第 11 話:もうひとつの時系列

第 11 話:もうひとつの時系列
しぶとい熊子さんが熊本から出てくるまでまだ 2 年待たなくてはいけません。その間、静子さん一人きりの時系列の
旅はあまりに惨い(むごい)
、という声を聞き、わたしは伴走者を物色。
いました。福岡に一人、山形に一人、少し遅れて福島に一人(またまたイナカもの?)
。おお、福岡のほうは運よく
静子さんとタメ年でアートを目指していて、しかも渡英時期が静子さんからほんの 1 ヵ月遅れの 5 月。福子さんは帰
国しちまったし、この際、この福岡出身をフク子として静子さんの第一伴走者をしてもらいましょう。
フク子さんはこんな人
1984 年生まれ。福岡県天神出身。
兄弟:弟ひとり
得意だった科目:世界史
嫌いだった科目:美術
部活:気ままな帰宅部
●ユニコンとの初コンタクトは色々あって渡英後
●●● 2002 年 5 月にぽっかりユニコン・ロンドン事務所に現れるまでのフク子の自分史は●●●
1996 年:フク子 13 歳(中学生)
中学入学早々父親に「高校はどこに行くのか」と聞かれる。幾つかの優秀校以外、地元にあるのはどうしようもな
いと言われる部類の高校ばかりだが、父の意図は、イギリスにでも留学してくれ、と言う意外なものだった。古い日
本人は文明開化期の影響か、やはり英国贔屓。さらに、あわよくば高校くらいから留学してくれ、と煽られるが、しっ
かり避ける。なんで私がイギリスへ? 留学なんてはなっから頭になかった。
1999 年:フク子高校 1 年
授業科目は自分で選択するという選択制の新設校に入学。基本教科さえ抑えればあとはやりたい放題という制度に
守られて英語は無視(一応、時間調整のために取ったのだが、あまりにも暇な上に方言丸出しで英語を話す先生に拒
否感が)
。おかげで単位だけはゲットできたが、文法などの大切な知識は置いてけぼりとなった。
必須科目だった美術は「これを描け」と指定された範囲内での授業で、これにも拒否感。美術鑑賞は好きなのに学
校の美術の授業だけは好きになれない。という次第で好き勝手にやっていたら、これまたギリ単位で終わった。
2001 年:フク子高校 3 年生の夏
そんなこんなでも卒業に必要な単位は 2 年で取得していたので高校最後の年は何か好きなことをしようと思った。
嫌いな学科はたくさんあっても好きな教科となると、
世界史くらい。じゃ、
外国かな? 父からは元々「イギリスへ行っ
てくれ」と言われていたし。と言うわけで、高校 3 年生の夏休み、
(英語も話せないのに)単身イギリスは Oxford の
片田舎へ 2 週間の旅。
またしてもというか、英語学校の勉強には拒否感しかなかったが、イギリス(の田舎)生活はしっかりエンジョイ。
そして思った。
「英語わからなくても、外国ってなんかイイ」
あるとき、パブでオックスフォード大学で教授をしているという紳士に出会った。例によってイギリス人特有の、
「キ
ミは何を勉強してるの?何を勉強したいの?」の why から始まる質問が来た。
「アートがしたい。でも、日本の芸大は入っても面白くなさそうだし何年も続ける自信が無い」と(いう意味のこと
を)一生懸命話すと、
「イギリスでやってみたらいいじゃない。この国じゃアートはもっと哲学的なものよ」
帰国してから、ひっそりと留学という道を考えてみるが、自分の能力を考えると大変そう…
2002 年 : フク子高校 3 年生の春
(留学するかどうかはまだ決めかねていたが)推薦入学の準備を進めていた担任に「とりあえず日本の大学には行か
ない」と告げて彼を絶望のどん底に叩き落す。
3 月に高校を卒業、自動車免許もゲットし、これからフリーター ? という矢先、実家の裏のマンション(オフィス
ビル?)前に看板を発見。留学斡旋をしているようだ。怖いもの知らずの私はアポ無しでいきなり突入。
そこには一見気の弱そうな I さん
(男)
だけが居た。
「留学ってどうやってするのか?」
という素朴な疑問から、
やがて、
「何をしたいのか」という話に及んだその時、フラッシュバックされるオックスフォードのパブでの会話。
「イギリスの美大ってどんな感じなんですか?」の私の質問を待っていたかのようにIさんが取り出したのは、ロン
ドン・インスティチュート
(現ロンドン芸術大学)
のパンフレット。開いたとたん眼の前に広がったファッション・ショー
の写真に純粋に心を射抜かれた。I さんの事務所から徒歩 1 分の自宅に帰宅するやいなや母親をつかまえ「私、ここに
行く」と、パンフレットを見せ説得モードに入った…と言いたいところだが、その前に「行けば?」とアッサリ言わ
れてしまい、あっさり留学決定。
I さんはロンドンの英語学校の入学手続やら何やら色々お世話をしてくれたが、後から考えると、ユニコンのロンド
ン事務所を紹介してくれたことが何よりの最高のお世話であった。
時は 2002 年 4 月。ロンドンに飛ぶ日はもうすぐだった。
