさめた。
その余勢を駆って雲右衛門は、明治 40-1907-年 6 月に上京、東京本郷座を 1 ヶ月間にわたって大入満員にすること
になる。赤穂義士伝-忠臣蔵-は雲右衛門の名声とともにまたたくまに日本近代の国民叙事詩となり、いっぽうの宮崎
滔天は、明治 38-1905-年に中国革命同盟会の結成に参加しつつ、孫文や黄興あるいは滔天自身などの支那版義士伝を
浪花節にのせて語り歩き、革命資金の調達に奔走していた。まさに語り芸の伝統を地で生きたような人物である。
門付け芸人となった浪人の子、雲右衛門が、大陸浪人の宮崎滔天と結びついたことには、やはり語り芸の系譜の因縁
めいたものを思わせる。
それにしても、雲右衛門と滔天が同じ総髪姿で高座に上ったというのは、たんに奇を衒ったという以上の意味がある
と思われる。総髪に紋付袴という雲右衛門のトレードマークともなった出で立ちは、芝居や講談でお馴染みの彼の浪
人軍学者由井正雪のそれである。また雲右衛門が好んで用いたその過剰な舞台装飾、演壇中央に極彩色の前幕と後ろ
- 181 幕がかけられ、舞台両袖には色とりどりの旗や幟などが立て並べられたという。これら過剰な仕掛けは、日本社会の
底辺に伏流したある精神の系譜を確実に指し示している。社会の良俗から故意に逸脱していく芸人雲右衛門と革命家
滔天は、まさにその過剰・バサラな演出によって<革命>や<解放>のアジテーターとしての位相を獲得するのである。
雲右衛門の浪花節は、その出し物や語り口-節調-も含め、すべての意味において日本の語り芸の行き着いたカタチで
あった。たとえば雲右衛門の総髪姿に、語り芸におけるある種の先祖返りが覗えるとしたら、雲右衛門や滔天に受け
継がれた語りのエネルギーとは、じつは楠木正成や由井正雪をカタルあぶれ者、<ごろつき>たちのエネルギーである。
宮崎滔天の<アジア主義>の理想が、その後継者たちによって、<大東亜共栄><五族協和>の幻想にすりかえられてい
ったことが周知のように、日本社会のネガティブな部分が、歴史的にみてもっともラディカルな<日本>的モラルの担
い手であったという構造がある。彼らのアジテートするもうひとつの天皇の物語が、ある種の<解放>のメタファーと
して機能したこと、その延長上には、日本近代の<国民>国家のイメージさえ先取りされていたのである。
-兵藤裕己「太平記<よみ>の可能性」より抜粋
―山頭火の一句― 行乞記再び -733 月 11 日、晴、小城町行乞、宿は同前
ずゐぶん辛抱強く行乞した、飴豆を買つて食べる、焼芋を貰つて食べる、餅を貰つて食べる、そして酒は。…
三日月といふ地名はおもしろい。
此宿はよい、木賃 25 銭では勿体ない。
同宿 5 人、みんなお遍路さんだ、彼等には話題がない、宿のよしあし、貰いの多少ばかりを朝から晩まで、くりかへ
しくりかへし話しつづけてゐる。
※句作なし、表題句は 2 月 28 日記載の句
Photo/町の中心部にある小城公園、現小城市小城町
Photo/小城町岩藏、江里山の棚田-A
Photo/小城町岩藏、江里山の棚田-B
20100531
酒やめておだやかな雨
―表象の森―「究極の田んぼ」
耕さず肥料も農薬も使わぬ-不耕起移植栽培と冬期湛水農法
不耕起とは文字通り、田んぼの土を耕さずに、苗を植えること-イネを刈り取った後のイネ株をそのまま残し、その
イネ株とイネ株の間に今年の新しい苗を植える。移植とは、あらかじめ苗を育てておいて、田植期にそれを移植する
こと。田んぼに直接種籾をまく直播き法ではなく、一般的に行われているように、苗を別に育てておいて、田植えの
時に移植する方法で、苗の育て方が一般と違い、稚苗ではなく、成苗にしてから移植する。
冬期湛水法とは、冬に田んぼに水を張っておく農法-一般的には、秋にイネ刈りをした後、田んぼをそのままにして
おき、春の田植えの前に田起しをしてから水を張って苗を植えるが、冬期湛水は、冬にも田んぼに水を張っておき、
田んぼの中の光合成を促し、植物プランクトンやそれを餌にする動物プランクトンの発生を助け、イネの生長に必要
な栄養分が供給されることを狙うもので、結果として無肥料栽培になる。また、雑草の発生も抑えられるので、無農
薬栽培にもなる、という。
―今月の購入本―
・岩澤信夫「究極の田んぼ」日本経済新聞出版社
- 182 千葉の変人-奇跡の農法! 田んぼを耕さず、農薬も肥料も使わずに多収穫のイネを作ることに成功した男が、不耕
起移植栽培の普及と環境再生農業の提唱、市民と農家が共に楽しめる、地球と人と生きものに本当に優しい市民農園・
村おこし構想を提言する。
・兵藤裕己「琵琶法師-異界を語る人々」岩波新書
モノ語りとは“異界”のざわめきに声を与え、伝えること。最後の琵琶法師・山鹿良之を直接取材すること 10 年余-聖
と俗、貴と賎、あの世とこの世の“あいだ”に立つ盲目の語り手、琵琶法師-古代から近代まで、この列島の社会に存
在した彼らの実像を浮彫にする。
・兵藤裕己「太平記<よみ>の可能性」講談社学術文庫
太平記よみの語りは、中世・近世を通じて人びとの意識に浸透し、天皇をめぐる二つの物語を形成する。その語りの
なかで、楠正成は忠臣と異形の者という異なる相貌を見せ、いつしか既存のモラル、イデオロギーを掘り崩してゆく。
天皇をいただく源平武臣の交代史、宋学に影響された名文論が、幕末に国体思想にヨミ替えられ、正成流バサラ再現
としての薩長閥の尊皇攘夷へと続いてゆく。講談社刊の初版は 95 年。
・西村亮「源氏物語とその作者たち」文春新書
著者は、長年折口信夫に師事し、古代学の継承と王朝の和歌・物語の研究に努めた人。原稿用紙にして 2500 枚にも及
ぶ長大な源氏物語を、紫式部が一人で書いたのか。―文体や登場人物の扱いなどに着目し、錯綜する展開を解きほぐ
すこと で見えてきたのは、「宇治十帖」のみならず多くの部分が、読者によって自由に加筆や修正が行われ「成長」
していった事実だった。
―図書館からの借本―
・石川九楊「書の宇宙 -24-書の近代の可能性・明治前後」二玄社
・別冊太陽「泉鏡花-美と幻影の魔術師」平凡社
鏡花の曰く「僕は明かに二つの大なる超自然力のあることを信ずる。これを強ひて一纏めに命名すると、一を観音力、
他を鬼神力とでも呼ばうか、共に人間はこれに対して到底不可抗力のものである。」
―山頭火の一句― 行乞記再び -723 月 10 日、雨となつた、行程 2 里、小城町、常磐屋
降りだしたので合羽をきてあるく、宿銭もないので雨中行乞だ、少し憂鬱になる、やつぱりアルコールのせゐだらう、
当分酒をやめようと思ふ。
早くどこかに落ちつきたい、嬉野か、立願寺か、しづかに余生を送りたい。-略夜は文芸春秋を詠む、私にはやつぱり読書が第一だ。
ほろりと歯がぬけた、さみしかつた。
追記-川上といふところは川を挟んだ部落だが、水が滑らかで、土も美しい、山もよい、神社仏閣が多い、中国の三
次に似てゐる、いはば遊覧地で、夏の楽園らしい、佐賀市からは、そのために、電車が通うてゐる、もう一度来てゆ
つくり遊びたいと思うた。-略春日墓所-閑叟公の墓所-は水のよいところ、水の音も水の味もうれしかつた。
※表題句の外、句作なし
Photo/川上峡の十可苑は、嘗て鍋島侯の別荘地であった
Photo/紅葉盛んな十可苑
Photo/小城市小城町にある須賀神社
Photo/神社境内の阿吽の狛犬
- 183 20100529
樹彫雲影猫の死骸が流れてきた
―世間虚仮― 無煙タバコ騒ぎ
今月、JTがさしあたり東京都内限定で売り出したという「ゼロスタイル・ミント」なる無煙タバコの扱いをめぐっ
てなにかと喧しく取り沙汰されているそうだ。
ニコチン含有量は 0.05mg と従来の軽めのタバコと比較して 1/20、タールの含有はゼロ。とはいえタバコには違い
なく、完全無害とはいえない。
曰く「<無害>という表示は健康に及ぼす悪影響が他製品と比べて小さいことを意味するものではありません」とパツ
ケージに警告表示しているそうな。
他方、禁煙団体などは「使用者の呼気からニコチンなどの物質が吐き出され、周囲の人は予期せぬ危険にさらされる
かもしれない」と懸念表明。これには「非情に微量で問題ない」と応答するJT。
日航は機内で認めるといい、全日空では認めないと、対応が別れているのも問題だが、いまのところ自治体では禁煙
ゾーンで吸っても OK としているのが多いらしいが、これだって自治体によっては所変われば‥になること必至。
奇妙なものを作り出して波乱をまねくJTの本音は、いったい何処にあるのかネ。
―山頭火の一句― 行乞記再び -713 月 9 日、曇、なかなか冷たい、滞在供養。
例の画家に酒と飯とを供養する、私が供養するのぢやない、私の友人の供養するのだから友人から-送つてくれたゲ
ルトだから-お礼がいひたかつたら、友人に言つてくださいといつたりして大笑ひしたことだつた。
今日一日で旅のつかれがすつかりなくなつた。
※表題句は 3 月 5 日付の句、句作なし
Photo/川上峡付近の春日墓所には鍋島直正の墓がある
幕末期の鍋島藩主直正は、明治維新の廃藩置県に真っ先に賛同したとされる
Photo/川上峡上流の風景
Photo/夏の風物詩、灯籠流し
Photo/名園の誉れ高い十可苑の庭
20100528
土手草萌えて風も行つたり来たりする
―世間虚仮― シニア世代の演劇ブーム
シニア演劇がずいぶんと活況を呈しているという。一説には全国に 60 以上の劇団があるとも。50 代からはじめる人
たちでつくるアマチユア演劇のことだが、ほとんどの構成メンバーの中心は 60 代以上であり、80 代の元気老人たち
もけっこういるようだ。「シニア演劇 web」という HP もあり、この site の主は朝日恵子という Free Lighter のよ
うだが、北海道から九州まで 30 余りのシニア劇団が紹介されている。
ただ、この site に掲載されている劇団情報で気がかりな点が一つ、それは中高年ミユージカル劇団「発起塾」なるも
のが、大阪・和歌山・京都・神戸・広島・岡山・東京・名古屋と、関西を中心に全国的な展開をしつつあること。この例な
どは、90 年代以降、TV などマスコミ向けのタレント養成所がこぞって、シニア世代をターゲットに展開してきた流
れがあるが、いわばそれが少々焦点をずらしたかたちで、マーケット化しているだけではないかともいえそうで、あ
まり歓迎できることとは思えぬ。
考えてみれば、Karaoke にはじまり一億総タレント化へと Entertainment 志向?、嗜好というべきか、の流行現象
からすでに 30 年余りが経つのだから、ときならぬシニア劇団のブームなど驚くほどのこともない、といえそうだ。
- 184 -
―山頭火の一句― 行乞記再び -703 月 8 日、晴曇、行程 3 里、川上、藤見屋
神崎町行乞、うれしい事もあり、いやな事もあつた、私はあまり境に即しすぎてゐる。-略川上といふところは佐賀市から 3 里、電車もかかつてゐる、川を挟んだ遊覧地である、水も清く土も美しい、好きな
場所である、春から秋へかけてはいいだらうと思ふ。
同宿 4 人、その一人は旅絵師で川合集声といふ老人、居士ともいふべき人物で、私が旅で逢つた人の中で最も話せる
人の一人だつた。話が面白かつた。
執行-シュギョウ-といふ姓、尼寺-ニイジ-といふ地名を覚えてゐる。
句が出来なくなつた、出来てもすぐ忘れてしまふ。
※表題句は 3 月 6 日付の句、句作なし
昭和 5 年から 12 年の 7 年間、佐賀市内の神野から佐賀郡川上村-現・佐賀市大和町川上-の間を佐賀電気軌道という路
面電車が走っていた。嘉瀬川の上流は川上川と呼ばれ、景勝地の川上峡がある。
Photo/毎年 5 月には鯉のぼりが乱舞する川上峡
Photo/鍋島初代藩主所縁の与止日女神社
Photo/此方も鍋島家代々の藩主が崇敬したという河上山実相院の山門
Photo/その山門-仁王門-の仁王像-木造20100527
水鳥の一羽となつて去る
―世間虚仮―正義の女神
左手に天秤、右手に剣を持ち、目隠しをした正義の女神テミス像は、司法・裁判の公正さを表わす。天秤は正邪を測
る正義を、剣は力を象徴し、目隠しは万人に平等の法理念を表わしているというが、被害者家族参加制度に則って、
虚構に満ちた物語をただリピートする場でしかないと断ずるほかない。
Photo/ルカ・ジョルダーノ-Luca Giordano-の「Justizia-正義の女神-」
―山頭火の一句― 行乞記再び -693 月 7 日、降つたり霽れたり、行程 4 里、仁井山、麩屋
朝早く出立、歩き出してほつとした、ほんたうにうるさい宿だつた、ゆうゆうと歩く、いいなあ!
今日の行乞相はよかつた、心正しければ相正し、物みな正し。
今日は妙な日だつた、天候も妙だつたが人事も妙だつた、先づ、佐賀を立つて 1 里ばかり、畔草をしいて一服やつて
ゐると、刑事らしい背広姿の中年男が自転車から下りて来て、何かと訊ねる、素つ気なく問答してゐたら-振向きも
しないで-おとなしくいつてしまつた、それからまた 1 里、神崎橋を渡つて行乞しはじめたら、前の飲食店から老酔
漢が飛びだして、行乞即時停止を命じた、妙な男があるものだわいと感心してゐるうちにドシヤ降りになつた、行乞
は否応なしに中止、合羽を着て仁井山観音参拝、晴間々々を 2 時間ばかり行乞、或る家で、奥様が断つて旦那はお茶
をあがれといふ、ずゐぶん妙だ、それからまた歩いていると呼びとめられる、おかみさんが善根宿をあげませうとい
ふ、此場合、頂戴するのがホントウだけれど、ウソをいつて体よく断る。…
久しぶりに山村情調を味はつた、仁井山-第 20 番札所地蔵院-はよいところ、といふよりも好きなところだった、山が
山にすりよつて水がさうさうと流れてくる、山にも水にも何の奇もなくて、しかもひきつけるものがある、かういふ
ところではおちつける、地蔵院の坊主さんがつつましくお茶を呼んで下さつた、しづかでいいところですね、と挨拶
したら、しづかすぎまして、と微笑した。-略-
- 185 「聖人に夢なし」「聖人には悔がないから」
自分が与へられるに値しないことを自覚することによつて行乞がほんたうになります。
ルンペンのよいところは自由! 主観的にも客観的にも。…
失職コツクと枯草に寝ころんで語つた!
※表題句は 3 月 5 日付記載の句、句作なし
<仁井山>は<仁比山>の誤記か、第 20 番札所地蔵院は、現佐賀県神埼市神崎町的の仁比山護国寺地蔵院のこと。
Photo/第 20 番札所仁比山護国寺地蔵院
Photo/その地蔵院と隣り合わせるようにしてある「九年庵」は
幕末蘭方医にて近代医学の祖とされる伊東玄朴の旧宅
20100525
飾窓の牛肉とシクラメンと
―日々余話― 被害者参加人の意見陳述
面白いことにというか、或は奇妙なことにというか、現行の刑事訴訟法では、被害者参加人等の意見陳述に関わる定
めの条項は、平成 12 年の改正によって導入された被害者等の意見陳述制度-292 条の 2-と、平成 19 年の改正で成立
した被害者参加人等による意見陳述に関する条項-316 条の 38-の二者が併存していることになるという。
前者の意見陳述制度では、その陳述の内容を量刑判断の資料とすることが出来たのに対し、後者の意見陳述では検察
官の論告・求刑が証拠にならないのと同様に、論告・求刑が出来るものの、証拠にはならないから、量刑判断の資料に
はされない、ということらしい。
容易には理解しにくい、この二様の、被害者等の意見陳述の併存だが、昨日の私の意見陳述については、事前に検事
に聞かされたところによれば、刑訴法 292 条の 2 の適用であったらしい。ならば、量刑判断の資料とされることにな
るのだから、これは予期せぬありがたい裁判官の判断であるといえよう。
検察の論告・求刑は、禁固 1 年であった。
判決言い渡しの日は 6 月 7 日とされた。
私の意見陳述が刑訴法 292 条の 2 の適用であったのなら、量刑判断も求刑よりはかなり軽減され、もちろん執行猶予
も付くことが期待されるが‥。
―山頭火の一句― 行乞記再び -683 月 6 日、曇后晴、あとは昨日の通り。
行乞して、たまたま出征兵士を乗せた汽車が通過するのに行き合せた、私も日本人の一人として、人々と共に真実こ
めて見送つた、旗がうごく、万歳々々々々の声-私は覚えず涙にむせんだ、私にもまだまだ涙があるのだ!
同宿の猿まはし君は愉快な男だ、老いた方は酒好きの、剽軽な苦労人だ、若い方は短気で几帳面で、唄好だ、長州人
の、そして水平社的な性質の持主である、後者は昨夜も隣室の夫婦を怒鳴りつけてゐた、おぢいさんがおばあさんの
蒲団をあげたのがいけないといふのだ、そして今夜はたまたま同宿の若いルンペンをいろいろ世話して、髭を剃つて
やつたり、或る世間師に紹介したりしてやつてゐる。-略同宿のルンペン青年はまづ典型的なものだらうが、彼は「酒ものまない、煙草もすはない、女もひつぱらない、バク
チもうたない、喧嘩もしない、ただ働きたくない」怠惰といふことは、極端にいへば、生活意力がないといふことは、
たしかに、ルンペンの一要素、-致命的条件だ。
座右銘として
おこるな しやべるな むさぼるな
ゆつくりあるけ しつかりあるけ
- 186 ※表題句は 3 月 5 日付記載の句、句作なし
佐賀城跡の一帯には 120 株あまりのクスが生えており、とりわけ濠端には樹齢 300 年を越えると思われる大楠が並
び立つ。
Photo/佐賀城跡、濠端の大楠三態
20100524
畳古きにも旅情うごく
―日々余話― Soulful Days-38- 述べられなかった意見陳述草稿
事実のみに照らして人が人を裁くはずの法廷の場もまた虚構に満ちたものであり、法廷のなかの真実とはまったくも
って蜃気楼のごとき泡沫のものにすぎない。
本日午後、被告 M.M を自動車運転致死傷に問う公判があり、私は、被害者参加制度に則り、弁護人や検察官の質問
のあと、被告人質問と意見陳述を行った。以下の文書は、本来なら私の意見陳述はこうあるべしという草稿であるが、
検事との事前協議のなかで、刑事訴訟法の被害者又は被害者家族による意見陳述の項に基づき、クレームが付けられ、
日の目をみること叶わなかったものである。よって今日の法廷で陳述したものは、検事の意見に沿いつつ書き改めた
短い別稿であるが、此処ではお蔵入りを余儀なくされた原草稿を、ずいぶんと長文だが、謂わば事故より 1 年と 8 ヶ
月を経てきた私自身の総括文書として、掲載しておきたい。
だれも事故を起こそうと思って起こす者がいる筈はない。
A と B の間に交通事故が起きる。そのこと自体は 99.9%以上偶然の産物でしょう。ましてそのどちらかに第三者の C
が乗り合わせ、しかもその結果、生命を落とすことになるなど、さらに偶然が重なったものであることに思いをいた
すなら、この悲劇はひたすら不運、運命の悪戯かと、降りかかった不幸な災禍をただ嘆くしかないと、事故当初より
そう受けとめてきたつもりです。
ただ、わずか 0.1%の必然のなかに、A と B、相互の過失が含まれている。お互いのその過失さえなければ事故が起
きなかったというのも、また厳然たる事実です。
きわめて偶然的な出来事にせよ、事故を起こした A.B 双方にとっては、たとえ小さなミス、わずかな過失であろうと
も、それがなければ、それさえなければ、自らも負傷したり、第三者 C を巻き込むこともなかったのに、あろうこ
とかその C の生命さえ奪い取ってしまうという、そんな取り返しのつかない、不条理というしかないような出来事
を招来したとすれば、A.B 双方ともに、自分自身を責め苛む、良心の呵責というものは堪えがたいものがある筈だ、
私なら否応もなくそうなってしまうに違いない、と思うのです。
取り返しがつかないというのは、これはもう救いがないというのに等しいことですから、ただひたすらその事実の前
にひれ伏すしかない。死んでしまった被害者の家族の哀しみ、傷みや苦しみ、心の傷とはけっして交わりえない処で
ですが、余人には到底想像できないような心の傷を、トラウマを負ってこの先を生きていかざるをえない。そうであ
ろうことを思えば、事故を起こした当事者に対し、恨んだり憎んだりと、そんなことはするまい、そうすることは自
分の哀しみや傷み、遣り場のないどうしようもなさの代償行為にしかすぎないと、そうも考え自分の行動を律してき
たつもりです。
ところが現実の進行、結果として娘・RYOUKO の生命を奪ってしまった事故の、当事者 M.M と T.K、この二者におけ
る事故への対処全般、事故原因の警察での捜査や取り調べ、さらには検察での取り調べ、また被害者及びその家族へ
の対応あるいは謝罪等の行為など、それぞれ自分自身の過失責任という厳然たる事実を前に、M.M と T.K、この二者
のとってきた姿勢及び行動は、私の眼にはまるで異なり対照的なものにさえ映ってしまっているというのが、一昨年
の 9 月 9 日の夜、事故発生から今日までの 1 年と 8 ヶ月をとおしての印象であり、所感というべきものです。
- 187 こういった事態になぜ到ったかについて触れるまえに、まず被害者も含めた事故の当事者たち、三者三様の、事故
後における、まるで異なる現実についてから記さなければなりません。
事故から 1 年 8 ヶ月を経た現在、M は事故時の負傷からくる後遺症に今もなお苦しみ、治療に通っています。頸椎の
異常から中枢神経への圧迫があり、右手の指の麻痺がまだ残っているからです。完治にはまだ日時を要するものと思
われます。また事故後の半年余りは、脳神経への影響もあったのでしょう、精神的な鬱症状にも悩まされたと聞いて
います。
T の事故直後の診断は全治 7 日間の軽傷とあり、その予後がどうであったか知りませんが、家族の内の私ひとりが、
事故から 1 ヶ月半ほど過ぎた頃に、父親に伴われてきた彼と会った際にも、とくに怪我の話題など出なかったし、そ
の折の様子からしてきっと数日のあいだに完治していたものと思われます。ウェイクボードのプロだという彼は、事
故当時シーズンオフでもなかったでしょうから、直後より全国各地で行われる競技などに出場しては、活躍していた
ことと思われます。ようするに彼の日常は、事故前と後と、ほとんどまったく変わりがなかったであろうということ
です。
事故の衝撃から硬膜下血腫や脳浮腫を起こした娘・RYOUKO は、その直後から意識不明の重体にあり、そのまま 5
日目の夜に息を引き取りました。いえ、より正確に言えば、彼女は事故直後より生ける屍同然だった、生命維持装置
によってただ生かされていたばかりで、3 日目の夜、残された家族は、いつこの装置を外すかと、担当の医師より決
断を迫られたのでした。私たち自身の意志で彼女の命を絶たねばならぬという、家族にとってこれほど苛酷なことは
なく、その挙句の、5 日目の死であったのです。なにも知らぬまま彼女は逝き、そして焼かれ、今は小さな墓の下に
‥。
事故の直接の関係者、この三人の事故の結果は、現在にいたるそれぞれの姿は、なぜこんなにも異なるのか、その
圧倒的な違いはいったいどこからくるのかを考えるとき、私には、この事故の、法以前の、交通法規以前の、事の本
質というものに出会すような気がするのです。
交差点内の直進と右折とか、信号は青だったとか、スピードがどうだったとか、だからどちらがより悪いとか、そう
いった交通法規に則った解釈や事実以前に、直進行為とはいえ横合いから猛烈な勢いでぶつかっていった者と、ゆっ
くりと進行していたにもかかわらず不意を襲うようにぶつけられた者、という構図がもっとも明快な、基本的な事実
ではないか、とそう思うのです。
ぶつかっていった者は、まさにそのぶつかる瞬間の、ほんの少し前とはいえぶつかるということを察知しているので
す、だがもう逃れようもない、咄嗟のブレーキも間に合わない、アーッと無意識に声を上げながら、それでもしっか
りと身構えて、その瞬間に突入していくといった図です。
片やぶつけられた者、その運転手は、横合いから勢いよく迫り来る者を、眼に入らなかったのだから、その実態はな
にやら解らない、解らないけれどなんだか咄嗟に気配のごときものを感じたのでしょう、だからこそブレーキ動作を
した。そこへドカーンとやってきた。彼にとってはなにやら得体は知れないけれど、一瞬、恐怖に襲われるがごとく
身の危険だけは察知しえたでしょう、だから次の瞬間、なんらかの身構えは出来たでしょう、けれども横合いからの
70km/h というとても激しい衝撃ですから、その一瞬の身構えがどれほど役に立ったといえるのかは解りません。
ぶつけられた者のもう一人、後部左座席に乗っていた被害者にとっては、直前の予測もなにもない、ただ突然激しい
衝撃に見舞われただけ、それも後部座席に向かってもろともぶつかってきたのだからたまりません。一瞬、彼女はア
ッと声をあげたのでしょうか、痛い!と感じたのでしょうか、薄れゆく意識という謂がありますが、もし彼女にほん
の 1.2 秒そんな時間があったとすれば、どんな像が脳裏に浮かんだことでしょうか、あれこれと想像してみたとこ
ろでなにも確かめられる筈もなく、彼女はそのまま逝ってしまったのです。彼女の愛しい人たちにサヨナラと告げる
こともなく、突然、逝ってしまったのです。
かように、この事故においては、激しい勢いでぶつかってきた T だけが、次の瞬間に起こる事態を予見できており、
それがゆえにほんの軽い怪我ですみ、次に、一瞬恐怖が走り身の危険をかろうじて察知しえたであろう M は、頸椎
- 188 を損傷して今もなお後遺症に苦しみ、そして、まったく不意を襲われてしまった娘・RYOUKO の場合は、意識不明
となってそのまま死に到る、というのが三者に起こったまったく異なる現実であり、明快な構図なのです。天国と地
獄ほどにかけはなれた三者三様の事態を招いたこの構図が、この事故の、法以前、交通法規以前の、事の本質なのだ
と、私はそう考えざるをえません。
こういった衝撃的な事態とは、法だとか交通法規だとかの理非云々以前に、自身の存在自体を揺るがす戦慄が走るよ
うな出来事であること、そしてその恐怖の瞬間をもっとも直かに感じ、だれよりもリアルに受けとめざるをえなかっ
たのは、ものすごい勢いでぶつかっていった T 自身の筈です。そしてさらには相手方の搭乗者だった RYOUKO の死
という悲劇がのしかかってくる。こういったとんでもない事態の前で、交通法規上の過失の多少などなんの関わりが
ありましょう、たとえ自分の過失が僅かなものであるとしても、ひとりの人間の生命を奪ってしまったという事実の
前には、なんの慰めに、なんの救いになりましょうか、被害者の前にただひたすらひれ伏すしかない、私ならそうす
るし、だれでもそうせざるをえないでしょう。
しかし、T はそうはしなかった、このとんでもない事態に直かに向き合い、その責めをまっとうしようとは、いっさ
いしなかった。自分可愛さのためひたすら保身に走り、人としての尊厳を振り捨て、一片の良心をも振り捨て、冷た
い仮面を被ってしまった。この悪夢のような現実からいかに自分自身を救い出すか、逃れきるのか、そのためにあの
一瞬の戦慄すべき恐怖の記憶を意識下へと抑圧し、自分に関わりないこととして消し去ろうとした。さらには、交通
法規上、自分の過失をいかに小さくするか、いかにお咎めなしを勝ち取るか、そればかりに集中、専念していったの
だ、と私は受けとめています。
一方、M の場合はどうであったか、被害者家族の私が言うのもなんですが、これはもうほんとうに傷ましいもので
した。いま瀕死の状態にあるのが自分の乗客であるというこの事態は、彼にとっては逃れがたいジレンマであり針の
筵そのもの、良心の呵責にとても堪えきれないものがあったのでしょう。彼は、事故のあった 9 日の夜から死に到る
14 日の夜まで、毎日病院に来ては、待合室の廊下の隅でただ独りじっと身をすくめるように立ちつくしていました。
この救急病院では面会の時間が、午後と夜の一時に限られていたので、家族としてもその時間に合わせて行くしかな
かったのですが、私たちがいつ行っても必ず彼は先に来ており、私たちが病院を立ち去るまで、少し放れた場所から
頭を下げそっと見送るように立っているのでした。
私は、そんな彼の姿を見ながら強く胸を衝かれたものです。いまこの事態をまえに、家族の心の傷ましさがだれにも
はかりえないのは当然としても、彼のようにまるで針の筵の中で自分自身を責め苛まなければならぬ、その傷ましさ
というものは私たち家族とはまた別次の、はかりしれないほどの凄まじいものがあるのだ、と気づかされたのでした。
ところで、本来、法というものは、一定の所与のなかで合理的なるもの、ある枠組みのなかで理-ことわり-に適っ
たものなのだ、と私は受けとめています。したがって、人として生きること、人としてのトータルな存在は、法を超
えてあるものです。だからこそ、法以前の、倫理とか道徳とか、あるいは善と悪とか、きれい・汚いといった美醜の
別、そういった価値観が人間社会にはあるべきなのです。ならば、法以前の事の本質、その観点からこの二人を評す
るなら、必定、M は善き人、清き人となり、T は悪き人、欠けたる人となるでしょうし、さらに結論づければ、許さ
れざるは T のほうでこそある、と言わざるをえません。
とはいうものの、人として悪人、欠けた心であってさえも、けっして許されないということはなく、救いの道が閉ざ
されているわけでもありません。かの親鸞の悪人正機に倣えば、自らの弱さや脆さゆえに逃げ込んでしまった嘘や偽
りの鎧を、きっぱりと脱ぎ捨ててしまいさえすれば、そうして裸形のおのれ自身を見出しさえすれば、おのずと救い
の手もさしのべられようし、おのずと許しもやってこよう筈なのですから。
さて、ここまで、いわば法以前の、直接は法に関わりないことどもを、縷々綿々と綴ってきたのも、この事故が、
M の過失致死傷事件として、いまこの法廷において裁かれようとするに到った、その全経過のなかに表われた、事故
の全容なるものあるいは事実関係なるものに対し、私の知るかぎりにおいて、些かなりとも反照となりうるような、
そんな背景を映し出したかったからにほかありません。
- 189 次に具体的な問題点として、本法廷の公訴事実、そのもっとも重要と思われる事実関係について疑問を呈したいと
思います。
この記述によれば、被告の M は、「T 車を左方約 20.5 メートルの地点に発見し、急制動の措置を講じたが及ばず」、
衝突事故となったとありますが、これが事実だとすれば信じがたいような矛盾があるのではないでしょうか。この事
実認定には、まったくリアリティーというものが欠如している、としか私には思えません。
事故直前の T 車は 70km/h のスピードであったと聞いておりますが、これを M が約 20.5m 手前で視認したとするな
ら、衝突時の約 1.7 秒前となります。もしこの事実が正しいのなら、この時、M は急制動などせず、そのまま右折直
進行為を遂行しさえすれば、この事故は避けられたということになります。それなのに M はいったい何を勘違いし
たのか、愚かにも急制動などをして却って事故を招来してしまったと、そんなバカなことがありましょうか、仮にも
M は職業運転手です、その彼が咄嗟にこんなバカげた運転行為をしたとするなら、その瞬間、彼は異常なパニックに
でも陥り、心神喪失したか、刹那的な発作にでも襲われたというのでしょうか。この事実認定には、そんなありそう
もない絵空事でも挿入しないかぎり説明がつかない、これはきわめて合理性に欠けた事実認識と言わざるを得ません。
たしかに M の供述調書には、直進対抗してくる T 車の前照灯を認めた、という内容の記述があるようですが、後に
彼はこの事実を否定しています。M が直かに私に語ったところによれば、近づいてくる T 車の姿も、前照灯さえも見
てはいない、なぜ急制動したか、それは気配とでも言うしかない、そんなものを感じて咄嗟に反応した、とそう言っ
ています。
はたして M は、T 車を見たのか、それとも見なかったのか、これは事故の事実関係の根幹にかかわる問題ですが、
本当の事実は、真実はどちらなのか。
私は、MK タクシーからドライブレコーダーの記録データを貰い受けて、その動画資料をつぶさに何度も何度も、そ
れこそ何十遍となく見てきました。そうして得た私なりの結論は、M は T 車を現認していない、ただ猛スピードで近
づいてくる車の気配に、咄嗟に急制動の反応をしたのだ、というものです。そう考えさえすれば、事故の記録画像に
おいても、またそのタイムテーブルにおいても整合性があり、事実関係はリアリティーもあり合理的なものになるの
です。
然らば、T 車は、記録画像からも充分に覗えることですが、前照灯を点灯していなかった、無灯火であり、なおかつ
70km/h 以上の、危険きわまる無謀運転に等しいものであった、ということになりましょうし、さらにつけ加えるな
らば、M の「T 車を見た」という供述の背後には、彼に対する西署の予断に満ちた取り調べ、といった一抹の疑念ま
でも浮かび上がってくるのです。
事故の起こった衝突時より約 1.7 秒前、それは 70km/h 以上のスピードで 20m 近くにまで迫ってきた直進対抗車、T
車の、それは路面から伝わってくる微振動音などの所為だったかも知れませんが、とにかく正体の知れぬ何者かが迫
り来るような気配を感じて、M は咄嗟に急制動をした。対抗直進車の T が前方の M 車の急制動に気づいたとて、こ
の時はすでに遅すぎる、彼もまた咄嗟に急制動をしようとした筈だが、ブレーキ痕を残すこともなく、激突したと、
これが事故原因の根幹にかかわる事実関係なのだと、ドライブレコーダーの記録画像を自分なりに検証した時点から、
私はそう確信してきました。
翻ってみれば、被害者家族として、西署における初動捜査に、まず大いに疑問を感じずにはいられません。夜間の
事故であるにもかかわらず、なぜ、事故直後の簡単な現場検証と、あらためて二者の車の実況見分だけで了としたの
か。実況見分の際に、ドライブレコーダーを見る機会を得たものの、この静止画から数葉の写真を撮影しただけで、
この全体を証拠資料として充分に活用せず、また日中の明るい時間帯に詳細な現場検証をしなかったのはどうしてな
のか、理解に苦しまずにいられません。
さらに、検察の取り調べ段階のなかで、私たち遺族は、ドライブレコーダーを証拠資料として挙げ、本件事故の原因
となった過失は、むしろ T.K にこそ重くあるのではないかと主張、T.K に対する告訴状をもって、事実関係の真の解明
をお願いしてきましたが、ほぼ 1 年をかけたその検証の結果は、私たちの期待も虚しく、検察へと送致された西署の
- 190 調書事実を追認、補強する躰に終始したようにしか覗えないことは、まことに残念、痛恨の極みと言うしかありませ
ん。
現在、本法廷が開かれる仕儀に到ったのは、検察の取り調べの結果、その採られた措置が、M.M と T.K の二者に対
し、M には公判請求、T には起訴とはいえ略式起訴であったからですが、もう一つ別の視点からも、首肯できない問
題点を感じています。それは刑における相対主義とでもいうべきものでしょうか。
当初、本件の取り調べを担当した前検事は、初めて私たち遺族が大阪地検に伺い、面談をした際、M を略式起訴に、
T を不起訴処分にと、そういう判断を示したのですが、この判断に抗って私たちが T への告訴をするという展開にな
りました。その後、担当検事が代わり、再捜査というか、ドライブレコーダーを含めた取り調べがようやく始まった
訳ですが、その挙句の果てが、M は略式起訴から公判請求の起訴へ、T は不起訴から略式起訴へと、謂わば単純にそ
れぞれの刑の要請を嵩上げした、相対的に重くしただけである、ということ。
いわゆる民事における損害賠償などの問題対処においては、損保会社などのいう、やれ 5:5、やれ 7:3 などの過失
割合といった数比に収斂していかざるを得ないのは一応理解できるとして、刑の科料という問題場面においては、事
実関係の解明度、透明度は、それこそケースバイケースで千差万別であるにもかかわらず、同じように相対主義が貫
かれようとするのは、結果として隠れてある事実関係というものを却って歪曲することにもなりかねない、そんな危
惧を抱かざるを得ないのです。
仮に、事実関係の再捜査、再検証の結果、T 車の無灯火や無謀な危険運転について疑わしいと言わざるを得ない、疑
わしいには違いないが断定するに到らない、おまけに今更彼の供述を覆させることも困難至極、あり得そうもないと
すれば、疑わしきは罰せずとするしかない。そうであるなら、当然のごとく、M の過失も初動捜査における調書のご
とくである筈もない。本件事故の事実関係におけるもっとも重要な部分が、さまざま可能態は想定出来ようとも全容
解明には到らず、不透明なまま残されざるを得ない。事件の本質に迫りえぬ以上、事実関係の解明が 100%できぬ以
上、その解明できた部分においてしか、刑の要請もできない、とするべきではないでしょうか。
事故から 1 年 8 ヶ月を経て、こうして本法廷に臨むこととなった今、私の胸に去来する哀しみや苦しみは、たんに
娘・RYOUKO の死を傷むことからくるばかりではありません。いわゆる巷間伝えられるところの、交通事故遺族の受
ける二次被害なるもの、事故原因の追求、事実関係解明の全過程、警察における捜査や取り調べを経て、さらに検察
における取り調べ、そして審判といったすべてのプロセスを通して、事故被害者の家族として私たちもまた、娘・
RYOUKO の突然の死とは、別の苦しみや哀しみ、傷みというものを、この間ずっと、感じ、抱きつづけてきたのだ
ということを、どうかご理解戴きたいと思います。
最後に、以上綴ってまいりました次第をもって、何卒、被告 M.M の過失認定において多大の減殺あるべきものと
ご判断戴き、同じく科料につきましては軽微なるをもってご裁決戴きますよう、被害者家族を代表し、切にお願い申
し上げます。
平成 22 年(わ)第××××号 自動車運転過失致死傷被告事件 担当裁判官 殿
―山頭火の一句― 行乞記再び -673 月 5 日、すべて昨日のそれらとおなじ。
大隈公園というのがあつた、そこは侯の生誕地だつた、気持のよい石碑が建てられてあつた、小松の植込もよかつた、
とごからともなく花のかをり-丁字花らしいにほひがただようてゐた、30 年前早稲田在学中、侯の庭園で、侯等と
いつしよに記念写真をとつたことなど想ひ出されてしょうぜんとした。-略子供といふものもおもしろい、オコトワリオコトワリといつてついてくる子供もゐるし、可愛い掌に米をチヨツポリ
握つてくれる子供もゐる、彼等に対して、私も時々は腹を立てたり、嬉しがつたりするのだから、私もやつぱり子供
だ!
- 191 佐賀市はたしかに、食べ物飲み物は安い、酒は 8 銭、1 合 5 勺買へば十分 2 合くれる、大バカモリうどんが 5 銭、カ
レーライス 10 銭、小鉢物 5 銭、それでも食へる。
緑平老の厚意で、昨日今日は余裕があるので、方々へたよりを書く、5 枚 10 枚 20 枚、何枚買いても書き足らない、
もつと、もつと書こう。
※表題句の外、4 句を記す
Photo/佐賀城付近にある大隈重信生誕の家
Photo/大隈重信記念館を左に見ての大隈公園
Photo/丁字花の花
20100523
このさみしさや遠山の雪
―表象の森― 剣岳-点の記
昨年、評判の高かった映画「剣岳-点の記」を WOWWOW で観た。
原作は「八甲田山死の彷徨」-1971 年発表-の新田次郎だが、こちらは 1977 年と 6 年後の発表。
苛酷きわまる大自然を見事に切りとった映像は美しく、登山者や山岳愛好家にとっては願ってもない作品だったろう。
おまけに BGM の音楽が抑制気味でありながら、バッハの幻想曲とフーガト短調やヘンデルのサラバンド、またヴィ
ヴァルディの四季など、仙台フィルハーモニー管弦楽団によって演奏されたというクラッシックの名曲が、よく映像
とマッチ、心に響くものとなっていた。
とはいえ「剣岳-点の記」は、良質の作品でありつつも、その感動は私的な刻印の内にどこまでも滞留するものであ
ろうと思われる。嘗ての映画「八甲田山」のように、その物語の厚みにおいて観る者を圧倒するような類のものでは
ないことも事実として印象深く、彼我の差には根深い今日的な問題が横たわってる。
「八甲田山」が 1977 年、それから早くも 33 年も経っている。此方は監督が森谷司郎、黒沢組で育ってきたとはい
え、当時はまだ中堅どころだった森谷監督に対し、脚本はベテランの橋本忍、製作には同じ橋本忍の外に、野村芳太
郎や田中友幸が名を連ね、バックアップしている。時代もなおポスト・モダンへの移行期、さればこそなお大きな物
語への傾斜があり、映像とドラマとが相乗して重厚なる世界を表象しえたのではなかったか。
時代は降って 2009 年、「剣岳-点の記」の監督木村大作は、森谷監督の「八甲田山」で撮影を担当したように、撮影
一筋の技術畑を歩いてきたカメラマンであり、その彼自身が脚本のチーフを兼ねたようである。80 年代、大きな物
語の終焉が喧伝されるようになってからすでに久しく、同じ原作者の、しかも明治も後期以後の同じ頃の、類似の素
材と言えなくもない世界を扱って、この表象の差異は、時代の落差ばかりに収斂しえない、監督としての資質の違い
も与ってあるのだろうが‥。
―山頭火の一句― 行乞記再び -663 月 4 日、晴、市中行乞、滞在、宿は同前
9 時半から 2 時半まで第一流街を行乞した、行乞相は悪くなかつた、所得も悪くなかつた。
何となく疲労を感じる、緑平老の供養で一杯やつてから活動へ出かける、妻吉物語はよかつた、爆弾三銃士には涙が
出た、頭が痛くなつた、帰つて床に就いてからも気分が悪かつた。
戦争-死-自然、私は戦争の原因よりも先づその悲惨にうたれる、私は私自身をかへりみて、私の生存を喜ぶよりも
悲しむ念に堪へない。
此宿は便利のよい点では第一等だ、前は魚屋、隣は煙草屋、そして酒屋はついそこだ、しかも安くて良い酒だ、地獄
と極楽のチヤンポンだ。
一年中の好季節となつた、落ちついて働きたい!
- 192 ※句作なし、表題句は 2 月 26 日付記載の句
佐賀の七賢人という称があるそうな、幕末から明治維新にかけて活躍した佐賀藩出身の人々、江藤新平、大木喬任、
大隈重信、佐野常民、島義勇、副島種臣、鍋島直正の 7 人をいう。
Photo/佐嘉神社境内にある佐賀七賢人の碑
Photo/鍋島家の菩提寺高伝寺には副島種臣の墓もある
Photo/高伝寺境内の古木、八太郎マキ
20100522
雪に祝出征旗押したてた
-表象の森- 書の近代の可能性・明治前後-12石川九楊編「書の宇宙-24」より
・河東碧梧桐「自詠句」二首
河東碧梧桐の自詠句二首を書いた二曲半双屏風。あるいは多くの人は、この作を変な寺、変わった作品の一言で済ま
せるかもしれない。だが、碧梧桐の書の姿と書体は、有季定型-無季自由律-短詩と表現を激しく変革しつづけた自
らの俳句の句体と連動していた。俳句が変わらねばならぬように、書も変わらねばならなかったのだ。
規範として我々の目の前に登場してくる文字、その規範のひとつひとつを解体、再構成して、新たな文字への転生を
試みている。和歌や俳句は深部で散らし書きと共鳴してるものとみえて、行頭・行末の高さを逐一変えた散らし書き
の姿で出現している。
/雪散る青空の又た/此頃の空
/君を待したよ/櫻散る/中をあるく
―山頭火の一句― 行乞記再び -653 月 3 日、晴、春だ、行程わづかに 1 里、佐賀市、多久屋
もう野でも山でも、どこでも草をしいて一服するによいシーズンとなつた、そしてさういふ私の姿もまた風景の一点
描としてふさはしいものになつた。
今日はあまり行乞しなかつた、留置の来信を受取つたら、もう何もしたくなくなつた、それほど私の心は友情によつ
てあたためられ、よわめられたのである。
或る友に、-どうやら本物の春が来たやうですね、お互にたつしやでうれしい事です、私は先日来ひきつづいての雪
中行乞で一皮脱ぐことが出来ましたので、歩いても行乞しても気分がだいぶラクになれました、云々。
緑平老の手紙は私を泣かせた、涙なしには読みきれない温情があふれてゐる、私は友として緑平老其他の人々を持つ
てゐることを不思議とも有難すぎるとも思ふ。-略佐賀へは初めて来たが、市としては賑ふ方ぢやない、しかし第一印象は悪くなかつた。-略※句作なし、表題句は 2 月 28 日付記載の句
鍋島藩の居城であつた佐賀城は、明治 7-1874-年、江藤新平らの佐賀の乱で大半を焼失した。
Photo/平成 16 年に復元成った本丸御殿
Photo/近頃では、毎年秋に市内を流れる嘉瀬川沿岸で開催される佐賀インターナショナルバルーンフェスタが、100
万人規模の観客を動員するイベントになっている
Photo/バルーンフェスタの夜の係留風景
20100521
枯草につゝましくけふのおべんたう
- 193 ―日々余話― KAVC で歌謡ショー‥?
昨日、まことに久しぶりに新開地の KAVC ホールへ行ってきた。
かといって芝居や映画があった訳ではない、「KOBE 流行歌ライブ」なる歌謡ショーだ。
タネを明かせば、松浦ゆみのお付合い。
このところ彼女に Promoter が付いて、キャンペーン活動に積極的に乗り出した。
苦節 10 年の彼女に陽が差すのかどうか、それはなんともわからぬが、その種播きは自らの手でやり出すしかない、
という訳だろう。
それにしても、KAVC とは Kobe Art Village Center の略、若手の芸術創造の拠点施設として’97 年に誕生し、さま
ざま場を提供してきたはずの公共施設なんぞで、この手の催しがなされるとは驚き。’80 年代以降の小劇場ブームも
とっくに衰退期に入り、近頃は委託管理制度が定着してくるなかで、利用者の対象もずいぶんと様変りしてきたとい
うことか。
―山頭火の一句― 行乞記再び -643 月 2 日、晴、曇、どうやら春ですね、行程 2 里、行乞 6 時間、久保田、まるいちや
行乞相が日にましよくなるやうだ、主観的には然りといひきる、第三者に対しては知らない。
此地方で-どこでも-多いのは焼芋屋、そして鍼灸治療院。
いはゆる勝烏-天然保護物-が啼き飛ぶ、そこで一句。-
頭上に啼きさわぐ鳥は勝烏 -削除の印あり今日は妙な事があつた、-或る家の前に立つと、奥から老妻君が出て来て、鉄鉢の中へ五十銭銅貨を二つ入れて、そ
してまた奥へ去つてしまつた、極めて無造作に、-私は、行乞坊主としての私はハツとした、何か特殊な事情がある
と察したので懇ろに回向したが、後で考へて見ると、或は一銭銅貨と間違へたのではないかとも思ふ、若しさうであ
つたならば実に済まない事だつた、といつて今更引き返して事実を確かめるのも変だ-行乞中、五十銭玉一つを頂戴
することは時々ある、しかしそれが一つである場合には、間違ではないかと訊ねてからでなければ頂戴しない、実際
さういふ間違も時々ある、だが、今日の場合は二つである、そして忙しい時でもなく暗い時でもない、すべてがハツ
キリしてゐる、私が疑はないで、特殊な事情のためだと直覚したことは、あながち無理ではあるまい、が、念のため
に一応訊ねておいて方がよかつたとも考へられる、-とにかく、今となつては、稀有な喜捨として有難く受納する外
はない、その 1 円を最も有効に利用するのが私の責務であらう。
焼き棄てて日記の灰のこれだけか
菩薩清涼月、畢竟遊於空
うららかにして風
勿忘草より
わすれぐさ
ちよいと一服やりましよか
カルチモンより
アルコール
ちよいと一杯やりましよか
※表題句の外、句作なし、「焼き棄てて」の句は「焼き捨てゝ」で昭和 5 年の初出。
旧の長崎街道にほぼ沿って走る長崎本線は、肥前山口から牛津、久保田を経て、鍋島、佐賀と、佐賀市の中心部に入
る。佐賀県南部に位置する久保田町は、2007 年、佐賀市に編入された。
Photo/牛津駅前の広場には、往時の牛津宿を描いた陶板画が架かっている。
Photo/久保田宿付近の祇園社
- 194 Photo/同じく久保田宿付近にある香椎神社
20100520
寒い寒い千人むすびをむすぶ
-表象の森- 書の近代の可能性・明治前後-11石川九楊編「書の宇宙-24」より
・中村不折「龍眠帖」
中村不折-1866~1943-の龍眠帖。明治 41 年、河東碧梧桐が発行人として出版した、蘇軾の弟・蘇轍の詩を書いた手本。
発売と同時に、その斬新さは大評判となり、版を重ねた作であるが、同時に激しい批判にもさらされた。
中村不折は、北魏以前の六朝期の中岳霊廟碑などをモデルに、この作品を作り上げた。日下部鳴鶴や巌谷一六からす
れば稚拙としか思えないこれらの書に目にとめたのは、彼が西洋近代的な絵画的構成に対する眼を備えていたからで
ある。中国古代の書の模倣的再現ではなく、書の近代的再生を試みたものであった。
/李公麟山荘園九首蘇轍
/龍眠淥浄中。/微吟作雲雨。/幽人建徳居。
々 「李白贈鄭溧陽詩」
中国から舶載される、従来見たこともない書の姿。美に敏感な中林梧竹や河東碧梧桐は、それらに感動し、ただちに
自らの書の表現に取り入れる。
中村不折は大まかに言って、東晋の爨宝子碑と北魏初期の中岳霊廟碑を学んだ時代と、前秦の広武将軍碑を学んだ時
代に分けられる。本作は、隷書的表現を多分に残す広武将軍碑を学んだ時期以降の作である。
隷書と楷書の入り交じった、何とも楽しく、それでいて見事なまとまりをもった佳作。字画の肥痩が筆蝕上の強弱に
とどまらず絵画的・構成的な肥痩と化して、不思議な味わいを醸している。
/陶令日〃酔。不知五柳春、/素琴本無絃。漉酒用葛巾。
/清風北窗下。自謂羲皇人。/何時到栗里。一見平生親。
/李太白贈鄭溧陽詩。不折書。
―山頭火の一句― 行乞記再び -633 月1 日
三月更正、新しい第一歩を踏みだした。
午前は冬、午後は春、シケもどうやらおさまつたらしい、行程 2 里、高町、秀津、山口、等、等とよく行乞した、お
かげで理髪して三杯いただいた。
同宿 6 人、同室は猿まはし、おもしろいね。
此宿は山口屋、25、中、可もなし、不可もなし。
物にこだはるなかれ、無所得、無所有、飲まないで酔ふやうになれ。
※表題句の外、句作なし
Photo/長崎本線から佐世保線が分岐する交通の要衝である肥前山口駅の風景
Photo/肥前山口駅近くの小高い山裾にある龍澤寺
20100518
焼跡のしづかにも雪のふりつもる
-表象の森- 書の近代の可能性・明治前後-10-
- 195 石川九楊編「書の宇宙-24」より
・富岡鉄斎「祝寿聯」
南画家富岡鉄斎-1836~1924-の書。縦画よりも横画を太く、しかも字形の形を縦長に構成した隷書体風の文字は、清
代の金農の書を典拠とする。無限微動という新しい筆蝕法とともに誕生した金農の特異な文字形象を、形象優位に学
んでいる。
小刻みに正確に微動し、端正に文字を作り上げていく金農とは異なり、富岡鉄斎の微動は強弱の震動をもっている。
おそらくそれが、苛烈に政治的な中国の文人と、ほとんど政治と関わりのない日本の文人との違いであろう。強弱を
伴った<壽>の字姿が、この書を象徴する。
/身是西方無量佛/壽如南極老人星
・ 々 「八言二句」
前作とは打って変わった、いかにも富岡鉄斎らしい、きめ細かで、かつ強引無法な、筆蝕優先の行書体の書の佳作。
幕末維新期の臭うような書の系譜上の作であるが、また一味異なる。
たとえば<我><一>などの起筆は、いかにも無造作、その無造作な起筆に始まり、横画は「覆」、縦画は「直」。それ以
上に、筆尖を開いた筆毫は紙面上を大きく大胆に動きまわる。それは文字を書いているというよりも、画筆が紙面を
動きまわっているという趣。富岡が文字を描き出していることは、<安>の揺れ動く冠部や、起・送・収筆の区別の定か
でない<榮>が象徴し、この作の気宇の大きさは<歸>の最終画の縦画およびハネの豪快な書きぷりに見られる。
/我一心歸命盡/十方。無碍光尊/即安楽土。
―山頭火の一句― 行乞記再び -622 月 29 日、けふも雪と風だ、行程 1 里、廻里、橋口屋
朝、裕徳院稲荷神社へ参拝、九州では宮地神社に次ぐ流行神だらう、鹿島から 1 里、自動車が間断なく通うてゐる、
山を抱いて程よくまとまつた堂宇、石段、商売的雰囲気に包まれてゐるのはやむをえないが、猿を飼うたり、諸鳥を
檻に閉ぢこめてゐるのは感心しない、但し放ち飼の鶏は悪くない、11 時から 4 時まで鹿島町行乞、自他共にいけな
いと感じたことも二、三あった。
興教大師御誕生地御誕生院、また黄檗宗支所並明寺などがあつた。
この宿はほんたうによい、何よりもしんせつで、ていねいなのがうれしい、賄もよい、部屋もよい、夜具もよい、-
しかも一室一灯一鉢一人だ。
心の友に、-我昔所造諸惑業、皆由無始貪瞋痴、従身口意之生、一切我今皆懺悔、ここにまた私は懺悔文を書きつけ
ます、雪が-雪のつめたさよりもそのあたたかさが私を眼醒ましてくれました、私は今、身心を新たにして自他を省
察してをります。‥
不眠と感傷、その間には密接な関係がある、私は今夜もまた不眠で感傷に陥つた。
※句作なし、表題句は 2 月 28 日付記載の句
Photo/裕徳院稲荷神社の楼門
Photo/ライトアツプに映える裕徳院稲荷の本殿
Photo/12 月 8 日秋季大祭行事のおひたき神事風景
20100517
雪の法衣の重うなる
-表象の森- 書の近代の可能性・明治前後-9石川九楊編「書の宇宙-24」より
・日下部鳴鶴「大久保公神道碑」
- 196 書道界でいう明治の三筆の一人、日下部鳴鶴-1838~1922-の代表作。難死した大久保利通を祭る碑文。二本の近代以
降の一般の書字のモデルとなった作である。
一点一画、否、起筆から収筆まで毫も揺るぎなく書かれ、張り詰めた緊張感をみなぎらせている。<奉>の横画に見ら
れるように、起筆が強い三角形で描き出されているにもかかわらず、収筆部がこれに対応した三角形で書かれること
がないのは、「トン・スー」の二折法で書かれた文字を刻した六朝時代の石刻文字をモデルにしているから。横画が
長く書かれ、かつ相互の間隔が詰まり、字形も菱形よりも田形寄りに描かれているのも、同じ理由からだ。
/詔曰。忠純許/國。策鴻圖於/復古。公誠奉/君。賛不績於/(維新。‥‥)
・ 々 「八十寿筵詩」
同じく日下部鳴鶴が書いた隷書体の佳作。大正 6 年、88 歳の時の力作。先の作のような、みなぎりあふれる緊張感
はないが、整然としたたたずまいで端正に書かれている。
点画が小刻みに波打つような姿をしているが、これは近代的な無限微分筆蝕に従って書かれているから。
表現者・副島種臣や、近代的芸術家・中村梧竹とは異なり、近代日本の書法基準を作り上げた書道家の書である。
/青山一角避紅塵。不汎家湖把/釣綸。頤性半仙期大耋。開筵立/夏卜佳辰。榴華多子如爲壽。竹/祖添孫自作鄰。
曰薫風清景/好稱觴欣笑共同人
―山頭火の一句― 行乞記再び -612 月 28 日、晴、曇、雪、風、行程 5 里、鹿島町、まるや
毎日シケる、けふも雪中行乞、つらいことはつらいけれど張合があつて、かへつてよろしい。
浜町行乞、悪道日本一といつてはいひすぎるだらうが、めづらしいぬかるみである、店舗の戸は泥だらけ、通行人も
泥だらけになる、地下足袋のゴムがだんぶり泥の中へはまりこむのだからやりきれない。
同時に、此地方は造酒屋の多いことも多い、したがつて酒は安い、我党の土地だ。-略生きるとは味ふことだ、酒は酒を味ふことによって酒も生き人も生きる、しみじみ飯を味ふことが飯をたべることだ、
彼女を抱きしめて女が解るといふものだ。
※表題句には「雪中行乞」と註あり、外 3 句を記す
やはり大地自然にあって、その厳しさや、また逆の穏やかな安らぎが、佳句を生む。
人の親切に束の間感激しては、酒に溺れ退嬰ぶりを示していた数日前とは打って変わったかのような昨日今日の姿、
とみえる。
山頭火が触れているように、現在の鹿島市においても酒造業が多く、長崎鉄道の肥前浜駅界隈の、鎌倉・室町の中世
から港町・宿場町として栄えた肥前浜宿には、酒蔵通りなど歴史的街並みが残っている。
Photo/肥前浜宿の酒蔵通り-1
Photo/肥前浜宿の酒蔵通り-2
Photo/肥前浜宿の酒蔵通り-3、左側 2 軒目の木造家屋は昭和初めの頃からの郵便局
20100516
こゝに住みたい水をのむ
-表象の森- 書の近代の可能性・明治前後-8石川九楊編「書の宇宙-24」より
・副島種臣「積翠堂」
驚くべし、恐るべし、副島種臣。
これは夏目漱石の伊豆修善寺の大患の舞台として知られる旅館菊屋のために揮毫した、明治 17 年の作。
- 197 篆刻は書の一種だが、方形の文字の字間をびっしりと詰めたこの作は、巨大な篆刻と言ってもさしつかえない。紙面
を縦に 5 等分すると。<積><翠><種臣>がそれぞれ 5 分の 1 ずつ、残りの 5 分の 2 のスペースを<堂>の一字が占める。
そこには、篆書体、隷書体、行書体の表現が入り交じり、書に関する副島のすべての力量が結集されている。
驚くほど巨大な企みと表現をもつ書だが、それでもまだ文字の規範に従うだけでは盛りきれないエネルギーは、左回
転の大回りの起筆や、瘤状の字画や、強い摩擦の筆蝕として出現している。二本の筆を手にして書いたのも、太い筆
が身近になかったというよりも、一本では足りない表現の質量がそれを促したのであろう。
構成、とりわけ余白の白を強調する<堂>の上部は卓抜。一部欠画しているにもかかわらず、あたかも書かれているか
のごとくに見えるという、策計に満ちた作でもある。
/積翠堂。種臣
・ 々 「蘭」-ジンランおびただしい滲みが筆画の周囲に漏れ出し、筆蝕の跡さえ辿ることの難しい作だが、墨を大量に含んだ筆をゆったり
と動かして、滲んで滲んで、滲み抜いた書を意図的に書いている-その滲みは何を象徴するのか。
薩長藩閥官僚たちによって理想から遠ざかり、泥土のごとく踏みにじられ消えてゆく革命の精神をか、あるいは、そ
れらに対する副島種臣の涸れることなき涙をか。<蘭>の門部の第 2 画は、世界を睨みつける目玉のようでもある。
書の手法を駆使して、時代の姿と時代への想いを描きえたところに、書家・副島種臣の書の巨大さがある。
/蘭。副島種臣
―山頭火の一句― 行乞記再び -602 月 27 日、風雪、行程 7 里、多良-佐賀県-、布袋屋
キチガイ日和だつた、照つたり降つたり、雪、雨、風。‥
第 22 番の竹崎観音-平井坊-へ参拝。
郷はお天気が悪くて道は悪かつたけれど、風景はよかつた、山も海も、そして人も。
此宿はよい、まぐれあたりのよさだつた。
※表題句のみ
Photo/長崎と佐賀の県境、多良山系の中央に位置する多良岳-996m-や経ヶ岳-1076m-は、古くから山岳霊場の地と
して知られる。
Photo/その多良岳の登山道に見られる奇岩
Photo/多良の駅-現在の太良町-付近から眺めた有明の海
Photo/竹崎観音-竹崎山観世音寺-の修正会鬼祭は奇祭としても名高い
Photo/竹崎の漁港から竹崎城を望む
20100514
さみしい風が歩かせる
-日々余話- Soulful Days-37- もうなにも‥
午前 10 時 40 分頃、またも大阪地検に出かける。
刑事訴訟法において保証された被害者家族の意見陳述なるものは、検察の意に沿うものでなければ著しく制約を受け
るものだということが、嫌という程よく解った。これでは雁字搦め、お手上げである。憤懣遣る方ないが、被告人質
問はもちろんのこと、意見陳述もまた、被告宥恕のみを専らとするしかない。
この刑事裁判が決ってからでも、何度も足を運んだ検察庁だが、もう来たくない、これほど不毛なことはないからだ。
ひと一人の命が失われたとて、交通事故の事案なんぞ、警察にとっても、検察にとっても、膨大な処理件数のたった
- 198 一つの塵芥の類にしかすぎないし、被害者の立場から捜査の欠陥を衝いたとて、法廷記録にはそのシミひとつも残す
ことすら出来はしないのだ。
地検庁舎を出て駐車場に戻ったものの、ここは一息気分転換、なにしろ大阪市立科学館と国立国際美術館が隣接して
いるのだから、気晴らしにルノワールでも鑑賞してみるかと、美術館へ。
ところが当日券はなんと 1500 円也だ、おまけに 65 歳の恩典もない、いまさらルノワールにそんな出費をする気に
もなれず、無料で入れる「荒川修作初期作品展」を観る。全国各地に散らばっていたという写真のごとき同じシリー
ズの作品が 20 点並んだ光景はなかなかの見応え。他に 60~70 年代の概念芸術の旗手たちの収蔵作品も観られたが、
こちらはなんだか焦点の定まらない展示で詰らなかった。残念ながら、気分が晴れるほどの寄り道にはならず、車に
乗り込んで帰る。
Photo/荒川修作初期作品「抗生物質と子音にはさまれたアインシュタイン」
Photo/荒川修作初期作品「もうひとつの墓場より№4」
夕刻、4 時前になって電話が鳴る、相手は司法協会とか、公判資料のコピーが出来たので裁判所地下一階まで取りに
来いとのご託宣だが、オイオイ、明日からは週末、今すぐ走らないと来週になっちまうじゃないか、連絡してくるな
らもう少し早く出来ないのかネ、と忌々しく思いながらも、また車で出かける始末。
5530 円也というこの厚手の公判資料を、それも申請の際には取扱いにあれほど注意を受けたのに、剥き出しの裸の
まま手渡されたのには、これまた面喰らってしまった。
その捜査資料や供述調書等を、読めば読むほどに、ただ呆れかえるばかり、ナ、ナンダ、コリャ、二の句が継げない
とはこんな場合だろう。これで事故原因が明々白々とは、まことに畏れ入る、はっきりと矛盾するような写真もある
のに、堂々と載せられている。この歳にしてこの類のものを初めて拝見した訳だが、金太郎飴じゃあるまいに、マニ
ュアルどおりの捜査シナリオが、こうして量産されていくといった図がよく解るだけのこと。
午前と夕刻の、このダブルパンチに、いわゆる世事における事故始末なる世界から、この 1 年 8 ヶ月の、私自身のな
かの出来事は、途方もないほどの距離へと遠離ってしまっているのだということに、やっと気づかされたような感じ
がする。個の内側からみられた事の本質、事件のリアリティーと、法の下におけるこのたんなる形式主義によって完
結されようとしている始末記の、この途方もない乖離は、これこそまさに救いがないというものであり、切り結びを
求めること自体、端から虚像の、彼方に浮かんだあの蜃気楼でしかなかったのだ。
救いとは、絶望の背中にピタリと貼り付いてあり、悟達とは、まさにこれ、いっさいに対する諦めから発するのだ。
―山頭火の一句― 行乞記再び -592 月 26 日、晴曇定めなくして雪ふる、湯江、桜屋
だいぶ歩いたが竹崎までは歩けなかつた、一杯飲んだら空、空、空!
九州西国第 23 番の札所和銅寺に拝登、小さい、平凡な寺だけれど何となし親しいものがあつた、ただ若い奥さんが
だらしなくて赤子を泣かせてゐたのは嫌だつた。
酢牡蠣で一杯、しんじつうまい酒だつた!
夢の中でさへ私はコセコセしてゐる、ほんたうにコセコセしたくないものだ。
※表題句の外、4 句を記す
Photo/九州西国第 23 番札所法川山和銅寺
Photo/和銅寺の本尊とされる行基作伝の十一面観世音木立像
20100513
- 199 風ふいて一文もない
-日々余話- ゆみの初キャンペーン
歌手のキヤンペーンなるものに初めて付合った。歌手とはむろん松浦ゆみ。
所は十三本町の商店街筋にある恵比須堂。狭い店内に小さな仮設ステージ、その前に十数脚並べられた丸椅子に腰掛
ける人や立ち見の人で満杯、道行く人もかなりの数が立ち止まって聞き入る。
僅か 30 分の短いステージが一回こっきり、それでも新曲の CD は 30 枚以上売れたらしい。
彼女にとってもこの種のキャンペーンは初めてだったそうだが、そのなかで唱った「テネシーワルツ」は、慥か私が
聴くのは 2 度目だが、これは巧い、痺れるほどによかった。聴衆たちの反応もどよめきたつほどだった。
この種の業界でずっと生きてきた 60 歳過ぎのある御仁が、是比プロモートしたいと本人に直談判、そんな成行きで
始まったことだが、これは大化けする最後のチャンスなのかもしれない。
―山頭火の一句― 行乞記再び -582 月 24 日、25 日、行程 5 里、諫早町、藤山屋
吹雪に吹きまくられて行乞、辛かつたけれど、それはみんな自業自得だ、罪障は償はなければならない、否、償はず
にはゐられない。
また冬が来たやうな寒さ、-寒があんまりあたたかだった-。
五厘銭まで払つてしまつた、それでも一銭のマイナスだつた。
※表題句のみ
諫早湾は干拓の歴史である。湾沿岸地域は、阿蘇九重山系の火山灰質の土砂などが筑後川などの河口に流され、それ
が有明海を反時計回りの潮流より諫早湾奥部へと供給され続け、堤防の前面などに年間で約 5 ㎝程度のガタ土の堆積
が進み、干潟が発達することになる。このため、背後地よりも堤防の前面の干潟が高くなってしまい、慢性的な排水
不良となる。この干潟を堤防で囲むことにより、記録によれば、約 1330 年南北朝の頃)から干拓が行われてきた。
Photo/諫早湾の干拓地全景
20100512
ならんで歩くに石だゝみすべるほどの雨
-日々余話- 梯子外されて‥
朝から裁判所へと出かける、10 時きっかり、庁舎に入った。
被害者家族には閲覧や複写が可能になった訴追資料や捜査記録等などの複写を得るためだ。
申請手続きは遅滞なくできたが、後日、業者から送られてくることになるそうで、1 週間はかかるだろうとという。
なんだよ、それならそうと、昨日、電話した際に言っといてくれよ。此方は、その場で閲覧しながらコピーできるの
かと思っていたから、相応の心準備をしてきたのに、気負い込んでいたのがプッツン、どっ身体から力が脱けていく
‥。
お蔭で、家に帰ってからも、気怠い、思考の焦点が定まらないなど‥、終日、身心低調。
―山頭火の一句― 行乞記再び -572 月 23 日、いよいよ出立、行程 6 里、守山、岩水屋
久しぶりに歩いた、行乞した、山や海はやつぱり美しい、いちにち風に吹かれた。
此宿はよい、同宿の牛肉売、皮油売、豆売老人、酒一杯で寝る外なかつた。
※句作なし、表題句は 2 月 4 日の句
- 200 現在、島原・雲仙の地域で守山という名を残すものは、雲仙市吾妻町古城名にある守山城址公園や守山馬場くらいし
かない。
Photo/城址公園となっている守山城本丸跡
Photo/雲仙市吾妻町と諫早市高來町を結ぶ諫早湾干拓堤防道路が'07 年 12 月開通した。
20100511
あたたかくて旅のあはれが身にしみすぎる
-日々余話- 紙面の写真のひと
公人でもなく、自分の知る人が、新聞の紙面を飾るのに出会すなどというのは滅多にあることではないが、本日の毎
日新聞の夕刊を読みながら、掲載記事の中のひとりの女性の写真に眼が釘付けとなり、思わず記憶の糸を手繰り寄せ
ていた。
奈良美智や村上隆など現代アーティストたちの収集作品 1000 点を、「個人宅で作品を守るのは難しく、美術館への
寄贈が一番。寂しいけれど地震や火災におびえなくていいので安心」と、20 年余りにわたって買い集め、愛蔵して
きたのをすべて気前よくポンと、和歌山県立美術館に寄贈したという御仁、大阪教育大名誉教授田中恒子さんとある
が、彼女の旧姓は水島、昔をよく知る人というばかりか、私の育った家の隣人であったから、イヤ驚いた。
たしか、水島一家はそれまで安治川の源兵衛渡し付近に住んでいたのを、私が中一の頃だったと思うが、隣に越して
きたのだった。彼女の弟は私と同年、中学・高校と一緒だったし、とりわけ中学時代はよく行動をともにした間柄だ
ったし、姉の恒子さんは 4 歳年上で、次兄と中学の同期となるし、かなり家族ぐるみの交わりもあったから、よく憶
えている。
新聞に映っているのは全身の写真で、あまり大きくはないから、記事を読みつつ、はてこの人、ちょっと待てよ、と
よくよく眺めては気がついたのだった。
ひとしきり懐かしさに耽ったものだが、偶さかこんなこともあるものだ。
-表象の森- 書の近代の可能性・明治前後-7石川九楊編「書の宇宙-24」より
・副島種臣「七言二句」
これまた雄大・雄壮な作。詩中の<蓮岳>は富士山、<墨江>は隅田川を指すのだろうか。とすれば日本を強く意識した
作である。
<天><千>は、左ハライを右ハライにと左右を入替えた裏字。<古>の第 2 画は、縦画であるべきところを横画で書い
た副島式異体字。<色>は乙鉤部以降を極端に細めた特異な書法。<流>においてはすべての字画の間をぎゅうぎゅう
に詰め、余白を無理に少なく描いている。
全体に雄渾に書かれている中にあって、<蓮>の車部が伸びやかに、<墨>が小さく書かれているところに、構成の非
凡さがある。
種臣という落款の位置は、自恃の気概の高さを象徴する。
/白日青天蓮岳色。/千秋萬古墨江流。/種臣。
・副島種臣「杜甫曲江対酒詩句」
これまたあっと驚くような、気品を漂わせた作。
ひとつの字画を可能な限り三角形の変奏で書き表わさんとした、明治 18 年の実験作で、基調は篆書体。
<桃>は<挺>に見え、よく見れば<兆>に書かれている、<細>は<紳>に見え、<時>は<昨>に見えかねない。
落款部で<酉>の懐部分が右に 45 度倒し、<島>は<副・種臣>の 5 倍ほども大きく書かれている。
- 201 書の表現の可能性を精査している姿であり、それはもはや政治家副島の姿ではなく、書家-表現者-のものである。
/桃花細遂楊花落。/黄鳥時兼白鳥飛。/乙酉。副島種臣。
―山頭火の一句― 行乞記再び -562 月 17 日~22 日、島原で休養。
近来どうも身心の衰弱を感じないではゐられない、酒があれば飲み、なければ寝る、-それでどうなるのだ!
俊和尚からの来信に泣かされた、善良なる人は苦しむ、私は私の不良をまざまざと見せつけられた。
同宿の新聞記者、八目鰻売、勅語額売、どの人もそれぞれ興味を与へてくれた、人間が人間には最も面白い。
※句作なし、表題句は 2 月 2 日の句
Photo/島原城の天守復元は昭和 39 年
Photo/平成 4 年、200 年ぶりの雲仙普賢岳噴火での土石流被災を伝える保存家屋
20100510
旅は道づれの不景気話が尽きない
-表象の森- 書の近代の可能性・明治前後-6石川九楊編「書の宇宙-24」より
・副島種臣「弘文天皇御製」
筆尖を刀の切先-鋒-のように尖らし、静かにしかし鋭く斬り込み、本文中では強く深く、しかしゆったりと削るよう
に書き綴っていき、落款部で切先で鋭く切り削っていく。その書きぶり-筆蝕-に緊張感と気品が漂う。
流麗さも併せ持つ作である。<地>のゆったり、たっぷりとした最終画の書きぶり、<弘文天皇御製>の御身の厳しく
目まぐるしい筆蝕展開が、見所である。
/皇明輝日月。帝徳戴/天地。三才並泰昌。萬國/表臣儀。
/右弘文天皇御製。/臣副島種臣謹書
・副島種臣「五言古詩」
楷書の作。字体的には楷書から崩れているが、書きぶりから言えば、一画々々を微塵の揺るぎもなく積み上げていく
楷書体。もしも楷書を、一画々々を組合わせて揺るぎない文字を構築した書体と定義づけるなら、副島種臣は日本書
史上で唯一、楷書を書き得た人物である。
字体的には<爲>など草書体も混じるが、書体的には六朝期の龍門造像記などの石刻楷書のごとき石を砕く趣をもち、
紙に書いているというよりも、むしろ右に刻っていると感じさせる書である。
冒頭の<輜車駕白馬>、いずれも転折部で筆が改められるが、これは筆毫の無法な展開を阻むためと、北魏などの六朝
石刻文字に学んだ書法でもある。
/輜車駕白馬。從御爲裵徊。銘旌老/叔書。當察臨筆哀。甚惜雄毅姿。去/趨長夜臺。古人謂命也。不止哭顔回。儻
/見天主者。試願磊落才。彼奪生前/福。而樂身後災。是亦□賊耳。窮/詰勿屈哉。 /滄海老人副島種臣草。
―山頭火の一句― 行乞記再び -552 月 16 日、行程 3 里、島原町、坂本屋
さつそく緑平老からの来信をうけとる、その温情が身心にしみわたる、彼の心がそのまま私の心にぶつかつたやうに
感動する。
※句作なし、表題句は 2 月 3 日の句
Photo/島原城の西側、鉄砲町に残る武家屋敷街の跡
- 202 -
20100509
けさはおわかれの卵をすゝる
-日々余話- 芝桜の絨緞と白毫寺の九尺藤
ライトアツプされた白毫寺九尺藤の写真が、今日の朝刊の一面に載っていたのに眼を奪われて、不意に見に行きたく
なった。
このところ裁判絡みの意見陳述書の作成やらなにやらで、心身ともに疲労困憊気味だったので、なにやら気分転換を
欲していたのかも知れない。
午後 2 時半頃から出かけた。三田西 PA から地道を走り、千丈寺湖を通り抜けていく。このあたりすでに里山らしい
風景が続いて心地よい。三田の奥、篠山に近い山路の、花菖蒲や牡丹園名高い花の寺第 11 番永澤寺に着いたのは 4
時頃。永澤は<ヨウタク>と読むのが正しいが、これがなかなかちゃんと読んで貰えないためか、道すがらの案内表示
などには<エイタク>と振仮名されている。芝桜の花のじゅうたんが今は盛り。大人 600 円也、子ども 300 円也の入
園料はちと高いのではないか、商売気に走りすぎと思われたが、ひとまずのんびりと一時間ほど過ごした。
Photo/永澤寺の芝桜の絨緞二様
永澤寺を発てばすぐ篠山市に入る。これを斜め縦断するようにして丹波路は市島町の白毫寺をめざす。標高 569m の
五大山の山裾にある白毫寺は、ちょっと鄙びたいい寺だ。着いたのはちょうど 6 時頃で、ライトアップには少し早か
ったが、九尺藤の長い藤棚がある所はちょっとした広場になっているから、KAORUKO も退屈せずに遊びに興じてい
た。さすがに 7 時半近くにもなってくると照明に映えてちょっとした幽玄郷の雰囲気。
Photo/白毫寺の九尺藤二様
もっと冥くなってからの光景も見たかったが、それでは帰りが遅くなりすぎる。些か心残りながら已むなく帰路へ。
夕刻からの 12km という渋滞も、我々が走る頃にはすでになく、1 時間半もかからず、9 時前に無事帰着。
―山頭火の一句― 行乞記再び -542 月 15 日、少し歩いて雨、布津、宝徳屋
気が滅入つてしまうので、ぐんぐん飲んだ、酔つぱらつて前後不覚、カルチモンよりアルコール、天国よりも地獄の
方が気楽だ!
同宿は要領を得ない若者、しかし好人物だつた、適切にいへば、小心な無頼漢か。
此宿はよい、しづかでしんせつだ、滞在したいけれど。-
※句作なし、表題句は 2 月 8 日の句
Photo/布津町から見た島原半島
Photo/布津町から雲仙普賢岳を望む
20100508
大海を汲みあげては洗ふ
-表象の森- 書の近代の可能性・明治前後-5石川九楊編「書の宇宙-24」より
明治近代化の書の中で、もっとも注目すべきは、一連の幕末維新期の唐様+日本型墨蹟型の系譜に出発しながらも、
二度にわたる渡清によって六朝書の影響を受け、たんにそれらを新しい書体と受けとめるだけではなく、自らの思想
や政治行動と連動して、時代と自己のスタイル表現として見事に開花させた副島種臣の書である。
- 203 -
・副島種臣「願正寺上人追弔詩.二首」
幕末に佐賀藩の志士たちが屡々会合した願正寺の裁松上人の死を弔った二輻。天地 340 ㎝、幅 140 ㎝、全紙を横に
して 5 枚つないだほどの超大作。書風凄絶なる副島種臣初期の作。
ほとんど構成に意を払わないかのごとく無法に書き綴りながら、有無を言わさぬ作品に仕上げてしまう力量には舌を
巻く。
たとえば<佐>のイ部から旁につながる細い連綿はタブーであり、また旁の<左>部で筆尖が乱れ割れたままで紙に接
する書法もタブーである。いたるところでタブーを犯しながら、その破戒・破法性最大の見所となるという逆説の劇
の上に、この作は成立している。
全体の律動が右上から左下へ向かい、また左上から右下に向かう<×>動きに主律されていることは見逃せない。
/我識上人有幾年。勤王大
/義早昭然。一朝事遂君瞑
/目。獨是眼遠京洛烟。
/裁松上人三年法會追弔。副島種臣拝。
/佐賀城上雪紛ゝ。願正寺邊
/鐘響分。命海願正寺
/不見。爲注歌氏斯文。
/願正寺弔裁松上人。副島種臣拝。
―山頭火の一句― 行乞記再び -532 月 14 日、曇、晴、行程 5 里、有家町、幸福屋
昨夜はラヂオ、今夜はチクオンキ、明日はコト、-が聴けますか。
大きな榕樹-アコオ-がそここヽにあった、島原らしいと思ふ、たしかに島原らしい。
<追記>-幸福屋といふ屋号はおもしろい。
同宿は坊主と山伏、前者は少々誇大妄想狂らしい、後者のヨタ話も痛快だつた-剣山の話、山中生活の自由、山葵、
岩魚、焼塩、鉄汁。‥
※句作なし、表題句は 2 月 7 日の句
Photo/有明海に囲まれ難攻不落の天然の要塞だった原城跡、南島原市南有馬町
Photo/西有家の吉利支丹墓碑、碑文はポルトガル式綴字法のローマ字。有家町には現在 53 基のキリシタン墓碑が
確認されている。
Photo/道路端や石垣、畑の中などに散在していた 17 基の桜馬場墓碑群を集めた有家切支丹公園
20100507
解らない言葉の中を通る
-日々余話- 法廷という虚構
平成 22 年(わ)第××××号
被告人 M.M
事件名 自動車運転過失致死傷
第 1 回公判が、大阪地裁、×××号法廷にて、本日午前 10 時より開廷された。
法廷という籠の中では
- 204 脚色された事実だけが
事実として活きる
所詮
ソ、レ、ダ、ケ、ノ、コ、ト、カ
すでに 50 歳半ばをすぎた
被告 M の
物言いや態度は
私の知るいつもの
あの素直な M とは
まるで違って
なにかの外圧から
意に染まぬことを
無理強いされた
大きな子どものように
ただ、ふてくされた
ものにしか映らなかった
此処も、また
主戦場には
到底
なりえない、か
―山頭火の一句― 行乞記再び -522 月 13 日
朝の 2 時間行乞、それから、あちらでたづね、こちらでたづねて、水月山円通寺跡の丘に登りついた、麦畑、桑畑、
そこに 600 年のタイムが流れたのだ、やうやくにして大智禅師の墓所を尋ねあてる、石を積みあげて瓦をしいて、堂
か、小屋か、ただ楠の一本がゆうぜんと立つてゐる、円通寺再興といふ岩戸山厳吼庵に詣でる、ナマクサ、ナマクサ、
ナマクサマンダー。‥
歩いてゐるうちにもう口ノ津だ、口ノ津は昔風の港町らしく、ちんまりとまとまつてゐる、ちょんびり行乞、朝日屋、
同宿は、鮮人の櫛売二人、若い方には好感が持てた。
よくのんでねた。
<追記>-玉峰寺で話す、-禅寺に禅なし、心細いではありませんか。
自戒、焼酎は一杯でやめるべし
酒は三杯をかさねるべからず
歩いてゐるうちに、だんだん言葉が解らなくなつた、ふるさと遠し、-柄にもなく少々センチになる。
今日は5里歩いた、何としても歩くことはメシヤだよ、老へんろさんと妥協して片側づつ歩いたが、やつぱりよかつ
た、よい山、よい海、よい人、十分々々。
原城跡を見て歩けなかつたのは残念だつた。
※表題句の外、句作なし
Photo/岩戸山の麓にある厳吼寺
Photo/厳吼寺境内の庭
- 205 Photo/玉峰寺は、嘗て切支丹の教会があり、また島原の乱では切支丹らの刑場ともなった地に建てられた曹洞宗の
禅寺である
20100506
寺から寺へ葛かづら
-日々余話- 交通検察と副検事
副検事という職掌も、てっきり司法試験合格によってなるものだと思いこんでいたところ、ごく最近、そうではない
と知って、なんだか腑に落ちたような気分になっている。
検察庁法で定められた「副検事選考試験」なるものがあり、その受験資格が検察庁法施行令第 2 条に細かく列記され
ているが、要するに関係各庁からの内部昇格試験のようなもので、実際の受験者は殆どが検察事務官、次いで裁判所
書記官だという。
現在、といっても'06 年の数値だそうだが、検事が全国に 1365 名、副検事が同じく 826 名、他に副検事から昇格す
る仕組みの特任検事-検事 2 級-と呼ばれるものがあり、これはたった 44 名。ちなみにテレビの「赤かぶ検事」はこの
特任検事だった。
これに対し、弁護士の場合、今年の 4 月現在、全国に 28,828 名、うち女性 4,671 名とあり、なんと検察官の 13 倍弱
も居ることになる。ただ、弁護士の大都市圏集中が近年問題になってきたように、東京の登録者が 13,823 名、大阪
で 3,584 名となっており、両者で 60%を超えるという偏在ぶりを示している。
「加害者天国ニッポン」というサイトがある。主宰の松本誠は交通事故被害者の支援活動を熱心に取り組んできた弁
護士だが、'07 年 6 月、JR 列車事故で急逝している。遺書はないが所轄の尼崎北署では自殺と判断されており、動機
など真相は藪の中のまま、不審死というのがなんだか気にかかる。
それはともかく、彼の解説によると、交通検察のあり方は 1986-S61-年を境に大きく変化したという。検察の制度改
革で、それまで交通部だけでなく刑事部にも配属されていた副検事が、交通部に集中配備されるようになり、交通事
犯の起訴率が急カーブで減少していったらしい。以前は、一般犯罪と同じ 73%だったのが今や 12%にまで減少して
いる、とこう書かれたのが、すでに 5 年前の平成 17 年だから、おそらく現在では 10%を切っていることだろう。
検察へ送検された交通事故事案の 9 割が不起訴となり、起訴とはいえその 9 割が略式起訴、公判請求され刑事裁判と
なるのは全事案の 1%に過ぎない。
こういう実態となれば、検察の取り調べというのも、単なる書面主義なのは当然で、副検事という職務は法曹なんぞ
ではなく、ただの事務屋に過ぎないと言えようか。
この 1 年余り、私が接してきたあのお二人さんも、なんのことはないただの事務屋さんだった訳だ。
―山頭火の一句― 行乞記再び -512 月 12 日、けふも日本晴、まるで春、行程 5 里、海ぞひのうつくしい道だつた、加津佐町、太田屋
此町は予想しない場所だつた、町としても風景としてもよい、海岸一帯、岩戸山、等、等。
途中、折々榕樹を見出した、また唐茄子の赤い実が眼についた。
水月山円通寺跡、大智禅師墓碑、そしてキリシタン墓碑、コレジョ-キリシタン学校-跡もある。
※句作なし、表題句は 2 月 4 日の句
Photo/花房の棚田から加津佐町を望む
Photo/加津佐町の岩戸山
Photo/コレジョ跡
20100505
- 206 まへにうしろに海見える草で寝そべる
-表象の森- 書の近代の可能性・明治前後-4石川九楊編「書の宇宙-24」より
・中林梧竹「寒山詩」
70 歳代後半から 80 歳代前半に中村梧竹の書は姿を変えるが、その時期を代表する作。
王羲之十七帖の臨書は、構成は草書体であるにもかかわらず、筆蝕は楷書的・行書的に書かれていた。その構成と筆
蝕の落差に、凛と張りつめた表現世界が成立していたが、このころになると草書体の速度と流れに従う度合いを強め
る。このため求心力をもったつややかな筆蝕は犠牲にされたが、代って構成は自由奔放さを高めた。
中林梧竹の書に対する斎藤茂吉の評「天馬空を行く勢い」とは、この書のような姿をさすのであろう。軽みを伴った
<寒山><微風><吹幽><聲><斑白><老十年>のなどの表現の登場が、この時期の達成である
/欲得安心處。寒山可/長保。微風吹幽松。近聽
/聲愈好。門有斑白人。/喃〃讀黄老。十年歸
/不得。忘却來時道。
/八十叟。梧竹。
―山頭火の一句― 行乞記再び -502 月 11 日、快晴、小浜町行乞、宿は同前。
日本晴、朝湯、行乞 4 時間、竹輪で三杯。
水の豊富なのはうれしい、そしてうまい、栓をひねつたままにしていつも溢れて流れてゐる、そこにもここにも。
よい一日よい一夜だつた。
※句作なし、表題句は 2 月 7 日付所収の句
Photo/長崎県雲仙市小浜温泉の全景
Photo/国道 57 号線沿に、湧出温度 100°の湯煙が空高く涌き立つ姿が見られる
20100504
トンネルをぬけるより塚があつた
-日々余話- 丹後半島ひとめぐり
昨日と今日、夕日ケ浦の民宿に 1 泊しての丹後半島めぐり。
早朝に発てば日帰りだってできる丹後半島へは過去にも幾たびか来ている。日本三景の天橋立は素通りしてひとまず
舟屋の町こと伊根町へ、
此処には懐かしい想い出がある。20 歳の夏だから大学の 2 回生、高校の演劇部の合宿が此処で行われたのだが、た
しかその前半だけ OB として参加した。現役の女性部員の田舎がこの舟屋の町だというので、その縁を頼ってのもの
だった。往きは宮津から船でこの舟屋の町に渡ったのだが、舟屋の群が建ち並ぶ桟橋に着いた時の光景は今でも記憶
に残る。
その懐かしい光景をまざまざと蘇らせたくなって、舟屋めぐりの遊覧船に乗ってみた。所要時間は 30 分位だったが、
ぐっと舟屋の近くまで寄せてくれるのかと期待したのにみごとに当てが外れて、ちょっぴり落胆。
このあたりを車を走らせていて気がついたのだが、舟屋の集落一帯が平田と称されているのには驚かされた、という
のも件の女子部員が平田姓だったからだ。
Photo/伊根町の舟屋
経ヶ岬付近の展望台で車を停め、海や岬を見ながら暫時休憩。
次に立ち寄ったのが間人の港、港を一望できるブルータンゴという喫茶店で軽い昼食タイム。
- 207 Photo/間人の港
鳴き砂の琴引浜は、以前にも立ち寄ったことがあるので今回はパス。さらに西へと車を走らせて五色浜へ-、岩場の
磯が日本海の荒波に浸食され生まれた自然の造型。子どもにはこういう所がいい、結構時間持ちがした。
Photo/五色浜
そして、まだ時間が早いが、夕日ケ浦の宿へ。此処で泊るのは初めてだが、来てみて気がついたのは、嘗ては浜詰海
岸と呼ばれていたのが、80 年代、新しい温泉の発掘を機にこれを夕日ケ浦温泉と名づけて、夕陽の美しい温泉場と
してブームとなってその呼称のほうが全国に知られるようになった、ということ。
その日本海に沈む夕陽は、ちょうど食事時と重なって見ることは叶わなかったが、とっぷりと暮れてから、浜辺を散
策した。夜は早く寝た、ひさしぶりにたっぷりと寝たので、早朝の散歩が清々しかった。
宿を出たのは 9 時半頃か、久美浜の内海を反時計廻りにぐるりと走って、海辺のレストランでのんびりとモーニング
珈琲。
Photo/小天橋を望む久見浜湾
そして関西花の寺 7 番札所とかの如意寺に-、名の知れたミツバツツジはもう見られなかったが、レンゲツツジや九
輪草が綺麗だった。
Photo/如意寺境内の片隅にある石塔
出石へと向かう途中で、豊岡のコウノトリの郷に立ち寄った。公開ケージでは 14.5 羽のコウノトリの姿が見られた。
文化館では写真や資料が豊富に展示されており、子どもが楽しめるコーナーもあり、意外と時間を過ごせる。
Photo/ケージのなかのコウノトリたち
兵庫県の竹野町や丹後半島へ来た時の、帰路の昼食処は出石が定番となったのはいつの頃からか、もうかれこれ 7.
8 回にはなるだろう。相変わらず休日の人出は凄い、次から次へと訪れては客待ちの列が並ぶが、回転も速いもので
15 分位で席に着けた。呼込みの小父さんに聞いたが、界隈には大小 45 軒の店が建ち並んで過当競争もいいとこ、休
日はどの店も繁盛で結構だが、平日はさっぱりで大変なんだとか。どの店に寄ろうと 850 円也均一の定価なのがいい、
5 杯の皿そばを平らげて仕上げにそば湯を飲むとちょうど頃合いの満腹感だ。おかげで車を走らせて 30 分もすると
必ずといっていいほど眠気に襲われる。
Photo/出石のシンボル辰鼓楼
帰りの中国道は、宝塚西のトンネル付近から 12 キロの渋滞だったが、これを脱けるのに 1 時間を要しなかったのは
幸い。阪高の池田線はすいすいと流れて、4 時半過ぎには無事ご帰還。
―山頭火の一句― 行乞記再び -492 月 10 日、まだ風雨がつづいてゐるけれど出立する、途中千々岩で泊るつもりだつたが、宿いふ宿で断られつづけ
たので、一杯元気でここまで来た、行程 5 里、小浜町、永喜屋。
千々岩は橘中佐の出生地、海を見遙かす景勝台に銅像が建立されてゐる。
或る店頭で、井上前蔵相が暗殺された新聞記事を読んだ、日本人は激し易くて困る。‥
- 208 此宿は評判がよくない、朝も晩も塩辛い豆腐汁を食べさせる、しかし夜具は割合に清潔だし-敷布も枕掛も洗濯した
ばかりのをくれた-、それに、温泉に行けて相客がないのがよい、たつた一人で湯に入つて来て、のんきに読んでゐ
られる。
ここの湯は熱くて量も多い、浴びて心地よく、飲んでもうまい、すべて本田家の個人所有である。
海も山も家も、すべてが温泉中心である、雲仙を背景としてゐる、海の青さ、湯烟の白さ。
凍豆腐ばかり見せつけられる、さすがに雲仙名物だ、外に湯せんべい。
※句作なし、表題句は 2 月 8 日付所収の句、去来芒塚と註あり
橘中佐こと橘周太-1865~1904-は日露戦争の遼陽の会戦で戦死、以後軍神と崇められた。現在の長崎県雲仙市千々岩
町に生れた。橘家は奈良時代の橘諸兄の子孫とされ、楠木正成と同族と伝えられる。
Photo/橘中佐の銅像
Photo/長崎県の千々岩海岸
Photo/今年の 2 月オープンしたという日本一長い小浜町の足湯
20100503
もう転ぶまい道のたんぽゝ
-日々余話- Soulful Days-36- スタートラインに立てたか
訴追側の検事、国選の弁護士、おそらくどちらも一年生の若い法曹人。それぞれに二度ずつ会ってきたが、これまで
及び腰だった弁護人は、歯噛みするような二度目の面談の時とはうってかわって、ようやく闘う姿勢に転じてくれた
ようである。
昨日の午後から会うという M に、まだ仕上り半ばの陳述意見書の素案を持たせ、行って貰ったのだが、やっと此方
の本意がほぼ通じたらしい。
休み明けの 7 日はいよいよ初公判だ。法廷の場で、こんどこそ事故の事実関係を洗い直すことが出来る、少なくとも
ある程度は。そう、全容解明なんて、そんなこと期待しちゃならぬ、相手方 T にも相当の過失があったのではないか
と、どう考えても疑いが残る、まあそんなところで落着するしかないだろう。
それにしても、西署の初動捜査は、事故当夜の現場検証、そして双方の車の実況見分ということのみで、あとは当人
らの供述のみに頼った捜査で了としたのだろう。一応ドライブレコーダーを見る機会があったのに、この記録に基づ
き、再度の現場検証を何故しなかったのか、大いに疑問が残る。
事故の数年前に自己破産を経験している M、だからこそタクシー運転手への転職であったろうが、その M の経歴を
素因として、偏向的な捜査が行われたのではないか、そんな勘ぐりまで起こしたくなるようなずさんな西署の捜査‥。
それにしても、検察は、折角ドライブレコーダーを詳細に分析しながら、西署の調書をただ追認するような結論しか
出せなかったのか。捜査上の欠陥を認めることが容易ではないことはわかるが、さりとてこのまま法廷に持ち込まれ
た場合、却ってより大きな汚点となることもあり得るではないか。残念なことではあるが、彼らもまたたんなる手続
き上の不手際、形式上のミスというものを、なによりも畏れなければならぬただの官僚にすぎないのか‥。
-表象の森- 書の近代の可能性・明治前後-3石川九楊編「書の宇宙-24」より
・近代の書
言うまでもなく、西欧の文化・文明を取り入れることによって、日本の近代化は達成された。しかし、その西欧の文
化や文明は、植民地のように直かに入り込んだのではなく、いったん漢語に翻訳されることによって、主体的に日本
に、また日本経由で東アジアに根づいていったものである。この事実から言えば、近代化は一面では西欧化であるが、
- 209 その根幹は中国化にあった。漢語・漢字化、つまり中国化を強めることによって近代化は可能になった。旧来の日本
史は、近代化を表面的に西欧化の側面だけで見すぎ、その根幹における「漢化」を見落としてきた。実際には、近代
化は卓抜した造語力をもつ東アジア漢字語-漢語-を駆使することによって、「和魂洋才」+「和魂漢才」、つまり「和
心・漢魂・洋才」として進展したものである。
明治 13 年、清国の地理学者・楊守敬が 1 万 3 千点の碑版法帖を持って来日、これら中国の書を通して、或いは副島種
臣などの政治家や、文人・書家らが渡清し、中国で多くの書や書史に触れることによって、近代書史は江戸時代末期
までの書とは一変することになった。
中国の書へのリアルな視線は、「唐様」の改革-「六朝化」をもたらす。
六朝時代の石刻楷書、さらに秦漢代の石刻の篆書体や隷書体などを、石刻の鋭さと刻りの深さをもった強靱な書体と
して認識すること-、それは日本書史上はじめて書の根拠たる石刻の書を受けとめた一大事件であり、近代の進取の
精神に対応したものであった。
・中林梧竹「七言絶句」
幕末維新期の書をすっきりと脱けた、中林梧竹-1827~1913-の輪郭明瞭な書。清朝碑学の書を基盤としながらも、此
を完全に消化・吸収し、新しくつくり変えている。つややかでしなやかで強靱な筆蝕を基調にし、構成は近代的で大
胆。現在なお色褪せない、彼 70 歳頃の鮮やかな行書体の作品。
/浅深春色幾枝含。翠影
/紅香半欲酣。簾外輕屋人
/未赴。賣花聲裡夢江南。
・
々 「七十七自寿詩」
梧竹 77 歳、喜寿を自ら祝う作。筆画は太さを増し、粘着力をいっそう増している。
行間は、許友ら一部の明末連綿草のように詰まる。隙があれば攻め入り、入り込む余地がなければこれを避けながら
書き進め、文字はびっしり紙面を埋め尽くす。草書体でありながら、たんに書速に従うだけでなく、隅から隅まで大
胆且つ細心に構成する。筆画と構成との間に忍び込む落差、その人工性に、梧竹の書の抜群の近代性がある。
/文政丁亥。惟我生爲。今歳癸卯。七十七/年。一攀華泰。再入古燕。雖恥玉砕。猶喜
/瓦全。游心物外。棲神象先。抱朴守一。/精固氣専。無墨之筆。無佛
/之禅。吟嘯風月。笑倣雲烟。乗彼大化。/榮彼自然。自壽梧竹。
―山頭火の一句― 行乞記再び -482 月 9 日、風雨、とても動けないから休養、宿は同前。
お天気がドマグレたから人間もドマグレた、朝からひつかけて与太話に時間をつぶした。
※句作なし、表題句は 2 月 8 日付所収の句
Photo/諫早市松里町にある有喜 UKI ビーチ
20100502
君が手もまじるなるべし花薄
-表象の森- 書の近代の可能性・明治前後-2
石川九楊編「書の宇宙-24」より
・西郷隆盛「示子弟詩」
- 210 幕末維新の書の典型、臭うような精気を放つ、西郷隆盛-1827~77-の書。
筆尖は紙に対して垂直に立ち、紙面上をうねうねぐねぐねと、のたうちまわる。連綿草書体で書かれているが、中国
明末の連綿草と較べると、一点一画の書法、また筆の返しなどの正確さに乏しい。その意味では、禅僧墨蹟系の無法
の書に属する。
小さく、しかし太く<世>を書いておいて、<俗>のイ部に向けて勢いよく長く引き出し、そのあとはヘアピンカーブを
描いて旁に連続し、谷部の第 1 筆に移り、第 2 筆を書き終えた後、また垂直気味に第 3 筆の左ハライを書き、残りの
筆画はうねうね蛇行させながら書き進める。和様の骨格をもちながら和様のように浮沈-痩肥-させないで、筆圧は一
貫して高い。
必ずしも爽やかなものではない筆圧を伴った蛇行こそが本作の特徴であり、明治維新をもたらした力源である。
/世俗相反處。英雄却好
/親。逢難無肯退。見利勿全循。
/齋過沽之已。同功賣是人。
/平生偏勉力。終始可行身。
・大久保利通「下淀川詩」
この大久保利通-1830~78-の作もまた、幕末維新の志士特有の書。うねうねぐねぐねと蛇行し、回転する筆蝕は西郷
隆盛と同様。
しかし西郷が、どちらかと言えば横の水平動にアクセントを置くことよって、字形はやや縦長に構成される。また、
西郷があまり強弱・抑揚を見せないのに対して、大久保のこの作では、第 1 行を強い筆圧の<爲>で始め<客京城感慨>
と筆圧を弱め、第 2 行の<此夕意如何>では筆圧を強め大きく書いている。
第2 行の強の<意如何>と第3 行の弱の<鷗眠>、さらに第4 行の強の<戴夢過>のコントラストは構築性に富んでいる。
<何>の擦れの縞模様は畳の理-め-の跡。筆は力の表現であるからこの、この畳理は筆圧と筆勢の強さを強調する効果
をあげている。
/爲客京城感慨多。孤舟
/此夕意如何。水關
/不鎖鷗眠穏。十里長江
/戴夢過。
―山頭火の一句― 行乞記再び -472 月 8 日、雨、曇、また雨、どうやら本降らしくなつた。
ひきとめられるのをふりきつて出立した、私はたしかに長崎では遊びすぎた、あんまり優遇されて、かへつて何も出
来なかつた、酒、酒、酒、G さんの父君が内職的に酒を売ってをり、酒好きの私が酒樽の傍に寝かされたとは、何と
いふ皮肉な因縁だつたらう!