第 12 話:君よ地獄でオニとなれ
「最難関のファウンデーション」という表現から「入学するのが難しいから?」くらいに考えていた静子さんだったが、
本当に難しいのは入学審査でも IELTS でも宿題の量でもなく……。
静子さん (2002 年 9 月ファウンデーション開始間際 )
あとは入学日を待つだけだと思っていたのですが、甘
から1年間本当にやっていけるのか心配になりました。
かった。キングス・カレッジからのオファー・パッケー
ジには Reading List が入っていて、
「入学日までにコレコ
日本の大学と違い、歓迎会も合コンも飲み会も部活勧
レの本を読んでおくこと」と書いてあるではないか !! 誘も全く無いまま。翌日からそのまま授業がスタート。
こむずかしそうな本が…しかも丸々3冊…しかも英語で
週を追うごとに宿題も増え忙しくなっていきました。最
…。
初のレクチャーなんか、早回しか超高速で喋ってるん
じゃ !? と疑いたくなるほど速く感じられ、何を言ってい
ずーんと重たい気持ちになったが読むしかないので、
るのかわからなかったし、筆記の小テストでは時間内に
数週間をリーディングに費やしました。英語で、しかも、
書き終えることができず、もう、かなり絶望的でした。
国際関係・ヨーロッパ社会学・現代史等々の内容なので、
読んでも何のことやら全くほとんど意味が頭に入ってき
ません。とにかく読み終わることだけを目指して、読み
続けました。
それでもこのリーディングを通して学んだのは、科目
内容そのものより、日本とイギリスの教育の違いについ
てでした。特に印象に残っているのが歴史の本です。3
冊のうち1冊が GCSE という英国の中学レベルで使われ
るテキストだったのですが、その内容に驚きました。
それまで、歴史のテストといえば、ひたすら事実を丸
暗記して答えるものだと思っていたのですが、その GCSE
のテキストは事実を少し説明したあと、
「なぜこの事件は
起きたと思うか?」とか「この出来事におけるアメリカ
の思惑は何だったのか?」とか、
「もしも、この時この人
がこうしなかったらどうなっていたと思うか?」などの
設問があり、それに答える形になっていました。
遠い昔に起こった出来事でも自分なりに考えることに
よって、
「歴史」がはるかに身近なものになった気がしま
した。日本の高校でも丸暗記じゃない歴史を教えてくれ
ていたらもっと楽しく勉強できて成績も良かったかもし
れないのにっ、と世界史の成績の悪さを日本の教育のせ
いにしたりしました。
そしてキングス地獄は始まった。
入学日、キングス・カレッジの中に初めて入りました。
高い天井の博物館にでもありそうな仰々しい装飾を施し
てある教室に集合しました。そこでオリエンテーション
をして初日終了。わたしの仲間となる学生はたったの9
人。極端な少人数っぷりに驚きました。アカデミックな
コースだけあって(語学学校時代とは違い)周りの人が
みんな頭良さそうで、英語も私よりずっと上手で、これ
第 13 話:オレの留学
2002 年 9 月、当時3K コース(基準が高い・カネが高い・過酷な勉強)と陰口をたたかれていたキングス・カレッジ
(ロンドン大学)のファウンデーションに入学した静子さんがオニ勉強地獄に片足を突っ込みかけていた頃、はるか山
形県では一人の少年(17 歳)がつぶらな瞳をロンドンに向けていました。少年(山夫君)は1年後に静子さんの後輩
になる運命にあるのですが、気骨が売りものの山形県人の例に漏れず、山夫君は良く言えば根性と気力とプライドの
かたまり、そのままを言えば、頑固で口ベタで融通の効かない○○カモノ。女性色に偏ってきた「だって、ロンドン
に行きたいもん」に荒々しい東北の新風を。
山夫君 ( 山形県山形市出身 )
2002 年 5 月、フク子、ロンドン入り
1984 年 5 月生まれ。
日本を出るまで心残りだったのがサッカーのワールド
5 人家族 3 人兄弟の次男
カップ。アジアでサッカー世界大会と言えばトヨタカッ
尊敬する人物:坂本竜馬、シャア・アズナブル
プくらいだったから、日本を出ちゃったらその渦中に居
●ユニコンと出会ったのは高校 3 年生のとき
られないのが悔しい。が、世の中意外とうまく出来てい
●●山夫、2008 年 5 月、ロンドンで自身の青春を総括
るのが後でわかる。
する●●
( 思い込みが激しく時折自己陶酔するキャラのため、
ロンドン到着日は夕食後シャワーを浴びすぐに就寝。
意味不明なところもあるかと思いますがご了承くださ
おかげで時差ぼけって何?という勢いでのロンドン 2 日
い—編集者 )
目だった。語学学校はセント・ジャイルズのセントラル校。
後で聞くと、ほとんどのユニ学生はハイゲート校を選ん
「手前の人生をつまらなくしてんのは、お前だ」
でいたらしいが(そして私もやがてハイゲート校に移る
そんなロックな刺激が欲しかったのか。 5年もこんな
ことになるのだが)
、これは I さんが熱心に勧めてくれた
ところに居ちまった。気付いたら「若者」から「若年寄」
学校であった。
へ。セーラームーンの変身よりも過激に後ろ方向へ変身
を遂げたオレは世界の片田舎「ロンドン」で暮らしている。 初日放課後、近所(徒歩 5 分)にあるはずのユニコン
事務所に行こうとしたのだが妙に迷ってしまい、ようや
どこからこの人生は始まったんだろうか?そしてどこ
くたどり着いた先では「こんなにわかりやすい場所なの
に向かうのか。人生という数式を解く鍵はどこにあるの
に迷子になるなんて」とユニコンの人にバカにされてし
か?永らく考えていた答えは簡単だった。
まった。ま、そんなことでむくれても仕方ないので、と
「Vertical Infinity = 無限」= 考える奴ァ、馬鹿ってこと
にかく今後の道筋を立ててもらうことに。
だ。
渡英の時期が微妙なのか、それとも I さんのプランが
甘かったのか、少々もたついた感のスケジュールになっ
丁度雨だし、外に出ていいことはないんだから。だか
たが、まずはロンドン芸術大学の来年度ファウンデーショ
らこんなヒネクレモノの生い立ちを聞いてくれ。
ン入学をターゲットにすることに。
山夫君の 18 歳までの人生は…
具体的には、予約してきた 3 ヵ月間の語学学校を終え
幼いころから活発やんちゃな性格でよく周囲を困らせ
たら、セントマーチンズ・カレッジ(以後セントマ)の
ていた(らしい)
。小学生の時にドイツ観光旅行や英国で
サマー・コース(4 週間)を受講。そこで作った作品を使っ
の夏休み語学研修に行く機会に恵まれ、海外に対する意
て同じくセントマ実施の(ブラック・ボックスの異名を
識と興味が湧き始める。
誇る)オリエンテーション・プログラム(9週間)に滑
り込んでファウンデーションの席をゲットするというの
地元の進学高校に進んだオレは、中学から続けてきた
がユニコンから提示されたプランだった。
バドミントンで輝かしい成績を残すなど文武両道で忙し
くも楽しい生活を送るも、一方で自らの将来について真
このプランで行くと今からファウンデーションの席
剣に考え始めるようになる。3 年生となり、周りが次々
ゲットまで7ヵ月しかかからない。て、今年の 12 月で
と志望大学を決断していた中、周囲の反対を受ける等、
カタがつくってこと? じゃ、来年の 1 月からファウン
疎外感にかられながらも自身で海外留学を決意する。ユ
デーションが始まる 9 月まで何をして時間を潰せばいい
ニコンの東京事務所を訪れたのは 2002 年の暮れだった。
の?と動揺する私。
「8ヵ月間もロンドンでぶらぶらしててもカネの無
駄だから、オリエンテーションが終わったらすぐ日本
に帰ってバイトしてカネを貯めて来なさい」のサッパ
リした返答。ああ、もう 3 ヵ月早く渡英していれば
今年 9 月からのファウンデーションに行けたってこ
と?!
「そう。英語の問題が無ければ今年の入学が可能だっ
たのだけれど。渡英するのがちょっと遅かったね」
くーっ、どうせほとんど行ってなかった高校なんだか
ら、さっさとロンドンに来ていればよかった……
ところで、ロンドンといえばパブ。セント・ジャイ
ルズでの 3 ヵ月間はほぼ毎日パブに通った。あると
きは超早朝から、またある時は授業を抜け出して、そ
して放課後は always。そう、ワールドカップを見る
ために。学校の先生に「今日は日本戦だから」という
と宿題をさっと渡してくれて GOOD LUCK!(早くお帰
り)
。このときばかりはサッカー馬鹿の国民性があり
がたかった。こんな国際性のある語学学校で知りあっ
た各国の友達と一緒に毎日サッカー三昧。
この間に語学力がぐっと伸びた気がする。サッカー
批評やパブに関してだけだが。
第 14 話 : アート世界へようこそ
高校時代は美術の授業が好きになれなかったフク子さん。福岡の実家裏で眼にしたロンドン芸術大学パンフのフォト
に魅せられてロンドンまで来たものの、ファッションかな〜それともグラフィックでもやって手に職かな〜と、未来
がまだまだ見えてなかった 18 歳の夏です。
フク子さん、グラフィックとの出会い
(2002 年 8 月 )
ンデに合格するためにどんだけがんばってきてると思っ
とるのか。大体あなたはアート学習者必須のヌード・デッ
サンすらやったことがないでしょっ」と即却下。
「黙っておとなしくオリエンテーション・コースに行き
セント・ジャイルズでの 3 ヵ月はあっと言う間に過ぎ、 もう8月(てゆうか、サッカーに熱中してる間に終わっ
なさい。このサマー・スクールの産物があるからオリエ
ていた)
。そしていよいよ、楽しみにしていたセントマで
ンテーションの面接はノー・プロブレム」
のサマー・スクールが始まる。私が受講するのは 4 週間
そして、確かに面接で即O.K.9月下旬開始のオリエ
のフルタイムのグラフィック・デザイン・コース。
ンテーション・プログラムに向けて私の意気は高まった。
ロンドンはお宝の山?