-略- このあたりには雲仙のおとしごといひたいやうな、小さい円い山が 4 つも 5 つも盛りあがつてゐる、その間を
道は上つたり下つたり、右へそれたり左へ曲つたり、うねうねぐるぐると伸びてゆくのである、だらけたからだには
つらかつたが、悪くはなかつた、しかしずいぶん労れた、江ノ浦にも泊らないで、此浦まで歩いて来た、
有喜の湊屋。
有喜近い早見といふ高台からの遠望はよかつた、美しさと気高さとを兼ね持つてゐた、千々岩灘を隔てて雲仙をまと
もに見遙かすのである。‥
-略- このあたりは陰暦の正月 3 日、お正月気分が随処に随見せられる、晴着をきて遊ぶ男、女、おばあさん、こど
も。
- 211 長崎から坂を登つて来て登り尽すと、日見隧道がある、それを通り抜けると、すぐ左側の小高い場所に去来の芒塚と
いふのがある。-略※表題句の外、3 句を記す
Photo/俳人去来の芒塚、向井去来は長崎出身
Photo/諫早市早見あたりから千々岩灘をとおして望む雲仙
Photo/現在の諫早市有喜漁港全景
20100501
明けてくる山の灯の消えてゆく
-表象の森- 書の近代の可能性・明治前後-1
石川九楊編「書の宇宙-24」より
近代革命の書-西郷隆盛、大久保利通、副島種臣ら幕末の志士たちは、<唐様>に日本型<墨蹟>の表現を注ぎ込み、
太い字画からなるエネルギッシュな一群の特異な書を生んだ。これらの書は唐様+墨蹟という構造を持つことによっ
て、江戸時代の儒者たちの書と同時に禅僧たちの書を乗り超え、相対化する構造を有していた。
・山岡鉄舟「粛疎遠岫雲林画」
明治維新期の志士たちの書の中でも禅僧墨蹟的表現性の強い、山岡鉄舟-1836~88-の書。とりわけ<遠>の後半部、そ
こから左回転で描き出される<山>部と右回転主体で描き出される<由>部からなる<岫>の、接触感と速度感のめざま
しい書きぶりは、この書を象徴する。筆圧は強いながらも伸びやかに展開する<粛疎>、擦れながら、やや軽めの筆圧
で大回転を見せる<遠岫>、再び墨をつけて<雲林>に展開し、強い筆圧で捩じ込むように回転する<畫>-という具合
に、ダイナミックな起承転結を見せる。効果的な筆の荒れを見せる<畫>も含めて見事な書だが、それが定型化した書
法に堕しているところが、物足りない。
/粛疎遠岫雲林畫
・高橋泥舟「五言二句」
渋滞・遅滞感を伴った泥舟-1835~1903-の書。枯れ枝のような筆画からなる痩身の<風>が、この書を象徴する。筆蝕
-筆の進み方-が、平面に展開する以上に、槍を突き刺すかのごとく紙-対象-の奥に向かう。そのため<風>の第 1 画に
見られるように、ひとつの字画が点の集合体のような姿で描き出される。しかも、本来は速い速度で書かれるところ
に生れる連綿草書体を、その遅い筆速で構成するため、筆蝕と速度にずれが生じ、そのずれが不思議な世界を生んで
いる。さらに、その筆蝕が<葉>の草書体の第 1.2 画に見られるように直線的に-紙を離れた筆尖が高く上がらずに進むため、運筆が抱きこむ平面的・立体的空間の小さな-懐の狭い-構成をもたらし、渋滞・遅滞感を見せている。
/月明春葉露。雲
/逐度渓風。
々
「戒語」
先の特異な草書の他に、虞世南の孔子廟堂碑風の、端正で穏やかな楷書も残している。草書と楷書の両者の落差に、
一筋縄では捉えられない作者の姿が浮かび上がる。
/蚯蚓内無筋骨之強。外無爪牙之利。
/然下飲黄泉。上墾乾土何。用心一也。
/人能一志事無不成。
- 212 ―山頭火の一句― 行乞記再び -462 月 7 日、晴、肥ノ岬-脇岬-へ、発動船、徒歩。‥
第 26 番の札所の観音寺へ拝登、堂塔は悪くないが、情景はよろしくない、自然はうつくしいが人間が醜いのだ、今
日の記は別に書く、今日の句としては、-
※表題句の外、3 句を記す
Photo/肥ノ岬-脇岬-風景
Photo/第 26 番札所円通山観音寺
20100430
波止場、狂人もゐる
-日々余話- 今月もまた‥
見てのごとく、今月も石川九楊の書史論ばかりが並ぶ。
「日本書史」は 2001 年 9 月刊、翌年の毎日出版文化賞。
彼はその序章の小論で「途中乗車し、途中下車した」日本の書史と、ユニーク且つ些かセンセーショナルな言い方を
している。
曰く「日本の書史は、中国を厚みと高さと広がりとする書史に楷行草の時代から途中乗車し、やがて日本は東アジア
諸国ではいち早く近代化を達成することによって、また、書史からもいち早く途中下車したのである」と。
-今月の購入本-
石川九楊「日本書史」名古屋大学出版会
-図書館からの借本-
石川九楊編「書の宇宙 -19-変相の様式・流儀書道」二玄社
石川九楊編「書の宇宙 -20-近大への序曲・儒者.僧侶.俳人」二玄社
石川九楊編「書の宇宙 -21-さまざまな到達・清代諸家①」二玄社
石川九楊編「書の宇宙 -22-古代への憧憬・清代諸家②」二玄社
石川九楊編「書の宇宙 -23-一寸四方のひろがり・明清篆刻」二玄社
石川九楊編「書の宇宙 -24-書の近代の可能性・明治前後」二玄社
―山頭火の一句― 行乞記再び -45陰暦元旦、春が近いといふよりも春が来たやうなお天気である。
今日も食べるに心配はなくて、かへつて飲める喜びがある、無関心を通り越して呆心気分でぶらぶら歩きまはる、9
時すぎから 3 時まへまで-十返花さんは出勤-。
諏訪公園-図書館でたまたま九州新聞を読んで望郷の念に駆られたり、鳩を観て羨ましがつたり、悲しんだり、水筒
-正確にいへば酒筒だ-に舌鼓をうったり‥-。
波止場-出船の音、波音、人声、老弱男女-。
浜ノ町-買ひたいものもないが、買ふ銭もない、ただ観てあるく-。
ノンキの底からサミシサが湧いてくる、いや滲み出てくる。
上から下までみんな借物だ、着物もトンビも下駄も、しかし利休帽は俊和尚のもの、眼鏡だけは私のもの。-略長崎の銀座、いちばん賑やかな場所はどこですか、どうゆきますか、と行人に訊ねたら、浜ノ町でしようね、ここか
ら下つて上つてそして行きなさいと教へられた、石をしきつめた街を上つて下つて、そして下つて上つて、そしてま
た上つて下つて、-そこに長崎情調がある、山につきあたっても、或は海べりへ出ても。-略-
- 213 灯火のうつくしさ、灯火の海-東洋では香港につぐ港の美景であるといはれてゐる-。
※表題句の外、句作なし
Photo/諏訪神社全景
Photo/諏訪公園は長崎公演とも呼ばれる
Photo/明治中頃の浜ノ町
Photo/長崎の夜景
20100429
すつかり剥げて布袋は笑ひつヾけてゐる
-表象の森- 清代諸家-古代への憧憬-6
石川九楊編「書の宇宙-22」より
・最後の書家-趙之謙
書の歴史をずっとながめていくと、明らかに、清代の書の中でも鄧石如から書は一変し、その雰囲気を維持しつつ、
趙之謙で書は終ったという感を深めないではいられない。「逆入平出」という書法をいわば自動的、機械的な装置に
変えた時、書は終ったのである。少なくとも伝統的な意味での書の美質の歴史は終焉した。
金農や鄭燮の書は小刻みに微動し、その力をたえず、対象との関係によって不断に再生し、補っていかざるをえない
筆蝕の微分-微粒子的律動-の上に成り立つ。この書法は、三折法、九折法を裏側に貼りつけており、それは、三折法接触と抵抗と摩擦と抉別-との相剋として出現し、筆蝕の微分をやめれば、いつでも三折法が顔を出す。これに対し
て、逆入平出においては、この装置そのものが、不可避に筆蝕の微分をオートマティックに発生させる。したがって、
そこに表われる微分筆蝕は行き過ぎた機械化であり、歴史的累乗としての三折法との相剋を欠いた筆法ゆえに、安定
し、乱れが少なく、それゆえいつでも一定の画一的な結果をもたらすが、それはいわば小細工にすぎず、袋小路へと
迷い込むことになる。
・趙之謙-Chyoshiken-「楷書五言聯」
/駭獣逸我右。/飢鷹興人前。
―山頭火の一句― 行乞記再び -442 月 5 日、晴、少しばかり寒くなつた。
朝酒をひつかけて出かける、今日は二人で山へ登らうといふのである、ノンキな事だ、ゼイタクな事だ、十返花君は
水筒二つを-一つは酒、一つは茶-、私は握飯の包を提げてゐる、甑-コシキ-岩へ、そして帰途は敦之、朝雄の両君をも
誘ひ合うて金比羅山を越えて浦上の天主堂を参観した、気障な言葉でいへば、まつたく恵まれた一日だつた、ありが
たし、ありがたし。
昨日の記、今日の記は後から書く、とりあへず、今日の句として、-
寒い雲がいそぐ -下山※他に句作なし、表題句は 2 月 4 日記載の句
Photo/長崎七高山の一、金比羅山から眺めた長崎港
Photo/原爆で廃墟と化した浦上天主堂
Photo/復興成った現在の浦上天主堂
20100428
冬雨の石階をのぼるサンタマリヤ
-表象の森- 和訓=文字の成立
- 214 山城むつみ「文学のプログラム」-講談社文芸文庫-より-2
「和訓の発明とは、はつきりと一字で一語を表はす漢字が、形として視覚に訴へて来る著しい性質を、素早く捕へて、
これに同じ意味合を表す日本語を連結する事だつた。これが為に漢字は、わが国に渡来して、文字としてのその本来
の性格を変へて了つた。漢字の形は保存しながら、実質的には、日本文字と化したのである。この事は先づ、語の実
質を成してゐる体言と用言の語幹との上に行はれ、やがて語の文法的構造の表記を、漢字の表音生の利用で補ふ、さ
ういふ道を行く事になる。」 -小林秀雄「本居宣長」
ここには訓読について明晰かつ判明に書かれていることが三つある。
一つは、和訓の発明がいかに離れ業であったかについてである。文字というものを初めて経験した上代の日本人は、
その「著しい性質を、素早く捕へて、これに同じ意味合を表す日本語を連結する」ことによって、外来の文字がもつ
「著しい性質」を和らげ隠蔽した。それはいわば、外傷を被りながら同時にこれを消去する放れ業である。
二つめは、和訓の発明によって漢字はその「形は保存しながら、実質的には、日本文字と化した」と言うことである。
和訓の発明は漢字漢文の読み方である以前に、それ自体が「日本文字」の発明であった。訓読は読むための考案では
なく、書くための考案だったのである。
三つめは、漢字の形をそのまま保存しながら実質的にはこれを「日本文字」に転ずるという放れ業において訓読とい
うプログラムがいかに作動していたか、またそのプログラムがいかに和「文」のシステムを形成していったか、その
経緯についてである。小林によれば、放れ業は、まず体言と用言の語幹と上に行われ、やがて語の文法的構造の表記
を、漢字の表音性の利用で補うという経緯をたどって、今日、書き下し文として知られるものに似た原型的な和「文」
を形成していったのである。
―山頭火の一句― 行乞記再び -432 月 4 日、曇、雨、長崎見物、今夜も十返花居で。‥
夜は句会、敦之、朝雄二氏来会、ほんたうに親しみのある句会だつた、散会は 12 時近くなり、それからまだ話した
り書いたりして、ぐつすり眠つた、よい一日よい一夜だつた。
友へのたよりに、-長崎よいとこ、まことによいところであります、ことにおなじ道をゆくもののありがたさ、あた
たかい友に案内されて、長崎のよいところばかりを味はせていただいております、今日は唐寺を巡拝して、そしてま
た天主堂に礼拝しました、あすは山へ海へ、等々、私には過ぎたモテナシであります、プルプロを越えた生活とでも
いひませうか。-
※表題句の外、5 句を記す
Photo/唐寺の多い長崎、四大唐寺と称されるなかの最古の興福寺
Photo/大浦天主堂
Photo/ステンドグラスに映える天主堂内部
20100427
けふもあたたかい長崎の水
-表象の森- 日本語の構造
・山城むつみ「文学のプログラム」-講談社文芸文庫-より-1
- 215 「本当に語る人間のためには、<音読み>は<訓読み>を注釈するのに十分です。お互いを結びつけているベンチは、
それらが焼きたてのゴーフルのように新鮮なまま出てくるところをみると、実はそれらが作り上げている人びとの仕
合わせなのです。
どこの国にしても、それが方言ででもなければ、自分の国語のなかで支那語を話すなどという幸運はもちませんし、
なによりも-もっと強調すべき点ですが-、それが断え間なく思考から、つまり無意識から言葉-パロール-への距離
を蝕知可能にするほど未知の国語から文字を借用したなどということはないのです。」 -J.ラカン「エクリ」
<音読み>が<訓読み>を注釈するのに十分であるというのはどういうことか。
「よむ」という言葉が話されるとき、読や詠、あるいは数・節・誦・訓という漢字を適宜、注釈しているということで
ある。この注釈のため「読む」と「詠む」は、読という字と詠という字が異なるのと同じくらい異なる二つの言葉と
して了解される。日本語においては、文字-音読み-が話し言葉-訓読み-の直下で機能しこれを注釈しているのである。
もちろん、話し手はそれを意識していない。その意味で、この注釈の機能は無意識のうちに成されていると言ってよ
い。
次に、「どこの国にしても、‥」以下の一文から読取らねばならないのは、すなわち、日本語が中国語という未知の
国語から文字を借用し、日本語固有の音声と外来の文字とを圧着したということは、<音読みによる訓読みの注釈>
を可能にしているのみならず、「無意識から言葉-パロール-への距離を蝕知可能に」もしているということである。
外国から文字を借用したからこそ、日本語は音声言語の直下において文字言語を注釈的に機能させうるのだが、この
機能により日本語においては無意識から話し言葉への距離が蝕知可能となるのである。
ここでラカンは、あえていえば、<日本語の構造そのものが、すでに精神分析的なのだ>と言っているにひとしいのだ。
―山頭火の一句― 行乞記再び -422 月 3 日、勿体ないお天気、歩けば汗ばむほどのあたたかさ。
だいぶ気分が軽くなつて行乞しながら諫早へ 3 里、また行乞、何だか嫌になつて-声も出ないし、足も痛いので-汽
車で電車で十返花さんのところまで飛んで来た、来てよかつた、心からの歓待にのびのびとした。
よく飲んでよく話した、留置の郵便物はうれしかつた、殊に俊和尚の贈物はありがたかつた-利休帽、褌、財布、ど
れも俊和尚の温情そのものだつた-。
長崎はよい、おちついた色彩がある、汽笛の響にまでも古典的な、同時に近代的なものがひそんでいるやうに感じる。
このあたり-大浦といふところにも長崎的特性が漂うてゐる、眺望に於て、家並に於て、-石段にも、駄菓子屋にも。
思案橋といふのはおもしろい、実は電車の札で見たのだが、例の丸山に近い場所にあるさうだ、思切橋といふのもあ
つたが道路改修で埋没したさうだ。
飲みすぎたのか、話しすぎたのか、何や彼やらか、3 時がうつても寝られない、あはれむべきかな、白髪のセンチメ
ンタリスト!
※表題句の外、1 句を記す
Photo/現在の長崎市
Photo/今は欄干のみを残す思案橋
Photo/思切橋跡の碑
20100426
寒空の鶏をたゝかはせてゐる
※表題句は、2 月 1 日記載の句
- 216 -世間虚仮- アメリカの貧困化
堤未果の「貧困大国アメリカⅡ」-岩波新書-を読む。
米国の構造的な貧困化問題を現場から丁寧に取材したルポではあろう。
全体を 4 章に分かつ。1 にビジネス化した学資ローン問題、2 は崩壊する年金等社会保障制度、3 は医療保険問題と
巨大化する医産複合体の実情、4 に労働市場化していく民間刑務所の実態。
1 と 4 が明快でストレートに分かり易いのは、構造的にあまり輻湊しないからだ。2 と 3 は、問題の具体性はあるが、
構造的問題を射程深く捉えきるには、紙数不足だろう。
-表象の森- 清代諸家-古代への憧憬-5
石川九楊編「書の宇宙-22」より
・楊峴-Yohken-1819-1896
「隷書七言聯」
楊峴の書を象徴する隷書体。力のこもった伸びやかな傑作。
小刻みに震える無限微動筆蝕によって、字画が一次元的な線ではなく二次元的な面に広がり、また三次元的に奥行を
もって立体的に広がり、さらにはうねりをもって紙-対象-に堀りこむようなリアルな速度を髣髴させる。<且>の最終
横画、<就>の最終画、<同>の第一画、<盡>の最終画、<我>の旁部の右ハライと左ハライ、<此>の最終画など、長く
長く伸びるのが楊峴のスタイルである。<同>の潤-滲み-に対する<游>の渇-かすれ-の対比も鮮明化している。
/且就同游盡佳客。
/我知此公無棄材。
・虚谷-Kyokoku-1821-1896
「行書五言聯」
この隷書風の書では、一つの字画を往復運動で切り削るようなリズム法が仮構されている。
<石>の第一画を逆筆で起筆し、いっきに送筆・収筆まで掻き削り、それだけに終らず、隷書の波磔や右ハライのよう
に、いったん左に戻り、ややベクトルを変えて再度ひきはらう。いわば往復書法とでもいうべきものだが、このリズ
ム書法は、日本の戦後の書家青山杉雨らの書に継承された。
/奇石貴一品。/好華香四時。
街はづれは墓地となる波音
-日々余話- Soulful Days-35- 子の罪、親の罪
つ-じ-blog とタイトルしたブログがある。プロフイール欄には、先ず氏名-これは間違いなく本名だ-を載せ、つづ
けて「大阪生まれのぐうたらなウエイクボーダーです。今年でプロ 3 年目です。ぼちぼちがんばってます。」とある。
更新ペースはいたって気まぐれでのんびりしたものだが、このブログの主、誰あろう、RYOUKO を死なしめた事故
の相手、T.K その人である。
ブログの存在を知ったのは偶然ではない。彼の父親と初めて面談-この折もちろん彼自身を伴ってのことだったが、
彼は殆ど言葉らしい言葉を発していない-した時だったが、学生時代からウエイクボードなんてスポーツに嵌って、
一年ほど前にプロ資格を取った、とそんなことを父親から聞かされたものだから、どんなスポーツかも知らなかった
し、ネツトをググってみたら、当のブログに出会した訳である。
少しばかり拾い読みするだけで、まあ彼というその人となりはおよそ察しがつくし、生活習慣なども見えてくる、そ
れ以上に何か情報を得ることもないから、以後は滅多にこのブログを覗くことはなかったのだが‥。
- 217 2.3 日前に、ふとそんな気になって久しぶりに覗いてみたら、-イヤ、驚いた、魂消てしまった!
彼の刑事処分が略式とはいえ起訴と決したのは 3 月 19 日、簡易裁判所において 30 万円の罰金と略式命令があったの
は 3 月 23 日だ。おまけに医師国家試験の合否発表は 3 月 29 日であった。かような大事が連続している渦中に、彼
は、このヤツガレは、なんと海外に、アメリカのフロリダで、のんびりと海に遊び呆けていたのである。それも 3 月
16 日に日本を発って、まる 1 ヶ月のあいだ遊びに遊んで、ようやくこの 17 日ご帰還になった、らしいのだ。
彼は 12 月に誕生日を迎えてすでに御年 29 歳だ、もうガキじゃない。それどころか新築高層マンションの 46 階でペ
ットの犬 1 匹と優雅な独り住まい、むろん親名義の物件らしいが、4 年前に竣工なったばかりのクロスタワー大阪ベ
イだ。おそらくこのマンション、7.8000 万はしたろう代物だ。どこまでも脛かじりのトンデモ坊やだが、この件は
先刻承知だったからこの際措くとして、この時期の 1 ヶ月のフロリダ・バカンスには、もう開いた口が塞がらない、
子どもが子どもなら、親も親、どこまでも我が子を世間様の風雨に曝せないこの親の罪は深く、あまりあるというも
のだろう。
やはりどうしても、この子と親には鉄槌を降さねばならない、-けっして憎悪からではなく。
―山頭火の一句― 行乞記再び -412 月 2 日、雨、曇、晴、4 里歩いて、大村町、山口屋
どうも気分がすぐれない、右足の具合もよろしくない、濡れて歩く、処々行乞する、嫌な事が多い、午後は大村町を
辛抱強く行乞した。
大村-西大村といふところは松が多い、桜が多い、人も多い。
軍人のために、在郷人のために、酒屋料理屋も多い。
昨日も今日も飛行機の爆音に閉口する、すまないけれど、早く逃げださなければならない。
此宿はよい、しづかで、しんせつで、-湯屋へいつたがよい湯だつた、今日の疲労を洗ひ流す。
何だか物哀しくなる、酒も魅力を失つたのか!
-略- 大村湾はうつくしい、海に沿うていちにち歩いたが、どこもうつくしかった、海もわるくないと思ふ、しかし、
私としては山を好いてゐる-海は倦いてくるが山は倦かない-。
歩いてゐるうちに、ふと、梅の香が鼻をうった、そしてそれがまた私をさびしい追憶に誘ふた。--略※表題句の外、1 句を記す
大村町-現在は大村市だが、その海岸から 2km 先に浮かぶ簑島には長崎空港とともに海上自衛隊の大村航空基地が
ある。その前身は大正 12-1923-年の大村海軍航空隊の開設に始まり、日中戦争における海軍航空部隊の重要な出撃基
地であった。降って昭和 20-1945-年には特攻隊の出撃基地ともなっており、島尾敏雄が奄美群島の加計呂麻島に赴任
する前に志願し入隊したところでもある。
Photo/当時の大村海軍航空基地
Photo/大村市から望む大村湾夕景
Photo/海の見える大村市松原の棚田風景
市内西本町の国道 43 号線沿、古くから町民に親しまれた、その名も「山口屋」という老舗の中華料理屋があるが、
はたして山頭火が泊ったという旅籠と関わりがあるのかどうか‥。
Photo/国道沿の中華店山口屋
20100425
黒髪の長さを汐風にまかし
- 218 -四方のたより- 小さな拍手
2 週間ぶりの稽古、AYA がイギリスに発って、JUNKO だけの独りっぼっちの稽古が、この先 2 ヶ月ばかり続くこと
になる。
だが案ずるよりも産むが易し-、10 分と 12 分半ほどの即興をやらせてみたが、やはり JUNKO の場合は、解放度の
問題だということをつくづく思い知らされた時間だった。
理-ことわり-を意識下に沈ませ、ただ心身の感覚にゆだねるがごとく動くのが、彼女の場合ベストだ。そうして動き
を綴っていったとしても一定の長さや質量に及んでくれば、おそらく場面の意識なり構成への志向なりが自ずと生れ
てこよう、そのときはそこへと心身-意識を投じていく‥。
2 度目の即興をやり了えたとき、小さく拍手を贈ってやった。
-表象の森- 清代諸家-古代への憧憬-4
石川九楊編「書の宇宙-22」より
・何紹基-Kasyouki-1799-1873
「山谷題跋語四屏」
黄庭堅の「題跋」の語を書いたこの四屏は、何紹基の代表傑作。行書体だが、明代までの王羲之を典型とする行書体
の姿とは、相当に異なっている。初唐代の楷書と較べて、<雨>や<軒>の横画の起伏が逆入し、かつ送筆が長く、そ
のため字形が方形に収斂する。行書を書いているにもかかわらず、隷書の書法が入り込んでいるからだ。隷書体を基
盤とする筆蝕を、行草書体のように連続しつつ書字するところに生れた書である。
/荊洲沙市舟中。久雨初霽。/開北軒。以受涼、王子飛兄
/弟來週。適有田氏嘉醞。/問二客。皆不能酒。而予自
/贊曰。能因濯古銅瓢。満/酌飲之曰。飲此即為子書
/匹帋。子予一挙覆瓢。因/為落筆不倦。 何紹基
・何紹基「西狭頌五瑞図題記」
隷書体で書かれているにもかかわらず、画一的で窮屈な感じはしない。「山谷題跋語」が隷書体の筆蝕を基調にして
行書体を書いているのに対して、本書は隷書体に行草書体的連続性の筆脈を注いで書いているからだ。自然な筆脈に
よる強弱の抑揚を見せる<治>、<龍>の偏部、<圖>などは見所。隷書体を書こうが、行書体を書こうが、碑学に硬直
せず、逆入平出法など特殊な筆法至上主義に陥っていないところに、何紹基の独創的な位置がある。
/君昔在黽池。脩治崤嶔
/之道。徳治精通。致黄龍
/白鹿之瑞。故圖畫其像。
20100424
水音の梅は満開
※表題句は 1 月 24 日記載の句
-日々余話- 寡黙なる巨人の訃報
おれは新しい言語で
新しい土地のことを語ろう
むかし赦せなかったことを
百万遍でも赦そう
老いて病を得たものには
- 219 その意味がわかるだろう
未来は過去の映った鏡だ
過去とは未来の記憶に過ぎない
そしてこの宇宙とは
おれが引き当てた運命なのだ
-「新しい赦しの国」-詩集「歌占」より多田富雄の訃報を知ったのは 22 日の朝刊だった。それは全国版の社会面だったが、その記事の、意外に小さなこと
に、少しばかり驚かされた。
'01 年に脳梗塞で倒れ、重い右半身麻痺と言語障害の後遺症を抱えた闘病生活のなかで、エッセイなど多くの著書を
世に出した。
「免疫の意味論」と「生命の意味論」は、免疫学者として優れた業績を残した彼の生命理論だが、共に好著。
他に、私自身の読書録を振返れば、「生命へのまなざし-多田富雄対談集」、中村雄二郎と共編の「生命-その始まり
の様式」、柳澤桂子との往復書簡「露の身ながら」、それに少年時代から小鼓を嗜み、晩年は数本の新作能をものし
た彼の能関連のエッセイ「能の見える風景」や「脳の中の能舞台」などがある。
―山頭火の一句― 行乞記再び -402 月 1 日、雨、曇、行程 4 里、千綿-長崎県-、江川屋
朝風呂はいいなあと思ふ、殊に温泉だ、しかし私は去らなければならない。
武雄ではあまり滞留したくなかつたけれど、ずるずると滞留した、ここでは滞留したいけれど、滞留することが出来
ない、ほんにこの世の中はままにならない。
彼杵-ソノギ、むつかしい読みだ-まで 3 時間、行乞 3 時間、また 1 里歩いてここまできたら、降りだしたので泊る、
海を見晴らしの静かな宿だ。
今日の道はよかつた、山も海も-久しぶりに海を見た-、何だか気が滅入つて仕方がない、焼酎一杯ひつかけて誤魔化
さうとするのがなかなか誤魔化しきれない、さみしくてかなしくて仕方がなかつた。-略私はだんだん生活力が消耗してゆくのを感じないではゐられない、老のためか、酒のためか、孤独のためか、行乞の
ためか-とにかく自分自身の寝床が欲しい、ゆつくり休養したい。
新しい鰯を買つて来て、料理して貰つて飲んだ、うまかつた、うますぎだった。
前後不覚、過現未を越えて寝た。
※表題句の外、2 句を記す
長崎県の大村湾東岸に沿って大村線が走る。路線距離 47.6 ㎞、駅数は 13、開業は明治 31-1898-年だ。
Photo/大村線の松原~千綿間の風景
Photo/彼杵~千綿間を走る汽車
Photo/彼杵の本陣跡、今は彼杵神社
20100423
城あと茨の実が赤い
※表題句は 1 月 24 日記載の句
-日々余話- Soulful Days-34- 若い検事と弁護士と
- 220 一昨日は、大阪地検へ参上して若い気鋭の検事と面談、午前 10 時から 1 時間半に及ぶ。
二日おいて今日も午前 10 時から、これまた若い国選弁護人と面談、此方は被告の M とともにだったからさらに時間
を要してほぼ 2 時間。
被告 M の自動車運転過失致死傷事件の刑事裁判は、すでに第 1 回公判期日を 5 月 7 日に行うと決まっている。
まず検事と面談したのは、公判への被害者参加制度に則り、被害者遺族として裁判に臨むことを意思表示していたか
らだ。電話の声で察していたように W 検事は、審理段階の検事とはうってかわって、とても若い。少壮の青年検事
という雰囲気だけに正義感に燃える理想家肌、原理原則を尊ぶといった気概が、言葉を交わすあいだに充分感じられ
た。
私がこの裁判に積極的に参加しようというのは、被害者遺族の立場から被告 M を強く告発したいからではなく、そ
の真逆、彼を弁護し、なんとしても量刑の軽減を計らねばならぬ、むしろ被告席に立つべきはもうひとりの相手 T で
なければならぬと、そう確信しているからだ。
地検の審理段階で、M には減刑の嘆願書を出し、事故の重大な過失は T の無灯火と脇見にあると主張し、Drive
Recorder を証拠資料として詳細に分析せよと、T を告訴したにもかかわらず、結果は、事故当初から西署によって
作成された調書がなんら見直されることもなく、この告訴によって動いたことといえば、検察当局としては審理の初
期において、T を不起訴に、M には略式起訴で罰金刑に、と予断されていたにもかかわらず、T を略式起訴に、M に
は公判請求を、と相対的に量刑が嵩上げされるという、われわれ遺族が望みもしない結果を招来してしまったのだっ
た。この結果については忸怩たる思いに囚われるのみで、一旦出来上がってしまった捜査当局の調書に改変を迫るこ
となど願うべくもなく、やはり捜査の壁、検察の厚い壁を前に、こちらの無力感ばかりがつのってはやり場のない思
いに立ち往生といった躰だった。
そんなところへ届いたのが 5 月 7 日の公判期日の知らせ、ならば私に残された為すべきことといえば、なんとしても
M に下される刑を軽微なものにしなければならぬ、これに全力を注がねばならぬと思い定めての、一昨日と今日、検
事と弁護人、相反する二者との面談だった。
今日会った若い国選弁護人、彼は、私のこうした振る舞い自体、本来なら M を訴追する検事側に立って、厳罰をと
望むはずの被害者遺族が、まったく逆の立場で執拗に発言を繰り返すのに、戸惑いを隠せぬといった様子だった。考
えてみればそれも無理はない。検事のほうは、審理段階から私が何を言い、どういう立場を採ってきたか、検察内部
での申し送りもあれば、私が出した書面などの資料もあるから、予め予備知識がある。かたや現在のところ弁護人が
知り得る材料は、検察より裁判所へ提出された訴追資料しかないのだから、面喰らうばかりというのも肯けることで
はある。ではあるが、事前に M を通して私も同席するからと伝えてあったのだから、もう少し想像力を働かせてし
っかり腹を据えておけ、と言ってみたくもなるほどに、彼の応接はテキパキともせずまだ理解がついてこぬといった
感に終始した 2 時間だった。
それにしても、交通事故における甲乙二者の過失に対する相対主義というあり方、それ自体が私には解らぬ、どうし
てそうでなければならないのか。
これがたんに民事における損害賠償問題を解決しなければならない場合、過失割合を云々し、それに応じた賠償責任
を互いに負担し合わなければならぬから、相対主義にならざるをえないだろうが、刑事責任を問おうとする場合、も
ちろん双方に過失が存在するであろうことはまちがいのない事実ではあろうけれど、警察の捜査や検察の審理が
100%の事実関係を洗い出せるはずもないのに、帳尻を合わせるかのごとく合理性を求めて相対主義になぜ固執する
のか。だからこそ、その結果、却って関係者各様に堪えきれぬような不条理な結末を負わせることになるのではない
か、そう思えてならぬ。
- 221 ことここにいたって、私の思うところはこうだ。
T の無灯火や脇見は、たしかに非常に疑わしい、疑わしいにちがいないが、これを完全に立証することは、これまた
非常に困難でもあろう、さらにいまさら彼の供述を覆させることもまた難しい、したがって T に対しては、疑わしき
は罰せずと落着させるしかない。彼が事実とは異なる軽微な罪で済んだとしてもこれは仕方がない、彼には別の反省
の機会を求めようと思う。
さて M は、無灯火も脇見も疑わしいとはいえ立証ならず、T が軽微な罪で落着したのだから、やはり M の過失は重
く、その罪も過失相当に重くならなければならぬと、事態はこう運んでいるわけだが、そんなバカなことはない、相
手には無灯火や脇見の疑いがどうしても残るのだ、ただ罰せないだけなのだ、当然に彼の問われるべき罪は軽微なも
のにならなければ、それこそ冤罪にも等しいことになるではないか、こんな不条理はとんでもないというものだ。
-表象の森- 清代諸家-古代への憧憬-3
石川九楊編「書の宇宙-22」より
<逆入平出法>
無限折法=無限微動筆蝕は、<逆入平出>というひとつの定法を獲得することになった。
<逆入平出法>とは、字画を書くときに、起筆部は逆筆にし、字画の前半部は「押し-筆尖先行、筆管後行の力と筆蝕
の態様をいう-」、後半部は「引く-筆管先行、筆尖後行の力と筆蝕の態様をいう-ところの、一般的な書字法とは逆の
書字運筆法である。
この書法を用いて、粘着質の強靱な筆蝕からなる、いわば脂っこい重々しい書が生れてくる。趙之謙の「楷書五言聯」
などはその代表例である。
この逆入平出法によって筆尖と紙との間に生じる筆蝕の微細な劇を生き生きと想像するためには、セルロイドの下敷
を手にして、机にひとつの字画を描くことを想像するとよい。「引く」ことに主律される「前半引き・後半押す」の
一般的な順法においては、下敷は机を撫でるように進み、押し込むように終る。これに対して、「押す」ことに主律
される「前半押し・後半引き」逆法においては、下敷は強くたわみ、「押す」ことによってガタガタガタと常法では
生じない振動を始め、引き抜くように終る。いわば、この逆入平出法なるものは、筆尖を細かに振動させる無限折法
=無限微動筆蝕を作りあげるための、一種の自動装置である。この書法に従えば、自動的に苦もなくきめ細かく微動
する無限折法=無限微動筆蝕に近い筆蝕が得られるのだ。
・陣鴻寿-Chinkouju-1768-1822
「隷書五言聯」
水平や斜めに直線的に大胆に伸びる筆蝕が快い、魅惑的な隷書の作。
書の構成は、金農-伊秉綬-陣鴻寿のつながりで考える事ができる。それでも痩せた書線、水平に長く伸びた構成は、
固有の表現。逆入蔵鋒などの小うるさい書法に拘泥せず、伸び伸びと書かれている。<蘊>などの艸部の軽やかな筆蝕、
糸部の愛くるしい図形的構成。<真>の第 2 画の収筆から第 3 画の起筆へ連続する滑らかな筆蝕、同第 8 画や<遇>の
最終画のさっとペンキを刷毛塗りしたような伸びやかな筆蝕が見所。
/蘊真陿所遇/振藻若有神
「蘇軾詩」
1960 年代、日本の書壇で陣鴻寿風の書が流行したことがあるが、この書などいかにも現在の書展で条幅作品として
お眼にかかるような世界。構成は王羲之を拡張した宋代の黄庭堅らの構成を基盤にしながら、これをさらに拡張させ
ている。たとえば<繁枝>に見られるように、潤渇-とりわけ極限に近い渇筆-の意識的構成に、現代書に通じる企図的
表現が覗える。
- 222 /湖面初驚片〃飛。尊前吹折
/最繁枝。何人會得春風意。
/怕見梅黄雨細時。
20010422
枯山越えてまた枯山
-世間虚仮- 4 月穀雨の雪
郡山で雪が降る、とニユース映像が流れる。
強い寒気と低気圧などの影響で、福島県内は郡山市や白河市などで朝から雪が降っている。気温も上がらず午前 11
時々点、郡山市で 0°4、白河市で 0°6 など真冬並みの寒さ、白河では 11 時現在 3 ㎝の積雪を観測したらしい。東
北山間部でも各地で雪だという。
昨今の異常気象つづきに、さして驚きもしなくなった自分自身に、ニュースを聞きながら、ふと思いが走った。
―山頭火の一句― 行乞記再び -391 月 31 日、曇、歩行 4 里、嬉野温泉、朝日屋
一気にここまで来た、行乞 3 時間。
宿は新湯の傍、なかなかよい、よいだけ客が多いのでうるさい。
飲んだ、たらふく飲んだ、造酒屋が 2 軒ある、どちらの酒もよろしい、酒銘「一人娘」「虎の児」。
湧出量が豊富だ-武雄には自宅温泉はないのにここには方々にある-温度も高い、安くて明るい、普通湯は 2 銭だが、
宿から湯札を貰へば 1 銭だ。
茶の生産地だけあつて、茶畑が多い、茶の花のさみしいこと。
嬉野はうれしいの-神功皇后のお言葉-。
休みすぎた、だらけた、一句も生れない。
ぐつすり寝た、アルコールと入浴とのおかげで、しかし、もつと、もつと、しつかりしなければならない。
※表題句は、1 月 26 日記載の句
Photo/嬉野温泉、シーボルトの足湯
Photo/井手酒造-2 軒あったという造酒屋は 1 軒残るのみ
Photo/その店の軒先にある山頭火の記念碑
しんじつ玄海の舟が浮いてゐる
※表題句は 1 月 25 日記載の句
-表象の森- 清代諸家-古代への憧憬-2
石川九楊編「書の宇宙-22」より
伊秉綬-イヘイジュ-は、鄧石如ほど秦漢の文字の再現に満ち足りることはなく、むしろ、金農の後継者でもあるが
ごとくに、篆書とも隷書とも楷書ともつかぬ独創的な、これまた表現上のスケールの大きな書を残している。それだ
けにとどまらず、その篆書や隷書の書法は、伊秉綬の行書体や草書体の書の中にも環流し、これまたきわめて特異な
行草書を残している。
・伊秉綬「魏舒伝節録」
文字の造型の奇抜さは隷書文語ほどではないが、文字を歴史的な規範に従って書くだけではなく、直線と曲線、○や
△や□や×という図形的な視点から捉え返し、描き出す試みが生じている。<飮><酒><山><事>の一部に角を削いだ
- 223 曲線的表現が見られ、<爲>や<漁>の点に○が、<飮><酒>の一部に△が、<酒>や<石>や<漁>に□を意識したと思わ
れる表現。文字を幾何学的な図形のようなものとして見る視点の獲得によって、従来の書と異なった奇抜な造型が生
じている。
/飮酒石餘。著/韋衣。入山澤。/爲漁獵事。
・伊秉綬「行書戒語」
横画を水平にした、素朴なとぼけた味わい。<其芳><積金><積徳>作為的な筆画の連続も不思議な味を生む。伊秉綬
のこの構成法は、長く東アジアに君臨してきた王羲之の集字聖教序の規範から脱している。この書は篆書や隷書の復
興にとどまらず、行草書までもが王羲之の範を脱したことを宣言する、革命的な行草書である。もはや蛇行線の図形
のごとき<遂>の辶部、篆書体を草書体のごとき筆蝕で書いた<與>など、見所である。
/水之源遠。其流不竭。木之根/遂。其芳不歇。積金與子孫。不/如積徳。
20100421
ぐるりとまはって枯山
―山頭火の一句― 行乞記再び -381 月 30 日、晴、暖、滞在、宿は同前、等々々。
お天気はよし、温泉はあるし、お布施はたつぷり-解秋和尚から、そして緑平老からも-、どまぐれざるをえない。
一浴して一杯、二浴して二杯、そしてまた三浴して三杯だ、百浴百杯、千浴千杯、万浴万杯、八万四千浴八万四千杯
の元気なし。
けふいちにちなまけるつもりだつたが、おもひかへして、午後 2 時間ばかり行乞。
よき食慾とよき睡眠、そしてよき性欲とよき浪費、それより外に何物もない!
とにかくルンペンのひとり旅はさみしいね。
※表題句は、1 月 26 日記載の句
武雄温泉のシンボルである上棟の楼門は、東京駅を設計した佐賀出身の辰野金吾によって、新館とともに大正 4-1914年に建てられたもので、新館は 1973-S48-年までは共同浴場であった。両者とも新たに平成 15 年に復原され、とも
に重要文化財に指定されている。
Photo/武雄温泉楼門
Photo/武雄温泉新館
20100420
ひかせてうたってゐる
-世間虚仮- 水了軒の倒産
夕刊に、駅弁の水了軒-破産申し立て、の小さな記事。
明治 21-1888-年創業というから、120 年余の老舗企業だが、長期不況に加え、直近の 1000 円高速料の影響下で、と
うとう倒産の仕儀にいたったという。ピーク時の'92 年には売上高 46 億円を記録するも、バブル崩壊から下降線とな
り、'02 年以降ずっと赤字が続いていたらしいが、負債総額 3 億 3000 万と意外に少額なのは、どうやら昨年のうち
に不動産管理部門を別会社に譲渡していたからか、この時点ですでに倒産も秒読みになっていたと思われる。従業員
90 人、その家族を含めればけっして少なくない人々が路頭にまようことになるのだ。
帝国データバンクによれば、3 月の企業倒産は 1148 件で 7 ヵ月連続の前年同月比減少というが、前年 3 月は 1216
件で同月比 5.6%減とほんの微減に過ぎない。まだまだつづく深刻な不況、微かな明かりさえ見えない。
- 224 -
-表象の森- 清代諸家-古代への憧憬
石川九楊編「書の宇宙-22」より
・無限微動筆蝕と篆隷筆文字の発明
金農の時代に確立した新書法-無限折法=無限微動筆蝕-、それはどの瞬間でも小刻みに微動しており、小刻みに微動し
ているがゆえにいつでも停止しているともいえる運動で、いついかなる時でも、いかなる力-速度と深度と角度-で、
いかなる方向へ進むことが可能になった書法であり、俄然書を面白くすることになった。それまでの三折法や多折法
という折法によって必然的に限定づけられた構成と字形を解体し、一気に構成の幅を広げ、従来にない字形をもたら
したのである。
さらには、この無限微分折法=無限微動筆蝕によって、元来石や金属に彫ったり鋳込んだりするための書体として完
成した隷書や篆書や金文を、毛筆によって再現的に書くことも可能になった。
たとえば鄧石如の「行書五言聯」に見られるスケールの大きな無限折法・無限微動筆蝕は秦漢代の篆書や隷書の姿を
借りて出現し、篆書や隷書を、従来のような形だけの篆書や隷書ではなく、雄渾な確たる筆蝕を伴った筆書きの書体
へとつくり変えた。換言すれば、鄧石如は毛筆書きの篆書体や隷書体を、いわば発明したのである。
・鄧石如「朱韓山座右銘」-1799 年
書線が細く、きわめて厳密、厳格、整然、端正に篆書体が書かれている。その緊張感には凄みまで感じられるのは、
筆蝕の露出が極限まで抑制されているからだ。
/萬緑陰中。小亭避暑。/八闥洞開。几簞皆緑。
/雨過蝉聲。風來華氣。/令人自醉。
・鄧石如「行書五言聯」
筆蝕の無限微動を、波状のうねりの筆蝕として直截に露出させた書。一度眼にすると、忘れられない強烈な印象を残
す書である。
波状にうねる筆蝕が紙面一杯に動きまわり塗り潰す。書かれた文字-文-よりも、表現された筆蝕-書-が第一義的である
ことは、紙幅に従って大きく、長く、もはや文字というよりも何かの図を描き出したような<龍>や<鶴>から明らか。
/海爲龍世界。/天是鶴家郷。
―山頭火の一句― 行乞記再び -371 月 29 日、曇后晴、行程 3 里、武雄、油屋
朝から飲んで、その勢で山越えする、呼吸がはずんで一しほ山気を感じた。
千枚漬けはおいしかつた-この町のうどんやで柚味噌がおいしかつたやうに-。
解秋和尚から眼薬をさしてもらった-此寺へは随分変り種がやつてくるさうな、私もその一人だらうか、私としては、
また寺としても、ふさはしいだらう-。
この寺は和泉式部の出生地、古びた一幅を見せてもらつた-蛾山和尚の達磨の一幅はよかつた-。
故郷に帰る衣の色くちて
錦のうらやきしまなるらん
500 年忌供養の五輪石塔が庭内にある。
井特の幽霊の絵も見せてもらつた、それは憎い怨めしい幽霊ではなくて、おお可愛の幽霊-母性愛を表徴したものだ
さうな。
- 225 ここの湯-二銭湯-はきたなくて嫌だつたが、西方に峙えてある城山-それは今にも倒れさうな低い、繁つた山だ-
はわるくない。
うどん、さけ、しやみせん、おしろい、等々、さすがに湯町らしい気分がないでもないが、とにかく不景気。
※表題句の外、句作なし
Photo/飯盛山福泉寺への石畳
Photo/福泉寺山門
Photo/山頭火の記念碑
Photo/現存する武雄の旅館油屋
20100419
父によう似た声が出てくる旅はかなしい
-世間虚仮- 8.82%!
イヤ驚いた、補選とはいえ、投票率が 8.82%とは聞いたことがない、前代未聞の低率だろう。
昨日 18 日に投票された東広島市議補選での出来事だそうだが、有権者数は 138,341 人で、投票者数は 12,204 人だっ
たと。この補選、当初は市長選挙と同日選の予定だったのだが、市長選が対立候補があらわれず無投票となってしま
い、市民の関心が余計に削がれ、こんな結果になったと思われる。総務省では、全国各市町村の投票率まですべて把
握しているわけではないらしく、歴代比較など判らないそうだが、きっと史上初の低率、新記録だろう
―山頭火の一句― 行乞記再び -361 月 28 日、朝焼、そして朝月がある、霜がまっしろだ。
今日一日のあたたかさうららかさは間違ない、早く出立するつもりだつたが、何やかや手間取つて8時過ぎになつた、
1 里歩いて多久、1 時間ばかり行乞、さらに 1 里歩いて北方、また 1 時間ばかり行乞、そして錦江へいそぐ、今日は
解秋和尚に初相見を約束した日である、まだ遭つた事もなし、寺の名も知らない、それでも、そこらの人々に訊ね、
檀家を探して、道筋を教へられ、山寺の広間に落ちついたのは、もう 5 時近かつた、行程 5 里、94 間の自然石段に
一喝され、古びた仁王像-千数百年前の作ださうな-に二渇された、土間の大柱-楓ともタブともいふ-に三渇された、そ
して和尚のあたたかい歓待にすつかり抱きこまれた。
一見旧知の如し、逢うて直ぐヨタのいひあひこが出来るのだから、他は推して知るべしである。いかにも禅刹らしい
-緑平老はきつと喜ぶだらう-、そしていかにも臨済坊主らしい-それだから臭くないこともない-。
遠慮なしに飲んだ、そして鼾をかいて寝た。-略をんな山、女らしくない、いい山容だつた。馬神隧道といふのを通り抜けた、そして山口中学時代、鯖山洞道を抜け
て帰省した当時を想ひ出して涙にむせんだ、もうあの頃の人々はみんな死んでしまつた、祖母も父も、叔父も伯母も、
‥生き残つてゐるのは、アル中の私だけだ、私はあらゆる意味に於て残骸だ!
此地方は 2 月 1 日のお正月だ、お正月が三度来る、新のお正月、旧のお正月、-お正月らしくないお正月が三度も。
共同餅搗は共同風呂と共に村の平和を思はせる。
勝鴉-神功皇后が三韓から持つて帰つたといふ-が啼いて飛ぶのを見た、鵲の一種だらう。
歩く、歩く、死場所を探して、‥首くくる枝のよいのをたづねて!
飯盛山福泉寺-解秋和尚主董、鍋島家旧別邸山をそのままの庭、茅葺の本堂書院庫裏、かすかな水の音、梅の 1.2 本、海まで見える。
猫もゐる、犬もゐる、鶏も飼つてゐる、お嬢さん二人、もろもろの声-音といふにはあまりしづかだ-。
すこし筧の匂ひする水の冷たさ、しんしんとしみいる山の冷え-薄茶の点前は断はつた-、とにかく、ありがたい一夜
だつた。
- 226 ※表題句の外、句作なし
佐賀県の西部、多久市と北方町が接する標高 200m 前後の峰には,わずか 1km 四方の断面間に 5 本ものトンネルが
抜けている。長崎自動車道の上下 2 本のトンネル,県道 24 号・武雄多久線の馬神トンネルに,旧県道の馬神隧道がそ
れらであるが、昭和 3 年に竣工したといわれる 2 代目の馬神隧道は、全面が鉄板で塞がれ中央には小さな鉄扉、3 代
目となる馬神トンネルが開通した 1997-H9-年まで使われていた。
Photo/今は閉ざされたままの、山頭火が歩いた馬神隧道
Photo/和泉式部出生の伝説がある飯盛山福泉寺
20100418
山路きて独りごというてゐた
-日々余話- Antinomy
どうしたことか土、日と休日なのになんだか疲労を溜め込むような二日間だった。
9 時過ぎに家を出て、KAORUKO と JUNKO を阿倍野区民センターへ送り込む。年に一度のピアノ教室の発表会だ。
その足で母校同の窓会館へ車を走らせる。遅刻するかと思ったが会議の始まる 10 時にギリギリ間に合った。
11 時半を少し過ぎたあたりで勝手ながら退席させてもらって再び発表会の会場へ、なんとか KAORUKO の出演前に
駆けつけることはできた。
夜は次兄と甥・姪たちの宴会、6 時を 15 分ほどまわった頃に堂島の会場に着いたのだが、すでにみな揃っていて、今
まさに乾杯が始まろうとしていた。
宴席に顔を出した途端、一足早くやってきたらしい息子の DAISUKE が一番手前に座っていた所為で、眼と眼が合っ
たが、声をかけるいとまもなくズイーと奥の次兄の座る横へと通された。
ちょうど次兄の二男 KEIJI 君が対面に座っていたので、飲み食いのさなか短いながらも問うべきは問い、少しは彼の
本音の部分に触れ得たので、一応所期の目的は果たせた。
それにしても長い宴、此処でほぼ 3 時間を費やし、なお二次会で 2 時間、此方はスナツクの狭い部屋でカラオケばか
り、もうこんなのとんと縁がないものだから心が疲れる。
どうにか午前様にはならずに家にたどり着いて、本を読むほどの気力もなく、横になるとすぐに寝入ってしまったが、
なぜだか 3 時間ばかりで眼が覚めた。覚めたといっても茫としている、テレビを点ける、とろとろする、眼があく、
本を手に取ってみる、またとろとろする、そんな繰り返しでいつのまにか空は明け出していた。
Photo/KAORUKO のピアノ発表会
日曜の朝は、いつもなら揃って稽古に出かけるところだが、ずっと仕事に追われて溜まりに溜まったストレスで、ア
イスランドの火山爆発ではないが、もう暴発寸前とみえる JUNKO のたっての希望で、今日は休みとした。
そう決めていたから、私は事前に、事故問題の刑事裁判や民事訴訟の報告やら相談やらで IKUYO や DAISUKE と会う
ことを約していた。9 時半に家を出て、途中で DAISUKE を拾って波除の IKUYO 宅へ。この二人との会話は、事故直
後から半年ほどを経た頃から、互いに齟齬も殆どなくなり、本音を露わに出せるようになってきている。それは歓迎
すべきことにはちがいないが、私が別に家族を有している以上、IKUYO が独り暮しをしていることがどうしても心の
負担ともなってくる。RYOUKO の事故のことで私が動けば動くほど、仕方のないこととはいえ、その問題とも直面
せざるを得なくなっている。
オレは、お人好しなのか、それとも人がワルイのか‥。
―山頭火の一句― 行乞記再び -35-
- 227 1 月 27 日、雨、曇、晴、行程 3 里、莇原-アザミバル-、若松屋
同宿の老人が早いので、私も 6 時前に起きた、9 時まで読書、沿道を行乞しながら東へ向ふ、雨はやんだが風がでた、
笠を吹きとばすほどである、ヨリ大声でお経をあげながら流して歩く、相当の所得があつたので安心する。
此地方はどこも炭坑街で何となく騒々しくてうるさい、しかし山また山の姿はうれしい、海を離れて山にはいったと
いう感じはよい。
相地の街に、千里眼人事百般鑑定といふ看板がかけてあった。
ある商家の前でグラグラした、近来めづらしい腹立たしさであつた。
けふのおひるは饅頭一つだつた、昨日のそれは飴豆二つだつた-いづれもおせつたい-。
厳木-キウラギと読む-は山間の小駅だが、街の両側を小川がさうさうと流れてゐた、古風な淋しいなつかしいところ
だった。
宿のおかみさんが、ひとりで弾いて唱つて浮かれてゐる、一風変つた女だ、何だか楔が一本足らないやうにも思はれ
るが。
同宿 3 人、誰もが儲からない儲からないといふ。
ぐうたら坊主、どまぐれ坊主、どちらもよい名前だ。
※表題句の外、句作なし
Photo/相知の見帰りの滝、日本の滝百選の一
嘗て相知町は炭坑町であった。三菱による相知炭坑が明治後期から開発され、隣町の厳木町岩屋などに炭住街が形成
され、さらには付近一帯に新田開発の農業振興策も計られ、明治末~大正、昭和初期にいたるまで棚田の拡大期とな
ったようである。
Photo/日本の棚田百選の一、相知の棚田風景
20100417
ふりかへる領巾振山はしぐれてゐる
―日々余話― 古稀の人
次兄の誕生日は、たしか 4 月 3 日だった、満 70 歳、めでたく古稀を迎えたわけだ。
その細君は、私と同い年-今年 66 歳-だが、10 数年前の交通事故が遠因となっていると目されるのだが、7.8 年前か
ら高次脳機能障害がみられるようになり、症状は歳月とともにどんどん進行し、すでに要介護度 5 の重症となって 3
年ほどになろうとしている。
家にはまだ次男と長女が同居しており、今なお小さな鉄工所を自営している次兄の留守のあいだ、彼らがディサービ
スに通う母親の世話をしているといった暮らしぶりなのだが、そうはいかなくなるのももう時間の問題で、その近づ
く跫音はどんどん大きくなってきているにちがいない。
そんな重荷を抱えてはいるのだが、生来楽天家気質なのか、いやそれも少しはあろうけれど、きっと次男ゆえの分を
弁えるという親父からのかなり徹底した教育の影響が大きいのだろう、愚痴らしい愚痴もこぼさず穏やかなマイペー
スぶりで日々を過ごしているように、周囲には映る。
分を弁えるとは即ちすぐれて気配りの人、ということだ。
もうずっと彼は、年に 1 度か 2 度、甥・姪たちを一堂に集めては呑み会を主催し、かれこれ 15.6 年は続けている。
主催というからにはもちろん万事彼の振舞いなのだが、ご相伴の相手、甥・姪といってもその筆頭は御年 50 歳になる
という面々であるから、これはもう奇特というしかない。だが、振舞うほうの彼を奇特の人としても、振舞いを受け
る甥・姪たち、こんなにいい年になってまでそんな功徳を受けるに値するかと自問自答もせぬのか、と傍目には思わ
れるのだが‥。
- 228 そんな会も、実はずっと昔にその原形があった。身寄りといえば祖母一人という、そんな淋しい境遇で育った親父の、
なればこそまるでその反動のように、遠い縁戚までも取り込むがごとき大家族主義で生涯をおくった、そんな生きざ
まのなかに、ひとつのモデルがあり、それを引きずっているといえばいえそうなのだ。
さて、そんな呑み会に、今夜、初めて私は顔を出すことにした。
そう決めて、なんだか、このところずっと書史論にばかり耽ってきた自分だが、これは一つの機会かもしれぬ、じか
に書いてみよう、白い半紙にぶつけてみようと思い立った。
書の孰に通ったのは、小 6 から中 1 の、ほぼ 1 年間、いい先生だと思っていたが、他に関心がひろがりすぎて続かな
かった。たった二文字の課題、「洗心」と書いたのだけがずっと心に残っている。
手本もない、書歴もない、ズブの素人の勝手流だが、気力だけは相応に費やした。
―山頭火の一句― 行乞記再び -341 月 26 日、曇、雨、晴、行程 6 里、相地、幡夫屋
折々しぐれるけれど、早く立つて唐津へ急ぐ、うれしいのだ、留置郵便を受けとるのだから、―しかも受け取ると、
気が沈んでくる、―その憂鬱を抑へて行乞する、最初は殆ど所得がなかつたが、だんだんよくなつた。
徳須恵といふ地名は意味がありさうだ、ここの相地-Ohchi-もおもしろい。
麦が伸びて雲雀が歌つてゐる、もう春だ。
大きな鰯が 50 尾 60 尾で、たつた 10 銭とは!
-略- この地は幡随院長兵衛の誕生地だ、新しく分骨も祀つて、堂々たる記念碑が建ててある、後裔塚本家は酒造業
を営んでゐる、酒銘も長兵衛とか権兵衛とかいふ‥-略第 28 番の札所常安寺は予期を裏切つて詰らない禅寺だつた-お寺の旁々は深切だつたけれど-、門前まで納屋がせり込
んでゐて、炭坑寺といはうか。
どこを歩いても人間が多い、子供が多過ぎる。朝早いのは鶏と子供だ。
※表題句の外、3 句を記す
Photo/昭和 5 年に建立された幡随院長兵衛の記念碑
Photo/その下流は松浦川に合流する徳須恵川
20100415
港は朝月のある風景
―世間虚仮― 麻薬と毒品
今朝の新聞「木語」欄によれば、日本で麻薬と総称されている覚醒剤やヘロイン、これが中国では毒品というそうな。
中国の刑法-第 357 条-は、毒品の売買を禁じており、毒品とはアヘン、ヘロイン、覚醒剤、モルヒネなどであると例
示しているという。
嘗て阿片戦争で欧米列強による植民地化の危機に瀕した苦い教訓をもつ中国であってみれば、麻<薬>ならぬ<毒>品
に対し、日本などとは比較にならないほど厳しく処する必然があるのだろう。
このところ話題となった、覚醒剤密輸の日本人 4 人がつづけて死刑執行されたのも、そういった背景を視野に入れな
いと理解を超えた所業となるが、それにしても隣国ながら彼我の落差は大きく隔たっている。
同様の毒品事件で中国当局に拘束・収監されている日本人がなお 30 人居るそうだ。今後も続々と死刑判決が出され、
この問題まだまだ尾を引くことになる。
―山頭火の一句― 行乞記再び -331 月 25 日、晴、行程 3 里、佐志、浜屋
- 229 一天雲なし、その天をいただいて、湊まで、1 時間半ばかり行乞、近来にない不所得である、またぶらぶら歩いて唐
房まで、2 時間行乞、近来にない所得だつた、プラスマイナス、世の中はよく出来てゐます。
-略- ―2.3 年前までは、15.6 軒も行乞すれば鉄鉢が一杯になつたが-米で 7 合入-今日では 30 軒も歩かなければ満
たされない。-略松浦潟―そのよさが今日初めて解つた、七ツ釜、立神岩などの奇勝もあるさうだが、そんな事はどうでもよい。山路
では段々畠がよかつた、海岸は波がよかつた。
相賀松原もよかつた、そこには病院があつて下宿が多かつた。
今日の行乞相は、島ではあまりよくなかつたが、唐房、佐志ではわるくなかった、―たとへば、受けてはならない 3
銭を返し、受けなければならない 5 銭をいただいた。
鰯、鰯、鰯、見るも鰯、嗅ぐも鰯、食べるも、もちろん鰯である。-略呼子とはいい地名だ、そこには船へまで出かける娘子軍がゐるさうな。-略ゆつくり飲んだ、おかみさんが昨日捕れた黥肉を一皿喜捨してくれた-昨夜は鰯の刺身を一皿貰つたが-、酒はよくな
かつたが、気分がよかつた。-略宿の娘―おばあさんの孫娘がお客の鮮人、人参売といつしよになつて家出したといふ、彼女は顔はうつくしいけれど
跛足であつた、年頃になつても嫁にゆけない、家にゐるのも心苦しい、そこへその鮮人が泊り合せて、誘ふ水に誘は
れたのだ、おばあさんがしみじみと話す、あなたは方々をおまはりになるから、きつとどこかでおあひになりませう、
おあひになつたら、よく辛棒するやうに、そしてあまり心配しないがよい、着物などは送つてやる、と伝へてくれと
いふ、私はこころよく受け合つた、そして心から彼女に幸あれと祈つた。-略※表題句の外、1 句を記す
Photo/相賀の松原
Photo/唐房の漁港
Photo/海と山に囲まれた佐志界隈
20100414
朝凪の島を二つおく
―日々余話― 一分の良心ありやなしや
論語に曰く「女子と小人とは養い難し、之を近づくれば則ち不遜、之を遠ざくれば則ち怨む」、都合が悪くなると手
のひら返すも平気の平座、自分勝手で厚顔無恥な御仁にも、僅かに良心の欠片があるやもしれぬと、微かな期待を込
めて文すれば、やたらだらだらと連綿綴り、以下の如く相成り候―
Hiromai さん、先日はたいへんお疲れさまでした。
本番を迎えるまでの準備やら気苦労やらもなまなかのことではありませんが、いざ本番の日ともなると毎々のことで
すが、こういった催しは、スポットを浴びる出演者も大変なのはもちろんですが、裏方・下支え役にとってもほんと
うに気苦労がたえませんネ。
それにしても、大勢の世話係を動員され、受付など表まわりの事務や配置は周到なもので、集団としてのチーム力や
統率力、想像はしていましたが、相当なものですネ、些か驚かされました。
ただ、とにもかくにも、終演までの時間、これは予想をはるかに越えてかかってしまいましたネ。
このプログラムならば、きっと 9 時半まではかかるだろうと予測はしていましたが、10 時を過ぎるとは思いもより
ませんでした。
- 230 最初のプログラム、新曲披露がはじまったのが 6 時 50 分でしたが、その後のゲストの紹介、Harunosuke 師匠や
H.Keizo さんの挨拶で長引いたか、しめて 25 分ほど。
Yumi ちゃんのオンステージがはじまったのは、すでに 7 時 20 分近くになっていましたが、これが 60 分弱でしたか
ら、終ったのは 8 時 20 分頃。
そして 5 分ほどあとに、K.Hiroshi さんの登場。はじめに各テーブルのお客さんと握手をしてまわりましたが、これは
彼のプロとしてのポリシイでもありましょう、ほぼ全員のお客さんと握手していきましたから、やっと舞台に上がっ
て歌い始めたのは 8 時 45 分近くにもなっていたでしょう。それでやむなく予定曲をカットせざるを得なくなったの
か、とにかく最後の「叩き三味線」を終えたのが、9 時 35 分から 40 分頃だったのではないかと思います。
次にオールディーズが 10 分かかって、ふたたび新曲を唱うアンコールがはじまったのは、もう 9 時 50 分になってい
たでしょう。そして終ってみれば 10 時をすでに 10 分ほどを過ぎ、始まりからゆうに 4 時間を越えたものとなってし
まったのでした。
これほどの長丁場を、嗜好の異なった二様のお客、要するに K.Hiroshi のファンと Yumi のファンが、いわば同床異夢
のように過ごしたわけですが、K さんのファンは Yumi ちゃんをそれほど期待もせずとくに観たいとは思っていなか
ったでしょう、いわば添え物お飾りのようなものです。もちろん同じように逆のことが Yumi ちゃんファンにも言え
るでしょう。お互いのファンはみなさん終演までお付合いするのに、それはもう心身共に疲れ果てたであろうと、容
易に想像されます。
とくにプログラム上、後ろに回った K.Hiroshi のファン、この人たちは Hiromai さんと旧知の方が多いでしょうから、
それはもうストレートに遠慮会釈なしにその不満をぶつける、歯に衣着せぬはげしい攻撃の言葉がさまざま、Hiromai
さんに飛んできたのではないでしょうか。
また、集客の数も思ったほどには伸びず、準備万端整ってきた直近には、かなりの赤字が出ることも明らかになって
きていたことでしょう。
具体的なことはまったく存じ上げませんが、私自身のわずかな経験に照らしても、結果として 50 万近いほどのマイ
ナスになるのではないかと、余計なこととはいえそんな心配が脳裏をかすめています。
ふりかえれば、10 月の Yumi ちゃんのディナーショーの直後から企画され、準備が始まって、半年近くかけあれこれ
と苦労を重ねてこられたわけですが、やっと幕を降ろしてその重荷から解放される筈の今、Hiromai さんはそんな解
放感に浸れるどころか、その逆、四面楚歌の心境で、出演の両者にはもちろんのこと、関係者にも、お客さんにも、
とにかくみなさんに喜んで貰おうと一所懸命にやってきたのに、結果はご自分に批難や攻撃が集中している、そんな
バカなことにどうしてなるんだと、悔しいやら哀しいやら、やり場のない割りきれない想いが渦巻いているのではな
いでしょうか‥‥。
ただ、少し冷静になって思い返してみると、「翔く二人」と名付けたこの企画、K.Hiroshi と Yumi を、対等に並べた
ように見えること自体に、そもそも問題があったのでしょうネ。とりわけ K さんの関係者やファンの方々には、その
時点で反感を買う火種となっていたのではないかと思われます。
そのうえ、私も出席した、プログラムについての打合せの際、T 社長の主張、K さんと Yumi ちゃんの共演シーンを
作らないこと、お互いの歌の場面を交互に挟みながら進行させないで、各々個別にオンステージを行うこと、そして
その場合、大先輩としてのプライドもあるでしょうが、当然に Yumi ちゃんが先、K さんが後に回るという順になる
こと、そういう骨子にならざるを得なかった時点で、K さんサイドやファンの方々にとってはマイナスにしかはたら
かない、いい結果にはならないと予測できたのではないでしょうか、そんな気がします。
- 231 私とすれば、この打合せの席で感じたことは、これはもう大変だなあ、こういうプログラムで行うかぎり、わざわざ
観に来られるお客さんにとっては、心理的にとても負荷のかかる会になってしまうなあ、とはいえ私自身の立場は、
そうなるとしても少なくとも Yumi ちゃんファンの方々に少しでも納得してもらえること、その工夫に全力を傾注す
ることが課題となるわけで、全体の構成や問題に口を挟むのはそれこそ越権行為、出過ぎた余計なお世話となるでし
ょうから、その点においては見ざる言わざる聞かざるになるほかはなかったのですネ。
そんな口の重い私の姿勢や態度なりが、K さんサイドや Hiromai さんに、いろいろと不快感を与えたのではないかと
推量もされ、些か心苦しく申し訳ないとは思いながらも、立場上やむをえない仕儀だったかとも思っております。
最後になりましたが、今、Hiromai さんがどのような考えや心情にあられるか、ちょっと想像はつきませんが、これ
に懲りず、持ち前の旺盛な気力で、また新たな企画に邁進されることを祈りおります。
いずれまたお会いする機会があれば、其の折はよろしく、お手柔らかに願います。
末尾になりましたが、ご主人にもどうかよろしくお伝えください。太鼓や三味線の椅子など、転換の出し入れに協力
願いましてありがとうございました。
猶、印刷費の領収証を同封致しましたので、どうかご査収ください。
―4 月 11 日深夜記す
―山頭火の一句― 行乞記再び -321 月 24 日、小春、発動汽船であちこち行乞、宿は同前
早く起きる、何となく楽しい日だ、8 時ポッポ船で名護屋へ渡る、すぐ名護屋城趾へ登る、よかつた。-遊覧地じみ
てゐないのがよい、石垣ばかり枯草ばかり松ばかり、外に何も残つてゐないのがよい、ただ見る丘陵の起伏だ、そし
て一石一瓦ことごとく太閤秀吉を思はせる、さすがに規模は太閤らしい、茶店-太閤茶屋-ただ一軒の-老人がいろ
いろと説明してくれる、一ノ丸、二ノ丸、三ノ丸、大手搦手、等々々、外濠は海、内濠は埋つている、本丸の記念碑
-それは自然石で東郷元帥の筆-がふさはしい、天主台は 15 間、その上に立って、玄海を見遥かして、秀吉の心は波打
つただらう、その傍らにシヤンがつつましく控えていたかも知れない。
後方の山々には日本諸国の諸大名がそれぞれ陣取って発露としただらう。
私は玄海のかがやきの中にを豊太閤の姿を見た。-略2 時間ばかり漁村行乞、ありがたいこともあり、ありがたくないこともあつた。
12 時近くなつてまた発動汽船で片島へ渡る、1 時間ほど行乞、蘭竹の海岸づたひに田島神社へ参拝する、ここに松浦
佐用姫の望夫石がある、祠堂を作つて、お初穂をあげなければ見せないと宮司がいふ、それだけの余裕もないし、ま
たその石に回向して、石が姫に立ちかへつても困るので堂の前で心経読誦、そのまま渡し場へ急いだ、ここでも水を
飲むことは忘れなかつた。
呼子へ渡されたのは 2 時、あまり早かつたので、そして今日は出費が多かつたので-渡船 3 回で 30 銭、外に久し振
りにバツト 7 銭、判をいただいてお賽銭 5 銭など-1 時間行乞、宿に帰つて、また洗濯、また一杯、宿のおかみさん
が好意を持つてくれて鰯の刺身一皿喜捨してくれた、私も子どもに 1 銭 2 銭 3 銭喜捨してやつた。-略呼子町の対岸には遊女屋が 10 余軒、片島にも 4.5 軒あった、しかし佐用姫の情熱を持つたやうな遊女は見当らなか
つた!
石になるより銭になる、石になれ、銭になれ、なりきれ。-略同宿のテキヤさん、トギヤさん、なかなかの話上手だ、いろいろ話してゐるうちに、猥談やら政治談やら、なかなか
面白かつた、殊にオツトセイのエロ話はおかしかつた。-略※表題句の外、4 句を記す
Photo/名護屋城趾風景と名護屋城復元模型
- 232 Photo/三女神-多紀理毘賣尊・市杵島比賣尊・多岐津比賣尊-を祀る呼子の田島神社とその遠景
20100413
蘭竹もかれがれに住んでゐる
-日々余話- Soulful Days-33- 一矢報いるか?
昨日、知友でもある衆議院議員熊田あつし君宛と、厚生労働省医政局医事課試験免許室宛に、以下の書面を簡易書留
にて送付した。
<医師免許交付に係る、請願書>
厚生労働大臣 長妻昭 殿
第 104 回医師国家試験受験者、T.K 儀
昭和×年×月×日生
住民登録上の住所:奈良県生駒市萩の台×丁目×番×号
現住所:大阪府大阪市港区弁天×丁目×番×号
この者は、平成 20 年 9 月 9 日、午後 8 時 15 分ころ、大阪府大阪市西区境川 1 丁目 6 番 29 号先路上において、MK
タクシー乗務員 M.K の運転する車と衝突事故を起こし、同車後部座席の乗客 H.R を死傷(9 月 14 日死亡)せしめた
者です。
この者の、さらに不届きなことは、過失致死傷という重大事故当事者でありながら、事故直後より意識不明、急性硬
膜下血腫及び脳浮腫を起こし、瀕死の床にあった被害者を一顧だにすることなく、ひたすら自らの保身のみを図り、
また自身の過失をいっさい認めようとせず、事故管轄署の事情聴取に対して専念先行し、自身に有利な事故調書とな
るよう事実と異なる供述をなし、事故原因の真相を闇から闇へと隠蔽せしめた疑いがきわめて高いことであります。
よって、この者の医師国家試験における合否のほどは知る由もありませんが、医師免許交付の差止め等、適切なる
ご処置を執られますよう、以下列記の関係資料を添えて、旁々お願い申し上げます。
添付関係資料 一、処分通知書の写し、1 通
二、通知書(略式命令決定)の写し、1 通
三、交通事故証明書の写し、1 通
四、告訴状(大阪地方検察庁宛)の写し、1 通
今夕、熊田あつし議員から電話、私からの書面を読んで、すぐさま動いてくれたらしい。曰く、国会の常任委員会で
ある厚生労働委員会の理事を務める民主党議員に書面を託した、とのこと。託されたほうの議員は、請願の趣旨は尤
もなこと、関係法に照らしてあるべき措置を取るように善処する、と言ってくれたらしい。いずれにせよ、あらため
て回答がある由。
さかのぼって、T が今年の医師免許国家試験を受験することになったと聞かされたのは、T の父親からで、2 月 12 日
のことだった。その週の火曜日-2/9-だったか、昨秋以来、彼から連絡があり、会いたいとの申し入れでこの日の対面
になったのだった。この席で、T が検察から出頭の呼出しがあり、翌週の火曜日-2/16-に出向くことになっていると
報告を受け、そんな話にも及んだのだったが、試験日がいつのことなのか尋ねもせず、知らぬままに別れた。
夜になって、はてその試験はいつのことかと調べてみて、またまた愕然とさせられた。なんと、21 年度の試験実施
は 2 月 13.14.15 の 3 日間とあり、翌日からではないか。おまけに試験を終えた翌る日に検察へ出頭だと、試験の前
日に会おうなどと、こんなタイミングでよくもまあヌケヌケと、さすがにカッと頭に血が上って、すぐさま父親に電
話した。有無を言わさず、明日、もう一度出てこい、と。
- 233 合否判定の発表は 3 月 29 日となっていた。
大阪地検が起訴処分を決定したのが3 月19 日、簡易裁判所が罰金30 万円の略式命令を下したのが3 月23 日である。
医師法によれば、罰金刑を含む前科ある場合は、医師免許受験資格の欠格事由となることが明記されている。されて
はいるが、その刑罰の軽微なる場合、担当教授などの嘆願書などが添えられ、且つ合格点に達していれば、免許交付
において一定期間の保留処分とされるにすぎない。
医学部 6 年の学業を終えたにもかかわらず、学生時代の遊び暮しが嵩じてか医師免許の試験も受けず、ウェイクボー
ドのプロになって 3 年、4 年と気ままに放蕩してきた輩が、人ひとり死なしめる大事故を起こした挙句、将来を憂慮
する父親たちの説得の前に、さすがに自身も将来不安を感じてか、医学博士の資格を取りにかかったということだが、
それがこのタイミングか、あまりにも出来過ぎていて、此方はただただ開いた口が塞がらないというしかない。
合否判定の結果は、固有名など判るはずもないが、統計的な数値のみ公表されている。
受験者数 8,447 名、合格者数 7,538 名、合格率は 89.2%と高率だ。
この内、新卒の受験者 7,701 名、同合格者 7,147 名で、合格率は 92.8%となっている。
ならば、746 名の新卒以外の者が受験し、内合格者は 391 名となるから、合格率は 52.4%とぐんと下がる。いかに現
役有利であるか一目瞭然だが、さりとて 5 割を越える合格率ならば、受験勉強などロクにしている筈もない遊び人の
奴とてはずみで受からぬこともない。おめおめとただ座視しているわけにはいかぬと、厚生労働省への直訴と相成っ
たのだが、この請願を必ずや担当部局に採り上げさせるには実力行使に及ぶしかないと、前回の選挙でめでたく
議席を得た知友を頼った次第である。
―山頭火の一句― 行乞記再び -311 月 23 日、雨后晴、泥中行乞、呼子町、松浦屋
波の音と雨の音と、そして同宿のキ印老人の声で眼覚める、昨夜はアル注入のおかげで、ぐつすり寝たので、心身共
に爽やかだ。
とうとう雨になつたが、休養するだけの余裕はないので、合羽を着て 8 時過ぎ出立する、呼子町まで 2 里半、11 時
に着いて 2 時半まで行乞、行乞相もよかつたが、所得もよかつた。
呼子は松浦十勝の随一だらう、人も景もいい感じを与へる、そしてこの宿もいい、明日も滞在するつもりで、少しば
かり洗濯をする。
晴れて温かくなつた、大寒だといふのに、このうららかさだ、麦が伸びて豌豆の花が咲く陽気だ。
私でも-私の行乞でも何かに役立つことを知つた、たとへば、私の姿を見、私の声を聞くと、泣く児が泣くことをや
める!
中流以上の仕舞うた屋で、主婦もご隠居もゐるのに、娘さん-モダン令嬢が横柄にはじいた、そこで、私もわざと観
音経読誦、悠然として憐笑してやつた。-略今日は郵便局で五厘問答をやつた、五厘銅貨をとるとらないの問答である、理に於ては勝つたけれど情に於て敗けた、
私はやつぱり弱い、お人好しだ。-略※この日句作なし、表題句は 1 月 6 日記載の句
Photo/現在の呼子湾全景と、平成元年に開通したという呼子大橋
20100411
松風のよい家ではじかれた
-表象の森- Satie も Paganini も
- 234 いつもの稽古だが、いつもとは違う、今日の稽古で Aya は 2 ヶ月あまり遠離ることになるのだから、入念にとはい
かないまでも、しっとりした気分で、いい時間が送れればいい。
Aya はちょつぴり昨日の疲れを残し、Junko にいたってはとくに 3 月はじめからずっと残業ばかりの仕事の疲れを
貯めに貯め込んで鉛のように重くなった身心といった気配が否応なく伝わってくる。
こんな状態では稽古になる筈もない、のだけれど、どっこいそんなことはない。
Satie もいい、Paganini も、これまたとてもいい。
Satie、即興とはいえ、動きを工夫していくことにかけては、その契機となりうるあらゆる音の刺激が、それはもう
次から次へと繰り出されてくる。だからボロ布のような状態の身心においても、音が鳴り出すとちゃんと点火のスイ
ッチが ON になる。
Paganini の難曲と云われる「24Capricci」、これは神尾真由子の演奏のものを使っているが、このヒステリックなま
での超絶技巧の Violin 曲は、いま凝っている石川九楊の書史論に重ねれば、あらゆる多折法を含み込んだ無限微動筆
蝕の世界に擬えようか。とにかく凄い、過激なまでに想像力を羽搏かせ、即興世界を未到のものへと誘い出してくれ
るような、そんな力がある。
今日も Satie と Paganini のお蔭で、ちょっといい稽古になった。
―山頭火の一句― 行乞記再び -301 月 22 日、晴、あたたかい、行程 1 里、佐志、浜屋
誰もが予想した雨が青空となつた、とにかくお天気ならば世間師は助かる、同宿のお誓願寺さんと別れて南無観世音
菩薩。‥
ここで泊る、唐津市外、松浦潟の一部である、このつぎは唐房-此地名は意味深い-それから、湊へ、呼子町へ、加
部町へ、名護屋へ。
唐津行乞のついでに、浄泰寺の安田作兵衛を弔ふ、感じはよろしくない、坊主の堕落だ。
唐津局で留置の郵便物をうけとる、緑平老、酒壺洞君の厚情に感激する、私は-旅の山頭火は-友情によつて、友情
のみによつて生きてゐる。
-略- 松浦潟の一角で泊つた、そして見て歩いた、悪くはないが、何だかうるさい。-略緑平老の肝入、井師の深切、俳友諸君の厚情によつて、山頭火第一句集が出来上るらしい、それによって山頭火も立
願寺あたりに草庵を結ぶことが出来るだらう、そして行乞によつて米代を、三八九によつて酒代を与へられるだらう、
山頭火よ、お前は句に生きるより外はない男だ、句を離れてお前は存在しないのだ! -略※句作なし、表題句は 1 月 19 日記載の句
ここに触れられている、安田作兵衛とは何者かと探ってみれば、宝蔵院流の槍の使い手で、明智光秀の家臣斉藤利三
の配下として、本能寺の変で織田信長に一番槍をつけ、森蘭丸を討った武将らしく、此の時弱冠 21 歳。ところがこ
の男、その後の有為転変がなかなかに揮っており、エピソード満載の御仁のようだ。その最後は旧知の間柄だった唐
津藩主 8 万石藩主沢広高の元に身を寄せていたが、頬に酷い腫物を患ってしまい、これを琴の糸で縛って 3 度抜き取
ろうとしたがうまくいかない、はるばる草津の湯にまで湯治に出かけたもののこれまた治らず、挙句の果て怒って自
害した、という。なんとその命日が 6 月 2 日、奇しくも本能寺の変が起こった日、これが因果応報とばかり信長や蘭
丸を殺した酬いだと後世の語り草となったようだ。以下のサイトに詳しい。
http://www.geocities.jp/ukikimaru/ran/jiten/yasudasakubei.htm
Photo/浄土宗知恩院派、清涼山浄泰寺
20100410
- 235 けふのおひるは水ばかり
-四方のたより- 警官出動
「咲 RUN 成田屋」、このたびはデカルコ・マリィ、なぜだか十八番を踊った。そのためであろう、午後 4 時半と 7 時半
の本番 2 回のみとなったので、KAORUKO を連れて 4 時過ぎから滞在したこの身には、長丁場の休憩タイムをやり
過ごすのにひと苦労。
プロットが出来上がっている出し物だけに、Aya にとっても出番が限られ、フリーハンドもあまり利かないとあって
は、些か消化不良に終ったことだろう。
おまけに夜の部では、Performance もたけなわといったあたりで、まあご苦労なことに、警官殿が 3 人もご出動あ
そばした。近隣から苦情が出たか、そんな通報があれば、とにかく駆けつけない訳にはいかない、成田屋の亭主らと
ひと悶着しているのを尻目に続けられはしたが、後半は端折ったものとなってしまった。共演者たちは汗を掻くほど
もなく、さぞ燃焼不足であったろう。
Viola の大竹徹君の馴染みの客、50 半ばほどかとみえるその女性が、なんと昔をよく知る田村正仁君の妹だと聞いて
驚き。だがそう聞けば、なるほど面立ちがよく似ており、まこと血は争えぬといたく感心。しばし昔話に花を咲かせ
た。
―山頭火の一句― 行乞記再び -291 月 21 日、曇、いよいよ雨が近いことを思はせる
貯へを持たないルンペンだから、ぢつとしてはゐられない、9 時半から 3 時半まで行乞。
近松寺に参拝した、巣林子に由緒あることはいふまでもない、その墓域がある、記念堂の計画もある、小笠原家の菩
提所でもある、また曾呂利新左衛門が築造したといふ舞鶴園がある、こぢんまりとして気持ちのよい庭だつた。
今日は市議選挙の日、そして第 60 議会解散の日、市街至るところ号外の鈴が響く。
唐津といふ街は狭くて長い街だ。
この宿はしづかできれいであかるくていい、おそくまで読書した、久しぶりにおちついて読んだ訳である。
毎日、彼等から幾度か不快を与へられる、恐らくは私も同時に彼等に不快をあたへるのだらう-それは何故か-彼等
の生活に矛盾があるやうに、私の生活に矛盾があるからだ、私としては、当面の私としては、供養を受ける資格なく
して供養を受ける、-これが第一の矛盾だ!-酒は涙か溜息か、-たしかに溜息だよ。
※句作なし、表題句は前日記載の句
Photo/巣林子こと近松門左衛門由縁の近松寺門前と墓所
20100409
山へ空へ摩訶般若波羅蜜多心経
-四方のたより- 推参!「咲 RUN 成田屋」
この月半ばから、Aya がイギリスへと旅立つ。行先は西部のウェールズ地方とか、2 ヶ月余り滞在してくるといって
いる。
ならば、送別会代わりに何かないかと考えて、ちょうど頃合いもよしとばかり、デカルコ・マリィたちの成田屋路上
Performance に押しかけて踊ることにしよう、ということになった。踊りのあとは、しばし別れの飲み会となって、
またとない餞別となろう。
と、そんな次第で、明日の「咲 RUN 成田屋」には Aya も推参、いつもの面々に加えての飛入り出演となる。
―山頭火の一句― 行乞記再び -281 月 20 日、曇、唐津市街行乞、宿は同前
- 236 9 時過ぎから 3 時頃まで行乞、今日の行乞はは気分も所得もよかつた、しみじみ仏陀の慈蔭を思ふ。
ここの名物の一つとして松露饅頭といふのがある、名物にうまいものなしといふが、うまさうに見える-食べないか
ら-、そしてその本家とか元祖とかいふのが方々にある。
小鰯を買つて一杯やつた、文字通り一杯だけ、昨夜の今夜だから。
晩食後、同宿の鍋屋さんに誘はれて、唐津座へ行く、最初の市議選挙演説会である、私が政談演説といふものを聴い
たのは、これが最初だといつてもよかろう、何しろ物好きには違ひない、5 銭の下足料を払つて 11 時過ぎまで謹聴
したのだから。
※表題句の外、1 句を記す
文中、山頭火が「政談演説を聴くのは最初だ」というのに些か怪訝な思いがした。というのも近在きっての大地主であ
った防府時代の種田家の当主であった山頭火の父竹治郎は、明治後半から大正期、当時の資産家地主らにありがちだ
ったのは、地方政治家などのパトロンとなって放蕩や贅沢を繰り返し家産を傾ける者が多く、彼には女道楽もあるに
はあったが、いわば政治家のタニマチ筋としてずいぶん活躍したらしく、大種田没落の主因はこちらのほうであった
筈だからだ。
だが、山頭火が上京して早稲田に通うようになった頃は、すでに学資の送金も滞りがちであったとされるから、竹治
郎もかようなパトロンどころではなく、そんなタニマチ世界からはもう遠離っていたのだろう。山頭火の少年期の記
憶のうちにそんな父親像が残っていたとすると、初めてという演説会に接しながら、ふと父親のことが脳裏に浮かん
では、複雑な想いが去来したのではなかったか‥。
Photo/現在の唐津市街を遠望する
Photo/唐津名代の松露饅頭
20100408
松に腰かけて松を観る
-日々余話- 澪標、一枚の原稿
毎年 2 月の第 1 土曜日を開催日と定め、今年は 3 度目となった新年会。2 月 6 日の夕刻、所は梅田界隈のがんこ阪急
東通店、集った期友 36 名、総会に比べるととけっして多くはないが、一年振りの語らいの宴に和気藹々と思い思い
の談笑に花を咲かせた。
私たち高校 15 期生の同窓会は「市岡 15 期会」と略称している。十五の春の高校入学から数えればすでに半世紀を経
た―なんと今春の新入生は 65 期生となるのだ―が、今から 7 年前、卒業 40 年紀となった総会開催を機に、幹事会も
拡大充実、同窓会の活動がずいぶんと活発化している。
総会は 3 年毎開催を一応の目安にしているが、年毎に例会あるいは冒頭に紹介のごとく新年会を催し、さらには期友
同好の集いも生まれ、春秋開催のゴルフの会や、近郊の山野旧跡を訪ね歩く会が隔月ペースで催されるなど、横の繋
がりは歳経るほどにひろがり、また密なものにもなってきている。むろんクラス別においても同窓会を催す例はさま
ざまあり、幹事会席上その報告に接することもしばしばである。
こうして期友と接することの重なるにつれ、65 歳のそれぞれの来し方、とりどりの半生が固有の色を帯び、くっき
りと像を結んでは縒り合わされ、やがて一枚の布へと織りあげられてゆく。それは絢爛豪華などという形容からはま
るで遠いものだが、青春の残照に映えて美しくまた哀しく、愉しくおもしろくまた時に苦くもあり、歳古ればこその
滋味あふれた図柄を顕す、唯一無二、それぞれのたった一枚の画となり胸深く刻み込まれていくのだ。
Photo/新年の宴模様-09 年―山頭火の一句― 行乞記再び -27-
- 237 1 月 19 日、曇、行乞 2 里、唐津市、梅屋
午前中は浜崎町行乞、午後は虹の松原を散歩した、領巾振山は見ただけで沢山らしかつた、情熱の彼女を思ふ。
唐津といふところは、今年、飯塚と共に市政をしいたのだが、より多く落ちつきを持つてゐるのは城下町だからだら
う。
松原の茶店はいいね、薬罐からは湯気がふいてゐる、娘さんは裁縫してゐる、松風、波音。‥
受けとつてはならない一銭をいただいたやうに、受けとらなければならない一銭をいただかなかつた。
行雲流水、雲のゆく如く水の流れるやうであれ。-略虹の松原はさすがにうつくしいと思つた、私は笠をぬいで、鉄鉢をしまつて、あちらこちら歩きまはつた、そして松
-松は梅が孤立的に味ははれるのに対して群団的に観るべきものだらう-を満喫した。
げにもアルコール大明神の霊験はいやちこだった、ぐつすり寝て、先日来の不眠をとりかへした。
※表題句の外、2 句を記す
Photo/領巾振山から見た虹の松原
Photo/領巾振山こと鏡山
Photo/佐用姫岩から望む鏡山
20100407
波音の県界を跨ぐ
-表象の森- 無限微動筆蝕
石川九楊編「書の宇宙 -21-さまざまな到達・清代諸家①」より
リズム法の解体による筆蝕の無限微動化は、筆蝕の強靱化、多様化のみならず、字形の多様化をもたらした。
鄭燮-テイショウ-の「懐素自叙帖」に至っては、隷書、楷書、行書をモザイク状に敷き詰めたような、信じがたい不思
議な作が生まれている。明末の傅山-フザン-に、行書、連綿行書、金文、草書体風の金文をこきまぜた七帖十二屏の
作品があるが、この場合には一幅が一体で書かれている。なぜなら、いまだ折法が完全に相対化されず、筆蝕も無限
微動化が実現していなかったがために、書字の上での「はずみ」-運筆上自然に生まれてしまう字画の長さや形状-が避
けられず、一幅の内に複数の書体を交ぜて書くことは不可能であったからである。
ところが、新たに誕生した無限微動段階の筆蝕は、いついかなる時でも、いかなる方向へでも、いかなる力でも進む
ことを可能にした-それは筆蝕が進みながら止まっており、止まりながら進んでいることを意味する-。このため極
痩の草書体と極太の隷書体や楷書体とが違和感なく一つの紙面に併存し一つの世界を構成する、鄭燮の「懐素自叙帖」
も生まれたのである。
・鄭燮-テイショウ-「懐素自叙帖」部分-1764 年一見したところ、玩具箱をひっくりかえしたような、懐素の自叙帖を書いた作品。折法が相対化され、書法が相対化
された清朝でなければ表現されえない書。清朝初期を代表する書であり、無限微動筆蝕が複雑多岐にわたる表現を可
能にしたことを証す書である。ここには、日本の戦後前衛書も含めた、現代的表現の芽生えがある。極痩の草書体部
は筆尖を垂直に突き立てた直筆で書かれ、石を切り落とすような左右のハライ部では、筆尖が角度筆で書かれている。
書はついに、現代の我々を無条件でわくわくさせるまでの表現法を手に入れたのである。
/‥其不羈。引以遊處。兼好事‥/
/‥草稿之作。起於漢代‥/
/‥壇其美。義獻茲降。虞‥/
/‥長吏雖姿性顛逸。超絶巓/
- 238 ―山頭火の一句― 行乞記再び -261 月 18 日、晴、行程 4 里、佐賀県浜崎町、栄屋
霜、あたたかい日だつた、9 時から 11 時まで深江行乞、それから、ところどころ行乞しつつ、ぶらぶら歩く、やう
やく肥前に入つた、宿についたのは 5 時前。
福岡佐賀の県界を越えた時は多少の感慨があつた、そこには波が寄せてゐた、山から水が流れ落ちてゐた、自然その
ものに変りはないが、人心には思ひめぐらすものがある。
筑前の海岸は松原つづきだ、今日も松原のうつくしさを味はった、文字通りの白砂青松だ。
左は山、右は海、その一筋道を旅人は行く、動き易い心を恥ぢる。
松の切株に腰をかけて一服やつてゐると、女のボテフリがきて「お魚はいりませんか」深切か皮肉か、とにかく旅中
の一興だ。-略いつぞや途上で話し合つた若い大黒さんと同宿になつた、世の中は広いやうでも狭い、またどこかで出くわすことだ
らう、彼には愛すべきものが残つてゐる、彼は浪花節屋なのだ、同宿者の勧めに応じて一席どなつた、芸題はジゴマ
のお清!