グラフィックは大雑把に分けるとアドバタイズ(広告)
、
イラストレーション、タイポグラフィなど幾つかのサブ
ロンドンはギャラリーの宝庫だ。ただむやみに乱立し
カテゴリーで構成されている。サマー・スクールではこ
ているのではなく、一つ一つが濃い内容を展示している。
れらサブカテゴリーの全種をちょっとずつ体験すること
そんな濃いギャラリーの数が圧倒的に多いという意味で
になった。
宝庫なのだ。私の初ギャラリー体験はナショナル・ギャ
ラリーだったが、美術・歴史の教科書に載っているよう
コースが始まったとたんに驚いたのは、この国のグラ
な絵画がずらり並んでいて圧倒された。現在は拡張工事
フィック・デザインが日本で想像していた勉強と全く異
のおかげで展示内容の幅が広がり、昔の作品だけでなく
質のものであったこと。PC なんて全然使わない。デザイ
それに影響を受けた現代の作家の作品展示もしているか
ンするのは画面ではなくてアイデアだからだと言う。
らますます見逃せない存在になっている。
参加者は本職のグラフィックデザイナーから A レベル
学生(高校生くらい)までとさまざま。共通しているのは、
皆、コースを本気で楽しんでいること。もちろん授業は
すべて英語で行われたが、ワールドカップ観戦で鍛えた
英語で2割くらいは理解できるようになっていた(と思
いたい)私はチューターに質問しまくり、作品数を増や
していった。
「同じ美術という学科の勉強なのに楽しい…!」
自分で考えて作るという作業に私は快感を覚え、作品
作りに没頭した。2割の英語でプレゼンをやってみるな
んて冒険もした。日本のアート・デザインの捉え方との
差を体験した私は「こんな勉強なら続けていける」と自
信を得ることができた。
自信が異常についたのでユニコンを訪ね、ダメもとで
聞いた。
「ここでやる決心がついた。ついてはファウンデー
ションに申し込みたいのだが、このサマー・スクールで
作った作品だけじゃやっぱりダメ?」
「駄目どす。アート&デザインのファンデの面接を受け
るには作品の範囲が狭すぎます。一体地元の英国人がファ
第 15 話 : キングスの虜〜エピソード 1 : 闘いの幕は上がった〜
初日からキングス・カレッジの重圧感にめげそうになりかけた静子さん。でも、山岳部で鍛え上げた足腰と人並みは
ずれた頑丈な胃袋を持つキミなら(多分)大丈夫。留学はなんと言っても健康第一だから。
ところで、近年すっかりお馴染みになった《ファウンデーション》という単語ですが、アート系と異なり、文系学
部進学のためのファウンデーションは英語を母国語としない外国人学生を対象にしたものです。
「大変」という単語で縁取られている静子さんの原稿ですが、文系ファウンデーションの仕組みを知るいい機会? また、最近日本でも徐々に知られつつある「スタディ・スキル」の正体もついでに解明されるはず。
●●● 必修科目と選択科目 ●●●
キングス 3K ファンデのメニュー (2002 年 9 月開始 )
コースは必修科目である Academic English・Higher Education in Britain・European Studies の 3 つと、選択科目
1つで構成されています。国際関係学部への進学を希望していた私は選択科目として 20th History and International
Relations を選びました。
●●必修3科目では●●
Academic
English ではその名の通り、Academic なシチュ
エーションで使う英語を習います。具体的には、レク
準備に入ります。英国では現地学生だろうと留学生だろ
チャー・ノートの取り方のコツ、ディスカッション中に
通して学部に申し込みます。UCAS form(願書)への記
使えるフレーズ(賛成の仕方、相手の話への割り込み方、
入方法や Personal Statement( 志望動機 ) の書き方、志望
説得の仕方等)
、プレゼンテーションの組み立て方、エッ
校選びなど多岐にわたった指導があるので、UCAS につ
セイの書き方などです(語学学校でやるような日常英会
いて何も知らなかった私でも問題なく手続きできました。
話は全く含まれません)
。これらは全てイギリス教育の基
そしてここからお受験の長〜い道のりが始まるのですが、
本中の基本で、イギリス人高校生もこれらのスキルを 11
これについてはのちほど。
歳くらいから訓練されてきています。でも日本の高校を
出たばかりの私は一問一答テストの勉強ならできても討
European Studies では、1 学期にヨーロッパ ( 特にイギ
論に慣れていないし、ましてやエッセイなんて書いたこ
リス社会の高齢化・貧困・民族性・家族・教育・国際化
とがありません。日本語でもやり方がわからないのに、
など )、2 学期はアカデミックの土台をなす思想家たちの
それを英語でやれっなのでダブルの大変さでした。
セオリーについて学びました(マルクス・ダーウィン・
マルサス・ニーチェ・フロイト・ボーヴォワールなど )。
それでも、1 年かけてみっちり基礎を叩き込まれるの
世界史が弱くてヨーロッパについての知識はほぼゼロ、
で次第にコツをつかめるようになりました。習うのが「ア
思想家たちに至っては名前をうろ覚えしていたに過ぎな
カデミック」英語なので授業がそのまま IELTS の対策に
いレベルの私にはとっては頭が霞むような内容のレク
もなります。
チャーでした…。
( ファウンデーションから学部に進むときも IELTS スコア
るうちに次第に気分が悪くなっていき、やがて進学先に
を要求されるのでファウンデーション期間中も IELTS テ
国際関係学を選ぶのはやめようかなと思うようになりま
ストを受け続けなければいけません。ロンドン大学系な
した。
ら 6.5 〜 7.5 のスコアが必要です )
Higher Education in Britain( 英国の高等教育 ) では最初
に GCSE、Sixth Form、A-level など、日本人にとって???