一年ぶりに頭を剃つてさつぱりした、坊主にはやはり坊主頭がよい、床屋のおかみさんが、ほんたうに久しぶりに頭
を剃りました、あなたの頭は剃りよいといってくれた。
落つればおなじ谷川の水、水の流れるままに流れたまへ、かしこ。
※表題句の外、記載なし
Photo/道中の、鳴き砂で名高い姉子浜-現糸島市二丈鹿家20100406
沿うて下る枯葦の濁り江となり
-日々余話- 無惨!翔く二人
共演シーンのない二人の競演は、各々が Onstage を行うという形で、最低限の演りたいだけをやったから、結果、
観客は正味二人分の show に付き合わされることに‥。
午後 6 時から Dinner が、6 時 50 分から show がはじまり、9 時半までかかるだろうと覚悟はしていたが、終演はな
んと 10 時 5 分過ぎ、演者にとっても観者にとっても、徒労感ばかりが残る、こんなバカげた企画は、まずおめにか
かることはない。
これも偏に企画主催者側にまったくコントロール機能がなかった所為である。舞台で自ら紹介していたが、加納ひろ
しが歌手生活 33 年にもなるというのにも、ヘーそうなんだとただ驚かされるばかりだったが、この男性歌手一人を
抱えて芸能プロでございますと、(有)スペースクラフトなどと紛らわしい呼称-東京には同名の大手プロダクションが
ある-の T.K なる女社長のごく身勝手なだけの要求に、言いなりになるしかない主催者であるなら、端からこの共演企
画、立ち上げるべきでなかったというのは、この日の関係者と観客のすべてが抱いた、疲れ果てた末の慨嘆であった
ろう。
10 人ベースのテーブルが 22、Yumi が手売りで 140 人ほど集めたというから、主催のひろ舞企画及び加納ひろし側
で集客し得たのは 80 人ほどにしかすぎないが、これまた端からゆみの客筋を大いに当て込んだうえの企画であった
のは一目瞭然、それなのに己が批判の集中砲火を浴びた途端に、手のひら返してゆみへと責めの転嫁をしてもの申さ
れるときては、開いた口もふさがらぬオバサマだ。
この手の世界に連座する人々は、なぜこうも破廉恥きわまるエゴの亡者ばかりなのか、媚びと諂い、そして己れの面
子‥。
- 239 そのなかで、Yumi の客たちは、共演者の顔も立てつつ、この長丁場をよく耐えたものだと思う。おそらく殆どの客
たちが、Yumi の生死を分けた手術後の、初のステージだということをよく承知していたのではないか、みんな Yumi
の身体の心配のほうが先に立ち、ハラハラしながら見守っていたというのが事実に近いのだろう。
結局は、エゴ剥き出しの輩ほど、それに応じて負の傷口をひろげ、これに耐えながら真摯な姿勢を貫いたほうが、そ
れなりの果実をものすることになるのだが、今後のことを思えば、どうしてもこの際、企画主催のひろ舞サイドには、
なにがしかの気づきを起こしめねばならない、かなり難しいことだけれど‥。
―山頭火の一句― 行乞記再び -251 月 17 日、また雨、行程 2 里、深江、久保屋
世間師は晩飯を極楽飯、朝飯を地獄飯といふ、私も朝飯を食べた以上、安閑としてゐることは出来ない、合羽を着て
笠を傾けて雨の中へ飛び出す、加布里-カムリ-、片山といふような部落を行乞して宿に着いたのは 3 時過ぎだつた。
深江といふ浦町はさびしいけれど気に入つたところである、傾いた家並も、しんみりとしてゐる松原もよかつた、酒
1 合、燗をしてくれて 9 銭、大根漬の一片も添へてくれた。-略私たちは「一日不作一日不食」でなくて「食べたら働かなければならない」である、今日の雨中行乞などは、まさに
それだ-働かなければ食へないのはホントウだ、働いても食へないのはウソだ-。よく降る雨だ、世間師泣かせの雨だ、
しかし雨の音はわるくない、ぢつと雨を聴いてゐると、しぜんに落ちついてくる、自他の長短が解りすぎるほど解る。
此宿はほんたうによい、部屋もよく夜具もよく賄もよい、これだけの待遇して 25 銭とは、ほんたうによすぎる。
途中、浜窪という遊覧地を通つた、海と山とが程よく調和して、別荘や料理屋を建てさせてゐる、規模が小さいだけ、
ちんまりと纏まつている。
一坊寺といふ姓があつた、加布里といふ地名と共に珍しいものである。
また不眠症にかかつた、一時が鳴つても寝つかれない、しようことなしに、まとまらないで忘れかけてゐた句をまと
めてゐる。
※表題句の外、2 句を記す
Photo/浜窪の海岸と神島神社-現糸島市二丈浜窪
20100404
いつまで旅する爪をきる
-表象の森- 無限微分折法
石川九楊編「書の宇宙 -21-さまざまな到達・清代諸家①」より
明末連綿草を経て、折法-リズム-は相対化され、揚州八怪の時代に至ると、ついに折法から自由になった。
秦の始皇帝時代に、いわば一折法-字画の成立。字画-線という単位が成立し、字画を積み上げ積み重ねることによ
って文字が成立するという構造-として誕生した文字は、王羲之に象徴される草書の時代に「トン・スー」や「スー・グ
ー」の二折法としてリズムを成立させ、次いで初唐代の楷書において二折法書法が三折法刻法を吸収して「トン・スー・
トン」の三折法=立体書法を確立し、宋代に至ると「トン・ツ・ツ・ツー・トン・ツ・ツ・ツ-・トン」とでも表現される多折法
へとせり上がった。折法は、さらに明代に、その多折法の上に多折法を積み上げることによってこれを無限に微分し、
ついに相対化されるに至った。文字を書く書法が折法から自由になったとき、どのような文字の表現も可能になった。
むろん、可能になったことは、必ずしもただちに実現することを意味しない。
折法から剥がれた無限微分折法は-無限リズム法、無限拍リズム法、リズムの喪失-は、筆蝕に反射して無限に微分さ
れ、無限に微動する微粒子的な律動そのものである筆蝕を生むことになった。
この無限の微粒子的律動に支えられ無限折法の成立は、いわば荒野に素手で立ちつくす時代、すなわち自己組織化、
自己運動の不可避の時代に至ったことを意味する。
- 240 いわゆる戦後前衛書に見られるような、筆蝕が劇作法-演劇的な展開の必然性-を欠いて、いたずらに書が筆蝕の遊戯
化へと無限に退嬰する可能性は、この清朝の金農の無限折法・無限微動筆蝕に、同時に宿ったのである。
無限微動筆蝕の姿は、金農の「題昔邪之廬壁上」の横画のすべてが、幾重にも紙面に対して小刻みに震えるように上下・
深浅運動を繰り返しつつ-それゆえ字画とりわけ字画の下部が波状に結果する-左から右へと書き進められる表現に明
らかである。
・金農「題昔邪之廬壁上」-1762 年隷書/三折/波偃。/墨竹/一枝/風斜。/童子
入市/易米。/姓名/又落/諸家。
無謀にも剃刀で石の表面を削ぎ落とすかのごとき、恐るべき切り削りの書。金農にとっては、紙-対象世界-は一度も
柔らかな対象であったことはなく、絶えず、鉱物のごとき硬さをもつものにほかならなかった。
無限の自由を獲得することによって、書は自己組織し、自己運動する段階-stage-、つまり自立の近代に突入した。
書そのものがリズム-折法-であり、言葉であり、政治であり、国家であり、神であるという転倒が生まれた。書が初
めて芸術表現として独立することが可能になったのである。また、このとき、言葉を書きつけるところに自動的、付
随的に書が誕生するという自明生は解体された。毛筆で詩文を書きつけることが必ずしも書の誕生を意味せず、逆に、
筆蝕の表現力が詩文の表現力に匹敵する、あるいは上回るまでに至ったのである。
微動する筆蝕-筆尖と紙<対象>との関係に生じるふるえ-にすぎないものが、自らを組織し、折法を仮想し、字画を擬
態し-文字を構成し、文字の一部であるところの字画のごとき仮の姿をすること-、文字を擬態する-文字のごとき仮の
姿をすること-ことによって、ひとつの世界として聳立する以外になくなったのである。
―山頭火の一句― 行乞記再び -241 月 16 日、雨后晴、寒風、宿は同前
雨だ、風だ、といつてぢつとしてゐるほどの余裕はない。10 時頃から前原町まで出かけて 3 時頃まで行乞する、一
風呂浴びて一杯ひっかける。
句稿を整理して井師へ送る、一年振の俳句ともいへる、送句ともいへる、とにかく井師の言のやうに、私は旅に出て
ゐなければ句は出来ないのかも知れない。
朝も夜も、面白い話ばかりだ、-女になつて子を産んだ夢の話、をとこ女の話、今は昔、米が 4 銭で酒が 8 銭の話。
‥
※日記末尾に、表題句を記す
Photo 雷山千如寺
この頃、木村緑平を頼りに句集出版を果たすべく心労は絶えないようである。句稿は相応に貯まってはきているが、
出版の目途はなお埒があかない状態が続いていたのだろう。
山頭火の第一句集「鉢の子」が刊行される運びとなるのは、この年の 6 月 20 日。
この日の「いつまで旅する爪をきる」は、
「いつまで旅することの爪をきる」と改め、採られている。
20100403
山寺の山柿のうれたまま
-表象の森- 松浦ゆみ讃
青いお空の底ふかく、
海の小石のそのやうに、
- 241 夜がくるまで沈んでる、
ひる
晝のお星は眼にみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬものでもあるんだよ。
ひる
晝のお星は眼にみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬものでもあるんだよ。
松浦ゆみの、幼い頃から心の底深く育ててきた歌への憧れ、その熱い想い、つねに歌と共にあり、歌に生きること、
それは夢や幻ではない、見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ、と唱う童謡詩人金子みすゞの眼差
しの、果てしないひろがりと遠さにも似た、そんな慥かさと勁さがあるのでは、とそう思えてならないのです。
―山頭火の一句― 行乞記再び -231 月 15 日、曇、上り下り 7 里、赤坂。末松屋。
雷山千如寺拝登、九州西国 29 番の霊場。
今日は近頃になく労れた、お山でお通夜を阻まれ、前原で宿を断はられ、とうとうここまで重い足を曳きずって来た、
来た甲斐はあつた、よい宿だつた、同宿者も好人物だつた、たとへ桶風呂でも湯もあつたし、賄も悪くなかつた、火
鉢を囲んで雑談がはづんだ、モンキの話-猿-長虫の話-蛇-等、等の縁起話は面白かつた。
雷山の水もよかったが、油山には及ばなかつた、この宿の水はよい、岩の中から湧いてくるのださうな。
先日来、御馳走責で腹具合が悪かつたが、アルコールをつつしみ水を飲み、歩いたので、殆どよくなつた、健康-肉
体の丈夫なのが私には第一だ、まことに「からだ一つ」である、その一つを時々持て余すが。
※句記載は表題句のみ
雷山千如寺は紅葉で名高い、とくに大悲王院の楓と称される大樹は樹齢 400 年とされ見事な枝振り。
20100402
朝から泣く児に霰がふつてきた
-表象の森- ゆみのための、Narration Profile
-以下は、昨夜、書き上げた原稿。
・浪速の都大阪の北、関西随一を誇る梅田を中心とした繁華街を、東に少し外れると、学問の神様・天神さんで名高
い、菅原道真公を祀る天満宮がある。
近頃は、その鳥居を挟んだ門前に、4 年前にオープンした上方落語の殿堂・天満天神繁昌亭が、その名のとおり大繁盛、
連日賑わいを見せているのは、みなさんよくご存じのことでしょう。
この天満宮を皮きりに、日本一長いと言われる天神橋商店街が、まっすぐ南北へと伸びているが、天神さんからちよ
うど 500 ㍍ばかり北へ行った、その東側の界隈には、昔、大江戸の町は南と北に、浪速大阪では東と西にと、泰平の
治安を担った町奉行を配したが、その所縁-ゆかり-を今に伝えて、与力町-よりきまち-と呼ばれる一角がある。
その与力町で、ゆみは生まれ、育った。
・松浦ゆみ、その幼かりし子ども時代は、天神祭りの小気味よく鳴り響く鐘や太鼓に包まれて、明るくおおらかに成
長していく。
- 242 暑い暑い夏の盛りがやってくると、天神さんのお祭だ。大阪じゅうの善男善女が、東から西から北から南から、どっ
と繰り出しては溢れかえる。
天神さん近くの与力町で育ったゆみは、その界隈の抜け道裏道を知り尽くしていた。母さんに振袖の浴衣を着せても
らったゆみが、弾けるような笑顔で元気いっぱい駆け出していく。
天満宮の境内には、見世物小屋や屋台がこれでもかとばかり立ち並んでいる。食いしん坊のゆみは、必ずといってい
いほど林檎アメとイカ焼きを頬ばっていたな。怖いもの見たさに覗きからくりを背伸びしながら覗いていたこともあ
ったっけ‥。
そうそう、覚えているか、ゆみ? お前がだんじりや神輿を夢中になって追っかけ、とうとう父さんや母さんたちと
はぐれてしまって、(笑)、ずいぶん泣きべそをかいていたっけな‥。
ゆみ、あれは、お前が幾つの時だったか‥‥?
・ゆみ、お前は幼い頃から唄が好きだった。覚えているか、ゆみ?
まだ小学校へ上がる前から、近所の小母さんたちに上手い上手いと囃されて、得意の歌を唄っては、ご褒美だとよく
お小遣いを貰ったりしていたな‥‥、そんな時のお前は、嬉しくてたまらないって顔してた。
父さん、今でも覚えているぞ。貰った十円玉を握り締めては、得意満面で駆けてく、嬉しくてはちきれんばかりの、
ゆみの、あの笑顔――。
・負けん気だったけど、いつも愛嬌たっぷりだった、ゆみ。
そんなお前が、大きくなって、歌がいっぱい唄えるバスガイドさんになった時は、父さんちっとも驚かなかったが、
いつのまにか、仕事のかたわら、ギンギンに激しいロックバンドをバックに歌うようになったのには、もうビックリ、
父さん魂消てしまったよ。もちろん母さんだって、きっとそうだったろうよ。
・あの頃から、もう、どれほどの年月が経ったのだろう?
あれからまもなく、父さんも母さんも、天国なんて処に来てしまったから、もう年も取らないし、歳月なんてものも
分かりゃしない。こっちには時間なんてない、ずうっと今みたいなものなんだから‥。
だけど、ほら、ゆみがとうとうほんとの歌い手さんになった時、メジャーデビューって言うんだって、あの時の晴れ
やかなショー、お客さんをいっぱいにした舞台、ゆみ、とても輝いていたよ、父さん眩しかった。ゆみ、とても綺麗
だった、父さん嬉しかった。母さんも喜んでたぞ、声あげて嬉し泣きしてた‥。
そしていま、今夜のゆみも綺麗だよ、とても輝いている。
だってほら、こんなに沢山の、みなさんが喜んでくださるから、こんなに大勢の、みなさんが可愛がってくださるか
ら、そう、だから、ゆみは、これからも、ずっと--。
―山頭火の一句― 行乞記再び -221 月 14 日、風が寒い、2 里歩く、今宿、油屋
もう財布には一銭銅貨が二つしか残つてゐない-もつとも外に五厘銅貨 10 銭ばかりないこともないが-今日からは嫌
でも応でも本気で一生懸命に行乞しなければならないのである。
午前は姪ノ浜行乞-此地名も珍しい-、午後は生の松原、青木松原を歩いて今宿まで、そして 3 時過ぎまで行乞する、
このあたりには元寇防塁の趾跡がある、白波が押し寄せて松風が吹くばかり。
途中、長垂寺といふ景勝の立て札があつたけれど、拝登しなかつた、山からの酒造用水を飲ませて貰つたがうまかつ
た、ただしちつとも酔はなかつた!
俳友に別れ、歓待から去つて、何となく淋しいので、少々焼酎を飲み過ぎたやうだ、酒は 3 合、焼酎ならば 1 合以下
の掟を守るべきである。
- 243 -略-、長崎では、家屋敷よりも墓の方が入質価値があるといふ、墓を流したものはないさうな、それだけ長崎人の信
心を現はしてゐる。
※表題句は、1 月 12 日記載の句。
Photo/生の松原-現.福岡県西区今津
Photo/元寇防塁
20100401
けふは霰にたたかれて
-日々余話- 火事騒ぎ!
エイプリル・フールの話じゃない。
夕刻、6 時を過ぎた頃だ、階下の中一の子どもが大慌てで、「火事です! すぐ出てください」と玄関で叫ぶ。よく判
らぬが、どうやら真下の部屋の台所で火が出たらしい。
怖がる KAORUKO の手を引っ張るようにして階段の踊り場へ出たら、煙がもうもうと玄関先に立ちこめる中、何人
かの子どもらが咳き込みながら右往左往、周りでは同じ階の人たちが何人も様子を見ている。その中の携帯を持った
一人と眼が合ったので、すかさず「119 番は?」と仕草で合図を送ったら、「もうすぐ来るよ」とこれまた仕草で応
答。その数秒後には、消防のサイレンが聞こえてきた。
消防車が 1 台、2 台、署員たちがドヤドヤと次々に階段を駆け上がる。近隣の人々も騒ぎに気がついて、あちこちに
人だかり‥。
結果は、ボヤ騒ぎで事なきを得たものの、この時、出火元には子どもたちしか居なかった。中一の友だち同士が、4.
5 人か、集まって遊んでいたようで、腹を空かしたか、台所で何かを作ろうとして、この騒ぎとなったのではないか。
悪戯盛りの年頃だし、家に同年の子どもたちしか居ないという、そんな事態ではいったい何が起こるか、やはり恐い。
夫婦共稼ぎに 4 人の子沢山、中一の子が末っ子だが、この騒ぎを教訓に、家族のありようをよく考えなければなるま
いが、同じマンションに住む我々にとってもまた、斉しく教訓として受けとめねばならない。
―山頭火の一句― 行乞記再び -211 月 13 日、曇つて寒かつた、霰、姪ノ浜、熊本屋。
東油山観世音寺-九州西国第三十番-拝登。
今日は行乞はほとんど出来なかつた、近道を教へられて、それがために却つて遠道をしたりして一層疲れた。
お山の水はほんたうにおいしかつた、岩の上から、そして樋をあふれる水、それにそのまま口づけて腹いつぱいに二
度も三度も頂戴した。
野芥-ノケと読む-といふ部落があつた、珍しい地名。
同宿は女の油売、老いた研屋、共に熊本県人、そして宿は屋号が示すやうに熊本県人だ、お互に熊本の事を話し合つ
て興じた。
※表題句の外、句作なし
この寺は臨済宗東福寺派の正覚寺、通称油山観音と呼ばれる。由緒は天平年間というから古い。
山頭火が腹一杯呑んだ岩を流れる水は、現在も勢いよく溢れている。
表題句とともに、この日の日記本文と山頭火の写真とを掲げた、まだ真新しい碑が山門の横にある。
20100331
寒い空のボタ山よさようなら
- 244 -表象の森-「中国書史」跋文より-承前
編集者八木俊樹による幾つかの帯文
・書の回遊魚たちに対して-
書と道と生の哲学-宗教-を巡る凡ての言説は見え透いた意匠に過ぎない。文字の整調と階調とあるいは変形美-デフォ
ルマシオン-を競うのは、実用性から見ても歴史的に見ても、日常性の誤りのない算術である。ただ、教育家と僧侶
とこの世の美の請負人-アーティスト-が、芸術としての書の独立や自立を強いられたとき、文字や言葉や書する劇-ド
ラマ-の解析学や微積分学を推進めて考える労を取ることなく、文字の美的工夫や造形美の表面-うわべ-と取引して、
己の地位や商売や趣味を保守せんがために美に雄弁たらんと、修練や仏教的呪文や、書は散也懐抱を散ずる也の曼荼
羅を唱え、また心的に行動的に形容し死化粧したに過ぎない。
・文字と言葉と意識-社会-について-
一般的に言えば、文字は外化された言葉であり、言葉は外化された意識である。逆に言えば、文字は言葉という星雲
の、言葉は意識宇宙-社会-の原子核である。この順逆の、陰陽の構造を明らかにしたものは誰もいない。言葉の肉体陰-を書する逆説-パラドクス-、書の本質を問うことによって、文字と言葉と意識-社会-の構造をもはじめて露わにす
ることができるに違いない。
・書する人々に-
書とは如何なる芸術-アルス-か-。ここに、書と書する自己の半ば無意識のうちに緘黙していた美を解剖して、書の理
論-テオリア-と書的行為-プラクシス-と技法-テクネーの三位一体の、凡ての逆説にみちた脈絡と必然性が微と細の極
限まで辿られ視覚化された。ここに、書の美は書家たちの曖昧に装飾語たることを脱し、、書の現代に立ち会うこと
ができる。
・異境の職人たちへ-
書とは言語-詩-の逆説であり肉体であり、社会への距離の函数の、陰画-ネガ-からの対照法である。文明に対する根源
的な懐疑とその一般化が現代であるとすれば、書と書的思考はそれ故、言語という陰画-ネガ-世界をも蝕筆し相対化
するものである。本書は、蝕筆によって現代を計量する異彩の文明論であり、反時代的考察でもある。
―山頭火の一句― 行乞記再び -201 月 10 日、晴、2 里、散策、神湊、隣船寺。
-記載なし1 月 11 日、晴、歩いたり乗つたりして 10 里、志免、富好庵。
-記載なし1 月 12 日、雨后晴れ、足と車で 10 余里、姪ノ浜、熊本屋
此三日間の記事は別に書く。
※表題句の外、2 句を記す
山頭火は、10 日には俊和尚が寺に帰ってくる、と和尚の妻から聞いていたのだろう。この日、隣船寺へと戻って俊
和尚と再会をはたし、うちとけた嬉しい時間を過ごしたとみえる。
俊和尚は田代宗俊、彼は俳人としての山頭火を高く買っていたらしい。この邂逅の翌々年、昭和 9 年には、隣船寺境
内に「松はみな枝垂れて南無観世音」の句碑を建立している。もちろん山頭火生前のうちに建立された句碑は、この
- 245 1基のみである。斯様な二人のあいだであってみれば、俊和尚と別れたあとも山頭火の心は、あれこれと想いは涌き
たちよほど昂ぶっていたのではないか。ましてや二人の邂逅の直前には、「鉄鉢の中へも霰」の自信句も得ている。
10、11 日と記載なく、12 日には「別に書く」としたは、心の昂揚ぶりをあらわす証左だろう。
現在の宗像市神湊の隣船寺は、禅宗大徳寺派、海岸線より 200mも離れていない海辺の寺である。鳥の囀りと海潮音
のみが聴こえる静かな境内の梵鐘の傍らにひっそりと立つ句碑は、石に刻まれた文字も些か判じがたいほどに風化し
ている。
20100330
暮れて松風の宿に草鞋ぬぐ
-日々余話- 書と気力
偶にでしかないが、書道教室に通っている子どもの KAORUKO と習字ごっこをすることがある。概ねは子どもの筆
の持ち方や運びに注文をつける役回りなのだが、自分でも 2 枚や 3 枚書いてもみる。そんな折に、とりわけ臨書よろ
しくモデルを見ながら書いたりすると、まあとんでもない、頗る気力を要することに気づいては今更ながら愕然とし
ている自分が居るのだ。ほんの数分とはいえ、こんなにも緊張と集中を迫られ、気力を振り絞っている自身の姿は、
もはや古層と化した遠い記憶の彼方にしかないような、そんな気さえしてくるのである。
勿論この背景には、このところずっと石川九楊に導かれながら、彼の説く書論や書史にどっぷりと浸ってきている日
常が大きく与ってあるのだろう。そうに違いないのだけれど、それにしてもこの気力の再発見は、すでに六十路半ば
緎を過ぎようとしている自身にとって、意外に大きな出来事なのかもしれない、とそんな想いにとらわれたりもして
いるのだ。
どうやら、近頃の私は、またぞろ転換期に差しかかっているらしい、おそらく人生三度目か、四度目の‥。
-今月の購入本-
今月もまた石川九楊オンパレード、これは否応なく翌 4 月にも及ぶこと必至。
・石川九楊「中国書史」京都大学学術出版会
大著「書史」三部作の第 1 作は'96 年刊。本書の刊行は京都大学学術出版会であるのに対し、続く「日本書史」、「近代書
史」が、なぜ名古屋大学出版会の刊行となったのか、疑問に思っていたら、この「中国書史」の編集を担当した八木俊
樹なる人物は、石川九楊の友人でもあったらしく、めずらしいことに本書巻末の跋文を書いてもいるのだが、この出
版後まもなく死亡したとみえ、そういった事情が背景にあるようである。
その跋文に曰く-先に帯文を幾つか列挙しておく
・宣言文-マニュフェスト-として-
書ははじめてその理論をもった。書史ははじめてその論理と文体をもった。ここに書が自らを定立する体系が提示さ
れている。
・定式-テーゼ-風に-
従来のすべての書論や書史の主たる欠陥は、書が、筆触と筆蝕が、ただ文字の形態美すなわち直感の形態のもとにの
みとらえられて、書する現実性としてとらえられず、書が主体的に逆説的にとらえられないところにある。従って、
書の主体的営為は観念的に、人格と心理と感情の抽象的様相や形として解釈されたに過ぎず、書史は又、書の便覧と
その訓詁と注釈の展覧となる他はなかったのである。
・著者の代理人-エージェント-として-
書の主語とは何か、書の述語とは何か、書するとは何であるのか、これらの根底の問いと謎に応接することによって、
書的表出を筆蝕と角度による放縦で慎重な戦術と、それに機能的に領導され、それを領導し返す構成と断定するに到
った。私なりに解して、ここに、書の自立を宣言する、書の言わば哲学大系を叙述し、書的表出の哲学史を遠近しえ
- 246 たと思う。書が書の近代の不在という貧困に孤独であったとすれば、これによって私は、漸う書の現代に直面し、そ
こに自己と世界を賭けることができるであろう。
・「石川九楊の書道入門」芸術新聞社
本書では、楷書の手本として褚遂良の「雁塔聖教序」を採っている。欧陽詢の「九成宮醴泉銘」の楷書では、点画が
やや直線的で硬く、石に刻った姿が色濃く投影されている形象と見る。これに比して、「雁塔聖教序」は筆で字を書
いたそのままの姿が石碑に刻られているものと見え、行書や草書への階梯もわかりやすくより役立とう、としている。
-図書館からの借本-
・石川九楊編「書の宇宙 -13-書と人と・顔真卿」二玄社
・石川九楊編「書の宇宙 -14-文人の書・北宋三大家」二玄社
・石川九楊編「書の宇宙 -15-復古という発見・元代諸家」二玄社
・石川九楊編「書の宇宙 -16-知識の書・鎌倉仏教者」二玄社
・石川九楊編「書の宇宙 -17-文人という夢・明代諸家」二玄社
・石川九楊編「書の宇宙 -18-それぞれの亡国・明末清初」二玄社
-表象の森- 筆蝕曼荼羅-八大山人
石川九楊編「書の宇宙-№18-それぞれの亡国・明末清初」二玄社刊より
八大山人「臨河序」
臨河序とは蘭亭序の異文、八大山人が長い条幅に書いた-1700 年-ものを、短い条幅に仕立て直している。突然現れた、
稚拙、舌足らずの、滋味溢れる、ちっぽけな表現世界。その世界は、対象-紙-に対して角度をもたずに突き立てたま
まの垂直状態の筆の尖端を用いて、ちびちびと、こすりつけるような均等圧の書きぶりに生じている。字画は均一な
太さとなり、転折は曖昧化する。八大山人の癖ともいうべき<口>の部の描法、ちびたけちな寸足らずの造形‥。
・寸足らずの造形-力動感の感じられない<暮><會><崇>などは、子供が筆をもって書いたような字。寸足らずで、
均衡を欠いた均衡を見せるといった、奇なる造形と化している。
・均一な太さの字画-<亭>や<脩>は、まるでサインペンで書いたかのよう。
こすりつけるような筆蝕-<賢><脩><日>などは、筆尖のちびた筆に少量の墨をつけて、こすりつけるように書いた
かのようなケチな表情。
・歪む口部-<和>をはじめ<羣><右>など、例外なく口部が左短右長-縦筆・上急下緩-横筆-の歪んだ癖のある表現と化
している。癖とでも呼ぶべき表現は、この時代に本格的に登場する。
・筆蝕の必然性なく揺れる画-<帶>の最終画のゆれは、臨場からくる速度や力の必然から生まれているのではなく、
垂直・均等圧の筆蝕で、揺れるように姿を作為的に描き出しているもの。
・垂直・均等圧の筆蝕-垂直・均等圧の筆蝕で書かれているため、<地>や<氣>や<風>の辶部の中ほどの曲がり部分に
力の抜けが出現せず、同程度の太さで書かれている。
・転折が曖昧-筆蝕が力動性を失うため、どのような表現も可能となり、ここでは転折が曖昧化している。<賢>の貝
部や<崇><朗>はその典型。
・清朝碑学の書の魁-明末連綿草とは異なる、八大山人の垂直・均等圧の筆蝕の延長線上に、清朝碑学の無限微分筆
蝕による書が生まれることが理解される。
/永和九年暮春。/會于會稽山陰之/蘭亭。脩禊事
/也。羣賢畢至。少/長咸集。此地酒峻/領崇山。茂林脩
- 247 -
/竹。更清流激湍。暎/帶左右、引以/爲流觴曲水。列坐其
/次。是日也。天朗氣/清。恵風何暢。娯目/騁懐。洵可樂也。
/雖無絲竹管絲之/盛。一觴一詠。亦足/以暢敍幽情已。故
/列序時人。録其/所述。/ 庚辰至日書。 八大山人。
―山頭火の一句― 行乞記再び -19
1 月 9 日、曇、小雪、冷たい、4 里、鐘ケ﨑、石橋屋
とにかく右脚の関節が痛い、神経痛らしい、嫌々で行乞、雪、風、不景気、それでも食べて泊るだけはいただきまし
た。
今日の行乞相はよかつたけれど、それでもそれでも時々よくなかつた、随流去! それの体現までいかなければ駄目
だ。
此宿はわるくない、同宿 3 人、めいめい勝手な事を話しつづける、政変についても話すのだから愉快だ。
同宿のとぎやさんから長講一席を聞かされる、政治について経済について、そして政友民政両党の是比について、-
彼は又、発明狂らしかつた、携帯煽風機を作るのだといつて、妙なゼンマイをいぢくつたり図面を取り散らかしてゐ
た、-略昨夜はちぢこまつて寝たが、今夜はのびのびと手足を伸ばすことが出来た、「蒲団短かく夜は長し」。此頃また朝魔
羅が立つやうになつた、「朝、チンポの立たないやうなものに金を貸すな」、これも名言だ。
人生 50 年、その 50 年の回顧、長いやうで短かく、短いやうで長かつた、死にたくても死ねなかつた、アルコールの
奴隷でもあり、悔恨の連続でもあつた、そして今は!
※表題句のみ
20100329
木の葉に笠に音たてゝ霰
-日々余話- 大和都市管財破綻、国賠闘争の記録
もう 2 週間ほどになるか、嘗て木津信抵当証券の被害者救済訴訟で苦楽をともにした櫛田寛一弁護士から一冊の新刊
書が贈られてきた。
花伝社刊の「闇に消えた 1100 億円」、著者今西憲之はどうやらフリージヤーナリストのようである。一昨年の 9 月、
大阪高裁判決で、国の監督責任を認めさせ、一定部分といえ国賠訴訟に初の勝利をものした、被害者 17000 人余を数
えた大和都市管財破綻事件における被害者救済の闘争記録である。帯に「原口一博総務相推薦!」と大書してあるのは、
彼自身、この救済問題に当初から関心を寄せ、政府への請願や交渉に協力してきた、そんな経緯があってのことのよ
うだ。
大阪・東京・名古屋の三都市で組織された被害者弁護団が合同して、管轄官庁たる財務省近畿財務局の監督責任を問い、
国家賠償請求訴訟へと展開していったわけだが、その初期においては弁護団としても勝訴への確信はほとんど持ち得
ていなかっただろうと、当時の報道などを見るにつけ私などにはそう思わざるを得ず、またしても火中の栗を拾った
闘志の人櫛田弁護士も、今度ばかりは報いられえぬ苦労に終始するのではないかと、他人事ながら要らぬ心配をしな
がら関係報道に注目してきたものだ。
大和都市管財が破綻したのは平成 13 年 4 月、だがそれよりずっと以前、平成 7 年 8 月、近畿財務局は業務改善命令
を出す筈であったにもかかわらず、どういう背景からかこれを撤回してしまっていたらしい。もうこの頃から危険視
- 248 され、破綻も時間の問題とみられていたのだろう。それを 6 年も 7 年も生きながらえさせ、被害を甚大なものにして
しまったのはなぜか、近畿財務局や財務省に決定的な落ち度はなかったのか。
本書によれば、国側の責任を認めさせたこの判決をもたらす突破口となったのは、大勢の関係官僚の中からたった一
人現れ出た参事官の、その勇気ある証言によるものだった、という。まさに救世主あらわるだが、このあたりの事情
についてかなり詳しく書いてくれているのが、ルポルタージュとしてもたのしめる要素ではある。
-表象の森- 筆蝕曼荼羅-明末連綿草、その 3
石川九楊編「書の宇宙-№18-それぞれの亡国・明末清初」二玄社刊より
傅山「五言律詩」
狂草的に動き回る愉快な明末連綿草。どこまでも作為的な王鐸の臨二王帖とは異なり、傅山のこの作は、速度や臨場
によってもたらされる自然な表現も見られるが、それでもやはり全体を作意が貫き、時折、場面転換も姿を見せてい
る。一筆書き風であるにもかかわらず、実際には、それほど連綿連続していない。
行書体を基礎に書かれていることもあって、既に書き終えた画を次の画が平気で横切るなど、王鐸よりもいっそう筆
路が迷路化している。
王鐸とは異なり、筆尖がやや角度をもって紙-対象-に対するところから、痩せた書線ながらも、筆蝕の揺れ、また筆
毫の割れも生じている。速度を主体とする表現であるため、ハネやハライが、まったくといっていいほど深度をもた
ない。
/月黒一綫白。林底林端榮。木心信石路。只/覺芒鞋平。雲霧遮不断。禽獣蹂
/不奔。侶伴任前後。不譲亦不爭。/樵徑一章。 傅山。
錯綜する筆路、そして筆毫の割れ
傅山「五言律詩」部分
/遮不断/不譲亦
―山頭火の一句― 行乞記再び -181 月 8 日、雪、行程 6 里、芦屋町
ぢつとしてゐられなくて、俊和尚帰山まで行乞するつもりで出かける、さすがにこのあたりの松原はうつくしい、最
も日本的な風景だ。
今日はだいぶ寒かつた、一昨日 6 日が小寒の入、寒くなければ嘘だが、雪と波しぶきとをまともにうけて歩くのは、
行脚らしすぎる。
ここの湯銭 3 銭は高い、神湊の 2 銭があたりまへだらう、しかし何といつても、入浴ほど安くて嬉しいものはない、
私はいつも温泉地に隠遁したいと念じてゐる、そしてそれが実現しさうである。
万歳!
-略-、途上で、連歌俳句研究所、何々庵何々、入門随意といふ看板を見た、現代には珍しいものだ。
※表題句の外に、代表句として人口に膾炙した
「鉄鉢の中へも霰」を記す
20100328
遠く近く波音のしぐれてくる
-四方のたより- 無為なるを知る‥か
- 249 昨日の午後、KAORUKO を連れて生國魂神社の坂下、應典院に出かけた。無論、小嶺由貴の公演、そのゲネプロを観
るためである。着いたのは 2 時過ぎ、かなりの樹齢とみられる一本の桜木は、もう三分咲きほどにもみえた。
二階のホールではすでにキッカケ合せがはじまっていた。舞台奥には、3 尺幅ほどの布かと見紛う-実際、最初はそう
思ったのだが-紙が、少し間隔を空けて 5 本、天井から降りている。これがスクリーンとなって、静止画像が映し出
されるのだが、画像自身もまた転換も、さほど煩くもなく抑制されているのが、心象風景づくりの補助として活きて
いたのではないか。
バックに画像スクリーンというプランが、衣装の色の選定に影響したか、D.マリィも小嶺も、基調は Brown、それも
かなり濃色、これが悩ましかった。というのも、スクリーン画像を除けば、背景色はどこまでも黒基調、その空間比
は黒基調のほうがずっと大きい、そこへ踊りの衣装は両者とも濃い Brown なのだから、これは計算ミスではなかっ
たか。
作品構成は、時間にして 50 分ほどか、小嶺の頭の中で考えられ、計算された構成はごくシンプルなもので、D.マリ
ィ、小嶺、そして D.マリィと短い Scene で積み上げる前半が、Image の筋売りの役割を果たしたうえで、後半の
長い Solo パート-もちろん小嶺の踊り-へと凝縮、昇華させようというものだが、ここではからずも露呈してしまった
のは、小嶺自身が、四方館から離れざるを得なかったこの 1 年半近い歳月を、いかに日常的に、踊ることそれ自体か
ら遠ざかってきたか、ということだ。
彼女自身、怠りなくトレーニングはつづけてきたにちがいない、それは彼女の気性からしても充分察しのつくところ
だし、彼女なりに思料しうる身体的な技法の錬磨も重ねてきたにはちがいない。そうにちがいないが、自身が踊るこ
とそのもの、つねに、現に踊る、その心機を鍛えこむこと、その現場性をいかように保証しつづけるかを、どうやら
彼女は自ら課してはこなかったようである。
昨晩と今日、ささやかなりとはいえ自身の進退を賭した筈の、さりながらまた無為ともいうしかないような孤独な闘
いの、2 回のステージを終えて、いま、彼女にいかなる想念が去来しているか‥。高価な授業料とはいえ、その無為
なるを思い知ったとすれば、それはそれで一功あり、といえようけれど‥。
-表象の森- 筆蝕曼荼羅-明末連綿草、その 2
石川九楊編「書の宇宙-№18-それぞれの亡国・明末清初」二玄社刊より
王鐸「臨徐嶠之帖」
作為的で多彩な書きぶりをみせる、書線の肥痩落差が極端な徐嶠之の臨書。
王鐸の書は基本的に垂直方向から筆圧が加わるため、均一な書線の表現が多くなる。<都>にみられる作為的な倒字な
ども、他の明末連綿草には見られない、作意に満ちた表現が誕生している。
/春首餘寒。闍棃安穏動止。弟子虚乏。謬承榮寄。/蒙恩奬擢授名。一歳三遷。既近都邑。彌深
/悉竊。戰懼之情。弟子徐嶠之。 王鐸為/晧老先生詞壇
王鐸「臨二王帖」
一筆書きのごとき王鐸の臨二王帖は、草書体で書かれた正真正銘の明末連綿草。
南宋代の遊糸書や明代の連綿草と決定的に異なるのは、先行の書が書字の臨場と速度の必然によって一筆書き化して
いるのに対して、本作では、脈絡-連綿や筆脈-と字画を等質に描き出そうとする意志が成立し、筆路そのものが書で
あるという構造に至っている点である。
そのため、連綿と字画の区別がなくなり、筆路に場面転換が挿入され、迷路のごとき作為的な筆路や連綿が挟み込ま
れている。
/豹奴此月唯省一書。亦不足慰懐邪。吾唯辨ヾ。知復/日也。知彼人巳還。吾此猶往就。其野近當往就
/之耳。家月末當至上虞。亦倶去。 癸未六月極熱臨。/驚壇詞丈。
- 250 -
・一筆書き-書き出しは 8 字、次いで 1 字、さらに 5 字という具合に、基本的に文の切れ目まで連綿連続している。
・字画と筆脈の区別が無くなる-<匈奴>の間、<省一>の間、<知彼>の間の連綿が、自覚的に書かれることによって
棒状の姿を晒し、字画と筆脈の区別を喪失している。
・場面転換-字画と筆脈とが区別を喪失したこともあって、<野>では終盤で墨継ぎし、作為的な場面転換が出現して
いる。<往就>部で<往>の連綿を長く伸長させた後、新たに墨をつけなおしているにもかかわらず、この連綿に連続
するかのごとく<就>字を書き出す。
・迷路のごとき筆路-<豹奴此><慰懐><野>などは、これほどまで連綿しなくともと思えるほどの、迷路のごとき筆
路で書かれている。
・筆毫の表裏の無法化-字画と脈絡の等質化によって、筆毫の表裏を無視して均一な太さの書線を用いる無法の書法
が、<還>字に見られる。
・垂直筆-紙-対象-に対して垂直に筆圧が加わる垂直筆主体で書かれていることが、<豹><一><猶>などの均一な太さ
の書線からわかる。
・大回りする筆蝕-豹奴此><吾此猶>などにみられるように、書字の速度の必然からではない、作為的な大回りの筆
路が覗える。
―山頭火の一句― 行乞記再び -171 月 7 日、時雨、休養、潜龍窟に蛇が泊つたのだ。
雨は降るし、足は痛いし-どうも-脚気らしい-、勧められるままに休養する、遊んでゐて、食べさせていただいて、し
かも酒まで飲んでは、ほんたうに勿躰ないことだ。
※表題句の外、1 句を記す
20100327
咲き残つたバラの赤さである
-表象の森- 筆蝕曼荼羅-明末連綿草
石川九楊編「書の宇宙-№18-それぞれの亡国・明末清初」二玄社刊より
張瑞図「飲中八仙歌巻」部分
鋭い鋒の剣の乱舞、あるいは剃刀の舞いという趣き、緊張感溢れる張瑞図固有の筆触からなる明末連綿草。杜甫の飲
中八仙歌を書いた名作-1627 年-。
左右に拡張し縮退する横筆を主体とした、直線的な思い切りのよい力動から成立し、回転部が角立つ緊迫した姿態を
晒している。連綿の字画化と、字画の連綿化が見られ、また時折、偏大旁小の大胆な構成を見せる。
/咽。焦墜/五斗方卓
/然。高談/雄辯驚
―山頭火の一句― 行乞記再び -161 月 6 日、晴、行程 3 里、神湊、隣船寺。
赤間町 1 時間、東郷町 1 時間行乞、それから水にそうて宗像神社へ参拝、こんなところにこんな官幣大社があること
を知らない人が多い。
神木楢、石碑無量寿仏、木彫石彫の狛犬はよかつた。
水といつしよに歩いてゐさへすれば、おのづから神湊へ出た、俊和尚を訪ねる、不在、奥さんもお留守、それでもあ
がりこんで女中さん相手に話してゐるうちに奥さんだけは帰つて来られた。、遠慮なく泊る。
- 251 ※表題句の外、2 句を記す
20100326
旅人は鴉に啼かれ
-四方のたより- Unit U Performance
明日、明後日と、應典院で、小嶺由貴が踊る。
ここ数年、彼女はカルメンへの思い入れが強いらしい。
タイトルも、Liberte selon CarmenⅡ、としている。
デカルコ・マリィが共演、
演奏には大竹徹と田中康之の両氏と、この人は存じないが、Flute の津上信子。
-表象の森- 筆蝕曼荼羅-明代の書、徐渭
石川九楊編「書の宇宙-№17-文人という夢・明代諸家」二玄社刊より
・徐渭「美人解詞」
徐渭の美人解詞は、展度、捩度など、対象に対するあらゆる攻略法が寄せ集められた筆触曼荼羅、書史上の奇書であ
る。
<中埃>の<中>の右上から左下へ向かう筆触、<埃>の最終筆の右上から左下へ向かう、筆毫の表裏状態に頓着しない
筆触に見られるように、裏技も使うといった体。最終部<馬陪佗酔>は、筆毫が捩れたままでも強引に書き進んでいる。
捩れもあれば捻りもあり、正攻もあれば、横ざまに斬り込むことも、反攻もある。呼気で対することもあれば、吸気
で返す力を使うということもあるといった趣き、無法の書の極致である。
/鑼皷聲頻。街坊眼漫。不知怎上高騎。/生来少骨多(飛)筋。軟斗騰飜。依稀畧借鞭和
/轡。做時鶻打雪天風。依猶燕掠桃花地。下地。不亂些/兒珠翠。湛描能舞軍装伎。多少柳外妖嬌。樓
/中埃指。顛倒金釵墜。無端歸路又逢/誰。斜易繋馬陪佗酔。
青藤道士。
・徐渭「行書七絶詩」
美人解詞と比較してみると、筆触上の多彩、多様な面白さは少ない。それでも、書き始めの<一>から書き終わりの<
仙>まで、ほとんど対象に対して筆毫が正対することがなく、いつも斜めの角度で対しているという書きぶりである。
<水>の最終画、<月><枕><眠>の細い斜筆や縦の筆、<英>などに、斜めの角度で切り込む姿が覗見される。それは、
いわゆる側筆というようなものではなく、対象-社会-に対して斜めの角度で対する姿の露岩なのだ。
明代になると対象-社会-も明瞭な姿を現わし、また、作者の側もこれに対する明瞭な角度-スタイル-を持つようになっ
たことの現れである。
/一篙春水半渓烟。抱月/懐中枕斗眠。説/與傍人揮不識。英雄/回首即神仙。 天池。
―山頭火の一句― 行乞記再び -151 月 5 日、晴、行程 9 里、赤間町、小倉屋。
歩いた、歩いて、歩いて、とうとうここまで来た、無論行乞なんかしない、こんなにお天気がよくて、そして親しい
人々と別れて来て、どうして行乞なんか出来るものか、少しセンチになる、水をのんでも涙ぐましいやうな気持ちに
なつた。
※表題句は、12 月 31 日付記載の句。
20100325
- 252 ラヂオでつながつて故郷の唄
-表象の森- 筆蝕曼荼羅-明代の書
石川九楊編「書の宇宙-№17-文人という夢・明代諸家」二玄社刊より
東アジアでは、画は書に含まれる、書の一変種である。書の表現の要である筆蝕は、画の筆蝕へと枝分かれし、書を
書くように、画を描くことが始まつた。その筆蝕の分化を通じて、書の筆蝕もまた幅を広げ、「アタリ」や「コシ」の行
儀良さを超える直接的、比喩的にいえば絵画的筆触をも大幅に含み込むことになり、書はずいぶんと画と化した。同
時に、書から生まれた画の方は、いつまでも書との臍帯を絶つことができずに、文人画、水墨画という、西欧のよう
には対象を描かず、色彩もさしたる意味をもたず、西欧画の観点からいえば絵画とはとうてい考えられないような特
異な絵画とその歴史を生むことになったのである。
祝允明「杜甫秋興詩」
明代に、書の表現領域は大幅に拡張された。筆を開ききった展度の筆触、筆毫の捩れをものともしない捻度の筆触、
開いた筆を強引に回転する筆触、ねじこみ、こすりつけるような筆触、力を内に貯めた厳しい筆触、ピシッと打ち込
まれる点、なめらかな筆触の舞い‥。
祝允明の杜甫秋興詩は、速度、深度、角度、さらには展度や捩度-Twist-、捻度-Drive-など、筆触のあらゆる可能性が
解放されている。戦後前衛書道並の表現といっても言い過ぎではなく、伸び、縮み、右に倒れ、左に倒れる構成展開
の妙味、等々‥。
<米>の第 1、第 2 画などは、起筆や点を打つときのピシッという音が聞こえ、筆毫の開く様子が見えるようであり、
<鳥>や<湖><翁>などでは、無理に筆毫を捩り回転させる。<月>の、打ち込んで擦過するような書きぶりは、この時
代になって初めて表現されるようになった、絵画的筆触である。ほとんど行間が見えず、行が明瞭に立ち上がらない
が、これも絵画的構成の書への侵入である。
/昆明池水漢時功。武帝族旗在眼中。/織女機絲虚夜月。石鯨鱗甲動/秋風。波漂菰米沈雲黒。露冷蓮房
/墜粉紅。關塞極天唯鳥道。江湖満地/一漁翁。 枝山。
―山頭火の一句― 行乞記再び -141 月 4 日、晴、行程わづかに 1 里、金田、橋元屋
朝酒に酔つぱらつて、いちにち土手草に寝そべつてゐた、風があたたかくて、気がのびのびとした。
夜もぐつすり寝た。
此宿の食事はボクチンにはめづらしいものだつた。
※表題句は、前日記載のもう一つの句。
20100324
ボタ山の間から昇る日だ
-温故一葉- 何人かの友人へ
同封チラシは、小生デザインのものです。
私が斯様な企画に若干の関わりがあるというのも些か意外なことでしょうが、ご案内言上致します。
松浦ゆみは、往年のオールデイーズポツプス出身の歌手で、歌唱力には定評のあるところ。
彼女は以前より市内港区に在住していることもあり、私が‘88 年より‘00 年までの 12 年、港区選出の市会議員奥
野正美君-若かりし頃の演劇仲間-の事務所活動に携わるようになってから、いろんなイベント絡みで関わり合うよう
になったもの。今では結構長い付合いとなりました。
- 253 下積みの長かった苦労人も、桂三枝の作詞「もう一度」の曲を得てメジャーデビューとなったのがちょうど 10 年前、
この年のデビュー公演から以後、この手の世界とは門外漢の私ながら、ディナーショーなどさまざまに、企画制作や
演出面をサポートしてきたといった間柄です。
この 2 月、彼女は積年の持病であった心臓の手術をしました。このまま放置すれば、「数年で死は免れ得まい」との医
師の宣告を受けての、往きて戻りえぬかも知れぬ、覚悟の手術だったようです。
この企画、その手術前からすでに立ち上がっていたものですから、きっと彼女は、無事生還しなければまさに死人に
口無し、「ご免なさい、みなさんサヨナラ」の心境だったのでしょう。
先日、久しぶりに会った彼女は、「歩くとまだ胸の傷に響くの」と言いつつも、開き直ったような一皮剥けた明るい表
情を見せていたのが強く印象に残ったものです。
もう日時も迫っておりますが、偶さか時間も合って金銭にも余裕あって、ひとつ参じてやろう観てやろうかと思し召
しの節は、私方までご連絡を。
2010 年 3 月.春分玄鳥至
林田鉄 拝
-表象の森- 一休宗純の書
石川九楊編「書の宇宙-№16-知識の書・鎌倉仏教者」二玄社刊より
一休宗純「霊山徹翁和尚、示栄衒徒法語」
この書は、一休宗純が宗峰妙超の弟子・徹翁義亨の戒語を記し、後に「工夫‥」以下の詩-偈頌-を付したもの。
狂雲子とは一休自らが名告つた号だが、まさしく<狂>の名にふさわしい書である。
楷・行・草、単体・連綿、直・曲、大・小、疎・密、肥・痩、潤・渇、筆毫の開・閉、さまざまな要素がこきまぜられた筆触
曼荼羅の趣き。
起筆を明らかにしない草率な書きぶりには、中峰明本、宗峰妙超とのつながりが感じられ、かすれの多用は、張即之、
蘭渓道隆の匂いがある。近世日本の禅僧の、文字の骨格に頓着しない「書ならざる書」といってもいい無法の書-墨
跡-のはしりではあるが、諧謔があり、余裕があり、その気宇は壮大である。
使用印の輪郭が格別に太く、元代の九畳篆風である。
/凡参禅学道之輩。須日用清浄。不可日用不浄。所謂日用清浄者。究明一則因縁。到無理會/田地。晝夜工夫不怠。
時々裁断根源。佛魔難窺處。分明坐断。往々埋名蔵迹。山林樹下。擧/楊一則因縁。時無雑純一矣。謂之日用清浄人
也。然而稱吾善知識。撃杖拂。集衆説法。魔魅/人家男女。心好名利。招學者於室中。道悟玄旨。使參者。相似模様。
閑言語。使教/者。片个情也。這般輩非人也。寔日用不浄者也。以佛法爲度世之謀。是世上榮衒之徒也。凡有身/無
不着。有口無不食。若知此理。豈衒於世哉。豈諛於官家哉。如是之徒。三生六十劫。/入餓鬼。入畜生。可無出期。
或生人間。受癩病之苦。不聞佛法名字。可懼々々。/右霊山徹翁和尚。示榮衒徒法語。一休子宗順謹題。后云工夫不
是涅槃堂。名利/耀前心念忙。信道人間食籍定。羊糜一椀橘皮湯。
一休宗純「初祖号」
近世に入ると、茶席に禅僧のいわゆる一行書を掛ける習慣が日本に定着するが、その走りともいうべき書。
字画のはっきりしない荒々しいかすれから、竹筆-竹を割き、叩き、繊維状にした筆毫の筆-を用いて書いたものと思
われる。
この書の最大の見所は<達>。<達>の前半部は、おそらく逆字-裏字-で書かれている。ここに一休の逆転の意志を読取
ることは許されよう。書き慣れない書法のため、意識的に書かざるを得ず、速度は落ち、墨がくっきりと濃く付着し
ている。<辶>部の最終筆が揺れながら、しかも筆毫を開いたまま右上に押し上げ放たれている筆触は、狂雲子の名通
りの、ま狂中の狂。右上から右下へ向けてすばりと斬り込み、筆毫を開ききったままはらう<堤>の最終画も無法。
- 254 /初祖菩提達磨大師
―山頭火の一句― 行乞記再び -131 月 3 日、晴曇さだめなし、緑平居。
終日閑談、酒あり句あり、ラヂオもありて申分なし。
香春岳は見飽かぬ山だ、特殊なものを持つてゐる、山容にも山色にも、また仏説にも。
※表題句の外、1 句を記す
20100323
風にめさめて水をさがす
-表象の森- 親鸞の書
石川九楊編「書の宇宙-№16-知識の書・鎌倉仏教者」二玄社刊より
親鸞の正像末和讃は、整った文字でも、また端正に書かれた文字でもないが、細身の書線と字姿の陰に勁-つよ-い言
葉の存在感があり、目の覚めるような鮮やかさがある。
横画や右ハライにいくぶん和様の匂いがあるが、反りと撓みをもつ強靱な横画、切り込むがごとき鋭い左ハライ、ま
た大きくふりまわす左ハライの筆触は、厳しく勁い。
細いことは弱いことに結びつきやすいものだが、ここでは逆に、細いけれども勁いという、逆転が生じている。それ
は、筆尖と紙-対象-との接触点-面-とは別に、作者でも対象でもなく、その両者を生む筆毫の「当たり」が存在するから
である。その当たりは、作者と対象の間に挟入された「言葉」の比喩。たしかな言葉が、書に姿を変えて表現されてい
る、と。
五濁悪世ノ衆生ノ
選釋本願信ズレバ
不可稍不可説不可思議ノ
功徳ハ信者ノミニミテリ
像末法五濁ノヨトナリテ
釋迦ノ遺教カクレシム
弥陀ノ悲願ハヒロマリテ
念佛往生トケヤスケレ
―山頭火の一句― 行乞記再び -121 月 2 日、時雨、行程 6 里、糸田、緑平居。
今日は逢へる-このよろこびが私の身心を軽くする、天道町-おもしろい地名だ-を行乞し、飯塚を横ぎり、鳥尾峠を
越えて、3 時にはもう、冬木の坂の上の玄関に草鞋をぬいだ。
この地方は旧暦で正月をする、ところどころに注連が張つてあつて国旗がひらひらするぐらゐ、しかし緑平居におけ
る私はすつかりお正月気分だ。
自戒三則-
一、腹を立てないこと
二、嘘をいはないこと
三、物を無駄にしないこと-酒を粗末にするなかれ!-
- 255 今日は、午前は冬、午後は春だつた。
※表題句は、日記途中に記す
20100322
水音の、新年が来た
-日々余話- Soulful Days-32- 略式起訴!
とうとう、というより、やっと、というべきだ。
20 日夕刻、我々が刑事告訴してきた事故相手方 T.K に対しての処分通知書が、大阪地検より郵送されてきた。
内容のほどは、この手の官庁文書のこととて簡潔このうえない。
「処分通知書」と標題した上部に小さく、様式第 96 号、括弧して、刑訴第 260 条、規程第 58 条、とある。
刑事訴訟法第 260 条の条文は「検察官は、告訴、告発又は請求のあつた事件について、公訴を提起し、又はこれを提
起しない処分をしたときは、速やかにその旨を告訴人、告発人又は請求人に 通知しなければならない。公訴を取り
消し、又は事件を他の検察庁の検察官に送致したときも、同様である。」と、また規程とは、法務省訓令として「事
件事務規程」なるものがあり、その第 58 条は「検察官が刑訴第 260 条の規定により処分の通知をする場合には,処
分通知書(様式第 96 号)による。」とあるのみ。
書面には、大阪区検察庁担当検察官の記名押印があり、さらに「貴殿から平成 21 年 2 月 10 日付けで告訴のあった次
の被疑事件は、下記のとおり処分したので通知します。」とあり、つづいて「記」以下、
1 被疑者 ○○○○
2 罪 名 自動車運転過失致死傷
3 事件番号 平成 22 年検 第######号
4 処分年月日 平成 22 年 3 月 19 日
5 処分区分 起訴
と箇条書きされているばかり。
起訴とはいうものの略式起訴である、決して納得のいく結果ではない、むしろ敗北感に近いものがある、
とはいえ、事故より 1 年と 6 ヶ月、やっと大きな関門を抜けたことにはちがいない。
―山頭火の一句― 行乞記再び -11昭和 7 年 1 月 1 日、時雨、宿はおなじく豆田の後藤といふ家で。
何としづかな、あまりにしづかな元旦だつたらう、それでも一杯ひつかけてお雑煮も食べた。
申の歳、熊本の事を思ひだす、木の葉猿。
宿の子供にお年玉を少しばかりやつた、そして鯉を一尾家の人々におごつた。
嚢中自無銭、五輪銅貨があるばかり。
酒壺洞文庫から借りてきた京洛小品を読む、井師のー面がよく出てゐる、井師に親しく面したやうな気持がした。
飲んで寝て食べて、読んで考へて、そして何もならない新年だつたが、それでよろしい。
私が欣求してやまないのは、悠々として迫らない心である、渾然として自他を絶した場である、その根源は信念であ
り、その表現が句である。歩いて、歩いてむ、むそこまで歩かなければならないのである。
※表題句は、この日の日記冒頭に掲げられている
20100321
旅から旅へ山山の雪
-日々余話- 舞禅-まいぜん-とや
- 256 今日の稽古を明日に振替えて、まことに久方ぶりのドーンセンターへと出かけた。
写真の如き件の Event に、インド舞踊の茶谷祐三子が出演しているためである。
チラシには「はてしなきインド文化の流れの<うち・そと>ジヤンルを超えて共演」とあるが、出演の顔ぶれは此方の
食指をそそるようなものではない。出番はプログラムの 2 番目だという彼女の舞台のみを観て、あとは客席ロビーで
のんびり過ごす。
彼女の作品は創作・舞禅-まいぜん-と謳い、神奈川からクラシツク系の Dancer 大谷綾子を招き、Duo を踊つた。時
間は 10 分弱、結果からみると、一定のまとまりある世界を構築するにはなおもう一展開あるべきところで、些か尻
切れトンボの印象に終った。
茶谷自身も Classic の基礎は有しているものの、インド舞踊や瞑想的即興を主軸としてきたこの 20 年に、その動き
は Classic 的なるものとはずいぶんと遠離った世界と化している。いわば異質の動きを有する二人が、舞禅としてど
のような共同作業をなすかと考える時、たんに心象風景的なものを共有すれば事足りるというものではないだろう。
そのあたりに発想の甘さが潜んでいたように見受けられた。
今後、この二人が同じ地平をめざして共同作業を続けていこうとするなら、その核となる部分でお互いの変貌が必要
なのではないか。
-表象の森- 顔真卿/送裴将軍詩、続編其ノ 3
「奴不敢敵、相/呼歸去来。」
「功成報天子。/可以畫/麟臺」
―山頭火の一句― 行乞記再び -1012 月 31 日、快晴、飯塚町行乞、往復 4 里、宿は同前。
昨日は寒かつたが今日は温かい、一寒一温、それが取りも直さず人生そのものだ。
行乞相も行乞果もあまりよくなかつた、恥づべし恥づべし。
昨夜は優遇されたので、つい飲み過ごしたから、今夜は慎んで、落ちついて読書した。
此宿は本当にいい、かういふ宿で新年を迎へることが出来るのは有難い。
「年暮れぬ笠きて草鞋はきながら」、まつたくその通りだ、おだやかに沈みゆく太陽を見送りながら、私は自然に合
掌した、私の一生は終つたのだ、さうだ来年からは新しい人間として新しい生活を始めるのである。
―以下、自嘲と前書した「うしろ姿のしぐれてゆくか」の外、句稿整理したとみえる 21 句を書き連ねた後に―
まづ何よりも酒をつつしむべし、二合をよしとすれども、三合までは許さるべし、ショウチュウ、ジなどはのむべか
らず、ほろほろとしてねるがよろし。
いつも懺悔文をとなふべし、四弘誓願を忘るべからず。-
我昔所造諸悪業 皆由無始貪瞋癡
従身口意之所生 一切我今皆懺悔
衆生無辺誓願度 煩悩無尽誓願断
法門無量誓願学 仏道無上誓願成
一切我今皆懺悔――煩悩無尽誓願断――
※表題句の外、21 句を記す
20100320
身にちかく山の鴉の来ては啼く
-日々余話- 1 年で 11 ㎝!!
- 257 3 学期も明明後日の終業式を残すのみ、春休み突入となった KAORUKO、4 月には 3 年生だ。
1 年で 11 ㎝とは、この 1 年間で伸びた身長が 11 ㎝という訳だが、第 2 次成長期ならいざ知らず、まだ 8 歳の彼女が
こんなに急激な伸び方をするとはちょっと驚き。1 年前の 1 月時点、123 ㎝だった彼女が、今年の 1 月にはもう 134
㎝という急成長で、どうやらクラスでも一番の成長ぶりのようだが、それにしても自分たちの子ども時代を思えば、
近頃の子どもの発育リズムときたら、こちらの予測を超えてあまりあるというものだ。
身体の発育が急激なだけに、精神面での成長とのアンバランスが、親としては些か気にかかる。
以下、3 葉の写真は、昨日、彼女が学校から持ち帰ったもので、この 3 学期に描いたらしい図画の作品だが、いずれ
をとってみてもまだまだ幼さが眼につくといった印象だ。どうしても心と身体の成長リズムは同期しないもので、先
刻承知のこととはいえ、この発育上の齟齬に、面白がっては眺めつつも、ちょっぴり不安を覗かせもするのは、これ
ぞ親心。
A-芋掘りの絵、だという。
大きな芋を真ん中に、両足を広げて芋を掴み取る姿がクローズアップされている大胆な構図に感心、親バカを発揮し
て大いに誉めてやったところが、なんのことはない、どうやらあらかじめ先生がこんな構図で書きなさいとみんなに
指導していたものらしい。
B-栗とトンボは一目瞭然だが、画面中央を占めるのは、彼女自身に言わせると彼岸花とのこと。乱雑な描きぶりだ
が、そう聞かされてみれば合点はいく。
C-たくさんの色づかいで、いったい何を描いたものか判じがたいが、カラフルな怪獣なのだという。
成程、上の途切れた部分は頭部らしく、黒く眼のようなもの描かれている。下には同じ色で尻尾らしきものも付いて
ござる。これまた先生から、色をいっぱい使って、カラフルな怪獣を描いてみよう、と課題を与えられたものと思わ
れる。
-山頭火の一句― 行乞記再び -0912 月 30 日、晴れたり曇つたり、徒歩 7 里、長尾駅前の後藤屋に泊る、木賃 25 銭、しづかで、しんせつで、うれし
かつた、躊躇なく特上の印をつける。
早朝、地下足袋を穿いて急ぎ歩く、山家、内野、長尾といつたやうな田舎街を行乞する、冷水峠は長かつた、久しぶ
りに山路を歩いたので身心がさつぱりした、ここへ着いたのは 4 時、さつそく豆田炭鉱の湯に入れて貰つた。
山の中はいいなあ、水の音も、枯草の色も、小鳥の声も何も彼も。-
このあたりはもうさすがに炭鉱町らしい。
夫婦で、子供と犬とみんないつしよに車を引つぱつて行商してゐるのを見た、おもしろいなあ。
何といふ酒のうまさ、呪はれてあれ。
持つてゐるだけの葉書を書く、今の私には、俳友の中の俳友にしか音信したくない。
※表題句は、同前、12 月 31 日付記載の句
20100318
雨の二階の女の一人は口笛をふく
-日々余話-Vital React
一言で云えば、カイロプラクテイツク-Chiropractic-の発展系といえようか、コンピユーター制御による機器導入で、
不調の因となっている脊椎などへの手技施療から、より精度を高めた治療効果が得られるというもの。
身体が重い、或いは痛い、痺れが増す、とこのところ頻りに不調を訴える重度身障者の友人-岸本康弘-を車に乗せて、
京阪電車の萱島駅傍にある風間鍼灸整骨院へと同道した。
- 258 施療前の頚部レントゲン撮影や施療システムの長い説明やらで、初診の日はずいぶんと時間がかかると聞いていたか
ら、実際の施療に至るまでに、9 時半に着いて 2 時間余を要したのにはさして驚きもしなかったが、やっと受けた施
療の、そのシンプルさと時間の短さには、さすがに驚き入ったものである。
Vital-React-生命力の活性化、ようするに生命体本人の内在的な自然治癒力をα波などの微振動刺激で呼び覚まし、
不調の原因を減衰させていこういうものだ。理屈の上からは、不調の改善、施療効果の可能性はあり得るだろうと推
量されるが、実際の効果のほどは、数回通いながら本人の自覚で確かめていくしかないのだろう。
保険の適用範囲外の施療もあるから費用はどうしても少々かかる。症状によっては劇的な効果を得られる場合もあろ
うが、なかなかそうはいかない場合もあるだろう。費用対効果は case-by-case、しばらく様子を見守るしかない訳
だが‥。
-表象の森- 顔真卿/送裴将軍詩、続編其ノ 2
石川九楊編「書の宇宙-№13」二玄社刊より
「陣破驕虜/威聲/雄震雷/一射百馬倒」
「千射萬/夫開。匈」
―山頭火の一句― 行乞記再び -0812 月 29 日、曇、時雨、4 里、廿日市、和多屋。
10 時、電車通で別れる、昨夜飲み過ぎたので、何となく憂鬱だ、どうせ行乞は出来さうもないから、電車をやめて
歩く、俊和和尚上洛中と聞いたので、冷水越えして緑平居へ向ふつもり、時々思ひ出したやうに行乞しては歩く。
武蔵温泉に浸つた、温泉はほんたうにいい、私はどうでも温泉所在地に草庵を結びたい。
※表題句は、同前、12 月 31 日付記載の句
20100316
枯草に寝ころぶやからだ一つ
-日々余話- このところ酷使がつづく
徹夜した朝の 2 時間ほどを仮眠したあと、茫とした心身で、それでもパソコン相手になんとか残務をこなし了えた夕
刻から、こんどは車に乗って、上六の都ホテルに向かった。
21 階でバイキング料理に舌鼓しながら、とある打ち合わせに 3 時間。身体は重い感覚なのに、それでいて浮遊して
いるような‥、そんな感じでちょっとフラフラしながら keyboard を叩いている。
その打ち合わせのタネは、下のチラシ画像
―山頭火の一句― 行乞記再び -0712 月 28 日、晴、汽車で 4 里、酒壺洞居。
9 時の汽車で博多へ、すぐ市役所に酒君を訪ねたが、忙しいので、後刻を約して市街を行乞する。今夜はよく飲んだ、
自分でも呆れるほどだつた、しかし酔つたいきほひで書きまくつた、酒君はよく飲ませてもくれるけれど、よく書か
せもする。
市は市のようにハジキが多い、十軒に一軒、十人に一人ぐらゐしか戴けない、ありがたかったのは、途上で、中年婦
人から 5 銭白銅貨を一つ、田舎者らしい人から 1 銭銅貨を 3 枚喜捨せられた事だつた。
この矛盾をどうしよう、どうしようもないといつてはもう生きてゐられなくなつた、この旅で、私は身心共に一切を
清算しなければならない、そして老慈師の垂誨のやうに、正直と横着とが自由自在に使へるやうにならなければなら
ない。
- 259 ああ酒、酒、酒、酒ゆえに生きても来たが、こんなにもなつた、酒は悪魔か仏か、毒か薬か。
※表題句は、同前、12 月 31 日付記載の句
20100314
しぐれて反橋二つ渡る
-表象の森- 顔真卿/送裴将軍詩、続編
石川九楊編「書の宇宙-№13」二玄社刊より
・顔真卿「送裴将軍詩」部分
「臨北荒、恒/赫耀英」
「材。剣舞/躍游雷。随」
「風榮且廻。/登高望/天山。白雲」
―山頭火の一句― 行乞記再び -0612 月 27 日、晴后雨、市街行乞、太宰府参拝、同前。
9 時から 3 時まで行乞、赤字がそうさせたのだ、随つて行乞相のよくないのはやむをえない、職業的だから。‥‥
太宰府天満宮の印象としては樟の老樹ぐらいだらう、さんざん雨に濡れて参拝して帰宿した。
宿の娘さん、親類の娘さん、若い行商人さん、近所の若衆さんが集まつて、歌かるたをやつてゐる、すつかりお正月
気分だ、フレーフレー青春、下世話でいへば若い時は二度ない、出来るだけ若さをエンヂョイしたまへ。
※表題句は、同前、12 月 31 日付記載の句
20100313
ふるさと恋しいぬかるみをあるく
-表象の森- 至高の草書「李白懐旧遊詩巻」
・石川九楊編「書の宇宙」シリーズ-二玄社刊-、№14「北宋三大家」より
「李白懐旧遊詩巻」は、唐代の李白の詩を黄庭堅が書いたものである。残念なことに前半部が逸失しているが、黄庭
堅の草書中、最高の書であるにとどまらず、書史上においても、文字通り空前絶後の作品である。
張旭や懐素の狂草体が一旦、この李白懐旧遊詩巻に集約され、その後、元代、そして明末の多彩な連綿狂草体へと展
開する。その草書体の集約点にありながら、この書の姿が孤絶しているのは、書史上、唯一の多折法によって書かれ
た草書体だからである。
元・明代の草書体が、二折法-王羲之書法=古法-で書かれるのに対して、この書においては、二折法的な古法的表現を
払拭し、徹頭徹尾、新法=三折法、新々法=多折法に依拠して書かれており、新法草書の極限といってもいい。
黄庭堅「李白懐旧遊詩巻」
到平地。漢東/太守來相迎。紫陽/之眞人。邀我吹玉
笙。湌霞樓上/動仙樂。嘈然宛似/鸞鳳鳴。長袖
この書は西暦 1100 年段階においては、西欧を含めて、あらゆる芸術分野をながめてみても、おそらく人類最高の表
現であったと断言できる。
唐代の懐素の自叙帖は、ベートーベンやモーツァルトなど西欧古典交響楽なみの複雑な展開をもった表現であり、こ
の李白懐旧遊詩巻は、それをはるかに凌駕する水準の表現であるからだ。
- 260 伏波神詞詩巻にも見られた多折法、垂直筆、複雑・緻密の力線展開に合せて、筆触の強弱、字画の肥痩、文字の大小・
長短、構成の疎密、さらには踏韻展開と、当時の世界最高水準の動的なめくるめく表現がここにある。
―山頭火の一句― 行乞記再び -0512 月 26 日、晴、徒歩 6 里、廿日市、和多屋
気分も重く足も重い、ぼとりぼとり歩いて、ここへ着いたのは夕暮れだつた、今更のやうに新人の衰弱を感じる、仏
罰人罰、誰を怨むでもない、自分の愚劣に泣け、泣け。
此宿もよい、宿には恵まれてゐるとでもいふのだらうか、一室一灯を一人で占めて、寝ても覚めても自由だ。
途中の行乞は辛かつた、時々憂鬱になつた、こんなことでどうすると、自分で自分を叱るけれど、どうしやうもない
身心となつてしまつた。
禅関策進を読む、読むだけが、そして飲むだけがまだ残つてゐる。
毎日赤字が続いた、もう明日一日の生命だ、乞食して存らへるか、舌を噛んで地獄へ行くか。‥‥
-略- 床をならべた遍路さんから、神戸の事、大阪の事、京都の事、名古屋の事、等、等を教へられる、いい人だつ
た、彼は私の「忘れられない人々」の一人となつた。
※表題句は、同前、12 月 31 日付記載の句
20100312
越えてゆく山また山は冬の山
-表象の森- 「宋=意」、士太夫・文人の書
・石川九楊編「書の宇宙」シリーズ-二玄社刊-、№14「北宋三大家」より
中国の書論には、「晋=韻、唐=法、宋=意、明=態」という、時代と書の特徴を比喩する言葉がある。
「晋=韻-晋代の書の本質は韻である-」という場合の「韻」の内実とは、強大で圧倒的な政治の陰に時折垣間見せる、老い
や病苦をかこつこともできるようになった人間の意識によって裏づけられている。六朝時代の政治家を貴族と呼ぶが、
この貴族とは、病苦や老苦さえ言葉にすることのできる政治家の別名である。
「唐=法-唐代の書の本質は法である」とは、神の代理人、あるいは神に仮託された王や政治ではなく、六朝時代に表現
できるようになった人間的意識をまとめ上げて生まれた新しい国家と皇帝と法と政治の出現を意味している。唐の太
宗皇帝が、王羲之の書を愛し、総合したのは、この流れの中の出来事であり、唐代の政治を貴族政治と表現するのは
それゆえである。
唐代の欧陽詢の九成宮醴泉銘は、漢代とは異なった政治を賛える文が刻り込まれている。そのような法と政治と国家
を通過して、さらに一段ときめ細かな人間的な意識が涵養され姿を現わした書、それが「宋=意」である。そこでは、
顔真卿に胚胎した意識をさらにおしすすめ、王羲之の段階よりもさらに一段進んだ人間的意識による政治的挫折のの
詩-それは政治の中の非人間性-政治苦-を詠いあげることを意味し、政治の人間化が一段と進んだことを意味する-
が書かれることになった。
「晋=韻、唐=法、宋=意」なる書論の背後にある姿を、書を通して考察すれば、前提、所与のものとして存在する圧
倒的政治の下での、いわば政治戦略や戦術、方針の化身とでもいうべき政治家に、老苦、病苦など人間的意識が芽生
え、表現できるようになったのが「韻」であり、それを背景として誕生する書体が、二折法=古代の草書である。その
ような人間意識を宿すに至った政治家-貴族-や皇帝からなる新たな国家と法の形成を意味するのが唐の帝国であり、
皇帝である。
草書体によって横画が右に上がることは、横画の右下方に手-作者=主体=人間-の存在を暗示し、つまりは、中国の政
治家・官僚に新たな人間的意識が芽生えたことを証している。唐代に比類なき形で生まれた楷書が、後世の現在もな
- 261 お基準となっているのは、横画水平の単なる政治文書とは異なり、この横画右上がりの草書体を吸収することによっ
て成立しているからである。
宋代になると、士太夫や文人と言葉が新しい意味を盛るようになるが、これを、詩書画、あるいは琴棋書画を愛する
知識人と、日本的に理解するのでは不十分である。苛烈な政治国家・中国の高級官僚政治家の中から、政治の中での
挫折を手がかりに、人間的な苦悩にとどまらず、政治そのものの非人間性を詠う詩が生まれた。その言葉が人間の姿
形をまとって出現した存在、つまり、反政治的、脱政治的人間、つまり人間的政治家の別名であって、日本で想像さ
れがちな高等遊民の別名ではない。この種の新生の反および脱政治的人間の比喩が「意」にほかならない。そこに過度
の緊張をもった初唐代の楷書とは異なる、抑揚をもった宋代の伸縮する筆触と、それによってもたらされる書も生ま
れたのである。
黄庭堅「黄州寒食詩巻跋」
東坡此詩似李太白/猶恐太白有未到
處。此書兼貌魯/公楊少師李西臺
筆意。試使東坡/復爲之。未必及此。它日
東坡或見此書。應/笑我於無佛處/稱尊也
蘇軾の「黄州寒食詩巻」の後に添えられた跋。
大意は「此の書-蘇軾の黄州寒食詩巻-は、顔魯公-顔真卿-、楊少師-凝式-、李西台-建中-の筆意を兼ね、試みにもう一
度書いてみても、これほどのものは書けないだろう」と激賞している。
垂直筆が基調となった中に、<到>や<臺>などの草書風書体も交り、伏波神詞詩巻よりもさらにくだけた書きぶり。
文字の頭を左に倒した-右上がり構成の-<似>を、頭を右に倒した<李>で受けて均衡をとる構成は絶妙であり、均質な
太さの垂直筆の<處>や<楊><少>には骨格芯の通った伸長感があり、また<李西臺><書應笑我>などの渇筆にも見所が
ある。
構成についていえば、第五画の横画を左に長く伸長した<意>の姿態には舌を巻く。
<復爲之>と縦に長い文字を連ね、一転して<未必及此它>と横長に綴っていく展開も見事の一語につきる、と。
―山頭火の一句― 行乞記再び -0412 月 25 日、曇、雨、徒歩 3 里、久留米、三池屋
昨夜は雪だつた、山の雪がきらきら光つて旅人を寂しがらせる、思ひだしたやうに霰が降る。
気はすすまないけれど 11 時から 1 時まで行乞、それから、泥濘の中を久留米へ。
今夜の宿も悪くない、火鉢を囲んで与太話に興じる、痴話喧嘩やら酔つ払いやら、いやはや賑やかな事だ。
※表題句は、同前、12 月 31 日付記載の句
20100311
星へおわかれの息を吐く
-表象の森- 多折法、筆触のひろがり
石川九楊編「書の宇宙」シリーズ-二玄社刊-、№14「北宋三大家」より
宋代-960~1127(北宋)-、蘇軾-ソショク-・黄庭堅-コウテイケン-・米芾-ベイフツ-の、いわゆる北宋の三大家の書によって、書の書き
ぶりはがらりと一変し、書史の軸はいっきに移動する。
王羲之の書-古法、いわゆる晋唐書-の書と比較すると、三者の書に共通する特徴は、筆蝕が波立つように揺れ、字形
が歪み、文字が倒れ、行が傾く。これらの書は、「蚕頭燕尾-サントウエンビ-」とよばれる筆蝕段階の顔真卿の書をふまえ、
- 262 拡張することによって生じ、王羲之の表現と、顔真卿の表現と、さらにつけ加えれば李邕-リヨウ-の表現-この二者ない
し三者の函数である。
王羲之と顔真卿の両者を二つながらにふまえながら、顔真卿の書の「蚕頭燕尾」に隠れた、抑揚の大きな筆蝕を拡張し
たのが蘇軾であり、顔真卿の「蚕頭燕尾」の、筆尖を立てる垂直筆にアクセントを置き、これを拡張し、多折法という
新たな筆法段階に導いたのが黄庭堅である。この二者に対し米芾の場合、蜀素帖などにおいては、顔真卿の「蚕頭燕
尾」の影響は背後に隠れ、前面に李邕の不均等比例均衡の姿が現れ、あるいはまた草書四帖や行書三帖などでは、翻
って王羲之の姿が直截に露岩してくる。
三折法の段階の草書である狂草の影響下に生まれた顔真卿の「蚕頭燕尾」、その拡張によって生まれた多折法段階の書
は、字形や字画、筆触において自在に伸縮するという表現の拡張をもたらすとともに、俄然、表現密度を高め、演劇
的展開性までをも孕むことになった。
黄庭堅「伏波神詞詩巻」より
園辞石柱。/筋力盡炎
洲。一以巧名/累。飜思馬
「見るたびに新しい」とは、伏波神詞詩巻に対する高村光太郎の感想である。
垂直筆と多折法から、きわめて複雑な表現が展開されている。
余裕と余力をもった伸び伸びとした筆触と、長かった王羲之-唐・太宗的な「一対一」「左右対称」の基準均衡とでもい
うべき構成法を打ち破って登場した、おおらかな構成こそが最大の魅力であり、また後世の範ともなったものである。
字画が比較的均質な太さで現れているのは、筆尖と紙-対象-とが垂直に近い状態、垂直筆を基調に書かれているから
である。
新たに生まれた多折法は、表現の幅を広げ、横画を長く伸ばし、左ハライ、右ハライを長く伸ばし、また逆に、筆触
が凝縮する大きな「点」の表現ももたらし、偏と旁が落差をもった大胆な構成も可能にし、さらに渇筆の表現も出現し
ている。
―山頭火の一句― 行乞記再び -0312 月 24 日、晴、徒歩 8 里、福島、中尾屋
8 時過ぎて出立、途中ところどころ行乞しつつ、漸く県界を越した、暫らく歩かなかつたので、さすがに、足が痛い。
山鹿の宿もこの宿も悪くない、20 銭か 30 銭でこれだけ待遇されては勿体ないやうな気がする。
同宿の坊さん、籠屋のお内儀さん、周旋屋さん、女の浪花節語りさん、みんなとりどりに人間味たつぷりだ。
※表題句は、同前、12 月 31 日付記載の句
20100310
どこやらで鴉なく道は遠い
-表象の森- 日本語とはどういう言語か -05・音声、音韻は文字がつくる
日本語の音節は、表記としての平仮名・片仮名が生まれたことによって、子音と母音とを切り離せない一体として成
り立ってきた。中国語とは一線を画する日本語の平板な発音-一般に強弱アクセントではなく高低アクセントとみら
れる-は、平仮名が生まれた後、平仮名の綴字発音として生まれ、固定された結果であると考えるほうが理に適って
いる。
子音と母音の一体化した音節発音成立の事情は、孤島の発音がもともと音節的発音であったと捉えるよりも、未だ西
欧アルファベットのごとき音素表記法=音素を単位とする音韻認識を知り得なかった段階において、一語=一音節を単
- 263 位からなる漢字を崩す-応用的に文字を創る-場合に、いっきに音素文字をつくりだす観念が生じず、音節を単位とす
る文字が生れるしかなかったのである。
東アジアで漢字を崩して生まれる表音文字の第一段階は、この平仮名・片仮名のごとき音節文字であり、次いでこの
音節単位をさらに分解することによって、無論そこには西欧アルファベットの音素表記法を知ったことがあるのだが、
15 世紀後半の挑戦の音素ハングル文字はは生まれたのである。
東アジアでは、表語文字=漢字-大陸-、→音節文字=仮名-孤島-、→ハングル-朝鮮半島-が生まれるという過程を順にた
どらざるをえなかった。ここに、日本語と朝鮮語の発音上の差が両語を必要以上に隔たった言語と感じさせることに
なった。
表記としての文字=綴字は、その属性として、ひとつの言語の発音を根底から変えてしまうのである。否、言-はなし
ことば-の発音は、文字によって初めて固定され、自覚的なものと化するのである。強いていうならば、無文字時代
の言語には、有文字段階のわれわれが考える発音と呼ばれるような確定的なものは存在しないのである。
日本での表音文字の成立がもう少し遅ければ音素文字が生まれ、日本語は音素発音的な、現在の朝鮮語のような発音
であったろうし、逆に挑戦が東アジアでいちはやく、10 世紀頃に音節文字を開発していれば、朝鮮語は日本語のご
とく、子音と母音の一体化した平板な音節発音の言語と化したことは容易に想定できる。ここから有文字段階のすべ
ての言語の発音は綴字発音であると結論づけられよう。だとすればアルファベットから導き出された、言語の声を子
音+母音と考える単位はより相対化されるべきである。
たとえば、「雲」が「kumo」と発音されていると考えるのは、あくまで音を子音+母音からなるとの観点からの便宜的
な分析にすぎない。むしろ日常では「kmo」と発音されているというのが真相に近い。
また、「雲」の発声は、さらに微細にみていけば、口辺筋肉の運動を伴う発声にほかならないから、筋肉運動と声との
中間的発声を含み、「kumo」という音素以下の「wuikwunnmmwoaow」などと発音されているともいえる。
このようにみてくると、声明、朗詠、披講、小唄、端唄、都々逸、謡曲、さらには浪曲、演歌と、日本語には、言葉
を引き延ばし、ゆさぶるなどの不思議な声の芸が生まれてきたのもその必然として理解できよう。この音を引き延ば
し、ゆさぶり、うねる声は、アルファベットの子音や母音で写し取られるような単純な音ではなく、さらにそれ以下
の微少な単位が露出した音声である。
―山頭火の一句― 行乞記再び -0212 月 23 日、晴、冬至、汽車で 3 里、山鹿、柳川屋
9 時の汽車で山鹿まで、2 時間ばかり行乞する、一年ぶりの行乞なので、何だか調子が悪い、途上ひよつこり S 兄に
逢ふ、うどんの御馳走になり、お布施を戴く。
一杯引つかけて入浴、同宿の女テキヤさんはなかなか面白い人だつた、いろいろ話し合つてゐるうちに、私もいよい
よ世間師になつたわいと痛感した。
※このたびの行乞記では、句が記されていない日も多い。表題句は 12 月 31 日付に記されたものだが、この日の掲載
は実に計 22 句を数える。日記とは別にメモされていたものから、それなりの推敲を経たうえでここに集録したもの
と思われる。
20100309
死をまへの木の葉そよぐなり
―山頭火の一句― 行乞記再び -01三百余日の空白の後、昭和 6 年の 12 月 22 日より再び行乞記として日記が始まっている。
日記の冒頭に、表題句の外、次の 3 句を掲げている
死ぬる夜の雪ふりつもる
- 264 陽を吸ふ
生死のなかの雪ふりしきる
12 月 22 日、晴、汽車で 5 里、味取、星子宅。
私はまた旅に出た。-
「私はまた草鞋を穿かなければならなくなりました、旅から旅へ旅しつづける外ない私でありました」と親しい人々
に書いた。
山鹿まで切符を買うたが、途中、味取に下車して H さん G さんを訪ねる、いつもかはらぬ人々のなさけが身にしみ
た。
S さんの言葉、G さんの酒盃、和尚さんの足袋、‥すべてが有難かつた。
積る話に夜を更かして、少し興奮して、観音堂の明けの鐘がなるまで寝つかれなかつた。
20100308
雨のおみくじも凶か
-日々余話- Duorest Chair
もう十数年、長年愛用してきたデスクワーク用の椅子
-これはある知人筋から貰い下げてきた麻雀用の椅子で、とにかくパソコン相手のデスクワークにはすぐれもので、
徹夜同然の長時間作業もこの椅子のお蔭でいくたび助けられてきたことかが、さすがにとうとう寿命が尽きたか、半年ほど前に壊れてしまって、偶々所有していた些かアンテイツクな木製の
ものを臨時に使っていたのだが、このところ続いたハードな事務作業に身体のほうが悲鳴をあげて降参、
年も年なれば、とにかく身体に少しでも負荷のかからぬ椅子をと、昨日、稽古場の帰りに買い求めてきたのが、Duorest
Chair なるもの。
写真のごときものだが、購入してきたのは肘掛け部分がちょっぴり異なるタイプ。開発したメーカーはドイツの会社
らしいが、この正規版はずいぶんと高価なもので、どうやらこっちは追随の海賊版メーカーのものかと察せられるが、
それでもお値段、19900 円也、こいつもなかなかにすぐれものではある。
とにかく、なお暫時は続くハードな作業も、この椅子を頼りに乗り切らずばなるまいと、朝の 6 時までかかってしま
った昨夜に引き続き、今夜もまだこんな時間まで起きて、こんな気晴らしを綴っているしだいだ。
―山頭火の一句― 「三八九-さんぱく-日記」より-402 月 5 日、まだ降つてゐる、春雨のやうな、また五月雨のやうな。
毎日、うれしい手紙がくる。
雨風の一人、泥濘の一人、幸福の一人、寂静の一人だつた。
※表題句の外、2 句を記す
「三八九日記」は、このあと空白の 15 頁を残し、最終頁に以下の句が記されている。
味取在住時代 三句
久しぶりに掃く垣根の花が咲いてゐる
けふも托鉢、こゝもかしこも花ざかり
ねむり深い村を見おろし尿する
追加一句 -味取観音堂の耕畝として松はみな枝たれて南無観世音
- 265 行乞途上
旅法衣ふきまくる風にまかす
山頭火の三八九居における一見のびやかそうにみえた日々も 4 ケ月と続かなかつた。
「結局はよくなかつた。内外から破綻した。ただに私自身が傷ついたばかりでなく、私の周囲の人々をも傷つけるや
うな羽目になつた。
事の具体的記述は避けよう、過去の不愉快を繰り返して味はひたくないから。
私はまた旅に出るより外はなかつた。」
と別なところ-随筆-で記している。
またしても泥酔の果ての失態事であったか、この年の 4 月の末頃だろう、警察の留置場に何日か打ち込まれていたよ
うで、木村緑平宛のハガキでそれと知れる。
そのハガキに記された 2 句は、留置場内での作である。
裁かれる日の椎の花ふる
暗い窓から太陽をさがす
6 月、とうとう山頭火は三八九居にも住めなくなつて引き払う。彼はまたサキノの許に転がり込んだ。彼自身本意で
はなかつたろうが、サキノにとっても迷惑至極、またぞろの家庭復帰が立ちゆくわけもない。
年初の個人句誌「三八九」発刊は、自立・自活をめざしたものであつたが、3 号で止まつた。
句作も行き詰まつたか、以後、半年ほどの間、ほとんど消息が伝わらない。
20100306
ひとりはなれてぬかるみをふむ
-表象の森- 顔真卿の劇的な書
石川九楊編の「書の宇宙」シリーズ-二玄社刊-、№13 は「顔真卿」
顔真卿、初期の「多宝塔碑」部分
均整や均衡がとれた端正な初唐代の楷書と較べると、顔真卿の楷書はいささか野暮にも思える。
末行の「十」や「力」の第二画の起筆は、力こぶの入った「蚕頭-さんとう-」。
第 4 行の「之」の、収筆部で極端に太くなり、その後、力を緩めてはらわれる姿は「燕尾-えんび-」のはしり。
「蚕頭燕尾」とは、このような字画の形状をもたらすところの、力の抑揚落差の大きい-筆尖が絶えず緊張と弛緩の微
動をもつ-筆蝕の全体を指す。
ここに、端正なたたずまいと緊張感をもつ初唐代の楷書に代わって、力のみなぎりあふれるさまを露わにする、筆蝕
の新段階が始まった、と。
晩年期の「送裴将軍詩」は、貴重な狂草の遺品で、劇的な展開の表現は見所も多い。
「裴將軍。/大君制六」
「合。猛將/清九垓。戰」
「馬若龍/虎。騰」
「陵何壯哉。將軍」
書き出しの「裴」をはじめ、次行の「大」の第一、二筆の力こぶのような姿から明らかなように、筆蝕は「蚕頭燕尾」に
貫かれている。
長く伸びた第三の「將」のように基調は狂草だが、「裴」や「制」のような楷書風もあり、楷行草各体が混在している。
横画が右上がりというよりも水平に近いのは、起筆部で強く垂直に対象-紙-の奥に向かって突き込むため。
- 266 強く突き込むことによって、対象を識り、対象を識ることによって、主体が姿を現わす。
主体=文体-スタイル-が出現しはじめた段階を物語る書である。
一部に、これを空海に共通する雑体書ととらえる説もあるが、楷書風、行書、草書の各体、いずれも奇怪なところの
ない正格の書きぶりであり、一種の狂草体と解する方がよい。
痩せた書線からなる連綿草の錯乱の美、この次々と展開する構成の魅力、変転の美学。
―山頭火の一句― 「三八九-さんぱく-日記」より-392 月 4 日、雨、節分、寒明け。
ひとりで、しづかで、きらくで。
※表題句のみを記す
20100305
ここに住みなれてヒビアカギレ
-表象の森- 日本語とはどういう言語か -04「第 1 章-日本語とはどういう言語か」
・すべての言-はなしことば-は、抱合語的、孤立語的、膠着語的、屈折語的である
音声中心主義を内省することに欠けた言語学者ソシユールは「一般言語学講義」の中で、「言語と書は二つの分明な
記号体系である。後者の唯一の存在理由は、前者を表記することだ。言語学の対象は、書かれた語と話された語との
結合である、とは定義されない。後者のみでその対象をなすのである」と語つているが、時日はまったくその逆であ
つて、言語とは言-はなしことば-と文-かきことば-の有機的統一体であり、文-かきことば-誕生以来は、文-かきことば
-言-はなしことば-を規定し、領導すると定義づけられるのである。
無文字時代の言語は、抱合語的でも孤立語的でも膠着語的でも屈折語的でもある言語であったと考えられる。ところ
が、文字を有し、文を有する段階に至った時に、それぞれが整合性を求めて、一定の構造へと収斂するのである。し
たがって、孤立語や膠着語や屈折語という言語形態は、文字化後に生じることとなる。
あえて言えば、抱合語的、孤立語的、膠着語的、屈折語的要素を含むとしか言いようのない力動的、展開的、流動的
な言-はなしことば-に形を与え、具象化し、内省化するもの、それはむろん言葉とのつながりを持ちながらも、その
外部に生まれる文字であり、文である。文字通り文法とは文が生まれたあとに生じ、固定されるものであって、無文
字時代の言-はなしことば-の文法などというものは、あるとしても、その後に生まれた文法とは相当に異なった、声
の強弱、高低、身ぶり手ぶり以前の舞踊や音楽-前舞踊や前音楽-の総合体として存在しているのである。
言葉は、言-はなしことば-と文-かきことば-からなる統合体であり、言法と文法とは、別のものとして峻別が必要であ
るにもかかわらず、声中心主義の西欧やその影響下の言語学者たちは、この言法と文法を曖昧にしたまま、言語や文
法を語っている。しかも、言法といえども、言-はなしことば-内在する法則ではなく、文と化してのち、内省された、
つまり文-かきことば-を通して照らし返され明るみに出された法則であり、もはやそれは無文字時代の言-はなしこと
ば-とは違った、文との相互浸透、相互干渉されるに至った言-はなしことば-の法則に他ならないのである。このよう
に言-はなしことば-の分類としての抱合語、孤立語、膠着語、屈折語という分類はさしたる本質的な意味を持たない
が、いったんここに文=文字の問題を加味すると、きわめて有効な分類法と化すことになる。それどころか、この分
類以外に有効な文法はないといってもいいほどである。
孤立語を、表音の水準から見ていくのでは、何も明らかにならない。孤立語と指摘していい言語はほぼ中国語に限ら
れる。中国語とは、漢字という旺盛な造語力をもつ-偏と旁等の部首の組み合わせと連語=熟語でどんどん増殖してい
く-文字言語である漢語に吸収されて作られ、固定された言語であると定義づけられる。無文字の大陸地方のさまざ
- 267 まな諸語がもともと単音孤立語的であったと言うよりも、漢字=漢語=漢詩=漢文の孤立語性によって、大陸諸語がも
ともと有していたと推定される抱合語的、膠着語的、さらには屈折語的性格が吸収されて新たに生まれたのである。
大陸では、漢字・漢語に裏打ちされた文-かきことば-の強さ-水圧-が、いわば言-はなしことば-の抱合的、膠着的、屈
折的性格を奪い去り、孤立語へと吸収されたものであり、中国語とは、単音節孤立語である漢語によって吸収され、
統合された言語を指し、いわば断固たる「政治語」とでもいうべきものになったのである。
この孤立語・中国語の周辺にあるのが膠着語であり、朝鮮語、日本語、蒙古語、さらにはトルコ語などの膠着語が孤
立語の周囲を取り巻く。
大陸中央部で漢字語に吸収され孤立語と化した、その高度な政治語の水圧は、周辺地域に流れ出し、周囲の小さな諸
語の存在を圧殺する。周辺地域の為政者は、この中華体制に入り込み、中国語、漢文、漢詩を公用語とする。しかし、
周縁部は、大陸内諸語のように、圧倒的な漢字語力に完膚なきまでに圧殺あるいは吸収されたわけではないから、こ
の中国語に対する異和が生じ、そこに異和を挟み込む。この異和こそが漢語語彙の間に挟み込まれる助詞や接辞によ
る膠着構造である。ここで接辞たる助詞が、中国語の断言性への異和の表出語として、採用あるいは新造される。こ
のように、膠着語とは大陸的政治への異和を含み込んだ、孤立語=漢語の植民地言語である。
このように考察してくれば、屈折語の意味も明らかとなろう。屈折語とはアルファベット言語の別名である。アルフ
ァベットはむろん文字であるが、漢字のような表意、表語文字とは異なり、無文字時代に鍛えられた発音を写し取る
ようにして生まれた言語であり、それゆえ屈折が残り、また文字化後には、系統だって記述され、文法を整備するよ
うになるのである。
したがって、抱合語、孤立語、膠着語、屈折語の分類は次のように整理することができる。
文-かきことば-=書き留めたとされる言-はなしことば-が、語から成立し、文=語の構造と見なされる抱合語
文が語の集合と見なされ、文=語+語の構造の孤立語
文中の語が、詞と辞に分類される、文=詞+辞の構造の膠着語
詞は変化を伴う。ゆえに、文は、接頭的変化詞・接尾的変化詞と接頭的変化辞・接尾的変化辞との合体と認識される屈
折語。換言すれば、文=変化詞+変化辞の構造の屈折語
例文で示せば、以下のような記述法=書法上の違いにすぎぬということになる。
「あめがはげしくふるよ」-抱合語
「あめ○はげし○ふる○」-○部は発声で補う- -孤立語
「あめ が はげし く ふる よ」-膠着語
「あめが はげしく ふるよ」-屈折語
すなわち、語が文と明確に分けられないとすれば抱合語と分類され、日本語でいう助詞が声調に溶けてしまい、文字
として記されなければ孤立語であり、また助詞が詞と分別できると捉えれば膠着語で、詞と分けられないと捉えれば
屈折語と見なされる、ということ以上ではない。
―山頭火の一句― 「三八九-さんぱく-日記」より-382 月 3 日、曇、よく眠られた朝の快さ。
生きるも死ぬるも仏の心、ゆくもかへるも仏の心。
不思議な暖かさである、「寒の春」といふ造語が必要だ、気味の悪い暖かさでもある。
馬酔木居を訪ねてビールの御馳走になる、私は至るところで、そしてあらゆる人から恵まれてゐる、それがうれしく
もあればさびしくもある。
子供はお宝、オタカラオタカラというてあやしてゐる。
※表題句の外、3 句を記す
- 268 20100304
更けてやつと出来た御飯が半熟
-表象の森- 日本語とはどういう言語か -03「序章-日本語の輪郭」-からの Memo その 3
・漢詩、漢文とそれらの訓読体と音語は主として政治的、思想的、抽象的表現を担い、和歌、和文と訓語は主として
性愛と四季と絵画的具象的な表現を担う
・このような二重複線の日本語の構造は、平安時代中期に生まれた
女手の成立の時期を絞り込めば、10 世紀初頭の「古今和歌集」や「土佐日記」-935 年頃-を書いた紀貫之の時代にはすで
に成立しており、それ以前の菅原道真の「新選万葉集」-893 年-と遣唐使の廃止-894 年-の頃がきわめて濃厚であると推
定される。
ちなみに女手とは、続け字・分かち書き成立の可能性まで踏み込み、自立した女手文を成立させた仮名の謂であって、
漢詩・漢文の書式を真似て一字一音-一音節-の単独の文字が、つながることもなく羅列されるばかりの万葉仮名や真仮
名、草仮名とは次元を違えている。
・平安中期に成立した日本語は、中世、近世、近代、戦後、1970 年代半ばにそれぞれ転生を遂げている
平安中期には漢字を媒介項として音と訓とが背中合せになり、二併性の二重複線言語、日本語が生まれた。
中世、鎌倉時代に入ると、大陸に蒙古族の元が成立し、これを避けて、宋の言語と語彙、文字と学問が日本に亡命、
疎開するに至り、この租界地として、京都、鎌倉の五山や林下禅院が生まれた。五山には、新たな宋語-音語-受容空
間でもあるところの文官政治機構が生まれ、平安時代の音訓二併性の日本語の傍らに、さらに宋元詩、宋元文とそれ
らの訓読体が加わった新たな日本語が生まれ、それらは鎌倉新仏教等によって大衆化され、ここに日中二元性の日本
語が成立した。
近世に入ると、禅院の性格は弱体化して日本化し、重箱読みや湯桶読み風の、換言すれば、音語が訓読化し、訓語が
音語的歪みをもつ、いわば二融性の近世日本語が成立した。たとえば歌舞伎の「積恋雪関戸-つもるこいゆきのせきの
と-」のごとく。
近代に近づくと、中世以来の漢-音-・和-訓-の二元性を踏まえて、漢字の音訓の融合状態から音と訓を原型に復して剥
がれやすくし、訓の、意味で西欧語を翻訳し、音の、音で発音する形で、西欧語の日本語への翻訳を実現し、日本は、
アジアでいちはやく、西欧化、近代化を達成するに至った。そして、この西欧語化した漢語は、半島と大陸に逆流す
ることにもなった。朝鮮半島の植民地化や大陸侵略はその社会的な現れの一面をもつ。
また、近代において、特記すべきは、近代活字=印刷の成立である。この意味は、平仮名が連続・分かち書きを崩さな
かった江戸自体の木版印刷とは異なり、女手、平仮名の文字も一字を単位に分解され、「語」としての連続を解かれた
点にある。一字で表語性をもつもつ漢字と、数字連合しなければ表語性をもつことができない平仮名とが、あたかも
一字単位で等価であるかのような錯覚が生まれ、ローマ字書き論や仮名書き論が生まれた。
敗戦後の、1-当用漢字による漢字の使用制限、2-歴史的仮名遣いの廃止、3-公用文の横書き化、という三つの日本語
政策の導入は、漢語・和語語彙の縮減と西欧語翻訳文体をもたらしたが、必ずしも、日本語における言-はなしことば
-の語彙と文体の向上に結実したわけではなかった。
1970 年代半ば以後の、資本主義の超高度化=泡沫化、さらには 1990 年代以降加速した、米軍事技術の廃物利用たる
情報化とともに、米語の経済や技術の語彙は、漢字化の余裕なきまでに高速度での言語泡沫化状況をもたらし、いわ
ば文字としての十分な体裁を整えていない軽便な片仮名語が氾濫する一方、生活語は貧弱化の度を加速している。
長期的に展望すれば、詩や言葉が無力であった泡沫の時代は四半世紀ほどももみ合うことはあっても、9.11 事件で限
界を見せた。再び詩や言葉が希望と理想を語る力をもつ時代の姿はおぼろげには見えてきた。グローバリズム-アメ
- 269 リカの八紘一宇-に代わる民衆の国際連帯は、現在の延長線上に、英語を国際語とするか、新たなエスペラントが採
用されるか、あるいは嘗てライプニッツが夢想したように漢字を共通語とするか、それとも共通語を作らずに、宋語
翻訳主義を貫くかについては、いまだ語るべき段階に至ってはいない。
―山頭火の一句― 「三八九-さんぱく-日記」より-372 月 2 日、また雨、何といふ嫌らしい雨だらう。
私も人並に風邪気味になつてゐる。
ゲルとが入つたので、何よりもまづ米を、炭を、そして醤油を買つた-空気がタダなのはほんたうに有難いことだ-。
※表題句の外、句作なし
20100303
笛を吹いても踊らない子供らだ
-表象の森- 日本語とはどういう言語か -02「序章-日本語の輪郭」-からの Memo 承前
・日本語とは、東海の孤島で生まれた言語である
政治的な意味での日本の成立は 7 世紀後半、これ以前に日本語はない。前日本語としての倭語がこれ以前に存在した
ことはまぎれもない事実だが、それが現在の日本列島に統一的に存在したかどうか、また、前アイヌ語や前琉球語と
どういう関係にあるかは、現在までのところ不明である。
総合的に考察すれば、現在の日本語にまっすぐにつながる新生日本語-語彙と文体-は和歌と和文の生まれた平安中期、
つまり女手-平仮名-の誕生期に姿を整え、成立したと考えられる。成立の始まりの象徴は 10 世紀初頭の「古今和歌集」
であり、「土佐日記」・「伊勢物語」を経て、11 世紀初頭の「源氏物語」がその仕上げの象徴である。
その新生日本語の姿-書体-は、小野道風の書「智証大師諡号勅書」-927 年-、同「屏風土代」-928 年-で明瞭な姿を見せ、
藤原行成の「白楽天詩巻」-1018 年-に完全なる姿を現わす。
・日本語とは漢字と平仮名と片仮名という三種類の文字をもつ言語である
漢語-漢字語-から生まれ、それへの戦略と戦術によって分かたれた中国語と日本語と朝鮮語と越南語は、文字=書字に
主律された言語圏の言語である。
たとえば日本語で「ジューキ」と聞いても、「重機」か「銃器」か「戎器」か「重器」「重喜」「住基」-住民基本-であるか解せな
い。文字を思い浮かべることによってはじめて理解に至る日本語は、文字中心の言語である。したがって、日本語で
は声ではなく「文字を話し」「文字を聞く」。アルファベットの西欧語は「声を話し」「声を聞く」言語といちおうは規定さ
れようが、それとて「文字を話し」「文字を聞く」側面がないわけではない。
漢字と平仮名と片仮名の三種類の文字をもつという点において、日本語は世界に特異な言語である。この特異性と比
較すれば、日本語の文法的な特徴なるものは微々たる役割しかもたない。
・日本語の語彙は漢語=音語と、和語=訓語と、片仮名語=助詞からなる
「雨」という漢字の片面に音語としての「ウ」、また他の面に訓語としての「あめ」があるように、日本語は「音」と「訓」の
と二重性、二伴性をもつ。音語たる「ウ」は漢語圏に広がり、訓語たる「あめ」は和語圏に広がる。この場合、漢語を即
中国語と言えぬように、和語もまた即和語成立以前からの孤島語=古代倭語と規定することはできない。むろん漢語
は元来、大陸・漢に由来する語彙ではあるが、近代において日本で生まれた漢語も多く、しかも、漢語も和語も共に
日本語であるから、正確には、音語と訓語と呼ぶ方が間違いは少ないと言えよう。
- 270 この見地に立てば、和語=古来からの「美しい」日本語、漢語=中国渡来の「さかしらな」外来語という、本居宣長的歪ん
だ国粋的誤解も少なくなるだろう。
平仮名は訓語を成立させたが、片仮名は漢詩漢文に挟み込まれた異和であり、漢詩漢文を開き、新しい日本文・漢詩
漢文訓読文を作り上げた助詞「テニオハ」の象徴である。
・日本語の文体は、漢詩・漢文体と、和歌・和文体を両極として成立している
日本語の文体は、「委細面談」式の漢詩・漢文体を一方の極とし、「くわしいことはおめにかかったうえで」式の和歌・和
文体を他方の極とする広がりの中にある。「委細面談」の付近に「委細ハ面談」式のいわゆる漢文訓読体があり、両極の
間には、「委細はおめにかかったうえで」「くわしいことは面談で」等、種々雑多、複数の文体がある。
この複数の文体の同時的存在は、漢字と平仮名と片仮名の三種類の文字を有する日本語に不可避の構造的特徴である。
―山頭火の一句― 「三八九-さんぱく-日記」より-362 月 1 日、降つたり霽れたり、夜はおぼろ月がうつくしかつた。
三八九第一集を発送して、重荷を下ろしたやうに、ほつとしたことである、心も軽く身も軽くだ。
今日もまた苦味生さんの真情に触れた。
俳句は一生の道草とはおもしろい言葉かな。
※表題句の外、4 句を記す
20100302
袋貼り貼り若さを逃がす
-表象の森- 日本語とはどういう言語か -01このところ石川九楊の書論三昧の身であると綴ったばかりだが、ぼつぼつと Memo っていきたい。
これまで読んだところで最も強く印象に残るのは、出版当時サントリー学芸賞の思想歴史部門を受賞したという「書
の終焉-近代書史論」-90 年同朋舎刊-だが、すでに絶版、中古書でも稀少でずいぶんと高値がついており、図書館で
借りて読むしかなく、あらためて Memo の機会を得たいと思う。
それでさしあたりは 2006 年中央公論社刊の「日本語とはどういう言語か」から。
本書の目次は、以下のとおり二部構成となっている
「文-かきことば-篇」
序 章 日本語の輪郭
日本語とはどういう言語か
日本語の書法
第 1 節 日本語の書字方向
第 2 節 日本語の文字
「言-はなしことば-篇」
第 1 講 日本語とはなにか
第 2 講 文字とはなにか
第 3 講 日本文化とはなにか
第 4 講 日本文化論再考
第 5 講 日本語のかたち
第 6 講 声と筆蝕
第 7 講 文字と文明
- 271 「文-かきことば-篇」は、雑誌「ユリイカ」など各誌に書き下ろした文章を集めたもので、後半の「言-はなしことば篇」は見出しに「講」とあるように、京都精華大での講義録が素になっているという。
先ずは「序章-日本語の輪郭」より適宜抜粋、但し文の意味連絡上、一部改変している箇所がある。
極東の孤なりの島嶼には日本語という名で括られる言語がある。
東北、関東、北陸、関西、中四国、九州、沖縄、さらにはより小さな地方語を統合してなる日本語は、単なる一部族
言語にとどまらない東アジアの一地方国家語の性質を朝鮮語や越南語と同様に有している。
・言葉は人間の表出と表現の中心に位置する
言-はなしことば-は、声の強弱や高低、身ぶり手ぶりという肉体を必ずまとい、文-かきことば-もまた、書字の強弱や
大小、疎密などの肉体をまとう。肉体なくして人間の精神もないように、声や書字-筆蝕-なくして言葉の精神も存在
しない。したがって言葉の表出や表現は、言-はなしことば-の周辺の話芸や音楽、舞踊、塑像、スポーツ、また文-か
きことば-の周辺の文学や書、絵画、デザイン、彫刻、建築などを引き連れて存在している。
・言葉は言-はなしことば-と文-かきことば-の統合である
言-はなしことば-あっても文-かきことば-のない言語はむろんありうる。それどころか、文字の成立が、わずか数千年
前の出来事にすぎぬ以上、人類史のほとんどは言-はなしことば-のみの時代であった。とは言え、文-かきことば-が成
立して以降は、文-かきことば-と言-はなしことば-の語彙と文体の相互浸透や、文字が発音を規定する綴り字発音等、
むしろ文-かきことば-が言-はなしことば-を根底において支えるという逆転が生じている。したがって、言葉は言-は
なしことば-のみによって考察されるものではなく、文-かきことば-の成立以降は、文-かきことば-と言-はなしことば
-の統合として考察されるべきである。
われわれは日常において、「あけましておめでとう」と話しても、「謹賀新年」と話しかけることはないように、い
まだ文-かきことば-と言-はなしことば-はそれぞれ別々の道を歩んでいるかのように、そのあいだには乖離がある。こ
の乖離傾向は、文-かきことば-においてさえ、漢字文の極と平仮名文の極を有する二重複線言語=日本語においてとり
わけ著しいと思われる。
さらにつけ加えれば、言-はなしことば-は市民社会に、文-かきことば-は国家に喩えることができる。
・声が言葉に内在的であると同様に、文字もまた言葉に内在的である
文-かきことば-おける文字-正確には書字-筆蝕--は、言-はなしことば-における声に相当する言葉の肉体である。声
が言葉に内在的であるなら、文字=書字もまた言葉に内在的である。
言葉の表出や表現において、言-はなしことば-における声の強弱や音の高低の変相によって、その意味と価値の違い
が生じるように、文-かきことば-においても、その文字の書きぶり-筆蝕-の変相によって、同様に意味と価値の違いが
生じる。
「ありがとう」という言葉が、その声や音あるいは書きぶりの変相によって、「ありがたくはない」という逆の意味を孕
むうるように、「迷惑」という言葉も「感謝」という逆の意味を内に孕みうるものである。
言葉とは、辞書に登載されているような意義とは別に、声や書字の肉体如何によっては逆の意味を盛るところに、そ
の本質が隠れている。この事実に気づかなかったために、音韻と語順と意義の文法言語学が、日本語のローマ字書き、
仮名書き論等、不毛な言語論と政策を生んできたのである。
・言葉は語彙と文体からなる
- 272 初等教育としてはともかく、言語を考察する上で文法や語順や意義は、さしたる重要な位置を占めない。言葉は、対
象を区切り、切りとる語彙と、それらを相互につなげる思想とも言うべき文体とからなる。
ここで言う文体とは、言葉の表出と表現の始発-言葉を引き出す力-であると同時に、その極点-言葉の存在を保証する
力-でもあるような、換言すれば、言葉を生むと同時に言葉を支える力の別称である。
たとえば、「雨が降る」という言葉は、「雨」・「降る」という語彙と、この発語に至る以前の始発の漠然とした蠢き、喩
えれば糸屑のごとき揺らぎであると同時に、生れたこの文の艶や輝きでもある文体から成ると捉える場に、言葉はそ
の姿を現わす。
発語者以前に語彙と文体は歴史的、社会的に蓄積されてある。発語者は、このすでにある語彙と文体に倣い、これを
借りて発語する以外にないが、そこにはいくぶんかの微妙なる異和が生じる。その異和こそが歴史を動かす原動力で
ある。異和はいくぶん語彙や文体に投影され、そこに生れた新たな語彙と文体が、歴史的、社会的に受けとめられる
という過程を経て、言葉は展開していく。
自然とともにあり、自然自体である動物は、一声発すればすべてを言い尽くすことができる「完全なる言語」つまり言
葉以前をもっている。自然から離脱した人間の言葉は、百万語を費やしても、ついに自然や社会を捉えることのでき
ない不完全言語である。不完全な人間の言葉は、言い尽くせぬゆえに新たな語彙と文体とを永続的に生みつづける。
詩や歌に不可避の韻律は、言葉の「言い尽くしえぬ」本質に発する繰り返しと反復を基礎に成立している。
―山頭火の一句― 「三八九-さんぱく-日記」より-351 月 31 日
やっぱり独りがよい。
※表題句の外、2 句を記す
20100301
凩の葉ぼたんのかゞやかに
-表象の森- 言-ことば-と節-ふし-と手-弾奏-と
山中鹿之助の故事に因んだ「阿井の渡」を謡った高橋旭妙の琵琶演奏を観-聞-終えて、私の脳裏をかすめたのは、見
事なまでに流麗な演技を見せたキム・ヨナに完敗を喫した、数日前の、まだ生々しく記憶に残る、あの浅田真央のフ
ィギアだった。
滑りのディテールのひとつひとつにつねに全精力を注ぎ込むかのように、渾身の気力を込めて消化していっていた真
央が、そのあまりに緊迫した集中が続いた心身への負荷の所為か、中盤にいたって僅かに零れ落ちるような一瞬の隙
を生み、ジャンプで取り返しのつかないミスを犯してしまったように、
旭妙のそれもまた、冒頭より、琵琶の音色をよく抑え、節付にのせて語り紡がれゆく言-ことば-の、長い長い序章の
その細部は、いわば文節ごとにまで精確に吟味され、声調はあくまで抑制しつつも、その背後で気根は満ち満ちてい
たように覗えたのだった。
とかく抑えた演技は、気根が要るもの。15 分ほどの構成を序破急とみるならば、序の部分にほぼ 2/3 を費やし、一
転、破調の手-弾奏-がはじめて入った直後の言-ことば-の一節に、僅かな乱れが露わになってしまったのだが、一気に
畳みかけるがごとき終盤の波と急に至って、それまでの抑えに抑えた声調のなかで、尽くされ尽くされてきた気根は
すでに遣い果されてしまっていたのだろうか、全体の要ともなる転一歩たる一節の僅かな破綻は、いかに些事とみえ
ようとも取り返しはつかない、瞬時に立て直してあとの一節々々をきっちりと謡わんとしても、徹しきれぬ微かな虚
ろからもはや逃れがたく、最後まで今ひとつノリきれないもどかしさがつきまとっていたのではなかったか。
私にはそう見えた、惜しい一曲だった。
- 273 琵琶曲を演奏という、だが語りものの世界であってみれば、節付とはいえ言-ことば-こそ命、石川九楊に倣えば、節
は言-ことば-の筆蝕といえよう、ならば琵琶の音色を現前させる手-弾奏-は言-ことば-の筆蝕たる節を際立たせるもの
であり、琵琶曲においては言-ことば-なくして節なく、節なくしてまた言-ことば-なく、一体となった言-ことば-と節
こそ表現の主体となるべきであり、手-弾奏-はどこまでも従でなければならない。
琵琶世界に参じ、手-弾奏-習いに修行中とはいえ、その修行もそれぞれ 3 年、5 年と経くれば、この一事をしっかり
と受けとめて励むべきところだろうが、なかなかそうはなりえていないのが実情なのは、侘びしくもあり残念な思い
がつのる。
旭濤ことわが連合い殿においても、言-ことば-=節に手-弾奏-にと、よく励んでいるとはいえ、このたびもまた、手弾奏-の熟-こな-しに、文字通り手いっぱいのあっぷあっぷといった態で、言-ことば-の筆蝕たる節の調声に気根はは
たらくべくもなく、虚しく破綻を繰り返してしまっている。
―山頭火の一句― 「三八九-さんぱく-日記」より-341 月 30 日
宿酔日和、彼女の厄介になる、不平をいはれ、小言をいただく、仕方ない。
夜は茂森さんを訪ねる、そして友情にあまやかされる。
※表題句は 26 日記載の中から
20100227
犬を洗つてやる爺さん婆さんの日向
-日々余話- 石川九楊の書論三昧
昼過ぎ、あべのベルタの市民学習センターで開催中の、KAORUKO が通っている書道教室-書玄会加盟-に集う子ども
らの作品展を、観に出かけた。
殆どの作品が小学生のものだが、なかに中・高生のもちらほら混じる。高校生ともなるとさすがにそれなりの筆線を
みせてはいるが、紙幅が等しなみに小さく限定されている所為もあるのだろう、なべて行儀のよいものばかり。
さて、月が変ってからは、まさに石川九楊の書論三昧。
ちなみに読書録を書き連ねてみれば、1 日、田中純「アビ・ヴァールブルク 記憶の迷宮」をざっと読了、5 日、石川
九楊「日本語とはどういう言語か」読了、9 日、石川九楊「書 - 筆触の宇宙を読み解く」読了、加えて「書の宇宙」
シリーズの 01~03 巻、10 日、新宮一成「夢分析」と石川九楊「書とはどういう芸術か -筆蝕の美学-」読了、11 日、
鹿島茂「パリの日本人」読了、13 日、山崎雅文「バイタル・リアクト・セラピーが生命力を活性化させる」読了、15
日、石川九楊「文字の現在・書の現在」と「一日一書 -01-」読了、16 日、石川九楊「筆蝕の構造 -書くことの現象学
-」読了、加えて「書の宇宙」シリーズ 04 と 05 巻、17 日、「書の宇宙」シリーズ 06 と 07 巻、25 日、石川九楊「一
日一書 -03-」、加えて「書の宇宙」シリーズ 08~12 巻をこの三日でほぼ読了、といったところ。
病嵩じてとうとう大部の「近代書史」を購うに至る。A4 判 760 頁余で 18900 円也の高値だから、他書に手を出せな
いで、今月の購入はこの一冊のみ。これが届いたのが 17 日で、この質量ともに重い、実際手に取ると重くて大変な
のだが、この夜から他書と並行しつつ、ぼちぼちと読み進めてもいる始末だから、まるで明けても暮れてもといった
体なのだ。
-今月の購入本-
・石川九楊「近代書史」名古屋大学出版会
「中国書史」-96 年-、「日本書史」-01 年-に続く著者畢生の三部作掉尾の書、昨年の大佛次郎賞受賞。山折哲雄曰く、文
字通り刻苦精励のたまものである。これらの仕事は「書」という問題をひっさげて、東アジアに広がる漢字文化圏の全
- 274 体を睥睨する勢いを示している。その自信と覇気は尋常なものではない。-略-、明治以後のわが国の書が「近代」とい
かに格闘し、どこに表現の可能性を求めてきたのかを、柔軟な筆致で詳述している。冒頭に良寛の書をもってきて序
論を展開しているのも秀逸であるが、最後に石川氏自身の書を掲げて創作の秘密を解き明かしているところには驚か
される、と。
-図書館からの借本-
・田中純「アビ・ヴァールブルク 記憶の迷宮」青土社
図像表現の細部に宿るパトスを一身に受けとめた美術史家アビ・ヴァールブルク。現在の美術史学や文化史研究に多
大な影響を与えた彼の、狂気と知が交錯した思想と生涯を精緻に解読する。 01 年刊。
・石川九楊「一日一書 -01-」二玄社
甲骨文・金文から近代の書まで、1 年 365 日、選りすぐりのさまざまな文字の魅力、いわば書のタペストリー、02 年
刊。
・石川九楊「一日一書 -03-」二玄社
一日一書シリーズの第 3 弾、04 年刊。
・石川九楊「筆蝕の構造 -書くことの現象学-」筑摩書房
電子メディアの登場は言葉の世界をどのように変貌させようとしているのか、ワープロやパソコンで入力された文章
と肉筆で書かれた文章とのあいだの差異は? 書き言葉と話し言葉を分ける最後の一線に踏み込み、「筆蝕」という独
創的な概念を駆使して、書くことの本質に照明をあてた画期的な論考、92 年刊。
・石川九楊編「書の宇宙 -01-天への問いかけ-甲骨文・金文」二弦社
書をめぐるすべての根源的な問いかけに答えんとする石川九楊が編集、図版を縦横に駆使して「書の姿」それ自体が物
語る宇宙を再発見する空前の試み、全 24 冊の第 1、96 年刊。
以下同シリーズ「-02-人界へ降りた文字-石刻文」97 年刊、「-03-書くことの獲得-簡牘」97 年刊、「-04-風化の美
学・古隷」97 年刊、「-05-君臨する政治文字・漢隷」97 年刊、「-06-書の古法・王羲之」97 年刊、「-07-石に刻された
文字・北朝石刻」97 年刊、「-08-屹立する帝国の書・初唐楷書」97 年刊、「-09-言葉と書の姿・草書」97 年刊、「-10伝播から受容へ・三筆」97 年刊、「-11-受容から変容へ・三蹟」97 年刊、「-12-洗練の小宇宙・平安古筆」98 年刊
―山頭火の一句― 「三八九-さんぱく-日記」より-331 月 29 日、降つて曇つて暖かい、すつかり春だ。
夕方、三八九第一集を持つて寥平さんを訪ねる、例の如く飲む、最初は或る蕎麦屋で、しかしそこはエロ味ぷんぷん
だから、さらに一日本店で飲み直す、そして最後はタクシーで送られる。
寥平居で、重錐時計といふものを見た、床しい印籠も見た、そして逢へば飲み、飲めば酔ふた次第である。
※表題句の外、1 句を記す
20100225
暮れて寒い土を掘る寒い人
-四方のたより- 恒例「琵琶の会」
今月の 2 日以来、なんと 23 日ぶりの言挙げ。
これまで 1 週間を空けたことは記憶にあるが…、04 年の 9 月半ばからだったか、Blog を始めてより 6 年を数えよう
というに、こんなのは初めて。
身辺に格別の出来があった訳ではない、ただ、何故だか、ズルズルと今日に至ってしまった。とはいえ、このかた、
ちょっとした倦怠というか、心中微妙な変調がなかったわけでもなく、ちょっぴり気鬱な日々だったような…、私自
身にはめずらしいことなのだろうが、そんな感じ。齢の所為、かな…?
- 275 -
復帰のあいさつがてらに、写真のごとく、春のたよりとともに、奥村旭翠一門の恒例「琵琶の会」のお知らせ。
連合い殿の演目は「厳島の戦」とか、戦国の毛利元就と陶晴賢との合戦記。
周防国を中心に中国地方に勢力を張った有力守護大名大内義隆を討ち、大内氏の実権を握った陶晴賢に対し、安芸国
から台頭著しく勢力を伸ばしてきた毛利元就が、歴然とした兵力差にも係わらず、狭い厳島の地の利を活かし勝利し
たという故事がタネ。
プログラムに眼を通せば、この演目と同様、源平の時代から戦国・江戸・明治まで、時代は移れど、ずらりと戦記物ば
かりが居並ぶ。18 演目のうち、そうでないのは「文覚発心」と「辨の内侍」くらいだが、どうして琵琶曲はこれほ
どに戦記物に傾くかといえば、古来からの平曲中心の盲僧琵琶が、明治維新以降の近代化の波に晒されつつ、折りし
も日清・日露のナショナリズム勃興期において再生、その様式を確立してきたからだろう。
伝統芸としての琵琶、その命脈を将来に保ちゆくには、このあまりにも類型的な近代化様式の衣を脱ぎ捨てねばなる
まいが、比較的に若い世代もよく集っている奥村一門なれば、そんな期待をかけたくもなるのだけれど…。
―山頭火の一句― 「三八九-さんぱく-日記」より-321 月 28 日、晴、霜、ありがたい手紙が来た、来た、来た。
やつと謄写刷が出来た、元寛居を訪ねて喜んで貰ふ、納本、発送、うれしい忙しさ。
入浴して煙草を買ふ、一杯ひつかける。‥
生きるとは味ふことだ、物そのものを味ふとき生き甲斐を感じる、味ふことの出来ないのが不幸の人だ。
鰯三百匁 10 銭、14 尾あつたから 1 尾が 7 厘、何と安い、そして何と肥えた鰯だらう。
※記載句なし、表題句は、前日の句
20100202
握りしめるその手のヒビだらけ
-表象の森-「チェ 39 歳別れの手紙」
昨日に続いてチェ・ゲバラ二部作の後編を観る。
S.ソダーバーグの描く映像は Part.1 と同様に抑制の効いた平坦調だが、66 年のボリビア革命闘争時に遺された「ゲ
バラ日記」に即しての進行は、ひたひたと忍びよる死の予兆を孕んで悲しくも重い。実在のゲバラ像に、ひたむきに
真摯に向き合った作品、といえるのではないか。
―山頭火の一句― 「三八九-さんぱく-日記」より-311 月 27 日、晴れて寒い。
一杯やりたいが、湯銭さへもない。
※表題句の外、2 句を記す
20100201
いちにちいちりんの水仙ひらく
-表象の森-「チェ 28 歳の革命」
キューバ革命のゲリラ指導者チェ・ゲバラ。映画は、56 から 59 年の 3 年間に焦点を絞り、軍医のゲバラがやがて司
令官となり、軍事独裁政権を崩壊させるまでと並行しつつ、64 年 12 月に開催されたニューヨークでの国連総会にお
けるインタビューやスピーチをドキュメンタリー・タッチで描く。特にニューヨークにおけるシーンは、すべてバン
ド・カメラによる白黒映像で、いわゆるフェイクドキュメンタリー。
- 276 戦線の山野をゆく部隊の、数々のエピソードは、どこまでも淡々と綴られ、抑制の効いた画像が重ねられていくのだ
が、それだけに歴史の一齣としてのリアリティが沸々と立ちのぼってくる。
WOWOW の 27 日放送分を録画していたのを、今日の昼下がりに観たのだが、いい映画だった。
―山頭火の一句― 「三八九-さんぱく-日記」より-301 月 26 日、雨、終日終夜、鉛筆を走らせる。
※日記本文記載なし、表題句の外、1 句を記すのみ
どうやら日記を記す暇も惜しんで「三八九」誌会報の原稿書きに勤しんでいたらしい。
20100131
ぬかるみ、こゝろ触れあうてゆく
-表象の森- 書の宇宙と、舞踊と
どうやら今年しばらくは、書家石川九楊の著書群を渉猟することに明け暮れそうな気配である。
いまのところ「一日一書-02-」と「書の終焉-近代書史論-」の二書を読了してまもないばかりなのだが、その書論・技
法論は、私などにすれば、舞踊における形式論や技法論に、まるでそのままに照応するかのごとき観、まことしきり
なのである。
-今月の購入本-
・石川九楊「日本語とはどういう言語か」中央公論新社
三浦つとむの名著「日本語はどういう言語か」とは一字違いの書名はまことに紛らわしいが、こちらは書家石川九楊
による日本語論。漢詩・漢文体と和歌・和文体を両極として成立している日本語の文体、その二重複線構造をもつ言語
における「書字」への総合的で内在的な分析を試みた、文-かきことば-篇と言-はなしことば-篇の二部構成からなる書。
06 年初版の中古書。
・石川九楊「書 - 筆触の宇宙を読み解く」中央公論新社
書を性格づけるのに「筆蝕」の表現と言う造語をあてる著者。青銅器や石に刻む、竹簡や紙に筆で触る、その間の相克、
統一を通して書は生まれたからだ。それゆえ書は黒と白の対比の表現ではなく、光と陰による表現なのだ。筆尖-ひ
っせん-を通じて書家は対象に力を加え、対象から反発する力が返る。それをねじ伏せたり、折り合いをつけたり、
微妙に震えたり、スーッと逃げたり‥、そういうドラマを、さまざまな古今の名書にもとづき、西洋音楽の楽典に匹
敵するような分析で、書の美が解かれ、説かれゆく。書はまた個人の精神的営為でもあるからして、確立した規範か
らの揺らぎ、崩しが必ず生ずる。それがまた新たな規範となるのは、何らかの革新的な思想性、技術を含んでいるか
らだ。楷書が「軟書化」していく唐以降の狂草-きょうそう-や、空海が日本にもたらした雑書体について、そうした構
造が解き明かされる。「書の宇宙」と題され、01 年から 02 年にかけ、京都精華大で開かれた連続講座、12 回の講義
録。05 年初版の中古書。
・石川九楊「選りぬき一日一書」新潮文庫
01 年から 03 年の 3 年の間、京都新聞に連載された「一日一書」にもとづき出版された 01~03 巻-二玄社刊-から一年
分に再編され選りぬかれた文庫版。
・鹿島茂「パリの日本人」新潮選書
明治の元勲・西園寺公望、江戸最後の粋人・成島柳北、平民宰相の原敬、誤解された画商・林忠正、宮様総理の東久邇
宮稔彦、京都出身の実業家・稲畑勝太郎、山の手作家の獅子文六、妖婦・宮田-中平・武林-文子 etc.‥。パリが最も輝い
ていた時代、訪れた日本人はなにを求め、どんな交流をしていたのか、明治維新以降の留学生がフランスから<持ち
帰ったもの>をそれぞれに探る。
- 277 ・Yi‐Fu Tuan「空間の経験 - 身体から都市へ」ちくま学芸文庫
人間にとって空間とは何か、それはどんな経験なのか、また我々は場所にどのような特別の意味を与え、どのように
して空間と場所を組織だてていくのだろうか‥。70 年代、現象学的地理学の旗手として登場した著者が、幼児の身
体から建築・都市にいたる空間の諸相を、経験という Key Term によって一貫して探究した書。88 年単行本初版。
・原広司「空間 - 機能から様相へ」岩波現代文庫
著名な建築家である著者は、工学的な知識はもとより、哲学、現象学、仏教学などの知見を駆使、長年にわたる集落
調査の成果にも依拠しつつ、現代世界を支配してきた機能的な均質空間の支配に抗して、新しい「場」の理論を構想、
設計の現場から 21 世紀の建築は<様相>に向かうというテーゼを発信する。87 年単行本初版。
・新宮一成「夢分析」岩波新書
忘れていた幼年期の記憶を呼びもどし、自らの存在の根源を再確認する-人間精神の深層にある無意識のこの欲望こ
そが、我々が夢を見る理由である。夢はどのようなしくみによってその欲望を満たすのか。夢に登場してくるさまざ
まな内容は何を象徴するのか‥、ラカン精神分析に精通した著者が豊富な実例分析をもとに夢の本質に迫る。00 年
初版。
・埴谷雄高・北杜夫「難解人間 vs 躁鬱人間」中公文庫
他界する 2 年前の 95 年に「九章」が出版された未完の「死霊」、その著者本人を相手に、86 年に初版された「八章」につ
いて、長年にわたって交友の深かった北杜夫が、一見支離滅裂とも見える脱線ぶりを呈しながら、難解世界の読解を
試みてゆく妄想的放談の記。90 年単行本初版。
・埴谷雄高「死霊 -1.2.3-」講談社文芸文庫
本書について何をか況や。46 年「近代文学」創刊号より連載されるも、49 年「四章」で中断、「五章」が「群像」に発表さ
れたのが下って 75 年、以来、断続的に 81 年に「六章」、84 年に「七章」、86 年に「八章」、そして 95 年に「九章」、と
書き継がれるも、ついに未完のまま終わっている、わずか五日間を描く小説に 50 年を費やしたという文学史上の異
色作。03 年一挙に文庫化されているが、最近になって、友人の T.K さんがダブって書店に注文したとかで、有難くも
拝領に与った。
-図書館からの借本-
・岡井隆「注解する者 -岡井隆詩集-」思潮社
毎日紙「今週の本棚」に曰く、注解にあたる言葉は、西洋では「舌」また「言葉」をあらわすギリシア語の「グロッサ」より
派生している。舌の味分け、言葉の味読‥、歌人岡井隆はつねづね歌づくりのかたわら、古歌・秀歌をとりあげ、「グ
ロッサ」の修練をしてきた。おそろしく舌がこえている、細部の吟味と味読において名人芸に達している。09 年初版。
・坂部恵「ペルソナの詩学 -かたり ふるまい こころ-」岩波書店
生きた日常のことばによって、ペルソナ-人格-の重層的で多元的なあり方を捕捉すること、それは大胆にして繊細な
試みである。西欧近代以来の主―客二元論への傾斜に抗して、ことばとペルソナを通底するダイナミックな構造に応
じた新たなモデルを探ること-、物語論、行為論から自-他関係の解釈学へ‥、西田幾多郎、和辻哲郎らの遺産を読
み直しつつ、近代の枠を超える思考パラダイム-、<ポイエーシス>の次元を構想する。89 年初版。
・田中貴子「あやかし考 -不思議の中世へ-」平凡社
「道成寺絵解」にはじまり、絵巻・説話から風聞まで、中世の不思議な話の数々を渉猟し、まことしやかに伝えられ語
られる伝説が、はたして当の人物や出来事の本当の姿を伝えるのものか、を解きほぐし明らかにしていく。04 年初
版。
―山頭火の一句― 「三八九-さんぱく-日記」より-291 月 25 日、また雨。
- 278 午後、稀也さんを見送るべく熊本駅まで出かけたが、どうしても見出せなかつた、新聞を読んで帰つてくると、間も
なく馬酔木さんが来訪、続いて元寛さんも来訪、うどんを食べて、同道して出かける、やうやくにして鑪板を買つて
貰つた-今度もまた元寛君のホントウのシンセツに触れた-。
※表題句の外、1 句を記す
20100127
恋猫の声も別れか
-日々余話- Soulful Days-31- 検察、現場検証へ
12 月中には出されるであろうと期待された大阪地検の審判-甲乙運転手への刑事処分-は、結局は音沙汰なしのまま年
が越され、はや 1 月も大寒を過ぎ月末を迎えようとしている。
この間、こうまで結論を長引かせるのはいったい何か、やはり警察の調書と矛盾する審判を下せしめるのは困難かな
どと、一抹の不安やら疑念に襲われては焦燥に駆られるといった始末で、どうにも気の霽れぬ日々が続いてきた。
そこへM 運転手からの久々のメール、昨夕のことだ。彼とは暮の25 日に会っていたからちょうど一ヶ月ぶりの音信。
それによれば、検察はあらためて事故当時の現場検証を実施する意向で動いているとの由、その協力要請が M 運転
手の会社-MK タクシー-にも既になされているらしい。
これが本当なら、まぎれもなく吉報である。現場検証の日程はいまだ確定しておらず、M 運転手にもその連絡はまだ
ないが、この情報が MK タクシー側の弁護士からもたらされたものだけに信憑性は高く、早晩実施されることはまず
まちがいないだろう。
抑も検察があらためて現場検証をしようというからには、検察にあがってきた警察の調書や捜査判断に大きな問題点
があるという認識なしにはありえなかろう。此方が要請したドライブレコーダーの分析から推定される事故状況と、
警察における捜査報告や調書に抜き差しならぬ齟齬や矛盾があり、これらの欠陥や誤認を明々白々のものにしなけれ
ばならないということだ。さらに突っ込んでいうなら、検察の判断はすでに警察の捜査・調書をかなりの部分否定せ
ざるを得ないという心証を得ており、検察による現場検証の実施はこれを確定させるための、いわば通過儀礼となる
べきものだろう。
やっと、ここまで来たか‥たまらず深い息をつく、
もうすぐだ、もうすぐ‥、霽れる日は、もう近いのだ。
―山頭火の一句― 「三八九-さんぱく-日記」より-281 月 24 日、うららかだつた、うららかでないのは私と彼女の仲だつた。
米の安さ、野菜の安さ、人間の生命も安くなつたらしい。
朝湯のこころよさ、それを二重にする朝酒のうまさ。
※表題句は前日の句より
句も書き留めていなければ、記したのもたった二行。別れた筈の妻・サキノとのあいだに何があったか、本文ではな
く天候の欄に「うららかでないのは」と記したは、触れれば止めどもなく露わになろうおのれ自身の不甲斐なさ、自
己嫌悪の姿であったか‥。「人間の生命もやすくなつたらしい」と記した裏に忍ばせたものは‥、などと想像を逞し
くせざるをえない。
20100125
ひとりにはなりきれない空を見あげる
―山頭火の一句― 「三八九-さんぱく-日記」より-27-
- 279 1 月 23 日、雨、曇、何といふ気まぐれ日和だらう。
夜、元寛居で、稀也送別句会を開く、稀也さんは、いかにも世間慣れた-世間摺れたとは違ふ-好紳士だつた、別れる
のは悲しいが、それが人生だ、よく飲んでよく話した。
-略-、そして稀也さんも私も酔ふた、酔ふて別れて思ひ残すことなし、よい別れだつた。
裏のおばさんに「あたたかいですね」といふと「ワクドウが水に入つたから」と答へる、熊本の老人は誰でもさうい
ふ、ワクドウ-蟇の放言である-が水に入る-産卵のためである-、だから暖かいと理窟である、ワクドウが水に入つたか
ら暖かいのでなくて、暖かいからワクドウが水に入るのだから、原因結果を取違へてゐるのだが、考へやうによつて
は、面白くないこともない、私たちはいつもしばしばかういふ錯誤をくりかへしつつあるではないか。
※表題句の外、9 句を記す
20100123
酔うほどは買へない酒をすするのか
-表象の森- インド舞踊、って何だ!
Odissi Dance の茶谷祐三子も加わったインド舞踊の会があるというので、連合い殿が土曜出勤のゆえ子連れながら
京都まで観に行ってきた。
会場は南禅寺近くの京都市国際交流会館内のイベントホール、200 席余りの小ホールだ。その名称からして小なりと
いえどさぞ設備の整った劇場だろうと思って出かけたのだが、予想は見事に裏切られた。音響も照明もまるでなって
ない、半世紀ほども昔へタイムスリップしたかと思うくらいお粗末なものだった。音はボリュームを上げるとただ煩
いだけのものとなるし、ホリゾントは Low Hori こそあるものの Upper Hori がないから、地明りのボーダーやサスか
らのハレーションがひどくて、いわば空と大地の、空間が分かたれない。踊り手たちにとって折角の晴れの舞台も、
これでは辛い環境となる。
さて本題の踊りについてだが、出演は 4 団体、オディッシィ・ダンス=東インド舞踊の野中ユキと茶谷祐三子、パラタ
ナティアムといわれる南インド舞踊の福田麻紀とマユリ・ユキコ。演目は休憩をはさんで二部に分かれ、前半は茶谷
祐三子と福田麻紀、後半は野中ユキとマユリ・ユキコ、それぞれオディッシィとパラタナティアムの組合せとなって
いる。
子連れのこととて、一部を観終えたところで退散しようかとも思ったが、オディッシィ・ダンスに関しては茶谷祐三
子以外のものをまだ観たことがないので、二部の野中ユキのソロを観届けて席を立った。
先-11 月-の、カルラの南インド舞踊もそうだったが、茶谷が踊る Odissi Dance の世界と、今日の福田麻紀、野中ユ
キらの踊り、パラタナティアムとオディッシィの違いはあれど、彼女らの世界とは同じインド舞踊とはいいつつズレ
がある、位相が異なるといわざるをえない。同根の筈の野中ユキのオディッシィ・ソロまで強いるように観たのは、
結果としてその確認のためだったということになる。
彼女らの踊りは、技術的にはまずまず達者なものだが、どこまでも単なる民族舞踊でしかない。異邦の世界を憧憬す
る心はだれにでもあるものだが、その発想かならずしも無垢なものなどではなく、ずいぶんと俗な部分に浸食されて
いるものだということを知らず、あくがれはそのまま媚びやへつらいに堕しかねず、きわどいところだが俗臭が匂い
立つ、と私にはそう映った。
茶谷自身の語るところでは、8 年ほどに及ぶ彼女のインド滞在のあいだ、Odissi Dance の習得に専心したのは 2.3
年、以後はもっぱらラジニーシの瞑想に私淑、明け暮れていたと聞く。よってか彼女の踊りにはどこかまだ生硬さが
のこるものの、心の軸がある、これもまたなかなかにきわどいところのものではあるが、踊ること自体、超越的な存
在-神-への捧げものという、そんな信仰にも似たものがあるようにみえる。
写真はこの日の会のチラシだが、この手の企画、どうしてこんなに趣味がワルイのか
- 280 ―山頭火の一句― 「三八九-さんぱく-日記」より-261 月 22 日、雨、憂鬱な平静。
稀也さんから突然、岡山へ転任するといふ通知があつたので、逓信局に元、馬の二君を訪ねて、送別句会の打合をす
る。
途上で少しばかり飲んだ、最初の酒、そして焼酎、最後にまた酒! 何といつても酒がうまい、酔心地がよい、焼酎
はうまくない、うまくない焼酎を飲むのは経済的だからだ、酔ひたいからだ、同じ貨幣で、酒はうまいけれど焼酎は
酔へるからだ、飲むことが味ふことであるのは理想だ、飲むうちに味ふほどに酔うてくるなら申分ないけれど、それ
は私の現状が許さない、だから、好きでもない焼酎を飲む、眼をつぶつて、息もしないやうにして、ぐつと呷るので
ある、みじめだとは自分でも知つてゐる、此辺の消息は酒飲みの酒好きでないと解らない、酒を飲むのに目的意識が
あつては嘘だが、目的意識がなくならないから焼酎を飲むのである。‥
※表題句の外、3 句を記す
20090121
ひとり住むことにもなれてあたゝかく
-世間虚仮- 強制収容 20 万
北朝鮮で、政治犯 20 万人収容、の見出しが眼を惹いた。
記事によれば、あくまで韓国国家人権委員会による推定だそうだが、その殆どは生涯出所の可能性はないという。北
朝鮮の総人口は約 2300 万人とされており、ほぼ 100 人に一人がこの軛のうちにあるのだから、これは驚くべき数値
だ。
ジャーナリスト保護委員会-GPJ-が報道の自由のない 10 ヶ国をランキングした、検閲国家ワースト 10 のトップ-2006
年-に位置づけられた北朝鮮だが、他方、国境なき記者団による世界報道自由ランキングでは 175 ヶ国中 174 位-2009
年-とされており、この国より下位に位置づけられているのがエリトリア、アフリカ北東部、紅海に面しエチオピア
とスーダンに挟まれた、人工 500 万ほどの国だ。
―山頭火の一句― 「三八九-さんぱく-日記」より-251 月 21 日、晴れたり曇つたり、大寒入だといふのに温かいことだ。
今日は昼も夜も階下の夫婦が喧嘩しつづけてゐる、ここも人里、塵多し、全く塵が多過ぎます、勿論、私自身も塵だ
らけだよ。
※表題句の外、2 句を記す
20100119
風の音にも何やかや
-表象の森- 蒼海-副島種臣-の書
石川九楊の曰く「副島は、紙面を外延しない限定空間として捉え、その中に社会や世界のうごめく姿を書として表出
しているように思われる」と。
また曰く「副島の<筆触>は次々と転換し一筋縄ではいかない莫大な情報を盛り込んでいる。中でも「積翠堂」や「洗心
亭」の作品にみられるように、とくにきしみや、ねじれをもった筆触と、強い筆触、柔らかな筆触、しかもそれが、
書きながら見直され、見直されながら書かれるといった具合に、次々と劇的に展開していく」と。
また曰く「副島は、篆、隷、楷、行、草の各体が相互に混然と入り乱れる書を描き出している。彼が各体に無頓着で
あったというわけではない。書の歴史的総体、総力、つまり<筆触>の総力、全力を駆使して、「世界」を描出しようと
試みているのだ」と。
- 281 さらに曰く「副島の書が、近代、現代、戦後の書のステージ-段階-を胚胎し、字画を分裂、微分した果てに<書線>や
<描出線>のステージを隠しているにもかかわらず、安定した書として認識されるのは、それらを<筆触>が統合して
いるからだ。<筆触>とは書の別名に他ならない。強靱な<筆触>=強靱な書性によってまぎれもなく書として統御され
ているのだ。-略- 副島は古文、篆隷楷行草という東アジア漢字文化圏の書が担ってきた歴史的なすべての手法を結
集して、近代、現代の書のステージをいっきに描き出してしまっている。過去、現在、未来、そのすべての書の姿が
予言的に凝縮されているのだ」と。
副島種臣の書「神非守人、人実守神」
―山頭火の一句― 「三八九-さんぱく-日記」より-241 月 20 日、うららか、今日の昨日を考へる、微苦笑する外はない。
すまなかつた、寥平さんにも、彼女にも、私自身にも、-しかし、脱線したのぢやないそれだけまた心苦しい。
苦味生さんから来信、あたたかい、あたたかすぎる、さつそく返信、そして寝る、悪夢はくるなよ。
自分が見え坊だつたことに気付いて、また微苦笑する外なかつた、といふのは、私は先頃より頭部から顔面へかけて
痒いものが出来て困つてゐる、それへデイリユウ膏を塗布するのだが、見えない部分よりも見える部分-自分からも
他人からも-へ兎角たびたび塗布する。‥
※表題句の外、2 句を記す
20100116
日向ぼつこする猫も親子
-表象の森- つづいて「石川九楊」を読む
図書館からの借本、近代書史論と副題された「書の終焉」-同朋舎刊 1990-を、やっと読了。
著者は、戦後-昭和 20 年頃~40 年代半ば-の書について、
この時期に書の表出史が明らかにするところは、書が<字画>であることを止めて<書線>へ転化したことである。言
葉=文字を書き留めること、<字画>を書き留める段階を脱して、書は<書線>へと転じようとするのだ。墨象といって
最初から文字を書かない作品は別にして、前衛書といっても、そこでは文字が書かれているはずだととして接近すれ
ば、記されている文字を了解できないわけではない。むろんその臨界を突破していて題名や作者の解説なしでは判読
できないものも少なくないのだが。「<書線>へ転化した」と書く意味は字画が従来通り<字画>として現れるのでは
なく、<書線>によって自己自身を表出しようという字画段階、つまり<書線>の編成が字画のような貌立ちで現れる
のだという意味だ。
ここで<字画>と呼ぶのは、言葉に奉仕するために自己否定的ベクトルをもった字画、筆画を指し、<書線>と呼ぶの
は、言葉に奉仕するよりも自己の存在を拡張しようとする方向を指す。その事実を厳密に言えば、書の歴史的誕生は
<字画>とのずれをもつ<書線>の誕生を意味している。だが、現代に至るまでは、この<書線>性は<字画>性の支配下
にあり、<字画>に統括されていた。言葉=文字を書いた場に、いくらかの度合<書線>性が貌をのぞかせていたのだ。
ところが現代、とくに戦後、表出の尖端は文字を書いた場に同伴した書を、書=<書線>を書き表す場に文字を同伴さ
せるという逆転を実現してしまった。書は<書線>であると短絡的に読み替えることによって、戦前とは較べものにな
らない多種多様な戦後前衛書は生まれた。
いったん<書線>と読み替えられた字画は、これを<運動>と<色彩>に、結構を-字画構成-を<構成>と読み替える。前
後前衛書は、この解体過程を実証する実験作品群を指していると言ってもいい。
さらに、昭和 40 年代半ば~現在に至る書については、
およそ前衛書、戦後書の方向には、前述の<運動><図形><構成><色彩>への四つの極点に抽象化していくしかない、
つまり書は影も形もなくなって、「画像」美術の一つに転化するしかないと潜在的に気づかれ始めた時期が昭和 40 年
- 282 -1960 年代半ば-頃以降ではないだろうか。60 年以降、前衛書は急速に影響力を喪って失速する。書が書であること
の臨界状態にあることが意識下で感じられ始めたのではないかと思われる。
書は言葉=<字画>を書くことに同伴して生まれた以上、絶えず<字画>の範疇にひきとどめようという力が根底で働い
ている。だが、<字画>性を感じさせる書は、その<字画>性のゆえに、濁り、臭気を放ち不徹底なステージ-段階-にと
どまる。すでに書の歴史が長い年月をかけて蓄積し、臨界状態に達した<書線>性が一気に崩壊するとはとても考えら
れない。
現時点において、<字画>性に戻ろうとする営為は、おそらくひとつの一過性のエピソードを線香花火のように残して
消え去っていく。なぜなら現在において<字画>性を復権するならば、必ず書として古風な段階に退行し、書として何
事であろうとすれば、<書線>性の上に<字画>性を僭称し、偽装するしかないからだ。偽装は必ず剥がれて<書線>性
を露出しようとする。<書線>性を否定しようとして再び<字画>性を偽装しようとする。書として見所をもちながら<
字画>性を回復しようとすれば、必ずこの堂々めぐりの中に落ちていく。いわば、書としての魅力、書としての価値
を押し上げようとすると、書という範疇から食み出していくという書の危険な臨界状態である。書という範疇に踏み
とどまれば、それはもはや書の歴史が蓄積してきた書の価値を湛え圧し上げることができないという、いささかミス
テリアスな倒錯した事態である。
という著者は、本書「近代書史論」を西郷隆盛の書から説き始める。
西郷隆盛の書の見所は、幕末維新の壮大な熱気が伝わってくるような連綿草-次々と文字が連続している草書体の書の書にある。「山行」の書を見てみよう。どろどろと粘りの強い線は円を圧し潰したような形でぐねぐねと蛇行する。
字画は太くなり細くなり、速度は速くなり遅くなる。上から下へ、左から右へ、右から左へと強い摩擦<筆触>で字画
が書かれ、はねられ、はらわれていく。書線のかすれは<筆触>の強さを暗示している。字画が綴られ連綿が続けられ
ていく方向や角度は雄壮な変化に富んでいて決して定型的ではない。文字形もまた長く伸び短く縮み、左に傾き右に
倒れ、文字の寸法は大きくなり、また小さくなり次々と姿を変えていく。文字の黒々とした印象が強くいつまでも残
る。国家や国民の行く手を背負っているという時代の重力の自覚や使命感がこの種の気負った、だが上すべりのない
<筆触>の中に歪力を書き込んだ存在感の強い書を作り上げるのだろうか。
西郷隆盛ら明治の元勲たち-大久保利通・木戸孝允・山岡鉄舟・福沢諭吉等-の書が誕生した時、日本書史上において初め
て作者の情念が書に描き出された。書の中に情念という名の自我が躍り出たのだ。やや違った意味で、江戸期の僧、
良寛や慈雲、白隠、画家・池大雅ら、いわば自由人の書の中にこれらの自我の表出は発芽していたもののいまだ開花
には至っていなかった。西郷や大久保らは、その革新的意志や思想や情念をスタイル-書体-として表出することを意
識的にか無意識的にか実現した。いわば書の歴史的ステージ-段階-をねじまげたのだ。書は文字をある様式に従って
綴るだけのものではなくて、ねじれた<筆触>の中に情念を盛り込むことになった。この事実の中に「維新元勲の書」
が大衆に熱っぽく歓迎された理由がある、と。
―山頭火の一句― 「三八九-さんぱく-日記」より-231 月 19 日、けふもよい晴れ、朝湯朝酒、思無邪。
朝湯の人々、すなはち、有閑階級の有閑老人もおもしろい、寒い温かい、あゝあゝあゝの欠伸。
濁酒を飲む、観音像-?-を買ふ、ホウレン草を買ふ。
元寛さんを訪ねて、また好意に触れた、馬酔木さんに逢うて人間のよさに触れた。
※表題句の外、14 句を記す
20100113
凩のラヂオをりをりきこえる
-日々余話- 寒さにゃ弱い
- 283 寒い、寒い、今年一番の冷え込み。
泉北赤坂台に住む妹を訪ねた、その娘-姪-に少しなりともアルバイトになればと思って、岸本康弘君の詩集のデータ
化の仕事を持って行ったのだが、家普請の通気がよい所為か、部屋に入っても寒い寒い。大阪市内と比べて2℃も違
うまいに、室内の機密性の差は大きいか、今日あたりの冷え込みになってくると、真夏生まれの私などには、動く気
力も削がれ気味となる。
今年一番の寒気は、鹿児島あたりにも積雪をもたらしたとかで、列島のあちこちで吹雪による事故を多発せしめてい
る。
そういえば、昨年末から欧州や北米で、また中国でも、記録的な寒波に見舞われているようだが、その原因は北極震
動による強い寒気放出というものらしい。
北極振動は気圧の変動により大気の流れが周期的に変化する現象だが、この冬は北極圏の気圧が高く北半球の中緯度
地域は低い北極振動指数がマイナスの状態で、北極圏から放出された寒気が中緯度地域に流れて気温が低くなる一方、
逆に北極周辺は気温が高い状態が続いている、のだそうな。
―山頭火の一句― 「三八九-さんぱく-日記」より-221 月 18 日、晴、きのふもけふもよいお天気だつた、そして私も閉ぢ籠つて読んだり書いたりした。
夕方から散歩、ぶらぶら歩きまはる、目的意識なしに-それが遊びだ-そこに浄土がある、私の三八九がある!
また逢うてまた別れる、逢ふたり別れたり、-それが世間相! そして常住だよ。
ここの家庭はずゐぶんややこしい、寄合世帯ぢやないかと思ふ、爺さんはガリガリ、婆さんはブクブク、息子は変人、
娘は足りない、等、等、等、うるさいね。
※表題句の外、5 句を記す
20090112
霙ふるポストへ投げ込んだ無心状
-表象の森- 石川九楊「一日一書 02」
曰く、北魏石刻書の到達点、張猛龍碑の<曜>。横画の間隔が詰まり、長い左はらいの勇壮な字。右上部は石の欠落。
曰く、小野道風の智證大師諡号勅書の<贈>。柔らかい筆先が穏やかに紙面を撫でるように進む婉曲の書きぶりは、女
手-平仮名-の書法、つまり訓の姿の流入。
曰く、伝・嵯峨天皇の李僑雑詠残巻の行書体の<樹>。水平運動力を抑制した起筆強・收筆弱の垂直運動力主体で書かれ、
形は縦長。
曰く、伝橘逸勢の伊都内親王願文の<深>。構成は王義之風。旁第一筆の強く打ち込まれた起筆は鳥の頭を思わせる雑
体書風。日本三筆の風景。
曰く、三蹟・藤原佐理の離洛帖の<旅>。<方>は横画を最初に書き、第一画と第三画は繋ぐ。筆尖を開きひらひらと書
き進む。
等、々‥。
まことに、書の表象の森は、その理法多彩にして、読んでいて尽きない愉しみがある。
本書は、'02 年の元旦より大晦日までの一年間、京都新聞に連載したものに加筆したもの。
'01 年、'02 年、'03 年と連載は 3 年に及んで、同工の書が 3 冊出版されている。
―山頭火の一句― 「三八九-さんぱく-日記」より-211 月 17 日、晴、あたたかだつたが、私の身心は何となく寒かつた。
- 284 帰途、薬湯に入つてコダハリを洗ひ流す、そして一杯ひつかけて、ぐつすり寝た、もとより夢は悪夢にきまつてゐる、
いはば現実の悪夢だ。
今日は一句も出来なかつた、心持が逼迫してゐては句の出来ないのが本当だ、退一歩して、回向返昭の境地に入らな
ければ、私の句は生れない。
※表題句は 16 日付記載のなかから
20100109
ぬかるみをきてぬかるみをかへる
-日々余話- ウツ、ウツ‥
昨日から鬱々としっぱなし。
まさに身から出た錆、自身の失態から連合い殿にいたくショックを与えてしまったのだから、弁解の余地もなくただ
しょげかえるしかない。
もう 2.3 ヶ月も前になるだろう、PC の Hard Disc に動画の記録がずいぶん溜まり込んできてしまったので、不要
ファイルの削除作業をしていたのだが、どうやらその折に Back File と勘違いして、彼女の大事な記録、それはこの
数年間における琵琶の稽古での師匠のデモテープ集なのだが、そのいっさいを削除するという大ポカをしでかしてし
まっていたのだ。
昨日の朝、彼女に必要があって、ある一曲を取り出そうとしたのだが、どこにも見あたらない、そんな騒ぎのなかで
やっと件の失態劇に気がついたというわけだ。
自身のミステイクが我が身にのみ降りかかってくる場合は、どんなに痛くとも、最後は諦めがつくものだが‥、
他者に降りかかり痛めつけてしまっては、こいつはどうにも救いようがない、まったくかたなしだ。
―山頭火の一句― 「三八九-さんぱく-日記」より-201 月 16 日、曇、やがて晴、あたたかだつた。
朝、時雨亭さん桂子さんから、三八九会加入のハガキが来た、うれしかつた、一杯やりたいのをこらへて、ゆつくり
食べる。‥-略不幸はたしかに人を反省せしめる、それが不幸の幸福だ、幸福な人はとかく躓く、不幸はその人を立つて歩かせる!
‥へんてこな一夜だつた、‥酔うて彼女を訪ねた、‥そして、とうとう花園、ぢやない、野菜畑の堰を踰えてしまつ
た、今まで踰えないですんだのに、しかし早晩、踰える堰、踰えずにはすまされない堰だつたが、‥もう仕方がない、
踰えた責任を持つより外はない‥それにしても女はやつぱり弱かつた。‥
※表題句の外、12 句を記す
20100107
何か捨てゝいった人の寒い影
-日々余話- たかが一枚の写真、されど‥
昨日、逝き去りし人々を綴りながら思い出したことなのだが‥。
森繁久弥が 96 歳の大往生を遂げたのは 11 月 10 日だったが、政府官邸は故人に国民栄誉賞を贈ることを決め、その
表彰式が暮れも押し迫る頃に執り行われたという記事の、これに添えられていた写真を眼にして、どうにも腑に落ち
ぬ、違和を抱いてしまったのであった。
総理官邸で行われるのが通例というこの表彰式に、故人の次男を筆頭に孫やひ孫らがこぞって出席するということ自
体は、なにを言うほどのこともない、晴れの慶び事を家族みんなで享受することに、誰も異論を唱えようとは思わな
いだろう。
- 285 だが、鳩山総理を中央に、平野官房長官や川端文科相ら政府高官が列したなかに、孫ひ孫までうち揃って麗々しく並
んだ記念撮影の写真が、報道写真として政治経済総合面に掲載されるというのは、ちょいとおかしいんじゃないのか
と私などは思わざるをえないのだ。
森繁といえば、それまでいささか癖のある芸風の喜劇俳優だった彼が、老若男女万人に親しまれる好々爺のイメージ
が定着するようになったのは、TV のホームドラマ「七人の孫」-'64~'66-あたりからだろう。そんな森繁イメージを
髣髴とさせるがゆえ許容された報道写真であったかとも見なしうるが、その姿勢、たかが一枚の報道写真なれど、や
はり首を傾げたくなる。
―山頭火の一句― 「三八九-さんぱく-日記」より-191 月 15 日、晴、三寒四温といふがじつさいだ。
少々憂鬱である-アルコールが切れたせいか-、憂鬱なんか吐き捨ててしまへ、米と炭と塩があるぢやないか。
夕方からまた出かける-やつぱり人間が恋しいのだ!-、馬酔木さんを訪ねてポートワインをよばれる、それから彼女
を訪ねる、今夜は珍しく御機嫌がよろしい、裏でしよんぼり新聞を読んでゐると、地震だ、かなりひどかつたが、地
震では関東大震災の卒業生だから驚かない、それがいい事かわるい事かは第二の問題として。
けふは家主から前払間代の催促をうけたので、わざわざ出かけたのだつたが、馬酔木さんにはなんとしてもいひだせ
なかつた、詮方なしに、彼女に申し込む、快く最初の無心を聞いてくれた、ありがたかつた、同時にいろいろ相談を
うけたが!
彼女のところで、裏のおばさんの御馳走-それは、みんなが、きたないといつて捨てるさうなが-をいただく、-略何といふ罰あたりだらう、じつさい、私は憤慨した、怒鳴りつけてやりたいほど興奮した。
今日で、熊本へ戻つてから一ヶ月目だ、ああこの一ヶ月、私は人に知れない苦悩をなめさせられた、それもよからう、
私は幸いにして、苦悩の意義を体験してゐるから。
※表題句の外、8 句を記す
20100106
一把一銭の根深汁です
-日々余話- 逝き去りし人々
これまた遅まきながら、昨年に物故された人々の一覧から気の向くままに列挙してみる。
1 月 30 日、長年月のシベリア抑留経験を持つ文学者内村剛介は享年 88 歳だった。
2 月になると、2 日に長距離打者として長島・王に先行して活躍した山内和弘-76 歳-、15 日にはノーベル賞の有力候
補と目されていた素粒子学者西島和彦-82 歳-が、21 日には歌舞伎界の最長老だった中村又五郎-94 歳-が鬼籍の人に。
3 月、後半生は日舞の家元としてまた市川猿之助の伴侶として波乱の人生を生きた女優の藤間紫-85 歳-は 27 日、大
阪にわか師でもあった噺家露の五郎兵衛-77 歳-は 30 日に、そして俳優の金田龍之介-80 歳-が 31 日に。
4 月、14 日に改憲論者でもあった作家の上坂冬子-78 歳-。
5 月、さよならイベントに多くのファンがつめかけたロック歌手忌野清志郎-58 歳-は 2 日に、本業の碁以外にも数々
の武勇伝?を残す豪放異才のしゅうこう先生こと藤沢秀行-83 歳-は 8 日、切り絵作家の滝平二郎-88 歳-は 16 日、中
島梓の異名でもマルチの才能を発揮した SF 作家栗本薫が 56 歳という若さで逝ったのは 26 日。
6 月、ペルソナ-仮面-やかたり-騙り-の哲学者坂部恵-73 歳-は 3 日、二代目タイガーマスクとして華麗な活躍を見せた
プロレスラー三沢光晴-46 歳-は 13 日。
7 月、「甘えの構造」の精神分析医土居健郞-89 歳-は 5 日、そのアナーキーな行動と著作がカルチュラル・スタディ
ーズの先駆とも評される平岡正明-68 歳-は 9 日。
- 286 8 月、フジヤマのトビウオ-古橋広之進-80 歳-が 2 日に、6 日にその孤独死を発見された女優大原麗子-62 歳-は推定
3 日、同じく俳優の山城新伍-70 歳-は 12 日。
10 月、もうろう会見で大臣を辞任した中川昭一-56 歳-が 3 日-推定-に不審死、旧制弘前高校で太宰治と同期だったと
いう作家石上玄一郎-99 歳-は 5 日、フォーク・クルセダーズの加藤和彦-62 歳-は 17 日、女優の南田洋子-76 歳-は 21
日、笑点の司会をつとめた落語の三遊亭円楽-76 歳-は 29 日に。
11 月、大衆芸能畑では初の文化勲章受賞となった森繁久弥-96 歳-は 10 日、動物行動学者の日高敏隆-79 歳-は 14 日、
戦前は少女歌劇のスターとして活躍し、戦後は日活映画のプロデューサーとして石原裕次郎らをデビューさせた水の
江滝子-94 歳-は 16 日、'51 年の渡仏以来、パリに居住して制作を続けた抽象画の田淵安一-88 歳-は 24 日に。
12 月、仏教やシルクロードを題材とした作品群は現代画壇では最高峰の評価を獲ている日本画の平山郁夫-79 歳-は 2
日、沖縄民謡の第一人者として戦後から活躍してきた喜納昌永-88 歳-は 24 日に。
海外では、ノムヒョン前韓国大統領が 5 月 23 日に、彼の場合不正資金疑惑の捜査を苦にした自殺かと見られている、
6 月 25 日には世界中に衝撃を与えたマイケル・ジャクソンの不審死があり、つづいて 30 日、鬼才の現代舞踊振付家
ピナ・バウシュ-68 歳-、7 月 26 日にはパプニング以降の現代舞踊をリードしたマース・カニングハム-90 歳-、金大中
元韓国大統領-85 歳-が 8 月 18 日に、冬季五輪アルペンの覇者で、後に映画俳優に転身したトニー・ザイラー-73 歳が同月 24 日に、「悲しき熱帯」の構造主義的社会人類学者クロード・レヴィ=ストロース-100 歳-が 10 月 30 日に逝
った。
―山頭火の一句― 「三八九-さんぱく-日記」より-181 月 14 日、曇、降りさうで降らない雪模様、しかし、とにかく、炬燵があつて粕汁があつて、そして-。
東京の林君から来信、すぐ返書を書く、お互いに年をとりましたね、でもまだ色気がありますね、日暮れて途遠し、
そして、さうだ、そしてまだよぼよぼしてゐますね。‥
先夜の吹雪で吹きとばされた綿入遂に不明、惜しい品でないだけ、それだけ考へさせる。
※表題句の外、3 句を記す
20100104
雪もよひ、飯が焦げついた
-四方のたより-
三が日も過ぎて、写真の如く、やっと年詞啓上
―山頭火の一句― 「三八九-さんぱく-日記」より-171 月 13 日、曇、今日もまた雪でも降つて来さうな。
苦味生さんから、方向転換の手紙が来た、苦味生さんの気持は解る-苦味生さんに私の気持が解るやうに-、お互に、
生きる上に於て、真面目であるならば、人間と人間とのまじはりをつづけてゆける、めいめい嘘のない道を辿りませ
う、といふ意味の返事を出しておいた。
昨夜も夜明の鴉がうたふまで眠らなかつた、いろいろの事-おもに、三八九の事-が気になつて寝つかれなかつたの
である、私も案外、小児病的で恥づかしい。
※表題句のみ記す
20100102
凍テ土をひた走るバスも空つぽ
-四方のたより- 離島のご来光
- 287 冬の八重山諸島は
どんよりと厚い曇に覆われて
海も荒れ模様つづきの小旅行だったが
旅も終わりを迎えた元日の朝
此処は小浜島の、とあるホテルのレストラン
どうした僥倖か
雲の切れた青空に
ほのかに紅色を帯びて輝く太陽が
やさしい光りを届けてくれていた
―山頭火の一句― 「三八九-さんぱく-日記」より-161 月 12 日、曇、陰鬱そのものといつたやうな天候だ。
外は雪、内は酒-憂鬱を消すものは、いや融かすものは何か、酒、入浴、談笑、散歩、等、等、私にあつては。
夕方から熊本へ出かける-ここも市内だけれど、感じでは出かけるのだ-、元寛さん、馬酔木兄さんに逢ふ、別れて宵々
さんを訪ねる、御夫婦で餅よ餅よと歓待して下さる-咄、酒がなかつた、などといふな-、私はこんなに誰からも歓待
されていいのだらうか。
※表題句の外、3 句を記す
20091228
寒ン空、二人連れは男と女
―山頭火の一句― 「三八九-さんぱく-日記」より-151 月 11 日、曇つて晴れる、雪の後のなごやかさ。
いつものやうに、御飯を炊いて、そして汁鍋をかけておいて湯屋へ。-
あんまり寒いから一杯ひつかける、流行感冒にでもかかつてはつまらないから、といふのはやつぱり嘘だ、酒好きは
何のかのといつては飲む、まあ、飲める間に飲んでおくがよからう、飲みたくても飲めない時節があるし、飲めても
飲めない時節がある。‥
事実を曲げては無論いけない、といつて、事実に囚へられては、また、いけない-句作上に於て殊に然り-。
※表題句の外、8 句を記す
-四方のたより- 今日から
一年の垢落としという訳ではないけれど、ちょいと小旅行に出かけます。
元日に帰阪の予定、それまでブログはお休み。
-今月の購入本-
・藤井直敬「つながる脳」NTT 出版
脳科学の行く手にたちはだかる大きな壁-、技術の壁、スケールの壁、こころの壁、社会の壁。これらの壁に対して、
最前線の脳科学者たちは、どのように問題を解決しようとしているのか。自由意志や社会的適応、ココロの理論、あ
るいは脳科学の実験環境や、話題のブレイン-マシン、インターフェイスなどを押さえながら、「脳と社会」の関係性
から脳の解明を目指す気鋭の論考。
・東浩紀・北田暁大編集「思想地図 vol.3-アーキテクチャ-」NHK ブックス
- 288 建築から社会設計、コンピュータ・システムまで、私たちの「生」をコントロールする、その多様なあり方に迫る。ア
ーキテクチャの権力にどう対峙するべきか。イデオロギーが失効した時代の批評の新たなる可能性を切り開こうと‥。
・東浩紀・北田暁大編集「思想地図 vol.4-想像力-」NHK ブックス
情報や消費環境の変化により、個人はそれぞれの「心地よい」島宇宙に自閉し、社会は分断されてしまった。「大きな
物語」が機能不全に陥ったこの時代、 われわれの想像力は、はたしてどのような未来を描きうるのか。村上春樹から
政権交代、折口信夫からエヴァまで、さまざまな領域を横断しながら、ときに「未成熟」と批判される日本的想像力の
ありかたを徹底的に吟味することで、未来を切り開く知の可能性を。
・池澤夏樹「ぼくたちが聖書について知りたかったこと」小学館
池澤夏樹が自身の従兄弟でもある聖書学者・秋吉輝雄に聞く聖書の読解法。どちらかといえば旧約が専門の秋吉は、
ユダヤ人とは何なのか?という解等困難な問いを常に意識しつつ、彼らの言語や生活習慣や世界認識の特殊性を様々
な角度から説明し、その物語が発生した同時代の文化状況や、それが「書」として編集され人々に受容されていく過程
での政治的な諸力の、いわば織物として出来上がっているという歴史的な事実を平易に伝えてくれる。
・渡辺公三「闘うレビュ=ストロース」平凡社新書
レヴィ=ストロースの壮大な思想は、安易で図式的な理解を拒む。百年を超える生涯を通じて、彼は何と闘ってきた
のか。野性の生きものとの接し方に看取されるレヴィ=ストロースの「世界との接し方」と、構造主義と呼ばれる「もの
の見方」とのあいだに存在する関係とは何か。 あるいは、「彼らとの出会いの場」を「私によって私の位置」において作
出するというレヴィ=ストロースにとっての人類学の企図が、どのような種類の、どれほどの知的な作業を必要とさ
れるものだったか。
・スガ秀実「1968 年」ちくま新書
世界史を画する歴史的な Turning Point だった-1968 年、前史としての<60 年安保>から、ベ平連や全共闘運動を経
て三島事件と連合赤軍事件に終わるまでの激しい時代を、新たに発掘した事実を交えて描く。
・山城むつみ「文学のプログラム」講談社学芸文庫
「書くこと」でいかに「戦争」と拮抗しうるのか、小林秀雄、坂口安吾、保田與重郎の戦時下における著述を丹念に辿る
ことで、時局に追従する言説と彼らとの距離を明らかにし、保田の「万葉集の精神」を起点に、日本文を成立せしめた
「訓読」というプログラムの分析へと遡行する評論。1995 年の大田出版刊が底本。
・関幸彦「百人一首の歴史学」NHK ブックス
中世史を専門とする歴史学者ならではの、栄華を誇った王朝の記憶の Tapestry たる「百人一首」の歴史的読解。
他に、広河隆一編集「DAYS JAPAN -2010/01」
-図書館からの借本-
・野田正彰「教師は二度、教師になる」太郎次朗社
子どもとの関わりのなかで、人はいかにして「教師になる」のか。副題に「君が代処分で喪ったもの」とあるように、
国旗・国家の強制と処分によって精神の危機に曝された教師たち 13 人への詳細な聞取りを通して、彼らの教育観と生
き方を伝え、その葛藤のありようを精神医学の視点から読み解く。
・石川九楊「書の終焉-近代書史論-」同朋社
毎日新聞の書評「今週の本棚」における年末特集、評家書誌による「今年の三冊」で、何人もがともに挙げていた「近代
書史」。おそらくはその助走の著と目されよう「書」の近代史論考。
・石川九楊「一日一書 -02-」二玄社
歴史・文化・芸術・生活‥、あらゆる分野を縦横に駆けめぐりつつ、毎日一文字の「書」との出会いが一日を豊かにして
くれる。「京都新聞」連載のコラムに大幅に加筆、単行本化したシリーズの第 2 弾。
- 289 20091227
吹雪吹きこむ窓の下で食べる
―山頭火の一句― 「三八九-さんぱく-日記」より-141 月 10 日、雪が積んでゐる、まだ降つてゐる、風がふく、寒く強く。
近来にない寒さだつた、寒が一時に押し寄せたやうだつた、手拭も葱もご飯も凍つた、窓から吹雪が吹き込んで閉口
した。
ありがたいことには炬燵があつた、粕汁があつた。
朝湯朝酒は勿体ないなあ。
今日は金比羅さんの初縁日で。おまゐりの老若男女が前の街道をぞろぞろ通る、信仰は寒さにもめげないのが尊い。
隙洩る風はこの部屋をいかにも侘住居らしくする、そしてその風をこらへて、せくぐまつてゐる自分をいかにも侘人
らしくする。‥
寒いにつけても、ルンペン時代のつらさを思ひ出さずにはゐられない。
酒ほどうまいものはない、そして酒ほどにがいものはない、-酒ではさんざ苦労した、苦労しすぎた。‥
※表題句の外、4 句を記すが、その中に
「安か安か寒か寒か雪雪」がある。
-四方のたより-
ささやかながら、新しい年へと踏み石ともなる、本年最後の Dance Cafe でありました。
私自身、「山頭火」に加えて、やっと第二のレパートリーを獲たという僥倖に感慨もひとしお、祭りのあとの余韻に
ひたりおります。
しかもこの新しい演目は融通無碍、あるいは変幻自在、さまざまいかようにも取り組みようがあるとも思えるところ、
いかにもたのしみ多く、心中快哉の声をあげんばかりの境。
20091226
nformation – 四方館の DANCE CAFE –’09 Vol.4出遊-二上山夢験篇あそびいづらむ-ふたかみやまゆめのあらはれへんDate :12/27 –Sun- PM2:30 Space : 弁天町市民学習センター
愈々、明日に迫った DANCE CAFE だが、偶々、毎日新聞の今夕刊「万葉のとびら」に採られた歌は、有間皇子の
「岩代の浜松が枝を引き結びま幸くあらばまた帰り見む」
大津皇子と同じように、謀反の罪に捕らえられ、悲運の死を遂げたのは紀州藤白坂-現在の和歌山海南市-、658 年の
ことだが、これは大津の死に先立つこと 26 年だ。
蘇我赤兄に謀られた孝徳天皇の子、有間皇子を死に追いやったのは中大兄皇子、後の天智天皇だが、
天武天皇崩御の直後、謀反の疑いをかけられ賜死した大津皇子は、叔母にあたる鵜野讃良皇女-後の持統天皇-が自身
の子、草壁皇子を皇位に即かせるために謀ったとされる説が有力だ。
縫うてくれるものがないほころび縫つてゐる
―山頭火の一句― 「三八九-さんぱく-日記」より-131 月 9 日、雨、曇、晴、曇、雨。
起きると、そのままで木炭と豆腐とを買ひに行く、久しぶりに豆腐を味はつた、やつぱり豆腐はうまい。
- 290 あんまり憂鬱だから二三杯ひつかける、その元気で、彼女訪ねて炬燵を借りる、酒くさいといつて叱られた。
帰家穏坐とはいへないが、たしかに帰庵閑坐だ。
昨夜も今夜も鶏が鳴きだすまで寝なかつた、寝られなかつた。
※表題句の外、3 句を記す
-四方のたより- 「鎮魂と飛翔-大津皇子」二上山の章 Scene.7
「山越の阿弥陀」
光り、始源の
響き、生誕の
山の端に伸しあがる日輪の思われる
金色の雲気
20091224
送つてくれたあたゝかさを着て出る
―山頭火の一句― 「三八九-さんぱく-日記」より-121 月 8 日、朝のうちはうららかな晴だつたが、午後は曇つた。
今朝は嫌な事と嬉しい事とがあつた、その二つを相殺しても、まだまだ嬉しさが余りあつた、-略-、嬉しい事といふ
のは、郷里の妹からたよりがあつたのだ、ゲルトも送つてくれたし、着物も送つてくれた、私はさつそくその着物を
つけて、そのゲルトで買物しいしい歩いた、ああ何といふ肉親のあたたかさだらう!
米を買つた、一升 16 銭だ、米はほんたうに安い、安すぎる、粒々辛苦、そして損々不足などと考へざるをえないで
はないか。
どうも通信費には困る、毎日葉書の 5.6 枚、手紙の 2.3 本書かないことはない、今日は葉書 6 枚、手紙 3 本書い
た。
※表題句の外、3 句を記す
-四方のたより- 「鎮魂と飛翔-大津皇子」二上山の章 Scene.6
「死者と生者の相交」
天空の光りの輪が仄かに揺れて
招来と歓喜
彼の人にとって、おもいびとがそこに在り
女にとって おもかげびとがそこに在った
うねり、流れ、交わり
可視の空間の向こうに、見いだす拡がりのなかに
ともにやすらうのだ
20091223
尿する月かくす雲のはやさよ
―山頭火の一句― 「三八九-さんぱく-日記」より-111 月 7 日、曇、后晴、寒くなつた、冬らしくなつた-昨日から小寒入だ銭がなくなつた、餅もなくなつたし米もなくなつた、-銭は精確にいへば、まだ 13 銭残つてゐるが-。
- 291 朝は腹も空いてゐないからお茶を飲んですます、午後は屑うどんを少しばかりかつて買つて食べる。夜は蜜柑の残つ
たのを食べる、お茶がやつぱり一等うまい。
昨日も今日もアルコールなしだつた、飲みたいとも思はなかつた、私もやつとアルコールだけは揚棄することが出来
たらしい、そして昨日も今日も私一人だつた、訪ねてもゆかず、訪ねてくる者もなかつた、ただ一人ぢつとして読ん
でゐた、考へてゐた、そして平静だつた。
※表題句の外、9 句を記す
-四方のたより- 最後の‥
27 日の日曜は、本年の掉尾となる DANCE CAFE ゆえ、20 日に続き今日も稽古とした。今年最後の稽古だ。
是れにインド舞踊の茶谷祐三子が姿を見せた。3 人がそれぞれ交互に踊ってみせる即興の申し合いともいうべき小一
時間の稽古は、若い Aya も含め、互いにいい刺戟となったようだった。
本人の弁に因れば、最近いささか行き詰まりの如きものを感じているといっていた茶谷祐三子に、私はある感想とと
もに一つの Suggestion を与えてみたのだが、その後の即興では別人の観さえある表象をものしていた。
こういう刺戟に富んだ稽古をしたあとは、爽やかな気に充たされてすこぶるここちよいものだ。
あと 3 日、こんどは私の番、自ずから気力を高め、語り世界へと充填せしめねばならぬが、さてさて‥。
「鎮魂と飛翔-大津皇子」二上山の章 Scene.5
「幻影的な旅」その 2
20091222
食べるもの食べつくしてひとり
―山頭火の一句― 「三八九-さんぱく-日記」より-101 月 6 日、雨、何といふ薄気味の悪い暖さだらう、そして何といふ陰鬱な空模様だらう。
昨日は大金-私の現状では-を費つたが、今日は殆ど費はなかつた、切手 3 銭と湯銭 3 銭とだけ。
隔日に粥を食べることにしてゐる、経済的には僅かしか助からないけれど、急に運動不足になつた胃のためにたいへ
んよろしい。
次朗さんに手紙を書いた、-その心中を察して余りある事も感傷的になつては詰らない事、気持転換策として禅の本
を読まれたい事、一度来訪ありたき事、等、等。
苦痛のために身心を歪曲されるやうでは駄目だ、人生といふものはおのづから道が開けてくるものである、といふよ
りも、人間は自分自身の道を見出さずには生きられないのである。
※表題句の外、4 句を記す
-四方のたより-「鎮魂と飛翔-大津皇子」二上山の章 Scene.4
「幻影的な旅」その 1
こう、こう、こう
魂呼ぶ声に誘なわれて
不思議な夢の
冥界への旅だち
揺りから揺られ
女がひとり、幻想に舞う
- 292 20091221
霧の朝日の葉ぼたんのかがやき
―山頭火の一句― 「三八九-さんぱく-日記」より-091 月 5 日、霧が深い、そしてナマ温かい、だんだん晴れた。
朝湯へはいる、私に許された唯一の贅沢だ、日本人は入浴好きだが、それは保健のためでもあり、享楽でもある、殊
に朝湯は趣味である、3 銭の報償としては、入浴は私に有難過ぎるほどの物を与へてくれる。
次朗さんから悲しい手紙が来た、次朗さんの目下の境遇としては、無理からぬこととは思ふが、それはあまりにもセ
ンチメンタルだつた、さつそく返事をあげなければならない、そして平素の厚情に酬ゐなければならない、それにし
ても、彼は何といふ正直な人だらう、そして彼女は何といふ薄情なひとだらう、何にしても三人の子供が可愛相だ、
彼等に恵みあれ。
午後はこの部屋で、三八九会第 1 回の句会を開催した、最初の努力でもあり娯楽でもあつた、来会者は予想通り、稀
也、馬酔木、元寛の三君に過ぎなかつたけれど、水入らずの愉快な集まりだつた、句会をすましてから、汽車弁当を
買つてきて晩餐会をやつた、うまかつた、私たちにふさはしい会合だつた。
だいぶ酔うて街へ出た、そしてまた彼女の店へ行つた、逢つたところでどうなるものでもないが、やつぱり逢ひたく
なる、男と女、私と彼女の交渉ほど妙なものはない。
自転車が、どこにでもあるやうに、蓄音機も、どの家庭にもある、よく普及したものは、地下足袋、ラヂオ、等、等。
※表題句の外、7 句を記す
-四方のたより-「鎮魂と飛翔-大津皇子」二上山の章 Scene.3
「霊のこだま」その 2
20091220
ひとり住んで捨てる物なし
―山頭火の一句― 「三八九-さんぱく-日記」より-081 月 4 日、曇、時雨、市中へ、泥濘の感覚!
昨日も今日も閉ぢ籠つて勉強した、暮れてから元寛居を訪ねる、腹いつぱいのお正月の御馳走になつ戻つた。
一本 2 銭の水仙が三輪開いた、日本水仙は全く日本的な草花だと思ふ、花も葉も匂ひも、すべてが単純で清楚で気品
が高い、しとやかさ、したしさ、そしてうるはしさを持つてゐる、私の最も好きな草花の一つである。
やうやく平静をとりもどした、誰も来ない一人の一日だつた。
米と塩-それだけ与へられたら十分だ、水だけは飲まうと思へば、いつだつて飲めるのだが。
今夜は途上でうれしい事があつた、S のところから、明日の句会のために、火鉢を提げて帰る途中だつた、重いもの、
どしや降り、道の凹凸に足を踏みすべらして、鼻緒が切れて困ってゐると、そこの家から、すぐと老人が糸と火箸を
持って来て下さつた、これは小さな出来事、ちょつとした深切であるが、その意義乃至効果は、大きい思ふ。実人生
は観念よりも行動である、社会的革命の理論よりも一挙手一投足の労を吝まない人情に頭が下る。…
※表題句の外、11 句を記す
-四方のたより-「鎮魂と飛翔-大津皇子」二上山の章 Scene.2
「霊のこだま」その 1
闇い空間に蒼黒い靄の如くたなびくもの
樹々が呼吸する音に包まれて
精霊たちが岩窟を満たす
- 293 互いに結ばれた言葉で
やさしく人馴れぬ言葉で
彼の人のみ魂と共震する
20091219
詫手紙かいてさうして風呂へゆく
―山頭火の一句― 「三八九-さんぱく-日記」より-071 月 3 日、うららか、幸福を感じる日、行きてゐるよろこび、死なないよろこび。
-昨夜の事を考えると憂鬱になる、彼女の事、そして彼の事、彼等に絡まる私の事、-何となく気になるのでハガキ
を出す、そして風呂へゆく、垢も煩ひも洗ひ流してしまへ-ハガキの文句は、…昨夜はすまなかつた、酔中の放言許
して下さい、お互いあんまりムキにならないで、もつとほがらかに、なごやかに、しめやかにつきあはふではありま
せんか、…といふ意味だつたが-。-略恩は着なければならないが、恩に着せてはならない、恩を着せられてはやりきれない、親しまれるのはうれしいが、
憐れまれてはみじめだ。
与へる人のよろこびは与へられる人のさびしさとなる、もしほんたうに与へるならば、そしてほんたうに与へられる
ならば、能所共によろこびでなければならない。
与へられたものを、与へられたままに味ふ、それは聖者の境涯だ。-略※表題句には、自嘲一句、と註あり、この句の外、11 句を記す
-四方のたより-「鎮魂と飛翔-大津皇子」二上山の章 Scene.1
今日からは、折口信夫の「死者の書」を材にした、二部「二上山の章」。
「岩窟の人」
常闇の世界
埋葬された彼の人は
大地の内蔵の中で
ゆっくりとしたまどろみをつづける
生きている死の眠り
やがて、そのみ魂は
黒の内密性のうちに立ちあがるのだ
20091218
お正月の熊本を見おろす
―山頭火の一句― 「三八九-さんぱく-日記」より-061 月 2 日、曇后晴、風、人、-お正月らしい場景となつた。
吉例によつて、お屠蘇とお雑煮だけは欠かさない、独り者にも春は来にけり、さても結構なお正月で御座います、午
後になつて出かける、まづ千体仏へ、老師はお年始まはりで不在、つぎに茂森さん宅へ、ここも廻札でお留守、-歩
くのが嫌になつて、人間がうるさくなつて、そのまま帰つて来た、夕方、思ひがけなく元坊来訪、今夜また馬酔木居
で会合することを約束する、なにもご馳走するものがないから蜜柑をあげる、私はお雑煮やりそこなひの雑炊を食べ
て、ぶらぶら新市街の雑踏を歩いて、馬酔木さんを訪ねる、いろいろお正月の御馳走になる、十分きこしめしたこと
はいふまでもない、だいぶ遅くなつて S の店に寄つた、年賀状がきてはゐないかと思つて、-が、それがいけなかつ
- 294 た、彼女の御機嫌がよくないところへ、私が酔つたまぎれに言はなくてもいい事を言つた、とうとう喧嘩してしまつ
た、お互いに感情を害して別れる、ああ何といふ腐れ縁だらう! -略さきごろまでは何を食べても-水を飲んでさへも-塩つぽく感じたのに、けふこのごろは、何を食べても甘たらしく
感じる、何の病気だらうか、しかし近来の私は健康である、今夜も馬酔木居で、肥えたといはれたが、なるほど、私
は肥えた、手首を握つて見るに、今までにない大きさである。…
通信費が多いのには閉口する、ここへ移つてから、転居の通知やら、年始状やらで、もう葉書を 150 枚ぐらいは買っ
たらう、これではとてもやりきれない-生活費の 3 割以上を占めるようになる-、早く三八九を出して、それを利用し
たい。
※表題句の外、10 句を記す
-四方のたより-「鎮魂と飛翔-大津皇子」磐余の章 Scene.5
「挽歌」
万葉に姉大来皇女のうたう
「うつそみの人にあるわれや
明日よりは二上山を弟世とわが見む」
枯れた悲しみの底で 人群れが動く
野辺の送り
すべての風景が祈りを捧げる
深淵のほとりで
忍耐づよく 冷厳に 押し黙り
ひたすら立ちつくす女
20091217
元日の捨犬が鳴きやめない
―山頭火の一句― 「三八九-さんぱく-日記」より-051月1日、雨、可なり寒い。
いつもより早く起きて、お雑煮、数の子で一本、めでたい気分になつて、S のところへ行き、年始状を受取る、一年
一度の年賀状といふものは無用ぢやない、断然有用だと思ふ。
年始郵便といふものをあまり好かない私は、元日に年始状を書く、今日も 50 枚ばかり書いた、単に賀正と書いたの
では気がすまないので、いろいろの事を書く、ずゐぶん労れた。
※表題句の外、3 句を記す
-四方のたより- 語りを<地>にして
こんどの Dance cafe は、いつもとは些か趣向が異なる。
演奏者と踊り手がそれぞれに即興で掛け合うのが習いなのだが、このたびは折口信夫の「死者の書」から採った語り
世界が挿入される。「死者の書」という古代の俤を伝える複式夢幻能ともいうべき特異な語りの世界が、いわば全体
を通しての<地>ともなる訳だ。
その語り世界に対し、<図>ともなる音や踊りの即興は、どうありうるか。
言葉の世界というものは、否応もなく、観る者の想像力を限定してやまないものだから、音や踊りの演奏者が、<地
>の語りに、どんなに即こうとまたどれほど離れようと、その関わりにおいてしか表現は成り立たない。ならば、演
奏者たちは、語りの世界に即くことを意図するよりも、むしろ如何に遠離るか、如何に裏切るか、奔放に、自在に演
- 295 ってもらったほうが、<地>と<図>、語り世界と演奏世界の対比、Dynamism が生まれてこようかと思われるの
だが‥。
20091216
今年も今夜かぎりの雨となり
―山頭火の一句― 「三八九-さんぱく-日記」より-0412 月 31 日、曇つて寒い、暮れてからは雨になつた、今年もおしまひだ。
懐中に 4 銭しかない、3 銭で入浴、1 銭でヒトモジ一把、文字通りの無一物だ、いかに私でも-師走がない正月がな
い私でも困るので、夕方、寥平さんを訪ね、事情を明かして少し借りる、いや大いに掠める、寥平さんのすぐれた魂
にうたれる。‥
見切の白足袋 1 足 10 銭、水仙 1 本 2 銭、そして酒 1 升 1 円也、-これで私の正月支度は出来た、さあ正月よ、やつ
てこい! -略寥平さんのおかげで、炊事具少々、端書 60 枚、其他こまごましたものを買ふ、お歳暮を持つて千体仏へ行く、和尚
さんもすぐれた魂で私を和げてださった。
あんまり気が沈むから二三杯ひつかける、そして人が懐かしうなつて、街をふらつき、最後に S のところで夜明け近
くまで話した-今夜は商店はたいがい徹夜営業である-、酔うて饒舌つて、年忘れしたが、自分自身をも忘れてしまつ
た。‥
それでは昭和 5 年よ、1930 年よ、たいへんお世話になつた、各地の知友福寿長久、十方の施主災障消除、諸縁吉祥
ならんことを祈ります。
※表題句の外、1 句を記す
-四方のたより- 磐余の章 Scene.4
「死の相聞」その 2
20091214
あんな夢を見たけさのほがらか
―山頭火の一句― 「三八九-さんぱく-日記」より-0312 月 30 日、風は冷たいけれど上々吉のお天気、さすがに師走らしい。
私は刻々私らしくなりつつある、私の生活も日々私の生活らしくなりつつある、何にしてもうれしい事だ、私もこん
どこそはルンペンの足を洗ふことが出来るのだ。-略師走の人ごみにまじつて、ぶらぶら歩く、買ふ銭もなければ、あまり買ひたいものもない、あんまりのんきな師走の
私かな。-略午前は元寛さん来訪、夜は馬酔木居往訪、三人で餅を焼いて食べながら話した、元寛さんは元寛さんのやうに、馬酔
木さんは馬酔木さんのやうに、どちらともすぐれた魂を持ってゐられる。‥
元寛さんから餅と数の子を貰つた、ありがたかつた。
※表題句の外、17 句を記す
-四方のたより- 磐余の章 Scene.3
「死の相聞」その 1
-書紀に曰く、妃山辺皇女、髪をふり乱して、すあしにして参り赴きて、殉に死ぬ。
女がひとり、走りきた
- 296 裳裾をひるがえし
蒼白な面は美しく 昂ぶりは極限にあった
空の高みで雷鳴が轟く
悲しみと憤怒の狂気
彼の人の死に 死をもって相聞した
20091212
月の葉ぼたんへ尿してゐる
―山頭火の一句― 「三八九-さんぱく-日記」より-0212 月 29 日、晴、紺屋町から春日駅へ、小春日和の温かさ。
或る人へのたよりに、「‥ここへ移つて来てから、ほんたうにしづかな時間が流れてゆきます、自分自身の寝床-た
とへそれはどんなにみすぼらしいものであつても-を持つていることが、こんなにも身心をおちつかせるかと、自分
ながら驚いてをります。ちょうど、一茶が長年待ち望んでゐた家庭を持つた時のよろこびもこんなだつたらうと、ひ
とりで微苦笑を禁じえませんでした。‥」 -略ルンペンは一夜の契約だが、今の私は来年の 15 日までは、ここにゐることが出来る、米と炭と数の子と水仙と白足
袋とを買つたら、それこそおめでたいお正月だ!-餅はすでに貰つた。酒も貰へるかも知れない、乞食根性を出すな
よ三八九の原稿を書くのに、日記 8 冊焼き捨ててしまつたので困つた、しかし困つても、焼き捨てたのはよかつたらう、
-過去は一切焼き捨てなければ駄目だから、-放下了也。
―四方のたより― 今年も歳末に Dance Cafe
師走も、もう月半ばになろうとしている。
今年も歳末に Dance Cafe を行う、最後の日曜日だ。
どんな趣向にしようかとあれこれ思ったが、私自身の拘りの強いものに照準をあてることにした。
という訳で、以下のような次第。
20091211
どしやぶり、正月の餅もらうてもどる
―山頭火の一句― 「三八九-さんぱく-日記」より
昭和 5 年 12 月 28 日から昭和 6 年 2 月 5 日に至る間の日記は、自筆ノートの表紙に三八九日記と注記されている。
12 月 28 日、曇、雨、どしや降り、春日へ、そして熊本へ
もう三八九日記としてもよいだらうと思ふ、水が一すぢに流れるやうに、私の生活もしづかにしめやかになつたから。
――
途上、梅二枝を買ふ、3 銭、一杯飲む、10 銭、そして駅で新聞を読む、ロハだ。
夕方から、元坊を訪ねる、何といふ深切だらう、Y 君の店に寄る、Y 君もいい人だ、I 書店の主人と話す、開業以来
27 年、最初の最深の不景気だといふ、さうだらう、さうだらうが、不景気不景気で誰もが生きてゐる、ただ生きて
ゐるのだ、死ねないのだらう!
S がお正月餅を一袋くれた、餡餅、平餅、栗餅、どれもこれもありがたくいただいた。元坊のところでも搗きたての
ホヤホヤ餅をおいしく食べた。‥‥
- 297 寝床の中でつくづく考へる、――わたしは幸福な不幸人だ、恵まれた邪宗徒だ、私はいつでも死ねる、もがかずに、
従容として! 私にはもうアルコールもいらない、カルチモンもいらない、ゲルトもいらない、‥‥やつぱりウソは
ウソだけれど、気分は気分だ。
※表題句の外、7 句を記す
―四方のたより― 「刑死」その 2
やっと頼まれごとが一段落、次の手配も了えて、さしあたりは本来の私事に戻れるようになったものの、頭の切り換
えがどうもうまくないのは、この歳ゆえの、ちょっぴり溜まった疲れの所為か。
林田鉄、往年の仕事-「鎮魂と飛翔-大津皇子」磐余の章 Scene.2
この「刑死」その 2 の場面では、久本勝巳とともに、この 4 年後だったか、大阪市議となった奥野正美君が語り手と
して姿を見せている。彼にとっては「走れメロス」-‘78-以来の、久しぶりの舞台だった筈だ。
20091209
タドンあたゝたかく待つてゐてくれた
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、12 月 27 日の稿に
12 月 27 日、晴、もつたいないほどの安息所だ、この部屋は。
ハガキ 40 枚、封書 6 つ、それを書くだけで、昨日と今日とが過ぎてしまつた、それでよいのか、許していただきま
せう。
‥ようやく、おかげで。自分自身の寝床をこしらへることができました、行乞はウソ、ルンペンはだめ、‥などとも
書いた。
前後植木畠、葉ぼたんがうつくしい、この部屋には私の外に誰だかゐるやうな気がする、ゐてもらひたいのではあり
ませんかよ。
数日来、あんまり歩いたので-草鞋を穿いて歩くのには屈託しないが、下駄、殊に足駄穿きには降参降参-、足が腫れ
て、足袋のコハゼがはまらないやうになつた、しかし、それもぢきよくなるだらう。-略※表題句の外、3 句を記す
―日々余話― 鬼の撹乱?
日曜-6 日-の夜から、ある作業に没頭して徹夜のまま翌日の夕刻までかかずらってしまった挙げ句、なんとか夕食を
済ませ、倒れ込むようにして眠り込んだまではよかったが、朝起きてみると、身体は怠いし、頭は重い‥。昼近くに
は、なんだか熱っぽくなって、ゾクゾク寒気がするようにまでなってしまった。連れ合い殿が帰ってきてから熱を計
ってみたら 8 度 3 分。大事をとって昨夜は早々に蒲団にもぐり込んだのだった。
今朝、起きてみると、ちょっぴり寒気が残るものの、ほゞ熱は下がったらしく、どうやら新型インフルの心配はない
ようで、まずは一安心。
まあ、この歳になって無理をすれば、こんな仕儀にもなろうかというもの。鬼ならぬ身であれば、とかく心身の酷使
は一過性の撹乱を引き起こすものと思い知るべし。
―四方のたより― 今は昔の‥
今は懐かしの往年の舞台から「鎮魂と飛翔-大津皇子」を紹介しよう。
‘83 年の春、当時大阪音大の北野徹氏との共演を得て、パーカッションと現代舞踊の出会いと副題、大阪府芸術劇場
の一演目として、府立労働会館Lシアターホールにて上演したもの。
- 298 磐余の章、二上山の章の、2 章 8 場からなるが、参考までに、当時のパンフに掲載した「磐余と二上山」の一文を引
いておく。
「現在の奈良県桜井市中西部から橿原市東南部にかけての地と考えられる磐余は由緒深い土地柄であった。
それは飛鳥以前の大和の中心的地点であったかもしれない。宮跡は影もかたちもない。もちろん礎石もころがってい
ない。昔は水都をかたちづくっていた磐余の池も干拓されていまはただの田畑である。飛鳥を古代の陽の部分とすれ
ば、磐余は陰の部分だ。寥々とした悲しさがある。万葉びとの瞑い悲しさがある。
日本書紀によると、朱鳥元年-686-9 月 9 日天武天皇崩御、持統天皇称制、つづいて 10 月 2 日大津皇子の謀反発覚、
逮捕、3 日大津皇子、訳語田-おさだ-の舎にて死を賜う。時に二十四、とある。当時、皇子大津は磐余の一隅、訳語
田に生き、死んだのである。
飛鳥から西の方、信貴山から山が切れて亀瀬の峡谷となり、それから南へ低い丘がつづいてふたたび二の峰をもった
二上山が高く立ちあがる。さらに南へと大和盆地と河内平野をさえぎっている葛城・金剛の山脈がつづき遠く紀州へ
と連なっていく。
二の峰のうち高くてまるいほうが雄岳、低いとがったほうが雌岳と呼ばれ、この雄岳の頂きちかく、非業の死を遂げ
た大津の墓がある。大和盆地から仰げばふたつの馬の背のように見え、雄岳と雌岳のあいだに沈む夕陽は荘厳であり、
西方浄土を思わせる。報われずさまよう魂こそこの西方浄土に導かれていくべきだったのか。
中将姫の当麻曼荼羅で知られる当麻寺は、二上山東麓まるく盛りあがる麻呂子山の下にある。横佩の右大臣藤原豊成
の娘と伝えられる中将姫は、天平年間に当麻寺へ入山し、生身の如来を拝することを誓願し、一夜にして蓮糸で曼荼
羅を織りあげた、という。
折口信夫の想像力はこの二者を結びつけ架橋した。「死者の書」である。
作者の霊妙な招魂のわざによって、物語のなかに現実的な、あるいは夢幻の姿を現し登場する大津や中将姫の遊魂が、
鎮められ昇華され、森厳なレクィエムとなって、古代びとの面貌を現前させ、古代を呼吸する稀有の一書を成してい
る。」
林田鉄、往年の仕事-「鎮魂と飛翔-大津皇子」磐余の章より
「刑死」-大津皇子、謀反発覚として死を賜う、時に二十四。
なにもない
なにもない磐余の地
空のなかで鳥が死んだ
黒い獰猛な空から
黙って、残酷に
彼の人は墜ちた
20091206
やつと見つけた寝床の夢も
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、12 月 26 日の稿に
12 月 26 日、晴、しづかな時間が流れる、独居自炊、いいね。
寒い、寒い、忙しい、忙しい-我不関焉!