な英国特有の教育システムを学びます。現地学生がど
んな経緯で大学に入学できるのかわかったことで、翌年
学部に進学したとき「Sixth Form にいたとき…」とか
「A-level のとき…」 とかのクラスメートの話題について
いくことができました。
英国の教育システムを一通り学んだあとは学部受験の
うと、受験生全員が UCAS という全国共通の受験機関を
●●選択科目では●●
20th History and International Relations では
International Relations に関わるセオリーと第一・第二
国際関係という響きに惹かれて選んだ学科でしたが、
次世界大戦、冷戦、その後の世界情勢などの具体的な
国際関係学は簡単に言えばなぜ紛争・戦争が起こるのか?
事象について学びました。セオリーでは、Realist やら
を勉強する学科なので、1 年中殺し合いについて話しあ
Liberalist やら、その neo やらなんちゃらとわけのわから
うことになります。渡英前は緒方貞子さんを尊敬して国
ない名前のグループが国際関係をどう見るのかを延々と
際関係学を学びたいと思っていたのですが、授業を重ね
学びます。
第 16 話 : キングスの虜〜エピソード 2 : D( ディー ) の日〜
キングスの格子なき牢獄でサバイブを続けるも、日本の大学ではほとんどお目にかかることがないキングスの締めっ
ぷりにさすがの象の胃袋も収縮気味?
前号に引き続き、静子さんの地獄変パート2です。 ●●レクチャーとセミナー●●
European Studies と選択科目の授業では、レクチャー、
セミナー、レクチャー・レビューが週 1 時間ずつあります。
●レクチャー
丸 1 時間ひたすらノート取りです。集中力が切れるとレクチャラーの声が右から左へ抜けてしまうし、ちょっとで
も話の流れを見失うと復帰できなくなるので本当に苦痛の 1 時間です。ほとんどのレクチャラーはレクチャーの録音
を認めてくれます。私も初めのうちは全レクチャーを録音していましたが、慣れとは恐ろしいもので、少しずつ分か
らないことに慣れていき、ついには「ま、いっか〜、なんとかなるさっ」と手抜きの味を覚えるようになりました ( そ
れが勉強のコツをつかみ始めたということなんだ、とユニコンの人は言ってましたが )。 ●セミナー
( 各自がリーディング・リストにある文献を既に読んできているという前提で ) 文献とレクチャーについて、クラス
全員+レクチャラーで意見交換 ( ディスカッション ) します。このリーディングが毎回すごい量。読んでも全て理解で
きたことなど一度もなく、コース中は常にリーディングに追われていました。
結局のところサバイブする秘訣は:レクチャーを頑張って聴いてノートを取る→リーディングを頑張ってなるべく
進める→セミナーで討論の繰り返しに頑張って耐える、の〔頑張って〕しかありません ( まったく秘訣になっていま
せんね )。
1 年間、休まずの全力疾走。疲れました。
▲▲レクチャー・レビューとプレゼン ▲▲
▲レクチャー・レビュー▲
レクチャー・レビューは留学生向け Foundation コース特有のもので、アカデミック英語担当教師と一緒に講義内容
を復習します。理解を深めるためです。学部に進んだら当然こんな親切なサポート授業なんかないので ( 全過程を自
力でやらなくてはいけなくなる )、その時に備えての訓練です。 ▲プレゼンテーション▲
クラスがあるごとに交代でリーディング内容やレクチャーについてのプレゼンをやらされるのだが、これも大変 ( ほ
んとに大変 )。所要時間は 5 〜 10 分と短いので楽なように見えますが、短時間内に要点をまとめる作業の方が困難な
ので準備にかなり時間がかかりました。
◎◎◎◎◎ Assessed Essay( 定期課題論文 ) ◎◎◎◎◎
授業と宿題だけでもぱんぱんなのに、
更に Assessed Essay( 論文提出 ) というやっかいものが 1 年中つきまといます ( こ
やつは成績に大きく関わります )。コース開始 3 週間目にすでに第一回目のお題が発表され、以後 2 〜 3 週間ごとに
1000 単語くらいの課題が出され続けました。休み明けが提出日だったりするので、土日も長期休暇もあってないよう
なものでした。
エッセイを書くコツは習うのですが実際に書くとなるとなかなか進みません。何をどうやって書けばいいのか…要
領がつかめなくて困りました。その結果、初のエッセイは「D」判定 ( ぎりぎり可 ) という、生まれてから一度も取っ
たことがない成績。えっマジで?苦笑いしようとした口元が引きつりました。
それでも数をこなしていくうち、課題は違ってもパターンやコツは同じなので次第に上達していき、コース修了時
にはBを取れるようになっていました。
第 17 話 : キングスの虜〜エピソード 3 : 帝国への挑戦〜
今日も一日無事に生き残れたことに感謝の祈りを捧げつつ、リーディングに追われる毎日。そして、翌年の進学先を
選ぶときがきた。静子さん、あなたはどちらのボタンを押しますか?