これらの句は二三日来の偽らない実景だ、実景に価値なし、実情に価値あり、プロでもブルでも。
※表題句の外、7 句を記す
―四方のたより― Sou Mon-相聞Ⅲ、その 3今日の Video は、2006 年の Alti Buyoh Festival 参加作品「Sou Mon-相聞Ⅲ-」の Scene.3
- 299 小嶺由貴と末永純子による Improvisation Duo、Piano 演奏は杉谷昌彦。
20091204
大地あたゝかに草枯れてゐる
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、12 月 25 日の稿に
12 月 25 日、晴、引越か家移か、とにかくここへ、春竹へ。
緑平さんの、元寛さんの好意によつて、S のところからここへ移つて来ることが出来た。‥
だんだん私も私らしくなつた、私も私の生活らしく生活するやうになつた、人間のしたしさよさを感じないではゐら
れない、私はなぜこんなによい友達を持つてゐるのだらうか。
※表題句の外、2 句を記す
-今月-11 月-の購入本―
とうとう月を遅れての記載となってしまった。
読書の記録を「Book Diary」と題し、Excel に残すようになってちょうど 5 年、その間、490 册を読んだことになる
が、年平均に換算すれば 100 册に満たない。
買い置いたものの未だ読めぬまま積まれたものも、ずいぶんと嵩高くなったものだ。
そろそろ老い先を数えて生きる日々ならば、これから先、多きを求めても致し方あるまい。ゆったりと愉しむ三昧の
境地になりたいものだ。
・西垣通「続 基礎情報学-「生命的組織」のために」NTT 出版
情報-その本質は生命による「意味作用」であり、意味を表す記号同士の論理的関係や、メディアによる伝達作用はむ
しろ派生物にすぎない。言葉の意味はいかにして私の心から他者の心へ伝えられるか。意味内容が他者間をまるごと
そっくり移動するなどほんとうに可能なのか。社会的コミュニケーションはいったいなぜ可能なのか。著者は HACS階層的自律コミュニケーションシステム-に基づいて、「情報」そのものを根底から問い直すことから出発する。生命
が、閉鎖的かつ自律的な「システム」であるとしてとらえ、その上で生命の「意味作用」を「情報」であると再認識した上
で、生命/心/社会をめぐる情報現象を、統一的なシステム・モデルによって論じようとする。
・廣松渉「事的世界観への前哨-物象化論の認識論的=存在論的位相」ちくま学芸文庫
近代的世界像の抜本的な再検討とそれに代わるべき新しい世界観の構築が哲学の課題となってすでに久しい。本書は
それに応えるべく著された、近代的な世界了解の地平の、全面的な超克を目指した壮大な哲学的営為といえよう。ま
ず、カント、マッハ、フッサール、ハイデッガーの哲学的核心部分を鋭く抉り出し、新しい世界観のための構図と枠
組を示す。さらに近代科学的自然像がいかなる変貌を遂げてきたかを追認しつつ、相対性理論、量子力学の提起した
認識論的=存在論的な問題次元を対自化し、「物的世界像から事的世界観」への推転を基礎づけた廣松哲学の代表的著
作。勁草書房 1975 年刊を底本とした文庫版。
他に、広河隆一編集「DAYS JAPAN」2009/11 月号、高橋悠治の「プレイズバッハ」とジムノペディの「サティ-ピ
アノ作品集」の CD2 枚。
―図書館からの借本―
・大井玄「痴呆の哲学」弘文堂
副題に「ぼけるのが怖い人のために」とある。世界には老人の痴呆を当たり前のこととして受け入れる文化と、忌避す
る文化がある。人の「人格」は変化し続ける、人格の形成過程も完成期も崩壊過程-痴呆-もすべて「私」なのだ、他との
関係性の中にのみ「私」は存在しているのだ。瞑想とは、意識から言葉を消す方法であり、座禅では、呼吸を意識し、
空気と身体のつながりを感じ、自他の分離を消去すると、自己も消える。
- 300 著者は、「私はいのちを持つ」や「私は生きている」は間違っているとする。いのちが人格を選択するのだ、「いのちが
私をする」あるいは「いのちがあなたとして現れている」が適切だという。生命が環境に適応するために生まれたのが
精神なのだ、と。
20091201
見すぎ世すぎの大地で踊る
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、12 月 24 日の稿に
12 月 24 日、雨、彷徨何里、今後も S の厄介、不幸な幸福か。
また清水村へ出かけて A 家を訪問する、森の家を借るために、-なかなか埒があかない、ブルヂョアぶりも気にくは
ない、パンフレツトを出すのに不便でもある、-すつかり嫌になつて方々を探しまはる、九品寺に一室あつたけれど、
とてもおちつけさうにない、それからまた方々を探しまはつて、もう諦めて歩いてゐると、春竹の植木畠の横丁で、
貸二階の貼札を見つけた、間も悪くないし、貸主も悪くないので、さつそく移つてくることにきめた、といつて一文
もない、緑平さんの厚情にあまえる外ない。
※表題句は、12 月 15 日記載の句から
―四方のたより― Sou Mon-相聞Ⅲ、その 2今日の Video は、2006 年の Alti Buyoh Festival 参加作品「Sou Mon-相聞Ⅲ-」の Scene.2
小嶺由貴と末永純子による Improvisation Duo、Piano の即興は杉谷昌彦。
20091128
枯草ふんで女近づいてくる
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、12 月 23 日の稿に
12 月 23 日、曇、晴、熊本をそまよふて S の家で、仮寝の枕!
けふも歩きまはつた、寝床、寝床、よき睡眠の前によき寝床がなければならない、歩いても歩いても探しても探して
も寝床が見つからない、夕方、茂森さんを訪ねたら出張で不在、詮方なしに、苦しまぎれに、すまないと思ひながら
S の家で泊る。
※表題句は、12 月 21 日付記載の句から
―四方のたより― Sou Mon-相聞Ⅲ今日の Video は、2006 年の Alti Buyoh Festival 参加作品「Sou Mon-相聞Ⅲ-」の Scene.1
小嶺由貴と末永純子による Improvisation Duo、Piano 演奏は杉谷昌彦。
法月紀江に依頼した衣裳がよく踊りとマッチした。
20091126
つめたい眼ざめの虱を焼き殺す
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、12 月 22 日の稿に
12 月 22 日、曇、晴、曇、小雪、行程 5 里、本妙寺屋。
一歩々々がルンペンの悲哀だつた、一念々々が生存の憂鬱だつた、熊本から川尻へ、川尻からまた熊本へ、逓信局か
ら街はづれへ、街はづれから街中へ、そして元寛居であたたかいものをよばれながらあたたかい話をする、私のパン
フレツト三八九、私の庵の三八九舎もだんだん具体化してきた、元坊の深切、和尚さんの深切に感謝する、義庵老師
が最初の申込者だつた!
- 301 寒くなつた、冬らしいお天気となつた、風、雪、そして貧!
※表題句は、12 月 4 日付記載の句から
―日々余話― 待てど暮らせど‥
特段忙しかった訳ではない、のんびりと自堕落なままにうち過ごしているうちに、とうとう 4 日ぶりの投稿となって
しまったのだ。まあ偶にはこんなこともあろう。図書館に返さねばならない本も期限を切らしたまま打っちゃってい
たのだが、今朝やっと返してきた。
もう 11 月も末に近く、今年もあと師走をのこすのみだが、待ち人ならぬ、待たれる便りは未だ来ず、このまま 12
月に突入しようというのだろうか‥、事はすでに胸突き八丁を越えたればこそ、ただ待つばかりの日々が、なにやら
心波立ち騒がしくもある。胸の奥底で、もう好い加減にしてくれ! と叫び出したくなるのを、やっと抑えているよ
うな始末だ。
―四方のたより― 風神雷神-ふうじんらいじん-その 2
「出遊-あそびいづらむ-上弦月彷徨篇-じやうげんのつきさすらひへん-」
Scene.7-2「風神雷神-ふうじんらいじん-」の後半部は、デカルコ・マリィと山田いづみに、Junko と Aya も加わっ
ての乱舞、演奏は Viola の大竹徹氏と Percussion の田中康之氏、Time-6’45”
20091122
道はでこぼこの明暗
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、12 月 21 日の稿に
12 月 21 日、晴后曇、行程 5 里、熊本市。
昨夜、馬酔木居で教へられた貸家を見分すべく、10 時、約束通り加藤社で雑誌を読みながら待つてゐたら、例のス
タイルで元寛さんがやつてきた-馬酔木さんは遅れて逢へなかつたので残念-、連れ立つて出町はづれの若い産婆さん
立石嬢を訪ね、案内されて住む人もなく荒れるにまかした農家作りの貸家へ行く、とても住めさうにない、広すぎる、
暗すぎる-その隣家の一室に間借して独占してゐる五校生に同宿を申し込んで家主に交渉して貰ふ、とても今日の事
にはならない、数日後を約して、私は川尻へ急行する、途中一杯二杯三杯、宿で御飯を食べて寝床まで敷いたが、と
ても睡れさうにないし、引越の時の事もあるので、電車で又熊本へ舞ひ戻る、そして彼女を驚かした、彼女もさすが
に-私は私の思惑によつて、今日まで逢はなかつたが-なつかしさうに、同時に用心ぶかく、いろいろの事を話した、
私も労れと酔ひとのために、とうとうそこへ寝込んでしまつた、ただ寝込んでしまつただけだけれど、見つともない
ことだつた、少くとも私としては恥ざらしだつた。
※表題句の外、4 句を記す
―四方のたより― 風神雷神-ふうじんらいじん「出遊-あそびいづらむ-上弦月彷徨篇-じやうげんのつきさすらひへん-」
Scene.7「風神雷神-ふうじんらいじん-」の前半部は、デカルコ・マリィと山田いづみによる Duo、演奏は Viola の大
竹徹氏と Percussion の田中康之氏、Time-4’36”
20091121
今夜の寝床を求むべくぬかるみ
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、12 月 20 日の稿に
12 月 20 日、雨、曇、晴、行程 4 里、本妙寺屋。
- 302 雨に間違いない空模様である、気の強い按摩さん兼遊芸人さんは何のこだはりもなく早く起きて出ていつた、腰を痛
めてゐる日本的鮮人は相変はらず唸つてゐる、-間もなく降り出した、私は荷物をあづけて、雨支度をして出かけた、
川尻-春竹-砂取-新屋敷-休みなしに歩いたが、私にふさはしい部屋も家もなかなか見つからない、夕方、逓信局
に馬酔木さんを訪ね、同道してお宅で晩餐の御馳走になる、忙しい奥さんがこれだけの御馳走をして下さつたこと、
馬酔木さんが酒好きの私の心持を察して飲まして下さつたこと、そして舅さんが何かと深切に話しかけて下さつたこ
と、ありがたい、ありがたい、そしてまた同道して元寛居へ推参する、雑談にも倦んでそれぞれの寝床へいそぐ、お
ちつけない一日々々である、よき食慾とよき睡眠、そしてよき食物とよき寝床。
嫌な夢から覚めたら嫌な声がするので、何ともいへない気分になつた、嫌な一夜、それはおちつかない一日の正しい
所産だ。
※表題句の外、3 句を記す
―四方のたより― 火車-かしゃ「出遊-あそびいづらむ-上弦月彷徨篇-じやうげんのつきさすらひへん-」
Scene.4「火車-かしゃ-」は、Junko と Aya による Duo、演奏は Viola の大竹徹氏と Percussion の田中康之氏、
Time-6’34”
20091119
夕べの食へない顔があつまつてくる
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、12 月 19 日の稿に
12 月 19 日、晴、行程 2 里、川尻町、砥用屋。
まつたく一文なしだ、それでもおちついたもので、ゆうゆうと西へ向ふ、3 時間ばかり川尻町行乞、久しぶりの行乞
だ、むしやくしやするけれど、宿銭と飯代とが出来るまで、やつと辛抱した。
宿について、湯に入つて、ほつとする、行乞は嫌だ、流浪も嫌だ、嫌なことをしなければならないから、なほなほ嫌
だ。
安宿といふものは面白いところだ、按摩さん、ナフタリン売、土方のワタリ、へぼ画家、お遍路さん、坊主、鮮人、
等々、そして彼等の話の、何とみじめで、そして興ふかいことよ。
※表題句は、12/15 付記載から
―四方のたより― 水鏡-みずかがみ「出遊-あそびいづらむ-上弦月彷徨篇-じやうげんのつきさすらひへん-」
Scene.4「水鏡-みずかがみ-」は、山田いづみの solo、演奏は Viola の大竹徹氏と Percussion の田中康之氏、Time-9’03”
20091118
あるけばあるけば木の葉ちるちる
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、12 月 18 日の稿に
12 月 18 日、雨、后、晴、行程不明、本妙寺屋。
終日歩いた、ただ歩いた、雨の中を泥土の中を歩きつづけた、歩かずにはゐられないのだ、ぢつとしてゐては死ぬる
外ないのだ。
朝、逓信局を訪ねる、夜は元寛居を訪ねる、お酒、御飯までいただく、私もいよいよ乞食坊主になりきれるらしい、
喜んでいいか、悲しむのか、どうでもよろしい、なるやうになれ、なりきれ、なりきれ、なりきつてしまへ。
※表題句は、12/13 付記載から
- 303 -
―四方のたより― 人外-にんがい「出遊-あそびいづらむ-上弦月彷徨篇-じやうげんのつきさすらひへん-」
Scene.4「人外-にんがい-」は、デカルコ・マリィの solo、人外とは、人ならぬもの、本来、動物や妖怪をさす古語だ
が、近頃は人外萌えなどと萌え対象の一つになっている。
演奏は Viola の大竹徹氏と Percussion の田中康之氏、Time-10’01”
20091117
霧、煙、埃をつきぬける
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、12 月 17 日の稿に
12 月 17 日、霜、晴、行程 6 里、堕地獄、酔菩薩。
朝、上山して和尚さんに挨拶する-昨夜、挨拶にあがつたけれど、お留守だつた-、和尚さんはまつたく老師だ、慈師
だ、恩師だ。
茅野村へ行つて見てまはる、和尚さんが教へて下さつた庵にはもう人がはいつてゐた、そこからまた高橋へゆく、適
当な家はなかつた、またひきかへして寥平さんを訪ねる、後刻を約して、さらに稀也さんを訪ねる、妙な風体を奥さ
んや坊ちやんやお嬢さんに笑はれながら、御馳走になる、いい気持ちになつて-お布施一封までいただいて-、寥平さ
んを訪ねる、二人が逢へば、いつもの形式で、ブルジヨア気分になりきつて、酒、酒、女、女、悪魔が踊り菩薩が歌
ふ、‥寝た時は仏だつたが、起きた時は鬼だつた、ぢつとしてはゐられないので池上附近を歩いて見る、気に入つた
場所だつた、空想の草庵を結んだ。‥
今日も一句も出来なかつた、かういふあはただしい日に一句でも生まれたら嘘だ、ちつとも早くおちつかなければな
らない。
自分の部屋が欲しい、自分の寝床だけはもたずにはゐられない、-これは私の本音だ。
※表題句は、12/15 付記載から
―四方のたより― 地震-なゐ・ぢなり「出遊-あそびいづらむ-上弦月彷徨篇-じやうげんのつきさすらひへん-」
Scene.3「地震-なゐ・ぢなり-」は、Guest の山田いづみではじまり、Junko、Aya が加わる展開、演奏は Viola の大
竹徹氏と Percussion の田中康之氏、Time-8’00”
20091116
見すぎ世すぎの大地で踊る
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、12 月 16 日の稿に
12 月 16 日、晴、行程 3 里、熊本市、本妙寺屋
堅いベンチの上で、うつらうつらしてゐるうちにやうやく朝が来た、飯屋で霜消し一杯、その元気で高橋へ寝床を探
しにゆく、田村さんに頼んでおいて、ひきかへして寥平さんを訪ねる、今日も逢へない、茂森さんを訪ね、夫婦のあ
たたかい御馳走をいただく、あまりおそくなつては、今夜も夜明しするやうでは困るので、いそいで本妙寺下の安宿
を教へられて泊る、悪い宿だけれど仕方がない、更けるまで寝つかれないので読んだ-書くほどの元気はなかつた-。
こんど熊本に戻つてきて、ルンペンの悲哀をつくづく感じた、今日一日は一句も出来なかつた。
※表題句は、前日-12/15-記載から
―四方のたより― 月暈-つきかさ-
- 304 「出遊-あそびいづらむ-上弦月彷徨篇-じやうげんのつきさすらひへん-」
Scene.2 の「月暈-つきかさ-」は、岡林綾の solo、演奏はもっぱら大竹徹氏の Viola による、Time-5’45”
20091113
磯に足跡つけてきて別れる
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、12 月 15 日の稿に
12 月 15 日、晴、行程 2 里、そして汽車、熊本市、彷徨。
けふも大霜で上天気である、純な苦味生さんと連れ立つて荒尾海岸を散歩する-末光さんも純な青年だつた、きつと
純な句の出来る人だ-、捨草を焚いて酒瓶をあたためる、貝殻を拾つてきて別盃をくみかはす、何ともいへない情緒
だつた。
苦味生さんの好意にあまえて汽車で熊本入、百余日さまよいあるいて、また熊本の土地をふんだわけであるが、さび
しいよろこびだ、寥平さんを訪ねる、不在、馬酔木さんを訪ねて夕飯の御馳走になり、同道して元寛さんを訪ねる、
11 時過ぎまで話して別れる、さてどこに泊らうか、もうおそく私の泊るやうな宿はない、宿はあつても泊るだけの
金がない、ままよ、一杯ひつかけて駅の待合室のベンチに寝ころんだ、ずゐぶんなさけなかつたけれど。‥
※表題句の外、11 句を記す、その中に
「霜夜の寝床が見つからない」
―四方のたより―日蝕-にっしょく久方ぶりに DanceCafe の動画を You Tube に upload した。
9 月 26 日の「出遊-あそびいづらむ-上弦月彷徨篇-じやうげんのつきさすらひへん-」から、
先ずは冒頭の Scene.1「日蝕-にっしょく-」である。
20091111
夕闇のうごめくは戻る馬だつた
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、12 月 14 日の稿に
12 月 14 日、晴、行程 4 里、万田。苦味生居、末光居。
霜がまつしろに降りてゐる、冷たいけれど晴れきつてゐる、今日は久振に苦味生さんに逢へる、元気よく山ノ上町へ
急ぐ、坑内長屋の出入はなかなかやかましい-苦味生さんの言のやうに、一種の牢獄といへないことはない-、やうや
くその長屋に草鞋を脱いだが、その本人は私を迎へるために出かけて留守だつた、母堂の深切、祖母さんの言葉、ど
れもうれしかつた、句稿を書き改めてゐるうちに苦味生さん帰宅、さつそく一杯二杯三杯とよばれながら話しつづけ
る、-苦味生さんには感服する、ああいふ境遇でああいふ職業で、そしてああいふ純真さだ、彼と句とは一致してゐ
る、私と句が一致してゐるやうに。-略夜は苦味生さんの友人末光さんのところへ案内されて泊めていただいた、久しぶりに田園のしづけさしたしさを味は
つた、農家の生活が最も好ましい生活ではあるまいか、自ら耕して自ら生きる、肉体の辛さが精神の安けさを妨げな
い、-略さびしいほどのしづかな一夜だつた、緑平さんへ長い手紙を書く、清算か決算か、とにかく私の一生も終末に近づき
つつあるやうだ、とりとめもない悩ましさで寝つかれなかつた、暮鳥詩集を読んだりした、彼も薄倖な、そして真実
な詩人だつたが。
我儘といふことについて考へる、私はあまり我がままに育つた、そしてあまり我がままに生きて来た、しかし幸にし
て私は破産した、そして禅門に入つた、おかげで私はより我がままになることから免れた、少しづつ我がままがとれ
た、現在の私は一枚の蒲団をしみじみ温かく感じ、一片の沢庵切をもおいしくいただくのである。
- 305 ※表題句の外、12 句を記す
―表象の森― Goodbye、ALTI‥
’91 年から’00 年まで毎年、隔年開催になったのは’02 年からで、延べ 14 回、20 年近く続けられてきた公募形式によ
る「ALTI BUYOH FESTIVAL」が、一人の個人の死を契機としてどうやら終止符がうたれようとしている。
その個人とは船阪義一氏、昨年の 6 月 29 日、心臓動脈瘤破裂のため急逝した。元来は照明家であった彼が、その職
業柄、関西の舞踊家たちの活動に広く目配りの利いた所為もあってと思われるが、京都府民ホール・アルティがオー
プンしてまもなく企画され、ディレクターとして地道に下支えをしてきたものだ。
思うに、この事業に入れ込んだ彼の奮闘ぶりなくしては、抑も成し得なかったであろうし、またこうまで持続し得な
かっただろう。そしてそれゆえにこそ、彼の急逝をもって、一時代を画したとも言い得る「ALTI BUYOH FESTIVAL」
も泡沫と消えゆくのだ。
それほどに、この国の、公共的文化事業というもの、なべて個人の負託に依っていることがあまりに多過ぎるし、い
つまでたってもこの弊から抜け出せないでいる。
あな無惨やな、‥
20091110
水のんでこの憂鬱のやりどころなし
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、12 月 13 日の稿に
12 月 13 日、曇、行程 4 里、大牟田市、白川屋
昨夜は子供が泣く、老爺がこづく、何や彼やうるさくて度々眼が覚めた、朝は早く起きたけれど、ゆつくりして 9 時
出立、渡瀬行乞、三池町も少し行乞して、善光寺へ詣でる、堂塔はみすぼらしいけれど景勝たるを失はない、このあ
たりには宿屋-私が泊まるやうな-がないので、大牟田へ急いだ、日が落ちると同時に此宿へ着いた、風呂はない、
風呂屋へ行くほどの元気もない、やつと一杯ひつかけてすべてを忘れる。‥ -略冬が来たことを感じた、うそ寒かつた、心細かつた、やつぱりセンチだね、白髪のセンチメンタリスト! 笑ふにも
笑へない、泣くにも泣けない、ルンペンは泣き笑ひする外ない。
夜、寝られないので庵号などを考へた、まだ土地も金も何もきまらないのに、もう庵号だけはきまつた、曰く、三八
九庵-唐の超真和尚の三八九府に拠つたのである。※表題句の外、5 句を記す
-日々余話- Soulful Days-30- 山巓は見えた
MK タクシーに取り付けられていた Drive Recorder に残された事故時の記録動画を証拠資料として、大阪地検に対
し再捜査あるべしと要請したのは、4 月 8 日のことだった。
その 2 週間後には、大阪府警科学捜査研究所に問題の記録動画が持ち込まれた、とも聞いていたのだが、それから半
年余りのあいだ、二度、三度と、地検担当検事に「再捜査、分析結果の報告は?」と問えども、「未だし」の回答ば
かりで、徒に時日ばかりが過ぎ去っていくのに、科捜研は一体やる気があるのか、このまま放擲されっぱなしで済ま
されようとしているのでは、などと猜疑心に襲われることもしばしばであった。
だが、昨日、ようやく地検から連絡、「府警から再捜査の報告が上がってきたので、11 月中あるいは遅くとも 12 月
には、審判を下せるだろう」と担当検事。さすがに私の胸も高鳴った。
かたわら、現在進行中の民事訴訟では、事故車同士の MK 側と T 側、被告双方のあいだで、過失の有無について意見
の対立がみられる、という。あくまで無過失を主張する T 側に、そりゃないだろうと MK 側は一定の過失を認めさせ
ようとしているそうだ。
- 306 先日、MK 側弁護士は、M 運転手から事故状況を聴取し、T 側にも大いに過失ありきの感触をもっているらしい。さ
らに、M 運転手が持ち込んだ Drive Recorder を見て、T の無灯火運転は明白だと言い、証拠としてきわめて有効だ
とも言ったそうだ、とこれは M 運転手からの情報。
夜間のこととはいえ、見通しのよい広い交差点での事故、直進車の相手方にもそれ相当の過失がなければ、死亡にい
たるまでの衝撃に遭うまいものを、それをなぜだか自分は無過失だと言いつのる相手方に、嘘の仮面だけは剥がして
やらねばならない、とずっとそう思ってきた。
相手を憎んでなんかいない。人として腹立たしいばかりだが、その先にあるのは憎悪じゃない、むしろ軽蔑が似つか
わしい。
いずれにせよ、年内にも、待ち望んできた結果が、明々白々の事実が、われわれの前に露わになる。
20091108
日向の羅漢様どれも首がない
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、12 月 12 日の稿に
12 月 12 日、晴、行程 6 里、原町、常磐屋
思はず朝寝して出立したのはもう 9 時過ぎだつた、途中少しばかり行乞する、そして第十七番の清水寺へ詣でる、九
州西国の札所としては有数の場所だが、本堂は焼失して再興冲である、再興されたら随分見事だらう、ここから第十
六番への山越は例にない難路だつた、そこの尼さんは好感を与へる人だつた、ここからまた清水寺へ戻る道も難路だ
つた、やうやく前の道へ出て、急いでここに泊まつた、共同風呂といふのへ入つた、酒一合飲んだらすつかり一文な
しになった、明日から嫌でも行乞を続けなければならない。
行乞! 行乞のむづかしさよりも行乞のみじめさである、行乞の矛盾にいつも苦しめられるのである、行乞の客観的
意義は兎も角も、主観的価値に悩まずにゐられないのである、根本的にいへば、私の生存そのものの問題である-酒
はもう問題ではなくなつた-。
遍路山路の石地蔵尊はありがたい、今日は石地蔵尊に導かれて、半里の難路を迷はないで巡拝することが出来た。略※表題句の外、2 句を記す
―表象の森― 誰もやらない、やれない
私が師事した K 師の舞踊には、まぎれもなく物象化への系譜に連なるものがあったと思われるが、いまそんな要素を
孕むものは一顧だにされてもいない、というのが少なくとも’90 年代以降から今日にいたる舞踊の現状であろう。
私が、K 師の初期からの弟子であるからか、あるいは私自身の内に、些か古典的な思考の尾鰭が付着しているがゆえ
にか、私たちの Improvisation Dance-即興舞踊-では、動きの紡ぎゆき-Continuity-を物象化の側面において捉えよ
うとする視点が、抜き差しならぬものとして存在しているように思う。
だが、Contemporary なる語が舞踊界を席捲して以来このかた、そんな発想は誰もとらないし、そういった動きの
工夫など誰も求めないし、誰もやらない。
先日来、少しく触れてきているように、現在の私たちの稽古場、私たちの work shop のなかでは、私自身これまで
に経験したことのない、ただならぬ事態が起こっている。
仮に、動きの最小単位とでもいうべきものを言語行為における<語彙>に比類するならば、当然、その多様なること、
豊かなことが要請されようが、ここ数次の現場では、これが一気呵成といっていいほどに実現してきている。これが
先ず一点。
そしてさらにつけ加えるならば、これは、今日の稽古場で、彼女らの比較的短い 5.6 分の Improvisation を観た後
の感想として語ったことなのだが、「謂わば、詩でいうなら<行分け>のようなもの、それが出来てきている、そうや
- 307 ってどんどん動きが紡ぎ出されている、重ねられていっている」と。それぞれ個有の感性で、動きを紡ぎ出しつつ、
ある流れというか短い単位-即ち詩の一行から、次なる一行へと、運ばれていっている、そういったことが無意識の
裡に出来るようになっている、と、まあそんな意味だ。
こんなことは、いまどき、誰もやらないが、それと同時に、誰もやれない、やれっこない、というのも事実だと思う
のだ。
そう言い切ってしまって、その上で、それがどうした、なにほどのことか、と問われれば、否、ただそれだけのこと、
これでもって世界が変わるものじゃあるまいし、また驚愕するほどのことでもない、それもまた事実なのだ。
20091107
うらゝかな今日の米だけはある
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、12 月 11 日の稿に
12 月 11 日、晴、行程 7 里、羽犬塚、或る宿
朝早く、第十八番の札所へ拝登する、山裾の静かなお堂である、札所らしい気分になる、そこから急いで久留米へ出
て、郵便局で、留置の雑誌やら手紙やらを受け取る、ここで泊まるつもりだけれど、雑踏するのが嫌なので羽犬塚ま
で歩く、目についた宿にとびこんだが、きたなくてうるさいけれど、やすくいしんせつだつた。
霜-うららか-雲雀の唄-櫨の並木-苗木畑-果実の美観-これだけ書いておいて、今日の印象の備忘としよう。
※表題句の外、4 句を記す
―日々余話― 成田屋騒動
昨日から不調を訴えていた KAORUKO、とりあえず新インフルの診察は陰性だったとかでひとまず安堵なれど、熱が
なかなか下がらず、ゴロリと寝てばかりしてござる。
仕方なく、動物園前の山王交差点南角のおでんや成田屋での、デカルコ・マリィらの路上 Performance には、一人
で出かけた。此処でやるのはもう何度目か、3 ヶ月に一度のペースの成田屋騒動もすでに定着してきたようだ。
相変わらず通行人は多く、足を止めてしばし見入る者もかなりの数。惜しむらくは、主な舞台となる舗道が、街のネ
オンや信号灯などから外れ、周辺の明るさに比して少々暗いから、街頭風景の中に沈み込むような恰好となることだ。
今日はめずらしく、観終わってから、おでんを肴にビールや酒を呑みつつ、ゆっくり時間を過ごしてきた。もっぱら
ビオラの大竹さんといろいろ話し込む。年も近いしお互い脛に傷持つ同士ゆえ、話のタネも尽きないか。
20091106
行き暮れて水の音ある
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、12 月 10 日の稿に
12 月 10 日、晴、行程 6 里、善導寺、或る宿
9 時近くなつて、双之介さんに送られて、田主丸の方へ向ふ、別れてから、久しぶりに行乞を初めたが、とても出来
ないので、すぐ止めて、第十九番の札所に参拝する、本堂庫裡改築中で落ちつきがない、まあ市井のお観音様といつ
た感じである、ここから箕ノ山の麓を善導寺までの 3 里は田舎路らしくてよかつた、箕ノ山といふ山はおもしろい、
小さい山があつまつて長々と横たはつてゐるのである、陽をうけて、山脈が濃淡とりどりなのもうつくしかつた、途
中、第十八番の札所へ詣るつもりだつたが、宿の都合が悪く、日も暮れかけたので、急いで此宿を探して泊まつた、
同宿者が多くてうるさかつた、日記を書くことも出来ないのには困つた、床についてからも嫌な夢ばかり見た、49
年の悪夢だ、夢は意識しない自己の表現だ、何と私の中には、もろもろのものがひそんでゐることよ!
※表題句の外、2 句を記す
- 308 ―日々余話― 三日、色々
一昨日-11/4-は、インド舞踊-Odissi Dance-の茶谷祐三子と打合せのために出かけたのだが、連れ立って来たスイス
人の夫君と初対面となった。彼の名はパリギャン-Parigyan-、’51 年生れというから今年 58 歳。ドイツのフライブル
ク大学で数学・物理学を修し、コンピュータープログラマーを経て、現在、ヒーリングや瞑想を Work としているそ
うだ。
’77 年、インドのプーナを訪れ、瞑想の師 Osho-和尚=ラジニーシと出会い、弟子に。師 Osho は’90 年に歿している
が、長い年月を、師のアシュラムやコミューンで過ごしてきた、という。
肩にも届く銀髪に、口髭とともに顎から揉み上げまでを覆う伸び放題の鬚に包まれた風貌は、優しい柔和な眼差しと
相俟って、穏やかで物静かな聖者然とした雰囲気を醸し出す。
彼は私への挨拶代わりに、横に坐って、私の左手を両手で包むようにして、数分間のあいだずっと優しく触れてくれ
た。仄かに優しい温もりが伝わってくるもので、私はただ触れられるままに心静かに委ねていた。
昨日-11/5-は、めずらしく連れ合い殿が休日とあって、朝から映画を観に梅田へと出かけた。ドキュメント・タッチの
「パリ・オペラ座のすべて」はなんと上映時間 160 分ほどもある長尺もの。ルイ 14 世が、王の権力と熱情でもって創
りあげた世界最古のバレエ団、パリ・オペラ座の、21 世紀の今日に生きるその全貌が露わになる。Dancer だけで総
勢 154 名、’08 年の総人件費が約 160 億円、これはオペラ座全予算の半分を占め、国からの補助金とほぼ同額である
という。さまざまなレッスン風景が繰りひろげられ、スタッフたちの仕事ぶりや、劇場の構造、隅々至る所までもが
映像として挿入されていく‥。なにしろ物語とてなにもない、ただひたすらあらゆる細部を重畳するに徹して、オペ
ラ座の全貌に迫ろうというものだから、睡眠不足が習い性となっている私などには、エトワールたちの稽古風景など
では大いに惹きつけられるものがあったとしても、やがてうとうとと舟を漕ぐ始末で、後半にいたってはかなりの部
分を見逃してしまったようである。
今日は午後から、RYOUKO の事故当時の運転手であった M 氏と久しぶりに会談。民事訴訟の MK タクシー側弁護士
に、事故状況等について聞かして欲しいと呼び出されたのが 2 日だったとかで、いわばその報告。此方は事故相手方
の T と MK タクシー双方をともに告訴しているのだが、あくまで過失ゼロを主張する T 側と、同じ被告でありつつも
MK タクシー側とのあいだに利害の相反する対立点が生じてきており、さしあたりは双方の過失の度が問題の焦点に
なってきているようで、この展開は此方の望むところである。場合によっては、一向に埒があかない検察の審理を尻
目に、今後この民事で、ドライブ・レコーダーの記録も活きてくるやしれず、あるいは T の証人尋問といった場面ま
で起こってくるかもしれない。
20091103
みあかしゆらぐなむあみだぶつ
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、12 月 9 日の稿に
12 月 9 日、雨后曇、双之介居滞在-本郷上町今村氏方よい一日だつた、勧められるままに滞在した、酒を飲んでものを考へて、さいどうしようもないが、どうしようもな
いままでよかつた、日記をつけたり、近所のお寺へまゐつたりした、‥そして田園情調を味はつた、殊に双之介さん
が帰つて、床を並べて、しんみり話し合つてゐるところへ、家の人から御馳走になつた焼握飯はおいしかつた。
双之介さんと対座してゐると、人間といふものがなつかしうなる、それほど人間的温情の持主だ、同宿の田中さん双之介さんと同業の友達-もいい人物だつた、若さが悩む悶えを聞いた。
※表題句の外、1 句を記す
- 309 ―世間虚仮― トンネルを抜けると‥
信楽町郊外の山中にある MIHO MUSEUM に出かけた。昨年、北陸地方の旧家から発見されたという伊藤若冲の「象
と鯨図屏風」が初公開されているのに誘われてのことだ。
ルーブル美術館のガラスピラミッドの設計で知られる建築家イオ・ミン・ペイ-Ieoh Ming Pei-が設計したという
MIHO MUSEUM は、人里離れた山中という環境とも相俟って、異相の美術館というに相応しい。
入場受付のエントランス-レセプション棟-から 500m ほど離れた展示館へと行くのに、電気自動車に乗って山峡を跨
ぐようにトンネルと吊り橋を通るといった趣向に、先ず驚かされる。Shangri-La-桃源郷-へと誘う道といったイメー
ジらしいが、良くも悪くも人を喰ったような趣向である。
山頂に聳え立つ、コンクリートとガラスと鉄骨で造られた展示館-美術棟-も、また豪壮というか、最大限に採り入れ
られた自然光が、館内の広いアプローチを快適な空間にしている。
受付の係員たちや何台もピストン往復する電気自動車の乗務員たち、あるいは広い駐車場の係員たちなど、応接サー
ビスに従事する者の多いのにも驚かされたものだが、総工費に約 300 億をもかけたという金に糸目をつけぬ豪勢さに
加え、桃源郷なる趣味嗜好といった、この異相の美術館- MIHO MUSEUM が、宗教団体神慈秀明会によって建てられ
たものだと知るに及んで、いっさいが腑に落ちたものである。
肝心の「若冲ワンターランド」と標榜した展示のほうは、件の「象と鯨図屏風」以外にはモザイク屏風として知られ
る「鳥獣花木図屏風」くらいが必見の価値ありで、ワンターランドというには些かもの寂しい。
20091102
たゝへた水のさみしうない
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、12 月 8 日の稿に
12 月 8 日、晴后曇、行程 4 里、松崎、双之介居。
8 時頃、おもたい地下足袋でとぼとぼ歩きだした、酒壺洞君に教へられ勧められて双之介居を訪ねるつもりなのであ
る、やうやく 1 時過ぎに、松崎といふ田舎街で「歯科口腔専門医院」の看板を見つける、ほんたうに、訪ねてよかつ
た、逢つてよかつたと思つた、純情の人双之介に触れることが出来た-同時に酔つぱらつて、グウタラ山頭火にも触
れていただいたが-、まちがいのないセンチ、すきにならずにはいられないロマンチシズム、あまりにうつくしい心
の持主で、醜い自分自身を恥ぢずにはゐられない双之介、ゆたかな芸術的天分を発揮しないで、恋愛のカクテルをす
すりつつある人-さういつたものを、しんみりと感じた。-略今夜は酔ふた、すつかり酔つぱらつて自他平等、前後不覚になつちやつた、久しぶりの酔態だ、許していただかう。
※表題句の外、12 句を記す
―四方のたより― サティ効果
Arisa が東京へと飛び立って以来、Junko と Aya の、二人だけの稽古が続いているが、この日-11/1-の即興は、これ
までとははっきりと、期を画したものとなった。
これには近頃始めたサティ効果-サティの短いが変調の激しいさまざまな曲に文字どおり即いて動いていくこと-が大
いに寄与しているとみえるが、動きの紡ぎ出しとその変奏が、二人ともにみちがえるほど豊かになってきたのだ。
殊にJunko の、Bach のPartita 曲-Bourree-で踊った8 分ほどの即興は、従来ともすると凝り型に陥りやすい彼女が、
そういった拘りから解き放たれ、とめどもなく動きの変奏が繰り出されゆくといった体で、その自在さにおいて見事
なものであった。
稽古は午後 2 時にたたんで、最終日になってとうとう雨にたたられた CASO へと移動。激しく降ったかと思えば、
ときに止んだり、しのつく雨となったり、荒れ模様の天候下で、それでも玄関前の屋外パフォーマンスは間断しなが
ら為されていった。
- 310 私は、わざわざ岸本康弘君を伴って車を走らせてきた宮本君らと、隣の喫茶店に入り打合せ主体の歓談で、窓越しに
ちらりと眺めるくらいで、殆どまともに見られなかったのだが、4 時過ぎからの Full Member での踊りなどはもう土
砂降りのなかだった。
20091101
ころがつてゐる石の一つは休み石
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、12 月 7 日の稿に
12 月 7 日、晴、行程 4 里、二日市町、わたや
早く目が覚めたが-室は別にして寝たが-日曜日は殊に朝寝する時雨亭さんに同情して、9 時過ぎまで寝床の中で漫
読した、やうやく起きて、近傍の大仏さんに参詣して回向する、多分お釈迦さんだらう思ふが、大衆的円満のお姿で
ある、11 時近くになつて、送られて出立する。-略ぽかぽかと小春日和だ、あまり折れ曲りのない道をここまで 4 里、酔が醒めて、長かつた、労れた、夕飯をすまして
武蔵温泉まで出かけて一浴、また一杯やつて寝る。-略すぐれた俳句は-そのなかの僅かばかりをのぞいて-その作者の境涯を知らないで充分に味はえないと思ふ、前書な
しの句といふものはないともいへる、その前書とはその作者の生活である、生活といふ前書のない俳句はありえない、
その生活の一部を文字として書き添へたのが、所謂前書である。
※表題句の外、12 句を記す
―四方のたより― 久しぶりの‥
踊りと合せてみた稽古はただの一度、自分なりに本読みをしてみたのもほんの数回に過ぎなかったが、連日のように
CASO に通っては、場に馴染み、心の構えだけは調えてきた。
それになんといっても、遠い昔、’82 年と’83 年の両度、舞台にのせて語った「死者の書」の言葉たちであってみれ
ば、まあ大した破綻もなく演り了せたようだから、祭りのあとの時間はなにやら昂揚感が漂い、久しぶりに快い余韻
に浸っている。
CASO の一週間も今日一日で幕となるが、昨年 6 月に続いての二度目とあって、CASO という場としての成り立ち
や機制と、ゆるやかな紐帯に支えられた「青空展」のランダムな盛り付や在り様のあいだの齟齬がかなり露わになっ
てきたようである。
この企画に三度目があり得るとしても、<CASO における展開>というわけにはいかないのではないか、と思われる。
―今月の購入本―
今月と表しつつも、このたびは忙しさに取り紛れ、一日遅れの掲載となってしまった。
・斎藤環「文脈病」青土社
7 月に図書館から借りて読んだものだが、斎藤環ならまず是一冊にしくはないと購入。
・大森荘藏・坂本龍一「音を視る、時を聴く-哲学講義」ちくま学芸文庫
先の吉本隆明との対話「音楽機械論」と同様、大森荘藏が坂本龍一の問いかけに語る<時間>と<感覚>などについて。
これも初版は’82 年。
・梅森直之「ベネディクト・アンダーソン、グローバリゼーションを語る」光文社新書
<想像の共同体>の提唱者ベネディクト・アンダーソンが’05 年、早稲田大学で行った二つの講義とその解説。
・大井玄「痴呆老人は何を見ているか」新潮新書
「人は皆、程度の異なる<痴呆>である」、私の<縮小>-ほどけていく私。終末期を迎え、痴呆状態にある老人たち
を通して見えてくる、正常と異常のあいだ‥。
- 311 ・山田風太郎「人間臨終図鑑 -2-」徳間文庫
生に固執するか、安寧の中に逝くのか、人生のすべてが、その瞬間に凝縮されている。ダンテ、明智光秀、ニーチェ、
越路吹雪、シーザー等々、56 歳から 72 歳で死んだ人々の最後の言葉たち。
・山田風太郎「人間臨終図鑑 -3-」徳間文庫
同上-カザノヴァ、川端康成、徳川家康など、73 歳から 121 歳で死んだ人々。
・夢枕獏「上弦の月を喰べる獅子 -下」ハヤカワ文庫
胃にしこりを持つ螺旋収集家と肺を患ったイーハトーブの詩人-宮沢賢治-、二人の魂を持つ双人アシュジュンの長い
修羅の旅-それは天についての物語である。
他に、広河隆一編集「DAYS JAPAN」2009/11 月号
―図書館からの借本―
・田中優子「江戸百夢 -近世図像学の楽しみ」朝日新聞社
ルニーニのエクスタシーからフェルメールの新興市民まで、琳派のリアルから東照宮の幻想までを内在させる<坩堝>
のような江戸を、100 枚の絵図で読む。元は「朝日ジャーナル」の連載、これを大幅に加筆、’00 年刊。
・木村紀子「古層日本語の融合構造」平凡社
多元的な声の重層する古層日本語の世界を証している記紀万葉や伝承歌謡など、古代言語資料を精細に読み解き、単
一民族・単一言語神話の対極から古層日本語の生成に迫る書。
20091031
死ねない人の鈴が鳴る
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、12 月 6 日の稿に
12 月 6 日、雨、福岡見物、彷徨 5 里、時雨亭居。
眼がさめて、あたりを見まはすと、層雲文庫の前だ、酒壺洞は寝たままでラヂオを聞いてゐる、私にも聴かせてくれ
る、今更ながら機械の力に驚かずにはゐられない、9 時、途中で酒君に別れて、雨の西公園を見物する、それからま
た歩きつづけて、名島の無電塔や飛行場見物、ちようど郵便飛行機が来たので、生れて初めて、飛行機といふものを
近々と見た。
時雨亭さんは神経質である、泊るのは悪いと思つたけれど、やむなく今夜は泊めて貰ふ、酒壺洞君もやつて来て、12
時頃まで話す。
今夜は朝のラヂオから夕の飛行機まで、すつかり近代科学の見物だつた、無論、赤毛布! いや黒合羽だつた!
時雨亭さんは近代人、都会人であることに疑いない、あまり神経がこまかくふるへるのが対座してゐる私の神経にも
つたはつて、時々私自身もやりきれないやうに感じるけれど、やつぱり好意の持てる人である。
※表題句の「鈴」は-レイ-と訓む、外 17 句を記す
20091029
十二月の風も吹くにまかさう
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、12 月 5 日の稿に
12 月 5 日、曇、時雨、行程 3 里、福岡市、句会、酒壺洞居。
お天気も悪いし、気分もよくないので、一路まつすぐに福岡へ急ぐ、12 時前には、すでに市役所の食堂で、酒壺洞
君と対談することが出来た、-略-、退庁まではまだ時間があるので、後刻を約して札所めぐりをする、九州西国第三
十二番龍宮寺、第三十一番は大乗寺、どちらも札所としての努力が払つてない、もつと何とかしたらよささうなもの
だと思ふ。
- 312 夜は酒壺洞居で句会、時雨亭さん、白楊さん、鳥平さん、善七さんに逢つて愉快だつた、散会後、私だけ飲む、寝酒
をやるのは良くないのだけれど。‥
さすがに福岡といふ気がする、九州で都会情調があるのは福岡だけだ-関門は別として-、街も人も美しい、殊に女は!
若い女は! 街上で電車切符売が多いのも福岡の特色だ。
存在の生活といふことについて考へる、しなければならない、せずにはゐられないといふ境を通つて来た生活、「あ
る」と再認識して、あるがままの生活、山是山から山非山を経て山是山となつた山を生きる。‥
-略-、ただこの二筋につながる、肉体に酒、心に句、酒は肉体の句で、句は心の酒だ、‥この境地からはなかなか出
られない。‥
※表題句の外、21 句を記す
―四方のたより― おいそが氏、昨日・今日
昨日の午後は、河内長野のラブリーホールへ、車でちょうど 1 時間。用向きは、茶谷祐三子が出演する「亜細亜
RONDO」の打合せだったが、一時間ほどで了るとみていた此方の目算が外れて、帰宅が 6 時半になってしまった。
その所為で泣きべそをかく羽目になったのが KAORUKO。この日初めて鍵っ子体験をさせたわけだが、「5 時に帰る
から」と書置きしておいたのに、一時間半も遅くなったのだから、そりゃさぞかし心細かったにちがいない。帰路の
家も近づいた頃に電話を入れたら、私の声を聞くなり泣き出していた。
今朝は先ず、大阪府議会が 85 億円で買取りを決議したばかりの WTC へ。市港湾局が 39~41 階に入っており、先日
来手続きしていた、土曜日の埠頭使用許可証を貰うためだったのだが、地上 55 階建、高さ 256m で、総事業費 1193
億円をかけた超高層ビルも、’95 年の竣工からわずか 14 年、85 億という安値で売り飛ばされるかと思えば、なんだ
か妙な感懐を覚えつつ、エレベータの窓外からの風景を眺めたものだ。
その後は待ち合せていた CASO へ。二時間ばかりビラ配布に精を出したのだが、24℃の陽光の元ではすぐにも汗ば
むほどで、ちょっぴり疲れた。
CASO では 2 時頃、大竹徹さんの演奏で、高島明子が踊るのを観た。どうやらシチュエーションを想定しているもの
と覗えるが、その所為であろう、動きが身振り的レベルで終始している。動きがそれ自身動きを紡ぎ出すように、も
っと踊って欲しいものだが‥。
昨日に続いて子どもを鍵っ子にさせるわけにはいかないから、一旦帰宅して、夕刻から、今度は KAORUKO を連れ
て、本日二度目の CASO 推参。
6 時 30 分からの森島 Eko や井下ヒデらによる「ダンス&能管のコラボ!」は、CASO 玄関前での Performance と
なった。踊り手は 7 人、ほぼ振付構成されたもの、管理者側からのクレームで止むなく屋外に出たのだが、踊りとし
ては夜景を取り込めて、かえってそのほうがよかっただろう。演奏メンバーが充実していたのに、彼らの Session が
ノリきらぬままに踊りが終わってしまったのは、いかにも勿体ない。こういう場合、前もって描き込まれたものがそ
れまでであったとしても、end を決め込まずに、ノリに委せる柔軟さが欲しい。あと 10 分とはいわぬまでも、最低
5.6 分は、演奏との Session を愉しんで貰いたい。
20091027
また逢ふまでの霜をふみつつ
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、12 月 4 日の稿に
12 月 4 日、晴、行程 6 里、汽車でも 6 里、笹栗町、新屋。
冷たいと思つたら、霜が真白だ、霜消し酒をひつかけて別れる、引き留められるままに次良居 4 泊はなんぼなんでも
長すぎた。
- 313 11 時の汽車に乗る、乗車券まで買つて貰つてほんたうにすまないと思ふ、そればかりぢやない、今日は行乞なんか
しないで、のんきに歩いて泊まりなさいといつて、ドヤ銭とキス代まで頂戴した、-略次良さんよ、幸福であつて下さい、あんたはどんなに幸福であつても幸福すぎることはない、それだのに実際はどう
だ、次良さんは商売の調子が良くないのである、日々の生活も豊かでないのである。-略此宿はよくない、お客さんは私一人だ、気儘に読んだり書いたりすることが出来たのは勿怪の幸だつたが。
さみしいなあ-ひとりは好きだけれど、ひとりになるとやつぱりさみしい、わがままな人間、わがままな私であるわ
い。
※表題句の外、16 句を記す
―四方のたより― CASO 週間の幕開け
兪々、CASO における「デカルコマニィ的展開/青空」展が、幕を開けた。
今日は PM5:00 頃から、小嶺由貴がデカルコ・マリィと踊っている筈だ。
私は、夕刻からはインド舞踊の茶谷祐三子の稽古に付合うと約していたので、昼間に冷やかし気味のお邪魔をしてき
た。今回は作品を出品している松石君も顔を出していた。
「2 時過ぎに帰らなくちゃならないから」と言ったら、デカルコ・マリィが「それじゃ」と、帰る間際に、短い時間な
がら踊って観せてくれた。相変わらずのサービス精神、これが彼の真骨頂だ。
なにより関係者自身がそれぞれに、この一週間を愉しめばいい、そういうイベントだ。
20091026
雑巾がけしてる男の冬
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、12 月 3 日の稿に
12 月 3 日、晴、一日対座懇談、次良居滞在。
今日は第 48 回目の誕生日だつた、去年は別府附近で自祝したが、今年は次良さんが鰯を買つて酒を出してくださつ
た、何と有難い因縁ではないか。-略ポストへ行く途上、若い鮮人によびとめられた、きちんとした洋服姿でにこついてゐる、そしておもむろに、懐中時
計を買はないかといふ、馬鹿な、今頃誰がそんな詐欺手段にのせられるものか、-しかし、彼が私を認めて、いかさ
ま時計を買ふだけの金を持つてゐたと観破したのならば有難い、同時にさういふイカサマにかかる外ない男として、
或は一も二もなくさういふものを買ふほどの-世間知らず!の-男と思つたのならば有難くない。
夜は無論飲む、次良さん酔うて何も彼も打ち明ける、私は有難く聴いた、何といふ真摯だらう。
※表題句の外、5 句を記す
―四方のたより― 歩々到着
昨日、CASO のある築港界隈を歩いた、ビラを持って、Aya ちゃんと KAORUKO を連れて。
午後になる頃を見計らって、「みなアート会」を主導されていると聞く、築港温泉の店主、福田さんを訪ねた。
一見の不躾な訪問にもかかわらず、2 階の広い居間に 3 人を招じ入れて、丁重に応接して下さった。
ほぼ私と同年配、2 歳くらい上かなと思われるこの街場の銭湯を営む主人は、意想外のダンディな御仁であった。い
わゆる趣味人であることが、細身の身体を上下のジーンズで包んだその風采や物腰、会話の様子から匂い立つ。
港区の街場の人々には、かなり広く見知ってきたつもりだったが、まだまだ狭いと、つくづく感じさせられた遭遇で
あった。
人は、やはり、よく歩かねばならない、といまさら思いいたる。
歩けばこそ、日々、いたるところ、歩々到着があるというものだ。
- 314 -
20091024
猫もいつしよに欠伸するのか
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、12 月 2 日の稿に
12 月 2 日、曇、何をするでもなしに、次良居滞在。
毎朝、朝酒だ、次良さんの行為をありがたく受けてゐる、次良さんを無理に行商へ出す、私一人猫一匹、しづかなこ
とである、夜は大根膾をこしらへて飲む、そして遅くまで話す。-略或る友に与へて-
私はいつまでも、また、どこまでも歩きつづけるつもりで旅に出たが、思ひ返して、熊本の近在に草庵を結ぶことに
心を定めた、私は今、痛切に生存の矛盾、行乞の矛盾、句作の矛盾を感じてゐる、‥私は今度といふ今度は、過去一
切-精神的にも、物質的にも-を清算したい、いや、清算せずにはおかない、すべては過去を清算してからである、
そこまでいつて、歩々到着が実現せられるのである、‥自分自身で結んだ草庵ならば、あまり世間的に煩はされない
で、本来の愚を守ることが出来ると思ふ、‥私は歩くに労れたといふよりも、生きるに労れたのではあるまいか、一
歩は強く、そして一歩は弱く、前歩後歩のみだれるのをどうすることも出来ない。‥
※表題句の外、19 句を記す
―日々余話― 朱の海と、彷徨える山頭火
この数日、ゆっくり新聞を読む暇がない、ニュースを見る時間もない、もちろん読書からも遠離っている。時ならぬ
閑中忙?である。
そそくさと拾い読みした昨日の朝刊、丹砂-水銀朱-で赤く塗り込められた、桜井市にある茶臼山古墳の石室の模様が
報じられていたが、この水銀朱の使用量が 200 ㎏に相当するという破格のものらしい。丹は、道教でいえば、不老長
寿の仙薬、始皇帝の墓にはこの朱色の海があるという史記の故事もある。3 世紀末から 4 世紀初頃とされる茶臼山古
墳にも、規模の彼我はあれど、その石室一面に朱色の海がひろがっていた、というのは驚き。
こうして、山頭火の行乞記を追って綴っていると、彼のバイオリズムといったものがほの覗えてくる。句作の知人・
友人たちの歓待にしばしのやすらぎを得ては、却って一所不在の徹底が揺らぎだし、自身の矛盾撞着が露呈してくる。
自ら草庵を結び、孤高に生きんとする理想形に執着する念が、どうしても頭を擡げてくる。
山頭火は、この後、月末にも、別れたサキノも居る、長年親しみ住んだ熊本市内に「三八九居」を構えることとなる
が、わずか半年ほどで、おのれの甘さゆえ、またも取り返しのつかない失態を演じては、窮地に追い込まれ、挙げ句
の果て、新しい草庵を求めて、またも旅に出る。
彼が、生まれ育った故郷近くの小郡に、ようやく「其中庵」と名づけられた安住の地を得たのは、昭和 7 年 9 月のこ
とである。
20091023
捨炭車ひとりで上下する月の捨炭山
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、12 月 1 日の稿に
12 月 1 日、曇、次良居滞在、読書、句作、漫談、快飲、等々。
次良さんは今日此頃たつた一人である、奥さんが子供みんな連れて、母さんのお見舞に行かれた留守宅である、私も
一人だ、一人と一人とが飲みつづけ話しつづけたのだから愉快だ。
猫が一匹飼うてある、きいといふ、駆け込み猫で、おとなしい猫だ、あまりおとなしいので低脳かと思つたら、鼠を
捕ることはなかなかうまいさうな、能ある猫は爪をかくす、なるほどさうかも知れない。
※表題句は、捨炭車-スキップ、捨炭山-ボタ山、と読む。外 4 句を記す
- 315 -
―四方のたより― 土曜日の夜は‥
日時が切迫していてずいぶん慌ただしい交渉だが、波止場の使用許可も間に合わせて貰えそうだ。
海岸通の CASO の「青空展」の一週間、27 日の火曜日からはじまるが、その週末、土曜日の夜は、キャンドルナイ
トのパフォーマンス。
この日、Musician と Dancer たちだけでもおそらく 20 人は集うだろう。祭りの後の仲間内の愉しいイベントといっ
た乗りでいいのだが、折角やるのだから、少しは付近住民もターゲットにしてみたいと思う。
CASO のあるこの辺りは、海岸通散歩道といって臨港緑地として整備されている。
聞けば「天保山みなアート」なる街興し人興しの NPO が、今年の 6 月、赤レンガ倉庫裏の広い波止場で、市民参加
型の「発光みなアート」と題したイベントをやったそうな。
そんな前例があるのなら、住民も少しは反応があるかも。そんな淡い期待も込めて、時間もなくてやっつけながら、
ちょいと遊んでみよう。
20091021
笠も漏りだしたか
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、11 月 30 日の稿に
11 月 30 日、雨、歓談句作、後藤寺町、次良居
果たして雨だつた、あんなにうららかな日がつづくものぢやない、主人公と源三郎さんと私と三人で一日話し合ひ笑
ひ合つた、気障な言葉だけれど、恵まれた一日だつたことに間違はない。
夕方、わかれわかれになつて、私はここへきた、そして次良さんのふところの中で寝せてもらつた、昨夜の約束した
通りに。
飲みつづけ話しつづけた、坐敷へあがると、そこの大机には豆腐と春菊と蜜柑と煙草とが並べてあつた、酒の事はい
ふだけ野暮、殊に私は緑平さんからの一本を提げてきた、重かつたけれど苦にはならなかつた、飲むほどに話すほど
に、二人の心は一つとなつた、酒は無論うまいが、湯豆腐はたいへんおいしかつた。-略※表題句の外、17 句を記す
―四方のたより― CASO 版 Performance
CASO における「デカルコマニィ的展開/青空」展も、いよいよ来週の火曜日から幕を開ける。
四方館としては、土曜日-10/31-の午後 7 時から、ちょいと登場させて貰おうと思っている。この際、私自身が今一
番やってみたいことを、不消化を承知で出してみることにした。
題して「二上山夢験」、
折口信夫の「死者の書」を引っ張り出してきて、語り用にまとめてみた。
もう一つ、急に思い立って、いま仕掛けていることがある。ギャラリーCASO は海岸通りにあるのだし、折角アーテ
ィストたちが大勢集まるこの機会、会場傍の赤レンガ倉庫裏の広い波止場を使って、みんなでキャンドル・ナイト・シ
ョーと洒落込んで、お客さんたちに楽しんで貰おうと、そんな算段。
但し、この企画には、埠頭のこととて管轄-市港湾局-の使用許可が要る。OK が取れるか否か、一両日中にもはっき
りするだろう。
20091019
ボタ山のまうへの月となつた
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、11 月 29 日の稿に
- 316 11 月 29 日、晴、霜、伊田行乞、緑平居、句会
大霜だつた、かなり冷たかつた、それだけうららかな日だつた、うららかすぎる一日だつた、ゆつくり伊田まで歩い
てゆく、そして 3 時間ばかり行乞、-略行乞は雲のゆく如く、水の流れるやうでなければならない、ちよつとでも滞つたら、すぐ紊れてしまふ、与へられる
ままで生きる、木の葉の散るやうに、風の吹くやうに、縁があればとどまり縁がなければ去る、そこまで到達しなけ
れば何の行乞ぞやである、やつぱり歩々到着だ。
-略-、枯草の上で、老遍路さんとしみじみ話し合つた、何と人なつかしい彼だつたろう、彼は人情に飢えてゐた、彼
は老眼をしばたいてお天気のよいこと、人の恋しいこと、生きてゐることのうれしさとくるしさとを話しつづけた、
-果たして私はよい聞手だつたらうか夜は緑平居で句会、門司から源三郎さん、後藤寺から次良さん、4 人の心はしつくり解け合つた、句を評し生活を語
り自然を説いた。
真面目すぎる次良さん、温情の持主ともいひたい源三郎さん、主人公緑平さんは今更いふまでもない人格者である。
源三郎さんと枕をならべて寝る、君のねむりはやすらかで、私の夢はまどかでない、しばしば眼ざめて読書した。
日が落ちるまへのボタ山のながめは、埃及風景のやうだつた、とでもいはうか、ボタ山かピラミツドか、ガラ炭のけ
むり、たさがれる空。
オコリ炭、ガラ炭、ボタ炭、ビフン炭-本当のタドン-、等、等、どれも私の創作慾をそそる、句もだいぶ出来た、あ
まり自信はないけれど。
※表題句の外、28 句を記す
―表象の森― ちぎれぐも、何処へゆく
一昨日-土曜-の夜、はて 3 年ぶりかあるいは 4 年ぶりか、「犯友-HANTOMO-」の野外劇「ちぎれぐも」を観に、難
波宮跡地の公園へと出かけた。
久し振りに観た犯友芝居を辛口に評すなら、以前に比べて、役者群の総力が落ちてきたな、という慨嘆をどうにも禁
じ得ない、先ずこのことに触れざるを得ない。戯作と演出を一手に引き受けつづける武田一度君の劇作法は、役者一
人ひとりへのあてこみともいえる人物描写と、自家薬籠中となった演出技法とが一体化しており、それがある種いい
意味でのマンネリズムを生み出してもいるのだが、それにしても中軸となりうる数人の役者と脇の役者群における力
量の落差がちょっと大きすぎるという点が、見逃しきれぬ負材料となってしまっている。
武田一度の役者育て、役者のつくり方は、昔から一貫したものを有しており、素材のキャラを活かしながら、それぞ
れ独自の型へと架橋していくあり方そのものは、そういう手法があってもいいのだが、その前段に発声なり滑舌なり
また動きなり、最低限の基本技を日常的な訓練としてもう少し課していってもらいたいと思う。
その武田独自の役者育てで、主演を張る女優彩葉の演技はずっと造られてきているのだが、これくらいのキャリアを
積んでくると、さすがに私もこのあたりで注文をつけたくなってしまう。啖呵芝居ともいえる彼女の演技の型に、も
っと柔軟さが欲しい、軽さやしなやかさを望みたいのだ。そういったものから匂い立つような色香が解き放たれてこ
ようと思うのだが、このままではそんな期待も望めそうもない、いまや彼女の啖呵芝居は凝り型ともなってきており、
厚い壁の存在がどうも露わになってきた、そんな気がするのだ。
ある造型が成ったとき、その粘土の含む水分がほぼ気化して固形化するものだが、その形を些かなりとも変えるとな
ると、水をやって粘土を柔らかくしてやらなければどうにもならないが、その粘土と水のようなもので、たえず素材
としての粘土へとたちもどさせる水分の役割を、日常の稽古の現場でどう保証しているのか、このあたりが武田君の
役者育てに欠けたる部分ではないか、と推察されるのだが‥。
20091018
- 317 谺谺するほがらか
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、11 月 28 日の稿に
11 月 28 日、晴、近郊探勝、行程 3 里、香春町
昨日もうららかな日和であつたが、今日はもつとほがらかなお天気である、歩いてゐて、しみじみ歩くことの幸福を
感じさせられた、明夜は句会、それまで近郊を歩くつもりで、8 時緑平居を出る、どうも近来、停滞し勝ちで、あん
まり安易に狎れたやうである、一日歩かなければ一日の堕落だ、-略朝霧にほんのりと浮びあがる香春、一ノ岳二ノ岳三ノ岳の姿にもひきつけられた、ボタ山が鋭角を空へつきだしてゐ
る形もおもしろい、-略街を出はづれて、高座寺へ詣る、石寺とよばれてゐるだけに、附近には岩石が多い、梅も多い、清閑を楽しむには持
つてこいの場所だ、散り残つてゐる楓の一樹二樹の風情も捨てがたいものだつた、-略一浴一杯、それで沢山だつた、顔面頭部の皮膚病が、孤独の憂鬱を濃くすることはするけれど。
※表題句の外、10 句を記す
―表象の森― サティの音に即く
先週と今週-今日-の稽古では、高橋悠治が演奏する「サティ=ピアノ作品集 3」を使って、音の刺戟に対して即くこと
-音の変化転調に即応した動きの紡ぎ出し-を試みている。
この CD は「四手のためのピアノ作品集」と副題されており、ジャン・コクトーのテーマにもとづくバレエ音楽「パ
ラード」や「梨の形をした 3 つの小品」、「不愉快な感じ」、「風変わりな美女-真面目な幻想-」を収録している。
その調性から外れた自由な音の連なりは、大胆な転調をいたるところに生じさせているから、その変化に即いて動き
を紡ぎ出すことなど、従来の我々の Workshop では大きく反対の極に振れた要請ということになるから、動き手のほ
うは大変だ。まず呼吸の対応がどうしても瞬間的に激しくなるから、身体への負荷がまるで違ってくる。当然、動き
のリズム変化も振幅の激しいものになるので、瞬間の Dynamism-身体の瞬発力と即応性-がつねに準備されていなけ
ればならない。
これは、Improvisation Dance の前・準備的 Work として、かなり有効な手続きだ。今日の Junko など、動きの
Continuity が普段見られぬほどの豊かさをみせて面白くなっていたが、そのことを指摘してみても、本人はまるで自
覚がないといった躰で、ちょっと腑に落ちないというふうだった。その訳は、踊るときの本人の意識なり感覚が、い
つもとは異なってやけに cool で醒めていたからだ。この主観評価と客観評価の乖離を克服していくことが課題とな
るが、彼女自身、このあたりのことがどうも苦手とみえる。
20091017
夕日の机で旅のたより書く
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、11 月 27 日の稿に
11 月 27 日、晴、読書と散歩と句と酒と、緑平居滞在
緑平さんの深切に甘えて滞在することにする、緑平さんは心友だ、私を心から愛してくれる人だ、腹の中を口にする
ことは下手だが、手に現はして下さる、そこらを歩いて見たり、旅のたよりを書いたりする、奥さんが蓄音機をかけ
て旅情を慰めて下さる、――ありがたい一日だつた、かういふ一日は一年にも十年にも値する。
夜は二人で快い酔にひたりながら笑ひつづけた、話しても話しても話は尽きない、枕を並べて寝ながら話しつづけた
ことである。
糸田風景のよいところが、だんだん解つてきた、今度で緑平居訪問は 4 回であるが、昨日と今日とで、今まで知らな
かつたよいところを見つけた、といふよりも味はつたと思ふ。
※表題句の外、9 句を記す
- 318 -
―表象の森― 空中 Performance のお好きな芸術祭
メルボルン国際芸術祭が今月 9 日から 24 日まで開催されているが、このフェスティバル、ずいぶんとサーカスまが
いの空中ショーがお好きなようで、そのオープニングイベントの模様が話題を呼んでいる。
写真はその一部だが、これを演じているのはフランスの劇団「Transe Express」で、ドラマやオーケストラの要素に
アクロバットを取り込んだ表現として考案されたものらしい。詳しくは「Melbourne International Art Festival」公
式サイトで見られる。とくに空中 Performance については-FREE EVENT-の項をクリックすれば 20 枚近い写を見ら
れるから、まあ一度ご覧じろ、理屈抜きに愉しめることは請合いだ。
20091015
ボタ山の下でまた逢へた
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、11 月 26 日の稿に
11 月 26 日、晴、行程 8 里、半分は汽車、緑平居-うれしいといふ外なしぐつすり寝てほつかり覚めた、いそがしく飲んで食べて、出勤する星城子さんと街道の分岐点で別れる、直方を経て
糸田へ向ふのである、歩いてゐるうちに、だんだん憂鬱になつて堪へれないので、直方からは汽車で緑平居へ驀進し
た、そして夫妻の温かい雰囲気に包まれた。‥‥
昧々居から緑平居までは歓待優遇の連続である、これでよいのだらうかといふ気がする、飲みすぎ饒舌りすぎる、遊
びすぎる、他の世話になりすぎる、他の気分に交りすぎる、勿躰ないやうな心持になつてゐる。
山のうつくしさよ、友のあたたかさよ、酒のうまさよ。
今日は香春岳のよさを観た、泥炭-ボタ-山のよさをも観た、自然の山、人間の山、山みなよからざるなし。
駅で、伊豆地方強震の号外を見て驚いた、そして関東大震災当時を思ひ出した、そして諸行無常を痛感した、観無常
心が発菩提心となる、人々に幸福あれ、災害なかれ、しかし無常流転はどうすることも出来ないのだ。
緑平居で、プロ文士同志の闘争記録を読んで嫌な気がした、人間は互いに闘はなければならないのか、闘はなければ
ならないならば、もつと正直に真剣に闘へ。
此の二つの記事が何を教へるか、考ふべし、よく考ふべし。
※表題句の外、16 句を記す
-表象の森- ダ・ヴィンチの絵?
従来は 19 世紀ドイツ人画家の作品とされてきたルネサンス期の女性の横顔を描いた絵-縦 33cm×横 23cm-が、実は
レオナルド・ダ・ヴィンチの絵だった、と話題を呼んでいる。
科学的な根拠は絵の左隅に残された指紋が、ダ・ヴィンチのものと極めて酷似しているのだという。彼の指紋はバチ
カン美術館にある絵画「聖ヒエロニムス」に残されており、これとほぼ合致。さらに放射性炭素年代測定によれば、
15~17 世紀に制作されたものと判定されており、ダ・ヴィンチの絵であるのはほぼ間違いあるまいというのだ。描か
れている横顔の女性は、当時ダビンチの後援者だったミラノのルドビコ・スフォルツァ公の娘の可能性が高いと、そ
んな説も唱えられている。
これがほんとうにダ・ヴィンチの作品となれば、1 億 Euro-133 億円-以上の価値にもなろうというのだから、時ならぬ
騒ぎとなるのも無理はない。無理はないのだけれど、画面で覗えるかぎりこの絵、人物はともかく、その背景は粗書
きのままのようで、未完の習作ではなかったかとも思われる。
この騒ぎに、地下に眠るダ・ヴィンチ先生、ひょっとすると迷惑顔をしているやもしれない。
- 319 20091013
まつたく裸木となりて立つ
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、11 月 25 日の稿に
11 月 25 日、晴、河内水源地散歩、星城子居、雲関亭、四有三居
ほがらかな晴、俊和尚と同行して警察署へ行く、朝酒はうまかつたが、それよりも人の情がうれしかつた、道場で小
城氏に紹介される、氏も何処となく古武士の風格を具へてゐる、あの年配で剣道六段の教士であるとは珍しい、外柔
内剛、春のやさしさと秋のおごそかとを持つ人格者である、予期しなかつた面接のよろこびをよろこばずにはゐられ
なかつた、稽古の済むのを待つて、四人-小城氏と俊和尚と星城子とそして私と-うち連れて中学校の裏へまはり、
そこの草をしいて坐る、と俊和尚の袖から般若湯の一本が出る、殆ど私一人で飲みほした-自分名ながらよく飲むの
に感心した-、-略河内水源地は国家の経営だけに、近代風景として印象深く受け入れた-この紀行も別に、秋ところどころの一節とし
て書く-、帰途小城さんの雲関亭に寄つて夕飯を饗ばれる、暮れてから四有三居の句会へ出る、会する者十人ばかり、
初対面の方が多かつたが、なかなかま盛会だつた-私が例の如く笑ひ過ぎ饒舌り過ぎたことはいふまでもあるまい-、
12 時近く散会、それからまたまた例の四人でおでんやの床几に腰かけて、別れの盃をかはす、みんな気持よく酔つ
むて、俊和尚は小城さんといつしょに、私は星城子さんといつしよに東と西へ、-私は
ずゐぶん酔つぱらつてゐたが、それでも、俊和尚と強い握手をして、さらに小城さんの手をも握つたことを覚えてゐ
る。
※表題句の外、13 句を記す
―世間虚仮― 繁昌亭の繁昌
天満天神の繁昌亭が、文字どおり繁昌しているそうな。建設資金の殆どが市民らの寄付カンパで成った落語の定席小
屋だし、06 年 9 月の杮落し以来、ずっと続いているというその盛況ぶりは喜ばしい限りだし、このほど累積入場者
数も 50 万人を超えたと、結構なニュースである。
この間、通算 100 回目の来場を果たした剛の者がおり、この御仁に感謝状が贈られた、ともあるのだが、この剛の者
が堺市役所の職員と書かれてあるのを見るに及んで、途端に興醒め。そりゃ好きで通いつめた結果ではあろうが、そ
の御仁がなんだよ公務員かい、時間もあれば金銭にもゆとりあり、まことに結構な身分でございますな、と外野から
半畳も入れたくなろうというものだ。
20091012
逢ひたうて逢うてゐる風
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、11 月 24 日の稿に
11 月 24 日、曇、雨、寒、八幡市、星城子居
今日も亦、きちがい日和だ、裁判所行きの地橙孫君と連れ立つて歩く、別れるとき、また汽車賃、弁当代をいただい
た、すまないとは思ふけれど、汽車賃はありますか、弁当代はありますかと訊かれると、ありませんと答へる外ない、
おかげで行乞しないで、門司へ渡り八幡へ飛ぶ、やうやく星城子居を尋ねあてて腰を据える、星城子居で星城子に会
ふのは当然だが、俊和尚に相見したのは意外だつた、今日は二重のよろこび-星氏に会つたよろこび、俊氏に会つた
よろこび-を与へられたのである。-略ずゐぶんおそくまで飲みつづけ話しつづけた、飲んでも飲んでも話しても話しても興は尽きなかつた、それでは皆さ
んおやすみ、あすはまた飲みませう、話しませう-虫がよすぎますね! -略省みて、私は搾取者ぢやないか、否、奪掠者ぢやないか、と恥ぢる、かういふ生活、かういふ生活に溺れてゆく私を
呪ふ。‥
- 320 芭蕉の言葉に、わが句は夏炉冬扇の如し、といふのがある、俳句は夏炉冬扇だ、夏炉冬扇であるが故に、冬炉夏扇と
して役立つのではあるまいか。
荷物の重さ、いひかへれば執着の重さを感じる、荷物は少なくなつてゆかなければならないのに、だんだん多くなつ
てくる、捨てるよりも拾ふからである。
八幡よいとこ-第一印象は、上かんおさかなつき一合十銭の立看板だつた、そしてバラツク式長屋をめぐる煤煙だつ
た、そして友人の温かい雰囲気だつた。
※表題句の外、14 句を記す
―四方のたより― ヤレヤレ、無事終了
松浦ゆみの Dinner Show、大過なくまずまず賑やかなうちに終了、なにはともあれお疲れさんだ。
なにしろ専属のマネージャーも居なくて、いつも歌手本人が独りきりで手売り、それで成り立っているのだから、い
ざとなると制作面から演出面や Program の進行まで此方にかかってくる。本番の日ともなると、実際いっさいの仕
切りが此方の役回りとなるのだから、よほど草臥れるものである。
とはいうものの、エンタテイメントとしての彼女は大したもの、これだけの仕掛けを独りで発信し且つ独りで手配も
しているのだから、なかなかようやるものだ。しかも、歌は演歌から Pops までなんでもこなして、しかもかなり上
手いときている。関西に居る所為でなかなか有名歌手にはなれないが、いつもながらえらいもんだと感心させられる。
もうひと伸び、ふた伸び、成るか成らないか、彼女もいよいよ正念場といったところなのだろう。業界からは門外漢
でしかない私などには、まああまりしてやれることはないのだけれど‥。
20091011
Information - CASO におけるデカルコマニィ的展開「青空」展
雨の一日一隅を守る
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、11 月 23 日の稿に
11 月 23 日、曇、時雨、下関市、地橙孫居
相変わらずの天候である、浅野関門海峡を渡る、時雨に濡れて近大風景を観賞する、舳の尖端に立つて法衣を寒風に
任した次第である、多少のモダーン味がないこともあるまい。
門司風景を点綴するには朝鮮服の朝鮮人の悠然たる姿を添へなければならない、西洋人のすつきりした姿乃至じつし
りした姿も-そして下関駅頭の屋台店-飲食店に限る-、門司海岸の果実売子を忘れてはならない。
約束通り 10 時前に源三郎居を訪ふたが、同人に差閊え多くて、主客二人では句会にならないで、けつくそれをよい
事にして山へ登る、源三郎さんはりゆうとした現代紳士型の洋装、私は地下足袋で頬かむりの珍妙姿、さぞ山の神-
字義通りの-もおかしがつたであらう。
下関から眺めた門司の山々はよかつたが、近づいて見て、登って観て、一層よかつた、門司には過ぎたるものだ。
「当然」に生きるのが本当の生活だらうけれど、私はただ「必然」に生きてゐる、少くとも此二筋の「句」に於ては、
「酒」に於ては!
※表題句の外、20 句と改作 3 句を記す
―四方のたより―名古屋・大須観音界隈を歩く
名古屋へと、車で日帰りの旅。先にも触れた、名古屋は大須観音界隈で毎年行われている、今年は 32 回目を迎える
という、大須大道町人祭を見物に出かけた、いわば物見遊山だが、その初期の頃から常連として出演しているデカル
コ・マリィら一党の Performance を観るのも兼ねたものだった。
- 321 名古屋行はまる 3 年ぶり、月に一度しかない開帳日に折角合せて出かけたのに、受付が午後 2 時までだったかを 15
分ほど過ぎてしまって、十二神将の円空仏をとうとう見逃してしまったという、笑うに笑えぬ曰く付きの鉈薬師訪問、
3 年前の 8 月以来である。
あの日と同じように、名古屋に住む Tosiki さんに不躾を省みず案内をお願いした。彼は快く応じてくれ、昼過ぎから
夜 9 時半頃に別れるまで、案内役としてずっと付き合ってくれた。
大須観音の参道であり、東西に走る二本の商店街、仁王門通-東仁王門通と大須観音通-万松寺通、この二つの通り
を南北に横切る大須本通-門前町通、裏門前町通、新天地通など、これらの辻々や神社境内、あるいは公園などに設
定された催し会場が 16 ポイント、これらの場所で 10 日と 11 日、土日の 2 日間、40 の個人やグループの Performer
たちが入替り立替りその芸を披露、見物人の投銭のみが彼らの実入りとなるというのが原則の大道芸祭り。
デカルコ・マリィ一党は、演舞・演奏・美術など総勢 20 名余の大所帯での大須乗込みが、ここ数年常態化してきている
とみえて、演者たちのほうこそお祭り騒ぎの様相を呈している。その本割りともいうべき午後 7 時 20 分からの浅間
神社前での Performance は、これまたここ数年、イメージ・ストーリィを明瞭にもった構成となっているようだ。
今回の目玉はラストシーンに登場する妖怪仕立ての大型の仕掛人形、これが 40 分近い演舞、物語の収斂装置だ。
大須観音の本殿、観音堂前の石段で演じられていたのが大駱駝艦の金粉ショー、さすがに人出は多くほぼ境内を埋め
尽くすほどの賑わい。大きな社殿をバックに石段の高低差を舞台に総勢 7 人がライトに照り映えて夜目にもあざやか
に浮かんだ金粉の肉体たちは、その舞踏がどうの、演出がどうのと、そんな講釈などさらさら要らぬ、このロケーシ
ョンだけで絵にはなる、それだけのことだ。
いずれにせよ、32 年も続いてきた大須の大道芸祭、一度はこの眼で見ておかねばなるまいとは思ってきた、それを
やっと果たせた。
20091010
お経とどかないヂヤズの騒音
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、11 月 22 日の稿に
11 月 22 日、晴曇定めなし、時々雨、一流街行乞、宿は同じ事
お天気は昨日からの-正確にいへば一昨日からの-つづき、降つたり晴れたりだ、10 時近くなつて、どうやら大し
て降りさうもないので出かける、こんな日は、ひとり火鉢をかかへて、読書と思索とに沈潜したいのだけれど、それ
はとうてい許されない。
草鞋ではとてもやりきれないので、昨日も今日も地下足袋を穿いたが、感じの悪い事おびただしい。
2 時過ぎまで行乞、キス一杯の余裕あるだけはいただいて、地橙孫さんを訪ねる、不在、奥さんに逢つて-女中さん怪
訝な顔付で呼びにいつた-ちよつと挨拶する、白状すれば、昨春御馳走になつてゐるし、そのうへ少し借りたのもそ
のままになつてゐる、逢うて話したいし、逢へばきまりが悪いし、といつてここへ来て黙つてゐる私の心情が許さな
いし、とにもかくにも地橙孫さんは尊敬すべき紳士である、私は俳人としてでなく、人間として親しみを感じてゐる
のである。-略生きてゐることのうれしさとくるしさとを毎日感じる、同時に人間といふもののよさとわるさとを感ぜずにはゐられ
ない、-それがルンペン生活の特権とでもいはうか、それはそれとして明日は句会だ、どうかお天気であつてほしい、
好悪愛憎、我他彼比のない気分になりたい。
※表題句の外、6 句、改作 8 句を記す
20091009
Information - CASO におけるデカルコマニィ的展開「青空」展
日記焼き捨てる火であたたまる
- 322 ―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、11 月 21 日の稿に
11 月 21 日、晴曇定めなくて時雨、市街行乞、宿は同前
夢現のうちに音をきいたが、やつぱり降る、晴れる、また降る、照りつつ降る、降つてゐるのに照つてゐる、きちが
い日和だ、9 時半から 1 時半まで行乞する、辛うじて食べて泊つて一杯飲むだけは与へせれた、時雨の功徳でもあり、
袈裟の功徳でもある。-略下関の市街は歩いてゐるうちに、酒屋、魚屋、八百屋、うどん屋、餅屋-此頃は焼芋屋-、等々の食気屋の多いのに、
今更のやうにも驚かないではゐられない、鮮人の多いのにも驚ろく、男は現代化してゐるけれど、女は固有の服装で
ゆうゆうと歩いてゐる、子供を腰につけてゐるのも面白い-日本人は背中につけ、西洋人は籃に入れてゐる-。
昨日も時化、今日も時雨だ、明日も時雨かも知れない、時化と関門、時化の関門と私とはいつも因縁がふかいらしい。
-略しぐれの音が聞える、まつたく世間師殺しの天候だ、宵のうちに、隣室の土工さんが、やれやれやつと食ふだけは儲
けて来た、土方殺すにや刃物はいらぬ、雨が三日降りやみな殺し、と自棄口調で唄つてゐたのを思ひだす、私だつて
御同様、わがふところは秋の風どころぢやない、大時化のスツカラカンだ。
※表題句の外、15 句を記す
―表象の森― 瞑想の即興
ここ数年、インド舞踊で全国的に活動の場をひろげている茶谷祐三子が、やっと我が四方館の稽古場に姿を見せた。
Pure Dance と本人が謂うところの即興は、「瞑想の踊り」と形容するに相応しいものであった。踊りに入る時点で
彼女はある種の瞑想法ですでに日常性から脱して精神的な高みに達しているかのようにみえるのは、普段の表情とま
るで異なる相貌になっているからだ。かといって憑依というべきものではなく、なにやら気品といったものが漂うよ
うな雰囲気がある。
振付の決まった 18 分余を要する Odissi Dance、この踊りを文字どおり pure に踊りきるのはとても難しい、と私に
は思えた。所作のたびに足に付けた鈴の音色と伴奏音との微妙なバランス、これは生演奏でなければまず無理だろう。
だがそんなことよりも、次から次へ連綿と紡がれる細かい所作の綴れ織りともみえるこの Odissi Dance を、軽快に
Dynamic にかつ優雅に踊りうる者は、この日本にも小野雅子など何人か居るのだろうけれど、彼女が垣間見せてく
れた「瞑想の踊り」のように、その精神の高みにおいて、それは神や仏なるものへの帰依や信仰から発してその化身
へと昇華していくようなものでもあろうか、この長丁場を踊りきるのは至難のわざとみえる。
茶谷祐三子のインド生活は、ほぼ 10 年に及んだという。先師に仕えて踊りの習得に励んできたのは 7 年間、毎日 8
時間もの稽古という、ひたすら瞑想と踊りの訓練に明け暮れた日々だったろう。相当の長い年月を身心共にずぶりと
その世界に浸りきった、そんな暮しのなかでしか身につけ得ないものがあるだろう。彼女は彼女なりにそういったも
のを身につけている。
20091007
ふる郷の言葉となつた街へきた
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、11 月 20 日の稿に
11 月 20 日、曇、時雨、下関市行乞、本町通り、岩田屋
朝風呂に入れて下さつたのはありがたかつた、源三郎さんといつしょにでかける、少し借りる-何しろ深耶馬を下る
ためにといふので 2 円ばかり貯つてゐたのだが、宇島までにすつかり無くなつた、宇島で行乞したくないのを無理に
行乞したのは、持金 20 銭しかないので、食べて泊るだけにも 22 銭の不足だつたからである-。
駅で別れる、しぐれがなかなかやみさうにもない、気分もおちつかないので、関門を渡る、晴間々々に 3 時間ばかり
行乞、まだ早すぎるけれど、昨春馴染の此宿へ泊る、万事さつぱりしてゐて、おちつける宿、私の好きな宿である。
- 323 酒は心をやはらげ湯は身体をやはらげる、身心共にやはらげられて寝たのに、虱の夢をみたのはどうしたことだら
う!-もう一杯飲みたい誘惑に敗けたからかも知れない!下関はなつかしい土地だ、生れた故郷へもう一歩だ、といふよりもすでに故郷だ、修学旅行地として、取引地として、
また遊蕩地として-20 余年前の悪夢がよみがへる、‥
秋風の関門を渡る-かも知れませんよと白船君に、旅立つ時、書いて出したが、しぐれの関門を渡る-となつたが、
ここからは引き返す外ない、感慨無量といふところだ。
※表題句の外、2 句を記す
-世間虚仮- 月額制から時給制へ、非常勤講師の Poor 化
大阪府下の小中高に勤務する非常勤講師の報酬が、橋下府政下、本年度より、月額制から時給制へと改められ、実態
は 2 割減の減収になっているという。逆に言えば、府予算における非常勤講師雇用経費を、この変更で 2 割節減して
いるということだ。
ずいぶんとケチ臭いところに目を付けたものだと思われるのだが、どっこいどうやらこの傾向は全国的なものらしい。
昨年度時点で月額制だった府県はわずかに数ケ所だったという話で、この実情にも驚かされる。
非常勤講師とフルタイムの常勤講師とを含めた、いわゆる非正規雇用の教員も全国的に増加傾向だという。昨年度の
全国小中高校教員に占める非正規教員の割合は 14.1%。大阪府でも増加傾向にあり、とりわけ府立高校は全教員数の
うち 27%-今年 5 月時点-を占めるというから、この実態にも驚かされる。
少人数学級の加速傾向や高校における教育の多様化傾向にあって、教員の絶対必要数は高まる一方、そんな状況下で
教員の非正規雇用がいよいよ進行している訳だ。
それにしても少人数学級や教育の多様化が、直ちに非正規化へと接続されるという現実、ここにも豊かな社会から滑
り落ち遠離りゆくこの国の姿がある。
20091006
蒲団ふうわりふる郷の夢
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、11 月 19 日の稿に
11 月 19 日、晴、行程 3 里、門司、源三郎居、
嫌々行乞して椎田まで、もう我慢出来ないし、門司までの汽車賃だけはあるので大里まで飛ぶ、そこから広石町を尋
ね歩いて、源三郎居の厄介になる、だいぶ探したが、酒屋のおかみさんも、魚屋のおやぢさんも、また若い巡査も彼は若いだけ巡査臭ぷんぷんであつたが-、私と源三郎さんのやうな中流以上の知識階級乃至サラリーマンとを結び
つけえなかつたのはあたりまへだらう。
源三郎さんは-奥さんも父君も-好感を持たないではゐられないやうな人柄である、たらふく酒を飲ませていただい
て、ぞんぶん河豚を食べさせていただいて、そして絹夜具に寝せていたたいた。-略※表題句の外、2 句を記す
―四方のたより― 名古屋の大須大道町人祭
名古屋市は大須観音の門前町、大須商店街を中心に、全国から集まった大道芸人たちが繰り広げる Performance で
毎年賑わってきた大須大道町人祭も、もう 32 回目を数えるという。
その初期から中期、10 年くらい前までは大道芸といっても、嘗てのアングラ系の Performer がかなりの勢力を占め
ていた筈だが、今年の出演者たちの顔ぶれを眺めれば、大駱駝艦の金粉ショーと人間美術館の雪竹太郎、そしてデカ
ルコ・マリィ一党の物之怪曼荼羅と三者くらいのもので、年々賑わいを増すほどに Performer たちの芸質も、毒から
薬へと、今様のお笑い芸人たち同様にずいぶんと健全なものに変貌してきているものとみえる。
- 324 デカルコ・マリィが、このイベントの初期、いつごろから出演し始めたのか、詳しくは知らない私だが、おそらく 20
年は優に越え、芸人たちのあいだでは最も長い、連続記録保持者なのだろう。
以前から一度くらいは臨場しておかねばなるまいと思ってはきたのだが、初期の頃の毒気臭がまだ微かには感じられ
よう今年あたり行っておかねば、すっかりその機も失せてしまいそうだと、そんな予感が擡げてきた。
20091004
朝、万年青の赤さがあつた
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、11 月 18 日の稿に
11 月 18 日、曇、宇ノ島八屋行乞、宿は同前、いい宿である
行乞したくないけれど 9 時から 3 時まで行乞、おいしい濁酒を飲んで、あたたかい湯に入る、そして寝る、どうして
も孤独の行乞者に戻りきれないので閉口々々。
※表題句は、16 日付記載の中から
―日々余話―運動会中止、新型インフル!
2 学期に入ってまもなくから、クラス毎にあるいは学年毎に、ダンスの集団演技や競技の練習を繰り返してきた運動
会が、新型インフルエンザの流行でとうとう中止に追い込まれてしまった。
・学校よりお知らせ-PTA 携帯連絡網による第1便-10.3.PM3:2010 月 4 日-日-の運動会当日、インフルエンザ等による欠席者が多数出ることが予測される事態となりました。
その場合は児童の健康と感染拡大を予防する観点から、プログラムの一部をカットし、午前中に団体競技・演技のみ
実施することも考えております。
尚、その場合も、弁当につきましては、希望される方には運動会終了後、運動場・講堂を開放する予定です。
最終判断は明日-10 月 4 日-児童の登校状況を見て行います。-小学校校長
・保護者の皆様へ-PTA 携帯連絡網による第 2 便-10.3.PM7:48明日-10 月 4 日-に予定しておりました運動会ですが、現時点でインフルエンザによる学級休業となるクラスが出るこ
とが確実となりました。
つきましては、感染を防ぐため、明日の運動会はとりやめます。
児童は午前中のみの平常授業となります。
後日のことについては、検討後、明日プリントにてお知らせいたします。
急なことでご迷惑をおかけしますが、どうぞ宜しくお願いいたします。-小学校校長
我がマンションは学校正門前に道路を隔ててあるから、運動会の練習など学校の様子が手に取るようにわかる。ブラ
スバンドの練習などはいささかうるさいほどに聞こえてきていた。
事ここに到る 2.3 日前、学校から帰ってきた子ども-KAORUKO-の話によれば、隣組さんでは欠席児童が 10 人、と
聞いていた。児童が 30 人しかいないのだから、すでに 3 割を越える欠席率だ、これで学級閉鎖にならないのは、イ
ンフルエンザと特定できているケースがなお半数に満たない状況であったのだろう。
KAORUKO によれば、そのクラスの 2 日-金曜-の欠席は 9 人だった、と聞いてもおり、学級閉鎖-運動会中止の線は、
充分あり得ることと予想もされたのだったが‥。
- 325 いざ現実に中止となってみれば、子どもたちの落胆はやはり大きかろう。KAORUKO の場合、以前はあまり早くもな
かった駆けっこが、これも成長曲線の不特定さか、近頃はなぜか得意になってきたらしく、トップでテープを切るの
を楽しみにしていた節もある。
はたして、たんに延期ですむものか、それとも中止となって、一炊の夢まぼろし、露と消えてしまうのか、学校関係
者にとっては悩ましく判断の難しいところだろうが、この分では後者の線が可能性大だろう。
20091002
つきあたつてまがれば風
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、11 月 17 日の稿に
11 月 17 日、晴、行程 1 里、宇ノ島、太田屋
朝酒は勿躰ないと思つたけれど、見た以上は飲まずにはゐられない私である、ほろほろ酔うてお暇する、いつまたあ
はれるか、それはわからない、けふここで顔と顔を合せてる-人生はこれだけだ、これだけでよろしい、これだけ以
上になつては困る。‥
情のこもつた別れの言葉をあとにして、すたすた歩く、とても行乞なんか出来るものぢやない、1 里歩いて宇ノ島、教
へられてゐた宿へ泊る、何しろ淋しくてならないので濁酒を二三杯ひつかける、そして休んだ、かういふ場合には酔
うて寝る外ないのだから。-略友人からのたより-昧々居で受け取つたもの-をまた、くりかへしくりかへし読んだ、そして人間、友、心といふも
のにうたれた。-略※表題句の外、4 句を記す
その中に、「別れてきた道がまつすぐ」の句が見える
―世間虚仮― 芸術性か社会貢献か
橋下府知事が大鉈を振るった文化事業への補助金削減で、存続の危機に晒されてきた大阪センチュリー交響楽団が、
知事との最終的な折衝もすれ違ったまま、民営化へと歩まざるを得なくなり、スポンサー探しに乗り出すことになっ
た模様だ。
対立点ははっきりしている、芸術性か社会貢献か。知事側の主張は簡単明瞭、府の文化事業ならば、コンサートホー
ルでの演奏活動よりも学校や病院を訪問して鑑賞会を行うなどの直接サービスを最優先させろ、と曰っているそうな。
センチュリー側としては、20 年前の成立経緯からも、また 20 年の活動の積み重ねのなかで成熟させてきた音楽性を
真っ向から否定するかの如き知事の要請を飲むわけにはいくまい。社会貢献の活動を否定しさるものではないが、芸
術性あっての社会貢献、主従の別はおのずから決まってこよう。
現状では、センチュリーの年間予算は 7 億 1 千万円、H20 年度の補助金は 3 億 9 千万だったが、H21 年には 1 億 1
千万に減額されており、このままでは存続し得ないことは一目瞭然、スポンサーを府から民へと乗り換えざるを得な
いわけだが、川の流れに身を任せる笹の葉同然、覚束ないことこのうえない仕儀となってしまった。
捨てる神あれば拾う神あり、
以前から大阪府に遺贈の申し出をしていた芦屋在住の老婦人、今年 6 月に亡くなっているが、生前音楽愛好家だった
彼女の遺志は、府の楽団への寄付であったということで、この 10 月末にもセンチュリーへの贈与が手続きされる運
びだ、と。
だが、奇特な浄財でたとえ一時はしのいだとしても、府に替わるスポンサーが現れないことにはたちまち存続不能と
なる。企業スポーツ崩壊の昨今でもある。はたして企業スポンサーなど、救いの手は伸びるものかどうか‥。
なんだか、橋下府政への呪詛の呻きが聞こえてきそうな、そんな一件だ。
- 326 20091001
これが河豚かと食べてゐる
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、11 月 16 日の稿に
11 月 16 日、曇、句会、今夜も昧々居の厄介になった
しぐれ日和である-去年もさうだつた-、去年の印象を新たにする庭の樹々-山茶花も咲いてゐる、八ツ手も咲いてゐ
る、津波蕗もサルビヤも、そして柿が二つ三つ残んの実を持つたまま枯枝をのばしている。
朝酒、何といふうまさだらう、いい機嫌で、昧々さんをひつぱりだして散歩する、そして宇平居へおしかけて昼酒、
また散歩、塩風呂にはいり二丘居を訪ね、筑紫亭でみつぐり会の句会、フグチリでさんざん飲んで饒舌つた、句会は
遠慮のない親しみふかいものだつた。
枕許に、水といつしょに酒がおいてあるには恐縮した、有難いよりも勿躰なかつた-昧々さんの人柄を語るに最もふ
さはしい事実だ-。
春風秋雨 花開草枯
自性自愚 歩々仏土
メイ僧のメンかぶらうとあせるよりも
ホイトウ坊主がホントウなるらん
酔来枕石 谺声不藏
酒中酒尽 無我無仏
※表題句の外、10 句を記す
20090930
寝酒したしくおいてありました
11 月 15 日、晴、行程 7 里、中津、昧々居
いよいよ深耶馬溪を下る日である、もちろん行乞なんかはしない、悠然として山を観るのである、お天気もよい、気
分もよい、7 時半出立、草鞋の工合もよい、巻煙草をふかしながら、ゆつたりした歩調で歩む、岩扇山を右に見てツ
イキの洞門まで 1 里、ここから道は下りとなつて深耶馬の風景が歩々に展開されるのである、-深耶馬はさすがらよ
かつた、といふよりも渓谷が狭くて人家や田園のないのが私の好尚にかなつたのであらう、とにかく失望しなかつた、
気持ちがさつさうとした、-略3 里下つて、柿坂へついたのが 1 時半、次の耶馬溪駅へ汽車に乗る、一路昧々居へ、一年ぶりの対面、いつもかはら
ない温情、よく飲んでよく話した、極楽気分で寝てしまつた。‥‥
※表題句の外、12 句を記す
―今月の購入本―
・坂本龍一・吉本隆明「音楽機械論」ちくま学芸文庫
四半世紀前の 1984 年、坂本の創作現場に吉本が立ち会い、当時先端の電子機器を用いた作曲手法を坂本が解説、音
楽が作品として屹立していくさまが具に描かれ、モードが変わりつつある文化の時勢、未来を予測する先見的な対話
が紡がれた。
・A・セゼール「帰郷ノート/植民地主義論」平凡社ライブラリー
1930 年代、フランス植民地主義の同化政策を批判し、黒人存在の文化的・政治的尊厳回復を訴える「ネグリチュード黒人性-」の思想を生み出し、その意識発展のドラマ「帰郷ノート」は、ブルトンらシュルレアリストたちに絶賛された。
- 327 ・山田風太郎「戦中派不戦日記」講談社文庫
まえがきに、私の見た「昭和二十年」の記録である。満 23 歳の医学生で、戦争にさえ参加しなかった。「戦中派不戦日
記」と題したのはそのためだ、と記す、歴史と死に淡々と向き合い対峙した克明な記録。初版 1973 年、文庫版は 1985
年。
・山田風太郎「人間臨終図鑑 -1-」徳間文庫
神は人間を、賢愚において不平等に生み、善悪において不公平に殺す-著者-、15 歳で火刑に死んだ八百屋お七にはじ
まり、脂の乗りきった 55 歳、ガンで逝った大川橋蔵までを網羅した、さまざま臨終の絵模様。初犯 1986 年。
・夢枕獏「上弦の月を喰べる獅子 -上」ハヤカワ文庫
あらゆるものを螺旋として捉え、仏教の宇宙観をもとに進化と宇宙の謎に、螺旋思考で肉迫する幻想 SF。初版 1989
年。
・武田一度「かしげ傘 -武田一度戯曲集」カモミール社
劇団犯罪友の会を主宰する、畏友武田一度の戯曲集第 2 弾、大正末の恋物語を描いた表題作、明治中期の大阪南部の
古い宿場を舞台にした「にほやかな櫛」、右翼のクーデター未遂事件を題材にした「手の紙」など 4 本を収録。解題に劇
評家渡辺保が一文を寄せている。
・平林敏彦「水辺の光 一九八七冬」火の鳥社
戦後の「廃墟」1951、「種子と破片」1956 以後、30 余年の長い沈黙を破って、再び書き始めた平林敏彦再生の、その契
機となった詩集。この発刊にただならぬ尽力した太田充弘より受贈。太田充弘は岸本康弘とともに「火の鳥」誌同人だ。
その他に、芥川賞の「終の住処」を掲載した「文藝春秋」9 月号、広河隆一編集「DAYS JAPAN」9 月号
―図書館からの借本―
・斎藤環「関係の化学としての文学」新潮社
関係が関係に関係する-関係性の四象限。関係の化学の作動を支えているのは、シニフィアンの運動である。もしそ
うであるなら、言語を直接の素材とする小説が、もっとも化学反応を呼び起こしやすいのも当然だ。どれほど衰退が
叫ばれようと、小説が読まれ続けるのは、ひとつにはこうした「関係の化学」の享楽ゆえである。他ジャンルの追随を
許さない関係性のリアリティゆえに‥。
・R.M.ネシー・G.C.ウィリアムズ「病気はなぜ、あるのか」新曜社
はたして人間にとって病気は憎むべき存在なのか? 進化生物学で得られた知見を医学に応用すると‥、ダーウィニ
アン医学から病気やケガ、老化などを読み解くとどうなるか。遺伝性の病気や感染症ばかりではなく、アレルギー、
精神障害、さらには嫉妬や妊娠といった性の問題にまで踏み込んでいる。
・宇沢美子「ハシムラ東郷」東京大学出版会
日系人ハシムラ東郷は、20 世紀初めに米国の新聞や雑誌のコラムの書き手として登場した。彼の書いたコラムは、
ユーモア文学の大家マーク・トエィンにも絶賛されるほど人気を博した。ところが、実は白人作家ウォラス・アーウ
ィンによって生みだされた「偽装-イエローフェイス-」の日本人だった。
20090928
鉄鉢、散りくる葉をうけた
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、11 月 14 日の稿に
11 月 14 日、霧、霜、曇、-山国の特徴を発揮してゐる、日田屋
前の小川で顔を洗ふ、寒いので 9 時近くなつて冷たい草鞋を穿く、河一つ隔てて森町、しかしこの河一つが何といふ
相違だらう、玖珠町では殆どすべての家が御免で、森町では殆どすべての家がいさぎよく報謝して下さる、2 時過ぎ
- 328 まで行乞、街はづれの宿へ帰つてまた街へ出かけて、造り酒屋が 3 軒あるので一杯づつ飲んでまはる、そしてすっか
りいい気持になる、30 銭の幸福だ、しかしそれはバベルの塔の幸福よりも確実だ。-略浜口首相狙撃さる-さふいふ新聞通信を見た時、私は終証義を読みつつ行乞してゐた、-無情忽ちに到るときは国王
大王親眤従僕助くるなし、ただ独り黄泉に赴くのみなり、己れに随ひゆくは善悪業等のみなり。-略明日の事-耶馬溪の渓谷美や、昧々さんとの再会や何や彼や-を考へて興奮したからだらう、2 時頃まで寝られなか
つた、かういふ身心では困るけれど、どうにもしようがない。-略※表題句の外、10 句を記す
―四方のたより― Info-Work Shop
四方館の身体表現 -Shihohkan’s Improvisation Danceその Keyword は、場面の創出。
場面の創出とは
そこへとより来たったさまざまな表象群と
そこよりさき起こり来る表象群と、を
その瞬間一挙に
まったく新たなる相貌のもとに統轄しうる
そのような磁場を生み出すことである。
20090926
あふるる朝湯のしづけさにひたる
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、11 月 13 日の稿に
11 月 13 日、曇、汽車で 4 里、徒歩で 3 里、玖珠町、丸屋
早く起きて湯にひたる、ありがたい、此地方はすべて朝がおそいから、大急ぎで御飯をしまうて駅へ急ぐ、8 時の汽
車で中村へ、9 時着、2 時間あまり行乞、ぼつぼつ歩いて 2 時玖珠町着、また 2 時間あまり行乞、しぐれてさむいの
で、ここへ泊る、予定の森町はすぐそこだが。
山国はやつぱり寒い、もうどの家にも炬燵が開いてある、駅にはストーブが焚いてある、自分の姿の寒げなのが自分
にも解る。-略吊り下げられた鉤にひつかかる魚、投げ与へられた団子を追うて走る犬、さういふ魚や犬となつてはならない、さう
ならないための修行である、今日も自ら省みて自ら恥ぢ自ら鞭つた。
寒い、気分が重い、ぼんやりして道を横ぎらうとして、あはや自動車に轢かれんとした、危ないことだつた、もつと
そのまま死んでしまへば却つてよかつたのだが、半死半生では全く以て困り入る。-略※表題句の外、5 句を記す
―四方のたより― 上弦月彷徨篇はまずまず
それぞれの Scene-Dance にお題をふった所為もあったのかもしれぬが、いまどきにしてはちょっと重い、些か重厚
に過ぎたかという全体の印象はあろうが、面白い箇所もふんだんにとはいかないがそこそこに、手前味噌ながらかな
り見応えのある一時間あまりとなった、本日の会であった。
土曜の昼下がり、前回に比べて客足はよくなかったものの、ずいぶん懐かしい顔がわざわざ運んでくれたのもうれし
かった。
扨、昨年からレギュラーで出演しくれているデカルコ・マリィを中心にさまざまなジャンルのアーティストたちが寄
り集って、大阪港は海岸通りのギャラリーCASO で、「デカルコマニィ的展開/青空展」が 10 月 27 日から一週間
- 329 行われる。昨年 7 月につづく第 2 弾だが、前回に増してにぎやかな顔ぶれが揃い、パワフルで愉快な祝祭週間となろ
う。
まだ日時のほどを確定させていないが、四方館もどこかで顔を出すことにしているので、決まればまたお知らせした
い。
20090925
また逢うた支那のおぢさんのこんにちは
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、11 月 12 日の稿に
11 月 12 日、晴、曇、初雪、由布院湯坪、筑後屋
9 時近くなつて草鞋をはく、ちょつと冷たい、もう冬だなと感じる、感じるどころぢやない、途中ちらちら小雪が降
つた、南由布院、この湯の坪までは 4 里、あまり行乞するやうなところはなかつた、それでも金 14 銭、米 7 合いた
だいた。-略もくもくともりあがつた由布岳-所謂、豊後富士-である、高原らしい空気がただようてゐる、由布岳はいい山だ、
おごそかさとしたしさとを持つてゐる。-略此地方は驚くほど湯が湧いてゐる、至るところ湯だ、湯で水車のまはつてゐるところもあるさうな。-略山色夕陽時といふ、私は今日幸にして、落日をまともに浴びた由布岳を観たことは、ほんたうにうれしい。-略同宿 3 人、みんな同行だ、みんな好人物らしい、といふよりも好人物にならなくてはならなかつた人々らしい、みん
な一本のむ、私も一本のむ、それでほろほろとろとろ天下泰平、国家安康、家内安全、万人安楽だ-と、しておく、
としておかなければ生きてゐられない-。
※表題句の外に、6 句を記す
―表象の森― 死にざまとは生きざま
山田風太郎の「人間臨終図鑑-1」-徳間文庫、初版単行本は 1986 年 9 月徳間書店刊-を読む。
第 1 巻は、15 歳で刑場の露となった八百屋お七にはじまり、長年テレビ時代劇の銭形平次を演じつづけた所為で結
腸癌を肝臓に転移させて 55 歳で急死した大川橋蔵まで、延べ 324 名を網羅し、ごくコンパクトにそれぞれの死にざ
まを活写するが、まさに、死にざまとは生きざまそのもの、であることよとつくづく感じ入る。
天誅組首領として 19 歳で殺された白面の貴公子中山忠光、その姉の子が後の明治天皇となった。スペイン風邪から
結核性肺炎を罹病した村山槐多は 23 歳だったが、その実自殺同然の死であったと。安政の大獄で殺された橋本左内
は 25 歳。大正 12 年、摂政宮-後の昭和天皇-を狙撃して絞首刑に処された難波大助も同じく 25 歳。明治維新まもな
く反逆罪に問われ梟首された若き熱血詩人雲井竜雄は 26 歳。北村透谷も石川啄木も 26 歳で逝った。日本映画創世記
の若き天才監督山中貞雄は日中戦争で召集され 29 歳で戦地に死す。「嵐が丘」を書いた早世のエミリー・ブロンテは
30 歳。大逆事件に連座して絞首刑となった菅野すがも同じ 30 歳。共産党の非合法下、築地署の留置場で特高らによ
って拷問死に至った小林多喜二も 30 歳だった。存命中はまったく認められず貧窮の内に 31 歳で病死したシューベル
ト。丸山定夫率いる移動劇団「桜隊」の一員として広島で被爆した宝塚出春の新劇女優園井恵子も 31 歳、原爆投下の
2 週間後に死んでいる。因みに桜隊は丸山以下全員が原爆の犠牲となって死んだ。敗戦後の日本人を悲しくも爆笑さ
せた怪異珍顔の落語家三遊亭歌笑は、銀座松坂屋の前で進駐軍のジープに撥ね飛ばされ即死したが、これも 31 歳の
若さであった。等々、拾い出せばキリがない。
20090924
ずんぶり浸る一日のをはり
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、11 月 11 日の稿に
- 330 11 月 11 日、晴、時雨、-初霰、滞在、宿は同前
山峡は早く暮れて遅く明ける、9 時から 11 時まで行乞、かなり大きな旅館があるが、ここは夏さかりの冬がれで、
どこにもあまりお客さんはないらしい。
午後は休養、流れに入つて洗濯する、そしてそれを河原に干す、それまではよかつたが、日和癖でざつとしぐれてき
た、私は読書してゐて何も知らなかつたが-谿声がさうさうと響くので-宿の娘さんが、そこまで走つて行つて持つて
帰つて下さつたのは、じつさいありがたかつた。
ここの湯は胃腸病に効験いちじるしいさうだが、それを浴びるよりも飲むのださうだ、田舎からの入湯客は一日に 5
升も 6 升も飲むさうな、土着の人々も茶の代用としてがぶがぶ飲むらしい、私もよく飲んだが、もしこれが酒だつた
ら! と思ふのも上戸の卑しさからだらう。-略暮れてから、どしや降りとなつた、初霰が降つたさうな、もう雪が降るだらう、好雪片々別処に落ちず。-略※表題句の外、9 句を記す
20090923
いちにち雨ふり一隅を守つてゐた
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、11 月 10 日の稿に
11 月 10 日、雨、晴、曇、行程 3 里、湯ノ平温泉、大分屋
夜が長い、そして年寄は眼が覚めやすい、暗いうちに起きる、そして「旅人芭蕉」-荻原井泉水著「旅人芭蕉抄」か-を
読む、井師の見識に感じ苦味生さんの温情に感じる、ありがたい本だ-これで三度読む、6 年前、2 年前、そして今日
-。-略
ここ湯ノ平といふところは気に入つた、いかにも山の湯の町らしい、石だたみ、宿屋、万屋、湯坪、料理屋、等々々、
おもしろいね。-略人生の幸福は健康であるが、健康はよき食慾とよき睡眠との賜物である、私はよき-むしろ、よすぎるほどの食慾を
めぐまれてゐるが、どうも睡眠はよくない、いつも不眠或は不安な睡眠に悩んでゐる、睡られないなどとはまことに
横着だと思ふのだが。-略※表題句の外、5 句を記す
―四方のたより― こんどはお題を
次の Dance Cafe も 3 日後に迫ってきた。
このたびはいつもと趣向を変えて、それぞれの Scene に小見出しを、お題を付けてみようと思い立った。
踊る方にも、また観る側にも、ひとつの手がかりにはなるだろう。もちろん、充てられた言葉が、却って阻害のタネ
となる懼れもある。あるが、ものは試し、である。
以下は、その構成的メモ
A-「日蝕-にっしょく-」
46 年ぶりの皆既日食だった 7 月 22 日、多くの人々が訪れたトカラ列島の悪石島では、時ならぬ荒れ模様の天候で観
測不能、嘆きと恨みの 6 分 25 秒となった。
天岩戸神話は皆既日蝕の物語化であると唱えたのは荻生徂徠にはじまるという、また、邪馬台国の卑弥呼が死んだと
される 248 年、日蝕が起こっていたとする説もある。
日蝕の残してゆきぬ蟇-ひきがえる- -石母田星人
B-「月暈-つきかさ-」
月暈も沼の光も白き夜はみそかに開く睡蓮の花 -横瀬虎壽
母逝くと電報うちて立もどる霜夜の月のつきがさくらし -岡麓
- 331 梅が香のたちのぼりてや月の暈 -一茶
C-「地震-なゐ・ぢなり-」
なゐ-古名-、古来<な>は地を、<ゐ>は場所を表し、地震が起こることを<なゐふる>-大地震える-と云った。
国一つたたきつぶして寒のなゐ -安東次男
D-「人外-にんがい-」
古語としては、人以外のもの、動物や妖怪を指す、転じて、道を外れた人、人でなし。昨今の Subculture では人外
何某と夥しくも盛んなこと。
E-「水鏡-みずかがみ-」
水鏡乱れし髪に手をやりて想い捨て去る夏待てぬ蝶 -menesia
田に水が入り千枚の水鏡とは -鈴木石男
水鏡してあぢさゐのけふの色 -上田五千石
F-「火車-かしゃ-」
悪事を犯した亡者をのせて地獄に運ぶ、火の燃えさかっている車をいう仏語。
烏山石燕-江戸中期の画人-が描く「図画百鬼夜行」などには妖怪としても登場する。
G-「風神雷神-ふうじんらいじん-」
中国古来には、雷公・雷鼓・風伯あり、密教では、波羅門の神を取り込んだ風天・帝釈天がある。
奈良生駒の竜田社の風祭に代表される風神祭は全国津々浦々にひろがって今にのこる。雷神は水神・火神の二面を備
えた最高神格ともみられ、古来天神として畏敬信仰されてきた。悲運のうちに太宰府で死んだ菅公が天神さんへと化
したように、御霊の猛威が雷神に象徴されることも多かった。
20090921
枯草、みんな言葉かけて通る
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、11 月 9 日の稿に
11 月 9 日、晴、曇、雨、后晴、天神山、阿南屋
暗いうちに眼が覚めてすぐ湯へゆく、ぽかぽか温かい身心で 7 時出発、昨日の道もよかつたが、今日の道はもつとよ
かつた、ただ山のうつくしさ、水のうつくしさと書いておく、5 里ばかり歩いて 1 時前に小野屋についたが。ざつと
降つて来た、或る農家で雨宿りさせて貰ふ、お茶をいただく、2 時間ばかり腰かけてゐるうちに、霽れてきた、小野
屋といふ感じのわるくない村町を 1 時間ばかり行乞して、それから半里歩いて此宿へついた。-略歩いてゐて、ふと左手を見ると、高い山がなかば霧に隠れてゐる、疑いもなく久住山だ、大船山高岳と重なつてゐる、
そこのお爺さんに山の事を尋ねてゐると-彼は聾だつたから何が何だか解らなかつた-そのうちにもう霧がそこら
一面を包んでしまつた。-略山々樹々の紅葉黄葉、深浅とりどり、段々畠の色彩もうつくしい、自然の恩恵、人間の力。-略山はいいなあといふ話の一つ二つ-三国峠では祖母山をまともに一服やつたが、下津留では久住山と差向ひでお弁当
を開いた、とても贅沢なランチだ、例のごとく飯ばかりの飯で水を飲んだだけではあつたが。
今日の感想も二三、-草鞋は割箸とおなじやうに、穿き捨ててゆくところが、東洋的よりも日本的でうれしい、旅人
らしい感情は草鞋によつて快くそそられる。
法眼の所謂「歩々到着」だ、前歩を忘れ後歩を思はない一歩々々だ、一歩々々には古今なく東西なく、一歩即一切だ、
ここまで来て徒歩禅の意義が解る。
山に入つては死なない人生、街へ出ては死ねない人生、いづれにしても死にそこないの人生。-略-
- 332 酒はたしかに私を世間的には蹉跌せしめたが、人間的には疑ひもなく生かしてくれた、私は今やうやく酒の緊縛から
解脱しつつある、私の最後の本格が出現しつつあるのである、呪ふべき酒であつたが、同時に祝すべき酒でもあつた
のだ、生死の外に涅槃なく、煩悩の外に菩提はない。-略今夜も水音がたえない、アルコールのおかげで辛うじて眠る、いろんな夢を見た、よい夢、わるい夢、懺悔の夢、故
郷の夢、青春の夢、少年の夢、家庭の夢、僧院の夢、ずゐぶんいろんな夢を見るものだ。
味ふ-物そのものを味ふ-貧しい人は貧しさに徹する、愚かなものは愚かさに徹する-与へられた、といふよりも持
つて生まれた性情を尽す-そこに人生、いや、人生の意味があるのぢやあるまいか。
※表題句の外に、25 句を記す、
その中に、「ホイトウとよばれる村のしぐれかな」もみえる
それにしても、この日の行乞記はやたら長い、文庫にしてちょうど 8 頁、話題は思うがままさまざまにとぶ。
―四方のたより― ながいまわり道
昨日の稽古に、山田いづみが参入。
ずいぶん古い話だが、’81 年か 2 年頃であったろう、たった一度きりだが、彼女は晴美台の私の稽古場に来たことが
あった。当時、神澤師に師事するようになって 2 年余りか、埋めきれぬものを抱いて心はすでに別なる世界を激しく
求めていたのだろう。若さゆえでもあるその激しさは、神澤師とは似て非なるとはいえ私の許とてまた同類同縁に映
るのもやむを得ず、別なる新天地を求める選択をこそ必要としたのではなかったか。
次に彼女と再会したのは、’87 年の春、少女歌舞劇シリーズの「ディソーダー」をもって参加した枚方演劇祭での、
劇団犯罪友の会-現・劇団 HANTOMO-の打上の宴だった。彼女は座長武田一度君の細君として宴の中に居た。後に私
は、武田君とも縁が出来て交わるようになり、今日まで折々それぞれ個別の付合いをしてきたことになる。
場合によっては長時間にわたるのも覚悟していた稽古のお手合せは、いざとなればごくゆるやかに、互いにご挨拶程
度のもので了とした。用意しておいた構成的メモ、これに基づいて少なくとも段取りめいたものがほぼ共有できたと
みえたからだ。彼女とていわば百戦の踊り手、自分なりにイメージが成ったとすれば、その時孰を本人に任せたほう
がよい。
終わって一緒に飯を喰った、やはり話が弾む。お蔭で私のなかに大きな課題が生まれた。いや正確には、以前より心
の底に秘めた宿願の如きもの、これに灯が点いた、現実に向き合うべき時期が到来しつつある、というべきか。
20090919
一寝入してまた旅のたより書く
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、11 月 8 日の稿に
11 月 8 日、雨、行程 5 里、湯ノ原、米屋
やつぱり降つてはゐるけれど小降りになつた、滞在は経済と気分が許さない、すつかり雨支度をして出立する、しよ
うことなしに草鞋でなしに地下足袋-草鞋が破れ易いのとハネがあがるために-、何だか私にはそぐはない。
9 時から 1 時間ばかり竹田町行乞、そしてどしどし歩く、村の少年と道づれになる-一昨々日、毛布売の青年と連れだ
つたやうに-、明治村、長湯村、赤岩といふところの景勝はよかつた、雑木山と水声と霧との合奏楽であり、墨絵の
巻物であつた、3 時近くなつて湯ノ原着、また 1 時間ばかり行乞、宿に荷をおろしてから洗濯、入浴、理髪、喫飯-飲
酒は書くまでもない-、-いやはや忙しいことだ。
ここは片田舎だけれど、さすがに温泉場だけのことはある-小国には及ばないが-、殊に浴場はきたないけれど、解放
的で大衆的なのがよい、着いてすぐ一浴、床屋からもどつてまた一浴、寝しなにも起きがけにもまたまた一浴のつも
りだ! -略夜もすがら瀬音がたえない、それは私には子守唄だつた、湯と酒と水とが私をぐつすり寝させてくれた。
- 333 ※表題句の外、8 句を記す
そのなかに、「雨だれの音も年とつた」の句がみえる
-日々余話- Soulful Days-29- 9.17 という日
17 日の朝、大阪地方検察庁に向かって車を走らせていたその途中、携帯が鳴ったので車を停めた。電話の主は息子
DAISUKE、彼にとっては祖母、私には嘗ての義母乃ち IKUYO の母親の死を伝えてきたものだった。
その日の朝、8 時 43 分頃、享年 92 歳だった、と。
もう 10 年近くになるか、弁護士だった夫に先立たれてからの其の人は、徐々に痴呆症状を呈してきていたと聞く。
しばらくは東京に居たのだが、IKUYO が波除に住むようになると同時に引き取って同居するようになった。IKUYO
とRYOUKO との3 人暮しがはじまったわけだが、朝早くから勤めに出るIKUYO と夜になってから出かけるRYOUKO
という対照的な暮し向きのなかで、近所の施設からのディサービスなどをうけながら老人の介護がとられてきたのだ
った。
昨年、RYOUKO の事故死が起こったその少し以前から、痴呆も重篤さを増してきていた其の人は、ショートスティ
を繰り返すかたちで施設暮しがはじまっていた。IKUYO は其の人に RYOUKO の不幸をけっして伝えなかった、いや
伝えられなかったのだろう。其の人は RYOUKO の死を知らぬままにこの世を去ったのである。互いの命日が 9 月 14
日と 17 日、一年をおいてなぜかほぼ重なるようにして。
私が大阪検察庁に着いたのは、ちょうど 10 時、約束の時間どおりだった。2 度ばかり電話で話したことのある事件
を引き継いだ検察官は、先の N 副検事とはまるで陰と陽、好対照の印象だった。此方の話を気さくに聞いてもくれた
し、私の出した書面のその細部についてもいろいろと尋ねてきた。ただ審理については、府警の科学捜査研究所の分
析結果が上がってこないかぎり、一向進まないわけで、検察はただ手を拱いて待つばかりなのだ。どうやら此方とし
ては、干渉の矛先を府警に向けなければ埒があかないらしい。
午後 1 時からは、近くの喫茶店で、相手方運転手 T の父親と、昨年暮れ以来の対面。
この動かぬ局面。検察の審理は Drive Recorder の一件以来、ひたすら待つしかない。民事訴訟はゆるゆる動いたと
しても、問題の本質=事故原因を審理するのは本筋でなく、これを俎上に乗せようとすれば、これまた相当の工夫と
根気がいるし、はたして叶うかどうかも疑問だ。
一周忌を迎えるにあたって、私はどうにも動かぬこの局面を打破したい、と身内から衝き動かされてきたらしい。そ
れが在日の疑惑を抱いて以来拒絶してきた T の父親との、一対一、ほぼ 3 時間に及んだ、直接の対話だった。
これまではいずれも事故当事者である息子 T を横に置いてのことで、その重荷から解放されての私との対面は、より
率直に、より素直に、彼自身まるごと顕わにされていたようであった。もちろん私はこれまでも、T と父親を前にし
て、いま彼がそうであるように、私自身をまるごとぶつけてもきたつもりである。
単刀直入、Drive Recorder の私なりの分析や所見について具にあからさまに伝えたし、この半年のあいだ私を苦し
めてきた彼の在日疑惑についても問うた。彼の経歴からしてもそう考えざるを得なかったし、これを否定する彼に、
経歴の一つひとつ、その経緯を質し、なお得心しかねてはまたも問うを繰り返した。在日になにがしかの偏見があっ
たわけではない、しかし、在日なれば、いまだこの日本の現実で、あってはならぬことだが、超法規的な行為もやれ
ぬことはない。私の頭のなかではこの半年ずっと、在日-捜査への圧力という図式が強固に成り立っていたものだか
ら、この疑惑を打ち消すには繰り返し問い質さざるを得なかったし、またこれを氷解させるのには時間を要した。
結果、彼は在日ではなかった。これを打ち消す応答振りを、私としては注意深く観察もしたつもりだが、彼の言葉に
一片の嘘も感じられなかった。最後はお互い笑顔で別れた。
いま私は、ある種の虚脱感に襲われながら、心のなかに膨張しつづけてきたこの疑惑を否定し、抹消しつつある。
20090917
- 334 Information-四方館 DANCE CAFF-「出遊-上弦月彷徨篇」
筧あふるゝ水に住む人なし
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、11 月 7 日の稿に
11 月 7 日、曇、夕方から雨、竹田町行乞、宿は同前
雨かと思つてゐたのに案外のお天気である、しかし雨が近いことは疑はなかつた、果して曇が寒い雨となつた。
9 時から 4 時まで行乞、昨年と大差はないが、少しは少ないが、米が安いのは的確にこたえる、やうやく地下足袋を
買ふことができた、白足袋に草鞋が好きだけれど、雨天には破れ易くてハネがあがつて困るから、感じのよいわるい
をいつてはゐられない。-略今夜も夜もすがら水声がたへない、階下は何だか人声がうるさい、雨声はトタン屋根をうつてもわるくない、-人間
に対すれば増愛がおこる、自然に向へばゆうゆうかんかんおだやかに生きてをれる。
月! 芋明月も豆明月も過ぎてしまつた、お天気がよくないので、しばらく清明の月を仰がない、月! 月! 月は
東洋的日本的乃至仏教的禅宗的である。
寝ては覚め、覚めては寝る、夢を見ては起き、起きてはまた夢を見る-いろいろさまざまの夢を見た、聖人に夢なし
といふが、夢は凡夫の一杯酒だ、それはエチールでなくてメチールだけれど。
※表題句は、11 月 6 日記載の中から
―日々余話―
今日という日は
こんなにいっぱい詰まって
なんという日なのか
いったい、ぜんたい、どうしたって!?
20090916
腰かける岩を覚えてゐる
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、11 月 6 日の稿に
11 月 6 日、晴后曇、行程 6 里、竹田町、朝日屋
急に寒くなつた、吐く息が白く見える、8 時近くなつてから出発する、牧口、緒方といふ町を行乞する、牧口といふ
ところは人間はあまりよくないが、土地はなかなかよい、丘の上にあつて四方の遠山を見遙かす眺望は気に入つた、
緒方では或る家に呼び入れられて回向した、おかみさんがソフトクフ-曹洞宗の意味!-といつて、たいへん喜んで下
さつたが、皮肉を言へば、その喜びとお布施とは反比例してゐた、また造り酒屋で一杯ひつかけた、安くて多かつた
のはうれしかつた、そこからここまでの 2 里の山路はよかつた、丘から丘へ、上るかと思へば下り、下るかと思へば
上る、そして水の音、雑木紅葉-私の最も好きな風景である、ずゐぶん急いだけれど、去年馴染の此宿に着いたのは、
もう電灯がついてからだつた、すぐ入浴、そして一杯、往生安楽国!
竹田は蓮根町といはれてゐるだけあつてトンネルの多いのには驚く、ここへ来るまでに8つの洞門くぐつたのである。
-略坊主枕はよかつたこんな些事でもうれしくて旅情を紛らすことがてぎる、汽車の響はよくない、それを見るのは尚は
いけない、ここから K 市へは近いから、1 円 50 銭の 3 時間で帰れば帰られる、感情が多少動揺しても無理はなから
うじやないか。-略同宿の老人はたしかに変人奇人に違ひない、金持ださうなが、見すぼらしい風采で、いつも酒を飲み本を読んでゐる。
※表題句の外、
すこしさみしうてこのはがきかく -元寛氏、時雨亭氏に
- 335 あなたの足袋でここまで三十里 -闘牛児氏に
など 13 句を記す
―四方のたより― 学舎の会だより
「きしもと学舎の会だより」第 11 号-09.09.10 発行-の会員への発送もほぼ了えたようである。
巻頭に置かれた岸本康弘自身の手紙形式の一文も、今回は体制転換の事もあって、ずいぶんと長くなっているが、以
下全文を掲載しておきたい。
「新たな支援体制をめざして!」
ご無沙汰しておりますが、その後も益々ご清栄のことと思います。ぼくは年齢のせいで手足がしびれて痛み、体は殆
ど動きません。先般いちおう帰国しました。
ぼくがネパール・ポカラで小学校を始めてから十三年になります。庶民無視の王政が倒れて三年になり、民主政治が
施行されています。しかし権力争いが絶えず、いまだに選挙も行われていません。ケータイ電話が急速に普及して貧
富の差が大きくなっています。資本主義社会は進展していきますが、多くの人は定職に就けず、家族それぞれの助け
合いの中で生きているのが現状です。ただ、余裕のある家庭の子弟たちは外国に進出する機会を狙っており、各国大
使館ではビザ発給の申請に来る人たちでいっぱいです。日本大使館も同様です。
人はそんなに富まなくても、学校である程度の知識を学び、それぞれが生み出した知恵を発揮して家族や友だちと仲
良く、つつがなく暮らして行けたら、幸せにちがいありません。
その、誰もが持てるはずの幸せが、ぼくがネパールに来た当時は不足していました。絶対王制下で学校も足りなかっ
たのです。それが三年前に国王が追い出され民主的な政治体制になり、ぼくが暮らすポカラ周辺にも公立学校や私立
学校もずいぶん増えてきました。
ぼくは、こうした変化を直に肌で感じながら、現地で体調を崩して入院した日々のベッドの中で、年齢とともにます
ます弱りゆくぼく自身に残された寿命と向き合いつつ、今後の処し方や学舎の運営などを見直していこう、と思い始
めたのでした。
たとえば、この学舎に通う子どもたちを、徐々に他の公立校へと移し、その子どもたちひとりひとりへの通学支援、
無償の奨学金支給をしていく形へと移行させるのはどうか、と。これなら子どもたちも安心だし、ぼくに万一ある時
-それはぼく自身の死以外のなにものでもないわけですが-も支援を継続できるかと思われます。
これからは、学舎の運営から、通学支援の形態へと移行をはかるとともに、支援体制の継続保証にも、万全を期して
いきたいのです。それには皆様のご支援こそ大きな励みであり、頼みともなります。
岸本学舎の発端は、ぼくが昔、足が不自由なために小学校を就学免除になり通学できなかった悔しさによるものです。
九歳で父が亡くなり貧困に耐えながら、独りで必死に勉強したのです。だから、幼い子どもたちに、ぼくの経験した
あの苦しみを味わせたくないし、非常に酷だと思うのです。その想いが、岸本学舎に繋がっています。
岸本学舎が誕生して丸十二年になりますが、時折、ポカラの路上で、学舎を終えてすでに結婚した女子に出会うこと
があります。嬉しいこともさることながら、時の流れの速さに驚いてしまいます。
いろいろと書いてきましたが、皆様には、よく事態をご理解いただき、変わらぬご支援を、切にお願い申し上げます。
ぼくも命のつづくかぎり努力してまいります。どうか、くれぐれもよろしく。
2009 年 9 月/岸本康弘
20090915
日が落ちかかるその山は祖母山
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、11 月 5 日の稿に
- 336 11 月 5 日、曇、三番町行乞、宿は同前
昨夜は蒲団長く長くだつた、これからは何よりもカンタン-蒲団の隠語-がよい宿でなければかなはない、此宿は主婦
が酌婦上りらしいので多少、いやらしいところがないわけでもないが、悪い方ではない。
山の町の朝はおくれる、9 時から 2 時まで行乞、去年の行乞よりもお賽銭は少なかったが、それでも食べて飲んで寝
るだけは十分に戴いた、袈裟の功徳、人心の信愛をありがたく感じる。-略豪家らしい家で、御免と慳貧にいふ、或はちよんびり米を下さる-与へる方よりも受ける方が恥づかしいほど-、そし
て貧しい裏長屋でわざわざよびとめて、分不相応の物資を下さる、-何といふ矛盾だらう、今日もある大店で嫌々与
へられた一銭は受けなかつたが、通りがかりにわざわざさしだされた茶碗一杯の米はほんたうにありがたく頂戴した。
入浴 3 銭、酒 20 銭、-これで私は極楽の人となつた。
今日は一句もない、句の出来ないのは気持の最もいい時か或は反対に気持の最もよくない時かである。-略いつ頃からか、また小さい蜘蛛が網代笠に巣喰うてゐる、何と可愛い生き物だらう、行乞の時、ぶらさがつたりまひ
あがっつりする、何かおいしいものをやりたいが、さて何をやつたものだらう。
※表題句は、11 月 4 日付の句から
祖母山というその山の名に、山頭火は、
「業やれ業やれ」といつも口癖のように呟いていた老祖母ツルが憶い出され、
大種田落魄から流転の日々の追憶を重ねては、ひとしきり涙にくれたのではなかったろうか。
-日々余話- Soulful Days-28- 再.Drive Recorder 解析
「ドライブレコーダーにみる事故状況及び原因に関する所見」
一、乙-T 車の無灯火運転について
資料-1のドライブレコーダー分析表<19>時点の映像には、事故直後、対向車線上で信号待ちする車両が映ってい
る。この車両の前照灯はロービーム状態にあると見られるが、その灯りが交差点路面を照射している状態が画面上に
おいても充分に視認できる。
また、分析表<9>から<13>における、対向車線から交差点を西へ直進している軽自動車においても、その前照灯が路
面を照射している状態が画面から視認できる。
しかるに、衝突事故直前の 2 秒間程、即ち分析表<14>から衝突の瞬間である<18>までの間、画面上において、甲-M
車の前照灯が照射している灯り以外に、路面の変化は見られない。この時、乙-T 車は時速 70km/h で対向車線を走行
してきた、と科捜班による現場検証において推定されているのだから、2 秒前なら衝突地点の約 39m 手前にあり、
前照灯が灯火されていたなら、画面上に逐次的に灯りの変化が見られる筈であるが、その変化はまったく覗えない。
よって、乙-T 車は無灯火運転であったと推定される。
二、乙-T 車の脇見運転について
T.K の主張によれば、乙-T 車の進路上において、右折しようとしている甲-M 車が、突然急停止したため、急遽制動動
作に入るも間に合わず衝突した、とのことである。
また、甲-M 車が右折行為からほぼ直進状態になったのは、分析表<15>あたりと推定されるが、この時の時速は
16.9km/h、さらに分析表<16>において僅かにアクセルを踏んで時速 21.1km/h を表示しているが、この間、0.510
秒と 0.490 秒、合わせて 1.000 秒であり、その移動距離は 2.394m と 2.872m、合わせて 5.266m であるから、この
間に、対向車線の右側端右折車線を通過し、ほぼ第一走行車線上で停止したと見られる。但しブレーキが踏まれたと
はいえ速度は 5.6km/h を表示しており、完全な停止ではない。分析表<17>から衝突時点の<18>までの 0.510 秒の間
に 0.794m と僅かに移動している。
- 337 さて、甲-M 車が、ゆっくりとだが右折直進行為に入りながら、なぜ急に停止しようとしたかであるが、M.K 自身、
事故当時を振り返りながら、何か気配のようなものを感じて、咄嗟に制動したというしかない、と語っている。
この時の M.K の、咄嗟の制動動作に仮に 0.6 秒要したとすれば、分析表<17>と<18>のごとく、甲-M 車停止から衝
突の瞬間まで 0.510 秒だから、計 1.11.秒となるが、この時点、乙-T 車は、時速 70km/h で、手前 21.583m にまで迫
っていることになる。瞬時のこととはいえ、真横からかなりのスピードで迫り来るものに、気配のようなものを感じ
て、というのは然もあらんと思われる。
もし、乙-T 車が前照灯を灯火していたなら、直進してくる車両を、もっと手前で、しかもはっきりと視認できたろう
が、一で推定されたように無灯火であったゆえ視認しえず、甲-M 車においては事故を避け得なかったものと推量で
きる。
さらに、乙-T 車だが、運転する T.K は、前照灯を投下し、ゆっくりと右折しようとしている甲-M 車の存在には、信号
手前はるか後方から一旦は視認し、気づいていたと見られる。そしてその折の判断は、速度を落とすことなくこのま
ま直進走行しても、甲-M 車は、右折直進を完了するものと予断したとも見られる。それから 1~2 秒の間、甲-M 車
から注意を逸らし、何か別事に気を取られたまま走行を続けた後、前方を注視した時には甲-M 車が停止しているの
を認め、瞬時に制動動作に入るも、まったく間に合わず衝突した。即ち脇見運転であった。
事故状況をこのように推量せぬかぎり、この項の初めに記したような主張はなし得ぬ、というものであり、またこの
推量はドライブレコーダーに即して合理的なものである。
一と二を総合するに、当該事故の原因は、乙-T 車にこそ無灯火にして脇見という重大な過失が存し、甲-M 車におい
ては細心の注意をはらいながら右折行為をしていたたにもかかわらず遭遇した、いわば不可抗力にも近く、その過失
は乙-T 車に比しきわめて小なるものであった、と推定するのが合理的である。
20090914
暮れてなほ耕す人の影の濃く
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、11 月 4 日の稿に
11 月 4 日、晴、行程 10 里と 8 里、三重町、梅木屋
早く起きる、茶を飲んでゐるところへ朝日が射し込む、十分に秋の気分である、8 時の汽車で重岡まで 10 里、そこ
から小野まで 3 里、1 時間ばかり行乞、そして三重町まで 8 里の山路を急ぐ、三国峠は此地方では峠らしい峠で、ま
た山路らしい山路だつた、久振に汗が出た、急いだので暮れきらぬうちに宿へ着くことが出来た。-略どちらを見ても山ばかり、紅葉にはまだ早いけれど、どこからともなく聞こえてくる水の音、小鳥の声、木の葉のそ
よぎ、路傍の雑草、無縁墓、吹く風も快かつた。-略行乞してゐると、人間の一言一行が、どんなに人間の心を動かすものであるかを痛感する、うれしい事でも、おもし
ろくない事でも。-略さすがに山村だ、だいぶ冷える、だらけた身心がひきしまるやうである、山のうつくしさ水のうまさはこれからであ
る。
「空に遊ぶ」といふことを考へる、私は東洋的な仏教的な空の世界におちつく外はない。
台湾毒婦の自殺記事は私の腸を抉つた、何といふ強さだ。
※表題句の外、16 句を記す
―日々余話― Soulful Days-27- 一年を経て‥
一周忌法要は無事恙なく終えた。無事恙なくとわざわざ記さねばならないのは、昨年の満中陰法要の席でのなんとも
言い難い苦い出来事がいまだ脳裡から離れないでいるためだ。
- 338 あれは長兄の発言からはじまった。
RYOUKO が事故で逝って、いずれは慰謝料等損害賠償金の問題が起こる。暮し向きは母親と同居していたにもかか
わらず、とうとう結婚する機縁を得ず、独り身のまま逝ってしまった彼女は、私の戸籍のうちにあるままだったのが
問題をこじらせた。遺族としての相続権は私と妻双方に互角にあることになってしまう。一言でいうなら、自身の道
楽な生きざまで身勝手に妻や子を捨て去った男、彼らにしてみれば、そんな像で括られるのが私だったろう。そんな
輩が苦労してきた母親と同様に遺族として対等の権利を有するのは不合理きわまるではないか。そんな想いが満中陰
に寄った多くの親族の心に痼りのようにさまざま張り付いていたのだろう。
いや、ほんとうのところを有り体に云えば、この不合理に対する心の痼りは妻の方にすでに起こっていた。突然降っ
て湧いたようなこの相続権を、私がどう考え、どうしようとしているか、私への妻の疑心暗鬼が、すでに親族たちに
漏らされ、伝播していたのだった。
離れた席で口火を切った長兄に、私は大声を張り上げて怒鳴り返した。法要の会席は一気に変じてどんでもない醜態
を曝した無惨な宴となってしまった。
身から出た錆とはまさにこのことだが‥、それにしても救い難く情けない一席であった。
ほぼ一年を経たこのたびの席は、さざ波さえ立つこともなく終始した。麻生和尚は私が持ち込んだ非母観音の掛軸を
快く祭壇の横に掛けて、滞りなく仏事を進行してくれたし、おまけに私の想いの一片をまるで代弁するかのように座
興に講じてもくれていた。
肝胆相照らすとは、互いに畏敬の念の裏付けがあってこそ成り立ちうるものだろうが、麻生和尚もまた有難く得難い
友である。
一夜明けて午後、MK の社長と K 氏を波除の仏前に迎えた。私は昨夜あらためて仔細に書き直した「ドライブレコー
ダーにみる事故状況及び原因に関する所見」を差し出して、私なりの事故原因の解釈を示した。現在、民事で係争中
の名目上の当事者ではあるが、係争相手の実体はむしろ損保会社なのだから、彼らに私どもの考えを明瞭に伝え置く
ことは決してマイナスには働くまいと思ったからだ。
20090913
ふる郷の言葉なつかしう話しつづける
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、11 月 3 日の稿に
11 月 3 日、晴、梢寒、延岡町行乞、宿は同前
だいぶ寒くなつた、朝は曇つていたが、だんだん晴れわたつた、8 時半から 3 時半まで行乞する、近来の励精である。
今日の行乞相はたしかに及第だ、乞食坊主としてのすなほさとほこりとを持ちつづけることが出来た、勿論、さうい
ふものが残つてゐるほど第二義的であることは免れないけれど。
うるかを買はうと思つたがいいのがなかつた、松茸を食べたいと思ふが、もう季節も過ぎたし、だいたい此地方では
見あたらない、此秋は松茸食べなかつただけぢやない、てんで見ることも出来なかつた、それにしても故郷の香り高
い味はひを思ひ出さずにはゐられない。
新米のお客さん 4 人、みんな同行だ、話題は相変らず、宿の事、修行の事、そしてヨタ話。
※表題句の外、1 句を記す
―四方のたより― Goodbye Arisa
アソカ学園は宗教法人浄光寺の経営する保育園である。今日は 11:00 から 2 階の本堂で RYOUKO の一周忌法要、そ
して 12:00 から 3 階の講堂兼運動室では稽古と、ダブルでお世話になる。
- 339 法要のあとの会席も終えて稽古場へと私が移動したのは、もう午後 2 時を過ぎていたか。まず、ありさの姿が眼に入
った。かれこれ 2 ケ月ぶりに見る彼女だが、この日でお別れ、来週からは東京に移り住んで、SBA-Sofia Ballet
Academy-に通うことになる。
稽古を終えた頃、ゆりママも、ヤングパパも、一緒に、お別れにやってきた。いつものように、いつもの店で。なに
しろ二度の上京暮しで、やっとありさが踏み出すべき道を見出したのだから、話題はふんだん、容易に尽きそうには
ない。
東京の向こうに見えるのは、サンクトペテルブルクの Vaganova Ballet Academy か、それともモスクワの Bolshoi
Ballet School か。2 年後、3 年後のありさは、どんな成長を見せてくれるのだろうか、正直なところ一抹の不安が脳
裡をかすめないわけではないが、ここはポンと背中を押してやるべきところだと思う。
汝自身を知れ
おのが器は大器たりや、その器にいかに水を盛るか
それは一大難事にはちがいないが
悠然と羽ばたいて欲しい。
20090912
跣足の子供らがお辞儀してくれた
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、11 月 2 日の稿に
11 月 2 日、曇、后晴、延岡町行乞、宿は同前
9 時から 1 時まで辛うじて行乞、昨夜殆ど寝つかれなかつたので焼酎をひつかける、それで辛うじて寝ついた-アル
コールかカルチモンか、どちらにしても弱者の武器、いやな保護剤だ。
同宿の同郷の遍路さんとしみじみ語つた、彼は善良なだけそれだけ不幸な人間だつた、彼に幸あれ。
※表題句は、10 月 31 日の稿に記載の句
―日々余話― 難行易行
毎日新聞朝刊の中折 2 面を使ったカラー版「農 and 食」の特集記事、先ず中央に配された、彼岸花の咲きほこる明
日香村神奈備の里の大きな写真が、読者の眼を惹きつける。
記事は大小 4 つ、京田辺市で、農薬なし肥料もなし、玉露や煎茶の画期的な無施肥無農薬栽培を確立し、普及にも努
めているのが小野さんという女性。この辺り、近くを流れる木津川の川霧が味を良くしてくれるという茶の名産地で
知られる土地柄だが、それにしても、天然灌水、土と太陽光だけでの栽培は、全国的にも存在しないそうな。その普
及活動を実践しているのが会員 200 名ほどを擁する NPO 無施肥無農薬栽培研究会で、ご当人の小野さんも理事とし
て活動を牽引している。
もう一つ、秋田県八郎潟の干拓地は米どころとして全国に知られるが、自由化の煽りで下がりつづける米価が、この
大潟村の農家を軒並み襲っている。コメ価格の将来不安は、水稲単作から野菜栽培などの複合経営へと走らせる。そ
んななかで馴れないトマトのハウス栽培に将来を託して悪戦苦闘を続ける農家だが、ここでもこだわりは無農薬。虫
に喰われ、形が揃わず、市場から出荷停止の苦い経験を味わいながら、失敗の蓄積が技術の蓄積へと変わっていく。
販売店も独自に開拓をしてきた。サンプルを抱えて百貨店やスーパーへ営業を重ね、こつこつと販路もひろげてきた、
と。
こういった話題に触れると、農-自然を相手に文字どおり耕すこと-のたゆまぬ工夫の積み重ね、その奥深さに、心
衝かれ自ずと頭の垂れる想いにとらわれる。自身に振り返れば、大地相手の農の真似ごとなど思いもよらぬ不可能事
だが、おのが日常とする、人事の内での耕の類など、なにほどもない易行の道なのだとも思えて、反省することしき
りだ。
- 340 -
20090911
光あまねく御飯しろく
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、11 月 1 日の稿に
11 月 1 日、曇、少雨、延岡町行乞、宿は同前
また雨らしい、嫌々で 9 時から 2 時まで延岡銀座通を行乞、とうとう降り出した、大したことはないが。-略隣室の老遍路さんは同郷の人だった、故郷の言葉を聞くと、故郷がひとしほ懐かしくなつて困る。‥
女房に逃げられて睾丸を切り捨てた男-その男が自身の事を喋りつづけていた、多分、彼はその女房の事で逆上して
ゐるのだらう、何にしても特種たるを失はなかつた。
G さんに、-我々は時々「空」になる必要がありますね、句は空なり、句不異空といつてはどうです、お互にあまり考
へないで、もつと、愚になる、といふよりも本来の愚にかへる必要がありますね。-略※表題句の外に、1 句を記す
―四方のたより― ’09. DANCE CAFE 第 3 弾
もう 2 週間ほどに迫ってしまったが、DANCE CAFE のお知らせ
このたびは土曜の昼下がり、この日は上弦の月にあたる
暦のページによれば、月の出が 13:09、正中は 18:00 頃で、月没は 22:53 だと
昨年の夏から仲間になって、DANCE CAFE でも馴染みになったありさは、バレエ修業のため、いよいよ上京するこ
とになった。稽古場は少し寂しくなるが、まあ元々、彼女の精神的平衡を得るために通っていたようなものだから、
機が熟して、飛び立つべき時が来れば、とりあえずお別れになるのは、お互い織り込み済みのこと、みんなで笑って
送り出してやろう。
こんどの DANCE CAFE では、山田いづみさんを Guest にお誘いした。
彼女は若い頃の数年を神澤師にも教えを請うていた。だから’80 年頃からの知り合いだし、同門の後輩ともなるが、
縁はそればかりではない、HANTOMO-劇団犯罪友の会-の主宰者武田一度君の細君でもあるし、デカルコ・マリィこ
と清水君とも仲間内のようなものだし、交友の図は二重三重に重なり合っている。
‘83 年から自立、BRICKS DANCE COMPANY を主宰してきた舞踊の実績は申し分ない。国内だけじゃなくパリ公演
など海外でもいくたびか重ねてきている。
さて、どんな競演模様が描かれることになるか、そいつは見てのおたのしみ、
願わくは、お誘い合わせてお出でましを。
四方館 DANCE CAFE -’09 vol.3出遊 -上弦月彷徨篇- あそびいづらむ-じやうげんのつきさすらひへん
Date :9/26 –Sat- PM2:00
Space : 弁天町市民学習センター
Admission Fee : ¥1,500
白川静の曰く…
南に喬木あり 休ふべからず
漢に遊女あり 求むべからず –詩経・漢広喬木ありとは、女神出現の暗示である
- 341 遊女とは、出行する女神である
隠れたる神々の、出遊-
幽顕の世界に自在に往来することが、遊であり、逍遥である
それはまた、真と仮とのあいだ、である
Dance : 末永純子
岡林 綾
かおるこ
デカルコ・マリィ
山田いづみ
Sound-viola : 大竹 徹
percussion : 田中康之
Coordinate : 林田 鉄
20090910
ゆきゆきて倒れるまでの道の草
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、10 月 31 日の稿に
10 月 31 日、曇后晴、行程 4 里、延岡町、山蔭屋
風で晴れた、8 時近くなつて出発、途中土々呂を行乞して 3 時過ぎには延岡着、郵便局へ駆けつけて留置郵便を受取
る、20 通ばかりの手紙と端書、とりどりにうれしいものばかりである-彼女からの小包も受取つた、さつそく袷に着
換へる、人の心のあたたかさが身にしみこむ-。-略此地方の子供はみんな跣足で学校へゆく-此地方に限らず、田舎はどこでもさうだが-、学校にはチヤンと足洗ひ場が
ある、ハイカラな服を着てハイカラな靴を穿いた子供よりもなんぼう親しみがあるか知れない。-略三日振に湯に入つて髯を剃つて一杯ひつかけた、今夜はきつといい夢をみることだらう!
※表題句の外、5 句を記す
―日々余話― 保冷ボトルの旅
今朝、ピンポーンと玄関のチャイム、東京からの宅急便、中身は保冷ボトル。
じつは、日曜日の神澤師七回忌イベントから帰る際、うっかり忘れたのが件の保冷ボトル、娘の KAORUKO のだ。
帰路について、車を 30 分ほども走らせたところで、KAORUKO が大きな声を上げた。
「水筒、ない! 忘れた?」
あわてて U ターン、取って返したが、宴の後もすでに閑散として、人影はまばら。
どうやら、もう一組居た親子連れの忘れ物と勘違いされたらしく、その親子の知人が「渡してあげる」と、ご丁寧に
持ち帰ったらしい。
親子連れも、その知人も、東京方面からの、遠来の客人だった。
というわけで、この保冷ボトル、東京まで三泊四日もの長旅をして、今朝、主人 KAORUKO の許へと、無事ご帰還
なさったのだった。
20090909
尿するそこのみそはぎ花ざかり
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、10 月 30 日の稿に
- 342 10 月 30 日、雨、滞在、休養、同前宿
また雨だ、世間師泣かせの雨である、詮方なしに休養する、一日寝てゐた、一刻も早く延岡で留置郵便物を受取りた
い心を抑へつけて、-しかし読んだり書いたりすることが出来たので悪くなかつた、頭が何となく重い、胃腸もよろ
しくない、昨夜久しぶりに過した焼酎のたたりだらう、いや、それにきまつてゐる、自分といふものについて考へさ
せられる。
今日一日、腹を立てない事
今日一日、嘘をいはない事
今日一日、物を無駄にしない事
これが私の三誓願である、腹を立てない事は或る程度まで実践してゐるが、嘘をいはない事はなかなか出来ない、口
で嘘をいはないばかりでなく、心でも嘘をいはないやうにならなければならない、体でも嘘をいはないやうにならな
ければならない、行持が水の流れるやうに、また風の吹くやうにならなければならないのである。
行乞しつつ腹を立てるやうなことがあつては所詮救はれない、断られた時は、或は黙過された時は自分自身を省みよ、
自分は大体供養を受ける資格を持つてゐないではないか、応供は羅漢果を得てゐるものにして初めてその資格を与へ
られるのである、私は近年しみじみ物貰ひとも托鉢とも何とも要領を得ない現在の境涯を恥ぢ且つ悲しんでゐる。
そして物を無駄にしない事は一通りはやれないことはない、しかししんじつ物を無駄にしない事、いひかへれば物を
活かして使ふことは難中の難だ、酒を飲むのも好きでやめられないなら仕方ないが、さて飲んだ酒がどれだけの功徳
-その人にとつては-を発揮するか、酒に飲まれて酒の奴隷となるのでは助からない。‥‥
今日は菊の節句である、家を持たない私には節句も正月もないが、雨のおかげでゆつくり休んだ。
降る雨は、人間が祈らうが祈るまいが、降るだけは降る、その事はよく知つてゐて、しかし、空を見上げて霽れてく
れるやうにと祈り望むのが人間の心だ、心といふよりも性だ、ここに人間味といつたやうなものがある。-略一日降りつづけて風さへ加はつた、明日の天候も覚束ない、ままよどうなるものか、降るだけ降れ、吹くだけ吹け。
※表題句の外、7 句を記す
―日々余話― Soulful Days-26- 悲母観音に‥
空も、風も、ようやく秋の色
9 月 9 日、昨年の今日、それは午後 8 時 15 分頃だった、とされている
夜とはいえ、見通しのよい広い交差点内で起こった、右折車と直進車の衝突事故
直後より脳死状態となっていた RYOUKO は、5 日後、その命を絶たれた
甲乙、二人の運転手の刑事責任について、いまだ、検察庁の取り調べは、膠着状態のままだ
1 年、365 日、8,760 時間、525,600 分、31,536,000 秒
その一瞬、その 1 秒さえなければ、あの人なつこい笑顔に、いつでも会えたものを
偶然の悪戯とは、これほど酷いものか‥
先日、「悲母観音」が、ようやく届いた
東京芸術大学所蔵の、狩野芳崖の悲母観音
美術書などではともかく、その実物を、この眼で観たのは、事故の一週間前、9 月 2 日であった
額装の、その原寸は 1808mm×867mm
小学館が復刻出版した軸装は、外寸こそ 1840mm×580mm だが
作品本体のほうは、990mm×440mm、原画の 51%大と、些か小振りなのは、致し方あるまい
一周忌の法要を、この日曜日、浄光寺で営むことになっているが
席上、この悲母観音を掲げ、仏となるべき RYOUKO を、荘厳してやりたい、と考えてきた
- 343 それが、仏法の儀礼に、適うか否か知るはずもないが、そんなことはお構いなし‥
RYOUKO よ、おまえは、悲母観音になるのだ
20090908
からりと晴れた朝の草鞋もしつくり
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、10 月 29 日の稿に
10 月 29 日、晴、行程 2 里、富高、門川行乞、坂本屋
降つて降つて降つたあとの秋晴だ、午前中富高町行乞、それから門川まで 2 里弱、行乞 1 時間。
けふの行乞相もよかつた、しかし、一二点はよくなかつた、それは私が悪いといふよりも人間そのものの悪さだらう!
4 時近くなったので此宿に泊る、ここにはお新婆さん宿といつて名代の宿があるのだが、わざと此宿に泊つたのであ
る、思つたよりもよい宿だ、いわしの刺身はうまかつた。
なかなかよい宿だが、なかなか忙しい宿だ、稲扱も忙しいし、客賄も忙しい、牛がなく猫がなく子供がなく鶏がなく、
いやはや賑やかなことだ、そして同宿の同行は喘息持ちで耄碌してゐる、悲喜劇の一齣だ。
※表題句の外、1 句を記す
-日々余話- きしもと学舎の行く末
一昨夜と昨夜、きしもと学舎だよりのレイアウト作業に没頭。残すはプリントアウトに持込むのみとなった。
岸本康弘は、7 月上旬に帰国しており、以後何回か会って会報作りについても話し合ってきのだが、年齢とともに体
力の衰えばかりか、障害からどんどん動きづらくなっているようで、ポカラの学校運営もいよいよその在り方を考え
なければならなくなってきている。
学舎の転換を図らねばならぬ。万一ある時に備えて、ソフトランディング出来る態にしておかねばならぬ。
学校運営から通学支援へ、転換していくしかないということ。
そんな話し合いの中で、今回は私も原稿を書かねばならぬ羽目となった。以下はその転載である。
民主化の流れ、公教育の充実と拡大のなか、なお学校に行けない子どもらのために
-学校運営から、通学支援-無償の奨学金支給制-へ-転換をめざす
松葉杖を唯一の友として、日本中をさすらい、世界中をさすらった、その果てに
なお燃え尽きない、生命の火の、その末期の住処として
世界の最高峰ヒマラヤの山々に抱かれた、ネパールの町ポカラに
貧困の子らの未来を紡ぐ、学校を建てよう、と
車椅子の詩人・岸本康弘の、この稀有な発心から、ポカラきしもと学舎の事業が始まったのは’97 年
民主化の流れで、立憲君主制から共和制へと、激動するネパール情勢に翻弄されつつも
‘01 年には、現地 NPO 法人 HDSS を設立、政府認可の学校として、ネパール岸本スクールへと変身
ポカラとの往来暮しも、今年はすでに 13 年目を迎えました
岸本康弘は、この間ずっと、自身の障害からくる体力の衰えと、病魔の浸蝕に抗いつつ
この限られた余命のなかで
きしもと学舎の会のみなさまの、温かい支援、溢れる善意に支えられつつも
いわば徒手空拳で取り組んできた、生命の火の事業、ポカラでの学校運営を
- 344 いかに守りぬくべきか、またどのようなゴールをめざすべきか、考えぬいてきました
いま、ネパールは、民主化はなったとはいえ、不安定な連立政権の下
なお流動的な情勢にあって、さまざま波乱含みであることは、よくご承知のことと思います
とはいえ、この十数年で、国民の識字率は、若年層において格段の上昇を示しており
全土的な公教育の充実、拡大のなかで、初等教育における就学率も、また格段に上昇しています
それでもなお、貧困ゆえに学校に行けない、最下層の、ひとにぎりの子どもたちがいます
ネパール政府は、そういった子どもたちに、その親たちに向けて、就学を奨励喧伝すれども
経済的な援助施策を採るなど、まだまだ到底望むべくもありません
貧しく虐げられたこの子らのために、限られた余命のなか、自身に課すべきはいったいなにか?
いったいどのようなかたちが、望ましいものであるか?
それは、富める者も貧しき者も区別なく、また残存するカーストなどによる差別もなく
どんな子どもたちもみな等しく、同じ学び舎に通い、育つことでありましょうか
ささやかなりとも、この 12 年の歳月、灯しつづけたその一燈を
岸本康弘は、きしもと学舎の会は
この先、一両年をかけて
学校運営から、通学支援-無償の奨学金支給制-へと
その使命を、転換していきたい、と考えています
20090907
波の音しぐれて暗し
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、10 月 28 日の稿に
10 月 28 日、曇、雨、行程 3 里、富高町、成美屋
おぼつかない空模様である、そしてだいぶ冷える、もう単衣ではやりきれなくなつた、君がなさけの袷を着ましよ!
行乞には早すぎるので-四国ではなんぼ早くてもかまはない、早くなければいただけない、同行が多いから-、紅足馬
さんから貰つてきた名家俳句集を読む、惟然坊句集も面白くないことはないけれど、隠者型にはまつているのが鼻に
つく、やつぱり良寛和尚の方がより楽しめる。-略ずいぶん降つた、どしや降りだ、雷鳴さへ加はつて電灯も消えてしまつた、幸にして同宿の老遍路さんが好人物だつ
たので、いろいろの事を話しつづけた、同行の話といふものは-或る意味に於て-、面白い。-略※表題句の外、10 句を記す
―表象の森- 師七回忌に何を幕引く
あの山の名が知りたい
不意にそう思った
名を知れば
山と一つになれる
草の名を
知りたかったように
- 345 この短い詩は、神澤和夫師が逝かれた、その年の、年詞に綴られていたものだ。
師の七回忌にあたり、所縁の者たちで「アンティゴネー」の上演会を行い、偲ぶ集いとしようと計画があるというこ
とについては、すでに先に触れている。
昨日、まさに師の命日にあたる日、学園前の住宅街のはずれ、竹林にかこまれた小高い山中、師の自宅兼稽古場に集
ったのは 100 名近くに及んだであろうか。
長男和明氏による訳・構成の舞踊劇とされた「アンティゴネー」は、意外にも演劇性の勝った世界であった。客席の
中央に座して上演を見守っていた河東けいさん、さらにヒロインのアンティゴネーやクレオンを演じた俳優が関西芸
術座所属であったことを符号するに、和明-照明の新田三郎ラインから河東けいさんの協力に与ったものと覗えた。
他に、劇団いかるがから 2 名、シアター生駒から 1 名。昨今、地域における劇団づくりがかなり盛んだが、これらも
和明氏関わりのサークルかと思われるが、如何せん、その演技はまだまだ未熟といわざるを得ず、関芸の二人もまた、
ギリシア悲劇を演じるには、コトバの立つ力に乏しく迫力不足、アンサンブルにおいても未だしの感で、総体に付焼
刃の準備不足か。
踊る人たちの構成もまたキャリアの不均衡が目立つのは些か悩ましく、もっと陣容を整えられようものを、どんな基
準で声をかけていったものか、その選択に疑問は残る。
神澤師の遺産、その有意の人脈を相応に活かしたならこの程度で収まろう筈はあるまいに、全体の印象を一口でいう
ならば、当事者たる和明氏と茂子夫人、両者のこの取組が恣意性に流れてしまった結果ではなかったか、と思われる。
それにしても、客として立ち会った人々、ここでも私の知る人はずいぶんと少なかった。伊藤茂、升田光信、藤井章、
千葉綾子、渡辺ルネ、奥田房子、金子康子、それに中原喜郎夫人の絹代さん、昔懐かしい松田春子さんと松田友絵さ
んの両松田、めぼしいところでそんなところ。裏方として支えていたのが、矢野賢三、山城武、西野秀樹。なにしろ
踊った人々13 人の内、私の知るのは、指村崇と高木雅子、それに高山明美と浜口慶子と神原栄子-旧姓・梯-のたった 5
人だ。
客席においてもまた、主催側の恣意的な選別がおおいに働いてしまっているわけだが、古くから研究所に拠り来り、
神澤の舞踊を支えてきた多くの戦士たちがこの場に臨み得ぬことの、悲しい寂寥感に襲われては、胸中侘びしい風が
吹き抜ける。
今日この日、ここにおいて、神澤師が生き、茂子夫人が生き、そしてわれわれ、おそらくは数百に及ぶ無名の仲間た
ちが生きた神澤研究所、稽古場の灯は、この現実の世界に潰えて、はっきりと幕を閉じたのだ。
20090906
ひとりきりの湯で思ふこともない
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、10 月 27 日の稿に
10 月 27 日、晴、行程 3 里、美々津町、いけべや
けさはまづ水の音に眼がさめた、その水で顔を洗つた、流るる水はよいものだ、何もかも流れる、流れることそのも
のは何といつてもよろしい。-略途上、愕然として我にかへる-母を憶ひ弟を憶ひ、更に父を憶ひ祖母を憶ひ姉を憶ひ、更にまた伯父を憶ひ伯母を憶
ひ-何のための出家ぞ、何のための行脚ぞ、法衣に対して恥づかしくないか、袈裟に対して恐れ多くはないか、江湖
万人の布施に対して何を酬ゐるか-自己革命のなさざるべからずを考へざるを得なかつた-この事実については、も
つと、もつと、書き残しておかなければならない-。-略今日も此宿で、修行遍路ではやつてゆけない実例と同宿した、こんなに不景気で、そしてこんなに米価安では誰だつ
て困る、私があまり困らないですむのは、袈裟の功徳と、そして若し附けくわへることを許されるならば、行乞の技
巧とのためである。
入浴、そして一杯ひつかける、-これで今日の命の終り!
- 346 ※表題句の外、1 句を記す
―日々余話― 遠きと近きと
垣根を越えた同期会といえば、たしかにそう言えなくもない。
私の出身中学は、今の大阪ドーム横にある西中学校だ。卒業が昭和 35 年だからちょうど 50 年前、新制 11 期生にあ
たるが、これまで 50 年、同窓会など一度たりとも聞いたことがなかった。前後する先輩後輩の期においてもそんな
話を漏れ聞いたこともない。かすかに記憶に残るのは、出身生だったのか二代目の桂春蝶を招んで、卒業生全体に呼
びかけた同窓会の如き催しが、いつだったかなされたように思うが、勿論これに出席していない。
西中校下には、九条東小、九条北小、九条南小の 3 校がある。私らの南小では、20 代の頃に 2 度ばかりと、それか
らぐんと年月を経て、50 代に入る頃から再開され、以後 3 年間隔ほどのペースで行われてきた。
東小では、卒業生に九条新道の商店主などが多い所為もあり、彼らを中心にあまり途切れることなく行われてきたよ
うだが、人口密集地を背景に最も児童が多かった北小では、うまく音頭取りが出なかったか、ずっと行われてこなか
ったらしい。
昨夜の同期会企画は、地域興しとして長年「九条下町ツアー」を催してきた谷口靖弘君周辺から起きてきたものだ。卒
業して 50 年となれば、今年みな 65 歳となり、いわゆる高齢者の仲間入りというわけだが、そんなことが動機となっ
たか、彼らは東小に限らず、この際いっそ南・北へもひろげて、西中同期会へとシフトさせようとしたものだった。
急な話だったけれど、在学時、歴史の先生で、当時から新進の考古学者として発掘調査などに活躍していた藤井直正
さんも出席されるというので、協働するのもよいのではないかと思った。
集ったのは計 38 名、言いだしべえの東小卒が過半を占め 20 名、北小卒が 9 名、南小卒が 8 名、中学のみ在籍が 1
名という内訳。まさに 50 年ぶりに出会す顔ぶれが大勢いるものだから、名札を付けていてくれても、顔と名前が結
ばれ、遠い記憶が蘇ってくることにもかぎりがある。まず 3 割は初見の未知の人同然、4 割ほどはなんとかその人と
形-なり-が思い起こせる人々、残る 3 割が記憶も鮮やかにこもごも会話の弾む者たち、といったところ。わずか 40
名ほどの集いで、この遠さと近さのずいぶんな懸隔には、些か戸惑いがはしる。一座は谷口君らの周到な準備と工夫
で、まあ賑やかに進行されたが、未知にも等しい遠さは回復させようもないのだから、新たな出会いとしてこのたび
この座から関係を出発させるしかない。
懐かしくも、遠きと近きとが混在して、ちょっと変わった味わいの一夜だった。
20090904
よいお天気の草鞋がかろい
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、10 月 26 日の稿に
10 月 26 日、晴、行程 4 里、都濃町、さつま屋
ほんとうに秋空一碧だ、万物のうつくしさはどうだ、秋、秋、秋のよさが身心に徹する。
8 時から 11 時まで高鍋町本通り行乞、そして行乞しながら歩く、今日の道は松並木つづき、見遙かす山なみもよか
つた、4 時過ぎて都濃町の此宿に草鞋をぬぐ、教へられた屋号は「かごしまや」だつたが、招牌には「さつまや」とあつ
た、隣は湯屋、前は酒屋、その湯にはいつて、その酒屋へ寄つて新聞を読ませて貰つた。-略米の安さ、野菜の安さはどうだ、米一升 18 銭では敷島一個ぢやないか、見事な大根一本が 5 厘にも値しない、菜葉
一把が 1 厘か 2 厘だ、私なども困るが-修業者はとてもやつてゆけまい-農村のみじめさは見てゐられない。-略早く寝たが、蚤がなかなか寝せない、虱はまだゐないらしい、寝られないままに、同宿の人々の話を聞く、競馬の話
だ、賭博本能が飲酒本能と同様に人生そのものに根ざしてゐることを知る-勿論、色、食の二本能以外に-。
※表題句の外、「まつたく雲がない笠をぬぎ」など 9 句を記す
- 347 20090903
山風澄みわたる笠をぬぐ
―山頭火の一句―昭和 5 年の行乞記、10 月 25 日の稿に
10 月 25 日、晴曇、行程 3 里、高鍋町、川崎屋
晴れたり曇ったり、かはりやすい秋空だつた、7 時過ぎ出発する、二日二夜を共にした 7 人に再会と幸福を祈りつつ、
別れ別れになつてゆく。
私はひとり北へ、途中行乞しつつ高鍋まで、1 時過ぎに着く、2 時間ばかり行乞、此宿をたづねて厄介になる、聞い
た通りに、気安い、気持よい宿である。
今日は酒を慎んだ、酒は飲むだけ不幸で、飲まないだけ幸福だ、一合の幸福は兎角一升の不幸となりがちだ。
今夜は相客がたつた一人、それもおとなしい爺さんで、隣室へひつこんでしまつたので、一室一人、一灯を分けあつ
て読む、そして宿のおばあさんがとても人柄で、坊主枕の安らかさもうれしかつた。
20090902
笠に巣喰うてゐる小蜘蛛なれば
―表象の森― 嗚呼、シラフジアカネ
いやぁ、ビックリした。
4 日前の 8/29、土曜の夜のことだが、生駒山脈の北、飯盛山の麓は四条畷神社の近く、黄昏時のえにし庵ではじまっ
た麿赤児 VS 梅津和時の Live Session に、突如、放り出されるように半裸姿で這い出てきたのは、誰あろうシラフジ
アカネ-白藤茜-だった。
そういえば、始まる前の会場を、車椅子に乗せられたぽっちゃりと小太りの男が、すでに酒に酔っているのか、あっ
ちへ行ったりこっちへ行ったりとしているのを眼にしていたが、そうか、あの酔っぱらいが白藤茜だったのか‥。
それにしても、この懐かしいような既視感に満ちた光景は、どうしたことか。おそらく 30 年の時空を隔てたある一
コマが、ここに再現されようとしているにちがいないのだが、それを在らしめんとする執着、それは妄執にも近いも
のだとしても、それを孕みうる白藤茜自身と、これを受容しうるばかりか、むしろ喝采をあげて享楽のタネにもして
しまおうという祝祭の場とは‥。これをしも Event の仕掛人石田博の胸の内にあったとすれば、彼の企図に脱帽しな
ければなるまい。
8/9 の項でも記したが、麿赤児率いる大駱駝艦が、京都曼珠院横に設えられた盤船伽藍なる野外劇場で「海印の馬」を
上演したのは、80 年の秋であった。この時のポスター・チラシが掲げた写真だが、これをデザインしたのが石田博で
あり、ゲスト出演として白藤茜が名を連ねてもいる。
この特異な盤船伽藍なる野外劇場の建設も、60 年代末より、元京都府学連委員長だった高瀬泰司らを中心に、西部
講堂に拠った活動家たちの運動からひろがっていったネットワークの数多の者らが、手弁当の労働で大いに与ったも
のだった筈だ。それは 87 年の「鬼市場」の仕掛や設営にしても然りだったろう。
後に、幾たびかの海外公演や国内各所での再演で、大駱駝艦の代表作ともされる「海印の馬」という公演タイトル自体、
この時に初めて使われているところを見れば、この名付けが、必ずしも麿赤児自身からではなく、この企画を発案し
支えた者たちのなかから創案されたものではなかったか、とさえ思われる。
そういったことを背景にしてみれば、異形白塗りの麿赤児を前にして、左半身の麻痺が老いゆくとともに進行し、も
はや自ら立つこともならず、また容易に這うこともならない不自由な五体を、ただ曝すばかりの白藤茜との対照、そ
の競演は、夜の帷が降りゆき、雲隠れしては顔を出す半月の下、篝火と二つ三つのスポットに照らされて、夏の名残
の夜の夢幻のひとときか、胸中去来するもの曰くなんとも言い難し‥。
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、10 月 23 日の稿に
- 348 10 月 24 日、雨、滞在、休養、宿は同前-富田屋雨、風まで吹く、同宿者 7 人、みんな文なしだから空を仰いで嘆息してゐる、しかし元来ののんき人種だから、火も
ない火鉢を囲んで四方八方の話に笑ひ興じる。-略長い退屈な一日だつた、無駄話は面白いけれど、それを続けると倦いてくる、-略晩酌には、同病相憐れむといつた風で、尺八老に一杯おせつたいした、彼の笑顔は焼酎一合のお礼としては勿体ない
ほどよかつた。
明日は晴れる、晴れてくれ、晴れなければ困るといふ気分で、みんな早くから寝た、私だつて明日も降つたら、宿銭
はオンリヨウだ、-オンリョウとはマイナスの隠語である。オンリヨウ-とはマイナスの隠語である。
20090831
穿いて下さいといふ草鞋を穿いて
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、10 月 23 日の稿に
10 月 23 日、曇、雨、佐土原町行乞、宿は同前-富田屋あぶないお天気だけれど出かける、途中まで例の尺八老と同行、彼はグレさんのモデルみたいな人だ、お人好しで、
怠け者で、酒好きで、貧乏で、ちよいちよい宿に迷惑もかけるらしい。-略行乞中、不快事が一つ、快心事が一つ、或る相当な呉服屋の主
人の非人道的態度と草鞋を下さつたお内儀さんの温情とである-草鞋は此地方に稀なので殊に有難かつた。
シヨウチユウと復縁したおかげで、朝までぐつすり寝た、金もなく心配もなしに。
まだ孤独気分にかへれない、家庭気分を嗅いだ後はこれだから困る、一人になりきれ、一人になりけれ。
※表題句の外、2 句を記す
―世間虚仮―拾った議席
昨夜から選挙速報の洪水、4 年前の郵政解散とほぼ真逆となった結果の民主と自民だが、懸念されていたとおり、比
例区候補の不足から、他党が議席を得るという不合理なケースが 4 例も出来。
近畿ブロックで民主は 13 議席獲得の得票だが、名簿では 2 人不足する事態となって、自民と公明にそれぞれ 1 議席
振られた。
加えて、「みんなの党」も東海・と近畿ブロックで1議席ずつ獲得できる得票に達したが、名簿登載された候補者が重
複立候補していた小選挙区で得票率 10%に届かなかったため、公職選挙法規定により復活当選できないという羽目
に。これによって東海の議席は民主党へ、近畿の議席は自民党へとそれぞれ割り振られている。
この規定で、凋落の自民は 2 議席拾ったことになり、民主は-2+1 の 1 議席損、公明が 1 議席の得、なんともやり
きれない悔を残すのがみんなの党だが、とにかく不合理なことこのうえない公職選挙法ではある。
―今月の購入本―
・佐藤信・五味文彦.他「詳説日本史研究」山川出版社
ご存じ高校生向日本史教科書「詳説日本史」の学習参考書。08 年の 10 年ぶりの教科書改訂に合せて全面改訂して出版
されたもの。多色刷りで、豊富な叙述内容と史料や地図・図解をふんだんにとり入れられているから、時折引っ張り
出して読むには向いていよう。
・加藤陽子「それでも、日本人は「戦争」を選んだ」朝日出版社
世界を絶望の淵に追いやりながら、戦争は生真面目ともいうべき相貌を湛えて起こり続けた。その論理を直視できな
ければ、かたちを変えて戦争は起こり続ける‥。国民の認識のレベルにある変化が生じていき、戦争を主体的に受け
- 349 とめるようになっていく瞬間というものが、個々の戦争の過程には、たしかにあったようにみえる。それはどのよう
な歴史的過程と論理から起こったのか、その問によって日本の近代-日清戦争から太平洋戦争-を振り返る。
・長谷川眞理子「生き物をめぐる 4 つの「なぜ」」集英社新書
発光生物は何のために光るのか、雄と雌はなぜあるのか、角や牙はどう進化したのか…。生物の不思議な特徴につい
て、オランダの動物行動学者ニコ・ティン バーゲンは、四つの「なぜ」に答えなければならないとした。それがどのよ
うな仕組みであり-至近要因-、どんな機能をもっていて-究極要因-、生物の成長に従いどう獲得され-発達要因-、どん
な進化を経てきたのか-系統進化要因-、の四つの要因だ。本書は、これら四つの「なぜ」から、雌雄の別、鳥のさえず
り、鳥の渡り、親による子の世話、生物発光、角や牙、ヒトの道徳といった、生物の持つ不思議な特徴に迫り、生物
の多様な美しさやおもしろさを現前させる。
・斎藤環「思春期ポストモダン」幻冬舎新書
成熟が不可能になった時代=ポストモダンという永遠に続く思春期=成熟前夜になって顕在化し始めた Net 社会・D
V・摂食障害・不登校・ひきこもりといった現象と、その至近距離に若者という存在。筆者によれば、不登校やひきこ
もりというのは、彼ら自身が何か本質的な問題を抱えているというよりも、社会との、あるいは家族との接続に原因
がある、間主観的な問題なのである。言わば、病むのは脳でも精神でもない、人間関係である、と。一旦発生したそ
れらの接続ミスは、本人に過度なプレッシャーを与え、ますます追い詰めていくという悪循環を成る。それが「病因
論的ドライブ」なのだ、と。
・松井今朝子「似せ者」講談社文庫
江戸の歌舞伎を題材に時代小説のエンターテイメントとなった著者表題作を含む 4 編を収める。
その他に、広河隆一編集「DAYS JAPAN」2009/08 と 2009/09
―図書館からの借本―
・ジェフリー.F.ミラー「恋人選びの心-性淘汰と人間性の進化Ⅰ」岩波書店
・ジェフリー.F.ミラー「恋人選びの心-性淘汰と人間性の進化Ⅱ」岩波書店
人は何を基準に恋人を選んでいるのか。人を魅力的に見せる、身体・装飾・言語・美術・スポーツ・道徳性・創造性といっ
た、深く人間性に関わっている特徴は,どうして生まれてきたのか。自然淘汰の理論ではどうにも説明がつかなかっ
たこれらを.恋人選びという視点に拠りつつ,ダーウィ ンに提唱されながらも省みられなかった性淘汰理論で、長
年の進化の謎を解き明かす。前半部は良質の性淘汰理論の総説。
20090828
ふりかへらない道をいそぐ
―世間虚仮― 比例候補が足りない!?
真夏の長い闘い、衆院選もいよいよ大詰めだが、大勝ちしそうな勢いの民主党に、当初予測を超えたまことに悩まし
い問題が持ち上がっている。
小選挙区候補はほぼおしなべて比例ブロック候補にも名前を連ねているのだが、これは重複立候補を認めた所為で、
小選挙区で惜しくも他候補者に敗れた場合、惜敗率の高い順に比例区で当選できるという仕組みだ。この選挙制度が
導入された平成 8 年当時、惜敗率による比例復活などわかりにくい制度そのものにずいぶん面喰らったものだが、そ
れも今回でもう 5 度目になるとか、とかく疑問視や批判の的になってきたにもかかわらず、改められぬままきてしま
った。
ところが、今回の選挙結果ではとんでもない珍現象が起こりそうだと、ここにきて心配されているのは、雪崩現象的
に全国の小選挙区で民主党が大勝した場合、比例復活組の対象者が激減するわけだから、11 の各ブロック比例獲得
票に対して、当選すべき候補者そのものが不足する事態が起こることになるというもの。この場合どうなるかといえ
- 350 ば、次点の他党候補が繰り上がることになるのだから、おかしなことに敵対する自民党候補が漁夫の利を得ることに
なったりもするわけだ。
こんな例が過去にもなかったわけではないが、それはほんの 1.2 例のことで、これまでさして大きな問題にならな
いままきた。しかし、今回予測されるのは、比例ブロック各所で起こりそうだというのである。
そもそも重複立候補なるもの自体、どうにも首を捻らざるを得ない制度で、政治家どもが自分の都合のよいようにい
じくり回してきた選挙制度が、ここへきてとんでもない欠陥を曝け出すことになりそうな訳だ。
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、10 月 22 日の稿に
10 月 22 日、曇、行程 3 里、福島、富田屋
おだやかな眼ざめだつた、飲み足り話し足り眠り足つたのである、足り過ぎて、疲れと憂ひとを覚えないでもない、
人間といふものは我儘な動物だ。
8 時出立、途中まで紅闘二兄が送つて下さる、朝酒の酔が少しずつ出てくる、のらりくらり歩いてゐるうちに、だる
くなり、ねむくなり、水が飲みたくなり、街道を横ぎらうとして自動車乗りに怒鳴りつけられたりする。-略油津で同宿したことのある尺八老とまた同宿になつた、髯のお遍路さんは面白い人だ、この人ぐらい釣好きはめつた
にあるまい、修行そつちのけ、餌代まで借りて沙魚釣だ、だいぶ釣つてきたが自分では食べない、みんな人々へくれ
てやるのである、-ずいぶん興味のある話を聞いた、沙魚の話、鯉の話、目白飯の話、鹿打失敗談、等、等、等-彼
はさらに語る、遍路は職業としては 20 年後てゐる、云々、彼はチヤームとか宣伝とか盛んにまた新しい語彙を使ふ。
※表題句の外、8 句を記す
―四方のたより―今日の You Tube-vol.47四方館 DANCE CAFE より
「出遊-あそびいづらむ-天河織女-あまのかわたなばた-篇」Scene.9
20090824
お約束の風呂の煙が秋空へ
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、10 月 21 日の稿に
10 月 21 日、晴、日中は闘牛児居滞在、夜は紅足馬居泊、会合
早く起きる、前庭をぶらつく、花柳菜といふ野菜が沢山作つてある、紅足馬さんがやつてくる、話が弾む、鮎の塩焼
を食べた、私には珍しい御馳走だつた、小さいお嬢さんが駆けまはつて才智を発揮する、私達は日向の縁側で胡座座。
招かれて、夕方から紅足馬居へ行く、闘牛児さんと同道、そのまま泊る、今夜も話がはづんだ、句評やら読経やらで
夜の更けるのも知らなかつた。
闘牛児居はしづかだけれど、市井の間といふ感じがある、ここは田園気分でおちつける、そして両友の家人みんな気
のおけない、あたたかい旁々ばかりだつた。
※表題句の外、10 句を記す
―四方のたより―今日の You Tube-vol.45四方館 DANCE CAFE より
「出遊-あそびいづらむ-天河織女-あまのかわたなばた-篇」Scene.7
20090822
父が掃けば母は焚いてゐる落葉
- 351 ―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、10 月 19 日の稿に
10 月 20 日、晴、曇、雨、そして晴れ、妻町行乞、宿は同前-藤屋-略-、9 時から 2 時まで行乞、行乞相は今日の私としては相当だつた、新酒、新漬、ほんたうにおいしい、生きるこ
とのよろこびを恵んでくれる。
歩かない日はさみしい、飲まない日はさみしい、作らない日はさみしい、ひとりでゐることはさみしいけれど、ひと
りで歩き、ひとりで飲み、ひとりで作つてゐることはさみしくない。-略-、
新酒を飲み過ぎて-貨幣価値で 13 銭-とうとう酔つぱらつた、ここまで来るともうぢつとしてゐられない、宮崎の
俳友との第 2 回会合は明後日あたりの約束だけれど、飛び出して汽車に乗る、列車内でも挿話が二つあつた、一つは
とても元気な老人の健康を祝福したこと、彼も私もいい機嫌だつたのだ、その二は傲慢な、その癖小心な商人を叱つ
てやつた事。
9 時近くなつて、闘牛児居を驚かす、いつものヨタ話を 3 時近くまで続けた、‥その間には小さい観音様へ供養の読
経までした、数日分の新聞も読んだ。
放談、漫談、愚談、等々は我々の安全弁だ。
―日々余話― 小さい夏の‥
4 日振りの投稿は、夏の小旅行で留守したため。
19 日-水-の早朝に発って、本日午後帰ってきました。
今年もまた信州へ-白馬の和田野の森のはずれ近く、瀟洒なペンションに 2 泊と、さらに越後糸魚川へ抜け、北アル
プスの背-北側へ-廻って、秘湯で名高い蓮華温泉に 1 泊。
旅中、曇天続きで、ときに雨にも降られ、白馬の山脈はとんと拝めず、些か口惜しい旅ながら、天候相手では、偶々
今年は巡り合せが悪かった、と矛を収めるしかない。
蓮華温泉へと足を伸ばした昨晩も、深夜まで雨が降り続いていたのだが、3 時頃には雨音も止んで、ふと見上げると、
ぽっかりと円く抜けたような中空に星々が煌めいていた。
待ちあぐねた晴れ間を逃す手はないとばかり、空が白みきった5時頃には連合いたちを起こしては、秘湯めぐりの散
策を一時間余、細い坂道ばかりできつかったが、早朝の涼風が心地よかったし、白馬岳の姿もくっきりと見えて、こ
の旅 3 泊 4 日の、点睛のひとときとなった。
―四方のたより―今日の You Tube-vol.43四方館 DANCE CAFE より
「出遊-あそびいづらむ-天河織女-あまのかわたなばた-篇」Scene.5
20090817
豊年のよろこびの唄もなし
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、10 月 19 日の稿に
10 月 19 日、曇、時々雨、行程 5 里、妻町、藤屋
因果歴然、歩きたうないが歩かなければならない、昨夜飲み余したビールを持ち帰つてゐたので、まづそれを飲む、
その勢で草鞋を穿く、昨日の自分を忘れるために、今日の糧を頂戴するために、そして妻局留置の郵便物を受取るた
めに-酒のうまいやうに、友のたよりはなつかしい-。
妻まで 5 里の山路、大正 15 年に一度踏んだ土である、あの時はもう二度とこの山も見ることはあるまいと思つたこ
とであるが、命があつて縁があつてまた通るのである、途中、三名、岩崎、平群といふ部落町を行乞して、やつと今
日の入費だけ戴いた、-略-
- 352 留置郵便は端書、手紙、雑誌、合せて 11 あつた、くりかへして読んで懐かしがつた、寸鶏頭君の文章は悲しかつた、
悲しいよりも痛ましかつた、「痰壺のその顔へ吐いてやれ」といふ句や、母堂の不用意な言葉などは凄まじかつた、
どうぞ彼が植えさせたチューリップの花を観て微笑することが出来るやうに。-略※表題句の外、11 句を記す
―世間虚仮― 「幸福」の空騒ぎ
やれ、出るの出ないのと、幸福の科学の大川隆法が、告示近くなって二転三転と大騒ぎしていたが、どうやらやっぱ
り出ることになったらしい。
ところがなぜか、比例区東京ブロックから近畿ブロックへと、いつのまにか転身なさっている。もちろん名簿順位は
1 位と変わらないが‥。これって東京比例区より近畿のほうが、得票が多かろうと、独自のリサーチでもあったと云
うことか。
それにしても、民主党を利することになるからと、告示も間近となっての空騒ぎ、大挙して撤退すると言ってみたり、
直前になってのドタバタ劇には、開いた口がふさがらない醜態ぶりだ。
‘95 年には信者数 1000 万人を突破したと豪語した幸福の科学、まあこれは眉唾にちがいないが、300 万とも 500 万
人も巷で喧伝されてきたのも事実だが、比例区であれ選挙区であれ、果たしてどれだけの票を集めるのか、私などに
も、その総得票数の結果だけがちょっと気になる幸福実現党の選挙だ。
―四方のたより―今日の You Tube-vol.41四方館 DANCE CAFE より
「出遊-あそびいづらむ-天河織女-あまのかわたなばた-篇」Scene.3
20090815
大地ひえびえとして熱あるからだをまかす
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、10 月 17 日の稿に
10 月 18 日、晴、行程 4 里、本庄町、さぬきや
-略-、高岡から綾まで 2 里、天台宗の乞食坊さんと道づれになる、彼の若さ、彼の正直さを知つて、何とかならない
ものかと思ふ。-略綾から本庄までまた 2 里、3 時間ばかり行乞、やうやく教へられた、そして大正 15 年泊まつたおぼえのある此宿を
見つけて泊る、すぐ湯屋へゆく、酒屋へ寄る。‥-略酔漢が寝床に追ひやられた後で、鋳掛屋さんと話す、私が槍さびを唄つて彼が踊つた、ノンキすぎるけれど、かうい
ふ旅では珍しい逸興だつた、しかし興に乗りすぎて嚢中 26 銭しか残つてゐない、少し心細いね-嚢中自無銭!
―四方のたより―今日の You Tube-vol.39四方館 DANCE CAFÉ より
「出遊-あそびいづらむ-天河織女-あまのかわたなばた-篇」Scene.1
20090812
病んで寝て蠅が一匹きただけ
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、10 月 17 日の稿に
10 月 17 日、曇后晴、休養、宿は同前-梅屋-
- 353 昨夜は 12 時がうつても寝つかれなかつた、無理をしたためでもあらう、イモショウチュウのたたりでもあらう、ま
た、風邪気味のせいでもあらう、腰から足に熱があつて、怠くて痛くて苦しかつた。-略身心はすぐれないけれど、むりに 8 時出立する、行乞するつもりだけれど、発熱して悪寒がおこつて、とてもそれど
ころぢやないので、やうやく路傍に小さい堂宇を見つけて、そこの狭い板敷に寝てゐると、近傍の子供が 4.5 人や
つてきて声をかける、見ると地面に茣蓙を敷いて、それに横たはりなさいといふ、ありがたいことだ、私は熱に燃え
悪寒に慄へる身体をその上に横たへた、うつらうつらして夢ともなく現ともなく 2 時間ばかり寝てゐるうちに、どう
やら足元もひよろつかず声も出さうなので、2 時間だけ行乞、しかも最後の家で、とても我慢強い老婆にぶつかつて、
修証義と、観音経とを読誦したが、読誦してゐるうちに、だんだん身心が快くなつた。-略前の宿にひきかへして寝床につく、水を飲んで-ここの水はうまくてよろしい-ゆつくりしてさへをれば、私の健康は
回復する、果して夕方には一番風呂にはいるだけの勇気が出て来た。
やつと酒屋で酒を見つけて一杯飲む、おいしかつた、焼酎とはもう絶縁である。
寝てゐると、どこやらで新内を語つている、明烏らしい、あの哀調は病める旅人の愁をそそるに十分だ。
※表題句の外、5 句を記す
―世間虚仮― ちょっぴり生意気に‥
3 日ぶりに、愛娘どのが元気に帰ってきた。
出発地点だった天王寺駅に、車で出迎えに行ったのだが、着いたときは指定されていた 4 時 30 分ジャスト、すでに
半数以上の子どもらが迎えの母親らとともに帰ったあとらしく、こちらの顔を見るやちょっぴり泣きべそだったが、
それでも結構楽しんできたようで、彼女のいうところによれば、1 日目はやや緊張気味に終始したものの、一夜明け
るとその環境にもすっかり馴染んだらしく、カリキュラムの一つひとつを、元気よくこなしたようである。同じグル
ープの仲間たちにも打ち解けて、8 人ほどの呼び名を順々に挙げていた。
知らない子どもたち、知らない環境に投げ込まれた、初めてづくしの 3 日間は、半ば緊張しつつも、大いに愉しめた
にちがいない、忘れがたい体験ともなろうか。
僅か 3 日とはいえ、離れて暮した此方には、ちょっぴり生意気になって帰ってきたように映るのものだ。
―四方のたより―今日の You Tube-vol.37「往還記-OHGENKI-Ⅲ」の Second stage
「洛中鬼譚-冬月-KANAWA-鉄輪 その壱」
20090810
豊年のよろこびとくるしみが来て
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、10 月 16 日の稿に
10 月 16 日、曇、后晴、行程 7 里、高岡町、梅屋
暗いうちに起きる、鶏が飛びだして歩く、子供も這ひだしてわめく、それを煙と無智とが彩るのだから、忙しくて五
月蝿いことはない疑ない。
今日の道はよかつた、-2 里歩くと四家、十軒ばかり人家がある、そこから山下まで 2 里の間は少し上つて少し下る、
下つてまた上る、秋草が咲きつづいて、虫が鳴いて、百舌鳥が啼いて、水が流れたり、木の葉が散つたり、のんびり
と辿るにうれしい山路だつた。-略「何事も偽り多き世の中に死ぬことばかりはまことなりけり」
- 354 かういふ歌が、忘れられない、時々思ひ出しては生死去来真実人に実参しない自分を恥ぢてゐたが、今日また、或る
文章の中にこの歌を見出して、今更のやうに、何行乞ぞやと自分自身に喚びかけないではゐられなかつた、同時に、
「木喰もいづれは野べの行き倒れ犬か鴉の餌食なりけり」、といふ歌を思ひ出したことである。
※この日の文中に、「山の中鉄鉢たゝいて見たりして」や冒頭の掲載句を含む 27 句の多くを記しているが、「或る
農村の風景」と題した連作では、当時の農に携わる人々の困窮のほどが自ずと映し出された句がつづく。
傾いた屋根の下には労れた人々
脱穀機の休むひまなく手も足も
八番目の子が泣きわめく母の夕べ
損するばかりの蚕飼ふとていそがしう食べ
出来秋のまんなかで暮らしかねてゐる
こんなに米がとれても食へないといふのか
―四方のたより―今日の You Tube-vol.35「往還記-OHGENKI-Ⅲ」の Second stage
「洛中鬼譚-秋霖-IBARAKI-茨木 その壱」
20090808
ざくりざくり稲刈るのみの
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、10 月 15 日の稿に
10 月 15 日、晴、行程 4 里、有水、山村屋
早く発つつもりだつたけれど、宿の支度が出来ない、8 時すぎてから草鞋を穿く、やつと昨日の朝になつて見つけた
草鞋である、まことに尊い草鞋である。
2 時で高城、2 時間ほど行乞、また 2 里で有水、もう 2 里歩むつもりだつたが、何だか腹具合がよくないので、豆腐
で一杯ひつかけて山村の閑寂をしんみりエンヂヨイする。-略途上、行乞しつつ、農村の疲弊を感ぜざるを得なかつた、日本にとつて農村の疲弊ほど恐ろしいものはないと思ふ、
豊年で困る、蚕を飼つて損をする…いつたい、そんな事があつていいものか、あるべきなのか。-略友のたれかれに与へたハガキの中に
「やうやく海の威嚇と藷焼酎の誘惑とから逃れて、山の中へ来ることが出来ました、秋は海より山に、いち早く深ま
りつつあることほ感じます、虫の声もいつとなく細くなって、あるかなきかの風にも蝶々がただようてゐます。…」
物のあはれか、旅のあはれか、人のあはれか、私のあはれか、あはれ、あはれ、あはれといふもおろかなりけり。略薩摩日向の家屋は板壁であるのを不思議に思つてゐたが宿の主人の話で、その謎が解けた、旧藩時代、真宗は御法度
であるのに、庶民が壁に塗り込んでまで阿弥陀如来を礼拝するので、土壁を禁止したからだと。
※表題句は 14 日の稿に記載の一句
―表象の森― 紅テントと TAKARAZUKA
先の日曜に中之島の国立国際美術館で観てきたやなぎみわの世界、その作品系譜は彼女のオフィシャルサイトでもほ
ぼ鑑賞できるもので、訪問者にとってはうれしいサイト、未見の方は一度覗いてみられることをお奨めする。
やなぎみわについては斎藤環の「アーティストは境界線上で踊る」で初めてその存在を知った。本書は斎藤自身による
さまざまな現代美術作家へのインタビュー記録と精神分析家ならではの作家論からなるものだが、このインタビュー
でやなぎ自身、作品発想の動機に色濃く影を落としているであろうものに、唐十郎の紅テント体験を語っている。
- 355 それは彼女がまだ学生の頃であったのだろう、観に出かけたものの場所がわからず迷いに迷ったあげく、やっと夜の
暗がりの中にポツンと立つテントを探しあてた時、芝居はすでに終盤で、防空頭巾を被った年齢不詳の少女歌劇団が
シャンシャンと狂乱していた、と。さらに、その芝居は「少女地獄」だっと思う、とも語っているのだが、唐十郎の
作品でずばり少女とつくのは「少女仮面」や「少女都市」-いずれも 1969 年初演-、あるいは「少女都市からの呼び声」
-1985 年-くらいだから、「少女地獄」という語は、彼女の想念のなかでいつしか醸成されてきたのだろう。
いずれにせよ、この折、垣間見るほどにしか見られなかった紅テントの少女世界の衝撃が、発想の原基ともなってい
るといわれれば、よく肯けるところではある。
そのやなぎに、もう一つ「宝塚」との特異な関係性がある、と斎藤環は論じている。彼女の母親と祖母が熱烈な宝塚フ
ァンであり、そこに世代を越えた「欲望の共同体」が形成されていたこと、そして彼女が思春期以前に、まさに「他者母親、祖母-の欲望」を強要されるかたちで、「宝塚」への複雑な欲望が-嫌悪を含む-を獲得させられていったこと。こ
れら一連の経緯は、決定的なまでに重要である。なぜならそれは、幼いやなぎ自身にとっても十分にエロティックな
欲望として、繰り返し刷り込まれた経験であるからだ。これがなにを意味するか。ようやくエディプス期を過ぎて、
セクシュアリティの原器を手にしたばかりの子どもが、息つく暇もなく「性関係のヴァーチャリティ」を刷り込まれる
ということ。-略- そのような幻想にすらいたっていない幼い心に、まさに別の幻想として「性関係の不在」をインス
トールすることは、認識とセクシュアリテイに対して、ほとんど決定的な影響をもたらさずにはおかないだろう、と
斎藤は続けている。
―四方のたより―今日の You Tube-vol.33「往還記-OHGENKI-Ⅲ」の Second stage
「洛中鬼譚-春霞-YASE-八瀬」
20090805
石刻む音のしたしくて石刻む
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、10 月 14 日の稿に
10 月 14 日、晴、都城市街行乞、宿は同前-江夏屋8 時半から 3 時半まで行乞、この行乞のあさましさを知れ、そこには昨日休んだからといふ考へがある、明日は降る
かも知れないといふ心配がある、こんなことで何が行乞だ、-略都城で、嫌でも眼につくのは、材木と売春婦である、製材所があれば料理屋がある、木屑とスベタとがうようよして
ゐる、それもよしあし、よろしくあしく、あしくよろしく。
※表題句の外 11 句を記す
―四方のたより―今日の You Tube-vol.31「往還記-OHGENKI-Ⅲ」の First stage
「WALTZ -輪舞-sculpture.3-WAVE-波濤」
20090802
家を持たない秋がふかうなつた
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、10 月 13 日の稿に
10 月 13 日、晴、休業、宿は同前-江夏屋とても行乞なんか出来さうもないので、寝ころんで読書する、うれしい一日だつた、のんきな一日だつた。
- 356 一日の憂は一日にて足れり-キリストの此言葉はありがたい、今日泊まつて食べるだけのゲルトさへあれば-慾には
少し飲むだけのゲルトを加へていただいて-、それでよいではないか、それで安んじてゐるやうでなければ行乞流浪
の旅がつづけられるものぢやない。-略昨日今日すつかり音信の負債を果したので軽い気になつた、ゲルトの負債も返せると大喜びなのだけれど、その方は
当分、或は永久に見込みないらしい。
句もなく苦もなかつた、銭もなく慾もなかつた、かういふ一日が時になければやりきれない。
※表題の句は 12 日付の日記より
―表象の森―婆々娘々- Po-po Nyangnyang -!