私はこうして学部を決めました
かに入れるといいなぁと思うようになりました ( またし
2002 年 10 月、チューターと進路問題について話し合
ても言われるがままです )。そう言えばファンデの仲間に
う最初のアポが近づいてきました。その前に自分がどう
も熱烈な LSE 信者がいるし、チューター達も「これまで
したいのか整理しなければ、とユニコンに相談に行きま
LSE に合格したのは数名きりで、彼らは Foundation の最
した。当時何も知らないくせになぜかアフリカに興味が
初から最後まで A 評価しか取らなかった」と言うのを聞
あったので
「SOAS の African Studies にでも進もうかな♪」 き、LSE が超難関校なんだということだけはとにかくわか
と軽く口走ったところ、ユニコン社長の S 氏に全力で止
りました。
められました。
という次第で、チューターとの面談ではユニコンの
「アフリカに興味あるとか言ってるけど、何も知らない
受け売りで「Anthropology とか Geography とかに興
だろっ?まだ若いし、本当にアフリカを好きになるかわ
味があります」と答えました。 「それなら、King’s、
かんないし、学部でそんなに狭く専門的なことはやらな
UCL、SOAS、Queen Mary、East Anglia、Sussex、Oxford
い方がいいよ。つぶしがきかなくなるから。アフリカと
Brookes 辺りがいいんじゃないの?」と勧めるチュー
かは学部が終わったときにまだ興味があったら大学院に
ター。
行ってやればいいんだよ。学部はもっと広く学べるもの
を選ぶべきで、アフリカとか言ってるくらいだから文化
当時は UCAS を通して 6 校申し込めたのですが、トッ
とかに興味あるんだろ?それなら Anthropology とかいい
プ 2 校は希望優先 ( ダメもと )、次の 2 校は中堅 ( 当選確
んじゃないの?あと Geography も ” 地理 ” って呼び名に
実 )、
最後の 2 校は保険 ( 滑り止め ) という選び方がフツー
騙されやすいけどあれも国際関係なんだよ。それでもい
な ( 安全な ) 作戦です。それにしてもチューターの口か
いんじゃないのか?」と助言されました。
ら出てくる学校名がユニコンのアドバイスとはちょっと
そして私はこれまたなるほど〜とすぐに納得。
違ってる…。確かに Essay では D 評価とか取っちゃった
し、希望校に受かる自信はあまり無いし ( 贅沢ばっかり
Anthropology と Geography がどんな勉強をする学科
言って行く所がなくなったら困るので ) 安全圏内の学校
なのかを調べたところ、Anthropology は人間社会と文化
中心にするのが得策なのかなぁと悩みました。
の多様性について、Geography は人間福祉を改善するた
めに経済・政治・社会など人間をとりまく世界について
悩んだまま再度ユニコンに行くと今度は S 氏だけで
学ぶコースらしいということがわかりました。なんだか
なく他のスタッフまで出てきて「あなたなら必ず LSE、
おもしろそうではないかっ ( ほんとに単純だね )。
UCL、SOAS、King’s のどこかに受かるから、合格して
私はこうして大学を選びました
も行きたくないような田舎の大学なんか、たとえ保険で
も書くんじゃない。そんな大学でも書き込んだら UCAS
「その 2 学部なら LSE、UCL、SOAS、King’s、あたりに
フォームの申し込み欄を 1 行使っちまうだろ。6 行しか
申し込めばいいんじゃないの?」というのが S 氏の次の
ないと言うのに、せっかくの【行】がもったいないよ。6
アドバイスだった。
校申込めるんだから 4、
5 校までは希望優先で選ぶんだよ。
滑り止めなんか1校あれば十分だ !!」と ( 特に根拠が無い
ところで、当時の私はイギリスの大学のランクや評判
はずなのに ) 断言されました。う〜〜ん、チューターの
については全く無知で、せいぜいオックスフォード、ケ
意見と違う……
ンブリッジ、ロンドン大学という名称なら聞いたことが
あるという程度でした。(『ロンドン大学』という名前の
UCAS の申し込み期限が迫っていました。どうせなら
カレッジが存在しないことはユニコンの資料で初めて知
いい学校に行きたいし、ロンドンに残りたいし、数撃て
りました )
ばあたるだろ、ええぃっ!と、ユニコンのアドバイスに
なので、ぜひ入りたいという大学も特に思いつきませ
従って、LSE、UCL、SOAS、King’s、あとは Queen Mary、
んでした。でもユニコンで LSE と UCL はレベルが高く校
Sussex…だったかな? ( どこでも良かったのであまり覚
風もリベラルな良い学校だよと勧められて、このどっち
えていない ) の 6 校の名を UCAS フォームに書き込みま
した。
第 18 話 : キングスの虜〜エピソード 4 : チェックメイト〜
云われるがままに「強気の」申込みをした静子さん。一方、コース開始からわずか数ヵ月もたたないうちに次々と姿
を消していく仲間たち。そして初戦のつまずき。キミは永遠にキングスの虜となるのか?
汝、ただ一粒の麦なれど、負けるな静子、陽はまた昇る。
●●賽は投げられた
めて自分の書いた Personal Statement くらい読んでから
インタビューに行けよ、過去の私っ!
UCAS 申込書をファンデのコース・ダイレクターに提
気まずい雰囲気のままインタビューは終了。後日連絡し
出したのが 2002 年 11 月。書類チェックや UCAS への提
ますと云われました。
出作業は学校のスタッフがしてくれました。
●オレには考えがある…
●斃れいく俘虜たち
その 1 週間後に King's の面接がありました。King's で
そして再びレクチャー&クラスの日々が始まったので
は教授と学生 4 人でのグループ・インタビューでした。
すが、この頃から教室内の生徒数が減り始めました。完
UCL での苦い教訓から今度は下準備をして向かったの
全不登校になってしまった人、来たり来なかったりを繰
ですが、面接というより質疑応答の場という雰囲気で、
り返す人、遅れてくる人。元々 9 人しか居なかったので
UCL の「取調べ」ほどはきつくありませんでした。
授業に参加している学生が 2 人か 3 人だけ、なんてこと
が日常茶飯事になりました。私だって「今日だけはもう、
実際の面接があったのは UCL と King's のみでした。
本当に眠っていたい」と思うことが何度もありました。
LSE は独自のテストとインタビューをすると聞いていた
その頃の自分の日記を読むと毎日のように「疲れた」
「眠
から待ち構えていたのですが全然召集がかかりません。
りたい」と書いてあります。でもここで退くわけにはい
これって、書類審査の段階で既にボツってこと?残りの
かない。慢性睡眠不足の中で申し込んだ 6 校から返事が
3 校からもまだ連絡がないし、私行くところあるのかなぁ
来るのを待ちました。
〜 ( どんより )。
●初戦
ユニコンに気休めに相談に行くと「そんなもんよ、こ
の国は。ま、超最悪の場合はオレに考えがあるから」と、
3 月初旬に UCL から面接通知が届きました。会場には
あまり気にかけていない様子の S 氏に元気づけられまし
同じコースの申込者達が集まっていて、キャンパス・ツ
た。後で知ったことですが、S 氏の『オレには考えがあ
アー後には UCL の現役学生と話す時間も設けられていま
るから』は彼の口癖で、本当はこれといった考えが無い
した。生徒同士でフランクな話を…というのが学校側の
時でも平気で口にするセリフなのだそうです。そんなこ
狙いだったようですが、当たり前のことながら周りはフ
と、当時知らなくて本当によかったです。
ツーに現地学生 ( 英国人 ) ばかりなので、私はもう「だん
まり」でした。
2003 年 4 月、各大学からパラパラと結果が送られて
その後にインタビュー。申し込んだ学部が Geography
きました。UCL と SOAS からは Rejection を食らいました。
& Anthropology だったので、Geography 科と
UCL はあんなインタビューだったのでまぁしょうがない
Anthropology 科から教授が 1 人ずつの、つまり 2 対 1
としても、( ラクラク当確と踏んでいた )SOAS にまで断
でのインタビューになりました。 られたかと思うとへこみました。
King's からは Conditional( 条件付き ) オファーをもらい
「なぜ UCL か」
「なぜ Geography か」
「なぜ
ました。条件は 2 つで、Foundation の最終評価で B 以上
Anthropology か」
「どんな分野に興味があるのか、それ
を取ることと IELTS6.5。保険 2 校の条件は最終評価が B
はなぜか」…「なぜ?」の質問の山でした。インタビュー
か C 以上であることと IETLS6.0。これまでのところ 3 勝
対応策をほとんどしていなかった私はうまく答えること
2 敗です。肝心の LSE からはまだ返事が来ず ( ダメモト
ができません…( やっぱり準備は大事ですね )。笑ってる
だったので ) まぁ Rejection だろうと覚悟していました。
場合じゃないですが、
私が質問に答えられずに「うぅ〜〜」 ユニコンに遊びに行って S 氏と「これは King's で腹をく
とうなっていたら、教授が「君の Personal Statement に
は○○って書いてあるから、それが理由じゃないのか?」
と助け舟を出してくれました…。やばいってゆうか、せ
くるしかないね」などと話していました。
●逆転勝ち
あと 3 年間もあそこで勉強するのかァと微妙な安
堵感に浸っていた或る朝、LSE からの封筒が届きまし
た。開けてみると「Conditional Offer」の文字がっ!
えぇーッ!自分の眼を疑いました。UCL も SOAS も不
合格なのに、LSE は合格 !? そんなことってあるの?
( ありました ) 最終評価 B と IELTS7.0 が条件でした。
これで 6 校からの結果が出揃いました (4 勝 2 敗 )。
幾つオファーをもらっても 5 月には 2 つに絞らなく
てはいけません。迷うことなく第一希望は LSE、第二
希望は King's にする旨を UCAS に報告しました。あと
は 2 つの条件をクリアするために頑張るのみです。そ
の時は IELTS スコアがまだ 6.5 だったので、これは死
ぬ気で勉強して 7.0 取らなければ、と気合が入りまし
た。
最後の IELTS は 7.5。これで条件の 1 つはクリアで
きたけれど、どんなオファーをもらっていようが、最
終試験をクリアしない限り何の保証もありません。こ
のシステムは外国人学生対象のファウンデーションに
限らず、英国全土共通の A レベル・テストを控える現
地学生も同様です。どう転んでも最後の最後まで手を
抜けないようになっているのです。
第 19 話 : キングスの虜〜ファイナル・エピソード : 虜の逆襲〜
LSE からのよもやのオファー。しかし、まだ扉が立ち塞がっている。
キングスからの最後の挑戦、Final exam( 卒業試験 ) がそれだ。虜は城抜けに成功するのか ?