稽古を昨日に振り替えていたので、今日は終日フリー。連合い殿は琵琶のおさらい会があるとて午後から子連れで出
かけたから、子どもから解放されて此方もめずらしく単身行動とて、中之島の国立国際美術館へと出かけた。
「美の宮殿の子どもたち」と副題された「ルーブル美術館展」がまずまずの人気を呼んでいるようだが、此方のお目
当てはそれにあらず、B2 で開催中の「やなぎみわ-婆々娘々- Po-po Nyangnyang -!」展。先月めでたく満 65 歳
を迎えた私は、420 円也の入場料は障害者らとともに無料、初めて高齢者向け福祉施策の恩恵に与ったという次第。
従来作品の写真展示もずらりと並んで、一応作品の系譜らしきものを追えるようになっているが、なんといっても圧
巻は、今年 6 月 7 日から開催されているヴェネチア・ビエンナーレ日本館で紹介されている新作を、そのまま同じ仕
様で公開するといった趣向の一室。異形の女五態が 4m×3m の巨大ブロマイドよろしく凄まじい迫真力で空間を圧
している。そして小さなテントを模したような小屋では、「The Old Girls”Troupe 2009”」と題されたモノクロの映
像作品-10 分-が繰り返し映されている。Troupe とは役者や歌手、アクロバットなど巡業の「一座」のことだから、
老女たちの一座か、その performance は奇態にはちがいないが、無音で進行しているだけになにやら懐かしいよう
な臭いも発散している。私には嘗て下北半島の恐山に身を置いたときに想い描いた幻視の光景にも似たものに映った。
―四方のたより―今日の You Tube-vol.29「往還記-OHGENKI-Ⅲ」の First stage「WALTZ -輪舞-sculpture.2-WALTZ-輪舞-1」
20090731
砂掘れば砂のほろほろ
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、10 月 12 日の稿に
10 月 12 日、晴、岩川及末吉町行乞、都城、江夏屋
9 時の汽車に乗る、途中下車して、岩川で 2 時間、末吉で 1 時間行乞、今日はまた食ひ込みである。-略今夜は飲み過ぎ歩き過ぎた、誰だか洋服を着た若い人が宿まで送つてくれた、彼に幸福あれ。
藷焼酎の臭気はなかなかとれないが、その臭気をとると、同時に辛味もなくなるさうな、臭ければこそ酔ふのだらう
よ。-略夕方また気分が憂鬱になり、感傷的にさへなつた、そこで飛び出して飲み歩いたのだが、コーヒー1 杯、ビール 1 本、
鮨一皿、蕎麦一椀、朝日一袋、一切合財で 1 円 40 銭、これで僕はまた秋風落寞、さつぱりしすぎたかな-追記-。
※表題句の外、23 句を記す
―今月の購入本―
・猪木武徳「戦後世界経済史」中公新書
- 357 自由と平等の視点から、と副題。第 2 次大戦後の 60 年はかつてない急激な変化を経験した。その Keyword は民主
制と市場経済。本書では「市場化」を軸にこの半世紀を概観、経済の政治化、Globalization の進行、所得分配の変
容、世界的な統治機構の関与、そして自由と平等の相剋―市場 System がもたらした歴史的変化の本質とは何か。
・鹿島茂「吉本隆明 1968」平凡社新書
「吉本隆明の偉さというのは、ある一つの世代、具体的にいうと 1960 年から 1970 年までの十年間に青春を送った
世代でないと実感できないということだ」という団塊の世代の著者が、吉本隆明はいかに「自立の思想」にたどり着
いたか、著者流の私小説的評論を通して、その軌跡をたどる。
・白川静「漢字の世界 1」平凡社ライブラリー
漢字はどのようにして生まれたのか。甲骨文字・金文資料を駆使して、神話・呪詛・戦争・宗教・歌舞などの主題ごとに、
漢字のもつ意味を体系的に語る。古代人の思考に深くわけ入り、漢字誕生のプロセスを鮮やかに描出。
・白川静「漢字の世界 2」平凡社ライブラリー
象形文字である漢字は、中国古代人の目に映る世界の象徴的表現であった。「字統」において詳説された漢字の意味
を、本書は系統的・問題史的に語ってゆく。博識と明快な論理で、単なる字形の解釈を越え、ことばの始原に行きつ
く無類のことば・ことがら典。
他に、広河隆一編集「DAYS JAPAN」7 月号
―図書館からの借本―
・斎藤環「文学の徴候」文藝春秋
著者は、ラカン研究者の宮本忠雄が提唱する「エピパトグラフィー」を、作家の創造行為の中の病理的表現を個人の
病理としてでなく、その関係性から考え ようとした点で画期的だったと評価し、作家個人の人間関係だけでなく、
作家と作品、作家と共同体、作家と社会といった様々な関係性が、創造の孵卵器としての環境に転ずると、本来は健
常であった作家の作品が、病理的なエレメントをいっぱい孕んだものへと変質する。その一種の相互作用に似た仮説
的な場を「病因論的ドライブ」と呼ぶ。
・斎藤環「文脈病-ラカン・ベイトソン・マトゥラーナ」青土社
ベイトソンの学習理論、フロイト‐ラカンのシニフィアン理論、マトゥラーナのオートポイエーシス理論などと、分
裂病や神経症の臨床経験を独自に重ね合わせ、精神病理学理論に新たな地平を拓き、吉田戦車、D.リンチ、F.ベーコ
ン、H.ダーガー、宮崎駿、庵野秀明など、特異な作家達の描く「顔」のなかに、 人間の本質と文化の現在を読み解く。
とくに序章と 13 章は著者独自の思考ドライブを辿るによくまとまっている。
・梅原賢一郎「カミの現象学」角川書店
宮古島の「六月ニガイ」、宮崎県の「銀鏡神楽」、長野県の「遠山の霜月祭り」など、日本各地の祭りや神楽、宗教的な儀
礼や行法から、子どもの遊びといった日常の行為まで、「自分と自分以外のものとの間の回路」としての「穴」を
Keyword に、宗教と芸術の隙間を思考し、いわば身体に埋蔵された日本文化を解明してゆく。著者は梅原猛の息子。
・藤井直正「東大阪の歴史」松籟社
著者は東大阪市枚岡に住む考古学者だが、私の中学時代の社会科教師でもある。本書は大阪・市史双書シリーズの 2
として編まれ、1983 年初版発行された。
・「昭和 30 年代の大阪」三冬社
「東洋の奇跡」と称された高度経済成長を強力に牽引した頃-1955~64-の大阪を彷彿とさせるフォトグラフ。
20090729
泣く子叱つてる夕やみ
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、10 月 11 日の稿に
- 358 10 月 11 日、晴、曇、志布志町行乞、宿は同前-鹿児島屋9 時から 11 時まで行乞、こんなに早う止めるつもりはなかつたけれど、巡査にやかましくいはれたので、裏町へ出
て、駅で新聞を読んで戻つて来たのである。-略今日はまた、代筆デーだつた。あんまさんにハガキ 2 枚、とぎやさんに 4 枚、やまいもほりさんに 6 枚書いてあげた、
代筆代をくれやうとした人もあるし、あまり礼をいはない人もある。-略隣室に行商の志那人 5 人組が来たので、相客 2 人増しとなる、どれもこれもアル中毒者だ-私もその一人であること
に間違ひない-、朝から飲んでゐる-飲むといへばこの地方では藷焼酎の外の何物でもない-、彼等は彼等にふさはしい
人生観を持つてゐる、体験の宗教とでもいはうか。
コロリ往生-脳溢血乃至心臓麻痺でくたばる事だ-のありがたさ、望ましさを語つたり語られたりする。
酒壺洞君の厚意で、寝つかれない一夜がさほど苦しくなかつた、文芸春秋はかういふばあいの読物としてよろしい。
-略※表題の句は、10 月 10 日付に記されたものの一句
―四方のたより―今日の You Tube-vol.26「KASANE-2-Scene.2-in Alti Buyoh Festival 2008」
20090727
故郷の人と話したのも夢か
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、10 月 10 日の稿に
10 月 10 日、曇、福島町行乞、行程 4 里、志布志町、鹿児島屋
8 時過ぎてから中町行乞 2 時間、それから今町行乞 3 時間、もう 2 時近くなつたので志布志へ急ぐ、3 里を 2 時間あ
まりで歩いた、それは外でもない、局留の郵便物を受取るためである、友はなつかしい、友のたよりはなつかしい。
-略安宿の朝はおもしろい、みんなそれぞれめいめいの姿をして出てゆく、保護色といふやうなことを考へざるをえない、
片輪は片輪のやうに、狡いものは狡いやうに、そして一は一のやうに! -略自動車が走る、箱馬車が通る、私が歩く。
途上、道のりを訊ねたり、此地方の事情を教へてくれた娘さんはいゝ女性だつた。禅宗-しかも曹洞宗-の寺の秘蔵
子と知つて、一層うれしかつた、彼女にまことの愛人あれ。-略※揚げた句の他に「秋風の石を拾ふ」など 20 句を記す
―四方のたより― 事件性はある
地下鉄本町-四つ橋線-の駅から近く、中央大通りに面したビルの地下 1 階に綺羅星-きらら-ホールという空間が登場
したのはいつからか、ついぞ知らなかったのだが、25-土-、26-日-の両日、VIA LACTEA DANCE と題したダンス公
演が催されていた。VIA LACTEA とは天の河の意味らしい。関西に滞在し活動している外国人 Dancer たちが寄った
企画だが、これに角正之君が協力して即興 performance を加えた催しである。
前半の A-pro は外国人 Dancer たちを中心とした振付作品が並び、後半 B-pro は角正之が Coordinate した即興世
界だが、25-土-と 26-日-では顔ぶれをがらりと変え、先は男たち中心、後は女たち中心といった趣向。
25-土-の顔ぶれは、レナート.レオン/カミル.ワルフルスキー/フラビオ.アルビス/ピーター.ゴライトリー/中田一
史/ザビエル守之助/斉藤誠/角正之に、女性ゲストとして森美香代/ミナル-川西宏子-/Heidi.S.Durning が参加。
26-日-は、小谷ちず子/越久豊子/山田いづみ/三好直美/北垣あや/福原幸/黒田朋子に、加わる男性がレナート.
レオン/中田一史/ヤザキタケシ/角正之。
- 359 私は先のほうを観、Junko が後のほうを観た。幼な児が居るため分かれて観ることにしたのだった。
振付作品の A-pro はどれも言うべきほどのことはなにもない。ミラノ・スカラ座バレエ学校を首席で卒業し、欧州や
南米のバレエ団で活躍して後、’07 年帰国したという中田一史の柔軟な身体能力が眼を惹いた程度で、solo にせよ
Duo にせよ、作品はなべて古臭いセピア色した風景ばかりだ。
だが、B-pro の即興は一見の価値はあった。なにしろキャリアも技法も異なる 11 人の Dancer が一堂に会しての競
演である、それだけで事件性はある、といえよう。事実、始まってからの 10~15 分ばかりは、かなり愉しめる
performance を供しえたといっていい。これには男性 8 人に女性 3 人という配合のバランスも貢献したものと思わ
れる。
女性中心の 26-日-のほうを観た Junko に言わせれば、期待したほどのことはなく、観ること自体かなりきつかった
と、報告している。こちらは女性 7 人に男性 4 人だ。キャリアも技法も異なるそれぞれの Dancer が、その固有な動
きを繰り延べたとしても、その差異は男性ほどには clear なものにはなりにくいという負が、加法・乗法に働かず、
減法・除法となって、ただ煩いものに堕してしまいがちになるものだ。
このあたりの事情を、Coordinator 角正之はどう推量していたのか。そう容易には成り立たぬ折角の集合の機会が、
両夜においてかほどに落差のある結果を呈しては勿体ないというもの、もう少し緻密な計算をしておくべきではなか
ったか、惜しまれてなるまい。
20090722
まゝよ法衣は汗で朽ちた
―山頭火の一句―昭和 5 年の行乞記、10 月 9 日の稿に
10 月 9 日、曇、時雨、行程 3 里、上ノ町、古松屋
嫁の開けないうちに眼がさめる、雨の音が聞こえる、朝飯を食べて煙草を吸うて、ゆつくりしてゐるうちに、雲が切
れて四方が明るくなる、大したこともあるまいといふので出立したが、降つたり止んだり合羽を出したり入れたりす
る、そして 2.30 戸集まってゐるところを 3 ヶ所ほど行乞する、それでやつと今日の必要だけは頂戴した。-略今日の道は山路だからよかつた、萩がうれしかつた、自動車よ、あまり走るな、萩がこぼれます。-略一昨日、書き洩らしてはならない珍問答を書き洩らしてゐた、大堂津で藷焼酎の生一本をひつかけて、ほろほろ気嫌
で、やつてくると、妙な中年男がいやに丁寧にお辞儀をした、そして私が僧侶-?!-であることをたしかめてから、
問うて曰く「道とは何でせうか」また曰く「心は何処に在りますか」道は遠きにあらず近きにあり、趙州曰く、平常
心是道、堂済大師曰く、逢茶喫茶、逢飯食飯、親に孝行なさい、子を可愛がりなさい-心は内にあらず外にあらず、
さてどこにあるか、昔、達磨大師は慧可大師に何といはれたか、-あゝあなたは法華宗ですか、では自我偈を専念に
読誦なすつたらいゝでせう-彼はまた丁寧にお辞儀して去つた、私は歩きつゝ微苦笑する外なかつた。-略※揚げた句の他に「ゆつくり歩こう萩がこぼれる」
また訂正二句として、次の 2 句を記す
「酔うてこほろぎと寝てゐたよ」
「大地したしう夜を明かしたり波の音」
―世間虚仮― 前代未聞解散
国会がとうとう解散した。’05 年の小泉総理による解散も、郵政改革に反撥する党内勢力を一掃しようとした前代未
聞のものだったが、それから 4 年、小泉、安倍、福田、麻生と、一年毎に表の顔を掛け替えてきて、とうとう任期満
了の際にまで至ってのこのたびの解散も、いろいろな意味で前代未聞の解散劇だ。
- 360 そもそも昨年 9 月の福田退陣から麻生総理誕生の交代劇は、直ちに解散総選挙を想定されたものであった筈なのに、
秋、年末そして今年の春と、麻生内閣はその機を先送りしてきた挙げ句の、いわばもう逃げられぬ土壇場に追い詰め
られての解散である。
「予告解散」-党内の麻生降ろしの機先を制して東京都議選惨敗翌日というタイミングで発した前代未聞の解散予告、
これにはマスコミもわれら国民もみな唖然とさせられたものである。
その直後から演じつづけられた反麻生グループとの党内抗争もなんとか制圧しての衆議院解散の詔勅-8 月 18 日告
示、々30 日投票の、40 日間というこれまた現憲法下最長の、長い長い夏の闘いのはじまりだ。
このたびの解散で政界を引退する自民党議員は、小泉純一郎をはじめ 18 人にのぼるという。そのなかの一人、河野
洋平-衆議院議長-は退任会見で「衆院が新しい意思、要請に耳を傾ける大事な選挙だ。国民の負託に応える立派な国
会であってほしい」と言ったという。
20090718
窓をあけたら月がひよつこり
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、10 月 8 日の稿に
10 月 8 日、晴、后曇、行程 3 里、榎原、栄屋
どうも気分がすぐれないので滞在しようかと思つたが、思ひ返して 1 時出立、少し行乞してここまで来た、安宿はな
いから、此宿に頼んで安く泊めて貰ふ、一室一人が何よりである、家の人々も気易くて深切だ。-略日向の自然はすぐれてゐるが、味覚の日向は駄目だ、日向路で食べもの飲みものの印象として残つてゐるのは、焼酎
の臭味と豆腐の固さとだけだ、今日もその焼酎を息せずに飲み、その豆腐をやむをえず食べたが。
よく寝た、人生の幸福は何といつたとて、よき睡眠とよき食慾だ、ここの賄はあまりいい方ではないけれど-それで
も刺身もあり蒲鉾もあつたが-夜具がよかつた、新モスの新綿でぽかぽかしてゐた、したがつて私の夢もぽかぽかだ
つた訳だ、私のやうなものには好過ぎて勿躰ないでもなかつた。
※掲げた句のほかに 1 句
「こんなにうまい水があふれてゐる」を記す
―四方のたより―今日の You Tube-vol.24「NOIR,NOIR,NOIR-黒の詩- Scene.2-連句的宇宙 by 四方館 Vol.6」
20090715
酔ひざめの星がまたゝいてゐる
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、10 月 7 日の稿に
10 月 7 日、晴、行程 2 里、目井津、末広屋雨かと心配してゐたのに、すばらしい天気である、そここゝ行乞して目井津へ、途中、焼酎屋で藷焼酎の生一本をひ
つかけて、すつかりいい気持になる、宿ではまた先日来のお遍路さんといつしよに飲む、今夜は飲みすぎた、とうと
う野宿をしてしまつた、その時の句を、嫌々ながら書いておく。
-以下「酔中野宿」と題し
「酔うてこほろぎといつしよに寝てゐたよ」他 4 句を記す。
-略-、今日の珍しい話は、船おろしといふので、船頭さんの馴染女を海に追ひ入れてゐるのを見たことだつた、-略-。
このあたりの海はまつたく美しい、あまり高くない山、青く澄んで湛へた海、小さい島-南国的情緒だ、吹く風も秋
風だか春風だか分らないほどの朗らかさだつた。
※他に 2 句を付記している
- 361 -
―四方のたより―今日の You Tube-vol.22連句的宇宙 by 四方館「Interlude-間奏曲-」
20090713
子供握ってくれるお米がこぼれます
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、10 月 6 日の稿に
10 月 6 日、晴、油津町行乞、宿は同前-肥後屋9 時から 3 時まで行乞、久しぶりに日本酒を飲んだ、宮崎鹿児島では焼酎ばかりだ、焼酎は安いけれど日本酒は高い、
私の住める場所ぢやない。
十五夜の明月も観ないで宵から寝た、酔つぱらつた夢を見た、まだ飲み足らないのだらう。
油津といふ町はこぢんまりとまとまつた港町である、海はとろとろと碧い、山も悪くない、冬もあまり寒くない、人
もよろしい、世間師のよく集まるところだといふ。-略※表題に掲げた句のほか 3 句を記している
―四方のたより―今日の You Tube-vol.20連句的宇宙 by 四方館「KASANE-襲-」の Scene.2
―世間虚仮― リアルな夢?
都議会選挙は民主の圧勝となり、いよいよ衆院解散、8 月 30 日投票、と選挙関連が紙面を占めるなかに、「300 万
円で夢を買う」と見出し。サマージャンボ宝くじ発売の記事だが、なんと府内会社の女子社員が仕事仲間の代表で 300
万円分を購入したという話題、1 万枚の籤券を段ボールで受け取って帰った、と。
以前から仲間内での共同買いが流布していたのは先刻承知だが、300 万の投資で仮に 3 億円を手にしたとしてもたか
が 100 倍にすぎないではないか、ここまでくると「夢を買う」とは到底云えたモンじゃなかろう。
不況の底から這い上がる気配は見えず、夏のボーナスも大幅カット、いまだ八方塞がりの世間を映した、いかにも世
知辛い噺ではないか。
20090711
秋暑い乳房にぶらさがつてゐる
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、10 月 5 日の稿に
10 月 5 日、晴、行程 2 里、油津町、肥後屋
ぶらりぶらりと歩いて油津で泊る、午前中の行乞相はたいへんよかつたが、午後はいけなかつた。-略秋は収穫のシーズンか、大きな腹を抱へた女が多い、ある古道具屋に「御不用品何でも買ひます、但し人間のこかし
は買ひません」と書いてあつた、こかしとは此地方で、怠け者を意味する方言ださうな、私なぞは買はれない一人だ。
同宿のエビス爺さん、尺八老人-虚無僧さんのビラがない-、絵具屋さん、どれも特色のある人物だつた、親子 3 人連
れのお遍路さんも面白い人だつた、みんな集まつて雑談の花が咲いたとき、これでどなたもブツの道ですなあといつ
た、ブツは仏に通じ、打つに通じる、勿論飲む打つ買うの打つである、またいつた、虱と米の飯とを恐れては世間師
は出来ませんよと、虱に食われ、米の飯を食ふところに世間師の悲喜哀歓がある。
※表題に掲げた句のほか 6 句を記している
―世間虚仮― フルトそろばん、って?
- 362 漢字は好きだが、ちょっぴり計算によわい我が家の 2 年生、2 学期ともなれば九九を習い始めるし、早めの対策を施
すかと、6 月から近所に今年から open したばかりのそろばん教室に通わせはじめたのだが、この教室の指導法が、
昔ながらの習うより慣れろで育った父母からみれば、どうも腑に落ちない。週 2 回通っている子どもが、宿題と云っ
て持って帰るプリントなどを見ても、なにやら理に落ちすぎていやしないかと感じられてしかたがない。
そろばんはデジタル式の計算機だといわれる。いわば電卓の古式版といったところだが、文明の利器たる電卓より優
れて暗算能力を高めてくれる。それは視覚において十進法に適っているからだ。特異な暗算能力の持ち主が、脳内で
そろばんを弾いているだろうことは、疑いの余地はない。
私なら、いの一番に、1 から 10 まで足すのを、とことん反復させ、指と脳に刷り込ませるところだが、この教室で
はそうはなさらないようである。すでに一ヶ月余り過ぎて、昨夜も宿題のプリントをやっていたが、一桁の数字が 3
つか 4 つ並んで、引算が混じったものだ。それを彼女は、むしろ頭で先に計算しながら、珠の動かし方を覚えようと
しているといった態だ。
仕事で遅く帰ってきた連合い殿をつかまえて、「こりゃちょっとおかしいぜ」と話を振ったら、「この教室、フルト
そろばん、と云っているけど、私も首を傾げるところがある」との返答。
Net をググっても頭に冠した「フルト」の由来がまるで見当つかない。カラヤンの前にベルリン・フィルの音楽監督
を務めたドイツの著名な指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラーは、いまでも熱烈なファンやマニアが多いという
が、まさか音楽家の名前に由来するものとは思えない。その彼に数学者の従兄がいた、彼より 17 歳ばかり年長で、
その名はフィリップ・フルトヴェングラー、数論を究めたというこの学者は、半身不随の身で車椅子の学究生活だっ
たらしいのだが、その殆どをウィーン大学にあって、かの不完全性定理のクルト・ゲーデルらを輩出させている。
フルトそろばんの「フルト」と辛うじて結びつきうるとすれば、この数学者の名に由来するものかと思えなくもない
が、はたしてどうか、まるで確証はない。
20090708
剥いでもらつた柿のうまさが一銭
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、10 月 4 日の稿に
10 月 4 日、曇、飫肥町、宿は同前-橋本屋長い一筋道を根気よく歩きつづけた、かなり労れたので、最後の一軒の飲食店で、刺身一皿、焼酎二杯の自供養をし
た、これでいよいよ生臭坊主になりきつた。-略今日は行乞エピソードとして特種が二つあつた、その一つは文字通りに一銭を投げ与へられたことだ、その一銭を投
げ与へた彼女は主婦の友の愛読者らしかつた、私は黙つてその一銭を拾つて、そこにゐた主人公に返してあげた、他
の一つは或る店で女の声で、出ませんよといはれたことだ、彼女も婦人倶楽部の愛読者だつたろう。-略行乞記の重要な出来事を書き洩らしてゐたーーもう行乞をやめて宿へ帰る途上で、行きずりの娘さんがうやうやしく
十銭玉を報謝して下さつた、私はその態度がうれしかつた、心から頭がさがつた、彼女はどちらかといへば醜い方だ
つた、何か心配事でもあるのか、亡くなつた父か母でも思ひ出したのか、それとも恋人に逢へなくなつたのか、とに
かく彼女に幸あれ、冀くは三世の諸仏、彼女を恵んで下さい。
※表題に掲げた句のほか 9 句を記している
特種二つとして、主婦の友や婦人倶楽部の愛読者だろうと決めつける前者と、丁重に十銭玉を呉れた行きずりの娘へ
の山頭火の思い入れ、その対照がおもしろい。
雑誌「主婦之友」は 1917-T6-年創刊、そのライバル誌ともいえる「婦人倶楽部」の創刊は 1920-T9-年だ。大正デモク
ラシーの潮流のなかで、大衆的主婦層に向けた生活の知恵、暮しに根ざした教養と修養の啓蒙的雑誌だが、大正末期
から昭和初期、飛躍的に愛読者をひろげ、主婦之の友は 1934 年-S9-新年号で 108 万部発行にまで至っている。その
- 363 教養主義の大衆化は、古きよきものをないがしろにし滅ぼしていくことでもあったろうから、山頭火は苦々しい面付
でこれを見ていたのだろう。
―表象の森― KAORUKO、出色
いや、驚いた、胸中思わず唸ってしまうほどに、
「天国のお母さん、大切なことを言い忘れました。
私を生んでくださって、ありがとう。」
たった二行の、その発語は、出色のものだった。
板の上にのること、虚と実の二相に引き裂かれつつ身を置くといった、その特異な局面が、我が身に否応もなく、一
方で昂揚感をもたらし、また緊張感に包まれもし、我が事にあって我が事にあらず、舞台という世界に潜む遊び神に
でもまるで背中を押されたかのように、たとえ幼な児といえど、無自覚なままに豹変、憑依してしまうものなのだ。
まこと白川静の云う「言葉とは呪能」である。そしてまた、身振りとは魂振りであり、際において窮まれる振りとは
呪能そのものであろう。
振り返れば、昨年 9 月、ほぼ 2 年ぶりに再びはじめた Dance Café も、昨夜でやっと 4 夜を重ね、これが見事なほ
どに起承転結に照応していることに、ふと気づかされたものである。
バレエの申し子のように育ってきたありさを、世界もキャリアもまるで異なる此方の手法のなかにどのように棲まわ
せるか、そんな試行にはじまり、13 歳のありさの世代にまで降りてゆけるのなら、8 歳の KAORUKO にも届き得よ
うかというのが「Reding」であり、転でもあった、そんな一面がある。
むろん 4 夜の起承転結、その照応はこの一事ばかりではない。むしろ核というか本質というか、孕むべき劇的変容は
もっと要のところで静かに進行しており、こと此処に到っているのだ。
20090706
子供ら仲よく遊んでゐる墓の中
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、10 月 3 日の稿に
10 月 3 日、晴、飫肥町、橋本屋
すこし寝苦しかつた、夜の明けきらないうちに眼がさめて読書する、一室一灯占有のおかげである、8 時出立、右に
山、左に海、昨日の風景のつづきを鑑賞しつつ、そしてところどころ行乞しつつ風田といふ里まで、そこから右折し
て、小さい峠を二つ越してここ飫肥の町へついたのは 2 時だつた、途中道連れになつた同県の同行といつしょに宿を
とつた。-略朝、まだ開けきらない東の空、眺めてゐるうちに、いつとなつて明るくなつて、今日のお天道様がらんらんと昇る、
それは私には荘厳すぎる光景であるが、めつたに見られない歓喜であつた、私はおのづから合掌低頭した。-略※表題に掲げた句のほか 8 句を記している
飫肥-おび-町は、現在の宮崎県南部、日南市の中心街だが、九州の小京都と称される古い城下町である。古くは戦国
の世、伊東氏と薩摩の島津との間で 100 年にわたる国盗りの舞台ともなった飫肥城は、江戸期になって 5 万 1 千石の
城下町となって代々伊東家が治めた。1977 年には重要伝統的建造物群保存地区として、城下町らしい景観と飫肥城
を復元するために大規模な改修が行われている。
その古い町並の静かな佇まいを伝える Photo 群が<此のサイト>で観られる。
―四方のたより― 今日の You Tube-vol.18林田鉄のひとり語り「うしろすがたの‥山頭火」Scene.8、終幕である。
- 364 -
20090703
お経あげてお米もらうて百舌鳥ないて
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、10 月 2 日の稿に
10 月 2 日、雨、午后は晴、鵜戸、浜田屋
-略-、私の行乞のあさましさを感じた、感ぜざるをえなかつた、それは今日、宮ノ浦で米 1 升 5 合あまり金 10 銭ば
かり戴いたので、それだけでもう今日泊まつて食べるには十分である、それだのに私はさらに鵜戸を行乞して米と銭
を戴いた、それは酒が飲みたいからである、煙草が吸ひたいからである、報謝がそのままアルコールとなりニコチン
となることは何とあさましいではないか! -略岩に波が、波が岩にもつれてゐる、それをぢつと観てゐると、岩と波とが闘つてゐるやうにもあるし、また、戯れて
ゐるやうにもある、しかしそれは人間がさう観るので、岩は無心、波も無心、非心非仏、即心即仏である。-略同宿の或る老人が話したのだが-実際、彼の作だか何だか解らないけれど-、
一日に鬼と仏に逢ひにけり
仏山にも鬼は住みけり
鬼が出るか蛇が出るか、何にも出やしない、何が出たつてかまはない、かの老人の健康を祈る。-略※文中、表題に掲げた句のほかに、14 句を記す
―四方のたより― 今日の You Tube-vol.16林田鉄のひとり語り「うしろすがたの‥山頭火」Scene.6
―表象の森― 「群島-世界論」-20意識の多島海にひとたび漕ぎ出せばもはや単純な帰還はない。世界の、海底での連結の事実に気がつけば、故郷とい
う土地は樹々からこぼれ落ちる種子のように海上に散種され、世界の無数の汀へと流されてゆく。振り向いた水平線
上から帰るべき陸地が消えた時、人ははじめて未知の自由を得る。<わたし>こそが水平線であることを発見するから
だ。一人一人が自らに絡みつく歴史と政治の緯度や経度が錯綜した水平線を舟とともに曳航し、その<わたし>という
水平線の出逢う交点に一つ一つ島が出現してゆく。自らが引きずるのと瓜二つの水平線、時空のはてなき拡がりと炸
裂のなかで未知のまま結びあっていたもう一人の<わたし>、<わたし>の分身のような水平線がどこかの海から訪れ
来る。背後に置いてきた故郷ではなく、前方にかすむ起源が、未来へと向かう水平線の運動のなかに書き込まれてゆ
く。
「私は群島」-I am the Archipelago-、<わたし>と<群島>とを、実存をしめすもっとも確固たる等号で簡潔に繋ぐ
こと。このようにシンプルにして果敢な言葉を発した詩人は、エリオット・ローチ以外にいない。
-今福龍太「群島-世界論」/20.私という群島/より
20090701
泊めてくれない村のしぐれを歩く
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、10 月 1 日の稿に
10 月 1 日、曇、午后は雨、伊比井、田浦といふ家
-略-、朝夕の涼しさ、そして日中の暑さ。今日此頃の新漬-菜漬のおいしさはどうだ、ことに昨日のそれはおいしか
つた、私が漬物の味をしつたのは四十を過ぎてからである、日本人として漬物と味噌汁と-そして豆腐と-のうまさを
味はひえないものは何といふ不幸だらう。
- 365 酒のうまさを知ることは幸福でもあり不幸でもある、いはば不幸な幸福であらうか、「不幸にして酒の趣味を解し‥」
といふやうな文章を読んだことはないか知ら、酒飲みと酒好きとは別物だが、酒好きの多くは酒飲みだ、一合は一合
の不幸、一升は一升の不幸、一杯二杯三杯で陶然として自然人生に同化するのが幸福だ-ここでまた若山牧水、葛西
善蔵、そして放哉坊を思ひ出さずにはゐられない、酔うてニコニコするのが本当だ、酔うて乱れるのは無理な酒を飲
むからである-。-略表題に掲げた句のほか 5 句を記している
―世間虚仮― ピナ・バウシュ死す
松岡正剛に「ハイパーピース・ダンス-Hyper Peace・Dance-」と献辞を送らしめた舞踊家ピナ・バウシュ-Pina
Bausch-が、昨日-6/30-急死したという。
自らは「Tanz Theater-タンツテアター-」と称した、ラバンや M.ヴィグマンとともにドイツ表現主義の舞踊を築いた
クルト・ヨースに学び、独自の方法論として開花させたその Dramatic な Dance は、80 年代から 90 年代、世界の
Modern Dance に衝撃を与えつづけた、といっていい。
まだ 68 歳、若すぎる死である。癌だったというが、その告知の 5 日後の、突然の死であった、と。
―四方のたより― 今日の You Tube-vol.14林田鉄のひとり語り「うしろすがたの‥山頭火」Scene.4
―表象の森― 「群島-世界論」-1915-6 世紀の Venice は、ヨーロッパ、アジア、アフリカを結んで地球大の拡がりを持ちはじめた海上交通のほとんど
唯一無二の要衝として、世界でもっとも多くの知識と情報と文物を集積する能力を持ったことで、かえって事実の領
域の彼方へと逸脱してゆくような白熱した知性を生み出した。「世界」という限定された観念の極限を踏み越えてし
まう過剰かつ驚異的な事実の数々が、外界への想像力を意識の内面へと反転させ、未知の世界は謎の群島の連なりと
して魂の多島海に浮上した。マウロの地図は、そうした新しい心性そのものを描いた精緻な認識地図だった。
近年の、高橋悠治によるバッハの鍵盤作品の演奏と解体をめぐる一連の作業ほど、私の「群島-世界論」への Vision
を鼓舞するものはない。その試みの先には、近代世界の成立を経てヨーロッパ大陸に収斂してきたあらゆる音楽文化
の要素と意匠を、ふたたび群島世界の末端へと谺のように送り返したいという、刺戟的な音楽の反-方法論が見え隠
れしている。
もちろんバッハは、はじめから高橋にとって西欧近代音楽の殿堂としての権威や正統性の源泉にはなかった。バッハ
はむしろ、近代の西洋音楽が平均律や Homophony といった一元的な法則性や形式的演奏行為のイデオロギーによ
って自らの「音楽」という制度を確立する前の最期の音楽的混沌を体現する、きわめて豊饒な可能性と逸脱の宝庫と
して捉えられていた。
-今福龍太「群島-世界論」/19.白熱の天体/より
20090629
波の音たえずしてふる郷遠し
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、9 月 30 日の稿に
9 月 30 日、秋晴申分なし、折生迫、角屋
いよいよ出立した、市街を後にして田園に踏み入つて、何となくホツとした気持になる、山が水が、そして友が私を
慰めいたはり救ひ助けてくれる。-略-
- 366 今日、求めた草鞋は-此辺にはあまり草鞋を売つていない-よかつた、草鞋がしつかりと足についた気分は、私のやう
な旅人のみが知る嬉しさである、芭蕉は旅の願ひとしてよい宿とよい草鞋とをあげた、それは今も昔も変らない、心
も軽く身も軽く歩いて、心おきのない、情のあたたかい宿におちついた旅人はほんとうに幸福である。-略夜おそくなつて、国政調査員がやつてきて、いろいろ訪ねた、先回の国勢調査は味取でうけた、次回の時には何処で
受けるか、或は墓の下か、いや墓なぞは建ててくれる人もあるまいし、建てて貰ひたい望みもないから、野末の土く
れとの一片となつてしまつてゐるだだらうか、いやいやまだまだ業が尽きないらしいから、どこかでやつぱり思ひ悩
んでゐるだらう。-略青島即事と前書して「白浪おしよせてくる虫の声」他 5 句記している。
―四方のたより― 今日の You Tube-vol.12林田鉄のひとり語り「うしろすがたの‥山頭火」Scene.2
―表象の森― 「群島-世界論」-18こころみに「幸福」という言葉を英訳してみよう。おそらく誰もがごく自然に<happiness>とするだろう。それは私
たちのときに荒れ果ててもいる日常の、ささやかな憧れの表明でもある。だがもし<bliss>と答える者がいれば、その
人はずっと詩人に近いところにいる。happiness の幸は悲しくも軽く通俗的だが、bliss の幸はたとえ一瞬であろうと
も天上的で陶酔的な得難い至福の謂いである。happiness が求められるものであるとすれば、bliss は思いがけぬ不意
の到来である。他にも good, welfare, well-being といったそれぞれに文脈やニュアンスを異にする訳語が容易に浮
かんでくる。「幸福」という言葉のこうした多様な変異が示すように、幸福は単一の感情へと収斂しえない、それ自
体群島のような情動の揺れを抱く感情複合体である。幸福という真実に行き着く経路もまた、近代の歴史や宗教・信
仰の道筋、さらには日常生活の刹那に訪れる得心のか細い稜線といった無数のルートを含みこんでいる。群島の想像
力は、こうした感情語彙を多様な可能性に拓いてゆくときにも、私たちの内部でたしかにはたらいている。
詩は大陸から孤絶した島である。わが群島のさまざまな方言-Dialect-は、私にとって彫像の額の上の雨滴のように新
鮮に思われる。それは威圧的な大理石の古典的な奮発による汗ではなく、雨と塩という清冽な要素の凝縮そのもので
ある。-D.ウォルコット「The Antilles: Fragments of Epic Memory」
-今福龍太「群島-世界論」/18.ハヌマーンの地図/より
20090627
お茶をくださる真黒な手で
-山頭火の一句- 昭和5年の行乞記、9 月 30 日の稿に
9 月 29 日、晴、宿は同前-宮崎市.京屋気持ちよく起きて障子を開けると、今、太陽の昇るところである、文字通りに「日と共に起き」たのである、或は雨
かと気遣つてゐたのに、まことに秋空一碧、身心のすがすかしさは何ともいへない、食後ゆつくりして 9 時から 3 時
まで遊楽地を行乞、明日はいよいよ都会を去つて山水の間に入らふと思ふ、知人俳友にハガキを書く。-略両手が急に黒くなつた、毎日鉄鉢をささげてゐるので、秋日に焼けたのである、流浪者の全身、特に顔面は誰でも日
に焼けて黒い、日に焼けると同時に、世間の風に焼けるのである、黒いのはよい、濁つてはかなはない。
行乞中、しばしば自分は供養をうけるに値しないことを感ぜざるをえない場合がある、昨日も今日もあつた、早く通
り過ぎるやうにする、貧しい家から全財産の何分の一かと思はれるほど米を与へられるとき、或はなるたけ立たない
やうにする仕事場などで、主人がわざわざ働く手を休ませて蟇口を探つて銅貨の一二枚を鉄鉢に投げ入れてくれると
き。‥ -略-
- 367 ―四方のたより―今日の You Tube-vol.10「Reding –赤する-」終幕の Scene.7
―表象の森― 「群島-世界論」-17サンタ・マリア-Santa Maria-、この地名をもつ土地だけを世界地図の上で点で示した地図があったとしよう。白地図
の上に落とされた点の固有の密度と特異な地理的偏差の絵柄に、誰でもきっと眼を奪われるにちがいない。規範的な
世界地図の見慣れた大陸と島々の構図を突き破って、一つの地名が描き出す未知の群島がそこに出現するからである。
「聖マリア」を意味するこの言葉のラテン的出自に対応して、スペイン・ポルトガルには Santa Maria なる地名が数
多く点在する。だがそこから世界へ向けてのこの地名の拡がりには眼を見張るものがある。まずイベリア半島から大
西洋上に千数百キロ沖に出れば、かつて捕鯨基地として沸いたポルトガル領アソーレス諸島の最南端に浮かぶサン
タ・マリア島がある。ついで同じ大西洋上の西アフリカ沖、奴隷交易の中継地だったカーボ・ヴェルデ群島を構成する
サル島の港サンタ・マリア。ついで大西洋を渡りきって中南米に眼を移せば、北はメキシコから、コロンビア、アル
ゼンチン、そしてブラジルに至るまで、聖マリアの名に因む町や村はそれぞれの国内におびただしく散在し、それが
持つ歴史的願意をさまざまに分泌する。そして驚くべき反響は太平洋海域にまで達し、フィリピン群島各地にも
Santa Maria を名のる大きな町だけで 8 ヶ所、さらにはメラネシア、ヴァヌアツ共和国北端のバンクス諸島にあるガ
ウア火山島もまた別名をサンタ・マリア島という。そして最後に、ガラパゴス群島において最初に拓かれたチャール
ズ島も、そのスペイン語名をサンタ・マリア島というのであった。
この Santa Maria の群島は、その名辞の胚胎するコロニアルな記号としての含意と隠喩によって、近代植民地主義
の一つの写し絵となる。歴史を群島の Vision によって転位する可能性は、まさにこうした歴史的名辞の偶然でアイロ
ニーに満ちた飛躍的連接を「いま」に召還する想像力にかかっている。
-今福龍太「群島-世界論」/17.痛苦の規範/より
20090625
放ちやる蝗うごかない
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、9 月 28 日の稿に
9 月 28 日、曇后晴、生目社へ。-宿は宿は同前京屋かお昼すぎまで大淀-大淀川を東に渡ったところの市街地-を行乞してから、誰もが詣る生目様へ私も詣った、小つぽけ
な県社に過ぎないけれど、伝説の魅力が各地から多くの眼病患者を惹きつけてゐる、私には境内にある大楠大銀杏が
うれしかつた、つくつくぼうしが忙しくないてゐたのが耳に残つてゐる。-略今日はしつかり労れだ、6 里位しか歩かないのだが、脚気がまた昂じて、足が動かなくなつてしまつた、暮れて灯さ
れてから宿に帰りついた、すぐ一風呂浴びて一杯やつて寝る。-略大淀の丘へ登つて宮崎平原を見おろす、ずゐぶん広い、日向の丘から丘へ、水音を踏みながら歩いてゆく気分は何と
もいへないものがあつた。もつもとそれは 5.6 年前の記憶だが。-略「途上即事」として、表題の句と
「笠の蝗-イナゴ-の病んでいる」
「死ぬるばかりの蝗-イナゴ-を草へ放つ」の 3 句を記している。
―四方のたより―
You Tube は昨日に続く「Reding –赤する-」の Scene.5-2
デカルコ・マリィ十八番芸その 2 である-Time 5’13
- 368 ―世間虚仮― 大阪市有地の不正転貸
昨夕刊と今朝の朝刊と一面を飾っている大阪市有地の転貸問題。
条例違反と挙げられていた 2 社が、ともに嘗て私の知るところの人や会社であっただけに驚かされつつ記事に見入っ
てしまった。なにしろ 88 年から 00 年までの丸 12 年の間、港区の奥野市議の事務所に在って、日々舞い込んでくる
相談ごとから後援会などのことども一切、また4年に一度めぐりくる選挙関係の諸事全般を経験してきた身であれば、
港区の人々や会社については、直接知るもの間接知るもの数多で、否応もなく今なお大脳辺縁系に刻まれているらし
く、こんな記事に出会してはその当事者や関係者の人品骨柄が思い出されてくるのである。
もとは土地区画整理事業から派生してきたものと思われる「大阪海陸運輸協同組合」への市有地賃貸が、組合加盟会
社の特権的事項ともなって、いつのまにか私有財産として利得の温床となったまま長年にわたって見逃されてきたこ
とだ。
調べてみると「公正職務審査委員会」なるものによってすでに平成 19 年度、「臨港地区市有地において転貸等の不
適正事例が多数ある」ことが勧告されている事案である。自治体の癒着や不正に喧しいご時世のことだから、以後、
管轄の港湾局においても是正指導しようと努めてきたには違いないが、にもかかわらず頑なにこれに抵抗、転貸解消
に応じようとしてこなかったのが、どうやら N 産業と K 運輸の 2 社ということらしい。
20090623
草を草鞋をしみじみさせるほどの雨
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、9 月 26 日の稿に
9 月 27 日、晴、宿は同前-宮崎市.京屋-、宮崎神宮へ。
今日は根気よく市街を行乞した、おかげで一日や二日、雨が降つても困らないだけの余裕が出来た。
帰宿したのが 4 時、すぐ湯屋へ、それから酒屋へ、そしてぶらぶらと歩いて宮崎神宮へ参拝した、樹木が若くて社殿
は大きくないけれど、簡素な日本趣味がありがたかつた。
この町の名物、大盛うどんを食べる、普通の蕎麦茶碗に一杯盛つてたつた 5 銭、とにかく安い、質と量とそして値段
と共に断然他を圧してゐる、いつも大入だ。
夜はまた作郎居で句会、したたか飲んだ、しやべりすぎた、作郎氏とはこんどはとても面接の機があるまいと思つて
ゐたのに、ひよつこり旅から帰られたのである、予想したやうな老紳士だつた、2 時近くまで 4 人で過ごした。
―四方のたより― 踊ることと演じることと
7 月 7 日の Dance Cafe もずいぶん近づいてきている。案内ハガキの発送は、遅まきながら今日やっと済ませた。
Arisa や Aya に発声の手ほどきをはじめたのが 5 月。ことのついでにこのたびは冒頭に言葉の Scene を置くことに
した。彼女らに演技経験もして貰おうという訳だが、この稽古はなかなか厄介なもので、それだけに愉しい一面もあ
る。
踊ることと演技することと、おのれ自身がその心と身体をもってすなるものならば、似て非なるものとはいえ、その
懸隔はさほどのことはあるまいと思われるものだが、なかなか、演技における声と身振りの、心身をまるごと伴った
変わり身というものは、そう容易くは体得できるものではない。その突破口を少しでも開かれればと、稽古場の壁を
どんどん叩くようにして演ってみせれば、ちょっぴり功を奏したか、吹っ切れたようなイイ感じをひととき見せてく
れた。見せてはくれたが、も一度といえば、これが再現できないのである。偶然の初発を自身の技や術へと結びつけ
るのはたしかに難しいことだが、その初発さえ起こすこと-経験-が出来ないようではなにも生み出し得ない。
今日の You Tube は「Reding –赤する-」の Scene.4
Arisa の solo part-Time 4’54
- 369 -
―表象の森― 「群島-世界論」-16海面下における群島的統一と、それを見えなくさせている大陸と海の抗争をめぐる主題が重層的に渦を巻く意識の大
海を縦横に遊泳するのが、鯨という存在である。人類の想像力のなかで、鯨はつねに具体と観念とが交錯・反転する
認識の海原をゆったりと横断・回遊しながら生き続け、歴史に介入し、権力を準備し、産業に革命的影響を与え、文
学的イマジネーションを鼓舞し、一方で Dialect によって生きる小さな民に向けて聖俗ないまぜになった日々の恩寵
を与えつづけてきた。
メルヴィル「白鯨」の、死者が落ちてゆく冥府のようなあるいは始原の母胎のような鯨の腹のなかで三日三晩呑み込
まれた予言者ヨナの物語。
また、その物語が過去の追憶として語られながらも、鯨という存在をあくまで人間の肉体が対峙する<具体>の生命と
して無時間のなかに描ききろうとした希有な小説、L.クレジオの掌編「パワナ」-Pawana--。
-今福龍太「群島-世界論」/16.イデアとしての鯨/より
20090620
秋暑い窓の女はきちがひか
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、9 月 26 日の稿に
9 月 26 日、晴、宿は同前-宮崎市.京屋9 時から 3 時まで、本通りの橘通を片側づつ行乞する、1 里に近い長さの街である、途中闘牛児さんを訪ねてうまい
水を飲ませて貰ふ。
宮崎は不景気で詰らないと誰もがいつてゐたが、私自身の場合は悪くなかつた、むしろよい方だつた。
夜はまた招かれて、闘牛児さんのお宅で句会、飲み食ふ会であつた、紅足馬、闘牛児、蜀羊星、みんな家畜に縁のあ
る雅号である、牛飲馬食ですなどといつて笑ひ合つた。-略―四方のたより―
今日の You Tube は「Reding –赤する-」の Scene.2、Junko の solo
―表象の森―「群島-世界論」-15島尾敏雄はポーランドを再訪、三訪することで、民族と国家と歴史的主体をめぐる彼の固有かつ地域的な問いを、よ
り広がりのある知的射程へと導くことができることを知った。琉球弧、フィリピン、ハワイ、プエルトリコと並んで、
ポーランドは、彼にとってのそうした世界を浮上させる特別の一地点として、自身の群島地図にある時浮上したかけ
がえなき島だったのである。
「群島=多島海」-Archipelago-という語彙が、ヨーロッパ=地中海世界における始原の海エーゲを指す西欧的用法を
超えて、近代世界における島嶼の連なりを指す一般名詞として広く流通するために寄与した最重要の書物のひとつが、
博物学者 A.R.ウォレスによる「マレー群島」である。この書の愛読者であり、まさに言語的変異の坩堝のようなこの
海域を船員として往還した J.コンラッドが、ボルネオ島東部域の海と川を舞台に一人の孤独な夢想家商人の野心と没
落を描いた処女作が、「オルメイヤーの阿呆宮」であった。
群島の言語-。「大陸」の原理が抑圧する言語のひとつは国家的枠組みを欠いた Dialect という消えかける地方言語
であり、もうひとつが Pidgin=Creole というどこにも native な帰属を持たない浮遊する混淆言語である。そうした
大陸言語の抑圧のもとに上書きされて見えなくなっていたくぐもった異語の肌理が、いま群島の Vision のなかで浮上
しつつあるとはいえないだろうか? この、完全に文字言語によっては征服され得ない群島の言語を、彼らを先達と
して聴き取ることの可能性こそが、いま私たちのまえに拓かれてあるといわねばならない。
- 370 -今福龍太「群島-世界論」/15.言語の多島海/より
20090618
馬がふみにじる草ははなざかり
―山頭火の一句―昭和 5 年の行乞記、9 月 24 日の稿に
9 月 25 日、雨、宮崎市、京屋
けふは雨で散々だつた、合羽を着けれど、草鞋のハネが脚絆と法衣をメチヤクチヤにした、宿の盥を借りて早速洗濯
する、泣いても笑つても、降つても照つても独り者はやつぱり独り者だ。
ここは水が悪いので困る、便所の汚いのにも閉口する、座敷は悪くない、都城での晴々しさはないけれど。
-略-、雨は世間師を経済的に苦しめる、私としては行乞が出来ない、今日も汽車賃 80 銭、宿料 50 銭、小遣 2~30 銭
は食ひ込みである。幸いにして 2、3 日前からの行乞で、それだけの余裕はあつたけれど。
-略-、夜になつて、紅足馬、闘牛児の二氏来訪、いつしよに笑楽といふ、何だか固くるしい料理屋へゆく、私ひとり
で飲んでしやべる、初対面からこんなに打ち解けることが出来るのも層雲-荻原井泉水主宰の俳誌-のおかげだ、いや
俳句のおかげだ、いやいや、お互いの人間性のおかげだ! だいぶおそくなつて、紅足馬さんに送られて帰つて来た、
そしてぐつすり寝た。-略―四方のたより― You Tube 第 2 弾
昨日に引き続き You Tube に upload、第 2 弾は昨秋の山頭火公演の Photo Album 篇。
劇中で使った山頭火の俳句をカットカットに配したもの、音は冒頭の琵琶の演奏を、最後の台詞はご愛嬌、所要時間
は 7 分 13 秒、お愉しみ願えれば嬉しいかぎり。
―表象の森―「群島-世界論」-14歴史とは、スティーヴンは言った、ぼくがそこからなんとかして目覚めたいと思っている悪夢なんです。
-J.ジョイス「ユリシーズ」
そして塔はみな宙空に逆さまに浮かび
追憶の鐘を鳴らし、時を刻んだ
干上がった貯水池や涸れた井戸の底から歌う声が聞こえた
-T.S.エリオット「荒地」
原住民を人類の歪曲された子供っぽい戯曲であるかのように描く説明を許容する時代はすでに去った。この絵はまち
がっている。
-B.マリノフスキー「西太平洋の遠洋航海者」
ああかがやきの四月の底を
はぎしり燃えてゆききする
おれはひとりの修羅なのか
-宮沢賢治「春と修羅」
あるとき、ひとつの固有の年が群島のような姿をとって私の認識地図の海原のそこここに忽然と浮上することがある。
いくつもの出来事がひとつの同じ年に収斂して生起すること-「歴史的同時現象」
この出来事は、だがむしろ、それが空間的な多様性を持った偶発的な同時性とともに生起したという地理的事実によ
って、私の想像力を豊かに刺戟する。「時代」という暦の支配者の見えざる操作によってそれらの同時並行現象の隠
れた連関を説明する歴史的言説は、私をかえって頑なな反歴史主義者へと変節させるだけだ。なぜなら、均質で空虚
な時間を満たすために招集された過去の出来事の蓄積である歴史の光景のなかにこの同時性の群島的展開をあっさ
- 371 りと従属させてしまうならば、出来事はすべて過去の通時的な因果関係と影響関係の問題へと還元されてしまうから
である。だが、時の群島の出現とは、むしろ私たちの「いま」が希求するアクチュアリティの意識においてはじめて
その深い通底の谺を響かせる、徹底して現在時の現象なのではないか。暦年から通時的な歴史の文脈をはぎ取ったあ
との、きわめて抽象的なその数字の並び合いのある瞬間に、ちょうどスロットマシンの絵柄が偶然重なるようにして、
世界という海のあちこちに時を同じくして浮上する島々-。そして、それらの時の島々がいまこの現在時において、
不意にあるアクチュアリティの相のもとに未知の群島=星座をかたちづくるとき、表層の歴史の因果関係を超えた時
の航跡による海図が、新たな「発見法」のための地図として私たちの前に到来するのである。
-今福龍太「群島-世界論」/14.1922 年の贈与/より
20090616
芋虫あつい道をよこぎる
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、9 月 23 日の項
9 月 23 日、雨、曇、同前-都城市・江夏屋8 時から 2 時まで都城の中心地を行乞、ここは市街地としてはなかなかよく報謝して下さるところである。
今日の行乞相はよかつた、近来にない朗らかさである、この調子で向上してゆきたい。
一杯二杯三杯飲んだ-断つておくが藷焼酎だ-いい気持ちになつて一切合切無念無想。
-略- 同宿の坊さんはなかなかの物知りである、世間坊主としては珍しい、ただものを知つてゐて物を味はつてゐな
い、酒好きで女好きで、よく稼ぎもするがよく費ひもする、もうひとりの同宿老人は気の毒な身の上らしい、小学校
長で敏腕家の弟にすがりつくべくあせつてゐる、煙草銭もないらしい一服二服おせつたいしてあげた。
酔ふた気分は、といふよりも酔うて醒めるときの気分はたまらなく嫌だけれど、酔ふたために睡れるのはうれしい。
アルコールをカルチモンやアダリンの代用とするのはバツカスに対して申訳ないが。
―表象の森―「群島-世界論」-13語り、歌うこと‥。ことばが純粋な口誦性のなかで完結していた長い時の堆積をもつ文化においては、人間同士をむ
すびあわせる身体と感情と思考の環は、ほとんど例外なく物語と歌謡のなかで創造されてきた。そのとき物語とは双
方向的な即興性に満ちた対話のことであり、歌謡とは旋律にのせた自由なことばの掛け合いのことであった。
アイルランド古来から、ゲール語で「オダース・ベール」-oideas beil-と呼ばれる知恵は、「口誦の教え」と直訳で
きるその意味からも解るように、もっぱら口と耳を回路とした声の伝達を媒介とするコミュニケーションの形式だっ
た。歌、神話語り、物語り、地名の喚起、叙事詩の朗誦といったかたちをもって行われたこの「教え」は、大陸近代
が創造した制度的「教育」がもっぱら文字言語に依拠した思考回路を想定していたのに対し、思考=イデアの口誦的
な伝達に信をおいた、群島的な学びの方法論だった。そこで言葉は、大気の震動として運ばれてゆく声であり、息と
して外に向かって発せられる律動であり、抑揚をともなって聞き手の耳に歌いかけられる音楽であった。この音とし
ての物質性こそが言葉の唯一無二の本姓であり、それは恣意的な表記の記号性のなかに取り込まれることを永遠に拒
む vernacular-土着的-な原理だった。
言語の肉体性、それを誰よりも微細に感じとるのが Dialect の群島に家を持つ詩人たちである。大陸的原理に冒され
た国家語の浸透がいまだ不完全な、ゆらめく Dialect の島では、言葉は肉体的な存在そのものであり、それが「舌」
と呼ばれてきた身体語彙の由来を証明してもいた。その意味で、大陸と群島のせめぎ合いの界面で起こる言語をめぐ
る葛藤と紛争は、いわば舌の疾患であり、その治療のためには時に思い切った手術が要請されることもあった。
-今福龍太「群島-世界論」/13.音楽の小さな環/より
20090614
- 372 旅のすゝきのいつ穂にでたか
―山頭火の一句― 昭和 5 年の行乞記、9 月 17 日の稿に
9 月 22 日-晴、曇、都城市、江夏屋
7 時出立、谷頭まで 3 里、道すがらの風向をたのしみながら歩く、2 時間行乞、例の石豆腐を食べる、庄内町まで 1
里、また 3 時間行乞、すつかりくたぶれたけれど、都城留置の手紙が早くみたいので、むりにそこまで 2 里、暮れて
宿に着いた、そしてすぐまた郵便局へ、――友人はありがたいとしみじみ思つた。
同宿十余人、同室 1 人、隣室 2 人、それぞれに特徴がある、虚無僧さんはよい、ブラブラさんもわるくない、坊さん
もわるくない、少々うるさいけれど。
―四方のたより― 補助線
次の Dance Cafe の Installation を考えるのに環境の確認をというので、今朝は稽古場へ行く前に、planner の神谷
君と会場で待ち合わせた。
布や net を主に使うつもりだが、容易い仕込で効果的な造形がどうすれば可能か、踊りとの絡みも想像しながらあれ
これ喋っていると、互いの思い描く像がかなり重なってきたようだ。この作業が補助線のようにはたらいて、踊りの
ほうも課題が鮮明になってきた。これが協働作業の効果というもの。
前半の構成はほぼイメージできていたのだが、午後からの work では、後半部についても outline の見当がついてき
た、といってももちろん今のところ私の頭の中でだけのこと。あと 3 週間余、その plan に基づきつつ、Dancer た
ちに具体的な像を結んでいってもらわなければならないが、時間はそれほどあるわけではない。
―表象の森―「群島-世界論」-12私は舌だ、私はあらゆる魚を捕獲する網だ。
私はいかなる国家よりも高貴だ
教会よりも高貴だ
無気力な愛国主義者よりも高貴だ
私は魔女でもなく、古代の鬼婆でもない
薔薇でもなく、賢い老女でもない
私は女王のごとく歩みはじめた処女ではない。
あらゆる舌はどんな部族の誇りよりも高貴だ
いかなる政府が指示する夢よりも。
―略―
教会は殉教からつくられた
愛国者は棍棒からつくられた
ゲール語話者は聖なるものからつくられた。
だ私は淫らな舌だ
反-アイルランド国の-
暴力的なアングロ主義からはできていない舌だ。
私は時流の召使女ではない
うぬぼれた信者でもない
私はパブにこだまする呪いであり邪悪な言葉だ
私は魂の叫びであり、美しく歪んだ旋律だ。
―略―
- 373 私は舌だ、私はあらゆる魚を捕獲する網だ。-マイケル・ハーネット「私は舌」
-今福龍太「群島-世界論」/12.わたしは舌である/より
20090612
霧島は霧にかくれて赤とんぼ
―山頭火の一句―
昭和 5 年の行乞記、9 月 21 日の項
-曇、雨、彼岸入、高崎新田、陳屋
9 時の汽車で高原へ、3 時間行乞、そして 1 時の汽車で高崎新田へ、また 3 時間行乞。
高原も新田も荒涼たる村の町である、大きな家は倒れて住む人なく、小さい家は荒れゆくままにして人間がうようよ
してゐる、省みて自分自身を恥ぢ且つ恐れる。
霧島は霧にかくれて見えない、ただ高原らしい風が法衣を吹いて通る、あちらを見てもこちらを見ても知らない顔ば
かり、やつぱりさびしいやすらかさ、やすらかなさびしさに間違いない。
此宿は満員だというのに無理に泊めて貰つた、よかつた、おばあさんの心づくしがうれしい。
―世間虚仮―Soulful Days-24- 内奥の傷痕
他者の心は量りがたい。ましてや内奥の傷痕からくるであろう呵責や痛苦など、たとえ自身の苦しみや悲しみに照ら
してみたところで、到底推し量れるものではない。
昨夜、M 運転手に、この 1 週間ばかりの動きについて、報告のメールを送ったのだが、その返信を読むなり、そんな
思いに捕らわれてしまったのだ。
-私からの往信「先週末の弁護士同士の初会談では、賠償の金額提示などはまったくなかったと。コチラの弁護士が、
相手方 T の重過失疑惑や不誠実な態度に、怒りと幻滅を抱いていることを言ったからでしょう。強制賠償は双方のが
使えるということもあるし、どうぞ提訴してください、とそんな調子だったと。まったく保険会社やその弁護士とい
うのは、そんなものですかネ。コチラは刑事のほうもまだ時日がかかりそうだし、この報告以前に、貴方を除いて、
MK 会社サイドと相手方 T を民事でも提訴しようと決めていたので、その旨弁護士に依頼しています。来週にも提訴
の運びになるでしょう。
それと、母親と息子に、一度ゆっくりと貴方と話し合う機会を設けたいと言ってます。私とばかりでなく、二人と腹
を割って話せば、貴方の心の傷や凝りも少しは軽くなるかも知れないし‥。いまでは母親の思いも、我々と同様、貴
方もまた被害者だ、と受け止めています。だから、貴方と一緒に奥さんとも会いたいと言ってます。この機会につい
ては、あらためて連絡、相談するつもりです。」
-M からの返信「ご連絡有難うございます。私にも公安から通知がありましたが、取消処分に変わりないと、との判
断でした。基本的に最初の警察調書からの判断・裁定ですから、警察が惰性で作文したものに、日時や場所の記述を
差し替える手法で、当事者の真情や表現はあまりにも反映されていないことが、根本的におかしいですし、検察もほ
ぼ同様に感じられます。
また会社は、社保の個人負担費用のことをこちらから散々問い合わせしている時はなかなか返事をせずに、突然何ヶ
月とまとまった金額を全額決済しないと、労災手続きの書類に押印しないと、訳のわからないことを平然と言ってき
ています。現在、私の生活費は給付金であることをわかったうえで、尚且つそんな話です。降格された K の後任部長
職が、我が身の保身を優先し、指示をしているとのことで、さすがに私も家内も体調を崩してしまい、折角の治療も
後退してしまい、担当医もびっくりしていました。労災担当の方からも心療内科に労災手続きが出来る指定医に転院
して、精神的にケアを奨められました。
- 374 本当に色々とご心配戴き有難うございます。大変息苦しい状態で、本当に折れそうな今日この頃です。有難うござい
ました。」
公安のあるいは検察の審判が、事故当事者たる運転手双方の過失をどのように裁定したとしても、人ひとりの生命を
理不尽にも奪い取ってしまったことの重さ-罪悪-からは逃れようもない、というのが人間としての本分だろう。しか
しこの当事者たち M と T は、事故直後よりずっと、対照的な、真逆といっていいほどのリアクションに終始してき
たように思われる。一方は自己保身と防衛のためにいち早く固い鎧に我が身を包み込んでしまい、そこから一歩も出
ようとしない者、他方は直き心でというか、率直に真摯に事態を受け止め、心身もろともにその責め苦に向き合いつ
づけようとする者。むろん後者が M で、前者が T そのものだと私は捉えているのだが。
それにしても、私にとって到底量りがたいものがあるというのは、まず、その事故自体の、生の具体的な経験そのも
の、その衝撃の強度は、それぞれ M 固有のものであり、T 固有のものである筈で、その消し去りようのない生の衝撃
と、第三者-RYOUKO-の死を招来してしまったという悲惨事が直結してしまっているという事態、この事態を正面切
って受け止めてしまっては、心というもの、その内奥にどれほどの傷痕を残すものか、それはたとえ不条理にも突如
家族を奪われてしまった此方の痛苦や悲しみからでも想像しうるものではあるまい、と私には思われる。
ならば、もう一人の T、さっさと固い鎧のなかに身を隠してしまい「貰い事故」などと何処かで放言を吐いてしまえ
たような彼は、果たしてその心になんの傷痕も残していないのだろうか、そんなことはあるまい、M とは異なりもっ
と意識下に、自身気づきもしない深層の闇深くに、それは隠れてあるにちがいない、とそのようにも思えてくるのだ。
20090609
こんなにたくさん子を生んではだか
―山頭火の一句―
句は昭和 5 年の行乞記、9 月 20 日の稿に
9 月 20 日、晴、小林町-現宮崎県小林市-、川辺屋
夜はアルコールなしで早くから寝た、石豆腐-この地方の豆腐は水に入れてない-を 1 丁食べて、それだけでこぢれた
心がやわらいできた。
このあたりはまことに高原らしい風景である、霧島が悠然として晴れわたつた空へ盛り上あがつてゐる、山のよさ、
水のうまさ。
西洋人は山を征服しようとするが、東洋人は山を観照する、我々にとつては山は科学の対象でなくて芸術品である、
若い人は山を踏破せよ、私はぢつと山を味ふのである。
―世間虚仮― 脱税の温床?
ほとんど雨も降らぬのに梅雨入り宣言とか、珍しいことだ。それでも昨年より 12 日遅く、平年より 3 日遅いのだと。
「宗教法人がラブホテル経営」だと!
見出しに驚かされたが、よくよく読んでみると、狡賢い会社経営者がすでに休眠状態となっていた宗教法人を買収し
たうえで、脱税に悪用していたらしい。この御仁、計 23 軒のラブホを実質上経営、宿泊や休憩の全売上のほぼ 4 割
をお布施として除外、14 億円も所得隠しをしていたというから、あくどさにかけてはなかなかの剛の者、背任容疑
でこのところずっと紙面を賑わしている漢検の私物化親子にも負けてはいない。
宗教法人も公益法人の一つだが、漢検同様、この手の脱税や背任行為、洗い出せばゴマンと出てくることだろう。底
なしの不況で税収は悪化の一途なのだから、この際、国税庁は公益法人を徹底して調べ尽くすべし、か。
―表象の森―「群島-世界論」-11-
- 375 全編 628 頁、20 万語近い語彙を数えるジョイスの「フィネガンズ・ウェイク」の大海のなかに、三度にわたってとび
とびに、蜃気楼のように揺らめく不思議な島「ブラジル」が登場する。いかにも不意に。その綴りは、Blasil だった
り Brasil だったり Breasil だったりと、わずかな変異を繰り返しながら、ジョイス的イマジネーションが新たに創造し
た未知の世界図のなかで魅惑的な音の群島を形成しはじめる。私の耳は、とりわけこのジョイスのなかのブラジル音
の変異に惹きつけられてやまない。
いうまでもなく、サモアをサモアネシア、タスマニアをトスマニア、あるいはオリノコをオロノコとわずかにずらし
て綴ることで世界中の島や河を因習の地理学から見事に引き剥がし、どこにもないからこそどこでもありうる、「ダ
ブリン」=「世界」そのものの無数の架空名辞を増殖させ繋ぎ合わせてゆくのが「フィネガンズ・ウェイク」である。
すでにアイルランドには、少なくとも 14 世紀の初め頃から、「ブラジル」乃至「ハイ・ブラジル」と呼ばれる海の彼
方にある理想郷、常若の島の伝承が明らかに存在していた。
さらに、5 世紀末のアイルランド南西部湖沼地帯に生まれた修道士、聖ブレンダンの伝説的な航海譚にまで遡れば、
聖者による約束の土地、楽園の島発見の伝承に惹かれ、いつしか「ブレンダンの島」なる名が、中世期以降の世界地
図に登場していたのである。
-今福龍太「群島-世界論」/11.ブラジル島、漂流/より
20090607
かなかなないてひとりである
―山頭火の一句―
句は昭和 5 年の行乞記、9 月 17 日の稿に
行乞記: 9 月 18 日、雨、飯野村、中島屋
濡れてここまで来た、午後はドシャ降りで休む、それでも加久藤を行乞したので、今日の入費だけはいただいた。略朝湯はうれしかつた、早く起きて熱い中へ飛び込む、ざあつと溢れる、こんこんと流れてくる、生きてゐることの楽
しさ、旅のありがたさを感じる、私のよろこびは湯といつしよにこぼれるのである。--略同宿の人が語る「酒は肥える、焼酎は痩せる」、彼も亦アル中患者だ、アルコールで自分をカモフラージしなくては
生きてむゆけない不幸な人間だ。-略同宿の人は又語る「どうせみんな一癖ある人間だから世間師になつてゐるのだ」、私は思ふ「世間師は落伍者だ、強
気の弱者だ」。
流浪人にとつては食べることが唯だ一つの楽しみとなるらしい、彼等がいかに勇敢に専念に食べてゐるか、その様子
を見てゐると、人間は生きるために食ふのぢやなくて食ふために生きてゐるのだとしか思へない、実際は人間といふ
ものは生きることと食ふこととは同一のことになつてしまうまでのことであらうが。
とにかく私は生きることに労れて来た。
―表象の森―「群島-世界論」-10群島への旅は Dialect-方言-への旅である。近代の国民国家=大陸が認定した公式の「National Language=国家語」
の幻影の岸をひとたび離れて海をわたり群島に赴けば、生きられている真の「言語」の内部に孕まれた無数の不連続
と縞模様のような変異が、一気にあらわになって私たちの前に迫ってくる。その縞模様の最深部に、日常の土地こと
ばとしての Dialect が静かに聴こえてくる。群島において、私たちはもっとも口誦的にできあがった言葉の芯に柔ら
かく触れながら、一方でその周囲を包囲するいくつもの言語的外皮のささくれだった権力のありようにも目覚め、人
間の「舌」に侵入しそれを統率してきた言葉の歴史を深く自覚することになる。国家語という理念的でメディア的な
構築物から Dialect への距離は、思ったよりはるかに遠く、そのあいだにはいくつもの言語的断絶が走っていた。
- 376 カリブ海の口誦的世界、語り部の Dialect による物語行為によって媒介されるような音響の小宇宙、それは死者を追
悼する「通夜」-Funeral wake-の場であった。
たとえば、グッドループ島出身のマリーズ・コンデの小説「マングローブ渡り」-1989-に描かれたように、通夜-wakeとは、文字どおり死を媒介にしたあらたな意識の覚醒-wake-を意味していた。
また、アイルランドやスコットランドのケルト系世界で古くから行われてきた通夜-wake-での泣唱-keen-の存在、
その役割は、人々の悲嘆の感情を代替したというよりは、むしろ wake という中間的な時空間を現出させるための非
日常的 noise としての、音響的な象徴機能を果たしていたというべきだろう。
-今福龍太「群島-世界論」/10.薄明の王国/より
20090605
雲かげふかい水底の顔をのぞく
―山頭火の一句―
同前、行乞記、昭和 5 年 9 月 14 日付の稿に載る。
山頭火は人吉の宮川屋に 3 泊し、町内を行乞して過ごした。
行乞記には、「9 月 16 日、曇、時雨、人吉町行乞、宮川屋」とあり、日記の末尾には
「今日は行乞中悲しかつた、或る家で老婆がよちよち出て来て報謝してくださつたが、その姿を見て思はず老祖母を
思ひ出し泣きたくなつた。不幸だつた-といふよりも不幸そのものだつた彼女の高恩に対して、私は何を報ひたか、
何も報ひなかつた、ただ彼女を苦しめ悩ましただけではなかつたか、91 才の長命は、不幸が長びいたに過ぎなかつ
たのだ」と、書きつけている。
―四方のたより― 次は Object とともに
6 月には次なる Dance Café をと思っていたのだが、少々ずれ込んで 7 月開催となってしまった。
前回は、動きとともに赤い Ball を使ってみたが、今度は Installation としてもう少し突っ込んでみたい気がする。存
在をぐんと強調する Object があってもよいし、環境としての空間全体を造形してみるのもいい。
そんなことで旧知の神谷昌孝君と宇座清君に協力を仰ぐことになった。
Information-四方館 DANCE CAFE -’09 vol.2「出遊 –天河織女篇-」
あそびいづらむ-あまのかわたなばたへん
白川静の曰く…
遊、その形は、旗竿を持つ人、を表し
遊とは、古来、神の出行、を意味した
隠れたる神々の、出遊――
それは、彷徨する神々、である
Date :7/7 –Tue- PM7:00
Space : 弁天町市民学習センター
Admission fee : ¥1,500
Dance : 末永純子
岡林 綾
ありさ
制多迦童子
- 377 デカルコ・マリィ
Sound-viola : 大竹 徹
piano : 杉谷昌彦
percus : 田中康之
Installation:神谷昌孝
宇座 清
Coordinate : 林田 鉄
20090603
旅のいくにち赤い尿して
―山頭火の一句―
前回より 10 日ほど遡るが、行乞記、昭和 5 年 9 月 14 日付の稿に載る。この日の宿は人吉町の宮川屋。
「行乞相があまりよくない、句も出来ない、そして追憶が乱れ雲のやうに胸中を右往左往して困る」と書きつつ、熊
本を出発するとき、これまでの日記や手記はすべて焼き捨ててしまったが、記憶に残った句を整理したとして、23
句を連ねている。
また「一刻も早くアルコールとカルチモンとを揚棄しなければならない、アルコールでカモフラージュした私はしみ
じみ嫌になつた、アルコールの仮面を離れては存在しえないような私ならばさつそくカルチモンを二百瓦飲め-先日
はゲルトがなくて百瓦しか飲めなくて死にそこなつた、とんだ生恥を晒したことだ!-」と書きつける。
おそらくこの未遂事件は、熊本出奔前のことだろう、むしろこの不始末が直接の引き金となって、このたびの行乞放
浪となったとみえる。
―世間虚仮― 不思議の海丘群
八代海南部の海底に世にもめずらしい海丘群があった、という西日本新聞の記事-本日付-。
熊本県水俣市から西南西約 10km にある水深約 30m の海域に、平たんな海底から盛り上がるように直径 50m、高さ
約 5m の円形の丘が 80 個近く密集するという、写真のようななんとも不思議な、貝で固めた円形の古墳状が並んで
いるような海丘群。但しこの写真あくまでイメージ図で実写ではないそうだ。
もっとも記事によれば、旧日本海軍が 1913 年に作成した八代海の海図にも海丘群に似た記述があったというから、
今回のような実態調査はせずとも、一部にその様態は知られていたのもかもしれない。
―表象の森―「群島-世界論」-09「わたしは詩人ではない
詩人ではない
わたしはただの一つの声だ。
わたしはそっくり響かせる
人々の 想いを
笑いを
泣き叫びを
吐息を‥‥
わたしは詩人ではない
詩人ではない
わたしはただ一つの声だ。」 -オク・オルナラ
- 378 -
つねに<語り部>は傍らにいた。物語る人として。入江の潮騒ぎに向けてことばの倍音をこだまさせる者として。プラ
ンテーションの夜の闇に侵入して響きわたる透徹した声として。彼らの口から唱えられるモノガタリのモノとは得体
の知れない霊性と聖なる凝集に満ちた未知の生命力の核心であり、時の激烈な流転と場所の自在の交錯とを含み込む
可変的な時空間だった。語り部の口からモノが闇夜の真空に忽然と立ち上がるとき、周りを取り囲んで聞き耳を立て
ていた人々は、おのれの身体の記憶に脈打つ裡なる血流のとどろきの音に震撼した。自らが知り得ぬ出来事と感触の
痕跡がその血流のなかにたしかに流れていることを‥。そしてその<時の痕跡>は外部から与えられたものではなく、
自己の内奥に古くから潜んでいる未知の何かであるにちがいない、という確信がそこにあった。
文字に置換しうる「歴史」の論理的な言葉が決して捕獲しえない、古い記憶の混淆と可逆的な運動性とを、語り部の
声の織物は示していた。その、薄い皮膜に包まれて漂う謎めいた胎児のような物語は、プランテーションの群島を覆
う混濁した豊饒な記憶の森のなかで育まれ、いまだ外界に生まれざる未知の生命の心音だけを静かに刻みながら、
人々の耳から耳へ、象徴の森から森へと、胎児の姿のまま運ばれていった。この密やかに遂行された物語の「運搬」
こそが、群島のすべての記憶をつくりなす力だった。
「僕は海を愛する銅色のニガーにすぎん
健全な植民地教育を受けた人間
オランダ ニガー おまけにイングリッシュの血が入っている
僕はノーボディか さもなけりゃ一人で国家-nation-だ」 -デレク・ウォルコット「帆船“逃避号”」
「君たちの記念碑はどこにあるのか 君たちの戦は 殉教者たちは?
君たちの種族の記憶は? お答えします――
あの灰色の円屋根の納骨堂の中 海です。
(‥‥)
それから トンネルの終りの明りのような
帆船のランタンがあった
それが創世記だった
それから ぎゅう詰めにされた叫び声
糞尿 呻き声があった--
出アフリカ。
骨と骨は珊瑚によって盤陀-ハンダ-付けされて
モザイク模様
鮫の影の祝福によって覆い包まれて――」 -デレク・ウォルコット「海が歴史である」
歴史的事実が教えるアフリカ人奴隷の大西洋上での受難の物語は、一度海面下に潜伏することで専横的な「歴史」の
権力構造から離脱し、別種の力、無名性に依拠する錯綜した<関係>が示す重層的な声の綾織りとしての深い浸透力を
獲得したのである。こうした統合的な力の伏在に確信を得たからこそ、ウォルコットは「海は歴史である」と宣言し
つつ、自らをノーボディと呼びながら、その無人称性を「国家-nation-」という、もう一つの統合力の怪物に突きつ
けることもできたのだろう。
-今福龍太「群島-世界論」/9.誰でもない者-オメーロス-の海へ/より
- 379 -
20090601
投げ与へられた一銭のひかりだ
―山頭火の一句―
行乞記、昭和 5 年 9 月 24 日付の稿に載る。
山頭火はこの 2 日前より、都城の江夏屋に 3 泊している。町はお彼岸の賑わいであったらしい。
「或るカフェーに立つ、女給二三人ふざけてゐてとりあはない、いつもならばすぐ去るのだけれど、ここで一つ根比
べをやるつもりで、まあユーモラスな気分で観音経を読誦しつづけた、半分ばかり読誦したとき、彼女の一人が出て
来て一銭銅貨を鉄鉢に入れようとするのを『ありがとう』と受けないで、『もういただいたもおなじですから、それ
は君にチップとしてあげませう』といったら、笑つてくれた、
私も笑った、少々嫌味だけれど、ナンセンスの一シーンとしてどうだらうか」と書いている。
続けて「お寺詣りのおばあさんが、行きずりに二銭下さつた、見るとその一つは黒つぽくなつた五銭の旧白銅貨であ
る、呼びとめてお返しするとおばあさん喜んで外の一銭銅貨を二つ下さつた、彼女も嬉しそうだつたが、私も嬉しか
つた」と。
―四方のたより― 徐々に変身
この頃の稽古場では、Jun と Aya 双方ともに少なからず変化が見られる。
それぞれにその背景は異なるのだろうが、姿勢においてどちらも積極果敢になってきているのが一目瞭然だ。
われわれの採る手法が Improvisation であってみれば、本人の積極な姿勢と心の開放度はその成果を決定的に左右す
る要素だろう。
昨日の稽古でもそうだったが、二人とも、私が言う suggestion や advice に素直に耳を傾けつつも、自ずからした
いように、いろいろと試しているといった風情が、見ていて容易に感じ取れる。攻めの姿勢で臨めば臨むほど、当然
その分、身体にはきつく負荷も大きくなって堪えるのだけれど、そこは心のありよう次第、それをも自ずとたのしめ
るようになるものだ。
これからしばらくは、週半ばにもう一回、稽古日を設けていくことにした。曜日は固定せず、お互いの都合でそのた
びに調整していくことになろうが、週一から週二の稽古へとなるのは、はていったい何年ぶりのことだろう。
―表象の森―「群島-世界論」-08カリブ海の詩人たちは、どこに生まれようと、ついには群島的な出自を持つにいたる。それぞれの故郷である固有の
島にたいする生得的な帰属は、あるとき、より広汎で接続的な、カリブ海島嶼地域全体にたいする帰属意識へと置き
換えられ、彼らの住み処はこの多東海、この群島全体にひろがってゆく。個々の島々の景観、植生、動物相、人々の
相貌や暮らし向き、話されている言葉といったものの差異は、その時二義的なものへと後退する。ただ「歴史」だけ
が、いや「歴史の不在」だけが、島々をつないでおり、その自覚によって、詩人たちは新しい家を得る。群島という
家。その家は、もはや大陸の家のように旅に疲れた魂がその羽を休めるための安住の場ではない。それはむしろ、詩
人をさらなる旅に駆り立て、歴史の不在に向けて自らの生存を突きつけるために赴くあらたな戦いの場である。生ま
れ故郷の島は、その群島の一角にあり、彼らの帰還をいつも待っている。彼らが帰郷者としてではなく、新たな難破
者として戻ってくることを。すでに難破者の末裔として生まれ、難破者として離散の途についたのであれば、帰郷は
永続的な難破の経験としてしか起こりえないからだ。それが詩人たちの生きる真実であり、彼らが歌う真実でもあっ
た。なぜなら、すでに彼らは固有の出自に守られた世界の輪郭を蹴破って出奔し、時の波浪にもまれながら、ついに
群島の子供として転生したからである。終わりなき群島から群島への旅の途上で、島へとたちもどるかつての嬰児た
ちの陽に焼けた顔を、それぞれの島は待ちわびている‥。
- 380 そんな群島的な出自への自覚をみずからの想像の根幹にすえる一人の大柄なカリブ海詩人がデレク・ウォルコットで
ある。その生地セント・ルーシャ島からジャマイカ、グレナダ、そしてトリニダード、ボストンと辿った彼の離散的
移動の航跡が、カリブ海と北大西洋を結ぶ、すぐれて群島的な領海を渡るものであったことは、容易に確認できる。
-今福龍太「群島-世界論」/8.名もなき歴史の子供/より
20090531
焼き捨てて日記の灰のこれだけか
-山頭火の一句-
昭和 5 年 9 月
私はまた旅に出た。――
所詮、乞食坊主以外の何物でもない私だった。愚かな旅人として一生流転せずにはゐられない私だった、浮き草のや
うに、あの岸からこの岸へ、みじめなやすらかさを享楽してゐる私をあはれみ且つよろこぶ。
水は流れる、雲は動いて止まない、風が吹けば木の葉が散る、魚ゆいて魚の如く、鳥とんで鳥に似たり、――
旅のあけくれ、かれに触れこれに触れて、うつりゆく心の影をありのままに写さう。
私は今、私の過去一切を清算しなければならなくなってゐるのである。ただ捨てても捨てても捨てきれないものに涙
が流れるのである。私もやうやく「行乞記」を書きだすことが出来るやうになった。――
ほぼ 3 ヶ月のこの九州行乞、第 1 日目の足跡は 9 月 9 日の八代町にはじまる。そして人吉・都城・宮崎・志布志・高鍋・
延岡・竹田・由布院・中津・八幡・糸田・門司・下関・後藤寺・福岡・大牟田と廻って、12 月 15 日に熊本へと戻った。
―四方のたより― 市岡 OB 美術展
とうとう第 10 回を迎えた OB 美術展、昨夕はその千秋楽、打上げの会。
高校時代より畏兄と仰いだ辻正宏が逝って、その一周忌に彼を偲ぶ会が「いまふたたびの’98 市岡文化祭」と名づけ
られ故人有縁の輩が集ったのを機縁に、’00 年の 1 月だったか第 1 回が開催されたのが、回を重ね、いつしか歳月は
めぐってはや 10 回目を数えるに至った訳だが、こうして年に一度の逢瀬をたび重ねてきた来し方をふりかえれば、
去来することさまざま輻輳してなんとも言葉にしがたいものがある。
ただ明瞭に云えることは、流れた歳月だけおのおの年老いてきたという動かしがたい事実が、お互い五十路、六十路
を歩いてきた輩だけに、強い感触をもって迫ってくるのだ。
写真は第10 回を迎えた記念誌としての作品集、表紙・裏表紙に配されているのは3 年前に逝かれた中原喜郎兄の作品。
―表象の森―「群島-世界論」-072005 年 10 月下旬、ガラパゴス群島最大のイサベラ島でシエラネグラ火山が噴火したというニュースは、記憶のなか
に眠っていた火山群島の鮮烈なイメージをあらたに喚びだすきっかけを私に与えた。溶岩がゆっくりと島の野生をな
ぎ倒して流れ進み、水蒸気雲が上空 20 キロまで立ち上るその映像のなかに、私はあらためて<島>というものの誕生
にかかわる
神話的な光景を透視した。
「群島」を想像する人間の脳裡にとりわけ深く刻まれているもっとも始原的で原型-model的な火山群島として、ガラパゴス群島を挙げることに異論を持つ人は少ないだろう。
南米、エクアドルの西方沖約 1000 キロの大洋上、赤道直下に点在する大小 19 の島といくつもの岩礁からなるガラ
パゴス群島は、その立地、景観、生物相、そして太平洋探検史における特別の経緯も相俟って、すでにある意味で「始
原の島」としての神話的原型をさまざまな大衆的・文化的創造力に提供しつづけてきた。とりわけこの群島は「種」
-species-という生物学的概念を進化論の射程のもとに確立したダーウィンの理論の啓示的「発見」をもたらした特権
的な場所としてなによりも知られている。
- 381 -今福龍太「群島-世界論」/7.種の起源、<私>の起源/より
20090529
しづけさは死ぬるばかりの水が流れて
-山頭火の一句-
昭和 5 年 9 月
山頭火の行乞記「あの山越えて」は、熊本での「三八九-さんばく-」居の時期を挟んで二つの旅、前半は昭和5年 9
月から 12 月までのほぼ 3 ヶ月、後半は昭和 6 年の暮から翌年の 4 月まで約 5 ヶ月の旅となっている。
このみちや
いくたりゆきし
われはけふゆく
私はまた旅に出た、愚かな旅人として放浪するより外に私の生き方はないのだ、と旅のはじまりの一日を書きおこし
ている。
―表象の森―「群島-世界論」-06アルジェで「孤島」-Les Iles-という本をはじめて手にとったとき、アルベール・カミュは二十歳だった。小説を書き
たいという欲動が体内からあふれ出さんばかりにみなぎる、痛いほどに幸福な、誰もが記憶するあの若き王国での出
来事である。その本は啓示そのものだった。傾倒、そして熱狂的な従順がそのあとにつづいた。太陽、夜、海-そう
した自然の与えてくれるむせかえるような美と陶酔の氾濫だけを、ただ享楽として受け入れるだけだった若者の傲慢
さに向けて、その本は火山の震動のような衝撃を与え、氷の雨をはげしく降らせた。「自然」の神々を崇拝するだけ
の野蛮な悦楽の日々にたいし、それは聖なる痛み、不可避の死、愛の不可能といった懐疑と憂鬱の像をつきつけ、カ
ミュにはじめて人間の内部に翳のように巣くう「文化」なるものの存在を発見させた。はじめて覚える「消えやすさ」
の感触が、「消え去ることのない」味わいとして、若い感性の襞のなかに深く浸透し永遠にとどまった‥。
「孤島」の著者ジャン・グルニエ、1930 年、パリから新任哲学教授として赴任してきた彼をアルジェ高等学校で迎え
たカミュは、この師とのあいだにすでに張られていた見えざる共感の糸を直観し、師の人と作品を通じて、その硬質
の糸を自らの内部で豊かに紡いでいったのだった。
-今福龍太「群島-世界論」/6.メランコリーの孤島/より20090527
迷うた道でそのまま泊る
-山頭火の一句-
昭和 4 年の早春か
これより先、昭和 2.3 年にかけてのいつ頃か、山頭火ははじめての四国遍歴をしている。その四国遍路のあと小豆
島へと渡り、念願の放哉墓参を果たしている。暑い夏の盛りであったという。
昭和 4 年の正月は広島で迎えたようだが、この宿先から彼は、福岡の木村緑平宛に金策無心のハガキを出している。
「新年早々不吉な事を申し上げてすみませんが、ゲルト五円貸して戴けますまいか、宿銭がたまつて立つに立たれな
いで困つてゐるのです」と。
この無心に緑平はすぐにも応じたのだろう、まもなく山頭火は田川郡糸田村-現・糸田町-の緑平宅を訪ね、何泊かした
かと見える。緑平宅を辞してから飯塚へ向かったのは、日鉄二瀬炭鉱に勤めていた息子の健-当時 19 歳-に会うためだ
ったようだ。その飯塚から緑平に宛てた礼状のハガキに、この句が添えられていた。
- 382 ―今月の購入本―
5 月は、今福龍太の「群島-世界論」と白川静の世界に、ふと迷い込んだかのように茫漠と過ごしてきた感がある。
ひとまずは「群島-」を読み終えたところで、一日、気分転換とばかり、積み晒しのままにしていた多田富雄の「生
命の意味論」を手にしたが、これが一服の清涼剤のごとくはたらいたか、茫とした脳も少しはすっきり。
とりわけ第 1 章「あいまいな私の成り立ち」で、免疫系あるいは脳神経系の詳説から、超システム-Super Systemとしての生命体を論じたすえ、「この超システム-Super System-に目的はあるかというと、ないのではないかと私は
考えている」と記しているの出会し、一瞬この身が洗われるような爽快感が走ったものである。
・白川静「字訓」-新訂普及版-平凡社
先月に続き白川静の字書三部作の一、’07 年に出版された普及版の中古書。
・白川静「文字逍遥」平凡社ライブラリー
漢字は線によって構成される、とはじまる書中「漢字の諸問題」の小題「線の思想」に、「すなわち横画は分断的で
あり、否定的であり、消極的な意味を持つ。これに対して縦画は、異次元の世界をも貫通するものである。それは統
一であり、肯定であり、自己開示的である」と。
・松岡正剛「白川静 -漢字の世界観-」平凡社新書
広大無比、鬱蒼と樹海のようにひろがる白川静の世界、その生涯を尋ねつつ、学問・思想の全体像を描いてみせる
・今福龍太「クレオール主義」ちくま学芸文庫
クレオール主義とは、なによりもまず、言語・民族・国家に対する自明の帰属関係を解除し、自分という主体のなかに
四つの方位、一日のあらゆる時間、四季、砂漠と密林と海とを等しく呼び込むこと-。混血の理念を実践し、複数の
言葉を選択し、意志的な移民となることによって立ち現れる冒険的 Vision‥。
・山田芳裕「へうげもの 1-4 巻」講談社
千利休の連想から古田織部をモデルにした変わった面白い劇画があると聞きつけ珍しくも手を出してみた
他に、広河隆一編集「DAYS JAPAN 」5 月号、シルヴィ・ギエムの DVD「エヴィダンシア」
―図書館からの借本―
・今福龍太「群島-世界論」岩波書店
群島とは、大陸的なるもの-近代国家や国語-の対極にある思考の一つの原理であり、制度的支配秩序の外部または裏
面としての、時間・政治・言語の混淆した多様性を意味する。著者は、大陸的なるものに根ざすのではなく、海の潮流
に身を委ねるように、群島的想像力により世界の Vision を反転させてみせる、独創的な文学論であり、J.ジョイスや
島尾敏雄、D.ウォルコット、或いはカリブ海のクレオール詩人やゲール語で書くアイルランドの詩人たち、それらの
文芸作品、遠く隔たった地で語られ書かれた言葉同士が、縦横に結ばれ共振する。
・諸川春樹「西洋絵画の主題物語 Ⅱ 神話編」美術出版社
・諸川春樹「西洋絵画の主題物語 Ⅰ 聖書編」美術出版社
20090516
生死の中の雪ふりしきる
-山頭火の一句-
昭和 6 年の作か?