卒業試験始まる (2003 年 4 月 )
●エッセィの試験
ことは一度もなかったし、最終成績も彼女は A でした。
LSE 熱も(ユニコンに言われてダメもとで申し込んでみ
科目試験では 10 くらいのトピックから 2 〜 3 問を選
るか、の私より)ずっと高かったのです。でも彼女は
び、規定時間内に書き終えなければいけません。こうい
LSE から Rejection されました(UCL は合格だったのに)
。
う形のテストは未経験なので準備の仕方がわからず悶々
なんで?成績と同じくらい Reference が大切だといわれ
としました。なんのトピックが出るかは当日までわから
ているけれど、私の Reference が彼女よりめちゃくちゃ
ないし、習ったことを全て復習するのは不可能。こうな
良かったってことはあまり考えられないし。本当何が起
ればヤマを張って勉強するしかない、と腹を決めました。
こるかわからない英国大学のお受験です。
エッセイはただ字数を増やしても何の評価も与えられ
【静子は見た !】哀れ、キングスの露と消えた仲間
ません。まず、代表的な著者数人の意見を上手にまとめ
て覚えておく必要があります。でも単に○○はこう言っ
ファンデ仲間のイラン人の男子 ( イラン君 ) はレク
た、○○はああ言った、と引用するだけではダメで、そ
チャーもクラスにもフツーに出席する真面目な学生。が、
れに対して自分はどう思うのかを彼らの意見を踏まえつ
プレゼンだけは大っっっ嫌いと見えて、その避けっぷり
つ論理的に語らなくてはいけません。
は見事なものでした…。
1 年間かけて英国式 Study Skills を勉強してきたといっ
Lecture Review では毎回誰かにプレゼン役が廻ってき
ても、18 歳まで一問一答方式に慣れされてきた日本人の
ます。1 回のプレゼンで 2 人消耗するので、2,3 週お
頭にはかなり大変です。それでも何とかかんとかエッセィ
きに自分に担当が廻ってくることになります。嫌々なが
らしきものを書けるようになったのはキングスでの牢獄
ら皆でタスクをこなしていました (9 人しかいないんだも
生活の賜物でしょう。
ん )。
さて、イラン君の初プレゼン日の第一声は「プレゼン
●アカデミック英語の試験
用に準備したノートを忘れてきちゃった」
。
「勉強はして
きたんだけどプレゼンするには not ready なんだ」が 2
アカデミック英語の試験では Reading や Writing、
回目の言い訳。3 回目以降は休んだり仮病を装ったりと、
Listening、Presentation を評価されます。他に Final
とにかく人類が考え付くあらゆる理由と手段を使ってプ
Research という卒論的な課題が出され、5000 ワード程
レゼンをばっくれ続けました。( それにしてもプレゼン準
度のエッセイを提出しました。
備をしないでクラスに顔を出せる度胸が今考えてもすご
キングス城からの脱出 (2003 年 6 月 )
い)
最初は「しょうがない」で済ませていた教師も、途中
2003 年 6 月末、コース終了日の前日に最終結果が廊
から「学部に進んでも必ずやらなきゃいけないコトなの
下に張り出されました。
に、なぜ今やらないのか ?」と激怒。それでもばっくれ
「B」です ! やりました〜。
続けるイラン君。そのうち教師も諦めモードっていうの
これで LSE 入学条件を全てクリア !! ばんざ〜い !!
か、何も言わなくなりました。( イラン君の図太さが勝っ
最初が「D」だったことを考えると我ながら大進歩です。
たのか ?) ( いいえ、今思えばこの時点で見限られていた
1 年間苦労した甲斐があったなあ。
のね )
とりあえず今日から思い切り寝ることができます !
そして Final Exam の時が。これは最終評価を左右する
超重要テストで、もちろんプレゼンも含まれています。
●戦いすんで…
初めて見られるであろうイラン君のプレゼンの話題でそ
の日はファンデの仲間達と盛り上がっていました。
今でも謎なのは英国大学の判断基準です。ファンデ仲
— イラン君は姿を見せませんでした。
「家族の不幸で
間でやはり LSE の Social Anthropology に申し込んた日本
…」という理由で。もちろん、イラン君は Fail( 落第 ) と
人がいたのですが、彼女は大変優秀な学生でした。ファ
認定され、彼の姿を見ることはその後二度とありません
ンデの1年間を通して私が彼女よりいい成績をとった
でした。
【そのとき静子は !】恐怖の 3 時間レクチャー
2003 年 3 月 20 日、ファンデの折り返し地点でイラク
戦争が勃発しました。担当レクチャラーにとっては、も
うこの上ないネタです。当然 International Relations のレ
クチャーやクラスは戦争の話で持ちきりになりました。
ある日の午後、レクチャーでいつものようにイラク戦
争の話になりました。普段ならレクチャーの後は 1 時間
のレクチャー・レビューとなるのですが、この日のレク
チャラーはヒートアップ。1 時間過ぎても話が止まらず、
2 時間経っても止まらず…結局 3 時間ぶっ続けで彼の熱
い話を聞くことになりました。最初は興味深く聞いてい
たのですが、3 時間ともなると ( 英語だし ) 集中力を保て
ません。ようやく話が止まったときには「あれは、ナシ
だろ〜」と全員へとへと。( 怖くて途中で止めてくれって
言えなかった )
2003 年の日本
●六本木ヒルズ、オープン
●日経平均 1982 年以来の大底値を記録
●日本郵政公社誕生
●芸能人:シュワちゃん ( カリフォルニア知事 )
●スポーツ:朝青龍 ( モンゴル人初の横綱 )
●流行った歌:世界に 1 つだけの花 (SMAP)
●流行語:毒饅頭 ( 野中広務 )、マニフェスト
2003 年の世界では
●イラク戦争
● SARS 流行
●米軍フセインを拘束
●大地震と大津波の発生
( 為替レート :1 ポンド =190 円 )