句集「鉢の子」では前書に「生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり-修証義-」を置く。
時期は些か外れるが、義庵和尚の許で出家して耕畝と改めた山頭火が、大正 14 年の早春から味取観音堂の堂守とな
り、翌年 4 月いよいよ行乞放浪へと旅立つにいたる一年余の山林独住のなかで、なにを想いなにを念じたか‥‥。
- 383 紀野一義は、この句を引きつつ
さびしい観音堂の中で山頭火はなにを考えていたろうか。それは、生と死とを無限に繰り返す輪廻転生の世界のこと、
悩みや苦しみに満ちた凡夫の人生のことである。‥生死の世界の中に雪が降りしきるのではない。雪もまた、「生死
の中の雪」である。生死の迷いを清める雪ではなくて、いよいよ深く降り積もる迷いの雪である、と。
20090512
この旅、果てもない旅のつくつくぼうし
-山頭火の一句-
句集「鉢の子」所収だが、いつ詠まれたものか定かではない
ただその前書に「昭和二年三年、或は山陽道、或は山陰道、或は四国九州をあてもなくさまよふ」として、
踏みわける萩よすすきよ
この旅、果てもないつくつくぼうし
の 2 句が添えられている。
―表象の森―「群島-世界論」-03ウラ、という神秘的な音に、このところ私の耳はとり憑かれている。そして音を媒介にして音と意味の連鎖を文字テ
クストのなかに探り出す衝動、という意味においては、私の「耳の眼」もまた、ウラという音を持った文字にとり憑
かれている、とつけ加えるべきだろうか。ウラという音は、おそらく日本語におけるもっとも深く豊かな意味の強度
と地平の広がりを抱えた、始原的な音の一つであるにちがいない。
たとえば、心と書いてウラと読む。この万葉以来の用法からすぐに気づくことは多い。心悲しい、心淋しい、心思い、
というときのウラは、意識の内奥、すなわち表に見えない心中の微妙な機微にかかわる音=ことばである。「心安」
とは、心中安らかな、という意味で万葉集のそこここで見える用法であるが、地名ではこれを「浦安」と書いたりす
る。ウラという音をなかだちに、心が浦に通じていることはあきらかだ。
-今福龍太「群島-世界論」/3.浦巡りの奇蹟/より20090509
分け入つても分け入つても青い山
-山頭火の一句-
句集「鉢の子」では「大正 15 年 4 月、解くすべもない惑ひを背負うて、行乞流転の旅に出た」と詞書する、よく知
られた代表句
放哉の「入庵雑記」を読んで彼への思慕を募らせた山頭火だったが、同じ頃、放哉は放哉で、未だ互いにまみえぬな
がら俳誌「層雲」を通じて以前より知る山頭火の消息を尋ねる文を、双方共通の俳友木村緑平宛の手紙の中で認めて
いる。
「-略- 扨、「句」の事をサキに書いてしまったらなんだか、御挨拶の言葉に、何を書いてよいやら、一寸、わから
無くなつた形、呵々‥コレダカラ、放哉は困るのですよ‥ムヅカシイ御挨拶は何を書いてよいやら、一寸、わから無
くなつた形、呵々‥コレダカラ、放哉は困るのですよ‥ムヅカシイ御挨拶はぬきにして、山頭火氏ハ耕畝と改名した
のですか、観音堂に居られるのですネ、‥「山頭火」ときく方が私には、なつかしい気がする、色々御事情がおあり
の事らしい、私ハよく知りませんが、自分の今日に引キ比べて見て、御察しせざるを得ませんですよ、全く、人間と
いう「奴」はイロイロ云ふに云はれん、コンガラガツタ、事情がくつ付いて来ましてネ、‥イヤダイヤダ呵々。御面
会の時ハ、よろしく申して下さい、手紙差し上げてもよいと思ひますけれ共思ふに氏ハ「音信不通」の下ニ生活され
- 384 ているのではないかと云ふ懸念がありますから、ソレデハかへつて困る事勿論故、ヤメて御きます」 -村上護「放
哉評伝」春陽堂日々2 通の手紙を書いたというほどの筆まめの放哉だが、もし仮に、山頭火の所在を俳友たちに尋ね合わせて、直に
手紙の往復をしていたら山頭火のその後もどうなっていたか、とあれこれ想像の羽をひろげるのもまた愉しい。
―表象の森― Sylvie Guillem
ずっと舞踊に関わる身なれど Ballet についてはまったくの門外漢、Sylvie Guillem-シルヴィ・ギエム-の名も知らなか
ったのだが、偶々YouTube で彼女の Video に出喰し、昨日からいろいろと鑑賞させてもらった。
百年に一人現れるかと謳われた Ballet 界の逸材は、12 歳でフランスのオリンピック国内予選を突破するほどの体操
選手であったらしい。その年にも、パリ・オペラ座のバレエ学校にスカウトされ転身、19 歳で早くも花形プリンシパ
ルの座に着いている。だがパリ・オペラ座時代は意外に短く 4 年に満たず、’88 年にイギリスへと移り、ロイヤル・バ
レエ団のゲスト・プリンシパルとして迎えられている。以後はフリーとしての活動が多く、Contemporary Dance
もずいぶんと手がけている。
強靱で柔軟、鍛え抜かれた肉体は、女性なればこそ却ってその研ぎ澄まされたような筋肉が、日本刀の見事な刀身の
ように煌めき立つ。これが男性ならばいくら鍛え込まれていてもそうはいかない。彼女の肉体が、それまでの女性
Ballet Dancer の概念を変えてしまったというのも肯ける。
大の日本贔屓ですでに来日二十数回に及ぶというのに、今日までその存在を知らずとは、この舞踊家-私自身のこと
だ-、門外漢どころか舞踊家そのものをそろそろ返上すべきか。
20090507
鴉啼いてわたしも一人
-山頭火の一句-
大正 15 年の句、「放哉居士の作に和して」と詞書
山林独住の味取観音堂での堂守暮しは、気ままな托鉢とともに、時に久しく遠ざかっていた近在の俳友たちを訪ね歩
くといったもので、その友人たちから俳誌「層雲」を借りて読むようになっていた山頭火は、自ずと忘れかけていた
句作も復活させている。
尾崎放哉の「入庵雑記」が載った大正 15 年の「層雲」新年号は、木村緑平から借りて読んだらしい。島に来るまで・
海・念仏・鉦たたき・石・風・灯と 7 章からなる放哉の随筆は、この年の 5 月号まで 5 回に分けて連載されている。
山頭火はこれらを読み継いでは感涙に暮れたか、と思われる。
放哉の、須磨での吟といわれる「こんなによい月を一人で見て寝る」を思いつつ生まれたのが、この放哉思慕の句で
ある。
―世間虚仮― 1000 円高速みやげ
4 日の朝、少しく絵金世界に触れたあと、こんどは子どもサービスにと絵金蔵からほど近い龍河洞へと移動する。
薄暗い鍾乳洞の中は観光客で前も後ろも鈴なりの状態、ただひたすら狭い昇り降りを繰りかえすばかりだが、幼い彼
女にとってはちょっぴり怖い冒険ごっこよろしく印象づけられたとものと思われる。
そこで昼食をとってから今宵の宿泊先へと向かうのだが、なにしろ高知県の東部から西南端の足摺岬まで、およそ180
㎞の道のりだから大変、道すがらのんびりとちょいと寄り道なんてことはとてもできない。出立の 2.3 日前によう
やく押さえられたのが足摺岬を回り込んだ辺りの民宿で、その折はそんなに距離があろうとは思わず、詳しく調べな
かったのがしくじりのまきだが今更どうにもしかたがない。
- 385 南国から須崎東まで高知道、56 号線はときおり信号付近で渋滞に出くわしながら、四万十の下流に架かる橋を通り
過ぎて 321 号線へ、半島の背骨のような山間を抜けようとするあたり、足摺テルメなる温泉に着いたのがちょうど 5
時頃、ここまでくればあと少しのこととてゆったり湯に浸かっていこうと、疲れを癒すこと小一時間、宿への到着は
6 時 15 分過ぎだった。
四国の民宿は、たいがいふだんは遍路客をあてこんでいるからだろう、どこでも宿泊は格安の相場ときている。その
ぶん他者と差別化する工夫の必要に迫られることがないか、食事もサービスもごく月次であっけらかんとしたものだ。
ただ困ったのは、室内すべて禁煙、喫うならベランダでと言われたこと、仕方なく夜長 5.6 回ちょいと涼しすぎる
ベランダに出ては一服した。
明朝は、以前にも歩いたことはあるが、このたびは子ども連れとて、ひとまず足摺岬を散策。38 番札所の金剛福寺
はまだあまり時を経ていないとみえる豪壮な石組みの庭が眼を惹く。立派な大師堂もまだ新しいものだろう。前の 37
番岩本寺からおよそ 100 ㎞と最長のコースというから、遍路は健脚でも二日がかり、到底此方は縁なき衆生だ。
さてそれからの帰路が長かった。ようやく須崎東 IC に入ったのが午後 2 時前か、JUNKO が一時間余り運転を代わっ
てくれたから一息ついたものの、往路と変えて明石・鳴門コースを取ったのが運の尽きだったか、1000 円高速の大渋
滞、受難のはじまりだった。不覚にも高松道はほぼ一車線というのを知らず、この高速の各処ですでに渋滞つづき、
業を煮やして白鳥大内 IC で高速を捨て 11 号線へ、長い鳴門の海岸沿いは快適に走ったが、鳴門大橋へ上がるともう
えんえんと渋滞ははじまっていた。長い運転からやっと解放されたのは午後 11 時、このところお気に入りの拉麺屋
に立ち寄って遅い食事、無事ご帰還したものの、いまにもひょいとはずみで腰痛が起こりそうでどうもいけない。
危ない危ない、しばらくは気をつけるべし。
・写真は絵金の芝居絵「蝶花形名歌島台-小阪部館」
20090504
日ざかりの水鳥は流れる
-山頭火の一句-
大正 15 年 8 月の頃か
この年の 6 月、山頭火は味取観音堂の安穏とした堂守暮しを捨てて行乞の旅に出た。
―表象の森― 三つの弓なりの花かざり
「大地と大洋がもつ意識、それが無人島であり、世界の再開に備えている」
-ジル・ドゥルーズ「無人島の原因と理由」1953「長いあいだ背中を向けていた海の方をふり向いてみると、日本の島々が大陸から少しばかりはがれた部分であるこ
ともまちがいはないが、他の反面は広大な太平洋の南のあたりにちらばった島々の群れつどいの中にあきらかに含ま
れていて、その中で一つの際立ったかたちを形づくっていることも否定できない。ひとつの試みは地図帳の中の日本
の位置をそれらの島々を主題にして調節してみることだ。おそらくは三つの弓なりの花かざりで組み合わされたヤポ
ネシアのすがたがはっきりあらわれてくるだろう。そのイメージは私を鼓舞する、奄美はヤポネシア解明のひとつの
重要な手がかりを持っていそうだ。
-島尾敏雄「ヤポネシアの根っこ」1961ここでいう、三つの弓なりの花かざりとは、日本列島の弧状の姿であり、それぞれ千島弧・本州弧・琉球弧を指す島尾
敏雄の特異ともいえる図像的詩学であり、日本列島を太平洋島嶼圏のミクロネシアやポリネシアにならって「ヤポネ
- 386 シア」という群島状の連なりとして捉え直すことで、ヤマトとしての国家空間の閉鎖性を相対化しようとしたヴィジ
ョンであった。
-今福龍太「群島-世界論」200820090502
十何年過ぎ去つた風の音
-山頭火の一句-
「地橙孫居即興」と詞書あり
山頭火は昭和 4 年 2 月、北九州を行乞しているが、この折下関の地橙孫を訪ね「半日清談」をしたとあり、この時の
句であろう。
地橙孫-兼崎理蔵-は河東碧梧桐に師事。熊本五校から京大独法に進んだ彼は弁護士でもあった。この日は山頭火にと
って大正 5 年に別れて以来の再会であった。
―世間虚仮― 靖国競馬
昨日の毎日新聞夕刊、我が国で初めて西洋式の競馬が催されたのが、例年のように政治家たちの参拝で物議をかもす
あの靖国神社の境内であった、というのには驚かされた。
靖国神社の桜並木はよく知られ例年花見客で賑わうらしいが、この桜が靖国の競馬と由縁が深いのだという。
時は明治 3-1870-年、靖国神社の前身である東京招魂社が戊辰戦争の朝廷側戦死者を慰霊するため創建されたのはそ
の前年の明治 2 年だが、ちょうどその一年後の 9 月 23 日、時の兵部省主催により例大祭の奉納競馬が催された。こ
れが日本人自らの手で初めて行われた洋式競馬で、競馬場となったのは第一鳥居と第二鳥居の境内で一周 900 メート
ルの細長いコースだが、これを機に木戸孝允がソメイヨシノを数十本植えたのが今の桜並木につながっている、と。
記事には空撮による参道からの靖国神社の全景が添えられており、往時の情景を髣髴させてくれるが、日清戦争終結
3 年後の明治 31 年まで執り行われたというこの靖国競馬、ずいぶんと江戸っ子の人気を博したらしい。
いわば当時の鹿鳴館同様の欧化政策、その象徴的存在としての舞台装置となった靖国神社だが、後に現在のごとく英
霊を祀る宗教施設として国家的な存在にまで成りゆくその前史に、「靖国競馬」なるこんな一齣があったというのは
記憶に留めておいてよいだろう。
20090430
もう明けさうな窓あけて青葉
-山頭火の一句-
昭和 8 年初夏の頃か
―四方のたより― 赤と緑と水と風と
澄み切った空の青さと
映えわたる山脈の新緑とが
満面と水をたたえた八条池の、風そよぐ風景のなかで
群れなすキリシマツツジの深紅が、みごとな対照をなす
此処、長岡天満宮は、二、三日前からの涼しさがつづいて絶好の行楽日和
今年、桜の花見はとうとう享受ならなかっただが、その代わりとてやっと得た休日に繰り出した、初お目もじの躑躅
の名所
赤と緑と水と風のなかに、呼吸することしばし
- 387 忙中閑あり、まことひさかたぶりの、至福のひととき
これまさに、気の養生
―今月の購入本―
・白川静「字統」-新訂普及版-平凡社
ご存じ文字学-漢字-の泰斗白川静の三部作の内、本書「字統」と「字訓」の普及版が’07 年に出版された。中古書。
・岡田明子・小林登志子「シュメル神話の世界」中公新書
ティグリス・ユーフラテス流域に栄えた最古の都市文明シュメル。粘土板に刻まれた楔形文字群が伝える神話の数々、
ギルガメシュ叙事詩や大洪水伝説など‥。旧約聖書やギリシア神話に連なる祖型としての神々が詳述される。
・山森亮「ベーシック・インカム入門」光文社新書
基本所得を無条件給付とするベーシック・インカムについて近現代 200 年を概観することを通して、労働・ジェンダ
ー・グローバリーゼーション・所有といった問題のパラダイム転換を試みる。
・原田信男「江戸の食生活」岩波現代文庫
江戸期の食文化を、列島の空間的ひろがりのなかで大きく網羅的に捉えた著作。武士から町人・農民まで、何が食卓
にのぼり、タブーは何だったか、医食同源思想や飢饉時の対応、アイヌ・琉球の多様な食まで。
・松井今朝子「吉原手引草」幻冬舎
著種曰く「いい意味でも悪い意味でも、今も日本社会には金銭を介在した男女関係が、ある種の文化として存在する。
それを代表するのが吉原で、一度書いておきたかった。当時の習俗を忠実に再現することによって現代を逆照射する
ものがあると思う」と。中古書
・松井今朝子「仲蔵狂乱」講談社文庫
存分に舞い狂うてみせてやる‥、江戸は安永・天明の頃、下積みの苦労を重ね、実力で歌舞伎界の頂点へ駆けのぼっ
た中村仲蔵。浪人の子としかわからぬ身で、梨園に引きとられ、芸や恋に悩み、舞の美を究めていく。
他に、広河隆一編集「DAYS JAPAN 」4 月号
―図書館からの借本―
・内村剛介「見るほどのことは見つ」恵雅堂出版
「シベリア獄中 11 年、あれは今にして思えばわたしの人生のもっとも充実した時間帯だったようです。大げさに言
えば、平知盛ではありませんが、わたしもまた 若く稚くして「見るべきほどのことは見つ」ということになったよ
うです。その見るべきものとはわたしたちの 20 世紀の文明—なんといおうとそれはコムニズ ム文明であるほかなか
った—そのわたしたちの文明の行きつくさきです。その向う側を見てしまったという思いがするのです」-本書より・「ファーブルにまなぶ」ファーブルにまなぶ展実行委員会
「昆虫記」刊行 100 に因んで、一昨年から昨年にかけ、日仏共同企画として全国を巡回した「ファーブルにまなぶ」
展に際し上梓された解説誌。
20090428
さみだるる大きな仏さま
-山頭火の一句-
大正 15 年初夏か
同年 4 月 14 日、山頭火は木村緑平に宛て、
「あはただしい春、それよりもあはただしく私は味取をひきあげました、本山で本式の修行をするつもりであります。
- 388 出発はいづれ五月の末頃になりませう、それまでは熊本近在に居ります、本日から天草を行乞します、そして此末に
帰熊、本寺の手伝をします」
とハガキに書いた。
彼は曹洞宗本山の永平寺で本式の修行を欲していたようだが、この折、越前行は果たされなかった。
―表象の森― 唐十郎雑感
一昨日、旧知の女友だちから Mail を貰って知ったのだが、25.26 日と唐十郎率いる唐組の芝居が難波の精華小劇場
-元精華小学校内-に掛かっていたらしい。
その彼女の Mail、短い感想が書かれていたのだが、
「唐において嘗ての錬金術力が落ちたのではないか」、「批評性がなくなったようで」、舞台上の唐の存在が「なん
だかアイドルみたいだ」と。
それこそ十数年ぶりであったろう、久しぶりに期待を込めて観に行った彼女の印象がそうなるのは当然と云えば当然、
無理はなかろうと思われた。
どんな表現も大なり小なりその時代の刻印を帯びるのものだが、とりわけ演劇というものはその時代との共振生が強
い。唐十郎率いる赤テントの状況劇場は’60 年代に生まれたものだし、その時代状況抜きにはあり得なかった。彼に
限らず寺山修司の天井桟敷も、鈴木忠志の早稲田小劇場も、佐藤信の黒テントも、それぞれの表現形式や手法は独自
の個性もあったが、それとともに時代との共時性があり、同質ともみえるスタイルが通底していたとも云えるものだ
った。
そのスタイルや手法が、時代への射程力を充分に持ち得ていたのは、実際のところは’70 年代いっぱいではなかった
か。’80 年代に移ると状況はどんどん変質していったし、そのなかでそれらの相貌はしだいに輝きを失っていった。
彼ら 4 者のなかでも唐十郎は、自身で台本も書き演出もするばかりか、役者として舞台にも立つ。それだけに時代状
況の変質のなかで、今の若い役者たちと同衾したところで、もはや初期にあったような濃密な共犯関係は成立しよう
もないことは想像に難くない。唐自身が敢えて自分の立ち位置を劇作と演出に限って仕事をするなら、今の時代と共
振したもっと別な展開もあるのではないかと思われるが、彼はそうするよりも、なぜか初期からの拘り、どこまでも
その姿勢を貫こうと、捨てきれないままにあるようだが、それがどれほどの意味があるか。
20081025
―山頭火の一句― 枕もちて月のよい寺に泊りに来る
「大正 14-1925-年 2 月、いよいよ出家得度して、肥後の片田舎なる味取観音堂堂守となったが、それはまことに山林
独住の、しづかといへばしづかな、さびしいとおもへばさびしい生活であった。
松はみな枝垂れて南無観世音
」と、山頭火は第一句集「鉢の子」の冒頭に記している。
味取観音堂は、義庵和尚の座す法恩寺の管理下にあった末寺である。
現在の熊本県植木町、味取のバス停の傍に、観音堂への登り口があり、「味取観世音、瑞泉寺登口西国三十三箇所霊
場アリ」の石碑が立つ。それより急な石段を登り切ったところ、ひっそりと観音堂が佇んでいる。
当時、この寺の檀家は 51 軒だったから、その布施による収入はたかだかしれたもので、暮しのしのぎはおおかた近
在への托鉢によるものであったろう。彼に課された仕事といえば朝晩に鐘を撞くことくらいで、ずいぶん気ままな生
活だったようである。雨の日は落ち着いて読書もできたろう。夜などは、近在の青年を集めて、読み書きを教えたり、
当時の社会情勢なども説いて聞かせたという。
日々の暮しのなかで困ったのは水である。檀家の 51 軒が順繰りに、毎日手桶二杯の水を運んでくれたらしいのだが、
それでは充分とはいえず、水の不自由は悩みの種だったようである。
- 389 そんな苦労からであったか。後の個人誌「三八九」に「水」と題された随筆がある。
「禅門-洞家には「永平半杓の水」といふ遺訓がある。それは道元禅師が、使い残しの半杓の水を桶にかへして、水
の尊いこと、物を粗末にしてはならないことを戒められたのである。-略- 使った水を捨てるにしても、それをなお
ざりに捨てないで、そこらあたりの草木にかけてやる。-水を使へるだけ使ふ、いひかへれば、水を活かせるだけ活
かすといふのが禅門の心づかひである」と。
―世間虚仮― 映画館は怖い!
朝から揃って「崖の上のポニョ」を観るべく出かけた。
映画館での鑑賞は、暗がりの中で大音量だから、KAORUKO は怖がってとてもそれどころではあるまいと、これまで
一度も行ったことがなく、今日が初見参なのだ。
案の定、暗い館内に入って椅子に座るや、もう落ち着かない様子。前から 3 列目という至近距離で大きな映像ととも
に音が鳴り出して数分で、やっぱり音を上げた。私の腕に喰らいつくように、「出よう、出よう」と訴えかけてくる。
ポニョと宗助の明るい場面では、画面に惹き込まれているようだが、魚群が動き、海が荒れたりするともう駄目で、
私の腕にしがみつく。そんなことを何度も何度も繰り返して、ようやく endmark までこぎつけた。予期していたと
はいえ、大変な初体験であったことよ。
20080901
けふも托鉢ここもかしこも花ざかり
―山頭火の一句―
句は大正 14 年の春。
サキノは、すでに戸籍のうえでは他人となった山頭火を、一度は邪険に追い返したものの、以後行方知れずとなった
彼が心配であった。大正 13 年ももう秋なかばであったろうか、雅楽多の店先に魂の抜けたように立つ彼の姿を見た
ときは、咎める気持はすっかり失せていたか、一人息子の健との二人きりの暮しに、このたびは彼をも受け容れたの
だった。
大正 8 年秋の東京出奔以来、まる 6 年ぶりの家庭の味、ぬくもりであった。しばらくは山頭火もただ休息の日々であ
ったか、他人の口の端にのぼるような愚行はなかったとみえる。
だが、その平穏もほんのふた月か三月、束の間だった。大正 13 年の師走も押し迫ったある夜、山頭火は、禍転じて
幸、結果的には出家へと道をひらいてくれた、生涯の転機となる事件を起こしたのだった。
どのような経緯であったか、この夜、山頭火は泥酔するほどに酒を飲み、正体を失ってしまったのだ。挙句の果てに
彼は、熊本市内を走る路面電車の前に立ちはだかり、急停車させてしまったのだった。
以下、山頭火語りの私の台本から引けば、こんな調子である。
「酒に酔っぱらったわしは、熊本の公会堂の前を走る電車に仁王立ちとなって遮ってしまった。急ブレーキで危うく
大事に至らなかったが、車内の乗客はみなひっくり返ったらしい‥。
近くの交番から巡査が飛び出してくる、押しかけた人だかりに囲まれる。大騒ぎになるところを熊本日々新聞の木庭
という顔見知りの記者が、わしを無理矢理引っ張って、報恩寺という寺へ連れて行ってくれた。俗に千体仏と呼ばれ
る曹洞宗の禅寺だった。
住職の義庵和尚はなにも云わず、この業深き酒乱の徒を受け入れてくれた。過去はいっさい問わず、ただ黙って「無
門関」一冊をわしの前に差しだしてくれた‥。
長い間無明の闇にさすらいつづけていたわしは一条の光を求め、座禅を組み修行に打ち込むようになった。」
山頭火とこの木庭なる記者がどんな顔見知りであったかわかる由もないが、ただの行状不良、酔っぱらいではない、
文芸の人でもあり、悩める人でもあろうかといった寛容な受けとめがあったのだろう、そんな思いが咄嗟の機転をは
- 390 たらかせ、緊急避難とばかり報恩寺へと引っ張り、義庵和尚との出会いを演出してくれたか。でなければ留置場送り
は必定の事件、結果は雲泥の差である。この電車事件、山頭火にとってはまこと瓢箪から駒、天恵ともなった事件で
あった。
いよいよ出家するにあたってさすがの山頭火も、サキノら妻子の行く末を案じ、また幾許かの心残りもあったようで、
彼女に形見として一冊の聖書を託している。彼の真意がいずれにあったか、サキノはこの聖書を機縁に、市内のメソ
ジスト教会に通うようになり、後に洗礼を受けた、という。
掲げた句は、出家の後、味取観音堂に安住し托鉢に精出す日々であったことを髣髴させる。文芸の志を抱いて防府か
ら上京、早稲田に入学してよりすでに 25 年、有為転変の彷徨い歩いた長い長い回り道。山頭火こと種田正一たる俗
を離れ、法名耕畝を得て、いまはただ心やすらかに、再生の日々を送っているかのようである。
―四方のたより― ちょいと東京へ
今夜からちょいと東京へ行ってくる。
劇団らせん館の、例によってドイツと日本を往還する多和田葉子もの「出島」が、東京公演で両国のシアターΧ-カ
イ-にかかるという。この舞台、大阪や京都でも 8 月にあったのだが、けっして見逃したわけじゃなく、どうせなら
シアターΧなる劇場もことのついでに見ておきたいと思ったのである。
そんな次第で、往きも復りも近年ずいぶんお安くなったという夜行バスのお世話に相成り、今夜発って明後日の朝に
は戻ってくるというトンボ返りだ。
はて、東京行など何年ぶりか、「走れメロス」に取り組んでいた頃、脚色の広渡常敏さんにご挨拶するべくご自宅を
訪ねたり、東京演劇アンサンブルのブレヒト劇を観たりしたことがあるが、それなら 78 年か、なんと 30 年ぶりでは
ないか。その広渡常敏さんも 2 年前の 9 月 24 日、すでに鬼籍の人となってしまっている。享年 79 歳だったとか。
往復夜行という強行軍が、この年になってどれほど身体に堪えるかわからぬが、早朝に着いて夜の公演まで日なが一
日を、さてどこをほっつき歩いてみるかとあれこれ思案してみるのも、まったく他愛もないけれどちょっぴり愉しい
ものだ。
それにしても、このところ記してきた山頭火の、止むに止まれぬ東京出奔とは天地の隔たり、こんな自分につい苦笑
い、といったところである。
20080831
鶯よう啼いてくれるひとり
―山頭火の一句―
ほぼ 1 ヶ月ぶりの山頭火の一句。句は大正 15 年の春と目されるが、この 4 月山頭火は「解くすべもない惑ひを背負
うて、行乞流転の旅に出た」と句集「鉢の子」に書き添えているから、その途上の一句であろうか。
その前年-大正 14 年-の 2 月、熊本市内にある報恩寺の住職望月義庵の許で得度出家した。法名は耕畝-こうほ-である。
時に山頭火 44 歳。
さらに義庵和尚は、もはや高年の寄る辺なき新発意者に、当時報恩寺の管理下にあった熊本の郊外、現在の鹿本郡植
木町にある味取観音堂の堂守へと計らってくれた。
山林独住、自家撞着の矛盾のうちに我執と迷妄の淵を彷徨いつづけた果てにやっとたどりえた安寧の日々であった。
山頭火は若い頃から「わしゃ禅坊主になるのじゃから、嫁は貰わん」などと口癖のようにしていたから、その伝でい
けば、このたびは晴れて念願の出家を果したということになるが、はたしてそうか。近代精神に目覚め、文学に立身
を求めようとした富裕育ちの少年にありがちな、ある種ポースといった一面もあったろう。44 歳になるこれまで心
- 391 の底から出家の道を探ったというような形跡はどこにもない。その彼が突然のように出家をした、その一大転機はど
のようにして訪れたか。
さかのぼれば、山頭火が関東大震災の受難に遭い、這々の体で東京から熊本へと逃げ帰ってきたのは大正 12 年の 9
月も末であった。一文無しの身は足取りも重く、すでに離婚し合わせる顔もないはずのサキノが居る「雅楽多」の店
先に立っていた。
この時、妻子を打ち棄て 4 年のあいだ音沙汰もないまま、尾羽うち枯らした姿で立ちつくす山頭火に、さすがにサキ
ノはその身勝手を許さなかった。
その夜、山頭火は泊まるところとてなく、熊本の街をとぼとぼとただ歩くしかなかった。翌朝、結婚のため帰省して
いた茂森を頼って彼の家を訪ねた。ひとまず茂森の世話で川の畔にある海産物問屋の藏の二階に間借りがかない、ひ
とまず小康を得た。
だが、妻を迎えた茂森は月も変わった 10 月半ばには再び東京へと帰っていったのである。この熊本に惟一人頼れる
友が去って、山頭火はただ淋しかった、しばらくは額縁の行商をしていたようだが託すべき希望の灯など見出せる筈
もなかった。その後、彼は告げる者もなくひっそりともう一度上京している。瓦礫の東京になにがしかの託せるもの
があったとも思えぬが、さりとて都会に流離うほかに何処にも行き場がなかったのだろう。
荒廃した東京は、やはりこの流浪者を受けつけてはくれなかったようである。それから後の一年のあいだ、再び熊本
に舞い戻って、ふらりと「雅楽多」の店先に現れるまで、山頭火の消息はまったく不明のままである。
―今月の購入本―
いつもなら月の 20 日頃までには書きとめてきた購入本と借本、ちょうど月半ば過ぎに小旅行に出向いたことも響い
てか、とうとう晦日にまでなってしまった。
・折口信夫「死者の書・身毒丸」中公文庫
昔、大津皇子を題材に舞台を作るとき、すばりお世話になった「死者の書」、久方ぶりに接して見ねばなるまいと思
ったが、手許にはない。標題のとおり「身毒丸」、加えて「山越の阿弥陀像の画因」を併収
・寺山修司「寺山修司幻想劇集」平凡社ライブラリー
嘗て寺山自身、「演劇が文学から独立した時点、から活動を開始した」と謳った天井桟敷における代表的戯曲のアン
ソロジー。レミング/身毒丸/地球空洞説/盲人書簡/疫病流行記/阿保船/奴婢訓を所収
・H.カルディコット「狂気の核武装大国アメリカ」集英社新書
田中優子に「本書の特徴は、ぞっとするような具体性」と言わしめた、ブッシュ政権下の軍産複合体の現況を厖大な
データ収集に基づきものした書。著者は小児科医であったが、スリーマイル島原発事故を契機に医師を辞め、核兵器
開発を停止させる運動の先頭を切るようになったという。
・広河隆一編「DAYS JAPAN -アイヌ-2008/08」ディズジャパン
・ 〃 「DAYS JAPAN -結婚させられる少女たち-2008/09」〃
・江守賢治・編「筆順・字体字典」三省堂 中古書
・高塚竹堂・書「書道三体字典」野ばら社 中古書
小一の娘が書の教室に通うようになって、時には遊び気分で筆を運んだりするのも一興、上記のような二書もあるに
こしたことはないと。
―図書館からの借本―
・矢内原伊作「ジャコメッティ」みすず書房
ジャコメッティのモデルをつとめるため 5 度の夏をパリで過ごしたという著者自身が、制作過程で J と交わした対話
の記録あるいは書簡など。
- 392 ・P.ナヴィル/家根谷泰史訳「超現実の時代」みすず書房
シュールレアリスムの草創期からその運動に同衾してきた著者自身の壮大な回想録。
・丸山健二「日と月と刀」上・下巻/文芸春秋
「元来、小説は読まぬ」という畏友谷田君の薦める小説。独特な言葉の喚起力をもった丸山健二世界は「千日の瑠璃」
と「争いの樹の下で」を読んだことがある。
・丸山健二「荒野の庭」求龍堂
その異端作家が長年丹精込めた庭づくりと花そだてのはてに生みだした写真集、添えられた言葉が激烈。
・三交社刊「吉本隆明が語る戦後 55 年」シリーズの
「5-開戦・戦中・敗戦直後」「6-政治と文学/心的現象・歴史・民族」「7-初期歌謡から源氏物語/親鸞」「12-批評とは何
か/丸山真男」
20080728
あかり消すやこゝろにひたと雨の音
―山頭火の一句―
句は大正 11 年の秋。
大正 8 年の秋からほぼ 4 年の東京暮しに終止符を打たざるをえなくなったのは、同 12 年 9 月 1 日、あの関東大震災
の受難である。
震度 7.9 の大地震が起こったのは、ちょうど昼時を迎える午前 11 時 58 分。東京では地震発生とほぼ時を同じくし
て 134 ヶ所から出火したという。この日風もまた強かったというから、次々に延焼、火災はひろがり、三日間燃え続
け、東京の大半は焦土と化した。
むろん山頭火も、湯島の下宿先を焼け出され、行き場をなくしてしまったが、その彼の心を完膚無きまでに打ちのめ
したのは、誤認とはいえ憲兵隊による逮捕並びに巣鴨刑務所留置事件であった。
嫌疑は社会主義者に連なる者であったが、まもなくその嫌疑も晴れて数日後には釈放されている。上京の際頼みとし
た茂森唯士の実弟広次が内務省に勤めており、これが地獄に仏と幸い、彼のはからいゆえの釈放だった。
山頭火は、その 9 月も半ばすぎになって、大杉栄らが獄中の拷問で虐殺されたことを知った。
この事件は、さらに追い討ちをかけるように彼の心を打ちのめしてしまったようである。
東京という都会はなんと理不尽なものであるか、とても怖ろしい、一刻も早く逃げ出したい、そう思う人々はむろん
彼だけでなく、東京脱出に駆け込む群集は何万何十万に膨れあがっていた。
東海道線は不通だったから、彼は中央線で塩尻を経て、名古屋、京都へと逃れた。震災下、国鉄運賃はすべて無料だ
ったのである。
山頭火には京大出身のずっと若い一人の連れがあった。憲兵に逮捕される折からずっと行動を共にしていた若者で芥
川某という。その若い友が、車中で突然の発熱に苦しみだし、京都で途中下車、急遽入院をさせたところ、原因は腸
チフスで、彼はあっけなく死んでしまうのである。
若い友の母親が郷里から駆けつけてくるまで、山頭火はその亡骸とともに過ごし、その時を待った。
無常の親子の対面は、見るも無残、哀れなものであった、という。
山頭火の神経はもうこれ以上なにも耐えられなかったろう。
ひとり、彼は熊本へと、帰っていった。
―世間虚仮― 異常はつづく‥?
北陸地方を襲い局地的な豪雨をもたらした前線が南下、午後からは近畿のあちこちで猛威を奮い、水難事故など被害
をもたらしている。
- 393 昨日の福井での突風による死傷事故もこの前線の影響なのだろうが、「ガスフロント」現象とかあるいは「ダウンバ
ースト」とか、耳慣れぬ言葉が飛び交っている。
気象庁によれば、8 月、9 月もフィリピン付近の海面水温の上昇により、太平洋高気圧が発達しやすく、猛暑が続く
という。一過性とはいえこういった豪雨や突風の発生は、なおさまざまありうるということらしい。
夏の積乱雲がもたらす夕立は涼味を呼ぶ恵みにて天の配剤といえようが、まこと過ぎたるは及ばざるが如し、過剰な
る異常気象となれば人の世に災厄をもたらすばかり。お蔭で年々歳々、未知の気象用語を習うこととなる。
20080725
炎天せまるわれとわが影を踏み
-山頭火の一句-
句は大正 7 年「層雲」所収の「汗」11 句の一。
一ツ橋図書館に勤務するようになってやっと小康を得た山頭火の暮し向きであったが、大正 11 年夏頃から彼は原因
不明の不調に陥っている。頭が重く、ときに頭痛、不眠が続いた。
医者の診断によれば強度の神経衰弱。
「頭重頭痛不眠眩暈食欲不振等ヲ訴ヘ思考力減弱セルモノノ如ク精神時ニ朦朧トシテ稍健忘症ヲ呈ス健度時ニ亢進
シ一般ニ頗ル重態ヲ呈ス」との診断書を添え、彼は、当時の東京市長子爵後藤新平宛、退職願を大正 11 年 12 月 20
日付で出している。
遡れば、明治 37 年 2 月、疾病の為、早稲田大学を中退したのも、この神経衰弱ゆえであった。当時、防府の実家で
は、二度にわたって屋敷を切り売り、仕送りは滞っていた。経済不安が心神耗弱のきっかけではあったろうが、彼の
無意識に巣くう不安や強迫の念はもっと根深いところにあるものと推量されよう。
―四方のたより― 琵琶のアナクロリズム
夜は琵琶五人の会、会場もお馴染み文楽劇場の 3F、小ホール。
今回は幕末物あるいは明治維新物というか、そんな趣向の演目がずらりと並んだ。
「新撰組」「坂本龍馬」「井伊大老」「白虎隊」「西郷隆盛」
おそらくはこれらの演目が成ってきたのは、明治も後期から末期、富国強兵と殖産興業の掛け声高く、海外雄飛へと
意気盛んであった時代だったのであろう。詞が聞くに堪えないほどに月次で、忠君愛国の志を謳い上げる。
近代化の洗礼をきわめて特殊な時代思潮のもとに浴びてしまった琵琶曲の、もっともつまらぬ部分ばかりが際立つ演
目の並びは、微かな古層さえ匂わぬ世界としかいいようもなく、この硬直したアナクロリズムにはどうにも辟易させ
られた。
琵琶界の中堅からすでにベテランの境に達しつつある人たちが、このあたりの問題にさしたる自覚もないのだろうか、
この点が不思議でならぬ。
20080719
電車終点ほつかりとした月ありし
―山頭火の一句―
句は先と同じ「層雲」大正 9(1920)年 1 月号所収
皮肉なめぐりあわせというか、サキノとの離婚が戸籍上成立してしまった-大正 9 年 11 月 11 日-同じ月の一週間後、
山頭火は砂ふるいの肉体労働から解放され、東京市役所臨時雇員に昇格、一ツ橋図書館への勤めに変わっている。
さらに翌年 6 月にはアルバイトから本採用となり、月給 42 円の職員となっている。
- 394 山頭火は 2 年と少し、この一ツ橋図書館の勤めを全うした。職務のかたわら大いに読書にもいそしんでいる。一箇所
に落ち着けない習性の彼にとって、長いといえば長い、比較的安定した時期であった筈だが、本来いそしむべき句作
には戻り得ていない。
熊本に置き去りにされたサキノも、実家の干渉から無理矢理離婚させられたとはいえ、ひとり息子の健を育てながら、
山頭火のはじめた「雅楽多」の店を守り続けており、彼らの間に格別の事情の変化はなかったようである。
山頭火の友人らをして、「美しい非のうちどころのない人」と言わしめた妻であってみれば、山頭火の内に潜む欠落
感は、この良妻賢母型のサキノを前にしては、却って不安を募らせ苛立たせるほうへ、退行的な行為へと駆り立てて
しまう結果を招いたのかも知れない。
―表象の森― 世紀の子
「レオナルド・ダ・ヴィンチが人体の陥凹を探り、屍を腑分けしたように、わたしは魂を腑分けする」
1944 年 1 月 23 日、ムンクは誰にも何も告げず静かに死んだ。息を引き取ったこの日の午後も、彼はドストエフスキ
ーの「悪霊」を読んでいた。
死の床に就いたときにみつめたもの、それは彼自身が描いた一枚のヌード画だった。ムンクはこの絵の女性を、ドス
トエフスキーの小説「やさしい女」の自殺したヒロインに因んでクロポトカヤと呼んでいた。
「‥ わたしは生まれたときにすでに死を経験している。ほんとうに生まれるのは、ひとはこれを死と呼ぶが、まだ
先のこと。わたしたちが去るのではない、世界がわたしたちから去ってゆくのである‥‥わたしの屍は腐り、そこか
ら花が育つだろう、わたしはそうした花のなかに生きつづける‥‥死は人生の始まり、新たな結晶化の始まりである」
この「世紀の子」が死を迎えたオスロは、このころナチス・ドイツの占領下にあった。
ナチスは一芸術家のこの静謐なる死に、麗々しく飾り立てた大祭を執り行い、彼の葬儀を徹頭徹尾国策宣伝の具と化
し、蹂躙した。
若き日のムンクが最愛の母と交わした、いずれの日にかふたたび結ばれ、二度と別れることのないように、との約束
を守ることまでが妨げられ、父母らの眠る墓にともに葬られることは許されなかった。
―今月の購入本―
・松岡正剛「山水思想-「負」の想像力」ちくま学芸文庫
水を用いずに水の流れを想像させる枯山水の手法を「負の山水」と名づけ、その手法が展開される水墨山水画に日本
文化独自の方法を見出す。雪舟「四季山水図巻」や等伯「松林図」などの作品を取り上げ、それら画人について解説。
・日高敏隆「ネコはどうしてわがままか」新潮文庫
第一部は「四季のいきもの博物誌」、不思議に満ちているように見える生き物たちの行動にはそれぞれ理由がある。
クジャクの男選び/カタツムリの奇妙な生活/滑空するムササビ/ネコはどうしてわがままか/など、その秘密を解
くプロセスも興味深い。第二部は「いきもの」もしょせんは人間じゃないの!?。すねる/きどる/落ちこむ/迷う
/待つ/など、人間のちょっとした行動を動物行動学から見たら。
・島尾敏雄「出発は遂に訪れず」新潮文庫
表題作の他、島の果て/単独旅行者/夢の中での日常/兆/帰巣者の憂鬱/廃址/帰魂譚/マヤと一緒に、を収録
・スピノザ「エチカ-倫理学 -上-」「々 -下-」岩波文庫
典型的な汎神論と決定論のうえに立って万象を永遠の相のもとに眺め、人間の行動と感情を嘆かず笑わず嘲らず、た
だひたすら理解しようと努めた。ドイツ観念論体系成立の、また唯物論的世界観の先駆的思想。中古書
・島尾敏雄「幼年期 - 島尾敏雄初期作品集」弓立社
70 部の私家版「幼年期」が作られ、贈本として当時の知友たちに配られたのは、昭和 18 年 9 月末に九州大学を繰上
げ卒業して海軍予備学生に志願する、その年の春である。これを原形にいくつか増補され徳間書店版「幼年期」が成
- 395 ったのが昭和 42 年、本書は巻末の大平ミオとの「戦中往復書簡」ほか諸々の小篇がさらに付され昭和 48 年に出版さ
れた。中古書
・広河隆一編「DAYS JAPAN -災害と生命-2008/07」
―図書館からの借本―
・石井達朗「身体の臨界点」青弓社
シャーマニズム儀礼、ヨーロッパの道化芸、バリ島の民俗舞踊、日本が生んだ舞踏、そして内外のコンテンポラリー
ダンスなど、領域を横断して多元文化的な位相をもつ身体表現を多様な文脈とリンクさせ「発話する身体」を問う論
考。
・S.プリドー「ムンク伝」みすず書房
わたしの絵は告白である。絵を通じて、わたしは世界との関わりを明らかにしようと試みる。19 世紀末、虚無と頽
廃の空気に覆われた時代、最愛の母の死、強い絆で結ばれた姉の喪失、妹にとりついた精神の病、貧困、宗教の束縛
‥家族を襲い、人生を導く不気味な力に、ムンクは終生怯えていた。
・I.プリゴジン「確実性の終焉 -時間と量子論,二つのパラドクスの解決-」みすず書房
プリゴジンの「存在から発展へ」「混沌からの秩序」を継ぐ本書が指し示すのは、非平衡過程の物理学と不安定系の動
力学に基づき、揺らぎやカオスを導入することによって、自然法則の新しい定式化が果たされるということである。
そこでは自然の基本的レベルにおいて、時間の流れが導入され、確実性ではなく可能性が、進化発展しつつある宇宙
が記述されるに至る。
・川島博之「世界の食料生産とバイオマスエネルギー-2050 年の展望-」東京大学出版会
世界の食料生産、供給、貿易などの現状を、FAO や世界銀行のデータに基づいて網羅的に分析。食との競合が危惧
されているバイオマスエネルギーや、食料生産が環境に与える影響についても言及しつ、2050 年の食料と環境を展
望。
・日高敏隆「動物と人間の世界認識-イリュージョンなしに世界は見えない-」筑摩書房
昆虫たちは彼らの見ている世界を真実と思っているだろう。われわれ人間はわれわれの見ている世界を真実だと思っ
ている。これは昆虫と人間が、それぞれのイリュージョンによって認知しているということだ。われわれに客観的と
いうものは存在しないし、われわれの認知する世界のどれが真実であるか、と問うことは意味がない。ではいったい
われわれは何をしているのだと問われたら、それは何かを探り考えて、新しいイリュージョンを得ることを楽しんで
いる、ということに尽きる。
・「吉本隆明が語る戦後 55 年-1-60 年安保闘争と「試行」創刊前後」三交社
以下、「-2-戦後文学と言語表現論」「-3-共同幻想・民俗・前古代」「-4-フーコーの考え方」「-8-マス・イメージと大衆
文化/ハイ・イメージと超資本主義」「-9-天皇制と日本人」「-10-わが少年時代と少年期」「-11-詩的創造の世界」「別巻-高度資本主義国家-国家を超える場所」
このシリーズの中心となるのは、95-98 年にかけて、山本哲士らが「週刊読書人」にておこなったインタビュー。標
題のごとく吉本隆明が戦後 50 年を契機に、自らの思想の営みと戦後史を照合しながら総括するとなれば興味深い企
画ではあろうが、「吉本隆明研究会」を標榜する山本哲士らは、そのインタビュー素材を水増し、僅か 150 頁足らず
の並製で 1 冊 2000 円もの嗜好品を 12 冊も拵え上げてしまっている。
20070717
悲しみ澄みて煙まつすぐに昇る
―山頭火の一句―
先句と同様「層雲」大正 9 年 1 月号所収。
- 396 山頭火は疲れていた、肉体ばかりではなく神経もまた‥。
大正 9 年のいつ頃か、妻サキノの実家から、彼の下宿に一通の手紙が届いた。
サキノの実兄からのもので、内容は、彼の不行跡を厳しく咎める文面。さらに離婚届の用紙が同封されていた。
後年、離婚の一件について妻サキノは、
「里の兄が早うから、種田はぐうたらで、らちがあかぬ。あんな奴と一緒にいると、ろくなことはない。縁を切って
戻れ戻れとやかましく云うていました。熊本へ来て 4 年ばかり経ったとき、山頭火は東京から兄の書いた離婚届を郵
便で送ってきました。見ると印を捺しちょるでしょう。そうすると山頭火も兄と同じ考えだなと思って、私は印を捺
して実家の佐藤へ返しました。あとで山頭火が戻ってきたときにきいてみました。やっぱり縁を切る気だったのです
かと。なあに兄さんがやかましく捺せ捺せというてくるので、わしは捺しちょいたが、お前さえ捺さねば、届になら
ぬからのんたというではありませんか。私は、どきっとしましてね」と、ことの経緯を語る。
届出の日付は、大正 9 年 11 月 11 日であった。
―四方のたより― ちょっと二日酔い
めずらしく昨夜は些か飲みすぎたか、目醒めもすっきりせず、気怠く重い。
思考停止状態でぼうっとしていたら、仕事に出ている連合い殿から E メール。朝っぱらから何だよと開けてみれば、
「Happy Birthday」だと。
そういえば今日は 7 月 17 日だったっけ、己もはや御年 64 歳になりたもうた訳だ。
昨夜は、デカルコマリィの Street-Performance を観るべく、夕刻から幼い娘を連れて京橋へと出かけた。
連合い殿は仕事帰りの足で現地へ直行。此方が先に着くつもりで出たのだが、どっこい子連れの足は遅い、彼女のほ
うが先着していた。
月の第 1 水曜と第 3 水曜の夜、もう何年も続けているという Performance はすでに始まっていた。演奏の Member
も居るのかと思えば、音無しの構え、そうでなくとも街頭にはさまざま音が溢れている、それが伴奏というわけだ。
今宵は CASO での「青空展」打上げの宴をというふれこみだったからか、演技は 15 分ほどで早々と手仕舞い、集っ
た連中は飲み会の酒場へと移動する。
8 時頃から延々3 時間ほども続いたか、いつのまにか宴席は 20 名ほどにもなり、てんでバラバラ勝手トークに花咲い
て、ビールばかりだがけっこう飲んだとみえる。
20080716
赤きポストに都会の埃風吹けり
―山頭火の一句―
句は「層雲」大正 9 年 1 月号に発表、句作は 8 年の秋か初冬だろう。
山頭火は、大正 8 年 10 月、妻子を熊本に残したまま、何を求めてか、突然の上京をしている。
早稲田に近い下宿屋の 2 階に住む、13 歳も年少の句友茂森惟士を頼りに、その隣の四畳半に住みついた。
その後まもなく、熊本の知友で早大生となっていた工藤好美が探してくれた、東京市水道局のアルバイトに従事する
ようになる。仕事は水道局管轄のセメント試験場での肉体労働、木枠の篩を使っての砂ふるい作業がもっぱらだった。
俳誌「層雲」への投稿も途絶えている。大正 8 年は皆無、々9 年 1 月号の「紅塵」14 首を最後に、「層雲」からも脱
落していった。
―世間虚仮― 生と死と‥
- 397 ・「日本語で書くことには、泳げないけれども泳いでみる、頑張った、浮くようになったと感じる楽しみがあるので
す」
「時が滲む朝」で芥川賞を受賞した中国人作家楊逸-1964 年生れ、44 歳-の弁、実感のこもったいい言葉だ。
在日韓国・朝鮮人作家の受賞は李恢成や玄侑宗久ら 4 人を数えるが、日本国内で育った彼らとは違い、23 歳で来日し
た彼女の場合、言葉の壁はすこぶる厚い。それがかえって新鮮な文体を生み出しているのだろう、「越境者の文学」
としての評価を獲たようだ。
・毎日新聞の誌面「悼む」の馬清-5 月 28 日死去、60 歳-さんの稿を読んで、カンボジア復興に捧げた草の根の熱き
生きざまに、いたく心撃たれた。
詳細は此方にくわしいから紹介は端折るが、「体調不良で診察を受けたのが死の前日、翌朝、容体が急変、医師に電
話し、受話器を握り締めたまま息絶えた」というから、まさに征き征きての片道切符、見事なほどに潔い死だ。
・「20 万隻一斉休漁」の見出しが躍った 15 日、
敗戦後の混乱の世ならいざ知らず、高度成長期以来、燃料費の高騰に怒りを込めて日本中の漁船がこぞって休漁した、
こんなことが嘗てあったろうか。
13 億の民のたった 0.02%の富裕層に冨が集中する中国では「仇冨」なる怨嗟の言葉が躍っているというが、この国
においては、農も漁も、二次三次産業における派遣やパートも、また消費者にとっても、何処へ向かって拳を挙げる
べきか、真の仇-カタキ-を見出すのは難しい。この国の経済も政治も、バブル以来、世界のグローバリズムに翻弄さ
れっぱなしだからだ。
もはや、庶民における等身大の生活感覚という、その「等身大」をどんどん縮小していかざるを得ない、と覚悟する
べきなのか‥。
と。
20080709
山の青さをまともにみんな黙りたり
―山頭火の一句―
大正 7 年、夏の句であろう。
この年の 6 月、弟二郎が自殺した、縊死である。
その遺書に
「内容に愚かなる不倖児は玖珂郡愛宕村-現岩国市-の山中に於て自殺す。
天は最早吾を助けず人亦吾輩を憐れまず。此れ皆身の足らざる所至らざる罪ならむ。喜ばしき現世の楽むべき世を心
残れ共致し方なし。生んとして生能はざる身は只自滅する外道なきを。」としたため、
「最後に臨みて」と詞書し、
「かきのこす筆の荒びの此跡も苦しき胸の雫こそ知れ」、外一首を遺す。
遺体発見は約一ヶ月後の 7 月 15 日、遺書の末尾に記されていた住所先の山頭火に知らされ、直ちに遺体引取に発っ
ている。二郎はこの年 31 歳、山頭火は 37 歳である。
「またあふまじき弟にわかれ泥濘ありく」 山頭火
防府大道での種田酒造破産の後、弟の二郎は養子先を離縁されている。行き場を失った彼は、一時、熊本の山頭火の
許に身を寄せたらしい。だがその同居も長くは続かなかった。
二郎は幼くして他家へと養子に出され、さらに実家の破産でその家も追われた薄幸の弟である。山頭火とて心痛まぬ
筈はない。だが彼の暮し向きではどうしてやることも出来なかったのだろう。悔いはあまりてある。
- 398 突然の弟の自殺は、またしても山頭火を不安のどん底に突き落としたようである。胸の奥に仕舞い込んできた筈の、
幼い日の母の自殺を思い出させもした。
「私もつまりは自殺するでせうよ。母が未だ若くして父の不行跡に対して、家の井戸に身を投げて抵抗し、たった一
人の弟がこれまた人生苦に堪へ切れず、山で人知れぬ自殺を遂げてゐるから‥」
彼もまた死の誘惑に捕われつつ、酒に溺れては泥酔の数々、狂態の日々を重ねるばかりだった。
―世間虚仮― 時事ネタ三題
・世界を圧する中国の養殖事情
イヤ、驚いた、魚介・海藻を合せた中国の養殖生産量は、世界総生産の 7 割近くも占めているという寡占集中ぶりだ
そうだ。
世界における漁獲と養殖の総生産量-06 年-は、合せて 160,106 千屯、漁獲が 93,359 千屯、養殖が 66,747 千屯という
内訳だが、そのうち漁獲 17,416 千屯、養殖 45,297 千屯を中国が生産、総量においても 62,713 千屯とほぼ 4 割に達
する寡占ぶりで、この圧倒的数字には愕然とさせられる。
ちなみに日本では、漁獲 4,511 千屯、養殖 1,224 千屯、総量で 5,735 千屯となっており、2 位のペルー以下、インド
ネシア、インドに次ぐ漁業国ということだが、これら 4 国を合せても、中国一国を遙かに下回り、43%ほどにすぎな
いのだから驚き。
・環境ホルモン-ビスフェノール A
内分泌攪乱物質と懸念されてきたビスフェノール A、これを原料としたプラスチック製品の哺乳瓶や缶詰が、ごく微
量でも胎児や乳幼児に神経異常など深刻な症状を招くおそれがあるとして、ようやく厚労省が使用を控えるようにと
言い出した。
04 年にフォム・サールらによる「低容量仮説」が提唱されて以来、大議論を巻き起こしてきたが、このほど-08.5.14
付-、国立医薬品食品衛生研究所が「性周期の異常は、ビスフェノールAが中枢神経に影響を与えたためと考えられ
る。大人は影響を打消すが、発達段階にある胎児や子供には微量でも中枢神経や免疫系などに影響が残り、後になっ
て異常が表れる可能性がある」としたのを受けてのことのようだ。
・くいだおれ太郎のモデル
8 日夜、とうとう道頓堀の「くいだおれ」が閉店、くいだおれ太郎狂想曲も大詰めを迎えたようだが、その太郎のモ
デルは、コメディアン杉狂児だった、と。そう云われてみれば、成程、くいだおれ太郎、彼の面影を髣髴とさせるも
のがある。
浅草オペラからはじまったという彼の役者人生は、大正 12 年に映画界へデビュー、戦前はずいぶん活躍したらしい
が、その英姿を昭和 19 年生れの私が知るはずもない。
だが、昭和 11(1936)年「うちの女房にゃ鬚がある」という美ち奴とのコンビで歌ったコミックソングが大ヒット、一
世を風靡しているが、これは映画の主題歌だった筈。
この曲、周りの大人たちがよく口遊んでいたか、ディック・ミネと星令子のコンビが歌った「二人は若い」-昭和 10
年-とセットになって、戦後 20 年代の幼い頃の記憶に、なぜだかいまもあざやかに残っている。
おそらく大正末期から昭和初期の「モボ・モガ」時代を、役者として歌手として華やかに活躍してきたであろう杉狂
児も、戦後の 50 年・60 年代は、時代劇隆盛の映画界にあって、コメディアンとしてもっぱら脇役をこなしていたが、
お定まりの八つぁん熊さん住む貧乏長屋の大家の役などいかにもハマリ役といった感があったものだ。
20080703
- 399 暑さきはまる土に喰ひいるわが影ぞ
―山頭火の一句―
大正 6(1917)年夏の作か。この頃、当時五高の学生であった工藤好美-英文学者-と知り合い、歌誌「極光」の短歌会
に誘われ出るようになっている。
この短歌会には木村緑平の従弟にあたる古賀某もおり、彼は偶々大牟田から訪ねてきた緑平を山頭火に引き合せた。
この後の生涯を通じ、困った時の神ならぬ緑平頼み、ともなる山頭火にとってはかけがえのない友であり理解者との
邂逅であった。
―表象の森― 島尾敏雄とミホ夫人
先に彫刻の栄利秋さんから OAP 彫刻の小径 2008 展の案内を戴いた折、一枚の新聞記事の切抜きが添えられていた。
紙面は南海日日新聞の 3 月 27 日付、「思い出の地で安らかに」の見出しに「呑之浦で島尾さん墓碑除幕」と副見出
し。
故島尾敏雄の妻ミホが逝ったのは昨年の 3 月 25 日、その一周忌を迎えての墓碑建設であり除幕式であった。敏雄と
ミホの出会いの場所でもある奄美諸島の加計呂麻島呑之浦、すでに島尾敏雄文学碑の建つ記念公園の小高くなったと
ころ。この墓碑の製作を担当したのが栄さんで、彼は加計呂麻島のさらに南の請島出身、むろん先の文学碑も彼の製
作で、同郷を頼りに依嘱されたとのこと。
島尾敏雄は海軍予備学生として魚雷艇の訓練を受け、のちに特攻志願が許されて震洋艇乗務に転じ、昭和 19 年 11
月、第 18 震洋特攻隊の指揮官として 180 余名の部下を引きつれ、奄美諸島加計呂麻島に渡り呑之浦に基地を設営、
終戦まで出撃-死-を待つ日々を送った。島民たちから「隊長さま」と慕われ親しまれていたが、やがて、翌 20 年の春
頃からか、島の娘大平ミホと恋に落ちた。ミホは島長-シマオサ-で祭祀を司るノロの家系に生まれ、巫女の後継者た
るべき娘だった。
弓立社刊の「幼年期-島尾敏雄初期作品集」の巻末には、「戦中往復書簡」と題した、敏雄とミホとの間に交された
書簡が掲載されている。時に敏雄 28 歳、ミホ 25 歳。
「七月二日」
心を込めて御贈り申し上げます。今はもう何にも申し上げることはございませぬ様に存せられます。
此のしろきぬの征き征くところ、海原の果、天雲の果、ただ黙ってミホも永遠のお供申し上げまいります。
どうぞお供をおゆるし遊されて下さいませ
――ミホ
「七月七日」
山の上を通ったら 海も静か山も静か
満点に星がいっぱい うそのやう
これが戦のさなか大いなる日のしまかげ
ぼくはただひとり峠道を歩いて
大空の星に向って 力のかぎり一つのよびなをよんだ
mi-ho
涙がわいた
杖をふり廻して峠を下りて来た
mi-ho ,mi-ho, mi-ho,
いろいろのうつそみかなしみは
考へません
ただ任務と mi-ho
- 400 ただ二つ
mi-ho のかなしみを 沢山知ってゐます
ぼくは弱虫ですが
任務と mi-ho があるから
強い
――トシオ
「七月」 -日付不詳‥‥
どうぞお元気をお出しになって下さい。
あなたがお淋しそうになさると、ミホかなしくなります。でもあなたがお淋しくなった時、ミホもいっしょにさみし
がってはいけませんわね、ミホ元気を出します。
島尾隊長の歌をうたって元気を出します。
あれみよ島尾隊長は
人情深くて豪傑で
僕等の優しいお兄さま
あなたの為なら喜んで
みんなの生命捧げます
(村うちでは一ツの児も知ってゐます)
‥‥
あなたと御一緒に生のいのちを生き度い。
死ぬ時は、どうしても御一緒に。
悲しみに顫えながら、戦争に怯えながら生きてきましたミホ。
何時もあらゆるものと立ち向ひ乍らミホをお護り下さった「あなた」
この悲しい迄に切ない私達のせめて最後のたまゆらなりと、二人一緒に昇天する事を、神さまがおゆるし下されたら
と切ない程に願はずには居られません。
「武人」の道にはそれは許されない事でございませうか。
とても、とてもミホ悲しみます。
‥‥
――ミホ
20080701
枯草ふかう一すぢの水涌きあがる
―山頭火の一句―
大正 6(1917)年の句、「人来り人去る 十一句」と前書あり。
前年の春、破産出郷、山頭火は妻子を連れて熊本へと落ちた。
「寂しき春」前書した「燕とびかふ空しみじみと家出かな」は出郷の折の句。
熊本ではまず古書店を営むもうまくゆかず、やがて「雅楽多」の屋号で額縁屋の店を開いた。額縁や複製絵画、肖像
やブロマイド、絵はがきなどを扱う。
明治天皇の肖像を額に入れて、小学校などを廻って売り歩いたりもするようになって、店番は妻サキノに任せきりに
して、彼はもっぱら額縁売りの、道ゆく行商人となった。
- 401 ―温故一葉― 遊劇体の鏡花世界「山吹」を観て
前略、昨夜は「山吹」拝見、お招きの程どうも有難う御座いました。
泉鏡花の世界にどういう造型や形象をするのかと、一度は観てみたいと思っていた遊劇体の舞台を、これまた未だ足
を踏み入れていない、廃校となった難波の精華小学校を劇場化、2004(H16)年から open している精華小劇場での公
演、という取合せに思わず食指が動かされたようで、日頃の重い腰もなんの、気もそぞろに出かけていった次第。
まずは演出氏の-「夢幻能」として-の謂、よくよく腑に落ちるものあり。
舞台に妖しげに咲く花弁を象った 9 つの方形の台座は、金剛界曼荼羅図をも想起させ、「南無遍照金剛」と唱和する
声明とともに、この劇宇宙の地平を明瞭に象る形象としてお見事でありました。
その 9 つの台座に、時-話-の移りに応じ演者もまた移れば、白山吹が蓮の花にも見紛うか、まるで蓮の台座に鎮座す
る仏や菩薩の如くにも映り、座の移りは輪廻転生を孕んで、極限にまで「事」の劇性を強めましょう。
舞台空間を曼荼羅と化した 9 つの台座とその周辺、いわば明瞭に図と地に分け隔て特権化したこと、言い換えれば空
間に大きな負荷をかけたことは、人物それぞれの形象の仕方にも自ずと方法的自覚を強いるものとなります。
シテ「縫子」、ツレ「傀儡師」、ワキ「画家」という登場人物の三様にあって、「縫子」を「声」と「振り」に分離
し、「振り」を人形振にしたのも、ツレが「傀儡師」であってみれば物語の必然ともみえ、またその様式の徹底をめ
ざせば自ずと生まれ出るものだったとも云えるでしょう。この場合、演出氏の方法的模索が実際には逆の過程であっ
たかとも思われますが、そんなことはどうでもよいこと。
いずれにせよ、台座の上の「振り」としての「縫子」に負わせた人形振の加圧が、エロティシズムの止揚に大いに寄
与したものとみえ、ひとかどの方法や技術では手に負えそうもないこの戯曲を、本歌取りの体よろしく換骨奪胎、こ
こまで舞台化しえた演出の冴えに感じ入りました。
声と振りの分離は、「縫子」の声をさらにまた分離させうるものとなり、「外面如菩薩内面如夜叉」の如き陰陽対照
の二者ともなり、さらにはコロスとへ化し、ジェンダーそのものにまで拡げえることとなります。
コロスと化し、ジェンダーそのものにまで普遍化された「声」、その朗誦の術は、これまたきわめて方法的自覚に裏
付けられねばなりませんが、条あけみと大熊ねこの朗誦はその自覚によく練り込まれたものであり、その対照はなか
なか見事なものでした。惜しむらくは、要となる箇所において「声」をも発した「振り」におけるこやまあいの、二
人-条・大熊-の声を吸収しつつ止揚せねばならぬその「身」振りにはまだまだ遠く未熟さが露呈していたことです。し
かし、これは至難の技というもの、体現しうる女優を見出すのもかなり至難なことといわざるをえないでしょう。
この舞台、抑制された様式性をよく貫徹された演出であった、と思います。
私とすれば、滅多にないよきものを観た、との思いを抱いております。
取り敢えずお礼に代えて。 2008.07.01 -四方館/林田鉄
「遊劇体」のキタモトマサヤ君と逢ったのは、もう十年近くも前になろう、「犯友」-正式には「犯罪友の会」-の武
田君ら関野連の祝祭の一夜であったろうか。
おそらくどちらも人見知りの強い性格なのだろう、とくに話し込んだという記憶もない。
しかし、その以前から「遊劇体」の公演案内はそのたびに送られてきていたように思う。時に食指を動かされる案内
もいくつかあったのだが、ずっと機会を逸したまま今日にいたってしまっていた。
とりわけ、彼らが泉鏡花を舞台化するようになって、女優の条あけみも常連となって出演しているのも重なり、これ
は一度は観ない訳には、と思っていたところ、精華小劇場での案内を貰って、この機会は逃すまいと思ったのである。
と、そんな次第で、とうとう昨夜、キタモトマサヤ君の「山吹」とご対面となった。
いい舞台だった。
方法的意識に貫かれた彼の演出は、その抑制された様式性に結晶している。
演者たちも、よく演出に応え、アンサンブルがとれていた。
- 402 さっそく、お礼の一葉を書いて送った。
20080628
壁書さらに「默」の字をませり松の内
―山頭火の一句―
明治 45-1912-年、30 歳になる年の句だが、この頃の種田正一はまだ「山頭火」ではない。詳しく云えばすでに山頭
火をペンネームにはしていたが、俳号は「田螺公」と称し、他の文芸活動、たとえばツルゲーネフの翻訳などに山頭
火を使っていたらしい。むろん句ぶりはまだ山頭火らしさもなく、新風自由律の開眼からは遠い。
防府を中心に前年-M44-から発足した俳句結社「椋鳥会」に参じ投稿していたが、45 年の句作はこの一句のみ。
結婚し子どもも設けたにも拘わらず、文芸への志は閉塞の内にあり、彼の心は焦躁にかられ荒んでいたようである。
「もう社会もない、家庭もない‥自分自身さへもなくなろうとする」
「自覚は求めざるをえない賜である。探さざるをえない至宝である。同時に避くべからざる苦痛である。殊に私のや
うな弱者に於て」
などと記すこの弱者の自覚は、彼の神経をさらに衰弱へと追い込んでいったか‥。
―表象の森― Performing Arts の 30 人
狂言と現代劇を繋ぐトータルシアターに挑む野村萬斎
ブレヒトと歌舞伎を股にかける演出家/串田和美
千年の時空を超える仏教音楽「声明」の新井弘順
現代演劇界のニューオピニオンリーダー/平田オリザ
知的障害者との舞台づくりを集大成/内藤裕敬
わだかまりを抱えた人々が通り過ぎる「場」を描く青木豪
日本の若い観客に響くギリシャ悲劇翻訳家/山形治江
マンガと歌舞伎と伝奇ロマン活劇のアクション劇作家/中島かずき
舞踊とコンテンポラリーの越境のアーティスト/伊藤キム
独自の美意識に彩られた大島早紀子のコレオグラフィー
マンションの一室をつくり込む舞台美術家/田中敏恵
点と線を繋ぐ独創的な箏演奏家/八木美知依
日常から湧き出す妄想の劇作家/佃典彦
欲望のドラマツルギー/三浦大輔の軌跡
歌舞伎を支える振付師/8 世藤間勘十郎
コンテンポラリーダンス界の異才/井手茂太の発想
社会派コメディの第一人者/永井愛の作劇術
能の音楽から現代へ羽ばたく革新者/一噌幸弘
前衛野外劇のカリスマ「維新派」の松本雄吉
だらだら、ノイジーな身体を操る岡田利規の冒険
身体の極限を問う黒田育世の世界
蜷川幸雄の新たなる挑戦「歌舞伎版・NINAGAWA 十二夜」
和太鼓と西洋音楽の融合をプロデュースするヒダノ修一
アングラ第一世代/麿赤児が語る舞踏の今
学ラン印の超人気ダンスグループ「コンドルズ」の近藤良平
- 403 現代演劇のニュージェネレーション/長塚圭史
栗田芳宏が仕掛けた能楽堂のシェークスピア
密室演劇の旗手/坂手洋二の世界
ロック時代の津軽三味線奏者/上妻宏光
金森穰が語る公立ダンスカンパニーの未来
「パフォーミングアーツにみる日本人の文化力」、国際交流基金が運営する「Performing Arts Network Japan」と
いう site があるが、2004 年から 07 年に掲載されたアーティストたち 30 人へのインタビュー集だ。
60 年代から活躍してきたベテランから新世紀になって登場してきたような若手にいたるまで、ずらり並んだ顔ぶれ
を整理してみれば、劇作・演出系が 14 人、ダンス・舞踏系が 7 人、邦楽系が声明も含め 5 人、さらに狂言、邦舞、翻
訳、舞台美術の分野からそれぞれ 1 人といった構成で、なるほど、この国における Performing Arts-上演芸術-の現在
というものを一応眺めわたせるものになっているのだろう。
ただ私にとって興味を惹かれたものは、私自身に近いもの-演劇や舞踊-より、むしろやや遠い世界-演奏や美術-の語り
手たちだった。たとえば声明がどのように西洋の現代音楽と出会い、Performing Arts としての現在を獲得してきた
か、あるいは、伝統的邦楽の琴がどんな技術的変容を加えながら西洋楽器とコラボレーションしているか、などの話
題であった。
このとりどりの 30 人の語り手たちの集積によって、なにか新たな地平が切りひらかれつつあるのか、なにがしかの
展望が見えるのか、と問うなら、実はなにも見えてこない、なにもないのだ。ひとことで云えば、表現行為なるもの
は多様性を標榜しつつ、ただたんに消費されるものへとひたすら突き進んできた、そんな現実が横たわっているだけ
だ。
20080625
馬も召されておぢいさんおばあさん
―山頭火の一句―
句集「銃後」所収、昭和 12 年の句だが、時季のほどは判らない。
11 月 1 日の日記には短く、「自己否定か。自己破壊か。自己忘却か」と。
山頭火はやっぱり落ち着けない。湯田温泉へ出かけて、またしても自分を見失ってしまった。
2 日から 3、4、5 と、「飲んだ、むちゃくちゃに飲んだ、T 屋で、O 旅館で、M で、K 屋で。‥たうたう留置場にぶ
ちこまれた、ああ!」
彼は留置場に 4 泊 5 日留め置かれた。検事局で、飲食の支払を 14 日迄に、と期限をきって誓約、とりあえず釈放さ
れた。
―四方のたより―
奇想のイベント「デカルコマニィ的展開/青空」展の初日、
予定の番外ながら、いわば勝手連的にだが、わが四方館も一景を添えさせてもらった。
急遽、若干の人々に案内をしていたので、わざわざお運びいただけた方たちもあり、おかげでかなり面白いものとな
った。
デカルコマリィ、イシダトウショウ、川本三吉の三者が、踊ると云うよりは些か劇的に在りつづけようとする空間に
あって、その位相とは別次に、ひとりひとりを、あるいは Duo を、また 3 人をと配し、踊りを成り立たしめてみる
こと、課題はそんなところにあったのだが、観た者も演奏者も、さらには演者たちも、どう感じとったか確かめても
いないが、私の眼には予見を大きくは違わず、試みてみただけのことはあったと云えそうだ。
- 404 -
会場に大きく座を占めていた太い丸太が、赤く塗られた鎹で繋ぎ合わせられ、長い円弧になって、これが客席へと変
身したのだが、どうやらこの太い丸太、曰く付きの伝説的造型作品だとかで、中が刳り抜かれた長大なカヌーで、75
年、琵琶湖に浮かべようと企画、制作されたものだという。
写真は、その制作者でもある三喜徹雄氏の作品「流木 RYUBOKU2007/7」
「青森県下北半島六カ所村海岸に流れついた 1 本の流木をつなぎ合せる。三喜徹雄」と添書がある。
ここ数年来、彼は放浪の人となり、トラックに日用具一切を乗せ全国の海浜を廻っては、見つけた大きな流木をチェ
ンソーで裁断し組み上げては立体造形をしているという。もちろん、海岸で生まれた作品は、人の眼に触れることも
なく、またどこかに運び込まれるわけでもない。ただ一枚の写真となって彼の造型行為はそこで完結、ということで
あるらしい。
ばかき様の裏に記された作業日記のごとき彼の短い一文が、この営みに賭ける彼の拘りよう、ひいては生きざまを伝
えてとてもいい。
「青森県下北半島に漂着した一本の流木をチェンソーで台形に切断してゆき渦巻状に組み立てる。7/23 今回はハイ
エースに自転車です。下北まで約 20 日ちかくかかってやっとこの一本の流木にめぐりあうことが出来ました。7/24
流木半分砂に埋っているので堀出作業に一日かかってしまった。7/25 いよいよチェンソー切断です。なかなか刃を
入れる角度が決まらず苦労する。7/26 流木のある地点から波打際まで約 300m。小さな砂丘を越えて切断したパー
ツを1つずつころがしてゆく。広大な砂丘の中でひとり黙々と作業する。7/27 前日と同じ作業。7/28 波打際での組
立て。カスガイを打って完成。それにしてもここは涼しい。」
とあり、携帯のメールアドレスのあとに、「住所は只今ホームレスのためありません」と記す。
偶々同席した陶芸の石田博君によれば、京都教育大の同期生仲間とか、ならば私とも同年となるが、この潔さと徹し
ようは、此方まで心洗われるようであり且つズシリと肚に響く。
20080624
ひつそりとして八つ手花咲く
―山頭火の一句―
詞書に「戦死者の家」と添えられ、句集「銃後」所収、昭和 12 年の晩秋あるいは初冬の頃か。
昭和 12 年と云えば、7 月 7 日、満州で盧溝橋事件が勃発、北支事変へと戦線拡大の火ぶたが切って落とされた。
山頭火は 7 月 14 日の日記に、
「北支の形勢はいよいよ切迫した、それは日本として大陸進出の一動向である、日本の必然だ、それに対して抵抗邀
撃するのは支那の必然だ、ここに必然と必然との闘争が展開される。勝っても負けてもまた必然当然であれ」などと
記している。
戦線は拡大の一途をたどり、日本軍は華北・華中へと大軍を送り、11 月には杭州湾にも新たな大兵団を上陸させた。
あの南京大虐殺が起こるのは翌 12 月のことだが、銃後の国民には知らされる筈もない。新聞は連日、日本軍の活躍
や美談の類が報道されるばかりだった。
この頃、「戦争の記事はいたましくもいさましい、私は読んで興奮するよりも読んでいるうちに涙ぐましくなり遣り
きれなくなる」とか「戦争記事は私を憂鬱にする、しかも読まずにはいられない」と記している。
―世間虚仮― 和田中式公教育再生論
毎日新聞夕刊に月 1 回ペースで掲載される「中島岳志的アジア対談」に、昨夕、藤原和博氏が登場していたが、この
内容なかなか読ませるもので感じ入った。
- 405 補習授業の「ドテラ」-土曜寺子屋-や塾講師等による学内塾「夜スベ」-夜スペシャル-などで耳目を集めた東京杉並の
和田中、あの民間出身の校長先生だ。
私とすればこの連載、インタビュアー中島岳志の切り込みようも、登場させる人選についても、疑問が付されること
しばしばなのだが、この対談に関しては藤原氏の独壇場、彼自身の優れた現場感覚から生み出されてきた教育実践と
その論理が凝縮的に陳べられており、まさに今日的な公教育再生の手法として高評価されねばならぬと痛感させる。
その理念的柱は、学校の地域社会における「本部化」ということ。学校をこそ軸に地域社会の新たなる編成をするこ
とである。
それゆえにこそ学校が一つの典型的モデルとして地域社会化すること、地域社会の諸要素を積極的に取り込んでゆく
ことも大いに必要とされ-彼の実践でいえば「よのなか科」がこれに該当する訳だが-、表裏一体の活動として取り組
まれねばならないことになる。
この対談記事、いまのところネットの「毎日 JP」で掲載されており、その全文が読めるから、関心ある向きには是
非お奨めする。
20080620
風の明暗をたどる
―山頭火の一句―
昭和 10年師走の 6 日、
「旅に出た、どこへ、ゆきたい方へ、ゆけるところまで
旅人山頭火、死場所をさがしつつ私は行く! 逃避行の外の何物でもない」
こう日記に書きつけて、彼は其中庵をあとに飄然と旅立った。
遡って、その年の 8 月に自殺未遂をしている。おそらくカルチモンでだったろう。
その後、小康を得て、「身心脱落」の境などと愉快を装うも、10 月になるとまたしても心身不調を歎いている。
「ぼうぼうたり、ばくばくたり」などと書きつけ、暮し向きにも行き詰まったかの言葉を記すばかり。
12 月に入ると、その神経は一刻も堪えられぬほどの様相を呈していた。
「死、それとも旅‥‥all or nothing」、
ただこれだけを記した翌る朝、彼は旅立っていった。
―四方のたより― デカルコマニィ的展開なる‥
来週の 24 日(火)から 29 日(日)の一週間、デカルコ・マリィの一党が奇想の Performance を展開する。
所は、大阪港築港芸術家村計画の赤レンガ倉庫東横のギャラリーCASO。
名づけて、CASO における「デカルコマニィ的展開/青空」展、と。
赤レンガ倉庫の芸術家村計画は十年程前から大阪市などがアドバルーンを挙げども、なにせ財政逼迫の折から耐震基
準に満たぬ赤レンガ倉庫群の再生は一向具体化の道遠く、横浜のみなとみらい 21 赤レンガ倉庫群の再開発における
国際色豊かな文化発信基地としての成功ぶりとは水を開けられっ放しで、明暗見事な対照をなす。
そんな悲惨な状況下で唯一気を吐いてきたのが、赤レンガ倉庫群の裏に位置する白い建物-旧住友倉庫-に 2000(H12))
年オープンしたギャラリーCASO である。
Dance Box や COCOROOM にわざわざ立ち退いてもらってまでして、二束三文で売却先を求めた新世界のフェス
ゲ-Festival Gate-さへ、落札先の韓国関連企業とは訴訟沙汰で暗礁に乗り上げたまま、解決の見通しは一向立たない
始末で、「新市長よ、なんとかせえ」と思わず野次の一つもかけたくなるほどにお粗末な大阪市である。
現在、反対が都民の過半を占めるというのに、都知事の石原慎太郎が音頭をとって東京オリンピックへと誘致に血道
をあげているが、その結果がどうあれ此方は知ったことではないが、何年前だったか、そもそも大阪市がオリンピッ
- 406 ク誘致へなどと名告りを挙げたのは大失態であった。バブル崩壊のさなか、財政はすでに尻に火がついていたという
のに、窮余の一策とばかり起死回生を誘致に求めたのだったろうが、世界に向けてとんだ恥を掻き捨てたのが磯村市
政だった。
そんなこんなで、大阪市の芸術・文化の振興策やサポート事業は、おしなべて絵に描いた餅となって、ジリ貧の一途
を辿っている。
と、泣き言ばかり並べていても致し方ない。さて、その一向進まぬ芸術家村計画にあって孤軍奮闘よろしく美術家た
ちにスペースを提供してきた CASO での、どういう風のいたずらか、降って湧いたようなデカルコ・マリィ一党の
企画、多数の Dancer や役者たちと musician らが帯同し、造型、映像、写真と多分野にわたる人々が呉越同舟、各々
の日程に合わせて自由参加、ごった煮の祝祭空間だ。
「デカルコマニィ」とはシュルレアリズムのルネ・マグリットの作品題、絵を見れば、ああこれかと誰でも思いあた
るほどによく知られた構図だ。
デカルコ・マリィなれば、駄洒落の語呂合せも効いてコピー効果も抜群だが、ご当人はその控え目な気質そのままに
素直な物言いで、気宇壮大に風呂敷をひろげているから、その言をそのまま引いて紹介しておこう。
これは「デカルコマニィ→シュルレアリズム→集団創造→風景の捏造」と展開します。
「表現とはイデオロギィ諸形態である!」に起想するのですが、それは押並べてコミュニケーションではないかと考
えます。
古人の頃から人間関係が悩事、私と貴方、私達と貴方、私と貴方達、私達と貴方達、私と私達‥がテーマです。
何を根拠に、何(誰)に向けて、何を発するのか?
私は其れを「踊る」行為からアプローチしてみたい。
「踊手/役者」として舞台に立ってきた私の感想です。
演出家/振付家/音楽/衣装/舞台美術/大道具/小道具/宣伝美術/記録/踊手‥等、彼や是やで舞台空間(劇場)
が在ります。
自分の行為なのに「私は誰の為に何故に踊っているのか‥?」の想いが浮かんだり沈んだり‥無責任とも思える「客
席の拍手」に青褪める。
分野や世界は違え、そんな感覚が今の地球表を覆っているのだと思います。
何処かで釦の掛け違えをしたまま来てしまった‥?
出来るだけ水平(フラット)な関係で其処に居る事をやってみたい!
何かを水平な関係で展示する事から見えて来る世界を見たい!
私は「踊る」を展示します。
音楽、舞踊、写真、絵画、オブジェ、演劇‥等、私の知る人達に声を掛けてパノラマを展開します。
20080619
草ふかく水のあふるるよ月
―山頭火の一句―
昭和 12 年初夏の頃か、「層雲」発表の句。
この年の山頭火は其中庵にあって、読書に耽ることが多かったようである。道元の「正法眼蔵」を読む際などはかな
らず正座していたらしい。
とはいえ、むろん近くの湯田温泉へは知人らとよく遊蕩にも出かけている。
ある友人への手紙に
「‥、老いてますます醜し、私はどうしてもシンから落ちつけません。清濁明暗の境を彷徨してをります。」と綴り、
「身のまはりはほしいまゝなる草の咲く」
- 407 と句を添えている。
―表象の森― 処分されるペットたち
全国各地にある行政機関の動物愛護センター、ここには全国で 1 年間に 14 万頭の犬、23 万匹の猫が保護され、その
うちの大半 35 万の犬猫が殺処分-H18 年統計-になるという。
保護収容されてから「1 週間」、この短い時間が彼らの処分猶与期間だ、と。
35 万という数値にも驚かされるが、たった 1 週間の余命という事実はさらに衝撃だ。
ステンレス製の密閉された小さな室内に炭酸ガスを送り込み窒息死させる装置は「ドリームボックス」と名づけられ
ている。この残酷で醜悪なアイロニー。
―今月の購入本―
・J.ボードリヤール「消費社会の神話と構造」紀伊国屋書店
訳者今村仁司は本書あとがきにて、生産主義的-経済学的-思考では把握不可能であったポトラッチ型消費の意義は、
バタイユに発しボードリヤールを経て、新たなる社会学的概念へと鍛え直された、という。マルクスの価値形態論と
ソシュールの記号論を結合して社会現象の解析手法としたボードリヤール的消費概念とは‥、1979 年初版、中古書
・ネルソン・グッドマン「世界制作の方法」ちくま学芸文庫
「われわれはヴァージョンを作ることによって世界を作る」、芸術、科学、知覚、生活世界など、幅広い分野を考察
し、人間の記号機能の発現としてのさまざまな世界を読み解き、現代哲学の超克をめざすという本書、87 年初訳の
みすず書房版の文庫化、08 年刊
・マイケル・ポランニー「暗黙知の次元」ちくま学芸文庫
80 年初訳の紀伊国屋書店版には「言語から非言語へ」と副題されていたこの書は、ポストモダン思潮のひろがりの
なかで栗本慎一郎らによってものものしく喧伝されていたが、本書はその新訳にて「暗黙知」再発見を問う、03 年
刊
・K.ステルレルニー「ドーキンス VS グールド」ちくま学芸文庫
進化の神秘を自己複製子にまで徹底的に還元して説明するドーキンスと、数億年単位の歴史に天体の楕円軌道にも似
た壮大なパターンを見出すグールド。対照的な二人のあいだの相違点と共通点を簡潔に整理してくれる、2004 年版
中古書
・J.ドゥルーズ・F.ガタリ「アンチ・オイディプス-資本主義と分裂症 上」河出文庫
々
「アンチ・オイディプス-資本主義と分裂症 下」 々
欲望が革命的なのは、それが荒々しいからではなく、意識によっては導かれない微細な未知の波動と流線そのものだ
からである。Globalization と原理主義という相反するとみえる二つの傾向が、同じ一つの世界システムから出現す
ることを、本書はすでに精密に解明し、警鐘を鳴らしていた、86 年河出書房新社刊の新訳版、06 年刊
・宮坂宥勝監修「空海コレクション -1-」ちくま学芸文庫
空海の主要著作のうち「秘蔵宝鑰」-十住心論の要約-と「弁顕密二教論」を詳説する、04 年刊
・吉本隆明「カール・マルクス」光文社文庫
60 年代、混迷の政治の季節、虚飾のまみれたマルクスを救出するべく、その人物と思想の核心を根底から浮き彫り
にした「カール・マルクス」-試行出版部刊-に小論 2 編が付されている、06 年刊
・保阪正康/広瀬順晧「昭和史の一級史料を読む」平凡社新書
国会図書館憲政資料室に永年勤めた広瀬順晧を相手に昭和史研究の著作で知られる保阪正康が読み解く、昭和前期激
動の舞台裏と天皇ヒロヒトの実像に迫る、08 年刊
・「遠田泰幸作品集」遠田珪子編集発行
- 408 52 歳で夭折した画家遠田泰幸の私家版遺稿作品集、中古書
・広河隆一編集「DAYS JAPAN -処分されるペットたち-2008/06」
―図書館からの借本―
・末木文美士編「思想の身体-愛の巻」春秋社
書中白眉は終章、上野千鶴子と末木文美士の対論。冒頭上野千鶴子が吉本隆明「共同幻想論」の衝撃体験から論を起
している。渡辺哲夫の「フロイト性愛論批判」はバタイユと対照させた論点が関心を惹く。GID で女性から男性へと
戸籍も変えた虎井まさ衛の「性同一性障害を生きて」は直截な語り口で読ませる、06 年刊
・渡辺京二「江戸という幻景」弦書房
「逝きし世の面影」で、来日外国人たちの遺した記録を渉猟し、幕末から明治にかけての庶民の風景を描いた著者の、
その続編とも云うべき、江戸の人々、その文化の風貌を活写する、04 年刊
・文化科学研究所編「パフォーミングアーツに見る日本人の文化力」水曜社
演劇や舞踊に活躍する現代アーティスト 30 人へのインタビューで構成、07 年刊
・セミール・ゼキ「脳は美をいかに感じるか」日本経済新聞社
著書に「脳のビジョン」をもつ視覚脳の研究者が、ピカソやモネなどの美術作品を、脳内で生じている事象から説明
しようという試みの書、02 年刊
・荒井献「ユダのいる風景」岩波書店
著者は新約聖書学者にてグノーシス主義研究者。ユダとは誰か、古代・中世・近現代へとユダのいる風景の変遷を辿る、
07 年刊
・川村湊「補陀落-観音信仰への旅」作品社
聖母マリアから摩耶夫人、媽祖信仰へとひろがる観音信仰をめぐって、補陀落渡海にはじまり日本各地から韓国・中
国またインドへと訪ね歩いた旅の文学的思索、03 年刊
20080616
ここまでを来し水のんで去る
-山頭火の一句-
句の詞書に「平泉にて」とあり。
昭和 11 年 6 月、逢うべく人に逢いたいとばかり急遽其中庵をあとにして仙台へと旅立った。その友らの歓待に、松
島、瑞巌寺などを逍遙し、雨降る 26 日、平泉へと足を伸ばし、毛越寺や中尊寺を訪れている。
この数日後、山頭火はまたしても酒に溺れ、びとい失調に陥ってしまう。友らの眼を遁れ、湯治客の浴衣を着たきり
のままに、夜汽車に飛び乗るようにして福井へ。無惨な姿で市中彷徨の末、永平寺の山門の前に立った、という。
―世間虚仮― 一炊の夢
京都の中京区、木屋町通り二条を下るとすぐの西側、鴨川に沿って伏見へと流れる高瀬川のはじまるところ、「一之
舟入」の石碑がある。その下の水面、船溜り跡近くには高瀬舟が一艘、往時を偲ぶがごとく浮かんでいる。
慶長 19(1614)年、角倉了以が開いた高瀬川は、京都市中と伏見を結び物資輸送の幹線となって、明治を経て大正に至
るまでその役を担ったという。
石碑を挟んで東側の角倉家別邸跡は、明治以後その所有者は変遷すれど今に遺され、現在は「がんこ高瀬川二条苑」
となっている。
日頃、食の贅などとんと縁のない暮しに、あろうことか昨夕は家族打ち揃ってこの地の川床料理に舌鼓を打ちすっか
り堪能させていただいた。谷口夫妻よりの御招ばれである。
- 409 一行は幼な児を含めて 6 人、三条京阪を降りて、夕刻近いとはいえまだ明るい河原をそぞろ歩いたのも一興。生憎と
今にも降り出しそうな空模様で、鴨川に吹く風は些か湿っぽかったが、それでも涼しさを満喫、三条の橋から二条ま
では意外に距離がある。
頃もよしと、エスコート役の谷口旦那に導かれつつ件の館の玄関を入る。広い客間を横目に山水の庭へと出る。小堀
遠州作庭も一部に残すというものだが、侘び寂びの趣味とはとおく、緑と石と水の、天下の豪商ならではの贅を尽く
した風流というべきか、これはこれで一見の価値なしとは云えぬ。
川床はさすがに涼味満点、酒を呑まぬメンバーのなかで独り私だけがほろ酔いとなり、なんだか申し訳ない心地、今
宵は是れ一炊の夢の如し、か。
帰路、地下鉄を降りて地上に出れば雨、深夜に至って雨は激しく煩いほどに音立てていた。
20080615
日ざかり黄ろい蝶
―山頭火の一句―
句は、其中庵の山頭火、昭和 8 年か。
-表象の森- 彫刻の小径と山田いづみ
14 日、昼過ぎから OAP 彫刻の小径 2008「空と風と水と」を観に出かけた。
OAP プラザを通り抜け大川べりに出ると彫刻の小径がある。8 点の彫刻が右に左にと 15 ㍍ほどの間隔かで点在する
のを観ながら歩いてゆくと、アートコートギャラリーに出る。その玄関前では出品の作家諸氏と思われる面々が打ち
揃ってすでに野外パーティよろしく歓談していた。
栄利秋さんとは二年振りか、今は奈良市となった月ヶ瀬にある倉庫もずいぶんギャラリーらしくなったと云っていた
が、その作業などに足繁く通っているものと、よく日焼けした顔から覗えた。
それぞれの作家が、自身の作品について語るのを聞くというのは、此方としてもめずらしい経験で、理論派あり直観
派あり、流暢に雄弁をふるう者、訥々と弁ずる者と、その個性が作品とも対照されて、それなりに面白かった。
天神橋商店街へと向かう東西の道は寺町のように寺社が並んでいるが、与力町あたりか、緒方洪庵の墓所との石碑が
眼についたかと思えば、さらに少し歩くと今度は山方幡桃の墓所とあった。
次の予定島之内の WF 行きには長堀まで地下鉄一本、時間にまだ余裕があるので商店街の喫茶店に入って暫時休憩、
安東次男の「芭蕉百五十句」を読む。
山田いづみ公演「そよそよ そより 彩ふ」の客席は 10 人余りとずいぶん寒いものだった。金曜から日曜、3 日間で 5
ステージに少々無理があったのだろう。
さてその踊り、どうしても越えねばならぬ 50 歳となる年齢からくる身体的な壁と、生涯一舞踊家としての覚悟を、
なにをもって拠り所となしうるか、いわば嶮岨な転回点にあることを示していた。
一見自信家で、旺盛な活動力もある彼女だが、それとてもこの転回はなかなかに至難の業ということだが、今日の踊
りに即して、私にすればめずらしく、一点の問題を指摘しておいた。どう受けとめえたか知る由もないが、次の、あ
るいは次の次の、彼女の踊りに、その応答を見出すしかない。
20080124
轍ふかく山の中から売りに出る
―山頭火の一句―
山頭火、昭和 9(1934)年 2 月初旬の句。
故郷近く小郡に結んだ其中庵の暮しも 2 度目の新春を迎えてまもなくだ。
- 410 庵の近くを歩いた際に見かけたか、雪も積っていよう山深い里から重い籠を背負って、なにを売りに来たのであろう
か。自身乞い歩く身であれば、声をかけ品定めをするはずもない。遠目にやり過ごしつつふと口をついたか。
2 月 4 日の日記に
「村から村へ、家から家へ、一握の米をいたゞき、
いたゞくほどに、鉢の子はいつぱいになった」
と記し、また翌 5 日には、
「米桶に米があり、炭籠に炭があるということは、どんなに有難いことであるか、米のない日、炭のない日を体験し
ない人には、とうてい解るまい。」
「徹夜読書、教へられる事が多かった」
とも書きつけている。
-温故一葉- 大深忠延さんへ
寒中お見舞い申し上げます。
お年賀拝受。私儀、甚だ勝手ながら本年よりハガキでの年詞の挨拶を止めましたので、悪しからずご容赦願います。
大寒の列島は低気圧の発達で北日本一帯大荒れになる模様とか、大阪市内では今年もまだ雪を見ませんが、このとこ
ろの冷え込みは、夏場生まれの所為でしょうか、恥ずかしながら私などには些か身に堪えます。
平成の代もはや 20 年。昭和天皇が薨去し、当時の小渕官房長官が「平成」と書かれた紙を持って新元号を発表した
記者会見に、「バブル景気」というまことにおぞましい言葉が生まれてまだまもなくの波乱含みの世相を背景にしな
がら、「平らか成る」などといかにも日和見めいた言辞を弄するセンスに強い違和を感じ、この元号にずっと馴染め
ぬまま年月ばかりが過ぎていきます。
実際のところ、私の感覚において、昭和と西暦はいつでも直感的に代置可能で、折々の出来事もその年号とともに記
憶のアルバムに鮮明に残っているというのに、平成になってからは西暦とどうにも相生悪く添いきれぬまま、はて木
津信の破綻から何年経ったか、あれは平成なら何年、西暦なら?と混濁ばかりが先立ち、挙げ句は資料などを引っ張
り出さねばならない始末です。
そんな訳でこれを認めつつも、「金融神話が崩壊した日」を書棚からわざわざ引っ張り出してきましたよ、お笑い草
ですね。
龍谷大学の「正木文庫」にずっと関わってこられ、正木ひろし研究もライフワークのひとつとか。
映画「真昼の暗黒」となった八海事件は冤罪事件としてよく知られるところですが、事件そのものは昭和 26(1951)
年 1 月、二度の最高裁差し戻しを経て、判決の確定を見たのが昭和 43(68)年、今井正監督が映画化したのが昭和 31(56)
年でしたか。
もう昔も昔、古い話になりますが、この大阪で「八海事件」を採り上げ、「狐狩り」という創作劇に仕立てて上演し
たグループ(劇団)がありました。大阪はもう今はない大手前会館と京都は岡崎の京都会館第 2 ホールと、2 回だけの
公演でしたが、実は私もこれに参加していたのです。今から 45 年前の昭和 38(63)年のことでした。私は高校を出た
ばかりの大学 1 年、まだ 19 歳になったばかりでしたが、所謂学内ばかりの発表形態ではなく、私にとっては一応本
格的な舞台づくりの最初の一歩、それがこの作品だったのです。
と、正木ひろしの名に誘われて、とんでもない昔の私事を記してしまいましたが、ご容赦下さい。
お礼が末尾になってしまいましたが、お仕事柄なにかと忙殺の日々でありましょうほどに、昨年の会にもわざわざお
運びいただき、ありがとうございました。
またお逢いできる日もありましょう、益々のご活躍を念じつつ。
08 戊子 大寒
- 411 書信の相手、大深忠延さんはベテランの弁護士、私よりは何歳か年長の筈。
バブル崩壊のあと金融機関の破綻が吹き荒れた 90 年代、阪神・淡路大震災の傷跡なお生々しく残る平成 7(95)年 8
月末、木津信用組合と兵庫銀行が相次いで破綻、定期預金と見紛う抵当証券被害が白日のものとなって騒動となった。
その「木津信抵当証券被害者の会」弁護団の団長を務めた人。
この事件が結ぶ縁で、1400 名近くの被害者原告団でよく動いた人々と、30 数名を擁した弁護団の人々と、平成 9(97)
年の大阪高裁による和解調停の第一次解決を経て、平成 14(02)年の最終解決をみるまで、一連の活動を通して親しく
交わらせていただいたことは、私自身が河原者にひとしく浮世離れの生涯ともいうべき身上であってみれば、まるで
正反の、俗といえばこれほど俗な、泥にまみれた社会闘争ともいうべき世界に自身投入した数年間の体験として、ま
ことに愉しく意義深いものがあった。
おかげで、人との交わりを大切にし、どこまでも義理堅い大深さんは、私がご案内する舞台に、なにかと都合をつけ
てわざわざ観に来てくださること幾たび、私にとっては望外の有難き人なのだ。
20080122
一輪挿しの椿
―山頭火の一句―
ひさしぶりに山頭火の句を表題に掲げた。
<連句の世界->を掲載しないときには、山頭火に返り咲いて貰おうという次第だ。
句集「其中一人」に所収されている昭和 8 年の句。
念願の庵を得てめでたく「其中庵」の庵主となった日が前年の 9 月 20 日。
その日、山頭火は「この事実は大満州国承認よりも私には重大事実である」と書きつけた。
同じく 12 月 3 日には 50 歳の誕生日を迎えている。
そして新しい年を迎えて、ひとり静かな喜びにひたる。
1 月 6 日「まづしくともすなほに、さみしくともあたゝかに。」
「自分に媚びない、だから他人にも媚びない。」
「気取るな、威張るな、角張るな、逆上せるな。」
などと記したうえで、3 つの句を添えている。
枯枝の空ふかい夕月があった
凩の火の番の唄
雨のお正月の小鳥がやってきて啼く
表題の句「いちりん挿の椿いちりん」は、この後まもなく詠まれたか。
句自体なんということもない月次な句だが、6 畳ばかりの座敷に小さな床の間らしきところ、ぽつんと一輪挿しに椿
一輪、自身の姿そのものであろうが、やっと得た、ほのかなやすらぎがある。陽光に照り映えた、命の輝きがある。
―今月の購入本-
・広河隆一編集「DAYS JAPAN –忘れられた世界-2008/01」ディズジャパン
特集の忘れられた世界とは、ソマリア、パレスチナ、そしてビルマである。また「薬害肝炎の源流」として 731 部隊
ついても触れている。ほかに「動物の治癒力」の特集、etc.。
・ゲーテ「自然と象徴-自然科学論集」冨山房百科文庫 -中古書
「熟視は観察へ、観察は思考へ、思考は統合へ」、ニュートン以降の自然科学が、自然を眼には見えない領域へ、抽
象の世界へと追いやろうとしていたとき、ゲーテは敢えてその敷居の手前に踏みとどまろうとした。彼にとって、直
- 412 観によって認識された自然像は抽象的な数式ではなく、可視的にして具体的な「すがた」あるいは「かたち」だった
からである。形態学と色彩論を軸にゲーテの自然科学論文を、文芸・書簡・対話録をも抜粋しながら、系統立てて編
纂・訳出した書。
・ロバート.P.クリース「世界でもっとも美しい 10 の科学実験」日経 BP 社
美しい科学実験とは? 著者は「深さ-基本的であること、経済性-効率的であること、そして決定的であること」の 3
つをその条件として挙げる。帯の copy には、ガリレオの斜面/斜塔、ニュートンのプリズム、フーコーの振り子な
ど、科学実験の美しさを「展覧会の絵」のように鑑賞する、とある。
・スラヴォイ・ジジェク「否定的なもののもとへの滞留」ちくま学芸文庫 -中古書
スロヴェニア生れの哲学・精神分析学者であるジジェクは、ナショナリズムの暴走や民族紛争が多発する今日のポス
トモダン的状況のなか、ラカンの精神分析理論を駆使し、映画やオペラを援用しつつ、カントからヘーゲルまでドイ
ツ観念論に対峙することで、主体の「空疎」を生き抜く道筋を提示する。90 年代、「批評空間」に連載された前半
部 4 章に後半部 2 章を加え、99 年太田出版から刊行されたものの文庫版(06 年)。
・傳田光洋「第三の脳」朝日出版社
消化器官の腸神経系を「第二の脳」としたマイケル・ガーションに倣って、著者は皮膚もまた「情報を認識し処理す
る能力において神経系、消化器系に勝るとも劣らぬ潜在能力を有しており、皮膚を第三の脳と位置づけることで、新
しい生命観が生まれる」と宣言する。著者は資生堂ライフサイエンス研究センター主任研究員。
・新井孝重「黒田悪党たちの中世史」NHK ブックス
伊賀の国名張の黒田荘は、もとをただせば奈良東大寺の荘園であった。長年にわたる東大寺との確執・軋轢から惣国
として強固な水平型の結集を果たしていった黒田悪党衆だが、封建的タテ型原理で天下統一をめざす信長の前に敗れ
去っていく。
・松本徹「小栗往還記」文藝春秋
著者は説経「小栗判官」を、歴史的仮名遣を用いて、しかも総ルビ付で、現代版の物語として復刻した。中世語り物
の世界にいきいきと脈搏つ肉声の響きを甦らせたかったのであろう。
・邦正美「ベルリン戦争」朝日選書 -中古書
日本教育舞踊の創始者である著者は、1936 年から 45 年までドイツに留学、ベルリンに滞在した。ドイツ表現主義の
舞踊理論を、ルドルフ・ラバンやメリー・ヴィグマンに師事。ドイツ敗戦間際の 5 月 9 日、遠くシベリア鉄道に乗っ
て日本へと帰国するべく、モスクワへ辿り着くまで、10 年にわたるベルリン生活の、いわゆるエッセイ風滞在記。
・角田房子「責任-ラバウルの将軍今村均」新潮文庫 -中古書
戦犯として 9 年の服役を終えた後も、ラバウルの軍司令官今村均には「終戦」はなかった。釈放後もなお 14 年を生
きた彼は、自宅庭先の三畳の小屋に自らを幽閉して戦没者を弔い、困窮している遺族や辛くも生還した部下たちへの
行脚の旅が続けられた。
・他に、ARTISTS JAPAN 48-前田青邨/49-浦上玉堂/50-歌川国芳/51-渡辺崋山
-図書館からの借本-
・T.シュベンク「カオスの自然学」工作舎
西ドイツの黒い森地方のヘリシュードで流体の研究をする著者は、ルドルフ・シュタイナーの研究者としても知られ
る。水をひとつの生命体としてとらえることによって、水の未知の性質を把握する一方で、流体の研究を通じて現代
文明の歪みを指摘する。
・斉藤文一「アインシュタインと銀河鉄道の夜」新潮選書
- 413 ほぼ同時代人であった宮沢賢治とアインシュタイン、この二人の生きざまや自然観の接点を語りながら、古典物理
学・相対性理論・一般相対性理論のエッセンスを解説。アインシュタインの神と賢治の法華経を通しての宇宙観の対
比など。
・有吉玉青「恋するフェルメール」白水社
著者は有吉佐和子の娘でエッセイスト。フェルメール作といわれている作品は現在、世界に 37 点。神話が神話をよ
び、伝説が伝説をつくる。フェルメール・フリークたちは、全点制覇を夢見て世界の所蔵美術館に出かけて行く。
・アートライブラリー「フェルメール」西村書店
17 世紀のオランダ絵画を代表するフェルメール。その代表作から貴重な作品までカラー50 点を含む多数の図版を掲
載・解説してくれる。
・遠藤元男「日本職人史Ⅰ-職人の誕生」雄山閣
日本の古代・中世における職人世界の図説集、452 の図版を網羅して解説している。